榛名—–横光利一

眞夏の日中だのに褞袍《どてら》を着て、その上からまだ毛絲の肩掛を首に卷いた男が、ふらふら汽車の中に這入つて來た。顏は青ざめ、ひよろけながら空席を見つけると、どつと横に倒れた。後からついて來た妻女が氷嚢を男の額にあてて、默つて周圍の客の顏を眺めてゐる。あれはもう助からぬと私は思つた。私は良人の死顏を見たときに泣く妻女の姿をふと頭に浮べたが、急いでもみ消すやうに横を見た。もう私は考へたくはない。私は考へることからせめて一週間遁れたいと思つて一人早く都會を逃げ出て來たのだが、後から遲れて子供たちが私の後を追つて來ることになつてゐる。私は九ヶ月間つづけて來た仕事を昨夜し終へたばかりなので、何か大過を犯した後のやうな、何とも取り返しのつかぬことをした棄鉢氣味もあつたが、まだ人に知られてゐないといふ餘裕ある現状であつたから、なほ考へたくはないのである。それに疲勞も極限にまでいつてゐるのだ。

 私の横で老人の代議士が衆議院へ來た手紙類の束を切つて、一つづつ丁寧に讀んでゐた。すると、汽車がある驛に着いた。代議士は窓から外を見て、急に手紙類をかかへたまま降りていつた。私は自分の降りる驛はまだ遠かつたが、突然その代議士の後からついて降りた。代議士は立派な自動車に乘つた。私も一番綺麗な自動車を撰ぶと代議士の後から追つていつた。私は彼の後を追ふ自分に何の特別な目的もなかつたが、どこでこの代議士と別れるやうになるものかと、ただそれだけが興味であつた。自動車は宿場町を過ぎると廣い坂道を山の湯へ向つていつた。けれども、もう私はいつの間にか代議士のことなど忘れてゐた。「ああ、忘れる、これほど健康なことはあつたのか。」かう思ふ後から、見る見る秋草に滿ち膨れた山の斜面が眼下に向つて摺り落ちていつた。

 伊香保の夜はもう書くまい。明日は榛名だ。私はここはまだ初めてのところだが、友人のSがあるとき誰かに歎聲を洩しながら、何事かしきりに推賞してゐる聲をふと聞いたので、何だと横から訊くと、榛名だと言下に答へた記憶を思ひ起す。私は混雜した宿の窓からはるかな山頂の榛名を仰ぐと、榛名は雲の中に隱れてゐる。私はまだ見ぬ寶玉を見る思ひで棚曳く雲の中に沈んでゐる山頂の圓い小さな湖を胸に描いた。

 朝早く宿を出やうとするとステッキが見つからない。宿の女中に尋ねると、今朝出發した客は誰もないから間もなく誰か持つて戻るであらうとの答へなので、そのまま女中に荷物を持たせてケーブルへと急ぐ。ケーブルの乘り場で、女中に話しかけた婦人がある。見るとその傍にゐた婦人の息子らしい青年が私のステッキを持つてゐた。孤獨な旅の空で、自分の愛用品を見ず知らずの他人の手の中で發見するのは、一種特別な感じである。いよいよ發車になつて車内に乘ると、その青年も乘り込んで來て、運惡くまたも私の前の席に腰を降ろした。彼は私のステッキを前に突き出すやうにして兩手を支へながら、母親と幸福さうに絶えず笑つて話してゐた。今もし私がそれを私の物だと云つたなら、母親と息子との旅の幸福は臺無しだ。だが、私にとつては、それは長年どこへ行くにも持つていつたステッキである。私は眼をだんだんその方に向けることが出來なくなつた。しかし、見る度に私の手垢で擦れ光つてゐる柄の雁首が、こちらを向いて取り戻してくれと哀願してやまない。車が上に上にと動き出しても、青年の掌の下から悲鳴が聞える。「まア、辛抱して、行つてやれ。」と私は云ふ。しかし、こんなときでも涙といふものは何となく出かかるものだ。

 山頂へ着いた。自動車でまた高原の中を行く。私のステッキを持つた青年とは別別の車になつた。しかし、やがて湖が鮮明な色で草の中から現れた。車から降りると私一人日歸りの皆と別れて森を通り、ただ一軒よりない宿屋へ行つた。農家とどこも變らぬ宿屋だが、湖の岸まで芝生が一町もなだらかに下つてゐる。縁側に坐つて湖を見ると、すでに山頂にゐるために榛名富士と云つても對岸の小山にすぎない。湖は人家を教軒湖岸に散在させた周圍一里の圓形である。動くものはと見ると、ただ雲の團塊が徐徐に湖面の上を移行してゐるだけである。音はと耳を立てると、朝から窓にもたれて縫物をしてゐる宿の女中の、ほつとかすかに洩らした吐息だけだ。もう早や私は死に接したやうなものだ。

 若い女が茶を持つて私の傍に來た。色は白く眼は大きくて美しい。髮も豐で襟もとに品位があり、言葉も云はず笑顏も見せない。默つて來てまた默つて去つていく。――森の中から乘馬の青年が靜に湖を見降しながら通つていつた。木の枝をへし折る音、四肢をときどき慄はして眠つてゐる犬、腹を干した岸のボート、ぼつりと一つ芝生の上に見えるキャムプ。森の中に生えてゐる丈長い蘆。白い樹間を絡りながら流れる煙。淡紅色に塊つた花魁《おいらん》草の花の一群。絶えず水甕へ落ちる水の音。――私は身體の中から都會の濁りが空の中へ流れ出す疲れをぐつたりと感じていつた。希望はもうここでは何ものも起らない。私はただ睡るばかりだ。

 湖の向ふに見える小舍は氷屋《ひや》でございますよ。湖の番人がゐるのです。と女は私の質問に答へて云つた。私は湖面に一つ浮んでゐる白い箱を指差してまた訊ねた。あれは燈籠流しの殘り物です。もう一週間早くいらつしやれば御覽になれましたのにといふ。燈籠流しの夜には湖面へ五百ばかりの燈籠を浮べる。それが風の間に間に湖いつぱいに漂ひ流れて沈んでいく。――私は女の唇から露れる齒の美しさを眺めながら、この婦人の山上の望みは何かと訊ねたかつた。聲は細細としてゐて抑揚は何もない。――突如、湖面に落ちる雨の波紋。ほの暗い森の中から一聲唸りを上げたと見る間に、眠るがやうに沈んでいくモーターの音。飛び立つ小鳥の足もとから木の葉に辷り落ちる粗い水滴。微風に搖れる少女の髮。石の上を蹴る蟋蟀。連ねた番傘を舞しつつ草の中を下る娘たち。拔手を切つて雨中を泳ぐ一人の若者。――

 女は私の部屋へ來て故郷の話や去つて行つた客の話をするやうになつた。彼女は廿歳だがまだ東京を見たことがなかつた。彼女の兄は小學校を一番で出て飛行隊に這入つてゐるが、休みになつて妹に逢ひに來るのが何よりの樂しみであつた。兄は彼女に料理屋にはどんなことがあらうとも住み込むなと云つたのに、それに宿屋へ這入つた自分を見て、何といつて悲しむことかと女は云ふ。厚い鮮やかな色の耳が福福しく、下膨れの落ちついた頬に笑窪が洩れる。彼女は坐つた縁側の粗い木目の上を飛ぶ蠅[#「蠅」は底本では「繩」]を眼で追ひながら、母が繼母であるから家へは歸れないのでここにゐるものの、東京へはいつか出たいのだが出ても女の落ち行く先は定つてゐるから、出世もなかなか覺束なく思ふといふ。――湖の上からは、遠方のボートの上で歌つてゐる少女の聲が間近く聞えて來る。湖面を飛び渡る白い蝶。方向を變へて流れる煙。草の間できらめき光る鎌の刄。長く尾を曳いて鳴き交す鳥の囀り。吠えるやうに山峽を登つて來る一臺の自動車。絶えずこちらに向つて押しよせて來る波紋。かの白い一疋の蝶は、まだいつまでも山と云はず森と云はず雲と云はず、ひらひら不安な姿で縱横無盡に活溌に暴れつづけてゐる。ふと見ると、高い梢の白い花が日光を受けて明るく輝いたと思ふ間に、忽ち日に影つてまたさびれる。厨の方から料理する庖丁の音が水音に混つて聞えて來る。

 花魁草の花の中に蹲みながら、暮れかかつていく湖を眺めてゐる私の傍に、女は廊下を降りて來て立つた。しかし、私にはもう女の姿も大きな山脈も、眼の前に垂れ下つた淡紅色の花瓣に流れた微細な水脈も、大小の比較がかき消えて、かすかに呼吸してゐる自分の胸もとの襟のゆるやかに動くのが眼につくだけだ。白く細つそりした雄蕋や、入り組んだ雌蕋の集合した花花のその向ふでは、今や日没の光線に金色に輝いた湖面が靜まり返つて傾き始めた。キャムプの草の上で焚火をしてゐる若者の歌ふ青春の唄が、透明な空氣を搖り動かして流れて來る。花の中に首をさし入れてゐる私の顏の周圍は、ほの明るく火を入れたやうに色めき立ち、草笛の音のやうにうす甘く眠つてゐる官能を激しく呼び醒して少年の日をめくる。折から撥ね上る水面の魚。齒をむいて驅け昇つて來る童兒。やがて、最後の光線とともに萬目すべてぴたりと音を消した。動くものは何物もなく、眼界一人の人物とてゐない。ただ手折つて來た花が縁側の上に凋れて影を映してゐるばかり。

 夕食に出た茄子の燒きがどこかで見覺えのある燒き方だと思つて覗いてゐると、それは晝食に出されたこの宿の茄子であつた。押しよせて來てゐた群青のために、私は早や過去をそんなに激しく忘れてゐたのであらうか。沈默と靜けさの中で動いてゐた精神はこれすべて、色彩の祕密の底を潛つてゐたのであらうか。――ふと氣附くと、朝から鳴きつづけて來た一疋の小蟲がまだ鳴きつづけてやまない。巨大な滿月が秋草の中から昇つて來た。沈んだ湖面は再び月に向つて輝きながら傾いた。私は膝を崩して杯を上げた。女は酒を注いだ。夜になつて峠を越えて來た旅人が隣室へ這入つて來た。私は女に、この山の頂で希望を捨てる旅人の數を尋ねてみた。すると、女は、彼女が來てからこの二ヶ月の間に三つの自殺者のあつた話をし始めた。

 わたくしの來た三日目に、書生さんが一人來て、アダリンを飮んで二階で死にましたが、それから二週間目に、また一人書生さんがいらつしやいまして、あの左の山の中で亞比酸を飮みました。この方は死にきれずに、苦しまぎれに山番のところへいつて、水をくれと云つたので、山番に助けられてここへ歸つて來ましたが、もう一つは心中で、あの向ふの氷屋《ひや》のところでありました。この人たちは氷屋《ひや》へ殖林を見にいらつしやいました役人さんに助けられて來たのですが、役人さんが初めここへ一人でいらつしやいましたときに、夕飯を一人前用意しといてくれと云つて、それから氷屋へ湖を渡つて行かれましたのに、歸つて來たときには、三人前にしてくれと仰言るんでございますよ。それでわたくしはお部屋へ來て見ましたら、御夫婦らしい初めてのお客さんがまた二人もいらつしやるんでございませう。それに三人の方は一言も何もお話にならないものですから、役人さんにどうなさいましたのとお訊きしましたら、分つてるぢやないかと仰言るんですの。でも、どうしてここはこんなに、皆さん死にたくなるんでございませう。

 隣室では旅人が宿の女中と知り合らしく、酒を飮みながらのべつ幕なしに饒舌つてゐる。それも坐つたときから口を突いて出て來る手練れたからかひに、隣室の女中の笑聲は絶え間がない。僅に得た閑を利用して、出來得る限りの樂しみに耽らうとしてゐるらしい。女中が一口云へばそれに絡り、八方から猥雜な言葉を速射して一言も云はせない。女中はだんだん笑ひくたびれて、何とはなしに吐息をもらすと、また浴びせる。やがて女中はくたくたにもみ通されて一口も言葉を出さなくなつた。しかし、客はますます勢ひを増すばかりだ。私は隣室から二人の樣子を伺ひながら、よくもあんなに女のあらゆる角度を索《さが》してからかはれたものだと感じ入つた。すると、そのとき、月の下から酩酊した大兵肥滿の男が現れると、隣室の男に喧嘩を吹つかけるやうな調子で、一別以來の挨拶をし始めた。二人は酒を二三杯飮み交してゐるうらに、突然一人が、ボートをこれから漕がうと云ひ出した。よし漕がうと答へると、二人はよろけながら腕を捲くり上げ、縁側から湖の方へ降りていつた。大兵肥滿の方は何か一口云ふ度に、對岸にまで木靈を響かせて大聲で笑ふ癖があつた。やがて、ボートは賑やかな二人の醉漢を乘せて勢ひよく搖れ始めたが、その途端不意にボートの影が見えなくなると、それと同時に、人聲もずぼずぼと沈んだやうに森閑となつてしまつた。私は立ち上つて湖の底を覗いてみた。しかし、いつまでたつても、私はただ大きな私の影が湖面の上に倒れかかつて、右から照り輝いてゐる滿月の光りと爭つてゐるのを見ただけである。そのとき、一疋の蟋蟀がはつと滿月の中から飛び込んで來たかと思ふと、冷たく私の右側の鼻柱を蹴りつけて見えなくなつた。

 私は女と一緒に波打際へ降りていつた。女は頬笑みながら悠然として云つた。――醉つぱらつてゐたつて、あの人たち沈んでしまふやうな人ぢやありませんわ。あの大きな聲で笑ふ人は、あそこに見える料理屋の主人ですから、きつとまた思ひ返してお酒を飮みに行つたんでせう。隣りのお客さんは下の町の役人さんで、ときどきいらつしやる方なんですけど、あの方よりまだよくからかふ方がお仲間の中にいらつしやるんですよ。いつもはその方ともう一人別の方と、三人でいらつしやるんですけど、さうしたら、家の中はたいへんなんでございますよ。きつと明日の夜はその方たち遲れていらつしやるんでせうけど、あたくしたち、もう眠るところがなくなつてしまひますわ。――女のいふことを聞いてゐると、明日來る客たちは、この前に來たときには、女らが寢やうとすると女中部屋へ追ひかけて來る。物置で寢てゐると、今度は物置へ來る。そこで仕方がないので隣室の私の部屋の押入で寢てゐたら、たうとう搜しあてられずに夜が明けたさうである。

 私と女は波を消した渚に添つて歩いていつた。向日葵《ひまはり》が垂れた首のやうに砂の中に立つてゐた。寢ているキャムプの布の傍まで來かかると、女は思ひ出した數日前の出來事をまた話した。――もう一週間にもなりますかしら。それは綺麗な明るい奧さんが二階のお部屋に一人で來ていらつしやいましたんですが、丁度こんなお月夜の晩、あたくしをお誘ひになりましたので、二人で向ふ岸にゐる學生さんたちのキャムプを見に、ボートで出かけて行きましたの。さうしましたら、向ふへ上るとすぐに、先生が一人出ていらつしやいまして、今夜は學生を澤山つれて來てゐるんだから、すぐ歸つてくれつて叱るんでございますよ。あの向ふ岸へは誰が行かうと勝手ですのに、そのときはそんなことも云つてゐられませんで歸つて來ましたが、でも、ここにゐると淋しくなるので、つい見に行きたくなるのも無理はないとあたくし思ひましたのでございますよ。

 眠れぬままに、私はここへ來て最初に腰を降ろしたときの眺望の印象を思ひ起さうとつとめてみた。しかし、もうそれは、それから後に移動した樣々な地點の押し重なつて來る眺望の底に沈み込んで、掻き分けても掻き分けても、ふと掴んだと思ふ間に早や逸脱してしまつて停止をしない。私はもうここへ來てから長年暮しつづけて來たのと同樣である。しかし、この忘却を拂ひのけやうとする努力は、私にとつてはこの山上の最初の貴重な印象に對する感謝であつた。

 翌日になると、また風景は昨日とどこも變らなかつた。朝からあたりは森閑としてゐて、鴨居にぶらぶら下つてゐる簑蟲を眺めたり、少女の髮の白い割れ目が草の中を登つて來るのや、木の切株にかかつてゐる桶の底が何囘となく眼についたり、いつ見ても寢そべつてゐて少しも動かないと思つてゐた犬が、見る度に方角の全く違つたところで、いつも同じ格好で寢てゐたりしてゐることなどに氣がつくだけだ。さうして、物音といつては、どこかでときどき低く陰氣にほそぼそと呟く聲と、首を少し廻してみても、もう襟もとで擦れるぢりぢりした髮の毛の音が聞えるだけで、東屋の椅子の上で頭に手拭を乘せた老人が、起きてゐるのか寢てゐるのか分らぬ喰っついたやうな表情で、いつまでも動かずにぢつとしてゐるのが、欠伸を大きくする度に思はずこちらも釣り込まれて欠伸をする。私はもう湖面を見るのは倦き倦きして、ふと跨ぐ水溜りに映つてゐる雲の色に立ち停るまでになつて來た。しかし、私はなほ半日もつづけて庭の上を這ひ廻つてゐる蟻や、妙に大きく見え出して來た蛙を眺めたりしてゐるうちに、つひには言葉を云ふ氣がすつかりなくなつて、女に一口物を頼むに何事か一大事件を報告するやうな羞恥を感じるやうになり始めて來るのであつた。私は胸を押しつけて來る退屈な苦しさに、もう興奮を求めて歩き廻らざるを得なかつた。私は裏へ廻ると、日のささぬ軒下のじめじめした青黴に眺め入つたり、金網の中から覗いてゐる淡紅色の兎の耳の中の奇妙ないぼいぼに見入つたり、空を切つて大きく張り渡つた蜘蛛の巣の巧緻な形に驚いたり、水甕の底深く沈んでゐる鯉の美事な悠々たる鱗の端正さに、我を忘れる樂しさを感じようとした。私は今にして隣室の男の女中をからかか續けた心理や、世の終末をこの地に定めた青年たちの心理がだんだん眞近に響いてゐるのを感じて來た。かういふときには、ふと山中の腰かけ小舍の中で客に茶を出す一人の女の顏に塗られた鈍重な白粉が、ひどく山野の自然に對して憤りを感じた反抗のやうに、際立つて嶮しく尖鋭に見えて來る。

 しかし、再び私は思ひがけない興奮に接することが出來始めた。私は湖の岸を廻つてゐる道を左の方へ歩いていつた。この道は道とはいへ長らく人が通らぬために、巾一間半もあるにもかかわらず、荒れはてて茫々とした草原に見えてゐたのである。進むにしたがつて、すぐ眞下に迫つてゐる湖が、身を沒する苺の垣や茅や葡萄の蔓のために全く見えない。山面を遠くから雲のやうに白く棚曳き降りて來た獨活《うど》の花の大群生が、湖面にまで雪崩れ込んでゐる裾を、黄白の野菊や萩、肉色の虎杖《いたどり》の花、女郎花と、それに混じた淡紫の一群の花の、うるひ、薊《あざみ》、龍膽、とりかぶと、みやまおだまき、しきんからまつ、――道はだんだん丈なす花のトンネルに變つて來る。花の底で波がかすかにごぼりごぼりと音を立てる。苺のとげに片袖が觸れるたびに、爆け切つた實がぼろぼろとこぼれ落ちる。絶えず唸りながら花から花へと馳けめぐつてゐる蜂の群が、都會の中央で擦れ違ふ自動車の爆音のやうに喧騷を極めて來て、むせ返つて來る花の強烈な匂ひにふらふら眩暈を感じ出す。進む鼻の前で、空中に浮き上つたままぴたりと停止してゐる蜻蛉。花を蹴つて足もとから飛び立つ鳥の群。ぴしりと脛を叩くおばこの固い紐の花。無數の小蜂を舞ひ込めて襲ふ花の匂ひの隙間から、突如として閃くやうに旋囘して來る熊蜂の鋭い風。腐つた電柱の頂きまで這ひ上つてゐる蔓草の白い花。

 私は急いで花叢を拔けると湖の見える氷小屋の傍で休息した。花叢の中のあまりな喧騷さに私はもう疲勞を感じた。谷底の花の中を通る旅人がガスにあてられ、一人も無事に歸つたもののない今もなほある奧羽の山の話を私は思ひ起しながら、私も早や官感に異常な鈍さを感じて首の周圍や顏の皮膚を幾囘も摩擦するのであつた。私は日に日に都會に集つてゐる敏感な人間が、肉體に備へられた自身の完全な防音器のために、却つて一層聾のやうになり始め、その逆に鈍感な肉體が、不完全な防音器官の障害で一層物音に敏感になつてゐる近ごろの變異な徴候を、今この身に滲み渡る休息の靜けさの中から新鮮に感じて來た。

 その翌日、私はもう目的地へ向つて立たねばならなかつた。しかし、起きて障子の破れ目から外を覗くと、外は見渡す限り一面の深い霧であつた。私は部屋の障子を開けたまま、火鉢に火を入れさせ、見倦きた昨日の風景の一變した樣に眺め入つた。湖の上から襲つて來てゐる霧は一望何物も見せずに眞白なまま流れて來ると、ううと重く呻くやうなう鳴りを上げながら、他の渦卷きの中に流れ込むでは、また速かな捻れた一群の霧となつて貫き走る。その度毎に樹の葉はそよぎ、湖面の渚の線が見えたり消えたりしつつ瞬時といへども停止をしない。間もなく張り渡つた蜘蛛の巣があわただしく動搖すると、茶を入れる湯氣まで亂れ流れて顏を打つた。べとつく縁側。たちまちにして冷える茶。私は一本の煙草をとつて火を點けると、煙りが立たない。さうして入れ變り立ち替り地面の上を逃げてゐた霧は、不意に方向を變じて部屋いつぱいに渦卷き流れて迫つて來たと見る間に、再び縁側の木目の上を綾を描いて逸走してゐる絲のやうな霧の中に吹き返した。どこか暗い奧の部屋の方から老人の咽喉にからまつた啖の音がぜいぜいした。私は水甕の底で泳いでゐる鯉や、金網の中の兎の姿を思ひ浮べながら、見るともなく湖の上を見てゐると、うすぼんやりと現れた波打際の線に從つて、鳥の群が一羽づつ陣列を造つて靜に霧の中を進行していく姿が墨畫のやうに眺められた。

 私は障子を閉めて外へ出てみると、女は山番のところへ使ひに行くのだと云つて私の傍へよつて來た。私は女の名前を今まで訊き忘れてゐたのを思ひ出したが、もう訊くまいと思ひ、彼女に別れの挨拶をしてから、しばらく二人で老けた鶯の鳴き交してゐる森の方へ歩いていつた。胡桃の枝からずきりと重く突き刺さるやうに滴りが頭の上へ落ちて來た。葡萄や茨の實や百合の花が、だんだん霧の中から浮き上つて見えて來た。女は兩袖を胸の上で合したまま俯向いて歩いてゐたが、また來年の夏は早くから來るやうにと云ふと、もう足もとから冷え上つて來る冷たさに、首を縮めて何事も云はなかつた。波の音が絶えず靜に霧の底からしつづける道を、私と女は、露で光つた枯葉や、丈のびた蕨や、羊齒の繁つた雜草の間を通つて、立ち籠めた霧にほの明るくなつた森の中へ這入つていつた。

 その日の午後私は霧の中を山を降りて目的の温泉場へ着いた。すると、忽ちそこは、休暇を利用して都會から集つて來た子供づれの客がごつた返してゐて、やうやく私は裏向きの日のささぬ一部屋へ押し込められた。私の部屋の隣室の主人は、もう頭の禿げ上つたどこかの役所の課長らしい年配で、同じ年格好の子供を五六人もつれてゐたが、どの子供も父親にぶら下るやうにして、絶えず「父《と》うちやん、父ちやん。」で父親を放さない。さうしていざ、寢るとなると、また子供らはあちらからもこちらからも、父を呼び合ひながら疲らせる。最後にたうとう父親も弱り果てたらしく、「もう一寸父うちやんを休ませてくれよ。父うちやんだつてもう疲れたよ。」と云つて降參した。ところが夜中になつて、一人の子供が息詰るやうな異樣な咳きの發作を起して咳き始めた。と、その部屋中の子供らは、あちらからもこちらからも、同樣な發作を起して咳き出した。やつと寢ついた父親は子供らの枕から枕へと渡り歩いてまた咳の鎭るまで介抱した。さうして翌日になると、再び子供らは元氣よく父親を引つ張り廻してはしやぎ廻つたが、その父親が子供たちと外から部屋へ歸つて來て、ほつと休息しながら川を眺め降ろして云ふのには、「あの流れてゐる水は皆違ふんだらうが、いつ見ても同じやうに流れてゐるね。奇妙なものだな。」といふのだつた。これが疲れ果てた課長のたまの休暇の唯一の感想である。私は貴重な言葉として隣室で紙にすぐ書きつけた。もう間もなく年中風邪の傳染し合ひをして咳いてゐる私の子供も二人、私を追つかけてここへ來るのである。私の休まるのもそれまでだ。

底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「中央公論」
   1922(大正11)年1月
※作品中「來」が63字、「来」が12字使われているが、すべて「來」に統一して入力した。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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