世界怪談名作集 上床 クラウフォード Francis Marion Crawford—— 岡本綺堂訳

      

 誰かが葉巻《シガー》を注文した時分には、もう長いあいだ私たちは話し合っていたので、おたがいに倦《あ》きかかっていた。煙草のけむりは厚い窓掛けに喰い入って、重くなった頭にはアルコールが廻っていた。もし誰かが睡気をさまさせるようなことをしない限りは、自然の結果として、来客のわれわれは急いで自分たちの部屋へかえって、おそらく寝てしまったに相違なかった。
 誰もがあっ[#「あっ」に傍点]と言わせるようなことを言わないのは、誰もあっ[#「あっ」に傍点]と言わせるような話の種を持っていないということになる。そのうちに一座のジョンスが最近ヨークシャーにおける銃猟の冒険談をはじめると、今度はボストンのトンプキンス氏が、人間の労働供給の原則を細目《さいもく》にわたって説明し始めた。
 それによると、アッチソンやトペカやサンタ・フェ方面に敷設《ふせつ》された鉄道が、その未開の地方を開拓して州の勢力を延長したばかりでなく、また、その工事を会社に引き渡す以前から、その地方の人びとに家畜類を輸送して飢餓を未然に防いだばかりでなく、長年のあいだ切符を買った乗客に対して、前述の鉄道会社がなんらの危険なしに人命を運搬し得るものと妄信させたのも、一《いつ》にこの人間の労働の責任と用心ぶかき供給によるものであるというのであった。
 すると、今度はトムボラ氏が、彼の祖国のイタリー統一は、あたかも偉大なるヨーロッパの造兵|廠《しょう》の精巧なる手によって設計された最新式の魚形水雷のようなものであって、その統一が完成されたあかつきには、それが弱い人間の手によって、当然爆発すべき無形の地、すなわち混沌たる政界の荒野に投げられなければならないということを、われわれに納得《なっとく》させようとしていたが、そんな論説はもう私たちにはどうでもよかった。
 この上にくわしくこの会合の光景を描写する必要はあるまい。要するに、私たちの会話なるものは、いたずらに大声叱呼《たいせいしっこ》しているが、プロミティウス(古代ギリシャの神話中の人物)であったらば耳もかさずに自分の岩に孔《あな》をあけているであろうし、タンタラス(同じく神話中の人)であったら気が遠くなってしまうであろうし、またイキシイオン(ギリシャ伝説中の人)であったらわれわれの話などを聴くくらいならばオルレンドルフ氏のお説教でも聞いているほうが優《ま》しだと思わざるを得ないくらいに、実に退屈至極のものであった。それにもかかわらず、私たちは数時間もテーブルの前に腰をおろして、疲れ切ったのを我慢して貧乏ゆるぎ一つする者もなかった。
 誰かがシガーを注文したので、私たちはその人のほうを見かえった。その人はブリスバーンといって、常に人びとの注目の的《まと》となっているほどに優れた才能を持っている三十五、六の男盛りであった。彼の風采は、割合に背丈《せい》が高いというぐらいのことで、普通の人間の眼には別にどこといって変わったところは見えなかった。その背丈も六フィートより少し高いぐらいで、肩幅がかなり広いぐらいで、たいして強そうにも見えなかったが、注意してみると、たしかに筋肉たくましく、その小さな頭は頑丈な骨組みの頸《くび》によって支えられ、その男性的な手は胡桃《くるみ》割りを持たずとも胡桃を割ることが出来そうであり、横から見ると誰でもその袖幅が馬鹿に広く出来ているのや、並外れて胸の厚いのに気がつかざるを得ないのであった。いわば、彼はちょっと見ただけでは別に強そうでなくして、その実は見掛けよりも遙かに強いという種類の男であった。その顔立ちについてはあまり言う必要もないが、とにかく前にも言ったように、彼の頭は小さくて、髪は薄く、青い眼をして、大きな鼻の下にちょっぴりと口髭《くちひげ》を生やした純然たるユダヤ系の風貌であった。どの人もブリスバーンを知っているので、彼がシガーを取り寄せたときには、みな彼の方を見た。
「不思議なこともあればあるものさ」と、ブリスバーンは口をひらいた。
 どの人もみな話をやめてしまった。彼の声はそんなに大きくはなかったが、お座なりの会話を見抜いて、鋭利なナイフでそれを断ち切るような独特の声音《こわね》であった。一座は耳を傾けた。ブリスバーンは自分が一座の注目の的となっているのを心得ていながら、平然とシガーをくゆらせて言いつづけた。
「まったく不思議な話というのは、幽霊の話なんだがね。いったい人間という奴は、誰か幽霊を見た者があるかどうかと、いつでも聞きたがるものだが、僕はその幽霊を見たね」
「馬鹿な」
「君がかい」
「まさか本気じゃあるまいね、ブリスバーン君」
「いやしくも知識階級の男子として、そんな馬鹿な」
 こういったような言葉が同時に、ブリスバーンの話に浴びせかけられた。なんだ、つまらないといったような顔をして、一座の面めんはみなシガーを取り寄せると、司厨夫《バットラー》のスタッブスがどこからとなしに現われて、アルコールなしのシャンパンの壜《びん》を持って来たので、だれ[#「だれ」に傍点]かかった一座が救われた。ブリスバーンは物語をはじめた。

 僕は長いあいだ船に乗っているので、頻繁《ひんぱん》に大西洋を航海する時、僕は変な好みを持つようになった。もっとも大抵の人間にはめいめいの好みというものはある。たとえて言えば、僕はかつて、自分の好みの特種の自動車が来るまで、ブロード・ウェイの酒場《バア》で四十五分も待っていた一人の男を見たことがあった。まあ、僕に言わせると、酒場の主人などという者は、そうした人間の選りごのみの癖のお蔭で、三分の一は生活が立っていけるのであろう。で、僕にも大西洋を航海しなければならない時には、ある極まった汽船を期待する癖がある。それはたしかに偏寄《かたよ》った癖かもしれないが、とにかく、僕には、たった一遍、一生涯忘れられないほどの愉快な航海があった。
 僕は今でもよくそれを覚えている。それは七月のある暑い朝であった。検疫所から来る一艘の汽船を待っている間、税関吏たちはふらふらと波止場を歩いていたが、その姿は特に靄《もや》でぼんやりしていて、いかにも思慮のありそうに見えた。僕には荷物がほとんどなかった、というよりは全くなかったので、乗船客や運搬人や真鍮《しんちゅう》ボタンの青い上衣《うわぎ》を着た客引きたちの人波にまじって、その船の着くのを待っていた。
 汽船が着くと、例の客引きたちはいち早く茸《きのこ》のようにデッキに現われて、一人一人の客に世話を焼いていた。僕はある興味をもって、こうした人びとの自発的行動をしばしば注意して見ていたのであった。やがて水先案内が「出帆!」と叫ぶと、運搬夫や、例の真鍮ボタンに青い上衣の連中は、まるでダビー・ジョンスが事実上監督している格納庫へ引き渡されてしまったように、わずかの間にデッキや舷門から姿を消したが、いざ出帆の間ぎわになると、綺麗に鬚《ひげ》を剃って、青い上衣を着て、祝儀《チップ》をもらうのにあくせくしている客引きたちは再びそこへ現われた。僕も急いで乗船した。
 カムチャツカというのは僕の好きな船の一つであった。僕があえて「あった[#「あった」に傍点]」という言葉を使うのは、もう今ではその船をたいして好まないのみならず、実は二度と再びその船で航海したいなどという愛着はさらさら無いからである。まあ、黙って聞いておいでなさい。そのカムチャツカという船は船尾は馬鹿に綺麗だが、船首の方はなるたけ船を水に浸《ひた》させまいというところから恐ろしく切っ立っていて、下の寝台は大部分が二段《ダブル》になっていた。そのほかにもこの船にはなかなか優れている点はたくさんあるが、もう僕はその船で二度と航海しようとは思わない。話が少し脇道へそれたが、とにかくそのカムチャツカ号に乗船して、僕はその給仕《スチュワード》に敬意を表した。その赤い鼻とまっかな頬鬚がどっちとも気に入ったのである。
「下の寝台の百五号だ」と、大西洋を航海することは、下町《したまち》のデルモニコ酒場でウィスキーやカクテルの話をするくらいにしか考えていない人間たち特有の事務的の口調で、僕は言った。
 給仕は僕の旅行鞄と外套と、それから毛布を受け取った。僕はそのときの彼の顔の表情を忘れろと言っても、おそらく忘れられないであろう。むろん、かれは顔色を変えたのではない。奇蹟ですら自然の常軌を変えることは出来ないと、著名な神学者連も保証しているのであるから、僕も彼が顔色を真っ蒼にしたのではないというのにあえて躊躇《ちゅうちょ》しないが、しかしその表情から見て、彼が危うく涙を流しそうにしたのか、噴嚔《くさめ》をしそこなったのか、それとも僕の旅行鞄を取り落とそうとしたのか、なにしろはっ[#「はっ」に傍点]としたことだけは事実であった。その旅行鞄には、僕の古い友達のスニッギンソン・バン・ピッキンスから餞別《せんべつ》にもらった上等のシェリー酒が二壜はいっていたので、僕もいささか冷やりとしたが、給仕は涙も流さず、くさめもせず、旅行鞄を取り落とさなかった。
「では、ど……」と、こう低い声で言って、彼は僕を案内して、地獄(船の下部)へ導いて行った時、この給仕は少し酔っているなと心のなかで思ったが、僕は別になんにも言わずに、その後からついていった。
 百五号の寝台は左舷のずっとあとのほうにあったが、この寝台については別に取り立てて言うほどのこともなかった。カムチャツカ号の上部にある寝台の大部分は皆そうであったが、この下の寝台も二段になっていた。寝台はたっぷりしていて、北アメリカインディアンの心に奢侈《おごり》の念を起こさせるようなありきたりの洗面装置があり、歯ブラシよりも大型の雨傘が楽《らく》らく掛かりそうな、役にも立たない褐色の木の棚が吊ってあった。余分な掛け蒲団の上には、近代の大諧謔家が冷蕎麦《ひやしそば》菓子と比較したがるような毛布が一緒に畳んであった。但《ただ》し、手拭掛けがないのには全く閉口した。ガラス壜には透明な水がいっぱいにはいっていたが、やや褐色を帯びていて、そんなに不快なほどに臭《くさ》くはないが、ややもすれば船よいを感じさせる機械の油の匂いを連想させるような微かな臭味が鼻を打った。僕の寝台には、陰気なカーテンが半分しまっていて、靄《もや》でいぶしをかけられたような七月の日光は、そのわびしい小さな部屋へ淡い光りを投げかけていた。実際その寝台はどうも虫が好かなかった。
 給仕は僕の手提げ鞄を下に置くと、いかにも逃げ出したいような顔をして、僕を見た。おそらくほかの乗客たちのところへ行って、祝儀にありつこうというのであろう。そこで、僕もこうした職務の人たちを手なずけておくほうが便利であると思って、すぐさま彼に小銭をやった。
「どうぞ行き届きませんところは、ご遠慮なくおっしゃってください」と、彼はその小銭をポケットに入れながら言った。
 しかもその声のうちには、僕をびっくりさせるような可怪《おかし》な響きがあった。たぶん僕がやった祝儀が足りなかったので、不満足であったのであろうが、僕としては、はっきりと心の不平をあらわしてもらったほうが、黙っていられるよりも優《ま》しだと思った。但し、それが祝儀の不平でないことが後にわかったので、僕は彼を見損なったわけであった。
 その日一日は別に変わったこともなかった。カムチャツカ号は定刻に出帆した。海路は静穏、天気は蒸し暑かったが、船が動いていたので爽《さわや》かな風がそよそよと吹いていた。すべての乗客は船に乗り込んだ第一日がいかに楽しいものであるかを知っているので、甲板《デッキ》を徐《しず》かに歩いたり、お互いにじろじろ見かわしたり、または同船していることを知らずにいた知人に偶然出逢ったりしていた。
 最初の二回ほど食堂へ出てみないうちは、この船の食事が良いか悪いか、あるいは普通か、見当がつかない。船が|炎の嶋《ファイアー・アイランド》を出ないうちは、天候もまだわからない。最初は食卓もいっぱいであったが、そのうちに人が減ってきた。蒼い顔をした人たちが自分の席から飛び立って、あわただしく入り口の方へ出て行ってしまうので、船に馴れた連中はすっかりいい心持ちになって、うんと腹帯をゆるめて献立表を初めからしまいまで平らげるのである。
 大西洋を一度や二度航海するのとは違って、われわれのように度《たび》かさなると、航海などは別に珍らしくないことになる。鯨や氷山は常に興味の対象物であるが、しょせん鯨は鯨であり、たまに目と鼻のさきへ、氷山を見るというまでのことである。ただ大洋の汽船で航海しているあいだに一番楽しい瞬間といえば、まず甲板を運動した挙げ句に最後のひと廻りをしている時と、最後の一服をくゆらしている時と、それから適度にからだを疲れさせて、子供のような澄んだ心持ちで自由に自分の部屋へはいるときの感じである。
 船に乗った最初の晩、僕は特に懶《ものう》かったので、ふだんよりは、ずっと早く寝ようと思って、百五号室へはいると、自分のほかにも一人の旅客があるらしいので、少しく意外に思った。僕が置いたのとは反対側の隅に、僕のと全く同じ旅行鞄が置いてあって、上段の寝台――上床《アッパー・バース》――にはステッキや蝙蝠《こうもり》傘と一緒に、毛布がきちんと畳んであった。僕はたった一人でいたかったのでいささか失望したが、いったい僕の同室の人間は何者だろうという好奇心から、彼がはいって来たらその顔を見てやろうと待っていた。
 僕が寝床へもぐり込んでから、ややしばらくしてその男ははいって来た。彼は、僕の見ることのできた範囲では、非常に背丈《せい》の高い、恐ろしく痩せた、そうしてひどく蒼い顔をした男で、茶色の髪や頬ひげを生やして、灰色の眼はどんよりと曇っていた。僕は、どうも怪しい風体の人間だなと思った。諸君は、ウォール・ストリートあたりを、別に何をしているということもなしにぶらぶらしている種類の人間をきっと見たに相違ない。またはキャフェ・アングレへしばしば現われて、たった一人でシャンパンを飲んでいたり、それから競技場などで別に見物するでもなしにぶらぶらしているような男――彼はそうした種類の人間であった。彼はややおしゃれで、しかもどことなく風変わりなところがあった。こういったふうの人間は大抵どの航路の汽船にも二、三人はいるものである。
 そこで、僕は彼と近づきになりたくないものだと思ったので、彼と顔を合わさないようにするために、彼の日常の習慣を研究しておこうと考えながら眠ってしまった。その以来、もし彼が早く起きれば、僕は彼よりも遅く起き、もし彼がいつまでも寝なければ、僕は彼よりもさきに寝床へもぐり込んでしまうようにしていた。むろん、僕は彼がいかなる人物であるかを知ろうとはしなかった。もし一度こういう種類の男の素姓《すじょう》を知ったが最後、その男は絶えずわれわれの頭のなかへ現われてくるものである。しかし百五号室における第一夜以来、二度とその気の毒な男の顔を見なかったので、僕は彼について面倒な穿索《せんさく》をせずに済んだ。
 鼾《いびき》をかいて眠っていた僕は、突然に大きい物音で目をさまされた。その物音を調べようとして、同室の男は僕の頭の上の寝台から一足飛びに飛び降りた。僕は彼が不器用な手つきで扉《ドア》の掛け金や貫木《かんぬき》をさぐっているなと思っているうちに、たちまちその扉がばたりとひらくと、廊下を全速力で走ってゆく彼の跫音《あしおと》がきこえた。扉は開いたままになっていた。船はすこし揺れてきたので、僕は彼がつまずいて倒れる音がきこえてくるだろうと耳を澄ましていたが、彼は一生懸命に走りつづけてでもいるように、どこへか走っていってしまった。船がゆれるごとに、ばたんばたんと扉が煽《あお》られるのが、気になってたまらなかった。僕は寝台から出て、扉をしめて、闇のなかを手さぐりで寝台へかえると、再び熟睡してしまって、何時間寝ていたのか自分にも分からなかった。

       

 眼をさました時は、まだ真っ暗であった。僕は変に不愉快な悪寒《さむけ》がしたので、これは空気がしめっているせいであろうと思った。諸君は海水で湿《しけ》ている船室《キャビン》の一種特別な臭《にお》いを知っているであろう。僕は出来るだけ蒲団をかけて、あすあの男に大苦情を言ってやる時のうまい言葉をあれやこれやと考えながら、また、うとうとと眠ってしまった。そのうちに、僕の頭の上の寝台で同室の男が寝返りを打っている音がきこえた。たぶん彼は僕が眠っている間に帰って来たのであろう。やがて彼がむむう[#「むむう」に傍点]とひと声うなったような気がしたので、さては船暈《ふなよい》だなと僕は思った。もしそうであれば、下にいる者はたまらない。そんなことを考えながらも、僕はまた、うとうとと夜明けまで眠った。
 船は昨夜よりもよほど揺れてきた。そうして、舷窓《まど》からはいってくる薄暗いひかりは、船の揺れかたによって、その窓が海の方へ向いたり、空の方へ向いたりするたびごとに色が変わっていた。
 七月というのに、馬鹿に寒かったので、僕は頭をむけて窓のほうを見ると、驚いたことには、窓は鉤《かぎ》がはずれてあいているではないか。僕は上の寝台の男に聞こえよがしに悪口を言ってから、起き上がって窓をしめた。それからまた寝床へ帰るときに、僕は上の寝台に一瞥《いちべつ》をくれると、そのカーテンはぴったりとしまっていて、同室の男も僕と同様に寒さを感じていたらしかった。すると、今まで寒さを感じなかった僕は、よほど熟睡していたのだなと思った。
 ゆうべ僕を悩ましたような、変な湿気の臭いはしていなかったが、船室の中はやはり不愉快であった。同室の男はまだ眠っているので、ちょうど彼と顔を合わさずに済ませるにはいい機会であったと思って、すぐに着物を着かえて、甲板へ出ると、空は曇って温かく、海の上からは油のような臭いがただよってきた。僕が甲板へ出たのは七時であった。いや、あるいはもう少し遅かったかもしれない。そこで朝の空気をひとりで吸っていた船医《ドクトル》に出会った。東部アイルランド生まれの彼は、黒い髪と眼を持った、若い大胆そうな偉丈夫で、そのくせ妙に人を惹《ひ》きつけるような暢気な、健康そうな顔をしていた。
「やあ、いいお天気ですな」と、僕は口を切った。
「やあ。いいお天気でもあり、いいお天気でもなし、なんだか私には朝のような気がしませんな」
 船医は待ってましたというような顔をして、僕を見ながら言った。
「なるほど、そういえばあんまりいいお天気でもありませんな」と、僕も相槌《あいづち》を打った。
「こういうのを、わたしは黴臭《かびくさ》い天気と言っていますがね」と、船医は得意そうに言った。
「ときに、ゆうべは馬鹿に寒かったようでしたね。もっとも、あんまり寒いのでほうぼう見まわしたら、窓があいていました。寝床へはいる時には、ちっとも気がつかなかったのですが、お蔭で部屋が湿気《しけ》てしまいました」と、僕は言った。
「しけていましたか。あなたの部屋は何号です」
「百五号です」
 すると、僕のほうがむしろ驚かされたほどに、船医はびっくりして僕を見つめた。
「どうしたんですか」と、僕はおだやかに訊《き》いた。
「いや、なんでもありません。ただ最近、三回ほどの航海のあいだに、あの部屋ではみなさんから苦情《くじょう》が出たものですから……」と、船医は答えた。
「わたしも苦情を言いますね。どうもあの部屋は空気の流通が不完全ですよ。あんな所へ入れるなんて、まったくひど過ぎますな」
「実際です。私にはあの部屋には何かあるように思われますがね……。いや、お客さまを怖がらせるのは私の職務ではなかった」
「いや、あなたは私を怖がらせるなどと、ご心配なさらなくてもようござんすよ。なに、少しぐらいの湿気は我慢しますよ。もし風邪でも引いたら、あなたのご厄介《やっかい》になりますから」
 こう言いながら、僕は船医にシガーをすすめた。彼はそれを手にすると、よほどの愛煙家とみえて、どこのシガーかを鑑定するように眺めた。
「湿気などは問題ではありません。とにかくあなたのお体に別条ないということはたしかですからな。同室のかたがおありですか」
「ええ。一人いるのです。その先生ときたら、夜なかに戸締りをはずして、扉《ドア》をあけ放しておくという厄介者なのですからね」
 船医は再び僕の顔をしげしげと見ていたが、やがて[#「やがて」は底本では「やがで」]シガーを口にくわえた。その顔はなんとなく物思いに沈んでいるらしく見えた。
「で、その人は帰って来ましたか」
「わたしは眠っていましたが、眼をさました時に、先生が寝返りを打つ音を聞きました。それから私は寒くなったので、窓をしめてからまた寝てしまいましたが、けさ見ますと、その窓はあいているじゃありませんか……」
 船医は静かに言った。
「まあ、お聴きなさい。私はもうこの船の評判なぞはかまっていられません。これから私のすることをあなたにお話し申しておきましょう。あなたはどういうおかたか、ちっとも知りませんが、私は相当に広い部屋をここの上に持っておりますから、あなたは私と一緒にそこで寝起きをなさい」
 こうした彼の申しいでには、僕も少なからず驚かされた。どうして船医が急に僕のからだのことを思ってくれるようになったのか、なにぶん想像がつかなかった。なんにしても、この船について彼が話した時の態度はどうも変であった。
「いろいろとご親切にありがとうございますが、もう船室も空気を入れ替えて、湿気も何もなくなってくると思います。しかしあなた、なぜこの船のことなんかかまわないと言われるのですか」と、私は訊いた。
「むろん、私たちは医者という職業の上からいっても、迷信家でないことは、あなたもご承知くださるでしょう。が、海というものは人間を迷信家にしてしまうものです。私はあなたにまで迷信をいだかせたくはありませんし、また恐怖心を起こさせたくもありませんが、もしもあなたが私の忠告をおいれくださるなら、とにかく私の部屋へおいでなさい」
 船医はまた次のように言葉をつけ加えた。
「あなたが、あの百五号船室でお寝《やす》みになっているということを聞いた以上、やがてあなたが海へ落ち込むのを見なければならないでしょうから……。もっとも、これはあなたばかりではありません」
「それはどうも……。いったいどうしたわけですか」
 僕は訊き返すと、船医は沈みがちに答えた。
「最近、三航海のあいだに、あの船室で寝た人たちはみんな海のなかへ落ち込んでしまったという事実があるのです」
 僕は告白するが、人間の知識というものほど恐ろしく不愉快なものはない。僕はこのなまじいな知識があったために、かれが僕をからかっているのかどうかを見きわめようと思って、じっとその顔を穴のあくほど見ていたが、船医はいかにも真面目な顔をしているので、僕は彼のその申しいでを心から感謝するとともに、自分はその特別な部屋に寝たものは誰でも海へおちるという因縁の、除外例の一人になってみるつもりであるということを船医に語ると、彼はあまり反対もしなかったが、その顔色は前よりも更に沈んでいた。そうして、今度逢うまでにもう一度、彼の申しいでをよく考えたほうがよかろうということを、暗暗裡《あんあんり》にほのめかして言った。
 それからしばらくして、僕は船医と一緒に朝飯を食いにゆくと、食卓にはあまり船客が来ていなかったので、僕はわれわれと一緒に食事をしている一、二名の高級船員が妙に沈んだ顔をしているのに気づいた。朝飯が済んでから、僕は書物を取りに自分の部屋へゆくと、上の寝台のカーテンはまだすっかりしまっていて、なんの音もきこえない。同室の男はまだ寝ているらしかった。
 僕は部屋を出たときに、僕をさがしている給仕に出逢った。彼は船長が僕に逢いたいということをささやくと、まるである事件から遁《のが》れたがっているかのように、そそくさ[#「そそくさ」に傍点]と廊下を駈けていってしまった。僕は船長室へゆくと、船長は待ち受けていた。
「やあ、どうもご足労をおかけ申して済みませんでした。あなたにちとお願いいたしたいことがございますもので……」と、船長は口を切った。
 僕は自分に出来ることならば、なんなりとも遠慮なくおっしゃってくださいと答えた。
「実は、あなたの同室の船客が行くえ不明になってしまいました。そのかたはゆうべ宵のうちに船室にはいられたことまでは分かっているのですが、あなたはそのかたの態度について、何か不審な点をお気づきになりませんでしたか」
 たった三十分前に、船医が言った恐ろしい事件が実際問題となって僕の耳にはいった時、僕は思わずよろけそうになった。
「あなたがおっしゃるのは、わたしと同室の男が海へ落ち込んだという意味ではないのですか」
 僕は訊き返すと、船長は答えた。
「どうもそうらしいので、わたしも心配しておるのですが……」
「実に不思議なこともあればあるものですな」
「なぜですか」と、今度は船長が訊き返した。
「では、いよいよあの男で四人目ですな」
 こう言ってから、僕は船長の最初の質問の答えとして、船医から聞いたとは言わずに、百五号船室に関して聞いた通りの物語を明細に報告すると、船長は僕が何もかも知っているのにびっくりしているらしかった。それから、僕はゆうべ起こった一部始終を彼にすっかり話して聞かせた。
「あなたが今おっしゃった事と、今までの三人のうち二人の投身者と同じ船室にいた人がわたしに話された事と、ほとんど全く一致しています」と、船長は言った。「前の投身者たちも寝床から跳《おど》り出すと、すぐに廊下を走っていきました。三人のうち二人が海中に落ち込むのを見張りの水夫がみつけたので、私たちは船を停めて救助艇をおろしましたが、どうしても発見されませんでした。もし、ほんとうに投身したとしても、ゆうべは誰もそれを見た者も聴いた者もなかったのです。あの船室を受け持ちの給仕は迷信の強い男だものですから、どうも何か悪いことが起こりそうな気がしたというので、けさあなたの同室の客をそっと見にゆくと、寝台は空《から》になって、そこにはその人の着物が、いかにもそこへ残しておいたといった風に散らかっていたのです。この船中であなたの同室の人を知っているのはあの給仕だけなので、彼は隈《くま》なく船中を捜しましたが、どうしてもその行くえが分からないのです。で、いかがでしょう、この出来事を他の船客たちに洩らさないようにお願いいたしたいのですが……。私はこの船に悪い名を付けさせたくないばかりでなく、この投身者の噂ほど船客の頭を脅迫《おびやか》すものはありませんからな。そうしてあなたには、高級船員の部屋のうちのどれか一つに移っていただきたいのですが……。むろん、わたしの部屋でも結構です。いかがです、これならばまんざら悪い条件ではないと思いますが……」
「非常に結構です」と、僕も言った。「いかにも承知いたしました。が、私はあの部屋が独占できるようになったのですから、むしろそこにじっとしていたいと思うのです。もし給仕があの不幸な男の荷物を出してしまってくれれば、わたしは喜んで今の部屋に残っています。もちろん、この事件については何事も洩らしませんし、また、自分はあの同室の男の二の舞はしないということを、あなたにお約束できるつもりでいます」
 船長は僕のこの向う見ずな考えを諫止《かんし》しようと努《つと》めたが、[#「、」は底本では「、、」]僕は高級船員の居候《いそうろう》を断わって、かの一室を独占することにした。それは馬鹿げた事であったかどうかは知らないが、もしもその時に船長の忠告を容れたならば、僕は平平凡凡の航海をして、おそらくこうして諸君に話すような奇怪な経験は得られなかったであろう。今まで百五号船室に寝た人間のあいだに起こった再三の投身事件の不快な一致点は船員らの頭に残っているだろうが、もうそんな一致点などは未来|永劫《えいごう》なくしてみせるぞと、僕は肚《はら》のなかで決心した。
 いずれにしても、その事件はまだ解決しなかった。僕は断乎《だんこ》として、今までのそんな怪談に心をみだされまいと決心しながら、船長とこの問題について、なおいろいろの議論を闘わした。僕は、どうもあの部屋には何か悪いことがあるらしいと言った。その証拠には、ゆうべは窓があけ放しになっていた。僕の同室の男は乗船して来たときから病人じみてはいたけれども、彼が寝床へはいってからは更に気違いのようになっていた。とは言うものの、あの男は船中のどこかに隠れていて、いまに発見されるかもしれないが、とにかく、あの部屋の空気を入れ替えて、窓を注意してしっかりしめておく必要があるから、もしも私にもう御用《ごよう》がなければ、部屋の通風や窓の締りがちゃんと出来ているかどうかを見とどけて来たいと、僕は船長に言った。
「むろん、あなたがそうしたいとお思いなら、現在の所におとどまりなさるのはあなたの権利ですけれども……。私としては、あなたにあの部屋を出ていただいて、すっかり錠をおろして、保管しておかせてもらいたいのです」と、船長はいくらかむっ[#「むっ」に傍点]としたように言った。
 僕はあくまでも素志を曲げなかった。そうして、僕の同室の男の失踪に関しては全然沈黙を守るという約束をして、船長の部屋を辞した。
 僕の同室の男の知人はこの船中にいなかったので、彼が行くえ不明になったからといって、歎く者は一人もなかった。夕方になって、僕はふたたび船医に逢った。船医は僕に、決心をひるがえしたかどうかを聞いたので、僕はひるがえさないと答えた。
「では、あなたもやがて……」と言いながら、船医は顔を暗くした。

       

 その晩、僕らはトランプをして、遅くなってから寝ようとした。今だから告白するが、実を言うと、自分の部屋へはいった時はなんとなく忌《いや》な感動に胸を躍《おど》らせたのである。僕はいくら考えまいとしても、今ごろはもう溺死して、二、三マイルもあとの方で長い波のうねりに揺られている、あの背丈《せい》の高い男のことが考え出されてならなかった。寝巻に着替えようとすると、眼の前にはっきりと彼の顔が浮きあがってきたので、僕はもう彼が実際にいないということを自分の心に納得《なっとく》させるために、上の寝台のカーテンをあけ放してみようかとさえ思ったくらいであった。
 なんとなく気味が悪かったので、僕も入り口の扉の貫木《かんぬき》をはずしてしまった。しかも窓が不意に音を立ててあいたので、僕は思わずぎょっとしたが、それはすぐにまたしまった。あれだけ窓をしっかりとしめるように言いつけておいたのにと思うと、僕は腹が立ってきて、急いで部屋着を引っかけて、受け持ちの給仕のロバートを探しに飛び出した。今でも忘れないが、あまりに腹を立てていたので、ロバートを見つけるとあらあらしく百五号室の戸口までひきずって来て、あいている窓の方へ突き飛ばしてやった。
「毎晩のように窓をあけ放しにしておくなんて、なんという間抜けな真似をするのだ、横着野郎め。ここをあけ放しにしておくのは、船中の規定に反するということを、貴様は知らないのか。もし船が傾いて水が流れ込んでみろ。十人かかっても窓をしめることが出来なくなるぐらいのことは知っているだろう。船に危険をあたえたことを船長に報告してやるぞ、悪者め」
 僕は極度に興奮してしまった。ロバートは真っ蒼になって顫《ふる》えていたが、やがて重い真鍮の金具《かなぐ》をとって窓の丸いガラス戸をしめかけた。
「なぜ、貴様はおれに返事をしないのだ」と、僕はまた呶鳴《どな》り付けた。
「どうぞご勘弁なすってください、お客さま」と、ロバートは吃《ども》りながら言った。「ですが、この窓をひと晩じゅうしめておくことの出来るものは、この船に一人もいないのです。まあ、あなたが自分でやってごらんなさい。わたくしはもう恐ろしくって、この船に一刻《いっとき》も乗ってはいられません。お客さま、わたくしがあなたでしたら、早速この部屋を引き払って、船医の部屋へ行って寝るとか、なんとかいたしますがね。さあ、あなたがおっしゃった通りにしめてあるかないか、よくごらんなすった上で、ちょっとでも動くかどうか手で動かしてみてください」
 僕は窓の戸を動かしてみたが、なるほど固くしまっていた。
「いかがです」と、ロバートは勝ち誇ったように言葉をつづけた。「手前の一等給仕の折紙《おりかみ》に賭けて、きっと半時間経たないうちにこの戸がまたあいて、またしまることを保証しますよ。恐ろしいことには、ひとりでにしまるんですからね」
 僕は大きい螺旋《ねじ》や鍵止めを調べてみた。
「よし、ロバート。もしもひと晩じゅうにこの戸があいたら、おれはおまえに一ポンドの金貨をやろう。もう大丈夫だ。あっちへ行ってもいい」
「一ポンドの金貨ですって……。それはどうも……。今からお礼を申し上げておきます。では、お寝《やす》みなさい。こころよい休息と楽しい夢をごらんなさるように、お客さま」
 ロバートは、いかにもその部屋を去るのが嬉しそうなふうをして、足早に出て行った。むろん、彼は愚にもつかない話をして僕を怖がらせておいて、自分の怠慢をごまかそうとしたのだと、僕は思っていた。ところがその結果は、彼に一ポンドの金貨をせしめられた上に、きわめて不愉快な一夜を送ることになったのである。
 僕は寝床へはいって、自分の毛布でからだを包んでから、ものの五分も経たないうちにロバートが来て、入り口のそばの丸い鏡板のうしろに絶え間なく輝いていたランプを消していった。僕は眠りに入ろうとして、闇のなかに静かに横たわっていたが、とても眠られそうもないことに気がついた。しかし彼を呶鳴りつけたので、ある程度まで気が清《せい》せいしたせいか、一緒の部屋にいたあの溺死者のことを考えたときに感じたような不愉快な気分はすっかり忘れてしまった。それにもかかわらず、僕はもう眠気が去ったので、しばらくは床のなかで眼をあけながら、時どきに窓の方をながめていた。その窓は僕の寝ている所から見あげると、あたかも闇のなかに吊るしてある弱いひかりのスープ皿のように見えた。
 それから一時間ばかりは、そこに横たわっていたように思うが、折角《せっかく》うとうとと眠りかけたところへ、冷たい風がさっと吹き込むと同時に、僕の顔の上に海水の飛沫《しぶき》がかかったので、はっ[#「はっ」に傍点]と眼をさまして飛び起きると、船の動揺のために足をすくわれて、ちょうど窓の下にある長椅子の上に激しくたたきつけられた。しかし僕はすぐに気を取り直して膝で起《た》った。その時、窓の戸がまたいっぱいにあいて、またしまったではないか。
 これらの事実はもう疑う余地がない。僕が起きあがった時にはたしかに眼をあけていたのである。また、たとい僕が夢うつつであったとしても、こんなに忌《いや》というほどたたきつけられて眼を醒まさないという法はない。そのうえ僕は肘と膝とによほどの怪我をしているのであるから、僕自身がその事実を疑うと仮定しても、これらの傷が明くる朝になってじゅうぶんに事実を証明すべきであった。あんなにちゃんとしめておいたはずの窓が自然に開閉する――それはあまりにも不可解であるので、初めてそれに気づいた時には、恐ろしいというよりもむしろ唯《ただ》びっくりしてしまったのを、僕は今でもありありと記憶している。そこで、僕はすぐにそのガラス戸をしめて、あらん限りの力を絞ってその鍵をかけた。
 部屋は真っ暗であった。僕はロバートが僕の見ている前でその戸をしめた時に、また半時間のうちに必ずあくと言った言葉を想い起こしたので、その窓がどうしてあいたのかを調べてみようと決心した。真鍮の金具類は非常に頑丈に出来ているものであるから、ちっとのことでは動くはずがないので、螺旋《ねじ》が動揺したぐらいのことで締め金がはずれたとは、僕にはどうも信じられなかった。僕は窓の厚いガラス戸から、窓の下で泡立っている白と灰色の海のうねりをじっと覗いていた。なんでも十五分間ぐらいもそこにそうして立っていたであろう。
 突然うしろの寝台の一つで、はっきりと何物か動いている音がしたので、僕ははっ[#「はっ」に傍点]としてうしろを振り返った。むろんに暗やみのことで何ひとつ見えなかったのである。僕は非常にかすかな唸《うな》り声を聞き付けたので、飛びかかって上の寝台のカーテンをあけるが早いか、そこに誰かいるかどうかと手を突っ込んでみた。すると、確かに手応《てごた》えがあった。
 今でも僕は、あの両手を突っ込んだときの感じは、まるで湿《しめ》った穴蔵へ手を突っ込んだように冷やりとしたのを覚えている。カーテンのうしろから、恐ろしくよどんだ海水の臭いのする風がまたさっ[#「さっ」に傍点]と吹いてきた。そのとたんに、僕は何か男の腕のような、すべすべとした、濡れて氷のように冷たい物をつかんだかと思うと、その怪物は僕の方へ猛烈な勢いで飛びかかってきた。ねばねばした、重い、濡れた泥のかたまりのような怪物は、超人のごとき力を有していたので、僕は部屋を横切ってたじたじとなると、突然に入り口の扉がさっ[#「さっ」に傍点]とあいて、その怪物は廊下へ飛び出した。
 僕は恐怖心などを起こす余裕もなく、すぐに気を取り直して同じく部屋を飛び出して、無我夢中に彼を追撃したが、とても追いつくことは出来なかった。十ヤードもさきに、たしかに薄黒い影がぼんやりと火のともっている廊下に動いているのを目撃したが、その速さは、あたかも闇夜に馬車のランプの光りを受けた駿馬《しゅんめ》の影のようであった。その影は消えて、僕のからだは廊下の明かり窓の手欄《てすり》に支えられているのに気がついた時、初めて僕はぞっ[#「ぞっ」に傍点]として髪が逆立つと同時に、冷や汗が顔に流れるのを感じた。といって、僕は少しもそれを恥辱とは思わない。だれでも極度の恐怖に打たれれば、冷や汗や髪の逆立つぐらいは当然ではないか。
 それでもなお、僕は自分の感覚を疑ったので、つとめて心を落ち着かせて、これは下《くだ》らないことだとも思った。薬味付きのパンを食ったのが腹に溜《たま》っていたので、悪い夢を見たのだろうと思いながら、自分の部屋へ引っ返したが、からだが痛むので、歩くのが容易でなかった。部屋じゅうはゆうべ僕が目をさました時と同じように、よどんだ海水の臭いで息が詰まりそうであった。僕は勇気を鼓《こ》して内へはいると、手探りで旅行鞄のなかから蝋燭の箱を取り出した。そうして、消燈されたあとに読書したいと思うときの用意に持っている、汽車用の手燭に火をつけると、窓がまたあいているので、僕はかつて経験したこともない、また二度と経験したくもない、うずくような、なんともいえない恐怖に襲われた。僕は手燭を持って、たぶん海水たびしょ濡れになっているだろうと思いながら、上の寝台を調べた。
 しかし僕は失望した。実のところ、何もかも忌《いや》な夢であった昨夜の事件以来、ロバートは寝床を整える勇気はあるまいと想像していたのであったが、案に相違して寝床はきちんと整頓してあるばかりか、非常に潮くさくはあったが、夜具はまるで骨のように乾いていた。僕は出来るだけいっぱいカーテンを引いて、細心の注意を払って隈《くま》なくその中をあらためると、寝床はまったく乾いていた。しかも窓はまたあいているではないか。僕はなんということなしに恐怖の観念に駆《か》られながら窓をしめて、鍵をかけて、その上に僕の頑丈なステッキを真鍮の環の中へ通して、丈夫な金物が曲がるほどにうん[#「うん」に傍点]と捻《ね》じた。それからその手燭の鉤《かぎ》を、自分の寝台の頭のところに垂れている赤い天鵞絨《ビロード》[#「天鵞絨」は底本では「天鷲絨」]へ引っかけておいて、気を鎮めるために寝床の上に坐った。僕はひと晩じゅうこうして坐っていたが、気を落ち着けるどころの騒ぎではなかった。しかし、窓はさすがにもうあかなかった。僕もまた神わざでない限りは、もう二度とあく気づかいはないと信じていた。
 ようように夜があけたので、僕はゆうべ起こった出来事を考えながら、ゆっくりと着物を着かえた。非常によい天気であったので、僕は甲板へ出て、いい心持ちで清らかな朝の日光にひたりながら、僕の部屋の腐ったような臭いとはまるで違った、薫りの高い青海原《あおうなばら》のそよ風を胸いっぱいに吸った。僕は知らず識らずのうちに船尾の船医の部屋の方へむかってゆくと、船医はすでに船尾の甲板に立って、パイプをくわえながら前の日とまったく同じように朝の空気を吸っていた。
「お早う」と、彼はいち早くこう言うと、明らかに好奇心をもって僕の顔を見守っていた。
「先生、まったくあなたのおっしゃった通り、たしかにあの部屋には何かが憑《つ》いていますよ」と、僕は言った。
「どうです、決心をお変えになったでしょう」と、船医はむしろ勝ち誇ったような顔をして僕に答えた。「ゆうべはひどい目にお逢いでしたろう。ひとつ興奮飲料をさし上げましょうか、素敵なやつを持っていますから」
「いや、結構です。しかし、まずあなたに、ゆうべ起こったことをお話し申したいと思うのですが……」と、僕は大きい声で言った。
 それから僕は出来るだけ詳しくゆうべの出来事の報告をはじめた。むろん、僕はこの年になるまで、あんな恐ろしい思いをした経験はなかったということをも、つけ加えるのを忘れなかった。特に僕は窓に起こった現象を詳細に話した。実際、かりに他のことは一つの幻影であったとしても、この窓に起こった現象だけは誰がなんといっても、僕は明らかに証拠立てることの出来る奇怪の事実であった。現に僕は二度までも窓の戸をしめ、しかも二度目には自分のステッキで螺旋鍵《ねじかぎ》を固くねじて、真鍮の金具を曲げてしまったという点だけでも、僕は大いにこの不可思議を主張し得るつもりであった。
「あなたは、私が好んであなたのお話を疑うとお思いのようですね」と、船医は僕があまりに窓のことを詳しく話すので微笑《ほほえ》みながら言った。「私はちっとも疑いませんよ。あなたの携帯品を持っていらっしゃい。二人で私の部屋を半分ずつ使いましょう」
「それよりもどうです。わたしの船室においでなすって、二人でひと晩を過ごしてみませんか。そうして、この事件を根底まで探るのに、お力添えが願えませんでしょうか」
「そんな根底まで探ろうなどとこころみると、あべこべに根底へ沈んでしまいますよ」と、船医は答えた。
「というと……」
「海の底です。わたしはこの船をおりようかと思っているのです。実際、あんまり愉快ではありませんからな」
「では、あなたはこの根底を探ろうとする私に、ご援助くださらないのですか」
「どうも私はごめんですな」と、船医は口早に言った。「わたしは自分を冷静にしていなければならない立場にあるもので、化け物や怪物をなぶり廻してはいられませんよ」
「あなたは化け物の仕業《しわざ》だと本当に信じていられるのですか」と、僕はやや軽蔑的な口ぶりで聞きただした。
 こうは言ったものの、ゆうべ自分の心に起こったあの超自然的な恐怖観念を僕はふと思い出したのである。船医は急に僕の方へ向き直った。
「あなたはこれらの出来事を化け物の仕業《しわざ》でないという、たしかな説明がお出来になりますか」と、彼は反駁《はんばく》してきた。「むろん、お出来にはなりますまい。よろしい。それだからあなたはたしかな説明を得ようというのだとおっしゃるのでしょう。しかし、あなたには得られますまい。その理由は簡単です。化け物の仕業という以外には説明の仕様《しよう》がないからです」
「あなたは科学者ではありませんか。そのあなたが私にこの出来事の解釈がお出来にならんと言うのですか」と、今度は僕が一矢をむくいた。
「いや、出来ます」と、船医は言葉に力を入れて言った。「しかし他の解釈が出来るくらいならば、私だって何も化け物の仕業だなどとは言いません」
 僕はもうひと晩でもあの百五号の船室にたった一人でいるのは嫌であったが、それでも、どうかしてこの心にかかる事件の解決をつけようと決心した。おそらく世界じゅうのどこを捜《さが》しても、あんな心持ちの悪いふた晩を過ごしたのち、なおたった一人であの部屋に寝ようという人がたくさんあるはずはない。しかも僕は自分と一緒に寝ずの番をしようという相棒を得られずとも、ひとりでそれを断行しようと意を決したのである。
 船医は明らかに、こういう実験には興味がなさそうであった。彼は自分は医者であるから、船中で起こったいかなる事件にでも、常に冷静でなければならないと言っていた。彼は何事によらず、判断に迷うということが出来ないのである。おそらくこの事件についても、彼の判断は正しいかもしれないが、彼が何事にも冷静でなければならないという職務上の警戒は、その性癖から生じたのではないかと、僕には思われた。それから、僕が誰か他に力を藉《か》してくれる人はあるまいかとたずねると、船医は、この船のなかに僕の探究に参加しようという人間は一人もないと答えたので、ふた言三言話した後《のち》に彼と別れた。
 それから少し後に、僕は船長に逢った。話をした上で、もし自分と一緒にあの部屋で寝ずの番をする勇者がなかったらば、自分ひとりで決行するつもりであるから、一夜じゅうそこに灯をつけておくことを許可してもらいたいと申し込むと、「まあ、お待ちなさい」と、船長は言った。
「私の考えを、あなたにお話し申しましょう。実は私もあなたと一緒に寝ずの番をして、どういうことが起こるかを調べてみようと思うのです。私はきっとわれわれのあいだに何事をか発見するだろうと確信しています。ひょっとすると、この船中にこっそりと潜《ひそ》んでいて、船客を嚇《おど》かしておいて何かの物品を盗もうとする奴がいないとも限りません。したがって、あの寝台の構造のうちに、怪しい機関《からくり》が仕掛けてあるかもしれませんからね」
 船長が僕と一緒に寝ずの番をするという申しいでがなかったらば、彼のいう盗人《ぬすびと》一件などはむろん一笑に付《ふ》してしまったのであるが、なにしろ船長の申しいでが非常に嬉しかったので、それでは船の大工を連れて行って、部屋を調べさせましょうと、僕は自分から言い出した。そこで、船長はすぐに大工を呼び寄せ、僕の部屋を隈なく調べるように命じて、僕らも共に百五号の船室へ行った。
 僕らは上の寝台の夜具をみんな引っ張り出して、どこかに取り外しの出来るようになっている板か、あるいはあけたての出来るような鏡板でもありはしまいかと、寝台はもちろん、家具類や床板をたたいてみたり、下の寝台の金具をはずしたりして、もう部屋のなかに調べない所はないというまでに調査したが、結局なんの異状もないので、またもとの通りに直しておいた。僕らがその跡始末をしてしまったところへ、ロバートが戸口へ来て窺った。
「いかがです、何か見つかりましたか」と、彼はしいてにやにやと笑いながら言った。
「ロバート、窓の一件ではおまえのほうが勝ったよ」と、僕は彼に約束の金貨をあたえた。
 大工は黙って、手ぎわよく僕の指図通りに働いていたが、仕事が終わるとこう言った。
「わっしはただのつまらねえ人間でござんすが、悪いことは申しませんから、あなたの荷物をすっかり外へお出しになって、この船室の戸へ四インチ釘を五、六本たたっ込んで、釘付けにしておしまいなさるほうがよろしゅうござんすぜ。そうすれば、もうこの船室から悪い噂も立たなくなってしまいます。わっしの知っているだけでも、四度の航海のうちに、この部屋から四人も行くえ知れずになっていますからね。この部屋はおやめになったほうがようござんすよ」
「いや、おれはもうひと晩ここにいるよ」と、僕は答えた。
「悪いことは言いませんから、およしなさい。おやめなすったほうがようござんすよ。碌《ろく》なことはありませんぜ」と、大工は何度もくりかえして言いながら、道具を袋にしまって、船室を出て行った。
 しかし僕は船長の助力を得たことを思うと、大いに元気が出てきたので、もちろん、この奇怪なる仕事を中止するなどとは、思いもよらないことであった。僕はゆうべのように薬味付きの焼パンや火負《グロッグ》を飲むのをやめ、定連のトランプの勝負にも加わらずに、ひたすらに精神を鎮めることにつとめた。それは船長の眼に自分というものを立派に見せようという自負心があったからである。
 僕たちの船長は、艱難辛苦《かんなんしんく》のうちにたたき上げて得た勇気と、胆力と、沈着とによって、人びとの信用の的《まと》となっている、粘り強い、磊落《らいらく》な船員の標本の一人であった。彼は愚にもつかない話に乗るような男ではなかった。したがって、彼がみずから進んで僕の探究に参加したというだけの事実でも、船長が僕の船室には普通の理論では解釈のできない、といって単にありきたりの迷信と一笑に付してしまうことのできない、容易ならぬ変化《へんげ》が憑《つ》いているに違いないと思っている証拠になった。そうして彼は、ある程度までは自分の名声とともに致命傷を負わされなければならないのを恐れる利己心と、船長として船客が海へ落ち込むのを放任しておくわけにはゆかないという義務的観念とから、僕の探究に参加したのであった。
 その晩の十時ごろに、僕が最後のシガーをくゆらしているところへ船長が来て、甲板の暑い暗闇のなかで他の船客がぶらついている場所から僕を引っ張り出した。
「ブリスバーンさん。これは容易ならぬ問題だけに、われわれは失望しても、苦しい思いをしてもいいだけの覚悟をしておかなければなりませんぞ。あなたもご承知の通り、私はこの事件を笑殺《しょうさつ》してしまうことは出来ないのです。そこで万一の場合のための書類に、あなたの署名《サイン》を願いたいのです。それから、もし今晩何事も起こらなかったらば明晩、明晩も駄目であったらば明後日の晩というふうに、毎晩つづけて実行してみましょう。あなたは支度はいいのですか」と、船長は言った。
 僕らは下に降りて、部屋へはいった。僕らが降りてゆく途中、ロバートは廊下に立って、例の歯をむきだしてにやにや笑いながら、きっと何か恐ろしいことが起こるのに馬鹿な人たちだなといったような顔をして、僕らの方をながめていた。船長は入り口の扉《ドア》をしめて、貫木をかけた。
「あなたの手提鞄だけを扉のところに置こうではありませんか」と、彼は言い出した。「そうして、あなたか私かがその上に腰をかけて頑張っていれば、どんなもの[#「もの」に傍点]だってはいることは出来ますまい。窓の鍵はお掛けになりましたね」
 窓の戸は僕がけさしめたままになっていた。実際、僕がステッキでしたように梃子《てこ》でも使わなければ、誰でも窓の戸をあけることは出来ないのであった。僕は寝台の中がよく見えるように上のカーテンを絞っておいた。それから船長の注意にしたがって、読書に使う手燭を上の寝台のなかに置いたので、白い敷布ははっきりと照らし出されていた。船長は自分が扉の前に坐ったからにはもう大丈夫ですと言いながら、鞄の上に陣取った。船長はさらに部屋のなかを綿密に調べてくれと言った。綿密にといったところで、もう調べ尽くしたあとであるので、ただ僕の寝台の下や、窓ぎわの長椅子の下を覗いてみるぐらいの仕事はすぐに済んでしまった。
「これでは妖怪変化ならば知らず、とても人間わざでは忍び込むことも、窓をあけることも出来るものではありませんよ」と、僕は言った。
「そうでしょう」と、船長はおちつき払ってうなずいた。「これでもしも変わったことがあったらば、それこそ幻影か、さもなければ何か超自然的な怪物の仕業《しわざ》ですよ」
 僕は下の寝台のはしに腰をかけた。
「最初事件が起こったのは……」と、船長は扉に倚《よ》りながら、脚を組んで話し出した。「さよう、五月でした。この上床《アッパー・バース》に寝ていた船客は精神病者でした。……いや、それほどでないにしても、とにかく少し変だったという折紙《おりかみ》つきの人間で、友人間には知らせずに、こっそりと乗船したのでした。その男は夜なかにこの部屋を飛び出すと、見張りの船員がおさえようと思う間に海へ落ち込んでしまったのです。われわれは船を停めて救助艇《ボート》をおろしましたが、その晩はまるで風雨《あらし》の起こる前のように静かな晩でしたのに、どうしてもその男の姿は見つかりませんでした。むろん、その男の投身は発狂の結果だということは後《のち》に分かったのでした」
「そういうことはよくありますね」と、僕はなんの気なしに言った。
「いや、そんなことはありません」と、船長はきっぱりと言った。「私はほかの船にそういうことがあったのを聞いたことはありますが、まだ私の船では一遍もありませんでした。さよう、私は五月だったと申しましたね。その帰りの航海で、どんなことが起こったか、あなたには想像がつきますか」
 こう僕に問いかけたが、船長は急に話を中止した。
 僕はたぶん返事をしなかったと思う。というのが、窓の鍵の金具がだんだんに動いてきたような気がしたので、じっとその方へ眼をそそいでいたからであった。僕は自分の頭にその金具の位置の標準を定めておいて、眼をはなさずに見つめていると、船長もわたしの眼の方向を見た。
「動いている」と、彼はそれを信じるように叫んだが、すぐにまた、「いや、動いてはいない」と、打ち消した。
「もし螺旋《ねじ》がゆるんでいくのならば、あしたの昼じゅうにあいてしまうでしょうが……。私はけさ力いっぱいに捻じ込んでおいたのが、今夜もそのままになっているのを見ておいたのです」と、僕は言った。
 船長はまた言った。
「ところが、不思議なことには二度目に行くえ不明になった船客は、この窓から投身したという臆説がわれわれの間に立っているのです。恐ろしい晩でしたよ。しかも真夜中ごろだというのに、風雨《あらし》は起こっていました。すると、窓の一つがあいて、海水が突入しているという急報に接して、わたしは下腹部へ飛んで降りて見ると、もう何もかも浸水している上に、船の動揺のたびごとに海水は滝のように流れ込んでくるので、窓全体の締め釘がゆらぎ出して、とうとうぐらぐらになってしまいました。われわれは窓の戸をしめようとしましたが、なにしろ水の勢いが猛烈なのでどうすることも出来ませんでした。そのとき以来、この部屋は時どきに潮くさい臭いがしますがね。そこで、どうも二度目の船客はこの窓から投身したのではないかと、われわれは想像しているのですが、さてどういうふうにしてこの小さい窓から投身したかは、神様よりほかには知っている者はないのです。あのロバートがよく私に言っていることですが、それからというものは、いくら彼がこの窓を厳重にしめても、やはり自然にあくそうです。おや、たしかに今……。私にはあの潮くさい臭いがします。あなたには感じませんか」
 船長は自分の鼻を疑うように、しきりに空気を※[#「鼻+嗅のつくり」、第4水準2-94-73]《か》ぎながら、僕にきいた。
「たしかに私にも感じます」
 僕はこう答えながら、船室いっぱいに昨夜と同じく、かの腐ったような海水の臭いがだんだんに強くただよって来るのにぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。
「さあ、こんな臭いがして来たからは、たしかにこの部屋が湿気《しけ》ているに違いありません」と、僕は言葉をつづけた。「けさ私が大工と一緒に部屋を調べたときには、何もかもみな乾燥していましたが……。どうも尋常事《ただごと》ではありませんね。おや!」
 突然に上の寝台のなかに置いてあった手燭が消えた。それでも幸いに入り口の扉のそばにあった丸い鏡板つきのランプはまだ十分に輝いていた。船は大きく揺れて、上の寝台のカーテンがぱっとひるがえったかと思うと、また元のようになった。素早く僕は起きあがった。船長はあっ[#「あっ」に傍点]とひと声叫びながら飛びあがった。ちょうどその時、僕は手燭をおろして調べようと思って、上の寝台の方へ向いたところであったが、本能的に船長の叫び声のする方を振り返って、あわててそこへ飛んでゆくと、船長は全身の力をこめて、窓の戸を両手でおさえていたが、ともすると押し返されそうであったので、僕は愛用の例の樫のステッキを取って鍵のなかへ突き通し、あらん限りの力をそそいで窓の戸のあくのを防いだ。しかもこの頑丈なステッキは折れて、僕は長椅子の上に倒れた。そうして、再び起きあがった時には、もう窓の戸はあいて、跳ね飛ばされた船長は入り口の扉を背にしながら、真っ蒼な顔をして突っ立っていた。
「あの寝台に何かいる」と、船長は異様な声で叫びながら、眼を皿のように見開いた。「わたしが何者だか見る間、この戸口を守っていてください。奴を逃がしてはならない」
 僕は船長の命令をきかずに、下の寝台に飛び乗って、上の寝台に横たわっている得体《えたい》の知れない怪物をつかんだ。
 それは何とも言いようのないほどに恐ろしい化け物のようなもの[#「もの」に傍点]で、僕につかまれながら動いているところは、引き延ばされた人間の肉体のようでもあった。しかもその動く力は人間の十倍もあるので、僕は全力をそそいでつかんでいると、その粘《ねば》ねばした、泥のような、異様な怪物は、その死人のような白い眼でじっと僕を睨んでいるらしく、そのからだからは腐った海水のような悪臭を発し、濡れて垢《あか》びかりのした髪は渦を巻いて、死人《しびと》のようなその顔の上にもつれかかっていた。僕はこの死人のような怪物と格闘したが、怪物は自分のからだを打ちつけて僕をぐいぐいと押してゆくので、僕は腕がもう折れそうになったところへ、生ける屍《しかばね》の如きその怪物は死人のような腕を僕の頭に巻きつけて伸《の》しかかってきたので、とうとう僕は叫び声を立ててどっと倒れるとともに、怪物をつかんでいる手を放してしまった。
 僕が倒れると、その怪物は僕を跳《おど》り越えて、船長へぶつかっていったらしかった。僕がさっき扉の前に突っ立っていた船長を見たときには、彼の顔は真っ蒼で一文字に口を結んでいた。それから彼はこの生ける屍の頭に手ひどい打撃を与えたらしかったが、結局彼もまた恐ろしさのあまりに口もきけなくなったような唸《うな》り声を立てて、同じく前へのめって倒れた。
 一瞬間、怪物はそこに突っ立っていたが、やがて船長の疲労し切ったからだを飛び越えて、再びこちらへ向かってきそうであったので、僕は驚駭《きょうがい》のあまりに声を立てようとしたが、どうしても声が出なかった。すると、突然に怪物の姿は消え失せた。僕はほとんど失神したようになっていたので、たしかなことは言われないし、また、諸君の想像以上に小さいあの窓口のことを考えると、どうしてそんなことが出来たのか今もなお疑問ではあるが、どうもかの怪物はあの窓から飛び出したように思われた。それから僕は長いあいだ床の上に倒れていた。船長も同じように僕のそばに倒れていた。そのうちに僕はいくぶんか意識を回復してくると、すぐに左の手首の骨が折れているのを知った。
 僕はどうにかこうにか起きあがって、右の手で船長を揺り起こすと、船長は唸りながらからだを動かしていたが、ようようにわれにかえった。彼は怪我をしていなかったが、まったくぼう[#「ぼう」に傍点]としてしまったようであった。

 さて、諸君はもっとこのさきを聞きたいかね。おあいにくと、これで僕の話はおしまいだ。大工は彼の意見通りに百五号の扉へ四インチ釘を五、六本打ち込んでしまったが、もし諸君がカムチャツカ号で航海するようなことがあったらば、あの部屋の寝台を申し込んでみたまえ。きっと諸君はあの寝台はすでに約束済ですと断わられるだろう。そうだ、あの寝台は生ける屍の約束済になっているのだ。
 僕はその航海中、船医の船室に居候をすることになった。彼は僕の折れた腕を治療してくれながら、以後は化け物や怪物を弄《なぶ》り廻さないように忠告してくれた。船長はすっかり黙ってしまった。
 カムチャツカ号は依然として大西洋の航行をつづけているが、かの船長は再びその船に乗り込まなかった。むろん僕においてをやだ。実際、あんなに心持ちの悪い、恐ろしかった経験などは、もうまっぴらごめんだ。僕がどうして化け物を見たかという話も――あれが化け物だとすれば――これでおしまいだ。なにしろ恐ろしかったよ。

底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
   2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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