国枝史郎

稚子法師——- 国枝史郎

一  木曽の代官山村蘇門は世に謳《うた》われた学者であったが八十二才の高齢を以て文政二年に世を終った。謙恭温容の君子であったので、妻子家臣の悲嘆は殆ど言語に絶したもので、征矢野《そやの》孫兵衛、村上右門、知遇を受けた此両人などは、当時の国禁...
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大鵬のゆくえ—– 国枝史郎

吉備彦来訪  読者諸君よ、しばらくの間、過去の事件について語らしめよ。……などと気障《きざ》な前置きをするのも実は必要があるからである。  一人の貧弱《みすぼらし》い老人が信輔《のぶすけ》の邸を訪ずれた。  平安朝時代のことである。  当時...
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大捕物仙人壺—— 国枝史郎

1  女軽業の大一座が、高島の城下へ小屋掛けをした。  慶応末年の夏の初であった。  別荘の門をフラリと出ると、伊太郎《いたろう》は其方《そっち》へ足を向けた。 「いらはいいらはい! 始まり始まり!」と、木戸番の爺《おやじ》が招いていた。 ...
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村井長庵記名の傘—- 国枝史郎

娘を売った血の出る金  今年の初雷の鳴った後をザーッと落して来た夕立の雨、袖を濡らして帰って来たのは村井長庵と義弟《おとうと》十兵衛、十兵衛の眼は泣き濡れている。  年貢の未進も納めねばならず、不義理の借金も嵩んでいる、背に腹は代えられぬ。...
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全体主義—– 国枝史郎

全体主義とか全体主義国家とかいうことが盛んに云われている。日本が全体主義国家であるか無いかに就いては私は云わない。いや、むしろ、日本の国を、全体主義というような、外国伝来の言葉をもって範疇づけることは、その特殊の国体から云って不当であろうと...
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善悪両面鼠小僧—– 国枝史郎

乃信姫に見とれた鼠小僧 「曲者《くせもの》!」という女性《じょしょう》の声。  しばらくあって入り乱れる足音。 「あっちでござる!」 「いやこっちじゃ!」  宿直《とのい》の武士の犇き合う声。  文政《ぶんせい》末年春三月、桜の花の真っ盛り...
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前記天満焼—— 国枝史郎

1  ここは大阪|天満通《てんまとおり》の大塩中斎《おおしおちゅうさい》の塾である。  今講義が始まっている。 「王陽明の学説は、陸象山から発している。その象山の学説は、朱子の学から発している。周濂溪《しゅうれんけい》、張横渠《ちょうおうき...
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染吉の朱盆—— 国枝史郎

一  ぴかり!  剣光!  ワッという悲鳴!  少し間を置いてパチンと鍔音。空には満月、地には霜。[#底本ではこの段落は1字下げになっている]  切り仆《たお》したのは一人の武士、黒の紋付、着流し姿、黒頭巾で顔を包んでいる。お誂え通りの辻切...
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赤坂城の謀略—— 国枝史郎

一 (これは駄目だ)  と正成《まさしげ》は思った。 (兵糧が尽き水も尽きた。それに人数は僅か五百余人だ。然るに寄手《よせて》の勢と来ては、二十万人に余るだろう。それも笠置を落城させて、意気軒昂たる者共だ。しかも長期の策を執《と》り、この城...
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赤格子九郎右衛門の娘—— 国枝史郎

何とも云えぬ物凄い睨視!  海賊赤格子九郎右衛門が召捕り処刑になったのは寛延《かんえん》二年三月のことで、所は大阪千日前、弟七郎兵衛、遊女かしく、三人同時に斬られたのである。訴え人は駕籠屋重右衛門。実名船越重右衛門と云えば阿波の大守蜂須賀侯...
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赤格子九郎右衛門—- 国枝史郎

一  江川太郎左衛門、名は英竜、号は坦庵、字は九淵世々韮山の代官であって、高島秋帆の門に入り火術の蘊奥を極わめた英傑、和漢洋の学に秀で、多くの門弟を取り立てたが、中に二人の弟子が有って出藍の誉を謳われた。即ち、一人は川路聖謨、もう一人は佐久...
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生死卍巴—— 国枝史郎

占われたる運命は? 「お侍様え、お買いなすって。どうぞあなた様のご運命を」  こういう女の声のしたのは享保十五年六月中旬の、後夜《ごや》を過ごした頃であった。月が中空に輝いていたので、傍らに立っている旗本屋敷の、家根の甍《いらか》が光って見...
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正雪の遺書—— 国枝史郎

1  丸橋忠弥《まるばしちゅうや》召捕りのために、時の町奉行|石谷左近将監《いしがやさこんしょうげん》が与力同心三百人を率いて彼の邸へ向かったのは、慶安四年七月二十二日の丑刻《うしのこく》を過ぎた頃であった。  染帷《そめかたびら》に鞣革《...
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神秘昆虫館—– 国枝史郎

一 「お侍様というものは……」女役者の阪東|小篠《こしの》は、微妙に笑って云ったものである。「お強くなければなりません」 「俺は随分強いつもりだ」こう答えたのは一式小一郎で、年は二十三で、鐘巻流《かねまきりゅう》の名手であり、父は田安家《た...
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真間の手古奈—— 国枝史郎

一  一人の年老いた人相見が、三河の国の碧海郡の、八ツ橋のあたりに立っている古風な家を訪れました。  それは初夏のことでありまして、河の両岸には名に高い、燕子花《かきつばた》の花が咲いていました。  茶など戴こうとこのように思って、人相見は...
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十二神貝十郎手柄話—– 国枝史郎

ままごと狂女         一 「うん、あの女があれ[#「あれ」に傍点]なんだな」  大|髻《たぶさ》に黒紋付き、袴なしの着流しにした、大兵の武士がこういうように云った。独り言のように云ったのであった。  そこは稲荷堀の往来で、向こうに田...
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秀吉・家康二英雄の対南洋外交 ——国枝史郎

上  仏印問題、蘭印問題がわが国の関心事となり、近衛内閣はそれについて、満支、南洋をつつむ東亜新秩序を示唆する声明を発した。  これに関連して想起されることは、往昔に於ける日本の南洋政策のことである。       ×     ×      ...
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首頂戴—— 国枝史郎

一  サラサラサラと茶筌の音、トロリと泡立った緑の茶、茶碗も素晴らしい逸品である。それを支えた指の白さ! と、茶碗が下へ置かれた。  茶を立てたのは一人の美女、立兵庫にお裲襠《かいどり》、帯を胸元に結んでいる。凛と品のある花魁《おいらん》で...
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支那の思出 国枝史郎

私が支那へ行ったのは満洲事変の始まった年の、まだ始まらない頃であった。  上海、南京、蘇州、杭州、青島、旅順、大連、奉天と見て廻った。約一ヶ月を費した。  汽船は秩父丸であった。船がウースン河へ這入《はい》り、岸の楊柳が緑青のような色に萌え...
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三甚内—— 国枝史郎

一 「御用! 御用! 神妙にしろ!」  捕り方衆の叫び声があっちからもこっちからも聞こえて来る。  森然《しん》と更けた霊岸島の万崎河岸の向こう側で提灯の火が飛び乱れる。 「抜いたぞ! 抜いたぞ! 用心しろ」  口々に呼び合う殺気立った声。...