高村光太郎

小刀の味—— 高村光太郎

飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するように、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するようになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀《こがたな》を大切にし、まるで生き物のように此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。幾...
高村光太郎

書について—— 高村光太郎

この頃は書道がひどく流行して来て、世の中に悪筆が横行している。なまじっか習った能筆風な無性格の書や、擬態の書や、逆にわざわざ稚拙をたくんだ、ずるいとぼけた書などが随分目につく。    一  絶えて久しい知人からなつかしい手紙をもらったところ...
高村光太郎

自分と詩との関係— 高村光太郎

私は何を措《お》いても彫刻家である。彫刻は私の血の中にある。私の彫刻がたとい善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。  ところでその彫刻家が詩を書く。それにどういう意味があるか。以前よく、先輩は私に詩を書くのは止せといっ...
高村光太郎

自作肖像漫談—– 高村光太郎

今度は漫談になるであろう。この前肖像彫刻の事を書いたが、私自身肖像彫刻を作るのが好きなので、肖像というと大てい喜んで引きうける。これまでかなりいろいろの人のものを作った。  昔、紐育《ニューヨーク》に居てボオグラム先生のスチュジオに働いてい...
高村光太郎

詩について語らず ――編集子への手紙―― 高村光太郎

詩の講座のために詩について書いてくれというかねての依頼でしたが、今詩について一行も書けないような心的状態にあるので書かずに居たところ、編集子の一人が膝づめ談判に来られていささか閉口、なおも固辞したものの、結局その書けないといういわれを書くよ...
高村光太郎

山の雪—— 高村光太郎

わたしは雪が大好きで、雪がふってくるとおもてにとび出し、あたまから雪を白くかぶるのがおもしろくてたまらない。  わたしは日本の北の方、岩手県の山の中にすんでいるので、十一月ごろからそろそろ雪のふるのを見ることができ、十二月末にはもういちめん...
高村光太郎

山の春—— 高村光太郎

ほんとうは、三月にはまだ山の春は来ない。三月春分の日というのに、山の小屋のまわりには雪がいっぱいある。雪がほんとに消えるのは五月の中ほどである。つまり、それまで山々にかぶさっていた、氷のように冷たい空気が、五月頃になると、急に北の方へおし流...
高村光太郎

山の秋—— 高村光太郎

山の秋は旧盆のころからはじまる。  カッコーやホトトギスは七月中旬になるともう鳴かなくなり、何となく夏らしい勢が山野に見えなくなってしまい、たんぼの稲穂がそろそろ七月末にはきざしてくる。稲穂の育ってくる頃、山や野にツナギという恐ろしいアブが...
高村光太郎

九代目団十郎の首—— 高村光太郎

九代目市川団十郎は明治三十六年九月、六十六歳で死んだ。丁度幕末からかけて明治興隆期の文明開化時代を通過し、国運第二の発展期たる日露戦争直前に生を終ったわけである。彼は俳優という職業柄、明治文化の総和をその肉体で示していた。もうあんな顔は無い...
高村光太郎

気仙沼—— 高村光太郎

女川から気仙沼へ行く気で午後三時の船に乗る。軍港の候補地だといふ女川湾の平和な、澄んだ海を飛びかふ海猫の群団が、網をふせた漁場のまはりにたかり、あの甘つたれた猫そつくりの声で鳴きかはしてゐる風景は珍重に値する。湾外の出嶋《いづしま》の瀬戸に...
高村光太郎

顔—— 高村光太郎

顔は誰でもごまかせない。顔ほど正直な看板はない。顔をまる出しにして往来を歩いている事であるから、人は一切のごまかしを観念してしまうより外ない。いくら化けたつもりでも化ければ化けるほど、うまく化けたという事が見えるだけである。一切合切投げ出し...
高村光太郎

開墾—— 高村光太郎

私自身のやつてゐるのは開墾などと口幅つたいことは言はれないほどあはれなものである。小屋のまはりに猫の額ほどの地面を掘り起して去年はジヤガイモを植ゑた。今年は又その倍ぐらゐの地面を起してやはりジヤガイモを植ゑるつもりでゐる。外には三畝ばかりの...
高村光太郎

回想録—— 高村光太郎

一  私の父は八十三で亡くなった。昭和九年だったから、私の何歳の時になるか、私は歳というものを殆と気にとめていない。実は結婚する時自分の妻の年も知らなかった。妻も私が何歳であるか訊《き》きもしなかった。亡くなる五六年前に一緒に区役所に行って...
高村光太郎

黄山谷について—- 高村光太郎

平凡社の今度の「書道全集」は製版がたいへんいいので見ていてたのしい。それに中国のも日本のも典拠の正しい、すぐれた原本がうまく選ばれているようで、われわれ門外漢も安心して鑑賞できるのが何よりだ。  今、このアトリエの壁に黄山谷の「伏波神祠詩巻...
高村光太郎

ミケランジェロの彫刻写真に題す ——-高村光太郎

ミケランジェロこそ造型の権化である。  造型の中の造型たる彫刻は従ってミケランジェロの生来を語るものであり、ミケランジェロの他の営為――土木、建築、絵画、詩歌の類はすべて彼の彫刻家的幽暗の根源から出ている。彼の眼に映ずる世界は一切彫刻的形象...
高村光太郎

ヒウザン会とパンの会——- 高村光太郎

私が永年の欧洲留学を終えて帰朝したのは、たしか一九一〇年であった。  当時、わが洋画界は白馬会の全盛時代であって、白馬会に非ざるものは人に非ずの概があった。しかし、旧套墨守《きゅうとうぼくしゅ》のそうしたアカデミックな風潮に対抗して、当時徐...
高村光太郎

(私はさきごろ)—– 高村光太郎

私はさきごろミケランジェロの事を調べたり、書いたりして数旬を過ごしたが、まったくその中に没頭していたため、この岩手の山の中にいながらまるで日本に居るような気がせず、朝夕を夢うつつの境に送り、何だか眼の前の見なれた風景さえ不思議な倒錯を起して...
甲賀三郎

罠に掛った人 甲賀三郎

一  もう十時は疾《と》くに過ぎたのに、妻の伸子《のぶこ》は未《ま》だ帰って来なかった。  友木《ともき》はいらいらして立上った。彼の痩《やせ》こけて骨張った顔は変に歪んで、苦痛の表情がアリアリと浮んでいた。  どこをどう歩いたって、この年...
甲賀三郎

徹底的な浜尾君—— 甲賀三郎

浜尾四郎君は鋭い頭の持主であった。それに卑しくも曖昧な事を許して置けない性質で、何事でも底まで追究しなければ止まない風があった。従って時には根掘り葉掘り問い質して、為に相手がしどろもどろになる事があった。之は一見意地悪るのようであるが、決し...
甲賀三郎

蜘蛛—— 甲賀三郎

辻川博士の奇怪な研究室は葉の落ちた欅《けやき》の大木にかこまれて、それらの木と高さを争うように、亭々《ていてい》として地上三十尺あまりにそびえている支柱の上に乗っていた。研究室は直径二間半、高さ一間半ばかりの円筒形で、丸天井をいただき、側面...