半七捕物帳 大阪屋花鳥—– 岡本綺堂

     一

 明治三十年三月十五日の暁方《あけがた》に、吉原|仲《なか》の町《ちょう》の引手茶屋桐半の裏手から出火して、廓内《かくない》百六十戸ほどを焼いたことがある。無論に引手茶屋ばかりでなく、貸座敷も大半は煙りとなって、吉原近来の大火と云われた。それから四、五日の後に半七老人を訪問すると、老人は火事の噂をはじめた。
「吉原がたいそう焼けたそうですね。あなたにお係り合いはありませんか」
「御冗談でしょう。しかし六、七年前に焼けて、今度また焼けて、吉原も気の毒ですね」と、わたしは云った。
「まったく気の毒です」と、老人は顔をしかめた。「どうも吉原の廓《くるわ》は昔から火に祟られるところで、江戸時代にもたびたび火事を出して、廓内全焼という記録がたくさん残っています。なにしろ狭い場所に大きい建物が続いている上に、こんにちと違って江戸時代の吉原は、どんなに立派な大店でも屋根だけは板葺にする事になっていたんですから、火事の場合なぞはたまりません。片っぱしから火の粉を浴びて、それからそれへと燃えてしまうんです。したがって、怪我人なぞも多《おお》ござんしたよ。大勢の客が入り込んで、ほとんど夜あかしの商売ですから、自然に火の用心もおろそかになって、火事を起し易いことにもなるんですが、時には放火《つけび》もありました。娼妓のうちにも放火をする奴がある。大阪屋花鳥というのも其の一人ですが、こいつはひどい女でしたよ」
「大阪屋花鳥……。聞いたような名ですね。そう、そう、柳亭燕枝《りゅうていえんし》の話にありました」
「そうです。燕枝の人情話で、名題は『島千鳥沖津白浪《しまちどりおきつしらなみ》』といった筈です。燕枝も高座でたびたび話し、芝居にも仕組まれました。花鳥の一件は天保年中のことです。天保年中には吉原に大火が二度ありまして、一度は天保六年の正月二十四日で廓内全焼、次は天保八年の十月十九日で、これも廓内全焼でした。花鳥の放火を二度目の時のように云いますが、花鳥は自分の勤めている大阪屋を焼いただけで、そんな大火を起したのじゃあありません。梅津|長門《ながと》という浪人者を逃がすために、自分の部屋へ火を付けたとかいう噂もありますが、それはまあ一種の小説でしょう。花鳥はどうも手癖が悪くって、客の枕探しをする。その上に我儘者で、抱え主と折り合いがよくない。容貌《きりょう》も好し、見かけは立派な女なんですが、枕さがしの噂などがある為に、だんだんに客は落ちる、借金は殖える、抱え主にも睨まれる、朋輩には嫌われるというようなわけで、つまりは自棄《やけ》半分で自分の部屋に火をつけ、どさくさまぎれに駈け落ちをきめて、一旦は廓を抜け出したんですが、やがて召し捕られました。それは天保十年のことで、本来ならば放火は火烙《ひあぶ》りですが、花鳥はなかなか弁の好い女で、抱え主の虐待に堪えられないので放火したという風に巧く云い取りをしたと見えて、こんにちでいえば情状酌量、罪一等を減じられて八丈島へ流されることになりました。それを有難いと思っていればいいんですが、女のくせに大胆な奴で、二年目の天保十一年に島抜けをして、こっそりと江戸へ逃げ帰ったんです。こんな奴が江戸へ帰って来て、碌なことをする筈はありません。いよいよ罪に罪を重ねることになりました」
「どんな悪いことをしたんですか」
「まあ、すぐに手帳を出さないで下さい。これはわたくしの若い時分のことで、後にわたくしの養父となった神田の吉五郎が指図をして、わたくしは唯その手伝いに駈け廻っただけの事なんですから、いちいち手に取るようにおしゃべりは出来ません。まあ、考え出しながら、ぽつぽつお話をしましょう」

 天保十二年の三月二十八日から浅草観音の開帳が始まった。いわゆる居開帳《いかいちょう》であるが、名に負う浅草の観世音であるから、日々の参詣者はおびただしく群集した。奥山の驢馬《ろば》の見世物などが大評判であった。
 その参詣のうちに、日本橋北新堀の鍋久という鉄物《かなもの》屋の母子《おやこ》連れがあった。鍋久は鉄物屋といっても主《おも》に鍋釜類をあきなう問屋で、土地の旧家の釜浅に次ぐ身代《しんだい》であると云われていた。先代の久兵衛は先年世を去って、当主の久兵衛はまだ二十歳《はたち》の若者である。久兵衛のほかに、母のおきぬ、女中のお直、小僧の宇吉、あわせて四人が浅草の開帳を拝みに出たのは、三月二十九日の陰《くも》った日で、家を出るときから、空模様が少しく覚束《おぼつか》ないように思われたが、あしたは晦日《みそか》で店を出にくいというので、女中と小僧に傘を用意させて、母子は思い切って出て来たのであった。
 来てみると、境内《けいだい》は予想以上の混雑で、雷門をはいるともう身動きもならない程に押し合っていた。こんな陰った日であるから、定めて混雑しないであろうと多寡《たか》をくくっていた鍋久の一行は、今更のように信心者の多いのに驚かされながら、ともかくも仲見世から仁王門をくぐると、ここは又一層の混雑で、鳩が餌《えさ》を拾う余地もなかった。
 それでも、どうにかこうにか本堂へあがって、型《かた》のごとくに参詣をすませたが、ちょうど今が人の出潮《でしお》とみえて、仁王門と二天門の両方から潮《うしお》のように押し込んで来るので、帰り路はいよいよ難儀であった。鍋久の一行はその群衆に押されて揉まれて、往来の石甃《いしだたみ》の上を真っ直ぐに歩いてはいられなくなった。
「まあ、少し休んで行こう」と、母のおきぬは云い出した。彼女は少しく人ごみに酔ったらしいのである。
 混雑のなかを潜《くぐ》って、四人はひとまず淡島《あわしま》の社《やしろ》あたりへ出た。こことても相当に混雑しているが、それでも押し合う程のことは無いので、人々はほっ[#「ほっ」に傍点]とひと息ついて額の汗を拭いている時、突然に女の声がきこえた。
「あ、もし……」
 さわがしい中でも、若い女の声が冴えているので、四人の耳をおどろかした。それが何かの注意をあたえるように思われたので、はっ[#「はっ」に傍点]と気がついて見返ると、ひとりの男の手が久兵衛のふところから紙入れを引き出そうとしているのであった。こういう場合には珍らしくない巾着切《きんちゃっき》りである。
「ええ、なにをする」
 久兵衛はあわてて其の手を捉えようとすると、男はそれを振り払って、掴んでいる紙入れを地面に叩きつけた。
「畜生、おぼえていろ」
 彼はそれを注意した女の顔を憎さげに睨んで、そのまま群衆のなかへ姿を隠してしまった。睨まれたのは十七八の若い娘で、別に華やかに化粧をしているのでもないが、その容貌《きりょう》の美しいのが四人の眼をひいた。
「どうも有難うございました」と、久兵衛は彼女に礼を云った。
「おかげ様で災難を逃がれました。伜は勿論、わたくし共もみんなうっかりして居りまして、あなたが教えて下さらなければ、飛んだ目に逢うところでございました」と、おきぬも丁寧に礼を云った。
「いえ、御挨拶では痛み入ります」と、娘も淑《しと》やかに会釈《えしゃく》した。「余計な口出しをするでもないと存じましたが、見す見すあの巾着切りが悪いことをするのを知っていながら、黙っているわけにも参りませんので……」
「ほんとうに有難うございました。あなたはお一人でございますか」と、おきぬは又|訊《き》いた。
「はい、父が病気で臥《ふ》せって居りますので……」
 髪容《かみかたち》もつくろわず、身なりも木綿物ずくめで、こういう繁華の場所へ出て来るのであるから、裕福の家の娘でないことは判り切っていたが、それが町人や職人の子でないこともすぐに覚られた。おそらく浪人者の子か、貧しい手習い師匠の娘などであろうと、おきぬ等は想像した。娘は父の病気平癒のために観音さまへ日参《にっさん》しているというだけのことを話して、自分の住所も姓名も名乗らずに別れて行った。おきぬは小僧の宇吉に耳打ちして、娘のあとを見えがくれに尾《つ》けさせた。
 巾着切りの災難を救ってくれた礼心ばかりでなく、年ごろの伜を持っているおきぬは、かの娘の身許《みもと》を知って置きたいと思ったのである。その身なりは粗末であっても、その容貌の美しいのと、その物腰のしとやかなのが彼女のこころを強く惹きつけたらしい。娘は別れるときに、二度ばかり久兵衛の顔を見かえった。それが又、若い男の心をも惹きつけたのであった。
 奥山にはかの驢馬《ろば》のほかに、菊川国丸の蹴鞠《けまり》、淀川富五郎の貝細工などが評判であるので、それらも話の種に見物する予定であったが、巾着切りの一件から何だか心が落ち着かなくなったので、母子はこれから直ぐに帰ろうかなどと話し合っているところへ、小僧の宇吉があわただしく引っ返して来た。
「大変です。早く来てください」
 今の娘が人丸堂《ひとまるどう》のそばで何者にか突き倒されて、気を失ったように倒れているというのである。母子はすぐに巾着切りの復讐を思い出した。巾着切りなどが仕事をする場合に、他人が被害者に注意をあたえると、仕事の邪魔をしたというので何かの意趣返しをすることがしばしばある。かの娘も自分たちに注意をあたえてくれた為に、巾着切りの恨みを買ったのであろう。そう思うと、人々は気が気でなかった。宇吉を先に立てて、久兵衛はあわてて駈け出した。おきぬも女中のあとからつづいた。
「顔でも斬られたら大変だ」と、おきぬは思った。

     

 それからふた月あまりの後である。
 日本橋北新堀町の鍋久の店に美しい嫁が来た。嫁の名はお節といい、浅草の山谷《さんや》の露路の奥に十人ばかりの子供をあつめて、細々ながら手習い師匠として世を送っている磯野小左衛門という浪人の娘であった。
 こう云えば、詳しい説明を加える必要もあるまい。鍋久の一行が人丸堂のほとりへ駈けつけて、ともかくも娘を近所の茶店へ連れ込んで介抱すると、幸いにさしたることも無くて正気に復《かえ》った。人丸堂の前まで来かかった時に、さっきの男が何処からか現われて、突然に娘の脾腹《ひばら》を突いたのであるという。刃物でなく、拳固で突いただけであるから、いわば当て身を食わされたようなわけで、一旦は気が遠くなったが他《ほか》に別条もなかったのである。刃物で顔でも斬られないのが勿怪《もっけ》の仕合わせであったと人々は喜んだ。こうなると、娘ひとりで帰らせるのは何分にも不安であるので、久兵衛ら四人はその自宅まで送って行くことにした。
 娘はしきりに辞退したが、ほかに思惑《おもわく》のあるおきぬ母子は無理に一緒に付いて行って、娘の親にも逢った。母は先年世を去って、当時は父の小左衛門と娘お節の二人暮らしであることも判った。おきぬはその翌日、女中のお直をつれて再び馬道の家へきのうの礼にゆくと、お節はきょうも参詣に出たというので留守であった。父の小左衛門は病中で、この頃は碌々に子供たちの稽古も出来ないが、娘がよく世話をしてくれるのでどうにか無事に日を送っている。親の口から申すも如何《いかが》ながらと、小左衛門はわが子の孝行を褒《ほ》めるように云った。
 浪人ながらも武士の子で、容貌《きりょう》が美しくて、行儀が好くて、親孝行であるという以上、嫁として申し分のない娘である。浪人の貧乏はめずらしくない。系図さえ正しければ町人の嫁として不足はない。本人の久兵衛よりも、母のおきぬがこの娘に惚れてしまったのである。彼女はその後も山谷の家を二、三度たずねて、ついに縁談を持ち出すと、折角ながら独り娘であるからというので、一旦は断わられた。それを押し返して幾たびか口説《くど》いた末に、父の小左衛門には毎月相当の隠居料を贈ること、お節には嫁入りの支度として二百両を贈ることで、まず相談が纏まった。六月はじめの吉日に、お節は鍋久の店へめでたく輿入れを済ませて、若夫婦の仲もむつまじく見えた。
 それから更にふた月ほど経て、その年の七月も末になった。旧暦の盂蘭盆《うらぼん》過ぎで、ことしの秋は取り分けて早かった。この二、三日は薄ら寒いような雨が降りつづいて、水嵩の増した新堀川はひえびえと流れていた。鍋久の嫁のお節は十日ほど前から風邪《かぜ》を引いたような気味で、すこし頭痛がするなどと云っていたが、医者に診て貰うほどの事でもないので、買い薬の振り出しなどを飲んでいるうちに、二十九日の朝から何だか様子が変って来た。彼女は怖い眼をして人を睨んだ。これまで暴《あら》い声などを出したことの無い彼女が、激しい声で女中を叱ったりした。病気で癇《かん》が昂《たか》ぶったのであろうから、なるべく逆らわないがいいと、おきぬは久兵衛に注意していた。
 鍋久の店では四ツ(午後十時)を合図に大戸をおろそうとした。その時、奥の若夫婦の居問で、ただならぬ久兵衛の叫び声がきこえた。
「これ、お節……。どこへ行く……。これ、お節……」
 その声を聞きつけて、母のおきぬは茶の間を出てゆくと、長い縁側の途中でお節に出逢った。若い嫁は顔も隠れるほどに黒髪を長く振り乱して、物に狂ったように駈け出して来たので、おきぬは驚きながら、ともかくもそれを支えようとすると、お節は力まかせに彼女を突きのけた。その勢いが余りに激しかったので、おきぬはひとたまりもなく突き倒されて、まばらに閉めてある雨戸に転げかかると、雨戸ははずれた。その雨戸と共に、おきぬは暗い庭さきへころげ落ちた。
 この物音は表の方まで響いたので、店の者もみな驚いて奥へ駈け込もうとする時、出逢いがしらにお節が飛び出して来たので、彼らは又おどろいた。しかも相手が主人であるので、さすがに手あらく取り押えかねたのと、あまりの意外に少しく呆気《あっけ》に取られて、唯うっかりと眺めているうちに、お節は彼らを突きのけて、今や卸しかけている大戸をくぐって表の往来へぬけ出した。
「早く押えろ」と、番頭の勘兵衛は呶鳴った。
 それに励まされて、若い者や小僧は追って出た。そのなかでも新次郎という若い者が一番さきへ駈け出して、お節の右の袂を捉えようとすると、彼女は身を捻じ向けて振り払った上に、なにか刃物のようなものを叩きつけて又駈け出した。暗い夜で、雨は降りしきっている。その闇のなかをお節は駈けた。店の者共も追った。しかもお節は遠くも行かずに、眼の前の新堀川へ身を跳らせて飛び込んでしまった。
「身投げだ、身投げだ。若いおかみさんが身を投げた」
 騒ぎはいよいよ大きくなって、店からは幾張《いくはり》の提灯をとぼして出た。近所の店の者も提灯を振って加勢に出た。大勢の人々が雨夜の河岸《かし》を奔走して、そこか此処かと探し廻ったが、二、三日降りつづいて水嵩の増している川の面《おも》に、お節の姿は浮かびあがらなかった。河岸につないである小舟を出して、無益にそこらを尋ね明かしているうちに、その夜はむなしく更《ふ》けて行った。
「これが昼間ならばなあ」
 何分にもこの時代の夜は不便であった。岸の上に、水の上に、無数にひらめく提灯の火も、遂に若い女ひとりの姿を見出し得ずに終った。この川下《かわしも》は永代橋である。死体はそこまで押し流されて、広い海へ送り出されてしまったのかも知れない。人々は唯いたずらに溜息をつくばかりであった。
 お節の身投げも意外の椿事に相違なかったが、鍋久の家内には更におそろしい椿事が出来《しゅったい》していた。主人の久兵衛は何者にか頸《くび》すじを斬られて、半身を朱《あけ》に染めて倒れていたのである。おきぬがそれを発見した時、彼はもう息の絶えた亡骸《なきがら》となっていた。
 久兵衛を殺したのは何者か。若い者の新次郎がお節を追い捉えようとした時に、投げ付けられたのは剃刀《かみそり》であって、それは店さきの往来で発見された。新次郎は別に怪我もなかったが、お節が刃物をたずさえて狂い出したのを見れば、彼女が夫の久兵衛を殺害して、自分も入水《じゅすい》したものと認めるのほかは無い。
 検視の役人らもそう鑑定した。立ち会いの医者の意見も同様で、おそらくお節が突然に乱心して、夫を殺し、自分も自滅したのであろうというのであった。その日の朝から彼女の様子が常に変って見えたというのも、それを証拠立てる一つの材料となった。
 いつの世にも乱心者はある。乱心者が何事を仕出来《しでか》そうとも致し方がないというので、役人らも深い詮議をしなかった。鍋久でも世間の手前、この一件を余り公《おおや》け沙汰にしたくないので、役人らにもよろしく頼んで、いっさいを内分に納めることにした。主人久兵衛は急病頓死と披露して、ともかくも型の如くに葬式を済ませた。お節の死骸は遂に発見されなかった。
 こうして一旦は納まったものの、お節の入水も久兵衛の変死も近所ではみな知っているのであるから、人の口に戸は立てられぬという譬《たと》えの通りで、その噂はそれからそれへと伝わって、神田の吉五郎の耳にもはいった。
「鍋久の嫁が剃刀で亭主を殺した……。気ちがいに刃物とは全くこの事だから、どうも仕方がねえ。だが、旦那方の詮議もちっと足りねえようだな」
「すこし洗ってみましょうか」と、子分の徳次が云った。
「権兵衛のあとへ廻って、鴉《からす》がほじくるのも好くねえが、まあちっとほじってみろ。どうも気が済まねえことがあるようだ。おい、半七、おめえも徳次に付いて行って、御用を見習え」
「その時わたくしはまだ十九の駈け出しで……」と、半七老人はここで註を入れた。「後には吉五郎の養子になって、まあ二代目の親分株になったんですが、その頃は一向に意気地がありません。いわば見習いの格で、古参《こさん》の人たちのあとに付いて、ああしろこうしろのお指図次第に、尻ッ端折《ぱしょり》で駈けずり廻っていたんですから、時には泣くような事もありましたよ」

     

 徳次に連れられて、半七が日本橋へ出て行ったのは、八月八日の朝であった。北新堀の鍋久をたずねて、番頭さんに逢いたいと云い込むと、勘兵衛はすぐに出て来た。岡っ引と知って、彼はちょっとその顔を陰らせたが、また俄《にわ》かに思い返したようにこころよく二人を奥へ案内した。ここは地方から出て来た商売用の客を接待する座敷であるらしく、床の間、ちがい棚の造作《ぞうさく》もなかなか整っていた。
「おかみさんは少し体を悪くいたして、あちらに臥《ふ》せって居りますので、御用はわたくしに承われと申すことでございます」と、番頭は丁寧に頭を下げた。
「ごもっともです」と、徳次も挨拶した。「いろいろと心配事が重なって、おかみさんも弱りなさる筈だ。そこで番頭さん。若いおかみさんの行方《ゆくえ》はまだ知れませんかえ」
「知れたと申しましょうか、知れないと申しましょうか。実はおとといの夕方、品川の弥平さんというお人が見えまして……」と、番頭は云った。「その人が前の晩に舟を出して、品川の海で海鰻《あなご》の夜釣りをしていたそうでございます。そこへ一人の女の死骸が流れてまいりましたので、気味が悪いと思いながらも舟を寄せて、その袂をつかんで引き寄せようとすると、袂は切れて……。片袖だけが其の人の手に残って、死骸はまた流れて行ってしまったそうです。これも何かの因縁だろうから、その片袖を自分の寺に納めて、御回向《ごえこう》でもして貰おうと思っていると、その晩の夢にその女が枕もとへ来て、その片袖は北新堀の鍋久へおとどけ下さい、きっとお礼を致しますからと、こう云って消えてしまった。お礼などはどうでもいいが、余りに不思議だからお問い合わせに来ましたと云って、出して見せたのは確かに若いおかみさんの品で……」
「その晩に着ていた物だね」
「そうでございまいます。四《よつ》入り青梅《おうめ》の片袖で、潮水にぬれては居りますが、色合いも縞柄も確かに相違ございません。おかみさんもそれに相違ないと申しまして、品川の人には相当の礼を致して、その片袖をこちらへ受け取りました」
「その礼は幾らやりましたね」
「このことは内分にしてくれと申しまして、金十両をつつんで差し出しますと、その人は辞退して容易に受け取りません。それではこちらの気も済まず、仏の心にも背《そむ》くわけですから、無理に頼んで持たせて帰しました」
 徳次と半七は肚《はら》の中で舌打ちしながら聴いていると、勘兵衛は更に話しつづけた。
「そうしてみると、若いおかみさんはいよいよ遠い海へ流れて行ったに相違ないのでございます。おかみさんの申しますには、わが子を殺した憎い嫁だと一旦は思ったが、乱心であれば仕方がない。こうして形見の片袖をとどけてよこすからは、やっぱりここを自分の家《うち》と思って、わたし達の回向《えこう》を受けたいのであろうから、お寺へ納めてやるが好かろうというので、きのうすぐに菩提寺へ持ってまいりました」
「そりゃあ飛んだ怪談だね」と、徳次はあざ笑うように云った。「そこで、ここの主人を殺したという剃刀はどうしました」
「それは往来に落ちているのを拾いまして、検視のお役人にもお目にかけましたが、そんな物を家へ置くことも出来ませんので、お寺へ持参して何処へか埋めていただきました」
「その剃刀は若いおかみさんがふだん使っていたのですかえ」
「いえ、あとで調べてみますと、ふだん使っていた剃刀は鏡台のひきだしにはいって居りました」
「この騒動のおこる前に、なにか変った事はありませんか」
「その朝から若いおかみさんの様子がすこし変でしたが……」
「それは私も聴いているが、ほかに何かありませんでしたか」
「実は二度ばかり盗難がございまして……」と、勘兵衛は小声で云った。「これは店の者にも知らさないようにして居るのでございますが、今月になりまして二度……。何分にも盆前で店の方も取り込んで居りますので……」
「どのくらい取られましたえ」
「一度は二百両、二度目は百八十両……。御承知の通り、ひる間は土蔵の扉《と》があけてありますので、店が取り込んでいる隙《すき》をみて、何者かが忍び込んだものと見えます」
「いくら取り込んでいるといっても、こちらの店で真っ昼間、土蔵へはいって金を持ち出すのを、知らずにいるとは油断過ぎるな。番頭さん、しっかりしねえじゃあいけねえ」と、徳次はまた笑った。「よもや外からはいったのじゃああるめえ。出入りの者か店の者か、ちっとも心当りはねえのかね」
「主人もおかみさんも不思議だと申して居りますが、どうも心当りございません」
「その晩に失《う》せ物はありませんでしたかえ」
「無いようでございます。主人の手箱に幾らかの金が入れてあったかとも思いますが、奉公人のわたくし共にも確かに判りません。ほかに目立った品がなくなった様子もございませんので、まあ紛失物は無いということになって居ります」
「じゃあ、まあ、それはそれとして、家のなかを少し見せて貰いましょう」
 勘兵衛に案内させて、徳次と半七は家内をひと通り見まわった。久兵衛が殺されたという居間のあたりも調べてみた。土蔵は三棟で、その二棟は商売物の鍋釜類が積み込んであり、ほかの一棟に家財が納めてあることも判った。
 お節の父はどうしたかという徳次の問いに対して、番頭はこう答えた。父の小左衛門は知らせを聞いて直ぐに駈けつけたが、ただ申し訳がないと云うのほかは無かった。嫁入り後の出来事ではあり、殊に乱心というのでは、その父を責めるわけにも行かない。彼は御親類たちに合わせる顔も無いと云って、久兵衛が葬式の日にも、初七日《しょなのか》の墓参の日にも、自分から遠慮して参列しなかった。ひとり娘を失った上に、今度は鍋久からの仕送りも絶えるのであるから、彼も定めて難儀であろう。所詮《しょせん》は一種の因縁で、すべての人の不幸であると、勘兵衛は凋《しお》れながら話した。
「今日はこれで帰りましょう。おかみさんを大事におしなさい」と、徳次は帰り支度にかかった。
「ありがとうございます。就きましては、もう時分《じぶん》どきでございますから、ほんのお口よごしでございますが召し上がって頂きとう存じます」
 いつの間にか云い付けてあったと見えて、料理の膳がそこへ運び出されたので、徳次も半七も箸をとった。そのあいだにも、お節のことに就いて徳次はいろいろのことを訊《き》いていた。品川から来たという男の人相や年頃なども訊きただした。
「食べ立ちで失礼だが、御用が忙がしいからお暇《いとま》をします」
 飯を食ってしまうと、二人は怱々《そうそう》にここを出て、新堀の川伝いに、豊海橋から永代僑の方角へぶらぶら歩いて行った。こんにちの永代橋は明治三十年に架け換えられたもので、昔とは位置が変っている。江戸時代の永代橋は、日本橋の北新堀から深川の佐賀町へ架けられていたのである。
「おい、半七、おめえは何か見付け出したか。この一件をどう鑑定する」と、徳次はあるきながら訊いた。
「さあ、駈け出しのわたし等にゃあよく判りませんが、お節という嫁は生きているのでしょうね」
「そうだ、生きているに違げえねえ」と、徳次はうなずいた。
「鍋久の土蔵から金を持ち出したのも、お節が自分で盗んだのか、同類の手引きをして盗ませたのか、二つに一つでしょうね。それが露顕《ばれ》そうになって来たので、気ちがいの真似をして飛び出したのだろうと思います。品川の奴が怪談がかりで片袖をとどけて来たのも、お節がほんとうに死んだと思わせる狂言で、きっとお礼をすると云ったなぞと巧《うま》い謎をかけて、行きがけの駄賃に十両せしめて行ったのでしょうね」
「むむ。そこで、久兵衛を殺したのは誰だと思う」と、徳次はまた訊いた。
「それがむずかしいので、私もさっきから考えているのですが、なにしろ下手人《げしゅにん》はお節じゃあありますまいね。お節ならば自分の剃刀を使いそうなものだが……。それとも自分の剃刀は切れが悪いので、人殺しをするために新らしい刃物を買ったのでしょうか。第一、お節が亭主を殺すほどの事はねえ、ただ気ちがいの真似をして川へ飛び込んでしまえば好さそうに思うが……。わたしの考えじゃあ、久兵衛を殺して川へ飛び込んだのは、本人のお節じゃあねえ。泳ぎの上手な奴が替玉《かえだま》になって、水をくぐって逃げたのだろうと思いますね。みんなの眼にはお節と見えたかも知れねえが、暗い夜の事じゃああるし、お節の着物をそっくり着込んで、散らし髪を顔一面に打《ぶ》っかぶっていりゃあ、誰にもちょいと判りますめえ。殊にみんなが慌てている時だから、猶さら本物か贋物かの見分けが付かなかろうと思います」
「おめえもなかなか素人じゃあねえ」と、徳次は笑った。「実はおれも替玉と睨んでいたのだ。こうなると、お節は勿論だが、その親父の浪人者や、替玉の女や、品川から来たという奴や、大勢の奴らが徒党を組んで、鍋久の家《うち》を荒らそうと企《たくら》んだに相違ねえ。この探索はよっぽど手を拡げなけりゃあならねえ事になった。半七、おめえも働いてくれ。おれ一人じゃあ手が廻らねえ」

     

「そうすると、わたしはこれからどっちへ廻りましょう」と、半七は訊《き》いた。
「さしあたりは浅草のお節の実家だ。おやじの小左衛門という浪人者も唯の鼠じゃああるめえ。だが、そこへは俺が行く」と、徳次は云った。「おめえは品川へまわってくれ。怪談の片袖を持って来た奴の身もとを探るのだ。弥平とかいったそうだが、どうせ本名じゃああるめえと思う。鍋久の番頭から聞いた人相や年頃をかんがえると、少しは心当りがねえでもねえ。鍋久へは堅気の風をして来たそうだが、そいつは高輪《たかなわ》の北町《きたまち》で草履屋をしている半介という奴らしい。表向きには草履屋だが、ほんとうの商売は山女衒《やまぜげん》で、ふだんから評判のよくねえ野郎だ。おれも二、三度逢ったことがあるから、神田三河町の徳次の兄弟分だと云やあ、まさか逃げも隠れもしめえ。もし逃げるようならば、いよいよ怪しいに決まっているから、容赦なしに挙げてしまえ。相手は半介で、こっちは半七だ。どっちの半が勝つか、腕くらべだ」
「承知しました」
 ここで徳次に別れて、半七ひとりは芝の方角へ足を向けた。高輪北町は泉岳寺の近所である。そこへ行き着いたのは八ツ(午後二時)に近い頃で、日盛りはまだ暑かった。徳次に教えられた通りに、海辺の大通りを右へ切れると、庚申堂《こうしんどう》のそばに小さい草履屋が見いだされた。一人の男が店に腰をかけて、亭主と将棋をさしていた。
 亭主は年のころ三十五六で、色の浅黒い、鼻の高い男であった。半七が店さきへ立ち寄ると、彼は将棋の手をやすめてすぐに見返った。
「いらっしゃい」
「いや、わたしは履き物を買いに来たのじゃあねえ。神田三河町の徳次兄いに頼まれて来たのだが……。おまえさんは半介さんかえ」
「へえ、半介でございます」と、彼は半七の顔をじっと視た。
「おもしろい勝負事の邪魔をして、済まなかったな」と、半七も店に腰をおろした。
「はは、勝負事……。こんな勝負事なら、店の先でも立派にやれますよ」と、半介は笑いながら、手に持っている駒を投げ出した。「まあ、勝負はあしたまでお預かりだ」
 眼で知らされて、相手の男は早々に立ち去った。そのうしろ姿を見送って、半七は云った。
「女郎屋の若い衆《しゅ》らしいが、いくら昼間でもここらへ来て将棋をさしているようじゃあ、宿《しゅく》もこの頃は閑《ひま》だと見えるね」
「ひどい閑ですよ。なにしろ倹約の御趣意がよく行き届きますからね」と、半介はすこし顔をしかめた。「先月の二十六日なんぞも寂しいもんでした」
 こんな話をしているあいだも、彼は油断なく相手の眼色を窺っているらしかった。
「実はきょう来たのはほかでもねえが、今も云う通り、徳次兄いに頼まれて来たのだ。おめえは兄いを識《し》っているのだろうね」と、半七は先ず念を押した。
「二、三度お目にかかった事があります。そこで兄いの御用というのは何んでございますね」
「少しおめえに訊きてえことがある。……おめえはおとといの晩、北新堀の鍋久へ何しに行ったのだね」
 半介はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたように眼を光らせたが、やがてにやにやと笑い出した。
「まったく悪い事は出来ねえ。徳次兄いはもう知っていなさるのかえ。こりゃあ恐れ入りました。まことに相済みません」
 定めてシラを切るのだろうと思いのほか、余りあっさりと砕けて出たので、半七も少しく当てがはずれた。それと同時に、こいつなかなか図太い奴だと思った。
「徳次兄いに睨まれちゃあ助からねえから、何もかも正直に云いますがね。実はおとといの晩鍋久へ行って、ちっとばかり小遺いを貰って来ましたよ」と、半介はまた笑った。「だが、あの片袖は贋物でも拵え物でもねえ、全くわっしが品川へ夜釣りに行って引き揚げたんです。死骸を引き揚げるといろいろ面倒になるから、不人情のようだが突き流してしまって、片袖だけを取って来たんですよ」
「鍋久の一件を知っているのかえ」
「そりゃあ早いからね」と、彼は又笑いながら自分の耳を指さした。
「それにしても、その死骸が鍋久の嫁だということがどうして判ったね」
「そりゃあ確かには判らねえ。そこは推量さ」
「向うへ行って、もし間違っていたら引っ込みが付くめえ」
「そりゃあ段取りがありまさあね」と、彼は半七の無経験をあざけるように答えた。「いきなり証拠物を出しゃあしねえ。まず番頭に逢って、こちらのお嫁さんの死骸は見付かったかと訊くと、まだ見付からねえという。家を飛び出した時にはどんな物を着ていたかと訊《き》くと、四入り青梅の単衣《ひとえ》でこうこういう縞柄だという。それがぴったり符合《ふごう》していりゃあ、もう占めたものだ。そこで初めて怪談がかりになって、証拠の片袖を御覧に入れるんだから十《とお》に一つも仕損じはありゃあしねえ。ねえ、そうじゃあありませんか」
 後学のために覚えて置けと云わないばかりに、彼はそらうそぶいていた。こうなると普通の騙《かたり》りや強請《ゆすり》ではない。ともかくも其の片袖は本物である。十両の礼金は鍋久が勝手にくれたのである。それらの事情をうまく云いまわせば、彼は単に叱り置くぐらいのことで、ほんとうの科人《とがにん》にはならないかも知れない。彼が多寡をくくって平気な顔をしているのも、それが為であろうと半七は思った。
 しかもお節はほんとうに死んだのか、或いはどこかに潜《ひそ》んでいるのか、まずその生死を確かめなければならない。自分たちの鑑定通りに、川へ飛び込んだのはお節の替玉であるとすれば、半介の話は全然うそである。自分を青二才とあなどって、いい加減に誤魔化すのである。嘘か、本当か、年の若い半七はしばらく思案に迷ったが、いかにも人を食っているような半介の態度が、正直に物をいう人間であるらしく思われなかった。半七は重ねて訊《き》いた。
「きょうは八日だ。鍋久へ行ったのはおとといの夕方だから、その前の晩といえば五日だな。おめえは何処から舟を借りて出た」
「銭もねえのに釣り舟なんぞ借りるもんですか。品川の浪打ちぎわへ行って釣ったのさ」
「その釣り道具を見せてくれ」
 半介はすぐに立って、奥の台所から釣り竿と魚籠《びく》を持ち出して来た。
「おまえさん、まだわっしを疑っているね」と、彼は笑った。「徳次兄いは何と云ったか知らねえが、わっしはそんなに悪い人間じゃありませんよ。あはははは」
 ここでいつまで争っても水掛け論であると諦めて、半七は怱々《そうそう》にここを出た。鍋久へ片袖を持参したのは、半介に相違ないということを突き留めただけをみやげにして、彼はむなしく引き揚げるのほかは無かった。半七は半介に負かされたように感じた。
 その明くる朝、徳次もぼんやりして神田の親分の家へ帰って来た。彼は浅草の山谷《さんや》へ行って、近所で磯野小左衛門のうわさを聞いたが、別にこれぞという手がかりも探り出せなかった。更にその近所に張り込んで、夜の明けるまで出入りを窺っていたが、怪しい影ひとつ見いだし得なかった。彼はむなしく疲れて引き揚げたのでる。
 徳次と半七の報告を聴いて、親分の吉五郎は云った。
「高輪の半介はまあ打っちゃって置け。お節が真者《ほんもの》か替玉か判らねえ以上は、野郎をいくら責めたところで埒は明くめえ。まさか草鞋《わらじ》もはくめえから、当分は生簀《いけす》に入れて置くのだ。なにしろこの騒動のおこる前に、鍋久で二度も金を取られたというのがどうも可怪《おか》しい。だが、ここにもう一つ考えようがある。お節という女がよくねえ奴で、気違いの振りをして亭主を殺して、自分は川へ飛び込んだ振りをして、うまく泳いで逃げようとしたところが、案外に水が増しているか、流れが早いか、それがために心ならずも押し流されて、狂言が本当になってしまったというようなことがねえとも限らねえ。どっちにしても、親父の小左衛門という奴から何かの手がかりを絞り出すよりほかはあるめえ。その積りで根《こん》よく見張っていろ」
「ようがす」と、徳次は答えた。「じゃあ、半七。おめえは山谷へ出張って、当分は網を張っていてくれ。あすこに砂場《すなば》という蕎麦屋があるから、そこを足休めにして、小左衛門の出入りを見張っていろ。おれの名をいえば、蕎麦屋でも何かの手伝いをしてくれるかも知れねえ」
 なんの商売でもそうであるが、この商売は根気が好くなければならない。殊に科学捜査の発達しない此の時代には、眼の捷《はや》いのと根《こん》の好いのが探索の宝である。半七はその日から山谷の蕎麦屋を足溜りにして、油断なく小左衛門の出入りを窺っていたが、彼は近所の銭湯《せんとう》へ行くか、小買い物に出るほかには、何処へ出かけることも無かった。たずねて来る人もなかった。
 こうして三、四日を送るあいだに、徳次はどこから聞き出したのか、小左衛門の身もとを洗って来た。彼は藩中《はんちゅう》の浪人ではなく、旗本の渡り用人である。二、三の旗本屋敷を渡りあるいて、今は浪人しているが、その奉公中に格別の悪いうわさも無かったらしく、お節はその娘に相違なかった。しかもそれだけの事では、どうにも手の着けようが無かった。
 八月十三日の夕七ツ(午後四時)頃である。半七は砂場の店に腰をかけて煙草を吸っていると、一人の小僧が暖簾《のれん》をくぐってはいってきた。彼は天ぷら蕎麦をあつらえて、同じく腰をかけた。どうも見たような小僧だと、半七は顔をそむけながら、横眼で睨むと、彼は鍋久の店の小僧であった。彼はやがて運んで来た天ぷら蕎麦を食ってしまって、更にあられ蕎麦を註文した。それを又食ってしまうまで半七は気長に待っていると、小僧は銭《ぜに》を払って出た。
 半七もつづいて暖簾《のれん》を出て、うしろから声をかけた。
「おい、小僧さん。鍋久の小僧さん」
 不意に呼ばれて、小僧はびっくりしたように立ちどまると、半七はすぐに其の手を据えた。
「おい、おれの顔を忘れたか。この間おれたちに茶を持って来たのはお前だろう」
 小僧も思い出したように、無言で半七の顔を見あげていた。
「おまえの名はなんというのだ」
「宇吉といいます」
「むむ、宇吉か。お前はなかなか景気がいいな。お店者《たなもの》の小僧のくせに、蕎麦屋へ来て天ぷらに霰《あられ》とは、ばかに贅沢をきめるじゃあねえか。その銭はだれに貰った。それとも盗んだのか、くすねたのか。はっきり云え」
 宇吉は黙っていた。
「さあ、正直に云え。ぐずぐずしていると、番屋へ引き摺って行って引っぱたくぞ」と、半七はその腕を一つ小突いて嚇し付けた。
「店の新どんに貰ったんです」と、宇吉は吃《ども》りながら云った。
「新どんとは誰だ」
「店の若い衆で、新次郎というんです」
「新次郎……。このあいだの晩、若いおかみさんを捉まえようとして、剃刀をぶつけられた奴だな。お前はふだんから新次郎に銭を貰うのか」
 宇吉はだまっていた。
「こいつ、強情な奴だ。さあ、来い。番屋の柱へ縛《くく》りつけて、絞めあげるから……。ええ、泣いたって勘弁するものか。この河童野郎め」
 半七は容赦なしに小僧を引き摺って行った。

     

 近所の自身番へ連れ込まれて、宇吉は素直に申し立てた。彼はお節や新次郎から幾らかの小遣い銭を貰って、六月以来、山谷の里方《さとかた》へ五、六たび使いに行ったことがある。いつも手紙を届けるだけであるから、その用向きは知らないと云った。おかみさんと新次郎とは何か訳があるのかと訊かれて、宇吉はそれも知らないと答えた。
「きょうも手紙を届けに行ったのか」
「新どんの手紙を持って行ったんです」
「向うから返事をくれたか」
「返事は無いというので、そのまま帰って来ました」
 半七は舌打ちした。届けにゆく途中で取り押さえて、その密書を手に入れれば、なにかの秘密をさぐることが出来たのであるが、空手《からて》で帰る途中ではどうにもならない。彼は少しく思案して、自身番の男に云った。
「もし、定番《じょうばん》さん。わたしが引っ返して来るまで、この小僧を奥へほうり込んで置いてください。縛って置くにゃあ及ばねえが、逃がさねえように気をつけて……」
 宇吉をそこに預けて、半七は自身番を出た。それから蕎麦屋へ帰ってくると、日の暮れる頃に徳次が顔を見せた。
「どうだ。なんにも当りはねえか」
 小僧の一件を聞かされて、徳次はうなずいた。
「そうして、その小僧はどうした」
「番屋へ預けて置きました」と、半七は云った。「日が暮れても小僧が帰らなけりゃあ、新次郎という奴は不安心に思って、ここへ様子を見に来るかも知れません。そこを何とかしようじゃあありませんか」
「そうだ、そうだ。いいところへ気がついた。小僧がいつまでも帰らなけりゃあ、新次郎は心配して出て来るに相違ねえ。だが、相手は店者《たなもの》だから、そう早くは出られめえ。今夜は夜ふかしと覚悟して、今のうちに腹をこしらえて置くのだな」
 二人は近所の小料理屋へ行って夕飯を済ませた。半七を蕎麦屋に待たせて置いて、徳次は自身番へ出て行ったが、やがて帰って来て笑いながら云った。
「半七。おめえの調べはまだ足りねえぜ。おれは鍋久の小僧を調べて、こんな事を聞き出した。鍋久の女中のお直という女は、きのう出しぬけに暇を出されたそうだ。もっとも今月は八月で、半季の出代り月じゃああるが、晦日《みそか》にもならねえうちに暇を出されるのはちっと可怪《おか》しい。これにゃあ何か訳がありそうだ。お直の宿は下谷《したや》の稲荷町《いなりちょう》だというから、ともかくも尋ねて行ってみろよ」
「してみると、お直という奴も何か係り合いがありそうですね。今夜すぐに行きましょうか」
「相手は女だ。まあ、あしたでも好かろう」
 弁天山の五ツ(午後八時)の鐘を聞いて、二人は再びここを出た。小左衛門の露路の近所を遠巻きにして、そこらをうろ付いている筈であるが、半七は念のために露路の奥へ覗きにゆくと、井戸を前にした小左衛門の家の奥から女の泣き声が洩れてきこえた。
 女はお直かお節かと、半七は胸をおどらせながら耳を澄ましていると、低いながらも鋭いような男の声が更にきこえた。
「お前のいうのはみんな云いがかりだ。あまりにばかばかしくって、相手になっていられない。もういい加減にして、帰れ、帰れ」
「いいえ、若いおかみさんは生きているに相違ありません。きっと、どっかに隠れているんです」と、女は泣き声をふるわせて、相手に食ってかかるように叫んだ。
「まだそんなことを……。近所へきこえても迷惑だ。さあ、帰れ。浪人しても、おれは侍だ。不法の云いがかりをすると、容赦しないぞ」
 この時、露路の口から忍ぶようにはいって来る足音がきこえたので、半七はあわてて井戸側のかげに身をかくすと、一人の男があたりを見まわしながら、小左衛門の家の格子《こうし》をそっとあけた。そのあとから徳次も抜き足をして追って来た。
「おい。野郎が来たぞ」と、彼は半七を見付けてささやいた。
 予定の通りに、新次郎が忍んで来たのである。しかも彼がはいって来てから、三人の話し声が俄かに低くなって、外へはちっとも洩れなくなったので、二人は苛々《いらいら》しながら猶も窺っていると、忽ちに女の悲鳴が起った。
「あれ、人殺し」
 もう猶予は出来ないので、二人は格子を蹴開いて跳り込むと、小左衛門は早くも行灯を吹き消した。狭い家内《やうち》の闇試合で、どうにか男ひとりを取り押えたが、ほかはどこにいるのか見当が付かなかった。徳次は大きい声で呼んだ。
「長屋の者は早くあかりを持って来い。御用だぞ」
 御用の声を聞いて、長屋の者どもは提灯や蝋燭を照らして来た。ふたたび明るくなった家内には若い女が半死半生で倒れていた。お店者ふうの若いものが徳次に押えられている。あるじの小左衛門のすがたは見えなかった。
「畜生……」
 押えている男を半七に渡して、徳次は露路の外へ追って出たが、暫くしてむなしく帰って来た。表は月の明るい夜でありながら、逃げ足の早い小左衛門は、巧みにゆくえを晦ましてしまったというのである。
 女は鍋久のお直で、小左衛門のために咽喉《のど》を絞められかかったのであるが、人々に介抱されて息をふき返した。男はかの新次郎であった。彼等ふたりは自身番へ引っ立てられて、徳次の下調べを受けたが、まず新次郎の申し立てによると、お節の縁談について鍋久のおきぬが山谷へしばしば尋ねて来る時、彼は幾たびかその供をして来て、お節の美貌にこころを奪われた。しかも彼女は若主人の嫁になる女であるから、新次郎はどうでも諦めるのほかはなかった。その素振りがお節の眼に付いたものか、嫁入り早々から、彼女は新次郎に親しく物などを云いつけた。勿論、新次郎は総身《そうみ》がとろけるほどに嬉しかった。こうしてひと月ほど過ぎた後、新次郎が土蔵へ何かを取り出しに行ったところへ、お節もあとから忍んで来て、こんなことを彼にささやいた。自分の父はある旗本の屋敷に用人を勤めているあいだに、千両ほどの金を使い込んで、すでに切腹にも及ぶべきところを、その金を年賦にして三年間に返納するということで、まずは無事に長《なが》の暇《いとま》となったのである。しかも今は浪人の身で、その大金の調達は容易に出来ない。現に自分の支度料として受け取った二百両も、半分以上はその方へ繰り廻したのであるが、それでも不足であることは判り切っている。さりとて嫁入り早々に、姑や夫にそれを打ち明けることも出来ない。就いてはわたしを助けると思って、土蔵に仕舞ってある金をぬすみ出してはくれまいか。万一それが露顕した暁には、わが身にかえても決してお前に難儀はかけまいと、彼女は泣いて口説《くど》いたのである。
 奉公人として主人の金をぬすみ出すのは罪が深い。殊に十両以上の金であれば、死罪に処せられるのが定法《じょうほう》である。それを承知しながら新次郎がやすやすと承知したのは、お節のことばに一種の謎が含まれていたからであろう。彼はもうなんの分別も無しに、手近の金箱から二百両と百八十両を二度ぬすみ出して、お節の指図通りに山谷の実家へとどけたのである。
 お節がなぜ夫を殺したのか、それに就いてはなんにも知らない。自分も不意の出来事におどろいたと、新次郎は申し立てた。
 表へ飛び出すお節を追っかけて行った時、店の灯が薄暗いのでよくは判らなかったが、散らし髪を振りかぶっているお節の顔が、どうも其の人らしく見えなかったので、自分は今でもそれを疑っていると、彼は云った。
 徳次は更にお直を調べた。
「お直。おまえは幾つだ」
「二十歳《はたち》でございます」
「鍋久には何年奉公している」
「三年でございます」
「新次郎と出来合っているのだな。そうだろう、正直に云え」
「恐れ入りました」と、お直は蒼ざめた顔を紅《あか》くした。
「今夜は小左衛門の家《うち》へ何しに行ったのだ」
「若いおかみさんが居るか居ないか、訊きに行ったのでございます」
「生きていたらどうするのだ」
「お上《かみ》へ訴えてやります」と、彼女はだんだん興奮して来た。「若いおかみさんが来てから、新どんは何んだかそわそわしていて、わたくしを見向きもしません。何を話しかけても碌々に返事もしません。新どんは若いおかみさんに惚れているのでございます。それはわたくしがよく知っています。おかみさんは身を投げて死んだということになっているのに、新どんはどうも生きているように思われると、内証でわたくしに云いました。新どんはきっと何か知っているに相違ありません」
「おまえはどうして鍋久から暇《ひま》を出されたのだ」
「やっぱりその事からでございます。若いおかみさんは生きているかも知れないと、わたくしがふい[#「ふい」に傍点]と口をすべらせたのが、おかみさんや番頭さんの耳にはいって、飛んでもないことを云う奴だと、さんざん叱られました。それがもとで、とうとうお暇が出たのでございます」
「新次郎。おまえは今夜どうして出て来た」
「昼間のうちに小僧を使によこしましたが、それがいつまでも帰って参りませんので、なんだか不安心になりまして……」
「小僧に持たせてよこした手紙には、どんなことが書いてあるのだ」
「どう考えましても、若いおかみさんは何処《どっ》かに生きているように思われてなりませんので……」と新次郎は恐るるように小声で答えた。「どっかに隠れているならば、ぜひ一度逢わせてくれと……」
「逢ってどうする積りだ」
 新次郎は俯向いたままで黙っていると、それを妬《ねた》ましそうに睨んでいたお直は、横合いから鋭く叫んだ。
「申し上げます。新どんは若いおかみさんと一緒に駈け落ちでもする積りに相違ございません。それでわたくしを殺そうとしたのでございます」
「わたしが何んでお前を……」と、新次郎はあわてて打ち消した。
「手をおろしたのはお前でなくっても、あの浪人とぐる[#「ぐる」に傍点]になって、わたしを殺そうとした。そうだ、そうだ、それに相違ない。わたしを誤魔化して追い返そうとしても、わたしがどうしても動かないので、浪人が両手でわたしの咽喉《のど》を絞めようとした……。その時お前さんはわたしを助けようともしないで、平気で眺めていたじゃあないか」
「いや、助ける間《ひま》がなかったのだ」
「いいえ、嘘だ、嘘だ」
「嘘じゃあない」
「さんざん人を欺《だま》して置いて、邪魔になったら殺そうとする……。おまえは鬼のような人だ」
「そうぞうしい。静かにしろ」と、徳次は二人を叱り付けた。「いつまでも噛み合っているにゃあ及ばねえ。おれの方にも眼があるから、白い黒いはちゃんと睨んでいるのだ」

     

 大番屋《おおばんや》へ送られて三人は更に役人の吟味を受けた後に、新次郎は重罪であるからすぐに伝馬町《てんまちょう》の牢屋へ送られた。お直は宿許《やどもと》へあずけられ、宇吉は主人方へ預けられた。これで一方の埒は明いたが、磯野小左衛門のゆくえは判らなかった。お節の生死《しょうし》も知れなかった。
 徳次と半七は親分吉五郎の指図にしたがって、その後も油断なく探索に苦労していたが、どうしても小左衛門親子の影を追い捕えることが出来なかった。
 今も昔も同じことで、探索の役目の者も一つの仕事にばかり取り付いているわけには行かない。新らしい事件があとから出て来れば、又その探索に取りかからなければならない。現に半七はその年の十二月に、小柳という女軽業師の犯罪を探索して、初陣《ういじん》の功名をあらわしている。小柳という女の手口が鍋久の人殺しにやや類似の点があるので、半七はそれに比較して、鍋久の人殺しもお節の替玉であることをいよいよ確信するようになったが、ほかの仕事の忙がしいのに追われて、心ならずも投げやりにしていた。
 水野閣老の天保度改革は今ここに説くまでもない。その倹約の趣意がますます徹底的になって、贅沢物の禁止、色茶屋の取り払い、劇場の移転など、それからそれへと励行されたが、その一つとして江戸の娘義太夫三十六人は風俗を紊《みだ》すものと認められ、十一月二十七日の夜に自宅または寄席の楽屋から召し捕られて、いずれも伝馬町の牢屋へ送られた。
「可哀そうだが、お上の指図だ」と、吉五郎は云った。半七もその召し捕りにむかった一人であった。
 娘義太夫はその名のごとくに若い女が多かったが、大抵は十五六歳から二十二三歳に至る色盛りで、風俗をみだすと認められたのも、それが為であった。かれらは女牢でその年を送って、明くる天保十三年の三月、今後は正業に就くことを誓って釈放された。去年の冬から百日あまりの入牢《じゅろう》が一種の懲戒処分であった。
 その三十六人のうちに竹本染之助というのがあって、年は若いが容貌《きりょう》はあまり好くなかった。彼女は半七に召し捕られたのであるが、最初から可哀そうだという吉五郎の言葉もあるので、半七は彼女が入牢するまで親切にいたわってやった。それを恩に着て、染之助は出牢早々に吉五郎のところへ挨拶に来た。半七にも逢って先日の礼を云った。
「どうだ、御牢内は……。面白かったかえ」と、吉五郎は笑いながら訊《き》いた。
「御冗談を……」と、染之助は真顔になって答えた。「わたくしは初めてですから、まったく驚いてしまいました」
「誰だって初めてだろう」と、吉五郎はまた笑った。「だが、男牢と違って女牢だ。そんなに驚くほどの事もなかったろうが……」
「いいえ、それが大変で……。わたくし共はみんな一つところに入れられて居りましたが、牢名主《ろうなぬし》は大阪屋花鳥という人で……」
「大阪屋……。島破りの花鳥か」
「そうでございます」
 大阪屋花鳥は初めに云った通り、八丈島を破って江戸へ帰って来て、日本橋の松島町辺に暫く隠れていたが、去年の八月末に、木挽町《こびきちょう》の河原崎座で団十郎の芝居を見物しているところを召し捕られ、それから引き続いて入牢中であることを、吉五郎も知っていた。牢内の習慣として、罪の重い者が名主《なぬし》または隠居と称して、一同の取締り役を勤めるのである。その取締り役の威勢を笠に着て、新入りの囚人を苦しめるのが、かれらの悪風であった。
「成程、花鳥が名主じゃあ新入りは泣かされたろう」と、吉五郎は同情するように云った。「そうして、あいつが何をしたえ」
「とてもお話になりません」と、染之助は泣き出した。
 入牢を命ぜられた娘義太夫三十六人は、いずれも年の若い女芸人であるから、暗い牢内へ投げ込まれて殆ど生きている心地はなかった。かれらの多数は碌々に飯も食えなかった。牢名主の花鳥はかれらに対して、最初の十日ほどは優しくいたわってくれたが、かれらが少しく牢内の生活に馴れて、心もだんだんに落ちついて来ると共に、花鳥の態度は、だんだん暴《あら》くなって来た。彼女は若い女たちに向って自分の夜伽《よとぎ》をしろと命じたが、その方法の淫猥、醜虐、残忍は、筆にも口にも説明することが出来ないばかりか、普通の人間には殆ど想像することも出来ない程の忌《いま》わしいものであった。夜もすがらに泣いて惨苦を忍んだ者に対して、花鳥はその翌日必ず一杯のうなぎ飯をおごってくれた。
 三十六人のうちで、その惨苦を繰り返したものは二十五人で、余の十一人は不思議に助かった。それは比較的に容貌《きりょう》のよくない者と、二十歳《はたち》を越えている者とであった。染之助も容貌の好くないのが意外の仕合わせとなって、一度も花鳥の凌辱を蒙らなかったが、他人《ひと》が惨苦を目前に見せ付けられて、夜も昼も恐れおののいていた。
「お慈悲に早く出牢が出来たので助かりましたが、あれが長くつづいたら、人身御供《ひとみごくう》にあがった二十五人の人たちは、みんな責め殺されてしまったかも知れません。鰻めし一杯ぐらい食べさせてくれたって、あんなひどい目に逢わされてたまるものですか」と、染之助はくやし涙にむせびながら云った。
 鰻めし一杯ぐらいというが、その鰻めしが詮議物であると吉五郎は思った。彼は押し返して訊《き》いた。
「そうすると、花鳥の夜伽をした者には、そのあしたきっと鰻めしを食わせてくれるのだね」
「御牢内で鰻めしなんか食べるには、たいそうお金がかかるのだそうですが、毎日きっと誰かに食べさせてくれました」
「むむ、まったくたいそうな金持だな。それで若い女の子をおもちゃにしていりゃあ、娑婆《しゃば》にいるよりも楽だろう」
「本人はどうで重いお仕置になるのだと思って、したい三昧の事をしているのでしょうが、ほかの者が助かりません。この世の地獄とは本当にこの事です」
 思い出しても恐ろしいように、彼女は身ぶるいして話した。染之助が帰ったあとで、吉五郎はなにか考えていた。
「おい、半七。花鳥という奴はひどい女だな」
「色気違いでしょうか」
「色気違いばかりじゃあねえ、なんでも酷《むご》たらしいことをして楽しんでいるのだろう。そこで、今の鰻の一件だが、娑婆で六百文くれえの鰻飯だって、それが牢内へはいるとなりゃあ、牢番たちによろしく頼まなけりゃあならねえから、べらぼうに高けえ物になって、まず一杯が一両ぐれえの相場だろう。女義太夫は百日以上も入牢していたのだから、毎日うなぎ飯を一杯ずつ食わせても百両だ。島破りの女が一年ぐれえの間に、何を稼いだか知らねえが、そんなに大きいツルを持っているというのは不思議だな。江戸へ帰って来てから、どうで善い事をしていやあしめえと思っていたが、あいつも相当の仕事をしていたに相違ねえ」
「そうでしょうね」
 云いながら二人は眼をみあわせた。云い合わせたように、ある疑いが二人の胸に湧き出したのであった。

     

「ずいぶん長くなりました。ここまでお話をすれば、もう大抵はおわかりでしょう」と、半七老人は云った。
「さあ……」と、わたしは考えながら云った。「そうすると、鍋久の主人を殺したのは、その花鳥という女ですか」
「そうです、そうです。花鳥がお節の替玉になって、久兵衛を殺したんですよ」
「その二人はどういう関係があるんですか」
「お節の親父の磯野小左衛門という奴は、前にもお話し申したとおり、旗本屋敷の渡り用人で……。しかし奉公中に悪いうわさが無かったと云うのは、徳次が探索の疎漏《そろう》で、早く女房に死に別れたせいもありましょうが、年に似合わない道楽者で、方々の屋敷をしくじったのも皆それがためです。そこで、吉原へも遊びに行って、花鳥が大阪屋に勤めている頃の馴染《なじみ》であったんです。娘のお節は容貌《きりょう》も好し、見たところは如何にもしとやかな女ですが、どういうものか手癖が悪くって、肩揚げの取れない頃から万引きなどを働いていたんですが、見掛けがおとなしいから誰も気がつかない。おやじの小左衛門もそれを知っていながら叱ろうともしない。つまり親子揃って良くない奴らであったんです。その小左衛門があるとき途中で花鳥に出逢って、女は島破りの兇状持ちであることを承知の上で附き合っていたんですから、お互いに碌なことは考え出しません。花鳥もなかなかいい女でしたが、何分にも日陰《ひかげ》の身の上ですから、自分が表立って働くことは出来ないので、お節を玉に使ってひと仕事することに相談を決めたんです。
 花鳥は江戸へ帰って来てから、松島|町《ちょう》の糊売り婆の家に隠れていて、女のくせに小博奕を商売にしていたので、巾着切りの竹蔵という若い奴と懇意にしていたんです。普通の懇意だけじゃ無かったかも知れませんが、なにしろ竹蔵という奴は花鳥の云うことを肯《き》いて働く。そういうわけで、花鳥と竹蔵と小左衛門親子と、この四人が腹をあわせて浅草のお開帳に網を張っていたんです」
「それじゃあ、初めから鍋久を狙ったわけじゃあ無かったんですか」と、私は訊いた。
「誰でも構わない、いい鴨が懸かればいいという料簡で、お開帳の盛り場へ網を張っていると、運悪くそこへ来かかったのが鍋久の連中で……。竹蔵は久兵衛の顔を見識っていて、あれは北新堀の鍋久の若主人だと教えたので、かねての手筈の通り、竹蔵が久兵衛の紙入れを掏《す》る、お節が声をかける、万事が筋書をそのままに運んで、首尾よくお節の嫁入りまで漕ぎ着けました。こう云うと、だまされた方がひどく迂濶のようにも思われますが、いつの世でも、欺されるというのは皆こんなものです。
 しかし欺した方にも少し手ぬかりがある。お節が鍋久へ入り込んで、まず当分はおとなしくしていれば好かったんですが、お互いにその辛抱が出来なかったんでしょう。ひと月も経つとすぐに仕事に取りかかって、新次郎という若い者を色仕掛けで味方に抱き込んで、鍋久の土蔵から金を持ち出させたんです。いっぺんに大金をぬすんで逃げ出した方が好かったんでしょうが、大番頭ならば格別、小僧あがりの若い者では、大金のありかが判らなかったんだろうと思います。それでも二百両と百八十両、江戸時代では大金です。それが続いて紛失したんですから、鍋久でも捨て置かれず、内々で詮議を始めた。亭主の久兵衛は女房に眼をつける。お節もなんだか足もとがあぶなくなって来たので、小僧の宇吉に手紙を持たせて山谷の親父のところへ知らせてやる。そこで、花鳥は小左衛門と相談して、いわゆる最後の手段ということになったんです。
 惚れた女房ではあるが、この頃の久兵衛はお節を疑っている。そこで、お節をためすために、わざと自分の居間の手箱のなかに二百両の金を入れて置いた。それを取れば自分の仕業だということがすぐに露顕するから、お節も迂濶に手が出せない。結局久兵衛を殺して、行きがけの駄賃にその二百両をさらって行くことにしたが、年の若いお節の手で人殺しはむずかしい。もう一つには後日《ごにち》の詮議を逃がれるために、亭主を殺した上で自分も身投げをしたように見せかける。これは花鳥が考え出したのだそうです」
「そこで花鳥がお節の替玉になったんですね」
「花鳥はお節の手引きで庭木戸から忍び込んで、人の見ないところで二人の着物を取り換えたんです。お節は花鳥の着物を着て、雨のふる中を表へぬけ出る。花鳥はお節の着物に着かえて、ちらし髪に顔をかくして久兵衛の居間へ入り込む。相手を殺して、金を取って、本来ならば庭口から逃げ出すはずですが、わざと大勢の眼に付くように、表の店口から飛び出して北新堀の川へ身を投げる……。花鳥は島にいるあいだに泳ぎを稽古したのだそうです。島を破るときにも海の上を半里ほども泳いで、それから漁船に乗せて貰ったのだと云いますから、新堀の川を泳ぐくらいは大丈夫だったんでしょう。
 乱心のために亭主を殺して自殺したということになれば、別に詮議の仕様もないわけです。それでもお節の死骸が見付からないうちは、詮議の手のゆるまない虞《おそ》れがあるので、山女衒《やまぜげん》の半介、これも花鳥の識っている奴ですから、その半介を語らって、例の品川の夜釣りの怪談をこしらえて、形見の片袖を鍋久に持ち込ませました。こうして置けば、お節はいよいよ死んだものと思うだろうという計略です。それでもやっぱり手ぬかりがあって、花鳥は自分の剃刀《かみそり》で久兵衛を殺したので、お節の剃刀は鏡台のひきだしに残っていた。それがどうもおかしいと、徳次もわたくしも睨んだのでした。
 新次郎を取り押えて、大体の見当は付いたんですが、替玉か真者《ほんもの》か、それが確かに判らない。たとい替玉にしても、それが何者だか判らないので、そのまま翌年まで持ち越しになっていた処が、かの娘義太夫の一件で、牢名主の花鳥の噂が出た。花鳥が若い女たちをおもちゃにして、毎日うなぎ飯を食わせるというのが不審の種で、地獄の沙汰も金次第といいながら、牢内で鰻めしを食えば一杯一両にもあたる。島破りの女が百両も二百両も持っているのは、何かの仔細が無くてはならない。おまけに花鳥は泳ぎが出来る。花鳥が木挽町の芝居で召し捕られたのは八月の末で、七月二十九日にはまだ娑婆にいた筈です。してみると、もしや鍋久の替玉は花鳥ではなかったかという疑いが、吉五郎の胸にもわたくしの胸にもふい[#「ふい」に傍点]と浮かんで来たんです。
 さあ、そうなると高輪の半介という奴、これも商売は女衒ですから、花鳥を識っていないとは限らない。おそらく識っているだろうという鑑定で、徳次とわたくしが北町の草履屋へ乗り込みました。今まで助けて置いたのはお上のお慈悲だと云って、すぐに近所の自身番へ連れて行って、徳次がきびしく責めました。わたくしも先度《せんど》の腹癒せに引っぱたいてやりました。いや、乱暴なわけで……。さすがの半介もぎゅう[#「ぎゅう」に傍点]と参って、とうとう素直に白状しました。半介は花鳥から頼まれて、例の怪談がかりでお節の片袖を鍋久にとどけ、鍋久から十両、花鳥から十両、あわせて二十両の礼金を貰って、澄ました顔をしていたんです。これから口が明いて、吉五郎から八丁堀へ申し立て、花鳥は牢内から白洲へ呼び出されて再吟味となりました。
 なにしろ相棒の半介が綺麗に泥を吐いているんですから、花鳥ももう云い抜けは出来ません。覚悟をきめて恐れ入ってしまいました。あとで考える、お節の替玉は見付からない筈です。それからひと月も立たないうちに、花鳥はほかの科《とが》で召し捕られて、すでに牢内に送られていたんですからね。花鳥も娘義太夫なんかを窘《いじ》めたりしなければ、まだ容易に露顕しなかったかも知れません。巾着切りの竹蔵もつづいて挙《あ》げられました。そのなかでも花鳥と新次郎の罪が重く、花鳥は引き廻しの上で獄門、新次郎は死罪となりました。
 その時にこんな話があります。
 花鳥の引き廻しが銀座の大通りにさしかかると、大勢の見物が立っている。そのなかに娘義太夫の小勝というのもまじっていました。これも牢内で花鳥のおもちゃになった女ですが、花鳥は馬の上からすぐに眼をつけて、小勝、小勝と声をかけたそうです。そうして、あたしはお前をさんざん可愛がって上げたんだからね、きょうを命日に線香の一本も供えておくれよと、にっこり笑ったので、小勝は蒼くなって怱々《そうそう》に逃げ出したと云います。花鳥は悪い奴だけに、なかなか度胸のすわった女と見えます」
「小左衛門とお節はどうなりました」
「これにもお話があります」と、老人は云った。
「徳次は今の言葉でいえば職務に熱心、早く云えば根《こん》のいい男で、三年のうちにはきっと小左衛門を引き挙げてみせると云っていましたが、とうとう見つけ出しましたよ。尤もまぐれあたりのようなものですが……。
 花鳥が仕置になったのは天保十三年の五月で、その翌年の五月、ちょうど満一年の後に、徳次は世田ヶ谷の北沢村へ出かけました。そこには森厳寺という寺があって、その寺中に淡島《あわしま》明神の社《やしろ》があります。その寺で淡島さま御夢想の名灸をすえるというので、江戸辺からもわざわざ灸を据えてもらいに行く者があって、一時はずいぶん繁昌しました。
 徳次も脚気の気味だったので、重い足を引き摺りながら北沢まで出て行って、門前の茶屋に持ち合わせていると、大勢のなかに年ごろ四十三四の浪人ふうの男がいる。それが彼《か》の小左衛門らしいので、徳次はそっと眼をつけていると、やがて自分の番が来て浪人は寺内へはいったので、徳次は茶屋の者に訊《き》いてみると、あれは平田孫六という人で、以前はここらで売卜者《うらない》などをしていたが、ひとり娘が容貌《きりょう》望みで砧《きぬた》村の豪家の嫁に貰われたので、今では楽隠居のように暮らしているというのです。こいつ又、鍋久の二番目を出したなと思いながら、徳次もその日は何げなく帰って来て、あらためて手続きをした上で、召し捕りました。
 果たして平田孫六は偽名、実は磯野小左衛門で、お節は鍋久をぬけ出してから、北沢村の百姓清左衛門という者の家に隠れていたんです。清左衛門は小左衛門が勤めていた旗本屋敷に出這入りしていた者で、その縁故で隠まわれていたということです。小左衛門も山谷《さんや》を逃げ出して来て、暫く一緒に忍んでいるうちに、お節の容貌《きりょう》が眼について豪家の嫁に貰われることになって、まず当分は都合よく暮らしていたんですが、こんにちで云えばリョウマチスか何かでしょう、両方の腕がこのごろ痛むので、森厳寺へ灸を据えに来たのが運の尽きでした。お節も勿論、嫁入り先から引き挙げられる筈でしたが、捕り手が向うと、すぐに覚ったと見えて、裏口の古井戸へ飛び込んでしまいました。今度は替玉でなく、確かに本人の身投げでした。よくよく水に縁のある女で、これも何かの因縁でしょう。
 小左衛門の申し立てによると、お節を鍋久へ縁付けて毎月相当の仕送りを受け、自分はそれで満足している積りであったが、それでは第一に花鳥が承知しない。本人のお節も承知しない。それに引き摺られて、だんだんに悪事を重ねるようになったのだと云っていたそうですが、果たしてどんなものでしょうか」

底本:「時代推理小説 半七捕物帳(四)」光文社文庫、光文社
   1986(昭和61)年8月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:しず
2000年1月17日公開
2004年3月1日修正
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