一
近衛騎兵のナルモヴの部屋で骨牌《かるた》の会があった。長い冬の夜はいつか過ぎて、一同が夜食《ツッペ》の食卓に着いた時はもう朝の五時であった。勝負に勝った組はうまそうに食べ、負けた連中は気がなさそうに喰い荒らされた皿を見つめていた。しかし、シャンパン酒が出ると、とにかくだんだんに活気づいて来て、勝った者も負けた者もみんなしゃべり出した。
「で、君はどうだったのだい、スーリン」と、主人公のナルモヴが訊《き》いた。
「やあ、相変わらず取られたのさ。僕はどうも運が悪いと諦《あきら》めているよ。なにしろやっていることがミランドール(一種の骨牌戯)だし、いつも冷静にしているから、手違いのしようがないのだが、それでいて、しじゅう負けているのだからね」
「だって君は、一度も赤札に賭けようとしなかったじゃないか。僕は君の強情にはおどろいてしまったよ」
「しかし君はヘルマンをどう思う」と、客の一人が若い工兵士官を指さしながら言った。「この先生は生まれてから、かつて一枚の骨牌札も手にしたこともなければ、一度も賭けをしたこともないのに、朝の五時までこうしてここに腰をかけて、われわれの勝負を眺めているのだからな」
「人の勝負を見ているのが僕には大いに愉快なのだ」と、ヘルマンは言った。「だが、僕は自分の生活に不必要な金を犠牲にすることが出来るような身分ではないからな」
「ヘルマンはドイツ人である。それだから彼は経済家である。……それでちゃんと分かっているじゃあないか」と、トムスキイが批評をくだした。「しかし、ここに僕の不可解な人物が一人ある。僕の祖母アンナ・フェドトヴナ伯爵夫人だがね」
「どうしてだ」と、他の客たちがたずねた。
「どうして僕の祖母がプント(賭け骨牌の一種)をしないかが僕には分からないのだ」と、トムスキイは言いつづけた。
「どうしてといって……。八十にもなったお婆さんがプントをしないのを、何も不思議がることはないじゃないか」と、ナルモヴが言った。
「君はなぜ不可解だか、その理由を知るまい」
「むろん、知らないね」
「よし。では聴きたまえ。今から五十年ほど前に、僕の祖母はパリへ行ったことがあるのだ。ところが、祖母は非常に評判となって、パリの人間はあの『ムスコビートのヴィーナス』のような祖母の流し眼の光栄に浴しようというので、争って、そのあとをつけ廻したそうだ。祖母の話によると、なんでもリチェリューとかいう男が祖母を口説きにかかったが、祖母に手きびしく撥ねつけられたので、彼はそれを悲観して、ピストルで頭を撃ち抜いて自殺してしまったそうだ。
そのころの貴婦人間にはファロー(賭け骨牌)をして遊ぶのが流行《はや》っていた。ところが、宮廷に骨牌会があった時、祖母はオルレアン公のためにさんざん負かされて、莫大の金を取られてしまった。そこで、祖母は家へ帰ると、顔の美人粧《パッチ》と袴の箍骨《フーブス》を取りながら、祖父にその金額をうちあけて、オルレアン公に支払うように命じたのだというのだが、死んだ僕の祖父というのは、僕も知っていたが、まるで祖母の家令のようで、火のごとくに彼女を恐れていたのだ。その祖父が、祖母から負けた賭け金を聞いたときには、ほとんど気が遠くなったというのだろう、なんでもよほどの金高らしかったのだね。で、さすがの祖父も、半年のあいだに祖母が賭けでつかった金が五十万フランにも達していることをかぞえ立てて、自分のモスクワやサラトヴの領地がパリにあるわけではないから、とてもそんな巨額の負債は払えないと断然拒絶したのだ。すると、僕の祖母は祖父の耳のあたりを平手で一つ喰らわせた上に、自分が怒っているということを示すために、黙って独《ひと》りで寝てしまった。
さて、そのあくる日になって、祖母はゆうべの夫への懲らしめがうまく利《き》いてくれればいいがと心に祈りながら、祖父を呼び寄せて口説いたが、祖父はやはり頑として肯《き》かなかった。祖母は自分には負債に負債があること、しかし貴族と馭者《ぎょしゃ》とは違うのであるから、負債はどこまでも支払わなければならないことを言い聞かせれば、おそらく説得できるものと思ったので、結婚以来初めて祖父に言訳《いいわけ》をしたり、説明を試みたりしたのだが、結局それは無効に終わって、祖父は依然として聞き容《い》れなかった。そこでこの問題は夫婦間だけでは解決がつかなくなって来て、祖母はどうしていいか、途方《とほう》に暮れてしまったのだ。
これより前に、祖母は一人の非常に有名な男と知り合いになっていた。諸君はすでに、幾多の奇怪なる物語を伝えられる、サン・ジェルマン伯のことを聞いて知っているだろう。彼はみずから宿《やど》なしのユダヤ人といい、または不老長生薬の発見者といい、その他いろいろのことを言い触らしていたので、ある者は彼を詐欺師《いかさまし》として軽蔑していたが、カサノヴァの記録によると、かれは間諜《スパイ》であったそうだ。いや、そんなことはどうであろうと、彼は非常なる魅力の所有者であるとともに、社交界にはなくてはならぬ人物であった。現に今日《こんにち》でも、彼のことといえば僕の祖母は大いに同情して、もし誰かがその悪口でも言おうならば烈火のごとくに怒り出すのだ。
祖母は右のサン・ジェルマン伯が巨額の金でも自由になることを知っていたので、まず彼にすがりつこうと決心して、自分の家へ来てくれるように手紙を出すと、この奇怪なる老人はすぐにたずねて来て、憂いに沈んでいる祖母に対面したのだ。
そこで、祖母は自分の夫の残酷無情を大いに憤激しながら彼に訴えて、ただ一つの道はあなたの友誼《ゆうぎ》と同情に頼むのほかはないという結論に到達すると、サン・ジェルマン伯は〈よろしい。あなたがご入用の金額をお立て替え申しましょう。しかし、それを私にご返却なさらない間は、あなたもご安心が出来ますまいし、私としてもあなたに新しいご心配をかけるのは好ましくありません。ところで、ここに一つ、私がその金額のお立て替えをせずに、あなたのご心配を取り除く方法があります。それはあなたがもう一度賭けをなすって、ご入用だけの金額をお勝ちになることです〉と言ったそうだ。〈でも伯爵さま。実は、私にはもうすこしの持ち合わせもないのです〉と祖母が答えると、〈いや、金などはちっとも要《い》らないのです〉と、今度はサン・ジェルマン伯がそれを打ち消して答えた。〈まあ、私の言うことをお聞きなさい〉と、それから彼は、われわれがおたがいによくやるような一つの秘策を祖母に授けたのだ」
若い将校連はだんだんに興味を感じて来て、熱心に耳を傾けていた。トムスキイはパイプをくわえると、うまそうに一服吸ってから、またそのさきを語りつづけた。
「その晩、祖母は女王の遊び(骨牌戯の一種)をするためにヴェルサイユの宮殿へ行った。オルレアン公が親元《おやもと》をしていたので、祖母はいかにも尤《もっと》もらしく、まだ負債を返済していないことを手軽に言訳してから、公爵と勝負をはじめた。祖母は三枚の骨牌札を選んで順じゅんにそれを賭けて行って、とうとうソニカ(一番手っ取り早く勝負のきまる骨牌戯)で三枚とも勝ったので、祖母は前に負けただけの金額を全部回収してしまったのだ」
「実に僥倖《しあわせ》だな」と、一人の客が言った。
「作り話さ」と、ヘルマンが批評をくだした。
「たぶん骨牌に印《しるし》でも付けておいたのではないか」と、三番目に誰かが言った。
トムスキイは断乎《だんこ》たる口ぶりで答えた。
「僕はそうは考えないね」
「なんだ」と、ナルモヴが言った。「君は三枚ともまぐれ当たりに勝つ方法を知っているおばあさんが生きているのに、彼女からその秘密を引き出し得なかったのか」
「むろん、僕もいろいろに抜け目なくやっては見たのだがね」と、トムスキイは答えた。「なにしろ、祖母には四人の息子があって、そのうちの一人が僕の父だが、四人とも骨牌では玄人《くろうと》の方であったし、その秘密を明かしてくれれば叔父や父ばかりでなく、僕にだってまんざら悪いことではないのだが、祖母はどうしてもその秘密を明かそうとはしなかったのだ。だが、この話は叔父も彼の名誉にかけて、実際の話だと断言していたよ。それに、死んだシャプリッツキイね――数百万の資産を蕩尽《とうじん》して、尾羽《おは》打ち枯らして死んだ――あの先生が、かつて若いときに三十万ルーブルばかり負けたことがあったのだ。よくは覚えていないが、たぶん相手はゾリッヒであったと思うがね。そこで先生、すっかり悲観してしまっていたところを、いつも若い者のでたらめな生活に対しては厳格であった僕の祖母がひどく同情して、生涯に二度と骨牌をしないという誓言をさせた上で、三枚の切り札の秘密を彼に授けて、順じゅんに賭けるように教えたのだ。そこで、シャプリッツキイは前に負けた敵のところへ出かけて行って、新手《あらて》の賭けをやった。初めの札で彼は五万ルーブルを賭けて、ソニカで勝ってしまったが、その次の札で彼は十万ルーブルを賭けるとまた勝った。こうして最後まで同じ手を打って、とうとう彼が前に負けた金額よりも遙かに多く勝ってしまったのだ……」
「もうそろそろ寝ようではないか。六時十五分過ぎだぜ」
実際すでに夜が明け始めていたので、若い連中はぐっとコップの酒を飲みほして、思い思いに帰って行った。
二
三人の侍女はA老伯爵夫人を彼女の衣裳部屋の姿見の前に坐らせてから、そのまわりに附き添っていた。第一の侍女は小さな臙脂《べに》の器物を、第二の侍女は髪針《ヘヤピン》の小箱を、第三の侍女は光った赤いリボンのついた高い帽子をささげていた。その伯爵夫人は美というものに対して、もはや少しの自惚《うぬぼれ》もなかったが、今もなお彼女の若かりし時代の習慣をそのままに、二十年前の流行を固守した衣裳を身につけると、五十年前と同じように、長い時間をついやして念入りの化粧をした。窓ぎわでは、彼女の附き添い役の一人の若い婦人が刺繍台の前に腰をかけていた。
「お早うございます、おばあさま」と、一人の青年士官がこの部屋へはいって来た。
「|今日は《ボンジュール》、|リース嬢《マドモアゼル・リース》。おばあさま、ちょっとお頼み申したいことがあるのですが……」
「どんなことです、ポール」
「ほかでもないのですが、おばあさまに僕の友達をご紹介した上で、この金曜日の舞踏会にその人を招待したいのですが……」
「舞踏会にお呼び申して、その席上でそのおかたを私に紹介したらいいでしょう。それはそうと、きのうおまえはBさんのお家《うち》においででしたか」
「ええ、非常に愉快で、明けがたの五時頃まで踊り抜いてしまいました。そうそう、イエレツカヤさんが実に美しかったですよ」
「そうですかねえ。あの人はそんなに美しいのかねえ。あの人のおばあさまのダリア・ペトロヴナ公爵夫人のように美しいのかい。そういえば、公爵夫人も随分お年を召されたことだろうね」
「なにをおっしゃっているのです、おばあさま」と、トムスキイはなんの気もなしに大きい声で言った。「あの方はもう七年前に亡くなられたではありませんか」
若い婦人はにわかに顔をあげて、この若い士官に合図をしたので、彼は老伯爵夫人には彼女の友達の死を絶対に知らせていないことに気がついて、あわてて口をつぐんでしまった。しかしこの老伯爵夫人はそうした秘密を全然知らなかったので、若い士官がうっかりしゃべったことに耳を立てた。
「亡くなられた……」と、夫人は言った。「わたしはちっとも知らなかった。私たちは一緒に女官に任命されて、一緒に皇后さまの御前《ごぜん》に伺候したのに……」
それからこの伯爵夫人は、彼女の孫息子にむかって、自分の逸話をほとんど百回目で話して聞かせた。
「さあ、ポール」と、その物語が済んだときに夫人は言った。「わたしを起こしておくれ。それからリザンカ、わたしの嗅《かぎ》煙草の箱はどこにあります」
こう言ってから、伯爵夫人はお化粧を済ませるために、三人の侍女を連れて屏風《びょうぶ》のうしろへ行った。トムスキイは若い婦人とあとに残った。
「あなたが伯爵夫人にお引き合わせなさりたいというお方は、どなたです」と、リザヴェッタ・イヴァノヴナは小声で訊いた。
「ナルモヴだよ。知っているだろう」
「いいえ。そのかたは軍人……。それとも官吏……」
「軍人さ」
「工兵隊のかた……」
「いや、騎馬隊だよ。どういうわけで工兵隊かなどと聞くのだ」
若い婦人はほほえんだだけで、黙っていた。
「ポール」と、屏風のうしろから伯爵夫人が呼びかけた。「私に何か新しい小説を届けさせて下さいな。しかし、今どきの様式《スタイル》のは御免ですよ」
「とおっしゃると、おばあさま……」
「主人公が父や母の首を絞《し》めたり、溺死者が出て来たりしないような小説にして下さい。わたしは水死した人たちのことを見たり聞いたりするのが恐ろしくってね」
「今日《こんにち》では、もうそんな小説はありませんよ。どうです、ロシアの小説はお好きでしょうか」
「ロシアの小説などがありますか。では、一冊届けさせて下さい、ポール。きっとですよ」
「ええ。では、さようなら。僕はいそぎますから……。さようなら、リザヴェッタ・イヴァノヴナ。え、おまえはどうしてナルモヴが工兵隊だろうなどと考えたのだ」
こう言い捨てて、トムスキイは祖母の部屋を出て行った。
リザヴェッタは取り残されて一人になると、刺繍の仕事をわきへ押しやって、窓から外を眺め始めた。それから二、三秒も過ぎると、むこう側の角の家のところへ一人の青年士官があらわれた。彼女は両の頬をさっと赤くして、ふたたび仕事を取りあげて、自分のあたまを刺繍台の上にかがめると、伯爵夫人は盛装して出て来た。
「馬車を命じておくれ、リザヴェッタ」と、夫人は言った。「私たちはドライヴして来ましょう」
リザヴェッタは刺繍の台から顔をあげて、仕事を片付け始めた。
「どうしたというのです。おまえは聾《つんぼ》かい」と、老夫人は叫んだ。「すぐに出られるように、馬車を支度させておくれ」
「唯今《ただいま》すぐに申しつけます」と、若い婦人は次の間へ急いで行った。
一人の召使いがはいって来て、ポール・アクレサンドロヴィッチ公からのお使いだといって、二、三冊の書物を伯爵夫人に渡した。
「どうもありがとうと公爵にお伝え申しておくれ」と、夫人は言った。「リザヴェッタ……。リザヴェッタ……。どこへ行ったのだねえ」
「唯今、着物を着換えております」
「そんなに急がなくてもいいよ。おまえ、ここへ掛けて、初めの一冊をあけて、大きい声をして私に読んでお聞かせなさい」
若い婦人は書物を取りあげて二、三行読み始めた。
「もっと大きな声で……」と、夫人は言った。「どうしたというのです、リザヴェッタ……。おまえは声をなくしておしまいかえ。まあ、お待ちなさい。……あの足置き台をわたしにお貸しなさい。……そうして、もっと近くへおいで。……さあ、お始めなさい」
リザヴェッタはまた二ページほど読んだ。
「その本をお伏せなさい」と、夫人は言った。「なんというくだらない本だろう。ありがとうございますと言ってポール公に返しておしまいなさい。……そうそう、馬車はどうしました」
「もう支度が出来ております」と、リザヴェッタは街《まち》の方をのぞきながら答えた。
「どうしたというのです、まだ着物も着換えないで……。いつでも私はおまえのために待たされなければならないのですよ。ほんとに焦《じ》れったいことだね、リザヴェッタ」
リザヴェッタは自分の部屋へ急いでゆくと、それから二秒と経たないうちに夫人は力いっぱいにベルを鳴らし始めた。三人の侍女が一方の戸口から、また一人の従者がもう一方の戸口からあわてて飛び込んで来た。
「どうしたというのですね。わたしがベルを鳴らしているのが聞こえないのですか」と、夫人は呶鳴《どな》った。「リザヴェッタ・イヴァノヴナに、わたしが待っているとお言いなさい」
リザヴェッタは帽子と外套を着て戻って来た。
「やっと来たのかい。しかし、どうしてそんなに念入りにお化粧をしたのです。誰かに見せようとでもお思いなのかい。お天気はどうです。風がすこし出て来たようですね」
「いいえ、奥様。静かなお天気でございます」と、従者は答えた。
「おまえはでたらめばかりお言いだからね。窓をあけてごらんなさい。それ、ご覧。風が吹いて、たいへん寒いじゃないか。馬具を解いておしまいなさい。リザヴェッタ、もう出るのはやめにしましょう。……そんなにお粧《つく》りをするには及ばなかったね」
「わたしの一生はなんというのだろう」と、リザヴェッタは心のうちで思った。
実際、リザヴェッタ・イヴァノヴナは非常に不幸な女であった。ダンテは「未熟なるもののパンは苦《にが》く、彼の階梯は急なり」と言っている。しかもこの老貴婦人の憐れな話し相手リザヴェッタが、居候《いそうろう》と同じような辛《つら》い思いをしていることを知っている者は一人もなかった。A伯爵夫人はけっして腹の悪い婦人ではなかったが、この世の中からちやほや[#「ちやほや」に傍点]されて来た婦人のように気まぐれで、過去のことばかりを考えて現在のことを少しも考えようとしない年寄りらしく、いかにも強欲で、我儘《わがまま》であった。彼女はあらゆる流行社会に頭を突っ込んでいたので、舞踏会にもしばしば行った。そうして、彼女は時代おくれの衣裳やお化粧をして、舞踏室になくてはならない不格好な飾り物のように、隅の方に席を占めていた。
舞踏室へはいって来た客は、あたかも一定の儀式ででもあるかのように彼女に近づいて、みな丁寧に挨拶するが、さてそれが済むと、もう誰も彼女の方へは見向きもしなかった。彼女はまた自分の邸で宴会を催す場合にも、非常に厳格な礼儀を固守していた。そのくせ、彼女はもう人びとの顔などの見分けはつかなかった。
夫人のたくさんな召使いたちは主人の次の間や自分たちの部屋にいる間にだんだん肥って、年をとってゆく代りに、自分たちの仕《し》たい三昧《ざんまい》のことをして、その上おたがいに公然と老伯爵夫人から盗みをすることを競争していた。そのなかで不幸なるリザヴェッタは家政の犠牲者であった。彼女は茶を淹《い》れると、砂糖を使いすぎたと言って叱られ、小説を読んで聞かせると、こんなくだらないものをと言って、作者の罪が自分の上に降りかかって来る。夫人の散歩のお供をして行けば、やれ天気がどうの、舗道がどうのと言って、やつあたりの小言を喰う。給料は郵便貯金に預けられてしまって、自分の手にはいるということはほとんどない。ほかの人たちのような着物を買いたいと思っても、それも出来ない。特に彼女は社交界においては実にみじめな役廻りを演じていた。誰も彼も彼女を知ってはいるが、たれ一人として彼女に注目する者はなかった。
舞踏会に出ても、彼女はただ誰かに相手がない時だけ引っ張り出されて踊るぐらいなもので、貴婦人連も自分たちの衣裳の着くずれを直すために舞踏室から彼女を引っ張り出す時ででもなければ、彼女の腕に手をかけるようなことはなかった。したがって、彼女はよく自己を知り、自己の地位をもはっきりと自覚していたので、なんとかして自分を救ってくれるような男をさがしていたのであるが、そわそわと日を送っている青年たちはほとんど彼女を問題にしなかった。しかもリザヴェッタは世間の青年たちが追い廻している、面《つら》の皮の厚い、心の冷たい、年頃《としごろ》の娘たちよりは百層倍も可愛らしかった。彼女は燦爛《さんらん》として輝いているが、しかも退屈な応接間からそっと忍び出て、小さな惨《みじ》めな自分の部屋へ泣きにゆくこともしばしばあった。その部屋には一つの衝立《ついたて》と箪笥と姿見と、それからペンキ塗りの寝台があって、あぶら蝋燭が銅製の燭台の上に寂しくともっていた。
ある朝――それはこの物語の初めに述べた、かの士官たちの骨牌《かるた》会から二日ほどの後《のち》で、これからちょうど始まろうとしている事件の一週間前のことであった。リザヴェッタ・イヴァノヴナは窓の近くで、刺繍台の前に腰をかけていながら、ふと街《まち》の方を眺めると、彼女は若い工兵隊の士官が自分のいる窓をじっと見上げているのに気がついたが、顔を俯向《うつむ》けてまたすぐに仕事をはじめた。それから五分ばかりのあと、彼女は再び街のほうを見おろすと、その青年士官は依然として同じ場所に立っていた。しかし、往来の士官に色眼などを使ったことのない彼女は、それぎり街のほうをも見ないで、二時間ばかりは首を下げたままで、刺繍をつづけていた。
そのうちに食事の知らせがあったので、彼女は立って刺繍の道具を片付けるときに、なんの気もなしにまたもや街のほうをながめると、青年士官はまだそこに立っていた。それは彼女にとってまったく意外であった。食後、彼女は気がかりになるので、またもやその窓へ行ってみたが、もうその士官の姿は見えなかった。――その後、彼女は、その青年士官のことを別に気にもとめていなかった。
それから二日を過ぎて、あたかも伯爵夫人と馬車に乗ろうとしたとき、彼女は再びその士官を見た。彼は毛皮の襟で顔を半分かくして、入り口のすぐ前に立っていたが、その黒い両眼は帽子の下で輝いていた。リザヴェッタはなんとも分からずにはっとして、馬車に乗ってもまだ身内がふるえていた。
散歩から帰ると、彼女は急いで例の窓ぎわへ行ってみると、青年士官はいつもの場所に立って、いつもの通りに彼女を見あげていた。彼女は思わず身を引いたが、次第に好奇心にかられて、彼女の心はかつて感じたことのない、ある感動に騒がされた。
このとき以来、かの青年士官が一定の時間に、窓の下にあらわれないという日は一日もなかった。彼と彼女のあいだには無言のうちに、ある親しみを感じて来た。いつもの場所で刺繍をしながら、彼女は彼の近づいて来るのをおのずからに感じるようになった。そうして顔を上げながら、彼女は一日ごとに彼を長く見つめるようになった。青年士官は彼女に歓迎されるようになったのである。彼女は青春の鋭い眼で、自分たちの眼と眼が合うたびに、男の蒼白い頬がにわかに紅《あか》らむのを見てとった。それから一週間目ぐらいになると、彼女は男に微笑を送るようにもなった。
トムスキイが彼の祖母の伯爵夫人に、友達の一人を紹介してもいいかと訊いたとき、この若い娘のこころは烈《はげ》しくとどろいた。しかしナルモヴが、工兵士官でないと聞いて、彼女は前後の考えもなしに、自分の心の秘密を気軽なトムスキイに洩らしてしまったことを後悔した。
ヘルマンはロシアに帰化したドイツ人の子で、父のわずかな財産を相続していた。かれは独立自尊の必要を固く心に沁み込まされているので、父の遺産の収入には手も触れないで、自分自身の給料で自活していた。したがって彼に、贅沢などは絶対に許されなかったが、彼は控え目がちで、しかも野心家であったので、その友人たちのうちには稀《まれ》には極端な節約家の彼に散財させて、一夕《いっせき》の歓を尽くすようなこともあった。
彼は強い感情家であるとともに、非常な空想家であったが、堅忍不抜な性質が彼を若い人間にありがちな堕落におちいらせなかった。それであるから、肚《はら》では賭け事をやりたいと思っても、彼はけっして一枚の骨牌をも手にしなかった。彼にいわせれば、自分の身分では必要のない金を勝つために、必要な金をなくすことは出来ないと考えていたのである。しかも彼は骨牌のテーブルにつらなって、夜通しそこに腰をかけて、勝負の代るごとに自分のことのように心配しながら見ているのであった。
三枚の骨牌の物語は、彼の空想に多大な刺戟《しげき》をあたえたので、彼はひと晩そのことばかりをかんがえていた。
「もしも……」と、次の朝、彼はセント・ペテルスブルグの街を歩きながら考えた。「もしも老伯爵夫人が彼女の秘密を僕に洩らしてくれたら……。もしも彼女が三枚の必勝の切り札を僕に教えてくれたら……。僕は自分の将来を試さずにはおかないのだが……。僕はまず老伯爵夫人に紹介されて、彼女に可愛がられなければ――彼女の恋人にならなければならない……。しかしそれはなかなか手間がかかるぞ。なにしろ相手は八十七歳だから……。ひょっとすると一週間のうちに、いや二日も経たないうちに死んでしまうかもしれない。三枚の骨牌の秘密も彼女とともに、この世から永遠に消えてしまうのだ。いったいあの話はほんとうかしら……。いや、そんな馬鹿らしいことがあるものか。経済、節制、努力、これが僕の三枚の必勝の切り札だ。この切り札で僕は自分の財産を三倍にすることが出来るのだ……。いや、七倍にもふやして、安心と独立を得るのだ」
こんな瞑想にふけっていたので、彼はセント・ペテルスブルグの目貫《めぬき》の街の一つにある古い建物の前に来るまで、どこをどう歩いていたのか気がつかなかった。街は、燦然《さんぜん》と輝いているその建物の玄関の前へ、次から次へとひき出される馬車の行列のために通行止めになっていた。その瞬間に、妙齢の婦人のすらりとした小さい足が馬車から舗道へ踏み出されたかと思うと、次の瞬間には騎兵士官の重そうな深靴や、社交界の人びとの絹の靴下や靴があらわれた。毛皮や羅紗の外套が玄関番の大男の前をつづいて通った。
ヘルマンは立ち停まった。
「どなたのお邸《やしき》です」と、彼は角のところで番人にたずねた。
「A伯爵夫人のお邸です」と、番人は答えた。
ヘルマンは飛び上がるほどにびっくりした。三枚の切り札の不思議な物語がふたたび彼の空想にあらわれて来た。彼はこの邸の前を往きつ戻りつしながら、その女主人公と彼女の奇怪なる秘密について考えた。
彼は遅くなって自分の質素な下宿へ帰ったが、長いあいだ眠ることが出来なかった。ようよう少しく眠りかけると、骨牌や賭博台や、小切手の束や、金貨の山の夢ばかり見た。彼は順じゅんに骨牌札に賭けると、果てしもなく勝ってゆくので、その金貨を掻きあつめ、紙幣をポケットに捻《ね》じ込んだ。
しかも翌あさ遅く眼をさましたとき、彼は空想の富を失ったのにがっかりしながら街へ出ると、いつの間にか伯爵夫人の邸の前へ来た。ある未知《みち》の力がそこへ彼を引き寄せたともいえるのである。彼は立ち停まって窓を見上げると、一つの窓から房ふさとした黒い髪の頭が見えた。その頭はおそらく書物か刺繍台の上にうつむいていたのであろう。と思う間に、その頭はもたげられ、生き生きとした顔と黒い二つのひとみが、ヘルマンの眼にはいった。
彼の運命はこの瞬間に決められてしまった。
三
リザヴェッタ・イヴァノヴナは彼女の帽子と外套をぬぐか脱がないうちに、伯爵夫人は彼女を呼んで、ふたたび馬車の支度をするように命じたので、馬車は玄関の前に牽《ひ》き出された。そうして、夫人と彼女とはおのおのその席に着こうとした。二人の馭者が夫人を扶《たす》けて馬車へ入れようとする時、リザヴェッタはかの工兵士官が馬車の後《うしろ》にぴったりと身を寄せて立っているのを見た。――彼は彼女の手を掴《つか》んだ。あっと驚いて、リザヴェッタはどぎまぎしていると、次の瞬間にはもうその姿は消えて、ただ彼女の指のあいだに手紙が残されてあったのに気がついたので、彼女は急いでそれを手袋のなかに隠してしまった。
ドライヴしていても、彼女にはもう何も見えなかった。聞こえなかった。馬車で散歩に出たときには「今会ったかたはどなただ」とか、「この橋の名はなんというのだ」とか、「あの掲示板にはなんと書いてある」とか、絶えず訊《き》くのが夫人の習慣になっていたが、なにしろ場合が場合であるので、きょうに限ってリザヴェッタはとかくに辻褄《つじつま》の合わないような返事ばかりするので、夫人はしまいに怒り出した。
「おまえ、どうかしていますね」と、夫人は呶鳴《どな》った。「おまえ、気は確かかえ。どうしたのです。わたしの言うことが聞こえないのですか。それとも分からないとでもお言いなのですか。お蔭さまで、わたしはまだ正気でいるし、呂律《ろれつ》もちゃんと廻っているのですよ」
リザヴェッタには夫人の言葉がよく聞こえなかった。邸《やしき》へ帰ると、彼女は自分の部屋へかけ込んで、手袋から彼の手紙を引き出すと、手紙は密封してなかった。読んでみると、それはドイツの小説の一字一句を訳して、そのままに引用した優しい敬虔《けいけん》な恋の告白であった。しかもリザヴェッタはドイツ語についてはなんにも知らなかったので、非常に嬉しくなってしまった。
それにもかかわらず、この手紙は彼女に大いなる不安を感じさせて来た。実際、彼女は生まれてから若い男と人目を忍ぶようなことをした経験は一度もなかったので、彼の大胆には驚かされもした。そこで、彼女は不謹慎な行為をした自分を責めるとともに、このさきどうしていいか分からなくなって来た。とにかく、もう窓ぎわに坐るのをやめて、彼に対して無関心な態度をとり、自分とこのうえ親しくしようとする男の欲望を断たせるのがよいか。あるいはその手紙を彼に返すか、または冷淡なきっぱりした態度で彼に拒絶の返事を書くべきであるか。彼女はまったく決断に迷ったが、それについて相談するような女の友達も、忠告をあたえてくれるような人もなかった。リザヴェッタはついに彼に返事を書くことに決めた。
彼女は自分の小さな机の前に腰をかけると、ペンと紙を取って、その文句を考えはじめた。そうして、書いては破り、書いては破りしたが、結局彼女が書いた文句は、あまりに男の心をそそり過ぎるか、あるいは素気《すげ》なくあり過ぎるかで、どうも思ったように書けなかった。それでもようようのことで、自分にも満足の出来るような二、三行の短い手紙を書くことが出来た。
――彼女はこう書いた。
「あなたのお手紙が高尚であるのと、あなたが軽率《けいそつ》な行為をもってわたくしをお辱《はずか》しめなさりたくないとおっしゃることを、わたくしは嬉しく存じます。しかし、わたくしたちの交際はほかの方法で始めなければなりません。わたくしはひとまずあなたのお手紙をお返し申しますが、どうぞ不躾《ぶしつけ》な仕業《しわざ》とお怨み下さりませぬよう、幾重にもお願い申します」
翌日、ヘルマンの姿があらわれるやいなや、刺繍の道具の前に坐っていたリザヴェッタは応接間へ行って、通風の窓をあけて、青年士官が感づいて拾いあげるに相違ないと思いながら、街の方へその手紙を投げた。
ヘルマンは飛んで行って、その手紙を拾い上げて、近所の菓子屋の店へ行った。密封した封筒を破ってみると、内には自分の手紙とリザヴェッタの返事がはいっていた。彼はこんなことだろうと予期していたので、家へ帰ると、さらにその計画について深く考えた。
それから三日の後、一人の晴れやかな眼をした娘が小間物屋から来たといって、リザヴェッタに一通の手紙をとどけに来た。リザヴェッタは何かの勘定の請求書ででもあるのかと、非常に不安な心持ちで開封すると、たちまちヘルマンの手蹟に気がついた。
「間違えているのではありませんか」と、彼女は言った。「この手紙は私へ来たものではありません」
「いえ、あなたへでございます」と、娘は抜け目のなさそうな微笑を浮かべながら答えた。「どうぞお読みなすって下さい」
リザヴェッタはその手紙をちらりと見ると、ヘルマンは会見を申し込んで来たのであった。
「まあ、そんなこと……」と、彼女はその厚かましい要求と、気違いのような態度にいよいよ驚かされた。「この手紙は私へのではありません」
そう言うと、彼女はそれを引き裂いてしまった。
「では、あなたへの手紙でないなら、なぜ引き裂いておしまいになったのでございます」と、娘は言った。「わたくしは頼まれたおかたに、そのお手紙をお返し申さなければなりません」
「もうこれから二度と再び手紙などを私のところへ持って来ないがようござんす。それから、あなたに使いを頼んだかたに、恥かしいとお思いなさいと言って下さい」と、リザヴェッタはその娘からやりこめられて、あわてながら言った。
しかしヘルマンは、そんなことで断念するような男ではなかった。毎日、彼は手を替え品をかえて、いろいろの手紙をリザヴェッタに送った。それからの手紙は、もうドイツ語の翻訳ではなかった。ヘルマンは感情の湧《わ》くがままに手紙を書き、彼自身の言葉で話しかけた。そこには彼の剛直な欲望と、おさえがたき空想の乱れとがあふれていた。
リザヴェッタはもうそれらの手紙を彼にかえそうとは思わなくなったばかりか、だんだんにその手紙の文句に酔わされて、とうとう返事を書きはじめた。そうして、彼女の返事は少しずつ長く、かつ愛情がこもっていって、ついには窓から次のような手紙を彼に投げあたえるようにもなった。
「今夕は大使館邸で舞踏会があるはずでございます。伯爵夫人はそれにおいでなさるでしょう。そうして、わたしたちはたぶん二時までそこにおりましょう。今夜こそは二人ぎりでお会いのできる機会でございます。伯爵夫人がお出ましになると、たぶんほかの召使いはみな外出してしまって、お邸にはスイス人のほかには誰もいなくなると思います。そのスイス人はきまって自分の部屋へ下がって寝てしまいます。それですから、十一時半ごろにおいでください。階段をまっすぐに昇っていらっしゃい。もし控えの間で誰かにお逢《あ》いでしたらば、伯爵夫人がいらっしゃるかとおたずねなさい。きっといらっしゃらないと言われましょうから、その時は仕方がございませんからいったん外出なすって下さい。十中の八九までは誰にもお逢いなさらないと存じます。――召使いたちがお邸におりましても、みんな一つ部屋に集まっていると思います。――次の間をおいでになったらば、左へお曲がりなすって、伯爵夫人の寝室までまっすぐにおいで下さると、寝室の衝立《ついたて》のうしろに二つのドアがございます。その右のドアの奥は、伯爵夫人がかつておはいりになったことのない私室になっておりますが、左のドアをおあけになると廊下がありまして、さらに螺旋形《らせんがた》の階段をお昇りになると、わたくしの部屋になっております」
ヘルマンは指定された時刻の来るあいだ、虎のようにからだを顫《ふる》わせていた。夜の十時ごろ、彼はすでに伯爵夫人邸の前へ行っていた。天気はひどく悪かった。風は非常に激しく吹いて、雨まじりの雪は大きい花びらを飛ばしていた。街燈は暗く、街は鎮《しず》まりかえっていた。憐れな老馬に牽《ひ》かせてゆく橇《そり》の人が、こんな夜に迷っている通行人を怪しむように見返りながら通った。ヘルマンは外套で深く包まれていたので、風も雪も身に沁みなかった。
やっとのことで、伯爵夫人の馬車は玄関さきへ牽《ひ》き出された。黒い毛皮の外套に包まれた、腰のまがった老夫人を、二人の馭者が抱えるようにして連れ出すと、すぐにそのあとから、温かそうな外套をきて、頭に新しい花の環を頂いたリザヴェッタが附き添って出て来た。馬車のドアがしまって、車は柔らかい雪の上を静かに馳《は》せ去ると、門番は玄関のドアをしめて、窓は暗くなった。
ヘルマンは人のいない邸の近くを往きつ戻りつしていたが、とうとう街燈の下に立ちどまって時計を見ると、十一時を二十分過ぎていた。ちょうど十一時半になったときに、ヘルマンは邸の石段を昇って照り輝いている廊下を通ると、そこに番人は見えなかった。彼は急いで階段をあがって控え室のドアをあけると、一人の侍者がランプのそばで、古風な椅子に腰をかけながら眠っていたので、ヘルマンは跫音《あしおと》を忍ばせながらそのそばを通り過ぎた。応接間も食堂もまっ暗であったが、控え室のランプの光りが幽《かす》かながらもそこまで洩れていた。
ヘルマンは伯爵夫人の寝室まで来た。古い偶像でいっぱいになっている神龕《ずし》には、金色のランプがともっていた。色のあせたふっくらした椅子と柔らかそうなクッションを置いた長椅子が、陰気ではあるがいかにも調和よく、部屋の中に二つずつ並んでいて、壁にはシナの絹が懸かっていた。一方の壁には、パリでルブラン夫人の描いた二つの肖像画の額が懸かっていたが、一枚はどっしりとした赭《あか》ら顔の四十ぐらいの男で、派手な緑色の礼服の胸に勲章を一つ下げていた。他の一枚は美しい妙齢の婦人で、鉤鼻《かぎばな》で、ひたいの髪を巻いて、髪粉をつけた髪には薔薇の花が挿してあった。隅ずみには磁器製の男の牧人と女の牧人や、有名なレフロイの工場製の食堂用時計や、紙匣《はりぬきばこ》や、球転《ルーレット》(一種の賭博)の道具をはじめとして、モンゴルフィエールの軽気球や、メスメルの磁石が世間を騒がせた前世紀の終わりにはやった、婦人の娯楽用の玩具《おもちゃ》がたくさんにならべてあった。
ヘルマンは衝立《ついたて》のうしろへ忍んで行った。そのうしろには一つの小さい寝台があり、右の方には私室のドア、左の方には廊下へ出るドアがあった。そこで、彼は左の方のドアをあけると、果たして彼女の部屋へ達している小さい螺旋形の階段が見えた。――しかも彼は、引っ返してまっ暗な私室へはいって行った。
時はしずかに過ぎた。邸内は寂《せき》として鎮まり返っていた。応接間の時計が十二時を打つと、その音が部屋から部屋へと反響して、やがてまた森《しん》となってしまった。ヘルマンは火のないストーブに凭《よ》りながら立っていた。危険ではあるが、避け難き計画を決心した人のように、その心臓は規則正しく動悸《どうき》を打って、彼は落ちつき払っていた。
午前一時が鳴った。それから二時を打ったころ、彼は馬車のわだちの音を遠く聞いたので、われにもあらで興奮を覚えた。やがて馬車はだんだんに近づいて停まった。馬車の踏み段をおろす音がきこえた。邸の中がにわかにざわめいて、召使いたちが上を下へと走り廻りながら呼びかわす声が入り乱れてきこえたが、そのうちにすべての部屋には明かりがとぼされた。三人の古風な寝室係の女中が寝室へはいって来ると、間もなく伯爵夫人があらわれて、死んだ者のようにヴォルテール時代の臂掛《ひじか》け椅子に腰を落とした。
ヘルマンは隙間《すきま》から覗《のぞ》いていると、リザヴェッタ・イヴァノヴナが彼のすぐそばを通った。彼女が螺旋形の階段を急いで昇ってゆく跫音を聞いた刹那、彼の心臓は良心の苛責《かしゃく》といったようなもののためにちくり[#「ちくり」に傍点]と刺されるような気もしたが、そんな感動はすぐ消えて、彼の心臓はまたもとのように規則正しく動悸を打っていた。
伯爵夫人は姿見の前で着物をぬぎ始めた。それから、薔薇《ばら》の花で飾った帽子を取って、髪粉を塗った仮髪《かつら》をきちんと刈ってある白髪《しらが》からはずすと、髪針《ヘヤピン》が彼女の周囲の床にばらばらと散った。銀糸で縫いをしてある黄いろい繻子《しゅす》の着物は、彼女の脾《しび》れている足もとへ落ちた。
ヘルマンは彼女のお化粧の好ましからぬ秘密を残らず見とどけた。夫人はようように夜の帽子をかぶって、寝衣《ねまき》を着たが、こうした服装《みなり》のほうが年相応によく似合うので、彼女はそんなに忌《いや》らしくも、醜《みにく》くもなくなった。
普通のすべての年寄りのように、夫人は眠られないので困っていた。着物を着替えてから、彼女は窓ぎわのヴォルテール時代の臂掛け椅子に腰をかけると、召使いを下がらせた。蝋燭を消してしまったので、寝室にはただ一つのランプだけがともっていた。夫人は真っ黄と見えるような顔をして、締まりのない唇《くち》をもぐもぐさせながら、体をあちらこちらへ揺すぶっていた。彼女のどんよりした眼は心の空虚《うつろ》をあらわし、また彼女が体を揺すぶっているのは自己の意志で動かしているのではなく、神経作用の結果であることを誰でも考えるであろう。
突然この死人のような顔に、なんとも言いようのない表情があらわれて、唇の顫《ふる》えも止まり、眼も活気づいて来た。夫人の前に一人の見知らぬ男が突っ立っていたからであった。
「びっくりなさらないで下さい。どうぞ、お驚きなさらないで下さい」と、彼は低いながらもしっかりした声で言った。「わたくしはあなたに危害を加える意志は少しもございません。ただ、あなたにお願いがあって参りました」
夫人は彼の言葉がまったく聞こえないかのように、黙って彼を見詰めていた。ヘルマンはこの女は聾《つんぼ》だと思って、その耳の方へからだをかがめて、もう一度繰り返して言ったが、老夫人はやはり黙っていた。
「あなたは、わたくしの一生の幸福を保証して下さることがお出来になるのです」と、ヘルマンは言いつづけた。「しかも、あなたには一銭のご損害をお掛け申さないのです。わたくしはあなたが勝負に勝つ切り札をご指定なさることがお出来になるということを、聞いて知っておるのです」
こう言って、ヘルマンは言葉を切った。夫人がようやく自分の希望を諒解《りょうかい》して、それに答える言葉を考えているように見えたからであった。
「それは冗談です」と、彼女は答えた。「ほんの冗談に言ったまでのことです」
「いえ、冗談ではありません」と、ヘルマンは言い返した。「シャプリッツキイを覚えていらっしゃるでしょう。あなたはあの人に三枚の骨牌《かるた》の秘密をお教えになって、勝負にお勝たせになりましたではありませんか」
夫人は明らかに不安になって来た。彼女の顔には烈《はげ》しい心の動揺があらわれたが、またすぐに消えてしまった。
「あなたは三枚の必勝骨牌をご指定なされないのですね」と、ヘルマンはまた言った。
夫人は依然として黙っていたので、ヘルマンは更に言葉をつづけた。
「あなたは、誰にその秘密をお伝えなさるおつもりですか。あなたのお孫さんにですか。あの人たちは別にあなたに秘密を授けてもらわなくとも、有りあまるほどのお金持ちです。それだけに、あの人たちは金の価値を知りません。あなたの秘密は金使いの荒い人には、なんの益するところもありません。父の遺産を保管することの出来ないような人間は、たとい悪魔を手先に使ったにしても、結局はあわれな死に方をしなければならないのでしょう。わたくしはそんな人間ではございません。わたくしは金の値《あた》いというものをよく知っております。あなたもわたくしには、三枚の切り札の秘密をお拒《こば》みにはならないでしょう。さあ、いかがですか」
彼はひと息ついて、ふるえながらに相手の返事を待っていたが、夫人は依然として沈黙を守っているので、ヘルマンはその前にひざまずいた。
「あなたのお心が、いやしくも恋愛の感情を経験していられるならば……」と、彼は言った。「そうして、もしもその法悦をいまだに覚えていられるならば……。かりにもあなたがお産みになったお子さんの初めての声にほほえまれた事がおありでしたらば……。いやしくも人間としてのある感情が、あなたの胸のうちにお湧きになった事がおありでしたらば、わたくしは妻として、恋人として、母としての愛情におすがり申してお願い申します。どうぞ私のこの嘆願を斥《しりぞ》けないで下さい。どうぞあなたの秘密をわたくしにお洩らし下さい。あなたにはもうなんのお入り用もないではありませんか。たといどんな恐ろしい罪を受けようとも、永遠の神の救いを失おうとも、悪魔とどんな取り引きをしようとも、わたくしはけっして厭《いと》いません。……考えて下さい。……あなたはお年を召しておられます。そんなに長くはこの世においでになられないお体《からだ》です……わたくしはあなたの罪を自分のたましいに引き受ける覚悟でおります。どうぞあなたの秘密をわたくしにお伝え下さい。一人の男の幸福が、あなたのお手に握られているということを思い出してください。いいえ、わたくし一人ではありません、わたくしの子孫までがあなたを祝福し、あなたを聖者として尊敬するでしょう……」
夫人は一言も答えなかった。ヘルマンは立ち上がった。
「老いぼれの鬼婆め」と、彼は歯ぎしりしながら叫んだ。「よし。否応《いやおう》なしに返事をさせてやろう」
彼はポケットからピストルを把《と》り出した。
それを見ると、夫人は再びその顔に烈《はげ》しい感動をあらわして、射殺されまいとするかのように頭を振り、手を上げたかと思うと、うしろへそり返ったままに気を失った。
「さあ、もうこんな子供じみたくだらないことはやめましょう」と、ヘルマンは彼女の手をとりながら言った。「もうお願い申すのもこれが最後です。どうぞわたくしにあなたの三枚の切り札の名を教えて下さい。それとも、お忌《いや》ですか」
夫人は返事をしなかった。ヘルマンは彼女が死んだのを知った。
四
リザヴェッタ・イヴァノヴナは夜会服を着たままで、自分の部屋に坐って、深い物思いに沈んでいた。邸《やしき》へ帰ると、彼女は忌《いや》いやながら自分の用をうけたまわりに来た部屋付きの召使いにむかって、着物はわたし一人で脱ぐからといって、早《そう》そうにそこを立ち去らせてしまった。そうして、ヘルマンが来ていることを期待しながら、また一面には来ていてくれないようにと望みながら、胸を躍《おど》らせて自分の部屋へ昇って行った。ひと目見ると、彼女は彼がいないことをさとった。そうして、彼に約束を守らないようにさせてくれた自分の運命に感謝した。彼女は着物も着かえずに腰をかけたままで、ちょっとの間に自分をこんなにも深入りさせてしまった今までの経過を考えた。
彼女が窓から初めて青年士官を見たときから三週間を過ぎなかった。――それにもかかわらず、彼女はすでに彼と文通し、男に夜の会見を許すようになった。彼女は男の手紙の終わりに書いてあったので、初めてその名を知ったぐらいで、まだその男と言葉を交《かわ》したこともなければ、男の声も――今夜までは、その噂さえも聞いたことはなかった。ところが不思議なことには、今夜の舞踏会の席上で、ポーリン・N公爵の令嬢がいつになく自分と踊らなかったので、すっかり気を悪くしてしまったトムスキイが、おまえばかりが女ではないぞといった復讐的の態度で、リザヴェッタに相手を申し込んで、始めからしまいまで彼女とマズルカを踊りつづけた。その間、彼は絶えずリザヴェッタが工兵士官ばかりを贔屓《ひいき》にしていることをからかった挙げ句、彼女が想像している以上に、自分は深く立ち入って万事を知っているとまことしやかに言った。実際彼女は自分の秘密を彼に知られてしまったのかといくたびか疑ったほどに、彼の冗談のあるものは巧《うま》くあたった。
「どなたからそんなことをお聞きになりました」と、ほほえみながら彼女は訊《き》いた。
「君の親しい人の友達からさ」と、トムスキイは答えた。「ある非常に有名な人からさ」
「では、その有名なかたというのは……」
「その人の名はヘルマンというのだ」
リザヴェッタは黙っていた。彼女の手足はまったく感覚がなくなった。
「そのヘルマンという男はね」と、トムスキイは言葉をつづけた。「ローマンチックの人物でね。ちょっと横顔がナポレオンに似ていて、たましいはメフィストフェレスだね。まあ、僕の信じているところだけでも、彼の良心には三つの罪悪がある……。おい、どうした。ひどく蒼《あお》い顔をしているじゃないか」
「わたくし、少し頭痛がしますので……。そこで、そのヘルマンとかおっしゃるかたは、どんなことをなさいましたの。お話をして下さいませんか」
「ヘルマンはね、自分のあるお友達に非常な不平をいだいているのだ。彼はいつも、自分がそのお友達の地位であったら、もっと違ったことをすると言っているが……。僕はどうもヘルマン自身が君におぼしめしがあると思うのだ。少なくとも、彼はその友達が君のことを話すときには、眼の色を変えて耳を傾けているからね」
「では、どこでそのかたはわたくしをご覧なすったのでしょう」
「たぶん教会だろう。それとも観兵式かな。……さあ、どこで見そめたかは神様よりほかには知るまいな。ひょっとしたら君の部屋で、君がねむっている間かもしれないぞ。とにかく、あの男ときたら……」
ちょうどその時に、三人の婦人が彼のところへ近づいて来て、「お忘れになって。それとも、覚えていらしった……」と、フランス語で問いかけたので、この会話はリザヴェッタをさんざん焦《じ》らしたままで、それなりになってしまった。
トムスキイが選んだ婦人はポーリン公爵令嬢その人であった。公爵令嬢はいくたびもトムスキイと踊っているうちに、彼とすっかり仲直りをして、踊りが済んだのちに彼は公爵令嬢を彼女の椅子に連れて行った。そうして自分の席へ戻ると、彼はもうヘルマンのことも、リザヴェッタのこともまったく忘れていた。リザヴェッタは中止された会話を再びつづけたく思ったが、マズルカもやがて終わって、そのうちに老伯爵夫人は帰ることになった。
トムスキイの言葉は、舞踏中によくあるならいの軽い無駄話に過ぎなかったが、この若い夢想家のリザヴェッタの心に深く沁み込んだ。トムスキイによってえがかれた半身像は、彼女自身の心のうちに描いていたものと一致していたのみならず、このいろいろのでたらめの話のお蔭で、彼女の崇拝者の顔に才能があらわれていることを知ると同時に、彼女の空想をうっとりとさせるような特長がさらに加わって来たのであった。彼女は今、露出《むきだ》した腕を組み、花の髪飾りを付けたままの頭を素肌の胸のあたりに垂れて坐っていた。
突然にドアがあいて、ヘルマンが現われたので、彼女ははっとした。
「どこにおいでなさいました」と、彼女はおどおどしながら声を忍ばせて訊いた。
「老伯爵夫人の寝室に……」と、ヘルマンは答えた。「わたしは今、伯爵夫人のところから来たばかりです。夫人は死んでいます」
「え。なんですって……」
「それですから、わたしは伯爵夫人の死の原因となるのを恐れているのです」と、ヘルマンは付け足した。
リザヴェッタは彼をながめていた。そうして、トムスキイの言葉が彼女の心の中でこう反響しているのに気がついた。「この男は少なくとも良心に三つの罪悪を持っているぞ!」
ヘルマンは彼女のそばの窓に腰をかけて、一部始終を物語った。
リザヴェッタは恐ろしさに顫《ふる》えながら彼の話に耳をかたむけていた。今までの感傷的な手紙、熱烈な愛情、大胆な執拗な愛慾の要求――それらのものはすべて愛ではなかった。金――彼のたましいがあこがれていたのは金であった。貧しい彼女には彼の愛慾を満足させ、愛する男を幸福にすることは出来なかった。このあわれな娘は、盗人であり、かつは彼女の老いたる恩人の殺害者である男の盲目的玩具にほかならなかったのではないか。彼女は後悔のもだえに苦《にが》い涙をながした。
ヘルマンは沈黙のうちに彼女を見つめていると、彼の心もまたはげしい感動に打たれて来た。しかも、このあわれなる娘の涙も、悲哀のためにいっそう美しく見えてきた彼女の魅力も、彼のひややかなる心情を動かすことは出来なかった。彼は老伯爵夫人の死についても別に良心の呵責《かしゃく》などを感じなかった。ただ彼を悲しませたのは、一攫千金を夢みていた大切な秘密を失って、取り返しのつかないことをしたという後悔だけであった。
「あなたは人非人《ひとでなし》です」と、リザヴェッタはついに叫んだ。
「わたしだって夫人の死を望んではいなかった」と、ヘルマンは答えた。「私のピストルには装填《たまごめ》をしていなかったのですからね」
二人は黙ってしまった。
夜は明けかかった。リザヴェッタが蝋燭の火を消すと、青白い光りが部屋へさし込んで来た。彼女は泣きはらした眼をふくと、ヘルマンのほうへ向いた。彼は腕組みをしながら、ひたいに残忍《ざんにん》な八の字をよせて、窓のきわに腰をかけていた。こうしていると、まったく彼はナポレオンに生き写しであった。リザヴェッタもそれを深く感じた。
「どうしてあなたをお邸《やしき》からお出し申したらいいでしょう」と、彼女はようように口を開いた。「わたくしはあなたを秘密の階段からお降ろし申そうと思ったのですが、それにはどうしても伯爵夫人の寝室を通らなければならないので、わたくしには恐ろしくって……」
「どうすればその秘密の階段へ行けるか、教えて下さい。……わたしは一人で行きます」
リザヴェッタは起《た》ち上がって、抽斗《ひきだし》から鍵を取り出してヘルマンにわたして、階段へゆく道を教えた。ヘルマンは彼女の冷たい、力のない手を握りしめると、そのうつむいているひたいに接吻して、部屋を出て行った。
彼は螺旋形の階段を降りて、ふたたび伯爵夫人の寝室へはいった。死んでいる老夫人は化石したように坐っていて、その顔には底知れない静けさがあらわれていた。ヘルマンは彼女の前に立ちどまって、あたかもこの恐ろしい事実を確かめようとするかのように、長い間じっと彼女を見つめていたが、やがて彼は掛毛氈《タペストリー》のうしろにあるドアをあけて小さい部屋にはいると、強い感動に胸を躍らせながら真っ暗な階段を降りかかった。
「たぶん……」と、彼は考えた。「六十年前にも今時分、縫い取りをした上着を着て、|皇帝の鳥《ロアゾー・ロアイアー》に髪を結った彼女の若い恋人が、三角帽で胸を押さえつけながら、伯爵夫人の寝室から忍び出て、この秘密の階段を降りて行ったことだろう。もうその恋人はとうの昔に墓のなかに朽ち果ててしまっているのに、あの老夫人は今日になってようよう息を引き取ったのだ」
その階段を降り切ると、ドアがあった。ヘルマンは例の鍵でそこをあけて、廻廊を通って街へ出た。
五
この不吉な夜から三日後の午前九時に、ヘルマンは――の尼寺に赴いた。そこで伯爵夫人の告別式が挙行されたのである。なんら後悔の情は起こさなかったが、「おまえがこの老夫人の下手人《げしゅにん》だぞ」という良心の声を、彼はどうしても抑《おさ》えつけることが出来なかった。
彼は宗教に対して信仰などをいだいていなかったのであるが、今や非常に迷信的になってきて、死んだ伯爵夫人が自分の生涯に不吉な影響をこうむらせるかもしれないと信じられたので、彼女のおゆるしを願うためにその葬式に列席しようと決心したのであった。
教会には人がいっぱいであった。ヘルマンはようように人垣を分けて行った。柩《ひつぎ》はビロードの天蓋の下の立派な葬龕《ずし》に安置してあった。そのなかに故伯爵夫人はレースの帽子に純白の繻子《しゅす》の服を着せられ、胸に合掌《がっしょう》して眠っていた。葬龕の周囲には彼女の家族の人たちが立っていた。召使いらは肩に紋章入りのリボンを付けた黒の下衣《カフタン》を着て、手に蝋燭を持っていた。一族――息子たちや、孫たちやそれから曾孫《ひこ》たち――は、みな深い哀《かな》しみに沈んでいた。
誰も泣いているものはなかった。涙というものは一つの愛情である。しかるに、伯爵夫人はあまりにも年をとり過ぎていたので、彼女の死に心を打たれたものもなく、一族の人たちもとうから彼女を死んだ者扱いにしていたのである。
ある有名な僧侶が葬式の説教をはじめた。彼は単純で、しかも哀憐《あいれん》の情を起こさせるような言葉で、長いあいだキリスト教信者としての死を静かに念じていた彼女の平和な永眠を述べた。
「ついに死の女神は、信仰ふかき心をもってあの世の夫に一身を捧げていた彼女をお迎えなされました」と、彼は言った。
法会《ほうえ》はふかい沈黙のうちに終わった。一族の人びとは死骸に永別を告げるために進んでゆくと、そのあとから大勢《おおぜい》の会葬者もつづいて、多年自分たちのふまじめな娯楽の関係者であった彼女に最後の敬意を表した。彼らのうしろに伯爵夫人の邸《やしき》の者どもが続いた。その最後に伯爵夫人と同年輩ぐらいの老婆が行った。彼女は二人の女に手を取られて、もう老いぼれて地にひざまずくだけの力もないので、ただ二、三滴の涙を流しながら女主人の冷たい手に接吻した。
ヘルマンも柩のある所へ行こうと思った。彼は冷たい石の上にひざまずいて、しばらくそのままにしていたが、やがて伯爵夫人の死に顔と同じように真《ま》っ蒼《さお》になって起《た》ちあがると、葬龕《ずし》の階段を昇って死骸の上に身をかがめた――。その途端《とたん》に、死んでいる夫人が彼をあざけるようにじろりと睨《にら》むとともに、一つの眼で何か目配せをしたように見えた。ヘルマンは思わず後ずさりするはずみに、足を踏みはずして地に倒れた。二、三人が飛んで来て、彼を引き起こしてくれたが、それと同時に、失神したリザヴェッタ・イヴァノヴナも教会の玄関へ運ばれて行った。
この出来事がすこしのあいだ、陰鬱な葬儀の荘厳《そうごん》をみだした。一般会葬者のあいだからも低い呟《つぶや》き声が起こって来た。背丈《せい》の高い、痩せた男で、亡き人の親戚であるという侍従職がそばに立っている英国人の耳もとで「あの青年士官は伯爵夫人の私生児《しせいじ》ですよ」とささやくと、その英国人はどうでもいいといった調子で、「へえ!」と答えていた。
その日のヘルマンは終日《しゅうじつ》、不思議に興奮していた。場末の料理屋へ行って、常になく彼はしたたかに酒をあおって、内心の動揺をぬぐい去ろうとしたが、酒はただいたずらに彼の空想を刺戟するばかりであった。家へかえると、かれは着物を着たままで、ベッドの上に身を投げ出して、深い眠りに落ちてしまった。
彼が眼をさました時は、もう夜になっていたので、月のひかりが部屋のなかへさし込んでいた。時計をみると三時を十五分過ぎていた。もうどうしても寝られないので、彼はベッドに腰をかけて、老伯爵夫人の葬式のことを考え出した。
あたかもそのとき何者かが往来からその部屋の窓を見ていたが、またすぐに通り過ぎた。ヘルマンは別に気にもとめずにいると、それからまた二、三分の後、控えの間のドアのあく音がきこえた。ヘルマンはその伝令下士がいつものように、夜遊びをして酔っ払って帰って来たものと思ったが、どうも聞き慣れない跫音《あしおと》で、誰かスリッパを穿《は》いて床の上をそっと歩いているようであった。ドアがあいた。
――と思うと、真っ白な着物をきた女が部屋にはいって来た。ヘルマンは自分の老いたる乳母と勘違いをして、どうして真夜中に来たのであろうと驚いていると、その白い着物の女は部屋を横切って、彼の前に突っ立った。――ヘルマンはそれが伯爵夫人であることに気がついた。
「わたしは不本意ながらあなたの所へ来ました」と、彼女はしっかりした声で言った。「わたしはあなたの懇願を容《い》れてやれと言いつかったのです。三、七、一の順に続けて賭けたなら、あなたは勝負に勝つでしょう。しかし二十四時間内にたった一回より勝負をしないということと、生涯に二度と骨牌の賭けをしないという条件を守らなければなりません。それから、あなたがわたしの附き添い人のリザヴェッタ・イヴァノヴナと結婚して下されば、私はあなたに殺されたことを赦《ゆる》しましょう」
こう言って、彼女は静かにうしろを向くと、足を引き摺るようにドアの方へ行って、たちまちに消えてしまった。ヘルマンは表のドアのあけたてする音を耳にしたかと思うと、やがてまた、何者かが窓から覗いているのを見た。
ヘルマンはしばらく我れに復《かえ》ることが出来なかったが、やっとのことで起ち上がって次の間へ行ってみると、伝令下士は床《ゆか》の上に横たわって眠っていたので、さんざん手古摺《てこず》った挙げ句にようやく眼をさまさせて、表のドアの鍵をかけさせた。彼は自分の部屋にもどって、蝋燭をつけて、自分が幻影を見たことを細かに書き留めておいた。
六
精神界において二つの固定した想念《アイデア》が共存するということは、物質界において二つの物体が同時に同じ場所に存在する事と同じように不可能である。「三、七、一」の秘伝は、すぐにヘルマンの心から死んだ伯爵夫人の思い出を追いのけてしまって、彼の頭のなかを間断なく駈け廻っては彼の口によって繰り返されていた。
もし若い娘でも見れば、彼は「よう、なんて美しいんでしょう。まるでハートの三そっくりだ」と言うであろう。また、もし誰かが「いま何時でしょうか」と訊《き》いたとしたら、彼は「七時五分過ぎ」と答えるであろう。それからまた、丈夫そうな人たちに出逢ったときには彼はすぐに一の字を思い出した。「三、七、一」の字は寝ていても彼の脳裏に出没して、あらゆる形となって現われた。
彼の目の前には三の切り札が爛漫《らんまん》たる花となって咲き乱れ、七の切り札はゴシック式の半身像となり、一の切り札は大きい蜘蛛となって現われた。そうして、ただ一つの考え――こんなにも高価であがなった以上、この秘密を最も有効に使用しようということばかりが彼の心をいっぱいに埋めていた。彼は賜暇《しか》を利用して外遊して、パリにたくさんある公営の賭博場へ行って運試しをやろうと考えた。ところが、そんな面倒なことをするまでもなく、彼にとっていい機会が到来した。
モスクワには、有名なシェカリンスキイが元締《もとじめ》をしている富豪連の賭博の会があった。このシェカリンスキイはその全生涯を賭博台の前に送りながら何百万の富を築き上げたという人間で、自分が勝てば手形で受け取り、負ければ現金で即座に支払っていた。彼は自分の長いあいだの経験によって仲間からも信頼せられ、彼のあけっ放しの家と、彼の腕利きの料理人と、それから彼が人をそらさぬ態度とによって、一般の人びとから尊敬のまとになっていた。その彼がセント・ペテルスブルグにやって来たので、この首府の若い人びとは舞踏や、女を口説きおとすことなどはそっちのけにして、ファロー(指定の骨牌一組のうちから出て来る順序を当てる一種の賭け骨牌)に耽溺《たんでき》せんがために、みなその部屋に集まって来た。
かれらは慇懃《いんぎん》な召使いの大勢立っている立派な部屋を通って行った。賭博場は人でいっぱいであった。将軍や顧問官はウイスト(四人でする一種の賭け骨牌)を試みていた。若い人びとはビロード張りの長椅子にだらしなく倚《よ》りながら氷菓子《アイス》を食べたり、煙草をくゆらしたりしていた。応接間では、賭けをするひと組の連中が取り巻いている長いテーブルの上席にシェカリンスキイが坐って元締をしていた。
彼は非常に上品な風采《ふうさい》の五十がらみの男で、頭髪は銀のように白く、そのむっくりと肥《ふと》った血色のいい顔には善良の性《しょう》があらわれ、その眼は間断なく微笑にまたたいていた。ナルモヴは彼にヘルマンを引き合わせた。シェカリンスキイは十年の知己のごとくにヘルマンの手を握って、どうぞご遠慮なくと言ってから、骨牌を配りはじめた。
その勝負はしばらく時間をついやした。テーブルの上には三十枚以上の切り札が置いてあった。シェカリンスキイは骨牌を一枚ずつ投げては少しく間《ま》を置いて、賭博者に持ち札を揃えたり、負けた金の覚え書きなどをする時間をあたえ、一方には賭博者の要求に対していちいち慇懃《いんぎん》に耳を傾け、さらに賭博に沈黙を守りながら、賭博者の誰かが何かの拍子に手で曲げてしまった骨牌の角を伸《の》ばしたりしていた。やがて、その勝負は終わった。シェカリンスキイは骨牌を切って、再び配る準備をした。
「どうぞ私にも一枚くださいませんか」と、ヘルマンは勝負をしている一人の男らしい紳士のうしろから手を差し伸べて言った。
シェカリンスキイは微笑を浮かべると、承知しましたという合図に静かに頭《かしら》を下げた。ナルモヴは笑いながら、ヘルマンが長いあいだ守っていた――骨牌を手にしないという誓いを破ったことを祝って、彼のために幸先《さいさき》のいいように望んだ。
「張った」と、ヘルマンは自分の切り札の裏に白墨《チョーク》で何か印《しるし》を書きながら言った。
「おいくらですか」と、元締が眼を細くしてたずねた。「失礼ですが、わたくしにはよく見えませんので……」
「四万七千ルーブル」と、ヘルマンは答えた。
それを聞くと、部屋じゅうの人びとは一斉に振りむいて、ヘルマンを見つめた。
「こいつ、どうかしているぞ」と、ナルモヴは思った。
「ちょっと申し上げておきたいと存じますが……」と、シェカリンスキイが、例の微笑を浮かべながら言った。「あなたのお賭けなさる金額は多過ぎはいたしませんでしょうか。今までにここでは、一度に二百七十五ルーブルよりお張りになったかたはございませんが……」
「そうですか」と、ヘルマンは答えた。「では、あなたはわたくしの切り札をお受けなさるのですか、それともお受けなさらないのですか」
シェカリンスキイは同意のしるしに頭を下げた。
「ただわたくしはこういうことだけを申し上げたいと思うのですが……」と、彼は言った。「むろん、わたくしは自分のお友達のかたがたを十分信用してはおりますが、これは現金で賭けていただきたいのでございます。わたくし自身の立ち場から申しますと、実際あなたのお言葉だけで結構なのでございますが、賭け事の規定から申しましても、また、計算の便宜上から申しましても、お賭けになる金額をあなたの札の上に置いていただきたいものでございます」
ヘルマンはポケットから小切手を出して、シェカリンスキイに渡した。彼はそれをざっと調べてからヘルマンの切り札の上に置いた。
それから彼は骨牌を配りはじめた。右に九の札が出て、左には三の札が出た。
「僕が勝った」と、ヘルマンは自分の切り札を見せながら言った。
驚愕のつぶやきが賭博者たちのあいだから起こった。シェカリンスキイは眉をひそめたが、すぐにまた、その顔には微笑が浮かんできた。
「どうか清算させていただきたいと存じますが……」と、彼はヘルマンに言った。
「どちらでも……」と、ヘルマンは答えた。
シェカリンスキイはポケットからたくさんの小切手を引き出して即座に支払うと、ヘルマンは自分の勝った金を取り上げて、テーブルを退いた。ナルモヴがまだ茫然としている間に、彼はレモネードを一杯飲んで、家へ帰ってしまった。
翌日の晩、ヘルマンは再びシェカリンスキイの家へ出かけた。主人公はあたかも切り札を配っていたところであったので、ヘルマンはテーブルの方へ進んで行くと、勝負をしていた人たちは直《ただ》ちに彼のために場所をあけた。シェカリンスキイは丁寧に挨拶した。
ヘルマンは次の勝負まで待っていて、一枚の切り札を取ると、その上にゆうべ勝った金と、自分の持っていた四万七千ルーブルとを一緒に賭けた。
シェカリンスキイは骨牌を配りはじめた。右にジャックの一が出て、左に七の切り札が出た。
ヘルマンは七の切り札を見せた。
一斉に感嘆の声が湧きあがった。シェカリンスキイは明らかに不愉快な顔をしたが、九万四千ルーブルの金額をかぞえて、ヘルマンの手に渡した。ヘルマンは出来るだけ冷静な態度で、その金をポケットに入れると、すぐに家へ帰った。
次の日の晩もまた、ヘルマンは賭博台にあらわれた。人びとも彼の来るのを期待していたところであった。将軍や顧問官も実に非凡なヘルマンの賭けを見ようというので、自分たちのウイストの賭けをやめてしまった。青年士官らは長椅子を離れ、召使いたちまでがこの部屋へはいって来て、みなヘルマンのまわりに押し合っていた。勝負をしていたほかの連中も賭けをやめて、どうなることかと、もどかしそうに見物していた。
ヘルマンはテーブルの前に立って、相変わらず微笑《ほほえ》んではいるが蒼い顔をしているシェカリンスキイと、一騎打ちの勝負をする準備をした。新しい骨牌の封が切られた。シェカリンスキイは札を切った。ヘルマンは一枚の切り札を取ると、小切手の束でそれを掩《おお》った。二人はさながら決闘のような意気込みであった。深い沈黙が四方を圧した。
シェカリンスキイの骨牌を配り始める手はふるえていた。右に女王が出た。左に一の札が出た。
「一が勝った」と、ヘルマンは自分の札を見せながら叫んだ。
「あなたの女王が負けでございます」と、シェカリンスキイは慇懃に言った。
ヘルマンははっとした。一の札だと思っていたのが、いつの間にかスペードの女王になっているではないか。
彼は自分の眼を信じることも、どうしてこんな間違いをしたかを理解することも出来なかった。途端《とたん》に、そのスペードの女王が皮肉な冷笑を浮かべながら、自分の方に眼配せしているように見えた。その顔が彼女に生き写しであるのにぎょっとした。
「老伯爵夫人だ」と、彼は恐ろしさのあまりに思わず叫んだ。
シェカリンスキイは自分の勝った金を掻き集めた。しばらくのあいだ、ヘルマンは身動き一つしなかったが、やがて彼がテーブルを離れると、部屋じゅうが騒然と沸き返った。
「実に見事な勝負だった」と、賭博者たちは称讃した。シェカリンスキイは新しく骨牌を切って、いつものように勝負を始めた。
ヘルマンは発狂した。そうして今でもなお、オブコフ病院の十七号病室に監禁されている。彼はほかの問いには返事をしないが、絶えず非常な早口で「三、七、一!」「三、七、一!」とささやいているのであった。
リザヴェッタ・イヴァノヴナは、老伯爵夫人の以前の執事の息子で前途有望の青年と結婚した。その男はどこかの県庁に奉職して、かなりの収入を得ているが、リザヴェッタはやはり貧しい女であることに甘んじている。
トムスキイは大尉級に昇進して、ポーリン公爵令嬢の夫となった。
底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年9月4日初版発行
2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
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