次の日曜には甲斐《かい》へ行こう。新緑はそれは美しい。そんな会話が擦れ違う声の中からふと聞えた。そうだ。もう新緑になっていると梶《かじ》は思った。季節を忘れるなどということは、ここしばらくの彼には無いことだった。昨夜もラジオを聞いていると、街の探訪放送で、脳病院から精神病患者との一問一答が聞えて来た。そして、終りに精神科の医者の記者に云うには、
「まア、こんな患者は、今は珍らしいことではありません。人間が十人集れば、一人ぐらいは、狂人が混じっていると思っても、宜《よろ》しいでしょう。」
「そうすると、今の日本には、少しおかしいのが、五百万人ぐらいはいると思っても、さしつかえありませんね、あはははははは――」
笑う声が薄気味わるく夜の灯火の底でゆらめいていた。五百万人の狂人の群れが、あるいは今一斉にこうして笑っているのかしれない。尋常ではない声だった。
「あははははは……」
長く尾をひくこの笑い声を、梶は自分もしばらく胸中にえがいてみていた。すると、しだいにあはははがげらげらに変って来て、人間の声ではもうなかった。何ものか人間の中に混じっている声だった。
自分を狂人と思うことは、なかなか人にはこれは難しいことである。そうではないと思うよりは、難しいことであると梶は思った。それにしても、いまも梶には分らぬことが一つあった。人間は誰でも少しは狂人を自分の中に持っているものだという名言は、忘れられないことの一つだが、中でもこれは、かき消えていく多くの記憶の中で、ますます鮮明に膨れあがって来る一種異様な記憶であった。
それも新緑の噴き出て来た晩春のある日のことだ。
「色紙を一枚あなたに書いてほしいという青年がいるんですが、よろしければ、一つ――」
知人の高田が梶の所へ来て、よく云われるそんな注文を梶に出した。別に稀《まれ》な出来事ではなかったが、このときに限って、いつもと違う特別な興味を覚えて梶は筆を執った。それというのも、まだ知らぬその青年について、高田の説明が意外な興味を呼び起させるものだったからである。青年は栖方《せいほう》といって俳号を用いている。栖方は俳人の高田の弟子で、まだ二十一歳になる帝大の学生であった。専攻は数学で、異常な数学の天才だという説明もあり、現在は横須賀の海軍へ研究生として引き抜かれて詰めているという。
「もう周囲が海軍の軍人と憲兵ばかりで、息が出来ないらしいのですよ。だもんだから、こっそり脱け出して遊びに来るにも、俳号で来るので、本名は誰にもいえないのです。まア、斎藤といっておきますが、これも仮名ですから、そのおつもりで。」
高田はそう梶に云ってから、この栖方は、特種な武器の発明を三種類も完成させ、いま最後の一つの、これさえ出来れば、勝利は絶対的確実だといわれる作品の仕上げにかかっている、とも云ったりした。このような話の真実性は、感覚の特殊に鋭敏な高田としても確証の仕様もない、ただの噂《うわさ》の程度を正直に梶《かじ》に伝えているだけであることは分っていた。しかし、戦局は全面的に日本の敗色に傾いている空襲直前の、新緑のころである。噂にしても、誰も明るい噂に餓《う》えかつえているときだった。細やかな人情家の高田のひき緊《しま》った喜びは、勿論《もちろん》梶をも揺り動かした。
「どんな武器ですかね。」
「さア、それは大変なものらしいのですが、二三日したらお宅へ本人が伺うといってましたから、そのときでも訊《き》いて下さい。」
「何んだろう。噂の原子爆弾というやつかな。」
「そうでもないらしいです。何んでも、凄《すご》い光線らしい話でしたよ。よく私も知りませんが、――」
負け傾いて来ている大斜面を、再びぐっと刎《は》ね起き返すある一つの見えない力、というものが、もしあるのなら誰しも欲しかった。しかし、そういう物の一つも見えない水平線の彼方に、ぽっと射《さ》し露《あら》われて来た一縷《いちる》の光線に似たうす光が、あるいはそれかとも梶は思った。それは夢のような幻影としても、負け苦しむ幻影より喜び勝ちたい幻影の方が強力に梶を支配していた。祖国ギリシャの敗戦のとき、シラクサの城壁に迫るローマの大艦隊を、錨《いかり》で釣り上げ投げつける起重機や、敵船体を焼きつける鏡の発明に夢中になったアルキメデスの姿を梶はその青年|栖方《せいほう》の姿に似せて空想した。
「それにはまた、物凄い青年が出てきたものだなア。」と梶は云って感嘆した。
「それも可愛いところのある人ですよ。発明は夜中にするらしくて、大きな音を立てるものだから、どこの下宿屋からも抛《ほう》り出されましてね。今度の下宿には娘がいるから、今度だけは良さそうだ、なんて云ってました。学位論文も通ったらしいです。」
「じゃ、二十一歳の博士か。そんな若い博士は初めてでしょう。」
「そんなことも云ってました。通った論文も、アインシュタインの相対性原理の間違いを指摘したものだと云ってましたがね。」
異才の弟子の能力に高田も謙遜《けんそん》した表情で、誇張を避けようと努めている苦心を梶は感じ、先《ま》ずそこに信用が置かれた気持良い一日となって来た。
「ときどきはそんな話もなくては困るね。もう悪いことばかりだからなア。たった一日でも良いから、頭の晴れた日が欲しいものだ。」
梶の幻影は疑いなくそのような気持から忍び込み、拡《ひろが》り始めたようだった。とにかく、祖国を敗亡から救うかもしれない一人の巨人が、いま、梶の身辺にうろうろし始めたということは、彼の生涯の大事件だと思えば思えた。それも、今の高田の話そのものだけを事実としてみれば、希望と幻影は同じものだった。
「しかし、そんな青年が今ごろ僕の色紙を欲しがるなんて、おかしいね。そんなものじゃないだろう。」
と梶は云った。そして、そう思いもした。
「けれども、何といっても、まだ小供《こども》ですよ。あなたの色紙を貰ってくれというのは、何んでも数学をやる友人の中に、あなたの家の標札を盗んで持ってるものがいるので、よし、おれは色紙を貰って見せると、ついそう云ってしまったらしいのです。」
梶は十年も前、自宅の標札をかけてもかけても脱《はず》されたころの日のことを思い出した。長くて標札は三日と保《も》たなかった。その日のうちに取られたのも二三あった。郵便配達からは小言の食いづめにあった。それからは固く釘《くぎ》で打ちつけたが、それでも門標はすぐ剥《は》がされた。この小事件は当時梶一家の神経を悩ましていた。それだけ、今ごろ標札のかわりに色紙を欲しがる青年の戯れに実感がこもり、梶には、他人事《ひとごと》ではない直接的な繋《つな》がりを身に感じた。当時の悩みの種が意外なところへ落ちていて、いつの間にかそこで葉を伸ばしていたのである。彼は一日も早く栖方に会ってみたくなった。おそるべき青年たちの一塊をさし覗《のぞ》いて、彼らの悩み、――それもみな数学者のさなぎが羽根を伸ばすに必要な、何か食い散らす葉の一枚となっていた自分の標札を思うと、さなぎの顔の悩みを見たかった。そして、梶自身の愁いの色をそれと比べて見ることは、失われた門標の、彼を映し返してみせてくれる偶然の意義でもあった。
ある日の午後、梶の家の門から玄関までの石畳が靴を響かせて来た。石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが、これはまことに恐るべき石畳の神秘な能力だと思うようになって来たのも最近のことである。何かそこには電磁作用が行われるものらしい石の鳴り方は、その日は、一種異様な響きを梶に伝えた。ひどく格調のある正確なひびきであった。それは二人づれの音響であったが、四つの足音の響き具合はぴたりと合い、乱れた不安や懐疑の重さ、孤独な低迷のさまなどいつも聞きつける足音とは違っている。全身に溢《あふ》れた力が漲《みなぎ》りつつ、頂点で廻転《かいてん》している透明なひびきであった。
梶は立った。が、またすぐ坐《すわ》り直し、玄関の戸を開け加減の音を聞いていた。この戸の音と足音と一致していないときは、梶は自分から出て行かない習慣があったからである。間もなく戸が開けられた。
「御免下さい。」
初めから声まで今日の客は、すべて一貫したリズムがあった。梶が出て行ってみると、そこに高田が立っていて、そしてその後に帝大の学帽を冠《かぶ》った青年が、これも高田と似た微笑を二つ重ねて立っていた。
「どうぞ。」
とうとう門標が戻って来た。どこを今までうろつき廻《まわ》って来たものやら、と、梶は応接室である懐しい明るさに満たされた気持で、青年と対《むか》いあった。高田は梶に栖方の名を云って初対面の紹介をした。
学帽を脱いだ栖方はまだ少年の面影をもっていた。街街の一隅を馳《か》け廻っている、いくら悪戯《いたずら》をしても叱《しか》れない墨を顔につけた腕白な少年がいるものだが、栖方はそんな少年の姿をしている。郊外電車の改札口で、乗客をほったらかし、鋏《はさみ》をかちかち鳴らしながら同僚を追っ馳け廻している切符きり、と云った青年であった。
「お話をきくと毎日が大変らしいようですね。」
先ずそんなことから梶は云った。栖方は黙ったまま笑った。ぱッと音立てて朝開く花の割れ咲くような笑顔だった。赤児が初めて笑い出す靨《えくぼ》のような、消えやすい笑いだ。この少年が博士になったとは、どう思ってみても梶には頷《うなず》けないことだったが、笑顔に顕《あらわ》れてかき消える瞬間の美しさは、その他の疑いなどどうでも良くなる、真似手《まねて》のない無邪気な笑顔だった。梶は学問上の彼の苦しみや発明の辛苦の工程など、栖方から訊き出す気持はなくなった。また、そんなことは訊《たず》ねても梶には分りそうにも思えなかった。
「お郷里《くに》はどちらです。」
「A県です。」
ぱっと笑う。
「僕の家内もそちらには近い方ですよ。」
「どちらです。」と栖方は訊ねた。
T市だと梶が答えると、それではY温泉の松屋を知っているかとまた栖方は訊ねた。知っているばかりではない。その宿屋は梶たち一家が行く度によく泊った宿であった。それを云うと、栖方は、
「あれは小父の家です。」
と云って、またぱッと笑った。茶を煎《い》れて来た梶《かじ》の妻は、栖方《せいほう》の小父の松屋の話が出てからは忽《たちま》ち二人は特別に親しくなった。その地方の細かい双方《そうほう》の話題が暫《しばら》く高田と梶とを捨てて賑《にぎ》やかになっていくうちに、とうとう栖方は自分のことを、田舎言葉まる出しで、「おれのう。」と梶の妻に云い出したりした。
「もうすぐ空襲が始るそうですが、恐《こわ》いですわね。」と梶の妻が云うと、「一機も入れない」と栖方は云ってまたぱッと笑った。このような談笑の話と、先日高田が来たときの話とを綜合《そうごう》してみた彼の経歴は、二十一歳の青年にしては複雑であった。中学は首席で柔道は初段、数学の検定を四年のときにとった彼は、すぐまた一高の理科に入学した。二年のとき数学上の意見の違いで教師と争い退校させられてから、徴用でラバァウルの方へやられた。そして、ふたたび帰って帝大に入学したが、その入学には彼の才能を惜しんだある有力者の力が働いていたようだった。この間、栖方の家庭上にはこの若者を悩ましている一つの悲劇があった。それは、母の実家が代代の勤皇家であるところへ、父が左翼で獄に入ったため、籍もろとも実家の方が栖方母子二人を奪い返してしまったことである。父母の別れていることは絶ちがたい栖方のひそかな悩みであった。しかし、梶はこの栖方の家庭上の悩みには話題を触れさせたくはなかった。勤皇と左翼の争いは、日本の中心問題で、触れれば、忽ち物狂わしい渦巻に巻き襲われるからである。それは数学の排中律に似た解決困難な問題だった。栖方は、その中心の渦中に身をひそめて呼吸をして来たのであってみれば、父と母との争いのどちらに想《おも》いをめぐらせるべきか、という相反する父母二つの思想体系にもみぬかれた、彼の若若しい精神の苦しみは、想像にかたくない。同一の問題に真理が二つあり、一方を真理とすれば他の方が怪しく崩れ、二つを同時に真理とすれば、同時に二つが嘘《うそ》となる。そして、この二つの中間の真理というものはあり得ないという数学上の排中律の苦しみは、栖方にとっては、父と母と子との間の問題に変っていた。
しかし、勤皇と左翼のことは別にしても、人の頭をつらぬく排中律の含んだこの確率だけは、ただ単に栖方一人にとっての問題でもない。実は、地上で争うものの、誰の頭上にも降りかかって来ている精神に関した問題であった。これから頭を反らし、そ知らぬ表情をとることは、要するに、それはすべてが偽せものたるべき素質をもつことを証明しているがごときものだった。実に静静とした美しさで、そして、いつの間にかすべてをずり落して去っていく、恐るべき魔のような難題中のこの難題を、梶とて今、この若い栖方の頭に詰めより打ち降ろすことは忍びなかった。いや、梶自身としてみても自分の頭を打ち割ることだ。いや、世界もまた――しかし、現に世界はあるのだ。そして、争っているのだった。真理はどこかになければならぬ筈《はず》にもかかわらず、争いだけが真理の相貌《そうぼう》を呈しているという解きがたい謎《なぞ》の中で、訓練をもった暴力が、ただその訓練のために輝きを放って白熱している。
「いったい、それは、眼にするすべてが幽霊だということか。――手に触れる感覚までも、これは幽霊ではないとどうしてそれを証明することが出来るのだ。」
ときには、斬《き》り落された首が、ただそのまま引っ付いているだけで、知らずに動いている人間のような、こんな怪しげな幻影も、梶には泛《うか》んで来ることがあったりした。われ有るに非《あら》ざれど、この痛みどこより来るか。古人の悩んだこんな悩ましさも、十数年来まだ梶から取り去られていなかった。そして、戦争が敗北に終わろうと、勝利になろうと、同様に続いて変らぬ排中律の生みつづけていく難問たることに変りはない。
「あなたの光線は、威力はどれほどのものですか。」
梶が栖方に訊《たず》ねてみようかと思ったのも、何かこのとき、ふと気かがりなことがあって、思いとまった。
「ドイツの使い始めたV一号というのも、初めは少年が発明したとかいうことですね。何んでも僕の聞いたところでは、世界の数学界の実力は、年齢が二十歳から二十三四歳までの青年が握っていて、それも、半年ごとに中心の実力が次ぎのものに変っていく、という話を、ある数学者から聞いたことがありますが、日本の数学も、実際はそんなところにありますかね。どうです。」
君自身がいまそれか、と暗に訊ねたつもりの梶の質問に、栖方は、ぱッと開く微笑で黙って答えただけだった。梶はまたすぐ、新武器のことについて訊《き》きたい誘惑を感じたが、国家の秘密に栖方を誘いこみ、口を割らせて彼を危険にさらすことは、飽《あ》くまで避けて通らねばならぬ。狭い間道をくぐる思いで、梶は質問の口を探しつづけた。
「俳句は古くからですか。」
これなら無事だ、と思われる安全な道が、突然二人の前に開けて来た。
「いえ、最近です。」
「好きなんですね。」
「おれのう、頭の休まる法はないものかと、いつも考えていたときですが、高田さんの俳句をある雑誌で見つけて、さっそく入門したのです。もう僕を助けてくれているのは、俳句だけです。他のことは、何をしても苦しめるばかりですね。もう、ほッとして。」
青葉に射《さ》し込もっている光を見ながら、安らかに笑っている栖方の前で、梶は、もうこの青年に重要なことは何に一つ訊けないのだと思った。有象無象《うぞうむぞう》の大群衆を生かすか殺すか彼一人の頭にかかっている。これは眼前の事実であろうか、夢であろうか。とにかく、事はあまりに重大すぎて想像に伴なう実感が梶には起らなかった。
「しかし、君がそうして自由に外出できるところを見ると、まだ看視はそれほど厳しくないのですね。」と梶は訊ねた。
「厳しいですよ。俳句のことで出るというときだけ、許可してくれるのです。下宿屋全部の部屋が憲兵ばかりで、ぐるりと僕一人の部屋を取り包んでいるものですから、勝手なことの出来るのは、俳句だけです。もう堪《たま》らない。今日も憲兵がついて来たのですが、句会があるからと云って、品川で撒《ま》いちゃいました。」
帰ってから憲兵への口実となる色紙の必要なことも、それで分った。梶は、自分の色紙が栖方の危険を救うだけ、自分へ疑惑のかかるのも感じたが、門標につながる縁もあって彼は栖方に色紙を書いた。
「科学上のことはよく僕には分らなくて、残念だが、今は秘密の奪い合いだから、君も相当に危いですね、気をつけなくちゃ。」
「そうです。先日も優秀な技師がピストルでやられました。それは優秀な人でしたがね。一度横須賀に来てみて下さい。僕らの工場をお見せしますから。」
「いや、そんな所を見せて貰っても、僕には分らないし、知らない方がいいですよ。あなたにこれでお訊ねしたいことが沢山あるが、もう全部やめです。それより、アインシュタインの間違いって、それは何んですか。」
「あれは仮設が間違っているのですよ。仮設から仮設へ渡っているのがアインシュタインの原理ですから、最初の仮設を叩《たた》いてみたら、他がみな弛《ゆる》んでしまって――」
空中楼閣を描く夢はアインシュタインとて持ったであろうが、いまそれが、この栖方の検閲にあって礎石を覆えされているとは、これもあまりに大事件である。梶にはも早や話が続かなかった。栖方を狂人と見るには、まだ栖方の応答のどこ一つにも狂いはなかった。
「君の数学は独創ばかりのような感じがするが、君は零《ゼロ》の観念をどんな風に思うんです。君の数学では。僕は零《ゼロ》が肝心だと思うんだが、どうですか。」
「そこですよ。」栖方《せいほう》はひどく乗り出す風に早口になって笑った。「おれのは、みんなそこからです。誰一人分ってくれない。この間も、それで喧嘩《けんか》をしたのですが、日本の軍艦も船も、みな間違っているのです。船体の計算に誤算があるので、おれはそれを直してみたのですが、おれの云うようにすれば、六ノット速力が迅《はや》くなる、そういくら云っても、誰も聞いてはくれないのですよ。あの船体の曲り具合のところです。そこの零の置きどころが間違っているのです。」
誰も判定のつきかねる所で、栖方はただ一人孤独な闘いをつづけているようだった。殊に、零点の置きどころを改革するというような、いわば、既成の仮設や単一性を抹殺《まっさつ》していく無謀さには、今さら誰も応じるわけにはいくまいと思われる。しかし、すでに、それだけでも栖方の発想には天才の資格があった。二十一歳の青年で、零の置きどころに意識をさし入れたということは、あらゆる既成の観念に疑問を抱いた証拠であった。おそらく、彼を認めるものはいなかろうと梶《かじ》は思った。
「通ることがありますか。あなたの主張は。」と梶は訊《たず》ねた。
「なかなか通りませんね。それでも、船のことはとうとう勝って通りました。学者はみんな僕をやっつけるんだけれども、おれは、証明してみせて云うんですから、仕方がないでしょう。これからの船は速度が迅くなりますよ。」
どうでも良いことばかり雲集している世の中で、これだけはと思う一点を、射《さ》し動かして進行している鋭い頭脳の前で、大人たちの営営とした間抜けた無駄骨折りが、山のように梶には見えた。
「いっぺん工場を見に来てください。御案内しますから。面白いですよ。俳句の先生が来たんだからといえば、許可してくれます。」栖方は、梶が武器に関する質問をしないのが不服らしく、梶の黙っている表情に注意して云った。
「いや、それだけは見たくないなア。」と梶は答えを渋った。
栖方は一層不満らしく黙っていた。前後を通じて栖方が梶に不満な表情を示したのは、このときだけだった。
「そんなところを見せてもらっても、僕には何の益にもならんからね。見たって分らないんだもの。」
これは少し残酷だと梶は思いもした。しかし、梶には、物の根柢《こんてい》を動かしつづけている栖方の世界に対する、云いがたい苦痛を感じたからである。この梶の一瞬の感情には、喜怒哀楽のすべてが籠《こも》っていたようだった。便便として為すところなき梶自身の無力さに対する嫌悪や、栖方の世界に刃向う敵意や、殺人機の製造を目撃する淋しさや、勝利への予想に興奮する疲労や、――いや、見ないに越したことはない、と梶は思った。そして、栖方の云うままには動けぬ自分の嫉妬《しっと》が淋しかった。何となく、梶は栖方の努力のすべてを否定している自分の態度が淋しかった。
「君、排中律をどう思いますかね、僕の仕事で、いまこれが一番問題なんだが。」
梶は、問うまいと思っていたことも、ついこんなに、話題を外《そ》らせたくなって彼を見た。すると、栖方は「あッ、」と小声の叫びをあげて、前方の棚の上に廻転《かいてん》している扇風機を指差した。
「零点五だッ。」
閃《ひら》めくような栖方の答えは、勿論《もちろん》、このとき梶には分らなかった。しかし、梶は、訊《き》き返すことはしなかった。その瞬間の栖方の動作は、たしかに何かに驚きを感じたらしかったが、そっとそのまま梶は栖方をそこに沈めて置きたかった。
「あの扇風機の中心は零でしょう。中の羽根は廻《まわ》っていて見えませんが、ちょっと眼を脱《はず》して見た瞬間だけ、ちらりと見えますね。あの零から、見えるところまでの距離の率ですよ。」
間髪を入れぬ栖方の説明は、梶の質問の壺《つぼ》には落ち込んでは来なかったが、いきなり、廻転している眼前の扇風機をひっ掴《つか》んで、投げつけたようなこの栖方の早業には、梶も身を翻す術《すべ》がなかった。
「その手で君は発明をするんだな。」
「おれのう、街を歩いていると、石に躓《つまず》いてぶっ倒れたんです。そしたら、横を通っていた電車の下っ腹から、火の噴いてるのが見えたんですよ。それから、家へ帰って、ラジオを点《つ》けようと思って、スイッチをひねったところが、ぼッと鳴って、そのまま何の音も聞えないんです。それで、電車の火と、ラジオのぼッといっただけの音とを結びつけてみて、考え出したのですよ。それが僕の光線です。」
この発想も非凡だった。しかし、梶はそこで、急いで栖方の口を絞《し》めさせたかった。それ以上の発言は栖方の生命にかかわることである。青年は危険の限界を知らぬものだ。栖方も梶の知らぬところで、その限界を踏みぬいている様子があったが、注意するには早や遅すぎる疑いも梶には起った。
「倒れたのが発想か。倒れなかったら、何にもないわけだな。」
これもすべてが零からだと梶は思って云った。彼は栖方が気の毒で堪《たま》らなかった。
その日から梶は栖方の光線が気にかかった。それにしても、彼の云ったことが事実だとすれば、栖方の生命は風前の灯火《ともしび》だと梶は思った。いったい、どこか一つとして危険でないところがあるだろうか。梶はそんなに反対の安全率の面から探してみた。絶えず隙間《すきま》を狙《ねら》う兇器の群れや、嫉視《しっし》中傷《ちゅうしょう》の起す焔《ほのお》は何を謀《たくら》むか知れたものでもない。もし戦争が敗《ま》けたとすれば、その日のうちに銃殺されることも必定である。もし勝ったとしても、用がすめば、そんな危険な人物を人は生かして置くものだろうか。いや、危い。と梶はまた思った。この危険から身を防ぐためには――梶はその方法をも考えてみたが、すべての人間を善人と解さぬ限り、何もなかった。
しかし、このような暗澹《あんたん》とした空気に拘《かかわ》らず、栖方の笑顔を思い出すと、光がぽッと射し展《ひら》いているようで明るかった。彼の表情のどこ一点にも愁いの影はなかった。何ものか見えないものに守護されている貴《とお》とさが溢《あふ》れていた。
ある日、また栖方は高田と一緒に梶の家へ訪ねて来た。この日は白い海軍中尉の服装で短剣をつけている彼の姿は、前より幾らか大人に見えたが、それでも中尉の肩章はまだ栖方に似合ってはいなかった。
「君はいままで、危いことが度度あったでしょう。例えば、今思ってもぞっとするというようなことで、運よく生命が助かったというようなことですがね。」と、梶は、あの思惑から話半ばに栖方に訊ねてみた。
「それはもう、随分ありました。最初に海軍の研究所へ連れられて来たその日にも、ありました。」
栖方はそう答えてその日のことを手短に話した。研究所へ着くなり栖方は新しい戦闘機の試験飛行に乗せられ、急直下するその途中で、機の性能計算を命ぜられたことがあった。すると、急にそのとき腹痛が起り、どうしても今日だけは赦《ゆる》して貰いたいと栖方は歎願《たんがん》した。軍では時日を変更することは出来ない。そこで、その日は栖方を除いたものだけで試験飛行を実行した。見ていると、大空から急降下爆撃で垂直に下って来た新飛行機は、栖方の眼前で、空中分解をし、ずぼりと海中へ突き込んだそのまま、尽《ことごと》く死んでしまった。
また別の話で、ラバァウルへ行く飛行中、操縦席からサンドウィッチを差し出してくれたときのこと、栖方は身を斜めに傾けて手を延ばしたその瞬間、敵弾が飛んで来た。そして、彼に的《あた》らず、後ろのものが胸を撃ち貫かれて即死した。
また別の第三の偶然事、これは一番|栖方《せいほう》らしく梶《かじ》には興味があったが、――少年の日のこと、まだ栖方は小学校の生徒で、朝学校へ行く途中、その日は母が栖方と一緒であった。雪のふかく降りつもっている路《みち》を歩いているとき、一羽の小鳥が飛んで来て彼の周囲を舞い歩いた。少年の栖方はそれが面白かった。両手で小鳥を掴《つか》もうとして追っかける度に、小鳥は身を翻して、いつまでも飛び廻《まわ》った。
「おれのう、もう掴まるか、もう掴まるかと思って、両手で鳥を抑《おさ》えると、ひょいひょいと、うまい具合に鳥は逃げるんです。それで、とうとう学校が遅れて、着いてみたら、大雪を冠《かぶ》ったおれの教室は、雪崩でぺちゃんこに潰《つぶ》れて、中の生徒はみな死んでいました。もう少し僕が早かったら、僕も一緒でした。」
栖方は後で母にその小鳥の話をすると、そんな鳥なんかどこにもいなかったと母は云ったそうである。梶は訊《き》いていて、この栖方の最後の話はたとい作り話としても、すっきり抜けあがった佳作だと思った。
「鳥飛んで鳥に似たり、という詩が道元《どうげん》にあるが、君の話も道元に似てますね。」
梶は安心した気持でそんな冗談を云ったりした。西日の射《さ》しこみ始めた窓の外で、一枚の木製の簾《すだれ》が垂れていた。栖方はそれを見ながら、
「先日お宅から帰ってから、どうしても眠れないのですよ。あの簾が眼について。」と云って、なお彼は窓の外を見つづけた。「僕はあの簾の横板が幾つあったか忘れたので、それを思い出そうとしても、幾ら考えても分らないのですよ。もう気が狂いそうになりましたが、とうとう分った。やっぱり合ってた。二十二枚だ。」栖方は嬉《うれ》しそうに笑顔だった。
「そんなことに気がつき出しちゃ、そりゃ、たまらないなア。」一人いるときの栖方の苦痛は、もう自分には分らぬものだと梶は思って云った。
「夢の中で数学の問題を解くというようなことは、よくあるんでしょうね。先日もクロネッカァという数学者が夢の中で考えついたという、青春の論理とかいう定理の話を聞いたが、――」
「もうしょっちゅうです。この間も朝起きてみたら、机の上にむつかしい計算がいっぱい書いてあるので、下宿の婆さんにこれだれが書いたんだと訊いたら、あなたが夕べ書いてたじゃありませんかというんです。僕はちっとも知らないんですがね。」
「じゃ、気狂い扱いにされるでしょう。」
「どうも、そう思ってるらしいですよ。」栖方はまた眼を上げて、ぱッと笑った。
それでは今日は栖方の休日にしようと云うことになって、それから梶たち三人は句を作った。青葉の色のにじむ方に顔を向けた栖方は、「わが影を逐《お》いゆく鳥や山ななめ」という幾何学的な無季の句をすぐ作った。そして葉山の山の斜面に鳥の迫っていった四月の嘱目《しょくもく》だと説明した。高田の鋭く光る眼差《まなざし》が、この日も弟子を前へ押し出す謙抑《けんよく》な態度で、句会の場数を踏んだ彼の心遣《こころづか》いもよくうかがわれた。
「三たび茶を戴《いただ》く菊の薫《かお》りかな」
高田の作ったこの句も、客人の古風に昂《たか》まる感情を締め抑えた清秀な気分があった。梶は佳《よ》い日の午後だと喜んだ。出て来た梶の妻も食べ物の無くなった日の詫《わ》びを云ってから、胡瓜《きゅうり》もみを出した。栖方は、梶の妻と地方の言葉で話すのが、何より慰まる風らしかった。そして、さっそく色紙へ、
「方言のなまりなつかし胡瓜もみ」という句を書きつけたりした。
栖方たちが帰っていってから十数日たったある日、また高田ひとりが梶のところへ来た。この日の高田は凋《しお》れていた。そして、梶に、昨日《きのう》憲兵が来ていうには、栖方は発狂しているから彼の云いふらして歩くこと一切を信用しないでくれと、そんな注意を与えて帰ったということだった。
「それで、栖方の歩いたところへは、皆にそう云うよう、という話でしたから、お宅へもちょっとそのことをお伝えしたいと思いましてね。」
一撃を喰《くら》った感じで梶は高田と一緒にしばらく沈んだ。みな栖方の云ったことは嘘《うそ》だったのだろうか。それとも、――彼を狂人にして置かねばならぬ憲兵たちの作略の苦心は、栖方のためかもしれないとも思った。
「君、あの青年を僕らも狂人としておこうじゃないですか。その方が本人のためにはいい。」と梶は云った。
「そうですね。」高田は垂れ下っていくような元気の失《う》せた声を出した。
「そうしとこう。その方がいいよ。」
高田は栖方を紹介した責任を感じて詫びる風に、梶について掲っては来なかった。梶も、ともすると沈もうとする自分が怪しまれて来るのだった。
「だって君、あの青年は狂人に見えるよ。またそうかも知れないが、とにかく、もし狂人に見えなかったなら、栖方君は危いよ。あるいはそう見えるように、僕ならするかもしれないね。君だってそうでしょう。」
「そうですね。でも、何んだか、みなあれは、科学者の夢なんじゃないかと思いますよ。」高田はあくまで喜ぶ様子もなく、その日は一日重く黙り通した。
高田が帰ってからも、梶は、今まで事実無根のことを信じていたのは、高田を信用していた結果多大だと思ったが、それにしても、梶、高田、憲兵たち、それぞれ三様の姿態で栖方を見ているのは、三つの零《ゼロ》の置きどころを違《たが》えている観察のようだった。
一切が空虚だった。そう思うと、俄《にわか》に、そのように見えて来る空《むな》しかった一ヶ月の緊張の溶け崩れた気怠《けだ》るさで、いつか彼は空を見上げていた。
残念でもあり、ほっとした安心もあり、辷《すべ》り落ちていく暗さもあった。明日からまたこうして頼りもない日を迎えねばならぬ――しかし、ふと、どうしてこんなとき人は空を見上げるものだろうか、と梶は思った。それは生理的に実に自然に空を見上げているのだった。円い、何もない、ふかぶかとした空を。――
高田の来た日から二日目に、栖方から梶へ手紙が来た。それには、ただ今天皇陛下から拝謁《はいえつ》の御沙汰《ごさた》があって参内《さんだい》して来ましたばかりです。涙が流れて私は何も申し上げられませんでしたが、私に代って東大総長がみなお答えして下さいました。近日中御報告に是非御伺いしたいと思っております。とそれだけ書いてあった。栖方のことは当分忘れていたいと思っていた折、梶は多少この栖方の手紙に後ろへ戻る煩わしさを感じ、忙しそうな彼の字体を眺めていた。すると、その翌日栖方は一人で梶の所へ来た。
「参内したんですか。」
「ええ、何もお答え出来ないんですよ。言葉が出て来ないのです。一度僕の傍まで来られて、それから自分のお席へ戻られましたが、足数だけ算《かぞ》えていますと、十一歩でした。五メータです。そうすると、みすが下りまして、その対《むこ》うから御質問になるのです。」
ぱッといつもの美しい微笑が開いた。この栖方の無邪気な微笑にあうと、梶は他の一切のことなどどうでも良くなるのだった。栖方の行為や仕事や、また、彼が狂人であろうと偽せものであろうと、そんなことより、栖方の頬《ほお》に泛《うか》ぶ次の微笑を梶は待ちのぞむ気持で話をすすめた。何よりその微笑だけを見たかった。
「陛下は君の名を何とお呼びになるの。」
「中尉は、と仰言《おっしゃ》いましたよ。それからおって沙汰《さた》する、と最後に仰言《おっしゃ》いました。おれのう、もう頭がぼッとして来て、気狂いになるんじゃないかと思いましたよ。どうも、あれからちょっとおかしいですよ。」
栖方《せいほう》は眼をぱちぱちさせ、云うことを聞かなくなった自分の頭を撫《な》でながら、不思議そうに云った。
「それはお芽出《めで》たいことだったな。用心をしないと、気狂いになるかもしれないね。」
梶《かじ》はそう云う自分が栖方を狂人と思って話しているのかどうか、それがどうにも分らなかった。すべて真実だと思えば真実であった。嘘《うそ》だと思えばまた尽《ことごと》く嘘に見えた。そして、この怪しむべきことが何の怪しむべきことでもない、さっぱりしたこの場のただ一つの真実だった。排中律のまっただ中に泛《うか》んだ、ただ一つの直感の真実は、こうしていま梶に見事な実例を示してくれていて、「さア、どうだ、どうだ。返答しろ。」と梶に迫って来ているようなものだった。それにも拘《かかわ》らず、まだ梶は黙っているのである。「見たままのことさ、おれは微笑を信じるだけだ。」と、こう梶は不精に答えてみたものの、何ものにか、巧みに転がされころころ翻弄《ほんろう》されているのも同様だった。
「今日お伺いしたのは、一度|御馳走《ごちそう》したいのですよ。一緒にこれから行ってくれませんか。自動車を渋谷の駅に待たせてあるのです。」と、栖方は云った。
「今ごろ御馳走を食べさすようなところ、あるんですか。」
「水交社《すいこうしゃ》です。」
「なるほど、君は海軍だったんですね。」と、梶は、今日は学生服ではない栖方の開襟服の肩章を見て笑った。
「今日はおれ、大尉の肩章をつけてるけれど、本当はもう少佐なんですよ。あんまり若く見えるので、下げてるんです。」
少年に見える栖方のまだ肩章の星数を喜ぶ様子が、不自然ではなかった。それにしても、この少年が祖国の危急を救う唯一の人物だとは、――実際、今さし迫っている戦局を有利に導くものがありとすれば、栖方の武器以外にありそうに思えないときだった。しかし、それにしても、この栖方が――幾度も感じた疑問がまた一寸《ちょっと》梶に起ったが、何一つ梶は栖方の云う事件の事実を見たわけではない。また調べる方法とてもない夢だ。彼のいう水交社への出入も栖方一人の夢かどうか、ふと梶はこのとき身を起す気持になった。
「君という人は不思議な人だな。初めに君の来たときには、何んだか跫音《あしおと》が普通の客とどこか違っていたように思ったんだが。――」と梶は呟《つぶや》くように云った。
「あ、あのときは、おれ、駅からお宅の玄関まで足数を計って来たのですよ。六百五十二歩。」栖方はすぐ答えた。
なるほど、彼の正確な足音の謎《なぞ》はそれで分った、と梶は思った。梶は栖方の故郷をA県のみを知っていて、その県のどこかは知らなかったが、初め来たとき梶は栖方に、君の生家の近くに平田篤胤《ひらたあつたね》の生家がありそうな気がするが、と一言|訊《き》くと、このときも「百メータ、」と明瞭《めいりょう》にすぐ答えた。また、海軍との関係の成立した日の腹痛の翌日、新飛行機の性能実験をやらされたとき、栖方は、垂直に落下して来る機体の中で、そのときでなければ出来ない計算を四度び繰り返した話もした。そして、尾翼に欠点のあることを発見して、「よくなりますよ。あの飛行機は。」と云ったりしたが、氾濫《はんらん》しつつ彼の頭に襲いかかって来る数式の運動に停止を与えることが出来ないなら、栖方の頭も狂わざるを得ないであろうと梶は思った。
正確だから狂うのだ、という逆説は、彼にはたしかに通用する近代の見事な美しさをも語っている。
「君はきょうは、水交社から来たんですか。憲兵はついて来ていないの。」と梶は栖方に家を出る前|訊《たず》ねてみた。
「きょうは父島から帰ったばかりですよ。その足で来たのです。」
栖方の発音では父島が千島《ちしま》と聞えるので、千島へどうしてと梶が訊ね返すと、チチジマと栖方は云い直した。
「実験をすませて来たのですよ。成功しました。一番早く死ぬのは猫ですね。あれはもう、一寸光線をあてると、ころりと逝《ゆ》く。その次が犬です。猿はどういうものか少し時間をとりますね。」
と栖方は低く笑いながら、額に日灼《ひや》けの条《すじ》の入った頭を痒《か》いた。狂人の寝言のように無雑作《むぞうさ》にそう云うのも、よく聞きわけて見ると、恐るべき光線の秘密を呟いているのだった。
「僕は動物の心臓というものに興味が出て来ましたよ。どうも、いろいろ心臓に種類があるような気がして来て、これを皆|験《しら》べたら面白いだろうなアと思いました。」
栖方の武器は、事実それなら進行しているのだろうか、と梶は思った。しかし、何ぜだか梶は、ここまで彼と親しくなって来ていても、それが事実かどうかを栖方に訊き返す気はしなかった。あまりに面倒で起っている事件は異様すぎて、却《かえ》って梶に迫力を与えない。のみならず、どこかで栖方をまだ狂人と思っているところがあって、何を云っても彼を許しておけるのだった。
「父島まではどれほどかかるのです。」
「二時間です。あそこの電力は弱いから、実験は思うようには出来ないんですよ。それでも、一万フィートぐらいまでなら、効力がありますね。初めは海中では駄目だろうと思っていたんですが、海水は塩だから、空気中より海中の方が、効力のあることが分りましたよ。」
「へえ、一万フィートなら相当なものだな。うまくゆきますか、飛行機だと落ちますね。」
「落ちました。初め操縦士と合図しといて落下傘で飛び降りてから、その後の空虚《から》の飛行機へ光線をあてたのです。うまくゆきましたよ。操縦士と夕べは握手して、ウィスキイを二人で飲みました。愉快でしたよそのときは。」
自信に満ちた栖方の笑顔は、日常眼にする群衆の憂鬱《ゆううつ》な顔とはおよそかけ放れて晴れていた。
「潜水艦にもかけてみましたが、これは、うっかりして、後尾へ当っちゃったものだから、浮きあがる筈《はず》のやつが、いつまでも浮かないんですよ。気の毒なことをした。でも、まア、仕様がない、国のためだから、我慢をしてもらわなきゃア。」
ちょっと栖方は悲しげな表情になったが、それも忽《たちま》ち晴れあがった。
「日本の潜水艦?」と梶は驚いて訊ねた。
「そうです。いやだったなア、あのときは。もう実験はこりごりだと思いましたね。あれだからいやになる。」
異様な事件が不思議と真実の相をおびて梶に迫って来始めた。では、みな事実か。この青年の口走っていることは――
「しかし、そんな武器を悪人に持たした日には、事だなア。」と梶は思わず呟いた。
「そうですよ。監理が大変です。」
「人類が滅んじまうよ。」
「その武器を積んだ船が六ぱいあれば、ロンドンの敵前上陸が出来ますよ。アメリカなら、この月末にだって上陸は出来ますね。」
もう冗談事ではなかった。どこからどこまで充実した話か依然疑問は残りながらも、一言ごとに栖方の云い方は、空虚なものを充填《じゅうてん》しつつ淡淡とすすんでいる。梶は自分が驚いているのかどうか、も早やそれも分らなかった。しかし、どうしてこんな場合に、不意に悪人のことを自分は考えたのだろうか。たしかに、事は戦争の勝ち敗《ま》けのことだけでは済みそうにないと梶は思った。勿論《もちろん》、彼は自分が国を愛していることは疑わなかった。負けることを望むなどとは考えることさえ出来ないことだった。勝ってもらいたかった。しかし、勝っている間は、こんなに勝ちつづけて良いものだろうかという愁いがあった。それが敗《ま》け色がつづいて襲って来てみると、愁いどころの騒ぎでは納まらなかった。戦争というものの善悪《ぜんあく》如何《いかん》にかかわらず祖国の滅亡することは耐えられることではなかった。そこへ出現して来た栖方《せいほう》の新武器は、聞いただけでも胸の躍ることである。それに何故また自分はその武器を手にした悪人のことなど考えるのだろうか。ひやりと一抹《いちまつ》の不安を覚えるのはどうしたことだろうか。――梶は自分の心中に起って来たこの二つの真実のどちらに自分の本心があるものか、暫《しばら》くじっと自分を見るのだった。ここにも排中律の詰めよって来る悩ましさがうすうすともみ起って心を刺して来るのだった。先日までは、まだ栖方の新武器が夢だと思っていた先日まで、栖方の生命の安危が心配だったのに、それが事実に近づいて来てみると、彼のことなども早やどうでも良くなって、悪魔の所在を嗅《か》ぎつけようとしている自分だということは、――悪魔、たしかにいるのだこ奴は、と梶《かじ》は思った。
「その君の武器は、善人に手渡さなきゃア、国は滅ぶね。もし悪人に渡した日には、そりゃ、敗けだ。」と、何ぜともなく梶は呟《つぶや》いて立ち上った。神います、と彼は文句なくそう思ったのである。
栖方と梶とは外へ出た。西日の射《さ》す退《ひ》けどきの渋谷のプラットは、車内から流れ出る客と乗り込む客とで渦巻いていた。その群衆の中に混って、乗るでもない、降りもしない一人の背高い、蒼《あお》ざめた帝大の角帽姿の青年が梶の眼にとまった。憂愁を湛《たた》えた清らかな眼差《まなざし》は、細く耀《かがや》きを帯びて空中を見ていたが、栖方を見ると、つと美しい視線をさけて外方《そっぽ》を向いたまま動かなかった。
「あそこに帝大の生徒がいるでしょう。」
と栖方は梶に云った。
「ふむ。いる。」
「あれは僕の同僚ですよ。やはり海軍詰めですがね。」
群衆の流れのままに二人は、海軍と理科との二つの襟章をつけたその青年の方へ近づいた。
「あッ、黙っているな。敵愾心《てきがいしん》を感じたかな。」と栖方は云うと、横を向いた青年の背後を、これもそのまま梶と一緒に過ぎていった。
「もう僕は、憎まれる憎まれる。誰も分ってくれやしない。」と栖方はまた呟いたが、歩調は一層|活溌《かっぱつ》に戞戞《かつかつ》と響いた。並んだ梶は栖方の歩調に染ってリズミカルになりながら、割れているのは群衆だけではないと思った。日本で最も優秀な実験室の中核が割れているのだ。
栖方が待たせてあると云った自動車は、渋谷の広場にはいなかった。そこで二人は都電で六本木まで行くことにしたが、栖方は、自動車の番号を梶に告げ、街中で見かけたときはその番号を呼び停《と》めていつでも乗ってくれと云ったりした。電車の中でも栖方は、二十一歳の自分が三十過ぎの下僚を呼びつけにする苦痛を語ってから、こうも云った。
「僕がいま一番尊敬しているのは、僕の使っている三十五の伊豆《いず》という下級職工ですよ。これを叱《しか》るのは、僕には一番|辛《つら》いことですが、影では、どうか何を云っても赦《ゆる》して貰いたい、工場の中だから、君を呼び捨てにしないと他のものが、云うことを聞いてはくれない、国のためだと思って、当分は赦してほしいと頼んであるんです。これは豪《えら》い男ですよ。人格も立派です。そこへいくと、僕なんか、伊豆を呼び捨てに出来たもんじゃありませんがね。」
この栖方のどこが狂人なのだろうか、と梶はまた思った。二十一歳で博士になり、少佐の資格で、齢上《としうえ》の沢山な下僚を呼び捨てに手足のごとく使い、日本人として最高の栄誉を受けようとしている青年の挙動は、栖方を見遁《みのが》して他に例のあったためしはない。それなら、これからゆく先の長い年月、栖方は今あるよりもただ下るばかりである。何という不幸なことだろう、梶はこの美しい笑顔をする青年が気の毒でならなかった。
六本木で二人は降りた。橡《とち》の木の並んだ狸穴《まみあな》の通りを歩いたとき、夕暮のせまった街に人影はなかった。そこを坂下からこちらへ十人ばかりの陸軍の兵隊が、重い鉄材を積んだ車を曳《ひ》いて登って来ると、栖方の大尉の襟章を見て、隊長の下士が敬礼ッと号令した。ぴたッと停《とま》った一隊に答礼する栖方の挙手は、隙《すき》なくしっかり板についたものだった。軍隊内の栖方の姿を梶は初めて見たと思った。
「もう君には、学生臭はなくなりましたね。」と梶は云った。
「僕は海軍より陸軍の方が好きですよ。海軍は階級制度がだらしなくって、その点陸軍の方がはっきりしていますからね。僕はいま陸軍から引っ張りに来ているんですが、海軍が許さないのです。」
水交社《すいこうしゃ》が見えて来た。この海軍将校の集会所へ這入《はい》るのは、梶には初めてであった。どこの煙筒からも煙の出ないころだったが、ここの高い煙筒だけ一本|濛濛《もうもう》と煙を噴き上げていた。携帯品預所の台の上へ短剣を脱《はず》して出した栖方は、剣の柄のところに菊の紋の彫られていることを梶に云って、
「これ僕んじゃないのですが、恩賜の軍刀ですよ。他人のを借りて来たんです。もうじき、僕も貰うもんですから。」
子供らしくそう云いながら、室の入口へ案内した。そこには佐官以上の室の標札が懸っていた。油の磨きで黒黒とした光沢のある革張りのソファや椅子《いす》の中で、大尉の栖方は若若しいというより、少年に見える不似合な童顔をにこにこさせ、梶に慰めを与えようとして骨折っているらしかった。食事のときも、集っている将校たちのどの顔も沈鬱《ちんうつ》な表情だったが、栖方だけ一人|活《い》き活《い》きとし笑顔で、肱《ひじ》を高くビールの壜《びん》を梶のコップに傾けた。フライやサラダの皿が出たとき、
「そんな君の尉官の襟章で、ここにいてもいいのですか。」と梶は訊《たず》ねてみた。
「みなここの人は僕のことを知ってますよ。」
栖方は悪びれずに答えた。そのとき、また一人の佐官が梶の傍へ来て坐《すわ》った。そして、栖方に挨拶《あいさつ》して黙黙とフォークを持ったが、この佐官もひどくこの夕は沈んでいた。もう海軍力はどこの海面のも全滅している噂《うわさ》の拡《ひろ》がっているときだった。レイテ戦は総敗北、海軍の大本山、戦艦大和も撃沈された風説が流れていた。
珍らしいパン附の食事を終ってから、梶と栖方は、中庭の広い芝生へ降りて東郷神社と小額のある祠《ほこら》の前の芝生へ横になった。中庭から見た水交社は七階の完備したホテルに見えた。二人の横たわっている前方の夕空にソビエットの大使館が高さを水交社と競っていた。東郷|小祠《しょうし》の背後の方へ、折れ曲っている広い特別室に灯が入った。栖方は黄楊《つげ》の葉の隙から見える後のその室を指して、
「あれは少将以上の食堂ですが、何か会議があるらしいですよ。」と説明した。大きな建物全体の中でその一室だけ煌煌《こうこう》と明るかった。爽《さわ》やかな白いテーブルクロスの間を白い夏服の将官たちが入口から流れ込んで来た。梶は、敗戦の将たちの灯火を受けた胸の流れが、漣《さざなみ》のような忙しい白さで着席していく姿と、自分の横の芝生にいま寝そべって、半身を捻《ね》じ曲げたまま灯の中をさし覗《のぞ》いている栖方を見比べ、大厦《たいか》の崩れんとするとき、人皆この一木に頼るばかりであろうかと、あたりの風景を疑った。一人の明※[#「析/日」、第3水準1-85-31]判断《めいせきはんだん》のない狂いというものの持つ恐怖は、も早や日常茶飯事の平静ささえ伴なっている静かな夕暮だった。
「ここへ来る人間は、みなあの部屋へ這入《はい》りたいのだろうが、今夜のあの灯の下には哀愁があるね。前にはソビエットが見ているし。」
「僕は、本当は小説を書いてみたいんですよ。帝大新聞に一つ出したことがあるんですが、相対性原理を叩《たた》いてみた小説で、傘屋の娘というです。」
どういう栖方《せいほう》の空想からか、突然、栖方は手枕《てまくら》をして梶《かじ》の方を向き返って云った。
「ふむ。」梶はまことに意外であった。
「長篇《ちょうへん》なんですよ。数学の教授たちは面白い面白いと云ってくれましたが、僕はこれから、数学を小説のようにして書いてみたいんです。あなたの書かれた旅愁というの、四度読みましたが、あそこに出て来る数学のことは面白かったなア。」
考えれば、寝ても立ってもおられぬときだのに、大厦《たいか》を支える一木が小説のことをいうのである。遽《あわただ》しい将官たちの往《ゆ》き来《き》とソビエットに挟まれた夕闇《ゆうやみ》の底に横たわりながら、ここにも不可解な新時代はもう来ているのかしれぬと梶は思った。
「それより、君の光線の色はどんな色です。」と梶は話を反らせて訊《たず》ねた。
「僕の光線は昼間は見えないけども、夜だと周囲がぽッと青くて、中が黄色い普通の光です。空に上ったら見ていて下さい。」
「あそこでやっている今夜の会議も、君の光の会議かもしれないな。どうもそれより仕様がない。」
暗くなってから二人は帰り仕度をした。携帯品預所で栖方は、受け取った短剣を腰に吊《つ》りつつ梶に、「僕は功一級を貰うかもしれませんよ。」と云って、元気よく上着を捲《ま》くし上げた。
外へ出て真ッ暗な六本木の方へ、歩いていくときだった。また栖方は梶に擦りよって来ると、突然声をひそめ、今まで抑《おさ》えていたことを急に吐き出すように、
「巡洋艦四|隻《せき》と、駆逐艦四隻を沈めましたよ。光線をあてて、僕は時計をじっと計っていたら、四分間だった。たちまちでしたよ。」
あたりには誰もいなかった。暗中|匕首《あいくち》を探ぐってぐっと横腹を突くように、栖方は腰のズボンの時計を素早く計る手つきを示して梶に云った。
「しかし、それなら発表するでしょう。」
「そりゃ、しませんよ。すぐ敵に分ってしまう。」
「それにしても――」
二人はまた黙って歩きつづけた。緊迫した石垣の冷たさが籠《こ》み冴《さ》えて透《とお》った。暗い狸穴《まみあな》の街路は静な登り坂になっていて、ひびき返る靴音だけ聞きつつ梶は、先日から驚かされた頂点は今夜だったと思った。そして、栖方の云うことを嘘《うそ》として退けてしまうには、あまりに無力な自分を感じてさみしかった。いや、それより、自分の中から剥《は》げ落ちようとしている栖方の幻影を、むしろ支えようとしているいまの自分の好意の原因は、みな一重に栖方の微笑に牽引《けんいん》されていたからだと思った。彼はそれが口惜しく、ひと思いに彼を狂人として払い落してしまいたかった。梶は冷然としていく自分に妙に不安な戦慄《せんりつ》を覚え、黒黒とした樹立《こだち》の沈黙に身をよせかけていくように歩いた。
「僕はね、先生。」とまた暫《しばら》くして、栖方は梶に擦りよって来て云った。「いま僕は一つ、悩んでいることがあるんですよ。」
「何んです。」
「僕は今まで一度も、死ぬということを恐《こわ》いと思ったことはなかったんですが、どういうものだが、先日から死ぬことが恐くなって来たんです。」
栖方の本心が眼覚《めざ》めて来ている。梶はそう思って、「ふむ」と云った。
「何ぜでしょうかね。僕はもうちょっと生きていたいのですよ。僕はこのごろ、それで眠れないのです。」
深部の人間が揺れ動いて来ている声である。気附いたなと梶は思った。そして、耳をよせて次の栖方の言葉を待つのだった。また二人は黙って暫く歩いた。
「僕はもう、誰かにすがりつきたくって、仕様がない。誰もないのです。」
今まで無邪気に天空で戯れていた少年が人のいない周囲を見廻《みまわ》し、ふと下を覗《のぞ》いたときの、泣きだしそうな孤独な恐怖が洩《も》れていた。
「そうだろうな。」
答えようのない自分がうすら悲しく、梶は、街路樹の幹の皮の厚さを見過してただ歩くばかりだった。彼は早く灯火の見える辻《つじ》へ出たかった。丁度、そうして夕暮れ鉄材を積んだ一隊の兵士と出会った場所まで来たとき、溌剌《はつらつ》としていた昼間の栖方を思い出し、やっと梶は云った。
「しかし、君、そういうところから人間の生活は始まるのだから、あなたもそろそろ始まって来たのですよ。何んでもないのだ、それは。」
「そうでしょうか。」
「誰にもすがれないところへ君は出たのさ。零《ゼロ》を見たんですよ。この通りは狸穴といって、狸《たぬき》ばかり棲《す》んでいたらしいんだが、それがいつの間にか、人間も棲むようになって、この通りですからね。僕らの一生もいろんなところを通らねばならんですよ。これだけはどう仕様もない。まァ、いつも人は、始まり始まりといって、太鼓でも叩《たた》いて行くのだな。死ぬときだって、僕らはそう為《し》ようじゃないですか。」
「そうだな。」
漸《よう》やく泣き停ったような栖方の正しい靴音が、また梶に聞えて来た。六本木の停留所の灯が二人の前へさして来て、その下に塊《かたま》っている二三の人影の中へ二人は立つと、電車が間もなく坂を昇って来た。
秋風がたって九月ちかくなったころ、高田が梶の所へ来た。栖方の学位論文通過の祝賀会を明日催したいから、梶に是非出席してほしい、場所は横須賀で少し遠方だが、栖方から是非とも梶だけは連れて来て貰いたいと依頼されたということで、会を句会にしたいという。句会の祝賀会なら出席することにして、梶は高田の誘いに出て来る明日を待った。
「どういう人が今日は出るのです。」
と、梶は次の日、横須賀行の列車の中で高田に訊ねた。大尉級の海軍の将校数名と俳句に興味を持つ人たちばかりで、山の上にある飛行機製作技師の自宅で催すのだと、高田の答えであった。
「この技師は俳句も上手《うま》いが、優秀な豪《えら》い技師ですよ。僕と俳句友達ですから、遠慮の要《い》らない間柄なんです。」と高田は附加して云った。
「しかし、憲兵に来られちゃね。」
「さァ、しかし、そこは句会ですから、何とかうまくやるでしょう。」
途中の間も、梶と高田は栖方が狂人か否かの疑問については、どちらからも触れなかった。それにしても、栖方を狂人だと判定して梶に云った高田が、その栖方の祝賀会に、梶を軍港まで引き摺《ず》り出そうとするのである。技師の宅は駅からも遠かった。海の見える山の登りも急な傾きで、高い石段の幾曲りに梶は呼吸がきれぎれであった。葛《くず》の花のなだれ下った斜面から水が洩れていて、低まっていく日の満ちた谷間の底を、日ぐらしの声がつらぬき透っていた。
頂上まで来たとき、青い橙《だいだい》の実に埋った家の門を這入《はい》った。そこが技師の自宅で句会はもう始っていた。床前に坐《すわ》らせられた正客の栖方の頭の上に、学位論文通過祝賀俳句会と書かれて、その日の兼題も並び、二十人ばかりの一座は声もなく句作の最中であった。梶と高田は曲縁の一端のところですぐ兼題の葛の花の作句に取りかかった。梶は膝《ひざ》の上に手帖を開いたまま、中の座敷の方に背を向け、柱にもたれていた。枝をしなわせた橙の実の触れあう青さが、梶の疲労を吸いとるようであった。まだ明るく海の反射をあげている夕空に、日ぐらしの声が絶えず響き透っていた。
「これは僕の兄でして。今日、出て来てくれたのです。」
栖方は後方から小声で梶に紹介した。東北なまりで、礼をのべる小柄な栖方の兄の頭の上の竹筒から、葛《くず》の花が垂れていた。句会に興味のなさそうなその兄は、間もなく、汽車の時間が切れるからと挨拶《あいさつ》をして、誰より先に出ていった。
「橙《たう》青き丘の別れや葛の花」
梶《かじ》はすぐ初めの一句を手帖に書きつけた。蝉《せみ》の声はまだ降るようであった。ふと梶は、すべてを疑うなら、この栖方《せいほう》の学位論文通過もまた疑うべきことのように思われた。それら栖方のしていることごとが、単に栖方個人の夢遊中の幻影としてのみの事実で、真実でないかもしれない。いわば、その零《ゼロ》のごとき空虚な事実を信じて誰も集り祝っているこの山上の小会は、いまこうして花のような美しさとなり咲いているのかもしれない。そう思っても、梶は不満でもなければ、むなしい感じも起らなかった。
「日ぐらしや主客に見えし葛の花」と、また梶は一句書きつけた紙片を盆に投げた。
日が落ちて部屋の灯が庭に射《さ》すころ、会の一人が隣席のものと囁《ささや》き交しながら、庭のま垣の外を見詰めていた。垣裾《かきすそ》へ忍びよる憲兵の足音を聞きつけたからだった。主宰者が憲兵を中へ招じ入れたものか、どうしたものかと栖方に相談した。
「いや、入れちゃ不可《いか》ん。癖になる。」
床前に端座した栖方は、いつもの彼には見られぬ上官らしい威厳で首を横に振った。断乎《だんこ》とした彼の即決で、句会はそのまま続行された。高田の披講で一座の作句が読みあげられていくに随《したが》い、梶と高田の二作がしばらく高点を競りあいつつ、しだいにまた高田が乗り越えて会は終った。丘を下っていくものが半数で、栖方と親しい後の半数の残った者の夕食となったが、忍び足の憲兵はまだ垣の外を廻《まわ》っていた。酒が出て座がくつろぎかかったころ、栖方は梶に、
「この人はいつかお話した伊豆《いず》さんです。僕の一番お世話になっている人です。」
と紹介した。
労働服の無口で堅固な伊豆に梶は礼をのべる気持になった。栖方は酒を注《つ》ぐ手伝いの知人の娘に軽い冗談を云ったとき、親しい応酬をしながらも、娘は二十一歳の博士の栖方の前では顔を赧《あか》らめ、立居に落ち付きを無くしていた。いつも両腕を組んだ主宰者の技師は、静かな額に徳望のある気品を湛《たた》えていて、ひとり和やかに沈む癖があった。
東京からの客は少量の酒でも廻りが早かった。額の染った高田は仰向きに倒れて空を仰いだときだった。灯をつけた低空飛行の水上機が一機、丘すれすれに爆音をたてて舞って来た。
「おい、栖方の光線、あいつなら落せるかい。」と高田は手枕《てまくら》のまま栖方の方を見て云った。一瞬どよめいていた座はしんと静まった。と、高田ははッと我に返って起きあがった。そして、厳しく自分を叱責《しっせき》する眼付きで端座し、間髪を入れぬ迅《はや》さで再び静まりを逆転させた。見ていて梶は、鮮かな高田の手腕に必死の作業があったと思った。襯衣《シャツ》一枚の栖方はたちまち躍るように愉《たの》しげだった。
その夜は梶と高田と栖方の三人が技師の家の二階で泊った。高田が梶の右手に寝て、栖方が左手で、すぐ眠りに落ちた二人の間に挟まれた梶は、寝就《ねつ》きが悪く遅くまで醒《さ》めていた。上半身を裸体にした栖方は蒲団《ふとん》を掛けていなかった。上蒲団の一枚を四つに折って顔の上に乗せたまま、両手で抱きかかえているので、彼の寝姿は座蒲団を四五枚顔の上に積み重ねているように見えて滑稽《こっけい》だった。どういう夢を見ているものだろうかと、夜中ときどき梶は栖方を覗《のぞ》きこんだ。ゆるい呼吸の起伏をつづけている臍《へそ》の周囲のうすい脂肪に、鈍く電灯の光が射していた。蒲団で栖方の顔が隠れているので、首なしのようにみえる若い胴の上からその臍が、
「僕、死ぬのが何んだか恐《こわ》くなりました。」と梶に呟《つぶや》くふうだった。梶は栖方の臍も見たと思って眠りについた。
梶と栖方はその後一度も会っていない。その秋から激しくなった空襲の折も、梶は東京から一歩も出ず空を見ていたが、栖方の光線はついに現れた様子がなかった。梶は高田とよく会うたびに栖方のことを訊《たず》ねても、家が焼け棲家《すみか》のなくなった高田は、栖方についてはもう興味の失《う》せた答えをするだけで、何も知らなかった。ただ一度、栖方と別れて一ヶ月もしたとき、句会の日の技師から高田にあてて、栖方は襟章の星を一つ附加していた理由を罪として、軍の刑務所へ入れられてしまったという報告のあったことと、空襲中、技師は結婚し、その翌日急病で死亡したという二つの話を、梶は高田から聞いただけである。栖方と同じ所に勤務していた技師に死なれては、高田もそこから栖方のことを聞く以外に、方法のなかったそれまでの道は断ちきれたわけであった。随《したが》って梶もまたなかった。
戦争は終った。栖方は死んでいるにちがいないと梶は思った。どんな死に方か、とにかく彼はもうこの世にはいないと思われた。ある日、梶は東北の疎開先にいる妻と山中の村で新聞を読んでいるとき、技術院総裁談として、わが国にも新武器として殺人光線が完成されようとしていたこと、その威力は三千メートルにまで達することが出来たが、発明者の一青年は敗戦の報を聞くと同時に、口惜しさのあまり発狂死亡したという短文が掲載されていた。疑いもなく栖方のことだと梶は思った。
「栖方死んだぞ。」
梶はそう一言妻に伝って新聞を手渡した。一面に詰った黒い活字の中から、青い焔《ほのお》の光線が一条ぶつと噴きあがり、ばらばらッと砕け散って無くなるのを見るような迅さで、梶の感情も華ひらいたかと思うと間もなく静かになっていった。みな零になったと梶は思った。
「あら、これは栖方さんだわ。とうとう亡くなったのね。一機も入れないって、あたしに云ってらしたのに。ほんとに、敗《ま》けたと聞いて、くらくらッとしたんだわ。どうでしょう。」
妻のそういう傍で、梶は、栖方の発狂はもうすでにあのときから始っていたのだと思われた。彼の云ったりしたりしたことは、あることは事実、あることは夢だったのだと思った。そして、梶は自分も少しは彼に伝染して、発狂のきざしがあったのかもしれないと疑われた。梶は玉手箱の蓋《ふた》を取った浦島のように、呆《ほう》ッと立つ白煙を見る思いで暫《しばら》く空を見あげていた。技師も死に、栖方も死んだいま見る空に彼ら二人と別れた横須賀の最後の日が映じて来る。技師の家で一泊した翌朝、梶は栖方と技師と高田と四人で丘を降りていったとき、海面に碇泊《ていはく》していた潜水艦に直撃を与える練習機を見降ろしながら、技師が、
「僕のは幾ら作っても作っても、落される方だが、栖方のは落とす方だからな、僕らは敵《かな》いませんよ。」
悄然《しょうぜん》として呟く紺背広《こんせびろ》の技師の一歩前で、これはまた溌剌《はつらつ》とした栖方の坂路を降りていく鰐足《わにあし》が、ゆるんだ小田原提灯《おだわらぢょうちん》の巻ゲートル姿で泛《うか》んで来る。それから三笠艦を見物して、横須賀の駅で別れるとき、
「では、もう僕はお眼にかかれないと思いますから、お元気で。」
はっきりした眼付きで、栖方はそう云いながら、梶に強く敬礼した。どういう意味か、梶は別れて歩くうち、ふと栖方のある覚悟が背に沁《し》み伝わりさみしさを感じて来たが、――
疎開先から東京へ戻って来て梶は急に病気になった。ときどき彼を見舞いに来る高田と会ったとき、梶は栖方のことを云い出してみたりしたが、高田は死児の齢《よわい》を算《かぞ》えるつまらなさで、ただ曖昧《あいまい》な笑いをもらすのみだった。
「けれども、君、あの栖方の微笑だけは、美しかったよ。あれにあうと、誰でも僕らはやられるよ。あれだけは――」
微笑というものは人の心を殺す光線だという意味も、梶は含めて云ってみたのだった。それにしても、何よりも美しかった栖方《せいほう》のあの初春のような微笑を思い出すと、見上げている空から落ちて来るものを待つ心が自ら定って来るのが、梶《かじ》には不思議なことだった。それはいまの世の人たれもが待ち望む一つの明※[#「析/日」、第3水準1-85-31]判断《めいせきはんだん》に似た希望であった。それにも拘《かかわ》らず、冷笑するがごとく世界はますます二つに分れて押しあう排中律のさ中にあって漂いゆくばかりである。梶は、廻転《かいてん》している扇風機の羽根を指差しぱッと明るく笑った栖方が、今もまだ人人に云いつづけているように思われる。
「ほら、羽根から視線を脱《はず》した瞬間、廻《まわ》っていることが分るでしょう。僕もいま飛び出したばかりですよ。ほら。」
底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
1981(昭和56)年~
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2003年6月12日作成
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