断食芸人               EIN HUNGERKUNSTLER フランツ・カフカ Franz Kafka ——原田義人訳

 この何十年かのあいだに、断食芸人たちに対する関心はひどく下落してしまった。以前には一本立てでこの種の大きな興行を催すことがいいもうけになったのだが、今ではそんなことは不可能だ。あのころは時代がちがっていたのだ。あのころには町全体が断食芸人に夢中になった。断食日から断食日へと見物人の数は増えていった。だれもが少なくとも日に一度は断食芸人を見ようとした。興行の終りごろには予約の見物人たちがいて、何日ものあいだ小さな格子檻《こうしおり》の前に坐りつづけていた。夜間にも観覧が行われ、効果を高めるためにたいまつの光で照らされた。晴れた日には檻が戸外へ運び出される。すると、断食芸人を見せる相手はとくに子供たちだった。大人たちにとってはしばしばなぐさみにすぎず[#「なぐさみにすぎず」は底本では「なぐさみにすぎす」]、ただ流行だというので見るだけだが、子供たちはびっくりして口を開けたまま、安全のためにたがいに手を取り合って断食芸人の様子をながめるのだった。断食芸人は、顔|蒼《あお》ざめ、黒のトリコット製のタイツをはき、あばら骨がひどく出ており、椅子さえはねつけて、まき散らしたわらの上に坐り、一度ていねいにうなずいてから無理に微笑をつくって観客の質問に答え、また格子を通して腕をさし出し、自分のやせ加減を観客にさわらせ、やがてふたたびすっかりもの思いにふけるような恰好となり、もうだれのことも気にかけず、檻のなかのただ一つの家具である時計の、彼にとってきわめて大切な時を打つ音もまったく気にかけず、ただほとんど閉じた両眼で前をぼんやり見つめ、唇をぬらすためにときどき小さなコップから水をすするのだった。
 入れ変わる見物人のほかに、観客たちに選ばれた常任の見張りがいて、これが奇妙にもたいていは肉屋で、いつでも三人が同時に見張る。彼らの役目は、断食芸人が何か人に気づかれないようなやりかたで食べものをとるようなことのないように、昼も夜も彼を見守るということだった。だが、それはただ大衆を安心させるために取り入れられた形式にすぎなかった。というのは、事情に通じた人びとは、断食芸人はどんなことがあっても、いくら強制されても、断食期間にはけっしてほんの少しでもものを食べなかった、ということをよく知っていた。この術の名誉がそういうことを禁じていたのだ。むろん、見張りがみなそういうことを理解しているわけではなかった。ときどきは見張りをひどくいい加減にやるようなグループがあった。彼らはわざと離れた片隅に坐り、そこでトランプ遊びにふけるのだった。それは、彼らの考えによれば断食芸人が何かひそかに同意してある品物から取り出すことができるはずのちょっとした飲食物をとるのを見逃がしてやっていい、というつもりらしかった。こんな見張りたちほどに断食芸人に苦痛を与えるものはなかった。この連中は彼を悲しませた。断食をひどく困難にした。ときどき彼は自分の衰弱をじっとこらえて、この連中がどんなに不当な嫌疑を自分にかけているのかということを示すため、こんな見張りがついているあいだじゅう、我慢できる限り歌を歌ってみせた。しかし、それもほとんど役に立たなかった。そうすると連中はただ、歌を歌っているあいだにもものが食べられるという器用さに感心するだけだった。芸人にとっては、格子のすぐ前に坐り、ホールのぼんやりした夜間照明では満足しないで、興行主が自由に使うようにと渡した懐中電燈で自分を照らすような見張りたちのほうがずっと好ましかった。そのまばゆい光は彼にはまったく平気だった。眠ることはおよそできないが、少しばかりまどろむことは、どんな照明の下でも、どんな時間にでも、また超満員のさわがしいホールにおいてでも、できたのだ。彼にとっては、こうした見張り番たちといっしょに一睡もしないで夜を過ごすことは好むところだった。こうした連中と冗談を言い合ったり、自分の放浪生活のいろいろな話を物語ったり、つぎに今度はむこうの物語を聞いたりする用意があった。そうしたことはすべて、ただ彼らを目ざませておき、自分が何一つ食べものを檻のなかにもってはいないということ、彼らのうちのだれだってできないほど自分が断食をつづけているということを、彼らにくり返し見せてやることができるからだった。しかし、彼がいちばん幸福なのは、やがて朝がきて、彼のほうの費用もちで見張り番たちにたっぷり朝食が運ばれ、骨の折れる徹夜のあとの健康な男たちらしい食欲で彼らがその朝食にかぶりつくときだった。この朝食を出すことのうちに見張り番たちに不当な影響を与える買収行為を見ようとする連中さえいることはいたが、しかしそんなことはゆきすぎだった。そういう連中が、それならただ監視ということだけのために朝食なしで夜警の仕事を引き受けるつもりがあるかとたずねられれば、彼らも返事はためらうのだった。それにもかかわらずこの連中からは嫌疑は去らなかった。
 とはいえ、これは断食というものとおよそ切り離すことのできない嫌疑の一つではあった。実際、だれも連日連夜たえず断食芸人のそばで見張りとして過ごすことはできなかった。したがって、だれも自分自身の眼でながめたことから、ほんとうに引きつづきまちがいなしに断食が実行されたかどうか、知ることはできなかった。ただ断食芸人自身だけがそれを知ることができた。だから彼だけが同時に、自分の断食に完全に満足している見物人であることができるのだった。だが、彼はまた別な理由からけっして満足していなかった。おそらく彼は断食によっては人びとの多くが彼を見るにしのびないというのであわれみの気持からこの実演を敬遠しないでいられないほどもやせ衰えているのではなくて、ただ自分自身に対する不満足からそんなにもやせ衰えているのだった。つまり、彼だけが、ほかの事情に明るい人も一人としてこのことを知らないのだが、断食がどんなにやさしいか、ということを知っていた。それはこの世でいちばんやさしいことだった。彼はそのことを秘密にしておいたわけではなかったが、人びとは彼のいうことを信じなかった。よくいってせいぜい人は彼のことを謙遜《けんそん》だと考えるのだが、たいていは宣伝屋だとか、インチキ師だとか考えるのだった。このインチキ師は、断食をやさしくすることを心得ているために断食はやさしいというわけだし、また厚かましくもそれを半ば白状さえするのだ、というわけだ。こうしたすべてを彼は甘受しなければならなかった。長い年月のあいだにはそんなことに慣《な》れたけれども、心のうちではこの不満がいつも彼をむしばんでいた。そして、まだ一度でも、断食期間が終ったあとで――その証明書が彼に交付されることになっていたが――みずから進んで檻を離れたことはなかった。断食の最大期間を興行主は四十日間ときめていて、それ以上は一度も断食させなかったし、大都会でもさせなかった。しかももっともな理由からだった。およそ四十日ぐらいのあいだは、経験からいうとだんだんと高まっていく宣伝によって一つの町の関心をいよいよそそることができたが、それからは観衆も受けつけなくなり、客の数がぐんと減るということがはっきりみとめられるのだった。むろんこの点では町と田舎《いなか》とではわずかなちがいはあったが、通常は四十日が最大期間であるという相場だった。そこで四十日目には、花でまわりを飾られた檻の戸が開かれ、熱狂した観客が円形劇場を埋め、軍楽隊が演奏し、断食芸人に必要な検査を行うために二人の医師が檻のなかへ入る。メガフォンによってその検査の結果が場内に知らされる。最後に二人の若い婦人が、ほかならぬ自分たちがくじ[#「くじ」に傍点]で選ばれたことをよろこびながらやってきて、断食芸人を檻から一、二段下へ手を引いて下ろそうとする。そこには小さなテーブルの上に念入りに選ばれた病人食が用意されているのだ。そして、この瞬間、断食芸人はいつでもさからおうとするのだった。なるほど彼は自分の骨の出た両腕を自分のほうへかがんだご婦人がたの助けてくれようとしてさし出された手に進んでのせはするのだが、立ち上がろうとはしないのだ。なぜ、まさに今、四十日後にやめるのか。もっと長く、際限もなく長くもちこたえただろうに。なぜ、まさに今、彼が最上の断食状態にあるところで、いや、まだけっして最上の断食状態にまでいっていないところでやめるのか。なぜ人びとは、もっと断食するという名誉、ただあらゆる時代を通じての最大の断食芸人であるばかりでなく(まったく、彼はもう最大の断食芸人にちがいないのだ)、自分自身を限りないところまで超えるという名誉を、彼から奪おうとするのか。断食する自分の能力にとって彼はどんな限界も感じていないのだった。なぜ彼をこんなにも感嘆していると称するこの群集がこんなにわずかしか辛抱しないのか。彼がこれ以上断食することに耐えるのなら、なぜ群集のほうでも耐えないのか。彼は疲れてはいたが、わらのなかでちゃんと坐っていた。今度はきちんと長いあいだ身体を起こし、食事のあるところへ行かなければならない。食事は、ただ考えただけで胸がむかついてきたが、それを口に出すことは助けてくれているご婦人たちへの遠慮からやっとこらえた。そして、見たところはひどく親切そうだが、ほんとうはひどく残酷なご婦人がたの眼を仰ぎ見て、弱い首の上でいよいよ重くなっている頭を振るのだった。だが、それからはいつでも起こることが起こるだけだ。興行主がやってきて、無言のまま――音楽が演説を不可能にしていた――両腕を断食芸人の頭上に上げる。まるで、天に向って、ここのわらの上にいる天の創造物、このあわれむべき殉難者《じゅんなんしゃ》をどうか見て下さい、とさそうかのようだ。たしかに断食芸人は殉難者ではあったが、ただまったく別な意味でなのだ。それから興行主は断食芸人の細い胴を抱く。その場合、誇張した慎重《しんちょう》さで、自分は今こわれやすいようなものを扱わなければならないのだ、と見る人に信じさせようとする。それから彼は――こっそり芸人の身体を少しゆするので、芸人は足と上体とを支えることができないため、あちこちとゆれる――そのあいだに死人のように顔が蒼ざめてしまったご婦人がたの手に芸人を渡す。もう断食芸人はすべてを我慢していた。頭は胸の上に垂れ下がり、まるで頭がころがっていき、胸の上でどうしてかわからないがとまっているかのようだった。身体は空っぽになっていた。両脚は自己保存の本能によって膝のところでぴったり合わさっていたが、地面をまるでほんとうの地面ではないというような様子でこするのだった。ほんとうの地面を両脚はまず最初に探しているのだった。そして、身体全体の重みが、とはいってもごくわずかなものではあったが、二人のご婦人の一方にかかった。その婦人は、助けを求め、あえぎながら――彼女はこの名誉な役目をこんな恐ろしいものとは考えていなかったのだ――まず首をできるだけのばして、少なくとも顔を断食芸人とふれないようにしようとしたが、これが彼女にはうまくいかず、運のいい同役の婦人が自分を助けにきてはくれないで、ふるえながら小さな骨の束のような断食芸人の手をおしいただくような恰好で運んでいくことで満足しているので、場内の熱狂した笑い声の下でわっと泣き出し、ずっと前から待ちかまえさせられていた小使と交代しなければならなかった。つぎが食事であった。興行主は断食芸人が失心したようにうとうとしているあいだにその口に少しばかり流しこんだ。断食芸人のこんな状態から人びとの注意をそらそうとして、陽気なおしゃべりをしながら、それをやるのだった。つぎに観客に対して乾杯の言葉がいわれたが、これは芸人が興行主にささやいたものを興行主から観客に伝えるということになっていた。オーケストラがにぎやかな演奏によってそうしたすべてを景気づけ、人びとはそれぞれ帰っていく。だれも見物したものに不満をいう権利はなかった。だれもそんな権利はなかった。ただ断食芸人だけが不満だった。いつでも彼だけがそうだった。
 こうやって彼は定期的なわずかな休息期間を挟みながら、多年のあいだ生きてきた。外見上ははなばなしく、世間からもてはやされながら、そうやって生きてきた。だが、それにもかかわらずたいていはうち沈んだ気分のうちにいた。そうした気分は、だれ一人としてそれをまじめに受け取ることを知らないために、いよいようち沈んでいった。どうやって彼をなぐさめたらよいのだろうか。彼にはどんな不満が残っていたのだろうか。そして、ときに彼をあわれんで、君の悲哀はおそらく断食からきているのだ、と彼に向って説明しようとする者があると、とくに断食期間が進んでいる場合には、彼が怒りの発作でそれに答え、けもののように檻の格子をゆすってみんなをびっくりさせることが起こりかねないのだった。ところが、こうした状態に対して興行主は一つの処罰の手段をもっていて、好んでそれを使った。彼は集った観客の前で断食芸人のこうしたふるまいのわびをいって、満腹している人びとにはすぐにはわからないが、ただ断食によって生じる怒りっぽさというものだけによって断食芸人のこんなふるまいが無理からぬものと思っていただけるはずだ、などとみとめるのだ。つぎにそれと関連して、断食芸人が今断食しているよりももっとずっと長く断食できると主張していることも、それと同じような理由で説明がつく、と話すにいたる。そして、たしかにこうした断食芸人の主張のうちに含まれていると興行主がいう、高い努力、善意、偉大な自己否定などをほめそやす。ところが、つぎに写真を示して(これは売りもするのだが)、ごくあっさりと断食芸人の主張を否定しようとする。というのは、その写真の上に見られるのは、断食四十日目の芸人で、ベッドに寝ていて、衰弱のあまり消え入らんばかりの様子なのだ。真実をこうしてねじまげる興行主のやりかたは、断食芸人がよく知っているものだったが、いつでもあらためて彼の元気をそぎ、あんまり度がすぎるものと思われた。断食をあまりに早くうち切ることの結果なのが、今ここでは原因として述べられているわけだ! この愚劣さ、こうした愚劣さの世界と闘うことは、不可能だった。彼はまだ何度でも格子のそばで興行主の話をむさぼるように聞いていたいのだが、写真が現われるといつでも格子から離れ、溜息をつきながらわらのなかへどうとくずれてしまう。そして安心した観客はまた近づいてきて、彼をながめることができた。
 こうした情景の目撃者たちは、一、二年あとになってそのことを振り返って考えると、しばしば自分がわからなくなるのだった。というのは、そのあいだにあの前に述べた激変が起ったのだった。それは、ほとんど突然起った。いろいろと深いわけがあるのだろうが、そんなものを探し出す気にだれがなったろうか。いずれにしろ、ある日のこと、ちやほやされていた断食芸人は自分が楽しみを求める群集から見捨てられたのを知った。群集は断食芸人よりもほかの見世物のほうへ流れていくのだった。興行主はもう一度彼をつれてヨーロッパ半分を巡業して廻り、まだあちらこちらで昔のような関心がよみがえっているのではないか、と見ようとした。すべてむなしかった。こっそり申し合わせたようにどこでも断食の見世物を嫌う傾向がつくられてしまっていた。むろん、ほんとうは突然そういうことになったのではない。今おくればせながら、以前は成功の陶酔のなかで十分には気づかなかったが、しかし十分に抑えきれなかったいくつもの前兆のことが思い出された。しかし、今それに抗するために何かを企てるといっても、すでに遅すぎた。いつかは断食の全盛時代がふたたびくるだろう、ということは確実だったが、今生きている人びとにとってはそんなことはなんのなぐさめにもならなかった。そこで、断食芸人は何をやったらいいのだろうか。何千という観客の歓声に取り巻かれていた者が、けちな歳《とし》の市にかかる見世物小屋へ現われるわけにはいかない。ほかの職業につくためには、断食芸人は年をとりすぎていただけでなく、何よりもまず断食にあまりにも熱狂的に没頭していた。そこで彼は人生の比類ない同伴者であった興行主と別れ、ある大きなサーカスに雇われた。自分の神経の過敏さを傷つけないため、彼は契約書の条項は全然見なかった。
 いつでも員数の出入りが平均し、補充がついていく無数の人間や動物や道具類をもつ大きなサーカスは、だれをも、またどんなときにでも、使うことができる。断食芸人もそうだ。むろん、それ相応にひかえ目な注文しかつけはしない。それに、この特殊な場合にあっては、雇われたのは断食芸人その人ばかりではなく、彼の古くからの有名な名前もそうなのであり、実際、年をとっていくのに衰えないこの芸の特性を思うと、もはや技能の全盛期にはいない老朽の芸人が落ちついたサーカスの地位に逃げこもうとしているのだ、などとはけっしていえなかった。それどころか、断食芸人は(まったく信じるに価することだったが)以前と同じように断食できる、と断言した。そればかりでなく、もし自分の意志にまかせてくれるなら(そして、そのことはすぐに約束してくれたが)、今こそはじめて正当に人を驚かせるだろう、とさえ主張した。とはいえ、この主張は、断食芸人が熱中のあまり容易に忘れてしまっていた時代の風潮というものを考えあわせてみるならば、サーカスの専門家たちのあいだではただ薄笑いを招くだけではあった。
 だが、根本においては断食芸人はほんとうの事情を見抜く眼を失ってしまったわけではなく、檻つきの彼を主要番組としてサーカスの舞台のまんなかには置かずに、外の動物小屋に近い、ともかく人のまったく近づきやすい場所に置いたことを、自明なこととして受け入れたのだった。色とりどりに書かれた大きな文句が檻のまわりをふち取り、そこに見られるものを告げていた。観客が上演の休憩時間に動物たちを見ようとして動物小屋に押しよせてくるとき、ほとんど避けられないことだが、人のむれは断食芸人のそばを通りすぎていきながら、ほんのちょっとそこに立ちどまるだけであった。狭い通路にあとからあとからつめかける人びとが、いこうと思っている動物小屋への途中でなぜこうやって立ちどまるのかわからないまま、落ちついてもっと長くながめることを不可能にするのでなかったならば、おそらく人びとは断食芸人のところでもっと長くとまっていたことだろう。このことがまた、彼が自分の人生目的としてむろんくることを願っている見物時間のことを考えると、どうしても身ぶるいが出てくる理由でもあった。はじめのころは休憩時間をほとんど待ちきれないくらいだった。魅せられたようになって彼はつめかけてくる群集をながめていた。ところがついに、あまりにも早く――どんなに頑強に、ほとんど意識的に自分をあざむこうとしても、こうした実際の経験には勝てなかった――たいていはそのほんとうの目的からいうと、いつでも、例外なく、ただ動物小屋へいく人びとだけなのだ、ということを確信しないわけにはいかなかった。しかし、遠くから見るこうした光景は、やはりまだきわめてすばらしいものであった。というのは、人びとが彼のところへやってくると、彼はたちまち、たえず変っていく二種類の人びとの叫び声やののしりの言葉のすさまじいさわぎに取り巻かれるのだった。一方の人びとは――この連中のほうがやがて断食芸人にはいっそう耐えがたくなったのだが――彼をゆっくり見ようとする人たちだった。だが、それもよくわかってのことではなく、気まぐれとつむじ曲りとからだ。もう一方の人びとは、まず何よりも動物小屋へいこうとする人たちだった。大群が通り過ぎていくと、のろまな連中が遅れてやってくる。この連中は、ただその気さえあれば、もう立ちどまることができないわけではないのに、大股でさっさと歩き、わき眼もふらずに通り過ぎていき、遅くならぬうちに動物たちのところへいこうとするのだった。そして、それほどしょっちゅうあるわけではないが、運のいい場合には、父親が子供づれでやってきて、指で断食芸人をさし示し、これがどういうものなのかをくわしく説明し、昔のことを語り聞かせ、この断食芸人はこれと似てはいるが比較にならぬほど大じかけな実演に出ていたのだ、というのだった。すると子供たちは、学校と日常生活とから得ている予備知識が十分でないため、いつでもなんのことやらわからぬままではあったが――子供たちにとって断食はなんだというのだろう――、それでも子供たちの探るような眼の輝きのなかには、新しい、未来の、もっと恵まれた時代の何かあるものがちらついていた。すると断食芸人はときどき、もし自分の居場所がこんなにも動物小屋に近くなかったならば、万事はもう少しよかったろうに、と自分に言い聞かせるのだった。動物小屋の臭気の発散、夜間における動物たちのざわめき、猛獣たちにやるため眼の前を運ばれていく生肉、餌をやるときのけものの叫び声、こうしたものが芸人をひどく傷つけ、たえず彼の心を押しつけるということは別としても、サーカスの連中は芸人をこんなに動物小屋の近くに置くことによって、場所の選択をあまりに手軽にやってしまったのだ。しかし、サーカスの幹部にその事情をよく説明するということは、芸人はあえてやろうとしなかった。ともかく、動物たちのおかげで彼もこんなにたくさんの見物人をもっているわけだ。その見物人のあいだには、ときどきはもっぱら彼を見ようという人も見出すことができるというものだ。そして、もし彼が自分の存在を人びとに思い出させようとするなら、そしてそれによってまた自分が正確にいえばただ動物小屋へいく道の上にある障害にすぎないということを思い出させようとするなら、どこへ彼を押しこんでしまうものかわかったものではなかった。
 とはいっても、小さな障害にすぎないのだ。しかも、いよいよ小さくなっていく障害なのだ。この今日において断食芸人に対する注目を集めようという風変りな趣向にも、人びとはもう慣れてしまい、この慣れによって芸人に関する判断も下されるのだ。彼はおよそできるだけ断食をしたいだけだ。そして、それをやりもした。しかし、もう何ごとも彼を救うことはできず、人びとは彼のそばを通り過ぎていくだけだ。だれかに断食の術のことを説明しようとしてみるがよい! 感じない人間には、わからせることはできないのだ。檻にめぐらされた美しい客よせ文句の文字はよごれ、読めなくなってしまった。そこで、それは引きはがされ、だれ一人としてそのかわりをつくろうということに思いつく者はいなかった。やりとげた断食日数を示す数字を書いた小さな黒板は、最初のうちは念入りに毎日書きあらためられていたのだったが、もうずっと前からいつでも同じものになっていた。というのは、最初の一週間が過ぎると係員自身がこのつまらぬ仕事にあきてしまった。そこで、断食芸人は以前夢見たように断食をつづけていき、苦もなくあの当時に予言したようにそれをうまくやりとげることができはしたのだが、だれも日数を数える者がなく、だれ一人として、また断食芸人自身も、もうどのくらいの成績を上げたものか、わからなかった。そこで、彼の心はいよいよ重くなっていった。そのころにいつかひまな人間が立ちどまり、古ぼけた数字をからかい、インチキ師というようなことをいったが、それはこういう意味ではたしかに、冷淡さと生まれつきの性悪さとが発見するもっとも愚かしいいつわりであった。というのは、断食芸人はあざむいたりせず、正直に働いていたのだが、世間のほうが彼をあざむいて彼の当然もらうべき報酬《ほうしゅう》を奪ってしまったのだった。

 だが、それからふたたび多くの日々が流れ過ぎて、それもついに終りになった。あるとき、この檻が一人の監督の眼にとまって、なぜこの十分使える檻を、腐ったわらをなかにいれたまま、こんなところに利用もしないでほっておくのか、と小使たちにたずねた。だれもその理由がわからなかったが、とうとうそのうちの一人が数字板の助けによって断食芸人のことを思い出した。人びとが棒でわらをかき廻し、そのなかに断食芸人を発見した。
「君はまだ断食をやっているのかね?」と、その監督はたずねた。「いったい、いつになったらやめるつもりだね?」
「諸君、許してくれ」と、断食芸人はささやくような声でいった。耳を格子にあてていた監督だけが、芸人のいうことがわかった。
「いいとも」と、監督はいって、指を額に当て、それによって断食芸人の状態を係員たちにほのめかした。少し頭にきている、というしぐさだ。「許してやるともさ」
「いつもおれは、みんながおれの断食に感心することを望んでいたんだ」と、断食芸人はいった。
「みんな、感心しているよ」と、監督は芸人の意を迎えるような調子でいった。
「でも、みんなは感心してはいけないんだ」と、断食芸人はいった。
「そうか、それなら感心しないよ」と、監督はいった。「なぜ感心してはいけないんだね?」
「おれは断食しないではいられないだけの話だからだ。ほかのことはおれにはできないのだ」
「まあ、そういうなよ」と、監督はいった。「なぜほかのことはできないのだね?」
「それはな、おれが」と、断食芸人はいって、小さな頭を少しばかりもたげ、まるで接吻するように唇をとがらして、ひとことでももれてしまわないように監督のすぐ耳もとでささやいた。「うまいと思う食べものを見つけることができなかったからだ。うまいと思うものを見つけていたら、きっと、世間の評判になんかならないで、きっとあんたやほかの人たちみたいに腹いっぱい食っていたことだろうよ」
 これが最後の言葉だったが、まだ彼のかすんだ眼には、おれはもっと断食しつづけるぞ、というもう誇らしげではないにしろ固い確信の色が見えた。
「それじゃあ、片づけるんだ!」と、監督はいった。断食芸人はわらといっしょに埋められた。例の檻には一頭の若い豹《ひょう》が入れられた。あんなに長いこと荒れ果てていた檻のなかにこの野獣が跳《と》び廻っているのをながめることは、どんなに鈍感な人間にとってもはっきり感じられる気ばらしであった。豹には何一つ不自由なものはなかった。豹がうまいと思う食べものは、番人たちがたいして考えずにどんどん運んでいった。豹は自由がないことを全然残念がってはいないように見えた。あらゆる必要なものをほとんど破裂せんばかりに身にそなえたこの高貴な身体は、自由さえも身につけて歩き廻っているように見えた。歯なみのどこかに自由が隠れているように見えるのだった。生きるよろこびが豹の喉もとからひどく強烈な炎熱をもって吐き出されてくるので、見物人たちがそれに耐えることは容易ではないほどだった。だが、見物人たちはそれにじっと耐えて、檻のまわりにひしめきより、全然そこを立ち去ろうとはしなかった。

底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:青空文庫
2010年11月28日作成
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