審判   DER PROZESS  フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳



第一章 逮捕・グルゥバッハ夫人との
    対話・次にビュルストナー嬢

 誰かがヨーゼフ・Kを誹謗《ひぼう》したにちがいなかった。なぜなら、何もわるいことをしなかったのに、ある朝、逮捕されたからである。彼の部屋主グルゥバッハ夫人の料理女は、毎日、朝の八時ごろに朝食を運んでくるのだったが、この日に限ってやってはこなかった。そういうことはこれまであったためしがなかった。Kはなおしばらく待ち、枕《まくら》についたまま、向う側の家に住んでいる老婆がいつもとまったくちがった好奇の眼で自分を観察しているのをながめていたが、やがていぶかしくもあれば腹がすいてきもしたので、呼鈴を鳴らした。すぐにノックの音が聞え、この家についぞ見かけたことのない一人の男がはいってきた。すんなりとはしているが、頑丈《がんじょう》な身体《からだ》のつくりで、しっくりした黒服を着ていた。その服は、旅行服に似ていて、たくさんの襞《ひだ》やポケットや留め金やボタンがつき、バンドもついており、そのため、何の用をするのかはっきりはわからぬが、格別実用的に見受けられた。
「どなたですか?」と、Kはききただし、すぐ半分ほどベッドに身を起した。
 ところが男は、まるで自分の出現を文句なしに受入れろと言わんばかりに、彼の質問をやりすごし、逆にただこう言うのだった。
「ベルを鳴らしましたね?」
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのです」と、Kは言い、まず黙ったままで、いったいこの男が何者であるか、注意と熟考とによってはっきり見定めようと試みた。
 ところがこの男はあまり長くは彼の視線を受けてはいないで、扉《とびら》のほうを向き、それを少しあけて、明らかに扉のすぐ背後に立っていた誰かに言った。
「アンナに朝食を持ってきてもらいたいのだそうだよ」
 隣室でちょっとした笑い声が聞えたが、その響きからいって、数人の人々がそれに加わっているのかどうか、はっきりしなかった。見知らぬ男はそれによってこれまで以上に何もわかったはずがなかったが、Kに対して通告するような調子で言った。
「だめだ」
「そりゃあ変だ」と、Kは言って、ベッドから飛びおり、急いでズボンをはいた。
「ともかく、隣の部屋にどんな人たちがいるのかを見て、グルゥバッハ夫人がこの私に対する邪魔の責任をどうとるのか知りたいのです」
 こんなことをはっきり言うべきではなかったし、こんなことを言えば、いわばその男の監督権を認めたことになるということにすぐ気づきはしたが、それも今はたいしたこととは思われなかった。見知らぬ男もずっとそう考えていたらしい。男がこう言ったからである。
「ここにいたほうがよくはないですか?」
「いたくもありませんし、あなたが身分を明らかにしないうちは、あなたに口をきいていただきたくもないんです」
「好意でやったんですよ」と、見知らぬ男は言い、今度は進んで扉をあけた。
 Kがはいろうと思ってゆっくり隣室へはいってゆくと、部屋はちょっと見たところ、前の晩とほとんどまったくちがったところがなかった。それはグルゥバッハ夫人の住居で、おそらくこの家具や敷物や花瓶《かびん》や写真やでいっぱいの部屋は、今日はいつもよりいくらかゆとりがあった。そのことはすぐには気づかなかったが、おもな変化は一人の男がいるという点にあっただけに、なおさらそうであった。男は開いた窓のそばで一冊の本を読みながらすわっていたが、ふと本から眼を上げた。
「君は部屋にいなければいけなかったのだ! いったいフランツは君にそう言わなかったか?」
「で、どうしようというんです?」と、Kは言い、この新しく知った人物から眼を転じて、戸口のところに立ち止っているフランツと呼ばれる男のほうを見、次にまた視線をもどした。
 開いた窓越しにまた例の老婆が見えたが、彼女はいかにも老人らしい好奇の眼で、今ちょうど、向い合った窓のところへ歩み寄って、その後の成行きを一部始終見届けようとしていた。
「グルゥバッハ夫人にちょっと――」と、Kは言い、彼から遠く離れて立っている二人の男から身を引離そうとするようなしぐさを見せて、歩みを進めようとした。
「いけない」と、窓ぎわの男が言い、本を小さな机の上に投げて、立ち上がった。「行っちゃいけない。君は逮捕されたんだぞ」
「どうもそうらしいですね」と、Kは言い、次にたずねた。「ところで、いったいどうしてなんです?」
「君にそんなことを言うように言いつかっちゃいない。部屋にはいって、待っていたまえ。訴訟手続きはもう始まったんだから、時が来れば万事わかるようになるだろう。君にこんなに親切に話すことは命令の範囲を出ているんだ。けれど、おそらくフランツ以外に聞いている者は誰もいないだろうし、あれからして規則に違反して君に親切なんだからね。これからさきも、君の監視者がきまったときのように幸運に恵まれるなら、安心できるわけだよ」
 Kはすわろうと思ったが、さて、部屋じゅうどこにも窓ぎわの椅子のほかにすわるところがないことに気づいた。
「まあ今に、万事がしごくもっともだということがわかるさ」と、フランツが言い、もう一人の男といっしょに彼のほうに歩み寄ってきた。特に後者はKよりもひどく背が高く、何度も彼の肩をたたいた。二人ともKの寝巻をためつすがめつして、君はこれからもっとわるいシャツを着なければならぬようになるだろうが、このシャツもほかの下着類といっしょに保管しておいてやろう、そして事が有利に解決したら、君にまた返してやろう、と言うのだった。
「そういうものを倉庫に入れるくらいなら、おれたちに渡したほうがましだ」と、彼らは言った。「倉庫ではしばしば横領されることがあるし、そのうえ、ある期間が過ぎると、その手続きが終ろうが終るまいがおかまいなく、何でもかでも売り払ってしまうからね。それに、こんな訴訟はなんて手間取ることだろう、ことに近頃はねえ! もちろん、最後には倉庫から売上金をもらうだろうが、第一に、売却の場合言い値の金高できまるものじゃなく、賄賂《わいろ》の金高が物を言うんだから、この売上金というやつからして少ないものだし、そのうえこんな売上金は、手から手へと長年かかって渡っているうちには、減ってゆくのが普通だよ」
 Kはこんな話にほとんど注意をはらっていなかった。自分の持物に対する所有権というものはおそらくまだあるはずだが、彼はそんなものをあまり重んじていなかったし、自分の置かれた状態をはっきり知ることのほうが、いっそう大切だった。しかし、この連中のいる前では、少しもゆっくり考えてみることができず、二番目の監視人――まったくのところただの監視人にすぎないはずだが――の腹がしょっちゅう、明らかになれなれしげに彼にぶつかり、彼が眼を上げると、頑丈そうな、わきへねじれた鼻をした、このでっぷりした図体とはおよそ似つかわしからぬ干からびて骨ばった顔が見え、この顔が彼の頭越しにもう一方の監視人と話し合っていた。いったいこいつは何者だろう? 何をしゃべっているのだろう? どんな役所の者なのだろう? おれは法治国に住んでいるのだし、国じゅうに平和が支配しているし、すべての法律は厳として存在しているのに、何者がおれの住居においておれを襲うということをあえてしたのだろうか? 彼はつねに、万事をできるだけ気安く考え、最悪のことはそれがほんとうに始まってから信じ、たといいっさいの危険が迫っても、将来のことは取越し苦労しない、という傾向であった。ところが今の場合、それは正しくないように思われた。すべてを悪戯《いたずら》と見なすことができようし、何かわからぬ理由から、おそらく今日は彼の三十歳の誕生日だからというのだろうが、銀行の同僚が計画した性《たち》のよくない悪戯と見なすことができよう。それはもちろんありうることだし、おそらくなんらかのやりかたで監視人たちに面と向って笑ってやりさえすれば事はすむのであって、そうすれば彼らもいっしょに笑いだすことだろう。おそらくこの連中は町角の使い走りの男たちなのだ。そう言えば、彼らに似ていないこともない。――それにもかかわらず、彼は今度の場合、この監視人のフランツという男を最初に見たまさにそのときから、彼がおそらくこの連中に対して持っている最小の利点さえも放棄はすまい、と決心したのであった。自分が冗談を解しなかったのだ、と後になって言われるだろうという点では、Kはほんの少しでも危険を覚えなかったが、確かに彼は――経験に徴して考えるなどというのは普通彼の習慣ではなかったのだが――二、三の、それ自体は取るに足らない出来事のことを、思い出していた。それらの場合に、意識的な友人たちとはちがって、ありうべき結果を少しも予想しなかったため、慎重でない態度をとり、そのため、その結果によってひどい目にあわされたのであった。あんなことは二度と繰返してはならないし、少なくとも今回はやってはならない。もし喜劇ならば、自分もいっしょになってやってやろう、そう彼は考えたのだった。
 彼はまだ自由であった。
「失礼します」と、彼は言って、急いで二人の監視人のあいだを通って自分の部屋へ行った。
「やつは物がわかるらしいな」と、背後で言うのが聞えた。
 部屋にはいった彼は、すぐ机の引出しをあけた。そこは万事がきちんと片づいていたが、捜した身分証明書だけは、興奮しているためか、すぐには見つからなかった。とうとう自動車証明書を見つけだし、それを持って監視人たちのほうへ行こうとしたが、この書類はあまり役にたたぬように思えたので、もっと捜したうえ、ついに出生証明を見つけだした。彼がまた隣室にもどったとき、ちょうど向い合った扉が開き、グルゥバッハ夫人がそこへ足を入れようとした。彼女はほんの一瞬間姿を見せただけで、Kを認めたとたん、明らかに当惑した様子を見せ、ごめんなさいと言って、引っこみ、きわめて慎重に扉をしめた。
「どうぞおはいりなさい」と、Kは今ならまだ言うこともできた。
 だが彼は、書類を持って部屋の真ん中に立ち、まだ扉をじっと見ていたが、扉は二度とは開かず、やがて監視人たちに声をかけられてびっくりした。二人の男は開いた窓ぎわの机にすわっており、Kが気づいたときには、彼の朝飯を食っていた。
「なぜあの人ははいらなかったんです?」と、彼はきいた。
「はいっちゃいけないんだよ」と、大きいほうの監視人が言った。「君は逮捕されているんだからな」
「いったいどうして逮捕なんかされているんです? しかもこんなやりかたで?」
「ああ、また始まったね」と、その監視人は言い、バタパンを蜜《みつ》の壺《つぼ》に浸した。「そんな質問には返答しないよ」
「答えてもらわなくちゃなりません」と、Kは言った。「これが私の身分証明書です、今度はあなたがたのを見せてください、それに何よりもまず逮捕状をね」
「冗談言うな!」と、監視人は言った。「君は君の立場に往生《おうじょう》できず、今君のすべての仲間の中でも明らかにいちばん身近にいるおれたちを無益に怒らせるつもりだったらしいな」
「そうだ、君も観念したほうがいいぜ」と、フランツが言い、手にしていたコーヒー茶碗《ぢゃわん》を口もとへは持ってゆかずに、長々と、いかにも意味ありげな、しかしどういうつもりなのかわからぬ眼差《まなざし》で、Kをじっと見つめた。
 Kは思わず知らず、フランツと視線で渡り合っていたが、やがて書類をたたいて、こう言った。
「これが私の身分証明書です」
「そんなものがなんだというんだ」と、大男の監視人がすぐさま叫んだ。「子供より行儀がわるいぞ。いったいどうしようっていうんだ? われわれ監視人と身分証明書だとか逮捕状だとかのことで議論すれば、君のたいへんな、厄介きわまる訴訟がたちまち片づくとでも思っているのか? われわれは下《した》っ端《ぱ》なんで、身分証明書なんか知ったことじゃないし、君を毎日十時間ずつ見張ってその報酬をもらうということ以外、何も君とは関係がないんだからね。これがおれたちの身分に関するすべてだ。それでもおれたちには、おれたちが仕えている偉い役所は、こんな逮捕をやる前には、逮捕の事由や逮捕人の身柄を非常に詳しく調べあげている、ということはわかるんだ。それに誤りなんかありやしない。われわれの役所は、おれの知るかぎりでは、もっともおれはいちばん下の連中だけしか知らないが、何か住民のうちに罪を捜すんじゃなくて、法律にもあるとおり、罪のほうに引きつけられ、そしておれたち監視人をよこさざるをえないんだ。それが法律というもんだ。どこに誤りがあるんだ?」
「そんな法律って知りませんね」と、Kは言った。
「それだからなお困るんだよ」と、監視人が言った。
「ただあなたがたの頭にだけある法律なんですよ」と、Kは言い、なんとかして監視人の考えていることのなかにはいりこみ、それを彼の都合のよいほうに向けるか、あるいはそれにもぐりこんで同化しようと思った。ところが監視人はただ突き放すように言うのだった。
「今にわかるようになるよ」
 フランツが嘴《くちばし》を入れ、
「おい、ウィレム、あいつは、法律を知らないって白状し、同時に、自分は無罪だって言い張っているぜ」
「まったくお前の言うとおりだが、あいつには全然わからせることはできやしないよ」と、もう一方の男が言った。
 Kはもう返事をしなかった。こんな下っ端の連中――彼ら自身が、そうだ、と白状している――のおしゃべりでこれ以上頭を混乱させられる必要なんかあろうか、と彼は思った。連中は、自分自身でもまったくわからないことを言っているのだ。落着きはらっているのは、阿呆《あほう》だからこそのことだ。自分と対等の人間とほんの少しでも言葉を交《か》わせば、万事は、こんな連中と長々しゃべっているよりも比較にならぬほど明瞭《めいりょう》になるだろう。Kは二、三度、部屋の中のあいている場所を行ったり来たりしたが、窓の向うに、例の老婆が一人のもっと老いぼれた老人を窓ぎわに引っ張ってきて、抱きかかえるようにしているのが見えた。Kはこんな見世物になっているのに我慢してはいられなかった。
「あなたがたの上役のところへ連れていってくれませんか」と、彼は言った。
「あちらが、そうしろ、と言われるならばね。それまではだめだ」と、ウィレムと呼ばれた男が言った。
「で、君に言っておくが」と、彼は言い足した。「部屋に帰っておとなしくしていて君についての指示が来るのを待ったがいいね。つまらぬ考えでぼんやりしてないで、落着いているがいいぜ。そのうち大きな命令が君に下るよ。君はおれたちを、おれたちの親切にふさわしいようには扱わなかったね。おれたちは相も変らぬつまらぬ連中かもしれないが、少なくとも今は君に対しては自由な人間だ、ということを君は忘れているんだ。これはけっして少しばかりの優越じゃないんだぜ。それでも、君が金を持っているなら、あの喫茶店から軽い朝飯ぐらいは取ってきてやるつもりはあるよ」
 この申し出には答えずに、Kはしばらくじっと立ち止っていた。隣の部屋の扉、あるいは控えの間の扉をあけてさえも、おそらく二人はあえて彼を阻止しないだろうし、極端にまでやってみることがおそらく最も簡単な、事の解決法であろう。けれど二人は彼につかみかかってくるかもしれないし、一度たたき倒されたならば、現在彼らに対してある点ではまだ持ち続けている優越的地位をすべて失ってしまうのだ。それゆえ彼は、事の自然な成行きがもたらすはずの解決の安全ということのほうを選び、部屋にもどったが、彼のほうからも監視人のほうからも、もう一言も発せられなかった。
 彼はベッドに身を投げ、洗面台から見事な林檎《りんご》を取った。昨晩、朝食のためにとっておいたものである。今のところこの林檎だけが彼の朝飯だが、一口大きくかじって確かめたところでは、ともかく、監視人たちのお情けで手に入れることができるかもしれない、きたならしい喫茶店の朝飯よりはずっとましだった。気分がよくなり、前途に期待が持てる気がした。この午前中は銀行の仕事を休むことになるが、それも、彼が銀行で占めているかなり高い地位からいえば、なんとでも言い訳がたつことだった。ほんとうの言い訳を述べるべきだろうか? 彼はそうしよう、と思った。その場合に大いにありうることだが、もし人が彼の言うことを信じないならば、グルゥバッハ夫人、あるいはあちらの二人の老人を証人にすることもできる。ところでこの二人の老人は、確かに今、向い合った窓ぎわに歩みを進めているのだった。監視の連中が彼を部屋に追いやって、いくらも自殺する可能性のあるここにただひとり放っておくということは、Kには不思議に思えたし、少なくとも監視人たちの考えそうな筋道から言って不思議であった。もちろん同時に、今度は自分の考える筋道からして、自殺するというどんな理由があるのか、と自問してみた。あの二人が隣室にすわっており、自分の朝飯を平らげてしまったから、とでもいうのか? 自殺しようなどというのはばかげたことであるから、たといしようとしても、そのばかばかしさのために実行はできなかったであろう。もし監視人たちの頭の足りなさがあんなにひどくないのであったら、連中もまた、おれと同じ確信から、おれをひとりで放っておくということに危険を認めなかったのだ、と考えることもできたのだが。連中は今、もし見ようと思うのなら、彼が、上等のブランデーを納めてある小さな戸棚《とだな》のところへ来て、まず一杯目を朝飯がわりに乾《ほ》し二杯目のほうは元気をつけるためだときめている様子を、ながめていることだろうが、二杯目のほうはただ、実際にそんな必要があるというおよそありそうもない場合に備えてやっているのだった。
 そのとき、隣室からの呼び声が彼をひどく驚かしたので、彼は歯をコップにぶつけた。
「監督が呼んでおられる!」と、いうことだった。彼を驚かしたのは、ただその叫び声だけだった。この短い、断ち切られたような、軍隊式の叫び声は、監視人のフランツのものとはまったく思えないものだった。ところで命令そのものは、彼にはきわめて好ましかった。
「とうとう来ましたね!」と、彼は叫び返し、戸棚をしめ、すぐ隣室へ急いで行った。そこには二人の監視人が立っていて、当然だといわんばかりに、彼をまた部屋へ追い返した。
「冗談じゃないぞ、え?」と、彼らは叫んだ。
「シャツを着たまま監督の前に出ようっていうのか? そんなことをしたら、あの人は君をさんざんにたたきのめさせるぞ、それにおれたちも巻き添えだ!」
「ちぇ、放っておいてくれたまえ!」と、もう洋服|箪笥《だんす》のところまで押しもどされていたKは、叫んだ。「寝込みを襲っておいて、礼装して来いもあるもんか」
「なんと言おうとだめだ」と、監視人たちは言ったが、Kが大声で叫ぶと、まったくおとなしく、いやほとんど悲しげにさえなり、そのため、彼を当惑させ、あるいはいわば正気に返らせるのだった。
「ばかばかしい仰山さだ!」と、なおもぶつぶつ言ったが、すでに上着を椅子から取上げ、しばらく両手で持ったまま、監視人たちの指図《さしず》を求めているような格好になった。二人は頭を振った。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」と、彼らは言った。
 Kはすぐさま上着を床に投げ、言った。――彼自身、どんなつもりでこう言ったのか、わからなかった。
「だってまだ本審理じゃないんだ」
 監視人たちはにやりとしたが、主張はまげなかった。
「黒の上着じゃなくちゃいけない」
「そうすれば事が早くすむのなら、それでもかまいませんよ」と、Kは言い、自分で洋服箪笥をあけ、長いことたくさんの服をひっかきまわし、いちばんいい黒の服を選んだ。腰まわりの出来がよいので知人たちのあいだでほとんど大評判となった背広である。
 そして、別なシャツも引出して、念入りに着はじめた。風呂にはいれ、と無理|強《じ》いすることを監視人たちが忘れたので、万事を早めることができたのだ、と心ひそかに思った。しかし二人がおそらくそのことを思い出すのではないかと様子をうかがっていたが、もちろん彼らにはそのことは思いつかなかった。そのかわり、Kは着替えしております、という報告を携えてフランツを監督のところへやることを、ウィレムは忘れはしなかった。
 着物を完全に着てしまうと、ウィレムのすぐ前を通って、空《から》の隣室を抜け、次の部屋に行かねばならなかった。扉は両側ともすでに開かれていた。この部屋には、Kもよく知っているとおり、少し前からタイピストのビュルストナー嬢が住んでいるが、彼女は非常に早く仕事に出てゆくのがならわしであり、帰りも遅いので、Kとは挨拶《あいさつ》以上にたいして言葉を交わしたこともなかった。ところが夜間用の小さな机がベッドのそばから部屋の真ん中に引っ張り出されて審理用の机にされ、その向うに監督がすわっていた。脚《あし》を組んで、片腕を椅子の背にかけていた。
 部屋の隅《すみ》には三人の若い男がいて、壁にかかったマットに留めてあるビュルストナー嬢のさまざまな写真をながめていた。開いた窓の把手《とって》には、一枚の白いブラウスがかかっていた。向いの窓にはまた例の二人の老人がいたが、仲間がふえていた。というのは、彼らの背後に、ずっと背丈《せたけ》の高い一人の男が、胸のはだけたシャツ姿で立っており、赤みがかった髯《ひげ》を指でおしたり、ひねったりしていたからである。
「ヨーゼフ・Kだね?」と、監督はきいたが、おそらくはただ、Kのきょろきょろした眼差を自分に向けさせるためであった。Kはうなずいた。
「今朝《けさ》の出来事できっと非常に驚いただろうな?」と、監督はたずね、そう言いながら両手で、蝋燭《ろうそく》とマッチ、本と針床といった、まるで審理に必要な物ででもあるかのように夜間用の小さな机の上にのっている数少ない品物を、わきへ押しやるのだった。
「そうですね」と、Kは言ったが、ついに物のわかる人間に向い合って、自分のことに関して話ができるのだ、という快い感情が彼をとらえた。
「確かに驚きはしましたが、けっして非常に驚いたというわけでもありません」
「非常に驚いたわけでもない?」と、監督はきき、机の真ん中に蝋燭を立てて、そのまわりにはほかの品々を並べたてた。
「どうも申上げた意味を誤解しておられるらしいですが」と、Kは急いで述べたてようとした。
「つまり」――ここで彼は言葉を切り、椅子はないだろうかと、あたりを見まわした。
「すわってもかまいませんか?」と、彼はきいた。
「それはできないことになっている」と、監督は答えた。
「つまり」と、Kはこれ以上|間《ま》をおかずにしゃべりはじめた。「もちろん非常に驚きはしましたが、人間三十にもなると、そして、私がそういう運命にあったように、孤軍奮闘しなければならなかったとすると、驚きなんていうものには鍛えあげられ、たいして苦にもしなくなります。ことに今日の出来事のようなのにはそうです」
「なぜ、ことに今日の出来事のようなのにはそうなんだ?」
「事のすべてを冗談だと見ている、と言うんじゃないのです。冗談にしては、やられた道具だてがおおげさすぎますからね。アパートの住人みな、そしてあなたがたも、事に加担しておられるようですし、こうなると冗談の範囲を超《こ》えていますからね。だから、冗談なんだ、と言うつもりはありません」
「まったくそうだ」と、監督は言い、何本マッチがマッチ箱のなかにあるのか、数えていた。
「しかし一面、この事件はたいして重要性を持ってはいません。そう推論できるのは、私は告発されてはいるものの、私が告発されるような罪は、少しも見つけだせないからです。しかし、それも二の次です。問題は、誰に告発されたのか、ということです。どの役所が手続きをやっているのか? あなた方は役人なのか? どなたも制服は着ておられないし、あなた方の服は」――ここで彼はフランツのほうを向いた――「制服とは申せませんからね。どうみても、むしろ旅行服といったものです。こうした疑問に明瞭なご返事を願いたいと思います。これがはっきりすれば、お互いにきわめて気持よくお別れできる、と確信します」
 監督はマッチ箱を机の上に置いて、言った。
「君はたいへん間違っている。ここにおられる方々も私も、君の事件についてはまったく枝葉の存在なんだ。実のところ、それについてはほとんど何ひとつ知ってはいやしない。われわれは規則どおりの制服を着ることもできようが、それで君の事件がどうなろうというものじゃない。君が告発されているなどということは、私はまったく言えないし、あるいはむしろ、いったい君が告発されているのかどうかさえ、知ってはいないのだ。君が逮捕された、ということは確かだ。それ以上は知ったことじゃない。おそらく監視人たちが何かよけいなことをしゃべったかもしれないが、それならそれはただのおしゃべりだ。君の質問にはお答えしないが、われわれのことや、君にこれから起るかもしれないことやにはあまり頭を使わないで、それよりか君自身のことを考えるほうがよい、と忠告しよう。自分は潔白だという気持でこんな騒ぎをやらないことだな。君がほかのことでは与えているさしてわるからぬ印象を、ぶちこわしてしまうからね。それにまた、およそ口をもっと慎むことだ。君がこれまでしゃべったことはほとんどみな、ただほんの二言三言にとどめておいても、君の態度からしてわかったことだろうし、そのうえ、君にとって格別有利なものでもなかったからね」
 Kはじっと監督を見た。見かけたところ年下らしい男から、ここで杓子定規《しゃくしじょうぎ》の説教をされるのか? 公明正大に言ったおかげで、訓戒されるわけか? そして、逮捕理由についても命令の出し主についても、何も聞かされないのか? 彼は一種の興奮状態に陥って、あちこちと歩くのだったが、誰もその邪魔をする者はなく、彼はカフスを引っこめたり、胸のあたりにさわったり、頭髪をなで直したりし、三人の男の前を通りながら、言った。
「まったくばかげたことだ」
 これを聞いて三人は彼のほうを向き、言うことは聞いてやるがという様子だが、真剣な顔つきで、彼をじっと見た。Kは最後にまた監督の前で立ち止った。
「ハステラー検事は私の親友なんですが」と、彼は言った。「電話をかけてかまいませんか?」
「よろしい」と、監督は言った。「だが、電話をかけることにどんな意味があるのかは私にはわからないが、まあ、個人的な用事で検事と話さねばならないんだろうな」
「どんな意味かわからないですって?」と、Kは腹をたてたというよりは唖然《あぜん》として叫んだ。
「あなたはいったい何者です? 意味などと言っているくせに、およそありうるかぎり無意味なことをやっているじゃないですか? かわいそうなくらいばかげたことじゃありませんか? この方々がまず私を襲ったのに、今はこの部屋であちらこちらに立ったりすわったりしていて、あなたの面前で私に高等馬術をやらせているんです。私は明らかに逮捕されているらしいが、検事に電話することがどんな意味を持っているか、と言われるんですか? よろしい、電話はかけますまい」
「だがまあそう言わずに」と、監督は言って、電話のある控えの間のほうに手を伸ばし、「どうぞ、電話をかけたまえ」
「いや、もう結構です」と、Kは言い、窓ぎわへ行った。
 向うでは連中がまだ窓ぎわにいたが、今やっと、Kが窓ぎわへ寄ったので、静かにながめていることを少しばかり邪魔された様子だった。二人の老人は身体《からだ》を起そうとしたが、彼らの後ろの男が制していた。
「向うには向うで、あんな見物がいるんです」と、Kは大声で監督に向って叫び、人差指で外を示した。
「そこからどけ!」と、彼は窓向うにどなった。
 三人のほうもすぐ二、三歩退き、そのうえ、二人の老人は男の後ろにまわったが、男は二人の老人をその幅広い身体でおおい隠し、その口の動きから判断するのに、遠くてよくはわからないが何か言っているらしかった。しかし、彼らはすっかり見えなくなってしまったのではなく、そっとまた窓ぎわに近づくことのできる瞬間をねらっているらしかった。
「あつかましい、遠慮のないやつらだ!」と、部屋のほうに振返りながら、Kは言った。Kが横眼で見取ったところでは、監督もおそらく彼の言うことに同感だったらしかった。しかしまた、全然彼の言うことに耳をかしていないようにも思えた。というのは、片方の手をしっかりと机の上に押しつけ、指の長さをそれぞれ比べてみている様子だったからである。二人の監視人は飾り布でおおったトランクに腰をかけ、膝《ひざ》をこすっていた。三人の若い男が手を腰にあてて、ぼんやりとあたりを見ていた。どこか忘れられた事務室でのように静かであった。
「さて、みなさん!」と、Kは叫んだが、一瞬のあいだ、三人全部を肩に背負っているように思えた。「あなたがたのご様子では、私についての用件は終ったものと考えてよさそうですが。私の意見では、あなたがたの行動が正しかったか、正しくなかったか、というようなことをもうこれ以上考えずに、互いに握手し合って事を円満に決着することがいちばんよいように思われます。あなたがたも私と同意見でいらっしゃるなら、どうか――」
 そう言って彼は、監督の机に歩み寄って、手を差出した。監督は眼を上げ、唇《くちびる》を噛《か》んでKが差出した手を見ていた。監督は応じてくれるものと、Kはまだ思いこんでいた。ところが監督は立ち上がると、ビュルストナー嬢のベッドの上に置かれた、硬《かた》くて円い帽子を取上げ、新しい帽子をためすときやるように、両手で念入りにかぶりながら、「君は万事をなんて単純に考えているんだろう!」と、Kに言った。「円満に事を決着する、と言うのかね? いや、いや、ほんとうにそうはいかないよ。もっともそうかといって、君を絶望させるつもりは少しもない。いや、そんなことをどうしてしよう? ただ君は逮捕された、それだけの話だ。そのことを君に知らさねばならなかったので、そうしたまでだし、君がそれを受入れたということも見てとった。それで今日のところは十分だし、お別れもできる。もちろんしばらくのことだがね。きっと君は、もう銀行に行きたいところだろうね?」
「銀行ですって?」と、Kは言った。「私は逮捕されたんだ、と思っていましたよ」
 Kはちょっと居丈高《いたけだか》になってきいた。というのは、彼の申出た握手は受入れられなかったけれども、ことに監督が立ち上がってからは、この連中のすべてからいよいよ拘束されていない立場にある自分を感じたからである。彼はこの連中と戯れるのだった。彼らが立ち去るときになったら、玄関まで追っかけてゆき、私は逮捕されているのですが、と言ってやる下心だった。そこで彼はまた繰返した。
「逮捕されたんですから、どうして銀行へ行けましょう」
「ああ、そのことか」と、すでに戸口にいた監督は言った。「それは君の考え違いだよ。君は逮捕された、確かにそうだが、それは君が職業をやってゆくことを妨げはしないんだ。今までどおりの暮しかたをしても、ちっともかまわないんだ」
「それじゃあ逮捕されるのも、たいしてわるいことじゃありませんね」と、Kは言い、監督のそばに近づいた。
「初めからそう言っているはずだ」と、監督は言った。
「しかしそれなら、逮捕通知もたいして必要でなかったようですが」と、Kは言って、さらに近くへ寄っていった。ほかの連中も近寄ってきた。皆が狭い部屋の扉のところへ集まった。
「それは私の義務だったのだ」と、監督が言った。
「ばからしい義務ですね」と、Kは負けてはいずに言った。
「そうかもしれない」と、監督が答えた。「だが、こんな話で時間をつぶしたくない。君が銀行に行くものとばかり私はきめこんでいた。君はあらゆる言葉を気にしているので言っておくが、銀行に行くように君を強制するつもりはないんで、君が行きたいと思っているときめこんだだけのことだ。そして、君が気軽に出かけられ、銀行に出てもできるだけ目だたぬようにするため、君の同僚の三人の方々を君のためにここへお連れしてきてある」
「なんですって?」と、Kは叫び、三人をまじまじとながめた。このなんの特徴もない、貧血の若い男たちは、写真を撮《と》ったときの仲間としてだけ今も記憶に残っているのだが、事実彼の銀行の行員だが、同僚というわけでなく、同僚などというのはおおげさな話で、監督の全知全能ぶりにはすき[#「すき」に傍点]があることを示しているのだったが、ともかく彼らは銀行の下っ端の行員にはちがいなかった。どうしてKは彼らに気づかなかったのだろうか? この三人に気づかなかったなんて、なんと監督や監視人たちに気をとられていたことだろう! 身体つきのぎごちない、両手をぶらぶら振っているラーベンシュタイナー、金壺眼《かなつぼまなこ》のブロンドのクリヒ、慢性の筋肉引きつりのため気味の悪い薄笑いを浮べているカミナー。
「お早う」と、Kはしばらくして言い、きちんと頭を下げる三人に手を差伸べた。
「僕は君たちにちっとも気がつかなかった。それじゃ、仕事に出かけようか?」
 三人は笑いながら、ずっとそれを待ちもうけてでもいたかのように気を入れてうなずき、ただKが帽子を部屋に取残して手にしていないのに気づくと、彼らは皆相次いで取りに走っていったが、その様子からは、ともかくある種の当惑ぶりというものが想像されるのであった。Kは黙って立ったまま、二つの開いた扉を通ってゆく後ろ姿を見ていたが、いちばん後《あと》は、もちろん、気のはいっていないラーベンシュタイナーで、彼は格好のよい早足をやってみせるだけだった。カミナーが帽子を渡したが、Kは自分に、これはともかく銀行でもしばしばせざるをえないことだったが、カミナーの薄笑いはそうしようと思ってやっているのではない、いやおよそ彼は、自分でやろうと思って薄笑いなど浮べることはできないのだ、と言って聞かせた。次に控えの間でグルゥバッハ夫人が一同に玄関の扉をあけたが、彼女はまったくたいして責任を感じてはいないように見受けられた。そしてKは、いつもと同じように、不必要に深く彼女の大きな図体《ずうたい》に食いこんでいるエプロンの紐《ひも》を、見下ろした。表でKは、時計を片手にして、もう半時間にもなる遅刻をこれ以上不必要に延ばさないように、自動車に乗ろうと決心した。カミナーは、車を呼ぶために角まで走ってゆき、ほかの二人は明らかに、Kの気をまぎらそうと努めるのだったが、突然クリヒが筋向いの家の戸口を示した。そこにはちょうど、例のブロンドの髯《ひげ》の大男が姿を見せ、図体をすっかり見せてしまったことに最初の瞬間は少し当惑して、壁のところまで引っこみ、そこにもたれていた。二人の老人はまだ階段を降りてくるところだった。自分がすでに先刻見つけ、そのうえ現われるだろうと期待さえしていた例の男をクリヒが指さしたことに、Kは立腹してしまった。
「あんなところを見るんじゃない!」と、大声で叫んでしまい、一人前の男たちに対してこんな物の言いかたをすることがどんなに目だつことかに、気づくことさえなかった。だが弁解の必要もなかった。ちょうど自動車が来たからである。彼らは車に乗り、走りだした。そのときKは、監督と監視人たちとが帰ってゆくのに全然気づかなかったことを思い出した。監督に気を取られて三人の行員を見そこない、今度はまた行員たちに気を取られて監督を見失ったのだった。こんなことではあまり気を配っているとは言えないし、この点でもっと精密に観察しよう、とKは決心した。しかし、彼は思わず知らずのうちに振向き、自動車の背のクッションの上へ身体を曲げ、できればまだ監督と監視人たちが見えないか、とうかがってみた。しかし、すぐにまた向き直り、ゆったりと車の片隅《かたすみ》によりかかって、誰か相手を求めようとする試みさえもしはしなかった。今のところ話しかける必要がある様子もなかったが、三人の行員たちは疲れているようであり、ラーベンシュタイナーは右側、クリヒは左側で、車の外をながめ、ただカミナーだけが例のごとくにやにやして、なんでもいたしますという面持だった。こんなのをからかうことは、残念ながら人情としてできないことだった。

 この春Kは、できれば――というのはいつもたいてい九時までは事務室にすわっていたからだが――仕事のあと、ひとりでかあるいは行員たちといっしょに、ちょっとした散歩をし、そのあとであるビヤホールに行き、年配の紳士が多い常連のテーブルの仲間にはいって、普通、十一時まですわるというふうにして、夜分を過す習慣だった。しかし、たとえばKの仕事の力倆《りきりょう》と信頼できる点とを非常に評価している支店長にドライヴに誘われたり、あるいはその別荘での晩餐《ばんさん》に招かれたりするときには、こんな時間の割り振りにも例外があった。そのほかにKは、一週に一度、エルザという女のところへ行くが、夜じゅう通して朝も遅くまで或《あ》る酒場に勤めている女で、日中に訪《たず》ねると、きまってベッドにいて迎えるのだった。
 しかしこの夜は――日中は仕事に追われ、また丁重で親しげな誕生日の祝いを言われながらたちまち過ぎ去ってしまったが――Kはすぐ家に帰ろうと思った。昼間の仕事のちょっとした合間に、彼はそのことを考えていた。いったいなぜこんなことを考えるのかはっきりとはわからなかったが、今朝の出来事のためにグルゥバッハ夫人の家全体に大きな混乱が引起され、秩序を回復するためにはまさに自分が必要なように思われるのだった。しかし、この秩序が一度回復されれば、あの出来事のあらゆる痕跡《こんせき》は消えてなくなり、万事は元どおりになることだろう。ことに例の三人の行員については何も恐れる必要はなく、彼らはまた銀行の大勢の勤め人仲間のうちに埋もれてしまい、彼らにはなんらの変化も認められなかった。Kはときどき彼らを、一人あるいは三人いっしょにというふうに、自分の事務室に呼んでみたが、彼らの様子をうかがう以外の目あて[#「あて」に傍点]もなかったのだった。ところが、いつでも安心してかえすことができた。
 夜の九時半に、住んでいる家の前に来ると、入口で一人の若い男に出会った。その男はそこで足を踏んばって立っており、パイプをふかしていた。
「どなたです?」と、Kはすぐたずね、顔をその若い男に近づけたが、玄関の薄暗がりのなかではよくは見えなかった。
「門番の息子です、旦那《だんな》」と、若者は答え、パイプを口から放して、わきへどいた。
「門番の息子だって?」と、Kはきき、ステッキでいらいらしたように床をたたいた。
「旦那、ご用でしょうか? 親爺《おやじ》を呼んできましょうか?」
「いや、いいよ」と、Kは言ったが、その声のなかには、この男がある悪事をやったのだが自分はゆるしてやるのだ、というような何かゆるすような調子が含まれていた。
「もういいよ」と、彼は言い、歩みを進めたが、階段を登る前に、もう一度振向いた。
 まっすぐ自分の部屋へ行ってもよかったが、グルゥバッハ夫人と話したくなって、すぐ彼女の部屋の扉をたたいた。夫人は靴下を編みながら机のそばにすわり、机の上にはさらに一山の古靴下がのっていた。Kはどぎまぎして、こんなに遅くお邪魔してすみません、と申し訳をしたが、グルゥバッハ夫人は非常に愛想よく、そんな申し訳は聞きたくないというふうで、あなたならいつでも、お話ししてよい、私があなたを間借人のうちいちばんよい、いちばんりっぱな方だと思っていることはよくご存じでしょう、と言うのだった。Kは部屋を見まわしたが、また完全に元どおりになっていて、朝には窓ぎわの小さな机の上にのっていた朝飯の道具も、すでに片づけられてあった。
「女の手というやつは、こっそりと多くのものを片づけるものだ」と、思った。自分ならおそらく道具を即座にたたき割ってしまって、部屋から運び出すことなどはきっとできるものではなかったろう。彼はグルゥバッハ夫人を感謝めいた気持でじっと見つめた。
「なぜこんなに遅くまでお仕事をなさるんです?」と、彼はたずねた。
 二人とも机にすわり、Kはときどき手を靴下のなかへ突っこんだ。
「仕事が多うござんしてね」と、彼女は言った。「昼間は間借人の方々にかかりきりですし、自分の仕事を片づけておこうとすると、どうしても夜分だけしかありません」
「今日はさだめしよけいな仕事をおさせしましたろう?」
「どうしてですの?」と、夫人はたずね、いくらか真顔になって仕事の手を膝《ひざ》に休めた。
「今朝ここにいた連中のことです」
「ああ、あのこと」と、彼女は言い、また平静にかえって、「たいして手のかかることではありませんでしたわ」
 Kは黙って、靴下編みをまた始めた夫人をながめた。あのことを言ったので、彼女は不審に思っているようだ、あのことを言ったのを変なふうにとっているらしい、と思った。それだけに、あのことを言うことが大切なのだ。年配の婦人とだけあのことを話すことができる。
「いや、きっとお手数をおかけしました」と、彼は言った。「しかし、あんなことはもう二度と起りますまい」
「ええ、あんなことは二度と起りませんよ」と、励ますように言い、ほとんど悲しげに彼に微笑《ほほえ》みかけた。
「ほんとうにそうお思いですか?」と、Kはたずねた。
「そうですとも」と、彼女は低い声で言った。「けれど何より、あのことをあまりむずかしくお考えになってはいけませんわ。この世の中では何が起るかわかったものじゃありませんもの! Kさん、あなたがうちとけて私とお話しくださるので、私もつつまずに申しますが、私は扉の後ろでちょっと盗み聞きしましたし、二人の監視人たちも私にいくらか話してくれましたの。なにしろあなたのご運に関することですし、ほんとうに私の気にかかることですもの。そりゃあ、私には出すぎたことでしょうよ、なにしろ私は下宿の女将《おかみ》にすぎませんからねえ。ところで、少し監視人から聞いたと申しましたが、何かとりたててわるいことがあったとは、申せません。そんなことはありませんでした。逮捕されたと言いましても、泥棒なんかで逮捕されるのとはちがいますものねえ。泥棒のように逮捕されるんなら、わるいことですが、あなたの逮捕は――。そう、何か学問めいた感じですわ。もし何かばかげたことを申上げたなら、おゆるしください。私には何か学問めいた感じですわ、もちろん私にはよくわかりませんし、誰もわかるはずがないんですけれど」
「おっしゃったことはばかげたことじゃありませんよ、グルゥバッハさん。少なくとも私も部分的にはあなたと同じ考えです。だが私はこのことをあなたよりも鋭く判断しますから、私は簡単にそれを何か学問めいたことなどとは少しも考えないで、およそ無意味なことだと考えるんです。私は急に襲われたっていうわけです。もし眼がさめたらすぐ、アンナが来ないことなどに惑わされずに起き上がり、邪魔にはいる人間なんかに眼もくれずにあなたのところへ行き、今朝は番外に台所ででも朝飯を食べ、着物はあなたに私の部屋から持ってきていただいたなら、つまり理性的に振舞っていたなら、それ以上のことは何も起らず、起るはずのいっさいのことが防がれたことでしょう。でも心構えが全然できていなかったんです。たとえば銀行でなら心構えもできており、こんなことは起りようもないんです。自分の小使がいるし、外線と社内との電話が眼の前の机の上にあるし、顧客や行員がひっきりなしにやってきます。そのうえ、何よりも肝心なことですが、銀行ではいつも仕事とつながりがあり、そのためいつも頭が働いていて、こんな仕事の相手をさせられることは、まったく楽しみみたいなもんです。だが、事はすんだのですし、私もまったくこれ以上あんなことについてお話ししたくはありません。ただ、あなたのご判断、物わかりのよい女の方の判断というものをお聞きしたいと思ったのです。私たちの意見が一致したことをよろこんでいます。では私に手をお出しください、こんなに意見が一致したからは、手を握り合ってその気持を強めなくてはなりますまい」
 夫人は手を差出すだろうか? 監督のやつは手を差出さなかったが、とKは考え、夫人を前とは変って探るようにじっと見つめた。彼が立ち上がったので、彼女も立ち上がったが、Kが言ったことが全部はのみこめなかったので、少しこだわっている様子だった。このこだわりのため、彼女は、自分で少しも言おうとは思わなかった、そしてその場にまったくそぐわぬようなことを、口走ってしまった。
「どうかそうむずかしくお考えにならないでください、Kさん」と、彼女は言い、泣き声になって、もちろん握手などは忘れていた。
「私は何もむずかしくなぞ考えてはいないと思いますが」と、Kは言い、突然疲れを感じ、この夫人の同意などは意味がないということをさとったのだった。
 扉のところで彼はさらにたずねた。
「ビュルストナーさんはおりますか?」
「いらっしゃいません」と、グルゥバッハ夫人は言い、この素っ気ない返事に気づいて、おくればせながら物のわかったような気持をこめて、微笑んでみせた。
「あの方はお芝居ですわ。何かご用ですか? 私からお伝えしておきましょうか?」
「いや、ちょっとあの人とお話ししようと思っただけです」
「残念ですが、いつお帰りかわかりませんわ。芝居にいらっしゃると、いつもお帰りが遅いんでね」
「いや、どうでもいいんです」と、Kは言い、頭を垂《た》れて扉のほうにくるりと向き、出ようとした。「あの人の部屋を今日使ったことをおわびしようと思っただけです」
「それにはおよびません、Kさん、あなたは気を使いすぎますわ。あの人は何もご存じありませんし、朝早くから出かけているうちに、もうすっかり片づきました。ご自分でごらんになってください」
 そして、彼女はビュルストナー嬢の部屋の扉をあけた。
「結構です、よくわかっています」と、Kは言ったが、開いた扉のところまで行っていた。
 月が静かに真っ暗な部屋のなかにさしこんでいた。見たところでは、実際、万事元のままで、ブラウスももう窓の把手《とって》にはかかっていなかった。ベッドの布団《ふとん》が目だって盛り上がっていて、一部分が月光を浴びていた。
「あの人はよく夜遅く帰ってきますね」と、Kは言い、その責任はあなたにある、というようにグルゥバッハ夫人を見つめた。
「どうしても若い人たちはそうですわ!」と、グルゥバッハ夫人は言い訳をするように言った。
「確かにそうですね」と、Kは言った。「でも極端になりがちですよ」
「そうですね」と、グルゥバッハ夫人は言った。「あなたのおっしゃるとおりです、Kさん。おそらくこの人の場合もそうでしょう。ビュルストナーさんのことをわるく言うつもりはほんとうにありません。あの人はよい、かわいい娘さんですし、親切で、きちんとし、時間もしまりがあり、よく働きますから、万事たいへん感心しているんですが、もっと自分に誇りを持ち、慎みがなくてはならないということだけはほんとうですわ。今月になってもう二度も、場末の通りを男を変えて歩いているのを見ました。Kさん、あなただけに申しますが、私はほんとうにいやな気持がしました。けれど、そのうちあの人に面と向ってこのことを言うことに、どうしてもなるでしょう。それに、私にあの人のことを疑わせるのは、何もこのことだけではありませんわ」
「それはまったく見当ちがいですよ」と、怒って、ほとんどそれを隠すのを忘れて、Kは言った。「それにあなたは、私があの人のことについて言ったことを明らかに誤解なすったようですね。そんなつもりで言ったんじゃないんです。はっきり言っておきますが、あの人に何かそんなことを言っちゃいけませんよ。あなたは全然間違っておられる。私はあの人のことをよく知っていますが、あなたが言われたことはまったく嘘《うそ》です。まあ、どうもこれは言いすぎたかもしれません。何もあなたの邪魔をするわけじゃないんですから、なんなりとあの人におっしゃったらいいでしょう。おやすみなさい」
「Kさん」と、グルゥバッハ夫人は嘆願するように言って、彼がもうあけている扉のところまで、急いで追いかけてきた。「ほんとうのところまだあの人に話を持ち出そうとは思っていません。もちろん、その前にもっとよくあの人のことを見ようと思うんですけれど、私の知っていることをあなたにだけお打明けしたんです。結局のところ、こう考えるのは、自分の下宿をきれいにしておきたいと思う家主の誰でもの気持にちがいありません。そして私のつもりもそれとは少しもちがわないんですわ」
「きれいにだって!」と、Kは扉の隙間《すきま》から叫んだ。「もし下宿をきれいにしておこうと思われるなら、まずこの私に立ちのきを言わなくちゃならないでしょう」
 そして彼は扉をぴしゃりとしめ、低いノックの音にはもうおかまいなしでいた。
 だが、全然眠たくないので、まだ起きていて、ビュルストナー嬢が何時に帰ってくるかをこの機会に確かめよう、と決心した。それからまた、あまりよいことではないが、またあの女と一言二言話すことも、おそらくできるだろう。窓ぎわで横になって、疲れた眼を押えると、グルゥバッハ夫人を罰してやろう、ビュルストナー嬢を説き伏せて、いっしょにこの家を出てやろう、ということさえ一瞬頭に浮ぶのだった。しかしすぐに、そんなことをするのはおそろしくやりすぎだと思われたし、今朝の出来事のために住居を変える気になった自分というものに対して、疑念さえも覚えた。これよりも無意味で、ことに無益でばからしいことは、何もないだろう、と思うのだった。
 人けのない通りをながめることに飽きたとき、この家にはいってくる者がすぐソファから見えるように、控えの間の扉を少しあけてから、ソファの上に身を横たえた。およそ十一時まで、葉巻を一本ふかしながら、ソファの上に静かに横になっていた。それからあとは、もうそこにじっと待ってはいられなくなり、少し控えの間にはいった。こうすれば、ビュルストナー嬢の帰宅を早めることができるように思われたのだった。特に彼女を求める気持はなかったし、どんな格好の女だったかけっして詳しく思い出せもしなかったが、今は彼女と話がしたく、帰りが遅いため今日という日の終らぬうちに不安と混乱とを彼女がもたらしたことが、彼をいらつかせた。今晩の食事を食べもしないで、今晩に予定していたエルザを訪ねることもやめてしまったについては、彼女にも責任があるのだ。もちろん、今からでもエルザの勤めている酒場へ行けば、この二つのことは取返しがつく。それはもっと後《あと》で、ビュルストナー嬢と話が終ってからにしよう、と思った。
 十一時半を過ぎたとき、誰かの足音が階段のところで聞えた。考えに没頭し、自分の部屋ででもあるかのように足音高く控えの間をあちこち歩いていたKは、自分の部屋の扉の背後に逃げた。やってきたのは、ビュルストナー嬢だった。寒気を覚えながら、扉をしめるとき、絹のショールを細い肩に締めつけた。この機を失すれば、彼女は自分の部屋にはいってしまい、真夜中なので、きっとKはそこへ押し入ることもできないだろう。そこで今こそ声をかけるべきときだったが、自分の部屋の電燈をつけておくことを運わるく忘れていたので、暗闇《くらやみ》から出てゆくことは、まるで襲いでもするような格好になり、少なくとも相手を非常に驚かすことになったにちがいなかった。途方にくれ、また一刻の猶予もならなかったので、彼は扉の隙間から小声で呼んだ。
「ビュルストナーさん」
 それは呼びかけているのではなく、嘆願の調子だった。
「どなたかいらっしゃるの?」と、ビュルストナー嬢はたずね、大きな眼をしてあたりを見まわした。
「私です」と、Kは言って、姿を現わした。
「ああ、Kさんでしたの!」と、ビュルストナー嬢は微笑《ほほえ》みながら言った。
「今晩は」と、彼女はKに手を差出した。
「あなたにちょっとお話ししたいことがあるんです、今でよろしいでしょうか?」
「今ですの?」と、ビュルストナー嬢はたずねた。「今じゃなくちゃいけませんの? 少し変じゃありません?」
「九時からお待ちしていたんです」
「でも、私は芝居に行っていましたの。あなたがお待ちだなんて少しも存じませんでしたわ」
「お話ししようということの動機になっているのは、今日初めて起ったことなんです」
「それじゃ、倒れるほど疲れてはいますけれど、それ以外にはどうしてもお断わりする理由もありませんから、ほんの少しだけ私の部屋に来ていただきましょう。こんなところでは絶対にお話もできませんし、みなさんをお起ししてしまうでしょう。そうなったらほかの人たちのためというより、私たちのため不愉快なことになりますわ。私の部屋の明りをつけますから、それまでここでお待ちになってちょうだい。それからここの明りを消してくださいね」
 Kは言われるままにしたが、なおしばらく、ビュルストナー嬢が彼女の部屋からもう一度小声で、はいるようにと求めるまで待っていた。
「おかけください」と、彼女は言い、安楽椅子を示したが、彼女自身は、疲れていると言ったくせに、ベッドの枠柱《わくばしら》のところへ立ったままであった。小さいが花をいっぱい飾ってある帽子も、けっして脱がない。
「で、どんなご用ですの? ほんとうにお伺いしたいですわ」
 彼女は軽く脚を組んだ。
「あなたはおそらく」と、Kは言い始めた。「事柄は今お話しせねばならぬほど差迫ったことでないとお思いかもしれませんが、しかし――」
「前置きなどはいつも聞きすごしますわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「それなら私のほうも気が楽です」と、Kが言った。「あなたのお部屋が今朝《けさ》、いわば私の責任なんですが、少しかきまわされたんです。私の知らない連中の手で私の意に逆らってやられたことですが、申上げたように、私のためにやられたのです。それでおわびを申上げようと思ったのでした」
「私の部屋がですって?」と、ビュルストナー嬢は言い、部屋を見るかわりに、Kをまじまじとながめた。
「そうなんです」と、Kは言って、二人はここで初めて互いに視線を交《か》わした。「どういうふうにしてそれが行われたか、ということは全然申上げる価値がありません」
「でもそれがほんとうに伺いたいことですわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「いや」と、Kは言った。
「それじゃあ」と、ビュルストナー嬢は言った。「私は別に秘密に立ち入りたいとも思いませんし、おもしろくないとおっしゃるなら、何も異議は申上げません。あなたが求めていらっしゃるゆるしというのは、よろこんで差上げますわ、別にかきまわした様子も全然見受けられませんもの」
 平手を腰の辺へぴったり当てたまま、彼女は部屋のなかを一まわりした。写真のあるマットのところで立ち止った。
「まあごらんなさい!」と、彼女は叫んだ。「私の写真がほんとうにごちゃごちゃですわ。いやですこと。それじゃあやっぱり、誰かが私の部屋にはいりましたのね。失礼ですわ」
 Kはうなずいてみせ、単調で無意味なはしゃぎかたをどうしても抑《おさ》えられないでいるあの行員のカミナーのことを、心ひそかに呪《のろ》った。
「変なことですわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「留守のあいだに私の部屋にはいってはいけないなんて、あなたご自身がよくおわかりでしょうに、私から申上げねばならないなんて」
「いや、つまり私が申上げたのは」と、Kは言い、自分も写真のところへ行った。「あなたのお写真に手をかけたのは、私じゃなかったということです。あなたはお信じにならないでしょうから申上げますが、審理委員会が三人の銀行員を引っ張ってきたんです。そのうちの一人は、近い機会に銀行から追い出してやろうと思っていますが、そいつが写真を実際手に取ったのです。そうです、審理委員会がここで開かれました」と、女が物問いたげな眼差《まなざし》で彼を見つめたので、彼は付け加えたのだった。
「あなたのためにですの?」と、女がたずねた。
「そうです」と、Kが答えた。
「そんなことありませんわ」と、女は叫んで、笑い声をあげた。
「でも」と、Kは言った。「それじゃあ私が無罪だと信じてくださるんですか?」
「さあ、無罪って……」と、女は言った。「たぶんゆゆしい判断をそうすぐには申せませんわ、それに私もあなたのことはよく存じておりませんけれど、すぐに審理委員会に押しかけられるなんていうだけでも、重罪人にきまっています。でもあなたは自由でいらっしゃるんですから――少なくともあなたの落着いたご様子を拝見して、あなたは牢獄《ろうごく》から逃げてきたんではないって判断できますけれど――そんな犯罪をおやりになるはずはありませんわ」
「そうです」と、Kは言った。「でも審理委員会は、私が無罪だ、あるいは考えられたほど罪はないのだ、とさとったかもしれません」
「きっとそうですわ」と、ビュルストナー嬢はきわめて慎重に言った。
「ねえ」と、Kは言った。「あなたは裁判|沙汰《ざた》のことはたいしてご存じじゃありませんね」
「ええ、存じません」と、ビュルストナー嬢は言った。「そしてこれまでもしばしば残念に思っていましたわ。なぜって、私はなんでも知っておきたいんですし、裁判のことなんかは特に興味があるんですもの。裁判というのは独特の魅力がありますわね? でもこの方面で私の知識はきっと完全なものになりますわ、来月になれば事務員としてある弁護士事務所にはいりますから」
「そりゃあ、たいへん結構です」と、Kは言った。「そうなればあなたに少しは私の審理にお力添えいただけましょう」
「もちろん、できますわ」と、ビュルストナー嬢が言った。「なぜできないということがありましょう? よろこんで私の知っていることをご用だてます」
「まじめで申上げているんですよ」と、Kは言った。「あるいは少なくとも、あなたがおっしゃっているのと同じ程度に半ばまじめで言っているんですよ。弁護士を引っ張ってくるには、事は少々小さすぎますが、できれば忠告者をよく利用しなければなりません」
「そうですね、けれど私に忠告者になってくれとおっしゃるんでしたら、問題は、いったい何なのかを知らなければなりません」
「それがまさにむずかしいんです」と、Kは言った。「私自身がわからないんです」
「ああ、それじゃ私をからかっていらっしゃったのね」と、ひどく失望した様子でビュルストナー嬢が言った。「そんなことのためにこんな夜遅くを選ぶなんて、あんまりばかげていますわ」
 そして、それまでずっと二人いっしょに立っていた写真のところから離れてしまった。
「いや、そうじゃありません」と、Kは言った。「ふざけてなんかいるんじゃありませんよ。私の言うことをお信じにならないっておっしゃるんですか! 私にわかっていることは、すでにあなたに申上げました。いや、私にわかっている以上にです。というのは、審理委員会なんていうものじゃなかったのですが、ただ私がそう勝手に名づけたのです。どうもどう言ってよいのかわからなかったものですから。審理などは全然行われませんでした、私はただ逮捕されただけなんです、けれどある委員会の手で行われたことだけは確かです」
 ビュルストナー嬢は安楽椅子にすわっていたが、笑い声をたてた。
「で、逮捕はどんなふうにして行われましたの?」と、彼女はきいた。
「恐ろしいことでした」と、Kは言ったが、今はそんなことなどは考えていないで、ビュルストナー嬢の様子にすっかり心を奪われていた。彼女は片手で顔をささえ、――肘《ひじ》は安楽椅子のクッションにのせていた――もう一方の手がゆるやかに腰をなでているのだった。
「それじゃああんまり月並みで、なんのことやらわかりませんわ」と、ビュルストナー嬢が言った。
「何が月並みすぎるとおっしゃるんです?」と、Kはたずねたが、すぐに思い出して、たずねた。「あのときどういう有様だったか、あなたに申上げろとおっしゃるんですね?」
 彼は動こうとしたが、立ち去ろうとはしなかった。
「もう疲れてしまいましたわ」と、ビュルストナー嬢は言った。
「お帰りが遅いんですよ」と、Kが言った。
「とうとうあげくの果てが、お叱《しか》りを受けるということになりましたのね。でも自業自得ですわ、なにせこんな時間にはあなたに来ていただくべきではなかったんですから。それに、これまでにもうわかったように、来ていただく必要もなかったんですわ」
「必要だったのです。それはすぐわかっていただけると思います」と、Kは言った。
「夜間用の机をベッドのところからこっちへ持ってきてもよろしいですか?」
「なんということをお思いつきになったのです?」と、ビュルストナー嬢は言った。「もちろんそんなことをしていただいては困ります!」
「それじゃあ、あなたにお見せできないじゃありませんか」と、その言葉によって測り知れない損害をこうむったように興奮しながら、Kは言った。
「そうね、もし説明してくださるのに必要なら、机をほんのそっと動かしてください」と、ビュルストナー嬢は言い、しばらくしてからかなり弱々しい声で付け加えた。「疲れていたので、つい度を越したことをさせてしまったわ」
 Kは机を部屋の真っ只中《ただなか》に置き、その後ろにすわった。
「人物の配置を正しくのみこんでいただきます。それはたいへんおもしろいんです。私が監督とします。そこのトランクの上には二人の監視人が腰かけており、写真のところには三人の若い男が立っています。窓の把手には、私はただついでに言っておくのですが、一枚の白いブラウスがかかっています。そして今や、審理が始まります。ああ、私は自分のことを忘れていました。最も重要な人物、つまりこの私は、ここの机の前に立っています。監督は脚を組み、腕を椅子の背にこうやってだらりと下げ、ひどくのんびりとすわっている。無類の不作法者です。そして今や、ほんとうに審理が始まります。監督は、まるで私の眼をさまさなくてはならないというように大声をあげ、真っ向からどなりつけます。あなたにおわかりねがうためには、恐縮ですが私もここでどなってみなければなりません。ところで、彼がこうやってどなるのは、ただ私の名前だけなんです」
 笑いながら耳を傾けていたビュルストナー嬢は、Kがどなるのをさえぎるために、人差指を口もとにあてたが、時すでに遅かった。Kはすっかり役柄に没頭していて、ゆっくりと叫んだ。
「ヨーゼフ・K!」
 それでも彼がおどかしたほどは大声ではなかったけれども、その叫び声は、突然口をついて吐き出されると、ゆっくりと部屋のなかでひろがってゆくように思われた。
 そのとき、二、三度隣室の扉をたたく音がした。力強く、短かな、規則正しいノックだった。ビュルストナー嬢は蒼《あお》くなり、手を胸にあてた。Kはなおしばらくのあいだ、今朝の出来事と彼がそれを演じてみせている相手のこの女と以外のことを何も考えることができなかっただけに、特にひどく驚いたのであった。気が落着くやいなや、ビュルストナー嬢のところへ飛んでゆき、彼女の手を取った。
「何もこわがることはありません」と、彼はささやいた。「万事は私にまかせておきなさい。人がいるはずはありませんよ。この隣は空部屋で、誰も寝てはいませんよ」
「でも」と、ビュルストナー嬢はKの耳もとでささやいた。「昨日《きのう》からあそこにはグルゥバッハさんの甥《おい》の大尉の人が寝ていますわ。ちょうどどの部屋もあいてはいませんのよ。私も忘れていました。それなのにあんなにどなったりなさって! そのため私は具合がわるいことになりますわ」
「そんなことは全然ありませんよ」と、Kは言い、彼女がクッションに倒れかかると、その額に接吻《せっぷん》した。
「どいて、どいて」と、彼女は言い、急いでまた身を起した。「帰ってください、お帰りになって。どうしようというおつもりですの、あの人は扉のところで聞き耳をたてていますわ、すっかり聞えますわ。なんて私に面倒をおかけになるの!」
「私は帰りませんよ」と、Kは言った。「あなたがもう少し落着かれるまでは。部屋の向うの隅《すみ》に行ってください、あすこなら私たちの話すことが聞えませんから」
 彼女はそこまで連れてゆかれるままになっていた。彼は言った。
「なるほどあなたにとって不都合なことではありましょうが、全然危険というようなことじゃない、ということをあなたはよく考えてくださらなくちゃいけません。ご存じのように、このことの鍵《かぎ》を握っているグルゥバッハさんは、そして特に大尉があの人の甥でありますからなおさらそうなるわけですが、あの人はたいへん私を尊敬し、私の言うことはなんでも無条件に信じているのです。あの人はそうでなくとも私の厄介になっています。かなりの金を私から借りたことがあるからです。私たちが同室したことに対する釈明については、少しでも辻褄《つじつま》が合うことならどんなことでも、あなたの申し出をお引受けしましょう。そして、グルゥバッハさんを動かして、ただ人々に対する釈明を信じさせるばかりでなく、ほんとうに心からそれを信じさせることができるのです。その場合あなたは、私をけっしていたわってはなりません。私があなたを襲ったのだ、という噂《うわさ》を広めてしまいたいとお思いなら、グルゥバッハさんをそういうふうに教えこむことはわけはありませんし、そう信じこんでも私に対する信頼を失いっこはありません。それほどあの人は私に傾倒しているんです」
 ビュルストナー嬢は、黙って、少し崩《くず》れた姿勢で、じっと床を見ていた。
「私があなたを襲ったのだ、とグルゥバッハさんが信じたってかまわないじゃありませんか?」と、Kは言葉を継いだ。
 すぐ眼の前に、彼女の髪毛《かみのけ》、分けられ、少しふくらみをつけ、しっかりとくくった、赤みがかった髪毛が、見えた。彼女が自分に眼差《まなざし》を向けるものと彼は思ったが、彼女は姿勢を変えないで言った。
「ごめんなさい、突然ノックが聞えたためすっかり驚いてしまったので、大尉がいることから起るかもしれない結果を恐れたわけじゃないの。あなたがどなられたあとたいへん静かになったのに、そこへノックの音が聞えたものですから、あんなに驚いてしまいました。また私は扉の近くにすわっていたものですから、ほとんどすぐそばにノックの音が聞えたの。あなたのお申し出はありがとうございますが、私は結構ですわ。私の部屋で起ったことはすべて、私が責任を持ちます。しかも誰が何を言ってきましてもそうしますわ。もちろん、あなたのご好意はよくわかりますが、それと並んで、どんな私に対する侮辱があなたのお申し出のなかに含まれているかをお気づきにならないなんて、ほんとうに不思議ですわ。でも、もうお帰りになって、私をひとりにしておいてください。今はさっき以上にひとりでいることが必要ですの。ほんの二、三分とおっしゃったのが、もう三十分かそれ以上にもなりましたわ」
 Kは彼女の手をとらえ、次に手首をつかんだ。
「お気をわるくしたんじゃありませんか?」と、彼は言った。彼女はその手をはずして、答えた。
「いいえ、どういたしまして。私はいつでも、どなたに対してでも、気なんかわるくはいたしませんわ」
 彼はふたたび彼女の手首をつかんだが、今度ははずしもせずに、そのまま彼を扉のところまで連れていった。Kは、帰ろうとしっかと心をきめていた。ところが、扉の前まで来ると、こんなところに扉があるなんて思いもしなかったというような顔で止ってしまい、ビュルストナー嬢はこの瞬間を利用してKから逃れ、扉をあけ、控えの間に滑《すべ》りこみ、そこからKに小声で言った。
「ねえ、ちょっとこっちに来てちょうだい。ごらんになって」――彼女は大尉の扉を示したが、扉の下からは明りがもれていた――「あの人は明りをつけて、私たちの様子をおもしろがって聞いていたんだわ」
「どれ」と、Kは言い、飛びこみ、女をひっとらえて、口に接吻し、それから顔じゅうに接吻したが、まるで渇《かわ》いた獣が、とうとう見つけだした泉の水に舌で飛びかかるような有様だった。ついに彼は、喉《のど》のあるあたりの頸《くび》に接吻し、そこに唇を長いあいだ押しあてていた。大尉の部屋から物音が聞えたので、彼は眼を上げた。
「もう帰ります」と、彼は言い、ビュルストナー嬢の洗礼名を呼ぼうとしたが、知らなかった。彼女は物憂げにうなずき、すでに半分ほど身体をそむけ、彼が手に接吻するままに呆然《ぼうぜん》としてまかせていたが、次に身体をかがめて部屋へ帰っていった。間もなくKはベッドの中に横たわった。すぐ眠りこんでしまったが、眠りにはいる前に、ほんのしばらく自分の振舞いを考え、満足を感じたが、もっと満足していないことが不思議だった。大尉がいるため、彼はビュルストナー嬢のことを真剣に心配したのだった。

第二章 最初の審理

 Kは電話で、次の日曜日に彼の件についてちょっとした審理が行われる、ということを伝えられた。この審理は、おそらく毎日曜日ではないが、次々に再三規則正しく行われるだろう、と彼の注意が喚起された。一方では、審理をすみやかに終えることは誰もの利益ではあるが、他方、審理はあらゆる点で徹底的でなければならず、といってそれと結びついている努力を考えると、けっしてあまり長すぎてもいけない。それゆえ、次々に続くが、それぞれは短い審理をやるという逃げ道を選んだ。審理日を日曜日にきめたのは、Kの職業上の仕事の邪魔をしないためである。貴君も同意されたものと仮定するが、もしほかの日をお望みなら、できるだけそれにそうようにはする。審理はたとえば夜でもよろしいが、夜ではきっと貴君の頭が十分|冴《さ》えていないだろう。ともかく、貴君に異存がないかぎり、日曜日ということにしておく。むろんのこと、かならず出頭してもらわなければならない、この点はきっと念を押す必要もなかろう、ということだった。出頭すべき家の番地が教えられたが、それは、Kがまだ一度も行ったことのない、離れた郊外の通りであった。
 この通知を受取って、Kは返事もせずに、受話器をかけた。彼はすぐさま、日曜日に出かけることにきめた。行くことはどうしても必要で、審理が始まったし、自分のほうもそれに対抗しなければならぬ。この審理でもう最初の最後にしてしまわなければならぬ。彼はまだ考えこんで電話のところに立っていたが、そのとき背後で支店長代理の声がした。電話をかけようとしたのだが、Kが通路をふさいでいたのだった。
「よくない知らせですか?」と、支店長代理は軽く言ったが、別に何かを聞き取ろうというためではなく、Kを電話から退《の》かせるためであった。支店長代理は受話器を取ると、電話が通じるのを待ちながら、受話器越しに言った。
「ちょっと、K君、日曜の朝、私のヨットでのパーティーにいらっしゃってくれませんか? かなりの集りになるはずで、きっと君のお知合いもそのなかにはいるでしょう。特にハステラー検事ね。来てくださいますか? どうかいらっしゃってください!」
 Kは、支店長代理の言うことに注意をはらおうとした。それは彼にとってつまらぬことではなかった。というのは、彼とけっしてよい関係にはなかった支店長代理のこの招待は、相手のほうからの宥和《ゆうわ》策を意味するものであったし、彼が銀行でどんなに重んじられるようになったか、彼の友情、あるいは少なくとも彼の公平さが銀行で二番目に偉い人間にどんなに重んずべきことに思われているか、を示す事実であった。この招待は、ただ電話のつながるのを待つあいだ受話器越しに言われたのではあったが、支店長代理の謙譲にほかならなかった。だがKは、第二の謙譲をもってそれに報いなければならなかったのだ。彼は言った。
「ありがとうございます! でも残念ですが、日曜日は時間がありません、先約がありますので」
「残念です」と、支店長代理は言い、向き直って、ちょうど通じた電話でしゃべりはじめた。
 短かな話ではなかったが、Kはぼんやりしてそのあいだじゅう電話のそばに立ち続けていた。支店長代理が受話器を下ろしたときになって初めて、彼はぎくりとし、必要もないのに立っていたことを少し言い訳するため、言った。
「今電話がかかってきて、どこそこまで来いということだったのですが、時間を言うのを先方が忘れたものですから」
「もう一度かけてきいたらどうですか」と、支店長代理は言った。
「たいしたことじゃないんです」と、Kは言ったが、それによって前の、それだけでもすでに態《てい》をなしていない言い訳をいよいよまずいものにした。支店長代理は、歩きながらなおほかのことをしゃべり、Kは無理に答えようとしたが、平日には裁判はすべて九時に始まるのだから、日曜日は午前九時に行くのがいちばんよろしいだろう、そんなことをおもに考えていた。
 日曜日は陰鬱《いんうつ》な天気だった。Kは前の晩遅くまで常連と飲んだり騒いだりで例の酒場にいたので、ひどく疲れており、ほとんど寝すごすところだった。じっくり考え、この一週間のあいだ考え抜いたさまざまなプランをまとめあげる時間もなく、取急いだまま、着物を着て、朝飯を食べずに、指定された郊外へ急いだ。奇妙なことに、あたりを見まわす余裕などはなかったのに、彼の事件に関係した銀行員のラーベンシュタイナー、クリヒ、カミナーと出会った。この前の二人は、電車に乗って、Kの行く道を横切ったのだが、カミナーはあるカフェのテラスにすわっていて、Kが通り過ぎると、物珍しそうに手すりの上に身体《からだ》を乗り出した。三人とも彼の後ろ姿をじっと見送り、自分らの上役が急いでゆくことをいぶかっていた。Kが車に乗ることをやめたのは、ある種の依怙地《いこじ》さというものだった。この自分の件で他人の助けを借りることは、たといどんな小さなのであってもいやだったし、誰をも求めたくはないし、そうすることによってどんな些細《ささい》な点までをもきれいにしておきたかったのである。しかし結局のところ、あまりに厳格に時間を励行することで審理委員会に対してへりくだろうというつもりは、全然なかった。ともかく彼は、今は、けっして一定の時間を指定されたわけではなかったが、できるだけ九時に到着したいと思って、急ぎ足で行ったのだった。
 建物は、自分でもはっきりと想像してみることはできないがともかくなんらかの特徴で遠くからでもわかるだろうし、あるいは入口の特別な人の動きで離れていても見分けがつくだろう、と考えていた。ところが、彼が行くことになっていたユリウス通りは、Kがそのとっつきのところで一瞬立ち止ってながめると、両側ともほとんどまったく一様な家々、高い、灰色の、貧しい人々の住む貸家ばかりが並んでいた。日曜日の朝なので、たいていの窓には人がいて、腕まくりの男たちがそこによりかかり、煙草をふかしたり、小さな子供を窓ぎわに用心深く、やさしくささえたりしていた。ほかの窓々には寝具がいっぱいつまっていて、その上にときどき女のもじゃもじゃな頭が現われた。人々は互いに街路を隔てて呼び合い、そんな呼び声がちょうどKの頭上で大きな笑い声を引起した。長い通りには一定の間隔をおいて、道路の高さよりも低いところにあって二、三段降りると行き着く、さまざまな日用品を売る店が並んでいた。それらの店へ女たちが出入りをしたり、階段の上に腰かけてしゃべったりしていた。品物を窓に向って差出している果物屋《くだものや》がいたが、その男もKもついうっかりして、それの手押車でKは危うく押し倒されるところだった。ちょうどそのとき、もっと豊かな住居街で使い古した蓄音器が、ひどく鳴りはじめた。
 Kは、ここまで来れば時間は十分ある、予審判事がどこかの窓から自分を見ていて、したがって自分が現われたのを知っている、というような格好で、ゆっくりと街路を奥へと進んでいった。九時少し過ぎであった。建物はかなり遠くにあり、ほとんど尋常でないくらいに間口がのびていて、特に入口は高くて幅が広かった。それは明らかにそれぞれの商品倉庫所属のトラックを通すためであり、それらの倉庫はこの時間ではまだしまっており、大きな中庭を取囲んでいて、さまざまな商会のマークをつけていたが、そのいくつかはKも銀行の業務上知っていた。いつもの習慣とはちがって、こういうような様子をすべて詳しく胸に畳んでおこうと、なおもしばらく中庭の入口のところに立ち止っていた。近くの箱の上に一人の裸足《はだし》の男がすわり、新聞を読んでいた。一台の手押車を二人の子供が揺すっていた。ポンプの前に、寝巻ジャケツ姿の、弱々しそうな若い娘がたたずんで、水がバケツに落ちるあいだ、Kのほうをながめていた。中庭の隅《すみ》では、二つの窓のあいだに一本の綱が張られ、洗濯物がもう干してあった。一人の男がその下に立ち、一言二言声をかけては仕事を指図《さしず》していた。
 審理室に行こうとして、Kは階段のほうに向ったが、またじっと立ち止ってしまった。この階段のほかに中庭にはまだ三つの別な階段の登り口があり、そのうえ中庭の奥の小さな通路は次の中庭へ通じているように見えたからである。部屋の位置をもっとよく教えてくれなかったことに立腹したが、自分を取扱うやりかたが特別怠慢で投げやりであるし、このことは大いに声を大にしてはっきり言ってやろうと腹をきめた。しかし結局は階段を登っていったが、裁判は罪によって引寄せられるのだ、と言った監視人のウィレムの言葉を思い出し、心のなかでその言葉を考えてみたけれども、それなら結局、審理室はKが偶然選ぶ階段の上にあるにちがいない、ということになるはずだった。
 登ってゆきながら、階段で遊んでいるたくさんの子供たちの邪魔をする結果になったが、子供たちは、Kが彼らの列をかきわけてゆくと、悪意のある眼でじっと見るのだった。
「この次またこの階段を登ることになったら」と、彼は心ひそかに思った。「連中を買収する菓子を持ってくるか、連中をなぐるステッキを持ってくるかのどちらかにしなければなるまい」
 もうすぐ二階というとき、ボールが行ききってしまうまで、しばらくたたずんで待ちさえしなければならなかった。大人のルンペンのようないやな顔つきをした二人の小さな子供が、そうやっている彼のズボンにつかまった。それを振切ろうとでもしようものなら、彼らを痛めつけないともかぎらず、また大声をあげられるのではないかと思って、やめにした。
 二階に来て、いよいよほんとうの部屋捜しが始まった。審理委員会はどこですか、ときくわけにもいかないので、指物師《さしものし》のランツという名前を考えだし、――この名前を思いついたのは、グルゥバッハ夫人の甥の大尉がそういう名前だったからだが――ここに指物師のランツという人が住んでいませんか、とどの部屋にもきいてまわり、部屋のなかをのぞきこむことができるようにしようと思った。しかし、それはたいてい造作なくできることがわかった。ほとんどすべての扉が開いていて、子供たちがはいったり、出たりしていたからである。どれもきまって、小さな、窓がひとつしかない部屋で、そこで炊事もするのだった。幾人かの女たちは腕に乳飲児《ちのみご》をかかえ、あいたほうの手でかまど[#「かまど」に傍点]の上で仕事をしていた。年端《としは》のゆかぬ、見たところエプロンだけしかつけていない娘たちが、非常に忙しげにあちこちと走りまわっていた。どの部屋でもベッドがまだふさがっていて、そこには病人やまだ眠っている人々が横になっていたり、あるいは着物のまま身体を伸ばしている人々がいた。扉がしまっている部屋では、Kはノックをして、ここに指物師のランツさんが住んではいませんか、とたずねた。たいてい女が扉《とびら》をあけ、用件を聞くと、部屋の中のベッドから身体を起す誰かに向って言うのだった。
「指物師のランツっていう人がここにいませんかって」
「指物師のランツ?」と、ベッドの人がきく。
「そうです」と、Kは言うが、そこには疑いもなく審理委員会はないのだから、彼の用件はもうすんでいるのだった。多くの人々は、Kが指物師のランツにどうしても会わなければならないのだと思いこんで、長いあいだ考えては、指物師の名を言うが、それがランツというのとほんの少しばかり似ている名前であったり、隣の人にきいてくれたり、あるいはずっと離れた部屋まで連れていってくれたが、彼らの考えでは、そういう人がおそらく又貸しで住んでいるかもしれないし、また自分たちよりも事情に明るい人がいる、というわけであった。ついにはKはもはやほとんど自分でたずねる必要がなくなり、こんなふうにして各階を引っ張りまわされると、初めは非常に実際的に思われていた自分の計画も、残念に思えてきた。六階に登るところで、もう捜すのをやめようと決心し、彼をさらに上へ連れてゆこうとする親切な若い男と別れて、降りていった。ところがすぐ、こういうふうにやってみたことがむだだったことに腹がたち、もう一度引返して、六階のとっつきの扉をノックした。その小さな部屋で彼の見た最初のものは、すでに十時を示している大きな壁時計だった。
「指物師のランツさんはこちらにいらっしゃいましょうか?」と、彼はたずねた。
「どうぞ」と、黒い輝く眼をした一人の若い女が言ったが、彼女はちょうど盥《たらい》で子供の下着を洗濯しており、ぬれた手で隣室の開いた扉を示した。
 Kは、何かの集りにはいったのだ、と思った。おびただしい、色とりどりの服を着た人々が――一人としてはいってきた彼に注意する者はなかった――窓が二つある中くらいの部屋にいっぱいで、部屋は、ほとんど天井の近くで回廊に取巻かれており、その回廊がまた同じように完全に満員で、人々はただ身をかがめてやっと立つことができ、頭と背中とを天井にぶつけていた。空気があまり淀《よど》んでいるように感じたKは、また出てゆき、おそらく彼の言葉を勘違いしたらしい例の女に言った。
「指物師のランツさんと申したのですが?」
「ええ」と、女は言った。「どうぞお通りになってください」
 もし女が彼のそばまで寄ってきて、扉の把手《とって》をとり、「あなたがおはいりになったら、しめなければなりません。もう誰もはいれません」と、言わなかったならば、Kはおそらく女の後《あと》には続かなかったであろう。
「それがいいですよ」と、Kは言った。「しかし、もう超満員ですよ」
 それでも彼はまた中へはいった。
 扉のすぐ近くのところで話していた二人の男のあいだを通り抜けると、――その一人は、大きくひろげた両手で金を勘定する動作をやっており、もう一方の男は彼の眼を鋭くのぞくのだった――ひとつの手がKをつかんだ。それは、小柄な、頬《ほお》の赤い若者だった。
「こちらです、こちらですよ」と、彼は言った。Kは男に引かれるままになって行ったが、ごちゃごちゃで沸きかえっている雑踏のなかにも狭い通路があいており、おそらくその通路で二つのグループに分れているらしい、ということがわかった。このことは、Kには左右の最前列にはほとんど一人として自分のほうに向いている顔が見あたらず、話と身振りとを自分のグループの連中にだけ向ってやっている人々の背中ばかりが見える、ということでもはっきりとした。たいていは黒服を着ており、古びた、長い、だらりと垂《た》れ下がった礼服姿であった。この服装だけが確かにKを戸惑いさせたが、そのほかの点では、彼にはすべてが政治的な地区集会のように見える、と思った。
 Kが連れてゆかれた広間の向うの奥には、やはり人でいっぱいの非常に背の低い演壇の上に、横向きに置かれてひとつの机が立っており、その背後、演壇の端に、一人の小柄な、肥《ふと》った、ふうふう鼻息をついている男がすわっていた。彼はちょうど、彼の背後に立っている一人の男と――このほうは肘《ひじ》を椅子の背につき、脚を組んでいたが――高笑いしながら話していた。何回となく腕を宙に振っているのは、誰かを野次ってまねているらしかった。Kを連れていった男は、報告するのに骨折った。爪立《つまだ》ちながら、すでに二度ほど何かを言おうとしたが、上にいる男には気づかれなかった。演壇の上のほかの連中の一人がその若者のことを注意すると、その男はやっと彼のほうを振向き、身体をかがめてその低声の報告を聞きとった。それから時計を引っ張り出し、ちらりとKのほうを見た。
「一時間と五分前に来なければいけなかったのだ」と、彼は言った。
 Kは何か返答しようと思ったが、その余裕がなかった。男がそう言うやいなや、広間の右側の半分でどっと不平のつぶやきが起ったからである。
「一時間と五分前に来なければならなかったのだ」と、男は声をあげて繰返し、また素早く広間を見下ろした。すぐに不平の声も高まったが、男がそれ以上何も言わなかったので、それもやっと次第に消えていった。今では広間は、Kがはいってきたときよりはずっと静かになっていた。ただ回廊にいる連中だけが、口々に、何かしゃべることをやめなかった。上のほうの薄暗がりと煙と塵《ちり》とのなかで見分けがつくかぎりでは、連中は下の人々よりは服装もわるかった。多くの連中は布団《ふとん》を持ってきて、すりむかないために、それを頭と部屋の天井とのあいだにおいていた。
 Kは、話をするよりも観察してやろう、と腹をきめたので、表向きの遅刻の申し訳をすることをやめて、ただこう言った。
「遅すぎたかはしれませんが、ともかく今は来たわけです」
 喝采《かっさい》の音が、また右側の半分から起った。御しやすい連中だな、とKは思ったが、ただ左側の半分が黙っているのが気になった。左側のほうはちょうど彼の背面になっており、そちらからはただきわめてまばらな拍手の音が起っただけだった。全員を一度に、もしそれができない相談なら、少なくとも暫時左側の連中をも味方にするには、どう言ったらよかろうか、と考えてみた。
「なるほどね」と、男が言った。「しかし、私は今となってはもう君を尋問する義務はないのだ」――また不平のつぶやきが起ったが、今度は誤解らしかった。というのは、男は人々を手で制しておいて続けたからである――「しかし、今日のところは例外として、尋問しようと思う。こんな遅刻は二度と繰返してはいけない。では、前に出たまえ!」
 誰かが演壇からとび降りたので、Kに余地ができ、彼は上へ登った。彼は机にぎゅうぎゅう押しつけられて立っていたが、背後の群衆が非常に大勢なので、予審判事の机とおそらくは判事その人さえも演壇から突き落すまいと思うなら、群衆に抵抗しなければならないほどであった。
 しかし予審判事はそんなことはいっこうおかまいなしで、いかにもゆったりと肘掛椅子にすわり、背後の男に何か終りの言葉を言うと、彼の机の上にある唯一の品物である小さなノートをつかんだ。それは学校ノートのようで、古びて、あんまりめくりすぎたらしく、すっかり形がくずれていた。
「では」と、予審判事は言い、ノートをめくり、確かめる調子でKに向って言った。「室内画家だったね?」
「ちがいます」と、Kは言った。「ある大きな銀行の業務主任です」
 こう答えると、下の右側のグループから笑い声がひとつ起り、それがあまりおかしそうだったので、Kもつりこまれて笑わないではいられなかった。人々は両手を膝《ひざ》の上に突っ張り、ひどい咳《せき》の発作のときのように身体をゆするのだった。回廊の上にいる何人かさえ笑った。すっかり気をわるくした予審判事は、下にいる連中に対しては権限が及ばぬらしく、回廊のほうでその償いをしようとして、とび上がり、回廊の連中をおどしつけるのだったが、これまでほとんど目だたなかった眉毛《まゆげ》が、眼の上で、ふさふさと、黒く、大きく寄り合った。
 ところが、広間の左半分はまだ依然として静かであり、そこでは人々が列をつくって並び、顔を演壇のほうに向け、壇上で交《か》わされる言葉にも、片方のグループの喧騒《けんそう》にも、同じように平静に耳を傾け、自分たちの列からちらほら人が立って別なグループとあちらこちらでいっしょに相談することをさえ、じっと見ている。左側のグループは、だいいち人数が少なかったが、結局のところ右側のグループと同じようにたいしたものでないらしいのだけれども、その態度の平静さがいっそう意味ありげに見えさせるのであった。Kがしゃべりはじめると、確かに自分は左グループの心持でしゃべっているのだ、というような気がした。
「予審判事さん、私が室内画家かというお尋ねは――むしろ、あなたはきかれたのではなくて、頭ごなしに私に言われたのですが――私に対してなされている手続きの全貌《ぜんぼう》の特色を示すものであります。もともと手続きじゃないと異議を申されるかもしれませんが、そのあなたの異議はまったく正しいと言えます。なぜならば、私がそれを認めるときにだけ手続きだと言えるからです。だが、今はしばらくそう認めてもおきましょう。そうするのは、いわば同情からです。およそこんな手続きを重んじようと思うときには、同情をもって以外に対すべき道がありません。私はだらしない手続きだとは申しませんが、この言葉をあなたの自己認識のために申上げたわけです」
 Kは語るのをやめて、広間を見下ろした。彼が言ったことは、鋭かったし、彼の意図以上に鋭くはあったが、しかし正しかった。喝采があちこちで起らなければならぬところだったが、全員黙ったままであり、人々は明らかに緊張して次に来るべきものを待っている面持で、おそらくはその静けさのうちには爆発が用意されているのであって、それは万事にけり[#「けり」に傍点]をつけるにちがいなかった。ちょうど広間の入口の扉が開き、仕事を終えたらしい例の若い洗濯の女がはいってきて、十分気をつかっているらしいのだが幾人かの人々の視線を自分のほうに引きつけているのは、眼ざわりなことだった。ただ予審判事だけがKを直接よろこばせたが、それは、Kの言ったことにすぐさま図星を当てられたらしいように見えたからであった。Kの発言に驚かされたからであるが、判事はそれまで、回廊に向って突っ立ちながら、そのままの姿勢で聞いていた。ところが今は、静かな間が生じたので、気づかれまいとするように、次第に腰をおろした。顔つきを抑えるためだろうが、ふたたび例のノートを取上げた。
「そんなことをしたって何の役にもたちませんよ」と、Kは続けた。「予審判事さん、あなたのそのノートも、私が言うことを裏づけています」
 自分の平静な言葉だけがこの見知らぬ集りのうちに響いていることにすっかり満足して、Kはそのうえ、ノートを無造作に予審判事から引ったくり、きたないものにさわりでもするかのように指先で中ほどの一枚をつまみ上げたので、ぎっしり文字のつまった、しみ[#「しみ」に傍点]だらけの、縁の黄色くなったページが、両側にだらりと下がった。
「これが予審判事の文書です」と、彼は言って、ノートを机の上に落した。
「予審判事さん、どうかごゆっくりと先をお読みください。こんな学校ノートなんか私は少しも恐《こわ》くはありませんよ。もっとも、私は二本の指でやっとつまめるだけで、手には取ろうとは思いませんから、中身は私にさっぱりわかりませんが」
 予審判事は机の上に落ちたノートを取上げ、少し整理してから、またそれを読もうとしたが、このことは、深い屈従のしるし[#「しるし」に傍点]でしかありえず、あるいは少なくともそう考えられるべきことであった。
 最前列の人々の顔は非常に緊張してKに向けられたので、彼はしばらく彼らのほうを見下ろした。いずれもが相当な年配の人々で、幾人かは白髯《はくぜん》であった。おそらく彼らこそ、予審判事の屈従によっても、Kが話しはじめてから保っていたその落着きを失わされなかったこの集り全体に、影響を与えうる鍵《かぎ》を握っている人物なのであろうか?
「私に起ったことは」と、Kは続けたが、今度は前よりもいくらか低目であり、絶えず最前列の顔をうかがっているため、話にいくらか落着かぬ表情を与えた。「私に起ったことは、まったくのところ個人的な事件にすぎず、私はそれをたいして深刻なものとは受取っていませんので、それ自体としてはさして重大ではありませんが、それは、多くの人々に対してなされている手続きのよい例であります。これらの人々のためにこそ私はこうやって立っているのであり、自分一個のためではありません」
 彼は思わず声を高めた。どこかで誰かが両手を高く上げて拍手をし、叫んだ。
「異議なし! そうだぞ。異議なし! もう一度言うぞ、異議なし」
 最前列の連中はあちこちで髯《ひげ》をしごいており、誰もその叫び声のほうに振向く者はなかった。Kもその叫び声を問題にはしていなかったが、それでも元気づけられた。満場の同意の喝采が起ることなどは今はもうまったく必要とは思っておらず、全員がこのことについて反省しはじめ、ただときどき誰かがこの説得に同意してくれれば十分であった。
「私はうまく話すなどということは望みません」と、Kはこうした確信から言った。「また私はとうていそんなことはやれません。予審判事さんのほうがおそらくずっと上手に話されましょう。それがご商売だからです。私が望んでいるのはただ、ある公然たる不正を公にしゃべろうということです。どうか聞いてください。私は約十日ばかり前から逮捕されています。逮捕という事実そのものがばかばかしいのですが、しかしそれは今ここで申上げるべきではありません。私は、朝、寝込みを襲われましたが、おそらくは――これは判事の言われたことからして否定できませんが――私と同様に無実な画家の誰かを逮捕せよ、という命令を受けたらしいのですが、この私が選ばれたのでした。隣室は二人の不作法な監視人に占領されました。たとい私が危険な強盗であったとしても、これ以上の用心はできなかったでしょう。そのうえ、この監視人たちがけしからぬやつらで、つまらぬことを私の耳にしゃべり散らし、賄賂《わいろ》をもらおうとし、いろんな口実をつかって下着や洋服を巻きあげようと思い、私の眼の前で私自身の朝飯を恥知らずにも平らげてから、私に朝飯を取ってきてやるからと称して金を求めました。それだけではありません。私は第三の部屋の監督の前に引出されました。それは、私がたいへん尊敬しているある婦人の部屋ですが、その部屋が、私のためとは言うものの、私には罪もないのに、監視人と監督とがいたためかなり荒されているのを見なければならなかったのです。自分を抑えることは容易ではありませんでした。でもどうやらできましたので、監督にきわめて平静に――もし彼がここにいるなら、そのことを保証してくれるはずです――なぜ私は逮捕されたのか、とたずねました。さてこの監督は、ただいま申しましたご婦人の椅子にこの上なく愚劣な傲慢《ごうまん》さを示しながらふんぞりかえっていたその有様が今も私の眼前に彷彿《ほうふつ》としているくらいですが、この男はなんと答えたでしょうか? 諸君、彼は結局のところ何も返答しませんでしたし、おそらくほんとうはまったく何も知らなかったのでしょうし、彼は私を逮捕して、それで我が事終れりという顔つきでした。この男はそのほかのことさえやりました。例の婦人の部屋に私の銀行の下級行員を連れてきておりましたが、この連中はその婦人の写真や持物に触れたり、ひっかきまわすのに一生懸命でした。これらの行員がいたことはもちろんほかにある目的があったのでして、私の部屋主や女中と同じように、私の逮捕のニュースを広め、私の公の名誉を毀損《きそん》し、特に銀行で私の地位をぐらつかせることになっていたのです。ところがそれはほんの少しでも成功しませんでした。私の部屋主はまったく淳朴《じゅんぼく》な人で――私はここで彼女の名前を尊敬をこめて申上げておきますが、彼女はグルゥバッハ夫人と言うのです――このグルゥバッハ夫人さえも、こんな逮捕は躾《しつけ》の十分でない子供が路地でやるわるさを出ないものだ、ということを見て取るだけの分別を備えておりました。繰返して申しますが、この出来事のすべては私に対してただ不快としばしの腹だちとをいだかせただけですが、またいっそうわるい結果を生ずることもありえたのではないでしょうか?」
 彼がここまで話して言葉を切り、黙りこんでいる予審判事のほうをうかがい見ると、この男がちょうど群衆のなかの誰かと眼で合図をしているのを認めたように思えた。Kは微笑して、言った。
「ちょうど今、この私のそばで予審判事さんは諸君の中の誰かとそっと合図をされたようです。これによって見ると、諸君の中には、この演壇上から指図されている人がいるようです。今の合図が舌を鳴らして野次れというのか、喝采しろというのか、私にはわかりませんが、事が一足先に露見したからには、万事のみこんだうえで、合図の意味など知ろうとは思いません。それは私にはどうでもよいのであって、私は公然と予審判事さんに、こそこそした合図のかわりに、はっきりと口に出して、『今、舌打ちしろ!』とか、次には『今、手をたたけ!』とかいうように命令していただいて結構だ、と申上げます」
 当惑したのか、それともいらいらしてきたのか、予審判事は椅子の上であちこちと身動きした。すでにさっき彼と話していた背後の男は、また彼のほうに身をかがめたが、ただ普通に励ますためなのか、それとも彼に特別な策を授けるためなのか、であろう。下のほうでは人々が、低声でだがさかんにしゃべり合っていた。これまでは対立する意見を持っていたように見受けられた二つのグループがまじり合って、ある者は指でKをさし、ほかの者は予審判事を指さすのだった。室内の霧のような塵《ちり》がひどく耐えがたく、遠くのほうに立っている連中をよくながめることを妨げた。特に回廊の客たちにはこれが邪魔であるにちがいなく、もちろんはばかりながら予審判事の顔色をうかがい、情勢を詳しく知るために、集会のメンバーたちにこっそりたずねないではいられなかった。返答するほうも、口に手をあてて、同じように小声でするのだった。
「もうじき終ります」と、Kは言い、打鈴《だれい》がなかったので、拳《こぶし》で机をたたいた。それに驚いて、予審判事とその黒幕との頭が左右に分れた。
「万事は私とは縁が薄いことですから、私は平静に判断を下しますが、この名目上の裁判に諸君が関心がおありとして、もし私の申すことをお聞きくだされば、大いに有益だと思います。私が申上げることに対して諸君がお互いにお話し合いになることは、後のことにしていただきたいのです。時間がありませんし、私はもうすぐ帰りますから」
 すぐに静かになったが、Kはすでに、そんなにもこの集会をリードしていた。もう初めのころのように叫ぶ者もなく、賛成の拍手をする者もなかったが、すでにKに納得されているか、あるいはもうほとんどそうなっているかのように見受けられた。
「疑いもなく」と、Kはきわめて小声で言った。集まった全員が緊張して耳を傾けていることが彼をよろこばせ、この静けさのうちにひとつのどよめきが生れ、それは最も熱狂的な拍手よりも心をそそったからである。
「疑いもなく、この法廷のあらゆる言動の背後には、したがって私の場合で言えば逮捕と今日の審理との背後には、ひとつの大きな組織があるのです。この組織は、買収のきく監視人や蒙昧《もうまい》な監督、最もうまくいって謙遜《けんそん》な予審判事を使っているばかりでなく、さらに、ともかく上級および最高の裁判官連をかかえ、それとともに、無数の広範な、廷丁《ていてい》、書記、憲兵、その他の雇いたち、それにおそらくは、私はこう言うことをはばかりませんが、首斬《くびき》り人の群れさえも従えております。そして、諸君、この大きな組織の意味はなんでしょうか? それは、無実の人々が逮捕され、彼らに対して無意味な、そしてたいていは私の場合のように得《う》るところのない訴訟手続きが行われる、という点にあるのです。万事がこのように無意味なのですから、役人連の極度の腐敗はどうして避けられましょうか? それはできない相談であり、最高の裁判官も独力ではなしとげることはけっしてできないでしょう。それだからこそ、監視人は逮捕された者たちから着物をはぎ取ろうとしますし、それだからこそ、監督は他人の住居に侵入しますし、それだからこそ、無実の人間が、尋問されるというよりはむしろ、集会の全員の前で侮辱されねばならないのです。監視人たちは、逮捕者たちの所有物が持ってゆかれる倉庫のことばかりしゃべっておりましたが、私は一度これらの倉庫を見たいと思います。その中で、逮捕者たちの苦労して稼《かせ》ぎ取った財産は、泥棒に等しい倉庫役人たちに盗まれるのでなければ、むなしく朽ちてゆくのです」
 Kは広間の隅《すみ》の金切り声に話を中断され、そちらを見ることができるように、眼の上に手をかざした。曇った日の光が塵煙《じんえん》を白っぽくし、眼をちかちかさせるからであった。それは洗濯していた例の女だが、現われたときすぐにKには、これこそまったくの邪魔物だ、という気がしたのだった。今しがた音をたてた罪があるのはこの女か、この女ではないかは、わからなかった。Kはただ、一人の男がこの女を扉のところの隅へ引っ張ってゆき、そこで抱きしめているのを、見た。しかし、金切り声をたてたのは女ではなく、男のほうであり、口を大きくあけて天井をながめていた。二人のまわりには小さな人の輪ができ、その近くの回廊の客たちも、Kによってこの集会に持ちこまれた真剣味がこうして中断されたことに、歓喜している様子だった。Kは最初の感じですぐに駆け寄ろうとし、また、そこの秩序を取戻し、少なくともその二人を広間から追い出すことがすべての人々の関心事にちがいない、と思ったのだったが、彼の前の最前列は頑《がん》としたままで、誰一人身動きもせず、誰もKを通らせなかった。むしろ彼を妨害する始末で、老人たちは腕を前に出し、誰かの手が――彼は振向く暇もなかった――背後から襟首《えりくび》をつかんだ。Kはもうまったく例の二人のことは考えず、自分の自由が拘束されたのだ、人々は逮捕をまじめになってやっているのだ、という気持になり、前後を忘れて演壇からとび降りた。こうして彼は、群衆とぴたりと向い合った。人々のことを正しく判断しなかったのではないか? 自分の話の効果を過信したのではないか? 自分がしゃべっているあいだは人々は取繕っていたのであるが、結論に達した今となっては、その仮装に飽いてしまったのだろうか? 彼を取囲んでいるのは、なんという顔どもなのだろう! 小さな黒い眼があちこちと視線を配り、頬《ほお》は酔いどれたちのようにだらりと垂れ、長い髯は剛《こわ》くてまばらで、それに手を突っこむと、髯に手を突っこんだのではなく、ただ爪で引っかかれるような感じだった。ところが髯の下には――そしてこれがほんとうの発見だったが――さまざまな大きさと色をした徽章《きしょう》が上着の襟《えり》についていた。見られるかぎり、すべての人々がこの徽章をつけていた。見せかけの左右両グループはみんな同類だったのだ。そして彼が突然振向くと、両手を膝に置いて静かに見下ろしている予審判事の襟元にも、その同じ徽章を見た。
「ああ」と、彼は叫び、両手を高く上げたが、突然いっさいが氷解したという思いがそうさせたのだった。
「君たちは実はみな役人なんだな、君たちはまったく、私が攻撃したあの腐敗した徒党なんだ。聴衆と探偵とになってここにつめかけ、見せかけだけのグループに分れて、私をためすために一方が喝采したのだ。罪のない人間をどうやって引っ張りこむかを研究しようとしたのだ! さて、おそらく諸君はここに来てむだではなかった。ある男が無実の罪の弁護を君たちに期待した、ということを大いに慰みにしたか、あるいは――寄ってくるな、さもないとなぐるぞ」と、Kは特に自分のほうへにじり寄ってきた、震えている一人の老人に言った――「あるいはほんとうに何かを勉強したはずだ。そこで君たちの商売に対してお祝いを言ってやろう」
 机の端にあった自分の帽子を素早くつかんで、ともかく完全な驚きで等しく黙りこくってしまった静寂の中を、出口へと殺到していった。ところが予審判事のほうがKよりも早かったらしく、扉のところで待ち受けていた。
「ちょっと待ちたまえ」と、彼は言った。
 Kは立ち止ったが、予審判事のほうは見ないで、彼がすでに把手に手をかけていた扉を見ていた。
「断わっておくが」と、予審判事は言った。「君は今日――君にはまだよくわかっていないらしいが――尋問というものが逮捕された者にいつでも与える利益を、放棄してしまったのだ」
 Kは扉に向って笑った。
「ルンペンどもめ」と、彼は叫んだ。「尋問なんかいっさい返上するよ」
 そして扉をあけ、階段を駆け降りた。背後では、またにぎやかになって集りの騒音が沸き上がったが、この出来事をおそらく研究者の態度で討議しはじめたのだった。


第三章 人けのない法廷で・
    学生・裁判所事務局

 Kは次の週のあいだ、改めて和解してくるのを毎日待っていた。尋問を拒絶すると言ったことを言葉どおりに取られたとは、信じられなかった。ところが期待した和解の申し出が、実際、土曜日まで来なかったので、何も言ってはこないが暗黙のうちにあの同じ家に同じ時間に来いというのだろう、と考えた。それで日曜日にまた出かけていったが、今度はまっすぐ階段と廊下とを通り抜けた。彼のことを覚えていた何人かの人々は戸口で彼に挨拶《あいさつ》したが、もう誰にもきく必要はなく、間もなく目ざす扉《とびら》に来た。ノックの音で扉が開かれ、扉のところに立ち止っている例の顔見知りの女にはもう眼もくれずに、そのまま隣室にはいろうとした。
「今日は法廷は開かれません」と、女が言った。
「なぜ開かれないんです?」と、彼は言い、信じようとはしなかった。ところが、女が隣室の扉をあけたので、彼も納得がいった。部屋はほんとうにからっぽで、からっぽなだけにこの前の日曜日よりもいっそうけちくさく見えた。相変らず演壇の上に立っている机には、二、三冊の書物がのっていた。
「あの本を見てもいいですか?」と、Kはたずねたが、特に興味があってのことではなく、この部屋にやってきてまったくむなしい結果に終りたくないためだった。
「いけません」と、女は言って、また扉をしめた。「それは許されていません。あれは予審判事さんの本です」
「ああ、そうですか」と、Kは言い、うなずいた。「きっと法律書だが、罪がないだけでなく何も知らぬうちに判決を下されてしまうというのが、この裁判所のやりかたなんだ」
「そうかもしれませんわ」と女は言ったが、彼の言うことがよくはわかっていないらしかった。
「それじゃあ、もう行こう」と、Kは言った。
「何か予審判事さんにお伝えすることがありますか?」と、女が言った。
「あの人をご存じですか?」と、Kはたずねた。
「もちろんですとも」と、女は言った。「主人が廷丁ですから」
 そう言われてはじめてKは、この前来たときは洗濯桶《せんたくおけ》だけがあったこの部屋が、今ではすっかり整った居間になっていることに、気づいた。女は彼が驚くのを認めて、言った。
「この部屋をただで借りているんですけれど、開廷日には部屋をあけなければなりません。主人の身分ではいろいろと不便もありますわ」
「部屋のことではたいして驚いてもいませんが」と、Kは言い、渋い顔で女を見つめた。「むしろご主人がおありだというのに驚いているんです」
「私があなたのお話を邪魔してしまったこのあいだの裁判のことをあてこすっていらっしゃるんですか?」と、女がきいた。
「もちろんですよ」と、Kは言った。「今日ではもう過ぎたことだし、ほとんど忘れてしまったが、あのときはほんとうに腹がたちました。それがどうです、ご主人があると自分で言われるんですからね」
「お話が折られたことは、あなたのためにわるいことではなかったのよ。みなさんはあとで、あなたについてずいぶんわるい判断を下していました」
「そうでしょうが」と、Kは話をそらしながら言った。「でもそれでは言い訳にはなりませんよ」
「私を知っていてくれる人なら、誰でも私を許してくれますわ」と、女は言った。「あのとき私に抱きついた人は、ずっと前から私を追っかけていたんです。私、普通は男の人をひきつけなんかしないんでしょうが、あの人にはそうなんです。このことは隠れもないことで、主人ももうのみこんでいるんですわ。でも主人は地位を維持しようと思うなら、我慢しなきゃならないんです。あの人は学生さんで、これから偉くなるんですもの。あの人はいつも私をつけまわして、あなたがいらっしゃるほんの少し前に帰っていったところですわ」
「ほかの連中もみんなそんなものですよ」と、Kは言った。「別に驚きませんよ」
「あなたはきっと、ここで何かを改善しようと思っているのね?」と、女はゆっくりと、探るように言ったが、自分にもKにも危ないことを何か言っているような様子だった。
「それはあなたのお話からわかっていましたわ。お話は私にはたいへん気に入りましたの。もちろんほんの一部分だけを伺ったのですけれど。初めのところは聞けませんでしたし、終りのところではあの学生といっしょに床の上にころがっていましたから。――ここはまったくいやですわ」と、しばらく間《ま》をおいて女は言い、Kの手を握った。「改善することができるとあなたは思っていらっしゃるの?」
 Kは微笑し、手を女の柔らかな両手の中で少し動かした。
「もともと」と、彼は言った。「あなたの言うようにここを改善するなんていうことは、僕にできる立場じゃないし、たとえばあなたがそんなことを予審判事に言おうものなら、きっと笑われるか、罰せられるかしますよ。事実僕は、自ら好んでこんなことに首を突っこむはずじゃなかったし、ここの裁判組織を改善する必要があっても、何も僕の眠りを妨げられるはずはないのです。ところが、僕が表向き逮捕されたということによって、――つまり僕は逮捕されたのです――ここに首を突っこまざるをえなくなったのですが、それも僕自身のためにですよ。それでもあなたに何かのお役にたつならば、もちろん大いによろこんでやりはします。ただ隣人愛からといったようなことじゃなくて、あなたのほうも僕を助けてくださることができるということがあるためです」
「いったいどうすればお助けできますの?」と、女がきいた。
「たとえばあの机の上の本を見せてくれればですよ」
「お安いご用ですわ」と、女は叫び、彼を急いで引っ張っていった。どれも古びた、すり切れた本で、厚表紙は真ん中でほとんどちぎれ、ただ紐《ひも》だけでやっとくっついていた。
「ここのものはなんでもなんてよごれているんだろう」と、Kは頭を振りながら言い、女は、Kが本を手にする前に、エプロンで少なくとも表面だけは塵《ちり》をぬぐいさった。
 Kはいちばん上の本を開いたが、いかがわしい絵が出てきた。一組の男女が裸でソファにすわっており、画家の卑俗な意図がはっきりうかがえたが、そのまずさ加減があまりにひどいので、結局は男と女とだけしか眼にははいらず、それがあまりに立体的に絵から浮び出て、ひどく固くなってすわっており、遠近法が間違っているため、やっとこさ互いに向い合っていることがわかる始末だった。Kはそれ以上めくるのをやめ、ただ二冊目の本の扉をあけると、『グレーテが夫のハンスよりこうむらねばならなかった苦しみ』という題名の小説だった。
「これが、ここで研究されている法律書か」と、Kは言った。「こんな人間たちに裁《さば》かれるなんて」
「あなたの援助をしますわ」と、女は言った。「よくって?」
「ほんとうにできるんですか、あなた自身、危なくならないで? あなたのご主人はなんでも上役の言うとおりだ、とさっきあなたはおっしゃったが」
「それでも私はあなたをお助けしますわ」と、女は言った。「こちらにいらっしゃい。私たちは相談しなければなりません。私の危険のことなんかもうおっしゃらないで。危険なんて、自分で恐《こわ》がろうとするときにだけ恐いんですわ。さあ、こちらにいらっしゃい」
 女は演壇を指さし、彼女といっしょに階段に腰かけるようにすすめた。
「きれいな黒い眼をしているのね」と、二人がすわると、女は言って、下からKの顔を見上げた。
「私もきれいな眼をしているって言われますわ。でもあなたのほうがずっときれいよ。あなたが初めてここにはいっていらっしゃったときすぐに、気がつきました。それだからこそまた、後《あと》からこの集会部屋にはいってきたんだわ。いつもはそんなことはしないし、いわば禁じられてもいるんですけれど」
 ははあ、こういうわけなんだな、とKは思った、彼女は身体《からだ》をおれに差出している、この女もここのまわりにあるあらゆるものと同様堕落しているんだ、まったく当然のことだが裁判所の役人には飽きてしまい、それだものだから気に入る他人に、眼がきれいだ、などとお世辞を言うのだ。Kは黙って立ち上がったが、自分の思っていることをはっきりと言ってやり、それによって女に自分の態度を明らかにしてやろう、という気構えだった。
「あなたが僕を助けられるとは思いませんね」と、彼は言った。「僕をほんとうに助けてくれるためには、偉い役人たちとの関係が必要だ。ところがあなたはただ、ここで大勢うようよしている下《した》っ端《ぱ》の連中だけを知っているんだ。こんな連中のことはきっとよくご存じだろうし、連中に頼んでまたさまざまなことをやってもらえましょう。それは、僕も疑いませんが、あの連中に頼んでやってもらうことなんかはどんなに大きくたって、訴訟の最後の結末にはまったくたいしたことではないでしょう。ところがあなたは、そのために二、三人の友達を取逃がすかもしれない。そうなることを僕は望みませんね。まああなたは、連中に対するこれまでの関係をお続けになることですね。つまり、それはあなたには欠かせぬことだ、と僕には思われるんですよ。こんなことを言うのは残念でないこともないのです。あなたのお世辞に何かお返しするとして、あなたも僕に気に入ったんですからね。特に、あなたが今のようにそうやって、別に理由もないのに僕のことを悲しそうに見つめているときにはね。あなたは、僕が戦わなければならない仲間の人だ。ところがあなたはそれにすっかり安住して、学生なんかを愛している。愛してはいないとしても、少なくともご主人よりは好きなのだ。そのことはあなたの話からすぐわかりますよ」
「いいえ」と、女は叫び、すわったままでKの手をとらえようとしたが、彼はその手を十分素早く引っこめることができなかった。
「今すぐ行かないで。私に間違った判断を下しておいて行ってはいけません! ほんとうにもうお帰りになるつもり? ほんの少しここにいてくださるご親切をお持ちになれないくらい私ってつまらぬ女ですの?」
「あなたは誤解しているんですよ」と、Kは言って腰をおろした。「僕がここにいることがほんとうにあなたに望ましいのなら、よろこんでいますよ。暇はあるんだが、今日は審理が行われると思って来たのでした。これまで言ったことで僕は、僕の訴訟について何も僕のためにやっていただきたくはない、ということをお願いしたのです。けれども、訴訟の結果なんか僕にはどうでもよいのだし、有罪の判決だってただ笑ってやるつもりでいるのだ、ということをあなたがお考えになるなら、援助をお断わりしたこともあなたの気をわるくすることはないはずです。これも、およそ裁判がほんとうに終るものと仮定してのことで、どうなるものかはなはだあやしいと思います。むしろ僕は、役人たちが怠慢なためか、忘れっぽいためか、あるいは怖気《おじけ》を振ったためかで、手続きはもう中止になったか、次のときには中止になるかするものと考えます。もちろんまた、何か相当な賄賂《わいろ》でも期待して訴訟を見かけだけ続行するということも、ありうることはありうるが、今から言っておきますが、まったくむだですね。僕は誰にも賄賂なんかやらないんだから。あなたが予審判事か、あるいは重要なニュースを好んで言いふらして歩く誰かかに、僕という人間には、どんなことがあっても、またあの連中がいろいろ知っているどんな術策によっても、賄賂なんか出させることはできないだろう、と言ってくださるならば、ともかくそれは、あなたが僕にやってくだされるご好意というものです。それはまったく見込みがないだろうということを、あなたはあの連中にはっきり言ってくだすって結構です。そうでなくとも連中もおそらく自分ですでにこのことに気づいているでしょうし、気づいてはいなくても、今すぐ知ってもらう必要なんかたいして僕にはないのです。そりゃあ知っていてもらえば、あの連中はむだな仕事をしないですむし、もちろん僕も不愉快な思いをいくらかしないですみますが、それだって、もしそれが同時に他の連中に打撃を与えるとわかったなら、よろこんで引受けますよ。そして、そうなることを、わざとやってみようと思うくらいです。ほんとうに予審判事をご存じなんですか?」
「もちろんですとも」と、女は言った。「あなたをお助けしようと言ったとき、まず第一にあの人のことを考えさえしたのですもの。あの人がただの身分の低い役人かどうかは知りませんでしたが、あなたがそうおっしゃるんですから、おそらくそうなのでしょう。それでも、あの人が上へ提出する報告はいつもいくらか有力なものだ、と信じています。そしてずいぶん報告を書きますわ。役人たちは怠け者だ、とあなたはおっしゃいましたが、きっとみんなそうではないし、あの予審判事さんは特にそんなことありませんわ。あの人はたくさん書きますのよ。たとえばこの前の日曜日には、裁判が夕方ごろまで続きました。みなさんが帰ってしまっても、予審判事さんは広間に残って、私はランプを持ってゆかねばなりませんでしたわ。家には小さな台所ランプしかなかったのですが、それで満足してすぐ書き物を始めました。そうしているうち、あの日曜日にちょうど休暇を取っていた主人も帰ってき、二人で家具を運びこみ、部屋を整え直しましたが、次にまた隣の人たちが来て、蝋燭《ろうそく》一本で話をしました。で結局、予審判事さんのことは忘れて、寝てしまいましたの。突然夜中に、もう夜ふけだったにちがいないんですが、私が眼をさますと、ベッドのそばに予審判事さんが立っていて、主人に光がこぼれぬように、ランプを手でさえぎっていました。それは要《い》らぬ心配でしたわ、主人はいつも、光がさしても起されぬくらい眠りこけているんですから。私はとても驚いたものですから、ほとんど声をあげようとしましたが、予審判事さんはたいへんやさしくて、私に気をつけるように戒め、今まで書き物をしていました、今あなたのところのランプをお返しに来たのです、あなたが寝ているところを見た有様はけっして忘れないでしょう、とささやきましたの。こんなことをお知らせしたのも、ただあなたに、予審判事さんはほんとうにたくさんの報告を書きますし、特にあなたについては書いているってことを言いたかったんですわ。なぜって、あなたの尋問が確かにあの日曜日の裁判のおもな仕事のひとつでしたもの。ところでこんな長い報告書がまったく意味のないものであるはずがありませんわ。でもそのほかに、この出来事からあなたは、予審判事さんが私に想いをかけていること、あの人はおよそ今初めて私のことを気にしだしたにちがいありませんが、この今という最初のときにこそ、私はあの人に大きな力を及ぼすことができるのだということ、をおわかりになれますわね。あの人がたいへん私のことを気にかけているということには、今ではほかの証拠もありますの。あの人は昨日《きのう》私に、あの人がたいへん信頼して協力者にしている例の学生を通じて、絹の靴下を贈り物にしてくれました。私が法廷を掃除してくれるという名目なんですけれど、それはただ口実にすぎませんわ。だってこの仕事は私の義務にすぎませんし、そのために主人は俸給をもらっているのですもの。きれいな靴下ですわ、ごらんなさい」――彼女は脚を伸ばして、スカートを膝《ひざ》まで引っ張り上げ、自分でも靴下をじっと見ていた、――「きれいな靴下ですわ、でもほんとうにあまりりっぱすぎて私には向かないわ」
 突然女は話を折って、Kを落着かせようとでもするように、彼の手の上に自分の手を置き、ささやいた。
「静かに、ベルトルトが私たちのほうを見ていますわ」
 Kはゆっくりと眼を上げた。法廷の扉のところに一人の若い男が立っていたが、小柄で、脚が少し曲っており、短く、薄い、赤みがかった髯《ひげ》で威厳をつけようとしているのだが、その髯の中に指を突っこんで絶えずひねくりまわしていた。Kは物珍しげにその男をながめたが、これは実に、彼がいわば実物でお目にかかった最初の、法律学という得体の知れぬものを学んでいる学生であり、おそらくはいつか高い官職につくだろうと思われる男だった。ところが学生のほうは、見たところまったくKなどは問題にしていないようであり、一瞬髯から抜いた指で女に合図だけしておいて、窓のところへ行ったが、女はKのほうに身体を曲げて、言った。
「気をわるくしないでちょうだい。いいえ、むしろ、私のことをわるい女だとは思わないようにお願いしますわ。あの人のところに行かなければなりませんの。いやな男ですわ、ちょっとあの曲った脚を見てちょうだい。でもすぐ戻ってくるわ、そしたら、もしあなたが連れていってくださるなら、あなたと行くわね、どこへでもあなたのお望みのところへ行きますわ、私を好きなようにしてちょうだい、私はここからできるだけ長く離れられたら、幸福でしょうし、もちろん、永久に離れられるのなら、いちばんいいわ」
 女はなおもKの手をさすっていたが、とび上がって、窓べに駆けていった。思わず知らずKは女の手を求めて空《くう》をつかんだ。女はほんとうに彼の心をそそった。自分がなぜ女の誘惑にまいってはいけないのかいろいろ考えてみたけれども、はっきりとした理由は見あたらなかった。女は裁判所のためにおれのことをとらえているのだ、という浅薄な理由を、彼は苦もなく払いのけた。どうして女はおれをとらえることなどできようか? おれはまだ依然として、少なくとも自分に関するかぎりは、裁判所のいっさいをぶちこわしてしまえるだけ自由ではないか? それに、援助しようという彼女の申し出も、誠実な響きがあったし、おそらくは価値のないものではなかった。そしておそらく、この女をやつらから奪い取って自分のものにしてしまうことよりもよい、予審判事とその一味とに対する復讐《ふくしゅう》はなかった。そうなれば、予審判事がKに関する嘘《うそ》っぱちの報告を苦心|惨憺《さんたん》してでっちあげた末、深夜に来てみると女のベッドが空《から》であるというような場面も、いつか起りうるわけである。そして女のベッドが空なのは、女がおれのものであり、窓ぎわのあの女、粗《あら》くて重い布地の黒ずんだ着物を着た、あの豊満でしなやかで温《あたた》かい肉体が、まったくただおれのものであるからなのだ。
 こうやって女に対するさまざまな思いに打勝ってから、窓ぎわでの低声の会話が彼には長すぎるように思われ、演壇を指の関節で、次には拳《こぶし》でさえたたいた。学生はちょっと女の肩越しにKのほうを見たが、いっこうおかまいなしで、女にぐいと身体を押しつけさえして、女を抱いた。女は、彼の言うことを熱心に聞いているかのように深く頭を垂《た》れ、学生は、女がかがむと、話のほうは中断もせずに首筋へ音をたてながら接吻《せっぷん》した。Kはこのような有様をながめて、女が訴えたところによると学生が女に及ぼしているという横暴ぶりが裏づけられているのを見てとり、立ち上がって、部屋をあちこちと歩いた。学生の様子を盗み見しながら、どうやったらいちばん早く追い払うことができるかを考えていたが、それだけに、すでにときどきどしんどしんと大きな音をたてていた彼のぶらぶら歩きに明らかに邪魔された学生が、次のように言ったとき、Kにはまんざら歓迎すべきことでないわけでもなかった。
「我慢ができなかったら、帰ったらいいだろう。ずっと前に帰っていたってよかったんだ、君がいなくたって誰も気にはかけないからね。いや、それどころか帰らなきゃいけなかったんだ、つまり僕がはいってきたときにさ、そしてできるだけ早くね」
 こう言ううちにはすべての怒りが爆発しているのだったろうが、同時にその言葉のうちには、気に入らない被告に話しかける未来の法官の傲慢《ごうまん》さが含まれていた。Kは学生のすぐ近くに立ったままで、薄笑いを浮べながら言った。
「我慢ができないというのはほんとうだが、このいらいらした気持は、君がわれわれを置いて帰ってくだされば、いちばん簡単に片づくんだ。だがもし君が法律の研究のためにここへ来ているとでもいうのなら――君が学生だっていうことは聞いたよ――よろこんで場所を明け渡し、その女の人と出てゆこう。ともかく君は、裁判官になる前にはもっともっと勉強しなくちゃなるまいからね。君の研究している司法制度のことはまだよくは知らないが、確かにもう臆面《おくめん》もなくりっぱにやってのけることを心得ていなさるような乱暴な演説とは、関係がないものと考えていますよ」
「こんな男を自由にうろつかせておくべきじゃなかったんだ」と、Kの侮辱的な言葉に対する釈明を女に対してやりたいらしく、学生は言った。「それは手落ちだった。予審判事には言ったんだが、尋問中は少なくとも部屋にとどめておくべきだった。予審判事はときどき合点《がてん》のゆかぬことをやるからな」
「くだらぬおしゃべりですよ」と、Kは言い、手を女のほうに伸ばした。「こっちへいらっしゃい」
「おいでなすったね」と、学生が言った。「いや、いや、この人は君には渡さないよ」
 そして、思いがけない力で女を片腕で抱き上げ、女をいとしそうにながめながら、背中を曲げて扉のほうに走っていった。そのあいだもKに対する恐れは見逃《みのが》すことができなかったが、それにもかかわらず、あいた手で女をさすったり押えたりして、さらにKの気持を高ぶらせようとするのだった。Kは、つかみかかろう、事の次第では首を絞めてやろうという気構えで、学生と並んで二、三歩走ったが、女は言った。
「むだだからおよしなさいな。予審判事が私を呼びによこしたの。私、あなたといっしょに行けないわ。このちっぽけないやらしい人が」と、言いながら、手で学生の顔をなでまわしながら、「このちっぽけないやらしい人が私を放さないのよ」
「で君は、放されたくないんだろう!」と、Kは叫び、片手を学生の肩にかけたが、学生は歯でぱくりと食いつこうとした。
「いけないわ!」と、女はわめき、Kの両手を払いのけた。「いけない、いけないわ、そんなことしないで、なんということなさるの! そんなことしたら私の身の破滅よ。放してあげて、ねえ、放してあげて。この人はほんとうにただ予審判事さんの命令どおりやっているんで、私を判事さんのところへ連れてゆくのよ」
「それじゃあ行ってもいいよ、そして君にはもう二度と会いたくないね」と、Kは幻滅を感じさせられ憤激しながら言い、学生の背中に一撃を与えたので、学生はすこしよろめいたが、すぐに倒れてしまわなかったことをよろこんで、女をかかえていっそう高くとびはねた。Kはゆっくり彼らの後《あと》からついていったが、これがこの連中からこうむった最初の文句なしの敗北だ、ということを見て取ったのだった。それだからといって、恐れる理由はもちろんなかった。戦うことを求めたればこそ敗北も喫したのだ。家にとどまっていて、あたりまえの生活をやっていれば、こんな連中の誰にでも優越し、一|蹴《け》りで自分の進路から放り出してしまえるのだ。そこで彼はきわめてばかげた光景を思い浮べてみるのだが、それはたとえば、この憐《あわ》れむべき学生、この空《から》威張りの坊や、脚の曲った髯の男が、エルザのベッドの前にひざまずき、手を合わせて許しを乞《こ》うている情景だった。この想像はKの気に入ったので、そうする機会がもしありさえしたら、学生を一度エルザのところへ連れていってやろう、と決心した。
 好奇心からKはさらに扉のところまで急いで行った。女がどこへ連れてゆかれるかを見ようとしたのだったが、学生がまさかたとえば女を腕にかかえて街路を行くはずはなかろう、と思った。道は思ったよりはるかに近いということがわかった。この居間のすぐ真向いに、狭い木造りの階段がおそらく屋根裏まで通じているらしく、それは曲っているので、終りまでは見えなかった。この階段を登って学生は女を運んでいったが、これまで走ったために弱ってしまい、すでにきわめてゆっくりと、あえぎながら登っていた。女は手で下のKに合図をし、肩を上げ下げして、自分はこの誘拐《ゆうかい》に何も罪がないのだ、ということを示そうとするのだが、この身振りにはたいして残念そうな気持も含まれてはいなかった。Kは女を、赤の他人のように無表情にながめていたが、自分が幻滅を感じたことも、幻滅をたやすく克服できるということをも、表面に出したくはなかったのだった。
 二人はすでに消えたが、Kはまだ戸口に立ち続けていた。女が自分を裏切ったばかりでなく、予審判事のところへ連れてゆかれるなどと言いたてて、自分をだましてもいるのだ、ということを認めざるをえなかった。予審判事が屋根裏にすわって待っている、などということはありえようはずがないではないか。木の階段をいつまでながめていても、何もわかりはしなかった。そのときKは登り口に小さな札を見つけたので、近寄ってゆくと、子供じみた、下手《へた》な文字で、「裁判所事務局昇降口」と書いてあった。それではこのアパートの屋根裏に裁判所事務局があったのか? それは多くの尊敬をかちうる施設とはいえないが、それ自体初めから最も貧しい人々に属するこのアパートの住人たちがその不用ながらくた[#「がらくた」に傍点]を投げこむような場所に事務局を持っているとするなら、この裁判所もさだめし金が思うようにはならないのだろう、と考えてみることは、被告にとっては気の軽くなることであった。もちろん、金はたっぷりあるのだが、裁判上の目的に使う前に役人連が着服してしまうのだ、ということもありえぬことではなかった。それはこれまでのKの経験に徴しても非常にありそうなことでさえあって、そうだとすれば裁判所のこうした堕落は被告にとっては品位を傷つけられることではあったが、結局のところは、裁判所が貧乏である場合よりも気楽ではあった。そこでまた、最初の尋問のときに被告を屋根裏に召喚することを恥じ、被告の住居を襲って悩ますことのほうを選んだのだ、ということはKにも理解できた。Kは裁判官に対してなんという位置にいることだろう! 裁判官は屋根裏にすわっているが、K自身は銀行で控えの間付きの大きな部屋を持ち、大きな窓ガラスを通して往来のはげしい町の広場を見下ろすことができるのだ。もちろん彼には、賄賂や横領による副収入はなく、小使に女を抱かせて事務室まで運ばせることはできなかった。しかしKは、少なくとも現在の生活にあっては、そんなことはよろこんであきらめきりたい気持だった。
 Kがまだ貼札《はりふだ》の前に立っていると、一人の男が階段を登ってきて、開いた扉から居間をのぞきこんだが、そこからは法廷も見えるのだった。男は最後にKに、少し前にここで女を見かけなかったか、とたずねた。
「君は廷丁さんですね、そうでしょう?」と、Kはたずねた。
「そうです」と、男は言った。「ああそう、あなたは被告のKさんですね、やっと気がつきました、ようこそおいでで」
 そして男はKに手を差出したが、Kはまったく予期しなかったことで驚いた。
「でも今日は法廷はお休みなんです」と、Kが黙っているのに、廷丁は言った。
「わかっています」と、Kは言い、廷丁の私服をながめたが、役目の唯一のしるしとして、普通のボタン二、三個のほかに、将校の古外套《ふるがいとう》から取ったらしい二個の金ボタンを見せていた。
「ほんの少し前に君の細君と話していたんだが、もういませんよ。学生が予審判事のところへ連れていったんです」
「ごらんのように」と、廷丁は言った。「家内はいつでも連れてゆかれます。今日は日曜日なんで、私は仕事をしなくてもいいんですが、私をここから追い払うために、どう見たって不用な用事で外にやられました。しかもあまり遠くまでやられたわけじゃないんで、大急ぎで行きさえすれば、まだ遅れないでもどれる見込みがあったんです。だからできるだけ速く走って、使いに出されたお役人に、伝言を扉の隙間《すきま》から相手には何を言っているのかわからぬくらい息もつかずにどなって、また走ってもどってきたんですが、学生のほうが私よりもっと急いでやってきたっていうわけです。もちろんあいつは道がずっと近くて、ただ屋根裏の階段を降りてきさえすればいいんですからねえ。私がもっと自由でさえあったら、あの学生のやつをここの壁のところへ押えつけ、ぶっつぶしてやりますよ。ここの貼札のところへね。しょっちゅうそのことを夢で見るんです。ここんところへ、少し床から持ち上げられてしっかと押えつけられ、腕を伸ばし、指をひろげ、曲った脚を丸くひねって、まわりには血しぶきがいっぱい。でもこれまでそれはただの夢なんです」
「ほかのやりかたがありませんか?」と、Kは微笑しながらきいた。
「どうもありませんや」と、廷丁は言った。「今ではもっといやなことになってきているんです。これまではただあいつが家内を自分のところへ引っ張っていっただけですが、今ではもう、どうせそうなるものとずっと前から思ってはいたんですが、予審判事のところへまで連れてゆくんです」
「ところで君の細君のほうには罪はないのかね?」と、Kは言ったが、こうたずねないではいられなくなったのであり、それほど彼も嫉妬《しっと》を覚えていたのであった。
「どういたしまして」と、廷丁は言った。「あれにいちばん罪があるくらいでさあ。家内はあいつに惚《ほ》れてるんです。あの男と言えば、女と見れば誰でも追いかけます。この家でだけでももう、あいつが忍びこんだ五軒からおっぽり出されたんです。家内はもちろんこの家じゅうでいちばんの別嬪《べっぴん》というわけですから、まさに私はどう防ぎようもないんです」
「そういうこととなると、もちろんどうしようもないね」と、Kは言った。
「どうしてどうしようもないんです?」と、廷丁はきいた。「あの学生は臆病者なんですから、家内にさわろうとしたら、一度、もう二度とはそんなことをやろうとはしなくなるようにぶちのめしてやらなきゃなりません。でも私にはできないことですし。ほかの人も私のためにやってはくれません、誰でもあの男の権勢を恐れているんでね。ただあなたのような人だけができるんですよ」
「いったいどうして僕が?」と、Kは驚いて言った。
「でもあなたは告訴されていましたね」と、廷丁は言った。
「そうなんだ」と、Kは言った。「それに、あの男はおそらく訴訟の結末を左右する力は持たないとしても、予審にはそいつができそうなだけに、心配しなくちゃいけないんです」
「そうですねえ」と、Kの意見はまったく自分自身のと同じように正しいものといわんばかりに、廷丁は言った。「でもここでは原則として、見込みのない訴訟はやられないことになっているんですが」
「僕の意見はあなたのとはちがいますね」と、Kは言った。「でもそれは別として、時にあの学生のやつを料理してやる必要はあると思いますね」
「あなたには大いに感謝しますよ」と、廷丁はいくらか儀礼的に言ったが、ほんとうは彼の最高の望みが実現できないものと信じこんでいるらしかった。
「おそらくまた」と、Kは言葉を続けた。「君の上役のほかの連中も、一人残らず同じように料理してやるに値しますね」
「そうですとも」と、何か自明のことだというかのように廷丁は言った。それから、これまでは非常に親しげにしてはいたが見せなかった、信じきったような眼差《まなざし》をして、Kを見て、言葉を付け加えた。
「あいつらはしょっちゅう陰謀をやっているんです」
 しかし、こういう話が彼には少し不快になったらしかった。話を折って、こう言ったからである。
「さて事務局に行かなくちゃなりません。いっしょにいらっしゃいませんか?」
「何も用事はないんだけれどね」と、Kは言った。
「事務局をごらんになれますよ。誰もあなたのことを気にはかけますまい」
「見る値打ちがありますかね?」と、Kは躊躇《ちゅうちょ》しながらきいたが、いっしょに行ってみたいという欲望を大いに感じていた。
「そりゃあ」と、廷丁は言った。「きっとおもしろいですよ」
「よし」と、Kはついに言った。「いっしょに行きましょう」
 そして、彼は廷丁よりも足早に階段を駆け登った。
 そこに踏み入ると、すんでのことで倒れそうになった。扉の後ろにもうひとつ階段があったからである。
「公衆のためには気をつかっていないようですね」と、彼は言った。
「およそ少しでも気なんかつかっていませんよ」と、廷丁は言った。「ごらんなさい、ここが待合室です」
 それは長い廊下で、そこから、立てつけのわるい扉をいくつか通って、屋根裏のそれぞれの小部屋に通じているのだった。
 直接光のはいる口がなかったけれども、真っ暗ではなかった。多くの小部屋は廊下に面して、一面の板仕切りのかわりに、むきだしだがともかく天井まで届いている木格子《きごうし》があり、それを通して光がさしこみ、またそれから、机にすわって書き物をしたり、ちょうど格子のところに立って隙間越しに廊下の人々をながめている幾人かの役人が見えるのだった。おそらくは日曜日であるため、廊下にはほんの少ししか人影がなかった。彼らはきわめて慎み深いという印象を与えた。ほとんど規則正しい距離をおいて、廊下の両側に置かれた二列の長い木製ベンチに腰をおろしていた。みなかまわぬ身なりであったが、たいていの人々は、顔の表情、物腰、髯のつくり、そのほか多くのほとんどはっきりとは言えない細かい点から言って、豊かな階級に属する人々であった。洋服掛けがないので、誰かしらの例にならっているらしく、彼らは帽子をベンチの下に置いていた。扉のすぐ近くにすわっていた人々がKと廷丁との姿を見ると、挨拶《あいさつ》のため立ち上がるのだったが、そうすると次の人々もそれを見て、自分たちもやはり挨拶しなければいけないと思い、そこですべての人々が、二人の通ってゆくとき立ち上がった。誰も完全にまっすぐ立ち上がる者はなく、背中は曲っており、膝もかがんで、往来の乞食《こじき》のような有様で立っていた。Kは自分よりも少し遅れて歩いている廷丁を待って、言った。
「あの人たちはどんなにか卑下しているんですね」
「そうです」と、廷丁は言った。「あれは被告です、ここでごらんになるのはみな被告なんです」
「そうですか!」と、Kは言った。「それじゃあ僕の仲間っていうわけですね」
 そして彼は、次の大柄で痩形《やせがた》な、すでにほとんど白毛《しらが》まじりになった頭髪をした男に向って言った。
「ここで何をお待ちですか?」と、Kは慇懃《いんぎん》にたずねた。
 ところがこんなふうに思いがけなく話しかけられて、その男はすっかり取乱してしまったが、それが明らかに、ほかのところでなら確かに自分も制御できるし、多くの人々に対してかちえた優越感を容易には捨てさってはいないような、世故に長《た》けた人であるだけに、その狼狽《ろうばい》ぶりは非常に痛ましく見えるのだった。ところでこの場所では、こんな単純な質問にも答えることができず、ほかの人々のほうを見て、自分を助けてくれる義務があるし、そうやって助けてくれなければ誰も自分に返答を要求することはできない、というような有様だった。すると廷丁は歩み寄って、その男を落着かせ、元気づけるために、言った。
「この方はまったくただ、何をお待ちですか、とおたずねになっただけなんですよ。どうぞお答えになってください」
 男は廷丁の声を聞きなれているらしく、そのためKがきくよりも効果があった。
「私が待っていますのは――」と、彼はしゃべりはじめたが、すぐつかえてしまった。明らかに彼は、質問にできるだけ詳しく答えるためにこう切り出すことを選んだのだったが、その先が続かなくなった。待っている人たちの何人かが近づいてきて、この三人のグループを取巻いたので、廷丁は彼らに言った。
「どいた、どいた、通路はあけなくちゃいけない」
 人々は少し退《の》いたが、元いた場所へはもどらなかった、そのうちに問われた男は気を落着かせ、ちょっと微笑《ほほえ》みさえもらしながら、答えた。
「一カ月前に、私の事件の証拠申請をしましてね、片づくのを待っているんです」
「まったくたいへんなお骨折りのようにお見受けできますね」と、Kが言った。
「ええ」と、男は言った。「なにせ自分のことですからね」
「誰もがあなたのように考えるとはきまっていませんよ」と、Kは言った。「たとえば私も告訴されているんですが、ほんとうに心からうまくゆくようにと願ってはいますものの、証拠申請だとか、あるいはそのほかの何かそういった類《たぐ》いのことを企てたことがありません。いったいあなたはそういうことを必要だとお考えですか?」
「私には詳しいことはわかりませんが」と、男はまたすっかりあやふやな態度になって言った。すなわち彼は明らかに、Kが自分をからかっているのだ、と思ったのであり、そのため、何かまた失敗をやるのではないかという心配から、前の答えをそのまま繰返すのがいちばんよいと考えたらしかったが、Kのいらいらしたような眼差を前にしてただこう言うのだった。
「私としては、証拠申請をしたのです」
「私が告訴されているとは、きっと思ってはいらっしゃらないのですね」と、Kはきいた。
「どういたしまして、そう思っております」と、男は言い、少しわきへ退いたが、返答の中には信頼ではなくて不安だけが現われていた。
「それじゃ、あなたは私の言うことを信じないんですね?」と、Kは言い、その男の屈従的態度に思わず知らず刺激され、どうしても信じさせてやろうというように男の腕をとらえた。しかし何も苦痛を与えてやろうとしたわけではないので、ほんの軽くとらえただけだったが、それでも男は、Kに二本の指ではなく、真っ赤な火ばさみでつかまれたように、悲鳴をあげた。このばかばかしい悲鳴でKは男に厭気《いやき》がさした。自分が告訴されていることを信じないのなら、ますます結構だ。おそらく自分のことを裁判官だとさえ思っているのだろう。そこで今度は別れの挨拶に本気で手をしっかと握り、ベンチに突きもどして、歩みを進めた。
「たいていの被告はああいうように神経質になっているんです」と、廷丁が言った。
 彼らの背後では、もう悲鳴をあげることをやめた例の男のまわりに、ほとんどすべての待ち合せている人たちが集まり、この思わぬ出来事について詳しくききただしているらしかった。そこへ、Kに向って監視人がやってきたが、おもにそのサーベルでそれとわかったのだけれども、少なくとも色から見るのに鞘《さや》はアルミニウムでできているらしかった。Kはそれに驚いて、手を出して握ってさえみた。悲鳴を聞きつけてやってきた監視人は、何が起ったのか、とたずねた。廷丁は二言三言言って彼を納得させようとしたが、監視人は、どうしても自分で調べる必要がある、と言いきって、会釈をし、非常に早くはあるがきわめて小刻みな、痛風《つうふう》のために堅苦しくなっているらしい足取りで、出向いて行った。
 Kは監視人や廊下の仲間のことを長くは気にかけていなかったが、およそ廊下の中ほどまで来ると、扉がなくてあいた場所になっており、右手に曲れそうになっているのに気づいたので、彼らのことをもうすっかり忘れてしまった。こちらに行っていいのか、と廷丁にきいてみると、廷丁はうなずいたので、Kはそこでほんとうに右手へ曲った。しょっちゅう一、二歩廷丁の先を歩かねばならぬことがわずらわしく、少なくともこの場所では、まるで自分が逮捕されて引きたてられてゆくような格好に見えることもありえた。それでしばしば廷丁の追いつくのを待ったが、廷丁はすぐにまたおくれてしまうのだった。ついにKは、自分の不快さにけり[#「けり」に傍点]をつけるため、言った。
「ここがどんなところか見てしまったから、もう帰ろうと思います」
「まだ全部ごらんじゃありませんよ」と、廷丁は少しも動じないで言うのだった。
「全部が全部見たくもありませんね」と、ほんとうに疲れを感じてさえいるKは言った。「もう帰りますよ、出口はどっちですか?」
「もうわからなくなっちまったんですか?」と、廷丁は驚いて言った。「この端まで行って、廊下を右へいらっしゃればまっすぐ戸口に出ます」
「いっしょに来てください」と、Kは言った。「道を教えてくれませんか、どうも間違いそうだ、ここにはたくさん道があるんでね」
「ひとつきりの道ですよ」と、もうとがめるような口調になって廷丁は言った。「あなたとまたもどってゆくわけにはいきませんね、報告しにゆかねばなりませんし、そうでなくともあなたのためにだいぶ時間をつぶしましたからね」
「いっしょに来なさい!」と、Kはとうとう廷丁の不実さを突きとめたというように、鋭い口調で繰返した。
「そんなにどならないでください」と、廷丁はささやいた。「ここはどこも事務室ですから。ひとりでお帰りになりたくないなら、もう少し私といっしょに行くか、あるいは、報告をすませてくるまでここで待ってくださいませんか。そうすればよろこんでごいっしょに帰りますよ」
「だめだ、だめだ」と、Kは言った。「待てはしないし、今いっしょに来たまえ」
 Kはまだ、自分がいる場所をよく見まわしていなかったが、その辺にぐるりとあるたくさんの木の扉のひとつが開いたときになって初めて、眼をそちらに向けた。Kの大声を聞きつけたらしい一人の娘が現われて、たずねた。
「何かご用ですか?」
 その背後に遠く、薄暗がりの中をさらに一人の男が近づいてくるのが見えた。Kは廷丁の顔をじっと見た。この男は、誰もあなたのことなど気にはかけない、と言ったのではなかったか。ところがもうすでに二人がやってきて、ほんの小人数でもたくさんだというわけだが、役人連が彼のことに注意を払うようになったし、なぜここに来たのか、という釈明をきこうとするだろう。唯一の筋の通った、認められうる釈明というのは、自分は被告であり、次の尋問の予定日をきこうと思ったのだ、というのであるが、彼としてはまさにこんな釈明こそしたくはない。特にこれは真実でもないからであるが、偽りだというわけは、彼はただ好奇心で来たのであり、あるいは、釈明としてはやはり通りにくいのだが、この裁判制度の内部もその外部と同じようにいやなものだ、ということを確かめようとする要求からやってきたのだからである。そしてまったく、自分のこういう臆測《おくそく》は正しいと思われたので、これ以上はいりこむつもりはなく、これまで見たことですっかり胸苦しくなっており、今この瞬間には、どの扉からもひょっこり現われてくるかもしれない高い地位の役人に対応するだけの心構えになってもいないので、廷丁といっしょか、あるいはやむをえなければひとりででも帰りたかった。
 ところが、彼が黙って立っていることが奇妙に思われたらしく、実際、娘も廷丁も、次の瞬間にはなんらかの大きな変化が彼に起るにちがいないし、それを見ないでおきたくはない、とでもいうようにKを見つめるのだった。そして戸口には、Kがさっき遠くから認めた男が立って、丈《たけ》の低い鴨居《かもい》にしっかりと身をささえて、気短かげな観客のように、爪立《つまだ》ちながら少し身体を揺すっていた。しかし娘はまず、Kのこんな態度は少し気分がわるいことに原因があるのだと気づき、椅子を持ってきて、きいた。
「おかけになりません?」
 Kはすぐすわり、もっとよい姿勢をとろうとして、肘《ひじ》を椅子の背にささえた。
「少しめまいがなさるんでしょう?」と、女は彼にきいた。娘の顔が彼のすぐ眼の前にあったが、多くの女がその女盛りに持っているような強烈な表情を浮べていた。
「心配なさらないほうがいいですわ」と、娘は言った。「ここでは珍しいことではありません。初めてここへ来ると、ほとんど誰でもこんな発作を起すのよ。ここは初めてですの? そうね、それなら珍しいことじゃないわ。太陽がここの屋根板を照りつけますし、熱くなった木が空気をうっとうしく、重苦しくするんです。ですからこの場所は事務室にはあまり向かないんです、もちろんそのほかの点ではいろいろ大きな利益があるにはあるんですけれど。でも空気の点では、訴訟当事者が大勢行き来する日には、そしてそういうのはほとんど毎日ですけれど、ほとんど息もつけないくらいなんです。それから、ここにはまたいろいろ洗濯物が干しにかけられるということをお考えになれば、――それを下宿人に全部が全部断わるわけにもいきませんものね――少しぐらい気分がおわるくなられても不思議でないとお思いでしょう。でも、しまいにはこの空気にすっかり慣れます。二度目か――あるいは三度目にいらっしゃるときには、ここでもう胸を押しつけるようなものをもうお感じにならなくなることでしょう。もうおよろしくはありません?」
 Kは答えなかった。こうして突然身体の具合がわるくなってここの連中の手のうちにはいったようになっていることがあまりにもつらいことだったし、そのうえ、今自分の不調の原因を聞いたばっかりに、よくはならないで、むしろ少しわるくなったのであった。娘はそれにすぐ気づいて、Kの元気を回復させるために、壁に立てかけてあった鉤《かぎ》付きの竿《さお》をとり、ちょうどKの頭上に備えつけられた、戸外に通じる小さな通風窓をつついてあけた。だが煤《すす》がひどくたくさん落ちてきたので、娘はその通風窓をすぐまた引っ張ってしめ、ハンカチでKの両手の煤をはらわなければならなかった。Kはあまりに疲れていて、それを自分で始末できなかったからである。歩いてゆけるのに十分なだけ元気を回復するまでここにゆっくりとすわっていたかったが、人々が彼のことなど気にかけることも少なければ少ないほど、なるたけ早く行かなければならなかった。ところがそのうえ、娘が言った。
「ここにはいらっしゃれませんわ、通行の邪魔になりますもの――」Kは、どんな通行の邪魔になるのか、と視線できいた――「よろしかったら、病室へお連れしましょう。あなた、手を貸してちょうだい」と、娘は戸口の男に言ったが、男もすぐ近寄ってきた。
 しかし、Kは病室へは行きたくなく、これ以上引きまわされることはまっぴらだったし、行けば行くほど腹がたつにちがいなかった。そこで、
「もう歩けます」と、言い、立ち上がったが、気持よくすわっていだだけに耐えられず、身体が震えるのだった。ところが身体をまっすぐに立てることもできなかった。
「どうもだめです」と、頭を振りながら言い、溜息《ためいき》をもらしながらまた腰をおろした。廷丁のことを思い出し、あの男ならそれでも簡単に連れ出してくれるだろうと思ったが、とっくにいなくなってしまったらしく、自分の前に立っている娘と男とのあいだを透かし見するのだが、廷丁は見あたらなかった。
「私が思うのに」と、男が言ったが、ところで男は身だしなみがよく、特にその、二つの長いとがった端に終っている灰白のチョッキで、目だった。「この人が気持わるくなったのはここの空気のせいだよ。だから、まず病室に連れてゆきなどしないで事務局から出てもらうのが、いちばんいいし、この人にもいちばん気持がいいんじゃないかな」
「そうですよ」と、Kは叫び、無性によろこんでほとんど男の話の中に割ってはいった、「きっとすぐよくなるでしょうし、そんなに弱っているわけじゃなく、ただ少し腋《わき》の下をささえてもらえばいいんです。たいしてお骨折りはかけませんし、道もそう遠くはありません。扉のところまで連れていっていただけば、少し階段の上で休んで、すぐなおります。つまりこんな発作を起すことなんかないことで、自分でも驚いているんです。私も勤め人ですし、事務室の空気には慣れているんですが、ここは、あなたのおっしゃるように、少し空気がわるすぎるようですね。ですから、少し連れていってはいただけませんか。どうもめまいがして、ひとりで立ち上がると、気持がわるくなるのです」
 そして、二人が彼の腕の下をとらえやすくするため、肩を上げた。
 ところが男は求めに応じないで、両手を知らん顔でポケットに突っこんだまま、大声をあげて笑った。
「ごらん」と、男は娘に言った。「やっぱり私の言ったとおりじゃないか。この人はどこででも気分がわるくなるんじゃなくて、この部屋に限ってわるくなるんだ」
 娘も微笑んだが、男があえてKをあまりひどく弄《なぶ》っているとでもいうように、男の腕を軽く指先でたたいた。
「だって君、どうだっていうんだ」と、男はなおも笑いながら言った。「そりゃあ、この人を連れてはゆくさ」
「それならいいわ」と、格好のいい頭をしばらくかしげながら、娘は言った。
「この人が笑っていることをあまり気にされなくていいんですのよ」と、娘はKに言ったが、Kはまた憂鬱《ゆううつ》になっていて、ぼんやり前を見つめ、釈明などいらない、というふうだった。「この人は――ご紹介してもいいでしょう? (男は手振りで許しを与えた)――この人は案内係なんです。待っている訴訟当事者に求められる案内をなんでもするんですが、この裁判所のことは人々のあいだであまり知られていませんから、いろいろ案内が求められます。この人はどんな質問にも応じられますから、もし気がお進みでしたら、それをためしてごらんなさいな。でもそれはこの人のただひとつの特色ではなくて、第二の特色はあのスマートな身なりなんです。私たち、つまり役人は、しょっちゅう、しかも第一番目に訴訟当事者たちと接触する案内係は、第一印象をよくするために、身なりもスマートでなければならない、と同じように思っています。私たちほかの者は、私をごらんになればすぐおわかりと思いますが、残念ながらたいへん粗末で古風な身なりをしています。着物にお金をかけることなんか、たいして意味もありませんわ、だって私たちはほとんどいつも事務局にいて、ここに寝泊りまでするんですもの。でも、申上げたとおり、案内係はりっぱな着物がいる、と私たちは等しく思っています。ところがその着物は、この点でいくらか変なんですが、お役所からは支給されませんので、私たちはお金を集め――訴訟当事者にも寄付していただき――この人にこんなきれいな着物やまたほかのやを買ったんですわ。今では万事が整って、よい印象を与えることもできるのに、この人ったら笑ってはまた台なしにしてしまい、人を驚かすんですのよ」
「そりゃあそうだが」と、男はあざけるように言った。「君、なぜこの人にわれわれの内幕を洗いざらいしゃべるのか、あるいは全然聞きたくもないのに無理に聞かせるのか、私にはわからないね。いいかい、この人は明らかに自分の用件があってここに来ているんだからね」
 Kは抗弁する気が全然なかった。娘の意図は親切なものらしいし、おそらくKの気をまぎらせ、あるいは気分をまとめる機会を彼に与えるためのものだったのだが、手段が間違っていたのだった。
「この人にあなたの笑ったわけを説明してあげなければいけなかったんだわ」と、娘は言った。「ほんとに人を侮辱するものだったわ」
「最後に連れていってあげれば、もっとわるい侮辱だってこの人は許しなさる、と私は思うね」
 Kは何も言わず、一度も顔を上げないで、二人が自分についてまるで事件についてのように論じ合っているのを、我慢していた。それが彼にはいちばん好ましかった。ところが突然、一方の腕に案内係の手、他方のに娘の手を感じた。
「じゃあ立ちなさい、お弱いお方」と、案内係は言った。
「お二人とも、ほんとうにすみません」と、よろこび驚きながらKは言い、ゆっくり立ち上がり、ささえをいちばん必要とする場所に自分のほうから他人の手を持っていった。
「私にはこう思われるんですけど」と、彼らが廊下に近づいたとき、娘は小声でKの耳にささやいた。「この案内係さんのことをよく思っていただくようにすることが、とりわけ、私の責任なんじゃないかしら。信じていただいて結構なんですけれど、私はほんとうのことを言おうと思います。あの人は冷たい人じゃないのよ。病気の訴訟当事者を連れ出すなんて、あの人の役目じゃありませんのに、ごらんのように、あの人はしますのよ。きっと私たちの誰もが冷たくなんかないし、きっとみなよろこんで人を助けたいんですわ。それでも裁判所の役人なものですから、私たちは冷たいし、誰も助けようなどとは思っていない、っていうように見えがちなんです。ほんとうにつらいわ」
「ここでちょっと休みませんか」と、案内係が言ったが、もう廊下に出て、Kがさっき話しかけた被告のちょうど前に来た。Kは、ほとんど自分を恥じていた。さっきはこの男の前にちゃんと立っていたのだが、今は二人がささえねばならず、帽子は案内係がひろげた指の上にのせており、髪形は乱れ、髪毛《かみのけ》は汗ばんだ額の上に垂れていた。ところが被告はそんなことには気づかぬ模様で、自分を越えてあらぬ方をながめている案内人の前にうやうやしげに立ち、ただ自分がここにいることを弁解しようとするのだった。
「今日はまだ」と、彼は言った。「私の申請が片づきはしない、ということをよく存じています。けれど、ここで待たしていただけるだろう、今日は日曜日だし、時間があるし、ここでお邪魔にはならない、と思ってまいりました」
「そんなに言い訳をおっしゃらなくたってよろしいですよ」と、案内係は言った。「そんなに気をつかっていただくのはまったく恐縮です。あなたはここで余計な場所ふさぎをしておられるが、私の面倒にならないかぎりは、あなたの事件の進行を逐一たどられるのを妨げはしませんよ。自分の義務をおろそかにしている人たちばかり見ていると、あなたのような人たちのことは我慢するようになります。どうぞおかけください」
「訴訟当事者を相手にすることをなんて心得ていることでしょう」と、娘は言い、Kもうなずいたが、すぐ、案内人が彼にまたきいたので、とび上がった。
「ここで腰かけませんか?」
「いや」と、Kは言った。「休みたくはありません」
 できるだけきっぱりとそう言ったのだが、実際は、腰かけることが彼には気持よかったにちがいなかった。まるで船酔いのようだった。難航中の船に乗っているように思われた。水が板壁の上に落ちかかり、廊下の奥からはかぶさる水のような轟々《ごうごう》という音が聞え、廊下は横ざまに振れ、両側に待っている訴訟当事者たちは下がったり、上がったりしているように思われるのだった。それだけに、自分を連れてゆく娘と男との落着きはらった様子がわからなかった。自分は彼らに引渡されたのであり、彼らが自分を手放すなら、木片のように倒れるにちがいなかった。二人の小さな眼からは、鋭い視線があちこちと走り、彼らの規則正しい足取りをKは感じるのだったが、ほとんど一歩一歩彼らに運ばれている有様なので、それに合わせることはできなかった。ふと、二人が自分に何か言っていることに気づいたが、何を言っているのかはわからず、ただ騒音だけが聞えてきた。その騒音はあたりにいっぱいで、それを貫いて|海の魔女《サイレン》のような変化のない高い調子が響くのが聞えた。
「もっと大きな声で」と彼は頭を垂れたままささやいてから、恥じた。自分には聞き取れないけれど十分大きな声で言われたのだ、ということを知っていたからである。そのときとうとう、眼の前の壁に穴があいたように、さわやかな風が吹きつけてきた。そしてそばで言う言葉を聞いた。
「初めは行きたがるが、ここが出口だ、と何回でも言ってやればいい。そうすれば動かなくなるよ」
 Kは、娘があけた出口の扉の前に立っていることに気づいた。身体じゅうの力が一時に戻ってきたような気がし、自由の身の前味を味わうのだった。すぐに階段に一段足をかけ、そこから、自分のほうに身体をかがめている二人の道づれに別れを告げた。
「どうもありがとう」と、彼はまた言い、繰返し二人の手を握ったが、二人が事務局の空気に慣れていて、階段からやってくる比較的さわやかな空気にも耐えがたそうなのを見てとって、初めて立ち去った。二人はほとんど返事もせず、もしKがきわめて素早く扉をしめてやらなかったならば、娘はおそらく倒れたであろう。Kはしばらくじっと立ち止っていたが、懐中鏡で髪を直し、次の踊り場にころがっている帽子を拾い上げ、――案内係がきっとそれを投げ出したのだった――階段を降りていったが、気持があまりにさっぱりし、あまりに大股《おおまた》で歩けたので、この変りかたにほとんど不安を覚えたくらいだった。こんな驚きは、これまでのまったくしっかりした健康状態のときにもまだ感じたことはなかった。肉体が革命を起そうとし、彼がこれまで古い肉体の働きに耐えてきたので、新しい働きを用意しようとしているのだろうか? できるだけ早い機会に医者のところへ行こうという考えをしりぞけはしなかったが、いずれにせよ彼は、――そのことを彼は決心できたが――これからの日曜日の午前はいつでも今日よりはよく使おう、と思うのだった。

第四章 ビュルストナー嬢の女友達

 最近Kは、ビュルストナー嬢とほんの少しでも話すことができなかった。きわめてさまざまなやりかたをしてみて、彼女に近づこうとしたが、彼女はいつでもそれを逃《のが》れることを心得ていた。事務室からすぐ家に帰り、明りもつけずに部屋にこもり、長椅子の上にすわって、控えの間をながめること以外に何もしなかった。たとえば女中が通り過ぎ、人のいないらしいその部屋の扉《とびら》をしめてゆくと、彼はしばらくしてから立ち上がり、それをまたあけてみるのだった。朝はいつもより一時間ばかり早く起きたが、おそらくビュルストナー嬢が勤め先に出てゆくとき、彼女とだけ出会うためだった。ところがこんな試みがどれもうまくゆかなかった。そこで、彼女に勤め先にも部屋あてにも手紙を書き、その中でもう一度自分の態度を弁明しようとし、どんな償いにも応じる旨を申し出、彼女が置こうと思うどんな限界もけっして踏み越えないことを約束し、一度会う機会を与えてほしいということだけを懇願し、あなたと相談しないうちはグルゥバッハ夫人ともどうしようもないのだから、特にそうしてほしい、と言ってやり、最後には、次の日曜日には一日じゅう部屋にいて、自分の懇請を聞きとどけてくださることを約束するような、あるいは少なくとも、何であってもあなたのおっしゃることに応ずると約束しているのになぜ私の懇願をかなえていただけないのかを説明するような、なんらかの合図をお待ちしている、と言ってやった。手紙はどれももどってはこなかったが、返事もまた来なかった。ところが日曜日にひとつの徴候が見られ、そのはっきりし加減は十分なほどだった。その朝は早くから、鍵穴《かぎあな》を通してKは、控えの間に特別な動きがあることを認めていたが、やがてそのわけがわかった。フランス語の女教師、彼女はドイツ人でモンタークといい、弱々しく、顔色の蒼《あお》い、少し跛《びっこ》の女で、これまで自分の部屋をとって住んでいたが、ビュルストナー嬢の部屋に引っ越したのだった。何時間も、彼女が控えの間を通って足を引きずるのが見られた。しょっちゅう、下着類とかカバーとか本とかを忘れて、そのために取りにゆき、新しい部屋に運ばねばならないのだった。
 グルゥバッハ夫人がKに朝飯を持ってきたとき――Kをひどく怒らせて以来、夫人はどんな小さなことも女中にはまかせなかった――Kは、五日ぶりに初めて彼女に話しかけないでいられなくなった。
「いったい今日は、なぜ控えの間がこう騒がしいんですか?」と、コーヒーを注《つ》ぎながらKはたずねた。「やめさせるわけにはいきませんか? 日曜日にわざわざ片づけなけりゃあいけないんですか?」
 Kはグルゥバッハ夫人のほうを見なかったが、彼女がほっとしたように息をつくのがわかった。Kのこのようなきびしい質問さえも、夫人は、許しあるいは許しの始まり、と考えたのだった。
「片づけているんじゃありません、Kさん」と、夫人は言った。「モンタークさんがビュルストナーさんのところへ移るだけのことでして、荷物を運んでいるんですわ」
 夫人はこれ以上は言わず、Kがどうそれをとり、話し続けることを許すかどうか、待ちかまえていた。だがKは夫人をためしたのだったので、考えこんだように匙《さじ》でコーヒーをかきまわし、黙っていた。それから彼女のほうに顔を上げて言った。
「ビュルストナーさんのことについてのあなたの前の疑いを、もう捨て去ってしまったでしょうね?」
「Kさん」と、この質問だけを待ちかまえていたグルゥバッハ夫人は叫び、彼女の重ねた手をKのほうに差出した。
「あなたは、このあいだの何気ない話をむずかしくおとりになったのですわ。私はちっとも、あなたなりほかのどなたかなりを傷つけようなどとは思いませんでした。Kさん、あなたはもう私とは長年のお付合いですから、そのことを信じていただけるはずですわ。私がこの数日どんなに思い悩んだか、あなたにはおわかりになれませんわ! 私が間借人の方の悪口を言うなんて! そしてあなたは、Kさん、そう思っていらっしゃるんです! そして、あなたのことを追い出すんだなんておっしゃったんだわ! あなたのことを追い出すなんて!」
 最後の言葉はもう涙でつまってしまい、エプロンを顔にあてて、声をあげてすすり泣きするのだった。
「泣かないでください、グルゥバッハさん」と、Kは言い、窓から外を見たが、ただビュルストナー嬢だけのことを考え、そして、彼女が見知らぬ娘を自分の部屋に迎え入れたことを考えていたのだった。
「泣かないでください」と、もう一度言ったが、振向くとグルゥバッハ夫人はまだ泣いていた。
「実際あのときは私もそうわるい意味で言ったんじゃありません。お互いに誤解していたんです。そういうことは旧友でも起りうることですよ」
 グルゥバッハ夫人はエプロンを眼の下までずらせて、Kがほんとうに仲直りしたのかを見た。
「ねえ、そういうわけだったんですよ」と、Kは言い、グルゥバッハ夫人の態度から判断するのに、例の大尉が何も暴露してはいないらしかったので、あえてさらに言葉を足した。「よその娘のことで私があなたと仲たがいするなんて、ほんとにそうお思いですか?」
「ほんとにそうですわね、Kさん」と、グルゥバッハ夫人は言ったが、いくらか安心したように思って早速まずいことを言ったのは、彼女の運のつきだった。「しょっちゅう自分にきいてばかりいるんですのよ。なぜKさんはあんなにビュルストナーさんのことばかり気にしているんだろう? あの方から何かいやな言葉を聞いたら私は眠れないっていうことをよくご存じなのに、あの人のことでなぜ私といさかいなんかなされるんだろう、って。あの人については、ほんとに自分の眼で見たことだけを申上げたんだわ」
 Kはそれに対して何も言わなかった。最後の言葉で夫人を部屋から放り出してやらねばならない、と思ったが、そうはせずにおいた。コーヒーを飲み、グルゥバッハ夫人におしゃべりがすぎるということを気づかせてやるのにとどめた。室外ではまた、モンターク嬢の、控えの間いっぱいを横切ってゆく引きずるような足音が聞えた。
「聞えますか?」と、Kはきき、手で扉のほうをさした。
「ええ」と、グルゥバッハ夫人は言い、溜息《ためいき》をついた。「私も手伝い、女中をやってお手伝いさせようとも思ったんですけれど、あの人は片意地な人で、なんでも自分で片づけようと思っているんです。ビュルストナーさんもビュルストナーさんですわ。モンタークさんに部屋を貸しているだけでもいやになることがあるのに、自分の部屋に呼びまでするんですからねえ」
「そんなことはあなたの知ったことじゃないですよ」と、Kは言い、茶碗の中の砂糖の残りをつぶした。「いったいそれで何かあなたの損害になるんですか?」
「いいえ」と、グルゥバッハ夫人は言った。「そのこと自体は私にはほんとに願ったりですわ。それで部屋がひとつあき、そこへ私の甥《おい》の大尉を入れることができるんですもの。最近あれをあなたのおそばの部屋に住ませておいたので、お邪魔じゃなかったか、とずっと前から心配していましたわ。あれはあんまり気のつくほうじゃないものですから」
「なんていうことを考えられるんです!」と、Kは言い、立ち上がった。「そんなつもりじゃ全然ありませんよ。あのモンタークさんが歩いているのを――ああ、またもどってきましたね――我慢できないからといって、あなたは私のことをどうも神経過敏とお考えのようですね」
 グルゥバッハ夫人は、まったく自分には手の施しようもないように思った。
「Kさん、引っ越しの残りを延ばすように申しましょうか? もしお望みなら、すぐそうしますけれど」
「いや、ビュルストナーさんのところへ移らせてやりなさい!」と、Kは言った。
「ええ」と、グルゥバッハ夫人は言ったが、Kの言うことを理解しきってはいないようだった。
「それじゃあ」と、Kは言った。「あの人の荷物を運ばなくちゃいけない」
 グルゥバッハ夫人はただうなずいた。この口もきけないで当惑している有様は、表面上はただ傲慢《ごうまん》さのように思えて、Kをいっそういらつかせるのだった。彼は、部屋の中を窓ぎわから扉まであちこちと歩きはじめ、それによってグルゥバッハ夫人の引下がる機会を奪ってしまったが、彼女はそういうことがなければきっと引下がっていたことであろう。
 ちょうどKがまた扉のところまで来たとき扉をたたく音がした。それは女中で、モンターク嬢がKさんと少しお話ししたいことがあり、それゆえ食堂でお待ちしているから、おいでくださるようお願いします、ということを伝えた。Kは女中の言うことを考えこんだようにじっと聞いていたが、ほとんど嘲笑《ちょうしょう》的な眼差《まなざし》をして、驚いているグルゥバッハ夫人のほうに振返った。この眼差はKがすでにずっと前からモンターク嬢の招きを予想していたのだし、それはまた、この日曜日の午前にグルゥバッハ夫人の下宿人たちによって味わわされねばならなかったわずらわしいことと大いに似合いのことだ、と言っているように見えた。すぐまいります、という伝言を持って女中を帰らせ、上着を換えるため洋服|箪笥《だんす》のところへ行き、面倒な人だとぶつぶつこぼしているグルゥバッハ夫人に対する返答として、朝食の道具をもう持っていってもらいたい、と頼んだだけだった。
「ほとんどなんにも手をおつけになっていませんわ」と、グルゥバッハ夫人は言った。
「ああ、いいんですから持っていってください!」と、Kは叫んだが、すべてのものにモンターク嬢が浸みこんでいるようであり、いやな気持だった。
 控えの間を通り抜けるとき、ビュルストナー嬢のしめきった扉をながめた。けれど、この部屋へ招かれたのではなく、食堂へだった。彼は食堂の扉を、ノックもせずにあけた。
 食堂は、奥行はきわめてあるのだが、間口は狭い、窓がひとつしかない部屋だった。その部屋には場所が大いにあるにはあるので、扉側の片隅《かたすみ》に戸棚《とだな》を二つ斜めに置くことができていたが、ほかの場所は長い食卓ですっかり占められ、食卓は扉の近くから始まって、大きな窓のすぐ近くまで達しており、そのため窓にはほとんど行かれないようになっていた。
 もう食事の支度《したく》ができていて、しかも、日曜日にはほとんどすべての下宿人がここで中食をとるので、多人数の支度であった。
 Kが部屋にはいると、モンターク嬢は窓ぎわから食卓のそばに沿ってKのほうにやってきた。二人は互いに、黙ったまま会釈《えしゃく》をした。次に、いつもと同じように頭をひどくもたげたモンターク嬢が言った。
「私のことをご存じかどうか知りませんが」
 Kは、眼を狭《せば》めながら女を見つめた。
「よく存じています」と、彼は言った。「だってもうかなり長くグルゥバッハ夫人のところにお住いじゃありませんか」
「でも、私がお見かけしたところでは、下宿のことはあまり気にかけていらっしゃらないようですが」と、モンターク嬢は言った。
「そんなことはありません」と、Kは言った。
「おかけになりませんか?」と、モンターク嬢は言った。二人は、黙ったまま、食卓の一番端にある椅子を二つ引出し、互いに向い合って腰をおろした。しかし、モンターク嬢はすぐまた立ち上がった。ハンドバッグを窓敷居に置き忘れ、それを取りにいったからである。部屋じゅうを擦《す》るように歩いていった。手提《てさ》げを軽く振りながらもどってくると、彼女は言った。
「私はただ友達に頼まれて、ちょっとお話ししたいのです。あの人は、自分で来ようと思ったのですが、今日は少し気分がわるいものですから。どうかあしからずお思いになって、あの人のかわりに私の申上げることをお聞きくださいまし。あの人も、私があなたに申上げる以外のことは申上げられませんでしょう。反対に私は、あの人よりも申上げられるものと思いますわ、私は比較的局外の立場にありますから。あなたもそうお思いでございましょう?」
「いったい、おっしゃることってなんですか?」と、Kは言葉を返したが、モンターク嬢の眼が絶えず自分の唇《くちびる》に注がれているのを見ているのに、疲れた。相手はそれによって、彼がまず言おうとすることに対する支配力を我が物としようとするのだった。
「私はビュルストナーさんご自身でお会いくださるようお願いいたしたのですが、それはご承知願えぬわけですね」
「そうです」と、モンターク嬢は言った。「あるいはむしろ、そうではありません、と申上げるべきかもしれません。あなたは妙にきっぱりとした物の言いかたをなさいますわね。一般に言って、お話しすることをお引受けしたわけでもなければ、またその反対にお断わりしたわけでもありません。でも、お話しすることを不必要と考える場合だってありうるわけでして、ちょうど今の場合がそうなんです。おっしゃることを伺って、今は私、はっきりとお話しできますわ。あなたは私のお友達に、手紙か口頭でお話しすることをお求めになりました。でもあの人は、これは私も少なくともそう考えなければならないのですが、このお話し合いがなんについてなのか知っております。そして、そのため、私にはわからない理由から、たといほんとうにお目にかかることになっても、それは誰のためにもならない、と確信しておりますのよ。そしてあの人は昨日になってやっと私にそのことを話してくれましたが、ほんのちょっとだけでした。そしてそのとき言ったことは、お会いすることはたぶんKさんにもたいしたことじゃないのでしょう、なぜならKさんもほんの偶然によってそんなことをお考えになったのであり、ご自分でもきっと、特別お話しいたさなくとも、たとい今すぐではなくてもほんのすぐあとで、そんなことがみな無意味だということにお気づきになるでしょうから、ということでした。それに対して私は、それはそうだがKさんにはっきりしたご返事をしてさしあげたほうが、事を完全にはっきりさせるためには有益なことだと思う、と答えました。私はこの役目を引受けることを申出ましたが、少しためらってから、あの人は私の言うことを承知しました。おそらく私はあなたのお望みのようにも振舞ったことと思いますが。なぜなら、どんなつまらぬ事柄においてでも、少しでもはっきりしないことがあれば心を悩ますものですし、今の場合のようにたやすく片づけることができるものなら、すぐしてしまったほうがよろしいですからね」
「どうもありがとうございます」と、Kはすぐ言い、ゆっくりと立ち上がり、モンターク嬢を見つめ、それから食卓の上、次に窓の外をながめ、――向う側の家は陽《ひ》を浴びていた――そして、扉のほうに行った。モンターク嬢は、彼の真意は全部が全部はわからないというように、二、三歩彼の後《あと》を追っていった。ところが、扉の前で二人は後に退《の》かねばならなかった。扉が開き、ランツ大尉がはいってきたからである。Kはこの男を初めて間近に見たのだった。大柄な、およそ四十ばかりの男で、褐色《かっしょく》に日焼けした、肉づきのいい顔をしていた。彼はちょっと会釈をし、それはKにも向けられたのだが、次にモンターク嬢のところへ行き、うやうやしげに手に接吻《せっぷん》した。その動作はなかなか物なれていた。彼のモンターク嬢に対する慇懃《いんぎん》さは、Kの彼女に対する取扱いぶりとは目だって著しい対照をなすものだった。それでもモンターク嬢は、別にKに対して気をわるくはしていないらしかった。なぜなら、Kには彼女がそういう素振りを見せたように思えたが、自分を大尉に紹介しようとしたからである。しかしKは、紹介してもらいたくはなく、大尉にもモンターク嬢にも少しでもうちとけることはできないように思えたし、あの手へ接吻する有様を見ていると、Kには、この女がきわめて純真で無私であると見せながら、その実、自分をビュルストナー嬢から引離そうとする一味と結託しているように思われるのだった。けれどもKは、そのことを見抜いたと信じたばかりでなく、モンターク嬢がひとつの巧妙な、確かに両刃《もろは》とも言うべき手段を選んだことを、見抜いた。この女はビュルストナー嬢と自分との関係の意味をおおげさに述べたて、特に頼まれた伝言の意味をおおげさに言って、同時にそれを、万事を極端に考えるのは自分だ、というふうに持ってゆこうと試みているのだ。そうはうまくゆかぬぞ、自分は何もおおげさに考えようとなんかしていないし、ビュルストナー嬢なんかは高が知れたタイピストであり、自分には長くは抵抗できたものじゃない、ということはわかっているんだ、と考えた。その際彼は、グルゥバッハ夫人からビュルストナー嬢について聞いたことは故意に計算には入れなかった。彼はこんなことを考えながら、ほとんど挨拶もしないで部屋を立ち去った。すぐ自分の部屋へ行こうと思ったが、背後の食堂から聞えるモンターク嬢の低い笑い声は、おそらく自分は大尉とモンターク嬢との二人を驚かしてやってもいいはずだ、という考えを彼にいだかせた。あたりを見まわし、まわりの部屋部屋のどれかから邪魔がはいることが考えられるかもしれないと聞き耳をたてたが、どこも静かであり、ただ食堂の話し声が聞かれるだけで、それと、台所に通じる廊下からはグルゥバッハ夫人の声が聞えてくるだけだった。機会は絶好のように思われた。Kはビュルストナー嬢の部屋の扉へ行き、低くノックした。いっこうに物の気配がしないので、もう一度ノックしたが、依然として返事がなかった。眠っているのだろうか? あるいはほんとうに気分がわるいのだろうか? あるいはまた、こんなに低くノックするのはKにちがいないと気づいて、ただその理由から居留守をつかっているのだろうか? Kは、彼女が居留守をつかっているのだ、と考え、いっそう強くノックし、ノックに返事がないので、ついに扉を慎重に、何か正しくない、そのうえ無益なことをやっているのだ、という感情がしないでもなかったが、あけてみた。部屋の中には誰もいなかった。そのうえ、Kが知っていた部屋の面影はほとんどなかった。壁ぎわに二つのベッドが並んで置かれ、扉の近くの三脚の椅子には着物や下着類がうず高く積まれ、戸棚がひとつあけっ放しになっていた。モンターク嬢が食堂でKと話しこんでいるうちにビュルストナー嬢は出かけてしまったらしかった。それによってKはたいして驚きもせず、ビュルストナー嬢にそんなにたやすく会えるものとはもうほとんど期待してはいなかったのであり、こんなことをやってみたのも、ほとんどただモンターク嬢に対する反抗の気持からであった。しかしそれだけに、扉をふたたびしめながら、食堂のあいた扉のところでモンターク嬢と大尉とが互いに話し合っているのを見たとき、彼にはつらい思いがしたのであった。Kが扉をあけたときから、二人はおそらくそこに立っていたのであり、Kをながめているなどという様子は少しも見せないようにし、低声で話し合いながら、話のあいだにぼんやりあたりを見まわしているときのような格好で、視線でKの動作を追っているだけだった。しかし、この視線はKに重苦しくかぶさってきて、彼は急いで壁に沿って自分の部屋へ帰っていった。

第五章 笞刑吏《ちけいり》

 最近のある夕方、事務室と中央階段とを隔てる廊下をKが通ると、――その晩は彼がほとんどいちばん後《あと》から家に帰ることになり、ただ発送室にだけまだ二人の小使が電燈ひとつの照らす光の下で働いていたが――まだ一度も自分で見たことはなかったが物置部屋があるだけだとこれまで思っていた扉《とびら》の後ろで、うめき声をあげているのが聞えてきた。驚いて立ち止り、聞き違いではないか確かめるため、もう一度聞き耳をたてた。――一瞬静かになったが、次にまたうめき声が聞えた。――おそらく立会いが要《い》ることだろうから、小使の一人を呼ぼうと思ったが、抑《おさ》えがたい好奇心に駆られたため、扉をノックしたうえであけてみた。想像していたとおり、物置部屋だった。戸口の後ろには、不用な古印刷物や投げ散らされた空《から》の陶製のインク瓶《びん》が、ごろごろしていた。ところが部屋の中には三人の男が立ち、この天井の低い部屋の中で背をかがめていた。棚《たな》の上につけた蝋燭《ろうそく》が彼らに光を投げていた。
「ここで何をやっているんだ?」と、興奮のためせきこんで、しかし高声でではなく、Kはきいた。明らかにほかの二人を牛耳《ぎゅうじ》っているらしい一人の男がまず彼の眼をひいたが、一種の濃い色の革服を着て、頸《くび》から胸元深くまでと両腕全体とをむきだしにしていた。この男は黙っていた。ところが別の二人が叫んだ。
「あなたが予審判事にわれわれのことで苦情を言ったものだから、われわれは笞《むち》で打たれなけりゃあならないんです」
 そう言われてやっとKが気がつくと、それはフランツとウィレムとであり、第三の男が、彼らを打つため、手に笞を持っていた。
「ところが」と、Kは言い、男たちを見つめた。「何も苦情を言ったわけじゃありませんよ。ただ、私の住居で起ったことを言っただけだ。そして君たちのほうも、けっして非の打ちどころのないように行動したわけじゃないからね」
「でも」と、ウィレムが言ったが、一方フランツはその背後に隠れて、明らかに身を守ろうとしているのだった。「われわれのサラリーがどんなにわるいかご存じなら、われわれについてもっとよい判断を下してもらえるはずですよ。私は家族を養わなけりゃなりませんし、このフランツは結婚しようと思っているんです。よくあることですが、もっと金が楽になるようにとするんだけれど、ただ働くだけでは、どんなに一生懸命やってみても、うまくゆきはしない。そこであんたのりっぱな下着類がわれわれを誘惑したわけで、もちろん、そんなことをするのは監視人には禁じられているし、不正にはちがいないんだけれど、下着は監視人のもの、というのはしきたり[#「しきたり」に傍点]で、これまではいつもそうだったんですよ、ほんとうに。それにまた、逮捕されるくらい運のわるい人間にそんな物が何の役にたつかも、わかりきったことじゃありませんか? もちろん、そんなことをあからさまに言い出されたんじゃ、罰が来るにきまっていますよ」
「君が今言ったことは、私も知らなかったし、またけっして君たちを罰するように要求したわけじゃないんだけれど、根本的なことを問題にしたんですよ」
「おいフランツ」と、ウィレムは別な監視人のほうを向いた。「この人はおれたちの処罰なんか要求しなかった、とおれが言ったろう? 今お前も聞いたとおり、この人はおれたちが罰せられなくちゃならないってことは知らなかったって言うんだ」
「こんな話に乗せられちゃだめだ」と、第三の男がKに言った、「罰は正当でもあるし、逃げられもしないものなんだ」
「そいつの言うことを聞いちゃいけません」と、ウィレムは言い、笞でぴしゃりとやられた手を素早く口に持ってゆくときにだけ、話をとぎらしたが、「われわれが罰せられるのは、ただあんたが密告したためなんですよ。そうでなければ、われわれのやったことを聞かれたって、なんにも起りはしなかったはずです。罰が正当だなんて言えるものですかね? われわれ二人、ことに私のほうは、監視人として長いあいだりっぱにやってきたんです。――あなただって、われわれが、役所の立場から言えば、よく監視したっていうことは、白状しなけりゃあならんはずだ。――われわれは、出世する見込みがあったんだ。きっと間もなくこの人みたいに笞刑吏になれたんだ。この人ときたら誰からも密告されないっていういい身分なんですよ。なぜってこんな密告なんてほんとうにほんのまれにしか起りませんからね。ところが今では万事おしまいです。われわれの出世も止ったし、監視人の役よりはずっと下の仕事をやらなきゃならないでしょうし、そのうえ、今はこんな恐ろしく痛い笞を食う始末ですからね」
「笞はそんなに痛いんですか?」と、Kはきき、笞刑吏が彼の前で振っている笞をよく見た。
「すっかり脱がされて裸にならなくちゃなりませんからね」と、ウィレムは言った。
「そうなんですか」と、Kは言い、笞刑吏をよくながめたが、水夫のように褐色《かっしょく》に日焼けして、野生的で元気のみなぎった顔をしていた。
「二人の笞を助けてやる見込みはありませんか」と、彼は男にきいた。
「だめだね」と、笞刑吏は言い、にやにやしながら頭を振った。
「着物を脱ぐんだ!」と、男は監視人たちに命令した。そしてまた、Kに言った。
「あいつらの言うことを全部信用しちゃいけませんぜ。なにせ笞が恐《こわ》くて少し頭が変になっているんだから。たとえば、ここのこの男が」――と、彼はウィレムのことを指さした――「自分の出世のことをしゃべったが、あれなんかはまったくばかげていまさあ。どうです、やつはなんて肥っているんだろう――笞で打っても最初は脂肪《あぶら》のなかに消えてしまいそうだ――なんでこの男があんなに肥っているかわかるかね? 逮捕者の朝飯を平らげちゃう癖があるからなんだ。あんたの朝飯を平らげちゃわなかったですかい? ね、おれの言ったとおりだ。ところでこんな腹をした男は、こんりんざい笞刑吏にはなれっこない、まったくなれっこありませんや」
「こういう腹の笞刑吏だっていますよ」と、ちょうどバンドをゆるめていたウィレムが言い張った。
「こら」と、笞刑吏は言い、笞で頸の上に一撃を加えたので、身体《からだ》をぴくぴく震わせた。「人の話なんか聞いていないで、着物を脱ぐんだ」
「この人たちを逃がしてくれたら、お礼はたっぷりしますよ」と、Kは言い、もう笞刑吏の顔は見ないで――こういう取引はお互いに眼を伏せたまますませるのがいちばんいいのだ――紙入れを取出した。
「きっとお次は、おれのことも密告し」と、笞刑吏は言った。「そしておれにも笞を食わせようっていうんだろう。だめだ、だめだよ!」
「よく考えてごらんなさい」と、Kは言った。「この二人が罰せられることを望んだのなら、いまさら金を出して助けてやるはずがないじゃないですか。ただこの戸をしめて、これ以上見たり聞いたりしたくないっていうんで家に帰れば、それでもすむんですよ。ところがそうはしない。むしろ、この人たちを逃がしてやりたいって真剣に考えているんです。二人が罰せられなきゃあならない、いやただ罰せられるかもしれない、とわかったなら、この二人の名前は言わなかったでしょう。私はこの二人に罪があるとは全然思いませんね。罪があるのは組織なんだ、上の役人たちなんだ」
「そのとおりですよ!」と、監視人たちは叫んだが、すぐ一撃をすでに着物を脱いだ背中に食った。
「もしここで君の笞の下に高位の裁判官がいるのなら」と、Kは言って、そう言いながらすでに振上げられていた笞を押えて下げさせた、「君がなぐることをほんとうに邪魔はしませんよ。反対に、君がそういういいことをやってくれるのを元気づけるために、金をやってもいいくらいだ」
「あんたが言うことは、もっともらしく聞えるが」と、笞刑吏は言った。「おれは賄賂《わいろ》なんかでだまされないぜ。おれの役目は笞でなぐることだから、なぐるまでだ」
 監視人のフランツは、おそらくKが割りこんできてよい結果になるものと期待しながらこれまでかなり控え目な態度でいたが、このとき、まだズボンだけははいたままで扉のところへ現われ、ひざまずいてKの腕に取りすがり、ささやいた。
「われわれ二人を助けていただけないなら、少なくとも私だけでも逃がす算段をやってみてください。ウィレムは私より年上で、あらゆる点で感じが鈍いですし、二年ばかり前に一度軽い笞刑を受けたことがあるんですが、私はまだそんな恥を受けたことはないし、ただウィレムに教えられたとおりにやっているだけなんです。あいつがよいにつけわるいにつけ、私の先生株でしてね。階下《した》の、銀行の前では、私の許婚《いいなずけ》が事の成行きを待っているんです。まったく恥ずかしくてたまらないくらいです」
 彼はKの上着で、涙でびしょぬれの顔をふいた。
「もう待ってはやらないぞ」と、笞刑吏は言い、両手で笞をつかみ、フランツに打下ろしたが、一方ウィレムは、隅にうずくまって、頭を動かそうともしないで、こっそり様子をうかがっていた。そのとき悲鳴があがったが、それはフランツのもらしたもので、とぎれず、変化のない叫びであり、まるで人間からではなく、拷問される機械からほとばしったように思われるものだった。廊下じゅうがその叫びで鳴りわたり、家全体がそれを聞いたにちがいなかった。
「わめいちゃいけない」と、Kは叫んだが、自分を抑えることができなかったのだった。そして、小使がやってくるにちがいない方角を緊張して見つめながら、フランツを突くと、それはたいして強かったわけではないが、それだけでもこの思慮を失った男は倒れ、痙攣《けいれん》しながら両手で床をかきむしるのだった。それでも殴打をのがれることはできず、笞は床の上にまで彼をつけまわし、彼が笞の下でころがっているあいだ、笞の先端は規則正しく上へ下へと飛んだ。そうしているうちにも遠くに小使が一人現われ、その二、三歩|後《あと》にはもう一人が現われた。Kは急いで扉をしめ、中庭に面した窓のひとつに歩み寄って、それをあけた。叫び声はすっかりやんだ。小使を近づけないために、彼は叫んだ。
「私だよ!」
「今晩は、主任さん」と、返事が叫んだ。「どうかしたんですか?」
「いや、なに」と、Kは答えた。「中庭で犬がほえているだけなんだ」
 それでも小使が動こうとはしないので、彼は言葉を足した。
「君たちは仕事をしていていいんだよ」
 小使たちと話をしなければならなくなる羽目にならぬように、窓から身体を乗り出した。しばらくしてまた廊下を見ると、小使たちはもう立ち去っていた。しかしKは窓ぎわにとどまっていて、物置部屋にはいろうともせず、家にもどりたくもなかった。見下ろすと、小さな四角の中庭で、そのまわりはぐるりと事務室が取囲み、窓はもうみな暗くなっていたが、最上階の窓だけが月光の反射を受けていた。Kは視線をこらして、二、三台の手押車をごちゃごちゃ集めてある木材置場の片隅の暗闇《くらやみ》のあたりを透かして見ようとした。笞刑を阻止することに成功しなかったことが彼の心を苦しめるのだったが、それがうまくゆかなかったのは彼の責任ではなく、もしフランツがわめかなかったら――確かにそれはひどく痛かったにはちがいないが、決定的なせつなには自分を抑えなくてはならぬものだ――もし彼がわめかなかったら、Kはまだ笞刑吏を説き伏せる手段を見つけだしたことだろうし、少なくともそれはきわめてありうべきことだった。最下級の役人どもがみな無頼漢なら、最も非人間的な役目を受持っている笞刑吏などはどうして例外であるはずがあろう。それにKは、あの男が紙幣を見て眼を輝かすさまをよく観察したし、男は明らかにただ賄賂《わいろ》の金額をせり[#「せり」に傍点]上げるために、大まじめで笞を振るう気配を見せたのだった。そしてKは金を惜しまなかったろう。監視人を逃がしてやることがほんとうに彼の関心事だった。この裁判組織の腐敗と戦うことを始めた以上、この方面からも手をつけるということは、当然なことだった。ところがフランツがわめき始めた瞬間に、もちろん万事はおしまいになってしまった。小使たちや、おそらくはここにいるあらゆる人々がやってきて、彼が物置部屋で連中と掛け合っている場面を襲われることは、Kにも我慢ができかねた。こんな犠牲はほんとうになにびとも自分に要求することはできないのだ。もし彼がやる気があるのだったら、自分自身で着物を脱ぎ、笞刑吏に自分が監視人の身代りになると申出たほうが、実際事はほとんどいっそう簡単であった。ところで笞刑吏はこの身代りをきっと受入れはしなかっただろう。なぜなら、そんなことをすれば、少しも利益にはならぬばかりか、彼の義務をひどくそこなうことになり、Kが訴訟手続中であるかぎり、裁判所のあらゆるメンバーに対してKに手をかけることが禁じられているにちがいないから、おそらくは二重に義務をそこなうことになったろう。もちろん、この場合には特別な規定が通用したかもしれない。いずれにもせよ、Kは扉をしめる以外にできることもなく、だからといってそれでKにとってあらゆる危険がまったく除かれるというわけのものでなかった。最後にフランツを突いたことは残念だが、興奮していたということだけで申し訳がたつというものだ。
 遠くで小使たちの足音が聞えた。彼らに目だたぬように、窓をしめ、中央階段のほうに行った。物置部屋の扉のところでしばらく立ち止り、聞き耳をたてた。まったく静まりかえっていた。あの男が監視人たちをなぐり殺してしまったのかもしれない。実際、彼らはまったく男の手中に納まったのだった。Kは把手《とって》に手を伸ばしかけたが、また引っこめた。もう誰も助けることはできないし、小使たちがすぐやってくるにちがいなかった。しかし、この事件をなお持ち出し、ほんとうの罪人、つまり自分の前に誰も姿を見せようとはしない高位の役人たちを、自分の力のかぎり、それ相応に罰してやろう、と心に誓った。銀行の表階段を降りながら、念入りに通行人たちを見たが、誰かを待っているような娘などはかなり広い範囲にわたって見受けられなかった。許婚《いいなずけ》が待っていると言ったフランツの言葉は、大いに同情をひこうという目的のためだけであるような、もちろん許してやるべき偽りであったことがわかった。
 次の日もまだ、監視人のことがKの念頭を離れなかった。仕事をしていても気が散って、無理にやってしまおうと思ったので、前日よりもなお少し長く事務室に居残らなければならなかった。帰りがけにまた物置部屋の前を通りかかり、習慣になっているかのように扉をあけてみた。真っ暗なはずと思っていたのに現実に見たものは、とうてい理解できなかった。万事が、昨晩扉をあけたとき見たままで、少しも変っていなかった。すぐ敷居の後ろまで来ている印刷物とインク瓶、笞を手にした笞刑吏、相変らずすっかり裸の監視人たち、棚の上の蝋燭、そして監視人たちは訴え、叫びはじめるのだった。
「ああ、あんた!」
 すぐKは扉をしめ、しっかとしめでもするかのように、拳《こぶし》で扉をたたいた。ほとんど泣きださんばかりに小使たちのところへ走ってゆくと、彼らはのんびりと謄写版の仕事をしていたが、驚いて仕事の手を休めた。
「物置部屋を片づけちまってくれないか!」と、彼は叫んだ。「まったく塵《ちり》の中に埋まっちまうよ!」
 小使たちは、明日掃除をするつもりでいた、と言ったので、Kはうなずき、もう夜も遅くなった今、自分が考えたとおり仕事を無理にさせるわけにもゆかなかった。小使をしばらく身近におこうと思って、しばらく腰をおろし、二、三枚の謄写をひっかきまわし、それで自分が謄写を調べているように見せかけることができたと思い、自分といっしょに小使たちが帰ろうとはしていないのを見てとったので、疲れきって、ぼんやりと、家へ帰っていった。

第六章 叔父《おじ》・レーニ

 ある日の午後――ちょうど郵便締切日の前なのでKは非常に忙しかったが、書類を持ってはいってくる二人の小使のあいだを押し分けて、田舎《いなか》の小地主であるKの叔父のカールが部屋にはいってきた。彼が叔父の姿を見かけてもたいして驚かなかったのは、それよりかなり前に、叔父がやってくるという知らせを受けてすっかり驚いていたからだった。叔父がやってくるということは、すでに約一カ月も前からKにはわかっていたことだった。すでにそのとき、叔父が少し前かがみになり、左手にぺしゃんこになったパナマ帽を持ち、右手を遠くのほうから自分に差出し、邪魔になるあらゆるものにぶつかりながら、あたりかまわぬ急ぎかたで机越しに手を握る有様が、Kには眼に見えるようだった。叔父は絶えずせかせかしていたが、いつもただ一日しか滞京しないのに、そのあいだに計画してきたことをみんな片づけなければならない、そのうえ、たまたま生じた面会や用談や楽しみなども何ひとつ逃すまい、という面倒な気持に追い立てられているからだった。そういう場合にKは、昔自分の後見人になってもらったこともあり恩があるので、あらゆる事柄で世話もせねばならず、そのうえ、自分のところに泊めなくてはならなかった。「田舎から来る幽霊」と、Kは日ごろ叔父のことを呼んでいた。
 挨拶《あいさつ》をすませるとすぐ、――肘掛椅子《ひじかけいす》にすわるようKはすすめたが、叔父はその余裕すらなかった――二人だけで少し話したいことがある、とKに頼んだ。
「どうしても人払いが必要なんだ」と、叔父は苦しげに唾《つば》をのみこみながら言った。「わしの安心のためには必要なんだ」
 Kはすぐさま、誰も部屋に入れてはいけないと命じて、小使たちを部屋から出した。
「いったいなんということをやったのだ、ヨーゼフ?」と、二人きりになったとき叔父は叫び、机の上にすわり、すわり心地をよくするためさまざまな書類を見境もなく尻《しり》の下に詰めこんだ。Kは黙っていた。なんの話かわかってはいたが、夢中になっていた仕事の緊張を突然解かれたので、まず心地よい疲労に身をまかせ、窓越しに向う側の通りをながめていた。彼の席からは、ただ小さな三角形の部分、二つの陳列窓のあいだの何もない壁の部分が見えるだけだった。
「窓の外なんか見ている!」と、叔父は腕をあげて叫んだ。「後生だから答えてくれ、ヨーゼフ! ほんとうなのか、いったいあんなことがほんとうにありうることかね?」
「叔父さん」と、Kは言って、ぼんやりしていた気持を振切った、「なんのことやらさっぱりわかりませんが」
「ヨーゼフ」と、叔父はたしなめるように言った。「わしの知るかぎり、お前はいつもほんとうのことを言ってきた。ところがお前の今の言葉を聞くと、どうもそれをわるいしるしととらなきゃならんようだね?」
「ああ、叔父さんの用件がわかりましたよ」と、Kは素直に言った、「きっと私の訴訟のことをお聞きになったんですね」
「そうだよ」と、ゆっくりうなずきながら、叔父は答えた。「お前の訴訟のことを聞いたんだ」
「いったい誰からですか?」と、Kはきいた。
「エルナが手紙で言ってよこしたんだ」と、叔父は言った。「あれはお前とは全然交渉がないし、残念ながらお前はたいしてあれのことを気にかけていない。それでもあれはそのことを聞いたんだぞ。今日あれの手紙をもらって、もちろんすぐここへやってきたんだ。別にほかの理由はなかったが、これだけでも十分理由になるように思われるな。お前に関する手紙の個所を読んでやるぞ」
 彼は紙入れから手紙を取出した。
「ここにある。こう書いてあるぞ。『ヨーゼフにはもうずっと会っておりません。先週一度銀行へまいりましたが、ヨーゼフはたいへん忙しく面会してもらえませんでした。ほとんど一時間ほども待ちましたが、ピアノのお稽古《けいこ》がありますので、家へ帰りました。あの人とお話ししたく思っておりますが、近く機会があることと思います。私の名付日にはあの人から大箱のチョコレートを贈ってもらいました。とてもかわいらしく、人目につきました。そのときお知らせすることを忘れておりましたが、お尋ねがあったので今やっと、思い出しました。チョコレートは、寄宿舎ではすぐなくなってしまいますのよ。チョコレートを贈ってもらったんだということを思い出すか出さないうちに、もうどこかへ行っていますわ。でもヨーゼフのことでは、もう少しお知らせしておきます。今書きましたとおり、銀行では、ちょうどどなたかとお話ししているというので、面会できませんでした。しばらくじっと待ってから、お話はまだ続きましょうか、と小使さんにきいてみましたの。そうしたら、きっとそうなるだろう、主任さんに対して起されている訴訟のことらしいから、という話でした。どんな訴訟なんですか、お間違いではないんですか、って私はききました。すると、いや間違いじゃない、訴訟だし、しかも重要な訴訟だ、けれどこれ以上のことは自分にはわからない、ということでした。自分も主任さんをよろこんでお助けしたい、あの人はいい、正しい人だから、でもどうやって始めたらいいのかわからない、ただ有力な人たちがあの人のことを取上げてくれるのを祈っているだけだ。きっとそうなるだろうし、結局はうまい決着がつくだろうけれど、主任さんの機嫌《きげん》から察するのに、さしあたりはどうもあまりうまくはいっていないらしい、ということでした。この話はもちろんたいして重要なものではないと思いましたし、単純そうな小使さんを慰めようと思って、ほかの人々に向ってそのことをしゃべらぬように言いましたが、みんなおしゃべりにすぎないと考えております。でも、お父様、今度こちらにおいでの節に、よくお調べになるなら、きっとためになることでしょうし、詳しいことをきき、またほんとうに必要ならば、お父様の大勢の有力なお知合いの方々の手を借りて事件に口をきくことは、お父様にはやさしいことでしょう。でも、そういうことが必要でないとしても、――そして必要でない場合がほんとうにいちばんありそうなことだと思われるのですけれど――少なくともあなたの娘にお父様を抱く機会を与えてくださるでしょうし、そうしたらうれしいと思います』――いい子だ」と、叔父は朗読をやめると、言って、二、三滴の涙を眼からぬぐうのだった。
 Kはうなずいたが、最近のさまざまなごたごたのためすっかりエルナのことを忘れ、彼女の誕生日のことも忘れていたので、チョコレートの話は明らかにただ、自分のことを叔父と叔母とに対してよく思わせてくれようとする心づかいから考えだしたものだった。それは非常にいじらしく、これからはきちんきちんと送ってやろうと思った芝居の切符ではきっと十分に償いきれないものだったけれども、寄宿舎を訪《たず》ね、ちっぽけな十八歳の女学生と話をするなどという気には今はなれなかった。
「で、どうだね?」と、叔父はきいたが、手紙ですっかり、急いでいたこと、興奮していたこと、を忘れてしまい、もう一度手紙を読んでいるらしかった。
「ええ、叔父さん」と、Kは言った。「ほんとうにそうなんです」
「ほんとうだって?」と、叔父は叫んだ。「ほんとうってどういうことなんだ? そんなことがほんとうだなんて、ありうることかい? どんな訴訟なんだ? でも刑事訴訟じゃあるまいな?」
「刑事訴訟なんです」と、Kは答えた。
「で、お前はここに落着きはらってすわっていながら、刑事訴訟を背負いこんでいるのか?」と、叔父は叫んだが、声がいよいよ大きくなっていった。
「落着いていればいるほど、結果はいいんです」と、Kは疲れたように言った。「心配しないでください」
「そんなことじゃ、わしのほうは安心できん!」と、叔父は叫んだ。「ヨーゼフ、なあヨーゼフ、自分のこと、親戚《しんせき》のこと、わしたちの家名のことを考えてごらん! お前はこれまで一門の名誉だったし、これからも一門の恥となってはいけないぞ。お前の態度は」と、彼は頭を斜めにかしげてKをじっと見つめた。「わしの気に入らん。まだ元気いっぱいでいる潔白な被告の態度じゃないぞ。さあ早く言いなさい、何に関したことなんだ、わしはお前を助けてやるから。もちろん、銀行に関したことなんだろう?」
「ちがいますよ」と、Kは言い、立ち上がった。「叔父さんの声は大きすぎますよ。きっと小使が扉のところに立って、聞いています。それは不愉快ですからね。むしろ外に行きませんか。外に出たら、何なりと叔父さんの質問にお答えしますよ。身内の人たちにも弁明しなけりゃならないとは、重々わかっていますからね」
「そうだ!」と、叔父は叫んだ。「まったく言うとおりだ、さあ急ぐんだ、ヨーゼフ、急ぐんだ!」
「まだ少し言いつけておかねばならないことがありますから」と、Kは言い、電話で代理を呼んだが、代理はすぐやってきた。興奮している叔父は、わざわざやらなくたってきまりきったことなのに、あなたを呼んだのはこの男だ、と代理に手でKのことをさしたりするのだった。Kは机の前に立ち、低い声でいろいろな書類を取上げながら、自分がいないあいだ今日のうちに片づけねばならないことをその若い男に説明したが、相手は冷やかな、しかし注意深い態度で聞いていた。叔父は、もちろん話を聞いているわけではないが、まず眼を丸くし、神経質そうに唇《くちびる》を噛《か》みながらそばに立って邪魔になっていたが、この様子だけでもすでに十分邪魔になるのだった。しかし次に、部屋のなかをあちこちと歩きまわり、窓の前とか絵の前とかに立ち止っては、しょっちゅう、「わしにはまったくわからん」とか、「いったいこれからどういうことになるのか言ってみなさい」とかいうように、いろいろ叫び声をあげるのだった。若い男はそれが全然気にならぬようで、Kの頼むことを終りまで落着いて聞き、いくらかメモをとって、Kと叔父とに一礼してから、出ていったが、叔父はちょうど男に背を向け、窓から外をながめ、両手を伸ばしてカーテンを皺《しわ》くちゃにしていた。扉がしまるかしまらぬうちに、叔父は叫んだ。
「とうとう操《あやつ》り人形が出ていった。今度はわしらが出てゆく番だ。さあ、これで出てゆける!」
 ホールには二、三人の行員や小使があちこちに立っており、またちょうど支店長代理が横切ってゆくところだったが、都合がわるいことに、訴訟についての質問をやめさせる手段がなかった。
「で、ヨーゼフ」と、叔父はそのあたりに立っている人々の挨拶に軽い会釈で答えながら、言い始めた。「もうはっきりと言ってくれ、どんな訴訟なんだ」
 Kは何か口ごもりながら、少し笑いもし、階段のところへ来てからやっと、人がいるところではおおっぴらに話したくないのです、と叔父に説明した。
「ほんとうにそうだ」と、叔父は言った。「だがもう話してもいいだろう」
 頭をかしげて、葉巻を短く、せわしげにぷかぷかふかしながら、叔父は一心に聞いていた。
「叔父さん、まずお断わりしておきますが」と、Kは言った。「普通裁判所の訴訟じゃないんです」
「それはいかん」と、叔父は言った。
「どうしてですか」と、Kは言い、叔父をじっと見つめた。
「それはいかん、って言うのだ」と、叔父は繰返した。
 二人は通りに通じる表階段の上にいた。門衛が聞き耳をたてているようなので、Kは叔父を引っ張りおろした。街路のにぎやかな往来が二人を迎えた。Kの腕にすがった叔父は、もうあまりせきこんで訴訟のことをきかなくなり、しばらくは黙りさえして歩みを進めた。
「だがどういうことが起ったのだ?」と、ついに叔父がきいたが、突然立ち止ってしまったので、その後ろを歩いていた人々は驚いて避けた。
「こんなことは突然起るものじゃなし、ずっと前からじっくり起ってくるのだから、その徴候もあったにちがいないのに、なぜ手紙でそれを言ってよこさなかったんだ? お前も知っているとおり、わしはお前のためになんでもやってきているし、今でもいわば後見人と言えるくらいで、わしは今日までそれを誇りにしてきた。もちろん今でもお前を助けてやるつもりだが、訴訟がもう始まっているとすると、どうもむずかしいぞ。ともかく、ここで少し休暇を取り、田舎のわしらのところへ来るのがいちばんいいだろう。それにお前は少し痩《や》せたぞ、どうもそう見える。田舎でお前は元気になるだろうし、そうなればよいことだ。なにしろこれから先も、きっといろいろと骨が折れようからな。それに、田舎へ行けば裁判所からもある程度逃げられる。ここではいろいろな権力手段があって、それをかならず自動的にお前にも適用するだろう。ところが田舎では、まずいろいろな機関を派遣するとか、ただ手紙や電報や電話でお前に働きかけようとするくらいのものだ。それならもちろん、効果が減るし、お前を解放はしないにしても、息がつけるだろう」
「ここを離れることは禁じるかもしれませんよ」と、叔父の話に少し釣りこまれたKは言った。
「そんなことをするとは、わしは思わん」と、叔父は考えこんだように言った。「お前が旅行に出たために役所の権力が減る面は、そんなに大きくはあるまい」
「叔父さんは」と、Kは言い、叔父を立ち止らせておかないように腕を取った、「私ほどこの事件に重きをおかないものと思っていましたが、ご自身でどうもむずかしく考えておられるようですね」
「ヨーゼフ」と、叔父は大声をあげ、立ち止ることができるようにKから逃れようとしたが、Kがそうはさせなかった。「お前は変ったな。お前はいつも非常に考える力がしっかりしていたのに、今はどうもどこかへ置き忘れたようだぞ? 訴訟に敗《ま》けてもいいのか? そうなったらどうなるのか、知っているか? そうなったら、お前は簡単に抹殺《まっさつ》されちゃうんだぞ。親戚全体が巻きこまれるか、少なくとも徹底的に辱《はずか》しめられるんだぞ。ヨーゼフ、しっかりしておくれ。お前のどうでもいいというような態度は、わしから正気を奪ってしまうほどだ。お前の様子を見ていると、『こんな訴訟があるからは、もう敗けたも同然だ』っていう諺《ことわざ》をほとんど信じたくなるくらいだ」
「叔父さん」と、Kは言った。「興奮は無用です。興奮しているのは叔父さんのほうだし、また私のほうもそうかもしれません。興奮したんでは訴訟に勝てませんからね。叔父さんのご経験は少々私を驚かせますが、いつも、そして今でも大いに尊敬しているんですから、私の実地の経験も少しは認めてください。身内の者まで訴訟によってわずらわされるって叔父さんがおっしゃられるんですから、――このことは私としてはまったく理解できませんが、まあそれは別なことだからやめましょう――よろこんでなんでもおっしゃることに従うつもりです。ただ田舎に滞在するということだけは、叔父さんのお考えの意味ででも利益になるとは思われませんね。そんなことをすりゃあ、逃げたことになるし、罪を自覚していることになりますからね。それに、ここにいるといよいよ追いまわされはするものの、また自分でもっと事を動かすこともできるんです」
「もっともだよ」と、叔父は、今はやっと互いに歩み寄りができた、というような調子で言った。「わしがそういうことを言いだしたのはただ、お前がここにいると、事がお前の無関心な態度で危なくなるように思えたし、わしがお前のかわりに事をやればいっそうよいと考えたからだ。だがもしお前が全力をあげて自分でやろうというのなら、もちろんはるかによいことだ」
「それじゃこの点で私たちは一致したわけです」と、Kは言った。「そこで、私がまずやらなきゃあならないことについて、何かお考えがありますか?」
「もちろん事柄をもっと考えてみなくちゃならん」と、叔父は言った。「お前もわかってくれるだろうが、わしはもうこれで二十年もほとんど田舎に居きりなので、こういう方面の勘が鈍ってしまったよ。こっちにいておそらく事情に明るい人たちとの、さまざまな肝心なつながりも、自然とゆるんでしまった。お前もよく知っているとおり、わしは田舎で少し見捨てられていたんだ。ほんとうにこんな事件にぶつかってみて初めて、自分でもそれがわかる。奇妙なことにエルナの手紙を読んだだけでそういうことがいくらかわかったし、今日もお前の顔を見ただけで、ほとんどはっきりわかったんだが、お前のこの事件は少々意外だったな。だがそんなことはどうでもよろしい、今いちばん大切なのは、時を失わないということだ」
 こう話しているうちにもう、爪立《つまだ》ちながら一台の自動車に合図して、運転手に行先をどなってやりながら、Kを後ろ手で自動車に引っ張りこんだ。
「これからフルト弁護士のところへ行こう」と、彼は言った。「あの男はわしの同窓生だった。お前も名前は知っているだろう? 知らないか? だが変だね。貧乏人の保護者で弁護士として、たいへん名声の高い人だ。だがわしは、人間としてのあの男に大いに信頼をおいている」
「叔父さんのやられることは、なんでも私には結構ですよ」と、叔父が用件を取扱ういかにもせっかちな、押しつけがましいやりかたに不快を覚えさせられたが、Kは言った。被告として貧民相手の弁護士のところへ行くことは、あまり愉快なことではなかった。
「こんな事件にも弁護士を頼めるものとは知りませんでした」と、彼は言った。
「もちろんだよ」と、叔父は言った。「わかりきったことじゃないか。どうして頼めないなんていうことがある? ところで、事件を詳しく知っておくため、わしにこれまで起ったことを話してくれないか」
 Kはすぐ話し始めたが、何も隠しだてはしなかった。完全にぶちまけるということが、訴訟は大きな恥辱だ、という叔父の意見に対してあえてやれる唯一の抗議だった。ビュルストナー嬢の名前はただ一度だけ、ほんのついでに口に出しただけだったが、それは何も公明正大になんでも言うという態度を傷つけるものではなかった。ビュルストナー嬢は訴訟とは何も関係がなかったからである。話しながら窓越しにながめ、自分たちがちょうど裁判所事務局のあった例の郊外に近づいているのを見てとり、叔父にそのことを注意したが、叔父はその偶然の一致をさして驚くべきこととは思わなかった。車は一軒の暗い家の前に止った。叔父は、すぐ一階のとっつきの部屋の扉のベルを鳴らした。待ちながら、にやにやして大きな歯をむきだし、ささやいた。
「八時だ。訴訟のことで行くのには尋常じゃない時間だな。しかしフルトはわしのことをわるくは思うまい」
 扉ののぞき窓に、二つの大きな黒い眼が現われ、しばらく二人の客をじっと見つめて、消えた。ところが扉はあかなかった。叔父とKとは互いに、二つの眼を見たという事実を確かめ合った。
「新しい女中で、見知らぬ人間を恐がっているんだろう」と、叔父は言い、もう一度ノックした。また眼が現われ、今度はほとんど悲しげに見えるのだったが、おそらくはただ、二人の頭のすぐ上で強くじいじい音をたてて燃えてはいるがほとんど光を出してはいない裸ガス燈の生みだした錯覚だったかもしれなかった。
「あけてくれ」と、叔父は叫んで、拳《こぶし》で扉をたたいた。「弁護士さんの友達なんだ!」
「弁護士さんは病気ですよ」と、彼らの後ろでささやく声がした。小さな廊下の向うの隅《すみ》の扉に寝巻姿の紳士が立ち、きわめて低い声でこう知らせたのだった。すでに長く待たされて腹のたっていた叔父は、ぐいと振向いて、叫んだ。
「病気? あの男が病気だっておっしゃるんですね?」そして、その紳士が病気そのものででもあるかのように、ほとんど挑《いど》みかかるような様子で男のほうに近づいていった。
「扉をもうあけましたよ」と、その紳士は言い、弁護士の扉を指さし、寝巻をかき合せて、消えた。扉はほんとうに開かれており、一人の若い娘が――黒い、少し飛び出た、あの眼をKはふたたび認めた――長い白エプロン姿で控えの間に立ち、蝋燭《ろうそく》を一本手にしていた。
「この次はもっと早くあけてください!」と、叔父は挨拶《あいさつ》するかわりに言ったが、娘のほうは少し膝《ひざ》をかがめて挨拶をした。
「おいで、ヨーゼフ」と、ゆっくりと娘のそばを通り過ぎるKに叔父は言った。
「弁護士さんはご病気です」と、叔父は止っていないでどんどん扉のほうに行くので、娘は言った。
 Kはまだぽかんと娘をながめていたが、娘のほうはすでに向き直って、入口の扉をまたしめにいった。人形のような格好の丸い顔で、蒼《あお》ざめた頬《ほお》と顎《あご》とが丸みを帯びているばかりでなく、こめかみも額ぎわも丸みを帯びていた。
「ヨーゼフ!」と、叔父はまた叫び、娘にきいた。
「心臓病かね?」
「きっとそうだと思います」と、娘は言い、蝋燭を携えて先に立ち、部屋の扉をあける暇をとらえた。蝋燭の光がまだ届かない部屋の隅のベッドで、長い髯《ひげ》の顔が身を起した。
「レーニ、誰が来たんだ?」と、蝋燭に眼がくらんで客の見分けがつかない弁護士がきいた。
「アルバート、君の旧友だよ」と、叔父は言った。
「ああ、アルバートか」と、弁護士は言い、この訪問客には何も取繕うことは要《い》らないというように、布団の上にぐったりと倒れた。
「ほんとうにそんなにわるいのかい?」と、叔父は言い、ベッドの縁に腰をおろした。「わしはそうは思わんぞ。いつもの心臓病の発作だよ。いつもと同じようにすぐ直るよ」
「そうかもしれないが」と、弁護士は低い声で言った。「でも今度はこれまでよりもわるいんだ。呼吸が苦しく、全然眠れないし、日ましに弱ってゆくんだ」
「そうか」と、叔父は言い、大きな手でパナマ帽をしっかと膝に押しつけた。
「そいつはわるい知らせだな。ところでちゃんと養生しているのか? それにここはどうも陰気で、暗いな。この前ここに来てからもうだいぶになるが、あのときはもっと親しみがあるように思えたぞ。ここにいるお前の小娘もあまり陽気じゃなさそうだし、どうもとりすましているな」
 娘はまだ蝋燭を手にして、扉の近くに立っていた。どうもはっきりしない彼女の眼差《まなざし》から推しはかるのに、叔父が今自分のことを話しているのだからそのほうを見たらよさそうなものなのに、叔父よりもむしろKを見ていた。Kは、娘の近くまでずらしていった椅子にもたれていた。
「おれのように病気だと」と、弁護士は言った。「安静にしなければならん。おれには別に陰気じゃないよ」そして少し間を置いてから、言葉を足した。「それにレーニはよくおれを看病してくれるよ。いい娘だ」
 しかし、その言葉に叔父は承服できず、明らかに看護婦に偏見をいだいているらしく、病人には何も言わなかったが、看護婦がベッドのところへ行き、蝋燭を夜間用の小さな机の上に置き、病人の上に身をかがめて、布団を整えながら病人と小声で話すのを、きびしい眼つきで追っていた。ほとんど病人への心づかいなどは忘れてしまい、立ち上がって看護婦の後《あと》にあちこちとついてまわり、たとい叔父が娘の首筋をとらえてベッドから引離したとしても、Kには不思議ではないように思われるのだった。K自身は万事を冷静にながめていたし、弁護士の病気はまったくあつらえむきでないわけでもなかった。叔父が自分の事件のためにやってくれている熱心さには逆らうこともできなかったので、別段自分が手を加えもしないでその熱心さがこういうふうにそらされることを、Kはよろこんで迎えたのだった。そのとき叔父が言ったが、おそらくただ看護婦を傷つけてやろうというつもりだけの言葉だった。
「看護婦さん、しばらく二人だけにしてくれないかね。友達と個人的な用件で話さねばならぬことがあるんだ」
 まだ病人の上にずっと身体《からだ》をかがめて、ちょうど壁ぎわの掛布団を伸ばしていた看護婦は、頭だけを向けて非常に落着いて言ったが、それは、怒りのためにつまってしまうかと思うとまた流れ出る叔父の話と、著しい対照をなしていた。
「ごらんのとおりたいへん病気が重いのですから、どんな用件もお話しはできません」
 看護婦は叔父の言葉をおそらくはただ億劫《おっくう》がって繰返したにすぎなかったのであろうが、ともかくそれは第三者から見てさえ嘲笑《ちょうしょう》しているもののようにとられ、叔父はもちろん、ちくりとやられた者のように飛び上がった。
「こん畜生」と、興奮のため喉《のど》を鳴らしはじめながら、まだ明瞭《めいりょう》に聞き取れはしない調子で言ったが、どうせそんなことになるだろうと予期していたKも仰天し、両手で口を押えてやろうというはっきりとした意図をもって叔父のところへ走り寄っていった。しかし好都合なことに、娘の後ろで病人が身体をもたげ、叔父は、何かいやなものをのみこんだような苦い顔をしたが、次に少し落着いて言った。
「もちろん、お互いに理性を失ってしまったわけじゃない。わしの要求することができない相談なら、わしも無理には要求すまい。だがもう出ていってくれないか!」
 看護婦はベッドのそばにしっかと立ち、完全に叔父のほうを向き、Kにはそれが見られたように思えたのだが、片手で弁護士の手をさすっていた。
「レーニの前ならなんでも言えるよ」と、疑いもなく切に願うような調子で、病人は言った。
「わしのことじゃないんだ」と、叔父は言った。「わしの秘密じゃないんだ」
 そして彼は向き直ってしまい、もう言い合いをやっているつもりはないが、まあちょっと考える余裕を与えてやろう、という様子だった。
「いったい誰のことなんだ?」と、消え入るような声で弁護士はきき、また身体を横にした。
「わしの甥《おい》なんだよ」と、叔父は言った。「いっしょに連れてきたよ」そして、紹介した。「業務主任ヨーゼフ・K」
「おお」と、病人はずっと元気になって言い、Kに手を差伸べた。「ごめんなさい、あなたには全然気がつきませんでした。レーニ、あっちへ行きなさい」と、看護婦に言ったが、娘のほうも全然逆らわず、病人はまるで長い別れででもあるかのように彼女に手を差伸べた。
「それじゃ君は」と、病人はついに叔父に言ったが、叔父も気持が解け、彼のほうに近寄った。
「見舞いに来てくれたんじゃなくて、用事で来たんだね」
 病気見舞いという考えがこれまで弁護士をうんざりさせていたかのようで、そこで今は元気づいたように見え、かなり骨の折れることであるのにちがいないのに、絶えず一方の肘で身体をささえたままの姿勢をとり、髯の真ん中あたりの一束をしょっちゅう引っ張っていた。
「あの阿魔《あま》が出ていってから」と、叔父は言った。「君はすっかり元気になったようだぞ」
 ここで言葉を切り、ささやいた。
「請け合うが、あの女め立ち聞きしている!」
 そして扉に飛びついて行った。しかし、扉の背後には誰もいなかったので、叔父はもどってきたが、彼女が立ち聞きしていないことは叔父にはいっそう陰険なことに思われたので、少しも失望してはいなかったけれども、確かに気をわるくしてはいた。
「君はあれを誤解しているよ」と、弁護士は言ったが、それ以上看護婦のことをかばおうとはしなかった。おそらくそれで、あの娘はかばう必要がないのだ、ということを言い表わそうとしたのであろう。しかし、ずっと熱心な調子で彼は言葉を続けた。
「君の甥御さんのことだが、もしこのきわめてむずかしい問題にぶつかれる元気がわしにあるなら、もちろんわしもたいへん幸《しあわ》せだと思っている。ただそれだけの元気があるかどうか大いに心配なんだが、ともかくなんであろうとやってみないで投げたくはないからね。もしわしで十分ではないなら、誰かほかの人を頼むこともできる。正直に言って、この事件にはたいへん興味があるんで、思いきってそれを手がけることをあきらめる気にはとうていなれない。もしわしの心臓がそれに耐えられないというのなら、少なくともここで、弁護士商売なんか完全に思いきる絶好の機会が見つかるというものだ」
 Kは、この話がさっぱりわからぬように思えて、説明を求めようとして叔父の顔を見つめたが、叔父のほうは蝋燭を手にして夜間用の机のそばにすわり、早速机から薬瓶《くすりびん》を絨毯《じゅうたん》の上にころがし落してみせ、弁護士の言うことのなんにでもうなずき、なんにでも同意しては、ときどきKにも同じような同意を促して彼の顔をうかがうのだった。おそらく叔父はすでに前もって弁護士に訴訟のことを言っておいたのだろうか? しかし、そんなことはありうるはずがなく、これまでここで起ったことはすべて、そんなことがないということを物語っているのだった。それゆえ、彼は言った。
「私にはおっしゃることがわかりませんが――」
「ほう、あなたのことを誤解しているとでも言われるんですかな?」と、弁護士のほうもKと同じように驚き、かつ当惑してたずねた。
「おそらく先走りしすぎたんでしょう。いったいなんのことで私と相談なさろうと言われるんですか? あなたの訴訟のことだとばかり思っていました」
「もちろんだよ」と、叔父は言い、次にKにたずねた。「いったい、どうしようっていうんだ?」
「そうなんですが、いったい私のことや訴訟のことをどこからお聞きになったんです?」と、Kはきいた。
「ああ、そのことですか」と、弁護士は微笑しながら言った。「わしは弁護士ですからね。裁判所の人たちと付合いもあるし、いろいろな訴訟、目だつ訴訟について話も出るわけだし、ことに友人の甥御さんのことともなれば、覚えてもいますよ。それに不思議はないわけです」
「いったいどうしようっていうんだ?」と、叔父はもう一度きいた。「お前はどうも落着きがないよ」
「あなたは裁判所の人たちと付き合っているんですね?」と、Kがきいた。
「そうですよ」と、弁護士が言った。
「お前は子供のようなことをきくね?」と、叔父は言った。
「自分の専門の人たちと付き合うんじゃなければ、いったい誰と付き合うんでしょう?」と、弁護士が言い足した。
 その言葉の響きは抗しがたいものがあったので、Kは全然返事をしなかった。
「でもあなたは大審院なんかの裁判で仕事をするんで、屋根裏なんかでするんじゃないでしょう」と、彼は言おうと思ったが、でも思いきってそれを実際言いだすことはできなかった。
「あなたもよくわかっていてもらいたいが」と、何かわかりきったことをついでにくどくど説明するような調子で、弁護士は言葉を続けた。「あなたもよくわかっていてもらいたいが、こういう付合いから弁護依頼人にとってのさまざまな大きな利益を引出せるんでね。しかもいろいろな点でだ。もっともそのことは伏せておいてくださらぬと困るがね。もちろんわしは今、病気のために少し思うようにゆかぬ点があるが、それでも裁判所のいい友達に見舞いに来てもらい、少しは耳に入れているんです。おそらく、ぴんぴんして一日じゅう裁判所で暮している多くの人たちよりもよけいに聞いていますよ。たとえばちょうど今もありがたい訪問客に来てもらっているんですよ」そうして暗い部屋の隅を指さした。
「いったいどこに?」と、驚いてしまったKは荒々しくきいた。彼はおろおろとあたりを見まわした。小さな蝋燭の光は向う側の壁まではとうてい届かなかった。ところがほんとうにその片隅に、何かが動きはじめた。そのとき叔父が高々と上げた蝋燭の光を浴びて、そこの小さな机のそばに一人の中年の紳士がすわっていた。その人物はきっと全然呼吸をしなかったので、そんなに長いあいだ気づかれなかったのだったろう。自分に注意が向けられたことに明らかに不満らしく、その人物は大仰に立ち上がった。短い翼のように両手を動かして、紹介や挨拶はいっさいお断わりと言おうとするかのようであり、どんなことがあっても自分が居合すことによって他人の邪魔をしたくはない、どうかまた暗がりに置いて自分がいることなど忘れてもらいたい、と願っているようであった。しかしこうなってはもうそんなわけにもゆかなかった。
「あなたには驚かされましたよ」と、弁護士は説明じみた調子で言い、同時にその紳士には促すようにこっちにいらっしゃいと合図をしたが、この人物はゆっくりと、ためらうようにあたりを見まわしながら、しかし一種の品位をもって近づいてきた。
「事務局長さん、――ああ、そうだ、ごめんください、ご紹介しませんでしたな、――こちらは友人のアルバート・K、こちらは甥御さんの業務主任ヨーゼフ・K、そしてこちらは事務局長さん。――で、事務局長さんはご親切にもおいでくださったのだ。こんなご訪問の価値というものは、ほんとうはただ、事務局長さんがどんなに仕事でお忙しいかという消息に通じているものだけがわかるんだよ。さて、それにもかかわらずこの方はおいでくださったので、もちろん、弱っているわしに許されるかぎり、いろいろお話ししていたんだ。訪問客があったらお断わりしろ、とレーニには命じてはなかったが、わしらだけで話そうという考えだったのだ。ところが君が扉を拳《こぶし》でたたいたわけだ、アルバート、そこで事務局長さんは椅子と机とを持って隅に引っこまれた。だがこうなると、できるだけ、つまりもしそうしようとする希望があるのなら、共通の用件について相談し合わなければならないし、うまく歩み寄りもできるということは、わかりきったことだ。――では事務局長さん」と、弁護士は頭をかしげ、卑屈な薄笑いを浮べて言い、ベッドの近くの安楽椅子を示した。
「残念ながらもうほんの少ししかお邪魔しておられません」と、事務局長は親しげに言い、ゆったりと安楽椅子にすわり、時計を見るのだった。「用事に追われていてね。だがいずれにせよ、私の友人のお友達とお知合いになる機会は取逃がしたくはありませんからね」
 彼は頭を軽く叔父のほうに曲げたが、叔父はこの新しい近づきに大いに満足しているように見えるものの、いつもの癖で敬意の心持を表現することができず、事務局長の言葉に対して、当惑したような、しかし大きな笑い声で調子を合わせるのだった。なんとも見苦しい光景だった! Kは落着いて皆を観察できた。誰も彼をかまう者はなかったからである。事務局長は、どうもこれは彼のならわしらしかったが、一度引っ張り出された以上、座談を進んで牛耳《ぎゅうじ》ったし、弁護士は弁護士で、初め身体が弱っていると言ったのはどうも新しい訪問客を追っ払うためのものだったらしく、手を耳にあてて注意深く聞いていた。叔父は蝋燭持ちの役を勤め、――彼は蝋燭のバランスを膝の上でとり、弁護士はときどき心配そうにそれをちらちら見るのだった――すぐに当惑の気持を忘れて、事務局長の話しぶりや、それに伴うしなやかな波を描くような手のこなしにすっかりよろこびきっていた。ベッドの柱によりかかっていたKは、事務局長によってどうも故意にまったく無視されてしまったらしく、ただ老紳士たちの聞き役にまわっていた。ところで、いったいなんの話なのか、ほとんどわからず、あるいは例の看護婦と彼女が叔父からこうむったひどい仕打ちとのことを考えたり、あるいは、この事務局長なる人物を一度見たことがなかったか、どうもあの最初の審理の集りのときじゃなかったかと考えたりしていた。あるいは見そこないかもしれないが、この事務局長はあの最前列の会衆、あのまばらな髯をした老人たちのあいだにりっぱに仲間入りしていたにちがいないと思われた。
 そのとき、陶器の割れるような騒音が控えの間から聞え、皆が聞き耳をたてた。
「どうしたのか、私が行ってみましょう」と、Kは言い、ほかの連中に自分を引止める機会を与えるかのように、ゆっくりと出ていった。控えの間にはいり、暗闇の中で見当をつけようとするかしないかのうちに、彼が扉にまだしっかと置いている手に、Kの手よりもずっと小さい手が置かれ、扉を静かにしめた。ここで待ちかまえていたのは、例の看護婦だった。
「なんでもなかったのよ」と、彼女はささやいた。「お皿を一枚、壁に投げただけなのよ、あなたをこっちに呼ぼうと思って」
 少しおどおどしながらKは言った。
「僕もあなただと思いましたよ」
「それじゃ、いっそういいわ」と、看護婦は言った。「こっちへいらっしゃい」
 二、三歩で曇りガラスの扉のところへ来たが、それを看護婦はKの前であけた。
「どうぞおはいりなさいな」と、女は言った。
 おそらく弁護士の仕事部屋であった。三つの大きな窓のそれぞれに面した床に小さな四角形を映してさしこんでいる月光を頼りにながめたかぎりでは、どっしりした古い家具類を並べた部屋だった。
「こっちよ」と、看護婦は言い、木彫りのもたれのついた、黒ずんだ長持を示した。腰をおろしながらKは部屋を見まわしたが、天井の高い大きな部屋で、貧民相手のこの弁護士の依頼人たちは、この部屋に入れられては面くらってしまうにちがいなかった。客が堂々たる机の前に進み出てゆく小刻みの歩みが、Kには眼に見えるような気がした。だがもうこんなことも忘れてしまい、ぴったりと彼に寄り添って彼をほとんど長持の横のもたれに押しつけている看護婦だけに、眼を奪われていた。
「あたしは思っていたのよ」と、女は言った。「あたしが呼ばなくたって、あなたのほうから自分で来るだろうって。でも変だったわ。部屋にはいるなりずっとあたしを見つめて、それからあたしを待たせたりなんかして。あたしのことレーニって呼んでね」と、早口でずばりと付け足したが、一瞬たりともこの会話をむなしくしてはならないとでもいうようだった。
「いいですよ」と、Kは言った。「だが、僕が変だったということだが、レーニ、それはたやすく説明のつくことですよ。第一には、お年寄りたちのおしゃべりを聞かねばならなかったんで、理由もなしに出てはこられなかったし、二番目には、僕は厚かましくはなく、むしろ臆病《おくびょう》なほうだし、君だって、レーニ、一思いにこっちのものになってくれそうにはほんとうに見えなかったからね」
「そうじゃないわ」と、レーニは言い、腕を長持のもたれにかけ、Kを見つめた。「あたしなんかあなたのお気に召さなかったんだし、今でもきっとお気に召してはいないのよ」
「お気に召すって、そりゃあたいしたことはないけれどね」と、Kは逃げを打ちながら言った。
「まあ!」と、女は微笑《ほほえ》みながら言い、Kの言葉とこの小さな叫び声とである種の優越をかちえたのだった。それゆえ、Kはしばらく黙っていた。部屋の暗さにもすでに慣れたので、調度のさまざまな細かい点も見分けがつくようになった。特に、扉の右側にかかっている一枚の大きな絵が彼の眼をひいたので、それをよく見るため、かがんだ。それは法服姿の一人の男を描いていた。丈《たけ》の高いいかめしい椅子にすわっているが、その椅子の金色が、いろいろな点でその絵から浮び上がっていた。変っているのは、この裁判官が落着きと威厳とをもってそこにすわっているのではなく、左腕をしっかと椅子の背と横のもたれとに押しつけ、右腕のほうはまったく自由にして、ただ手先で横のもたれを握っており、次の瞬間には、激しい、おそらくは憤りの身振りで飛び上がり、何か決定的なことを言うか、あるいは判決さえも下そうとしているかに見える、という点だった。被告はきっと階段の下のところにいるものと思われたが、階段のいちばん上の、黄色の絨毯《じゅうたん》を敷いた一段目までは絵の上に出ていた。
「きっとこれは僕の裁判官だね」と、Kは言い、指でその絵をさした。
「その人は知ってますわ」と、レーニは言い、やはり絵を見上げた。「しょっちゅう、ここへ来るのよ。この絵は若いときのだっていうんだけれど、あの人はこの絵に似ていたはずがないわ。だってあの人はほとんどちんちくりん[#「ちんちくりん」に傍点]なんですもの。それでも、ここのみんなと同じように、ひとりでいい気になって見栄坊《みえぼう》なもんですから、絵では寸法を引延ばして描《か》かせたのだわ。でもあたしも見栄坊だから、あなたのお気に召さないっていうんで、とても不満なのよ」
 女のこの言葉に返事をするかわり、Kはただレーニを抱き、ぐいと引寄せたが、女はじっと頭をKの肩にもたせかけていた。しかし、彼は付け加えて言った。
「どんな身分の人なの?」
「予審判事よ」と、女は言い、自分を抱いているKの手をつかみ、指をもてあそんだ。
「また予審判事なのか」と、Kは失望して言った。「身分の高い役人たちは隠れているんだ。でも、この人はいかめしい椅子にすわっているじゃないの」
「みんな作りごとよ」と、顔をKの手の上にかがめて、レーニは言った。
「ほんとうは、台所椅子の上に古い馬の鞍覆《くらおお》いをかけて、その上にすわっているのよ。でも、あなたはしょっちゅう訴訟のことばかり考えていなきゃならないの?」と、女はゆっくり言い足した。
「ちがうよ、けっしてそんなことはないんだ」と、Kは言った。「どうもあんまり考えなさすぎるくらいなんだ」
「そのことがあなたのやってる誤りじゃないのよ」と、レーニは言った。「あなたはあんまり強情すぎるっていう話だけれど」
「誰が言ったの?」と、Kはきいたが、女の身体を胸に感じ、その豊かな、黒い、しっかと巻いた髪毛を見下ろしていた。
「それを言ったら、おしゃべりしすぎるわ」と、レーニは言った。「名前はきかないでちょうだい。でも、あなたの間違っていることは捨てて、もうあんまり強情にしないことよ。この裁判所には逆らうことはできなくて、結局白状しなければならないのよ。どうかこの次のときには白状してちょうだい。そうしたら初めて、逃げる見込みができるのよ、そうしてから後のことよ。けれどそれだって人の助けなしではできないけれど、この助力のことで心配しちゃだめ、あたしが自分でしてあげるわ」
「君はこの裁判所のことと、そこで必要な嘘《うそ》のこととを、よく知っているね」と、Kは言い、あまりに激しく迫ってくる女を膝の上に抱き上げた。
「これでいいわ」と、女は言い、スカートの皺《しわ》を伸ばし、ブラウスを取繕いながら、膝の上で居ずまいを直した。それから両手で彼の頸《くび》にぶら下がり、身体をのけぞらせて、長いあいだ彼を見つめた。
「で、もし僕が白状しなければ、君は僕を助けられないの?」と、Kはためすようにきいた。どうもおれには女の助力者が集まるな、と彼はほとんど不思議にさえ感じながら思った。まずビュルストナー嬢、次は廷丁の細君で、最後はこの小さな看護婦だが、この女はおれに得体の知れない欲望をいだいているようだ。おれの膝の上にのっているこの様子はどうだ、まるでここがこの女の唯一の所を得た場所とでもいうみたいだ!
「だめよ」と、レーニは答え、ゆっくりと頭を振った、「そしたらあたしはあなたを助けられないわ。でも、あなたはあたしの援助なんてほしくはないし、どうでもいいんでしょう、あなたは身勝手で、人の言うことなんか聞かないんだから」
「好きな人がいるのね?」と、しばらくして女が言った。
「とんでもないよ」と、Kは言った。
「おっしゃいよ」と、女が言った。
「そうだね、まあ」と、Kは言った。「いいかい、もう切れてしまったんだ。けれど写真まで肌身につけているってわけさ」
 女にせがまれてエルザの写真を見せると、女は膝の上で丸くなって、写真をしげしげと見た。それはスナップ写真で、エルザがいつも酒場でよく踊る円舞のあとで、彼女を撮《と》ったものだった。スカートはまだ旋回中の襞取《ひだと》りのままひろがっており、しまった腰に両手をあて、頸をぐっと起し、笑いながら横を向いていた。誰に笑いかけているのかは、この写真ではわからなかった。
「コルセットの紐《ひも》をきつく締めているのね」と、レーニは言い、彼女の考えによるとそう見える個所を示した。
「こんな女、きらいだわ。不器用で荒っぽいわ。でも、あなたには優しくて親切でしょう、それは写真で見てわかるわ。こんなに大柄でがっしりした女って、優しくて親切な以外に取柄のないものよ。でも、あなたのために身を投げ出すことできるかしら?」
「できないね」と、Kは言った。「優しくて親切でもないし、僕のために身を投げ出すこともできないだろう。僕もまたこれまで、そのどっちだって求めたことはなかったさ。だが、僕は君ほどこの写真をよく見たことはなかったよ」
「じゃ、この人のことたいして問題にしてはいないのね」と、レーニは言った。「じゃ、あなたの恋人じゃないわけだわ」
「でも」と、Kは言った。「僕の言ったことを撤回はしないね」
「それじゃ、あなたの恋人でもいいわ。でも、この人を失ったり、誰かほかの人、たとえばあたしと取替えても、たいして恋しがりはしないわけね」
「確かに」と、Kは微笑しながら言った。「そういうことも考えられるが、この人は君に比べて大きな長所があるんだ。僕の訴訟のことを何も知らないってことさ。そして、たとい知っていても、そんなことを考えはしないだろうね。僕に折れて出るようになんてすすめはしないだろうよ」
「そんなこと長所じゃないわよ」と、レーニは言った。「ほかの長所がないんなら、あたしは勇気をなくさないわよ。何か身体に片輪のところあるの?」
「片輪のところ?」と、Kはきいた。
「そうよ」と、レーニは言った。「あたしにはこんなちょっとした片輪のところがあるのよ、見てごらんなさい」
 女は右手の中指と薬指とをひろげると、そのあいだには皮膜が、短い指のほとんど一番上の関節にまで達していた。Kは暗がりの中で、女の見せようとするものがすぐにはわからなかったが、そのため女は、Kがさわるように、彼の手を持っていった。
「なんという自然の戯れだ」と、Kは言い、手全体をすっかり見てしまってから、言葉を足した。「なんというかわいらしい距《けづめ》だ!」
 レーニは一種の誇らしさをもって、Kが讃嘆《さんたん》しながら自分の二本の指を何度も何度もあけたりすぼめたりする様子をながめていたが、最後にKはその指にさっと接吻《せっぷん》して、放した。
「まあ!」と、女はすぐに叫んだ。「あなたはあたしに接吻したのね!」
 口をあいたまま、素早く、女は膝頭《ひざがしら》で彼の膝の上ににじり登った。Kはほとんど呆然《ぼうぜん》として女の顔を見上げていたが、女がこうまで身近に来ると、胡椒《こしょう》のような、苦い、刺激的な香《かお》りが女から発散するのだった。女は彼の頭をかかえ頭越しに身をかがめて、彼の頸を噛《か》み、接吻し、髪毛《かみのけ》の中まで噛んだ。
「あんたはあたしに取替えたんだわ!」と、女はときどき叫んだ。「ごらんなさい、もうあたしに取替えたんだわ!」
 そのとき女の膝がすべり、短い叫び声をあげてほとんど絨毯の上に倒れかかった。Kは女をささえようとして抱いたが、女に引下ろされた。
「もうあんたはあたしのものよ」と、女が言った。

「これ家の鍵《かぎ》よ、いつでも好きなときに来てちょうだい」というのが、女の最後の言葉だった。そして、帰りかけている彼の背中に、なんとはなしの接吻がされた。玄関から出ると、雨がぱらぱら落ちてきた。たぶんレーニをまだ窓ぎわに見ることができようと、街路の真ん中へ行こうとしたとき、Kはぼんやりして全然気がつかなかったが、家の前に止っていた一台の自動車から、叔父が飛び出し、彼の腕をつかんで、玄関の扉へ彼を押しつけ、まるでそこへ釘《くぎ》づけにしようとでもいうかのような剣幕だった。
「こら」と、彼は叫んだ。「なんだってあんなことをやるんだ! せっかくうまくゆきそうだったお前の用件をめちゃめちゃにしちゃったじゃないか。ちっぽけなきたならしい女と、どろんをきめこんだりなんかして。そのうえ、あいつは明らかに弁護士の情婦じゃないか。そして一時間ぐらいも帰ってこないとは。言い訳をするでもなし、隠そうとするでもなし、公然と女のところへ走り、女にくっついているんだ。そうやっているあいだ、お前のために骨折っているこの叔父、お前のために味方にしておかねばならない弁護士、それにまず、今のところならお前の事件をまったく牛耳れるあのりっぱな事務局長、こうしてわしらは集まったんだ。どうやったらお前を助けられるか相談しようとし、わしは弁護士を慎重に扱わなければならん、弁護士は弁護士で事務局長をというわけだ。そこでお前には、少なくともわしを応援してくれる十分な理由があったんだぞ。ところがそうもしないで、お前は消えていなくなっているという始末だ。とうとう隠しきれなかったが、あの人たちは慇懃《いんぎん》な世なれた人たちだもんだから、そのことはしゃべらず、わしをかばってくれた。ところがとうとうあの人たちももう我慢ができなくなり、事件のことが話せないもんだから、黙りこくってしまった。わしらは何分か黙ってすわって、お前がもう帰ってこないかと、聞き耳をたてていたんだ。万事むだだった。とうとう初めの予定よりもずっと長く居残っていた事務局長が立ち上がり、別れの挨拶をし、わしを助けることができないで残念だ、とはっきり言われ、なんとも言えないご親切さでなおしばらく扉のところで待たれたうえ、帰ってゆかれた。あの人が帰っていったんで、わしはもちろんほっとした。わしはもう息がつまりそうだったからな。病人の弁護士には万事がもっとひどくこたえた。わしが別れを告げたときは、あのいいやつはもう全然口がきけなくなっていた。お前は確かにあの男の完全な破滅に手を貸し、お前が頼るよりほかない人間の死期を早めたんだぞ。そして、叔父のこのわしをこうやって雨の中に――さわってごらん、ずぶぬれだ――何時間も待たせておき、心配で苦しみ抜かせているんだ」

第七章 弁護士・工場主・画家

 冬のある午前のこと――戸外では陰鬱《いんうつ》な光の中に雪が落ちていた――まだ時間も早いのだがすでに疲れきってしまったKは、事務室にすわっていた。少なくとも下役の連中を寄せつけないように、大事な仕事をやっているのだから誰も入れてはならない、と小使に命じた。だが、仕事をするかわりに、椅子にすわったままぐるりと向きを変え、ゆっくりと机の上の二、三の物をどかしてしまうと、思わず知らず腕を伸ばして机の上に置き、頭を垂れてじっとすわり続けていた。
 訴訟のことが彼の頭を離れなかった。弁護文書を作成して裁判所に提出することがよくはないかと、すでに何度となく考えたのだった。その中で短い経歴を書き、比較的重要な事件のひとつひとつについて、どういう理由で自分はそういう行動をとったのか、そのような行動のしかたは現在判断してみるのに非難すべきか、是認すべきか、そして正しくなかった、あるいは正しかったとしてどんな理由をあげることができるのか、説明しようとした。どうも文句がないわけではないあの弁護士なんかの単なる弁護に比べて、このような弁護文書の利点は疑いもなかった。Kはまったくのところ、あの弁護士が何を企てているのか、全然知らなかった。いずれにせよたいしたことではなさそうだった。もう一カ月も自分を呼んでくれたことはないし、それより前に話したときにも、この男は自分のために多くのことをやってくれる能力があるのだ、という印象を受けたことは一度もなかった。何よりもまず、ほとんどまったくKに問い合せをしたことがなかった。ところが今の場合には質問すべきことがたくさんあったのだ。質問こそおもな事柄であるはずだった。自分自身で今の場合に必要な質問を並べたてることができる、という感じをKは持ったくらいだった。ところが弁護士は、質問するかわりに、自分のほうでおしゃべりをするか、黙って彼に向い合ってすわるかして、きっと耳が遠いからだろうが、少し机の上に前かがみになり、髯《ひげ》の中の一握りの束をしごき、絨毯《じゅうたん》の上に眼差《まなざし》を投げていたが、どうもちょうどKがレーニといっしょにころがった場所らしかった。ときどきKに、子供に与えるような二、三の訓戒を与えるのだった。役にもたたねば退屈でもあるおしゃべりで、Kは決着のついたときの謝礼では一文も払おうと思わなかったようなものだった。弁護士は彼を十分へこたれさせたと思うと、今度はきまって少し彼を元気づけようとしはじめた。自分はこれと似た多くの訴訟に、全面的にかあるいは部分的にでも勝ってきた、と言うのだった。それらの訴訟は、ほんとうはきっとこの訴訟ほどむずかしくはなかったのだろうが、外見上ではもっと絶望的なものだった。これらの訴訟の記録はこの引出しのなかにしまってある、――こう言いながら机の引出しのどれかをたたいてみせた――残念ながら、これらの文書は職業上の秘密に関することなので、お見せできない。しかしながら、今はもちろん、これらのすべての訴訟によって自分の獲得した豊富な経験はあなたのために役だつのだ。自分はもちろんすぐに仕事を始めたし、最初の願書はすでにほとんどできあがっている。弁護側の与える第一印象はしばしば訴訟手続きの方向をすべて決定してしまうものであるから、この書類はきわめて重要なものだ。遺憾ながら、もちろんあなたは、最初の願書類が裁判所に全然読んでもらえないこともしばしばあるのだ、ということに注意してほしい。役所はそれらを単に書類のうちに加えるだけであって、まず被告を尋問し観察することのほうがあらゆる書いたものよりも重要だ、ということを教えてくれる。そして、申請人がしつっこく願うと、役所は、あらゆる資料が蒐集《しゅうしゅう》されるやいなや、決定の前に、もちろん全体との連関において、すべての書類、したがってこの最初の願書も仔細《しさい》に検討されるのだと付け加える。しかし遺憾ながら、これもたいていはほんとうでなく、最初の願書は普通は置き忘れられるか、あるいはほとんど失われてしまうかして、たとい最後まで保存されたにしても、これは弁護士がもちろんただ噂《うわさ》に聞いたことではあるが、読んではもらえない。こういうことはすべて悲しむべきことではあるが、まったく正当な理由がないわけではない。あなたはどうか、手続きは公開さるべきものではなく、裁判所が必要と考えたときにだけ公開されうるのであるが、法律は別に公開すべきことを命じているわけではない、ということを忘れないでほしい。それゆえ、裁判所側の文書、ことに起訴状は被告および弁護人にはうかがいえないものであり、したがって一般には、何をねらって最初の願書を書くべきかということは全然わからないか、あるいは少なくともはっきりとはわからないし、そのため、事件に対して重要性のあることを何か含めるということは、本来ただまぐれあたりにしかできないことだ。真に有効で論証力に富む願書というのは、後に被告の尋問をやっているうち個々の公訴事実とその理由とがはっきりと浮び上がるか、あるいは推測できるようになったときに初めて、作成できる。こういう事情の下にあって、もちろん弁護人はきわめて不利で困難な立場にある。しかし、このこともあらかじめ定められている仕組みなのだ。すなわち、弁護人は本来法律では認められておらず、ただ黙認の形なのであって、当該の法律条文から少なくとも黙認ということが解釈できるかどうか、という点に関してさえ、論争されているくらいだ。したがって、厳密に言うと、裁判所によって公認された弁護士というものはいないのであり、この法廷の前に弁護士として現われるのは、すべて実は三百代言にすぎない。このことはもちろん、全然弁護士に対してきわめて不名誉な影響を与えているのであり、あなたがこのつぎ裁判所事務局に行ったときには、一度このことを見ておくために、弁護士控室をごらんになるとよろしい。そこにとぐろを巻いている連中に、あなたはおそらく一驚されるだろう。彼らにあてがわれた狭い、天井の低い部屋からして、裁判所がこれらの人々に対していだいている軽蔑《けいべつ》の念を示している。部屋はただ小さな天窓からだけ光を入れているが、この窓たるや非常に高いところにあるので、もし外を見ようと思うと背中に乗せてくれる仲間をまず捜さなくてはならず、おまけにそこではすぐ眼の前にある煙突の煙が鼻にはいってきて、顔を真っ黒にしてしまう始末だ。この部屋の床には――もうひとつだけこういう状態の実例をあげるが――一年以上も前から穴がひとつあって、人間が落ちこむほど大きくはないが、片足をすっぽり入れてしまうには十分なほどの大きさがある。弁護士控室は屋根裏の二階にある。そこで誰かがはまりこむと、脚は屋根裏一階にぶら下がり、しかも訴訟当事者たちが待っている廊下へちょうど垂れることになる。弁護士連がこういう状態を不名誉きわまることだと言っても、言いすぎではないのだ。当局へ苦情を持ち出しても少しも効果はないし、部屋の中の何かを自費で変えることは、弁護士にはまったく厳重に禁じられている。しかし、このような弁護士に対する待遇にも理由があるのだ。弁護人をできるだけ排除しようとしているのであり、すべてが被告自身の手でやられなくてはならないのだ。根本においてはわるい考えかたではないのだけれども、このことから、この裁判所においては弁護士は被告にとって不必要だ、ということを結論することよりも間違ったことはないだろう。反対に、この裁判所におけるほどに弁護士を必要とするところはほかにはないのだ。すなわち、手続きは一般に、ただ公衆に対して秘密にされているばかりではなく、被告に対しても秘密にされている。もちろん、秘密にすることができるかぎりのことでしかないが、しかしきわめて広い範囲にわたって秘密にすることはできるのだ。すなわち、被告も裁判所の文書にはさっぱり通じておらず、尋問からそれの根拠となっている文書のことを結論的に推察することはきわめてむずかしいし、ことに、当惑しきってもいれば、気を散らされるありとあらゆる心配も持っている被告にとっては、とりわけむずかしい。そこでここに弁護のはいりこむ余地があるわけだ。普通は尋問には弁護人は立ち会えないのだから、尋問のすんだ後《あと》で、しかもできたらまだ予審室の扉のところで待ち受け、被告から尋問のことを聞き取り、しばしばすでにきわめてぼやけているこうした報告から弁護に役だつことを取出さなくてはならない。しかし、これがいちばん大切なことなのではない。なぜなら、もちろんこういうやりかたでも有能な人間はほかの人たちよりは多くのものを聞きつけはするが、普通の場合、たいして物にすることができないからである。それでも、最も大切なものは弁護士の個人的なつながりであり、この点に弁護のおもな値打ちというものがあるのだ。ところできっとあなたは自分の経験からわかったことだろうが、裁判所の最下層の組織は完璧《かんぺき》とはゆかず、義務を忘れ買収されやすい役人を生んでいるので、そのため裁判所の厳重な箝口令《かんこうれい》にも穴があくのだ。そこでこの点に大多数の弁護士がつけこみ、買収をやったり、聞き込みをやったり、また少なくとも以前には、書類を盗み出す場合さえも起った。このようにして暫時のところは被告にとって驚くほど有利な結果が獲られるということは否定できないし、これらの小弁護士たちはそれを得意になって触れまわり、新しい顧客を誘うのだが、訴訟の先々の経過には全然役にたたないか、あるいはよい結果とはならない。ところでほんとうの値打ちがあるのは、正々堂々とした個人的なつながり、しかも高位の役人たちとのつながりだけである。もちろんこれは、高位の役人の中でも比較的低い地位の人たちのことを言っているのだ。ただこのようなつながりによってのみ、訴訟の進みに、初めはただ目だたぬくらいだが、後には次第にはっきりと、影響を及ぼすことができる。もちろん、そういうことができるのはほんの少数の弁護士に限られており、この点であなたの選択はきわめて有利だったのだ。このわし、フルト博士のようなつながりを持っているのは、おそらくただ一人か二人の弁護士だけだろう。こういう弁護士になると、もちろん弁護士控室の仲間などは問題とせず、またなんらの関係もない。しかし、それだけに裁判所の役人との結びつきは固いわけだ。このわし、フルト博士は、裁判所へ行き、予審判事控室で判事が偶然現われるのを待ち、彼らの機嫌《きげん》次第でたいていはただ見せかけだけの成果をあげたり、あるいはそれすら手に入れられない、などという目にあう必要はない。そんな必要は全然ないのであって、あなた自身も見たように、役人たち、その中にはほんとうに高位にある人々もいるが、こうした役人のほうが自分でやってき、はっきりとした、あるいは少なくとも容易に真相が解けるような情報を進んで与えてくれ、訴訟の今後の運びについても話し合い、そのうえ、個々の場合について人の言うことを納得し、よろこんでこちらの意見も受入れてくれるのだ。もちろん、この後《あと》の点ではあまり信用しすぎてはならないのであって、きわめて断固として彼らの新しい、弁護にとって有利な意見を発言してはくれても、おそらくまっすぐ事務局に帰って、次の日には、まさしく昨日とは反対のことを含み、彼らがもうすっかり脱却したと主張した最初の見解よりは被告にとっておそらくずっときびしいような裁判上の決定を、発表することがある。もちろんこういうことは防ぐことはできない。なぜなら、二人だけのあいだで言ったことは結局ただ二人だけのあいだで言われたことにすぎず、弁護側がほかに努力のしかたがない場合であっても、裁判所の人々の恩恵にあずかるということは、公の結論を下す場合に許されないことである。他面また、裁判所の人々が何かただ人間愛とか友情の気持とかいったものから弁護側、もちろん事情に通暁した弁護側、と結びついているのではない、ということも真実であって、彼らはむしろある点では弁護側を頼りにしているのである。この点にまさしく、当初からすでに秘密裁判所を規定している裁判組織の欠陥が現われているのだ。役人たちには民衆とのつながりが欠けており、普通の中くらいの訴訟に対しては十分構えができていて、こういう訴訟はおのずから軌道の上をころんでゆくし、ただときおり衝撃を与えるだけでよいのであるが、まったく単純な事件に対しては、特にむずかしい事件に対するのと同様、しばしば途方にくれてしまうのであって、昼も夜も絶えず法律に拘束されきっているため、人間的なつながりというものに対する正しい感覚を持たず、こういう場合にはそのことに大いに不自由を感ずるのだ。そこで彼らは助言を求めて弁護士を訪れ、その後からは小使が一人、たいていは非常に秘密にされている書類を持ってついてくるというわけだ。そこでこの窓ぎわには、まったく思いがけなかったような多くの人々が現われたというわけで、彼らはまったく茫然《ぼうぜん》として街路を見ており、一方弁護士のほうは、それに適切な助言を与えるため、机にすがって書類を研究したのだ。そのうえ、まさにこういう機会にこそ、裁判所の人々が彼らの職務をどんなに真剣に考えているか、彼らの性格上どうしても克服できない障害についてどんなに大きな絶望に陥っているか、ということを見ることができるのだ。役人の立場もけっして楽なものではなく、彼らを不当に評価して、彼らの立場が楽なものだなどと考えてはならないのだ。裁判所の身分の順序とか昇進とかいうものは無限であって、事情に明るい者にすらすっかり見通すことはできない。ところが法廷の手続きは一般には下層の役人にとっても秘密であり、そのため自分たちの関係している事件の先々の成行きについて完全に追求することは、ほとんどいつもできないし、したがって裁判事件というものは、どこからやってくるのかわからぬうちに彼らの視野に現われ、しばしばどこへ行くのかを知らぬままで進んでゆくのだ。それゆえ、個々の訴訟の段階、最後の決定、その理由などを研究して汲《く》み取りうる教訓というものは、これらの役人の手にははいることがない。彼らはただ法律によって彼らに規定されている訴訟の各部分にだけ携わるのであり、それ以上のこと、したがって彼らの仕事の成果については、概してほとんど訴訟の最後まで被告との結びつきを持っている弁護側ほどには知っていないのが通常の例である。それゆえ、この点においても、彼らは弁護側から多くの価値あることを聞くことができるのだ。こういうことをすべて念頭に置いたうえで、しばしば訴訟当事者たちに対して――誰でもこういう経験をするものだが――侮蔑《ぶべつ》的なやりかたで示される役人たちの怒りっぽさというものを、あなたは不思議と思わなければならない。あらゆる役人は、平静らしく見えるときでさえもいらいらしているのだ。もちろん、小弁護士たちは特に、こうした怒りっぽさに大いに悩まされなければならない。たとえば次のような話があるが、大いにありうるように思われることだ。ある老役人が、善良で物静かな人物だったが、特に弁護士の願書でこんがらかった裁判事件をまる一日一晩休みもなしに研究したのだった、――こんな役人たちは実際、よそでは見られぬくらい勤勉なのだ。――さて朝になり、二十四時間の、おそらくはたいして収穫もあがらなかった仕事の後、入口の扉のところへ行って、そこに隠れ、はいろうとする弁護士たちを階段へ突き落したのだった。弁護士たちは下の踊り場に集まり、どうしたらよいか相談した。一面から言うと、入れてもらうことを要求する権利がないのだから、その役人に対して合法的に何かを企てることはほとんどできないし、すでに言ったように、役人連を敵にまわすことは気をつけなければならない。しかし他の一面、裁判所で過すのでなければその日はむだになってしまうので、そこへはいりこむことが肝心でもあった。とうとう、この老人を疲れさせてやろう、ということに話がきまった。後《あと》から後から弁護士を繰出し、階段を登ってゆき、できるだけの、もちろん消極的抵抗をやって投げ落されると、そこで仲間に受止めてもらった。これがおよそ一時間ばかり続き、まったくのところ徹夜仕事ですでに弱っていたその老人は、すっかり疲れきって、事務局へ引下がってしまった。下の連中は初めはほんとうに引下がったものとは全然信じないで、まず一人をやってみて、ほんとうに人がいないかどうかを扉の陰で偵察させた。それからやっと皆が繰りこんだが、おそらくは誰一人ぶつぶつ言おうとする者もいなかった。というのは、弁護士にとっては、――最も微々たる者でもこういう事情は少なくとも一部分はわかっているのだが――裁判所に何か改善を持ちこむなり、それをやってみようとすることなどはまったく話の外のことだからである。ところが――これはきわめて特徴のあることだが――被告は誰でも、まったく単純な連中さえ、訴訟に足を突っこむなりすぐに改善の提案などを考えはじめ、それでしばしば、ほかのことをやればもっとずっとよく使えるものを、時間と労力とを空費するのだ。唯一の正しい道は、現状に満足するということだ。個々の細かな点は改善することができる場合でも、――だがこれがばかげた迷信なのだ――せいぜい未来のために少しは役だたせることはできようが、そのためしょっちゅう復讐《ふくしゅう》を求めている役人連の特別な注意をひいてしまうことになって、測り知れぬくらい損害をこうむってしまうのだ。ただ注意をひかぬようにすることだ! いくら意にそむくようになっても、落着いた態度でいることだ。この巨大な裁判組織はいわば永遠に浮動し続けるのであり、そのうえで独自な立場で何かを変革しても、足下の地面を踏みはずして自分が墜落するだけのことであり、その大きな有機体のほうはちょっとした妨害に対しては容易にほかの場所で――いっさいが結びついているからだが――補いをつけ、たといそれが、これが実はありそうなことでさえあるのだが、いっそう固く結合し、いっそう注意深く、いっそうきびしく、いっそう悪意を持つようにならないとしても、少なくとも不変の状態を続けるのだ、ということをよく見抜こうと努めることだ。とにかく仕事は、それをかき乱したりせずに、弁護士にまかせることだ。いくらとがめだてをしたところでたいして役にたつものではなく、ことにその理由をすっかり理解することができないでいるときにはそうなのだが、それでも、あなたが事務局長に対する態度で自分の事件についてどんなに損をしているか、ということは言っておかなければならない。この有力な人物はもう、あなたのために何かやってもらおうとする人たちのリストからはほとんど抹殺《まっさつ》されなくてはならなくなってしまったのだ。この訴訟についてのほんのちょっとした話でも、彼はわざとそれを聞き逃すようにすることだろう。まったく役人というのは、多くの点でまるで子供みたいなものだ。彼らはどんな他愛《たわい》もないこと、といってもちろんKの態度は残念ながらその部類にははいらないものだったが、そういうものによってもひどく傷つけられ、親友とも話さなくなり、出会ってもそっぽを向き、ありとあらゆることにおいて邪魔をするようになるものだ。ところがやがて、格別の理由もなく不意に、万事がどうも見込み薄に思われるというだけの理由でやけっぱちでこちらが試みるちょっとした冗談で、笑いだし、すっかり機嫌《きげん》を直してしまうことがある。彼らと付き合うのは、むずかしくもあればやさしくもあり、それに対する根本方針などというのはどだいないのだ。こういう世界で相当の成功を収めながら仕事をやってゆくことを心得るぐらいのことには、何もこみいったことは要《い》らないのであって、ほんの平凡な生活で十分なのだ、ということにはしばしば驚かされるほどである。もちろん、誰にでもあるように、気のふさぐときもやってはくる。そうなると、ほんの少しでもうまくいったことはないように思いこむし、初めからよい結果を生むときまっていた訴訟がうまくいったにすぎないし、別に手をかさなくてもそうなっただろう、と思われるのだ。ところが一方ほかの訴訟はすべて、いろいろ奔走し骨を折ったにもかかわらず、そしてちょっとした見かけの成功に大よろこびしたにもかかわらず、ことごとく失敗しているという目に会ってしまう。こうなるともちろん、もう確信が持てず、その本質から言ってうまく運んでいる訴訟をまさによけいな手出しをすることで横道にそらしてしまった、ときめつけられても、少しも否定する気持にはなれないだろう。これもまったく一種の自信ではあろうが、こうなったときわずかに残された唯一の気の持ちかたというにすぎない。こういう発作は――これはもちろんただの発作にすぎないものであって、それ以上ではないのだ――特に、十分に事を進めて満足のゆくようにやってきた訴訟が突然自分の手から奪われてしまうときに、弁護士に起るものだ。これがきっと、弁護士たる者に起りうるいちばん不快な事柄だろう。およそ被告によって弁護士から訴訟が奪われるというようなことはなく、そういうことはけっして起るものではないのであって、一度一定の弁護士を選んだ被告は、何事が起ろうとその弁護士を離れてはいけない。一度助けを求めた以上、およそひとりでやってゆくことなどどうしてできるものだろうか? それゆえ、そういうことは起らないのだが、確かにときどき、訴訟がどうもまずい方向をとり、弁護士がそれについてゆけないということは起る。訴訟も被告もいっさいが、弁護士から簡単に奪われてしまう。そうなると、役人との最もいいつながりももう役にはたちえない。役人たち自身が何も知らないからなのだ。こうなると訴訟はまさしくひとつの段階にはいったのであり、そこではもういかなる助力もやれるものではなく、訴訟をやっているのは余人の近づきえない法廷であり、被告も弁護士の手には届かなくなってしまうのだ。そして、ある日、家に帰ってみると、机の上には、あらゆる努力とこの事件に対するきわめて明るい希望とをもってつくった多くの願書がすっかりのっている。それらは、訴訟の新段階には持ちこむことが許されぬという理由で、差戻されたのであり、値打ちのない反古《ほご》なのだ。それでも訴訟はまだ敗《ま》けときまったわけではない。けっしてそんなことはなく、少なくとも訴訟が敗けたと認める決定的な理由はないのであって、ただ、もう訴訟のことは全然わからないし、これからももうそれについて何もわかることはなかろう、というだけのことなのだ。ところでこういうような場合というのは幸いに例外的なことであって、たといあなたの訴訟がこういう場合のひとつであっても、今のところはこういう段階からはまだはるかに遠い。ここではまだ弁護士が腕を振うに十分な機会があるし、こちらも存分にそういう機会を利用するつもりだということは、あなたも安心してよろしい。すでに言ったように、願書はまだ提出してないが、それは急いではいけないのであって、有力な役人たちと折衝を始めることのほうがずっと重要であり、そのことはすでにすませたのだ。はっきり申上げておかねばならないが、さまざまな成果があがっている。あらかじめ逐一打明けておかぬほうがよろしかろう。それによってあなたはただよからぬ影響を受けるだろうし、あまり有頂天にされるか、あまりに不安にされるかするだろうからだ。ただ、ある人々は非常に有利だと言ってくれたし、また援助してくれる意志が大いにある旨を言ってくれたが、一方、他の人々はそれほど有利だとは言わなかったが、けっして援助は拒みはしなかった、ということだけは申上げておく。したがって、成果は全体としてはきわめて上首尾ではあるが、予備折衝というのはすべてこういうようにして始まり、後日の発展を待って初めてこの予備折衝の値打ちというものがわかるのであるから、今上首尾だということから特別の結論を引出してはいけない。ともあれ、まだけっして失敗したわけではなく、いろいろのことがあったにせよ、例の事務局長を味方に引入れることに成功するならば、――このためにすでにいろいろなことを始めているが――全体はいわゆる――外科医が言うところの――きれいな傷というやつであって、安心して来《きた》るべきものを期待できるというものである。
 こんなような話で、弁護士は尽きるところを知らなかった。訪《たず》ねると、いつでもこういう話が繰返された。いつでも進展していると言うのだが、この進展というのがどういう種類のものか教えられることはなかった。いつでも最初の願書の仕事をやっているのだが、それはできあがってはおらず、たいてい、この次いらっしゃるときにはそれは大きな利点を明らかにしていることだろう、なにぶんにもこの前のときには、どうも見通しがつかなかったのだけれども、提出するのにはなはだ都合がわるかったもので、などということであった。こういう話にすっかり疲れきってしまったKは、しばしば、いろいろ事情がむずかしいとはしても、事の運びがあまりにゆっくりしすぎている、と言うのだったが、けっしてゆっくりしているわけではない、もっとももしあなたが時機を失せず弁護士に依頼していたら、すでにずっと事は運んでいたろうが、という返事だった。ところが遺憾なことにあなたはそれを怠ったのであり、こういう怠慢はさらにさまざまな不利をもたらすだろう、それは単に時間的な不利益ばかりではない、というのである。
 こうした訪問をありがたいことに中断してくれる唯一のものは、レーニであった。彼女はいつも心得ていてくれて、Kがいるとき弁護士に茶を運んでくるのだった。そうするとKの背後に立ち、弁護士が一種のがっつきかたで茶碗《ちゃわん》に深くかがみこみ、茶を注《つ》ぎ、飲むのをながめていると見せかけて、そっと手をKに握らせた。完全な沈黙が支配していた。弁護士は飲んでいた。Kはレーニの手を握り、レーニはしばしば、Kの髪毛《かみのけ》をやさしくなでるようなことをやってのけた。
「お前まだいたのかい?」と、茶をすませると、弁護士はきいた。
「茶道具を下げようと思ったのですの」と、レーニは言い、最後にKの手をもう一度握ると、弁護士のほうは口をぬぐって、元気を新たにしてKに説教しはじめるのだった。
 弁護士が手に入れようとしているのは、慰めだったのか、絶望だったのか? Kにはそれがわからなかったが、自分の弁護がどうもあまり結構な人間の手中にあるのでないということは確かだ、と思った。弁護士ができるだけ自分を前面に立てようとしていること、彼の言い草だとKの訴訟は大きなものだということだが、こんな大きな訴訟をやったことはこれまでに一度もないということ、それは歴然としたことだったけれども、Kは、弁護士の言うことはみなほんとうだろう、と考えた。ただ、彼が絶えず揚言する役人たちに対する個人的関係というのは、いつまでもうさんくさかった。いったいそういう連中がもっぱらKの利益のために利用し尽されるはずがあろうか? ただ身分の低い役人たちのことであって、したがって訴訟のある転回がおそらく昇進に重要な意味を持っているようなきわめて従属的な地位にある役人たちなのだ、ということを弁護士はけっして言い忘れはしなかった。おそらく彼らは弁護士を利用して、こういう、被告にとってはもちろん不利にきまっている転回をねらっているのではなかろうか? おそらく彼らはこういうことをどの訴訟ででもやるのではないのであって、確かに、そうしたことはありそうもないことだ。弁護士の名声を傷つけないようにしておくことが役人たちにとっても大いに大切であるため、訴訟の進行中に弁護士の仕事のために利益を譲歩するような訴訟の場合だって確かにあるのだ。だが、ほんとうにそういう事情だとすれば、どういうふうにして彼らはKの訴訟、弁護士も言明したようにきわめてむずかしく、したがって重要な訴訟であり、始まるとすぐ裁判所に大きな注意をひいたこの訴訟に、関与するつもりだろうか? 彼らがやろうとすることは、たいして疑問の余地がありえなかった。その徴候は実に、訴訟がすでに幾月も続いているのに最初の願書がまだ受理されていない点や、弁護士の申立てによると万事がやっと始まったばかりの状態にあるという点に、すでに認められるのだった。これはもちろん、被告を眠らせて無援の状態にしておき、次に突然決定を被告に突きつけるか、あるいは少なくとも被告の不利に終った予審を上級官庁に送局するという知らせを突きつけるかするのに格好なことだった。
 Kが自分で乗り出すことが、絶対に必要だった。いっさいがそうしようというつもりもなく彼の頭のなかを過ぎてゆくこの冬の日の午後のような、ひどい疲れの状態の真《ま》っ只中《ただなか》で、こうした確信は避けられなかった。これまで訴訟に対していだいていた軽蔑《けいべつ》は、もう通用しなかった。もし自分だけがこの世にいるのであったら、訴訟などは苦もなく無視できたであろうに、と思われたが、そうなれば訴訟などはおよそ成立しなかったであろうということも、もちろん確かなことだった。だが今では、叔父が彼をすでに弁護士のところへ引っ張っていったので、身内のことを考えてやることも問題であった。彼の立場はもう訴訟の経過から完全に離れきってはおらず、彼自身軽率にも一種の説明のつかない満足をもって知人たちに訴訟のことを言ったし、他の人々は、どうしてかわからぬが、訴訟のことを聞き知っており、ビュルストナー嬢との関係も訴訟に対応して動揺しているように見えた。――要するに、彼はもはや訴訟を受入れるか拒むかという選択権を持たず、その真っ只中に立ち、身を防がねばならなかった。疲れれば、わるいにきまっていた。
 もちろん、さしあたってのところはあまりに心配しすぎる理由はなかった。銀行では比較的短時日に現在の高い地位に登り、すべての人に認められてこの地位を守ることもできたのだから、今はただ、こういうことを可能ならしめた能力を少し訴訟に利用すればよいのであって、うまくゆくことは疑いがなかった。何よりもまず、何か成功をなしとげるためには、自分に罪があるかもしれないという考えをすべて払いのける必要があった。罪などはないのだ。訴訟は大きな仕事以外のものではなく、そういうものを彼はしばしば銀行のためにやって利益をあげてきたのであるが、その内部にはきまってさまざまな危険がひそみ、まずそれを防がなければならないような仕事なのである。このためにはもちろん、何か罪があるなどという考えをもてあそんでいてはならず、自分の利益に関しての考えをできるだけしっかりと保持していなければならない。この見地からすると、弁護士をできるだけ早く、できれば今晩のうちに断わって、自分の弁護をやめてもらうことも、避けられないことだった。弁護士の話によるとそういうことは前代|未聞《みもん》のことであり、おそらくは非常に侮辱的なことでもあろうが、訴訟における自分の骨折りが、どうも自分自身の弁護士に原因するらしい妨害に出会うということは、Kには我慢がならなかった。それで、弁護士を一度振切ってしまったら、願書をすぐ提出し、できれば毎日、裁判所がそれを考慮してくれるように催促せねばならないと思った。このためにはもちろん、Kがほかの被告のように廊下にすわり、帽子をベンチの下に突っこんでいるだけでは十分でなかった。K自身か女たちか、あるいは別な使いの者たちが毎日毎日役人をうるさく襲い、格子越しに廊下をながめてなどいないで自分たちの机にすわり、Kの願書を検討するようせきたてねばならなかった。こうした努力を捨ててはならないが、万事が組織化され監視されているにちがいないから、裁判所はきっと、自分の権利を守ることを心得ている被告にぶつかってくるにちがいなかった。
 だが、Kはこうしたことをすべてやりとげるだけの勇気はあったが、願書を書くことのむずかしさは圧倒的であった。前にも、つまり一週間ほども前には、こういう願書を自分でつくる必要に迫られた場合のことを、はじらいの感情をもって想像できるだけだったが、これがまたむずかしいものでもあるということは、全然考えてもみなかった。Kは思い出したが、ある午前のこと、ちょうど仕事で忙殺されていたとき、突然書類をみなわきへ押しのけて、用箋綴《ようせんつづ》りを取上げ、試みにあの願書まがいの書きかたをして、それをあの鈍重な弁護士に見せてでもやろうと思ったが、ちょうどこの瞬間に支店長室の扉があき、支店長代理が高笑いをしながらはいってきた。支店長代理はもちろん願書のことを知らぬのだから、それを笑ったのではなく、ちょうど今聞いたばかりの洒落《しゃれ》を笑ったのだったが、Kはそのとき非常に不快な思いをした。その洒落は、のみこむためには図解が必要だったので、支店長代理はKの机にすわりこみ、Kの手から取上げた鉛筆で、願書を書くことにきめていた用箋綴りの上にその絵を描きあげた。
 今日ではKはもう恥のことは忘れ、願書はどうしてもつくりあげてしまわねばならない、と思った。事務室ではそういう時間が見つからないとすれば、そしてそれはきわめてありそうなことであるが、そうなれば家で毎夜やらなければならない。夜でも十分でなければ、休暇をとらなければならない。ただ中途半端なところにとどまっていないことである。それは仕事でばかりでなく、いつでも、またどんな場合でもいちばんばかげたことだ。もとより願書というのはほとんど際限のない仕事であった。たいして心配性の人間ではなくとも、願書をいつか仕上げるというようなことはできない相談だ、というふうに思いこみやすかった。弁護士の書類完成を妨げているような怠慢とか術策とかのためではなく、現在の告訴状もそれの今後の増補もわからぬままに、きわめて細かな行動や出来事にいたるまで全生活を記憶に呼びもどし、書き表わし、あらゆる角度から検討しなければならなかったからである。そのうえ、こんな仕事はなんと憂鬱《ゆううつ》だったことだろう。それはおそらく、恩給をもらって退職した後《あと》で耄碌《もうろく》した精神を働かせ、長い毎日を暇つぶしする助けとしてやるのには格好の仕事だった。だが今は、Kは思考をすべて仕事に集中し、まだ昇進中で、すでに支店長代理にとって脅威となっており、一刻一刻がきわめてすみやかに流れてゆき、また短い夜を若い人間として享楽もしたいのに、この今こうした願書を書くことを始めなければならないのだ。彼の思いはまた嘆きに走るのだった。ほとんど無意識に、ただこうした思いを片づけるために、彼は控えの間に通じている電鈴のボタンに指でさわった。それを押しながら、時計を見上げた。十一時だった。二時間、長い、貴重な時を彼はむなしく費やし、もちろん、前よりもいっそう疲れていた。だが、値打ちのある決心をしたわけだから、時を失ったわけでもなかった。小使たちが、さまざまな郵便物のほかに二枚の名刺を持ってき、この方々はすでにかなり前からお待ちしています、と伝えてきた。それはまさしく銀行のきわめて大切な顧客で、ほんとうはどんなことがあっても待たせなどしてはならなかったのだった。なぜ彼らはこんなに都合のわるいときにやってきたのだろうか、またなぜ――客のほうもまた閉じた扉の向うでそうきいているように思われた――勤勉なKとしたことが、私用でいちばん大切な執務時間を空費したのだろうか? これまでのことに疲れ、また疲れきって来《きた》るべきものを期待しながら、第一の客を迎えるためKは立ち上がった。
 それは、小柄で元気のよい紳士で、Kがよく知っているある工場主だった。工場主は、Kの大切な仕事を邪魔したことをわび、Kのほうは、工場主をこんなに長く待たせたことをわびた。だが、このわびからして非常に機械的な調子、またはほとんど作りものの感じのする調子で言ったので、工場主がすっかり用件で夢中になっていなかったならば、それに気がついたにちがいなかった。男は気づきもしないで、急いで計算書や表をありとあらゆるポケットから引出すと、Kの前にひろげ、いろいろな項目を説明し、こうやって、ざっと見渡してさえ気がついたちょっとした計算の誤りを訂正し、一年ほども前にKと結んだ同じような仕事のことをKに思い出させ、ついでに、今度は別な銀行が莫大《ばくだい》な犠牲を払ってもこの仕事を申込んでいる、と言い、最後に黙って、Kの意見を聞こうとした。Kもまた事実、初めのうちは工場主の話をよくたどり、次に重要な仕事だという考えが彼の心をとらえもしたのだったが、ただ残念なことに長続きがせず、間もなく話に耳を傾けることから気がそれてしまい、それでもしばらくは工場主の騒々しい叫び声に頭でうなずいてみせていたが、とうとうそれもやめ、ただ、禿《は》げた、書類にかがみこんだ相手の頭をながめ、自分の話がすべて無益だと、いつ工場主が気づくだろうかと自問してみることだけにした。工場主が黙ってしまったときに、Kはまず、自分はお話を伺うことができないと白状する機会を与えてくれるために相手が黙ったのだ、とほんとうに思いこんだのだった。だが、明らかにあらゆる反対に身構えしている工場主の緊張した眼差《まなざし》を見て、用談を続けなければならないのだ、と気づいたときは、ただ残念に思われるだけだった。それで命令を受けるときのように頭を垂れ、鉛筆で書類の上をゆっくりとあちこちなでまわし、ときどき休んでは数字をじっと見つめた。工場主はKに異論があるのだと思い、おそらくは数字がまったくはっきりとはしていないためか、おそらくは決定的なものでないためか、いずれにせよ工場主は手で書類を覆《おお》い、Kにぴったり寄り添って、改めて仕事の一般的な説明を始めるのだった。
「むずかしいですね」と、Kは言い、口もとに皺《しわ》を寄せ、唯一のつかみどころである書類が覆われているので、ぐったりと椅子の肘掛《ひじかけ》に崩《くず》れかかった。すっかり元気がなくなりさえして眼を上げると、ちょうど支店長室の扉があいて、ガーゼの幕の後ろにでもいるようにぼんやりと支店長代理の姿が、そこに現われた。Kはそれ以上支店長代理が現われたことを考えてはいないで、彼が現われたために生じた、自分にとってきわめてよろこばしい直接の効果だけを追い求めるのだった。というのは、たちまち工場主は椅子からとび上がり、支店長代理のほうへ急ぎ足で飛んでいったからである。だがKは、支店長代理がまた消えてしまうのでないかと心配だったので、工場主を十倍も足早に歩かせてやりたいくらいだった。しかしそれは要《い》らぬ心配で、二人はぶつかり、互いに握手を交《か》わし、いっしょにKの机のところへやってきた。工場主は、業務主任にはどうも仕事に対する熱意が見られない、と苦情を言い、支店長代理の視線の下で改めて書類の上にかがみこんだKを、指さした。それから二人が机にもたれ、工場主は今度は支店長代理を自分の手中に収めようと懸命になると、Kには、恐ろしく大きいように思われるこの二人が頭の上で自分自身のことを相談しているような気がした。慎重に上眼をつかいながらゆっくりと、頭上で起っていることを見ようとし、書類の一枚を見もしないで机から取上げ、それを掌《てのひら》にのせて、自分自身も立ち上がりながら、その書類をそろそろと二人のほうに持ち上げた。こうしながら、格別どうしようということを考えたのではなく、自分からまったく面倒を除いてくれるあの大仕掛けな願書を仕上げたときには、きっとこういう態度をとるにちがいない、という気持で振舞っただけだった。すべての注意を注いで話に夢中だった支店長代理は、ただちらりと書類を見ると、そうやって差出されたものを全然読みもしなかった。業務主任に大切なものも、彼にはなんでもないものだったからである。そしてそれをKの手から取上げると、言った。
「ありがとう、もうみんな承知しています」
 そして、またそれを机にもどした。Kはむっとして彼を横から見つめた。だが支店長代理は全然気がつかないか、気がついたにしてもかえってそれに元気づけられるかして、しばしば高笑いし、一度ぬかりのない受けこたえで工場主を明らかに当惑させ、しかしすぐ自分自身の言ったことに異論をはさんでみせて相手を当惑から解きほぐしてやり、最後に彼の事務室に来るように誘い、そこでなら用件を終りまでやれるだろう、と言った。
「これはたいへんむずかしい用件です」と、工場主に言った。「それはすっかりわかっていますから。そして業務主任さんには」――こう言いながらもほんとうはただ工場主にだけ向って話しかけるのだった――「われわれだけで片づけるほうがお気に召すでしょう。この用件は冷静に考えることが必要ですからね。ところがこの方は今日はとても忙しいらしく、もう一時間以上も幾人かの人が控室で待っていますよ」
 Kはまだ、支店長代理から向き直り、愛想よさそうではあるがこわばった微笑を工場主に対してしてみせるだけの落着きを辛うじて持っていたが、そのほかのことには全然手を下すことができず、少し前かがみになって両手で机の上に身体をささえ、ちょうど机の後ろにいる売り子のような格好になり、二人が話を続けながら机から書類を取上げ、支店長室に消えてゆくのをながめていた。扉のところでなお工場主は振向き、これでお別れするのではなく、もちろん話の結果について業務主任さんにも報告するし、自分個人としてもまだほかにちょっとお話しすることがある、と言った。
 やっとKはひとりになった。誰か別な客を迎えようとは全然考えず、部屋の外の人々は自分がまだ工場主と折衝中だと思いこみ、このために誰も、そして小使さえも、自分のところへはいってこないのは、なんと気持のよいことだろう、という考えが、ただ漠然と彼の意識に上ってくるのだった。窓ぎわへ行き、手すりに腰をおろして、片手を把手《とって》にかけて身体《からだ》をささえ、広場を見やった。雪はまだ降っており、全然晴れあがってはいなかった。
 いったい何が自分を心配させるのかもわからぬまま、彼は長いあいだそうして腰かけていた。ただときどき少しぎくりとして肩越しに控室のほうを見たが、空耳だが物音を聞いたように思ったからであった。だが誰も来ないのでいくらか落着き、洗面台に行って冷たい水で洗うと、さわやかな頭になって窓べの場所にもどってきた。弁護を自分の手で引受けようという決心が、初めに思ったよりもいっそう重要に思えた。弁護を弁護士にまかせていたうちは、まだ根本的には訴訟にほとんど関係していなかったも同然で、ただ遠くからながめていたのであって、直接それから得《う》るところはほとんどなかったが、欲するなら自分の事件がどうなっているかを見ることができたし、また望むならば頭を向け直すこともできたのだった。それに反して、今や弁護を自分でやることになれば、――少なくともしばらくは――すっかり裁判所に身をさらさなくてはならなくなり、その結果は、後になれば自分の身を完全に、また最後的に解放することになるはずではあるが、これをうまくやるためには、どうしてもしばらくはこれまでよりも大きな危険を冒してゆかねばならなかった。この点については彼は疑わしく思っていたが、支店長代理と工場主と今日同席したことで十分確信させられたにちがいなかった。自分を弁護するというはっきりした決心をすっかりきめたのに、どうしてそこにすわっていたのか? だが、これから先どうなることだろうか? 自分の前にはどんな日々が立ちはだかっていることだろうか! 万事を切り抜けて好ましい結果に通じる道を発見するだろうか? きわめて慎重な弁護をやろうというのなら――そしてそれ以外のことはいっさい無意味なのだ――きわめて慎重な弁護をやろうというのなら、それには同時に、ほかのいっさいのことを除外してしまうことがどうしても必要ではないか? うまくやりおおせられるだろうか? そして、これをやりぬくことは銀行にありながらどうやって成功するだろうか? まったくのところ単に願書の問題ではなくて、訴訟全体に関することなので、願書ならば、たとい休暇を願い出ることは今さしあたってはたいへん思いきったことではあっても、休暇を取ればきっと十分だろうが、この訴訟となるとどれほど続くかさっぱり見通しがきかぬのだ。なんという障害が突然おれの経歴に投げこまれたことだろうか!
 そして今でも、銀行のために働かねばならぬのだろうか?――彼は机の上を見やった。――今でも客を招き入れ、彼らと折衝をせねばならぬのだろうか? 訴訟が進行し、あの屋根裏部屋では裁判所の役人たちがこの訴訟の文書をめぐって集まっているのに、銀行の仕事にかまっていなければならないのだろうか? 仕事はまるで、裁判所によって公認され、訴訟と関連してそれにつきまとっている拷問のようなものではないか? およそ銀行の中にあって、自分の仕事を評価するとともに、この特殊な状態を考慮してくれる人がいるだろうか? そんなことをしてくれる人は全然ない。誰がどれくらいそれについて知っているのかはまだまったくはっきりとはしていないが、訴訟のことは全然知られていないわけではなかった。だが支店長代理のところまでは噂はまだおそらく届いてはいないらしく、もしそうでなければ、この男がきっと同僚のよしみも人情もあったものではなくそれを利用しつくす有様を、すでにはっきりと見なければならなかったことだろう。そして支店長はどうだろう? 確かに彼はおれに好意を持っており、訴訟のことを聞けば、おそらくすぐにできるだけおれのために事を容易にしてやろうとしてくれるだろうが、きっとそういう態度を貫くことはできまい。なぜならば、おれがこれまで形成していたバランスが弱まりはじめるにつれて、支店長はいよいよ代理の影響に押されることとなり、代理はそのうえ支店長の苦しい立場を自分の勢力の増強のために利用しつくしているようなやつだからだ。それゆえ、おれは何を望むべきか? おそらくこんなふうに考えることによって抵抗力を弱めることになるだろうが、自分自身を欺かず、万事を現在としてできるだけはっきりと見ることもまた必要なことだ。
 格別の理由もなかったが、ただしばらくはまだ机に帰りたくはなかったので、窓をあけた。窓はなかなかあかず、両手で把手をまわさねばならなかった。やっとあけると、窓の幅と高さとだけ、煤《すす》の混じった霧が部屋に流れこみ、かすかな焦げる匂《にお》いで部屋をいっぱいにした。雪片もいくらか吹きこんできた。
「いやな秋ですね」と、Kの背後で工場主が言ったが、支店長代理のところからもどって、気づかれずに部屋にはいってきていたのだった。Kはうなずき、不安げに工場主の書類入れを見つめた。その中から彼は今にも書類を引っ張り出し、支店長代理との交渉の結果をKに話しそうだった。だが工場主はKの視線を追い、書類入れをたたき、それをあけないで言った。
「どういうことになったか、お聞きになりたいでしょう。書類入れの中にはもう契約書がはいっているのも同然です。支店長代理さんは魅力のある人ですね。だがまったく危険のない人じゃないですが」
 彼は笑ってKの手を握り、彼のことも笑わせようとした。ところがKには、工場主が書類を見せようとしないことがまたまたあやしく思われたので、工場主の言葉が少しもおかしくはなかった。
「きっと天気病みでいらっしゃるんですね? 今日はたいへんふさいでいらっしゃるようにお見受けしますが」
「そうです」と、Kは言い、両手でこめかみを押えた。「頭痛と家庭の心配です」
「まったくです」と、せわしげな人間で、人の言うことは落着いて聞けない工場主は、言った。「誰でも十字架を負わなければならんのです」
 工場主を送り出そうとするかのように、Kは思わず知らず扉のほうへ一歩進んだが、工場主は言った。
「業務主任さん、あなたにもう少しお話しすることがあります。こんな日に申上げてあなたをわずらわすことはたいへん恐縮ですが、最近二度もあなたのところへまいって、いつも忘れてしまっていたものですから。でもこれ以上延ばしますとおそらく完全に役にたたなくなりましょうからね。そうなると残念ですからねえ。なぜって私の話は根本においておそらく値打ちのないものではありませんからね」
 Kが答える余裕もないうちに、工場主は彼のそばに歩み寄り、指の関節で彼の胸をたたき、低い声で言った。
「あなたは訴訟にかかりあっていらっしゃるんですってね?」
 Kは後《あと》ずさりして、すぐさま叫んだ。
「支店長代理があなたにお話ししたんですね!」
「いや、そうじゃありません」と、工場主は言った。「支店長代理が知っているわけがないでしょう?」
「ではあなたは?」と、Kはずっと落着きを取戻して言った。
「あちらこちらで裁判所のことは何かと聞きますんでね」と、工場主は言った。「お話ししようと思うことも、まさにそのことなんです」
「たくさんな人が裁判所と関係を持っているんですね!」と、Kは頭を垂《た》れて言い、工場主を机のところへ連れていった。彼らは先ほどと同じようにすわったが、工場主は言った。
「お伝えすることのできることがたいして詳しくはなくて残念です。しかし、こういう事柄ではほんの少しでもおろそかにしてはなりませんからね。それに、私の尽力はささやかなものでありましょうが、あなたをなんとかしてお助けいたしたい気持に駆られておりますので。私たちはこれまで仕事の上のよい友達でしたからねえ。ところで――」
 Kは今日の相談のときの自分の態度のことでわびようとしたが、工場主は黙って話を中断させてはおらず、自分は急いでいるのだということを示すために書類入れを腋《わき》の下に高く押しこみ、言葉を続けた。
「あなたの訴訟のことは、ティトレリという男から知りました。画家でして、ティトレリというのはただその男の雅号ですが、ほんとうの名前は全然知りません。この男は、数年来ときどき私の事務所にやってきて、小さな絵を持ってくるんですが、――まるで乞食《こじき》みたいなもんですよ――私はいつでも一種の喜捨をやっています。ともかく好ましい絵でして、荒野の風景とかそういったものなんです。このやりとりが――二人とももう慣れてしまったんですが――まったくスムーズにいっていました。ところが、一度、こうやってやってくるのがあんまり頻繁《ひんぱん》に繰返されるので、私は文句を言ってやったところ、いろいろな話になり、ただ絵を描くことだけでどうやって暮してゆけるのか、私も興味を覚えたんですが、驚いたことに彼のおもな収入源が肖像画だということを聞きました。『裁判所の仕事をしています』と言うんです。『どんな裁判所だね』と、私がききました。すると裁判所のことを話してくれました。どんなにこの話で私が驚いたことか、あなたはいちばんよくわかってくださるでしょう。それ以来私は、この男が訪《たず》ねてくるたびごとに裁判所のニュースを何かと聞き、次第次第にそのことに関するある種の理解ができるようになりました。もとよりティトレリはおしゃべりでして、私はしょっちゅう追い払わなければなりませんが、それはこの男が嘘《うそ》をつくからばかりでなく、何よりも、私のような商売人は自分の仕事の心配だけでもほとんどぶっつぶれそうで、関係のない物事にはあまり気をつかっていられないためなんです。だがこれはただついでに申上げたわけです。おそらくこれで――私は思うんですが――あなたはティトレリのことが少しはおわかりのことと思いますが、この男は大勢の裁判官を知っていて、自分ではたいして力がないにしても、どうやったらさまざまな有力者に近づけるかという助言はできましょう。そして、たといこういった助言がそれ自体としては決定的なものでないにしても、私の考えるところでは、あなたがお持ちになればたいへん有益でありましょう。あなたはまったく弁護士みたいな方ですからね。私はいつも言っているんですよ。業務主任のKさんは弁護士みたいな人だってね。いや、私は何もあなたの訴訟のことで心配なんかしちゃおりません。ですが、ティトレリのところにおいでになりませんか? 私がご紹介すれば、あの男はきっと、彼にできることをなんでもやるでしょう。あなたは行くべきだと私はほんとうに思いますね。もちろん今日でなくとも結構でして、いつかおついでのときでいいんです。もちろん、――これは申上げておきたいと思いますが――私がこうおすすめしたからといって、ほんとうにティトレリのところにどうしても行かねばならぬということは少しもありません。いや、もしティトレリなんかいなくたってやってゆけるとお思いでしたら、確かに、あの男をまったく無視されることがいっそうよろしいでしょう。きっとあなたはとっくに詳しいプランをお持ちでしょうし、それならティトレリなんかはそれの邪魔をするばかりかもしれません。いや、それならもちろん、けっしていらっしゃらなくて結構なんです! それにきっと、こんな男から助言をもらうとなると我慢も要《い》りますからね。まあ、お気に召すようにしてください。これが紹介状、これが住所です」
 がっかりしてKはその手紙を受取り、それをポケットに押しこんだ。いちばんうまくいった場合でも、この紹介状のもたらす利益などは、工場主が自分の訴訟について知っており、画家がそのニュースをひろめてまわる、ということに含まれている損害に比べれば、比較にならぬくらい小さなことだった。もう扉のほうへ行きかけている工場主に一言二言礼を言うことも、ほとんどやる気にはなれなかった。
「行ってみますよ」と、扉のところで工場主と別れるとき、Kは言った。「あるいは、今は非常に忙しいので、一度私の事務室のほうへ来てもらいたいと書くかもしれません」
「あなたがいちばんいい策《て》を発見されるだろうということは、わかっていました」と、工場主は言った。「もちろん私は、訴訟について話すためにこのティトレリのような人物を銀行へ呼ぶなどということは、あなたがむしろ避けたいと思っていらっしゃるものとばかり思っていました。それに、手紙をこんな連中の手に渡すということは利益になるとばかりはかぎりませんからね。でもあなたはさだめし万事を考え抜かれたことでしょうし、どうやったらよいかは十分おわかりのことと思います」
 Kはうなずき、さらに控室を通って工場主について行った。だが、表面では平静を装っているものの、自分の言ったことに非常に驚いていた。ティトレリに手紙を書くだろうと言ったのは、もとよりただ工場主に対してなんとかして、紹介状はありがたく思っている、ティトレリと会う機会のことはすぐ考える、ということを示そうと思って言ったことにすぎないのだが、もしティトレリの味方が値打ちがあるものと見てとれば、ほんとうに手紙を書くことも躊躇《ちゅうちょ》はしなかっただろう。ところが、その結果として起るかもしれない危険のことは、工場主の言葉で初めて気がついたのだった。自分の悟性に対してほんとうにこんなにも信用できなくなったのだろうか? はっきりした手紙でうさんくさい男を銀行にまで呼び出し、支店長代理とは扉ひとつしか隔たっていない場所で自分の訴訟についての助言を求めるというようなことがありうるなら、もっとほかの危険も見逃《みのが》しているし、そんな危険のなかに飛びこむこともありうることだし、大いにありそうなことでさえなかろうか? 自分に警告してくれる人間がいつも自分のそばにいるものとばかりはかぎらない。そしてまさに今、全力を集中して歩み出なくてはならないときに、自分の用心深さに対するこれまで知らなかったようなこんな疑惑が現われるとは? 事務をやっているとき感じたあの困難が、今や訴訟においても始まったのだろうか? もちろん今ではもう、ティトレリに手紙を書き銀行に来てもらおうなどと思ったことがどうして可能だったのか、彼にはわからなかった。
 そのことを考えてまだ頭を振っていると、小使がそばにやってきて、この控室のベンチに腰かけていた三人の客に注意を向けさせた。彼らはすでに長いあいだKのところへ招かれるのを待っていた。小使がKと話すなり、立ち上がって、好機をとらえて誰よりも先にKの前に行こうとした。銀行側が無礼にもこの待合室で時間を空費させたもので、彼らのほうももう遠慮をしようとはしなかった。
「業務主任さん」と、早速一人が言った。だがKは小使に外套《がいとう》を持ってこさせ、小使の手を借りて着ながら、三人全部に向って言った。
「みなさんごめんなさい、今ちょうどお会いする時間がないんです。はなはだ恐縮ですがさし迫った外での用事を片づけなければなりませんので、すぐ出かけなければなりません。ごらんのとおり、今たいへん長く引留められておりましたので。明日でも、あるいはいつなり改めておいでねがえませんか。なんなら用件を電話でお話しすることにしませんか? または今手短かに何のご用件か伺っておいて、のちほど詳しく書面でお答えいたしましょう。もちろん、この次来ていただくのがいちばんよろしいのですけれど」
 このKの提案は、完全にむなしく待たされたことになった三人の客を非常に驚かせたので、黙って顔を見合すばかりだった。
「それじゃあ、そうきまりましたね?」と、帽子を持ってきた小使のほうを振向いたKは、たずねた。Kの部屋のあけっ放しの扉からは、戸外で雪がたいへんひどくなったのが見えた。そこでKは外套の襟《えり》を立てて、頸《くび》のすぐ下にボタンをかけた。
 ちょうどそのとき、隣室から支店長代理が出てきて、外套を着たKが客たちと言い合っているのを微笑しながらながめ、こうきいた。
「もうお帰りですか、業務主任さん?」
「そうです」と、Kは言い、身体を正した。「用件で出かけなければなりませんので」
 しかし支店長代理は、すでに客たちのほうを向いていた。
「で、この方々はどうなんです?」と、きいた。「もうかなりお待ちのように思うんですが」
「もう話がきまったんです」と、Kは言った。だが客たちはもう我慢ができなくなり、Kを取囲んで、用件が重要なものでなければ、一時間も待ちはしなかったろう、そして今すぐ、それもとっくりと個人的に、話し合ってもらいたい、と述べたてた。支店長代理は彼らの言うことをしばらく聞いていたが、帽子を手に持ち、あちこち塵《ちり》を払っているKのこともながめたうえで、言った。
「みなさん、たいへん簡単な策《て》があります。もし私でおよろしかったら、業務主任さんにかわってよろこんでお話を伺いましょう。みなさんのご用件はもちろんすぐお話ししてしまわなければなりません。私たちもみなさんのように商売人ですから、商売人の時間の大切なことはよくわかっております。こちらにいらっしゃいませんか?」
 そして、自分の事務室に通じる扉をあけた。
 Kが今やむなく放棄せねばならなかったものを、支店長代理はすべて我が物としてしまうことをなんと心得ていたことか! しかしKは、絶対的に必要である以上のものを放棄しなかったろうか? 不確かな、きわめて乏しいということを認めざるをえないような希望をいだきながら未知の画家のところへ行っているあいだに、銀行のほうでは彼の声望は取返しのつかぬような損害をこうむるのだった。外套をまた脱いで、まだ顔をそろえて待たされている二人の客だけでも取戻すほうが、ずっと賢明であったろう。彼の本立てで我が物顔に何か捜している支店長代理をそのとき見つけなかったなら、Kはおそらくそうしたかもしれない。Kが憤慨して扉に近づいたとき、支店長代理が叫んだ。
「ああ、まだ出かけなかったんですね」
 Kのほうに顔を向け、すぐまた捜し始めるのだったが、その顔の数多くの鋭い皺《しわ》は、老齢ではなくて、充実した気力を示しているように見えた。
「契約書を捜しているんですよ」と、彼は言った。「あの商会の社長さんが、君のところにあるはずだ、と言われるんだが。捜してくれませんか?」
 Kが一歩近づくと、支店長代理は言った。
「いや、ありました」
 そして、契約書だけではなく、きっとほかのものもたくさん入れているにちがいない大束の書類を持って、また自分の部屋にもどっていった。
「今のところはあいつは手には負えないが、おれの個人的な悶着《もんちゃく》が片づいたら、きっといちばん先に痛い目にあわせてやるぞ、しかもできるだけひどくだ」こう考えて少し気を落着けたKは、ずっと前から廊下に出る扉をあけて待っていた小使に、用件で外出したと折を見て支店長に伝えてくれと頼み、しばらくは自分の用事に完全に没頭できることにほとんど幸福を覚えながら、銀行を出た。
 すぐ画家のところへ行った。画家は郊外に住んでいるのだったが、裁判所事務局のある例のところとは全然反対の方面であった。もっとみすぼらしい界隈《かいわい》で、家々はもっと陰気くさく、小路は雪解けの上をゆっくりと漂っている汚物でいっぱいだった。画家の住む家では、大きな門の片方の扉だけがあいており、もう一方は下のほうの壁に穴があき、Kが近づいたとたん、気持のわるい黄色の臭《にお》う液体がこぼれてきて、それを避けようとして鼠《ねずみ》が一匹近くの溝《みぞ》へ逃げこんだ。階段の下では子供が一人地面に腹ばいになって泣いていたが、門の向う側のブリキ屋の仕事場から聞えてくる騒音がいっさいの物音を打消してしまうので、子供の泣き声はほとんど聞えぬくらいだった。仕事場の戸はあけっ放しで、何か仕事を囲んで半円形に三人の職人が立ち、ハンマーでその上をたたいていた。壁にかかった大きな一枚のブリキ板が蒼白《あおじろ》い光を投げ、それが二人の職人のあいだを透《とお》して、彼らの顔と仕事用の前掛けとを照らしていた。Kはこうしたすべてを軽く一瞥《いちべつ》しただけだった。できるだけ早く用事をすまし、ほんの少し画家から話を聞いただけですぐ銀行にもどろうと思った。もしここでほんのわずかでも成果をあげたならば、それは銀行での今日の仕事にもよい影響を及ぼすにちがいなかった。四階では歩度をゆるめなければならなかった。すっかり息切れがし、階段も各階も桁《けた》はずれに高かったが、画家はまったくてっぺんの屋根裏部屋に住んでいるということだった。空気もきわめてうっとうしく、踊り場がなく、狭い階段が両側の壁にはさまれており、その壁にはほんのところどころおそろしく上のほうに小さな窓がついていた。Kが少し立ち止ったとき、ちょうど二、三人ほどの少女がある部屋から飛び出し、笑いながら階段を駆け上がっていった。Kはその後《あと》をゆっくりとつけ、つまずいてほかの子たちに取残された一人の少女に追いつき、並んで登りながらきいてみた。
「絵描きのティトレリっていう人いる?」
 十三になるかならぬかのいくらか佝僂《せむし》のその少女は、きかれると片肘《かたひじ》でKを突き、そばから彼の顔をじっと見た。その子の幼さも不具も、この子がすでにすっかり堕落してしまっているという事実を否定できるものではなかった。少女はにこりともしないで、鋭いうかがうような眼差《まなざし》でむきになってKを見つめた。Kはその態度に気づかなかったように装って、きいた。
「絵描きのティトレリさんって知っている?」
 少女はうなずくと、今度は彼女のほうからたずねた。
「あの人になんの用事なの?」
 Kには、あらかじめ少しティトレリについて知っておくことが有益に思われた。
「おじさんのことを描いてもらおうと思うんだよ」と、彼は言った。
「描いてもらうの?」と、少女はきき、やたらに大きく口をあけ、Kが何か非常に驚くべきことかまずいことかを言ったのでもあるかのように手で軽く彼をたたき、そうでなくとも短かすぎるスカートを両手でつまみ上げると、高いところで叫び声がもう聞き取れぬくらいになっているほかの子供たちの後を追って、できるだけ早く駆け上がっていった。だが階段のその次の折り返しのところで、Kはまた少女たち全部といっしょになった。明らかに佝僂の子にKの意図を教えられて、彼を待っていたのだった。階段の両側に立ち、Kがうまく通るように壁に身体を押しつけ、手でエプロンの皺《しわ》を伸ばしていた。どの顔つきといい、またこんな人垣をつくることといい、子供らしさと堕落の味わいとの混じり合いを示していた。Kの後ろに笑いながら集まった少女たちの先頭に立ったのは、案内を引受けた例の佝僂だった。Kはすぐ正しい道筋がわかったのも、その子のおかげだった。すなわち、まっすぐ登ってゆこうとしたのだが、ティトレリのところへ行くには分れた階段を選ばなくてはならぬということを、その子は教えてくれた。画家のところへ行く階段は特に狭く、きわめて長く、曲ってはいないのですっかり見通しがきき、登りつめると直接ティトレリの扉の前で終っていた。扉の斜め上にはまった小さな天窓によってほかの階段とはちがって比較的明るく照らし出されているこの扉は、上塗りのしてない角材で組み上げられ、その上にはティトレリという名前が赤い色で肉太の筆描きをもって書かれていた。子供たちを従えたKが階段の真ん中まで来るやいなや、明らかに大勢の足音に促されたからであろうが、上の扉が少しあけられ、寝巻一枚を着ているらしい一人の男が扉の隙間《すきま》に現われた。
「おお!」と、一行がやってくるのを見て、男は叫んだ。佝僂の少女はよろこんで手をたたき、ほかの少女たちは、Kをもっと早く追いたてようとして、彼の後ろから押すのだった。
 まだ登りつめないうちに、上では画家が扉を大きく開き、深く身体をかがめて、Kにはいるようにすすめた。少女たちのほうは追い払い、子供がどんなに頼んでも、また彼の許しがなければ無理にでも押し入ろうとどんなにやってみても、一人でも入れようとはしなかった。ただ佝僂の子だけが画家の伸ばした腕の下をくぐり抜けることに成功したが、彼はその子の後を追い、スカートをつかむと自分のまわりでぐるぐると引きまわし、扉の前のほかの子たちのところへ置いた。子供たちは、画家がそうして持場を離れているあいだ、それでも敷居を越してやろうとはしなかった。Kはこういう有様をどう判断すればいいのかわからなかった。すなわち、万事がまるで仲よく馴《な》れ合いで行われているように見受けられるのだった。扉の子供たちは次々と頸《くび》を伸ばし、Kにはわからないさまざまなふざけた言葉を叫びかけ、画家もまた、彼の手中の佝僂の子がほとんど飛ぶように逃げてゆくあいだ、笑っていた。次に扉をしめ、もう一度Kに会釈《えしゃく》すると、手を差出し、名乗りながら言った。
「画家ティトレリです」
 Kは、背後で少女たちがささやいている扉を指さして言った。
「この家ではたいへん人気がおありのようですね」
「ああ、腕白《わんぱく》たちでして」と、画家は言い、寝巻の頸のボタンをかけようとするのだがだめだった。ところで画家は裸足《はだし》で、だぶだぶの黄ばんだズボンをはいているだけだが、ズボンは紐《ひも》で締められ、その長い端がぶらぶら揺れていた。
「この腕白たちにはほんとうに困っています」と、言葉を続けながら、いちばん上のボタンがちょうどちぎれてしまった寝巻から手を出し、椅子をひとつ持ってきて、Kにかけるようにすすめた。
「前に、あの連中の一人を――その子は今日はいなかったですが――描《か》いてやったことがありましたが、それからというもの、みな私の後を追いかけるんです。私がここにおりますと、いいと言うときだけはいってきますが、一度出かけようものなら、いつでも少なくとも一人ははいりこんでいます。私の部屋の鍵《かぎ》をつくらせて、互いに貸し合っているんですよ。いやわずらわしいったら、人様にはほとんど想像もつきますまい。たとえば、私が描くことになっているご婦人と帰ってきて、鍵で戸をあけると、筆で唇《くちびる》を真っ赤に塗った佝僂の子がそこの机のところに立ち、その子がお守《も》りをしなきゃならない小さな妹たちは暴《あば》れまわって、部屋の隅々《すみずみ》までよごしているというような有様なんです。また、つい昨日《きのう》起ったことですが、夜遅く帰ってきて、――どうかそのことをお考えくだすって、私のこんな格好や部屋の乱雑なことはお許しねがいます――で、夜遅く帰ってきて、ベッドにはいろうとすると、誰か私の脚をつねるやつがある。私はベッドの下をのぞいて、一人引っ張り出すっていうようなわけです。どうして私のところにこう押しかけるのか、私にはわかりませんが、私のほうから誘いをかけたのでないことは、あなたも今ちょうどごらんになったとおりです。もちろんこれには仕事の邪魔もされるというものです。このアトリエが無料で借りられるのでなければ、とっくに引っ越していたでしょう」
 そのときちょうど、扉の向うでやさしい、おどおどしたような声が叫んだ。
「ティトレリさん、もうはいってもいい?」
「いけないよ」と、画家は答えた。
「あたしだけでもいけない?」と、声がまたきいた。
「いけないね」と、画家は言い、扉のところへ行き鍵をかけた。
 Kはそのあいだに部屋を見まわした。このひどい小さな部屋がアトリエと呼ばれるかどうかは、言われなければひとりで思いつくものではなかった。奥行、間口ともにここでは、大股《おおまた》で二歩以上は、歩けそうもなかった。床、壁、天井、みな木造で、角材のあいだには細い隙間が見られた。Kの反対側の壁ぎわにベッドが置かれ、色とりどりの寝具が積み上げられていた。部屋の真ん中の画架には一枚の絵がのり、シャツがかぶせてあって、その袖《そで》が床までぶらさがっていた。Kの後ろには窓があり、窓からは霧を透して雪で覆《おお》われた隣家の屋根が見えるだけだった。
 鍵をまわしてしめる音は、Kに、すぐ帰るつもりだったことを思い出させた。そこで工場主の手紙をポケットから取出し、画家に渡して言った。
「あなたのお知合いのこの方からあなたのことを伺い、そのおすすめでまいったのです」
 画家はさっと手紙を通読し、それをベッドの上に投げた。もし工場主がきわめてきっぱりと、ティトレリは自分の知合いで、自分の喜捨に頼ってきた貧しい人間だ、と言ったのでなかったら、この有様を見ては、ティトレリが工場主のことを知らないか、あるいは少なくとも彼のことを思い出すことができないのだ、とほんとうに考えることもできたろう。そのうえ、画家はこうきくのだった。
「絵をお買いになりたいんですか、それとも肖像を描けとおっしゃるんですか?」
 Kはびっくりして画家を見つめた。いったい手紙には何が書いてあるんだろう? 自分がここに来たのはほかならない訴訟について問い合せようと思うからだ、と工場主が手紙で画家に告げているものだとばかりKは考えていた。あんまりあわてすぎ、よくも考えてみないで駆けつけたようだ! だが、こうなってはなんとか画家に答えなければならないので、画架に一瞥《いちべつ》を投げながら言った。
「ちょうど絵のお仕事ですね?」
「そうです」と、画家は言い、画架の上にかかっていたシャツを、ベッドの手紙のほうに投げた。
「肖像画です。いい仕事ですが、まだすっかりできあがってはいません」
 偶然がKに幸いし、裁判所のことを話すきっかけが、はっきりと彼に与えられたのだった。というのは、それは明らかに裁判官の肖像だったからである。ところでそれは、弁護士の事務室の絵にひどく似ていた。もちろんこれは全然別な裁判官であって、頬《ほお》の側にまで達している黒いもじゃもじゃの一面の髯《ひげ》を生《は》やした肥《ふと》った男だったし、あの絵は油絵だったが、これはパステルでさっとぼかしてあった。だがそのほかの点では似ていた。この絵でもやはり、ちょうど裁判官が肘掛けをしっかと握って、いかめしい椅子から威嚇《いかく》的な態度で立ち上がろうとしていたからである。
「裁判官ですね」と、Kはすぐ言おうとしたが、しばらくはまだ控えて、細部をよく見ようとするかのように絵に近づいた。椅子の背の真ん中にある大きな像がなんであるか彼にはわからなかったので、画家にそれをきいてみた。これはもう少し手を加えなくちゃならないんです、と画家は答え、小さな机からパステルを一本持ってくると、それで少しその像の輪郭をなすったが、そうしてもKにははっきりとはわからなかった。
「正義の女神《めがみ》なんです」と、画家は最後に言った。
「もうわかりましたよ」と、Kは言った。「ここに眼隠しの布があるし、ここに秤《はかり》がある。だが、踵《かかと》に翼が生えていて、飛んでいるんじゃありませんか?」
「そうなんです」と、画家は言った。「頼まれてこう描かなくちゃならなかったんですが、ほんとうは正義の女神と勝利の女神とをひとつにしたんです」
「どうもあまりうまい取合せじゃありませんね」と、Kは微笑しながら言った。「正義はじっとしていなくちゃいけませんね。そうでないと秤が揺れて、正しい判決ができませんからね」
「その点は依頼主の注文に従ったんです」と、画家は言った。
「きっとそうでしょうね」と、自分の言葉で誰も傷つけまいとしたKは、言った。
「この像は、ほんとうに椅子にすわっているままを描かれたんですね」
「いや」と、画家は言った。「私はその像も椅子も見ませんでした。いっさい考案ですが、描くべきものは注文をつけてもらいました」
「えっ、なんですって?」と、画家の言うことがよくわからないというようにわざと装いながら、Kは言った。「でもこれは、裁判官の椅子にすわっている裁判官でしょう?」
「そうですが」と、画家は言った。「でも高い地位の裁判官じゃなくて、こんなりっぱな椅子にすわったことなんかないんです」
「それなのにこんないかめしい物腰で描いてもらうんですか? まるで裁判所の長官のようにすわっていますね」
「そうです、この人たちは虚栄心が強いんですよ」と、画家は言った。「だが、こういうふうにして描いてもらっていいという、上のほうの許可を受けているんです。誰もが、どう描いてもらっていいのかきめられているんですよ。ただこの絵では服装や椅子の細部が見分けられませんね。パステルはこういう表現には不向きです」
「そう」と、Kは言った。「パステルで描かれているのは変ですね」
「裁判官がそう望まれたんです」と、画家は言った。「これはあるご婦人にあげることになっています」
 絵をながめていることが、彼に仕事をしようとする欲求を起させたらしく、シャツの袖をたくし上げ、二、三本パステルを手に取った。そしてKは、そのパステルの震える尖端《せんたん》の下で、裁判官の頭にしっくりとはまりながら赤みを帯びた陰影ができあがり、それが画面の縁に向って放射線状に消えてゆくのを、ながめていた。この陰影の戯れは次第に、飾りか高い名誉のしるし[#「しるし」に傍点]かでもあるように、頭を取巻いた。だが正義の女神の姿のまわりでは、ほとんど気づかれないような色調を除いて色が明るく、この明るさのうちに姿がことに浮び上がってくるように思われ、もうほとんど正義の女神も、勝利の女神をも思い出させず、今ではむしろ、すっかり狩猟の女神のように見えた。画家の仕事は、思ったよりもKをひきつけた。しかしついに、自分はもうこんなにここにいるのに、根本において自分自身のことをまだやっていなかった、と気づいて我が身をとがめるのだった。
「この裁判官はなんという人ですか?」と、彼は突然きいた。
「それは言えません」と、画家は答え、絵に深くかがみこんで、初めはあんなにも敬意をこめて迎えた客を明らかに無視するのだった。Kはそれを気まぐれと考え、それに腹をたてたが、こんなことで時間をむだにしたからであった。
「あなたはきっと裁判所とご懇意なんですね」と、彼はきいた。
 画家はすぐパステルをそばに置き、身体を起し、両手をこすって、にやにやしながらKを見つめた。
「いつも、すぐに真相を言えとばかりおっしゃるんですね」と、彼は言った、「紹介状にも書いてありますが、あなたは裁判所のことが聞きたいのに、私の気をひこうとしてまず私の絵のことを話されたのですね。だが、私はそれをわるくはとりませんが、そんなことは私の場合適当じゃないってことをご存じなかったんです。いや、結構ですよ!」と、Kが何か異議をさしはさもうとすると、画家は鋭くさえぎりながら言った。そして次にこう言葉を続けた。
「ところでおっしゃったことは完全に正しいのでして、私は裁判所に信用が厚いのです」
 Kにこの事実で満足する時間を与えようとするかのように、画家はちょっと間《ま》を置いた。また扉の向うで少女たちの声が聞えた。彼らは鍵穴のまわりにひしめいているらしく、おそらく隙間からでも部屋の中がのぞけるらしかった。Kはなんとかわびを言うのはやめにした。画家の気持をそらしたくはなかったが、画家があまりに高いところへ上ってしまい、こんなふうにしていわば人の手の及ばぬところに身を置いてしまうことを、確かに好まなかったからであった。それゆえ、彼はきいてみた。
「それは公に認められた地位なんですか?」
「いや」と、Kの言葉で先の話が腰を折られたように、画家は手短かに言った。しかしKは、相手を黙らせてしまうことを望まず、言った。
「で、そういうような認められていない地位のほうが認められているのよりも有力なことが、往々ありますね」
「それはまさしく私の場合がそうですね」と、画家は額に皺《しわ》を寄せてうなずいた。
「私は昨日工場主とあなたの事件について話しましたが、あの方が私に、あなたのことをお助けする気はあるか、とききましたので、『その方は一度私のところへ来ていただくといいんですが』と、お答えしました。で、あなたがこんなに早く来てくだすって、うれしいことです。事柄はあなたをたいへん悲しませているようですが、それについては私ももちろん不思議とは思いません。まず外套でもお脱ぎになったらどうですか?」
 Kはただほんの少しだけここにとどまるつもりだったが、画家のこのすすめは大いにありがたかった。部屋の空気が彼には次第にうっとうしくなってきたが、もうこれまでに何回か不思議に思いながら、部屋の隅《すみ》にある小さな、疑いもなく火のはいっていない鉄ストーヴを見ていたので、部屋の中のこの蒸し暑さは解《げ》しかねた。Kが外套を脱ぎ、上着のボタンもはずしていると、画家は弁解しながら言った。
「私は暖かくなけりゃいけないんです。だがここはたいへん気持がよろしいでしょう? 部屋はこの点、実に場所がいいんです」
 それに対してKは何も言わなかったが、彼を不快にしたのはほんとうは暖かさではなく、むしろこもった、息苦しくさせられるような空気のためであり、部屋はずっと前から換気されていないにちがいなかった。Kのこの気分のわるさは、画家が自分ではこの部屋で唯一の椅子にすわって画架の前に構えていながら、Kにはベッドの上にすわるようすすめたので、いよいよ強まったのだった。そればかりではなく、Kがベッドのほんの端にすわっている理由を画家は誤解したらしく、かえってKに、どうかお楽にしてくださいとすすめ、Kが躊躇《ちゅうちょ》しているので自分で出かけ、Kをベッドと布団のほうに深く押しこんだ。それからまた自分の椅子にもどり、ついに最初の具体的な質問を切り出したが、それはKにはほかのすべてのことを忘れさせたのだった。
「あなたは潔白ですか?」と、彼はきいた。
「そうです」と、Kは言った。
 この質問への返事はKを心からよろこばせた。ことにそれが、一人の私人に対して、したがってなんらの責任もなく言えたためであった。まだ誰も彼にこんなにあけすけにたずねたものはなかった。このよろこびを味わいつくすために、彼は言葉を足した。
「私はまったく潔白なのです」
「そうですか」と、画家は言い、頭を垂れて、考えこむ面持だった。突然また頭をもたげると、言った。
「もし潔白なら、事はきわめて簡単です」
 Kの眼差は曇った。この裁判所に信用が厚いと称する男は、無邪気な子供みたいなことを言う、と思った。
「私が潔白だからといって、事は簡単にはならないでしょう」と、Kは言った。それでも微笑せずにはおられず、ゆっくりと頭を振った。「裁判所が没頭しているたくさんの細かいことと関係がありますからね。ところで結局、本来は全然何もなかったはずなのに、どこからか大きな罪が出てくるのですよ」
「そう、そう、確かに」と、まるでKが自分の考えていることに要《い》らぬ邪魔をするとでもいうように、画家は言った。
「でもあなたは潔白ですね?」
「そりゃそうですよ」と、Kが言った。
「それがいちばん大切なことですからね」と、画家が言った。
 反駁《はんばく》などには影響される男でなかった。ただ、いかにも断固としてはいるものの、確信からそう言うのか、あるいはただ冷淡な気持から言うのかが、どうもはっきりとしなかった。Kはまずそのことを確かめようとし、そのため言った。
「あなたは確かに裁判所のことを私よりずっとよくご存じですし、私は、もちろんさまざまな人からですが、それについて聞いたこと以上にはほとんど知っていません。だがすべての人々の言うことは、軽率な告訴などは提起されないし、裁判所は一度告訴したとなると、被告の罪について固く確信し、この確信を取除くことは容易でない、ということではみな一致していますよ」
「容易でないですって?」と、画家はきき返し、片手を高く振った。
「いやけっして裁判所はそういう確信を取除かれませんね。この部屋で一枚のカンバスの上にすべての裁判官を並べて描き、あなたがそのカンバスの前で自分を弁護されたほうが、現実の裁判所でよりもずっと効果をあげられますよ」
「そうでしょう」と、Kはつぶやき、自分は画家をただちょっと探ってみようとしたのだったということを忘れていた。
 扉の向うでは、また一人の少女がききはじめた。
「ティトレリさん、お客さんはすぐ帰らないの?」
「みんな黙っていな!」と、画家は扉のほうに向って叫んだ。「お客さんとお話中だっていうことがわからないのか?」
 しかし、少女はこの返事では満足せず、またきいた。
「おじさん、その人のこと描《か》くの?」そして画家が答えなかったので、さらに言った。「ねえ、描かないでよ、そんないやなやつ」
 それに続いて、はっきりとはしない、賛成するような叫びが入り乱れて聞えた。画家は扉に飛んでゆき、ほんの少しだけ隙間《すきま》をあけると――嘆願するように差出された、合わさった少女たちの手が見えた――言った。
「静かにしないと、みんな階段から投げおろしてやるぞ。この階段にすわって、おとなしくしていなさい」
 おそらく子供たちはすぐには聞かなかったようで、画家は命令しなければならなかった。
「階段にすわるんだ!」
 するとやっと、静かになった。
「ごめんなさい」と、Kのところへまたもどってくると、画家は言った。
 Kは扉のほうにはほとんど向かず、相手が自分を守ろうと思っているのか、またどうやって守るつもりなのか、完全に画家にまかせていた。彼は今度もほとんど身動きせずにいたが、画家が彼のほうに身をかがめ、室外には聞かれないようにして彼の耳にささやいた。
「この女の子たちも裁判所に属しているんです」
「なんですって?」と、Kはきき、頭をわきに退《の》けて、画家をじっと見つめた。ところが画家のほうはまた椅子にすわり、半ば冗談、半ば説明のために、言った。
「まったくすべてが裁判所に属していますからねえ」
「そいつはまだ気がつきませんでした」と、Kは手短かに言った。画家の一般的な言いかたは、少女たちについてのヒントから不安な点をいっさい取除いていた。それでもKはしばらく扉のほうを見ていたが、その向うでは子供たちは今度は静かにして階段にすわっていた。ただ一人だけが、角材のあいだの裂目から一本の藁《わら》を突き出して、ゆっくりと上下に動かしていた。
「裁判所についての大要をまだご存じないようですね」と、画家は言い、両脚を大きくひろげ、爪先で床の上をぱちっと打った。「でもあなたは潔白なんだから、そんなものは必要としないでしょう。私ひとりであなたを助け出しますよ」
「どうやろうとおっしゃるんですか?」と、Kがきいた。「どんな論拠も裁判所にはむだだ、とほんの少し前ご自分で言われたばかりじゃありませんか」
「裁判所に持ち出されるような論拠だけがだめなんですよ」と、画家は言い、Kが微妙なある相違に気づいていないというように、人差指を上げた。「でも、この点について公の裁判所の背後、したがって評議室や廊下や、あるいはたとえばこのアトリエで試みることは、それとは事情が別なんです」
 画家の今言ったことは、Kにはもはやそれほど信じられぬことのようには思われず、それはむしろ、Kがほかの人々からも聞いたことと多くの一致を示していた。まったく、大いに有望でさえあった。裁判官がほんとうに、弁護士が言ったように容易に個人的な関係によって動かされるものならば、虚栄心の強い裁判官たちに対する画家の関係は特に重要であり、いずれにせよ過小に評価はできなかった。それからこの画家は、Kが次第に自分の身のまわりに集めた一群の援助者のうちでも、大いに板についていた。一度銀行で彼の組織力がほめられたことがあったが、まったくひとりになって自分だけに頼《たよ》らなければならない今では、それを極度にためしてみる絶好の機会を示すものだった。画家は、自分の説明がKに与えた効果を観察していたが、やがて少し不安らしい様子で言った。
「私がほとんど法律家のようにお話しすることを変にお思いじゃありませんか? 私がこんなに影響を受けているのは、裁判所の方々としょっちゅうお付合いをしているからなんです。もちろん、その利益もたくさんありますが、芸術的高揚は大部分消えてしまいますね」
「いったいどうやって初めて裁判官たちと結びつくようになられたのです?」と、Kは言ったが、画家をすっかり自分の仕事で使う前に、まずその信用を獲得しようと思ったのだった。
「非常に簡単なんですよ」と、画家は言った。「この結びつきは親譲りなんです。私の父がすでに裁判所の画家でした。それは、代から代へと伝えられてゆく地位なんです。このために新しい人間は使うことができません。すなわち、さまざまな役人の階級を描くためには、非常に多種多様な、そして何よりもまず秘密な規則が立てられているため、それらの規則はおよそある一定の家以外にはわかっていないのです。たとえば、あそこの引出しの中に父の手記がありますが、私は誰にも見せません。ところがそれを知っている者だけが、裁判官を描くことができるのです。けれど、私がこの手記をなくしても、私だけが自分の頭に畳んでいるたくさんの規則がありますので、誰も私の地位を私と争うことはできやしません。どんな裁判官も、昔の偉大な裁判官が描かれているように描かれたいのでして、それができるのは私だけです」
「それは羨《うらや》ましいかぎりですね」と、自分の銀行における地位を考えたKは、言った。「ではあなたの地位は微動もしないのですね?」
「そうです、微動もしません」と、画家は言い、誇らしげに肩をそびやかした。「それだからこそ、訴訟にひっかかっている哀れな男をそこここで助けてやろうという気にもなれるんですよ」
「で、どうやってそれができるんですか?」と、画家が今哀れな男と言ったのは自分ではないかのように、Kは言った。しかし画家は、話を脇道にそらさせてはいないで、言った。
「たとえばあなたの場合なら、あなたは完全に潔白なんだから、次のようなことをやってみようと思います」
 自分が潔白であることを繰返して言われることが、Kにはすっかりわずらわしくなっていた。こんなことを言って画家は訴訟がうまく片づくことを自分の援助の前提にしているが、もちろんそんなことでは援助も崩《くず》れてしまうだろうと、Kにはときどき思われるのだった。しかしこういう疑念があるにもかかわらず、Kは自分を抑《おさ》えて、画家の話すのをさえぎらなかった。画家の援助をはねつけるつもりはなく、援助してもらうことに決心していたのだったが、またこの援助のほうが弁護士のよりも危なげが少ないように思われた。このほうが悪気[#「悪気」に傍点]がなく、あけすけであるだけに、はるかに好ましかった。
 画家は椅子をベッドに近寄せて、声を低めて語り続けた。
「どんな種類の釈放を望まれるのか、まずお聞きしておくのをすっかり忘れていました。三つの可能性があって、ほんとうの無罪、外見上の無罪、それから引延ばし、となっています。もちろん、ほんとうの無罪がいちばんいいわけですが、ただ私にはこの種の解決をやれる力は少しもないのです。私の考えでは、ほんとうの無罪に持ってゆける力のある人は、およそ一人もいないと思います。この場合に決定力を持っているのはおそらく被告が潔白なことでしょう。あなたは潔白なのですから、おひとりであなたの潔白なことを頼りにすることも、実際できるわけです。それならあなたは私も要《い》らなければ、ほかのなんらの援助も要らないことになりますね」
 この整然たる言いかたは、初めはKを唖然《あぜん》とさせたが、次に彼は画家と同様声を低めて言った。
「あなたは矛盾に陥っておられる、と思いますね」
「なぜですか?」と、画家は我慢強くきき、にやにやしながら椅子にもたれかかった。この薄笑いがKに、画家の言葉の中にではなく、裁判手続きそのものの中に矛盾を見いだすことに今や取りかかっているのだ、という感情をいだかせた。それでもたじろいではおらずに、言った。
「あなたは初めには、裁判所にはどんな論拠も歯がたたないと言われ、次に、ただしこれは公開の裁判の場合だけのことで裏には裏があるのだ、と言われたが、今度は、潔白な者は裁判所に対してなんらの援助も要らない、とさえ言われるのです。この中にすでに矛盾があります。そのうえ、裁判官には個人的に働きかけることができる、と前には言われたのに、今度は前言を否定して、あなたの言われるほんとうの無罪はとうてい個人的な働きかけで手に入れることができないものだ、と言っておられる。その点に第二の矛盾があります」
「そんな矛盾はたやすく説明できますよ」と、画家が言った。「ここでは二つのちがった事柄が話に出ているので、法律に書いてあることと、私が個人的に経験したことと、それを混同しちゃいけませんよ。法律には、もっとも私は読んだことはありませんが、もちろん一面では、罪のないものは無罪とされる、と書いてあるが、他面、裁判官は手を使えば動かせる、とは書いてないでしょう。ところが私はその全然反対を経験したのでした。ほんとうの無罪宣告なんかひとつも知らないが、裁判官を動かした例はたくさん知っています。もちろん、私の知っている事件には無罪の場合がなかったのだ、ということもありえます。でもそんなことはありそうもないことじゃありませんか? あんなにたくさんの事件にただのひとつの無罪もないものでしょうか? すでに子供のときに、父親が家で訴訟のことを話すのを聞きましたし、父のアトリエにやってくる裁判官たちも、裁判のことを話したものです。私たちのサークルでは、およそほかのことなんか話さないのです。自分で裁判所に行く機会があるようになるとすぐ、私はそういう機会をいつも利用しつくし、無数の訴訟を重要な段階で傍聴し、眼で見ることのできるかぎりはそれを追っかけてきました。それなのに――私は告白しなければなりませんが――ほんとうの無罪宣告なんか出会ったためしがないのです」
「ただの一度も無罪宣告に出会ったことがないというわけですね」と、自分自身と自分の希望とに言い聞かすように、Kは言った。「ですがそのことは、裁判所について私がすでにいだいていた考えを裏書きするものです。ですから裁判所は、この面からも無用なわけですね。ただ一人の首斬《くびき》り人がいれば裁判所全体のかわりをすることでしょうよ」
「そう一般的な言いかたをしちゃいけません」と、画家は不満げに言った。「私はただ自分の経験のことを言ったんですから」
「でもそれで十分ですよ」と、Kは言った。「それとも以前に無罪宣告があったことを聞かれたことがあるんですか?」
「そういう無罪宣告は」と、画家は答えた。「もちろんあったはずです。ただ、それを確かめることがむずかしいだけです。裁判所の終局の決定は公開されませんし、それは裁判官にも近づきがたいものなので、そのため昔の判例についてはただ伝説が残っているだけなんです。こうした伝説はもちろんほんとうの無罪宣告を多数含んでさえいて、信じることはできましょうが、証明することはできないのです。それでも全然無視することはできないのでして、ある種の真実は確かに含んでいますし、またたいへん美しいので、私自身も、このような伝説を内容としているいくつかの絵を描いたようなわけです」
「単なる伝説じゃ私の意見を変えられませんね」と、Kは言った。「きっと裁判所の前に出たら、こういう伝説を引合いに出すわけにもいきますまいしね?」
 画家は笑った。
「そう、それはできませんね」と、彼は言った。
「それじゃ、そんなことについてしゃべるのも無益なわけです」と、Kは言い、画家の意見がありそうもないことだと思われ、またほかの意見と矛盾している場合でも、まずしばらくはみな受入れておこうと思った。画家が言ったことすべてを真相かどうか確かめたり、あるいは全然|反駁《はんばく》し去る時間は彼にはなかったし、たとい決定的ではないにせよなんらかのしかたで自分を援助するように画家を動かしたことで、上々のことだった。そこで彼は言った。
「それじゃほんとうの無罪宣告のことは除外するとして、もう二つの別な可能性のことを話すとしましょう」
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです。それだけが問題になりますね」と、画家は言った。「だが、その話をする前に、上着をお脱ぎになりませんか? きっとお暑いでしょう」
「そうですね」と、Kは言ったが、これまでは画家の説明だけにしか気を配っていなかったのに、今は暑さを思い出さされたため、ひどい汗が額の上ににじみ出てきた。「ほとんど耐えられませんね」
 画家は、いかにもKの不快がよくわかるというようにうなずいた。
「窓をあけてはいけませんか」と、Kがきいた。
「だめです」と、画家が言った。「ただガラス板をしっかりはめてあるだけですから、あけられないのです」
 Kはそこでやっと、画家か自分が突然窓ぎわに行き、窓をあけ放つという場合のことを今までずっと期待していたのだ、ということに気がついた。実は、霧でも口いっぱいに吸いこもうと待ちかまえていたのだった。この部屋で空気から完全に遮断《しゃだん》されているという気持が、彼に眩暈《めまい》を覚えさせた。自分のそばの羽根布団の上を軽く手でたたき、弱々しそうな声で言った。
「これじゃまったく気分もわるいし、健康にもわるいでしょうね」
「いや、そんなことはありません」と、画家は自分の窓を弁護するために言った。「窓があかないため、ただのガラス一枚だけなんですが、この部屋では二重窓よりもよく暖かさが保たれます。たいして必要じゃないんですが、換気をしようと思えば、材木の隙間のどこからでも空気がはいってきますんで、扉をひとつか、あるいは両方でもあければいいんです」
 Kはこの説明で少し安心させられ、画家の言う第二の扉はどこにあるかと、あたりを見まわした。画家はその有様に気づき、言った。
「扉はあなたの後ろにありますが、ベッドでふさがなけりゃならなかったんです」
 今やっとKは壁の小さな扉を見た。
「この部屋ではすべてがアトリエにしちゃあんまり小さすぎるんです」と、Kの非難に先まわりしようとするように、画家が言った。
「できるだけうまく配置をしなけりゃならなかったんです。扉の前にベッドじゃ、もちろんたいへんまずい場所にあるわけです。たとえば、私が今|描《か》いている裁判官なども、いつもベッドのそばの扉からはいってきます。そしてこの扉の鍵も渡してありますので、私が家にいなくとも、このアトリエにはいって私を待てるわけです。ところが彼は、たいてい私がまだ寝ているうちに朝早くやってくるんです。ベッドのそばの扉があけば、もちろんぐっすり寝込んでいても起されてしまいますよ。朝早く私のベッドに乗る裁判官を迎えるときの私の悪口|三昧《ざんまい》をお聞きになれば、あなたは裁判官に対する畏敬《いけい》の念などなくしてしまうことでしょう。もちろん鍵を取上げることはできましょうが、そうすりゃいっそう不快な目にあうだけです。なにしろこの部屋じゃ、どんな扉もほんの少し手を下すだけでわけなく蝶番《ちょうつがい》からはずせますからね」
 この話のあいだじゅう、上着を脱ぐべきかどうか、Kは考えていたが、もしそうしなければ、この部屋にこれ以上とどまることはできない、ととうとう見てとったので、上着を脱いだが、用談が終ったらまた着ることができるように、膝《ひざ》の上にのせた。上着を脱ぐやいなや、少女たちの一人が叫んだ。
「上着を脱いじゃったわよ!」そして、この見ものを自分でも見ようとして、子供たちはみな隙間にひしめき集まった。
「子供たちはつまり」と、画家が言った。「私があなたのことを描くので、あなたが上着を脱がれたのだ、と思いこんでいるんです」
「そうですか」と、Kは言ったが、腕まくりになってすわっているものの、前よりたいして気持がよくならないので、相手の言葉をほとんどおもしろいとも思わなかった。まるでぶつぶつ言うように、彼は言った。
「ほかの二つの可能性というのはなんでしたっけね?」
 その言いかたをまたもう忘れていたのだった。
「外見上の無罪宣告と引延ばし作戦とです」と、画家は言った。「どちらを選ぶかは、あなた次第です。いずれにせよ私が援助すればできることですが、もちろん骨が折れぬわけじゃありません。この点のちがいというのは、外見上の無罪宣告のほうは一時に集中した努力が必要ですし、引延ばしのほうはずっと少ないが、長く続く努力が必要だ、というところにあります。そこでまず外見上の無罪宣告のほうです。あなたがこれをお望みと言われるなら、私は全紙一枚にあなたの潔白なるゆえんの証明書をあげます。こういう証明書の型は父から伝えられていて、全然文句をつけられないものです。ところでこの証明書を持って、私の知っている裁判官のところをまわり歩くんです。そこでたとえば、今描いている裁判官が今晩モデルになりにここへ来たときに、その証明書を見せてやる、ということから始めるんです。私は彼にその証明書を見せ、あなたが無罪だということを言明し、あなたの無罪を保証してやります。だがそいつは、単に外面的ではなくて、ほんとうの、拘束力のある保証なんですよ」
 画家の眼つきの中には、Kが自分にこんな保証をするという重荷を負わせようとしているのだ、と言わんばかりの非難めいたものが浮んでいた。
「まったく大いにありがたいことです」と、Kは言った。「で、裁判官があなたを信じても、私にはほんとうの無罪を宣告してくれないんじゃありませんか?」
「すでに申しましたように」と、画家は答えた。「もとより、どの裁判官も私を信じてくれるかどうかはまったく確実なわけでなく、たとえば多くの裁判官は、あなたご自身をお連れすることを要求するでしょう。そうしたらあなたには一度ごいっしょに行っていただかなければなりません。もちろんこうなれば事はすでに半ばはうまくいったようなものです。ことに私はもちろん、問題の裁判官のところでどう振舞わなけりゃならないかっていうようなことは、前もって詳しくお教えしておきますからね。それよりまずいのは、――これも起るかもしれないんですが――私のことを初めから受けつけてくれない裁判官たちの場合です。こういう連中は、もちろん私はいろいろやってはみますが、あきらめることで、なに、そうやっても大丈夫なんです。なにしろ個々の裁判官が事を決定するわけじゃありませんからね。さてこの証明書に十分な数の裁判官の署名をもらったら、この証明書を携えて、まさにあなたの訴訟をやっている裁判官のところへ行きます。おそらくその署名ももらえましょうが、そうなれば万事はそれまでより少しは早く運んでゆくというものです。だがこうなればもう一般にはたいして妨害もなく、被告たちにとっていちばん確信の持てる時期なんです。変ではありますがほんとうのところ、人々はこの時期のほうが無罪宣告の後《あと》よりもいっそう確信が持てるものです。今やもう特別の骨折りなんか要りません。裁判官は証明書に相当数の裁判官たちの保証を得たわけですし、心配なくあなたに無罪を宣告できますし、もちろんさまざまな形式を踏んでからのことですが、私やほかの知人たちにもありがたいことに、疑いもなく無罪宣告をすることでしょう。ところであなたは裁判所を出て、自由というわけです」
「そうなれば自由というわけですね」と、Kは躊躇《ちゅうちょ》しながら言った。
「そうです」と、画家は言った。「しかしただ外見上だけ自由、あるいはいっそううまく言えば、しばらくのあいだの自由なんです。つまり、私の知人であるいちばん下のほうの裁判官たちは、最後的に無罪を宣告する権限がなく、そういう権限はただいちばん上の、あなたにも私にも、私たちすべてにとってまったく手の届かない裁判所だけが握っているのです。そこがどういうものかは、私たちにはわかりませんし、ついでに申しておけば、知ろうとも思わないんです。そこで、告訴から解放する大きな権限は私たちの裁判官も持っていませんが、彼らは確かに、告訴からゆるめる権限は持っているんです。すなわち、あなたがこういうふうにして無罪を宣告されると、あなたは一時告訴から離れますが、告訴はその後もあなたの上に漂っていて、上からの命令があり次第、すぐに効力を発生するんです。私は裁判所と非常に深い結びつきにありますから、またあなたに申上げられますが、裁判所事務局に対する規定中には、ほんとうの無罪宣告と外見上のとの区別は、純粋に外面的に示されているだけです。ほんとうの無罪宣告の場合には、訴訟文書は完全に廃棄され、手続きからすっかり姿を消し、告訴だけでなく、訴訟も、無罪宣告も取消され、いっさいが取消されるのです。外見上の無罪宣告となるのと別です。文書について言うと、無罪の証明、無罪の宣告、そして無罪宣告の理由についていよいよ文書がふえるという以外の変化は起らないのです。ところで文書は依然として手続き中ですから、裁判所事務局間の絶え間のない交渉によって要求されるままに上級各裁判所に送りこまれ、下級裁判所に差戻しになり、大小の振れ、長短の滞りによって上下に揺れるわけです。これらの道程は予測がつきません。外側から見ると、ときどきは、いっさいがずっと前から忘れられ、文書は紛失し、無罪宣告は完全なもののように見えます。だが、事情に明るい人間ならば、そんなことは信じません。文書は紛失したわけでなく、裁判所が忘れることなどありえません、いつか――誰もそれを期待しないわけですが――裁判官の誰かが文書を注意深く手に取り、この事件においては告訴がまだ生きていることを認め、即時逮捕を手配します。ここで私は、外見上の無罪宣告と新しい逮捕とのあいだには長時間が経過するということを認めたわけでして、それはありうることで、私もそういう場合をいろいろ知ってはおりますが、無罪を宣告された者が裁判所から家に帰ってみると、彼をまた逮捕するという命令を受けた人間が家で待っている、ということも同じようにありうることなんです。こうなればもちろん、自由な生活は終りです」
「そして訴訟は改めて始まるんですか?」と、Kはほとんど信じられないできいた。
「もちろん」と、画家は言った。「訴訟は改めて始まるんですが、また前と同様に外見上の無罪宣告を受ける可能性があるわけです。また全力を集中すべきで、けっして降参してはいけません」
 最後の言葉を画家が言ったのは、おそらく、少しげっそりしてしまったKが彼に与えた印象を考慮に入れてのことであった。
「ですが」と、画家が何か暴露することに先まわりするかのように、Kはきいた。「第二の無罪宣告を受けることは、最初の場合のよりもむずかしいんじゃありませんか?」
「この点では」と、画家が答えた。「なんともはっきりしたことは言えません。あなたはきっと、裁判官たちが第二の逮捕というんで、被告のために判決でなんらかの影響を受けるのではないか、とおっしゃるんでしょう? そういうことはありません。裁判官たちはすでに最初の無罪宣告の際にこの逮捕を予見していたのです。ですからこういう状態はほとんど影響力を持つことはありません。しかし、そのほかの無数の理由から、裁判官たちの気持や事件に対する法律的判断が別になっている場合もありますし、第二の無罪宣告のための努力は、変化した情況に適合させられなければなりませんし、一般的に言って、最初の無罪宣告の前と同じように力を尽してやられなくてはなりません」
「でも、この第二の無罪宣告もまた、終りというわけじゃないんでしょうね」と、Kは言い、それを拒むかのように頭をめぐらした。
「もちろんそうじゃありません」と、画家は言った。「第二の無罪宣告には第三の逮捕が続き、第三の無罪宣告の次には第四の逮捕と続いてゆきます。そのことは外見上の無罪宣告という言葉の中に含まれているわけです」
 Kは黙っていた。
「外見上の無罪宣告は、あなたには明らかに有利でないように見えますね」と、画家が言った。「おそらくあなたには引延ばしのほうがいっそうよくあてはまるでしょう。引延ばしなるものの本質を説明してさしあげましょうか?」
 Kはうなずいた。画家はゆったりと椅子によりかかり、寝巻のシャツをはだけ、片手をその中に差しこんで、それで胸と脇腹《わきばら》とをなでていた。
「引延ばしというのは」と、画家は言い、完全に適切な説明を捜しているようにしばらく前方を見つめるのだった。「引延ばしというのは、訴訟が引続いていちばん低い訴訟段階に引留められることを言うのです。これをうまくやるには、被告と援助者、特に援助者のほうが、裁判所と絶えず個人的な接触を保つことが必要です。繰返して申上げますが、この場合には外見上の無罪宣告を受けるときのような労力は必要ではありませんが、もっとずっと注意力が必要です。訴訟を絶えず眼から離さぬようにし、担当裁判官のところへ規則的に時間を隔て、またさらに特別なことのあるときには出向き、こういうふうにして親しみを持たせるように努めなければなりません。裁判官と個人的に知り合っていなければ、知合いの裁判官を通じて圧力をかけてやるとともに、そうだからといって直接の話し合いをあきらめてしまわないことです。この点を怠らなければ、訴訟は最初の段階を超《こ》えて進むことはないということを、十分確実に認めることができます。訴訟は終るわけでありませんが、被告は自由な場合とほとんど同じように有罪判決を受ける心配がありません。外見上の無罪宣告に比べて、引延ばしには、被告の将来がずっと安定しているという長所があります。つまり突然の逮捕に驚かされるというようなことがなく、ほかの形勢がきわめて不利のような場合であっても、外見上の無罪宣告を受ける場合につきもののさまざまな努力や焦慮を引受けねばならないと心配する必要はありません。もちろん引延ばしも被告にとって過小には考えられないところのある種の短所を持っています。こう言っても、被告がけっして自由にならないということを考えているのではありません。それは外見上の無罪宣告の場合にもほんとうのところでは同じだからです。私の言うのは、別な短所なのです。少なくとも外見的な理由がなければ、訴訟は停滞することはできません。それゆえ、訴訟において外面に向って何事かが起らなくてはなりません。それでときどきさまざまな指令が発せられなくてはなりませんし、被告が尋問され、審理が行われるとか、そのほかのことがなされなければならないんです。そこで訴訟はしょっちゅう、人為的に閉じこめられた小さな範囲で引きまわされなければなりません。これはもちろん、被告にある不快を伴うものではありますが、それもまたあなたはあまり思いすごしされてはいけません。実のところ万事はただ外面的なものでして、たとえば尋問もまったく簡単なものにすぎず、出かけてゆく暇や気持がなければ、断わることもできますし、ある裁判官たちの場合には、長い時期にわたってのさまざまな指示をあらかじめ相談してきめることもでき、本質的にはただ、被告なんだからときどき裁判官のところへ出向かなければならない、というだけのことです」
 最後の言葉がまだ語られているうちに、Kは上着を腕にかけて、立ち上がった。
「立っちゃったわよ!」と、すぐさま扉の外で叫び声がした。
「もうお帰りですか?」と、自分も立ち上がった画家が言った。「きっと空気のせいで部屋にはいたたまれなくなられたんでしょう。たいへん残念なことです。まだたくさんお話しせねばならなかったのに。もっと手短かに申上げねばならないところでした。でも、おそらくおわかりになっていただけたものと思います」
「ええ、そうですとも」と、Kは言ったが、聞くために無理にしていた努力で、頭が痛かった。こう保証してやったのに、画家は、帰路のKに慰めを与えてやろうとするように、これまで言ったことをみなもう一度取りまとめるため、言うのだった。
「二つの方法には、被告の有罪判決を妨げるという共通点があります」
「しかし、ほんとうの無罪宣告というものも妨げてしまいますね」と、自分がそれに気づいたことを恥じるように、Kは低い声で言った。
「あなたは事の核心を握られました」と、画家は早口に言った。
 Kは外套《がいとう》に手をかけたが、着る決心がつきかねていた。みんな引っつかんで、新鮮な空気の中へ駆けてゆくことがいちばんしたく思われた。子供は早まって、あのおじさんが着物を着る、と互いに叫び合っていたけれども、Kに着物を着させるにはいたらなかった。Kの気持をなんとか解釈することが画家には大切だったので、言った。
「私の提案についてまだ決心されていらっしゃらないようにお見受けします。それはごもっともだと思います。私も、すぐ決心することはなさらぬようにとさえ、おすすめしたのですからね。長所と短所とが紙一重なんです。万事詳しく見積ってみなければなりません。もちろんあまり時間を失うことはできませんが」
「またすぐまいります」と、Kは言い、急に決心して上着を着、外套を肩の上にひっかけ、扉のほうに急いだが、扉の後ろでは子供たちが叫びはじめた。Kには、叫んでいる少女たちが扉を通して見えるような気がした。
「だがお約束は守っていただきます」と、Kを送ってついては来なかったが、画家は言った。「でないと、自分から伺いに銀行に行きますよ」
「どうか扉をあけてください」と、Kは言い、把手《とって》を引っ張ったが、手ごたえを感じたので、少女たちが外でしっかと押えているのがわかった。
「子供たちがうるさいですが、いいですか?」と、画家はきいた。「むしろこの出口をお使いになったらどうですか」と、ベッドの後ろの扉を示した。
 Kは合点とばかりベッドまで飛んでもどってきた。ところがそこの扉をあけもしないで、画家はベッドの下にもぐりこみ、下からきいた。
「もうちょっとお待ちください。絵をひとつ見ていただけませんか? なんならあなたにお譲りしてもいいですよ」
 Kは、無愛想にもできない、と思った。なにしろ画家は自分のことを引受けてくれ、今後も援助すると約束もしてくれたのだが、自分が忘れっぽいため援助に対する報酬のことをも全然言ってはなかったし、無下《むげ》には断われなかった。そこで、アトリエから出ようと落着かずにうずうずしてはいたが、絵を見せてもらうことにした。画家はベッドの下から一束の額縁のない絵を取出したが、ひどく埃《ほこり》が積っていて、画家がいちばん上の絵から埃を吹き払おうとすると、しばらくは埃が眼の前にもうもうと立って息もつけなかった。
「荒野の風景です」と、画家は言い、Kにその絵を手渡した。二本の弱々しげな樹が描かれていて、はるかな距離をおいて黒ずんだ草の中に立っていた。背景は多彩な日没の光景だった。
「いいですね」と、Kは言った。「いただきましょう」
 Kは考えもなしにひどく手短かに言ったが、画家がその言葉を別にわるくもとらず、二番目の絵を床から取上げたので、ほっとしたのだった。
「これはその絵とは反対傾向の作品です」と、画家が言った。反対傾向の作品のつもりだったのだろうが、最初の絵に比べて少しのちがいも認められず、ここには樹々があり、ここには草があり、そこには日没がある、というようなものだった。だがKにはそんなことはどうでもよかった。
「美しい風景ですね」と、彼は言った。「両方いただき、事務室にかけましょう」
「モチーフが気に入られたようですね」と、画家は言い、第三の絵を持ち出し、「幸いなことに、ここにも同じような絵があります」
 ところが同じようなどころでなく、むしろ完全に同じ荒野の風景だった。画家は、古い絵を売るこの機会を存分に利用したのだった。
「これもいただきましょう」と、Kは言った。「三枚でいかほどでしょう?」
「ま、その話はこの次にしましょう」と、画家は言った。「お急ぎのようですし、私たちはどうせ連絡があるわけですからね。ともかく、絵が気に入られてうれしいことです。ここの下にある絵をみな差上げましょう。みな荒野の風景ばかりですが、もうこれまでにたくさんの荒野の風景を描きました。多くの人は、陰鬱《いんうつ》なのでこんな絵はいやだ、と拒まれますが、でもほかの人々には、あなたもその一人ですが、その陰鬱なのをこそ好かれます」
 しかし、Kは乞食画家の職業体験などには全然興味がなかった。
「みんな包んでください!」と、画家の話をさえぎって、彼は叫んだ。「明日小使が来て、持っていきますから」
「いや、それにはおよびません」と、画家が言った。「おそらく、すぐあなたと行ってくれる運び手をご用だてできるでしょう」
 そしてついにベッドの上に身をかがめると、扉をあけた。
「ご遠慮なくベッドの上にお乗りください」と、画家は言った。「ここに来る人は誰でもそうするんですから」
 こうすすめられなくともKも遠慮をするつもりはなく、片足を羽根布団の真ん中に置いていたが、あいた扉を通して向うを見て、足をまた引っこめた。
「あれはなんです?」と、彼は画家にきいた。
「何を驚いておられるんです?」と、画家のほうもKの有様に驚いて、きいた。「あれは裁判所事務局ですよ。ここに裁判所事務局があることをご存じなかったんですか? 裁判所事務局はほとんどどの屋根裏にもありますから、どうしてここにだけあってはならないということがありましょう? 私のアトリエもほんとうは裁判所事務局のものなんですが、裁判所が私に用だててくれているんです」
 ここに裁判所事務局を見つけたことにKはたいして驚きはしなかったが、主として自分自身、自分の迂闊《うかつ》さに驚いたのだった。しょっちゅう心構えをしていて、けっして驚かされたりしないで、左手には裁判官が自分のすぐそばに立っているのに、ぼんやり右手をながめたりしないというのが、被告の態度の根本原則だ、と彼は思っていたが、――まさにこの根本原則にしょっちゅう抵触するのだった。彼の前には長い廊下が延びており、そこから風が吹いてくるが、それに比べるとアトリエの空気のほうがまだしもさわやかに思われた。ベンチが廊下の両側に置かれ、Kの関係している事務局の待合室とそっくりそのまま同じだった。事務局の配置には細かな規定があるように思われた。今のところここでは、訴訟当事者たちの往来はたいしてしげくはなかった。一人の男がベンチの上で半ば横になり、顔をベンチの上に置いた両腕に埋め、眠っているらしかった。もう一人の男が廊下の奥の薄暗がりの中に立っていた。Kはベッドを乗り越えたが、画家は絵を持って彼に続いた。間もなく一人の廷丁《ていてい》に出会ったが、――Kは今では、私服の普通のボタンに混じってついている金ボタンですぐどんな廷丁でもそれとわかるのだった。――画家はその男に、絵を持ってこの方にお供するように、と頼んだ。歩いてゆくと、Kは次第に頭がぐらぐらしてきて、ハンカチを口に押し当てていた。出口のすぐそばまで来たとき、少女たちが彼らに向って殺到してきたが、これで見るとこの連中にかかってはやはりKも免れることができなかったのだった。子供たちは明らかにアトリエの第二の扉があけられたのを見て、こちら側からはいりこもうとしてまわり道をしたのだった。
「もうお供できませんよ!」と、子供たちに押しつけられて笑いながら、画家が叫んだ。
「さようなら! あまり長く考えこんでいないようにしてください!」
 Kは二度と画家のほうを振向かなかった。
 小路に出て、出会った最初の馬車に乗った。廷丁を追い払うことが彼には問題だった。普通ならばおそらく誰にも目だつような男ではないが、廷丁の金ボタンが絶えず眼にはいってたまらなかった。いかにも職務大事といわんばかりに、廷丁は御者台にすわろうとした。だがKは彼を追い払っておろした。Kが銀行の前に着いたときは、正午はもうとっくに過ぎていた。絵は車の中にほっぽらかしにしたかったが、いつかの機会に画家に向って、この絵を持って帰れと言う必要に迫られることがあろうか、と思った。そこでそれを事務室に持ちこませ、少なくともここ数日は支店長代理の眼を逃れることができるように、机の一番下の引出しに鍵をかけて入れた。

第八章 商人ブロック・弁護士の解約

 ついにKは、弁護士に自分の代理をさせることをやめる決心をした。こういうふうに振舞うことが果して正しいだろうか、という疑念は根絶できなかったが、それが必要であるという確信が勝ちを占めた。弁護士のところへ行こうという日になって、その決心は彼から仕事する能力を大いに奪い、ことに遅い仕事の運びのため、きわめて遅くまで事務室に居残らなければならず、やっと弁護士の扉《とびら》の前に立ったときは、もう十時を過ぎていた。ベルを鳴らす前に、電報か手紙で解約するほうがよくはないか、面談するとなるときっと非常につらいだろう、と考えてみた。それでもKはついに面談をやめようとは思わなかった。ほかの形で解約すれば、それはただ黙ってか、あるいはごくわずかな形式的な言葉で受入れられるだろうし、レーニにいくらかでも探ってもらわなければ、弁護士がどうやってこの解約を受取ったか、またまんざらつまらぬものでもない弁護士の意見によれば、この解約がどんな結果を生じるか、知りようがなかったからである。ところが弁護士がKに向い合ってすわって解約を不意に聞くとなれば、たとい弁護士がたいして心中を打明けなくとも、その顔つきや態度から自分の欲するすべてのことを容易に推量することができるだろう。さらに、弁護士に弁護をまかせ、自分の解約を引下げるほうがよいと確信させられる場合もないとは言えなかった。
 弁護士の扉のベルを鳴らしても、最初は例のごとくむなしかった。
「レーニのやつ、もっと早くできようものを」と、Kは考えた。それでも、寝巻姿の男かあるいはほかの誰かが自分をわずらわすことになるのであれ、いつものようにほかの依頼人がはいりこむのでなければ、それだけでもまだましだった。Kは二度目にボタンを押しながらもうひとつの扉を振向いてみると、今日はこれもしまったままだった。ついに弁護士の扉ののぞき窓に二つの眼が現われたが、レーニの眼ではなかった。誰かが扉をあけたが、しばらくはまだ扉を押えていて、居間のほうに向って叫んだ。
「あの人だよ!」
 そして、それからやっと完全にあけた。Kは、その背後のほかの居間の扉で鍵《かぎ》があわててしめられるのを聞きつけたので、扉にぶつかっていった。そこで扉がついにあくと、まっすぐに控室に飛びこみ、部屋のあいだに通じている廊下をレーニが下着姿で逃げてゆく有様を見た。扉をあけた男の警告が向けられたのは、彼女にだったのだ。しばらくその後ろ姿を見ていたが、やがて戸をあけた男のほうに向き直った。顎《あご》も頬《ほお》もひげ一面の小柄な痩《や》せた男で、手に蝋燭《ろうそく》を持っていた。
「ここに雇われているんですか?」と、Kはきいた。
「いや」と、男は答えた。「この家の者ではありません。弁護士さんは私の代理人でして、ある法律問題のためにここに来ているんです」
「上着も着ておられませんが?」と、Kはきき、手振りでその男のしどけない身なりを指さした。
「ああ、お許しください!」と、男は言い、彼自身初めて自分の格好をながめるように、蝋燭で自分を照らした。
「レーニはあなたの恋人ですか?」と、Kは手短かにきいた。両脚を少し開き、帽子を持った両手を背後で組んでいた。頑丈《がんじょう》な外套《がいとう》を着ているだけで、この痩せた小男には大いに優越しているように感じられた。
「とんでもないことです」と、相手は言い、驚いて身を守るように手を顔の前にあげた。「どうして、どうして、いったい何を考えておられるんですか?」
「まあ信用しておきましょう」と、Kはにやにやしながら言った。「それはそうとして――いらっしゃい」
 彼は帽子で男に合図をし、先に立ってゆかせた。
「なんというお名前ですか?」と、歩きながらKはきいた。
「ブロック、商人のブロックです」と、小男は言い、こう名乗りながらKのほうに向き直ったが、Kは相手を立ち止らせてはおかなかった。
「ほんとうのお名前ですか?」と、Kはきいた。
「そうですとも」というのが返事だった。「どうしてお疑《うたぐ》りになるんですか?」
「お名前をお隠しになる理由がおありだろうと思いましたんでね」と、Kは言った。
 彼はきわめて自由な気分だったが、こんなふうになれるのは、普通ならばただ、見知らぬ土地で卑しい連中と話していて、自分自身に関することはいっさい自分の胸に納めておき、ただ落着きはらって他人の利害のことをしゃべり、それによって相手をおだて上げたり、また思いのままに突き落すことができるときにだけやれることである。弁護士の事務室の扉のところでは立ち止り、扉をあけ、おとなしくついてきた商人に向って叫んだ。
「そんなに急がないでください! ここを照らしてくれませんか?」
 Kは、レーニがこの部屋に隠れていまいかと思い、商人に隅々《すみずみ》まで捜させたが、部屋はからっぽだった。裁判官の絵の前でKは、商人の後ろからズボンつりをつかんで押しとどめた。
「あれを知っていますか?」と、彼はきき、人差指で高いところを示した。
 商人は蝋燭を掲げ、眼をぱちくりさせながら見上げて、言った。
「裁判官です」
「位の高い裁判官ですか?」と、Kはきき、その絵が商人に与えた印象を観察するため、商人の側にまわった。商人は感嘆しながら見上げていた。
「位の高い裁判官ですね」と、彼は言った。
「あなたもたいして眼がきかないですね」と、Kは言った。「位の低い予審判事のうちでもいちばん低いやつですよ」
「ああ、思い出しました」と、商人は言い、蝋燭を下げ、「私もそんなことを聞きましたっけ」
「そりゃあもちろんね」と、Kは叫んだ。「すっかり忘れていました、もちろんあなたもお聞きになっているにちがいありませんね」
「だが、なぜもちろんなんですか、いったいなぜ?」と、Kに両手で追い立てられて扉のところまで動いてゆきながら、商人はきいた。廊下に出て、Kは言った。
「どこにレーニが隠れているかご存じでしょう?」
「隠れているですって?」と商人は言った。「そんなことはわかりませんが、台所に行って、弁護士さんにスープをつくっているのでしょう」
「なぜすぐおっしゃってくださらないのです?」と、Kがきいた。
「あなたをお連れしようと思ったのに、私のことを呼びもどされたものですから」と、矛盾する命令に混乱させられてしまったように商人は答えた。
「きっとうまくやったと思っているんでしょう」と、Kは言った。「とにかく連れていってください!」
 台所にKは行ったことはなかったが、驚くほど大きく、設備が整っていた。炉だけでも普通の炉の三倍も大きかったが、入口のところにかかっている小さなランプだけで台所が照らされているので、ほかのものは細かなところがわからなかった。炉のそばにレーニは例のごとく白いエプロン姿で立ち、アルコールランプの上にかかっている鍋《なべ》に卵を流しこんでいた。
「今晩は、ヨーゼフ」と、横眼を使いながら彼女は言った。
「今晩は」と、Kは言い、片手でわきにある椅子を示し、商人にすわるように合図をすると、彼は言われるままにすわった。だがKはレーニのすぐ後ろに行き、肩の上に身をかがめ、きいた。「あの男は誰なの?」
 レーニは片手でKを抱き、もう片方の手でスープをかきまぜながら、彼を引きつけて、言った。
「ブロックっていう、かわいそうな人で、貧弱な商人なのよ。まああの人を見てごらんなさい」
 二人は振返った。商人はKに示された椅子にすわり、もう要《い》らなくなった蝋燭の光を吹き消し、煙を防ごうと指で燈心を押えていた。
「君は下着姿だったぜ」と、Kは言い、手で女の頭をまた炉のほうに向けた。女は黙っていた。
「恋人なのかい?」と、Kがきいた。女はスープ鍋をつかもうとしたが、Kはその両手を取って、言った。
「返事をするんだ!」
「事務室へいらっしゃいよ、みんなお話ししてあげるわ」と、女は言った。
「いや」と、Kは言った。「ここで話してもらいたいね」
 女は彼にしがみつき、接吻《せっぷん》しようとした。だがKはそれを払いのけると、言った。
「今、接吻なんかしてもらいたくはない」
「ヨーゼフ」と、レーニは言い、懇願するようにだが真っ向からKの眼を見た。「ブロックにやきもち[#「やきもち」に傍点]なんか焼いちゃいけないわ。――ルーディ」と、商人のほうを向いて言うのだった、「あたしを助けてちょうだい。ねえ、あたし疑られているのよ、蝋燭なんか置いて」
 商人は気をつけていなかったと思われるのだったが、まったくよく事情をのみこんでいた。
「なぜあなたがやきもちなんか焼くのか、私にもわかりませんね」と、ほとんど刃向う様子もなく言った。
「私にもほんとうはわかりませんよ」と、Kは言い、微笑しながら商人を見つめた。
 レーニは高笑いして、Kが気がつかないでいるのを利用して、彼の腕の中にはいりこみ、ささやいた。
「もうあんな人放っておきなさいな。どんな人かごらんになったでしょう。あたしが少しあの人の面倒をみるのは、弁護士の大顧客《おおとくい》だからで、ほかの理由なんかないわ。ところであなたは? 今日弁護士さんとお話しになるつもり? 今日はたいへんおわるいんだけれど、もし会いたいというんなら、取次ぎますわ。でも今晩はずっとあたしのところにいてよ、ねえいいでしょう。もうずっとここにはいらっしゃらないんだもの。弁護士さんさえあなたのことをきいたわ。訴訟のことを粗末にしちゃだめよ。あたしも、聞いたことをいろいろお話しするわよ。でもまず最初に外套《がいとう》をお脱ぎなさいってば!」
 彼が外套を脱ぐのを助け、彼から帽子を取上げ、それを持って控室に駆けてゆき、駆けてくると、スープを見た。
「あなたのことを先に取次ごうかしら、それとも先にスープを弁護士さんのところへ持ってゆこうかしら?」
「まず取次いでくれたまえ」と、Kは言った。
 彼は腹をたてていた。ほんとうは、自分のこと、ことに疑問がある解約のことをレーニと詳しく相談しようと思っていたのだったが、商人がいるのでそんなことをする気がなくなってしまった。しかし、こんな微々たる商人にすっかり邪魔にはいられるにはあまりに自分の問題は重要なように思われたので、もう廊下に出ていたレーニを呼びもどした。
「やっぱりまずスープを持っていってくれたまえ」と、彼は言った。「僕と話すためにも元気をつけておかなきゃいけないし、きっとほしいんだろう」
「あなたも弁護士さんの依頼人でいらっしゃるんですね」と、確かめるように商人は部屋の隅から小声で言った、だが、それはKによくは取られなかった。
「あなたとなんの関係があるんです?」と、Kが言うと、レーニも言った。
「あんたは黙っていらっしゃい。――じゃ、最初にスープを持ってゆくわ」と、レーニはKに言い、スープを皿に注《つ》いだ。「でも心配だわ、すぐ眠ってしまうのよ。食事がすむと、すぐ眠ってしまうの」
「僕があの人に言うことを聞いてくれれば、眠りはしないさ」と、Kは言い、何か重大なことを弁護士と折衝するつもりであることを見抜かせようとし、いったい何なのか、レーニにたずねさせ、そこで初めて彼女の助言を求めようと思った。ところが女は、ただ言われた命令をきちんと果しただけだった。盆を持って彼のそばを通り過ぎるとき、故意に軽く彼にぶつかり、ささやいた。
「スープを飲み終ったら、できるだけ早くあなたを取返せるように、あなたのことを取次ぐわ」
「行きたまえ」と、Kは言った。「行きたまえ」
「もっと親切にするものよ」と、女は言い、盆を持ったまま扉のところでもう一度、すっかりこちらを向いた。
 Kは女の後ろ姿を見送った。弁護士を断わるという決心が、今は最後的にきまった。あらかじめレーニとそれについて話すことがもうできなかったことも、きっとかえってよかっただろう。女には事柄の全体に対する十分な見通しがほとんどついていないので、きっとやめるようにすすめたことだろうし、おそらくはKも今回はほんとうに解約を思いとどまったことだろう。そして依然として疑惑と不安とにとどまることになり、しかもこの決心はあまりに動かせないものなので、結局はしばらくしてこの決心を実行することになっただろう。しかし、決心が実行されるのが早ければ早いほど、損害は避けられるわけだった。ところで商人もおそらくそれについて何か意見があるかもしれない。
 Kは振返ったが、商人はそれに気づくやいなや、すぐ立ち上がろうとした。
「どうかそのままにしてください」と、Kは言い、椅子をひとつ商人のそばに置いた。
「ずっと前から弁護士さんに依頼なすっていらっしゃるんですか?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人は言った。「古くからの依頼人です」
「何年ぐらい、あの人に弁護をやってもらっているんです?」と、Kはきいた。
「どういう意味かわかりかねますが」と、商人は言った。「商売上の法律事件では――私は穀物商をやっていますんで――あの弁護士さんに、商売を始めたときから弁護をやってもらっています。それでおよそ二十年来のことですが、私自身の訴訟のほうは、あなたはきっとこちらのことをおっしゃっているんでしょうが、やっぱり初めからのことで、もう五年以上にもなります。そうです、五年はたっぷり越えました」
 そして古い紙入れを取出して、言葉を続けた。
「ここに全部書きつけてあります。お望みなら、はっきりした日付を申上げましょう。全部が全部覚えていることはむずかしいですからね。私の訴訟はどうももっと前から続いています。妻が死んですぐ始まったのですからね。で、もう五年以上にもなります」
 Kは商人のほうに寄っていった。
「それじゃあ、弁護士さんは普通の法律事件も引受けるんですか?」と、彼はきいた。裁判所と法律学とがこういうふうに結びついているということは、Kには非常に安心に思われた。
「こういう法律事件でのほうがほかの事件でよりも有能だとさえ言われています」しかし、言ったことを後悔しているらしく、片手をKの肩に置いて、言った。
「どうか私の言ったことは内密にお願いします」
 Kは安心させるように男の腿《もも》をたたいて、言った。
「いや、私は裏切り者じゃないですから大丈夫ですよ」
「つまりあの人は執念深いもんですからねえ」と、商人は言った。
「でも、あなたのような忠実な依頼人には、あの人もきっと変なまねはしないでしょう」と、Kは言った。
「とんでもない」と、商人は言った。「興奮すると見境がありませんし、それに私もほんとうはあの人に忠実なわけでもないんでしてね」
「どうしてなんですか?」と、Kはきいた。
「そのことをあなたにお話ししなくちゃいけませんか?」と、商人は思い惑うように言った。
「してくださってもかまわないでしょう」と、Kは言った。
「それでは」と、商人は言った。「一部だけ申上げますが、私たち二人が弁護士に対して何も言わないという約束をしっかりと守るように、あなたも私に秘密なことを打明けてくださるんですよ」
「あなたはたいへん用心深いな」と、Kは言った。「だが、あなたを完全に安心させるにちがいない秘密をひとつ申上げましょう。ところで、弁護士に対するあなたの不実というのはいったいどういうことです?」
「実は」と、商人はためらいながら、何か面目ないことを白状するような調子で言った。「あの人のほかにほかの弁護士たちもいるんです」
「そんなことなら、たいしてわるいことじゃありませんよ」と、少しがっかりして、Kは言った。
「ところがここじゃあ」と、白状しはじめてから苦しそうな息をついた商人は、Kの言葉でいっそううちとけて、言った。「それが許されないんです。そして、いわゆる弁護士のほかに三百代言を頼むことはことに許されていません。ところがまさにそのことを私はやっているんで、三百代言が五人いるんです」
「五人ですか!」と、Kは叫んだが、まずこの数に驚かされたのだった、「このほかに弁護士を五人もですか?」
 商人はうなずいた。
「今ちょうど六人目と交渉中なんです」
「だが、どうしてそんなにたくさん弁護士が要《い》るんです?」と、Kはきいた。
「みな要るんです」と、商人は言った。
「そのわけを説明してくれませんか?」と、Kがきいた。
「いいですとも」と、商人は言った。「まず、訴訟に敗《ま》けたくないからです。これはむろんのことです、そのためには、利用できるものはなんでも見逃すわけにはゆきません。ある場合、役にたつ見込みがまったく少ないときでも、投げてしまうわけにはゆきません。それゆえ私は、自分の持っているものをみな訴訟につかってしまいました。たとえば、商売から金を全部|注《つ》ぎ込みましたし、前には私の店の事務室はある建物のほとんど一階全部にまたがっていたのですが、今では裏のほうの小さな部屋ひとつで十分で、そこで小僧と二人きりで働いているようなわけです。こうさびれた原因となったものは、もちろん、金の蕩尽《とうじん》ばかりでなく、むしろ仕事の精力の蕩尽なのです。訴訟のために何かをやろうとすれば、ほかのことには、ほんの少ししかかかわってはいられませんからね」
「それじゃあなたご自身も裁判所で仕事をやられるんですか?」と、Kはきいた。「まさにそのことについて伺いたいものです」
「その点については、ほとんどお話しすることがありません」と、商人は言った。「初めのうちは確かにそうもしようとしたのですが、すぐやめにしてしまいました。あまりに疲れて、たいして効果がないんです。裁判所で自分で仕事をやり、交渉をやることは、少なくとも私には全然できないことだとわかりました。そこではただすわって待つことだけで、たいへんな骨折り仕事です。あなたご自身も、事務局のあの重苦しい空気はご存じのはずですね」
「僕が事務局に行ったということを、どうして知っているんですか?」と、Kはきいた。
「あなたが通ってゆかれたとき、ちょうど待合室にいたんです」
「なんという偶然でしょう!」と、すっかり夢中になり、これまでの商人の滑稽《こっけい》さも忘れて、Kは叫んだ。「それじゃあ私をごらんになったわけだ! 私が通っていったとき、あなたは待合室におられたのですね。そう、一度通ったことが確かにあります」
「たいした偶然じゃありませんよ」と、商人は言った。「私はほとんど毎日のようにあそこにいるんですから」
「私もこれからおそらくしばしば行かなきゃなりませんが」と、Kは言った。「きっともうあのときほどうやうやしく迎えられることはないでしょうね。みなが起立しましたからねえ。きっと、私のことを裁判官だと思ったのでしょう」
「いや」と、商人は言った。「あのときは廷丁に挨拶《あいさつ》したのですよ。あなたが被告だということは、私たちは知っていました。こんな噂《うわさ》はすぐ広まりますからね」
「じゃあ知っていたんですね。だがそうなると、私の態度はきっと傲慢《ごうまん》に見えたことでしたろう。そのことをとやかく言ってはいませんでしたか?」
「いや」と、商人は言った。「それどころか。でもつまらぬことですよ」
「つまらぬことって、どんなことです?」と、Kがきいた。
「なぜそんなことをおききになるんですか?」と、商人は腹立たしげに言った。「あなたはあそこの連中のことをよくはご存じでないらしく、おそらく事情を誤解していらっしゃるのでしょう。あなたはよくお考えにならなけりゃなりませんが、この手続きではしょっちゅういろいろな事柄が口の端《は》に上りますが、そんなことはもう常識で間に合うものではなく、誰もがただ疲れ果て、いろんなことに気をそらされていて、その穴埋めに迷信に没頭することになるんですよ。他人のことを言っているわけですが、私自身だってたいしてまとも[#「まとも」に傍点]じゃありません。こんな迷信のひとつは、たとえば、多くの人たちが被告の顔、ことに唇《くちびる》の格好から、訴訟の成行きを読み取ろうとすることです。そこでこの連中は、あなたの唇の格好から判断すると、きっとすぐにあなたに有罪の判決が下されるだろう、と主張していました。繰返して申上げますが、ばかばかしい迷信でして、たいていの場合は事実とも完全に相反するのですが、あんな仲間の中にいると、こんな考えからなかなか脱けられないのです。まあ思ってもごらんなさい、こうした迷信は激しい力を持っているのですよ。あなたはあそこで一人の男に言葉をおかけになりましたね? ところがその男はあなたにはほとんど一言も答えられなかった。そりゃあ、あそこでは頭が混乱するたくさんの理由がありますが、ひとつにはあなたの唇を見たこともそれなんです。あの男が後《あと》で話してくれたところでは、あなたの口の上にあの男自身の有罪判決を見たように思ったということです」
「私の唇ですか?」と、Kはきき、懐中鏡を取出して、じっと見た。「私の唇に別に変ったところは見えませんけれどね。で、あなたはどうですか?」
「私もそう思いますね」と、商人は言った。「全然そんなことはありませんよ」
「あの連中はなんて迷信深いんでしょう!」と、Kは叫んだ。
「だからそう申上げたでしょう?」と、商人がきいた。
「いったいあの人たちはそんなに行き来をし、意見を交換し合っているんですか?」と、Kは言った。「私はこれまで全然仲間からはずれていましたよ」
「一般には互いに行き来してはいません」と、商人は言った、「それはできないでしょう、なにしろ人数が多いですからね。それに共通の利害もほとんどないんです。ときどきはあるグループで共通の利害という信念が浮び出ることもあるんですが、すぐに間違いだということがわかってしまいます。裁判所に対して共同でやられることなど、何もありません。各事件も単独に調べられ、まったく慎重きわまる裁判所というものですよ。それで共同で何もやることはできないんです。ただ個人が何かこっそりうまくやったことはときどきあります。それが成功したときにやっとほかの人々が聞くというわけですから、どういうふうにしてやられたか誰にもわかりません。それで共同一致ということはなく、待合室のあちこちで寄り合うことがあっても、そこで相談はほとんどされていません。迷信深い考えというのは昔からあって、確かにおのずとふえています」
「あの待合室に待っている人たちを見ましたが」と、Kは言った。「まったく無益なことに思われましたよ」
「待つことは無益じゃありません」と、商人は言った。「無益なのは自分だけで手出しをすることです。すでに申上げたように、私は今、この弁護士のほかに五人頼んでいます。彼らに事を完全にまかせることができるだろうと、人は思うでしょう。私自身からして初めはそう思いました。しかし、それはまったく間違っているんです。ただ一人に頼んでいるときよりもまかしておけないくらいです。このことはおわかりでないでしょう?」
「ええ」と、Kは言い、商人があまり早くしゃべるのを妨げるために、なだめるように自分の手を相手の手の上に置いた。「どうかもっとゆっくりお話ししてください。どれもみな私にとって大切な事柄ですが、どうもあなたのお話についてゆけません」
「それをおっしゃってくだすって結構でした」と、商人は言った。「で、あなたはまだ新米で、末輩です。あなたの訴訟は半年ばかりでしたね? そう、そのことは伺いました。そんなに新しい訴訟だなんて! ところが私はこうした事柄をもう数限りなく考え抜いてきましたので、世の中でいちばんわかりきったことなんですよ」
「あなたの訴訟がもうそんなに進んでいるのを、きっとよろこんでおられるでしょう?」と、Kはきいたが、商人の事件がどういう状態にあるのかあけすけにたずねようとは思わなかった。ところが相手からも、はっきりした返事は得られなかった。
「そうです、訴訟は五年間もころがしてきました」と、商人は言い、頭を垂れた。「簡単な仕事じゃありませんよ」
 それからしばらく黙った。Kは、レーニがもう来ないか、と耳を澄ました。一面では、彼女が来なければと思った。まだまだ聞きたいことはあるし、商人とこうしてうちとけて話しているときレーニに邪魔されたくはなかったからである。だがその反面、自分が来ているのにこんなに長く弁護士のところにいることに腹をたて、スープを持ってゆくだけならこんなに長くかかるわけはない、と思った。
「私は今でもまだ」と、商人がまたしゃべりはじめたので、Kはすぐ注意を集中した。「私の訴訟が今のあなたのと同じように新しかったときのことを覚えています。あのときはここの弁護士さんだけでしたが、大いに安心していたわけじゃなかったんです」
 これでなんでも聞きこめるぞ、とKは考え、勢いよくうなずいたが、それによって商人をけしかけて、知る値打ちのあることをなんでも言わせることができる、というような様子だった。
「私の訴訟は」と、商人は続けた。「さっぱり進みませんでした。それでも審理は行われ、私もそのたびごとに出向き、材料を集め、帳簿を全部裁判所に提出しましたが、これは後で聞いたところによると、全然必要じゃなかったそうです。しょっちゅう弁護士さんのところへ行き、弁護士さんもいろいろな願書を出してくれました――」
「いろいろな願書ですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人が言った。
「それは私には大切なことです」と、Kは言った。「私の事件の場合、あの人は今でもまだ最初の願書を書いてばかりいるんです。まだ何もやってはいません。これでわかりましたが、あの人は破廉恥にも私のことを無視しているんだ」
「願書がまだ完成しないということは、きっといろいろ理由があるんでしょう」と、商人は言った。「ところで、私の願書がまったく値打ちのないものだということが、後になってわかりました。ある裁判所の役人の親切でそのひとつを自分で読んだことさえあります。それは大いに学者ぶったものでしたが、ほんとうは中身がからっぽでした。まず、私にはわからないひどくたくさんのラテン語、次に数ページにわたる裁判所に対する一般的な嘆願、それから、はっきり名前はあげてはないが事情に通じた者ならかならずわかるにちがいない一人一人の役人に対するお世辞文句、それから次に、まさしく犬のように裁判所にへりくだっている調子の弁護士の自賛、そして最後に、私のと似てるという以前の法律事件の吟味、というわけです。これらの吟味は、もちろん、私がたどれたかぎりでは、きわめて慎重にできていました。こうしたことで弁護士の仕事に判断を下そうとは思いませんし、私が読んだ願書もたくさんのもののうちのひとつでしかなかったわけですが、ともかく当時訴訟になんらの発展が見られなかったということだけは、今申上げておきたいと思います」
「それじゃ、どんな発展を望まれたんですか?」と、Kはきいた。
「おたずねはごもっともです」と、商人は微笑しながら言った。「この手続きでは発展はほんのまれにしか望めないんです。ところがその当時はこのことが私にはわかっていませんでした。私は商人ですが、当時は今よりもっとずっと商人でしたので、はっきりとした発展というものがほしくて、全体が結末に近づくとか、あるいは少なくとも規則正しく上昇の経過をたどるとかしてもらいたかったのです。ところがそうはゆかずに、あるものはただ、たいてい同じ内容を持つ尋問ばかりでした。返答はもうまるで連祷《れんとう》の文句みたいに覚えこんでしまいました。週に何回も裁判所の使いが、店や、住居や、そのほか私に出会えるどこにでもやってきます。それはもちろんわずらわしいことでした。(今では少なくともこの点、ずっとよくなりました。電話の呼び出しですからずっと面倒がありませんのでね)そして、私の商売仲間や特に親戚《しんせき》のあいだでは私の訴訟の噂《うわさ》が広まりはじめますし、そのためあらゆる方面からの中傷が起りましたが、最初の審理が近く行われるだろうという徴候さえもさっぱり見えません。そこで弁護士さんのところへ行き、苦情を言いました。すると長々と言い訳を聞かせてくれはしたのですが、私の思うようなことを何かやるということはきっぱりと拒絶し、審理日の確定を左右する力はなにびとも持たない、願書でそのことをしつっこく迫るのは――私はそれを要求したわけですが――まったく前代|未聞《みもん》のことだし、そんなことをしたら私もあの人も破滅してしまうだろう、と言うのでした。この弁護士がしようとしないのか、あるいはできないのかのいずれかで、ほかの人ならしてくれる気にもなろうし、またできもしよう、と考えました。そこでほかの弁護士を物色してみました。ところが、私は少し先まわりして申上げますが、それからの弁護士は一人として本審理の日限の確定を要求しませんし、やってもくれませんでした。それはもちろん、これから申上げようと思いますが、ある条件のためにできないことです。それゆえ、この点についてはここの弁護士さんの言うことはまんざら嘘《うそ》じゃなかったわけです。ところで、ほかの弁護士たちに頼んだことは、私は少しも残念に思うことはありませんでした。あなたもきっとフルト博士からとっくに三百代言についてさまざまなことをお聞きでしょうし、たぶん彼らのことを非常に軽蔑《けいべつ》して言ったことでしょうが、それは確かにほんとうのことです。もっとも、博士が三百代言たちのことを語って自分や自分の同僚たちのことを彼らと比較するときはいつでも、ある誤謬《ごびゅう》がはいりこむんでして、ついでにこのことをあなたにご注意申上げておこうと思います。つまり博士はそういうときに、しょっちゅう自分の仲間の弁護士を区別するため、『大弁護士』と呼びます。これが間違いで、もちろん誰でも気に入るなら自分を『大』と称することはできますが、この場合に決定力を持っているのはただ裁判所の慣習だけのはずです。それによると、三百代言のほかにさらに大小の弁護士があるんです。しかし、ここの弁護士さんとその仲間の人たちは小弁護士にすぎず、大弁護士というのは私はただ噂に聞いただけで一度も見たことがありませんが、小弁護士があの軽蔑されている三百代言たちの上にあるのと比較にならないくらい、小弁護士よりも高いところにいるんです」
「大弁護士ですね?」と、Kはきいた。「いったいどういう人たちなんですか? どうしたら会えるんですか?」
「ははあ、あなたはまだ彼らのことをお聞きになっていないんですね」と、商人は言った。「彼らのことを聞かされたあとで、しばらく彼らのことを夢に見ないような被告というのは一人もありません。だがあなたは、むしろそんな誘惑にかかってはなりません。大弁護士が何者かは、私は知りませんし、彼らのところへ近づくことはきっと誰にもできないのです。彼らが手がけたとはっきり言えるような事件を、私は知りません。かなりの被告を弁護はするんですが、被告の意志ではどうにもならないし、彼らが弁護しようと思う者たちだけを弁護するんです。だが、彼らが引受ける事件というのは、きっと下級裁判所を超《こ》えたものにちがいありません。ともかく、彼らのことを考えないほうがよいでしょう。そうでないとほかの弁護士との話や彼らの忠告や尽力というものがきわめていとわしく、無益なものと思われるからです。いっさい投げ出してしまって、家でベッドに寝ころび、何も聞かないでいるのがいちばんいいと思うようになるっていうことは、私自身経験ずみです。しかし、これもまたもちろんばかげたことでして、ベッドに寝ていていつまでも安閑とできるもんじゃありません」
「それじゃあ、あなたはその当時大弁護士のことは考えなかったんですか?」と、Kはきいた。
「長くは考えませんでしたが」と、商人は言い、また薄笑いした。「残念ながらすっかり忘れることはできませんし、ことに夜にはこんな考えがとかく浮んできましてね。しかし、当時私は即効をあげることを望みましたんで、三百代言のところへ行ったんです」
「まあ、こんなところにくっついてすわって!」と、盆を手にしてもどってきて、扉のところに立ったレーニが、言った。
 確かに二人はひどくくっついてすわり、少し身体《からだ》の向きを変えても頭をぶっつけ合ったにちがいなく、もともと小柄なところへもってきて背中を曲げている商人は、Kにも、すべてを聞き取ろうとすると、身体を深くかがめさせるのだった。
「もう少し待って!」と、Kはレーニに拒むように叫び返したが、まだ依然として商人の手の上に置いていた手を、いらだたしそうにぴくぴくさせた。
「この方が私の訴訟の話を聞こうとおっしゃるんだよ」と、商人はレーニに言った。
「さあお話しなさい、お話しなさい」と、女は言った。女は商人と愛情をこめて話すが、また見下げた様子が見られ、これがKの気にさわった。今ではわかったのだが、この男はやはりある値打ちがあるし、少なくも経験を持ち合せており、それをうまく話すことができるのだ。レーニはどうもこの男を不当に判断している、そう思った。彼は、商人が長いあいだしっかと持っていた蝋燭《ろうそく》をレーニが商人の手から取上げ、エプロンで手をふいてやり、蝋燭からズボンに垂《た》れたいくらかの蝋をかき取ってやるため商人のそばにひざまずくさまを、腹だたしげに見ていた。
「三百代言のことをおっしゃってくださろうとしたところでしたね」と、Kは言い、それ以上何も言わずに、レーニの手を押しやった。
「何をするのよ?」と、レーニはきき、軽くKをたたき、蝋を落す仕事を続けた。
「そうです、三百代言のことでした」と、商人は言い、考えこむように額に手をやった。Kは助け舟を出そうとして、言った。
「あなたは即効をあげようと思われ、三百代言のところへ行かれたのです」
「そう、そのとおりでしたね」と、商人は言ったが、話を続けなかった。
「きっとレーニの前ではそのことを言いたくないんだな」と、Kは思って、先をすぐ今聞きたいといういらだたしさを抑《おさ》え、もうこれ以上催促はしなかった。
「僕のことは通じてくれた?」と、彼はレーニに言った。
「もちろんよ」と、女は言った。「あなたのことをお待ちかねよ。もうブロックはやめにしなさいな。ブロックはまだここにいますから後《あと》でもお話できてよ」
 彼はまだ躊躇《ちゅうちょ》した。
「ここにいらっしゃいますか?」と、商人にきいたが、商人自身の返事が聞きたく、レーニが商人のことをまるでいない者のように言うのが気に入らず、今日はレーニに対して心ひそかに大いに腹をたてていた。ところがまた、レーニが返答しただけだった。
「この人はここによく泊るのよ」
「ここに泊るって?」と、Kは叫んだ。商人には自分が弁護士との話を手早く片づけるあいだだけ待ってもらうが、すんだらいっしょに出かけて、すべてを徹底的に、誰にも邪魔されずに語り合うつもりだった。
「そうよ」と、レーニは言った。「誰でもあなたみたいに好きなときにやってきて、弁護士さんに会わせてもらえはしないわ、ヨーゼフ。弁護士さんが病気なのに、夜の十一時にもなって会ってくださるのを、あなたってば全然ありがたいとも思っていないようね。あなたのためにお友達がやってくれることを、まるで当り前のことだぐらいにしか考えていないのね。でもあなたのお友達、少なくともあたしは、よろこんでやってあげてよ。なんにもお礼なんか要らないわ、ただあたしをかわいがってくれればそれでいいの」
「お前をかわいがるって?」と、Kは最初の瞬間に考えたが、それから次に頭の中をかすめる考えがあった。「そうだ、実際おれはこの女を愛しているのだ」それにもかかわらず、彼はほかのことをいっさい無視して、言った。
「私は依頼人だから、会ってくれるのは当り前さ。もし会ってもらうためにも他人の助力が必要だというなら、一歩行くごとにしょっちゅう乞食《こじき》のように頼んだり、ありがとうを言ったりしなくちゃならないだろうよ」
「この人ったら今日はなんて機嫌《きげん》がわるいんでしょう、ねえ?」と、レーニは商人にきいた。
「今度はおれがいないも同然だ」と、Kは思い、商人がレーニの不躾《ぶしつけ》を引取って次のように言ったとき、ほとんど商人に対してさえ気をわるくしていた。
「弁護士さんがこの方を迎えるのにはほかのいろいろな理由があるんだよ。つまり、この方の事件は私のよりも興味があるんだ。そのうえ、この方の訴訟は始まったばかりで、したがって手続きもたいして進行はしていないらしいから、弁護士さんはまだよろこんでこの方のことにかかりあっているんだ。けれども後ではきっと変ってくるよ」
「そう、そうね」と、レーニは言い、高笑いしながら商人を見た。「この人はなんておしゃべりなんでしょう! あなたはこの人のことなんか」と、ここで女はKに向った。「少しでも信用しちゃだめよ。いい人なんだけれど、おしゃべりなの。おそらくそのために弁護士さんもこの人のこと我慢ができないのよ。ともかく、気が向かなければこの人なんかに会わないわ。そんなことやめさせようって、あたしもずいぶん骨を折ったけれど、できないのよ。いい、何度もブロックが来たってお伝えするのに、三日目になってやっと会うような始末なの。でも呼ばれたちょうどそのときにブロックがその場にいないと、みんなだめになり、また改めてお伝えしなけりゃならないのよ。それであたしはブロックにここに泊ることを許してあげたの。弁護士さんが夜中でもこの人のことを呼ぼうとベルを鳴らすことも、これまでにあったことだわ。それで今ではブロックは夜中でも用意しているの。もちろん今度はまたブロックがいるってことがわかると、弁護士さんはこの方をお通ししてくれって頼んだことをときどきやめにしてしまうこともあるわ」
 Kは、問いかけるように商人のほうを見た。商人はうなずき、さっきKと話し合っていたのと同じように率直に言ったが、羞恥《しゅうち》のためにおそらく混乱しているのだった。
「そう、あなたもそのうち弁護士さんの言うことをよく聞くようになりますよ」
「この人はただ見せかけに苦情を言っているのよ」と、レーニは言った。「ここに泊るのはうれしいって、あたしにもう何べんも白状したわ」
 彼女は小さな扉のところへ行き、それを押しあけた。
「あなたこの人の寝室をごらんになる?」と、女はきいた。
 Kはそちらへ出かけ、敷居のところから、幅の狭いベッド一つでいっぱいになっている天井の低い、窓のない部屋をのぞきこんだ。このベッドに乗るにはベッドの枠柱《わくばしら》を越えなくてはならないはずだった。ベッドの枕もとには壁の中にくぼみがあって、そこには、一本の蝋燭、インク壺《つぼ》、ペンおよび訴訟文書らしい一束の紙が、ひどくきちんと置いてあった。
「女中部屋でお休みになるんですね?」と、Kはきき、商人のほうを振返った。
「レーニが空《あ》けてくれたんですよ」と、商人が答えた。「とても便利ですよ」
 Kは長く商人の顔を見つめていた。彼が商人から受けた第一印象は、おそらく正しかったのだ。訴訟がもう長いあいだ続いたので、経験を持っているにはちがいないが、これらの経験に高価な代償を払ったのだった。突然Kは商人のこの有様に耐えられなくなった。
「この人をベッドに連れてゆきたまえ!」と、彼はレーニに叫んだが、女は彼の言うことが全然わからないらしかった。だがおれ自身は弁護士のところへ行こう、解約を通告して、ただ弁護士からばかりでなくレーニと商人とからも縁を切ろう、と思った。ところが扉のところまで行くか行かないかのうちに、商人が低い声で言葉をかけた。
「業務主任さん」
 Kは機嫌のわるそうな顔つきで振返った。
「あなたは約束をお忘れになりましたね」と、商人は言い、椅子から懇願するように身体を伸ばした。「私にも秘密をおっしゃってくださるということでしたが」
「そうでした」と、Kは言い、自分をまじまじと見つめるレーニにも一瞥《いちべつ》を投げた。「それじゃ聞いてください。もちろんほとんど秘密というほどのものじゃないんです。これから弁護士のところへ行って、解約するんですよ」
「この人は弁護士を解約するんだ!」と、商人は叫び、椅子から飛び上がって、腕を振上げて台所じゅうを走りまわった。何度も繰返して叫ぶのだった。「この人は弁護士を解約するんだ!」
 レーニはすぐKに飛びかかっていったが、商人が邪魔にはいると、両手の拳《こぶし》で一撃を加えた。なおも拳を握ってKの背後を追いかけたが、Kのほうはかなり逃げていた。もう弁護士の部屋に足を入れていたが、そこでレーニが追いついた。扉をほとんどしめたが、足で扉を食い止めたレーニは、彼の腕をつかみ、引戻そうとした。ところが女の手首を強く圧《お》したので、女はうめき声をあげて手を放さねばならなかった。女はこれ以上部屋の中に踏みこむことはしなかったが、Kは扉に鍵《かぎ》をかけた。
「たいへんお待ちしていましたよ」と、弁護士はベッドから言い、蝋燭の光で読んでいた文書を夜間用の机の上に置き、眼鏡をかけると、Kを鋭く見つめた。Kはわびもせずに、言った。
「すぐに帰りますから」
 わびではなかったので、弁護士はKのこの言葉を相手にせずにやりすごし、言った。
「この次はもうこんな遅くはお会いしませんからね」
「それは願ったりです」と、Kは言った。
 弁護士は、いぶかしげにKの顔を見た。
「まあおかけください」と、言った。
「ではお言葉どおり」と、Kは言い、椅子を夜間用の机のそばに引寄せ、すわった。
「扉の鍵をおかけになったようですな」と、弁護士は言った。
「そうです」と、Kは言った。「レーニのためでした」
 彼は、誰でも容赦するつもりはなかった。ところが弁護士はきいた。
「あれがまたしつっこいことをしましたか?」
「しつっこいですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、弁護士は言って笑ったが、咳《せき》の発作を起し、それが止ると、また笑いはじめた。
「きっとあれのしつっこいことをごらんになったでしょうね?」と、きき、Kがぼんやりと夜間用の机の上についていた手をたたいたので、Kは素早くその手を引っこめた。
「あなたはそのことをたいして問題にしておられぬようだが」と、Kが黙っているので弁護士は言った。「そのほうがよろしい。さもないとわしがおそらくあなたにおわびしなければなりませんからな。それがレーニの奇妙なところでしてね。わしは前からそれを大目に見ていますし、あなたがたった今扉をおしめにならなかったら、お話もいたさなかったでしょう。この奇妙なところというのは、もちろんあなたにご説明するまでもないんですが、あなたは私のことを驚いてごらんになるので申上げておきますけれど、それは、レーニがたいていの被告の人々を美しいと思いこむことなんですよ。あれは誰にでもくっつき、誰にでもほれますし、もちろん誰からも愛されもします。その後で、私がよいと言えば、わしを興がらせるため、ときどきそれについて話してくれます。お見かけしたところだいぶ驚いていらっしゃるようですが、わしはこのことにたいして驚きはしませんね。見分ける眼力がありさえすれば、被告の人々はほんとうに美しいと見えることがしょっちゅうあるものですよ。これは確かに、奇妙な、いわば自然科学的と言える現象なんです。もちろん、告訴の結果何かはっきりとした、詳細に規定できるような容貌《ようぼう》上の変化が起るわけじゃありません。ほかの裁判事件の場合とはちがって、たいていの被告は普通の生活を続け、事件の世話をしてくれるいい弁護士がついていさえすれば、訴訟に少しもわずらわされません。それにもかかわらず、経験のある人々は、大勢の人々の中から被告を一人一人見分けることができます。どういう点でか、とあなたはおたずねになるでしょう。わしの返事はあなたを満足させるわけにゆかぬかもしれません。つまり、被告の人々はまさしくいちばん美しいんです。彼らを美しくするものは罪ではありません。なぜなら――わしは少なくとも弁護士としてこう申上げなくてはなりませんが――すべての被告が罪があるとはかぎらないのですからね。また、彼らを今から美しくしているのは、正しい処罰というものでもありません。被告はみな処罰されるとはかぎっていないからです。それゆえ、なんらかの形で彼らにつきまとっている、彼らに対して提起された訴訟手続きというものにあるにちがいありません。もちろん、美しい人たちのうちにも特に美しい人というのはあります。でもみな美しいことは確かであって、あのみじめな虫けらのようなブロックでさえ美しいんです」
 Kは、弁護士が語り終えたとき、すっかり気を落着け、最後の言葉には目だつほどにうなずきさえしたが、そうすることによって前々からの自分の見解にみずからの裏打ちを与えるのであった。その見解によるとこの弁護士は、いつも、そして今度も、事の本質には触れていない一般的なことばかり伝えては自分の気をそらし、いったい自分のために実際に仕事をして何かをやってくれたか、という根本問題は、避けよう避けようとばかりしているように思われるのだった。弁護士は確かに、Kがこれまでよりも自分に対して抵抗していることに気づいたらしかった。というのは、弁護士は黙ってしまい、Kのほうが話しだす機会を与えたからである。ところが、Kがいつまでも黙っているので、きいた。
「今晩は何かきまったご意図を持っていらっしゃったのですか?」
「そうです」と、Kは言い、弁護士をもっとよく見るため、片手で少し蝋燭の光をさえぎった。「今日をかぎりあなたには私の弁護をやめていただきたい、と申上げようと思います」
「なんですと」と、弁護士は言い、ベッドの中で半身をもたげ、片手で布団《ふとん》の上に身体をささえた。
「おわかりいただけたと思います」と、Kは身体をこわばらせてきちっと立ち、相手の出方に身構えするようにすわっていた。
「では、そのプランについてお話しすることもできますね」と、しばらくの後、弁護士は言った。
「もうプランなんていうものじゃありませんよ」と、Kが言った。
「そりゃあそうかもしれませんが」と、弁護士は言った。「でもわしらは何事もあわてすぎたくはありませんね」
 弁護士は「わしら」という言葉を使って、Kを手放す気は毛頭ないし、たとい代理人ではありえなくとも、少なくとも引続いて忠告者ではありたいというような素振りだった。
「あわてているわけじゃありません」と、Kは言い、ゆっくりと立ち上がり、自分の椅子の後ろに行った。「十分に考えましたし、おそらくあまり長く考えさえしたようです。決心はもうきまっています」
「それではもう少し言わせてください」と、弁護士は言い、羽根布団を退《の》け、ベッドの縁に腰かけた。むきだしの白毛《しらが》の脚は、寒さで震えていた。彼はKに、長椅子から毛布を取ってくれ、と頼んだ。Kは毛布を持ってきて、言った。
「そんなに冷えるようなことをなさる必要は全然ありませんよ」
「事はなかなか重大です」と、弁護士は言いながら、羽根布団で上半身を包み、それから両脚を毛布に突っこんだ。「あなたの叔父《おじ》さんはわしの友人だし、あなたもまた時のたつにつれわしにとって親しいものとなった。そのことを率直に申上げます。こう申上げても恥じる必要はないと思います」
 老人のこういう感傷的な話は、Kにはきわめてありがたくなかった。というのは、避けたいようなくだくだしい説明にどうしてもなったし、そのうえ、もちろん彼の決心をけっして翻すことはできなかったが、率直に白状するとそれをいろいろと迷わしたからである。
「ご親切にご心配いただいてありがとうございます」と、彼は言った、「あなたが私の事件をできるだけ、そして私にとって有利だとお考えのかぎりお引受けくだすったということも、よく存じております。しかし、最近、それは十分でないという確信を持つにいたりました。もちろん私は、あなたのようなたいへん年長で経験に富んだ方に、私の考えに従っていただくようにしようとはけっして思いません。もし私がときどき思わず知らずにそんなことをしようといたしましたなら、どうかお許しねがわなければなりませんが、事はあなたご自身のおっしゃられるようになかなか重大ですし、私の確信によりますと、訴訟に対してこれまでやった以上に強力に手を出すことが必要だと思われます」
「よくわかりましたが」と、弁護士は言った、「あなたは短気ですね」
「私は短気なんじゃありません」と、Kは少し興奮して言い、もうたいして自分の言葉に気を使わないことにした。「私が叔父といっしょにあなたのところへ初めて伺ったとき、私には訴訟なんかたいして問題ではなかったということは、あなたもご存じでしょうし、いわば力ずくで思い出させられるのでなかったなら、私は訴訟のことは完全に忘れていたのでした。ところが叔父が、あなたに弁護をお願いしろと言い張るものですから、叔父の気を損じないためにそうしました。それで、弁護士に弁護をおまかせするのは訴訟の重荷を少しでも避けるためなんだから、これで私の訴訟も前よりは気軽になるものとばかり思っていたわけです。ところが事実はまったく反対です。それまでは、あなたにお願いしてからほど訴訟のために心配させられるということは、なかったのです。私ひとりのときには、自分の事件については何も手を出しませんでしたが、それを心配することもほとんどなかったのでした。ところが今では、代理人もおられるし、何事が起っても万端の用意が整えられていて、ひっきりなしに緊張してあなたが手を下してくださるのを待っていたわけですが、さっぱりでした。もちろん、おそらくはほかの人からはもらえそうにもないさまざまな裁判所についての情報を、あなたからいただきはしました。しかし、訴訟が確かに私の気づかぬうちにだんだんと身に迫ってきている今となっては、それでは十分ではなくなったのです」
 Kは椅子を突きのけて、両手を上着のポケットに突っこんだまま立ち上がった。
「訴訟をやっているうちの、ある時期には」と、弁護士は低い声で落着いて言った。「本質的に新たな事態というものが起らなくなるのです。あなたと同じような訴訟の段階にある大勢の依頼人の方々が、これまでもわしの前に立って、あなたと同じようなことを言ったものですよ!」
「そうだとすると」と、Kは言った。「そういう同じような依頼人たちは、私と同じように当然な理由があったのです。それだからそんなことは全然私に対する反駁《はんばく》にはなりやしない」
「何もあなたに反駁しようとは思いません」と、弁護士は言った。「だがわしが申上げておきたいと思うのは、あなたにはほかの人々よりも判断力というものを期待していたということです。ことにあなたには、ほかの依頼人に対してやる以上に、裁判組織とわしの仕事とについて詳しくお教えしておいたんですからね。ところが今は、こんなにしてさしあげているのにあなたはわしを十分ご信用にならない、ということを見なければならないというわけです。あまりわしのことを軽く考えてくだすっては困りますね」
 弁護士はKに対してなんと卑屈な態度をとったことか! 確かに今においてこそいちばん感じやすくなっているにちがいない自分の身分に関する体面というものを全然忘れてしまっているのだ。なぜこういう態度をとるのか? 見かけたところ仕事の多い弁護士で、そのうえ金もあるらしいし、もうけがなくなることも一人ぐらいの依頼人を失うことももともとたいしたことではないはずだ。そのうえ、病身だし、仕事を減らすことを自分でも考えたほうがよいのだ。それにもかかわらずKのことをこんなに引きとらえているなどとは! なぜだろうか? 叔父に対する個人的な友誼《ゆうぎ》なのだろうか、あるいはKの訴訟をきわめて風変りなものと認めて、Kに対してか、あるいは――こういう可能性もけっしてなきにしもあらずだが――裁判所の友人たちに対して、自分の腕を見せようと望んでいるのだろうか? 遠慮なくKはためつすがめつして弁護士の顔を見るのだったが、相手そのものには何も変ったところが認められなかった。わざと無口のような顔つきをして自分の言葉の効果を待っているのだ、とほとんど考えることができる有様だった。しかし、彼は明らかにKの沈黙を自分にとってきわめて好意的に解釈したことが、次のように言葉を続けたことでわかった。
「いずれおわかりのことと思いますが、わしは大きな事務室を持ってはいますが、助手は一人も使ってはいません。以前はそれとちがい、二、三人の若い法律家がわしのために働いてくれていたときもあったのですが、今ではわしひとりでやっています。その理由は、わしが自分の専門を変え、だんだんあなたのケースのような法律事件だけをやるようにしたためでもありますが、また一部はこの種の法律事件によっていよいよ認識を深めたためです。わしの依頼人の方々や、わしが引受けた課題というものに対して罪を犯したくないと思うならば、こういう仕事は誰にもまかせられない、ということをさとったのです。しかし、仕事も全部自分でやろうと決心したについては、それ相応の結果を生じました。すなわち弁護の依頼をほとんどすべてお断わりせねばなりませんでしたし、わしと特に親しい人々の言うことだけしかきけませんでした。――ところで、わしが投げ捨てた屑《くず》のひとつひとつに飛びつくやつらもたくさんいますし、しかもほんの身近にさえいる始末です。そしてそのうえ、わしは過労で病気になってしまいました。けれども、わしは自分の決心を後悔はしていませんが、わしが実際にやったよりももっと弁護の仕事をお断わりすべきだったのかもしれません。しかし、お引受けした仕事にすっかり没頭するということは、絶対に必要であるということがわかりもしましたし、またよい結果で報いられもしました。わしはかつてある書き物の中で、普通の法律事件の弁護とこういう法律事件の弁護とのあいだの相違がきわめて巧みに表現されているのを見たことがあります。そこにはこう書いてありました。つまり、普通の弁護士は依頼人を細い糸で判決にまで導くが、別の弁護士は依頼人をすぐ肩にかついで、それをおろしたりしないで、判決まで、さらにはそれを超《こ》えたかなたにまで連れてゆく、というのです。そのとおりですね。ですが、わしがこんな大仕事で全然後悔していないなんて言えば、一から十まで正しいとは言えませんね。たとえばあなたの場合のように、わしの仕事が完全に誤解されるとなると、わしもほとんど後悔しますよ」
 Kはこんな談義で、納得させられるというよりは、むしろいらいらしてきた。弁護士の口調からなんとはなしに、自分を待っているものがなんであるか聞き取れるような気がした。いま譲るとなると、また例の慰め文句が始まるのだろう。願書が進捗《しんちょく》しているということ、裁判所の役人たちの機嫌がよくなったこと、だが仕事にはさまざまな大きな困難が直面していること、要するにそうしたいやになるほど知っているいっさいのことが持ち出され、またもや自分にはっきりとしない希望をいだかせたり、はっきりしない脅威で自分を苦しめたりしようとするのだ。そんなことはもう最終的に食い止めなくてはならない、と思ったので、彼は言った。
「弁護をお続けになる場合、私の事件について何をやってくださろうというのですか?」
 弁護士はこの侮辱的な質問にさえ乗ってきて、答えるのだった。
「あなたのためにすでにやってまいったことを、続行するんです」
「そのことならまったくわかっています」と、Kは言った。「ですが今はもうそれ以上おっしゃるにはおよびません」
「もう一回やってみようと思うんです」と、Kを興奮させた事柄はKに関係があるのではなくて自分に関係あることなのだ、とでもいうかのように弁護士は言った。
「つまりわしはこう思うんだが、あなたはわしの法律顧問としての地位を間違って判断されているばかりではなく、そのほかにも妙な態度をとられているが、そんな態度をとられるのは、あなたが被告であるのにあまりにいい待遇を受けていられる、あるいはもっと正しく言って、どうでもいいというふうに、少なくとも外見上どうでもいいというふうに取扱われている、ということのわるい結果ですね。このどうでもいいというふうに取扱っているということにも理由があるんですよ。つまり、自由であるよりも鎖につながれているほうがいいということもしばしばあるもんでしてね。だが、ほかの被告がどういうふうに取扱われているかということをあなたにお教えしたいと思いますが、そうすればおそらくあなたはそれから教訓を引出すこともできますよ。そこでこれからブロックを呼びますから、扉をあけてここの夜間用の机のそばにおかけになってください!」
「かしこまりました」と、Kは言い、弁護士が要求したとおりにした。いつでも学ぼうという心構えであった。しかし、どんな場合に対しても安全な処置をとっておこうと思って、彼はきいた。
「ですが、私があなたの弁護はお断わりしているということは、わかっていただけましたね?」
「わかりました」と、弁護士は言った。「しかし今晩のうちにも後戻《あともど》りされることがありえますね」
 彼はまたベッドに横になり、羽根布団を顎《あご》まで引寄せ、壁のほうに向き直った。それからベルを鳴らした。
 ベルの合図とほとんど同時にレーニが現われた。素早くあたりを見て、何が起ったのかを知ろうとした。ところがKが落着いて弁護士のベッドのそばにすわっていたので、ほっとした様子だった。自分をじっと見つめているKに、微笑《ほほえ》みながらうなずいてみせた。
「ブロックを連れておいで」と、弁護士は言った。ところが彼女は、ブロックを連れてくるかわりに、ただ扉の前まで出て、叫んだ。
「ブロック! 弁護士さんのところへいらっしゃいって!」
 それから、弁護士が壁のほうを向いたままで何も問題にしてはいないからであろうが、Kの椅子の後ろにこっそりとまわりこんだ。そうしてから、椅子のもたれの上に身体を曲げてきたり、もちろんきわめてやさしげに、また注意深げにだが、両手を彼の髪毛《かみのけ》の中に入れたり、頬をなでたりして、彼をうるさがらせるのだった。最後にKは、女の手をつかんでそんなことをさせまいとした。女はしばらく逆らったが、やがて手を彼にまかせた。
 ブロックは呼ばれてすぐやってきたが、扉の前で立ち止り、はいったものかどうかと考えている様子だった。眉毛《まゆげ》をつり上げ、弁護士のところに来いという命令が繰返されまいかと聞き耳を立てているかのように、頭をかしげていた。Kははいるように彼を勇気づけてもよかったが、ただ弁護士とばかりでなく、この家にあるいっさいのものと最後的に手を切ることに心をきめていたので、じっとしていた。レーニも黙っていた。少なくとも自分を追い払う者は誰もないとブロックは見てとり、顔を緊張させ、後ろにまわした両手を痙攣《けいれん》させながら、爪立《つまだ》ちではいってきた。扉は、退却してゆく場合のことを考えて、あけ放しにしておいた。Kは彼の顔を全然見ずに、うず高い羽根布団を依然として見ていたが、弁護士はその布団にくるまって壁ぎわまで身体を寄せていたので、姿が全然見えなかった。しかし、その声だけは聞えた。
「ブロックは来たかね?」と、彼がきいた。この問いは、すでにかなりな距離に進んでいたブロックの胸に明らかに一撃を与え、次にまた一撃を背中に与えたので、彼はよろめき、背中を深く曲げて立ち止って、言った。
「おります」
「なんだと言うのだね?」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
「お呼びではありませんでしたか?」と、ブロックは弁護士にというよりは自分自身にきいてみて、身を防ぐように両手を前に出し、逃げてゆく身構えをした。
「呼びはしたんだが」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
 そしてしばらく間《ま》をおいて、言葉を足した。
「君はいつも都合のわるいときにばかり来るね」
 弁護士がしゃべってからは、ブロックはもうベッドのほうを見ず、むしろ部屋の隅《すみ》のどこかを見つめ、話し手の視線があまりまぶしすぎて耐えられないというように、ただ耳を傾けるだけだった。だが、弁護士は壁に向ってしゃべり、しかも声が低く口早なので、聞き取ることもむずかしかった。
「帰ったほうがよろしいでしょうか?」と、ブロックがきいた。
「もう来ちゃったんだから」と、弁護士は言った。「いなさい!」
 弁護士はブロックの望みをかなえてやったのではなくて、笞《むち》で打つぞとでもいうようにおどしたのだ、と思えそうだった。今やブロックがほんとうに震えはじめたからである。
「昨日《きのう》わしは」と、弁護士が言った。「友人の第三席裁判官のところに行ったんだが、話がだんだん君のことになった。彼が言ったことを聞きたいかね?」
「ぜひどうぞ!」と、ブロックが言った。
 弁護士がすぐには返事をせぬので、ブロックはもう一度懇願を繰返し、ほとんどひざまずかんばかりに身体をかがめた。ところがそのとき、Kが彼に噛《か》みついていった。
「君はなんていうことをするんだ?」と、Kは叫んだ。
 レーニが彼の叫ぶのを妨げようとしたので、彼は女のもう一方の手もつかんだ。彼が女をしっかとつかんでいるものは、愛情の握りかたではなかったし、女も繰返し溜息《ためいき》をして、両手をもぎ取ろうとした。ところが、Kが叫んだおかげでブロックが罰を食った。弁護士がこうきいたからである。
「君の弁護士はいったい誰かね?」
「あなたです」と、ブロックは言った。
「で、わしのほかには?」と、弁護士がきいた。
「あなたのほかには誰もいません」と、ブロックが言った。
「それじゃ、ほかの人の言うこともきかないことだね」と、弁護士は言った。
 ブロックは弁護士の言うことをすっかりのみこみ、悪意のこもった眼差《まなざし》でKをじろじろながめ、彼に対して激しく頭を振った。この動作を言葉に翻訳すれば、乱暴な罵倒《ばとう》だったにちがいない。こんな連中とKは親しげに自分の事柄を語り合うつもりでいたのだ!
「もう邪魔はしませんよ」と、Kは椅子にもたれて言った。「ひざまずいたり、四つばいになったり、なんでも好きなようになさい」
 ところがブロックにも、少なくともKに対しては見栄《みえ》というものがあった。というのは、拳を振りまわしながらKに迫ってきて、弁護士の威をかりてその身近でだけやれるような大声で叫んだからである。
「あなたは私に対してそんなふうな口をきいてはいけません。それはよろしくありませんよ。なぜ私を侮辱なさるんです? しかもこの弁護士さんの前で、なぜなさるんです? ここでは、あなたと私との二人は、ただお慈悲で我慢していただいているんですよ。あなただって告訴されていて訴訟にかかりあっているんですから、私よりましな方というわけじゃありません。それでもあなたが紳士だというなら、あなたよりりっぱなというわけじゃないけれども、私もあなたと同様紳士ですよ。そして、ことにあなたからは紳士として口をきいていただきたいですね。あなたはここで腰をかけ、落着いて話を聞いているのに、私のほうはあなたの言いかただと四つばいになっているというので、あなたは優越感を持っていらっしゃるのなら、私は昔の判例のことを申しましょう。それは、容疑者にとっては静かにしているよりも動くほうがよろしい、なぜなら静かにしている者は、知らぬ間に秤《はかり》の上に乗り、罪を量られることにいつでもなるからだ、というんです」
 Kは何も言わずに、ただこの混乱した男をまじろぎもせずにじっと見つめていた。ほんのこの数秒のうちになんという変化が起ったのであろう! この男をあちらこちらと投げ出し、敵も味方も区別できなくさせているのは、訴訟なのだろうか? 弁護士はわざとこの男を侮辱し、今はただKの前で自分の権力を見せつけ、それによっておそらくはKのことも服従させようということだけをもくろんでいることが、この男にはわからないのだろうか? だがブロックがそういうことをさとることができず、あるいはさとっていても弁護士を非常に恐れているので何の役にもたたないのだとしても、それではどうして、弁護士をだまして、彼のほかになおほかの弁護士にやってもらっているということを隠しているほど、狡猾《こうかつ》で大胆なのだろうか? またどうして、Kがすぐにも自分の秘密を暴露できるというのに、Kに食ってかかるというようなことをあえてやるのか? ところが男はそれ以上のことをあえてやるのだった。弁護士のところへ行き、今度はそこでもKの苦情を言いはじめたのだった。
「弁護士さん」と、彼は言った。「この男が私に口をきくのをお聞きになりましたか? まだこの男の訴訟なんていうものは時間で数えることができるくらいなのに、五年も訴訟をやっている私のような者に、いいことを教えてやろうって言うんです。そのうえ私をののしりさえします。何も知らぬくせに、作法や義務や裁判所の慣習が要求するところを微力ながらできるだけ詳しく勉強してきた私というものを、ののしったりするんです」
「人のことなんか心配するんじゃないよ」と、弁護士が言った。「そして、君が正しいと思うことをやるんだ」
「おっしゃるとおりです」と、自分自身を勇気づけるように言い、ちらと横眼を使いながらベッドのすぐそばにひざまずいた。
「このとおりひざまずいています、弁護士さん」と、彼は言った。
 だが弁護士は黙っていた。ブロックは片手で控え目に羽根布団をなでた。この場を支配している静けさの中で、レーニはKの両手から離れると、言った。
「痛いわよ。放してちょうだい。あたしはブロックのところへ行くわ」
 女はそちちへ行き、ベッドの縁に腰をおろした。ブロックは女が来たことを大いによろこんで、すぐさまさかんな、しかし言葉には出さないしぐさで、弁護士に自分のことを取りなしてくれと頼むのだった。彼は明らかに弁護士の知らせを切に求めていたが、おそらくはただ、そうした知らせをほかの弁護士たちに利用しつくさせるという目的だけのためだった。レーニは、どうやったら弁護士に取入れるかを、詳しく知っているようだった。弁護士の手を示して、接吻《せっぷん》するように唇《くちびる》をとがらせてみせた。すぐブロックは手への接吻をやってのけ、レーニのすすめるままに、さらに二度もそれを繰返した。ところが弁護士はまだ依然として黙りこくっていた。するとレーニは弁護士の上にしなだれかかったが、このように身体を伸ばすと、彼女の美しく発育した身体がはっきりと見えるのだった。そして、弁護士の顔のほうに深くかがみこんで、その長い、白毛の髪毛をなでた。これで彼は返事を一言言わざるをえなくなった。
「どうもそれをこの男に話すことは躊躇《ちゅうちょ》するんだが」と、弁護士は言い、頭を少し振るのが見られたが、おそらくそれはレーニの手の感触にもっとあずかるためにちがいなかった。ブロックは、まるでこうやって聞くことは命《めい》を犯すことででもあるかのように、頭をうなだれて聞いていた。
「なぜ躊躇なさるんですの?」と、レーニはきいた。
 Kは、すでにしばしば繰返された、そしてこれからもしばしば繰返されるにちがいない、ただブロックにとってだけ新鮮味を失わないような、よく覚えこまれた会話を聞くような気がした。
「あの男は今日はどんなふうだった?」と、弁護士は答えるかわりに、きいた。レーニはそれについて述べる前に、ブロックのほうを見下し、この男が両手を彼女のほうにあげて懇願しながらすり合せる有様をしばらくながめていた。最後に彼女は真顔でうなずき、弁護士のほうに向き直り、言った。
「おとなしくして一生懸命でしたわ」
 長い髯を生やした老商人が、若い娘に有利な証言を嘆願するのだった。その場合に何か下心があるとしても、同じような立場にある一人の人間の眼にとって、是認されることは何ひとつなかった。弁護士がこんな見世場をやって自分を手に入れようなどとどうして考えることができるのか、Kには全然気持がわからなかった。自分をこれまでは追い払いはしなかったけれども、こんな場面を見せつけては今度こそ自分を離れさせることになるだろうに。弁護士はこの場に居合す者をほとんど侮辱しているのだった。それゆえ、弁護士のやり口というのは、幸いにもKはたいして長いあいだそれの思いどおりにならなくてもすんだのだが、依頼人がついに世の中のことをすべて忘れ、ただ訴訟の終るまでこのような迷いの道の上に身体を引きずってゆくことを望むというようにさせるものだった。もう依頼人ではなく、弁護士の犬だった。もし弁護士が、まるで犬小屋の中にはい入るようにベッドの下にはい入って、そこからほえてみろ、と命じたならば、この男はきっとよろこんでそうしたにちがいなかった。ここで語られているすべてを詳細に自分の胸に納めておいて、上級の場所でそのことを訴え、報告することを任務とするもののように、Kは確かめ考えこむようにじっと聞いていた。
「一日じゅうあの男は何をやっていたのかね?」と、弁護士はきいた。
「あたしはあの人のことを」と、レーニは言った。「あたしの仕事の邪魔をされないように、いつもいる女中部屋の中に閉じこめておきましたわ。隙間《すきま》越しに、何をやっているかときどき見ることができましたの。いつもベッドの上にひざまずいて、あなたがお貸しになった書類を羽根布団の上に開き、それを読んでいました。それはあたしにいい印象を与えましたわ。だって窓は通風孔に続いているだけで、光なんてささないんですもの。それなのにブロックが読んでいるなんて、なんて従順な人だろう、と思いましたわ」
「そう聞いて、うれしいよ」と、弁護士は言った。「だがちゃんとわかって読んでいたのかね」
 こんな会話が交《か》わされるあいだ、ブロックは絶えず唇を動かしていたが、明らかにレーニに言ってもらいたい返事をつぶやいてみているのだった。
「もちろんそんなことは」と、レーニは言った。「はっきりとはお答えできませんわ。とにかくあたしは、この人が徹底的に読んでいるのを見ましたの。一日じゅう同じページを読んでいて、読みながら指で一行一行たどっていましたわ。この人のほうをのぞきこむといつでも、読むことがひどく苦労なように溜息をついていました。この人にお貸しになった書類は、きっとわかりにくいものなんですのね」
「そうだよ」と、弁護士は言った。「それはもちろんむずかしいよ。わしはこの男にそれがいくらかでもわかったとは思わないね。あの書類はただ、わしがこの男の弁護のためにやっている闘いがどんなにむずかしいか、少しでも感じ取らせてやればよいのだ。そしてこのむずかしい闘いを、わしはいったい誰のためにやっているんだ? それは――言うのもばかばかしいが――ブロックのためなんだ。これが何を意味するかも、わしはこの男にわからせてやるよ。ひっきりなしに勉強していたかね?」
「ほとんどひっきりなしでしたわ」と、レーニは答えた。「ただ一度だけ水が飲みたいってあたしに頼みましたの。それで通風窓からコップ一杯渡してやりましたわ。それから八時にこの人を出してやって、食物をあげました」
 今ここでほめられているのは自分のことなのだ、そしてそれはKには印象を与えただろう、とブロックは横眼でちらとKを見た。今は大いに有望と思っているらしく、身のこなしもいっそう伸び伸びとし、膝《ひざ》であちこちと動いていた。それだけに、弁護士に次のように言われて凝然としてしまったのも、はっきりと見てとれるのであった。
「お前はこの男をほめているね」と、弁護士が言った。「しかし、そんなことをやると、まさにそのためにわしは話しにくくなるんだよ。つまり裁判官は、ブロックという男についても、それの訴訟についても、あまりよくは言わなかったんだよ」
「よくは言わなかったんですって?」と、レーニはきいた。「どうしてそんなことがあるんですの?」
 ブロックは、今はとっくに言われてしまった裁判官の言葉を自分の都合のいいように曲げる力をこの女が持っていると信じているかのように、緊張した眼つきで女を見つめた。
「よくはなかったね」と、弁護士は言った。「わしがブロックのことを話しはじめたら、不快そうになった。『ブロックのことはやめたまえ』と、言ったよ。そこで、『私の依頼人です』と、わしは言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、彼が言う。そこでわしは、『彼の事件はまだだめにはなっていないと思います』と、言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、相手が繰返した。『そうは思いませんが』と、わしは言ってやった。『ブロックは訴訟に熱心で、いつも自分の事件を追いかけています。私の家に住み込みも同然になって、いつでも情報に通じていようとしているのです。こんな熱心さは珍しいですよ。確かに個人的には愉快なやつではないし、作法はなっていなくて、きたならしいけれど、訴訟の点では非の打ちどころがありません』とな。わしも非の打ちどころなくしゃべったんだが、わざと誇張してやったんだ。そしたら彼はこう言うんだ。『ブロックはずるいだけだ。あの男はたくさんの聞き込みをかき集めて、訴訟を引延ばすことを知っている。けれどあれの無知のほうがずるさよりもずっと大きいくらいだ。あれの訴訟なんか全然始まっていないということを聞いたら、そして、訴訟開始の鐘の合図も全然鳴らされたことがないと言ってやったら、それに対してどう言うだろうか』ブロック、おとなしくするんだ」と、弁護士は言った。ブロックがよろよろする膝で立ち上がり、明らかに説明を求めようとする気配を示したからである。
 弁護士がはっきりした言葉でずばりとブロックに向って言ってのけたのは、これが初めてだった。疲れた眼で半ばはどこともなく、半ばはブロックのほうを見下したが、ブロックはこの眼差を見て、またへなへなとひざまずいてしまった。
「裁判官のこんな言葉は、君には全然意味を持たないんだよ」と、弁護士は言った。「どうか一言ごとに驚かないでもらいたいね。そんなことが繰返されると、もう全然打明けられないよ。一言話しはじめると、今こそ最終判決が下されるのだというような顔つきで見つめられるんだからねえ。ここにはわしの依頼人もいらっしゃるんだから、少しは恥を知ってもらいたい! この方がわしにおいてくださっている信用というものも台なしにしてしまうよ。いったい、どうしてくれっていうんだい? まだ君は生きているし、まだわしの後楯《うしろだて》っていうものがあるんだ。つまらぬ心配というものだよ! 最終判決は多くの場合、思いがけずに、任意の人の口から任意な時に下される、ということを君はどこかで読んだはずだ。いろいろな留保条件はあるが、それはもちろんほんとうだ。だが、君の心配はわしに不愉快だし、わしはその中にわしに対する必要な信頼の欠如というものを見る、ということもほんとうだ。いったいわしが何を言ったかね? ある裁判官の言ったことをそのまま伝えただけだよ。君も知っているとおり、さまざまな見方が手続きの周囲に積み重なって、見通すことができないほどになっているんだ。たとえばこの裁判官は手続きの始まりというものをわしとは別な時期において考えているんだよ。見解の相違というもので、何もそれ以上のものじゃないよ。訴訟のある段階において、昔からのしきたりで鐘が鳴らされる。この裁判官の見方によると、それで訴訟が始まるというんだ。それとちがう意見を今全部君に言って聞かせることはできないし、聞いたところで君はそうしたものをわかりはしないだろうが、それとちがう意見はたくさんあるというだけで君には十分だ」
 ブロックは当惑して下にうずくまり、ベッドの前に敷いてある小|絨毯《じゅうたん》の毛を指でさすっていた。裁判官の言ったことが気がかりで、弁護士に対する自分の従順さもしばらくは忘れてしまい、ただ自分のことだけを考え、裁判官の言葉をあらゆる方向にこねまわしていた。
「ブロック」と、レーニはたしなめる調子で言い、上着の襟《えり》を引っとらえて少し上へ引っ張った。
「もう毛なんかなでるのをやめて、弁護士さんのおっしゃることを聞きなさいな」
[#地から2字上げ](編集者マックス・ブロート注 本章未完)

第九章 伽藍《がらん》で

 Kは、銀行にとってたいへん大切な、そして初めてこの町に滞在したあるイタリア人の顧客にいくつかの芸術上の旧跡を見せるように、という命を受けた。この命令は、ほかのときならばきっと名誉に感じたでもあろうが、今では、大いに努力してやっと銀行での信用を保てるという有様なので渋々引受けた。事務室から引離される一刻一刻が、彼を心配させた。事務室にいる時間はとっくにもう以前のように利用できなくなっていたし、多くの時間はただほんとうに仕事をしているようにやっと見せかけて過すのだったが、それだけに、事務室にいないと心配が大きかった。出かけるとなると、しょっちゅう自分をうかがっていた支店長代理がときどき自分の事務室にやってきて、自分の机にすわり、書類をくまなく探り、多年この自分とほとんど友達同然になっている顧客に応接し、自分と疎隔させ、そればかりでなくさまざまな失策さえも暴露する有様が、眼に見えるように思えてしかたがなかった。そういう失策にはKは今では仕事をしているあいだしょっちゅう四方八方から脅やかされていることがわかっていたが、もう避けることができなくなっていた。そのため、こんな晴れがましい場合であっても、商用外出やちょっとした出張旅行を命じられると――またこんな命令が最近たまたまたび重なったのだが――しばらく自分を事務室から遠ざけて自分の仕事を調べあげるつもりなのだろうとか、あるいは少なくとも、自分は事務室ではいなくてもちっとも困らぬと思われているのだ、という想像をいつも持ちやすかった。こういう命令の多くは苦もなく断われるのであったが、あえて断わる気にはなれなかった。たとい恐れはほとんどまったく根拠がないものであるにせよ、命令を断わることは自分の不安な心持を告白することになるからであった。こうした理由から、このような命令を見かけはさりげなく受け、骨の折れる二日がかりの出張をしなければならなかったときも、よくない風邪《かぜ》のことを黙ってさえいた。このごろの雨模様の秋の時候を引合いに出されて出張をとめられる危険にさらされたくはない、というだけのためにだった。この出張から激しい頭痛をこらえて帰ってきたとき、次の日にはイタリア人の顧客のお供をするようきめられている、ということを聞き知った。少なくともこの一回だけは断わろうという誘惑は非常に大きかったし、何よりも、この場合自身に命じられることになっていることは、直接商売とは関係のない仕事だし、顧客に対してこういう社交的な義務を果すことはそれだけでは疑いもなく十分大切なことなのだが、Kにとっては大切なことではなかった。彼は、仕事の成果によって自分の地位を保ってゆけるのであって、それがうまくゆかなければ、このイタリア人を思いがけずほれこませることになってもまったく価値はないのだ、ということをよく知っていたのである。彼は一日でも職場から追い出されたくなかった。もうもどしてはもらえないのではあるまいかという恐怖があまりに大きかったからであるが、その恐怖は、思いすごしだと非常によくわかっていたが、彼の心をしめつけるものだった。もちろんこの場合には、うまい口実を設けることはほとんど不可能だった。Kのイタリア語の知識はたいして多くなかったが、ともかく役にたつ程度だった。しかし決定的なことは、Kが前からいくらか美術史の知識を持っているということだった。そのことは、Kがしばらく、もっともただ商売上の理由からだけだったのだが、この町の美術遺跡保存会のメンバーであったために、きわめて誇大に銀行に知れわたっていたのだった。ところがさて、噂《うわさ》に聞くとそのイタリア人は美術愛好家だということであり、それゆえ、Kがその案内役に選ばれたのは当然のことであった。
 雨の激しい、荒れ模様の朝だったけれども、Kはこれから控えている一日のことに腹をたてながら、七時にはすでに事務室に行ったが、イタリア人の訪問にかかりきりにさせられるまえに少なくともいくらかの仕事を片づけるためであった。少し準備しておこうとして、半夜をイタリア語の文法の勉強に過したので、非常に疲れていた。最近ではあまり頻繁《ひんぱん》に窓ぎわにすわりすぎる慣習になっていたが、その窓のほうが今朝《けさ》も机よりも彼をいっそう誘うのだったけれども、そんな気持に抗して仕事するために腰をおろした。ところが残念なことにちょうど小使がはいってきて、業務主任さんはもういらっしていないか見てくるように、支店長さんが自分をよこしたのだ、と言った。もしいらっしゃるなら、恐縮だが応接室に来ていただきたい、イタリア人の方はもう来ておられる、ということだった。
「すぐ行くよ」と、Kは言い、小さな辞書をポケットに入れ、外国人のために用意されている町の名所のアルバムを腕にかかえ、支店長代理の事務室を抜けて支店長室にはいっていった。誰もきっとまじめには期待していなかったはずだが、こんなに早く事務室にやってきて、すぐに求めに応じられることを彼はよろこんでいた。支店長代理の部屋はもちろんまだ深夜のようにがらんとしており、きっと小使は代理のことも呼ぶように命じられたのであろうが、それは果せなかったのだった。Kが応接室にはいってゆくと、二人の紳士は深い肘掛椅子《ひじかけいす》から身体《からだ》を起した。支店長は親しげに微笑し、Kが来たことを大いによろこんでいて、すぐに紹介の労をとったが、イタリア人はKの手を力強く握り、微笑しながら誰かのことを早起きだと言うのだった。Kは誰のことを言っているのかはっきりはわからず、そのうえそれは特別な言葉だったので、その意味はしばらくしてやっとわかった始末だった。彼は二、三のお世辞文句で応対したが、それをイタリア人はまた大きく笑いながら受取り、同時に何回か神経質そうな手で灰青色のもじゃもじゃな鬚《ひげ》をなでていた。この鬚は明らかに香水が振ってあり、近づいて嗅《か》ぎたいという誘惑を感じさせられた。三人が腰をおろし、ちょっとした前口上が始まったとき、Kは、イタリア人の言うことは自分には切れ切れにしかわからないと気づいて、大いに不快になった。まったくゆっくりと話してくれればほとんど完全にわかったが、そんなことはただまれな例外の場合であって、たいていはこの男の口から話がわき出てきて、それを興がるように頭を振るのだった。ところがこんな話をしているうちに周期的にどこかの方言に巻きこまれ、それはKにはもう全然イタリア語とは思えなかったが、支店長はそれがわかるばかりでなく、しゃべりさえした。それは、そのイタリア人が支店長も二、三年いたことのある南イタリア出身だったので、Kももちろん予想できることだった。ともかくKは、自分からはイタリア人と理解し合う可能性が大部分奪われてしまったことを、思い知ったのだった。この男のフランス語もまったくわかりにくく、唇の動きを見ればおそらく理解に役だったことだろうが、それも鬚に隠れて見えなかったからである。Kは、いろいろ不都合なことがこれから起ることを予想しはじめ、イタリア人の言うことをわかろうとすることはあらかじめあきらめてしまい、――相手の言うことがきわめて容易にわかる支店長の前では、そんなことは無益な努力と思われた――不快げにイタリア人の様子を観察するだけにきめた。イタリア人は、深々と、しかし気楽げに肘掛椅子におさまり、短い、きりっとした仕立ての上着を何回となく引っ張り、一度は腕を上げ、関節でぐらぐら動く両手で何かを描いてみせようとするのだった。Kは、前に乗り出してその両手を眼から離さなかったけれども、そのジェスチャーの意味はわからなかった。話のやりとりを機械的に視線で追うだけで、そのほかはまったく手持ちぶさたなKに、ついには前からの疲れが力を振いはじめ、ぼんやりしてまさに立ち上がり、向き直って立ち去ろうとするところで、はっと気づき、びっくりしたが、幸いにもまだ間に合った。とうとうイタリア人は時計を見て、とび上がった。支店長に別れを告げてから、Kのそばに押しかけてきたが、しかもあまりに身近にまでやってきたので、Kは身動きするためには自分の肘掛椅子を後ろへずらさなければならなかった。支店長は、Kの眼を見てこのイタリア語にぶつかってすっかり困り抜いているのをきっとさとったのであろうか、二人の対話に割りこんできたが、しかもそれがきわめて聡明《そうめい》で繊細なしかたであったので、外見上はただちょっとした助言を添えているように見えながら、実は、疲れることなく彼の言葉をさえぎってしゃべりかけるイタリア人の言うことを、きわめて手短かにKにわからせてくれるのだった。支店長からKが聞いたところによると、イタリア人はまだいくらかの仕事をあらかじめやらなければならないし、また残念なことに全体を通じてきわめてわずかしか時間がない、また自分としても急いで名所を全部駆けまわって見ようというつもりは全然なく、むしろ――といってもちろん、Kが賛成してくれるかぎりにおいてであって、その決定はただKの意見にだけかかっているが――ただ伽藍《がらん》だけを、しかしこれは徹底的に見物することに決心した。こんな学問もあり親切でもある方に――それはKのことを言っているのだが、Kはただイタリア人の言うことを聞きもらして、支店長の言葉を素早くつかみ取ることだけしかやってはいないのだった――ご案内いただいてこの見物を企てることを非常によろこんでいるが、もし時間がおよろしければ、二時間後、およそ十時に伽藍のほうにどうかお出ましねがいたい。自分はそのときにはかならずそこに行けると思う、ということだった。Kは適当なことをいくらか答えたが、イタリア人はまず支店長と握手し、次にKと握手し、もう一度支店長の手を握って、二人に見送られながら、半分だけ彼らに身体を向けるだけだが、おしゃべりは依然としてやめずに、扉《とびら》のほうに行った。その後、Kはなおしばらく支店長といっしょだったが、支店長は今日は特に傷心の様子だった。Kになんとかわびねばならぬと思いこんでいるらしく、――二人は親しげに身体を寄せていっしょに立っていた――初めは自分でイタリア人のお供をするつもりだったが、次に――詳しい理由は言って聞かせなかった――むしろKに行ってもらおうと決心した、と言った。イタリア人の言うことが初めからすぐわからなくても、それに呆然《ぼうぜん》としてしまう必要はないのだ、ほんのすぐにわかるようになるし、またたといたいしてわからないとしても、そんなにわるいことではない、なぜならイタリア人にとっては相手にわかってもらうことはそうたいして重要なことではないのだから。ところであなたのイタリア語は驚くほど上手だし、きっと用事を見事にすますことだろう、と言うのだった。
 それでKは支店長と別れた。まだ残っている時間は、伽藍への案内に必要な、日常語ではない言葉を辞書から書き抜いて過した。これはきわめて厄介な仕事だった。小使たちが郵便物を持ってくるし、行員がいろいろ問い合せに来て、Kが仕事をしているのを見て、扉のところで立ち止るが、Kが聞いてやるまでは立ち去ろうとしなかった。支店長代理はKの邪魔をしないではおらず、たびたびはいってきては彼から辞書を取上げ、明らかに全然意味もないのにそれをめくって見るのだった。扉があくと、控室の薄暗がりの中には顧客たちさえ浮び上がり、躊躇《ちゅうちょ》しながら会釈をして見せた――彼らはKの注意をひこうとするのだが、見てもらっているかどうか自信がないのだった。――こういうことのいっさいが、Kを中心としてのように彼のまわりで動いており、彼その人のほうは必要な言葉を組み立ててみて、次には辞書で言葉を捜し、書き抜き、また発音をやってみたり、最後には暗記しようと試みるのだった。ところが彼の昔のよい記憶力はすっかり彼を見捨てたらしく、自分にこんな骨折りをかけるイタリア人には何度も非常な憤りを覚えたので、もう準備などはすまいと固く心をきめて辞書を書類の中に埋めたが、次には、イタリア人と連れ立って伽藍の中で美術品の前を黙りこくってあちこちと歩くわけにもゆくまいとさとって、いよいよ憤慨しながら辞書をまた取出すのだった。
 ちょうど九時半に、彼が出かけようとすると、電話の呼び出しがあって、レーニがお早うを言い、どうしているかときいてきたので、Kは急いでありがとうと言い、伽藍へ行かねばならないので、今は話しているわけにはゆかないと言った。
「伽藍にですって?」と、レーニはきいた。
「そうだよ、伽藍に行くんだ」
「なぜ伽藍になんか行くの?」と、レーニは言った。
 Kは手短かに説明しようとしたが、それを始めるか始めないかのうちに、レーニが突然言った。
「あなたは追い立てられているのよ」
 自分が求めもせず、期待もしていなかったこんな同情は、Kには我慢がならず、たった二言三言ばかりで別れの挨拶《あいさつ》をしたが、受話器をその場所にかけながら、半ばは自分自身に、半ばはもう聞いてはいない遠くの娘に言うのだった。
「そうだ、おれは追い立てられているのだ」
 だがもう遅くなってしまい、約束の時間に間に合うように到着できないという危険がすでにあった。自動車で行ったが、出かけるまぎわにアルバムのことを思い出し、さっきそれを渡す機会がなかったので、今度持ってゆくことにした。膝《ひざ》の上にのせ、車中ずっと落着きなくその上をたたいていた。雨は弱まったが、湿っぽく、寒くて暗かったので、伽藍の中はほとんど見られないだろうが、きっとそこで、冷たい敷石の上に長いあいだ立たねばならないため、自分の風邪はきわめて悪化するだろう、と思われた。伽藍の前の広場は全然人けがなく、小さな子供のときすでに、この狭い広場の家々はいつもほとんどすべての窓掛けがおりているということが眼についたものだったのを、思い出した。今日のような天気の場合には、それはもちろん、平生よりは理解できることだった。伽藍の中も人けがないらしかったが、こんなときにやってこようという気に誰もならないのは当り前のことだった。両側の内陣を通ったが、暖かい布にくるまってマリアの像の前にひざまずき、それを見上げている老婆ただ一人に出会っただけだった。次に、もう一人の跛《びっこ》の寺男が壁の扉に消えてゆくのを遠くから見た。Kは時間きっかりに来て、ちょうどはいったとき十時が打ったのだったが、イタリア人はまだ来ていなかった。Kは正面口にもどって、決心がつきかねてそこにしばらく立っていたが、イタリア人がきっとどこかの横手の入口のところで待っているのではないか見ようとして、雨の中を伽藍のまわりを一まわりした。相手はどこにも見あたらなかった。支店長が時間の約束を取違えたのだろうか? だがおよそ誰であってもあんな人間の言うことを正しく理解できるものだろうか? だがそれはどうあろうと、ともかくKは少なくとも半時間は彼のことを待たねばならなかった。疲れていたので、すわろうと思い、また伽藍にはいってゆき、階段の上に小さな絨毯《じゅうたん》の端切れのようなものを見つけて、爪先でそれを近くの長椅子まで引っ張ってゆき、外套《がいとう》にしっかりとくるまって襟《えり》を高く立て、すわった。気晴しのためアルバムを開き、少しめくってみたが、非常に暗くて、眼を上げても身近の内陣の中の細かなところがほとんどひとつとして見分けることもできないくらいなので、すぐやめなければならなかった。
 はるかかなたの主祭壇の上には、大きな三角形を形づくった蝋燭《ろうそく》の火が燃えていた。さっきすでにそれを見たかどうかは、Kははっきりと断言はできなかった。おそらく今初めてつけられたものらしかった。寺男たちは商売柄忍び歩きの名人で、人に気づかれないものだ。Kが偶然振向くと、自分の背後の程遠からぬところで、背の高い、太い、柱に取りつけの蝋燭が同じように燃えているのを見た。これはきれいだったが、多く側祭壇の暗がりの中にかかっている祭壇画を照らすにはまったく不十分であり、むしろ暗さを増しているようなものだった。イタリア人がやってこなかったのは、無礼でもあるがしかし道理にかなった振舞いでもあったわけで、たといやってきたところで何も見られなかっただろうし、Kの懐中電燈で二、三の絵を一インチぐらいずつ探って見ることで満足せねばならなかったことだろう。そうやってどのくらいのことができるものかためそうとして、Kは近くの側礼拝堂へ行き、低い大理石の手すりまで、二、三段の階段を登り、それから身体を乗り出して、懐中電燈で祭壇の絵を照らした。万年燈が眼前にちらついて邪魔になった。Kが見て、一部分何だかわかった最初のものは、絵のいちばん端に描かれている、大柄な、甲冑《かっちゅう》を着けた騎士であった。――眼前の裸の地面に――ただ二、三本の草の茎がそこここに生《は》えているだけだった――突き立てた剣に、身体《からだ》をささえていた。眼前に演じられている事件を注意深く観察している様子だった。そうやって立ち止り、近づいてゆかないのは、不思議だった。おそらく、見張りをするよう命じられているのであろう。すでに久しく絵を見ていなかったKは、懐中電燈の青い光が耐えられないので、しょっちゅうまたたきをしなければならなかったが、その騎士の像をかなり長いあいだ見ていた。次に光を絵のほかの部分の上にかすめさせると、ありふれた解釈に基づいたキリスト埋葬図であり、そのうえそれは、比較的新しい絵であった。彼は懐中電燈をしまって、また元の場所へ帰った。
 イタリア人を待つことは今はもう不必要と思われたが、外は豪雨にちがいないし、この場所もKが予期したほど寒くはなかったので、しばらくここにいることに決心した。すぐ身近なところに大きな説教壇があり、その小さな、円《まる》い天蓋《てんがい》には、半ば横になって二つの黄金の素《す》の十字架がつけられてあり、そのいちばん尖端《せんたん》で相交わっていた。手すりの外側の壁と、それが支柱へつながる部分とは、緑の葉形模様でつくられていて、小さな天使たちがあるいは元気よく、あるいは静かに憩《いこ》いながら、その葉をつかんでいた。Kは説教壇の前に歩み寄って、八方から観察してみると、石の細工はきわめて念入りであり、葉形模様のあいだとその背後とには深い暗黒が、まるではめこまれ取りつけられたように見え、Kはこうした隙間《すきま》のひとつに手を置き、次に石に用心深くさわってみたが、この説教壇の存在はこれまで知らなかったのだった。そのとき、すぐ近くの椅子の並びの後ろに、一人の寺男が偶然見えた。だらりとした、襞《ひだ》の多い、真っ黒な上着を着て、左手には嗅《か》ぎ煙草入れを持ち、Kをじっとながめていた。あの男はどうしようというのだろう、とKは思った。おれはあの男にうさんくさく見えるのだろうか? 酒代《さかて》でももらいたいのか? ところが、寺男はKに見られているのに気がつくと、右手で、その二本の指にはまだ一つまみの煙草を押えていたが、どこか漠然《ばくぜん》とした方向をさした。その挙動はほとんど不可解なので、Kはなおしばらく待ってみたが、寺男は手で何かを示すことをやめず、そのうえうなずいてそれを裏づけるのだった。
「いったいどうしろというのだろう?」と、Kは低い声で言ったが、ここで叫ぶことはやらなかった。次に財布を取出し、いちばん近くのベンチを通り抜けてその男のところへ行った。ところが男はすぐ手で拒絶の動作を示し、肩をすくめると、跛《びっこ》で逃げだした。Kは子供のとき、この急ぎ足の跛と同じような歩きかたをしては、馬に乗る格好をまねようとしたものだった。
「子供みたいなやつだ」と、Kは考えた。「あの馬の頭では寺男の役目でも十分には勤まるまい。あの男はなんという格好で、おれが立ち止ると自分も立ち止り、おれが行こうとすると、様子をうかがっているんだろう」
 微笑しながらKはその老人に続き、内陣をすっかり通り抜けて祭壇の上にまで登っていったが、老人は何かを指さすことをやめず、Kは、その合図は自分を老人の足跡からそらそうという以外の目的がないと思われるので、わざと振向かなかった。ついにはほんとうに追いかけることをやめたが、相手をあまり恐ろしがらせたくはなかったし、イタリア人が万一来た場合のために、この化け物をすっかり追っ払ってしまいたくはなかったからだった。
 アルバムを置き忘れた場所を捜しに内陣の中央にはいってゆくと、祭壇合唱隊用のベンチにほとんどくっついているひとつの柱に、きわめて簡単に、飾りけのない蒼《あお》ざめた石でできた小さな副説教壇を見つけた。それは非常に小さいので、遠くからは聖人像を納めることになっている空《から》の壁龕《へきがん》のように見えた。説教者は手すりからまる[#「まる」に傍点]一歩とさがれないにちがいなかった。そのうえ、説教壇の石の円天井は異常に低いところから始まり、装飾は全然ついてはいないがきわめて彎曲《わんきょく》して上へ昇っているため、中くらいの男でもそこにはまっすぐには立てず、しょっちゅう手すりの前に身体を乗り出していなければならないほどだった。すべてがまるで説教者を苦しめるためにつくったようなもので、ほかに大きな、りっぱに飾った説教壇が使えるのだから、この壇をなんのために必要とするのかわからなかった。
 説教の直前に用意することになっているランプが上のほうについていなかったなら、Kはこの小さな説教壇にもきっと気づかなかったことだろう。これで見ると今から説教でも行われるのだろうか? こんなからっぽの教会でやるのか? Kは階段を見下ろしたが、それは柱にからみつきながら説教壇へと続いており、非常に狭いので、人間が通るためではなく、ただ柱の装飾に使われているようだった。ところが説教壇の下のほうに、ほんとうに僧が立っていたので、Kは驚いて薄笑いしてしまったが、僧は登壇する身構えで手すりに手をかけ、Kのほうを見ていた。それから軽く頭でうなずいたので、Kは十字を切り、身体をかがめたが、そんなことはもっと前にやらなければならなかったのだ。僧はちょっととび上がって、短い、足早な歩みで説教壇を登っていった。ほんとうに説教が始まるのだろうか? きっと寺男は思ったほど頭がないわけではなく、Kを説教者のところへ狩り出そうとしたのだろうか? これはもちろん、からっぽの教会ではきわめて必要なことだったわけだ。さらにどこかのマリアの像の前に老婆がいたから、それも来なければならぬだろう。そして、ほんとうに説教だというなら、オルガンの序奏がなくてよいだろうか? しかしオルガンは静まりかえって、その見上げるように高い暗闇の中から、ただぼんやりとのぞいているだけだった。
 今のうちできるだけ早く出てしまうべきではないか、とKは考えた。今そうしなければ、説教のあいだに出てゆける見込みはなかったし、そうなると説教の続くかぎり居残らねばならない。イタリア人を待つために事務室でもかなりの時間を失ったし、もうとっくに自分の義務はないはずだ。時計を見ると、十一時だった。だがいったい、ほんとうに説教がやられるものだろうか? Kだけが聴衆となるわけだろうか? もし自分がただ教会を見物しようとするだけの外国人だったら、どうなのだろうか? 根本的には自分もそれと大差はないのだ。今は十一時で、ウイークデー、こんなすさまじい天気だというのに、説教があろうなどと考えることはばかげていた。僧は――疑いもなく僧だったが、平べったい、陰鬱《いんうつ》な顔をした若い男だった――誤ってつけられたランプを消そうとして登壇したにすぎぬことは明らかだ、と思われた。
 ところがそうではなく、僧はむしろランプを調べて、さらに燈心を少しねじり上げ、ゆっくりと手すりのほうに向き直って、角ばった前方の縁を両手で握った。そうやってしばらく立ち、頭は動かさずにあたりを見まわした。Kは相当の距離とびすさって、肘《ひじ》で一番前列の礼拝席ベンチに身をささえた。不安定な眼差《まなざし》で、場所をはっきりと見定めることはできないがどこかに例の寺男が、背を曲げ、もちろん仕事を終えたとでもいうような格好で、かがんでいるのを見た。なんという静けさが今の伽藍の中には支配していることだろう! しかし、Kはその静けさをかき乱さねばならなかった。ここに居続けようというつもりがなかったからである。きまった時間には、状況などはいっさいおかまいなしに説教するのが僧の義務であるならば、そうすればよいのだし、Kの助力などがなくてもりっぱにできるはずで、またKがいるからといって格別効果が高まるはずのものでもなかった。それゆえ、Kは歩きだし、爪立ちでベンチに沿って手探りで行き、広い中央通路まで来て、そこでも全然邪魔されずに歩いていったが、ただどんなに足音を殺してみても石造の床が響き、円天井は、かすかに、しかし絶え間なく、積み重なってゆく規則正しい歩みに合わせて、こだまするのだった。おそらく僧に見守られ、人けのないベンチのあいだをただひとり通り抜けてゆくとき、Kは少し見捨てられたような感じを味わい、また彼には、伽藍の大きさがまさしく人間にとってまだ耐えうるものの限界にあるように思われた。さっきの場所に来ると、それ以上とどまることもせずに、まっしぐらにそこにあったアルバムにつかみかかり、それを取上げた。彼がベンチのあたりを離れ、それと出口とのあいだにある空《あ》いた場所に近づくか近づかないかのうちに、初めて僧の声を聞いた。力強い、磨《みが》きのかかった声である。その声は、それを受取る用意のできた伽藍になんと響き渡ったことだろうか! ところが僧が呼びかけたのは聴衆ではなく、それはまったくはっきりとしていて、もう逃げ道は全然なかった。彼は叫んだのだった。
「ヨーゼフ・K!」
 Kはぴたりと立ち止り、眼前の床を見つめた。まだしばらくは自由であり、まだ歩み続け、彼のところから程遠からぬ三つの小さな黒ずんだ木の扉のどれかを通って逃げることもできた。そうすれば、それはまさに、自分には言うことがわからなかった、あるいは言うことは聞き取ったがそんなことを問題にはしたくない、という意味を表わすことになっただろう。しかし、もし振返ったならば、言うことはよくわかったし、自分はほんとうに呼びかけられた本人であって、言うことに従う、ということを告白したことになるのだから、しっかりとつかまれてしまう。僧がもう一度叫んだなら、Kはきっと立ち去ってしまっただろうが、Kが待っているのにいっさいが静かなままなので、僧が今何をやっているのかを見ようとして、少し頭を向けた。僧はさっきと同じように落着いて説教壇上に立っていたが、Kの頭の動きを認めたことははっきりとわかった。こうなってはKが完全に振向いてしまわないと、子供じみた隠れん坊遊びになってしまうだろう。Kは振返ると、僧に指の合図で、近くに来るよう呼び寄せられた。もはやいっさいは公然となったので、Kは――そうしたのは好奇心からでもあり、また用事を手短かにすませるためだったが――大股《おおまた》で飛ぶように説教壇に向って駆け寄った。最前列のベンチのところで立ち止ったが、僧には距離がまだ遠すぎるように思われるらしく、手を伸ばし、人差指を鋭く下に曲げて説教壇のすぐ前の場所を示した。Kもそのとおりにしたが、この場所では、僧を見るためには頭をよほど後ろへ曲げねばならなかった。
「君はヨーゼフ・Kだね」と、僧は言い、片手を漠然たる動作で手すりに上げた。
「そうです」と、Kは言ったが、以前にはいつも自分の名前をなんと公然と言えたことだろうかと思った。最近ではこの名前が重荷であって、今では初めて出会う人々さえも自分の名前を知っている。まず自己紹介をし、それから初めて知合いとなるのは、なんといいことだろう、と考えるのだった。
「君は告訴されているね」と、僧はことさら低い声で言った。
「そうです」と、Kは言った。「そう言われました」
「それじゃ、君が私の捜していた人だ」と、僧が言った。「私は教誨師《きょうかいし》だ」
「ああ、そうですか」と、Kは言った。
「君と話すために」と、僧が言った。「君をここまで呼ばせたのだ」
「それは知りませんでした」と、Kは言った。「私がここへ来たのは、あるイタリア人に伽藍を案内するためです」
「よけいなことは言わぬように」と、僧は言った。「手に持っているのはなんだ? 祈祷書《きとうしょ》かね?」
「いいえ」と、Kは答えた。「町の名所アルバムです」
「手から離しなさい」と、僧が言った。
 Kはアルバムを非常に激しく投げ捨てたので、それはぱらぱらと開き、ページがくしゃくしゃになって床の上を少しすべった。
「君の訴訟は旗色がわるいが、知っているかね?」と、僧はきいた。
「私にもそう思われます」と、Kは言った。「できるだけの努力をしてきましたが、これまでは効果がありません。確かに、願書をまだ仕上げておりません」
「結局どうなると思うかね?」と、僧がきいた。
「前にはきっとうまく片づくだろうと思っていましたが」と、Kは言った。「今ではときどき自分でもどうかと思います。どうなるかはさっぱりわかりません。あなたはおわかりですか?」
「いや」と、僧は言った。「しかし、おそらくうまくはゆくまい。人は君のことを罪があると考えているぞ。君の訴訟はおそらく下級裁判所を全然脱しえまい。人は、少なくともしばらくは、君の罪は立証されたものと考えているぞ」
「でも私には罪はないのです」と、Kは言った。「それは間違いです。いったいどうして、およそ一人の人間が有罪だなんてことがありえましょうか? ここにいる私たちは、あなただって私だって、みんな人間です」
「それはそうだが」と、僧は言った。「罪のある連中はいつでもそういうふうに言うものだ」
「あなたもまた私に対して偏見を持っているんですか?」と、Kがたずねた。
「偏見なんか持ってはいない」と、僧は言った。
「それはありがたいですが」と、Kは言った。「手続きに関係している人々はみな、私に対して偏見を持っているんです。彼らはまたそれを関係のない人々にも吹きこむんです。私の立場はいよいよむずかしくなるばかりです」
「君は事実を見誤っているんだ」と、僧は言った。「判決は一時に下るものではなく、手続きがだんだんに判決に移り変ってゆくんだ」
「それじゃ、そうですかね」と、Kは言い、頭を垂れた。
「さしあたって君の事件についてどうしようと思うのかね?」
「もっと助けを捜そうと思います」と、Kは言い、僧がそれをどう判断するか見ようとして、頭を上げた。「私が利用しつくしていないある種の可能性がまだあるんです」
「君はあまり他人の援助を求めすぎる」と、僧は不機嫌《ふきげん》そうに言った。「そして特に女にだ。いったい、そんなのはあてにならぬ援助だということがわからないのかね?」
「ときどきは、いやしばしば、あなたのおっしゃるとおりです」と、Kは言った。「しかし、いつもそうだとは申せません。女たちは大きな力を持っています。もし私が、自分の知っている二、三人の女たちを動かして、協力して私のために働かせたら、私は間違いなくやり抜くことでしょう。ことにこの裁判所ではそうです。ほとんど女の尻《しり》を追いかけまわす連中ばかりから成り立っているんですからね。予審判事に女を一人遠くから見せようものなら、ただもううまく追いつこうとして、机も被告も突き倒してゆきますよ」
 僧は頭を手すりのほうに曲げたが、今やっと説教壇の天蓋が彼を押えつけはじめたようだった。外はどんな荒天だろうか? もう陰鬱な日中ではなく、すでに夜もふけていた。いくつもの大窓のガラス絵は、暗い壁にほんの一筋の淡い光でも投げかけることはできなかった。そしてちょうど今、寺男は主祭壇の蝋燭をひとつひとつ消しはじめた。
「気をわるくされたんですか?」と、Kは僧にきいた。
 返事がなかった。
「どんな裁判所に勤めているか、あなたは知らないのです」と、Kは言った。
 上ではなお依然として森閑としていた。
「私はあなたを侮辱するつもりはないんです」と、Kが言った。
 そのとき、僧が下のKに向ってどなった。
「いったい君は二歩前方が見えないか?」
 怒りでどなったが、同時にまた、誰かが倒れるのを見た人が、自分も驚いてしまったので、不用意に、われ知らず叫んだようでもあった。
 二人は長いあいだ黙っていた。僧は下のほうを支配している暗闇の中でKをはっきりとは見られなかったらしいが、Kのほうは僧を小さなランプの光の中にはっきりと見た。なぜ僧は降りてこなかったのか? 彼は説教はせずに、Kに二、三のことを述べただけだったが、よく考えてみると、Kのためになるよりは害になるようなものに思われた。しかし、確かにKには僧の善意は疑いないように思われ、もし降りてきたら、意気投合することも不可能ではなく、またたとえば、どうやって訴訟は左右されるかというようなことではないが、どうやって訴訟から逃《のが》れるか、どうやってそれを避けるか、どうやって訴訟の外に生活できるか、ということを示すような決定的で承認できる忠告をもらうことも不可能ではなかった。こういう可能性はあるにちがいなく、Kは最近何回となくそのことを考えたのだった。しかし、僧がもしこういう可能性のひとつを知っているなら、彼自身裁判所の人間であるし、Kが裁判所を攻撃したときは、優しい本性を抑《おさ》えつけてKをどなりつけはしたけれども、頼めばきっと明かしてもらえるはずだ。
「降りてきませんか?」と、Kは言った。「説教をなさるわけでもないでしょう。降りていらっしゃい」
「もう降りてもいい」と、僧は言ったが、おそらくどなったことを後悔しているらしかった。ランプを鉤《かぎ》からはずしながら、彼は言った。
「初めは離れて君と話さなければならなかったんだ。そうでないとあまりに人に左右されやすくなって、役目を忘れてしまうんでね」
 Kは階段の下で僧を待った。僧は降りてきながら階段の上のほうからもうKに手を差出した。
「私と話してくださる時間が少しありませんか?」と、Kはきいた。
「要《い》るだけいくらでも」と、僧は言い、Kに持ってもらうため、小さなランプを渡した。近くにあっても、一種のいかめしさが彼の身体から消え去らなかった。
「たいへんご親切なことです」と、Kは言い、二人は並んで、暗い内陣の中をあちこちと歩いた。
「裁判所の人たち全部のうちで、あなただけは例外だ。たくさんの人を知っていますが、あなたをほかの誰よりも信頼しますね。あなたとなら打明けて話ができる」
「早まっちゃいけない」と、僧が言った。
「早まるってどういう点でですか?」と、Kがきいた。
「裁判所のことだよ」と、僧が言った。「法律の入門書には、君のような惑いについてこう書いてある。――
 掟《おきて》の前に一人の門番が立っていた。この門番のところへ一人の田舎《いなか》の男がやってきて、掟の中へ入れてくれと願った。しかし門番は、今ははいることを許せない、と言った。男は考えていたが、それでは後《あと》でならはいっていいのか、ときいた。『それはできる』と、門番は言った、『だが今はだめだ』掟へはいる扉はいつものようにあけっ放しだし、門番は脇《わき》へ行ったので、男は身体をかがめて、門越しに中をのぞこうとした。門番はそれを見て、笑って言った。『そんなにはいりたいなら、わしの禁止にそむいて中へはいろうとしてみるがいい。だがいいか。わしは力を持っている。それでもいちばん下《した》っ端《ぱ》の門番にすぎない。広間から広間へと門番が立っていて、だんだん力が大きくなるばかりだ。三番目の門番の顔を見ることだけでもわしにはもう我慢ができない』こんな困難は田舎の男の予期しなかったことだが、掟というのは誰にでもいつでも近寄れるはずだ、と考えた。しかし、毛皮の外套を着た門番、その大きな尖《とが》り鼻、長くて薄い、真っ黒な韃靼人《だったんじん》風の髯《ひげ》をよくよく見ているうち、はいる許可がもらえるまでむしろ待とうと決心した。門番は男に床几《しょうぎ》を与え、扉の脇ですわらせた。そこで何日も、何年も男はすわっていた。男は、入れてもらおうとさまざまな試みをし、うるさく頼んで門番をうんざりさせた。門番はときどき男をちょっと尋問し、男の故郷のことやそのほかさまざまなことをきいたが、いずれもお偉方のやるような無関心な質問で、最後にはいつもきまって、まだ入れることはできない、と言うのだった。旅のためにたくさん準備を整えてきた男は、門番を買収しようと思い、どんなに貴重なものであろうとすべてつかい果した。門番のほうはなんでももらうにはもらうが、『何か手を尽さなかったと君が思わないように、もらっておこう』と言うのだった。長年のあいだ、男はほとんど絶え間もなく門番を観察し続けた。ほかの門番のことなど忘れてしまい、この最初の門番こそ掟にはいる唯一の障害だと思うようになった。初めの頃は声を大にして不運な偶然を呪《のろ》っていたが、後に年をとってゆくと、ぶつぶつつぶやくだけであった。子供のようになってしまい、長年にわたって門番を観察していた結果、その毛皮の襟《えり》に蚤《のみ》たちがいることを知り、自分を助けてくれるように、そして門番を説き伏せてくれるように、と蚤たちに頼んだりした。ついに視力が弱まり、自分の周《まわ》りがほんとうに暗くなったのか、それとも自分の眼が錯覚を起しているのか、わからなくなった。しかし今や暗黒を通して、掟の幾重もの扉から消えることなくさし出てくる輝きをはっきりと認めた。もう長くは生きまい。死の前にあって、彼の脳中には全生涯のあらゆる経験が相集まって、これまで門番に投じたことのないひとつの質問となった。硬直しつつある身体をもう起すこともできないので、門番に目くばせの合図をした。門番は深く身体をかがめなければならなかった。なぜなら、背丈《せたけ》のちがいは、男のほうがずっと不利なように変ってしまっていたからである。『いったい、いまさら何を知りたいんだ』と、門番はきいた、『お前はよく飽きもしないな』『誰でもみな掟を求めているのに』と、男は言った、『私のほか誰も入れてくれと求める者がいなかったというようなことに、どうしてなったのですか?』門番は、男がすでに臨終にあるのを知り、薄らいでゆく聴力に届くように、大声でわめいた。『ここではほかの誰もが入れてもらえなかったのさ。なぜなら、この入口はただお前のためときまっていたからだ。どれ、わしも出かけよう。そして門をしめよう』」
「それじゃあ、門番は男をだましたんですね」と、その話に非常に強くひきつけられたKは、すぐ言った。
「先走っちゃいけない」と、僧が言った。「他人の意見を吟味しないで受取るもんじゃない。わしは君に、この話を本に書いてあるとおりに話したんだ。だますとかいうようなことについては全然書いてない」
「でもそれは明瞭《めいりょう》ですよ」と、Kは言った。「そしてあなたの最初の解釈がまったく正しかったんです。門番は解決の言葉を、それがもう男には役にたたなくなって初めて言い聞かせたんです」
「門番はその前にはきかれなかったんだ」と、僧は言った。「またよく考えてもらいたいが、彼は門番にすぎないんだし、門番としては義務を果したわけだ」
「義務を果したって、なぜそう思われるんですか?」と、Kはきいた。「果しはしませんね。彼の義務はおそらく、縁のない者はすべて追い払うということであったのでしょうが、その入口をはいることにきまっているその男は、入れてやるべきだったのでしょう」
「君はこの書物に十分敬意をはらっておらず、話をつくり変えているんだ」と、僧は言った。「この話は掟にはいるのを許すことについて、二つの重要な門番の言明を含んでいる。ひとつは冒頭、ひとつは結末にあるんだ。そのひとつの個所には、男に今ははいることを許せないと書いてあり、もう一個所には、この入口はお前だけのものだ、とある。この二つの言明のあいだに矛盾があれば、君の言うことが正しいのであって、門番は男をだましたことになろう。ところが全然矛盾がないんだ。反対に、第一の言明は第二のを暗示さえしている。門番は、男に将来ははいることを許す可能性があるという見込みを与えることによって、義務を逸脱したのだ、とほとんど言うことができよう。そのころには男を追い払うというだけが彼の義務であったらしく、事実この書物の多くの注釈者も、門番が厳密さというものを愛するように見え、厳格に自分の役目を守っているのに、およそそんな暗示をほのめかしたことについて、不思議に思っている。多年のあいだ自分の持場を離れず、まったく最後というときになって初めて門をしめるし、自分の役目の重大さというものをきわめて自覚しているんだ。なぜなら、『わしには力がある』と言うからだ。上役に対する尊敬というものを知っている。『わしはただいちばん低い門番だ』と言うからだ。多年のあいだ、この本に書いてあるように『無関心な質問』を投げるだけだったのだから、おしゃべりでもないし、贈り物については『何か手を尽さなかったと君が思わないように、もらっておこう』と言うのだから、賄賂《わいろ》のきくような男でもない。義務の遂行に関しては、動かされたり、泣き落しにかかったりはしない。なぜなら、この男について、『うるさく頼んで門番をうんざりさせた』と書いてあるからだ。最後に彼の外貌《がいぼう》もそのペダンチックな性格を暗示している。大きな尖り鼻、長くて薄い、真っ黒な韃靼人風の髯とある。これより義務に忠実な門番はまたとあるだろうか? さてところで、この門番にはさらに別の特徴もあって、それははいることを求める人間にきわめて好都合なものであり、ああいうように将来の可能性などをほのめかして自分の義務をいくらか逸脱したということも、それによればともかくうなずけるというものだ。つまり、この男は少し単純であり、またそれと関連して少し己惚《うぬぼ》れが強い、ということは否定できない。自分の力、ほかの門番たちの力、それからそういう門番たちを見ると彼には我慢できないということ、そういうことについての彼の言い分は――わしは思うんだが、これらの言い分はみなそれ自体として正しくはあるが、彼がこういうことを持ち出すやりかたは、彼のとらえかたが単純さと思い上がりとによって曇らされているということを示すものだ。注釈者たちはこの点に関して、『ある事柄の正しい把握《はあく》と同じ事柄の間違った解釈とは互いに完全に排除し合うものではない』と言っている。ともかく、あの単純さと思い上がりとは、おそらく微々たる現われかたしかしていないのであれ、入口を守るという仕事を損じていることは認めないわけにはゆかず、それが門番の性格にある隙《すき》なのだ。そのうえさらに、この門番は生れつき親切らしいということがある。彼はまったくのところいつも役人になりきっていたとは言えないのだ。男に対してはっきりと断固たる禁止をしているにもかかわらず、はいることをすすめてみるような冗談を、初めのころにやっているし、次に男を追い払うようなことをやらないで、この本の書いているところだと、床几を与え、扉の脇にすわらせている。多年を通じて男の懇願を我慢強く聞いてやった忍耐、ちょっとした尋問の数々、贈り物を受取ったこと、ここに門番を配置した不運な偶然を男が自分のそばで大声で呪うのを許していた高貴さ――こういうものはすべて、同情を働かしたものと結論できる。どんな門番でもこんなふうに振舞うとはかぎらぬはずだ。そして最後にまだ男の合図を見て深く彼のほうに身体をかがめ、最後の質問の機会を与えてやるのだ。ただちょっとしたいらだたしさが――門番は実に、万事がおしまいだということを知っているのだ――『お前はよく飽きもしないな』という言葉に現われているだけだ。多くの人はこの解釈のしかたをさらに押し進めさえして、『お前はよく飽きもしないな』という言葉は、一種の親しみを含めた感嘆を表わすものであるとしているが、もちろんこの感嘆は卑下の気持が全然ないわけではないとしている。いずれにせよ、門番の全貌は君が思いこんでいるのとは、全然ちがうように結論されるわけだ」
「そりゃあ、あなたはこの話を私より詳しく知っているし、またずっと前から知っているんですからね」と、Kは言った。
 二人はしばらく黙っていた。やがてKが言った。
「それじゃああなたは、男はだまされたんじゃない、と思うんですか?」
「私の言うことを誤解しちゃいけない」と、僧が言った。「わしは君にただ、この話について行われているいろいろな意見を教えているだけだ。君はいろいろな意見をあまり尊重してはいけない。書物は不変であって、いろいろな意見などはしばしばそれに対する絶望の表現にすぎないのだ。この場合についても、だまされたのはまさに門番のほうだ、とするような意見さえあるくらいだ」
「それは極端な意見ですね」と、Kは言った。「どういう根拠に基づいているんですか?」
「根拠は」と、僧は答えた。「門番の単純さというものから出ている。門番は掟の内部を知らないのであって、ただ道だけを知っているのだが、その道も入口の前でいつもやめなくてはならない、というのだ。彼が内部について持っているイメージは、子供らしいものと考えられるし、男を恐れさせようとするものを自分でも恐れているのだ、と認められる。まったく、彼のほうが男よりもそれを恐れているのだ。なぜならば、男は内部にいる恐ろしい門番たちの話を聞いてさえもただはいることだけを望んだのに、門番のほうははいろうとは思わず、少なくともそれについては何事もわかっていないからである。ほかの注釈者は、掟に仕えるよう採用されたのであるし、こういうことはかならず内部でだけ行われるはずであるから、門番は内部にいたことがあるにちがいない、と言ってはいる。それに対して答えられることは、内部からの呼び声で門番に命じられたのかもしれないが、三番目の門番を見てもう我慢ができないくらいだから、少なくとも内部の奥深くまで行ったことはありえないはずだ、ということだ。ところでそのうえ、多年のあいだに門番たちについて述べているほかに何か内部について語ったということが、書いてもない。それは禁じられていたのかもしれないが、その禁止についても語ってはいない。そういうことから結論されているのは、内部の有様や意味について何も知らないし、それについて錯覚している、ということだ。しかしまた、田舎《いなか》の男に対しても錯覚していたにちがいない。なぜなら、この男に対して下位にありながら、それを知らないからである。男を自分よりも下位の人間として取扱ったことは、君もまだ覚えているだろうが、多くの点からわかることだ。ところが、門番のほうが実は下位にあるということは、この論者の意見によると、同じようにはっきりと推論されるというのだ。何よりもまず、自由な人間というものは束縛された者よりも上位にあるものだ。さて、男のほうは事実自由であり、どこへでも行きたいところへ行けるし、ただ掟への入口だけが、彼には通行禁止になっているだけだが、そのうえ、門番というただ一人によって禁じられているにすぎない。門の脇の床几に腰をかけて、そこに一生涯とどまっていたのも、自由意志でやったことであり、この話はなんら強制ということを語ってはいない。それに反して門番はその役目によって持場に縛られており、外に離れることもならず、どうもいくら欲しても内へも行くこともならぬらしいのだ。そのうえ、掟に仕えているとはいえ、ただこの入口のために仕えているのであり、したがってただこの入口ばかりからはいれることになっているこの男だけのために仕えているわけだ。この理由からも門番は男の下位にある。彼は多年にわたって、壮年時代を通じてある意味ではただむなしい役目を果していたにすぎないと言いうる。なぜなら、一人の男がやってきたと書いてあるのだから、壮年の何者かが来たわけであり、したがって門番はその目的が果されるまで長いあいだ待たねばならず、しかも自由意志でやってきたその男の気の向きよう次第で待たねばならなかったからだ。ところがこの役目の終りもその男の生涯の終りに規定されていて、したがって最後まで男の下位に居続けるわけだ。そして、門番はそういうことについて何も知ってはいないようだ、ということが繰返し強調されている。しかしその点に関してなんら著しく着目すべきことは見られない。なぜなら、この見解によると門番はもっとずっと重い錯覚にいたのであって、その錯覚は役目に関することなのだからである。すなわち最後に入口のことをしゃべり、『わしも出かけよう。そして門をしめよう』と言っているが、冒頭には、掟への門はいつものように開いているとあり、もしいつも開いているのなら、いつもというのはこの門からはいってゆくべき男の生涯には関係ないという意味だから、門番もその門をしめることはできぬわけだ。門番が門をしめようと言って、ただ返答をしておこうというだけのものなのか、あるいは役目の義務を強調しようとしたのか、それともその男を最後の瞬間においても後悔と悲しみとにおとしいれようとしたのか、その点に関しては諸家の意見はいろいろに分れている。しかし、彼は門をしめることができないはずだ、という点では多くの人々は一致した意見である。これらの人々は、男が掟の入口からさしてくる輝きを見たのに、門番その人はきっと入口を背にして立っており、何か変化を認めたという素振りを全然示さなかったのであるから、少なくとも最後のときにおいては、その知においても門番は男の下位にあったのだ、とさえ信じている」
「りっぱに理由がつきましたね」と、僧の説明のところどころの個所を低声につぶやきながら繰返していたKは、言った。「りっぱに理由がつきましたね。そして私も今では門番がだまされたものと信じます。けれど、そうだからといって私の以前の意見をやめてしまったわけではありません。というのは、二つの意見は互いに部分的に重なり合うからです。門番がはっきり見ていたのか、あるいはだまされたのか、ということははっきりきまらないと思います。男はだまされた、と私は言いました。もし門番がはっきりと見ているのなら、それを疑ってみることもできましょうが、門番がだまされたのだとすれば、その錯覚は必然的に男へ移ってゆかねばなりません。そうなると門番は欺瞞者《ぎまんしゃ》ではないけれども、非常に単純なのですぐに役目からおはらい箱にされなければならぬでしょう。門番の陥っている錯覚は彼を少しも害しはしなかったが、男には千倍も害を与えたということを、あなたはよく考えるべきです」
「それにはこういう反対説があるんだ」と、僧は言った。「つまり多くの人々は、この話は誰にも門番について批判を下す権利を与えていない、と言うんだ。門番がわれわれにとってどう見えようとも、彼は掟に仕える者であり、したがって掟に属し、したがってまた人間の批判を超《こ》える。また、門番は男の下位にある、ということも信じてはならない。役目によってただ掟の入口に縛られているということは、自由に世間で生活するよりも比較にならぬくらいよいことだ。男は初め掟のところへ来るのだが、門番はすでにそこにいる、彼は掟によって役目につけられているのであり、その威厳を疑うことは、掟を疑うことを意味する」
「そんな意見に私は賛成しかねますね」と、Kは頭を振りながら言った。「なぜなら、もしこの意見に賛成するならば、門番の言ったことをすべて真実と考えなくてはなりません。ところが、そういうことはありえないということを、あなたご自身詳しく理由づけたんですからね」
「いや」と、僧は言った。「すべてを真実だなどと考えてはいけない、ただそれを必然だと考えなくてはならないのだ」
「憂鬱な意見ですね」と、Kは言った。「虚偽が世界秩序にされているわけだ」
 Kは結論的にそう言ったが、彼の終局の判断ではなかった。あまりに疲れていて、その話のあらゆる結論をことごとく見渡すことができなかったし、その話が彼を導いていったのは不慣れな思考法でもあった。彼にというよりも裁判所の役人の一味の論議にふさわしいような、非現実的な事柄だった。単純な話が形のゆがんだものとなってしまい、そんなものを自分から振落してしまいたかったが、今は大いに思いやりを見せるようになった僧は、それを見逃《みのが》してくれ、自分の意見とKの言葉とは確かに一致しないのだが、それを黙って受入れるのだった。
 二人はしばらく黙ったまま歩み続け、どこにいるのかわからないまま、僧のすぐそばにくっついていた。Kの手にしているランプはとっくに消えてしまっていた。一度、ちょうど彼の眼の前で聖人の銀の立像がただ銀の輝きだけできらめき、すぐまた暗闇へと消えていった。すっかり僧に頼《たよ》りきりになっているわけにもゆかないので、Kはきいた。
「もう正面入口の近くじゃありませんか?」
「いや」と、僧は言った。「まだだいぶ遠い。もう帰りたいのか?」
 Kはちょうどそのとき帰ることを考えていたわけではなかったが、すぐ言った。
「そうです、帰らなければなりません。私はある銀行の業務主任で、銀行では私を待っています。私がここにやってきたのはただ、外国人の顧客に伽藍を案内するためです」
「それじゃあ」と、僧は言い、Kに手を差出した。「行きたまえ」
「でも真っ暗でひとりでは見当がつきかねるのですが」と、Kは言った。
「左の壁のほうに行き」と、僧は言った。「それから壁に沿って壁を見失わないようにして行けば、出口が見つかるよ」
 僧が二、三歩離れるか離れないかのうちに、Kはきわめて大声で叫んだ。
「どうか待ってください!」
「待つよ」と、僧が言った。
「まだ何か私に用はありませんか?」と、Kがきいた。
「ない」と、僧が言った。
「前はたいへん親切にしてくれ」と、Kは言った。「私に万事を説明してくれたのに、今はもう私のことなんかどうでもいいというように私を見捨ててしまうんですね」
「だが、君は帰らねばならないんだろう」と、僧は言った。
「そうですが」と、Kは言った。「今言ったことをよく考えてください」
「まず君は、わしが誰かをよく考えることだ」と、僧は言った。
「教誨師です」と、Kは言い、僧のほうに近づいた。すぐ銀行に帰るということは、彼が言ったほど必要なことではなく、ここにとどまっていてもいっこうにさしつかえなかった。
「それだから私は裁判所の人間だ」と、僧は言った。「そうだとしたらなぜ君に用事があろう。裁判所は君に何も求めはしない。君が来れば迎え、行くなら去らせるまでだ」

第十章 終末

 Kの三十一歳の誕生日の前夜――夜の九時頃で、街の静かになるときだった――二人の紳士が彼の住居にやってきた。フロックコート姿で、蒼白《あおじろ》く、身体《からだ》は肥って、びくともしないようなシルクハットをかぶっていた。初めての来訪なので家の玄関でちょっと儀礼じみたことをやった後、Kの部屋の前では、同じ儀礼じみた動作をもっと大仕掛けに繰返した。来訪は告げられていなかったが、Kは同じように黒の服装で、扉《とびら》の近くの椅子にすわり、指にぴったりと合う新しい手袋をゆっくりとはめていたが、まるで客を待っているような態度だった。すぐ立ち上がって、紳士たちを物珍しげに見つめた。
「私のところに来るようにきまっていたのはあなた方でしたか?」と、彼はきいた。
 紳士たちはうなずき、一人は手にしたシルクハットでもう一人のほうを示した。Kは、自分は別な訪問客を待っていたのだ、と思った。窓ぎわへ行き、もう一度暗い通りをながめた。通りの向う側の窓々もほとんど全部もう暗くなっていて、多くの窓にはカーテンがおろされていた。二階の明りのついたひとつの窓では、格子《こうし》の後ろで小さな子供たちが遊んでいたが、まだ自分の場所から動くことができないで、小さな手で互いにさわり合っていた。
「老いぼれた、下《した》っ端《ぱ》の役者をおれのところへよこしやがった」と、Kはつぶやき、もう一度そのことを確かめるために、振向いた。「手軽なやりかたで、おれのことを片づけようとしているんだ」
 Kは突然、彼らのほうを向き、きいた。
「どこの劇場でやっておられるんですか?」
「劇場?」と、一人は口もとをぴくぴくさせながら、もう一人のほうに意見を求めた。もう一人のほうは、全然手の下しようのない生物体と闘っている唖《おし》のような身振りであった。
「質問される心構えができていないようだ」と、Kはつぶやき、帽子を取りにいった。
 階段の上で早速、二人はKの腕を取ろうとしたが、Kは言った。
「通りに出てからにしてください。私は病気じゃないんだから」
 ところが門の前に来るとすぐ、Kがこれまで人と歩いたことのないようなやりかたで、Kの腕を取った。二人は肩を彼の肩のすぐ後ろにくっつけ、腕を曲げないで、むしろそれを利用してまっすぐのままKの腕にからませ、下のほうでは、訓練の行き届いた、慣れた、反抗できぬようなつかみかたで、Kの両手をとらえた。Kは身体をこわばらせて二人のあいだにはさまれて歩いていったが、今では三人が統一を形づくっているので、一人が倒されれば、全部がめちゃめちゃにされてしまうほどだった。ほとんどただ無生物だけが形づくりうるような統一だった。
 街燈の下で、Kはしばしば、こんなにくっついているのでやるのはむずかしかったが、自分の部屋の薄暗がりではできなかったほどはっきりと、二人の連れを観察しようとした。
「きっとテノール歌手なんだろう」と、Kは二人の重々しい二重|顎《あご》をながめて思った。彼らの顔の清潔さが、Kをむかつかせた。眼尻《めじり》をなで、上唇《うわくちびる》をこすり、顎の皺《しわ》をかくきれいな手も、はっきりと見えた。
 Kがそれに気づいて立ち止ると、そのためにほかの二人も立ち止った。広々とした、人けのない、さまざまな施設で飾られた広場にいた。
「どうしてあんた方みたいな人をよこしたんだろう!」と、きくというよりも叫んだ。
 二人はどう返事をしていいかわからぬらしく、病人が休もうとするときの看護人のように、腕を垂《た》れ、遊ばせたまま、待っていた。
「もう歩かない」と、Kはためしに言ってみた。二人はそんなことに返答する必要はなく、つかみかたをゆるめず、Kをその場から連れ去ろうとすれば十分だったが、Kは抵抗した。
「もう大いに力を振うというどころでなく、根限りの力をつかってみよう」と、彼は考えた。脚を引っ張られながら、蠅取紙《はえとりがみ》から逃げようともがく蠅たちのことが思い出された。
「この連中もたいへんな仕事をやらずばなるまい」
 そのとき彼らの眼前に、低くなっている小路から小さな階段を伝わってビュルストナー嬢が広場へと登ってきた。その女がそうだということはまったく確かではなかったが、もちろん似ていることは大いに似ていた。だが、それが確かにビュルストナー嬢であるかどうかはKにもたいした問題ではなく、ただ自分の抵抗の無意味さがすぐ彼の意識にのぼってくるのだった。抵抗し、今二人を大いにてこずらせ、拒みながらも生の最後の輝きを味わおうと試みても、それはなんら英雄的なことではなかった。彼は歩きだし、それによって二人をよろこばせたことが、いくらか自分自身に報いられる結果になった。Kが道をどの方角にとっても二人は黙っているので、彼は女が彼らの前で歩いてゆく道についてゆくことにきめた。何か女に追いつこうとか、できるだけ長く女を見ていたいとかいうためではなく、ただ女が彼にとって意味する警告を忘れないためだった。
「おれが今なしうる唯一のことは」と、彼はつぶやいたが、自分の歩みと二人の歩みとがぴったり合っていることが彼の考えを裏づけるように思われた。「おれが今なしうる唯一のことは、冷静に処理してゆく理性を最後まで保つことだ。おれはいつも二十本もの手を持って世の中にとびこもうとしたのだったが、そのうえあまり適当でない目的のためにだったのだ。それは間違っていた。一年間の訴訟がおれに全然教えるところがなかったということを、おれは見せるべきだろうか? 物わかりの鈍い人間として退場すべきだろうか? 訴訟の初めにはそれを終えようと願ったのに、その大詰になった今ではまた始めたいと思っているなどと陰口を言われてよいものだろうか? そんなことを言われたくない。この道中、おれに対してこんな半分|唖《おし》のような、物のわからぬ連中を付き添わせてくれたこと、そして勝手|気儘《きまま》に必要なことをつぶやくままにさせておいてくれたこと、これはありがたいことだ」
 そうしているうち、女は横町に曲ってしまったが、Kはもう女には用はなく、同伴者たちにまかせきりになっていた。今や三人全部が完全にわかり合って月光の中のある橋を渡った。Kが示すどんな小さな身動きにも、男たちは今はよろこんで従い、Kが少し欄干のほうに向うと、彼らもすっかりそちらを向いた。月光の中に輝き震えている水は、ひとつの小さな島で分れ、その島の上には、一まとめにされたように樹や灌木《かんぼく》の葉簇《はむら》が盛り上がっていた。それらの葉簇の下には今は見えないが、快適なベンチのある砂利道《じゃりみち》が通っていて、それらのベンチにKは幾夏も身体を伸ばしたりしたものだった。
「立ち止るつもりは全然なかったんです」と、Kは同伴者たちに言い、彼らがいかにも自分の意のままにしてくれるのを恥ずかしく思った。一人はもう一方の男に、Kの背後で、間違って立ち止ったことについて軽くとがめているようだった。それから彼らはまた歩いていった。
 登り坂の小さな道をいくつか行ったが、そこにはあちらこちらに警官たちが立ち止ったり、歩いたりしていた。あるいは遠くのほうに、あるいはすぐ近くにいるのだった。もじゃもじゃの鬚《ひげ》を生やした一人の警官が、サーベルの柄に手をかけ、何かいわくありげに、まったくうさんくさくないとは言いきれぬこの一行に近づいてきた。二人の男は立ち止り、警官が今にも口を開きそうに見えたとき、Kはぐいと二人を前へ引っ張っていった。警官がついてきはしないか、と彼は幾度も振返ってみた。ところが彼らと警官とのあいだに少し距離が開いたとき、Kが走り始めたので、二人の男たちも息をはずませながらいっしょに走らなければならなかった。
 こうして彼らは大急ぎで町から出た。町はこの方角では、ほとんど変り目というものがなく、すぐ野原に続いていた。まだまったく町らしい趣をとどめている一軒の家のそばに、小さな石切場が、見捨てられ、荒涼として、横たわっていた。この場所が初めから彼らの目的地だったのか、あるいはあまり疲れてもうこれ以上走れなくなったからか、ここで二人は立ち止った。そして、黙ったまま待ちかまえているKを手放し、シルクハットを脱ぎ、石切場を見まわしながら、額の汗をハンカチでぬぐった。あたり一面に、ほかの光にはないような自然らしさと落着きとをもって、月光がふり注いでいた。
 さて次の仕事はどちらがやらねばならぬのかという点についていくらか慇懃《いんぎん》な応酬を交《か》わして後――二人は分担をきめることなく任務を受けてきたらしかった――一人がKに歩み寄り、彼から上着、チョッキ、さてはシャツまでもはぎ取った。Kは思わず知らず身震いすると、その男は軽く、なだめるようにKの背中をたたいた。それからそれらの着物を、今すぐではないが要《い》ることもあるという品物のように、丁寧に取りまとめた。Kがじっとしていて冷たい夜気にさらされ放しにならないように、男はKの腕を取り、あちこちと少しばかり歩いたが、もう一人の男は石切場でどこか適当な場所を捜していた。それを見つけると合図をし、もう一人がKをそこへ連れていった。採掘石壁の近くで、そこには切られた石があった。二人はKを地上に置き、その石にもたれさせ、頭を上向きに寝かせた。彼らがいろいろ努力したにもかかわらず、またKが彼らの意にかなうことをいろいろとやってみせたにもかかわらず、Kの姿勢はきわめて窮屈で、信じられないようなものだった。そこで一方の男は、Kを寝かすことをしばらく自分だけにまかせるようにと頼んだが、そうやってみてもよくはならなかった。とうとうKをひとつの姿勢に置いたのだったが、けっしていちばん具合のよい準備完了の姿勢ではなかった。次に一方の男がフロックコートを開き、チョッキのまわりに締めた帯にかかっている鞘《さや》から、長くて薄い両刃の肉切|庖丁《ぼうちょう》を取出し、高くかざして、月の光で刃を調べた。また例の不愉快な慇懃さが始まり、一方がKの頭越しに小刀をもう一人に渡し、その男はまたそれをKの頭越しにもどした。Kは今やはっきりと、小刀が手から手へと自分の頭上で行き来しているとき、自らそれをつかみ、自分の身体をえぐるのが義務だろうということを、知ったのだった。しかし、彼はそうはしないで、まだ自由な頸《くび》を動かして、あたりを見まわした。完全に身のあかしをたてることはできず、役所からあらゆる仕事を取除くこともできなかったが、この最後の失策に対する責任は、それに必要な力の残りをおれから拒んだやつが負うのだ。彼の眼差《まなざし》は石切場に接した家のいちばん上の階に注がれた。明りがつくと、ひとつの窓の扉が開き、はるかに高いところにいるので弱々しく、痩《や》せて見える一人の男が、ぐっと前に身体を乗り出し、腕をいっそう広くひろげた。いったい誰だ? 友人か? いい人間か? 関係している人間か? 助けてくれようとする者か? 一人だけなのだろうか? たくさんの人間がいるのだろうか? まだ助かる見込みはあるのか? 忘れられていた異議があるのか? きっとそんな異議があるはずだ。論理は揺るがしがたいが、生きようと欲する人間には、その論理も対抗することはできない。おれが見なかった裁判官はどこにいるんだ? おれがそこまでは行きつけなかった上級裁判所はどこにあるのだ? 彼は両手を上げ、指をことごとくひろげた。
 しかし、Kの喉《のど》には一人の男の両手が置かれ、もう一方の男のほうは小刀を彼の心臓深く突き刺し、二度そこをえぐった。見えなくなってゆく眼で、Kはなおも、二人の男が頬《ほお》と頬とを寄せ合って自分の顔の前で決着をながめている有様を見た。
「まるで犬だ!」と、彼は言ったが、恥辱が生き残ってゆくように思われた。
[#改丁]
 ≪付録≫

断章六編

エルザのもとで

 ある日、Kが出かけようとしていた直前、電話で呼び出され、すぐ裁判所事務局に来るよう求められた。これに従わぬことのないように念をおされた。彼が述べた前代|未聞《みもん》の言葉、すなわち尋問は無益であって、なんの効果もないし、またなんの効果もあげることはできないということ、もうけっして出頭はしないということ、電話や文書で召喚されてもそんなものは問題にしないし、使いの者は扉《とびら》から放り出してやるということ、そういうことはすべて記録としてとってあるし、すでにKにとってきわめて不利なものになった。なぜ命令に服したくないのか? 時間と金とを惜しまずに、裁判所は君のこみいった事件を解決しようと努力してきたのでなかったか? 君はそれに気儘《きまま》勝手に水をさし、裁判所がこれまで君に対して猶予してきた強制処置をとらせようとするのか? 今日の召喚は最後の試みである。君はどうであろうと好きなようにしてよろしいが、高級裁判所は嘲弄《ちょうろう》されて黙ってはいないということをよく胸に畳んでおくべきだ、というのだった。
 ところでKは、その晩、エルザを訪問するように言ってあったので、この理由からだけでも裁判所には行けなかった。それによって裁判所に出頭しないことを理由づけることができることを彼はよろこんだが、もちろんこんな理由を使う気は全然なかったし、この晩にほかの前約が全然なかったとしても裁判所には行かないということはきわめてありうることだった。ともかく、自分にはりっぱな権利があると思いながら、もし行かなかったらどうなるか、と電話できいてみた。
「君をかならず見つけ出せるだろう」というのが返事だった。
「で、進んでゆかなかったというので、罰せられることはあるんですか?」と、Kはきき、きっと言うにちがいないと思われる言葉を予想しながら微笑した。
「そんなことはない」という返事だった。
「それは結構です」と、Kは言った。「ですがそれなら、今日の召喚に従わなければならないどんな理由があるというんです?」
「わざわざ裁判所に強制手段をとらせるようなことはしないものだ」と、だんだん弱くなって最後に消えてゆく声が言った。
「そんなことをしたら、非常に軽率というものだ」と、Kは出てゆきながら考えた。「しかし強制手段というのはどういうものか、一度お目にかかる必要がある」
 ためらうことなく、エルザのところへ出かけた。くつろいで車の隅《すみ》によりかかり、両手を外套《がいとう》のポケットに突っこみ、――すでに寒くなりはじめていた――彼は往来の頻繁《ひんぱん》な通りをながめた。もし裁判所がほんとうに活動しているなら、少なからぬ面倒を裁判所に与えてやったはずだ、と彼はある種の満足をもって考えた。裁判所に行くとも、行かぬとも、はっきりと言ってはやらなかった。したがって裁判官は待っているだろうし、おそらくは相当の人数の連中さえも待っていることだろうが、自分だけは現われずに、傍聴席をことに失望させることだろう。裁判所に迷わされずに、自分の好きなところへ行くのだ。ところで、ふざけて御者に裁判所の番地を言わなかっただろうか、とちょっと不安になったので、大声でエルザの番地を叫んでやった。御者はうなずいたが、さっきも別にそれとちがう番地を言ったわけではなかった。そのときからKは次第に裁判所のことを忘れ、銀行についてのさまざまな考えが、以前と同じようにまた彼の心を満たしはじめた。

母のもとへの旅行

 昼食のとき、突然、母をたずねようと思いついた。今はもう新年もほとんど終りかけているから、母にこの前会ってから足かけ三年になる。母はあのとき、お前の誕生日には来るようにと頼んだので、彼もいろいろ支障はあったがその頼みに応じ、誕生日のたびごとに母のもとで過すよう約束さえしたのだったが、この約束は確かにもう二度も破ったのだ。しかしそのかわりに今度は、誕生日はもう二週間ばかり後のことだが、それまでは待たずにすぐ行こうと思った。ちょうど今行かねばならぬ特別な理由は何もない、と自分に言い聞かせはした。それどころか、故郷の小さな町に一軒の商店を持っており、Kが母に送る金を管理してくれている一人の従兄《いとこ》から、一月おきにきちんきちんと受けている知らせは、これまでのいつよりも安堵《あんど》できるものだった。母の視力は消えようとしているが、そのことは医者たちの言うところからすでに何年も前から予期していた。その反面、ほかの点での健康状態はいっそうよくなり、老齢のさまざまな不快は強まるどころか少なくなり、少なくともこぼすようなことはいっそう少なくなった。従兄の意見によると、それはおそらく、ここ数年来――Kは、この前訪れたときすでにそれの軽い徴候を認めてほとんど不快を覚えたのだったが――桁《けた》はずれに信心深くなったことと関係がある、ということだった。以前にはやっとの思いで身体《からだ》を引きずっていったこの老婆が、今では、日曜日に教会へ連れてゆくときには、自分の腕にすがって実にしっかりと歩いてゆく、と従兄はある手紙でまるで手にとるように書いてよこした。そしてKは従兄の言うことが十分信じられた。なぜならば、心配性の従兄はいつもは報告中によいことよりもむしろわるいことを誇張するのがつねだったからである。
 しかし、そんなことはどうあろうとも、Kは今は行くことに心をきめた。彼は最近では別な不快さのために一種の愚痴っぽさを身につけてしまった。自分のしたいと思うことになんにでも敗《ま》けてしまうという、ほとんど定見というもののない傾向である。――さて、今の場合にはこの悪徳は少なくともひとつのよい目的に役だつわけだった。
 考えを少しまとめるために窓ぎわに行ったが、すぐに食事を片づけさせ、小使をグルゥバッハ夫人のところへやって、旅行に出る旨を知らせ、必要と思うものを夫人につめてもらって手提鞄《てさげかばん》を持ってくるように命じた。次に、キューネ氏に対して自分が不在のあいだの二、三の商売上の用件を頼んだが、すでにならわしとなった不躾《ぶしつけ》な態度でキューネ氏が、自分はしなければならぬことはよくわきまえている、こんな命令はただ儀礼上聞いてやっているのだ、というようにそっぽを向きながら聞いていることにも、今度だけはほとんど腹がたたなかった。そして最後に支店長のところへ行った。母のところへ行かねばならぬので二日ほど休暇をいただきたい、と支店長に頼むと、もちろん支店長は、あなたのお母さんは病気がわるいのか、ときいた。
「いいえ」と、Kは言ったが、それ以上の説明はしなかった。
 両手を背後に組み、部屋の真ん中に突っ立っていた。眉《まゆ》をひそめて考えこんだ。どうも出発の準備を急ぎすぎたのではなかったか? ここにこのままいたほうがよかったのではないか? 故郷に帰ってどうしようというのだ? 感傷などから行こうと思うのだろうか? そして感傷から、おそらくここで何か重大なこと、たとえば訴訟に手をかけるチャンスを逸してしまうのではなかろうか? そういうチャンスは、訴訟がこれでもう何週間も落着いてしまったように見え、ほとんど何ひとつはっきりした知らせがやってこなくなって以来、いつなんどきやってくるかわからなかった。そしてそのうえ、老いた母を驚かすことにならないか? もちろんそんなつもりはないのだが、今では自分の意志に反してさまざまなことが持ち上がる始末なのだから、意に反してそうなることはきわめてありそうなことだった。それに母は、自分に来いとは全然言ってきてはいなかった。以前には、従兄の手紙には母の切なる招きがきまって繰返されていたのに、今はもうかなりのあいだ、そういうことがなかった。それゆえ母のために行くのではないことは、明瞭《めいりょう》だった。しかし、もし自分のなんらかの期待から行くのだとしたら、自分は完全に馬鹿者だし、きっと故郷では、窮極の絶望のうちに、自分のばかさ加減の報いを受けることになるだろう。だが、こうした疑惑のすべては自分のものではなく、他人たちが自分にもたらそうとしているものだ、とでもいうように、はっきりとした自覚を持ちながら、Kは行くという決心を変えなかった。こんなことを考えているあいだ、支店長は、偶然なのか、それともこのほうがほんとうらしいが、Kに対する格別な思いやりからか、新聞の上にかがみこんでいたが、やがて眼を上げ、立ち上がりながらKに手を差出し、それ以上は何もきかずに、元気で旅行されるように、と言った。
 Kはそれからしばらく、事務室の中をあちこち歩きながら小使を待っていたが、Kが旅行に出る理由を聞こうとして何回もやってくる支店長代理には、ほとんど口もきかずに肘鉄砲《ひじでっぽう》を食わせ、ついに手提鞄が着くと、すでに前もって命じておいた車へと急いで降りていった。彼が階段に行くやいなや、最後の瞬間に上のほうに行員のクリヒが現われ、書きかけの手紙を手にしていたが、明らかにKからそれについての指示を仰ごうとするものらしかった。Kは相手に手で断わりの合図をしたのだったが、このブロンドの大頭の男は物わかりがわるいので、その合図を間違って取り、便箋《びんせん》を振りながら危なかしいほどのとびかたでKの後《あと》を追ってきた。Kはそれに非常に怒ったので、クリヒが表階段で彼に追いつくと、その手紙を彼の手から奪い、引裂いた。次にKが車の中で振返ると、自分の失策がまだわからないらしいクリヒは同じ場所に立って、走り去って行く車を見送っていたが、彼に並んで門番が、改まって帽子を目深《まぶか》にかぶり直していた。それではおれはまだ銀行の高級職員の一人なのだ。いくらおれがそれを否定しようとしても、門番がきっと反駁《はんばく》したことであろう。そして母は、いくらそうでないと説き聞かせても、おれのことを銀行の支店長だと思っており、しかもそれが数年来のことなのだ。そのほかのことでいくらおれの声望が傷つけられても、母の考えではおれの価値が下落することはないだろう。ちょうど出発の前に、裁判所とつながりさえある行員の手から手紙を奪い取り、挨拶《あいさつ》もなしに破っても、自分の両手が焼けもしないというくらいの力をまだ依然として持っているのだ、と確信したことは、おそらくいいしるし[#「しるし」に傍点]にちがいなかった。

 ……もちろん、彼がいちばんやりたかったことはやれなかった。つまり、クリヒの蒼白《あおじろ》い、丸い頬《ほお》を二つばかり大きな音をたててなぐりつけることだ。一面から言うと、それはもちろん、大いによいことなのだ。なぜなら、Kはクリヒをきらい、クリヒばかりではなく、ラーベンシュタイナーとカミナーとをもきらっているからである。Kは、ずっと前から彼らをきらっていた、と思っている。ビュルストナー嬢の部屋に彼らが現われたことは、彼をして初めてこの男たちに注意をはらわせたのだったが、彼の嫌悪《けんお》はもっと前からのものである。そして最近では、Kはほとんどこの嫌悪に苦しめられている。この嫌悪を晴らすことができないからである。いずれも、まったく取るに足りないいちばん下っ端の行員なので、彼らに近づくことはきわめてむずかしい。年功の力以外によっては彼らは昇進できないだろうし、この点でさえほかの誰よりも手間取っているので、彼らの出世の邪魔をすることはほとんど不可能に近い。他人の手によって加えられるどんな妨害も、クリヒの愚かさとラーベンシュタイナーの怠惰とカミナーのいやらしいはいつくばるような卑屈さとほどには、大きいはずがない。彼らに対して企てうる唯一のことは、彼らを免職するように手をまわすことだろうし、それはきわめて容易に実現できることでさえあって、支店長に対してKがほんの二言三言言えば事は足りるのだが、Kはそうすることをはばかっている。公然もしくは秘密にKのきらうことならなんでもやろうとする支店長代理が三人の味方になるならば、Kはおそらくそうするだろうが、奇妙なことに今度は支店長代理が例外的な態度を示し、Kの欲することを同じように望んでいるのである。

検事

 長年の銀行勤めで、Kは人を見る眼や世故に長《た》けてはいたが、自分と同じ常連仲間は非常に尊敬すべきものに思われたし、このような仲間の一員であるのは自分にとって大きな名誉だということを、自分自身に対してけっして否定したことはなかった。ほとんどもっぱら裁判官、検事、弁護士から成る仲間で、二、三人のきわめて若い役人や弁護士見習も仲間入りを認められていたが、これらの若者たちはまったく末席にすわっていて、特別な質問が向けられたときにだけ論争に加わることが許されるのだった。しかし、こうした質問はたいてい、ただ仲間を興がらすだけの目的を持つものであり、いつもKの隣にすわるハステラー検事が特に、こうしたやりかたで若い人々を赤面させることが好きであった。彼が大きな、毛のもじゃもじゃ生《は》えている手を机の真ん中でひろげ、末席のほうを向くと、もうみなが聞き耳をたてるのだった。そして、それから末席で誰かが質問を受けたものの、それをどうも解けないとか、あるいはじっと考えこんでビールを見つめるとか、あるいは口をきくかわりにただ顎《あご》でぱくつくとか、あるいは――これがいちばんみじめだが――止めどもない熱弁をふるって間違った意見か確認されない意見かをもらすとかすると、年配の紳士たちは微笑しながら自分たちの席に向き直り、やっと快適になったという様子を見せるのだった。ほんとうにまじめな、専門的な話というのは、ただ彼らだけの仲間に取っておきであった。
 Kは、銀行の法律顧問であるある弁護士によってこの仲間に連れこまれた。ひところKはこの弁護士と銀行で夜遅くまで長い打合せをやらねばならぬときがあって、そこでおのずと弁護士といっしょにその常連席で夕食をとり、仲間づきあいを大いに楽しむ、ということになったのだった。ここで見られるのは、ただ学問のある、声望の高い、ある意味では権力のある紳士たちばかりであって、彼らの気晴らしというのは、むずかしい、人生とは関連の薄い問題を解こうと努め、この点で疲れるほどやるということにあった。K自身はもちろん、介入できることはほとんどなかったが、遅かれ早かれ銀行でも役にたつようなたくさんのことを聞く機会を手に入れた。そしてそのうえ、いつでも役にたつような個人的な関係を裁判所と結ぶことができた。だがその仲間の人々も、彼のことをよろこんで迎えるように見えた。間もなく実業の専門家として認められ、こういう事柄についての彼の意見は――その場合に事が全然皮肉などなしに運ぶということはなかったが――何か反駁《はんばく》できないものとして通っていた。商法上の法律問題においてちがった判断を持っている二人の人物が、そういう事実についてのKの意見を求め、次にKの名前があらゆる話のやりとりにしょっちゅう現われ、ついにはもうとっくにKにはついてゆけないようなきわめて抽象的な検討に引っ張りこまれることもまれではなかった。もちろん彼には多くのことがわかってきた。ことに、ハステラー検事がそばについていてよい忠告者となってくれたからである。そしてこの人物はまたKと親しい近づきとなったのだった。しばしば夜分に家までついてくることさえあった。しかし、自分のことを釣鐘マントの中に全然目だたぬように隠してしまうことのできるような大男のそばを手に手をとって歩いてゆくことには、長いあいだなじめぬことだった。
 ところが時のたつにつれ、二人は非常にうま[#「うま」に傍点]が合うようになったので、教養や職業や年齢のちがいがすべて消えてしまうほどだった。彼らは互いに交際したが、ずっと以前から互いに釣り合った相手同士のようであり、その関係においてときどきは外見上一方がすぐれているように見えるときがあると、それはハステラーではなくてKのほうだった。なぜならば、Kの実際的経験は裁判所の机の上ではけっしてありえぬほど直接的に手に入れられたものなので、たいていはそれが物を言ったからである。
 この友情はもちろん、その常連たちのあいだに間もなく広く知れ渡り、誰がKを仲間に連れこんだのかということは半分忘れられてしまい、Kと合うのはともかくハステラーだということになった。Kがこの仲間にはいっている権利があるかどうかということが疑わしくなると、彼は十分の権利をもってハステラーのことを引合いに出すことができるのだった。しかし、Kはそれによってひとつの格別有利な立場を獲得した。なぜなら、ハステラーは声望も高かったが、恐れられてもいたからである。彼の法律的な頭の力や巧みさというものはきわめて驚嘆すべきものではあったが、この点では多くの人々が少なくとも彼と同等であった。だがしかし、彼が自説を守る荒々しさにはなにびとも匹敵できなかった。ハステラーは相手を説き伏せることができないと、少なくとも相手を恐怖におとしいれるのだ、という印象をKは受けたが、彼が人差指を立てるだけで多くの人々は尻込《しりご》みするのだった。相手の人は、自分が善良な知人や同僚たちの仲間に加わっているのだということ、ただ理論的な問題だけに関することであり、実際にはけっして何事も起るものではない、ということを忘れてしまうようであって、――まったく口をつぐみ、頭を振って否定の気配を見せるだけでもすでに勇気の要《い》ることだった。相手が遠く離れてすわっているので、こんな距離では意見の一致はできるものでない、とハステラーが考え、食事の皿か何かを押しやって立ち上がり、相手その人のところへ出かけてゆくのは、実にすさまじい光景であった。近くにいる人々は頭をそらせて、検事の顔を見ようとした。もちろん、そういうことは比較的まれにしか起らない偶然的な事件であって、何よりもまず彼を興奮におとしいれるのはただ法律的問題、しかも主として、彼自身が前にやったか、あるいは現在やっているかする訴訟に関する問題、についてだけであった。事がこんな問題でなければ、彼はうちとけ、落着いており、彼の高笑いは愛想があり、彼の情熱はもっぱら飲み食いに向けられていた。一同の会話には全然加わらず、Kのほうに向きっきりになり、Kの椅子の背に腕をかけ、小声で彼に銀行のことをきき、自分でも自身の仕事のことをしゃべったり、裁判と同じくらい悩まされる女出入りのことも語ったりすることさえあった。仲間のほかの誰とも彼がそんなふうに話しているのは見られなかったし、事実またしばしば、ハステラーに折り入って頼みたいことがあると、人々はまずKのところへ行き、彼に仲介を頼むし、彼のほうもいつもよろこんで気軽にやってやるのだった。Kは、この点について自分とハステラーとの関係をうまく利用するというようなことではなく、およそすべての人々に対してきわめて慇懃《いんぎん》で謙遜《けんそん》であり、謙遜とか慇懃とかよりはいっそう大切なものだが、紳士たちの身分のちがいを正しく区別し、各人をその身分に応じて扱うということを心得ていた。もちろん、この点ではハステラーはしょっちゅうKに教えてくれた。これこそ、ハステラーがいくら興奮して論争しているときでも侵すことのない唯一の規則だった。そこで彼は、まだほとんどまったく身分などは持っていない末席の若い人々に対しても、いつもただ一般的な話を持ちかけるのだったが、相手は個々の人々ではなく、単に寄せ集められた群衆ででもあるかのような態度であった。ところがこの若い人々こそが、彼に対して最高の尊敬を示すのだった。そして十一時ごろ彼が帰宅しようと立ち上がると、すぐ一人は彼がどっしりした外套《がいとう》を着るのを助け、もう一人は大きく敬礼をして彼のために扉をあけ、ハステラーの後からKが部屋を出てゆくと、もちろんそれまで扉を押えているのだった。
 初めのうちはKがハステラーに、あるいはまた検事のほうがKに、帰路を途中まで同伴してゆくのだったが、後にはこんな夜々はきまって、ハステラーがKに、自分といっしょに家まで来てしばらく自分のところにいてくれるようにと誘うことで終った。そうすると二人はなお一時間も、ブランデーを飲んだり、葉巻をふかしたりして過すのだった。こうした晩はハステラーにとっては非常に楽しいものだったので、二、三週間ヘレーネという名の一人の婦人を彼のもとに住まわせていたときにも、こうしてKと過す夜々を捨てようとはしなかった。肥った、かなりな年配の婦人で、黄ばんだ膚をし、額のあたりに巻いている真っ黒な巻毛を持っていた。Kが初め彼女を見たときは、きまってベッドにはいっており、いつもそこにまったく恥ずかしげもなく横になり、分冊の小説本を読むのをつねとしていて、検事とKとの談話などは気にもかけなかった。夜も遅くなると、やっと身体を伸ばし、あくびをし、また、別なやりかたで注意を自分に向けることができないときには、読んでいる小説の一冊をハステラーに向って投げた。すると検事はにやにやしながら立ち上がり、Kに別れを告げるのだった。もちろん後には、ハステラーがヘレーネに飽き始めると、女は男二人が会うことを手きびしく邪魔した。そうなると彼女はいつも、完全に服装を整えて二人を待つのだったが、しかもそれがきまってあるひとつの服であって、それを女はきわめて高価な、似合うものと考えているらしかったが、実は古ぼけた、けばけばしい舞踏服で、飾りに垂《た》らしている二、三列の長い総《ふさ》によって特に不快な印象を強く与えるものだった。Kはこの着物を見ることをいわば拒んで、何時間でも眼を伏せてすわっていたので、この着物の詳しい格好は知らなかった。ところが女は、身体をゆすりながら部屋を通って歩いたり、Kの身近にすわったり、後に彼女の立場がいよいよ危なかしくなると、苦しまぎれにKの寵愛《ちょうあい》を得てハステラーに嫉妬《しっと》させようと試みる始末だった。丸みを帯びた肥った背中をむきだしにして机によりかかり、顔をKに近づけ、そうやってKに無理に眼を上げさせようとするのは、悪気ではなくて、ただ苦しまぎれのことだった。女がこんなことをやって手に入れたことと言えばただ、Kがその後ハステラーのところへ行くことを拒んだということだけであり、彼がしばらくしてまたそこへ行ったときには、ヘレーネはついに追い出されていた。Kはそのことを当然なこととして受取った。彼ら二人はその晩はことに長時間同席し、ハステラーの発議で友愛を祝し、Kは帰路煙草と酒とで少し気が遠くなってしまっていたくらいだった。
 ちょうど次の朝、銀行で支店長は商売上の話のついでに、昨晩Kを見かけたように思う、と言った。もし私の錯覚でなければ、あなたはハステラー検事と腕を取合って歩いていた、ということだった。支店長はこのことを非常に奇妙に感じているらしく、――もちろんこれはまたいつもの彼の几帳面《きちょうめん》さにふさわしいことだったが――教会の名をあげ、その泉の近くで二人に出会った、というのである。自分は蜃気楼《しんきろう》のことを話そうとしているのかもしれないが、自分の言うことに間違いはないのだ、と言った。そこでKは支店長に、検事は自分の友人であり、実際、昨晩自分たち二人は教会のそばを通った、ということを説明した。支店長は驚いたように微笑し、Kにすわるように求めた。それは、そのために、Kが支店長に非常な愛情を覚えた瞬間、この弱々しい、病身の、喘息《ぜんそく》持ちの、きわめて責任ある仕事をいっぱい負わされた人物から、Kの幸福と未来についてのある憂慮が、はっきりと現われてきた瞬間、そういった瞬間のひとつであった。そういう憂慮というのは、支店長において同じようなことを体験したほかの行員たちの言い草ならば、もちろん冷たく外面的なものだとも言いうるだろうし、二分間ばかりを犠牲にして有能な行員を多年自分にひきつけておくいい手段以外の何ものでもないはずだが――それはどうあろうとも、Kはこうした瞬間には支店長に冑《かぶと》を脱ぐのだった。おそらく支店長も、ほかの人たちとは少し別なようにKと話すようだった。すなわち、こんなふうにしてKと対等に話すために、自分の地位が上にあるということを忘れるようなことはなかったが――そういうことはむしろきまって普通の仕事の上の交渉でやるのだった――今の場合はまったくKの地位を忘れてしまったらしく、まるで子供とでも話すように、あるいはまた、初めてある地位を志願してなんらかのわからない理由から支店長の好意を呼び起した経験に乏しい若い人間とでも話すように、Kと話をするのだった。もしこのような支店長のしてくれる心配がKには真実味のこもったものと思われなかったならば、あるいは少なくとも、このような瞬間に現われるこういう心配のもっともである点に完全に魅了されてしまったのでなければ、ほかの誰かのにせよ支店長その人のにせよ、こんな話しかたはKにはきっと我慢がならなかったことであろう。Kは自分の弱点をはっきりと知った。おそらく彼の弱点の根本というのは、こういう点については彼には何か子供じみたところがある、ということにあるのだった。父がきわめて若くして死んでしまって、自分の父親から心配されるということを経験したことがないし、やがて家をとび出し、母、半分|盲《めし》いてまだあの変化のない小さな町に生き、彼もおよそ二年前に訪ねたきりの母の愛情というものを、いつも呼び起そうとするよりはむしろしりぞけてきたからである。
「そういうお付合いをしているとは私は全然知らなかった」と、支店長は言ったが、弱々しい、親しげな微笑だけがこの言葉のきびしい調子を和らげているのだった。
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(編者注 この断章は本文第七章に直接つながるものだったのであろう。これの冒頭は、第七章の最後の章句の写しを収めているのと同じ紙片に書かれている)
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その家

 初めは特別の意図をいだいてやったわけではなかったが、Kはさまざまな機会に、彼の事件の最初の告発を行なった役所の所在地を聞きこもうと努めた。彼は苦もなくそれを聞いた。ティトレリもヴォールファールトも、初めてきかれたときにすぐに、その家の詳しい番地を言った。その後《あと》でティトレリは、よく検討するように求められはしなかった秘密の計画に対して待ちかまえているような薄笑いを浮べながら、番地を教えたことに補って、そんな役所なんかは少しも意味を持つものではなく、ただ託された事柄を代弁しているにすぎず、大検事局そのものの末端の機関であり、その大検事局なるものはもちろん訴訟当事者の近づきえぬところである、と主張した。それゆえ、検事局に何かを求める場合には、――もちろんいつでも願望はたくさんあろうが、それを口に出して言うのは賢明だとはかぎらない――もとより今言った下級の役所を相手にしなければならないのだが、そうしたからといって自らほんとうの検事局にはいりこむこともできないし、自分の願望をけっしてそこまで達することはできないだろう、と言うのだった。
 Kはすでに画家の本性をよく知っていたので、別に反対もせず、それ以上たずねることはしないで、ただうなずいて言われたことを知識としてただ受取った。最近すでにしばしばそうであったように今度もまた、わずらわしさにかけてはティトレリが弁護士のかわりを十分するように思われた。ちがいというのはただ、Kはティトレリのことを弁護士のように捨てはしなかったこと、もししたいと思いさえするなら、造作なく振捨てることができるだろうということ、さらにティトレリはひどく腹蔵のないこと、そればかりでなく、今は以前ほどではないがおしゃべりなこと、そして最後にKのほうでもティトレリを大いに苦しめることができるということ、それぐらいであった。
 そしてこの件についてもKは同じように相手を悩ませたが、ティトレリにその家のことを話すときにはしばしば、お前にはあることを隠しているのだ、自分はあの役所とはいろいろな関係を結んだ、しかしその関係はまだそうたいして進んではいないので人に知られると危険がある、というような調子で言うのだった。ところがティトレリが彼にもっと詳しく言わせようとすると、Kは突然話をそらし、長いあいだ二度とその話をしないのだった。彼はこういうちょっとした成功を楽しんだ。今では裁判所をめぐるこうした連中のことは前よりもずっとよく知っているし、今ではもうこの連中と戯れることもできるし、ほとんど自分でも彼らの中にはいりこんでいて、彼らが身を置いている裁判所の第一段階というものがある程度可能としている相当な見通しを少なくともしばらくは手に入れているのだ、と思いこんだ。自分の地位をこんな下《した》っ端《ぱ》のあいだでついに失わねばならぬとしたら、いったいどうなるだろうか? そうなってもまだそこには救いの機会はあるのであって、ただこの連中の列の中にはいりこみさえすればよく、そうすれば、この連中の身分が低いとかあるいはほかの理由によって、自分の訴訟で援助してくれることはできないとしても、自分を迎え入れ、かくまうことはできるし、そればかりではなく、自分が万事を十分考えて秘密にやってゆくなら、彼らはこういうふうにして自分の役にたつことを拒めはしないはずだ、ことにティトレリは、今では自分は彼の身近の知人でパトロンとなったのだから、拒めはしないはずだ。
 こんなふうな希望をKは毎日のように心にいだいて暮していたわけではなく、一般にはきっぱりと見境をつけ、なんらかの困難を見逃《みのが》したり、あるいは飛び越えたりしないように注意をしていた。しかしときどきは――それはたいてい仕事の後の夜分の完全な疲労状態でであったが――きわめてささやかな、そのうえきわめて漠然《ばくぜん》としたその日のさまざまな出来事から気休めの種を引出すのだった。そういうときはいつも事務室の長椅子の上に横になり――一時間ばかり長椅子で休んで元気を回復しなくては事務室を去れなかった――頭の中で見たことと見たこととを結び合せてみるのだった。裁判所と関係のある人々に厳密に限られるわけではなく、ここで半睡《うたたね》の状態でいると、あらゆる人々がこんがらかり、裁判所の大きな仕事を忘れてしまい、自分だけが唯一の被告であり、ほかの人々はみな裁判所の建物の廊下を歩く役人や法律家のように歩いており、最も愚鈍な連中でも顎《あご》を胸に埋め、唇《くちびる》をそり返し、責任ある考えに沈みながらじっと眼を凝らしているように思われるのだった。次にはしょっちゅう、グルゥバッハ夫人の間借人たちが自分たちだけのグループをつくって現われ、まるで苦情の合唱隊のように口をあけて頭と頭とを寄せ合せて立っていた。その中には多くの知らぬ人々がいた。なぜなら、Kはすでにずっと以前から下宿のことは全然気に留めていなかったからである。知らぬ人々が多いため、そのグループといっそう緊密にかかりあうことは彼には不快だったが、その中にビュルストナー嬢を捜し出そうとすると、ときどきはかかりあわなければならなかった。たとえばそのグループを飛び越してゆくと、突然、二つの全然見なれない眼が彼のほうに向ってき、彼を引留める。そこでビュルストナー嬢を見つけ出せないのだが、次にどんなあやまちをもすまいとしてもう一度捜してみると、彼女はちょうどグループの真ん中におり、両側に立っている二人の男に両腕を託していた。それでもそれは、ほとんどなんらの印象をも彼に与えなかった。ことに、この情景がなんら目新しいものではなく、彼が一度ビュルストナー嬢の部屋で見た海水浴場での写真の思い出が消えないで残っていたのにほかならなかったからである。ともかくこの光景はKをそのグループから離れさせ、Kはなお何回かそちらを振返りはしたが、大股《おおまた》で裁判所の建物を横切って急いだ。あらゆる部屋のどれにでも都合よく通じていて、まだ見ることのできなかった迷路の廊下は、ずっと前から自分の住居であるかのように親しげに見え、細かなことが逐一ひどくはっきりと彼の頭にはいるのだった。たとえば、一人の外国人が玄関のホールをぶらぶら歩いており、闘牛士のようないでたちで、腰のあたりはまるで小刀で切られたように刻まれ、非常に短かな、ぴったり身体《からだ》についている小さな上着は、黄色の粗糸《あらいと》のレースからできていて、この男は、そのそぞろ歩きを一瞬たりとも休まずに、絶えずKに驚きの眼を見張らせるのだった。身体をかがめKはその男に忍び寄り、眼を大きく見張りながらじっと見つめた。レースのあらゆる模様、へんてこな総《ふさ》、上着のあらゆる曲線を彼はよく知ってはいたが、見飽きることがなかった。あるいはむしろ、もうとっくに見飽きているのか、あるいはもっと正確に言えば、けっしてそれを見たくはなかったのかもしれないが、それができなかった。外国というのはなんという仮装舞踏会をやるんだろう、そう彼は考え、両眼をもっとはっきり見開いた。そして、長椅子の上で向きを変えて顔を革に押しつけるまで、この男の面影を追い続けた。

 そうやってかなり長いあいだ横になっていたが、とうとうほんとうに休んでしまった。今でもいろいろ考えてはいるが、暗闇《くらやみ》の中で邪魔もなかった。ティトレリのことを考えるのがいちばんよかった。ティトレリは椅子に腰をかけ、Kは彼の前にひざまずき、その両腕をなでて、いろいろなことをして機嫌《きげん》をとった。ティトレリは、Kが何を求めているのか、よく知っていたが、何くわぬ様子で、そんな素振りによってKを少し苦しめるのだった。だがKのほうでも、万事は結局うまく切り抜けるだろう、ということを知っていた。なぜなら、ティトレリは軽率な、きびしい義務感のない、容易に手に入れられる人間であるからだ。それにしても、裁判所がこんな男とかかりあっていることが理解できなかった。Kははっきり知った、もしどこかがあるとすれば、ここでこそ、突破が可能だ、と。ティトレリが頭をもたげて虚空に向けている恥知らずな薄笑いに惑わされてはいないで、懇願をあくまでも続け、ついには両手でティトレリの両頬をなでるにまでいたった。たいして懸命になっているわけではなく、ほとんど投げやりな態度だったが、戯れる気持からそんな動作を長引かせ、成功を確信していた。裁判所の策略なんてなんと簡単なんだろう! まるで自然の法則に服従するかのように、ティトレリはついに彼のほうに身体をかがめ、いかにもうちとけたようにゆっくりと眼を閉じて、その願いをかなえてやるつもりがある、ということを見せ、Kに手を渡してしっかと握った。Kは立ち上がり、もちろん彼は少し荘重な気持がしていたが、ティトレリはもう荘重さなどは我慢がならず、Kを抱きかかえ、駆け足で彼を引っ張っていった。間もなく裁判所の建物まで来て、急いで階段に出たが、ただ登るだけではなく、登ったり降りたりして、水の上の軽やかなボートのように身軽に、少しも労力の消耗がなかった。そして、Kが自分の足をながめ、この身のこなしの美しいかたちは自分のこれまでの卑しい生活とはもはや縁がないという結論に達したちょうどそのとき、彼のうなだれた頭の上に、変化が起ったのだった。これまで背後から投げかけてきていた光は、向きが変って、突如前からまばゆいばかりにさしてきた。Kが眼が[#「眼が」はママ]上げると、ティトレリは彼にうなずいてみせ、向きを変えた。Kはまた裁判所の建物の廊下にいたが、すべては前よりも静かで、単純に見えた。これといって目だつ点はなく、Kは一瞥《いちべつ》ですべてを見渡したが、ティトレリから離れ、自分の道を行った。Kは今日は、新しい、長い、黒っぽい着物を着ていたが、その着物は気持よく温《あたた》かく、どっしりとしていた。自分がどうなったのか、彼はよくわかっていたが、それに大いに幸福を感じていたので、彼はそれを認めたくはなかった。廊下の一方の壁には大きな窓がいくつも開いていたが、その片隅に束になって以前の服があるのを見つけた。黒の上着、はっきりした縞《しま》のズボン、その上にはすり切れかかった袖《そで》のシャツがひろがっていた。

支店長代理との闘い

 ある朝、Kはいつもよりずっと気分がさわやかで、闘志にあふれていた。裁判所のことはほとんど考えなかった。裁判所を思い出しても、このまったく全貌《ぜんぼう》をつかみがたい大きな組織は、なんらかの、もちろん秘密の、暗闇《くらやみ》で初めて手がけることのできる手段で容易にとらえられ、つぶされ、粉砕されるもののように思われた。Kの異常な状態は彼の心を駆って、支店長代理に誘いをかけ、その事務室に行き、すでにかなり前から迫っている事務上の用件についていっしょに相談させさえしたのだった。こんな場合にはいつも支店長代理は、彼のKに対する関係が最近数カ月に少しも変っていないように振舞った。絶えずKと競っては、以前と同じように落着いてやってきて、落着いてKの詳しい説明を聞き、ちょっとした親しげな、否、同僚らしくさえある言葉で関心を示すのだった。Kを面くらわすことといえばただ、もちろんこの点になんら特別の下心を見るべきではなかったが、何事によっても事務上の主要問題からはそらされることがなく、明らかに本心の真底までこの問題を受入れる心構えでいることだけだった。一方Kの思いは、このような義務遂行の模範を前にして、すぐ激しく四方八方に働きはじめ、問題そのものはほとんどなんらの抵抗なしに支店長代理にまかせざるをえなくさせた。一度はそれがあまりひどかったので、Kはついにただ、支店長代理が突然立ち上がり、黙って事務室にもどってゆくのを見ただけだった。Kはどういうことが起ったのか、わからなかった。協議が本式にきまったのかもしれなかったが、Kがそれと知らぬうちに支店長代理の気をわるくしたか、あるいはKがばかげたことをしゃべったか、あるいはまた、Kが聞いていないこと、ほかのことばかり考えていることが明白になったので、支店長代理が協議を中断したのかもしれなかった。だが、Kが滑稽《こっけい》な決定を行なったのか、あるいは支店長代理がKを誘ってそういう決定をさせ、こうなればKの損害を実現してやろうとして急いで出ていったのか、そういうことさえありうることだった。ところで、この件はもう蒸し返されないで、Kはそれを思い出したくはなかったし、支店長代理は部屋にはいりきりになっていた。もちろんしばらくのあいだは、その後もなんら眼に見えるような結果を生じなかった。しかしいずれにせよ、Kはその出来事で驚かされはしなかった。適当なチャンスが生じさえするなら、そしてKに少し勇気がありさえするなら、支店長代理の部屋の扉の前に立ち、彼のほうに行くか、あるいは彼を自分のほうに誘うかするだけだった。前にしていたように、支店長代理に対して隠れているときでは、もはやなかった。自分を一挙にあらゆる心配から解放してくれ、おのずから支店長代理に対する昔の関係を調整してくれるような、すみやかで決定的な成果などというものは、Kはもう期待していなかった。やめることは許されない、とKは見てとった。おそらくはさまざまな事実から言って必要なのかもしれないが、もしそのように後《あと》に退《ひ》いたならば、たぶん、もうけっして昇進できない、という危険が生れるのだった。支店長代理に、おれのことはもう片づいたのだ、などと思われてたまるものか。そんなふうに思いこんであいつの事務室にのうのうとすわっておられてたまるか。あいつは不安を覚えさせられなくてはならないのだ。あいつはできるだけしょっちゅう、このおれが生きているのだ、今のところは全然危険がないように見えるかもしれないが、あらゆる生きている人間と同じように、いつか新しい能力をもって驚かすことがあるかもしれないのだ、ということを思い知らなくてはいけない。ときどきKは、自分がこうした方法によってほかならぬ自分の名誉だけのために闘っているのだ、と自分に言い聞かせはした。なぜなら、こんな自分の弱点を持ったままでいくら支店長代理に対抗しようとも、ほんとうは何の役にたつわけのものでもなく、相手の権力感を強めるだけであり、よく観察をし、刻々の情勢に的確に従って処置をとるチャンスを相手に与えるだけだったからである。そうはわかっているものの、Kは自分の態度を全然変えることができないように思い、自己|欺瞞《ぎまん》に陥り、ときどきはっきりと、自分は今こそなんら心配することなく支店長代理と争ってよいのだ、と信じるのだった。いくら不幸な経験にあっても、彼は利口にはならなかった。十回の試みでうまくゆかぬことは、万事はいつもまったくおきまりに自分の不都合なようになってゆくにもかかわらず、十一回目にはやりとげることができるものと思いこんだ。こんな出会いの後、疲れきって、汗を流しながら、からっぽの頭で残っていると、自分を支店長代理に手向わせたのは希望だったのか、それとも絶望だったのか、彼にはわからなかったが、次のときにはまた、支店長代理の扉のほうに急いでゆくとき彼がいだいているものは、まったく明らかだが、ただ希望だけであった。

 この朝は、こうした希望がことに正しいもののように思えた。支店長代理はゆっくりと部屋にはいってきて、手を額に当て、頭痛がすると訴えた。Kはまずこの言葉に返答しようと思ったが、じっと考え、支店長代理の頭痛にはなんら容赦しないで、すぐ事務上の詳しい説明に取りかかった。ところがそうすると、この頭痛がたいしてひどいものでなかったためか、あるいは問題に対する関心が痛みをしばらく追いやったのか、ともかくも支店長代理は話しているうちに手を額から取って、いつもと同じく、まるで解答を携えて質問に向ってゆく模範生のように、即座に、ほとんど熟考もせずに、答えるのだった。Kは今度こそ相手に立ち向い、相手を何回でもはね返すことができるはずだったのだが、支店長代理の頭痛という考えが、あたかもそれが支店長代理の不利ではなくて、利点ででもあるかのように、絶えずKの邪魔をした。相手がこんな痛みを耐え、克服しているのは、なんと驚嘆すべきことだろうか! ときどき相手は、自分の言うことに基づいてというわけではないが微笑し、自分が頭痛を持っているのに、考えることにかけてはそのために少しも妨げられてはいない、ということを得意がっているように見受けられた。全然別なことが語られていたのだが、同時に無言の対話が行われ、その中で支店長代理は、自分の頭痛の激しさを口に出して言いこそしないにせよ、しょっちゅう、自分のはただ危なくはない苦痛であって、したがってKがいつも苦しんでいるようなのとは全然ちがうものだ、ということをほのめかしもした。そしてKがいくら対抗しても、支店長代理が苦痛を片づけてしまうやりかたは、彼に反駁《はんばく》するのだった。しかしそれは同時に、彼にひとつの実例を示した。おれも、おれの職業には関係のないあらゆる心配をふさぐことができるはずだ。これまで以上に仕事に専念して、銀行で新しい制度をやりとげ、それの保持のために引続いて従事し、事務の世界に対する自分の少しゆるんだ関係を訪問や出張旅行によって固め、もっと頻繁《ひんぱん》に支店長に報告をし、支店長から特別な命令を受けるように努めることが、まったく必要だった。
 今日もまたそんな具合だった。支店長代理はすぐはいってきて、扉の近くに立ち止り、新たに始めた習慣に従って鼻眼鏡を磨《みが》き、まずKを見て、次にはあまり目だつようにKにばかり気を取られている素振りを見せまいと、部屋全体のほうもいっそうよくながめていた。自分の眼の視力をためす機会を利用しているような様子だった。Kはその視線に抗し、少し微笑さえして、支店長代理にすわるようにすすめた。自分自身は肘掛椅子《ひじかけいす》に身を投げ、椅子をできるだけ近く支店長代理のほうに寄せ、すぐ必要な書類を机から取って、報告を始めた。支店長代理は、初めはほとんど聞いてはいないようだった。Kの机の表面は、背の低い、彫刻を施してある手すりに取巻かれていた。その机全体がすぐれた細工で、手すりも木製でしっかりしていた。ところが支店長代理は、ちょうど今そこにゆるんだ個所を認めたような素振りで、人差指で手すりを押すことによって具合のわるい点を取除こうとした。Kはそのために報告を中断しようとしたが、支店長代理は、すべてをよく聞いているし、みなよく理解している、と言って、そうさせなかった。ところが、Kがしばらく何も具体的な言葉を代理から聞き出すことができないでいるうちに、手すりには特別の処置が必要らしく、支店長代理は今度はナイフを取出し、梃子《てこ》としてKの定規《じょうぎ》を取り、手すりを持ち上げようとしたが、おそらくはそうすればもっと容易にそれだけ深く手すりを押しこめることができるからだった。Kは報告の中にまったく新しい類《たぐ》いの提案をはさんだが、これはきっと支店長代理に特別な効果があるものと思った。そして、今やこの提案に達したとき、非常に自分の仕事に夢中になっていたので、あるいはむしろ、このごろではこういう意識はいよいよまれになってゆくばかりなのだが、自分がこの銀行にあってまだなんらかの意味を持ち、自分の考えは自分を正当化する力を持っているのだ、という意識に非常なよろこびを感じたので、もうやめることができなかった。おそらくはそのうえ、自己を守るこうしたやりかたは、ただ銀行においてばかりではなく訴訟においても最良のものであって、自分がすでに試みるか計画するかしたあらゆる防御よりもずっとよいものであるにちがいなかった。話を急いでいたので、支店長代理をはっきりと手すりの仕事から引戻す余裕は、Kには全然なかった。ただ二、三度、書類を読み上げながら、空《あ》いたほうの手でなだめるように手すりの上をなでたが、そうすることによって、自分ではほとんどはっきりと意識しなかったけれども、手すりには何も具合のわるいところはないし、たとい一個所ぐらいあったとしても、今のところは自分の言うことを聞いているほうがもっと大切だし、またどんな修繕を加えるよりも真剣なことだ、ということを支店長代理に示すためであった。ところが支店長代理は、活溌《かっぱつ》な、ただ精神上活動的な人間にしばしばあることだが、この手工じみた仕事に夢中になってしまい、ついに手すりの一部は実際引上げられ、今度はその小さな柱をまた適当な穴にはめこむことが問題であった。それはこれまでのどの仕事よりもむずかしかった。支店長代理は立ち上がり、両手で手すりを机の表面に押しつけようとせねばならなかった。ところが、いくら力を使ってみても、うまくゆきそうもなかった。Kは読みあげているあいだに――もっとも勝手な話をたくさん混じえたのだったが――ただ漠然と、支店長代理が立ち上がるのを認めただけだった。支店長代理のその内職ぶりをほとんど一度でもすっかり眼から離したことはなかったけれども、支店長代理の動きは自分の演説にもなんらかの関係があるように考えたので、彼も立ち上がり、数字のひとつの下を指で押えながら、支店長代理に一枚の書類を差出した。ところが支店長代理はそのあいだに、両手の圧力ではまだ十分でないと見てとって、たちまち意を決して体重全体を手すりにかけた。もちろん、今度はうまくゆき、柱はめりめりと穴にはいりこんだが、柱のひとつが急いだあまり曲ってしまい、どこかでそのやわな上部の桟が、真っ二つに割れた。
「わるい木だ」と、腹だたしげに支店長代理は言った。

断片

 彼らが劇場から出たとき、雨が少し降っていた。Kはすでに、その脚本とひどい上演とにうんざりしていたが、叔父《おじ》を自分のところへ泊めなければならぬという考えが、彼をすっかり打ちのめしていた。ちょうど今日は、どうしてもF・B・(ビュルストナー嬢)と話そうと思っており、おそらく彼女と出会うチャンスが見つかったことであろう。ところが叔父の接待がそれをまったくだめにしてしまった。もちろんまだ、叔父が乗ってゆける夜行は出るのだが、叔父はKの訴訟にひどく心をつかっているので、今晩のうちに出発するような気にさせるということは、まったく見込みがないように思われた。それでもKは、たいして期待もせずに、ためしてみた。
「叔父さん、どうも」と、彼は言った。「近々あなたのご援助をほんとうに必要とすることと思いますが。どういう方面でかはまだはっきりわかってはいませんけれど、ともかくも必要になるでしょう」
「お前はわしをあてにしていいさ」と、叔父は言った。「わしは実際、どうしたらお前を助けられるかということばかり考えているんだ」
「叔父さんは相変らずですね」と、Kは言った。「ただ私は、叔父さんにまたこの町に来ていただくようにお願いしなければならなくなると、叔母さんが気をわるくなさるんじゃないかと、それが心配です」
「お前の事件のほうがそんなふうな不愉快なことよりよっぽど大切なんだ」
「おっしゃることには同意できませんが」と、Kは言った。「しかしそれはどうあろうと、必要もないのに叔父さんを叔母さんからお預かりしていたくはありません。ごく最近に叔父さんに来ていただかなくてはならぬことは前もってわかっているのですから、しばらくはお帰りになりませんか?」
「あしたかい?」
「そうです、明日にでも」と、Kは言った。「あるいは今これから夜行ででも、そうしたらいちばんいいと思うんですが」

底本:「審判」新潮文庫、新潮社
   1971(昭和46)年7月30日第1刷発行
   1990(平成2)年9月5日第37刷発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
※編集注にある「以下三三三ページ十六行まで」は、「この朝は、こうした希望が……まったく必要だった。」の段落をさします。
入力:kompass
校正:米田
2010年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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