2019-05

幸田露伴

囲碁雑考—– 幸田露伴

棊は支那に起る。博物志に、尭囲棊を造り、丹朱これを善くすといひ、晋中興書に、陶侃荊州の任に在る時、佐史の博奕の戯具を見て之を江に投じて曰く、囲棊は尭舜以て愚子に教へ、博は殷紂の造る所なり、諸君は並に国器なり、何ぞ以て為さん、といへるを以て、...
幸田露伴

ねじくり博士—– 幸田露伴

当世の大博士にねじくり先生というがあり。中々の豪傑、古今東西の書を読みつくして大悟《たいご》したる大哲学者と皆人恐れ入りて閉口せり。一日某新聞社員と名刺に肩書のある男尋ね来り、室に入りて挨拶するや否《いな》、早速、先生の御高説をちと伺いたし...
古川緑波

富士屋ホテル——古川緑波

箱根宮の下の富士屋ホテルは、われら食子にとって、忘れられない美味の国だった。  戦前戦中、僕は、富士屋ホテルで、幾度か夏を過し、冬を送ったものだった。それが、終戦後、接収されて、日本人は入れなくなってしまった。そして又、それが一昨年の夏だっ...
古川緑波

氷屋ぞめき—–古川緑波

近頃では、アイスクリームなんてものは、年がら年中、どこででも売っている。そば屋にさえも、アイスクリームが、あるという。  私たちの子供のころは、アイスクリームなんてものは、むろん夏に限ったものだったし、そうやたらに売っているものではなかった...
古川緑波

八の字づくし——古川緑波

名古屋ってとこ、戦前から戦争中にかけて、僕は好きじゃなかった。名古屋へ芝居で来る度に、ああまた名古屋か、と、くさったものだ。というのは、食いものが、何うにも面白くなかった。  一口に言えば、名古屋ってとこ、粗食の都だったんじゃないか。それが...
古川緑波

駄パンその他——古川緑波

武者小路先生の近著『花は満開』の中に、「孫達」という短篇がある。先生のお孫さんのことを書かれた、美しい、たのしい文章である。  その中に、四人のお孫さん達が、食べものの好き嫌いがあるということを書いて、  ……僕は勿体ないとか行儀が悪いとか...
古川緑波

想い出——古川緑波

よき日、よき頃のはなしである。  フランスの汽船会社M・Mの船が、神戸の港へ入ると、その船へ昼食を食べに行くことが出来たものだった。  はじめての時は、フェリックス・ルセルという船だった。  その碇泊中の船の食堂で、食べたフランス料理の味を...
古川緑波

浅草を食べる—–古川緑波

十二階があったころの浅草、といえば、震災前のこと。中学生だった僕は、活動写真を見るために毎週必ず、六区の常設館へ通ったものだ。はじめて、来々軒のチャーシュウ・ワンタンメンというのを食って、ああ、何たる美味だ! と感嘆した。  来々軒は、日本...
古川緑波

清涼飲料——古川緑波

九月の日劇の喜劇人まつり「アチャラカ誕生」の中に、大正時代の喜歌劇(当時既にオペレットと称していた)「カフエーの夜」を一幕挿入することになって、その舞台面の飾り付けの打ち合せをした。  日比谷公園の、鶴の噴水の前にあるカフエー。カフエーと言...
古川緑波

神戸——古川緑波

久しぶりで、神戸の町を歩いた。  此の六月半から七月にかけて、宝塚映画に出演したので、二十日以上も、宝塚の宿に滞在した。  撮影の無い日は、神戸へ、何回か行った。三の宮から、元町をブラつくのが、大好きな僕は、新に開けたセンター街を抜けること...
古川緑波

食べたり君よ—–古川緑波

菊池先生の憶い出  亡くなられた菊池寛先生に、初めてお目にかかったのは、僕が大学一年生の時だから、もう二十何年前のことである。  当時、文藝春秋社は、雑司ヶ谷金山にあり、僕はそこで、先生の下に働くことになった。  初対面後、間もなくの或る夕...
古川緑波

色町洋食—–古川緑波

大久保恒次さんの『うまいもん巡礼』の中に、「古川緑波さんの『色町洋食』という概念は、実に的確そのものズバリで」云々と書いてある。  ところが、僕は、色町洋食なんて、うまい言葉は使ったことがないんだ。僕の所謂日本的洋食を、大久保さんが、うまい...
古川緑波

古川ロッパ昭和日記 昭和九年 ——古川緑波

前年記  昭和八年度は、活躍開始の記憶すべき年だった。一月七日から公園劇場で喜劇爆笑隊公演に特別出演し、之は一ヶ月にてポシャり、二月は一日より大阪吉本興行部の手で、京都新京極の中座といふ万才小屋と、富貴といふ寄席で声帯模写をやり、大阪へ廻っ...
古川緑波

牛鍋からすき焼へ—– 古川緑波

1 「おうなにしますか、それとも、ギュウがいいかい?」  と、僕の祖母は、鰻を「おうな」牛肉を「ギュウ」と言った。  無論、明治の話。然し、それも末期だ。だから、その頃は、牛鍋は、ギュウナベと言いました。  今でこそ、牛肉すき焼と、東京でも...
古川緑波

甘話休題—– 古川緑波

1  もう僕の食談も、二十何回と続けたのに、ちっとも甘いものの話をしないものだから、菓子については話が無いのか、と訊いて来た人がある。僕は、酒飲みだから、甘いものの方は、まるでイケないんじゃないか、と思われたらしい。  ジョ、冗談言っちゃい...
古川緑波

下司味礼讃—– 古川緑波

宇野浩二著『芥川龍之介』の中に、芥川龍之介氏が、著者に向って言った言葉、  ……君われわれ都会人は、ふだん一流の料理屋なんかに行かないよ、菊池や久米なんどは一流の料理屋にあがるのが、通だと思ってるんだからね。……  というのが抄いてある。 ...
古川緑波

このたび大阪——古川緑波

五月上旬から、六月へかけて、梅田コマスタジアムで「道修町」出演のため、大阪に滞在すること、約一ヶ月。  大阪での僕のたのしみの一つは、おどり(生海老)を食うことである。酔後、冷たいすしの舌ざわりは、何とも言えない、殊に、おどりは、快適で、明...
古川緑波

うどんのお化け—– 古川緑波

目下、僕は毎日、R撮影所へ通って、仕事をしている。そして、毎昼、うどんを食っている。  此の撮影所は、かなり辺鄙《へんぴ》な土地にあるので、食いもの屋も、碌に無い。だから、一番安心して食えるのは、うどんだと思って、昼食には、必ず、うどん。そ...
古川緑波

ああ東京は食い倒れ— 古川緑波

戦争に負けてから、もう十年になる。戦前と戦後を比較してみると、世相色々と変化の跡があるが、食いものについて考えてみても、随分変った。  ちょいと気がつかないようなことで、よく見ると変っているのが、色々ある。  先ず、戦後はじめて、東京に出来...
原田義人

流刑地で IN DER STRAFKOLONIE      フランツ・カフカ Franz Kafka ——-原田義人訳

「奇妙な装置なのです」と、将校は調査旅行者に向っていって、いくらか驚嘆しているようなまなざしで、自分ではよく知っているはずの装置をながめた。旅行者はただ儀礼から司令官のすすめに従ったらしかった。司令官は、命令不服従と上官侮辱とのために宣告を...