横光利一

厨房《ちゅうぼう》日記—–横光利一

 こういう事があったと梶《かじ》は妻の芳江に話した。東北のある海岸の温泉場である。梶はヨーロッパを廻って来て疲れを休めに来ているのだが、避暑客の去った海浜の九月はただ徒《いたず》らに砂が白く眼が痛い。――
 別に面白いことではない。スイスのある都会にあった出来事だ。そのときは丁度ヨーロッパ大戦の最中で、非戦国のスイスは各国の思想家の逃避地のこととて、街は頭ばかりをよせ集めた掃溜《はきだめ》みたいなものだ。スイスを一歩外へ出れば現世は血眼《ちまなこ》の殺し合いだ。良いも悪いもあったものではない。何ぜ殺し合うのか誰も知らぬ。ただもう殺せばそれが正義だ。このようなヨーロッパの知性の全く地に落ちた時、スイスのその街ではシュールリアリズムという心理形式の発会式が行われた。その一団の大将はルーマニア人で詩人だ。一団は発会式に招待する街の有力者全部に招待状を発した。さていよいよその日になってシルクハット、モーニングの市長を初め、紳士淑女が陸続と盛装で会場へ詰めかけて来た。しかし、いつまでたっても会は一向に始まらない。そこで皆はぶつぶつ云い出した。夜はそのままいたずらに更《ふ》けていくばかりだ。とうとう紳士淑女の怒りは爆発したが、怒ろうにも相手のシュールリアリストは一人も会場に来ていないのだから仕方がない。そのうちに瞞《だま》されたと知った一同は怒りの持って行き場もなく不平たらたらでそれぞれ帰っていった。ところが、次ぎの日の新聞には大きくその夜の発会式の写真が一斉に出ていたのだ。つまりそれが発会式なのだ。
 梶はそこまで話して妻の顔を見た。
「それからどうしたの」と芳江は訊《たず》ねた。
「それだけさ」
「それがどういうことなの。世の中が無茶苦茶になったから、自分たちもそうしたっていうの」
「まアそれでも良い」と梶は云うより仕方がなかった。
 梶は友人たちに逢《あ》う度《たび》にこの同じ話をしてみて相手の顔を眺《なが》めてみた。すると、皆黙って真剣な顔になった。中にはだんだん蒼《あお》くなるものと、しばらくしてから突然笑い出す者とあった。梶はヨーロッパを廻って来てこの話に一番興味を覚えたのだが、説明の出来る種類の話ではないから黙っていた。強《し》いて説明を附けようとすれば、ドストエフスキイの悪霊《あくりょう》の主人公であるところのスタブローギンのある行動の話を持ち出さねばなるまい。その土地第一の資産家の一人息子であるスタブローギンが故郷へ久し振りに帰って来て、街の上流階級の集合場所で、礼儀正しくにこやかに微笑しながら人人の話に耳を傾けているとき、一番有力者の市長の前へ静に出ていって全く理由もなく突然その市長の鼻を掴《つか》んで振り廻すところがある。しかも、そのときのスタブローギンの表情はその動作を起す前と少しも違わずにこやかなのだ。この心理を説明する場合に作者のドストエフスキイは常に一言も語らない。全く後味の悪い作である。梶はスイスに起ったシュールリアリストの発会式の事実を確実にスタブローギンの影響と見ている。もし間違いであれば少くとも同質の心理脈の系統だと思っている。
 梶は以上の話をして興味のない顔をする友人には次ぎのような話をする習慣を持っていた。この話も事実ヨーロッパに起った隠れた出来事であるが、この話には会社の重役や社長や政治家たちで一驚せぬ者は一人もなかった。ある重要な位置にいる大官で梶の知人の一人は、梶にその話を是非一度講演してくれと云ったものもあった。梶の話とはこうである。しかし、この話と前の話とは全く違った事件だが奇怪なところで関聯《かんれん》があった。
 梶がハンガリアへ廻ったのは六月の下旬であった。ある日一人のハンガリア人に梶はマッチを貸してほしいと頼むと、そのハンガリア人はすぐ小さなマッチをポケットから出して、これ一つの値段は一銭であるけれども政府はこれを六銭でわれわれに売っていると云う。梶はこの経済上のからくりに興味を感じたのでハンガリア人を使って種種の方面から験《しら》べてみた。すると、そのマッチ一箇の値段の中から意外にも複雑なヨーロッパの傷痕《しょうこん》が続続と露出して来た。しかもその事実は全く経済上のシュールリアリズムの発会式とも云うべきものであり、知性が最も非理智的な行動をとらざるを得ぬ現今ヨーロッパの見本のようでもあった。あたかもそれは事実を書くことが一番確実な諷刺《ふうし》となるがごとき日本のロマンチシズムと一致している。もし日本に一人のスタブローギンがあれば市長の鼻を握って微笑しながら振り廻すことなど今は恰好《かっこう》な時機であろう。
 梶の験べたところによると先年スエーデンのマッチ王と呼ばれたイヴァアル・クロイゲルの自殺が話の結末である。彼の自殺は梶もヨーロッパへ渡る前から日本の新聞の報道で知っていた。しかし、世人の未《いま》だに信じているクロイゲルの自殺は実は虚報であったのだ。このような嘘《うそ》などは真相以上に真実な姿をとるものと梶は思っている。
 イヴァアル・クロイゲル、このマッチ王はもとはスエーデンの名もない建築技師であった。ある時北国のスエーデンでは冬期に開催される勧工場《かんこうば》建設の必要に突然迫られたことがあったが、冬期に於ける建築物の急造はこの国では不可能である。従ってすべての建築家はこの仕事を抛棄《ほうき》した。そのとき現れたのがクロイゲルであった。彼は工事を引き受けると同時に家の外郭だけ急造してそれから仕事を外郭の中でした。そうしてこの建築法としては曾《かつ》てなかった冒険に成功すると彼の名は忽《たちま》ち有名になった。そのクロイゲルが建築家から実業家となり、世界のマッチ王と呼ばれるまでにのし上げた敏腕のほどは梶には分らなかったが、ヨーロッパの財界を引っ掻《か》き廻した彼の傍若無人の振舞いだけは人の噂《うわさ》で知っていた。たしかにクロイゲルの頭の中には衆人が右を眺めているとき、同時に左をも眺め得られる大心理家の素質の潜んでいることだけは何人も頷《うなず》くことが出来る。
 千九百二十五年のあるとき、ハンガリアとユーゴスラビア、ルーマニアの三カ国がアメリカから金を借りねばならぬ事情にさしせまられたことがあった。この共同の借金の申込には担保が薄弱なためアメリカが応じなかった。この事実を知ると同時にクロイゲルは単身ニューヨークに渡った。そして、アメリカの銀行家と企業家三百人を招待して彼らの歓心を買うため八十人の踊子と金の葉巻入を振りまき、一割の利息で四億ドル借り受けに成功した。つまり、ハンガリア、ユーゴスラビア、ルーマニアの三国五千万人の信用よりもスエーデンの一マッチ王クロイゲル一個人の信用の方が絶大であったのだ。クロイゲルのこの信用がヨーロッパに拡がると、イタリアは彼から金を借りたいという証拠をヨーロッパの民衆に示して軍艦を造ったが、実はこれは虚偽であった。この虚偽のために作製した軍艦がエチオピアをいつの間にか奪っていたのである。一方クロイゲルはルーマニアとユーゴスラビアとハンガリアに四億ドルを貸し附け、三国から代りにマッチの専売権を取った。そのとき三千六百万ドルを借り受けたハンガリアは耕地整理に費した金額の残額を地主に頒《わ》け与えて土地を取り上げ、小作人にそれを分配した。しかし、このからくりの結果は尽《ことごと》くハンガリアの借財を小作人が引き受けさせられる羽目になった。つまり彼らが一銭のマッチを六銭で買わされているのはそれである。
 万事イヴァアル・クロイゲルの遣《や》り口はこのような計算の結果であったが、彼の目算もついに破れるときが来た。彼とアメリカとの合同企業の確実さも、全ヨーロッパの眼を見張らせた一割の利息を払う破格な約束の履行には困難であったからだ。クロイゲルは再び北スエーデンで新しく金鉱を発見したと嘘を云ったが、も早や彼に金を貸すものはなくなった。巴里《パリー》はクロイゲルの自殺を報じた。しかし、フランス政府はひそかに彼を南米に逃がしたと伝えられている。
 クロイゲルの死の事実か否かは梶も目撃したわけではなかったから確実なことは分らないが、彼の親戚遺族はそれぞれ莫大《ばくだい》な財産家となっていることだけは事実であった。

 梶がハンガリアから巴里へ戻って来たときは七月の初めであった。ところが、全く偶然なことにも彼がハンガリアへ出発する一カ月ほど前に、巴里のモンマルトルにあるクロイゲルの娘の家を訪問したことがあった。そのとき梶はその婦人がクロイゲルの娘だとは少しも知らなかった。梶の友人が婦人の良人《おっと》の詩人と知己だった関係からある夜友人につれられてその家へ遊びに行ったのである。しかも、一層梶にとって興味深かったことにはその夫人の主人である詩人は、スイスのシュールリアリストたちの発会式のとき彼ら一団の頭目であったトリスツァン・ツァラアだったことだ。ツァラアはクロイゲルの娘と結婚するまでは乞食詩人と云われていたほどの貧しいルーマニア人であったが、いつの間にか彼の生来の鋭い詩魂は光芒《こうぼう》を現して、現在のフランス新詩壇では彼に追随するものが一人もないと云われるほど絶対の権威を持続するまでにいたっていた。全く詩壇と画壇の一部の者らはツァラアを空前絶後の大詩人と云うどころではない。ボードレールさえツァラアにだけは及ばぬとまで云っている。
 モンマルトルの頂きからやや下った裏坂に、両翼を張った城壁のような石垣がある。その中央に古代の城門に似た鉄の黒い扉《とびら》がいつもぴったりと閉《しま》っているのを梶はしばしば通って見たことがあった。この建築は周囲一帯の壊れかかった古雅な趣きを満たしている風景の中では、丘の中堅をなしている堅固な支柱のごとき役目をしていた。これがツァラアの家だ。この建築は北欧風の鉄石のおもかげを保っているところから想像すると、あるいはイヴァアル・クロイゲルの設計になったものかもしれない。また彼の自殺が巴里で行なわれたからには、何事かこの家の鉄の扉がその秘密を知っているに相違あるまい。全世界を愚物の充満と見たクロイゲルの眼光がこの巴里を一望のうちに見降ろす丘の中腹に注がれたのは、いかにも革命児の睨《にら》みである。しかし、ツァラアはその義父のごとき実業家の集団に対して、まんまとスイスで一ぱい喰《く》わせた怪物だ。彼とクロイゲルとのこの家での漫然とした微笑は、ヨーロッパのある両極が丁丁《ちょうちょう》と火華《ひばな》を散らせた厳格な場であった。恐らくそれは常人と変らぬ義理人情のさ中で行われたことだろう。梶は知性とはそのようなものだと思っていた一人である。
 夜の九時過ぎに梶は友人と一緒に門扉《もんぴ》のボタンを押して女中に中へ案内された。中庭は狭くペンキの匂《にお》いがすぐ登る階段の白い両側からつづいて来た。階上の二十畳もあろうと思える客室の床は石だ。部厚い樫《かし》で出来ている床几《しょうぎ》のような細長い黒黒としたテーブルが一つ置いてある。正面の壁には線描の裸像の額がかかっているきりであるが、アフリカ土人の埋木の黒い彫刻が実質の素剛さで室内に知的な光りを満たしていた。梶は室内を眺めていてから横のテラスへ出た。そこには沢山の椅子が置いてあった。有名なモンマルトルの風車はすぐ面上の暮れかかっていく塔の上で羽根を休めていた。梶はその上に昇っている月を眺めながら、出て来るツァラアを待っていると、また来客が四人ほどテラスの椅子へ集って来た。皆芸術家たちで詩人、作家、彫刻家、美術雑誌の女社長等であった。間もなく六人七人と多くなって梶は紹介されるに遑《いとま》もないときツァラアが初めて現れた。
 ツァラアは少し猫背《ねこぜ》に見える。脊《せい》は低いがしっかりした身体である。声も低く目立たない。しかし、こういう表面絶えず受身形に見える人物は流れの底を知っている。この受身の形は対象に統一を与える判断力を養っている準備期であるから、力が満ちれば端倪《たんげい》すべからざる黒雲を捲《ま》き起す。猫を冠《かぶ》っているという云い方があるが、この猫は静な礼儀の下で対象の計算を行いつづけている地下の活動なのであろう。まことに受身こそ積極性を持つ平和な戦闘にちがいない。
 梶はツァラアに紹介されてから集った紳士淑女たちの円形に並んだ椅子の中に身を沈めた。会話はすべて巴里に進行している大罷業《だいひぎょう》の話ばかりだ。そのとき、左の方の円筒形をしている高い隣家のテラスから下の一団に向って犬がけたたましく吠《ほ》え立てた。ツァラアを囲んだ芸術家たちも、初めの間は思想上の会話をつづけていたが、だんだん高まる犬の声にも早や会話が聞きとり難くなって来た。犬を追い立てようにも間には断層のように落ち込んだ他家の庭がひかえている。一同はしばらく小さな声で口を鳴らせていた。しかし、相手は犬である。狂気のように吠え立て始めては利《き》くものではない。一同は苦笑をもらしてただ円塔の上を見上げているだけだ。
 梶はこのときスイスに於けるツァラア一派の発会式の情景をふと思い浮べると、微笑が唇《くちびる》にのぼって来るのを感じた。犬を鎮《しず》めるには犬より大きな声を出さねば逃げるものではない。この紳士淑女たちの間で、誰があの犬より大声をはり上げるであろうか。梶は興味をもって犬を見上げながら、現実をお茶にしたツァラアのかつての行動はこの犬に似ていると思った。しかし、今は彼は一流のフランスの現実上の名士である。もし彼が何らかの意味で、現実という愚劣|極《きわ》まればこそ最も重要な沃土《よくど》の意義をこの世に感じているものなら、今突如として湧《わ》き上ったこの胸を刺す諷刺《ふうし》の前で必ず苦杯を舐《な》めているにちがいない。――
 こう梶の思っているとき「しッ、しッ」と小さな声でツァラアは犬を追った。けれども、勿論彼の云いわけのような声では犬は鎮るものではなかった。もう一座は犬のますます高まる声で均衡がなくなり、焦燥した筋肉が顔面に現れて来て、このままではこの夜の集りはただ一同不満足のまま散って帰るより仕方がなくなった。すると、突然、梶の友人は円塔の上を仰いで、
「馬鹿ッ馬鹿ッ馬鹿ッ」
 と続けさまに大声で怒鳴った。その声はたしかに犬の声よりも大きかった。犬はまだ二声三声吠えつづけたが家人が日本語の怒声を聞きつけると、初めてテラスへ出て来て犬を屋内へ引き摺《ず》り入れた。再び梶の周囲のテラスでは談話が高級な問題をめぐってそちこちで始まったが、しかし、梶にはそれらの話よりも犬に向って発した友人の日本語の怒声の方が遙《はる》かに興味深く尾を曳《ひ》いて感じられるのであった。
 犬の声が全く聞えなくなってからしばらくしてツァラア夫人が客たちの中へ現れた。絹の飛白《かすり》のような服に紅いバンドを締めた夫人は、葡萄酒《ぶどうしゅ》を一同に注《つ》ぎながら梶の傍《そば》まで来ると優しく梶に握手をして彼の横へ腰を降ろした。イヴァアル・クロイゲルの令嬢であるこのツァラア夫人は、集った婦人たちの中では最も優雅な人であったばかりではない、梶がそれまで見た多くのパリーの婦人たちの中でも第一流の美しい婦人であったが、その静な表情や品位のある眼もとは、あまり出歩かない日本の貴族のように血統の美しさを湛《たた》えていた。まことに幽艶《ゆうえん》な婦人である。
「どうぞ、これめし上れ」
 夫人は梶にときどき葡萄酒をすすめて自分も飲んだ。広間からさして来る光りが夫人の横顔を鮮明に浮き上らせているものの、一同の話が罷業の臆測を赦《ゆる》さぬ流れに不安の空気を流しているときとて、話につれて淑《しと》やかな彼女の顔もどことなく沈んでいった。
「フランス政府は労働者に力を与えて罷業をすすめたものの、こんなに罷業がつづけば資本家は倒れてしまう。これを潰《つぶ》せば労働者も潰れてしまう。しかし、罷業はしなければならぬというので、政府は四苦八苦の状態になって来ている」と一人の客が云った。
「しかし、政府は潰れた資本家に裏から資金を与えて起き上らせているともいうよ」とまた他の客が云う。
「そこへまた罷業を起すというわけか」
 どっと笑う声の上った後《あと》からすぐまた不安な低声がつづいていく。集っている十人のものたちはそれぞれ誰もが左翼らしい雰囲気《ふんいき》であるが、自分の身分が利子生活者のこととて罷業進行の結果は金利が引き下がり、日々直接身に響いていくばかりではない。物価の昂騰《こうとう》につれて右翼の非常手段がいつ爆発するか分らぬ恐れがあった。つまり、梶の眼に映った一同の不安は思想と現実とののっぴきならぬ苦悶《くもん》である。然《しか》し、パリー人というものは自身や他人の金利のことについては口に出さぬ。もしこれに一口でも触れようものならパリー生活の秩序は根柢《こんてい》から破壊されてしまうのだ。それは日本に於ける義理人情の如きものでこの生活を破壊して自由はないのであった。思想は生活の自由を尊重すればこそ思想である。しかし、その思想が市民の根柢をなす金利を減少せしめ、自由の生活を破壊に導く火を噴き上げている現在においては、市民の思想とはいかなる種類のものであろうか。こう梶の思っているときである。突然ツァラアは、
「もう良識は左翼以外にはない。それは決った」
 と低くひとり呟《つぶや》くように云って葡萄酒のコップを上げた。
 梶はその言葉を聞くとある古い言葉を耳にしたときのような無表情な自分の心を見るのだった。十年前には梶はそれと同様な言葉でさんざん人人から突き刺された。今またその傷口を吹かれても通り脱ける風穴の身にすでに開いている日本人の梶である。しかし、梶はこの風穴を塞《ふさ》ぎとめては尽く呼吸の断ち切れてしまう日本人の肉体を今さら不思議な物として眺め始めた。ここには何か人人のまだ発見しない完成された日本特有の知性があるのにちがいない。まことにそれは義理人情という世界に類例のない認識秩序の美しさの中にあるに相違ないと梶は思った。しかし、それにしてもかつてスイスにいるとき世の義理人情を踏み砕く無思想の発会式を行ったツァラアが、今その行為に内容を吹き与えたがごとき左翼の思想に新しさを発見したことは、再び完全に世の義理人情を否定する現実上の発会式を行ったようなものであった。つまり彼にあっては、彼の超現実主義と云う知性への反抗が一層反抗の度を強めた超現実主義になったまでだ。
 集った者たちの間に葡萄酒が新しく注がれたとき、一人の女詩人が盛装して新しく這入《はい》って来た。一同はその方を振り返って軽く手を上げると、またそれぞれの会話をつづけていった。すると、今まで梶の横で誰とも話さなかったむっつりした一人の婦人が不意に梶に向って、
「日本人はどうして腹切りをするのです」
 と訊ねた。梶は咄嗟《とっさ》のこととてすぐには返事出来なかった。もし外人の了解出来る適当な解釈をしようとすると、日本人の義理人情の細《こま》やかさから説明しなければならなかった。梶の横に通訳のようにいた友人は、
「日本人の腹切りは見栄《みえ》でやるのか責任を感じてやるのかと、この婦人が訊ねるんですよ」
 と梶に説明した。梶は友人に向って云った。
「それは見栄でも責任でもない。世の中の秩序を乱したと感じるものが、自分の行為を是認するために行うものだと云ってくれ給え。日本人は社会の秩序を何より重んじるから、自然に個人を無にしなければならぬ。つまり、生活の秩序を完成さすためには人間は意志的に無になる度胸を養成しなければならぬ。日本文化の一切の根柢はこの無の単純化から咲き出したもので、地球上の総《すべ》ての文化が完成されればこのようになるものだという模型を造っているような社会形態が、日本だと思うと云ってくれないか。つまり知性の到達出来る一種の限界までいっている義理人情の完璧《かんぺき》さのために、も早や知性は日本には他国のようには必要がないのだと思う」
 梶の言葉を通訳してくれている友人の顔を見ながら、婦人は何の感動も表わさずに黙ってしまった。事実、梶は日本の文化にとって欧米の知性が必要なら自然科学にあるだけと思った。しかし、それも早やヨーロッパの行き得られる限界まで行ききっている日本を梶は感じるのであった。それなら日本の進むべき方向はどこであろうか。こう考えているときまた一人の若い作家が梶に訊ねた。
「日本の現在の左翼の状態はどんな風ですか」
「左翼はなかなか繁栄したときもあります。しかし、日本は昔からそのときの思想状態を是非必要と感覚しないかぎり、どのような思想も行為も無駄となりますから、そのために秩序が乱れる恐れが生じると、これを枯らしてしまう自然という恐ろしい力があるのです。この自然力は物理的なもので、ヨーロッパの知性も日本へ侵入して来る度に、この自然力と争わねばならぬのです。つまり、日本はいかなる思想も物もそれを選択する場合に個人の意志では出来ません。自然力に任せてこれの命ずるままに従わねばならぬのです。個人の役に立たぬそのような日本では、従って第一番の芸術家や思想家は自然という秩序です。日本の左翼も自然発生から自然消滅の形をとって進行していますが、それは思想の無力というよりも、思想と同程度に整えられた秩序の強力なためなのです」
 梶の友人は彼の言葉を通訳すると、若い作家は肩を縮め両手を上げて驚きの表情を現した。しかし、彼は何事も云わずにすぐ隣りの彫刻家と話をした。そのとき、一番最後に這入って来た女の詩人が興奮しながらツァラアに囁《ささや》いた。
「今日ピカソに逢ったら、いよいよピカソも左傾しちまって、バスチイユ騒動の壁画を画くんですって」
「そうだ、それが正しい」
 こういう声を包んで一同の話はだんだん低く不安そうな沈黙に変っていった。フランスの左翼の芸術家たちは今は自身のために芸術を滅ぼす危機にのぞんでいるのだった。それとは反対に今梶は秩序のために芸術を滅ぼしつつある日本を思い浮べた。しかしそれはただに芸術のみではなかった。たしかに世界の進行のカーブは類例のない暗転の舞台に入りつつあるのだ。しかも、舞台を停めようとする無数の手は押すべきボタンを探し廻って分らぬのである。ただ世界はあるがままの姿をとってひとり暗澹《あんたん》と廻っているだけなのだ。梶はどこからか悪魔の笑声の聞えて来る思いのままに虚空を眺めているとき、人人は立ってツァラアに握手をした。それぞれ帰って行くのである。梶も友人と一緒に帰ろうとして握手をしようとすると、
「もうしばらくいませんか」
 とツァラアは二人に云った。一同の姿が見えなくなるとツァラアは二人をつれて三階の自分の書斎に導いていった。そこにはテーブルの上と云わず壁と云わず無数のアフリカ土人の黒黒とした彫刻の面が置いてあった。梶は奇怪な覆面に取り巻かれた感じで部屋の中を見廻していると、ツァラアは梶と向き合って立った。
「来客が沢山で日本のお話を聞けませなんだが、日本はどういう国ですか。僕は他の国のことならどこの国でも多少は想像がついているのだけれども、日本だけは少しも分らない」
 静に低く云いながら梶を見るツァラアの眼は射るように光っていた。物云うたびに、梶は自分が日本人であることを意識せずには何事も出来ぬ気苦労をヨーロッパへ来て新しく感じたが、殊に日本をどのような国かと訊かれる質問に対してはいつも一番彼は困るのであった。しかし、それでも梶は一口で日本を巧妙に説明しなければならぬ危い橋を渡るのだ。虚心坦懐《きょしんたんかい》とは日本でこそ最も高貴な精神とされているが、ここでは最も馬鹿の見本であった。この二つの距離の間にはいったい何があるのであろうか。
「日本という国について外国の人人に知っていただきたい第一のことは、日本には地震が何より国家の外敵だということです。その外敵の侵入は歴史上に現れている限りでは二百七八十回ほどあります。一回の大地震でそれまで営営と築いて来た文化は一朝にして潰れてしまうのです。すると、直《ただ》ちに国民は次ぎの文化の建設を行わねばならぬのですが、その度に日本は他の文化国の最も良い所を取り入れます。一世代の民衆の一度は誰でもこの自然の暴力に打ち負かされ他国の文化を継ぎたす訓練から生ずる国民の重層性は、他のどこの国にもない自然を何より重要視する秩序を心理の間に成長させて来たのです。そのため全国民の知力の全体は、外国のように自然を変形することに使用されずに、自然を利用することのみに向けられる習慣を養って来たのは当然です。このような習慣の中に今ヨーロッパの左翼の知性が侵入しつつあるのですが、しかし、これらの知性は日本とヨーロッパの左翼の闘争対象の相違について考えません。従って同一の思想の活動は、ヨーロッパの左翼の闘争が生活機構の変形方法であるときに、日本の左翼は日本独特であるところの秩序という自然に対する闘争の形となって現れてしまったのです。これはどうしたって絶対に負けるのは左翼です。つまり、それは自然に反するからなんです。ヨーロッパのはすでに自然に反したものを自然に返そうとする左翼であるのに対して、日本の左翼は自然に反そうとする運動です。日本に近ごろ二・二六事件という騒動の勃発《ぼっぱつ》したのはよく御存じのことと思いますが、あれは左翼の撲滅《ぼくめつ》運動でもなければ、資本主義の覆滅運動でもありません。ヨーロッパの植民地の圧迫が、日本の秩序にいま一重の複雑な秩序の要求を加えただけです」
 ツァラアは梶の友人の通訳を聞くとただ頷《うなず》いて黙っていただけだった。文化国が相接して生活しているヨーロッパ人には、東洋の端にある日本のことなど霞《かすみ》の棚曳《たなび》いた空のように、空漠《くうばく》としたブランクの映像のまま取り残されているのだと梶は思うと、その一隅から、世界の隅隅《すみずみ》に照明を与えて人人の眼光をくらましている日本の様が、孫悟空《そんごくう》のように電光石火の早業を雲間でしているに相違ないと思われた。
「シュールリアリズムは日本では成功していますか」とまた暫《しばら》くしてツァラアは訊《たず》ねた。
「日本ではシュールリアリズムは地震だけで結構ですから、繁昌《はんじょう》しません」
 こう梶は云いたかった。しかし、彼はただ駄目だと云っただけでその夜は友人と一緒に家へ帰って来た。

 フランスの全罷業が大波を打ち上げてようやく鎮まりかかったとき、スペインの動乱が火蓋《ひぶた》を切った。梶はヨーロッパが左右両翼に分れて喧喧囂囂《けんけんごうごう》としている中を無雑作にシベリアを突っ走り、日本へ帰るとすぐ東北地方へ引き込んだ。彼は妻の父と母とに「ただ今帰りました」とお辞儀をしてから早速仏壇の前へいって黙礼した。
「やれやれ」
 梶は浴衣《ゆかた》に着換えてから奥の十二畳の畳の上にひっくり返って庭を見た。日本人が血眼《ちまなこ》になって騒いで来たヨーロッパの文化があれだったのかと思うと、それまで妙に卑屈になっていた自分が優しく哀れに曇って見えて来るのだった。梶の組み上げていた片足の冷え冷えする指先の方で、妻の芳江は羞《はずか》しそうに顔を赧《あか》らめながら、
「お手紙|度度《たびたび》ありがとうございました」と礼をのべた。
「そんなに出したかね」
 芳江は返事に困ったような表情で黙っていた。梶は特に自分を愛妻家だとは思っていなかったが、外国で一人の女人の皮膚にも触れなかったのを思い浮べると、なるほどその点では愛妻家の中に入れられるところもあるかもしれないと思った。しかし、梶がヨーロッパの婦人に触れなかった理由は特に妻を愛していたが故ではなかった。ただあのようなおどけたことをしている人間がいつでもそれ相当に苦心をして造った理窟《りくつ》に身を捧げているのが賛成出来なかっただけである。
「どうだ、君は日本人だというが、パリーの女は美しいだろう」
 パリーで椅子を隣りにした外人が梶に訊ねたことがあったが、
「いや、日本の女はもっと綺麗《きれい》だ」と梶は答えた。
「それじゃ、踊り場へ行ったことがあるか」
「日本人は女や踊り場を好かん」
 と梶は云うと、外人はびっくりしたように小首をかしげながら考えていたことがあったが、梶は今その顔をふと思い出すと突然面白くなって笑った。
「日本の女は外国の女よりもっと美しいと虚勢を張って云って来たが、どうして満洲からこっちへ這入《はい》って来ると、全く美しいのにびっくりしたね」
 そう云って梶が何心なく足を組み変える拍子に、芳江の手に彼の足先きがふと触れた。初めて触れ合う皮膚であった。梶は思わず足を引いたが芳江のほッと赧らむ顔からも視線を避けて起き上ると、
「水をくれないか」と催促した。
 度度前から芳江と視線が合うものの、その度に気まり悪げに俯向《うつむ》く芳江と同じように、梶もそそくさと他所眼《よそめ》をしながら、芳江の顔を正視しかねているのであった。いつもは家にいると怒鳴りつけるように大声で妻に用事を命じる梶の癖も、このときは何となく恰好《かっこう》がつかずに庭の松の大木ばかりに眼が奪われるのを、どうも不思議な松だとじっと梶は眺めていた。
「世界を廻って来たお蔭で悟りがなくなってしまったぞ」
 梶はにやにやしながら妻の持って来た水のことなど忘れているとき、馳《か》け込んで来た四つになる子供が父の梶を見てびっくりしたらしく笑顔もせず急に立ち停った。
「おい、来なさい」
 こう梶は云うと、子供は黙ったまま、冠《かぶ》っていた帽子をずるずる鼻の下へ引き摺《ず》り降ろして顔から取りのけようとしなかった。
「パパお帰りなさいっておっしゃいよ。羞しいの」
 芳江に云われても子供は顔を隠しつづけている帽子の縁を噛《か》みながら、矢張り立ちはだかったまま黙っていた。
 梶は水を飲みつつ再びこれから前の定着した日常生活が始ろうとしているのだと思った。しかし、しばらく日本の時間を脱していた梶の感覚は自分の家族の生活がこの東洋の一角にあったのだと知って、不思議な物を見るように妻や子供を手探り戻そうとし始めた。それにしても、何と自分は大きな物を見て来たものだろう。あれが世界というものかと、梶は自分の子供の顔を眺めて初めて世界の実物の大きさにつくづく驚きを感じるのであった。虚無といい、思想というも、みな見て来たあの世界より他にはないのだと思うと、夢うつつのごとくあれこれと思い描いていた今までの世の中が、一瞬にしてかき消えたように思われた。
「いったい、どこを自分はうろうろしているのだろう。この自分の坐っている所は、これゃ何という所だろう」
 梶は浦島太郎のように妻子の前であるにも拘《かかわ》らず、ときどき左右をきょろきょろ見廻した。全く自分の見て来たものも知らずにまだ前と同じ良人《おっと》だと自分を思っている妻の芳江が、このとき何となく梶には憐《あわ》れに見えてならなかった。
「お前はいったい何者だ」
 妻や子供を見ながらこう云う気持ちが起っては、以後の生活の不安も意想外なところに根を張っているものだと、梶は身の周囲を取り包んでいる漠《ばく》とした得体の知れない不伝導体をごしごし擦《こす》り落しにかかったが、ふと前に一足触った芳江の皮膚の柔かな感触だけが、嘘《うそ》のようなうつつの世界から強くさし閃《ひらめ》いているのを感じると、触覚ばかりを頼りに生きている生物の真実さが、何より有難いこの世の実物の手ごたえだと思われて、今さら子供の生れて来た秘密の奥も覗《のぞ》かれた気楽さに立ち戻り、またごろりと手枕のまま横になった。
 世界のどこかに自分の子供があるということは、全く捨て置き難い。この地を愛せずしてなるものか。――南無《なむ》、天地、仏神、健《すこや》かにましまし給え。敵や悪魔を払い給えと、梶は胡桃《くるみ》の葉かげからきらめく日光に眼を射られながら、空の青さ広さに大の字となり、畳の上の喜ばしさに再びきょろきょろと飽かず周囲を見廻した。

 今まで度度東北地方へ来たにも拘らず、梶はこの度ほどこの地方の美しさを感じたことはなかった。親子兄妹が同じ町内に住んでいながら、顔を合せば畳の上へ額を擦《す》りつけて礼をするのも、奇怪以上に美しく梶は見惚《みと》れるのであった。稲穂の実り豊かに垂れている田の彼方《かなた》に濃藍色《のうらんしょく》に聳《そび》える山山の線も、異国の風景を眼にして来た梶には殊の他《ほか》奥ゆかしく、遠いむかしに聞いた南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》の声さえどこからか流れて来るように思われた。
 梶はこの風景に包まれて生れ、この稲穂に養われて死ぬものなら、せめてそれを幸福と思いたかったのが、今にしてようやくそれと悟った楽しさを得られたのも、遅まきながら異国の賜物だと喜んだ。全くこの独特な小さい稲穂の中で、押し合いへし合い捻《ね》じ合いつつ、無我夢中に成長して来たわれらの祖先の演劇は、何ものの中にも血となり肉となりしてこり塊《かたま》っていることこそ争い難い事実であった。
 笑わば笑え。真正真銘の悲劇喜劇もこれに増した痛烈な事件はあるまい。――こう梶の思う心の中で、ヨーロッパの知性に飛びついている顔が、足をぶらぶらさせていったい何を笑っているのか判然としなかった。
 世の中はぜんたいどこへ行くのであろう。――深夜眠れぬままにときどきこのように思ったパリーでの瞑想《めいそう》も、も早や梶から形をとり壊《こわ》して安らかに鎮《しずま》って来るのであった。このようなときには、梶に突き刺さって来た敵の槍《やり》さきも、蹴脱《けはず》す前に先ず槍を握って相手の顔を見たくなった。スペインの争乱が日日銃火を切って殺し合う図を思い描いても、思想の戯れの恐怖より銭欲しさの生活の頑固《がんこ》さが盗賊のように浮んで来るのであった。
「全く右へ行くも左へ行くもあったもんじゃないですね。これゃ食える方へ行ってるだけだ」
 梶はフランスの罷業《ひぎょう》を目撃してからドイツ、オーストリア、イタリアを廻ってパリーへ帰ると友人に話したことがあった。
「そうですよ。みなそうですよ」
 とヨーロッパの政治に明るい特派員の友人が彼に答えた。この人と梶が別れて東北の隅で新聞を見ていると、一カ月もたたぬのに、すでにこの紳士であるスマートな友人はスペインの動乱の上を飛行機で飛び廻り、空中からの彼の活躍のさまが手にとるように紙面に現れていた。
「日本の新聞記者ほど働く記者は世界のどこにもいませんよ。あまり働くので、われわれをペスト菌だと云ったポーランド人がおりますよ」と彼が苦笑をもらしたことがある。
 又ある大学の優秀な政治学の教授は、パリーの左翼の旺盛《おうせい》なさまを眼にしながら、
「自分は左翼に同情はしていたが、しかし、日本がこんなになられちゃ、これゃたまらないという気がして来ましたね。けれども、そうかと云って、生徒に君たちはファッショになれとは、どうしても云えませんからね。全く帰ったって、これじゃ生徒に教えようがなくなった。困ったことになって来た」
 とつくづく梶に腕組みしながらこぼしたことがあった。しかし、思想は民族から離れてあり得ようがない。論理の国際性の重要なことは梶とて充分知っているが、それ故《ゆえ》に知性は国際的なものだとは限っていない。民族の心理を飛び放れた科学者たちの知性が、国際性を何ものより最上としている現代の欠陥は、各民族の住する自然を同一視している彼らの理想の薄弱なところにあるのだと梶は思った。事実、自然の法則を発見する科学者たちの方法が各国共通の論理を根幹としている理由によって、その論理の対象とする自然と歴史の運動をも各国共通の自然と混同しているところに、現代という時間を忘れた知性の不明があると梶は思う癖があった。
 梶がヨーロッパへ旅立つ前からうっかり民族という言葉を用いようものなら、ひどく知識階級のある種のものたちから矢を受けた。けれども、この明瞭《めいりょう》な現実の根柢《こんてい》であるところの種族を黙殺して、何の知性が種族の知性となるのであろうか。梶はこう思う。
「自分がこのように棲息《せいそく》している種族の知性を論理の国際性より重んじるところは、自分が種族の国際性を愛するからだ」と。
 全く今まで梶の一番混乱を起した抽象的な場所はここであった。またこれは梶一個人の混乱の場所だけではなく、日本の知識階級全部の混乱の源をなしている奇奇怪怪の場所でもあった。一度《ひとた》び問題がここに触れようものなら知識階級は総立ちになって喧騒《けんそう》を極《きわ》めるのだ。今やまた梶が帰ってみればヒューマニズムの論議が沸き立ち上っている最中であったが、これも仔細《しさい》に眺めていると、種族の知性と論理の国際性との分別し難い暗黒面から立ち昇っている濛濛《もうもう》とした煙であった。

 すべての知識階級の者たちは、頭の中にそれぞれこの暗い穴を開けられたまま歩いていた。歩く彼らの足つきや方角を見ていると、誰も彼も勝手の悪そうな顔をして煙っている他人の火元を見合いながら慰め合うのである。中には無闇矢鱈《むやみやたら》と国際性という刀を振り廻して斬《き》りつけてばかりいるのもあった。このような人人は覆面をして荒れ廻っている者に多かったが、面の中からも煙はぶすぶす立ち昇っているので、背中の後ろの捻《ね》じ廻しがどこ製のものだかすぐ人人には分るのであった。

 東北の海岸の温泉場には人の気配はもうなかった。梶は波頭の長く連り襲って来る海を前にした宿の部屋で、背後の水の滴《したた》る岩山の方に向いて坐り、終日そこから動かなかった。驟雨《しゅうう》がときどき岩庭に降り込んだ。彼は泉石の間から端正な真鯉《まごい》の躍《おど》り上るのを眼にしながら何をするでもなかった。このようなとき、四つの子供が村の子供たちに引っ掻《か》かれて泣きながら彼の部屋へ這入《はい》って来て、黙っている父を見ると棒切れを拾い上げ、
「よし、殴《なぐ》って来てやろ」
 と云ってまた馳け出すのを見ると、梶はこ奴《いつ》は日本人だと思ってひそかに喜んだ。梶の留守の間初めて村|住居《ずまい》をすることになったこの子供が、ある日村の大きな学校通いの子供たちから取り包まれ、皆から石を持って迫られても逃げないでじっとしていた話を芳江から聞かされると、梶はまたそれも喜んだ。彼はこのような子供が今日本に充満していて、年年歳歳それぞれ成長しつつあるところを考えると、これらの子供が何をやり出すか計り知れぬ興味を覚えた。梶はヨーロッパにいるとき、自分の子供と同じ年齢の子を見ると近づいて公園などで遊んでみたが、特に日本の子供がヨーロッパの子供たちから劣っているとは思えなかった。それぞれこの両洋の子供たちは、各自の国の知性をたどってそのレールの上を成長していくだけの相違であった。梶はここに暗黙のうちに敷かれたレールの両極は一致すべきものと信じていたが、今のところ、いかなる国際列車もまだ乗り換え場所が幾つも必要だと思わざるを得なかった。梶は国際列車のレールは各国共通に一本のものであるべき筈《はず》だから、列車は乗り換える必要がないと教える学者たちには賛成出来なかった。殊に汽車には国国によって時間の相違があり、山川の相違によってレールに広軌と狭軌の差が明らかに存しているにも拘らず、レールの鉄材も日本製を使用すべからずと教えるものや、時間表まで各国同一の時間にすべしと主張する一派を見ると、ひどく暢気《のんき》な隠居のように見えるのだった。
 ある日、梶は自分のいる温泉場を中心とした地方のレールの敷き方を検《しら》べてみた。一カ所を仔細《しさい》に見れば、そのレールは全国共通に通じた個所があるにちがいないと思ったからである。すると、意外なレールの素質が梶の眼の前に現れて来た。
 その市は人口三万ほどある市である。周囲は米の産地として有名な地味|肥沃《ひよく》の庄内平野に包まれているので主産物は米であった。この市の領主はむかし徳川家と特殊に親密な関係があったから、維新の革命のときには領内の士族は当然徳川とともに滅亡すべき運命を持っていた。そこで領内の士族は立って朝廷と一戦を交える覚悟のおり、西郷隆盛がひそかにこの地へ乗り込んで来たのである。このとき家中に一人の傑物の家老があって、これが西郷と会談の結果ともに人格が相映じ、鉾《ほこ》を納めて無事家中を安泰ならしめた事実があった。しかし、このとき、謀叛《むほん》の証左を無くするため人知れず軍用金をある信用すべき商人の一人の手中に隠した。領主を中心とする士族の一団の生活費は、以来この商人の手中にあって今に至っているというのである。この噂《うわさ》はどこまで信用すべきものであるか誰にも分らない。どこまでも秘密から秘密へと落ち込んで消えていく筋合のものであった。しかし、領主をいまだに殿様と呼び、その前では平伏|叩頭《こうとう》する習慣を維持している士族一派を、市民たちは御家禄《ごかろく》派と呼び特殊階級として許していることは明らかな事実であった。この御家禄派の現在の生活費は、その一党からなる地方第一の倉庫の所有権から上って来ていた。倉庫は平野の大産物である米穀の保管が目的であって、保管倉庫の完備と人心の素朴さでこの地の米穀は全国第一の実質を備えていた。
 しかし、ここに新しい別の倉庫が建ち起って来た。それは農民を主体とする産業組合の活動である。この組合は農民の手でなる米穀類の保管から売捌《うりさば》き交渉一切を引き受ける上に、金銭を貸し与えて肥料の供給までするのである。この便利な組織は自然に農民の心を引きよせるに充分であった。ところが、ここに困ったのは、その敵である御家禄派の衰微ではなく市の主要群団であるところの商人たちであった。農民たちの金銭がすべて産業組合の手中に落ちた結果は、市の商人の品物の売れなくなるのは当然である。たちまち商人の破産するものが続出して来た。梶の耳に這入って来た確かな検《しら》べによると、ほとんど商人の九割までが破産状態に瀕《ひん》しているということであった。しかし、さらに梶を驚かしたことは、その現象がこの地方のみならず日本全国に共通した農村都市の叫喚であるということだった。
 梶は前からもそれは感じていたことであったが、それはこれほどまで深刻な変化をしているものとは思わなかった。政治季節になると、いつもの通り掲げられる米穀統制法という看板も、つまりは、地方の商人を破壊している産業組合の主態である農村を救えという声である。明らかに誰が見ても、農夫の作る米穀類をすでに存在している統一機関の手をもって統一し、仲介業者の手を無くすることの良い仕事であるのは分ったことだ。それにも拘《かかわ》らずこの統制法が、いまだに議会を通過しないという事実の裏には、商人団の中央機関の必死の破壊運動があるのだった。
 農民を救うべきか商人を救うべきかという難問の前で、明答の出て来る筈はない。どちらも救えというためには、秩序組織の改革以外に良法はない。これは誰が考えたとて定ったことだ。現状維持を最も安全な思惑と考える筋合は、実は最も危険思想であるという奇怪な進行をなしつつ満員列車は馳けているのだった。ところが、梶のいるこの地方には、新しい機関の発生を待ち望んでいる群衆以外に、これはまた変った形態が残っていた。それは領主の家老が隆盛の言に従い、明治政府の掌中に実権を譲ったとき、一戦を覚悟の決死隊の一団である。彼らは自身たちの領主がすでに明治に降《くだ》ったと知ると、明治の飯を食わずと連袂《れんべい》して山間の僻地《へきち》に立て籠《こも》り、今なお一団となって共産村を造っていた。ここでは一団が山野を開拓して田畑となし、共同の養蚕所を持ち、学校をその一部にあてた堅実質素な生活を維持しつつ、絶対に他の容喙《ようかい》を入れない純然たる態度を守って世を睥睨《へいげい》していた。誰が見ても、まさに共産党以上の牢固《ろうこ》さと単純さとがここにあった。しかし、これさえ国家は保護している。義理人情という日本の知性のこの二つの形の純潔さに対して、ヨーロッパの知性のいかなる最高のものがこれを笑い得るであろうか。――
 梶はこのように思いながら間もなく東京の自分の家へ帰って来た。

 梶が東京の我が家へ初めて戻ったときは季節は寒さに向っていた。彼が帰って家の周囲を見渡すと今までの広い空地はどこにもなくなり、東西南北家がぎっしり建っていた。僅《わず》か半歳《はんとし》あまりにこのように人家の密集する都市の膨脹力《ぼうちょうりょく》を思うと、半歳の間の日本の変化も実はこれと同じにちがいないと梶は思って驚いた。家の掃除《そうじ》をさせている間、梶は久しぶりに一人市見物に出ていった。すると、あれほど大都会の中心を誇っていた銀座は全く低く汚《きたな》く見る影もなかった。
「これが銀座だったのか」
 梶はしばらく街を見廻して立っていたが、寒そうに吹く風の中をモダンな姿で歩く人影も、どこの国の真似《まね》ともなく一種すすけた蕭条《しょうじょう》とした淋《さび》しさを湛《たた》えていた。梶は日本の文化は物の中側にある知的文化が特長だと常に思っていたが、しかし、外から見かけたこの貧寒さを取り除《の》けるためには、少なからざる虚栄心の濫費《らんぴ》をしなければ西欧に追っつけるものではなかった。内充して外に現れることが形式の本然であるならまだまだ日本の内側は火の車だと思った。
 梶は友人をある会社に尋ねて今日から東京へいよいよ落ちつくことを報《しら》せにいった。この友人は幾つもの会社の重役をしていた上に関西の財界の大立物を親戚すじにひかえていたから、日本の財界の動きにかけては誰より確実な早耳を持っていた。重役室で梶は友人に逢うと、自分のいなかった間に変化して来た裏面の動きを訊《たず》ねてみた。
「そうだ。君のいない間にがらりと変ってしまったぞ。たいへんな事になってしまったよ。税制改革で年に百万円|儲《もう》けるものは五十万円の税だよ。それも累進率だから、儲かれば儲かるほど出すのも上るわけさ、相続税だって財産の三分の二以上とられるんだ。こうなると二百万円の財産だって、孫の代には一文もなくなってルンペンになり下るという寸法になって来る。百円の収入以上のものには、もう皆かかって来るんだ。君も考えないといけないぜ」
 こういう友人の言を寝耳に水のごとく梶は聞いていた。
「それゃ、大革命が起ってるんじゃないか。まだ誰にも聞かなかったが本当か」
「誰が嘘を云うものか、まだ誰も気が附かんだけだよ。この二三日財界は大騒動だ。関西からは電報ばかりだが、誰もどうしていいか知らんのさ。こうなれば君、財産の隠しようがないからね。おまけに儲けたって仕様がないから今までの財界の玄人《くろうと》がみな尋常一年生になっちゃったんだ。現に新東が焦げつき相場でじっとしたままだよ。それが証拠じゃないか。上げも下げもならんのだよ。どうしていいんか分らないんだからね」
「しかし、それゃ、面白くなって来たね」
「面白いよ。僕の会社もこうなれば、機械に金をかけて良い品物を造るより仕様がなくなった。重役会議を昨日開いたんだが、僕はそれを主張したんだ。皆だい賛成だ。ボーナスもうんと出す。社員を遠足させたり、会をやって御馳走《ごちそう》して楽しませたりする方に、金をどんどん使うんだ。しかし、やりよったなア。大蔵省、とうとうやりやがった。豪《えら》いよ。もう金持連中、利子では食えなくなるからな。とにかく、ここ一週間どこの会社だって、それで重役会議ばかりだよ」
「議会はしかし通過するのかね」と梶もあまりの変化にまだ嘘のような気持ちだった。
「通過するさ。それゃもうちゃんと定《きま》ってるんだ。財界の大立物が重役をみなやめちゃったのもそれなんだよ。あ奴《いつ》らはそこがまた豪いとこなんだね。矢っ張りインテリの重役じゃなくちゃ駄目なんだよ。ヨーロッパはどうだね。近頃は」
「いや、そういう面白い話を聞いちゃ、ヨーロッパどころじゃないね。あっちの話はもう古くさいよ。ただフランスの左翼はトロツキイ派が多いんだが、スターリン派の左翼とどうなるかというのが、一番僕には面白いね。これは日本で考える以上にもっと性質の違った複雑な問題なんだ。僕がモスコーへ行ったとき聞いたんだが、この六月にチタで汽車の衝突事件があっただろう。汽車が衝突したというので、駅長から助役、機関手みな責任者を即決裁判で銃殺しちまったんだ」
「ふむ」と友人は眼を見張った。
「それもスタハノフ運動という貨物の能率増進運動を妨害しようとしたトロツキイ派の一味だからというのだが、しかし、日本の左翼はスターリン派かトロツキイ派か、どっちが有力なんだ。君聞かないか」
「それゃ聞かないね。しかし、無茶をしよるな」とまだ友人は考えている風だった。
「しかし、左翼の一番の強敵は右翼じゃなくて同じ左翼だというのが、今じゃ現実そのものになって来たんだから、思想もどこまでこ奴、悪戯《ふざ》けるか底が知れないよ。現実を全くひやかしてるようなもんだからね。そこをユダヤ人がまた食いさがってにやにやするという寸法だ。良い加減に腹を立てる奴も出て来るさ。とにかく、もう世界の知識階級は云うこともすることも無くなったよ。知性が知性を滅ぼしておけさ踊りをしてるんだ」
「しかし、日本も累進率の税法で、これから文化がどしどし上る一方だよ。左翼のやれなかったものを、妙なところがやりよったのだ。面白いね。長い間金持ちが金を儲けすぎた罰がとうとう来たんだね」
 重役でありながらこのようなことを云う友人の顔を見ながら、梶は日本の変化の凄《すさま》じさを今さら見事だとまたここでも感服するのだった。
 彼は事ごとにこのごろの日本に感服する自分をこれはどうしたことであろうかと思った。寝足りた朝のように平凡な雑草まで眼をとめて眺めたいのは、これは自分も一人前に成長して来たからだと思われた。
 梶が友人と別れて帰って来たときはもう夜になっていた。家の掃除も引き越しも無事に出来上っていたので一同夕食をとろうとして茶の間へ集った。すると、それまで外で遊んでいた長男は帰って来たが、次男の四つになるのがいつまで待っても姿を見せなかった。どこへ行ったのかと梶が訊ねても誰も知らなかった。彼はすぐ人を四方へ走らせてみた。しかし、いずれも帰って来たものはみな要領を得なかった。初めのうちはそれぞれあまり気にもせずそのうちひょっこり帰るであろうと思っていたが、附近に遊んでいる子供たちに訊ねても誰も知らぬという返事に、一同だんだん顔色が変って来た。
「初めて帰って来たんだから、きっと道を迷って遠いところへ行ったんだわ。どうしましょう」
 芳江は真っ青になったまま外の方へ馳けていった。彼女の後から出入の米屋や酒屋、手伝いの人三人に長男らが四方へまた探しに散った。梶も別動隊となって裏から一人で出ていったが外は全く暗かった。それに新しく前後左右にずっと建て込んだ家の小路の複雑した屈曲には、梶もしばしば迷って出口が分らず立ち停って考えたほどだった。家の尽きたあたりは一万坪あまりの野原で人一人通らなかった。梶は永らく田舎《いなか》の祖父のもとで留守中いた四つの子供の頭を思うと、迷ったが最後帰路の困難が察せられた。道というものは小さくともどこまでも続いているのだから、迷いの末はどのあたりを遊び歩いているか知れたものではない上に、梶の家の周囲の道がまた八方についているのだった。
 梶は真暗《まっくら》な夜道を子供を尋ねて歩きながら、ふと自分も今自分の子供と同じような眼にあっているのではないかと思った。知らぬ間に全く考えもしなかった複雑な夜道が自分の八方についていて、どこを自分がうろついているのか分らぬのではないかと思われた。彼は子供を探しあぐねて戻ってみてもまだ子供の姿は見えなかった。附近の交番へ頼んでおいた返事も無益であった。芳江は門口で泣きながら探しに行った人人の戻って来るのを待っていた。けれども誰もぼんやり黙って帰って来た。いずれ戻って来るだろうと梶はまだ思っていたが、そのうちに気が気でなくなり、再び子供を探しに出かけた。しかし、馳けても目的が分らぬのであるからどちらを向いて馳けて良いか見当がつかなかった。
 彼は空《むな》しい思いであてどなくうろつきながら、
「これゃ、知識階級の苦しみという奴だ」
 とこう思った。しかし、それは梶には笑い事ではなかった。日本へ帰って来るとこんな苦しみがあったのかと、彼は暗澹《あんたん》となりまさる胸の中に顔を埋めるようにして幾つも坂道を上ったり降りたりした。ときどき立ち停って子供の名を呼んでみたが、子供も同様にどこかで立ち停っている筈《はず》はないのだから返事はもとより聞えなかった。ただ遠くの方で子供の名を呼ぶ他の探し手の声が聞えて来ると、まだそれでは見つからぬのかと一層不安が増して来た。彼は歩きながらも、これから将来において幾度こんなことがあるかしれないのだと思うと、悲しみついでに今一度にどっと悲しみに襲われてしまいたいと思った。
 梶が探し疲れて家へ戻って来ると、迷い子になった子供はゴム風船を持って一人ぼんやりと勝手元に立っていた。一同のものは何ぜだか誰も黙っていた。梶も子供の姿を見ると何も云わずにその傍を通りぬけて奥の間へ這入ろうとした。
「交番の椅子にぼんやりひとり腰かけていたんですって。早くお礼を云ってきてちょうだい」
 こうしばらくして梶は芳江に注意された。しかし、梶は容易に身体が動かなかった。
「早く行ってらっしゃる方が良いですね」
 と手伝いの人がまた云った。そんな事は梶とて百も承知であったが、全く空虚になっている現在の自分の楽しさを思うと、ヨーロッパ旅行の楽しさなど比較にならぬと思って恍惚《こうこつ》としているときであったから、芳江や手伝いの人の言葉が梶には鞭《むち》のように腹立たしく感じられた。
「しかし、これがわがままというのだろう」
 梶は腰を重くあげて夜道を交番の方へ歩いていった。もうここの警官にだけは一生頭が上らないと彼は思いながら、夜気に湿った草原の中を勢い良く歩くのだが、世界の思想や状勢に頭を使い、日本のあれこれを思い悩んだ自分の考察も、根元から吹き上げられてはこのように無力なものになるのかと、今さらおかしく淋しくなって来た。
 その夜梶は海外へ行く前に日日寝つけた自分の部屋で、以前のままに敷いてある寝床の中へ初めて身体を横たえた。彼は天井を仰いでみた。背中は蒲団《ふとん》にぴたりとついて呼吸をする度にゆるやかに襟《えり》もとの動くのが眼についた。すると、弛《ゆる》んだ障子の根に添って見覚えの鼠《ねずみ》がちょろちょろと這い出て来ると梶を見詰めたままじっと様子を伺っていた。
「あーあ、もとの黙阿弥《もくあみ》か」
 と梶は思わず口に出た。次ぎの部屋で床に這入ったらしい芳江は面白そうに声を立てて笑い出した。

底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日初版発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:平野彩子
2001年3月5日公開
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

神馬—–横光利一

豆台の上へ延ばしてゐた彼の鼻頭へ、廂から流れた陽の光りが落ちてゐた。鬣が彼の鈍つた茶色の眼の上へ垂れ下ると、彼は首をもたげて振つた。そして又食つた。
 肋骨の下の皮が張つて来ると、瞼が重くなつて来て、知らず/\に居眠つた、と不意に雨でも降つて来たやうな音がしたので、眼を開くと黄色な豆が一ぱい口元に散らばつてゐた。で彼は呉れた人をチラツと見たきり、鼻の孔まで動かして又食つた。いくら食つても、ウツラ/\としてゐる中に腹の皮がげつそり縮つてゐた。彼は食ひ倦きると、此の小山の上から下を見下ろした。
 淡紅の蓮華畑や、黄色な菜畑や、緑色の麦畑が幾段と続いてゐた。そのずつと向ふには、濃い藍色の海が際涯しなく拡つてゐて、その上を水色の空が恰も子守りでも命ぜられてゐるかのやうに柔く圧へてゐた。彼は豆台を飛び越えて走りたくなつて来た。が又豆がパラ/\と撒かれると何もかも忘れて了つた。一間程前で、朱の印を白い着物中にペタ/\押した爺が、檜傘を猪首に冠つて、彼を拝んでゐた。彼はその間ムシヤ/\頬張つてゐた。顔を揚げると、傍で小僧が指を食はへて、不思議さうに彼を見てゐた。
(何て小つぽい野郎だらう。だが此奴は呉れよらん。)彼は眼を爺様にむけた。爺は拝み終へて子供の頭を圧へながら云つた。
「さあ、さあ、拝まつしやれ。そんなに見たら眼がつぶれるぞ。」
 子供は圧へられてゐる頭の下から未だ彼をジロ/\見てゐた。軈て彼らは去つた。
(阿奴ら変梃なことをしやがる。何をしやがつたんだらう?)
 急に臀部が気持ち悪くなつた。彼は下腹に力を容れた。そして尾をあげるとボト/\と床が鳴つた。瞼が下りかけた。と石段を辷つて地べたの上を音もたてずに、すばらしい勢で走り過ぎた小さい影を見た。何かしら? と思つて過ぎた方をよく見ると、高い空で鳶が気持ちよささうに輪を描いてゐた。
(何だ、鳶か俺は又牛虻でも来やがつたのかしらと思つたら)そして彼は又眠らうとしたが、木の影から黄色な鯉が竿の尖端に食ひついて遊んでゐるのが眼につくと、それを瞶めてゐた。広い道が畑の間を真直に延びてゐた。首を振り乍ら歩いてゐる馬や、唄を歌つてゐる頬冠りした人間や、車等が沢山往つたり来たりしてゐた。
(出て歩きたいな)と思ふと、両側の柱から垂らして口もとで結んだ縄を噛み切りたくなつて来た。と何日か二三度逃げ出た時、三四日の間一食もくれなかつた苦痛を思ひ出した。
(あんな目に合せやがる―)彼は首を振つた。風が吹いて来た。前の榊の枝がざわついた。下の道に白い塵埃が舞ひ立つて人も車も馬も飲み込まれた。鯉は竿に縋り、ガラン[#「ガラン」に傍点]が激しく鳴つた。塵埃が向ふの山の麓の方へ走り去ると又静になつた。そして暗くなつた山の峰が直き明るく輝いた。蓮華畑の横で女の子らが寝転びながら摘草をしてゐる。他の二三人は麦畑の中で隠れんぼをしてゐる。見つかるとキツ/\と云つた。お転婆らしい。掘り返した畑で大分腰の曲つた男が肥料を撒いてゐる。白い煙を吐いた下り列車が山際をノロ/\這つてゐる。石段の方から鈴の音が響いて来た。彼は急いで首をその方に向けた。赤銅色にギラ/\光つた顔の男が長い杖をつき乍ら下りて来た。男の顔には鼻がなくて真中に小さな孔が二つ開いてゐるだけである。
(妙な野郎、呉れるかしら?)が男は彼れを見るのは見たが、素通りした。
(あかん。おや! 又来たぞ)下から下駄を叩きつけるやうなあわたゞしい音がして来た。
(駄目駄目。奴は毎日通る奴だ。)
 直ぐ下の方が又喧しくなつた。暫くすると五十人余りの子供らが教師に連れられて上つて来た。彼の前で教師は子供らを些よつと止めて説明した。
「皆さん。この馬は、日露戦争に行って、弾丸雨飛の間をくゞつて来た馬であります。馬でさへ国のため君のために尽して来たのでありますから、皆さんは猶一層勉強をして、国家のために尽さねばなりません。」
 子供らは口をポツクリと開けてみな彼を見てゐた。誰も顔をほてらしてゐる。
(あいつらは何だらう俺をジロ/\皆見やがる。だが呉れさうもない)そして彼は食ひ残した前の五六粒の豆を拾つた。子供らは又饒舌くりながら、塵埃を立てゝ石段を昇つて行つた。彼は食ひ物がなくなると、何かそこらに落ちてゐないかと思つて、あたりを見廻した。が何もなかつた。眼の前の箱にもつた豆を食ひたいが口がとゞかぬ。つと榊の下に捨てゝあつた黄色な橙の皮に眼がついた。
(何だらう、あれや?)彼は色々考へてみたが遂々分らなかつた。然れ共食ひ物に違ひないとだけは思つた。そして妙に気にかゝつてならなかつた。(食ひたいな)
 その時遠くの方から馬の嘶声が聞えた。彼は刺されたやうに首をあげて耳を立てた。
(おや! あれや牝馬の声だぞ。)もう橙のことを捨てたやうに忘れて了つて、猶じつと聞いてゐた。(牝馬だ。牝馬だ)迅速な勢でギユーと何かしら背骨を伝つて下へ走つた。彼は前足を豆台の上へ乗つかけて飛び出ようとした。両側の縄がピンと張つて口をウンと云ふ程引いた。で彼は直ぐ足を落ろした。頭の中がガーンと鳴つてゐた。狂ひ出しさうになつた。で後足に力を込めて、無茶苦茶に床板を蹶つた。社務所から男が来て彼を鎮めた。それでも未だ馬舎の中で立ち上つたりした。頭がはつきりした時には、牝馬の嘶声が聞えなかつた。彼はその方にじつと向いてゐた。
 淡藍の遠山がかすんでゐた。海には白帆が二三点見えた。暖い陽が総てのものゝ上に愉快げに見える。子供の喇叭を吹く音が聞えて来た。入道雲が動かない。
(何処で嘶いたのだらう。)
 彼の前には綺麗な若い娘と白髪を後頭で刈り切つた老婆とが立つてゐた。老婆は財布から二銭玉を出して、机の上にのせて、一升の豆を豆台に投げた。それから両手で何かを頂くやうな真似をした。其処へ黒犬の大きいのが尾を振りながらやつて来て、立ち止つて彼を見た。少し首をかしげてゐる。
(ははア、此奴、豆を盗まうと思つてゐやがるんだな)彼はあわてて豆を食つた。老婆も娘も犬も彼の前から去つた。
 軈て人通りが少くなつた。日が落ちた。淡闇が海を渡つてきた。白帆がもう見えぬ。星が廂の角で光つてゐる。湿つぽりした風が緩く吹いて来た。鳥が海から帰つて来る。畑にはもう人が見えぬ。奥から鐘がゴーンと鳴つて来た。いつもの男が彼の所へ、豆粕と藁とを混ぜた御馳走を槽に容れて持つて来た。彼は残らず平げた。そして男は重い戸をピツタリ落ろした。真暗になつた。外で錠前の音がカチ/\とした。今日も知らない一日を彼は生きた。

底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「文章世界」博文館
   1917(大正6)年7月1日発行、第12巻第7号
初出:「文章世界」博文館
   1917(大正6)年7月1日発行、第12巻第7号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
※くの字点は、底本のママとしました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
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横光利一

榛名—–横光利一

眞夏の日中だのに褞袍《どてら》を着て、その上からまだ毛絲の肩掛を首に卷いた男が、ふらふら汽車の中に這入つて來た。顏は青ざめ、ひよろけながら空席を見つけると、どつと横に倒れた。後からついて來た妻女が氷嚢を男の額にあてて、默つて周圍の客の顏を眺めてゐる。あれはもう助からぬと私は思つた。私は良人の死顏を見たときに泣く妻女の姿をふと頭に浮べたが、急いでもみ消すやうに横を見た。もう私は考へたくはない。私は考へることからせめて一週間遁れたいと思つて一人早く都會を逃げ出て來たのだが、後から遲れて子供たちが私の後を追つて來ることになつてゐる。私は九ヶ月間つづけて來た仕事を昨夜し終へたばかりなので、何か大過を犯した後のやうな、何とも取り返しのつかぬことをした棄鉢氣味もあつたが、まだ人に知られてゐないといふ餘裕ある現状であつたから、なほ考へたくはないのである。それに疲勞も極限にまでいつてゐるのだ。

 私の横で老人の代議士が衆議院へ來た手紙類の束を切つて、一つづつ丁寧に讀んでゐた。すると、汽車がある驛に着いた。代議士は窓から外を見て、急に手紙類をかかへたまま降りていつた。私は自分の降りる驛はまだ遠かつたが、突然その代議士の後からついて降りた。代議士は立派な自動車に乘つた。私も一番綺麗な自動車を撰ぶと代議士の後から追つていつた。私は彼の後を追ふ自分に何の特別な目的もなかつたが、どこでこの代議士と別れるやうになるものかと、ただそれだけが興味であつた。自動車は宿場町を過ぎると廣い坂道を山の湯へ向つていつた。けれども、もう私はいつの間にか代議士のことなど忘れてゐた。「ああ、忘れる、これほど健康なことはあつたのか。」かう思ふ後から、見る見る秋草に滿ち膨れた山の斜面が眼下に向つて摺り落ちていつた。

 伊香保の夜はもう書くまい。明日は榛名だ。私はここはまだ初めてのところだが、友人のSがあるとき誰かに歎聲を洩しながら、何事かしきりに推賞してゐる聲をふと聞いたので、何だと横から訊くと、榛名だと言下に答へた記憶を思ひ起す。私は混雜した宿の窓からはるかな山頂の榛名を仰ぐと、榛名は雲の中に隱れてゐる。私はまだ見ぬ寶玉を見る思ひで棚曳く雲の中に沈んでゐる山頂の圓い小さな湖を胸に描いた。

 朝早く宿を出やうとするとステッキが見つからない。宿の女中に尋ねると、今朝出發した客は誰もないから間もなく誰か持つて戻るであらうとの答へなので、そのまま女中に荷物を持たせてケーブルへと急ぐ。ケーブルの乘り場で、女中に話しかけた婦人がある。見るとその傍にゐた婦人の息子らしい青年が私のステッキを持つてゐた。孤獨な旅の空で、自分の愛用品を見ず知らずの他人の手の中で發見するのは、一種特別な感じである。いよいよ發車になつて車内に乘ると、その青年も乘り込んで來て、運惡くまたも私の前の席に腰を降ろした。彼は私のステッキを前に突き出すやうにして兩手を支へながら、母親と幸福さうに絶えず笑つて話してゐた。今もし私がそれを私の物だと云つたなら、母親と息子との旅の幸福は臺無しだ。だが、私にとつては、それは長年どこへ行くにも持つていつたステッキである。私は眼をだんだんその方に向けることが出來なくなつた。しかし、見る度に私の手垢で擦れ光つてゐる柄の雁首が、こちらを向いて取り戻してくれと哀願してやまない。車が上に上にと動き出しても、青年の掌の下から悲鳴が聞える。「まア、辛抱して、行つてやれ。」と私は云ふ。しかし、こんなときでも涙といふものは何となく出かかるものだ。

 山頂へ着いた。自動車でまた高原の中を行く。私のステッキを持つた青年とは別別の車になつた。しかし、やがて湖が鮮明な色で草の中から現れた。車から降りると私一人日歸りの皆と別れて森を通り、ただ一軒よりない宿屋へ行つた。農家とどこも變らぬ宿屋だが、湖の岸まで芝生が一町もなだらかに下つてゐる。縁側に坐つて湖を見ると、すでに山頂にゐるために榛名富士と云つても對岸の小山にすぎない。湖は人家を教軒湖岸に散在させた周圍一里の圓形である。動くものはと見ると、ただ雲の團塊が徐徐に湖面の上を移行してゐるだけである。音はと耳を立てると、朝から窓にもたれて縫物をしてゐる宿の女中の、ほつとかすかに洩らした吐息だけだ。もう早や私は死に接したやうなものだ。

 若い女が茶を持つて私の傍に來た。色は白く眼は大きくて美しい。髮も豐で襟もとに品位があり、言葉も云はず笑顏も見せない。默つて來てまた默つて去つていく。――森の中から乘馬の青年が靜に湖を見降しながら通つていつた。木の枝をへし折る音、四肢をときどき慄はして眠つてゐる犬、腹を干した岸のボート、ぼつりと一つ芝生の上に見えるキャムプ。森の中に生えてゐる丈長い蘆。白い樹間を絡りながら流れる煙。淡紅色に塊つた花魁《おいらん》草の花の一群。絶えず水甕へ落ちる水の音。――私は身體の中から都會の濁りが空の中へ流れ出す疲れをぐつたりと感じていつた。希望はもうここでは何ものも起らない。私はただ睡るばかりだ。

 湖の向ふに見える小舍は氷屋《ひや》でございますよ。湖の番人がゐるのです。と女は私の質問に答へて云つた。私は湖面に一つ浮んでゐる白い箱を指差してまた訊ねた。あれは燈籠流しの殘り物です。もう一週間早くいらつしやれば御覽になれましたのにといふ。燈籠流しの夜には湖面へ五百ばかりの燈籠を浮べる。それが風の間に間に湖いつぱいに漂ひ流れて沈んでいく。――私は女の唇から露れる齒の美しさを眺めながら、この婦人の山上の望みは何かと訊ねたかつた。聲は細細としてゐて抑揚は何もない。――突如、湖面に落ちる雨の波紋。ほの暗い森の中から一聲唸りを上げたと見る間に、眠るがやうに沈んでいくモーターの音。飛び立つ小鳥の足もとから木の葉に辷り落ちる粗い水滴。微風に搖れる少女の髮。石の上を蹴る蟋蟀。連ねた番傘を舞しつつ草の中を下る娘たち。拔手を切つて雨中を泳ぐ一人の若者。――

 女は私の部屋へ來て故郷の話や去つて行つた客の話をするやうになつた。彼女は廿歳だがまだ東京を見たことがなかつた。彼女の兄は小學校を一番で出て飛行隊に這入つてゐるが、休みになつて妹に逢ひに來るのが何よりの樂しみであつた。兄は彼女に料理屋にはどんなことがあらうとも住み込むなと云つたのに、それに宿屋へ這入つた自分を見て、何といつて悲しむことかと女は云ふ。厚い鮮やかな色の耳が福福しく、下膨れの落ちついた頬に笑窪が洩れる。彼女は坐つた縁側の粗い木目の上を飛ぶ蠅[#「蠅」は底本では「繩」]を眼で追ひながら、母が繼母であるから家へは歸れないのでここにゐるものの、東京へはいつか出たいのだが出ても女の落ち行く先は定つてゐるから、出世もなかなか覺束なく思ふといふ。――湖の上からは、遠方のボートの上で歌つてゐる少女の聲が間近く聞えて來る。湖面を飛び渡る白い蝶。方向を變へて流れる煙。草の間できらめき光る鎌の刄。長く尾を曳いて鳴き交す鳥の囀り。吠えるやうに山峽を登つて來る一臺の自動車。絶えずこちらに向つて押しよせて來る波紋。かの白い一疋の蝶は、まだいつまでも山と云はず森と云はず雲と云はず、ひらひら不安な姿で縱横無盡に活溌に暴れつづけてゐる。ふと見ると、高い梢の白い花が日光を受けて明るく輝いたと思ふ間に、忽ち日に影つてまたさびれる。厨の方から料理する庖丁の音が水音に混つて聞えて來る。

 花魁草の花の中に蹲みながら、暮れかかつていく湖を眺めてゐる私の傍に、女は廊下を降りて來て立つた。しかし、私にはもう女の姿も大きな山脈も、眼の前に垂れ下つた淡紅色の花瓣に流れた微細な水脈も、大小の比較がかき消えて、かすかに呼吸してゐる自分の胸もとの襟のゆるやかに動くのが眼につくだけだ。白く細つそりした雄蕋や、入り組んだ雌蕋の集合した花花のその向ふでは、今や日没の光線に金色に輝いた湖面が靜まり返つて傾き始めた。キャムプの草の上で焚火をしてゐる若者の歌ふ青春の唄が、透明な空氣を搖り動かして流れて來る。花の中に首をさし入れてゐる私の顏の周圍は、ほの明るく火を入れたやうに色めき立ち、草笛の音のやうにうす甘く眠つてゐる官能を激しく呼び醒して少年の日をめくる。折から撥ね上る水面の魚。齒をむいて驅け昇つて來る童兒。やがて、最後の光線とともに萬目すべてぴたりと音を消した。動くものは何物もなく、眼界一人の人物とてゐない。ただ手折つて來た花が縁側の上に凋れて影を映してゐるばかり。

 夕食に出た茄子の燒きがどこかで見覺えのある燒き方だと思つて覗いてゐると、それは晝食に出されたこの宿の茄子であつた。押しよせて來てゐた群青のために、私は早や過去をそんなに激しく忘れてゐたのであらうか。沈默と靜けさの中で動いてゐた精神はこれすべて、色彩の祕密の底を潛つてゐたのであらうか。――ふと氣附くと、朝から鳴きつづけて來た一疋の小蟲がまだ鳴きつづけてやまない。巨大な滿月が秋草の中から昇つて來た。沈んだ湖面は再び月に向つて輝きながら傾いた。私は膝を崩して杯を上げた。女は酒を注いだ。夜になつて峠を越えて來た旅人が隣室へ這入つて來た。私は女に、この山の頂で希望を捨てる旅人の數を尋ねてみた。すると、女は、彼女が來てからこの二ヶ月の間に三つの自殺者のあつた話をし始めた。

 わたくしの來た三日目に、書生さんが一人來て、アダリンを飮んで二階で死にましたが、それから二週間目に、また一人書生さんがいらつしやいまして、あの左の山の中で亞比酸を飮みました。この方は死にきれずに、苦しまぎれに山番のところへいつて、水をくれと云つたので、山番に助けられてここへ歸つて來ましたが、もう一つは心中で、あの向ふの氷屋《ひや》のところでありました。この人たちは氷屋《ひや》へ殖林を見にいらつしやいました役人さんに助けられて來たのですが、役人さんが初めここへ一人でいらつしやいましたときに、夕飯を一人前用意しといてくれと云つて、それから氷屋へ湖を渡つて行かれましたのに、歸つて來たときには、三人前にしてくれと仰言るんでございますよ。それでわたくしはお部屋へ來て見ましたら、御夫婦らしい初めてのお客さんがまた二人もいらつしやるんでございませう。それに三人の方は一言も何もお話にならないものですから、役人さんにどうなさいましたのとお訊きしましたら、分つてるぢやないかと仰言るんですの。でも、どうしてここはこんなに、皆さん死にたくなるんでございませう。

 隣室では旅人が宿の女中と知り合らしく、酒を飮みながらのべつ幕なしに饒舌つてゐる。それも坐つたときから口を突いて出て來る手練れたからかひに、隣室の女中の笑聲は絶え間がない。僅に得た閑を利用して、出來得る限りの樂しみに耽らうとしてゐるらしい。女中が一口云へばそれに絡り、八方から猥雜な言葉を速射して一言も云はせない。女中はだんだん笑ひくたびれて、何とはなしに吐息をもらすと、また浴びせる。やがて女中はくたくたにもみ通されて一口も言葉を出さなくなつた。しかし、客はますます勢ひを増すばかりだ。私は隣室から二人の樣子を伺ひながら、よくもあんなに女のあらゆる角度を索《さが》してからかはれたものだと感じ入つた。すると、そのとき、月の下から酩酊した大兵肥滿の男が現れると、隣室の男に喧嘩を吹つかけるやうな調子で、一別以來の挨拶をし始めた。二人は酒を二三杯飮み交してゐるうらに、突然一人が、ボートをこれから漕がうと云ひ出した。よし漕がうと答へると、二人はよろけながら腕を捲くり上げ、縁側から湖の方へ降りていつた。大兵肥滿の方は何か一口云ふ度に、對岸にまで木靈を響かせて大聲で笑ふ癖があつた。やがて、ボートは賑やかな二人の醉漢を乘せて勢ひよく搖れ始めたが、その途端不意にボートの影が見えなくなると、それと同時に、人聲もずぼずぼと沈んだやうに森閑となつてしまつた。私は立ち上つて湖の底を覗いてみた。しかし、いつまでたつても、私はただ大きな私の影が湖面の上に倒れかかつて、右から照り輝いてゐる滿月の光りと爭つてゐるのを見ただけである。そのとき、一疋の蟋蟀がはつと滿月の中から飛び込んで來たかと思ふと、冷たく私の右側の鼻柱を蹴りつけて見えなくなつた。

 私は女と一緒に波打際へ降りていつた。女は頬笑みながら悠然として云つた。――醉つぱらつてゐたつて、あの人たち沈んでしまふやうな人ぢやありませんわ。あの大きな聲で笑ふ人は、あそこに見える料理屋の主人ですから、きつとまた思ひ返してお酒を飮みに行つたんでせう。隣りのお客さんは下の町の役人さんで、ときどきいらつしやる方なんですけど、あの方よりまだよくからかふ方がお仲間の中にいらつしやるんですよ。いつもはその方ともう一人別の方と、三人でいらつしやるんですけど、さうしたら、家の中はたいへんなんでございますよ。きつと明日の夜はその方たち遲れていらつしやるんでせうけど、あたくしたち、もう眠るところがなくなつてしまひますわ。――女のいふことを聞いてゐると、明日來る客たちは、この前に來たときには、女らが寢やうとすると女中部屋へ追ひかけて來る。物置で寢てゐると、今度は物置へ來る。そこで仕方がないので隣室の私の部屋の押入で寢てゐたら、たうとう搜しあてられずに夜が明けたさうである。

 私と女は波を消した渚に添つて歩いていつた。向日葵《ひまはり》が垂れた首のやうに砂の中に立つてゐた。寢ているキャムプの布の傍まで來かかると、女は思ひ出した數日前の出來事をまた話した。――もう一週間にもなりますかしら。それは綺麗な明るい奧さんが二階のお部屋に一人で來ていらつしやいましたんですが、丁度こんなお月夜の晩、あたくしをお誘ひになりましたので、二人で向ふ岸にゐる學生さんたちのキャムプを見に、ボートで出かけて行きましたの。さうしましたら、向ふへ上るとすぐに、先生が一人出ていらつしやいまして、今夜は學生を澤山つれて來てゐるんだから、すぐ歸つてくれつて叱るんでございますよ。あの向ふ岸へは誰が行かうと勝手ですのに、そのときはそんなことも云つてゐられませんで歸つて來ましたが、でも、ここにゐると淋しくなるので、つい見に行きたくなるのも無理はないとあたくし思ひましたのでございますよ。

 眠れぬままに、私はここへ來て最初に腰を降ろしたときの眺望の印象を思ひ起さうとつとめてみた。しかし、もうそれは、それから後に移動した樣々な地點の押し重なつて來る眺望の底に沈み込んで、掻き分けても掻き分けても、ふと掴んだと思ふ間に早や逸脱してしまつて停止をしない。私はもうここへ來てから長年暮しつづけて來たのと同樣である。しかし、この忘却を拂ひのけやうとする努力は、私にとつてはこの山上の最初の貴重な印象に對する感謝であつた。

 翌日になると、また風景は昨日とどこも變らなかつた。朝からあたりは森閑としてゐて、鴨居にぶらぶら下つてゐる簑蟲を眺めたり、少女の髮の白い割れ目が草の中を登つて來るのや、木の切株にかかつてゐる桶の底が何囘となく眼についたり、いつ見ても寢そべつてゐて少しも動かないと思つてゐた犬が、見る度に方角の全く違つたところで、いつも同じ格好で寢てゐたりしてゐることなどに氣がつくだけだ。さうして、物音といつては、どこかでときどき低く陰氣にほそぼそと呟く聲と、首を少し廻してみても、もう襟もとで擦れるぢりぢりした髮の毛の音が聞えるだけで、東屋の椅子の上で頭に手拭を乘せた老人が、起きてゐるのか寢てゐるのか分らぬ喰っついたやうな表情で、いつまでも動かずにぢつとしてゐるのが、欠伸を大きくする度に思はずこちらも釣り込まれて欠伸をする。私はもう湖面を見るのは倦き倦きして、ふと跨ぐ水溜りに映つてゐる雲の色に立ち停るまでになつて來た。しかし、私はなほ半日もつづけて庭の上を這ひ廻つてゐる蟻や、妙に大きく見え出して來た蛙を眺めたりしてゐるうちに、つひには言葉を云ふ氣がすつかりなくなつて、女に一口物を頼むに何事か一大事件を報告するやうな羞恥を感じるやうになり始めて來るのであつた。私は胸を押しつけて來る退屈な苦しさに、もう興奮を求めて歩き廻らざるを得なかつた。私は裏へ廻ると、日のささぬ軒下のじめじめした青黴に眺め入つたり、金網の中から覗いてゐる淡紅色の兎の耳の中の奇妙ないぼいぼに見入つたり、空を切つて大きく張り渡つた蜘蛛の巣の巧緻な形に驚いたり、水甕の底深く沈んでゐる鯉の美事な悠々たる鱗の端正さに、我を忘れる樂しさを感じようとした。私は今にして隣室の男の女中をからかか續けた心理や、世の終末をこの地に定めた青年たちの心理がだんだん眞近に響いてゐるのを感じて來た。かういふときには、ふと山中の腰かけ小舍の中で客に茶を出す一人の女の顏に塗られた鈍重な白粉が、ひどく山野の自然に對して憤りを感じた反抗のやうに、際立つて嶮しく尖鋭に見えて來る。

 しかし、再び私は思ひがけない興奮に接することが出來始めた。私は湖の岸を廻つてゐる道を左の方へ歩いていつた。この道は道とはいへ長らく人が通らぬために、巾一間半もあるにもかかわらず、荒れはてて茫々とした草原に見えてゐたのである。進むにしたがつて、すぐ眞下に迫つてゐる湖が、身を沒する苺の垣や茅や葡萄の蔓のために全く見えない。山面を遠くから雲のやうに白く棚曳き降りて來た獨活《うど》の花の大群生が、湖面にまで雪崩れ込んでゐる裾を、黄白の野菊や萩、肉色の虎杖《いたどり》の花、女郎花と、それに混じた淡紫の一群の花の、うるひ、薊《あざみ》、龍膽、とりかぶと、みやまおだまき、しきんからまつ、――道はだんだん丈なす花のトンネルに變つて來る。花の底で波がかすかにごぼりごぼりと音を立てる。苺のとげに片袖が觸れるたびに、爆け切つた實がぼろぼろとこぼれ落ちる。絶えず唸りながら花から花へと馳けめぐつてゐる蜂の群が、都會の中央で擦れ違ふ自動車の爆音のやうに喧騷を極めて來て、むせ返つて來る花の強烈な匂ひにふらふら眩暈を感じ出す。進む鼻の前で、空中に浮き上つたままぴたりと停止してゐる蜻蛉。花を蹴つて足もとから飛び立つ鳥の群。ぴしりと脛を叩くおばこの固い紐の花。無數の小蜂を舞ひ込めて襲ふ花の匂ひの隙間から、突如として閃くやうに旋囘して來る熊蜂の鋭い風。腐つた電柱の頂きまで這ひ上つてゐる蔓草の白い花。

 私は急いで花叢を拔けると湖の見える氷小屋の傍で休息した。花叢の中のあまりな喧騷さに私はもう疲勞を感じた。谷底の花の中を通る旅人がガスにあてられ、一人も無事に歸つたもののない今もなほある奧羽の山の話を私は思ひ起しながら、私も早や官感に異常な鈍さを感じて首の周圍や顏の皮膚を幾囘も摩擦するのであつた。私は日に日に都會に集つてゐる敏感な人間が、肉體に備へられた自身の完全な防音器のために、却つて一層聾のやうになり始め、その逆に鈍感な肉體が、不完全な防音器官の障害で一層物音に敏感になつてゐる近ごろの變異な徴候を、今この身に滲み渡る休息の靜けさの中から新鮮に感じて來た。

 その翌日、私はもう目的地へ向つて立たねばならなかつた。しかし、起きて障子の破れ目から外を覗くと、外は見渡す限り一面の深い霧であつた。私は部屋の障子を開けたまま、火鉢に火を入れさせ、見倦きた昨日の風景の一變した樣に眺め入つた。湖の上から襲つて來てゐる霧は一望何物も見せずに眞白なまま流れて來ると、ううと重く呻くやうなう鳴りを上げながら、他の渦卷きの中に流れ込むでは、また速かな捻れた一群の霧となつて貫き走る。その度毎に樹の葉はそよぎ、湖面の渚の線が見えたり消えたりしつつ瞬時といへども停止をしない。間もなく張り渡つた蜘蛛の巣があわただしく動搖すると、茶を入れる湯氣まで亂れ流れて顏を打つた。べとつく縁側。たちまちにして冷える茶。私は一本の煙草をとつて火を點けると、煙りが立たない。さうして入れ變り立ち替り地面の上を逃げてゐた霧は、不意に方向を變じて部屋いつぱいに渦卷き流れて迫つて來たと見る間に、再び縁側の木目の上を綾を描いて逸走してゐる絲のやうな霧の中に吹き返した。どこか暗い奧の部屋の方から老人の咽喉にからまつた啖の音がぜいぜいした。私は水甕の底で泳いでゐる鯉や、金網の中の兎の姿を思ひ浮べながら、見るともなく湖の上を見てゐると、うすぼんやりと現れた波打際の線に從つて、鳥の群が一羽づつ陣列を造つて靜に霧の中を進行していく姿が墨畫のやうに眺められた。

 私は障子を閉めて外へ出てみると、女は山番のところへ使ひに行くのだと云つて私の傍へよつて來た。私は女の名前を今まで訊き忘れてゐたのを思ひ出したが、もう訊くまいと思ひ、彼女に別れの挨拶をしてから、しばらく二人で老けた鶯の鳴き交してゐる森の方へ歩いていつた。胡桃の枝からずきりと重く突き刺さるやうに滴りが頭の上へ落ちて來た。葡萄や茨の實や百合の花が、だんだん霧の中から浮き上つて見えて來た。女は兩袖を胸の上で合したまま俯向いて歩いてゐたが、また來年の夏は早くから來るやうにと云ふと、もう足もとから冷え上つて來る冷たさに、首を縮めて何事も云はなかつた。波の音が絶えず靜に霧の底からしつづける道を、私と女は、露で光つた枯葉や、丈のびた蕨や、羊齒の繁つた雜草の間を通つて、立ち籠めた霧にほの明るくなつた森の中へ這入つていつた。

 その日の午後私は霧の中を山を降りて目的の温泉場へ着いた。すると、忽ちそこは、休暇を利用して都會から集つて來た子供づれの客がごつた返してゐて、やうやく私は裏向きの日のささぬ一部屋へ押し込められた。私の部屋の隣室の主人は、もう頭の禿げ上つたどこかの役所の課長らしい年配で、同じ年格好の子供を五六人もつれてゐたが、どの子供も父親にぶら下るやうにして、絶えず「父《と》うちやん、父ちやん。」で父親を放さない。さうしていざ、寢るとなると、また子供らはあちらからもこちらからも、父を呼び合ひながら疲らせる。最後にたうとう父親も弱り果てたらしく、「もう一寸父うちやんを休ませてくれよ。父うちやんだつてもう疲れたよ。」と云つて降參した。ところが夜中になつて、一人の子供が息詰るやうな異樣な咳きの發作を起して咳き始めた。と、その部屋中の子供らは、あちらからもこちらからも、同樣な發作を起して咳き出した。やつと寢ついた父親は子供らの枕から枕へと渡り歩いてまた咳の鎭るまで介抱した。さうして翌日になると、再び子供らは元氣よく父親を引つ張り廻してはしやぎ廻つたが、その父親が子供たちと外から部屋へ歸つて來て、ほつと休息しながら川を眺め降ろして云ふのには、「あの流れてゐる水は皆違ふんだらうが、いつ見ても同じやうに流れてゐるね。奇妙なものだな。」といふのだつた。これが疲れ果てた課長のたまの休暇の唯一の感想である。私は貴重な言葉として隣室で紙にすぐ書きつけた。もう間もなく年中風邪の傳染し合ひをして咳いてゐる私の子供も二人、私を追つかけてここへ來るのである。私の休まるのもそれまでだ。

底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「中央公論」
   1922(大正11)年1月
※作品中「來」が63字、「来」が12字使われているが、すべて「來」に統一して入力した。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

新感覚論 感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説—–横光利一

独断

 芸術的効果の感得と云うものは、われわれがより個性を尊重するとき明瞭に独断的なものである。従って個性を異にするわれわれの感覚的享受もまた、各個の感性的直感の相違によりてなお一段と独断的なものである。それ故に文学上に於ける感覚と云うものは、少くとも論証的でなく直感的なるが故に分らないものには絶対に分らない。これが先ず感覚の或る一つの特長だと煽動してもさして人々を誘惑するに適当した詭弁的独断のみとは云えなかろう。もしこれを疑うものがあれば、現下の文壇を一例とするのが最も便利な方法である。自分は昨年の十月に月評を引き受けてやってみた。すると、或る種の人々は分らないと云って悪罵した。自分は感覚を指標としての感覚的印象批評をしたまでにすぎなかった。それは如上の意味の感覚的印象批評である以上、如上の意味で分らないものには分らないのが当然のことである。なぜなら、それらの人々は感覚と云う言葉について不分明であったか若くは感覚について夫々の独断的解釈を解放することが不可能であったか、或いは私自身の感覚観がより独断的なものであったかのいずれかにちがいなかったからである。だが、今の所、「分らないもの」及び感性能力の貧弱な人々にまでも明確に了解させねばならぬそれほども、私は私自身の独断的表現を圧伏させ、文学入門的詳細な説明をしていることは、月評としては赦されない。だが、私は自分の指標とした感覚なるものについて今一度感覚入門的な独断論を課題としてここで埋草に代えておく。

感覚と新感覚

 これまで多くの人々は文学上に現れた感覚なるものについて様々な解釈を下して来た。しかしそれは間違いではないまでもあまりにその解釈力が狭小であったことは認めねばならぬ。ある一つの有力な賓辞に対する狭小な認識はそれが批評となって現わされたとき、勿論芸術作品の成長範囲をも狭小ならしめることは、一例を取るまでもなく明かなことである。最近|遽《にわか》に勃興したかの感ある新感覚派なるものの感覚に関しても、時にはまた多くの場合、此の狭小なる認識者がその狭小の故を以って、芸術上に於ける一つの有力な感覚なる賓辞に向って暴力的に突撃し敵対した。これは尤もなことである。さまで理解困難な現象ではないのである。何ぜならこれは、今迄用い適用されていた感覚が、その触発対象を客観的形式からより主観的形式へと変更させて来たからに他ならない。だが、そこに横たわった変化について、理論的形式をとってより明確な妥当性を与えなければならないとなると、これは少なからざる面倒なことである。先ず少くとも一応は客観的形式なるものの範疇を分析し、主観的形式の範疇分析をした結果の二形式の内容の交渉作用まで論究して行かねばならなくなる。ただそれのみの完成にても芸術上に於ける一大基礎概念の整頓であり、芸術上に於ける根本的革命の誕生報告となるのは必然なことである。だが、自分はここではその点に触れることは暗示にとどめ、新感覚の内容作用へ直接に飛び込む冒険を敢てしようとするのである。さて、自分の云う感覚と云う概念、即ち新感覚派の感覚的表徴とは、一言で云うと自然の外相を剥奪し、物自体に躍り込む主観の直感的触発物を云う。これだけでは少し突飛な説明で、まだ何ら新しき感覚のその新しさには触れ得ない。そこで今一言の必要を認めるが、ここで用いられた主観なるものの意味である。主観とはその物自体なる客体を認識する活動能力をさして云う。認識とは悟性と感性との綜合体なるは勿論であるが、その客体を認識する認識能力を構成した悟性と感性が、物自体へ躍り込む主観なるものの展発に際し、よりいずれが強く感覚触発としての力学的形式をとるかと云うことを考えるのが、新感覚の新なる基礎概念を説明するに重大なことである。純粋客観(主観に対する客体としてではなく、)外的客観の表象能力に及ぼす作用の表象が、感覚である。文学上に用いられた感覚なる概念も、要するにその感覚の感覚的表徴と変えられた意味を簡略しての感覚である。しかし、それなら、われわれは感覚と官能とを厳密に区別しなくてはならなくなる。だが、それは後に述べることとして、さて前に述べた新感覚についての新なるものとは何か。感覚とは純粋客観から触発された感性的認識の質料の表徴であった。そこで、感覚と新感覚との相違であるが、新感覚は、その触発体としての客観が純粋客観のみならず、一切の形式的仮象をも含み意識一般の孰れの表象内容をも含む統一体としての主観的客観から触発された感性的認識の質料の表徴であり、してその触発された感性的認識の質料は、感覚の場合に於けるよりも新感覚的表徴にあっては、より強く悟性活動が力学的形式をとって活動している。即ち感覚触発上に於ける二者の相違は、客観形式の相違と主観形式の活動相違にあると云わねばならぬ。

官能と新感覚

 清少納言は感覚的に優れていたと多くの人々は信じて来た。だが、自分は清少納言の作物に現れたがごとき感覚を感覚だとは認めない。少くとも新感覚とは遥に遠い。官能表徴は感覚表徴の一属性であってより最も感性的な感覚表徴の一部である。このため官能表徴と感覚表徴との明確な範疇綱目を限定することは最も困難なことではあるが、しかし、少くとも清少納言の感覚は、あれは感覚ではなく官能が静冷で鮮烈であったのだ。静冷であるが故に鮮烈な官能は一見感覚と間違われることが屡々ある。感覚的な止揚性を持つまでには清少納言の官能はあまりに質薄で薄弱で厚みがない。新感覚的表徴は少くとも悟性によりて内的直感の象徴化《シンボライズ》されたものでなければならぬ。即ち形式的仮象から受け得た内的直感の感性的認識表徴で、官能的表徴は少くとも純粋客観からのみ触発された経験的外的直感[#「外的直感」に傍点]のより端的な認識表徴であらねばならぬ。従って官能的表徴は外的直感が客観に対する関係に於て、より感性的に感覚的表徴より先行し直接的に認識され直感される。此のため官能的表徴は感覚的表徴よりもより直截で鮮明な印象を実感さす。が、実は感覚的表徴のそれのごとく象徴せられた複合的綜合的統一体なる表徴能力を所有することは不可能なことである。此の故官能表徴は表象能力として直接的であるそれだけ単純で、感覚的表徴能力のそれのようには独立的な全体を持たず、より複雑な進化能力を要求するわけには行かぬ。此の故清少納言の官能は新鮮なそれだけで何の暗示的な感覚的成長もしなかった。感覚的表徴は悟性によりて主観的制約を受けるが故に混濁的清澄を持つほど貴い。だが、官能的表徴は客観によりて主観的制約を受けるが故に清澄性故の直接清澄を持つほど貴重である。前者は立体的清澄を後者は平面的清澄を尊ぶ。新感覚が清少納言に比較して野蛮人のごとく鈍重に感じられると云うことは、清少納言の官能が文明人のごとく象徴的混迷を以って進化することが不可能であったと感じられることと等しくなる。

生活の感覚化

 或る人は云う。「感覚派も根本から感覚派にならねば駄目だ。」と。此の言葉は自分には意味が通じない。人間として根本から純然たる感覚活動をなし得るものがあるなら、その者は動物に他ならない。悟性活動をするものが人間で、その悟性活動に感覚活動を根本的に置き代えるなどと云うことは絶対に赦さるべきことではない。或いは彼らの感覚的作物に対する貶称意味が感覚の外面的糊塗なるが故に感覚派の作物は無価値であると云うならば、それは要するに感覚の性質の何物なるかをさえ知らざる文盲者の計略的侮辱だと見ればよい。或いはまたその貶称意味が、「生活から感覚的にならねばならぬ。」と云う意味なら、それは今よりより一段馬鹿になれと教えることとさして変る所がない。何ぜなら生活の感覚化はより滅亡相への堕落を意味するにすぎないからだ。もしも彼らが感覚派なるものに向って、感覚派も根本的生活活動から感覚的であらざるが故に、感覚派の感覚も所詮外面的糊塗であると云うがごとき者あらば、その者は生活の感覚化と文学的感覚表徴とを一致させねばやまない無批判者にちがいない。もしも人々に健康な叡智があるなら、感覚派と呼ばれる人々は更に生活の感覚化と文学的感覚表徴とを一致させては危険である。いやそれより若しも生活の感覚化がより真実なる新時代への一致として赦され強要せられなければならないものとしたならば、少くとも文学活動にその使命を感ずる者はより寧ろ生活の感覚化を拒否し否定しなければならないではないか。何ぜなら、もしも然るがように新時代の意義が生活の感覚化にありとするならば、いかなるものと雖《いえど》もそれらの人々のより高きを望む悟性に信頼し、より高遠な、より健康な生活への批判と創造とをそれらの人々に強いるべきが、新しき生活の創造へわれわれを展開さすべき一つの確乎とした批判的善であるからだ。して此の生活の感覚化を生活の理性化へ転開することそれ自体は、決して新しき感覚派なるものの感覚的表徴条件の上に何らの背理な理論をも持ち出さないのは明らかなことである。もしこれをしも背理なものとして感覚派なるものに向って攻撃するものがありとすれば、それは前世紀の遺物として珍重するべきかの「風流」なるものと等しく物さびたある批評家達の頭であろう。風流なるものは畢竟《ひっきょう》ある時代相から流れ出た時代感覚とその時代の生活の感覚化との一致を意味している。これが感覚的なものか直感的なものか意志的なものかとの論証が一時人々の間に於て華かにされたことがある。だが、それは芸術と云う一つの概念が感覚的なものか直感的なものか意志的なものであるかと云うことについて論証することと何ら変るところもない馬鹿馬鹿しい小話にすぎない。もしも風流なるものが感覚から生れ出るものか或いは意志からか直感からかと云うならば、それは感覚からでもなく意志からでもなく直感からでもなく、その時代相の持った時代感覚とその時代の生活の感覚化との一致境から生れ出たもので、それ故に悟性と感性との綜合された一つの認識形式であってみれば、風流は所詮意志をも含み感性的直感をも含む意志でもなく直感でもない分析禁断の独立的なる綜合的認識形式としての一つの言葉である。それは曾ては芸術的なるものの一つの別名であり、時としてまた芸術そのものの別名ともなっていた。だが今はそうであってはならぬ。それのみが芸術的でありまた芸術としては赦されない。少くとも文学なるものは、少くとも文学は風流そのもののごとく生活の感覚化を欲してはならぬ。それを欲することは自由である。だが、欲することはより良き一つの芸術的生活を意味しない。かの風流の達人として赦された芭蕉の最後の苦痛は何んであったか。曾ては彼があれほども徹した生活の感覚化への陶酔が、彼にあっては終に自身の高き悟性故に自縛の綱となった。それが彼の残した大いなる苦悶であった。此の潜める生来の彼の高貴な稟性は、終に彼の文学から我が文学史上に於て曾て何者も現し得なかった智的感覚を初めて高く光耀させ得た事実をわれわれは発見する。かくしてそれは、清少納言の官能的表徴よりも遥に優れた象徴的感覚表徴となって現れた。それは彼が自己の生活を完全に感覚化し得たるが故ではない。それは彼が常にその完全な生活の感覚化から、他の何者よりもより高き生活を憧憬してやまなかった心境から現れたものに他ならない。

感覚触発の対象

 未来派、立体派、表現派、ダダイズム、象徴派、構成派、如実派のある一部、これらは総て自分は新感覚派に属するものとして認めている。これら新感覚派なるものの感覚を触発する対象は、勿論、行文の語彙と詩とリズムとからであるは云うまでもない。が、そればかりからでは勿論ない。時にはテーマの屈折角度から、時には黙々たる行と行との飛躍の度から、時には筋の進行推移の逆送、反覆、速力から、その他様々な触発状態の姿がある。未来派は心象のテンポに同時性を与える苦心に於て立体的な感覚を触発させ、従って立体派の要素を多分に含み、立体派は例えば川端康成氏の「短篇集」に於けるが如く、プロットの進行に時間観念を忘却させ、より自我の核心を把握して構成派的力学形式をとることに於て、表現派とダダイズムは例えば今東光氏の諸作に於けるが如く、石浜金作氏の近作に於けるが如く、時間空間の観念無視のみならず一切の形式破壊に心象の交互作用を端的に投擲することに於て、また如実派の或る一部、例えば犬養健氏の諸作に於けるがごとく、官能の快朗な音楽的トーンに現れた立体性に、中河与一氏の諸作に於けるが如く、繊細な神経作用の戦慄情緒の醗酵にわれわれは屡々複雑した感覚を触発される。これら様々な感覚表徴はその根本に於て象徴化されたものなるが故に、感覚的作物は既に一つの象徴派文学として見れば見られる。それは内容それ自体が、例えば十一谷義三郎氏の諸作に於けるがごとく象徴としての智的感覚を所有したものとは同一に見ることが不可能であるとしても。これら様々な感覚派文学中でも自分は今構成派の智的感覚に興味が動き出している。芥川龍之介氏の作には構成派として優れたもののあるのを発見する、例えば「籔の中」のごときがその一例だ。片岡鉄兵氏及び金子洋文氏の作はまた構成派として優れて来た。構成派にあっては感覚はその行文から閃くことが最も少いのを通例とする。ここではパートの崩壊、積重、綜合の排列情調の動揺若くはその突感の差異分裂の顫動《せんどう》度合の対立的要素から感覚が閃き出し、主観は語られずに感覚となって整頓せられ爆発する。時として感覚派の多くの作品は古き頭脳の評者から「拵えもの」なる貶称を冠せられる。が、「拵えもの」は何故に「拵えもの」とならなければならないか。それは一つの強き主観の所有者が古き審美と習性とを蹂躪し、より端的に世界観念へ飛躍せんとした現象の結果であり効果である。して此の勇敢なる結果としての効果は、より主観的に対象を個性化せんと努力した芸術的創造として、新しき芸術活動を開始する者にとっては、絶えずその進化を捉縛される古きかの「必然」なる墓標的常識を突破した、喜ばしき奔騰者の祝賀である。

より深き認識への感覚

 より深き認識へわれわれの主観を追跡さす作物は、その追跡の深さに従ってまた濃厚な感覚を触発さす。それはわれわれの主観をして既知なる経験的認識から未知なる認識活動を誘導さすことによって触発された感覚である。此のより深き認識への追従感覚を所有した作品をまた自分は尊敬する。例えば最も平凡な例をもってすれば、ストリンドベルヒの「インフェルノ」「ブリューブック」及び芭蕉の諸作や志賀直哉氏の一二の作に於けるが如く、またニイチェの「ツァラツストラ」に於けるが如し。此の故に一つの批評にして、もしその批評が深き洞察と認識とを以ってわれわれを教養するならば、それは作物のみとは限らず批評それ自身作物となって高貴な感覚を放散し出すにちがいない。そう云う高価な感覚的批評は現れないか。そう云う秀抜な批評的感覚は現れないか。われわれの待つべき貴きものの一つはそれである。

文学と感覚

 自分は文芸春秋の創刊当時から屡々感覚と云う言葉を口にして来た。しかし、これは云うべき時機であるが故に云ったにすぎない。いつまでも自分は感覚と云う言葉を云っていたくはない。またそれほどまでに云うべきことでは勿論ない。感覚は所詮感覚的なものにすぎないからだ。だが、感覚のない文学は必然に滅びるにちがいない。恰も感覚的生活がより速に滅びるように。だが感覚のみにその重心を傾けた文学は今に滅びるにちがいない。認識活動の本態は感覚ではないからだ。だが、認識活動の触発する質料は感覚である。感覚の消滅したがごとき認識活動はその自らなる力なき形式的法則性故に、忽ち文学活動に於ては圧倒されるにちがいない。何ぜなら、感覚は要約すれば精神の爆発した形容であるからだ。
 自分は茲では文学的表示としての新しき感覚活動が、文化形式との関係に於ていかに原則的な必然的関連を獲得し、いかに運命的剰余となって新しく文学を価置づけるべきかと云うことについて論じ、併せてそれが個性原理としてどうして世界観念へ同等化し、どうして原始的顕現として新感覚がより文化期の生産的文学を高揚せしめ得るかと云うことに迄及ばんとしたのであるが、それはまた自ら別個の問題となって現れなくてはならぬ境遇を持つが故に、先ず茲で筆を擱く。

底本:「愛の挨拶・馬車・純粋小説論」講談社文芸文庫、講談社
   1993(平成5)年5月10日第1刷発行
   1999(平成11)年5月12日第3刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集 第一三巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年7月
入力:土屋隆
校正:米田
2012年1月4日作成
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横光利一

新感覚派とコンミニズム文学—–横光利一

コンミニズム文学の主張によれば、文壇の総《すべ》てのものは、マルキストにならねばならぬ、と云うのである。

 彼らの文学的活動は、ブルジョア意識の総ての者を、マルキストたらしめんがための活動と、コンミニストをして、彼らの闘争と呼ばるべき闘争心を、より多く喚起せしめんがための活動とである。

 私は此の文学的活動の善悪に関して云う前に、次の一事実を先《ま》ず指摘する。
 ――いかなるものと雖《いえど》も、わが国の現実は、資本主義であると云う事実を認めねばならぬ。と。

 此の一大事実を認めた以上は、われわれはいかに優れたコンミニストと雖も、資本主義と云う社会を、敵にこそすれ、敵としたるがごとくしかく有力な社会機構だと云うことをも認めるであろう。

 しかしながら、此の資本主義機構は、崩壊しつつあるや否や、と云うことは、最早やわれわれ文学に関心するものの問題ではない。

 われわれの問題は、文学と云うものが、此の資本主義を壊滅さすべき武器となるべき筈《はず》のものであるか、或いは文学と云うものが、資本主義とマルキシズムとの対立を、一つの現実的事実として眺むべきか、と云う二つの問題である。

 更に此の問題は、われわれの問題とするよりも、広く文学としての問題であると見る所に、われわれ共通の新らしい問題が生じて来るべき筈であろう。

 われわれの討論は、今や一斉にここに向けられなければならぬ。

 コンミニストは次のように云う。「もしも一個の人間が、現下に於て、最も深き認識に達すれば、コンミニストたらざるを得なくなる。」と。
 しかしながら、文学に対して、最も深き認識に達したものは、コンミニストたらざるを得なくなるであろうか。

 もしも、文学に対して、最も深き認識に達したものが、コンミニストたらざるを得なくなるとすれば、コンミニストの中で、文学に関心しているものは、最も認識貧弱な人物にちがいない。何故なら、文学などと云うものは、コンミニストにとっては、左様に深き認識者の重要物ではないからだ。

 もし、彼らにして文学を認めるとすれば、文学に対して最も深き認識者は、コンミニストたらざるを得なくなると云う認識も否定すべきであろう。

 かくして、文学に対して最も認識深き者と雖も、コンミニストたらざる場合があるとすれば、この「場合」こそ、われわれ共通の問題となるべき素質を持った存在にちがいない。此の存在とは何であろうか。

 われわれは、いかなる者と雖も、資本主義の機構の上にある以上、資本主義を、その正邪にかかわらず、認めなければならぬ。またわれわれは、いかなるものと雖も、マルキシズムを、その正邪にかかわらず、存在する以上は認めなければならぬ。何故なら、此の二つの対立は、歴史の重大な歴史的事実であるからだ。

 しかしながら、此の二つの敵対した客体の運動に対して、いずれに組するべきかその意志さえも動かす必要なくして、存在理由を主張し得られる素質を持つものが、此の社会に二つある。一つは科学で、一つは文学だ。

 もしもコンミニストが、此の文学の、恰《あたか》も科学の持つがごとき冷然たる素質を排撃するとしたならば、彼らの総帥《そうすい》の曾《かつ》て活用したる唯物論と雖も、その活用させたる科学的態度を、その活用なし得た科学的部分に於て排撃されねばならぬであろう。

 総ての文学がコンミニズムになりたる場合を考えよ。最早やそのときに於ては、文学はその科学のごとき有力なる特質を紛失する。しかしながら、もしもコンミニストが、文学を認めたとしたならば、文学の有《も》つ此の科学のごとき冷静な特質をも認めねばならぬであろう。

 もしもコンミニストが、此の文学の持つ科学のごとき特質を認めねばならぬとしたならば、彼らにして左様に認めねばならぬ理由のもとに於てさえ、なお且《か》つ文学は生き生きと存在理由を発揮する。

 文学がしかく科学のごとき素質を持ち、かくのごとく生き生きと存在理由を持つ以上、われわれは再び現下に於ける文学について、考えねばならぬ。しかも、それは、文学に於けるいかなる分野が、素質が、属性が、総《あら》ゆる文学の方向から共通に考察されねばならないか。これがわれわれの新しい問題となるべきであろう。

「われわれには、そんな暇はない。」と云うものは云うであろう。しかし、文学はそんなものからさえも、彼らもまたかかる科学的な一個の物体として、文学的素材となり得ると見る。此の恐るべき文学の包括力が、マルクスをさえも一個の単なる素材となすのみならず、宇宙の廻転《かいてん》さえも、及び他の一切の摂理にまで交渉し得る能力を持っているとするならば、われわれの文学に対する共通の問題は、一体、いかなる所にあるのであろうか。それは、文学が絶対に文字を使用しなければならぬと云う、此の犯すべからざる宿命によって、「文字の表現」の一語で良い。これは、いかなるものと雖も認めるであろう。

 しかしながら、その次に何物よりも、われわれの最もより多く共通した問題となるべきことがあるべき筈だ。それは、われわれ人間が世界を見る場合、唯心論的に見るべきか、唯物論的に見るべきかと云う二つの見方にちがいない。此処でわれわれの完全に共通した問題は分裂する。

 われわれは前に、その正邪に拘《かかわ》らず、資本主義を認め、社会主義を認めた。この相対立する二つの社会機構を認めたと云うことは、われわれが歴史を認めたと云うことに他ならない。しかしながら、われわれの今迄の文学に現れた歴史の認め方は、唯心論的な見方であったにすぎなかった。

 もしわれわれが、歴史を認めたならば、資本主義を認めた如く、社会主義をも認めなければならぬ。もしわれわれがそうして社会主義を認めたならば、社会主義をかくも歴史の新しい事実として勢力付けた唯物論をも、認めなければならぬであろう。

 しかしながら、われわれは、資本主義を認め、社会主義を認めたごとく、左様に唯心論を認め、唯物論を認めることは出来ないのだ。何故なら、われわれは最早やここに至ると、文学を論じているのではなくして、自個《じこ》の世界の眺め方を論じているのだからである。われわれは個である以上、此の二つの唯心、唯物のいずれか一つをその認識力に従って、撰《えら》ばねばならぬ運命を持っている。

 そこでわれわれは、唯心論を撰ぶべきか、唯物論を撰ぶべきかと云うことによって、われわれの世界の見方も変って来る。

 もしわれわれが、唯心唯物のいずれかを撰ぶことによって、世界の見方が変るとすれば、われわれの文学的活動に於ける、此の二つの変った見方のいずれが、より新しき文学作品を作るであろうか。

 それは少くとも唯物論もしくは唯物論的立場である。何ぜなら、唯心論及び唯心論的文学は、最早や完全に現れて了《しま》ったからである。

 もしわれわれが、此の新しき唯物論的文学を、より新しき文学として認めるとすれば、われわれは当然、コンミニズム文学をも認めねばならぬ。何故なら、コンミニズム文学は、此の唯物論を基礎とした文学であるからだ。

 しかしながら、コンミニズム文学のみが、ひとり唯物論的文学では決してない。それなら、他にいかなる唯物論的文学が存在するか。それは、新感覚派文学、これ以外には、一つもなかった。

 もし新しき文学が、コンミニズム文学と新感覚派文学の二つであるとするならば、そのいずれが、果して文学の圏内に於て、より新しくして広闊《こうかつ》なる文学となるべきであろうか。

 われわれは考えねばならぬ。もしもコンミニズム文学が、曾《かつ》て用いた弁証法的考察を赦《ゆる》すならば、新感覚派文学はコンミニズム文学よりも、より以上に明確な弁証法的発展段階の上に、位置していると云うことをも認めなければならないであろう。何故なら、コンミニズム文学は、文学としての発展段階を無視したる文学形式であるからだ。彼らはその理想さえ主張出来得れば、曾て犯した唯心論的文学の古き様式をさえも、唯々諾々《いいだくだく》として受け入れているではないか。そこで、彼らは、文学の圏内に於ては、ただ単なる理想主義文学と何ら変る所はない。

 それで果して文学的活動は正当さを主張し得るのであろうか。もしそれで正当となすものがあるならば、コンミニズム文学は、文学の圏内に於ては、最早やいかなる発展能力をも持ち得ないと云わなければならぬ。

 われわれの文学は、文学形式として、発展能力を持たない限り、一大文学とはなり得ない。われわれは今は文学を問題としているのだ。社会を問題としているのではない。

 われわれが社会を問題とせずして、文学を問題としているとき、最早やわれわれには、コンミニズム文学は、問題から抛擲《ほうてき》されるべき問題たる素質を持って来たのである。そうして、われわれの文学の新しき問題たるべきことこそは、彼らに代って起るべき充分に文学を問題とした社会主義文学でなければならぬ。かかる社会主義的な文学は、当然、正統な弁証法的発展段階のもとに成長して来た、新感覚派文学の中から起るべき運命を持っている。

 しかしながら、次に起るべき新しき文学は、新感覚派の中から発生した社会主義文学のみではない。何故なら、われわれの社会機構は、いまだ資本主義の一大勢力のもとにあるからだ。いかにわれわれが、拒否しようとも、資本主義の存在していることは事実である。此の資本主義の存在している限り、それは仮令《たとえ》、排撃せらるべき文学であるとしても、新しき資本主義文学の発生するのも、また当然でなければならぬ。
 しかし、もしそうして資本主義文学が新しく発生したとしても、彼らは唯物論的な観察精神をもった新感覚派文学でなくしては、無力である。
 かくのごとく新感覚派文学は、いかなる文学の圏内からも、もし彼らが文学を問題としている限り、共通の問題とせらるべき、一つの確乎《かっこ》とした正統文学形式であるということには、先《ま》ず何人《なんぴと》も疑う必要はないであろう。そうして、此の新感覚派文学は、資本主義の時代であろうとも、共産主義の時代であろうとも、衰滅するべき必要は文学それ自身の衰弱を外にして、どこにあろうか。

底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
   1981(昭和56)年~
初出:「新潮」
   1928(昭和3)年2月号
入力:早津順子
校正:松永正敏
2004年1月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

上海—– 横光利一

 満潮になると河は膨《ふく》れて逆流した。測候所のシグナルが平和な風速を示して塔の上へ昇っていった。海関の尖塔が夜霧の中で煙り始めた。突堤に積み上げられた樽の上で、苦力《クリー》たちが湿って来た。鈍重な波のまにまに、破れた黒い帆が傾いてぎしぎし動き出した。白皙《はくせき》明敏な中古代の勇士のような顔をしている参木《さんき》は、街を廻ってバンドまで帰って来た。波打際のベンチにはロシヤ人の疲れた春婦たちが並んでいた。彼女らの黙々とした瞳の前で、潮に逆《さか》らった※[#「舟+山」、第4水準2-85-66]※[#「舟+反」、U+8228、7-7]《サンパン》の青いランプがはてしなく廻っている。
「あんた、急ぐの。」
 春婦の一人が首を参木の方へ振り向けて英語で訊ねた。彼は女の二重になった顎《あご》の皺《しわ》に白い斑点《はんてん》のあるのを見た。
「空《あ》いているのよ、ここは。」
 参木は女と並んで坐ったまま黙っていた。灯を消して蝟集《いしゅう》しているモーターボートの首を連ねて、鎖で縛られた桟橋の黒い足が並んでいた。
「煙草《たばこ》。」と女はいった。
 参木は煙草を出した。
「毎晩ここかい。」
「ええ。」
「もうお金もないと見えるな。」
「お金もないし、お国もないわ。」
「それや、困ったの。」
 霧が帆桁《ほげた》にからまりながら湯気のように流れて来た。女は煙草に火を点《つ》けた。石垣に縛られた船が波に揺れるたびごとに、舷名のローマ字を瓦斯燈《ガスとう》の光りに代る代る浮き上らせた。樽の上で賭博をしている支那人の首の中から、鈍い銅貨の音が聞えて来た。
「あんた、行かない。」
「今夜は駄目だよ。」
「つまんないわ。」
 女は足を組み合わした。遠くの橋の上を馬車が一台通って行った。参木は時計を出して見た。甲谷《こうや》の来るのはもうすぐだった。彼は甲谷に宮子という踊子を一人紹介されるはずになっていた。甲谷はシンガポールの材木の中から、この濁った底知れぬ虚無の街の上海《シャンハイ》に妻を娶《めと》りに来たのである。濡れた菩提樹《ぼだいじゅ》の隙間から、縞《しま》を作った瓦斯燈の光りが、春婦たちの皺のよった靴先へ流れていた。すると、その縞の中で、ひと流れの霧が急がしそうに朦朧《もうろう》と動き始めた。
「帰ろうか。」と一人の女がいった。
 春婦たちは立ち上ると鉄柵に添ってぞろぞろ歩いた。一番後になった若い女が、青ざめた眼でちらりと参木の方を振り返った。すると、参木は煙草を銜《くわ》えたまま、突然夢のような悲しさに襲《おそ》われた。競子が彼に別れを告げたとき、彼女のように彼を見降ろして行ってしまったからである。
 春婦たちは船を繋《つな》いだ黒い縄を跨《また》ぎながら、樽の間へ消えてしまった。後には踏み潰《つぶ》されたバナナの皮が、濡れた羽毛と一緒に残っていた。突堤の先端に立っている警羅《けいら》の塔の入口から、長靴を履《は》いた二本の足が突き出ていた。参木は一人になるとベンチに凭《もた》れながら古里《ふるさと》の母のことを考えた。その苦労を続けてなおますます優しい手紙を書いて来る母のことを。――彼はもう十年日本へ帰ったことがない。その間、彼は銀行の格子《こうし》の中で、専務の食った預金の穴をペン先で縫わされていただけだった。彼は、忍耐とは、この生活の上で他人の不正を正しく見せ続ける努力にすぎぬということを知り始めた。そうして、彼はそれが馬鹿げたことだと思う以上に、いつの間にかだんだんと死の魅力に牽《ひ》かれていった。彼は一日に一度、冗談にせよ、必ず死の方法を考えた。それがもはや彼の生活の唯一の整理法であるかのように。彼は甲谷を掴《つか》まえて酒を飲むといつもいうのだ。
 ――お前は百万円掴んだとき、成功したと思うだろう。ところが俺は、首を縄で縛って、踏台を足で蹴りつけたとき、やったぞと思うんだ。――
 彼は絶えずその真似《まね》だけはやって来た。しかし、彼の母が頭の中に浮び上るとまたその次の日も朝からズボンに足を突き込んで歩いていた。
 ――俺の生きているのは、孝行なのだ。俺の身体は親の身体だ、親の。俺は何《な》んにも知るものか。――
 参木に許されていることは、事実、ただ時々古めかしい幼児のことを追想して涙を流すことだけだった。彼は泣くときに思うのである。
 ――えーい、ひとつ、ここらあたりで泣いてやれ。――
 それから、彼はポケットへ両手を突き込んで各国人の自棄糞《やけくそ》な馬鹿騒ぎを、祭りを見るように見に行くのだ。――
 しかし、甲谷がシンガポールから来てからは、参木は久し振りに元気になった。甲谷と彼とは小学校時代からの友達だった。参木は甲谷の妹の競子を深く愛していた。しかし、甲谷がそれを知ったのは、競子が人妻になって後だった。甲谷はいった。
「馬鹿だね、君は、何《な》ぜ俺に一言それをいわなかったのだ。いったら、俺は。」
 いったら甲谷は困るにちがいないと、参木は思って黙っていた。そして、今までひとりひそかに困っていたのは参木である。だが、彼は今は一切のことをあきらめてしまっている。――生活の騒ぎのことも、彼女のことも、日本のことも。ただ時々彼は海外から眺めていると、日本の着々として進歩する波動を身に感じて喜ぶことがあるだけだった。しかし、彼は最近、甲谷から競子の良人《おっと》が肺病で死にかかっているという消息を聞かされてからは、身体から釘が一本抜けたような自由さが感じられて来たのである。

 崩れかけた煉瓦《れんが》の街。その狭い通りには、黒い着物を袖長《そでなが》に着た支那人の群れが、海底の昆布のようにぞろり満ちて淀んでいた。乞食らは小石を敷きつめた道の上に蹲《うずくま》っていた。彼らの頭の上の店頭には、魚の気胞や、血の滴《したた》った鯉の胴切りが下っている。そのまた横の果物屋には、マンゴやバナナが盛り上ったまま、鋪道の上まで溢れていた。果物屋の横には豚屋がある。皮を剥《むか》れた無数の豚は、爪を垂れ下げたまま、肉色の洞穴を造ってうす暗く窪《くぼ》んでいる。そのぎっしり詰った豚の壁の奥底からは、一点の白い時計の台盤だけが、眼のように光っていた。
 この豚屋と果物屋との間から、トルコ風呂の看板のかかった家の入口までは、歪《ゆが》んだ煉瓦の柱に支えられた深い露路が続いている。参木と逢うべきはずの甲谷はトルコ風呂の湯気の中で、蓄音器を聴きながら、お柳《りゅう》に彼の脊中をマッサージさせていた。お柳は富豪の支那人の妾になりながら、この浴場の店主を兼ねた。勿論《もちろん》、お柳は客の浴室へ出入すべき身ではない。だが、彼女の好みにあった客を選ぶためには、番号のついたその幾つもの浴室を遊ばせておくことは不経済には相違ない。
 お柳は客の浴室へ来るときは前からいつも、身体いっぱいに豊富な石鹸の泡を塗っていた。マッサージがすむと、主人は客の身体に石鹸を塗り始めた。――間もなく二人の首が、真面目な白い泡の中から浮き上るとお柳はいった。
「今夜はどちら。」
 甲谷は参木と逢わねばならぬことを考えた。
「参木が突堤で待ってるのだが、もう幾時です。」
「そうね、でも、抛《ほ》っといたって、あの方こちらへいらっしゃるに違いないわ。それよりあなた、いつ頃シンガポールへお帰りになるの。」
「それは分らないんですよ。僕は材木会社の外交部にいるもんですから、こちらのフィリッピン材を蹴落してからでなくちゃ、と思っているんです。」
「じゃ、もう奥さまはお探しになりましたの。」
「いや、それは、まアそう急いだことじゃなし、――何も女房のことなんか、今ごろいわなくたって、良いでしょう。」
 お柳の泡がいきなり甲谷の額に叩きつけられた。スイッチがひねられた。壁から吹き込む蒸気と一緒に蓄音器がベリーマインを歌い出した。それに合せて、甲谷は小きざみなステップを踏み始めた。すると、ゆっくり絞り出された石鹸の泡は、その中に包んだ肉体を清めながら、ぽたぽた白い花のように滴《したた》った。やがて、蒸気が浴室に溢れ出すと、一面長方形の真白な靄《もや》の中に、主人も客も茫々として見えなくなった。蒸気の中からお柳の声が聞えて来た。
「あなたに馬券分けようか。」
「もうプレミヤムがついてるんですか。」
「それや、つくさ。でも、負けてもいいわよ。」
「ああ、苦しい、一寸《ちょっと》そこの蒸気、とめてくれないかな。」
「だって、もういい加減に覚悟を定《き》めるもんよ。ここじゃ誰だって、一度は死ぬほど苦しくなるんだから。」
 そのまま、二人の声は切れてしまうと、蒸気もぷつりととまってしまった。

 参木は疲れながらトルコ風呂まで帰って来た。しかし、そのときはもう甲谷は参木に逢いに突堤へ行った後だった。参木は応接間のソファーに沈み込んだまま黙っていた。浴場の奥から湯女《ゆな》たちの笑う声と一緒に、ポルトギーズの猥雑の歌が聞えて来た。時々蒸気を抜く音が壁を震動させると、テーブルの上の真赤なチューリップが首を垂れたまま慄《ふる》えていた。一人の湯女が彼の傍へ近寄って来た。彼女は参木の横へ腰を降ろすと横目で彼の高く締った鼻を眺めていた。
「眠いのかい。」と参木は訊ねた。
 女は両手で顔を隠して俯向《うつむ》いた。
「風呂は空いてるのかね。」
 女が黙って頷《うなず》くと参木はいった。
「じゃ、ひとつ頼もう。」
 参木は前からこの無口な女が好きであった。彼女の名はお杉《すぎ》という。お杉は参木が来ると、女たちの肩越しにいつも参木の顔をうっとり眺めているのが常であった。間もなく湯女たちが狭い廊下いっぱいに水々しい空気をたてて乱れて来た。
「まア、参木さん、しばらくね。」
 参木はステッキの握りの上に顎《あご》を乗せたままじろりと女たちを見廻した。
「あなたの顔は、いつ見てもつまんなそうね。」と、一人がいった。
「それや、借金があるからさ。」
「だって借金なんか、誰でもあるわ。」
「それじゃ、風呂へでも入れて貰おう。」
 女たちはぱっと崩れて笑い出した。そこへお杉が浴室の準備を整えて戻って来た。参木は浴室へ這入ると、寝椅子の上へ仰向けに長くなった。皮膚が湯気に浸って膨れて来た。彼はだんだんに眠くなると、ふとこのまま蒸気を出し放して眠ってみようと考えた。彼はスイッチをひねるとタオルを喰《くわ》えて眼を瞑《と》じた。身体が刻々に熱くなった。もしこのまま死ねたらとそう思うと、競子の顔が浮んで来た。債鬼の周章《あわ》てた顔がちらついた。惨忍な専務の顔が。――専務の食った預金の穴を知っているのは彼だけだった。間もなく銀行は停止を食《くら》うにちがいない。格子の中から見た無数の顔が、暴風のように渦巻くだろう。だが、駄目だ。何もかも、人間の皺《しわ》を製造するために出来てるのだ。――ドアーが開いた。誰でもいい。参木は眼を瞑《つむ》ったまま動かなかった。空気が幅広い圧力で動揺した。すると彼はいきなり、タオルで眼かくしをされていた。お柳だ。お柳なら、皺を延ばすのが商売だ。――
「お杉さん。」と参木は故意にお杉の名前をいってみた。
 誰も彼には答えなかった。参木はやがてお柳が自分に擦《す》り寄るであろう誘いをお杉が自分にするものとして思いたかった。いや、それよりお柳に、自分がお杉と遊ぶ楽しみを知らせたかった。彼はまだ一度もお柳の誘いを赦したことがない。それ故お柳を怒らすことが、彼には彼女の慾情をますます華やかに感じることが出来そうに思われたのだ。彼は眼かくしをされたまま、にやにやしながら、両手を拡げて身の廻りを探ってみた。
「おい、お杉さん、逃げようたって逃さぬぞ。俺の手は蜘蛛《くも》みたいな手だから、用心してくれ。」
 すると、彼の予想とは反対に、急にドアーが開いて誰か出て行く気配がした。この空虚な間に何事が起るのだろう。参木はしばらくじっとしたまま、空気に触れる皮膚に意識を集めていた。と、突然、ドアーの外で、荒々しい音がした。瞬間、彼の上へ突き飛ばされた女があった。すると、女は彼の足元で泣き始めた。お杉だ。――参木は起った事件の一切を了解した。彼はお柳に対して激しい怒りを感じて来た。だが、今怒り出しては、お杉が首になるのは分っていた。参木は自分でタオルを解くと、泣いているお杉の乱れた髪を眺めていた。彼はお杉に黙って浴室から出ると服を着た。それから、彼は別室へ這入ってお柳を呼んだ。お柳は笑いながら這入って来ると、白々しいとぼけた顔で彼にいった。
「まア、随分今夜は遅かったわね。」
「遅いは遅いが、しかし、さっきはどうしたんだ。」
「何が?」
「いや、あのお杉さ。」と参木はいった。
「あの子は駄目よ。意久地《いくじ》が無くって。」
「それで、僕にひっつけようていうんかい。」
「まア、そうしていただけれや、結構だわ。」
 参木は自分の戯れが間もなく女一人の生活を奪うのだと気がついた。彼がお杉を救うためには、お柳に頭を下げねばならぬのだ。だが、彼がお柳に頭を下げたら、なお彼女はお杉を抛《ほう》り出すに定《きま》っているのだ。それなら、自分はどうすれば良いのだろう。参木は寝台の上からお柳の片手を持つと抱き寄せるようにしていった。
「おい、お柳さん、俺がこんなことをいうのは初めてだが、実は俺は、この間から死ぬことばかり考えていてね。」
「どうしてそんなに死にたいの。」とお柳はひやかすようにいった。
「どうしてって、まだ分らぬ柄でもないだろう。」
「だって、あたしゃ、死ぬ人のことなんか分んないさ。」
「これほど情けを籠《こ》めていて、それにまだそういわれるようじゃ、もう俺も死ぬことも出来ぬじゃないか。いい加減に何んとか、しかるべくいいなさい。」
 お柳は参木の肩を叩くといった。
「ふん、黙って聞いてたら、女殺しのようなことをいい出すわね。これじゃ、あたしだって死にたくなるわよ。」
 お柳は立ち上ると部屋の中から出ようとした。参木はまたお柳の手を持った。
「おい、何んとかしてくれ。このまま行かれちゃ、俺は今夜は危いんだ。」
「いいよ、あんたなんか死んだって、くたばったって。」
「俺が死んだら、だいいちお前さんが困るじゃないか。」
「さアさア、馬鹿なことを言わないで、放してよ。今夜はあたしだって、死にたいのよ。」
 お柳は参木の手を振り切って出ていった。彼はこの馬鹿げた形の狂いを感じると、お柳に対する怒《いかり》がますます輪をかけて嵩《こう》じて来た。彼は寝台の上へ倒れたまま、心をなだめるように、毛布の柔かな毛なみをそろりそろりと撫《な》でてみた。すると、またドアーが開いた。と、またお杉が突き飛ばされて転んで来た。お杉は倒れたまま顔も上げずに泣き始めた。参木は彼女の傍へ近よることが出来なかった。彼はただ寝台の上から、お杉の倒れた背中のひくひく微動するのを眺めていた。彼は生毛《うぶげ》の生えているお杉の首もとから、黒い金魚のようななまめかしさを感じて来た。彼はちかぢかとお杉の首を見ようとして降りていった。しかし、ふと彼は、お柳がどこからか覗いているのを嗅《か》ぎつけると、また首をひっ込めた。
「おい、お杉さん。こっちへ来なさい。」
 彼はお杉の傍へ近よると彼女を抱きかかえて寝台の上へ連れて来た。お杉はすくみながら寝台の上へ乗せられても、まだ背中を参木に向けたまま泣き続けた。
「おい、おい、泣くな。」と参木はいうと、ひとり仰向きに寝ころんで、また楽しむようにお杉の顔を眺め始めた。
 お杉は一寸参木の片手が肩へ触れると、「いやだいやだ。」というように身体を振った。が、彼女は寝台から降りようともせずに、袂《たもと》を顔にあてて泣き続けた。参木はお杉の片腕を撫でながら、
「さア、俺の話を聞くんだぜ。良いか、昔、昔、ある所に、王様とお姫さまとがありました。」
 すると、お杉は急に激しく泣き出した。参木は起き上ると眉を顰《ひそ》めたまま、寝台から足をぶらぶらさせて黙っていた。彼は天井に停《とま》っている煽風機の羽根を眺めながら、どうして好きな女には、指一本触れることが出来ないのかと考えた。――これには何か、原理がある。――しばらく彼は小首をかしげながら、しゃくり上げるお杉の泣き声を聞いていたが、
「さて、俺の帽子はどこいった?」と見廻すと、そのまま部屋の外へ出ていった。

 甲谷は突堤へ行ったが参木の姿は見えなかった。ただ掃除夫のうす汚れた赤い法被《はっぴ》が、霧の中でごそごそと動いているだけだった。しかし、なおよく見ると、菩提樹の下の真暗なベンチの上で、印度《インド》人の髯《ひげ》が幾つも鳥の巣のようにかたまって竦《すく》んでいた。彼は芝生の先端を歩いてみた。二つの河の流れの打ち合う波のうえで、大理石を積んだ小舟がゆるゆると波にもまれて廻っていた。甲谷はチューリップが円陣をつくって咲いている芝生の中まで歩いて来た。すると、突然、彼は自分の美しい容貌の変化を思い出した。彼はすぐ引き返すと、車を呼び寄せて宮子のいる踊場の方へ走らせた。
 ――もし宮子が結婚しないといえば、いや、何《な》に、そのときはそのときさ。――
 踊場の周囲には建物がもたれ合って建っていた。蔦《つた》がその建物の割れ目から這いながら、窓の上まで蔽っていた。踊場では、ダンスガールのきりきり廻った袖の中から、アジヤ主義者の建築師、山口が甲谷を見付けて笑い出した。山口は甲谷がシンガポールへ行く前の遊び仲間の一人であった。甲谷は山口と向い合って坐るといった。
「実に久し振りだね。この頃は君どうだ。いつ見ても楽しそうな顔をしているのは、君の顔だよ。」
「それが、見た通りの醜態だがね。ああ、そうだ。参木にこの間逢ったら、君は嫁探しに来たっていったが、ほんとうかい。」山口は溢れるような微笑を湛《たた》えて甲谷を見上げた。
「うむ、嫁もついでに探していこうと思っちゃいるんだが、いいのがあるかね。あったら一つ頼みたいね。もっとも、君のセコンドハンドじゃ御免だぜ。」甲谷はにやにや笑いながらホールの中を見廻した。
「いや、ところが、それになかなか話せる奴がいるんだよ。オルガというロシヤ人だが、どうだひとつ。参木の奴にどうかと思ったのだが、あ奴《いつ》はああいうドン・キホーテで面白くなし、どうだ君は。――意志はないか。」と山口は真面目な顔で相談した。
「じゃ君にはもう意志はなくなっているんだな、そのオルガというのには?」
「いや、それやある、しかし、ああいう女は他人のものにしとく方が、どうも面白味が多そうなんだよ。」
 甲谷は山口の言葉を聞き流しながら、這入って来るときから探しつづけている宮子の姿をまた捜した。だが、宮子の姿はいつまでたっても見えなかった。
「しかし、僕の細君にして、それからまだ君が面目をほどこそうというんじゃ、それや、あんまり面白すぎるじゃないか。」
「いいじゃないか、細君なんかにしなけれや。倦《あ》きればまたそのときはそのときさ。まア、今はトウェンティ見当の月給で結構だよ。」
 山口は肱《ひじ》をつきながら、甲谷のうろうろしつづける視線の方を自分も追った。外人たちがぼつりぼつりとホールの中へ這入って来た。
「ときに話は違うが、古屋の奴はどうしている。」と甲谷は訊ねた。
「ああ、古屋か、あの男は芸者の細君を月賦で買っては変えてるよ。」
「まだここらにいるのかね。」
「うむ、いる。前の細君だってまだ全額|払込《はらいこみ》にはなっていないんだのに、また次のが、これが月賦だ。」
「御橋《みはし》はどうした。」
「御橋も達者だ。しかし、先生、どうもあんまり妾《めかけ》を大切にするのでつき合い難《にく》いよ。あ奴《いつ》も参木のような馬鹿者だね。」
 しかし、甲谷は山口の話を聞こうともせず、うつろな眼で宮子はどうした、宮子はどうした、と絶えず思いながらまた訊ねつづけていくのであった。
「ふむ、木村はどうした。」
「木村には先日一度逢ったかな。奴さん、相変らず競馬狂でね、いつだかロシヤ人の妾を六人大競馬に連れてって、負け出したのさ。ところが、あの男は振《ふる》ってる。負けたらその場で妾を一人ずつ売り飛ばすじゃないか。それですっかり負けちゃってね、その日に六人とも売っちゃって、まだお負けに上着からチョッキまで質に叩き込んで、さアてとか何んとかいって澄しているんだが、先生が妾を持つのは、まアあれは貯金をしているようなものなんだよ。俺もお陰でだいぶん迷惑をさせられたが、オルガという女も、つまり、木村から処分されて来たもんさ。」
 しかし、甲谷は別段面白くもなさそうに、「君はこのごろどうしているんだ。」としばらくたってまた訊ねた。
「俺か、俺はこの頃は建築屋はそっちのけで、死人拾いという奴をやっている。此奴《こいつ》は骨の折れる商売だが、なかなか文化に有益な商売でね。一度俺と一緒について来ないか。面白い所を見せてやるよ。」
「それや、どういうことをするんだね。つまり死人の売買か。」と甲谷は訊ねた。
「いや、そんな野蛮なもんじゃないよ。支那人から死体を買い取って掃除をしてやるんだが、一人の死人で、生きてるロシア人の女を七人持てる、七人。それもロシアの貴族だぞ。」
 どうだというように山口の唇は歪《ゆが》んでいた。この豪傑ならそれは平気なことにちがいない、と甲谷は思って踊りを見た。これはまた、うどんを捏《こ》ねているような踊《おどり》の隙から、楽手たちの自棄糞《やけくそ》なトランペットが振り廻されて光っていた。すると突然、山口は踊りの中の一人の典雅な支那婦人を見付けて囁いた。
「あッ、あれは芳秋蘭《ほうしゅうらん》だ。」
「芳秋蘭って、それや何んだ。」と甲谷は初めて大きな眼を光らせると山口の方へ首をよせた。
「あの女は共産党では、たいへんだ。君の兄貴の高重《たかしげ》君はあの女を知ってるよ。」
 甲谷が振り返って芳秋蘭を見ようとすると、そこへ、細っそりと肉の緊《しま》った、智的な眼の二重に光る宮子が、二階から降りて来て甲谷の傍の椅子へ来た。
「今晩は、お静かだわね。」
「うむ、いま細君の話をしてるところだよ。」と甲谷はいって手を出した。
「まア、そう、じゃ、あたしあちらへ逃げてましょう。」
 宮子は身を翻《ひるがえ》すように、ひらりと盆栽の棕櫚《しゅろ》を廻っていくと、甲谷はまた山口の方へ向き返った。
「それで、さっきの死人の話だが、何んだか少し込み入った話じゃないか。」
「死人か。まアまア、それより一踊りして来なさい。死人のことは後でもいいさ。」
「それじゃ、一寸失敬。」
 甲谷は宮子に追いついて二人で組むと、踊《おどり》の群れの中へ流れていった。宮子は甲谷の肩に口をあてて囁《ささや》いた。
「今夜の足は重いわね。あたしはその人の重さで、何を考えてるのかっていうことが、まアだいたい分るのよ。」
「じゃ、僕は?」と甲谷は訊ねた。
「あなたは、奥様が見つかりそうよ。」
「左様。」
 実は、甲谷は一人の死人と七人の妾について考えたのだ。――何んと奇怪な生活法ではないか。廃物利用の極意《ごくい》である。甲谷はその話を聞くまでは、激しく宮子と結婚したい希望をもっていた。だが、七人の女と一人の死人の価値とを聞いてからは、妻帯者の不幸ばかりが浮んで来てならぬのであった。踊がすむと甲谷は山口の傍へ戻って来た。
「君、さっきの死人の話をもう少し聞かしてくれよ。」
「まア、そう急がなくったって、死人はいつでもじっとしているよ。」
「ところが、貧乏だって、じっとしているさ。」と甲谷はいってまた宮子の方をちらりと見た。
「だって、君は貧乏しているようには見えんじゃないか。」
「いや、それや、僕も僕だが、それより参木の奴のことなんだよ。あ奴をもう少し何んとかしてやらないと、死んでしまう。」
「死ぬって、参木の奴が?」と山口は顎を突き出した。
「うむ、あ奴は近頃、死ぬことばかり考えておるのだ。」
「じゃ、俺に金儲けをさせてくれるようなもんじゃないか。」
 甲谷は足をぱっと両方へ拡げると、身を揺り動かして大きな声で笑い出した。
「そうだ、あの男は、今に君に金儲けくらいはさすだろう。」
「それや、面白い。よし、そんならひとつ、参木を俺の会社の社長にしてやろう。」
 甲谷は山口の豪傑笑いの中から、参木に対するいくらかの友情を嗅《か》ぎつけると喜び勇んで乗り出した。
「君の会社は何んというんだ。」
「いや、名前はまだだが、ひとつ、君から参木の奴に話してみてくれ。あ奴が死人になりたいなんて、それや、もって来いの商売だよ。」
「それで、その死人をどうする会社だ。」
「つまり、人間の骨をそのままの形で保存しとこうっていうんだ。これを輸出すると一人前が二百円になって来る。」
 甲谷は二百円もする会社の材木の太さを考えながら、
「しかし、そんなに人間の骨が売れるのか。」と小声で訊ねた。
「君、医者に売るんだよ。医者ならそこは彼らの手先でどこへでも自由が効《き》くのさ。もともと僕だって、学術用に英国人の医者から頼まれたのが初まりなんだ。」
 甲谷は参木が人間製造会社の支配人に納まっている所を想像した。すると、やがて、彼らしい幸福が、骸骨の踊りの中から舞い上って来るのではないかと思われた。
「それで踊りを見ていて、よく骸骨に見えないもんだね。」と甲谷は眉を吊《つ》り上げて笑った。
「それがこの頃困るんだ。俺の家の地下室は骸骨でいっぱいさ。生きてる人間を見ていても一番先に肋骨が見えてくる。とにかく君、人間という奴は誰でも障子みたいに骨があるんだと思うと、おかしくなるもんだよ。」
 笑いながらアブサンを飲む大きな山口の唇が開きかかると、再びダンスが始まり出した。甲谷は立ち上って彼にいった。
「君、ひとつ踊って来るからね、そこから骸骨の踊りでも見ていてくれ。」
 甲谷はまた宮子と組んで、モールの下で揺れ始めた男女の背中の中へ流れ込んだ。甲谷は宮子の冷たい耳元で囁《ささや》いた。
「君、今夜は宜《よろ》しく頼んでおきます。」
「何《な》に?」
「いや、何んでもないさ。いたって当り前のことだよ。」
「いやよ。風儀が悪いじゃないの。」
「だって、結婚しなけれやなお風儀が悪くなるさ。」
「もう、お饒舌《しゃべ》りしちゃ、塵埃《ごみ》を吸うわよ。」
 しかし、甲谷は山口の眼がうす笑いを浮べて光っているのを見るたびに、いずれどちらも骸骨だと気がつくように、激しく宮子の脊中を人の背中で廻し始めるのであった。そのとき、宮子は山口がしたように、急に甲谷の耳もとで小声でいった。
「あなた、ちょっと、あそこに芳秋蘭が来ているわ。」
 甲谷は山口にいわれたまま忘れていた女のことを思い出して振り返った。だが芳秋蘭の姿はもう廻る人の輪の中に流れ込んで見えなかった。
「君、その芳秋蘭という女の方へ、僕をひっぱっていってみてくれないか。さっきも山口がその女の事をいってたが、何んだ。」
 宮子は甲谷を引いて逆に流れの中を廻っていった。甲谷はあれかこれかと宮子の視線のままに首を廻わしているうちに、不意に背後の肩の中から、一対の支那の男女の顔が現れた。甲谷は吹かれたように眼を据えると宮子にいった。
「あれか。」
「そう。」
 甲谷は宮子を今度は逆に引きながら、芳秋蘭の後から廻っていった。すると、くるくる廻るたびごとに、芳秋蘭の顔も舞いながら、男の肩の彼方から甲谷の方を覗いていた。甲谷はその美しい眼前の女性を、自分の兄の高重も知っているのだと思うと、かすかに微笑を送らずにはいられなかった。しかし、秋蘭の眼は澄み渡ったまま、甲谷の笑顔の前を平然と廻り続けて踊りが終《や》んだ。――歌余舞《かよま》い倦《う》みし時、嫣然《えんぜん》巧笑。去るに臨んで秋波一転――。甲谷は徐校濤《じょこうとう》の美人譜中の一句を思い浮べながら、宮子にティケットを手渡した。
「あの婦人は実に綺麗だ。珍らしい。」
「そうね。珍らしいわ。」
 宮子のむッと膨れかかった口元を楽しげに眺めながら、甲谷は山口の傍へ戻って来るとまたいった。
「君、あの芳秋蘭という婦人は珍らしい。どうして君はあの女を知っているんだ?」
「僕は君、これでも君の知らぬ間にアジヤ主義者のオーソリチーになっているのだぜ。この上海で有名な支那人なら、たいていは知ってるさ。」山口は満面脂肪に漲《みなぎ》った顔を笑わせて秋蘭の方を見た。
「じゃ、僕は以後心を入れかえて君を尊敬するから、ひとつあの婦人を紹介してくれ。」
「いや、それは駄目だ。」と山口はいって手を上げた。
「どうしてだ。」
「だって、君を紹介するのは、日本の恥をさらすようなもんじゃないか。」
「しかし、君がもう代表して恥をさらしてくれているなら、何も僕が晒《さら》したってかまわぬだろう。」
 山口は虚を突かれたように大げさに眼を見張った。
「ところが、それが、僕のはお柳の主人の銭石山《せんせきさん》に紹介されたんだからね。銭石山より、まだ僕の方がましだろう。」
「じゃ、今夜は思いとまるとしようかね。」
 甲谷と山口が、片隅の芳秋蘭のテーブルの方へ視線を奪われて黙り始めると、それに代って、宮子を張り合う外人たちが、夜ごとの騒ぎを始めて快活に動き出した。山口は甲谷の腕を引くと、宮子の方を向きながらいった。
「おい甲谷、君はあの宮子が好きなんじゃないか。」
「そう、まア、見た通りの所だね。」
「ところがあれは、腕が凄いからやめなさい。あそこにいる外人は、見てるとみなあの女のいいなりだよ。」
「じゃ、君も一度は叩かれたことがあるんだな。」
「いや、あの女は、日本人なんか相手にしたら、お目にかからんよ。あれはスパイかも知れないぜ。」
「よろしい。」と甲谷はいうと、昂然と胸を反《そ》らした。
 二人は煙草をとり上げて吸いながら、しばらく外人たちの宮子をからかう会話に耳を傾けて黙っていた。
「あれは君、アメリカ人かい。」と、しばらくして甲谷は訊ねた。
「うむ、あれはパーマーシップビルヂングの社員が二人と、マーカンテイル・マリン・コンパニーが一人だ。ところが、今日はこれならまだ静《しず》かな方で、ときどき宮子を中心に、ここで欧洲大戦が始まることもあったりしてね。それが楽しみで、実はここへ来るんだが、あの女の本心だけは流石《さすが》の俺にも分らんね。」
 山口はゆっくり首をめぐらせて、外人たちから芳秋蘭のいるテーブルの方へ向き返った。すると、「おッ」と彼はいって背を起すと、うろたえたように周囲をくるくる見廻しながら甲谷にいった。
「どこへ行った。芳秋蘭?」
 甲谷はそれには返事も返さず黙って立ち上ると、山口を捨てていきなり表へ飛び出した。芳秋蘭の黄色な帽子の宝石が、街燈にきらめきながら車の上を揺れていった。甲谷は黄包車《ワンポウツ》を呼びとめると、すぐ帽子も冠《かぶ》らず彼女の後から追っていった。彼は車の上で上半身を前に延ばし、もっと走れ、もっと走れ、といいながら、頭の中では芳秋蘭を追いもせず、しきりにだんだん遠ざかっていく宮子の幻影を追っているのであった。
 ――あの女は、あれは素敵だ。あれが俺の嫁になれば、もう世の中は締《し》めたものだ。
 ブリッジ形の秋蘭の鼻は、ときどき左右の店頭に向きながら、街路樹の葉蔭の間を貫いて辷《すべ》った。唾を吐いている乞食や、鋪道の上で銅貨を叩いている車夫や口の周囲を光らせながら料亭から出て来た客や、煙管《きせる》を喰《くわ》えて人の顔を見ている売卜者《ばいぼくしゃ》やらが、通りすぎる秋蘭の顔を振り返って眺めていた。甲谷は彼らがそんなに振り返り始めると、ふと忘れかけている秋蘭の美しさを、再び思い浮べて彼らのように新鮮になった。ひき緊《しま》った口もと、大きな黒い眼。鷺水《ろすい》式の前髪。胡蝶形の首飾。淡灰色の上着とスカート。――しかし、宮子は? 彼女の周囲では外人たちが競《きそ》って宮子の嗜好を研究し、伸縮自在な彼女の視線の流れを追い求め、彼女と踊る敵の度数を暗黙の中に数え合い、そうして、ますます宮子を高く彼らの肩の上へ祭り上げる方法ばかりをとっている。しかし、あの女をシンガポールへ連れていったら、美人の少いシンガポールの日本人たちは、ひっくり返って騒ぐだろう。
 甲谷はふと気がつくと、秋蘭の車が、突然横から現われた水道自動車に喰い留められて停止した。すると、甲谷の車はその隙に割り込んで、秋蘭を追い抜くと同時に、自動車の側面に沿って辷り出した。甲谷の追って来た努力は、全くそこで停止させられねばならぬのだ。彼は振り返って秋蘭を見た。彼女は背広の青年を後に従えて、足を組み直しながら甲谷を見た。甲谷は彼女の顔から、一瞬、舞踏場の記憶を呼び起したかのごとき微動を感じた。しかし、甲谷の車夫は、並んだ自動車が急激に速度を出し始めると同時に、彼もまた一層速力を出して走り出した。秋蘭との距離がだんだん拡がっていった。甲谷は再び振り返って秋蘭を見た。だが、そのときには、もう秋蘭の姿は見えなくて、アカシヤの花蔭に傾いた青い壁が、瓦斯燈の光りを受けながら蒼ざめて連っているのが眼についただけだった。

 山口はもう甲谷の帰りが待ちくたびれて、ホールから外へ出た。金色の寝台の金具、家鴨《あひる》のぶつぶつした肌、切られた真赤な水慈姑《みずくわい》、青々と連った砂糖黍《さとうきび》の光沢、女の沓《くつ》や両替屋の鉄窓。玉菜、マンゴ、蝋燭、乞食、――それらのひっ詰った街角で、彼はさてこれからどこへ行ったものやらと考えた。すると、トルコ風呂で背中をマッサージしてくれるたびに、いつも羞《はずか》しそうに頬を赭《あか》らめているお杉の顔が浮んで来た。数々の羞《はじ》を知らぬ放埒《ほうらつ》な女を見て来続けている山口には、お杉の滑らかに光った淡黒い皮膚や、瞼毛《まつげ》の影にうるみを湛えた黒い眼や、かっちり緊《しま》った足や腕などは、忘れられた岩陰で、虫気もなくひとり成長していた若芽のように感じられた。
 ――しかし、待てよ、あの女を嗅《か》ぎつけてるのは、まさか俺だけじゃないだろう。――
 山口は早くお杉を見に行こうと急に思い立つと、立ち停《どま》って顔を上げた。すると、忽《たちま》ち、もう先《さっ》きから、街の隅々から彼の挙動を窺《うかが》っていた車夫の群が、殺到して来た。山口はうす笑いを洩《もら》しながら車夫の顔をずらりと見廻して、その一つに飛び乗った。
 山口はトルコ風呂へ着くと誰も人のいない応接室へ這入り込んだ。じんじんと蒸気を出す壁の振動が、かすかに身体に響いて来た。彼はソファーへもたれて煙草を吸った。
 しかし、前方の壁に嵌《はま》った鏡を見つけると彼は立ち上って口髭をひねくってみた。すると頭の上の時計の音から、ふと家に一人残しておいたオルガの姿が浮んで来た。オルガは昨夜、急に癲癇《てんかん》の発作を起して彼の手首に爪を立てたのだ。山口は手首の爪痕をカフスの中から出したり、引っ込めたりしてみているうちに、腹部を出して悶転《もんてん》しているオルガの反《そ》り返った咽喉《のど》が、お杉の咽喉に変って来た。
「おい。山口君。」
 突然、開いたドアーの間から、甲谷の兄の長い高重の顔が現れた。山口は振り返って煙草を上げた。
「しばらくだね。さっきまで君の弟とサラセンで踊ってたんだが、あんまりあれは、上海へ置いとくといけないぜ。」
「じゃ、今夜弟はここへ来るんだな。僕はあ奴《いつ》をこないだから探してたんだが。」
「いや、それは分らんぞ。君の弟は俺をほったらかして、芳秋蘭の後からつけてったままなんだよ。どうも手も早けりゃ足も早いよ。」
「じゃ、秋蘭は踊場にいたのかい。」と高重は眼を見張った。
「うむ、いた。実は俺も後からつけてみようと思ってたんだが、おさきに君の弟にやられたよ。」
 高重と山口はソファーへ並んだ。高重は突き出た淡い口髭の周囲をとがらせながら、黒い顔の中で、一層|訝《いぶか》しそうに眉を顰《ひそ》めていった。
「秋蘭が今頃サラセンで踊ってるなんて、それはおかしいぞ。誰かいたか、傍にロシア人でもいなかったか。」
「いたね。一人若い男がついてたよ。」
 高重は東洋紡績の工人係りで、芳秋蘭は彼の下に潜んでいる職女であった。その職女が日本人経営の踊場へ来ることに関して、高重の理解し兼ねていることは、早《は》や山口にも分るのであった。
「しかし、いずれ秋蘭だってスパイだろう。どこへだって現れるさ。」と山口はいった。
「ところが、僕の工場には今しきりにロシアの手が這入って来てるのでね。こ奴《やつ》にはたまらんのだ。いつ爆発するか分らんので、実はひやひやしているのだよ。手先の秋蘭は、どうも戦闘力が激しくってね。」
「ロシアか、あれは不思議な奴《やつ》だのう。わしにはあ奴《いつ》は分らんよ。」
 山口はまた立ち上ると、鏡を覗き込みながら、
「どうです。高重さん、いっぱい今夜は?」
「よろしいですとも。」
「それじゃ、一つ。」
 山口は好人物の坊主のような円顔を急にてかてか勢《きお》い込ませると廊下へ出た。彼はそこで、お杉をひと目と、急がしそうに湯女《ゆな》部屋を覗いてみた。そこにもお杉がいないと、今度は階段を二階の方へ三、四段上ってみて、人気のなさそうな気配を感じると、また浴場の中を覗き廻った。
「駄目、駄目、今日は思惑《おもわく》計画、一切手違いというところだ。」
「何をごそごそそこで狙っているのだ。」と高重はいった。
 山口は高重には答えずに、表へ出ようとすると、湯女の静江が這入って来た。彼女は山口を見ると、いきなりぴったりと彼の胸にくっつくように立ちはだかって、早口でいった。
「あのね、今さきお杉さんが首になったのよ。お神さんが嫉《や》きもち焼いて、ほりだしてしまったの。あの子可哀想に、しくしく泣いて出ていったわ。」
「どこへいった?」山口は思わず外へ乗り出した。
「どこへって、それがあの人、行くとこなんかあれば誰も心配しやしないけど、そんなとこなんかないんですもの。」
 山口は後から来る高重にかまわず、急いで三、四歩通りの方へ歩いていった。しかし、勿論《もちろん》、今頃からお杉の行先なんか探したって分ろうはずもないのに気がつくと、またくるりと廻って静江の傍へ引き返した。
「お杉の行先が知れたら、すぐ知らせてくれないか。分ったかい。」
 彼は暗闇の方へ向き返って、五ドル紙幣を静江に握らせて、また高重の後を追って来た。
「どうも今夜は、金の要ることばかりだよ。」
「何んだ。お杉って?」
「いや、これがなかなか可憐な代物《しろもの》さ、甲谷が秋蘭を追っかけていきよったから、そんならこっちを一つと思ったら、風呂屋のお神が首を切って抛《ほう》り出したとこだというのさ。ひでえ野郎だ。」
 高重は山口がお杉の家出で周章《あわ》て出したのを見ると、お杉とはどんな女だったのかと考えた。前に高重は妹の競子が娘の頃、彼女を山口にならやっても良いと思ったこともあったのだ。その頃は、山口も競子が好きで、彼女を包む沢山の男たち同様に、競子の後を暇さえあれば追いかけたのである。山口は大通へ出ると、霧の深まって来始めた左右の街を見廻しながらいった。
「これからサラセンへいっても良いが、まさか甲谷は、今頃まで俺を待ってる気遣いもなかろうね。」
「芳秋蘭を追っかけていったのなら、ひょっとしたら、奴、今頃はやられているかもしれないぜ。あの女はいつでもピストルを持ってるからな。」
「しかし、女に親切にして、撃《う》たれたという話はまだ聞かんよ。それより君はどうなんだ。あの秋蘭は素晴しい美人だが、毎日あの女を使っているくせに、まさか金仏《かなぶつ》でもないだろう。」
「ところが、あの女は大丈夫だ。僕はあの女の正体を、まだ知らないことにしてあるんだ。」
「それや、知ったら逃げられる恐れがあるからな。」
「冗談いっちゃ困るよ。僕はこれでも、今は日本を背負って立っているようなもんだからね。僕があの女に少しでも引かれちゃ、忽《たちま》ち工場は丸潰れだ。君のアジヤ主義も結構だが、もう少しは、われわれ国粋主義者の苦心も、考えてくれたって良いだろう。」
「国粋主義か、よく分った。それじゃ、いっぱい飲んでからひとつ今夜は議論をしよう。おい。」
 と、山口はステッキを上げて黄包車《ワンポウツ》を呼びとめた。

 お杉はその夜、参木が去るとお柳に呼ばれて首を切られた。これは参木が早くも寝台の上で予想したほども、確かな心理の現れを形の上で示しただけであった。お杉はしばらく事件の性質が、無論何んのことだか分らなかった。彼女はトルコ風呂の入口から出て来ると、明日からもう再びここへ来ることが出来ぬのだと知り始めた。彼女は露地を出ると、鋪道に閉め出された黄包車《ワンポウツ》の車輪の傍を通り、また露路の中へ這入っていった。露路の中には、霧にからまった円い柱が廻廊のように並んでいた。暗い中から、耳輪の脱《と》れかかった老婆が咳きをしながら歩いて来た。お杉は柱の数を算《かぞ》えるように、泣いては停り、泣いては停った。彼女は露路を抜けると裏街を流れている泥溝《どろどぶ》に添ってまた歩いた。泥溝の水面には真黒な泡がぶくりぶくりと上っていた。その泥溝を包んだ漆喰《しっくい》の剥《は》げかかった横腹で、青みどろが静に水面の油を舐《な》めていた。
 お杉は参木の下宿の下まで来ると、火の消えた二階の窓を仰いでみた。彼女はここまで、もう一度参木の顔をただ漫然と眺めに来たのである。それから――彼女はそれからのことは、ただ泣く以外には知らなかった。お杉は漆喰の欄干にもたれたまま片手で額を圧《おさ》えていた。彼女の傍には、豚の骨や吐き出された砂糖黍の噛み粕《かす》の中から瓦斯燈《ガスとう》が傾いて立っていた。彼女は多分その瓦斯燈の光りが消えて、参木の部屋の窓が開くまで動かぬだろう。彼女の見ている泥溝の上では、その間にも、泡の吹き出す黒い芥《あくた》が徐々に寄り合いながら一つの島を築いていた。その島の真中には、雛の黄色い死骸が猫の膨れた死骸と一緒に首を寄せ、腹を見せた便器や靴や菜っ葉が、じっとり積ったまま動かなかった。
 夜が更けていった。屋根と屋根とを奥深く割っている泥溝の上から、霧が一層激しく流れて来た。お杉は欄干にもたれたまま、うとうとい眠りをし始めた。すると、急に彼女は靴音を聞いて眼を醒した。見ていると、霧に曇った人影が一人だんだん自分の方へ近づいて来た。お杉はその人影と眼を合した。
「お杉さんか。」と男はいった。
 男は芳秋蘭を追ったあと、酔いながら踊場から踊場と追って、参木の所へ帰って来た甲谷であった。
「どうした。今頃、さア、上れ。」
 甲谷はお杉の手を持つと引っ張りながら階段を上っていった。お杉は二階へ通されたが、参木の姿は見えなかった。甲谷は部屋の中で裸体になると、トルコ風呂に飛び込むように寝台に身を投げた。
「さア、お杉さん、参木はまだだぞ。僕は寝るよ。疲れた。君はそこらで寝ていてくれ。」
 いったかと思うと、甲谷はもう眼を瞑《と》じて眠り出した。お杉はどうしたものやら分らぬので、寝台の下で甲谷の脱ぎ捨てた服を黙って畳んでいた。彼女が少し身を動かすと、男の匂いが部屋の中で波を立てた。お杉は部屋を片附けると、参木の愛用しているコルネットの銀の金具を恐《こわ》そうに撫でてみた。それから、本箱の中の分らぬ洋書の背中を眺めてみて、眠むそうな自分の顔がぼんやり硝子に映っているのを見つけると、思わず顔をひっこめてまた覗いた。彼女はしばらくはごとりと物音がしても「もしや参木が」というように身を起した。が、参木は二時が打っても帰らなかった。そのうち、彼女はいつの間にか、積まれた楽譜に身をよせたまま、波や魚や、群れよる子供の夢を見ながら眠っていった。――
 ふとお杉は夜中におぼろげに眼が醒めた。すると、部屋の中は真暗になっていた。と、その暗の中で、彼女は自分の身体を抱きすくめて来る腕を感じた。お杉は苦しさに抵抗した。しかし、彼女の頭は、まだ子供の押し寄せて来る夢を見ながら、ますます身体に力を込めて逃げようとするのだった。
「あの、――駄目よ、駄目よ。」
 彼女は何者にともなく、しきりに激しく声を立てようとした。しかし、声は咽喉《のど》につかえて出なかった。お杉は汗をびっしょりかきながら、立ち上ろうとして膝を立てた。そのとき、耳の傍で、男の声がしたと思うと、お杉ははッとして身体をとめた。彼女は甲谷の身体を感じたのだ。と、間もなく、お杉はぐるぐると舞い始めた闇の中で、頭と一緒にがっくり崩れおちる楽譜の音を聞きつけた。
 翌朝お杉が眼を醒ますと、参木が甲谷と一つの寝台の上で眠っていた。お杉は昨夜の出来事を思い出した。すると、今まで自分を奪ったものは甲谷だとばかり思っていたのに、急に、それは参木ではないかと思い出した。しかし、それをどうして二人に訊《き》き正すことが出来るだろう。彼女は昨夜は、全く自分の眠さと真暗な闇の中で起ったことだけを、朧《おぼ》ろげに覚えているだけだった。お杉はしばらく、朝日の縞の中に浮いている二人の寝顔を見較べながら、首を傾けて立っていた。物売りの声が、露路の隅々にまで這入って来ると、花売りの声も混って来た。
「メークイホー、デーデホー、パーレーホッホ、パーレーホ。」
 お杉は参木の服を壁にかけると湯を沸《わか》した。彼女は二人のうちの誰か起きたら、自分を今日からここへ置くように頼んでみようと考えた。だが、さてその二人の中の、誰に頼めばよいのか彼女には分らなかった。お杉は湯の沸く間、窓にもたれて下の小路を眺めていた。昨夜眺めた泥溝《どろどぶ》の上には、石炭を積んだ荷舟が、黒い帆を上げたまま停っていた。その舟の動かぬ舵や、道から露出した鉄管には、藁屑や沓下《くつした》や、果実の皮がひっかかって溜っていた。ぶくぶく出る無数の泡は、泥のように塊《かたま》りながら、その半面を朝日に光らせて狭い裏街の中を悠々と流れていった。お杉はそれらの泡を見ていると、欄干に投げかけている自分の身体が、人の売物になってぶらりと下っているように思われた。もしここから出て行けば、彼女はどこへ行って良いのか当《あて》がなかった。間もなく、あちこちの窓から泥溝へ向って塵埃《ごみ》が投げ込まれた。鶏の群は塵埃の舞い立つたびごとに、黄色い羽根を拡げてぱたぱたと裏塀の上を飛び廻った。湯が沸き出した頃になると、泥溝を挟んだ家々に、支那服の洗濯物がかかり始めた。物売りの籠に盛られたマンゴや白蘭花《パーレーホー》が、その洗濯物の下を見え隠れしながら曲っていった。
 やがて、甲谷が起きてきた。彼はお杉に逢うとタオルを肩に投げかけていった。
「どうだ、眠られたか。」
 次に参木が起きてくると、眠そうにお杉に笑いながらいった。
「どうした、昨夜は?」
 しかし、お杉は誰にも黙って笑っていた。二人の背中が洗面所の方へ消えていくと、彼女は、そのどちらに自分が奪われているのかますます分らなくなって来るのであった。

 参木はお杉を残したまま甲谷と一緒に家を出た。通りは朝の出勤時間で黄包車《ワンポウツ》の群れが、路いっぱいに河のように流れていた。二人はその黄包車の上に浮きながら人々と一緒に流れていった。二人はお杉に関しては、どちらも分り合っているように黙っていた。その実、参木は甲谷がお杉を連れて来たのにちがいないと思っていた。そうして甲谷は、参木がお杉を呼び出したのにちがいないと。
 建物と建物の間から、またひと流れの黄包車が流れて来た。その流れが辻ごとに合すると、更に緊密して行く車に車夫たちの姿は見えなくなり、人々は波の上に半身を浮べた無言の群集となって、同じ速度で辷っていった。参木にはその群集の下に、さらに車を動かす一団の群集が潜んでいるようには見えなかった。彼は煉瓦の建物の岸壁に沿って、澎湃《ほうはい》として浮き流れるその各国人の華やかな波を眺めながら、誰か知人の顔が浮いていないかと探してみた。すると、後に浮いていたはずの甲谷が、彼と並んで流れて来た。
「おい、お杉はいったい、どうしたんだ。」と参木は初めて甲谷に訊《き》いた。
「じゃ、君も知らないのか。」
「じゃ、君が連れて帰ったんじゃないんだな。」
「馬鹿をいいなさい。俺が帰ったらお杉が戸口に立ってたんじゃないか。」
「ははア、じゃ、首を切られて行くとこがなかったんだ。」
 参木は昨夜のお柳の見幕を思い出すと、お杉の災《わざわ》いがいよいよ自分に原因していることを感じて暗くなった。しかし、それにしても、お杉が自分の家から出て行こうとしない所が不思議であった。何か甲谷がお杉に釘を打つようなことをしたのではないか。この甲谷が昨夜お杉と一室にいたとすれば、そうだ、甲谷のことなら――。
 彼は甲谷の顔を眺めてみた。その美しい才気走った眼の周囲から、参木はふと甲谷の妹の競子の容貌を感じ出した。すると、彼はお杉を傷つけたものが自分でなくして、自分の愛人の兄だということに、不満足な安らかさを覚えて来た。殊に、もうすぐ競子の良人が死ぬとすれば――。
「いったい、昨夜はどうしたんだ。」と甲谷は訊いた。
「昨夜か、昨夜は酔っぱらって露地の中で寝てたんだ。君は?」
「僕か、――僕は山口とサラセンで逢って、それから、芳秋蘭という女の後を追っかけた。」
 市場から帰って来た一団の黄包車が、花や野菜を満載して流れて来た。参木と甲谷の周囲には、いつの間にか、薔薇や白菜が匂いを立てて揺れていた。それらの花や野菜は、建物の影を切り抜けるたびごとに、朝日を受けてさらさらと爽やかに光っていった。参木は思った。この葬式のような花の流れは、これは競子の良人の死んだ知らせではなかろうかと。すると、彼は、自分の不幸は他人の幸福を恨むが故だと気がついた。もし自分が競子の良人のように幸福であったなら、誰か自分のような不幸なものから、同様に自分の死ぬことを願われていたに相違ない。彼は、自分の周囲の人の流れを見廻した。その滔々《とうとう》として流れる壮快な生活の河を。どこに悲しみがあるのか。どこに幸福があるのか。墓場へ行っても、ただ悲しそうな言葉が瀟洒《しょうしゃ》として並んでいるだけではないか。だが、次の瞬間、これは朝日に面丁《めんてい》を叩かれている自分の感傷にちがいないと思うと、思わずにやりとせずにはおれなくなった。

 参木が銀行の階段を登って行くと、甲谷はそのまま村松汽船会社へ車を走らせた。汽船会社は甲谷の会社の支配会社で、壮大な大建物の連った商業中心地帯の真中にあった。甲谷は車の上で、昨夜参木と食い違って追い合ったその結果が、お杉にあられもない行為をしてしまったことについて考えた。
 ――いや、しかしだ。まアまア、五円も包んでやれば、それでおしまいさ。良心か、何《な》にそんなことが必要なら、上海で身体をぶらぶらさせている不経済な奴があるものか。――
 これで甲谷の感想はしまいであった。その癖、彼は、参木からお杉を奪ってしまったということによって、自分の妹の愛人に迫っていた危難を、妹のために救ってやったという良心の誇りを感じて勇しくなっていた。
 商業中心地帯へ這入ると、並列した銀行めがけて、為替《かわせ》仲買人の馬車の密集団が疾走していた。馬車は無数の礫《つぶて》を投げつけるような蹄《ひづめ》の音を、かつかつと巻き上げつつ、層々と連なりながら、大路小路を駆けて来た。この馬車を動かす蒙古馬の速力は、刻々ニューヨークとロンドンの為替相場を動かしているのである。馬車は時々車輪を浮き上らせると、軽快なヨットのように飛び上った。その上に乗っている仲買人たちは、ほとんど欧米人が占めていた。彼らは微笑と敏捷《びんしょう》との武器をもって、銀行から銀行を駆け廻るのだ。彼らの株の売買の差額は、時々刻々、東洋と西洋の活動力の源泉となって伸縮する。――甲谷は前から、この港のほとんど誰もの理想のように、この為替仲買人になるのが理想であった。
 甲谷は村松汽船会社へ行く前にその附近にある金塊市場へ立ち寄って覗いてみた。市場はおりしも立ち合いの最中で、ごうごうと渦巻く人波が、ホールの中でもみ合っていた。立ち連った電話の壁のために、うす暗くなった場内の人波は、油汗ににじみながら、売りと買いとの二つの中心へ胸を押しつけ合って流れていた。その二つの中心は、絶えず傾いて叫びながら、反《そ》り返り、流動しつつ、円を描いては壁に突きあたり、再び押し戻しては、壁にはじかれて、ぐるぐると前後左右へ流れ続けた。しかし、周囲の壁や、連った椅子の上に盛り上っている観衆は、黙々として視線を眼下の渦の中心に投げていた。
「もう一年だ――もう一年たてば、俺は美事にここで、巨万の富を掴《つか》んでみせるぞ。」と甲谷は思った。
 彼は椅子の上からホールを見降ろしながら、これが一分ごとに、ロンドンとニューヨークの金塊相場に響きを与えつつあるものとは、どうしても思えなかった。彼は椅子から降りて一つの電話室を覗いてみた。送話器を頭から脱した青年が、ぐったりと腹部をへこませて、背部の電話のパイプのより塊《かたま》った壁にもたれながら煙草を吸って休んでいた。
 村松汽船会社へ甲谷が着いたときは、十時であった。彼は広壮な事務部屋の中央を貫いて、腰から下が廊下になっている通路を通りながら、万遍なく左右の知った社員たちに会釈《えしゃく》を振り撒《ま》き、最後の部屋の木材課へ這入《はい》っていった。すると、シンガポールの本社から来ているべき旅費の代りに、彼宛に特電が這入っていた。
「市場|益々《ますます》険悪。――倉庫材木充満す。腐敗の恐れあれば、満身貴下の活動を切望す。――」
 見ると同時に、甲谷からは嫁探しの希望が消えてしまった。これでは旅費の請求さえ不可能にちがいない。間もなく早速帰れと命令が下るのは分っている。――甲谷はイギリス政府の護謨《ゴム》制限撤廃の声明が、今頃自分の嫁探しにこんなに早く、影響を及ぼそうとは考えなかった。勿論《もちろん》、彼には、アメリカへ返すイギリスの戦債が、前からシンガポールの錫《すず》と護謨との上で呼吸していたのは分っていた。だが、そのため、シンガポールの市場が恐慌し、材木が停止し、嫁探しまで延引しなければならぬ結果になろうとは――。
「よしそれなら。」と甲谷は思った。彼は階段を降りて来た。乞食の子供が彼の後から横になって追っ駈けて来た。彼の頭には宮子もなかった。芳秋蘭もお杉もなかった。無論、乞食の子供にいたっては。ただ、彼にはフィリッピン材の逞《たくま》しい切れ目が間断なく浮んでいた。彼はその敵材を圧迫する戦法を考えた。――何故にシンガポールの材木は負け出したか。
 ――切れ目がいかぬ、切れ目が。――
 事実、シンガポールのスマトラ材は、フィリッピン材に比べて、截断量が五寸程長かった。この五寸という空間の占有量は、それが支那人に対する歓心とはならず、運送船の吃水線《きっすいせん》を深めることに役立っただけだった。のみならず、陸上の倉庫へ突き衝《あた》り、運搬の時間を食らい、腐敗する上に於ては最も都合よき実物となって横たわり出したのだ。この虚に乗じて、フィリッピンは心理学より物理学を中心にして進んで来た。甲谷の戦法は、ここで変更せられねばならなかった。彼は先《ま》ず、材木会社を駈け廻り、その主流が支那人であるかなきかを確め、それに応じてその場で適宜の作戦を立てねばならぬのだ。彼はカラーを常に真白にし、服の折目を端正にして微笑を含み、本社の恐慌を歪《ゆが》まぬネクタイで縮め縛って下へ隠し、さて、すぐには切り込まず、悠々と相手の御機嫌だけを伺って引き上げねばならぬ、と考えた。すると、彼の後から、まだ乞食の子供がしつこく追っ駆けて来ているのに気がついた。
 彼は戦闘心を養うために、河を登るフィリッピン材の勢力を眺めに突堤に添って歩いて見た。河の両側には空虚の小舟が、竿を戦のように縦横に立て連ねていた。そのどの船にも、襤褸《ぼろ》が旗のように下っていた。褐色の破れた帆をあげた伝馬船《てんません》が、港の方から、次ぎ次ぎに登って来た。棉花を積んだ船、落花生を満載した荷船、コークス、米、石炭、粘土、籐、鉄材、それらの間に交って、フィリッピン材の紅と白とのラウアンが、鴨緑江《おうりょくこう》材のケードルや、暹羅《シャム》材の紫檀《したん》と競いながら、従容《しょうよう》として昇って来た。しかし、甲谷の得意なシンガポールの材木は、花梨《かりん》木もタムブリアンも、ミラボーも、何《な》に一つとして見ることが出来なかった。
「これでは駄目だ、これでは。」
 ふと見ると、上流から下って来た大きな筏《いかだ》が、その上に土を載《の》せ、野菜の畑を仕立てて流れていた。その周囲の水の上で、※[#「舟+山」、第4水準2-85-66]※[#「舟+反」、U+8228、55-14]《サンパン》が虫のように舞い歩いた。真青なバナナを盛り上げた船が襤褸《ぼろ》と竿の中から、緑青《ろくしょう》のようににじみ出て来ると、橋の穹窿《きゅうりゅう》の中へ這入っていった。
 すると突然、その橋の上で、一発の銃が鳴った。と、更に続いて連続した。橋の向うの赤色ロシアの領事館の窓ガラスが、輝きながら穴を開けた。見る間に、白衛兵の一隊が、橋の上から湧き上って抜刀した。彼らは喊声《かんせい》を上げつつ、領事館めがけて殺到した。窓から逆《さか》さまに人が落ちた。と、枳殻《からたち》の垣の中へ突き刺って、ぶらぶらすると、一転したと思うやいなや、河の中へ転がった。
 館内ではしばらく銃声が続いていたが、間もなく、赤色の国旗が降ろされて白旗が高く昇り出した。見ていた群集の中から、欧米人の白い拍手が、波のように上った。続いて対岸から、建物の窓々から、船の中から、起りだした。甲谷は昨夜見た芳秋蘭の澄み渡った眼を思い描きながらも、「万歳、万歳、万歳。」と叫んで、彼らに和して手を打った。やがて、抜刀の一隊は自動車に飛び乗ると、群集の中を逃げていった。しかし、この出来事を見ていた支那の群集だけが、いつものことが、いつも起ったように起っただけだというように、騒がなかった。甲谷が穴の開いた領事館の前まで行ったときには、印度人の巡査に担《かつ》がれた負傷者の傍を、ロシアの春婦たちがイギリスの水兵と一緒に、煙草を吹かして通っていった。

 参木の常緑銀行では、その日の閉鎖時間が真近《まぢか》くなると不穏な予言が蔓延した。それは、ある盗賊団の一団が常緑銀行の自動車のマークを知っていて、取引銀行への現金輸送の自動車を襲《おそ》うであろうという隠謀が、一人の行員の口から洩《も》れ始めたことから発生した。
 参木はこの噂を耳にすると愉快になった。やがて現金輸送に従う者はなくなるだろう。すれば、専務が困るにちがいないと。そうして、それは、事実になった。現金輸送のときになると、突然輸送係りの者が辞職した。
 銀行の内部は俄《にわか》に専務を中心にして緊張し始めた。専務は一同を特別室に集めると、賞金二十円を賭けて輸送係りを募集した。だが、勿論、生命より金銭を尊重する者は誰もなかった。何《な》ぜなら、この支那の海港は、生命を奪うことを茶碗を破《わ》ることと等しく思っている団体が、その無数の露路の奥底に、無数に潜んでいると幻想し得られるが故である。専務は更に五十円の賞与を賭けた。だが、依然として行く者は誰もなかった。五十円が百円に昇り出した。百円が百二十円に競《せ》り上った。が、かように上り出すと、まだどこまで上るか予想を許さぬ興味のために、誰も口を開かなかった。すると、参木は初めて口を開いて専務にいった。
「もうこうなれば、いくら賞与をかけても行くものはないと思いますから、こういう場合は、日頃の専務の御手腕に従って、専務自身が行かれるべきだと思います。」
「何《な》ぜだ。」と専務は質問した。
「それは専務が一番好く御承知のはずだと僕は思います。銀行にとって、現金輸送が不可能になったということは、最も専務がその責任を負って活動しなければならぬ時機だと思います。」
「君の意志はよく分った。」と専務はいうと片眼を大きく開きながら、指先きを椅子の上で敏捷に動かした。
「それで君は、僕がいなくなったら、この銀行がどうなるかということも、勿論知っているのだろうね。」と専務は訊ねた。
「それや、知らないこともありません。しかし、あなたがいなくなると仰有《おっしゃ》るのは、あなたが危害を加えられた場合のことを仰有るのだろうと思いますが、あなたが危害を受けられて悪いときなら、少なくとも他の者だって危害を受けて悪い場合にちがいありません。今の際は銀行の危急のときです。危急のときに専務が責任を他に転嫁させるということは、専務の資格がどこにあるか分らないと思います。殊にこの銀行でいつも一番利益を得られるものは、専務です。その専務が――。」
「よし、もう分った。」
 専務は行員の沈黙のうちで、傲然として窓の外の風景を睨《にら》んでいた。参木はこの悪辣な専務が、自分を解雇することが出来ないのだと思うと、日頃の鬱憤を晴らしたように愉快になった。
「じゃ、参木君はもう帰ってくれ給え。」と専務はいった。
 参木は黙って入口の方へ歩いた。が、入口のハンドルを握ると振り返った。
「僕は明日から来なくともいいんでしょうか。」
「それは、君の意志の自由にやり給え。」
「僕の意志だと、また出て来るかも知れませんが。」
「じゃ、なるべく遠慮するようにしてくれ給え。」
「承知しました。」
 参木は銀行を出ると、やったなと思った。が、もし復讐《ふくしゅう》のために専務の預金の食い込みを吹聴《ふいちょう》するとすると、取付けを食うのは分っていた。だが、取付《とりつけ》を食って困るのは、銀行よりも預金者だった。しかし、いずれにしても、専務が自分の食い込みを、無価値な担保を有価値に見せかけて償《つぐな》っている以上、その欠損は早晩表面に現れるに違いなかった。しかし、その現れるまでの期間内に、まだどれだけの人々が預金をするか。この預金の量が、専務の食い込みを償うものとしたならば、預金者は救われるのだ。参木は河の岸で良心で復讐しようとして藻掻《もが》いている自分自身を発見した。これは明らかに、彼の敗北を物語っているのと同様だった。明日から、いよいよ饑餓が迫って来るだろう。

 お杉は街から街を歩いて参木の家の方へ帰って来た。どこか自分を使う所がないかと、貼り紙の出ている壁を捜しながら。ふと彼女は露路の入口で売卜者《ばいぼくしゃ》を見つけると、その前で立ち停った。昨夜自分を奪ったものは、甲谷であろうか参木であろうかと、また彼女は迷い始めた。お杉の前で観《み》て貰っていた支那人の娘は壁にもたれて泣いていた。売卜者の横には、足のとれかかったテーブルの屋台の上に、豚の油が淡黄《うすきいろ》く半透明に盛り上って縮れていた。その縮れた豚の油は露路から流れて来る塵埃《ごみ》を吸いながら、遠くから伝わる荷車の響きや人の足音に絶えずぶるぶると慄《ふる》えていた。小さな子供がその脊の高さを丁度《ちょうど》テーブルの面まで延ばしながら、じっと慄えるうす黄色い油に鼻のさきをひっつけていつまでも眺めていた。その子の頭の上からは、剥《は》げかかった金看板がぞろりと下り、弾丸に削《けず》られた煉瓦の柱はポスターの剥げ痕《あと》で、張子《はりこ》のように歪《ゆが》んでいた。その横は錠前屋だ。店いっぱいに拡った錆《さ》びついた錠が、蔓《つる》のように天井まで這い上り、隣家の鳥屋に下った家鴨《あひる》の首と一緒になって露路の入口を包んでいる。間もなく、豚や鳥の油でぎらぎらしているその露路の入口から、阿片に青ざめた女たちが眼を鈍《にぶ》らせて蹌踉《そうろう》と現れた。彼女たちは売卜者を見ると、お杉の肩の上から重なって下のブリキの板を覗き込んだ。
 ふとお杉は肩を叩かれて振り返った。すると、参木が彼女の後に立って笑っていた。お杉は一寸お辞儀をしたが耳を中心に彼女の顔がだんだん赭《あか》くなった。
「御飯を食べに行こう。」と参木はいって歩き出した。
 お杉は参木の後から従って歩いた。もういつの間にか夜になっている街角では、湯を売る店頭の黒い壺から、ほのぼのとした湯気が鮮かに流れていた。そのとき、参木は後から肩を叩かれたので振り向くと、ロシア人の男の乞食が彼に手を出していった。
「君一文くれ給え。どうも革命にやられてね、行く所もなければ食う所もなし、困っているんだ。これじゃ、今にのたれ死にだ。君、一文恵んでくれ給え。」
「馬車にしようか。」と参木はお杉にいった。
 お杉は小さな声で頷いた。馬車屋の前では、主婦が馬の口の傍で粥《かゆ》の立食いをやっていた。二人は古いロココ風の馬車に乗ると、ぼってりと重く湿《しめ》り出した夜の街の中を揺られていった。
 参木はお杉に自分も首になったことを話そうかと思った。しかし、それではお杉を抛《ほう》り出すのと同じであった。お杉の失職の原因が彼にあるだけ、このことについては彼は黙っていなければならなかった。参木は愉快そうに見せかけながらお杉にいった。
「僕はあんたから何も聞かないが、多分首でも切られたんだろうね。」
「ええ。あなたがお帰りになってから、すぐ後で。」
「そう。じゃ、心配することはない。僕の所には、あんたがいたいだけいるがいい。」
 お杉は黙って答えなかった。参木は彼女が何をいいたそうにもじもじしているのか分らなかった。だが、彼には、彼女が何をいい出そうと、今は何の感動も受けないであろうと思った。露路の裏の方でしきりに爆竹が鳴った。アメリカの水兵たちがステッキを振り上げて車夫を叩きながら、黄包車《ワンポウツ》に速力を与えていた。馬車が道の四角へ来ると、しばらくそこで停っていた。一方の道からは塵埃《ごみ》と一緒に豚の匂いが流れて来た。その反対の方からは、春婦たちがきらきらと胴を輝かせながら揺れ出て来た。またその一方の道からは、黄包車の素足の群れが乱れて来た。角の交通整理のスポットが展開すると、車輪や人波が真蒼《まっさお》な一直線の流れとなって、どよめき出した。参木の馬車は動き出した。と、スポットは忽《たちま》ち変って赤くなった。参木の行く手の磨かれた道路は、春婦の群れも車も家も、真赤な照明を浴びた血のような河となって浮き上った。
 二人は馬車から降りるとまた人込の中を歩いた。立ったまま動かない人込みは、ただ唾を叶きながら饒舌《しゃべ》っていた。二人は旗亭の陶器の階段を昇って一室に納った。テーブルの上には、煙草の大きな葉が壺にささったまま、青々と垂れていた。
「どうだ、お杉さん。あんたは日本に帰りたいと思わんか。」
「ええ。」
「もっとも今から帰ったって、仕様がないね。」
 参木は料理の来るまで、欄干にもたれて南瓜《かぼちゃ》の種を噛んでいた。彼は明日から、どうして生活をするのかまだ見当さえつかないのだ。だが、そうかといって日本に帰ればなお更だった。どこの国でも同じように、この支那の植民地へ集っている者は、本国へ帰れば、全く生活の方法がなくなってしまっていた。それ故ここでは、本国から生活を奪われた各国人の集団が、寄り合いつつ、全くここに落ち込んだが最後、性格を失った奇怪な人物の群れとなって、世界で類例のない独立国を造っていた。しかも、それぞれの人種は死に接した孤独に浸りながら、余りある土貨を吸い合う本国の吸盤となって生活しなければならぬのである。このためここでは、一人の肉体はいかに無為無職のものと雖も、ただ漫然といることでさえ、その肉体が空間を占めている以上、ロシヤ人を除いては愛国心の現れとなって活動しているのと同様であった。――参木はそれを思うと笑うのだ。事実、彼は、日本におれば、日本の食物をそれだけ減らすにちがいなかった。だが、彼が上海にいる以上、彼の肉体の占めている空間は、絶えず日本の領土となって流れているのであった。
 ――俺の身体は領土なんだ。この俺の身体もお杉の身体も。――
 その二人が首を切られて、さて明日からどうしたら良いのかと考えているのである。参木は自分たちの周囲に流れて来ている旧ロシアの貴族のことを考えた。彼らの女は、各国人の男性の股から股をくぐって生活している。そうして男は、各国人の最下層の乞食となって。――参木は思った。
 ――それは彼らが悪いのだ。彼らは、自分の同胞を、股の下で生活させ、乞食をさせ続けて来たからだ。
 人は、自分の股の下で生活し、自分の同胞の中で乞食をするよりも、他国人の股の下で生活し、他国人の間で乞食をする方が楽ではないか。――それならと参木は考えた。
 ――あのロシア人たちに、われわれは同情する必要は少しもない。
 このような非情な、明確な論理の最後で、ふと参木は、お杉と自分が誰を困らせたことがあるだろうと考えた。すると、彼は、鬱勃として揺れ出して来ている支那の思想のように、急に専務が憎むべき存在となって映《うつ》り出した。だが、彼は自分の上役を憎むことが、ここでは彼自身の母国を憎んでいるのと同様な結果になるということについては忘れていた。然《しか》も、母国を認めずして上海でなし得る日本人の行動は、乞食と売春婦以外にはないのであった。

一〇

 参木に老酒《ラオチュウ》の廻り出した頃になると、料理は半ば以上を過ぎていた。テーブルの上には、黄魚のぶよぶよした唇や、耳のような木耳《きくらげ》が箸もつけられずに残っていた。臓腑を抜いた家鴨《あひる》、豚の腎臓、蜂蜜の中に浸った鼠の子、林檎の揚げ物に竜顔の吸物、青蟹や帆立貝――参木は翡翠《ひすい》のような家鴨の卵に象牙の箸を突き刺して、小声で日本の歌を歌ってみた。
「どうだ、お杉さん、歌えよ、恥しいのかい。何に、帰りたい、馬鹿をいえ。」
 参木はお杉を引き寄せると片肱を彼女の膝へつこうとした。すると、肱が脱《はず》れて、がくりとお杉の膝の上へ顎を落した。お杉は赤くなりながら、落ちかかろうとしている参木の顔をぶるぶる慄《ふる》える両膝で支えていた。湯気を立てて、とろりとしている鱶《ふか》の鰭《ひれ》が、無表情なボーイの捧げている皿の上で跳ね上ったまま、薄暗い糞壺《モード》を廻って運ばれて来た。参木は立ち上ると、欄干を掴《つか》んで下の通りを見降ろした。人込の中で黄包車《ワンポウツ》に乗った妓《おんな》が、刺繍した小さな沓《くつ》を青いランプの上に組み合せて揺れて来た。招牌《しょうはい》や幟《のぼり》を切り抜けて、彼女の首環の宝石が、どこまでも魚のように光っていった。参木は旗亭を出るとお杉と二人でしばらく歩いた。露路の口を通りかかるたびごとに、彼は春婦に肩を叩かれた。
「あなた、いらっしゃいよ。」
「いや、俺のはこっちだ。」と参木は後にいるお杉を指差した。
 彼はふと、お杉もしまいに、このように露路の入口へ立つのではないかと思った。そして、自分は乞食になって、路の真中に坐っている。――しかし、彼は別に何の悲しみも感じなかった。参木はお杉の手を曳いて歩いた。足が乱れて時々お杉の肩にもたれかかった。
「おい、お杉さん、俺は明日から乞食になるかも知れないぜ。俺が乞食になったら、お杉さんはどうしてくれる。」
 お杉は大きな眼で参木の支えになりながら笑っていた。銃を逆《さかさ》に担いだ印度人の巡査がお杉の顔を眺めていた。車座に蹲《しゃが》んだ裸体の車夫の群れが、天然痘の痕のあるうっとりとした顔を並べて、銅貨の面を見詰めていた。水の滴りそうな水慈姑《みずぐわい》が、真赤なまま、道路で油煙を立てているランプのホヤを取り巻いて積っていた。一人の支那人がふらりと参木の方へ近寄って来ると、写真を出した。
「どうです、十枚三円。」
 写真は二人の胸の間に隠されたまま、怪しい姿を跳ね始めた。お杉は参木の肩越しに写真を見た。すると、彼女は急に顔をそむけて歩き出した。しばらくすると、参木は黙って彼女の後からついて来た。彼は年来の潔白が、一時に泥のように崩れ出すのを感じた。
「お杉さん。」と参木はいった。
 お杉は赤くなったまま振り返った。が、またすぐ彼女は歩き出した。参木は前を行く彼女の身体に手が延びそうな危険を感じた。今夜は危い、今夜は、と彼は思った。
「お杉さん、今夜は一寸用事があるから、あんた一人、さきへ帰っていてくれないか。」
 そういうと、彼は逆にくるりと廻って、悲しげに歩いていった。
 そのとき、ふと彼は通りすがりの、女が女に見えぬ茶館へ上っていった。
 広い堂内は交換局のように騒いでいた。その蒸《む》しつく空気の中で、笑婦の群れが、赤く割られた石榴《ざくろ》の実のように詰っていた。彼はテーブルの間を黙々として歩いてみた。押し襲《よ》せて来た女が、彼の肩からぶら下った。彼は群らがる女の胴と耳輪を、ぶら下った女の肩で押し割りながら進んでいった。彼の首の上で、腕時計が絡《から》み合った。擦り合う胴と胴との間で、南瓜《かぼちゃ》の皿が動いていた。
 参木はこの無数の女に洗われるたびごとに、だんだん慾情が消えていった。彼は椅子へ腰を下ろすと煙草を吸った。テーブルの上に盛り上った女の群れが、しなしな揺れる天蓋のように、彼の顔を覗き込んだ。彼は銀貨を掌の上に乗せてみた。と、女の群れが、逆《さか》さまになって、彼の掌の上へ落ち込んで来た。彼は重なり合った女の下で、漬物のように扁平になりながらげらげら笑い出した。銀貨を探す女の手が、彼の胸の上で叩き合った。耳輪と耳輪がねじれ合った。彼は膝で女の胴を蹴りながら、宙に浮んできらきらしている沓《くつ》の間から首を出した。彼がようやく起き上ると、女たちは一つの穴へ首を突っ込むように、ばたばたしながら、椅子の足をひっ掻いていた。彼は銅貨を集った女たちの首の間へ流し込んだ。蜂のような腰の波が、一層激しく揺れ出した。彼は彼に絡《から》まった女たちを見捨てて、出口の方へ行こうとした。すると、また一団の新しい春婦の群れが、柱やテーブルの間から襲《おそ》って来た。彼は首を真直ぐに堅めながら、その尖角《とが》った肩先で女たちを跳ねのけ跳ねのけ進んでいった。彼の首は前後から女の腕に絡まれながらも、波を押しきる海獣のように強くなった。彼は女を引き摺《ず》る圧感で汗をかいた。彼は肩を泳ぐように乗り出しつつ、女の隙間をめがけて食い込んだ。だが、女の群れは、彼の身体から振り放されるたびごとに、新手を加えてたかって来た。彼は肱で縦横無尽に突きまくった。すると、突かれた女は踉《よ》ろけながら、また他の男の首に抱きついて運ばれていった。
 参木は茶館を出ると水を探した。もう身体がぐったりと疲れていた。彼は再び自分を待ち受けているお杉の身体を思い出した。
「危い、危い。」と彼はうめくように呟《つぶや》いた。
 彼は競子の良人《おっと》が死んでしまって、競子の顔を見るまでは、お杉の身体に触れてはならぬと思っていた。もし彼がお杉に触れたら、彼はお杉を妻にしてしまうに定《きま》っていると思うのだ。だが、それまで、いかなる整理法で身を清めて行くべきか。彼は何より古めかしい道徳を愛して来た。この支那で、性に対して古い道徳を愛することは、太陽のように新鮮な思想だと彼には思うことが出来るのだ。――
 すると、参木は不意に肩を叩かれた。振り向くと、さっきの支那人がまた写真を持って彼の後に立っていた。
「どうです、十枚二円。」
 参木はこの風のような支那人に恐怖を感じて睨《にら》んでいた。が、また彼はそのまま、黙って歩き出した。いま一度写真を見たらもう駄目だ。――彼はショウインドウの飾りつけを首を突き込むように見て歩いた。真赤な蝋燭の群れが天井から逆さに生えた歯のように下っていた。鏡に取り包まれた桃色の寝台。牢獄のような質屋の門。饂飩屋《うどんや》の饂飩の中に、牛の足が蹄《ひづめ》を上向けて刺さっていた。すると、また、彼は肩を叩かれた。
「どうです、十枚一円。」
 瞬間、参木は閃めいた一つの思想に捉われて興奮した。
 ――人間は、真に人間に対して客観的になるためには、世人の繁殖運動を眼前に見詰めなければ、駄目である。――と。彼はしばらくして、追い込まれるように露路の中へ這入っていった。露路の奥には、阿片に慄えた女の群れがべったり壁にひっついて並んでいた。

一一

 プラターンの花からは、花が吹雪のようにこぼれていた。宮子は甲谷に腕を持たれて歩いて来た。栗に似たひしゃげた安南《あんなん》兵が劒銃を連《つ》らねて並んでいた。その円いヘルメットの背後では、フランスの無線電信局が、火花を散らして青々と明滅した。宮子はミシェルの高雅な秋波《しゅうは》を回想しながら甲谷にいった。
「あたし、ここの電信局の技師さんと十三日間踊ったことがあったのよ。フランス人でミシェルっていうの。あたし、ミシェルは好きだったわ。どうしてるかしら、あの人。」
 踊り場からようやく初めて二|哩《マイル》も踊子を連れて来て、与えた花束の大きさを較べられては、甲谷とて発奮せずにはおられないのだ。
「今夜だけは静に取扱ってもらいたいもんだね。何しろこの頃は急がしくって、日記をつけている暇もろくろくないんだから。」
「あたしだってこの通り急がしいわよ。あなたはあたしを見ると、好きだ好きだと仰言《おっしゃ》るし、イタリア人はイタリア人で、あたしを放してくれないし、まア、何んでもいいわ。その日その日はなるだけ愉快に暮すのが一番だわ。」
「じゃ、今の所はイタリア人と競争かい。」と甲谷はいった。
「だって、あたしはこれでも、容子さんと競争なのよ。あのイタリア人はあたしと容子さんとをいらいらばかりさせてるの。だから、あたし、今度はアメリカ人とばっかり踊ってやるの。」
「道理で旗色はどうも悪いよ。」
 宮子は毛皮の中で首を縮めて笑い出した。
「そうよ、だって、外国人はお客さんだわ。あなたなんか、少しはあたしたちと共謀して、外国人からお金をとらなきあ駄目じゃないの。こんなあたしや秋蘭さんなんか、いくら追い廻したって、始まりやしないわ。」
 哲学は到る所から生《は》えていく。甲谷は日本人の色素のために、ここでも悲しまねばならぬのであった。彼は今まで、過去に堆積された女から賞讃され続けて来た理由はこうである。
 ――まア、あなたは外国人のようだわね。――
 だが、宮子の前で外人らしさを外人と競争することは、甲谷にとっては不利であった。彼はもう十日間も宮子の踊場へ通って来た。だが、宮子の眼は、
「まア、日本人は、後にしてよ。」といつもいう。
 この支那の海港の踊子の虚栄心は、いくたりの外人が切符を自分にばかり集めるかを計算し合うことである。そうして、宮子はこの計算では、常にナンバー・ワンの折紙をつけられているのであった。
 甲谷は十日間の三分の一を、その自由なフランス語とドイツ語とで外人と張り合った。後の三分の一の力を、金と饒舌に注ぎ込んだ。しかし、この宮子の高ぶった誇りの穴へ落ち込んだ日本人――甲谷が、宮子の誇りを無くするためには、彼はあまりに誇りすぎていたのである。甲谷はだんだん滅《ほろ》んで行く自信のために、今はますます宮子に手を延ばさずにはおれなかった。
 微風に吹きつけられたプラターンの花の群れは、菩提樹の幹へ突きあたって廻っていた。その白い花々は三方から吹き寄せられると、芝生にひっかかりながら、小径の砂の上を華奢《きゃしゃ》な小猫のように転げていった。
「まアいやね、この先は真暗だわ。」と宮子は彼に寄りそっていった。
「大丈夫だよ、行こう。」
 甲谷は公園の芝生を突き切ると光りの届かぬ繁みの方へ廻っていった。宮子はその繁みの向うに何があるのかまで知っていた。彼女はミシェルとそこで、池の傍で、過ぎた日曜のある日の晩、どうして二人が一時間の時間を忘れたかを覚えている。まア、何んと男は同じ所を好むのであろう。彼女はそこで、甲谷が何をするかをまで知っているのだった。――甲谷は宮子の回想を案内するかのように、水草の沈んだ池の傍まで歩いて来た。
「もうこのさきは駄目だわ。ここらあたりで帰りましょうよ。」と宮子はいった。
 宮子はひとりで甲谷から放れると、ちらりと一叢の芽を出した灌木を眺めながら、門の方へ歩いていった。
 甲谷は宮子の後姿を見詰めていた。彼は彼女の足を牽《ひ》きつけている者が、宮子を繞《めぐ》っている逞《たくま》しい外人の足の群れだと睨んでいる。だが、どうして日本人は、このようにも軽蔑されねばならぬのであろう。――甲谷は公園の門の前まで、自分の短い足を歎きつつ歩いて来た。しかし、彼はその門から前へ、公園の中へ、どうして支那人だけが這入ることを赦されてはいないのか考えるのはうるさいのだ。
 枝を截《き》り払われた菩提樹の若葉の下で、宮子は瓦斯燈《ガスとう》の光りに濡れながら甲谷の近づくのを待っていた。
「瓦斯燈のある所なら、あたし、誰とでも仲良く出来るのよ。」
 勝ち誇った華奢な宮子の微笑が、長く続いた青葉のトンネルの下を潜《くぐ》っていく。坦々|砥《と》のように光った道。薔薇の垣根。腹を映して辷《すべ》る自動車。イルミネーションの牙城へと迫るアルハベット。甲谷はここまで来ると、再び彼がそのようにも負かされ続けた外国人たちの礼譲を、支那人ではないということを示さんがためばかりにさえも、重《おもん》じなければならぬのだった。彼は宮子の手をとるといった。
「これからカルトンまで歩いていこう。」
「あたし、パレス・ホテルへ行きたいの。」
 今は甲谷は、池の傍でズボンの折目を乱さなかったという巧みさを誇るかのように快活になって来た。
「こうして手を組み出すと、まるで生活が明るくなるね。これや全く不思議だよ。」
「そりゃ、あたしたちは踊子だからよ。」
「しかし、君らはダンスをするのが目的なのか、それとも君らはまア――。」
「もう沢山。あたしたちが結婚すれば、堕落するのと同じなのよ。だから、もう結婚のお話だけはまっ平《ぴら》よ。それよりあなたなんか、秋蘭さんでも見てらっしゃればそれでいいじゃないの。」
「いや、僕らは君を追っかけては振り廻され、追っかけては振り廻されているのは、これやいったい、どうしたもんだろうって考えてるのさ。」
 宮子は突然、甲谷に見られていない片頬に、鱗《うろこ》のような鮮明な嘲笑を揺るがせた。
「そりゃ、なかなかむつかしいわ。あなたは社交ダンスの踊り方を御存知ないのよ。いつでもあたしたち、女は男のするままの姿勢になって踊るべしっていわれてるんでしょう。だから、あたしのような踊子たちは、踊らないときだけでも自由に踊らなくちゃたまんないわよ。」
 甲谷は矢継早《やつぎば》やに刺されながらも、なお鈍感らしい重みを鄭重に続ける必要を感じるのであった。何故なら、彼は、宮子に愛されることよりも、今はこの珍らしい光芒を持った女性の急所が、どこにあるのか見届けたかったからである。彼は一昨々夜、闇の中で黙々と彼に身を委ねたお杉のことを思い出した。あのお杉とこの宮子、そうして、あのお柳とあの支那婦人の芳秋蘭、――何《な》んと女の変化の種類も色とりどりなものではないか。甲谷はまだ参木に紹介しないこの宮子を、是非とも参木に――あの不可解なドン・キホーテに紹介してみたくてならぬのであった。
 甲谷と宮子は、河岸のパレス・ホテルへ着くと、ロビーの椅子に向い合った。大伽藍のように壮麗な側壁、天空を摸《も》した高い天井、輝き渡った床と円柱、アフガンの厚ぼったい緋の絨氈《じゅうたん》。――誰も人影の見えない円柱と円柱との隙間の彼方で、押し黙った外人が二人、端整な姿でダイスをしていた。筒から投げられる骰子《さい》ころの音が、森閑とした大理石の間に木魂《こだま》を響かせつつころころと聞えて来ると、宮子はコンパクトを取り出していった。
「あなた、ここへもう直《じ》き、ドイツ人が逢いに来るのよ。そしたら、あなたはひとりで帰ってね。」
「何んだそれは、君の例の恋人か?」
「そう、まア、恋人ね。御免なさい。ちょっと今夜はいたずらがしたくって、あなたを煽《おだ》ててみたかったの。もう直き来てよ。」
 甲谷はひと息呼吸を吸い込んだ。すると、宮子は笑いながらまたいった。
「だって、あたしは休日でしょう。休みの日には、せいぜい沢山、お客さんを喜ばせておかないと、休日にはならないわよ。つまり、今日があたしの本当の働き日なの。世間の人とは反対よ。」
「ドイツ人って、あのいつものフィルゼルとかいう甲虫《かぶとむし》か。」と甲谷はいった。
「ええ、そう、だけどあれでもアルゲマイネ・ゲゼルシャフトの錚々《そうそう》たる社員だわ。あの人とゼネラル・エレクトリックのクリーバーって社員とは、それやいつも熱心よ。あたし、今夜はフィルゼルと逢ったら、すぐクリーバーとも逢わなくちゃならないの。」
「じゃ、勿論《もちろん》、まだ帰りは分らんね。」
「それは駄目よ。まだまだそれからが大変なんだから。パーマスシップのルースとも一寸逢わなきアならないし、マリンのバースウィックとも逢わなきあならないし。ほんとに、あたし、今夜はやれやれというとこなの。」
 甲谷は時計を見上げると立ち上った。
「それじゃ、僕はこれから、サラセンへいって、のんきにひと晩踊ってやろう。さようなら。」
「さようなら。後であたしも、誰かをつれて一緒にいくわ。」

一二

 苦力《クリー》たちは寝静まった街の鋪道で眠っていた。塊《かたま》った彼らの肩の隙間では、襤褸《ぼろ》だけが風に靡《なび》いた植物のように動いていた。扉を立てた剥げ落ちた朱色の門の下で、眼の悪い犬が眠った乞食の袋を圧《おさ》えていた。ときどき鬱然《うつぜん》と押し重なった建物の中から、鋭く警官の銃身だけが浮きながら光って来た。参木はロシア人の娘を連れて山口の家まで帰らねばならなかった。彼は三日前にお杉を街でまいてから、今まで山口の家に泊っていたのである。彼はその間、山口の幾人かの女の中のこのオルガの淋しさを慰める命令を受けたのだ。
「この女は淋しがりやで、正直で、音楽が帝政時代みたいに好きなんだ。君が遊んでいるならしばらくよろしく頼んだよ。いや、何、その間は君に自由の権利を与えるよ。」
 参木は明らかに山口から嘲弄されたのを知っていた。だが、彼は山口からアジヤ主義の講義で虐《いた》められるよりはこのオルガと音楽の話をしている方が愉快であった。
「よし、それならしばらく借りよう。その間に、君は僕の仕事を見つけておいてくれ給え。」
 参木は三日間、ほとんどロシアの知事の生活と、チェホフとチャイコフスキーとボルシェビーキと日本と、カスピ海の腸詰の話とで暮して来た。しかし、ふと彼は家に残して来たお杉の処置を考えると、その場所とは不似合な憂鬱に落ち込んだ。
 オルガは今も参木の顔が黙々として暗くなると、せき立てるように足を早めて英語でいった。
「駄目、駄目、あなたはどんな嬉しそうな時でも、悲しそうだわ。」
「いや、あなたは、日本人の表情をまだよく知っちゃいないんです。」
「嘘よ、あたしはちゃんと知ってるの。山口はあなたのことをいっていたわ。」
「山口なんか、何《なん》にも知りゃしませんよ。」
「嘘だわ。あたし、山口からいいつかっているの。あなたは死にたい死にたいといってる人なんだそうですから、なるたけ楽しそうにするようにって。」
「馬鹿な、僕はね、オルガさん、あなたは淋しがりやだから、よろしく頼むって山口からいわれてるんですよ。」
「まア、そう。山口も上手《うま》いのね。でも、あたしなんか、そりゃ初めは淋しかったわ。だけど、もうこうなればね。」
「それや、そうですよ。」
 眠った街の底でオルガの顔の繊細な波だけが、波紋のように鮮やかに動いていた。アカシヤの葉に包まれた瓦斯燈には守宮《やもり》が両手を拡げて止っていた。火の消えたアーチの門。油に濡れた油屋の鉄格子。トンネルのような露路の中には、家ごとの取手の環が静かに一列に並んでいた。オルガは溜息《ためいき》をつくと鋪道の石線を見詰めながら寄って来た。
「ね、参木さん、隠しちゃいやよ、あの山口ね、あの山口には五人の女があるんでしょう。」
 恐らく五人どころではないだろう。だが、参木はオルガを慰めなければならぬ命令を山口から受けているのだ。
「僕は山口のことについては、実は何も知らないし、山口だって僕のことは、何も知りゃしないのです。しかし、それや何かの間違いじゃありませんか。」
「あなたは、あたしのいうことがお分りにならないんだわ。山口が女を幾人持とうと、あたしには何んでもないの。ただね、あたし、あなたがもう少しあたしの傍にいて下されば、と思うのよ。」
 参木はもう三日間、ブロークンな英語の整理に疲れていた。それに、このオルガの溜息に滴《したた》らす会話は初めてだった。
「オルガさんは、いつかバザロフのお話をなすったですね。あのツルゲネーフのバザロフの。」
「ええ、ええ、あの唯物主義者はボルシェビーキの前身ですわ。」
「ところが、あれが僕の現在なのですよ。」
「まア、あなたは、それじゃ、あたしたちがどんなに困らされたかということも、御存知ないのね。」
「いや、それは知っていますとも。しかし、バザロフはボルシェビーキじゃありませんよ。あれは唯物主義者でもない虚無主義者でもない、物理主義者なんです。これはロシア人にはよく分らないと思うんですが、一番よく知っているのは支那人です。支那人は唯物主義者の一歩進んだ物理主義者の集団です。」
「あたしには、あなたの仰言《おっしゃ》ることが、分らない。」とオルガはいった。
 ――つまり、愛の言葉を聞きかけたら、わけの分らぬことをいうが良いという主義なんだ、と参木は思うと淋しくなった。オルガは一層しおれて歩き出した。街角の瓦斯燈の下では、青ざめた甃石《しきいし》の水溜りに、鉄の梯子《はしご》が映っていた。複合した暗い建物の下で、一軒の豆腐屋が戸を開けて起きていた。その屋根の下では、重々しく動く石臼の間から、この夜中に真白な粘液だけがひとりじくじくと鮮やかに流れていた。
「あーあ、あたし、モスコウへ帰りたい。」とオルガはいった。

一三

 参木は山口の家へ着くと、自分の部屋に当てられた一室へ這入った。彼はひとりになって寝台の上へ仰向きに倒れると、急に東京の競子のことを思い出した。もし死にかかっている競子の良人《おっと》が死んでいる頃だとすれば、電報は彼女の兄の甲谷の所へ来ているにちがいなかった。が、その甲谷とはもう三日も逢わぬのだ。しかし、甲谷に逢うために家へ帰れば、家にはお杉が待ち伏せているに決っていた。
 ――この心の中に去来する幻影は、これはいったい何《な》んだろう。お杉、競子、お柳、オルガ。――ただ競子をひそかに秘めた愛人であったと思っていたばかりのために、絶えず押し寄せて来る女の群れを跳ねのけて進んでいるドン・キホーテ。――然《し》かも、競子の良人が死んだとしても、彼は競子と結婚出来るかどうかさえ分らないのだった。いや、それより、彼は今は自分の職業さえ失っているのである。
 そのとき、今別れたはずのオルガが突然這入って来て彼にいった。
「まア、山口はいないのよ。あなた、捜して頂戴、あたし、これからひとり帰らなきゃならないんだわ。あああ、いやだ、あたし、モスコウへ帰りたい。」
 オルガはいきなり参木の寝ている寝台の上へ倒れると、泣き始めた。参木は、これが喜ぶべき結果になるか悲しむべき結果になるかを考えながら、オルガの背中を撫でてみた。すると、オルガは首を振り立てて怒ったように彼にいった。
「あなた、そこを降りて頂戴、あたし、今夜はひとりで寝るんです。」
 参木は黙って寝台から降りると靴を履《は》いた。
「じゃ、お休みなさい。さようなら。」
 彼が会釈をして部屋から出ようとすると、オルガは不意に彼の胸に飛びついて来た。
「いや、いや、出ちゃ――。」
「だって、ここにこうして一晩立ってるのは、困りますよ。」
「ボルシェビーキ、悪魔、あなたたちはあたしをこんなにしたんです。」
 参木は弓なりに反《そ》りながら、オルガの膨《ふく》れた乳房を支えていった。
「僕はボルシェビーキじゃありませんよ。」
「そうよ。あなたはボルシェビーキです。そうでなくちゃ、あなたのように冷淡な人なんか、いやしません。」
「だいたい、僕がここにこうして寝ているとき、僕を叩き起して、代りに自分がベッドを奪《と》ろうというのは、ボルシェビーキだってしませんよ。」
 オルガは唇を噛み絞《し》めると、黙って泣きながら、参木の腕をぐいぐい引いた。参木はオルガの力に抵抗しながらも、足が辷って寝台の方へ引き摺《ず》られた。彼は片手を寝台につきながら、海老《えび》のように曲った。
「オルガさん、そんなことをしちゃ、この服が破れるじゃないですか。」
「悪魔。」
「僕は失職してるんです。服が破れたら、明日から、――」
 いいつつ参木はおかしくなって、げらげらと笑い出した。オルガはうむうむ唸《うな》りながら、参木の首を片腕で締めつけつつ、彼を引き倒そうとして赤くなった。参木は首がだんだんと痛くなった。彼はオルガの咽喉《のど》を押しつけた。
「オルガさん、放しなさい。殴りますよ。」
 しかし、オルガはなおも歯を食い縛ったまま彼の首を締めつけた。彼は呼吸が苦しくなると、咳が出た。
「オルガ、オルガ、――」
 参木はオルガを担《かつ》いでベッドの上へ投げつけた。オルガの足は空を廻って一転すると、慄えた寝台の上で弾動した。が、すぐ彼女は起き上ると、枕を参木に投げつけた。
「馬鹿、馬鹿。」
 彼女は真青になったまま、再び猛然と彼の頭の上へ飛びかかった。彼は風の中でオルガの身体を受けとめると、背後へよろめいて、壁の鏡面へ手をついた。オルガは彼の肩口へ食いつくと、首を振った。参木は押しつける筋肉のうねりと、鏡面にしぼり出されて長くなった。やがて、彼と彼女との肉体は、狂気と生との一線の上で、うなりながら混雑した。と、二人は、今は誰が誰だか分らぬ棒のように放心したままばったりと横に倒れた。

一四

 参木はしばらくオルガのなすがままにまかせていた。オルガは彼の額の前で溌剌《はつらつ》と伸縮しながら囁《ささや》いた。
「まア、あなたは可愛らしい。参木、お休みなさいな。ここは、ほら、こんな床の上じゃないの。風邪をひいてよ、さアさア。」
 オルガは参木の頭を持ち上げようとした。が、彼女はまたそのまま坐り込むといった。
「参木、あなたはあたしを忘れちゃいやよ。あなたはあたしを、日本へ連れてって下さるでしょう。あたし、日本が見たいの。ね、参木、何んとか仰有《おっ》しゃいよ。」
 オルガの唇が参木の顔の全面を、刷毛《はけ》のように這い廻った。すると、彼女は立ち上ってベッドの皺をぽんぽんと叩いた。
「まあ参木は強いわね。あたしをここへ投げつけたのよ。あたしあのとき、眼が廻ってくるくるしたわよ。だけど、あたし、もういいの。」
 オルガはベッドの中へ飛び込むと、ひとり毛布を冠ったまま膝でダンスをし始めた。しかし、参木は横たわったまま起きて来なかった。オルガは毛布の中から頭を上げると覗いてみた。
「参木、どうしたの。」
 参木はようやく起き上ると、オルガから顔をそむけて部屋を出ようとした。
「参木、どこ行くの。」
 彼は黙ってどしんと肩でドアーを開けかけた。すると、オルガは毛布を引き摺ったまま彼の傍へ駈けて来た。
「いやだわ。参木、出るならあたしも連れてって。」
 参木はオルガの顔を、まるで投げ出された足でも見るように眺めていた。が、彼はまたそのまま出ようとした。
「いやよ、いやよ。あたし、ひとりなら死んでしまう。」
「うるさい。」
 参木はオルガを突き飛ばした。オルガはぶるぶる慄えると、わッと声を上げて泣き出した。参木は素早くドアーを開けて部屋の外へ飛び出した。オルガは屏風のように傾いて彼の後から駈けて来た。彼女は階段の降り口の上で参木の片腕をつかまえた。
「参木、あなたはあたしから逃げるんだわ。いやだ、いやだ。」
 ばたばた足を踏みながら、彼女は彼の手を濡れた顔へ押しつけた。参木はしばらく黙って立っていた。が、彼は握られた手を振り切ると、また階段を降り始めた。オルガは彼のシャツをひっ掴んだ。彼女の身体は撓《たわ》みながら逆さまになった。参木は欄干を掴んだまままた降りた。
「参木、待って、待って。」
 引き摺られるオルガの反《そ》り返った足先は、階段を一つずつ叩いていった。シャツを剥がれた参木の腹の汗の中で、臍《へそ》が苦しげに動揺した。すると、参木は一気に階段を駈け下った。彼は惰力で前面の壁へ突きあたった。オルガは階段の下で廻転すると、参木の足元へぶっ倒れた。参木はオルガを起そうとして身を跼《かが》めた。が、ふと急に、彼は空を見上げたときのような淋しさを感じて来た。彼は呻いているオルガを跨《また》いで突き立ったまま、何んの表情も動かさずに彼女の頭髪を眺めていた。

一五

 夜のその通りの先端には河があった。波立たぬ水は朦朧《もうろう》として霞んでいた。支那船《ジャンク》の真黒な帆が、建物の壁の間を、忍び寄る賊のようにじっくりと流れていった。お杉は時々耳もとで蝙蝠《こうもり》の羽音を感じた。仰げば高層な建物の冷たさが襲って来た。――彼女は三日間参木の帰るのを待っていた。が、帰らないのは参木だけではなかった。甲谷も一夜も帰らなかった。ただその間、彼女は湯を沸かしては水にし、部屋を掃除し続けては泥溝《どろどぶ》を眺めて、ようやく二人から嫌われたのだと気付いたときには、腹立たしさよりも、ぼんやりした。お杉は再びもう参木には逢うまいと決心して、この河の岸まで来たのである。
 泥の中から起重機の群れが、錆びついた歯をむき出したまま休んでいた。積み上げられた木材。泥の中へ崩れ込んだ石垣。揚げ荷からこぼれた菜っ葉の山。舷側の爆《はじ》けた腐った小舟には、白い菌が皮膚のように生えていた。その竜骨に溜った動かぬ泡の中から、赤子の死体が片足を上げて浮いていた。そうして、月はまるで塵埃《ごみ》の中で育った月のように、生色を無くしながらいたる所に転げていた。

   Pouco tempo somente
   De Pressa de cima abaixo

 ポルトガルの水兵が歪んだ帽子の下で、古里の歌を唄って通って行く。お杉は月を見ると、月のようになった。泥溝を見ると、泥溝のようになった。――彼女は、今も朝からの続きを、まだ茫然と過ごしているのだ。が、ふと、お杉は友人の辰江のことを思い出した。
 ――あの辰江のように、部屋を持って、客さえ取れば。――
 そうだ。辰江のように客さえ取れば、と彼女は思うと、急に橋の上で、生き生きと空腹を感じて来た。彼女は朝から食べた食物を数えてみた。
 ――家鴨《あひる》の足と、蓮の実と、豚の油と、筍《たけのこ》と。――
 だが、お杉の頭には、辰江の絹の靴下が、珍稀な歓楽を詰めた袋のようにちらちらした。唇の紅の色が、特別な男の舌のように、秘密を持って膨れて見えた。と、彼女は、またいつものように、自分を奪ったものは参木であろうか、甲谷であろうかと迷い出した。彼女は、あの夜の出来事が――自分を奪ったあの男は、二人の中のどちらであろうかと思い煩う念力のために、きりきり廻った無謀な風のように中心を無くし出した。そうしてお杉は、今は一切のことが分らぬままに、女の中の最後の生活へと早道をとり始めたのだ。
 胡弓の音が遠く泥の中から聞えて来た。お杉は橋を渡ると、見覚えた春婦のように通る男の顔を眺めてみた。彼女の前の店屋では、べたべた濡れた臓物の中で、口を開いた支那人が眠っていた。起重機の切れた鎖の下で、花を刺した前髪の少女が、ランプのホヤを売っていた。河岸に積み上った車の腐った輪の中から、弁髪《べんぱつ》の苦力《クリー》が現われると、お杉の傍へ寄って来て笑い出した。お杉は背を縮めて歩いていった。すると、男は彼女の後からついて来た。お杉は慄えながら後ろを振り返って男にいった。
「ちがう、ちがう。」
 彼女は周章《あわ》てて露路の中へ駈け込むと、せかせかと、幾つもの角を曲っていった。その露路の奥では、鋭く割れたガラスの穴の中で、裸体の背中が膨れていた。お杉は立ち停ると、どちらへ出るのか迷い出した。彼女の頭の上には、鰓《えら》のように下った洗濯物が、まだべとべと壁を濡らして並んでいた。柱にもたれた女が、突角《とが》った肩をぴくつかせて咳きをしていた。その後の床の上では、眼病の裸体の男女が、一本の赤い蝋燭を取り巻いたまま蹲《しゃが》んでいた。ふとお杉は上を向くと、四方から迫っている壁の窓々から、黙々とした顔が、一つずつ覗き出した。お杉は慄えた棒のように、敷石に躓《つまず》きながら、壁の中から壁の中へさ迷い込んだ。灯がだんだんとなくなり出した。と、闇の中で、今まで積った塵埃だと思っていた襤褸《ぼろ》の山が、急に壁の隅々から、無数にもぞもぞと動き出した。お杉は壁にぴったりひっつくと、足が動かなかった。と、忽《たちま》ち、その黒い襤褸の群れは、狭い壁と壁との間いっぱいに詰まりながら、鈍重な波のように襲って来た。お杉は一瞬、眼前に並んで点々としている人間の鼻の穴を見た。と、彼女はその場へ昏倒すると、塊った襤褸の背中の波の中に吸い込まれて見えなくなった。

一六

 塵埃《じんあい》を浴びて露店の群れは賑っていた。笊《ざる》に盛り上った茹卵《ゆでたまご》。屋台に崩れている鳥の首、腐った豆腐や唐辛子の間の猿廻し。豚の油は絶えず人の足音に慄えていた。口を開けた古靴の群れの中に転げたマンゴ、光った石炭、潰《つぶ》れた卵、膨れた魚の気胞の中を、纏足《てんそく》の婦人がうろうろと廻っていた。
 この雑然とした街角の奥に婆羅門《ばらもん》の寺院が聳《そび》えている。しかし、釈尊降誕祭のこの日の道路は、支那兵の劒銃に遮断されて印度《インド》人は通れなかった。それが明らかに英国官憲の差金であろうことを洞察している印度人たちは、街の一角を埋めたまま、輝やく劒銃を越して寺院の尖塔を睨《にら》んで立っていた。
 間もなくこの露骨に印度人の集会を嫌う英国風の街の中を、草色の英国の駐屯兵が隊部にロシアの白衛兵を加えながら、楽隊を先駆にして進んで来た。その後から、真赤な装甲自動車が機関銃の銃口を触角のように廻しながら、黒々と押し黙った印度人の団塊の前を通っていった。
 山口は印度の志士のアムリから電話を受けて、参木と一緒に来たのである。だが、来て見れば機関銃の暗い筒口の前で、印度人たちは眼を光らせたまま沈黙しているだけだった。しかし、それにしても、アジヤ主義者の山口は、英国の官憲と同様に印度人を遮断している支那の軍隊に腹立たしさを感じて来た。が、ふと、彼はアムリが彼を呼び出した原因を、同時に感じて笑い出した。
 ――この腹立たしさを俺に呼び起すためだとすると、成る程、アムリの奴め――
 しかし、瞬間、彼は支那の軍隊の遮断している道路が、その街角から彼らの方向へ向っては、支那の管轄区域だということに気がついた。
 ――これじゃ、アムリの奴、日本人に考えろといいやがったんだ。馬鹿にするな。馬鹿に。――
 しかし、次の瞬間、彼は支那兵と対峙している印度人の集団を、英国の官憲として使われている印度人の警官が圧迫しているのを発見した。
 こうなると、山口はアムリの意志がどこにあったのか分らなくなって来た。――この馬鹿な印度人の醜態を見るが良いといったのか、支那の国内で暴れている英国兵を、支持している支那の兵士のその顔を見よといったのか。――
 しかし、山口はアムリと同様、このアジヤを聯結させて白禍に備える活動分子の一人として、眼前の支那と印度の無力な友の顔を見ていると、笑うことは出来なかった。彼は街路で、この民族の衝突し合っている事件とは無関心に、笊に盛り上っている茹卵を見つけると、支那人の顔を思い出した。足元の屋台の上に、斬《き》られた鳥の首ばかりが黒々と積って眼を閉じているのを見ると、印度人を思い出した。彼は彼の横に、アムリがいるかのように呟いた。
「数の多いということは、ただ弾丸除《たまよ》けになるだけだ。」
「そうだ。」と参木は、不意に、自分にいわれたように返事をした。
 事実、山口はアムリに逢うと、アムリの誇る「印度人の数の多数」を、いつもこの言葉で粉砕するのが癖であった。すると、アムリは山口の誇る日本の軍国主義を皮肉った。
 ――しかし日本の軍国主義こそ、東洋の白禍を救い上げている唯一の武器ではないか。その他に何がある。支那を見よ、印度を見よ、シャムを見よ、ペルシャを見よ。日本の軍国主義を認めるということは、これは東洋の公理である。――
 山口は鋪道の上を歩きながら、ひとり過ぎた日のアジヤ主義者の会合を思い出して興奮した。その日は支那の李英朴《りえいぼく》が日支協約の「二十一ヶ条」を楯にとって悪罵した。山口はそれに答えて直ちにいった。
「支那も印度も日本の軍国主義を認めてこそ、アジヤの聯結が可能になる。然《しか》も僅かに日本の南満租借権が九十九年に延長されたということを不平として、われわれは東洋を滅ぼさねばならぬのか。われわれの東洋は、日本が南満を九十九年間租借したという事実のために、九十九年間の生命を保証されたということに気付かねばならぬのだ。」
 すると、アムリは皮肉にいった。
「日本が南満を九十九年間租借したということによって、われわれの同志、山口と李英朴がかくのごとく相い争うという事実は、日本が少くとも、九十九年間東洋の同志をかく論議せしめるであろうということを、予想せしめて充分である。しかし、印度はこの日支の係争如何に係らず独立する。もしその独立の日が来たならば、印度は支那から、いかなる海外の勢力をも駆逐せずにはおかぬであろう。印度のために、東洋の平和のために。」
 だが、印度の独立の日までに、支那を滅ぼすものは何《な》んであろうかと山口は考えた。
 ――それは明らかに日本の軍国主義でもない。英国の資本主義でもない。それはロシアのマルキシズムか支那自身の軍国か、いや寧《むし》ろ印度の阿片かペルシャの阿片か、そのどちらかにちがいないのだ。
 この東洋を憂いつつ緊張している山口の傍では、参木は前からどういえば昨夜のオルガとの交渉を、彼に理解さすことが出来るだろうかと考えていたのである。彼は午後の二時から甲谷と逢わねばならぬ約束を、電話でしたのだ。甲谷と逢えば、競子のこととお杉のこととを聞かねばならぬ。だが、それより前に、いったいオルガをどう処置したら良いであろう。――
 彼は自分がどれほどオルガに抵抗したかを考えた。彼はオルガがどれほど自分に肉迫したかを考えた。しかし、その結果が、このようにオルガの処置について苦しまねばならぬとは。――
「君、もう今日から、僕は君の所へは帰らないよ。」と参木はいった。
「何《な》ぜだ、オルガが恐くなったのか。」
 不意に急所へ殺到して来た山口の質問を、参木は受けとめることが出来なかった。
「うむ、あれは恐い。」
「ところが、僕はあれから君を逃がさないようにっていいつかってあるんだぜ。逃げちゃ困るよ、逃げちゃ。」
「いや、もう御免こうむるよ。」
「困ったね、そりゃ印度のことよりこっちの方が難かしくなるんじゃないか。」
 参木は突然げらげら笑い出した山口の顔を見ていると、彼は腹の中に隠れていた伏線を感じて恐くなった。
「今日はこれから僕を逃がしてくれ。二時に甲谷と逢わねばならんのだ。」
「君は馬鹿だよ。あの面白い女から逃げ出すなんて、何んて阿呆だ。」
 参木は山口の嘲笑を背中に受けながら、パーテル・カフェーの方へ急いでいった。ただ競子の良人が死んだかどうかを知りたいためにである。

一七

 甲谷はその日の中に三つの材木会社と契約を結んで来た。彼は軽快な祝報を先ずシンガポールの本社へ打った。
「余の活躍かくのごとし。フィリッピン材をして蒼白ならしめること、期して待て。」
 彼は参木から支配会社へかかっていた電話を思い出すと、速力の早そうな黄包車《ワンポウツ》を選んでパーテルへ走らせた。彼は車の上で快活であった。この順調さで押していくと、この地の支店長になれることは忽《たちま》ちだった。すれば最も安全な方法で金塊相場に手を出そう。次には綿糸へ、次には外国為替の仲買へ、次にはボンベイサッタの綿花市場へ、次にはリバプールの大市場へ、そうして最後に――彼はとにかく何よりも、今は宮子を外国人たちに奪われているということが、鬱憤の種であった。彼の空想の中で暴れる勇ましい野心は、宮子を奪っている外人たちの生活力の中心を、突撃してかかることに集中された。
 彼は、外人たちの経済力の源泉となりつつある支那の土貨に対して、彼らの向ける鋭い垂直トラスト尖鋒を、あくまで攪乱《こうらん》しなければやまぬと考えた。
 ――それには、先ず、フィリッピン材の馬を射よ、馬を。――
 この燃え上って来た彼の妄想の横では、桟橋が黒い歯のように並んでいた。のろく揚げ荷の移動している彼方では、金具を光らせたモーターボートが縦横に馳けていた。波と湯気とを嫌らって逃げる「※[#「舟+山」、第4水準2-85-66]※[#「舟+反」、U+8228、100-4]《サンパン》。繁殖したマスト。城壁のように続いた船舶。河水の色の変り目の上で舞うぼろ帆。甲谷の車の速力へ、今は一切の風物が生彩を放って迫って来た。
 フィリッピン材何物ぞ。鴨緑江《おうりょくこう》材何者ぞ。浦塩《ウラジオ》であろうと吉林であろうと、何するものぞ。――
 こう思ってパーテルへ這入ると、休んだ煽風器の羽根の下で、これはまたあまりに長閑《のどか》に、参木はミルクに溶ける砂糖の音を聞いていた。甲谷は入口から手を上げて進んでいった。
「どうも一度も家へ帰らないから、少々きまりが悪くなってね。」
「それや、僕もだ。まだあれから一度も家へは帰らないよ。」
「それじゃ、君もか。」
 二人は同時に、残されたお杉のことを考えた。が、甲谷は浮き上って来る喜びに落ちつくことが出来なかった。
「おい君、今日はこれで三つの会社を落して来たんだ。まア、ざっとこれで三万円。」
「もう喜ばすような話はやめてくれ。僕は君と別れた日から首になった。」
「首か。」
「うむ、少々、痛い所を突いてみた。」
「だから、君は馬鹿だというんだ。馬鹿な――。」
 重い時計の振り子の下で、帝政ロシアの幹部派たちがいつもの憂鬱な顔を並べて密談に耽《ふけ》っていた。巻かれたナフキンの静かな群れ。暖炉の沈んだ大理石。厚いテーブルの彫刻に散らかった干菓子の粉。秘密な波を垂れ下げたカーテンの暗緑色。――ふと甲谷はこの重厚なロシアの帝政派の巣窟、パーテルは、今は自分の快活さに不似合なことに気がついた。眼につく一切のものが、過ぎたロココの優雅さのように低声で、放埒《ほうらつ》に巻き上った絨氈の端にまで、不幸な気品がこぼれている。
「おい君、ここは出たっていいんだろう。」
「うむ、しかし、僕は今日はここは落ちついて好きなんだ。首を切られたときはこういう所が一番だよ。」
「まるでここは君みたいな所だね。首を切られたものの寄り合いでさ。」
「そう急に馬鹿扱いにするなよ。僕はこれでも貴様の懐を狙っているんだぞ。」
「いや、これはこれは。これじゃ、どっちが帝政派か分らんが。ひとつ、あそこのロシア人に聞いてやろう。」
 ひどく愉快そうに笑っている甲谷の大口を見ていると、参木はもうこの日の甲谷を信用することが出来なくなった。甲谷はいった。
「さて、ひとつ、という所だが、どうだい、今日は僕のいうままになってくれるのか。」
「君のお附きは愉快じゃないね。君の金を皆渡せよ。」
「ところが、そこに僕の頼みがあるのさ。この眼の色を見てくれたって分るだろう。」
「そんなら、こっちの眼の色だって分るだろう。首を切られてお附きになるなら、首なんか切られなくたってすんだんだ。」
「頑固な奴だね。支那の美徳は金に服従する所にあるんじゃないか。まだ君は精魂が抜けぬから馬鹿なんだ。さて、馬鹿な奴は馬鹿にして、と、ボーイ。」
 ボーイが来ると、甲谷は立ち上ってまたいった。
「ね、参木、今日はひとつ、二人で馬鹿の限りを尽そうじゃないか。まだまだ人生には、面白いことがいくらだってあるんだぜ。それに、何んだい君は、顔を顰《しか》めて、首を切られて、今頃からドン・キホーテの真似をしてさ。阿呆だよ。」
「いや、僕は今日は、君の兄貴の家へ行くんだよ。僕はいくら君から馬鹿にされたって、君の兄貴に仕事を探して貰わなくちゃならんのだからね。」
 参木は外へ出ると、甲谷には介意《かまわ》ず、彼の兄の高重の家の方へ歩き出した。甲谷は彼の後からいい続けた。
「おい、そっちへ行かずにこっちへ来いよ。今夜はそっと芳秋蘭を見せてやろう。芳秋蘭を――。」

一八

「競子もどうやら、いよいよ亭主が危くなって来たらしい。亭主が死ねば帰るといって来ているが、あいつも日本よりは支那の方が好きだと見えるよ。しかし、この俺だってこの頃は危いからね。今の所、競子の亭主が先きか、俺が先きかという所さ。おっと、細君が聞いてやしないかい。こいつに聞かれちゃ、こりゃ一番危いぞ。」と高重は甲谷と参木を見ていった。
「どうしてだ。」甲谷は意外な顔つきで兄を見た。
「いや、職工の中へ、ロシアの手が這入り出したんだ。俺は職工係りだから、一番危い所にいるわけだ。いつ何時《なんどき》機械の間から、ぽんとやられるかもしれないさ。もうそろそろ、冗談事じゃないんだよ。」高重は唇の片端を舐《な》めながら弟の甲谷の服装をじろじろ眺めた。
「じゃ、もう争議が始ったのか。」
「いや、争議の前だ。だから今がなかなか危いのさ。あの浜中総工会が曲者だよ。」
「それや危いね、他人事《ひとごと》ながら。」
「他人事ながら?」と高重はいって弟の方に眼を据えた。
「うむ、俺は今日は、三万円の契約をすまして来たんだ。この調子だと、ここ半年の間に支店長は受け合いだぞ。」
「それや、他人事ながら羨しいが、兄貴は職工係りで苦い汁ばかりを吸ってるし、弟は美味《うま》い汁ばかり吸ってるなんて、どっかの教科書にあったじゃないか。もし俺が支那人だったら、やるね、この職工係りに突きかかって、それから、お前のような奴を吹き飛ばして。」高重は声高く笑った。
「あ、そうそう、二、三日前に芳秋蘭という女をサラセンで見かけたが、何んでも山口は兄貴がその女を知ってるといってたよ、知ってるのかい。芳秋蘭? 全く素晴らしい美人だが。」と甲谷はいった。
「うむ、それは知ってる。俺の下で使っているそりゃ女工だ。」
「女工だって?」
 と甲谷は驚いたように訊き返した。
「まさか女工じゃないだろう。それや、何かの間違いだよ。」
「ところが、芳秋蘭は変名でこっそり俺の下で働いているんだ。来ればいつだって見せてやろう。俺はいい出すとうるさいから、黙って知らない顔をしてやっているんだが、あれは共産党でもなかなか勢力のある女だ、あれは恐いよ。争議が起ればだい一番に、あの女が俺を殺すかも知れたもんじゃないから、俺もなかなか骨が折れるさ。」と高重はいって顎を撫でた。
「殺されちゃ、そりゃ兄弟争議にもならないね。」
 甲谷の混ぜかえすのに、高重は落ちつき払って微笑した。
「全くだ。職工の顔は立ててやらねばならぬし、重役の顔も立てねばならぬし、それに日本人の顔も立てていなけれやならず、お負けに兄貴としての顔も立てねばならぬとしたら、どうもこれじゃ、ぽんとやられる方が良いかもしれぬ。どうです。参木先生。」
「いや、僕もそう思ってる所です。」と参木はいった。
「そうそう、参木は首を切られてね、僕の財布を狙ってるところなんだ。」と甲谷はいった。
「首か。」
「だから、さっきから、首を切られる奴は、昔から馬鹿な奴だといってた所さ。」
「首じゃ、それや、参木君ならずともやられたくなるはずだよ。」
「どうです、そのやられるような職はないもんでしょうか。どこだっていいんですよ。さっきから、それをお願いしたくって来たんですが。」参木は頼み難いことも容易に掴んだ機会を喜ぶように、顔を赧《あか》らめて高重を見た。
「それやある。いくらだってあるにはあるが、今もいった通り、その、危い所だぜ。そこでも良いのならいつでも来給え。一ぺんは国家のために死ぬのも死甲斐もあろうさ。」
「もうこうなっちゃ、なるたけやられる所の方がいいんですよ。さばさばしますからな。」
 全く話題に落ちがついたというように、声を合せて三人は笑い出した。
 声が沈まると、参木は部屋の中を見廻した。――この部屋の中で、競子は育った。この部屋の中で、彼女を愛した。そうして、自分はこの部屋の中で、幾たび彼女の結婚のために死を決したことだろう。それに、今はこの部屋の中で、競子の兄から自分が生き続けるための生活を与えられようとしているのだ。何んのために? ただ彼女の良人の死ぬことを待つために。――
 参木はこの地上でこれほども自分に悲劇を与えた一点が、ただ索寞としたこの八畳の平凡な風景だと思うと、俄《にわか》に平凡ということが、何よりも奇怪な風貌を持った形のように思われ出した。しかも、まだこの上に、もし競子が帰って来たとしたら、再びこの部屋はその奇怪な活動を黙々と続け出すのだ。
 参木は窓から下を眺めてみた。駐屯している英国兵の天幕が、群がった海月《くらげ》のように、紐を垂らして並んでいた。組み合された銃器。積った石炭。質素な寝台。天幕の波打つ峯と峯との間から突如として飛び上るフットボール。――参木はふとこの駐屯兵の生活が、本国へ帰れば失われてしまっていることを慨嘆したタイムスの記事を思い出した。そうして、この地の日本人は? 彼らは医者と料理店とを除いては、ほとんどことごとく借財のために首を締められて動きのとれぬ群れだった。参木はいった。
「もうこの支那で、何か希望らしい希望か理想らしい理想を持つとしたら、それは何も持たないということが、一番いいんじゃないかとこの頃は思うんですが、あなたなんか、どういう御意見なんですか。」
「それやそうだ。ここじゃ理想とか希望とか、そんなものは持ちようが全くない。第一ここじゃ、そんなものは通用しない。通用するのは金と死ぬことだけだ。それもその金が贋金《にせがね》かどうかと、いちいち人の面前で検《しら》べてからでなけれや、通用しないよ。」
「ところが、参木はその贋金をも試《しら》べないんだからね、全くこいつ、使い道のない奴だよ。」と甲谷はいった。
「いや、それや参木君も僕と同様で、その贋金を使うのが好きなんだ。だいたい支那で金を溜める奴というものは、どっか片輪でなきあ溜《たま》らんね。そこは支那人の賢い所で、この地でとった金は、残らずこの地へ落して行くような仕掛けがしてある。まだわれわれを、人間だと思っていてくれる所が、支那人の優しい所さ。」
「じゃ、支那人は人間じゃない神様か。」と甲谷はいって仰山に笑い出した。
 すると、高重は急に真面目な顔に立ち返って甲谷を見た。
「うむ、もうあれは人間じゃない人間の先生だ。支那人ほど嘘つきの名人も世界のどこにだってなかろうが、しかし、嘘は支那人にとっちゃ、嘘じゃないんだ。あれは支那人の正義だよ。この正義の観念の転倒の仕方を知らなきあ、支那も分らなきあ、勿論《もちろん》人間の行く末だって分りやしないよ。お前なんか、まだまだ子供さ。」
 参木は高重の長い顔から溢れて来る思いがけない逆説に、久しく欠乏していた哲学の朗らかさを感じて来た。参木はいった。
「それであなたなんか、職工係りをやってらしって、例えば職工たちの持ち出して来る要求を、これは正しいと思うような場合、困るようなことはありませんか。」
「いや、それやある。しかし、そこは僕らの階級の習慣から、自然に巧い笑顔が出て来るんだ。僕はにやにやっとしてやるんだが、このにやにやが、支那人を征服する第一の武器なんだよ。これは虚無にまで通じていて、何んのことだか分らんからね。うっかりしている隙に、後ろから金を握らしてまたにやにやだ。それで落ちる。外交官なんて皆駄目さ。ところが、こんどの奴だけは、いくらにやにやしたって落ちないんだ。こうなると、こっちが正義に打たれて、もう一度にやにやとは出来ないからね。どうも日本人という奴は、正義に脆《もろ》くて軽佻だよ。君、支那人のように嘘つくことが正義になれば、もう此奴《こいつ》はいつまでたったって、滅びやしないよ。あらゆるものを正義の廻転椅子に乗せて廻すことが出来るんだ。いったい、世界にこんな怪奇な国ってどこにある。」
 高重は年長者の自由性のために、二人の前でだんだん興奮し始めた。参木は高重の話そのものよりも、今は自分の年齢の若さが、これほども年長者を興奮させ得る材料になりつつあるという現象に、物珍《ものめず》らしい物理を感じて来た。

一九

 海港からは銅貨が地方へ流出した。海港の銀貨が下り出した。ブローカーの馬車の群団は日英の銀行間を馳け廻った。金の相場が銅と銀との上で飛び上った。と、参木のペンはポンドの換算に疲れ始めた。――彼は高重の紹介でこの東洋綿糸会社の取引部に坐ることが出来たのだ。彼の横ではポルトギーズのタイピストが、マンチェスター市場からの報告文を打っている。掲示板では、強風のために米棉相場が上り出した。リヴァプールの棉花市場が、ボンベイサッタ市場に支えられた。そうして、カッチャーカンデーとテジーマンデーの小市場がサッタ市場を支えている。――参木の取引部では、この印度の二個の棉花小市場の強弱を見詰めることは最大の任務であった。どこから綿の花を買うべきか。この原料の問題の解決は、その会社の最も生産量に影響を及ぼすのだ。そうして、誰もその存在を認めぬカッチャーカンデーとテジーマンデーの小市場は、突如として、ひそかな旋風のように市場の棉花相場を狂わすことが度々《たびたび》あった。
 参木は、前からこの印度棉が支那の棉花を圧倒しつつある現象を知っていた。だが、印度棉の勢力の擡頭《たいとう》は、東洋に於ける英国の擡頭と同様だった。やがて、東洋の通貨の支配力は、完全に英国銀行の手に落ちるであろう。そうして、支那は、支那の中に於て富む者が何者であろうとも、彼らの貯蓄が守護されることによって、その貯蓄を守護するものを守護しなければならぬのだ。そうして、彼らから絶えずもっとも強力に守護されつつあるものは、同様に英国の銀行だった。
 参木はこの綿の花の中から咲き出した巨大な英国の勢力を考えるたびごとに、母国の現状を心配した。彼の眼に映る母国は――母国は絶えず人口が激増した。生産力は、その原料の生産地が、各国同様、もはやほとんど支那以外にはないのであった。そうして、経済力は? その貧しい経済力は、支那へ流れ込んだまま、行衛《ゆくえ》不明になっていた。思想は? 小舟の中で沸騰しながら、その小舟を顛覆《てんぷく》させよ、と叫んでいる。
 原料のない国が、いかに顛覆しようとも同じことだ、と参木は思った。だが、いずれことごとくの国は次第に形を変えるであろう。だが、英国の顛覆しない限り、顛覆したことごとくの国は不幸である。先ず何事も、印度が独立したその後だ。正義は印度より来るであろう。それまで、母国はあらゆる艱難を切り抜けて動揺を防がねばならぬ、と参木は思った。
 参木はそれまで、机の上で元貨を英貨のポンドに換算し続けなければならぬのだ。
 彼は正午になると煙草を吸いに広場へ出た。女工たちは工場の門から溢れて来た。彼女たちは円光のように身体の周囲に棉の粉を漂わせながら、屋台の前に重なり合って饂飩《うどん》を食べた。忽《たちま》ち、細《こまか》な綿の粉は動揺する小女たちの一群の上で、蚊柱のように舞い上った。肺尖カタルの咳が、湯気を立てた饂飩の鉢にかんかんと響いていた。急がしそうに彼女らは足踏みをしたり、舞い歩いたりしながら饂飩を吹いた。耳環《みみわ》の群れが、揺れつつ積った塵埃《ごみ》の中で伸縮した。
 遠く続いた石炭の土手の中から、発電所のガラスが光っていた。その奥で廻転している機械の中では、支那人の団結の思想が、今や反抗を呼びながら、濛々と高重たちに迫っているのだ。そこでは高重たちは、その精悍な職工団の一団の前で、一枚の皮膚をもって、なおにやにやと笑い続けて防がねばならぬのであろう。
 参木は河の方を見た。河には、各国の軍艦が本国の意志を持って、砲列を敷きながら、城砦のように連って停っていた。
 参木は思った。自分は何を為《な》すべきか、と。やがて、競子は一疋の鱒《ます》のように、産卵のためにこの河を登って来るにちがいない。だが、それがいったい何んであろう。自分は日本を愛さねばならぬ。だが、それはいったい、どうすれば良いのであろう。しかし、――先ず、何者よりも東洋の支配者を! と参木は思った。
 彼はだんだん、日光の中で、競子の良人の死ぬことを望んでいた自分自身が馬鹿馬鹿しくなって来た。

二〇

 ホールの桜が最後のジャズで慄《ふる》え出した。振り廻されるトロンボーンとコルネット。楽器の中のマニラ人の黒い皮膚からむき出る歯。ホールを包んだグラスの中の酒の波。盆栽の森に降る塵埃《ほこり》。投げられるテープの暴風を身に巻いて踊る踊り子。腰と腰とが突き衝《あた》るたびごとに、甲谷は酔いが廻っていい始めた。
「いや、これは失礼、いや、これは失礼。」
 階段の暗い口から、一団のアメリカの水兵が現れると、踊りながら踊りの中へ流れ込んだ。海の匂いを波立たせた踊場は、一層激しく揺れ出した。叫び出したピッコロに合せて踏み鳴る足音。歓喜の歌。きりきり廻るスカートの鋭い端に斬られた疲れ腰。足と足と、肩と腰との旋律の上で、三色のスポットが明滅した。輝やく首環、仰向く唇、足の中へ辷《すべ》る足。
 宮子はテープの波を首と胴とで押し分けながら、ひとり部屋の隅で動かぬ参木の顔へ眼を流した。ドイツ人を抱くアメリカ人、ロシア人を抱くスペイン人、混血児と突き衝《あた》るポルトギーズ。椅子の足を蹴飛ばしているノルエー人。接吻の雨を降らして騒ぐイギリス人。シャムとフランスとイタリアとブルガリアとの酔っぱらい。そうして、ただ参木だけは、椅子の頭に肱をついたまま、このテープの網に伏せられた各国人の肉感を、蟇《ひきがえる》のように見詰めていた。
 踊りがすむと人々はもたれ合って場外へ雪崩《なだ》れ出た。廻転ドアは踊子の消えるたびごとに廻っていった。火は一つ一つ消え始めた。逆《さか》さまに片附けられる椅子の足が、テーブルの上で、俄《にわか》に生き生きと並び始めた。そうして、金庫の鍵が静に廻り終ると、いつの間にか影をひそめた楽器の後で、羽根を閉ざしたピアノが一台、黒々と沈んでいた。甲谷はようやくひとつ取り残された燈火の下で、尻もちをついたまま自分の影にいっていた。
「いや、これは失礼、いや、これはこれは。」
 参木はこの急激に静ったホールの疲労に鋭い快感を感じて来た。彼は身動きも現さず、甲谷の鈍い酔体を眺めたまま、時計の音を聞いていた。天井の隅で塵埃《ほこり》と煙の一群が、軽々と戯れては消えていった。甲谷は散らかったテープの塊を抱きながら、首を振り振り、呟くように唄い出した。

  Casi me he caido,
   Traigame algo mas,
  No es nada no toque,

 歌にまでまだ飲みたいと、日頃自慢のスパニッシュ・ソングを歌う甲谷を見ていると、参木は立ち上らずにはいられなかった。彼は甲谷を肩にかかえると、森閑としたホールの白いテープの波の中を、よろけながら歩き出した。と、ふとどこかのカーテンが揺らめくと、鏡の中から青い微光が漣《さざなみ》のように流れて来た。
「まア、甲谷さん、駄目だわね。秋蘭さんが来たんじゃないの。しっかりなさいよ。」
 帰り支度になった宮子がドアーから二人の傍へよって来た。彼女はぶらぶらしている甲谷の片腕を支えながら参木にいった。
「これからあなた、どこまでお帰りになるつもり。」
「さア、まだどこにしようかと思ってるところなんです。」と参木はいった。
「じゃ、あたしん所へいらっしゃいな。もうすぐ夜が明けるから、しばらくの辛棒《しんぼう》よ。」
「いいんですか、二人づれでいったって?」
「あたしはいいの。だけど、あなた、それじゃあんまり重いわね。」
「此奴《こいつ》はいつでもこうですよ。」
 宮子は頭を垂れた甲谷の首の上から、片眉を吊り上げた。
「介抱させられる番ばかりは、いやだわね。」
 階段を降りると三人は外へ出た。甃石《しきいし》の上で銅貨を投げ合っていた車夫たちが参木の前へ馳けて来た。三つの黄包車《ワンポウツ》が走り出した。

二一

「何《な》んだかあなた、遠慮深そうな恰好でいらっしゃるのね、ここはいいのよ。もっとのびのびとして頂戴。あたし、あなたの御不幸はもう何もかも知ってますのよ。」
 甲谷を寝かせた隣室で、宮子は長椅子《ジュバン》に疲れた身体を延ばしながら参木にいった。
 参木は樺色のスタンドの影を鼻の先に受けながら、何を彼女がほのめかすのか、煙草の煙の中で眼を細めて聞いていた。
「ね、あなたはあたしがあなたのことを、何も知らないとでも思ってらっしたんでしょう。あたし、あなたがどんな方だかそれや長い間見たかったのよ。でも今夜初めてお逢いして、多分こんな方だろうと思っていたあたしの想像が、あたったの。」
 参木はこの女の頭の中で、前から幾分間か生活していたらしい自分の姿を考えた。それは恐らく、どこかの多くの男たちの姿の中から、つぎはぎに引き摺り出された襤褸《ぼろ》のようなものだったにちがいない。――
「じゃ、甲谷は僕の悪口をよほどいったと見えますね。」
「ええ、ええ、それや、毎日あなたのことを伺ったわ。それであたし、実は少々あなたのことを軽蔑してたのよ。だって、あなたは、あたしのような女を軽蔑ばかりしてらっしゃる方でしょう。」
「いや、そう人は思うだけですよ。」と参木は疲れたように低くいった。
「そんなことは、何《な》んのいいわけにもならないわ。あたしは男の方を一目見れば、その方がどんなことを考えたかってすぐ分るの。これだけはいつもあたしの自慢だから、もう駄目よ。あなたがどれほどあの方を愛してらっしゃるかってことだって、ちゃんとあたしには分っているんだから。」
「何をあなたはいい出すんです。」と参木はいって宮子を見た。
「いえね、これは別のことなの。どうしてあたしこんなことをいったんでしょう。さア、召上れ、これはサルサパリラっておかしなものよ。踊った後はこれでなくちゃさっぱり駄目だわ。」
「甲谷はそんなことまでいったんですか。」
「甲谷さんが何を仰言《おっしゃ》ろうといいじゃないの。あなたはあなたで、ここにこうしていて下されば、あたしそれで嬉しいのよ。あたし今夜は眠らないわよ。」
「あなたはよっぽど疲れていらっしゃるんでしょう。もう眠《やす》んで下さい。」
「あたし、もういつもならぐたぐたなの。だけど、こうしていると、今夜はあなたといくらでもお話が出来そうなの。あたし今夜は饒舌《しゃべ》ってよ、あなた眠くなったら、甲谷さんの所で寝て頂戴。あたしここでこうして寝てしまうかも知れないから。」
「じゃ、僕はここにこうしてたってちっとも疲れてやしませんからもうどうぞ。」と参木はいった。
「いいのよ。あたし、あなたを眠らせるくらいなら、この長椅子だってお貸しするわ。まアそんなに汚なそうにひと様の部屋をじろじろ見なくったって、踊子の生活なんて、分ってるじゃありませんか。いずれお察しの通り、ろくなことなんかしてないわよ。」
 刺戟の強い白蘭花《パーレーホー》が宮子の指先きで廻されると、曙《あけぼの》色の花弁が酒の中に散らかった。彼女は紫檀の円卓の上から花瓶を取ると、花の名前を読み上げながら朝ごとの花売の真似《まね》をし始めた。
「ちーつーほう、でーでーほう、めいくいほう、ぱーれいほッほ、めーりいほ――まア、今夜は暑いわね。あたし、こういう夜は、きっと白菓《バッコ》の夢を見るに定《きま》っているの。」
 彼女は花弁で埋ったコップを参木に上げて飲みほすと、身体を反《そ》らして後の煙草を捜した。めくれ上ったローブの下で動く膝。空間を造ってうねうねうねる疲れた胴。怠惰な片手に引摺られて張った乳。――参木はいつの間にかむしり取られた白蘭花《パーレーホー》の萼《がく》だけを、酒の中で廻しているのだった。
「あ、そうそう、あたしあなたにお見せしたいものがあったんだわ。あたしには今五人の恋人が揃っているのよ。フランス人と、ドイツ人と、イギリス人と、支那人と、アメリカ人なの。まだその他にもないことはないんだけど、今は倹約して腕を持たせてやるだけにしてあるの。」
 彼女は吸いかけた煙草を膝で挟むと、抽斗《ひきだし》の中からアルバムを取り出した。
「ね、このフランス人はミシェルっていうのよ。それからこれは、アメリカ人なの。その他のも見て頂戴な。どれもこれも立派な男で蓮の実みたいに甘いのが特長よ。まアその日本の女を好きなことって、お話にならないわ。あれはきっと奥さんに虐《いじ》められて来たからね。だからあたし、出来るだけそういう人には猫を冠《かぶ》って大切にしてやってますの。」
 参木は宮子の恋人の顔を見ることよりも、今は彼女に近づく好奇のために、だんだん椅子を動かした。彼女は足を縮めると参木にいった。
「さア、もっとこちらへ来て頂戴。そこじゃ、あたしの恋人の顔が真黒に見えるじゃないの。」
「いや、あんまりはっきり見え出しちゃ困るでしょう。」
「いいわよ、たまにはそういう立派な顔も見とくもんだわ。さア、こちらへいらっしゃいって、あなたには、叱らなきあ駄目なのね。」
 参木は甲谷がこの手で首を絞められているのかと思うと、しばらく黙って宮子の顔を眺めていた。
「あたし、あなたが、何を恐がってびくびくしてらっしゃるのか、分っているのよ。だけど、安心して頂戴、あたしの恋人は、ちゃんとここに五人も並んでいるんですからね。あなたのように他人に恋人を盗られて青ざめている人なんか、あたしは相手にしない性分なの。」
 参木は上眼で宮子の顔を見た。どこか身体の中の片端で猛然と飛び上る感情を制しながら、彼はにやにやと笑った。宮子は参木の方へ向ったテーブルの一角へ足を上げるとまたいった。
「ね、あたしにはあなたの恋人が御主人とどんなことをしてらっしゃるか、それやよく分ってるのよ。だから、あたしはあなたがお気の毒なの。あたしの恋人なんか、競争であたしの身の廻りのことをしてくれるわ。この下の毛氈《もうせん》だって、これはミシェルがコオラッサンだって持って来てくれたものなんだし、このクションの天鵞絨《びろうど》だって、イギリス人がスキュタリだからどうだとか、ビザンチンがどうだとかいって、かつぎ込んで来てくれたものばかりなのよ。勿論《もちろん》、そればかりじゃないわ。昨日も昨日で、ゴルフであたしの取り合いを始めたの。こんなことは、あなたも一寸見ておきなさいよ。」
「それはとにかく、その足だけは上げないように出来ませんか。」と参木はいった。
「あら、まア、あたし、いつの間に足なんか上げたんでしょう。踊子は足が大切なもんだけど、こんなに大切なもんじゃないわ。御免なさい。あたし疲れると、何をし出すかしれないのよ。これであたし、やっぱり踊子なんかになったんだわ。」
「あなたは恋人が来たときでも、そんなことをするんですか。」
「まア、そろそろ、馬鹿にし始めたのね。あたしの恋人なんか、あたしにこんなことをさせたりするもんですか。」
 参木は宮子が両手を拡げたように思われた。彼はオルガの跳ね上った足と宮子の足とを較べながら、宮子の傍へどっかと坐ってまたアルバムを取った。すると宮子は参木の手からアルバムを取り上げた。参木は彼女の唇の端に流れた嘲弄を感じると、突然、圧《お》しきれぬ若々しさが芽を吹いた。彼は苦渋な表情のままじっと煙草を吸っていたが、いきなり宮子の首を締めつけた。宮子のマルセル式の頭髪が長椅子《ジュバン》の脊中を転々と転がった。宮子は胴に笑いを波立たせながら参木の顔を叩いていった。
「まア、あなたでも、そんなことを知ってらっしゃったのね。あたし、油断をしちゃって、失敗《しま》ったわ。」
 白蘭花《パーレーホー》の花弁が宮子の口に含まれると、次ぎ次ぎに参木の顔へ吹きつけられた。クションが長椅子の逆毛を光らせつつ辷り出した。と、やがて、声をひそめて浮き上った彼女の典雅な支那|沓《ぐつ》が、指先に銀色の栗鼠《りす》の刺繍を曲げながら慄えて来た。ふと、参木は思わぬ危険区劃に侵入している自分に気がついた。彼は飛び上ると鏡を見た――何んと下品な顔ではないか。彼女は自分の中からこの汚さを嗅ぎつけたにちがいない、と思うと彼は、再び突っ立ったまま宮子の顔を睨んでいた。宮子は片脇にクションを抱き込むと、突然大きな声で笑い出した。
「まア、あなたは、心配ばかりしてらっしゃるのね。あなたのなさるようなことなんか、なんでもないわよ。あたしがあなたなんかに悲しまされると思ってらしちゃ間違いだわ。さアここへいらっしゃいよ。そんな恐ろしい顔はなるだけ鏡の中でしてちょうだい。」
 参木は手丸《てだま》にとられてやり場のなくなった自分の顔を感じると、この思いがけない悲惨な醜さが、どこから襲って来たのであろうかと考えた。彼は再び静に宮子の傍へ坐ると云った。
「もう、そろそろ夜が明け出して来ましたね。」
「あなたは私を御覧になったときから、ぎくしゃくして、あたしに負けまいとばかり思ってらっしたのね。だけど、いくらそんなこといって誤魔化したって、もう駄目よ。あなたとあたしはこれから喧嘩ばかりしてなきあならないわよ。」
 踏みとまろうとする参木の心は、またもずるずる辷っていった。彼は肉体よりも先立つ自分の心の危険さを考えた。彼はまた立ち上ると宮子にいった。
「じゃ、もう僕はこれで失礼しましょう。さようなら。」
 宮子は不意を打たれて黙っていた。参木はそのまま部屋の外へ出ようとした。
「夜が明けるのにこれからあたしひとりでなんかいられないわ。あなたは礼儀っていうものを御存知ないの。」
 参木は振り返ると、絨氈《じゅうたん》の上に転げていたアルバムを足で踏みつけた。
「じゃ、今夜はもうこれだけで、赦してくれ給え。いずれまた、そのうちに。」
 彼は明け初《そ》めた緑色の戸外へ、何事でも困るとその場を捨てる彼の持病を出して、さっさとひとりで出ていった。

二二

 霖雨《りんう》の底で夜のレールが朧《おぼ》ろげに曲っていた。壊れかかった幌馬車が影のように、煉瓦の谷間の中を潜っていった。混血児の春婦がひとり、弓門《きゅうもん》の壁に身をよせて雨の街角を見詰めていた。彼女の前の瓦斯燈《ガスとう》の傘の上には、アカシヤの花が積ったまま、じくじくと腐っていた。狭い建物の間から、霧を吹いたヘッドライトが現れると、口を開けた酔漢を乗せたまま通り過ぎた。
 参木は春婦の前を横切ると露路の中へ這入っていった。その露路の奥の煤《すす》けた酒場では、彼の好む臓物が、鍋の中で泡を上げながら煮えていた。客のない酒場の主婦は豆ランプの傍で、硼酸《ほうさん》に浸したガーゼで眼を洗いながら雨の音を聞いていた。参木は高重の来るまでここで、老酒《ラオチュウ》を命じて飲み始めた。二人はこれから工場の夜業を見に廻らねばならぬのだ。
 臓物のぐつぐつ煮えた鍋の奥では、瘤《こぶ》まで剃った支那人の坊主頭が、瀬戸物のようなうす鈍い光りを放ったまま動かなかった。主婦の眼にあてたガーゼから流れる水音が、酒と一緒に参木の脊骨を慄わせた。彼の前では、煉瓦の柱にもたれた支那人が、眼を瞑《つぶ》ったまま煙管《きせる》を啜《す》っていた。煙管の針の先きで、飴《あめ》のような阿片の丸《たま》が慄えながらじいじいと音を立てた。豚の足は所々に乱毛をつけたまま乾いた蹄《ひづめ》を鍋の中から出していた。
「おい。」と不意に高重はいって参木の後へ現れた。
 参木は振り返った。高重は呼吸を切迫させて立て続けにいった。
「君、僕の後から従《つ》けて来ている奴があるからね、よろしく頼むよ、どうも、明日が危い。明日、奴らは始めるらしいぞ。今夜はこれから警官の所へ廻って、御機嫌をとっとかなくちゃならんのだ。いや早《は》やどうも、眼が廻るよ。」
 いよいよ罷業《ひぎょう》が始まるのだ。
「じゃ、これからすぐあなたはいらっしゃるんですか。」
「うむ、行こう。」と高重はいいながら参木の盃をとって傾けた。
「しかし、いよいよ始まったとした所で、始まったら始まったでどうにかなるさ。そこは支那魂という奴で、ね、君、不思議なもので、僕はこれでも、会社がひっくり返ろうとしているのに、昨夜現像した水牛の写真の方が気になるんだ。」
「それほどの程度で済ませるなら、ここで酒でも飲んでる方がいいでしょう。」
「いや、まアそういってしまっちゃおしまいさ。僕の会社に罷業が起れば、後の会社は将棋倒しだ。僕のこの腕一本は、今の所、支那と日本の実権を握っているのと同じだからね。僕を煽《おだ》てて酒を飲ましちゃ、国賊だよ。」
「じゃ、もう一杯。」
 二人は首を寄せて飲み始めた。高重は片腕を捲《ま》くし上げると、盃を舐《な》めながら、ぶるぶる慄えて落ちそうな阿片の丸《たま》を睨んでいた。
 虫の食った肝臓が皿の上に盛り上って並べられた。阿片の匂いが酒の中へ混って来た。うす鈍い光りを放って寝ていた坊主頭が、煉瓦の柱の角から脱《はず》れると、瘤にひっかかって眼を醒《さま》した。豆ランプが煤けたホヤの中で鳴り始めた。
「あ、そうだ、君にいうのを忘れていた。」と高重はいうと、突然眉を顰《ひそ》めて黙ってしまった。
 参木はしばらく高重の盃に当てた唇を眺めていた。
「競子の婿《むこ》が死んだんだ。」
 参木は急に廻転を停めた心を感じた。と、輝き出した巨大な勢力が、彼の胸の中を馳け廻った。彼は喜びの感動とは反対に、頭を垂れた。だが、次の瞬間、彼はじりじり沈んで行く板のような自分を感じた。
 ――俺が競子の良人《おっと》に変るとしても、金がない。地位がない。能力がない。ただ有るものは、何の形もない愛だけだ。――
 ふと、彼は高重の沈黙の原因を、自分に向けた高重の憐愍《れんびん》だと解釈した。
 すると、俄《にわか》に、怒りが腹の中で突っ立ち上った。彼は競子を――高重の妹を、押し除《の》ける作用で充血した。すると、今まで彼女のために跳ね続けて来た女の動作が、浮き上って来て、乱れ始めた。お柳、オルガ、お杉、宮子、と泡立ちながら――。
「さて、いよいよこれから夜業の番か、おい君、今夜は危いから、僕から放れてひとり行っちゃ、おしまいだよ。」
 高重はポケットのピストルに触りながら立ち上った。参木も彼の後から出ていった。彼は嫁いだ競子をひそかに愛していた空虚な時間に、今こそ決然と別れを告げねばならぬと決心した。
 ――まア、いくらでも、お目出度《めでた》くめそめそしたけりゃ、するがいいよ。――
 雨の中を一組の日本の巡羅兵《じゅんらへい》が、喇叭《らっぱ》を小脇にかかえて通っていった。高重は参木の方へ傾くと小声でいった。
「君、今度の罷業は大きくなるよ。」
「大きけりゃ、大きいだけ、面白いじゃないですか。」
「それも、そうだ。」
 二人は黄包車《ワンポウツ》に乗ると飛ばしていった。

二三

 円筒から墜落する滝の棉《わた》。廻るローラー。奔流する棉の流れの中で工人たちの夜業は始まっていた。岩窟のような機械の櫓《やぐら》が、風を跳ね上げながら振動した。舞い上る棉の粉が、羽搏《はばたか》れた羽毛のように飛び廻った。噴霧器から噴き出す霧の中でベルトの線が霞み出した。噛み合う歯車の面前を、隊伍を組んだ糸の大群が疾走した。
 参木は高重につれられて梳棉部《カード》から練条部《ドローイング》へ廻って来た。繁った鉄管の密林には霧が枝々にからまりながら流れていた。雑然と積み重ったローラーの山がその体積のままに廻転した。
 参木は突撃して来る音響に耳を塞いだ。すると、捻《ね》じれた寒い気流が無数の層を造って鉄の中から迫って来た。高重は棉の粉を顔面に降らせながら、傍の女工を指差していった。
「どうだ、これで一日、四十五銭だ。」
 棉を冠って群れ動く工女の肩が、魚のようにベルトの瀑布の中で交錯した。揺れる耳環が機械の隙間を貫いて光って来た。
「君、あそこの隅にスラッピングがあるだろう。その横で、ほら、こちらを向いた。」と高重はいうと、急に黙って横を見た。
 絡《からま》ったパイプの蔓《つる》の間から、凄艶な工女がひとり参木の方を睨んでいた。参木は彼女の眼から狙われたピストルの鋭さを感じると高重に耳打ちした。
「あの女は、何者です。」
「あれは、君、こないだいってた共産党の芳秋蘭さ。あの女が右手を上げれば、この工場の機械はいっぺんに停るんだ。ところが近頃、あの秋蘭はお柳の亭主一派と握手し出して来てね。なかなかしたたかものでたいへんだ。」
「それが分っている癖に、何《な》ぜそのままにしとくんです。」
「ところが、それを知ってるのは、僕だけなんだよ。実は、僕はあの女と競争するのが、少々楽しみなんだ。いずれあの女もやられるに定《きま》っているから、見ておき給え。」
 参木はしばらく芳秋蘭の美しさと闘いながら彼女の悠々たる動作を見詰めていた。汗と棉とが彼の首筋から流れて来た。廻るシャフトの下から、油のにじんだ手袋が延び出て来ると、参木の靴の間でばたばたした。高重は参木の肩を叩いて支那語でいった。
「君、これでこの工場の賃銀は、外国会社のどこよりも高いんだ。それにも拘らず、また一割増の要求さ。僕の困るのも分るだろう。」
 実は周囲の工女に聞かすがために、参木にいった高重の苦しさを、参木は感じて頷いた。すると、高重は再び日本語で彼に向って力をつけた。
「君、この工場を廻るには、鋭さと明快さとは禁物だよ。ただ朦朧とした豪快なニヒリズムだけが機関車なんだ。いいか、ぐっと押すんだ。考えちゃ駄目だぞ。」
 二人は練条部《ドローイング》から打棉部《スカチャー》の方へ廻って来た。廊下に積み上った棉の間には、印度人の警官がターバンを並べて隠れていた。
「参木君、この打棉部《スカチャー》には危険人物が多いから、ピストルに手をかけていてくれ給え。」
 円弧を連ねたハンドルの群れの中で、男工たちの動かぬ顔が流れていた。怒濤のような棉の高まりが機械を噛んで慄えていた。参木はその逆巻《さかま》く棉にとり巻かれると、いつものように思うのだ。……生産のための工業か、消費のための工業かと。そうして、参木の思想はその二つの廻転する動力の間で、へたばった蛾《が》のようにのた打つのであった。彼は支那の工人には同情を持っていた。だが、支那に埋蔵された原料は同情の故をもって埋蔵を赦すなら、どこに生産の進歩があるか、どこに消費の可能があるか。資本は進歩のために、あらゆる手段を用いて、埋蔵された原料を発掘するのだ。工人たちの労働がもしその資本の増大を憎んで首を縛りたいなら、反抗せよ、反抗を。
 参木はピストルの把手を握って工人たちを見廻した。しかし、ふと、また彼は考えた。
 ――もし母国が、この支那の工人を使わなければ、――彼に代って使うものは、英国と米国にちがいない。もし英国と米国が支那の工人を使うなら、日本はやがて彼らのために使用されねばならぬであろう。それなら、東洋はもう終いだ。
 参木は取引部へ到着した今日のランカシアーからの電文を思い出した。ランカシアーでは、英国棉の振興策を講じるため、工業家の大会が開催された。その結果、マンチェスターの工業家の集団は、ランカシアーと共同して、印度への外国棉布の輸入に対し関税の引き上げを政府へ向って要求した。
 参木はこの英国に於けるマーカンチリズムの活動が、何を意味するかを知っている。それは、明らかに日本紡績への圧迫にちがいない。彼らは支那への日本資本の発展が、着々として印度に於ける英国品――ランカシアーの製品のその随一の市場を襲っていることに、恐慌を来《きた》している。しかし、支那では、日本の紡績内にこの支那工人たちのマルキシズムの波が立ち上っているのである。母国の資本は今は挟《はさ》み撃ちに逢い出したのだ。参木には、ひとり喜ぶ米国人の顔が浮んで来た。そうして、より以上にますます喜ぶロシアの顔が。――レセ・フェールの顛落《てんらく》とマルキシズムの擡頭《たいとう》。その二つの風の中で、飛び上っている日本の凧《たこ》――参木は今はただピストルを握ったまま、ぶらりぶらりとするより仕方がないのだ。思考のままなら、彼の狙って撃ち得るものは、頭の上の空だけだ。しかし、危険は、この工場内にいる限り、刻々彼自身に迫っている。何故にこの無益な冒険をしなければならぬのか。――ただ自分の愛人の兄を守るためのみに。――彼は高重の肩を見るたびに、彼から圧迫される不快さに揺すられて歩を進めた。
 そのとき、河に向った南の廊下が、真赤になった。高重は振り返った。その途端、窓|硝子《ガラス》が連続して穴を開けた。
「暴徒だ。」と高重は叫ぶと、梳棉部《カード》の方へ疾走した。
 参木は高重の後から馳け出した。梳棉部では工女の悲鳴の中で、電球が破裂した。棍棒形のラップボートが飛び廻った。狂乱する工女の群《むれ》は、機械に挟まれたまま渦を巻いた。警笛が悲鳴を裂いて鳴り続けた。
 参木は揺れる工女の中で暴れている壮漢を見た。彼は白い三角旗を振りながら機械の中へトップローラを投げ込んだ。印度人の警官は、背後からその壮漢に飛びつくと、ターバンを摺らして横に倒れた。雪崩《なだ》れ出した工女の群は、出口を目がけて押しよせた。二方の狭い出口では、犇《ひし》めき合った工女たちがひっ掻き合った。電球は破裂しながら、一つ一つと消えていった。廊下で燃え上った落棉の明りが破れた窓から電燈に代って射し込んで来た。ローラの櫓は、格闘する人の群に包まれたまま、輝きながら明滅した。参木は廊下の窓から高重の姿を見廻した。巨大な影の交錯する縞の中で、人々の口が爆《はじ》けていた。棉の塊りは動乱する頭の上を躍り廻った。礫《つぶて》が長測器《メートル》にあたって、ガラスを吐いた。カーデングマシンの針布が破れると、振り廻される袋の中から、針が降った。工女たちの悲鳴は、墜落するように高まった。逃げ迷う頭と頭が、針の中で衝突した。噴霧器から流れる霧は、どよめく人の流れのままにぼうぼうと流れていた。
 廊下へ逃げ出した工女らは、前面に燃え上った落棉の焔を見ると、逆に、参木の方に雪崩《なだ》れて来た。押し出す群れと、引き返す群れとが打ち合った。と、その混乱する工女の渦の中から、彼は、閃めいた芳秋蘭の顔を見た。もしこの暴徒が工人たちのなかから発したものなら、どうしてそれほど彼女は困憊《こんぱい》するだろう。参木は思った。……これは不意の、外からの暴徒の闖入《ちんにゅう》にちがいない、と。
 参木は近づいて来た芳秋蘭を見詰めながら、廊下の壁に沿って立っていた。すると、工女の群は参木を取り包んだまま、新しく一方の入口から雪崩れて来た一団と衝突した。参木は打ち合う工女の髪の匂いの中で、揉まれ出した。彼は揺れながら芳秋蘭の行衛《ゆくえ》を見た。彼女は悲鳴のために吊り上った周囲の顔の中で、浮き上り、沈みながら叫んでいた。彼は彼を取り巻く渦の中心を彼女の方へ近づけようと焦《あせ》り始めた。火は落棉から廊下の屋根に燃え拡がった。吐け口を失った工女の群は非常口の鉄の扉へ突きあたった。が、扉は一団の塊りを跳ね返すと、更に焔の屋根の方へ揺れ返した。参木はもはや自分自身の危険を感じた。彼はこの渦の中から逃れて場内の暴徒の中へ飛び込もうとした。しかし、彼の両手は押し詰めた肩の隙からも抜けなかった。背後から呻き声の上るたびごとに、彼の頭はひっ掻かれた。汗を含んだ薄い着物が、べとべとしたまま吸いつき合った。彼は再び芳秋蘭を捜して見た。振り廻される劉髪《りゅうはつ》の波の上で刺さった花が狂うように逆巻いていた。焔を受けて煌《きら》めく耳環の群団が、腹を返して沸き上る魚のように沸騰した。と、再び揺り返しが、彼の周囲へ襲って来た。彼は突然、急激な振幅を身に感じた。面前の渦の一角が陥没した。人波がその凹《へこ》んだ空間へ、将棋倒しに倒れ込んだ。新しい渦巻の暴風が暴れ始めた。飛び上った身体が、背中へ辷《すべ》り込んだ。起き上った背中の上へ、背中が落ちた。すると、参木の前の陥没帯の波の端から芳秋蘭の顔が浮き上った。参木は弛《ゆる》んだ背中の間をにじりながら、彼女の方へ延び出した。彼は彼女の肩へ顎をつけた。しかし、彼の無理な動揺は、彼の身体を舟のように傾かせた。彼は背後からの圧力を受け留めることが出来なかった。彼は斜めに肩と肩との間へ辷り込んだ。続いて芳秋蘭の身体が崩れて来た。彼は彼女を抱いて起き上ろうとした。すると、上から人が倒れて来た。彼は頭を蹴りつけられた。身体が振動する人の隙間を狙って沈んでいった。彼は秋蘭を抱きすくめた。腕が足にひっかかった。沓《くつ》が脇の下へ刺さり込んだ。しかし、参木には、もはや背中の上の動乱は過去であった。二人は海底に沈んだ貝のように、人の底から浮き上る時間を待たねばならなかった。彼は苦痛に抵抗しながら身を竦《すく》めた。秋蘭の頭は彼の腹の底で藻掻《もが》き出した。彼の意識は停止した音響の世界の中で、針のように秋蘭に向って進行した。
 非常口が開けられると、渦巻いた工女は広場の方へ殺到した。倒れた頭が一つずつ起き上った。参木は起き上ろうとして膝を立てた。秋蘭は彼の上衣に掴まったまま叫んだ。
「足が、足が。」
 彼は秋蘭を抱きかかえると広場の方へ馳けていった。

二四

 参木は秋蘭の隣室で眼を醒《さま》した。彼は煙草を吸いながら窓から下を見降《みおろ》した。朝日を受けた街角では、小鳥を入れた象牙の鳥籠が両側の屋根の上まで積っていた。その鳥籠の街は深く鳥のトンネルを造って曲っていた。街角から右へ売卜者《ばいぼくしゃ》の街が並んでいた。春服《しゅんぷく》を着た支那人の群れは、道いっぱいに流れながら、花を持って象牙の鳥籠の中を潜《くぐ》っていった。彼らのその笛の音を聞くような長閑《のどか》な流れに従い、街は廻りながら池の中へ中心を集めていた。
 参木は昨夜以来の彼自身の成行《なりゆき》を忘れてしまった。彼は雨の中を秋蘭のいうままにただ馳けたのであった。彼は医院へ馳け込んだ。彼は秋蘭の足がただ所々|擦《す》りむけて筋が捻《よじ》れただけにも拘らず、彼女を乗せて自動車を走らせた。彼はいった。
「どうぞ、お宅まで、御遠慮なく。」
 彼は彼女を鄭重にすることが、頭の中から競子を吐き出す何よりの機会だと観測した。思慮は一切過去の総《すべ》てを悲劇に導いて来ただけではないか。彼は彼自身を煽動しながら、秋蘭の部屋まで這入っていった。しかし、彼の喜びはまたその壁の中でも進行した。
 秋蘭は彼に隣室の客間を指して巧みな英語でいった。
「どうぞ、あちらが空《あ》いていますから。」
 彼が彼女を礼節よりも愛した原因はその秋蘭の眼であった。秋蘭は彼にいい続けた。
「どうぞ、あちらへ、ここはあまりお見せしたくはございませんの。」
「じゃ、もうこのままこれで失礼しましょう。」と参木も英語でいった。
「いえ、あたくし、もうしばらくいらっしていただきたいんでございます。それに、ここは支那街でございますわ。今頃からお帰りになりましては、またあたくしがお送りしなきあならないんですもの。」
 彼は彼自身の欲するものを退けて来たのは、過去であった。帆は上げられて辷っている。彼は自身の胸に勇敢な響きを感じながら、隣室に下った幕を上げた。そこで、彼はいつになれば秋蘭が全く敵対心も無くしてしまうのであろうかを待ちながらも、いつの間にか眠ってしまった。
 しかし、今は、朝だ。――
 池の中で旗亭の風雅な姿は積み重なった洋傘のように歪《ゆが》んでいた。その一段ごとに、鏡を嵌《は》めた陶器の階段は、水の上を光って来た。人で埋った華奢《きゃしゃ》な橋の欄干は、ぎっしりと鯉で詰った水面で曲っていた。人の流れは祭りのように駘蕩《たいとう》として、金色の招牌《しょうはい》の下から流れて来た。
 参木はその人の流《ながれ》の上に棚曳《たなび》いたうす霧の晴れていくのを見ていると、秋蘭と別れる時の近づいたのを感じた。彼は秋蘭の部屋の緞帳《どんちょう》を揺すった。秋蘭は古風な水色の皮襖《ピーオ》を着て、紫檀の椅子に凭《よ》りながら手紙の封を切っていた。彼女は朝の挨拶を済《すま》すと足の痛みの柔《やわら》ぎを告げて礼を述べた。
「もし昨夜あなたが、あたしの傍にいて下さらなければ、――」
 と、秋蘭はいった。そうして、彼女は参木に異国の友を一人持ち得た喜びを述べると、食事を取りに附近の旗亭へ案内したいといい出した。
「しかし、あなたのそのお傷じゃ、――」と参木はいった。
「いえ、あたしたちはもう日本の方に、そんなに弱い所ばかりお見せしたくはございませんの。」
 秋蘭は参木を促すと先に立った。二人は街へ降りた。石畳の狭い道路は迷宮のように廻っていた。頭の上から垂れ下った招牌や幟《のぼり》が、日光を遮《さえぎ》り、その下の家々の店頭には、反《そ》りを打った象牙が林のように並んでいた。参木はこの異国人の混らぬ街を歩くのが好きであった。象牙の白い磨《と》ぎ汁が石畳の間を流れていた。その石畳の街角を折れると、招牌の下に翡翠《ひすい》の満ちた街並が潜んでいた。眼病の男は皿に盛り上った翡翠の中に埋もれたまま、朝からぼんやりと眼をしぼめて、明りの方を向いていた。
 参木は象牙の挽粉《ひきこ》で手を洗う工人の指先を眺めながら、彼女にいった。
「あなたはこれからどっかへお急ぎになる所じゃありませんか。」
 秋蘭は彼の言葉が、何を意味するかを見詰めるように、彼を見た。
「いえ、あたくし、今日はこの足でございましょう?」
「しかし、ここまでいらっしゃれるなら、もうどこへだって大丈夫だと思いますが。どうぞ僕のために御無理をなさいませんように。」
 参木は秋蘭が何者であるかを気付かぬらしく装いながら、のどかに風鈴の鳴る店頭へ眼を移した。秋蘭はしばらく彼の横顔を眺めていたが、間もなく、急所を見抜かれた女のように優しげに顔を赭《あか》らめて参木にいった。
「あなたはもうあたくしがどんな女だか、すっかり御存知でいらっしゃいますのね。」
「知っています。」と彼は答えた。
 しかし、秋蘭はただ落ちついて笑っているだけだった。参木はいった。
「僕は昨夜の騒動は、あれは外からの暴徒だと思うんですが、もしあなたがあの出来事を予想してらしたのなら、あんな騒ぎにはならなかったと思うんです。何かあれは、あなたがたの妨害を謀《たくら》んだものの仕事のように思うんです。」
「ええ、そうでございますとも。あれは全く不意の出来事でしたの。あたくしたちは、お国の方《かた》の工場にあんなことの起るのを願うこともございましたけれども、それはあたくしたちの手で起さなければ、お国の方に御迷惑をおかけするような結果になるだけだと思いますの。」
 参木は笑いながら秋蘭にいった。
「では、どうぞ。」
 秋蘭は朗かな歯並を見せて動揺した。しかし、参木は不意に憂鬱になって来た。――何を自分は狙っていたのかと考えたのだ。自分が彼女を追い馳けた苦心の総ては火事場の泥棒と同様ではなかったか。自分が彼女を送ったのは、自分の卑屈を示しただけではなかったか。――しかし、彼はすでになされた反省の決算を思い出した。今は、彼はただこの支那街の風景の中を、支那婦人と共に漫歩する楽しさに放心すればそれで良いのだ。それ以外は、いや、考えちゃ、もう駄目だ。
 翡翠に飾られた店頭の留木《とまりぎ》には、首を寄せ集めた小鳥のように銀色の支那沓がとまっていた。象牙の櫛《くし》が煙管や阿片壺と一緒に、軒を並べて溢れていた。壁に詰った印肉の山の下で、墨が石垣のように並んでいた。仏像を刻む店々の中から楠《くすのき》の割れる音が響いて来た。人波の肩の間で、首環売りがざくざくと玉を叩いた。参木は秋蘭の方を見た。すると、彼女の水色の皮襖《ピーオ》は、羽根を拡げたように連った店頭の支那扇の中で、しなしなと揺れていた。
 二人は旗亭の辷る陶器の階段に足をかけた。参木は秋蘭の腕を支えた。彼女は彼によろめきかかると笑っていった。
「まア、あたくし、まだあなたに御迷惑をおかけしなければなりませんのね。」
「どうぞ。」
「あたくし、こんな身体で、よく労働が勤まるとお笑いになるでしょう。」
「いや、たいへん感服させられております。」
「でも、あたくしたちは、ほんとうはまだまだ駄目なんでございますの。あたくしなんか、こんなに威張ったりしておりましても、もうすぐこうして美しい着物やなんか、着てみたくてなりませんのよ。」
 参木は階段の中途で、この支那婦人の繊細な苦悶に触れるのが喜ばしく感じられた。階段の立面に嵌《はま》った鏡の上では、一段ごとに浮き上る秋蘭の笑顔が、フィルムのように彼を見詰めて変っていった。すると、ふと参木は、高重のいった言葉を思い出した。――
「この女も、いずれ誰かにやられるから、見て置き給え。」
 ばったりフィルムが切れて、凄艶な秋蘭の笑顔が無くなると、白蘭の繁った階上から緑色の陶器の欄干が現れた。
「僕があなたとお近づきになったことで、もしあなたに御迷惑をおかけするような結果にでもなりますなら、どうぞ、御遠慮なく仰言《おっしゃ》って下さい。」
「いえ、あなたこそ御遠慮なく。あたくしにはあなたが他国の方とは思えませんの。無論あたくしたちは、あなたがたの工場と争わなければなりませんわ。でも、そんなことは、何んといったらいいんでしょう。あなたと争い事のようになるものとは思えないんでございますの。」
 参木は黒檀の椅子に腰を降ろすと、いつの間にか豊かな愛情の中で漂い出した日本人に気がついた。彼は再び憂鬱に落ち込んだ。彼が競子を蹴ったのは、彼が競子のために乱されたからではなかったか。彼が秋蘭に溺れたのは、競子を蹴って逃げ出すためではなかったか。しかし、今また彼は、駈け込んだ秋蘭のために乱されて来たのであった。彼は、今は自身がどこをうろついているのか分らなくなって来た。――彼は引き下ったように身構えると、突然秋蘭にごつごつした英語でいい始めた。
「僕はあなたが、僕を日本人じゃないと思って下さるお心持ちにはお礼を申しますが、しかし、僕は日本人だということを、別に悲しむべきことだとは少しも思っちゃおりませんですよ。ただ僕はマルキストのように、自分を世界の一員だと思うようなことが出来ないだけの日本人です。誰でもマルキストは、西洋と東洋との文化の速度を、同じだと思ってるように見受けるんですけれども、僕はその誤りからは、ただ秀れた犠牲者を出すだけが唯一の生産のように思われるんです。どうでしょう。」
 すると、秋蘭は彼と太刀《たち》を合すように、急に笑顔を消して彼に向った。
「それはあたくしたちにも、今の所いろいろな誤謬のあることは、認めなければなりませんわ。でも、その国にはその国の原料と文化とに従ったマルキシズムの運用法があると思います。譬えば、あたくしたちが中国人の経営する工場へ闘争力を注ぐよりも、先ず外人の工場へというように、自然に強力な方向に動いて参りますのは、これは仕方がないんじゃないでしょうか。」
「けれども、それはあなたがたが、中国に新しい資本主義をますます強く、お建てになるのと同様じゃないでしょうか。僕は外国会社の生産能力を圧迫すれば、それだけ中国の資本主義が発展するにちがいないと思うんですが。」
「でも、そういうことは、今はあたくしたちは出来得る限り黙認しなければならないと思いますの。あたくしたちにとって、中国の資本主義より、外国の資本主義を恐れなければならないことの方が、たしかに当然なことじゃございませんでしょうかしら。」
 参木はもはや秋蘭との愛の最後を感じると、ますます頭を振って斬り込んでいきたくなった。
「勿論《もちろん》、僕はあなたがたが、われわれの工場をお選びになったということには、不幸を感じております。僕は日本を愛しています。しかし、それがすぐに中国との闘争になることだとは、僕はあなたがたのようには思えないですね。」
「それはあなたが東洋主義者でいらっしゃるからだと思いますわ。もうあたくしたちは、東洋主義がどんなにお国のブルジョアジーに尽力したかということを、清算しなければならないときです。あたくしたちは、どなたでも、貧しい人々の外は、もうちっとも信頼することが出来なくなっておるんでございますの。」
「あなたが僕をあなたのお思いになるような東洋主義者になすったのは残念ですが、僕が日本を愛したいと思うのは、あなたが中国をお愛しになるのと何んの変りもないのです。僕は自分の母国を愛する感情が、それがすぐにあなたの仰言《おっしゃ》るブルジョアジーを愛するのと同じ結果になるという状態には、幾分迷惑を感じているものなんですけれども、しかし、だからといって母国を愛せずに、中国を愛しなければならぬという理由も、今の所、どこにもないと思うんです。」
「でもそれは、あたくしには、あなたがただお国の味方をなすっていらっしゃるだけだと思われますの。もしあなたがほんとうにお国をお愛しなすっていらっしゃいますなら、中国のプロレタリアもお愛しになるに違いないと思います。あたくしたちがお国に反抗するのは、お国のプロレタリアにではありませんわ。だから、あたくしあなたに、こんなことをお話ししたりすることは――。」
「しかし、僕は中国の人々が日本のブルジョアジーを攻撃するのは、結果に於て日本のプロレタリアを虐《いじ》めているのと同様だと思うんですよ。」
 秋蘭は咳《せ》き上げて来た理論に詰ったように眼を光らせた。
「どうしてでございましょう。あたくしたちはお国のプロレタリアのためには、中国を解放しなくちゃならないと思っているんでございますけど。」
「しかし、それは日本にプロレタリアの時代が来なければ、――」
「そうです、あたしたちはお国にプロレタリアの時代の来るために、お国のブルジョアジーに反抗しているんでございますわ。」
「しかし、それには中国にも同時にプロレタリアの時代が来なければ、――」
「それは勿論、あたくしたちはそのために、絶えず活動しているんじゃございませんか。その第一に、今もあたくしたちはあなた方の工場に、不平を起そうと企んでいるんでございますわ。多分もう今頃は何んとかされている頃かと思われますが、どうぞしばらく、御辛抱をお願いします。」
 秋蘭はまだこのときも参木への感謝を失わずに頭を下げた。しかし、参木には新しい疑問が雲のように起って来た。彼はいった。
「僕はさきにも申し上げた通り、あなた方がわれわれの工場の機械をおとめになるということには、今|何《な》んと申上げていいか分らないんです。けれども、中国がいま外国資本を排斥することから生じる得は、中国の文化がそれだけ各国から遅れていくということだけにあるんじゃないかと思うんです。これは勿論重々失礼ないい草だと思いますが、しかし、優れたコンミニストとしてのあなたのこの客観的な確実な問題に対しての御感想は、最も資本の輸入の必要に迫られている中国であるだけに、一応承わっておきたいと思うんです。」
 秋蘭は頭脳の廻転力を示す機会を持ち得たことを誇るかのように、軽やかに支那扇を拡げてにっこりと笑った。
「ええ、それは、あたくしたちの絶えず考えねばならぬ中国問題の一つでございますの。でも、それと同時にそんな問題は、列国ブルジョアジーの掃溜《はきだめ》である共同租界の人々からは、考えて頂かない方が結構な問題でもございますわ。これは勿論失礼ないい方ですけれども、あたくしたち中国人にとって、殺到して来る各国の武力から逃れるための方法としてでも、あたくしたち以外の考えがあるとお思いになりまして。」
 しかし、彼の頭の中では彼女のいう「掃溜に関する疑問」は、依然として首を振った。――問題はそれではないのだ。掃溜の倫理が問題なのだ。――と。
 事実、各国が腐り出し、蘇生するかの問題の鍵は、この植民地の集合である共同租界の、まだ誰も知らぬ掃溜の底に落ちているにちがいないのだ。ここには、もはや理論を絶した、手をつけることの不可能な、混濁したものが横《よこたわ》っているのである。参木は運び出されたスープの湯気の上へ延びながら、笑っていった。
「どうも、僕は昔から相手の人を敬愛すると不思議に頭が廻転しなくなる癖があるんです。どうぞ、お怒りにならないように。」
 すると、秋蘭の皮襖《ピーオ》の襟からは、初めて、典型的な支那婦人の都雅《とが》な美しさが匂いのように流れて来るのであった。
「あたくし、今日はあなたとこんな嶮《けわ》しいお話をしたいとは思いませんの。もっと、あなたのお喜びになるような、御歓待をしなければと思うんですけど、――」
「いや、もう僕はあなたから、東洋主義者にしていただいたことだけで結構です。」
「あら。」と秋蘭は美しい眼を上げて扇をとめた。
「しかし、もともと僕はあなたをお助けしようなどと殊勝な心掛けで御介抱したのではありません。もしそうなら、あのときあなた以外の沢山な人にも、僕は同様に心を働かせていたはずだったと思います。それに、特にあなたを見詰めて動き出したという僕の行動は、マルキシズムなんかとは凡《およ》そ反対の行動でしたのです。しかし、とにかくもうこれだけの僕の気持ちをお話しすれば、もう一度お眼にかかりたいとは思わないでしょうから、では、今日はこれで、さようなら。」
 参木は辷る陶器の階段を降りていった。すると、秋蘭の扇はぱったり黒檀の円卓の面《おもて》へ投げ出された。

二五

 河へ向って貧民窟の出口が崩れていた。その出口の周囲には、堆積された汚物が波のように続いていた。参木の家へ出かけたお杉は彼の帰りを見計らって歩いて来た。影の消えた夕闇の中で、お杉の化粧は青ざめていた。霧が泥の上を流れて来た。真黒な長い棺が汚物の窪みの間を縫って動いていった。河岸の地べたに敷かれた古靴の店の傍で、売られる赤児が暗い靴の底を覗いていた。
 揚荷を渡す苦力《クリー》たちの油ぎった塊《かたま》りの中から、お杉は参木の姿を見つけ出した。
 彼女はくるりと向き返えると、逆に狼狽《うろた》えて歩き出した。が、何も狼狽えることはない。彼女は彼の家を出てから十日の間に、早くも男の秘密を読み破る鑑識を拾って来たはずだ。それに、――彼女は夕闇の中で呼吸が俄《にわか》に激しくなった。この次逢えば、冷い参木の胸を叩き得る手段を感じて、昂然として来たはずだのに――お杉の背中は乳房の後ろで張り始めた。彼女は数々の男の群れを今は忘れて逆上した。舞い疲れた猿廻しの猿は泥溝《どぶ》の上のバナナの皮を眺めていた。虫歯抜きの老婆は貧民窟から虫歯を抜いて出て来ると、舟端に腰を降ろして銅貨の面《おもて》を舐《な》め始めた。
 参木は河岸に添ってお杉の後まで近づいた。しかし、彼は前へ行くお杉には気付かなかった。二人は平行した。お杉は意志とは反対の霧の降りた河を見た。河にはいっぱいに満ちた舟の中で、整えられた排泄物が露出したまま静に水平を保っていた。参木はお杉の前になった。彼女は彼の後から彼の家まで歩こうと思った。すると、十日間の過去が、参木の知らない彼女の淫らな過去が、お杉の優しさをうち叩いた。
 お杉は彼との肉体の間隔に、威厳を感じた。化粧した顔が、重くぐったりと下って来た。希望が歩く時間に擦りへらされた。愛情はまだ参木の後姿に絡《からま》ったまま、沈み出した。すると、お杉は通りかかった黄包車《ワンポウツ》を呼びとめて、参木の面前を馳《か》け抜いた。
 参木は車体の上で黙礼しながら揺れて行くお杉を見た。瞬間、彼は新鮮な空気の断面を感じて直立した。彼は黄包車を呼んだ。彼は彼女の後を馳けさせた。しかし、彼は逃げるお杉を追わねばならぬ原因がどこにあるのか分らなかった。ただ夕暮れの疲労の上に、不意に輝いた郷愁に打たれた自分を感じると、彼は再び凋《しお》れて来た。泥溝の岸辺で、黒い朽ちかけた杭が、ぼんやりと黒い泡の中から立っていた。古い街角で壁が二人の車を遮ぎった。二人の車は右と左に分れていった。
 お杉は雑鬧《ざっとう》した街の中で車を降りた。彼女は露路の入口へ立つと、通りかかった支那人の肩を叩いていった。
「あなた、いらっしゃいな、ね、ね。」
 湯を売る店頭の壺の口から、湯気が馬車屋の馬の鬣《たてがみ》へまつわりついて流れていた。吊り下った薪《まき》のような堅い乾物の谷底で、滴りを垂らした水々しい白魚の一群が、盛り上って光っていた。

二六

 参木は割れた鏡の前で食事を取った。壁には人声の長らく響かぬ電話がかかり剥《は》ぎ忘れたカレンダーが遠い日数を曝《さら》していた。参木は花瓶にへし折れたまま枯れている菖蒲《しょうぶ》の花の下で、芳秋蘭の記憶を忘れようとして努力した。彼はだらりと椅子の両側へ腕を垂れ、眼を瞑り、ただ階段の口から揺れて来る食物の匂いに騒ぐ生活を感じていた。希望は――彼が芳秋蘭を見て以来、再び、彼の一切の希望は消えてしまった。彼は水を見詰めるように、彼の周囲の静けさの中から自分の死顔を探り出した。
 日本人の給仕女が退屈まぎれに、しなしなと貴婦人の真似をしながら、昇って来た。窓から見える鋪道の上で、豚の骨を舐《な》めた少女の口の周囲に青蠅が一面髭のようにたかったまま動かなかった。トラックに乗った一団の英国軍楽隊が、屋根の高さのままで疾走した。黄包車《ワンポウツ》の素足の群れが、タールを焼きつける火に照らされながら、煙の中を破って来た。ふと参木は、薄暗い面前の円卓の隅で、瓶の中の水面を狙ってひそかにさきから馳け昇っているサイダーの泡に気がついた。
 ――これは、と彼は思った。それと同時に、彼は再び芳秋蘭と一緒に揺れ上って来た彼の会社の罷業の状態を思い出した。それは単なる罷業ではなかった。それは芳秋蘭の言葉のように、ますます確《たしか》に前進するにちがいない。それは民族と民族との戦いにまで馳け上る危機を孕《はら》んで廻転する。――彼は瓶を掴んで振ってみた。泡は、泡とは、圧迫する水の圧力を突き破って昇騰する気力である。参木は芳秋蘭らの率いる支那工人の団結力が、彼の会社の末端から発生し、高重の占める組長会議を突破し、主任会議を突き抜け、部長会議を粉砕して重役会議にまで馳け上った縦断面を、頭に描いた。工人たちの要求は、その重役会議で否決された。外部の総工会が活動した。その指令のままに動く工人たちの操業は、停止された。そうして、いよいよ大罷業が始ったのだ。この海港にある邦人紡績会社のほとんど全部の工場は、今は飛び火のために苦しみ出した。やがて、日貨の排斥が行われるであろう。英米会社は自国の販売市場の拡張のため、その網目のように張られた無数の教会と合体して、支那人の団結力を煽動するにちがいない。
 ――しかし、ロシアは、と彼は考えた。
 ロシアは英米の後から、彼らの獲得したその販売市場に火を放っていくにちがいない。参木はやがてこの海港の租界を中心に、巻き起こされるであろう未曾有の大混乱を想像した。もし芳秋蘭が殺されるなら、そのときだ。×英米三国の資本の糸で躍る支那軍閥の手のために、彼女は生命を落すであろう。――
 しかし参木にはこの尨大《ぼうだい》な東亜の渦巻が、尨大な姿には見えなかった。それは彼には、頭の中に畳み込まれた地図に等しい。彼は指に挟んだ葉巻の葉っぱが、指の間で枯れた環《わ》をごそりと弛めているのを眺めながら、現実とは自分にとってこの枯れた葉巻の葉っぱであろうか、頭の中の地図であろうか、と考え出した。

二七

 甲谷が来ると参木は昨夜から襲われ続けた芳秋蘭の幻想から、ようやく逃れたように自由になった。参木はいった。
「君の顔は明るい、まるで、獣《けもの》だ。」
 甲谷はステッキを振り上げた。しかし、たちまち彼は笑い出すと参木を打った。
「これでも、獣か、獣か。――ところが、僕は昨夜からまだ人間にはなれないんだぜ。あらゆる悪事をやってのけようと企らんでいるのだが、悪事をやるには、何より先ず立派な人間にならんと駄目だ。」
 甲谷は溜息をつきながら、参木の身体に凭《よ》りかかった。
「どうした、参木、俺の敵は馬鹿に萎《しお》れているじゃないか。」
「萎れた、参木も駄目だよ。マルキシズムの虫がついた。」
 甲谷は参木から飛びのくと、大げさに眉を立てた。
「虫か。」
「虫だよ。」
「君も憐れな奴だね、君は人間の不幸ばかり狙って生きてるんだ。人間が不幸になって、どうしようてんだ。」
「君に不幸が分ればマルキシズムなんて存在しないよ。」
「馬鹿をいえ。人間の幸福というものは、不幸な奴がいるからこそ、幸福なんだ。われわれは不幸な奴まで幸福にしてやる資格なんて、どこにあるんだ。人間は人を苦しめておれば、それで良ろし。俺が俺のことを考えずに、誰が俺のことを考えてくれるのだ。行こう。今夜は神さまのいる所へ行くんだぞ。しっかり頼むよ。」
 二人は階段を降りた。狭い壁と壁との間の敷石に血痕が落ちていた。と、人気のない庭の出口の土間の上に、支那人が殺されたまま倒れていた。二人は立ち停った。転げた西班牙《スペイン》ナイフの青い彫刻の周囲で血がまだ静かな活動を続けていた。甲谷は死体を跨《また》いで外へ出ると、参木にいった。
「どうも、飛んだ邪魔物だね。問題はどこだったのかな。」
 参木は今は甲谷の虚栄心の強さに快感を感じて来た。
「君はその手でマルキシズムをやっつけようというんだな。」
「そうだ。あんな死人を問題にしていちゃ、マルキシズムに食われるだけさ。われわれは資本の利潤が購買力を減少させるなんて考える単純な頭の者とは、少々人種が違うんだ。マルクス主義者は、いつでも機械が機械を造っていくという弁証法だけは忘れているんだ。そんな原始的な機械じゃ、折角《せっかく》ですが、資本主義は滅びませんわ。ところで、おい、あの人殺しの犯人は、俺たちだと思われやしないかい。逃げよう。」
 甲谷は黄包車《ワンポウツ》を呼びとめると、参木を残してひとり勝手に馳け出した。
「君、トルコ風呂だよ。失敬。」
 参木はひとりになると、死人を跨いだ股の下から、不意に人影が立ち上って来そうな幻覚に襲われた。彼は砂糖黍《さとうきび》が藪《やぶ》のように積み上った街角から露路へ折れた。ロシア人の裸身《はだか》踊りの見世物が暗い建物の隙間で揺れていた。彼は死人の血色の記憶から逃れるために、切符を買うと部屋の隅へ踞《うずくま》った。彼の眼前で落ち込んだ旧ロシアの貴族の裸形の団塊が、豪華な幕のように伸縮した。三方に嵌《はま》った鏡面の彼方では、無数の皮膚の工場が、茫々として展《ひら》けていた。踊子の口に銜《くわ》えたゲラニヤの花が、皮膚の中から咲き出しながら、踊る襞《ひだ》の間を真紅になって流れていった。
 ――参木は今は薄暗いこの街底の一隅で没落の新しい展開面を見たのである。彼らはもはや、色情を感じない。彼らは、やがて後から陸続《りくぞく》として墜落して来るであろう人間の、新鮮な生活の訓練のために、意気揚々として踊っていた。皮膚の建築、ニヒリズムの舞踏、われらの先達《せんだつ》、おお、今こそ彼らは真に明るく生き生きと輝き渡っているではないか。万歳――参木は思わず乾杯しようとしてグラスを持った。と、皮膚の工場は急激に屈伸すると、突然、アーチのトンネルに変化した。油を塗った丸坊主の支那人が、舌を出しながら、そのトンネルの中を駱駝《らくだ》のように這い始めた。油のために輝いた青い頭の皮膚の上に、無花果《いちじゅく》の満ちた花園が傾きながら映っていった。世界は今や何事も、下から上を仰がねばフィルムの美観が失われ出したのだ。――再び、トンネルが崩れ出すと、参木は後を振り返った。すると、塊《かたま》った観客の一群の顔の上に、べったり吸いついた吸盤のような動物を、彼は見た。彼は、その巨大な動物を浮き上らせた衣服の波の中から逆に野蛮な文明の建築を感じて来た。

二八

 トルコ風呂の蒸気の中で、甲谷の身体は膨れ始めた。客のマッサージをすませたお柳の身体から、石鹸の泡が滴ると、虎斑《とらふ》に染った蜘蛛《くも》の刺青《いれずみ》が、じくじく色を淡赤く変えつつ浮き出て来た。甲谷は片手で蜘蛛の足に磨きを入れながら彼女にいった。
「奥さん、あなたはお杉をどうして首にしたんです。」
「ああ、あの娘《こ》、あの娘は駄目なの。あなたはまだあの娘の出ている所も御存知ないの。四川路《しせんろ》の十三番八号の皆川よ。」
「出てると仰言ると、つまり、出るべき所へですか。」
「ええ、そうよ。」とお柳は冷淡に澄していった。
「じゃ、あなたにも、責任があるわけですね。」
「そりゃ、一人前にしてやったんだから、お礼ぐらいはされてもいいわ。」
 この毒婦、と甲谷は思うと、俄《にわか》に泡の中で、お柳の刺青が毒々しい生彩を放って来た。と、ふと、彼は彼女と、どちらが誰の洗濯機であろうかと考えた。
「奥さん、あなたは僕の身体を洗うんですか、あなたの蜘蛛を洗うんですか。」と彼はいった。
 甲谷は頬を平手でいきなり叩かれた。彼は飛び退《の》くとお柳を蹴った。蒸気が音を立てて吹き出す中で、二人のいつもの争いが始り出した。すると、甲谷は急にサラセンで見た芳秋蘭の顔が浮んで来た。
「マダム、マダムの所へは芳秋蘭という支那の婦人は来ませんか。先日僕は山口から聞いたんだが。」
「芳秋蘭? ああ、あの女はあたしの主人に逢いに来るの。主人はあの女のいうことなら、いくらだって聞いてやるのよ。」
「それなら、マダムの敵か。」
「敵は敵かも知らないけど、あれはお金の方の敵だから。」
「それなら一層大敵だね。ところが、僕はあの婦人にだけはこの間|見惚《みと》れたね。マダムの主人に頼んでひとつ、紹介して貰いたいと思っているんだが、駄目かなそれは。」
「それや駄目だわ。あの人だけは秘密でそっとくるんだから。」
「それなら秘密でそっとという手もあるからな。どうも、あの婦人にだけはもう一度ぜひ逢いたい。」
 お柳は黙ってぴしりと甲谷をつねるといった。
「じゃ、今度来たとき、二階へそっと来てらっしゃいよ。あたし電話をかけてあげるから。」
「奥さま、旦那さまでございます。」
 ドアーの外で、湯女《ゆな》の周章《あわ》てる声がした。お柳はシャワーを捻《ひね》ると、甲谷の頭の上から雨が降った。
「奥さま、旦那さまが――。」
「分ってるわよ。」
「いいんですか。」と甲谷はシャワーの中から顔だけ出してお柳を見た。
「えええ、あの人はこういう所が見たくってそれであたしにこんなことをさせてるのよ。ここは万事があたしに持って来いという所。あなたのことだって、ちゃんとあたしは主人に話してあるの。ああ、そうそう、あのね、主人が一度あなたに逢いたいっていってたわ。ね、今夜これから逢ってやって下さらない。シンガポールの話が聞きたいっていってるの。」
 お柳が出て行って暫くすると、甲谷は間もなく主人の部屋の楼上《ローシャン》へ呼び出された。彼は階段を昇っていった。彼を包む廊下の壁には、乾隆《けんりゅう》の献寿《けんじゅ》模様が象眼《ぞうがん》の中から浮き出ていた。甲谷は豪商のお柳の主人の銭石山《せんせきさん》に、材木を売りつける方法を考えながら、女中の指差した奥を見た。
「月明の良夜、慇懃《いんぎん》に接す。」
 ふと房前の柱にかかった対子《トイズ》を読むと、甲谷はお柳の背中の蜘蛛の色を思い出した。部屋へ這入ると、お柳は正面の八仙卓の彫刻の上に肱をついて、西瓜《すいか》の種を割りながら、傴僂の男と顔を合せて笑っていた。壁側に沿って並んだ重厚な紫檀の十景椅子の上では、重そうな大輪の牡丹の花が、匂いを失ったままいくつもぐったりと崩れていた。
「さア、どうぞ、あなたはシンガポールのお方だそうで。わたしはこの通りお国の方が何より好きなもんですから、この年になっても損ばかりしております。」
 銭石山の傴僂の背中が、牡丹の花に挟まって揺れながら笑った。甲谷はいった。
「どうも奥さまは僕を馬鹿になさる癖がお有りですので、つい敷居が高くなってしまいますよ。」
 すると、いきなり、お柳は彼に西瓜の種を投げつけて、主人の顔を覗き込んだ。
「あなた、聞いて、この人は、こういう人なんだからね、用心なさるといいわよ。あたしなんか、いつでもこの手でやられちゃうのよ。」
「いや、なかなか若いときは面白い。シンガポールはお暑いことでございましょうな。あちらのお国の方の御繁昌なことは、かねがねから承わっておりますが、この頃は?」
「いや、もう何んといっても欧人の資本には敵《かな》いません。それに、あちらは中国商人の張りつめた土地ですから、僅かな資本では割り込む隙がございません。」と甲谷はいった。
「いや、なかなかこの頃はお国の方の御活動は生きております。あなたの方はゴム園で?」
「いえ、僕の方は材木です。しかし、ゴム園にしましても、例えば欧人園は資本を社債か株式か、とにかく低利で運用しておりますが、日本の方は原価も高く、それに流通資金まで高利です。殊に配当保留の運用法にいたっては、全く欧人園とは比較にはなりませんよ。あれでは今に、開墾費用の充当さえおかしくなってしまいやしないかと思われますね。」
「ふむ、ふむ、しかしお国も中国の日貨排斥でお困りのようですから、南洋へでも喰い込まねば、猫の眼みたいに内閣が変るだけでございますな。ああ、そうそう、今日はまた日本紡が四つほど罷業《ひぎょう》で沈没しましたな。」
 銭石山の視線が日本の急所を見透したかのように尊大になって笑い始めると、甲谷は急に、今まで彼に売りつけようとしていた材木の話のことよりも、支那人の弱味について考え出した。
「もっとも、この頃の日本も日本でございますが、しかし、馬来《マレイ》や暹羅《シャム》の方では中国人も此の頃ではなかなか困難になって来ております。中国の共産党員がシンガポールの中国人の中へ潜入して来まして、ロシアの排英運動に加入しているものですから、英国もだんだん中国人保護の方法を変化させて来ております。」
「それはだんだん変ることでございましょうな。しかし、中国人の保護法が変ったところで、あそこは中国人を度外視しては政策の行われぬところだから、英国もどうしようもございませんわ。わたしの知り合いにも一人あそこにいるものもおりますが、シンガポールの英人の豪《えら》さには、なかなか感心しておりました。あそこの英国人がどこの国の英人よりも成功しているのは、中国民族の言葉や習慣や能力を、英国青年に充分に研究させて、それからその青年を使用したからだそうですが、なかなかそれは他国人の出来ぬことです。」
「あれは英人の豪《えら》さですね。僕もその点では英国に感心させられておりますが、しかし英国と中国とが馬来半島で仲良く合体していますことは、東洋の平和や秩序を、ヨーロッパのために捧げてやっているようなもので、ヨーロッパにとっては、これほど喜ばしいことはないと思います。ところが、近頃、排英運動が、中国人の間に盛んになって来たのは、これは排英運動ではなくって、実は排支運動をしているのと同様だったということについては、中国人の誰もが気がつかなかったことなんですが、銭さんこれをどんな風にお考えになりますか。馬来や暹羅や、印度支那では、昔から今にいたるまで、中国人が経済的実権を握っているところですから、共産党の運動が中国人を通じて馬来や暹羅やビルマへ侵入して来つつあるということは、取りもなおさずその土民に対して、その土地の経済的実権を握っている中国人に反抗せよといっているのと、どこも違いはしないんです。」
「そうそう、それはわたくしたちも考えぬではありません。」と銭石山はいうと俄《にわか》に虚を突かれたかのように狼狽《うろた》えながら、唇にひっかかった茶かすをペッと吐き出した。「しかしですな。わたくしたち中国人は、先ず何より中国の産業を、中国人の手で盛んにしなければなりませんわ。そうでなければお国でも中国でも、銀行は英国の支配からいつまでたっても脱けられませんからな。ところが、そうするためには、どうしたって今のところ、もう少しはロシア人の手を借りなければ、印度からこちらの東洋の海岸は、ヨーロッパの海岸になってしまうに定《きま》っていますよ。」
 甲谷は自分のいうべきことを、早や銭に代っていわれたのに気がつくと、一足乗り出すように机の角を撫でていった。
「いや、それは仰言《おっしゃ》る通りですが、馬来《マレイ》にいる中国人が、本国の反帝国主義運動に大賛成を現して、資金を盛んに共産運動へ注ぎ込んでいますのは、結果としては、逆に中国人が足もとの土民に、排支運動の資金を注ぎ込んでいるのと同様だと思うと、まことに私たちは馬来の中国人の度胸に感心させられるんです。馬来やシャムやビルマでは共産運動が盛んになるに従って、その運動そのものは彼らにとっては国粋運動なんですから、これは衰弱していくためしはありません。けれどもそれとは反対に、この運動が盛んになるに従って、中国人は馬来や印度支那では生活が衰弱していくより仕方がないのですから、これをふせぐためには、どうしたって英国やフランス政府と結束していくより仕様がありません。ところで、中国人と英国とが馬来で結束していくということは、ヨーロッパ人をして、ますます中国本国や、印度で、彼らの主権を振わすに都合よくなっていくばかりでありますから、馬来の中国人の性格というものは、これは東洋の安全弁です。」
 銭石山はようやく、支那人たちの政略がひそかに攻撃されつつあるのを感じて来たらしく、急がしそうにまた茶を飲みながらいった。
「しかし、中国人が馬来や印度支那やフィリッピンで経済的実権を握っているということは、何もそれは不都合極ることじゃありませんからな。これは歴史的なことでして、フィリッピンも馬来もビルマも、もとはといえば中国への貢国です。そのつまり属国で中国人が生活的に向上したって、ヨーロッパ人のようには無理をしているんじゃありませんよ。」
 甲谷はようやく銭石山が支那人の誇りを感じる定石《じょうせき》へ落ち込んだのを知ると、よしッと思って、静にメスを取り上げた。
「いや、それは無理どころじゃありませんよ。中国人がいなければ南洋群島一帯は勿論《もちろん》、フィリッピンにしたってアメリカにしたって、シベリアにしたって、アフリカにしたって濠洲にしたって、文化の進歩がよほど今より遅れていたに定《きま》っています。それらの土地の鉄道敷設や採鉱や農業に、中国人が他の人種に先だって、どれほど活動したかというようなことは、今は誰も忘れてしまって恩恵を感じなくなっておりますが、世の中の識者は、世界はたしかに中国人を中心にして廻転しているということぐらいは知っていますよ。しかし、それだからこそ、また世界は共同に中国人を敵に廻して争っていかなければならぬのだと思いますね。何しろ、中国人は世界で一番人数が多いのですから。人数が多いということは、食物と衣服がそれだけ地上で一番沢山そのもののために費されるということです。食物と衣服を一番費消する人種というものは、どうしたって世界の中心にならねばならぬのは必条《ひつじょう》です。したがって、銀行を支配しているイギリスやアメリカが、世界の者からいくらか公敵のように思われているのと同様に、頭数を支配している中国も各国の公敵だと思われたって、それは昂然として受け入れねばならぬ中国人の債務です。」
 銭石山は甲谷の雄弁が、中国に対する新しい解釈に向って鋭くなると、脊中の瘤《こぶ》に押されるかのように身を乗り出して、甲谷の顔に見入っていた。
 甲谷は銭石山の視線が、自身の話にようやく流れ込んで来たのを感じると、ますます乗り気になって、八仙卓の彫刻の唐獅子《からじし》の頭髪に、指頭の脂肪を擦り込みながら、ふと傍のお柳の顔を見た。すると、お柳は、西瓜の種子《たね》の皮を床の上へ吐き出しながら、「何を馬鹿なことを饒舌《しゃべ》っているの。」というように、厚い鼻翼をぴこぴこ慄《ふる》わせて嘲弄した。甲谷は、はッと冷たくなると、お柳を蹴飛ばすように、逆にお柳に向っていった。
「僕は奥さん、あなたの御主人に材木を買っていただきたくってやって来たのですが、もうそんなどころじゃありませんよ。あなたの御主人ほど僕の研究の趣意をよく汲んで下すった中国の人はまだありませんね。実際、馬来にいる中国人と英人と日本人との三つの混合は、これから起って来るこの上海の騒動と一番関係が深いですからな。僕たちはもうこれからは、今までみたいに安閑としていられないに定《きま》っていますが、銭さんは一番それをよく御存知です。」
「だって、あたしにはそんなこと、どうだってかまやしないわ。だって、そんなことなんか考えたって、どうしようもないんですもの。」
 甲谷はお柳から鈍重に蹴返《けか》えされると、ふとまた浴場の場合と同様に、芳秋蘭の姿が浮んで来た。彼は銭石山に視線を移すとまたいった。
「銭さん。僕は先日、芳秋蘭という婦人を舞踏場でちらりと見ましたが、あの婦人は僕の友人のアジヤ主義者の話によりますと、共産党の女闘士だそうじゃありませんか。」
「そうそう、そういう女もおりました。わたしも一、二度ちょっと逢ったことがありましたが。随分あれは変ってる女ですな。」
「僕はあの婦人をもう一度見たいと思っていますが、シンガポールの林推遷《りんすいせん》にしましても、黄仲涵《こうちゅうかん》にしましても、きっとこの頃の騒ぎには資金をあの婦人連中に送っているにちがいないと思いますね。何しろ、南洋中国人から毎年本国への送金は、一億万元を欠かさないというのですから、そのうちの十分の一は、少くとも共産党の運動資金に使われていると、英国銀行が睨むのだって当り前です。銭さんなども、やはり芳秋蘭一派には、幾らかは御賛成の方じゃないんですか。」
「いや、わたくしはもうどちらへも賛成しないことにしとるので。ただわたくしはもう親日が何よりだと主張しているものだから、この頃はうかうかしてると危うございましてな。しかし、シンガポールの方も、送金機関を外人に握らしていたりしては、馬来の中国人も本国政府を励ましてやりたくなるのは、これやもっともなことですよ。」
 意外なときに意外なところで逃げ口を見つけ出した銭石山の巧妙さには、このとき甲谷もぼんやりせずにはおれぬのであった。しかし、甲谷はすぐまたいった。
「そうです。しかし、中国政府の実力を奪回しようとして、近頃のように白人に反抗する中国人の反帝国主義運動が盛んになればなるほど、一方また中国人に経済的実権を握られている殖民地でも、土民が下から中国人に反抗しつつ頭を上げているのですから、結局は同じことになるのでしょう。ただ一番問題なのは、各国にもっとも豊富な生活の原料を与えねばならぬ南洋やその他の熱帯国では、白人が生活するに適当でなくて、中国人が適しているという生理的条件です。これは白人種の一番恐るべき条件ですが、しかし、それもこの頃では、文化的な設備如何によって身体には何らの危険もないということが証明せられて来つつあるそうですから、これも問題となるのはここしばらくのことでしょう。そうしますと、後には混血の問題だけが残って来ます。しかしこの難問だけは、いかにヨーロッパ人といえども、どうすることも出来ないでしょう。」
 甲谷はいつの間にか自身が中国人と同じ黄色人であるという意識のために、共同の標的をヨーロッパ人に廻して快活になろうとしている自分を感じた。するとお柳は唇のまわりを唾でぎらぎら光らして、ますます強く西瓜の種子を噛み砕きながら、
「まア、いつまできざったらしいことをいうんだろう。」というように、にがにがしく横を向いた。
 甲谷は明らかにお柳の馬鹿にし出した態度を見ると、一層彼女を腹立たせてやることが愉快になった。彼は先ず悠々と構え直すと、「この毒婦め。もっと聞け。」というように、にっこり微笑を浮べて銭石山にいった。
「南洋やその他の一般の土地では、白色人と黒色人との混血が、白色人にはならずに黒色人を生んで、黄色人と黒色人との混血が、黒色人にはならずに黄色人になるというので、黒色の土人は白人よりも黄人と好んで結婚する風がだんだん増えて来ましたが、この現象はつまりこれからますます増加していく人種は白色人でもなく、黒色人でもなく、われわれ黄色人だということを証明しているわけで、したがって、世界の実行力の中心点は黄色人種にあるということになるのですが、こういう現象が今日のようにこうまではっきりとして来ますと、白人と黄人との対立が観念の上で、一層濃厚になって来ますから、世界の次の大戦争はもう経済戦争ではなくなります。人種戦争です。そうしますと、支那と日本が、今日のようにがみがみやっていたりしましては、ますます良い汁ばかりを吸っていくのは白人で、印度はその間に挟まって、いつまで立っても起き上れないにちがいありません。その何より印度を苦しめている安全弁は、事実上、シンガポールを中心として生活している馬来《マレイ》半島の中国人です。」
 銭石山はお柳が二人の話にだんだん興味を無くし始めたのを感じたのであろう。甲谷の話を振払うように、左右を見たり、空虚《から》のお茶をすすったりしながら早口にいった。
「あなたのお説はなかなか進歩したお考えだとわたくしは思いますが、しかし中国はやはり大国でありまして、日清戦争のあったということなどは知らないものの方が多いのですから、こういう大国というものは、中心がどこにあるか分りませんが、周囲の国を鎮静させるだけでもまア立派なものでございましょう。それにはまア、当分はあちらやこちらにお愛想をいったり、気持ちを柔らげるために笑ってみたりしていなければ、こせこせして血眼になっている世界というものは、物静に廻っていくものではございませんわ。つまり、中国人の一番好きなことはまアまア、どなたもお静になすっては、というような妥協が何より好きなのですから、事は何事でもいつでも穏便に納まってしまいます。妥協が好きだということは、歴史が古うて文明が非常に進歩してしまった国でなければ、尊敬せられませんが、中国人は妥協の美徳を一番どこの国の人間よりも心得ておりますからな。この点だけは、中国人は大いに威張れるわけでございますよ。」
 甲谷も銭石山のこの虚無にも等しい寛仁大度な狡猾さには、もう今は手の出しようもないのであった。彼はにやにや無意味に笑いながら、
「いや、それは優れたお話だと思います。そういわれれば、中国で一番深い思想の老子も、あれはつまり自然に対する妥協の哲理を説いたものだと思いますが、あらゆる美徳の源は妥協に始まって妥協に終るなどという秀抜な考え方などは、法則ばかりにかじりついているヨーロッパ人には、とても分りっこないと思いますね。ことに何んでも白色文明ばかり憧れているこの頃の日本人や中国人には、なかなか難解な思想だと思いますよ。」
 すると、甲谷がそこまで話したとき、突然銭石山は八仙卓の片端を握ったままぶるぶると慄え出した。お柳は主人の後から立ち上ると、傴僂を抱いて寝台の上へ連れていった。
「一寸しばらく、御免なされ。時間がやって来ましてな。」
 主人は甲谷に会釈しながら横になると、お柳の与えた煙管《きせる》を喰《くわ》えて眼を細めた。彼の唇が魚のように動き出すと、阿片がじーじー鳴り始めた。お柳は甲谷の方を振り返っていった。
「あなたはいかが。」
「いや、僕は駄目です。どうぞ奥さんは御遠慮なく。」
 お柳は主人の傍で煙管の口から焼き始めた。甲谷はふと彼ら二人は自分の視線を楽しむために、この楼上へ呼び出したにちがいないと判断した。すると、俄《にわか》に腹が立ち始めた。――彼は今まで真面目に饒舌《しゃべ》っていた自分の顔に、急に哀れを感じずにはいられなかった。間もなく、二人は甲谷の前で、恍惚とした虫のように眼を細めた。お柳の豊かな髪が青貝をちり嵌《ば》めた螺鈿《らでん》の阿片盆へ、崩れ返った。傴僂の鼻が並んだ琥珀《こはく》や漢玉《かんぎょく》の隙間で、ゆるやかに呼吸をしながら拡がった。
「月明の良夜、慇懃に接す。」
 甲谷の頭の中で、対子《トイズ》の詩文が生き生きとして来るにしたがって、二人の身体はだんだん礼節を失った。やがて、甲谷は、お柳との無銭の逸楽に耽《ふけ》った代償を完全に支払わされている自身に気付かねばならなかった。

二九

 お杉は朝起きると、二階の欄干に肱《ひじ》をついて、下の裏通りののどかな賑わいをぼんやりと眺めていた。堀割の橋の上では、花のついた菜っ葉をさげた支那娘が、これもお杉のように、じっと橋の欄干から水の上を眺めていた。その娘の裾の傍でいつもの靴直しが、もう地べたに坐ったまま、靴の裏に歯をあてて食いつくように釘をぎゅうぎゅう抜いていた。その前を、脊中いっぱいに胡弓《こきゅう》を脊負って売り歩く男や、朝帰りの水兵や、車に揺られて行く妊婦や、よちよち赤子のように歩く纏足《てんそく》の婦人などが往ったり来たりした。しかし、橋の下の水面では、橋の上を通る人々が逆さまに映って動いていくだけで、凹《へこ》んだ鑵や、虫けらや、ぶくぶく浮き上る真黒なあぶくや、果実の皮などに取り巻かれたまま、蘇州からでも昨夜下って来たのであろう、割木を積んだ小舟が一艘、べったり泥水の上にへばりついて停っているだけであった。
 お杉はその小舟の中で老婆がひとり縫物をしているのを見ると、急に日本にいた自分の母親のことを思い出した。お杉の母親は、まだお杉が幼い日のころ、彼女ひとりを残しておいて首を縊《くく》って死んだのだ。お杉はそれからの自分が、どうしてこの上海まで流れて来たか、今は彼女の記憶も朧《おぼろ》げであった。だが、親戚の者のいったところを考え合せると、父は陸軍大佐で、演習中に突然亡くなり、母一人の手でお杉が養われていたところ、或る日、恩給局からお杉の母へ下っていた今までの恩給は、不正当であったから、その日まで下った全部の恩給額を返却すべしという命令を受けとったのだ。勿論、お杉の母にとってその長い年月の間貰っていた恩給を返すことは、不可能なばかりではなかった。これからだって、恩給なくして生活することは出来ないのは分っていた。そのため、彼女の母は悲しみのあまり、自分の手で生命を絶ってしまったのにちがいなかった。
「何も知らないものにお金をくれて、それをまた返せなんて、ああ、口惜しい。」
 お杉は母の不幸の日のことが、つい前日のことのように思われると、のどかな朝の空気が、一瞬の間、ぴたりと音響をとめて冷たく身に迫った。
 お杉は自然に涙の流れて来るのを感じると、自分がこんなになったのも、誰のためだと問いつめぬばかりに、さもふてぶてしそうに懐手《ふところで》をしたまま、じっと小舟の中の老婆の姿を眺め続けた。
 しかし、間もなく、老婆の背後の草の生えた煉瓦塀の上から、泥溝《どろどぶ》の中へ塵埃《ごみ》がぱッと投げ込まれると、もうお杉の頭からは、忽《たちま》ち母親の姿は消えてしまって夜ごとに変る客たちの顔が、次から次へと浮んで来た。すると、お杉は、泥溝の水面で静かにきりきりといつまでも廻っている一本の藁屑《わらくず》を眺めながら、誰か親切な客でも選んで、一度日本へ帰ってみようかとふと思った。もう彼女には日本の様子が、今はほとんど何も分らなかった。記憶に浮かんで来るものは、長々と立派な線を引いた城の石垣や、松の枝に鳴っている風や、時雨《しぐれ》の寒そうに降る村々の屋根の厚みや、山茶花《さざんか》の下で、咽喉《のど》を心細げに鳴らしている鶏や、それから、人の顔のように、いつもぽつりと町角に立っていた黒いポストやが、ちらちらとそれもどこで見たとも分らぬ風景ばかりが浮かんで来るのだった。
 しかし、今自分のこうして眺めている支那の街の風景は、日本とは違って、何んとのんびりしたものであろう。朝から人は働きもせず、自分と同様、欄干からぼんやり泥溝の水の上を見ているのだ。水の上では、朝日がちらちら水影を橋の脚にもつらせていた。縮れた竿の影や、崩れかけた煉瓦のさかさまに映っている泡の中で、芥《あくた》や藁屑が船の櫂《かい》にひっかかったまま、じっと腐るようにとまっていた。誰が捨てたとも分らぬ菖蒲の花が、黄色い雛鳥の死骸や、布切れなどの中から、まだ生き生きと紫の花弁を開いていた。
 お杉はそうしてしばらく、あれやこれやと物思いにふけっているうちに、今日は少し早い目から、客を捜しに街へ出ようと思った。それに、一度何より日本の鰤《ぶり》が食べてみたい。
 ――そうだ、今日はこれから市場《マーケット》へ行こう。――
 そう思うと、急にお杉は元気が出た。彼女は顔を洗ってから化粧をし、どこかの良家の女中のような風をして、籠を下げて買物に市場へいった。
 市場はもう午前十時に近づいていたが、数町四方に拡がっている三階建の大コンクリートの中は、まだまだひっくり返るような賑いであった。花を売る一角は満開の花で溢れた庭園のようであった。魚を売る一角は、水をかい出した池の底のようなものであった。お杉は鱈《たら》や鱒《ます》の乾物で詰った壁の中を通りぬけ、卵ばかり積み上った山の間を通り、ひきち切って来たばかりの野菜が、まだ匂いを立てて連っている下をくぐりぬけると、思わずはッとしてそこに立ち停った。
 彼女は前方に群がっているスッポンの大槽の傍で、甲谷とお柳の姿を見たのである。お杉は二人から見つけられない前に、こそこそと人の背後へ隠れた。それからのお杉はもう買物どころではなくなった。お杉は下っている蓮根や、砂糖黍の間をすり抜けて、甲谷とお柳の眼から逃げながらも、しかし、どうして自分はこんなに二人から逃げねばならぬのかと考えた。悪いのは向う二人ではないか。自分は今こそ街の慰み物になっている女だとはいえ、こんなにしたのは、そんなら誰だ。誰だ。――
 お杉は雑踏した人の中で、口惜しさがぎりぎり湧き上って来ると、思いきって二人の前へ、こちらからぬっと逆に現われてやろうかと思った。そうしたなら、どんなに向うの二人は狼狽《うろた》えることだろう。その二人の顔を見てやりたい。いっそ、それならそうしよう。――
 お杉はまた勇気を出して、人波のなかを二人の方へ進んでいった。しかし、お杉の来ているのを知らない二人も、お杉につれて、章魚《たこ》や、緋鯉《ひごい》や、鮟鱇《あんこう》や、鰡《ぼら》の満ちている槽を覗き覗き、だんだん花屋の方へ廻っていった。お杉は二人を見失うまいと骨折って、人々の肩に突きあたったり、躓《つまず》いたりしながら、ようやく甲谷の後まで追って来た。
 しかし、さて二人と顔を合せてどうするつもりであろうとお杉は思った。何も今さらいうこともなければ、腹立たしさをぶちまけて二人を思う存分殴りつけてやるわけにもいかぬのであった。殊に、二人が自分を見て、ひやりとでもしてくれたら、まだ幾分腹立たしさも納まるにちがいない。しかし、もしかしたら、二人がかりで、今度は逆にひやかして来ないとも限らぬと思うと、何よりお杉は、そのときの二人のにやにやしながら自分の胴を見る顔が、気味悪くなって来た。
 それでも、お杉はしばらく、二人の後をつけ狙うように歩きながら、甲谷の肩の肉つきや、ズボンの延びを眺めていた。
 すると、ふと、彼女は参木の家で、夜中、不意に貞操を奪われたあの夜の夢を思い出した。あのときは、頭を上げて迫って来る白い波や、子供の群れや、魚の群が、入れ変り立ち変り彼女を追って来て眼を醒《さま》した。だが、あの夜の男は、あれは参木であろうか、甲谷だろうか。もしあの男が甲谷なら、――ああ、あの肩だ、あの胴だ。それに今はお柳と一緒に並びながら、自分の前でこうして肩を押しつけ合っているではないか。
 お杉は袖口で口を圧《おさ》えて、じっと甲谷を睨みながら、しばらく二人の後を追っていった。しかし、いつまで自分はこうして二人の後を追っていくつもりであろう。いつまで追ったって同じではないか。いずれ追うなら甲谷のように。――そうだ。甲谷もあれからお柳にうまく食い入って、自分が客から金を取るように、定めてお柳から巧みに金を捲き上げているのであろう。それなら、自分も甲谷のように、今から客でも狙う方が、どんなに稼ぎになるだろう。
 ――お杉はやがてそうしてだんだんと里心が起って来ると、また二人から放れて市場の外へ出ていった。彼女は黄包車《ワンポウツ》に乗って大通りまで来ると、車を降りてなるたけ外人の通りそうなペーヴメントの上を、ゆるりゆるりと腰を動かしながら、ときどき、視線を擦違う男の面に投げかけ投げかけ、橋の袂《たもと》の公園の方へ歩いていった。
 しかし、行きすぎるもののうちで、昼間からお杉に視線をくれるようなものは誰もなかった。ときたまあれば、肉屋の大きな俎《まないた》の向うの、庖丁を手にした番頭の光った眼か、足を道の上へ投げ出したまま、恐そうに阿片をひねっている小僧か、お辞儀ばかりしている乞食ぐらいの眼であった。
 お杉は橋の袂まで来た。そこの公園の中では、いつものように各国人の売春婦たちが、甲羅を乾しに巣の中から出て来ていて、じっと静かにものもいわず、塊《かたま》ったまま陽を浴びて沈んでいた。お杉もその塊りの中へ交ると、ベンチに腰かけて、霧雨のように絶えず降って来るプラターンの花を肩の上にとまらせつつ、ちょろちょろ昇っては裂けて散る噴水の丸を、みなと一緒にぼんやりと眺めていた。すると、女たちの黙った顔の前で、微風が方向を変えるたびに、噴水から虹がひとり立ち昇っては消え、立ち昇っては消えて、勝手に華やかな騒ぎをいつまでも繰り返していくのだった。

三〇

 宮子の踊る踊場では、宮子を囲む外人たちが邦人紡績会社の罷業《ひぎょう》について語っていた。宮子はひと踊りして来ると、早《は》や酔いの廻り始めた彼らのテーブルに寄りながら、独逸《ドイツ》人のフィルゼルという男の話に耳を傾けた。彼は不手際な英語でつかえながらいった。
「今度の罷業はたしかに工場の方がいけませんよ。彼らは支那工人を軽蔑するからです。いったい軽蔑されて腹の立たんのは、昔から軽蔑する方だけなんですからね。第一日本人にとっても、外人を尊敬しないような人物を海外に送り出して、それでわれわれの販売力を独占しようとすることからして、損失の第一歩だ。これでは日本本国からの輸出品と、こちらの日本会社の製品とが衝突するだけじゃすみやしません。支那の工業界を刺戟《しげき》して、日本製品を追放する能力だけ培養していくにちがいないんですからね。お蔭で幸福を感じるのは僕たちですが、いやわれわれはミス・宮子のために、諸君と共に悲しみます。」
「どうして、あなたたちが幸福ですの。」と宮子は顎をあげていった。
「君は僕の独逸人だということをまだ知らんのかな。僕らは戦前まで東洋に大きな販売市場を持っていたものですぞ。ところが、そいつをふんだくったのは各国だ。われわれは各国の貨物が支那から排斥せられるということに有頂天になるのは、これや当り前さ。」
「だって、それは日本だけが悪いんじゃないわ。お国だって悪いのよ。」
「そう、それは独逸だって充分に後悔しなきゃいけませんよ。僕はアメリカだが独逸の超人的な勢力は、もうわれわれの会社まで圧迫しつつあるんですからな。」と三人へだてた遠くから、美男のアメリカ人のクリーバーが顔を上げた。
 フィルゼルの眼鏡は、急にクリーバーの方へ向って光り出した。
「失礼ですが、あなたたちはどちらの会社に御関係でいられます。」とフィルゼルは訊ねた。
「僕はゼネラル・エレクトリック・コンパニーのハロルド・クリーバーという社員ですが、あなたの方は?」
「いや、これはこれは。僕はアルゲマイネ・エレクトリチテート・ゲゼルシャフトの支店詰のヘルマン・フィルゼルというものです。どうもこれは、甚《はなは》だ心外な所で乗り合せたものですな。宮子嬢、これはわれわれの強敵のジー・イーだ。何《な》あんだ、左様か。……」
 フィルゼルは手を出しながら立ち上ったが、ひょろひょろするとまた坐った。すると、クリーバーが向うから立って来て、二人は握手をした。フィルゼルはボーイにいった。
「おい、シャンパン。シャンパン。」
「何んだかややこしくなったわね、あなた方お二人が敵同士の会社なら、あたしこれからどちらへ味方したらいいのかしら。」と宮子はいった。
「それや勿論、あなたは、ジー・イーさ。」
 クリーバーの言葉を圧《おさ》えるように、フィルゼルは反対した。
「いや、それや、是非とも僕の方でなくちゃいけないよ。僕たち独逸人にあなたが反対すれば、第一、賠償金が返りませんぜ。勿論、アメリカへだって返しやしませんよ。今の所、われわれだけは何をしたってよろしい。大戦に負けた慈善が、こういう所で実るのでさ。」
 すると、クリーバーは飲みかけたカクテルを下に置いて、フィルゼルにもたれかかりながら、
「僕はあなたの仰言《おっしゃ》るように、充分独逸へは同情を感じますさ。しかしだね、だからといって、あなたの会社のアー・エー・ゲーには同情しやしませんよ。あなたの会社のこの頃のシンジケートの発展は、寧《むし》ろ憎むべき存在だよ。」
「いや、それはなかなかもって恐縮ですな。だけども、実はそれやわれわれの方の苦情ですぜ。あなたの方のジー・イーこそ何んだ。マルコニー無電を買収してロッキー・ポイントを占領しただけで納まらずに、フェデラル無電会社を支配して、支那全土への放送権まで握ろうとしてるじゃないですか、え?」
 すると、クリーバーは苦笑しながらウィスキイをぐっといっぱい飲み込んだ。
「いや、なかなか、あなたの方の精細な御調査には満足を感じますよ。が、しかしだ。それは何かの間違いだと一層結構だと思いますね。よろしいか、われわれのフェデラル無電は、今は日本の三井に支那放送権を奪われているのですぜ。もっとも、こう申し上げるのは、何もあなたがアー・エー・ゲー・シンジケートの強力なことを羨望するわけじゃないですが、とにかく、近来のアー・エー・ゲーの進出振りのお盛んなことは、敵ながら天晴《あっぱ》れだと思いますよ。リンケ・ホフマン工場とは株式を交換し、ラウンハンマー会社との合同出資は勿論、ライン・メタル工場を併合した上、アー・エー・ゲー・リンケ・ホフマン・コンチェルンを造ったのは、流石《さすが》独逸人だと感動させられているんですがね、しかし、われわれはお互に、もうどちらも第二の世界大戦だけは、倹約しようじゃありませんか、倹約を。倹約はこれや何といっても、君、美徳だからね。しかと分ったか。」
 宮子はもたれかかって来る二人の大きな脇の下から擦り抜けると、立ち上って髪を掻き上げた。
「もう沢山。シャンパンが来ましてよ。この上あたしたち、ドイツとアメリカのシンジケートで攻められちゃ、踊ることも出来やしないわ。」
「そう、そう、われわれは、闘いよりも踊るべしだよ。」
 クリーバーは抜かれたシャンパンを高く上げるといった。
「われらの敵、アルゲマイネ・エレクトリチテート・ゲゼルシャフトの隆盛のために。」
 フィルゼルはふらふらして立ち上った。
「われわれの尊敬の的、ゼネラル・エレクトリック・コンパニー万歳。」
 しかし、ふとその拍子に、彼は頭の上の電球を仰ぐと、しばらくぼんやりしていてから、突然眼をむいて大きな声で叫び出した。
「これは、俺の会社の電球だ。万歳、万歳、ばんざあい。」
 クリーバーは彼と同様に天井を仰いでみた。が、忽《たちま》ち、上げているフィルゼルの手を引き降ろした。
「へへえ、これはすまぬが、ジー・イーだよ。おれんところの会社の電球だ。ゼネラル・エレクトリック・コンパニー、万歳、万歳、万歳。」
「いや、これはアー・エー・ゲーだ。見ろ、エミール・ラテナウの白熱球だ、万歳。」
「いや違うよ、これやの――」
「まア、馬鹿馬鹿しい。これは、日本のマツダ・ランプよ。」と宮子はいった。
 二人は上げかけた両手をそのままに、ぽかんとして天井を見つめたまま黙ってしまった。すると、クリーバーは急に子供のように叫び出した。
「そうだ。こりゃ三井のマツダだ。われわれゼネラル・エレクトリック・コンパニー、マツダ・ランプ、万歳。」
 彼は宮子の胴を浚《さら》うようにひっかかえると、折から廻り出した踊りの環《わ》の中へ「失敬、失敬。」と片手を軽く上げながら流れていった。傾くフィルゼルの手からシャンパンが滴《したた》った。彼は遠ざかっていく宮子の方へ延び出しながら、ぶつぶついった。
「ふむ、日本の代理店ならアー・エー・ゲーだってあらア。大倉コンパニーを知らねえか。大倉コンパニーは、ロンドンで、ロンドンでちゃんと調印したんだぞ。」
 しかし、そのとき宮子の視線はさきから棕櫚《しゅろ》の陰で沈んでいた参木の顔を見つけると、俄にクリーバーの肩の上で動揺した。
 踊りがすむと、宮子は参木の傍へ近よって来て腰を降ろした。
「あなた、どうしてこんな所へいらしったの。お帰りなさいな。ここはあなたなんかのいらっしゃる所じゃなくってよ。」
「そこを、どきなさい。」と参木はいった。
「だって、ここをどいたら、あたしの恋人の顔が見られるわよ。」
「僕はさきからあの女を見てたんだが、あの人は何んていう。」
「誰れ、ああ、容子さん。刺されてよ。危いからこっちを向いてらっしゃいな。あの人はあたしのように、開けてやしないわよ。」
「もう黙って向うへいってくれよ。今夜は考えごとをしてるんだから。」
 宮子は椅子から足をぶらぶらさせながら煙草をとった。
「だって、あたしだって、ここにいたいんだわ。もうしばらくここにこうしていさせてちょうだい。」
「もうすぐここへ甲谷がやって来るんだが、そしたらまたここへおいでなさい。あの男と君が結婚するまでは、君とは、話したくないよ。」
 宮子は火のついた煙草の先で、花瓶の花を焼きながら、微笑した。
「まあ、御苦労なことね。あたしはあなたと結婚するまでは、甲谷さんとは話さないことにしているんだから、どうぞ、甲谷さんには、あなたからよろしく仰言《おっしゃ》っといて。」
「僕は冗談を聞きに来たんじゃないですよ。僕は今夜は、もう良い加減に一つ良いことをしとこうと思って来たんだから、僕のいうことも聞いといてくれ給え。その方が君だって、いいに定《きま》ってるじゃないか。」
「あたしは甲谷さんとは、死んだっていやなんですからね、あなたにくれぐれもお願いするわよ。あたし、あの方と結婚して、シンガポールなんかへいったって、色が真黒になるだけだわ。」
「それじゃ、甲谷と君とはもう駄目なんですか。」参木の眼からもう笑いが消えてうす冷い光りが流れた。
「ええ、もうそれは初めっからだわ。あたし、甲谷さんの好きな所は、御自分の英語の間違いも御存知にならない所だけよ。あれならきっと奥さんにおなりになる方だって、お幸《しあわせ》にちがいないわ。」
 参木は宮子の皮肉が不快になると横を見た。並んだ踊子たちの膝の上を、一握りのチョコレートが華やかな騒ぎを立てて辷《すべ》っていった。
「あなた、今夜はあたしと踊ってちょうだい。あたし、つくづくこの頃、生きてるのがいやになったの、あたし、どうして踊子なんかになったのでしょう。あたし、死ぬ前にあなたと一度、日本の花嫁さんの姿をして結婚がしてみたいわ。それも一度よ。ね、そうしてよ。」
「君ももうすることがなくなったと見えるね。僕を掴まえてそんなことをいうようじゃ、それや危いぞ。」
「そう、危いのよ。あたしは自分と同じような顔を見つけると、恐ろしくて寒けがするの。あなたももうお気をつけてらっしゃらないと、危くてよ。顔に出てるわ。」
 参木は急所を刺されたようにますます不快になると眉を顰《しか》めた。
「もう、向うへいってくれよ。同じ人間が二人もいちゃ、辷るだけだよ。」
「だって、もうこうなれば同じことだわ。あなた、おかしくなったらあたしにいってね、あたし、いつでもあなたのお相手してよ。嘘じゃないわ。あたしひとりなら、まだまだぶらぶらしてるに定《きま》っているわ。だけど、もう、ぶらぶらしたって、ソセージみたいで、ただ長くなっているだけよ。つまんないったらありゃしない……。」
 参木は滲み込んで来る危険な境界線を見るように、宮子の眼を眺めてみた。すると、ふと、彼は競子の顔を思い出した。だが、もう彼女は体の崩れた未亡人だ。彼は秋蘭の顔を思い出した。だが、彼女を見ることは死ぬことと同様だ。いやそれより俺には何の希望の芽があるか。――
「あたし、何んだか、だんだん氷と氷の間へ辷り込んでいくような気がするのよ。これはきっと、あんまり人の身体の間へ挟まってばかりいるからね。恋愛なんてまるで泥みたいに見えるのよ。」
 参木は舐《な》められるように溶《と》けていく自分のうす寒い骨を感じた。彼はいった。
「君、もう踊って来なさい。僕はここで君の踊るのを見てるよ。」
「あなた一度、あたしと踊らない。」
「駄目だ、踊りは。」と参木はぶっきら棒にいった。
「だって、ただぶらぶら足踏みさえしておればいいんじゃないの。こんな所で上手に踊ったりするのは、きっとどっか馬鹿な人よ。」
「とにかく、何んだっていいよ。ここにいたってつまらないじゃないか。あっちの方が君の嵌《はま》り場だよ。」
 宮子は参木の指差した外人たちの塊《かたま》りを振り向くと、笑いながら彼の指さきに手を乗せた。
「何アんだ。さきからぷんぷんしてたの、それか、あたし、そういうのは好きじゃないね。じゃ、さようなら、あちらへ行くわ。ああ、そうそう、あそこに塊《かたま》ってる外人たちね。あれはあなたが、こないだ踏んだアルバムの中にいた人たちよ。覚えといて。一番右のがマイスター染料会社のブレーマン、それから、ほら、こちらを向いたでしょう、あれはパーマース・シップのルースさん、その次のはマーカンティル・マリンのバースウィック、その前のは――何んだか忘れた。その向うのがなかなか資格のある人よ。」
「それより、もうすぐ甲谷が来るよ。」
「だって、あたし、ほんとに甲谷さんとは、初めから何んでもないのよ。それだけは覚えといて、ね、ね。」と宮子はいうと、英語のバスの渦巻いた会話の中へ、しなしな背中に笑いを波立てながら歩いていった。

三一

 高重の工場では、暴徒の襲った夜以来、ほとんど操業は停ってしまった。しかし、反共産派の工人たちは機械を守護して動かなかった。彼らは共産派の指令が来ると袋叩きにして河へ投げた。工場の内外では、共産派の宣伝ビラと反共派の宣伝ビラとが、風の中で闘っていた。
 高重は暴徒の夜から参木の顔を見なかった。もし参木が無事なら顔だけは見せるにちがいないと思っていた。だが、それも見せぬ。――
 高重は工場の中を廻って見た。運転を休止した機械は昨夜一夜の南風のために錆《さ》びついていた。工人たちは黙々とした機械の間で、やがて襲って来るであろう暴徒の噂のために蒼ざめていた。彼らは列を作った機械の間へ虱《しらみ》のように挟まったまま錆びを落した。機械を磨く金剛砂が湿気のために、ぼろぼろと紙から落ちた。すると、工人たちは口々にその日本製のやくざなペーパーを罵《ののし》りながら、静ったベルトの掛けかえを練習した。綿は彼らの周囲で、今は始末のつかぬ吐瀉物《としゃぶつ》のように湿りながら、いたる所に塊っていた。
 高重は屋上から工場の周囲を見廻した。駆逐艦から閃《ひら》めく探海燈が層雲を浮き出しながら廻っていた。黒く続いた炭層の切れ目には、重なった起重機の群れが刺さっていた。密輸入船の破れた帆が、真黒な翼のように傾いて登っていった。そのとき、炭層の表面で、襤褸《ぼろ》の群れが這いながら、滲み出るように黒々と拡がり出した。探海燈がそれらの脊中の上を疾走すると、襤褸の波は扁平に、べたりと炭層へへばりついた。
 来たぞ、と高重は思った。彼は脊を低めて階下へ降りようとした。すると、倉庫の間から、声を潜めて馳けている黒い一団が、発電所のガラスの中へ辷っていった。それは逞しい兇器のように急所を狙って進行している恐るべき一団にちがいないのだ。高重はそれらの一団の背後に、芳秋蘭の潜んでいることを頭に描いた。彼はそれらの計画の裏へ廻って出没したい慾望を感じて来た。彼らは何を欲しているのか。ただ今は、工場を占領したいだけなのだ。――
 高重は電鈴のボタンを押した。すると、見渡す全工場は真黒になった。喚声が内外二ヶ所の門の傍から湧き起った。石炭が工場を狙って飛び始めた。探海燈の光鋩《こうぼう》が廻って来ると、塀を攀《よ》じ登っている群衆の背中が、蟻《あり》のように浮き上った。
 高重は彼らを工場内に引入れることの寧《むし》ろ得策であることを考えた。這入れば袋の鼠と同様である。外から逆に彼らを閉塞すればそれで良いのだ。もし彼らが機械を破壊するなら、損失はやがて彼らの上にも廻るだろう。――彼は階段を降りていった。すると、早や場内へ雪崩《なだ》れて来た一団の先頭は、機械を守る一団と衝突を始めていた。彼らは叫びながら、胸を垣のように連ねて機械の間を押して来た。場内の工人たちは押し出された。印度人の警官隊は、銃の台尻《だいじり》を振り上げて押し返した。格闘の群れが連った機械を浸食しながら、奥へ奥へと進んでいった。すると、予備室の錠前が引きち切られた。場内の一団はその中へ殺到すると、棍棒形のピッキングステッキを奪い取った。彼らは再びその中から溢れ出すと、手に手に、その鉄の棍棒を振り上げて新しく襲って来た。
 彼らは精紡機の上から、格闘する人の頭の上へ飛び降りた。木管が、投げつけられる人の中を、飛び廻った。ハンク・メーターのガラスの破片が、飛散しながら裸体の肉塊へ突き刺さった。打ち合うラップボートの音響と叫喚に攻め寄せられて、次第に反共産派の工人たちは崩れて来た。
 高重は電話室へ馳け込むと、工部局の警察隊へ今一隊の増員を要求した。彼は引き返すと、急に消えていた工場内の電燈が明るくなった。瞬間、はたと混乱した群集は停止した。と、再び、怒濤のような喚声が、湧き上った。高重はまだ侵入されぬローラ櫓を楯にとって、頭の上で唸る礫《つぶて》を防ぎながら、警官隊の来たことを報《し》らすために叫んだ。
 しかし、それと同時に、周囲の窓ガラスが爆音を立てて崩壊した。すると、その黒々とした巨大な穴の中から、一団の新しい群衆が泡のように噴き上った。彼らは見る間に機械の上へ飛び上ると、礫や石炭を機械の間へ投げ込んだ。それに続いて、彼らの後から陸続として飛び上る群衆は、間もなく機械の上で盛り上った。彼らは破壊する目的物がなくなると、社員目がけて雪崩《なだ》れて来た。
 反共派の工人たちは、この団々と膨脹して来る群衆の勢力に巻き込まれた。彼らは群衆と一つになると、新しく群衆の勢力に変りながら、逆に社員を襲い出した。社員は今はいかなる抵抗も無駄であった。彼らは印度人の警官隊と一団になりながら、群衆に追いつめられて庭へ出た。すると、行手の西方の門から、また一団の工人の群れが襲って来た。彼らの押し詰った団塊の肩は、見る間に塀を突き崩した。と、その倒れた塀の背後から、兇器を振り上げた新しい群衆が、忽然として現れた。彼らの怒った口は鬨《とき》の声を張り上げながら、社員に向って肉迫した。腹背に敵を受けた社員たちはもはや動くことが出来なかった。今は最後だ、と思った高重は、仲間と共に拳銃を群衆に差し向けた。彼の引金にかかった理性の際限が、群集と一緒に、バネのように伸縮した。と、その先端へ、乱れた蓬髪《ほうはつ》の海が、速力を加えて殺到した。同時に、印度人の警官隊から銃が鳴った。続いて高重たちの一団から、――群集の先端の一角から、叫びが上った。すると、その一部は翼を折られたようにへたばった。彼らは引き返そうとした。すると後方の押し出す群れと衝突した。彼らは円弧を描いた二つの黒い潮流となって、高重の眼前で乱動した。方向を失った脊中の波と顔の波とが、廻り始めた。逃げる頭が塊った胴の中へ、潜り込んだ。倒れた塀に躓《つまず》いて人が倒れると、その上に盛り上って倒れた人垣が、しばらく流動する群衆の中で、黒々と停って動かなかった。
 反共産派の工人たちは、この敗北しかけた共産系の団流を見てとると、再び爪牙《そうが》を現わして彼らの背後から飛びかかった。転がる人の上を越す足と、起き上る頭とが、同時に再び絡《からま》って倒れると這い廻った。踏まれた蓬髪に傾いた頭が、疾風のように駈ける足先に蹴りつけられた。ラップボートが、投槍のように飛び廻った。石炭が逃げる群集の背後から投げつけられた。拡大して散る群集の影が倉庫の角度に従って変りながら、急速に庭の中から消えていった。
 工部局の機関銃隊が工場の門前に到着した時は、早《は》や彼らの姿は一人として見えなかった。ただ探海燈の光鋩《こうぼう》が空で廻るたびごとに、血潮が土の上から、薄黒く痣《あざ》のように浮き上って来るだけだった。

三二

 顔をぽってり熱《ほ》てらせながら山口はトルコ風呂から外へ出た。彼はこれからお杉の所へいって、夜の十二時までを過して来ようと考えたのだ。しかし、彼は歩いているうちに、長く東京にいたアジヤ主義者の同志、印度人のアムリのいる宝石商の前へ来てしまった。彼はアムリがいるかどうかと覗いてみた。すると、アムリは客を送り出して商品台へ戻ったところで、背中を表へ見せたまま支那人の小僧に何事か大声で怒鳴っていた。怒鳴るたびに、アムリの黒い首の皮膚が、真白な堅いカラーに食い込まれて弛みながら揺れ動いた。
 山口はここでアムリと話したら、今夜は、お杉に逢うことの出来なくなるのを感じた。しかし、そのときは、早や、彼はアムリに声をかけてすでに近よってしまっている後であった。
「おう。」アムリは堂々とした身体を振り向けると、宝石台の厚ガラスに片手をついて、山口と握手をしつつ明瞭な日本語でいった。
「しばらく。」
「しばらく。」
「ときに、どうも飛んだことになったじゃないか。」と山口はいって手を放した。
「左様、なかなか込み入って来ましたね。今度は支那もよほど拡げる見込みらしい。」
「あなたは李英朴に逢いましたか。」
「いや、まだだ。李君に逢おうと思っても行衛《ゆくえ》が不明でね。」アムリは山口に椅子をすすめて対座すると、白い歯並の中から、金歯を一枚強くきらきらと光らせながらいった。「今度の事件はなかなか厄介で困ったね。東洋紡の日本社員は、最初発砲して支那人を殺したのは印度人だと頑強にいってるが、ああいうことを頑強にいわれては、われわれもいつまでも黙っちゃいられなくなるからね。」
「しかし、あれはまア、発砲したのが日本人であろうと印度人であろうと、押しよせて来たのは支那人なんだから、誰だって発砲しようじゃないかね。文句はなかろう。」
「それはそうだが、そうだとしたって、罪を印度人に負わせる必要はどこにもないさ。」
「しかし、あれは君、検視してみたら弾丸が印度人のと日本人のとが這入っていたというので、何んでも今日あたりからいままでの排日が、排英に変っていくそうだ。それなら、君だって賛成だろう。」
 アムリは入口の闇に漂っている淡靄《うすもや》の中で、次から次へと光って来る黄包車《ワンポウツ》の車輪を眺めながら、笑っていった。
「われわれは支那人の排英にはもう賛成しませんね。支那人に出来るのは、排支だけだ。」
「廃止か。」山口はアムリの大きな掌で圧《おさ》えられているガラス台の下の宝石類を覗き込んだ。「君、これは皆、印度から来たんかね。」
「いや、違う。泥棒からだ。」
「それじゃ、ひとつ貰ったって、かまわんね。」
「よろしい。どうぞ。」とアムリはいって宝石台の戸を開けた。山口は中につまっている印度製の輝いた麦藁細工の黒象をかきのけると、お杉にひとつと思って、アメシストの指環を抜きとった。
「君、これは贋物じゃなかろうね。」
「いや、それは分らぬ。」とアムリはいった。
「それじゃ貰ったって、有難かないじゃないか。」
「だから、金五ドルさ。」アムリは掌を山口の方へ差し出した。
「贋物のくせに、君はまだ金をとろうというのかね。」
「それが商売というものだよ。おい、君、五ドル。」
 山口は五ドルを出すと、指環を自分の指に嵌《は》めながらいった。
「今夜からは、わしだけは排印だ。」
「僕をこんなにしたのは、これは英国さ。」
「英国といえば君、この頃の英国はまたなかなかやりよるじゃないか。君の国の国民会議派も危いね。」
「危い。」とアムリは平然としていった。
「君はどうだ。会議派がもし分裂すればどちらになるんだ。まさか君の御大のジャイランダスまで共産党にくらがえするんじゃなかろうね。大丈夫かい。」
「それは分らん。この頃みたいにヤワハラル・ネールが鞍がえするとなると、ジャイランダスだって、そのままにはいられまい。」とアムリはいった。
「しかし、今頃から鞍がえするなんて、ヤワハラルもあんまり山を張りすぎるじゃないか。」
 アムリは黙って戸口の方を眺めたまま答えなかった。山口は印度から詳細な通知が、もうこのアムリに来ているにちがいないと思って袖を引いた。
「ヤワハラルの鞍がえは、英国の寿命を五十年延ばしてやったのと同然だよ。君はどう思う。」
「僕もそう思う。」とアムリは答えた。
「それなら、君の敵はまた一つ増えたわけじゃないか。」
「増えた。」
「今頃、同志が苦しんで英国と闘っているときに、青年の力を借りなければならぬからといって、わざわざ君らを背後から襲うというのは、分裂している印度を一層分裂させるようなものだ。君らは印度を改革しようとするんじゃなくって、今日からは守備につかねばならんのだ。目的が変って来ている。今度は君らは改革される番じゃないか。」
 しかし、アムリは前方の靄の中を眺め続けたまま、急激に起って来たこの祖国の新しい混乱に疲れたかのように、いつまでも黙っていた。
「君、その後の通知はまだ印度から来ないのかね。」
「来ない。」とアムリは答えた。
「それじゃよほど今頃は混乱してるんだな。」
「しかし、共産党が印度にも起り出したところで、われわれはその共産党と闘う必要はない。共同の目的はどちらにしたって英国だ。」
 山口はアムリから自国の困憊《こんぱい》を押し隠そうとしている薄弱な見栄を感じると、ふと、同時に彼も振り向くように、日本に波打ち上っている思想の火の手を感じないではいられなかった。
「君、印度に共産党が起れば、今まで独立運動に資金を出していた資本家が、英国と結びついてしまうじゃないか。そうしたら、会議派の条件は永久に葬られるより仕様があるまい?」
「それはそうかもしれないが、しかし、支那でも資本家は共産党と結託して排外運動を起しているんだから、印度もそこは、ジャイランダスとヤワハラルにまかしておくより仕方があるまい。」
 アムリは時計を仰ぐと、
「おい、店をしまえ。」と大声で小僧にいった。
「しかし、それにしたって、印度からこちらの海岸線が、そう無暗に共産化してどうなるんだ。われわれの大アジヤ主義もヨーロッパと戦うことじゃなくって、これじゃ共産軍と戦うことだ。」
「ロシアだ。曲者は。」とアムリはいうと、窓のカーテンを引き降ろした。続いて小僧は表の大戸を音高く引き降ろした。
「この分だと君らのミリタリズムは、当然ロシアと衝突せずにはおられまい。」とアムリはいった。
「ミリタリズムがロシアと衝突すれば、君、印度はどうする? これは一番問題だぞ。」と山口は刺し返した。
「そうすれば印度は当然分裂さ。ヤワハラルのこの頃の勢力は、青年の間ではガンジー以上だから大変だよ。」
「そうすると君の大将のジャイランダスはどうなるんだ。」
「ジャイランダスはあくまで英国と闘うさ。問題はまだまだ山のようにある。国防軍の統帥権と、経済上の支配権、印度公債の利権賦与と塩専売法の否定運動、それに何より政治犯人の控訴権の獲得だ。君、全印国民会議執行委員三百六十名の中、七十六パーセントの二百七十人は現在獄中にいるんだからね。いずれにしたって、これはこのままじゃいられぬさ。牢獄は正義の士でいっぱいだ。もう五年、五年間待ってくれ、やってみせる。」
 アムリは内ポケットから謄写版ですった用紙を出した。
「これは先日ラホールの同志から来た印度総督攻撃の名文だが、なかなか近頃にない名文だ。――塩税に関して我々のなしたところの、げに穏健着実なる提案に対し、総督の採りたる態度は、怪しむべき政府の真情を暴露する。目もくらむばかりのシムラの高原に閑居する全印度の統治者が、平原に住む餓えたる数百万の苦悩を理解し得ざるは、我々にとってはあたかも日を仰ぐがごとく明瞭である。然《しか》も彼らは、数百万民衆の不断の労苦の庇護によって、シムラの閑居が可能ではないか。」
「君、そりゃ、共産党の文句じゃないか。ラホールももう危いのかい?」と山口はいった。
 アムリは用紙から眼を上げると、山口の顔を見ていった。
「君には何んでも共産党に見えるんだね。そんなに共産党が恐くちゃ、大アジヤ主義もお終いだよ。」
「まア、何んでも良いから今夜は出よう。」
「出よう。」
 山口は先に表へ出ると、アムリも後から帽子を取ってついて出ていった。

三三

 海港からは、拡大する罷業《ひぎょう》につれて急激に棉製品が減少した。対日|為替《かわせ》が上り出した。銀貨の価値が落っこちると、金塊相場が続騰した。欧米人の為替ブローカーの馬車の群団は、一層その速力に鞭《むち》をあてて銀行間を馳け廻った。しかし、金塊の奔騰《ほんとう》するに従って、海港には銀貨が充満し始めた。すると市場に於ける棉布の購買力が上り出した。外品の払底が続き出した。紐育《ニューヨーク》とリバプールと大阪の棉製品が昂騰した。
 参木はこの取引部の掲示板に表れた日本内地の好景気の現象に興味を感じた。邦人会社が苦しめられると、逆に大阪が儲け出したのだ。それなら、支那では――支那に於ける参木の邦人紡績会社では、久しく倉庫に溜った残留品までが飛び始めた。
 勿論、この無気味な好況に斉《ひと》しく恐怖を感じたものは、取引部だけではなかった。交易所では、俄《にわか》に買気《かいけ》が停ると、売手がそれに代って続出した。すると、俄然として棉布が一斉に暴落し始めた。印度人の買占団が横行した。しかし、海港からなおますます減少する棉製品の補充は、不可能であった。そうして、罷業紡績会社の損失は、罷業時日と共に、ようやく増進し始めた。然《しか》も、操業停止の期間内に於ける賃金支払いの承諾を、工人たちに与えない限り、なお依然として罷業は続けられるにちがいないのだ。――
 この罷業影響としての棉製品の欠乏から、最も巨利を占めたのは、印度人の買占団と、支那人紡績の一団であった。支那人紡績は、前から久しく邦人会社に圧迫せられていたのである。彼らは邦人紡績に罷業が勃発すると同時に、休業していた会社さえ、全力を挙げて機械の運転を開始し始めた。罷業職工内の熟練工が続々彼らの工場へ奪《と》られ出した。国貨の提唱が始った。日貨の排斥が行われた。そうして、支那人紡績会の集団は、今こそ支那に、初めて資本主義の勃興を企画しなければならぬ機会に遭遇したのだ。彼ら集団は自国の国産を奨励する手段として、彼らの資本の発展が、外資と平行し得るまで、ロシアをその胸中に養わねばならぬ運命に立ちいたった。何《な》ぜなら、支那資本はもはやロシアを食用となさざる限り、彼らを圧迫する外国資本の専政から脱出することは、不可能なことにちがいないのだ。支那では、こうして共産主義の背後から、この時を機会として資本主義が駈け昇らなければならなかった。
 この支那資本家の一団である総商会の一員に、お柳の主人の銭石山が混っていた。彼は日本人紡績会社に罷業が起ると、彼らの一団と共に策動し始めた。彼らは支那人紡績に資金を増した。排日宣伝業者に費用を与えた。同時に罷業策源部である総工会に秋波を用いることさえ拒まなかった。そうして、この支那未曾有の大罷業が、どこからともなく押し寄せた風土病のように、その奇怪な翼を刻々に拡げ出したのだ。今や海港には失業者が満ち始めた。無頼《ぶらい》の徒が共産党の仮面を冠って潜入した。秘密結社が活動した。街路の壁や、辻々の電柱や、露路の奥にまで日本人に反抗すべしという宣単《せんたん》が貼られ始めた。総工会の本部からは、彼らに応ぜしめる電報が、各国在留支那人に向けて飛び始めた。
 この騒ぎの中で、高重ら一部の邦人と、工部局属の印度人警官の発砲した弾丸は、数人の支那工人の負傷者を出したのだ。その中の一人が死ぬと、海港の急進派は一層激しく暴れ出した。彼らは工部局の死体検視所から死体を受けとると、四ヶ所の弾痕がことごとく日本人の発砲した弾痕だと主張し始めた。総工会幹部と罷業工人三百人から成る一団が、棺を担いで、殺人糾明のため工場へ押しかけた。しかし、彼らはその門前で警官隊から追われると、ようやく棺は罷業本部の総工会に納められた。
 高重は自身たちの作った一つの死体が、次第に海港の中心となって動き出したのを感じた。支那工人の団結心は、一個の死体のために、ますます鞏固《きょうこ》に塊まり出したのだ。彼はその巧みな彼らの流動を見ていると、それがことごとく芳秋蘭一人の動きであるかのように見えてならぬのであった。間もなく彼女は数千人の工人を引きつれて八方に活動するにちがいない。――
 しかし、見よ、と彼は思った。
 ――今に、彼女が活動すればするほど、彼女に引き摺り廻される工人の群れは餓死していくにちがいないのだ。――
 総工会に置かれた死亡工人の葬儀は、附近の広場で盛大に行われた。参木の取引部へは、刻々視察隊から電話が来た。

三四

 襲撃された邦人の噂が日々《にちにち》市中を流れて来た。邦人の貨物が掠奪されると、焼き捨てられた。支那商人が先を争って安全な共同租界へ逃げ込んだ。租界の旅館が満員を続けて溢れて来ると、それに従って租界の地価と家賃が暴騰した。親日派の支那人は檻に入れられ、獣のように市中を引《ひ》き摺《ず》り廻された。何者とも知れぬ生首《なまくび》が所々の電柱にひっかけられると、鼻から先に腐っていった。
 参木は視察を命ぜられると、時々支那人に扮装して市中を廻った。彼は芳秋蘭を見たい慾望を圧《おさ》えることに、だんだん困難を感じて来た。彼は危険区劃に近づくことによって、急激な疲労を感じると、初めて鼻薬を盛られた鼻のように生き生きと刺激を感じるのであった。
 その日は、参木はいつものようにパーテルで甲谷と逢わねばならなかった。彼の歩く道の上では、夏に近づく蒸気がどんよりと詰って居た。乞食の襤褸《ぼろ》の群れを、房のように附着させた建物の間から、駆逐艦の鉄の胴体が延び出ていた。無軌道電車が黄包車《ワンポウツ》の群れを追い廻しながら、街角に盛上った果物の中へ首を突っ込むと、動かなかった。参木は街を曲った。すると、その真直ぐに延びた街区の底で、喚《わめ》く群集が詰りながら旗を立てて流れていた。それは明らかに日本の工場を襲って追い散らされて来た群衆の一団であった。彼らの長く延びた先頭は、警察の石の関門に噛まれていた。
 群衆のその長い列は、検束者を奪うために次第に噛まれた頭の方向へ縮りながら押し寄せた。石の関門は竈《かまど》の口のように、群衆をずるずると飲み込んだ。と、急に、群衆は吐き出されると、逆に参木の方へ雪崩《なだ》れて来た。関門からは、並んだホースの口から、水が一斉に吹き出したのだ。水に足を掬《すく》われた旗持ちが、石の階段から転がり落ちた。ホースの筒口が、街路の人波を掃き洗いながら進んで来た。停車した辻の電車や建物の中から、街路へ人が溢れ出した。警官隊に追われた群衆は、それらの新たな群衆に止められると、更に一段と膨脹した。一人の工人が窓へ飛び上って叫び出した。
 彼は激昂しながら同胞の殺されたことや、圧迫するものが英国官憲に変って来たことを叫んでいるうちに、突然脳貧血を起して石の上へ卒倒した。群衆はどよめき立った。宣単が人々の肩の隙間を、激しい言葉のままで飛び歩いた。幟《のぼり》が群衆の上で振り廻された。続いて一人の工人が建物の窓へ飛び上ると、また同じように英国の官憲を罵り叫んだ。すると、近かづいた官憲が、彼の足を持って引き摺り降ろした。群衆の先端で濡れていた幟の群れが、官憲の身体に巻きついた。
 その勢いに乗じて再び動き始めた群衆は、口々に叫びながら工部局へ向って殺到した。ホースの筒口から射られる水が、群衆をひき裂くと、八方に吹き倒した。人の波の中から街路の切石が一直線に現れた。礫《つぶて》の渦巻が巡羅官の頭の上で唸り飛んだ。高く並んだ建物の窓々から、河のようなガラスの層が青く輝きながら、墜落した。
 もはや群衆は中央部の煽動に完全に乗り上げた。そうして口々に外人を倒せと叫びながら、再び警察へ向って肉迫した。爆《はじ》ける水の中で、群衆の先端と巡羅とが転がった。しかし、大廈《たいか》の崩れるように四方から押し寄せた数万の群衆は、忽《たちま》ち格闘する人の群れを押し流した。街区の空間は今や巨大な熱情のために、膨れ上った。その澎湃《ほうはい》とした群衆の膨脹力はうす黒い街路のガラスを押し潰しながら、関門へと駈け上ろうとした。と、一斉に関門の銃口が、火蓋を切った。群衆の上を、電流のような数条の戦慄が駈け廻った。瞬間、声を潜めた群衆の頭は、突如として悲鳴を上げると、両側の壁へ向って捻じ込んだ。再び壁から跳ね返された。彼らは弾動する激流のように、巻き返しながら、関門めがけて襲いかかった。このとき参木は商店の凹んだ入口に押しつめられたまま、水平に高く開いた頭の上の廻転窓より見えなかった。その窓のガラスには、動乱する群衆が総《すべ》て逆様《さかさま》に映っていた。それは空を失った海底のようであった。無数の頭が肩の下になり、肩が足の下にあった。彼らは今にも墜落しそうな奇怪な懸垂形の天蓋を描きながら、流れては引き返し、引き返しては廻る海草のように揺れていた。参木はそれらの廻りながら垂れ下った群衆の中から、芳秋蘭の顔を捜し続けていたのである。すると、彼は銃声を聞きつけた。彼は震動を感じた。彼は跳ね起るように、地上の群衆の中へ延び上ろうとした。が、ふと彼は、その外界の混乱に浮き上った自身の重心を軽蔑する気になった。いつもむらむらと起る外界との闘争慾が、突然持病のように起り出したのだ。彼は逆に、落ちつきを奪い返す努力に緊張すると、弾丸の飛ぶ速力を見ようとした。彼の前を人波の川が疾走した。川と川との間で、飛沫のように跳ね上った群衆が、衝突した。旗が人波の上へ、倒れかかった。その旗の布切れが流れる群衆の足にひっかかったまま、建物の中へ吸い込まれようとした。そのとき、彼は秋蘭の姿をちらりと見た。彼女は旗の傍で、工部局属の支那の羅卒《らそつ》に腕を持たれて引かれていった。しかし、忽ち流れる群衆は、参木の視線を妨害した。彼はその波の中を突き抜けると、建物の傍へ駈け寄った。秋蘭は巡羅の腕に身をまかせたまま、彼の眼前で静に周囲の動乱を眺めていた。すると、彼女は彼を見た。彼女は笑った。彼は胸がごそりと落ち込むように俄《にわか》に冷たい死を感じた。彼は一刀の刃《は》のように躍り上ると、その羅卒の腕の間へ身をぶち当てた。彼は倒れた。秋蘭の駈け出す足が――彼は襲いかかった肉塊を蹴りつけると跳ね起きた。彼は銃の台尻に突き衝《あた》った。が、彼は新しく流れて来た群衆の中へ飛び込むと、再びその人波と一緒に流れていった。――
 それはほとんど鮮かな一閃の断片にすぎなかった。小銃の反響する街区では、群衆の巨大な渦巻きが、分裂しながら、建物と建物の間を、交錯する梭《ひ》のように駈けていた。
 参木は自身が何をしたかを忘れていた。駈け廻る群衆を眺めながら、彼は秋蘭の笑顔の釘に打ちつけられているのである。彼は激昂しているように、茫然としている自分を感じた。同時に彼は自身の無感動な胸の中の洞穴を意識した。――遠くの窓からガラスがちらちら滝のように落ちていた。彼は足元で弾丸を拾う乞食の頭を跨《また》いだ。すると、彼は初めて、現実が視野の中で、強烈な活動を続けているのを感じ出した。しかし、依然として襲う淵のような空虚さが、ますます明瞭に彼の心を沈めていった。彼はもはや、為《な》すべき自身の何事もないのを感じた。彼は一切が馬鹿げた踊りのように見え始めて来るのであった。すると、幾度となく襲っては退いた死への魅力が、煌《きら》めくように彼の胸へ満ちて来た。彼はうろうろ周囲を見廻していると、死人の靴を奪っていた乞食が、ホースの水に眼を打たれて飛び上った。参木は銅貨を掴んで遠くの死骸の上へ投げつけた。乞食は敏捷な鼬《いたち》のように、ぴょんぴょん死骸や負傷者を飛び越えながら、散らばった銅貨の上を這い廻った。参木は死と戯れている二人の距離を眼で計った。彼は外界に抵抗している自身の力に朗らかな勝利を感じた。同時に、彼は死が錐《きり》のような鋭さをもって迫《せ》めよるのを皮膚に感じると、再び銅貨を掴んで滅茶苦茶に投げ続けた。乞食は彼との距離を半径にして死体の中を廻り出した。彼は拡がる彼の意志の円周を、動乱する街路の底から感じた。すると、初めて未経験なすさまじい快感にしびれて来た。彼は今は自身の最後の瞬間へと辷り込みつつある速力を感じた。彼は眩惑する円光の中で、次第にきりきり舞い上る透明な戦慄に打たれながら、にやにや笑い出した。すると、不意に彼の身体は、後ろの群衆の中へ引き摺られた。彼は振り返った。
「ああ。」と彼は叫んだ。
 彼は秋蘭の腕に引き摺られていたのである。
「さア、早くお逃げになって。」
 参木は秋蘭の後に従って駈け出した。彼女は建物の中へ彼を導くと、エレベーターで五階まで駈け昇った。二人はボーイに示された一室へ這入った。秋蘭は彼をかかえると、いきなり激しい呼吸を迫らせてぴったりと接吻した。
「ありがとうございましたわ。あたくし、あれから、もう一度あなたにお眼にかかれるにちがいないと思っておりましたの。でも、こんなに早く、お眼にかかろうとは思いませんでした。」
 参木は次から次へと爆発する眼まぐるしい感情の音響を、ただ恍惚として聞いていたにすぎなかった。秋蘭は忙しそうに窓を開けると下の街路を見降ろした。
「まア、あんなに官憲が。――御覧なさいまし、あたくし、あそこであなたにお助けしていただいたんでございますわ。あなたを狙っていたものが発砲したのも、あそこですの。」
 参木は秋蘭と並んで下を見た。壁を伝って昇って来る硝煙の匂いの下で、群衆はもはや最後の一団を街の一角へ吸い込ませていた。真赤な装甲車の背中が、血痕やガラスの破片を踏みにじりながら、穴を開けて静まってしまった街区の底をごそごそと怠《だ》るそうに辷っていった。
 参木は彼の闘争していたものが、ただその真下で冷然としている街区にすぎなかったことに気がついた。彼は自身の痛ましい愚かさに打たれると、悪感《おかん》を感じて身が慄えた。
 参木は弾力の消え尽した眼で、秋蘭の顔を見た。それは曙《あけぼの》のようであった。彼は彼女が彼に与えた接吻のしめやかさを思い出した。しかし、それは何かの間違いのように空虚な感覚を投げ捨てて飛び去ると、彼はいった。
「もう、どうぞ、僕にはかまわないで、あなたのお急ぎになる所へいらっして下さい。」
「ええ、有りがとうございます。あたくし、今は忙がしくってなりませんの。でも、もう、あたくしたちの集る所は、今日は定《きま》っておりますわ。それより、あなたは今日はどうしてこんな所へお見えになったんでございますの。」と秋蘭はいって参木の肩へ胸をつけた。
「いや、ただ僕は、今日はぶらりと来てみただけです。しかし、あなたのお顔の見える所は、もうたいてい僕には想像が出来るんです。」
「まア、そんなことをなさいましては、お危《あぶの》うございましてよ。これからは、なるだけどうぞ、お家にいらして下さいまし。今はあたくしたちの仲間の者は、あなた方には何をするかしれませんわ。でも、今日の工務局の発砲は、日本の方にとっては、幸福だったと思いますの。明日からは、きっと中国人の反抗心が英国人に向っていくにちがいありませんわ。それにもうすぐ、工務局は納税特別会議を召集するでございましょう。工部局提案の関税引上げの一項は、中国商人の死活問題と同様です。あたくしたちは極力これを妨害して流会させなければなりませんの。」
「では、もう、日本工場の方の問題は、このままになるんですか。」と参木は訊ねた。
「ええ、もうあたくしたちにとっては、罷業より英国の方が問題です。今日の工部局の発砲を黙認していては、中国の国辱だと思いますの。武器を持たない群衆に発砲したということは、発砲理由がどんなに完全に作られましても英国人の敗北に定《きま》っています。御覧なさいまし、まア、あんなに血が流されたんでございますもの。今日はこの下で、幾人中国人が殺害されたか知れませんわ。」
 秋蘭は窓そのものに憎しみを投げつけるように、窓を突くと部屋を歩いた。参木は秋蘭の切れ上った眦《めじり》から、遠く隔絶した激情を感じると、同時にますます冷たさの極北へ移動していく自分を感じた。すると、一瞬の間、急に秋蘭の興奮した顔が、屈折する爽やかなスポーツマンの皮膚のように、美しく見え始めた。彼は今は秋蘭の猛々《たけだけ》しい激情に感染することを願った。彼は窓の下を覗いてみた。――なるほど、血は流れたままに溜っていた。しかし、誰が彼らを殺したのであろうか。彼は支那人を狙った支那警官の銃口を思い出した。それは、確《たしか》に工部局の命令したものに違いなかった。だが、それ故に支那を侮辱した怪漢が、支那人でないと、どうしていうことが出来るであろう。参木はいった。
「僕は、今日の中国の人々には御同情申し上げるより仕方がありませんが、しかし、それにしたって、工部局官憲の狡《ずる》さには、――」
 彼はそういったまま黙った。彼は支那人をして支那人を銃殺せしめた工部局の意志の深さを嗅ぎつけたのだ。
「そうです、工部局の老獪《ろうかい》さは、今に始ったことじゃございませんわ。数え立てれば、近代の東洋史はあの国の罪悪の満載で、動きがとれなくなってしまいます。幾千万という印度人に飢餓を与えて殺したのも、あたくしたち中国に阿片を流し込んで不具にしたのも、あの国の経済政策がしたのです。ペルシャも印度もアフガニスタンも馬来《マレイ》も、中国を毒殺するために使用されているのと同様です。あたくしたち中国人は今日こそ本当に反抗しなければなりませんわ。」
 憤激の頂点で、独楽《こま》のように廻っている秋蘭を見ていると、参木は自分の面上を撫で上げられる逆風を感じて横を見た。しかし、今は、彼は彼女を落ちつかすためにも、何事かを饒舌《しゃべ》らずにはいられなかった。彼は落ちつき払っていった。
「僕は先日、中国新聞のある記者から聞いたのですが、ここの英国陸戦隊を弱めるために、最近ロシアから一番有毒な婦人が数百人輸送されたということですよ。この話の真偽はともかく、このロシアの老獪さはなかなか注意すべきことだと思いますね。」参木はこういいつつも、何をいおうと思っているのか少しも自分に分らなかった。しかし、彼はまたいった。「僕は今日のあなたの御立腹を妨害するためにいうんじゃありませんが、僕はただどんなに老獪なことも、その老獪さを無用にするような鍛錬といいますか。――いや、こんなことは、もうよしましょう。僕のいうことは、何もありませんよ、あなたはもう僕を饒舌《しゃべ》らさずに帰って下さるといいんですがね。これ以上僕が饒舌《しゃべ》れば、何をいい出すか知れない不安を感じるのです。どうぞ、もしあなたが僕に何か好意を持っていて下さるなら、帰って下さい。そうでなければ、必ずあなたは無事でこのままいられるはずがありませんよ。どうぞ。」
 唖然としている秋蘭の顔の中で、流れる秋波が微妙な細かさで分裂した。彼女の均衡を失った唇の片端は、過去の愛慾の片鱗を浮べながら痙攣した。秋蘭は彼に近づいた。すると、また彼女はその睫《まつげ》に苦悶を伏せて接吻した。彼は秋蘭の唇から彼女の愛情よりも、軽蔑を感じた。
「さア、もう、僕をそんなにせずに帰って下さい。あなたはお国をお愛しにならなければいけません。」と参木は冷くいった。
「あなたはニヒリストでいらっしゃいますのね。あたくしたちが、もしあなたのお考えになっているようなことに頭を使い始めましたら、もう何事も出来ませんわ。あたくし、これから、まだまだいろいろな仕事をしなければなりませんのに。」
 秋蘭は何かこのとき悲しげな表情で参木の胸に手をかけた。
「いや、誤解なさらんように。僕はあなたを引き摺り降ろそうと企《たく》らんでいるんじゃありませんよ。ただどうしたことか、こういう所であなたと御一緒になってしまったというだけです。これはあなたにとっては御不幸かもしれませんが、僕には、何よりこれで、もう幸福なんです。ただ僕には、もう希望がないだけです。どうぞ。」
 参木はドアーを開けた。
「では今日はあたくし、このまま帰らせていただきますわ。でも、もう、これであたくしあなたにお逢い出来ないと思いますの。」秋蘭はしばらく、出て行くことに躊躇しながら参木を仰いでいった。
「さようなら。」
「あたくし、失礼でございますが、お別れする前に、一度お名前をお聞きしたいんでございますけど。まだあなたはあたくしに、お名前も仰言《おっしゃ》って下すったことがございませんのよ。」
「いや、これは。」
 と参木はいうと曇った顔をして黙っていた。
「僕は甚だ失礼なことをしていましたが、しかし、それは、もうこのままにさせといて下さい。名前なんかは、僕があなたのお名前さえ知っていれば結構です。どうぞ、もうそのまま、――」
「でも、それではあたくし、帰れませんわ。明日になれば、きっとまた市街戦が始まります。そのときになれば、あたくしたちはどんな眼に合わされるか知れませんし、あたくし、亡くなる前には、あなたのお名前も思い出してお礼をしたいと思いますの。」
 参木は突然襲って来た悲しみを受けとめかねた。が、彼はぴしゃりと跳ね返す扇子のように立ち直ると、黙って秋蘭の肩をドアーの外へ押し出した。
「では、さようなら。」
「では、あたくし、特別会議の日の夜、もう一度ここへ参りますわ。さようなら。」
 部屋の中で、参木はいつ秋蘭の足音が遠のくかと耳を聳《そばだ》てている自身に気がつくと、ああ、また自分はここで、今まで何をしてたのだろうと、ただぐったりと力がぬけていくのを感じるだけであった。

三五

 市街戦のあったその日から流言が海港の中に渦巻いた。殺戮される外人の家の柱に白墨のマークが附いた。工務局では発砲のために大挙して襲うであろう群衆を予想して、各国義勇団に出動準備を命令した。市街の要路は警官隊に固められた。抜剣《ばっけん》したまま駈け違う騎馬隊の間を、装甲車が辷《すべ》っていった。義勇隊を乗せた自動車、それを運転する外国婦人、機関銃隊の間を飛ぶ伝令。――市街は全く総動員の状態に変化し始めた。警官はピストルのサックを脱して騒ぐ群衆の中へ潜入した。すると、核《たね》をくり抜くように中からロシアの共産党員が引き出された。辻々の街路に立って排外演説をする者が続出した。群衆は警官隊の抜剣の間からはみ出してその周囲を取り包んだ。警官は鞭《むち》を振り上げて群衆を追い散らそうとした。しかし、群衆はただげらげら笑ってますます増加して来るばかりであった。
 参木はほとんど昨夜から眠ることが出来なかった。彼は支那服を着たまま露路や通りを歩いていた。彼はもう市街に何が起っているのかを考えなかった。ただ彼はときどきぼんやりしたフィルムに焦点を与えるように、自分の心の位置を測定した。すると、遽《にわか》に彼の周囲が音響を立て始め、投石のために窓の壊れた電車が血をつけたまま街の中から辷って来た。それはふと彼に街のどこかの一角で、市街戦の行われたことを響かせながら行き過ぎる。彼は再び彼自身が日本人であることを意識した。しかし、もう彼は幾度自身が日本人であることを知らされたか。彼は母国を肉体として現していることのために受ける危険が、このようにも手近に迫っているこの現象に、突然|牙《きば》を生やした獣の群れを人の中から感じ出した。彼は自分の身体が、母の体内から流れ出る光景と同時に、彼の今歩きつつある光景を考えた。その二つの光景の間を流れた彼の時間は、それは日本の時間にちがいないのだ。そして恐らくこれからも。しかし、彼は自身の心が肉体から放れて自由に彼に母国を忘れしめようとする企てを、どうすることが出来るであろう。だが、彼の身体は外界が彼を日本人だと強いることに反対することは出来ない。心が闘うのではなく、皮膚が外界と闘わねばならぬのだ。すると、心が皮膚に従って闘い出す。武器が街のいたる所で光っている中を、参木は再び歩きながら、武器のためにますます自身を興奮させている群衆の顔を感じた。それらの群衆は銃剣や機関銃の金属の流れの中で、個性を失い、その失ったことのためにますます膨脹しながら猛々しくなるのであった。この民族の運動の中で、しかし、参木は本能のままに自殺を決行しようとしている自分に気がついた。彼は自分をして自殺せしめる母国の動力を感じると同時に、自分が自殺をするのか、自分が誰かに自殺をせしめられるのかを考えた。しかし、何故にこのように自分の生活の行くさきざきが暗いのであろう。自分は自分の考えることが、自分が自身で考えているのではなく、自分が母国のために考えさせられている自身を感ずる。もはや俺は自身で考えたい。それは何も考えないことだ。俺が俺を殺すこと。いや、総ては何んでもない。俺は孤独に腹の底から腐り込まれているだけなのだ。
 この彼のうす冷い孤独な感情の前では、銃器が火薬をつめて街の中に潜んでいた。群衆は排外の唾《つば》を飛ばして工部局の方へ流れていった。道路の両側に蜂の巣のように並んでいた消防隊のホースの口から、水が群衆目がけて噴き出した。その急流のような水の放射が、群衆の開いた口の中へ突き刺さると、ばたばたと倒れる人の中から、礫《つぶて》が降った。辻々の街路で、警官に守られていた群衆は騒ぎを聞くと、一斉にその中心へ向って流れていった。
 参木はこれらの膨脹する群衆から脱《のが》れながら、再び昨日のように秋蘭の姿を探している自分を感じた。彼は彼の前で水に割られては盛り返す群衆の罅《ひび》を見詰め、倒れる旗の傾斜を見、投げられる礫の間で輝く耳環に延び上った。すると、ふと浮き上る彼の心は、昨日秋蘭を見る前と同様の浮沈を続け出すのを彼は感じると、やがてホースの水の中から飛び出るであろう弾丸をも予想した。もしいま一度弾丸が発射されたら、この海港の内外の混乱は何人《なんぴと》と雖《いえど》も予想することが出来ないのだ。しかし、そのとき、群衆の外廓は後方で膨《ふく》れる力に押されながら、ホースの陣列を踏み潰《つぶ》した。発砲が命令された。銃砲の音響が連続した。参木は崩れ出す群衆の圧力を骨格に受けると、今まで前進していた通路の人波に巻き込まれたまま逆流し始めた。その流れは電車を喰い留め、両側の外人店舗に投石し、物品を掠奪しながら暴徒となって四方の街路へ拡がっていった。参木の前の群衆は急に停止すると、一人の支那人を取り囲んで殴り出した。彼らは彼を「犬」だと叫んだ。彼らの叫んでいる間に、もう「犬」は二つに引き裂かれて、手は一方の街へ流れる群衆の先端で高々と振り廻され、足はその反対の街路へ向って群衆の角のように動いていった。そのがくがく揺れて通る足の上方の二階では、抱き合った日本の踊り子たちの踊る姿が窓の中で廻っていた。すると、その窓を狙って、礫の雨が舞い込んだ。騎馬隊の警官が群衆に向って駈けて来た。その後から新製の装甲車が試射慾《ししゃよく》に触角を慄《ふるわ》せながら辷って来た。道路に満ちた群衆は露路の中へ流れ込むと、圧迫された水のように再びはるか向うの露路口に現れ、また街路に満ちながら、警官隊の背後から嘲笑を浴びせかけた。
 これらの群衆はしばらくは警官隊の騎馬の鼻さきを愚弄しながら、だんだん総商会のホールの方へ近づいていった。そこでは、前から集合していた商会総聯合会と、学生団体との聯合会議が開催されていたのである。附近の道路には数万の男女の学生が会議の結果を待って群《むらが》っていた。議題は学生団の提出した外人に対する罷市《ひし》敢行の決議にちがいないのだ。もしこの会議が通過すれば、全市街のあらゆる機関は停止するのだ。そうして、恐らくそれは間もないことであろう。
 参木にはこれら共産党と資本家団体との一致の会合が、二日の後に開催される外人団の納税特別会議に対する威嚇であることは分っていた。しかし、それにしても、もしその日の納税特別会議が――外人の手で支那商人の首を一層確実に締めつける関税引上げの議案を通過させれば、――参木には、その後の市街の混乱は全世界の表面に向って氾濫《はんらん》し出すにちがいないと思われた。すると、新たに流れて来た群衆は再び発砲された憤激の波を伝えながら、会場の周囲の群衆へ向って流れ込んだ。群衆の輪は一つの波と打ち合うごとに、動揺しながら会場の中へ波立った。恐らくその波の打ち寄せる団々とした刺戟のたびに、提出された議題はその輪の中心で、急速な進行を示しているにちがいないのであった。
 参木は前からこの群衆の渦の中心に秋蘭の潜んでいるのを感じていた。しかし、彼はそのどこに彼女がいるかを見るために、動揺する渦の色彩を眺めていたのである。彼の皮膚は押し詰った群衆の間を流れて均衡をとる体温の層を感じ出した。すると、彼は彼ひとりが異国人だと思う胸騒ぎに締めつけられた。彼は彼と秋蘭との間に群がる群衆の幅から無数の牙を感じると、次第にその団塊の中に流れた共通の体温から、ひとりだんだんはじき出されていく自分を見た。

三六

 参木がようやく群衆の中から放《はな》れて家へ帰ると、甲谷は先に帰って待っていた。
「おい君、もう僕はここにいたって駄目だ。四、五日すれば材木が着くんだが、着いたら宮子を連れてシンガポールへ逃げ出そうと思っている。」と甲谷は疲れた眼を上げていった。
「それで宮子は承知したのか。」と参木は訊ねた。
「いや、承知はまだだ。材木の金がとれるか宮子が落ちるか、とにかくどっちか一つが駄目なら、俺は自殺だ。」
「それやどっちも駄目だ。明日から銀行は危くなるのは定《きま》っているんだ。」
「そんなら、自殺も出来んじゃないか。」
 笑う後から滲み出る甲谷の困惑した顔色を、参木は黙って眺めていた。恐らく甲谷には参木の流れる冷たい心理の中へ足を踏み込むことは出来なかったにちがいない。しかし、それとは反対に、参木は甲谷の健康な慾望の波動から、瞬間、久しく忘れていた物珍らしい過去の暖い日を幻影のように感じて来た。すると、競子の顔が部屋の隅々から現われ出した。
「とにかく、われわれはこうしてはいられない。何とかしなけれや。」と甲谷はうろうろしたようにいった。
「何をするんだ。」と参木はいった。
「それが分れば困りあしないよ。」
「君は宮子を落せばいいんじゃないか。」
「しかし、君はどうするんだ。」
「俺か。」
 参木はもう一度秋蘭に逢いたいだけだ。然《しか》もその可能は明後日に開かれる特別会議の夜だけに、かすかに盗見《ぬすみみ》するほどであった。しかし、参木はこの混乱の中で、最後の望みがどちらも女を見たいと思う鋭い事実だと気がつくと、突然、おかしそうに突き上げられて笑った。
「君、あの宮子を君は突き飛ばすことは出来ないのか。」
「出来ない。あの女は僕を突き飛ばしているだけさ。あの女には僕はシンガポールの材木をすっかり食われてしまわなきあ、駄目らしいよ。」と甲谷はいった。
「君が出て来たときには、フィリッピン材を蹴飛ばさなきあ帰らないといってたが、皮肉にも程度があるぞ。もう僕は君にあの女をすすめるのはやめたよ。あの子は君の裏と表をすっかりひっくり返してしまっているじゃないか。」
「しかし、ひっくり返っているのは何も俺だけじゃなかろうじゃないか。この街まで今は逆《さか》さまになっているんだ。これじゃ、俺ひとりでどう立ち上ろうと知れてるさ。とにかく、何んだってかまうもんか、もういっぺん、俺はひっくり返ってくるまでだ。」
 甲谷は重そうに立ち上ると、ポケットから競子の手紙を出して出ていった。その手紙の中には、帰ろうとしている競子を邪魔しているものは、この海港の混乱だと書いてあった。
 ――帰れなくしたのは誰だ、と参木は思った。すると、彼の日々見せつけられた暴徒の拡った黒い翼の記憶の底から、芳秋蘭の顔が様々な変化を見せて現われて来るのであった。

三七

 宮子は甲谷に誘われるままに車に乗った。彼女は彼女を取り巻く外人たちが、今は義勇兵となって街々で活動している姿を見たかったのだ。しかし、甲谷はもう宮子に叩かれ続けた自尊心の低さのために、今はますます叩かれる準備ばかりをしていなければならなかった。二人は車を降りた。河岸の夜の公園の中では、いつものように春婦らがベンチに並んでうな垂れていた。毒のめぐった白けた女たちの皮膚の間から、噴水が舌のようにちょろちょろと上っていた。甲谷は雨の上った菩提樹《ぼだいじゅ》の葉影を洩れる瓦斯燈《ガスとう》の光りに、宮子の表情を確めながら結婚の話をすすめていった。
「もう僕は何もかもいってしまっていうことはないんだが、同じいうなら、もう一度いったって悪くはなかろう。」
「いやだね、あんたは。そういつもいつも、あたしばっかり攻めなくたって、良《よ》かりそうなもんじゃないの。」
「それで実は、もう僕も何から何までさらけ出して話すんだが、ひとつ頼むよ。」
 宮子は甲谷の肩にもたれかかるとうるさまぎれに、もう毒々しく笑い出した。
「あたし、あなたは嫌いじゃないのよ。だけど、そうあなたのように、いつもいつも同じことをいわれちゃ、あたしだっておかしくなるわ。」
 甲谷がベンチに腰を降ろすと宮子もかけた。甲谷は靴さきに浮ぶ支那船《ジャンク》の燈火を蹴りながら、饒舌《しゃべ》った言葉の間をすり抜けようとして藻掻《もが》いた。すると、対岸に繁ったマストの林の中から、急に揺れ上った暴徒の一団が、工場の中へ流れ込んだ。発電所のガラスが穴を開けた。銃口が窓の中で火花を噴いた。黒々とした暴徒の影が隣りの煙草工場の方へ流れていった。海上からは対岸のマストを狙って、モーターボートの青いランプの群れが締るように馳け始めた。甲谷はこの遠景の騒ぎの中から、宮子の放心している心をひき抜くように彼女を揺すった。
「あちらはあちら、こちらはこちらだ。ね、君、君とこうして坐って話していても、仕方がないから、もういい加減に僕を落ちつけてくれたっていいだろう。とにかく、これからすぐ、僕のところへ行こう。」
「まア、あんなに煙が出たわ。御覧なさいよ。あれは英米煙草だわ。もうこの街もおしまいだわ。」
「街なんかどうなろうといいじゃないか。いずれこの街は初めから罅《ひび》の入ってる街なんだ。君は僕と一緒にシンガポールへ逃げてくれ給え。」
「だって、あたしにゃこの街ほど大切な所はないんですもの。あたしここから出ていったら、鱗《うろこ》の乾いたお魚みたいよ。もうどうすることも出来なくなれば、あたし死ぬだけ。あたし死ぬ覚悟はいつだってしてるんだけど、でも、あたしこの街はやっぱり好きだわ。」
 甲谷は乗り出す調子が脱《はず》れて来ると、駈け込むようにベンチの背中を掴《つか》んで周章《あわ》て出した。
「もうそんなことは考えないでくれないか。ただ結婚してくれれば万事こちらで良くしていく。それなら良かろう。それなら、僕は、――」
「だって、あたし、だいいち結婚なんかしてみたいと思ったことなんてないんですもの。あたしもし結婚したければ、あなたが初め仰言《おっしゃ》って下すったとき、さっさとお返事していてよ。いくらあたしだって、そうはあなたのように気取ってばかりはいられないわ。」
 甲谷は頭を掻くように笑いながら、一寸後を振り返ったがまた急いだ。
「それや、いくら悪口いわれたっていいから、とにかく、これじゃ、いくら君を廻ってぐるぐるしたって、これはただぐるぐるしているというだけで、何んでもないんだからね。」
「あたしは駄目なの。あたし、自分が一人の男の傍にくっついて生活している所なんか、想像が出来ないわ。あたし男の方を見ていると誰だって同じ男のように見えるのよ。これで結婚なんかしていたら、あなたから逃げ出されるにきまっているわ。それよりあたしはあたしの流儀で、困っている沢山の男の方にちやほやしているの。あたしに瞞《だま》されたと思うものは、それや馬鹿なの。だって、今頃瞞されたと思って口惜《くや》しがってる男なんか、日本にだっていやしないわ。あなたにしたって、あたしがどんな女だっていうことぐらい、一と目見ればお分りになりそうなもんじゃないの。それにあたしにお嫁入の話なんか仰言《おっしゃ》って、あたしが冗談にしてしまうことだって、これでたいていのことじゃないことよ。」
 波がよせると、それが冷たい幕のように甲谷の身体に沁《し》み透った。彼は彼女から腕を放した。切られた鎖のように沈む彼の心の断面で、まだ見たこともない女の無数の影が入り交った。が、その影の中で、宮子の顔だけはますます明瞭に浮き上って来るのだった。
「駄目だ。」と甲谷はいうと、不意に彼女を抱きよせようとした。が、後ろのベンチで、春婦の群れが茸《きのこ》のように塊《かたま》ったままじっと二人を眺めていた。彼は溜息を洩らすと、再び宮子から放れて脊を延ばした。すると、逆に宮子の身体が甲谷の方へ倒れて来た。彼は宮子を抱きよせながら、この急激な彼女の変化に打たれてぼんやりした。
「あなた、あたしにしばらくこうしていさせて頂戴。あたし一日にいっぺん、誰かにこうしていないと、駄目なの。あたし、あなたのお心はもう分ったわ。だけど、駄目よあたしは。あなたは早くお綺麗な方を貰ってシンガポールへお帰りなさいな。あたしは誰にでもこんなことをする性質《たち》なんだから。あたしあなたには、お気の毒だと思うけど、これも仕様がないわ。」
 イミタチオンの宮子の靴先が軽く甲谷の靴を蹴るたびに、甲谷の腕は弛《ゆる》んで来た。彼は彼女がただ自分を慰める新らしい方法を用いだしただけだと気がついたのだ。
「君の優しさは前から僕は知っていたんだが、しかしこの上僕を迷わすことは御免してくれ。ただもう僕は君が好きで仕方がないんだ。」と甲谷はいってまた強く宮子を抱きすくめた。
「あなたはあなたに似合わず、今夜はつまんないことばかり仰言るのね。あの橋の上を御覧なさいよ。義勇兵が駈けててよ。それにあなたは、まア、なんて子供っぽいことばかり仰言るんでしょう。もっとこんなときには、何《な》んとかしてよ。何んとか。」
 甲谷は宮子を芝生の上へ突き飛ばすと、立ち上った。しかし、彼は彼女が彼にそのようにも怒らせようと企んだ彼女の壺へ落ち込んだ自分を感じると、再び宮子の前へ坐っていった。
「君、もう虐《いじ》めるのは、やめてくれ。僕は君には一生頭が上らないのだ。ただ僕の悪いのは、君を好きになったということだけじゃないか。それに君は何《な》ぜそんなにふざけてばかりいたいのだ。」
 宮子は髪を振りながら芝生の上から起き上った。
「さア、もう、帰りましょうね。あたし、あなたがあたしを愛していて下さるんだと思うと、もういつでも我ままになっちゃうのよ。ね、だから、もう何もあたしには仰言らないで、――」
 しかし、甲谷は完全に振り落された男がここに転げているのだと気がつくと、もう動くことも出来なくなった。宮子は公園の入口の方へひとりときどき振り向きながら歩いていった。芝生の上に倒れている甲谷の頭の上の遠景では、火のついた煙草工場がしきりに発砲を続けていた。

三八

 海港の支那人の活躍は変って来た。支那商業団体の各路商会聯合会、納税華人会、総商会の総ては、一致団結して罷市《ひし》賛成に署名を終えたのだ。学生団は戸《こ》ごとの商店を廻り歩いて営業停止を勧告した。罷市の宣伝《ビラ》が到る所の壁の上で新しい壁となった。電車が停り、電話が停った。各学校は開期不明の休校を宣言した。市街の店鋪は一斉に大戸を降ろし、市場《マーケット》は閉鎖された。
 その日の夕刻、騒擾《そうじょう》の分水嶺となるべき工部局の特別納税会議が市政会館で開かれた。戒厳令を施《し》かれた会館の附近では、銃劒をつけた警官隊と義勇隊とが数|間《けん》の間を隔《お》いて廻っていた。会議の時刻が近づくと、昼間市中に波立った不吉な流言の予告のために、会館の周囲は息をひそめて静まり出した。徘徊する義勇兵の眼の色が輝き出した。潜んだ爆弾を索《さぐ》り続ける警官が、建物と建物との間を出入した。水道栓に縛りつけられたホースの陣列の間を、静に装甲車が通っていった。やがて、外人の議員たちは武装したまま、陸続と議場へ向って集って来た。
 丁度《ちょうど》参木の来たのはそのときであった。会館附近の交通遮断線の外では、街々の露路から流れて来た群衆は街路の広場に溜り込んだまま、何事か待ち受けるかのように互に人々の顔を見合っていた。参木はそれらの人溜りの中を擦り抜けながらその中に潜んでいるにちがいない秋蘭の顔を捜していった。もし彼女が彼との約束に似た暗黙の言葉を忘れないなら、彼が彼女をこの附近で捜し続けていることも忘れないはずであった。しかし、彼は歩いているうちにだんだん周囲の群衆と同様に、不意に何事か湧き起って来るであろうと予感を感じて来た。すると、群衆はじりじり遮断線からはみ出して会館へ向っていった。騎馬の警官がその乱れる群衆の外廓に従って、馬を躍らせた。スコットランドの隊員を積み上げた自動車が抜剣を逆立てたまま、飛ぶように疾走した。すると、急に、群衆の一角が静まった。つづいて、今まで騒いでいた群衆は奇怪な風を吸い込んだように次から次へと黙っていった。すると、全く音響のはたと停った底気味悪い瞬間、その一帯の沈黙の底からどことも知れず流れる支那人の靴音だけが、かすかに参木の耳へ聞えて来た。しかし、間もなく、それはなんの意味も示さぬただ沈黙そのものにすぎないことを知り始めると、再び群衆は騒ぎ立った。その騒ぎの中から揺れて来る言葉の波は漸次に会議の流会を報らせて来た。それなら、これで支那商人団の希望は達したわけだと参木は思った。間もなくその流会の原因は定員不足を理由としていることまで、寄り集った人波の呟きからだんだんと判って来た。参木は、極力会議を流会させることを宣言していた芳秋蘭の笑顔を感じた。今は彼女はこの附近のどこかの建物の中で、次の劃策に没頭しているにちがいない。しかし、もしそれにしても、なおこのうえ海港の罷市が持続するなら、このときを頂点として困憊《こんぱい》するものは支那商人に変っていくのだ。――もし支那商人の一団が困憊するなら、なお罷市の持続を必要とする秋蘭一派の行動とは、当然衝突し出すのは定《きま》っていた。
 参木は思った。これは何か必ず今夜、謀《たくら》みが起るにちがいない。――その謀みはなお商業団体と群衆とを結束させんがための謀みであることは、分っているのだ。しかし、その手は――その手も今はただ外人をして発砲させるようにし向ければそれで良いのだ。――
 しかし、参木には自分の頭脳の廻転が、自分にとって無駄な部分の廻転ばかりを続けていることに気がついた。彼はただ今は死ねば良いのだ。死にさえすれば。それにも拘らず秋蘭を見たいと思う願いがじりじり後をつけて来るのを感じると、彼はますます自身の中で跳梁《ちょうりょう》する男の影と蹴り合いを続けるのであった。ふとそのとき、彼は梅雨空《つゆぞら》に溶け込む夜の濃密な街角から、閃《ひら》めく耳環《みみわ》の色を感じた。彼はその一点を見詰めたまま、洞穴を造った人溜《ひとだまり》の間を魚のように歩き出した。しかし、彼はその街角へ行きつくまでに急に停った。もしその耳環が秋蘭であったなら、と思う彼の心が、突然、彼女と逢った後のことを考え出したのだ。全く彼は彼女と逢ったとしても、為すべきことは何もないのだ。それなら、――いや、それより、彼女がこの街の混乱の最中に、どうして自分を捜しに来るであろうか。彼は壁に背中をひっつけると、彼女が自分を捜しに来るであろうと想像したがる自身の心を締めつけた。しかし、もし彼女が自分の言葉を忘れないなら、――締めつける後から湧き上って来る手に負えない愛情に、もはや彼はにやにや笑い出した。
 そのとき、前方の込み合った街路を一隊の米国騎馬隊が彼の方へ駈けて来た。それと同時に、両側の屋内から不意に銃声が連続した。騎馬隊の先頭の馬が突っ立った。と、なお鳴り続けている音響の中で、馬は弛《ゆる》やかに地に倒れた。投げ出された騎手の上を飛び越して、一頭の馬は駈け出した。後に続いた数頭の馬はぐるぐる廻りながら、首を寄せた。一頭の馬は露路の中へ躍り込んだ。乱れ出した馬の首の上で銃身が輝やくと、屋内へ向けて発砲し始めた。馬は再び群衆の中を廻り始めた。群衆は四方の露路から溢れて来ると、躍る馬の周囲で喚声を上げ始めた。群った礫《つぶて》が馬を目がけて降り注いだ。馬は倒れた馬の上を飛び越えると、押し出る群衆を蹴りつけて駆けていった。
 参木の周囲では、群衆は彼ひとりを中に挟んだまま、馬の進退に従って溶液のように膨脹し、収縮した。そのたびに、彼はそれらの流動する群衆の羽根に突き飛ばされ、巻き込まれながら、だんだん露路口の壁の方へ叩き出されていった。
 騎馬隊が逃げていくと、群衆は路の上いっぱいに詰まりながら、狼狽《うろた》えた騎馬隊の真似をしてはしゃいだ。銃砲の煙りが発砲された屋内から洩れ始めた。そのとき、工部局の方から近づいて来た機関銃隊が、突然、復讐のために群衆の中へ発砲した。群衆は跳ね上った。声を失った頭の群れが、暴風のように揺れ出した。沈没する身体を中心に、真っ二つに裂け上った人波の中で、弾丸が風を立てた。露路口は這い込む人の身体で膨れ上った。閉された戸は穴を開けて眼のように光り出した。その下で、逃げ後れた群衆は壁にひっついたまま唸り始めた。
 参木は押しつけられた胸の連結の中から、ひとり反対に道路の上を見廻した。彼はそこに倒れた動かぬ人の群れの中から、秋蘭の身体を探そうとして延び上った。馬の倒れた大きな首の傍で、人の身体が転がりながら藻掻いていた。
 発砲のあった家を中心にして、霞のような煙が静々と死体の上を這いながら、来検《らいけん》の通るたびに揺らめきながら廻っていた。しかし、参木には、もはや日々見せられた倒れる死骸の音響や混乱のために、眼前のこれらの動的な風景は、ただ日常普通の出来事のようにしか見えなかった。だが、彼は彼の心が外界の混乱に無感動になるに従い、却って一層、その混乱した外界の上を自由に這い廻る愛情の鮮かな拡がりを、明瞭に感じて来るのであった。
 街路の上から群衆の姿が少くなると、騎馬隊へ向けて発砲した家の周囲が、工部局巡捕によって包囲《かこ》まれた。機関銃が据えられた。すると、その一軒の家屋を消毒するかのように、真暗な屋内めがけて弾丸がぶち込まれた。墜落する物音、唸り声、石に衝《あた》って跳ね返る弾丸の律動と一緒に、戸が白い粉を噴きながら、見る間に穴を開けていった。機関銃の音響が停止すると、戸が蹴りつけられて脱《はず》された。ピストルを上げた巡捕の一隊が、欄干からぶら下ったまままだ揺れ続けている看板の文字の下を、潜り込んだ。すると、間もなく、三人のロシア人を中に混えた支那青年の一団が、ピストルの先に護られて引き出された。
 参木はもし秋蘭がその中にと思いながら、露路の片隅からそれらの引き出された青年たちを見詰めていた。――やがて、検束された一団は自動車に乗せられると、機関銃に送られて工部局の方へ駈けていった。銃器が去ったと知ると、また群衆は露路の中から滲み出て来た。彼らは燈《ひ》の消えた道路の上から死体を露路の中へ引き摺り込んだ。板のように張りきった死体の頭は、引き摺られるたびごとに、筆のように頭髪に含んだ血でアスファルトに黒いラインを引き始めた。丁度そのとき、一台の外人の自動車が辷って来ると、死体の上へ乗り上げた。箱の中で、恐怖のために茉莉《まつり》の花束に隠れて接吻していた男女の顔が乱れ立った。すると、礫が頭へ投げつけられた。自動車は並んだ死骸を轢《ひ》き飛ばすと、ぐったり垂れた顔を揺りながら疾走した。
 参木は群衆の中から擦り抜けると、この前秋蘭と逢った建物の前まで来かかった。しかし、もう彼は秋蘭を探す眼に全身の疲れを感じた。疲れ出すと、今まで何も無いものを有ると思って探し廻った幻影が乱れ始め、ごそごそ建物の間を歩いている自分の身体が急に心の重みとなって返って来た。だが、彼はそこで、しばらくの間うろうろしながら、もし秋蘭が来ているならここだけは必ず通ったであろうと思われそうな門の下を、往ったり来たりして歩いていた。彼は高い建物の上方を仰いだり、門の壁にぺったりと背中をつけて居眠るように立ってみたりしていると、ふと、向うから若い三人の支那人の来るのを見た。すると、その中の短く鼻下に髭を生やした一人の男が、擦れ違う瞬間、素早く参木の右手へ手を擦りつけた。参木は彼の冷たい手の中から、一片の堅い紙片を感じた。彼ははッとすると同時に、それが男装している秋蘭だったことに気がついた。しかし、もうそのときには、秋蘭は他の二人の男と一緒に、肩を並べて行きすぎてしまっている後だった。参木は紙片を握ったまま、しばらく秋蘭の後から追っていった。しかし、彼がそのまま秋蘭の後から追っていくことは、彼女を一層危機へ落し込むことと同様だと思った。彼女は優しげにすらりとした肩をして、一度ちらりと彼の方を振り返った。参木はその柔いだ眼の光りから、後を追うことを拒絶している別れの歎きを感じた。彼は立ち停ると、秋蘭を追うことよりも彼女の手紙を読む楽しみに胸が激しく騒ぎ立った。
 参木は秋蘭の姿が完全に人ごみの中へまぎれ込んだのを見ると、急いで真直ぐに引き返した。彼は自分の希望を、底深く差し入れた手の一端に握ったかのように明るくなった。彼は今さきまで鬱々として通った道を、いつ通り抜けたとも感じずに歩き続けると、安全な河岸の橋を見た。彼はそこで、紙片を開けて覗いてみた。紙片にはよほど急いだらしく英語が鉛筆で次のように書かれてあった。
[#ここから2字下げ]
「もう今夜、あたくしたちは危険かと思われます。いろいろ有り難うございました。どうぞ、それではお身体お大切にしなさいませ。もしまだこの上永らえるようなことでもございましたら、北四川路のジャウデン・マジソン会社の小使《こづかい》、陳に王の御名でお訊ね下さいませ。では、さようなら。」
[#ここで字下げ終わり]
 参木は公園の中のカンナの花の咲き誇っている中を突き抜けた。すると、芝生があった。紙屑が風に吹かれてかさかさと音を立てながら、足もとへ逆辷りに辷って来た。彼は露を吹いて湿っている鉄の欄干を握って足もとの波を見降ろした。
 ――ああ、もう、俺も駄目だ。――
 そう思えば思うほど、参木は波の上に面《おもて》を伏せたまま、だんだん深く空虚になりまさっていく自分をはっきりと感じていった。

三九

 その夜、参木は遅く宮子の部屋の戸を叩いた。ピジャマ姿の宮子は上長衣《ルダンコオト》をひっかけたまま出て来ると、黙って参木を長椅子に坐らせた。参木は片手で失敬の真似をしながらいきなり横に倒れると、眼を瞑った。宮子はウィスキイを彼に飲ませた。彼女は彼の傍に坐ると、彼の蒼ざめた顔を見詰めたままいつまでも黙っていた。隣家の廊下を通る燭台の火が、窓のガラスに柘榴《ざくろ》の葉影を辷らせつつ消えていった。参木は眼を開けると彼女にいった。
「君、今夜だけは、赦してくれ給え。」
「だって、寝台はあちらにあるわ。あちらへいって。」
 口へあてがう宮子のコップの底を見詰めながら、彼は片手で宮子の手を強く握った。
「あなたは今夜へんよ。あたし、さきから天地がひっくり返ったような気がしていて、そんなことをされたって、何のことだかわかんないわ。」と宮子はうつろな眼で参木を眺めながらいった。
 しかし、宮子は急に溌剌《はつらつ》とし始めると、鏡に向って顔を叩いた。ひっかけた上長衣《ルダンコオト》が宮子の肩からずり落ちた。
「あたし、あなたがいらっしゃる前まであなたの夢を見ていたの。そしたらあなたがいらっしゃるんでしょう。あたしそれまで、あなたと何をしてたとお思いになって。」
 鏡の前から戻って来ると、宮子は参木の頭を膝の上へ乗せながら顔を近々と擦り寄せた。
「あなた、もう元気をお出しになってよ。あたし、あなたの疲れてらっしゃるお顔を見るのはいやなのよ。」
 参木は起き上った。彼は宮子の手を掴むといった。
「とにかく、つまらん。」
「何が。」
「もういっぺん黙って寝させておいてくれないか。」
 参木はまた倒れると眼を瞑った。宮子は彼の身体を激しく揺り動《うごか》した。
「駄目じゃないの、あたしを叩き起して自分が眠るなんて、まだあたしはあなたの奥さんじゃないことよ。」
 すると、参木は傍にあったウィスキイをまた一杯傾けた。
「そう、そう。結構だわ。あたし、あなたのわがままなんか初めっから認めてやしないのよ。だから、あたしはあなたなんかに同情したことなんか一度もないの。人の顔を見ると顰《しか》めっ面ばかりし続けて、つまんないことばかり考えて、もうそんなことはお止《よ》しなさいよ。あたしあなたなんか好きになっちゃおしまいだわ。」
 突《つつ》かれ出すと参木には酔いがだんだん廻って来た。彼はいった。
「どうも失礼。これでどうやら君に叱られているのも分って来たよ。」
「当りまえよ。あなたなんかに憂鬱な恰好なんか見せていただかなくたって、街にいくらだってごろごろしているわ。あたしなんか見て頂戴。馬鹿なことは一人前に馬鹿だけど、面白そうなことだけは、これで何んだって知ってるのよ。」
 宮子は不機嫌そうに外方を向くと煙草をとった。参木は予想とは反対に、急に怒り出した宮子の様子に気がつくと、またぐったりと横に倒れた。宮子は床に落ちている上長衣《ルダンコオト》を足で跳ね上げた。彼女は立ち上ると寝室の方へ歩いていった。
「君、もうしばらく僕の傍《そば》にいてくれないか。そうすると僕もだんだん生気《しょうき》になるよ。」と参木は倒れたままにやにやした。
「いやよ、あたしあなたのお相手なんかまっぴらだわ。」
「ときどきはこういう男も君の傍にいたって悪くはなかろう。人には怒るものじゃない。朝早くから夜中まで僕は今日は幾回死にそこなったかしれないんだ。たまには疲れて来たんだから、君、疲れたときには、人は一番親しい所へ転がり込むもんだ。そう怒らずにもうしばらくここにいさせてくれたって、良かろうじゃないか。」
 宮子はドアーの前に立ったまま参木の方へ向き直った。
「あなたは今夜はどうかしててよ。まさか幽霊じゃないんでしょうね。」
「いや、それは分らん。しかし、実はちょっと白状したいことがあって来たんだが、もういうのはいやになった。これ以上馬鹿になるのは、神さまに対してあいすまんよ。」
「そうよ、あなたは、すまないのは神さまにだけじゃないことよ。あたしにだってすまないわ。競子さんのことを考えていらっしゃるのも結構だけど、それじゃ競子さん、もったいないわ。」
「競子は競子、これはこれさ、僕はふわふわした男だから、ふわふわしてしまわなきあおさまらないんだ。それで今夜はのるかそるか、ひとつ無茶をやろうと思ってやったんだが、とうとうそれも失敗だ。どうもおれは饒舌《しゃべ》り出すと、これや饒舌るな。」
「饒舌りなさいよ、饒舌りなさいよ。あなたのして来たこと、仰言《おっしゃ》ってよ。」
 宮子は参木の傍へぴったりくっつくと、彼の頭をかかえてまた揺った。参木は揺られる頭の中で今日一日のして来たことを考えた。すると、ますます自分の心が身体の上へ乗りかかって来る重々しさを感じるのであった。彼は行きつまった心を抛り出すように饒舌り出した。
「僕はこの間から支那の婦人に感心して、一ヶ月の間自尊心と喧嘩し続けて、とうとうやられてしまったのが、今夜なんだ。それから僕は死のうと思った。しかし今死ぬなら支那人に殺される方が良い。日本人が一人でも殺されたら、日本の外交だけでも強くなる、とそうまア、西郷さんみたいなことを僕は考えた。僕は愛国主義者だから、同じ死ぬなら国のために死のうと思ったんだが、ところが、なかなか支那人は殺してくれぬ。殺されないなら、死んだって国の為にはならないし、同じ死ぬなら殺されよう、と思っているうちに、いつまでたったってこの醜態だから、死ぬことが出来やしない。」
「まアまア、結構な御身分ね。あたし嫌いよ、そんな話は。」と宮子はいって膝を動かした。
「それから、ここだ。僕が何《な》ぜ殺されないかと考えた。すると僕はこんな支那服を着流してうろつき廻っていたからなんだ。しかし、それなら何ぜ支那服なんか着て歩くと君は思うかも知れないが、この支那服を着てないと相手の女と逢ったって、役に立たぬ。そこが僕の新しい苦悶なんだ。どうだ、こりゃ新しかろう。」
「あんまり馬鹿にしないで頂戴、あたし聞いてるのよ。あたし、さきまであなたの夢まで見てたんだわ、ああ、口惜しい。」
 宮子は手を延ばすとまたウィスキイを荒々しく傾けた。
「しかし、こうして考えて見ると、まア、馬鹿な話は話さ。ところが、そいつを真面目に考えていたんだから、ちょっとはどうかしてるんだ。頭というものは、馬鹿になり出すと、つまり、馬鹿な方へばかりだんだん頭が良くなり出す。譬えば君にした所で、甲谷と結婚しないことなんて、馬鹿な方へ頭がふくれだしたからさ。良いか、分ったね。」
「そうよ。あたし、あなたなんかに眼が眩《くら》んで、とうとうお嫁さんになりそこねたわ。これもあなたよ。甲谷さんに仰言《おっしゃ》っといて。だけど、甲谷さんも甲谷さんだわ。あたしにあなたを紹介するなんて、あたしよりまだ馬鹿ね。あたしあなたと結婚するまでは甲谷さんとは結婚してやらないわよ。これがあなたへの復讐よ。あなたは甲谷さんへ気兼ねして、あたしから逃げることばかり計画してらっしゃるんでしょう。え? そうでしょう。それならそれで、支那の女のことなんか、話さなくたって、もっといくらだって、話すことがありそうなもんだわ、でももういいのよ。あたしももうじき愛国主義者になるんだから。」
 宮子は立ち上るとひき抜いた白蘭花《パーレーホー》で円卓の上を叩き出した。参木は、ここにもひとり地獄のつれがいたのかと気がつくと、心が楽しげに酒の上で浮き上った。
「おい君、ここへ来てくれ、愛国主義者は一番|豪《えら》いのだ。僕は君には同情するぞ。恐らく僕は君を一番理解しているにちがいなかろう。理解がなければ愛なんてものはあるものか。だから君、来たまえ、僕は君が好きなんだよ。」
 宮子は近寄る参木を突き飛ばした。参木は後の壁へよろけかかると、また宮子の肩へ手をかけた。
「よして頂戴。あたしは支那人じゃなくってよ。」
「支那人であろうが鱈であろうが、かまうものか。愛国主義者を出したからには、誰であろうと恩人さ。われわれ下級社員に愛国主義以外の何がある。」
 参木は宮子のピジャマの足を掬《すく》うように抱き上げると、絨氈の真中できりきり速度を加えて廻り出した。と、足が曲った。二人は倒れた。宮子は参木の胸から投げ出されると、そのまま動かずに倒れていた。参木は仰向きになったまま、まだ廻り続ける周囲の花壁の中から、突然絞り出された母の顔を楽しげに眺めながら、いつまでもにやにや笑い崩れてとまらなかった。

四〇

 海港の罷市《ひし》は特別会議が流会したのにも拘らず、ますます深刻に進んでいった。支那銀行は翌日からことごとく休業した。銭荘発行の小切手が不通になった。金塊市場が閉鎖された。為替《かわせ》市場の混乱から外国銀行は無力になった。そうして、この全く破壊され尽した海港の金融機能の内部では、ただ僅かに対外為替の音だけが、外国銀行の奥底で、鼓動のようにかすかに響いているに過ぎなくなった。
 しかし、倒れたものはそれだけでなかった。海港のほとんど全部の工場は閉鎖された。群がる埠頭の苦力《クリー》が罷業し始めた。ホテルのボーイが逃げ始めた。警察内の支那人巡捕が脱出した。車夫が、運転手が、郵便配達が、船内の乗組員が、その他あらゆる外人に雇われているものがいなくなった。――
 船は積み込んだ貨物をそのままに港の中でぼんやりと浮き始めた。新聞の発行が不能になった。ホテルでは音楽団が客に料理を運び出した。パン製造人がいなくなった。肉も野菜もなくなり出した。そうして、外人たちはだんだん支那人の新しい強さに打たれながら、海港の中で籠城し始めた。
 参木は人通りのほとんどなくなった街の中を歩くのが好きになった。雑鬧《ざっとう》していた市街が急に森のように変化したことは、彼には市街が一層新しく雑鬧し始めたかのように感じるのであった。義勇隊は出没する暴徒の爆弾を乗せたトラックを追っ駈け廻した。時々夜陰に乗じて、白い手袋を揃えた支那人の自転車隊が秘密な策動を示しながら、建物と建物との間をひそかな風のようにのっていった。外国婦人は疲れた義勇団の背後で彼らに食物を運搬した。閉め切られた街並の戸の隙間からは、外を窺う眼だけがぎろぎろ光っていた。
 しかし、参木は頻々として暴徒に襲われ続ける日本|街《まち》の噂を聞き始めると、だんだん足がその方へ動いていった。日本街では婦人や子供を避難所へ送った後で町会組織の警備隊が勇ましく街を守って徹宵《てっしょう》を続け始めた。すると、彼の身体の中で、秋蘭を愛した記憶の断片が、俄《にわか》に彼自身の中心を改め始めた。彼は煙に襲われるように、道から外れてひとり隠れた。しかし、また彼は日本街の食糧の断絶を聞いては出かけた。邦人暗殺の流言を聞いては出かけた。暴徒の流れ込んだ形跡を感ずるとまた出かけた。そうして彼はいつの間にか、日本人の外廓に従ってぐるぐる廻り続けている斥候のような自体を感じた。そのたびに、危害を受けた邦人の増加していく話の波が、締めつけられるように襲って来た。
 或る日、参木と甲谷はいつもの店へ食事をしに出て行くともう食料がなくなったといって拒絶された。米をひそかに運んでいた支那人が発見されて殺されたという。それに卵もなければ肉もなかった。勿論、野菜類にいたっては欠乏しなければ不思議であった。
 甲谷は外へ出ると参木にいった。
「これじゃ、飢え死するより仕方がないね。銀行は有っても石ばっかりだし、波止場に材木は着いても揚げてくれるものはなし、宮子にはやられるし、米も食えぬとなれば、君、こういう残酷な手は、神さまが知っていたのかね神さまが。」
 しかし、参木には昨夜からの空腹が、彼の頭にまで攻め昇るのを感じた。すると、彼は彼をして空腹ならしめているものが、ただ僅《わずか》に自身の身体であることに気がついた。もし今彼の身体が支那人なら、彼は手を動かせば食えるのだ。それに――彼は領土が、鉄より堅牢に、最後の瞬間まで自身の肉体の中を貫いているのを感じないわけにはいかなかった。
「君、君の休業中の手当が出るのかね。俺の金はもうないよ。しばらく君の手当をあてにするから、そのつもりでいてくれ給え。」と甲谷はいった。
「そうだ、すっかり手当のことは忘れていた。いずれなんとかなるだろう。手当が出なけれや、今度はわれわれが罷業《ひぎょう》をするさ。」
「それやそうだな。しかし、そんならその罷業はどういうのだ。罷業をしたってお先に支那人にされちゃ、罷業にもならんじゃないか。」
「そしたら支那人と共同だ。」と参木はいって笑った。
「それじゃ、俺たちを一層食えなくするのも、つまり君たちだとなるのか。」
「もう食う話だけは、やめてくれ。僕は腹が空《す》いてたまらんのだ。」と参木はいった。
「しかし、休業中の手当を日本人だけ出しといて、支那人に出さぬとなると、これやますますもって大罷業だね。この調子だと、俺もいつまでたったって食えないかもしれないぞ。」
 二人は両側の家々の戸の上に、「外人を暗殺せよ。」と書かれた紙片の貼られたのを読みながら、歩いていった。
「とにかく、殺されるためにゃ、食べなくちゃ。」と参木はいった。
「いや、この上殺されちゃ、おしまいだよ。」と甲谷はいった。
 二人は笑った。参木は笑いながらふと甲谷と宮子を妨害している自分という存在について考えた。すると、ここでも彼は不必要に自分の身体に突きあたらねばならなかった。
「君は宮子が本当に好きなのかい。」と参木はいって甲谷を見た。
「好きだ。」
「どれほど好きだ。」
「どういうもんだか俺はあ奴が俺を蹴れば蹴るほど好きになるのだ。まるで俺は蹴られるのが好きなのと同じことだ。」と甲谷はいった。
「それで君は結婚して、もし不幸な事でも起ればどうするつもりだ。」
「ところが、俺の不幸は今なんだからね。今より不幸のことってあってたまるか。」
 参木は競子をひそかに愛していた昔の自分を考えた。そのとき、甲谷は競子の兄の権利として、絶えず参木の首を掴んでいた。が、今は、彼は甲谷の首を逆に掴み出したのだ。
「君、君はお杉をどう思う。」と参木はいった。
「あれか、あれは俺にとっちゃ捨石《すていし》だよ。」
「あれは君にとっちゃ捨石かも知れないが、僕にとっちゃ細君の候補者だったんだからね。お杉を攻撃したのは君だろう。」
 瞬間、甲谷の顔は赧《あか》くなった。が、彼は赧さのままでなお反り出すと、
「ふん、俺の捨石になる奴なら、誰の捨石にだってなろうじゃないか。」といってのけた。
 参木は自分の捨石になり出す宮子のことを考えながら、その捨石の、また捨石になり出した甲谷の顔を新しく眺めてみた。
「とにかく、僕にはお杉より適当な女は見当らぬのだ。君の捨石を拾ったって、君に不服はなかろうね。」と参木はいった。
「君、もう冗談だけはよしてくれよ。俺は飯さえ食えないときだ。これからひとつ馳け廻って、君、飯一食を捜すんだぜ。」
 参木は黙った。すると、しばらく忘れていた空腹が再び頭を擡《もた》げて来た。彼は乞食の胃袋を感じた。頭が胃袋に従って活動を始め出すと、彼はまたも自然に秋蘭を思い出すのであった。――ところが、これがいちばん秋蘭のしたかったことなのだ。とふと彼は考えた。――彼は彼女の牙の鋭さを見詰めるように、自分の腹に刺し込んで来る空腹の度合を計りながら、食物の豊富な街の方へ歩いていった。
 しかし、参木と甲谷の廻った所はどこも白米と野菜に困っていた。明日になれば長崎から食料が着くという。二人は明日まで空腹を満すためには、暴徒の出没する危険区域を通過しなければならなかった。だが、今はその行く先にも食物があるかないかさえ分らないのだ。参木は甲谷とトルコ風呂で落ち逢う約束をすると、甲谷を安全な街角から後へ帰して、ひとり食物を捜しに出かけていった。

四一

 甲谷は参木と分れると一層空腹に堪えかねた。それにないものはパンだけではなく煙草もないのだ。街路は夕暮だのに歩いているのは彼ひとりであった。どこもかしこも閉めてしまっている戸の隙から、何物が狙っているともしれたものではなかった。それにしても、兄の高重もひどいことをしたものだ。高重と印度人の弾丸が、彼をこんなに混乱させてしまう原因になろうとは、――甲谷は自分の船の材木が港に浮いたまま誰も揚手《あげて》のないのを思うと、いまさら兄め、兄め、と思うのであった。
 街に革命が起っているのも知らぬらしい一台の黄包車《ワンポウツ》が、甲谷の傍へ近づいて来ると、乗れとすすめた。今頃日本人を乗せて見つかれば殺されるに決っているのに、乗れとは幸いなので、彼は乗った。が、さてどちらへ車を向けて走らせて良いものか分らなかった。彼は乗ったままの方向へ車を走らせていてから、ふと車夫の背中を見た。すると、車夫にとっては、自分が死神と同様なのに、それを乗せて引っぱって走っている車夫の姿が面白くなって来た。ひとつ彼が見つかって殺されるまで、死神みたいに彼の後からどこまでも追っかけてやろう――そう思うと、甲谷も先日からの打撃の連続のために、思う存分いたずらがしたくなった。彼は、「走れ、走れ。」とステッキを振り上げては車の梶《かじ》を叩いてみた。車夫の背中は一層低くなると、スピードを増し始めた。
 しかし、いったいどこまで自分は走ろうとするのだろう。彼は地図を考えた。一番近いのは山口の家である。――山口の家には不用な女がごろごろしている話をきかされた。それがこの革命で死人と一緒に、どんなことをしているやら。お負けにその女のひとりを譲ろうといったのも山口なのだ。そうだ、山口の家へいってやろう。甲谷には眼の前の人けのない夕暮が、奇怪な光りをあげたように楽しくなった。彼は山口が洩《もら》した第二の商売を思い出した。それは支那人から買い集めて造った人骨を、医学用として輸出するのである。
「左様、先ず一つの死体の価格で、ロシア人七人の妾《めかけ》が持てる。七人。」
 そう傲然《ごうぜん》といったのも山口だ。今は彼もこの革命で定めし死人が増して喜んでいることだろう。しかし、それにしても、眼前で自分を引っぱっている車夫までが、いまに見つかって死体となって山口に買われたなら、――左様、それは俺が売ったと同様だ。金をよこせ、と俺は傲然といってやろう。
 もっと走れ、走れ。――
 車夫はあばたの皮膚へ汗のたまった顔を辻ごとに振り向けて、甲谷を仰ぐと、またステッキの先の方向へ、静まり返った街路をすたすたと素足の音を立てながら走っていった。
 甲谷は山口が家にいなければ、お柳の家へいこうと思った。お柳の家なら、彼女の主人は総商会の幹事をしている支那人だ。殊に共産党のあの芳秋蘭は、お柳の主人の銭石山と、気脈を通じているにちがいない。お柳の話では、いつかも芳秋蘭が二階の奥の密室へ来たことがあるという。俺はあの芳秋蘭を殺したなら、――そうだ。俺の材木をすっかり腐らせた奴め。俺はあ奴を殺したなら、そうだ俺があ奴を殺したって、ただそれは一人の人間を殺したというのと同じではないか。
 彼は自分の考えていることが、車の上の気まぐれな幻想なのか、それとも真面目なのかどうなのかを考えた。全く、今はもう彼は、空腹と絶望のために、考えることそのことが夢のようで、考えが実行していることとどこで擦《す》れちがっているのか分らないのであった。
 彼は周囲の色が、次第に灰白色に変化して来るのを見ていると、もうあたりがいつの間にか、租界外の危険区域であるのを感じた。しかし、もう彼の空腹は、迫る危険の度合いを正当に判断することさえうるさくなって、ずるずると車と一緒に辷っていった。彼は宮子が今頃どうしているであろうかを考えた。或いはもう先夜自分を跳ねつけた行為を後悔して、今は自分の助けにいくのを待っているかもしれない。それとも、もう彼女を愛していたスコットランドの士官にでも救われているのであろうか。それともあの甲虫《かぶとむし》のフィルゼルに、――いや、畜生、死ね、死ね。――
 遠くで、遅い柳絮《りゅうじょ》が一面に吹き荒れた雪のように茫々として舞い上った。彼はこっそりと盗んでおいた宮子の手巾《ハンカチ》をポケットから取出すと鼻にあてた。道路の青葉が宮子の胸の匂いで締められながら沈んでいった。彼は彼女の胴の笑いを腕に感じた。彼は彼女のために使用した船の材木量を計算した。だが、何もかも、もう駄目だ。――
 そのとき、突然彼を乗せた車が、煉瓦の弓門を潜ろうとすると、行手に見える長方形の空間が輝いた。それは六、七十人の暴徒に襲われている製氷会社の氷であった。氷はトラックの上から、ひっかかった人と一緒に辷り落ちた。アスファルトの上で爆《はじ》ける氷、その氷の間に挟まって格闘している日本人と支那の群衆――甲谷は開いた口へ、物が詰ったように背後へ反り返った。が、車夫はその意志とは反対に、前へ前へと出ようとした。彼は車の上から飛び降りた。彼の咄嗟《とっさ》の動きに靡《なび》き出した群衆のいくらかは、彼の後から駈けて来た。彼は露路へ飛び込むと壁から壁を伝いながら河岸へ出た。そこで、彼はひとりになると、もはや動くことが群衆に見つかるのと同様なのに気がついた。もし動いて逃げるとすれば、河へ飛び込むか再び路へ出て向う側の露路へ逃げ込むかのどちらかだった。彼は這いながら弓門の見える建物の裾に蹲《うずくま》って街路の方を見た。すると、そこでは、吹雪のように激しく襲って来た柳の花の渦の中で、まだ格闘が続いていた。トラックの上で、破れた襯衣《シャツ》が花と一緒に廻っていた。長い鉄棒の先が氷に衝《あた》るたびに、襤褸《ぼろ》の間からきらりきらりと氷の面が光った。弓門の傍には、先きまで甲谷の乗っていた車が、浅黄の車輪を空にあげて倒れていた。その下から二本の足の出ているのは、確に先きまで生きていた車夫の足にちがいない。傾いた氷の大盤面の上には、血がずるずる辷りながら流れていた。血にまみれた苦力《クリー》がその氷塊の一つをかかえて走り出した。
 甲谷はもうすぐに山口の家があるのを思うと、今から後へひき返すことは、これまで来たことより一層危険なことだと思った。彼は群衆が氷塊の傍から次の地点まで暴力を移動していくまで、しばらくそこに隠れていなければならなかった。
 丁度、幾条かの夕栄《ゆうば》えが複合した建物の頂上から流れていた。アスファルトの上に散乱している氷塊が、拾われては投げつけられ、拾われては投げつけられるたびに、その断面がぱっと爆《はじ》けて、輝きながら分裂しているときである。肩から背中へ裂傷を負った日本人が、真赤な旗を巻きつけたように、血をシャツにつけたままトラックを捨てて逃げていった。群衆は彼の後から追っかけた。
 甲谷は群衆が彼の前を通り抜けて空虚になると、初めて街路に出て、群衆とは反対に山口の家の方へ馳け始めた。しかし、そのとき、初めに甲谷を追って露路へ這入った群衆のいくらかが、逃げる甲谷を見付けて彼の後から馳けて来た。甲谷はもう疾風のようであった。走る速力に舞い上る柳の花の中をつきぬけた。背後から氷の破片と罵声がだんだん速度を早めて追って来た。彼は追っつかれない前に露路へまた逃げ込もうと思った。しかし、ふと右手の街角にアメリカの駐屯兵の屯所《とんしょ》が見えた。彼はいきなりその並んだ軍服の列の中へ飛び込んだ。
「諸君、頼む、危険だ。あれが。――」
 しかし、駐屯兵は微笑を浮べたまま、追手の群衆を迎えるかのように動こうともしなかった。動かぬ兵士の中にいつまで停っていても、危険は刻々に迫るばかりであった。彼は一人の兵士の胴を一度くるりと廻ると、木柵の中を脱け出るようにそのまま裏へ飛び抜けてまた馳けた。橋があった。甲谷は橋の上で振り返ると、駐屯兵たちが追っかけて来る群衆を遮断してくれているものかどうかを見た。しかし、もう群衆は笑いながら立っている駐屯兵たちの前を通り過ぎて、彼の手近に迫っていた。甲谷はもう息が切れそうになった。自分の足の関節の動いているのが分らなかった。ときどき身体が宙を泳いで前にのめりそうになるのを、ようやく両手で支えてまた馳けた。橋を渡り抜けると、次の街角から草色をした英国の駐屯兵の新しい服が見えた。英国兵は馳けて来た甲谷を見つけると、忽《たちま》ち、街路に横隊に並んで銃を向けた。が、それは甲谷を追って来る支那の群衆を狙ったのであった。甲谷は双手を上げると、テープを切るランナーのように感謝の情を動かさぬ唇に込めて、駐屯兵の銃の間を馳け抜けた。
 甲谷は山口の家の戸口へ着いたときには、もう、ぼんやりとして立ったまま急に言葉《もの》をいうことが出来なかった。
「どうした。」
 そう山口が出て来ていっても、甲谷はまだしばらくの間黙っていた。山口は甲谷の背中を強く叩いて階段を連れて上ってから水を飲ました。
「寝るか。」
「寝る。」
 と甲谷は一言いうと同時に、傍にあったベッドに横に倒れた。
「パンをくれ。パンを。いや、水だ、水だ。」と甲谷はいった。

四二

 陽がもう全く暮れてから、ようやく食事にありつくと甲谷は再び元気になった。彼は今朝から起った始終の話を山口にした。
「僕は君のこの家に這入って来るなり、いきなり変異が起ってね。僕は君のように愛国主義者になったんだが、もう僕は君より立派なものさ。覚悟をしてくれ。」
 建築師の山口はポケットからナイフを出すと、黙って甲谷に血判状をつくれと迫った。甲谷はナイフの溝にたまっている黒い手垢を見ると山口の日頃触っている死体の皮膚が、定めしそこに溜り込んでいるのであろうと思って顎をひいた。
「あ、そうだ。君から僕は金を貰わなくちゃならないのだが。」と甲谷はいった。
「今日僕の乗って来た車夫は、門の下で確《たしか》に殺されていたんだが、どうだ、それは僕が殺したのと同様なんだよ。僕にその労金をくれられないものかね。僕はもう金がなくなって困っているんでね、冗談じゃない、君。」
「駄目だよ、そんなものは。」と山口はいって相手にしなかった。
「だって、僕がその車にさえ乗らなきあ、あ奴は死人なんかにならなくたって良かったんだからね。それにわざわざ君んとこの傍まで追い込んで来たのは、誰だと思う。」
 山口は手を振って甲谷の攻め立てて来る機略をまた圧《おさ》えた。
「そんなことをいいだしたら、今から君の骨賃《ほねちん》だって、もう払っとかなくちゃならんじゃないか。」
「しかし、他のときじゃないよ。僕の材木はもう船から上る見込みがないんだからね。金はもう僕はこれきりだ。」
 甲谷はズボンのポケットを揺って銅貨の音を立てながら、
「君、くれなきゃ、その代り、僕が死人になるまで君の所に厄介になるまでさ。いいか。」
「いや、それも困るぞ。」と山口はいってナイフを机の上に抛り投げた。
「それじゃ、僕を困らないようにしてくれたって、良かろうじゃないか。僕は今日は自分の生命《いのち》を犠牲にして、あの車夫を追っつめて来たんだぜ。」
 山口は立ち上ると机の引出から蝋燭を取り出した。
「おい君、地下室へいこう。俺の製作所を見せてやろう。」
 甲谷は先に立った山口の後から土間を降りると、真暗な黴《かび》臭い四角な口から梯子《はしご》を伝って地下室へ降りた。そこで、山口は急に振り返って甲谷を見ると、探偵物の絵のように蝋燭の光りの底で眼を据えた。
「もうここまで這入ればおしまいだぞ。」
「何んだ。生命まで取ろうというのか。」と甲谷はいって立ち停った。
「勿論生かしておいちゃ、明日から俺のパンまでなくなるさ。」
 二人はまた奥の扉を押して進んだ。すると、急に甲谷の足は立ち竦《すく》んだ。壁にぶらりと下った幾つもの白い骨の下で、一人の支那人が刷毛《はけ》でアルコールの中のち切れた足を洗っていた。甲谷は骨の整理をするからにはいずれこれほどのことはするであろうと思っていた。しかし、よく見ると、骨を入れた槽の縁が円く盛り上ってぎらぎらと青白く光りながら滑らかに動いていた。それは重なり合って這い出ようとする虫の厚みであった。彼は足元から這い上って来る虫のぞろぞろした冷い肌を感じると、もうそこに立っていることが出来なくなった。
「出よう。これだけはもう僕も御免こうむるよ。」
 そのとき、彼はふと壁を見ると、そこにかかっていた白い肋骨の間を、往ったり来たりしている鼠があった。それは間もなく二疋になり、三疋になった。が、それは三疋どころではなかった。しばらく見ている中に、一方の隅から渡って来た鼠の群れが真黒になりながら肋骨の下や口の中から、出たり這入ったりして壁を伝って下へ降りた。
「君、あれは飼ってあるのかね。」と甲谷は訊ねた。
「そうだ。あれを飼っとくと手数がはぶける。鼠というものは昔から、地上を清めるために生息しているものなんだ。」
 蝋燭の光りの中で、大きな影を造って笑っている山口の顔が、このとき甲谷には恐るべき蛮族のように見えて来た。
「頭の上に革命があるというのに、ここで君は始終そんなことを考えているんだね。」と甲谷はいった。
「何アに、革命といったって、支那の革命じゃないか。弱る奴は白人だけさ。良い加減に一度ヨーロッパの奴を捻じ上げとかないと、いつまでたったって馬鹿にしやがる。今日こそアジヤ万歳だ。」
 山口は鼠の傍へよっていって手を出した。すると、忽ち鼠の群が音も立てずに地を這って甲谷の方へ流れて来た。
 しかし、甲谷はもう充分であった。臭気と不潔さとで嘔吐をもよおしそうになった彼は、胸を圧えながら梯子を登って土間へ出た。

四三

山口君、本日の市街の惨案は、そもそもこは誰人の発案にかかるものであろうか。世界は常に公論ある人類の、永久的生存権を有するに非ざれば、必ず毀滅《きめつ》の時日あるであろう。凡《およ》そ今回の事件は、中、英、国際の紛争に非ずして、実は黄白《こうはく》消長の関鍵《かんけん》であり、これを換言すれば、即ち、亜洲黄色人種が、白種に滅亡せらるるの先導に非ずして他にはない。試みに思い給え。現在世界に存留する大民族は、即ち黄白の二種にして、彼の黒種紅種は早くも既に白種に征服せられ、米のインデアン、南洋の馬来、アフリカのエグロの如き数十年ならずしてこの種の人種は絶滅し終るであろう。蓋《けだ》し、彼《かれ》白人は滅種計画を励行し、彼らの大帝国主義の志は、全世界を統御して後|已《や》まんとす。その心の邪《じゃ》にして、その計りの険《けん》なることかくのごとし。我《われ》黄種は危機に頻す。五大洲の彼に圧せらるる形勢は既にその四所に蔓延し、一塊の乾浄土《かんじょうど》を剰《あま》すは、ただ僅にわが黄人の故郷、亜洲あるのみ。然るに君、一たび試みに亜洲の地図を検し給え。南部の南洋群島、フィリッピン、西部の印度、大陸に接する安南、緬甸《ビルマ》、香港、澳門《マカオ》も亦《また》すでに彼白人の勢力にして、猶《なお》、未だ白人の雄心死せざるなり。日と中とは同種同文、唇歯《しんし》相|依《よ》る。例えば中国一たび亡びんか、日本も必ず幸いなし。何ぞそれ能《よ》く国家の旗を高く樹《た》てるを任《まか》せんや。嗚呼《ああ》君、われら、今彼らの滅種政策の下に嫉転《えんてん》呼号するもの。然るにわが日中両国を返顧《へんこ》するも、猶お未だ、昏々《こんこん》蒙々《もうもう》、一に大祥の将《まさ》に臨み亡種の惨を知らざるが如し。願《ねがわ》くば君|吾《わ》が説に賛成するあらば、共に起《た》ちてこれを図り、併せてわが民族の救援につき討論せんことを請う。
                                李英朴
                          

                         
 山口|卓根《たくね》先生

 甲谷が山口からチュウトン系のがっしりと腰の張った若いオルガを紹介されたのは、それから間もなくであった。オルガは黙って初めは笑顔も見せなかった。しかし、甲谷が参木の友人だと教えられると同時に、彼女は輝くような笑みを見せた。
「あなたは参木のお友達でいらっしゃいますの。参木はどうしていますかしら? あたしあの方とは、ここで一週間も一緒に遊んでおりましたわ。」とオルガは早口な英語でいって甲谷の方へ手を出した。
「そうだ、あいつはここに一週間もいたくせに、とうとうオルガに負けて逃げちゃった。」と山口は剃刀《かみそり》に溜った石鹸の泡を拭きながら、鏡に向っていった。
「ここにあ奴、いたのかい、それは知らなかったね。そうかい。」甲谷はうす笑いを浮べながらオルガの顔を見なおした。「どうです、オルガさん、こんどの支那の革命と、あなたのお国の革命とは違いますか?」
 すると、急に山口は鏡の中から甲谷を見て、
「おいおい、革命の話だけはよしたらどうだ。オルガを泣かしてしまうだけだ。こいつは革命の話となると、狂人みたいになるからね。」と遮った。
「しかし、それや何より聞きたいさ。こんな事は、どうなるやらさっぱり僕には分らんからね。経験のある人に聞いとかないと、材木の処分に困るんだよ。」
「そんなこと聞きたけれや、後でゆっくり聞けばいいさ。俺はこれから、ひと仕事しないと寝られないんだ。」
 甲谷はふとそのとき、いつかサラセンで逢った山口の話を思い出した。それでは山口は話の通り、オルガを自分に譲ろうというのであろうか。しかし、何事も計画は直ちに実行に移していく山口のことであった。
「じゃ、君はこれからどっかへ行くのか。」と甲谷は訊ねた。
 山口は剃刀を下へ降ろすともう一度鏡を覗きながら、
「君をここへ一人ほったらかしておいたって、無論よかろうね。」と顎を撫でつつ訊ね返した。
「良いとは、何が良いのだ?」と甲谷は訝《いぶか》しそうに山口を見上げていった。
「沢山《たくさん》俺の家には鼠がいるからさ。分らん奴だね。」
「しかし、それは分らんよ。鼠に俺が曳かれて悪ければ、何も君は出ていかなきあいいじゃないか。」
「ところが、そこを出ようというのだから、察して貰おう。早く出ていかないと、君の乗って来た車夫は拾われてしまうかもしれないからな。それにまだ俺は、お杉の所へもいかなくちゃならんのだ。」
 甲谷は山口の口からお杉と聞くと、言葉を次ごうとしていた呼吸も思わずはたと止ってしまった。――甲谷は再びお杉の顔を思い描いた。すると、参木も山口もお杉にした自分の行為を知っていて、ともに胸の底では、ひそかに自分に突っかかっているのではないかと思った。しかし、彼はたちまち昂然となると、
「お杉か。あれは北四川路八号の皆川だ。」彼はとぼけた笑いを浮き上らせながら白々しくいった。
「じゃ、君も行ったことがあるのかい。」
 一瞬の間、山口は眉を強めて甲谷を見返した。
「いや、僕はお柳に訊いたのだが。お杉をあんなにしたのは、あれはお柳の仕業でね。気の毒は気の毒だが、気の毒なものは、まだそこにも一人いらっしゃるじゃないか。」
「俺か?」と山口はいうと、拳を固めて甲谷を殴りつける真似をした。
「馬鹿をいえ。気の毒なのはこのオルガさんだよ。この夜更けにひとりほったらかされて行かれちゃ、たまるまいよ。」
 山口は笑いながら帽子をゆったり冠った。
「今夜は少々危いが、俺がやられたら後を頼むよ。昨夜は何んでも、芳秋蘭がスパイの嫌疑で仲間から銃殺されたとか、されかけたとかいうんだが、いつか君は、あの女の後を追っかけたことがあったっけ。」
「殺《や》られたか、芳秋蘭?」と甲谷は思わずいった。
「いや、そりゃ真個《ほんと》かどうだか、無論分らんが、何んでも日本の男に内通してたというので疑われたらしいんだ。そのうち一つ、俺はあの女の骨も貰って来ようと思っているのさ。」
 山口は、ポケットから手帖と手紙を出すと、甲谷に見せた。
「君、俺がもし死んだら、君はこの二人の男に逢ってくれ。一人は李英朴《りえいぼく》といって支那人で、一人はパンヂット・アムリっていう印度人だ。この印度人は宝石商こそしているが、実は印度の国民会議派の一人でね。ジャイランダス・ダウラットムの高足《こうそく》だ。この男は君と逢ってるうちに、君のするべきことをだんだん君に教えていくよ。」
「じゃ、君も今夜はいよいよ死人になるんだな。」
 山口はしばらく甲谷を見ていてから急に高く笑い出した。
「そうだ。死人になったら、俺の家の鼠にやってくれ。定めし鼠どもも本望だろう。」
「そりゃ、本望だろう。鼠にだって、この頃は洒落《しゃれ》たのはいるからね。」
 山口は、ともかくもこの場の悲痛な話を冗談にしてしまう甲谷の友情を感じたのであろう。オルガの肩を叩いて英語でいった。
「おい、お前の好きな参木に逢わしてくれるのも、この男よりないんだからね。甲谷には親切にしないといけないぜ。」
 彼は甲谷を振り返った。
「じゃ、失敬、頼むよ。この李の手紙を読んどいてくれないか。なかなかの名文だよ。」
 甲谷は悠々と笑いながら出ていく山口の後を見ていると、それはたしかに死体を拾いにいくのではなく、この騒動の裏で動くアジヤ主義者としての、彼の危険な仕事が何事かあるにちがいないとふと思った。彼は渡された李英朴の手紙を見ると、それは三日前にどこからか使いの者に持たして来たものであった。

 オルガは甲谷の傍へ寄って来ると、支那婦人の用いる金環《かなわ》の※[#「金+蜀」、第4水準2-91-42]《たく》を手首に嵌《は》めて涼しげに鳴らした。
「ね、甲谷さん、あなた、参木のことを御存知だったら、教えてちょうだい。あたし参木に逢いたいの。」とオルガはいって寝台の上に腰を降ろした。
「参木とはさっきまで一緒にいたんだが。しかし先生、僕の食い物を捜しに別れてからどこへいったか、僕にも分らんね。多分、あいつも途中でやられてしまったかもしれないぜ。」と甲谷はいってオルガの顔の変化を見詰めていた。
「じゃ、もう参木は死んだかしら。」オルガは首を上げて窓の外を見ながら動かなかった。
「それや、分らんよ。僕だってここへ来るには死にかかったんだからね。とにかく外は革命なんだから、何事が起るかさっぱり見当がつかないんだ。あなたたちの革命のときも、こうでしたか。まア、それから僕に聞かしてくれ給え。」
「あたしたちロシアのときは、何が街で起っているのか誰も知らなかったわ。ただときどき鉄砲の音がして、街を通っている人があっちへ塊《かたま》ったり、こっちへ塊ったりして、それも誰も何んにも知らないで、ただわいわいいってるだけだったの。そのうちにあたしの父が、こりゃ革命だっていうの。だけど革命だっていったって、革命って何んのことだか誰も知りゃしないでしょう。だから矢っ張り、革命だって聞かされたって、ぼんやりして、今に鎮まるだろうと思って見ているだけなの。それや、今とはまるでそんなところは違っているわ。革命ってどんなことだかだいたいでも分っていれば、あたし、革命なんか起るもんじゃないと思うの。……だけど、参木、ほんとうに死んだのかしら。」とオルガはいってじっと床に眼を落した。
「それから、どうしたんです、それから。」と甲谷は物珍らしそうに訊《き》き始めた。
「それから、あたしの父が母とあたしとをつれて、とにかく逃げなけれやこれや危いっていうんでしょう。だから、あたしたち、まだ誰も革命だとは気付かないうちに、もうモスコウを逃げて来ましたの。だけどお金はあたしたち貴族は貴族だけど、いま急にっていったって、ないものはないんですからね。だからもう赤裸《はだか》同然よ。ただもう逃げればっていうんで逃げたもんだから、旅費はすぐ無くなっちゃうし、仕様がないから、無くなったところで降りて、それからすぐ新聞社へ駈けつけたの。新聞社へ駈けつけたのも父の考えで、あたし、父もなかなかそこは考えたものだと今になって思うのよ。ね、新聞社だって田舎だから、モスコウの出来事なんかまだ何も知りゃしないんだし、モスコウの騒動を今見て来たというように話せば、特種《とくだね》料が貰えるでしょう。そこを父が狙ったの。うまいでしょう。それでようやく特種料を握ってその旅費のなくなる所まで逃げて来て、そこでまた前のようにモスコウの話と前のところの話をするの。そうすると、またそこでも特種料が貰えるの。丁度あたしたち、そんなことを幾度も幾度も繰り返しながら、革命の波の拡がるのと競争して逃げ出していたようなものなのね。そうして、とうとう革命があたしたちに追いついたとき、あたしの父は捕まえられて殺されかかったの。まア、そのときったら、あたし、今でもはっきり覚えてるわ。」
 オルガは丁度そのときもそうしたのであろう、胸に両手を縮めて空を見ながら、ぶるぶる慄《ふる》える恰好をつけたまましばらく黙って縮んでいた。しかし、どうしたものか、オルガはそのまま話し出そうとしていて話さないのであった。
「何んだ。それから、どうしたんだね。」とまた甲谷はせき立てた。
「あたし、この話をするときは癲癇《てんかん》が起るのよ。あなた、あたしの身体《からだ》が後ろへ反らないように抱いててよ。」
 オルガは甲谷の膝の上へ横に坐って身を擦りつけた。
「あなた、もしあたしが慄え出したら、あたしの身体をしっかり抱いてちょうだい。そうしたら、あたしもうそれで大丈夫なんだから。」
 甲谷はオルガを抱きよせた。
 オルガは手品を使う前の小手|調《しらべ》のように、しばらくの間淡紅色に輝いたパルパラチャンの指環を眺めたり、耳環を爪《つま》さきではじいてみたりしていてから、深い呼吸を面に幾回も繰り返して黙っていた。甲谷は思わずも彼女の身体を反らさないようにとしっかりと抱きかかえた。
「君、大丈夫かい。今から嚇《おど》かしちゃこのまま逃げるぞ。僕は癲癇なんてどうしたらいいんか知らないからね、僕にとっちゃ革命みたいだ。」
「大丈夫よ、しっかりさえ抱いてて下されば、そうそう、そうしてあたしが慄え出したら、だんだん強く抱いてってよ。あたしのお父さんも、いつでもそうしてあたしを抱いてて下すったわ。」
「君のお父さん、まだいるの?」と甲谷は訊いた。
「お父さんはハルピンで亡くなったわ。だけど、もう革命のときトムスクでお父さん殺されかかったもんだから、よくまアあれまで生きられたもんだと思ってるの。」
「じゃ、君たちトムスクまでも逃げたんかね。」
「ええ、そうなの。あそこはあたしにとっちゃ忘れられないところだわ。」
「だって、電話や電信があるのに、よくそこまで新聞の特種が続いていったね。」
「そこがあたしたちにも分んなかったの。何んでも革命が起ると一緒に、電話局と電信局とは政府軍と革命軍との争奪の中心点になったらしいのよ。だもんだから、あそこの機械はすぐ壊されてしまったらしいのね。もし電話やなんか役に立ったりしちゃ、そりゃあたしなんか、トムスクまでは逃げられなかったにちがいないわ。」
 オルガはそういう言葉のひまひまにときどき寒気を感じるように胴慄いをつづけた。甲谷はオルガの顔色を眺め眺めいった。
「そりゃ今夜だって、ここの租界の駐屯兵は一番電話局と電信局とを守っているからね。何んでもそれに水道が危いということだ。電気もまだこうして点《つ》いてるが、これだっていつ消えっちまうか知れたもんじゃないさ。君たち、じゃ、汽車はあったんだね、そのときは?」
「ええ、汽車はあったわ。だけど、それもトムスクまでよ。あたしたちトムスクまで逃げて来たら、そこの広場ではもう革命があたしたちより先になっていて、街の人々の集っている中で、怪しいものを一人ずつ高い台の上へ乗せて、委員長というのが傍から、この男は過去に於て反革命的行為をしたことがあるかどうかって、いちいち人々に質問してるの。そうすると集っている街の人々は、下の方からそれは誰々何々という男で、宗教心が強くって慈善家で、悪いことは何一つしたことがないというように、証明してるの。皆の証明がすむとその男はすぐ無罪放免ということになるんだけど、あたしの父のように誰も何も知らないとこじゃ、まったくもう怪しいと睨まれちゃそれじまいよ。すぐ傍でぽんぽん銃殺されちゃうの。だもんだから、お父さんがあたしたちから放れてひとりパンを買ってるとき、もうちゃんとつかまって、いつの間にか高い台の上へ立たされているんでしょう。あたしそのときはもう、お父さんの生命はないものと思ったわ。それであたし、ただもう空を向いて十字ばかりきってたの。そうすると、誰だか人の中から女の声がし始めて、あたしの父のことをしきりに弁明していてくれるのよ。あたし、誰かしらと思って見ると、それはお母さんじゃありませんか。お母さんはもうひとり下から喚《わめ》き立てて、父のことを、その男はオムスクの冷凍物輸出支局の局員で、英国のユニオン獣肉会社のトラストが北露漁場の漁業権を買収しようとしたとき、反対した男で、北露漁業権をロシアのために保存するのにつとめたとか、北洋蟹工船の建設草案を民衆のためにしたんだとか、それから何んだとかかだとか、なるべく難しそうなことを必死になって饒舌《しゃべ》っているんでしょう。それでも委員長はお母さんのいうことには何の感動もせずに聞いてるだけなの。そうするとお母さんはもう真赤になって、手を振ったり足をばたばたさせたりしながら、やっきになって来て、しまいにどうしてあんなことを考え出したものやら、アゼルベイジャンの漁場へ電報で聞き合せたら分る。そこでその男は自分の兄と一緒に、漁業会社の力を弱めるために、アゼルベイジャン漁民組合を起すのにつとめたんだといい出したの。そうしたら、今まで黙っていた委員長は、宜しい、と一言いったのよ。お父さんはもうそしたらすぐ台の上から降ろされたわ。それから、お母さんが、うっかりして降りて来るお父さんの傍へ駈け寄ろうとして、すぐまたそっちを向いて知らぬ顔をしているの。あたし、もうそれからやたらに有り難くなって、十字ばかり切りながらぶるぶる慄えていたの。そうしたら、今度はあたしが、――」とオルガはいったまま黙ってしまうと、甲谷の膝の上で俄《にわか》にぶるぶる慄え出した。
 甲谷はオルガの身体を反《そ》らさぬようにしっかりと抱きすくめていった。
「大丈夫か、君、おい。」
 オルガは生唾《なまつば》をぐっと飲み込むように首を延ばした。
「ええ、大丈夫。あたし、何んだかちょっと慄えただけなの。だって、あのときのことを思うと、それやもうあたし、恐くなるの。あたしそのときも、そこでそのまま癲癇を起しちゃって、気がついたときは、お父さんがあたしをこうして抱きすくめていてくださったわ。あたしたちそれから、まアそれはそれは、鉄道線路を伝うようにしてハルピンまで落ち延びて来たんだけど、もう全くハルピンまで来たものの、どうして良いか分らないもんだから、支那人に持って来た宝石を売ったり何んかして、やっと生活はしていたんだけど、いよいよそこにもいられなくなるし、それにまたハルピンは、やっぱりソヴェートの手が這入っていて不愉快でしょうがないもんだから、いつの間にやらこんなところまで来てしまったの。だけど、ここではここで、またこれからどうして生活していっていいのか皆目見当がつかないんでしょう。もうそうなれば、だいいちその日その日のパンが手に這入らないもんだから、こんな困ったことってなかったわ。今までこれがお母さんでこれがお父さんだと思っていたのに、浅ましいわね、もうお父さんよりお母さんより、何より自分よ。自分さえパンが食べられれば後はもうどうなったって、いいと思うものよ。あたしこれでもなかなか親孝行な方だったんだけど、ここへ来ちゃ、もう獣《けだもの》よ。それであたし悲しいには悲しかったけど、売られちゃって来てみたら、それが木村っていう日本人の競馬狂人なの。この人は、まアあたしを人間だと思ったことは一度もなくってよ。言葉が一つも通じないもんだから、逢ったらいきなりあたしの腰を抱いてぴしゃぴしゃ叩くの。あたしそれが初めは日本人の礼儀なんだと思っていたわ。そしたらあたしをしばらくしてから競馬場へ連れてって、自分が負けたらすぐその場であたしを売っちゃったの。それがつまり今の山口なんだけど、でも、木村ほどひどい男ってあたし初めてだったわ。山口に後で聞いたんだけど、木村はいつもそうなんだって。お妾さんを沢山いつも貯金みたいに貯めといて、競馬のときになると売り飛ばすんだって。」
「そうだよ、あの男は狂人だ。」と甲谷はいうと、乾いた唇へ冷たく触れるオルガの水滴形の耳環の先を舌の先で押し出した。
「あたし、それからここでいろんな日本の人に逢ったわ。だけど、参木みたいな人は一人もみないわ。あんな頭《ず》の高い人なんて、ロシア人にだってなかったし、支那人にだってひとりも逢わなかったわ。あの人、でも、殺されたのかしら。」
 オルガは窓から見える傾いた橋の足や、停って動かぬ泥舟を眺めながらいった。
「ね、甲谷さん、あなたどう思って。」とオルガは急に振り返ると、甲谷の首に腕を巻きつけた。「もうあなたは、ロシアに昔のような帝政が返らないとお思いになって。どう?」
「それや、もう駄目だ。どっちみち返ったところで、またすぐひっくり返されるに定《きま》っているさ。」
 オルガは寒気を感じたように身を慄わすといった。
「そうかしら、もうロシアは、あたしたちいつまで待っても前のようにはならないかしら。」
「駄目だね。だいいちここがもうこんな騒ぎになるようじゃ、すぐまたどっかの国も騒ぎ出すよ。」
「あたしたち、でも、まだまだみんなで、昔のようになるのを待ってるのよ。いつまで待ってもこんなじゃ、あたし、死ぬ方がいい。」
 またオルガの身体がぶるぶる前のように慄えるのを感じると、
「君、おい、大丈夫かい。おかしいぜ、おい、君。――」と甲谷はオルガを揺りながら顔を覗き込んだ。
 オルガはハンカチを出して口に銜《くわ》えた。
「あたし、お父さんに逢いたいわ。お父さんはハルピンで宝石を安く買って、それからこんなハンカチに包んでね、ロシアを通り越して、ドイツへいって、そこで宝石を売ってまた帰って来たのよ。そうすると、それはたいへん儲かったの。だけど一度モスコウへ用事がなくとも降りなきあ、疑われるもんだから、その降りるのが恐いんだって。あたしのお父さん、あたしにアメリカへ連れてってやろうっていってたんだけど、――あたし、お父さんにもう一度逢ってみたい。ああ逢いたい。」
 オルガはいきなりまたハンカチを銜えて甲谷の肩に噛みつくようにつかまった。甲谷はオルガの顔を見た。すると、もうさッと彼女の顔色は変っていた。
「君、どうした、しっかり頼むよ。おい、おい。」と甲谷はいった。
 オルガは頬をぺったりと甲谷の首にくっつけたまま黙って静に、びりびり揺れ続けた。すると、指さきの固く中に曲ったオルガの手が青くなった。頭がだんだんに反《そ》り始めた。眼はじっと前方の一点に焦点を失ったまま開いていた。歯がぎりぎり鳴り出すと、強く甲谷の首がオルガの片腕に締めつけられた。と、「あッ。」とオルガは叫んだと思うと、一層激しく甲谷の膝の上で慄え出した。
 甲谷はオルガを寝台の上へ寝させるとそのまま手を放さずに抱きすくめた。汗が二人の身体から流れて来た。甲谷の首を締めつけつつ慄えているオルガの顔が真青になって来た。すると、耳から唇へかけてぴこぴこ痙攣《けいれん》しながら、間もなく赧《あか》く変って来た。甲谷は弓のように反り始めたオルガを抱きすくめたまま、両手と足と身体で間断なく摩擦し始めた。しかし、突き上げて来る弾力と捻《よじ》れる身体の律動に、甲谷はいつとはなしに、格闘するそのものが彼女の病体ではなくて、自分自身だと思い始めた。
 間もなく、甲谷の摩擦は効果があったのであろう。オルガは大きな呼吸を一度落すと、そのままぴったりと身体の痙攣をとめてしまった。すると、彼女の顔色は前のように安らかに返って来て、だんだん正しい呼吸を恢復させながら眠り始めた。甲谷はオルガを放して窓を開けると風を入れた。黒々とした無数の泡粒を密集させた河の水面は、灯《ひ》の気を失ったまま屋根の間に潜んでいた。その傍を、スコットランドの警備隊を乗せた自動車がただ一台疾走していってしまうと、後はまたオルガの呼吸だけが聞えて来た。
 ――さて、これでよし、と。――
 甲谷は汗にしめって横たわっているオルガを花嫁姿に見たてながら、上着を脱いで釘にかけた。それから、石鹸壺の中でじゃぶじゃぶ石鹸の泡を立てて顔に塗ると、山口の置いていった剃刀の刃を横に拡げてひと刷き頬にあててみた。

四四

 外は真暗であった。所々に塊《かたま》った車夫たちは人通りの全くなくなった道路の上に足を投げ出して虱《しらみ》を取っていた。道路に従って、冬枯の蔓《つる》のように絡まり合った鉄条網の針の中を、義勇隊の自動車が抜剣の花を咲かせて辷っていった。すると、どこかに切り落されていた頭髪が、車体の巻き上る風のまにまにふわりふわりと道路の上を漂った。その道路では一人の子供が、アスファルトの上で微塵《みじん》に潰《つぶ》れている白い落花生《らっかせい》の粉を、這いつくばって舐《な》めていた。
 参木は泥溝《どろどぶ》に沿って歩いていった。彼はふとお杉のいる街の方を眺めてみた。もう彼は長い間お杉のことを忘れていたのに気がついたのだ。自分のために首を切られたお杉、自分を愛して自分に愛せられることを忘れたお杉、お杉はいったい、今自分がお杉のことをこうして考えている間、何を今頃はしているのだろう。――
 しかし、彼の断滅する感傷が、次第に泥溝の岸辺に従って凋《しぼ》んで来ると、忽ち、朝からまだひとむしりのパンも食べていない空腹が、お杉に代って襲って来た。彼は身体がことごとく重量を失ってしまって、透明になるのを感じた。骨のなくなった身体の中で前と後の風景がごちゃごちゃに入り交《まじ》った。彼は橋の上に立ち停るとぼんやり泥溝の水面を見降ろした。その下のどろどろした水面では、海から押し上げて来る緩慢な潮のために、並んだ小舟の舟端が擦《す》れ合ってはぎしぎし鳴りつつ揺れていた。その並んだ小舟の中には、もう誰も手をつけようともしない都会の排泄物が、いっぱいに詰りながら、星のうす青い光りの底で、波々と拡っては河と一緒に曲っていた。参木は此処を通るたびごとに、いつもこの河下の水面に突き刺さって、泥を銜《くわ》えたまま錆《さ》びついていた起重機の群れを思い浮べた。その起重機の下では、夜になると、平和な日には劉髪の少女が茉莉《まつり》の花を頭にさして、ランプのホヤを売っていた。密輸入の伝馬船《てんません》が真黒な帆を上げながら、並んだ倉庫の間から脱け出て来ると、魔のようにあたりいっぱいを暗くしてじりじり静に上っていった。
 参木はそれらの帆の密集した河口で、いつか傷ついた秋蘭を抱きかかえて、雨の中を病院まで走った夜のことを思い出した。あの秋蘭は今は何をしているだろう。
 そのとき、参木は河岸の街角から現れて来た二、三人の人影が、ちらちらもつれながら彼の方へ近づくのを感じた。すると、それらの人の塊りは、急に声をひそめて彼の背後で動きとまった。彼は険悪な空気の舞い上るのを沈めるように、後ろを振り向こうとしたがる自身を撫でながら、そのまま水面を眺めていた。しかし、いつまでたっても停った人の気配は動こうとしなかった。彼はひょいと軽く後を振り返った。すると、星明りであばたをぼかした数人の男の顔が、でこぼこしたまま、彼を取り巻いて立っていた。彼はまた欄干に肱をつくと、それらの男たちの群れに背を向けた。すると、二本の腕が静にそっと、まるで参木の力を験《ため》すがように、後から彼の脇腹へ廻って来た。彼の身体は欄干の上へ浮き上った。彼は湿った欄干の冷たさをひやりと腰に感じながら、ただ何もせず、じっと男の肩へ手をかけて周囲の顔を眺めていた。と、突然、停っていた人の塊りが、彼に向って殺到した。瞬間、彼は空が二つに裂け上るのを感じた。同時に、彼は逆さまに堅い風の断面の中へ落ち込んだ。――
 ふと、参木は停止した自分の身体が、木の一端をしっかり掴んでいるのに気がついた。――しかし、ここは――彼は足を延ばしてみると、それはさきまで見降ろしていた船の中であった。彼は周囲を見廻すと、排泄物の描いた柔軟なうす黄色い平面が首まで自分の身体を浸していた。彼は起き上ろうとした。しかし、さて起きて何をするのかと彼は考えた。生きて来た過去の重い空気の帯が、黒い斑点をぼつぼつ浮き上がらせて通りすぎた。彼はそのまま排泄物の上へ仰向きに倒れて眼を閉じると、頭が再び自由に動き出すのを感じ始めた。彼は自分の頭がどこまで動くのか、その動く後から追っ駈けた。すると、彼は自分の身体が、まるで自分の比重を計るかのようにすっぽりと排泄物の中に倒れているのに気がついて、にやりにやりと笑い出した。――
 しかし、自分はいつまでこうしているのであろう。――服の綿布がだんだん湿りを含んで緊《しま》って来た。参木は舟の中から橋の上を仰いでみた。すると、まだ支那人たちは橋の欄干からうす黒い顔を並べて彼の方を眺めていた。彼はまたじっとしたまま、彼らが橋の上から去るのを待っていなければならなかった。――ああ、しかし、船いっぱいに詰ったこの肥料の匂い――これは日本の故郷の匂いだ。故郷では母親は今頃は、緑青《ろくしょう》の吹いた眼鏡に糸を巻きつけて足袋《たび》の底でも縫ってるだろう。恐らく彼女は俺が、今ここのこの舟の中へ落っこっていることなんか、夢にも知るまい。――いや、それより秋蘭だ。ああ、あの秋蘭め、俺をここからひき摺《ず》り上げてくれ。俺はお前にもう一眼《ひとめ》逢わねばならぬ。俺はお前のいったマジソン会社へこれから行こう。しかし、俺は秋蘭に逢ってさて何をしようというのであろう、とまた彼は考えた。だが、彼は逢うたびに彼女にがみがみいった償いを一度この世でしたくてならぬのだ。
 しかし、ふとそのとき、参木は仰向きながら、秋蘭の唇が熱を含んだ夢のように、ねばねばしたまま押し冠《かぶ》さって来たのを感じた。すると、今まで忘れていた星が、真上の空で急に一段強く光り出した。彼は橋の上を見た。橋にはもう支那人の姿は見えなくて、ぼろぼろと歪《ゆが》んだ漆喰《しっくい》の欄干だけが、星の中に浮き上っていた。彼は船から這い上ると、泥の中に崩れ込んでいる粗《あら》い石垣を伝って道へ出た。彼はそこで、上衣とズボンを脱ぎ捨てて襯衣《シャツ》一枚になると、一番手近なお杉の家の方へ歩いていった。しかし、彼は今朝甲谷と別れるとき、お杉の家の所在を聞いたのは聞いたのだが、今頃お杉がまだたしかにそこにいるかどうかは明瞭に分らなかった。もしお杉がそこにいなければ、もう一度橋を渡って、何一つ食い物のない自分の家まで帰らなければならぬのだった。それなら、もう行く先きにお杉がいようといまいと、彼にはただ行くより他に道はなかった。
 彼は歩きながら、もう危険区劃を遠く過ぎて来ているのを感じると、しばらく忘れていた疲労と空腹とにますます激しく襲われ出した。彼はお杉のいる街の道路がだんだん家並みの壁にせばめられていくに従って、いつか前に、度々《たびたび》ここを通ったときに見た油のみなぎった豚や、家鴨《あひる》の肌が、ぎらぎらと眼に浮んで来つづけた。そのときここの道路では、いくつも連った露路の中に霧のようにいっぱいに籠って動かぬ塵埃《ほこり》の中で、ごほんごほんと肺病患者が咳をしていた。ワンタン売りの煤《すす》けたランプが、揺れながら壁の中を曲っていった。空は高く幾つも折れ曲っていく梯子《はしご》の骨や、深夜ひそかにそっと客のような顔をしながら自分の車に乗って楽しんでいた車夫や、でこぼこした石ころ道の、石の隙間に落ち込んでいた白魚や、錆ついた錠前ばかりぎっしり積み上った古金具店の横などでは、見るたびに剥《は》げ落ちていく青い壁の裾にうずくまって、いつも眼病人や阿片患者が並んだままへたばっていたものだ。
 参木はようやく甲谷に教えられたお杉の家を見つけると戸を叩いた。しかし、中からはいつまでたっても、戸を開けようとする物音さえしなかった。彼は大きな声で呼んでは支那人に聞かれる心配があったので、間断なく取手の鐶《かん》をこつこつと戸へあてた。すると、しばらくしてから、火を消した家の中の覗き口がかすかに開いた。
「僕は参木というものですが、この家にお杉さんという人がいませんか。」と参木はいった。
 忽ち、戸がぱったりと落ちると、潜《くぐ》り戸が開いて、中から匂いを立てた女が突然参木の手をとった。参木も黙って曳かれるままに戸をくぐると、顔も分らぬ女の後から、狭い梯子を手探りで昇っていった。彼はときどき軽く女の足で胸を蹴られたり、額を腰へ突きあてたりしながら、ようやく二階の畳の上へ出た。そこで、参木はこれはお杉にちがいないと思うと、初めていった。
「あなたはお杉さんか。」
「ええ。」
 低く女が答えると、参木は感動のまま、ねっとりと汗を含んで立っているお杉の肩や頬を撫でてみた。
「しばらくだね。僕はいま河へほうり込まれて這い上って来たばかりなんだが、何んでもいいから着物を一枚貸してほしいね。」
 すると、お杉はすぐ火も点《つ》けずに戸棚の中をがたがたと掻き廻していてから、また手探りのまま黙って浴衣《ゆかた》を一枚手渡した。
「君、火を点けてくれないか。こう暗くちゃどうしようもないじゃないか。」
 しかし、お杉は「ええ。」と小声で返事をしたまま、矢張りいつまでたっても電気を点けようともせず、彼から離れて立っていた。参木はお杉が火を点けようとしないのは、顔を見られる羞《はずか》しさのためであろうと思ったので、着物を着かえてしまうと、その場へぐったり倒れたまま黙っていた。
 しかし、あまりいつまで待ってもお杉が火を点けようとしないのを考えると、部屋の中には、今自分に見られては困るものが沢山あるのにちがいないと彼は思った。とにかく、あまりに自分の這入って来たのは突然なのだ。殊に、お杉は自分の所にいたときとは違って春婦である。いや、それとも、もしかしたらこの部屋の中には、自分以外の客が他に寝ているかもしれたものではないのである。
 参木はもう火のことでお杉を羞しがらせることは慎しみながら、多分そのあたりにいるであろうと思われる彼女の方に向っていった。
「君、何か食べるものはないだろうかね。僕は朝から何も食べていないんだが。」
「あら。」とお杉は低くいうと、そのまま何もいおうともしなければ動こうともしなかった。
「じゃ、無いんだな、あんたのとこも。」
「ええ、さきまであったんだけど、もうすっかりなくなってしまったの。」
 参木は今は全く力の脱けるのを感じた。これから朝まで何も食べずにすごさねばならぬと思うと、もう早《は》や頭の中では、今朝から見て来た空虚な空ばかりがぐるぐると舞い始めた。しかし、そのまま黙っていては、久し振りにお杉と逢った喜びも、彼女に伝えることさえ出来なくなるのだった。
「君とはほんとにしばらくだね。お杉さんのここにいるのは、実は今日初めて甲谷に聞いたんだが、僕んとことは近いじゃないか。どうしていままで報《しら》せなかったんだ。」
 すると、返事に代ってお杉の啜《すす》り上げる声がすぐ手近の畳の上から聞えて来た。参木は彼女がお柳の所を首になったいつかの夜、自分の前でそのように泣いたお杉の声を思い出した。――あのときは、あれはたしかに自分が悪かった。もしあのとき自分があのまま、お柳のするままにしておいたら、お杉はお柳の嫉妬には逢わずに首にならなくともすんだのだ。殊に今のような春婦にまでにはならなくとも。――
「あんたが出ていったあの夜《よ》は、僕はとにかく急がしくって家《うち》にいられなかったんだが、しかし、お杉さんが僕の所にあのままいてくれたって、ちっともさしつかえはなかったんだ。僕もあのとき、あんたにはそういって出たはずじゃなかったかね。」
 参木はふと、お杉がどうしてあのまま自分の所から出ていく気になんかなったのだろうかと、いまだに分らぬ節の多かったその日のお杉の家出について考えた。たとえその夜、甲谷がお杉を追い立てるようなことをしたとはいえ、それならそれで、お杉も売女《ばいじょ》にならずともすますことは出来たのではないか。しかし、そう思っても、お杉を売女にした責任は参木からは逃れなかった。――参木は久しく忘れていた鞭を、今頃この暗中で厳しくこんなに受け出したのを感じると、それなら、いっそのこと、このまま火を点けずにおいてくれるのは、むしろこっちのためだと思うのだった。
「あれから一度、お杉さんと街であったことがあったね。あのときは僕は君の後からしばらく車で追わしたんだが、あんたはそれを知ってるだろうね。」
「ええ。」
「そんならあのときもうあんたはここにいたんだな。」
「ええ。」
 しかし、参木は、そのとき激しく秋蘭のことで我を忘れ続けていた自分を思い出した。もしあの日秋蘭とさえ逢って来ていなければ、そのままお杉の後をどこまでもと自分は追い続けていたにちがいなかった。だが、何もかももう駄目だ。自分は今でもあの秋蘭めを愛している。自分はあ奴の主義にかぶれているんじゃない。俺はあ奴の眼が好きなんだ。あの眼は、いまに主義なんてものは捨てる眼だ。あの眼光は男を馬鹿にし続けて来た眼光だ。お杉の傍にいるこの喜びの最中に、まだ秋蘭のことを、いつとはなしにいきまき込んで頭の中へ忍び込ませている自分に気がつくと、彼は闇の中で、のびのびと果しもなく移動していく自由な思いの限界の、どこに制限を加えるべきかに迷い出した。確に、自分は今は秋蘭のことよりお杉のことを考えねばならないときだ。お杉は自分のためにお柳から食を奪われ、甲谷の毒牙にかかり、そうしてこのじめじめした露路の中へ落ち込んだのではないか。しかし、さてお杉のことを今考えて、彼女を自分はどうしようというのであろう。――彼はお杉を妻にしている自分を考えた。それは己惚《うぬぼれ》でなくとも必ずお杉を喜ばすことだけはたしかなことだ。彼はお杉が首になったその夜のお杉の、あの初心な美しさに心を乱された不安さを思い浮べた。それがその夜自分に変って、甲谷がお杉に爪をかけたと分ると同時に、忽ち自分はお杉を妻にせずしてすんだ自分の失われなかった自由さを喜んだのだ。それに、今自分が甲谷に変って、わざわざ自分のその失われなかった自由をお杉に奪われようと望むとは。――彼は自分のその感傷が空腹と疲労とに眼のくらんでいる結果だとは思ったが、しかしたしかに、泥を潜って来たお杉の身体を想像することによって、参木は前より一層なまめかしく、お杉を感じ始めて来るのだった。彼はいまこそ甲谷がお杉に手を延ばしたと同様に、自分もお杉に手を延ばすことの出来るときであった。しかもそれは、彼が一時ひそかに望んで達することの出来なかった快楽ではないか。俺はお杉の客のようになろう。――しかし、彼の心がばったりそのまま行き詰って、お杉の膝を急に探ろうとしかけると、また彼はお杉に触るといつも必ず起って来る良心に、ぴったり延び出る胸をとめられた。たしかにお杉を見て今急に客のようになることは、それはお杉をもはや泥だと思うことによって責任を廻避したがるおのれの心の、まるで滴るような下劣な願いにちがいない。
「お杉さん、僕は今夜は疲れているので、もうこのまま休ませて貰ったってかまわないかね。」と参木はいった。
「ええ、どうぞ。ここに床があるから、ここで休んでよ。夜が明けたらあたし食べ物を貰ってきとくわ。」
「有り難う。」
「電気も今夜は切られてしまっているので、真暗だけど、我慢をしてね。」
「うむ。」
 というと参木は手探りでお杉の声の方へ近よっていった。手の先が冷い畳の上からお杉の熱く盛り上った膝に触った。お杉は参木の身体を床の上へ導くと、彼に蒲団をかけながらいった。
「今頃街なんか歩いて、危いわね。どこにもお怪我はなかったの。」
「うむ、まア怪我はなかったが、君はどうだった?」
「あたしは家からなんか出ないわ。毎日いっぺん日本人から焚《た》き出しを貰って来るだけ。いつやまるのかしら、こんな騒動?」
「さア、いつになるかね。しかし、明日は日本の陸戦隊が上陸してくるから、もうこの騒動は続かないだろう。」
「ほんとに早くおさまるといいわ。あたし毎日、もう生きている気がしないのよ。」
 参木は自分の身体からお杉の手の遠のいていくのを感じると、お杉はどこで寝るのであろうと思っていった。
「お杉さんは寝るところはあるのかね。」
「ええ、いいのよ。あたしは。」
「寝るところがないなら、ここへお出《い》でよ。僕はかまわないんだから。」
「いいえ、そうしていて。あたし眠くなれば眠るからいいわ。」
「そうか。」
 参木はお杉が習い覚えた春婦の習慣を、自分に押し隠そうと努めているのを見ると、それに対して、客のようになり下ろうとした自分の心のいまわしさにだんだんと胸が冷めて来るのであった。しかし、あんなにも自分を愛してくれたお杉、その結果がこんなにも深く泥の中へ落ち込んでしまったお杉、そのお杉に暗がりの中で今逢って、ひと思いに強く抱きかかえてやることも出来ぬということは、何んという良心のいたずらであろう。前にはお杉を、もしや春婦に落すようなことがあってはならぬと思って抱くこともひかえていたのに、それに今度は、お杉が春婦になってしまっていることのために、抱きかかえてやることも出来ぬとは。――
「お杉さん、マッチはないか。一遍お杉さんの顔が見たいものだね。良かろう。」
「いや。」とお杉はいった。
「しかし、長い間別れていたんじゃないか。こんなに顔も見ずに暗がりの中で饒舌《しゃべ》っていたんじゃ、まるで幽霊と話しているみたいで気味が悪いよ。」
「だって、あたし、こんなになってしまっているとこ、あなたに今頃見られるのいやだわ。」
 参木は暗中からきびしく胸の締って来るのを感じた。
「いいじゃないか、あんたと別れた夜は、あれは僕も銀行を首になるし、君もお柳のとこを切られた日だったが、男はともかく女は首になっちゃ、どうしようもないからね。」
 二人はしばらく黙ってしまった。
「あなたお柳さんにお逢いになって。」とお杉は訊ねた。
「いや、逢わない。あの夜あんたのことで喧嘩してから一度もだ。」
「そう。あの夜はお神さん、それやあたしにひどいことをいったのよ。」
「どんなことだ?」
「いやだわ、あんなこと。」
 嫉妬にのぼせたお柳のことなら、定《さだ》めて口にもいえないことをいったのにちがいあるまい。あのときは、風呂場へマッサージに来たお柳をつかまえて、戯れにお杉を愛していることを、自分はほのめかしてやったのだった。すると、お柳はお杉を引き摺り出して来て自分の足もとへぶつけたのだ。それから、自分はお杉に代ってお柳に詫びた。すると、ますますお柳は怒ってお杉の首を切ったのだ。ああ、しかし総てがみんな戯れからだと参木は思った。それに自分はお杉のことを忘れてしまって、いつの間にかことごとく秋蘭に心を奪われてしまっていたのである。しかし、今は彼は、だんだんお杉が身内の中で前のように暖まって来るのを感じると、心も自然に軽く踊って来るのだった。
「お杉さん、もう僕は眠ってしまうよ。今日は疲れてもうものもいえないからね。その代り、明日からこのまま居候をさせて貰うかもしれないが、いいかねあんたは?」
「ええ、お好きなまでここにいてよ。その代り、汚いことは汚いわ。明日になって明るくなればみんな分ることだけど。」
「汚いのは僕はちっともかまわないんだが、もうここから動くのは、だんだんいやになって来た。迷惑なら迷惑だと今の中にいってくれたまえ。」
「いいえ、あたしはちっともかまわないわ。だけど、ここは参木さんなんか、いらっしゃるところじゃないのよ。」
 参木は自分のお杉にいったことが、すぐそのまま明日から事実になるものとは思わなかった。だが、事実になればなったで、もうそれもかまわないと思うと、彼はいった。
「しかし、一人いるより、今頃こんな露路みたいな中じゃ、二人でいる方が気丈夫だろう。それとも、お杉さんが僕の家へ来ているか、どっちにしたってかまわないぜ。」
 すると彼女は黙ったまま、またしくしく暗がりの中で泣き始めた。参木はお杉がお柳の家で初めてそのように泣いたときも、いま自分がいったと同様な言葉をいってお杉を慰めたのを思い出した。しかも、自分の言葉を信じていくたびに、お杉はだんだん不幸に落ち込んでいったのだ。
 しかし、彼がお杉を救う手段としては、あのときも、その言葉以外にはないのであった。生活の出来なくなった女を生活の出来るまで家においてやることが悪いのなら、それなら自分は何を為《な》すべきであったのか。ただ一つ自分の悪かったのは、お杉を抱きかかえてやらなかったことだけだ。だが、それはたしかに、悪事のうちでも一番悪事にちがいなかった。
 それにしても、まアお杉を抱くようになるまでには、自分はどれだけ沢山なことを考えたであろう。しかも、それら数々の考えは、ことごとく、どうすればお杉を、まだこれ以上|虐《いじ》め続けていかれるであろうかと考えていたのと、どこ一つ違ったところはないのであった。
「お杉さん、こちらへ来なさい。あんたはもう何も考えちゃ駄目だ。考えずにここへ来なさい。」
 参木はお杉の方へ手を延ばした。すると、お杉の身体は、ぽってりと重々しく彼の両手の上へ倒れて来た。しかし、それと同時に、水色の皮襖《ピーオ》を着た秋蘭が、早くも参木の腕の中でもう水々しくいっぱいに膨れて来た。

 お杉は喜びに満ち溢れた身体を、そっと延ばしてみたり縮めてみたりしながら、もう思い残すことも苦しみも、これですっかりしまいになったと思った。明日までは、もう眠るまい。眠るといつかの夜のように、――ああ、そうだ、あの夜はうっかり眠ってしまったために、闇の中で自分を奪ってしまったものが、参木か甲谷か、とうとうそれも分らずじまいに今日まで来たのだ。しかも、その夜はそれは最初の夜であった。あれから今日まで、あの夜の男はあれは参木か甲谷か、甲谷か参木かと、どれほど毎日毎夜考え続けて来たことだろう。しかし、今夜は――今夜もあの夜のように部屋の中は真暗で、参木の顔さえまだ見ないことまでも同様だが、しかし、今夜の参木だけは、これはたしかに本当の参木にちがいない。でも、あの夜の参木が、もしあれが本当の参木なら、今夜のこの参木とは何と違っているのであろう。
 お杉は眠っている参木の身体のここかしこを、まるで処女のように恐々《こわごわ》指頭《ゆびさき》で圧えていきながら、ああ、明日になって早く参木の顔をひと眼でも見たいものだと思った。すると、お柳の浴場の片隅から、いつも自分がうっとりと見ていた日の、参木のいろいろな顔や肩が浮んで来た。しかし、間もなくそれらの参木の白々とした冷たい顔も、忽ち夜ごと夜ごとに自分の部屋へ金を落していく客たちの、長い舌や、油でべったりひっついた髪や、堅い爪や、胸に咬《か》みつく歯や、ざらざらした鮫肌《さめはだ》や、阿片の匂いのした寒い鼻息などの波の中でちらちらと浮き始めると、彼女は寝返り打って、ふっと思わず歎息した。しかし、もし明日になって参木が部屋の中でも見廻したら、何と彼は思うであろう。南の窓の下の机の上には、蘇州の商人の置いていった杭州人形や、水銀剤や、枯れ凋んだサフランや、西蔵《チベット》産の蛇酒の空瓶が並んでいるし、壁には優男《やさおとこ》の役者の黄金台の画が貼ってあるし、いや、それより、何より参木の着ているこの蒲団は、もう男たちの首垢で今はぎらぎら光っているのだった。しかも、敷布はもう洗濯もせず長い間そのままだ。――
 お杉は蒲団の中からそっと脱け出すと、手探りながら杭州人形と蛇酒と水銀剤とを押入の中へ押し込んだ。それから、抽出《ひきだし》から香水を取り出して蒲団の襟首へ振り撒《ま》くと、また静に参木の胸へ額をつけて円くなった。しかし、もうこんなにしていられることは、恐らく今夜ひと夜が最後になるにちがいない。すると、お杉は、この恐ろしい街の騒動が一日も長く続いてくれるようにと念じないではいられなかった。明日になって、日本の陸戦隊が上陸して来れば、いつもの暴徒のように街はまた平音《へいおん》無事になることだろう。そうすれば参木もここから出ていって、もう再びとはこんな所へ来ないであろう。――お杉は参木の匂いを嗅ぎ溜めておくように大きく息を吸い込むと、ふと、お柳の家を首になった夜の出来事を思い出した。そのときは、お柳は何《な》ぜとも分らずいきなり自分の襟首を引き摺っていって、湯気を立てて横わっている参木の胴の上へ投げつけたのだ。自分はそのまま浴場に倒れて泣き続けていると、またお柳は自分を引き摺りながら、出ていった参木の後から追っかけて、もう一度彼の上へ突き飛ばした。しかし、その参木が、ああ、今は自分のここにいるのだ、ここに。――あのときから今までに、自分は幾度この参木のことを思い続けたことだろう。ああ、だけど、今参木はここにいるのだ。――自分はあの夜、参木の家へ泣きながらとぼとぼいって、誰もいない火の消えた二階をいつまでぼんやりと眺めていたことであろう。それにようやく参木が帰って来たと思ったら、それは参木ではなくって甲谷であった。
 お杉は参木があの夜限り帰らずに、自分を残して家を出ていってしまった日の、ひとりぼんやりと泥溝《どぶ》の水面ばかり眺め暮していた侘しさを思い出した。そのときは、あの霧の下の泥溝の水面には、模様のように絶えず油が浮んでいて、落ちかかった漆喰《しっくい》の横腹に生えていた青みどろが、静に水面の油を舐《な》めていた。その傍では、黄色な雛《ひな》の死骸が、菜っ葉や、靴下や、マンゴの皮や、藁屑《わらくず》と一緒に首を寄せながら、底からぶくぶく噴き上って来る真黒な泡を集めては、一つの小さな島を泥溝の中央に築いていた。――お杉はその島を眺めながら、二日も三日もただじっと参木の帰って来るのを待っていたのだ。――しかし、明日から、もし陸戦隊が上陸して来て街が鎮まれば、またあの日のように、自分はここでぼんやりとし続けていなければならぬのだろう。そのときには、ああ、またあのざらざらした鮫肌《さめはだ》や、くさい大蒜《にんにく》の匂いのした舌や、べったり髪にくっついた油や、長い爪や、咬みつく尖った乱杭歯《らんぐいば》やが――と思うと、もう彼女はあきらめきった病人のように、のびのびとなってしまって天井に拡《ひろが》っている暗《やみ》の中をいつまでも眺めていた。
    
付録
 序〔初版〕

 この作の最初の部分は昭和三年十月に改造に出し、それから順次同雑誌へ発表を続け、最後も昭和六年十月に改造へ出した。全篇を纏《まと》めるにあたって、突然|上海事変《シャンハイじへん》が起って来たので題名には困ったが、上海という題は前から山本氏との約束もあり、どうしたものか自然に人々もそのように呼び、またその題以外に素材と一致したものが見当らないので、そのまま上海とすることにした。この作の風景の中に出て来る事件は、近代の東洋史のうちでヨーロッパと東洋の最初の新しい戦いである五三十事件であるが、外国関係を中心としたこののっぴきならぬ大渦を深く描くということは、描くこと自体の困難の他に、発表するそのことが困難である。私は出来得る限り歴史的事実に忠実に近づいたつもりではあるが、近づけば近づくほど反対に、筆は概観を書く以外に許されない不便を感じないわけにはいかなかった。したがって個有名詞は私一個人で変更し、読者の想像力に任す不愉快な方法さえ随所でとった。
 五三十事件は大正十四年五月三十日に上海を中心として起った。中国では毎年この日を民族の紀念日としてメーデー以上の騒ぎをするが、昭和七年の日支事変の遠因もここから端《たん》を発している部分が多い。
 私はこの作を書こうとした動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというよりも、むしろ自分の住む惨めな東洋を一度知ってみたいと思う子供っぽい気持ちから筆をとった。しかし、知識ある人々の中で、この五三十事件という重大な事件に興味を持っている人々が少いばかりか、知っている人々もほとんどないのを知ると、一度はこの事件の性質だけは知っておいて貰わねばならぬと、つい忘れていた青年時代の熱情さえ出て来るのである。

昭和七年六月

横光利一

底本:「上海」岩波文庫、岩波書店
   1996(平成8)年1月9日第1刷発行
   2008(平成20)年2月15日改版第1刷発行
   2008(平成20)年5月15日第3刷発行
底本の親本:「上海」書物展望社
   1935(昭和10)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:野口英司
校正:門田裕志、小林繁雄
2011年5月1日作成
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横光利一

笑われた子—– 横光利一

 吉をどのような人間に仕立てるかということについて、吉の家では晩餐《ばんさん》後毎夜のように論議せられた。またその話が始った。吉は牛にやる雑炊《ぞうすい》を煮《た》きながら、ひとり柴の切れ目からぶくぶく出る泡を面白そうに眺めていた。
「やはり吉を大阪へやる方が好い。十五年も辛抱《しんぼう》したなら、暖簾《のれん》が分けてもらえるし、そうすりゃあそこだから直ぐに金も儲《もう》かるし。」
 そう父親がいうのに母親はこう言った。
「大阪は水が悪いというから駄目駄目。幾らお金を儲けても、早く死んだら何もならない。」
「百姓をさせば好い、百姓を。」
 と兄は言った。
「吉は手工《しゅこう》が甲だから信楽《しがらき》へお茶碗造りにやるといいのよ。あの職人さんほどいいお金儲けをする人はないっていうし。」
 そう口を入れたのはませた[#「ませた」に傍点]姉である。
「そうだ、それも好いな。」
 と父親は言った。
 母親だけはいつまでも黙っていた。
 吉は流しの暗い棚の上に光っている硝子《ガラス》の酒瓶《さかびん》が眼につくと、庭へ降りていった。そして瓶の口へ自分の口をつけて、仰向《あおむ》いて立っていると、間もなくひと流れの酒の滴《しずく》が舌の上で拡《ひろ》がった。吉は口を鳴らしてもう一度同じことをやってみた。今度は駄目だった。で、瓶の口へ鼻をつけた。
「またッ。」と母親は吉を睨《にら》んだ。
 吉は「へへへ。」と笑って袖口《そでぐち》で鼻と口とを撫《な》でた。
「吉を酒《さか》やの小僧にやると好いわ。」
 姉がそういうと、父と兄は大きな声で笑った。
 その夜である。吉は真暗な涯《はてし》のない野の中で、口が耳まで裂けた大きな顔に笑われた。その顔は何処《どこ》か正月に見た獅子舞《ししま》いの獅子の顔に似ているところもあったが、吉を見て笑う時の頬《ほお》の肉や殊に鼻のふくらはぎ[#「ふくらはぎ」に傍点]までが、人間《ひと》のようにびくびくと動いていた。吉は必死に逃げようとするのに足がどちらへでも折れ曲がって、ただ汗が流れるばかりで結局身体はもとの道の上から動いていなかった。けれどもその大きな顔は、だんだん吉の方へ近よって来るのは来るが、さて吉をどうしようともせず、何時《いつ》までたってもただにやりにやりと笑っていた。何を笑っているのか吉にも分からなかった。がとにかく彼を馬鹿にしたような笑顔《えがお》であった。
 翌朝、蒲団《ふとん》の上に坐って薄暗い壁を見詰《みつ》めていた吉は、昨夜夢の中で逃げようとして藻掻《もが》いたときの汗を、まだかいていた。
 その日、吉は学校で三度教師に叱られた。
 最初は算術の時間で、仮分数を帯分数に直した分子の数を訊《き》かれた時に黙っていると、
「そうれ見よ。お前はさっきから窓ばかり眺めていたのだ。」と教師に睨《にら》まれた。
 二度目の時は習字の時間である。その時の吉の草紙《そうし》の上には、字が一字も見あたらないで、宮の前の高麗狗《こまいぬ》の顔にも似ていれば、また人間の顔にも似つかわしい三つの顔が書いてあった。そのどの顔も、笑いを浮かばせようと骨折った大きな口の曲線が、幾度も書き直されてあるために、真っ黒くなっていた。
 三度目の時は学校の退《ひ》けるときで、皆の学童が包を仕上げて礼をしてから出ようとすると、教師は吉を呼び止めた。そして、もう一度礼をし直せと叱った。
 家へ走り帰ると直ぐ吉は、鏡台の抽出《ひきだし》から油紙に包んだ剃刀《かみそり》を取り出して人目につかない小屋の中でそれを研《と》いだ。研ぎ終ると軒へ廻って、積み上げてある割木を眺めていた。それからまた庭に這入《はい》って、餅搗《もちつ》き用の杵《きね》を撫でてみた。が、またぶらぶら流し元まで戻って来ると俎《まないた》を裏返してみたが急に彼は井戸傍《いどばた》の跳《は》ね釣瓶《つるべ》の下へ駆《か》け出《だ》した。
「これは甘《うま》いぞ、甘いぞ。」
 そういいながら吉は釣瓶の尻の重りに縛《しば》り付《つ》けられた欅《けやき》の丸太《まるた》を取りはずして、その代わり石を縛り付けた。
 暫《しばら》くして吉は、その丸太を三、四|寸《すん》も厚味のある幅広い長方形のものにしてから、それと一緒に鉛筆と剃刀とを持って屋根裏へ昇っていった。
 次の日もまたその次の日も、そしてそれからずっと吉は毎日同じことをした。
 ひと月もたつと四月が来て、吉は学校を卒業した。
 しかし、少し顔色の青くなった彼は、まだ剃刀を研いでは屋根裏へ通い続けた。そしてその間も時々家の者らは晩飯《ばんめし》の後の話のついでに吉の職業を選び合った。が、話は一向にまとまらなかった。
 或日《あるひ》、昼餉《ひるげ》を終えると親は顎《あご》を撫でながら剃刀を取り出した。吉は湯を呑んでいた。
「誰だ、この剃刀をぼろぼろにしたのは。」
 父親は剃刀の刃《は》をすかして見てから、紙の端《はし》を二つに折って切ってみた。が、少し引っかかった。父の顔は嶮《けわ》しくなった。
「誰だ、この剃刀をぼろぼろにしたのは。」
 父は片袖《かたそで》をまくって腕を舐《な》めると剃刀をそこへあててみて、
「いかん。」といった。
 吉は飲みかけた湯を暫く口へ溜めて黙っていた。
「吉がこの間研いでいましたよ。」と姉は言った。
「吉、お前どうした。」
 やはり吉は黙って湯をごくりと咽喉《のど》へ落し込んだ。
「うむ、どうした?」
 吉が何時《いつ》までも黙っていると、
「ははア分った。吉は屋根裏へばかり上っていたから、何かしていたに定《きま》ってる。」
 と姉は言って庭へ降りた。
「いやだい。」と吉は鋭く叫んだ。
「いよいよ怪しい。」
 姉は梁《はり》の端に吊《つ》り下《さが》っている梯子を昇りかけた。すると吉は跣足《はだし》のまま庭へ飛び降りて梯子を下から揺《ゆ》すぶり出した。
「恐《こわ》いよう、これ、吉ってば。」
 肩を縮めている姉はちょっと黙ると、口をとがらせて唾を吐きかける真似をした。
「吉ッ!」と父親は叱った。
 暫くして屋根裏の奥の方で、
「まアこんな処に仮面《めん》が作《こしら》えてあるわ。」
 という姉の声がした。
 吉は姉が仮面を持って降りて来るのを待ち構えていて飛びかかった。姉は吉を突《つ》き除《の》けて素早く仮面を父に渡した。父はそれを高く捧《ささ》げるようにして暫く黙って眺めていたが、
「こりゃ好く出来とるな。」
 またちょっと黙って、
「うむ、こりゃ好く出来とる。」
 といってから頭を左へ傾け変えた。
 仮面は父親を見下して馬鹿にしたような顔でにやりと笑っていた。
 その夜、納戸《なんど》で父親と母親とは寝ながら相談した。
「吉を下駄屋《げたや》にさそう。」
 最初にそう父親が言い出した。母親はただ黙ってきいていた。
「道路に向いた小屋の壁をとって、そこで店を出さそう、それに村には下駄屋が一軒もないし。」
 ここまで父親が言うと、今まで心配そうに黙っていた母親は、
「それが好い。あの子は身体が弱いから遠くへやりたくない。」といった。
 間もなく吉は下駄屋になった。
 吉の作った仮面は、その後、彼の店の鴨居《かもい》の上で絶えず笑っていた。無論何を笑っているのか誰も知らなかった。
 吉は二十五年仮面の下で下駄をいじり続けて貧乏した。無論、父も母も亡くなっていた。
 或る日、吉は久しぶりでその仮面を仰《あお》いで見た。すると仮面は、鴨居の上から馬鹿にしたような顔をしてにやりと笑った。吉は腹が立った。次に悲しくなった。が、また腹が立って来た。
「貴様のお蔭《かげ》で俺《おれ》は下駄屋になったのだ!」
 吉は仮面を引きずり降ろすと、鉈《なた》を振るってその場で仮面を二つに割った。暫くして、彼は持ち馴れた下駄の台木《だいぎ》を眺めるように、割れた仮面を手にとって眺めていた。が、ふと何んだかそれで立派な下駄が出来そうな気がして来た。すると間もなく、吉の顔はもとのように満足そうにぼんやりと柔《やわら》ぎだした。

底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
   1997(平成9)年5月15日第23刷発行
入力:大野晋
校正:伊藤祥
1999年7月9日公開
2003年10月20日修正
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横光利一

純粋小説論—– 横光利一

 もし文芸復興というべきことがあるものなら、純文学にして通俗小説、このこと以外に、文芸復興は絶対に有り得ない、と今も私は思っている。私がこのように書けば、文学について錬達《れんたつ》の人であるなら、もうこの上私の何事の附加なくとも、直ちに通じる筈《はず》の言葉である。しかし、私はこの言葉の誤解を少くするために、少し書いてみようと思う。
 今の文壇の中から、真の純粋小説がもし起り得るとするなら、それは通俗小説の中から現れるであろうと、このように書いた達識の眼光を持っていた人物は、河上徹太郎氏である。次に通俗小説と純文芸とを何故に分けたのか、別《わ》けたのが間違いだと云った大通《だいつう》は、幸田露伴氏である。次に、もし日本の代表作家を誰か一人あげよと外人から迫られたら、自分は菊池寛をあげると云った高邁《こうまい》な批評家は、小林秀雄氏である。今日の行き詰った純文学に於て以上のような名言が文学に何の影響も与えずに、素通りして来たのは、どうした理由であろうかと、もう一度考え直してみなければ、純文学は衰滅するより最早やいかんともなし難いとこのように思った私は、この正月の五日の読売新聞へ、純文学にして通俗小説の一文を書いた。私の文章は、以上の人々の尻馬《しりうま》に乗ったまでで、何ら独創的な見解があったわけではない。しかし、今は、達識の文学者の中では、私の云ったような言葉は定説とさえなっているのであるが、言葉の意味は、さまざまな誤解をまねいたようであった。
 今の文学の種類には、純文学と、芸術文学と、純粋小説と大衆文学と、通俗小説と、およそ五つの概念が巴《ともえ》となって乱れているが、最も高級な文学は、純文学でもなければ、芸術文学でもない。それは純粋小説である。しかし、日本の文壇には、その一番高級な純粋小説というものは、諸家の言のごとく、殆《ほとん》ど一つも現れていないと思う。純粋小説の一つも現れていない純文学や芸術文学が、いかに盛んになろうと、衰滅しようと、実はどうでも良いのであって、激しく云うなら、純粋小説が現れないような純文学や芸術文学なら、むしろ滅んでしまう方が良いであろうと云われても、何とも返答に困る方が、真実のことである。
 それなら、いったい純粋小説とはいかなるものかということになるのだが、この難しい問題の前には、通俗小説と純文学の相違を、出来る限り明瞭《めいりょう》にしなければならぬ関所がある。人々は、この最初の関所で間誤間誤《まごまご》してしまって、ここ以上には通ろうとしないのが、現状であるが、それでは一層ややこしくなる純粋小説の説明など、手のつけようがなくなって、誰もそのまま捨ててしまい、今は手放しの形であるのは尤《もっと》もといわねばならぬ。しかし、考えてみれば、純文学の衰弱は、何と云っても純粋小説の現れないということにあるのであるから、文壇全体の眼が、純粋小説に向って開かれたら、恐らく急流のごとき勢いで純文学が発展し、真の文芸復興もそのとき初めて、完成されるにちがいないと、このように思った私は、危険とは知りつつ、その手段として、純文学にして通俗小説の意見を数行書いてみたのである。

 いったい純文学と通俗小説との相違については、今までさまざまな人が考えたが、結局のところ、意見は二つである。純文学とは偶然を廃すること、今一つは、純文学とは通俗小説のように感傷性のないこと、とこれ以外に私はまだ見ていない。しかし、偶然とは何か、感傷とは何か、となると、その言葉の内容は簡単に説明されるものではなく、従ってその説明も、私はまだ一つも見たことも聞いたこともないのであるが、しかし、事がこの最初で面倒になると、必ず、そんなことは勘《かん》で分るではないかと人々はいう。少し難しい言葉を使う人は、偶然のことを、一時性といい、偶然の反対の必然性のことを、日常性といっているが、感傷となると、これこそ勘で分らなければ、分り難い。先《ま》ずあるなら、一般妥当と認められる理智《りち》の批判に耐え得られぬもの、とでも解するより今のところ仕方もない。
 
 私はこのような概念の詮索《せんさく》から始めるのは、面倒なので、通俗小説と純文学とを一つにしたもの、このものこそ今後の文学だと云ったのであるが、誤解を招いた責任は、私も持たねばならぬ。けれども、私の犯したこの冒険をせずして、純文学の概念に移ることは、容易ならぬ事業である。私はこの概念を明瞭にするためにここに罪と罰を引こう。ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小説には、通俗小説の概念の根柢《こんてい》をなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。思わぬ人物がその小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うときあつらえ向きに、ひょっこり現れ、しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理智の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えた現れ方をして、われわれ読者を喜ばす。先ずどこから云っても、通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを多分に含んでいる。そうであるにもかかわらず、これこそ純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云わるべき優れた作品であると、何人《なんぴと》にも思わせるのである。また同じ作者の悪霊にしてもそうであり、トルストイの戦争と平和にしても、スタンダール、バルザック、これらの大作家の作品にも、偶然性がなかなかに多い。それなら、これらはみな通俗小説ではないかと云えば、実はその通り私は通俗小説だと思う。しかし、それが単に通俗小説であるばかりではなく、純文学にして、しかも純粋小説であるという定評のある原因は、それらの作品に一般妥当とされる理智の批判に耐え得て来た思想性と、それに適当したリアリティがあるからだ。
 私は通俗小説にして純文学が、作者にとって、一番困難なものだと読売で書いたが、ここに偶然性と感傷性との持つリアリティの何ものよりも難事な表現の問題が、横わっていると思う。純粋小説論の難儀さも、ここから最初に始って来るのだが、いったい純粋小説に於ける偶然(一時性もしくは特殊性)というものは、その小説の構造の大部分であるところの、日常性(必然性もしくは普遍性)の集中から、当然起って来るある特殊な運動の奇形部であるか、あるいは、その偶然の起る可能が、その偶然の起ったがために、一層それまでの日常性を強度にするかどちらかである。この二つの中の一つを脱《はず》れて偶然が作中に現れるなら、そこに現れた偶然はたちまち感傷に変化してしまう。このため、偶然の持つリアリティというものほど表現するに困難なものはない。しかも、日常生活に於ける感動というものは、この偶然に一番多くあるのである。ところが、わが国の純文学は、一番生活に感動を与える偶然を取り捨てたり、そこを避けたりして、生活に懐疑と倦怠《けんたい》と疲労と無力さとをばかり与える日常性をのみ撰択《せんたく》して、これこそリアリズムだと、レッテルを張り廻《めぐら》して来たのである。勿論《もちろん》私はこれらの日常性をのみ撰択することを、悪リアリズムだとは思わないが、自己身辺の日常経験のみを書きつらねることが、何よりの真実の表現だと、素朴実在論的な考えから撰択した日常性の表現ばかりを、リアリズムとして来たのであるから、まして作中の偶然などにぶつかると、たちまちこれを通俗小説と呼ぶがごとき、感傷性さえ持つにいたったのである。けれども、これが通俗小説となると、日常性も偶然性もあったものではない。そのときに最も好都合な事件を、矢庭《やにわ》に何らの理由も必然性もなくくっつけ、変化と色彩とで読者を釣り歩いて行く感傷を用いるのであるが、しかし、何といっても、ここには自己身辺の経験事実をのみ書きつらねることはなく、いかに安手であろうと、創造がある。事、創造である限り、自己身辺の記事より高度だと、云えば云える議論の出る可能性があるのみならず、何より強みの生活の感動があるのだから、通俗小説に圧倒せられた純文学の衰亡は必然的なことだと思う。純文学の作家にして、心あるものなら、これを復興させようと努力することは、何の不思議もないのであるが、それを自身の足場の薄弱さを立て直そうともせずに、大衆文学通俗文学の撲滅《ぼくめつ》を叫んだとて、何事にもなり得ない。そこで最も文芸復興の手段として、私は純粋小説論の一端を書いたのだが、文学に於ける能動精神も、浪曼主義《ろうまんしゅぎ》も、ここから、発足しなければ、いったいいかなる能動主義の立場をとり、浪曼主義の立場を取ろうとするのか、足場がぐらぐらしていては、恐らくどのような文学主張も、水泡に帰するにちがいあるまい。しかし、文学作品を一層高度のものたらしめ、文芸復興の足場を造るためには、最早や純文学では無力であるから、これを純粋小説たらしめる努力をしなければならぬとなると、またさらに第二の難関が生じて来る。それは短篇小説《たんぺんしょうせつ》では、純粋小説は書けぬということだ。先《ま》ず一例を上げて、通俗小説の持つ何よりの武器たるところの、感動の根源をなす偶然と感傷とについて云うなら、この偶然と感傷とに、純粋小説としての高度の必然性を与えるためにさえ、中島健蔵氏の云われる表現と生活との間に潜んだ例の多くの、「深淵《しんえん》」を渡らねばならぬ。しかも、その深淵は、ただに表現と生活との中間のみの深淵とは限らず、生活に於ける人間の深淵と、それを表現した場合に於ける深淵と、三重に複合して来るのであってみれば、小量の短篇では、よほどの大天才といえども、純粋小説を書くということは不可能なことになって来る。なおその上に、純粋小説としての思想の肉化を企てねば、高貴な現代文学が望めないとするなら、なおさら、百枚や二百枚の短篇ではどうするわけにもいかない。
 しかし、ここで、一度小説というものの、生い立ちを考えて見るべき用が起って来る。私は純粋小説は、今までの純文学の作品を高めることではなく、今までの通俗小説を高めたものだと思う方が強いのであるが、しかし、それも一概にそのようには云い切れないところがあるので、純文学にして通俗小説というような、一番に誤解される代りに、聡明《そうめい》な人には直ちに理解せられる云い方をしてみたのだけれども、それはさておき、近代小説の生成というものは、その昔、物語を書こうとした意志と、日記を書きつけようとした意志とが、別々に成長して来て、裁判の方法がつかなくなったところへもって、物語を書くことこそ文学だとして来て迷わなかった創造的な精神が、通俗小説となって発展し、その反対の日記を書く随筆趣味が、純文学となって、自己身辺の事実のみまめまめしく書きつけ、これこそ物語にうつつをぬかすがごとき野鄙《やひ》な文学ではないと高くとまり、最も肝要な可能の世界の創造ということを忘れてしまって、文体まで日記随筆の文体のみを、われわれに残してくれたのである。ここに、若い純文学者の心的革命が当然起らずにはいられぬ原因がひそんでいて、純文学の正統は日記文学か、それとも通俗小説か、そのどちらかという疑問が起って来た。リアリズムと浪曼主義の問題の根柢《こんてい》も、実はここにあって、私などは初めから浪曼主義の立場を守り小説は可能の世界の創造でなければ、純粋小説とはなり得ないと思う方であるのだが、しかし、純文学が、物語を書こうとするこの通俗小説の精神を失わずに、一方日記文学の文体や精神をとり入れようとしているうちに、いつの間にか、その健康な小説の精神は徐々として、事実の報告のみにリアリティを見出すという錯覚に落ち込んで来たのである。この病勢は、さながら季節の推移のように、根強く襲って来ていたために、物語を構成する小説本来の本格的なリアリズムの発展を、いちじるしく遅らせてしまった。そうして、文学者たちは、純文学の衰微がどこに原因していたかを探り始めて、最後に気附いたことは、通俗小説を軽蔑《けいべつ》して来た自身の低俗さに思いあたらねばならなくなったのであるが、そのときには、最早遅い。身中には自意識の過剰という、どうにも始末のつかぬ現代的特長の新しい自我の襲来を受けて、立ち上ることが不可能になっていた。このとき、文学を本道にひき上げる運動が、諸々方々から起って来たのは、理由なきことではあるまい。文芸復興は、まだこれからなのである。

 文芸を復興させねばならぬと説く主張をさまざま私は眺めて来たが、具体的な説はまだ見たことがなかった。文芸を復興させる精神の問題は、今ここで触れずに他日にゆずるが、本年に這入《はい》って旺《さか》んになった能動精神といい、浪曼主義というのも、云い出さねばおられぬ多くの原因の潜んでいることは、何人も認めねばなるまい。しかし、これらの主張も皆それらは純粋小説論の後から起るべき問題であって、今、純粋小説を等閑《なおざり》にして文学としての能動主義も浪曼主義も、意味をなさぬと思う。その理由は、前にも述べた現代的特長であるところの、智識階級の自意識過剰の問題が横《よこたわ》っているからであるが、いったい、浪曼主義と云い、能動主義を云う人々で、一番に解決困難な自意識の問題を取り扱った人々を、かつて私は見たことがない。この難問に何らかの態度を決めずに、どのような浪曼主義や、能動主義を主張しようとするのであろうか、疑問は誰にも残らざるを得ないのだ。一例を云えば、ここ三四年来|捲《ま》き起って来ていた心理の問題にしても、道徳の問題にしても、理智の問題にしても、すべてが智識階級最後の、しかも一番重要な問題ばかりであったのだが、浪曼主義も能動主義も、これらの問題から切り放れて、簡単に進行出来るものなら、それらは茶番にすぎまい。恐らく、今後いくらかの時間をへて必ず起って来るにちがいない真の浪曼主義や能動主義の文学は、心理主義の中から起って来るか、真理主義としての実証主義の中からか、個人道徳の追求の中から起って来るか、理知主義の中から起って来るか、どちらかにちがいあるまいと思うが、それがそうではなくて、ただどうしようもない感傷主義の中から、起って来たかのように見誤られる浪曼主義や、能動主義なら、むしろ消えるがために泡立ち上った前ぶれと見られても、仕方がないのである。わが国に現れた文学運動の最初は、いつもそのような運命に出逢《であ》っているのだ。多分、今現れている能動主義も、今後起って来る浪曼主義の運動の中へ、一つに溶け込む運命的な剰余を当然持っていると見られるが、その浪曼主義にしてからが、法則主義への適合と、法則への反抗との、二つに分裂している状態であってみれば、いずれも実証主義への介意から出発した挙動と見ても、さし閊《つか》えはないであろう。けれども、それはともかく、浪漫主義《ろうまんしゅぎ》である以上は、何らかの意味に於ける旧リアリズムへの反抗であり、新しいリアリズムの創造であるべき筈《はず》だ。メルヘン的な青い花の開花は、逃げ口上の諦念主義《ていねんしゅぎ》と変化しても、悪政治の強力なときとしては致し方もあるまいが、しかし、いずれも新しいリアリズムの創造であるからは、法則に反抗した実証主義としての新しい浪曼主義がシェストフの思想となって流れて来た昨今の文壇面では、それと必然的に関聯《かんれん》する自意識の整理方法として必ずいまに起って来る新浪曼主義に転ぜずにはおられまい。能動主義も、作家が何かせずにはいられない衝動主義と見ても、我ら何をなすべきかを探索する精神であってみれば、知識階級を釘付《くぎづ》けにした道徳と理智との抗争問題の起点となるべき、自意識の整理に向わなければ、恐らく何事も今はなし得られるものでもない。純粋小説の問題はこのようなときに、それらの表現形式として、当然現れねばならぬ新しいリアリズムの問題である。今、諸々の文学機関に現れている通俗小説と純文学との問題は、すべて純粋小説論であることはさして不思議ではないのである。
 
 中島健蔵氏の通俗小説と純文学の説論、阿部知二氏の純文学の普及化問題、深田久弥氏の純文学の拡大論、川端康成氏の文壇改革論、広津和郎氏、久米正雄氏、木村毅氏、上司小剣氏、大佛次郎氏、等の通俗小説の高級化説、岡田三郎氏の二元論、豊田三郎氏の俗化論、これらはすべて、私の見たところでは、純粋小説論であるが、それらの人々は、すべて実際的な見地に立って、それぞれの立場から、純粋小説を書くために起る共通した利益にならぬ苦痛を取り除く主張であると見えても、さし閊《つか》えはないのである。それらは通俗小説を書けというのでは勿論《もちろん》ない。現代の日本文学を、少くとも第一流の世界小説に近づける高級化論であって、先《ま》ず通俗への合同低下の企劃《きかく》と思い間違える低俗との、戦いとなって現れて来たのである。そうして、今はこの問題の通過なくして、文芸復興のどこから着手すべきものか私は知らない。恐らく、この現れは困難多岐な道をとることと思うが、作家共通の苦痛を除くためには、是非とも緊急なことであって、それなればこそ異口同音の説が形を変えて湧《わ》き興って来たと見るべきで、私は新人として現れるものなら、主義流派はともかくも少くとも純粋小説をもって現れなければ意義がないと思うばかりでなく、旧人といえども、純粋小説に関心なくして、今後の成長打開の道はあるまいと思う。
 ここで少し私は自分の純粋小説論を簡単に書いてみたい。今までのべて来たところの事は、誰にでも通じることであったが、以下書くことは、現代小説を書こうと試みた人でなければ興味のない部分に触れると思う。――今までの日本の純文学に現れた小説というものは、作者が、おのれひとり物事を考えていると思って生活している小説である。少くとも、もしそれが作者でなければ、その作中に現れたある一人物ばかりが、自分こそ物事を考えていると人々に思わす小説であって、多くの人々がめいめい勝手に物事を考えているという世間の事実には、盲目同然であった。もしこのようなときに、眼に見えた世間の人物も、それぞれ自分同様に、勝手気儘《かってきまま》に思うだけは思って生活しているものだと分って来ると、突然、今までの純文学の行き方が、どんなに狭小なものであったかということに気づいて来るのである。もしそれに気がつけば、早や、日記文学の延長の日本的記述リアリズムでは、一人の人物の幾らかの心理と活動とには役には立とうが大部分の人間の役には立たなくなるのである。前にものべたように、人々が、めいめい勝手に物事を考えていることが事実であり、作中に現れた幾人かの人物も、同様に自分一人のようには物事を思うものでないと作者が気附いたとき、それなら、ただ一人よりいない作者は、いったいいかなるリアリズムを用いたら良いのであろうか。このとき、作者は、万難を切りぬけて、ともかく一応は幾人もの人間と顔を合せ、そうして、それらの人物の思うところをある関聯に於てとらえ、これを作者の思想と均衡させつつ、中心に向って集中して行かねばならぬ。このような小説構造の最因難な中で、一番作者に役立つものは、それは観察でもなければ、霊感でもなく、想像力でもない。スタイルという音符ばかりのものである。しかし、この音符を連ねる力は、ただ一つ作者の思想である。思想といっても、この思想を抽象的なものに考えたり、公式主義的な思考と考えるようなものには、アランの云ったように思想の何ものをも掴《つか》めないにちがいはないが、登場人物各人の尽《ことごと》くの思う内部を、一人の作者が尽く一人で掴むことなど不可能事であってみれば、何事か作者の企画に馳《は》せ参ずる人物の廻転面《かいてんめん》の集合が、作者の内部と相関関係を保って進行しなければならぬ。このときその進行過程が初めて思想というある時間になる。けれども、ここに、近代小説にとっては、ただそればかりでは赦《ゆる》されぬ面倒な怪物が、新しく発見せられて来たのである。その怪物は現実に於て、着々有力な事実となり、今までの心理を崩し、道徳《モラル》を崩し、理智を破り、感情を歪《ゆが》め、しかもそれらの混乱が新しい現実となって世間を動かして来た。それは自意識という不安な精神だ。この「自分を見る自分」という新しい存在物としての人称が生じてからは、すでに役に立たなくなった古いリアリズムでは、一層役に立たなくなって来たのは、云うまでもないことだが、不便はそれのみにはあらずして、この人々の内面を支配している強力な自意識の表現の場合に、幾らかでも真実に近づけてリアリティを与えようとするなら、作家はも早や、いかなる方法かで、自身の操作に適合した四人称の発明工夫をしない限り、表現の方法はないのである。もうこのようになれば、どんな風に藻掻《もが》こうと、短篇《たんぺん》では作家はただ死ぬばかりだ。純粋小説論の起って来たのは、すべてがこの不安に源を発していると思う。「すべて美しきものを」と浪曼主義者は云う。しかし、現代のように、一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなお且《か》つ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途《いちず》に頼んだ道徳や理智までが再び分解せられた今になって、何が美しきものであろうか。われわれの最大の美しい関心事は、人間活動の中の最も高い部分に位置する道徳と理智とを見脱《みのが》して、どこにも美しさを求めることが出来ぬ。「われら何をなすべきか」と能動主義者は云う。しかし、いかに分らぬとはいえ、近代個人の道徳と理智との探索を見捨てて、われら何をなすべきであるのか。けれども、ここに作家の楽しみが新しく生れて来たのである。それはわれわれには、四人称の設定の自由が赦されているということだ。純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ。まだ何人《なんぴと》も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ。新しい浪曼主義は、ここから出発しなければ、創造は不可能である。しかも、ただ単に創造に関する事ばかりではない。どんなに着実非情な実証主義者といえども、法則愛玩《ほうそくあいがん》の理由を、おのれの理智と道徳とのいずれからの愛玩とも決定を与えぬ限り、人としての眼も、個人としての自分の眼も、自分を見る自分の眼も、容赦なくふらつくのだ。私はこの眼のふらつかぬものを、まだそんなに見たことがない。いったい、われわれの眼は、理智と道徳の前まで来ると、何ぜふらつくのであろう。純粋小説の内容は、このふらつく眼の、どこを眼ざしてふらつくか、何が故にふらつくかを索《さぐ》ることだ。これが純粋小説の思想であり、そうして、最高の美しきものの創造である。も早やここに来れば、通俗小説とか、純文学とか、これらの馬鹿馬鹿しい有名無実の議論は、万事何事でもない。

 しかし、純粋小説に関して、なお細《こまか》い説明をつけようとすれば、ここにまた次の新しい技術の問題が現れて来なければならぬ。それは自然の中に現れる人物(人間)というものは、どこからどこまでが小説的人物であるかという、残しておいたまことに厄介な解釈である。純粋小説論は哲学とここの所で一致して進むべきものと思うが、しかし同時にここから、技術の問題として、袂《たもと》を分けて進まねばならぬ。私は話意を明瞭《めいりょう》にするために、前からのべて来たところをしばらく重複させねばならぬが、いったい、人間は存在しているだけでは人間ではない。それは行為をし、思考をする。このとき、人間にリアリティを与える最も強力なものは、人間の行為と思考の中間の何ものであろうかと思い煩う技術精神に、作者は決定を与えなければならぬ。しかも、一人の人間に於ける行為と思考との中間は、何物であろうか。この一番に重要な、一番に不明確な「場所」に、ある何ものかと混合して、人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼とが意識となって横《よこたわ》っている。そうして、行為と思考とは、様々なこれらの複眼的な意識に支配を受けて活動するが、このような介在物に、人間の行為と思考とが別《わか》たれて活動するものなら、外部にいる他人からは、一人の人間の活動の本態は分り得るものではない。それ故に、人は人間の行為を観察しただけでは、近代人の道徳も分明せず、思考を追求しただけでは、思考という理智《りち》と、行為の連結力も、洞察することは出来ないのである。そのうえに、一層難事なものがまたここにひかえている。それは思考の起る根元の先験ということだが、実証主義者は、今はこれを認めるものもないとすればそれなら、感情をもこめた一切の人間の日常性というこの思考と行為との中間を繋《つな》ぐところの、行為でもなく思考でもない聯態《れんたい》は、すべて偶然によって支配せられるものと見なければならぬ。しかし、それが偶然の支配ではなくて、必然性の支配であると思わなければ、人間活動として最も重要な、日常性について説明がつかぬばかりではない、日常性なるものさえがあり得ないと思わねばならぬのである。これは明らかに間違いである。
 こうなれば、作家が人間を書くとは、どんなことを云うのであろうか。純粋小説論の結論は、所詮《しょせん》ここへ来なければ落ちつかぬのである。しかし、人間を書き、それの活動にリアリティを与えねばならぬとなれば、いかなる作家といえども、この難渋困難な場合に触れずに、一行たりとも筆は動かぬ。すなわち、人間を書くということは、先《ま》ず人間のどこからどこまでを書くかという問題である。すでにのべたように、人間の外部に現れた行為だけでは、人間ではなく、内部の思考のみにても人間でないなら、その外部と内部との中間に、最も重心を置かねばならぬのは、これは作家必然の態度であろう。けれども、その中間の重心に、自意識という介在物があって、人間の外部と内部を引き裂いているかのごとき働きをなしつつ、恰《あたか》も人間の活動をしてそれが全く偶然的に、突発的に起って来るかのごとき観を呈せしめている近代人というものは、まことに通俗小説内に於ける偶然の頻発と同様に、われわれにとって興味|溢《あふ》れたものなのである。しかも、ただ一人にしてその多くの偶然を持っている人間が、二人以上現れて活動する世の中であってみれば、さらにそれらの偶然の集合は大偶然となって、日常いたる所にひしめき合っているのである。これが近代人の日常性であり必然性であるが、このようにして、人間活動の真に迫れば迫るほど、人間の活動というものは、実に瞠目《どうもく》するほど通俗的な何物かで満ちているとすれば、この不思議な秘密と事実を、世界の一流の大作家は見逃がす筈《はず》はないのである。しかも彼らは、この通俗的な人間の面白さを、その面白さのままに近づけて真実に書けば書くほど、通俗ではなくなったのだ。そうして、このとき、卑怯《ひきょう》な低劣さでもって、この通俗を通俗として恐れ、その真実であり必然である人間性の通俗から遠ざかれば遠ざかるに従って、その意志とは反対に通俗になっているという逆説的な人間描法の魔術に落ち込んだ感傷家が、われわれ日本の純文学の作家であったのだ。この感傷の中から一流小説の生れる理由がない。しかし、も早やこの感傷は赦《ゆる》されぬのだ。われわれは真の通俗を廃しなければならぬ。そのためには、何より人間活動の通俗を恐れぬ精神が必要なのだ。純粋小説は、この断乎《だんこ》とした実証主義的な作家精神から生れねばならぬと思う。

 私は目下現れているさまざまな文学問題に触れつつ廻《まわ》り道をして純粋小説に関する覚書を書きすすめて来たが、人間をいかに書くかという最後の項には、触れることをやめよう。これは作家各自の秘密と手腕に属することであり、云い得られることでもない。唯ここでは、私は、自分の試みた作品、上海、寝園、紋章、時計、花花、盛装、天使、これらの長篇制作《ちょうへんせいさく》に関するノートを書きつけたような結果になったが、他の人々も今後|旺《さか》んに純粋小説論を書かれることを希望したい。今はこのことに関する意見の交換が、何より必要なときだと思う。そのために、作家は延び上り成長するべきときである。浪曼主義者《ろうまんしゅぎしゃ》も、能動主義者も、共にこの問題について今しばらく考えられたい。行動主義と自由主義については、その前に飛び越すわけには行かぬ民族の問題があるから、今は一先ずこれにはペンをつつしもう。今日本がヨーロッパと同一の位置にいるとは私には思えないからだ。私はヨーロッパの理智が、亜細亜《アジア》の感情や位置の中で、どこまで共通の線となって貫き得られるものかという限界を、前から考えてみたが、まだ今は我国のマルキシズムさえが、外部から見れば一種の国粋主義のごとき観さえ帯びている時代である。転向して来た作家評論家の行為も何となく一番自然に無理なく見えるのも、原因はここにあるのだ。これらの人の行為は、内部からばかり見るものではなく、外部からも見なければ、自然や人間に忠実な見方とはいえないと思う。日本人の思想運用の限界が、これで一般文人に判明してしまった以上は、日本の真の意味の現実が初めて人々の面前に生じて来たのと同様であるのだから、いままであまりに考えられなかった民族について考える時機も、いよいよ来たのだと思う。私に今一番外国の文人の中で興味深く思うのは、ヴァレリイとジイドであるが、ジイドの転向に反して、ヴァレリイの動かぬのはただ単に思想実践力の両者の相違とばかりには思えない。一人は分ったから動き、一人は分ったから動かぬのか、あるいは、一人は分らぬから動き、他は分らぬから動かぬか、そのどちらかであろう。しかし、分り、分らぬとは、どこが違うか誰も定めたのではない。ただ私には、亜細亜のことは自分は知らぬから、云わないだけだと云ったヴァレリイの言葉が一番に私の胸を打つ。ところが、わが国の文人は、亜細亜のことよりヨーロッパの事の方をよく知っているのである。日本文学の伝統とは、フランス文学であり、ロシア文学だ。もうこの上、日本から日本人としての純粋小説が現れなければ、むしろ作家は筆を折るに如《し》くはあるまい。近ごろ、英国では十八世紀の通俗小説として通っていたトムジョーンズという作品が、純粋小説として英国文壇で復活して来たということだが、我国の通俗小説の中にも、念入りに験《しら》べたなら、あるいは純粋小説があるのかもしれない。このごろ私はスタンダールのパルムの僧院を贈られたので読んでいるが、これは純粋小説の見本ともいうべきものだ。この作者は「赤と黒」とを書いているとき、すでにトムジョーンズを読みつつ書いたといわれただけあって、この「パルム」も原色を多分に用いた大通俗小説である。もし日本の文壇にこの小説が現れたら、直ちに通俗小説として一蹴《いっしゅう》せられるにちがいあるまい。純文学を救うものは純文学ではなく、通俗小説を救うものも、絶対に通俗小説ではない。等しく純粋小説に向って両道から攻略して行けば、必ず結果は良くなるに定っていると思う。純粋小説の社会性と云うような問題は他に適当な人が論じられるであろうから、私は今はこれには触れないが、しかし、純粋小説は可能不可能の問題ではない。ただ作家がこれを実行するかしないかの問題だけで、それをせずにはおれぬときだと思う事が、肝腎《かんじん》だと思う。

底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月~
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2002年5月7日作成
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横光利一

春は馬車に乗って—– 横光利一

 海浜の松が凩《こがらし》に鳴り始めた。庭の片隅《かたすみ》で一叢《ひとむら》の小さなダリヤが縮んでいった。
 彼は妻の寝ている寝台の傍《そば》から、泉水の中の鈍い亀の姿を眺《なが》めていた。亀が泳ぐと、水面から輝《て》り返された明るい水影が、乾いた石の上で揺れていた。
「まアね、あなた、あの松の葉がこの頃それは綺麗《きれい》に光るのよ」と妻は云った。
「お前は松の木を見ていたんだな」
「ええ」
「俺は亀を見てたんだ」
 二人はまたそのまま黙り出そうとした。
「お前はそこで長い間寝ていて、お前の感想は、たった松の葉が美しく光ると云うことだけなのか」
「ええ、だって、あたし、もう何も考えないことにしているの」
「人間は何も考えないで寝ていられる筈《はず》がない」
「そりゃ考えることは考えるわ。あたし、早くよくなって、シャッシャッと井戸で洗濯《せんたく》がしたくってならないの」
「洗濯がしたい?」
 彼はこの意想外の妻の慾望に笑い出した。
「お前はおかしな奴だね。俺《おれ》に長い間苦労をかけておいて、洗濯がしたいとは変った奴だ」
「でも、あんなに丈夫な時が羨《うらや》ましいの。あなたは不幸な方だわね」
「うむ」と彼は云った。
 彼は妻を貰《もら》うまでの四五年に渡る彼女の家庭との長い争闘を考えた。それから妻と結婚してから、母と妻との間に挾《はさ》まれた二年間の苦痛な時間を考えた。彼は母が死に、妻と二人になると、急に妻が胸の病気で寝て了《しま》ったこの一年間の艱難《かんなん》を思い出した。
「なるほど、俺ももう洗濯がしたくなった」
「あたし、いま死んだってもういいわ。だけども、あたし、あなたにもっと恩を返してから死にたいの。この頃あたし、そればかり苦になって」
「俺に恩を返すって、どんなことをするんだね」
「そりゃ、あたし、あなたを大切にして、……」
「それから」
「もっといろいろすることがあるわ」
 ――しかし、もうこの女は助からない、と彼は思った。
「俺はそう云うことは、どうだっていいんだ。ただ俺は、そうだね。俺は、ただ、ドイツのミュンヘンあたりへいっぺん行って、それも、雨の降っている所でなくちゃ行く気がしない」
「あたしも行きたい」と妻は云うと、急に寝台の上で腹を波のようにうねらせた。
「お前は絶対安静だ」
「いや、いや、あたし、歩きたい。起してよ、ね、ね」
「駄目だ」
「あたし、死んだっていいから」
「死んだって、始まらない」
「いいわよ、いいわよ」
「まア、じっとしてるんだ。それから、一生の仕事に、松の葉がどんなに美しく光るかって云う形容詞を、たった一つ考え出すのだね」
 妻は黙って了った。彼は妻の気持ちを転換さすために、柔らかな話題を選択しようとして立ち上った。
 海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一|艘《そう》の舟が傾きながら鋭い岬《みさき》の尖端《せんたん》を廻っていった。渚《なぎさ》では逆巻く濃藍色《のうらんしょく》の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑《かみくず》のように坐っていた。
 彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於《おい》て働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、譬《たと》えば砂糖を甜《な》める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味《うま》かったか。――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先《ま》ず透明でなければならぬ。と彼は考えた。

 ダリヤの茎が干枯《ひから》びた繩《なわ》のように地の上でむすぼれ出した。潮風が水平線の上から終日吹きつけて来て冬になった。
 彼は砂風の巻き上る中を、一日に二度ずつ妻の食べたがる新鮮な鳥の臓物を捜しに出かけて行った。彼は海岸町の鳥屋という鳥屋を片端から訪ねていって、そこの黄色い爼《まないた》の上から一応庭の中を眺め廻してから訊《き》くのである。
「臓物はないか、臓物は」
 彼は運好く瑪瑙《めのう》のような臓物を氷の中から出されると、勇敢な足どりで家に帰って妻の枕元に並べるのだ。
「この曲玉《まがたま》のようなのは鳩《はと》の腎臓《じんぞう》だ。この光沢のある肝臓はこれは家鴨《あひる》の生胆《いきぎも》だ。これはまるで、噛《か》み切った一片の唇《くちびる》のようで、この小さな青い卵は、これは崑崙山《こんろんざん》の翡翠《ひすい》のようで」
 すると、彼の饒舌《じょうぜつ》に煽動《せんどう》させられた彼の妻は、最初の接吻《せっぷん》を迫るように、華《はな》やかに床の中で食慾のために身悶《みもだ》えした。彼は惨酷に臓物を奪い上げると、直ぐ鍋《なべ》の中へ投げ込んで了うのが常であった。
 妻は檻《おり》のような寝台の格子《こうし》の中から、微笑しながら絶えず湧《わ》き立つ鍋の中を眺めていた。
「お前をここから見ていると、実に不思議な獣《けもの》だね」と彼は云った。
「まア、獣だって、あたし、これでも奥さんよ」
「うむ、臓物を食べたがっている檻の中の奥さんだ。お前は、いつの場合に於ても、どこか、ほのかに惨忍性を湛《たた》えている」
「それはあなたよ。あなたは理智的で、惨忍性をもっていて、いつでも私の傍から離れたがろうとばかり考えていらしって」
「それは、檻の中の理論である」
 彼は彼の額に煙り出す片影のような皺《しわ》さえも、敏感に見逃《みのが》さない妻の感覚を誤魔化すために、この頃いつもこの結論を用意していなければならなかった。それでも時には、妻の理論は急激に傾きながら、彼の急所を突き通して旋廻することが度々《たびたび》あった。
「実際、俺はお前の傍に坐っているのは、そりゃいやだ。肺病と云うものは、決して幸福なものではないからだ」
 彼はそう直接妻に向って逆襲することがあった。
「そうではないか。俺はお前から離れたとしても、この庭をぐるぐる廻っているだけだ。俺はいつでも、お前の寝ている寝台から綱をつけられていて、その綱の画《えが》く円周の中で廻っているより仕方がない。これは憐《あわ》れな状態である以外の、何物でもないではないか」
「あなたは、あなたは、遊びたいからよ」と妻は口惜《くや》しそうに云った。
「お前は遊びたかないのかね」
「あなたは、他の女の方と遊びたいのよ」
「しかし、そう云うことを云い出して、もし、そうだったらどうするんだ」
 そこで、妻が泣き出して了うのが例であった。彼は、はッとして、また逆に理論を極《きわ》めて物柔らかに解きほぐして行かねばならなかった。
「なるほど、俺は、朝から晩まで、お前の枕元にいなければならないと云うのはいやなのだ。それで俺は、一刻も早く、お前をよくしてやるために、こうしてぐるぐる同じ庭の中を廻っているのではないか。これには俺とて一通りのことじゃないさ」
「それはあなたのためだからよ。私のことを、一寸《ちょっと》もよく思ってして下さるんじゃないんだわ」
 彼はここまで妻から肉迫されて来ると、当然彼女の檻の中の理論にとりひしがれた。だが、果して、自分は自分のためにのみ、この苦痛を噛み殺しているのだろうか。
「それはそうだ、俺はお前の云うように、俺のために何事も忍耐しているのにちがいない。しかしだ、俺が俺のために忍耐していると云うことは、一体|誰故《だれゆえ》にこんなことをしていなければ、ならないんだ。俺はお前さえいなければ、こんな馬鹿な動物園の真似《まね》はしていたくないんだ。そこをしていると云うのは、誰のためだ。お前以外の俺のためだとでも云うのか。馬鹿馬鹿しい」
 こう云う夜になると、妻の熱は定《きま》って九度近くまで昇り出した。彼は一本の理論を鮮明にしたために、氷嚢《ひょうのう》の口を、開けたり閉めたり、夜通ししなければならなかった。
 しかし、なお彼は自分の休息する理由の説明を明瞭《めいりょう》にするために、この懲りるべき理由の整理を、殆《ほとん》ど日日し続けなければならなかった。彼は食うためと、病人を養うためとに別室で仕事をした。すると、彼女は、また檻の中の理論を持ち出して彼を攻めたてて来るのである。
「あなたは、私の傍をどうしてそう離れたいんでしょう。今日はたった三度よりこの部屋へ来て下さらないんですもの。分っていてよ。あなたは、そう云う人なんですもの」
「お前と云う奴は、俺がどうすればいいと云うんだ。俺は、お前の病気をよくするために、薬と食物とを買わなければならないんだ。誰がじっとしていて金をくれる奴があるものか。お前は俺に手品でも使えと云うんだね」
「だって、仕事なら、ここでも出来るでしょう」と妻は云った。
「いや、ここでは出来ない。俺はほんの少しでも、お前のことを忘れているときでなければ出来ないんだ」
「そりゃそうですわ。あなたは、二十四時間仕事のことより何も考えない人なんですもの、あたしなんか、どうだっていいんですわ」
「お前の敵は俺の仕事だ。しかし、お前の敵は、実は絶えずお前を助けているんだよ」
「あたし、淋《さび》しいの」
「いずれ、誰だって淋しいにちがいない」
「あなたはいいわ。仕事があるんですもの。あたしは何もないんだわ」
「捜せばいいじゃないか」
「あたしは、あなた以外に捜せないんです。あたしは、じっと天井を見て寝てばかりいるんです」
「もう、そこらでやめてくれ。どちらも淋しいとしておこう。俺には締切りがある。今日書き上げないと、向うがどんなに困るかしれないんだ」
「どうせ、あなたはそうよ。あたしより、締切りの方が大切なんですから」
「いや、締切りと云うことは、相手のいかなる事情をも退けると云う張り札なんだ。俺はこの張り札を見て引き受けて了った以上、自分の事情なんか考えてはいられない」
「そうよ、あなたはそれほど理智的なのよ。いつでもそうなの、あたし、そう云う理智的な人は、大嫌《だいきら》い」
「お前は俺の家の者である以上、他から来た張り札に対しては、俺と同じ責任を持たなければならないんだ」
「そんなもの、引き受けなければいいじゃありませんか」
「しかし、俺とお前の生活はどうなるんだ」
「あたし、あなたがそんなに冷淡になる位なら、死んだ方がいいの」
 すると、彼は黙って庭へ飛び降りて深呼吸をした。それから、彼はまた風呂敷《ふろしき》を持って、その日の臓物を買いにこっそりと町の中へ出かけていった。
 しかし、この彼女の「檻の中の理論」は、その檻に繋《つな》がれて廻っている彼の理論を、絶えず全身的な興奮をもって、殆ど間髪《かんはつ》の隙間《すきま》をさえも洩《も》らさずに追っ駈けて来るのである。このため彼女は、彼女の檻の中で製造する病的な理論の鋭利さのために、自身の肺の組織を日日加速度的に破壊していった。
 彼女の曾《かつ》ての円く張った滑《なめ》らかな足と手は、竹のように痩《や》せて来た。胸は叩《たた》けば、軽い張子のような音を立てた。そうして、彼女は彼女の好きな鳥の臓物さえも、もう振り向きもしなくなった。
 彼は彼女の食慾をすすめるために、海からとれた新鮮な魚の数々を縁側に並べて説明した。
「これは鮟鱇《あんこ》で踊り疲れた海のピエロ。これは海老《えび》で車海老、海老は甲冑《かっちゅう》をつけて倒れた海の武者。この鰺《あじ》は暴風で吹きあげられた木の葉である」
「あたし、それより聖書を読んでほしい」と彼女は云った。
 彼はポウロのように魚を持ったまま、不吉な予感に打たれて妻の顔を見た。
「あたし、もう何も食べたかないの、あたし、一日に一度ずつ聖書を読んで貰いたいの」
 そこで、彼は仕方なくその日から汚《よご》れたバイブルを取り出して読むことにした。
「エホバよわが祈りをききたまえ。願くばわが号呼《さけび》の声の御前にいたらんことを。わが窮苦《なやみ》の日、み顔を蔽《おお》いたもうなかれ。なんじの耳をわれに傾け、我が呼ぶ日にすみやかに我にこたえたまえ。わがもろもろの日は煙のごとく消え、わが骨は焚木《たきぎ》のごとく焚《やか》るるなり。わが心は草のごとく撃《うた》れてしおれたり。われ糧《かて》をくらうを忘れしによる」
 しかし、不吉なことはまた続いた。或る日、暴風の夜が開けた翌日、庭の池の中からあの鈍い亀が逃げて了っていた。
 彼は妻の病勢がすすむにつれて、彼女の寝台の傍からますます離れることが出来なくなった。彼女の口から、痰《たん》が一分毎に出始めた。彼女は自分でそれをとることが出来ない以上、彼がとってやるよりとるものがなかった。また彼女は激しい腹痛を訴え出した。咳《せき》の大きな発作が、昼夜を分《わか》たず五回ほど突発した。その度に、彼女は自分の胸を引っ掻《か》き廻して苦しんだ。彼は病人とは反対に落ちつかなければならないと考えた。しかし、彼女は、彼が冷静になればなるほど、その苦悶の最中に咳を続けながら彼を罵《ののし》った。
「人の苦しんでいるときに、あなたは、あなたは、他《ほか》のことを考えて」
「まア、静まれ、いま呶鳴《どな》っちゃ」
「あなたが、落ちついているから、憎らしいのよ」
「俺が、今|狼狽《あわ》てては」
「やかましい」
 彼女は彼の持っている紙をひったくると、自分の啖を横なぐりに拭《ふ》きとって彼に投げつけた。
 彼は片手で彼女の全身から流れ出す汗を所を択《えら》ばず拭きながら、片手で彼女の口から咳出す啖を絶えず拭きとっていなければならなかった。彼の蹲《しゃが》んだ腰はしびれて来た。彼女は苦しまぎれに、天井を睨《にら》んだまま、両手を振って彼の胸を叩き出した。汗を拭きとる彼のタオルが、彼女の寝巻にひっかかった。すると、彼女は、蒲団《ふとん》を蹴《け》りつけ、身体をばたばた波打たせて起き上ろうとした。
「駄目だ、駄目だ、動いちゃ」
「苦しい、苦しい」
「落ちつけ」
「苦しい」
「やられるぞ」
「うるさい」
 彼は楯《たて》のように打たれながら、彼女のざらざらした胸を撫《な》で擦《さす》った。
 しかし、彼はこの苦痛な頂天に於てさえ、妻の健康な時に彼女から与えられた自分の嫉妬《しっと》の苦しみよりも、寧《むし》ろ数段の柔かさがあると思った。してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。
 ――これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがっているより仕方がない。
 彼はこの解釈を思い出す度に、海を眺めながら、突然あはあはと大きな声で笑い出した。
 すると、妻はまた、檻の中の理論を引き摺《ず》り出して苦々しそうに彼を見た。
「いいわ、あたし、あなたが何ぜ笑ったのかちゃんと知ってるんですもの」
「いや、俺はお前がよくなって、洋装をきたがって、ぴんぴんはしゃがれるよりは、静に寝ていられる方がどんなに有難いかしれないんだ。第一、お前はそうしていると、蒼《あお》ざめていて、気品がある。まア、ゆっくり寝ていてくれ」
「あなたは、そう云う人なんだから」
「そう云う人なればこそ、有難がって看病が出来るのだ」
「看病看病って、あなたは二言目には看病を持ち出すのね」
「これは俺の誇りだよ」
「あたし、こんな看病なら、して欲しかないの」
「ところが、俺が譬《たと》えば三分間向うの部屋へ行っていたとする。すると、お前は三日も抛《ほ》ったらかされたように云うではないか、さア、何とか返答してくれ」
「あたしは、何も文句を云わずに、看病がして貰いたいの。いやな顔をされたり、うるさがられたりして看病されたって、ちっとも有難いと思わないわ」
「しかし、看病と云うのは、本来うるさい性質のものとして出来上っているんだぜ」
「そりゃ分っているわ。そこをあたし、黙ってして貰いたいの」
「そうだ、まあ、お前の看病をするためには、一族郎党を引きつれて来ておいて、金を百万円ほど積みあげて、それから、博士を十人ほどと、看護婦を百人ほどと」
「あたしは、そんなことなんかして貰いたかないの、あたし、あなた一人にして貰いたいの」
「つまり、俺が一人で、十人の博士の真似と、百人の看護婦と、百万円の頭取の真似をしろって云うんだね」
「あたし、そんなことなんか云ってやしない。あたし、あなたにじっと傍にいて貰えば安心出来るの」
「そら見ろ、だから、少々は俺の顔が顰《ゆが》んだり、文句を云ったりする位は我慢しろ」
「あたし、死んだら、あなたを怨《うら》んで怨んで怨んで、そして死ぬの」
「それ位のことなら、平気だね」
 妻は黙って了った。しかし、妻はまだ何か彼に斬《き》りつけたくてならないように、黙って必死に頭を研《と》ぎ澄しているのを彼は感じた。
 しかし彼は、彼女の病勢を進ます彼自身の仕事と生活のことを考えねばならなかった、だが、彼は妻の看病と睡眠の不足から、だんだんと疲れて来た。彼は疲れれば疲れるほど、彼の仕事が出来なくなるのは分っていた。彼の仕事が出来なければ出来ないほど、彼の生活が困り出すのも定《きま》っていた。それにも拘《かかわ》らず、昂進《こうしん》して来る病人の費用は、彼の生活の困り出すのに比例して増して来るのは明《あきら》かなことであった。然《しか》も、なお、いかなることがあろうとも、彼がますます疲労して行くことだけは事実である。
 ――それなら俺は、どうすれば良いのか。
 ――もうここらで俺もやられたい。そうしたら、俺は、なに不足なく死んでみせる。
 彼はそう思うことも時々あった。しかし、また彼は、この生活の難局をいかにして切り抜けるか、その自分の手腕を一度はっきり見たくもあった。彼は夜中起されて妻の痛む腹を擦《さす》りながら、
「なお、憂きことの積れかし、なお憂きことの積れかし」
 と呟《つぶや》くのが癖になった。ふと彼はそう云う時、茫々《ぼうぼう》とした青い羅紗《らしゃ》の上を、撞《つ》かれた球《たま》がひとり飄々《ひょうひょう》として転がって行くのが目に浮んだ。
 ――あれは俺の玉だ、しかし、あの俺の玉を、誰がこんなに出鱈目《でたらめ》に突いたのか。
「あなた、もっと、強く擦ってよ、あなたは、どうしてそう面倒臭がりになったのでしょう。もとはそうじゃなかったわ。もっと親切に、あたしのお腹《なか》を擦って下さったわ。それだのに、この頃は、ああ痛、ああ痛」と彼女は云った。
「俺もだんだん疲れて来た。もう直ぐ、俺も参るだろう。そうしたら、二人がここで呑気《のんき》に寝転んでいようじゃないか」
 すると、彼女は急に静になって、床の下から鳴き出した虫のような憐れな声で呟いた。
「あたし、もうあなたにさんざ我ままを云ったわね。もうあたし、これでいつ死んだっていいわ。あたし満足よ。あなた、もう寝て頂戴な。あたし我慢をしているから」
 彼はそう云われると、不覚にも涙が出て来て、撫《な》でてる腹の手を休める気がしなくなった。

 庭の芝生が冬の潮風に枯れて来た。硝子戸《ガラスど》は終日|辻馬車《つじばしゃ》の扉《とびら》のようにがたがたと慄《ふる》えていた。もう彼は家の前に、大きな海のひかえているのを長い間忘れていた。
 或る日彼は医者の所へ妻の薬を貰いに行った。
「そうそう。もっと前からあなたに云おう云おうと思っていたんですが」
 と医者は云った。
「あなたの奥さんは、もう駄目ですよ」
「はア」
 彼は自分の顔がだんだん蒼ざめて行くのをはっきりと感じた。
「もう左の肺がありませんし、それに右も、もう余程進んでおります」
 彼は海浜に添って、車に揺られながら荷物のように帰って来た。晴れ渡った明るい海が、彼の顔の前で死をかくまっている単調な幕のように、だらりとしていた。彼はもうこのまま、いつまでも妻を見たくないと思った。もし見なければ、いつまでも妻が生きているのを感じていられるにちがいないのだ。
 彼は帰ると直ぐ自分の部屋へ這入《はい》った。そこで彼は、どうすれば妻の顔を見なくて済まされるかを考えた。彼はそれから庭へ出ると芝生の上へ寝転んだ。身体が重くぐったりと疲れていた。涙が力なく流れて来ると彼は枯れた芝生の葉を丹念にむしっていた。
「死とは何だ」
 ただ見えなくなるだけだ、と彼は思った。暫《しばら》くして、彼は乱れた心を整えて妻の病室へ這入っていった。
 妻は黙って彼の顔を見詰めていた。
「何か冬の花でもいらないか」
「あなた、泣いていたのね」と妻は云った。
「いや」
「そうよ」
「泣く理由がないじゃないか」
「もう分っていてよ。お医者さんが何か云ったの」
 妻はそうひとり定めてかかると、別に悲しそうな顔もせずに黙って天井を眺め出した。彼は妻の枕元の籐椅子《とういす》に腰を下ろすと、彼女の顔を更《あらた》めて見覚えて置くようにじっと見た。
 ――もう直《す》ぐ、二人の間の扉は閉められるのだ。
 ――しかし、彼女も俺も、もうどちらもお互に与えるものは与えてしまった。今は残っているものは何物もない。
 その日から、彼は彼女の云うままに機械のように動き出した。そうして、彼は、それが彼女に与える最後の餞別《せんべつ》だと思っていた。
 或る日、妻はひどく苦しんだ後で彼に云った。
「ね、あなた、今度モルヒネを買って来てよ」
「どうするんだね」
「あたし、飲むの、モルヒネを飲むと、もう眼が覚めずにこのままずっと眠って了うんですって」
「つまり、死ぬことかい?」
「ええ、あたし、死ぬことなんか一寸も恐《こわ》かないわ。もう死んだら、どんなにいいかしれないわ」
「お前も、いつの間にか豪《えら》くなったものだね。そこまで行けば、もう人間もいつ死んだって大丈夫だ」
「でも、あたしね、あなたに済まないと思うのよ。あなたを苦しめてばっかりいたんですもの。御免なさいな」
「うむ」と彼は云った。
「あたし、あなたのお心はそりゃよく分っているの。だけど、あたし、こんなに我ままを云ったのも、あたしが云うんじゃないわ。病気が云わすんだから」
「そうだ。病気だ」
「あたしね、もう遺言も何も書いてあるの。だけど、今は見せないわ。あたしの床の下にあるから、死んだら見て頂戴《ちょうだい》」
 彼は黙って了った。――事実は悲しむべきことなのだ。それに、まだ悲しむべきことを云うのは、やめて貰いたいと彼は思った。

 花壇の石の傍で、ダリヤの球根が掘り出されたまま霜に腐っていった。亀に代ってどこからか来た野の猫が、彼の空《あ》いた書斎の中をのびやかに歩き出した。妻は殆ど終日苦しさのために何も云わずに黙っていた。彼女は絶えず、水平線を狙《ねら》って海面に突出している遠くの光った岬ばかりを眺めていた。
 彼は妻の傍で、彼女に課せられた聖書を時々読み上げた。
「エホバよ、願くば忿恚《いきどおり》をもて我をせめ、烈《はげ》しき怒りをもて懲《こ》らしめたもうなかれ。エホバよ、われを憐《あわ》れみたまえ、われ萎《しぼ》み衰うなり。エホバよわれを医《いや》したまえ、わが骨わななき震う。わが霊魂《たましい》さえも甚《いた》くふるいわななく。エホバよ、かくて幾その時をへたもうや。死にありては汝《なんじ》を思い出《い》ずることもなし」
 彼は妻の啜《すす》り泣くのを聞いた。彼は聖書を読むのをやめて妻を見た。
「お前は、今何を考えていたんだね」
「あたしの骨はどこへ行くんでしょう。あたし、それが気になるの」
 ――彼女の心は、今、自分の骨を気にしている。――彼は答えることが出来なかった。
 ――もう駄目だ。
 彼は頭を垂れるように心を垂れた。すると、妻の眼から涙が一層激しく流れて来た。
「どうしたんだ」
「あたしの骨の行き場がないんだわ。あたし、どうすればいいんでしょう」
 彼は答えの代りにまた聖書を急いで読み上げた。
「神よ、願くば我を救い給え。大水ながれ来《きた》りて我たましいにまで及べり。われ立止《たちと》なき深き泥の中に沈めり。われ深水《ふかみず》におちいる。おお水わが上を溢《あふ》れ過ぐ。われ歎きによりて疲れたり。わが喉《のど》はかわき、わが目はわが神を待ちわびて衰えぬ」

 彼と妻とは、もう萎《しお》れた一対の茎のように、日日黙って並んでいた。しかし、今は、二人は完全に死の準備をして了った。もう何事が起ろうとも恐がるものはなくなった。そうして、彼の暗く落ちついた家の中では、山から運ばれて来る水甕《みずがめ》の水が、いつも静まった心のように清らかに満ちていた。
 彼の妻の眠っている朝は、朝毎に、彼は海面から頭を擡《もた》げる新しい陸地の上を素足で歩いた。前夜満潮に打ち上げられた海草は冷たく彼の足にからまりついた。時には、風に吹かれたようにさ迷い出て来た海辺の童児が、生々しい緑の海苔《のり》に辷《すべ》りながら岩角をよじ登っていた。
 海面にはだんだん白帆が増していった。海際《うみぎわ》の白い道が日増しに賑《にぎ》やかになって来た。或る日、彼の所へ、知人から思わぬスイトピーの花束が岬を廻って届けられた。
 長らく寒風にさびれ続けた家の中に、初めて早春が匂《にお》やかに訪れて来たのである。
 彼は花粉にまみれた手で花束を捧《ささ》げるように持ちながら、妻の部屋へ這入っていった。
「とうとう、春がやって来た」
「まア、綺麗《きれい》だわね」と妻は云うと、頬笑《ほほえ》みながら痩《や》せ衰えた手を花の方へ差し出した。
「これは実に綺麗じゃないか」
「どこから来たの」
「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒《ま》き撒きやって来たのさ」
 妻は彼から花束を受けると両手で胸いっぱいに抱きしめた。そうして、彼女はその明るい花束の中へ蒼ざめた顔を埋めると、恍惚《こうこつ》として眼を閉じた。

底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:もりみつじゅんじ
2000年9月1日公開
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

七階の運動—– 横光利一

 今日は昨日の続きである。エレベーターは吐瀉を続けた。チヨコレートの中へ飛び込む女。靴下の中へ潜つた女。ロープモンタントにオペラパツク。パラソルの垣の中から顔を出したのは能子である。コンパクトの中の懐中鏡。石鹸の土手に続いた帽子の柱。ステツキの林をとり巻いた羽根枕、香水の山の中で競子は朝から放蕩した。人波は財布とナイフの中を奥へ奥へと流れて行く。缶詰の谷と靴の崖。リボンとレースが花の中へ登つてゐる。
 久慈は進行して来る紙幣の群れを掴みながら、競子の視線を避けてゐた。香水の中から彼女の瞳がカウンターヘ反発する。
「あなた、いいわ。」
「今は午前だ。」
 パラソルの中で、能子の微笑が痛快がる。新婚の若夫婦の眼前で、青春とはかくの如し、とぽんぽん羽根枕を叩きながら、
「ええ、ええ、これならお丈夫でございますわ。」
 無論、能子には覚えはない。昨夜は競子と久慈を張り合つて帰つて来た。邪魔をするのが目的だ。久慈を愛してゐるが故ではない。誇らかな競子の半世紀遅れた肉感を、嶄新な諧謔で圧倒してやるためである。彼女は羽根枕の売上げを久慈の傍まで持つて行つた。
「はい。」
「やア。」
「少しはこちらも見て頂戴。」
「今暫く。」
 競子は足先で床を叩いた。香水が三本売れれば三べん久慈のネクタイヘ息を吐きかけることが出来るのだ。だが、此のぼんやりしたシクラメン、オーデコロンは憎々しげに光つてゐる。能子はわざわざ競子の肉感を験べるために前を廻つて帰つて来た。
「急がしさうね。」
「ええ、御覧の通り。」
 紙幣行進曲に合せてデパートメントは正午へと沸騰する。エレベーターのボーイは七層の空間を上つたり下つたりしながら、その日の時間を消していつた。
 久慈がカウンターヘひつ付いてゐるのは生活のためではない。此のデパートメントの持ち主の道楽息子は永遠の女性を創るがためだ。生活は彼にとつては嘘のやうに方便だ。彼は七層のシヨツプガールを次から次へと舐めてみるシヤベル。永遠の女性は彼に於ては寄り集めて創られる。競子は胴で能子は頭。肩や手足は七階の毛布や机の中で動いてゐる。容子。鳥子。丹子。桃子。鬱子。彼の小使は一ケ月に二万円だ。百貨店の七階から街路へ向かつて振り撒いても、電車や自動車の速力は鈍るだらう。
 久慈は二階へ昇つて行つた。鬱子は半襟の中で胃袋のやうに動いてゐる。彼女は久慈にとつては永遠の女性の右脚だ。その癖彼を片肩に担いだまま、片足に重役を履いて馳け廻るのも美事である。
「あら、久慈さん、お暑いのね。」
「下はここよりなほ暑い。」
「ここも暑いわ。」
「もう一寸、笑つてくれ。」
「だつて、まだ氷も飲めないの。」
 久慈は十円札を握らせて三階へと登つて行く。封筒の中に、レツテルのやうに埋つてゐるのは軽い桃子。
「もう少し、暴れなければ。」
「だつて、暑いわ。」
「だつて、ハンカチ位はあるだらう。」
 十円札をハンカチに包んで投げ出すと、久慈は四階へと昇つて行つた。婚礼調度品の大鯛小鯛に挟まつて、丹子は汗をかいたまま夕暮の来るのを待つてゐる。
「まア、素通りするなんて。」
「今日は人がゐないぢやないか。」
「だから、寄つたつていいぢやないの。」
「人がゐなければ、人眼に付く。」
「五階へお急ぎになるのには、悪いわね。」
「四回で疲れて了つては、意気地がない。」
 丹子は女中のやうにお饒舌だ。ここで掴まると、五階の会話が短かくなる。振り切り賃を鯛の腹の下へ押し込んで、五階へと急いで行く。鳥子は金属の中に、刺つた花のやうに浮いてゐた。近よる久慈の方へ指を上げながら、
「けふは冗談を仰言らないで。」
「僕は休憩時間だよ。」
「だつて、あたしはこれからなの。」
「五階まで昇つて蹴られては、降りられない。」
「まア、もう少しあちらへ行つて、」
「これほど放れてをれば、汗もかくまい。」
「あそこで人が、みてるぢやないの。」
「ぢや、これはいくらでございます?」
「はい、それは三十五銭でございますの。」
 久慈は爪切りを一丁買ふと十円紙幣を支払つた。
「お釣はお宅へ。」
 六階へ昇ると、笑つた容子が鏡の中に五人もゐる。
「どちらが君だ。」
「あら、今日の巡礼はお早いのね。」
「だから、練習と云ふものは、しておくものさ。」
「道理で能子さんが、おしやべりになつたのね。」
「それや、君だ。」
「あたしがおしやべりになつたつて?」
「誰だかそんなことを云つてたよ。」
「それや、あたしが、六階あたりにゐるからよ。」
「人里はなれて暮らしてゐると、下界のことが気になるな。」
「こんな所で、お婆さんにはなりたくないわ。」
「いや、物事は、高い所から見降ろすものさ。」
「でも、高い所へはなかなか男の方は来ませんわ。」
「なるほど、君は、今日は満点だ。」
 二枚の十円札が、いきなり容子の帯の間へ突き刺さる。
「まア、もう逃げ支度をなさるのね。」
「時間だ。」
「それや、下でお涼みになる方が、湿気があつて、」
 急転直下、久慈は運動が終ると七階からエレベーターで馳け下る。彼は能子の傍へ近かづいた。彼には能子は苦手である。此の「永遠の女性」の頭だけは彼の十円紙幣で効いたためしは一度もない。それ故彼の心理学はいつも此処まで来ると狂ふのだ。彼は賭博に負けたマニヤのやうに、十円札を彼女の前へ重ねて行く。だが、能子の云ふのはかうである。
「あなた。何ぜあなたはあたしにこんなにお金を下さるの?」
「君が、受けとりさうにもないからさ。」
「ぢや、あたし、貰つておくわ。だけど、あなたは、馬鹿だわね。」
「いや、僕より、君の方が賢いのだ。」
 彼女は彼の誘惑に従つてどこへでもついて行く。だが、彼女は彼の誘惑にかかつたことは一度もない。
「あなた、なぜあなたは、あたしの心がお分りになれないの。」
「分つて了へば、それまでだ。なるだけ、君だけは、百貨店の法則から逆に進行してゐてくれ給へ。」
「さうすると、あたしにこんなにお金が出て来るの?」
「いや、それは君が金を馬鹿にしてゐる賃金さ。」
「だつて、あたしは、あなたがあたしにお金を下さることを馬鹿にしてゐるのよ。」
「それは勝手だ。だが、金を君にやるからと云つて、僕を馬鹿扱ひにするのは御免蒙る。」
「だけど、そんなことをなすつてゐると、今にあなたがお金のやうに見えて了ふわ。」
「つまり、人間に見えないと云ふんだな。」
「ええ、さう。あなたはお金よ。たつたそれだけ。」
「今度は化物扱ひにし出したな。」
「だつて、あなたは、それが本望なんですもの。あなたは人間の感能がお金でどこまで発達してゐるか、験べる機械のやうなものなのよ。ね、あたしはあなたに、どんな参考になつてゐるの?」
「君は、今の百貨店の売上高では、分らない。」
「ぢや、あたし、あなたにもつと勉強するやうにさせて上げるわ。そしてそのときになつたら、あたしあなたからお金をとつて、それをみんな、あたしと一緒に働いてゐる人達に振り撒くの。さうすると、品物の能率が上るでせう。そしたら、あなたがもつとお金をおとりになるでせう。そしたら、またあたしが沢山とつて、それを人々に振り撒いて、ね、あなたはその間にいろいろな女の方に飽くことを練習するの。今はまアあなたの過度期だから、あたしは黙つて見てゐるわ。まア、あたしは、ここ暫くはあなたの柔い監督ね。」
「うつかりすると、君は社会主義者になりさうだよ。」
「ええ、さう、あたしは、あなたん所の労働者よ。万国の労働者よ団結せよつて云ひたい方なの。だつて、あたしは、朝の八時から立ち詰めよ。あなたのやうに運動がてらに七階まで上つて行つて、一枚づつお幣《さつ》をくばつて降りて来て、それから競子さんを自動車に乗せて飛び廻ることなんか、新らしい仕事だなんて思へないわ。」
「ぢや、新らしい仕事なんて、どこにある?」
「あるわ。ここに。あなた、一枚お幣を出してごらんなさいな。」
「よし、その手は分つた。」
「あなたのお豪い所は、そこなのね。」
「何に、もう一度云つてみてくれ。」
「そら、そこ。あなたはあたしと、本当に馬が合つてゐるんだわ。あたしはあなたを、馬鹿にときどきするんだけど、かうしてゐられるのもあなたの人柄がさせるのよ。まアあなたは七階まで運動なさるだけあつて、爽やかで、闊達で、理解があつて、善良で、朗らかに光つてゐる癖に傲慢な所がちつともなくて。」
「また、一枚とられるな。」
「あなた、お止しなさいよ。そこがあなたのいけない癖よ。運動なすつたいい癖が台なしだわ。」
「だつて、あまりやつつけられちや、口止めする方が安全だよ。」
「あなたは、他の女の方にお出しになる手を、あたしにまで出さうとなさるから虐めるの。あたしがあなたからお金をいただいてゐるのは、あなたの生活をただお助けしてゐるだけよ。あなたはお金を撒くことだけが、生活なの。」
「まア、云はば、君は少し野暮臭い、と云ふ方の女だよ。僕に意見をしてくれるのはありがたいが、もう少し、僕の金の撒き方に好意を見せてくれてもいい。」
「だつて、好意の見せ場が見つからないわ。あたしが一寸愛嬌を振り撒くと、また一枚と来るんでせう。それぢや出て来る愛嬌だつて溜らないわ。あたしには、あなたがお腹で、あたしの愛嬌にお点を点けていらつしやるのが分つてゐるの。これからあたしが愛嬌を振り撒いたら、あなたを馬鹿にしてゐるときだと思つてゐて頂戴。」
 これが能子だ。久慈が金で創つた永遠の女性の頭だけは、いつまでたつても頭を横に振り続ける。久慈は能子に逢ふと世界が新鮮に転倒した。彼女は酒だ。彼は能子の唇を狙つて傾いて行く患者である。
 水滴型の自動車が、その膨れた尖端で、街を落下するやうに疾走した。久慈と能子がホテルへと行くのである。ガードの下腹。鉄の皮膚に描かれた粗剛な朱色の十字を指差して、能子は云つた。
「あなた、あたしはあれが恐いの。」
 久慈が振り向くとガードの上を貨物列車が驀進した。擦れ違ふオートバイ。電車の腹。警官の両手をかすめてトラツクが飛び上る。キヤナルの水面に光つた都会の足。下水の口で休息してゐる浚渫船。
「あなた、あたしは、あれが好きなの。」
 ホテルでは、クツシヨンの中から百貨店の匂ひがした。久慈は上着を脱いでテラスヘ立つた。噴水のアーチの中を二羽の鵞鳥が夢のやうに泳いでゐる。
「まア、あれを御覧なさいな。あれは古風な恋愛よ。あたしはあんなのを見てゐると、羽根枕を目茶苦茶に叩きつけてやりたくなるの。」
「君には情緒といふものがないんだね。」
「ええ、さう、あたしはあんな鵞鳥を見てゐると、この欄干の上で逆立ちしてみたくてならないの。」
「僕は君とは反対だ。先づここで煙草を吸つて、」
「あなたには進化といふものがないんだわ。もしあたしがあなただつたら、首を縊るより仕方がないわ。」
「もし僕が君だつたら、刑務所へでも這入りたい。」
「ぢや、とてもあなたとは駄目なのね。あたし、こんなことをしてゐても、明日の朝は電車で足を踏まれぬやうに、と思つてゐる人間なの。」
「所が、僕は、君がいたつて好きなんだ。」
「まア、もう少し、お上手にお仰言つたつて。」
「いや、さう云はれると羞しくなるんだが。」
「あたし、あなたのお顔を見てゐると、競子さんに黙つて来たのが残念だわ。」
「競子は競子。」
「能子は能子? ね、あなた、ちよつとこちらを見て頂戴。あたしは今夜は、顔を洗ひに来たんだから、もうシヨツプガールぢやないことよ。まあ、鵞鳥だつて、あんなに優しく二人の前で泳いでゐるし、あたしだつて、ここのボーイを蹴飛すぐらゐなんでもないわ。」
「いや、今夜はなるたけ、音無しくしてゐてくれ給へ。」
「あたしは、あなたが好きなのよ。こんなに、こんなに云つたつて。あらあら、あれはシエラザアト、あなた。ちよつと。」
 能子は石の上に上つてゐる久慈の手を持つて、引き摺り降ろすと、突きあたりながら踊り出した。
「君は、なかなか乱暴だ。」
「だつて、あなたのお店がいけないんだわ。あたしは気取つたことなんかしてゐると、首の骨が痛み出すの。あたしは動かないでじつとしてると、草のやうになつて了つて風邪をひくの。」
「それや野蛮だ。」
「あたしは野蛮人が大好きよ。あの裸体姿を見てゐると、身体が風のやうに拡つて飛びたくなるの。」
「君には進化と云ふものがないからだ。もし僕が君だつたら、首を縊るより仕方がない。」
「あら、あなたには進化がないから、そんなことを仰言るんだわ。野蛮人を軽蔑するのは、文明人の欠点よ。」
「それなら君は、自分の親父と結婚するに限るのだ。」
「まア、あなたは、結婚とはどんなことだか御存知ないと見えるわね。」
「冗談はよし給へ。これでもまだ結婚だけはしたことがないんだよ。」
「ぢや、どうぞ御自由にして頂戴。あたしはそのとき、そつとあなたのお顔を見て上げるわ。そしたらあなたは、きつと野蛮人のやうなお顔をなすつて、まア結婚なんて、だいたい、こんなものさつて仰言るわ。」
「それなら僕と、結婚してみるのが一番だ。」
「まア、そんなに恐はさうなお顔で仰言らなくても、あたし、結婚なんかいたしませんわ。」
「いや、結婚すると云ふことは、こんなに骨の折れることだとは思はなかつた。さあどうぞ。」
 久慈の示した部屋の方へ、能子は扇子を使ひながら、ひらひら笑つた仮面のやうに這入つていつた。久慈は部屋の羽根枕にもたれかかると、黙つて能子の膝を軽く指さきで叩き出した。
「あなたは、あたしの着物が、よほどお気に召さないと見えるのね。これでもあたしは、あなたのお店でいただいたものなのよ」
「いや、これがそれほど大切な着物なら、いま一枚上げてもいい。」
「ええ、どうぞ、あたしはあなたとお逢ひしてると、着物がほしくて仕方がないの。これはきつと、あなたが上品なせゐなのね。もしあなたが野蛮人だつたら、あたしはあなたの前で、裸体になつて踊つてみるわ。」
「僕は一度君のさう云ふ所も見たいのだ。」
「まア、あなたはさう云ふときだけは、野蛮人に好意をお持ちなさるのね。」
「かう云ふ羽根枕の上へ並んだら、もう野蛮人の話だけはよし給へ。」
 久慈の片手が能子の胴に絡らんで来た。能子は久慈の膝の上へ飛び移ると、櫓を漕ぐやうに身体を前後に揺り動した。彼女の頭にささつたクリリツカスのヘヤピンが、久慈の眼鏡をひつ掻いた。彼は顔を顰めながら彼女の唇の方へ自分の頬を廻していつた。と、能子はスタンドの傘をくるくる廻しながら、
「鬱子、桃子、丹子、鳥子、まア、沢山で賑やかね。」
「ここは、デパートメントぢやないんだよ。」
「だつて、あなたのために、歌を歌つて上げたつて、悪くはないわ。」
「今日は、芽出度い結婚式だ。縁起の悪いことは云はぬがいい。」
「そんなことを仰言ると、いつも競子さんはどんなことを仰言つて?」
「さア、立つた、今夜は僕は、侮辱されに来たんぢやない。」
「まア、ぢや、あなたはあたしと結婚なさるおつもりなの?」
 久慈はいつまでも黙つてゐる。
 能子は久慈の膝から立ち上つた。彼女は久慈を睨みながら、強く一振りスタンドの傘を廻すと黙つて部屋の外へ出て行つた。
 今日は昨日の翌日だ。エレベーターは吐瀉を続けた。オペラパツクを嗅ぐ女。コンパクトの中へ浸つた女。デコルテアトレーンにモンタント。能子は朝から早くパラソルの垣根の中で、青春とはかくのごとしと云ふかのやうに、ぽんぽん羽根枕を叩いてゐる。久慈は休息の時間が来ると、頭のとれた「永遠の女性」の手足を眺めにまたことこと七階まで昇つていつた。

底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年8月31日初版発行
底本の親本:「新選横光利一集」改造社
   1928(昭和3)年10月15日発行
初出:「文藝時代」
   1927(昭和2)年9月1日発行、第5年第9号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

横光利一

時間—– 横光利一

 私達を養っていてくれた座長が外出したまま一週間しても一向に帰って来ないので、或る日高木が座長の残していった行李を開けてみると中には何も這入っていない。さアそれからがたいへんになった。座長は私達を残して逃げていったということが皆の頭にはっきりし始めると、みなの宿賃をどうしたものか誰にも良い思案が浮んで来ない。そこで宿屋へは私が一同に代って当分まアこのまま皆の者を置かしておいてくれるよう、そのうちに為替がそれぞれ一同のものの郷里《くに》から来ることになっているからといってまた暫くそのまま落ちつくことになった。ところが為替は郷里から来たには来たが来るたびにわっと皆から歓声が上るだけで、結局来た金は来た者だけの金となってそのものがこっそりいつの間にか自分の一番好む女優と一緒に逃げのびていくだけとなって、とうとう最後に八人の男と四人の女とがとり残される始末となった。
 いつも女達が自分にばかり心を向けていると考えたがる癖のある六尺豊かな高木、賭博が三度の食事よりも好きで壺皿の中の賽《さい》の目《め》を透視する術ばかり考えている木下、仏さまと皆からいわれている青白くて温和で酒を飲むと必ず障子を舐める癖のある佐佐、それから女の持物を集めたがる少し変態の八木、腕相撲や足相撲が自慢で町へ這入るといつも玉突ばかり探す松木、物を置き忘れたり落したり何んでも忘れることばかり上手な栗木、吝嗇坊《けちんぼ》な癖に借りた物を返すのが嫌いな矢島とそれに私、とこう八人の男と波子、品子、菊江、雪子の女四人のこの総勢十二人の取り残されたものたちには、いつまで待っても為替が来ないというより、そのものらは初めからどこからも金の来るあてがないのでただ為替の来そうなものの金を目あてに残っていたものばかりなんだから、来ない方が道理なので、そこで宿屋の方でももう後はいくら待っても危いと睨んだらしく、それからは残った十二人の者をうのめたかのめで看視し始めた。一方私達はそれぞれもうそうなれば誰かに金が来るよりもいっそのこともう来ない方が良いほどで、来れば必ずそのものだけがこっそりと逃げるに決っているのだから、後に残れば残ったものほど皆の不義理をそれだけ一身に背負っていかねばならぬので、お互に暫くすると今度は誰が逃げ出すだろうかとひそかに看視し合っているほどまでになって来た。しかし、そんな看視をし合ったのも初めの間だけで、そのうちに誰が今度は逃げるだろうかなどとのんきなことを考えるよりもだいいちもうその日の御飯さえただの一度も食べさせてくれなくなったのだから、だんだん皆の顔色までが変って来て、朝から誰も彼も水ばかり飲んではどうしようこうしようと相談ばかりし続けてとどのつまりは皆で一緒に逃げようということにだけは漸く決った。皆で逃げれば一人や二人追っかけて来たって恐くはなし、そのうちにうっかり逃げ遅れて自分一人とり残されたりした日にはどんな目に逢わされないとも限らないのだから誰もかれも今度はかたく一緒に逃げることを誓い合った。しかし、逃げるにしたってただばたばた逃げたのではそれでなくても傭われた土地の壮士の眼について駄目なのだから、銭湯へいくだけは許してくれているのを利用して一番警戒の弛んだ雨の夜に逃げようとか、逃げるなら逃げるに楽な道よりも難所でなければ追手に直ぐつかまってしまうから海を伝っていこうとか、先ずあらかたは決めてしまって一同は雨の降る夜を待つことにしていたのである。

 ところがここに逃げることを相談している一団の次の部屋では、内膜炎で舞台半ばに倒れたままいまだに起き上れない波子が一人寝ているのだ。これをどうしたものだろうかということになると皆も黙ってしまってそのことだけは誰も何ともいい出さず、いずれそのまま捨てておいて逃げるより仕様がないではないかと声にこそ出さないだけで暗黙の中に皆が思っているのは明らかであった。私もそれまでは実際はもう他の十一人のために波子をそうして残しておくより仕様がないと思っていたのであるが、相談がすんでふと波子の傍を通るといきなり彼女は床の中から私の片足に抱きついてしまって放さない。皆が逃げるのなら自分も逃げるからどうぞ一緒に連れて逃げてくれといって泣くのである。それではもう一度皆に相談してやるから先ず足だけ放してくれといってはなだめすかして漸く彼女の腕から足を抜いてまた皆を呼ぶと、私は相談をし直した。一同の者は私が彼らを呼ぶともう何事の相談かちゃんと皆には分っているので眼で馬鹿なことはよせよせとしきりに示し出したが、それでもあんなに一緒に逃げたいというんだからひとつ皆も同じ竃の御飯を今日まで食べていた誼《よしみ》ででも連れていってやってはくれまいかと頼むと、傍にいた雪子がだい一番に落って自分は波子から足袋を一足貰ったことがあるからこのまま残していくのもすまないといい出すと、品子も私は袖口を貰ったことがあるといい菊江も自分は櫛を貰ったことがあるなどといって波子を連れていくことだけはみな女達は承諾した。それでは男達はと訊くとこれは誰も何ともいい出すものはなくただ黙ってしきりに私の袂をひっぱってよせというだけなので、私は皆を動かすためにいずれ連れていったって何とかなるだろうからまアまアというと、初めてそこで皆の者もその気になりかけてそれでは仕方がないから揃って一緒に逃げようということに何となく決ってしまった。

 しかし、さていよいよ逃げるとなると海に沿った断崖の上の山道を七八里も峠を越えて歩かなければならないのだから病人を背負って逃げるのはこれはたいへんなことなのだ。しかも無頼漢の眼をくらませて殊に雨風の中を町の湯へ行くように見せかけて一人ずつ手拭をぶら下げて出ていかねばならないのだ。だが、そうかといってそのままぐずぐずしていては御飯が食べられないのだから腹が空くばかりだし、これはもう無茶でも次の駅まで闇にまぎれて逃げていく一手よりないのである。そこで私は波子の枕もとへいって一度立ってどれほど歩けるものか歩いてみよというと、彼女は立ちは立ったが直ぐ眼が廻るといって蒲団の上へふらふらっとうずくまってしまってまるで骨無し同様な有様なので、私も皆に波子を連れて逃げることを一時の同情からすすめはしたもののこんなことならいっそのことここへ一人残していく方が本人のためでもあり皆のためでもあるとまた思い直して、波子にやっぱりここに一人あなただけ残っている気はないか、残っていたってまさか宿の者は病人を殺すようなこともしなかろうしそのうちに私が金を直ぐ送ってやるからというと、波子はまたわっと泣いてここに一人残されるほどなら自分を殺していってくれという。それではもう仕方がない、折角連れて逃げようとまで皆を納得させたのに今さら自分から連れていかないといい出すのもこれも勝手すぎることだしするので、もう波子のことはそのままにしておいて私も雨の降る夜を待っていた。しかし、雨の降るまで待つのがこれがまたひと通りのことではないのである。誰か銭湯へいくときに着物を一枚質に入れてはあんぱんを買って来て分けて食べたり、また一枚売りつけては銭湯へいく金を造ったりしているのだが、そのうちにうっかりして皆の汽車に乗る金まで使ってしまっては何にもならぬのだからもう煙草一本さえのめないばかりではない。パンだって一日に一度で後は水ばかりでごろごろ終日転っているより仕様がないのだ。すると、丁度折よくそれから二三日して朝から秋雨が降り出して夕方になるとますますひどく雨風にさえ変って来た。さアいよいよそれでは今夜こそ逃げ出そうということになって皆でそれぞれ朝から手筈を決めて夜の来るのを待っていたが、私は皆がまア無事に駅へ着いたとしてそれから後を誰と誰とがどんなにして逃げるのであろうかと実はそれが初めから興味があったのだ。四人の女に八人の男の残っているのはそれは万更金の来なかった連中ばかりだとは限っていなくて、一人の女が前から二人もしくは三人ずつの男と放れがたない交渉があったからではないかとも思われたので、これはいずれどこかで一騒動持ち上るにちがいないと思っていたにはいたのである。ところが夜が近かづいて逃げる刻限が迫って来ても誰もそういう様子を現さない。そのうちに一人二人と手拭をぶら下げて出ていったので、それではもう私の知らない間に一緒に逃げるべき女と男は自然に決ってしまったのであろうと思って私も逃げる手伝いをし始めた。逃げる手伝いといったってただそれぞれの着換え一枚か二枚ずつを風呂敷に包んでは塀の外に待たしてある仲間の者に投げ落すだけなのだが、それがこんなときのこととて最後まで宿に残っていたらいつどういう拍子で阿奴波子のような病人を連れていこうといい出した奴だからこのまま二人だけはほったらかして逃げようではないかと誰かがいい出さないとも限らぬし、もし誰かがそんなことでも一口いえばはっと忽ち気がついて実行しそうな者ばかりなんだから、もう私は高木を最後に残すと手拭を肩にかけ、波子を背負って無事に皆と待ち合せる筈の竹林さして雨の中を出ていった。

 竹林ではもう十人ほどが三本の番傘の下に塊って皆の来るのを待っていたが、一同の荷物をまとめて金に換えに質屋へ行った肝心の木下という男がなかなか戻って来ない。それでは木下の奴も、ひょっとすると今頃は金を持って逃げてしまったのではないかと、誰も何んともいわないのにだんだん皆の顔にそんな風な不安が現れ出して、しばらく顔を見合したまま黙っていると、そこへ木下が十円握って帰って来た。とにかく御飯だけは腹へつめていかなければというので、最後に高木が来て十二人すっかり揃うと久し振りに皆で蕎麦屋へ出かけていこうとした。すると、松木がこんなに沢山揃っていっては見附かってしまうに決っているから一人ずつ行こうではないかといい出したので、それもそうだという事になって金を一人ずつ分けようとすると十円紙幣一枚よりない。それでは誰かこまかくして来たらと気づいてもまた町中まで一人いってはそのまま持ち逃げされそうな気がされて誰も一人に許そうとはしないのだ。これじゃ紙幣なんか有ったってなくったって同じことでどうしたら良かろうかとまた暫く黙ってしまうと、そのうちにこんなにいつまでも愚図ついていたんではもう宿屋の方でも気がついて追手を向けているかも分らないといい出すものもあり、追手が来ようとどうしようとこんなにお腹が空ちゃ動けやしないといい出すものもあって、じゃパンでも買って来るのが一番だと決ってもさてそれなら誰が買いにいくかとなると、また一度植えつけられた不安のために容易に誰も何んともいい出さない。もうそうまでなると不思議なもので病人を背負い込んでいる私だけがはっきり逃げも隠れも出来ないに定っているのだから、矢島の発案で皆の者は今度は私一人に金を持ってくれといい出した。しかし、私は私でそんな大事な金なんか持って皆から絶えず気をくばられていたりしては不愉快なので、いっそのこと皆の見ている前で病人の波子に金を持たしたら、当分は波子も誰も彼もから守られるにちがいないと思ったので彼女の懐へ金を押し込んだ。すると、今まで厄病神のように思われて皆から厄介扱いにされていた病人は急に私の肩の上でがっくりと落ちついた金庫みたいになって来て、今度は自然にその病人を中心にした一団の法則が竹林の中で出来始めた。先ず一団の男達は背後で誰かが百を数えるまで波子を背負って歩いてから交代するということになり、女は負う必要だけはないが数を算《かぞ》える番を交代にしていくことに決めて、そこで初めてその順番を決めにかかろうとすると八木が十八|拳《けん》で決めようといい出した。それじゃ一本歯で来い、いや軟拳にしろといい合っているうちにもう片方の二人から、は、は、よう、たち、はい、に、さんぼん、とやり出したので、傍で見ている女たちも笑い出して高木さんの方が手つきがいいのいや木下さんの方が締っているのといいいい波子を背負う順番だけを漸く決めると、もう先きに立ったものが竹林を出て歩き出した。

 しかし、傘は十二人に三本よりないところへ向い風で雨が前からびゅうびゅうと吹きつけて来るので、四人に一つの割りで傘を中にし一列に細長く縦隊を作ってびしょびしょと濡れて歩いていかねばならない。一番まん中に病人の波子を御輿のように守ってその後に女達、それから男と行くのだが佐佐が中からとうとう蕎麦を食べ忘れたじゃないかといい出すと、そうだ蕎麦だということになってまた一隊は立ち停った。けれども今からはもう蕎麦どころか追手につかまればまた明日から水ばかりより飲めないのだから、ひと思いに今夜のうちに峠を越してしまえば明日はどうにでもなろうという気勢の方が盛んになって、そのままずるずる一団は芋虫みたいに闇の中へ動いていった。動き出してから暫くは女達のあんこの出たフェルトがぴちゃぴちゃ高く鳴り始めると追手ではないかと気が気でなくなり、ときどきはいい合したように後ろを振り返るときもあったが、もし宿屋が気がついて追手を今頃出している頃だとしても直ぐこっちの難所へは気がつかず、もう一本の道の方へ廻るだろうと栗木がいうとそれもそうだと安心はしたものの、こっちの道にしたって誰も一度も通ったことのあるものはないのだから、行くさきざきに何があるのかどこにどんな畑があるのかそれも分らず、雨に洗われた砂地からしきりに頭を擡げている石ころ道がいくらか足さきでうすぼんやりとしているくらいのものである。一団のものも必死とはいうもののだんだん不安が募って来たと見えてあまり誰も饒舌らない。ただ木村だけが余裕を見せて日頃の幾分社会主義めいたことを口走り、こんなに皆を苦しめた座長の奴なんか今度逢ったら殴ってやるというと、忘れていた座長への一団の鬱憤が俄に高まって来て、殴るどころか海の中へ突き落してやるというものがあるかと思うと海の中ではこと足りない自分は石で頭を割ってやるという者もあり、焼火箸で咽喉をひと突きに突き殺すという者もあり、いや焼火箸なんかではまだ足りぬというものもあると中央で黙っていた病人がいきなりわッと泣き出した。すると、病人を背負っていた八木が立ち停ってしまって動かない。どうした、早く行かぬかと、後から迫ると、病人は八木の背中の上で泣き泣き自分をここへ捨てておいて皆でいってしまってくれといい始めた。初めは誰もどうして急にそんなことを病人がいい出したのか分らなかったが、それが病人の症状で内臓から血液が出て来たのだと分ると、一同もぼんやりとしてしまってこれには困ったという風に雨の中で溜息をつき出した。そこで私は男には分らぬそんな女の症状のことは女達に任かせようというと、それでは今直ぐに乾いた布が何より入用だというので仕方がないから白い襦袢を脱いで渡してまた進んだ。病人は気の毒がって次ぎに背負い変った松木の背中の上で自分をもうここへ捨てておいていってくれとしきりに泣いていう。そんなに泣いてはやかましいからもう捨てていってしまうぞと松木が嚇かすと、一層激しくわッと泣くばかりである。しかし、そんなことよりも何より追手のことをあまり考えなくなると今度は一団に空腹がやって来た。一人が明日になって町へ着いたらだい一番にかつれつを食べるんだというと、一人は鮨を食べるという。いや鮨よりも鰻が良いという者があるかと思うと牛肉が食べたいというものがある。すると、それからそれへと他人のいうことなんか訊かずに何が美味かったとかどこで何を食べたとか食べ物の話ばかりが盛んになって、ますますがつがつした動物のようになっていった。

 ところが私もこの空腹にだけは皆と同様困り果てて道傍の畑からでも食物を探そうとしたのであるが、竹林を出てから暫くすると畑なんかは一つもなく、右手は岩ばかりの崖で左手は数百尺の断崖の下でただ波の音がしているだけなのだからどうするわけにもいかないのだ。せめても巾四尺ほどの道から足を踏み外さないだけが一団の儲けもので、今は互に帯を後ろから持ち合ったままひょろひょろして先頭の傘のまにまについていくのであるが、坂を上ったり下ったりうねうねとした道なのでときどき雨がさっと逆さまに下から降って来て、思わず崖の縁へぺったり貼りつけられたように重なったり、伸びたり縮んだり衝きあたったりしながらも茫々と続いた断崖の上を揺れ続けていくのだから、そう食べ物の話ばかりに眼もくらんではいられないのである。そのうちに食べ物の話に夢中になっていた一団のものもいくら饒舌ったって一つも食べられないのに気がついたらしく、一人黙り二人黙り、やがてみんなが黙ってしまうと、ただ病人を背負って歩く足数をその後で数える女の声だけが波の音と風の音との断れ目から聞えて来るだけで、溜息も洩れなければ咳の声さえしなくなって、みな誰も彼も一様にこれはもう暫くたてばどんなになるのかと恐怖に迫られ出した沈黙が、手にとるようにはっきりと感じられて来た。そうこうしているうちにまた病人の出血が激しくなって、男達の脱いだ襦袢を崖の頂きで海に向って取り替えるやら背負う番を変えるやら、前のように気の毒がって激しく泣き出す病人の声と一緒にひと際一団のものが賑やかに立ち返ると、また食べ物の話が出る。そんなに食べ物の話をしては食べたくなるばかりだからやめてくれというものがあると、いやもうせめて食べ物の話でもしてくれなければ食べた気がしないというものがあり、水でも良いから飲めないものかといいながら傘から滴り落ちる雨の滴を舐め出したり、小さな松の木でもあると松の葉をむしって食べながら歩いたり、まるで餓鬼そのままの姿となってしまって笑うにも笑えない。私も私で着物はもう余すところなくびっしょり濡れたうえに咽喉《のど》がからからになって来て、雨が吹きつけて来ると却って傘から顔を脱して雨に向って口を開けたり松葉を噛んだりし続けた。それがまた八人の男が一巡病人を背負ってしまって私の番が廻ってくると、どんなに背中の上のものを女だと思おうとしたって、その空腹では歩く力だけでもやっとのことだ。息切れがして来ると眼の前がもうぼうっとかすんで来る。腕がしびれる。足がふらりふらりと中風のように泳ぎ出す。すると舌を噛んだり頭を前の傘持ちにぶっつけたりし続ける。後ろで女が九十近くまで数えて来る頃にはもう病人をそのままそこへどたりと抛り落したくなって来て、それを感づかせてはまた泣かれるからじっと我慢をしているものの、終いには眼がひき吊ってしまって開けるとぱっちり音がしそうなほどになる。そうして漸く次のものに変って貰ったとしても一人一丁で八丁目毎にまた廻って来るのだから、休む間が知れているのだ。お負けに空腹は時間がたてばたつほど増して来て、それに従って背中の上の病人はそれだけ重くなっていくのだからやりきれたものではない。すると、病人は真中に皆に挟まれていくのはいやだから真先にやってくれと無理をいい出した。それでは負われているものは捨てていかれる心配がなくなるから気楽にはなるであろうが、反対に背負っていくものは絶えず後から圧迫されて疲れることが甚だしいのだ。私は皆のものも私が病人を連れ出して来たばっかりにこんなに苦しまされたのだと思うと、もう皆がどうする事も出来なくなってへたばりそうになったら私は病人を海の中へ抛り込むか病人と二人でそのままそこへ残って皆に先きへいって貰おうと考えた。

 しかし、皆のもののへたばりそうにしているのはもういま現在のことなんだから、そんな考えを起したって無論何んにもなりはしないのだ。もう一団の者は油汗を顔ににじませて青黒く、眼はぎろりと坐り出し、なま欠伸がひっ続けて出始めると突如として奇声を発するものもあって、雨風に吹き折られるかのようにどっと突角った岩の上へ崩れかけたりすると、病人はまた捨てていってくれといって泣き上げる。女達は女達でもう髪から着物からびしょびしょで、幽霊みたいにべったりと濡れた髪を顔へひっつけさせたまま歩いているのだが、腰巻の色が下から着物へまで滲み出て来て、コンパクトや財布へまで水が溜ってぬらぬらして来ると、もうどっしりと却って落ちつき出して早く死ぬものなら一思いに死んでしまいたいと菊江がいう。じゃここから飛び込めばわけはないと八木がいうと、その一言の冗談がもうへとへとになっていた栗木の癇に触ったのであろう、人の苦しんでいるときに冗談をいうとは何事だと栗木は八木に詰めよった。すると、八木は八木でそんな思わぬことで詰めよられたんだからびくりとしたのか、逆に立ち直って、いくら菊江に冗談をいったからってそんなことで怒らなくとも良いだろう。菊江なんかはお前がいくら好いたってもう駄目でちゃんと高木と一緒になっているところを自分は見たのだとつい口を辷らすと、いままで黙々として何一ついわなかった温和な佐佐が、いきなり懐中からナイフを出して高木めがけて突っかかった。高木は素早く佐佐のナイフの先からのがれて一目散に断崖の上を逃げていったが、佐佐もしつこく傾きながら彼の後から追っかけると、暫くこの思わぬ出来事にぼんやりしていた栗木が敵は八木ではなく高木と佐佐だと知ったのかこれもまた二人の後から追っ馳け出した。菊江は私の傍で闇の中を透しながらただ自分が悪いのだといって泣きじゃくっているだけなので、私は早くいって男達の争いをとめて来いというとあなたがいってくれなければ自分ではとまらぬという。ところが、これもまたあまり不意の出来事だが私の後ろにいた品子が急に泣いている菊江の襟もとへ武者振りついて歯をきりきり鳴らせ出した。自分の男の誰かをとられていたのに初めて気附いたのであろうが、そのうちに張本人の八木までが怒り出して今度は品子を引き摺り倒すと貴様の男は誰だといい始めたのには私も驚いた。これでは争いが今にどこまで拡がるか分らないどころか、いまこんなところでまた誰かに傷でもされて動けなくなったりしてはもう一団は絶体絶命で総倒れになるのは決っているのだ。さて困ったことになったと思ったが私の傍のものはまア刃物がないのだから良いとして、馳けていったもの三人の間には一本ナイフがあるのだからそのまま捨てておくわけにもいかず、それで私もふらふらしながら待て待てと呼び続けて黒い岸の上を馳けていくと、二町ばかりいった路傍で三人が並んで倒れたまま動かない。それでは誰か三人のうちの二人は殺されたのだと思って覗いてみると、それぞれみな誰も眼をぎょろぎょろ開いたまま私の顔を眺めているのだ。どうしたのだと訊いてみると、こんなところで女のために喧嘩をして傷でもしてはどちらも損だからやめようと相談してやめたのだが、もう疲れて息の根がとまりそうだから暫く黙らせておいてくれという。それはどちらも賢いことをしたといって私もまた後へ引き返して病人のいる所へ来てみると、こちらはまだ争いはこれかららしく矢島の背中の上でわアわア泣いている病人の下の道の上で、八木と木下が取っ組み合いをして唸っているのだ。これでは女達も誰と誰とが自分のどの男をとっていて、自分が誰のどの男を取っていたことになっているのか分らなくなってしまっているのであろう、もうぼんやりとしているだけで私に向うの喧嘩の首尾はどうだったかと訊ねもしない。私もこんな騒動はいずれ一度は起るにちがいはないと思っていたにはいたのだから、そうびっくりもしないのだが、今頃こんな崖の上でこんなに突然降って湧いたように起ろうとは思っていなかったので、誰が誰と喧嘩をしようとそんなことなんか平気にしたところでたちまち一団の進行にかかわること重大なのだ。ところが八木と木下とは前から仲も良くない上に女のことにかけてはどっちも競争し合っていた男同志のこととて、私が仲へ這入ってとめようとしてもなかなか放れるどころではない、じっと寝ながら殴り合っている方が立って歩いて病人を背負わせられるより楽《らく》は楽なんだから、足を絡まり合せたまま休息するように殴り合うばかりである。私も二人が傷さえしなければもう出来るだけ喧嘩をさしてしまっておく方が良いのだから、二人が転げている間私も身体を休めるために二人の頭の所に腰を降ろして眺めていると、木下も八木もすっかり疲れたらしくどっちもそのまま動かなくなって吐く息だけをふむふむいわせているだけなので、私ももうここらで良かろうと思っていつまでも寝ていたって仕様がないから喧嘩をするならもっとする、やめるならさっさとやめてそろそろ出かけようではないか、向うでももう女のことで喧嘩をすることほど馬鹿なことはないといって三人とも仲なおりが出来てしまったのだからというと、八木も木下も黙ってのろのろ起き上って来て歩き出した。

 そこでまた一行が高木や佐佐などと落ち合うと病人を背負い変えたり、出血の準備品の乾いた襦袢がもう全く誰からもなくなってしまっているので、今度は男達の腰巻をとって病人をきよめたりして穏かに歩いていった。どうも考えると面白いもので女達の不倫の結果がそんなにも激しい男達の争いをひき起したにも拘らず、しかしまたそれらの関係があんまり複雑ないろいろの形態をとって皆の判断を困らせるほどになると、却ってそれが静に均衡を保って来て自然に平和な単調さを形成していくということは、なかなか私にとっては興味ある恐るべきことであった。だが、間もなくするとこの静かな私達の一団の平和もそれは一層激しくみなのものに襲いかかって来た空腹のために、個性を抜き去られてしまった畜類の平静さに変って来た。全く私も同様にだんだん声も出なくなって腹部の皮が背中へひっついてしまっているかのように感じられると、口中からは唾がなくなって代りに胃液が上って来て、にがにがしくねっとりと渋り出すと眼の縁が熱っぽくなって来て、煙草の匂いのするなま欠伸がまたひとしきり出始める。一同のものも前の格闘の疲れが出て来たのであろう誰も何ともいわないで俯向いたまま雨の中をびしょびしょといくのであるが、そんなにありあり弱りが見えるともう一人静に泣き続けている病人だけが一番丈夫な人間のようにさえ思われ出して、いったいこのさきまだどこまでもと闇の中を続いていそうな断崖の上をどうして越えきることが出来るのかと、むしろ暗憺たる気持ちになって来た。そうなると私達の頭は最早や希望や光明のようなはるかに遠いところにあるもののことは考えないで、この二分さきの空腹がどんなになるであろうか。この一分さきがどうして持ちこたえられるのであろうかと、頭はただ直ぐ次に迫って来る時間のことばかりを考え続け、その考えられる時間はまた空腹そのことについてばかりとなって満ち、無限に拡がった闇の中を歩いているものは私ではなくして胃袋だけがひとりごそごそと歩いているような気持ちがされて、これはまったく時間とは私にとっては何の他物でもない胃袋そのものの量をいうのだとはっきりと感じられた。

 私達は凡そそうして宵からもう四五里も歩き続けて来たであろうか。一団の男達は襦袢も腰巻もみな病人にやってしまってなくなった頃丁度崖の中腹の道より少し小高い所に一軒の小屋が見つかった。初めは先頭に立ったものがあれは岩だろうか小屋だろうかといっているうちにそれは廃屋同様の水車小屋だと分ったので、先ず皆は雨から暫くのがれるためにでもそこで少し休んでいこうではないかということになったのだが、中へ這入るともうそこには長い間人が近づいたことがないと見えていっぱいに張り廻された蜘蛛の巣が皆の顔にひっかかった。それでも雨露を凌げるほどの庭が二畳敷ほど黴臭い匂いを放っているのでそこへ十二人の者が塊まって蹲っていると、八木がここは水車小屋だからどこかに水があるにちがいない、水でも捜して飲もうといい出して小屋の周囲をうろうろ廻り出した。しかし、だいいち水を落すべき樋がぼろぼろに朽ちていて水車《みずぐるま》の羽根の白い黴のところから菌《きのこ》が生え上っているのだから一向に水なんかありそうにも思えない。そのうちに小屋の中で塊っている者達の肌から汗がだんだん冷えて来ると着物の湿りが応えて来て皆がぶるぶる慄え出した。殊に三時過ぎの急激な秋の夜の冷えが疲労と空腹との上に加わって来たのだからもう皆は一人ずつ放れていては寒さのために立ってもいてもいられない。そこで私達は火を焚こうにも誰もマッチがないのだからどうしようもなくそれぞれ羽織を脱いで庭に敷くと真中《まんなか》に病人を坐らせ、その周りに三人の女を置いて男達はその外から手を拡げながら丁度蕗の薹のように女達を包んで互に温度を保ち合った。しかし、私達の上に新しく襲いかかって来た寒気はそれだけでは納まらずますます激しくなって来ると、やがて一団のものは歯が打ち合ってかちかちと鳴り始め、言葉がうまくいえなくなって吃りばかりになり、泣き出すものがあっても涙だけがしきりに出るだけで、ただもうびりびり、びりびりとまるで揺られる海月《くらげ》みたいに慄え続けているだけだが、そのうちに中央にいる病人だけはもう慄える力もなくなって皆の慄える中で一人じっと縮んでしまって動かない。その周囲で女達は自分が死んだら髪を切って母親のところへ送ってくれるよう、もうとてもこれ以上は身体が保たないといい出すものがあるかと思うと、自分ももう駄目だから死んだら親指を切って郷里へ送ってくれとか眼鏡を送れとか、そんなことをいってるうちに膝がしびれる腰がしびれるやがて首まで痛んで来ると、栗木が急にしくしく泣き出して、自分が若いときに村の神さまへ石を投げつけたことがあるその罰が来たんだといい出した。すると高木は俺はあんまり女を瞞しすぎた罰が来たんだというと、それには皆も胸を刺されたのであろう男も女もそうだそうだというかのように調子を合せて泣き出した。私もあんまり皆の他愛のないのにおかしくなったが餓えと寒さと身体の痛みにはもう実際このままでは死ぬ以外にないのではないかとさえ思われて、私だけは臼の傍だったので木の上へ腰かけながらさてこのつぎに来るものはいったい何なのかと思っていると、よくしたもので間もなく意識を奪ってくれる眠けがしきりにやって来た。それと等しく一団の上からもいつの間にか今までの慄えがなくなっているのに気がつくと、これはこのまま眠らせてしまえば死んでしまうに決っているのだから私は声を大きくして皆の頭を揺すぶって叩き起し、今眠れば死ぬにちがいないことを説明し眠る者があったら直ぐ、その場で殴るようといい渡した。ところが意識を奪う不思議なものとの闘いには武器としてもやがて奪われるその意識をもって闘うより方法がないのだから、これほど難事《むずか》しいことはない、といってるうちにもう私さえ眠くなってうつらうつらとしながらいったい眠りという奴は何物であろうと考えたり、これはもう間もなく俺も眠りそうだと思ったり、そうかと思うとはッと何ものとも知れず私の意識を奪おうとするそ奴の胸もとを突きのけて起き上らせてくれたりするところの、もう一層不可思議なものと対面したり、そんなにも頻繁な生と死との間の往復の中で私は曽て感じた事もない物柔かな時間を感じながら、なおひとしきりそのもう一つ先きまで進んでいって意識の消える瞬間の時間をこっそり見たいものだと思ったりしていると、また思わずはッと眼を醒して自分の周囲を見廻した。すると、私の前では誰も彼も頭を垂らして眠りかけているのである。

 私は皆の頭を暴力を振うように殴って廻って起きろ起きろと警告した。皆の者は殴られると暫くぼんやりして眼を開けてはいるがそのまままたふらふらと隣りの者へよりかかってしまう者や、急に死に迫っていた目前の自分の危機に気がついて眼をぱちぱちしながらびっくりしている者や、私に殴られて眠ったものを殴る権利を与えられていることを思ってはいきなり前の眠っているものを殴りつけ出す者などがあって、間もなく羽根の停った水車《みずぐるま》の傍では盛んな殴り合いが始められた。それでも眠りはほんの少しの静まった隙間から這い込んで来て意識を吸い取っていってしまうので、間断なく髪の毛をひっつかんで頭を引き摺り上げては頬っぺたを指の跡の残るほどひっぱたいたり、拳骨でそれこそ鉄拳を食わせるほど殴りつけたりしても、眠りを防害する動作がものの一二分も一致して休止すると、もう危く一同が死へ向って落ち込んでいくので、私も絶えず殴り続けているものの同時に十一人の動作を見詰めつづけている間にはふっとどうしたものやらまた私の意識も極りなき快楽の中へ溶け込んでいってうつらうつらと漂い出すのだ。快楽――まことに死の前の快楽ほど奥床しくも華かで玲瓏としているものはないであろう。まるで心は水々しい果汁を舐めるがように感極まってむせび出すのだから、われを忘れるなどという物優しいものではない。天空のように快活な気体の中で油然と入れ変り立ち変り現れる色彩の波はあれはいったい生と死の間の何物なのであろう。あれこそはまだ人々の誰もが見たこともない時間という恐るべき怪物の面貌ではないのであろうか。――しかし、私は私が死んでしまってなくなれば同時に誰も彼もの全世界の人間が私と一緒に消えてなくなってしまうのだと思うと愉快であった。ひとつみんなの人間を殺してやろうか、とふと思うこの死との戯れがときどき私を誘惑してひと思いに眠ってしまおうと思うに拘わらず、またいつの間にか私の前で皆が眠り出すと私は両手で所かまわず殴りつけているのである。人を死なすまいと努力すること――この有害なことが何故に人々にとって有益なのであろうか。私達は譬えいま死から逃れることが出来たにしたってこの次死ぬときにはこんなに巧妙に何の不安もなく楽々死ぬことなんかは最早や想像することが出来ないのだが、それでも矢っ張り私はもう一度皆を生かせてやりたいと思うと見えて、しきりに女達の鬢をもって引き摺ったり、殴ったり、片足で男達を蹴りつけたりし続けているのは、これをこそ愛というのであろうか、それともこれをこそ習性というのであろうか。首をさえ絞めつけて殺してやりたく思うほど皆のこれからの不幸な行くさきが分っているのに、それにまだ彼らの苦しみを増し与えて助けてやらねばならぬとは、これをこそ救いというのであろう――死ね死ねといいながら私はもう無茶苦茶になってあたかも年来攻め続けて来た不幸と闘うかのように人々の眠りの中を縦横に暴れ廻っていると、人々もだんだん眼が醒めて、まるで今迄の楽しみを奪った奴はこ奴かというようにぽかぽか一層激しく周囲の者を殴り出した。すると、もう人々もさすがにゆっくり眠っていることは出来なくなったと見えて、中には眠りながら手だけは殴る形をして動かしている者もあり、踏んだり蹴ったり殴ったり修羅場みたいに傍若無人になぐり合っているうちに、また一同は眠り出した。そうなると初めの間は蕾のように丸くなって塊っていたものでもだんだん形が崩れて来て、終いには足の間へ頭がいったり胴と胴とが食い違ったり、べたべたしたまま雑然として来始めて殴るにも誰のどこを殴っているのか分らなくなって来て、誰か一人でもこっそり殴られずにすんでいようものならもうそのものは死んでいるかもしれないのだから、出来るだけ大きな面積で暴れ廻って絶えず全部の者を撹乱し続けていなければならぬのだ。しかし、眠むけというものは暴れたものほど次には激しく襲われて沈められる恐れのあるもので、直ぐ暫くすると私も私が刺戟を与えて醒したものから頭を叩かれたり膝で横腹を蹴られたりして眼を醒す。醒す度にまた私は皆の身体の中でのたうち廻って沈んでしまう。そうして幾度となく私達は眠ったり醒ましたりし合っているうちに、私達の小屋の外でもそれに従って変化が着々と行われていたと見えて、いつの間にか雨もやみ、天井の崩れ落ちた壁の穴から月の光りがさし込んで蜘蛛の巣まではっきり浮き上っているのを発見した。私達は眠け醒しに戸外へ出ようとするとなかなか足が動かない。そこで腹這いになって戸外へ出ると、月の光りに打たれながら更めて山や海を眺めてみた。すると、私の傍にいた佐佐が物もいわずに私の袖をひっぱって狼狽えたように崖の中腹を指さしたので、何心なく見るとそこには細々とはしているが岩から流れ出ている水が月の光りに輝きながらかすかな音さえ立てている。水だ水だといおうとしたが声が出ない。佐佐は直ぐ崖の方へ膝をもみながら近よって降りていったが暫くすると水を沢山飲んだのであろう、急に元気になって大声で下から水だ水だと叫び出した。私も小さな声で同時に水だ水だと叫んだ。

 それでもう一同は助かったと同様であった。小屋の中の者は足が動かないのにかかわらず我れ勝ちにと腹這いになって崖の方へ降りて来ると、蜘蛛の巣をいっぱいつけた蒼然とした顔を月の中に晒しながら変る変る岩の間へ鼻を押しつけた。岩の匂いに満ちた清水が五百羅漢のような一同の咽喉から腹から足さきまで突き刺さるように滲み透って生気がはじめて動き出して来ると、私も皆と一緒に月に向ってこれこそ明瞭に生きていることだと感じるかのように歎声を洩してはまた岩の間へ口をつけた。しかし、私はふと皆が置き去りにして来た病人のことを思うともうひょっとするとひとり眠入ってしまって死んでいるのではないかと思われて、皆の者にどうかしていっぱいでも病人に水を飲ましてやる工夫はないかというと、そうだそうだ病人が何よりだということになってそれなら水を入れるには帽子が良いからという高木の発案でソフトに水を受けてみると、水は数歩ももじもじしている間にすっかり洩れてしまって何の役にも立ちはしない。それで今度は皆の帽子を五つ合して水を受けるとやっとどうやら洩れないだけは洩れなくなったが小屋まで持っていく迄には疑いなく無くなるのは決っているのだ。そんなら小屋まで一番早く帽子を運ぶには十一人でリレーのように継ぎながら運ぼうではないかと佐佐がいい出すと、それは一番名案だということになっていよいよ十一人が三間ほどの間隔に分れて月の中に立ち停ると、私は最後に病人の所へ水を運ぶ番となって帽子の廻って来るのを待っていた。その間私は絶えず病人を揺り続けているのだが、もう彼女はさっきから殴り続けられた指跡を赤く皮膚に残したまま、私に揺られるがままに身体をぐたぐた崩して寝入ってしまってなかなか眼を醒しそうにもない。それで私は彼女の髪の毛を持ってぐさぐさ揺るとぼんやり眼を開けたは開けたが、それもただ開けたというだけで同じ所をじっと眼を据えて見ているだけである。そこへ丁度最初の帽子が殆ど水をなくして廻って来たので私は病人の口のなかへ僅に洩れる滴をちょろちょろと流し込んでやると、病人も初めてはっきり眼が醒めたと見え、私の膝に手をかけて小屋の中を見廻した。水だ水だ早く飲まぬとなくなるからといってはまた膝の上へ病人を伏せて次の帽子を待っている。すると、また帽子が廻って来る、また滴を落すという風に幾回も繰り返しているうちに、私には遠く清水の傍からつぎつぎに掛け声かけながらせっせと急な崖を攀じ登って来る疲れた羅漢達の月に照らされた姿が浮んで来ると、まるで月光の滴りでも落してやるかのように病人の口の中へその水の滴を落してやった。

入力者注
・「時間」は、昭和六(1931)年四月『中央公論』に発表。同年四月白水社『機械』に初収。
・河出書房新社『定本 横光利一全集 第四巻』(昭和五十六年刊)を底本とした。
・旧かなづかいは現代かなづかいに、旧字体は新字体に改めた。
・「茫茫」など漢字の繰り返しは「茫々」などと改めた(「佐佐」は除く)。
・以下の漢字はひらがなに改めた。
 云う→いう、此の→この、了う→しまう、恰も→あたかも

テキスト入力者:佐藤和人
校正者:かとうかおり

横光利一

詩集『花電車』序—– 横光利一

 今まで、私は詩集を読んでゐて、涙が流れたといふことはない。しかし、稀らしい。私はこの「花電車」を読みながら涙が頬を伝って流れて来た。極暑の午後で、雨もなく微風もない。ひいやりと流れて来たのはひと条の涙だけ――ああこれは、おれの涙かなと私は思ひ、詩人の貌をしばらく遠空に描いてゐた。私はこの風顔が好きである。

 私は戦争中一番愉しく眺めたのは、アンリ・ルッソオの絵だった。それも汚ならしく皺のよった、たった一枚の版画で、押入れの埃の底から出て来たものだ。私はぽんぽんと埃を払ひ、こんなところにこんな絵が、と、両手に支へ、証書を読むやうに眺めたり、壁へ両手で張りつけて、首を後ろへ引きつけて眺めたり、――私はアンリ・ルッソオの絵の広告を今ごろこゝでする用もないが、この花電車の中にはルッソオも伴に乗ってゐるからだ。
 終戦になる一、二ヶ月前の時、私は焼野原になった東京から、東北地方の鶴岡といふ街へ家族を訪ねに出かけてみた。ところが、ここがそろそろ空襲に見舞はれ出し、街は疎開騒ぎでごった返しの最中だった。どの家からも荷を積み上げた荷車が街を離れて四方へ散った。ある日の午後、私は古本屋へ入り、残り少くなった屑本類を引っくり返して見てゐると、底から一冊ぼけた絵本が出て来た。見ると、これがまたアンリ・ルッソオの画集であった。私はここでも埃を払ひ、懐へ押し込んで家へ戻り、一日その絵を眺め暮した愉しさを忘れない。七月の空はよく晴れてゐて、枝に透いた杏《あんず》の実の丸い黄色が、私は、このときほど果実のまるい美しさを見たことがない。そこへ、B29[#「29」は縦中横]の銀色の羽根がナイフのようにやって来た。膝の上に展いてみてゐたルッソオの絵は、空の杏の実に戯れる鳥のやうな童心に溢れてゐる。まったく、かうして――現実をぱったり停めて見ると、眼にするものすべて尽く絵か観念かのどちらかだった。鳥飛んで鳥に似たりであった。


  子は
  絵本に
  電車を見つけると
  その上に乗って
   足をバタバタさせるのだ(花電車と子)

 冬になって私はまた東京へ戻って来た。留守をしてゐてくれたHが、北川冬彦氏の来訪を話しながら、「いろいろ戦災の話を人から聞いたが北川氏が一番ひどい目にあってゐる」と語って、猛火の底の氏の死闘のさまを髣髴させた。それから半年、ある詩の雑誌が私の手元に届いた。拓くと中に北川氏の「渡船場附近」という短篇が見えてゐる。一読して、私は終戦以来眼にした最も佳い作品の一つだと思った。太く一気に吐いた呼吸のその見事さ、厚朴醇美の貴格ある整正。次に一年してから、この花電車の詩の草稿が私の手に届けられた。


  アンリ・ルッソオの絵を見ると
  その場で
   固い心もなごやかになり頬も思わずほころびてしまう
   こんな平和をたゝえている絵はめずらしい
  こんな平和の気分をまき散らしている絵はない
  底なしの平和郷だ(平和郷)

 ルッソオはまたここへも出て来たのである。猛火の底をかい潜って出て来たこのルッソオは、花電車に乗ってゐるのだ。ちんちんちんと鳴って来るのは、何の音か。頓風おのづから起って消えていくところを見てゐると、

   「あの電車ウソ電車ね 乗れないんだもの」三歳のわが子が口走った(花電車)

 なるほどまだ誰も花電車にだけは乗ったものはないだらう。渡船場で、人を轢き殺して来た大群集のまん中を通るのは、かういう妙音でなければ渡れない。誰の前にも橋のない河は流れてゐる。三途の河が。望む平和郷は乗れないウソ電車の中にあるだけか。乗れ乗れ、介意ふこたアない、とこの運転手北川冬彦は言ってゐる。


  そら、動くぞ。ちんちんちん。
   レールの間の夏草どもは刎ね起きる。


底本:「日本の名随筆23 画」作品社
   1984(昭和59)年9月25日第1刷発行
   1991(平成3)年10月20日第12刷発行
底本の親本:「現代日本詩人全集 第八巻」創元社
   1954(昭和29)年1月発行
※北川冬彦詩集「花電車」に寄せられた文章です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※促音が小書きされているのは底本通りです。
入力:加藤恭子
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年5月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

横光利一

作家の生活—– 横光利一

 優れた作品を書く方法の一つとして、一日に一度は是非自分がその日のうちに死ぬと思うこと、とジッドはいったということであるが、一日に一度ではなくとも、三日に一度は私たちでもそのように思う癖がある。殊に子供を持つようになってからはなおさらそれが激しくなった。親としての作家と、作家としての作家と、区別はないようであるけれども、駄作を承認する襟度に一層の自信を持つようになったのは、親としての作家が混合して来た結果である場合によることが多いと思われる。人間が行動するとき、子のあるものと子のないものとの行為や精神には、非常な相違がある。この平凡な確実なことは、子のないときには理解ができても洞察の度合においてはるかに深度が違ってくる。この深度は作家の作品に影響しないはずがない。宇野浩二氏の『子の来歴』に一番打たれた人々も子のない人に多いのは、観賞に際してもあまりに曇りがなかったからに違いない。
 よく作家が寄ると、最後には、子供を不良少年にし、餓えさせてしまっても、まだ純創作をつづけなければならぬかどうかという問題へ落ちていく。ここへ来ると、皆だれでも黙ってしまって問題をそらしてしまうのが習慣であるが、この黙るところに、もっとものっぴきのならぬ難題が横たわっていると見てもよかろう。
 私は創作をするということは、作家の本業だとは思わない。作家の本業というのは、日々の生活に際して、態度を定めていくということだ。この態度から生れて来る創作というものは、その結果からにちがいはないとしても、創作をするという動作は、たしかに本業ではなくて副業である。創作することが副業であるなら、滅びようと滅びまいと、何かそこには覚悟が自ら生じていくにちがいないのである。私は自分の作品が自分の窮極をめざして作っていると思ったことは、かつて一度もまだなかった。私はその場所にいる自分の段階で、出来うるかぎり最善の努力を払えば良いと思っている。次ぎの日には、次ぎの日の段階が必ずなければ、時間というものは何のためのものでもない。
 私は作品を書く場合には、一つ進歩した作品を書けば、必ず一つは前へ戻って退歩した作品を書いてみる習慣をとっている。そうでなければ次ぎの進歩が分りかねるからであるが、昨年の夏、総持寺の管長の秋野孝道氏の禅の講話というのをふと見ていると、向上ということには進歩と退歩の二つがあって、進歩することだけでは向上にはならず、退歩を半面でしていなければ真の向上とはいいがたいという所に接し、私は自分の考えのあながち独断でなかったことに喜びを感じたことがあった。このようなことは、禅機に達することだとは思わないが、カルビン派のように、知識で信仰にはいろうとしなければならぬ近代作家の生活においては、孝道氏の考え方は迷いを退けるには何よりの近道ではないかと思う。
 他人のことは私は知らないが自分一人では、私は物事をどちらかというと観察しない方である。自然に眼にふれ耳にはいってくることの方を大切にしたいと思っている。観察をすると有効な場合はあるが、観察したことのために相手が変化をしてしまうので、もう自然な姿は見られない。殊に何ものよりも一番大切な人の顔がそうである。誰からも尊敬されているような人物よりも、誰からも軽蔑されている人物の方が正確に人をよく見ていることの多いのも、露骨に人はそのものの前で自分をだましてしまうからにちがいない。このようなところから考えても、ドストエフスキイが伯爵であるトルストイの作を評して、庶民というものをトルストイは知っていないと片づけたのも、トルストイにとっては致命的な痛さだったにちがいない。貴族のことを好んで書いたバルザックも誰か無名の貴族のものから、彼は貴族の生活というものを知っていないとやられている。
 しかし、何といっても、作家も人間である以上は、一人で一切の生活を通過するということは不可能なことであるから、何事をも正確に生き生きと書き得られるということは所詮それは夢想に同じであるが、私たちにしても作者の顔や過去を知っているときは、もうその作家の作物に対して殆ど大部分正確な批判は下せていない。殊に、作家の顔がその作物を読む場合に浮び出しては、おしまいである。田舎にいてまだ人に知られていない作者で、よく文壇を動かすことのあるとき、都会へ出て来ても依然として動かしつづけているとしたら、よほどまれなその者は人物だと見てもよいと思う。
 しかし結局、身辺小説といわれているものに優れた作品の多いことは事実であり、またしたがって当然でもあるが、私はたとい愚作であろうとかまわないから、出来得る限り身辺小説は書きたくないつもりである。理由といっては特に目立った何ものもない。ただ一番困難なことを私はやりたくてならぬ性質なのである。
 もちろん、身辺小説も困難なことにおいてはそう違わないと思うが、人それぞれの性質によって困難の対象は違うものとしなければならぬなら、私にとっての困難はやはり身辺小説だとは思えないので、こつこつやっているうちに幾らかはなろうと思っている。決心したことはまずやって見なければ、この道にはいってしまった以上は、もう仕方がない。
 しかし、幸いなことには私は、作品の上で成功しようと思う野望は他人よりは少い。いやむしろ、そんなものは希としては持っているだけで、成功などということはあろうとは思えないのである。これは前にも書いたことで今始めて書くことではないが、作品の上では、成功というような結構なものはありはしないと思っている。書く場合に書くことを頭に浮べて思うとき、いつも、これは自分にはどうしても書けるものではないと思う。しかし、もう一度考えて見ると、自分以外のものでもどんな大天才を昔から掘り起して来たところが、やはり書けない部分がそこにひそんでいることを感づいてくる。そうなると、作家というものはもう慎重な態度はとっていられるものではなくなってしまう。
 必ずそのときには悪魔か神かに突きあたってぶらぶらしてしまうより方法はないが、何かかけ声のようなものをかけ、一飛びに無理をそのまま捻ぢ倒してしまってふうふうという。つまりそのときは明らかに自分が負かされてしまっているのだ。それを明瞭に感じはするが、これもいかんとも私にはなし難い。理論はそういうときに、口惜しいけれども飛び出してしまう。書くときには疲れないが書けないときにはひどく疲れてへとへとになるのも、このときである。
 これは作家の生活を中心とした見方の一例にまで書くのであるが、『春琴抄』という谷崎氏の作品を読むときでも、私も人々のいうごとく立派な作品だと一応は感心したものの、やはりどうしても成功に対して誤魔化しがあるように思えてならぬのである。題材の持ち得る一番困難なところが一つも書いてはなくて、どうすれば成功するかという苦心の方が目立ってきて、完璧になっている。いいかえれば一番に失敗をしているのだ。佐助の眼を突く心理を少しも書かずに、あの作を救おうという大望の前で、作者の顔はこの誤魔化しをどうすれば通り抜けられるかと一身に考えふけっているところが見えてくるのである。
 佐藤春夫氏は極力作者に代って弁解されたが、あの氏の弁明は要するに弁明であって、自然はそんなことを赦すはずがないと思う。次ぎの『顔世』はあのような失敗の作である。もし佐藤氏の弁明が弁明でないなら、自作の顔世があのようなおどけた失敗はするものではない。もっと理由のある失敗をするはずである。一作は次ぎの一作とは全く独立はしているとしても、作者の意識というものは左様に都合よく独立し得られるものだとは私には思えない。『春琴抄』における眼を突く時間の早さについてうんぬんしたのも、私にはここに意見があったのである。
 ついでに宇野浩二氏の『子の来歴』についても一言生活としての例を挙げるとすると、この作も私は人々のいう如く感心をし、見上げた作品だと思ったが、しかし、この作品には、もっとも大切な親心のびくびくした感情というものは少しも出ていないように思われるのである。天界にはいったがためにびくつかないのなら、リアリズムの精神の深さというものは、いつでも天界へはいれる用意だけはしているものである。
 宇野浩二氏は親心のびくつく大切な心理を圧えることに用心をされたのではなく、不恰好にそれをださないことに用心をされたのであって、作者と作中人物とがここまで素早く身を躱して、眼にもとまらぬ早さである。この早さが私には受けとり難い。もっとはるかにのろのろすべきところであるにもかかわらず、それをすり変えた巧みさは作者の意識の悠々たる落ちつきとは度を違えて周章ている。
 しかし、このようなことは、作品の欠点とはならずに、すべて作者の制作中の意識作用から眺めた作品の見方で通用するものとは私も思っていない。作品批評をする場合には、もちろん、作品が中心であるのだから、こんなことはどうでもよさそうなものであるが、作家の生活というところに中心をおけばそのような箇所から見ることも、これもどうしようもないことである。作家生活をしているうえは、その生活から自然に物事を眺めるようになってくるので、ここから絶えず抜け出る工夫は躍起となってしているにもかかわらず、それが手っ取り早く出来るものではない。
 私小説はそれを克服して後始めて本格小説となるという河上徹太郎、小林秀雄両氏などの説も今の作家にとっては何よりの警告であったと思うが、そのようになるための方法としてでも私は制作をするということが本業ではなく副業であると見る見方をとらねばならぬと思っている。そのため、私一個人としては、先ずそこへ行きつくまでは私の作が愚作であろうが傑作であろうが少しも変りはしない。やはり同じ失敗の作で、成功というような見事な不自然なことは到底及びもつかない夢だと思う。もし傑作が出来ればまぐれ当りだ。私が何をしていくかという質問を出された前では、ただ自分は爆けていき、はみ出して行きたいと望んでいると答えるより、今のところ答弁は見つかりそうもない。
[#地から2字上げ](一九三四年四月)

底本:「世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集」平凡社
   1962(昭和37)年11月20日初版発行
   1963(昭和38)年8月15日再版
初出:初出誌不明
   1934(昭和9)年4月
入力:sogo
校正:noriko saito
2010年5月20日作成
2011年1月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

御身—– 横光利一

     一

末雄が本を見ていると母が尺《さし》を持って上って来た。
 「お前その着物をまだ着るかね。」
 「まだ着られるでしょう。」
 彼は自分の胸のあたりを見て、
 「何《な》ぜ?」と訊《き》き返《かえ》すと、母はやはり彼の着物を眺めながら、
 「赤子《あか》のお襁褓《むつ》にしようかと思うて。」と答えた。
 「赤子って誰の?」
 「姉さんに赤子が出来るのや。」母は何《な》ぜだか普通の顔をしていった。
 彼は姉にそんなことがあるのかと思うと、何ぜか顔が赧《あか》らんだ。しかし、全く嬉しくなった。
 「ほんとうか?」
 「もうその着物いらんやろ。代りのを作《こし》らえてあげるで解《ほど》こうな。」
 「ほんとうに出来るのか。」
 母は答えずにそのまま下へ降りてしまった。彼はちょっと腹が立った。が、その腹立たしさの中から微笑がはみ出るように浮んで来た。いくら顔をひき締めてみても駄目だった。
 彼と姉とは二人|姉弟《きょうだい》で、姉は六年前に人妻になっていた。それにまだ子供は一人もなかった。

     

 晴れた日、彼は山を越して姉のおりかの家へ行った。赤子のことを訊《き》くのが羞《はずか》しかったので黙って時々気付かれぬように姉の帯の下を見た。しかし、彼の眼では分らなかった。ただ何となく姉は生々としていた。姉は間もなく裏の山へ行こうといい出した。二人は山へ来ると蘚《こけ》の上へ足を投げ出して坐った。真下に湖が見えた。錆色《さびいろ》の帆が一点水平線の上にじっとしていた。深い下の谷間からは木を挽《ひ》く音が聞えて来た。
 「ボケを一本ひいて帰ろ。もう直《じ》き花が咲くえ。」
 姉はそういいながら立って雌松林《めまつばやし》の方へ登っていった。彼はひとり長々と仰向《あおむ》きに寝て空を見ていた。長い間姉と二人でこういう所へ来てこういう風に遊んだことはなかった。彼は姉がたいへんに好きであった。
 「こいつ、堅《かた》いわア。」と姉の声が頭の上でした。
 彼が振り返って姉の方を見ると、姉は丁度|躑躅《つつじ》をひき抜こうとしている両肱《りょうひじ》を下腹にあてがって後へ反《そ》り返《かえ》ろうとしている所であった。彼は姉の大切な腹の子供に気がついて跳ね起きた。
 「よせ。」
 彼は馳《か》けていって姉を押しのけると自分でその躑躅をひいてみた。根はなかなか堅かった。
 「堅いやろ。二人かかるとええわ。」
 そう姉はいってまた躑躅に手をかけようとした。
 「行こう行こう。」
 彼が姉の手を持ってもとの所へ戻ろうとすると、姉は未練そうに後を見返りながら、
 「もうじき綺麗《きれい》な花が咲くえ。あれ餅躑躅《もちつつじ》え。葉がねばねばするわ。ああしんど。」といった。
 彼は姉の下腹を窺《うかが》った。躑躅をひくときの姉の様子を浮かべると、肱で子供が潰《つぶ》されていそうに思えてならなかった。しかし、それをどうして吟味《ぎんみ》してよいものか分らなかった。姉に訊いてみることも羞しくて出来ないし、これは困ったことになったと彼は思った。
 姉は足もとの処でまた一本小さな躑躅を見つけると、
 「末っちゃん、これなら引けるえ。」といってその方へ寄りかけた。
 「うるさい。」と彼は叱った。
 「たまに来たのに一本ぐらい引いて帰らにゃもったいない。」
 「もう帰るんだ。」
 「もう帰るん?」姉は彼の顔を見ると、
 「何アんじゃ。」といって笑い出した。
 彼は黙ってさきになって歩いた。実際彼には姉の腹のことがひどく気になり出した。もうそれ以上遊ぶ気がしなくなった。
 「お腹すかないか。」
 と彼は不意に姉に訊いてみた。空《す》いていると答えれば、幾分か肱で腹の子供を押し潰したそれだけ空いているのだとそんな他愛もない考えから訊いたのだが、姉は空かないと答えた。しかし無論その答えだけでは承知が出来なかった。
 「俺《おれ》はちょっと腹が痛いんだ。姉さん処の昼の肴《さかな》が悪かったんじゃないかね。姉さんは?」
と彼は訊《たず》ねた。
 姉は顔を顰《しか》めるようにして彼を見ながら、
 「私《うち》どうもないえ、ひどう痛むの?」と訊き返した。
 姉も痛むといえばまた姉の腹部の子供に触《さわ》りが出来ているにちがいないという考えから、彼はそういうかけひきで訊いたのだった。ところが姉の腹は痛んでいなかった。少し安心が出来かけるとまた親の腹部の感覚と子供の感覚とは全く別物だと気がついた。親の腹が痛くなくとも子の身体は痛んでいるかも分らなかった。もう医者に姉の腹を見せるより仕方がないと彼は思った。しかし、見せるとすればまたどうしても一度は彼の心配の仕方を姉に話さなければならなかった。これが彼には羞しくて厄介《やっかい》だった。正式な結婚で姉は人妻になっているとはいえ、とにかくいずれ不行儀な結果から子供が産れて来たにちがいない以上、それをお互に感じ合う瞬間が彼にはいやであった。彼が黙っているので姉も黙っていた。
 「まだ痛い?」と姉は暫《しばら》くして訊いた。
 「もういいんだ。」
 「降りたら薬屋があるわ。小寺さんなら近いし。痛い?」
 小寺さんとは近くの医者の名であった。
 「もう癒《なお》ったよ。」と彼はいうと、
 「それでも診《み》てもろうておく方がええやないの。」と、今度は姉から彼に医者をすすめ出した。
 彼は聞かぬ振りをしてどしどしと山を下った。

     

 四月には彼は東京にいた。女の子が生れたという報知《しらせ》を姉の良人《おっと》から受け取ったのは五月であった。
 「しめた!」と彼は思った。そして、今まで誰にもいわずに隠《かく》していた不安は、全く馬鹿気たことだったのだと思って可笑《おか》しかった。
 「やっと叔父《おじ》さんになったぞ。」
 そう思うと彼は文句なしに人間が一段|豪《えら》くなったような気がした。

     

 六月に末雄は帰省した。彼は姉の家へ着くと直ぐ黙って上ろうとした。が、足が酷く汚れていたので膝《ひざ》で姪《めい》の寝ているらしい奥の間の方へ這《は》い出《だ》した。黄色い坐蒲団《ざぶとん》を円《まる》めたようなものが見えた。
(いるいる。小っぽけな奴だ。)
 彼はにたりと笑いながら姪の上へ蚊帳《かや》のように被《かぶ》さった。
(待て、こりゃ俺に似とるぞ。)
 彼は姪の唇を接吻した。つるつる滑《すべ》る乳臭い唇だ。姪は叔父を見ながら蝸牛《かたつむり》のような拳《こぶし》を銜《くわ》えようとして、ぎこちなく鼻の横へ擦《す》りつけた。
(こ奴《いつ》、俺そっくりじゃないか。)
 彼は不思議な気がすると、笑いながら、俺の子じゃないぞと思った。
(よし。一人増した!)
 彼は何かしらを賞《ほ》めてやりたかった。これこそ俺の味方だ、嘘《うそ》ではないぞ、と思った。
 姉のおりかは笑いながら晴れやかな顔をして縁側《えんがわ》から上って来た。
 「何時の汽車、二時?」
 「こ奴俺に似とるね。似てないかね。」
 おりかは娘を見下《みおろ》すと、黙って少し赧《あか》い顔をして肩から襷《たすき》をはずした。
 「ね、似とるよ、何っていう名だね?」
 「ゆきっていうの。」
 「ゆき?」
 「幸村《ゆきむら》の幸《ゆき》っていう字。」
 「さいわいか?」
 「そやそや。」
 「あんな字か、俺ちゃんと考えといてやったんだがな。辞引《じびき》ひっぱったのやろ?」
 「漢和何とかいうの引いたの。末っちゃんに考えてもらえって私《うち》いうたのやけど、義兄《にい》さんったらきかはらへんのや。いややなアそんな名?」
 「こりゃ可愛《かわい》い子だ。俺に似るとやっぱり美人だな。」
 「そうかしら、お風呂で芸者はんらがな、こんな可愛らし子どうして出来るのやろいうて取り合いしやはるのえ。」
 「いい子だよ。苦労するぜ姉さんは。」
 末雄は姉を見て笑うと、急に自分のませ[#「ませ」に傍点]た態度が不快になった。彼は立って井戸傍《いどばた》へ足を洗いに行った。それから疲れていたので姪の傍にくっついて寝たが、姉が見ていなかったので姪の手を引っぱったり鼻をつまんだりしてなかなか眠つかれなかった。

     

 彼は遠くで赤子の泣き声のしている夢を見て眼が醒《さ》めた。すると、傍で姪が縺《もつ》れた糸を解《ほど》くように両手を動かしながら泣いていた。
 「アッハ、アッハ、アッハ、アーッ。」
 そういう泣き方だ。彼は前に読んだ名高い作家の写生的な小説の中で、赤子の死ぬ前にそれと同じ泣き方をする描写があったのを思い出した。彼は不安な気がして姉を呼んだ。姉はいなかった。で、姪を抱き上げて左右に緩《ゆる》く揺《ゆす》ってやると直ぐ泣きやんだ。
 「死ぬのじゃなかった。」
 そう思って彼は静《しずか》に寝かしてやると、また、「アッハ、アッハ。」と泣き出した。彼はまた抱き上げた。するとやはり泣きやんだ。こんな同じことを辛抱強く四度ほど繰り返すうちに、もう彼は面倒臭くなって来て、身体に力を籠《こ》めながら欠伸《あくび》を大きくした。姪は腹のあたりを波立たせて、「アッハ、アッハ。」と泣いた。
 彼はいらいらして来た。が、姪はしきりに泣き続けた。
 「泣け泣け。」
 彼はじっと憎々しい気持ちで姪を眺めながらそういった。が、その中《うち》にもうとても溜《たま》らなくなって来た。彼は竊《そ》ッと姪の黄色な枕の下へ手を入れて彼女の頭を浮き上らせると、姪はぴたりと泣きやんだ。彼は姪を抱き上げてやる気はなかった。で、にたりと笑いながらまた静に手放すと、彼女は前より一層声を張り上げて全身の力で、「アッハ、アッハ、アッハ。」と泣き立てた。
 彼はうまい手を覚えたつもりでもう一度それを繰り返そうとした。が、ふと、幸子《ゆきこ》は生れて今初めて瞞《だま》されたのではなかろうかと思った。
(その最初の瞞し手がこの叔父だ。)
 そんな風に考えると、彼は自分のしたことがそう小さいことだとは思えなくなった。彼は姪を抱き起した。そして、謝罪の気持ちで姉が帰って来て乳を飲ませるまで抱き通してやった。

     

 次の日、山越しに彼は家へ帰った。
 「まア昨日《きのう》帰ると思うていたのえ。お寿司《すし》こしらえといたの腐ってしもうた。」
 そういって母は盥《たらい》に水をとってくれた。
 「昨日着いたんだけれど、一日姉さんとこの小女《こめ》と寝転んでいた、あの小女は可愛らしい顔をしてますね。」
 「それでもお臍《へそ》が大きいやろ。あんまり大き過ぎるので擦《す》れて血が出やへんかしら思うて、心配してるのやが、どうもなかったか?」
 「そうか、そんなに大きいのか。」
 彼は足を洗いながらある女流作家の書いた、『ほぞのお』という作の中で、嬰児《えいじ》の臍から血が出て死んでゆく所のあったのを想い出すとまた不安になって来た。
 「そんなことで死んだ子ってありますか?」
 「あるともな。」
 「死にゃせぬかなア。」
 母は黙っていた。
 「どうしたら癒《なお》るんだろう、お母さん知りませんか。」
 「私《うち》おりかに二銭丸《にせんだま》を綿で包んで臍の上へ載せて置けっていうといたんやが、まだしてたやろな?」
 「ちっとも見ない。」
 「そおか。う――んと気張ると、お前の胃みたいにごぼごぼお臍が鳴るのや。お前胃はもうちょっと良うなったかいな?」
 彼は足を洗ってしまったのに、まだ上《あが》り框《かまち》に腰を下したまま盥の水を眺めていた。暫《しばら》くして、
 「死にゃせぬかしら。」とまたいった。
 「どうや知らぬわさ。お前髪をシュウッととき付けたらええのに、痩《や》せて見えて。」
 母はちょっと眉を寄せてそういうと盥の水を捨てに裏の方へ行った。
 彼は気が沈みそうになると、
 「くそッ死ね!」といって一度背後へひっくり返ってから勢好く立ち上った。

     

 幸子の臍はその後だんだん堅まっていった。初め彼の見た時には、腹部を漸く包んだ皮膚の端を大きくひねって無雑作《むぞうさ》にまるめ込んだだけのように見えた。そして、彼女が泣く時臍は急に飛び出て腹全体が臍を頭としたヘルメットのような形になってごぼごぼ音を立てた。それはいつ内部の臓《はらわた》が露出せぬとも限らぬ極めて不安心な臍だった。それにおりかは割りに平気であった。ある時彼は姪の臍の上に二銭丸の載っていない所を見付けた。彼は自分の読んだ書物の中で、そのような臍は恐るべき命《いのち》とりだと医者がいっていたということを、巧妙な嘘を混じえて姉にいいきかして嚇《おど》かした。
 「そうかしら。」
 そう姉はいうとちょっと笑って、
 「死ぬものか、これ見な。」といって娘の臍をぽんと打った。
 「馬鹿。」と末雄は笑いながら睥《にら》んだ。
 するとおりかはまた二、三度続けさまに叩いてから、「ちょっと指を入れとおみ。」といった。
 彼はふと弄《いら》ってみる気になって、人差指で姪の臍の頭をソッと押してみた。指さきは何の支えも感じずに直ぐ一節《ひとふし》ほど臍の中に隠された。それ以上押せば何処《どこ》まででも這入《はい》りそうな気がしてゾッとすると、
 「いやだ。」といって手を引っこめた。
 しかしこんな不安は間もなくとれた。そして、或《あ》る日おりかは彼に幸子が笑い出したと嬉しそうにいった。
 見ているとなるはど時々幸子は笑った。それは何物が刺戟《しげき》を与えるのか解らない唐突《とうとつ》な微笑で、水面へ浮び上った泡のように直ぐ消えて平静になる微笑であった。しかしまたその微笑を見せられた者は、これは人生の中で最も貴重な装飾だと思わずにはいられない見事な微笑であった。

     

 夕暮、人の通らない電車道の傍で鶏《にわとり》にやるはこべ[#「はこべ」に傍点]を捜していると、男の子が一人石を蹴《け》りながら彼の方へ来た。彼はその子の家に黒い暖簾《のれん》が下っていたのを思い出して、誰が死んだのかと訊いた。男の子は黙っていた。
 「だれが死んだのや。」
 ともう一度訊くと、
 「赤子《あか》や。」と答えた。
 「ふむ赤子か、どうして死んだ?」
 すると男の子は羞しそうな顔をして馳《か》け出《だ》そうとした。彼は男の子の手首を素早く握った。
 「なアどうしてだ、うむ、いったら豪《えら》いぞ。」
 が、男の子はやはり答えずに彼の握った手を振り放そうとして口を歪《ゆが》めた。
 彼は少し恐い顔をして手首を放した。男の子は逃げもせずそろそろと電車道まで来ると、レールの上へ跨《また》がって腰を下ろした。
 彼はその方を向かないようにして草の中に蹲《しゃが》んでいると、男の子は向うから、
 「教えてやろうか、なア?」といい出した。
 「アア教えてくれ、どうして死んだんだ?」
 男の子は硝子《ガラス》の破片でレールの錆《さび》を落しながら暫く黙っていてから、
 「いやや。」とまたいった。
 彼は男の子を黙って見詰めていた。すると、
 「お母アが乳で殺さはったんや。」とその子はいった。
 「乳でってどうしてだ?」
 「あのな、昼寝してて殺さはったんや。」
 彼には全く何のことだか解らなかったので子供の顔を見続けていた。男の子は何《な》ぜだか眩《まぶ》しそうな顔をしてちょっと彼を見上げると、急に向うの方へ馳け出した。
 暫くして彼は、男の子の母親が赤子に添い寝をしていて乳房《ちぶさ》で鼻孔《びこう》を閉塞《へいそく》させたのだと近所の人から教わった。そんな殺し方は彼には初耳だった。が、なるほどと思った。それから急に彼は姉の乳房が気になり出した。
 次の日彼は姉の家へ出かけて行くと直ぐそのことを話した。
 「そりゃ死ぬわさ。ようあることや。」と姉はいった。
 「知ってたのか。」
 「そんなこと知らんでどうする、末っちゃんは私《あて》を子供見たいに思うてるのやな。何んでも知ってるえ私《うち》ら。」
 そういって姉は笑った。彼は少し安心が出来た。が、その直ぐ後で姉は、幸子と三日違いに生れた隣家の赤子が三日前に肺炎で亡くなったということや、久吉の友人の赤子も今肺炎にかかっていてもう医者に手を放されたということを話した。
 「やれやれ。」と彼は思った。生き続けて大きくなってゆくということは、よほどむずかしいことのように思われて気が重苦しくなってしまった。
 二、三日してから彼は上京した。上京する時ちょっと姉の家へ寄ると、久吉の友人の赤子がとうとう死んだと聞いた。彼は淋しくなった。縁側に立っていると、隣家から赤子の回向《えこう》の鉦《かね》の音が聞えて来た。初秋の涼しい夜だ。すると、
 「昔|丹波《たんば》の大江山《おおえやま》。」と子供の歌う声がして、急に鉦はそれと調子を合せて早く叩かれた。
 「阿呆《あほ》やな。」と直ぐ母親らしい叱る声がした。
 彼がこちらで笑い出すと、おりかも何処か暗い処で笑い出した。

     

 次の春の休暇に帰って彼が姉の家へ着いた時、幸子は彼の母の膝の上で、一枚の新聞を両手で三度に引き破っている所だった。
 「ソラ。」
 彼は玩具《おもちゃ》の包みを炬燵《こたつ》の上へ置くと、自分も母や姉のように蒲団《ふとん》の中へ足を入れた。母は包みを解いて中からセルロイドの人形を出した。
 「そうれユウちゃん。兄さんがな。」
 「兄さんやない叔父さんやはなア。」と姉は幸子を見ていった。
 「アそかそか、叔父さんがな、遠い所でこんなにええ物|買《こ》うて来ておくれはった。アーええこと、ソーラ。」
 彼の母が人形を差し出すと幸子は祖母の顔と人形とを暫《しばら》く交《かわ》り番《ばん》こに眺めていてから、そろそろと人形の方へ手を出した。
 「あの顔。」といっておりかは笑った。そして、自分でまた別の猿の頭をゴムで作った小さい玩具を出して幸子の鼻の前へ持っていった。
 「そうれユウちゃん、こんどは猿《えて》さん。」
 するとおりかは猿の頭を押したと見えて、猿の口から細長い袋になっている赤い舌が飛び出した。幸子は眼をパチパチさせて反《そ》り返《かえ》ったが、頭が母の胸で止《と》められると眼をつむって横を向いてしまった。皆が笑った。が、彼は疲れていたのでひとり恐《こわ》い顔をして、
 「大きゅうなったね。」と一口言った。
 「そう、大きゅうなってる? お母さん、ユウが大きゅうなったって。」
 と姉は傍にいる母にいってきかせた。
 「そりゃ大きゅうなってるわさ。」
 「そうかしら、ちっとも大きゅうなったように見えやへんけど、傍にいるでやな。」と姉は嬉しそうにいった。

     

 二、三日して前《さき》に日向《ひゅうが》へ行っている彼の父から母に早く来いといって来た。母は孫の傍から離れてゆくのを厭《いや》がったがとうとう行くことになった。
 出発の時、汽車の窓から首を出している彼女の前には、久吉とおりかと、おりかの肩から顔を出している幸子とそれから彼とが並んで立っていた。彼も皆も今別れれば何日《いつ》また会えるか解らなかった。
 汽車が動き出した。
 「バーゆうちゃん、バーア、行って来るえ。バーア。」
 彼の母は孫の顔ばかりを見ていた。彼はもう母が自分の方を向くか向くかと待っていた。
 おりかは片肩を歪めて幸子を前へ突き出すようにしたが、幸子は口を開いて汽車の動くのを眺めていた。
 「バーア、ゆうちゃんゆうちゃん、バーア、行って来るえ、バーア。」
 遂々《とうとう》母は彼の方を一度も見なかった。汽車が見えなくなると、彼は姉夫婦から離れて前《さき》に急いで改札口から外へ出た。子よりも孫の方が可愛いらしい、そう思うと、その日一日彼は塞《ふさ》いでいた。

     十一

 休暇が終ると彼は上京した。その前日去年生れた赤子の種痘《しゅとう》を近日するという印刷物が姉の家へも配られた。久吉とおりかは別に掛り医の所でさそうといっていたが、彼はそれさえも出来ることならさせたくなかった。何となく姪が汚なくなるような気がしたからだ。
 二週間ほどして、姉から末雄の所へ来た手紙の中に、幸子は種痘してから五日にもなるがまだ熱がひかないので弱っているということが書いてあった。子供に種痘をすれば暫く熱が出ること位彼も知っていたが、それは五日も続くものだろうか、何か他の病気になったのではなかろうかとそんな掛念《けねん》が起って来た。姉の手紙の書き方が彼の想像を限定させないので彼は困った。そして、直ぐ容子《ようす》を訊き返した手紙の中に是非返事を直ぐ呉《く》れるようにと書いて出した。が、返事は四日たっても来なかった。彼は外から帰って来る度《たび》に手紙が来ていないかと女中に訊いた。外へ出ている時にも、返事がもう来ているだろうと思うと急に下宿へ引き返した。が、返事は一週間たっても来なかった。彼は腹を立てて、
 「どうにでもなれ。」という気を出そうと強《し》いてつとめてみた。が、絶えず何かに脅《おびや》かされているような気持ちでまた一週間待った。その夜姉から手紙が来た。それは所々|塗抹《ぬりつぶ》された粗雑な文字で、
 「幸子は種痘から丹毒《たんどく》になりましたが、漸く片腕一本で生命が助かりました。」
 とただそれだけが書いてあった。
 彼は片腕を切断された幸子が、壊れた玩具のように畳の上でごろごろ転っている容子《ようす》を頭に浮かべると、対象の解らない怒りが込み上げて来た。彼はペンをとって葉書へ、
 「幸子を姉さんのような不注意者に与《あず》けて置いたということが、こんな罪悪を造ってしまったのだ。」
 と書いた。書いている中《うち》に涙が出て来て、インクを次ぐ時壺の中へうまくペンのさきが嵌《は》まらなかった。
 彼はその葉書を持って外へ出た。
 「とうとうやって来た。」
 彼は自分を始終脅かしていた物の正体を明瞭に見たような気持ちがした。その形が彼の前に現れたなら必死になってとり組んでやると思った。不思議な暴力が湧《わ》いて来たがしかしどうとも仕様《しよう》がなかった。その中に幸子の大きくなってから一生彼女の心を苦しめる不幸を思うと、もう彼は暗い小路の中に立ち停ってしまった。
 「俺の妻にしてやろう。」
 ふと彼はそんなことを考えると、自分と姪の年の差を計ってみた。それから、自分の顔と能力とを他人に批《くら》べた。
 「何アに、俺に不足があるものか、必ず幸福にしてみせるぞ。他人の誰よりも俺は愛してやる。よしッ、何アに。」
 彼はまた歩き出した。が、壊れ人形のような姪の姿がちらちらするとまた涙が出て来た。
 「罪悪だ、実に馬鹿にしている、罪悪だ!」
 彼は何か出張《でば》った石の頭に蹉《つまず》いて踉《よろ》けた。
 「糞《くそ》ッ!」と彼は怒鳴《どな》った。
 蕎麦屋《そばや》の小僧が頭に器物《うつわもの》を載せて彼の方へ来た。彼はその器物を突き落とそうとして睥《にら》みながら小僧の方へ詰め寄っている自分を感じた。小僧は眼脂《めやに》をつけた眼で笑いながら、
 「ヤーイ。」というと彼の方へ片足をあげた。
 彼は素通りした。三間《さんげん》ほども行き過ぎてから、器物を落とされたときの間の抜けた顔をしている小僧が浮ぶと、彼は唐突に吹き出して笑った。と、笑いながら酔漢《よっぱらい》のように身体を自由にぐらぐらさせて歩きたくなって来た。自棄酒《やけざけ》を飲みたくなった。
 片腕のとれた姪を見る気がしなかったので、もう彼は直ぐ来る夏の休みにも帰るまいと思った。そして、日向の父にそのことを報《し》らせると、父からは直ぐ返事が来て、幸子が腕を切断したというのは何かの間違いだろう、心配することはない、と書いてあった。すると偶然その日義兄の久吉からも手紙が来て、幸子も毒が片腕に廻っただけで身体へ来なかったため一命は助かり、今では元のように健全に這《は》い廻《まわ》っていると書いてあった。
 彼は直ぐペンをとると、手紙を粗雑に書くのもほどがあるというような意味の怒った手紙を姉に書き始めた。が、それも力抜けがして中途で止《よ》してしまった。彼は重味のとれた怠惰《たいだ》な気持ちでぼんやり庭の白躑躅《しろつつじ》を眺めていた。それから暫くたった時、今日はうまい物を腹いっぱい食べて銭《かね》を費《つか》ってしまってやろうと思った。寿司《すし》が第一に眼についた。
 彼は下宿を出た。が、気持ちがせかせかして周章《あわ》ててばかりいた。人が一といっている時自分が二といっているようだ。何か禍《あやま》ちをしそうな気がした。

     十二

 休暇になると彼は直ぐ姉の処へ帰った。
 幸子は一人|表《おもて》の間《ま》の格子《こうし》の桟《さん》を両手で握ってごとごと揺《ゆす》っていた。彼女は二つだ。
 「ゆき、帰ったぞ。」
 彼が音高く姪の前へどんと坐った。姪は恐《こ》わそうな顔をして一つ桟を向うへ渡った。
 彼は自分の長い頭の髪が恐く見えるのだと思ったので、帽子《ぼうし》を深く冠《かぶ》って髪を隠すと前へいざり出た。
 「こりゃ、さア来い。」
 すると幸《ゆき》は少し周章《あわ》ててまた二つ三つ桟を向うへ渡ってから彼の方を振り向いた。
 「うむ? 何んだい。」
 彼が立って抱こうとすると、姪は桟を持ったまま叩かれた蝉《せみ》のように不意に泣き出した。彼はぼんやりとしてしまった。

     十三

 休暇中の彼の仕事は殆《ほとん》ど幸子の見張りのために費された。無論それは誰からも命令《いいつ》けられた役目ではなかった。しかしそれにもかかわらず、幸子は不思議なほど彼に懐《なつ》かなかった。彼は顔をいろいろ歪《ゆが》めて彼女を笑わせたり、やり過ぎるほど菓子をやったりしたあとで、もういいだろうと思って恐《こ》わ恐《ご》わ「御身よ御身よ。」といいながら彼女の手を握る。すると、幸子は直ぐ「ふん、ふん。」と鼻を鳴らせて手を引いた。そんな時彼は淋しい気がした。何か子供の直感で醜さを匂《におい》のように嗅《か》ぎつけているのではないかと恐れることもあった。
 「俺はなるほどいけない奴だ、だけど俺はお前が可愛《かわい》くっての。」
 彼はそんなことを口の中でいいながら抱きたい気持ちを我慢していた。が、時々衝動的に抱きたくなることがあった。
 ある時いやがる姪を無理に膝の上へ抱きあげた。姪は初めの間|反《そ》り返《かえ》って鼻を鳴らしていた。彼はそれをも関《かま》わずだんだん力を籠《こ》めて抱きすくめてゆくと泣き出した。が、放してやれば直ぐ泣き止むらしい泣き方だったので放さないでいると、いよいよ悠長な本泣《ほんな》きに変ってきた。彼は前へ押し出してやった。幸はいかにも恐ろしい手から逃がれでもするように急いで遠くまで這い出してから、裸体《はだか》の膝頭《ひざがしら》を二つ並べたませ[#「ませ」に傍点]た格好に坐っていつまでも泣いていた。彼はもう一度抱いてやるぞという意を示してどっと身体を動かすと、彼女は泣き声を一層張って周章《あわ》てて後へすざった。
(俺のどこがそんなに嫌いなのだろう、それに何《な》ぜ此奴《こいつ》がこんなに可愛いのだろう。)
 彼は直ぐ友達へ出す葉書にこう書いた。
 「愛という曲者《くせもの》にとりつかれたが最後、実にみじめだ。何ぜかというと、われわれはその報酬を常に計算している。しかしそれを計算しなくてはいられないのだ。そして、何故計算しなくてはならないかという理由も解らずに、しかも計算せずにはいられない人間の不必要な奇妙な性質《たち》の中に、愛はがっしりと坐っている。帳場《ちょうば》の番頭《ばんとう》だ。そうではないか?」
 とにかく彼は幸子に触れずに終日見張りをしていなければならなかった。この仕事はなかなか神経を疲らせた。そうかといって、姉が彼の番を信用して溜っているいろいろの仕事にかかっている以上彼は姪を抛《ほ》っておくわけにはいかなかった。うかうか本に読み耽《ふけ》っているともう彼女は母を捜そうとして壁を伝いながら危険な腰つきで縁側《えんがわ》や上《あが》り框《かまち》の端へ行き、「ばア、ばア。」といいながら見えない向うの庭の方を覗《のぞ》こうとする。すると、彼は泣くのもかまわず室《へや》の中へ連れて来る。また出る。また連れ込む。こんなことを一日に幾回となく繰り返す。全く彼は幸子と一緒にいると遊ぶことも出来なければ、自分の仕事も出来なかった。ただ彼女の見える室の中に坐っていらいらしながらぼんやりしているより仕方がなかった。時々それが耐えられなくなると、彼は声を張り上げて幸子の周囲を躍《おど》りながら呼吸の続く限り馳け廻った。すると幸子は意味の通じぬことを口走って上機嫌になる。彼がへとへとになって仰向きに倒れて、「アーア。」というと、彼女も同じように彼の横へ寝転んで、「アー。」という。しかし彼が少しでも手を触れると直ぐ泣き顔をして口をとがらして起き上る。
 「御身よ、御身よ。」彼はただそういって見ているより仕方がなかった。
 彼は姉の家を去る時、もう此処《ここ》へは帰るまいと思った。

     十四

 しかし、次の夏またやはり彼は姉の処へ帰ってしまった。彼が姉の家へ着いた時誰もいなかったので、一人茶の間に寝転んで本を見ていた。暫《しば》くすると姉が帰って来て、幸子を背から下ろした。
 彼はいきなり[#「いきなり」に傍点]幸福を感じた。
 「そうら、あれ、誰あれ?」と姉はいって彼を指差した。
 幸子は顔を顰《しか》めて、彼を見ながらだんだん後へ退《さが》ってゆくと、上《あが》り框《かまち》から落ちかけようとして手を拡げた。
 「危《あぶな》い。」とおりかはいって幸子を受けた。
 「知らんのかお前、あれ叔父ちゃんえ。」
 幸子はおりかの肩へ手を置いてやはり彼を眺めていた。
 「お前忘れんぼやな、あれ叔父ちゃん。」
 「叔父《おい》ちゃん。」と幸子は真似た。
 彼は何ぜだか羞《はずか》しい気がした。黙って笑っていると、幸子はくるりと向うをむいて母親の襟《えり》の間へ顔を擦《す》り寄《よ》せた。

     十五

 彼は自分の幸子に対する愛情の種類を時々考えて、
 「俺は恋をしてるんだ。」とまじめに思うことがあった。
 彼のせめてもの望みは、幸子を一度、ただの一度でいいしっかりと抱いてやる、そして、彼女はぴったりと彼に抱かれることだった。更にそれ以上の慾をいえば、いつでも彼の欲する時に彼女が彼に抱かれることだった。実際彼はこのことに苦しめられた。しかし、彼の受けた愛の報酬もやはり前の夏の休暇と同じように冷《つめ》たいものであった。彼は幸子を憎く感じる日がだんだん増して来た。
 「幸子はなぜ俺に抱かれないのだろう。」
 と彼は姉に訊《たず》ねた時、姉は、
 「お前あらっぽいからや。」とひと口でいった。
 しかしそんなことではなさそうだった。が、幸子は彼以外の男にはそう親しみのない者にでも温和《おとな》しく自分を抱かせる所から見ると、あるいはそうであるかもしれないとも思った。とにかく幸子の一番嫌いな者はこの叔父であるらしかった。そして、叔父の一番好きな者は幸子であった。
 「俺はもう幸《ゆき》の守《もり》はこりこりだぞ。俺が傍にいるからと思って安心されると困るよ。殊に俺のような男は信用されればされるほどお人好しになるからな。だけどもう知らないぞ、うるさい。」
 こんな前置きをいっておいてもやはりおりかは彼を信用して仕事をした。信用されると彼もその気で愚痴《ぐち》をいいながら幸子の守をした。そして、彼女に触《さわ》らないようにと欲望を耐えて、いろいろ顔を歪めたり逆立ちをしたりして、幸子を笑わそうと自分の自尊心を傷つけた。彼女が笑うと、彼はいよいよ乗り気になって赤い顔をしながら本気に犬の真似をしたり、坂道を昇る自転車乗りのペタルを踏む真似をしたりしてはしゃいだ。が、途中で急に彼は不気嫌になって黙ってしまった。すると、幸子はひとり首を振り振りペタルを踏む真似をして、「チンチンチン。」といいながら室《へや》の中を馳け廻った。彼女にとっては、この叔父さんは全く壁に等しい代物《しろもの》であるらしかった。
 「今に見ろ。」そう彼は幸子を見て独《ひと》り言《ごと》をいった。

底本:岩波文庫「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷
   1997(平成9)年5月15日第23刷
入力:大野晋
校正:しず
1999年7月9日公開
2000年4月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

機械—– 横光利一

 初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。観察しているとまだ三つにもならない彼の子供が彼をいやがるからといって親父をいやがる法があるかといって怒っている。畳の上をよちよち歩いているその子供がばったり倒れるといきなり自分の細君を殴りつけながらお前が番をしていて子供を倒すということがあるかという。見ているとまるで喜劇だが本人がそれで正気だから反対にこれは狂人ではないのかと思うのだ。少し子供が泣きやむともう直ぐ子供を抱きかかえて部屋の中を馳け廻っている四十男。この主人はそんなに子供のことばかりにかけてそうかというとそうではなく、凡そ何事にでもそれほどな無邪気さを持っているので自然に細君がこの家の中心になって来ているのだ。家の中の運転が細君を中心にして来ると細君系の人々がそれだけのびのびとなって来るのももっともなことなのだ。従ってどちらかというと主人の方に関係のある私はこの家の仕事のうちで一番人のいやがることばかりを引き受けねばならぬ結果になっていく。いやな仕事、それは全くいやな仕事でしかもそのいやな部分を誰か一人がいつもしていなければ家全体の生活が廻らぬという中心的な部分に私がいるので実は家の中心が細君にはなく私にあるのだがそんなことをいったっていやな仕事をする奴は使い道のない奴だからこそだとばかり思っている人間の集りだから黙っているより仕方がないと思っていた。全く使い道のない人間というものは誰にも出来かねる箇所だけに不思議に使い道のあるもので、このネームプレート製造所でもいろいろな薬品を使用せねばならぬ仕事の中で私の仕事だけは特に劇薬ばかりで満ちていて、わざわざ使い道のない人間を落し込む穴のように出来上っているのである。この穴へ落ち込むと金属を腐蝕させる塩化鉄で衣類や皮膚がだんだん役に立たなくなり、臭素の刺戟で咽喉を破壊し夜の睡眠がとれなくなるばかりではなく頭脳の組織が変化して来て視力さえも薄れて来る。こんな危険な穴の中へは有用な人間が落ち込む筈がないのであるが、この家の主人も若いときに人の出来ないこの仕事を覚え込んだのも恐らく私のように使い道のない人間だったからにちがいないのだ。しかし、私とてもいつまでもここで片輪になるために愚図ついていたのでは勿論ない。実は私は九州の造船所から出て来たのだがふと途中の汽車の中で一人の婦人に逢ったのがこの生活の初めなのだ。婦人はもう五十歳あまりになっていて主人に死なれ家もなければ子供もないので東京の親戚の所で暫く厄介になってから下宿屋でも初めるのだという。それなら私も職でも見つかればあなたの下宿へ厄介になりたいと冗談のつもりでいうと、それでは自分のこれから行く親戚へ自分といってそこの仕事を手伝わないかとすすめてくれた。私もまだどこへ勤めるあてとてもないときだしひとつはその婦人の上品な言葉や姿を信用する気になってそのままふらりと婦人と一緒にここの仕事場へ流れ込んで来たのである。すると、ここの仕事は初めは見た目は楽だがだんだん薬品が労働力を根柢から奪っていくということに気がついた。それで明日は出よう今日は出ようと思っているうちにふと今迄辛抱したからにはそれではひとつここの仕事の急所を全部覚え込んでからにしようという気にもなって来て自分で危険な仕事の部分に近づくことに興味を持とうとつとめ出した。ところが私と一緒に働いているここの職人の軽部は私がこの家の仕事の秘密を盗みに這入《はい》って来たどこかの間者だと思い込んだのだ。彼は主人の細君の実家の隣家から来ている男なので何事にでも自由がきくだけにそれだけ主家が第一で、よくある忠実な下僕になりすましてみることが道楽なのだ。彼は私が棚の毒薬を手に取って眺めているともう眼を光らせて私を見詰めている。私が暗室の前をうろついているともうかたかたと音を立てて自分がここから見ているぞと知らせてくれる。全く私にとっては馬鹿馬鹿しい事だが、それでも軽部にしては真剣なんだから無気味である。彼にとっては活動写真が人生最高の教科書で従って探偵劇が彼には現実とどこも変らぬものに見えているので、このふらりと這入って来た私がそういう彼にはまた好箇の探偵物の材料になって迫っているのも事実なのだ。殊に軽部は一生この家に勤める決心なばかりではない。ここの分家としてやがては一人でネームプレート製造所を起そうと思っているだけに自分よりさきに主人の考案した赤色プレート製法の秘密を私に奪われてしまうことは本望ではないにちがいない。しかし、私にしてみればただこの仕事を覚え込んでおくだけでそれで生涯の活計を立てようなどとは謀《たくら》んでいるのでは決してないのだが、そんなことをいったって軽部には分るものでもなし、また私がこの仕事を覚え込んでしまったならあるいはひょっこりそれで生計を立てていかぬとも限らぬし、いずれにしても軽部なんかが何を思おうとただ彼をいらいらさせてみるのも彼に人間修養をさせてやるだけだとぐらいに思っておればそれで良ろしい、そう思った私はまるで軽部を眼中におかずにいると、その間に彼の私に対する敵意は急速な調子で進んでいてこの馬鹿がと思っていたのも実は馬鹿なればこそこれは案外馬鹿にはならぬと思わしめるようにまでなって来た。人間は敵でもないのに人から敵だと思われることはその期間相手を馬鹿にしていられるだけ何となく楽しみなものであるが、その楽しみが実はこちらの空隙になっていることにはなかなか気附かぬもので私が何の気もなく椅子を動かしたり断裁機を廻したりしかけると不意に金槌が頭の上から落《おっこ》って来たり、地金の真鍮板が積み重ったまま足もとへ崩れて来たり安全なニスとエーテルの混合液のザボンがいつの間にか危険な重クロムサンの酸液と入れ換えられていたりしているのが初めの間はこちらの過失だとばかり思っていたのにそれが尽く軽部の為業《しわざ》だと気附いた時には考えれば考えるほどこれは油断をしていると生命まで狙われているのではないかと思われて来てひやりとさせられるようにまでなって来た。殊に軽部は馬鹿は馬鹿でも私よりも先輩で劇薬の調合にかけては腕があり、お茶に入れておいた重クロム酸アンモニアを相手が飲んで死んでも自殺になるぐらいのことは知っているのだ。私は御飯を食べる時でもそれから当分の間は黄色な物が眼につくとそれが重クロムサンではないかと思われて箸がその方へ動かなかったが、私のそんな警戒心も暫くすると自分ながら滑稽になって来てそう手容《たやす》く殺されるものなら殺されてもみようと思うようにもなり自然に軽部の事などはまた私の頭から去っていった。
 或る日私は仕事場で仕事をしていると主婦が来て主人が地金を買いにいくのだから私も一緒について行って主人の金銭を絶えず私が持っていてくれるようにという。それは主人は金銭を持つと殆ど必ず途中で落してしまうので主婦の気使いは主人に金銭を渡さぬことが第一であったのだ。いままでのこの家の悲劇の大部分も実にこの馬鹿げたことばかりなんだがそれにしてもどうしてこんなにここの主人は金銭を落すのか誰にも分らない。落してしまったものはいくら叱ったって嚇したって返って来るものでもなし、それだからって汗水たらして皆が働いたものを一人の神経の弛みのために尽く水の泡にされてしまってそのまま泣き寝入に黙っているわけにもいかず、それが一度や二度ならともかく始終持ったら落すということの方が確実だというのだからこの家の活動も自然に鍛錬のされ方が普通の家とはどこか違って生長して来ているにちがいないのだ。いったい私達は金銭を持ったら落すという四十男をそんなに想像することは出来ない。譬えば財布を細君が紐でしっかり首から懐へ吊しておいてもそれでも中の金銭だけはちゃんといつも落してあるというのであるが、それなら主人は金を財布から出すときか入れるときかに落すにちがいないとしてみてもそれにしても第一そう度々落す以上は今度は落すかもしれぬからと三度に一度は出すときや入れるときに気附く筈だ。それを気附けば事実はそんなにも落さないのではないかと思われて考えようによってはこれは或いは金銭の支払いを延ばすための細君の手ではないかとも一度は思うが、しかし間もなくあまりにも変っている主人の挙動のために細君の宣伝もいつの間にか事実だと思ってしまわねばならぬほど、とにかく、主人は変っている。金を金とも思わぬという言葉は富者に対する形容だがここの主人の貧しさは五銭の白銅を握って銭湯の暖簾をくぐる程度に拘らず、困っているものには自分の家の地金を買う金銭まで遣ってしまって忘れている。こういうのをこそ昔は仙人といったのであろう。しかし、仙人と一緒にいるものは絶えずはらはらして生きていかねばならぬのだ。家のことを何一つ任かしておけないばかりではない、一人で済ませる用事も二人がかりで出かけたりその一人のいるために周囲の者の労力がどれほど無駄に費されているか分らぬのだが、しかしそれはそうにちがいないとしてもこの主人のいるいないによって得意先のこの家に対する人気の相異は格段の変化を生じて来る。恐らくここの家は主人のために人から憎まれたことがないにちがいなく主人を縛る細君の締りがたとい悪評を立てたとしたところでそんなにも好人物の主人が細君に縛られて小さく忍んでいる様子というものはまた自然に滑稽な風味があって喜ばれ勝ちなものでもあり、その細君の睨みの留守に脱兎のごとく脱け出してはすっかり金銭を振り撒いて帰って来る男というのもこれまた一層の人気を立てる材料になるばかりなのだ。
 そんな風に考えるとこの家の中心は矢張り細君にもなく私や軽部にもない自ら主人にあるといわねばならなくなって来て私の傭人根性が丸出しになり出すのだが、どこから見たって主人が私には好きなんだから仕様がない。実際私の家の主人はせいぜい五つになった男の子をそのまま四十に持って来た所を想像すると浮んで来る。私たちはそんな男を思うと全く馬鹿馬鹿しくて軽蔑したくなりそうなものにも拘らずそれが見ていて軽蔑出来ぬというのも、つまりはあんまり自分のいつの間にか成長して来た年齢の醜さが逆に鮮かに浮んで来てその自身の姿に打たれるからだ。こんな自分への反射は私に限らず軽部にだって常に同じ作用をしていたと見えて、後で気附いたことだが、軽部が私への反感も所詮はこの主人を守ろうとする軽部の善良な心の部分の働きからであったのだ。私がここの家から放れがたなく感じるのも主人のそのこの上もない善良さからであり、軽部が私の頭の上から金槌を落したりするのも主人のその善良さのためだとすると、善良なんていうことは昔から案外良い働きをして来なかったにちがいない。
 さてその日主人と私は地金を買いにいって戻って来るとその途中主人は私に今日はこういう話があったといっていうには自分の家の赤色プレートの製法を五万円で売ってくれというのだが売って良いものかどうだろうかと訊くので、私もそれには答えられずに黙っていると赤色プレートもいつまでも誰れにも考案されないものならともかくもう仲間達が必死にこっそり研究しているので製法を売るなら今の中だという。それもそうだろうと思っても主人の長い苦心の結果の研究を私がとやかくいう権利もなしそうかといって主人ひとりに任しておいては主人はいつの間にか細君のいうままになりそうだし、細君というものはまた目さきのことだけより考えないに決っているのを思うと私もどうかして主人のためになるようにとそればかりがそれからの不思議に私の興味の中心になって来た。家にいても家の中の動きや物品が尽く私の整理を待たねばならぬかのように映り出して来て軽部までがまるで私の家来のように見えて来たのは良いとしても、暇さえあれば覚えて来た弁士の声色ばかり唸っている彼の様子までがうるさくなった。しかし、それから間もなく反対に軽部の眼がまた激しく私の動作に敏感になって来て仕事場にいるときは殆ど私から眼を放さなくなったのを感じ出した。思うに軽部は主人の仕事の最近の経過や赤色プレートの特許権に関する話を主婦から聞かされたにちがいないのだが、主婦まで軽部に私を監視せよといいつけたのかどうかは私には分らなかった。しかし、私までが主婦や軽部がいまにもしかするとこっそり主人の仕事の秘密を盗み出して売るのではないかと思われて幾分の監視さえする気持ちになったところから見てさえも、主婦や軽部が私を同様に疑う気持ちはそんなに誤魔化していられるものではない。そこで私もそれらの疑いを抱く視線に見られると不快は不快でも何となく面白くひとつどうすることか図々しくこちらも逆に監視を続けてやろうという気になって来て困り出した。丁度そういうときまた主人は私に主人の続けている新しい研究の話をしていうには、自分は地金を塩化鉄で腐蝕させずにそのまま黒色を出す方法を長らく研究しているのだがいまだに思わしくいかないのでお前も暇なとき自分と一緒にやってみてくれないかというのである。私はいかに主人がお人好しだからといってそんな重大なことを他人に洩して良いものであろうかどうかと思いながらも、全く私が根から信用されたこのことに対しては感謝をせずにはおれないのだ。いったい人というものは信用されてしまったらもうこちらの負けで、だから主人はいつでも周囲の者に勝ち続けているのであろうと一度は思ってみても、そう主人のように底抜けな馬鹿さにはなかなかなれるものではなく、そこがつまりは主人の豪いという理由になるのであろうと思って私も主人の研究の手助けなら出来るだけのことはさせて貰いたいと心底から礼を述べたのだが、人に心底から礼を述べさせるということを一度でもしてみたいと思うようになったのもそのときからだ。だが、私の主人は他人にどうこうされようなどとそんなけちな考えなどはないのだからまた一層私の頭を下げさせるのだ。つまり私は暗示にかかった信徒みたいに主人の肉体から出て来る光りに射抜かれてしまったわけだ。奇蹟などというものは向うが奇蹟を行うのではなく自身の醜さが奇蹟を行うのにちがいない。それからというものは全く私も軽部のように何より主人が第一になり始め、主人を左右している細君の何に彼に反感をさえ感じて来て、どうしてこういう婦人がこの立派な主人を独専して良いものか疑わしくなったばかりではなく出来ることならこの主人から細君を追放してみたく思うことさえときどきあるのを考えても軽部が私に虐《つら》くあたってくる気持ちが手にとるように分って来て、彼を見ていると自然に自分を見ているようでますますまたそんなことにまで興味が湧いて来るのである。
 或る日主人が私を暗室へ呼び込んだので這入っていくと、アニリンをかけた真鍮の地金をアルコールランプの上で熱しながらいきなり説明していうには、プレートの色を変化させるには何んでも熱するときの変化に一番注意しなければならない、いまはこの地金は紫色をしているがこれが黒褐色となりやがて黒色となるともうすでにこの地金が次の試練の場合に塩化鉄に敗けて役に立たなくなる約束をしているのだから、着色の工夫は総て色の変化の中段においてなさるべきだと教えておいて、私にその場でバーニングの試験を出来る限り多くの薬品を使用してやってみよという。それからの私は化合物と元素の有機関係を験べることにますます興味を向けていったのだが、これは興味を持てば持つほど今迄知らなかった無機物内の微妙な有機的運動の急所を読みとることが出来て来て、いかなる小さなことにも機械のような法則が係数となって実体を計っていることに気附き出した私の唯心的な眼醒めの第一歩となって来た。しかし軽部は前まで誰も這入ることを許されなかった暗室の中へ自由に這入り出した私に気がつくと、私を見る顔色までが変って来た。あんなに早くから一にも主人二にも主人と思って来た軽部にも拘らず新参の私に許されたことが彼に許されないのだからいままでの私への彼の警戒も何の役にも立たなくなったばかりではない、うっかりすると彼の地位さえ私が自由に左右し出すのかもしれぬと思ったにちがいないのだ。だから私は幾分彼に遠慮すべきだというぐらいは分っていても何もそういちいち軽部軽部と彼の眼の色ばかりを気使わねばならぬほどの人でもなし、いつものように軽部の奴いったいいまにどんなことをし出すかとそんなことの方が却って興味が出て来てなかなか同情なんかする気にもなれないので、そのまま頭から見降ろすように知らぬ顔を続けていた。すると、よくよく軽部も腹が立ったと見えてあるとき軽部の使っていた穴ほぎ用のペルスを私が使おうとすると急に見えなくなったので君がいまさきまで使っていたではないかというと、使っていたってなくなるものはなくなるのだ、なければ見附かるまで自分で捜せば良いではないかと軽部はいう。それもそうだと思って、私はペルスを自分で捜し続けたのだがどうしても見附からないのでそこでふと私は軽部のポケットを見るとそこにちゃんとあったので黙って取り出そうとすると、他人のポケットへ無断で手を入れる奴があるかという。他人のポケットはポケットでもこの作業場にいる間は誰のポケットだって同じことだというと、そういう考えを持っている奴だからこそ主人の仕事だって図々しく盗めるのだという。いったい主人の仕事をいつ盗んだか、主人の仕事を手伝うということが主人の仕事を盗むことなら君だって主人の仕事を盗んでいるのではないかといってやると、彼は暫く黙ってぶるぶる唇をふるわせてから急に私にこの家を出ていけと迫り出した。それで私も出るには出るがもう暫く主人の研究が進んでからでも出ないと主人に対してすまないというと、それなら自分が先きに出るという。それでは君は主人を困らせるばかりで何にもならぬから私が出るまで出ないようにするべきだといってきかせてやっても、それでも頑固に出るという。それでは仕方がないから出ていくよう、後は私が二人分を引き受けようというと、いきなり軽部は傍にあったカルシュームの粉末を私の顔に投げつけた。実は私は自分が悪いということを百も承知しているのだが悪というものは何といったって面白い。軽部の善良な心がいらだちながら慄えているのをそんなにもまざまざと眼前で見せつけられると、私はますます舌舐めずりをして落ちついて来るのである。これではならぬと思いながら軽部の心の少しでも休まるようにと仕向けてはみるのだが、だいいち初めから軽部を相手にしていなかったのが悪いので彼が怒れば怒るほどこちらが恐わそうにびくびくしていくということは余程の人物でなければ出来るものではない。どうもつまらぬ人間ほど相手を怒らすことに骨を折るもので、私も軽部が怒れば怒るほど自分のつまらなさを計っているような気がして来て終いには自分の感情の置き場がなくなって来始め、ますます軽部にはどうして良いのか分らなくなって来た。全く私はこのときほどはっきりと自分を持てあましたことはない。まるで心は肉体と一緒にぴったりとくっついたまま存在とはよくも名付けたと思えるほど心がただ黙々と身体の大きさに従って存在しているだけなのだ。暫くして私はそのまま暗室へ這入ると仕かけておいた着色用のビスムチルを沈澱さすため、試験管をとってクロム酸加里を焼き始めたのだが軽部にとってはそれがまたいけなかったのだ。私が自由に暗室へ這入るということがすでに軽部の怨みを買った原因だったのにさんざん彼を怒らせた揚げ句の果に直ぐまた私が暗室へ這入ったのだから彼の逆上したのももっともなことである。彼は暗室のドアを開けると私の首を持ったまま引き摺り出して床の上へ投げつけた。私は投げつけられたようにして殆ど自分から倒れる気持ちで倒れたのだが、私のようなものを困らせるのには全くそのように暴力だけよりないのであろう。軽部は私が試験管の中のクロム酸加里がこぼれたかどうかと見ている間、どうしたものか一度|周章《あわ》てて部屋の中を駈け廻ってそれからまた私の前へ戻って来ると、駈け廻ったことが何の役にもたたなかったと見えてただ彼は私を睨みつけているだけなのである。しかしもし私が少しでも動けば彼は手持ち無沙汰のため私を蹴りつけるにちがいないと思ったので私はそのままいつまでも倒れていたのだが、切迫したいくらかの時間でもいったい自分は何をしているのだと思ったが最後もうぼんやりと間の脱けてしまうもので、ましてこちらは相手を一度思うさま怒らさねば駄目だと思っているときとてもう相手もすっかり気の向くまで怒ってしまった頃であろうと思うとつい私も落ちついてやれやれという気になり、どれほど軽部の奴がさきから暴れたのかと思ってあたりを見廻すと一番ひどく暴《あら》されているのは私の顔でカルシウムがざらざらしたまま唇から耳へまで這入っているのに気がついた。が、さて私はいつ起き上って良いものかそれが分らぬ。私は断裁機からこぼれて私の鼻の先にうず高く積み上っているアルミニュームの輝いた断面を眺めながらよくまア三日の間にこれだけの仕事が自分に出来たと驚いた。それで軽部にもうつまらぬ争いはやめて早くニュームにザボンを塗ろうではないかというと、軽部はもうそんな仕事はしたくはないのだ、それよりお前の顔を磨いてやろうといって横たわっている私の顔をアルミニュームの切片で埋め出し、その上から私の頭を洗うように揺り続けるのだが、街に並んだ家々の戸口に番号をつけて貼りつけられたあの小さなネームプレートの山で磨かれている自分の顔を想像すると、所詮は何が恐ろしいといって暴力ほど恐るべきものはないと思った。ニュームの角が揺れる度に顔面の皺や窪んだ骨に刺さってちくちくするだけではない。乾いたばかりの漆が顔にへばりついたまま放れないのだからやがて顔も膨れ上るにちがいないのだ。私ももうそれだけの暴力を黙って受けておれば軽部への義務も果したように思ったので起き上るとまた暗室の中へ這入ろうとした。すると軽部はまた私のその腕をもって背中へ捻じ上げ、窓の傍まで押して来ると私の頭を窓硝子へぶちあてながら顔をガラスの突片で切ろうとした。もうやめるであろうと思っているのに予想とは反対にそんな風にいつまでも追って来られると、今度はこの暴力がいつまで続くのであろうかと思い出していくものだ。しかしそうなればこちらもたとえ悪いとは思っても謝罪する気なんかはなくなるばかりでいままで隙があれば仲直りをしようと思っていた表情さえますます苦々しくふくれて来て更に次の暴力を誘う動因を作り出すだけとなった。が、実は軽部ももう怒る気はそんなになくただ仕方がないので怒っているだけだということは分っているのだ。それで私は軽部が私を窓の傍から劇薬の這入っている腐蝕用のバットの傍まで連れていくと、急に軽部の方へ向き返って、君は私をそんなに虐《いじ》めるのは君の勝手だが私がいままで暗室の中でしていた実験は他人のまだしたことのない実験なので、もし成功すれば主人がどれほど利益を得るかしれないのだ。君はそれも私にさせないばかりか苦心の末に作ったビスムチルの溶液までこぼしてしまったではないか、拾え、というと軽部はそれなら何ぜ自分にもそれを一緒にさせないのだという。させるもさせないもないだいたい化学方程式さえ読めない者に実験を手伝わせたって邪魔になるだけなのだが、そんなこともいえないので少しいやみだと思ったが暗室へ連れていって化学方程式を細く書いたノートを見せて説明し、これらの数字に従って元素を組み合せてはやり直してばかりいる仕事が君に面白いならこれから毎日でも私に変ってして貰おうというと、軽部は初めてそれから私に負け始めた。
 軽部との争いも当分の間は起らなくなって私もいくらか前よりいやすくなると暫くして、仕事が急激に軽部と私に増して来た。ある市役所からその全町のネームプレート五万枚を十日の間にせよといって来たので喜んだのは主婦だが私たちはそのため殆ど夜さえ眠れなくなるのは分っているのだ。それで主人は同業の友人の製作所から手のすいた職人を一人借りて来て私たちの中へ混えながら仕事を始めることにした。初めの間は私たちは何の気もなくただ仕事の量に圧倒されてしまって働いていたのだが、そのうちに新しく這入って来た職人の屋敷という男の様子が何となく私の注意をひき始めた。無器用な手つきといい人を見るときの鋭い眼つきといい職人らしくはしているがこれは職人ではなくてもしかしたら製作所の秘密を盗みに来た廻し者ではないかと思ったのだ。しかし、そんなことを口にでも出して饒舌《しゃべ》ったら軽部は屋敷をどんな目に逢わすかしれないので暫く黙って彼の様子を見ていることにしていると、屋敷の注意はいつも軽部の槽《バット》の揺り方にそそがれているのを私は発見した。屋敷の仕事は真鍮の地金をカセイソーダの溶液中に入れて軽部のすませて来た塩化鉄の腐蝕薬と一緒にそのとき用いたニスやグリューを洗い落す役目なのだが、軽部の仕事の部分はここの製作所の二番目の特長の部分なので、他の製作所では真似することは出来ないのだからそこに見入る屋敷とて当然なことは当然だとしても疑っているときのこととてその当然なことがなお一層疑わしい原因になるのである。しかし、軽部は屋敷に見入られているとますます得意になって調子をとりつつ槽《バット》の中の塩化鉄の溶液を揺するのだ。いつものことなら私を疑り出したように軽部とて一応は屋敷を疑わねばならぬ筈だのにそれが事もあろうか軽部は屋敷に槽《バット》の揺り方を説明して、地金に書かれた文字というものはいつもこうしてうつ伏せにするもので、すべて金属というものは金属それ自身の重みのために負けるのだから文字以外の部分はそれだけ早く塩化鉄に侵されて腐っていくのだと誰に聞いたものやらむずかしい口調で説明して屋敷に一度バットを揺すってみよとまでいう。私は初めはひやひやしながら黙って軽部の饒舌っていることを聞いていたのだがしまいには私は私で誰がどんな仕事の秘密を知ろうと知らせるだけ良いのではないかと思い出し、それからはもう屋敷への警戒もしないことに定めてしまったが、すべて秘密というものはその部分に働く者の慢心から洩れるのだと気がついたのはそのときの何よりの私の収穫であったであろう。それにしても軽部がそんなにうまく秘密を饒舌ったのも彼のそのときの調子に乗った慢心だけではない、確に彼にそんなにも饒舌らせた屋敷の風※[#「たてぼう」に三、第3水準1-14-6、364-11]《ふうぼう》が軽部の心をそのとき浮き上らせてしまったのにちがいないのだ。屋敷の眼光は鋭いがそれが柔ぐと相手の心を分裂させてしまう不思議な魅力を持っているのである。その彼の魅力は絶えず私へも言葉をいう度に迫って来るのだが何にせよ私はあまりに急がしくて朝早くから瓦斯で熱した真鍮へ漆を塗りつけては乾かしたり重クロムサンアンモニアで塗りつめた金属板を日光に曝して感光させたりアニリンをかけてみたり、その他バーニングから炭とぎからアモアピカルから断裁までくるくる廻ってし続けねばならぬので屋敷の魅力も何もあったものではないのである。すると五日目頃の夜中になってふと私が眼を醒すとまだ夜業を続けていた筈の屋敷が暗室から出て来て主婦の部屋の方へ這入っていった。今頃主婦の部屋へ何の用があるのであろうと思っているうちに惜しいことにはもう私は仕事の疲れで眠ってしまった。翌朝また眼を醒すと私に浮んで来た第一のことは昨夜の屋敷の様子であった。しかし、困ったことには考えているうちにそれは私の夢であったのか現実であったのか全く分らなくなって来たことだ。疲れているときには今までとてもときどき私にはそんなことがあったのでなおこの度の屋敷のことも私の夢かもしれないと思えるのだ。しかし、屋敷が暗室へ這入った理由は想像出来なくはないが主婦の部屋へ這入っていった彼の理由は私には分らない。まさか屋敷と主婦とが私たちには分らぬ深い所で前から交渉を持ち続けていたとは思えないのだしこれは夢だと思っている方が確実であろうと思っていると、その日の正午になって不意に主人が細君に昨夜何か変ったことがなかったかと笑いながら訊ね出した。すると細君は、お金をとったのはあなただぐらいのことはいくら寝坊の私だって知っているのだ。盗《と》るのならもっと上手にとって貰いたいと澄ましていうと主人は一層大きな声で面白そうに笑い続けた。それでは昨夜主婦の部屋へ這入っていったのは屋敷ではなく主人だったのかと気がついたのだがいくらいつも金銭を持たされないからといって夜中自分の細君の枕もとの財布を狙って忍び込む主人も主人だと思いながら私もおかしくなり、暗室から出て来たのもそれではあなたかと主人に訊くと、いやそれは知らぬと主人はいう。では暗室から出て来たのだけは矢張り屋敷であろうかそれともその部分だけは夢なのであろうかとまた私は迷い出した。しかし、主婦の部屋へ這入り込んだ男が屋敷でなくて主人だということだけは確に現実だったのだから暗室から出て来た屋敷の姿も全然夢だとばかりも思えなくなって来て、一度消えた屋敷への疑いも反対にまただんだん深くすすんで来た。しかし、そういう疑いというものはひとり疑っていたのでは結局自分自身を疑っていくだけなので何の役にもたたなくなるのは分っているのだ。それより直接屋敷に訊ねて見れば分るのだが、もし訊ねてそれが本当に屋敷だったら屋敷の困るのも決っている。この場合私が屋敷を困らしてみたところで別に私の得になるではなしといって捨てておくには事件は興味があり過ぎて惜しいのだ。だいいち暗室の中には私の苦心を重ねた蒼鉛と珪酸ジルコニウムの化合物や、主人の得意とする無定形セレニウムの赤色塗の秘法が化学方程式となって隠されているのである。それを知られてしまえばここの製作所にとっては莫大な損失であるばかりではない、私にしたっていままでの秘密は秘密ではなくなって生活の面白さがなくなるのだ。向うが秘密を盗もうとするならこちらはそれを隠したってかまわぬであろう。と思うと私は屋敷を一途に賊のように疑っていってみようと決心した。前には私は軽部からそのように疑われたのだが今度は自分が他人を疑う番になったのを感じると、あのとき軽部をその間馬鹿にしていた面白さを思い出してやがては私も屋敷に絶えずあんな面白さを感じさすのであろうかとそんなことまで考えながら、一度は人から馬鹿にされてもみなければとも思い直したりしていよいよ屋敷へ注意をそそいでいった。ところが屋敷は屋敷で私の眼が光り出したと気附いたのであろうか、それから殆ど私と視線を合さなくてすませる方向ばかりに向き始めた。あまり今から窮屈な思いをさせては却って今の中に屋敷を逃がしてしまいそうだしするので、なるだけのんきにしなければならぬと柔いでみるのだが眼というものは不思議なもので、同じ認識の高さでうろついている視線というものは一度合すると底まで同時に貫き合うのだ。そこで私はアモアピカルで真鍮を磨きながらよもやまの話をすすめ、眼だけで彼にも方程式は盗んだかと訊いてみると向うは向うでまだまだと応《こた》えるかのように光って来る。それでは早く盗めば良いではないかというとお前にそれを知られては時間がかかってしょうがないという。ところが俺の方程式は今の所まだ間違いだらけで盗《と》ったって何の役にも立たぬぞというとそれなら俺が見て直してやろうという。そういう風に暫く屋敷と私は仕事をしながら私自身の頭の中で黙って会話を続けているうちにだんだん私は一家のうちの誰よりも屋敷に親しみを感じ出した。前に軽部を有頂天にさせて秘密を饒舌らせてしまった彼の魅力が私へも次第に乗り移って来始めたのだ。私は屋敷と新聞を分け合って読んでいても共通の話題になると意見がいつも一致して進んでいく。化学の話になっても理解の速度や遅度が拮抗しながら滑めらかに辷《すべ》っていく。政治に関する見識でも社会に対する希望でも同じである。ただ私と彼との相違している所は他人の発明を盗み込もうとする不道徳な行為に関しての見解だけだ。だが、それとて彼には彼の解釈の仕方があって発明方法を盗むということは文化の進歩にとっては別に不道徳なことではないと思っているにちがいない。実際、方法を盗むということは盗まぬ者より良い行為をしているのかもしれぬのだ。現に主人の発明方法を暗室の中で隠《かく》そうと努力している私と盗もうと努力している屋敷とを比較してみると屋敷の行為の方がそれだけ社会にとっては役立つことをしている結果になっていく。それを思うとそうしてそんな風に私に思わしめて来た屋敷を思うと、なおますます私には屋敷が親しく見え出すのだが、そうかといって私は主人の創始した無定形セレニウムに関する染色方法だけは知らしたくはないのである。それ故絶えず一番屋敷と仲好くなった私が屋敷の邪魔もまた自然に誰より一番し続けているわけにもなっているのだ。
 あるとき私は屋敷に自分がここへ這入って来た当時軽部から間者だと疑われて危険な目に逢わされたことを話してみた。すると屋敷はそれなら軽部が自分にそういうことをまだしない所から察すると多分君を疑って懲り懲りしたからであろうと笑いながらいって、しかしそれだから君は僕を早くから疑う習慣をつけたのだと彼は揶揄《からか》った。それでは君は私から疑われたとそれほど早く気附くからには君も這入って来るなり私から疑われることに対してそれほど警戒する練習が出来ていたわけだと私がいうと、それはそうだと彼はいった。しかし、彼がそれはそうだといったのは自分は方法を盗みに来たのが目的だといったのと同様なのにも拘らず、それをそういう大胆さには私とて驚かざるを得ないのだ。もしかすると彼は私を見抜いていて、彼がそういえば私は驚いてしまって彼を忽ち尊敬するにちがいないと思っているのではないかと思われて、此奴《こいつ》、と暫く屋敷を見詰めていたのだが、屋敷は屋敷でもう次の表情に移ってしまって上から逆に冠《かぶ》さって来ながら、こんな製作所へこういう風に這入って来るとよく自分たちは腹に一物あっての仕事のように思われ勝ちなものであるが君も勿論知ってのとおりそんなことなんかなかなかわれわれには出来るものではなく、しかし弁解がましいことをいい出してはこれはまた一層おかしくなって困るので仕方がないから人々の思うように思わせて働くばかりだといって、一番困るのは君のように痛くもない所を刺して来る眼つきの人のいることだと私をひやかした。そういわれると私だってもう彼から痛いところを刺されているので彼も丁度いつも今の私のように私から絶えずちくちくやられたのであろうと同情しながら、そういうことをいつもいっていなければならぬ仕事なんかさぞ面白くはなかろうと私がいうと、屋敷は急に雁首を立てたように私を見詰めてからふッふと笑って自分の顔を濁してしまった。それから私はもう屋敷が何を謀《たくら》んでいようと捨てておいた。多分屋敷ほどの男のことだから他人の家の暗室へ一度這入れば見る必要のある重要なことはすっかり見てしまったにちがいないのだし、見てしまった以上は殺害することも出来ない限り見られ損になるだけでどうしようも追っつくものではないのである。私としてはただ今はこういう優れた男と偶然こんな所で出逢ったということを寧ろ感謝すべきなのであろう。いや、それより私も彼のように出来得る限り主人の愛情を利用して今の中に仕事の秘密を盗み込んでしまう方が良いのであろうとまで思い出した。それで私は彼にあるときもう自分もここに長くいるつもりはないのだがここを出てからどこか良い口はないかと訊ねてみた。すると彼はそれは自分の訊ねたいことだがそんなことまで君と自分とが似ているようでは君だって豪そうなこともいっていられないではないかという。それで私は君がそういうのももっともだがこれは何も君をひっかけてとやこうと君の心理を掘り出すためではなく、却って私は君を尊敬しているのでこれから実は弟子にでもして貰うつもりで頼むのだというと、弟子かと彼は一言いって軽蔑したように苦笑していたが、俄に真面目になると一度私に、周囲が一町四方全く草木の枯れている塩化鉄の工場へ行って見て来るよう万事がそれからだという。何がそれからなのか私には分らないが屋敷が私を見た最初から私を馬鹿にしていた彼の態度の原因がちらりとそこから見えたように思われると、いったいこの男はどこまで私を馬鹿にしていたのか底が見えなくなって来てだんだん彼が無気味になると同時に、それなら屋敷をひとつこちらから軽蔑してかかってやろうとも思い出したのだが、それがなかなか一度彼に魅せられてしまってからはどうも思うように薬がきかなくただ滑稽になるだけで、優れた男の前に出るとこうもこっちが惨めにじりじり修業をさせられるものかと歎かわしくなってくるばかりなのである。ところが、急がしい市役所の仕事が漸く片附きかけた頃のこと、或る日軽部は急に屋敷を仕事場の断裁機の下へ捻じ伏せてしきりに白状せよ白状せよと迫っているのだ。思うに屋敷はこっそり暗室へ這入ったところを軽部に見附けられたのであろうが私が仕事場へ這入っていったときは丁度軽部が押しつけた屋敷の上へ馬乗りになって後頭部を殴りつけているところであった。とうとうやられたなと私は思ったが別に屋敷を助けてやろうという気が起らないばかりではない。日頃尊敬していた男が暴力に逢うとどんな態度をとるものかとまるでユダのような好奇心が湧いて来て冷淡にじっと歪む屋敷の顔を眺めていた。屋敷は床の上へ流れ出したニスの中へ片頬を浸したまま起き上ろうとして慄えているのだが、軽部の膝骨が屋敷の背中を突き伏せる度毎にまた直ぐべたべたと崩れてしまって着物の捲れあがった太った赤裸の両足を不恰好に床の上で藻掻かせているだけなのだ。私は屋敷が軽部に少なからず抵抗しているのを見ると馬鹿馬鹿しくなったがそれより尊敬している男が苦痛のために醜い顔をしているのは心の醜さを表しているのと同様なように思われて不快になって困り出した。私が軽部の暴力を腹立たしく感じたのもつまりはわざわざ他人にそんな醜い顔をさせる無礼さに対してなので、実は軽部の腕力に対してではない。しかし、軽部は相手が醜い顔をしようがしまいがそんなことに頓着しているものではなくますます上から首を締めつけて殴り続けるのである。私はしまいに黙って他人の苦痛を傍で見ているという自身の行為が正当なものかどうかと疑い出したが、そのじっとしている私の位置から少しでも動いてどちらかへ私が荷担をすればなお私の正当さはなくなるようにも思われるのだ。それにしてもあれほど醜い顔をし続けながらまだ白状しない屋敷を思うといったい屋敷は暗室から何か確実に盗みとったのであろうかどうかと思われて、今度は屋敷の混乱している顔面の皺から彼の秘密を読みとることに苦心し始めた。彼は突っ伏しながらも時々私の顔を見るのだが彼と視線を合わす度に私は彼へだんだん勢力を与えるためにやにや軽蔑したように笑ってやると、彼もそれには参ったらしく急に奮然とし始めて軽部を上から転がそうとするのだが軽部の強いということにはどうしようもない、ただ屋敷は奮然とする度に強くどしどし殴られていくだけなのだ。しかし、私から見ていると私に笑われて奮然とするような屋敷がだいいいちもうぼろ[#「ぼろ」に傍点]を見せたので困ったどん詰りというものは人は動けば動くほどぼろ[#「ぼろ」に傍点]を出すものらしく、屋敷を見ながら笑う私もいつの間にかすっかり彼を軽蔑してしまって笑うことも出来なくなったのもつまりは彼が何の役にも立たぬときに動いたからなのだ。それで私は屋敷とて別にわれわれと変った人物でもなく平凡な男だと知ると、軽部にもう殴ることなんかやめて口でいえば足りるではないかといってやると、軽部は私を埋めたときのようにまた屋敷の頭の上から真鍮板の切片をひっ冠せて一蹴り蹴りつけながら、立てという。屋敷は立ち上るとまだ何か軽部にせられるものと思ったのか恐わそうにじりじり後方の壁へ背中をつけて軽部の姿勢を防ぎながら、暗室へ這入ったのは地金の裏のグリューがカセイソーダでは取れなかったらアンモニアを捜しにいったのだと早口にいう。しかし、アンモニアが入用なら何ぜいわぬか、ネームプレート製作所にとって暗室ほど大切な所はないことぐらい誰だって知っているではないかといってまた軽部は殴り出した。私は屋敷の弁解が出鱈目だとは分っていたが殴る軽部の掌の音があまり激しいのでもう殴るのだけはやめるが良いというと、軽部は急に私の方を振り返って、それでは二人は共謀かという。だいたい共謀かどうかこういうことは考えれば分るではないかと私はいおうとしてふと考えると、なるほどこれは共謀だと思われないことはないばかりではなくひょっとすると事実は共謀でなくとも共謀と同じ行為であることに気がついた。全く屋敷に悠々と暗室へなど入れさしておいて主人の仕事の秘密を盗まぬ自身の方が却って悪い行為をしていると思っている私である以上は共謀と同じ行為であるにちがいないので、幾分どきりと胸を刺された思いになりかけたのをわざと図太く構え共謀であろうとなかろうとそれだけ人を殴ればもう十分であろうというと今度は軽部は私にかかって来て、私の顎を突き突きそれでは貴様が屋敷を暗室へ入れたのであろうという。私は最早や軽部がどんなに私を殴ろうとそんなことよりも今まで殴られていた屋敷の眼前で彼の罪を引き受けて殴られてやる方が屋敷にこれを見よというかのようで全く晴れ晴れとして気持ちが良いのだ。しかし私はそうして軽部に殴られているうちに今度は不思議にも軽部と私とが示し合せて彼に殴らせてでもいるようでまるで反対に軽部と私とが共謀して打った芝居みたいに思われだすと、却ってこんなにも殴られて平然としていては屋敷に共謀だと思われはすまいかと懸念され始め、ふと屋敷の方を見ると彼は殴られたものが二人であることに満足したものらしく急に元気になって、君、殴れ、というと同時に軽部の背後から彼の頭を続けさまに殴り出した。すると、私も別に腹は立ててはいないのだが今迄殴られていた痛さのために殴り返す運動が愉快になってぽかぽかと軽部の頭を殴ってみた。軽部は前後から殴り出されると主力を屋敷に向けて彼を蹴りつけようとしたので私は軽部を背後へ引いて邪魔をすると、その暇に屋敷は軽部を押し倒して馬乗りになってまた殴り続けた。私は屋敷のそんなにも元気になったのに驚いたが幾分私が理由もなく殴られたので私が腹を立てて彼と一緒に軽部に向ってかかっていくにちがいないと思ったからであろう。しかし、私はもうそれ以上は軽部に復讐する要もないのでまた黙って殴られている軽部を見ていると軽部は直ぐ苦もなく屋敷をひっくり返して上になって反対に彼を前より一層激しく殴り出した。そうなると屋敷は一番最初と同じことでどうすることも出来ないのだ。だが、軽部は暫く屋敷を殴っていてから私が背後から彼を襲うだろうと思ったのか急に立上ると私に向かって突っかかって来た。軽部と一人同志の殴り合いなら私が負けるに決っているのでまた私は黙って屋敷の起き上って来るまで殴らせてやると、起き上って来た屋敷は不意に軽部を殴らずに私を殴り出した。一人でも困るのに二人一緒に来られては私ももう仕方がないので床の上に倒れたまま二人のするままにさせてやったが、しかし私はさきからそれほどもいったい悪行をして来たのであろうか。私は両腕で頭をかかえてまん丸くなりながら私のしたことが二人から殴られねばならぬそれほども悪いかどうか考えた。なるほど私は事件の起り始めたときから二人にとっては意表外の行為ばかりをし続けていたにちがいない。しかし、私以外の二人も私にとっては意外なことばかりをしたではないか。だいいち私は屋敷から殴られる理由はない。たとえ私が屋敷と一緒に軽部にかからなかったからとはいえ私をもそんなときにかからせてやろうなどと思った屋敷自身が馬鹿なのだ。そう思ってはみても結局二人から、同時に殴られなかったのは屋敷だけで一番殴られるべき責任のある筈の彼が一番うまいことをしたのだから私も彼を一度殴り返すぐらいのことはしても良いのだがとにかくもうそのときはぐったり私たちは疲れていた。実際私たちのこの馬鹿馬鹿しい格闘も原因は屋敷が暗室へ這入ったことからだとはいえ五万枚のネームプレートを短時日の間に仕上げた疲労がより大きな原因になっていたに決まっているのだ。殊に真鍮を腐蝕させるときの塩化鉄の塩素はそれが多量に続いて出れば出るほど神経を疲労させるばかりではなく人間の理性をさえ混乱させてしまうのだ。その癖本能だけはますます身体の中で明瞭に性質を表して来るのだからこのネームプレート製造所で起る事件に腹を立てたりしていてはきりがないのだがそれにしても屋敷に殴られたことだけは相手が屋敷であるだけに私は忘れることは出来ない。私を殴った屋敷は私にどういう態度をとるであろうか、彼の出方でひとつ彼を赤面させてやろうと思っているといつ終ったとも分らずに終った事件の後で屋敷がいうにはどうもあのとき君を殴ったのは悪いと思ったが君をあのとき殴らなければいつまで軽部に自分が殴られるかもしれなかったから事件に終りをつけるために君を殴らせて貰ったのだ、赦してくれという。実際私も気附かなかったのだがあのとき一番悪くない私が二人から殴られなかったなら事件はまだまだ続いていたにちがいないのだ。それでは私はまだ矢っ張りこんなときにも屋敷の盗みを守っていたのかと思って苦笑するより仕方がなくなりせっかく屋敷を赤面させてやろうと思っていた楽しみも失ってしまってますます屋敷の優れた智謀に驚かされるばかりとなったので、私も忌々しくなって来て屋敷にそんなにうまく君が私を使ったからには暗室の方も定めしうまくいったのであろうというと、彼は彼で手馴れたもので君までそんなことをいうようでは軽部が私を殴るのだって当然だ、軽部に火を点けたのは君ではないのかといって笑ってのけるのだ。なるほどそういわれれば軽部に火を点けたのは私だと思われたって弁解の仕様もないのでこれはひょっとすると屋敷が私を殴ったのも私と軽部が共謀したからだと思ったのではなかろうかとも思われ出し、いったい本当はどちらがどんな風に私を思っているのかますます私には分らなくなり出した。しかし事実がそんなに不明瞭な中で屋敷も軽部も二人ながらそれぞれ私を疑っているということだけは明瞭なのだ。だがこの私ひとりにとって明瞭なこともどこまでが現実として明瞭なことなのかどこでどうして計ることが出来るのであろう。それにも拘らず私たちの間には一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを押し進めてくれているのである。そうして私達は互に疑い合いながらも翌日になれば全部の仕事が出来上って楽々となることを予想し、その仕上げた賃金を貰うことの楽しみのためにもう疲労も争いも忘れてその日の仕事を終えてしまうと、いよいよ翌日となってまた誰もが全く予想しなかった新しい出来事に逢わねばならなかった。それは主人が私たちの仕上げた製作品とひき換えに受け取って来た金額全部を帰りの途に落してしまったことである。全く私たちの夜の目もろくろく眠らずにした労力は何の役にも立たなくなったのだ。しかも金を受け取りにいった主人と一緒に私をこの家へ紹介してくれた主人の姉があらかじめ主人が金を落すであろうと予想してついていったというのだから、このことだけは予想に違わず事件は進行していたのにちがいないが、ふと久し振りに大金を儲けた楽しさからたとえ一瞬の間でも良い儲けた金額を持ってみたいと主人がいったのでつい油断をして同情してしまい、主人に暫くの間その金を持たしたのだという。その間に一つの欠陥がこれも確実な機械のように働いていたのである。勿論落した金額がもう一度出て来るなどと思っている者はいないから警察へ届けはしたものの一家はもう青ざめ切ってしまって言葉などいうものは誰もなく、私たちは私たちで賃金も貰うことが出来ないのだから一時に疲れが出て来て仕事場に寝そべったまま動こうともしないのだ。軽部は手当り次第に乾板をぶち砕いて投げつけると急に私に向って何ぜお前はにやにやしているのかと突きかかって来た。私は別ににやにやしていたと思わないのだがそれがそんなに軽部に見えたのなら或いは笑っていたのかしれない。確にあんまり主人の頭は奇怪だからだ。それは塩化鉄の長年の作用の結果なのかもしれないと思ってみても頭の欠陥ほど恐るべきものはないではないか。そうしてその主人の欠陥がまた私たちをひき附けていて怒ることも出来ない原因になっているということはこれは何という珍稀な構造の廻り方なのであろう。しかし、私はそんなことを軽部に聞かせてやっても仕方がないので黙っていると突然私を睨みつけていた軽部が手を打って、よしッ酒を飲もうといい出すと立ち上った。丁度それは軽部がいわなくても私たちの中の誰かがもう直ぐいい出さねばならない瞬間に偶然軽部がいっただけなので、何の不自然さもなく直ぐすらすらと私たちの気分は酒の方へ向っていったのだ。実際そういう時には若者達は酒でも飲むより仕方のないときなのだがそれがこの酒のために屋敷の生命までが亡くなろうとは屋敷だって思わなかったにちがいない。
 その夜私たち三人は仕事場でそのまま車座になって十二時過ぎまで飲み続けたのだが、眼が醒めると三人の中の屋敷が重クロム酸アンモニアの残った溶液を水と間違えて土瓶の口から飲んで死んでいたのである。私は彼をこの家へ送った製作所の者達がいうように軽部が屋敷を殺したのだとは今でも思わない。勿論私が屋敷の飲んだ重クロム酸アンモニアを使用するべきグリュー引きの部分にその日も働いていたとはいえ、彼に酒を飲ましたのが私でない以上は私よりも一応軽部の方がより多く疑われるのは当然であるが、それにしても軽部が故意に酒を飲ましてまで屋敷を殺そうなどと深い謀みの起ろうほど前から私たちは酒を飲みたくなっていたのではないのである。酒を飲みたくなったときより私が重クロム酸アンモニアを造っておいた時間の方が前なのだから疑い得られるとすると私なのにも拘らず、それが軽部が疑われたというのも軽部の先ずひと目で誰からも暴力を好むことを見破られる逞しい相貌から来ているのであろう。しかし、私とても勿論軽部が全然屋敷を殺したのではないと断言するのではない。私の知り得られる程度のことは彼が屋敷を殺したのではないといい得られるほどのことであるより仕方がないのだ。もともと軽部は屋敷が暗室へ忍び込んだのを見ているからは、彼を殺害する以外に彼に秘密を知られぬ方法はないと一度は私のように思ったであろうから。そうして私が屋敷を殺害するのなら酒を飲ましておいてその上重クロム酸アンモニアを飲ますより仕方がないと思ったことさえあることから考えても、彼もそのように一度は思ったにちがいないであろうから。だが、酒に酔っていたのは私と屋敷だけではなくて軽部とて同様に酔っていたのだから彼がその劇薬を屋敷に飲まそうなどとしたのではないであろう。よしたとえ日頃考えていたことが無意識に酔の中に働いて彼が屋敷に重クロム酸アンモニアを飲ましたのだとするならそれなら或いは屋敷にそれを飲ましたのは同様な理由によって私かもしれないのだ。いや、全く私とて彼を殺さなかったとどうして断言することが出来るであろう。軽部より誰よりもいつも一番屋敷を恐れたものは私ではなかったか。日夜彼のいる限り彼の暗室へ忍び込むのを一番注意して眺めていたのは私ではなかったか。いやそれより私の発見しつつある蒼鉛と珪酸ジルコニウムの化合物に関する方程式を盗まれたと思い込みいつも一番激しく彼を怨んでいたのは私ではなかったか。そうだ。もしかすると屋敷を殺害したのは私かもしれぬのだ。私は重クロム酸アンモニアの置き場を一番良く心得ていたのである。私は酔いの廻らぬまでは屋敷が明日からどこへいってどんなことをするのか彼の自由になってからの行動ばかりが気になってならなかったのである。しかも彼を生かしておいて損をするのは軽部よりも私ではなかったか。いや、もう私の頭もいつの間にか主人の頭のように早や塩化鉄に侵されてしまっているのではなかろうか。私はもう私が分らなくなって来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖《せんせん》がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって私の知っていよう筈がないのだから。

【入力者注】
・「機械」は、昭和五(1930)年九月『改造』に発表。昭和六(1931)年四月白水社『機械』に初収。
・河出書房新社『定本 横光利一全集 第三巻』(昭和五十六年刊)を底本とした。
・旧かなづかいは現代かなづかいに、旧字体は新字体に改めた。
・ふりがなは入力者が適宜つけた。
・「人人」など漢字の繰り返しは「人々」などと改めた。
・以下の漢字はひらがなに改めた。
 云う→いう、此の→この、然も→しかも、了う→しまう、此処→ここ、尤も→もっとも、又→また、是→これ

底本:「定本 横光利一全集 第三巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年刊
入力:佐藤和人
校正:かとうかおり
1998年8月13日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

横光利一

街の底—– 横光利一

 その街角には靴屋があった。家の中は壁から床まで黒靴で詰っていた。その重い扉のような黒靴の壁の中では娘がいつも萎《しお》れていた。その横は時計屋で、時計が模様のように繁っていた。またその横の卵屋では、無数の卵の泡の中で兀《は》げた老爺が頭に手拭を乗せて坐っていた。その横は瀬戸物屋だ。冷胆な医院のような白さの中でこれは又若々しい主婦が生き生きと皿の柱を蹴飛ばしそうだ。
 その横は花屋である。花屋の娘は花よりも穢《けが》れていた。だが、その花の中から時々馬鹿げた小僧の顔がうっとりと現れる。その横の洋服屋では首のない人間がぶらりと下がり、主人は貧血の指先で耳を掘りながら向いの理亭の匂いを嗅いでいた。その横には鎧《よろい》のような本屋が口を開けていた。本屋の横には呉服屋が並んでいる。そこの暗い海底のようなメリンスの山の隅では痩せた姙婦が青ざめた鰈《かれい》のように眼を光らせて沈んでいた。
 その横は女学校の門である。午後の三時になると彩色された処女の波が溢れ出した。その横は風呂屋である。ここではガラスの中で人魚が湯だりながら新鮮な裸体を板の上へ投げ出していた。その横は果物屋だ。息子はペタルを踏み馴らした逞しい片足で果物を蹴っていた。果物屋の横には外科医があった。そこの白い窓では腫れ上った首が気惰《けだ》るそうに成熟しているのが常だった。
 彼はこれらの店々の前を黙って通り、毎日その裏の青い丘の上へ登っていった。丘は街の三条の直線に押し包まれた円錐形の濃密な草原で、気流に従って草は柔かに曲っていた。彼はこの草の中で光に打たれ、街々の望色から希望を吸い込もうとして動かなかった。
 彼は働くことが出来なかった。働くに適した思考力は彼の頭脳を痛めるのだ。それ故彼は食うことが出来なかった。彼はただ無為の貴さを日毎の此の丘の上で習わねばならなかった。ここでは街々の客観物は彼の二つの視野の中で競争した。
 北方の高台には広々とした貴族の邸宅が並んでいた。そこでは最も風と光りが自由に出入を赦された。時には顕官や淑女がその邸宅の石門に与える自身の重力を考えながら自働車を駈け込ませた。時には華やかな踊子達が花束のように詰め込まれて贈られた。時には磨かれたシルクハットが、時には鳥のようなフロックが。しかし、彼は何事も考えはしなかった。
 彼は南方の狭い谷底のような街を見下ろした。そこでは吐き出された炭酸|瓦斯《ガス》が気圧を造り、塵埃を吹き込む東風とチブスと工廠《こうしょう》の煙ばかりが自由であった。そこには植物がなかった。集るものは瓦と黴菌《ばいきん》と空壜と、市場の売れ残った品物と労働者と売春婦と鼠とだ。
「俺は何事を考えねばならぬのか。」と彼は考えた。
 彼は十銭の金が欲しいのだ。それさえあれば、彼は一日何事も考えなくて済むのである。考えなければ彼の病は癒るのだ。動けば彼の腹は空き始めた。腹が空けば一日十銭では不足である。そこで、彼は蒼ざめた顔をして保護色を求める虫のように、一日丘の青草の中へ坐っていた。日が暮れかかると彼は丘を降りて街の中へ這入って行った。時には彼は工廠の門から疲労の風のように雪崩れて来る青黒い職工達の群れに包まれて押し流された。彼らは長蛇を造って連らなって来るにも拘らず、葬列のように俯向いて静々と低い街の中を流れていった。
 時々彼は空腹な彼らの一団に包まれたままこっそりと肉飯屋へ入った。そこの調理場では、皮をひき剥かれた豚と牛の頭が眠った支那人の首のように転んでいた。職工達は狭い机の前にずらりと連んで黙っていた。だが、盛り飯の廻りが遅れると彼らは箸で茶碗を叩き出した。湯気が満ちると、彼らの顔は赤くなって伸縮した。
 牛の頭で腹を満たすと彼は十銭を投げ出してひとり露地裏の自分の家へ帰って来た。彼は他人の家の表の三畳を借りていた。部屋にはトゲの刺さる傾いた柱がある。壁は焼けた竈《かまど》のようで、雨の描いた地図の上に蠅の糞が点々と着いていた。そこで彼は、柱にもたれながら紙屑を足で押し除け、うすぼんやりと自殺の光景を考えるのだ。外では子供達が垣を揺すって動物園の真似をしていた。狭い路を按摩《あんま》が呼びながら歩いて来る。子供達は按摩の後からぞろぞろついてまた按摩の真似をし始める。彼は横に転がって静かになった外を見ると、向いの破れた裏塀の隙きから脹れた乳房が一房見えた。それはいつも定って横わっている青ざめた病人の乳房であった。彼が部屋へ帰って親しめる唯一のものはその不行儀な乳房である。その乳房は肉親のように見えた。彼はその女の顔を一度見たいと願い出した。が、いつ見ても乳房は破れた塀の隙間いっぱいに垂れ拡がって動かなかった。いつまでもそれを見ていると、彼の世界はただ拡大された乳房ばかりとなって薄明が迫って来る。やがて乳房の山は電光の照明に応じて空間に絢爛な線を引き垂れ、重々しい重量を示しながら崩れた砲塔のように影像を蓄えてのめり出した。
 彼は夜になると家を出た。掃溜《はきだめ》のような窪んだ表の街も夜になると祭りのように輝いた。その低い屋根の下には露店が続き、軽い玩具や金物が溢れ返って光っていた。群集は高い街々の円錐の縁から下って来て集まった。彼はきょろきょろしながら新鮮な空気を吸いに泥溝の岸に拡っている露店の青物市場へ行くのである。そこでは時ならぬ菜園がアセチリンの光りを吸いながら、青々と街底の道路の上で開いていた。水を打たれた青菜の列が畑のように連なって、青い微風の源のように絶えずそよそよと冷たい匂いを群集の中へ流し込んだ。
 彼は漸く浮き上った心を静に愛しながら、筵《むしろ》の上に積っている銅貨の山を親しげに覗くのだ。そのべたべたと押し重なった鈍重な銅色の体積から奇怪な塔のような気品を彼は感じた。またその市街の底で静っている銅貨の力学的な体積は、それを中心に拡がっている街々の壮大な円錐の傾斜線を一心に支えている釘のように見え始めた。
「そうだ。その釘を引き抜いて!」
 彼はばらばらに砕けて横たわっている市街の幻想を感じると満足してまた人々の肩の中へ這入っていった。しかし、彼は人々の体臭の中で、何ぜともなく不意に悲しさに圧倒されて立ち停った。それは鈍った鉛の切断面のようにきらりと一瞬生活の悲しさが光るのだ。だが、忽ち彼はにやりと笑って歩き出した。彼は空壜の積った倉庫の間を通って帰って来るとそのまま布団の中へもぐり込んで円くなった。
 彼は雑誌を三冊売れば十銭の金になることを知っていた。此の法則を知っている限り、彼は生活の恐怖を感じなかった。或る日彼はその三冊の雑誌を売って得た金を握りながら表へ出ようとした。すると、戸口へ盲目の見馴れぬ汚い老婆がひとり素足で立っていた。彼女は手にタワシを下げてしきりに彼に頭を下げながら哀願した。
「私は七十にもなりまして、連れ合いも七十で死んで了いまして、息子も一人居りましたが死んで了いました。乞食をしますと警察が赦してくれませんし、どうぞ一つ此のタワシをお買いなすって下さいませ。私は金を持っておりましたが、連れ合いの葬式が十八円もかかりましてもう一文もございません。どうぞ此のタワシをお買い下さいませ。宿料を一晩に三十八銭もとられますので、それだけ戴けないとどうすることも出来ません。どうぞ一つこれをお買いなすって下さいませ。」
 彼はその十銭の金を老婆の乾いた手に握らせて外へ出て行った。彼は青い丘の草の中へ坐りに行くのである。
「生活とは、」――
 彼は何事を考えても頭が痛むのだ。彼は黙って了った。彼は晴れた通りへ立った。街は彼を中心にして展開した。その街角には靴屋があった。靴屋の娘は靴の中で黙っていた。その横は幾何学的な時計屋だ。無数の稜の時計の中で、動いている時計は三時であった。彼は女学校の前で立ち停った。華やかな処女の波が校門から彼を眼がけて溢れ出した。彼は急流に洗われた杭のように突き立って眺めていた。処女の波は彼の胸の前で二つに割れると、揺らめく花園のように駘蕩《たいとう》として流れていった。

底本:「愛の挨拶・馬車・純粋小説論」講談社文芸文庫、講談社
   1993(平成5)年5月10日第1刷発行
   1999(平成11)年5月12日第3刷発行
入力:栗田聡史
校正:土屋隆
2004年6月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

花園の思想—– 横光利一

    一

丘の先端の花の中で、透明な日光室が輝いていた。バルコオンの梯子《はしご》は白い脊骨のように突き出ていた。彼は海から登る坂道を肺療院の方へ帰って来た。彼はこうして時々妻の傍《そば》から離れると外を歩き、また、妻の顔を新しく見に帰った。見る度《たび》に妻の顔は、明確なテンポをとって段階を描きながら、克明に死線の方へ近寄っていた。――山上の煉瓦《れんが》の中から、不意に一群の看護婦たちが崩《くず》れ出《だ》した。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
 退院者の後を追って、彼女たちは陽《ひ》に輝いた坂道を白いマントのように馳《か》けて来た。彼女たちは薔薇《ばら》の花壇の中を旋回すると、門の広場で一輪の花のような輪を造った。
「さようなら。」
「さようなら。」
「さようなら。」
 芝生の上では、日光浴をしている白い新鮮な患者たちが坂に成った果実のように累々《るいるい》として横たわっていた。
 彼は患者たちの幻想の中を柔かく廊下へ来た。長い廊下に添った部屋部屋の窓から、絶望に光った一列の眼光が冷たく彼に迫って来た。
 彼は妻の病室のドアーを開けた。妻の顔は、花瓣に纏《まと》わりついた空気のように、哀れな朗かさをたたえて静まっていた。
 ――恐らく、妻は死ぬだろう。
 彼は妻を寝台の横から透《す》かしてみた。罪と罰とは何もなかった。彼女は処女を彼に与えた満足な結婚の夜の美しさを回想しているかのように、端整な青い線をその横顔《プロフィール》の上に浮べていた。

       

 彼と妻との間には最早《もはや》悲しみの時機《じき》は過ぎていた。彼は今まで医者から妻の死の宣告を幾度聞かされたか分らなかった。その度に彼は医者を変えてみた。彼は最後の努力で彼の力の及ぶ限り死と戦った。が、彼が戦えば戦うほど、彼が医者を変えれば変えるほど、医者の死の宣告は事実と一緒に明克《めいこく》の度を加えた。彼は萎《しお》れてしまった。彼は疲れてしまった。彼は手を放したまま呆然《ぼうぜん》たる蔵《くら》のように、虚無の中へ坐り込んだ。そうして、今は、二人は二人を引き裂く死の断面を見ようとしてただ互に暗い顔を覗《のぞ》き合《あわ》せているだけである。丁度、二人の眼と眼の間に死が現われでもするかのように。彼は食事の時刻が来ると、黙って匙《さじ》にスープを掬《すく》い、黙って妻の口の中へ流し込んだ。丁度、妻の腹の中に潜んでいる死に食物を与えるように。
 あるとき、彼は低い声でそっと妻に訊《たず》ねてみた。
「お前は、死ぬのが、ちょっとも怖《こわ》くはないのかね。」
「ええ。」と妻は答えた。
「お前は、もう生きたいとは、ちょっとも思わないのかね。」
「あたし、死にたい。」
「うむ。」と彼は頷《うなず》いた。
 二人には二人の心が硝子《ガラス》の両面から覗き合っている顔のようにはっきりと感じられた。

       

 今は、彼の妻は、ただ生死の間を転っている一疋《いっぴき》の怪物だった。あの激しい熱情をもって彼を愛した妻は、いつの間にか尽《ことごと》く彼の前から消え失せてしまっていた。そうして、彼は? あの激しい情熱をもって妻を愛した彼は、今は感情の擦《す》り切《き》れた一個の機械となっているにすぎなかった。実際、この二人は、その互に受けた長い時間の苦痛のために、もう夫婦でもなければ人間でもなかった。二人の眼と眼を経だてている空間の距離には、ただ透明な空気だけが柔順に伸縮しているだけである。その二人の間の空気は死が現われて妻の眼を奪うまで、恐らく陽が輝けば明るくなり、陽が没すれば暗くなるに相違ない。二人にとって、時間は最早愛情では伸縮せず、ただ二人の眼と眼の空間に明暗を与える太陽の光線の変化となって、露骨に現われているだけにすぎなかった。それは静かな真空のような虚無であった。彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台や盆のように、一個の美事な静物に見え始めた。
 彼は二人の間の空間をかつての生き生きとした愛情のように美しくするために、花壇の中からマーガレットや雛罌粟《ひなげし》をとって来た。その白いマーガレットは虚無の中で、ほのかに妻の動かぬ表情に笑を与えた。またあの柔かな雛罌粟が壺にささって微風に赤々と揺《ゆ》らめくと、妻はかすかな歎声を洩《もら》して眺めていた。この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔《プロフィール》や花々の静まった静物の線の中から、かすかな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘められたような美しさを聴くために、戸外から手に入る花という花を部屋の中へ集め出した。
 薔薇は朝毎に水に濡れたまま揺れて来た。紫陽花《あじさい》と矢車草《やぐるまそう》と野茨《のいばら》と芍薬《しゃくやく》と菊と、カンナは絶えず三方の壁の上で咲いていた。それは華《はな》やかな花屋のような部屋であった。彼は夜ごとに燭台に火を付けると、もしかしたらこっそりこの青ざめた花屋の中へ、死の客人が訪れていはしまいかと妻の寝顔を覗き込んだ。すると、或《あ》る夜不意に妻は眼を開けて彼にいった。
「あなた、私が死んだら、幸福になるわね。」
 彼は黙って妻の顔を眺めていた。そして、彼は自分の寝床へ帰って来ると憂鬱《ゆううつ》に蝋燭の火を吹き消した。

       

 彼は自分の疲れを慰めるために、彼の眼に触れる空間の存在物を尽《ことごと》く美しく見ようと努力し始めた。それは彼の感情のなくなった虚無の空間へ打ち建てらるべきただ一つの生活として、彼に残されていたものだった。
 彼は彼の寝床を好んだ。寝床は妻の寝室と同じであるとしても、軽症者の静臥《せいが》すべきベランダにあった。ベランダは花園の方を向いていた。彼はこのベランダで夜中眼が醒《さ》める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々《こうこう》として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾《が》のようにほの白い円陣を造っていた。そうして月は、その花々の先端の縮れた羊のような皺《しわ》を眺めながら、蒼然《そうぜん》として海の方へ渡っていった。
 そういう夜には、彼はベランダからぬけ出し夜の園丁《えんてい》のように花の中を歩き廻った。湿った芝生に抱かれた池の中で、一本の噴水が月光を散らしながら周囲の石と花とに戯《たわむ》れていた。それは穏かに庭で育った高価な家畜のような淑《しと》やかさをもっていた。また遠く入江を包んだ二本の岬《みさき》は花園を抱いた黒い腕のように曲っていた。そうして、水平線は遙か一髪の光った毛のように月に向って膨《ふく》らみながら花壇の上で浮いていた。
 こういうとき、彼は絶えず火を消して眠っている病舎の方を振り返るのが癖《くせ》である。すると彼の頭の中には、無数の肺臓が、花の中で腐りかかった黒い菌のように転がっている所が浮んで来る。恐らくその無数の腐りかかった肺臓は、低い街々の陽《ひ》のあたらぬ屋根裏や塵埃溜《ごみため》や、それともまたは、歯車の噛《か》み合《あ》う機械や飲食店の積み重なった器物の中へ、胞子を無数に撒《ま》きながら、この丘の花園の中へ寄り集って来たものに相違ない。しかし、これらの憐れにも死に逝《ゆ》く肺臓の穴を防ぎとめ、再び生き生きと活動させて巷《ちまた》の中へ送り出すここの花園の院長は、もとは、彼の助けているその無数の腐りかかった肺臓のように、死を宣告された腐った肺臓を持っていた。一の傷ついた肺臓が、自身の回復した喜びとして、その回復期の続く限り、無数の傷ついた肺臓を助けて行く。これが、この花園の中で呼吸している肺臓の特種な運動の体系であった。

       

 ここの花園の中では、新鮮な空気と日光と愛と豊富な食物と安眠とが最も必要とされていた。ここでは夜と雲とが現われない限り、病舎に影を投げかけるものは屋根だけだった。食物は海と山との調味豊かな品々が時に従って華やかな色彩で食慾を増進させた。空気は晴れ渡った空と海と山との三色の緑の色素の中から湧《わ》き上《あが》った。物音とてはしんしんと耳の痛む静けさと、時には娯楽室からかすかに上るミヌエットと、患者の咳《せき》と、花壇の中で花瓣の上に降りかかる忍びやかな噴水の音ぐらいにすぎなかった。そうして、愛は? 愛は都会の優れた医院から抜擢《ばってき》された看護婦たちの清浄な白衣の中に、五月の徴風のように流れていた。
 しかし、愛はいつのときでも曲者《くせもの》である。この花園の中でただ無為に空と海と花とを眺めながら、傍近く寄るものが、もしも五月の微風のように爽《さわや》かであったなら、そこに柔かな愛慾の実のなることは明かな物理である。しかし、ここの花園では愛恋は毒薬であった。もしも恋慕が花に交って花開くなら、やがてそのものは花のように散るであろう。何《な》ぜなら、この丘の空と花との明るさは、巷の恋に代った安らかさを病人に与えるために他ならない。もしも彼らの間に恋の花が咲いたなら、間もなく彼らを取り巻く花と空との明るさはその綿々《めんめん》とした異曲のために曇るであろう。だが、この空と花との美しき情趣の中で、華やかな女のさざめきが微笑のように迫るなら、愛慾に落ちないものは石であった。このためここの白い看護婦たちは、患者の脈を験《しら》べる巧妙な手つきと同様に、微笑と秋波《しゅうは》を名優のように整頓しなければならなかった。しかし、彼女たちといえども一対の大きな乳房をもっていた。病舎の燈火が一斉に消えて、彼女たちの就寝の時間が来ると、彼女らはその厳格な白い衣を脱ぎ捨て、化粧をすませ、腰に色づいた帯を巻きつけ、いつの間にかしなやかな寝巻姿の娘になった。だが娘になった彼女らは、皆ことごとく疲れと眠さのため物憂《ものう》げに黙っていた。それは恋に破れた娘らがどことなく人目を憚《はばか》るあの静かな悩ましさをたたえているかのように。或るものはその日の祈りをするために跪《ひざまず》き、或るものは手紙を書き、或るものは物思いに沈み込み、また、ときとしては或るものは、盛装をこらして火の消えた廊下の真中にぼんやりと立っていた。恐らく彼女らにはその最も好む美しき衣物を着る時間が、眠るとき以外にはないのであろう。
 或る夜、彼女らの一人は、夜|更《ふ》けてから愛する男の病室へ忍び込んで発見された。その翌日、彼女は病院から解雇された。出て行くとき彼女は長い廊下を見送る看護婦たちにとりまかれながら、いささかの羞《は》ずかしさのために顔を染めてはいたものの、傲然《ごうぜん》とした足つきで出ていった、それは丁度、長い酷使と粗食との生活に対して反抗した模範を示すかのように。その出て行くときの彼女の礼節を無視した様子には、確《たしか》に、長らく彼女を虐《いじ》めた病人と病院とに復讎《ふくしゅう》したかのような快感が、悠々《ゆうゆう》と彼女の肩に現われていた。

       

 梅雨期が近づき出すと、ここの花園の心配はこの院内のことばかりではなくなって来た。麓《ふもと》の海村には、その村全体の生活を支えている大きな漁場がひかえていた。上に肺病院を頂《いただ》いた漁場の魚の売れ行きは拡大するより、縮小するのが、より確実な運命にちがいない。麓の活躍した心臓を圧迫するか、頂の死《し》に逝《ゆ》く肺臓を黙殺するか、この二つの背反に波打って村は二派に分れていた。既に決定せられたがように、譬《たと》えこの頂きに療院が許されたとしても、それは同時に尽《ことごと》くの麓の心臓が恐怖を忘れた故ではなかった。
 間もなく、これらの腐敗した肺臓を恐れる心臓は、頂の花園を苦しめ出した。彼らは花園に接近した地点を撰ぶと、その腐敗した肺臓のために売れ残って腐り出しただけの魚の山を、肥料として積み上げた。忽《たちま》ち蠅《はえ》は群生して花壇や病舎の中を飛び廻った。病舎では、一疋の蠅は一挺《いっちょう》のピストルに等しく恐怖すべき敵であった。院内の窓という窓には尽く金網が張られ出した。金槌《かなづち》の音は三日間患者たちの安静を妨害した。一日の混乱は半カ月の静養を破壊する。患者たちの体温表は狂い出した。
 しかし、この肺臓と心臓との戦いはまだ続いた。既に金網をもって防戦されたことを知った心臓は、風上から麦藁《むぎわら》を燻《くす》べて肺臓めがけて吹き流した。煙は道徳に従うよりも、風に従う。花壇の花は終日|濛々《もうもう》として曇って来た。煙は花壇の上から蠅を追い散らした勢力よりも、更に数倍の力をもって、直接腐った肺臓を攻撃した。患者たちは咳《しわぶ》き始めた。彼らの一回の咳は、一日の静養を掠奪する。病舎は硝子戸《ガラスど》で金網の外から密閉された。部屋には炭酸|瓦斯《ガス》が溜り出した。再び体温表が乱れて来た。患者の食慾が減り始めた。人々はただぼんやりとして硝子戸の中から空を見上げているだけにすぎなかった。
 こうして、彼の妻はその死期の前を、花園の人々に愛されただけ、眼下の漁場に苦しめられた。しかし、花園は既にその山上の優れた位地を占めた勝利のために、何事にも黙っていなければならなかった。彼の妻は日々一層激しく咳き続けた。

       

 こういう或る日、彼はこっそり副院長に別室へ呼びつけられた。
「お気の毒ですが、多分、あなたの奥様は、」
「分りました。」と彼はいった。
「この月いっぱいだろうと思いますが……」
「ええ。」
「私たちは出来るだけのことをやったのですが。……何分……」
「どうも、いろいろ御迷惑をおかけしまして、」
「いや……それから、もし御親戚の方々をお呼びなさいますなら、一時にどっと来られませんように。」
「承知しました。」
「長い間でお疲れでございましょう。」
「いや。」
 彼はいつの間にか廊下の真中まで来てひとり立っていた。忘れていた悲しみが、再び強烈な匂《におい》のように襲って来た。
 彼は妻の病室の方へ歩き出した。
 ――しかし、これは、事実であろうか。
 彼はまた立ち停った。セロのガボットが華やかに日光室から聞えて来た。
 ――しかし、よし譬《たと》え、明かに、事実は妻を死の中へ引《ひ》き摺《ず》り込もうとしているとしても、果して、事実は常に事実であろうか。
 ――嘘《うそ》だ。と彼は思った。
 彼は、総《すべ》ての自分の感覚を錯覚だと考えた。一切の現象を仮象《かしょう》だと考えた。
 ――何故にわれわれは、不幸を不幸と感じなければならないのであろう。
 ――何故にわれわれは、葬礼を婚礼と感じてはいけないのであろう。
 彼はあまりに苦しみ過ぎた。彼はあまりに悪運を引き過ぎた。彼はあまりに悲しみ過ぎた、が故に、彼はそのもろもろの苦しみと悲しみとを最早|偽《いつわ》りの事実としてみなくてはならなかった。
 ――間もなく、妻は健康になるだろう。
 ――間もなく、二人は幸福になるだろう。
 彼はこのときから、突如として新しい意志を創り出した。彼はその一個の意志で、総《あら》ゆる心の暗さを明るさに感覚しようと努力し始めた。もう彼にとって、長い間の虚無は、一睡の夢のように吹き飛んだ。
 彼は深い呼吸をすると、快活に妻のベッドの傍へ寄っていった。
「おい、お前は死ぬことを考えているんだろう。」
 妻は彼を見て頷《うなず》いた。
「だが、人間は死ぬものじゃないんだ。死んだって、死ぬなんてことは、そんなことは何んでもない。分ったね。」――無論、何をいっているのか彼にも分らなかった。
 妻は冷淡な眼で彼を見詰めたまま黙っていた。
「お前は俺《おれ》よりも、そんなことは良く知っているだろう。死ぬなんていうことは、下らない、何んでもない、馬鹿馬鹿しいことなんだ。」
「あたし、もうこれ以上苦しむのは、いや。」と妻はいった。
「そりゃ、そうだ。苦しむなんて、馬鹿な話だ。しかし、生きているからって、お前は俺に気がねする必要は、少しもないんだ。」
「あたし、あなたより、早く死ぬから、嬉しいの。」と彼女はいった。
 彼は笑い出した。
「お前も、うまいことを考えたね。」
「あたしより、あなたの方が、可哀想《かわいそう》だわ。」
「そりゃ、定《き》まってる。俺の方が馬鹿を見たさ。だいたい、人間が生きているなんていうことからして、下らないよ。こんなにぶらぶらして、生きていたって、始まらないじゃないか。お前も、もう死ぬがいい、うむ?」
「うむ、」と妻は頷いた。
「俺だって、もう直ぐ死ぬんさ。こんな所に、ぐずぐず生きてなんか、いたかない。お前も、うまいことをしたもんさ。」
 妻は彼を見てかすかに笑い出した。
「あたし、ただ、もうちょっと、この苦しさが少なければ、生きていてもいいんだけど。」
「馬鹿な。生きていたって、仕様《しよう》がないじゃないか、いったい、これから、何をしようっていうんだ。もう俺もお前もするだけのことは、すっかりしてしまったじゃないか。思い出してみるがいい。」
「そうだわね。」と妻は言った。
「そうさ、もう大きな顔をして、死んでもいいよ。」
 妻は彼の顔から彼の心理の変化を見届けようとするように、黙って彼の顔を見詰めていた。
「お前は何だか淋しそうだ。お前のお母さんを、呼んでやろうか。」
「もういい、あなたが傍《そば》にいて下されば、あたし誰にも逢《あ》いたかない。」と妻はいった。
「そうか、じゃ、」と彼はいって直ぐ彼女の母に来るようにと手紙を書いた。

       

 その翌日から妻の顔は急に水々しい水蜜《すいみつ》のような爽《さわや》かさを加えて来た。妻は絶えず、窓いっぱいに傾斜している山腹の百合《ゆり》の花を眺めていた。彼は部屋の壁々に彼女の母の代りに新しい花を差し添えた。シクラメンと百合の花。ヘリオトロオプと矢車草《やぐるまそう》。シネラリヤとヒアシンス。薔薇《ばら》とマーガレットと雛罌粟《ひなげし》と。
「お前の顔は、どうしてそう急に美しくなったのだろう。お前は十六の娘のようだ。お前はいっぱいのスープも飲まないくせに、まるで鶏《にわとり》の十五、六羽もやっつけたような顔をしている。不思議な奴だ。さては、俺の知らぬ間に、こっそりやったと見えるな。」
「あの百合の花を、この部屋から出して。」と妻はいった。
 百合の匂いは他の花の匂いを殺してしまう。――
「そうだ、この花は、英雄だ。」
 彼は百合を攫《つか》むと部屋の外へ持ち出した。が、さて捨てるとなると、その濡れたように生き生きとした花粉の精悍《せいかん》な色のために、捨て処がなくなった。彼は小猫を下げるように百合の花束をさげたまま、うろうろ廊下を廻って空虚の看護婦部屋を覗《のぞ》いてみた。壁に挾まれた柩《ひつぎ》のような部屋の中にはしどけた帯や野蛮なかもじ[#「かもじ」に傍点]が蒸された空気の中に転げていた。まもなくここで、疲れた身体を横たえるであろう看護婦たちに、彼は山野の清烈な幻想を振《ふ》り撒《ま》いてやるために、そっと百合の花束を匂い袋のように沈めておいて戻って来た。

       

 山の上では、また或る日|拗《しつこ》く麦藁《むぎわら》を焚《た》き始めた。彼は暇をみて病室を出るとその火元の畠の方へいってみた。すると、青草の中で、鎌《かま》を研《と》いでいた若者が彼を仰いだ。
「その火は、いつまで焚くんです?」と彼は訊《き》いた。
「これだけだ。」と若者はいいながら火のついた麦藁を鎌で示した。
「その火は焚かなくちゃ、いけないものですか。」
 若者は黙って一握りの青草に刃《は》をあてた。
「僕の家内は、この煙りのために、殺されるんです。焚かないですませるものなら、やめてくれ給え。」
 彼は若者の答えを待たずに、裏山から漁場の方へ降りていった。扁平《へんぺい》な漁場では、銅色《あかがねいろ》の壮烈な太股《ふとまた》が、林のように並んでいた。彼らは折からの鰹《かつお》が着くと飛沫《ひまつ》を上げて海の中へ馳《か》け込《こ》んだ。子供たちは砂浜で、ぶるぶる慄《ふる》える海月《くらげ》を攫《つか》んで投げつけ合った。舟から樽が、太股が、鮪《まぐろ》と鯛《たい》と鰹が海の色に輝きながら溌溂《はつらつ》と上って来た。突如として漁場は、時ならぬ暁のように光り出した。毛の生えた太股は、魚の波の中を右往左往に屈折した。鯛は太股に跨《またが》られたまま薔薇色の女のように観念し、鮪は計画を貯えた砲弾のように、落ちつき払って並んでいた。時々突っ立った太股の林が揺らめくと、射し込んだ夕日が、魚の波頭で斬《き》りつけた刃のように鱗光《りんこう》を閃《ひら》めかした。
 彼は魚の中から丘の上を仰いで見た。丘の花壇は、魚の波間に忽然《こつぜん》として浮き上った。薔薇と鮪と芍薬《しゃくやく》と、鯛とマーガレットの段階の上で、今しも日光室の多角な面が、夕日に輝きながら鋭い光鋩《こうぼう》を眼のように放っていた。
「しかし、この魚にとりまかれた肺病院は、この魚の波に攻め続けられている城である。この城の中で、最初に討死《うちじに》するのは、俺の家内だ。」と彼は思った。
 事実彼にとって、眼前の魚は、煙で彼の妻の死を早めつつある無数の勇敢な敵であった。と同時に、彼女にとっては、魚は彼女の苦痛な時期をより縮めんとしている情《なさけ》ある医師でもあった。彼には、あの砲弾のような鮪の鈍重な羅列《られつ》が、急に無意味な意味を含めながら、黒々と沈黙しているように見えてならなかった。

       

 この日から、彼は、彼の妻を苦しめているものは事実果してこの漁場の魚か花園の花々か、そのどちらであろうかと迷い出した。何故なら彼女が花園にある限り、彼女の苦しい日々は、恐らく魚の吐き出す煙があるよりも、長く続いて行くにちがいなかったからである。
 その夜の回診のとき、彼の妻は自分の足を眺めながら医師に訊《たず》ねた。
「先生、私の足、こんなに膨《ふく》れて来て、どうしたんでございましょう。」
「いや、それは何んでもありません。御心配なさいますな。何んでもありませんから。」と医師は誤魔化《ごまか》した。
 ――水が足に廻り出したのだ。
 ――もう、駄目だ。と彼は思った。
 医師が去ると、彼は電燈を消して燭台に火を点《つ》けた。
 ――さて、何の話をしたものであろう。
 彼は妻の影が、ヘリオトロオプの花の上で、蝋燭《ろうそく》の光りのままに細かく揺れているのを眺めていた。すると、ふと、彼は初めて妻を見たときの、あの彼女のただ彼のみに赦《ゆる》されてあるかのような健《すこや》かな笑顔を思い出した。彼は涙がにじんで来た。彼はソッと妻の上にかがみ込むと、花の匂いの中で彼女の額《ひたい》に接吻した。
「お前は、俺があの汚い二階の紙屑《かみくず》の中に坐っている頃、毎夜こっそり来てくれたろう。」
 妻は黙って頷《うなず》いた。
「俺はあの頃が一番面白かった。お前の明るいお下《さげ》の頭が、あの梯子《はしご》を登った暗い穴の所へ、ひょっこり花車《はなぐるま》のように現われるのさ。すると、俺は、すっかり憂鬱がなくなっちゃって、はしゃぎ廻ったもんだ。とにかく、あの頃は、俺も貧乏していたが、一番愉快だった。あれからは、俺もお前も、若い身空で苦労をした。しかし、まア、いいさ。どっちも、わがままのいい合いをして来たんだからね。それに俺だって、お前に一度もすまぬようなことをして来てないし、お前も俺にあやまるようなことはちっともなかったし、まア、俺たちは、お互に有難がらなくちゃならない夫婦なんだよ。何んだか、そろそろおかしな話になって来たが、とにかく、お前が病気をしたお蔭《かげ》で、俺ももう看護婦の免状位は貰《もら》えそうになって来たし、不幸ということがすっかり分らなくなって来たし、こんな有り難いことはそうやたらにあるもんじゃない。お前も、ゆっくり寝てるがいい。もう少しお前が良くなれば、俺はお前を負《お》んぶして、ここの花園の中を廻ってやるよ。」
「うむ、」と妻は静に頷いた。
 彼は危く涙が出そうになると、やっと眉根で受けとめたまま花壇の中へ降りて来た。彼は群がった夜の花の中へ顔を突き込んだ。すると、涙が溢《あふ》れ出《だ》した。彼は泣きながら冷たい花を次から次へと虫のように嗅ぎ廻った。彼は嗅ぎながら激しい祈りを花の中でし始めた。
「神よ、彼女を救い給え。神よ、彼女を救い給え。」
 彼は一握の桜草《さくらそう》を引きむしって頬《ほお》の涙を拭きとった。海は月出の前で秘めやかに白んでいた。夜鴉《よがらす》が奇怪なカーブを描きながら、花壇の上を鋭い影のように飛び去った。彼は心の鎮《しず》むまで、幾回となく、静な噴水の周囲を悲しみのように廻っていた。

       十一

 その翌朝早くから彼の妻の母が来た。彼女は娘の顔を見ると泣き始めた。
「君坊、どうした。まア、痩《や》せて。もっと早く来ようと思ったんだけど、いろいろ用事があって。」
 彼の妻はいつものような冷淡な顔をして、相手の騒ぐ様子を眺めていた。
「お前、苦しいのかい。おっ母《か》さんはね、毎日お前のことばかり思ってたんだよ。早く来たくって来たくって、しょうがなかったんだけど、皆家のものが病気ばかりしていてね。」
 彼は手紙に書かなかった妻の病状をもう母親に話す気は起らなかった。彼は妻を母親に渡しておいてひとり日光室へ来た。日光室のガラスの中では、朝の患者たちが籐《とう》の寝椅子《ねいす》に横たわって並んでいた。海は岬に抱かれたまま淑《しとや》かに澄んでいた。二人の看護婦が笑いながら現われると、満面に朝日を受けて輝やいている花壇の中へ降りていった。彼女たちの白い着物は真赤な雛罌粟の中へ蹲《しゃが》み込《こ》んだ。と、間もなく、転げるような赤い笑顔が花の中から起って来た。
 彼の横で寝ていた若い女の患者も笑い出した。
「まア、あんなに嬉しそうに。」
「ほんとにね。でも、もうあなたも、すぐあそこをお歩きになれますわ。」と隣りの痩せた婦人がいった。
「そうでございましょうかしら、でも。」
「ええ。ええ、昨日も先生が、そう仰言《おっしゃ》っていられましてよ。」
「あたし、あの露のある芝生の上を、一度歩きたくってしょうがありませんの。」
「そうでございますわね。でも、もう直ぐ、あんなにお笑いになれますわ。」
 看護婦たちはまた花の中から現われると、一枝ずつ花を折った。彼女たちは矢車草の紫の花壇と薔薇の花壇の間を朗かに笑いながら、朝日に絡《からま》って歩いていった。噴水は彼女たちの行く手の芍薬《しゃくやく》の花の上で、朝の虹を平然と噴き上げていた。

       十二

 彼の妻の腕に打たれる注射の数は、日ごとに増していった。彼女の食物は、水だけになって来た。
 或る日の夕暮、彼は露台《バルコオン》へ昇って暮れて行く下の海を見降《みおろ》しながら考えた。
 ――今は、ただ俺は、妻の死を待っているだけなのだ。その暇な時間の中へ、俺はいったい、何を詰め込もうとしているのだろう。
 彼には何も分らなかった。ただ彼は彼を乗せている動かぬ露台《バルコオン》が絶えず時間の上で疾走しつつあるのを感じたにすぎなかった。
 彼は水平線へ半円を沈めて行く太陽の速力を見詰めていた。
 ――あれが、妻の生命を擦《す》り減《へ》らしている速力だ、と彼は思った。
 見る間に、太陽はぶるぶる慄《ふる》えながら水平線に食われていった。海面は血を流した俎《まないた》のように、真赤な声を潜《ひそ》めて静まっていた。その上で、舟は落された鳥のように、動かなかった。
 彼は不意に空気の中から、黒い音のような凶徴《きょうちょう》を感じ出した。彼は急いでバルコオンを降りていった。向うの廊下から妻の母が急いで来た。二人は顔も動かさずに黙って両方へ擦れ違った。
「あのう、ちょっと、」と母は呼びとめた。
 彼は振り向いて黙っていた。
「今夜は、キーボ、危いわね。」
「危い。」と彼はいった。
 二人はそのまま筒《つつ》のような廊下の真中に立ち停っていた。暫《しばら》くして彼は病室の方へ歩き出した。すると、付添いの看護婦がまた近寄って来て彼を呼びとめた。
「あのう、今夜はどうかと思いますの。」
「うむ。」と彼は頷いた。
 彼は病室のドアーを開けると妻の傍へ腰を降ろした。大きく開かれた妻の眼は、深い水のように彼を見詰めたまま黙っていた。
「もう直ぐ、だんだんお前も良くなるよ。」と彼はいった。
 妻は、今はもう顔色に何の返事も浮べなかった。
「お前は疲れているらしいね。ちょっと、一眠りしたらどうだ。」
「あたし、さっき、あなたを呼んだの。」と妻はいった。
「ああ、あれはお前だったのか。俺はバルコオンで、へんに胸がおかしくなった。」
「あなた、あたしの身体をちょっと上へ持ち上げて、何んだか、谷の底ヘ、落ちていくような気がするの。」
 彼は両手の上へ妻を乗せた。
「お前を抱いてやるのも久しぶりだ。そら、いいか。」
 彼は枕を上へ上げてから妻を静かに枕の方へ持ち上げた。
「何んと、お前は軽い奴だろう。まるで、こりゃ花束だ。」
 すると、妻は嬉しさに揺れるような微笑を浮べて彼にいった。
「あたし、あなたに、抱いてもらったのね、もうこれで、あたし、安心だわ。」
「俺もこれで安心した。さア、もう眠るといい。お前は夕べから、ちっとも眠っていないじゃないか。」
「あたし、どうしても眠れないの。あたし、今日は苦しくなければ、うんとお饒舌《しゃべり》したいんだけど。」
「いや、もう黙っているがいい、俺はここについていてやるから、眼だけでも瞑《つむ》っていれば休まるだろう。」
「じゃ、あたし、暫く眠ってみるわ。あなた、そこにいて頂戴。」
「うむ。」と彼はいった。
 妻が眼を閉じると、彼は明りを消して窓を開けた。樹《き》の揺れる音が風のように聞えて来た。月のない暗い花園の中を一人の年とった看護婦が憂鬱に歩いていた。彼は身も心も萎《しお》れていた。妻の母はベランダの窓|硝子《ガラス》に頬をあてて立ったまま、花園の中をぼんやりと眺めていた。もう何の成算も消え失《う》せてしまったように。遠くの病舎のカーテンの上で、動かぬ影が萎れていた。時々花壇の花の先端が、闇の中を探る無数の青ざめた手のように揺らめいた。

       十三

 その夜、満潮になると、彼の妻は激しく苦しみ出した。医者が来た。カンフルと食塩とリンゲルが交代に彼女の体内に火を点《つ》けた。しかし、もう、彼女は昨日の彼女のようにはならなかった。ただ最後に酸素吸入器だけが、彼女の枕元で、ぶくぶく泡を立てながら必死の活動をし始めた。
 彼は妻の上へ蔽《おお》い冠《かぶ》さるようにして、吸入器の口を妻の口の上へあてていた。――逃がしはせぬぞ、というかのように、妻の母は娘の苦しむ一息ごとに、顔を顰《しか》めて一緒に息を吐き出した。彼は時々、吸入器の口を妻の口の上から脱《はず》してみた。すると彼女は絶えだえな呼吸をして苦しんだ。
 ――いよいよだ。と彼は思った。
 もし吸入が永久に妻の苦痛を救うものなら、彼は永久にその口を持ち続けていたかった。だが、この眼前の事実のように、吸入がただ彼女の苦しみを続けるためばかりに役立っているのだと思うと、彼は彼女の生命を引きとめようとしている薬材よりも、今は、彼女の生命を縮めた漁場の魚に、始めて好意を持ちたくなった。しかし、医師は法医学に従って、冷然としてなお一本の注射を打とうといい始めた。ただ、生き残っているもののためのみに。
「いや、いや。」と彼の妻は彼より先に医師の言葉を遮《さえぎ》った。
「よしよし、じゃ、もう打つのは止《よ》そう。」
「あなた、もうあたし、駄目なんだから。」と妻はいった。
「いや、まだ、まだ。」
「あたし、苦しい。」
「うむ、もう直ぐ、癒《なお》る。大丈夫だ。」
「どうして、あたしを、死なしてくれないんだろう。」
「そんなことは、いうもんじゃない。」
「こんなに苦しいのに、まだあたしを、苦しめるつもりかしら。」
 今は、彼には彼女の死を希《ねが》う意志が怨《うら》めしかった。
「もうちょっとの辛抱《しんぼう》さ。直き苦しくなくなるよ。」
「あ、もう、あなたの顔が、見えなくなった。」と妻はいった。
 彼は暴風のように眼がくらんだ。妻は部屋の中を見廻しながら、彼の方へ手を出した。彼は、激しい愛情を、彼女の一本の手の中に殺到させた。
「しっかりしろ。ここにいるぞ。」
「うん。」と彼女は答えた。
 彼女の把握力が、生涯の力を籠《こ》めて、彼の手の中へ入り込んで来た。
「あなた、あたし、もう死んでよ。」と妻はいった。
「もうちょっと、待てないか。」と彼はいった。
「あたし、苦しいの。あなたより、さきに死んで、済まないわね。」
 彼は答えの代りに、声を上げて泣き出した。
「あなた、長い間、ほんとに済まなかったわ。御免《ごめん》してね。」
「俺も、お前に、長い間世話になって、すまなかった。」と彼は漸くいった。
 妻は顎《あご》をひいてしっかりと頷いた。
「あたしほど、幸福なものは、なかったわ。あなたは、ひとりぼっちに、なるんだわね。あたしが、死んだら、もうあなたのことを、するものが、誰もいなくなるんだわ。」
 萎れたマーガレットの花の傍から、彼女の母の泣き声が、歓声のように起った。
「キーボ、キーボ。」
「お母さんにもすまなかったわね。勘忍《かんにん》してね。兄さんにも、宜しくいって。それから、皆の人にも。」
「ああ、ああ、心配しないでいいよ、もう直ぐ皆のものが来るよ。」と母はいった。
「あたし、まだ、待たなくちゃならないかしら。苦しいんだけど。」
「もう直ぐだよ。さっき、電話をかけたんだからね、もう直ぐなんだから。」
「あたし、さきへ死ぬわ、もう、苦しくって。」
「よしよし、安心してればいい。何も心配しなくてもいい。」と彼はいった。
 妻は頷くと眼を大きく開いたまま部屋の中を見廻した。一羽の鴉《からす》が、彼と母との啜《すす》り泣《な》く声に交えて花園の上で啼《な》き始めた。すると、彼の妻は、親しげな愛撫の微笑を洩らしながら咳《つぶや》いた。
「まア気の早い、鴉ね、もう啼いて。」
 彼は、妻の、その天晴《あっぱ》れ美事な心境に、呆然《ぼうぜん》としてしまった。彼はもう涙が出なかった。
「さようなら。」と暫くして妻はいった。
「うむ、さようなら。」と彼は答えた。
「キーボ、キーボ。」と母は呼んだ。
 しかし、彼女はもう答えなかった。彼女の呼吸は、ただ大きく吐き出す息ばかりになって来た。彼女の把握力は、刻々落ちていく顎《あご》の動きと一緒に、彼の掌《てのひら》の中で木のように弛《ゆる》んで来た。彼女は動きとまった。そうして、終《つい》に、死は、鮮麗な曙《あけぼの》のように、忽然《こつぜん》として彼女の面上に浮き上った。
 ――これだ。
 彼は暫く、その眼前に姿を現わした死の美しさに、見とれながら、恍惚《こうこつ》として突き立っていた。と、やがて彼は一枚の紙のようにふらふらしながら、花園の中へ降りていった。

底本:「日輪・春は馬車に乗って 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷発行
底本の親本:「新選横光利一集」改造社
   1928(昭和3)年10月15日
初出:「改造」
   1927(昭和2)年2月号
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2008年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

火—– 横光利一

     一

初秋の夜で、雌《めす》のスイトが縁側《えんがわ》の敷居《しきい》の溝の中でゆるく触角を動かしていた。針仕事をしている母の前で長火鉢《ながひばち》にもたれている子は頭をだんだんと垂れた。鉄壜《てつびん》の手に触れかかると半分眼を開けて急いで頭を上げた。
 「もうお寝。」
 母は縫目《ぬいめ》をくけながら子を見てそういった。子は黙って眼を大きく開けると再び鉄壜の蓋《ふた》の取手《とって》を指で廻し始めた。母はまたいった。
 「明日また遅れると先生に叱られるえ。」
 子はやはり黙っていた。そして長らくして、
 「眠《ねむ》たいわア。」といった。
 「そうやでお眠《ねむり》っていうのやないの。」
 「いやや。」
 「お可《か》しい子やな、早《は》ようお眠んかいな。」
 子は立上って母の肩の上へ負われるようにのしかかると、暫《しばら》く静《しずか》にしていたが、その中《うち》に両足で畳を蹴《け》り飛び上った。母は前へ蹲《かが》むようにして「重たいがな、これ、針でつくえ。」肩の子を見向きながらいった。子は再び静になった。
 「ええ、お母《か》さん、眠たいわア。」
 「そやでお眠たらええやないか、重たい重たい。」
 子は「いやーや」というと母の肩から辷《すべ》り下《お》りて膝《ひざ》の上へ顔を埋めた。
 「あぶないがな、針が刺《ささ》っているやないか。」
 母は膝の上の布切《きれ》を前の方へ押しやった。子の頭の頂《いただき》から首条《くびすじ》へかけて片手で撫手下《なでお》ろしながら低い声で、
 「ほんとにもうお寝、え。」といった。
 「お母さんも寝ないや。」
 「人が笑うわ、九つもなってるくせに一人で寝んなんて。」そして母は些《ち》っと黙っていたが、「お前の頭はほんとうにええ格好や。」と呟《つぶや》いた。
 母も子も黙っていた。隣家から酒気を含んだ高声《たかごえ》が聞えて来た。子は夕暮前に、井戸傍《いどばた》で隣家の主人が鶏《とり》をつぶしていたのを眼に浮べた。
 「お母さん、お隣りのはな、鶏を食べていやはるのや。」と子は母を見上げていった。
 「そんな事をいうものやない。」と母はいった。隣家の裏庭の重い障子《しょうじ》の開く音がすると、縁側の処《ところ》へ近所の兼助《かねすけ》という男が赤い顔をして立っていた。
 「お里《さと》さん、御馳走《ごっそ》だすぜ、さアお出《い》でやす。」そう男がいって子供を抱く時のように両手を出して一度振るとひょろひょろとした。
 母は微笑《わら》って「え、大きに。」といった。
 「さア、早ようやなけりゃ駄目《いけ》まへんぜ。」
 「この子がいますで後ほどまたおよばれしますわ。」と母はいった。
 「何アに、米《よね》さんは一人寝せときゃええさ、なア米さん、独人《ひと》り寝てるわのう。」と男は顔を少し突き出した。
 子は男から顔をそむけて黙って母の顔を見上げた。
 「お前ひとり寝てる?」と母は訊《き》いた。
 子は顔を横に振った。
 「あんなにいうておくれはるのやで、お前ひとり寝てな、え、直《じ》きにお母さんが帰って来るで。」
 「好《え》えさ好えさ、赤子《あかご》じゃあるまいし。」そういうと男は「どっこいしょ。」と背後へ反《そ》り返《かえ》った。母は子の頭を膝から起して「待っておい。」といって笑いながら縁側の方へ立った。そして「下駄《げた》がないわ。」と呟いた。
 「下駄のような物|入《い》るものか。」
 と男はいうと彼女の手首を掴《つか》まえて背を向けると両手で彼女の足を抱いて歩き出した。母は男の背の上で「険《あぶな》い険い。」と笑い声でいった。
 子は縁側へ走り凭《よ》って戸袋《とぶくろ》からのり出した。すると男の背上で両足をかかえられている母が隣家の庭の真中でひょろひょろしているのを見た。子は男が憎くてならなかった。そして母が非常に悪いことをしているような気がした。
 「丁度好えぞ、兼さん。」
 赤い顔をした隣家の主人がそういって笑うと、傍の主婦は脱けた前歯を手で隠すようにして淡笑《うすわら》いをした。
 子は室《へや》へは入って障子の片端を胸に押しつけると、指を舐《な》めてぷすぷすと幾つも障子に穴をあけた。もう眠たくなかった。
 暫くして子は戸袋の処からまた隣家の庭をソッと覗《のぞ》いた。母が兼の横に坐って銚子《ちょうし》を捧《ささ》げるようにしているのが見えた。子はもう母が自分の方を向くだろうと思ってその方を長らく見ていた。母は銚子を持ったまま何か話している主人の顔を見続けていた。そして時々顎《あご》を動かした。しかし何時《いつ》までたっても子の方を向かなかった。
 子は悲しくなった。で、顔を戸袋からひっこめて「お母さん。」と呼んだ。
 「はいはい。」
 そう母はいった。ほど経《へ》て母が何かいって帰ってくるらしいけはいがしたので子は火鉢《ひばち》の傍へ走り込んだ。
 母は眼の縁《ふち》を少し赤くして帰って来ると、
 「まだ眠てやないの。」と微笑っていった。子は黙って母の手を引張って叩《たた》いた。
 「さアもう寝な。また明日学校が遅れるえ。」
 子は口を尖《と》がらせて母の手の指を咬《か》んだ。母は「痛ッ」といって手を引っこめた、そして些《ちょ》っと指頭《ゆびさき》を眺めてから「まアこの子ったら。」といった。子は黙って母を睥《にら》んでいた。そして、「お母さんの阿呆《あほ》。」というと母の手を掴んでもう一度咬もうとした。母は子の背中を押すようにして「此処《ここ》をかたづけたら直ぐ寝るでなお前は前《さき》へ寝てなえ、ほんとにお前は賢いえ。」そういうと子を寝床の方へ

      

 その日は刺繍《ししゅう》の先生の市《まち》から村へ廻って来るのが遅れていた。
 米の母は、六年前にアメリカヘ行った良人《おっと》から病気という報《しら》せを受けとって以来半年余り送金が絶えているにもかかわらず、まだ刺繍を習っているということについて、親戚側からとやかくいわれた。しかし彼女は、少々の金を費《ついや》してもこれさえ覚えておけばまさかの時に役立つといって習い続けた。
 刺繍の先生は遠い市から月に一回|欠《かか》さず村へ廻って来た。米の村では母だけが刺繍を習っていた。これを習う最初にあたって先ず、何処《どこ》でも、その習う期間は先生を自分の家に宿泊させる約束をしなければならなかった。米の家でもその約束を守っていた。初めのほどは、十五になった米の姉と母とが習っていた。しかし、父から送金が絶えると共に母は娘を看護婦の見習生《みならいせい》として市へやって自分独り習い続けることにした。
 米はその時から自分の家が非常に貧しくなったのだと知った。しかし、何処が前よりも貧しくなったのかは分らなかった。また、ただ、姉が彼と一緒の家にいないという事以外に生活の様子は前とは少しも変っていなかった。
 米は姉に逢《あ》いたいと思った。殊に二人が喧嘩《けんか》した時のことを想い出すと溜《たま》らなく逢いたくなった。しかし彼は姉へ手紙を出す時、かばんと小刀《こがたな》とを帰りに買って来てくれとは必ず忘れずにいつも書いたが、逢いたくてならぬとか、早く帰ってくれとかは決して書かなかった。というのは、自分の愛情を現すことを羞《はずか》しく思いもしたし、また、そのことを母に見られるのをきまり悪く思ったからでもあった。

     

 学枚の門を出る時、米は白墨を拾った。帰る途々《みちみち》、彼は何処か楽書《らくがき》をするに都合の好さそうな処をと捜しながら歩いた。土蔵《どぞう》の墨壁は一番魅力を持っていた。けれども余り綺麗《きれい》な壁であると一寸《いっすん》ほどの線を引いて満足しておいた。
 村端まで来て、道の片側に沿って流れている小川にかかった御陰石《みかげいし》の橋を見た時、米は此処が最も楽書するのに適していると思った。そして最初に滑《なめら》かそうな処を撰《えら》んで本という字を懸命に書いてみた。草履《ぞうり》は拭物《ふきもの》の代りをした。彼は短い白墨が磨《す》り減《へ》って来ると上目《うわめ》をつかって、暫く空を見ていてから
 「カネサント、オカサントユウベ」
と書いた。彼はその次を書かなかった。なぜかというと昨夜眼を醒《さま》した時、真暗な自分の横で母と男とが低い声で話していたのはもしかしたなら夢であったのかもしれぬと思ったから。しかし、男の堅い手がそっと自分の手を強く圧《おさ》えて直ぐひっこめたのは確《たしか》に夢ではなかったと思った。そして、彼はそれ以外に何も記憶になかった。
 彼は立ち上って石橋の上から去ろうとした、が、十歩ほど行くと後へ戻って橋の上の字を草履で消した。そしてもう一度書いてみたけれどもやはり消した。後はぶらぶら歩き出すと急に走り出した。走り出ると反《そ》り返《かえ》って白墨を高く頭の上へ投げて踏《ふ》み潰《つぶ》した。そしてまたぶらぶら五、六歩あるくと走り出した。
 村へは入った処で染物屋《そめものや》があった。米はそこの雨垂落《あまだれおち》に溜っている美しい砂を見ると蹲《しゃが》み込《こ》んでそれを両手で掬《すく》ってはばらばら落してみた。終《つ》いには両足を投げ出した。そして、大きな砂粒をかき去《の》けると人差指でオカサンハ、と書いた。もう昨夜の事は夢だとは思えなかった。急に母を擲《なぐ》りつけたくなった。その時彼は砂の中に透明な桃色をしたゴマの砂粒を見付けた、彼はそれを手の平で拭《ふ》いてよく眺めていると何か貴い石にちがいないと思った。
 「金剛石《ダイヤモンド》や!」
 フと彼はそう思うとほんとうの金剛石のような気がした。するといよいよ金剛石だと思われた。彼はそれをすかして見てからもとあった砂の上へ置いてみた。しかし、暫く見詰《みつ》めていると外《ほか》の砂と入り交って分らなくなりそうになったので直《いそ》いでまた取り上げた。眼が些っと痛かった。
 彼はだんだん嬉しくなって来た。小刀が買える、カバンが買える、とそう思った。が、直ぐその後に姉のことを思い浮べると、小刀もカバンも飛び去って、ただこの金剛石を持っているということばかりで姉が家へ帰って来られるような気がして来た。もうじっとしていられなかった。
 そこへ米より三つ上の辰《たつ》という子が帰って来た。
 「金剛石やぞ、これ。」
 米は些っと砂粒を差し出すと直ぐ背後へ廻した。
 「嘘《うそ》いえ。」と辰はいった。
 米は金剛石を見せずにはいられなかった。
 辰はその砂粒を取ると暫く眺めていて
 「こんな金剛石あるか。」
 といった。そして、不意に半分手を差し出している米の傍から、駆《か》け出《だ》した。米は、三、四|間《けん》後を追いかけたが急に真蒼《まっさお》な顔をして走り止まると大声で泣いた。
 辰は米を見返って溝の中へ捨てる真似をして道傍《みちばた》の材木の上へ金剛石を乗せて、赤目を一度してそのまま帰った。
 米は辰の姿が見えなくなると徐々《そろそろ》材木の方へ歩いて行った。金剛石は材木の浅い割目の中で二重に見えていた。彼はそれを掌《てのひら》の上へ乗せると笑えて来た。
 家へ帰ると彼は中へは入らずに直ぐ裏へ廻って、流し元の水を受ける槽《おけ》を埋めた水溜《みずため》の縁の湿っぽい土の中へ金剛石を浅くいけ[#「いけ」に傍点]た。そこには葉蘭《はらん》が沢山|生《は》えていたので、その一本の茎を中心に小さい円を描いておいた。彼は、こうしておけば直きに金剛石が大きくなるにちがいないと思われた。それに此処は水をやらなくてもいいと思った。

     

 その夕方、米は昨日見付けた柏《かしわ》の根株《ねかぶ》の蜂の巣を遂に叩《たた》き壊《こわ》して帰って来た。そこへ母が奥から出て来て魚屋の通帳を彼に渡して牛肉の鑵詰《かんづめ》を買って来いと命じた。米は母の顔が少し赤いと思った。そして外へ出る時庭に見馴《みな》れない綺麗な下駄を一足見付けた。彼は畳のような下駄だと思って履《は》こうとすると、母は「これ。」と顎を引いた。
 米の家と魚屋とは親戚であったし、馴れていた。それでそこの魚屋の主人は米は障子を開ける前に、きっと叔父《おじ》さんは常日《いつ》ものように笑っているだろうと思って覗いて見たが、独人《ひと》りで恐い顔をして庭の同じ処を見詰めていた。米は今日は膝の上へ乗れないと思ったが、障子を開けると直ぐ叔父はニコニコした。
 「鑵詰、牛肉のや今日は。」
 米がそういうと叔父は笑いながら立って鑵詰棚へ手を延ばして「どうしたのや、先生が来たんやな。」といった。
 米は家の庭にあった畳のような下駄は刺繍の先生のだなと思った。「どうや知らん。」と答えた。
 叔父は鑵詰の口を開けながら風呂《ふろ》へ入れてやろうかといった。米は「やめや。」といった。すると叔父は突然、「どうや米、お前先生とお父《とっ》つァんとどっちが好きや、うん。」と訊《き》いた。
 「知らんわい。」
 米は仰向《あおむ》きになった叔父の膝の上へ寝そべってそういった、そして叔父の鼻の孔《あな》は何《な》ぜ黒いのだろうと考えた。
 「知らん、阿呆なこといえ、お父つァんはもう嫁さん貰《もろ》うてござるぞ、どうする、ん?」と叔父は覗き込んだ。
 米は腹を波形に動かして「ちがうわい、ちがうわい。」といった。しかし叔父のいう事は真実のように思われて、もう父は帰って来ないような気がして来た。母とさえ一緒にいる事が出来れば父の帰って来る来ないはそう心にかからなかった。すると、黙って叔父の手の皮膚を摘《つ》まみ上《あ》げていた彼は急に母が昨夜男と寝た事を自分が知っているのを気使って自分の留守に死んでいはすまいかと思われた。その中《うち》に涙が出て来た。で、草履を周章《あわ》ててはいて黙って帰ろうとすると、叔父は「何んじゃ米。」といった。けれど彼はやはり黙って表へ出ると馳け出した。
 家へ帰った時母は鑵詰を米から受け取って「お前まアこの間|着返《きが》えた着物やないか。」
 と睥《にら》んだ。彼の着物の胸から腹へかけて鑵詰の汁が飛白《かすり》の白い部分を汚していた。
 母が自分を見たなら抱いてくれるとばかり思っていた米は何《な》ぜだか急に他家の母の傍にいるような気がした。そして、身体をあちこちに廻しながら物を踏《ふ》み蹂《にじ》るような格好をして母を見い見い外へ出て行こうとした。「通《かよ》いは?」と母が訊いた。米は忘れて来たのを知ったが悲しくなって来たので黙って表へ出た。しかし、直ぐ金剛石のことを思い出すと裏へ廻って行って、夕闇《ゆうやみ》の迫った葉蘭《はらん》の傍へ蹲《うずくま》って、昼間描いておいた小さい円の上を指で些《ち》っと圧《おさ》えてみた。すると、間もなく、姉が帰って来て、家の者らがちりちりに生活しなくてもいいようになると思われた。しかし金剛石ではないと思うと金剛石ではないような気がして淋しくなった。
 外が真暗《まっくら》になってから家の中へ入った。やはり来ていたのは刺繍の先生であった。米のその夜の夕餉《ゆうげ》の様は常日とは変っていた。餉台《ちゃぶだい》は奥の間へ持って行かれたし、母が先生の傍《そば》へつききりなので彼は台所の畳の上で独人《ひとり》あてがわれた冷《ひ》やっこい方の御飯をよそって食べ始めた。初めの裡《うち》は牛肉を食べたかったので、母が持って来てくれるまでに御飯を食べてしまわないようと少しずつ遅くかかって食べ出したが、何日《いつ》の間《ま》にかお腹が膨《ふく》れて来た。
 彼が食べ終った頃、母が奥から米の傍へ皿を取りに出て来た。
 「お漬物《ここ》は。」と米は訊《たず》ねた。
 「うむ? うむ。」と母はいった。
 「お漬物何処《ここどこ》、お母さん。」と少し米が大きな声を出すと母は「はいはい、今あげますよ。」といって奥へ行った。しかし幾ら待っても母は出て来なかった。その中《うち》に米はもう漬物《つけもの》の事を忘れてしまって箸《はし》のさきを濡らしては板の間へせっせと兵隊の画を描き初めた。どうしてこう幾度画いても帽子《ぼうし》が小さくなるのだろうと苦しんだ。
 奥から餉台や汚れた食器が台所へ帰って来た。鑵詰の牛肉はもう皿の上から消えていた。米は牛肉をどうしたかと母に訊ねたかったが、そのことを奥の客に聞かれては羞《はずか》しいと思った。そして、間もなく母は再び客に奪われた。
 米はあきらめて黙って紙石盤《かみせきばん》を出して来ると腹這《はらば》いになって画をかき始めた。一頁に一つずつ先ず前の軍人から始めて二枚目に糞《くそ》を落している馬を描いた。しかし、馬の尾を高く上げていいかどうかと迷わされた。そして、結局、細い勢の好い滝のような曲った尾を付けて納得した。次には姉の顔を画いた。下頬《したほお》の膨らんだ円い輪廓《りんかく》を幾度も画き直してから眼鼻をつけて最後に鼻柱の真中へ黒子《ほくろ》を一つ打った。そうして出来上った南瓜《かぼちゃ》のような顔の横へ「ネーサンノカオ」と書いておいた。その顔を眺めていると、姉の黒子は黒いが画の方は白いと気が付いた。そして、それを黒くすると姉の顔に一層似つかわしくなるであろうと考えたけれどどうすれば黒くなるかという方法が分らなかったのでそのままにしておいた。
 九時が打つともう米は眠たくなった。奥から母の笑い声が聞えて来た。いつも奥で寝ている彼は、今夜は何処で寝て好いのか知らなかった。すると、また、昨夜眼を醒した時の母と男との囁《ささや》きを思い出した。そして、学校の帰り道に石橋の上へ書いた楽書《らくがき》を消したかどうかと気がかりになって来た。それは消したようでもあるし消さないようにも思われた。
 母が奥から出て来たとき、
 「何処で寝るの。」
 と米は訊いた。
 「アそうそ、お前もう眠な。」
 母はそういうと直ぐ奥へ引き返して行った。そして奥の間で「些《ち》っと失礼します。」といって蒲団《ふとん》を米の横へ持って出て来てから、楕円形の提灯《ちょうちん》に火を照《つ》けた。蝋燭《ろうそく》は四|寸《すん》ほどもあった。
 「お前提灯持って二階へお上り。」
 と母はいった。子が階段を昇ると母はその後から蒲団を擁《かか》えて昇った。
 母が蒲団を敷いている間、子は灯《ひ》が消えないように提灯をさげていた。「お母さんも寝な恐《こ》わい。」と子はいった。
 「直ぐ来るえ。直《じ》っきや。」と母はいった。子はそれきり何ともいわなかった。母は梯子《はしご》の中頃まで降りると「寝る時灯を消しな、え。」といった。子は「うん。」といって灯のついたままの提灯を畳んで枕もとに置いてから、母について降りた。そして鉢へ冷《さ》めた鉄壜《てつびん》の湯をいっぱい注《つ》いで、それを再び二階へ持って来て枕元の提灯の傍へおいた。寝巻を着返《きが》えて蒲団の中へは入ると子は俯伏《うつぶ》せになって、川の水でも飲むような格好で一口鉢の湯を呑んだ。それから、母と自分との蒲団の領分を定《き》めようと思って母の木枕《きまくら》を捜したが見あたらなかった。で、身体を蒲団の片方へよせてまた鉢の湯を一口呑んだ。そして彼は額《ひたい》を枕にあてると母の笑い声が下から聞えて来た。何時《いつ》母は寝に来るのかしらと思ったが母の来るまで楽しみに一口ずつ長らくかかって鉢の湯を減らそうと心に決めた。湯は三口目に一|分《ぶ》ほど減った。しかし四口目の頭は何時までたっても枕の上から上らなかった。

 その夜の一時過ぎに子は眼が醒めた。すると、寝巻を着た母が蒲団の上に坐って彼をしっかりと抱いているのを知った。母の背後にはランプを持った刺繍の先生が黙って立っていた。あたりに煙が籠《こも》っていた。そして、真黒に焼けて輪をはじけさせている提灯を中心に、枕元の畳の焦げた黒い部分が子の寝ていた枕の直ぐ傍で拡《ひろ》がって来ていた。鉢は焼け残った子の着物の上にひっくり返っていた。子は瞑《つぶ》りかけた眼で焦げた畳を眺めていた。そして首を些っと横に振ると、母の拡《ひろ》がっている襟《えり》もとへ顔を擦《す》りつけるようにしてかすれた声で
 「早よう眠よう。」
 といってまた眼を閉じた。母は黙っていた。その中《うち》に彼女の眼が潤《うる》んで来た。
 「ランプはもう要《い》りませんか。」
 と先生がいった。母はやはり黙って少し前へ身体を動かした。
 先生も黙って下へ降りて行った。室《へや》の中が暗くなると、母は子を一層強くだいた。そして長らくして、
 「虫が報《し》らせたのやわ。」
 と小さい声で呟《つぶや》いた。子はもういびきを立てていた。

底本:岩波文庫「日輪 春は馬車に乗って 他八篇」岩波書店
   1981(昭和56)年8月17日第1刷
   1997(平成9)年5月15日第23刷
入力:大野晋
校正:田尻幹二
1999年7月9日公開
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

汚ない家—– 横光利一

 地震以後家に困つた。崩れた自家へ二ヶ月程して行つてみたら、誰れだか知らない人が這入つてゐた。表札はもとの儘だ。其からある露路裏の洋服屋の汚い二階を借りた。それも一室より借れなかつた。ある日菊池師が朝早く一人でひよこつと僕の家へ来られた。二三週間した日、師は、
「君の家を書いた。」と云はれた。
「どこです。」と訊ねると、中央公論とのこと。
 公論を見ると「震災余譚」と云ふ戯曲が出てゐて、舞台がそつくり僕のゐる内の洋服屋であつた。人物も洋服屋の人物そつくりで、一人の老母が出て来るがあれは僕の母らしかつた。「震災余譚」が沢正一派で天幕劇場にかかつたとき、下の洋服屋にそのことを云つて、見に行つて来てはと云ふと、喜んで行つた。しかし帰つて来てから洋服屋は失望してゐた。
「なぜか」と訊くと、
「あの芝居は私とこの洋服屋ぢやない。」と云ふ。
「いやさうだよ。」と云ふと、
「本には初音町となつてゐる。私とこは餌差町だ」と云ふ。
「なるほどね、僕は地震前に隣りの初音町にゐたから。」と云ふと、
「さうだな、間違へたのだな、失敗つた。」と云ふ。
 僕が笑つてゐると、洋服屋さん。
「あれが餌差町となつてゐると、わし所のは大流行になるのだが、失敗つた。」と失敗つたを頻りに繰り返してゐた。
 それから一ヶ月ほどして私は直ぐ近所へ変つて来た。ここも実際汚い長屋の中の一つである。外から見れば貧民窟とよりどうしても見えない。しかし、ここを借るにもどれほど多くの借り手と戦つたかしれなかつたのだ。漸く安心が出来たが、戸を閉めるのに眼を瞑つて閉めなければならなかつた。ほこりがいくらでも天井から落ちて来るのだ。一寸戸を動かしても、家全体が慄へてゐるのである。柱へ触るにも気をつけてゐないと痛いものが刺さりさうなのだ。壁がなくて、博覧会の部屋のやうな紙壁なので隣家の話声が馬鹿らしいほど聞える。例へば、いびきが聞える。すると私はそれが母のいびきか隣家のいびきであるかと暫く考へる必要が生じて来てゐる。しかし、いくら大きな地震でもやつて来いと云ふ気になつてゐる。屋根がもし倒れて来ても、私の頭で却つて屋根が上へ飛び上つて了ふにちがいないのだ。それにまだ良いことがある。第一に一見して美事にプロレタリアだと分ることだ。私はプロレタリアである。これは自慢でも謙遜でもない。第二に、家へ訊ねて来てくれる未知の人達は気の毒がつて二度と来てくれないことである。私は未知の人に逢ふのは厭な部類に属してゐる。第三に、幻想が豊富になること。これは貧乏街に住んでみない人には一寸分らない。非常に面白い所が多々あるのだ。一鉢の植木がどれほど快活に新鮮な感じを持つてその街を飾るかと云ふことも、人々はあまりに富貴を望んで鈍感になつてゐる時であるだけに、面白いことである。之は一例。まだ良いことは風景にも生活にも沢山あるが汚い家に住んでゐて悪いいけない事も沢山ある。未知の人々が来ると、いきなりあぐらをかく、之は悪い事でも不快な事でもまアないが確に滑稽な事ではないか。かう云ふ現象の生じると云ふ事の心理の分析は先づ各自の人々に譲つておいて、第一に訪ねて来て貰ふ人々に気の毒な事である。汚い家を訪ねる人々の気持ちには、その訪問をすると云ふことに誇りがない。誇りを与へないと云ふことはこちらが確にいけないのだ。この点私は恐縮するより仕方がない。で、私は成るべく来て下さいとは云はないのである。私はいけないことに非常にズボラである。手紙と云ふものはとても書けない。返事なども雑誌新聞の応答にさへ、どうも書けない。汚い家にゐるからなほ相手の人々のやうにこちらもズボラをしていいと思ふのであらう。このため友人にも親戚にも不義理をかけて困る。またその弁解するにこれまた厄介なこと、ドウケンシイではないが、In many walks of life, a conscience is a more expensive encumbrance than a wife or a carriage; である。こんな英語位誰でも読める言葉だから訳しないでおく。分らない人は妻君に聞き給へ。但し、その時の妻君の表情には注意する可き必要がある。

底本:「日本の名随筆83 家」作品社
   1989(平成元)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「定本 横光利一全集 第一四巻」河出書房新社
   1982(昭和57)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2004年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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横光利一

一条の詭弁—– 横光利一

 その夫婦はもう十年も一緒に棲んで来た。良人は生活に窶れ果てた醜い細君の容子を眺める度に顔が曇つた。
「いやだいやだ。もう倦き倦きした。あーあ。」
 欠伸ばかりが梅雨時のやうにいつも続いた。ヒステリカルな争ひが時々茶碗の悲鳴と一緒に起つた。
 或る日、良人の欠伸はその頂点に達した。彼は涙が浮んで来た。
「下《くだ》らない。下《くだ》らない。下《くだ》らないツ! 何ぜこんな生活が続くのだツ!」
 彼は癇癪まぎれに拳を振つて立ち上つた。と、急に演説をするやうに出鱈目なことを叫び出した。
「これほども古く、かくも飽き飽きする程長らく共に棲んだが故に、飽きたと云ふ功績に対してさへも、放れることが不可能だと云ふことは、」
ここまで来ると、
「おやツ!」と思つた。
 何か素敵なことを饒舌つたやうな感じがした。何と自分が云つたのか? 彼はもう一度同じことを繰り返へして云つてみた。
「これ程も古く、かくも飽き飽きする程長らく共に棲んだが故に、飽きたと云ふ功績に対してさへも放れることが不可能だ。」
「成る程、」と彼は思つた。微笑が彼の唇から浮んで来た。
「うまい!」と彼は思つた。
 すると、急にその閃めいた詭弁を自身でうまいツと思つた量に匹敵して、彼はその詭弁から詭弁としての実感を感じ出した。
 それから、彼は出逢ふ人毎にその詭弁を得意になつて話し出した。恰もそれが人生の大いなる教訓であるかのやうに。勿論、人々は彼の詭弁に感歎した。
「うまい。」
「うまい。」
「うまい。」
 彼は有頂天になり出した。益々その詭弁が猛烈に口をついた。さうして、彼は終にそれが一つの大きな嘘の詭弁だと実感されたときには、早やあれほども人々に吹聴し、あれほども感歎させ得た過去の自身の得意さの総量に対してさへも、今はその詭弁を詭弁として押し通して行くことが出来なかつた。そこで、初めて彼の詭弁は一条の真理となつて光り出した。つまり云ひ換へるならば、彼ら夫婦は二人とも永久に幸福であつたと云ふ結果に落ちていつた。
 今は二人の頭には白い毛がしきりと競ひながら生えてゐる。老齢と云ふ醜い肌が、丁度人生の床の間で渋つてゐる二本の貴重な柱のやうに。

底本:「定本横光利一全集 第二巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年8月31日初版発行
底本の親本:「文藝時代」
   1925(大正14)年4月1日発行、第1巻第1号
初出:「文藝時代」
   1925(大正14)年4月1日発行、第1巻第1号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月10日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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