一
これは、青森県のある新聞に載せてあったもので、或る農村――八甲田山麓の村の一青年の詩である。詩としての良し悪しはここでは問題としない。只、この短かい詩句の中から、大飢饉に見舞われたこの地方の百姓達の、生きるための苦闘をはっきり想い浮べて貰えれば足るのである。殊に、
「俺はいつも、男だ男だと思って、寒さを消しながら、夢中で山から山をあさって歩く」という文句の、男だ男だと、ひとりで我《が》ん張っているところが、あまりに単純素朴であるだけ、哀れにも惨めではないか。
私も、常陸《ひたち》の貧乏な百姓村に生れて、百姓達の惨めな生活は、いやというほど見て来た。また、東京へ出てからは、暗黒街にうごめく多くの若い女達、失業者街にうろつく多くの浮浪者《ルンペン》達の、絶望的な生活も、げんなりするほど見て来た。そうして、人間、飢えということが、どんなことであるか、それはどんな結果を見るか、ということも、あらゆる機会あらゆる場合で見て来た。
しかし、右の詩句に現われているような、単純にして素朴な苦闘ぶりには、それが、大凶作、大飢饉地帯の中であるだけに、私は、今までの暗黒街の女群や、ルンペン群の生活苦闘に対して感じたのとはまた異った、一種特別の暗然たる気持ち――泣きながら眠って行く孤児を見るような淋しい暗さを感ぜずにはいられなかったのである。
で、私は考えずにはいられなかった。果してこれが、飢饉地帯の百姓達の最後までの生き方[#「生き方」に傍点]であろうか。多くの百姓達は、食物が尽き果てて、ついに餓死する時まで、同じように黙々として、何ものも恨まず、何ものにも訴えずに終るのであろうか?
岩手県下に三万余人、青森県下に十五万人、秋田県下に一万五千人、そうして北海道全道には二十五万人、総計四十五万人近くの百姓達は、この冬の氷と雪に鎖されながら、字義通り餓死線上に立たされているという。
私は、これらの人達の中の幾人かと会って話し合い、以上の疑問をただして見たかった。即ち、それらの百姓達の胸の奥には、この大凶作、大飢饉に対して、どんなことが考えられているか、どんな生き方が考えられているか、またそれが今、どんな具体的な姿となって現われつつあるか、そのほんとうのところを知りたかった。――私は出かけて行ったのである。
それは今から、十日ほど前、昨年十二月二十七日の午後一時頃であった。私は先ず、岩手県下で最もひどかったという地方――岩手県の御堂村《みどうむら》という部落へ入って行った。ここは、盛岡市から北へ一時間ほど乗り、沼宮内《ぬまくない》という小駅で降りて、更らに徒歩で一里近く山手に入った所である。
空は晴れたり曇ったりしていたが、やがて、北の方からうす墨の雲が低く流れて来たかと思うと、粉雪がさァーッと降り出して来た。私は、オーバーの襟を立てて、田圃と畑との間の村道を歩いていた。それは、どろどろの道である。じっと立っていれば、泥は脛までも埋めそうな深い泥の道である。
私は、満洲の泥道を想い出しながら、短靴を靴下まで泥にして、山裾の村へ入って行った。と、子供が四五人、ある小さな藁家の軒の下にうずくまって、私を珍らしそうに見ている。私は、小学校を訪ねるつもりだったので、その子供達へその道順を訊いて見た。
「ここを行ったら、学校へ行けるかえ?」
「…………」
子供達は、顔を見合して黙っている。私は手をあげてまた訊いた。
「学校は、こっち、あっち?」
すると、一人の男の子が、その短かい手をあげて、
「あっちだべえし」と言った。
私はこの時、つくづくとこの子供達の着物を見た。それは縞目も解らない真黒のもので、また実にひどいぼろ[#「ぼろ」に傍点]であった。私も、貧乏百姓の子供達と一緒に、ぼろにくるまって育ったのであるが、これほどのぼろではなかった。冬になれば、木綿ではあったが、シャツも股引もはいた。が、この子供達は雪が降っているというのに、シャツも着ていず、足袋もはいていなかった。そして、女の子は、脛だけをくるんだ赤い布の股引をはいているきりであった。
私は、ふと、台湾の生蕃人を想い出した。生蕃人もその脛に赤い布の脚絆をはいていたからである。こればかりではない。この子供達のぼうぼうに乱れた頭髪、いつ風呂に入ったか解らないような真黒けな手や足を見ても、生蕃人を聯想せずにはいられなかった。これは、単に今年の凶作のためばかりではなく思われた。今までの彼等の生活が、こうなのだろうと思われた。で、私は、間もなく小学校を訪ねて、その校長に会うといきなり質問したのである。
「この地方の百姓達は、あれほどまでに原始的の生活をしているのですか?」
「さようです」校長は、顎一ぱいに生えらかした髯をざらざらと撫でながら答えるのである。「私も、始めて赴任して来た当時はびっくりしました。何しろ、生徒の大部分は、いつも泥だらけの手足をしている。風呂へ入らないどころか、手足もろくに洗わないのです。で、それを注意したところがこんど来た校長は変な人だ。ひるに、手足を洗えと言った、と言って、あべこべに私が非難されたですから」
「それじゃ、教育程度もずいぶん低いですね?」
「さようです。子供の入学年齢が来ても、たまたま役場からの通知漏れがあったりすると、その子供が九つになっても十になっても学校へ入れようとはしません。それから、農繁期になりますと、学校よりゃ野良仕事が大事だと言って、めったに学校へは出て来ない子供が多いです」
「それじゃ、村の百姓達の人情、人気《じんき》はどうでしょう?」
「その点はまた実に純朴です。恐らく日本中で、一番純朴な人達ではなかろうかと思います。その一つの証拠でありますが、最近、この村の青年訓練所の人達が、在満軍人慰問金を集めるために、活動写真をやりました。一人十銭の入場料で、この学校の生徒もその切符を買うようすすめられましたが、何しろこの不況と凶作とで、百姓達は一銭の金も持っていません。ですから、四百人近くの生徒の中で、その十銭の入場券を買い得たものはたった六人でした。活動写真といえば、子供は泣くほど見たいのですが、その金がないのです。そんな訳で、この村中六百軒あまりから集った金が僅か二十円足らずであったそうですが、そしてこの金こそ全く血の出るような金ですが、それを全部、在満の軍人へ送ってしまったのです。この純朴な忠君愛国熱は非常なもので、この地方の百姓達はみんな『一太郎ヤーイ』のお婆さんのような人達ばかりです」
この村の今年の凶作状態を見ると、一反二石が平作であるに対し、一反(三百坪)三斗乃至四斗であった。また全村総反別二百町の二割までは全然無収穫であったという。そうして百姓達は、粟と稗とで飢えをしのぎ、更らに山地の百姓達になると、シダミと称する楢の実をふかして食い、わらびの根を澱粉として腹を充たしているというのだ。従って、全村の小学校児童九百名のうち、四百名までは欠食児童であるというのだ。この事実と、今の話、在満軍人慰問金との話とを思い合わせて、私は、何とも言えなくなったのであった。
私は最後に言ったのである。
「じゃ、この地方の人達は、今、食うものを食わず着るものを着ずという状態ですね?」
「まアそうです」と校長は暗い顔をした。
「子供達の大部分は、とてもひどいぼろ[#「ぼろ」に傍点]を着ています。今まででもずいぶんひどい身なりでしたが、今年の飢饉では、もう身につけるものなどは一つでも買うことが出来ない有様です。雪が降り出してから、ゴム靴ははいて来ますが、そのゴム靴が破けていて、中が泥だらけのが多いです。しかも素足にその泥だらけのをはいているのですから、堪らないです。もしこのままでいたら二月頃には、餓死者と同時に、凍死者も出るのではないかと思われるほどです……」
そうして校長先生は、しばらく沈黙の後、部屋の隅の「かます俵」を指し、
「あれは、この学校に所属した田から取れた米です。年々三斗ばかり取れるので、お正月が来ると、それでお餅をついて祝ったのですが、今年はもみ[#「もみ」に傍点]で一斗ばかり、それとどうせくだけ[#「くだけ」に傍点]米ですから、このお正月にはお餅もつかないことにしました」
二
また雪が降り出した。
もう一尺五寸、
手の指も足の指もちぎれそうだ。
しかし俺は喰いものをあさりに、
一人山へ登って行く。
俺はいつも、男だ男だと思って、
寒さを消しながら、
夢中で山から山をあさって歩く。
岩手県下は、この岩手郡を始め、二戸郡、八戸郡の大部分、下閉伊郡、上閉伊郡、和賀郡の一部分が、飢餓地帯と化した。その総面積は約三千町歩であるという。殊に問題であることは、八戸郡、下閉伊郡の交通不便の山地であるという。鉄道はなし、道路も山地の凸凹道で、トラックは勿論、馬橇《ばそり》もろくに通れない部落が多い。この地方は、水田が殆んどないので、平年でも、畑作もの、即ち、粟や稗を常食としているのだが、今年はその粟や稗も殆んど取れず、代用食であるシダミ(楢の実)トチの実もまたよく実らなかったというので、今唯一の食物は、わらびの根であるが、これにも限りあり、また雪が尺余に積れば、それを掘り取ることが出来なくなるので、この時になって、今言った交通不便のため、他所からの食糧運搬が不充分であったなら、彼等は文字通り餓死するのではないかと言われているのである。
私は、御堂村を訪ねた翌日の午後、二戸郡の小鳥谷《こずや》村の山合いの部落へ入り、ある山裾にあった炭焼小屋の老爺と話したのである。
昨日降った雪が、山かげには、三四寸に積り、雑木山の地肌にはうす白い雪が敷かれて、あたりはひっそりとしていた。炭がま[#「炭がま」に傍点]は、かやの屋根に蔽われ、その屋根のうしろの煙出しからは、浅黄色の煙がほうほうとこぼれ出て、傍の雑木の梢にからまりながら消えて行った。老爺は、かまの前の風穴の所にこっちりと縮まり、かま[#「かま」に傍点]のぬくもりで暖まりながら、炭俵を編んでいた。老爺はいろいろの凶作話の末にこういったのである。
「いよいよ食うものが無くなりゃ、こんどは金で買わなければならねえが、その金を取るにゃ、この地方ではこの炭焼きするより外の方法はねえでさア。だが、この炭材は、官有林から払い下げにゃならねえで、それが現金でなくっちゃいけねえですから、先ずそれで困るでがす。それからやっと炭材を買い込んで、こうしてかま[#「かま」に傍点]で焼いた炭が――楢の上等の五貫目俵が、たった四十五銭ですからな。それもこのかま[#「かま」に傍点]一つからやっと二十俵で、日数にすれば五日はかかります。五日で二十俵、売って九両ですが、炭材代を差し引くと、残るのが五十銭か六十銭、一日やっと十銭の稼ぎというわけです……」
ここで私は、少々訊き難いことであったが、思いきってこう訊いて見たのであった。
「それでは、僅かの金のために、娘を売るような家もあるでしょうね?」
すると老爺は、何んにも言わず、静かに首を廻して私の額を見詰めた。炭がま[#「炭がま」に傍点]の熱に焼かれた赤黒い皺だらけの顔であったが、それがやがて笑うとも泣くともつかぬ顔に変ると、こう言ったのである。
「お前さんは知っているかどうか。山に吹雪が来る時は、その山中の小鳥共はチンとも啼かねえもんです。小鳥共は、山の荒れることを知ってどっかへ飛んで行ってしまうものと見えますだ。この村の小鳥共もそれと同じでがす……」
私はこれ以上を訊くことは出来なくなってしまった。
この、娘を売る哀話は、青森県の津軽半島へ入ってから実際に聞きもし見もし、私は、その売られた娘とも会って話したのであるが、これは後で述べることにして、私は先ず、青森県下へ踏み込んで、第一番に見聞した三本木《さんぼんぎ》町、七戸町附近、及び浦野館《うらのたて》村一帯の飢餓地の惨状を述べなければならない。
ここは、上地郡内で、例の太平洋横断機の飛び出した淋代《さびしろ》海岸もその一部であるが、私が踏み入ったのは、この海岸より八甲田山の方へ六七里入った平野の村であった。岩手県には僅か三四寸の雪も、この地方へ来ると、七八寸から一尺ほどに積っていて、遙か北の空を区切っている八甲田山は、麓まで真白に輝いていた。
三本木町までは軽便があったが、それから七戸町、浦野館村へ行くには乗合自動車しかなかった。しかし私は村々を一つ一つ見て歩くために、一人の百姓青年を道案内に頼み、ズボンには巻ゲートルをつけて、歩ける所まで歩き、歩けなくなったら、どっかの百姓家へ泊めて貰う覚悟で、ぽつぽつと歩き出した。それが十二月二十九日の朝である。
私は歩きながら青年と話した。
「この地方は南部馬の名産地である筈だが、今年の値はどうでした?」
「てんで問題になりませんでした」と、青年は投げ棄てるように答えた。「二歳子の一等いい馬が、たまに百五十円ぐらいに売れたが、これでも、飼いば[#「飼いば」に傍点]料を引いたら儲かる所はありやせん。あとは大てい一頭五十円ぐらいで、ひどえのは、たった三十円ぐらいですから、みんな、一頭について百円あまり損をしたです」
「養蚕はどうです」
「やっぱり問題になりやせん。一貫目一円だの一円二十銭だのでは、桑代の三分の一にもなりやせんから」
「それじゃ、外に金を取る方法がありませんか」
「この辺では、なんにもありません。山地じゃありませんから、炭焼きも出来ないし、海には遠いですから漁は出来ないし、だから、金と言ったら米を売るしかないですが、その米が三分作以下ですから、売るどころか、もうそろそろ喰いつくしてしまったのです。仕方がないので、どこの家でも、じゃが芋[#「じゃが芋」に傍点]を餅にして喰っていますが、それもあと一ト月もしたら無くなってしまいます。それで金はないし、外米も買えないとなれば、その時はどうなることか。いくら百姓が馬鹿でも、いよいよ何んにも食えなくなったら、黙って死にやしまい、と俺達若者は言ってるです」
「県庁の方から、救済金や米が来ないですか」
「まだなんにも来ません。たとえそれが来たとこで、やっと生かして貰えるのが関の山で、これから先の百姓の暮しが根っから救われる訳じゃないから、先のことを考えりゃ、みんな真暗な気持です」
私は、この旅の帰途、私の郷里の百姓の友人の口からも、これと同じような意味のことを聞き、百姓の生活に対して、絶望的の気持ちしか抱いていないのは、ひとりこの青森県下の凶作地の青年ばかりではないと思ったのであった。しかし、この飢饉地の青年の口からこれを聞いたとき、私は、この旅に出る時に知りたいと思った一つの疑問――百姓達の胸の奥に潜んでいる考えの一つを伺い得たと思ったのであった。
このあたりの自然は大陸的で、朗らかであった。尺余の雪が一面に光り、タバコ色の落葉松の梢が美しく連なり、その彼方には、銀色の八甲田山がなだらかに走っていて、私は、思わず言葉に出した。
「しかし、このあたりの景色はいいねえ!」
すると、その青年は、こういったのである。
「でも、このあたりの畑も、今年はひどい不作でした」
百姓達に取っては、美しい自然の風景は、同時に食物を豊かに実らす土地でなければならないのだ。その土地が、全く食物を実らすことが出来なければ、美しい自然も風景もあったものではないのだ。――私は、ここでも黙るより外はなかったのである。
ところで私は、この青年の言おうとしていることを、もっと率直に露骨に叫んでいるのを、七戸町のある暗いめし屋で聞いたのである。
それは、五十ぐらいか、それとも六十の老爺か、長い間の生活の寒風に曝された顔は、松の皮のように荒れて硬くなっていた。彼の前には、二本ばかりの徳利が、置かれてあった。そして、相応に酔っていた。
「それでも酒も飲める男もいるのだ」
私は、そう思いながら、気持ちよくその男を見ていたのだが、その男は、木の瘤《こぶ》のような拳をふり上げながら、めし屋の主婦を相手に叫んでいるのだ。この地方の言葉を言っているので、私には解らない所が非常に多かったが、しかし大体は聞きとれた。
「いいか、おかみさん、二年半育てた馬が只の三十五両だよ。それも、この七月に渡してその金がまだ入らねえだ。仕方ねえから、今日は、馬を取りかえして来べと思って出かけて行ったところが、それはかんべんしてくれろ、馬を持って行かれてしまっては、わし等親子四人が干ぼしになるだと言われただ。相手は馬車曳きだからな。そでも、五両札一枚出して、今年はこれで我慢してくれろ、と拝むだねえか、なア、おかみさん、そこでわしは言っただよ。ようし、こうなっちゃ、お互いさまだ。干ぼしになって死ぬ時ア一緒に死ぬべえ、と言って、その五両札へ二両のお釣りを置いて帰《けえ》って来ただが、おかみさん、去年は豊年で、それでやっぱり飢饉と同じことだった。つまり、豊年飢饉てえ奴だというが、わしもこの年になって始めて聞いた。ばかりでねえ、始めて出会った。なアこういうことア一度起ったら毎年起って、それが年々悪くなるばかりだ。そうなりゃ、豊年もくそもねえじゃねえか。……そこへ持って来て、今年は飢饉の飢饉、これでは来年は、百姓奴等は、干ぼしになって飢え死んで野たれ死んで、それで足りなくて、首をくくって死ぬ、ということになるだア。べら棒め……なア! おかみさん、わしも一人の息子を満洲の兵隊へ出しているだが、こないだも手紙で言ってやっただ。国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死をしろ、とな。そうすりゃ。なアおかみさん、なんぼか一時金が下って、わしらの一家もこの冬ぐらいは生き伸びるだからな。娘を持ってるものは娘を売ることが出来るだが、わしは、息子しか持たねえから、そうして息子を売ろうと考えてるだよ……」
その男は、これらの言葉を、土間の土に向って一つずつ叩きつけるように叫んだのであった。
三
「西部戦線異状なし」の中に、地上で戦争をする兵士に取っては、大地は、地べたは、土は、母の懐である。大地のみが守護してくれる。その大地の有り難さを知るものは、戦場に於ける兵士以外の者には全く解らないものだ、という意味のことが書いてあるが、百姓達に言わすれば、百姓達に取っても、大地は、土は、母の懐であるのだ。一切であるのだ。土の有り難さを知るものは、百姓以外の者には全く解らないものだ。
その大地が、その土が、今年は、一切の食物を実らせなかったのである。母の懐は、死人の懐と化してしまったのである。その最大の原因は、五月の稲の植付時から、九月の稲の実る節まで、僅か数日を除いた他の百数十日は、只の一日も平年の温度には達しなかったためであった。「ばかりか、八月九月には、二度までも、非常な厳寒と降雹とに見舞われた。水稲も、畑の作物も、僅かにその茎を育てたきり、ついに満足な実を入れる暇がなかったのであった。そうして十月が来れば、いやでもこの地方には冬が来る。十一月となれば雪が降り出す。昨年の豊年飢饉[#「豊年飢饉」に傍点]のために、さなきだに、この社会を恨み嘆いていた百姓達は、この年の飢饉襲来に依って、完全に自暴自棄の絶望状態に陥し込まれてしまったのである。彼等は、宿命論者となって、大自然の無情を儚《はかな》むと同時に、一方では、被圧迫者の立場から、現在の都会中心制度、都会商工業制度から来る搾取階級の無法を恨み呪うようになってしまった。
だが、斯く考える力[#「考える力」に傍点]を持ち、それを実行に現わそうとする意志を持つ[#「意志を持つ」に傍点]農村の若き人々に対しては、私達は、或る未来[#「未来」に傍点]と希望[#「希望」に傍点]とを期待することが出来るが、それをすら持つことの出来ない、純朴な老人、母親などを見るとき、私は、只、暗涙を流すより外はなかったのである。
私は、七戸町のめし屋を出ると、案内の青年の後についてこの附近の最凶作地の浦野館村へ向って歩き出した。まだ午后二時頃であったが、空一面に墨色の雲が蔽いひろがって、夕暮のように暗い。しかも田圃の中の道路は、馬車と乗合自動車とにこね上げられて、雪と泥との河である。七割の納税不能者を持つというこの村では、道路の修繕費など、一文も出ないので、この通りの泥道であるというのだ。
私はここの泥道で、七戸町へ買いものに行って来たという一人の百姓の母親と道づれになった。母親は、二つぐらいの子供を、かくまき[#「かくまき」に傍点]で包み背負い、手には、買いものの風呂敷包みを持っていた。そうしてその足には、大きな藁靴をはいていた。それはまるで、竹串へ八ツ頭芋を差したようであった。泥にまみれたまま、わら屑が、雀の巣のようにほうけ出し、藁靴というよりは只のわら屑を足のまわりに纏りつけたという風であった。長野県でも、新潟県でも、雪靴というのを見たが、それはもっと手際よく作ってあったのと思い比べて見て、私は、この地方の百姓達の無器用さ、というよりは、こんな藁靴にも非常に幼稚な原始性を発見して驚いたのである。背中の子供の手には、赤い風船が一つ、竹棒の先にふわふわしていた。私はこれを見てまた思わずほろりとした気持ちになった。で、私は、言葉をかけたのである。
「ずいぶん寒いですね」
事実、私の短靴の中の足も雪水に濡れて、ちぎれそうだったのだ。
「へえ……」と、母親は答えて、どこまで行くのか、と方言で訊いた。
「浦野館まで行くつもりです」と私が答えると、浦野館に、親類でもあるのかという。無い、と答えると、それじゃ、宿屋はなし、どこへ泊るつもりかと訊き返すので、私は、「百姓家へ泊らして貰うつもりです」と答えて見た。すると、その母親は、かぼちゃのめしで、囲炉裏端へごろ寝してもいいのなら、わたしの家へ泊るがいい、と言ってくれた。私は、喜んで答えた。
「それで結構です。是非泊めていただきます」
そこで私は、そこまで私のカバンを持ちながら道案内して来てくれた三本木の青年に帰って貰うことにした。そのお礼として五十銭銀貨二つを出すと、その一つだけを取り、あとはどうしても取らない。ここにもこの地方人の純朴さが現われていた。私は、二つの銀貨を渡すために、長い間、泥道の中に彳《たたず》まなければならなかった。
さて、その青年と別れると、私は、子供をおぶった母親の後について、その日の暮れ方、どろどろの足を、その家の土間へ踏み入れたのであった。この家の周囲には、雪に蔽われた田圃と畑とが、荒寥としてひろがっていた。その庭には、藁塚が四つ五つ、円い塔を作って居り、家の周囲には、雪除けの藁の垣が張りめぐらされていた。軒の下には、一尺あまりの氷柱《つらら》がずらりと寒い色にぶら下り、またその下には、めしの中へ入れて食べるための大根の葉、もろこしの穂などが繩にしばられ、幾重にも釣り下げられてあった。
家の中は、料金不払いで電燈も消されたとかで、炉の焚火で僅かに照らしている。炉端の一方には真黒な屏風が立てられ、そこに子供の着物やおしめがじっとりと掛けられていた。そうして、その屏風のうしろには、一枚の障子もなくて、ふだんの居間であり、めしを食う所であり、また寝る場所でもあった。そうしてまた、これと向い合った板仕切りの向う側は厩であった。それは、中に六尺巾の土間を挟むだけで、彼等が寝たりめしを食ったりする所と、九尺とは離れていないのであった。しかもその板仕切りは、隙間だらけなので、黒い馬の姿の輪廓がはっきりと見えていた。
この地方の百姓達には、馬もまた家族の一員である。だからこそ、南部馬の名に依って知られている良馬が出るのであろうが、これほどまで人と馬とが近々と寝起きしているとは、私はそれまで知らなかったのである。
蚤《のみ》虱《しらみ》馬の尿《ばり》する枕もと
これは、芭蕉の「奥の細道」の中の一句であるが、私はこの夜、この炉端にごろ寝しながら、この句を思い出し、この地方の百姓の生活ぶりは、元禄の芭蕉の時代も、昭和の吾々の時代も、少しも変っていないのだ、と思わずにはいられなかったのである。
さて、その炉端には、当家の主人が、ぼんやりと焚火を見詰めていた。いつ剃りを当てたのか解らない髯面の中に、目だけを白く光らしている。しかし主人は、私を連れて来たわけを主婦から訊くと、その白い目を細めてこころよく迎えてくれたのである。
私は泥靴を脱いで、炉の火に氷のような足をかざした。炉にかけた鍋の中には、何かぐずぐず煮えている。それは、めしの時に食べたが、くだけ米に、かぼちゃのうらなりを混ぜたものであった。うらなり南瓜は、平年には、田圃へ棄ててしもうものである。ぐしゃぐしゃで、味もそっけもないものであった。
主人は、方言を出来るだけ標準語に直しながら、ぼつりぼつりと話し出した。話すことは勿論暗いことばかりであった。同じ村内に、たった六銭の金がないばかりで、満洲へ出征している息子からの手紙を見損ったという老父のあることも話した。
「切手の不足税六銭が払えないばかりに手紙は元へかえされちまったのだそうです。それで、親爺さんは、涙を流しながら言ってだです。どっちりと重い手紙でした。いろんなことが書いてあったに違えねえだ。わしはそれを手に取って、よくさわって見て、伜の心持ちを読み取ったです、と言ってやした。ほんとの話かどうか、何んでも満洲の兵隊は、一人について、歯ブラシが二十本も渡ったり、キャラメルが十ずつも配られたりするちゅうが、こちらの国の家では、六銭の金にも不自由している始末ですからな」
これに似た哀話が、中郡和徳村のある出征軍人の家族にもあった。それは、その軍人の妹が病死したが、葬式を出す金がまるで無いばかりか、それを満洲の兄へ知らせる手紙を送ることも出来なかった。満洲の兄は、このことを、ある新聞の記事に依って知り、一人声を忍ばせて泣いていた。それが、隊長の目に止り、二十円の葬式費を隊の名で送り届けて来たので、やっと葬式を済すことが出来たというのであった。
めし時になると、主人はまたこう言った。「まだこれでも、もみ殻[#「もみ殻」に傍点]を取ったくだけ米[#「くだけ米」に傍点]ですから、どうやら咽喉が通るが、そのうちに、くだけ米も無くなるので、こんどは、もみ殻の着いたままを、かぼちゃ[#「かぼちゃ」に傍点]やじゃが[#「じゃが」に傍点]芋に混ぜて食べるのです。これは平年には、馬が喰うものだが、今年は、わし達が馬になるです」
ところで、このような食物で、幾月となく生きつないで行くうちに、栄養不良から、先ず子供の健康が害されることは明らかであった。これは、この数日後に、青森県庁の農務課長の口から聞いたことであるが、現に凶作地の小学校生徒の健康は甚だしく害されつつあることが、県の巡廻医師に依って発見されたということであった。で、食糧の最も欠乏する三月四月に入って、尚も現状のまま放置しとくならば、栄養不良に依る子供の死亡率が激増するのではないか、ということであった。
夕めしが済むと、灯はなし、もう寝るより外はなかった、主人と主婦と子供とは、炉端の屏風のかげに、ぼろ布を重ね縫ったような布団にくるまって寝た、私は、一枚のかけ布団をかけ、それへかしわ[#「かしわ」に傍点]にくるまって寝た。私は、寝ながら訊いて見た。
「こちらでは、お子さんは一人ですか?」
すると、主婦が、
「なアに、もう一人、今年十七になるのがあるのです」と答えた。
その娘は、今、どこにいるか、私はそれを訊いて見たかったが、ここではもうそれを訊くのが余りに残酷に思われて来た。で、黙っていると主人が、溜息をつくようにして言った。
「その娘《こ》は、今、東京の方へ行ってます。この村からは、紡績へ出る娘がずいぶん多いですが、わしの娘《こ》は、五年の年期で、売り飛ばしてしまったです」
これには私は合槌も打てなかった。
僅か二三円の手附金で、一人の娘が売られて行くと、東京の新聞にはあったが、それは新聞のよた[#「よた」に傍点]であった。いかに純朴な百姓といえども、それほど愚かではない。しかし、百円から三百円ぐらいの金で、一人の娘が、或いは私娼に、或いは公娼に売られて行く例はザラにあるのであった。私はその実例を、蟹田村の近くのある部落で見たのである。
そこは、青森市から、乗合自動車で三時間ほど、陸奥湾を右に見ながら、泥と雪の道を走らねばならなかった。このあたりも、殆んど無収穫の地であった。しかし、百姓達の多くは、一方では漁夫でもあったので、いわし[#「いわし」に傍点]、たら[#「たら」に傍点]の漁をして、今のところどうやら生きつづけているというのであった。が、それも一月一杯で、二月以後は、当分無漁となる。しかも、今までは年々、北海道から何百人とまとめて、漁夫を刈り出しに来たが、今年はてんで来ないという。ここでも、二月以後の生活は全く絶望であるというのである。
私は暗い思いで、揺られていた。それは一月二日の午後で、一旦止んだ雪が、またさんさんと降り出して来た。降り出すと、海面は、一面の灰色に鎖され、行く手の道も、半丁先は見えないほどであった。
「ひょっとしたら、吹雪になるだ」と、私の隣りの男が言っていたが、果して、六里ほど進んだところで、雪は、渦を巻いて走り飛び出した。と、私のうしろに坐っていた老人が言った。
「飢饉の上に、三日も吹雪いたら、この辺の百姓は、干《ひ》死んでしまうだ。天明年間の飢饉年には、三万人からの人が干死んで、生き残った者共は、人間の肉、そいつも十七八の娘の肉がうまいというで、それが干死ぬのを待って食ったという話だが、うっかりすると、今年もそんなことになるだ。明治三十五年と、大正二年の飢饉はわしもよく知ってるだが、どっちも今年ほどじゃなかった。今年のような飢饉が来るというのも、いよいよ世が末になった証拠だ」
「だからさ、どうせ干死ぬなら、せめて一度でも、米のめしをげんなりするほど喰って見てえと思ってるだ」
「一度でも喰《く》えりゃまだいいだ。岩手の山奥じゃ、茶碗一ぱいの米のめしを、家から家へ持ち廻して、目で見るだけで喜んでるちゅうだ。それほどだから、病人が出来ると、枕元へその米のめしを置いとけば、病気が直るとせえ言ってるちゅうだ。米を作る百姓が、米のめしを拝むことしか出来ねえとは、全く嘘のような話だよ」
自動車は吹雪をついて走っている、人々はそれで黙ったが、この時、うしろの方で、パンという音がした。
「畜生奴、とうとうパンクしちめえやがった」
運転手は、パンクを予期してたもののようにそう言って、車を止めた。宿屋のある蟹田村まではまだ一里半ほどある。この吹雪の中を歩いて行ける筈はなし、車の中のものは、私を合せて四人、道路に面した或る百姓家の中へ避難したのであった。
家の中の暗さ惨めさは、浦野館村の百姓家と変りがなかった。私達は、上り框の炉端へ、足を踏み入れて火にあたった。
しばらくすると、風が少し静まった。二人の男は、五六丁先が自分の家だからと言って、穏やかになりかけた吹雪の中を出て行った。残ったのは、私と、五十歳ほどの老婆である。その老婆は、蟹田村から更らに一里近く山手に入った小国《おぐに》村のものであった。私はこの老婆と、その一夜を炉端で明したのだが、老婆は、私を相手にさまざまの身の上話をした末に、
「実は今日は、娘を、青森市のごけ屋[#「ごけ屋」に傍点](私娼の家)へ置いて来たのです」という意味を、方言で話し出たのであった。
何故娘をそんな所へ置いて来たか、それを今更ら尋ねる必要はない。私はまたも暗い思いで黙っていると、老婆は、一人言のようにぼそぼそと、こんな意味のことも言った。
「わしの村は、稲田一反歩から二斗ばかしか取れなかった。それで、みんな外米を買って喰べているが、それを買うには金が先だ。その金を取るには、炭を焼くしかないが、その炭を焼くには炭材を買わねばならぬ。というのは、青森県下の山林の七割までは官有林で、一俵の炭を焼くにも、その官有林の木を現金で払い下げねばならぬ、という始末で、わしらの村の百姓達も、今、ほとほと途方に暮れている……」
この老婆は、見かけに依らず、青森県下の山林の七割までは官有林だということを知って居り、それに対して一つの意見を持っていたのであった。
また老婆は、こういう意味のことも言った。「この辺の百姓はまだ布団というものに寝られるので結構だ、これから西の方の、北津軽郡の車力村、稲垣村、西津軽郡の相内、内潟、武田の村々の百姓達は、布団と名のつくものは一枚も持っていない。みんなワラの中へ寝るのだ。一番下に稲のワラを敷き、その上に、ネシキというむしろのように織った菅を敷き、百姓達はその上にじかに寝る。そして、上には十三潟から取れる水藻で作ったネゴ(やっぱりむしろのように織ったもの)を掛けるのだ。割に暖かいが、がさごそと、いや全く、綿布団とは大変な違いだ」
私は、岩手の山間の百姓達の生活が、生蕃人ほどの原始的であることに驚いたのであったが、青森の百姓達も、これほどなのかと、再び驚かずにはいられなかった。その前日、やっぱりワラの中に寝る百姓達の話をした男が、
「飢饉は飢饉として救わねばならぬが、同時に、この機会に、岩手、青森の百姓達の生活が、この年まで、いかに原始的な惨めな生活に虐げられて来ているかを暴露して、都会の消費生活者の目を覚してやらねばならぬ。昭和の御代に、粟や稗を常食とし、ワラの中に寝起きしている日本人がいるのだ、という事実を、為政当局者の眼前へさらけ出して見せねばならぬ!」と、叫んだのであったが、私も、この老婆の話を聞きながらも、全くそうだと思わずにはいられなかった。
老婆は今迄の話の結論のようにして、こういう意味を言ったのである。「さっきの話ではないが、人の肉を喰ったのは昔の人ばかりではない。わし達も、つまりは人間を喰い合っている。子供を生かそうとすれば、親の肉を喰わせねばならぬし、親を生かそうとすれば子供の肉を喰わねばならぬ。そして、わしは今、娘を喰って生きようとしている」
私は、思わず老婆の顔を見詰めた。この老婆は、娘を売って来た小金を持っているらしく、それを頻りと気にした。そして、傍にいる私をまで、時々警戒するような素振を見せるには、私も少しばかり参った。
さて、その翌日の夜、私は、この老婆の娘を訪ねるために青森市の私娼窟へ入って行ったのであった。粉雪が降っては止み、降っては止んでいた。そして、往来には、雪と氷とがカンカンに凍っていて、私は幾度か、辷り倒れそうになった。そこは、海岸に近い所で、陸奥湾から吹きつけて来る寒風が、寒い往来の夜の空気を、引き裂くように吹き抜けていた。私は、この三日前、浅虫温泉の近くの凶作地、小湊村を歩いている時も、雪と風とに、からだ中が凍りつくような目に会ったが、しかし、それもこれほどではなかった。私娼窟――暗黒街へ、その女を訪ねて行くという気持ちも大分私の心を寒くしたせいもあったではあろうが。
私娼窟は、窟の名にふさわしくはない、広いガランとした往来の両側に、うす暗く並んでいた。大ていは一戸一戸に別れた二階建で、私娼の家としては大き過ぎたが、それだけに、うらぶれた感じが漂っていた。多くは、三人か四人の女を置き、それが、入口の小座敷の中にいて、前をうろつく男達を呼び込んでいた。いけすかない[#「いけすかない」に傍点]が、えけしかない[#「えけしかない」に傍点]と発音するので、場所が場所だけ、ちょっとおかしかった。
ところで、彼女[#「彼女」に傍点]の家はすぐ解った。入口に四人の女が立っていた。私は、彼女の本名を言って、その中から彼女[#「彼女」に傍点]を見出すと、すぐ二階へ上った。部屋は、日本中のどの私娼窟の部屋にも共通した恐ろしく荒れすさんだ部屋であった。彼女は、はじめ、私をひどく警戒したが、私が彼女の母親に会ったことを話すと、それから急に打ち解けた。
しかし、百姓村にのみ育った女だけ、その容子は――紅や白粉をこてこてと塗りつけているだけ、むしろ滑稽なほど奇怪な感じであった。
「いつ、ここへ来たの?」「もう十日ばかりになる」
「いつから店へ出ているの?」「三日前から」
そんな会話から、彼女は、彼女の母親も話さなかったことを話し出した。それは彼女の父親に関することであった。
彼女の父親は、村と、青森市とを往復して相当手広い商売をしていた。雑貨の卸し商であった。が、年々の不景気で、にっちもさっちも動きがつかなくなっている所へ、今年の凶作と、つづいて、銀行の支払停止とに出会った。(今、青森県下の銀行の殆んどは、支払停止である)で金の融通が全く利かなくなり、同時に商売はぱったりと行き詰ってしまった。父親は最早半分絶望状態になった。そして、各方面の不義理はそのままにして、単身、青森市へ飛び出してしまった。
父親は、埠頭の仲仕となった。しかし、さなきだに頼み人《て》がない所へ、見ず知らずの父親が入り込んでも、まるで仕事にありつけなかった。父親は毎日、雪風に吹かれながら、埠頭の倉庫のかげで、弁当を食うだけのことしかしなかった。そうして、やがてその弁当も持って行けない日が来た。或る日である。父親は、空腹のあまり、仲間の弁当を盗んで喰った。それがすぐ発見され、父親は、仲間のものから袋叩きにされた。そして足腰も立てぬまでに負傷した。
父親は、木賃宿の一室に、一人棄てられたように寝ていた。
「それから四日目か五日目に、お父つァんは死んだの。怪我のために死んだのか、干死んでしまったのか、それはだれも知らない……」
娘は、最後に、津軽弁でこう言ったのである。
私は、これで筆を擱《お》こう。餓死線上にうめいている人々をさんざん書いた後に、こんな話を持ち出すのは、読者も堪らないだろうし、書く私は尚更堪らないから。
青森県庁では、いま、あらゆる努力と方法とで、救済方法を講じている。現に、去年の暮には、県会議員三十三名が、全部お揃いで上京し救済金の借り出しに奔走したとかである。その救済方法は、先ず、破産しかけている県下の銀行を救済し、そして、それに依って融資の道を開き県下の商工業者を救済し、そうして後、飢饉地帯の百姓達を救済するのだと私は聞いた。いや、そうじゃない。直接百姓達へ、金も融通するし、食糧も給与するのだ、とも聞いた。
夜道には日が暮れないそうだが、凶作地帯の暗黒は、只の暗黒ではないのだ。ということは、県当局者も充分御存じで、その一人は現にこう言ったのである。
「もしこの青森県下に、只一人でも、餓死者を出したなら、それこそ聖代の恥辱である。われわれは絶対に、聖代を恥辱せしめてはならぬ!」
私は、県下の百姓達と共に、この言葉に非常な信頼と期待を掛けよう。
[#1字下げ](尚、秋田県北海道の惨状も記す筈であったが、紙面の都合で割愛する。其惨状は以上に依て推察して戴きたい)一九三二年一月十日
(昭和七年二月)
底本:「土とふるさとの文学全集 7」家の光協会
1976(昭和51)年7月20日発行
初出:「中央公論」
1932(昭和7)年2月号
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
ファイル作成:
2012年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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