装幀について——高村光太郎

装幀美の極致は比例にあるといふのが私の持論である。尤も此は装幀に限らない。一般人事の究極は、すべて無駄なものを脱ぎすて枝葉のばかばかしさを洗ひ落し、結局比例の一点に進んではじめて此世に公明な存在の確立を得るものと考へてゐる。比例は無限に洗錬され、無限に発見される。比例を脱した比例が又生れる。人はさうして遠い未来に向つて蝉脱を重ねる。
 此頃はよく実写映画といふものがあつて、諸所の野蛮人の生活が見られる。それを見る度に、身の毛もよだつやうに恐ろしく感ずる事は、如何に彼等が無駄の多い生活をして居るかといふ事である。文身、偶像、面倒くさい儀礼、そんな事はまだ物の数でもなく、装飾のつもりで、耳朶へ孔をあけて大きな金属の輪をざくざくと通したり、皮膚へ疵をつけてみみずばれの紋様をつくつたり、甚しいのになると上下の唇を引きのばして茶盆ほどの木の円盤を嵌めこんだりする。当人達が大まじめでやつてゐる祭礼の仮面舞踊などのグロテスクさはただ呆れるばかりだ。それは悉く一地方的に歪曲された人間の審美に落ちこんだ結果であらうと推理する外はない。所謂井中の蛙は全般を見ない。凝れば凝るほど無駄をする事があり勝ちだ。
 この事は野蛮人に限らない。ルイ王朝のでこでこ服装、隣国に於ける昔日の纏足、それから十二単衣、立兵庫、大礼服、シルクハツト皆同類である、およそ純粋比例に目ざめない文化の結果する所は皆野暮である。もとより野蛮人の文身をはじめシルクハツトに至るまで、それぞれの環境中にそれぞれの美を十分に持つてゐないのではないが、ただその美が如何にも御苦労さまなだけである。
 書籍の装幀について考へる度に私はいつも前述の様な聯想作用に襲はれる。装幀は最大限に実用の必然要求に応じ、その基礎の上に立つ「比例の美」にまで蒸餾せられねばならぬ。天金は塵埃と湿気とへの防備として案出せられた。和本の渋引や雲母引の表紙も同断であらう。背の金文字は暗い書架の中での便宜から出た。ビールを飲むテーブルで読まれる独逸学生の歌謡集の表紙には四隅に金属の足さへついてゐる。かういふ種類の必要に起因する形態の変化は時代と共に行はれるであらうし、それが又新しい美への誘導ともなるであらう。
 今日多く流布する日本の書籍の装幀には遺憾ながら高度の審美を見る事が少い。純粋比例の美による装幀を私は望んでやまない。屡見かける文芸書のやうに、表紙にべたべた絵画を印刷したやうなものは児戯に類する。中には内容とかけ離れた宿場女郎の如き体裁のものさへある。新刊書に例を取つて述べる事は遠慮するが、ともかく全体にもう一段階抜け出してもらひたい。書店の店頭から無駄な悪趣味を一掃したい。書店の店頭を純粋比例の美で埋めたい。

底本:「日本の名随筆 別巻87 装丁」作品社
   1998(平成10)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「高村光太郎全集 第九巻」筑摩書房
   1957(昭和32)年11月発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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