子をつれて—– 葛西善藏

 掃除をしたり、お菜《さい》を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を濟まさせ、彼はやうやく西日の引いた縁側近くへお膳を据ゑて、淋しい氣持で晩酌の盃を甞めてゐた。すると御免とも云はずに表の格子戸をそうつと開けて、例の立退《たちの》き請求の三百が、玄關の開いてた障子の間から、ぬうつと顏を突出した。
「まあお入りなさい」彼は少し酒の氣の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つてゐた處なので、坐つたなり元氣好く聲をかけた。
「否《いや》もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に來たものですからな。……それで何ですかな、家が定まりましたでせうな? もう定まつたでせうな?」
「……さあ、實は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい」
 彼は起つて行つて、頼むやうに云つた。
「別にお話を聽く必要も無いが……」と三百はプンとした顏して呟きながら、澁々に入《はひ》つて來た。四十二三の色白の小肥《こぶと》りの男で、紳士らしい服裝してゐる。併し斯うした商賣の人間に特有――かのやうな、陰險な、他人の顏を正面に視れないやうな變にしよぼ/\した眼附してゐた。
「……で甚だ恐縮な譯ですが、妻《さい》も留守のことで、それも三四日中には屹度歸ることになつて居るのですから、どうかこの十五日まで御猶豫願ひたいものですが、……」
「出來ませんな、斷じて出來るこつちやありません!」
 斯う呶鳴るやうに云つた三百の、例のしよぼ/\した眼は、急に紅い焔でも發しやしないかと思はれた程であつた。で彼はあわてゝ、
「さうですか。わかりました。好《よ》ござんす、それでは十日には屹度越すことにしますから」と謝《あや》まるやうに云つた。
「私もそりや、最初から貴方を車夫馬丁同樣の人物と考へたんだと、そりやどんな強い手段も用ゐたのです。がまさかさうとは考へなかつたもんだから、相當の人格を有して居られる方だらうと信じて、これだけ緩慢に貴方の云ひなりになつて延期もして來たやうな譯ですからな、この上は一歩も假借する段ではありません。如何なる處分を受けても苦しくないと云ふ貴方の證書通り、私の方では直ぐにも實行しますから」
 何一つ道具らしい道具の無い殺風景な室の中をじろ/\氣味惡るく視※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、三百は斯う呶鳴り續けた。彼は、「まあ/\、それでは十日の晩には屹度引拂ふことにしますから」と、相手の呶鳴るのを抑へる爲め手を振つて繰返すほかなかつた。
「……實に變な奴だねえ、さうぢや無い?」
 やう/\三百の歸つた後で、彼は傍で聽いてゐた長男と顏を見交はして苦笑しながら云つた。
「……さう、變な奴」
 子供も同じやうに悲しさうな苦笑を浮べて云つた。……

 狹い庭の隣りが墓地になつてゐた。そこの今にも倒れさうになつてゐる古板塀に繩を張つて、朝顏がからましてあつた。それがまた非常な勢ひで蔓が延びて、先きを摘んでも/\わきから/\と太いのが出て來た。そしてまたその葉が馬鹿に大きくて、毎日見て毎日大きくなつてゐる。その癖もう八月に入つてるといふのに、一向花が咲かなかつた。
 いよ/\敷金切れ、滯納四ヶ月といふ處から家主との關係が斷絶して、三百がやつて來るやうになつてからも、もう一月《ひとつき》程も經つてゐた。彼はこの種を蒔いたり植ゑ替へたり繩を張つたり油粕までやつて世話した甲斐もなく、一向に時が來ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顏を餘程皮肉な馬鹿者のやうにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追ひ立てられて行く自分の方が一層の慘《みじ》めな痴呆者《たはけもの》であるやうな氣もされた。そして最初に訪ねて來た時分の三百の煮え切らない、變に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り冗《くど》く持ちかけて來る話を、幾らか馬鹿にした氣持で、塀いつぱいに匐ひのぼつた朝顏を見い/\聽いてゐたのであつた。所がそのうち、二度三度と來るうちに、三百の口調態度がすつかり變つて來てゐた。そして彼は三百の云ふなりになつて、八月十日限りといふいろ/\な條件附きの證書をも書かされたのであつた。そして無理算段をしては、細君を遠い郷里の實家《さと》へ金策に發《た》たしてやつたのであつた。……
「なんだつてあの人はあゝ怒《おこ》つたの?」
「やつぱし僕達に引越せつて譯さ。なあにね、明日《あした》あたり屹度|母《かあ》さんから金が來るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴《やつ》幾ら怒つたつて平氣さ」
 膳の前に坐つてゐる子供等相手に、斯うした話をしながら、彼はやはり淋しい氣持で盃を甞め續けた。
 無事に着いた、屹度十日までに間に合せて金を持つて歸るから――といふ手紙一本あつたきりで其後消息の無い細君のこと、細君のつれて行つた二女のこと、また常陸の磯原へ避暑に行つてるKのこととKからは今朝も、二ツ島といふ小松の茂つたそこの磯近くの巖に、白い波の碎けてゐる風景の繪葉書が來たのだ。それには、「勿來關に近いこゝらはもう秋だ」といふやうなことが書いてあつた。それがこの三年以來の暑氣だといふ東京の埃りの中で、藻掻き苦しんでゐる彼には、好い皮肉であらねばならなかつた。
「いや、Kは暑を避けたんぢやあるまい。恐らくは小田を勿來關に避けたといふ譯さ」
 斯う彼等の友達の一人が、Kが東京を發つた後で云つてゐた。それほど彼はこの三四ヶ月來Kにはいろ/\厄介をかけて來てゐたのであつた。
 この三四ヶ月程の間に、彼は三四の友人から、五圓程宛金を借り散らして、それが返せなかつたので、すべてさういふ友人の方面からは小田といふ人間は封じられて了つて、最後にKひとりが殘された彼の友人であつた。で「小田は十錢持つと、澁谷へばかし行つてゐるさうぢやないか」友人達は斯う云つて蔭で笑つてゐた。晩の米が無いから、明日の朝食べる物が無いから――と云つては、その度に五十錢一圓と強請《ねだ》つて來た。Kは小言《こごと》を並べながらも、金の無い時には古本や古着古靴などまで持たして寄越した。彼は歸つて來て、「そうらお土産《みやげ》……」と、赤い顏する細君の前へ押遣るのであつた。(何處からか、救ひのお使者《つかひ》がありさうなものだ。自分は大した贅澤な生活を望んで居るのではない、大した欲望を抱いて居るのではない、月に三十五圓もあれば自分等家族五人が饑ゑずに暮して行けるのである。たつたこれだけの金を器用に儲けれないといふ自分の低能も度し難いものだが、併したつたこれだけの金だから何處からかひとりでに出て來てもよささうな氣がする)彼にはよくこんなことが空想されたが、併しこの何ヶ月は、それが何處からも出ては來なかつた。何處も彼處も封じられて了つた。一日一日と困つて行つた。蒲團が無くなり、火鉢が無くなり、机が無くなつた。自滅だ――終《しま》ひには斯う彼も絶望して自分に云つた。
 電燈屋、新聞屋、そばや、洋食屋、町内のつきあひ[#「つきあひ」に傍点]――いろんなものがやつて來る。室《へや》の中に落着いて坐つてることが出來ない。夜も晩酌が無くては眠れない。頭が痛んでふら/\する。胸はいつでもどきん/\してゐる。……
 と云つて彼は何處へも訪ねて行くことが出來ないので、やはり十錢持つと、Kの澁谷の下宿へ押かけて行くほかなかつた。Kは午前中は地方の新聞の長篇小説を書いて居る。午後は午睡や散歩や、友達を訪ねたり訪ねられたりする時間にあてゝある。彼は電車の中で、今にも昏倒しさうな不安な氣持を感じながらどうか誰も來てゐないで呉れ……と祈るやうに思ふ。先客があつたり、後から誰か來合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入つた、一層壓倒された慘めな氣持にされて歸らねばならぬのだ――
 彼は齒のすつかりすり減つた日和《ひより》を履《は》いて、終點で電車を下りて、午下《ひるさが》りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの下宿の前庭の高い松の樹を見あげるやうにして、砂利を敷いた阪路を、ひよろ高い屈《まが》つた身體《からだ》してテク/\上つて行くのであつた。松の樹にはいつでも蝉がギン/\鳴いてゐた。また玄關前のタヽキの上には、下宿の大きな土佐犬が手脚を伸して寢そべつてゐた。彼は玄關へ入るなり、まづ敷臺の隅の洋傘やステツキの澤山差してある瀬戸物の筒に眼をつける――Kの握り太の籐のステツキが見える――と彼は案内を乞ふのも氣が引けるので、こそこそと二階のKの室へあがつて行く。……
「……K君――」
「どうぞ……」
 Kは毛布を敷いて、空氣枕の上に執筆に疲れた頭をやすめてゐるか、でないとひとりでトランプを切つて占ひごとをしてゐる。
「この暑いのに……」
 Kは斯う警戒する風もなく、笑顏を見せて迎へて呉れると、彼は初めてほつとした安心した氣持になつて、ぐたりと坐るのであつた。それから二人の間には、大抵次ぎのやうな會話が交はされるのであつた。
「……そりやね、今日の處は一圓差上げることは差上げますがね。併しこの一|圓金《ゑんきん》あつた處で、明日《あした》一日凌げば無くなる。……後をどうするかね? 僕だつて金持といふ譯ではないんだからね、さうは續かないしね。一體君はどうご自分の生活といふものを考へて居るのか、僕にはさつぱり見當が附かない」
「僕にも解らない……」
「君にも解らないぢや、仕樣が無いね。で、一體君は、さうしてゐて些《ちつ》とも怖《こは》いと思ふことはないかね?」
「そりや怖《こは》いよ。何も彼《か》も怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活といふものを考へていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さつぱり見當が附かないのだよ」
「フン、どうして君はさうかな。些《ちつ》とも漠然とした恐怖なんかぢやないんだよ。明瞭な恐怖なんぢやないか。恐ろしい事實なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事實なんだよ。それが君に解らないといふのは僕にはどうも不思議でならん」
 Kは斯う云つて、口を噤んで了ふ。彼もこれ以上Kに追求されては、ほんたうは泣き出すほかないと云つたやうな顏附になる。彼にはまだ本當に、Kのいふその恐ろしいものゝ本體といふものが解らないのだ。がその本體の前にぢり/\引摺り込まれて行く、泥沼に脚を取られたやうに刻々と陷沒しつゝある――そのことだけは解つてゐる。けれどもすつかり陷沒し切るまでには、案外時がかゝるものかも知れないし、またその間にどんな思ひがけない救ひの手が出て來るかも知れないのだし、また福運といふ程ではなくも、どうかして自分等家族五人が饑ゑずに活《い》きて行けるやうな新しい道が見出せないとも限らないではないか?――無氣力な彼の考へ方としては、結局またこんな處へ落ちて來るといふことは寧ろ自然なことであらねばならなかつた。
(魔法使ひの婆さんがあつて、婆さんは方々からいろ/\な種類の惡魔を生捕つて來ては、魔法で以て惡魔の通力を奪つて了ふ。そして自分の家來にする。そして滅茶苦茶にコキ使ふ。厭《いや》なことばかしさせる。終《しま》ひにはさすがの惡魔も堪へ難くなつて、婆さんの處を逃げ出す。そして大きな石の下なぞに息《いき》を殺して隱れて居る。すると婆さんが搜しに來る。そして大きな石をあげて見る、――いやはや惡魔共が居るわ/\、塊《かたま》り合つてわな/\ぶる/\慄へてゐる。それをまた婆さんが引掴《ひつつか》んで行つて、一層ひどくコキ使ふ。それでもどうしても云ふことを聽かない奴は、懲らしめの爲め何千年とか何萬年とかいふ間、何にも食はせずに壁の中や巖の中へ魔法で封じ込めて置く――)
 これがKの、西藏《チベツト》のお伽噺――恐らくはKの創作であらう――といふものであつた。話上手のKから聽かされては、この噺は幾度聽かされても彼にはおもしろかつた。
「何と云つて君はヂタバタしたつて、所詮君といふ人はこの魔法使ひの婆さん見たいなものに見込まれて了つてゐるんだからね、幾ら逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つたつて、そりや駄目なことさ、それよりも穩《おと》なしく婆さんの手下になつて働くんだね。それに通力を拔かれて了つた惡魔なんて、ほんとに仕樣が無いもんだからね。それも君ひとりだつたら、そりや壁の中でも巖の中でも封じ込まれてもいいだらうがね、細君や子供達まで卷添《まきぞ》へにしたんでは、そりや可哀相だよ」
「そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていふ奴《やつ》、そりや厭な奴だからね」
「厭だつて仕方が無いよ。僕等は食はずにや居られんからな。それに厭だつて云ひ出す段になつたら、そりや君の方の婆さんばかしとは限らないよ」
 夕方近くになつて、彼は晩の米を買ふ金を一圓、五十錢と貰つては、歸つて來る。(本當に、この都會といふ處には、Kのいふその魔法使ひの婆さん見たいな人間ばかしだ!)と、彼は歸りの電車の中でつく/″\と考へる。――いや、彼を使つてやらうといふやうな人間がそんなのばかりなのかも知れないが。で彼は、彼等の酷使に堪へ兼ねては、逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。食はず飮まずでもいいからと思つて、石の下――なぞに隱れて見るが、また引掴まへられて行く。……既に子供達といふものがあつて見れば! 運命だ! が、やつぱし辛抱が出來なくなる。そして、逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。……
 處で彼は、今度こそはと、必死になつて三四ヶ月も石の下に隱れて見たのだ。がその結果は、やつぱし壁や巖の中へ封じ込められようといふことになつたのだ。……
 Kへは氣の毒である。けれども彼には何處と云つて訪ねる處が無い。でやつぱし、十錢持つと、澁谷へ通《かよ》つた。
 處が最近になつて、彼はKの處からも、封じられることになつた。それは、Kの友人達が、小田のやうな人間を補助するといふことはKの不道徳だと云つて、Kを非難し始めたのであつた。「小田のやうなのは、つまり惡疾患者見たいなもので、それもある篤志な醫師などに取つては多少の興味ある活物《いきもの》であるかも知れないが、吾々健全な一般人に取つては、寧ろ有害無益の人間なのだ。そんな人間の存在を助けてゐるといふことは、社會生活といふ上から見て、正しく不道徳な行爲であらねばならぬ」斯ういふのが彼等の一致した意見なのであつた。
「一體貧乏といふことは、決して不道徳なものではない。好い意味の貧乏といふものは、却て他人に謙遜な好い感じを與へるものだが、併し小田のはあれは全く無茶といふものだ。貧乏以上の状態だ。憎むべき生活だ。あの博大なドストヱフスキーでさへ、貧乏といふことはいゝことだが、貧乏以上の生活といふものは呪ふべきものだと云つてゐる。それは神の偉大を以てしても救ふことが出來ないから……」斯うまた、彼等のうちの一人の、露西亞文學通が云つた。
 また、つい半月程前のことであつた。彼等の一人なるYから、亡父の四十九日といふので、彼の處へも香奠返しのお茶を小包で送つて來た。彼には無論一圓といふ香奠を贈る程の力は無かつたが、それもKが出して置いて呉れたのであつた。Yの父が死んだ時、友人同志が各自に一圓づつの香奠を送るといふのも面倒だから、連名にして送らうではないかといふ相談になつて(彼はその席には居合せなかつたが)その時Kが「小田も入れといてやらうぢやないか、斯ういふ場合なんだからね、小田も可愛相だよ」斯う云つて、彼の名をも書き加へて、Kが彼の分をも負擔したのであつた。
 それから四十九日が濟んだといふ翌くる日の夕方前、――丁度また例の三百が來てゐて、それがまだ二三度目かだつたので、例の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り冗《くど》い不得要領な空恍《そらとぼ》けた調子で、並べ立てゝゐた處へ、丁度その小包が着いたのであつた。「いや私も近頃は少し腦の加減を惡るくして居りましてな」とか、「ええその、居《きよ》は心を移すとか云ひますがな、それは本當のことですな。何でも斯ういふ際は多少の不便を忍んでもすぱりと越して了ふんですな。第一處が變れば周圍の空氣からして變るといふもんで、自然人間の思想も健全になるといふやうな譯で……」斯う云つたやうなことを一時間餘りもそれからそれと並べ立てられて、彼はすつかり參つてゐた處なので、もう解つたから早く歸つて呉れと云はぬばかしの顏してゐた處なので、そこへ丁度好くそのお茶の小包が着いたので、それが氣になつて堪らぬと云つた風をしては、座側《わき》に置いた小包に横目をやつてゐた。また實際一圓の香奠を友人に出して貰はねばならぬ樣な身分の彼としては、一斤といふお茶は貴重なものに違ひなかつた。で三百の歸つた後で、彼は早速小包の横を切るのももどかしい思ひで、包裝を剥《は》ぎ、そしてそろ/\と紙箱の蓋《ふた》を開けたのだ。……新しいブリキ鑵の快よい光! 山本山と銘打つた紅いレツテルの美はしさ! 彼はその刹那に、非常な珍寶にでも接した時のやうに、輕い眩暈すら感じたのであつた。
 彼は手を附けたらば、手の汗でその快よい光りが曇り、すぐにも錆が附きやしないかと恐るゝかのやうに、そうつと注意深く鑵を引出して、見惚《みと》れたやうに眺め※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。……と彼は、ハツとした態《さま》で、あぶなく鑵を取落しさうにした。そして忽ち今までの嬉しげだつた顏が、急に悄《しよ》げ垂《た》れた、苦《にが》いやうな悲しげな顏になつて、絶望的な太息を漏らしたのであつた。
 それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放つてゐる山本山正味百二十匁入りのブリキの鑵に、レツテルの貼られた後ろの方に、大きな凹みが二箇所といふもの、出來てゐたのであつた。何物かへ強く打つけたか、何物かで強く打つたかとしか思はれない、ひどい凹みであつた。やがて、當然、彼の頭の中に、これを送つた處のYといふ人間が浮んで來た。あの明確な頭腦の、旺盛な精力の、如何なる運命をも肯定して驀地《まつしぐ》らに未來の目標に向つて突進しようといふ勇敢な人道主義者――、常に異常な注意力と打算力とを以て自己の周圍を視※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、そして自己に不利益と見えたものは天上の星と雖も除き去らずには措かぬといふ強猛な感情家のY、――併し彼は如何に猜疑心を逞うして考へて見ても、まさかYが故意に、彼を辱しめる爲めに送つて寄越したのだとは、彼にも考へることが出來なかつた。……それは餘りに理由《いはれ》ないことであつた。
「何しろ身分が身分なんだから、それは大したものに違ひなからうからな、一々|開《あ》けて檢《しら》べて見るなんて出來た譯のものではなからう。つまり偶然に、斯うした傷物《きずもの》が俺に當つたといふ譯だ……」
 それが當然の考へ方に違ひなかつた。併し彼は何となく自分の身が恥ぢられ、また悲しく思はれた。偶然とは云へ、斯うした物に紛れ當るといふことは、餘程呪はれた者の運命に違ひないといふ氣が強くされて――
 彼は、子供等が庭へ出て居り、また丁度細君も使ひに行つてゝ留守だつたのを幸ひ、臺所へ行つて※[#「木+雷」、第4水準2-15-62]木《すりこぎ》で出來るだけその凹みを直し、妻に見つかつて詰問されるのを避ける準備をして置かねばならなかつた。

 それから二三日經つて、彼はKに會つた。Kは彼の顏を見るなり、鋭い眼に皮肉な微笑を浮べて、
「君の處へも山本山が行つたらうね?」と訊いた。
「あ貰つたよ。さう/\、君へお禮を云はにやならんのだつけな」
「お禮はいゝが、それで別段異状はなかつたかね?」
「異状?……」彼にもKの云ふ意味が一寸わからなかつた。
「……だと別に何でもないがね、僕はまた何處か異状がありやしなかつたかと思つてね。……そんな話を一寸聞いたもんだから」
 斯う云はれて、彼の顏色が變つた。――鑵の凹みのことであつたのだ。
 それは、全く、彼にも想像にも及ばなかつた程、恐ろしい意外のことであつた。鑵の凹みは、Yが特に、毎朝振り慣れた鐵亞鈴《てつあれい》で以て、左りぎつちよ[#「左りぎつちよ」に傍点]の逞しい腕に力をこめて、Kの口調で云ふと、「えゝ憎き奴め!」とばかり、毆《なぐ》りつけて寄越したのださうであつた。
「……K君そりや本當の話かね? 何でまたそれ程にする必要があつたんかね? 變な話ぢやないか。俺はYにも御馳走にはなつたことはあるが、金は一文だつて借りちやゐないんだからな……」
 斯う云つた彼の顏付は、今にも泣き出しさうであつた。
「だからね、そんな、君の考へてるやうなもんではないつてんだよ、世の中といふものはね。もつともつと君の考へてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理といふものはね。……つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達なんか要《い》らないといふ譯なんだよ。他に君にどんな好い長所や美點があらうと、唯君が貧乏だといふだけの理由から、彼等は好かないといふんだからね、仕樣がないぢやないか。殊にYなんかといふあゝ云つた所謂道徳家から見ては、單に惡病患者視してるに堪へないんだね。機會さへあればさう云つた目障りなものを除き去らう撲滅しようとかゝつてるんだからね。それで今度のことでは、Yは僕のこともひどく憤慨してるさうだよ。……小田のやうな貧乏人から、香奠なんか貰ふことになつたのも、皆なKのせゐ[#「せゐ」に傍点]だといふんでね。かと云つて、まさか僕に鐵亞鈴を喰はせる譯にも行かなかつたらうからね。何しろ今の裟婆と[#「裟婆と」はママ]いふものは、そりや怖ろしいことになつて居るんだからね」
「併し俺には解らない、どうしてそんなYのやうな馬鹿々々しいことが出來るのか、僕には解らない」
「そこだよ、君に何處か知ら脱《ぬ》けてる――と云つては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、慘《みじ》めな相手の一寸したことに對しても持ちたがる憤慨や暴慢といふものがどんな程度のものだかといふことを了解してゐないからなんだよ。それに一體君は、魔法使ひの婆さん見たいな人間は、君に仕事をさせて呉れるやうな方面にばかし居るんだと思つてるのが、根本の間違ひだと思ふがな。吾々の周圍――文壇人なんてもつとひどいものかも知れないからね。君のいふ魔法使ひの婆さんとは違つた、風流な愛とか人道とか慈《いつ》くしむとか云つてるから悉くこれ慈悲忍辱の士君子かなんぞと考へたら、飛んだ大間違ひといふもんだよ。このことだけは君もよく/\腹に入れてかゝらないと、本當に君といふ人は吾々の周圍から、……生存出來ないことになるぜ! 世間には僕のやうな風來々坊《ふうらい/\ばう》ばかし居ないからね」
 今にも泣き出しさうに瞬《しばた》たいてゐる彼の眼を覗き込んで、Kは最後の宣告でも下すやうに、斯う云つた。

 …………
 眼を醒まして見ると、彼は昨夜のまゝのお膳の前に、肌襦袢一枚で肱枕して寢てゐたのであつた。身體中そちこち蚊に喰はれてゐる。膳の上にも盃の中にも蚊が落ちてゐる。嘔吐を催させるやうな酒の臭ひ――彼はまだ醉の殘つてゐるふら/\した身體を起して、雨戸を開け放した。次ぎの室で子供等が二人、蚊帳も敷蒲團もなく、ボロ毛布の上へ着たなりで眠つてゐた。
 朝飯を濟まして、書留だつたらこれを出せと云つて子供に認印を預けて置いて、貸家搜しに出かけようとしてる處へ、三百が、格子外から聲かけた。
「家も定《き》まつたでせうな? 今日は十日ですぜ。……御承知でせうな?」
「これから搜さうといふんですがな、併し晩までに引越したらそれでいゝ譯なんでせう」
「そりや晩までゝ差支へありませんがね、併し餘計なことを申しあげるやうですが、引越しはなるべく涼しいうちの方が好かありませんかね?」
「併し兎に角晩までには間違ひなく引越しますよ」
「でまた餘計なことを云ふやうですがな、その爲めに私の方では如何なる御處分を受けても差支へないといふ證書も取つてあるのですからな、今度間違ふと、直ぐにも處分しますから」
 三百は念を押して歸つて去つた。彼は晝頃までそちこち歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて歸つて來たが、やはり爲替が來てなかつた。
 で彼はお晝からまた、日のカン/\照りつける中を、出て行つた。顏から胸から汗がぽたぽた流れ落ちた。クラ/\と今にも打倒れさうな疲れた頼りない氣持であつた。齒のすり滅つた下駄のやうになつた日和《ひより》を履いて、手の脂《やに》でべと/\に汚れた扇を持つて、彼はひよろ[#「ひよろ」に傍点]高い屈つた身體してテク/\と歩いて行つた。それは細いだら/\の坂路の兩側とも、石やコンクリートの塀を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したお邸宅《やしき》ばかし並んでゐるやうな閑靜な通りであつた。無論その邊には彼に恰好な七圓止まりといふやうな貸家のあらう筈はないのだが、彼はそこを拔けて電車通りに出て、電車通りの向うの谷のやうになつた低地の所謂細民窟附近を搜して見ようと思つて、通りかゝつたのであつた。兩側の塀の中からは蝉やあぶら[#「あぶら」に傍点]やみん[#「みん」に傍点]/\やおうし[#「おうし」に傍点]の聲が、これでもまだ太陽の照りつけ方が足りないとでも云ふやうに、ギン/\溢れてゐた。そしてどこの門の中も、人氣が無いかのやうにひつそり閑《かん》としてゐて、敷きつめた小砂利の上に、太陽がチカ/\光つてゐた。で「斯んな廣いお邸宅の靜かな室で、午睡でもしてゐたいものだ」と彼はだらだら流れ出る胸の汗を拭き/\、斯んなことを思ひながら、息を切らして歩いて行つた。左り側に彼が曾て雜誌の訪問記者として二三度お邪魔したことのある、實業家で、金持で、代議士の邸宅があつた。「やはり先生避暑にでも行つてるのだらうが、何と云つても彼奴等《きやつら》はいゝ生活をしてゐるな」彼は羨ましいやうな、また憎くもあるやうな、結局藝術とか思想とか云つてゝも自分の生活なんて實に慘《みじ》めで下らんもんだといふやうな氣がされて、彼は歩みを緩《ゆる》めて、コンクリートの塀の上にガラスの破片を突立てた廣い門の中をジロ/\横目に見遣りながら、歩いて行つたのであつた。が丁度その時、坂の向うから、大きな體格の白服の巡査が、劍をガチン/\鳴らしながらのそり/\やつて來た。顏も體格に相應して大きな角張つた顏で、鬚が頬骨の外へ出てる程長く跳ねて、頬鬚の無い鍾馗そのまゝの嚴《いか》めしい顏をしてゐた。處が彼が瞥《ちら》と何氣なしに其巡査の顏を見ると、巡査が眞直ぐに彼の顏に鋭い視線を向けて、厭に横柄なのそり/\した歩き振りでやつて來てるので、彼は何といふことなしに身内の汗の冷めたくなるのを感じた。彼は別に法律に觸れるやうなことをしてる身に憶えないが、さりとて問ひ詰められては間誤《まご》つくやうなこともあるだらうし、またどんな嫌疑で――彼の見すぼらしい服裝だけでもそれに値ひしないとは云へないのだから――「オイオイ! 貴樣は? 厭に邸内をジロジロ覗き歩いて居るが、一體貴樣は何者か? 職業は? 住所は?」
 で彼は何氣ない風を裝ふつもりで、扇をパチ/\云はせ、息の詰まる思ひしながら、細い通りの眞中を大手を振つてやつて來る見あげるやうな大男の側を、急ぎ脚に行過ぎようとした。
「オイオイ!」
 ……果して來た! 彼の耳がガアンと鳴つた。
「オイオイ!……」
 警官は斯う繰返してものゝ一分もじつと彼の顏を視つめてゐたが、
「……忘れたか! 僕だよ……忘れたかね? ウヽ?……」
 警官は斯う云つて、初めて相好を崩し始めた。
「あ君か! 僕はまた何物かと思つて吃驚しちやつたよ。それにしてもよく僕だつてことがわかつたね」
 彼は相手の顏を見あげるやうにして、ほつとした氣持になつて云つた。
「そりや君、警察眼ぢやないか。警察眼の威力といふものは、そりや君恐ろしいものさ」
 警官は斯う得意さうに笑つて云つた。
 午下《ひるさが》りの暑い盛りなので、そこらには人通りは稀であつた。二人はそこの電柱の下につくばつて話した。
 警官――横井と彼とは十年程前神田の受驗準備の學校で知り合つたのであつた。横井はその時分醫學專門の入學準備をしてゐたのだが、その時分下宿へ怪しげな女なぞ引張り込んだりしてゐたが、それから間もなく警察へ入《はひ》つたのらしかつた。
 横井はやはり警官振つた口調で、彼の現在の職業とか收入とかいろ/\なことを訊いた。
「君はやはり巡査かい?」
 彼はそうした自分のことを細かく訊《き》かれるのを避けるつもりで、先刻から氣にしてゐたことを口に出した。
「馬鹿云へ……」横井は斯う云つて、つくばつたまゝ腰へ手を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して劍の柄を引寄せて見せ、
「見給へ、巡査のとは違ふぢやないか。帽子の徽章にしたつて僕等のは金モールになつてるからね……ハヽ、この劍を見よ! と云ひたい處さ」横井は斯う云つて、再び得意さうに廣い肩をゆすぶつて笑つた。
「さうか、警部か。それはえらいね。僕はまたね、巡査としては少し變なやうでもあるし、何かと思つたよ」
「白服だからね、一寸わからないさ」
 二人は斯んなことを話し合ひながら、しばらく肩を並べてぶら/\歩いた。で彼は「此際いい味方が出來たものだ」斯う心の中に思ひながら、彼が目下家を追ひ立てられてゐるといふこと、今晩中に引越さないと三百が亂暴なことをするだらうが、どうかならぬものだらうかと云ふやうなことを、相手の同情をひくやうな調子で話した。
「さあ……」と横井は小首を傾《かし》げて急に眞面目な調子になり「併し、そりや君、つまらんぢやないか。そんな處に長居するもんぢやないよ。氣持を惡くするばかしで、結局君の不利益ぢやないか。そりや先方《むかう》の云ふ通り、今日中に引拂つたらいゝだらうね」
「出來れば無論今日中に越すつもりだがね、何しろこれから家を搜さにやならんのだからね」
「併しそんな處に長居するもんぢやないね。結局君の不利益だよ」
 彼の期待は端《はづ》れて、横井は警官の説諭めいた調子で斯う繰り返した。
「さうかなあ……」
「そりやさうとも。……では大抵署に居るからね、遊びに來給へ」
「さうか。ではいづれ引越したらお知らせする」
 斯う云つて、彼は張合ひ拔けのした氣持で警官と別れて、それから細民窟附近を二三時間も歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つた。そしてやう/\恰好な家を見つけて、僅かばかしの手附金を置いて、晩に引越して來るといふことにして歸つて來た。がやつぱし細君からの爲替が來てなかつた。昨日の朝出した電報の返事すら來てなかつた。

 その翌日の午後、彼は思案に餘つて、横井を署へ訪ねて行つた。明け放した受附の室とは別室になつた奧から、横井は大きな體躯《からだ》をのそり/\運んで來て「やあ君か、まああがれ」斯う云つて、彼を二階の廣い風通しの好い室へ案内した。廣間の周圍には材料室とか監督官室とかいふ札をかけ幾つかの小間があつた。梯子段をのぼつた處に白服の巡査が一人テーブルに坐つてゐた。二人は中央の大テーブルに向ひ合つて椅子に腰かけた。
「どうかね、引越しが出來たかね?」
「出來ない。家はやう/\見附かつたが、今日は越せさうもない。金の都合が出來んもんだから」
「そいつあ不可《いか》んよ君。……」
 横井は彼の訪ねて來た腹の底を視透かしたかのやうに、むづかしい顏をして、その角張つた廣い顏から外へと跳ねた長い鬚をぐい/\と引張つて、飛び出た大きな眼を彼の額に据ゑた。彼は話題を他へ持つて行くほかなかつた。
「でも近頃は節季近くと違つて、幾らか閑散なんだらうね。それに一體にこの區内では餘り大した事件が無いやうだが、さうでもないかね?」
「いや、いつだつて同じことさ。ちよい/\これでいろんな事件があるんだよ」
「でも一體に大事件の無い處だらう?」
「がその代り、注意人物が澤山居る。第一君なんか初めとしてね……」
「馬鹿云つちや困るよ。僕なんかそりや健全なもんさ。唯貧乏してるといふだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもさう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも國家社會の爲めに貢獻したいと思つて、貧乏してやつてるんだからね。單に食ふ食はぬの問題だつたら、田舍へ歸つて百姓するよ」
 彼は斯う額をあげて、調子を強めて云つた。
「相變らず大きなことばかし云つてるな。併し貧乏は昔から君の附物《つきもの》ぢやなかつた?」
「……さうだ」
 二人は一時間餘りも斯うした取止めのない雜談をしてゐた。その間に横井は、彼が十年來續けてるといふ彼獨特の靜座法の實驗をして見せたりした。横井は椅子に腰かけたまゝでその姿勢を執つて、眼をつぶると、半分とも經たないうちに彼の上半身が奇怪な形に動き出し、額《ひたひ》にはどろ/\汗が流れ出す。横井はそれを「精神統一」と呼んだ。
「……でな、斯う云つちや失敬だがね、僕の觀察した所ではだ、君の生活状態または精神状態――それはどつちにしても同じやうなもんだがね、餘程不統一を來して居るやうだがね、それは君、統一せんと不可《いか》んぞ……。精神統一を練習し給へ。練習が少し積んで來ると、それはいろ/\な利益があるがね、先づ僕達の職掌から云ふと、非常に看破力が出て來る。……此奴《こやつ》は口では斯んなことを云つてるが腹の中は斯うだな、といふことが、この精神統一の状態で觀ると、直ぐ看破出來るんだからね、そりや恐ろしいもんだよ。で、僕もこれまでいろ/\な犯人を掴《つか》まへたがね、それが大抵晝間だつたよ。……此奴怪しいな、斯う思つた刹那にひとりでに精神統一に入るんだね。そこで、……オイコラオイコラで引張つて來るんだがね、それがもうほとんど百發百中だつた」
「……フム、さうかな。でそんな場合、直ぐ往來で繩をかけるといふ譯かね?」
「……なあんで、繩なぞかけやせんさ。そりやもう鐵の鎖で縛つたよりも確かなもんぢや。……貴樣は遁《のが》れることならんぞ! 貴樣は俺について來るんだぞ! と云ふことをちやんと暗示して了ふんだからね、つまり相手の精神に繩を打つてあるんだからな、これ程確かなことはない」
「フム、そんなものかねえ」
 彼は感心したやうに首肯《うなづ》いて警部の話を聞いてゐたが、だん/\と、この男がやはり、自分のことをもその鐵の鎖で縛つた氣で居るのではないか知らといふ氣がされて來て、彼は言ひやうのない厭惡と不安な氣持になつて起ちあがらうとしたが、また腰をおろして、
「それでね、實は、君に一寸相談を願ひたいと思つて來たんだがね、どんなもんだらう、どうしても今夜の七時限り引拂はないと疊建具を引揚げて家を釘附けにするといふんだがね、何とか二三日延期させる方法が無いもんだらうか。僕一人だとまた何でもないんだが、二人の子供をつれて居るんでね……」
 しばらくもぢ/\した後で、彼は斯う口を切つた。
「そりや君|不可《いか》んよ。都合して越して了ひ給へ。結局君の不利益ぢやないか。先方だつて、まさか、そんな亂暴なことしやしないだらうがね、それは元々の契約といふものは、君が萬一家賃を拂へない場合には造作を取上げるとか家を釘附けにするとかいふことになつて居るんではないのだからね、相當の手續を要することなんで、そんな無法なことは出來る譯のものではないがね、併し君、君もそんなことをしとつてもつまらんぢやないか。君達はどう考へて居るか知らんがね、今日の時勢といふものは、それは恐ろしいことになつてるんだからね。いづれの方面で立つとしても、ある點だけは眞面目にやつとらんと、一寸のことで飛んでもないことになるぜ。僕も職掌柄いろ/\な實例も見て來てるがね、君もうつかりしとると、そんなことでは君、生存が出來なくなるぜ!」
 警部の鈍栗眼《どんぐりまなこ》が、喰入るやうに彼の額に正面《まとも》に向けられた。彼はたじろいだ。
「……いや君、併し、僕だつて君、それほどの大變なことになつてるんでもないよ。何しろ運わるく妻が郷里に病人が出來て歸つて居る、……そんなこんなでね、餘り閉口してるもんだからね。……」
「……さう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思つてるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまふんだな。これは僕が友人として忠告するんだがね、そんな處に長居をするもんぢやないよ。それも君が今度が初めてだといふからまだ好いんだがね、それが幾度もそんなことが重なると、終ひにはひどい目に會はにやならんぜ。つまり一種の詐欺だからね。家賃を支拂ふ意志なくして他人の家屋に入つたものと認められても仕方が無いことになるからね。そんなことで打込《ぶちこ》まれた人間も、隨分無いこともないんだから、君も注意せんと不可《いか》んよ。人間は何をしたつてそれは各自の自由だがね、併し正を踏んで倒れると云ふ覺悟を忘れては、結局この社會に生存が出來なくなる……」

 …………
 空行李、空葛籠、米櫃、釜、其他目ぼしい臺所道具の一切を道具屋に賣拂つて、三百に押かけられないうちにと思つて、家を締切つて八時近くに彼等は家を出た。彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通《あけび》の籠を持ち、尋常二年生の彼の長男は書籍や學校道具を入れた鞄を肩へかけて、袴を穿いてゐた。幾日も放《ほ》つたらかしてあつた七つになる長女の髮をいゝ加減に束ねてやつて、彼は手をひいて、三人は夜の賑かな人通りの繁《はげ》しい街の方へと歩いて行つた。彼はひどく疲勞を感じてゐた。そしてまだ晩飯を濟ましてなかつたので、三人ともひどく空腹であつた。
 で彼等は、電車の停留場近くのバーへ入つた。子供等には壽司をあてがひ、彼は酒を飮んだ。酒のほかには、今の彼に元氣を附けて呉れる何物もないやうな氣がされた。彼は貪るやうに、また非常に尊いものかのやうに、一杯々々味ひながら飮んだ。前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顏を、他人のものかのやうに放心した氣持で見遣りながら、彼は延びた頭髮を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしてゐた。そして何を考へることも、何を怖れるといふやうなことも、出來ない程疲れて居る氣持から、無意味な深い溜息ばかしが出て來るやうな氣がされてゐた。
「お父さん、僕エビフライ喰べようかな」
 壽司を平らげてしまつた長男は、自分で讀んでは、斯う並んでゐる彼に云つた。
「よし/\、……エビフライ二――」
 彼は給仕女の方に向いて、斯う機械的に叫んだ。
「お父さん、僕エダマメを喰べようかな」
 しばらくすると、長男はまた云つた。
「よし/\、エダマメ二――それからお銚子……」
 彼はやはり同じ調子で叫んだ。
 やがて食ひ足つた子供等は外へ出て、鬼ごつこ[#「ごつこ」に傍点]をし始めた。長女は時々|扉《ドア》のガラスに顏をつけて父の樣子を視に來た。そして彼の飮んでるのを見て安心して、また笑ひながら兄と遊んでゐた。
 厭らしく化粧した踊り子がカチ/\と拍子木を鼓いて、その後から十六七位の女がガチヤ/\三味線を鳴らし唄をうたひながら入つて來た。一人の醉拂ひが金を遣つた。手を振り腰を振りして、尖がつた狐のやうな顏を白く塗り立てたその踊り子は、時々變な斜視のやうな眼附きを見せて、扉と飮臺《テーブル》との狹い間で踊つた。
 幾本目かの銚子を空にして、尚頻りに盃を動かしてゐた彼は、時々無感興な眼附きを、踊り子の方へと向けてゐたが、「さうだ! 俺には全く、悉くが無感興、無感興の状態なんだな……」斯う自分に呟いた。
 幾年か前、彼がまだ獨りでゐて、斯うした場所を飮み※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りほつき歩いてゐた時分の生活とても、それは決して今の生活と較べて自由とか幸福とか云ふ程のものではなかつたけれど、併しその時分口にしてゐた悲痛とか悲慘とか云ふ言葉――それ等は要するに感興といふゴム鞠《まり》のやうな彈力から彈《はじ》き出された言葉だつたのだ。併し今日ではそのゴム鞠に穴があいて、凹めば凹んだなりの、頼りも張合ひもない状態になつてゐる。好感興惡感興――これはをかしな言葉に違ひないが、併し人間は好い感興に活きることが出來ないとすれば、惡い感興にでも活きなければならぬ、追求しなければならぬ。さうにでもしなければこの人生といふ處は實に堪へ難い處だ! 併し食はなければならぬといふ事が、人間から好い感興性を奪ひ去ると同時に惡い感興性の彈力をも奪ひ取つて了ふのだ。そして穴のあいたゴム鞠にして了ふのだ――
「さうだ、感興性を失つた藝術家の生活なんて、それは百姓よりも車夫よりもまたもつと惡い人間の生活よりも、惡い生活だ。……それは實に惡生活だ!」
 ポカンと眼を開けて無意味に踊り子の厭らしい踊りに見恍れてゐた彼は、彼等の出て行く後姿を見遣りながら、斯うまた自分に呟いたのだ。そして、「自分の子供等も結局あの踊り子のやうな運命になるのではないか知らん?」と思ふと、彼の頭にも、さうした幻影が悲しいものに描かれて、彼は小さな二女ひとり伴れて歸つたきり音沙汰の無い彼の妻を、憎い女だと思はずにゐられなかつた。
「併し、要するに、皆な自分の腑甲斐ない處から來たのだ。彼女《あれ》は女だ。そしてまた、自分が嬶や子供の爲めに自分を殺す氣になれないと同じやうに、彼女だつてまた亭主や子供の爲めに乾干《ひぼし》になると云ふことは出來ないのだ」彼はまた斯うも思ひ返した。……
「お父さんもう行きませうよ」
「もう飽きた?」
「飽きちやつた……」
 幾度か子供等に催促されて、彼はやう/\腰をおこして、好い加減に醉つて、バーを出て電車に乘つた。
「何處へ行くの?」
「僕の知つてる下宿へ」
「下宿? さう……」
 子供等は不安さうに、電車の中で幾度か訊いた。
 澁谷の終點で電車を下りて、例の砂利を敷いた坂路を、三人はKの下宿へと歩いて行つた。そこの主人も主婦《かみ》さんも彼の顏は知つてゐた。
 彼は帳場に上り込んで「實は妻が田舍に病人が出來て歸つてるもんだから、二三日置いて貰ひたい」と頼んだ。が、主人は、彼等の樣子の尋常で無ささうなのを看て取つて、暑中休暇で室も明いてるだらうのに、空間が無いと云つてきつぱりと斷つた。併しもう時間は十時を過ぎてゐた。で彼は今夜一晩だけもと云つて頼んでゐると、それを先刻から傍に坐つて聽いてゐた彼の長女が、急に顏へ手を當てゝシク/\泣き出し始めた。それには年老つた主人夫婦も當惑して「それでは今晩一晩だけだつたら都合しませう」と云ふことにきまつたが、併し彼の長女は泣きやまない。
「ね、いゝでせう? それでは今晩だけこゝに居りますからね。明日別の處へ行きますからね、いいでせう? 泣くんぢやありません……」
 併し彼女は、ます/\しやくりあげた。
「それではどうしても出たいの? 他所《よそ》へ行くの? もう遲いんですよ……」
 斯う云ふと、長女は初めて納得《なつとく》したやうにうなづいた。
 で三人はまた、彼等の住んでゐた街の方へと引返すべく、十一時近くなつて、電車に乘つたのであつた。その邊の附近の安宿に行くほか、何處と云つて指して行く知合の家もないのであつた。子供等は腰掛へ坐るなり互ひの肩を凭せ合つて、疲れた鼾を掻き始めた。
 濕《しめ》つぽい夜更けの風の氣持好く吹いて來る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力で駛つた。生存が出來なくなるぞ! 斯う云つたKの顏、警部の顏――併し實際それがそれ程大したことなんだらうか。
「……が、子供等までも自分の卷添《まきぞ》へにするといふことは?」
 さうだ! それは確かに怖ろしいことに違ひない!
 が今は唯、彼の頭も身體も、彼の子供と同じやうに、休息を欲した。

底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年10月5日第1刷発行
   2009(平成21)年2月19日第9刷発行
底本の親本:「葛西善藏全集」改造社
   1928(昭和3)年
初出:「早稻田文學」
   1917(大正6)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年5月5日作成
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