人の首——高村光太郎

 私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んで居るからである。人間移動展覧会と戯《たわむれ》に此を称《たた》えてよく此事を友達に話す。近代が人に与えてくれた特別な機会である。此所に並んでいる首は、美術展覧会に於ける絵画彫刻の首と違って、観られる為に在るのではない。たまに、見られ、眺められ、感嘆せられ、羨《うらやま》しがられる為に在る事を自ら意識している様な男性女性に会う事もあるが、其とても活世間という一つの活舞台の中では、おのずから活《い》きた事情にとりまかれて、壁上にかかり、台座の上に載っている作られた首の様にアフェクテエション一点張ではない。ロクでもない美術品の首よりも私はこの生きた首が好きである。此所に並んでいる首は皆一つの生活背景を持つ。皆一つの生活事情を持ち、毎日の生活に打ち込んでいる。或者は屈託し、或者は威張り返り、或者は想像もつかない悲に被《おお》われ、或者は楽しく、或者は放心している。四隣人無きが如く連れの人と家庭の内輪話をしているお神さんもある。民衆論を論じているロイド眼鏡の青年もいる。古着市に持ち出した荷物を抱えている阿父さんもいる。其がみんな自分達の内心に持っているものを思わず顔に露出して腰かけている。むしろ痛々しい程に感ずる時もある。
 人間の首ほど微妙なものはない。よく見ているとまるで深淵にのぞんでいる様な気がする。其人をまる出しにしているとも思われるし、又秘密のかたまりの様にも見える。そうして結局其人の極印だなと思わせられる。どんな平凡らしく見える人の首でも実に二つと無いそれぞれの機構を持っている。内心から閃《ひら》めいて来るものの見える時は其平凡人が忽《たちま》ち恐ろしい非凡の相を表わす。電車の中でも時々そういう事を見る。
 人の首の中で一番人間の年齢を示しているのは項部である。所謂《いわゆる》首すじである。顔面では年齢をかくせるが首すじではごまかせない。あらゆる年齢に従って首すじは最も微妙に人間らしい味を見せる。赤坊のぐらぐらな項《うなじ》。小学校時代の初毛《うぶげ》の生えた曲線の多い首すじ。殊にえり際。大人と子供との中間の人の首すじを見るのは特別に面白い。大人になりかかって行って、此所にだけまだ子供が残っている青年などは殻から出たての蝉の様に新鮮である。水々しい若い女の首すじの美は特に私が説く迄もあるまい。色まちの女が抜衣紋《ぬきえもん》にするのは天然自然の智慧である。恋する女に向って最後の決心をする動機の一つが其の可憐な首すじを見た事にあるという話をよく聞く。自然は恋人と語る若い女性を多くうつ向かせる。其を見つめている男の眼は女の一番いじらしい首筋に注がれる。致命的なわけである。三十代四十代の男の頼もしい首すじ。又初老の人の首すじに寄る横の皺《しわ》。私は老人の首すじの皺を見る時ほど深い人情に動かされる事は無い。何という人間の弱さ、寂しさを語るものかと思う。電車の中に立っていて、眼の下にそういう一人の老人の首すじを見る時、老年のさびと荘厳さとを身にしみて感ずる。
 鼻と口との関係は人の本性を一番多く物語る。鼻の下である。長さ短かさ出張り方、円さ、厚さ薄さ。千種万様で、実際、人が想像しているよりも以上の変種に富んでいるのは此部分である。鼻の下、口の上を見るとその人がまる出しかと思う時がある。一番人間の生物としての方面を示している。又その人の天性の美も此所に多く無意識に出ている。「人中《にんちゅう》」の特に美しい人は忘れられない。女優サラ ベルナアルの人中は少しつれていて其為め前歯がちらちらと見え勝である。其魅力は無比であった。
 頬のうしろ、顎《あご》から頤《おとがい》にかけては其人の弱点を一番持っている。誰でもそうである。其だけに又最も特質的な魅力もある。顎の美しさは最も彫刻的の微妙さを持つ。
 運動の無い前額から顱頂《ろちょう》にかけての頭蓋部《ずがいぶ》が、最も動的な其人の内心の陰影を顕《あら》わすのは不思議である。額の皺が人間の閲歴を如実に語るものである事は言う迄もなかろう。
 眼や眉や鼻や口や耳などという個々のものに就いては今語り尽せない。私はあまり睫毛《まつげ》の美しい少女を電車の中で見て、思わず知らず其顔をのぞき込んで気の毒な思いをさせた事がある。その睫毛は名状すべからざる美を持っていて到底再現する事は出来ない。名香のかおりに何処か麝香《じゃこう》をほのかにまじえた様な睫毛であった。あんな少女が生きているとは不思議な位だ。
 人間の首には先天の美と、後天の美とがある。此の二つが分ち難くまじり合って大きな調和を成している。先天の美は言う迄もないが後天の美に私は強い牽引《けんいん》を感ずる。閲歴が造る人間の美である。私が老人を特別に好むのは此の故もある。写真は人間の先天の美のみを写して後天の美を能《よ》く捉えない。だから写真では赤坊だけがよく写る。後天の美を本当に認め得るのは活きた眼だけである。機械では不可能である。写真に写ると実際よりも美しくなる人は此の先天の美に恵まれている人であり、写真では悪いが本人に会うと美しいという人は此の後天の美、閲歴、生活、性格|陶冶《とうや》等から来る美を多分に持っている人の事である。
 概して文芸家の首には深みがある。ドストイエフスキイ、ストリンドベリイ、ロマン ロラン、皆そうらしい。ポオ、※[#濁点付き片仮名ヱ、1-7-84]ルレエヌ等は何という不思議な首だろう。彼等の詩そのものと思う。政治家では、リンカンの首がすばらしい。生きている当人に会ってみたかったといつも思う。近くではレエニンの首が無比である。レエニンの性格に関する悪口を沢山きくけれども、私は其を信じない。彼の首が彼の決して不徳な人でなかった事を証拠立てている。野心ばかりの人に無い深さと美とがある。ナポレオンよりも好い。ナポレオンにはもっと野卑な処がある。近世の支那にはまだ人物が出ないようだ。
 日本の文芸家の首にも興味がある。私は交友が少ないので多く知らないが、詩人では千家元麿氏の首に無類な先天の美がある。室生犀星氏の首には汲めども尽きない味がある。彼の顎と眼とは珍宝である。ヨネ ノグチ氏の首も十目の視る所で、氏の顱頂は殊に美しい。概して詩人の首は好ましく、どこかに本気なものがある。若い詩人にも好い首があるが今は書くまい。文学家の方には益《ますます》知人が無い。佐藤春夫氏は彼の無名時代に肖像を画いたのがあるので知っている。彼の首には秀抜な組立がある。彼を彫刻で作らなかったのが心残だ。武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい。凡人崇拝の戸川秋骨氏の顎と口とは凡人どころではない。俳優では団十郎が頭に残っている。今の政治家は誰も知らないが、写真で見ると、高橋是清氏と、浜口雄幸氏とが面白い。浜口氏の首はいつか作ってみたいと思って覗《うかが》っている。此人は彫刻に殊に好い。
 電車の中であまり好い首の人に偶然逢うと別れるのに心が残る。思い切って話しかけようかと思う事が度々ある。女の人などは一生に二十日間位しかあるまいと思うような特に美しい期間がある。それをむざむざと過させてしまうのが惜しい。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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