幸田露伴

貧乏—— 幸田露伴

   その一

「アア詰《つま》らねえ、こう何もかもぐりはまになった日にゃあ、おれほどのものでもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫《くら》ってやれか。オイ、おとま、一|升《しょう》ばかり取って来な。コウト、もう煮奴《にやっこ》も悪くねえ時候だ、刷毛《はけ》ついでに豆腐《とうふ》でもたんと買え、田圃《たんぼ》の朝というつもりで堪忍《かんにん》をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面《つら》あすることはねえ、女《おんな》ッ振《ぷり》が下がらあな。
「おふざけでないよ、寝《ね》ているかとおもえば眼《め》が覚《さ》めていて、出しぬけに床《とこ》ん中からお酒を買えたあ何の事《こっ》たえ。そして何時だと思っておいでだ、もう九時だよ、日があたってるのに寝ているものがあるもんかね。チョッ不景気な、病人くさいよ、眼がさめたら飛び起きるがいいわさ。ヨウ、起きておしまいてえば。
「厭《や》あだあ、母《かあ》ちゃん、お眼覚《めざ》が無いじゃあ坊《ぼう》は厭あだあ。アハハハハ。
「ツ、いい虫だっちゃあない、呆《あき》れっちまうよ。さあさあお起《おき》ッたらお起きナ、起きないと転がし出すよ。
と夜具を奪《と》りにかかる女房《にょうぼう》は、身幹《せい》の少し高過ぎると、眼の廻《まわ》りの薄黒《うすぐろ》く顔の色一体に冴《さ》えぬとは難なれど、面長《おもなが》にて眼鼻立《めはなだち》あしからず、粧《つく》り立てなば粋《いき》に見ゆべき三十前のまんざらでなき女なり。
 今まで機嫌《きげん》よかりし亭主《ていしゅ》は忽然《こつぜん》として腹立声に、
「よせエ、この阿魔《あま》あ、おれが勝手だい。
と云《い》いながら裾《すそ》の方《かた》に立寄れる女を蹴《け》つけんと、掻巻《かいまき》ながらに足をばたばたさす。女房は驚《おどろ》きてソッとそのまま立離《たちはな》れながら、
「オヤおっかない狂人《きちがい》だ。
と別に腹も立てず、少し物を考う。
「あたりめえよ、狂人にでもならなくって詰るもんか。アハハハハ、銭《ぜに》が無い時あ狂人が洒落《しゃれ》てらあナ。
「お銭《あし》が有ったらエ。
「フン、有情漢《いろおとこ》よ、オイ悪かあ無かったろう。
「いやだネ知らないよ。
「コン畜生《ちくしょう》め、惚《ほ》れやがった癖《くせ》に、フフフフフ。
「お前少しどうかおしかえ、変だよ。
「何が。
「調子が。
「飛んだお師匠様《ししょうさん》だ、笑わせやがる。ハハハハ、まあ、いいから買って来な、一人飲みあしめえし。
「だって、無いものを。
「何だと。
「貸はしないし、ちっとも無いんだものを。
「智慧《ちえ》がか。
「いいえさ。
「べらぼうめえ、無《ね》えものは無えやナ、おれの脱穀《ぬけがら》を持って行きゃ五六十銭は遣《よこ》すだろう。
「ホホホホ、いい気ぜんだよ、それでいつまでも潜《もぐ》っているのかい。
「ハハハハ、お手の筋だ。
「だって、後《あと》はどうするエ。一張羅《いっちょうら》を無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。
「案じなさんな、銭があらあ。
「妙《みょう》だねえ、無いから帯や衣類《きもの》を飲もうというのに、その後になって何が有るエ。
「しみッたれるなイ、裸百貫《はだかひゃっかん》男|一匹《いっぴき》だ。
「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、隣家《おとなり》の児《こ》が起きると内儀《おかみさん》の内職の邪魔《じゃま》になるわネ。そんならいいよ買って来るから。
と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉《みそこし》を手にし、外へ出でんとす。
「オイオイ此品《これ》でも持って行かねえでどうするつもりだ。
と呼びかけて亭主のいうに、ちょっと振《ふ》りかえって嬉《うれ》しそうに莞爾《にっこり》笑い、
「いいよ、黙《だま》って待っておいで。
 たちまち姿《すがた》は見えずなって、四五|軒《けん》先の鍛冶屋《かじや》が鎚《つち》の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えしが、
「ハテナ、近所の奴《やつ》に貸た銭でもあるかしらん。知人《なじみ》も無さそうだし、貸す風でもねえが。
と独語《ひとりご》つところへ、うッそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚《うすぎたな》い衣服《なり》、髪垢《ふけ》だらけの頭したるが、裏口から覗《のぞ》きこみながら、異《おつ》に潰《つぶ》れた声で呼《よ》ぶ。
「大将、風邪《かぜ》でも引かしッたか。
 両手で頬杖《ほおづえ》しながら匍匐臥《はらばいね》にまだ臥《ふし》たる主人《あるじ》、懶惰《ぶしょう》にも眼ばかり動かして一《ひ》ト眼《め》見しが、身体《からだ》はなお毫《すこし》も動かさず、
「日瓢《にっぴょう》さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。
とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。
「ハハハ、運を寝て待つつもりかネ、上ってもご馳走《ちそう》は無さそうだ。
「違《ちげ》えねえ、煙草《たばこ》の火ぐらいなもんだ。
「ハハハ、これではお互《たがい》に浮ばれない。時に明日《あす》の晩からは柳原《やなぎはら》の例のところに○州屋《まるしゅうや》の乾分《こぶん》の、ええと、誰《だれ》とやらの手で始まるそうだ、菓子屋の源《げん》に昨日《きのう》そう聞いたが一緒《いっしょ》に行きなさらぬか。
「往《い》かれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。
「そうさ、お互に少し中《あた》り屋《や》さんにならねばならん。
「誰だってそうおもわねえものは無《ね》えんだ、御祖師様《おそしさま》でも頼みなせえ。
「からかいなさるな、罰《ばち》が当っているほうだ。
「ハハハ、からかいなさんなと云ってもらいてえ、どうも言語《ものいい》の叮嚀《ていねい》な中《うち》がいい。
「ガリスの果《はて》と知れるかノ。
「オヤ、気障《きざ》な言語《ふちょう》を知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊《ぶちこわ》しだあナ、チョタのガリスのおん果《はて》とは誰が眼にも見えなくってどうするものか。
「チョタとは何だ、田舎漢《いなかもの》のことかネ。
「ムム。
「忌々《いまいま》しい、そう思わるるが厭《いや》だによって、大分気をつけているが地金《じがね》はとかく出たがるものだナ。
「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気《いろけ》を出したもんだ。
「イヤ居《お》れば居るだけ笑われる、明日《あす》来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。
と立帰り行くを見送って、
「おえねえ頓痴奇《とんちき》だ、坊主《ぼうず》ッ返《けえ》りの田舎漢《いなかもの》の癖に相場《そうば》も天賽《てんさい》も気が強《つえ》え、あれでもやっぱり取られるつもりじゃあねえ中《うち》が可笑《おかし》い。ハハハ、いい業《ごう》ざらしだ。
と一人《ひとり》笑うところへ、女房おとまぶらりッと帰り来る。見れば酒も持たず豆腐も持たず。
「オイどうしたんだ。
「どうもしないよ。
 やはり寝ながらじろりッと見て、
「気のぬけたラムネのように異《おつ》うすますナ、出て行った用はどうしたんだ。
「アイ忘れたよ。
「ふざけやがるなこの婆《ばばあ》。
「邪見《じゃけん》な口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆だのと、れっきとした内室《おかみさん》をつかめえてお慮外《りょがい》だよ、兀《はげ》ちょろ爺《じじい》の蹙足爺《いざりじじい》め。
と少し甘《あま》えて言う。男は年も三十一二、頭髪《かみ》は漆《うるし》のごとく真黒《まっくろ》にて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めに苅《か》りたるままなるが人に優《すぐ》れて見|好《よ》きなり。されば兀ちょろ爺と罵《ののし》りたるはわざとになるべく、蹙足爺《いざりじじい》とはいつまでも起き出でぬ故なるべし。男は罵られても激《はげ》しくは怒《おこ》らず、かえって茶にした風にて、
「やかましいやい、ほんとに酒はどうしたんでエ。
「こうしてから飲むがいいサ。
と突然《だしぬけ》に夜具を引剥《ひつぱ》ぐ。夫婦《ふうふ》の間とはいえ男はさすが狼狙《うろた》えて、女房の笑うに我からも噴飯《ふきだし》ながら衣類《きもの》を着る時、酒屋の丁稚《でっち》、
「ヘイお内室《かみさん》ここへ置きます、お豆腐は流しへ置きますよ。
と徳利《とくり》と味噌漉を置いて行くは、此家《ここ》の内儀《かみさん》にいいつけられたるなるべし。
「さあ、お前はお湯《ぶう》へいっておいでよ、その間にチャンとしておくから。
 手拭《てぬぐい》と二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取った次手《ついで》に取った帚《ほうき》をもう持っている。
「ありがてえ、昔時《むかし》からテキパキした奴《やつ》だったッケ、イヨ嚊大明神《かかあだいみょうじん》。
と小声で囃《はや》して後《あと》でチョイと舌を出す。
「シトヲ、馬鹿《ばか》にするにも程《ほど》があるよ。
 大明神|眉《まゆ》を皺《しわ》めてちょいと睨《にら》んで、思い切って強《ひど》く帚で足を薙《な》ぎたまう。
「こんべらぼうめ。
 男は笑って呵《しか》りながら出で行く。

   その二

 浴後《ゆあがり》の顔色|冴々《さえざえ》しく、どこに貧乏の苦があるかという容態《ありさま》にて男は帰り来る。一体|苦《にが》み走《ばし》りて眼尻《めじり》にたるみ無く、一の字口の少し大《おおき》なるもきっと締《しま》りたるにかえって男らしく、娘にはいかがなれど浮世《うきよ》の鹹味《からみ》を嘗《な》めて来た女には好《す》かるべきところある肌合《はだあい》なリ。あたりを片付け鉄瓶《てつびん》に湯も沸《たぎ》らせ、火鉢《ひばち》も拭いてしまいたる女房おとま、片膝《かたひざ》立てながら疎《あら》い歯の黄楊《つげ》の櫛《くし》で邪見《じゃけん》に頸足《えりあし》のそそけを掻《か》き憮《な》でている。両袖《りょうそで》まくれてさすがに肉付《にくづき》の悪からぬ二の腕《うで》まで見ゆ。髪はこの手合《てあい》にお定《さだ》まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だしなみを捨てぬに、小官吏《こやくにん》の細君《さいくん》などが四銭の丸髷《まるまげ》を二十日《はつか》も保《も》たせたるよりは遥《はるか》に見よげなるも、どこかに一時は磨《みが》き立《たて》たる光の残れるが助《たすけ》をなせるなるべし。亭主の帰り来りしを見て急に立上り、
「さあ、ここへおいで。
と坐《ざ》を与《あた》う。男は無言で坐り込み、筒湯呑《つつゆのみ》に湯をついで一杯《いっぱい》飲む。夜食膳《やしょくぜん》と云いならわした卑《いや》しい式《かた》の膳が出て来る。上には飯茶碗《めしぢゃわん》が二つ、箸箱《はしばこ》は一つ、猪口が《ちょく》が二ツと香《こう》のもの鉢《ばち》は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描《か》かれた一升徳利《いっしょうどくり》は火鉢の横に侍坐《じざ》せしめられ、駕籠屋《かごや》の腕と云っては時代|違《ちが》いの見立となれど、文身《ほりもの》の様に雲竜《うんりゅう》などの模様《もよう》がつぶつぶで記された型絵の燗徳利《かんどくり》は女の左の手に、いずれ内部《なか》は磁器《せともの》ぐすりのかかっていようという薄鍋《うすなべ》が脆《もろ》げな鉄線耳《はりがねみみ》を右の手につままれて出で来る。この段取の間、男は背後《うしろ》の戸棚《とだな》に※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]《よ》りながらぽかりぽかり煙草《たばこ》をふかしながら、腮《あご》のあたりの飛毛《とびげ》を人さし指の先へちょと灰《はい》をつけては、いたずら半分に抜《ぬ》いている。女が鉄瓶を小さい方の五徳《ごとく》へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋《ふた》を取る、ぐいと雲竜を沈《しず》ませる、危《あやう》く鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳《おど》り出しもし得ず引退《ひっこ》んだり出たりしている間《ま》に鍋は火にかけられる。
「下の抽斗《ひきだし》に鰹節《かつぶし》があるから。
と女は云いながら立って台所へ出でしが、つと外へ行く。
「チョツ、削《か》けといやあがるのか。
と不足らしい顔つきして女を見送りしが、何が眼につきしや急にショゲて黙然《だんまり》になって抽斗を開《あ》け、小刀《こがたな》と鰹節《ふし》とを取り出したる男は、鰹節《ふし》の亀節《かめぶし》という小《ちさ》きものなるを見て、
「ケチびんなものを買っときあがる。
と独言《ひとりごと》しつつそこらを見廻して、やがて膳の縁《ふち》へ鰹節《ふし》をあてがって削く。
 女はたちまち帰り来りしが、前掛《まえかけ》の下より現われて膳に上《のぼ》せし小鉢《こばち》には蜜漬《みつづけ》の辣薑《らっきょう》少し盛《も》られて、その臭気《におい》烈《はげ》しく立《た》ち渡《わた》れり。男はこれに構わず、膳の上に散りし削《かい》たる鰹節を鍋の中《うち》に摘《つま》み込《こ》んで猪口《ちょく》を手にす。注《つ》ぐ、呑《の》む。
「いいかエ。
「素敵だッ、やんねえ。
 女も手酌《てじゃく》で、きゅうと遣《や》って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気《ゆかいげ》に重ねて、
「ああ、いい酒だ、サルチルサンで甘《あめ》え瓶《びん》づめとは訳が違う。
「ほめてでももらわなくちゃあ埋《うま》らないヨ、五十五銭というんだもの。
「何でも高くなりやあがる、ありがてえ世界《せけえ》だ、月に百両じゃあ食えねえようになるんでなくッちゃあ面白くねえ。
「そりゃあどういう理屈《りくつ》だネ。
「一揆《いっき》がはじまりゃあ占《し》めたもんだ。
「下らないことをお言いで無い、そうすりゃあ汝《おまえ》はどうするというんだエ。
「構うことあ無えやナ、岩崎《いわさき》でも三井《みつい》でも敲《たた》き毀《こわ》して酒の下物《さかな》にしてくれらあ。
「酔《よ》いもしない中からひどい管《くだ》だねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。
「馬鹿あ吐《ぬ》かせ、三銭の恨《うらみ》で執念《しゅうねん》をひく亡者《もうじゃ》の女房《かかあ》じゃあ汝《てめえ》だってちと役不足だろうじゃあ無《ね》えか、ハハハハ。
「そうさネエ、まあ朝酒は呑ましてやられないネ。
「ハハハ、いいことを云やあがる、そう云わずとも恩には被《き》らあナ。
「何をエ。
「今飲んでる酒をヨ。
「なぜサ。
「なぜでもいいわい、ただ美味《うめ》えということよ。
「オヤ、おハムキかエ、馬鹿らしい。
「そうじゃあ無《ね》えが忘れねえと云うんだい、こう煎《せん》じつめた揚句《あげく》に汝《てめえ》の身の皮を飲んでるのだもの。
「弱いことをお云いだねエ、がらに無いヨ。
「だってこうなってからというものア運とは云いながら為《す》ることも為ることもどじを踏《ふ》んで、旨《うめ》え酒一つ飲ませようじゃあ無し面白い目一つ見せようじゃあ無し、おまけに先月あらいざらい何もかも無くしてしまってからあ、寒蛬《こおろぎ》の悪く啼《な》きやあがるのに、よじりもじりのその絞衣《しぼり》一つにしたッ放《ぱな》しで、小遣銭《こづけえぜに》も置いて行かずに昨夜《ゆうべ》まで六日《むいか》七日《なのか》帰りゃあせず、売るものが留守《るす》に在《あ》ろうはずは無し、どうしているか知らねえが、それでも帰るに若干銭《なにがし》か握《つか》んで家《うち》へ入《へ》えるならまだしもというところを、銭に縁のあるものア欠片《かけら》も持たず空腹《すきっぱら》アかかえて、オイ飯を食わしてくれろッてえんで帰っての今朝《けさ》、自暴《やけ》に一杯《いっぺえ》引掛《ひっか》けようと云やあ、大方|男児《おとこ》は外へも出るに風帯《ふうてえ》が無くっちゃあと云うところからのことでもあろうが、プッツリとばかりも文句無しで自己《おの》が締めた帯を外《はず》して来ての正宗《まさむね》にゃあ、さすがのおれも刳《えぐ》られたア。今ちょいと外面《おもて》へ汝《てめえ》が立って出て行った背影《うしろかげ》をふと見りゃあ、暴《あば》れた生活《くらし》をしているたア誰《た》が眼にも見えてた繻子《しゅす》の帯、燧寸《マッチ》の箱のようなこんな家に居るにゃあ似合わねえが過日《こねえだ》まで贅《ぜい》をやってた名残《なごり》を見せて、今の今まで締めてたのが無くなっている背《うしろ》つきの淋《さみ》しさが、厭《いや》あに眼に浸《し》みて、馬鹿馬鹿しいがホロリッとなったア。世帯《しょたい》もこれで幾度《いくたび》か持っては毀《こわ》し持っては毀し、女房《かかあ》も七度《ななたび》持って七度出したが、こんな酒はまだ呑まなかった。
「何だネエ汝《おまえ》は、朝ッぱらから老実《じみ》ッくさいことをお言いだネ。
「ハハハ、そうよ、異《おつ》に後生気《ごしょうぎ》になったもんだ。寿命《じゅみょう》が尽《つ》きる前にゃあ気が弱くなるというが、我《おら》アひょっとすると死際《しにぎわ》が近くなったかしらん。これで死んだ日にゃあいい意気地無《いくじな》しだ。
「縁起《えんぎ》の悪いことお云いでないよ、面白くもない。そんなことを云っているより勢いよくサッと飲んで、そしていい考案《かんがえ》でも出してくれなくちゃあ困るよ。
「いいサ、飲むことはこの通りお達者だ、案じなさんな。児を棄《す》てる日になりゃア金の茶釜《ちゃがま》も出て来るてえのが天運だ、大丈夫《だいじょうぶ》、銭が無くって滅入《めい》ってしまうような伯父《おじ》さんじゃあねえわ。
「じゃあ何《なん》かいい見込《みこみ》でも立ってるのかエ。
「ナアニ、ちっとも立ってねえのヨ。
「どうしたらそういい気になっていられるだろうネ。仕様が無いネエ、どうかしておくれで無くっちゃあわたしももうしようもようも有りゃあしないヨ。
「ナアニ、いよいよ仕様が無けりゃあ、またちょいと書く法もあらア。
「どうおしなのだエ。
「強盗《ごうとう》と出かけるんだ。
「智慧《ちえ》が無いねエ、ホホホホ。詰らない洒落《しゃれ》ばかり云わずと真実《ほんと》にサ。
「真実《ほんと》に遣付《やっつ》けようかと思ってるんだ。オイ、三年の恋《こい》も醒《さ》めるかナッ、ハハハ。
「冗談《じょうだん》を云わずと真誠《ほんと》に、これから前《さき》をどうするんだか談《はな》して安心さしておくれなネエ。茶かされるナア腹が立つよ、ひとが心配しているのに。
「心配は廃《よ》しゃアナ。心配てえものは智慧袋《ちえぶくろ》の縮《ちぢ》み目の皺《しわ》だとヨ、何にもなりゃあしねえわ。
「だって女の気じゃあいくらわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもんなしとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。
「ご道理《もっとも》千万《せんばん》に違《ちげ》えねえ、これから売るものア汝《てめえ》の身体《からだ》より他にゃあ無《ね》えんだ。おれの身体でも売れるといいんだが、野郎と来ちゃあ政府《おかみ》へでも売りつけるより仕様がねえ、ところでおれ様と来ちゃあ政府《おかみ》でも買い切れめえじゃあねえか。川岸《かし》女郎《じょろう》になる気で台湾《たいわん》へ行くのアいいけれど、前借《ぜんしゃく》で若干銭《なにがし》か取れるというような洒落た訳にゃあ行かずヨ、どうも我ながら愛想《あいそ》の尽きる仕義だ。
「そんな事をいってどうするんだエ。
「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体《はだか》になって寝ているばかりヨ。塵挨《ほこり》が積《たか》る時分にゃあ掘出し気《ぎ》のある半可通《はんかつう》が、時代のついてるところが有り難《がて》えなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁《はくちょう》奴《め》軽くなったナ。
「ほんとに人を馬鹿にしてるね。わたしを何だとおもっておいでのだエ、こっちは馬鹿なら馬鹿なりに気を揉《も》んでるのに、何もかも茶にして済《す》ましているたあ余《あんま》り人を袖《そで》にするというものじゃあ無いかエ。
と少しつんとして、じれったそうにグイと飲む。酒の廻りしため面《おもて》に紅色《くれない》さしたるが、一体|醜《みにく》からぬ上|年齢《としばえ》も葉桜《はざくら》の匂《におい》無くなりしというまでならねば、女振り十段も先刻《さき》より上りて婀娜《あだ》ッぽいいい年増《としま》なり。
「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんなら実《ほん》の事を云おうか、実《じつ》はナ。
「アアどうするッてエの。
「実はナ。ほんとうの事を云やあ、ナ。
「アアどうするッてエのだッていうのにサ。
「エエ糞《くそ》ッ、忌々《いめえま》しいが云ってしまおう。実は過日《こねえだ》家《うち》を出てから、もうとても今じゃあ真当《ほんと》の事ア遣《やっ》てる間《ま》がねえから汝《てめえ》に算段させたんで、合百《ごうひゃく》も遣りゃあ天骰子《てんさい》もやる、花も引きゃあ樗蒲一《ちょぼいち》もやる、抜目《ぬけめ》なくチーハも買う富籤《とみ》も買う。遣らねえものは燧木《マッチ》の賭博《かけ》で椋鳥《むくどり》を引っかける事ばかり。その中《うち》にゃあ勝ちもした負けもした、いい時ゃ三百四百も握《にぎ》ったが半日たあ続かねえでトドのつまりが、残ったものア空財布《からさいふ》の中に富籤《とみ》の札《ふだ》一枚《いちめえ》だ。こいつあ明日《あした》になりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益《むだ》にゃあ極《きま》ってるが明日《あした》行って見ねえ中は楽みがある、これよりほかに当《あて》は無えんだ。オイ軽蔑《さげすむ》めえぜ、馬鹿なものを買ったのも詮《せん》じつめりゃあ、相場をするのと差《ちげえ》はねえのだ、当らねえには極《き》まらねえわサ。もうこうなっちゃあ智慧も何も、有ったところで役に立たねえ、有体《ありてい》に白状すりゃこんなもんだ。
 女房《にょうぼ》は眉《まゆ》を皺《しわ》めながら、
「それもそうだろうが汝《おまい》そうして当らない時はどうするつもりだエ。
「ハハハ、どうもならねえそう聞かれちゃあ。生きてる中はどうかこうか食わずにゃあいねえものだ、構うものかイ。だから裸で寝ていようというんだ。愛想《あいそ》が尽きたか、可愛想《かわいそう》な。厭気《いやき》がさしたらこの野郎に早く見切をつけやあナ、惜いもんだが別れてやらあ。汝《てめえ》が未来《このさき》に持っている果報の邪魔《じゃま》はおれはしねえ、辛《つら》いと汝が《てめえ》がおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。
とさすが快活《きさく》な男も少し鼻声になりながらなお酔《よい》に紛《まぎ》らして勢《いきおい》よく云う。味わえば情も薄からぬ言葉なり。女は物も云わず、修行《しゅぎょう》を積んだものか泣きもせず、ジロリと男を見たるばかり、怒った様子にもあらず、ただ真面目《まじめ》になりたるのみ。
 男なお語をつづけて、
「それともこう云っちゃあ少しウヌだが、貧《ひん》すりゃ鈍《どん》になったように自分でせえおもうこのおれを捨ててくれねえけりゃア、真《ほん》の事《こっ》たあ、明日の富に当らねえが最期《さいご》おらあ強盗になろうとももうこれからア栄華《えいが》をさせらあ。チイッと覚悟《かくご》をし直してこれからの世を渡《わた》って行きゃあ、二度と汝《てめえ》に銭金の苦労はさせねえ。まだこの世界《せけえ》は金銭《かね》が落ちてる、大層くさくどこへ行っても金金と吐《ぬか》しゃあがってピリついてるが、おれの眼で見りゃあ狗《いん》の屎《くそ》より金はたくさんにころがってらア。ただ狗《いん》の屎を拾う気になって手を出しゃあ攫取《つかみど》りだ、真《ほん》の事《こっ》たあ、馬鹿な世界だ。
「訳が解《わか》らないよ汝《おまえ》の云うことア、やっぱり強盗におなりだというのかエ。
「馬鹿ア云え、強盗になりゃアどうなるとおもう。
「赤い衣服《きもの》を着る結局《おち》が汝《おまえ》のトドの望なのかエ、お茶人過ぎるじゃあ無いか。
「赤い衣服《きもの》ア善人《ぜんにん》だから被《き》せられるんだ。そんなケチなのとアちと違うんだが、おれが強盗になりゃ汝《てめえ》はどうする。
「厭だよ、そんな下らないことを云っては、お隣家《となり》だって聞いてるヨ。
「隣家で聞いたって巡査《じゅんさ》が聞いたって、談話《はなし》だイ、構うもんか、オイどうする。
「おふざけで無いよ馬鹿馬鹿しい。
と今は一切受付けぬ語気。男はこの様子を見て四方《あたり》をきっと見廻《みま》わしながら、火鉢越に女の顔近く我顔を出して、極めて低き声ひそひそと、
「そんなら汝《てめえ》、おれが一昨日《おととい》盗賊《ぬすみ》をして来たんならどうするつもりだ。
と四隣《あたり》へ気を兼ねながら耳語《ささや》き告ぐ。さすがの女ギョッとして身を退《ひ》きしが、四隣を見まわしてさて男の面をジッと見、その様子をつくづく見る眼に涙《なみだ》をにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、
「金《きん》さん汝《おまい》情無い、わたしにそんなことを聞かなくちゃアならない事をしておくれかエ。エ、エ、エ。
「ム、ム、マアいいやナ、してもしねえでも。ただ汝《てめえ》の返辞が聞きてえのだ。
「どうしても汝《おまい》聞きたいのかエ。
 女の唇《くちびる》は堅《かた》く結ばれ、その眼は重々しく静かに据《すわ》り、その姿勢《なり》はきっと正され、その面は深く沈める必死の勇気に満《みた》されたり。男は萎《しお》れきったる様子になりて、
「マア、聞きてえとおもってもらおう。おらあ汝《おめえ》の運は汝に任《まか》せてえ、おらが横車を云おう気は持たねえ、正直に隠《かく》さず云ってくれ。
 女はグイとまた仰飲《あお》って、冷然として云い放った。
「何が何でもわたしゃアいいよ、首になっても列《なら》ぼうわね。
 面は火のように、眼は耀《かがや》くように見えながら涙はぽろりと膝《ひざ》に落ちたり。男は臂《ひじ》を伸《のば》してその頸《くび》にかけ、我を忘れたるごとく抱《いだ》き締《し》めつ、
「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談《じょうだん》だあナ。べらぼうめえ、貧乏したって誰《だれ》が馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日の富籤《とみ》に当りてえナ、千両取れりゃあ気息《いき》がつけらあ。エエ酒が無《ね》えか、さあ今度アこれを売って来い。構うもんかイ、構うもんかイ、当らあ当らあきっと当らあ。
とヒラリと素裸《すはだか》になって、寝衣《ねまき》に着かえてしまって、

  やぼならこうした うきめはせまじ、

と無間《むげん》の鐘《かね》のめりやすを、どこで聞きかじってか中音に唸《うな》り出す。
                         (明治三十年十月)

底本:「ちくま日本文学全集 幸田露伴」筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第1刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集4」筑摩書房
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※底本の次の個所(頁-行)の「小書き片仮名ト」(JIS X 0213、1-6-81)は「ト」に置き換えました。コウト(27-5) 一ト眼(31-9)
※閉じ括弧は無しはすべて、底本通り。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志
2002年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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