碑文—–横光利一

雨は降り続いた。併し、ヘルモン山上のガルタンの市民は、誰もが何日太陽を眺め得るであらうかと云ふ予想は勿論、何日から此の雨が降り始めたか、それすら今は完全に思ひ出すことも出来なくなつた。人々の胃には水が溜つた。さうして、婦女達の乳房はだんだん青く脹らみ、赤子や子供は水を飲まされた怒りのために母親の乳首を噛んだ。
 最早や人々は空を見飽きた。高窓から首を差し出して空を仰いでゐるのを見ると、通行人は腹立たしさに歩道の上で嘲弄した。
「ああ、高窓からガルタンの太陽が現れた。」
 忽ち怒つた顔が高窓から椅子や器物を歩道の上へ投げつけた。続いて礫が高窓を狙つて飛び込んだ。が、またそれは忽ちの間に鎮ると、後悔の標に、彼らの蒼ざめた顔が高窓の上と下とでげら/\と笑ひ合つた。
 日に日に酒甕を冠つて横たはつてゐる酔漢が、歩道や廻廊や石階の上に増して来た。
「ガルタンの空は旱魃である。」
「ガルタンの市民は、レバノンの戍楼《やぐら》のごとく干されるであらう。」
 彼らは瞞着した皮肉を浮べながら、酒舖から酒舖へ蹣跚として蹌踉めいていつた。が、彼らの頭は夜が来ると一様に冴え渡つた。時々深夜に狂つた管絃楽が突発した。すると、忽ち城市の方々からは、乱雑な舞踏が一斉に爆けた鋼螺《バネ》線のやうに噴出した。不眠に懊む者達は寝台の上から飛び降りた。さうして、彼らは何時の間にか、見ず知らずの者達と一つの集団を作りながら、歩道や廻廊の上を暴徒《モツブ》のやうに躍り廻つてゐる自分を知つた。が立ち停つて顔を見合せた瞬間、彼らは不可解な憎悪を感じて互に侮蔑の視線を投げ合ふと又躍つた。
 併し、雨はへルモンの山に降り続いた。
「吾らの市民よ、ガルタンに危機が来た。へルモンの山に危機が来た。」
 大道の四つ角で、片腕に酒甕を抱いたまゝ掌を振つて群衆に叫ぶ志士が現れた。すると、直ちに聴衆はなくなつて群衆は尽くその場で志士となつて拳を振つた。
「吾らの市民よ、ガルタンに危機が来た。ヘルモンの山に危機が来た。」
 彼らは直ぐさま酒甕へその唇をあてながら、酒舖や劇場へ雪崩れ込むと、魚のやうにべた/\と大理石や白檀の上へ酔ひ潰れて又叫んだ。
 けれども、雨は降り続いた。日に日に市民の死者が急激に増加した。それら死者の顔は老若男女に拘らず、皆一様に老耄の相に変つてゐて、歯は揺るぎ、窪んだ肉の影には岩のやうに疥癬の巣を張らせ、さうして、彼らの頭髪は引けば茄だつた芋毛のやうにぼく/\と※[#「てへん+劣」、第3水準1-84-77、198-1]れて来た。
 或る日、ガルタンの哲学者らは尽く市の会堂に聚められると、此の未曾有の大降雨の原因と、それに応ずる救済方法に関して執政官の面前で論争させられた。或る哲学者はガルタンがヘルモン山上に位置するを以つてと云ひ、或る者は新生の惑星が城市の上空を飛遊しつつあるが故と論じ、またある者は、数千年に一度飛翔し来る雲の大塊が、今やその動力を失つて彷徨しつゝあるを以つてと結論した。併し、此れらの様々の言葉は、夫々皆降雨に応ずる救済方法に関しては忘却の態度を装つた。が、中の一人は口を開いた。
「ヘルモンの山を下りよ。ガルタンの市民はカイザリアへ逃げよ。」
「空は続いてゐる。」と一人は云つた。
「ガルタンを捨てて、ボルペレオンへ行け。」
「見よ、ヘルモンを下る大道は瀑布である。」
「ガルタンを守れ。雲は空の如く大きくはない。」
「日々に隙間を拡げるガルタンの穀庫は七つである。」
 会堂は静まつた。滔々として山から落ちる瀑布の音は高まつた。その時、立ち上つた哲学者は名高い醜男のカンナであつた。
「ガルタンの哲学者らよ、卿等は賢明の武器を捨てゝ、卿等の祖父と父と妻とを吾に告げよ。卿等の子と孫とをガルタンに捜せ。嗚呼ガルタンの道念は、地に倒れたソロモンの旗の如く穢された。ガルタンの哲学者らよ、卿等は碧玉を飾つた裸形の首と、杯盤の香りを忘れて空を見よ。大いなる神は怒つた。ガルタンの市民は、マハナイムの祭りに焼かれた犠牲のごとくヘルモンの山上に載るであらう。嗚呼ガルタンの哲学者らよ。卿等は額に服罪の水を受けてガルタンを神に返せ。今や吾がガルタンの上には、滅亡と共に神の浄き恵与物が自殺となつて下つてゐる。」
 会堂に並んだ哲学者達の面色は蒼然として変つて来た。会合の詳細な報告は直ちにガルタンの城市に拡つた。
「大いなる神は怒つた。ガルタンは絶滅するであらう。」
 恐怖の波が人々の胸から胸を揺るいでいつた。ガルタンの大路小路では、叩かれたやうに乱舞が止まつて祈りの声が空に上つた。その昔美しい妻を奪はれた独身者のカンナは、その夜、竊に階上の観台からガルタンの城市を見下した。
「ガルタンよ、爾は爾の醜き慣習のために滅落するであらう。嗚呼ガルタンよ。滅亡せよ。今や爾は吾のためにバタラビンの池のごとく亡びるときが来た。」
 彼は醜い顔に市民に放つ復讐の微笑を浮べながら、酒を呷つて首筋の動脈を切断した。併し、彼はふと傍に立つてゐる飲み干した酒甕に気がつくと、その日会堂を震はせた自分の堂々たる雄弁と、酒甕と、自分の死体とを思ひ比べて物語つてゐる市民の言葉が浮んで来た。
「賢者は死んだ。賢者は自殺を怖れて美酒を飲んだ。賢者の言葉はエルサレムの卜者のやうに嘘言である。」
 彼は酒甕を抱いて立ち上つた。そして、蹌踉として円柱を辿りながら部屋の中を廻り始めたが、四方の壁となつて積み上げられた哲学書の山々は、到る所でその偽善を湛へた酒甕の隠匿所になることを許さなかつた。が、最後に彼は庭園の池の底を胸に描いた。彼は衣の裾から滴る血の一線を床石の上に引きながら、長く緩慢に池の方へうねつてゐる石階を下つていつた。と、途中で彼の膝はがくりと前に折れた。彼は酒甕を抱いたまま、崩れた切石の隙から延び上つてゐる草の上へ転がつた。彼は起き上らうとして手に触れた立物に身を支へると、それは軟な一握の草だつた。彼は再び転がつた。が、彼の優れた智謀は咄嗟の間、彼の動脈の切断口を酒甕の口に着けしめた。間もなく、血は、ガルタンのために受けた不幸な彼の生涯を、その酒甕の中に盛り始めた。
「ガルタンよ、吾に倣へ。ガルタンよ、滅ベ。」
 血は刻々に酒甕の底から、彼の確信ある復讐の微笑をその表面に映しながら浮き上つた。それと同時に、恰もそれに伴奏するかのやうにガルタンの祈りの声は、断滅しながら黒まつて長く続いた葡萄園の上から流れて来た。
「ガルタンよ、吾に倣へ。ガルタンよ、滅ベ。」カンナの頭は酒甕の口から切石の上へ辷つて落ちた。酒甕は顛覆した。血は彼の全身に降りかゝると、酒の香りを上げつゝ段階を一つ一つと下つて池の方へ流れていつた。
「聡明な賢者は死んだ。ガルタンに下つた福音は自殺である。」
 翌日から市民の間に自殺が流行し始めた。初め彼らの多くは、穢れたガルタンの慣習に怨恨を持つ失恋者や疾病者や不具者であつた。が、彼らを先駆に立てて、その後日を追つて益々健全な市民の多くが自殺した。さうして最早や彼らの首の動脈は、僅か一片の嘲笑と冷顔とで購ひ得るにいたつたが、しかし、彼らはその生の終末に臨んで、各々廻廊の壁に市民の罪業の数々を刻みつけた。彼らの懺悔の心は、彼らの過去の悪業を刻み、彼らの怨恨は、生き残る市民の秘めた悪徳を彼らに刻ませた。このため、日ならずして城市の壁は、穢れたガルタンの罪跡を曝露した石碑となつて雨に打たれた。人々は壁から壁へと押し流れて、日々に現れる新らしい壁の文字を読み渡つた。
「あゝ、爾は吾に石を背負せた銀子をもつて、イスラエルの女の首に手を巻いた。」
「あゝ、爾は吾が妻の腹に爾の子を落して逃亡した。」
「爾はシユラミの婦女のために、吾の娘を葡萄のごとく圧し潰した。」
「爾は一片の番紅花《サフラン》を得んとして、シオンの商人に身を投げた。」
「爾はアマナの山の牝鹿のごとく、八十人の男子に吾の眼を盗んで爾の胸の香物を嗅がしめた。」
「あゝ婚姻の夜の爾の唇は、廻り遶つた杯盤のやうに穢れてゐた。」
 ガルタンの城市では、このときから自殺の流行が衰へ始めると、それに代つて遽に殺人が流行した。怨恨者の復讐の剣は赤錆のまま、破廉を秘めた市民の胸へ公然と突き刺された。それに和してガルタンの賤民達は、一斉に歓楽の簒奪者として貴族や富豪を殺戮した。悲鳴と叫喚が幾日も続いていつた。廃れた花園や路傍の丈延びた草叢の中には、到る所男女の死体が、酒盃のやうな開いた傷口に雨を湛へて横たはつてゐた。併し、雨はます/\降り続いた。ガルタンの殺戮は次第にその勢ひを弱めていつた。が、それにひきかヘ、市民の肉体は日に日に激しい性の衝動を高め始めると、終にガルタンの城市はヘルモンの山上で、声を潜めた一大売淫所と変つて来た。彼らの中の薄弱な肉体は、横たはつたまゝに死へ落ちた。併し、空は彼らの頭の上で、夜を胎んだ雲のやうに層々として暗みを増した。さうして、今やガルタンの市民は、過去の一切の記憶を忘却し、眠りに落ちる青白い獣であるかのやうに、たゞ呆然と生きてゐるにすぎなかつた。
 ガルタンの中央のガンタアルの大路では、二人の市民が雨に打たれたまゝ、凡ゆる刺戟に麻痺した鈍感な眼をして立つてゐた。すると、突然一人の頭の中ヘカンナの予言が浮び上つた。彼の垂れ下つた両手は遽にぶる/\と慄へて来た。
「吾らは絶滅するであらう。」
 彼の叫びを聞くと同時に、他の一人の眼は急に光りを発して拡がつた。
「何に故か!」
「吾らは絶滅するであらう!」
「何に故か!」
 二人は肩を掴み合つた。さうして、仇敵のやうに相手の眼の中を覗き込むと、無言のまま激しくその肩を揺り合つた。と、二人は相手かまはず過去の鬱積した憤怒を一時に爆発させて、互に掴んだ肩を突き放した。
「涜神者!」
「姦淫者!」
「簒奪者!」
「欺瞞者!」
 二人は餓ゑた白痴のやうに顔を振りながら、大道を彷徨ひ歩いてまた往き合ふ人々を罵つた。
「ガルタンを滅亡せしめたのは爾である。ガルタンを吾に返せ。」
「爾のためにガルタンは滅亡した。ガルタンを吾に返せ。」
 大路の人々は立ち所に酒甕で二人を打つた。が、二人は酒甕の破片を全身に突き立てたまゝ、尚知らざるごとく人々の間を吠え狂ふと、その声を聞きつけた者達は、一斉に忘却してゐたガルタンの記憶を投げつけられて戦慄した。と、忽ち彼らは二人に感染した狂人のやうに怒り出すと、また相手かまはず往き合ふ人々を打ち叩いて罵り合つた。
「ガルタンを滅亡せしめたのは爾である。ガルタンを吾に返せ。爾のためにガルタンは滅亡した。ガルタンを吾に返せ。」
 大路の上を車輪や礫が酒甕の破片と共に飛び廻つた。が、更に怒の群れは死骸や蠢動する負傷者を蹂躙して、ドアーや窓から四方の屋内に闖入した。そこでは楽器や倒れた彫像や寝台や敷石が、飛び散る血潮のために見る/\新鮮に塗り変へられた。さうして、この狂つた憤怒の集団は、絶望に煽られたガルタンの恐怖の上を、不規則な雲のやうな形を描きつゝ、壁を突き破り石塀を乗り越えて火を待つ油のやうに益々四方へ追ひ拡がつた。それはその狂気の行く先き先きに、恰も無数の怨恨が声を潜めて地に鬱伏してゐたかのやうであつた。それは夜となく昼となく中間を空虚にして続いていつた。併し、この狂暴の最後に残つた勇者らは、その体躯を打ち衝る目あての物が、たゞ堅牢な石壁や石柱や樹木となつてゐるのに気付いたとき、彼らは蹌踉めきながら半眼を開いたまゝ、唖者のやうに黙つて終日同じ所を歩き廻つた。が、彼らの中の多くの者は、石柱や石塀に突き衝つて倒れると最早再びとは起き上つて来なかつた。ヘルモンの山上から流れる雨水は、血の瀑布となつてガルタンの渓谷の方へ落ちていつた。ガルタンの城市では、壊れた楽器や酒甕が僅に生き残つた二人の市民の足の裏で、時々その破片を鳴らせるにすぎなくなつた。が、その時その最後の二人の者は、廻廊の端で突き衝つた。二人は幽かに呻きを漏らすと抱き合つた。彼らの歯は咬み合ふやうに暫く空虚を咬んで慄へてゐた。さうして、二人の身体は互に暖まりを感じ始めると、彼らは抱き合つたまゝ眠りに落ちて横に倒れた。
 かくしてガルタンは永久に沈黙した。高い空宙からガルタンの城市を見下すと、人々の行跡を刻んだ壁の周囲に、点々としてゐる市民の死骸は丁度黴のやうに青白く見えてゐた。併し雨は依然としてへルモンの山に降り続いた。

底本:「定本横光利一全集 第一巻」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月30日初版発行
底本の親本:「日輪」春陽堂
   1924(大正13)年5月18日発行
初出:「新思潮」
   1923(大正12)年7月10日発行、第6次の2第1号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、旧字、旧仮名の底本の表記を、新字旧仮名にあらためました。
※くの字点は、底本のママとしました。
入力:高寺康仁
校正:松永正敏
2001年12月11日公開
2003年6月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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