永井荷風

正宗谷崎両氏の批評に答う—–永井荷風

去年の秋、谷崎君がわたくしの小説について長文の批評を雑誌『改造』に載せられた時、わたくしはこれに答える文をかきかけたのであるが、勢《いきおい》自作の苦心談をれいれいしく書立てるようになるので、何となく気恥かしい心持がして止《よ》してしまった。然るにこの度は正宗君が『中央公論』四月号に『永井荷風論』と題する長文を掲載せられた。
 わたくしは二家の批評を読んで何事よりもまず感謝の情を禁じ得なかった。これは虚礼の辞ではない。十年前であったなら、さほどまでにうれしいとは思わなかったかも知れない。しかし今は時勢に鑑《かんが》みまた自分の衰老を省みて、今なおわたくしの旧著を精読して批判の労を厭《いと》わない人があるかと思えば満腔《まんこう》唯感謝の情を覚ゆるばかりである。知らぬ他国で偶然同郷の人に邂逅《かいこう》したような心持がしたのである。
 かつて大正十五年の春にも正宗君はわたくしの小説|及《および》雑著について批評せられたことがあった。その時わたくしは弁駁《べんばく》の辞をつくったが、それは江戸文学に関して少しく見解を異にしているように思ったからで、わたくしは自作の小説については全く言う事を避けた。自作について云々するのはどうも自家弁護の辞を弄するような気がして書きにくかった故である。わたくしが個人雑誌『花月』の誌上に、『かかでもの記』を掲げて文壇の経歴を述べたのは今より十五、六年以前であるが、初は『自作自評』と題して旧作の一篇ごとに執筆の来由を陳《の》べ、これによって半面はおのずから自叙伝ともなるようにしたいと考えた。しかしそれもあまり自家吹聴に過るような気がして僅に『かかでもの記』三、四回を草して筆を擱《お》いた。
 谷崎君は、さきに西鶴と元禄時代の文学を論じ、わたくしを以て紅葉先生と趣を同じくしている作家のように言われた。事の何たるを問わず自分の事をはっきり自分で判断することは至難である。谷崎君が批判の当れるや否やはこれを第三者に問うより外はない。紅葉先生は硯友社《けんゆうしゃ》諸先輩の中《うち》わたくしには最も親しみが薄いのである。外国語学校に通学していた頃、神田の町の角々《かどかど》に、『読売新聞』紙上に『金色夜叉《こんじきやしゃ》』が連載せられるという予告が貼出《はりだ》されていたのを見たがしかしわたくしはその当時にはこれを読まなかった。啻《ただ》に『金色夜叉』のみならず紅葉先生の著作は、明治三十四、五年の頃友人に勧められて一括してこれを通読する日まで、わたくしは殆どこれを知らずにいた位である。これも別に確然たる意見があったわけではない。その頃の書生は新刊の小説や雑誌を購読するほどの小使銭を持っていなかったので、読むに便宜のない娯楽の書物には自然遠ざかっていた。わたくしの家では『時事新報』や『日々新聞』を購読していたが『読売』の如きものは取っていなかった。馬琴《ばきん》春水《しゅんすい》の物や、『春雨物語』、『佳人の奇遇』のような小説類は沢山あったが、硯友社作家の新刊物は一冊もなかった。わたくしが中学生の頃初め漢詩を学びその後近代の文学に志を向けかけた頃、友人|井上唖々《いのうえああ》子が『今戸心中《いまどしんじゅう》』所載の『文芸倶楽部《ぶんげいクラブ》』と、緑雨《りょくう》の『油地獄』一冊とを示して頻《しきり》にその妙処を説いた。これが後日わたくしをして柳浪《りゅうろう》先生の門に遊ばしめた原因である。しかしその後幾星霜を経て、大正六、七年の頃、わたくしは明治時代の小説を批評しようと思って硯友社作家の諸作を通覧して見たことがあったが、その時分の感想では露伴《ろはん》先生の『※[#「言+闌」、第4水準2-88-83]言長語《らんげんちょうご》』と一葉《いちよう》女史の諸作とに最《もっとも》深く心服した。緑雨の小説随筆はこれを再読した時、案外に浅薄でまた甚《はなはだ》厭味《いやみ》な心持がした。わたくしは今日に至っても露伴先生の『※[#「言+闌」、第4水準2-88-83]言長語』の二巻を折々|繙《ひもと》いている。
 大正以前の文学には、今日におけるが如く江戸趣味なる語に特別の意味はなかった。もしこの語を以て評すれば露伴先生の文はけだし江戸趣味の極めて深遠なるもので、また古今を通じて随筆の冠冕《かんべん》となすべきものである。『世に忘れられたる草木』『雲のいろいろ』以下幾十篇皆独特の観察に基いている。正宗君は露伴先生が明治三十年代に雑誌『新小説』に執筆せられたこれらの随筆を忘れておられるのであろう。もしこれを思出されたなら、わたくしの雑著についての賛辞は過半取消されるにちがいない。
 明治四十一年の秋西洋から帰って後、わたくしは間もなく『すみだ川』の如き小説をつくった。しかし執筆の当時には特に江戸趣味を鼓吹する心はなかった。洋行中|仏蘭西《フランス》のフレデリック・ミストラル、白耳義《ベルギー》のジョルヂ・エックー等の著作をよんで郷土芸術の意義ある事を教えられていたので、この筆法に倣《なら》ってわたくしはその生れたる過去の東京を再現させようと思って、人物と背景とを隅田川の両岸に配置したのである。短篇小説『狐』と題したものもまた同様である。わたくしはその頃既に近代仏蘭西の小説を多く読んでいた事については、窃《ひそか》に人後《じんご》に落ちないと思っていたが、しかしいざ筆を取って見ると文才と共に思想の足りない事を知って往々絶望していたこともあった。まだ巴里《パリー》にあった頃わたくしは日本の一友人から、君は頻にフロオベルを愛読しているが、君の筆はむしろドーデを学ぶに適しているようだ、と忠告されたこともあった。二葉亭《ふたばてい》の『浮雲』や森先生の『雁《がん》』の如く深刻|緻密《ちみつ》に人物の感情性格を解剖する事は到底わたくしの力の能《よ》くする所でない。然るに、幸にも『深川の唄』といい『すみだ川』というが如き小作を公にするに及んで、忽《たちまち》江戸趣味の鼓吹者と目せられ、以後二十余年の今日に至ってなお虚名を贏《か》ち得ている。文壇の僥倖児《ぎょうこうじ》といわれるのは、けだし正宗君の言を俟《ま》つに及ぶまい。
 大正改元の翌年市中に暴動が起った頃から世間では仏蘭西の文物に親しむものを忌《い》む傾きが著しくなった。たしか『国民新聞』の論説記者が僕を指して非国民となしたのもその時分であった。これは帰朝の途上わたくしが土耳古《トルコ》の国旗に敬礼をしたり、西郷隆盛《さいごうたかもり》の銅像を称美しなかった事などに起因したのであろう。しかし静に考察すれば芸術家が土耳古の山河風俗を愛惜する事は、敢て異となすには及ばない。ピエール・ロチは欧洲人が多年土耳古を敵視し絶えずその領土を蚕食《さんしょく》しつつある事を痛嘆して『苦悩する土耳古』と題する一書を著《あらわ》し悲痛の辞を連ねている。日本と仏蘭西とは国情を異にしている。大正改元の頃にはわたくしも年三十六、七歳に達したので、一時の西洋かぶれも日に日に薄らぎ、矯激なる感動も年と共に消えて行った。その頃偶然|黒田清輝《くろだきよてる》先生に逢ったことがあるが「君も今の中《うち》に早く写真をうつして置け。」と戯《たわむれ》に言われたのを、わたくしは今に忘れない。日本の風土気候は人をして早く老いさせる不可思議な力を持っている。わたくしは専《もっぱら》これらの感慨を現すために『父の恩』と題する小説をかきかけたが、これさえややもすれば筆を拘束される事が多かったので、中途にして稿を絶った。わたくしはふと江戸の戯作者また浮世絵師等が幕末国難の時代にあっても泰平の時と変りなく悠々然《ゆうゆうぜん》として淫猥《いんわい》な人情本や春画をつくっていた事を甚《はなはだ》痛快に感じて、ここに専《もっぱら》花柳小説に筆をつける事を思立った。『新橋夜話《しんきょうやわ》』または『戯作者《げさくしゃ》の死』の如きものはその頃の記念である。浮世絵|並《ならび》に江戸出版物の蒐集《しゅうしゅう》に耽ったのもこの時分が最も盛であった。
 浮世絵の事をここに一言したい。わたくしが浮世絵を見て始て芸術的感動に打たれたのは亜米利加《アメリカ》諸市の美術館を見巡《みまわ》っていた時である。さればわたくしの江戸趣味は米国好事家の後塵《こうじん》を追うもので、自分の発見ではない。明治四十一年に帰朝した当時浮世絵を鑑賞する人はなお稀であった。小島烏水《こじまうすい》氏はたしか米国におられたので、日本では宮武外骨《みやたけがいこつ》氏を以てこの道の先知者となすべきであろう。東京市中の古本屋が聯合《れんごう》して即売会を開催したのも、たしか、明治四十二、三年の頃からであろう。
 大正三、四年の頃に至って、わたくしは『日和下駄《ひよりげた》』と題する東京散歩の記を書き終った。わたくしは日和下駄をはいて墓さがしをするようになっては、最早《もはや》新しい文学の先陣に立つ事はできない。三田《みた》の大学が何らの肩書もないわたくしを雇《やと》って教授となしたのは、新文壇のいわゆるアヴァンガルドに立って陣鼓《タンブール》を鳴らさせるためであった。それが出来なくなればわたくしはつまり用のない人になるわけなので、折を見て身を引こうと思っていると、丁度よい事には森先生が大学文科の顧問をいつよされるともなくやめられる。上田先生もまた同じように、次第に三田から遠ざかっておられたので、わたくしは病気を幸に大正四年の十二月をかぎり、後事を井川滋氏に託して三田を去った。わたくしは最初雇われた時から、無事に三個年勤められれば満足だと思っていた。三年たてば三田の学窓からも一人や二人秀才の現れないはずはない。とにかくそれまでの間に、森先生に御迷惑をかけるような失態を演じ出さないようにと思ってわたくしは毎週一、二回仏蘭西人某氏の家へ往《い》って新着の新聞を読み、つとめて新しい風聞に接するようにしていた。三年の歳月は早くも過ぎ、いつか五年六年目となった。もともとわたくしは学ぶに常師というものがなかったから、独学|固陋《ころう》の譏《そしり》は免《まぬか》れない。それにまた三田の出身者ではなく、外から飛入りの先生だから、そう長く腰を据えるのはよくないという考もあった。
 わたくしの父は、生前文部省の役人で一時帝国大学にも関係があったので、わたくしは少年の頃から学閥の忌むべき事や、学派の軋轢《あつれき》の恐るべき事などを小耳《こみみ》に聞いて知っていた。しかしこれは勿論わたくしが三田を去った直接の原因ではない。わたくしの友人等は「あの男は生活にこまらないからいつでも勝手|気儘《きまま》な事をしているのだ」といってその時も皆これを笑った。谷崎君の批評にも正宗君の論文にもわたくしが衣食に追われていない事が言われている。これについてわたくしは何も言う事はない。唯一言したいのは、もしわたくしが父兄を養わなければならぬような境遇にあったなら、他分小説の如き遊戯の文字を弄《もてあそ》ばなかったという事である。わたくしは夙《はや》くから文学は糊口《ここう》の道でもなければ、また栄達の道でもないと思っていた。これは『小説作法』の中にもかいて置いた。政治を論じたり国事を憂いたりする事も、恐らくは貧家の子弟の志すべき事ではあるまい。但し米屋酒屋の勘定を支払わないのが志士《しし》義人《ぎじん》の特権だとすれば問題は別である。
 わたくしは教師をやめると大分気が楽になって、遠慮|気兼《きがね》をする事がなくなったので、おのずから花柳小説『腕くらべ』のようなものを書きはじめた。当時を顧ると、時世の好みは追々《おいおい》芸者を離れて演劇女優に移りかけていたので、わたくしは芸者の流行を明治年間の遺習と見なして、その生活風俗を描写して置こうと思ったのである。カッフェーの女給はその頃にはなお女ボーイとよばれ鳥料理屋の女中と同等に見られていたが、大正十年前後から俄《にわか》に勃興して一世を風靡《ふうび》し、映画女優と並んで遂に演劇女優の流行を奪い去るに至った。しかし震災後早くも十年を過ぎた今日では女給の流行もまた既に盛を越したようである。これがわたくしの近著『つゆのあとさき』の出来た所以《ゆえん》である。
 谷崎君はこの拙著を評せられるに当って、わたくしが何のために、また何の感興があって小説をかくかという事を仔細に観察しまた解剖せられた。谷崎君の眼光は作者自身の心づかない処まで鋭く見透していた。
 ここでちょっと井原西鶴について言いたい事がある。世人は元禄の軟文学を論ずる時|必《かならず》西鶴と近松とを並び称しているようであるが、わたくしの見る処では、近松は西鶴に比すれば遥に偉大なる作家である。西鶴の面目は唯その文の軽妙なるに留っている。元禄時代にあって俳諧をつくる者は皆名文家である。芭蕉とその門人|去来《きょらい》東花坊《とうかぼう》の如き皆然りで、独《ひとり》西鶴のみではない。試に西鶴の『五人女』と近松の世話浄瑠璃《せわじょうるり》とを比較せよ。西鶴は市井《しせい》の風聞を記録するに過ぎない。然るに近松は空想の力を仮りて人物を活躍させている。一は記事に過ぎないが一は渾然《こんぜん》たる創作である。ここに附記していう。岡鬼太郎《おかおにたろう》君は近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う所に心服している。
 西鶴の価《あたい》を思切って低くして考えれば、谷崎君がわたくしを以て西鶴の亜流となした事もさして過賞とするにも及ばないであろう。
 江戸時代の文学を見るにいずれの時代にもそれぞれ好んで市井の風俗を描写した文学者が現れている。宝暦以後、文学の中心が東都に移ってから、明和年代に南畝《なんぽ》が出で、天明年代に京伝《きょうでん》、文化文政に三馬《さんば》、春水《しゅんすい》、天保に寺門静軒《てらかどせいけん》、幕末には魯文《ろぶん》、維新後には服部撫松《はっとりぶしょう》、三木愛花《みきあいか》が現れ、明治廿年頃から紅葉山人《こうようさんじん》が出た。以上の諸名家に次《つ》いで大正時代の市井狭斜の風俗を記録する操觚者《そうこしゃ》の末に、たまたまわたくしの名が加えられたのは実に意外の光栄で、我事は既に終ったというような心持がする。
 正宗谷崎二君がわたくしの文を批判する態度は頗《すこぶる》寛大であって、ややもすれば称賛に過ぎたところが多い。これは知らず知らず友情の然らしめたためであろう。あるひは[#「あるひは」はママ]幾分奨励の意を寓して、晩年更に奮発一番すべしとの心であるやも知れない。わたくしは昭和改元の際年は知命に達していた。二君の好意を空《むな》しくせまいと思っても悲しい哉《かな》時は早や過去ったようである。強烈な電燈の光に照出される昭和の世相は老眼鏡のくもりをふいている間にどんどん変って行く。この頃、銀座通に柳の苗木《なえぎ》が植付《うえつ》けられた。この苗木のもとに立って、断髪洋装の女子と共に蓄音機の奏する出征の曲を聴いて感激を催す事は、鬢糸《びんし》禅榻《ぜんとう》の歎《たん》をなすものの能《よ》くすべき所ではない。巴里《パリー》には生きながら老作家をまつり込むアカデミイがある。江戸時代には死したる学者を葬る儒者捨場があった。大正文学の遺老を捨てる山は何処にあるか……イヤこんな事を言っていると、わたくしは宛然《さながら》両君がいうところの「生活の落伍者」また「敗残の東京人」である。さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川の二氏の如く決然自殺をするような熱情家ではあるまい。数年来わたくしは宿痾《しゅくあ》に苦しめられて筆硯《ひっけん》を廃することもたびたびである。そして疾病《しっぺい》と老耄《ろうもう》とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外はない。老と病とは人生に倦《う》みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗《すこぶる》妙《みょう》である。


コノ稿ハ昭和七年三月三十日正宗白鳥君ノ論文ヲ読ミ燈下|匆々《そうそう》筆ヲ走ラセタ。ワガ旧作執筆ノ年代ニハ記憶ノ誤ガアルカモ知レナイ。好事家《こうずか》ハ宜《よろ》シク斎藤昌三氏ノ『現代日本文学大年表』ニ就イテコレヲ正シ給エトイウ。

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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