家を取り壊した庭の中に、白い花をつけた杏の樹がただ一本立っている。復活祭の近づいた春寒い風が河岸から吹く度びに枝枝が慄えつつ弁を落していく。パッシイからセーヌ河を登って来た蒸気船が、芽を吹き立てたプラターンの幹の間から物憂げな汽缶の音を響かせて来る。城砦のような厚い石の欄壁に肘をついて、さきから河の水面を見降ろしていた久慈は石の冷たさに手首に鳥肌が立って来た。
下の水際の敷石の間から草が萌え出し、流れに揺れている細い杭の周囲にはコルクの栓が密集して浮いている。
「どうも、お待たせして失礼。」
日本にいる叔父から手紙の命令でユダヤ人の貿易商を訪問して戻って来た矢代は、久慈の姿を見て近よって来ると云った。二人は河岸に添ってエッフェル塔の方へ歩いていった。
「日本の陶器会社がテエランの陶器会社から模造品を造ってくれと頼まれたので、造ってみたところが、本物より良く出来たのでテエランの陶器会社が潰れてしまったそうだ。それで造った日本もそれは気の毒なことをしたというので、今になって周章《あわ》て出したというんだが、しかし、やるんだねなかなか。一番ヨーロッパを引っ掻き廻しているのは、陶器会社かもしれないぜ。」
久慈は矢代の云うことなど聞いていなかった。彼は明日ロンドンから来る千鶴子の処置について考えているのである。二人は橋の上まで来るとどちらからともなくまた立ち停った。
眼も痛くなる夕日を照り返した水面には船のような家が鎖で繋がれたまま浮いている。錆びた鉄材の積み上っている河岸は大博覧会の準備工事のために掘り返されているが、どことなく働く人も悠長で、休んでばかりいるようなのどかな風情が一層春のおもかげを漂わせていた。
エッフェル塔の裾が裳のように拡がり張っている下まで来ると、対岸のトロカデロの公園内に打ち込む鉄筋の音が、間延びのした調子を伝えて来る。渦を巻かした水が、橋の足に彫刻された今にも脱け落ちそうな裸女の美しい腰の下を流れて行く。
「明日千鶴子さんがロンドンから来るんだよ。君、知ってるのか。」
矢代は久慈にそのように云われると瞬間心に灯の点くのを感じた。
「ふむ、それは知らなかったな。何んで来るんだろ。」
「飛行機だ。来たら宿をどこにしたもんだろう。君に良い考えはないかね。」
「さア。」
こう矢代は云ったものの、しかし、千鶴子がどうして久慈にばかり手紙を寄こしたものか怪しめば怪しまれた。
エッフェル塔が次第に後になって行くに随って河岸に連るマロニエの幹も太さを増した。およそ二抱えもあろうか。磨かぬ石炭のように黒黒と堅そうな幹は盛り繁った若葉を垂れ、その葉叢の一群ごとに、やがて花になろうとする穂のうす白い蕾も頭を擡げようとしていた。
晩餐にはまだ間があった。矢代と久慈はセーヌ河に添ってナポレオンの墓場のあるアンバリイドの傍まで来た。燻んだ黒い建物や彫像の襞の雨と風に打たれる凸線の部分は、雪を冠ったように白く浮き上って見えている。
その前にかかった橋は世界第一と称せられるものであるが、見たところ白い象牙の宝冠のようである。欄柱に群り立った鈴のような白球灯と豊麗な女神の立像は、対岸の緑色濃やかなサンゼリゼの森の上に浮き上り、樹間を流れる自動車も橋の女神の使者かと見えるほど、この橋は壮麗を極めていた。
矢代は間もなく見る千鶴子の様子を考えてみた。彼の頭に浮んだものは、日本から来るまでの船中の千鶴子の姿であったが、定めし彼女も別れてからはさまざまな苦労を自分同様に続けたことであろうと思われた。
「千鶴子さん、長くパリにいるのかね。」
と矢代は久慈に訊ねてみた。
「長くはいないだろう。フロウレンスへ行きたいんだそうだが、君に宜敷《よろし》くって終りに書いてあったよ。」
「終りにか。」
と矢代は云って笑った。矢代は久慈とも同船で来たのであった。久慈は社会学の勉強という名目のかたわら美術の研究が主であり、矢代は歴史の実習かたがた近代文化の様相の視察に来たのだが、船の中では久慈だけ千鶴子と親しくなった。矢代は今も彼らとともにマルセーユまで来た日の港港の風景を思い浮べた。
「もう一度僕はピナンへ行きたいね。あそこは幻灯を見てるような気がするが、君はあのあたりから千鶴子さんの後ばかり追っかけ廻していたじゃないか。あれも幻灯だったのかい?」
と矢代は云ってからかった。
「いや、あのときは夢を見ているようなものさ。何をしたのかもう忘れたよ。マルセーユへ上った途端に眼が醒めたみたいで、どうしても自分があんなに千鶴子さんの後ばかり追い廻したのか分らないんだ。いまだにあのときのことを思うと不思議な気がするね。」
「とにかく、あのマラッカ海峡というのは地上の魔宮だよ。あそこの味だけは阿片みたいで、思い出しても頭がぼっとして来るね。あんな所に文化なんかあっちゃ溜らないぜ。あ奴が一番われわれには恐ろしい。」
アンバリイドからケエドルセイにかかって来ると、河岸の欄壁に添って古本屋がつづいて来た。一間ほどのうす緑の箱が蓋を屋根のように開いている中に、ぎっしり本や絵を詰めた露店であるが、上からは樹の芽が垂れ下り魚釣る人の姿も真下のセーヌ河の水際に蹲《しゃが》んでいる。矢代は前方の島の中から霞んで来たノートル・ダムの尖塔を望みながら云った。
「僕はカイロの回回教《フイフイきょう》のお寺も忘れられないね。あれはここのヨーロッパに自然科学を吹き込んだサラセン文化の頂上のものだが、ナポレオンがあの寺を見て、癪に触って、大砲をぶつ放したのもよく分るね。ナポレオンが日本へ来ていたら、第一番に本願寺へ大砲をぶち込んでいたぜ。」
そう云えば矢代はエジプトのカイロのことを思い出す。あのピラミッドの真暗な穴の中を優しく千鶴子を助けて登った久慈の姿を思い出す。
エジプトまでは矢代と久慈はまだ親しい仲だとは云えなかった。それと云うのは、同船の客が港港の上陸の際にもサロンでの交遊にも、二派に別れてそれぞれ行動を共にしていたからであった。これらの二組の中には若い婦人も混っていた。久慈の方にはロンドンの兄の所へ行くという千鶴子がいた。今一方の組の中には、ウィーンの良人の傍へ行くという、早坂真紀子が中心になっていた。矢代は上海に半ヵ月ばかり滞在してから、スマトラその他の南洋の港港を一ヵ月ほど廻り、シンガポールから初めて久慈たちの船に乗船したため、これらの二組のどちらでもなく中立派の態度をとって自由にしていたが、一度び船がスエズに入港してカイロ行の団体を募集したときから、この二派の関係は乱れて来た。
船がスエズからポートサイドまで出る一昼夜の間に、カイロ行の団体は陸路沙漠を横切りカイロへ出て、ピラミッドを見物してからポートサイドに廻っている船まで、汽車で追っつかねばならぬのである。随ってこの急がしい旅には二派の反目など誰も考えていられる閑はなかった。いよいよカイロ行の一団は、千鶴子の組も真紀子の組も呉越同舟で三台の自動車に分乗した。
そのとき矢代は最後に遅れて自動車に乗ろうとするとどの自動車にも席がなかった。矢代はうろうろしながら席を覗いているうちに一台の自動車から急に久慈が飛び降り、「こちらへいらっしゃい。ここが空いていますから。」と矢代にすすめた。
久慈は矢代を自分の席へ入れると自分が運転手台に廻ろうとした。
「いやいや、それはいけませんよ。」
こう矢代は云ったがそのときはもう久慈は運転手の横に乗っていた。矢代がそのまま久慈の席へ納ると同時に自動車は辷り出した。車内では矢代の横に真紀子がいて、その横にある船会社の重役の沖がいた。沖と矢代は船中から親しかったが、この四人が一緒になることはそれまでにはなかったことであった。矢代はこのときから久慈や真紀子とも親しさが増して来たのである。
ポートサイドから船が地中海へ進んで行くと、船客たちはすでに上陸の準備をそろそろし始めたが、矢代はまだそれまで千鶴子とは言葉を云ったことが一度もなかった。
ある夜、イタリアへ船がかかり渦巻の多いシシリイ島を越えた次の夜であった。一団の船客たちは突然左舷の欄干へ馳け集った。矢代も人人と一緒に甲板へ出て沖の方を見ると、真暗な沖の波の上でストロンボリの噴火が三角の島の頂上から、山の斜面へ熔岩の火の塊りをずるずる辷り流しているところだった。
「まア、綺麗ですこと。」
と千鶴子が感嘆の声を放った。彼女としては傍にいるものが矢代だと気附かずに云ったのだが、しかし、矢代も思わず、
「綺麗ですね。」
と口に出した。千鶴子は傍のものが矢代だと識ると、どういうものかっと身を退けて甲板からサロンの中へ這入ってしまった。慎しみ深い大きな眼の底にどこか不似合な大胆さも潜めていて、上唇の小さな黒子《ほくろ》が片頬の靨《えくぼ》とよく調和をとって動くのが心に残る表情だった。
次の日、地中海は荒れて船の動揺が激しくなった。矢代は夕日の落ちかかろうとするコルシカ島の断崖を眺めながら、甲板の上に立っていた。ときどき波が甲板に打ち上った。あたりは人一人も見えず冷たい風が波の飛沫とともに矢代の顔に吹きかかった。彼は欄干に肘をついたまま立ちつづけていると、後ろのドアが開いて近づいて来た靴音がぴたりと停った。矢代は煙草に火を点けたがマッチは幾本擦っても潮湿りの風に吹き消された。彼はマッチを取りにサロンへ戻ろうとして後ろを向くと、そこに食堂へ這入る前らしい千鶴子が花模様のイブニングで一人立っていた。
「あのう、失礼ですが、パリのほうへいらっしゃるんでございますか。」
と千鶴子は寒さで幾分青ざめた顔を真直ぐに矢代に向けて訊ねた。
「そうです。」
「じゃ、もう明日お別れですわね。皆さん、そわそわしてらっしゃいましてよ。」
「そうでしょうな。」
矢代は火の点かぬ煙草を口に咥えて笑った。
「あたしも皆さんと御一緒に、マルセーユで降りたいんですけれども、やはり、このままロンドンまで行くことに決めましたの、あら、まアあんなにお日さま大きくなりましたわ。」
と、突然千鶴子は嬉しそうに云って夕日を受けた靨のままコルシカ島の上を指差した。
「左のこのサルジニアでガリバルジイが生れたというんですが、ナポレオンと向き合っているところは面白いですね。」
「何となくそんな人の出そうな気がしますのね。」
船は首を上げたり下げたりしつつ夕日に向って苦しげに進んでいった。見ていてもその様子は気息奄奄という感じで、思わずこちらの肩にも力が入った。ぱッと甲板に打ち上った波は背光を受けたコルシカの岩より高く裂け散って、人家も見えず、左方に長く連った峨峨とした灰藍色のサルジニアが見る間に夕日の色とともに変っていった。
「ここは静かなところだと思っていましたけど、地中海が一番荒れますのね。」
と千鶴子は額に手を翳し、飛び散る泡にも滅《め》げず云った。
「そうですね。しかし、まア、幸いにこれほどで何よりでしたよ。ナポリへ船の寄らないのが残念ですが。――」
吹きつける風が千鶴子のドレスをぴたりと身体につけたままはたはたと裾を前方に靡《なび》かせる。
「コロンボまで来たとき、一番日本へ帰りたいと思いましたが、ここまで来ると、もうただわくわくするだけで、何んだかちっとも分らなくなりましたわ。」
矢代は軽く頷いた。彼は今の自分を考えると何となく、戦場に出て行く兵士の気持ちに似ているように思った。長い間日本がさまざまなことを学んだヨーロッパである。そして同時に日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパであった。
地中海へ這入って以来、憧れの底から無性に襲うこのようないら立たしさは、船が進めば進むほど矢代の胸中に起って来たのも、やはり来て見なければ分らぬことの一つだと矢代には思われた。全くこっそりと起る人知れぬこんな心は、悪用すれば際限のないものにちがいない。先ず静かに寝かしつけておこうと思っても、何ものか寝てる子供を揺り醒ますものが絶えず波の中から霊魂のようにさ迷うて来るのだった。間もなく、夕食の合図のオルゴールが船室の方から鳴って来ると、矢代はタキシイドを着替えに自分の部屋へ這入っていった。
船の中の食堂は最後の晩餐だというので常にも増した装飾であった。船客たちもこの夜はタキシイドに姿を変えずらりと卓に並んでいた。女は女同士のテーブルに並ぶ習慣もいつのころからか破れたのも、この夜だけは千鶴子と真紀子が神妙に前の習慣に戻って面白そうに話すのが、矢代の方から眺められた。食事がだんだん進んでいって空腹が満たされて来たころ、突然一隅から紙爆弾の音がした。一同はッとしたと思うと同時にあちこちのテーブルからも爆発し始めた。外人を狙ってテープを投げつける。外人たちから返って来る。婦人を狙って投げつける。それぞれに紙の帽子を冠り、わあわあ騒ぎ立って来るに随って、咲き連っている造花の桜の枝枝にテープが滝のように垂れ下る。
船客たちは今宵が最後の船だと思うばかりではない。地中海へ這入ってからは七色の虹に包まれたような幻に憑かれているうえに、ここまで来れば後へは帰れぬ背水の思いである。酒一滴も出ないのに頭は酔いの廻った酔漢のようになっている。明日はいよいよ敵陣へ乗り込むのである。日本の国土といってはこの船だけである。
このように思う気持ちは各人に共通であるから、桜も今は当分の見納めと、うす濁った造花の桜の花曇りも上野の花のように見えて来る。すると、食堂での騒ぎは間もなく甲板の上へ崩れて行ってそこで踊りとなって来た。
二等の甲板の方からも踊りの出来るものはやって来て一緒に踊った。真紀子はフランス人と初めは踊り、次ぎにはいつものパーティでよく顔を会す踊りの巧い、美貌の中国人の高有明という青年と踊った。久慈は千鶴子と組んだ。彼は快活な性質であったから外人たちより踊りが自由で上手かった。
矢代は踊っている久慈の姿を見ていると、パリへ行ってもこの人と友人になっていれば、定めし日日が愉快に過せるであろうと思うのだった。ところがそのとき急に踊り見物の一角が賑やかな騒ぎになった。いつも物云うこともない静かな三島と云う機械技師が酒の酔いが出たものと見え、いきなり隣りの外人の婦人の肩を親しそうに叩きながら靴を脱げと云い出した。日ごろの音無しい三島を知っているものらは転げるように笑い出すと、また誰彼かまわず肩を叩き廻って靴を脱がそうとしたが、やがてそれも余興の一つとなると踊りは一層甲板で賑った。
「じゃ、わしも一つ、踊ろうか。」
と、老人の沖氏は立ち上って、高と踊り終えたばかりの真紀子にまた申し込んだ。この船会社の重役は船客たちの中で一番年長者であり、自分で自ら、「私は不良老年で、」と人人に高言するほど濶達自由で豊かな知識を持った紳士であった。船中でのティパーティのときもよくこの老人は外人たちに巧みな英語で演説した。頭の鉢が大きく開き強い近眼の上に鼻がまた素晴らしく大きくて赤かったが、その奇怪な容貌のようにこのときの沖氏の踊りもひどく下手いというよりも初めから巧みに踊ろうとは考えてもいない踊りである。「あは、あは、」とただ笑いながら足踏みしているだけだ。真紀子も自然に笑い崩れてときどき立ち停り、あたりの踊りへ突きあたる。見ているものもその度にどっと笑う。
「いや、これはワルツでね。」と沖氏は云って、「どうです、皆さん。今夜が最後ですよ。いっそのことおけさでもやるか。無礼講じゃ。」
「よし、やろう。」
沖氏の元気に若者たちも火を点けられると、もう甲板の上の踊りなど皆には面白くなかった。外人や中国人をそのままそこへほうり出して踊りに任せ、一同サロンへどやどやと這入っていって日本人ばかりで酋長の娘から初め出した。それがさくら音頭から東京音頭となり、野崎小唄となり、だんだん進んでいくに随って、とうとうあなたと呼べばというのになった。若者たちはも早や胸を絞られ遠い日本の空の思いに足もひっくり返って来るのだった。中には非文化的なことをここまで来てもやるとはけしからぬと怒って自室へ引っ込むものも一二あったが、むらむらと舞い立った一団の妖気のような粘りっこい強さには爆かれた水のように力がなかった。
船客たちの唄が尽きたころになると、そのまま解散するのも互に惜しまれて次ぎにはそれぞれ隠し芸をすることになった。進行係は皆の意見で沖氏となった。長唄を謡うものや詩吟をやるもの、踊るものなどが現れた後、今度は真紀子に何かやれやれと皆がすすめた。真紀子は初めの間は躊躇していたが、沖氏に立って来られると、
「じゃ、やりますわ。」
と逃げるようにピアノの傍へよっていった。船客たちは長い航海中、誰も真紀子のピアノを聴いたものがなかったからこの意外な余興に拍手をあげて喜んだ。
「何をやるんです。」
傍へよって訊ねる沖氏に真紀子は小声で短く何ごとか囁いた。
「ははア。」と沖氏は云って満足そうに一同の方に向き、「え―皆さん、これからわれらの真紀子夫人はドナウの流れという曲を弾かれますから御清聴を願います。これはウィーンにいられる御主人のことを忍ばれた曲でありまして、いささか皆さまにとりましてはお聞き苦しいかと存ぜられますが。――」
ここまで沖氏が云うと床の緋の絨毯を靴で打つものや奇声を発するものがあったが、すぐピアノは鳴り出した。背中の少し開いた真紀子のソアレの割れ目から緩急に随い、人より白い皮膚が自由な波のように揺れ動くと、三島は「ほおう。」と剽軽《ひょうきん》な歎息をもらしたのでまたどっと皆は笑いを立てるのだった。余興のこととて曲は手軽に辷って終ったとき、拍手の中を沖氏がまた立ち上った。
「皆さん、今の御演奏はまことに御立派なものだと、感服いたしました。これは一重に明日マルセーユへ現れる御主人のことを、毎日毎日思いつづけられた淑徳の結果かと存ぜられます。次に一つ、千鶴子さんにお願いします。」
千鶴子は真紀子の弾奏中にすでに次ぎに廻って来るものと覚悟をしていたものと見えて、すぐ臆せず立ち上った。
「あたくしはピアノが下手でございますから、唄にさせて貰います。」
「何んです、何んです。」と云うものがあった。
「伴奏、伴奏。」と誰かが云うと、真紀子が再度ピアノの傍へ沖氏に引っ立てられたが、三島は突然真紀子の傍へよっていって、「靴、靴。」と云いながら裾の方へ跼《かが》み込んだ。沖氏は一寸不愉快そうな顔になると三島の肩を掴んで自分の席へ連れ戻った。
「ここはまだ船の中でございますが、明日は皆さま、パリへお立ちになる方が多うございますから。」
千鶴子がここまで云ったとき三島がまた、
「パリの屋根の下。」
と叫んだ。もう子供と同じようになっている皆の者は手を打って喜んだ。千鶴子は真紀子に一寸会釈をしてからパリの屋根の下を唄い出した。
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かんてぃるゆうぶぁんたん
さびぃえいゆままん
るぃでぃったんじゅうるたん
どるまん
だんのうとるろっじゅまん
じぇべいねすうばぁん
ぷうるてるべいるふぁれどら
るじゃん
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唄がすすむままに一同はもう上機嫌になって、間もなく眼の前に現れて来るパリの実物に接した思いで、それぞれ首を振り振り唄うのであった。この唄は一度終るともう一度もう一度と、皆は千鶴子をせきたててやめなかった。
今日はいよいよマルセーユへ著くというので船客たちは朝から誰も落ちつきがなかった。食卓のボーイや酒房や部屋つきのボーイにチップをやらねばならぬ。客たちはあちらこちらに塊って幾らやるべきかという相談をしていた。誰か一人の者が巨額のチップを与えれば他の者が不愉快になる。長らく共同の生活をしたのであるから、均衡を乱しては船中の愉快さも最後の一日で消えてしまう。このことは礼儀として一応船客たちの誰も考えねばならぬ最も重要なことであった。勿論、印度洋あたりの無聊《ぶりょう》なときに、チップの金額を一定にしょうと云い出すものがあって、すでに金額は定まっていたのだが、さて支払日となると規定のことも破れてしまう。別れてしまうのも後数時間のことである。あれほど親しかったものたちも、「別れてしまえば、」と思うと、誰もうとましくなるものであった。船中は楽しかったとはいえ団体生活であるから、思えば誰にも自由がなかった。不快なことがあっても忍耐をしていなければならぬ。殊に同じ一等の船客ばかりであってみれば、日ごろ日本にいるときの地位や名誉や財産などは、何の権威にもならなかった。階級差別の何もなくなってしまっているこのような所では、ただ人の性格と年齢だけが他人に働きかけるだけである。
船客たちが団体で港港に上陸したときの金銭の貸借も、今日は整理をするのだが、誰が誰に貸しがあり誰が誰に借りがあるかは、も早や混雑して分らなくなっている上に、僅の金を返せ返せと云って廻る面倒も若者たちはしたくなかった。それを知った沖氏は自分からその面倒な整理を申し出た。
「僕は日ごろ他人を使ってばかりいて、使われたことがないから、こんなときでも一つ使われてみましよう。」
こう云って沖氏は人人の間を皿を持って廻り、他人の複雑な貸借をいちいち整理して歩いた。船の中では老人は威張れないが、この沖氏は諧謔と滑稽さとでやすやす若者たちを統御して最後の務めもし終えたのである。
「さア、これで良ろしと。」
いつ船が著いてもかまわない。中にはまだ陸も見えぬのにもう早く帽子まで冠っているのもある。甲板に出てみたりサロンに引っこんだり、船中を隈なく歩いてみたり、不安そうな顔つきで話さえあまり誰もし合わない。すると、突然、矢代に、長いそれまでの船中の生活で日本語を知っている様子を一度も見せたことのないフランス人が、驚くような流暢な日本語で、
「どうです、いよいよですな。」と話かけた。船中の外人は一度び船へ這入れば誰も日本語を使わない、全く知らぬ様子《ふり》で人の話を聞いているのが例だから用心をするようとの訓戒も、初めて、なるほどと今になって矢代は気が附くのだった。
「円をフランに今しとく方が、都合が良いですか。」
「そうそう、少しばかりしときなさい。」
と、フランス人は答えた。しばらくして、
「そら、見えたぞ。」
と云うものがあった。矢代は甲板に立つと、お菓子の石のような灰白色の島が波に噛み砕かれているのが眼についた。
甲板に立つ船客たちはだんだん多くなって来た。誰も笑うものはない。海上に連った銀鼠色の低い岩が後へ後へと過ぎてゆく。瑠璃色の鋭い波の上には風が強い。
久慈と矢代はまだ見ぬヨーロッパの土の匂いを嗅ぐように、サロンデッキの欄干に身をよせかけ黙ってさっきから眺めていたが、突然、久慈は、
「何んだ、これや、クリスマス・ケーキみたいな所だな。」
と呟いた。一同どっと笑い出して、
「そうだそうだ。」
と云う。しかし、すぐまた黙ると、これは日本で習った礼儀作法や習慣は、何一つ通用しそうもないと、そろそろ身の処置にまごまごする不安が一同の顔に現れた。息の仕方もここでは頭でしなければならぬ。群れよる鮪の大群の中へ僅かな鮒がひらひらさ迷い出るように、押し潰されそうな幻覚を感じ、岩を噛む波の色までお伽噺の中の人魚を洗う波かと見える。
「向うに見えます島は、デュウマの小説に出て来る巌窟王の幽閉された岩屋です。」と一人の船員が説明した。
「マルセーユはどこですか。」と一人が訊ねた。
「もうすぐです。この島はマルセーユの外郭です。」
「セメントでも出そうなところですね。」と矢代は云うと、
「そうです。マルセーユはセメントの産地ですから。たしかにそう見えましょうな。」
と船員が答えた。大きな波が一うねりどっと来ればたちまち姿を没しそうな小さな島が、当時の偉人を幽閉するに恰好な島だとは、矢代も、それ一つでこの国の優雅さがすでに頭に這入って来るのだった。
船が島を廻ると長方形のマルセーユの内港が、波も静かに明るい日光の中に見えて来た。船は速力をゆるめ徐徐に鴎の群れている港の中に這入っていった。鍵形に曲った突堤と埠頭の両側から、吊り橋のように起重機が連り下っている。その向うの各国の汽船のぎっしり身をせばめて並んでいる中に今やこれから日本へ帰ろうとする香取丸が、慓悍《ひょうかん》な黒い小さな船尾だけ覗かせ煙を吐いて泊っていた。あの科学の塊りのように見えていた汽船が、今は無科学の生物のように見えて来る。
「香取がもう立ちますよ。日本へ帰るんですよ。」
と船員が、もうすっかり日本を忘れてしまっている皆の船客たちに歯痒ゆそうな声で報らせた。しかし、今著いたばかりの一同には、もう知りぬいて倦き倦きしている日本の船のことなど考えている暇はなかった。まったくの所、まだ見たこともないヨーロッパが足の下に実物となって横たわっているのである。早くこの怪物を一つ足でぎゅうっと踏んでみたい。しんと息を飲み込んだ鋭い無気味な静けさが船客たちの間に浸み渡った。物憂くなるほどの明るい光線を浴びて、人人はただ船足の停るのを今か今かと見守っているばかりである。
矢代は、いつの間にやらゴールへ来てしまった自分を感じた。船はマルセーユの埠頭へ胴を横たえようとしている。静かな静かなそのひと時だった。――
矢代は、今まで自分を動かして来た総ての力もここでぷつりと断ち切れ、全く新しい、まだ知らぬ力がこれから先の自分を動かして行くのだと思った。やがて、船から梯子が埠頭へ降ろされた。どやどやと梯子を登って来るヨーロッパの人間の声が聞える。
「では、皆さんどうも、長長お世話になりました。」
一人の船客が別れの挨拶をした。
「ではお身体お大切に。」
「さようなら。」
こういう会話の後で、急に、
「ああ、香取丸が出て行くよ。」
というものがあった。矢代は見ると、小さな香取が船尾を動かし、静かに体を曲げ、何の未練気もなくさっぱりとした態度でさっさとマルセーユの陸から離れていった。
「僕も帰りたいなア。」
と船客の一人が溜息をついた。矢代も甲板に立って香取の姿が煙を流し見るまに港の外へ消えて行くのを眺めていたが、間もなく始まる上陸である。これから上陸許可証を貰い荷物の検査もすまさねばならぬ。矢代は出て行った香取の行方を見送りつつ、「じゃ、さようなら。」と胸の中で云っているときだった。
真紀子が良人らしい中年の紳士を連れて来て矢代に云った。
「これ宅でございますの。」
「そうですが、いろいろ船中ではお世話になりました。」
「いや私の方こそ御迷惑をおかけしまして有り難うございました。」
肩幅のある早坂氏が微笑を含み、鄭重な挨拶の横からまた真紀子が嬉しそうに云った。
「もしウィーンの方へでもいらっしゃることがございましたら、どうぞ、是非いらして下さいましな。」
「ありがとうございます。そのうちに、一度あちらへも廻りたいと思いますから、そのときにはお願いします。」
どことなく一抹の冷たい表情で早坂氏は礼をすると、妻の荷物の方へ去っていった。後のサロンではパリへ行く船客たちが一団となって、今夜もう一度船へ帰って泊めて貰い、明朝早く揃ってパリへ行こうという相談が一致しかけていた。このような時でも沖氏はいつもの剽軽な調子で、
「そうそう、そうしなさい。今夜はゆっくりマルセーユで遊びましよう。久慈さん、私はあなたを愛しますというのは、フランス語じゃ、どういうんですか。これさえ覚えとけば、もう大丈夫だ。」
一同が声を揃えて笑うとすでに一団の行動はそれで定められたと同じであった。
「つれしゃるまん。というんです。」とある商務官が洒落て云った。
「つれしゃるまん。つれしゃるまん。」
と幾度も沖氏は呟いてみていてから、
「マルセーユつれしゃるまん覚えけり、と、これや、どうです。」
ときどき船中で試みた俳句の手腕を沖氏は早速使ってまた皆を笑わせた。
荷物も税関もすませてから、何となく遽しいごたごたとした気持ちのまま船客たちは自動車に分乗してマルセーユの街の中へ流れ込んだ。街は税関の門を一歩出ると、早くも敷石の上に積み上っている樽の色から芸術の匂いが立ちこめて襲って来た。車が辷って行くと、立ち並ぶ街路樹が日本の神社仏閣にある巨木と同様に鬱蒼として太かった。まるで街路が公園のようで、両側の石の建物を突き跳ねそうに路いっぱいに枝を拡げた大樹の下を、惜しげもなく車は駆けていく。どこの街か分らなかったが、これが馬車だったら一層良かっただろうと矢代は思った。街路樹の大きさと年を競うように周囲の建物もまた古かった。触ればぼろぼろ崩れそうな灰色の鎧戸に新しい黄色な日覆をつけた窓窓も、文化の古さに縫いつけた新しい鰓のように感じられた。
一行の自動車は坂を登ったり降りたりした。午後の四時ごろである。マルセーユの街は散歩の時間と見えて、どの通りも人がいっぱいに満ちていた。太陽の射している街と日蔭の街とが、屈曲するごとにぐるぐる廻って矢代の前に現れた。ある坂の四辻まで来かかったとき、「ここは去年、ユーゴスラビヤの皇帝がピストルで暗殺されたところです。丁度ここですよ。」
と永くこの地にいる日本人の案内人が自動車を停めさせて説明した。
「軍艦を降りてから儀杖兵づきで、ここまで自動車で来られたところが、丁度ここでしたが、路がクロッスしてるものだから自動車が一寸停ったんですな。そこへつかつかと一人の乞食のようなロシア人が来ましてね、いきなり窓ガラスを拳銃の柄でぽかッと叩き壊して、続けざまに乱射したものですから、同乗していたフランスの外務大臣も一緒にやられました。」
この案内人はこのため近来の大衝撃を受けたらしい自慢顔でそう云ったが、一行のものには何の響きもないらしい様子に失望して、馬鹿馬鹿しそうにまた自動車を走らせた。暫く行ったとき、
「ここは男の跛足の多いところだね。」
と久慈は窓にしがみ付くようにして矢代に云った。
「大戦があったということが一目で分るもんだな。」
「そう云えば、笑ってるものが一人もいないや。」
「笑ってるどころじゃないよ。これだけ人がうようよしているくせに、話してる者もいない。何をいったいしてるんだろ。」
巨大な街路樹の葉蔭で流れている人々の顔も青白く、疲れているように口をつぐんだまま、誰も彼も眼だけを異様に鋭く光らせているだけだった。
「これや、もうヨーロッパ人は、考えることは皆思想より無いのだね。豪いもんだ。」
と久慈は云った。分らぬ答案ばかり陸続と出て来るうちに車は旧港の桟橋にかかって来た。すると千鶴子たちを乗せた一団の車と一緒になった。二つの車を乗せた桟橋はぷつりとその部分だけ切り放されると、海の上をそのまま対岸の方へ辷っていった。
「ノートル・ダムですよ。向うに見えるのは。」
と案内の者が云った。
「おや、あそこに、僕らの船が見えるぞ。」
と沖氏が云った。陸へ自動車が上ってから、しばらく坂を登ったところに数百尺の高い断崖が立っていた。その上にノートル・ダムがある。一行はエレベーターに乗り換え、ケーブルに乗り換えた。見る間に街は下へ沈んで行くと、半島が現れ、丘が見え、島が水平線の上から浮んで来た。
山上に立つと明るい南仏の風景は一望のもとに見渡された。灰白色の陶土のように滑かな地の襞に、ところどころに塊り生えた樹の色は苔かと見える。海は藍碧を湛えてかすかに傾き微風にも動かぬ一抹の雲の軽やかさ。――
何と明るい空だろう、と矢代は思った。廻廊のような石灰岩の広い階段を廻り登って行くうちに寺院へ著いた。中は暗く鞭のような細長い蝋燭の立ち連んだ間を通り、花に埋った一室へ足を踏み入れた。
その途端、矢代はどきりと胸を打たれた。全身蒼白に痩せ衰えた裸体の男が口から血を吐き流したまま足もとに横たわっていた。
外の明るさから急に踏み這入った暗さに、矢代の眼は狼狽していたとは云うものの、いきなり度胆を抜くこの仕掛けには矢代も不快にならざるをえなかった。それもよく注意して見るとその死体はキリストの彫像である。皮膚の色から形の大きさ、筋に溜った血の垂れ流れているどろりとした色まで実物そのままの感覚で、人人を驚かさねば承知をしない、この国の文化にも矢張り一度はこんな野蛮なときもあったのかと矢代は思った。しかも、この野蛮さが事物をここまで克明に徹せしめなければ感覚を承服することが出来なかったという人間の気持ちである。このリアリズムの心理からこの文明が生れ育って来たのにちがいない。それなら瞞されたのはこっちなんだ。――矢代はひとりキリストの血の彫像の周囲を幾度も廻ってこう思った。そうしているうちにその瞑目しているキリストの姿から、なぜこんな痩せ衰えた姿となってキリストが殺されねばならなかったかという事情が、ははアと朧ろに分ったような気持ちがするのだった。
「ここじゃ、リアリズムがキリストを殺したのだなア、つまり。」と矢代は、一つヨーロッパの秘密の端っぽを覗いてやったぞという思いで建物から外へ出た。千鶴子と久慈は早くも外の観台に立って、風に吹かれながら明るい光線の降りそそぐ遠方の半島を眺めていた。すると、それもまた幾度も日本で見たセザンヌの絵の風景そのものの実物であった。あの絵の具という色で追求に追求を重ねた実物の半島――それ以来絵画を観念化せしめたその実物がそこにあった。
数十日の波と船と蛮地ばかりの熱帯とを通って来た矢代の足はこのときから少しずつ硬直し始めた。彼は太股を撫でながら日本人が文化が分るのどうのと云ったところで、それは全くわれわれ東洋とは違った文化だとそろそろ観念もし始めて来るのだった。
夕食のころになって矢代たちの一行は街へ降りレストランへ這入った。前には道路をへだて、夕日に輝いた海が淡紅色の水面をひたひたと道路の傍まで湛えていた。海へ下って来ているあたりの街には海草の匂いが立ち流れ、家の中の人人の顔まで照り返った夕日に染り、花明りによろめく蝶のような眩しさだった。店の客たちは海の方を向いたまま、牡蠣の貝にナイフをあて静かに舌をつけて楽しんだ。
「さアさア、フランスのパンが初めて食べられるぞ。」
と沖氏は揉み手をして笑った。この元気の良い老人もようやく疲れが出て来たらしく、椅子に背をぐったりよせかけて食事の支度の出来るまで動かなかった。
「いや、それより何より、先ずマルセーユの葡萄酒を飲もう。おい、葡萄酒。葡萄酒。」
「うい。」
軽くあっさりした女の返事があって、赤と白とが並べられた。今は一同、互に恙なくここまで来られた健康を祝すために無言のうちにコップを上げた。一瞬、かつて船中では見られなかった厳粛な表情が皆の面にさっと走った。
「ぼうとるさんて。」
と一人が云うと、皆それぞれに葡萄酒を飲んだ。沖氏は傍の給仕の女に、前に習った汝を愛するという即製のフランス語で、
「つれしゃるまん、つれしゃるまん。」
と云いつつコップを上げた。
「めるしい。」
女はにこりとして忙しそうにパンや皿や、フォークを卓の上に並べ始めた。
初めてフランス語の通じた喜ばしさに、沖氏は、
「どうだ皆さん、僕が一番槍だろう。」
と大見栄切ってわアわア一同を笑わせた。間もなく、オードオブルに混って茄だった小海老が笊に盛られて現れた。海に向った方のテーブルの上では、水から出されたばかりの牡蠣の貝や海胆《うに》の毬が積まれていった。レモンが溶け流れた薄紅色の海気のなかを匂って来る。あたりの薄明のうつろいのうちに港には灯が這入った。鴎のゆるく飛び交う水面を拡がる水脈のような甘美な愁いがいっぱいに流れわたった。
「あたしもここで降りてしまいたい。」
と千鶴子はミルクを紅茶に入れながら云った。矢代は千鶴子の声を聞くと、そうだ、千鶴子もここにいたのだと初めて気がついた。船の金具がきらきら水上から光って来る。夕栄の映った水明の上を帆船が爽かな白さで辷ってゆく。
「千鶴子さんは、わたしと一緒にロンドンまで行きましょう。若い人たちをここで降ろして、老人とよたよた行くのも、これも良ろしよ。」
マルセーユへ降りてからは、若者たちが千鶴子のことなど忘れてしまったのを早くも沖氏は見てとって云ったのだった。
しかし、一行のものの忘れたのは千鶴子だけではない、船中でのごたごたや人事のもつれなど今は吹き散ってしまい、大きな窓いっぱいに灯を拡げて来たこの異国の海港への望みに、もう足など地から放れて飛び流れている一行の有様だった。
食事がすんだころにはマルセーユの港は全く夜になっていた。一行は婦人の千鶴子を除いてこれから特異な街の情調を味いに行くのであった。これは船の中から一番つれづれの慰安となっていたものだけに、一同の期待は大きかった。
しかし、夜になって波止場の船へ一人千鶴子を帰すということは危険なことであり、殊にマルセーユの埠頭の恐ろしさは誰も前から聞き知った有名なことである。そこで案内人が先ず千鶴子を船へ送って行くことにして一行は外へ出た。
街の煌めく灯を映した海面は豊かに脹れ上って建物の裾を濡らしている。紅霧を流したような光りが大路小路にいろどり迷って満ちている。すると、丁度昼間案内されたユーゴスラビヤの皇帝が暗殺された坂の下まで来かかったとき、急に矢代の片足が硬直したまま動かなくなった。長く船旅をしたものに来る病気である。矢代は船中でこの病気の話を聞かされていたからいよいよ来たなと思ったが、足を動かそうにも痛さに痙攣《けいれん》がともなった。初めは矢代も足を揉み揉み歩いていたが、そのうちにもう一歩も歩くことが出来なくなった。そのまま辛抱していたのでは一行の快楽を妨げること夥しかった。そこで矢代は皆に理由を話して、一人先きに船まで帰ることにした。
「じゃ千鶴子さんも一緒で丁度いいでしょう。お大事に帰って下さい。」
と沖氏が云った。千鶴子も帰る道連れが出来たので案内人を煩わさず、すぐ矢代と自動車を拾って波止場へ命じた。
「お痛みになりまして?」
しばらく無言のままだった千鶴子は訊ねた。
「いや、じっとしてるとなんでもないですよ。そのくせ、少し動かすといけないんです。船の振動で神経がやられていますから、筋肉がきかなくなったんでしょう。」
明るい街から暗い港区へ這入ると埠頭はすぐだったが、車は門から中へは這入れなかったから、船まで矢代は歩かねばならなかった。
鉄の門をくぐったとき、千鶴子はそろそろ足を引き摺って来る矢代の腕を吊るようにして、
「あたしの肩へお掴まりなさいよ。大丈夫?」
人一人もいない暗い倉庫の間で千鶴子にこんな親切を受けようとは矢代も思いがけない喜びだった。
「ありがとう、ありがとう、大丈夫です。」
と云いながらも彼は強く匂う千鶴子に腕をとられた。まったく偶然にしてもこんなに傍近く千鶴子といることは一度も船中ではなかったから、早く船が見えなければ気の毒だと割石の凸凹した倉庫の間を、身を引く思いで矢代は跛足を引くのだった。船の灯が前方から明るく射して来ても、千鶴子は臆せず矢代を助けていった。
「僕だけが沈没したみたいで、これや残念だな。」
一行の無事な中で自分ひとり落伍した淋しさを云うつもりであったのに、しかし、このときの千鶴子には、あながち矢代の云った意味ばかりには響かなかった。たしかに今ごろは胸をときめかせるような歓楽の街に皆がいるのに、一人古い船の巣へ戻る佗しさに耐え難くて発した嘆きと思われたに違いない。
「でも、今夜はお休みになる方が良うござんしてよ。お顔の色もいけないわ。」
と千鶴子は慰めた。矢代はやはりそうかと思ったが、黙って千鶴子の滑かな黄鼬の外套に支えられ潮に汚れた船の梯子を昇っていった。
客のすっかり出きってしまった空虚の船の中は洞穴のようにがらんとしていた。たった一日だったがマルセーユの光りにあたって来た矢代には、明治時代の古い大時計の中へごそごそ這入る感じで、ここが昨日まで自分のいた船だったのかと物珍らしさが早や先き立つのが意外だった。矢代と千鶴子は自分の船室へそれぞれ這入った。矢代は寝台に横になって見馴れた天井を眺めていたが、人一人もいない淋しさにすぐまたサロンに出て来た。しかし、ここも灯があかあかと点いてはいるものの木魂がしそうに森閑としていた。矢代は足の痛さも忘れ、窓から見えるマルセーユの街の灯を眺めている間に、間もなく不思議に足の硬直が癒って来た。日本の空気の漂っているのは広い陸地に今はただこの船内だけだったから、もとの水槽へ流れ戻った魚のように急に神経が揉みほぐされたものであろう。いずれにしてもこんなに早く癒っては、船客の一人もいない船を狙って千鶴子を誘惑して来たのと同じ結果になって、矢代も今は手持無沙汰をさえ感じて来るのだった。しばらくすると、眠れそうにもないと見えて千鶴子もサロンへ上って来て矢代の傍へ来た。
「いかが?」
「ありがとう。ここへ戻ると不思議に足が癒って来たんですよ。これじゃ、ヨーロッパで病気になったら、日本船へ入院するに限ると思いますね。」
「でも、結構でしたわ。あたしが送っていただいたようなものですもの。」
「どうも、さきほどは御迷惑をかけました。」と矢代は千鶴子に受けた看護の礼をのべ、
「しかし、こんな所であなたに御厄介かけようとは思いませんでしたね。今度パリへいらしったら、僕が御案内役いっさい引き受けますから、いらっしゃるときはぜひ報らせて下さい。」
「どうぞ。」と千鶴子は美しい歯を見せて軽く笑った。
いつもの日本にいるときの矢代なら、婦人にこのような軽口はきけない性質であったが、今日一日ヨーロッパの風に吹き廻された矢代は興奮のまま浮言を云うように軽くなり、見馴れた日本の婦人も何となく婦人のようには見えなくなって来たのであった。
「あたし、なるだけ早くパリへ行きますわ。日本へは今年の秋の終りごろまでに帰ればいいんですの。」
「なるだけ早くいらっしゃいよ。もっとも、あまり早いとあなたに案内させるようなものだけれど。」
「でも、ロンドンへもいらっしゃるんじゃありません。」
「行きます。」
「そしたら、またお逢い出来ますわね。」
「ええ、そのときはどうぞ宜敷く。」
と矢代はこう云って、紅茶を命じるベルを押した。窓から風が流れて来て軽く二人の顔の前を抜けて通るのも、肉親といる窓べの気易い風のように柔かだった。二人はどちらも黙っていた。硬直はとれたものの疲れがそれだけ身体全体に加わったように、矢代はぐったりとして背を動かすにも骨が折れた。
「まア、静かですこと。」
はるばるとよくここまで来たものだと云うように千鶴子は吐息をふっと洩らし、印度洋の暑さにいつの間にか延びていた卓上の桃の芽を見て云った。
「明日はあたし、ジブラルタルよ。あなた、スペイン御覧になりたくありません。」
「あそこは一つ、ぜひ見たいもんですね。」
「じゃ、いらっしゃらない。」
「そうね。」と矢代は云って窓を見ながら考えた。
人の降りてしまった空虚《から》の船で、千鶴子とジブラルタルを廻る旅の楽しさを思わぬでもなかったが、しかしそれより今千鶴子と別れ彼女がパリへ来る日を待っている方が、それまでに変っているにちがいない千鶴子と出会う一刻に、はるかに楽しみも深かろうと思われるのだった。
「やはり、僕はパリに行きますよ。その方があなたの変って来られるところが見られますからね。楽しみですよ。」
「お人が悪いわ。」
千鶴子はそういうと、どういうものかふと笑みを泛べ甲板の方へ立ちかけようとしてまた坐ると、
「でも、それはあたしだってそうよ。あなたがたのお変りになってらっしゃるお顔、拝見したいわ。じゃ、またこの次ぎね。」
「男は変りませんよ。ただうろうろするだけだと思うが、女の方はすぐその土地のままになれますからね、僕らが変るよりももっと影響が大きいでしょう。」
「あなたがたうろうろなすってらっしゃるの、さぞ面白いことでしょうね。あたしの兄が云ってましたけど、二三ヵ月はいやでいやでたまらないんですって。」
「僕は今日でもう少しやられましたよ。僕なんか考えていたのと、やはりヨーロッパは少し違うな。これはこちらの方が日本より文化が高いからだというんじゃありませんよ。つまり頭の呼吸の仕方が違うんですね。僕なんかどちらかと云うと、来るまではヨーロッパ式の呼吸の仕方だったんですが、しかし、心はやはり、日本人の呼吸だったということが、少しばかり分りかけて来ましたね。」
千鶴子は黙って伏眼になった。矢代はいつの間にか日本にいるときより、婦人と話す自分の会話の内容まで、知らず識らずに質も違って来るのを感じた。これでもしこの話をヨーロッパ人にこのまま話しても通じるものではなく、そうかと云って、まだヨーロッパを見ない日本人に話しても、同様に話の内容は通じないであろうと残念だった。
「千鶴子さんは、日本人がどんなに見えましたか。今日は?」
千鶴子は云い難そうに一寸考える風であったが、唇にかすかに皮肉な影を泛べると、
「西洋人が綺麗に見えて困りましたわ。」と低く答えた。
「男が?」
「ええ。」
「ははははは。」と矢代は思わず笑った。
「僕もそうですよ。こちらの婦人が美しく見えて困りましたね。」
とこう云いかけたが、ふとそれは黙ったまま、一日動き廻って見知らぬ面と向き合った今日の怪事の表現も、今こんなに悲しむべき姿をこの洞穴の中でとるより法はないのだと矢代は思い淋しくなった。
日本人としては千鶴子は先ず誰が見ても一流の美しい婦人と云うべきであった。けれども、それが一度ヨーロッパへ現れると取り包む周囲の景色のために、うつりの悪い儚ない色として、あるか無きかのごとく憐れに淋しく見えたのを思うにつけ、自分の姿もそれより以上に蕭条と曇って憐れに見えたのにちがいあるまい。
「夫婦でヨーロッパへ来ると、主人が自分の細君が嫌いになり、細君が良人を嫌になるとよく云いますが、僕なんか結婚してなくって良かったと思いますね。」
千鶴子は笑いながらもだんだん頭を低く垂れ黙ってしまった。互に感じた胸中の真相に触れた手頼りなさに二人はますます重苦しくなり、矢代は今は千鶴子以外に船中に誰か人でもいて欲しいと思った。ああ、これが旅であったのか。この二人が日本人であったのか。こう思うと、突然矢代は千鶴子を抱きかかえ何事か慰め合わねばいられぬ、いらいらとした激しい感情の燃え上って来るのを感じた。
矢代はつと立ち上るとサロンの中央まで歩いて行った。しかし、何をしようとして立ち上って来たのか彼には分らなかった。水底へ足の届いた人間があらん限りの力で底を蹴って浮き上りたいように、矢代は張り詰めた青い顔のまま暫らくそこに立っていた。もう日本がいとおしくていとおしくて溜らない気持ちだった。
すると、彼の眼にマルセーユの街の灯が映った。日本からはるばるこの地へ来た自分の先輩たちは、皆ここで今の自分と同様な感情を抱かせられて来たのにちがいない。それは何とも云いかねる憤激であったが、しかし、間もなく、これもおのれの身のためだと思いあきらめ、身につけるべきものは出来る限り着つづけ、捨てるべき古着は惜しげなくこれを限りにふり捨てようと決心すると、漸く平静を取り戻して甲板へ出ていった。彼は欄干に身をよせかけながら怒りの消えていく静かな疲れで暗い埠頭の敷石を見降ろしていたとき、背広に着替えた船長がプープ甲板から一人ごそごそ降りて来た。
「おや、お早くお帰りですね。」と船長は矢代に云った。
「ええ、足が硬直して動かなくなったもんですから、残念しました。」
「それや、惜しい。僕はこれから一つ、見物に行くところですよ。いつも見てるところで別に面白くもないんだけど、お客さんに頼まれたもんですからね、じゃ。」
船長は会釈して甲板を降り埠頭の方へ消えていった。いつも来馴れたものはヨーロッパも早や何の刺戟にもならず、あのように悠然と出来るものかと矢代は思いながら、身についた船長の紳士姿を羨しく眺めて放さなかった。
「どなた。」
しばらくして、千鶴子は矢代の後ろへ来ると訊ねた。
「船長ですよ。これから見物に行くんだそうです。あの船長はなかなか自信があっていいですね。外国人は、こちらがちやほやするほど、嬉しそうにして見せて、肚では相手を軽蔑するというけれども、日本人がヨーロッパ、ヨーロッパと何んでも騒ぎ立てるのは、これや、貧乏臭い馬鹿面を見せる練習をしてるようなものかもしれないな。どうも、僕は今日はそう感じた。」
「それや、そうだとあたしも思いましたわ。今日街を歩いていたとき、あたしの前を西洋人の親子が一緒に歩いていたんですのよ。そしたら、お父さんの方が子供にね、お前も少しぴんと胸を張って歩け、こうしてっと云って、自分が反り返って歩いてみせるんですの。そしたら、十六七の子供の方も猫背をやめてぴんと反って歩くんですの。」
「ははア、じゃ、やっぱりヨーロッパの人間は、それだけはしょっちゅう考えているんですね。羞しがったり照れたりしちゃ、もうお終いのところなんだ。」
矢代は日本人のいろいろな美徳について考えた。洋服を着ても謙遜する風姿を見せない限りは出世の望みのなくなる教育法が、次第に洋服姿の猫背を多く造っていく日本の社会について。――
しかし、矢代はこのとき、どうして自分がこれほども日本のことを考えつづけるようになったのか、全くそれが不思議であった。何も今さら考えついたことではないにも拘らず、一つ一つ浮き上って来る考えが新たに息を吹き返して胸をゆり動かして来るのだった。マルセーユが見え出したときから、絶えず考えているのは、日本のことばかりと云っても良かった。まるでそれはヨーロッパが近づくに随って、反対に日本が頭の中へ全力を上げて攻めよせて来たかのようであったが、こんなことがこれからもずっと続いてやまないものなら。――
ああ、今のうちに、身の安全な今のうちに日本の婦人と結婚してしまいたいと矢代は呻くように思った。
矢代が黙りつづけている間千鶴子も同じような恰好で欄干に胸をつけたまま黙っていた。それが暫くつづくと何かひと言いえば、今にも自分の胸中を打ちあけてしまいそうな言葉が、するりと流れ出るかと思われる危険さを矢代はだんだん感じて来るのだった。
何も千鶴子を愛しているのではない。日本がいとおしくてならぬだけなのである。――
このような感情は、結婚から遠くかけ放れた不純なものだとは矢代にもよく分った。けれども、これから行くさきざきの異国で、女人という無数の敵を前にしては、結婚の相手とすべき日本の婦人は今はただ千鶴子一人より矢代にはなかった。全くこれは他人にとっては笑い事にちがいなかったが、血液の純潔を願う矢代にしては、異国の婦人に貞操を奪われる痛ましさに比べて、まだしも千鶴子を選ぶ自分の正当さを認めたかった。
「あのね、あたしの知り合いのお医者さんで、ここの波止場で夜遅く船へ一人で帰って来たら、倉庫の所から出て来た男が、ピストルを突きつけて、お金を出せって云ったことがあるんですって。きっとあのあたりでしょうね。」
と千鶴子は真下に延びている黒い倉庫の方を指差した。千鶴子の考えていたことは、そんなことであったのかと矢代はがっかりとしたが、しかし、今にも危い言葉の出ようかとじっと自分の胸を見詰めていた矢代にとっては、これは何よりの救いだった。
「じゃ、僕があなたにお世話されて来たあのへんですね。どうしましたその人?」
「お金を少しやって、大きな金は船にあるから船へ来いと云ったら、梯子もついて昇って来たとか云ってましたわ。ここじゃ、撃たれればそれまでですものね。」
矢代は笑いにまぎらせながらも、軽いこのような話に聞き入る自分をまだ結婚の資格はないものと考えた。
「しかし、ここにいると奇妙なことも起るでしょうが、たしかにまともに理解出来そうもないことばかり、ふいふいと考えるようになりますね。僕もさっきから、どうも奇怪なことばかり頭に浮んで来て困りましたよ。これでパリへ行ったらどんなに自分がなるのか、想像がつかなくなって来ましたね。」
「あたしもそうなの。」
千鶴子は矢代の顔を見ながら、片頬の靨に快心の微笑を泛べて頷いた。
「これじゃ僕は外国の生活や景色を見に来たのじゃなくって、結局のところ、自分を見に来たのと同じだと思いましたよ。それや、景色も見ようし、博物館も見るでしょうが、何より変っていく自分を見るのが面白くて来たようなものですよ。今日一日で僕はずいぶん変ってしまいましたね。皆今夜帰って来て、どんな顔をして来るか、これや、見ものですよ。元気のいいのはあの老人の沖さんだけだ。僕は足まで動かなくなってしまったし。ははははは。」
と矢代は笑うと千鶴子から遠ざかって甲板の上を歩いた。
いや、良かった。危いところを擦り抜けた。もしあのとき、うっかり口を辷らせてでもいたら――とそう思うと軽い戦慄を感じて来るのだった。
朝靄のかかった埠頭ではやがて船の荷積も終ろうとしていた。パリへ出発する一団のものは、眠そうな顔でそれぞれ船室からサロンへ集って来た。
「さア揃いましたか、それじゃ、行きましょう。」
と案内人が簡単に云った。
船客と友人になってしまった船員たちは、甲板や梯子の中段に鳥のように集りたかって別れの言葉を云ったが、どの人人も真心のこもった表情で欄干の傍からいつまでも姿を消そうとしなかった。海の人の心の美しさを今さらのように感じた船客たちも、悲しそうに幾度も幾度も振り返って、さようならさようならを繰り返しつつ関門の前に待っている自動車の傍までゆっくりと歩いた。
千鶴子と沖氏は船客と一緒に自動車の傍までついて来た。
「さようなら、御機嫌良う。」
「またパリでお逢いしましょう。」
三台の自動車がいっぱいになったとき、矢代は千鶴子を一寸見た。千鶴子は別れればまた逢う日の方が楽しみだという風に、にこにこしながら皆に挨拶をしていた。
自動車はそのまま無造作に駅へ向って走っていった。マルセーユの駅は美しい篠懸《すずかけ》の樹の並んだ小高い街の上にあった。車から降りたときは、一同の顔は朝靄の冷たさと出発の緊張とで青味を帯んで小さく見えた。さて、これからいよいよヨーロッパの国際列車に乗り込むところであるから、スタートに並ばせられた選手みたいに、それぞれ切符を渡されても誰も黙って眼を光らせたまま案内人の後からついていくだけだった。
ホームの上は煙に曇った高いガラスがドームのように円形に張っていて、褐色をした列車が生温い空気の籠ったその下に、幾列となく並んでいた。矢代が久慈と一つのコンパートメントに席をとると、若い者はどやどやとその一室に集った。
「もうこれでいいんでしょう。」
と初めて一人が言葉を云った。まだ何かしなければならぬことが、沢山残っているような気のしているときとて、
「ええ、もうこれで、ただ乗ってらっしゃれば、パリまで行きます。」
と案内人は笑って答えた。
「じゃ、昨夕のことをそろそろ話し合おうじゃないか。」
と一人が云うと、皆は漸く安心した気楽さに返って、見て来たマルセーユの夜街の面白さを話し始めた。しかし、それらの話は誰も面白かった。それだけどこか面白くなかったという表現をするのであった。
「あなたはどうだった。」
と久慈は矢代に笑って訊ねた。千鶴子と二人ぎりでいた船内のことをひやかしたのだとは一同すぐ感じたらしく、皆矢代の方を向いた途端に汽車はパリへ向って出発した。
「僕もなかなか面白かったな。」
と矢代は久慈の先手を打ったつもりであったが、駅を出た野の美しさに、もう人人は耳を傾けようともしなかった。昨日ノートル・ダムの上から見た半島が現れ、丘が見え、海が開けて来るに随って、だんだんマルセーユは遠ざかっていった。
杏の花の咲き乱れている野、若芽の萌え出した柔かな田園、牧場、川と入れ代り立ち変り過ぎ去る沿線の、どこにもここにも白い杏の花が咲き溢れて来て、やがてローヌ河が汽車と共にうねり流れ、円転自在に体を翻しつつもどこまでも汽車から放れようとしなかった。
矢代はしだいに旅の楽しさを感じて来た。たしかにフランスの田園は日本のそれとは全く違った柔かな、撫でたいような美しさだと感歎した。一木一草にさえも配慮が籠っているかと見える築庭のような野であった。
その野の中をローヌの流れが広くなり狭くなるにつれ、芝生の連りのような柔軟な牧場ばかりがつづいて来た。一本の雑草もないようなゆるやかなカーブの他は山一つも見えなかった。
「フランスの田園の美しさは、世界一だと威張っているが、なるほど、これじゃ威張られたって、仕様がないなア。」
と三島が云った。
「こんなに綺麗だと、見る気もしないや。これじゃ、パリはどんなに美しいのかね。」
と商務官が云う。
「さきから見てるんだけれど、鉄道の両側に広告が一つもないな。バタの広告がたった一つあるきりだ。村も日本の十分の一もないが、これで都会文化が発達したのだね。」
「フランスは自国民の食うだけのものは、自国内にあるんだから、植民地の蔵から軍備費だけは、充分出ようさ。」
こう云う医者に商務官はまた云った。
「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒いで来たのは、騒いだ理由はたしかにあったね。いったい自分の国を善くしたいと思うのは人情の常として、誰にでもあるものだが、騒ぎすぎると、次ぎには要らざる人情まで出て来るのがそれが恐いよ。」
「それやね、国というものを考え出すと、われわれ医者も生理的に苦労をするよ。しかし、まア、君のように、人情を出しちゃ、病人が死んでしまう。」
と医者が商務官を見て云った。
「しかし、医者だって仁術という人情があろうからなア。藪医者ならともかくも、非人情じゃ病人こそ災難だ。あなたがドイツへ行かれて勉強して来て、薬の分量をそのまま日本人に使うのですか、危いもんだねそれや。」
「いや、医者はね、死にたくて溜らぬ人間でも、生かさなくちゃならんのだよ。」
皆この医者の云い方にどっと笑った。
しかし、一度びこのような話が出ると、意見のあるものもはッと危い一線に辷って来た自分の頭に気がついて黙るのであった。
何かの職業に従事している教養のある者たちは、自身の教養を示す必要のある機会毎に忘れず言葉を出すものだが、一旦話が自分の職業の危い部分に触れて来ると誰も話中から立って行く。それとはまた別に面白いのは、自分に知性のあることをひそかに誇っていたものたちの顔だった。これらのものは、昨夜で自分の思っていた知性も実は借り物の他人の習慣をほんの少し貸して貰っていただけだと分り始めた顔で、見合す視線も嘲笑のためにひどく楽天的な危い狂いがあった。
話がぷつりと途絶えたころ、久慈は茶が飲みたくなりボーイを呼ぶために呼鈴を押そうとしたが、ボタンはどこにも見つからなかった。それだあれだと一同の騒いでいるとき、久慈は急に立ち上って、頭の上にぶら下っている鐙形《あぶみがた》の引手を引いてみた。
すると、間もなく今まで走っていた列車は急に進行を停めてしまった。何ぜ停車したのか分らぬままに一同は窓から外をうろうろしながら覗いていると、車掌が部屋へ這入って来た。久慈は車掌の云うことを聞いていたが、見る間に顔色が変って来た。彼は吃り吃り片手をあげ、
「いやいや、呼鈴がないのでこれを引いてみただけだ。どうも失敬失敬。」
とフランス語で平謝りに謝罪した。一同ようやく汽車を停めたのは久慈だと分ったらしく、今に一大事が持ち上るぞと云う風に愕然として車掌の顔を眺めて黙っていたが、ここではこんなことは日常のことと見え、久慈の弁明を聞いていた車掌も意外にあっさりとそのまま廊下へ出ていった。
「あなたも豪いもんだな、国際列車を停めたんだから、もうこれで日本へ帰ったって威張れたもんだよ。」
と医者が云った。皆の青くなっているうちに、また汽車は無造作に走り出した。
ローヌ河が細い流れとなり、牧場が森となってつづいて行って、だんだん夕暮が迫って来たそのとき、突然、
「あッ、これや、もうパリだ。」
と誰かが時間表と時計を見比べて驚いた。
「こんなパリがあるものか。田舎じゃないか。」
「いやたしかにそうだ。」
しぼしぼ村に雨が降って来る。皆の者は饒舌りすぎて、時間を見るのも忘れていたので時計をそれぞれ取り出すと、たしかに誰の時計も時間はパリ著のころあいだった。それじゃもう荷物をそろそろ降ろしておこうと云うので棚から一つずつ降ろし出し、まだ半分も降ろさぬ間に汽車が停車場に停ってしまった。
「ほんとにこれがパリかなア。」
と一人が汚い淋しい駅をきょろきょろ眺め廻して云った。
「リヨンと書いてあるにはあるな。」
とまだ半信半疑の態である。とにかく、一同はコンパートメントからプラットの方へ降りていくと、どの車からもどやどや外人が降りて来た。皆の疑いも無くなったというものの、実感の迫らぬ夢を見ているような表情がありあり一同の顔に流れていた。マルセーユを発つとき、案内人から一行の一先ず落ちつく宿へ電報を打って貰っておいたので、誰か迎いの者が見えるであろうと荷物の傍に皆は並んで立っていたが、さて誰が宿の者だか分らなかった。
間もなく汽車から降りた外人たちは、それぞれプラットから消えてしまい汽車のどの室も空虚になったが、しかし、一行だけは塊ったままいつまでもしょんぼりとして動かなかった。
「どうするんかね。こんなことしていて。」と久慈は云った。
「迎いに来るというから、待っているんだよ。」と医者が答えた。
「しかし、迎いに来るかどうか、返事が来てないんだから、分らないじゃないか。日本じゃないよ。ここはパリだよ。」
とまた他の一人が云った。
なるほどここは日本じゃないと、はッと眼が醒めたようにまた一同の顔色が変ったが、しかし、宿の在所がどこだかそれが誰にも分らなかった。そうかと云って、このままいつまでもプラットに突っ立っているわけにもいかなかった。そこで、赤帽に荷物だけ持たせて先ず待合室の方へ出ていった。しかし、待合室でもまた一同は誰がどこから来るのか分らぬままに、雲を掴むような気持でぼんやり待つのであった。気附かぬ間に夜になっているばかりでない。耳が聾者のようにびいんと鳴って聞えなくなっているうえに空腹が迫って来た。
「いったい、その宿屋は外国人の宿屋かね。日本人の宿屋かね。」と久慈が訊ねた。
「日本人のぼたんやという宿屋が満員だったから、外国人の宿屋にしたとか云っていたようだ。」と機械技師が云った。
「じゃ、明日まで待ったって来るものか、第一来たってお客さんが僕らかどうだか、分りゃしないじゃないか。」
と矢代は云った。それもそうだと云うので、それではもうこちらから自動車の運転手に話をして、一度満員の日本宿へ行ってみてから、それから外人の宿屋へ廻ろうという相談がようやく決ると、初めて自動車を呼びつけた。
一行は暗い汚い街街をごとごと自動車に揺られていった。パリだというのにどこまで行っても一行の前にはパリらしいものは現れて来なかった。そのうちに隅田川を小さくしたような河を渡ったとき、
「この河、何というの。」と久慈は運転手に訊ねてみた。
「セーヌ。」
と一言運転手は答えただけだった。
じゃ、これがパリの真中だと一同は二の句も出ない有様だった。
まだ日数も立っていないのに、パリへ著いたその夜のことを思うと、矢代はすでに遠いむかしの日のことのように思われた。夕暮の六時に駅へ著き、それからホテル・マス・ネへ著いたのは夜の十一時近かった。今なら僅か三十分で来られる所を自動車で廻いまいして四五時間もかかっていたのである。矢代は一人モンパルナスの今のホテルをとってからは、それぞれ各国へ散ってしまった船中の友だちからの便りもなく、ただパリに残った久慈と会うだけだった。著いたときは夜のためよく見えなく薄暗がりのままパリを予想に脱れた田舎だと思ったのも、夜があけて次の日になって見ると、ここは大都会と云うだけではなく、全く聞いたことも見たこともない古古とした数百年も前の仏閣のようなものだった。新しい野菜と水ばかりのような日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に、馴染むことが出来なかった。蛙は濡れた皮膚から体内の瓦斯を発散させて呼吸の調節を計るように、湿気の強い地帯に住んで来た日本人の矢代の皮膚も、パリの乾ききった空気にあうと、毛孔の塞がった思いで感覚が日に日に衰え風邪をひきつづけた。眼の醒めるばかりの彫刻や絵や建物を見て歩いても、人の騒ぐほどの美しさに見えず憂鬱に沈み込んだ。眼の前に出された美味な御馳走に咽喉が鳴っても、一口二口食べるともう吐き気をもよおして来てコーヒーと水ばかりを飲んだ。少し街を歩くと堪らなく水が見たくなってセーヌ河の岸の方へ自然に足が動いていくのだった。
「どうも俺の感覚はこりゃ蛙に似てるぞ。」
と矢代は思って苦笑した。歩く度びに靴の踵から頭へびいんと響く痛さにいつも泣き顔を漂わせ、椅子にかけると何より矢代は靴を脱いだ。
「東京の友人たち、今ごろは定めし笑っとるだろうな。」
とこう思うと、ヨーロッパ主義に邁進している誰も彼もの友人の顔が腹立たしくさえなって来た。
彼は久慈ともよく会ったが、初めは話すことが何もなく黙っていた。ときどき久慈が、
「いいね、パリは。」
とうっとりした顔で云うことがあったが、それにも矢代はそのままに頷きかねいらいらとした。
「東京とパリのこの深い断層が眼に見えぬのか。この断層を伝ってそのまま一度でも下へ降りて見ろ。向うの岸へいつ出られるか一度でも考えたか。」
とこう肚の中で矢代は云う。しかし、見渡したところ、足場の一つもないこの大断層にどうして人人が橋をかけるかと思うと、他人ごとではなく自分の問題となって響き返って来るのである。それもやむなくいつの間にかそこを飛び越して、先ずパリに自分がいるのを知り、鼻の頭の乾いた犬のような自分の状態を見るにつけ、先ず考えることより何より今は運動だと気がついて、矢代は終日あてどもなく街街を歩き廻るのだった。ここは全く矢代には乾燥した無人の高い山岳地帯を登るのと同じだった。それもふとこの山は人がみな造ったのだと思ったその瞬間、がらがらッと念いは頂上から真逆さまに下まで転がり落ちた。一日に一度はこうしてどこかへ落ちつづけているうちに、だんだん転がり落ちているのは自分だけじゃないと思い始めて来るのだった。見渡したところ、どの外人の旅行者たちも辷り転がっているものばかりか、多くのものは尻もちついたまま動けぬものばかりに見えて来た。
「ほう、これは面白いぞ。」
こんなに思い始めたころは、矢代も転がり辷っている自分の方がまだ高きに登っているようで次第に元気も増して来た。
矢代の部屋は四階にある光線のあまり射し込まない十畳ばかりの部屋で、電話もあり隣りにバスもあった。久慈はよくここへ来たが、彼はあまり元気を失わぬので、著いた夜からもうホテルにいなかった。彼を思うと元気を無くさぬ何か理由を見つけたのにちがいないと矢代は思った。
「君、あの著いた夜はどこへ行ったんだ。僕らは随分探したんだよ。」
とあるとき久慈に訊ねたとき、
「友人に電話をかけたらすぐやって来てね、モンパルナスへつれて来られたんだよ。何んでもこの近くだったな。語学教師を世話してくれと頼んでおいたもんだから、すぐ紹介してくれたのさ。」
と久慈は事もなげに答えて笑ったことがあった。若い女の語学教師のアンリエットが久慈の所へ出入するのを矢代の見るようになったのは、それから間もなくのことだった。すべて矢代とは違って暢気で快活な久慈のことであったから、アンリエットに好意を持たれている久慈をひと眼で矢代は見抜くことが出来た。
「君はいつも元気がいいが、君の元気のいいのは油断がならぬぞ。今にがたがたッと来るから用心したまえ。僕はもう屋台骨が潰れてしまったからな。立ち上るのはこれからだ。」
と矢代はある日腕を撫で撫で久慈にからかった。
「馬鹿いえ。がらがらッと来たのは僕の方が早いや。」
二人は思わず笑い出したというものの、矢代は、これでいきなり外人の婦人に飛びついて、久慈のように電柱の蛙といった恰好で下からパリを見上げているものと、何んの飛びつく足場もなく喘ぎ悩みつつふらふらしている自分とでは、見るもの聞くものの感じの差の開きはよほど多いにちがいないと思った。それにしても、またとない東洋と西洋とのこの大きな違いを知る機会に、ただひと飛びにそこを飛び越してうろつく暇もないとは、久慈も勿体ない罪を犯したものだと、今さら恨めしく憤おろしく矢代は感じるのだった。
冬はまだ全く去りかねたが、そのうち食事もようやく進むようになったある日、矢代と久慈とアンリエットと三人で、オートイユ競馬場にいったことがあった。この日は空もよく晴れていて、栗の林に囲まれた広い馬場の芝生の中で走る馬の姿は、それまで麻痺していた矢代の感覚を擦り落してくれた最初の生き物の美しさだった。日本でも見馴れた洋種の馬とここの馬の共通した栗毛の光った美しさは、捩子《ねじ》の利かない瓦斯にぼッと火の点くように、あたりの景色の美しさまで急に頭に手繰りよって来るのだった。競馬の終りの夕刻のころになって、急に春寒の野に霙が降って来たが、最後の障害物を飛び越した馬は騎手を振り落し、すんなりとした裸体で芽の噴きかかった栗の林の中を疾走してゆくその優美さ――矢代は霙に降り込められつつも立ち去ることが出来なかったその日の夕暮の感動を今も忘れない。
この日あたりから、矢代はパリの静かな動かぬ美しさが少しずつ頭に沁み入って来たといって良い。彼は一人セーヌ河の一銭蒸気に乗って河を下って見た。またバンセンヌの森へも行き、サンジェルマンの城にも出かけた。モンモランシイやフォンテンブロウの森などとパリの郊外遠くまで出かけてもいった。一度パリからこのように外へ出かけ、そうしてパリへ戻って来る度びに、この古い仏閣のような街の隅隅から今までかすかに光りをあげていたものが次第に光度を増して来るのだった。
こうして、矢代は今までぐらぐらと煮え返っていたような頭の中の動きが、街の形に応じて静まるのもまた感じた。さまざまな疑問は疑問として彼は解決を急ごうとはしなくなって来た。急いだところで分らぬものは分らぬのだった。彼の信じることの出来るものは、先ず今は自分の中の日本人よりないと思ったからである。しかし、もしこんなことを、うっかりと日本人に向って云えば、ここにいる日本人たちはどんなに怒るかとその嘲笑のさままでが眼に見えたが、眼に見えようとどうしようと、日本と外国の違いの甚だしさははっきりとこの眼で見たのだ。誰から何を云われようとも自分のことは失わぬぞと矢代は肚を決めてかかるのだった。
こんな日のある午後、矢代は久慈と歩いているとき、千鶴子がいよいよロンドンから来ると告げられたのである。久慈と矢代は今までとて船中の客の話をどちらからもよくしかけて懐しがったが、千鶴子の話だけはどういうものかあまり触れ合わないように心掛けるのだった。沖や医者や真紀子などから来る便りは明らさまに話す久慈だのに、千鶴子のことだけ話さぬ久慈の気持ちを矢代は想像すると、アンリエットとの間にもうこれで何事か進行しているものがあるのではなかろうかと思ったりした。
「千鶴子さんが来たら、宿をどこにしたものだろう。」
ロンドンから千鶴子がいよいよ来るというときに、こういう心配を久慈が矢代にもらすのも、勿論そこにアンリエットの影のあるのを矢代は感じた。彼はいつもに似合わず沈み込んでいる久慈を見て云ってみた。
「君が千鶴子さんの世話をするのが困るなら、僕がしたってかまわないよ。」
「そうか、迷惑じゃなかったら君に頼みたいね。僕は千鶴子さんと別にどうと云ったわけじゃないんだが、船の中であんなに親切にしておいて、今になってがらりと手を変えるようじゃ、あんまり失礼だからね。」
久慈は急に気軽くなった調子で矢代を見た。
「君がいいんなら、僕が世話するよ。」
「それで安心だ。僕はね、千鶴子さんが嫌いじゃないんだが、今は日本人は君だけで結構なんだ。この上日本人と交際しちゃ、また言葉が日本語に舞い戻ってしまうからな。」
矢代は久慈がパリへ著いて以来、性急に外人らしくなることに専念している様子を見るのは、今に始まったことではなかったが、何となくその心の持ち方が田舎者らしく感じられ、その度びに矢代は久慈に突っかかっていきたくなる自分だと思った。
「君、夕飯にアンリエットを呼んでも良いだろう。今夜は僕が御馳走するからね。」
久慈の云うままに二人はサン・ミシェルまで来ると、左のノートル・ダムを背にしてパンテオンの方へ上っていった。
サン・ミシェルの坂を左に曲った所にイタリア軒という料理屋がある。前から久慈はここの伊太利料理を好んでいたのでこの夜の晩餐もここにした。久慈が途中でアンリエットに電話を通じておいたから、矢代とアッペリティフを飲んでいる間にアンリエットは薄茶のスーツに狐の毛皮を巻いて這入って来た。久慈は彼女に椅子をすすめながら、
「今夜二人で踊りに行こうという約束があるんでね、君、御飯を食べたら、遠慮してくれ給え。」
と矢代に云ってメニューを見た。
「矢代君、君は何にする。またプウレオウリか。アンリエットさん、あなたはよろしく頼みますよ。」
羊の肉の薄焼に雛の肩肉と、フロマージュ付きのスパゲッティ、それにサラダを註文して三人は葡萄酒を飲んだ。ここの料理屋にはポール・フォールという詩人がよく来ているので、料理通には有名だったが、久慈も矢代もまだ一度もその詩人を見たことがなかった。
「君、僕も会話を勉強したいんだが、暇があったらアンリエットさんに、ときどき僕の方へも廻って貰ってくれないかね。」
矢代は久慈とアンリエットとを眺めながら冗談らしく云ってみた。
「いや、それや、駄目だ。この人は今は僕の秘書見たいだからね。いろんなことを験べて貰ってるので、急がしいんだよ。」
「しかし、月謝を払って僕が生徒になりたいと頼むの、何が悪いんだ。」
「それや君のは日本の理窟だよ。ここじゃ、日本の理窟は通らないんだからね、郷に入れば郷に従えってこと、君、知ってるだろう。」
「それや、日本の理窟じゃないか。」と矢代は云って笑った。
「ところが、これだけは万国共通の論理だよ。郷に入れば郷に従うのは当然さ。」
「そんなら、日本へ来ている外人はどうなんだ。日本人だけが郷に入って郷に従わねばならんのなら、何も万国共通の論理の権威はなくなるじゃないか。」
こういうことになれば、例え笑話といえども矢代と久慈との論争はいつも果しがなかった。
「今日は君、もう勘弁してくれ。今夜はパリの礼儀に従おうじゃないか。」
久慈はアンリエットのコップに葡萄酒をついで云った。アンリエットはさきからにこにこしながら、美しい前歯で前菜の赤い小蕪を噛んでいたが、饂飩のようなスパゲッティが湯気を立てて出て来ると巧にフォークへ巻きつけた。
「じゃ今夜は僕がおごろう。」
と矢代は云った。ここにいると、どういうものか理窟に落ちることばかりの生活がつづき、避け難くなる場合が多いので、理窟を吹きかけた方からその日の晩餐の支払いをするという約束が前から二人の間にあったので、久慈も口へ入れかけたスパゲッティをそのまま、しめたとばかりにはたと卓を打った。
「そうだ。忘れていた。今夜こそは君だよ、これで百フラン儲かった。」
久慈は早速アンリエットにフランス語で、今夜の御馳走は矢代が払うから幾ら食べても良いと説明した。
ありがとうとアンリエットは日本語で礼を云うと葡萄酒を矢代に上げて笑った。矢代はアンリエットから聞くのはいつもフランス語ばかりで日本語をほんの少しより耳にしなかったが、彼女の父がマッサアジュリーム船舶会社の横浜支店にいたときに三年も習ったということであったから、恐らく平易な日本語なら何事も分るのであろうと思った。
薄明るい夕暮が窓の外へ迫って来た。アンリエットの折るセロリの匂いが白い卓の上に漂っている中で、矢代は若鶏の脇腹にたまった露を今は何物にも換え難い味だと思った。
「フランソア一世だか八世だか、世の中にこれほど美味いものがあろうかと云って、どんなにお附きの者がとめても台所へ走って行って、こ奴にかぶりついたということだが、全くこれだけはやめられないね。」
と矢代は云いながらナイフを鶏の脇腹へぐっと刺した。
「しまった。僕もそ奴を食べるんだった。僕が払うんだと思って倹約したので損をしたぞ。」
久慈はコールドビーフのような羊のなよなよした薄焼を切りながら、しきりに矢代の鶏に秋波を投げた。互に見せびらかしつつ食べる晩餐の敵意は、食物の味を一層なごやかなものにするのであった。
「横浜のへいちんろまだあって。」
とアンリエットは訊ねた。
「ありますあります。」
「あそこのスフタ、忘れられないわ。ね、久慈。」
とアンリエットは久慈の方を向くと、彼にだけはフランス語で、自分は支那料理が好きだが、パリではどこのが一番美味かと訊ねた。
菓物棚からオレンジが出て来ると、また、アンリエットはパリの料理屋の質を知るためには、菓物棚に並んだ菓物を見るのが何よりだと矢代に教えた。オレンジからコーヒーに変ると久慈は口を拭き拭き延びをして、
「さアて、明日は千鶴子さんが来るんだが、弱ったなア。船の中と陸の上とは道徳が全く違うってことを、どうしたら女の人に説明出来るか、むつかしいぜ、これや。」
「そんなことは、君より向うの方が心得てるよ。こっちが変ってれば千鶴子さんだって変っているさ。」
「じゃ、その方は宜敷く君に任せるとしてだね。妙なことに、アンリエットさんのことを僕の手紙に書いたんだが、それにも拘らず、君に手紙をよこさずに僕にくれるというのは、第一これ君にはなはだ失礼じゃないか。」
「何も失礼なことあるもんか。それだけ君を使いたいんだから、僕を尊敬してるんだ。」
足をとられたように久慈はしばらく矢代を睨んでいたが、急ににやにやすると、
「いったい、君はそれほど威張れることを、無断でしたのか。」
「僕は婦人に対してだけは、むかしから春風駘蕩派《しゅんぷうたいとうは》だからな。何をしたか君なんか知るものか。」
いくらか葡萄酒の廻りもあってつい矢代も鼻息が荒くなった。
「さア、今夜は君らから放れてやらないぞ。どこまでもついて行ってやろう。ギャルソン。」
ボーイが来ると矢代は勘定を云いつけた。
支払いをすませて外へ出たときはもう全く夜になっていた。三人はゆるい坂をルクサンブールの方へ登っていった。たゆたう光の群れよる街角に洋傘のような日覆が赤と黄色の縞新しく、春の夜のそぞろな人の足をひいていた。
カフェー・スフレのテラスは満員であったが、ようやく三人は椅子を見つけて腰を降ろした。
「あたし、横浜へ行ってみたいわ。」
とアンリエットはショコラの出たときに矢代に云った。
並んだ黄色な籐椅子にいっぱいに詰っている外人たちを久慈は煙草を吹かしながら眺めていたが、突然矢代の方を向き返ると真面目な顔で質問した。
「君、君はパリへ来て一番何に困ったかね。」
矢代はしばらく黙って考えていてから答えた。
「そうだね、誰一人も日本の真似をしてくれぬということだよ。」
「ははははは。」
久慈は思わず噴き出した。しかし、急に笑いとまると彼もだんだん沈鬱になっていった。ショコラの軽い舌触りも不用意な久慈の質問で味なく終ろうとしかかったときである。久慈は歎息をもらすと、
「あーあ、どうして僕はパリへ生れて来なかったんだろう。」
と肘ついた掌の上へ頬をぐったりと落して呟いた。
瞬間、矢代は胸底から揺れ動いて来る怒りを感じて青くなった。けれどもそのまま身動きもせず、街路樹の立ち並んだ黒黒とした幹をじっと眺めていた。
「僕はヨーロッパが日本を見習うようにしたら、どんなに幸福になるかとそればかりこのごろ思うね。どうもそうだ。」
「ふん。」
久慈は鼻を鳴らしてボーイを呼んだ。勘定をすませてから三人はルクサンブールの外郭を黙って鉄柵に添って左の方へ廻っていった。意地に意地を張り合う二人の言葉だとどちらにも分っていながらも、しかし、この久慈という聡明で高級な日本人に、どうしてこのような馬鹿な心がひそんでいるのかこれが矢代にとって何より残念でたまらぬ日本だった。
「知識というものはたしかに人間を馬鹿にするところもあるんだね。へとへとにさせて阿呆以上だ。僕のパリへ来た土産はそれだけだ。こんな所へ来て嬉しがってる人間は、まア、嬉しがるような、お芽出度いところがあるんだな。」
と矢代は一度は突き衝らねば承知の出来ない胸突くものが、体内でごとごと鳴るのを感じて云った。
「それじゃ、早く帰ればいいじゃないか。」
久慈は嘲けるように笑った。
「帰ろうと帰るまいと、僕の勝手だよ。僕は人間というものが、どこまで馬鹿になるものか、も少し見てやろうと思ってるんだ。」
「何を君は怒ってるんだ。君は日本にもう一度、丁髷《ちょんまげ》と裃《かみしも》を著せたくてしょうがないんだよ。」
「そんなことは君の知ったことじゃないよ。君はパリの丁髷と裃とを著てれば、文句はないじゃないか。」
「日本の丁髷よりや、パリの丁髷の方がまだいいや。今ごろ二本さして歩けるかというのだ。」
「二本さして悪けれや裸体になれ、日本人がまる見えだぞ。」
「ははははは。」
久慈は放れていたアンリエットの腕を小脇にかかえてヒステリックに笑うと、矢代に、
「君、もうここで別れよう。面白くなくなった。僕は今夜は一つ楽しみたいんだからね。」
「こうなって楽しめる奴は、楽しめよ。」
「じゃ、失敬、君のような阿呆にかかっちゃ、日本人も出世の見込みがなくなるだけだよ。」
「そんなに出世をしたいのか。」
と矢代は云うと、放れて行こうとする久慈の方を見詰めて立っていた。すると、突然、アンリエツトが矢代の傍へよって来た。
久慈は矢代の傍へ行こうとするアンリエットの腕を引きとめて、
「行こう行こう。」と引っぱった。
しかし、アンリエットは矢代に近づいて、
「あなたもいらっしゃいよ。」
と云いつつ矢代の腕をかかえると、右手に久慈の腕もかかえ、ルクサンブールの角を右に曲った。
「ドームへ行きましよう。まだ踊りには早いわ。」
「どうして君と僕とは、こんなに喧嘩ばかりするのかね。」
と久慈は苦笑をもらして矢代に云った。
「そんなことはパリに聞け。俺に感心した奴は、もう死んでる奴だといってるじゃないか。見ればいい。ここを。」
片側の鋪道に青い瓦斯灯が立っていて、人一人も通らぬその横には蘚の生えたような石の建物がみな窓を閉め道に添って曲っている。矢代はマロニエの太い幹と高い鉄柵との間を歩きながら、森閑とした夜のこの通りの美しさに今はもう云い争う元気もなくなった。
「矢代さんはどこにいらっしゃるの。」
まだ一度も婦人と腕を組んで歩いたことのない矢代は、アンリエットから力を込めて腕を組まれても片身が吊り上っているように感じられ、ともすれば足が乱れようとしかかった。
「ラスパイユ、三〇三です。」
「三〇三。」
同じ番地に一つより家のないパリでは、番地を云えばすぐ建物が浮んで来るらしく、アンリエットも、「ああ、あそこ。」と頷いて、
「じゃ、明日行ってよ。夕方の六時に行くわ。」と慰める風に云った。
「どうぞ。」
と矢代は云ったものの久慈の顔色も少しは考えねばならなかった。
「君、いいのかい?」
「まア、いいや、僕はここでならどんな目に逢おうと満足だ。ここのこの美しさを見ろウ。」
渋い鉱石の中に生えているかと見える幹と幹との間に瓦斯灯の光りが淡く流れ、こつこつ三人の靴音が響き返って聞えて来る。矢代はふとショパンのプレリュウドはここそのままの光景だと思った。しかも、その中を、腕を組まれて歩いている自分であった。
「日本にこれだけ美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ。僕らはここを見て日本の二百年を生きたんだよ。たしかにそうだよ。今さら何も、云うことないじゃないか。」
涙を浮べて云うような久慈の切なげな言葉を聞いては矢代もも早や意見は出なかった。アンリエットの薔薇の匂いが夜の匂いのようにゆらめくのを感じながら、これが二百年後の日本にも匂う匂いであろうかと、心は黄泉《よみ》に漂うごとくうつらとするのだった。
矢代と久慈がブールジエ飛行場まで来たときは、ロンドンから千鶴子の来る時間に間もなかった。晴れ渡った芝生の広場に建っているホールの待合室で、パリを中心に光線のように放射している無数の航空路の地図を眺め二人は立っていた。ときどき夕暮から夜へかけて、突然、日本へ帰りたい郷愁に襲われるこのごろの矢代は、一途にここからシンガポールまで飛びたいと思った。
「ロンドンへもそのうち、一度行こうじゃないか。ね、君。」
と久慈は久慈で何かの夢想にかられているらしい。
「ロンドンも良いが、それよりそろそろ僕は日本へ帰りたくなったね。」
「君も困り出したのか。外国へ来て、初め困らぬ奴は、必ずそ奴は悪者だというから、も少し君も辛抱するさ。」
「そんなら君は悪者の傾向があるぞ。」
「いや、僕だって困っているが、ただ僕のは困らぬ方法を講じているだけだよ。もうこうなれば楽しむより法はないからね。」
どんなに意識が確かだと思っていても、どこかに矢張り病的なところの生じてしまっているのは否めないこのごろの二人だったが、どこが病的になっているのかそれぞれ二人には分らなかった。ただ一方が下へ下れば、他の方がそれが下っただけ上へ上げねば心の均衡のとれぬもどかしさにいらいらとするのだった。しかもそんな状態がいつも二人につづくのである。今もまたそんなにふとなりかかったとき、西の空からもうプロペラの鳴る音が聞えて来た。久慈は窓から空を眺めてみた。
「あれだよ。空から下って来るのも良いものだな。天降りというやつだ。」
銀灰色の一台の単葉がエア・フランスのマークを尾につけつつ見る間に大きく空中に現れた。
「イギリスの飛行機に乗って来ないところを見ると、よほどパリへ来たかったのだね。降りるぞ。」
矢代は入口の方へ廻って斜めの構えで旋廻して来る機体を眺め、もう真上からこちらを見ているにちがいない千鶴子を想像するのだった。やがて、飛行機が草の上を辷りつつホールの正面へ来て停ると、胴の中から昆虫のようにぞろぞろ人人が降りて来た。千鶴子はまだ廻りやまぬプロペラの風に吹かれながら六七番目に現れた。
「いるいる。」
と久慈は云って喜んだ。ぴたりと身についた黒い毛の外套も船中の千鶴子とは違って立派であった。歩調も異境に馴れたと見え、誇りを失わぬ自信をもって歩いて来る。彼女はまだ二人のいるのには気附かぬようであったが、何んと女は早く変るものだろうと矢代は思った。
「変ったようだね。千鶴子さん。」
「うむ。」
千鶴子一人が外人の中に混っているために、出て来た一団の空気にある光彩を与えているようなこの光景を見ていると、矢代は何んとなく見ぬ間に美しく育った名馬を見ているような明るい興奮を感じた。
千鶴子は二人を見ると、にっこりと笑い懐しそうに近よって来た。久慈はすぐ千鶴子に握手をして、
「揺れなかったですか。」と訊ねた。
「いいえ、でもまだ耳が何んか少しへんなの。」
久慈に握手した手を千鶴子は矢代にも出そうとしかけたが、ふと手をひっこめ、
「よく来て下さいましたのね。矢代さんにもお報せしようと思ったんですけど、よしましたの。」
何んの意味であろうか、軽く千鶴子の笑ううちにもう後ろで荷物の検査が始った。
とにかく、これで先ず良かった、と矢代は思い、検査台で荷物を開けている千鶴子の後姿を見ながらほッと安堵の胸を撫でおろした。マルセーユへ著いたときには、あれほど儚なく色褪せて見えた千鶴子であったのに今はこんなに美しく見えるとは、こちらもこれで、日日夜夜異国の婦人を見馴れたからであるからか。粗い肌の造りの大きいヨーロッパの婦人に比べて、千鶴子は一見底深い光沢を湛えた瑪瑙のようにきりりと緊って見えるのであった。
しかし、それにしても何んという奇妙なことだろう。マルセーユであんなに憐れに物悲しく千鶴子の見えた最中に、今にも千鶴子と結婚しようと覚悟を決めたこともあったのに、それが一度び水を換えられた魚のように美しさを取り戻した千鶴子に接すると、も早やマルセーユの切ない心は矢代から消えて来るのだった。
これで良い。これで千鶴子を一人ヨーロッパへ抛り放しても、もう自分の心配はなくなったとそんなことまで矢代は思った。千鶴子と久慈と矢代は、飛行館のバスには乗らず別にタクシを呼んでパリまで走らせた。
「ホテルは取ってありますよ。あまり僕らと離れたところは不便かと思って、近くにしました。」
と久慈は千鶴子に云った。千鶴子の思いがけない美しさに、久慈も前夜のことなど忘れたのであろうと矢代は思ったが、しかし、それとて船中で千鶴子に示した親切さを思うと、自然と矢代も身を引くあきらめを感じて落ちついて来るのであった。自動車の中でも千鶴子と久慈とはしきりに話をしたが、矢代は絶えず日本風の淋しい顔のまま黙っていた。パリがだんだん近よって来ると、千鶴子は窓から外を覗きながら、
「もうここパリなの。何んて優雅なところでしょう。あたし、これじゃもうロンドンへ帰れないわ。」
浮き浮きして云う千鶴子を久慈は抱きかかえるようにして、
「こちらにいなさいよ。女の人はパリじゃなくちゃ駄目ですよ。フロウレンスへ行くって、いつ行くんです。行くなら僕も一緒に行こうかな。」
「半月ほどしたら行きたいと思うんだけど、でも、あなたは駄目じゃないの。アンリエットさんとかいらっしやるって、お手紙に書いてあったじゃありませんか、」
千鶴子のくすぐるように云う微笑を久慈は臆せずにやにやして、
「手紙に書くほどだから、分ってるでしょう。ね、君?」
と突然鋭く冠せかかって矢代を見た。
「うむ。」
と矢代はもううるさそうに答え、自分が千鶴子に久慈のような手廻しの巧みなことが出来ないなら、せめて外人から千鶴子を護るだけでも久慈の思案に従いたいと思うのだった。
「アンリエットはあれは矢代君を好きなんですよ。昨夕も僕はひどく弱らされてね。君、知らないだろう。何んにも。」
と久慈は笑いながらまた矢代の方を覗いて訊ねた。
「そう。」
千鶴子もちらりと微笑をもらして矢代を見たが、そのまま黙って自動車に揺られていった。
矢代は、アンリエットが昨夜自分に好意をよせた表現を特に一度もしたとは思わなかったが、強いて千鶴子に弁解する要もまたこのときの彼にはなかった。
「千鶴子さんがパリへ来て下すったので、僕もほっとしましたよ。もう毎日毎日久慈君と僕は喧嘩ばかりしてるんです。」
「まア、どうして?」と千鶴子は意外な様子で笑顔を消して訊ねた。
「それを云うと、忽ちここでも喧嘩になるから云いませんがね。ここにいると、どういうものだか、一度云い出したら後へは退けなくなるんですよ。どうも妙なところだ。僕は云い合いなんか日本じゃしたことはないんだが。」
「そうだ、たしかにそうだ。」
と久慈も云った。
「じゃ、困ったところへあたし来たのね。どんなことで喧嘩なさるのかしら。これからもそんなじゃ、あたし困るわ。」
「それが一口じゃ云えないんですよ。なかなか、こ奴――つまりね。」
と矢代は少し早口で云った。
「ここじゃ僕らの頭は、ヨーロッパというものと日本というものと、二本の材料で編んだ縄みたいになっていて、そのどちらかの一端へ頭を乗せなければ、前方へ進んでは行けないんですね。両方へ同時に乗せて進むと一歩も進めないどころか、結局、何物も得られなくなるのですよ。」
「それや、そうね、あたしも何んだかそんな気がしますわ。」
と千鶴子は幾らか思いあたる風に頷くのだった。
「しかし、それは、実は日本にいる僕らのような青年なら、誰だって今の僕らと同じなんだろうけれども、日本にいると、黙っていても周囲の習慣や人情が、自然に毎日向うで解決していてくれるから、特にそんな不用な二本の縄など考えなくともまアすむんだなア。へんなものだ。」
「いや、それや君、考えなくてすむものか、それが近代人の認識じゃないか。」
と久慈はまた横から遮った。
「それは一寸待ってくれ。それはまア君の云う通りとしてもさ、しかし、日本でなら人間の生活の一番重要な根柢の民族の問題を考えなくたってすませるよ。何ぜかと云うとだね、僕らはその上に乗ってるばかりじゃなく、自分の中には民族以外に何もないんだからな。自分の中にあるものが民族ばかりなら、これに関する人間の認識は成り立つ筈がないじゃないか。認識そのものがつまり民族そのものみたいなものだからだ。」
「そんな馬鹿なことがあるものか、認識と民族とはまた別だよ。」
と久慈はもう千鶴子を迎えに自分らの来たことなど忘れてしまったようだった。
「しかし、君の誇っているヨーロッパ的な考えだって、それは日本人の考えるヨーロッパ的なものだよ。君がパリを熱愛することだってまア久慈という日本人が愛しているのだ。誰もまだ人間で、ヨーロッパ人になってみたり日本人になってみたり、同時にしたものなんか世界に誰一人もいやしないよ。みなそれぞれ自分の中の民族が見てるだけさ。」
「しかし、そんな事を云い出したら、万国通念の論理という奴がなくなるじゃないか。」
「なくなるんじゃない。造ろうというんだよ。君のは有ると思わせられてるものを守ろうとしているだけだ。」
「それや、詭弁だ。」と久慈は奮然として云った。少し乱暴なことを云い過ぎたと矢代は後悔したが、もう致し方もなくにやにやして答えるのだった。
「何が詭弁だ。万国共通の論理という風な、立派なものがあるなら、僕だって自分をひとつ、そ奴で縛ってみたいよ。しかし君、僕だって君だって、それとは別にこっそり物いいたい個人の心も持っているよ。それは自由じゃないか。」
殊さら千鶴子が傍で聞いているからの議論ではもうなくなり、二人の青年の捻じ合うような頭の激しいもつれのまま、いつの間にか三人を乗せた自動車はパリの市中へ突き進んでいた。それでも久慈の興奮は静まらなかった。彼は矢代の膝を叩きながら、
「君の云うことはいつでも科学というものを無視している云い方だよ。君のように科学主義を無視すれば、どんな暴論だって平気に云えるよ。もしパリに科学を重んじる精神がなかったら、これほどパリは立派になっていなかったし、これほど自由の観念も発達していなかったよ。」
議論の末に科学という言葉の出るほど面白味の欠けることはないと矢代は思い、久慈もいよいよ最後の飛道具を持ち出して来たなと思うと、自然に微笑が唇から洩れるのであった。
「科学か。科学というのは、誰も何も分らんということだよ。これが分れば、戦争など起るものか。」
「そんなら僕らは何に信頼出来るというのだ。僕たちの信頼出来る唯一の科学まで否定して、君はそれで人間をどうしょうと云うのだ。」
傍に千鶴子がいるので今日の争いは手控えようと矢代は思っていたのだが、しかし、久慈は矢代に食いつかんばかりに詰めよった。矢代はそれを引き脱した。
「君はヨーロッパまで出かけて来て、そんな簡単なことより云えないのかね。科学などということは、日本にいたって考えつけることじゃないか。」
久慈はさッと顔色が変ると顔の筋肉まで均衡がなくなった。
「君はそれほど知識を失ってしまって得意になれるというのは、それやもう、病気だ。病気でなければ、そんな馬鹿な、誰でも判断出来る認識にまで反対する筈がないじゃないか。」
「僕は君の云うことを、間違っていると云うんじゃないよ。そんな、誰にでも分っていることなど、何も君からまで聞きたくないと云うだけだよ。分りきったことを、間違いなく云えたって人間この上どうともなるものか。」
「そんなら、君みたいに間違いを云えと云うのか。」
「僕の云うことは、君のような、科学をまじないの道具に使うものには、間違いに見えるだけだと云うのだよ。僕は君より、もっと科学主義者だと思えばこそ、君のように安っぽく科学科学といいたくないだけだ。君は科学というものは、近代の神様だということを知らんのだよ。それが分れば人間は死んでしまう。」
「ふん、そんな、科学主義あるかね。」
外っ方を向くと、そのまま何も云わなくなった久慈の顎から耳へかけて筋肉が絶えずびくびくと動いていた。
「随分お変りになったのね。毎日パリでそんなことばかり云い合いしてらしたの。」
と千鶴子はおかしそうににこにこして矢代に訊ねた。
「まア、そうです。ここじゃ、こんな喧嘩は楽しみみたいなものですから、気にしないで下さい。いつでもです。」
「じゃ、これからあたし、毎日そんなことばかり伺わなくちゃならないのかしら。いやだわね。」
と千鶴子は眉をひそめ窓の外の市中を眺めた。
「あなたがいらっしゃれば、云わないような工夫をしますよ。」
「いや云うとも。」
と久慈はまだ腹立たしさの消えぬ口吻で何事か云いたげだった。
千鶴子には日のよくあたる部屋をと思って、矢代はルクサンブールの公園の端にあるホテルを選んでおいたが、それが千鶴子にはひどく気に入った。
千鶴子の部屋は壁一面に薔薇の模様のある六階の一室だった。窓を開けると、公園から続いて来ているマロニエの並木が、若葉の海のように眼下いっぱいに拡って見えた。その向うにパンテオンの塔と気象台の塔とが霞んでいる。
「この木の並木は藤村が毎日楽しんで来たという有名なあの並木ですよ。あれからもう二十年もたっていますから、そのときから見れば、随分この木は大きくなっている筈ですよ。」
と矢代は説明して、
「このすぐ横にリラというカフェーがありますよ。ここへも藤村が毎日行ったということですから、ひょっとすると、このホテルは藤村のいたホテルかもしれませんよ。」
「じゃ、リラへ行ってみたいわ。」
と千鶴子は嬉しそうに窓から右の方を覗いてみて云った。荷物の整理と云っても何もないので、三人はすぐホテルを出ると夕食までルクサンブールを散歩しようということになった。
「でも、あたし、さきにリラへ行きたいわ。」
「もうリラなんか昔語りでつまらんですよ。あそこは老人ばかりで、集ってるものが皆ぶつぶつ云ってるだけだ。」
久慈はそう云うとひとりマロニエの並木の下へさっさと這入っていった。枝を刈り込んだ並木の姿は下から仰ぐと、若葉を連ねた長い廻廊のように見えた。その中央に、跳り上る逞しい八頭の馬を御した女神の彫像が噴水の中に立っていて、なだらかな美しい肩の上に夥しい鳩の糞が垂れていた。
「君、もう帰らないといけないじゃないか。アンリエットが六時に行くと云ったぞ。」
と久慈は矢代に云って時計を出した。
「あ、そうだ。しかし、あれは僕をからかったんだよ、来るものか。」
矢代は忘れていたアンリエットとの時間を思い出したが、もう暫くは千鶴子と一緒にいたいと思った。
「いや、それや駄目だ。フランス人は時間を間違うことは絶対にないよ。もしそのときこちらが一分でも間違ったら、もう交渉はぴたりと停ったことになるんだからね。日本とそこは心理的に違うんだよ。」
この日に限って強いて、アンリエットを押しつけるようにしたがる久慈だったが、それも自分をからかうには手ごろな面白さなのだろうと矢代は思った。
「しかし、パリの女と二人きりになるのは不便だね。何も云うことないじゃないか。君は初め何んと云ったんだ?」
「日本のことでも話せばいいさ。君の得意なところを一席やれよ。」
矢代は夕食の時間と場所とを打ち合せて二人と別れ自分のホテルへ戻っていった。
アンリエットが矢代のところへ来たのは約束の六時であった。彼女は部屋へ這入って来るとすぐ握手をして、
「今日はブールジェへいらしったの。」とフランス語で訊ねた。
「行きました。」
と矢代が日本語で答えると、いや今日からは日本語じゃいけない、この時間は勉強ですものとアンリエットは云って、矢代のフランス語の答えを待った。冗談のつもりで語学教師として彼女を廻して貰いたいとうっかり久慈に頼んだのに、それに早くも手元へ辷り込んで来たアンリエットであった。
「ブールジェへ行きましたよ。千鶴子さんは久慈とルクサンブールを歩いています。」
と矢代は幾らかからかい気味になり、ぼつぼつした下手いフランス語で答えた。
「そう。あなたはわたしを待って下すったのね。有り難う。」
アンリエットは見たところ目立った美人とは云えなかったが、ふとかすめ去る瞬間の笑顔に忘れ難ない美しさが揃った歯を中心にして現れた。
「久慈君はあなたに逢えば、日本のことを話せと云うんですが、日本のことをあなたはそんなに知りたいですか。」
「ええ、それや知りたいわ。あたし、日本の男の方それや好きなの。あたし、住むならパリか東京よ。」
「じゃ、あなたはパリ人の中でも日本人らしい人なんですね。」
「それはどうかしら、自分のことは分らないから。」
このような会話を矢代は詰り詰り云いつつ婦人を機械と見ねばならぬ冷たさから、一種の明るいヨーロッパ式な気軽さも感じて話が楽になって来た。
「僕はどういうものか、パリへ来てから日本のことが気にかかるんですよ。あなたは日本のこと書いてある新聞を見たら、これから皆買って来てくれませんか。僕は三倍の値で買いますから。」
「駄目よ、日本語で云っちゃ。もう一度。」
とアンリエットは笑いながら矢代の口を手で制した。
矢代は会話が面倒になって来ると、純粋な発音を習うためにアンリエットに本の音読を頼んでみた。すると、一つの本を二人で見なければならぬ必要から、アンリエットは椅子を動かし頬も触れんばかりに近づけた。矢代は何んの計画もなく音読を頼んだのに、それがこんなにま近くよりかかられると、これは失敗したと後悔した。アンリエットにしては、語学を習う日本人なら、何れこの姿勢が面白くて習うのだと思い込んでいるらしい様子がまた矢代に落ちつきを与えなかった。
矢代はサシャ・ギトリの戯曲の会話をアンリエットに随って、自分も読みすすんだ。やや鼻音を帯びたうるんだ肉声で流れるように読むアンリエットは、渦巻く髪をときどき後ろへ投げ上げた。どちらも片手で受けている頁の上へ曲げよせている窮屈な肩がその度びに放れたが、またいつの間にか両方から傾きよった。矢代は外国へ来た日本人の多くの者が、みなこのような勉強法をして来たのだとふと思った。沢山な金銭を費っての勉強であってみれば、楽しみながらの勉強も自然なことと思われたが、しかしたとえ毎日これから今のような険悪な姿勢がつづくのを思うと、ひとつ日本の礼儀の伝統だけは持ち堪えていたいものだと身を崩さず緊きしめてかかるのであった。この音読の練習は切迫した肩の支持のために、時間も意外に早くすぎていった。アンリエットは本をばたりと閉じると、
「今日はこれだけにしときましょう。」
と云って椅子から立ち上った。矢代はアンリエットをあくまで教師として扱いたかったから、
「ありがとう。それから研究費は一時間幾らです。」とすぐ訊ねた。
「久慈さんのは二十|法《フラン》ですが、あなたのは十法にしときますわ。」
向うから出かけて来て一時間十法なら日本金にして二円五十銭であるから、破格に安い値であった。
「それはありがとう。」
と矢代は礼を云ったものの、久慈の値より負けられたとあっては自然に食事の費用で補いたくなるのだった。アンリエットは若芽色の皮の手袋をはめ、
「あたしの発音法はこれでまだ完全じゃないのよ。パリの人の発音はたいていはまだ駄目。やはり、一度ギャストンバッチの女優学校へでも這入って、正規の発音を習わなきゃ、信用出来ないわ。」
このパリの高い文化でさえがそうなのかと矢代は驚いた。
「そういうものですかね。しかし、日本にも日本語の完全な発音なんかどこにもないですよ。東京の者だって、つまりは東京の方言を使っているんですからね。」
アンリエットは先に暗い螺線形《らせんけい》の階段を降りて行った。後から矢代は降りるのだが、自然に眼につくアンリエットの首の白さも人知れず眺める気持ちは、不意打ちを喰わせるように感じられ彼は幾度も眼を転じた。しかし、螺線形の狭い階段は降りても降りても変化がなかった。絶えず眼につくものは階上からつづいて来たアンリエットのなだらかな首ばかりでありた。しかも、巻き降りている階段は長いので撃たれたように前に下っている首筋は、見る度びに眼のない生ま生ましい顔のように見え、矢代はだんだん呼吸の困難を感じて来るのだった。
「ドームで、久慈と千鶴子さんが待ってる筈ですから、あなたもどうです。」
千鶴子が傍にいればアンリエットは遠慮をするかもしれぬと思い、矢代はそんなに云ったのであるが、むしろ彼女は悦ばしげに、
「あたしが行ってもいいんですか。」
と訊き返した。
「どうぞ。」
二人は二列に並んだ篠懸の樹の下を真直ぐに歩いた。地下鉄の口からむっとする瓦斯が酸の匂いを放って顔を撫でた。矢代はこの気流に打たれると、いつも吐き気をもよおして横を向き急いでその前を横切るのである。
「あの地下鉄の入口の所の飾りね。あれは大戦前のものなんだけど、みなあのころはあんな幽霊のようなものばかり流行したのよ。人の頭もそうだったんですって。」
そんなに云われるままに、矢代は見るとなるほど入口は蕨のような形の曲った柱が二本ぬっと立っているきりである。
「あんな幽霊のようなものが流行るようじゃ、戦争も起る筈だな。」
「そう。あのころは幽霊の流行よ。有名なことだわ。」とアンリエットは云った。
しかし、今はどうであろうかと矢代は思った。街には日本の玩具が氾濫していた。カフェーや料理屋の器物はほとんどどこでも日本製のものばかりだった。一番物価の安い日本から一番高い物価のパリへ来た矢代は、街を歩いているだけで世界の二つのある極を見ているようなものだと思った。
ドームへ来ると、人の詰ったテラスの一隅に、日本人が三四人塊って話をしていた。皆は矢代を見ると、どこか痛さに触れるようにさっと横を向いたが、その中に東京で講演を聞いたことのある東野という前に作家をしていて、今はある和紙会社の重役をしている中年の男だけ一人、矢代の方を見詰めたまま黙って煙草を吹かしているのと視線が会った。その作家は矢代より少し早く神戸を発ったのを新聞で見たことがあったから、矢代も行けば逢うこともあろうと思っていたので、これを機会に話してみようと思い東野の傍の椅子を選んだ。
「失礼ですが、僕は一年ほど前にあなたが講演なすったのを、東京で聞いたことがあるんですよ。私はこう云うものです。」
と矢代は云って名刺を出した。
「そうですが。僕は先日来たばかりで何もまだこちらは知らないんですよ。」
「僕もそうです。あなたより二船ほど後なんですよ。」
「じゃ、僕の方が兄貴なわけですね。宜敷く。」
淋しそうな東野は自分の名刺を出そうとして財布の中を探し始めた。そこへ久慈と千鶴子が放射状の道の一角から現れた。
久慈は、「待ったかね。」と云って矢代の傍へよって来ると、
「この人、アンリエットさん。」
といきなり彼から千鶴子に紹介した。アンリエットと千鶴子は自然に見合って握手をした。どちらにしても敵意など起りようもないのが今の情態だったが、それにしても微妙な白けた瞬間の気持ちの加わろうとするのを矢代は感じ、すぐ傍の東野に久慈を紹介した。
「東野さんはあなたでしたか。」
紹介したりされたりで急に足もとからばたばた鳥の立つような眼まぐるしい表情の配りだった久慈も、矢代とは違い東野にだけは自分の気持ちも通じそうに思われたらしく、突然彼の方に傾きよると、
「どうですか、パリの御感想は。僕は毎日、この矢代と喧嘩ばかりしてるんですよ、この人はひどい日本主義者でしてね。僕はどうしてもヨーロッパ主義より仕方がないと思うんですが、あなたはどちらですか。」
こんな質問をいきなり初めてのものにするなどということは、日本でなら何をきざなと思われるのが至当だが、それがここで云うとなると、不思議に自然なことに思われるのだった。東野もうるさそうにもせず、
「そうですね、日本にいれば僕らはどんなことを考えていようと、まア土から生えた根のある樹ですが、ここへ来てれば、僕らは根の土を水で洗われてしまったみたいですからね。まア、せいぜい、日本へ帰れば僕らの土があるんだと思うのが、今はいっぱいの悦びですよ。」と云った。
「しかし、何んでしょう、合理主義は何も日本だってヨーロッパだって、変る筈のもんじゃないと僕は思うんですがね、樹の種類は違ったって、樹は樹じゃないでしょうか。」
と久慈は勢いに辷って、つい訊きたくもないことまで饒舌るのだった。
「それはそうだけれども、今まで合理主義で世の中が物を云って来て、どうにもならぬということを発見したのが、近代ヨーロッパの懐疑主義というもんじゃないかな。」
と東野は、久慈の無遠慮な正直さに何か興味を感じたらしい眼つきで云った。
「しかし、それじゃ、僕らは何も出来ないじゃないですか。結局暴力でもそのまま認めなくちゃならなくなってしまうでしょう。」
「まア君のように云ってしまえば話は早分りで良いけれども、しかし、知識というものは合理主義から、もう放れたものの総称をいうのですからね。暴力なんてものを批判するには、手ごろな簡便主義でも結構でしょう。」
「つまり、それじゃ、ニヒリズムというわけなんですか。」
と久慈は当の脱れた失望した顔つきに戻って顎を撫でた。
「あなたは御婦人づれじゃありませんか。今日はそんなところで良いでしょう。」
久慈は大きな声で笑うと、
「どうも、失礼しました。じゃ行こうか。」
と矢代に云って立ち上った。食事には丁度良い時間だったので矢代も一緒に立って皆と出たが、歩きながら彼は、
「今日は君も東野氏にやられたね。たしかに君の面丁割れてるぞ。」
と愉快そうに久慈の顔を覗き込んだ。
「ふん、合理主義を認めん作家なんか、何を書こうと知れてら。」
「いや、十目の見るところ君の負けだ。愉快愉快。」
と矢代はまた云って笑った。
「じゃ君は、人間が今まで支えて来た一番美しいものを、みな捨ててしまえと、まだ云うのか。」
「あら、雪だわ。」
急に千鶴子は立ち停ると腕にかかった花弁のようなものに驚きの声を上げた。
雪か。いや花だろう。と云い合って一同空を見詰めている間にも、久慈だけは一人わき眼もふらず先に立って歩いていった。
矢代とアンリエットと、千鶴子とは、クーポールへ這入る久慈の後から遅れていったが、もうこの晩餐の面白くないことは誰にも分っているようであった。クーポールの中は歌舞伎座の中とよく似ていた。太い円柱、淡桃色の壁、階下から階上へ突き抜けた天井と、見れば見るほど歌舞伎座の大玄関である。
「パリにいる日本の方、みな半気違いに見えるわ。それであなたがた何ともありませんの。」千鶴子は料理の註文を終ったとき矢代に訊ねた。
「そうだな、たしかにそんなところありますよ。僕なんかそろそろ怪しい。」
「合理主義を疑い出しちゃ、気違いになるより仕方がないよ。」と久慈はまだ東野に打たれた前の傷が頭に響いてやまぬらしかった。
「君の合理主義なんか日本から持って来た物尺だよ。一度験べてみ給え。印度洋で延びてるから。」
強いて久慈と争うつもりももう矢代にはなかったが、千鶴子とアンリエットとの次第に強まる無言の敵意を感じると、むしろ、今は男同士の争いをつづける方が愉快に食事の場だけも柔らぐだろうと矢代は思うのだった。しかし、事態は一層険悪になって来た。ぶつりとしたまま誰も話そうともしなければ、顔さえ見合すことも互に避け合って黙っていた。
「ここのお料理、綺麗ね。」
千鶴子はふと一同の沈んだ様子に気附いたらしく、円柱の間を曳いて廻る料理台の新鮮な魚の列を見て云った。
「ええ、ここのお料理、相当でしてよ。」とアンリエットはフランス語で答えた。
海老や鶏や鰈《かれい》が出ても四人は一口も饒舌らなかった。いっぱいに客の詰ったホールの中は豪華な花壇のように各国人の笑顔で満ちて来たが、四人の食卓の間だけは、名状すべからざる陰欝な鬼気が森森とつづいていった。
久慈はふくれ切って、矢代に、何ぜお前はアンリエットなんか連れて来たのだと云わぬばかりに、パンばかりひきち切ってむしゃむしゃ食べた。矢代もいつ何が出てどうして食べたかも分らぬままにフォークを使い葡萄酒を飲んだ。すると、突然久慈は俯向いたまま、
「懐疑主義か、ふん。」と云ってひとりにやにや笑い出した。
「まだやってるのか。」矢代はじっと久慈の眼を見詰めた。
「いや、俺は東野に負けたんじゃないよ。断じてそうじゃない。」
一同はどっと噴き出すように声を合せて笑った。
「何がおかしい。あれで僕が負けたんなら、腹を切るよ。」
久慈一人はなお不機嫌であったが、それが却って周囲の三人に浮き浮きとした雑談を湧き上らせた。しかし、久慈は急にボーイを呼んで勘定を命じた。一同ぼんやりして黙っているとき、
「じゃ、今日はこれで失敬する。」と久慈は云って一人皆の勘定をすませて外へ出て行った。
千鶴子が来てから矢代の生活も少しずつ変って来た。午前中それぞれ自分のホテルにいるのは前と同じであったが、正午はドームに落ち合って昼食を共にし、それから見るべき所を散歩かたがた一二ヵ所ずつ見て、夕食はその日の嗜好物に随い料亭を選び変え、各自のホテルへ帰る前には、また一度ドームへ立ちよってお茶を飲むという習慣になって来た。この習慣はどこから来ている外人の旅行者も同じことで、考えれば誰も極めて単調な生活をしていた。殊にパリという所は来てしまえば、どこを見物しようとか、誰それに逢いたいとか、勉強をしようとかとそのような気持ちは全く無くなって、ただ遊んで暮すことが何よりの勉強になると思いえられる所であった。また事実それに間違いはなかった。
一番愉快なことと云うのは、他人と議論をすることか、あるいは誰とも話さずぼつりと一人路傍のベンチに腰かけていることか、先ず特種な遊楽場以外の楽しみはさておきそんなことより他にはない。随って一度び議論となるとそれは果しなくつづいていく。その日の議論は逢う度びに前の議論の延長であり、またどの立場を取ろうとも、終局の負けというものがどちらにもないという強味を発見し合って来るのであった。これが例えば日本で議論をするとなると、忽ち終局は必ず法網に触れて来るので、どちらも黙ってそれ以上の議論はうやむやの中に引っ込めてしまうか、さもなくば、ヨーロッパの論理へ樋をかけて水をその方へ引き流し、日本の歴史を外国のこととして戦い合う。間違いはすでにそのとき敢行されているにも拘らず、錯誤の連続であってみれば、自身の知性で間違いを一度び正すとなると、論理らしいものを一応は尽く根から噴き上げてしまいたくならざるを得ないのだった。それからもう一度考え直す。矢代も今はそういうことを絶えず頭の中で繰り返している時期であった。
ある日、矢代は自分のこの得た確信を元として、千鶴子にヨーロッパに対して絶対に卑屈になるなと話してみた。
道を歩いていても少し汗ばむほどの日であったが、矢代は千鶴子とサンジェルマンのお寺の壁画を見てから、ルクサンブールの公園の中へ入って来て休んだ。若葉に包まれた石像の肩に数羽の鳩がとまっていて、その向うに若い男女の一組がベンチにかけている他は、人のいない椅子ばかり並んでいた。矢代もその一組と芝生を対して向い合った。
「日本のお寺の壁画は、まア、地獄極楽の絵が多いですが、こちらのお寺の壁画は、ヨーロッパ人が野蛮人を征服して、十字架を捧げている絵ばかりですね。僕らはあんな絵を見せられると、聖壇もいやらしくなって、すぐ出て来たくなって困るが、あのころは、誰も東洋人にあんな絵が見られようとは思わなかったんだな。」何か話すと、見て来たものの批評ばかり自然会話となってしまう外遊者の癖が、また争われず矢代にも出るのだった。
「あたし、この間からパリを見物して、フランスのいい所や恐ろしい所は、やはりこの国の伝統だと思いましたわ。でも、それなら日本にだって有るんだと思うと、パリもそんなに恐くなくなって来たの、もしこれで日本に伝統がなくって、あたしこちらへ来たんだったら、どんなに惨めな思いをしなければならなかったかしらと思うわ。」
千鶴子の感想は正しいと云うよりもむしろ矢代を喜ばした。
「そうですよ。ところが、久慈君はそれを云うといやがるんですよ。あの人は僕らを無言の中に勇気づけてくれている日本の伝統まで認めようとしないんだから、困ってしまう。」
若葉の繁みの間から杏の花弁の柔く舞い散って来る中を貫き、重くすうッと真直ぐに青葉が一つ落ちて来る。風が吹く度びに揺れる繁みの中から時計の白い台盤が現れてはまた青葉に隠された。
「でも、久慈さんだって、口でだけあんなに仰言っていらっしゃるのよ、先日もあたしに、パリもいいけれども日本もいいなアって仰言ってから、こんなこと、矢代君にはうっかり云えないがってそう仰言ったわ。藤田嗣治さんの絵を見てるときでしたの。やっぱりそうよ。あの方だって。」
「藤田嗣治はパリへ来てみると初めて豪いもんだと思いますね。よくあれだけこの都をひっ掻き廻したものだと思う。」
「女の人の線が牡丹の花びらのように見える絵よ。それがね、それが面白いんですのよ。」
千鶴子はこう云いかけてから急に顔を赤らめて俯向くと、
「あら、雀がこんな所まで来たわ。可愛いこと。御覧なさいよ。」
と矢代の腕を軽く打った。矢代は雀を見ていてから鉄のベンチの冷たさにふと背を延ばした。すると、その向うのベンチでさきから男女の二人が静かにじっと顔を併せているのが見えた。このような情態は矢代はいつもここで眼にすることであったから別に特異な風景とも思わなかったが、しかし、こちらの眼を雀に向けようと努める千鶴子の気持ちを感じ、音響の停った窮屈な世界でぴょんぴょん跳ね廻るその雀が、次第に大きく見えて来るのだった。
「雀ってどうしてこんなに沢山いるんでしょう。どこにでもいるものね。」
千鶴子はくるりと男女の方に背を向けたが、こちらには矢代がいるとまた真直ぐに向き直って雀の行方を眼で追った。
何となくそうしているうちに、二人の気持ちは一層動き停って固苦しくなるのを矢代は覚えると、ベンチを立って去ろうかと思った。しかし、考えてみれば外国を歩いている以上、こんな所を千鶴子と二人で眼にすることはいつかあるにちがいないので、一度はここも通らなければと、向うの男女の顔の放れるのを待つようにまたじっと眺めつづけて坐っていた。
「あなた、あんなところをそんなに御覧にならないでよ、さア、行きましょう。」
と千鶴子は顔を赤らめて立ち上った。しかし、矢代は動かなかった。彼は千鶴子を心の中で自分の顔を合せる対象だと一度はマルセーユで感じたのを思い起すと、あのとき騒いだ自分の心の自然の結末をここでゆっくり一度清めてしまいたいと思うのだった。
「まア、ここへ腰かけていなさいよ。美しいな。」
と矢代は立っている千鶴子に云った。芝生の中に降りた一羽の鳩が胸毛で葉先きを擦り割りながらよちよち二人の方へよって来た。恍惚として動かない前方の男女の身体へ杏の花弁が絶えず舞い落ちた。
見ているうちに矢代も馬鹿らしい光景だとは思えなくなって来て、これは驚くべきほど美しい情景だと羨ましささえ感じて来るのだった。骨を鳴らせて飛び交う鳩の身体からうす冷たい風が立ち耳の根をひやりとさせた。
「まだいらっしやるの。」
千鶴子は渋渋矢代の横へ腰を降ろすと、
「あら、お坊さんだわ、今度は。」
と云ってにっこり笑った。見ると、カソリックの若い僧侶が椅子にかけて聖書を一心に読み初めた。
若い牧師が這入って来たのは右の繁みの間からであったから、多分サントーマの僧侶であろう。
しかし、左の方のベンチで、男女の愛の高潮した姿態を見、右の方のベンチで聖書の頁をくっている僧侶を見たりする図は、これもここでは物珍らしい風景とは云い難いが、矢代にとっては、これは社会の層の種類ではなく、自分の心中に棲む両極の図会となって自身の心の軽重をじりじり計るのである。
右を見、左を眺めているうちに、千鶴子も何事か胸を打たれるものがあるらしくふと顔を上げると矢代を見た。矢代も千鶴子を見たが、こんなときに視線の合うのは何の意味もなくともはッとなり、急いで避け合うと、そのために一層ない意味までが深まって来るのであった。
こうしているうちにも矢代は、いつの間にか千鶴子の考えていることを夢中になって追い馳けている自分を感じた。彼は汚れた煙があたりを取り包んでいるようにだんだん息苦しくなって来た。
「もうほんとに行きましょう。久慈さん、待ってらしてよ。」
千鶴子は冷たい表情になって立ち上った。矢代も腰を上げてベンチから放れていった。
一団の繁みの胴をコルセットのように締めつけている円形に並んだ鉄のベンチに、人は一人もいなかった。さわさわと立つ風にどこからともなく舞い散って来る落花を仰いでいると、矢代は今は何も忘れ、ただ故郷の空の色を感じて胸は淋しく湿って来た。
「どうもここへ来ると、僕は帰りたくなるんですよ。」
「あたしもだわ。」
矢代はポケットに手を突き込みながら、ここでは恋愛などは、自分の故郷へ帰りたい心に比べれば物の数ではないと思い、柔い砂を靴先で蹴り蹴り歩いた。樹間の黄色な天蓋の下でメリゴラウンドが空転しつつ光っていた。千鶴子は樹の間のほの白い蕾を見廻し、
「でも、もうすぐ、マロニエが咲くのね。」と云った。
「そう、マルセーユより一と月パリの方が遅れていますね。」
「もう一二ヵ月すればきっと矢代さん、日本へはもう帰らないって仰言ってよ。」
多分アンリエットのことを云うのであろうと矢代も苦笑を洩したが、それも向きに弁明する気もなく砂の鳴るのを聞きながら歩いた。
通りや森や河岸の樹のある所には、マロニエが白い花筒の先きを揃えて一斉に開き初めた。重厚な椎の樹に典雅な桐の花をつけたかと見えるこの樹は、昔を今に呼び戻すただ一縷の望みのように美しい。ある夜、矢代と千鶴子と久慈とそれにアンリエットの四人が食事をすませてからドームにいると、東野に逢った。晩餐の後にどこへ行くかという相談はいつも議論を呼んで定まらないのが常だったが、この夜はブロウニュの森の湖水へ行こうという久慈の提案が直ちに通った。一つはもうすぐ、新しく来た日本人の案内役となって地方へ旅に出るというアンリエットとの、皆の別れの意味もあった。
「どうです。これからボアへ行こうというのですが、いらっしゃいませんか。」
久慈は例の人の良さそうな笑顔で傍にいる東野をも誘った。四人はすぐ自動車を森へ向って走らせた。自動車の中で千鶴子は、
「今夜だけはもう議論はなさらないでね。」
と皆に頼んだ。皆は声を合せて笑った。
「フランス人は女の人が一人混っていると、絶対に議論はしないが、あれは女というものは馬鹿な者だと定めているからだそうですよ。僕らはあなたがいても議論をするのは、つまり尊敬しているからさ。」
と久慈は振り返り千鶴子を見て笑った。
「でも、こんないい夜は、頭の痛くなるのいやよ。」
「しかし、こんなに毎日遊んでばかりいると、議論でもしなくちゃ仕事をしたという気がしなくなるんだからね。」
久慈のそう云うのに矢代は、
「僕らはここにいると、誰も生活がないんだからね。血の出るような生活といえば、議論をする以外に求めようがないんだから、まあ千鶴子さんも議論でも聞いて、生活しているんだと思いなさいよ。」
「いやよ、もう議論は。あたし、そしたら、フロウレンスかチロルへ行っちまってよ。」
「そうだチロルへ行こうか。」
と久慈は急に大きな声を出した。「さっき聞いていたら、僕らの傍にいた日本人の連中がギリシアへ行く相談をしていたようだから、僕らもどっかへ行こうじゃないか。チロルへ行ってヨーロッパ第一の景色を見ながら議論をするのも、また格別だぞ。」
「石川五右衛門ね。」
千鶴子の笑っているうちに甘酸い花の匂いの満ちたフォッシュ通りを突き切り、一同はブロウニュの森の口まで来かかった。
「僕の友人は日本を出るとき面白いことを云いましたよ。君がパリへ行ったら何も勉強せずに、ただ遊べと云ったが、遊ぶというのも全く骨の折れるもんですね。」
こういう東野に久慈は、
「それや、そうだ。仕事をする方がどんなに楽か知れないや。」と賛成した。
森の直立した樹間から早くも湖面の一端が桃色に光った生物のように見えて来た。
自動車を捨てた一同は湖の方へ歩くと、一見|榧《かや》の樹かと見まがう松の間を通り、ボートに乗った。久慈と矢代はオールを持って東野が艫に坐り、千鶴子とアンリエットを中に挟んでボートは岸を放れた。湖面は人の顔もよく見えなかった。水藻の匂いが久しく忘れていた日本の匂いとなって矢代の鼻に流れて来た。なまめかしい紅色の西瓜のようなまん丸い提灯を艫につけたボートが、物も云わず幾つも舟端を辷っていった。
「ブロウニュの森の中でボートを漕いだら、もう日本へ帰ってもいいって誰か云ってたが、これなら矢代君も満足だろう。」と久慈は云った。
「まア、いいよ、ここならね。」
矢代はこれで印度洋とアラビアとを廻って来て今パリでボートを漕いでいるのだと思うと、手にかかる一滴の水も、はるかに遠い故郷を眺める感傷となり窓の開いた思いだった。
「何ぜ黙っているのかね。これが青春じゃないか。」
と久慈は云ってぐんぐん一人オールに力を入れた。
闇の中でボートが擦れ違う度びに、脂粉の匂いがしばらく尾を曳いて水面を流れて来た。岸べの森の一角に見えるカフェー・パビヨンロワイヤルの天蓋の上には、一面の紅霧が棚曳き渡り、湖は森の地平から盛り上った張力を見せ灯火に光っている。
「あッ、危いわ。」
と千鶴子が声を上げた。その途端、島から垂れ下った樹の枝が久慈の頭を撫でたので、そこだけ真白な花が際立ち騒いで揺れた。島の芝生の水に浸っている岸から、数羽の白鳥が水面へずぼりと端正な姿で降りて来ると、提灯の紅の円光の中をほのかな光りに染りつつ遊泳した。樹の下に停っているボートの中では、ときどき男女の一対が一つの影となって動かなかった。
「島へ上りましょうよ。もう暫くここへも来れないんだから。」
とアンリエットは囁くように久慈に云った。ボートを島の渡場につけ一同は岸へ移って茶を飲みにカフェーの方へ歩いた。
董とチューリップの放射状に開いている花壇を通り、明るいカフェーの庭に這入り、五人は向き合って卓を囲んだ。矢代はマロニエの太い幹を叩きながら上を仰ぐと、花がぽたぽた落ちて来て冷く鼻を打った。燭台に刺さった蝋燭のような無数の花序の集合した庭の中を光線の縞がはっきりと流れて見える。
「今夜は愉快だ。お蔭で手に豆が出来たよ。これ。」
と久慈は両手を開いて皆に見せた。ボーイの手で裂かれたレモンが露を什器の上に満たしている間も、マロニエの花は絶えず卓の上へ落ちて来た。その度びにボーイは花を払い除けつつレモンを各自のコップに注ぎ込んだ。
花冷えにうす冷たく汗のひいて来たころ、梢に縛りつけられたラジオから、ガボットが聞えて来た。
久慈はさも感じ入ったという風に梢の繁みの中に輝いている電灯を仰いだ。しばらく、一同はオレンジを飲みつつラジオに聴き耽っているとき、
「あら、東野さんいなくなったわ。」
と千鶴子は云ってあたりを見廻した。
若葉の垂れ込めた二階の廻廊を通る靴音が淋しく響くだけで、樹の幹の間一面に並んでいる緑の椅子と卓とには一人の客もなく、ただ白い花ばかりがいたずらに散っていた。足もとの砂に混った花の中から捨てた煙草が鮮やかに煙を立てている。
「ああ、もう日本へは帰りたくない。」
久慈は組んだ両手に頭を反らせてからかい気味に矢代を見た。
「今夜は、まア何を云ったっていいよ。」
矢代は島の周囲を廻っている紅提灯を眺めながら、ふと日本へ帰れば自分は何をしたら良いだろうと考えた。人の一番望んでいるものを見てしまった空虚さに日日考える力も失われていく疲労を強く感じ、今はこの花の白さに溶け入ってなるままに身を任せてしまいたいと思うのであった。
「ボートが流れるといけないわ。もう行かない。」
とアンリエットは久慈に注意した。
「あ、そうだ。」
久慈は身を起しかけたが東野の姿が見えなかったので、また四人は椅子に腰を降ろして待っていた。
「この向うに、日本の滝と同じ滝があってよ、御覧になりたくない。」
アンリエットの薦めに久慈は顔を横に振った。
「日本的なものは、ここへ来てまでも見たくないね。暫く忘れに来たんだからな。」
「あら、じゃあたしたちあなたにお逢いするのも考えなくちゃいけなくなるわ。」
と千鶴子は皮肉そうに久慈を睨んだ。
「そう云うわけじゃないさ。外国にいるからには、なるたけ外国にいるんだと感じたいんだからな。」
久慈の云い難そうな弁明も、それならやはり千鶴子よりもアンリエットと遊びたいと思わず洩らした意味ともなり、かすかにこぼれた千鶴子の笑顔も妙に久慈から遠ざかって消えるのだった。
東野が花壇の中から現れて来ると一同はカフェーを出て、自分たちの乗り捨てたボートの方へ引き返した。木の下闇で道を手探りしなければ分らぬほど暗かった。足もとはなだらかな芝生とは云え、欄干もなくそのまま水中へ没しているので危険なばかりではない。いつどこに男女の影が潜んでいるか、このあたりはそのための配慮ある木の下の闇であってみれば、隠れた人影を乱すのもつまりはこちらが不注意なのであった。
一同もそれを知っていると見えて言葉も云わず久慈についてぞろぞろ歩いた。すると、先頭に立った久慈は不意に途中で立ち停った。
「何んだ。」と矢代は訊ねた。
「道を間違えた。これや、たいへんな所へ来た。」
「しかし、あそこの提灯はたしかに僕らのボートだよ。」
「いや違う。」
こう云いながらも久慈は水際の方へ降りて行こうとすると、
「あツ。」
と云ってまた立ち停った。矢代は久慈の傍へよって行ってあたりを見た。一抱えもある丸い石のような塊が点点として散ったままじっとしていたが、よく見ていると、かすかにどれも少しずつ動くのが感じられた。
「ここ白鳥の巣だわ。」
とアンリエットが上の方から云った。
「何アんだ。そうか。」
と久慈も急に元気な声になった。今まで恐ろしそうにしていた千鶴子も降りて来ると、矢代の肩に掴まりながら白鳥の群れを覗いてみた。どこが水か芝生か分りかねる暗さの中で、矢代は千鶴子の重みを肩に受け何事か約束が果されつつあるように感じられ、そのまま立ち停っていつまでも白鳥の群れを眺めるのだった。
「白鳥の巣なんてあたし見始めよ。でも、真黒に見えるのね。」
と、千鶴子はささやくように耳もとで云った。まだ気づかずに千鶴子はいるのだろうか、白鳥の巣とはそのままには解せぬ比喩とも矢代にはとれるのである。
「あら、よく辷るわ。あなた危くってよ。」
「なるほど。辷るな。」
と矢代は云いつつ足もとの湿った芝生に力を入れた。しばらく、二人はそのまま闇の中に立っていると、傍にいた久慈はいつの間にか遠のいて、上の方でアンリエットと話しながら歩く靴音が聞えて来た。
「もう一度お昼に来ましょうね。こんなに暗くちゃ分らないんですもの。」
白鳥を見るだけでは少し二人の時間の長すぎたのをどちらも感じ合うと、千鶴子は矢代から放れて芝生を登った。矢代も後からついて行ったが、いつ人影に突き衝《あた》るか分らぬ不安が歩く度びに足を遅らせた。間もなく、アンリエットと久慈の姿もどこにいるか分らなくなっただけではなかった。千鶴子の姿も全く闇に呑まれて見別け難くなった。
「これは困った。千鶴子さんどこです。」
こう云ってももう千鶴子の声はしなかった。矢代は眼の見えなくなったのは自分だけなのであろうかと、靴さきを盲人のように擦らし擦らし歩いていった。
矢代の足先きに花のようなものや、道と芝生の境いの籠目の金がひっかかったりした。少しわき道をしたために、これだけ道を迷うとはどういうものだろうと、矢代はいら立って来たが、しかし、それより、夜中ここで婦人を一人歩かすことは虎に餌を与えるのと同様な、恐るべき解禁のブロウニュの森の中である。千鶴子に闇中何者が飛びかかるか知れない危険を思うと、矢代も彼女の手を曳かずに歩いた自分の無謀を今さら恥かしく、もどかしく歎かれて来るのだった。
「千鶴子さん。」と矢代は呼んでみた。
「ここですのよ。」
そう云う千鶴子の声は意外に遠くの方から聞えて来た。
「危いから待っていらっしゃい。」
矢代は樹に突き当ってもいいと思って勢いよく声の方へ進んでいき、
「あなた、それで見えるんですか。」と訊ねてみた。
「暗いのね。」
と千鶴子は矢代の声も聞えない風だった。ここの造園家は夜の人間の眼まで考えて樹を植えたのだと、急に矢代は幾重にも落し込む陥穽《おとしなな》を見る思いで腹立たしくさえなって来た。しかし、千鶴子に声を出させることは、今は、闇中に迷っている彼女の在所を潜んでいる虎に教えることと同様だった。
「じっと立ってらっしゃい。」
と矢代は云いながらも、しかし、人間が猛獣より恐るべき動物になる森を市街の中に造ってあるパリの深い企てを考え、も早や云うべからざる近代の寒けを感じ、なるほどこれは闇だなと思い進むのだった。
「どこです。」
「ここ。」
と今度は千鶴子はすぐ傍で答えた。拡げた手と手が触った瞬間、思わず二人は両手を握り合せた。
提灯の火はここからはよく見えた。道も広く下り坂になって来たが、重なる樹の幹に隠されすぐまた提灯が見えなくなった。
「この森は魔の森と云って恐ろしい森ですから、気をつけていらっしゃい。」
「恐いわ、そんなこと仰言っちゃ。」
千鶴子の擦りよって来た手を指環の上から握り矢代は曳くように歩いた。湿った樹の幹の間に前から漂っていた脂粉の匂いが歩く身体に纏りついて追って来た。坂道のせいか千鶴子はぐんぐん矢代を押して来ながら、
「多勢で来ると短いようだったけど、道を間違ったのね。」
と云うと、どっと何かに躓いて倒れかかった。矢代は引き立てるようにして水際の方を覗きつつ歩いたが、ボートはどこにも見えなかった。ボートなど無くなっても千鶴子と二人でいる以上は、このまま見附からない方が良いとも矢代は思い、もうゆっくりと肚も坐って来るのだった。
「さア、しまった。いよいよ帰れなくなった。」
と矢代は云って立ち停った。二人は黙って水辺を見降ろしていたが、
「いいわ、行きましょう。」
と千鶴子ももう元気な声で云うと、自分から矢代の腕を持ってまた歩いた。
闇に馴れて来ると森はさまざまな匂いを放って来た。パリに永く生活している人で、闇夜に森の中を婦人と二人で歩くことほどこの世に幸福なことはないと云った言葉を、ふと矢代は思い出した。
なるほど、これが幸福なのであろうか、ただこれだけのことが、と矢代はひとりそんなに思いながらも、湖に浮んでいる紅のまん丸い提灯の色が、もう光明のまったく失せた悲しい最後のなやましげな紅さだなと頷くのだった。
「この森をパリの街の真ん中に是非残しておけと云ったのは、ナポレオン・ボナパルトだそうですが、豪い男だと思いますね。あの男はただの豪傑じゃなかったのだ。」
「広いのね。これでどれほどあるのかしら。」
「周囲五里というんですよ。」
「まアこれで。」
と千鶴子は云っても別に驚いた風ではなかった。二人の歩く道の下に岸がつづき真白な花をつけた枝が水面に垂れていた。ボートがこんなに見えない筈がないと思うと、矢代は「おーい。」と呼んでみた。
「おーい。」と東野の声が樹の繁みの下から聞えた。
「あら、東野さん、ボートに一人いらっしゃるんだわ。」
千鶴子は繁みを廻りスロープを降りていってみると、ボートの中にはやはり東野が一人しょんぼり坐っていた。
「久慈君まだですか。」
矢代は訊ねながら千鶴子と二人で灯の消えたボートに乗った。
「お一人で何してらっしたの。」
と千鶴子は気の毒そうに訊ねた。
「俳句を作ってたんですよ。」
「良い句出来ましたか。」
矢代の訊ねるのに東野は、「いや。」と云っただけで提灯の新しい蝋燭に火を入れた。
「おーい。抛っとくぞオ。」
と矢代はオールを持って森の中の久慈を呼びつつ少しあたりを漕いでみた。
「どこだア。」と久慈の声が遠くの闇の中からして来た。
矢代はまた呼びながら声の方へボートを近づけてゆくと、しばらくして久慈は水際へアンリエットと二人で現れた。
「やア、弱った弱った。ボートがどれも違うんで、分らないんだよ。」
互に顔がぽっと見えるだけの提灯の明るさの中へ、白鳥が水に浮んだ花の群れを胸で割りながら泳いで来た。皆が道の暗さを云い合っている所へ乗り込んで来て、オールを動かし出した久慈に、矢代は、
「東野さんは俳句を作ってたんだって。ひとりならそれもいいな。」と云って笑った。
「俳句か、ここで俳句なんてどんなの出来るんです。」
と久慈もやや嘲笑の口調だった。
「白鳥の花振り別けし春の水。」
真面目な顔で句だけを投げるように東野は云ったので、一同一寸黙って考えていたが、突然、
「いや、やられた。」
と久慈は頓狂な声を上げた。
矢代は思わぬ不意打を食ったような苦笑ながらも、今は東野の諧謔にボートの動揺も気持ち良かった。ボートが岸を放れていくにつれ岩を打つ滝の音が聞えて来た。
「あそこよ。滝」
とアンリエットは垂れ下った樹の下を指差した。
「じゃ一つ、僕も俳句を作ろうかな。」と久慈は云ってオールを廻しながら、「えーと、ブロウニュの、滝も無言《しじま》を破りおり。どうです東野さん。」
「そんな句ないよ。」
と矢代は云うと皆どっと笑った。久慈はまた、
「それじゃ、これやどうじゃ。」
と小首を一寸かしげてから、「ブロウニュのオール少しく鳥追えり。」
ふざけていた久慈の句も幾らか緊って来たその変化に、
「ふむ。」
と、矢代はしばらく考え黙っていてから云った。
「そんなら、これはどうかね――白鳥の巣は花に満つ春の森」
「うまいね君は。いつ習ったんだ。」
と久慈は感心して、「ようし、じゃ、も一つやるぞ。」とまた競い立って考えるのだった。千鶴子は舟ばたで一人腹をかかえて笑っていた。ときどき道路を疾走する自動車の光が森の樹木を貫いて消えていった。一行はオールを軽く動かしていたが、真面目に俳句を考え出したと見えて、誰も空を仰いだり森を見たりして黙っていた。そのうち久慈は、
「よし出来た。今度は傑作だぞ。」と前ぶれして思い出す風に、
「春の夜の月さまざまな水明り。」
と調子よく読み下した。
「高等学校の歌じゃないか。」
と矢代はひやかしたので、またボートの中は笑いに満ちた。しかし、久慈だけは一人、「馬鹿を云え。」と云いつつも得意そうにオールを勢い良く動かしていった。
東野は煙草の灰を水に払い落しながら形の良い白鳥の姿をじっと眺めていた。
「さア、早く上って、サンゼリゼへ行こう。」
久慈の声に応じて矢代もともにオールに力を入れて漕いだ。アンリエットは軽快な速力に合せるように今流行の小唄を歌い出した。
――夜のヴァイオリンがかすかに鳴っている。甘いやさしいメロディに、愛する楽しみと、生きている喜びを、わたしらにささやいていてくれる。――
このような感傷的な唄もフランスの婦人が歌うと、水に浮んでいる白鳥も花も一しお矢代に旅の愁いを感じさせた。行き過ぎるボートの中からもアンリエットの歌に合せて低く唄うものがあった。千鶴子は指さきに水を浸しながら、遠ざかって行くボートの紅の提灯を振り返って眺め、オールが水を跳ねても水面に尾を曳く波紋から眼を放そうとしなかった。パビヨンロワイヤルの桃色の明りが見えて来ると、島に繁った花の樹が水の上から次第に白く朧ろに浮いて来た。
ブロウニュの森からサンゼリゼまでは、自動車に乗る間もないほど近かったカフェー・トウリオンフは凱旋門から下って来た左手にある、大きなカフェーの一つである。パリの日本人で上流階級を意識に入れて活動しなければならぬ人人の多くは、下町のモンパルナス一帯には出没しないが、山の手のサンゼリゼのカフェーにはいつもよく姿を現した。モンパルナスの日本人らは、山の手組の日本人を小馬鹿にして、「十六区のお方。」と呼び、サンゼリゼ組は下町者を、近よれば斬らるるのみと軽蔑して相手にしない風があったが、久慈や矢代は来て間もない一団であったから、日本人の縄張りなど考えている暇もなかった。
カフェー・トウリオンフのテラスには、数百の真紅な籐椅子がいつも道路に向って並んでいた。この日は夜であったから、久慈たちの一団は赤い皮張の屋内へ這入ってフィンを命じた。淡紅色の紫陽花《あじさい》の一面に並んでいる壁面には、豪華な幕が張り廻らされ、三方に映り合った花叢はむらむらと霞の湧き立つような花壇であった。丁度、紫陽花の中から楽士たちのタンゴが始まり出したときである。
「やア。」
と云って這入って来た三人の日本人の一人が、東野の方を見て手を上げ近よって来ると、すぐ傍の椅子に並んだ。東野は新しい人人を久慈や矢代にそれぞれ紹介した。それらの人人は、日本の大使館に出入する若手の技師の塩野と、平尾男爵、書記官の大石であった。いずれもこれらの人人はパリの上流階級のサロンへ出入しなければならぬ関係から、山の手の人人の中でも代表的な紳士たちというべきであったが、永く帰らぬ東京の様子など懐しそうに訊ねられるまま、千鶴子や久慈が答えているうちに、突然大石は千鶴子を見て、
「じゃ、あなたはロンドンの宇佐美君の妹さんですか。」と驚いて訊ねた。
「ええ、兄を御存知でございますの。」と千鶴子も全く意外な様子であった。
「知ってるどころじゃありませんよ、あなたの小さい時を、僕は見たことがありますよ。」
「ああ、あの宇佐美君か。」と塩野も思い出したと云う風に、
「僕と大石とは暁星の同級でしてね、宇佐美君もそうでしょう。」
このようなことから話はますます一致して進んでいくと、手ぐるように共通の知人が三人の間から続続と現れた。
「じゃ、一度御招待したいと思いますから、明日はどうですか。お暇でしたら六時にいらして下さい、僕らは皆一緒の所におりますから。」と塩野は云った。
「ええ、ありがとうございます。」
千鶴子は礼を塩野に云ったものの、他の者が多くいるのに自分一人招待される苦しさにちらりと矢代の方を窺った。傍で前後の様子を聞き知っている矢代は、千鶴子一人を引き抜くような塩野の申し出にも、むしろ裏のない誠実さを感じた。彼はフィンに染った眼もとで、紫陽花の上で輝く楽士のトランペットを眺めながら、パリの上流のサロンに出入している人物は、人前でも塩野のような流儀の挨拶をするのが習慣であろうと思った。
「それでは、お待ちしてますから、夕暮の六時ですよ。」
と塩野はまた念を押した。事実、この塩野は学界の名門の一人息子であったが、質の良い貴族の品位を想わせる目鼻立に、明朗率直で親切な性格がどこともなく噴き現れている青年だった。矢代は東野や大石などの話す言葉を聞いていると、塩野は写真学校の教授で、パリで開いた彼の個人展覧会も、パリの写真専門家の間では、なかなか好評だったらしい様子であった。間もなく一同の話は著いた当時のそれぞれの困った話に移っていった。
「僕は一度こんな所を見ましたよ。」今まで黙って一言も云わなかった東野は云った。
「それもここのカフェーですがね。丁度、僕は久慈さんの坐っているそこにいたのですよ。他に日本人も三人いましたが、隣のテーブルに、印度支那の安南人が四人ほど塊っていましてね。そこへ、ある外人が三人ほど這入って来て、坐ろうとすると椅子がいっぱいで、どこにも坐れないんです。そうしたところが、その男はボーイに、
『ここにいる東洋人を、皆追い出してくれ、その分の金は払う。』
と反り返って云うのですよ。僕は腹が立ったが、先ずボーイが何とあしらうかと、それをじっと見ていたら、ボーイがね。――」
と東野は云ってそのときのボーイがまだいるかと一寸屋内を見廻した。
「今日はあいにくいないけれども、そのボーイが、きっとなると、安南入を指差して、これは東洋人だが、われわれの同胞だ。君ら出て行ってくれッと、その大男に大見得切ったですよ。」
「その男どうしました。」
と矢代は乗り出すようにして訊ねた。
「その男は黙って出て行きましたが、しかし、一時は日本人が皆殺気立ちましたね。」
「安南人はどうしました。」とまた矢代は興奮して訊ねた。
「安南人はおとなしく黙っていましたよ。」
一同はしんと静まったまましばらく誰も物を云うものがなかった。
「馬鹿な奴がいると、戦争が起る筈だな。」
矢代はいまいましそうに云った。そして、突然久慈に向って、
「君、まだ君は、ヨーロッパ主義か。」
「うむ。」
と久慈は重重しく頷いた。矢代は青ざめたままどしんと背を皮につけて静まると涙が両眼からこぼれ落ちた。
夜の十一時になると、塩野たちは、これから活動を見に行くのだからと云ってカフェーを出て行った。矢代たちもトウリオンフを出てサンゼリゼを下へ下った。
硝子の鯉の塊った口から立ち昇っている噴水は、瓦斯灯の青い照明に煌き爆けた花火かと見える。その噴水から散る霧は一町四方に拡がり渡り、微風に方向を変えつつマロニエの花開いた白い森を濡らしていた。
この森のマロニエの老樹の見事さはまた格別だった。均整のとれた鋼鉄に似た枝枝の繁みが魁麗な花むらの重さを受けとめかねてゆったりと撓み、もう人人の称讃には飽き飽きしたという風情で、後継ぎのない悲しさもあきらめきった高雅な容姿だった。それはもう樹というものではない、人の知らぬ年齢を生き永らえまだ薄紅色の花をほころばせてやまぬ箴言のようなものだった。
矢代たちは砂道を歩いてコンコルドの広場へ出た。数町に渡った正方形の広場は、鏡の間のように光り輝き森閑として人一人通らなかった。その周囲を取り包んだ数千の瓦斯灯は、声を潜めた無数の眼光から成り立った平面のように寒寒とした森厳さを湛えている。
そこの八方にある女神の巨像はそれぞれおのれの文化の荘重さに、今は満ち足りて静かに下を見降ろし、風雨に年老いた有様を月と星とにゆだね、おもむろな姿をとって動かなかった。女神に添えて噴水がまた八方から昇っていた。それはこの広場を鏤ばめた宝玉となり植物となって、夜のパリの絢爛たる技術を象徴してあまりあった。
「何んで凄い景色だろう。」と久慈は茫然と立ち尽して云った。「これから見れば、東京のあの醜態は何事だ。僕はもう舌を噛みたくなるばかりだ。」
東野は黙って広場を眺めながらまた俳句を作っていた。突き立っている三人の暗黙のうちにひしめき合う頭を、千鶴子はもう感じたと見え一人放れて歩いた。
「さア、行きましょうよ。」
「君は何んでも、さア行きましようだ。」
と久慈は腹立たしそうに云った。
「でもそうだわ。」
「何がそうです。」
「あたし、もう眠いんですもの。」
「眠る方がいいですよ。さア行きましょう。」
と東野は云って歩き出した。一同は東野の後からぞろぞろついていった。しかし、久慈だけは手に引っ掴んだ帽子を自棄に振り振り駄駄っ子のような声で、
「もう、僕は日本へは帰らん。」と云った。
「二十年ここを見ていると、小便をここへしたくなるそうだよ。」と矢代は云った。
「ふん、そ奴は猫だろう。」
「僕が東京市長なら、東海道の松の大木を銀座の真中から、神田までぶっ通してずっと植えるね。あの通りに松葉が散ればどんなに綺麗か分らないよ。雄松だけは外国にはないからな。」
矢代はそう云いながらも東にチュイレリーの宮殿を置き、西はサンゼリゼの大公園に接し、北にはマデレエヌの大寺院、南に河を対してナポレオンの墓場を置いたこのコンコルドの広場の美しさには、流石云うべき言葉も出なかった。
「ここが、世界の文化の中心の、そのまた中心なんだからなア。」
と久慈は讃嘆しつつ倦かず周囲の壮麗さを眺めていた。
「何もそう早く音を上げなくたって良いだろう。こうなれや、周章てた奴は損だ。東野さん、句は出来ましたか。」
「出来た。」
一同は車を拾い、疲れてぐったりとしてホテルの方へ帰っていった。
矢代は千鶴子へ電話をかけてもときどきいないことが多くなった。女の本能でモンパルナスよりサンゼリゼを好むのは無理ならぬことだったが、しかし、逢う度びに千鶴子の話は今までの彼女とは変って来た。ある日、矢代は千鶴子とルクサンブールを歩いていたとき、千鶴子は楽しそうにパリの上流階級のサロンの話をした。千鶴子が自分たちより後から来たのに何人も出入困難とされているサロンへ、どうして出入するようになったのか矢代はそれを訊ねてみた。
「それはあたしも自分で知らなかったのよ。初め塩野さんが仕事をするのに人手が足りないから助けてくれと仰言るんでしょう。ですから、あたしはいつでも暇だからって云っておいたら、実はこうだと云って、フランスの大蔵大臣のサロンへ出るのに、一人婦人が足りないので困っているんだと仰言るの。」
「大蔵大臣って、どうしてあの人が大臣と交際しなくちゃならんのです。」
と矢代は不思議に思ってまた訊ねた。
「あたしもそれが分らなかったんですの。ところが、こうなの。日本は今丁度、鮭の缶詰をフランスへ輸出してるんだそうですのよ。それがフランスの法律でもうこれ以上は輸出困難というところまで来てるもんだから、その法律をね、何んとか自由にする工夫をして、もっと輸出しなくちゃならないっていう算段なの。日本の大使館必死に活動してるのよ。そんな仕事に大使がいきなり出ては駄目でしょう。大使の出るまでにいろいろ下の者が、工作をしておかなくちゃならないから、その工作にサロンを利用するらしいの。でも、塩野さん、パートナーがないのでどうもやり難くって困ると仰言るの。」
矢代はそこまで聞くと千鶴子のいうこともようやく頭に這入って来た。
「じゃ、あなたもいろいろ鮭のことを質問するんですか。」
「いやだわ。あたしはただ、サロンで踊りのお相手したり、向うの秘書官とお茶を飲んだりしてればいいのよ。その間に塩野さんたち、だいたいの向うの意向を探るんでしょう。」
こう云う話を聞くと、矢代は手近に今までいた千鶴子も、遠く距離を放して生活している婦人のように見えて困るのであった。
「それじゃ、なかなか面白いことも多いでしょうね。」
「ええ、たまには、ありましてよ。この間も一度、ピエールっていうフランスの若い書記官があたしの手に接吻するんですの。あたしまごまごしちまったわ。」
千鶴子は手の甲を一寸拭くように撫でてみてからまた云った。
「でも、パリの上流のお嬢さんにはあたし感心しましてよ。日本とはよほど違うと思ったわ。十八で難かしい哲学の本を読んでいて、男の人たちに質問して来るんですの。あのブロウニュへ行く道の、アベニュ・フォッシュにある家よ。下のホールが銀座の資生堂ほどもあって、別室にマキシムのコックが来ているんですの。あたしたちそこでお料理やお茶を飲んでから、ホールで踊るんだけど、でも、壁なんか綺麗なものね。タペストリも皆ゴブラン織で、ルネッサンス時代の大きな彫像が置いてあって、ほんとに素晴らしいクラシックよ。」
書生には少し不似合なこんな話を矢代はふむふむと興味をもって聞きながら公園へ這入った。すると、千鶴子とよく坐るベンチの方へ足が自然に動いていった。鉄の卸問屋の次女である千鶴子は金銭に不自由がないとはいえ、パリの最高級のサロンへ出入すれば予期しない贅沢な心も植えつけられるであろうが、若い時代に人の見られぬものを見ておくのも、思い残さぬ後の慰めとなって、心も休まるであろうと矢代は羨しく思うのだった。
「あなたはサロンへなんか出這入りするようになられちゃ、僕たち話し難くなりますね。」
と矢代は笑って空を仰いだ。
「そんなものかしら、でも、あんな所へ始終いってる男の方たちは、気骨が折れると思うわ。あたしたち女はただじっとしてればいいんだけど、男の方は家へ帰ると、もう骨なしみたいに、ぐったり疲れてらっしゃることよ。」
「塩野君なんか、あれでサロンの技術は上手いんですかね。」
「あの方は気軽な方だから、どこでもさっさとやってらっしゃいましてよ。向うのお嬢さんなんか、逢ったとき頬へ接吻するでしょう。あんなときでも上手にちゃんと顔を出してらっしゃるし、サロンのお嬢さん方をマドマアゼル何何なんて呼び方で、呼ばなくってもいいようなサロンも幾つも持ってらっしゃるの。マドマアゼルを除けて相手を呼ぶようになるのには、どうしても一年はかかるんですってよ、あの方たち、そんなサロンを一つ造ってくる度びに、さア今日は一つ落して来たって云って、はしゃいでらっしゃるのよ。おかしいってないの。」
矢代は妙な生活の苦労もあるものだなアと眼新しい感じで千鶴子を見ながら、
「つまり、サロンを落すのが仕事なんですか。あの人たち。」
「そうなの。ですから、あの方たち、日本人に不平を云ってらっしゃるのはね、日本人が大使館員を冷淡だと怒ったってこっちはそれどころじゃない、一つサロンを落すのだって、城を落すようなもので、疲れて疲れて溜らないってこぼしてらっしゃるのよ。あたしも、無理がないと思いましたわ。」
「それや、そうだな、日本人の心配を引き受けるのは領事の方の仕事だから、日本人のサービスまでいちいちしておられないだろうからな。」
「それに言葉だって、モンパルナスあたりの言葉を一寸でもサロンで使おうものなら、もう相手にしてくれないんですって。ですから、言葉が自由になればなるほど、一層自分の言葉の欠点が分って不安になるので、それで神経衰弱になるんだと仰言ってたわ。」
「ふむふむ。」
と矢代は一一もっともと頷いて聞いていた。これで眼にするパリのさまざまなものに感動するだけだって、相当激しい労働だと矢代には思われるのに、まして遊んで城を落さねばならぬとなると、その苦心は察するに難くはなかった。
「洋服なんかあなた困りませんか。」
「それは困るわ。あたし、お蔭でサロン用の、これで三つもサントノレで造りましたの。」
「一度僕にもたまには着て見せてくれないかなア。」
と矢代はサロンに出ている千鶴子の様子を想像して笑った。
「ほんとに見ていただきたいわ。そのうち、一度オペラへ行きましょうよ。ね。」
と千鶴子は明るい顔で矢代を見上げた。
「それや、賛成だな。」と矢代も愉快そうに空を見て云った。
ルクサンブールの公園の、ある繁みの下にある鉄のベンチは、矢代と千鶴子の休息の場所になって来た。矢代は自分の仕事の歴史の著述を一つするためにも、もうそろそろ皆から別れて一人ドイツへ旅立たねばならぬと思っていた。またもう一度パリへ戻って来るとはいえ、そのときには千鶴子はここにいるかどうかも分らなかったが、まだ二人は別れ難ない友情にまでどちらも深まってはいなかった。ただ季節は五月で、一本の樹の花を眺めてさえ心に火の点くような美しさを感じるのに、それが街街の通りや公園に咲きあふれているマロニエの花の眺めである。矢代もこのうっとりとする旅の景色を一人で眺め暮すよりも、二人で眺め楽しみたいと思った。
しかし、この五月の一番見事な季節になってから、パリの街街には左翼の波の色彩もだんだん色濃く揺れ始めて来た。殊に総選挙の結果、社会党の大勢が明瞭に勝ち始めてからは一層それが激しくなるのだった。
こんな日のよく晴れたある午後また千鶴子と矢代は公園で会った。
靴先のひどく立派に光った老夫婦がゆるやかに足を揃えて歩いて来る。その木の間のどこからか、弾んだゴム毬のだんだん力を失う音がした。
二人は無言のまま青芝の上に散っている鳩の羽毛を眺めているとき、急に千鶴子は思い出し笑いをして口に手をあてた。
「先日塩野さんが、ノートル・ダムの写真を撮りにいらしったんですのよ。あの方、お写真の方が専門だから、いろいろな角度からお撮りになっているうちに、とうとう鳩の糞のいっぱいある地面へ仰向きに寝転がって、上へカメラを向けたの。そしたら、傍で見ていたアメリカの観光客の一人が、自分もその通りに仰向きに寝て撮ってみてるの。」
矢代もおかしくなってつい笑いながら云った。
「塩野という人は、なかなか気持ちのいい方ですね。まだ長くこちらにいらっしゃるんですか。」
「何んですか、もうすぐ帰るようなこと仰言ってたわ、ノートル・ダムを撮ったのを全部集めて本にしたら、もうそれでいいんですって。」
もう日本へ帰るのだという人のことを聞く度びに、矢代は羨ましい気持が失せなかった。
「千鶴子さんはいつごろ帰る予定ですか。」
「あたしはいつだっていいんですのよ。ただね、暇なうちに一度こちらを見ておかないと、女ですから、見る機会がなくなるでしょう。」
「じゃ、なるたけ今のうちに、いろんな所を廻られる方がいいな。でも、よく御両親があなた一人を放されたものですね。」
と矢代はいつも訊き忘れていた疑問を自然に訊ねてみるのだった。特別に信用されている自分を説明するのに困るらしい千鶴子は、
「それや、兄がこちらにいるからでしょう。別に何も云いませんでしたわ。」
と短く答えた。
「しかし、兄さんも御心配じゃありませんでしたか。パリへあなた一人でいらっしゃるの。」
「そんな事、兄なんか心配してくれるものですか。それに、お船の中のお友達のこと、あたし兄に話したんですもの。」
矢代は黙って頷いたが、千鶴子の一人旅は良い結婚の相手の選択の機会を彼女に与えるために、兄も両親も赦したのにちがいないのであってみれば、自分が千鶴子へ馴馴しくすることは、それだけ彼女の良縁を払い落す結果になっているのかもしれぬと思った。
しかし、ヨーロッパへ来る婦人たちは、男性と違って自分の研究目的を明らさまにするのを嫌う習癖の多いのを聞き知っていたので、千鶴子もこれでひそかに研究する何事かあるのだろうと矢代も思っていたのだった。
「千鶴子さんはわざわざパリまでいらしって、何か研究してらっしゃればいいでしょう。そんなおつもりなんですか。」
「あたしはただ見るだけにしたいと思ってますのよ。でも、あたしなんか、何も出来ないつまらない女なんですもの、ですから、まア普通に働かねばならない方に比べて幾らか仕合せな方だから、なるたけ与えられた仕合せだけでも、楽しく守っていなければ、罰があたると思いますの。ね、そうじやありません。」
千鶴子の考え方には矢代もすぐ返事をすることが出来なかった。自分の幸福なときにその幸福を守りたいと願う婦人の苦心が、いかにも一見反省の足りない考えかのように思われがちな社会になりつつあるのだった。
「あなたのお考えにはなかなか大胆なところがあるんですね。」
と矢代は当面の答えとして先ず安全と思えることを云った。
「だって、あたしたち、なかなか幸福は得られないんですもの。あたしには少し人より早く幸福らしいものが来たんですから、やはり大切にしたいわ。あたし、何んでもそう思いますの。いけないかしら。」
千鶴子は優しい眼ざしで矢代の眼を窺った。
「それや、それより本当のことってないんですからね。誰も彼もみなあなたのような気持ちになりたければこそ、騒いでるんでしょう。今パリがそうだ。」
「そうかしら。」
千鶴子は思いがけないことを云われたように微笑しながら、梢の間に動く早い断雲に眼を向けた。自転車に乗って来た子供の太股の白さに日光が射していて、微風に蔓草の揺れる間を、切れるようなズボンの折目の正しい紳士が一人静かに歩いて来た。
「でも、あたし、実は何も考えることがないんですのよ。何かしら、高いお山の上に立って遠い所を見てるようよ。」
「ふむふむ。」と矢代もただ軽く頷くだけだった。見るだけ見ておけば良いときに、他人の欠点や美点をあげつらう気力は今の彼にはもうなかった。
後ろの方の小説の音読をしてやっている老婆の傍で、黙って聞いていた他の老婆が、小説の進むにつれときどき驚きの声を上げた。細い山査子《さんざし》の花が、畝の厚い縮緬皺の葉の中から、珊瑚に似た妖艶な色を浮べているのを矢代はじっと見ていると、傍の千鶴子もだんだん花そのもののように見えて来るのだった。
「何んて美しい花だろう。」
と矢代は思わず云った。
人と花とがこんなに一つに見えるということは、今までの彼にはまだ一度も経験のないことだった。胸は溺れるように危い心を湛えているのを覆すまいとしながらも、また危さに近づくように山査子のその巧緻な花を、身を傾け眼をすがめ飽かず矢代は眺めずにはいられなかった。二人は公園の中を廻り池の傍へ出たときに、
「今夜はアルサスの羊が食べたいわ。ね、アルサス料理になさらない?」
と千鶴子はいつもとは違い感覚の行きわたった軽快な微笑で矢代を誘った。
樹間をぬけ日のよくあたる広場へ出ると、またそこには一面の山査子《さんざし》だった。初めは人に気附かせぬ花である。しかし、一度びはっと人を打つと、心をずるずる崩してしまわねばやまぬ花だった。
矢代は千鶴子に近づく思いでまた酔うように山査子の花の下へ歩みよったが、これではいつドイツへ一人旅立つことが出来るのだろうかと、だんだん怪しくなって来るのだった。
二週間毎にマルセーユへ著く郵船の船と、シベリアを廻って来た汽車から新しい日本人がパリへ現れた。ドームにいても矢代は日日古参になって行く自分を感じた。妻を日本に残して来ている日本人たちは、シベリアから来る妻の手紙のない週は誰も憂鬱そうにしていたが、手紙の来た日は暢暢と元気が良く一眼でそれと見当がついた。中には恋人から来る手紙に不安な箇所が現れたというので、一寸一ヵ月日本まで走って帰ってまた来るという青年もいた。そうかと思うと、日本にいる細君に宛て、愛人が出来たが心配をするななどと、わざわざ書いて出す剽軽なものもあった。
しかし、総じて二、三年パリにいる人という者は、新参の日本人に一番冷淡でうるさがったし、またこれらの人人は最も激しいヨーロッパ主義者であることには一致していた。しかし、こんな人人が日本を軽蔑する理由は、すべて日本人がヨーロッパを真似し切れぬという一事に帰していた。なるほど、彼らの云うように日本には悪い所が多かった。第一に貧民が多い。肺病が満ちている。農民が娘を売るほど野蛮である。公娼が都市発展の先頭に立って活躍する。知識ある者が他人の欠点を鵜の目鷹の目で探し廻る。文化といえばヨーロッパとアメリカの混合である。悪点を数え上げれば、およそ良い所がどこにあるのかと云いたいほど数限りもなく沢山にあった。しかし、も少し考えると、それらの欠点は日本人の美点から生れて来た、他国には見られぬ花の名残りとも見られる球根につづいていた。またよし譬えそれらが汚点としたところで、矢代は、それらのいかなる悪点よりも、自然を喜ぶ日本の文明の中には悪人が少いと云う美点を何より喜ぶのであった。彼はこのような自分の考えの中に野蛮人が棲んでいることを感じないではなかった。しかし、それはヨーロッパの知識の中に潜んでいる野蛮さとはおよそ違った感情の美を愛する蛮人だと思った。矢代は自分の仕事の歴史の著述を進める上にも、一度この違いを突きつめてみてから根拠をそこに置き、人間の生活の発展に連絡をつけねばならぬと考えるのであった。このような考えが日に深まるにつれ、彼はいよいよパリをひとり放れてゆく決心もついて来たが、千鶴子という一個人にふと想いが捉われると、頭の中に描かれてゆく人間の歴史も停頓する微妙さに、これはただの冗談ではすまされぬ人間の基本の苦しさだと苦笑し、あきらめ、また味いつつ、さらにこの思い切り難い心の切なさから、欲深く思想の本体さえ掴みしめたいとも思うのだった。
ある日、ドームで千鶴子と矢代がショコラを飲んでいると、丁度二人の前で、黒人の女と白人の男がしきりに何事か睦まじそうに話し込んでいたことがあった。
矢代は見ているうちに、どうしても一致することの出来ない人種の見本を眼のあたり見ている思いに突き落され、その二人の間の明白な隙間に、絶望に似た空しい断層を感じて涙がにじみ上って来た。こんなことにどうして涙が出るのだろう。これは自分もよほど神経衰弱が嵩じているのだなと思い、なおもじっと二人を見ていると、見れば見るほど涙がとめどなく流れ出て来た。
「いやね、どうなすったの。」
と千鶴子も矢代の涙を見たものと見え、そう訊ねた。
「何んでもないですよ、ここはもう、人を愛するなどということは出来ないとこだと、分って来ましたね。」
「どうして?」
千鶴子は一瞬眼を光らせて矢代を見た。
「愛じゃもうここは運転しない。技術ばかりなんだ。それももう技術まで終りになって来たのだなア。」
「じゃ、何があるの。」
「何もない。」
千鶴子にはもう矢代の気持ちが全く分らなくなったらしい驚きの表情で黙った。
「しかし、僕はパリがこのごろだんだん好きになって来たのは、ここには僕らの求めるものが、何もないからだということが、分って来たからですよ。力の延びてしまった横綱の負けてばかりいる角力を見ているみたいなもので、化粧廻だけ見ている分には、のどかな気分で、気骨が折れないからな。」
ぶつりぶつりと切りまくってゆくような矢代の云い方は、ただ乱暴なというより、捨身のような快感に自分を晒し出したい切なさがあったが、事実矢代はこういうと同時に、自分の言葉の強さに随って幾らか安らかになるのだった。
「ここは人の休みに来るところね。休もうと思えば幾らでも休める所ですものね。」
と千鶴子も、今は当らず触らぬことを云って矢代のいら立たしさを慰めようとするのだった。
「そうそう。人が休むときには、どんな顔をして休むものか、僕らは見に来たようなものですよ。僕はここでいろいろなことを考えたけれども、結局、人は働かねばいられぬということだけが明瞭になりましたね。心の故郷というのは、働くということより何もないのですよ。」
千鶴子は、はっきり手の指の影まで映る道路の面から、照り返っている真鍮の鋲の光りに眼を細め、
「でも、それは皮肉よ。あたしなんか何も働けないんですもの。これ、こんな手。」
と矢代の前へ一寸両手を出して見て笑った。
「あなたなんかは物の批評眼を養いに来たんですよ。パリなんてところは、僕らの生きている時代に、これ以上の文化が絶対に二つと出ることのない都会ですからね。見ただけでもう後は一生の間、何んだって安心して批評が出来ましょう。だから、ここにいるからには遊ばなきア損ですよ。日本の農村の売られる娘のことなんか考えていちゃ、ここでは力は養えない。」
「じゃ、あたし、サロンへまた行ってもいいんですのね、それをこの間から伺いたかったの。」
「あなたなんかしっかりと遊べるだけ遊んで帰りなさいよ。それがあなたの務めだ。人に気がねなんか今しちゃ駄目だな。」
矢代にしては思いがけない答えを引き出した喜びに千鶴子は肩を縮めて見せ、
「それであたしも安心したわ。実は明日の夜も六時から、一つ出るところがあるの。プレデイリ・オネーの頭取さんのサロンよ。」
「とにかく、僕もあなたと楽しく遊ばせてもらいましたが、もうそろそろお別れしましょう。僕はミュンヘンからウィーンの方へ行かなくちゃならんのですよ。」
云い難かったことも矢代は意外に躊躇なくそんなに云うことが出来ると、いよいよそれではもう実行にかかるべきときが来たと、心をひき緊めて行くべき遠くの空を胸に思い描くのだった。千鶴子は矢代の突然の話も、さきからの彼のいつものと違う変化を知っているためか、さして驚いた風はなかった。
「じゃ、景色のいい所があったら、電報を打ってちょうだい。そしたらあたしすぐ行きましてよ。行く先のホテルの日を験べておいていただけないかしら。」
「そうしましよう。」
と矢代は云った。しかし、彼は心中、もうこのあたりで千鶴子とは別れてしまい一生再び彼女とは逢わない決心だった。もしこれ以上逢うようなら、心の均衡はなくなって、日本へ帰ってまでも彼女に狂奔して行く見苦しさを続ける上に、金銭の不足な自分の勉学が千鶴子を養いつづける労苦に打ち負かされてしまうのは、火を見るよりも明らかなことであった。
矢代は千鶴子のホテルの方へ彼女を送って行きながら、こうして愛する証左の言葉を一口も云わずにすませたのも、これも異国の旅の賜物だと思った。建物の上層ほのかに射している日光を仰ぐと穏かな浮雲が流れていた。雨に流され鋪道の石の間に溜りつつ乾いた綿のような軽い花の群れが、自動車の通る度びに舞い上り、車輪に吸い込まれて渦巻きながら追っていった。
パリを出発してから矢代は南ドイツに入り小都会や地方を廻ってチロルの方へ出て来た。
オーストリアと、ドイツ、イタリア、スイスに跨った山岳地方一帯の地名をチロルと呼ぶが、矢代は東京を出て以来、日本人から全く放れて一人になったのはこの旅行が初めであった。このあたりは矢代の知っている言葉はほとんど通用しなかった。日本人の顔とては一人もなく、言葉も全く通じないということは、ときにはこれほども気楽で楽しいものかと思ったほど、矢代は真に孤独の味いを飲み尽した。ああ、こんな楽しいことが世の中にあったのか。と、彼は汽車の窓から外を見る度びに、心が笛を吹くように澄み透るのを感じた。身体も絶えず真水で洗われているようであった。ときどき湖水が森の中から現れたり消えたりしたが、地図など拡げてみようともしなかった。
矢代は千鶴子のことを思い出すこともあったが、今は彼女と別れて来たことを良いことをしたと思った。一人になってから車中や街中でふと肉感の強い女性を見ると、泥手で肌を撫で上げられたような不快さに襲われた。
南ドイツの国境近くになって来ると、牧場の花の中に直立している岩石の上から氷河の流れ下っている山脈が増して来た。全山貝殻の裏のような淡い七色の光りを放った絶壁が浮雲に中断され澄み渡った空の中に聳えている間を曲り曲って行くのだった。そして、オーストリアの国境あたりまで辿りついたときに初めて矢代は汽車から降ろされた。
乗り換えのない汽車だと聞かされてあったので、その村里の寒駅へ放り出されては、何事がひき起されたのか全く矢代には分らなかった。むかし習って忘れてしまったドイツ語で、ようやく次の列車を二時間半も待たねばならぬと知ったときには、むしろ、矢代はこれ幸いと思い、駅前の花野の中のベンチに腰を降ろした。
高原を通って眼にして来た山山の中、今矢代の仰いでいる寸前の山ほど彼を驚かしたものはまたとなかった。巨大なミルクの塊のようで一条の草もない。空よりも高く突き抜けているかと見える頂から、氷河を垂らしたその姿は、見れば見るほどこの世の物とは思えなかった。あまり見惚れていたものか首の後ろが疲れて来たが、彼は花を摘みつつ歩いては山をまたぼんやりと眺めてみた。
そのうちに疲れが全身に廻っていると見えて、眠くもないのに瞼がだんだん塞がって来た。彼は眼をこすりこすり幾度も山を仰いでいると、あたりがぼうと霞んで来た。これはいよいよやられたなと矢代は思った。日本を出発するとき衰弱の激しかった彼は、多分旅中死ぬかもしれぬと自分で思い、友人の二三の者から注意をされたのも思い起すと、やはりこの一人旅行は無事ではすむまいと覚悟した。しかし、今は矢代は楽しさに胸のふくるる思いであった。花野の中に一軒見えた茶店へ這入り、屋外の椅子にかけて牛乳を註文した。ビールを飲む大きなコップに搾りたての冷たい牛乳を、足をはだかり山を仰いで傾けていると、山も雲も氷河もともに冷たく咽喉へ辷り流れて来るのであった。
足のぎしぎし鳴る椅子に反り返り矢代は、周囲の高原を見廻してはまた牛乳を飲んだ。青青とした牧草が一面に花筒を揃え氷河の下まで這い連って消えている。後方の樹木の多い山の中腹にはホテルや別荘が建っていたが、人通りは花摘みに行った別荘の娘たちの日に焦げた姿が多かった。
「絵葉書が欲しいんだが。」
と矢代は茶店の主婦に云ってみた。主婦はしばらく顔色を見ていてから絵葉書を出して来たが、高山植物の葉書に混った中に二枚、角の生えた鹿の傍に卵の殻から生れて来る鹿の子の写真があった。ここの鹿は卵から生れるのであろうかと矢代はまたもびっくりした。景色までここは現世のものではないだけに、流石に生物も自から違うのであろうと思い、これで何よりの土産になったと、疲労も忘れて元気になったが、店を出て駅の方へ歩いて行くと、また眼がくらみそうに疲れを覚えた。眼前に突っ立っているミルクの巨塊のような山を見るまでは、疲れもさして覚えなかった筈だのに、この不思議な山を見て以来、のしかかられるような疲労に襲われるのは、これはいったいどうしたというのだろう。――
矢代は小首をかしげ道の中央に立ちはだかったまま、なお山を眺めつづけてやめなかった。すると、雲つくばかりのそのミルクの巨塊は静かに潜んだ雷電の巣のように見えて来て、見れば見るほど力が胸から吸いとられていくのだった。
「この山は見ると悪いのだな。」
と矢代は思った。彼は汽車の来るまで山の見えない待合室に隠れ、自分の荷物の傍へよりそっていたが、どうにもその不思議な山が気にかかり、ときどき屋根の下から出てみてこっそり山を仰いだ。すると、その度びに脊骨の中が暗鬱な痛みを覚え、周章《あわ》ててまた屋根の下へもぐり込んだ。
時間になって軽便のような汽車が著いた。矢代は汽車に乗るとまた幾らか気持ちを取り戻した。窓から石炭の粉がひどく這入って来たが、レールの周囲の高原は眼を奪うばかりの花で満ちて来た。彼は窓から首を出し、花の中を割るようにして曲ってゆく汽車を見ていると、ぼこぼこ煙を吐き出している苦しげな機関車が道化た老人じみて面白かった。牧草の花の向うに氷河を流したスイスの山山が連って現れた。羊の群れが山峡の草の中を地を這う煙のようにぼッと霞んで見えたと思うまに、また花に満ちた高原が両側につづいた。
こんな綺麗なところなら今夜ホテルへ著いてから千鶴子へ約束の電報を打っても良いと矢代は思った。パリを出発するときチロルへ著く日と宿とを報らせておいたから、あるいは久慈だけでも今ごろ先に宿に著いているかも知れぬと思われたが、それでもまだ当分彼は久慈に逢いたいと思わなかった。
パリにいるときさまざまな議論をしたことなど考えると、久慈への懐しさは日に倍して来て、彼はもう永らく一言も饒舌らぬ日本語をぶつぶつと久慈に向ってひとり呟くほどだったが、まだ言葉の分らぬこの一人旅行の楽しさは、今も何物にも換え難かった。
「こんな所へ来ないなんて、馬鹿だな君は、何んて馬鹿だ。」
矢代は声に出してこんなに云ったりした。そして、窓枠に顎をつけ、山脈を蔽った氷河を見ていると、世界の空気が自分一人に尽く与えられたように感じられ、涙が溢れて来て幾度も眼を拭いた。何というか、それは生れて以来の時間の重みが一時に解き放され、羽搏き上った放楽のような夢に似ていた。
彼は窓から乗り出すようにして繰り現れる景色の一点も見逃すまいとした。色とりどりの花の波が高く低くうねりながら古城を巻き包んでいる。少女がその高原の中を真直ぐに自転車のペダルを踏んでいく。霧が谷間から湧き上って来る。
「いや、来て良かった。もう何ものも要らん。」
深く頷く矢代の眼の前で機関車は、高原の風景はまだまだこれからだと云わぬばかりに無限に頁を繰り拡げていくのだった。こうして、日の暮れかかる前にようやくチロルのインスブルックへ著いたときは、矢代はがっかりと疲れてしまった。
クックであらかじめとって貰って置いたホテル・カイザは駅からすぐだった。彼は久慈から手紙でも来ていないかと思い訊ねてみるとそれはまだだったが、出された宿帳へ名を書き入れてふと自分の名の上の署名を見ると、千鶴子の名が見覚えの筆跡で書いてあった。
疲れとともにようやく人恋しさの加わっているときだったので、矢代はあたりの室内が急に体温に温められた明るさで満ちて来た。案内されて登る未知の階段ももう自分のもののような手触りを感じ、せかせかと馳け登りたい親しさだった。定められた部屋で旅装を解いてから、矢代はすぐ千鶴子の部屋を訊ねてドアを叩いてみた。
「あんとれ。」
と中から声があり矢代はドアを開けた。
「あら。」手紙を書いていた千鶴子は、振り向くと同時に急に安心したようにペンを投げ出して立って来た。
「あたし、ひやひやしてましたのよ、今朝著いたんだけど、もしかして矢代さん、いらっしゃらなければどうしょうかと思ってたところなの。」
矢代は一瞬菊の香りに似た風が千鶴子の身体から吹き込んで来るように思われた。
「まア、青いお顔よ、お疲れになったの。」
心配そうに云う千鶴子の前に立ったまま、矢代は、
「よく分りましたですね。」
と云ってしっかり握手をした。全く彼は夢想もしなかった喜びに、煌煌と火の這入った満された思いでしばらく茫然として部屋の中を眺めていた。
「日本語を使うのは今日初めてですよ。何んだか変だな。」
「でも、御無事で良かったわ。」
「無事は無事ですが、夢を見てるみたいだ。僕は今来る途中で、とてつもない山を見ましてね、入道雲のような山なんですが、山全体が磁石で出来てるようなもので、そ奴を見ると、疲れてへとへとになるんですよ。」
云うことがどうも頓珍漢になりそうなほど突然の気楽さのためか、事実二人がここにいるということだけで話などはもうどうでも良いのだった。
「まア、どんな山?」
と千鶴子もこう訊き返したものの深く訊きたい様子はさらになかった。矢代は痛んで来た肩を操みつつ、
「さア、絵葉書にはミッテンワルドと書いてあるんだが、口の中で繰り返して云ってると、見ると悪いぞという意味になって来て、驚いて逃げて来たところなんです。」
二人は笑いながら長椅子にかけて向い合った。
「でも、この街もあたし、不思議なところだと思いましたわ。」
「そうだ、ここも恐ろしいところだな。何しろ、見ると悪いぞのつづきだから。」
窓から見える所だけでも、犀の肌のような樹のない石の高山の頂から、街の上まで氷河が流れ降りていた。三方から垂れ流れたその氷河の狭い底辺に、森閑として建っている大都会がこの街であった。一条の塵も落さぬ清潔さでサフランの花の満ちた牧場に包まれたこの街は、最上の彫刻を見ているような深く冷たい襞を貯えて静まっていた。
「もう夕暮だからいいけれども、お昼にあの山を見ていると恐くなって慄えて来るようよ。あたし、こんな所に一人でなら一日もいられないわ。」
矢代は山を見ていると、永久に腐らぬ悲しみというようなものが満ちて来て、久し振り千鶴子に逢った感動も岩の冷たさに吸いとられていくのを感じた。それは冷厳無比な智力に肌をひっ附けているような、抵抗し難い命数に刻刻迫られる思いに似ていた。
「これはミッテンワルドより一層たまらないな。しかし、明日は一つ、あの山の上へ登ってやろう。」
矢代はこう云って山に背を向けてから久慈や東野のその後の動静を訊ねるのだった。
入浴して後二人は夕食をとり、旅の話をしているときから雨が降って来た。夜の散歩も雨のやむのを待ってからにしようと云って、二人は矢代の部屋でまた話をしていると、雨は夕立となり篠つくばかりの激しさになって来た。
矢代は疲れて千鶴子と別れその夜は早く眠ることにしたが、雨の音の激しさに灯を消しても寝つかれなかった。彼はまた起きると、カーテンを上げ、窓に肱をついて山の方を仰いでみた。氷河を貫くように斜に降る強い雨足が、建物に衝り爆け、石の壁を伝って流れ落ちると、道路の上で音立てて崩れていった。
昼間の日光に温まった山山の岩も冷えて来たのであろう。急に冷くなった空気に矢代の身体は縮まったが、人一人も見えぬ彫りの深い夜の街に雨の降り込む美しさは、鬼気身に沁み込む凄絶な趣きだった。
矢代は、暫くしてノックの音が聞えたのでドアの鍵を廻すと、千鶴子が真白な服で立っていた。
「あたし、恐くって眠れないのよ。もう少しお話してちょうだい。」
寒さに慄えるように千鶴子は肩を縮めて這入って来た。
「ひどい雨ですね。僕も眠れないもんだから雨を見てたところです。閉めましょうか。」
「いえ、いいわ。」
こう云っているとき、強い稲妻が真近の空で閃いた。氷河が青く浮き上ったと見る間にびりびりと震え、梭《ひ》のように山から山へ閃光が飛び移った。
千鶴子は耳を蔽って椅子の背に小さくなっていたが、稲妻はひきつづき山を喰い破らんばかりの音立てて閃いた。矢代は窓を閉めた。
「あの山は鉄ばかりだから雷が集って来る。戦争みたいなものだ。」
千鶴子はまだ耳を塞いでいるので矢代の言葉は聞えぬらしかった。
「こんな恐しいところ、あたしいやだわ、早くパリへ帰りましょうよ。」
「凄いなア。」
長椅子の上へもたれかかって矢代は煙草に火を点け、まだどこまで続くか分らぬ空の光りを眺めていた。雨脚が白い林となって吹き襲った。
「あら、また。」
と千鶴子は青くなった。爆烈して来る音響の中で明滅する氷河は、夜の世界を守護している重厚な神に似ていた。矢代は身を切り落されるような切実な快感に疲れも忘れさらに続く閃光を待つのだった。稲妻に照し出される度に表情を失い、白い衣の中でい竦んだ雌蕋に見える千鶴子が、矢代には美しかった。
「あたし今夜は眠れないわ。雷が一番恐ろしいの。」
「じゃ、この部屋でやすんでらっしゃい。良い時刻が来たら起して上げますから。」
千鶴子は聞えたのか聞えぬのか黙ってやはりそのまま動かなかった。間もなくだんだん雷は鎮まって雨も小降りになって来ると空気が一層冷えて来た。千鶴子の顔は再び生気を取り戻して動き出した。雨が全くやまったとき二人は久慈にあてて、チロルの山の恐ろしさ美しさを寄せ書きしてまた遅くまで話し込んだ。
少しの雲もない朝である。ロココ風な等身大の肖像画のかかった食堂で矢代は千鶴子と食事をした。朝の日光がもう白い食卓の薔薇の上まで拡っている部屋の、旅客の誰もいない遅い朝食も、二人には却ってのびのびとした気楽さだった。食事をすませてから二人は街へ出た。澄みわたった空に浮き上ったまま、触れんばかりに街を取り包んでいる氷河は、海浜に連り立った爽やかな白い建物を見る思いであった。しかし、それも長く見つづけているうちに、山山の肌は深海を覗くような暈《めまい》を感じさせる。千鶴子は装飾窓にかかっている土地製のチロル帽を欲しがって店店を廻った。
「これどう。あたしに」
おから型の縁を縄のように縒ったリボンのチロル帽は、都会の婦人に喜ばれる風だったが、それも旅の愁いの現れに似ていた。この街には土地の者はあまり見えず、滞在客にイギリスやドイツから来る旅人が多いらしい。装飾窓の品品も写真機とか山岳地の木彫の玩具とか、民芸風のリボン、帽子などが多かった。絵葉書の絵にも氷河を後ろに旅人と別れを惜しむ土地の娘の悲しさがあり、遠い異国の方へ流れる雨の行方を見つづける人の姿絵なども、矢代には旅の感傷となって生きて来た。
「ほんとに、ここはあんまり静かで、耳が痛くなるようね。」
靴の音の響き返る鋪道を歩きながらも、建物の間からふと見える氷河の根を見て千鶴子は立ち停った。
「東野さんもいらっしゃれば、きっとまたここで俳句をお作りになることよ。ブロウニュの湖水では、面白うござんしたわね。」
矢代はいちいち軽く頷きつつ公園の方へ歩いた。街の端れにある公園は矢代の見て来たどこの公園よりも美しかった。地の上まで枝を垂らしている大樹の間から、鉛色の山肌に下った氷河が鋭く、手も届きそうであった。
「今日は暑くなりそうね。きっとあの山が焼けて来たからだわ。」
ハーフレカールの山頂の迫った下にテラスがあった。樹陰いちめん白布を敷いたテーブルが並んでいて、一人の客もない白い広さの中に二人は休み、ミルクを註文した。鶯の老けた声が小鳥の囀りを圧して梢から絶えず聞えて来た。昨夜の雨でまだ濡れている日蔭の道を、ウィーン風の立派な白い髯の老紳士が、杖をつきつき衰えた歩みを運んで来る。千鶴子は口についたミルクを手巾で拭きながら、
「あなたも俳句お作りになるといいわ。」
と矢代にすすめて笑った。
「もうそれどころじゃない。こんなところにいると、何をしていいか分らなくなりますね。まるで馬鹿みたいだ。」
足もとへ擦りよって来る栗鼠の敏捷に動く尾を見降ろしていた矢代は、全く張りのなくなったように、清澄な空気の中で今にも欠伸の出そうな顔であった。
「こんな美しいところで人間が一生棲んでいたら、非常に勉強したくなるか、博奕ばかりやりたくなるかもしれないな。」
「でも、ここはオーストリアじゃ、一番お金持の多いところだそうでしてよ。」
「それや、人の胆をこんなに抜けば、お金は儲かりましょう。氷河で儲けようってんですからね。」
大樹の繁った園内では真空のように一本の木の葉も動かなかった。小鳥の声のよく響く樹幹をめぐり、薄紅色の紫陽花の群れが蜂を集めている。矢代は片頬を肱で支えテーブルに凭れているうちに、卓布の上を這う山蟻がだんだん大きく見えて来た。身体が浮き上っていくのか沈み込んでゆくのか分り難い。日光のあたっている胸が気だるく大儀になると、「さア」と矢代は云いつつゆるりと立った。木蔭の所どころに塊っているベンチの人も、物云う者は誰もなかった。どの樹も小鳥の声の泉かと見える。幹を降り辷って来る栗鼠だけが、氷河の襞に湧く虫のように自由にぱちぱち這い競って動いていた。
「お昼から山へ登りましょうね。あたし、写真機を買おうかしら。」
千鶴子ももう云うことがないのだと思うと、一口の無意味な彼女の言葉も、両手で受けたく清らかに矢代には見えるのだった。
「あなた写真お上手ですか。」
「それが駄目なの。でも、撮れればいいわ、きっと後で失敗ったと思うんですものね。」
と身の廻りでほッと開く連翹のような鮮やかさで笑む千鶴子を、樹陰からこぼれ落ちる日光の斑点の中で、矢代はただ今は頷くばかりである。
写真機を千鶴子一人に買わせるよりも、二人で買う方が旅の記念にもなると思い、矢代は等分に金を出し合うことを主張して、ある店で手ごろなシュウパアシックスを買った。
「あたし、この写真機いただくわ。でも、それはあなたとお別れするときでいいんですのよ。大切にしまっときたいと思うの。」
こう云う千鶴子に勿論矢代は異議がなかった。間もなく必ず別れねばならぬ二人である。そして、そのように思っても別に悲しみを感じない。異国の旅にふと出会ったかりそめの友情であってみれば、日本にいたときの互の過去さえすでに白紙であり、またそれをどちらも探り合う要もない、共通の淋しさ儚なさを守り合う身に沁む歎きはあるとはいえ、それはただ甘美な旅の情緒にすぎない。
「まア、自転車のチェーン、こんなによく聞える街って、珍らしいわ。」
教会堂の高い十字の下で、千鶴子は塵一つない通りを辷って行く自転車を振り返って云った。どの街にも人はあまりいなかった。彫り深い彫刻のようなその静かな通りに、生き生きと影だけ明瞭に呼吸しているこの都会の奇怪さも、氷河を見馴れてしまった矢代には自然だった。ふと覗く店店からも時計の音が際立って高く聞えた。
昼食の後矢代と千鶴子は登山バスに乗って山の中腹まで行った。バスの中の人人はそこのホテルへ帰るものや、山頂へ行くものたちであったが、詰っている周囲の顔も、もう矢代たちにはどれも外人の顔のようには見えなかった。いつの間にか違う種族の人間も、東京の街角でバスの来るのを待ち合う顔と同じに見えている二人だった。
山の中腹でケーブルに乗り換え、さらに山頂まで二度ほどのレールを変えた。ケーブルの下は花の野の斜面であった。街が次第に低く沈むに随い、横を流れる河が渓間に添いウィーンの平野の方へ徐徐に開けて行くのが見えた。終点の駅は旅宿をもかねていた。人人はそこのホールで皆足をとどめて眺望を楽しみ、そこからまた下へ降りるのであったが、矢代たちは駅から放れてまた頂の方へ登っていった。もう後からは誰も来なかった。
樹の一本もない山路である。路の両側には氷のように塊った残雪が傾いて流れていた。雪のない所は地を這ったねじれた灌木が満ち、一面に馬酔木《あしび》の花のような小粒な花の袋をつけていた。
「あらあら、牛がいるわ。」
と千鶴子は云って谷の方を覗いた。
一面のサフランの花を麓から押し上げている牧場を登って来た牛である。牛は首の鈴を鳴らせつつひとり雪の中を歩いていた。氷河の溶けて流れる水音がときどき雨かと矢代の耳を引いた。靴底に痛みを覚える石ころ路にかかると、スイスの山の方に流れる雲もだんだんと低くなって来た。
「あたしのいるこのあたり、もうこれでスイスかしら。まだだわね。」
山山の連りをぐるりと見廻す千鶴子の胴の黄色なベルトが、今はただ一本の人里の匂いであった。
山の頂を横にそれ曲った所に山小屋があった。矢代はピッケルを二本と、靴下とサンドウィッチをそこで買い、千鶴子と頒け持ってまた山路を歩いた。小舎の番人から、間もなく見える氷河を渡らねば向うの山頂へ出る路は断たれていると聞き、思い出にそこを一度渡ってみようと云うので、買物の準備を一応してみたものの、その氷河の幅を見なければまだ二人には決心がつきかねた。
「塩野さんも去年そこの氷河を渡ったとか、仰言ってましてよ。そこを渡ると、向うの谷間に、羊の群が沢山いるんですって。」
千鶴子は子供っぽく眼を輝かせて矢代を見ながら、
「ね、それを見ましょうよ。夕暮になると、羊飼いがチロルの歌を唄って羊を集めるんですって。その美しいことって、もう何んとも云われないって、そんなに云ってらしたわ。それを見ましょうよ。」
「見るのは良いが夕暮じゃもう帰れないでしょう。」と当惑げに矢代は云った。
「でも、山小舎があるから、そこで泊れるんだそうですよ。その代りに、乾草の中で眠るんですって。」
「それもいいな。」
「ホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。そこで今夜はやすみましょうよ。」
他人は誰も見ていないと云え、自分の愛人でもない良家の令嬢と、何の結婚の意志なく乾草の中で眠ることについては、ふと矢代も躊躇して黙っていた。しかし、千鶴子が少しの懼れも感じず云い出すその無邪気さは、パリでの度び度びの二人の危険も見事に擦りぬけて来た美しさであった。また矢代もそれに何の怪しみも感じない旅人の心を、簡単に身につけてしまっている今である。
「じゃ、行きましょうか。しかし、僕よりあなた辛抱出来ますかね。」
と矢代は千鶴子の服装を見て云った。
「あたしはホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。チロルへ来たからには、チロルらしい方がずっと面白いんですもの。」
相談が定ると二人は一層元気が増して来た。蜜蜂の群れが山路の両側で唸りをたてて飛び廻っていた。ドイツの国境の山山は藍紫色の断崖となって立ち連り、中腹を断ち切った白雲の棚曳く糸が、その下の渓谷の鋭さを示しながら、尾根から尾根の胴を巻き包んで流れている。もうまったく人里は見えなかった。路を曲ると急に冷気が真新しく顔を打って来た。スイスの山山が天と戯れつつ媚態をくねらせ、日光に浸った全面の賑やかさの中から白い氷の海が見えて来た。
「ああ、あれがそうだわ。あそこを渡るのね。」
千鶴子は云いながら足早やに路を急いだ。鋸の歯のようにぎざぎざの氷の峰を連ねた半透明の氷河は、かすかに傾いた趣きでいよいよ全幅を二人の前へ現した。矢代は道の尽きたところに立って氷河を見降ろしながら、
「どうもしかし、こ奴はなかなか危険だぞ。」と呟いた。
「じゃ、矢代さんはあたしの後について渡っていらっしゃいよ。あたし、こういうところは案外お上手なの。」
千鶴子にそう云われてはもう矢代も後へは退けなかった。氷の傍まで降りて行って見ると、氷河は高さ五米ほどの鋭い歯形の起伏を、二町の幅の中にぎっしりと無数に詰め谷間を下へ流れていた。二人は用意の靴下を靴の辷らぬ用心に靴の上から履き込み、手袋をはめて氷河の斜面を登り始めた。
一つ二つの尾根は矢代が先に立って、靴の踵で氷を傷つけつつ、後の千鶴子の登る足場を造る役目になった。しかし、三つ四つと渡り越すうちに、氷の峰と峰の間の断層が底知れぬ深さを潜めて増して来た。一つ辷って足を踏み脱せばどこまで落ちるか分らぬ断層が、ガラスの断面のようなびいどろ色の口を開け、降りて来る二人の足を待っていた。もう草もなく、いつの間にか二人の周囲はまったく氷ばかりの歯となって来ると、矢代は斜面の急な部分を迂廻する心掛けで、現れて来る不規則な氷の群峰を選び進まねばならなかったが、間断なく同じ動作をつづけるこの氷の歯渡りは、石工のような忍耐が必要だと悟って急がぬ用心をするのだった。
「上から見たときは狭かったようだけど、這入って見ると、ほんとに氷河って大きいものね。」
千鶴子はピッケルを打ちつけつつ、上から垂らす矢代のバンドを握って云った。
「冷いかと思ったが、そうでもないなア。これ、こんなに汗ですよ。」
「あたしもよ。写真をそのうちどっかで撮りましようね。」
引き上げられながら登って来る千鶴子を見ながらも、矢代はもう少し自分に力があればと、今は隠せぬ努力の不足に羞恥を感じて歎いた。それも労力だけではなく、智力も同様に貧しい自分について、彼女を引き上げる度びに感じるその操作は、二重の心苦しい瞬間となってときどき矢代の胸を打って来た。これでもし千鶴子と結婚するような機会を持てば――と、ふとそう思う聯想につれても、氷河は自分には天罰を与えた苦手だと彼は苦笑するのだった。
千鶴子の顔は赤味を帯んで熱して来た。額の生え際に細かい汗をにじませ、股のふくらみを折り曲げつつ、氷の面へせり登って来る千鶴子と見合う視線の閃めきも、冴え返っている白光の中ではただ一点の光りに見えるばかりである。
鈍い氷の斜面が現れると、二人は腰を氷に附けたままずるずる辷り降りた。鋭い氷山はときどき中央に空洞を開けていて、その穴から向うを辷る千鶴子の姿がよく見えた。尾根の描く氷の歯の先端は、日光のために鈍く溶け崩れていたが、それでも半透明のまま、それぞれの姿態の鋭さで天に向って立っていた。
「一寸矢代さん動かないで。」
千鶴子は峰に跨がるような姿で矢代にカメラを向けた。断層を飛び渡った矢代は瑠璃色の割れ目の底を覗き込みながらじっとしていた。
「はい有難う。この次、洞があったら、そこからこちらを覗いて下さらない。そこも一つ撮りたいの。」
細かい砂を少し含んでうす汚れている氷の面は、足場を造る度びに、新しい輝きを壊れた断面から現した。臙脂《えんじ》色の千鶴子の姿が尾根の上に全貌を現したときは、来た峰の上に折れまがった長いその影を取り包んで、七色の彩光が氷の面面に放射していた。
「お疲れになったら、あたしが先に行きましてよ。そう仰言って。」
と千鶴子は矢代の疲労の色を見てとって云った。
「少少疲れましたね。あなたは山登りはお上手ですか。」
「幾らかだけど、でも矢代さんよりはお上手らしいわ。」
「何んでも僕の方が少しずつ負けなんですね。これや日本人の特性かな。」
と矢代は云って腰を叩きながら笑った。千鶴子はちらりと微笑をもらしたかと思うと両肱を後ろにつき、曲げた膝にカメラを受けとめ、同じ微笑を崩さずさっと氷の斜面を辷り下った。下にいた矢代は受けたそうな手つきであったが、ねっとり汗ばんだ掌をズボンで拭き拭きまた断層を飛び越えた。
「ここのことかしら、あたし、何んかで読んだ覚えがあるんだけれど、この氷河の断層へ新婚のお婿さんが落ち込んだんだそうですのよ。そうしたところが、死体がいつまでたっても分らないから、花嫁さんは山の麓へ降りていって、氷河の溶けるまで永久に待っていて死んじまったって、あのお話御存知でしよう。」
「そう云えば思い出しましたね。多分その話はここのことかもしれないな。」
「あたしここだと思うの。ここはそういう人の来るところですものね。」
千鶴子はそう云いながら、ピッケルで欠いた氷の破片を、断層の底へ投げ込んで覗いてみた。破片はすぐ見えなくなったが、屈曲する断面にあたる氷の音が、「ころん、ころん、」と軽やかなわびしい音をたてつづけ、だんだん小さくなりつつ消えていった。
「まアいい音だわ。一寸お聞きになって御覧なさいよ。」
と千鶴子は矢代を呼んだ。二人は擦りよるように身を蹲め、破片を投げ込んでは断層に耳を近づけた。まったくそれは果てしれぬ氷河の底へ落ち込む虚無の音であった。音が消えてもまだ鳴りつづける幻聴となって、半音を響かせる絃の音に似ていた。矢代は空を仰いだ。日が照り輝いているのに、松柏を渡る風のような虚しさがじっと浮雲を支えていた。
「どっかでサンドウィッチ食べましょうか。お腹が空いて来たわ。」
延び上って来る千鶴子の肉声が耳もとですると、矢代は腰の手巾の包みを開けて出した。
「こんなところでいやしんぼうすると、断層の中へ落ち込みますよ。」
「じゃ、あなたも召し上れ。」
手を延ばしてサンドウィッチを取る千鶴子の頬笑みから矢代は目を反らした。心にこれだけは云ってはならぬぞと、云いきかせた二人の慎しみの裂け口を飛び越す思いであった。
「僕は監督だからな。」
軽く笑いながら自分も食べる矢代を見て、
「おやおや。」
と云いつつ千鶴子は今度は自分が先に立ち、氷の牙を登っていった。矢代はカメラを千鶴子から受けとった。
氷の尾根の線に添いおぼろな虹が立っていた。その中をまた二人は登り降りしつづけた。汗が全身に廻って来ると、矢代は、もう身を取り包んでいる周囲が尽く氷河だとは思えなくなって来た。物云うのもだんだん億劫になって来て、足もとに開いた断層も何んの危険な深みとも感じなくなるのだった。
「お疲れになって?」
千鶴子は氷河の三分の二ほどのところで氷の歯の上に跨がり、矢代を見降ろして訊ねた。矢代は彼女の垂らすバンドに掴まり、「何あに、大丈夫。」と云いつつ登ったが、あたりに漲る強い白光に眉のあたりが痛んで来た。
「そう早く登られちゃ嫉妬を感じるね。」
冗談にまぎらせてそう呟くものの、事実矢代は氷河の尾根を軽軽と乗り越す千鶴子に疲労の様子の少しもないのを見ては、振り向く度びに胸に光る彼女のブローチの金具が腹立たしかった。
「駄目ね、あなたは。」
これも冗談とはいえ、彼の体力の不足に刻印を打つように矢代には強く感じられた。ときどき一寸ほどの幅の割れ目が稲妻形に氷の面を走っていた。その割れ目にピッケルをひっかけ、遅れつつ呼吸を途切らせてようやく千鶴子に追いついた矢代は、何んとなく今は彼女に負ける楽しみの方が勝ちまさって来るのだった。
「一寸、千鶴子さん、撮りますよ。」
矢代は豊かな気持ちのままカメラを千鶴子に向けて云った。千鶴子に用意を与えず峰から振り向いた途端、そこをもう矢代はシャッタを切った。負けた良人が勝ち誇った妻の写真を撮るような快感さえ感じ、矢代はひとり快心の微笑を洩らしながら、
「もう撮りましたよ。どうぞ。」
と云った。千鶴子は体をねじ向け、「あら、」と不平そうな媚態で氷の矛の上から彼を睨んだ。矢代は上まで登って千鶴子と並んで立った。
「さア、もうこれ一つ渡ればいいのよ。」
「何んとなく楽しかったなア。」
矢代は越して来た危険に満ちた多難な峰峰を振り返った。並んだ二人の影が西日に長く氷の上に倒れて、そこから七色の放射線が前より一段強く空に跳ね返っていた。
「これで終りですから、並んで一緒に辷りましょうよ。」
そう云う千鶴子の晴やかな提案のまま二人は最後の氷河の尾根に並ぶと手をとり合った。そして、一、二、三のかけ声もろとも氷の斜面を辷り下った。
「とうとう征服してやった。」
と矢代は汗を手巾で拭き拭き笑った。
「ほんと、もうここならこれでスイスよ。」
二人は靴の上から履いた靴下を脱ぎ手袋をとって小舎を探しにまた路にかかった。山頂より少し下った所に丸木を組んだ小舎が見えた。千鶴子は先に立ってドアを開けた。
小舎の中には頭と腰とを交互に並べた牛が部屋いっぱいに満ちていた。その中央を僅かに通れる幅の通路があり、そこを進んだ正面のとりつきにまた一つドアがあった。千鶴子のノックで開いたドアの中から、客間らしい椅子テーブルの明るい部屋が現れた。中でひとり編物をしていた様子の老婆が出て来たので、千鶴子はフランス語で今夜の宿を頼んでみた。客の少ない季節のこととて二人は容易に部屋をとることが出来た。千鶴子はまた羊の帰る谷間はどこかと訊ねてみると、老婆は窓からゆるやかに見える下の山峡を指差して、
「もうすぐここの谷間へ羊が集って来ますよ。」
と教えてから古風な柱時計を振り返った。
「もうすぐもうすぐ。早く外へ出て行ってごらんなさい。」
手真似を混ぜてせくように云う老婆の言葉に随い、二人はテーブルの上に持物を置いて外へ出ていった。
もうその日の宿をとったからは二人は安心だった。一本の樹木もない峡間に拡がった牧場の見える路へ出て、そこで食べ残りのサンドウィッチを食べ始めた。
「今日は良いお天気だったから、きっとお星さんが降るようよ。ほんとに来て良いことをしましたわ。何んてあたしは幸福なんでしょう。胸がどきどきして来てよ。」
千鶴子は髪をかき上げながら周囲の山山を見廻した。矢代は黙ったまま、サフランの花の中で寝てみたり起きてみたりした。氷河は左方の斜面にねじ曲ったおおどかな流れの胴を見せていた。矢代は幾らか疲れが出て来た。手枕のまま頬に冷たく触れて来るサフランの花の匂いを嗅いでいると、温度が急に下り始めたらしく首筋がぞくぞくとして来た。
「まだかな、羊。」
こう云って彼は花をむしり取っては弁を唇で一つずつ放していった。
「もうすぐでしょう。きっと来てよ。」
千鶴子も待ちくたびれたものか矢代に添って一寸仰向きになりかかったが、直ぐまた起き直った。
「ここから見ると、やはり日本は世界の果てだな。」
と矢代はふと歎息をもらして云った。
「そうね、一番果てのようだわ。」
「あの果ての小さな所で音無しくじっと坐らせられて、西を向いてよと云われれば、いつまでも西を向いてるのだ。もし一寸でも東は東と考えようものなら、理想という小姑から鞭で突つき廻されるんだからなア。へんなものだ。」
千鶴子はどうして矢代が突然そのようなことを云い出したか分らないらしく黙っていた。矢代は起き上って来て暫く峡間の向うの方を眺めていたが、手に潰したサフランの弁をぱっと下へ投げ捨てた。
夕日が前から雲間に光線を投げていた。およそ羊のことをもう二人が忘れてしまっているころ、遠くの方から蛙の鳴くような声が聞えて来た。それがだんだん続くと蛙ではなく、牧場のどこかで羊を呼ぶチロルの唄だと分って来た。
「ああ、あれだわ。」
と千鶴子は云って矢代の腕を引いた。チロルの唄は咽喉の擦り枯れたような哀音を湛え、「ころころころ、」と同じリズムで聞えていたが、そのうちに、「るくるくるく、」と次第に高く明瞭になって来た。牧人らしく雲と氷に磨かれた声である。
唄につれてあちこちから鈴の大群の移動し始める音が起って来た。すると、四方から蝟集して来る羊の群れが谷間に徐徐に現れた。初めは入り交る白雲のように見えた羊の群れも、幾千疋となくどよめき合して来るに随って、堤を断った大河のように見る見るうち峡間いっぱいに押し詰り、下へ下へと流れて来た。
矢代は胸の下が冷えて空虚になるのを感じた。日没の光りに山山の頂きはほの明るく照りわたっていた。その下を羊の鈴の音が交響しながら、それが谷谷に木魂して戻って来る倍の響きとなり、総立ち上る蚊の大群のように空中に渦巻いた。チロルの唄はその中を貫く一本の主旋律となって、羊の群れを高く低く呼び集めて近づくのだった。
「るくるくるくるく、るるるるるる――るくるくるくるく、るるるるるる――」
「まるで神さまを見ているようだわ。」
と千鶴子は小声で云うとまたぼんやり放心して下を見降ろした。まだ末の方で拡がり散っている羊の群れは、犬の声に緊めつけられつつ、新たな団塊となりさらに速度を早めて前の群団の中へ流れ込んだ。空の光は刻一刻薄らいで紫色に変っていった。羊の流れは地を這う霧のようにかすみながらも鈴の響だけますます大きく膨んで来ると、むっと熱気に似た獣類の臭いが舞い襲って来た。
「凄いなア。」
と思わず云った矢代の声も、もう真下に追った犬の吠え声に聞えなかった。ひたひたと漣のよせるような速度で下る羊の河は、氷河とは反対に峡間を流れ曲り、羊飼の唄を山の斜面の彼方へ押し流して進んだ。その度びに、「ぐらん、くらん、」と響き合う鈴の木魂が余韻を空に氾濫させつつ、深まる夕闇の谷底をだんだん遠くへ渡っていく。
太陽はまったく落ちてしまった。羊の群れも峡間から消えて見えなくなったとき、矢代と千鶴子は初めて顔を見合せたが、どちらも何も云わなかった。下の空虚になった牧場には闇が羊に代って流れていた。はるか遠くの谷の方から、まだ夢のようにつづいている鈴の音を暫く聞いていてから、
「さア、だいぶ冷えて来ましたな。」
と矢代は云って立ち上った。二人は山小舎へ帰って行った。
夕食のときも二人は何ぜともなく黙っていた。食事を終ると矢代は窓いっぱいに散っている星を眺めながら身体を拭いた。疲れが一時に出て来て、ランプの下で煙草に火を点けるともう彼は動くことも出来なかった。隣室では早くも眠る準備の椅子を動かすらしい音がかたこととしていた。千鶴子も流石に疲れたと見え、椅子にもたれかかったまま峡間を見下していたが、それでも顔はつやつやとしていて少し窪んだ眼が一層大きく美しかった。
「あたし、今日ほど楽しい思いをしたことはありませんでしたわ。もうこんな楽しいことって、一生にないんだと思うと、何んだか恐ろしくなって来ましたわ。」
と、千鶴子は指輪の銀の彫刻を撫でつつ小声で云った。
「大丈夫ですよ。」
と矢代は云ったものの、千鶴子のそう思うのもあながち無理なことではないと思った。
「でも、そうだわ。こんなことって、一人にいつまでも赦されると思えないんですもの。」
矢代は笑いにまぎらせてまた星を見詰めた。冷たい空気に混り乾草の匂いがどこからか漂って来た。千鶴子はっと立ち上ると矢代には黙って外へ出ていった。
星は見る間に落ちて来そうな輝きを一つずつ放っていた。矢代は煙草を吸い終ると、戻りの遅い千鶴子の後から部屋を出て探してみた。しかし、彼女はどこにもいなかった。暫く左右の丘の上を探しているうちに、氷河の見える暗い丘の端で、じっとお祈りをしている膝ついた彼女の姿が眼についた。カソリックの千鶴子だとは前から矢代は知っていたが、いま眼の前で祈っている静かなその姿を見ていると、夜空に連なった山山の姿の中に打ち重なり、神厳な寒気に矢代もひき緊められて煙草を捨てた。
千鶴子の祈っている間矢代は空の星を仰いでいた。心は古代に遡ぼる憂愁に満ちて来て、山上に立っている自分の位置もだんだん彼は忘れて来るのであった。
「あら、そんなところにいらしったのね。」
と千鶴子は笑いながら立って矢代の傍へよって来た。昼間わたって来た氷河の星の光りが白く牙を逆立てて流れていた。
次の日、矢代たちがホテルへ戻って来たとき、パリの久慈から矢代あてに手紙が来ていた。
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君がいなくなってから、もう幾日になるか忘れるほどである。とにかく、少し先き廻りをしたかもしれないが、もうインスブルックへ君は出たころであろう。あれ以来、パリには罷業が頻発して来た。これは有史以来の出来事のこととて、われわれには最も興味深い千載一遇の好機に会ったわけだ。これを観察する機会を逃すことは、大きく云えば、歴史の一頂点を見脱す結果になることである。君も出来るなら直ぐこちらへ引き返して来てはどうであろうか。君とはパリ以来論争ばかりで日を費したような羽目になったが、お蔭でこのごろ君との争いもだんだん僕の役に立って来たのを感じる。君と会えばまた前のように争いつづけることと思うけれども、それも今はやむを得ない。それから千鶴子さんが君の後からそちらへ行くような話であったから、もう今ごろは会ったかもしれないが、塩野君その他の人人は何か急用の出来たような話もあり、あまりそちらに長く落ちつかぬよう千鶴子さんに伝えてくれ給え。
僕の方はこのごろ困ったことが起って来た。君も知っているだろうが、ウィーンへ行った真紀子さんが突然僕を頼ってひとりパリへ現われたのだ。僕は真紀子さんの置き所に苦しんだ揚句、同じここのホテルにいるより君のホテルの方が良いと思い、留守中を幸い君の部屋を失礼させて貰っている。真紀子さんは御主人にハンガリヤ人の夫人のあったことが分ったとかで、夫婦分れをして飛び出て来たとのことである。考えれば僕は今年は厄年だ。それからバンテオン座に、『われらの若かりしころ』というロシア映画が現れた。これは素晴らしい。われわれはまだ若いのだ。僕も君もこの若さを充分意義あらしめよう。
僕にもいろいろの困難はあるが、何と云ってもパリは良いところだとつくづく思う。僕は実際どこへも旅行する気持ちはあまりなくなって来た。それから終りに、突然で失礼だが、君はどうして千鶴子さんと結婚する気持ちがないのか。君との約束のように僕もチロルへ行くつもりでいたのだが、千鶴子さんと君との間を疎遠にしては悪いと思い遠慮することにした。多分君のことだから、千鶴子さんが君の後を追ってそちらへ行っても、依然として前と同じことだろうと思う。しかし、人間は表現をするときには決断力が必要だ。君は外国へ来て日本という国にすっかり恋愛を感じてしまっているので、人間なんか、殊に婦人なんか問題ではなくなってしまっているらしいが、それは非常な錯覚だと僕は思う。君の云うように僕も今は錯覚の連続で外国というものを見ているのかもしれない。しかし、君も僕とはまるで正反対な錯覚ばかりで物を見ているにちがいない。いったい、君と僕との見方のこの正反対も、どちらが正当かということについては、恐らく今までの日本人の中では、誰一人として解答を与えられることの出来たものはいないのではあるまいか。またこの重大な問題がわれわれ若者の上に、永久にこれから続くと見なければならぬ以上、何らかの方法で君と僕との意見の対立に統一を与えたいと思う。君がいないと矢張り僕は片翼が奪われたようで淋しい。なるだけ早く帰ってもらいたい。
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[#地から4字上げ]久慈
矢代耕一郎様
矢代は手紙を読み終ったとき、何となくこうしてはいられないという気になってすぐ夜行でパリへ帰ろうかとも思った。彼はその手紙を千鶴子に見せずポケットへ捻じ込むと、千鶴子を誘って噴水の昇っている街角の方へ歩いていった。
雨あがりの空は暮れ方になってから晴れて来た。モンパルナスの連なった家家の上層は夕日を受けた山脈のように仄明るく輝いた。人の顔も光り輝き眩しげに微笑しているその下の、石畳に溜った水に映っている空の茜色――久慈は先から喫茶店で母に出す手紙の文句を考えながら、じっとその水溜を見詰めていた。まだ水滴を落している樹樹の緑の下に濡れた椅子が、そのままになっていて、桃色の淡雲の徐行していく下の通りのあちこちから、人の声が妙に明るく響いて来る。
「お身体いかがですか。僕は達者で日日を楽しみ深く勉強しております。」
久慈はこう母に一行書いたものの、むかしの学生時代同様その後がまだ何も出て来ない。通行人の吐き流した煙草の煙が流れもせず、はっきりした形で流れず、油色のままに停っている。水中のような夕闇の樹の葉の中で時計台に灯が入った。
「お母さんの神経痛のことを思いますと、こちらにいても憂鬱になりますが、温泉へでも行かれれば安心です。私の行きたく思う所も、日本では今は温泉ばかりです。」
久慈はふと母の今いる所はこの足の下だと思うと、丁度今ごろ母は夜中に眼が醒めて明日の方角のことを考えている最中だろうと思った。久慈の母は年中お茶を立てては方角のことばかりを気にし少しの旅行でも方位が悪いと一度親戚へ行って泊り、そこで悪い方位を狂わせてから目的地へ出発するという風だった。久慈が神戸を発つ日も暗剣殺が西にあるから、船中用心をせよとくれぐれも教えた。一度親戚の家の巽の方角に便所がある家があって、そこに丁度四緑の年にあたる娘があったが、久慈の母はそれを心配しつづけ家を変るようとしきりに奨めたことがあった。そのまま居つづけては、娘が二十三の年になったとき死ぬというのである。親戚の者は笑って相手にしなかったところが、何の病気もない健康なその娘が二十三になると、突然肺|壊疽《えそ》か何かで二三日で死んでしまった。それ以来一層久慈の母は方位に憑かれるようになって、他人の年齢を一度訊くと、直ちにその者の月番の方位の善悪を宙で云えるまでになってしまっている昨今だった。一つは嵩じていく母の迷信への反感も手伝い、また一つは元来科学主義の信奉者である久慈には、東洋のこの運命学は全く不愉快でたまらなかった。
「お母さん、いったい、そんなことを一一真に受けて動いていちゃ、出来ることでも出来なくなるじゃないですか。困ったものだな。」
と久慈はよく母を叱ったことがあった。
「いえいえ、わたしらはずっとこの通り先代から伝って来たことを守って来て、一度も間違ったことはないのだから、良い方位の通りに動いておれば安心です。人間は安心さえ出来れば倖せじゃないの。」
と母は母で伝来の素朴な考えを守りつづけ、鼠や牛を初めとする十二支と九つの星との抽象物を自分の科学の基本として、あたかもそれが久慈の信じる西洋の抽象性と等しい力を持つものと思い込み、誰が何んと云おうとも動こうとしなかった。
「この足の下の半球は、方角ばかりで動いているのだ。それが三千年も続いて来てまだ倦きようともしないのだ。」
こう思うと久慈は母へ出す手紙も健康のこと以外には、あまり書く気が起らなかった。しかし、何んと云ってもそれが東洋の自分の母であってみれば仕方もない。ときどき思い出したように、出す手紙の端にこちらでは物が六万倍に拡大されて見える顕微鏡のあることや、宇宙の方位の端まで見える望遠鏡のあることなどを書き、母の信じる運命学をぶち壊そうと試みたこともあった。しかし、今からでは暗い母の頭の中へ光線を射し入れることは不可能だと気附くと、唯一無二の信条としている自分の科学的精神の威力も、まだまだ説得力に於て考えねばならぬところがあると悟った。またそれはただ単に母だけではない、現にこちらに自分と一緒に来ている知識人の矢代までが、日を経るまま漸次東洋的になりつつある現状を考えても、ああ、あの矢代まで十二支になって来たのかと舌打ちするのだった。
薄明の迫るにつれてマロニエの葉の中の時計の灯が蛍のように黄色くなった。久慈が手紙を書き終っても通りの自動車は一台も通らなかった。
そうだ今日は罷業があったのだと、久慈は初めて気附いてテーブルを立った。ブルム社会党の内閣が出現して日のたたぬ今日このごろの街街は、左翼人民戦線の優勢になるにつれ罷業がつづき、街は閑散になる一方だった。欧洲文明の中心地をもって永く誇っていたパリに社会党の内閣の現れたことは、フランス革命以来なかったことであるだけに、この思想政治の左傾は人人の頭をも急流のように左右に動かしてやまなかった。随ってヨーロッパのこの空気の中を渡る旅人も、歩く以上はそれぞれどちらかの道を選んで歩かなければ、どっちへも突き衝ってばかりで進むことが出来ぬのである。郷に入れば郷に従えと主張する久慈も、道を歩きながら自分はいったいどちらの思想を支持しているのかと考えつつ歩くことほど、心苦しいことはなかった。おれは日本人だから自ら別だと思う工夫は、日本人だけ知識が世界から置き去りにされるという継子になる懼れもあった。
「いや、俺は科学主義者だ。科学主義者は何んと云おうと世界の知識の統一に向って進まねばならぬ。それがヒューマニズムの意志というものだ。日本人だって、それに参加出来ぬ筈はない。」
と久慈は快活に思う。ヒューマニズムという言葉の浮ぶ度びに、久慈は青年らしく言葉の美しさに我を忘れる癖があったが、またこの癖のために彼は一応自分の立場に安心して散歩することの出来る、便利なエレベーターにも乗っているのだった。歩くにつれ、幾何学的な稜線が胸を狙って放射して来るように感じられる。街区の均衡の中に闇が降りて来た。昼間目立たなかった花屋の薔薇が豪華な光りを咲かせて来ると、散っていた外人が行きつけのカフェーへ食事に続続戻って来た。久慈も空腹にいつもの店へ這入ろうとしたとき、これも食事に来たらしい東野に会った。
「よく降りましたね。」と久慈は空を仰いで云った。
「ここは傘もささず歩けるから、日本よりその点だけは有りがたい。」
「その点だけではないでしょう。」
快活な癖に妙に絡みつく正直さを持っている久慈を知っている作家の東野は、また始まったぞと思ったらしくにやりとして、
「あなたも夕食ですか。」
と身をかわした。いつか久慈は矢代の東洋主義に自分の科学主義でうち向ったとき、黙って傍で聞いていた東野に賛成を求めたところが、「君のは科学主義じゃない簡便主義だ。」とやられた口惜しさが降り籠められた鬱陶しさにあったが、久慈は長らく忘れていたその仇を突然このとき思い出した。
「どうです、御一緒に願いましょうか。」
「どうぞ。」と東野は薄笑いのまま答えた。
ヨーロッパへ来てから人と会えば何かの意味合いで、外国流の礼儀と呼吸をもって対応しなければならぬ息苦しさが、一種の武者修業のようになりかかっている時期の二人だった。殊にパリの政治が左翼に変ってからは、他人を見ればこの男は左か右かと先ず探り合う眼の色が刃を合わす。東野は何んとなく今夜は絡みそうな気配を久慈から感じたと見え、
「ふん、どこからでも来い。」と云う風な八方破れの構えで先に立ち、奥まった空席を見つけてどさりと坐った。
「罷業がだんだんひどくなりますね。これや、もしかすると革命が起るかもしれないな。もう分らん。われわれには。」
と久慈は投げ出すような穏やかな笑顔で云った。
「しかし、それより日本が大変らしいぞ、二・二六を見て来た人と昨夜会いましたが、日本も急廻転をやっているね。」と東野は少し心配な顔だった。
「日本は右へ行くし、こっちは左か。」
久慈は頭の後ろで両手を組み椅子の背へ反り返った。お前はどっちだと訊くことだけはいよいよ口へは出せぬが、どちらもの中間などというものは存在しない論理の世界のそのままが、思想となり政治意識となって誰の頭の中をも突き通っている現在である。
「いったい、知識に右でもない左でもない中間が無くなったということは、これやどういうことですかね。この間までは在ったじゃないですか。先日まで在ったものが急に無くなったのですかね。」
と久慈は東野を叩く気もなく、そのくせ自然にいつの間にか巧妙に叩き始めていくのだった。すると、東野は、
「いや、僕は右でも左でもないよ。」
と先廻りをして笑って答えた。いつか東野の逃げた手もそれだと久慈は思い、今夜は何んとしても逃がさぬぞと思うと、
「つまり、それはどういうんです。自由主義という奴ですか。」と訊ねた。
「僕は外国から来た抽象名詞というやつは、分析用には使うけれども、人間の生活心理を測る場合には、極力使わない用心をしてるんだよ。それは誤る効果の方が多いからな。あなたは外国製の抽象名詞以外には、知識という概念が成り立たぬと思っていられる風だが、僕はそんなのを、いつかあなたに云ったように、簡便主義の知識だと思っているんですよ。簡便主義でいくなら何もそう苦しまなくたって、簡単に人の教えた方へいっちまえば良いのです。左とか右とかそんなことは問題じゃない。」
「ふむ。」
と久慈は一応考え込んだ様子だった。しかし、彼は、いよいよ東野は有無を云わせず押しよせて来ているこの現実の思想から、逃げ歩いてばかりいる敗北主義の男だと思っていくばかりだった。
「そうすると、あなたは何んですか、こんなに人間が苦心をして造った、いわばまア知性の体系というようなものまで無視してらっしゃるんですな。論理をつまり無用の長物だと思ってらっしゃるんですな。」
とふと口を議論に辷らせたら最後、後へ戻せぬ論理ばかりの世界にいるようなパリでの一時期とて、東野は一寸苦苦しい顔をしたが、丁度そのときボーイが二人の傍へ廻って来た。東野は鰈《かれい》と鳥とを註文すると、さア、いよいよ美味くなくなるぞ、と云うようにメニューを投げ出して、
「あなたは?」と久慈に訊ねた。
「僕もそれで結構、いや、一寸鰈はいやだな。スパゲッティ。」
ボーイが去ると東野は笑いながら、どういうものか、
「何ぜ饂飩《うどん》にしたのです?」と訊ねた。
「僕はフロマージュ附きの饂飩は好きでね。もう暫く食べないんですよ。」
「じゃ、鰈は嫌いじゃないんだな。」
「嫌いじゃない。鰈の薄味は好きですよ。」
「じゃ、まア好きとしときなさい。つまりそれだよ。」
と東野は云って煙草に火を点け、敵をゆるゆる料理するように遠方から締めて来た。東野よりずっと若い久慈は、論敵の構想力の廻転が妙な風に食い物から来たのを感じると、いよいよこれは敵を誤ったと悟り始めた。
「僕はこのごろ人を見ると、ひっかかりたくって仕様がないんだが、あなたも少し神経衰弱じゃないんですか。云うことがどうも変だ。」
「何が変だ。君は鰈か饂飩かと考えて、饂飩にしただろう。まア、そんなことはどっちだって良いようなものの、ひとつ饂飩も鰈も二つとも食ってみたら、どうですか。饂飩の栄養価と鰈の栄養価とを分析して食わなくちゃ、腹の足しにならぬと君は云うのでしょう。しかし、そんなことを考えて食っていちゃ、せっかくの美味さも不味くなって、食った甲斐がないと考える頭もあるわけだ。」
ははアそれが東野の云いたかった中間かと思うと久慈はげらげら笑い出した。
「それやあなたも神経衰弱だな。右も左もむしゃむしゃ神経衰弱で食おうというんだ。僕も一つその手をやるかな。」
「右と左だけじゃない。上も下も真ん中もだ。」
東野は一層久慈の頭を拡大させ、混乱させる原野の中へ引き摺り出し、さアいよいよ用意をしろというように落ちつき払って笑った。久慈は頭の中に暈いを感じ、一寸立ち停った姿で鰈と饂飩の二つの形に思考力を集中した。
「しかしですね。ここに鰈と饂飩の栄養分の統計表がはっきりと出ている場合に、その表を作った頭以上の精確さはないわけでしょう。その精確さを信用せずして知識はない。科学主義というのは、その精確さを信頼する人間の頭脳の聡明さを云うのでしょう。あなたはそれをも簡便主義だと云われるんですか。」
東野は何か云いかけたが、広いホールにだんだんと詰って来た外人たちを見廻してから、突然、
「君、モンマルトルへ行った?」と訊ねた。
一泡吹くべき急所へ来て他人事云うとは卑怯だ、と久慈は一瞬顔に血の気が昇るのを感じた。
「君、夜の十二時過ぎのモンマルトルへ来て見給え。いつでも軽機関銃でアパッシュ連中が撃ち合いをしとる。いっぺん僕んとこへも遊びにいらっしゃい。なかなか凄いよ君。ところが、あの連中の云うことが面白い。何も死ぬ段になれば、刀なんかより機関銃の方が早いと云うのだ。これや科学的でしょう。」
「しかし、それや、栄養価とどういう関係があるんですか。」
「死ぬ方への栄養価を考えとるじゃないか。なかなか簡便なもんだ。」
久慈はふと大きな落し穴の開いているのを感じた。しかし、もう一時も早く鰻のような東野の頭へ、絶対確実な釘を一本打ち込んでやりたくなった。
「それや、人間が死ぬ方へでしょう。僕らのは生きる方の栄養価だから、話は別だな。知識は生きる方を考えてこそ、人間を富ますのですからね。」
ちりちりと尾っぱちを跳ねくらせる鰻を見る思いで、久慈は静かに笑いながち東野を見るのだった。
「それや、そうだ。生きなくちゃいかん。」
と東野は、負けた感情を妥協の中へ捻じ入れかねない厳粛さで賛成した。そんなら初めから黙って俳句でも作っていれば良いだろうと久慈は思っているときに、東野はまたいつの間にか大迂廻をして来た急激な調子で攻め込んで来た。
「僕らの知識は生きなくちゃいかんのに、簡便主義は生きたものまで殺すのだ。いったい、人間の感情というぴんぴんしている活動力を、皆刺し殺してしまって何が科学だ。殺すのが科学なら、機関銃の方が簡便だろう。」
「それや、君のははったりだ。」
久慈は不意を撃たれた叫びのような声で云うとフォークを持った。
「はったりにもいろいろ有るからな。精妙な科学の結論というものは、皆はったりの形をとるものです。はったりこそ真理だ。分るまいが。」
東野の言語道断な言い方にもう久慈は黙ってしまった。手に持ったフォークが細かく懐えた。頭がびいんと鳴りつづけ、葡萄酒をいっぱい飲んだが一層息苦しくなりそうに思ったので水を飲んだ。しかし、久慈は考えても考えても次の言葉が出て来なかった。そのくせ絶対に負けたとは感じられぬ。もしこれで負けたのなら、このヨーロッパの最高の文明が何をわれわれに教えたのだ。
鰈とスパゲッティが出て来たとき、「久慈君、もうしばらく議論をやめよう。折角の料理が死んでしまうよ。とにかく知識というものは物を生かさなきゃ。」
と東野は云ってナイフを持った。まだやるのかと思った久慈は、頭が首から放れて舞い立ちそうに感じた。
「あなたは、僕たち東洋人が知識の普遍性を求めて苦しんでいるときに、事物や民族の特殊性ばかりを強調しようとするんですよ。その点あなたは矢代と同じですね。矢代はまだあなたのように落し穴を造らないけれども、あなたと話をしていると、言葉の一般性というものが役に立たなくなるんですよ。実際あなたほど非論理的な人を、僕はまだ見たことがありませんね。そんな所に僕は進歩があるとは思えない。無茶だあなたは。」
「まア、食べてからにしようよ。何も僕は君の云うことは間違っていると云うんじゃないのだから。――君は将棊《しょうぎ》を知ってますか。」
と東野は急に頓狂な顔になって葡萄酒を飲んだ。
「何んです。また落すんですか。」
「うむ、落して見ようというのだ。落してみせるぞ。」
「いや、もう落ちん。」
と久慈はかぶりを振ってスパゲッティをフォークに巻きつけ急いで食べた。
「それじゃ駄目だ。落ちるべき所へは落ちて見なきゃ、科学主義には実が成らない。君は人の云ったりやったりした安全な所ばかりを、選んで歩こうというのですからね。ヨーロッパの科学というものは、皆落ち込む所へは落ち込んで来たからこそ、こんなに花が咲いたのでしょう。君は道に外れちゃいかんと思って科学に獅噛みついているけれども、道というものは、初めからついてるものじゃない。君の道は君がつけるので、他人がつけてくれるものじゃない。」
久慈は迷宮をたどる気疲れを感じてほッと吐息をつくと、このおやじの武器は一種妙なものだとうすうす気が附いて来るのだった。
「僕にはあなたのように、自分の論理とか他人の論理とかとそんなにやたらに論理の種類があるとは思えませんがね、もしそんなにあるなら、何もわざわざ論理を知識と呼ぶ必要はないでしょう。みなあなたのは感覚だ。感覚は公然たる知識じゃない。」
「感覚のない知識とはどういうものか、それや僕には分らないが、とにかく、まア今夜は御馳走というこの実証的感覚へ落ち込みなさい。そうすると、料理という技術が分る。技術のない知識なんて科学じゃない。何事も感覚から起ると思えば、得こそすれ損はないでしよう。あなただってわざわざヨーロッパくんだりまで落ち込んで、ここの感覚一つも分らなけれや、ヨーロッパの技術の秩序と科学の連絡が分らなくなるばかしじゃないですか。何をそう苦しんで、馬鹿になる要があるのです。」
落されつづけた久慈は、尾※[#「骨+低のつくり」、第3水準1-94-21]骨の振動めいたものが脳に響き葡萄酒の廻りも早かった。すると、疲れもアルコールと一緒になくなり、久慈は一層生き生きとして来た。背中をソファーのモロッコ革から起す度びに、体温で革にひっ附いていた服の剥がれる響がびりびりと背に応えた。
「今日はお年寄りに花を持たせますよ。まアこれもやむを得ん。」
と久慈は云って、出て来た鳥の足を掴むと噛みついた。
「何アに、そう元気を無くしたもんでもないさ。パリは年齢なんて無いんだからな。ここには普遍性という論理の皮をひきむく駒ばかり揃ってるから、そいつを使わん手はないのだ。将棊に桂馬という駒があるが、何ぜ、あ奴はあんなに斜に一つ隔いて飛ぶのか、まだ君は知らんのだ。いざというときに、王さまを降参させるのはあ奴だからな。僕は今夜は君に王手飛車をかけてみたのだが、どっちをくれる。さア、返答せい。」
なごやかに笑い合っていたときとて、突如としてその中から突き出された東野の剣先には、一層久慈も返事の仕様がなかった。黙って葡萄酒を東野のコップに注ぎかけようとすると、ぴたりと彼はそのコップの口を抑えてしまった。
「返答だよ。飛車か王か。」
冗談にしては厳しい、そのくせ悪戯けたような東野の顔は、返答一つでお前の価値は定るのだと云っている。
「よしッ、そんなら今夜はどうしても負かしてやる。真剣勝負をやろう。」
と久慈は云って葡萄酒をぐっと飲み乾した。
「王さまも飛車も手放しか。」
と東野は急に盤面を引くり返したように、にこにこしながら今度は彼から久慈のコップに酒を注いだ。
こちらが力を入れるとすっと脱し、うっかり気をゆるめているときに不意に面丁へ撃ち込んで来る東野の癖に、久慈はもういらいらとして来た。洞のような奥まった部屋いっぱい煙草の匂の籠った中で、あちこちから左右両党の議論が盛んに起っていた。共産党の活動はトロツキストの方が優勢だとか、スターリン派との黙契がトロツキストとの間に出来て来たとか。北方の県とマルセーユ附近が最も罷業の火の手が熾んだとかと云う話の間で、いつも姿を見せるドイツの前の大蔵大臣だったと噂されている小さな人物だけが、いったいの話には何の興味も起らぬらしい様子で、食後のコーヒーを黙って一人飲んでいた。ロシアの王子だと云われる背のひょろ長い、眼の鈍った額の狭い青年も、絶えず人人の間を往ったり来たりしているだけでこれも誰とも話さなかった。東野の横では、ドイツの青年が柳田国男の日本伝説集という原語の本を読み耽っていたが、その他の者は皆それぞれ自国語で左翼の話をしていた。中には激論をした揚句卓を叩き出したので、ボーイが用命と間違えて出て来たりした。
食事を終ったとき、久慈と東野は食後の気怠さを感じてしばらく黙っていた。すると、久慈は突然東野に訊ねた。
「あなたは左翼にも右翼にも、本当に興味を感じないのですか。そこを僕は訊ねたいのですよ。どっちなんですあなたは?」
「僕は君にさきからそのことばかり話したつもりだったんだが、まだ話さなくちゃならんかね。」
と東野は気乗りの失せた声で外人たちを眺めながら答えた。
「いや、僕はまだ聞かないな。」
「僕には外国の左翼とか右翼とかより、ここへ巻き込まれている日本人の君の方が、よっぽど見てるのには面白いんだ。ほんとうに君なんかこれから日本へ帰って、いったいどうするつもりだろうと、その方が心配だ。」
「ふむ。」
と久慈はひと言いって一寸黙った。
「いったい、君は帰ってからどうするつもりです。もう昔のように、外国へ行ったからといって何の価値も出る時代じゃなし、ここで習得した左翼や右翼の理論を、そのまま日本へ当て嵌めて考えたって、間違いだらけになるのは定ったことだし、そうかといって、来る前と同じで君がいられるわけのものでもないでしょう。もう君にしても僕にしても、物を見る意識が狂ってしまっていることだけは事実なんだから、そんならこれからの自分の正確さを、どこでどうして調節をつけるかという問題があるだけでしょう。」
「一寸待って下さい。」
久慈は一層考える風に頭をかかえテーブルの上を見詰め始めた。
「僕らの意識が狂っているとは、それはどういう意味です。」
「僕も君も、僕らの見てしまったものと、頭で考え出した言葉と、一致させて表現することが出来なくなってしまっているのですよ。こちらへ来ない間は、外国のことを読み聞きしても、まだ実物を見ない有難さで、それぞれ勝手に描いた幻想に意味をつけて、それを公式のように正当だと感じることが出来たけれども、もう僕らはその幻想も壊れたし、壊れたことに意味もつけようがなくなった。ざま見やがれと笑われているようなものだ。」
東野はこう云って自嘲を浮べた淋しい笑顔のまま、さきから見つづけていた一人の外人の婦人の顔から眼を放さなかった。
「しかし、人間の認識は外国だろうと日本だろうと、変るものじゃないじゃありませんか、そんなことに変化があれば、だれも知識を信用するものがない。僕らは日本で感じていた近代思想の本体というものが、ここじゃどんなにして動いているものかということを、見学しに来てるんだから、思想を裏付けているものを見れば見ただけ、僕らは豊かになったわけでしょう。」
「それだから君の方が心配だというのですよ。見学したものが、そのまま通用しない場合、君はどうするんです。ここで見たものと共通したもので、日本にあるものは、ほんの少しだ。それを全部日本にあると思っているのが日本の知識階級だ。だから、何んだってこっちの真似をすぐしたくなる。さア、大衆は動かん。どっちもこ奴も阿呆だと思い合う。」
「しかし、それや、そんなに日本人に間違いがあれば、間違いだと僕たち何かの形で云わなくちゃならん。黙っているよりも、少しでも云う方が良いのですからね。」と久慈は云った。
「ところが、日本人の知識階級じゃない大衆の考えていた方が、正しい場合どうするかということだ。僕ら外国を見てしまったものよりも、まだ見ない大衆の方が、正しいということの方が、随分多くなって来ているこのごろですよ。」
「間違いでも正しいとしとかなくちゃならんか。」
と久慈はいまいましそうに云って俯向いて笑った。云うだけ云った東野はもうこのときから久慈の言葉も聞えない様子だった。彼の前から見ていた眼の異様に青い美しい婦人は、文士の主人がその傍にいるにも拘らず、出版屋の頭の禿げた片眼の男に強く抱きかかえられていたからだった。美男子の主人は、妻がだんだん強く片眼に擦りよられ嬉しげにくつくつ笑っているのを、さも得意らしい薄髯顔で見ぬふりを保ちながら、平然と横の客と英語で左翼の話を闘わしていた。
そのとき、入口からあちこち見廻しつつ日に焦げた矢代が這入って来た。彼は久慈を見つけるとよって来て軽く肩を打った。
「やア、いつ帰った?」
「今だ。」矢代は久慈の横に腰を降ろし、久し振りの食事場を懐しそうに天井まで眺め始めた。
「しかし、東野さん。」とまた久慈は眼の青い婦人の動作を熱心に見詰めている東野に云った。
「僕らは日本に帰ってからの自分について考えるよりもですね、もうこれから永久にここにいるんだと思って、自分のことを考える方が、こちらにいる限り有益だと思いますがね。」
「この通り、今夜はやられてるんですよ。」
と東野は矢代を見て云った。
「あなたがですか。」
「勿論、お向いさ。」
「馬鹿云え。」と久慈は頭を立てた。「この東野という人はね、矢代とよく似たようなことを云うのだ。ただ君より一寸落し方が上手だよ。だいたい、僕は日ごろから天下の公論に興味を覚える方だから、世界に通用する話じゃなくちゃ、話したって損するだけだと思うんだ。ところが、君や東野さんは、日本でだけより通用しそうもないことばかりに、話を引っ張り込んで、僕の呼吸を停めてしまう計画ばかりに夢中になるのだ。僕ら日本人の考えを、日本でだけ通用させて得得としていられる了簡が、一番日本を誤るもとだ。それや、もう定ってるじゃないか。そのどこに誤りがあるんだ。」
「自分を誤ったものが、世界を救おうってわけか。」
と矢代は山で休ませて来たばかりの鋒さきを一本ぶつりと刺し入れた。
「何んだそれや。」
久慈は矢代を暫く睨みつけて黙っていたが、すぐにやりと笑うと、
「君は日本を愛しているのじゃない。日本に恋愛をしているのだ。恋愛だけは科学の歯は立たんからね。」
「歯の立たんものもあるというのが、やっとこのごろ分ったんだろ。」
「そ奴が日本を滅ぼすというのだよ。」
「日本を滅ぼしかけてる奴は、もうそろそろ出てるかもしれんぞ。」
矢代と久慈との渡り合い出したその後で、眼の青い女を抱きかかえた片眼は傍見もせず、しつこくかき口説きながら女の唇の傍へ自分の口をよせていった。その傍で女の亭主は倦くまで理想主義のトロツキストを支持しつつ、現実主義のスターリン派を罵倒してやめなかった。
久慈と矢代の頭も、そのアメリカ人の英語が強く響いて来て議論もぱったり停ったままだったが、突然、久慈は、
「しかし、僕らから理想がとれるか。理想をとった頭というもので、どうして建設が出来るのだ。」と矢代にいら立たしい声で詰めよった。
「翻訳語で理想を考えるというのは、どういうことかね。田舎者が標準語で都会の理想ばかり考えて、死んでしまうことを云うのか。」
久慈は、はたッと言葉の途絶えたまま少し拳を慄わせた。
「僕らがこの世界のヒューマニズムに参加しようと努力せずに、学問の進歩があり得るか。道徳というものが成立すると思うのか。」
「しかし、僕らの東洋にだってヒューマニズムはあるよ。ちゃんとあるよ。ところが、この西洋のヒューマニズムとはちと違う。どっちが善いかは今云いたくはないが、違うなら接近させるためだって、僕らは少しは自分を考えねばならぬさ。自分をね、日本をね。」
久慈は笑いが口中へめり込んでいくような苦苦しい微笑を浮べると、急に嘲るように低声になった。
「ヒューマニズムに東洋と西洋の別があるか。それがなければこそ、僕らはその理想を信仰するんじゃないか。」
「自分が、知識階級だという虚栄心で、東洋と西洋とのある区別さえ無いと思う習練を永久に繰り返すのかね。つまり、それは君の習練だよ。」
「その習練が分析力の結果なら、それは世界を守る道というものだろ。誰も動かすことの出来ぬ道というものは、たった一つ厳然としてあるのだ。それを探すのが分析力だ、いったい、分析力に西洋も東洋もあるものか。同じ共通のもので負けてれば、負けてる方が弱いのだ。それだけは仕様があるまい。」
と久慈はとどめを刺すように片肩を引き降ろして矢代を見据えて云った。
「負けたとこばかりより君に見えぬのだよ。勝ってるところまで負けにするのが分析力だ。見て見ろ、ここのこのざまは、これで全身が生きているといえるのか。」
久慈と矢代のつづけている論争の傍で、東野はもう二人の争いなどうるさそうに、片眼の男が女を口説く毛物のような爛爛として無気味な表情を、眼を放さず見詰めていた。女の亭主がパリで一旗あげる心算で、出版屋の片眼に妻を自由にさせているものか、あるいは妻が、良人の出世を希う一心で男のするままに応じているのか、そこの秘密を知りたい東野の眼つきは、前からいささかも弛まなかった。しかし、文士の亭主はどういうものか妻の不貞に関して少しも動じる色がなかった。彼は理想派のトロツキストが必ず近い将来に於てスターリン派の行動と衝突を来し、パリの罷業は資本家に乗じられるであろうと主張していた。
彼の主張は、妻の心の隙間に乗じている片眼の男の獣性を諷刺しつつ語っているものかどうかも、東野は心を鎮めて眺めているのだった。
「もういいかね。いいならそろそろ出て場を換えよう。」
東野は、片眼が女の唇を盗もうとした瞬間、つと横を向いた女の動作を見終ると二人に云った。久慈がボーイに計算を命じてからも二人は暫く黙っていた。通りへ出ると、鋪道に拡がっている並んだカフェーのテラスに人がいっぱいに満ちていた。
一台の自動車が開いた屋根に人を満載して通った。その屋根の上から拳を握って振り上げた者たちが、「フロンポピュレール」(人民戦線)と一斉に叫んだ。すると、道の両側を歩いているものらまで握った拳をさし上げてそれに和した。
「いつの間にこんなになったんだ。刻刻変ってるんだなア。」
と矢代は遠ざかっていく自動車を見て云った。
「もうこれは毎日さ。」
と久慈は、来るべきものが来ただけだと云いたげな顔だった。
「これもすぐ日本は真似するんだろ。」と矢代は笑った。
「もう出てる。」と東野は云って、「映画や写真機や電気は、どこの国にも伝統がないからすぐ競争が出来るが、思想も伝統のない種類のこんなのは、一種の形式だからね、すぐ流行して次のが出て来る。自動車の形が、毎年変るみたいなものだ。」
「しかし、そう云えば伝統だって、これで一種の伝統的考えという形式になって来たな。お寺はお寺、科学者は科学者という風に。久慈だってそうだな。君は思想の形式だけを思想だと思ってる技術家だよ。」
そういう矢代に久慈は一歩前から振り返り、
「モンマルトルへ行こう。それから真剣勝負だ。」
と云って地下鉄の方へ歩いていった。
地下鉄の前では一人の青年が沢山のパンフレットを胸にかかえ、「これを買え、ここにはパリのブルジョア二百五十家の住所と家族が皆書いてある。いざ事が起ればすぐさまこ奴らを叩き潰せ。」と叫びながら売っていた。
「日本のブルジョアというのが、ここじゃ二百五十もあるんだからな。そこへいくと日本はたった二つだ。たった二つならあんまり日本は貧乏すぎて、資本主義などと云えたものじゃない。」
「そんなら、まだ増やすのか。」と久慈はまた矢代を振り返った。
「そうだ。せめて百ぐらいにしないとここの文化には対抗出来ん。日本政府の一年の予算金額と、パリ市一年の予算額と同じじゃないか。これで資本主義がどうのこうのと云ったところで、ぶち壊す資本主義がどこにあるというのだ。日本は奈良朝時代から円心主義ばかりで来た国だ。その資本主義のない国で、左翼の論理を振り廻したところで、結果は弟が親や兄貴を叩き殺すだけになって来る。そんなことが、日本人に出来るわけのものじゃないよ。」
「日本が円心主義で来たとは、それやどこから出て来た意見かね。」
と久慈は炭酸ガスのむッと襲うメトロの入口を降りながら矢代に訊ねた。
「そんなことは歴史に出てるじゃないか。天皇がお寺を崇拝されると、お寺が寺領を沢山持つ。そうすると、これを藤原氏に縮小させられる。次ぎにはお寺に代って藤原氏が権力を握って荘園を増すと、後朱雀天皇は関白頼通に相談せられて荘園の解放をはかられる。次ぎには武士だ。これが専断を行うとまた民衆の味方となって、これを圧えられる。質屋と酒屋が武士に代って民衆の血を絞り始めると、またすぐ武士に命じてこれを叩かれる。日本の政治は円心主義の連続だ。論理が表へ立たず道理が表へ立って明治になったところへ、君の好きなヨーロッパの知性という奴が這入って来たのだ。こ奴は分析力だから何もかも分析して、道理も感情も分析し始めたのが、大正昭和というところだ。分析すれば親も主人も有り難くなくなって、有り難いのは自分だけだ。ところが、その自分まで分析し始めて見ると、実につまらん自分だということが分って来たのだ。いったい何が有り難いのかさっぱり分らんというのが、つまり知識階級という人間だろう。僕らはこんな筈ではなかったのに、いつの間にか、こんなになってると気がついて、ふと見上げたところがこの国だ。ここには真の自由の精神があるだろうと思って、胸躍らせて来てみたのに、左翼と右翼の喧嘩以外に、まだ僕には見つからん。ああそれがあれば――」
と矢代は云って急に地下鉄の階段の真ん中で立ち停ると、
「これや、炭酸ガスばかりじゃないか。」と突然叫ぶように云った。東野は天井を仰いで立ちはだかっている矢代の袖を引きながら、
「まア良かろう。行こう行こう。人間は見るだけは見とくもんだ。」と云いつつメトロに乗った。
「モンマルトルで一つ、軽機関銃で撃ち合いするところを見よう。」
久慈が二人の先に立って座席を探しているとき車は動き出した。
メトロを出たモンマルトルの一帯は、薄靄の底でゆるく傾き流れた光りの海に見えた。立ち連んだ遊び場もモンパルナスとは違いここは古風な潤おいを湛えている。三人は街の賑いから放れて頂きの方へ高まる坂路を登っていった。陶器のような割石を詰め並べた道路も凸凹のままによく辷った。青い瓦斯灯の軒から出ている屈曲した坂路には、もう人通りは誰もなかった。ときどき接吻したまま立木のようにいつまでも動かない黒い人影の傍を通る度びに、ぴたりと三人は話をやめた。
「西条八十という詩人があるでしょう。あの人はここを夜一人歩いていたら、後ろから突然首を締められて、三十分ほどしてから気がついたら、自分がここの坂の真ん中で倒れていたとか云ってらしたな。」
と東野は云ってそのあたりを見廻した。森森とした坂の中で東野の声はよく響いた。古びた血のような色の建物はみな窓を閉めていて、道の割石の弛んだ隙間がタッチの凄い鱗のように黒くうねうねと這い昇っていた。
「今夜はどういうもんか、論争がしたくて仕様がないな。山にいたからかね。」
と矢代は低く呟いた。
「相手に不足はないぞ。」
笑いもせず見返る久慈の精悍な額へ青葉を透した瓦斯灯の光りが鋭く流れた。
「もうどこもかしこも政治の話ばかりだが、これで巴里祭の右翼と左翼の衝突が見ものだな。君らの論争も良い加減に結論をつけておかないと、七月十四日には血を流すぞ。」と東野は坂路の息苦しさに立ち停りながらもひとり笑った。
「昨日はもう人民戦線の歌が出来たというからね。国歌はマルセエーズじゃなくて、人民戦線の歌だというのだ。」
そういう久慈に矢代は、
「右翼のマルセエーズが革命歌じゃないか。それへまた革命歌か。」と面白そうに笑った。
「幾度革命が来たって、お寺だけはいつまでもあるのだ。」
東野はすぐ頂上に聳えて来たサクレクール寺院の尖塔を眺めて云った。頂上へ近づくに随いぼろぼろに朽ちかけた建物が、海老茶や緑の油で痛めた色に滲んで来る。史跡保存で改築を許されぬ一角であるだけに、パリの冠った古帽子のこの中には何ものが棲んでいるのか分り難い。夜毎に軽機関銃で撃ち合いを始めるというのもこのあたりであろうと、久慈は光りの洩れる窓の見える度びにそっと中を覗いてみた。
戸口にカフェーとだけ書いてある小さな一軒のドアの、眼の届くあたりに一つ小窓があった。久慈はそこからふと覗くと、中はパリでほとんど見られぬ女給ばかりのカフェーだった。
「ここには女給がいるよ。稀らしいね。一寸這入ろう。咽喉が渇いた。」
久慈は相談もなく一人肩でドアを押し開けて這入っていった。矢代と東野も身を横にするような狭い入口から後につづくと、ぎしぎし鳴る椅子に凭れた。薄暗い狭い部屋の空気は濁った汗の匂いで鼻を打った。
「これや汚いね。出ようや。」
矢代がそう云って立ちかけようとしたとき、花売娘のような様子の十人ばかりの女給の中、若い三人がいきなり矢代にしなだれかかって来た。
「あら、もう帰るの。いいわよ。煙草一本頂戴な。」
身体を不必要なほどに捻じ曲げ、腰を動かしながら擦りよって来て出す手首の骨が高く大きい。ひどい脇臭のうえに、鼻の両側のまだらな白粉の下から脂肪がぶつぶつ浮き上っていた。久慈と東野にもそれぞれ煙草をせがんでいる女たちも、両肩をすぼめ猫撫で声で煙草をくれとせがんだ。久慈ら三人は顔を同様に顰めながら黙って煙草を出してやると、女たちは放れて煙草を吸いつつ、それぞれ鼻声の沈んだ唄を歌い出した。
「これや、男だな。」
と久慈は小声で矢代に耳打ちした。
「うむ。」
と矢代も、実は自分もさきから怪しいと思っていたという風に頷いた。見れば見るほどどこからどこまでも女だが、しかし、やはり争われぬ一点の底が男だった。それも、一人ずつ女たちを見廻していくうちに、勘定台にいる女もヴァイオリンを弾いている女もすべてが男だった。久慈は腐った筵を引き剥いだ後からにょろにょろ現れて来る青い蜥蜴を見付け出すように、一度ずつ悪感が胸を走った。男だと見破られた女たちはもう二度とよって来なかったが、また別のが来て、「何んになさいますか。」と女の声で今度は快活に訊ねた。
三人はビールを註文したが、コップが揃っても誰も義理に一口つけただけで、気味悪さにそれ以上飲もうともせず話もしなかった。久慈らの傍へ初めに来た女らは部屋の隅に固まったきり、嫌われたことをさも羞しそうに悄れて俯向いたまま、青い灯の下でいつまでも黙っていた。これがもし本当の女だったらたしかにそんなに痛手であろうと思うと、久慈は不思議に女らの悲しげな様子がまた本当の女のように見えて来て、
「おや。」
と一瞬自分を疑った。確実に男だと分っていながら、だんだん気の毒になっていく不安な気持ちの落ち方が、一種新しい未知の世界に踏み込むような錯覚を感じさせる。それが向うの手腕だと思っても、それぞれもうこれで男を越した女以上の理想の女になっているのかもしれない。
「もうたまらん。出よう。」
と矢代は云った。そして、身を動かしかけたと見るや、今まで悄れていた女たちは、ぱッと飛び立つような早さでまた矢代にしなだれかかって来た。
「もう息が出来んよ。」
「何に? え? え?」
と女は嫣然と笑いつつ片腕で矢代の首を抱きかかえて覗き込んだが、何も云うことがないと見えまた煙草をくれと彼にせがんだ。
勘定台の女は遠くから女給たちの成績を探るように、鋭くちらちらと眼を女たちの上に光らせた。ヴァイオリンを弾いている女だけは、曲に合せてゆるく身体を動かしていた。見ているとそれぞれ女たちは隠花植物のように自分の位置から動かぬままにも、どこか湿った楽しみに耽っている眼差しである。あたりに漲っている薄汚なさも工夫に工夫を積んだ結果の巧緻なリアリズムに近い芸があった。
久慈は自分が舞台に上った生身のお客のような感じがした。東野や矢代をふと見ると、いずれも役者になったことも知らず、苦苦しくふくれている芸無し猿の二本の大根に見えて来た。
「あ、これやもう、現実を抽象してしまっておる。」
久慈は思わず膝を撫でながらそう思い、あらためて女たちの想念の中まで見たいと、歩くときの手の曲げ方、足の開き具合や鬘のつけ様を見るのだった。
「さア、勘定。」
と矢代は云うと、一人の女が久慈の傍へよって来た。
「あら、もうお帰り。」
と女は云いつつ久慈の膝に手をかけた。幅広い男の体温がむっとして吐く息が頬に荒くかかった。それには流石のパリ贔屓の久慈も寒気を感じてもう我慢が出来なかった。
矢代の後から久慈と東野も外へ出たが、出ると同時に三人は声を合せて笑い出した。入り代りに旅行者らしい三四人の客がまた中へ這入っていくのを振り返り皆は顔を撫でた。
「ああ気持ちが悪い、どっか、せいせいするところがないかね。吐きそうだ。」と矢代は先に立って山の頂上へ登りながら、「あれはいったい何んという思想だ。」
と久慈に訊ねた。
「いや、実はおれもあれには参った。」
久慈のそう云う声に、皆の夕刻までの論争の意気込みも一時に吹き飛んでしまった形だった。
「あそこは僕も知らなかった。この次は機関銃だぞ。上のお寺へ参るのも骨が折れる。」
と東野は云ってひとりくつくつ忍び笑いをした。頂きの寺の横の広場に二十本ほどの房を垂らしたビーチパラソルが開いていて、その下に弁慶縞の敷布のかかった丸テーブルが一面に並んでいた。ここのテラスも他には見られぬ古風な野天の仕立てだった。どのテーブルの上にも矢車草の花影からランプがかすかに油煙を上げていた。客一人ない広いそこのテラスの中央に三人は陣取ってレモネードを命じたが、卓に肱をつきほッとするとまた誰からともなく笑い出した。共通の無気味な洞窟から逃げ出してきたばかりの捕虜という顔である。互に視線を避け合っている笑顔の間で、ランプのホヤがじいじい静かに蝉のように音を立てた。
「このあたりはびっくり箱だね。」
レモネードを飲みつつ薄暗いあたりを見廻してそういう久慈に、矢代は、
「機関銃で撃ち合うというのは、それやどこだ。それもびっくり箱の口か。」と訊ねた。
「夜中にこのあたりのアパッシュ連中、縄張り争いでやり合うらしいんだよ。しかし、東野さん、それや本当にやるんじゃなくって、旅客優待の御馳走でやってるんじゃないですか。どうもこのあたりは少少怪しい。」
「それや、自分で識らずに優待していてくれるんだよ。」
と東野は澄した顔で答えた。初めは何の意味か一寸分りかねる風の二人だったが、急にまた笑い出した。
「いや、案外これで市役所から月給でも貰っていて、さっきのカフェーじゃないが、実演の芸をやってるのかもしれないね。」
と久慈は今度は生真面目に考え込んだ。
「しかし、芸にしたって死ぬ芸だから芸にはならん。生きてこそ芸だからな。さっきのあんなのはあれは、あんまり生きすぎて間違ったんだ。芸はどこか一点だけ殺さなきア嘘だ。」と東野は云った。
「とにかく、今夜はその機関銃を一つ見届けようか。それとも、本物の女を見にいくか。どうも今夜は少し自然に還りたいね。」
と久慈は矢代を見てにやりと笑った。
「とうとう甲を脱いだな。しかし、あそこのカフェーが本物の女だったら、僕らは今ごろこんなお寺の前なんかにいられるもんか。」
と矢代は云って眼の前に聳えた白いサクレクールの塔を仰いでみた。
「じゃ、今夜は極楽往生としとくかね。どうもしかし、論争のない世界という奴は面白くないものだな。仕事がなくなったみたいで。いやに仲ばかり良くなるのは、これや、神さま何か間違ってるぞ。」
と久慈は云ってお寺の塔を振り仰いだ。
「このお寺を山の上へ建てるだけで、どんなにパリの人間馬鹿な苦労をしたか知れぬのだからね。毎晩機関銃ぐらいは鳴ろうというものだ。むかしの人の苦労を忘れちゃ罰があたるぞと、お説教しているようなものだ。」
東野はお参りに山へ来たのを思い出したらしく、軽くサクレクールに向ってお辞儀をした。矢代の眼はそのとき一寸光りを帯びた。
「東野さん、あなたもやっぱり、人間の苦労が馬鹿に見えることがありますかね。ときどき僕にもあるんだが。」
「いや、それや、僕が第一、せっせと馬鹿な苦労をしたからだが、しかし、誰か一人が馬鹿なことをすれば、良いことをしているものでも人間は同罪になるらしい。そこが人間の面白さじゃないかな。とにかく、下へもう降りよう。それから今夜は一つ、君らのその自然に還るところを見せてもらいたいものだな。」
「ようし、人間は同罪だ。行こう。」
と久慈は云って勘定を命じてから立ち上った。
「そこで真剣勝負だぞ。」
と矢代も云った。間もなく、三人はそれぞれ自分の影を後ろに倒しつつ山から下の遊び場の方へ降りていった。
パリではモンマルトルの麓に一番高級な踊場が沢山ある。その中の一二を争う家を選んで三人は中へ這入った。メイゾン・ルージュは中が全部紅いだった。あまり広くはない正面の楽師たちに絡りついている真鍮の楽器の管から、しっかりと音締めの利いた音がもう久慈の胸中に吹き襲って来た。ふと彼はそのとき真紀子と逢う用事のあったことを思い出したが、椅子へ腰を降ろすと忽ちそれも忘れてしまった。踊子たちが三人の傍へよって来た後から、すぐシャンパンが氷につかった桶のまま運ばれた。部屋の中央で踊るものは踊り、休むものは椅子に休む。
「ははア、これは千九百二十六年のだな。」
と東野はシャンパンのレッテルを読んで感心した。東野の説明ではその年はここ五十年間のうち一番良質の葡萄のとれた年で、味もその年のが断然良いとのことである。西印度生れの歯の白い混血の踊子は締った良く動く体で、休んでいる暇にも音楽に合せて笑い、振り向き、話しつつ膝で拍子をとっていた。間断なく鳴りつづけるバンドの調子を客の心も脱すわけにはいかない。絶えず上へ上へと浮き上っていくリズムは、船が船客をつれ歩くように室内の空気を果しなく揺っていく。カルメンのように顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]のカールを渦巻き形にしたイタリアの女は、シャンパンの世話をするにも絶えず笑っていた。何がそんなに面白いのかと思わせるような笑顔は、踊子だけではなくどの客も同様だった。それもバンドがそんなに鳴りつづけていると、もう部屋には特に音楽が満ちているとは感じない。ただ心は何ものかある中心に向って前進していくばかりだった。
「ここの女は本物だぞ。まさかこれまで嘘じゃなかろう。」
と久慈は云ってイタリア人の肩を撫でてみた。
「しかし、これも自然じゃなさそうだよ。」
と矢代はコップを上げ理由もなくまた笑った。
「そうだ、もうこれや、どこへ行っても僕たちは自然に還れそうもなくなったよ。乗せられてばかりだ。どうです、東野さん、まだあなたは俳句を考えているんですか。」
と久慈は浮き浮きしながら東野の顔を覗き込んだ。東野はイタリア人の腕を握ってみて、
「この婦人はね、僕にどうしてそんなに淋しそうな顔をしてるのかと訊ねるんだが、そんなにまだ僕は淋しそうかな。」と訊ね返した。
「うまい、このシャンパン。」と矢代はひとりコップを上げていた。
「しかし、こんな婦人から淋しそうだと云われると、どうも妙な気がするね。千年も前からつづいている電話の線が尻っぽにくっついていて、そこから話が出て来る電話を聞いてるようなものだ。」と東野は云った。
「おい、君は電話だそうだよ。はははは、電話と一つ踊ろう。」
と久慈はもうよほど酔の廻った体でイタリア人の腕を吊り上げた。矢代も西インドをつれて踊った。そこへ花売が薔薇を持って来ると、傍にいたフランス人の踊子がそれを買っても良いかと東野に訊ねた。薔薇を見もせず東野は首を一つ動かした。すると、日本でなら二十銭の小さな薔薇の値段が三十円だった。三十円が五十円であろうとバンドはすでに東野の頭をもいつの間にか浮き上げているのだった。部屋の隅から、客のシャンパンばかりをじっと見詰めているユダヤ人らしいマネージャーが、時間を計って氷に万遍なくシャンパンの触れるようにと壜を廻しに現われた。コップに注がれるシャンパンに随ってテーブルの上に皿が重ねられ、その皿の数が遊興費となる踊場では、頭が朦朧となるにつれて皿の柱も延び上っていく仕掛けだった。久慈が踊って椅子へ戻って来る度びにイタリアの女は東野に踊ろうと迫ってきかなかった。
「いや、電話とじゃ踊れないや。」
と東野は日本語で云った。分りもしない日本語の癖に女は相槌を打って笑った。もう三人とも誰の話も聞こうともしない。踊子らにシャンパンをすすめながらそれぞれ勝手なことを話しているうちに、
「ほう、これはどうじゃ。」
と矢代が高く柱となって延び上っている皿を見て笑った。
「ははア、元気がいいな。生きとるぞ、こ奴。」
と久慈も面白そうにテーブルの上の皿を見ながら笑った。初めは一本だった皿の柱が二本になって延びていた。いつの間にか客たちは部屋いっぱいになって来ていたが、三人はもう他の客の顔など見えなかった。イタリアの女は一番女たちから敬遠される東野を気の毒がって彼ばかりに話した。東野は日本流の手相を見てやろうと云ってそのカルメンの手を開かせたり、イタリアへそのうち行きたいのだがいつが良いかと訊いたりしている間にも、久慈と矢代は元気よく踊りつづけていた。そのうちに二本だった皿の柱が三本になり始め、雨後の筍のような美しい節を揃えてそれぞれテーブルの上で競い立った。
「これは面白い、真剣勝負をやっとるな。」
と久慈は云うと、まるで育て上げた子供の背の高さを見る風な楽しげな眼つきで皿の柱を眺めていた。
「とうとう自然に還ったか。」
と東野は云ったが、客の消費量を隠そうともせず眼の前に見せつけつつ時間を奪う、これでもかという遣り口に矢代はもう反抗心を起して来たらしい。
「よしッ、もっとやれ。」
と云うと彼はシャンパンを自分で注いで踊子たちにも振り撒いた。一歩斬り込んで来たようなこの矢代に、久慈も負けてはいなかった。口に上げるコップのシャンパンが半ばは手の甲にこぼれてしまうほどだったが、それでも立って踊りにいってはまたシャンパンを胸までこぼした。この間にもほとんど休んだことのないバンドは、目的物に肥料を与えるように皿の柱を延ばすのだった。
ひと踊りすませて戻って来た久慈は、椅子にどかりと凭れたとき、ふとまたその皿の柱が眼についた。すると、突然その柱の形態から、ノートル・ダムの内陣の四隅の屋根を支えている、脊椎のような細かい節を無数に積み重ねたあの柱を思い出した。
「あ、ここはこれやお寺だ。」
と思わず久慈は声を上げた。
「お寺だ? そうかもしれんぞ、どうもお経を誦まれているような声がするよ。よし、もっとやろう。」
と矢代は云ってイタリア人とまた踊った。いつ誰がどうして飲むのか分らなかったが、妙に皿だけが不思議な速度でひとり勝手に延び上った。
「こ奴、まるで知性みたいな奴だな。」
と久慈は皿が眼につく度びに、「ふふ。」とひとり笑ってシャンパンを飲んだ。マネージャーは一同の笑いさざめいているときでも、一片の笑顔も見せず、黙黙と現れ、細心の注意をもって氷の中のシャンパンの面を廻しては皿を積んでまた姿を消した。東野は久慈と矢代の張り合いがいつ果てるとも分らぬのを感じたのであろう、軍配を上げるように、
「さア、もう帰ろう。」
と二人に云うとイタリア人に勘定を云い附けた。すぐ来たビルを見ると二千フランあまりになっていた。三人は財布を合せて外へ出てから、東野のホテルで夜を明そうということにしてまたモンマルトルの坂を登った。
時計はもう夜中の三時を廻ろうとしていた。人通りはまったくなかった。黒黒とした高い建物の間で冴え返った瓦斯灯が月光のような青い光りを倒していた。真紅の色と音との世界から急に変った深夜の底の静けさなので、三人は暫く黙ってそれぞれ一人ずつ放れたまま歩いた。すると久慈は突然矢代の傍へよって来て首をかかえた。
「おい、チロルはどうだった。」
今ごろ初めて旅のことを訊く久慈に矢代も返事のしようもないらしく、「うむ。」と云っただけで後は黙った。
「うむか。まア、そう云ったところか。」
「氷河はいいよ。」
「氷河のことじゃないよ。」
「じゃ、何んだ。」
「お前は馬鹿な奴だ。あれほど忠告したじゃないか。結婚をしなさい結婚を。君の日本主義は幼稚だけれども、君は僕にとっちゃかけ替えのない人だ。千鶴子さんと結婚してしまいなさいよ。じゃなくちゃ、日本へ帰ったら、きっと君とあの人とはもう会うことはないにちがいない。」
「僕の日本主義が何ぜ幼稚だ。日本人が日本主義になるのあたり前の話だろ。」
と矢代は久慈の廻している腕を掴んで顔を見た。
「幼稚だよ君のは、そんなものなんか、ここで威張ってみたって、いったいこのパリで誰が真似してる。」
「真似の出来る奴が、誰がいるのだ。」
「こ奴。」と云うと、久慈は矢代の首を揺り動かした。
「真似の出来ん品物を売り出して、成功したためしがあったか、真似さしてこそ豪いんじゃないか。」
「じゃ、君は何んの真似してるんだ。」矢代はまた詰めよって云った。
「僕は世界の真似をしてみせてやってるだけだ。真似一つ出来ずに威張ったところで、それや、真似が出来んということだよ。」
「いつまでの猿真似だ。」
と矢代は云うと久慈から身体を放そうとした。
「真似出来んものなら出来るまで一度してみろ。それが修業というものだ。僕らがここのこの坂をせっせとこうして登っているのは、何んのためだ。君は真似も一つして見ずに、この急な坂が登れると思うのか。ふん、ここは胸突き坂だぞ。それも世界の胸突き坂だ。もっと胸を突かれて修業しろ、しろ。チロルでいったい何を君はしてたのだ。」
と久慈は云うと今度は矢代の身体をぐんと突いた。矢代は石壁によろけかかった身体を片手で跳ね返しながら、
「君は歴史という人間の苦しみを知らんのだ。日本人が日本人の苦しさから逃げられるか。逃げるなら逃げてみろ。」
抜刀するような勢いで放れて行こうとする久慈の身体に矢代が再びぶつかって行こうとしたとき、後から登って来た東野は二人を引いた。
「おい、一寸、やってるよ。」
久慈と矢代は振り返って東野の顔を見た。その間にも、大掃除のときの畳を叩くような機関銃らしい連音が少し籠り気味に、遠くの方から鮮やかに聞えて来た。まさかと思っていたこととて暫くぼんやりしながら耳を立てていた久慈は、その音からふと東京の郊外の書斎で深夜よく聞き馴れた練兵の機関銃の音を思い起した。すると、一瞬奇妙な生ま生ましさで自分の部屋や机が眼に浮んだ。
「やっとるなア。」と矢代は瓦斯灯の光りの中を貫いて来る音の方を見詰めて云った。
三人はまた並んで坂を登っていったが、もう誰も物いうものはなかった。空気を弾く明快な単音は暫くつづいてからぴたりと停った。森閑となった坂を入り交った三人の影が長く打ち合いつつ、前後に剣のような鋭さで折れ変っていった。石畳の上を水の流れ下って来ているあの小路を曲った瓦斯灯の下まで来たとき、真黒な服装の女が誰かを待つ様子で一人じっと立っていた。その傍を通り抜けてから間もなく久慈は後ろを振り返って見た。鳥打の黒いジャケツを着た男が膝で女の腰を一蹴り蹴って上りの額を受けとると、また疲れたように黙黙と二人並んで坂を下っていった。
剃刀をあて終え眠りたりた気持ちで久慈はカラアを取り替えた。通りをへだてた前の、建築学校の石の屋根の上に一面生えている草の中で、垂直に立ち連った菖蒲の花が真盛りである。久慈は沼の岸べを見る思いで菖蒲の上の水色の空を眺めていると、教師の眼を逃がれて来た生徒たちらしい、散兵のように一人ずつその雑草の中を這い登って来て、日当りの良い位置をそれぞれ選んでひっくり返った。遊ぶ閑の少しもない厳格さで有名な学校であるだけに、屋根の上で生徒たちの忍ぶ散兵も見ていると滑稽な景色だった。あるものは早朝から夜中の二時三時まで学校から帰らず、机に獅噛みついて製図や計算に勉めている姿を久慈は毎夜眺めていた。
そのとき、ノックがしたので久慈は戸を開けると珍しく千鶴子が憂いげな顔で立っていた。久慈はネクタイを締めつつ千鶴子に椅子をすすめた。
「お珍らしいな。旅行は案外早かったようですね。」
自分が早く帰れと矢代に手紙を出したのを久慈は思い出したが、まさか手紙のままそんなに早くなろうとは思わなかっただけに、久慈とて千鶴子と矢代の早い帰りが先日からの疑問だった。
「でも面白かったわ。チロルはあたし忘れられない。ほんとにいい所よ。」
千鶴子は前の建築学校の屋根をうっとりとした眼で見ているうちに、
「あら、あんなとこで日向ぼっこしてるわ。」
と急に面白そうに笑った。
「フランスは田舎のどこへ行っても雑草というのがないからな。屋根の上へ雑草を植えてそこを野原にしょうという趣向なんだ。これだけ日本と違うんだから、どうも僕らは追っつけたものじゃない。」
久慈は洋服を着替えてしまうと寝台に腰かけ、さて今日はこれからどこへ行こうかと考えた。
「へんな国ね、フランスって。」
「へんなことはないさ。終いにはどこだってこうなるんだから、まア登り詰めた超現実主義はこういうものだと思えば、何もかも面白い。矢代はあれは、面白さを理解しようとしないんだからな。あれもまたどうしてあんなに、殺風景な男になっちまったものだろう。」
「そうかしら。」
千鶴子は不平げに低く云ってまたぼんやりと屋根の上の花菖蒲を見つづけた。
「そうかしらでもなかろう。悪ければまアお赦しを願うが、――どうしてまた君は矢代を動かさないんです。チロルまで後を追っていって、結婚の準備一つもして来なかったなんて、何んだ、他愛もない。」
ずけずけと久慈の云うのに千鶴子はもう心を動かされることもなく眼を細めたきり黙っていた。
「僕は君さえ介意《かま》わないならいくらだって骨折るけれども、どっちも何も云わないのだから、押してみようがない。一人でああかな、こうかなと思ってみているだけで、一番馬鹿を見るのはどうも僕のような気がするんですよ。え、どうなんです、いったい?」
「あたしも分んないわ。そんなこと。」
と千鶴子は張りのない小さな声で云うとかすかに笑った。心の底に低迷している愛情のほッと洩れこぼれたようなその千鶴子の微笑を、久慈はなかなか美しい表情だと思った。
「しかし君、どっちも好意をそんなに持ち合っているくせに、どっちも隠しているというのは無意味だと思うね。それともまだそんな風に物静かにしている方が楽しみが多いというのならこれや別だが、そういう風流なお二人とも見えないや。」
千鶴子は椅子の背に腕を廻し振り返ると、
「何んだかお一人で騒いでいらっしゃるのね、面白い方だわ、あなた。」と久慈を薄眼で見上げて笑った。
「とにかく君たちは、僕とは恐ろしく趣味の反対な人たちだよ、古典派というのかね。お行儀はいいよ。」
窓の外へ乗り出すように欄干の鉄の蔓を掴んで久慈は下の通りを覗いた。太い足の爪の附け根に毛の生えた白い馬が車を曳いて通る。竿のような長いパンを数本小脇にかかえた女が、片側に二列ずつ並んだ街路樹の青葉の間を縫って歩いてゆく。からりと晴れている空にも街にも微風さえないのどかさだった。
「あたしね、ロンドンへ一寸帰ろうかと思うのよ。またすぐ来てもいいんだけれど、それとも、もうそのまま日本へ帰ろうかとも考えてるの。」
「もう少しいなさいよ。巴里祭までいなきゃつまらないな。また出て来るにしたってなかなか億劫だし、それに君こんないい所はもうないよ。実際ここは素敵だ。僕は自分がパリにいるんだと思うと、もうそのことだけで幸福だ。石の屋根の上にこんな菖蒲の花が咲いてるんだからな。楽しんで見なさいよ。罰があたるぞ。」
久慈は微笑しながら菖蒲を眺め建物の上に流れている浮雲を見ているうちに、ふと紅海を渡って来る船中での千鶴子との親しかった日日を思い出した。それは恋愛というべきものではない、心やすさのままな自由な交際であったが、そのころはまだ千鶴子は矢代ともあまり言葉も云わない間だった。それがいつの間にかうかうかとパリに夢中になっている隙に、久慈は二人の結婚の斡旋を喜ぶ位置に変っているのである。一つは矢代が千鶴子との接近をある一定のところがら動かそうとしないのも、船中での自分と千鶴子との親しさを見知っている遠慮も、まだとりきれないのであろうと久慈は思った。
「真紀子さんはまだずっとこちらにいらっしゃるのかしら。」
千鶴子は久慈の傍へよって来て同じように欄干から下を覗きながら訊ねた。ドイツを廻っていた矢代の留守中、ウィーンから突然出て来た真紀子の部屋を、矢代のホテルの部屋にしておいたまま彼が帰って来ても移さずじまいで、ただ矢代を真紀子の下の部屋へ移したきりであったから、千鶴子には同じホテルにいる二人の動静も気がかりの種になっているのかもしれぬと久慈は想像した。
「真紀子さんも日本へ帰るような口振りでしたよ。ホテルを変えたっていいんだけれど、すぐ矢代が帰って来たから変えるというのも、無作法だからな。しかし、そう心配したもんでもないでしょう。」
「まア、いやな方。」
千鶴子の顔の染まるのをいくらか嫉妬めく心で久慈は見ていた。彼には誰が誰とどんなになろうと、そうなればなっただけパリ生活の深まりを見る思いに染まっていたときとて、千鶴子のとやこうと気遣う気持ちも、渦中に吸い込まれる花弁を見るようにまたそれも楽しみの一つだと思った。しかし、今日は千鶴子はどういうものかいつもより久慈には美しく見えてならなかった。
「久慈さんはほんとにお変りになったのね。何んだかあなたは、いけない変り方をなすったように思うわ。」
「矢代だってそうだよ。あんなに変えたのは君の責任も大いにあるね。このパリに来ていながらわざわざファッショになるというのは、だんだん日本人の君ばかりが眼について来たからだよ。世界が千鶴子さんばかりに見えて来てるんだね。早くもう矢代をつれて、あなた帰ってしまいなさいよ。あの男は堕落した。」
千鶴子の喜びそうな一点を見つけてそこへ捻じ込むような無理な久慈の攻撃も、千鶴子にはもう戯れのように見えるらしかった。
「ファッショだなんて、そんな――立派な方が真面目に考えてらっしゃることを、そんな不真面目な言葉で片附けておしまいになるもんじゃないわ。もし間違いにしたって、それや苦しんでらっしゃるにちがいないんですもの。あなたの方があたし、よほどファッショに見えてよ。」
「何んだ。君はもうそんなに溺れてるのか。」
と久慈は云うと突然空を仰いで笑った。
「何んでもあなたはそういう風儀に、物を解釈なさるのね。ほんとに意地悪よ。」
しかし、久慈は千鶴子が矢代をファッショと云うことに同意せず、却って自分の方をファッショに見たということには、無下に彼女を無知として排斥するわけにはいかなかった。たとい自分が冗談に云ったとしても、千鶴子にたしなめられたことは、考えれば久慈も痛さを感じるのだった。
「僕の方がファッショか。まア、それは一応よく僕も考えよう。」
久慈は窓から引っ込み寝台の上へ仰向きに手枕のまま天井を眺めた。
「だってそうじゃありませんか。矢代さんのような知識のある方が、ファッショになんかなれば、日本へ帰れば誰も相手にしなくなること定ってるんですもの。そんな損なことだとはっきり分っていることでも、どうしてもその方が正しいと思われたのなら、あたしそれで美しいと思うわ。誰だって真似の出来ることじゃないと思うわ。」
久慈は寝ながら窓の方を見ると、まだ矢代を弁護したそうな緊張した千鶴子の額に光線が流れ、髪が青空の中に明るく透いてますます美しく見えるのだった。一昨夜矢代や東野からさかんに痛めつけられた久慈だったが、今の千鶴子の柔い言葉が一番胸に強く応えているのは、ただ婦人だからだとばかり言いきれぬものがあった。
「もう少し云いなさいよ。千鶴子さんはなかなか云い方が上手いや。聞くよ今日は。」
こう久慈の云っているとき、刺繍学校へ通っている隣室のルーマニアの娘が小声で歌う唄が聞えて来た。いつも階段で擦れ違うだけで話をしたことがなかったが、近ごろ愛人の出来たらしい様子は日曜日のいそいそとした明るい素振りなどでもよく分った。久慈は隣室の娘の晴やかな歌を暫く黙って聞いていてから云った。
「いい気持ちだな。映画のパリの屋根の下じゃ、こういうときにどっかから手風琴が聞えて来たが、今日のはファッショのお説教か。」
「じゃ、外へ出ましょうよ。あたし、今夜は塩野さんのお約束があるんですのよ。また夜会なの。いっかも日本の鮭の缶詰をこちらへ輸入する下工作の夜会があったのよ。その鮭まだなんですって。ほんとに夜会は疲れていやだわ。」
「鮭のお使いだな。竜宮みたいでいい話だな。」
と久慈は云って起き上って来ると鎧戸を閉め、千鶴子の後から部屋を出た。階段を降りて行った下の手紙箱に日本の妹からと、旅行に出た会話の教師のアンリエットからと、二通手紙が久慈に来ていた。アンリエットは千鶴子がロンドンへ廻っている間に久慈と親密になった間だったから、特に理窟をつけて云えば、久慈と千鶴子との船中での親しさを裂く役目に効果のあった人物だった。しかし、久慈にしてみれば、パリでの婦人との恋愛に似た感情の動きのごときは一種の装飾のごときものであったので、彼こそどちらかと云えばパリに恋愛を感じているものと云える。随ってまったくこういう久慈とは反対に、故国の日本にいとおしさを感じている矢代と千鶴子との日に増す親密の度も、彼には自然に見えて淋しさも感じなかった。浮き流れる心――こういうものは故郷にいるときとは別して旅は早く移り変って抵抗し難いものがある。
久慈はホテルを出るとカフェー・リラのある方へ歩いた。行き違う人の靴がひどくきらきらと眩く光った。道路も日光の反射でときどき面を打つ強い光線に久慈は眼を閉じた。鼻さきの小窓の中に組合わされた刃物の巧緻な花の静まっているのを、わけもなくじっと眺めている千鶴子に近づき、久慈はもう何んの感動もしない自分の若い心の老い込みを、これはどうしたものだろうとふと思った。
「もう君は日本へ帰ったって君の考えは通用しない。」
と先夜東野に云われたことを急にまた久慈は思い出した。そうだ、これはもう通用しないぞと久慈は突然冷水を打たれたような寒さであたりの街を眺めた。停っているトラックのタイヤの凹んだ部分にめり傾いている車体が、均衡ある風景の中から意味ありげに久慈の視線を牽きつけて放さなかった。
「こんなに静かな街の中でも、人の頭の中には暴風が吹きまくっているんだから、おかしなものだなア。」
と久慈は呟きながらリラの方へまた歩いた。
「もう戦争さえ起らなければどんなことにでも賛成するって、ホテルのお婆さんあたしに云ってたわ。そのお婆さんは面白いのよ。あたし何も訊きもしないのに、あなたはここをパリだと思っちゃ間違いだ。こんなパリはない。もうパリは無くなったっていうのよ。よほど前は良かったらしいのね。何んでもヨーロッパ大戦のとき、アメリカの軍隊がここへ駐屯してから、すっかりもうパリは駄目になったっていうの。どうしてでしょう。」
「それや、老人は思い出だけで生きているからだ。これはこれでまた充分に意義はあると思うな。」
突然一本の煙突から吹きあがって来た雀の群れを眺めて久慈は云った。リラの前の広場へ来たとき、彼はそこで買った二枚の新聞を丸め、ある建物を指差した。
「去年だか、あそこの建物の会館へゴルキイが来て講演をしたことがあるんだが、群衆がこの広場いっぱいに集ったら、突然警官隊が騎馬で殺到して来て群衆を蹴散らして、一人も講演を聴かせなかったというね。そのときは恐かったそうだ。今年の巴里祭はもう一層凄いということだが、あなたもそれまでいなさいよ。何事が起るかこの様子じゃもう分んない。昨日は罷業の会社がもう三百になっているんだもの。重要な会社が三百も閉鎖したなら、それやもう革命も同じだからな、右翼の火の十字団はもう決死だ。何んでもドイツの右翼と手を握り出したというから、もう僕らには訳が分らない。」
「じゃ、もうここは国と国との戦争は起らないのね。」
何ぜそんなになるのだと問いたげな千鶴子の視線に、久慈は黙ってリラのテラスの椅子に腰かけると買った新聞を開けてみた。すると、「あッ。」とかすかに云って、彼は紙面に首を突っ込んだまま一心に新聞のトップを読み始めた。そこには大きく、「日華の戦争起る。」と題して一面に書かれていた。「蒙古と広東で日華戦争が起ってるんだが、大げさに書いてあるにしても、こんなに新聞のトップ一面ということは今までになかった。」
久慈はまた別のを見ると、その新聞にも日華戦争と題してトップを大きく占めていた。二人は頒けた新聞を黙って読んだ。今までとて日本と中国の危機を報じた見出しが毎日のようにあっても、いつも片隅の事件として小さな取扱いを受けていた。虚報や臆測の多い記事に馴れているとはいえ、二つの新聞の主調色をなして片隅から競りのぼって来ているこの紙上の事件は、事実の誇張としても誇張せられるだけの何事かあるに相違ない。
「しかし、これはこっちのストライキを鎮める手段か、それとも本当かまだ怪しいね。明日あたり分るだろう。」
と久慈は云った。戦争が起ればすぐ帰らねばならぬ。帰って何をするか分らぬながらも、帰らねばならぬことだけは確かなことだった。ルクサンブールの公園から続いて来ているマロニエの並木が、広場の左方の建物の間に青葉を揃えて自然の色を見せている。岩石の峡谷の底に湛えられた水を見る思いで、久慈はその樹の流れを見ていると、ふと前に見たトラックの車体の重力が凹んだ一輪のタイヤに向って傾いた風景を思い出した。張力の一番薄弱な部分に戦争が起るという戦争の原理が事実なら、あるいは中国で遠からず戦争が起るだろう。
「あたし、今夜塩野さんに訊ねとくわ。あの方外務省のお仕事してらっしゃるから、一番そんなことよく御存知だと思うの。去年だったかしら、ユーゴスラビアの皇帝がマルセーユで暗殺なされた事があったでしょう。あのときも大使館で書記官が調べ物をしてたんですって、そうしたところが、そこへ電話がかかって来たものだから、いきなり調べ物の大きな書類を床の上へ叩きつけて、いよいよヨーロッパ大戦だ。もうこんな物なんかいらんッ、と呶鳴《どな》ったんですって。何んかそれで皆さん大笑いしてらしたことあってよ。」
「今日もこれでだいぶ書類を叩きつけた者がいるだろうな。」
と久慈は云って、自分も確に周章者のその一人だったとひそかに苦笑をもらすのだった。すると、戦争が起ったということなど全く嘘のようにまた彼は落ちつけた。
ボーイがテラスへ来たので千鶴子はショコラを註文した。二十年前に藤村が毎日ここへ来ていたというので千鶴子はこのリラが好きだった。ここのカフェーはどこよりもボーイの廻りがのろくさとして遅かったが、それが一つはむかしの全盛をしのぶよすがとなり旅人にのどかな気持ちを与えた。海老茶色の革で室内をめぐらせてあるソファーもすでに弾力がゆるんでいたが、それでもまだ質の良い革やバネは、べこべこの日本のカフェーのものとは比較にならなかった。来ている客も老人が多くコーヒーに入れた砂糖の溶ける音までよく聞えた。しかし、何んと云ってもここはもう衰えるばかりだった。
「文明は西へ西へと行くという学説があるけれども、もう文明は大西洋を渡ったのかもしれないね。あるいは今ごろはアメリカを通り越して、太平洋の真ん中でうろついている最中かもしれないぞ。幽霊は海の中だ。」
罷業がつづいてからというもの、外国銀行へ流れ出す急激な金の速度にうろたえたフランス政府の顔色を憶い、久慈はそう云ったのだが、千鶴子も丁度『幽霊西へ行く』という映画で、ヨーロッパの精神が幽霊となり、物質文明とともに大西洋の海を渡ってゆく諷刺劇をサンゼリゼで観た後だった。
「じゃ、幽霊が空虚になっていなくなったからストライキ起って来たのかしら。何んでもお砂糖も明日から買えないってことよ。水道と発電所とを軍隊が守っているので、それだけはどうやら無事なんですって。」
ボーイがショコラを持って傍へ来たとき、砂糖はまだ買うことが出来るのかと久慈が訊ねてみると、自分の家は買溜がしてあるから当分は大丈夫だと答えた。
久慈はここでの先ず何よりの自分の勉強は、この完璧な伝統の美を持つ都会に働きかける左翼の思想が、どれほど日本と違う作用と結果を齎すものか、フラスコの中へ滴り落ちる酸液を舐めるように見詰めることだと思った。すると、そのボーイの無愛相なのろさまで、今に自分たちもここの家の火を消すのだと云っている顔に見えて来た。組合の発達しているフランスであるから、労働者はみなそれぞれどこかの組合に這入っている。その組合のあらゆる層が漸次に連繋をとって動き出し、賃金の値上げと休日の増加と、労働時間の短縮の三つをかかげて要求を迫り始めた罷業である。農民を除いたこの全面的な生産部門の活動の結果が、街にあらわれた休業状態の姿であるから、僅かな利子のやりくりでその日をつないでいる多くの会社はばたばたと潰れていく。その会社に属している労働者は失業していく。生産品が無くなりつつあるから物価があがる一方である。労働者が賃金を増加してもらっても物価がそれを追い越して高まるうえに、莫大な金銭を落していく外国からの旅行者はみな逃げていく。危険と見てとった自国の資本家も外国銀行へ預金を変えるに随い、フランの値段が均衡を失って下落していく。
しかし、そのような悪結果は総て初めから分っていたのだと久慈は思った。その分っていたことをやり出さねばいられぬもの、その正体はいったい何んだろう。自分の行為の結果の予想を一つ間違えば、すべてが悪結果の連続になってゆくという現実の将棊で、今やフランスという文明の盤面上の駒はその悪結果を知りつつ、駒自身が盤面もろとも自滅してゆく目的に向って急ごうとしている、ある意志に似た傾斜を久慈は感じるのだった。
しかし、それもいったい何んのためだ。
久慈は千鶴子と別れた後でいつも行きつけのカフェーへ行った。そこへは矢代と真紀子とが来ている筈だったがまだ二人は見えなかった。顔馴染の外人らは久慈にみな日華の戦争の起っていることを報らせ、どうだ少し日本が負けているようだが大丈夫かと心配そうに訊ねた。
「いや、あれはみな嘘だ。」
と久慈は答えた。しかし日華の日ごろの関係も知らぬ外人の心にさえ、そんなにこの日のニュースは大きく響いているのかと思うと、事実の当否以外に、響きの方が事実となって、何事か次の芝居の人心を動かしていく瞬間の偽りを久慈は感じた。そして、それがつまりは歴史となって世の中の表面に氾濫しつつ進んでいくということも。――
外人たちの中に混りいつもテラスに来ている李成栄という中国の画家は、特別にこの日は誰よりも大きく久慈の視線の中で幅を占めて見えた。李も久慈と視線を合す度びに視界に一点邪魔者がいるという顔つきで、煙そうに横を見て、先夜柳田国男の日本伝説集を読んでいたドイツの青年と話した。久慈と李はどちらも悪意を持つ理由がなくとも、ただ単に視線を合したことで、悪意に似た抵抗が頭の中に生じるある微妙な事実は争われず二人の間で起っていた。すると、そのとき二台連って疾走して来た無蓋自動車から、罷業の委員たちであろう、皆それぞれ熱した顔で固めた拳を空に上げ、「フロンポピュレール」(人民戦線)とこんなにテラスの前で叫びながら過ぎ去った。日日変らずに起っているこのようなことも、今日は云い合したような眼まぐるしい渦巻きを久慈の胸中に呼び醒した。
「今夜は支那飯店へ乗り込んで見よう。どういう気持ちでいるものか一つ見よう。」
とこう久慈は考えると、出来るなら李とも話して彼らの意見を訊いてみたいと思った。しかし、それにしても、何んと考えることの多過ぎる時代になって来たものだろう。それにも拘らず自分はまだ何も知らぬ。このパリ一つでさえが、眼に触れるもののすべての面に底知れぬ伝統の深さが連なりわたって静まっている。それも必死に苦しんだ人間の脳の襞が、法則を積み重ねた頁岩のように層層として視線のゆく所にあった。過去を知ることが現在を知ることにちがいないなら、およそ自分は現在さえも知らぬのだ。それなら、ここの未来はどんなにして知ることが出来るだろう。――
しかし、このように一歩たじたじと謙遜になりかかると、久慈はいちいちこのヨーロッパに反抗するような矢代の興奮の仕方もよく分った。それにつれて、所詮、日本人の生える土地はここにはないと、だんだん東野に教えられたままに自分の考えも流れ落ちていく不安に襲われ出すのだった。
問題は土だ。それも農村問題や政治問題じゃない。もっとその奥の奥にあるのだ――。
と久慈はこのように遅まきながらひとりいる自由さに、頭が故郷の土に戻ってあちこち日本の上を馳け廻って停らなかった。見るとテラスにいる外人たちのどの顔も、ある共通の淋しさを泛べている。それも皆それぞれの自分の故郷を思い泛べている顔に見えて来る。
「しかしだ。何ぜまだおれは日本へ帰りたくないのだろう。何ぜここがこんなに面白く見えるのだろう。」とこう思う。
研究すべき宝の山へ這入っていながら、故郷の土を研究したって始まらぬ。いやそれより自分は故郷の日本の土の質さえまだよく知っているとは云えないのだ。西洋も知らなければ、東洋も知らぬ心というものは、これはいったい何んというものだ。
そうだ。これはもう自分は飽くまで世界共通の宝を探すことだ。これこそどの国でも狂わぬというものをただ一つ探すことだ。と久慈はそんなに思うと再び活気を取り戻すのであったが、しかし、それも東野に云われたように、考えれば、共通のものというものはあるものやら無いものやら分らなかった。あると思うのは、なるほどこれも東野の云ったように他人があると教えたからかもしれぬ。
「畜生。」
頭がばらばらになっていく先き先きに、東野の頭がも早や先廻りをして立っている。もう今夜は眠れない。
矢代と真紀子が二人並んでテラスへ来ても久慈は黙って挨拶もしなかった。
「東野のおやじ。来んかな。やっつけてやるんだが。」
「何アに、それ御挨拶?」
と真紀子は云って久慈の横へ腰を降ろした。
「どうも腹が立ってむしゃくしゃしてるんだ。」
「どうしてそんなに腹が立つの。」
ふと久慈は真紀子を見ると、ウィーンばかりにいたせいかまだ外国擦れのしない真紀子の馴馴しさが、日本のインテリ夫人を見るようなある懐しい古さを匂わせて来るのだった。千鶴子を見ても感じぬ危い溶け崩れるような温暖な情緒が、この良人を離縁して来た夫人の周囲に纏りついていて、一重瞼の一種独特な落ちついた自然さでテラスに異彩を放っている。
「久しぶりだなア。」
と久慈は誰にも分らぬことを口走ると、パリへ来て以来初めて自然に還った瞼の閉じるような思いがするのだった。註文のコーヒーが来たとき久慈は真紀子の茶碗に砂糖を摘んで二つ落した。
「君の亭主は悪い奴だな。」
いきなりそんなに云う久慈を真紀子は一寸恐わそうな表情で眺めてからコーヒーを掻き廻した。
「久慈さん、へんよ。どうしたの今日。」
「だって、こんな外国で自分の女房を一人ほったらかす奴があるもんか。女が出来たって、迎いに来るぐらい骨折ったって良かろうじゃないか。」
「でも、仕様がないわ。あたしがいれば困るんですもの。」
「困るのは向うだけじゃないや。」
別に真紀子に特別な好意をよせずとも、気の毒で溜らぬという久慈の表情は真紀子も感じたらしい。飲みかけたコーヒーも一口唇をつけただけでまたすぐ降ろすと、突然俯向いてしまったまま暫く顔を上げなかった。
「大丈夫だよ。」
久慈は泣きかかっている真紀子の肩を強く打った。真紀子は顔を上げてハンカチで眼を拭いたが、すぐ快活に笑い出した。
「ウィーンって所は、ああいうところなんだわ。あたし、宅がいるもんだから、日本にいるときシュニツラのものをよく読んだの。あそこはユダヤ人問題と恋愛があるだけのようなところだと思ったんだけれど、行ってみてあたし、あそこにいれば恋愛三昧になる筈だと思ったわ。海のない国の寂しさっていうものが、浸み込んでいるのよ。」
「そう云えば思い出した。チェコの青年だったが、マルセーユで海を見て、生れて初めて自分は海を見たんだが、海ってこんなに大きなものかねえって、首をひねって、さも感慨に耐えぬという顔をしてたっけ。」
矢代はあたりの外人たちの顔の中から、海のない国の人間を探し出そうとする風で、
「ここにいる外人たち、みなパリへみいらを採りに来て、みいら採り皆みいらになって本国へ帰っていくのだからな。気の毒なものだ。」
黙っている久慈の顔にさっと紅がさすと、毒毒しい皮肉な微笑が一瞬唇を慄わせたが、それもすぐ沈んで彼は黙りつづけた。まだ矢代に怒るものが自分にはあるのだと思う気持ちを久慈は考えてみたのである。たしかに自分はパリのみいらにいつの間にかなりかかっている。しかし、矢代は何んだ。日本のみいらになってるじゃないか。――
久慈は足の下から眼に見えぬ煙のようなものが立ち昇って来るのを感じた。自分を今まで支えていたと思っていた知識の一切が、形をなさぬ不安な色どりのまま、腰の浮き浮きする不快さが加わっていくばかりだった。
すると、そこへ李と話していたドイツの青年が立って来て矢代に紙片をさし出し、
「これは何んと日本語で読みますか。」
と訊ねた。それは李の書いたものと見え、唐朝人、雀、と作者の最後の名が分らぬらしい風で、画家の好きそうな美しい詩が書きつけてあった。
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去年今日此門中
人面桃花相映紅
人面不知何所処
桃花依旧笑春風
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唐詩を日本読みに返って読んでいる矢代の傍から、久慈も何気なく窺いてみると、人の臭いのもう無くなってしまった門の中で、桃の花だけにたりと笑っている虚無的な風景が泛んで来た。日華の戦争が始まったという最中に、李はこんなことを考えていたのだろうかと、久慈は今自分の考えていたこととの遠さを思いくらべてみるのだった。
「中国人というのはこのパリを見ていても、みな人間の死んでしまった跡の空虚《から》ばかりが眼につくんだね。また後へどこの馬の骨かしら這入って来るだろうぐらいに思ってるんじゃないか。」
ドイツの青年が李の傍へ戻った後で久慈は矢代に云った。
「そうも思わないだろう。そんなことを思っては楽しんでいるだけだよ。人間が空虚になってるところばかり美しく見えるのなら、ここから日本を想像してみなさい。人が一人もいないように見えるじゃないか。実際僕に不思議でならぬのは、ここから日本のことを思うと、いつでも人が日本に一人もいなくて、はっきり、伊勢神宮だけが見えてくることだね。これやどういうもんだろう。」
矢代はブリュウバールの方に日本があると思うらしく、傾いたその道路の方を見ながら暫く黙っていてから、また云った。
「僕はこのごろ本当のことを正直に云うと、日本の知識階級の中に世の中なんか滅ぼうとどうしようと、どうだってかまやしないと思っている人間がいそうに思えて仕様がないのだ。何んだかそんな気がするね。しかし、僕はどんなに世の中がひねくれたってかまわないが、たった一つの心だけ失っちゃ困ると思うものがあるんだよ。それさえあれば善いというものが――ね、そうだろう、なければならぬじゃないか。あるけれども忘れているというような、平和な宝のような精神さ。どこの国民だって、一つはそんな美しいものを持っているのに、忘れているという精神だよ。僕らの国だってそれはあるのに、探すのが厄介なだけなんだ。しかし、僕は見つけたよ。見せよと云われれば困るがね、何んというか、それは云いがたい謙虚極る純粋な愛情だが。」
「それや何んだい?」と久慈は不明瞭な矢代の云い方に腹立たしげに云った。
「こういう歌が日本の昭和の時代にある、父母と語る長夜の炉の傍に牛の飼麦はよく煮えておりというのだ。こんな素朴な美しさというか、和かさというか、とにかく平和な愛情が何の不平もなく民衆の中にひそまって黙っているよ。桃の花さえ笑ってくれてれば良いというのと、牛の飼麦の煮えるのまで喜んでいる心というのとは、だいぶこれで違いがあるよ。ところが、日本と中国の知識階級は、こういう両国の底の心というものをみな知らなくなってしまってる。僕だって君だってだ。殊に君なんかひどすぎるぞ。このまま行けば、僕らは東洋乞食というか、西洋乞食というか、まア君なんか西洋の方だなア。」
「今さらお前は乞食だと云ったって、三日すれや熄《や》められるか。」
どちらか皮肉を云い出せば、髄まで刺し通して共倒れになるまでやり合う習慣がまたしても出かかったが、もう久慈には刺される痛さも感じない、午後の気重い退屈さがのしかかっていた。それは街の石の重さのようにどっしりと胸の底に坐り込み、突いても吹いても動き出す気配のない重さだった。貸家になっている前の家の石壁に打ち込まれた鉄鋲から垂れ流れている錆あとが、血のように眼に滲みつく。それが顔を上げる度びうるさく前に立ちはだかって来て放れなくなると、久慈は椅子ごと真紀子の方へ向き変った。真紀子の黒い服の襟から覗いている臙脂のマフラが救いのように柔い。
「これからセーヌ河へ行こう。君は用事があるなら夕飯を八時として、サン・ミシェルの支那飯店で待つことにしょうじゃないか。まさか毒も入れまいだろう。」
こう云う約束で久慈と矢代は別れてから、久慈は真紀子と二人でセーヌ河の方へ行くバスに乗った。
八時になって久慈は疲れた身体で矢代と約束の支那飯店へ行った。二階は二間に別れていて大きな窓をへだて、どちらからもよく見えた。小さな八畳ほどの部屋には日本人が主だったが、大きな二十畳ほどの部屋の方には中国人の客が多かった。日華の戦争の始まったニュースの大きく出た日のこととて、中国の客の視線は一様に薄青い光で反撥し、眉間による皺が漣のようにホールの中を走った。ボーイも中国人だから大部屋への遠慮もあると見え、卓を叩いて呼んでもなかなか日本人の部屋へ這入って来なかった。本国が戦争だという日に、敵国の人間が乗り込んで来たということは、自分の城に侵入されたと同じ嫌悪を感じるのであろう。遠くから一二怒声に似た声も聞えて来た。
「大丈夫なの?」
と真紀子は小声で恐わそうに久慈に訊ねた。
「大丈夫さ。殺されるようなことはない。こんなことで殺されればもう中国は人間じゃない。動物だ。」
「だって、それや分らないわ。」
「しかし、支那料理のような美味い料理を造る国だから、中にはなかなか優れた人間もあるにちがいないでしょう。喧嘩は誰にも分らぬ方法で始末してゆくだろうと思うな。」
日本人のテーブルはどれも料理がまだ来なかったが、皆は黙って待っていた。すると、そこへ船で一緒の客だった沖老人が三島と二人でひょっこりと顔を出した。沖は船会社の社長を辞めて漫遊に来ただけでもうパリにいない筈だったし、三島も同様にベルリンへ機械の視察に行っただけだったから、この二度目の会合はむしろ奇遇で同級生と会ったように懐しかった。
「しばらく。あなたはイタリアへ行らしったという話でしたが。」
と久慈は立って白髪の見える沖と三島に挨拶した。
「イタリアから昨夕帰りました。明日の船でアメリカ廻りでまた日本へ帰りますよ。」
沖はベルリンから戻った三島ともホテルで偶然一緒になり、明日の船のノルマンディもまた二人は同じだということだった。見たところ暫くの間に三島は一層前より憂鬱な顔に変っていた。沖は反対に老人にも拘らず眠っていた闘志が燃え上って来たらしく、若者のようないら立たしさが額のあたりにてらてらと光っていた。
「はア、もうイタリアではボラれたボラれた。ネープルスを見んと死ぬなというから、ベスビヤスまで登りましたが、自動車賃をあなた、たった二時間半で二百五十円とりよった。それにネープルスは汚いとこじゃ。あんなとこ見て死んでられるかい。わしは日本へ帰ったらもう一ぺん会社を起してやろうと思うてます。何アに。」
こう沖は云ったと思うと声の調節がつかぬと見え馬鹿に大きな声で、「何んですなア、西洋という所は、男ひとりで歩くと馬鹿にしよる。もう酷い目に会うた。こんどは一つ、うんと美人をつれて歩いてやらにゃ、もう腹の虫が納まらん。」
部屋の中の日本人は皆くすくすと笑い出した。沖は一同を見廻すと演説をする時のように腹を突き出し、「ははア。」と愛想笑いを一つして云った。
「わたしは昨日まで日本語を一つも云わなかったもので、もう今日は皆さんを見ると、饒舌りとうて仕様がない。」
聾者が急に聞え出したように噴出して出る想念の統制がつかぬのであろうか。沖の云うことには全く連絡がもうなかった。
「三島さん、何かお土産ありました。」と久慈は黙って沈み込んでいる三島に訊ねた。
「いえ、何もありません。帰ったら叱られそうで考えてるところです。」
多額の金銭の支給を受けて視察を命ぜられ、何一つ新しい発見もせず明日帰ろうという機械技師の苦衷は、自分の想像外の気重さだろうと久慈は思った。
「一つもないって、じゃ、やはり日本はそれだけ進んでしまったのですか。」
「そうですね。」と三島は、日本がそれだけ進んだのか或いは自分の鈍感さの結果だったかはまだ疑問の風で笑顔一つもしなかったが、「一度ある国でこんなことがありました。僕が工場を視察していましたら、面白い形の機械を一つ見附けましたので、珍しそうに眺めていますと、向うから写真を撮るなら撮って下さいと云うのです。どこでも視察は許しても写真だけは許しませんから、親切なところもあるものだと感激して、それではどうぞと幾度もお礼を云って撮らせてもらいましたが、宿へ帰って現像をして見ましたら一枚も写っておりませんでした。」
「どうしたのです。それはあなたの失敗なんですか。」と久慈は重ねて訊ねた。
「いや、工場へ這入る前に庭で二三分待たされましたから、多分そのときどっかから光線をあてて透してしまったのだと思います。」
聞いていた者らの顔色はさッと変って黙った。久慈も一瞬無気味な寒さに襲われた。しかし、考えればそんなことは当然のことで別に怪しむに足りぬことだと思った。眼に見えぬ光線を透されたのは写真の種紙ばかりではない。この部屋に集っている東洋人の頭の中の種紙も、誰も一様にある光線にあてられすでに変質してしまった頭になっていた。表面の顔は変らぬながらも、一言もの云えば無数の手傷を負った頭を直ちに暴露するのである。またそれらの頭の変化の仕方は久慈型か矢代型かのどちらかであり、もう一層激しいのは隣室の中国人同様全く西洋の模倣そのままの頭だった。
隣室の中国人の集りはわけてもこの変化が極端であった。場所の不潔さは面を蔽いたくなるほどだったが、ホールではテーブルを囲んだ男たちの中へ誰か一人中国の女が来ると、同時にさッと皆が立ち不動の姿勢で女の腰を降ろすまで直立して待っていた。女は椅子の背に露わな腕を廻した不行儀な横着さで、煙草を吹かせひとりべらべら饒舌りまくっている間も、男らは神妙な恰好で女の云うことを傾聴していた。数組のテーブルの中にはこれとは別な中国人もあって、それぞれフランス人の美人を一人ずつ連れていた。これらの者はもう東洋人は卒業だという顔つきで、一種特別なみいらに似た物静かな構えだった。
久慈はこのようなみいらが団結した模倣力で、それぞれ本国の東洋に渦巻き起す風波の結果を考えると、抗日意識の高まりが戦争を惹き起してゆくことなど当然だと思った。これは行くところまで行かなければ恐らくやむまい。ここに日華の共通した精神の連結作用が、どちらも西洋の模倣という一点に頼る以外方法はないものであろうか。何か東洋独自の精神の結合に似た一線はないのであろうか。
久慈は中国人のいる大部屋の方を眺めながら、いつの間にかまた矢代の日ごろの考えの中に入り込んでいる自分を発見して、いや、おれのはまた矢代とは別だ、共同の一線を発見することだと強いて心中思おうとするのだった。
約束の時間がすぎて間もなく矢代は二階へ上って来た。彼は久慈の傍に思いがけない沖や三島のいるのを見つけると、故郷の見えたようにひどく喜んで云った。
「やア、これはこれは、御無事で何よりでした。」
「今さきも云ってたところですが、老人で西洋へなんか来るもんじゃありませんよ。もうわたしゃ、馬鹿にされて、馬鹿にされて。ひとつ帰ったら、うんとやってやろうと思うてます。何んじゃこんなもの。土産一つ買おう思うても、うっかり珍らし思うて手を出すと、日本品や。いやはや、なっとらんですな。」
と沖はまたしても大声で誰はばからず云った。他の客はいつまで待っても来ない料理に腹立てボーイを呼ぶと、僅か一本のビールを持って来ただけだったが、それも隣室の人目を忍ぶ風に布の下に隠して持って来た。日本の客たちは怒って出て行くものもあった。ボーイが漸く皿を少しずつ運び始めたとき、隣室の中国人の中から呶鳴るものがあった。
「もうこのごろの世界は、どこでも女に焚きつけられとる。うアはッはッは。」
と今まであまり隣室の方へは注意しなそうに見えていた沖も、癇に触れたらしくそう云って笑ってから、突然ボーイを睨めつけ日ごろの社長の権幕で、「おい、ボーイ、来んか。」と、去りかけたボーイを呼んだ。しかしボーイは振り向きもしなかった。「ボーイ。ボーイ。こらッ。」
と沖は呶鳴った。すると、向うの部屋の中国人たちは一斉にこちらを見て何事か激しい罵声を沖に浴せた。沖は立ち上ったかと思うとナフキンを投げ出した。そして、船の中の茶会でよく外人に演説したように実に見事な英語で隣室の方に向って云った。
「料理屋で料理を食うのは国民間の親愛のもとであります。すべて平和というものは食事から来るとは、中国の大哲の教えだと思います。それに諸君は外国に来てまで、われわれの空腹に反対をせられるか。ここはフランスでありますぞ。君らの尊敬する外国で毎日勉強したことが、空腹の者にも自国の食事を与えるなということでありましょうか。これ甚だ東洋人たるわれわれの遺憾とするところであります。われわれの東洋には、戦うときでも敵に塩をやって決戦した、礼儀や仁徳をモットオとした英雄の日月があったのであります。」
ひどい近眼の大きな顔をいつもにこにこ笑わせている沖が、こういうことを云うときも絶えず笑っていたので、鋭い内容の演説も柔ぎがあったが、運悪くここは英国語ではなかったから、船中のようには聴手にうまく響かなかった。隣室は急に騒がしくなるばかりで、沖に殴りかかろうとする頑な二三の顔が窓からこちらへ顔を突き出し、歯をむき出した。
「これや、何云うても仕様がないわい。料理をくれん方が勝ちじゃ。出ましょうや阿呆らしい。」
と沖は急につまらなそうに云うと立ってもう帽子を冠った。久慈や矢代らだけではなく皆も沖の後からついて階段を降りていったが、罵声が一層強く後の方でするだけでボーイは挨拶一つしなかった。
出たところの往来はパンテオンの方から下っているサン・ミシェルの坂だった。坂道の繁しい人通りの中を左翼の新聞売子が叫びながら通る。その険しい声の後から右翼の新聞売子が、またそれを揉み消すような声を張り上げて迫ってゆく。その後からまた左翼、右翼と、続続とつづいて通るあわただしい夜のカルチェ・ラタンである。学生街であるからここは王党という学生の理想が一番勢力を占めているので、新聞は左翼も右翼もあまり売れない。目的はただ王党の中に左右の喰い込む術にあるらしかった。
「明日の船で帰られるのなら、ひとつ今夜は遊びましょう。私もパリ祭を見ればロシアを廻って帰りますよ。」
矢代のこう云う案内で四人は附近のアルザス料理を食べに坂を下った。セーヌ河近くのこのあたりは久慈は今日のうちにもう二度も来た。ノートル・ダムの尖塔の見える薔薇垣の傍のテラスで、羊や鱒を註文してから五人は空腹を柔げると、まだ西洋を見なかったころの印度洋や紅海あたりの船中の食卓を思い、話は楽しくいつまでも尽きそうになかった。
「しかし、何んですよ。これでわたしらは運悪う大風の中へ来たようなものでしたが、さんざんこちらで揺り廻されてほッとして帰ると、今度は日本にここどころじゃない、大風が吹いてるんじゃありませんかな。二・二六というのはわたしらは見なかったけれども、あの話の模様じゃ、ひと通りの風模様じゃありませんぜ。外国人もみな驚いてますね。日本というところはドラゴンが政治を動かしているそうだが、今度は竜が跳ねたのかといいよる。」
沖の云うのに三島はドイツで聞いたのだと云って、まるで戦場のような空気の漲っている東京市中の話をした。嘘か真事か一同には分り難かったが、話半分にしても市民の狼狽した話などを聞かされると、日本に吹きつけている不連続線はヨーロッパどころの風ではなさそうに久慈には思われた。
「僕らはまだ若いから分らないのかもしれないが、どうですか沖さん、青年がこんなに沢山考え事をしなくちゃならぬ時代なんて、今までにありましたかね。」
「いや、こんなことは明治以来初めてですな。今までにも大事件は幾つもあったけれど、考えの範囲が狭かったから物事をするのにも熱情がありましたよ。しかし、このごろのは何が何んだか分らない。どうして良いのか見当がつかぬのですよ。明治以来駈け足をしすぎて、心臓が飛び出たのだ。」
沖の云い方に一同どっと笑ったものの、それぞれ胸倉をひっ掴まれたように急に黙ると沈み込んで羊を切った。
「そうすると、僕たち外国にいるものは、いよいよこれは捨小舟というところかな。」
と久慈は先夜東野に云われたことをまた思い出すのだった。
「いや、もうどこの国の考え方も世界に分ってしまったのさ。意志を隠そうたって隠せなくなって、外からまる見えになって来たのだよ。どこの国からも左翼が出て、自分の国の秘密をさらけ出してしまったものだから、よしッそんならというので、いちかばちかでどこの国も暴れ出して来たのだ。」
と矢代は云った。
「そうそう、その通り、どこの国も中に隠れていた心臓が飛び出てしもうて、押し込みようがないのだ。そんならもうこれ、心臓の強さで押すより法がない。そっと隠しておけば良いものを洗い立ててしもうたから、もう穏便に隠しておく必要がなくなって、大っぴらで一層やり良うなって来た。わたしもこれで資本家ですから、その点良う分る。わたしは不良ですが、不良でもこ奴不良だと知って貰う方が、もう暢気で、ええ。」
来るときの船中でも沖はしきりに、「わたしは不良で、」としばしば謙遜に説明したことがあった。不良を笠に仕事をする心の計画は不快だったが、隠していられるよりまだしも沖の態度に久慈は好意を感じ、食事の味も邪魔にはならなかった。殊に同船で来た客は悪者であろうと何んであろうと兄弟のように見え、内地の批判など役には立たぬ旅愁に誰も襲われていた。いや、むしろ、悪者ほど偉大に見える何ものか間違ったものさえ人は心の中に育て始めていると云って良い。
久慈はそのような心の自分の変化を今も感じたが、自分も沖のように六十を過ぎてこんな所へ来れば、洒洒として臆面なくあんなに振舞うようになるかも知れぬと、他人事とは思えず、傍の真紀子の身体の危さを度を増し感じるのだった。
「不良は伝染るなア。」
久慈は意外な発見をしたように矢代の顔を見た。そして、彼はどのような方法で自分を制御しているものかしらと、瞬間矢代と千鶴子のチロルの夜夜のことを考え、あるいはこの矢代は嘘をついているのかもしれぬと疑いさえ起って来た。
「沖さん、矢代はね、なかなかこ奴不良にならんのですよ。あなた意見をしてやって下さいよ。嘘つきだこ奴。」
久慈はナイフで矢代の胸を指しながら云った。
「あなた、外国へ来て不良にならんのですか。そ奴も少し不衛生だなア。」
沖はナフキンで口を拭きながら珍しげに矢代を見て笑った。矢代はいつもの癖で男女のことを云われると一言も云わず、顔を赧らめたままただ黙っているだけだった。
「しかし、何んです。こっちへ来ると思うたよりも興味はなくなりますな。殺風景で面白うない。そうそう私は昨夕面白い青年に会いましたよ。どっか踊場へ連れて行けと云うたら、切符制度の踊場へ引っぱって行って踊っているうち、ああ驚いたと云って席へ戻って来て、こう云うんですよ。今自分と踊っていたあの踊子は、あれは自分が二年前に同棲していた女だと云うのです。ところが、その女とその晩三度も踊っていて、まだ昔の女だとは気が附かなかったんですね。二度目に女がにっこり笑うもんだから、妙な笑い方をする女だと思っていると、三度目に、あなた忘れたのと云うたというのです。もうみんな、頭が妙な風になっとりますよ。不良のどうのと云ったところで、不良ならまだ良い方じゃ。この青年は二十五六で、まア日本人の五十か六十の男の経験をしてしまっとるですな。あのまま人間が五十か六十になったら、そら恐ろしいことになりますぜ。」
度の強い眼鏡の底から光る沖の話に聞き手たちは笑ったり黙ったりしているうちに、次第に身動き出来ぬ世界の中へ頭を落し込んでいって暫く何も云わなかった。
「そうすると、僕らは強味だ。まだ若いぞ。」
と久慈は思いの底を蹴りつけて吠え上るように云った。
「そうそう。あなた方はまだ若い。わたしはもうそれが何より羨ましい。」
印度洋の中ごろで夜毎に若者たちを悩ました沖の青春時代の思い出談の落ちが、今ごろパリのここで、こんなに淋しく終りを告げたのかと思うと、久慈は沖に代り腕を撫す気持ちで自分の中に鳴る若さを頼母しく感じた。
「じゃ沖さん。御遠慮なく明日はノルマンデイで帰って下さい。後は僕たち青年が引受けますよ。」
「君たちが二世になってくれるか、じゃ乾杯、健康を祝します。」
コップを上げると沖に皆はまた楽しく笑った。しかし、この前後から今まで音無しかった三島の顔は、何んとなく生き生きとして来て笑う声も一段と高かった。船中でも猫のように静かで誰よりも遠慮深く謙遜だった三島であるが、一と度びアルコールに触れると船中一番勇敢に溌剌となって、外人の婦人の誰彼なく肩を叩き廻り、靴まで脱がせて喜ばせたことがあった。
「自分の青春をパリで送ったものは、極楽へいった男だ。わたしは遅すぎてパリへ来た。いまいましいな。」
こういう沖に、子供を一人残したまま妻を死なした独身の三島は、
「そうだそうだ。」と相槌打って身体を始終もぞもぞと動かした。
「これで日本の青年たちは、どんなにパリをあこがれているかも知れませんぜ。それを皆さんここまで来て、何をくよくよしてるのですか。僕は君らを見てると、まるで坊主を見てるように思えますな。僕がもし諸君だったら、あるだけの金をここで使うてしまう。ここでケチをする奴は、そ奴は一番阿呆な人間じゃ。」
割れかかった石榴《ざくろ》に石を加えたように沖の言葉は久慈の心中へどしりと重みのある実を落した。すると、突然、矢代は遮るように、
「それは沖さんの感傷だな。ここは全く監獄だ。僕らはみな金を家から送って貰ってる俊寛ですよ。こんなところでうつつをぬかしたら、もう最後だ。」
と云った。
「あなたは船の中でもお坊さんだったからなア。まア、坊さんは世界のどこへいったって坊さんだ。」
と沖はひとり首を動かして頷いた。
「いや、かまわん。パリで坊さんしてやろう。」
と矢代は後ろへ反ってナフキンを唇にあてがった。三島は矢代の肩をしきりに叩きながら、
「あんたは坊さんなんかになりなさんなよ。え? 何が坊さん面白いのだ。」
にこにこと眼尻に下った好人物らしい皺を笑わせて云う三島を見ると、今まで全く忘れていた船中の三島の癖を皆は思い出したらしい。ぎょッとした顔のまま同時に黙ってしまった中で、
「お元気になったわ三島さん。またあたしに靴を脱げと仰言るんじゃありません?」と真紀子ひとりは三島から身を引くように反らしてからかった。
「はははは、靴か。靴脱ぎなさいよ。どうもあ奴を覚えてられると、僕は羞しゅうて。」と云いながらもう三島はしきりと真紀子の靴の方へ身を跼めて眺めた。若者たちを煽動して鬱を晴らしていた沖も、「これや、今夜は無事にはすまぬ。」と思う様子で少し不機嫌になって来た。
アルザス料理から一同は外へ出ると、河風にあたろうと云うので少し下ったケエドルセイの通りをセーヌ河に添って歩いた。ここは人通りは誰もなく瓦斯灯だけ鬱蒼とした樹の間から光っていた。真紀子は河岸に並んだ古本屋の閉った緑の箱の間から欄壁に飛び上ろうとする三島を絶えず心配して、「危いわね。落ちついてらっしゃいよ。」と袖を曳くように彼の腕を掴んで歩いた。三島は鳥を追うような恰好で、「ほう、ほう。」と夜空に黒黒と続いたプラターンの大樹を仰いで叫んだと思うと、真紀子の腕から脱け出そうとしてまた引き据えられた。それでも三島は片足を高く上げつつずんずん一人先の方へ進むので、いつの間にか真紀子も一行から放れて先になった。三人は幾らかの酔いも醒めてしまって三島達の後姿を見送っているとき、
「ほう、ほう。」とまた三島は三人の方を振り返って遠くから叫んだ。そのうちに停っていた自動車のドアを開けて中へ消えると、真紀子も後から皆に手招きして乗り込んだ。その途端、自動車は待ちもせずそのまま簡単にずるずる辷り出して橋を渡っていってしまった。
「あッ、これやいかん。」
と久慈は云うと周章てて停っている別の自動車へ飛び乗った。そして、皆も待たず三島の自動車の後を追わしていったが、もう三島たちの車は、真青な瓦斯灯の光りの張った鏡のようなコンコルドの広場の中を突き辷っていた。別に何んの驚くべきことでもないと思っても、それでも久慈は不安だった。矢代や沖も当然後から追って来るものと思って前の二人の車ばかり見ているうちに、車はオペラの方へ消えて見えなくなった。あの二人をそのままにしておけば何事か今夜は起るにちがいないと、久慈はだんだん不安が増して来た。しかし、起ったところで今は独身の二人であった。それならむしろ出来事は二人にとって何かの幸福の原因になるかもしれぬと思った。彼は急に車の速力を停めさせた。そこで暫くぼんやり後ろを向いて待っていたが、一向に矢代たちの追って来そうな気配はなかった。いつの間にか来ている皎皎として青い広場の中で、老いた古い女神の彫像だけ周囲の噴水の飛沫を浴びて立っていた。
久慈はゆるく車をもと来た方へ女神を廻らせていった。解き放されたような気怠い疲労の眼で女神の顔を見ているうち沈み加減なその横顔の美しさに彼は胸が不思議に波立つのを感じた。すると、突然、あれはお母さんの心配している顔だと思った。彼は駄駄をこねる度びにあのような憂いげな眼差しをよくした母を思い浮べながら、ケエドルセイまで引き返した。しかし、そこにも矢代たちはもういなかった。久慈はもう一度あたりを探してから車を真直ぐにモンパルナスの方へ走らせていって、いつものキャバレの前で車を降りた。踊場とは別室の酒場の椅子には人人の姿がまばらだった。久慈は雀のように台に連って饒舌っている踊子たちの中からなるべく母に似ていそうな顔を自然に探し、その傍へよって行った。
「君、なんて云うの。」
「ルル。」と女は答えた。
「ルルか。ルル、ルル。」
と久慈は呟きながら傍のダイスをとって物憂げに賽を振った。ルルは片手を久慈の肩に廻し自分も振り出した賽の目を見て、
「あら、明日は雨だわ。」
と云うと佗びしい小声で唄を歌った。その間も久慈はまだダイスを振り振り、真紀子の帰って来る時間を胸のうちで計っているのだった。このお客は誰か他の女を愛しているともう嗅ぎつけたらしいルルは、久慈の肩に手をかけたまま這入って来る新しい客の顔を眺めていた。
篠突く雨で道路は水を跳ね返しぼうと地上一尺ほどの白さで煙っている。その中を自動車が水を切って馳けてゆく。急に襲って来た夕立のこととてもう熄むだろうと思い、矢代はカフェーの入口の所で待っていた。二三日前から行方の分らぬ久慈に度び度び電話をかけてみても要を得ず、真紀子に訊ねても久慈とはケエドルセイで別れたままだとの答えである。無論、千鶴子も誰も知らなかった。この二三日、久慈に突きあたりすぎた自分を矢代は跳ね上る雨脚を眺めながら後悔した。ひっ附いていると突き合うくせに放れると心配になる久慈の善良な明るさが、だんだん自分のために湿ってゆく懼れも矢代は考え、どこへ流れてゆくか計られぬ彼の身を再び手もと近くに呼び戻したくなるのだった。
あまり客のいない室で静かに自分の国の新聞を読んでいる外人たちの中で、二人の日本人だけがしきりにベルリンとパリについて激論していた。一人はベルリン党と見え、ドイツの団結力と綜合力とが、パリの自由性と分析力よりはるかに勝って次の時代を進めてゆくという主張に対し、パリ党の方は、
「このパリの自由さ、このパリ人の平和への人間愛。」
という風な感激した言葉で反抗しているのも、矢代は日本ではなかなか見られぬ風景だと思った。しかし、日本でもこの二つの思想派は絶えず捻じ合い殴り合いして来て今にまでつづいているのを思うにつけ、いつも久慈と二人で論争して来たそのテーブルで、今も二人の青年が泡を飛ばしている姿が、やはり何ものかに燃え上っていって果て知れぬそれぞれの苦悩と楽しみの現れのように見えた。
「やっとるぞ。」
矢代は微笑しながら聞いているうちに、自分も懐中深く持っている秘めたマッチを取り出し、思わず二人の議論に火を点けたくなるのだった。
「いったい、めいめい何に火を点けたいのだろう。実はおれも火を点けたい。」
ふとこう思った彼は眼を上げたとき、濡れ鼠になった石の古い建物が全身から汗のような雨滴を垂れ流している姿が映った。瞬間それは突然の天候のこの変化に歓声をあげて雀躍しているパリの石の心のように感じられた。今までとてときどき矢代は、パリの街に一度根柢から吹き上げる大地震を与えたい衝動にかられたことがあったが、今もこの街に巻き襲って来ている左翼の大海嘯は、沈澱して固まりついた物体のように化け替っている精神の秩序に刃向い、襲わずにはいられぬあの暴力のように思われるのであった。しかも、まだそれでも夕立の雨のように石の表面を垂れ流れるばかりで、何の手応えもない不動の秩序の古古として潜んでいるのが感じられると、たちまち彼は取り出したマッチも仕舞い込み、その強い秩序を支えている原型の部分を分析研究してみたくもなって来るのである。
しかし、何んといろいろな精神の破片《かけら》を自分は袋へ入れて来たものだろう。これから日本へ帰ってゆっくり一つ一つずつ検べるのだ。――
こう思うと矢代も胸中の袋の底に手をあててそっとその重さを計ってみた。かつては逆さに渦巻の中へ頭を倒して巻き込まれているような自分だったが、チロルの山中で氷河の断層を渡ってからは、ヨーロッパで拾い集めたその破片を袋ごと投げ捨てて来た筈であったのに、パリへ戻るとまた袋は幽霊のような何物かで満ち始めているのだった。
すると、そのとき、白い飛沫を煙幕のように地上一面に立てた雨の中を、肩をつぼめるようにして千鶴子がこちらへ歩いて来た。
「ここ、ここ。」
と矢代は手を上げて千鶴子を呼んだ。千鶴子はほッと横降りの雨の中で笑うと小走りに馳けて来て矢代の前で云った。
「おおひどい雨。あのう、一寸お願いがあったの。もっと中へ這入りましょうよ。」
雨気で曇った窓ガラスの傍の卓に向い、千鶴子は雨外套の水を切って手袋をぬいだ。
「でも、云っちゃいけないかもしれないわ。」
まだ雨に濡れている瞼で軽く笑う千鶴子の、羞しそうな眼もとに見入りつつ矢代は煙草を吸った。特に千鶴子にだけ感じる自分の愛情とはいえ、日本を出てから頭に何んの変化も受けなさそうな千鶴子の健康さを、矢代は不思議と思うよりそっとそのまま包みたくなり、中味の空な思想の形骸に踊らされるこのごろの毒から、せめてこの母体だけなりとも守りたいと思う念慮は、マルセーユ上陸以来矢代の変らぬ努力だった。
「仰言いよ。何んです。」と矢代は訊ねた。
「叱られると困るわ。」
「叱ったためしがあるかな。」
「だから云いにくいのよ。」
沸騰しているアルミの釜にどろどろとコーヒーを流し込む調理場から、強い匂いを放って立ち昇っている湯気を千鶴子は眺めた。
「あのね、いつかそれ、お話したことがあったでしょう。ここの大蔵大臣の夜会で、あたしの手に接吻したピエールって書記官のことね。あの方、今夜あたしをオペラへ招待して下さるんですのよ。あたし、別に行きたかないんだけれど、塩野さんたち、それや、ピエールさんは鮭を日本がこちらへ入れるのに随分骨折って下すった人なんだから、是非出席しなくちゃいけないってそう仰言るの。それであたし、それじゃと思ってお約束したんだけど、矢代さんも今夜オペラへいらっしゃいよ。ね。」
「そいつは困ったな。」
と矢代は云って後頭部に手をあてた。千鶴子に愛情を覚えていることには変りはなくとも、別に取り立ててそれを打ちあけたことがあるわけでもなし、まして愛人でもない千鶴子の自由さを看視する気持ちはまだ矢代には起らなかった。
「でも、切符は今からじゃないと間に合わないわ。椿姫よ。もしいらっしゃるんだったら、あたしこれからオペラまで行きましてよ。」
千鶴子は時計を出してみて、
「まだ一二時間は大丈夫、行きましょうよ。ね。」
「だけど、僕が一緒というわけにもいかないし、あなたの楽しんでるのを見せようって肚なら、話は分るが。」
「そうなの、お見せしたいのよ。」
千鶴子はくすりと首を縮めて笑って頬についた雨を撫で落した。
「よし、そうまで云われちゃ、見てやろうかな。」
矢代も顎を撫でつつ笑っているうちに幾らか得意な明るい気持ちになるのだった。友人同士としては千鶴子にあまり好意をよせすぎるが、愛人としてはあんまり自由な気持ちでありすぎる二人だった。千鶴子も退屈さのあまりに考えついた趣向とはいえ、思い切って云い出したその企ては、氷河の断層を渡ったときのようなある未知の愉しさを矢代に与えた。これで嫉妬を感じれば申分のない芝居だと思ったが、千鶴子には信頼の方が先に立ち、手にあまる柔軟な滴りをまだ矢代は彼女から受けたことがなかった。一度それを受けてみたいとそう思うと、ついでにお洒落も今夜を機会にしてみたくなるのだった。
「あなたがピエールという人と行くのなら僕も一つ誰かをつれて行くかな。僕のお相手してくれるのは、まア真紀子さんぐらいなものだが、そうだ、真紀子さんに頼もう。」と矢代は膝を打った。
千鶴子は一瞬笑いを停めて矢代を見たが、すぐまた前のような平静な美しさで、
「どうぞ、その方が退屈しなくっていいわ。」
と笑うと、そのとき急に大きな声を出し始めた向うの、激論している日本人の方をびっくりした風に振り返った。
「何に云ってるのかしら。あれ。」
「議論だ、面白いよなかなか。」
矢代は頭を後ろへ反らし議論嫌いの千鶴子のびっくり顔をさも楽しそうに見ながら、あまり千鶴子と仲良くない真紀子に頼み込む難しい方法をあれこれと考えた。這入って来る客の雨外套から垂れる滴で床の斑点が拡がって来た。窓ガラス一面に浮んだぶつぶつの露が重さに耐えかねて蛇のように下って来る。パリ党とベルリン党とは疲れる様子もなく、ついにはパリのマロニエの美しさとベルリンの菩提樹の美しさとの云い合いまでに及んで来ると、マロニエの下で飲む葡萄酒、菩提樹の下で傾けるビールの美味と云った風に、転転と議論は移り変っていって尽きなかった。もうどちらも恋いこがれているひたすらな情熱で、眼の色まで変っているその様は、日本の知識階級を抽象したそっくりそのままの現れのように矢代には見えた。このようになれば国粋主義者の怒り出すのは道理であると彼は思い、それでもなおそのまま我慢をじっとしている民衆の底の義理人情という国粋が、も早や国粋の域を脱したただならぬ精神の訓練の美しさのように矢代には見え始めて来た。しかも、この黙黙とした精神だけがひとり知識階級に勝手な熱情で論争せしめ、それを誇りとしてにこにこ笑って聞いている、まるで母親のような優しい姿となって泛ぶのだった。
いつの間にか雨が小降りになっていて、空も明るく晴れて来た。すると、街路樹の生き生きとした間からひとり東野がこちらへ歩いて来た。彼は千鶴子たちのいるのに気附かぬらしい様子で奥へ這入ると、論争している二人の日本人の傍へ坐って、
「やア。」と云った。
しかし、ベルリン党とパリ党の興奮した論争は東野に会釈もせずまだ続いた。そのうちに矢代たちに気が附いた東野は傍へ来て千鶴子の横へ腰かけると、
「どうも昨夜は面白かった。」
と云って論争している二人の方をまたそこから見続けた。
「何んですか、面白いって。」
「あれだ。あの論争は昨夕からまだ続いてるんだよ。もうやめたかと思って来てみたんだが、まだやっとる。」
三人は一緒に笑った。東野の話では一人のパリ党の方はソルボンヌへ生物学の勉強に通っている画家で、もう一人の方はベルリンの特派員で日本へこれから帰るところだったとのことだった。東野と画家と特派員の三人は女たちが裸体で踊る踊場へ昨夜見物に行ったところが、あの二人は入口の所でふと議論を始めたのがきっかけとなり、裸体の女の群れが波のように踊っている中でも振り向きもせず、議論を朝の白みかけるまでやり続け、そのまま家へ帰って寝て、今朝ここで会う約束をしてまた続きをやり出したのだそうである。
「はだかん坊の中で議論するとは見ものだろうな。」
と矢代は一層面白がって笑った。
「それはなかなか見られない風景でしたよ。ああいう議論というものは僕は見始めだな。周囲はみな一糸もまとわぬ薔薇色の波の律動なんだよ。その中で島みたいにあの二人の洋服だけが固まってじっとしてるんだからな。それも、政論と思想問題ばかりだ。」
「じゃ、夜が明けたって倦きなかったでしょう。」
「倦きるどころじゃない。有史以来世界にこんな議論はあっただろうかと思って、恍惚として僕は夜を明した。幸い一人の方は明日帰るから良いものの、これでもう一週間もいれば二人は死んじまうね。」
「そいつは日本精神だなア。」
三人は笑いながら二人の方を見たとき、パリ党の方は固めた右の拳の角で卓を叩きつつ、フランスには昔から地下に隠してある金塊の額は計り知れぬという説明を縷縷として述べていた。どちらも論理そのものの正否よりも、ただ負けたくない感情だけが論理を動かしているのだった。したがって議論が議論ではなく、も早や恋いこがれている感情だけなのである。矢代も久慈との毎度の角突き合いもあのようなものだったと思い、まだこれは俺は駄目だと、瞬間自責を感じて通りの晴れ間に葉を拡げたマロニエに眼を移した。
「それはそうと、東野さん、久慈は二三日行方不明で困ってるんですが、あなたの所へ顔を出しませんでしたか。東野のおやじ来んかな、やっつけてやるんだがって云ってましたから、もしかと思いましてね。」
「来んな。どこへ行ったんだろ。」
東野は考え込む風だったが、別に心配そうな顔はなく、にやにや笑って顎を支えながら云った。
「僕に怒ったって、それや殊勝な男だな。」
「何んだかこの間の議論をときどき思い出すらしいですね。」
「もうじきまたひょっこり現れるだろうが、顔を出したらもう一ぺん揉みくちゃにしようじゃないか。そうするとあの男面白くなりそうだ。あのままだといつまでここにいたって無駄だからな。」
「まだやるんですか、それや少し気の毒だ。」
矢代はこの調子だと今に自分も叩きのめされそうだと、内心覚悟を決めて薄笑いをもらしつつ、どちらへ転がるか分らぬ無気味な東野の表情に注意した。
「そうすると、僕もまだこれや、東野大学なかなか卒業出来んらしいですね。」
「君もまだだよ。君は人間の過去ばかり考えたがる。それはいかん。」
「いや、未来だって考えてる。」
矢代は案外真面目に突かれた驚きを色に出して反抗した。
「そんな未来は未来じゃないさ。」
「しかし、そんな未来って、僕の考えてる未来はあなたに分らないじゃありませんか。」
「分るさ。君のいつも云うことは人間の過去の美しさを信頼して物事を考えてるだけだ。それじゃつまらん。過去なんかいくら美しかったって、良かったって、何になる。あそこの二人の論争だって、フランスとドイツの良い所ばかり云い張っているだけで、過去ばかりより考えていないからいつまでたってもあの醜態だ。傍から水をぶっかけたって、まだ水の中で云い合いしとる。はッはッはッは。」
東野は笑いながらすっと立ったかと思うとそのまま飄然と外へ出ていってしまった。矢代は理由もなく殴りつけられたようで後を追っかけて行く気もしなかったが、それでも他人の非難は一度は慎重に考えたくなり、再度の武装の具足を手足に巻き固めたくなるのだった。
「分らないな。僕が未来を考えないって、どういうことだろう。またこれは喧嘩の種が一つ落ちた。」
「だって、東野さんでも俳句お作りになるんじゃありませんか。あんなのもやはり未来の美しさなのかしら。」
「さア、どういうものか今度よく訊きましょう。」
矢代は東野の後姿を眺めて云った。後ろでは二人の論争はまだ激しくつづいていた。
グランド・オペラは二十一時に始まる。千鶴子は真紀子に電話をかけ、無骨な矢代のことだからまごまごすると困るというので、自分に代ってオペラの案内を頼むと申し込んだ。ヴェルディの椿姫のこととて真紀子も喜んで千鶴子の頼みを承諾した。千鶴子の方へは勿論ピエールが迎いに来るから矢代たちと一緒に行くわけにもいかず、二人はそのまま別れて矢代だけ切符を買いにひとり出かけた。
本屋で買って来た椿姫を拾い読みしてから、夕食後矢代は初めてタキシイドを着てみた。白い手袋、エナメルの靴と身を替えて鏡の前に立って見ると、少し照れ気味な映画のギャルソンのような自分の恰好に苦笑が泛んで来るのだった。今夜だけは本物のピエールというアルマンと競争しなければならぬだけに、気骨の折れること一通りではないと思い、少し歩くと一度も練習したことのない舞台を踏むような気重さである。そこへ真紀子が階上から降りて来た。白地の縮緬のところどころに葉を割った紫陽花の模様のソアレを着た真紀子は、見違えるほどのしなやかな美しさだった。
「御用意できて、あら。」
と真紀子は云うと頬笑みながら、背の高いどことなく苦味を帯んだ矢代の姿を上から下まで見下した。
「どうです。このアルマン。」矢代は顔を赧らめて訊ねた。
「堂堂としててよ。あなただとは思えないわ。まア。失礼。」
「これで歩くと猿になるんだから、今夜は一つじっと立って、胡魔化してやりましょうかな。腹芸をやるんだ。」
真紀子はふッと笑いを殺してから矢代と並んで鏡に映ると、
「あたし、香水のいいのを買い忘れたの。シャネルよりないの。」
と云いつつ矢代により添い、片腕を一寸彼の腕にさしてみた。
「今夜一晩はこうして歩くんですからね。そんなに嫌がらないで下さいよ。ああ、面白い、久し振りにいい気持ちよ。あなた一寸。」
とさも面白くて溜らぬと云う風に真紀子は腰を折って笑い転げ、椅子に腰を降ろしてはまた鏡を見た。
「いよいよ役者か。ひどい目に会わされたもんだ。困ったなア。」
矢代は寝台の端に腰かけ真紀子のソアレを眺めながら、人生の中ではこんな芝居そっくりの場合にもたまには出会すものだと思い、いったいこれは何んという芝居に似ているものかと考えた。しかし、自分の出場はまだこれからで何のプログラムもないばかりか、椿姫のようなオペラを見れば見る者尽く自分も何らかの意味でアルマンだと思い、またマルグリットだと思うにちがいないので、あながち自分の今夜の出場も自分ひとりの芝居ではないと気が附いた。
「本当の椿姫の生きていたのは千八百四十二年というから天保十三年あたりだな。それもここのオペラ・コミック座の桟敷でアルマンが初めて椿姫を見染めて、嘲笑されたのが事の起りだから、今夜はまア実地踏査みたいなものだ。」
「あたし、前に一度読んだことがあるんだけれど、もう忘れてしまったわ。」
と真紀子は云って腕の時計を眺めてから、
「でも、千鶴子さんも物好きね。何も他の方と御一緒のところをあなたに見せたいって、どうしてでしょう。椿姫の気持ちを味いたいのかしら。」
「そうじゃない。あの人は初め断ったところが、それは礼儀でそうも出来かねたんだと思う。それに相手がフランス人だからどんな具合いに誘惑するとも限らないと思って、誰か知人に見ていて貰って安心したいんですよ。」
「そうかしら。でも、おかしいわね。」
と真紀子は薄笑いを泛べ机の上の椿姫を手にとってぺらぺらと頁を繰りながら、
「あの方、やはり矢代さんを愛してらっしゃるのね。そうよ。」
と小声で云って、ある頁のひと所にじっと視線を停めていた。
矢代は「いや、違う。」と云うことが出来なかった。彼は真紀子の視線を停めている頁はどのあたりであろうかと、彼女の来る前に探したある部分の言葉を思い出した。そこは血を吐いたマルグリットが寝室へひとり下って咳き込んでいる所へ、隣室から後を追って来たアルマンが初めて愛を打ち明ける場面で、マルグリットが優しくアルマンの熱した態度を抑える言葉である。
「そんなことを仰言るもんじゃないわ。もしそんなこと仰言れば、結果は二つよりないんですもの。」
「それはどんなことです。」
とアルマンが訊くと、
「もしあたしがあなたのお心のままにならなかったら、あなたはきっとあたしをお怨みになるわ。またあたしがもしあなたの仰言るままになったとしたら、あなたは、それは厄介な惨めな恋人をお持ちになることになってよ。」
というところである。矢代はこのマルグリットと同じ言葉をいつも千鶴子に向い、胸の中でひそかに云っていたのを思うのであった。もしここがパリでなくて東京だったなら、或いは千鶴子に胸中の想いのままを伝えたかもしれない。しかし、日本を離れた遠いこのような所にいるときの愛情は病人と何ら異るところはないと矢代は思う。彼は千鶴子よりも少くとも理性的なところが自分にあると思う以上、旅愁に襲われている二人の弱い判断力に自分だけなりとも頼ってはならぬと、最後にいつも思うのだった。それはチロルの山中で二人が乾草の中で一夜を明したときもそうだった。現にアルマンの愛情をそのまま受け入れた病人のマルグリットの最後はアルマンの家庭から引き裂かれたうらぶれ果てた死となった。病人はどちらも安静にしてこそ健康になるのじゃないか。そう思うと、矢代は白い手袋を握って立ち上り、暫く真紀子の前を往ったり来たりするのだった。
王宮に似たオペラ座の正面の階段を真紀子は腕を矢代に支えられて登った。登るにつれて両翼に拡がった蔓のような真鍮の欄干の優雅な波が廻廊へと導くまま、歩廊を幾つも越して二人は二階の桟敷へ案内された。蝋燭の似合いそうな深い部屋の中は紅色の天鵞絨で張り廻された密房の感じだった。椅子に腰かけてもう始っている舞台の方を見ると、丁度そこだけより人生はないと思わせる具合に舞台以外の他の部分は見えなかった。矢代は劇の動きよりも来ている千鶴子を探したかったが、よほど窓から乗り出さない限り窓枠の欄壁の厚さに邪魔されて客の顔は探せなかった。どの部屋も恐らくこのようになっているとすれば、この夜ピエールが千鶴子に囁く言葉や態度は、この密房の中の真紀子と自分とを想像するより法はなかった。
「綺麗な女優さんね。声もいいわ。」
真紀子は小声で云った。矢代はそう云われて初めて舞台を眺めている自分に気がついた。舞台ではマルグリットの歌劇名のヴィオレッタの豪奢な客間で催されている夜会だった。
「ああ、楽し。妾や、快楽のために死ぬのが本望……」
まだ始ってあまり間もなく、黒い天鵞絨の衣裳を着たマルグリットを中心に、十九世紀風のパリの紳士淑女が華やかなメロディの合唱をつづけている。
矢代は事実をそのまま小説化したと云われる原作の椿姫では、アルマンが最初にマルグリットの椿姫と話した時は今自分が千鶴子を探しているように、オペラへ来ていながらも、絶えず桟敷から桟敷へと眼を走らせて舞台を少しも見ないマルグリットの描写だったと思った。しかも、椿姫の棲んでいた所もこことはそんなに遠くないアンタン街でそこから彼女はこのオペラへもよく来たのだと思うと、いま現にここにいる自分を思い合せ、瞬間あッと胸中叫びを上げたいようなくるめく動揺を感じるのだった。
しかし、すぐ次ぎに、アルマンの熱情こめた少し野暮ったいほどの純情な眼で、マルグリットをじっと見詰めている燕尾服の姿が現れた。その姿をひと眼見たとき矢代は、あの獲物を狙う鷹のような露骨な眼つきはとうてい日本人の自分には出来そうもないと思い、外人のピエールなら或いはそれが難なく出来るのかしれぬと想像され、時間の進行につれだんだん千鶴子の身辺が危かしく気遣われて来るのだった。それにこの美しい透明な旋律である。ピエールだってそのままの筈がない。――矢代は次第に迫って来る暗鬱な恐怖に意外な芝居になって来たぞと後悔さえし始めた。
舞台ではアルマンを中心に手管の巧妙な遊蕩児の伯爵や男爵の酒の飲み振りの場がつづいた。そのとき突然ばったりマルグリットが倒れた。人人が追って来る。それを片手の手巾で追い散らし、ただ一人になったマルグリットの苦しげな傍へ、アルマンが来た。そして、真心こめた日ごろの想いを打ち明け出した。
矢代はふとそのとき、千鶴子が自分を今夜ここへ呼び出したのは、実はここを自分に見せたく思ったのかもしれぬとそのように思った。すると、ただそれだけのことで場面はまた俄に自分の味方のように明るく見え始めて来るのだった。しかし、もしピエールがそのまま今のアルマンを気取ったら、何事か今ごろはそのような態度に出ていないとも限らないと思った。
「棄て給え、その恋、ああ忘れ給え……」とマルグリットは切なげに歌っている。
舞台を見ていても何も眼につかぬ自分の空虚さを傍の真紀子が感じているであろうと矢代は思った。そして、今夜のこの意外な苦心は一層増していくばかりだと思うにつれ、これを避ける方法はやはり自分がこうしてここに出て来る他にはなく、また千鶴子もピエールの誘惑を避ける方法は、同様に自分にこの劇を見せる以外、考えつかなかったにちがいないと感じて来るのだった。
「やはりヴェルディの音楽がいいのね。あたし、ナジモヴの椿姫をむかし見たことあるけど、あれも良かったわ。」
真紀子は幕が降りたときこう云って矢代と桟敷を出た。顔を直したばかりの真紀子の匂いが柱廊の光りの中でよく匂った。矢代は露台の欄干の傍に立って下の広いホールにゆらめく人人を見降ろした。薄汗が首のあたりににじんでいるのを拭きつつ、彼は千鶴子を探してみたが分らなかった。
「椿姫まだ見えないわね。」
と真紀子も云って下を見降ろした。矢代は真紀子の助太刀に出て来てくれたその気持ちが有り難く、笑いながらもこの調子だと自分も本物のアルマンに今になるのではないかと思って脊を延ばした。
「どうも僕にはあんな歌劇は苦手だな、この方がいいや。」
「でも、いいわ。久慈さんもいらっしゃれば良かったのに、どうしてるんでしょうね。」
ふとそういう憂いげな真紀子に矢代は頷きながら、それではやはり真紀子も舞台を見つつ、久慈を想い泛べていたマルグリットの一人だったのかもしれぬと気が附いて云った。
「今度は久慈とまた来ましょう。久慈はハイカラだからこういうのは好きだ。何をしてるのかなア。」
汗がひいたためか柱廊の大理石の冷たさがひやりと両脇から流れて来た。遊歩廊から下のホールへかけてだんだん集って来たタキシイドやソアレの組が、傘灯の下で囁きかわしながらゆるく旋回をつづけていた。燦爛たるその景観を見ているうちに、泡立つような白い扇のゆらめきや耳飾が、突然一撃して去った東野の今日の言葉を矢代に思い出させた。
「君は過去を見すぎるぞ。」
しかし、矢代は露台の真紅の絨毯の上に突き立ったままその東野にひとり抗弁している自分を感じた。
「いや、万有流転だ。流転が歴史の原型の相なら、この下が刻刻過去になりつつあるその具体だ。過去を見ずにどうして未来が見られるか。」
漂い湿っているかすかな嫉妬心の中で、ひょっこりとそんなことを考えている自分に、おや妙なアルマンさまもあるものだなアと、彼は一巡あたりを見廻した。そのとき、二階の遊歩廊から反対の階段をホールの方へ降りて行く人人に混って千鶴子らしい姿がちらりと見えた。
「いるいる。あれだ。」
と矢代は口まで出かかったが、今はいるところさえ見届ければそれで良いのである。見ればこのまま帰ってしまっても義務だけは果したのだと思うと、そのまま黙ってなお一層視線を千鶴子の方へ強めてみた。水色のソアレに銀色の沓で千鶴子はピエールに腕をよせ、巻き辷るような欄干の軽快な唐草の中を静かに笑みを泛べながら降りていった。矢代はなお真紀子に黙って急がず、千鶴子の降りてゆく反対の階段の方へ真紀子の腕をとって廻った。何んとも云えず豪華な一瞬が豊かな呼吸をし始めたようで、一歩一歩踏み降りる靴の下から煌めく火のような宝石の光りが飛沫を面に打ち上げて来た。
「ここのホールの方が見物席より広いようね。いつ建ったのかしら。」
真紀子は階段を降りたときあたりを見廻して訊ねた。
「十七世紀。」と矢代は答えると、廻遊している人の流れの中を緊迫した思いで千鶴子の方へ歩いた。千鶴子はまだ彼に気附かぬらしい様子だったが、ときどきピエールと話しながらも二階の歩廊の方を眺めたりしていた。額の広いピエールは身についたタキシイドの上であまり笑顔を見せず、よく光る眼でゆっくりと歩いて来た。肩幅のある中背のがっちりとした姿で、顎を引きつけて人を見る様子はどことなく写真の若いナポレオンの姿に似て見えた。矢代は組み合せた型の廻ってゆくようなこの劇場に少し反感を覚え、また照れ気味にもなって来たが、しかし、もうどちらも出る所へは出てしまっている、今はそのひとときだと思い勇気も出るのだった。
「来たわ。一寸。」
と真紀子は矢代の腕を引いた。そのとき千鶴子も矢代たちを見つけたらしく軽く笑いながら黙礼した。矢代は憂鬱な気持ちだった。その間も、縮まっていく二人の視線の間を人の流れがちらちらと断ち切ったが、また顕れる千鶴子の顔は見る度びに笑顔を変えた。擦れ違うとき、
「これまアお儀式みたいなものよ。黙って暫く待って下さらない。」
とこのように千鶴子の視線は物を云いながら、真紀子にだけ彼女は一寸お辞儀をして行きすぎた。ピエールの眼は急に光って二人をじっと見詰めていたが、何事か千鶴子の囁きに頷きつつホールの外の遊歩廊の方へ廻っていった。
「後からついて行きましょうか。」
真紀子は急にぴったりと矢代に胸をよせかけて訊ねた。
「いや、よしましょう。おかしい。」
「どうして?」
矢代は千鶴子を見たときからもう安心を感じ、足もゆっくりとなり黙ったままくるりと廻ろうとする真紀子を手もとに引きめぐらせて歩いた。――「ああそは彼の人かうたげの中に一人ありしは。」という第一幕のマルグリットの歌も、ある魅力を帯びて矢代の胸中で水脈を拡げるのだった。行きちがう人の中から、さまざまな香りが漂い移り、耳飾や曳き摺るような銀狐や、垂れ下った真珠、白や黄色、水色などとりどりなソアレの顕れるに随って、矢代は、絢爛無双な時間が今自分の周囲で渦巻きを起しているのだと思った。それは自分と非常にそぐわぬ時の流れのように思われたが、しかしいままさしくグランド・オペラに自分のいることだけは間違いはなさそうだった。
「これが代代の日本の若者の心をそそのかせていって熄まなかったものか。これが人生を波立たす何ものかの一つだったのか。」
とこう矢代は思うと、今さき出会った千鶴子の視線にもし少しの危機の信号でもあったなら、この絢爛たるオペラも自分にとっては憂悶の種だったにちがいないと思った。銀鼠色の大理石の壁面の傍まで来て二人は再び引き返した。幕間にもう一度千鶴子と会うには遊歩廊は広すぎて駈け足でもするより法はなかった。矢代は千鶴子の後を追おうとする真紀子を一度は前に引きとめてみたものの、今またこうしてその後を追い求めている自分の傍で、とかく真紀子を除け者同様に扱っている自分の心にふと嫌悪を感じた。水に浸ろうとするような立像の美しい彫刻の下まで来たとき、また千鶴子を追うのを思い停り、矢代は真紀子を労わりながら云った。
「ヴェルディはイタリアからパリへ出て来て、ここで椿姫の芝居を見てから、早速このトラビアタを作曲したんだそうですよ。歌劇のことはよく僕は分らないんだが、何んでもベニスで最初やってみて、大失敗をしたって云いますね。」
「ベニスでね。あそこあたし行ったのよ。主人と二人で行ったのだと思っていたら、そうじゃなくってハンガリアの女もちゃんと来ていたの、それもベニスだけじゃないのよ。どこへ行くにも番人みたいに後の汽車か先の汽車で来てるんですもの。あたしだって腹が立つでしょうね。」
人の流れがそれぞれの桟敷へと動き出した。二人はまた階段を登っていった。矢代は吊り上げるように真紀子を支えねばならぬので、ふと擦れ合う胴の触感から醒める暗黙の危機を感じた。実際こんなに千鶴子にも同様この危機が刻刻襲っているものなら、必ずピエールの鋭い眼が生ま生ましい慾情に変っていることなど自然なことだと、うるさくまた悩みが追って来るのだった。しかも、発火点が擦れ合いつつ再び密房のような桟敷へ這入っていくのである。桟敷には頼めば係りの老婆が鍵までかけてくれるばかりではない。窓には重いカーテンの用意まで出来ていた。
桟敷へ這入ると室内の真紅の色や鏡が暗怪な色調のまま矢代の皮膚を撫でて来た。彼は真紀子から視線をそらせているものの、ただ二人きりの密房の中の沈黙は重苦しい刺戟を増すばかりだった。これで何事か起らぬ方が不自然だと云いたげな部屋の長いソファも同色の紅いである。真紀子は黙りつづけて窓から舞台の幕を見ていたが、一刻の魔の通過を感じ合う呼吸は、触れば今すぐにも首を落す危い植物のような刹那を二人で持ち合いますます重さを加えていくのだった。それはころりと人の運命の変っていくあのものの弾みの恐るべきひとときだった。そのとき幕がパリの郊外のブウジバルの美しい風景を泛べて上っていった。
矢代はほッと起き上ったような気楽な気持ちになって舞台を眺めた。
「あそこはブウジバルですよ。僕は行きましたよ。ここから一時間ばかり自動車でかかるところです。」
「あら、そう、行きたいわ。一度つれてって下さらない。」
「行きましよう。こんな美しい村はパリの郊外にはないって、デュウマが椿姫の中で書いてますよ。僕の行ったときには、あのあたりいちめん林檎の花ばかりでしたね。」
杜から帰って来たらしい猟服のアルマンが一人這入って来た。マルグリットとの完全な愛の生活に彼は嬉しそうで身も軽やかに悦びの唄を歌う。そこへ女中が現れ、アルマンの悦びを打ち砕く第一撃を与え、興奮しながら出て行った彼の後へマルグリットが登場する。まことに隙なく燃焼しつつある二人が全力で美しく愛情を支え合っているときにも、過去が現在の幸福を冷酷無情に顛覆して進んでゆくのである。アルマンの老父が現れて別れをすすめ、哀願に変ると、ついに二人の未来は悲劇へと移っていった。
別れを頼む老父へ、最初はマルグリットも、「愛してるから駄目。」と強い拒絶の言葉を云う。しかし、真に愛しているなら、「愛してるから駄目。」と、何ぜそのまま押し通して未来を造っていかなかったか。矢代はどこかの桟敷の奥から今もこの光景を見ているにちがいない千鶴子の姿を想像した。
「愛してるから駄目。」
世の中の不徳の数数を撃ち殺していった椿姫の美しい心が、今みなの心の中に生きているに相違ない。それでもなお心をけがして見ているなら、早くけがしてしまえ。――矢代は今まで嫉妬に苦しめられていた自分に腹立たしくなり、もう後を見ずに帰ろうかとも思った。
「いいわね。」
真紀子は幕が降りると立って鏡に顔を映し、ひとり桟敷の外へ足早やに出ていった。矢代も後からついて出たが、どういうものか真紀子は露台の端に立って下を見降ろしながらも、さも矢代のいるのが邪魔物のように憎憎しげに黙っていた。少し青ざめた顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》のあたりに薄く浮き上っている真紀子の静脈の波打つのを矢代はちらりと眺め、思いがけなく不意に足もとから狂って来たこの真紀子の感情の収拾は、これは容易じゃないと思った。しかし、慰めようにも元来がこんな夜に真紀子を誘ったことがすでに失敗だったのであるから、一度は来るに定っている不機嫌だった。下手をするよりこのままそっとしておくに限ると矢代は言葉もなく黙っていた。
「少少疲れましたね。」
事実矢代は疲れを感じて云ってみたのだが、「そうね。」と真紀子は低く答えただけだった。彼は太い磨きのかかった淡紅色の大理石の円柱に片手をつき、千鶴子の現れるのを探しながらも、傍の真紀子の不機嫌さにホールの美しさも今は溷濁《こんだく》して感じられた。
「あら、あれは高さんだわ。」
と突然そのとき真紀子は下の遊歩廊の左の方を覗いて云った。酒場の方へ通じる入口の所に、カフェーでよく会う画家の李成栄と、来る船中ダンスの会で真紀子がデッキでよく踊った高有明の二人が立っていた。高は上海の有名な支那銀行の頭取の息子で、東京帝大の経済を出た日本語の巧みな上品な青年だったが、どういうものか船中は一等に乗らず二等にいた。
「一寸行って来ましてよ。」
真紀子は矢代を一人露台に残して階段を降りていった。李と高は婦人を連れていないためであろう、ホールの中へは出ずいつまでも入口の壁の前に立っていたが、横から真紀子に肩を打たれて驚く高の眼鏡が忽ち笑顔となり、懐しげに握手をした。笑うと顔を赧らめ眼を大きく開いてきらきらと光らせる高の上品な癖を、矢代は露台の上から眺めながら、真紀子の大胆な変化に今さらある恐怖を感じて来るのだった。暫らくして高は真紀子に教えられたものと見え、露台の方の矢代を見上げると一寸手を上げて会釈をした。矢代も一別以来の挨拶を笑顔で返してから、ふと横を見たとき、今まで突いていた自分の片手の汗を中心にぼッと曇った円柱の肌の向うから突然千鶴子の顔が現れた。
「お一人なの。」
「いや、あそこに真紀子さんいるんだけど、どうも不機嫌でね。困った。」
「そうお。失礼したわね。」
千鶴子は真紀子を見降ろすようにしてから、笑顔も見せずまた矢代の顔をいつもより強い視線でじっと見詰めた。矢代は急に上下の変動の起った多忙さにハンカチを出して額を拭きながら、
「お終いまでいるの?」
と訊ねた。千鶴子は早速に答えかねた様子で首をかしげた。
「ホテルへお帰りになったら、すぐお電話下さらない。あたし、先だったらいいんだけど。」
「じゃ、君も下さい。」
と矢代は云った。千鶴子は後ろを振り向いてみてから、
「あのう、ピエールさんに帰る時間お訊きしてみるわ。この次桟敷へ一寸お伺いしてよ。お宜敷くって?」
「どうぞ。」
「どちらかしら?」
「そこです。」
と矢代はすぐ後の桟敷を指差した。千鶴子は矢代の指差した桟敷のドアの方をよく見届けると、
「あそこね、じゃ、また。」
と云ってお辞儀をしたが、しかし、そのまま少しくためらう風にまだ立っていてから、もう一度お辞儀をして円柱の向うへ離れていった。もう幕の上る時間に近づいたらしく人人はそれぞれ桟敷の方へ流れていった。矢代はいつもより青ざめた大きな眼のあわただしげな千鶴子の様子を思うと、故もなく動悸が激しくなり、桟敷へ真直ぐに戻る気持ちがしなかった。
場内では幕が上ったらしい気配だったが、真紀子はまだ戻って来なかった。久し振りで高と会ったのだから彼の桟敷へ一緒に行ったにちがいないが、今は矢代はそれどころではなかった。千鶴子の張りつめたような眼の大きさが一大事の前触れのように頭に泛んで来てとれなかった。もう自分も完全に顛覆してしまっている。――矢代は人の全くいなくなった柱廊のひっそりとした真紅の絨毯の上を歩きながら、何事か深まっていく決意の中に身を沈めようとするような憂鬱な表情に変っていった。桟敷の鍵を持った黒い服の老婆が静かに柱の影から歩いて来た。すると、彼に近づいて来た老婆は鍵を出して、
「これ。要るんですか。」と訊ねた。
「いや。」
と矢代は云ったが、ふと老婆は千鶴子とピエールの部屋に鍵をかけにいったのではなかろうかと思った。全く迂濶に二人の桟敷の番号を訊き忘れたのを彼は後悔しながら歩廊を歩いているうち、多分このあたりだろうと見当をつけて立ち停った。しかし、勿論、たといそこだと分ったところで中へ侵入するわけにはいかないのである。矢代はまた引き返して来た。森閑としたホールの大理石の間を、金色の欄干が身を翻すようななまめかしさで、自由に嬉嬉としてひとり戯れている。彼はふとチロルで氷河の牙の上から振り向いた千鶴子の奔放な美しさを思い出した。暫くして矢代は自分の桟敷へ這入ってみたが、真紀子はまだ戻っていなかった。彼はソファに凭れて舞台を睨めていてももう何の興味も起らなかった。自分のタキシイドの胸板の白さが広い部屋の中でいやに生き生きと嵩ばって見え、早く終幕も一度にしてしまってほしいと思いながら、彼は欠伸が一つ出るとまたすぐ次ぎに続けて出た。
舞台は恋愛に破れたアルマンが出て来て賭けをし始めるころから少し面白くなって来た。今にあの賭けで勝った金をマルグリットに投げつけるのだと思う予想が矢代のいら立たしさを慰めてくれるのだった。そこへマルグリットが這入って来た。彼女は別れたアルマンのいるのを見てひどく驚く様子をじっと圧え、一緒に来た男爵の傍に立ったままアルマンの自棄な姿をときどき見た。そのとき急に矢代は後頭部に生ま暖い触りを感じた。何気なく仰ぐと千鶴子が黙ってソファの後ろに立っていた。
「真紀子さんまだ?」
前に廻った千鶴子はソアレの膝を一寸摘んで矢代の傍に坐った。真紀子と違う香水の匂いが鮮やかな水流を矢代の頭の中に流し込んだ。
「ピエールさん抛っといてもいいの?」
「ええ、そう云って来たの。お友達がいるからって。」
千鶴子はほッと吐息をもらして部屋の中を眺めていたが、
「真紀子さんどうなすったの?」とまた訊ねた。
「高さんて船の中にいた中国人あったでしょう。ダンスの上手な。――あの人と下で会ったまま戻って来ないんですよ。」
「そう。あたしに怒ってらしって?」
「いや、僕にだ。」
「あたしも怒られるかしらと思ったんだけれど、でもね。」
「まア、少し間違えた。」
矢代はそう云うと、滅多に出来そうもないと思っていた千鶴子の片腕を歩く時のように自分の腕の中へ巻き込んだ。千鶴子は後ろのドアの方を向いてから顔を矢代の肩へ靠らせたが、また身を起すと足を組み替え一層重くもたれ直したので、首飾の青石がかすかに鳴った。二人は暫くそうしたまま舞台を見ていた。悩むマルグリットの衣裳のうねりにつれて、無数の宝石が全身の上で光りを絶えずきらきらと変えていた。
矢代はフリーゼをかけた千鶴子の髪を首筋で受けとめながら、自分にも分らぬ深部から鳴り揺れて来る楽しさを感じた。舞台の進行は分っているが、自分らの進行だけは全く未だ分らぬこれからの楽しさばかりだと矢代は思い、ますます後へは退けない責任を感じて千鶴子の重みを支えつづけているのだった。音楽がまたしきりに『貴重な愛』を失ったアルマンの歎きをつづけていった。
「あら、汚れたわ。」
千鶴子は急に首を上げて矢代の肩に附いた粉白粉を払った。そして、笑いながら、
「御免なさいね。」
と云うと矢代の手を自分の膝の上に置き両手で揉むように撫でた。矢代は千鶴子が身動きすると一層高まる酔いに似たものを感じた。一つは悲劇に落ちていく切切たる歎きの情緒を湛えた音楽が、二人の中へ嫉妬のように割り込んで来るためもあったが、それにしても今のこの愛情をもし誰かがひき裂いてゆくとしたら、自分もあのアルマンのように乱れ悲しむにちがいないと思い、矢代は支えている千鶴子の耳飾の冷たく首に触れるのもひやりとする切なさだった。
「もういかなくちゃいけないわ。幕よもう。」
千鶴子は立って鏡の傍へより顔を直しながら矢代に、
「あなた、ほんとにホテルへ帰ったら、お電話して下さいね。」と云った。
そして、また矢代の横へ来て坐ると、彼の手をもう一度自分の膝へ乗せ、
「いい、行って来ても?」と訊ねた。
「まあ、困るがやむを得ん。」
矢代はいっかピエールが千鶴子の手に接吻したのはどちらの手だったかしらと、ふとそんなことを考えぴしりと手の甲を一つ打った。
「じゃさようなら。」
千鶴子が立って出て行こうとしかけたとき矢代は急に呼びとめた。
「悲劇にしないでくれ給え。大丈夫ですか。」
千鶴子はドアの間へ半ば入れた身体をひねって黙って笑いながら頷いた。矢代は千鶴子がいなくなってから自分も立って鏡に姿を映してみた。なるほど少し肩が崩れているなと思い、ネクタイの歪みを直したり、白い胸板を正したりしながら、とうとう自分も日ごろ軽蔑していた旅愁にやられてしまったと思った。事実、自分に攻めよせて来たのは千鶴子にちがいなかったが、千鶴子も自分もパリに総がかりで攻めよられたことにもまた間違いはなかった。これが日本へ近よって行く度びに一皮ずつ剥げ落ちていくとしたら、実際は、自分たち二人は今は夢を見ているのと同じだと思うのであった。それは考えれば全く恐るべき結果になる。しかし、それも今は考えたって始まらぬ。なるようになって来て、誰がこんなにしたのかも分らなかった。もう自分はこの喜びを喜ぶまでだと、彼はタキシイドを整えた元気な姿でまたソファへ腰を降ろしひとり舞台の悲劇を見つづけた。
終幕前の休みにはもうホールの観衆は全く興奮していた。遊歩廊を歩く男女の組は身体をぴったりとよせ合い、も早や通る他人の顔どころでなく、それぞれの愛情を誓い合うかのような切なげな眼差しで廻っていた。矢代はこのような光景を露台から見降ろしていると、自分も人人の興奮の中を歩きたくなって来て階段を降りていった。綺羅びやかな紳士淑女の揉みぬかれたソアレの匂いも、自分の匂いのように感じられた。男たちの肩や胸に散っている白い粉の痕跡が眼につく度びに、自然に矢代の手は自分の肩へ廻るのであった。
しかし、このホールに満ちている人人の中で、恐らく自分ほど喜びを得たものはあるまいと矢代は思った。そう思うと廻遊している満座の陶酔のさまも、ともどもに打ち上げていてくれる華火のように明るく頭上へ降りかかって来る。ソアレの襞襞から煌めく宝石の火も、すべてこれ自分への祝典と思えばたしかにそれもそうだった。
「何んという壮麗さだろう。一生に一度の瞬間だ。」
矢代は黙って静静とひとり歩いているにも拘らず、両腕はもう花でいっぱいの悸めきに似た感動に満たされ、逆にときどき立ち停っては考え込んだほどだった。
しかし、ともかく、あの真紀子はいったいどうしたもんだろう。――矢代はあたりを見廻しながら歩いた。前から自分を見詰めていたらしい千鶴子の笑顔が遠い立像の傍からかすかにこちらを見て歯を顕した。一瞬視界がさっと展いたような光線の中で、ピエールが自分に代って千鶴子の腕を支えていてくれた。矢代は今はピエールにも感謝したかった。もし彼がいてくれなかったら、この夜の愉しさも、いつもと変らずただ無事な一夜にすぎなかったろうと思った。
矢代が桟敷へ戻ってから暫くして、もう幕の上りそうな気配のところへ真紀子が戻って来た。
「御免なさい。ひとり抛っといて。高さんに面白いお話沢山伺ったわ。」
真紀子は前とは変った上機嫌でにこにこしながら椅子に腰を降ろしたその途端、急にあたりの空気に首を廻ぐらせる風で、
「ウォルトの匂いがするわね。千鶴子さんいらしたんじゃない。」と訊ねた。
「来ました。」と矢代は云った。
「そう。それは良かったわ。」
真紀子は一寸黙って舞台の方を行儀よく見ていてから、突然矢代の方を向き返った。
「あのね、あたし、終りまでいなくちゃいけないかしら。でも、もういいでしょう。お役目果したんですもの。」
「じゃ、帰りますか。いつでも僕は帰りますよ。」
「あなたはいいでしょう。あたしね、高さんと今夜これから踊りに行くお約束したのよ。丁度時間もこれからだといいんですもの。」
自分に真紀子の行動を止める権利はないと矢代は思ったが、それでも一緒に来たからは離れて帰るのは気持ちが悪かった。殊に良人から離別して来た養子娘の気ままな真紀子を、高と一緒に踊場へ突き放す危さは、千鶴子とピエールとの危さの程度ではなかった。九分が九分まで先ず中国人の巧みな術中に陥ち入る危険があると見なければならぬ。
「駄目だな、行っちゃ。」
「どうして駄目なの。」
「どうしてって、何んとなく駄目だ。」
「でも、もうお約束したんですもの。」
「じゃ、僕も行こう。」と矢代は云って時計を見た。もう十二時近かった。丁度その時舞台では幕が上り、胃病のマルグリットが明け方の白白した部屋の寝台で眠っていた。真紀子は黙って舞台を見ていたが、
「こんなのもう分ってるわ。あたし、じゃ、行って来てよ。」
と云って立ち上った。みすみす危いと分っている享楽の中へ、自分のために真紀子を突き落すことは矢代は耐え難かった。彼は真紀子の手首を持って引き据えるように椅子へ腰を降ろさせると、
「やめなさいよ。」と力を込めてまた云ってみた。
「あなた、そんなにあたしが心配なの。自由なんですもの、あたし。」
「それや君の自由かもしれないが、女の自由じゃないな。」
「じゃ、千鶴子さんはどうですの。人格が違うんですか。」
真紀子は捨科白のように鼻をふくらませてまた立ち上り、矢代の手をぐいと振り放した。
「じゃ僕もお伴しようかな。」
矢代は真紀子の後からついて出ようとしてドアの傍まで行きがけたとき、突然真紀子は振り返ると、「駄目よ、あなたは。」と云って矢代の肩を突き飛ばした。
入口は桟敷の方へやや傾斜していたので矢代は後ろへ倒れかかったが、それでもまだしつこく廊下へ出ていった。彼は後を追いながらも、たとい真紀子は危くとも高や李に人格の立派なところのあるのが充分泛んだ容貌から感じられた。むしろ踊りに誘ったのは真紀子の方からに相違ないとも思われ、それなら自分の心配も或は真紀子の楽しみを不自由にしているにすぎぬのかもしれぬと、矢代は後悔さえするのだった。彼は露台の欄干を掴んだまま、足早やにいそいそと階段を降りてゆく真紀子を見降ろしながら、それでも彼女も自分のようにひと夜を楽しく安全に暮してくれるようにと願ってやまなかった。
真紀子の姿が見えなくなったとき矢代は桟敷へまた戻った。人気のない密房の中でタキシイドの肩からウォルトがひとり生き物のように匂って来た。舞台のトラビアタは今は高潮に達していた。しかし、矢代は胸から吹きのぼって来る楽しみに奏楽の美しささえももうまどろこしかった。殊に肩口の匂いの思い出も真紀子一人を犠牲にした貴い喜びだと思うにつけ、何んとか工夫に工夫をこらせてこの喜びをつづけてゆきたいものだと、子供のように浮き浮きするのだった。
ついに舞台では椿姫が、「ほら、こんなに脈が打って来た。もう一度これから生き返るのよ。」と云って喜び勇んで死んでいった。そうして、生き残ったものらの悲しみの奏楽の中に美しく長かった幕が降りた。
矢代はもうこの記念すべき房へは二度と来ることはあるまいと思い、よく桟敷を眺めそれから外へ出た。人人はオペラ座の出口から右角のカフェー・ド・ラ・ぺへ、夜食を食べにぞろりとした姿で雪崩れ込んだ。みなそれぞれ椿姫の生の感動が乗り憑いたまま、蜜を含めた弁のように盛装の中であだっぽく崩れ、次にめいめいの劇に移り代ってゆく放縦な姿態で白い卓布に並ぶのであった。
矢代はピエールも間もなく千鶴子とここへ現れるであろうと思ったが、約束の電話を思い出すとすぐ自分のホテルへ帰っていった。自分もこれから始る自分の劇を誰より美しくしてみせるぞというように、彼は待ち自動車の中でタキシイドの胸をぴんと映して蝶の歪みを整えた。
眠静まった通りには灯火がなく岩間の底を渡るような思いで矢代は帰って来た。一軒のカフェーだけから表へ光りが射していた。その柔いだ光りに照し出された売春婦たちは円くテラスに塊って遅い夜食のスープをすすっていた。矢代も空腹を感じたが千鶴子からの電話を待つため、その角を折れ曲ってホテルへ戻った。もうホテルの中も眠静まっていてときどきシャワの水の音がするばかりである。彼はまだ着ていたタキシイドを脱ぎガウンに着替えた。しかし、いつまで待っても電話はかかって来なかった。こんなに電話のないところを見ると、もしかしたら、千鶴子はピエールに誘われて一緒にどこかへ行ってしまったのかもしれぬと、オペラの興奮のまだ醒めぬほとぼりのままだんだん心配が増して来た。まさかあの千鶴子にそのようなことはあるまいと充分信頼はしていても、自分でさえ桟敷で真紀子と向き合っていたときは安全とは云い難かった。葉が茎から落ちるように離点がふと身体のどこかに生じれば、意志では何んともしかねるある断ち切れた刹那が心に起るのである。すると、そこへ電話がかかって来た。
「君いたね。土産を持ってこれから行くから、寝るのは待てよ。良いか。」
電話は意外にも行方不明を心配していた久慈からだった。幾らか酔いの廻っているらしい久慈に、
「どこにいるのだ。来るのならサンドウィッチを頼むよ。」
と矢代の云ううちにもう電話は切れてしまった。
久慈が来るならもう今夜は千鶴子と話も出来ないと思い矢代はバスに湯を入れた。しばらく会わなかった久慈であるのに、何んとなく邪魔な思いのされるほど自分も変ったのであろうかと、矢代は湯をかき廻しつつまだ千鶴子の電話がしきりに待たれるのだった。しかし、湯に浸り、足を延ばして眼を瞑っているうちに、あるあきらめに似た心が頭にのぼって来た。まったく今まで友人の来るのを厭うほど理性に弱りがあったとは思えなかったが、それが今夜のこの変化である。恋愛というものはこういうものなら長つづきする筈はない。矢代はぱちゃぱちゃと湯を浴び頭をシャワの水で冷やして、おもむろに来るべきものを待つ気持ちに立ち還った。
間もなく久慈が包を小脇にかかえて這入って来た。太い眉の下の眼が怒ったように鋭くなって少しやつれの見える顔に変っている。彼は部屋に這入るとすぐ寝台にどさりと仰向きに寝て大きく両手を拡げた。
「やっぱりここが一番いいや。のんびりとする。」
「どこへ行ってたんだ。」
矢代が訊ねても久慈は答えようとせず、眼を光らせたまま天井を仰いでいた。ひどく疲れているような彼に矢代は、
「風呂へ這入らないか。」とすすめた。
「うむ、面倒臭いや。」
「這入れよ。」
矢代はバスを一寸洗い湯を入れ換えてから、また久慈の傍へもどって来て彼のバンドをゆるめた。久慈は矢代に身の世話をさせるのが嬉しいらしく、
「おい、靴。」
と云ってついでに足も矢代の方へ突出した。
「こ奴、いやに威張ってやがる。土産はいいんだな。」
「ははははは。」
大声で笑って久慈は起き返ると急に元気よく、上衣を投げ捨て、ズボンを踏み蹴るようにまくし降ろして裸体になった。そのとき丁度電話がかかって来たので、久慈は裸体のままふと手近の受話器を秉《と》った。矢代は久慈に代ろうとしたが、久慈はもう、「ええ、そうです、僕矢代。」と返事をしていた。
「誰からだ。」
久慈は矢代が訊ねても黙って千鶴子と受け答えしながら、「僕、矢代だよ。」と意地悪く云い張って電話口から放れようとしなかった。矢代はねじれた久慈の脊骨に添って細かく汗の浮き流れているのを眺めながら、ホテルへ安全に帰りついた千鶴子のその報らせに一層久慈の戯れものどかに感じられ暫く受話器を彼に任せておいた。
「君の恋人何んだかしきりに云いわけしとるぞ。さア、代るよ。」
矢代は久慈に代った。
「僕、矢代。」
「さきほどは――あのね、あたしピエールさんに夜食を御馳走になってたものだから、遅くなってしまったの。久慈さんいけないわ。せかせかしてたもんだから、あなただと思って。」
「久慈がね、今ごろ帰って来たんですよ。どこへ行ってたかまだ白状しないんだが、これから一つ、虐めようというところなんです。」
「真紀子さんは?」
「あの人、とうとう高さんと踊りに行っちまった。帰りは僕一人でね。」
「じゃ、まだなの。」
「まだです。きっと遅くなるでしょう。」
「心配ね。あたし、お礼に行かなくちゃと思うんですけど、どうしたらいいかしら。」
「いや、その御心配はいらないと思いますね。」
「何の御心配だ。」と久慈はバスの中から矢代に云った。
電話で話をするにも背後の久慈に気がねするだけの落ち着きを、今は矢代も取り返していた。
「久慈が何だか呶鳴ってますから、今夜はもう御ゆっくりお眠みなさいよ。」
「じゃ、お眠みなさい。また明日ね。」
「さようなら。」
矢代は話が切れても何んとなく千鶴子がまだそのままいそうに思われたので、
「良ろしいか、切りますよ。」と云ってみたがもう電話は切れていた。
矢代は拍子脱けのしたような気持ちで久慈がバスの中で湯の音をさせている間、椅子によりかかっていた。丁度腰から上が鏡に映るような配置の椅子のために動かずとも顔がよく見えた。彼はその夜のオペラでの出来事を久慈に云ってしまおうかと考えたが、しかし、前から恋愛というものをそんなに高く価値づけることの出来ない性質の自分だと思った。その自分があのような情緒に浸った結果を臆面もなく報告することは、まだ当分の間ひかえた方が良いとも思うのだった。
矢代は鏡に映った自分の顔を眺めながら、さも安心しきったようなほくほくとしているその顔のどこに価いがあるのか分らなかった。しかし、とにかく、理性で讃美しかねる事柄に屈服してしまった女女しい顔の喜び勇んだ有様は、ある勇敢な野獣の美しささえ頬に湛えているので、われながらあっばれ討死したものだと一層後悔もなくのんびりとして来て、ある憎憎しさもまた同時に自分の顔から感じるのだった。
それにしてもどうしてまたこんな風になったものだろう。事件というのは、ただ自分が千鶴子の腕を自分の腕の中にほんの暫く巻き込んだだけではないか。
矢代は自分のこれまで習得した幾分の科学も歴史も哲学も、いったい何んだったのだと、突然このとき疑い出した。まったく、頭のどこかに昨日までなかったある一種の生理的な変動が生じたというだけのことで、こんなに一切の学問らしいものが無力に見えてしまうということは、これはただごとの筈はない。もしもこれが失恋に変ったならばなおさらだった。しかも、この危く脆い心をそれぞれ持ち廻って動いてやまぬのが人の世界だと思うと、ここに火を噴き上げている恐るべき火口があるぞと、今さら迫っている噴煙の景観を望む思いで矢代はまた倦かず鏡の顔を注視した。彼は今夜は一晩ゆっくり考えたいと思った。しかし、もうすぐ久慈は湯から上って来るだろう。そうしたらまた議論だ。人間の過去、現在、未来。――もう沢山だと思っても他人は揺り動かしてゆくだろう。
久慈は湯から上って来ると矢代の洋服棚をあけ、勝手に寝衣をひっかけて寝台の上へ坐り込み、土産の包の中からジョニウォーカーとサンドウィッチ、それからパンを沢山取り出した。
「ウィスキーは幾ら飲んでもいいが、パンだけはあんまり食っちゃ困るぞ。明日からパリの食い物屋みな一斉にストライキだから、買い込んで来たんだ。」
久慈は自分が先ず一杯ウィスキーを飲んでから矢代についだ。寝台の上にさし向いで吸取紙を茶餉台代りにしているので、誰か身体を動かす度びにコップが揺れるから、手からコップを放すことが出来ない。それでも二人は久し振りのさし向いで楽しかった。
「明日からは飯も食えなくなるのかね。花のパリもいよいよ餓鬼のパリか。」
矢代はそう云いつついよいよ自分も地獄か天国か分らぬ恋愛の世界へ入り浸っていくのだと思った。それもも早や避けられぬ、もし千鶴子が何んの理由もなく久慈を殺せと云えば、極端に考えれば、自分はこの親しい久慈さえ殺しかねない陶酔した無茶苦茶な世界である。
「今日は面白いところを見たよ。クリニヤンで老人の新聞売子が右翼の新聞を売ってたのだ。そうすると、左翼の委員が三四人馳けて来て、右翼の新聞を労働者のくせに売るとはけしからんと云うので、ひったくって皆破いちゃったのだ。そうしたところが、老人は両手を拡げて、自分は毎日こうしてこれを売って飯を食ってるんだが、品物を破られちゃもう今日は飯が食えん。どうしてくれるんだと云って、わなわな慄えて泣くんだよ。左翼の委員ら困っちゃってね。ああ、そうか、それは悪かった。じゃ、これを売れってんで、今度は左翼の新しい新聞を沢山買い込んで老人に持たしてやると、老人は何んだってかまやしない品物さえあれやいいんだから、またほくほくして街へ出て行ったよ。しかし、僕は見ていて、破いただけの新聞をまた自分の金を出して買い直してやったところが、フランスだと思って感服したね。思想の裏にも人間がちゃんと立派にいるんだからな。」
久慈の云うのに矢代は、「うむ。うむ。」と云って一寸また考え込んだ。彼は思想の裏にも人間がいるという久慈の成長した解釈に対し特に気をとめて頷いたのだった。自分も今は固い不実な思想と同様に人間を殺す恋愛に落ち込んでしまっている。しかし、思想も恋愛も人間を殺すものなら、殺さぬものはいったい何んだ。
「科学主義者もしばらく見えぬ間に、人間派に戻って来たな。まア無事を祝おう。」
矢代は久慈にウィスキーを瀝《つ》ぎながらまだ自分の変化を胸底深く包み隠そうとするのだった。
「とにかく工場がもう今日で四百も閉塞してしまったからな、これで全世界に拡がっちゃストライキだけで済まないや。世界中の知識階級、真ッ二つに割れてしまう。それならどこもかしこも戦争だ。」と久慈は云った。
「真理、真理とお題目ばかりとなえたものだから、とうとう何もかも真理になって来たのだ。」
久慈は寝台から降りると服のポケットからラ・フレーシュという新聞を取り出して来て拡げてみせた。その一面には大きくフランスの地図が書いてあって、赤化した県とまだそのままの県とを朱と白とで色別けがしてあった。丁度豹の皮の敷物のような形のフランスの地図のうち、白い部分は両手のあたりと尾の少し上の方に小さな斑点とが残っているだけで、後は全部頭から胴を貫き朱の色に染って燃えていた。その下に議席の図もあったが、左方の人民戦線の議席五十六に対して右翼と中間併せて四十四よりなかった。
「これで一日に二千万円近くの金が、外国銀行へ電話一本で逃げ出し始めたそうだからね。儲ける国は棚からぼた餅でほくほくものだろう。為替《かわせ》管理がどうのこうのと云ったところで、何んともならぬらしい。」
経済に明るい久慈の云うことであるから矢代もあまり疑問を挟まなかったが、一日に二千万円近くの金の流出なら戦争以上の経済の惨苦だと思った。日本とは違い、さア事だとなってこんなに容易く自分の国の金銭を外国銀行へ移せるものなら、国内の赤化の勢いは一層銀行をより固めしめ、ついには逆に銀行から民衆を焼く火を噴き出す結果になる懼れさえ感じられた。矢代は外国へ来て以来金銭の運行には前よりはるかに敏感になったが、まだこちらの街頭で煙草を売っている無知な老婆より、はるかに日日の金の差額には鈍感な自分を識った。それも自分ばかりではない。日本内地の多くの人間はその点ほとんど自分よりも無関心だった。殊に東洋のことをふと思うにつけ、通貨の支配力を握っているイギリスの金力が、地球の表面にどのような姿で投資され、その余力をかってどんなにわれわれが動かされているかということさえも、むしろ知らぬことを高貴な態度と思い信じているがごとき知識人の多い原因には、一つは金銭には我関せずと思う伝統の所作もあるにちがいないと矢代は思った。
「中国との戦争の噂はばったり二、三日で熄まったじゃないか。やはりあれは嘘だったんかね。」
と矢代は訊ねた。
「何んでもあれは、陳済棠と李宗仁が広東で戦争をしたのを、日本と中国との戦争だと早合点したらしいんだが、戦争のニュースの出た夜、サン・ミシェルの支那飯店で日本人が一人ひどい目にあってるね。」
「そう云えば、僕らの行った夜も沖さんは危かったよ。あの人は演説が好きなんだ。あれは社長の癖が我知らず出てしまって、何か事あるときは日本人を代表しなくちゃならん、と思い込むのが趣味なんだね。船の中でもあの人さかんにやったからな。」
こういう話をしながらも、矢代は今夜真紀子と踊りに行った中国人の高有明の表情は、船中のいつもと変らずなごやかな信頼の情を顕していたのを思うと、時が時であるだけに、まだ通じ合う何ものかも失われず残っているのを感じ、思いがけない灯火を見たように真紀子の帰りの話を待ち受けるのだった。
「云うのを忘れたが、今夜オペラへ真紀子さんと行ったのだよ。そうしたところが下のホールに高さんという中国人ね、ほら、船の中で二等にいたダンスの上手い中国人がいたじゃないか。あの人と会ったんだよ。真紀子さん、ダンスの味を思い出したと見えて、高さんと踊りに行っちゃってまだ帰って来ないんだ。」
怒り出すかと思っていた久慈は、大きな欠伸をしかかっていたのも急にやめて笑い出した
「それじゃ、理窟に合わんじゃないか。」
「どういう理窟だ。」
「僕たちとまだ一度も踊りに行かんじゃないか。そうだ。あの人と踊りに行くの忘れてた。」
真紀子に久慈は関心があるのかないのか矢代には分り難かったが、これで室に這入るなり真紀子のことを訊ねそうだとも思われたのを、そのまま久慈から云い出すのを今まで矢代は黙ってひかえていたのだった。見ていると、久慈は真紀子を高につれ出されたことをさも残念無念と云いたげな顔にも拘らず、内心それも表情でおどけて見せ矢代の観察を眩まそうとの謀みと受けとれぬこともなかった。
「真紀子さんを僕はひき留めたのは留めたんだが、留める僕の肩を突き飛ばして行っちゃったんだ。久慈さんもいらっしゃれば良かったのにって、残念そうにオペラで云ってたから、行方不明の君にも責任はあるね。」
「あの人は飛び出す名人だったからな。気骨の折れるお方だよ。」
三日の間どこへ行ってたものか一向口を割らぬ久慈に、矢代も強いて訊ねる気も起らなかったが、そのうちに久慈は寝台の毛布を払って横になると、つづいた睡眠の不足と見えてすぐ瞼をとろりと落して起きて来なかった。
朝になって矢代は久慈よりも先に眼を醒した。横でよく眠っている久慈を起さず顔を洗ってから真紀子が前夜帰っているかどうかを見たくなって部屋へ行ってみたが、まだ鍵が降りていた。帰っているらしいことは確かだった。矢代はホテルを出ると近くのルクサンブールの方へ歩き、公園の入口の自働電話で千鶴子に居所を報らせてからひとり鉄柵の中へ這入っていった。
夜半に雨でもあったと見え幹の濡れた樹樹から滴りが重く落ちて来た。一人も人のまだいない園内の路の上に白く点点と羽毛が散っていて、踏む砂からじっとりと水が滲み出た。
爽爽しい空気だった。矢代はベンチの鉄に溜っている露を拭いて腰を降ろした。朝の日光が斑点を泛べている芝生の上を鳩が葉先を胸で割りつつ歩いて来る。いつも見馴れた風景であるが矢代はここの平凡さが好きだった。特に心を奪うような樹を排してあるのも一服の煙草の味を美味にした。彼は千鶴子の来る東門の方の楡の繁みをときどき見た。
折り畳まれた細い鉄製の椅子が繁みの影に束ねてある。柴のように見えるその椅子の束の間から千鶴子が黒い服で近よって来た。下枝を払った樹樹の梢の張りわたった葉の色に染り、薄化粧をした千鶴子の顔も少し青ざめていたが、一株の薔薇の見える小径をおもはゆげに笑い、横を向きつつも千鶴子の足はだんだん早くなって来た。
「昨夜はよくお眠みになれて?」
「少し早く眼が醒めすぎた。久慈はまだ寝てるんです。」
千鶴子は矢代の横へ腰かけ、よたよた身を振る鳩の歩みを眺めながら、
「ゆうべピエールさんよく御覧になって。何んだかお年寄に見える方でしよう。」
「そうでもないな。美しい良い感じの人でしたね。なかなか似合ってた。」
千鶴子は矢代の膝を打とうとしたが、ふとその手を止めて彼の方を向き返ると、
「あなただってなかなかお似合いだったわ。憎らしいほど、あれよ。」
顔を染める千鶴子を見るのは矢代にはまったく珍しいことだった。ドイツへ自分の逃げる前ここの公園のベンチで幾度こんなにして千鶴子と話したか分らない。もう彼女と会うことはあるまいと思い、またこの上会ってはならぬと思って逃げていったも同様な自分だったのに、それに今は人目のない朝のこの場所を選ぶようになってしまったことは、変れば変る状態だと矢代は思った。彼は千鶴子とこうしてただ並んでいるだけですでに身体が溶け合い、皮膚の隅から隅、内臓までも一つの連係をもって自由に伸縮している貝のように感じられた。
「もう君の考えることも僕の考えることも同じだ。どうしてくれる。」
口へは出さず矢代は芝生に落ちている日光の斑点を眺めながら、さも楽しみ深そうに煙草を吹かした。昨夜見た椿姫では第二幕目のブウジバルでアルマンは丁度今の自分のように幸福そうであったが、すぐ悲劇が十分後に起って来ていた。矢代は日本にいる千鶴子の家の人人のことをまだ少しも知らぬ自分だと思い、悲劇が起るならそこからだとふと思ったが、しかし、それも起ったところでもっと今より後のことだった。
「ホテルへはもう一度お帰りになるの。」
「あ、そうだ。」矢代は身を起して云った。
「今日はどこもパンを売らないそうですよ。ほんとうかどうか、これから見て来てやろうじゃないですか。お腹が空いたし。」
「もうそんなになったのかしら。」
「なってるらしいんだが、案外見たところは静かですね。」
近よって来た見馴れた鳩の指が芝生の露に洗われうす紅い菠薐草《ほうれんそう》の茎の色だった。雀も濡れたまま千鶴子の沓先で毬のように弾み上っていた。
二人はベンチを立ってまた園内を廻った。山査子の花の咲いていたころ矢代は無我夢中にこの森の中を歩き、息切れを感じるほど強く千鶴子に牽かれたある瞬間を、ふと今も踏み応える砂から感じとった。よくもあのとき千鶴子を振り切ってパリをひとり旅立つことが出来たものだと、矢代はある疲れに似た思いで追想しながら、あのころよりも一層濃くなった緑の色のむらむらと打ち重なった樹幹を眼で選り分け、日光の射し込んだ花壇の方へ千鶴子を誘っていくのだった。
「旅行をしていると、流れてゆくままにも自然に心に巣が出来てくるものですが、僕はこのルクサンブールがいつの間にか巣になってしまった。僕はここで暮したようなものだな。」
葵の花を廻りながら矢代は自分の得たものは結局何一つなかったと思い、これから日本へ帰っても依然として旅の心はつづいてやまぬにちがいないと思った。
「あたし、あなたにここでいろいろな事を教えていただいたわ。でも、もうじきお別れしなきゃならないんですのね。」
千鶴子は矢代も当然二人の別れる日の迫っていることを感じているらしい風情で、葵の真直ぐな茎に手をあてながら云った。そうだ、やっぱり千鶴子とは別れなければならぬのだと、矢代は胸に一条の刃を入れられたように慄然として黙った。もう悲劇が自分にも来たのであろうか。彼は朝の日光が白みわたるほどぼんやり心の弛むのを感じる。その後から後から追い襲って来る激しい胸の疼きを食い殺すように俯向いて歩いた。何か千鶴子は自分に分らぬ事情で結婚の意志を退けているのに相違ないと矢代は思い、自分から思い切って千鶴子にそれを云ったならと、そのようにも考えたが、しかし、昨日まで自分は結婚のことだけは云い出しもせず忍耐することが出来ていたのに、今この忍耐を破るとは何としても情けない気持ちだった。
「ロンドンのお兄さんから、何かお便りあったんですか。」
矢代はようやく思いあたるところを感じて訊ねた。
千鶴子は、「ええ。」と低く答えたまま、暫く重く黙っていてからまた云い澱む風に云った。
「兄さんもう日本へ帰るんですの。あたしの来るときもう帰るんだったんですのよ。でも、少し延びたと云って来たものですから、急いであたし来てしまいましたの。まだお話しなかったかしら、あたし。」
「ロンドンにいらっしゃる事だけは聞いていましたが。帰られれば千鶴子さん、どなたかと結婚なさるんでしょうね。」
もう一番の訊きたいことを訊くことが、何んの不思議もない日常の会話のように見える様子で矢代は訊ねた。
「それもあるんですの。困るの。ほんとに。」
葵の花が薔薇に移り変る切れ目の所で、弁の縮れた模様を検べるような首垂れた千鶴子の細い眉が、花明りに照り映えたあきらめの静かな線を描いていた。矢代は予想が一つずつ的中してゆく恐れと同時に、千鶴子のその静かなあきらめが物足らなくなり、抑え難い暴力に似た力の湧きのぼるのを感じた。
「あなたはどうしてもその人と結婚しなきゃいけないんですか。」
矢代はふとこう問いつめたくなったが、そう云えばもう二人はお終いの頂きに出ることだと気がついた。彼は出かかった呼吸もひきとめまた暫く花壇の中を無言で歩いていたが、しかし、自分は自分の愛情だけは疑えない、これが嘘だといえる筈がないと思い直すのであった。
「さあ、御飯を食べに行きましょう。」
矢代は千鶴子を東門の方へ誘って公園を出てゆくと、今さきまでの狂い立つような気持ちを捨てリラの方へ歩いていった。しかし、歩くにつれて、もう別れねばならぬと思ううす冷い覚悟が視野の全面に漲って来て、立ち並んだマロニエの並木の黒い幹も、これも心に爪を立てられた思い出の一つになるのだと矢代は思い沈むのであった。
リラまで矢代たちの来たとき、リラは戸を閉めて全部の椅子が片附けてしまってあった。二人はそこから行きつけの食事場へ行ってみたが、その店も入口はみな閉っていて、テラスの椅子もテーブルの上に足を仰向けて並んでいた。矢代はまだ店が始らぬのかと初めは思ったが、見ていると通りから見える所の入口の向うで、いつも矢代の卓へサーヴィスに出て来たボーイ頭が支配人に立ち向い、何事かいどみかかるような興奮した姿で話していた。ぴったり閉じられたガラスの中なので話は聞えなかったが、電気の消えた店内の暗さを背景にしているため、漸く通りの明るみを受けた支配人とボーイ三四人の顔が、水族館の中の鮫のように物物しく映って見えた。ときどき穏やかな顔に弛んだり、また抗弁したりするボーイの後ろに、詰めよっている他の三人の服も海底の動かぬ昆布に似て見えた。頭の鉢の開いた支配人は矢代の傍へいつもよく来て、どうですこの料理の味は? と優しく訊ねたりしたことがあったが、今は両手を拡げたり縮めたりして、ボーイを鎮めることにひたすらこれ努めている最中だった。
「これや、この様子だと今日一日の辛抱じゃ駄目だな。」
矢代はこう云いつつ通りに立って両側に続いているレストランやカフェーを見廻したが、どこもかしこもガラス戸を閉め降ろし、一人の客も入れていなかった。食事にあちこちとうろつき廻る度びに、どこでも拒絶されて来たらしい旅客たちは、ただ街を流れ歩いているだけだった。新しく食事に来たものらも事の真相を知るに及ぶと、通りで寄り塊ったまま、誰もひそかに薄笑いをもらして去ろうとはしなかった。そこへ罷業を奨励している政府の委員たちが、命令のまま確実に罷業が行われているかどうかを検べるために、巡視の自動車で街街を馳けて来ては、威勢よく、
「フロン・ポピュレール。」(人民戦線)
と叫ぶと固めた拳を人人の前で高く上げるのだった。それはガラス戸の中の罷業側に声援を与えるらしい声だったが、食事に困ってうろついていたものたちも、退屈まぎれにそれに和し拳を上げるものも多かった。
矢代は千鶴子と一緒にまた街を歩いていくに随い、食事場だけとは限らず、少し大きな商店はどこも店を閉めていて、どの入口のところにも店員の通いを喰いとめる罷業委員が張番をしていた。
「いよいよ波をかぶって来ましたな。」と矢代は云って千鶴子を見て笑った。
通りの店店が網目になった鉄柵の大戸を閉め降ろしているので、街は牢に入れられた囚人のように見え、灯を消されたショウウィンドウのハンドバッグや化粧品などの商品類も、手錠を嵌められて俯向いている女に似ていた。矢代は変れば変るものだと思い鉄柵の格子の外からそれらを覗いていると、
「どうなるんでしょう。あたしたち。」と彼を見上げておどおどした視線で相談する風情に見えた。
「とにかく、コーヒー一杯も飲めないとなると、考えなくちゃならんね。」
もう間もなく千鶴子と別れなければならぬと考えることで、さきからかなり気力の疲れている矢代は、金銭は先ず持っていても餓えを満すに足りないというこの大都会の変動のさまも、亦多少は考えねばならなかった。
「こんなことが長くつづけばどうなるんでしょう。どこもかしこもこんなになるのかしら。」
千鶴子の問いに矢代は、「さア。」と云ったまま黙った。そして彼は、自分と君とも今はこれに似たような分らぬ淋しさに襲われているときだと思った。たとい日本へ帰ればまた会うことも出来るとはいえ、帰れば恐らく誰でも放れ散ってゆくようにどちらも会う気持はなくなってしまうにちがいない。――
矢代はせめてどこかで腰を降ろして休みたいと思い、通りをどこまでも真直ぐに歩いていってみたが、カフェーというカフェーは皆戸を降ろしていた。もうこんなにコーヒーさえ飲めないのかと思うと、彼は飲ます家のあるまで探したくなり、また、もうそれではこの千鶴子とも別れてしまい、二度と会うこともないのかと思うと、それならそのように覚悟を定めねばならぬと考えたが、しかし、それにしてもこの調子だと自分はもう何をするか分らない。もうこれだけはと思いつつ、あがき進む馬のように彼は自分の轡《くつわ》を噛み破ろうとするのだった。
セーヌ河を渡ったところにチュイレリイの宮殿の跡があった。矢代は篠懸の樹を下にめぐらせた城壁の上にのぼり、千鶴子と並んで河を見降ろした。この観台から真下のセーヌの両岸を眺めたとき、河そのものの石の側壁がすでに壮麗な一つの建築物だった。それはちょうど科学の粋を尽した白い戦艦が一望のもとに並び下ったかと見える堂堂たる景観だった。
「この眺めはどうです。ナポレオンの皇妃のジョセフィヌはここの宮殿にいたのですが、河がいかにも武装を整えた大兵団の守備兵のように見えますね。ナポレオンはベルサイユの近くのサンクルウの宮殿から、政務に疲れるとここまで馬車で会いに来たのだそうですよ。」
英雄の情事にしたって凡人のと別に変りはあるまいと思い、矢代はそんなに云ったのだったが、悲しみあるとはいえ、ふと今自分はそれと劣らぬ愉楽の頂きへかけ昇ろうとしている真っ只中にいるのだと思った。
「でも、サンクルウからだと随分遠いのね。どうして奥さんと放れて生活していたのかしら。」
「さア、そこはどういうものかな。どちらも放れて生活していると、会うということが休息になるんでしょう。」
あながちナポレオンのことでなくとも、まもなく千鶴子とも別れねばならぬとすれば、想いを殺してこのままに別れるのも、あるいは今のこの歓びをともに生き永らえる生活の美しさとなるのかもしれぬと、矢代はまたそのように思い直し、ひと時の旅路をふり返る余裕も出来て来るのだった。
「ここはパリじゃ一番美しいところだったんだけれど、もうナポレオンもジョセフィヌもいやしない。今ここにいるのはたった二人きりなんだから、まアとにかく、不思議なこれは一つの事実みたいなものだ。」
こう云って矢代は千鶴子の顔に流れた光線の綾に微笑を投げかけ、過ぎゆくあたりの風景の何んと静かな眺めであろうと、緑の樹の間に煌めいている噴水の輪に視線を移した。
「ジョセフィヌさん、こんなにして毎日ここから眺めていらしたのかしら。でも、そのときもこうだったんでしょうねきっと。あの河の胴の長長としているところ、象牙で出来た河みたいだわ。美しいのね。」
千鶴子は左方に真近く見えるノートル・ダムを眺め、また下流にうねる河水の緊密した容積のどっしりとした明るい水面を見降ろした。すぐ観台の真下にコンコルドの広場がある。矢代は自分の好きなその広場を今まで忘れていたのを思うと、いつもより千鶴子に心を奪われていた自分の失念のさまもまた思われるのであった。
「あなたはベルサイユの宮殿で、アントワネットの寝室御覧になったでしょう。あの部屋からここのこの広場まで引き摺って来られて、ここでアントワネットが断頭台に乗せられたんですから、すぐその後の皇妃のジョセフィヌにしたって、こんなに暢気な気持ちじゃこの河を見てられなかったんですよ。それに今日みたいにコーヒーも飲めないなんて日だったら、昔ならここでもう今ごろは、断頭台が押すな押すなの賑いだ。」
日光をはね返している壮大な広場の中では、数十本の噴水がソーダ水の漂い溢れるような清らかさだった。矢代は観台から降りて下の絵画館へ休みに這入った。そこは百畳敷ほどの楕円形の部屋でモネー館と云われている。周囲の壁には全面を余さず円形に沼に浮かんだ睡蓮の絵が満ちていた。一人の人もいない森閑としたその部屋の中央に、ただ一つ褐色の革張りの小さなベンチが置いてある。そこに二人は並んで腰を降ろすと、丁度沼の中の留木にとまった二匹の蛙のように自分が見え、どちらを向いても眼のゆくところ人影の一つも見えぬ連った睡蓮の沼だった。
「ここは疲れたときにはいいのね。どうしてこんなところ御存知?」
千鶴子はより添うように矢代に近づいたまま、周囲の沼と青青とした静けさを楽しみ眺めつづけて訊ねた。
「僕は街を歩いて疲れるとここへ来て、このベンチへ一人ひっくり返って寝てるんですよ。いつも人のいたことはないんだ。この絵はパリの黄金期にいたモネーが描いたんですが、実に写実的な緻密なものですね。いかにも池の中に自分がいると思うからな。」
「そうね。何んだか日本の山の中にいるような気がするわ。よくこんなところ、奈良にあるじゃありませんか。」
「そうだ。奈良だここは。」
矢代は半身を横にしながら肱をついた。眼前の継ぎ目のない沼はすべて絵だと思っても、天井の適度の光線の加減に応じた遠近法で、絵もこんなに事実の自然に近づくものかと矢代はいつもここで驚いた。
「やはりこんなところをパリの人も欲しいのね。」
「それや、欲しくてたまらないんでしょう。それにこのベンチの置き方も上手いですよ。こうしていると自分が人間だと思わないんだもの。」
「あら、そうね、蛙ね、まア面白いこと。ほんとにあたしたち蛙だわ。」
千鶴子は再び背のないベンチを矢代と反対の方へ向き変って足を組んだ。睡蓮の花の間に渦紋の漂い密集した浮葉の群青のその配置は、見れば見るほど一つとして同じ形のもののない厳密なリアリズムの沼だった。
「東洋人が自然にうんざりしてしまって、科学がほしくてたまらないときに、こちらじゃもう科学にはうんざりして、自然がほしくてたまらないんだな、もう精神が科学に疲れきってしまっても、まだ科学的な厳密さより信用しないという絵だ。人間は、いったい、どうなるんだという、これは地獄絵だ。そうだ、久慈をひとつここへつれてくるんだった。」
こう云って矢代は起き上ると頭は自ら空を仰ぎたくなるのだった。
「そんなら人間はどんなになるんですの。」
千鶴子はくるりと矢代の方を振り向いて訊ねたその拍子に、あまり真近に矢代の顔があったので思わずまた後ろへ身を退いたが、千鶴子のその眼の大きさに矢代は質問が何んだったのかふと忘れた。昨夜オペラの桟敷の中で千鶴子の腕を巻き込んだときには、ソファに同じ方向を向いて坐っていたときだったので、そんな軽はずみなことも自然に出来たのであったが、今は互に背を合せるように坐っている一つのベンチだった。身体のねじれと一緒に心もねじれたように胴で曲るのを感じつつ、矢代は動かぬ千鶴子の眼の中のしんと静まった一点を今は何より美しいと思って見た。
「あなたがそっちを向いてると、話が途切れて面白くないな、僕たち蛙になってるんだから、パンも食わさぬ人間を一つ今日はやっつけよう。何んだこんなもの。」
と矢代は云ってまた睡蓮の絵を眺めた。
「ほんとにコーヒー飲みたいわね。出ましょうか。ロンパンへ行ったらきっとあってよ。」
千鶴子が立ち上ったので矢代も立って外へ出た。もうかなり空腹だったが、二人はサンゼリゼの下のロンパンまで歩くことにして広場の噴水の傍をわたって行った。
ロンパンまで行ってみてもそこも今日は休みだった。この右翼の巣窟のようなサンゼリゼいったいの食事場が休みだとすると、もう二人はどこへ行って良いのかいよいよ途方にくれて来た。やむなく二人はそこの辻のベンチにまた腰かけて休んだ。坂の上の凱旋門の群像の彫刻が方形の胴にうす白く泛んで見えた。その門の中に欧洲大戦に戦死した無名戦士たちの墓があるので、丁度ここは東京で云えば、靖国神社をいただいた九段にあたるゆるやかな坂の下だったが、何事か街に問題が起る度びに、この無名戦士の墓を中心にして起って来るのが例である。
「もうすぐ巴里祭ですが、あそこの無名戦士の墓の奪い合いで、左翼と右翼の衝突がもう今のうちから起っているんですよ。その日になったら、ここでそれが爆発すると人人はいうのですがね。ここは王さまの無いところだから、喧嘩をすればきりがない。」
「今からそれが分っていて、どうして防げないのかしら。」
千鶴子はまだ訝しそうな声だった。
「それはここのは、戦死した無名戦士が王さまみたいなもんでしよう。だから墓が物を云わないのを良いことにして、右翼はわれわれ伝統の勇士の墓というので、これを自分のものとしようとするのでしょう。そこを左翼は、いやこれこそわれわれ民衆の勇士の墓だ。これこそわれわれのものだと主張する。ところが、今度だけは政府が左翼だからいつものようにはゆかんので、左翼を守らなくちゃならない。そうなると、右翼の伝統派はいつもより結束するだけじゃなくって、こうなればもう伝統のために死ねというので、必死の反抗になって来るから、爆発が一層大きくなるというわけです。」
「じゃ、どちらの云うこともそんなに本当に見えちゃ、みな迷うのももっともね。そんなに大切なことに迷っちゃ、この国の人たちどうするつもりかしら。」
「そこがどうするわけにもいかんのだな。何んといっても、生活する頭の原点が墓なんだから、それならこれは死んだ動かぬ点でしよう。つまり完全な無だ。ところが、王さまのある国はその原点が生きた有の一点だから、つまり生命です。生活の原点が無と有とじゃ、そこを中心にして動いている人間の頭がまるで違っていくわけですよ。たとい同じように見えたにしたって、有るものと無いものとじゃ、やはり違う。」
「じゃ、日本とこちらは皆ちがうのかしら。」
千鶴子の眼は凱旋門を見詰めたまま放れなかった。
「それや同じ所もありますよ。だけども、中心を墓という無にしたものなら、それは人間というものは、みな墓だと思い込んだ人の無の頭の中だけで、幾何学をやっているようなものですよ。つまりそれは科学でしょう、そのような科学の中でなら、これなら同じだ。しかし、僕らは何んと云っても生きているんだから、生きてる意義というものは、人をみな墓だとみて幾何学をやることか、あるいは生きているからは、むくむくと動いてやまぬ愛情が必要に定っているんだから、それを互に何とか清純なものにしたいと希う努力にあるのか、という風な問題が、いろいろ形を変えて顕れているんだと僕は思うんです。そこが分らんものだから、左翼と右翼も人の分らぬそこのところにつけ込んで、まことしやかな理窟で世の中の生きてる頭の引っ張り合いをするんだな。日本の知識階級のものにしても、自分を死んだ墓だと思い込む方法を西洋から教え込まれて来たものだから、人間のいない世界でだけ完全に立派なもの以外に信用しない癖を、だんだん植えつけられて来てるんですね。つまり科学より信用しない。それとはまた別に、その死んだ世界でこそ美しいものを、生きてる世界にまで全部あて嵌めねば承知をしないのが、これがなかなかたいへんな勢いなんです。」
「それ久慈さんのことなんでしょう。」
と千鶴子は先廻りをして笑って訊ねた。
「そうそう、久慈もそれです。それで僕はあの男と絶えず喧嘩だ。久慈の云うような、誰から見たって立派に見える言葉ばかり人に押しつけて云っていちゃ、人は興奮して立派にみな死んでしまう。殺したけれや殺せと、このごろは面倒臭くなったから、あまり喧嘩もしませんが、しかし、そうも云っておられんからな、まだまだ喧嘩だ。」
千鶴子は分ったところだけ頷きつつもまた視線を凱旋門の方形の肩に上げ、
「あれお墓なのね、あたし、ちっとも知らなかったわ。」
と小声で羞しそうに云った。
「あれはここの生活の墓ですよ。無だ。あの無というお墓から、放射状に大通りが八方へ通っているでしょう。僕らはその一つのここにいるんですが、しかし、ここにこうして生きて話してる。ところが、生きていながら朝からコーヒー一杯も飲まされないというのは、これや無茶だ。」
真面目に聞いていた千鶴子も思わず矢代の皮肉に、「くッ。」と笑ったが、意外におお真面目な矢代の表情にまた自然と黙って聞くのだった。
「この通りがお墓の無から出てるから、お茶なしでもないだろうが、しかし、日本の通りはお墓の無と有とが重なった一点から出てるから、どんなになったって、飯が食べられぬということは絶対にない。御飯が食べられないより食べられる方が有り難いに定ってるんだけれども、それを馬鹿にするものが日増しに多くなって来てるんです。そんなら、つまりお墓へ吸いよせられて行ってるのだ。おまけに、さア急げと号令かける男まで出て来てるから、お墓詣りに、血を流す。」
「ちょっと、それはここのお墓のことなの、日本の? どちらですの。」
「ここのお墓だ。」
と矢代は云って笑った。
「日本にはお墓詣りに血を流したものなんかいやしない。流さぬためにお墓詣りに行くんだが、ここのは血を流すためのお墓詣りみたいなものだ。」
矢代はふとこう乱暴に云ってから、突然、
「どうして僕はここへ来ると、こんなにお国自慢がしたくなるんだろ。少し慎しまなきアいけないかな。」
と苦笑してあたりの美しい街路樹の森を眺めた。厚いガラスの筒口から吹き昇っている巨大な噴水が、広場いったいに霧のように吹き乱れて散り、マロニエの葉の間から滴りを顔に辷り落した。風船の塊りが樹の幹の間で揺れているその向うから乳母車が動いて来る。千鶴子は盛り上った薔薇の丸い花壇の中を絶えず辷ってゆく自動車を眺めて云った。
「これみんな前には馬車だったのね。そのころあたし一度来てみたかったわ。どんなに良かったでしょうそのころは。」
「あ、そうだ。このあたりのベンチでアルマンが椿姫を待ったんですよ。ロンパンの大きな樹のある前のベンチと書いてあったようだから、たしかにこのあたりに違いないのだ。あるいはこのベンチかもしれないぞ。」
矢代はおどけた風にそう云いつつ頭上の二かかえもあろうマロニエの大木の葉を仰いだ。
「ここだったら面白いわね。でも、これは鉄のベンチだから、そのころと変っちゃいないわけよ。」
千鶴子も好奇心に満ちた笑顔でベンチの背を撫でてみたり組み合った八ツ手のようなマロニエの厚い繁みを仰いだりした。
「何んでも馬車で椿姫がブロウニュの森の方へ、ここを通って毎日行くんですよ。それが日課だったんですね。それを聞きつけたアルマンが、友人とここで待ち伏せしてるんです。椿姫はイタリアの麦藁帽子に、レースの飾りのついた黒い服を着ていて、乾葡萄を入れた手下げ袋を持ってたというんですがね。」
椿姫の細い優雅な姿を想い描いている二人の顔へ、風の方向に揺れ靡いていた噴水の霧がゆるやかに廻って来た。姿を揃えた樹の幹の間へ落ちている日光の縞の中でひそかに虹が立っていた。「美しいところだなここは。こんな美しいところでももうパリの人間は、ここに美しさを感じなくなってるんだから、感覚の変化というものは恐ろしいものだ。」
ふと矢代はそう云ってしまってから、思わず千鶴子の頭に響かせた別の恐ろしさをはっと考え、我知らずに出た言葉を呪い押し込めたくなるのだった。全くまアいわば幸福のある状態に達している二人の間へ、やがて麻痺していく男女の感覚の行方を、今から予想させるとは不届至極だと矢代は思った。しかし、自分はもうこれ以上のことを二人の間で望むべきでないと思い、またそのようなことを望むなら、今はそれさえ達せられるだろう幾らかの己惚れさえあったが、恐らくこんなときには、誰でもそのような男女の頂上の望みを持つに定っているからには、その胸のどきどきとするあの羞らいだけは、せめて千鶴子にだけさらけ出したくはないのだった。そんなことは、下劣なことだと別に矢代は思わなかったが、どんなに巧妙な理窟があろうとも、相手の婦人に窮地に飛び込むことを要求しているのに間違いはないのであってみれば、せめてやむなくなるまでは、一層彼はその行為を心中認めたくはないある心が抜けきれなかった。
「裸身になれ、裸身に。」
東京にいるときでも友人たちは矢代によくこう云って迫り、叱り、忠告し、果ては嘲笑さえしたものであったが、今も矢代はその声声が聞えて来て、広場の樹樹もみなにたにたとした嘲笑の顔にも見えて来る。しかし、もし本当に裸身になって見よ。そんなことが出来るわけのものじゃあるまいと矢代は思う。
「みんなの奴、嘘をついてるから、裸身になって見せてるだけさ。あのえへえへ喜び勇んだ醜行のどこが裸身だ。人の眼をくらますために醜行を演じるなら、そんなことは俺だって。――」
とまた思う。
顔からそれていった噴水が反対の森のうえに砕け散って霧を立てていた。その霧を自動車の車輪が巻き込んで逃げてゆく。矢代は樹の間を遠ざかって消える車を眼で追いつつ、
「とにかく、俺という男は自分というものがやはり一番好きでまた嫌いなのだ。あの自分の馬鹿さ加減一つ知らずに、ここにこうして坐っていたアルマンが羨ましい。――」と矢代は思って、
「ボアへ行きましょうか。あそこなら、何か手ごろな食べるものがあるでしょう。」
矢代はベンチから立って凱旋門の向うにあるブロウニュの森の方へ歩いた。そこの森は二人にとっては思い出のある所だった。まだそのころは春だったが、二人の気持ちの初めて通じ合ったのは夜のその森の中のことで、それまでは矢代は千鶴子に物いうにも久慈に気兼ねを要したのに、真暗な森の中の道に迷ったのが二人の縁の初めとなり、一寸先も見えぬ闇の中を二人は手を引き合いつつ、湖のボートの傍まで出たのである。今は特にその思い出の巡礼をしようというのではなく、この度は食に困っての巡礼だった。
森の中のパピヨン・ロワイヤルだけは常の日と変らなかった。黄色と朱の縞目になったビーチパラソルが樹の幹の間に立ち並び、鉢台の上で淡紅色の紫陽花が花壇を造っていたのも、今日は大輪の薔薇一色に変っていた。矢代たちはようやく食事にありつけた明るさで空腹を満たすことが出来たので、食後のコーヒーも普段よりは楽しめた。鉢台の薔薇の間で輝いている湖上の白鳥を見ながら、矢代は、
「やはり額に汗してパンを食べるに限りますね。いつもよりずっと美味しい。」
とほくほくして云った。
「でも、いつもここまで来るのは大変だわ。」
葉の色よりやや薄い竹色の椅子の背には、ショールの銀狐が巻きついていた。樹影の色で青白んで見える客の中には居眠っている顔も見えた。遠方の樹の間で閃めくコンパクトの面に眼を刺されつつ、矢代は湖の中の島を眺めて云った。
「いつかの夜、あの島の中で道に迷ったときは弱りましたね。」
「そうそ、でも、あのときあなた嚇かすからあたし、恐くなったんですのよ。ここは一名魔の森っていうんだって仰言ったでしょう。覚えてらして?」
「そんなこと云ったかしら。しかし、このあたりの夜の森じゃ、何をされたって罪は向うにないのですからね。夜になると自動車が八方からこの森へ這入って来るのだって、何も罪はこっち持ちだ、という権幕なんだから、あれはまア、自然を失った人間というものは、一切から解放されればどんな様子をするものか、試しに周囲五里の森を与えてあるようなものだな。実際この森がなかったら、パリの人間、呼吸困難になるかもしれないですよ。」
「恐ろしいところね。そんなところ日本になくて結構だったわ。」
ボーイの持ち運ぶ皿がまた光って眼を刺した。オーケストラが樹の下から起った。湖面に漣が立ってゆらめく度びに、照り返しを受けたあたりの芝生の面もともに影を細かく揺らめかせた。
「マロニエの咲いていたころは、ここでこうしてコーヒーを飲んでいても、花が上から落っこちて来て手で払うのに急がしかったもんだが、もうお別れか。早いものだなア。」
悲痛な思いも冗談のように笑いにまぎらせて話すことが出来るのを、一つはこれもここのこの景色の美しさのためかと矢代は思った。
「でも、日本へ帰ったらお会いしましょうね。あたしね、日本へ帰ってからあなたにお会いするの、今から楽しみなの。ここでこんなに苦心をしてコーヒー飲んだのも、きっと面白いお話になってよ。あなたの方が早く帰るんですから、あなたよりは待つだけ楽しみが多いわけね。おお、楽しい。」千鶴子は喜んだ。
自分はもう会うまいと思っているのに、何んという千鶴子の気軽さだろうかと、彼女の喜びつつ手を胸に上げる仕種を矢代は眺め、ふと恨めしく思うのだった。しかし、それもすぐ彼は追い払うことが出来た。外国での約束などただ楽しみにすぎぬとはいえ、今はそのような儚い夢も満足のしるしとして受けるべきこそ旅だった。
矢代は久慈に食事場を見つけたから来るならここよりないと電話で教えたかったが、電話をかけてみたときには久慈はホテルにはいなかった。定めし真紀子と一緒に今ごろは、こんなにコーヒーを探し求めて歩いていることだろうと云って、千鶴子と彼は笑い合った。
ロワイヤルを出てからすぐ裏の森の中へ二人は這入っていった。鶯や小鳥の声がだんだん増して来た。栗や櫟の樹の密生した中を道からそれて、枝を撓めたり蔓草を踏み跨いだりしながら、なるだけ人声の聞えぬ方へ歩いた。この森の木の葉は初毛のように細かく柔いので、どこまで行っても森の中は明るかった。雑草も芝生の延びたのが多く、それも踏み馴らされた人擦れのした草ばかりだった。
「まったくここは森まで人工だから、僕らこれでどこまで胡魔化されてるか、もう分らないな。こんなになると日本へ帰ってから、日本がつまらなく見えて困るぞこれや。」
ぼそぼそ独言をいうように呟きつつ歩く矢代の前へ、鳥の糞が落ちて来た。しかし、千鶴子は、森の人工であろうが自然であろうが少しも意に介しない様子で、ときどき男女の一組が草の中に横わっていても、その傍を快活に除けて歩いた。森の中には自動車道が縦横についていた。千鶴子は樹の間から道が少しでも見え始めると、すぐまた自動車の音のしない反対の奥の方へ自分から進んだ。
「こんなにお昼だと道なんか迷うほど面白いわ。もっと奥へ行きましょうね。道はうるさくって。」
こう云いながら行く千鶴子の後から、これでは案内されるようだと矢代は思って苦笑するのだった。そのうちあたり一帯背丈を没するほどな蕨の密集している原の中に這入ってしまった。そこを千鶴子はひるまず、両手で葉を頒けつつ突き抜けようとした。
「一寸待ちなさいよ。これやみな蕨《わらび》ですよ、素晴らしい蕨だな。」
「これ蕨? 羊歯じゃありませんか。」
「いや、蕨が延びるとこうなるんです。籠を編む、ほら裏白とか何んとか云いましたね。」
「ああ、あれね。」
一群の羊歯に似た原が蕨の藪だと思うと、一層元気が出たらしい風で千鶴子はまた進んだ。このあたりは人も這入らぬと見え、原始林をそのままの形に残した物物しさにも、やはりどことなく人工が感じられた。矢代は千鶴子に手伝い裏白を頒け頒けしているものの、この無駄な努力に勢いを出すのも、もう永く遊んだ退屈さに耐えられなくなった二人だからだと思った。
「まるでこれや稲刈りだな。」
と矢代は云って笑った。千鶴子も笑いながら並んで同じ動作を繰り返していくのだったが、少し疲れて手から力を抜くと、たちまち密集して来る海老殻色の茎の弾力に跳ね返されて二人は打ちよせられた。足で踏みつけた茎も二人の過ぎた後方で戻り合う音を立てていた。
「君、これは後へも帰れなければ、前へも行けなくなるぞ。向うが見えないんだもの。たいへんなことをし出かしたものだ。」
「だって、かまやしないわ。」
「無茶だね君は。ここが行けると思えますか。」
こう云っているときでも、もう強い茎の群団は二人の周囲を隙間なく押し締めて来た。二人は身動きも出来ないばかりか、両足の間へも跳ね返って来る茎から足を抜くのも困難だった。
「もう少し行きましょう。折角ここまで来たんですもの。抜けられるわよきっと。」
また千鶴子は動き出した。矢代は汗が出て来たが仕方もなく暴暴しく裏白の絡りついた茎を踏みつけて云った。
「氷河をわたるのよりこっちの方がよっぽど骨だ。」
「でも、これは死ぬ危険はないわ。」
「しかし、無駄だこんなことは。」
夫婦喧嘩のような云い合いをしているときでも、よろめき倒れそうな千鶴子を彼は手で掴んでひき上げねばならなかった。服のどこかが絶えず茎の歯にひっかかってぶりぶりと鳴った。ときどき立ち停っては森の梢が見えて来るかと空を仰いだが、行けども行けども羊歯の葉のようなぎざぎざの頭ばかりで、千鶴子もだんだん心細くなったらしかった。
「ほんとに失敗ね、御免なさい、こんな所へおつれして。」
「今さら謝ったって、何もならん。」
「だって、こんなに深いと思わなかったんですもの。どうしましょう。」
棘にやられた手首の傷から血が出て来た。矢代はそれを毛物のように舌で舐め舐め云った。
「こうなれば日が暮れたってやるまでだ。さア、行きましよう。」
今度は矢代が先になって片足で円を描くように一群の裏白を割るのと一緒に、片手でぐいとその次の頭をかき頒けるようにして、これを左右交互に繰り返して進むのだが、原始の人間は毎日こんなことばかりを繰り返しながら、後から妻をつれ子をつれて道をつけたのだと矢代は思った。それがパリの真ん中に人間の原動力の泉のように一点ここだけ残されているのだった。行くうちに裏白の叢は黝《くろ》ずんでねっとり湿りを含み、臭いもアルカリ性の強い朽葉の悪臭に変って来た。
「これや、冗談じゃない。とても駄目だ。」
矢代は投げ出すように千鶴子を見て云った。
「駄目かしら、森さえ見えればいいんだけど。」
「見えたって、服が蕨の悪汁《あく》で真黒になりますよ。」
矢代は茎の中へ片手をさし入れてみて顔を顰めた。
「風が通らぬから蒸せるんですね、これ、むッと熱い。」
千鶴子も手を入れかけたが、
「あら、ほんと、暖いわ。」と云ってねばねばする手さきを葉で拭いた。一面の蕨の叢の中は互の温度に醗酵してヨード・チンキになっているのだった。矢代はもうくたびれて後へも引き返せないので、人の声のする森の方へ耳を傾けているとどこからかかすかにテニスのボールの音が聞えて来た。
「テニスの音ね。どっちかしら。」
「どっちか分らないな。君、ひとつどっちへ出れば一番近いか一寸見てくれ給え。こうなればもう斥候が要る。」
こう云って矢代は千鶴子の両足をかかえようとすると、千鶴子も気遅れを見せずすぐ矢代の肩に手をかけた。
「よろしいか。そらッ。」
矢代は膝をくの字に曲げた千鶴子を上に高くさし上げて云った。
「重いぞ。」
恐わそうに初めは片手を矢代の後頭に巻きつけていた千鶴子も、ぴんと延び上ると片手を自分の額にあて、面白そうにあたりの蕨の原を見廻した。
「まア、広いこと広いこと。」
「どっちです。」
重さに腕をぶるぶる慄わせて訊く矢代の身体の中で骨が鳴った。
「あちらよ。右へ真直ぐに行けば一番近いわ。おお、いい眺め。」
千鶴子はなお真直ぐに延び上ろうとした拍子に矢代の脇腹へ強く沓が食い込んだ。
「抛り落すぞ。痛いや。」
「もう暫くよ。広いったらないわ。」
千鶴子はからかうように上から矢代の頭を撫でながら悠長にあちこちを眺めつづけた。困った果てにやむなくしたこととはいえ、何んの躊躇もせず自分の肩車に乗っている千鶴子を、可憐に思いまた支えた。
下に降りたとき千鶴子は裾を直し顔を赧らめて、「ああ面白かった。」と云うと、今度は急に黙って右の方の蕨の中を自分が先に割り進んだ。
全くこの蕨の原はひと目初めに見たときよりもはるかに広い地帯だった。二人は湿った部分を除けながらまた一と苦心をつづけていったが、もうどちらも汗にまみれてくたくたに疲れ、ようやく森の芝生の上に出たときには、真先に矢代は栗の樹の根もとに倒れてしまった。
「驚いた。あんなところにヨード・チンキの塊りがあろうとは思わなかった。あそこだけは誰も知るまいな。」
千鶴子も矢代の傍の草の上へ長くなった。
「ほんとにこの森、魔の森だわ。馬鹿に出来ないのね。」
「ストライキのお蔭で今日は飛んだ目に会わされてばかりだ。この調子だとまだ何か今日はあるかもしれないぞ。」
煙草を出して矢代は千鶴子に一本すすめ、梢の上を流れる雲に見入った。風に揺れている梢からもれた日光が倒れた草にあたっていた。鶯がまだここでもしきりに鳴きつづけたが、もうあたりに花は一つも見えなかった。どこか向うの草の底から低い欠伸が聞えた。あたりに少しも人の気がないように見えていながら、実はここはそうではなく、到るところにいるらしい。まもなく低く音読するフランス語が欠伸とは違う方向の草の中から聞えて来た。大きな声で話していた矢代も急に客間へ出されたように声をひそめた。
「これや、蕨の原っぱどころじゃないぞ。あちこちにいるんだ。」
「そうらしいわね。」
下手な手つきで煙草を吸っていた千鶴子は、突然そのとき俯向いたまま苦しげに咳き込んだ。驚いて矢代は見ると、千鶴子の吐きつけた煙が地肌にこもって、あたりの草の複雑さに応じつつ下からゆるやかに跳ねのぼって来た。
「横着をするもんじゃないわ。おお、苦しい。」
涙を泛べてまだ咳きつづけている千鶴子の耳の縁に、赤い斑点のある丸い小虫が這っていた。矢代は虫を払い落して軽く千鶴子の背を叩いた。咳き熄んだ千鶴子と矢代はもう黙った。微風が吹くと森の木の香が新しく蘇った。胸が草で冷めたい。千鶴子は延ばした腕に頬をつけ、草の根をむしりながら低い声でパリの屋根の下を口誦んだ。
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かんてぃるゆうぶぁんたん
さびぃえいゆままん
るぃでぃったんじゅうるたんどるまん
だんのうとるろっじゅまん
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矢代は自分の吐いた煙の輪が灌木の間を廻っているのを眺めていると、どこかで樹を折る音がした。ひと節唄ってから千鶴子はまた黙り込んでいたが、
「ピエールさんね、日本へいらっしゃるんですって、日本が好きなのよあの方。」
と云って矢代の手の甲へ草の茎を真直ぐに刺した。
「君の後を追って行くんですか。」
「そんなんじゃないわ。」
「しかし、それや、怪しい。」
矢代は笑いながら千鶴子の手の上へいまいましそうに土をかけた。
「日本の婦人は優しくって、理窟を云わないのがいいんですってよ。あたし、やさしくも何もしないのに、そんなに仰言るの。」
「分らないぞ日本の婦人は。やさしそうに見せかけて凄いのがいるからな。」
あらひどいひどいと云いつつ、千鶴子は半身を起して矢代の腕を揺り動した。矢代は横に草の上を転げた瞬間ふと強い土の匂いを嗅いだ。思わず転げ停るとそのまま彼は、胸を締めつけられたようにじっとしていて云った。
「これや懐しい匂いだ。久しぶりだな。一寸この土の匂いを嗅いでごらんなさいよ。」
矢代は無理に千鶴子をひき据えるようにして土の上へ頭をつけさせた。千鶴子も俯伏せになっていたが黙って何も云わなかった。
「ああ日本へ帰りたい。この匂いだけを忘れちゃ駄目だ。」
こう矢代はひとり呟きながら膝を揃えてまた匂いを嗅いだ。頭の心が急に突きぬかれていくような酸素の匂いで粛然とした気持ちが暫く二人を捕えて放さなかった。
着替える真紀子を待って久慈がホテルを出たころは、もう正午近かった。道路に開いたマンホールからむっと生温い炭酸瓦斯が顔にあたった。歩く足もとの壁の空気抜きからも、地下室の冷たい風が不意に吹き上って来たりした。
食事場へ行くのに久慈は裏路を選んだので、日光のあまり射さぬ傾いた石壁の間の通りは、駄馬の蹄の音がかたかたと強く響いた。売れ残った青物の萎びたのが荷車の上で崩れている。
久慈も真紀子も、昨夜はどこへ行ったかなどと訊く詮索癖など、いつの間にかなくなってしまっていた。互に心に想うことは、まるで別のことだという一点だけ知り合っている二人のように、何か足もせかせかと早まって動いてゆくのだった。
剥げ落ちた壁の向うから羽根まで黒い雀が飛び立った。その後に、火の消えた瓦斯灯と枝を刈り落した坊主の樹が立っている。久慈は鋪石の上へゴム管から水の流れ出ているのを飛び越え、ずるりと靴の辷るのを危く踏みこたえたとき、初めて真紀子を見て笑った。
「辷るよ、そこ。」
「そう。」
二人は機嫌が悪いのでもない。どちらか物いう方が負けだと思う気ぐらいが、理由もなくただ神経に映り合っているだけだったが、なぜまた御機嫌を取り合わねばならぬのか考えればいまいましく思う今日の二人だった。
「昨夜、高さんに会ったんだってね。」
と久慈は真紀子を振り向いて訊ねた。
「ええ、オペラで会ったの。」
「踊りに行ったんだって?」
「ええ、モンマルトルへ行ったの。」
隠すかと思いのほか意外に真紀子ははきはきと答えるので、少し閊えていた久慈も急にほぐれ始めて元気になって来るのだった。
「高さん、遊びに来ないかな。いろいろ、中国のこと、訊いてみたいことも、あるんだが。呼びなさいよ。」
「いつでも来るわ。あの人、お呼びしてもいいなら、電話をかけてよ。」
「じゃ、頼もう。」
真紀子と高との間で、昨夜どのような事があったのかもう久慈は考えるのはうとましかった。壁に蔦の巻き絡んだ家の角を曲ったとき涼しい風が吹いて来た。すると、その風の中から出て来たようにカメラを下げた塩野が向うから歩いて来た。いつも日本人の行く所は定っているので、会い始めると日に二度三度と会うことはここでは珍しいことではなかった。
「しばらく。」
久慈はとかく紳士を気取りがちな十六区の日本人とは放れていたが、この塩野には特に十六区の臭いがなく、礼儀だけは正しいので彼は好んでよく遊んだ。
「写真を撮ろうと思ってぶらぶらしてるんだが、どこもお茶を飲ましてくれない。このへんにどっかないかな。」
「じゃ、いよいよやったな。ドミニックへ行こう。あそこなら大丈夫だ。」
久慈は近くの白系露人の経営しているドミニックの方へ歩いた。そこは帝政時代の伯爵一家の店だったが、スープが美味くて安いので、金が無くなると久慈たちのよく行く家である。
「通りはどこもみな休んでるの。」
「すっかり閉店だ。これからノートル・ダムへ行って、あそこを今日は一日がかりで撮ろうと思ってるんだ。」
写真専門の塩野は、ノートル・ダムに全精力を打ちあげていることを前から久慈は聞いていた。ドミニックへ行くと食事場に困ったものと見えて、もう東野の退屈そうな後姿が腰かけていた。久しぶりの敵の姿を見つけたように久慈は後ろから東野の肩を打った。東野は振り仰ぐと、「やア。」とも云わず、にたりと笑ったまま黙っていた。塩野は久慈よりも東野との方が前からの交際であったから、真紀子だけ久慈は東野に紹介しかけたとき、ふと塩野も真紀子と初めてのことに気づいて彼にも紹介した。
四人は細長い食台に一列に並んでそれぞれ食べたいものを註文した。見渡したところ、いつもとこの料理店は違わず働いていたが、窓の外いちめんの左翼の大海嘯のまっ只中に突き立っているさまは、ただのありふれた日常の生活ではなかった。いつも黙黙とした品位のある老齢の伯爵夫人は、カウンタアの所に坐ったまま笑顔を人に見せず、また誰とも話をしなかった。頭の上に帝政復興の寄附金を集める箱が傾いてかかっている下で、ボーイの立ち働く姿を見ながら、少しでも使用人の袖口から襯衣が出すぎているのを見附けると、夫人は黙って指差して直させた。使用人の中のロシア革命を見て来たものたちは忠実に働いたが、パリの風に馴染んだまだ若いものたちは、一家の裾を濡らすように下から上へと色を変えた。
あるとき、ここに使われていた二十二三のボーイで、反抗して家を飛び出て他家へ入ったのが、突然この店へお客となって現れ、
「おい、スープをくれ。」
と昂然とした元気で命じたことがあった。命じられた方は初めはにやにやしながらスープを出さなかった。
「おい、スープ出せ。」とまた青年は命じた。
前には自分の下だった男ながらも今はお客だから仕方なく店の者はスープを出したが、沢山の使用人らは動きを停めて一斉にその青年を見詰めていた。ある者は怒ったような眼をし、ある者は羨望の表情をしていたのを久慈は記憶している。
一列に並んでいる久慈や塩野は店が店であるだけに、外で暴れ廻っている左翼の風波については話さなかったが、次第に傾きかかろうとしているこの一家の静けさが、使用人たちの云うに云われぬとぼけた顔色に顕れているのを誰も見逃しはしなかった。
「それはそうと、日本と中国の問題、大使館の方はどんな観測かね。」
と久慈は塩野に訊ねた。
「それが油断がならぬらしいんだ。もっとも僕はただ手伝いだけだから、委しいことは知らないんだが、だんだん険悪になるばかりらしいんだ。とにかく、遠からず始まることだけは確かだろうな。」
「しかし、こっちだって相当に危いね。この模様じゃ。」
「そうだ。どっちが先きかというところをお互に知ってるから、これで案外自重はするだろうが、しかし、戦争が起ったら、僕は写真師だから、誰より真っ先に飛行機に乗せられて戦場へやられる。そのときは、諸君より一足お先に僕は失礼するよ。」
こう云って塩野は敬礼の真似をしながら快活に笑った。久慈は塩野のその覚悟の美しさに瞬間はッとなったが、事態はそこまで自分にも迫って来ているのかと思い吐息をつくと、しばらく黙って赤蕪を噛っていた。
「吾人は須らく現代を超越すべし、というわけにはいかんのかね。ここの家みたいに。」
久慈のこう云うのに突然横から東野は頓狂に笑い出した。
「それや真面目だよ。久慈君、寄附金の箱があそこに下ってるじゃないか。」
「いや、あれは空だ。」
「しかし、横になってるぞ。」
またどっと四人は笑ったとき、その笑い声の中で久慈だけ誰よりさきに暗い表情に変っていった。
「東野さん、あなたはこの間から、僕ばかりやっつけるが、どうしてそんなに僕が気に食わぬのです。」
と久慈は東野の方へ向き変って詰問の調子だった。
「それや、君があんまり現代を超越しないからさ。」
「いや、もっと大真面目な話でですよ。」
なるだけ争いを避けるつもりで云ったにも拘らず、久慈の言葉は強かった。
「冗談じゃない。日本人は誰だって、一度は現代を超越してしまったのが伝統なんだから、僕の云うのが冗談に見えるんだ。」
「それやそうだ。超越してから後の問題が、僕ら日本人の問題だ。」
と塩野はもう笑わず、心にかかっていた疑点を晴らしたらしい口振りでスープを飲んだ。
「しかし、現実じゃ、僕らはそう無暗と超越するわけにはゆかんですよ。そこが苦しみという奴じゃないか。」
塩野の方へ向き返った久慈は、一層強い調子になってスプーンを振り振り、
「そうでしょう。日本人の伝統が、かりに現実を超越したものだとしたって、西洋から這入って来たものが超越したものじゃないなら、僕らは知らぬ顔の半兵衛出来ますかね。出来なけれや。どっちもの最小公約数というものは、大切にしなきゃならん。これを大切にせずに、僕ら近代人に何んの誇りがあるというのだ。何んの意義があるというのだ。」
「しかし、最小公約数の単位は一だ。一の質がどこだって違ったらどうする。」
東野は塩野へ詰めよった久慈の質問を横取りして云った。すると、久慈はもう何もかも忘れたように前のめりになって上気しながら、また東野の方へ向き返った。
「一の違う筈がない。一が違えばここから出て来る抽象性というものは皆違う。それなら世界は成り立たん。一とは自我だ。自我を信用せずに、何をいったい僕ら信用するのだ。」
「君は自我より一の方を信用してるのだよ。もし自我を真に君が信用するなら、日本人という自分を信用するに定っているのだ。ところが君は、日本人を信用したことがない。公約数ばかしを信用して、それが自我だと思っている。そんなら、君の自我はどうしたんだ。君の中の日本人はどうしたのだ。」
「僕は日本人ならこそ一を信用するのだ。一に信頼を置かぬ日本人なんか、日本人じゃない。」
「そんなら、一と一とよせるとなぜ二になるのだ。」
いつもの東野の癖の突然飛び越した質問に、久慈は彼の顔を見たまま暫く答えることが出来なかったが、にやりと笑うと、
「何んだそれや。」と呟いた。
「何んでもないさ。尋常一年生だって出来ることだ。一と一とよせるとどうして二になるのかというんだよ。二にするものが君の中にあるだろう。その、するものが自我じゃないか。これは一でもなければ二でもない。子供だけは欲しいというものだ。」
「そんなもんいらんよ。」
馬鹿馬鹿しさに久慈は大きな声を出して笑いながら椅子の後へ反り返った。東野は久慈の大口開いて笑っている顔を見ると、
「何んだ。朝帰りが戸袋蹴ってるみたいな声出すな。」と云って笑った。
「ふん、猫がいくらガラス箱へ爪立てたって、駄目だよ。」
「おい、勘定。」
塩野はもうその場に耐えかねたらしく財布を出して立ち上った。そして、自分の金だけ払って外へ出ていこうとする後から、
「おい、塩野君、塩野君、一寸待ちなさいよ。」
と久慈に呼びとめられた。しかし、塩野は、
「ノートル・ダムだよ。後からでも来なさい。」
と云って戸口から遠ざかった。久慈は自分も勘定を払って真紀子に、
「ノートル・ダムへ行こう。あそこの方が白系よりやいいや。」と云って東野を一人残し塩野の後から出ていった。
「よし、僕も行くぞ。」
東野も身を起して財布を出した。ロシア人のボーイたちは習い覚えた片言の日本語で、
「サヨウナラ。」
「コンニチハ。」
と一同の出て行く後姿に向って挨拶した。丁度このとき、通りを来かかった政府の罷業委員が二三の部下をつれて店の前で立ち停った。そして手帳をくっては、命令に従わぬただ一軒のこの家の窓ガラスを見ていてから組合加入の証の張りついているのを認めると、渋りきった顔のまま仕方なく店の前から立ち去った。
ルクサンブールの公園の中を突きぬけて行くうちにしきりに樹の葉が散って来た。大輪の薔薇を揺っている雀の群れのうえ高く鳶が円を描いていた。並んだ黄色い乳母車から放れた赤ん坊がよちよちした足で雀の後を追っている。久慈は東野との争いもいつの間にか忘れ肩を並べて歩いていた。ゆるやかな芝生のカーブを背にしたベンチで、まだ少年の名残りをとめた青年が美しい女学生の肩を抱き、何事かしきりに弁明をしていた。女学生は不機嫌な顔で足もとの鳩をじっと見詰めたまま返事さえしないのを、しつこく青年は繰り返して娘の心を牽きつけるのに余念がなかった。一見して久慈は、嘘を真事らしく告白している男の表情を見てとった。青年はさもくたびれたという様子でふと横を見て一服してから、また急に思い出した風にとぼけた顔でかき口説き始めた。暫くすると、まんまと娘は男の言葉に乗って身をよせかけ、どちらからともなく二人は一つにより塊った。
「ああ、不幸が一つ増したぞ。」
久慈は日本語でそう云いながらその前を通りすぎた。
「あれか。」
塩野は振り返ってベンチを見た。
「なぜあの嘘が分らんのかね。それともあれでいいのかな。」
「分ったら台なしだろ。」と東野は云った。
「そうだ。記念に一つ、写真を撮っといてやりなさいよ。」
と久慈は塩野の肩をつついて笑った。
「溜らんね、そう勘が早くちゃ。日本人は芝居が下手い筈だよ。」
塩野は笑いながら繁みの中を、ジョルジュ・サンドの彫像の方へ先に立って近よった。お下げに髪振り分けて肩に垂らしたサンドの前に、小径をへだて、猪首のスタンダアルの横顔の浮彫があった。その二人の像の間で東野は、
「これや、どっちも十九世紀初頭の猛者だったんだが、そんなら僕は一つ俳句を作ろう。」
と云って真面目に俯向きながら考え込む様子だった。久慈も東野に俳句の手ほどきを習ったこととて、ふと思わず釣り込まれて自分も句作する気が動き、そこに立ち停るのだった。
「俳句なの?」
真紀子も面白そうにサンドの彫像をあらためて眺めてから、
「この方、別れの曲でショパンとどっかへいらしたあの方でしょう。」
と東野に訊ねた。
「そうです。そのとき、こっちのスタンダアルはイタリアで領事をやっていたんですよ。」
東野はスタンダアルの彫像の丁度後ろの方に立っているフロオベルの立像の方へ近よっていくと、科学者のように威めしく跳ねた大きな髯を仰ぎつづけた。
東野は十九世紀初頭のフランスの文豪たちの、ずらりと並んだ彫像を眺めていても、別に何んの感動も顕さず、誰より先に公園の出口から出ていって、左側にある公衆便所に這入ってしまった。久慈や塩野が公園の外へ出てから暫くして、東野は便所の中から出て来た。そして、
「一つ出来たぞ。」と明るい笑顔で久慈に云った。
「僕のお師匠さん、便所の中で作るんですかね。どんなんです。」
東野は頭を一寸ひねってから、
「日の光り初夏傾けて照りわたる。」と呟いた。
「何んだそれや、お経じゃないか。」
と久慈は大きな声で笑い出した。
「ノートル・ダムへ行くのなら、お経一つぐらい唱えなさい。」
「それや、たしかにそうだ。僕の写真機は、これやお経の眼玉だからな。」
と塩野は塩野で一寸自分の手擦れて汚くなったイコンタを上げて眺めてみた。
「君にもやっぱり写真機お経に見えるのか。」
と久慈は不用意に塩野に訊ねた。
「定ってるじゃないか。やたらにこのシャッタ切れるかい。」
写真を芸術だと思わぬ久慈の口吻に、塩野はきっと対抗した気構えを見せたが、ノートル・ダムの尖塔が見え始めるとそれもすぐ忘れたらしく、サン・ミシェルの坂の方へ出ていった。通りへ出たとき真紀子は手帖と鉛筆を買いに文房具店へ這入った。塩野がノートル・ダムを撮っている間、下の庭で句会をやろうと云って久慈も手帖を一緒に買った。すると、丁度云い合せたようにその家のすぐ横の本屋の店頭高く、松尾邦之助訳の芭蕉の句集が積んであった。
「君、二百年も経つと、芭蕉もこんな所へ出るんだね。」
と東野はこれには感動した様子でその句集を手にとって眺めていた。
「ほう、サン・ミシェルのカフェーもみなストライキだな。これは驚いた。」
逆さに椅子をテーブルの上に積み上げたあたりのカフェーの蕪雑さを眺めまわして塩野は云った。ストライキの話になると、東野と久慈との間がいつも険悪になるので、久慈も遠慮をしいしい俳句の話を出す時分だと思った。しかし、話が俳句のこととなると、知るも知らぬも、どうしてこんなに皆の心がにこにこと柔ぎそめるのか、妙な日本人の体質だと久慈は今さらのように首をひねるのだった。
ノートル・ダムは坂を下ってからすぐ右手の、セーヌ河に包まれた島の中にあった。ここは先住民族のバリサイ人が棲んでいた理由で、パリの名称の起りをなすとともにまたパリ発祥の地でもある。ノートル・ダムは最初一見したときには、方形の時計台を二つ合せたような単調な姿だった。頂き近く菊花の弁を一二少くしたのと同じ紋章が、その形の単調さに威を放ち巷の塵埃をふき払う。近づくにしたがって、方形は驚くべき複雑精緻な変貌を重ねて来て、正門の扉のキリスト像、その右手の聖アンナの門扉、左手のマリヤの門と並んだ三つの門の、その真上のところ一列に、イスラエルとユダヤの諸王、二十八王の彫刻の立像がそれぞれの風姿をもって克明に浮んで来る。さらにその上の円窓に描かれたステンドグラスのロザスの美しさ、また一層上の柱列は、人体の解剖図に似た脊柱の周囲の整然たる管状の立体化となって、ノートル・ダムの怪獣を支えている。また一度び横へ廻れば、胴から延び下った両翼の姿の繊巧無類なある緊張、その優雅さ、――久慈はあらゆる運動態の原型がここに蒐ったかと思ったほど、全系列をささえた稜線の荘重で、雄勁果敢なおもむきに我を忘れて見惚れていた。
このルネッサンスに反抗したゴシックの美しさは、それはたとえば何んと云えば良いだろう。久慈は、魚の肉をしゃぶり取った骨骼の強く鋭敏な美しさを想像した。一つ間違えば、空中から落ちる鳥類のあの典雅なほどに華奢な儚ない骨をさえ聯想した。
「そうだ。たしかにこのあたりは、これは生物の骨骼をモチーフとして設計されたに相違ない。」
このように久慈はひとり呟きながら、遠ざかり、廻り、翼から胴、胴から塔へと視線を移して眺めたが、塩野がこれと取り組む願いを起したとは、相当以上の大決心にちがいないと想像された。
「ね、君、これをどこから手をつけようと云うんかね。一生かかったって、この構成の美はなかなか容易なことじゃないぞ。」
と久慈は外庭のベンチに腰かけて塩野に云った。
「僕がここを撮る気になったのは、正門の扉にキリストの浮彫があるだろう、あれが西日を横に受けて生きてるように見えたからなんだ。ソルボンヌの講義からの帰りに毎日験べたんだが、生きてるように見えるのは一日のうちで二十分ほどよりないのだね。それを撮りたいのが病みつきで、全体の新しいカメラアングルの美を何んとか一つ、再現してみたいと発心したんだが、どうもそれがね。」
塩野はベンチに並んでいる東野と久慈と真紀子の前に突き立ったまま、さっそく撮りにかかろうともせず、もう幾十回となく手がけたこの寺院の陰翳を微笑のまま見上げていた。東野と久慈は隣り合せに腰かけているものの、どちらか一つ感想を口に出せば、忽ち意見の衝突で捻じ合う危惧を感じ、顔を合さず黙っていた。無数の鳩が羽音の旋風をたてて廻っているのを、その方向に真紀子は顔を向けつつ句をひとり考えているらしかった。
「どうです東野さん。俳句でも作りましょうや。」と久慈は云った。
「まア待ちなさい。この建物、見れば見るほど俳句に似て見えて来るんだ。妙なものだなア。」
と東野は足を組み替えてまた仰いだ。久慈はにやりとしながら、
「これが蛙飛び込む水の音かね。」と云って笑った。
「空の音だよ。僕はこれまでゴシックのお寺を沢山見て来たけれども、どれもみな垂直性ばかり重んじているのに、ここのはそんな精神の偏見がない。翅となっている斜線がそれぞれ本態から自立して横の空間の意識を満足させているよ。何んとなく、雪の結晶に似てるじゃないか。」
「あたしもさきから、日本の生花の立花と似てるように思ってましたわ。」
と真紀子は東野に云った。
「そうそう、立花とはうまいなア。あなたは俳句はお上手でしよう。やられたことがあるんですか。」
「前に少しばかり。」
と真紀子は遠慮勝ちな声で云いながらも、久慈にひやかされはすまいかと、同時にちらりと彼の方もうかがった。しかし、久慈は東野の感想が耳新らしく響いたので、ゴシックと俳句精神の似たところを、なるだけ彼から掘り出して訊いてみたいと謙遜な気持ちになるのだった。
「このお寺はいつごろの産かしら、十四世紀?」
「十三世紀だね。だからまア源平のころだろ。近代のまだ全く生じていない、西洋というものの純粋の形がこれだな。全体の精神が、空を向いている秩序で維持せられているでしょう。けれども、その秩序を造っている精神の合理性が、対象となるべき空を規定しているといっても、よくよく見ると、空から下に向って延びている非合理な必然性にまで、ちゃんと独自性と自立性とを与えているよ。あの沢山な翼の姿がそうだ。おのおのの目的の含む生命力というようなものの意志を尊重して、その非合理の秩序さえ立派に一つの理念としているのは、全くこれや素晴らしいものだと思うな。」
聞いていると、東野は自分の頭の中の構想でお寺を見ているように、久慈には思われて来るのだった。東野ともよくこの寺院について議論をしたらしい塩野は、異議ありそうに笑いながら久慈に云った。
「東野さんの説は新説だから、よく覚えときなさいよ。僕と東野さんは春のぽかぽかするころ、ここの北塔の一番上の鉛の敷いてある部屋の上で、よく寝転んで日向ぼっこしたんですよ。あのころは良かったなア。下のお堂から、弥撒のパイプオルガンが静かに響いて来るし、聖歌を枕にしてるみたいで、うっとりいい気持ちに眠くなるし、セーヌ河が真下で木の芽を吹いているしね。それやまったく、ここの塔の屋根の上は、パリ第一等の眺めだ。」
「だって、ここは国宝建築物だから撮影は禁止だろ。」
久慈は大胆な塩野にも驚いたが、また彼の苦心のほども察しられて訊ねた。
「それや参観人の通れるところだけなら、三フラン出せば撮れるんだ。それでも大部分は禁止区だから困ったのだよ。門番の婆さんに、このお寺はパリの歴史そのものみたいなものだから、各国へこの燦然たる文化の象徴物を紹介しないというのは、けしからんと云ってね、おだてたりすかしたりの最中だ。また事実そうだよ。これだけの立派なものを、隠して置く手はないからな。これで門番の婆さんと親しくなるのに、僕は来る度びに果物を届けたり、チョコレートの贈物をしたり、だいぶ無い金を使わせられた。婆さんの娘の子が肺病で入院してるもんだから、この娘にまで贈物をしなくちゃならんのだ。弱った弱った。」
「じゃ、もう随分お撮りになったんですのね。」
と真紀子は初耳のように感心して訊ねた。
「いや、外だけ二百枚ばかりです。一般の通路は平凡で、写真にならんのですよ。禁止区にばかりいい所があるもんだから、今日もこれから一つ婆さんにこっそり頼んで、裏門から中へ這入る鍵を借ろうと、実は謀らんでるところなんです。事務所へ行っても、一ぺんに断られたんですよ。婆さんもなかなか落ちん。」
「苦労だね。しかし、そいつは駄目だろ。」と久慈は云った。
「お堂の中を分らんように、お祈りしてるようなふりをして、やっと三枚とったことがあるが、何しろ暗い上に十二に絞って、四十秒の手持ちだからみな駄目さ。裏門からは婆さん十五年も門番をしていて、一度もまだ這入ったことがないのだそうな。恐らく一人も這入ったものはいないだろうと、婆さんは云うんだがね。そこを何んとかして一つと、虎視眈眈としてるんだ。」
「それや、あそこなら化物が出るぞ。」と久慈は笑って云った。
「出るかもしれんね。怪獣と棲んだ背虫男の幽霊ぐらいはいるだろうな。じゃ、一寸行ってみてくる。」
塩野の姿が門の方へ消えたとき、不可能な企てに憑かれてしまっている彼の熱心さをまた三人は笑った。
「ところで、東野さん、さっきの俳句とノートル・ダムの関係は、どうなったんですか。そこが一番聴きたい所だな。」
と久慈は半ばひやかすような口ぶりで催促した。
「ああ、それか。それはなかなか難しいぞ。このノートル・ダムはパリの伝統を代表してるものだし、俳句は日本の伝統を代表したものだからな。」
「だから真面目にあなたの解釈を聴きたいんだ。反抗はしませんよ。今日はもう柔順になる。」
「ノートル・ダムの精神はもう云っただろ。俳句精神というのも、それと似たりよったりさ。つまり、この建築の対象は空だ。しかし、俳句の対象は季節だ。季節といっても、春夏秋冬ということじゃない。それを運行させているある自然の摂理をいうので、つまり、まアこれは物と心の一致した理念であるから、神を探し求める精神の秩序ともいうべきでしょう。ここに知性の抽象性のない筈はないので、それがあればこそ、伝統を代表しているのだから、俳句は花鳥風月というような自然の具体物に心を向けるといっても、その精神は具体物を見詰めた末にそこから放れるという、客観的な分析力と綜合力がある。そんならここに初めて科学を超越した詠歎の美という抒情が生じるわけだ。しかし、抒情が生じただけではまだ完全な俳句とは云い難いので、さらに転じて、どのような人間の特質の中へも溶け込む、いわば精神の柔軟性という飛躍が必要だ。踏み込みだ。」
「おかしいな。そこが分らん。」
と久慈は呟いて俯向いた。すると、東野は、暫く久慈の顔を見詰めていてから、物も云わずいきなり久慈の足をぐっと踏みつけた。
「痛いだろ。」
「痛い。」
「つまり、そんな風なものさ、この痛み、どこより来たる。といった風な疑問に還る精神が、俳句だ。」
「禅坊主だね、あなたは。」
と久慈は云って突然空を向いてあはあはと笑い出した。丁度、こうして皆の笑っているところへ、顔を充血させた塩野が上着の下へ片手を突き込み、足もとから鳩を吹き上らせて、
「しめたッしめたッ。」
と叫びを耐えた声で馳けて来た。首でもかき取って来たような様子である。
「婆さんとうとう、貸してくれたぞ。一日千秋の想いを達した。これだ。」
塩野は人に知られぬようにあたりを見廻してから、上衣の下から大きな鍵を覗かせた。錆びの這入った、長さ五六寸もあろうと思える五本の鍵が蒲鉾《かまぼこ》板のような板の一点に、それぞれ紐で結わえつけてある。久慈は、塩野の脇腹からちらりと眼を開けたパリの歴史の首を見た思いで、瞬間ぞッと鬼気に襲われ我知らず周囲を見廻して黙った。
「今日はこれや、死にそうだ。君たちも来てくれないかな。」
興奮のため幾らか青くなって来ている塩野に、
「よし、行こう。」
と久慈は云って立ち上った。
「三時半ごろになると事務所のものがいなくなるから、そのとき注意して行けと云ってたが、もう良いだろうな。」
「見られたってかまやしないさ。キリストに君は招かれたんだよ。」
久慈は躊躇している真紀子に、
「あなたもいらっしゃいよ。千載一遇の好機だから、僕らも中で俳句を作ろう。」
「だって、恐いわ。そんな所。」
尻ごみして進まぬ真紀子の腕を久慈は捕え、塩野のあとから裏門の方へ近よった。裏口から四人は中へ這入ると掃除のしてある部屋が二つあった。そこを通りぬけて階段を一つ上った二階のところにバルコンが見えたが、そこから塩野は、角度を選んで裏口の写真を四五枚も撮った。バルコンの次ぎに大広間が拡がっている。それを横切って階段をまた昇ると初めて三階に出た。一同を喰い止めている鉄の扉のあったのもそこだった。その扉も鍵を合すと無造作に開いたので、そとへ出られるらしい気配のまま歩いているうちに、いつの間にか正面の『諸王の廊下』へ出てしまった。
「何んだ、これや俳句にも写真にもならんじゃないか。」
と久慈は云って引き返した。すると、また一つ別の鉄の扉に出くわした。これは固く錆びついていたが、力を籠めて押すとぎいぎい重い音をきしませて開いた。扉の向うは通路になっていてもうここからは暗く、石の冷たさがひやりと頬にあたって来た。塩野は、
「そろそろ怪しいぞ。」
と云いつつ首だけ突き込んでみていてからそっと中に這入った。そこも別段変った所もなかったが、通路の端の所にまた一つ扉があった。塩野は手で撫で擦りながら鍵穴を見つけた。この扉は一番固くて鍵を廻しても廻しても容易に開きそうもなかった。やむなく久慈と二人で肩を揃えうんうんと気張っているうち、ようやく幾らか開いて来た。すると塩野は悲鳴のような声で、「牢屋だ、ここは。」と云ったまま立ちすくんだ。
一層冷たくなった石壁の上の方に、横二尺縦五寸ほどの細長い窓が三つあるきりで薄暗い。染みつきそうな黴の強い臭いの襲って来る中を三二歩四人が中へ這入り込んだ。暗さで初めは分らなかったが、ふと久慈は足もとの柔らかさに俯向いて見ると、暗灰色の埃りが三寸ばかりの厚さで一面に溜っていた。
「これはどうだ。人知れぬ埃りだな。」と久慈は云った。
まったく誰からも忘れられてしまって、こうして佗しい年月の埃りを降り積らせていただけの部屋を見ると、急にどきんと胸の中で鳴り進む精神を見る思いで、陰に籠って響く自分の声にも、精霊の巻きつきそうな冷たさを久慈は感じた。歩く毎に死の臭いを吸い込むような無気味さである。前方に扉が見えていても、荒涼としたこの部屋に這入ってはもうそれ以上進む気持ちがなくなった。
「東野さん、どうです。まだだいぶあるらしいが、全部行きますか。」
と久慈は薄暗がりに浮いている東野の顔を見て訊ねた。
「君たちもう帰ってくれ給え。何んでもこの鍵全部使うと、上まで出られるようになってるんだそうだから、僕だけは一寸行って見て来る。」
塩野はそう云って次の扉をがたがた鳴らせると、これだけは鍵の用なくすぐ開いた。
外のその部屋は石牢より大きな部屋で窓もまた大きかった。ここは窓が閉め切ってあるためか埃りが少なかったが、暑さにむれた黴の臭いで重苦しく胸を押しつける空気が満ちていた。手巾の香水の匂いを振り振り後からついて来た真紀子は部屋へ這入るなり、突然久慈の肩に飛びつき、
「あッ。」
と叫んだ。一同真紀子の方を振り返ると、一隅から飛び立った蝙蝠が壁にあたってばたばたと羽音を立てていた。丁度|蝙蝠《こうもり》の突き衝っている壁の上方高く一枚の額のあるのを久慈は見つけた。暗さの中で埃を冠っているのではっきりとは見えなかったが、何んとなく聖体拝授の儀式絵らしい。
「おお、恐わ。何か出て来たんだと思ったわ。」
真紀子はまだ久慈の腕を掴んだまま青ざめて云った。
「あたし、もう帰りたいわ。何んだかぞくぞくして来るんですもの。」
「しかし、鍵はもう三つも使ったんだから、後二つでしまいだ。二つなら行ってしまおう。恐わけれやあなた僕に掴まってらっしゃいよ。」
久慈は絵の下へ近よって石のざらざらした肌に手をつき、
「どうだ一つ記念にこの額持って帰ろうかね。大司教のいたところだから、この絵必ず名人の絵に定ってるよ。」
「駄目よそんな乱暴な。」
真紀子が久慈の手を後ろへ引きつつ戻ろうとしている間にも塩野だけは、未開の境地を突進するような執拗な眼つきで、早や次の鉄の扉の鍵穴に鍵をさし込み、ひとりがちゃがちゃと鳴らせていた。しかし、その扉の固さは蹴りつづけ押しつづけても開かなかった、蝙蝠だけ扉へぶち衝る塩野の肩の鳴る音にびっくりして、皆の間を馳け廻ってはまた壁に翅をぶっつけた。いつまでも扉が開かぬと塩野と東野も束になって扉にあたった。すると、きしみながら僅に扉の開いた向うから、急にぱっと西日が眼を射した。そこは外郭だった。こちこちに固った鳩の糞が一面|堆《うずたか》く積っている。
「ほう。ビクトル・ユーゴー、ここへ来たにちがいない。背虫男の好きそうな所だなア。」
塩野は鳩の糞を靴先でつつきながら、
「しまった。懐中電灯忘れたのが、何よりの失敗だ。」
としきりに残念がりつつ、今度も真先に外郭をずっと裏口の方へ進んでいった。そのうち行く手が石の廻り階段になった。十三世紀特有の眩暈のしそうな石段は、もう烈しい腐蝕で靴をかける度びに破片がぼろぼろ崩れ落ちた。またそこは高い上の方に、小さな空気抜きの穴がところどころにあるきりなので一層暗かった。石壁を手と足とで擦り上らねばならぬ。
「しまったな。懐中電灯忘れるなんて、しまった。」
とまだそんなに口惜しがっている塩野の声が、もうよほど上の方でする。真暗なうえに真紀子を曳いて昇らねばならぬから、久慈は息苦しさにときどき立ち停った。東野は俳句の種を探しているのか、前から黙黙として一言も物を云わず、厭そうな顔をしているだけだった。空気抜きからかすかに光りの射し込んで来るところは、互の顔もおぼろに見別けられたが、暗くなって来ると真紀子は、
「恐いわ、恐いわ。」
と云って久慈から放れなかった。手探りで廻り昇るため方向の変り日毎に二人は突き衝ってばかりいた。石の古さの発散させる強烈な酸性の臭いに充ちた闇の中では、うっすらと汗を含んで蠢めく真紀子の体の温みは、死を貫きのぼって来る生き物の真っ赤な美しさに感じられた。
「どこまで昇ったらいいんだ。まだか。」
と久慈は上を仰いで塩野に訊ねた。そんなに訊ねている間にも真紀子と久慈の昇る力が喰い違った。二人が蹌踉めいて壁に衝きあたるときにも、脆い石の肌がぼろぼろ首筋へこぼれ落ちた。
「まるでこれや、歴史みたいだな。」
と久慈は闇の中で呟いて笑った。
「だって、恐いのよ。あなた見えて? あたしちっとも見えない。」
上では昇りつめたらしい塩野がもう扉にぶち衝っている音がしていた。五つ目の最後の鍵を廻す音も同時に聞えた。
「早く来てくれエ。固い固い。錆びてやがる。」
塩野はそんなに云いながらまたどすんどすんと体当りをしつづけた。皆が上へ昇り着いたとき塩野はいら立たしそうな声で、
「どの鍵も合わん。ちぇッ。」
と云って、滅茶苦茶にがちゃがちゃと鍵を廻してはまた別のを嵌めてみた。
「駄目かな、これや。」
下唇を噛んだまま手を休めて暫く扉を無念そうに仰いでいてから、彼はまた狂ったように扉に突き衝った。すると、永らく風雨に閉じ詰っていた扉は下に鮮やかな新しい条目を印けて開いた。初めて生きた気流に触れた爽爽しさで外郭へ立って見ると、ここは丁度御堂の真上の屋根のうえで鐘楼の下であった。怪獣が欄干のいたる所にたかっている。馬、熊、鳥、兎、鹿などの変態が、戯れた鬼のような容子で、のどかにパリの街を見降ろしながら遊んでいる。
「ここへ来たものは、パリの人間でも恐らく一人もいないだろうな。」
塩野は願いのかなった喜ばしさに上気して云うと、種材に溢れたあたりの風景の角度を早や急がしそうに見詰め始めた。どの怪獣も欄干や石柱と同じく、朽ちそうな黝ずんだ色に苔まで生えている。剥げ落ちたところもあれば、おびただしい鳩の糞で形の不明になった怪獣もあった。
「もうこれや、考えていられないや。」
と云うと、塩野はイコンタのシャッタを矢鱈にぱちぱちと切り放した。それもあちらこちらと誰かに追われているような風で、気もそぞろにもう後の三人のいるのも知らぬげだった。
「さア、僕らも俳句だ。」
と東野も云って裏口の方へ廻っていった。久慈は塩野や東野のようにそんなに熱心になる芸術心は何もなかった。むしろ、こうしてぼんやり街を見降ろしている方に興味があったが、しかし、二人のように夢中になれる何物か自分もほしいと羨ましく思い、また、何んとなく二人の様子を馬鹿馬鹿しくも思ったりしつつもその間に挟まって、取り残されたような脂っ濃い自分と真紀子が淋しくも感じられて来るのだった。真紀子は夕暮に近づいたパリの景色を眺めながらも、もう久慈から放れることが出来ないらしかった。
「ね、これであたしたちのいるここ、どれほどの高さかしら。」
こんなに訊ねる彼女の眼も、階段を昇った興奮の記憶がまだ影をひき美しく冴えていた。
「あの鐘楼の高さが六十八米あるというんです。ここのお寺はこれで、東京の日本橋みたいにフランス全部の道路の中心標示になっていて、この下の礎を初めて置いたのはモーリス・ド・スリイ司教というんだそうだ。正面だけ造るのにこれで六十年もかかったというんですよ。」
久慈は足もとを二方から巻き包んだセーヌ河の流れや、その両側のパリの起伏を見降ろしつつ、いつの間にか欄干に両手をついた怪獣と同じ姿勢でいる自分に苦笑するのだった。まことにこの下の街街に荒れ狂っている左翼と右翼のさまを、こうして怪獣の姿で眺めていると、世放れのした気持ちが乗り移り、自然に顔の筋肉も妙に歪むのが感じられた。
「うむ。分るぞ。お前さん。」
久慈は親しくそう呟きたくなったが、ふと、それより分らぬのは横にいる真紀子と自分の明日からだと思った。とにかく、もうこれは危険な線を飛び越してしまっている二人だった。北塔の方から群落して来た鳩の風が弧線を描いて怪獣の中へ流れ込んだ。と思うと再び、真紀子の首をかすめんばかりに舞い群がって夕日の方へ飛び立ち、ぐるりとまた廻って北塔の方へ散ってゆく。
「あら、塩野さん危い、あんなとこ撮ってらっしゃるわ。」
真紀子に云われて久慈は見ると、塩野は裏口の方の脆い石の欄干から倒れんばかりに身を乗り出し、眼もくらむ真下の通りへカメラを向けていた。
「あの人、どうも今日は気違いだね。足を掴んでてやらないと、落っこちるぞ。」
と云って、久慈は塩野の方へ急いで歩いていった。
「もうこれや、フィルムが無くなりそうだ。困ったなア。」
塩野は久慈を見て一寸笑ってからまた欄干の上へ飛び移って、怪獣の頭の上に留っている鳩を狙った。久慈と真紀子は鳩を逃がさぬように動き停った。
「足でも持とうか。風化してるからごろっといくぞ。」
「そうだな。もう二度とここへは来れないんだと思うと、はらはらしてね。この怪獣だって、後ろから撮った写真は世界に一枚もないんだから、面白くてたまらないんだ。」
久慈は塩野のバンドを掴んで彼の写真の角度を一緒にすかしてみたりした。絞り十二で五十分の一である。怪獣を撮り終えた塩野は、次に御堂の屋根の中央の所で高く屹立している尖塔の頂きを狙いにいった。ぶつぶつと無数の疣を附けた槍のような鋭い先端に、金色の十字架が夕栄えの光りを受けて輝いている。その十字架を捧げた附け根の所に一つ小さな円球があるが、塩野はそれを指差して云った。
「あの円い中にね、キリストが十字架にかかったとき使った本物の十字架の一片と、茨の冠の本物の切れ端が封じ込んであるんだそうだよ。これを最後にしたいんだが、あの十字架のところへ、うまい具合に白い雲が一つ来てくれんと勿体ないね。どうかな。」
「そんなこと考える方が勿体ないや、撮れればいいさ。」と久慈は云った。
「よし、じゃ、撮ろう。」
塩野は暫く黙祷していてからぱちりとシャッタを切った。間もなく涙が塩野の眼から滴って来るのを久慈は見た。久慈は全く不意に感動を覚えて夕日の方を向いたまま無意味に歩いた。自分も何かしたい、こうしてはいられない。――久慈はこう思うと、ふとぜひ今夜でも真紀子に高有明を紹介して貰わねばならぬと決心するのだった。
三階の真紀子の部屋は天井も高く周囲の物音も聞えなかった。蜂の巣のように中に無数の内房を包んで連った建物の、その中の一つのこの部屋から外を見ると、空は少しも見えずただあたり一角の裏窓ばかり見られたが、この夜はその窓も閉っていた。久慈のホテルの部屋にバスのないのを知っている真紀子は、彼にバスはどうかとすすめたので、彼はそれにも這人って出て来たばかりで、まだ濡れた頭髪も掻きあげたままだった。
真紀子は彼の次に自分の這入る湯を入れ替える間、久慈とテーブルに向き合い流れ落ちる湯の音に、ときどき聞き耳を立てていた。手首のところに少し人より目立つ初毛の延びたのが、灯影を受けた白い肌のうえで斜めに先を揃えて見える。一重瞼にうっすら影のさしている眼もとに勝気な鋭さの出ているのも、それも動かぬときには、心の流れを他人に知られぬ涼しさだった。
椅子にもたれて煙草をうまそうに吹かせていても、久慈は東野との昼間の言葉のやり取りから吹き上って来る聯想にまだ悩まされて困った。
「どうも分らん。ノートル・ダムを見てから、頭がへんになった。」
とこう不意に云って久慈はまた壁の花模様に眼を上げた。
「何が分らないの? 俳句?」
「分らんことばかりになって来た。分っていた筈だったんだがなア。みな分っていたんだ。」
「そんなに自分を失ったの。それは困るわね。」
真紀子は云い捨てるようにして立ち、バスルームのドアを一寸開けて見た。そして、久慈の後ろに廻ってから寝台の上へ上衣を脱ぎ、
「ちょっと失礼しましてよ。ここの中で衣物脱げないの。暫くこちらを見ないでね。」
と云いつつシュミーズのままバスルームへ這入っていった。今まで気づかずにいたのに真紀子にそう云われて、初めて匂って来る空気に久慈のいろいろの考えも朧ろに途絶えてしまった。花瓶にさしてある薔薇のあたりから、身動きするごとにかすかに匂いを嗅ぐのも今に限ったことではなかったが、この夜は特に、何かの約束を強いられているように強く真紀子の匂いを久慈は感じるのだった。
「分らなくなったところへ、これか。」
とこう久慈は呟いて笑った。しかし、そのとき同時に、彼は何もかも分らなくなったとてどこ一つ困ってもいない自分に気がついた。
「そうだ、分らなくたって、何も困らんというのは、これやいったい何んだ。何かここになければならぬじゃないか。そんなら、そ奴はいったい何ものだ。」
がちりと頭の中で石が音を立てたように久慈の表情は無くなった。
「自分を失ったの、それは困るわね。」
とこう云い捨てて浴室へ這入った真紀子の言葉が、突然謎めいた色となって久慈に響き戻って来るのを、「何をッ。」とまた久慈は微笑しながら頭の髪を引っ張りつづけた。
東野や矢代が絶えず攻撃して来る独自性のない自分の欠点や痛さを、全く違った角度から今また真紀子に突かれたように感じつつも、彼はまだ降参出来ぬある観念に獅噛みつづけ、寝台の上の真紀子の服をちらりと眺めた。
「俺の考えているものは、女のことでもなければ、自分のことでもない。まして他人のことなんかじゃ無論ない。分らんのはそ奴なんだ。そ奴が良いものか悪いものか、それも知らぬ。しかし、そんな不必要なことを俺に考えさすというのは、それや何んだ。」
久慈は頭を椅子の背に倚らせて眼を細め、脱けきれぬ念いを追いつめてゆくうちに、ふと浴室から響いて来る水の流れの音に気をとられた。真紀子は湯から出たのだろうか、這入ったのだろうか。――久慈はさきほどちらりと見た真紀子の手首の長い初毛を思い出した。思いにつれて、ある春の日、箱根の浴槽で自分の横に浸った芸者らしい婦人の堂堂とした白い肌が、水面へ浸る毎に、総立ち上った長い初毛のそれぞれの先端からぶつぶつと細かい無数の水泡を浮きのぼらせていた壮観さが、瞬間浴槽の中の真紀子の姿となり代って浮かんで来るのだった。
久慈はやがて自分の身の危くなるのも知らぬげに、こうして楽しみ深い幸福に身を任せているのも、ここには恐るべき何ものもないからだと思った。しかし、なぜ真紀子の身体が自分をこんなに牽きつけるのであろう。――久慈は昼間あれほど高有明に会おうと決心していたことも、いつの間にかその考えも消えている自分だと思った。けれども、これも真紀子が電話をかけておいたからには、必ず会うだろうとだけは思い、会って何になるのか分らなかったが、会ったそれだけ何事か起るにちがいないとは漠然と感じられた。
「面白いのはそれだ。何が起るか分らんということだけだ。」
久慈はそんなに思いながら煙草を吹かしているうちに、ふとまた突然、真紀子は高を愛しているのではなかろうかという疑いが起って来るのだった。もし事実そうだったら、あちらを向きこちらを向くどこに信を置くべきか。――しかし、ただ束の間の幸福を逃さぬため、こうして全網を張りわたして待ち伏せている緊張にも、何んとなく投げ出した手のようなのびやかさを感じた。そのとき浴室のドアが開いた。
「すみませんが、そこのテーブルの上のハンドバッグね、それとって下さらない。忘れたの。」
ぱっとまばゆく一瞬の光りを背に、真紀子の顔が湯気を立てて覗いている。ゆるやかに綾を描いて喰み出る湯気の方へ彼は近よった。ハンドバッグを受けとる腕が浴室の腕のようにしなやかに延び、たちまちまたぴたりと戸を閉めた。貝殻の中で伸縮をつづけている柔軟繊細な貝類の世界を見る思いで、久慈はしばらく浴室の戸を眺めていたが、ふとノートル・ダムの石室の中を蠢めきのぼった真紀子の汗ばんだ体の触感も思い出され、今日一日のこの疲れも何か正当な受けつぐべきことを受け継いだ、柔らかな連鎖のその一鎖りだったと思った。
「そんならその貫いてゆくものの中で変らぬ唯一のものとは何んだろう。これこそ変らず滅びない念いというものは何んだったのだろう。」
人目のない浴室で延びやかに立っている真紀子は、恐らくいま鏡の前で化粧をしているときだろう。しかしそれもこれも滅びぬものに較べれば皆夢のようなものかも知れぬ。――
久慈はノートル・ダムの怪獣の空とぼけた笑顔がまたも眼に泛んだ。あの高い所で世紀から世紀へぼろぼろに朽ちそうな肌を笑わせている顔を、矢代に一度見せてやりたかったと彼は思い、そうだ矢代に電話をかけてやろうと思ったが、彼も定めし夢のようなことをしているときだろうと思うと、それも今はやめたくなるのだった。
久慈は時計を見た。十時だった。もう十時なら日本では今正午ごろである。もうやがて眠ろうというのに向うはお昼か。――母親がお茶を立てながら俺に陰膳を供えていてくれるころだ。
ふとそう思うと、久慈ははたとそこで考えが停ってしまった。真紀子もいつかは誰かの母になる人だと思ったのである。何んとなく一番に平凡な考えばかりに突きあたっては戸迷いする自分の精神を、またも幾度となくそのままにさせつづけている自分だと久慈は思い、所詮はこんなところから、訳もなくふらりと真紀子と結婚してしまうのにちがいないとも思われて来るのだった。
しかし、もし真紀子に自分の子供が生れたとすると、何んと自分は冷たい心を持った父親だろう。――
久慈は自分の父を考え、父も今の自分のように人間以外のことに気を奪われていたときもあったかもしれぬと思った。しかし、何んとそれは冷たい心だろう。これは本当か。いや、それも嘘かも知れぬ。
何んでも良い。――よしッ、それでは俺は高有明に会おう。もし真紀子と結婚しなければならぬなら、それもしよう。
真紀子がいつの間に着替えたのかイヴニングで浴室から出て来たのはそれから間もなくだった。
「ノートル・ダムの埃りなかなか落ちないのね。古いからかしら。」
「何しろ七百年の埃りだからな。もう埃りじゃない幽霊だ。」
「でも、あの蝙蝠が顔にあたったときは怖かったわ。ほんとにあたしびっくりした。」
湯上りの真紀子は洋服箪笥の姿見の前に立って髪を直し、それから久慈の傍の椅子へ坐った。久慈は何んとも知れぬ圧迫に似た重い歩みの時間を感じ、ふとそれが通りぬけると急に湯疲れの口淋しい退屈さを覚えた。思わず立ち上ると彼は髪を解きつけた浴室の真紀子の櫛を探しにいった。まだ浴室には匂いの籠った空気がいっぱいに満ちていた。彼は手首と頬とにべったりねばる暖い空気に辟易してすぐ浴室から出て来た。しかし、こんなに婦人の部屋のどこへでも無遠慮に踏み込んで行くことの出来るのも、来た船中のときから一緒だった気軽さのためとも思った。それにしても、その気軽さが却って二人の間をそれ以上の親密さに引き入れぬ妨げともなっているのは、今まで知らなかった互の隙のように思われて来るのだった。
「どうもこの部屋へ来ると、自分の部屋のような気がして困るな。まだこれや、僕たち旅心がぬけないんだね。」
「あたしもそうなの。他人の部屋と自分の部屋と同じように見えるのよ。でも、何んだかこんなの淋しいわね。」
「どっかそのうち旅行に行こう。セヴィラかトレドの方へ一度行きたいんだが。――」
真紀子は眉を上げた。
「セヴィラがいいわ。ね、行きましようよ。あたし、明日からでもいいわ。」
「クックで験べておこう。行くのならイタリアへでもいいが、とにかくパリ祭がすんでからだ。」
久慈はこう云って立ち上ると、何んの意味ともなく花瓶の薔薇の方へ近よっていって頭を跼めた。一度前に彼はこのような同じ動作をして薔薇をち切り、フランス流に語学教師のアンリエットの胸にさしたことがある。アンリエットは日本人専門の案内人もかねていたから、職業上間もなく次ぎから次ぎへと生徒を替え、今は久慈とも放れていたが、ときどき手紙だけは旅行先から来た。今も久慈はそのときのように薔薇を折って真紀子の胸へさしてやろうと思ったが、それも気がさして思いとまった。異国人には何気なく云える、「君は綺麗だ。」とか、「僕は好きだ。」というような言葉にしても、さて日本の婦人に向っては嘘だけ急に飛び出て眼立つのだった。そうかといって、別に久慈は心の表現に困っているわけではなかった。
真紀子はとくからもう久慈の気持ちを察しているらしく、落ちつかなげにあたりを廻っている彼の挙動を見ても、さも知らぬふりで少し俯向き加減なのどかな様子のまま爪を磨いた。
「あなたさっき、何んだか分らなくなったって仰言ってたわね。何んのことだったの。あれ?」
肩を動かさず顔だけちょっと振り向けた真紀子の眼が、ほんの瞬間のことだったがひどくなまめかしい嬌奢な視線だった。
「何んか云ったな。ときどき疲れるとあんなことがあるんだ。今まで分っていたことが、急にぴたりと停って分らなくなるんだね。頭の中の心臓が急に停ったみたいな風になって、中が空になるんだ。」
「神経衰弱ね、あなたも。」
久慈は薔薇をち切ると知らぬ気に後ろから真紀子の襟にさした。
「神経衰弱は卒業したさ。ところが、神経衰弱のも一つ奥に妙なものがあるんだ。そ奴だ。」
真紀子は顎を引き、差された薔薇を見てから、「ふふ。」と軽く笑った。
「じゃ、あなたにも上げてよ。」
真紀子は小卓の方へ立っていって薔薇を折ると、寝台の上に脱ぎ捨ててあった久慈の服の襟へ同じように差し、
「あなたもこれを着てらっしゃいよ。もうそんなに暑くないんですもの。」
と云って久慈の後ろへ廻った。云われるまま久慈は服に手を通した。
「花はいいものだな。花の嫌いなものはあるかね。」
「でも、お茶じゃあまりお花はいけないのよ。」
「お茶か。」
久慈はお茶の師匠にもなれる母のことを思い出し、よくそんなことも母は云ったと思いながら真紀子と向き合って立った。かすめ過ぎる化粧の匂いのままどちらも黙って何をするでもなく暫く立っていたが、そのうちに徐徐に顔が合った。
「一寸、矢代さん、もう帰ってらっしゃるかもしれないわ。電話かけて見ようかしら。」
あまり淡淡としすぎたほどの落ちつきで真紀子は久慈を見上げて訊ねた。久慈はそれには答えずドアの方を振り向いて見ている間に、真紀子はもう電話を矢代の部屋へかけていた。受け答えの様子では矢代は帰っているらしい。真紀子は受話器を置くと、
「いらっしゃるのよ。ここへ。」
と云ってさも何事もなかったように自分の椅子へ戻った。久慈も椅子へ腰を降ろした。真紀子は眼を細め下から覗くように首を傾けて、
「セヴィラへ行きましようね。ほんとうよ。」
「どうも、しかし、けしからんね。矢代の奴。」
と久慈は笑いながら煙草を取り出して云った。
「あ、そう、あなただけお花とってらっしゃる方がいいわ。」
真紀子が腕を伸ばそうとするのを、久慈は肩を後へ引きとめた。
「いいよ。僕だってお花ぐらい貰わなくちゃ、パリへ何しに来たんか分らない。」
「でも、何んだかおかしいわ。また上げますからとっといて下さいよ。」
真紀子は無理に久慈の襟から薔薇をむしりとると、捨て所を索すようにあたりを見廻していてから寝台の枕の傍へぽいと投げた。久慈は白い枕とシーツの間へとまった真紅の薔薇の一点を見ているうちに、何かある清らかな聖鳥を見るような思いに胸がつまって来るのだった。
「よし、分った。」
久慈は思わず膝を打って嬉しそうに天井を仰いだ。
「何に?」
不思議そうに見ている真紀子に久慈は介意《かま》わず、
「得度したぞ。ノートル・ダムのお蔭だ。」
と云ってまた薔薇の方を眺め返した。そのとき、ノックの音がしたが久慈はもうドアの方を向こうともしなかった。心はしきりに弾み上って来るのに爽やかな流れが抵抗もなく胸の底を流れつづけた。
真紀子が立っていってドアを開けたとき思いがけなく外に高が立っていた。
「あら、高さんですわ。あなた。」
と真紀子は久慈の方を振り返ってからまた高に、
「いま矢代さんがいらっしゃるっていうもんですから、矢代さんだとばかり思って――さア、どうぞ。」
久慈は高だと教えられても別に驚きもしなかった。這入って来るものがどこの国のものだって今はもう良いと思うと、淀みのない快活な心が波うって来るのを覚え、握手しながら船中以来の挨拶を高にした。長身に縞のダブルの服を着た高は、幾らか胃の窪んだような姿勢のまま眼鏡の奥で柔かに笑っていた。
「今日はノートル・ダムへ行きましてね。中へ這入ったものだから埃りだらけになりましたよ。えらい埃りだ。」
久慈は高とさし向いに坐り理由もなくいきなりからからと笑ってから、
「どうです、その後御無事ですか。」
と妙に大きな声で訊ねた。
「ええ、丈夫です。」
高は東京にいたときの日本の挨拶を思い出したと見え少し遅れてこう云ったが、どこかにまだあたりを警戒している物腰が笑顔の中に漂った。真紀子の電話したとき高は家にいなかったから、宿の者の伝言で出て来た高にちがいなかったが、ここに自分のいることも一応は知って出て来たのかどうか久慈には分らなかった。
「ゆうべ矢代があなたにお会いしたとか云ってましたから、それじゃこちらにいらっしゃるとき一度と思いまして、それでお呼び立てしたようなわけです。こちらにはお友達が多いんですか。」
「少しおります。」
高はこのような簡単な返事をするときでも、頭に閊えることが群りよるらしく、ぱッと赧らんだ顔の中から眼がきらきらと強く冴えた。
「あたしフランス語が下手なものですから、高さんにお言伝したの通じないんじゃないかと、心配しておりましたの。でも、良うござんしたわ。昨夜はいろいろ御面倒おかけしまして、――ほんとに久しぶりですのよ。あんな面白い遊びさせていただいたの。」
「僕らの踊りは下手だからな。」
と久慈は皮肉のつもりもなく云った。
「そうよ。久慈さんなんか踊りにもまだ連れてって下さらないんですもの。高さんのはそれやお上手よ。今度またお願いしますわ。あたし下手でお邪魔かしれないけど。」
こう真紀子が云っているときまたドアを叩く音がした。今度は矢代と千鶴子の二人だった。皆初めての者ではなかったので挨拶は簡単にすんだ。椅子が一つ不足していたから真紀子は浴室のを持ち出して来て自分のにあて、電話でコーヒーとウィスキーを下へ頼んだ。五人がテーブルを包み座をそれぞれに定めたとき、暫く妙に白んだ気重い沈黙がつづいたが、久慈は見事にそれも突き崩した。
「高さん、あなた覚えてらっしゃるかしら、沖さんという爺さんが僕らの船のグループにいたの。あの人先日ノルマンデイで日本へ帰ったんですが、帰るとき面白いことを云ってましたよ。僕らはヨーロッパで何をして来たかしらないけど、まア来たからには、何かの意味で遣欧使だから、まんざら役に立たぬこともあるまいというのですね。あの爺さんでもそのつもりなんですから、これで僕らも実はその気持ちにならなくちゃならんと思って、考えているんですが、どうですかね、高さん方、中国の人たちもそんな気持ちは無論お持ちでしょうね。そういう所を一つ今夜はお聞きしたいんです。」
「それはあなたがたより僕らの方がその気持ち強いと思います。」
と高は頬に片手をあてたまま腹部を椅子の背にへこませて答えた。
「それややはり、高さんは日本へ来ていらしたから、よく日本の事情を知ってらっしゃるからでしょうが、しかし、これでどちらも僕らは、難しいところへさしかかって来たものだと思いますね。随分これや難しくなりますよ。政治だけの問題じゃありませんからね。何も政治だけならそうは難しくはならないんだけれども、近代というものには、政治の中に科学という理論が混入して来ているから、――科学だ曲者は。」
「そうそう。」
と高は問題が気に入ったと云いたげに頷いた。
反対に退屈そうにしていた矢代は突然、
「むかしの遣唐使のようにはいかんか。」
と笑って久慈を見た。
「遣唐使だって君、あの時代はあの時代の仏教という論理の究明に行ったんだからね。あのときはあれがやはり科学だったんだ。」
「それやそうだ。あの時代は非合理の合理性を究明する時代だったんだが、近代は合理性以外は捨てる時代だから、東洋の近代人は皆そこでまごまごしてるんだ。非合理を捨ててしまって合理の成り立つ筈がないということを、知らない振りをするのが、学問という誇りになって来たからな。」
矢代のこう云うのに、久慈は云いたいことがもぞもぞと襲って来た。しかし、異国人の高がいるのだと気がつくとやはりその心も抑えてかかるのだった。
「しかし、君これほど進んだ近代がもう一度むかしの非合理を愛するようにはならんよ。絶対にそれや駄目だ。だから政治をどこも誤るのだ。」
「それや君の云うのは立派なものは、立派だ、と云ってるようなものだよ。そんなことを云っていて人間というものは承知出来るものじゃない。だいいち、遣唐使があれほど惨澹たる苦心をして東洋の非合理の究明に行って、それを民衆の中へ植えつけた結果が日本の文明というものになったんだろ。中国精神というものを考えたって、精はこれ神なりというような非合理の合理を根柢に認めてから、それから物や心を考える工夫に進めているよ。日本精神にしたって、これはもう人間という代名詞みたいなもので、頭は一つで眼は二つ、足が二つで手も二つ、精神は神に従うというようなものだから、遣唐使も遣欧使も僕らには必要だったんだ。」
高は矢代の言葉のままに表情を展いたり縮めたりしていたが、最後の飛躍した矢代の諧謔に会うと、声を立てずに笑っていてから云った。
「しかし、中国には近代が少いですからね。あなたのお国のように西洋をまだ採り入れておりませんから、そこが負けています。あなたのお国の方は、もうそんな必要あまりないのじゃありませんか。」
「いや、そこはまだ分らないところですよ。」
久慈の云うのをすぐ矢代は受けて云った。
「しかし、遣唐使も取り入れるものがなくなった最後のころには、みな堕落して帰って来てるね。日本というところは、そうなるとぴたりと一度蓋をしてこれを固めなくちゃすまぬところだ。日本が中で固める必要の起っているときに、中国はいよいよこれから遣欧使の必要に迫られているときだから、日本と中国との間でごたごたがつづくのだと思う。早い話がまアそう云った二国の相違というようなものを、一番よく知っていて、その差をあれこれするものがここの西洋にはあるのだ。僕らは知られているのだ。」
一同のふとまた黙ってしまったときにコーヒーとウィスキーが下から来た。真紀子は藤色の腕を延ばしそれをみなに配った。幾分とがり始めた男たちの気分もゆらめく真紀子の匂いにゆるみを帯んだ。久慈はウィスキーを取り上げようとしたときに、ふとまた真紀子の投げた枕もとの薔薇の花が眼に映った。さきほどまであれほど合理性の話に夢中になっていたときとて、その真紅の一輪を見ると、突然自分の話のひどく事物からかけ放れていたことに気がついて、ひとり悦に入っていた得度の優越した明るさも、苦笑に似た淋しさに変って来るのだった。
――しかし、合理性を信じることのどこが悪い。これで良いのだ。
とまた彼は思い直して高に対いおだやかに云った。
「日本人のインテリというのは、高さんたち中国の人人や西洋のものが思うよりも、もっと、影響や恩恵を受けたということを感謝し敬愛する風習があるのですよ。ですから日本人は中国へむかし遣唐使を派遣して、文明を日本へ取り入れたというようなことでも、歴史ではっきりこれを書いて感謝をさせることを忘れていないのですね。そこを中国のインテリは、いや自分の方は教えたのだということだけを、いつまでも忘れぬ癖がぬけないんじゃないですか。中国の歴史家は他国から受けた影響を書かない癖が、どうもあるように思われるんですがね。」
久慈の少し露骨な質問に対し高は答え難そうに笑ったまま黙っていた。
「そういうこともあるでしょうが、僕らは東京の学校で習ったのですから、やはり日本は懐しい思い出の国です。西洋で習った人もそれぞれ同じように思っていますから、帰っても、思ったことがそのまま表現出来なくなるのですよ。今はまたそれが一層僕らには難しいときですから、うっかりして日本は良いなど云ってはひどい攻撃を受けます。」
「誰かもそんなことを云ってたな。それだから日本の女は良いと云って、女だけを賞めるのだと。そんなら無事だそうだ。」
矢代の云うのに久慈は真紀子に対い、
「君、聞いた?」
とおどけた風に訊ねた。
「そういうことだけは忘れないわ。」
「女は賞めるに限るとワイルドはいうからね。ね、千鶴子さん。」
と久慈は今まで黙っていた千鶴子を前へ引き出すようにして云った。
「矢代は君のことを賞めたことがないのだが、君も少し賞めさせなくちゃ駄目だな。僕が代りにあなたを賞めてやってるようなものだから、頼りないよ。」
「まだ修養がたりないのね。あたしたち。」
と千鶴子はコーヒーを上げて応酬した。
「修養の不足は矢代の方だ。」
「君だって豪そうなことは云えないぞ。遣唐使も終りのころは堕落したからな。用心をしてくれ。」
久慈は何んとなく矢代がもう今日の自分と真紀子のことを暗に睨んでいるような錯覚に陥りかけ、また視線が自然と寝台の薔薇の方へ向きかかろうとするのだった。
「遣唐使が堕落したのは、そのころの唐が滅亡の前で頽廃していたからだろ。何も遣唐使の方に罪はないよ。」
「ところがそうとばかりは云えないのだ。何んだって唐朝唐朝で、ひどいのは日本の衣物の襟を唐流に右前に流行させたこともあるんだ。新羅の方へいっていた留学生は、これは質実に勉強したらしいんだが、唐の方へ行ったものは堕落したのが多い。子供を造っては次の遣唐使に官費を持って来させたり、身を持ち崩して唐朝の厄介になったり、いろいろしてるよ。円載なんどという坊主は、入唐僧の間でも排斥をくってお負けに帰りに沈没して溺死してる。歴史に現れている人物の名だけでも留学生は百五十一人もあるんだから、この他に三倍はあったにちがいないとして、それなら今のパリへ来るみたいに随分これで堕落して帰ったのもいるんだよ。」と矢代は暗に納めた鋒を出し始めた。
「しかし、そういうのはあながち堕落とはいえないからな。何かそれぞれこれで役に立っているんだ。ただ歴史家が堕落と見てそのように書くから、そういうのは歴史家の堕落かもしれないね。」
「とにかく、現れたままだと堕落もしたのだよ。それも堕落するだろうようにあの当時の長安はなっていて、ただ唐朝の文化だけがあったのじゃないのだね。印度や西域や波斯《ペルシャ》、それから大食《タージ》、イラン文化までずらりと長安に並んでたんだから、まるで今のパリみたいだ。ところがそのころの日本にだって、天平六年に、唐招提寺を興した鑑真などという中国の坊さんは、如宝という建築彫刻の名人の西域人や、印度人や、中国人を二十四人もつれて帰化して来たものだから、イラン文化も同時に伝ってしまったのだ。そこから見ると源氏物語が平安朝に出たなんか当然なんで、仏像にしても奈良朝の天平八年に菩提とか仏哲などという印度人が日本へ来て、イラン文化というようなヨーロッパ文化の発祥みたいなものを仏像として日本に入れてしまっているよ。だからどこの国がどこから影響を受けたなどといちいち云っていたとてきりがないので、そんなことを云い出せば、どこの国だって必ずどこかの影響なしには国は成り立ってはいないのだ。ところが、ただ僕らに一番不思議なことは、科学という合理性が文明を起してはまたそれを滅ぼして他に移っていくことだよ。三段論法は結局は人間を滅ぼすのだ。」
矢代はもう傍に高のいることも忘れたらしくだんだんと高潮した声で云った。久慈は二人の意志の擦れ違うところを感じまた乗り出した。
「つまり君は、結局非合理を人間は愛しなくちゃならんというのだね。」
「いや、人間から非合理がとれるかというのだ。とるなら取って見よというのだ。」
「じゃ、近代は間違いばかりをやってるというようなものじゃないか。君は近代の間違いばかりを指摘して、これの利益や恩恵を感じないのだ。しかし、近代はもう何んと云おうと近代に這入っているんだから、これの幸福を僕らは探さなくちゃならん。君はその不幸ばかりを探して歩いているのだ。」
「君は合理ということをそんなに尊敬するのか。」
と矢代は悲しそうな声を出した。
「するもしないもないさ。頭と合理だ。政治じゃない。」
と久慈は傲然として答えた。
「そんなら君は、ここのヨーロッパみたいに世界に戦争ばかり起すことを支持してるのだ。合理合理と追ってみたまえ、必ず戦争という政治ばかり人間はしなくちゃならんよ。それは断じてそうだ。日本は世界の平和を願うために、涙を流して戦うというようなことが、必ず近い将来にあるにちがいない。」
高がいるためでもあろうか、このように終りを戦争に結んだ矢代の眼は、きらきらと電灯に光りつつ涙のようなものを泛べていた。がっかりとした久慈は勢いを増した矢代にウィスキーを注ぎ、
「君もカソリックになって来たね。千鶴子さんに伝染ったんだろ。」と云ってひやかした。
「あら。」――千鶴子は意外なときに刺されたものだと思ったらしく眼を見張ったが、かすかに開いた唇の微笑には蔽えない嬉しさが洩れていた。久慈は千鶴子のその清潔な表情に瞬間いまいましい恨みに似た火のゆらめきを感じた。それも、もう真紀子とどうしても結婚しなければならぬのだと思うと、ますます千鶴子が惜しまれるのだった。しまった、千鶴子と結婚しとくのだったと。このように後悔する気持ちが、遽に過ぎ去った船中の思い出をも曳き出し、暫く彼は視線のやり場を失ったが、傍の真紀子にもう気兼ねもなく身体は露わにだんだん千鶴子の方へ膨れ傾いてゆくのだった。
「高さん、もっと召し上れ。昨夜はあんなに上ったじゃありませんか。」
真紀子は高のコップにウィスキーを注ぐと急に自分も高を見詰めてコップを傾けた。すすめられるままに高は黙ってウィスキーを舐めたが、矢代に、
「昨夜はあれからモンマルトルへ行ったので遅くなりました。」と突拍子もなく笑った。
アルコールの廻りも手伝い久慈は制御しきれぬ懐しさを千鶴子に感じるばかりだった。どうしてこんなに思い出が突然噴きのぼって来たものか、夜のピナンの沖に碇泊している本船へ小舟に乗って帰るときの灯火、黒い波にゆれる舷、顔に打ちあたる飛沫を手巾で拭う千鶴子の愁いげな眼――と幻のように南海の夜景が次ぎ次ぎに泛かんで消えぬ楽しみを思うにつけ、あれほど仲の良かった千鶴子とそのまま立ち切れてしまった旅の心の切れ切れな思いを、久慈は継ぎ合せてみたが、もう過去は再び戻りそうにも感じられなかった。
「どうも、おかしいぞ今夜は。酔ったのかな。」
久慈は一寸立ち上ってみた。足がふらふらして赤い絨氈が廻って見える。
「やられた。」と久慈は云ってまた坐ると高に、
「高さん、中国の人は日本人が酔うと馬鹿にするそうですが、日本人は反対ですよ。僕らはすぐ人を信用してしまう習癖があるから、酔うのも早いのです。つまり恩恵を感じると忘恩の徒にはなれないのだな。」
「君は合理主義者すぎるんだよ。」
と矢代は云って久慈のコップにまたウィスキーを注いだ。
「それやそうだ。酒を飲んで酔わないのは、不合理だ。高さん、あなたはフランスへ合理主義を習いに来たんでしょう。合理主義なら僕の味方だ。矢代はこ奴敵だからな。愛国心を履き違えているんだ。」
「馬鹿を云え。愛国心に合理の愛国心だの非合理の愛国心だのって区別あってたまるか。そんな区別をするのが、植民地の愛国心というものだ。」
「いや、合理の愛国心というものはある。これこそ新しく生じて来た近代の愛国心というものだ。これこそ新しい心の対象となるべき精神だ。」
と久慈はむっくり起き上るように背を立てて矢代の方へ詰めよった。
「愛国心に古いも新しいもあるものか。あるからあるのだ。」
「あるからあるなんて愛国心は近代のものじゃない。これを変形して工夫を加えてこそ、世界の荒波が渡れるのだ。合理主義の近代に古典主義の愛国心じゃ、生れて来る青年は皆古典になっちまう。青年を古典にしちまったら、科学も死ねば、国も死ぬ。中国と日本の友好という外交一つさえ砕けてしまう。」
猛然とした久慈の攻撃にどうしたものか矢代は意外に小さな声で云った。
「自分の心の中に人間は一つは良い所があると思ってるものだよ。それさえあれば、誰でも世界のものは、皆こんな心になってくれれば良いと願う一点があるのだ。そこから愛国心が生れるので、そんなところがら生れて来る感情に近代も古代もないよ。」
「そこじゃないか。」と久慈はテーブルを叩いた。「そこのところに生じて来る心がてんでに誤りを冒すから、これこそ間違いを冒さぬという一点を索すのが合理的なんだ。その批評精神から愛国心が起ってこそ健全というべきだ。」
「いや愛国心に理窟はない。中国のインテリの誤りは理窟で抗日抗日ということだよ、抗日抗日と云われれば、そんならよしッとこっちは肚を定める。一ヵ所で肚を定めれば、どこもかしこも戦争だ。そんなときに合理的愛国心だから人を殺さぬの、殺すのといったところで、むかしより合理的ならもっと殺す、非合理なら寛仁大度という非合理の見本みたいなもので、サイン一つでうまく片づく。とにかく僕は合理的愛国心なんて不合理も甚だしいと思うね。そのくせ誰だって愛国心だけは持っているのだ。」
「愛国心というのは人前で云っちゃ一層不合理になるばかりだから、今夜はやめよう。高さんに気の毒だよ。」
久慈は高のコップにウィスキーを満してから、「今夜はお呼び立てしといてどうも。」と矢代の失態を詫びるつもりで高の方に会釈した。
「面白かったですよ。僕らにも問題ですから、僕ももっと考えておきます。」
と高は云うと矢代の方を見て、
「矢代さんは雄弁家ですね。僕はあなたの非合理のお説もよく分りましたが、中国の一般の人間は自分に必要のないことは一切考えませんから、愛国心というものがないのですよ。それに長い間中国では軍閥というものが民心を荒しつづけましたから、これから逃げ廻ることばかり考えるのに急がしくって、愛国心からも一緒に逃げる練習も出来たのですね。日本の方では封建制度が完全に行われていたから、大名が変っても民衆は逃げる要がなかったでしょう。それが愛国心の強い原因で、また兵も強いのじゃないかと思いますね。中国はやはり、愛国心の満ちて来るまで抗日はやめられないんだと思います。」
特に深い云い方ではなかったが、しかし、高の答えは誰から聞かれていても安全な答えだと久慈は思った。それに皮肉も考えればうっすらと混じっている。
「愛国心が満ちたらなお抗日が激しくなりはしませんか。」と矢代は訊ねた。
「ところが、中国は自分から他国へ手を出すよりも、他国に自分の国を譲ることの方がむかしから上手な国ですから、やはりいつでも譲っておくだろうと思います。その方が政府は安全ですからね。」
高の言葉に第一番に声を上げて笑い出したのは真紀子だった。皆な同時に真紀子を見た。眼の縁をぽッと桜色に染めた真紀子はうるんだ瞼を眠むそうに開け、何がおかしいのかひとり倒れんばかりにげらげらと笑った。久慈は急に腹立しくなって真紀子を睨んだ。見るともなく久慈の視線を感じたらしい真紀子は彼から眼を反らし、
「だって、そんな面白いお話はないわ。おお面白い。中国は面白い国だこと。」
危くくねらせた斜めの体を、椅子の肱で支えようとしたその拍子に、片手の指に挟んだ煙草の火が、テーブルの縁に擦れぼろぼろと崩れ落ちた。
「何んです。そのざま。」
久慈は足で絨氈の上の煙草の火を踏み消して云った。
「どうして悪いの。高さんがいらしたって、いいじゃありませんか。」
「失礼じゃないか。」
「だって、ゆうべもお世話になったんだわ。ね、高さん、もっとゆうべはお世話になりましたわね。」
光って来た眼を高の方に上げた真紀子の鼻孔が大きく膨らみ、赤く濡れた唇が嘲笑を泛べて久慈に反抗するのだった。
「あなたはもう寝なさいよ。疲れが出たんだよ。」
久慈は真紀子の脇に手を入れ寝台の方へ立たせようとすると、ぐたぐたになった真紀子の身体が、突然強く緊って底から久慈を突き除けた。
「あちらへ行ってよ。あたし、高さんと議論をするのよ。あなたのなんか聞いてられない。合理だの非合理だのって、何んなのそれ。」
起き上ると、皆の眼をさもうるさげに視線を反らし、真紀子は半眼のままコップを手にとった。
「駄目だよ。馬鹿ッ。」と久慈は呶鳴りつけた。
「煙草。」
真紀子は久慈の方へ手を延ばした。真紀子のどこにこんな放埒なものが潜んでいたのかと、久慈の驚きあきれて見ている間に、高はもう煙草を真紀子の方へ出していた。
「有りがとう。」
真紀子はちょっと高に笑顔を向け、ライターを点けた彼の火の方へ跼んでから、また久慈に、
「あなたはもうお帰りになって。面白くない。煙草といえば煙草下さればいいわ。何を観察してるの。」
久慈は下顎を強く蹴りつげられたようだった。煮えたぎってくるような怒りを圧えているうちにも、ますます喰み出して来る真紀子の美しさに呼吸も荒くなり、くるりと窓の方へ向き変った。
「不合理極まるぞ。」
久慈の呟いた苦笑にどッと笑いが立ったが、すぐまたぴたりと静かになった。
「何を云ったの。何んだか云ったわね。」
真紀子は向うを向いた久慈の背を自分の方へ廻そうとして、にたりとした笑みを泛べ、彼の腕の付根を引っぱりながら、
「こっちを向きなさいよ。何も羞しい人いないわ。皆さん船の中の人たちばかりよ。ね、千鶴子さん。あのころは面白うござんしたわね。香港のロマンス・ロードで、春雨の降って来た中で、海を見てあたしたち蜜柑を食べたでしょう。あんな美味しい蜜柑って生れて初めてよ。ああ蜜柑を食べたい。――アデンも良かったわ。塩の山があって、駱駝に乗った隊商が風に吹かれていて。――ほら、あの塩の山のあるところで高さんたちの自動車と会ったじゃありませんか、あなたはヘルメットを冠って、赧い顔をして手を上げたわ。」
「くッ。」と久慈だけ低い声で笑ったが、皆の者は共通に匂う潮の香を浴びた思いで柔いだ眼になった。
久慈も千鶴子と仲良くなったのは香港あたりからだった。そのころはまだ真紀子は久慈や千鶴子とグループが違っていたので、むしろ真紀子の組と近づきだった矢代の方が、彼女の様子をよく知っているというべきだった。多分真紀子の今話した航海の思い出も、矢代にそのころの何事かを思い泛ばせようがためかもしれぬと久慈は思った。
「良い御機嫌だね。」
久慈は暫くしてからまた一座に加わった。しかし、そのとき、今までぴちぴち跳ね上るように饒舌っていた真紀子は、急にがくりと千鶴子の膝の上へ折れ崩れて泣き出した。
「あんなことはもう無いのだわ。あんなこと、みんな夢だったんだわ。」
あまり激しい真紀子の変化に誰もびっくりしている様子だったが、主人と離別して来ている淋しさの噴きこぼれた乱れであろうと、手をつかねた視線のまま蠢めく真紀子の際立った背の白さを眺めるばかりだった。
「もう眠みなさいよ。今夜はこの人疲れてるんだ。」
久慈は真紀子をひき起そうとして寄ってゆくと、気を利かした高は立ち上って帰る挨拶をみなにした。
「いいんですよ。あたし、泣いたりして御免なさい。何んでもないの。」
謝る真紀子を千鶴子と矢代は慰めながら立って帰ろうとした。真紀子はそれも引きとめたが、もう十一時を過ぎたからというので、皆はそれぞれ部屋の外へ出ていった。潮鳴りの退いたような静かな廊下に立った久慈と真紀子は、顔も見合さずまた部屋へ戻って来た。真紀子はもう久慈に物を云おうともせず寝台の上へ倒れてまた泣きつづけた。
久慈は自分のいた椅子に凭れひとりコップを舐めていたが、だんだん嗚咽の声が鎮まるにつれ、真紀子に突き刺さろうとしていた棘も朧ろに凋んでいくのを感じた。
「もう良いだろう。ここへ来なさいよ。」
と久慈は云った。真紀子は素直に起きて来ると、小娘のような初初しさで少し膨れ、久慈と並んで椅子に腰を降ろした。久慈はコップを真紀子の前に置き軽く溜息をつきながら、
「もう少し飲みなさいよ。」と云って顔を見た。
「駄目。」
久慈は残っているウィスキーをコップに二はい続けて上げると、今度は妙に調子のとれぬ頓狂な速度で急に彼に廻って来た。しかし、彼はまだ飲みつづけた。肱がテーブルから脱け落ちるのを支え直しているうちに、叫び出したいような腹立しさが昂じて来たが、それでもまだ彼は飲んだ。すると、もう何か脱れたような勢いになり、注ぐのに壜もうまくコップに当らずただかちかちと鳴るだけになって来た。
「あなたもうおよしなさいよ。駄目だわ。そんなに飲んじゃ。」
真紀子ももう真剣になってとめた。が、真紀子にとめられればとめられるほど久慈は一層やめられなかった。何んとなく腹立たしさが真紀子の物いう度びに高まって来て、もう抑えることが出来なくなった。
「みんな不合理な奴ばかりだ。何んて不合理だ。」
と久慈は云うと、くらくら廻るように見える部屋の一点を見据えて立ち上ったが、もう足がきかなかった。あたりの椅子の背を伝い寝台の傍まで行って真紀子の投げた薔薇を掴み自分の胸へ差そうとした。しかし、それもうまく差さらなかった。
「あたしが差してあげますから、じっとしてらっしゃいよ。じっと。」
真紀子が久慈の胸に薔薇を差そうとしている間、久慈は真紀子の肩を掴んで揺り動かした。
「合理がないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。ちゃんとあるよ。ここにだってあるさ。」
「そんなものありませんよ。」
真紀子は薔薇を差す真似をしてから久慈の上着を脱がし、毛布の下へ彼を寝せようとしたが、また久慈はむっくりと起きて来た。
「あるじゃないか。見えるぞ。はっきり見えて咲いてるぞ。」
「何んで馬鹿なこという人でしょう。みんな咲いてますわ。」
「ふん、不合理が咲くか。」
真紀子は別れた前の良人を扱い馴れた手つきで器用に久慈の靴を脱がし、ズボンを脱がしネクタイも手早く引き脱してから彼を寝かした。仰向きになって眼を瞑っている久慈の眼から涙がしきりに流れて来た。
真紀子は窓をあけあたりの乱れを片附けてから部屋の灯を一つずつ消した。そして、最後に枕もとのを一つ残したその傍で、前跼みに小さくなって煙草をひとり吸っていた。ときどき彼女は頭をかかえたまま身動きもしなかったが、そのうちに声を忍ばせて静かに泣き始めた。声に混じり煙草の火で頭髪の焦げ縮れる音がじじッとした。
――仕立てたばかりの格子模様の洋装で久慈の母が立っていた。久慈は母の紺色の襟飾が長く下まで垂れているのを見上げ、海軍の将校服に似ているねとひやかした。真紀子は傍から張りのある声で、
「これはあたしがお見立てしたのよ。そんなに云わないでちょうだい。」
と云いながら、またぴんぴんと母の服の裾を下へ引っぱった。
これはおかしいと久慈は思った。自分が眠っているのか眼が醒めているのかよく分らなかったが、起きているのだと思うとそのようにも思われた。すると、下にいた筈の母親が今度は二階から降りて来て、自分を呼んでいるような気持ちもするのだった。どうもそれが夢らしいようにも思われて来ると、
「馬鹿な。お母さんパリにいる筈ないや。」
とこう呟いた。それでも母は洋服の似合ったことを真紀子に賞められ、絶えず嬉しそうにそわそわとしていた。
どれほどたったか分らなかったが久慈はそのうちに眼が醒めた。咽喉がひどく渇いていたので起きて枕もとの電気をつけ、浴室へ水を飲みに立っていった。冷たい水が食道を流れ下る明瞭な重みに急に彼の眠気も醒めて来た。毛布が眠っている真紀子の曲げた膝のままに高まり、小さな黒子のある上唇がかすかに赤く跳ねて灯を受けている。彼はそれを見ていてももう一度その横に眠る気持ちは起らなかった。椅子に腰かけたまま暫くさきほどの母の夢を考えていると、今度は夢とは違い、自分の眼だけ異様にはっきり部屋の中を見ていることが、寒む寒むとした快感に似た安らかな含みに感じられて来るのだった。
久慈は真紀子を起さぬように足音を忍ばせて靴を履き、それから服を着てそっと部屋を脱け出した。ホテルの外の通りはもう一人の人影もない、全く深夜だった。狭まった高い建物の彫刻の間で早く雲が動いている。石壁に沿って宿の方へ帰ってゆく靴音も久しぶりに自分の音らしく聞えて来た。
彼は両手を振り振り危くこの自由を無くしてしまうところだったと思うと、真紀子から逃げて来た歩調が充実したものに感じ、石壁に閃めく影も主人の自分に秋波を送っているように見えて、
「よしよし。」とひとり頷いた。
ホテルの前まで来たとき、視界に誰一人もいない美しさに久慈はすぐ中へ這入る気にならず、通りのベンチに腰を降ろして煙草に火を点けた。冷えきった真直ぐな通りの両側に並んだマロニエの幹が、森森とした静けさで一点に集中していくその直線の見事さ、結晶物の光りのような瓦斯灯が夜の放射の鋭さとなって輝くその設計の巧緻さ。未来の夢が眼のあたりにつづいて青青とした呼吸をし、寒冷な人工の極地の一典型を展いて見せているような世界である。久慈はますます眼が冴えわたって来るばかりだった。
「もう俺は恋愛は出来ぬ。これは恋愛以上だ。あの恋愛のどこが面白いのだ。」
と久慈は思わず呟いた。
時計の針が真直ぐに自分の額を射し貫いて来るように、ある恐怖に似た整然たる理智の尊厳優美な冷やかさが、このようにも人間に美しく見えるとは――これは何んという奇怪さだろう。
久慈はもし自分がこの世で望むならば、これ以上の美しい恋愛の対象を望むばかりだと思った。しかし、そんなものがどこにあるだろう。あれば母親たった一人よりない。彼は悲しみを斬り落してくれた刃を見るように沁みわたって来る瓦斯の光りを仰ぎつづけた。重なり合った木の葉の細部にわたり、静かに通う一葉一葉の水流の上下も聞きとれるかと思われる瞬間の通過に、どこ一点の狂いもなく秩序は保たれつつ完璧な営みを繰りつづけているこの神秘――しかし、それもこれも皆人間の意志がしたのだった。合理を望んでやまぬ人間の智慧がしたのだ。
「しかし、合理とは何んだろう。」
もう久慈はそこまで触れると答えることが出来なかった。彼はベンチから立ち上り、マロニエの幹の下の瓦斯灯の光りの集中している一点の方へ歩いた。
「徳修まらず、学講ぜず、不善改む能わざる是れ吾憂なり。」
ふと孔子のそんな言葉が口から出て来たが彼にはそれも汚い言葉のように思われた。長い石の塀に添い樹木の幹の続いている前方の鋪道が坦坦としているにも拘らず、傾いた坂のように見える。久慈はその光線の斜角を縮めていくうちに一匹の犬が真向いの建物の下から出て来た。今まで自分ひとり美の世界だと信じていた楽しみも急に破られ、彼は近よる犬の姿を黒い毒液のような不潔な濁りに感じて見ていたが、それでも近よって来ると懐しかった。彼は蹲み込んだまま犬の下顎を撫でて、
「おい、こら。何んというんだ。」
と日本語で云った。犬は黙って首を膝へ擦りよせて舐め上ろうとするのを、彼は顔をひきつつまた同じことをフランス語で云ってみた。筋骨の見える痩せたセッタアは両足を腕にかけ眼を光らせ、日向臭い毛並みを垂れて彼を見詰めていた。前脚の蹠がぷよッと冷たく手の甲に感じるただ一疋の生物である。視界に肉眼と云えばそれよりない眼の光りに久慈も犬の首を強く抱き締めた。腕の中に皮膚をそのままにさせながらも、骨骼だけ彼の方へ延び上ろうとする犬の動きを感じると、久慈もだんだん感動を覚えなかなか放れることが出来なくなった。
「お前、毎晩ここへ来なさい。そうすると俺も来るよ。」
久慈はそう云って頭を撫でているうちにふと千鶴子のことを思い出した。行く手の鋪道を集めている広場から左に折れた所に千鶴子のホテルがあった。彼は通りから見えるその部屋の窓の下まで行きたくなってその方へ歩いていったが、犬も暫く後からついて来た。
「もう帰れよ。また明日明日。」
久慈は振り返り振り返りして犬から遠ざかった。しかし、今夜に限りどうして千鶴子の純潔さがこのように美しく見えて来たのか、考えれば不思議だった。灯の消えている千鶴子の部屋の窓が五階の上に見え始めると、胸がそわそわして来て胸を一寸揺ってみた。
「どうも変だ。こんな筈はないんだが。」
とこう彼は呟きながら下から上を仰ぎつづけた。これや恋愛じゃないか、馬鹿馬鹿しいとまた思うと、引き返そうとしたが、丁度良い具合に手ごろなベンチが広場に見附かったのでそこへ腰を降ろして煙草を吸った。窓を眺めながらも、久慈は、完全に慕い合っている矢代と千鶴子の横からこうして自分の羨望している図を思い描き、ひとり手出しの出来ぬ悔恨に淋しくなって来るのだった。
「どうもあ奴たちの恋愛は立派だ。これを壊してなるものか。」
とまた祭壇を拝むように高い窓を見詰めつづけ、いまいましい感情の鎮まるまで久慈はそこから動かなかったが、一つは、後へ引き返せば自分のホテルへは戻らず前を通りぬけて、また虎穴の真紀子のホテルへ舞い戻りそうな危険を感じたからだった。事実、深夜のベンチに坐っているこのおかしな姿も、半ばはも早や真紀子から逃れ切れない予感のためでもあり、今や沈もうとしている身にとっての一握の藁が千鶴子の窓だとは、われながら思いもかけなかったこの夜の失策だったと久慈は苦笑するのだった。
ベンチの鉄が露を噴いて冷たく背に応えて来た。久慈は真紀子の寝台の上で見た夢にもし母が顕れて来なかったら、あのとき限り自分は危なかったに相違ないと思った。
しかし、駄目だ。明日も明後日もあるのだ。危険はとうてい母の夢だけでは防ぎ切れぬ。それならひと思いに真紀子の傍へ戻ろうかとまた久慈は考えた。彼はベンチから立ち上ると千鶴子のホテルの入口へ行き肩で戸を押してみた。戸は無造作に開いた。すると、中へ這入ろうとも思わぬのにもう玄関へ這入り、階段を昇っていった。今ごろは寝入っている最中にちがいないと思ったが、ふともし今ひと眼でも千鶴子に会えれば、どんなことで身に迫っている危機を脱せぬとも限らないと思うある希望に曳かれ、足は気遅れなく戸の前まで進んだ。暫く彼はドアを叩いてみたが千鶴子の起きて来る様子はなかった。久慈は灯のまったく消えた廊下に立ったまま意想外な大冒険をしている自分に気がつき、それではまだ宵に飲んだ酒気から醒めてはいないのだろうかと怪しむのだった。しかし、ドアをまた叩きつづけているうちに千鶴子の起きて来たらしい声がした。久慈は鍵穴へ口をつけ、「僕、久慈だ。久慈。」と呼んでみた。鍵の廻る音がしてから問もなく千鶴子は眠そうな顔でドアを開けた。
「遅くから失礼、一寸、急用が出来たのでね。」
と云って久慈は、千鶴子の顔を見ず中に這入り椅子に腰かけた。海老色のガウンを着た千鶴子は寝台の裾の方に坐って、
「もう夜が明けるころよ。よく寝入っていたのに失礼ね。」
と両頬を撫でながら不平そうな笑顔だった。
「今夜きりでもう起さないから一寸つき合ってもらいたいんだ。どうも弱ったんだよ。」
久慈は椅子の背へ頭を倚らせるいつもの癖を出し、幾らか馬鹿らしそうな微笑で何から話せば良かろうかと考えた。
「どうしたの。お酒まだ醒めないんじゃない。そんならいやよ。」
「いや、酒は醒めてるから大丈夫だ。矢代にも僕の来たこと黙ってるから、君もそれだけは云っちゃいけないよ。」
こう云い終ってから、しまったと久慈が思った瞬間、もう千鶴子の顔色は変っていて今までの眠そうな色はなくなった。
「君、心配しなくたっていいよ。僕の来たこと知れたってどこが悪い。そんなことが悪いようなら今ごろ来るものか。」
久慈は強く畳みかけるように千鶴子を制して一寸黙ると、俄かに腹立たしさが込み上げて来た。二人の仲人役をしたのは自分だのにそれを恐れるからには、そんなら一層恐れさせるぐらいなことは知っているのだと、暫く彼も無言のまま緊張するのだった。しかし、いかにも深夜でなくては思いもよらぬ二人の争いだと気がつくと同時に、久慈はマリアを訪うつもりで戸を叩いた今までの決心も、変りはてた気持ちに転じたものだと苦笑した。
「今夜は真紀子さんと僕、お話にならぬことが起って飛び出て来たんだよ。君たち帰ってから酔っぱらってしまって、そのまま今まであそこに寝てたのさ。ところが、お母さんの夢を見て眼を醒したら、だんだん怖くなって実はこっそり逃げて来たんだ。千鶴子さん君どう思うかね。もし僕がうっかり今日のようなことを明日も続けたら、どうしたって真紀子さんと結婚しなくちゃならんと思うんだが、あの人と結婚して女の人から見た場合どう思えるかね、それが訊きたくてやって来たんだ。僕はどうもそれが面白い結果になろうとは思えないんだがね。」
足さきを見詰めながらときどき慄えるように肩をつぼめていた千鶴子は、初めて納得のいった様子だった。
「でも、真紀子さんの御主人まだウィーンにいらっしゃるっていうお話よ。そんならやはり遠慮なさる方がいいと思うわ。」
「別れて来たというんだよ。」
「でも、そうかしら、ほんとうに。」
「そこは分らないが、しかし、一人こんな所に細君をほったらかしておくというのは別れた以上だからね。ついそれで柄になく同情したのが始まりさ。だって、あんな危い日本人がパリでひとりふらふらしているのを見てられるものか。どこへ転げ込むか分ったものじゃないよ。それでつい、倒れ込むなら一緒の船で来た縁故もあるから、当分はと思って油断してたんだけれども、お袋の夢まで見ちゃ帰って叱られるに定っているし、さてと考え直したところなんだ。実際、僕の身になってみてくれ給え。むずかしいぞ。譬えばまア失礼な話だが、君のような人なら僕は威張ってお袋の前へつれて帰れるけれども、他人の細君じゃね、だいいちお金もうお母さんくれやしないや。」
千鶴子の顔さえ見れば良いと思って上って来たためか、何んとなく久慈は嘘ばかり自分が云っているように思えてならなかったが、しかし、まだ嘘はどこ一つも云ってなかった。
「あたし、真紀子さんはウィーンから御主人お迎いにいらっしゃるの、お待ちになってるんじゃないかと思うの。きっとそうよ。」
さきから羞しそうに顔を染めていた千鶴子は、赧らむ自分の顔に急に元気をつける苦心で背を延ばした。
「とにかく、僕は矢代より君の方がさきから知り合いだから、こんなときになると、どっと君にもたれかかってしまいたくなるんだね。まだ僕らは旅の途中なんだよ。何が起るかしれたもんじゃないのだ。まったく今日はしみじみとそう思った。もう自分がさっぱり分らん。いったい、自分とは何んだこれや。」
ふとこう呟くように云ってから久慈は壁を見詰めたが、何を云おうともう知れている答えばかりだと気がつくと、云いようもない退屈さを感じてまた俯向いた。膝から延びた千鶴子の透明な足首に泛き出た毛細管の鮮やかさが、鋪道で飛びついた犬の蹠のひやりとした冷たさを思い出させ、あれからこれへと渡って来た自分のこうしているさまに、また久慈は溜らなく不快になって来た。
「ああ、もう眠い。帰ろう。」
と云って久慈は立ち上った。そうして、二三歩部屋の中を歩き廻ってからまた千鶴子の横へ並んで一寸腰を降ろし、
「ね、どっかへ明日から逃げてってればいいね。スイスへでも暫く行って来ようかな。」
「そうね。その方があたしはいいと思うわ。」
「ひとりじゃしかし淋しいなア。」
「でも、あなた真紀子さんを愛してらっしたんじゃないの。あんなに。」
「君にまでそう見えたかね。」
と久慈は歎息するように云って後へ長くなった。片手を寝台の上へつき顔だけ久慈を見降ろすようにしている千鶴子の顎が柔く二重にくびれて見える。久慈はもうここから帰りたくないと思えば思うほど、いつの間にか越し難い二人となっている遠慮を感じ、延び出そうとする意志をひき締めひき締め、さも何事でもなさそうに下から千鶴子を仰ぎつづけるのだった。
「まったく考えれば馬鹿馬鹿しいと思うんだが、しかし、君、明日の朝になればきっとまた真紀子さん、僕の部屋へやって来るに定ってるんだからね。そしたらもう逃げられないや。逃げるなら今のうちだ。」
「じゃ、危機一髪ね。」
「そうなんだよ。後数時間の運命だ。」
こう云って久慈は笑いながらも、危機一髪は実はこちらの方かもしれぬとじろりと千鶴子の眼を見上げた。
「でも、そんなこと、そんなに難しいことなのかしら。あたしなら何んでもないことだと思うけれど。」
「そんなに簡単に思えるかね。別に愛してるわけでもないのに、愛してるのと同じような顔ばかりして見せなくちゃならんというんだからな。」
「そんならあなたがいけないんだわ。そんな顔をどうしてなすったの?」
もう同情はやめだと云いたげに千鶴子は久慈から眼を放した。
「だって、そうだよ。そんなに嫌いじゃなくちゃ、お前を嫌いだなんて顔は僕には出来んよ。まア少し好きなら、その程度の親切はしたくなるのが男というものなんだからな――僕は君みたいに、そんなにはっきり出来る勇士じゃないんだ。明日の朝真紀子さんに来られれば、何んとか嘘をついてまた一日親切な顔をしてしまう。だから、君に相談に来たのさ。君の顔でも見れば逃げられるかとふと思ってしまったんだ。」
これだけは云うまいと思っていたことをうっかり口にした久慈は、そんなにすらりと自然な告白が出来ると、急に気持ちの落ちつくのを感じたが、しかし、千鶴子には気附かれていないにちがいないと思うとそれもまた安心になり起き上った。
「むかしのよしみですからね。だって、僕はこんなとき、どこへも行けやしないじゃないか。どこへ行くのだ。」
「どういうことかしら。真紀子さんにあたしからあなたの気持ちお話すればいいの。そんなら明日でもお話してみてよ、真紀子さん何んと仰言るか分んないけど。あんな人だから、あなたのようにそんなに、心配なんかしてらっしゃらないんじゃないかしら。」
強いて聞えないふりをしているかと思える千鶴子の伏せた瞼毛の隈が、久慈と視線を合せることを避け静かにじっと沈んでいた。
「そんなことを話して貰っても困るね。事は大げさになるからな。こんな隠微なことは何んとかすらりと暗黙のうちに解決をつけなくちゃ、お互の恥だよ。譬えばもし真紀子さんと僕が結婚するような羽目になって、どっちも倖せになるような日が来たら、君に云われたことがまたどんな不幸な記憶にならんとも限らないさ。だから、今夜のことだって、君ひとりの胸の中に仕舞っといてくれ給え。濫りに口外されちゃわざわざお話した甲斐がないや。」
千鶴子は初めて明るく笑顔を久慈に向け、出かかろうとする欠伸を手で停めた。
「難しいのね、あなたたちのこと。」
「難しいんだよ。しかし、まア、あなたに会ってどうやら少し落ちついて来た。これで明日一日ぐらいは保つだろうな。」
久慈は今は何んの気もなくそう云ったのだが、見ると、千鶴子の様子が突然前とは変って身を引くように肩を縮め、かすかな胴慄いをガウンの襞に伝えていた。真紀子の方へ片寄りすぎた舟底を、これではならぬと千鶴子の方へ傾け変えた自分だったのに、それも思わずまた傾けすぎている中心の取れぬ不安さに、このようなときこそ母が傍にいてくれたら支柱もぴんと真直ぐに立つことだろうと、久慈は母に代る何物かを想い描こうとするのだった。
「何んだかどうも僕の云い方がへんなんだね。そんなんじゃないのだよ。君の邪魔なんかしてやしないんだ。僕だってあなたのような清潔な人を、こんなときでも頭に泛べなければ困るんだからな。そうでしょう。こういうときこそ君のような人が藁になってくれるんですよ。ただいててさえくれればいいんだもの。矢代だって何も有り難がってくれりゃ良いのだ。そんなことぐらいしてくれなくちゃ何んの友達だ。僕は矢代にそのうち云うつもりですよ。」
復縁を迫られた妻のように、千鶴子は何か云いかけてはまた黙って両手を寝台の上へついたままだった。
「何も僕がこんなことを云ったからって、そう君を苦しめることじゃないでしょう。何んでもないことだもの。どうして僕の云うこと無理があるかな。そんなら取り消しだが、ただ困ったときには困った工夫が僕にあったって、そんなことまで悪い筈があるものか。じゃ帰ろう。また会いますよ。」
久慈は立ち上って千鶴子に手をさし出した。千鶴子は軽く久慈の手に触れ快活な声で、
「明日お昼ごろお邪魔しましてよ。」
と云うと彼の後からドアを閉めた。早く明けるパリの夜がそろそろ白みかかって来た。久慈は自分のホテルの方へ歩きながら、さっぱり洗われたように気持ちが穏やかになって来るのを感じた。
「何んだか俺は云って来たが、しかし、俺の悩んでいるのは女のことじゃない。お袋に代るものがほしいのだ。ただそれだけだ。俺の云ったことはみなどうだって、あれはもういい。」
久慈はそう思うと真紀子も千鶴子も暫くは想いの中から飛び去って、頭の振動を算えるように響く靴の音だけ耳に聞えて来た。
久慈は正午近く眼を醒した。顔を洗いながら昨夜の出来事を思い出してみても、昨日と今日とは日が違うごとく何んの怖れの実感も感じなかった。歯磨楊子を啣え窓から通りを見降ろす眼に日光が強く射した。こんな天気の良い日にもし悩んでいるものがあるならそれは全く気の毒だと思い、昨夜はそれが自分だったのかと思うと、数時間の睡眠で人生はこんなに変るものかと驚くのだった。隣室のルーマニアの娘が小声で唄を歌っているのも恐らく何か歓びがあるからにちがいない。
「われ三十路半ばにして道に踏み迷う。」
久慈はときどきダンテの悩んだそんな言葉も口にのぼって来た。しかし、自分にもし今日の悩みがあるとすると、真紀子にほんの少し事実を狂わせて嘘をつけば良いことだけだと思った。それも名医のように嘘を上手くつけばつくほどどちらも幸福になるのである。もし千鶴子に話したように本当のことをうち明ければ、真紀子に打撃を与えることは、あるいは計り知れぬかもしれない。それなら何ぜ嘘が悪いのだ。――
久慈はそう思いながらも、しかし、自分は今日は本当ばかりを一つ真紀子に云ってみよう、そして、嘘を云うのと同じ程度に二人が前より一層気楽になってみようと思うと、それがまた今日一日の楽しみになって来るのだった。
服を着替えコーヒーを※[#「口+云」、第3水準1-14-87]咐けたときドアの下に一枚差してある紙片を彼は見つけた。取り上げて読むとそれは真紀子でもう眠っているときに来たらしく、正午すぎ一時間ばかりルクサンブールのベルレーヌの前のベンチにいるから来てほしいと書いてあった。
朝昼を兼ねたコーヒーを飲んでいると千鶴子が約束の通りに来た。いつもより瞼の脹れぼったく見えるのが新鮮な感じだった。長い廻り階段を昇って来たばかりで呼吸を大きく肩に波打たせながら、黙ってずっと窓の欄干の傍へよって来ると、何ぜかやはり黙って千鶴子は久慈を見なかった。
「昨夜は飛んだ眼に会せて失礼、君、お昼は?」
千鶴子はもうすませて来たと云って前の建築学校の屋根の上を眺めていた。昼間だと男の部屋へ来るのも何んの怖れもないくせに、夜中だと一室に男といるのがあんなに不安になるものかと久慈は思い、昨日のような出来事の総てもあれは夜のせいだったからだと、何かそんなことが今さら結論めいて来るのだった。
「真紀子さんいらしって?」
「来たらしいんだが、眠ってたもんだから紙きれ置いて帰っていった。ベルレーヌの前のベンチにお昼からいるって書いてあるから、これから行って来なくちゃ。」
「そして、あなたどうなさるおつもりなの?」
浮唐草の水色の欄干を背に千鶴子は唇の跳ねた皮肉な笑顔だった。
「しようがない。不善を改むこと能わざるは、是れわが憂いなりだ。論語をこれから講義しに行こうてんだ。」
「でも、あなた嬉しそうね何んだか。」
「今日起きてみたら、心境に少し変化が起ったんだね。昨夜は君を見なくちゃどうにもやりきれなくなったんだが――たしかに昨夜は君に僕は恋愛をしたんだ。君んとこの階段を上る前に、広場のベンチに腰かけて窓を暫く眺めてただけなんだよ。ところが、そのうちに胸がそわそわして来てね、これはいかんと思っているうちに、もう階段を上っていったんだ。ところが今朝になってみると、何アに、そうでもないんだよ。けろりとしてこの通りだ。危機だなアこれや。」
パンをち切りながら暢気そうに云う久慈を、千鶴子は心細そうな眼で眺めていてから、
「じゃ、あたしも危機だったのね。」
と云ってくるりとまた欄干に肱をつき窓から下を覗き変えた。
「いや、いろいろ理解に苦しむことが多いよ。これをいちいち説明して歩かなくちゃならんというのは、たしかに健全じゃない。君だって今日は僕を慰めに来てくれたんでしょう。」
「そうよ。だって夜中にひとりでいらっしゃるなんて、理解に苦しむわ。ドアなんか開けちゃいけないと思ったんだけど、何んか急用でも出来たんだと思ったのよ。ほんとにびっくりさせる方ね。もういやよあんなこと。」
「いや、事実急用だったんだよ。ゆうべ君の所へ行ってなかったら僕は今日は、こんなに暢気にしてられなかったかもしれないんだ。あのときはあのときでたしかに君が有り難かったんだが、どうも一つはあれも夜のせいらしい。」
夜と昼とで人の心がこんなに違うならいつも違わぬものとはそんなら何んだ。と、彼はパンの上皮が唇を刺すのをへし折りながら、ふとまたいつもの念いに触れかかろうとしたとき、千鶴子は欄干から降りて来た。
「あなたみたいな人どうなるんかしら。あたしそれが心配だわ。」
特に心配そうな様子でもなく訝しげな眼で千鶴子は久慈を見てから、洗面器の前の鏡に自分の顔を映してみた。ネビイブリュウの服色のよく似合うのもいつもと変らぬ千鶴子だったが、久慈は後ろから鏡に映った彼女の顔を眺めながら、今はこの人も突き放してしまった人だと思うと、何んとなく淋しい影を見る思いで冷えて来たコーヒーを飲み下した。
「君、今日はこれから矢代と会うの。」
「ええ、お約束よ。」
「そんな約束があるのに何ぜ僕のところへ来てくれたんです? 何も僕から頼んだわけじゃないんだもの。」
「あら、だって、久慈さんあんなに淋しそうなこと仰言ったじゃないの。よしみだなんて――。」
頬を染めて少し早口で云う千鶴子の振り返った眼に、久慈はまだ揺らぐ心の閃めきを覗きとった歓びを感じたが、それも過ぎゆく人の視線の美しさかもしれぬと、また追いゆく心を沈めるのだった。
「千鶴子さんは、僕をこんなにしたのは自分の責任だと思ってるんじゃないかな。しかし、それならそれは間違いだよ。それや、君と僕とがマルセーユで別れてから君にとった僕の態度は、船の中とはお話にならぬ不親切さで、一度お詫びをしなくちゃならんと思っているんだけれども、僕のような青年が田舎の日本からぽッとパリへ出て来ちゃ、当分は頭がいやにくるくるするんだよ。実際、僕はしばらく日本のことなんか考える暇がなかったのさ。そこへ君がまた顕れたのだから、逆さになってる僕の足ばかりが君の顔に衝ったんだ。何も僕は弁解の要を感じるわけではないが、しかし、あれほど君と親密だったのにこんなになっちゃ、たしかに僕の方が君をそんなにしたんだからな。君が僕をこんなにしたんじゃないんだよ。」
「ほんとにあのころは、あなた親切にして下すったわ。」
頼りのない声で千鶴子はそう云うとテーブルの上の新しいネクタイを手にとって眺め、
「いいわね。これ。」と久慈を見て笑った。
過ぎた日のことを思い出す愁いは旅にはつき物とはいえ、特に二人の場合は息苦しい思いを増すばかりだったが、しかし、久慈は一度は話しておかねばならぬ機会が今よりないと気づいて来るのだった。
「もう少し聞いといて下さいよ。口説きにならんじゃないか。」
「お聞きしているのよ。」
逆流して来る久慈の気持ちの泡立ちが突然胸を刺す眼新しい世界に感じたらしく、千鶴子ははッと立ち停ったように大きな眼で彼を見た。瞬間久慈も眼を見張った。
「何もそう改ったことじゃないよ。勿論、何んでもないことだけれども、とにかく僕にも云わなくちゃならぬ理由が一つはあるのだ。一度はあんなに心をひかれた人なんだから、云うことが何もないとは云えないからね。正直なところがそうですよ。君だってそうでしょう。」
日ごろの親しさの雑談がいつともなしに捻じ固まり、真面目な相を帯びて来ると、思いもよらぬ火花の散り砕けた後の静けさを見る思いで二人の言葉は詰るのだった。久慈は静かに置いたつもりのコーヒー茶碗が銀盆の上で意外に大きな音を立てるのを聞くと、また置き直したくなるほど云うことが何もなかった。
「真紀子さん、待ってらっしゃるでしょうから、行きましょうか。」
どんなことがあろうとも久慈にはそれ以上の何事も出来ぬと知り尽したような、落ちついた表情で軽く千鶴子は彼を誘った。それでは、事実は二人の間でどんなことでもなかったのだと久慈は知って、味気ない安堵の佗びしさのまま笑い出した。
「じゃ、真紀子さんのところへ行こうかな。」
久慈は上着を着て部屋の暖まらぬように鎧戸を閉め降ろした。あたりが薄暗くなったとき、ふと急に千鶴子の身体が新しく膨れたように思われ、互に気づかなかった近接した羞しさにぎょッとしたまま、視線をどちらも脱すのだった。今まで話していたときよりもはるかに危い一瞬が、まったく意志とは関係なく不意にうろうろと身の周囲に澱むのを感じると、久慈は、昨夜はこれに一晩やられていたのだなと、また感慨が新たに蘇って来るのだった。
「さア、早く出なさいよ。」
と久慈は千鶴子を部屋から追い立てるように云って、彼女の後からドアへ鍵を降ろした。
矢代のホテルへ行く千鶴子は後からルクサンブールへ行くからと云い残して久慈と別れた。久慈はひとり公園へ這入っていった。樹の幹の間で毬を奪い合っている子供の群れの中を通り、編物をしている老婆たちの間をぬけ、左方のベルレーヌの立像のある方へ繁みを廻っていった時、背を見せた真紀子はベンチにかけて手帳に何かを書きつけていた。
「お待ちどお。」
久慈は何んとなく争いの支度をすませた気持ちで、どさりと身体を投げ出すように真紀子の横へ腰かけた。
「俳句よ、こんなのどうかしら。」
真紀子はにっこり笑いながらも久慈を見ず、眼を手帳に落したまま彼の方へ肩をよせて来て俳句を見せた。昨夜のことを一口も訊ねずいきなりこんなにして来る真紀子に、久慈は何ぜともなくたじろぎながら手帳を覗いた。
「とつくにの子ら眠りおり青き踏む――いいね。これは。」
久慈はこう云って後方にある廻転木馬や遊動円木の傍の乳母車の中で眠っている幼児を見たり、前方に拡がった美しい芝生を見たりした。このあたりだけ繁みが枝を空にさし交して下に青い空洞を造り、少し窪み加減のその芝生の中央にベルレーヌの像が立っていた。
「円木の揺れやむを見て青き踏む――」
手帳にはこんな句の他にも一つ、『人待てば鏡冴ゆなり青落葉』というのが消してあった。久慈はこれらの句を見ながらも、そのうち真紀子が昨夜逃げ出していった自分を責めるだろうとひそかに待っていたが、どういうものか真紀子は昨日のことには一切触れる様子は見えなかった。どちらもいうべきことのそれぞれ苦心を持っているときに、何んの前ぶれもなく俳句を持ち出した真紀子の機智には、これを意識して謀んだ彼女の術策かと久慈は暫く疑いもしたが、それにしても出来ている句には心の乱れや汚さがないのを感じ、描かれる明るい句境の気持ちのままほッとべルレーヌの像を仰ぐのだった。三人の裸形の女が下から狂わしげに身を搓じらせて仰いでいる真上に、ぬっと半身を浮かべたベルレーヌの烱烱とした眼光が、何物をかうち貫き、パンテオンの尖塔をはるかに見詰めて立っている。
やはりこの泥酔ばかりしていた詩人も悩んだものは女人のことではなかったのだ。あれが男性の理想を見据えている眼だと久慈は思い、昨夜からの自分もそれに似ている困却の様子を何んと真紀子に報らせたものかと考えた。
「円木の揺れやむを見て青き踏む――その方がいいかな。」
とまた久慈は呟くように云った。
「私もこの方がいいんじゃないかと思うの。」
「いいねその方が。意味が深いし、君の心境もよく出ていてなかなか美しいや。青踏派だな君は。」
久慈は実際に自分たち二人の心中の遊動円木も、揺れやんでいる後の静かな会合のように進んでゆくのを感じ、心に暗示を与えてから徐徐に今日一日の青芝を踏みたいと希う真紀子の努力もよく分るのだった。
「もう一つ二つ作ってあなたから東野さんに見てお貰い出来ない。何んと仰言るかしらこんなの?」
手帳を受け取ってそう云う真紀子の顔を久慈は見返りながら、
「駄目だ、東野さんこんなの俳句じゃない抒情詩だというね、あの人は俳句を踏み込みだというから、見せたってやられるだけだよ。」
「いいわ、その方が。」真紀子は笑った。
「しかし、俳句が踏み込みだなんて、よく分らないね。お負けに僕の足を踏みつけたからな。」
久慈はこう云ったとき東野が足を踏みつけた後で、この痛みどこより来ると云ったその踏み込みの疑問を思い出した。まったくそういえば、ただこのように真紀子と静かにじっと並んでいるだけでは、二人にとって何事でもないのかもしれぬと思った。どちらも互に踏み込み合って乱れた後の静けさからは、まだ遠い自分たちだと気がつくと、ああ、まだこのままには済まぬぞと思い、また女たちを踏み下したまま前方をきっと高い眉毛で見詰めているベルレーヌの心境が、さらに深く内奥で拡がりわたって来るのだった。
その日は真紀子は一日久慈に柔順で優しいばかりではなかった。昨夜とはうって変った淑やかさで化粧も絶えず気をつけ、彼を見上げる眼も細かい心遣いに生き生きと変化し、些細な買物にも久慈のままに随った。食事場も行きつけの店の一二は開店していたので昨日のようには誰も困らず、夕食のときは矢代や千鶴子と一緒に四人はドームで不便なくすますことが出来た。
久慈はもうこの夜は真紀子と別れていることの出来ぬ、最後の夜になるだろうと覚悟を決めていたので、夕食のコーヒーになったとき一同に、
「どうだね、今夜はこれからみなでタバランへ行こうか。」
と誘ってみた。タバランというのはパリでは一頭地を抜いて優秀な踊場を兼ねたレビュー館である。みなの者らはすぐ賛成したが、まだそれまでには時間が少し早かった。
久慈はこの夜はあまりいつものように物を言わなかった。次ぎ次ぎに信じていたものが頭の中で崩れてゆく拠り所のない元気のなさで、食事をしている外人たちの顔もどれもみな鬱陶しく見え、ふと身体を動かすときにも、心の頼りになるのはこの椅子だけかと思ったりするのだった。それでもどうかした拍子に花嫁になろうとしている真紀子の、どこかの一点が突然美しく見えて来ると、行手に光りのさし始めたように心を躍らし、今のはあれは何んだったのだろうと、暫くは頭に残った印象を追ったりした。その度びに、
「まだ俺は美しさが好きなんだ。こんなに美しさが好きなところを見ると、まだ俺は外道なんだ。」とこう思い、そろそろ夜に入ろうとしている自分の変化を感じて来るのだった。
「ね、君。」と久慈は矢代の方を向いて云った。「僕はこのごろときどき思うんだが、近代人の求めている意志というものは美でもなければ真でもない、そうかといって善でもない、あるその他の何ものかだと思うんだが、どうかね君は。」
「じゃ、何んだ、悪か。」
と矢代は事もなげに云ってのけた。久慈は我が意を得たという風に眼を輝かせた。
「そうだ、どうも悪に近いが悪じゃない。例えばこの電気を見たまえ。僕らの求めている電気に似たような、そんな精神は言葉にはまだ無いのだ。だから、たった一つの言葉を誰かが発明すれば助かるのだよ。それがないのだなア。」
と久慈はぼんやりと電灯の光りを仰いで云った。
「愛とか智とかあるじゃないか。あんまり沢山ありすぎて、みんな馬鹿になってるのだよ。こんなにあっちゃまごまごして、何を拾ったらいいのか知らんのさ。遣欧使の堕落だよ。」
「いや、違う、一番肝腎のものがたった一つないのだ。それでみんな屑拾いになったんだ。電気を見てるとどうもそう思う。だいいち、これは物理学でもなければ化学でもないからな。そのも一つ向うの悪の華みたいなものだ。こうなれば、一切の言葉が無になったと同様だよ。」
云い出せばまたきりもなく話し出し、争い出すのを感じて二人は黙った。千鶴子はその隙を見て一同に散歩をしようとすすめて立った。
「言葉が無になったら歩くに限る。」
と矢代も笑いながら千鶴子の後につづいてカフェーから出ていった。前からの様子で久慈は、昨夜から今朝へかけて二度も千鶴子と会った自分を、まだ矢代は知っていないのだと、問わず語らず勘づいていたが、今はそれを云うべき時期でもないと思い、ただ一人それを知って黙っている千鶴子の巧みな装いに応じつつ、こちらも知らぬげにこうして歩いてゆくのは、秘密でもないある正しいものを秘密の色に包み隠し、やがてはそのようにしてしまう奇術に似た運動だと思った。それは忘れようと努力している二人にも拘らず、ときどき視線の合うある瞬間に、まったく二人から独立した生物のようにびりびりと繊細に慄え、振り落すわけにはいかぬ。どんなに遠く放れていようとも、またどんなに二人が嫌い合おうとも、どこまでも延びつづいてやまぬ稲妻のような意識だった。
タバランへ一同の着いたときは九時を少し廻っていた。レビューはもう始まっていた。ここはそんなに広くはなく、舞台で二十人ほどの踊子のようやく踊れるばかりの浅さに、観客席の中央へ能舞台を床の高さに低めてせり出した客の踊場が附いているだけだったが、レビューとバンドの統一された見事さ、またその幕間に踊る客たちの踊りと、舞台のレビューの交錯する瞬時といえども停滞のない俊敏さは、心を巻き込む機械のような格調をもった時間となって流れ迫って来るのである。
一同はシャンパンを舐めながら踊らずにレビューばかりを眺めていた。完全な均整を失わず踊る踊子の並列した裸体と、その一貫した筋肉の美を揃えた総体の開閉、収縮、屈伸が、ことりことりと鳴る単音のような明快さでつづいてゆく。――久慈だけは、ここは二度目だったが他のものは初めてだったから、最初の間は踊りの単調さに何んの感動もなく見ているばかりだった。すると、二幕三幕と淡淡とした確実さで進んでいくうち、間髪の間違いもない同じ調子の運動の持続に矢代は、
「これは素晴らしいところだ。」
と先ず歎声を上げた。
「ほんとにこんなレビュー初めて見たわ。」
真紀子も今までちょうど同じ興奮の伝わっていたことを報らせたい風だった。
舞台から眼を放さない千鶴子も黙ってそれに頷いた。
ところがその舞台の単調な体操に似た二十人の踊りが、弁を開いてゆく甘美な花のように次第に複雑な膨らみを示して来るのだった。
久慈はいまに一同何んともほどこすすべなく陶酔していくだろうと予想していたが、自分ももう興奮を感じ始めた。
「これを見ていると、僕らはやはり東洋人だという気がして来るね。」
と久慈は矢代に囁いた。
踊子たちの胴から腰、腰から脚と眺めていても、緊った乳房の高まりは勿論のこと、腹部に這入った一条の横皺まで同一の人間の分散した姿かと思われるほど酷似した肉体だった。それらの筋肉の律動は、またバンドのリズムに無類に敏感な反応を示しながら、廻し眼鏡に顕れる六華のような端正な開きをし、閉ったかと思うと延び、廻転しながらも捻じれ、細片になっては綜合され、遅滞もなければ早急さもないある一定の、ことりことりという死のような単調さで総てが流れていくのだった。
「凄いなア。」
久慈は見ているうちにそれが人間の踊りとは見えなくなって来て云った。真黒な天鵞絨の緞帳を背景にして、踊る人間の全系列を支配した幾何学模様のその完璧化は、名状しがたい華奢なナイフの踊りのように見えて来るのだった。そうして、幕が降りると、観客を中央へ吸いよせるバンドが急調子に噴き上った。
「踊りましょうか。」
と真紀子はもうこれ以上見てばかりではおれないらしく久慈を見て誘った。久慈は真紀子と組み、千鶴子は矢代と組んで客たちの中へ流れていった。めぐる度びに矢代の背から顕れる千鶴子と久慈はときどき視線を合せた。しかし、千鶴子は、昼間の動揺を悔む手堅さで一層矢代への親しさを泛べ正しく廻った。千鶴子のその微笑に、久慈もまた自分の支えている真紀子をいたわるターンが深まるのだった。
幕が上ると、客席へ戻る客たちの揺れやまぬ間に、もう舞台では空中に吊り下った月の輪を中心に、三つの弁となった人体のゆるやかな踊りが始まった。鳥の毛を頭にさした裸女の群れが、その皮膚を舞台いっぱいによせ合い、下からじっと月を仰いで動かぬ一面のローズ色の雲の形となり、静かに月に随って棚びき流れていく。すると、見るまに舞台いっぱいに拡った静かな雲の一端が、どっと溢れて客席の踊り場の中へ雪崩れ下った。そして、溌剌としたピッチの踊りに急変すると、旋回しつつ左右に分れてはまた一つに収縮し、月の吸引のまま再び舞台に逆流していった。その後を客たちは、潮にひかれる人の群れのように総立ち上って踊り場へ流れ込んだ。久慈は舞台の上と下とのそれらの踊りの合一していく壮観さに、思わず立って今度は千鶴子と組んで流れた。矢代も真紀子と組んだ。翻る度びに肩越しに閃めく真紀子の眼が青く光っては遠ざかりうっとりとした半眼でまた顕れる。舞台の空中の月は招くように銀色の輪から腕を延ばし、脚を廻し、雲と人とを見詰めては光りを放ち変えていくのだった。
「真紀子さん、今日はどんな御容子でして?」
千鶴子は昼間の首尾も気がかりなのか胸を反らし、初めて久慈を仰いだ。
「なかなか平和でした。心配したほどのことでもないな。」と久慈は答えた。
「じゃ、やはりお定めになったの。」
「もう定めようかと思ってます。」
久慈はそう云いながらも、あんなに自分を揺り動かした千鶴子の背中に、今こうして手を廻しているにも拘らず、真紀子との結婚の意志を決めたとなると、ぴたりと不安がなくなって来るのを覚え、何んと男女は隠微な動きをするものだろうと、遠ざかっている真紀子の方を見るのだった。
上下の踊りがだんだん運行する宇宙の形を整えて来るに随い、その階調の中から顕れて来るように、離れていた真紀子の顔が軽快なターンをとって近づいた。すると、その半眼の瞼がまた久慈に昨夜の薔薇の記憶を呼び戻し、廻りすすむ自分の胸もその紅いの一点をめぐって崩れ流れていくように思われるのであった。
窓にまで這入って来る雀の人馴れた囀りが下の繁みの中へ吸い込まれた。蛇口をひねり久慈は湯を洗面の陶器に満たしてから、石鹸の泡を腕までつけてたんねんに洗った。朝の光線に皮膚が少し青ざめて見えたが、擦るうちに腕は赤味を帯んで来た。
「今日はセザンヌの展覧会があるな。それをひとつ見に行こうや。すっかり忘れてた。」
「そうね。」
真紀子は久慈のテーブルで手紙を書きながらうつろな返事だった。久慈はワイシャツを着替えると剃刀の刃を革にあて、一寸真紀子の首の延びた初毛を見てから顔を剃った。日光の射している右半面の石鹸を剃ぎとる傍ら、彼は出来事の起ってしまったことは今さら何を云おうと無駄だと、あるおだやかな観念に浸ろうとするのだった。
男女が窮極にしてしまうことを、まったく前後も考えることなく行ってしまったこの朝の日光を尊く久慈は思い、不平も何もない一刻だったが、これを千鶴子に知らせて良いかどうかとちらっと一度は彼も考えた。
恐らく千鶴子と矢代は自分と真紀子の行ってしまったようなことさえ、未来のこととして旅の気持ちをつづけているのにちがいあるまい。昨日の朝はここのこの鏡に千鶴子は顔を映し、
「それで、どうなさるおつもり?」
と自分に真紀子のことを訊ねたのを久慈は思い出したりしたが、昨日と変ったこの一大変化が特別変った気持ちも起させず、むしろ平凡に静かなのが彼には物足りぬほどだった。
食事をすませてから久慈は真紀子と銀行へ金を取り出しに行って、帰途チュイレリイの画館へセザンヌの展覧会を観にいった。画館をめぐった緑の濃い樹の蔭から朝の噴水が正しい姿で光っていた。まだ日光に暖まりかねた大理石の石階を踏みつつ、久慈はこれからセザンヌを見るのだと思うと、真新しいカラアを開くような豊かな喜びを感じて第一室に立った。
あまり広くもない三室を連ねたばかりの会場に人は相当這入っていたが、それもうるさいほどではなかった。見渡したところ皆誰も帽子をとり声も立てず、お詣りのように静静としているのが久慈には先ず気持ちが良かった。絵も百四十点もあった。彼は一つずつ見て廻らず、中央に立ってざっと一度見廻してから、惜しむように最初にもどって虱潰しに覗き始めた。見てゆくうちに、どの絵も初期のセザンヌの正確な筆力の延長が狂いを起さず、自ら枝葉の延び繁った写実の深まりゆくさまを壁面に順次に現しているので、その前に立った黒い服装の真紀子の姿まで、きりりと締って無駄のない美しさには見えるのだった。
「一番普通のことをセザンヌはやったんだな。それが皆には出来なかったんだから、おかしなものだ。」
と久慈は途中で真紀子に呟くように云った。そう云いながらも彼は、自分もごくありふれた日常の普通のことをそのまま普通に考えることの出来なくなってしまっている妙な頭に気がつき、ときどきはこのような絵も眺めて頭を正さねばならぬと考え、自分の頭のどこがどんな風に事実の正しさから曲り遠ざかっているかと、あらためて考え直して見るのだった。
「こんな絵を見ていると、迷いが起らないからいいね。果物だと取って食べたいように描いてあるだけだし、あの爺さんの絵だと、一つ冗談でも云って笑わしてやりたくなるから妙だ。何んの変哲もない絵ばかりだね。」
「そうね、それがやっぱり難しいのね。」
と真紀子は頷きながら、手に刺さりそうな鋭い矢車草の葉のもり盛った花瓶の絵の前へ歩を移した。
久慈は順次に見て歩くままに真紀子と放れていったが、ときどき真紀子の方を振り返ってみた。そして、彼は一度真紀子を見る毎に、壁面の絵を見るのと同様に彼女の姿をも眺めている自分だと思い、ただこうして人を見ただけのことを絵に描くとすると、これほども苦心をするものかとまた画の難しさを考え、連った二室のうちの一番奥の有名な浴みの絵のかかった部屋へ這入っていった。
久慈の見たのでは、このセザンヌの晩年の東洋画のように渇筆を用いた画面には、もうそれから以後の人人の迷いくらんでゆくような、絵画上の手法の乱れる徴が顕れているように感じられた。前の二室に満ちているそれぞれの絵には、対象に集中された精神に簡略された軽さがどこ一点もないのに反し、最後の浴みには、未成品とはいえ画面の構図と線にいちじるしい精神主義が顕れ、も早や現実に倦怠を感じた画家の抽象性が際立って見えていた。それはまことに嫋嫋とした美しい線と淡彩から成っていて、カンバスの生地の色もそのまま胡粉の隙からいちめんに顔を出し、それが全体の色調の直接な基準色ともなり変っていた。
久慈は鼻を浴みのカンバスに喰つけるようにして油の匂いまで嗅いでみてから、三室を幾回となく歩いた。暗くもなく明るくもない光線に満された部屋の中には、絵や人を不必要に威圧する壮厳さもなく、観るものの心を動揺させる不自由さもない。初めの間、彼はふと外へ出ていってまた観に這入りたくなるような、気軽な気持ちで画面を眺めているうちに、だんだんセザンヌのその絵にさえ特種の美しさの何もない単純化に気がついて、「おや。」と思った。それは求め廻っていたものが、ほのかに顔を赧らめつつこっそり傍を通り抜けていく姿をかい間見た思いに似ていたが、次の瞬間、
「これはッ。」
と久慈はベンチに腰かけたまま無言だった。とにかく同じ驚きが一回廻るごとに、ごそりごそりと底へ落ち込んで来るような得体の知れぬ感動だった。彼はもう何んの想念も泛んで来なかった。まったくいつもとはどこも変った顔ではなかったが、内心彼は愕然としていた。今まで日夜考えつづけていたことは何んだったのだろうと思い、ここまで来てただこんな単純な美しさに愕いたとは、何んという脱けた自分だったのだろうと思って歎息するばかりだった。
「マルセーユで見た景色とそっくりのあるのね。あの海の絵ね。横の山もそうだわ。」
真紀子は巻いた目録を唇にあてながら久慈の横のベンチへかけて云った。
久慈は、「うむうむ。」とただ頷いた。しかし、巻き襲い群り圧して来ている数数の流派の複雑多岐な大濤を、この単調な小さい絵が噴きあげ突き跳ねして崩れぬ正しさについて、どのように形容して良いのか彼は分らなかった。それは久慈にはただ単に絵画のことばかりは見えず、世の中を横行している思想や人の行為がすべて同様だと思われ、そして、自分もまさしく噴き上げられたその一人だと思うと、にわかにあたりを見廻し、失われたものを探し求める謙遜な気持ちにふとなって来るのだった。
「ただ何んでもない、何んでもないことが肝腎なんだなア、つまり。」
久慈はこんなことをひとり呟いて真紀子と一緒に絵画館を出ていった。彼は階段を降りながらも、夾雑物のとり除かれた眼にいつもより深く真紀子が映るように感じた。真紀子も照りつける日光に眩しげに首をかしげつつ明るく嬉しそうだった。二人はチュイレリイの廃墟の跡を横切って花壇の方へ出ていった。アマリリスやカンナ、スミレなどの咲いた花壇の中に噴水があった。その傍のベンチに休むと、前方の広場に幾つも上っている高い噴水も一緒に眼に入り、あたりは日に輝き砕ける水柱にとり包まれた爽やかな競演を見る賑やかさだった。
久慈はどんなことが頭に流れて来ても懼るるに足らぬと思い、出来事も昨夜のことなどはもっとも自然なことのうちの、とるに足らぬ一つだったのだと思った。
「ウィーンから手紙来ることあるの。」
暫くして、久慈はまだ訊き忘れていた真紀子の別れた良人のことを、このときを機会に一度はっきり質しておきたくて訊ねてみた。
「たまには来るの、だけどその方は御心配いらないのよ。」
強いて安心を与えるためばかりでもないらしく、真紀子は無造作に笑ってちらりと久慈の顔を見た。その笑顔も一度は云っておかねばならぬことを思い出したという風に、
「それよりあたしこう思うの、いけないようにお話とらないでね。その方がつまらないこと考えずともいいんですから。――あたし、御存知のように勝気な性質でしょう。ですから、結婚のお話だけはどちらも出来る限りしないことにしましようね。あたしの家はそれや複雑な家ですから、考え出すととても駄目。」
こちらでの出来事はすべてこちらだけとしてすませたい真紀子の希望は、昨夜千鶴子からも云われたように、久慈にも意外なことではなかった。しかし、また昨日のようにいきなり俳句を持ち出して自分を怯ませた真紀子の勝気が、こんな出来事の後までもつづくものとは久慈も予想しなかった。久慈はセザンヌを見た後の幸いな後味を崩したくなかったので、そのまま真紀子の隠された意志を追求してみる興味はもう感じなかった。そうして暫時、彼は暖味な微笑で両手を頭の後ろに組み、絶えず噴き上っては変化する噴水の色を眺めながら、まだ午前の思って見たこともなかった空虚な豊かさを持ち扱いかねているのだった。
噴水はそれぞれ無数の水粒を次ぎから次ぎへ噴きのぼらせていた。ある頂点で水粒は一度頓狂な最後の踊りをすると、どれもこれも力を崩し、速力を増して落ち散り、無に戻る運動を繰り返し、そうして、絶えず地中の法則というような姿だけは崩さず保って流動していた。ときどきは風のままに散る方向は変っても、噴きのぼるときには、風を突きぬけた気力の若若しい緊張がある上に、頂きで跳ね踊る姿のみな違うその面白さ。――久慈はこの朝の見事な噴水から眼が放れなかった。彼は自分がその一粒のどれかに似て見え、瞬時の休息の隙もなく砕け散る光りの嬉嬉としているのが、生きている瞬間の楽しさとなって身内に静かな情慾さえ次第に高まって来るのだった。
「噴水を見ているというのは実に面白いものだな。砕けるものまで嬉しそうだ。しかし、まったくそうかもしれない。」
とふと久慈は呟いた。
「あなた今までそんなことを考えてらっしたのね。」
と真紀子は、それで初めてあなたが分ったというような、久慈には意外に見えるほど満足した微笑だった。
「でも、ほんとうに面白いもの。あの頂上で分れて水の落ちる瞬間のところに、ある一線があるでしょう。あの線のところを見ていると、君の姿までぼんやりあそこへ浮き上って来るんだからな。なかなか楽しいよ。」
「そういうものかしら。男の方は。」
と真紀子は云って暫く噴水を眺めていてから、「分らないわ。」と小声で呟いたが、何か久慈と共通のものを感じたらしい赧らめた顔で身を彼の方へ傾け、そわそわした風情ながらも、またそれを急いでもみ消す苦心だった。
「さア、いきましようか。」
「もう少しいよう。この噴水だって、フランス革命のときの血の中から噴き上っているようなものだからな。」
チュイレリイ宮殿の跡といっても、今は画館と浮草の巻き返った高い金色の門より残ってはおらず、プラターンの繁みの下で子供たちが白い股を露わしているだけの公園だったが、しかし、久慈は跳ね散る水玉の絶え間ない運動をうっとりと見つづけているうちに、そこに見える唐草の金色の門から噴き上った革命の騒擾が、まただんだんと思い描かれて来るのだった。そのときは眼の前に連っている鉄柵を揺り動かして群衆が押しよせ、またその狂乱する群衆の心理の底をかい潜って、これを煽動する一群の貴族や躊躇逡巡して決意を知らぬルイ十六世の若いインテリの眼の前で、膨れ上って燃えるダントンの情熱と平行し、民衆に謀反の油を注ぎつつ、しかも、王の安全に奮闘して斃れるミラボオの苦策など――人の脳中にほんの些細な疑いの片影がかすめ去る度びに、ばたばたと首の飛び散った大噴水がここに立ち狂っていたのである。
久慈はその有様を手短かに真紀子に話した後で云った。
「ところが、その狂暴な噴水に整理をつけたのが、イタリア人のナポレオンなんだからな。――ここのフランスの愛国心の権化になったのがイタリア人だというのが、そこが僕らの不思議なところだ。分ったようで分らない。実際ここにこうしていると、まだまだ生きてみる値打ちのある構図を人生はとっているのだとつくづく思うね。」
「ナポレオンはイタリア人ですの?」
と真紀子は意外なことを聞いたという顔つきで訊ねた。
「それやコルシカ島民だから、その当時のあそこはイタリア領だったので、ナポレオンの父親はフランスと戦争をして負けたのさ。ところが、その負けたばかりのコルシカ島民のナポレオンがたった一人でフランスを征服したというんだからここの愛国心というものは、僕らにはまったく分らない。征服した方もされた方も、博奕に出た賽《さい》の目を信じただけだ。それ以外の何ものでもないのだからな。化体なものさ。」
人間の進行のうえになくてはならぬ唯一のものが、賽の目のままだったという恐るべき滑稽な大事件も、も早やここでは国民の整理癖に舐め尽され、死に絶えてしまったのであろうか。
久慈は後ろの方から子供の賑やかな笑い声が聞えて来たので振り向いてみた。汚い一人の老人が肩や手さきに呼び集めた雀を沢山たからせ、舌の先で手の甲にとまった一羽の雀に餌をふくませているところだった。久慈は真紀子の肩を打った。
「どうだ。あれひとつ俳句にならんものかね。」
「ナポレオン見たいね。あのお爺さん。」と真紀子は笑って云った。
老人は雀の自由なように全力を肩に張り、枝のようにしならせた腕の形を崩さず、立ちはだかったまま誇らしげな恍惚とした笑顔で雀の顔を眺めつづけた。久慈は真紀子と一緒に立ってその方へ見にいったが、すぐそれにも倦いてルーブルの方へ花壇を横切っていくのだった。
ルーブルの横を通りへ出たところにセーヌ河があった。河ではモーターボートの競走があった。五つ並んだボートの首が、速力を増すと水面から飛び上り、たちまち見えなくなったが、久慈はそれにもすぐ倦いて河岸をぶらついた。彼は太いプラターンの幹を仰ぎ、自分の一番倦き易いことを一つどこまでも耐えてみようと考えた。そして、その忍耐でいつも自分を虐めつけ、何事か呻くような復讐を自分にしてやりたいと思うと、もう襲って来ている退屈さの底から、セザンヌの画面が鮮やかな緊り顔でじっと自分を見詰めているように感じられた。
久慈たちが矢代と落ち会ったのはお茶どきだった。千鶴子は日本へ帰る準備の土産を探しに朝から出歩いて来たのだといって、少し疲労の泛んだ顔で、カフェーのテラスの群りよる外人たちの中に混っていた。
「もうお帰りになるの。あたしも帰りたい。」
と真紀子は思わず云ってから、久慈のいるのに気がつき、
「今日は何にお買いになって?」と訊ね返した。
「いろいろなもの。でも、いいお店は皆ストライキで休みでしょう。欲しいもの何も手に這入らないんですのよ。ロンドンだと男の方の欲しいものばかりだけど。――女のものはやはりここでなければありませんのね。」
「もう帰る話か。うらやましいな。」
と久慈は云ったが、一向に羨望した様子にも見えなかった。
「でも、これでもあたし長くなりすぎた方なの。ほんの一寸と思って出て来たのにもう幾月になるかしら。ロンドンの兄からしきりに手紙が来るの。早く来なければ置いてきぼりにして帰ってしまうぞって、そんなに云って来てるんですのよ。あたし、もう少しいたいのだけれど。」
千鶴子は荷物を取り上げ、詰って来た客に椅子をあけて真紀子に向い、
「あなたはまだお帰りにはなれないでしょうね。なかなか?」
軽く訊ねたつもりらしいのも、それがそのままとならず波紋を強く真紀子に与えたらしかった。真紀子は、「ええ。」と言葉を濁して暫く黙っていてから、
「でも、帰ろうと思えば、いつでもあたしはいいんですのよ。別にこれって邪魔は、もうないんですの。」
むしろ千鶴子によりも久慈に答えるらしい含みでそんなに真紀子の云うのを、久慈はにやにや笑いながら聞いていた。
女人のことは君に任すと云いたげな矢代は、昨夜の真紀子と久慈との出来事も知っているのか知らぬのか、さも気附かぬらしい様子で煙草を吹かせていた。しかし、久慈は、矢代こそ千鶴子の帰りをどんな心で見送っているものかと一寸推しはかってみたものの、頑なほど不思議と意志を見せぬ矢代のこととて、外から想像したほどの変化もないにちがいないと簡単に興ざめてしまうのだった。
「ロンドンへはそのうち僕も行ってみたいと思っているんだが――そのときはもう千鶴子さんいないんだな。」
久慈のそう云うのに矢代は、千鶴子の帰る話題を切りとるような強い調子で云った。
「どうもパリ祭を待つためだけに僕らはこうしているのだが、考えればつまらないね。何かその日に起ったところで、フランスの事じゃないか。馬鹿馬鹿しい。」
「しかし、起ることは見ておいたっていいよ。損にはならんさ。」
と久慈は云った。
「損にはならんが、左翼と右翼の衝突など起ったところで、少しばかり血が流れるか、さもなきゃ、どっかへまた吹出物みたいに潜り込んでは出るだけだろ。」
「ところが、それが分らないんだからね。君がパリ祭を見たくなきゃ、千鶴子さんとロンドンへ行けよ。後でヒステリ起されちゃ、お相手するのかなわないぞ。」
斜めに射した光線を額に受けたまま矢代はただ笑ったきりだったが、千鶴子と別れる矢代の淋しさなど久慈にはもうあまり響くことではなかった。
「しかし、見るところ静かだが、何んとなく物情騒然として来た様子だね。今ごろは日本も眼を廻して来ているよ。どこもかしこも火点けと火消しの立廻りだ。」
自分に触れる話を避けてそう云う矢代に、久慈はふとびくりとして、自分もひとり胸中の何物かに火を点けたり消したりしているなと思った。街路に向って籐椅子を集めたあたりのテラスには、いつもの顔馴染の客たちがだんだん集って来た。およそ百人あまりもいるかと思えるそれらの中には、新しい顔も混っていたが、誰からともなく客の素性の聞えて来ているところを見ると、さも互に無関心らしくしている外人たちとはいえ、これでいつとはなく、話のついでに落ち合う客の話も洩れているのだろうと久慈は思い、自分や矢代や千鶴子、真紀子のことなども、おぼろに彼らの頭の中にも何かの影を与えているのだろうと想像された。いずれも各国から集って来ている火消しか火点けかにちがいない客たちだったが、パリでもこのドームは特種に名高いところと見え、郊外遠くで拾った自動車もただこのカフェーの名を一口云えば、忽ち通じて車の動くほどの便利さだった。初めは気附かなかったことだが、このようなカフェーのテラスでも、久慈たちの一団はいつの間にか生彩を放った組となっていた。千鶴子と真紀子が現れると、うるみを帯んだ繊細な肌を鳳の眼のように涼しく裂いて跳ねている瞼など、一きわ目立って人の視線を集めるのだった。
矢代は近よって来たボーイを顎でさして云った。
「このボーイだよ、この男、一昨日マネージャーにここで詰めよってストライキの膝詰談判をしてたんだが、今日はどっちもけろりとして仲がいいね。習慣というものは、喧嘩にまで形式を与えて来ているのかな。」
久慈は何も答えずそのまま階段を降り地下室の化粧室へ這入った。掃除婦が鏡に向ってひとり髪を梳いている閑そうな姿の上に電灯がついていた。彼は用をすませ、皿に金を入れようとしているとき千鶴子が上から降りて来た。久慈は財布に細かいのが見附からなかったので千鶴子に借りながら、
「君、今日はもうどこへも用がないの。」と訊ねた。
「ええ、これから版画のお土産でも買いに行こうかしらと思ってたとこなの。ね、一緒にお見立てして下さらない。でも、真紀子さんにいけなければ、御遠慮してちょうだい。」
白銅をハンドバッグの中から出し、千鶴子はもうみな分ってるのよときめつけるような冷たさで、ぴちりと皿の上に白銅を置いた。擦れ違いざま久慈は、不必要なまでに厳しい金属性の響きが髄に刺さるのを感じた。それではもうこれで最後のボタンをひきち切ら[#「ち切ら」に傍点]れたのだと、薄笑いのまま彼は階段を昇ってまたテラスの光線の中へ戻って来た。
千鶴子も戻って来たとき四人は附近の版画屋を数軒見て廻った。ある店でゴッホの若い時代の写実的な版画を見つけると、久慈は、これは誰の土産にもやれないと云って自分が買った。千鶴子はベラスケス、グレコ、ゴヤなどとスペイン物を一番欲しがった。イタリア物も少し買ったが、そのついでに子供たちにやるクレヨンも買い整えてからふと見ると、日本製というマークが這入っていた。
「いや、それは何より土産だから買って帰りなさいよ。」
と皆の大笑いする中で久慈は云った。一つだけ千鶴子はそれも買ってみてまた次の店へ歩いたが、帰り支度を手伝いながら歩いている途中にも、久慈は何んとなく日本へ自分も帰ってみたくなるのだった。
「どうも一人に帰り支度をされると淋しいね。脱けかかった歯を動かしてるみたいで、落ちつかないや。」
久慈もその気ならと思ったらしい真紀子もすぐそれに応じた。
「そうよ、あたしもさき[#「さき」に傍点]から、帰りたくってむずむずして来てたところなの。ほんとにあたしも帰りたいわ。帰ろうかしら。あたし。」
「お帰りなさいよ。」
と千鶴子はすかさず眼を輝かせて真紀子の方を一寸見返る様子だったが、ふと久慈と真紀子のことに気附いた素振りで急に黙ってまた歩いた。久慈は足早やに矢代を誘い婦人たちから放れていったとき、
「君、千鶴子さんとのことどうなったのだ。」
と矢代に小声で訊ねた。
「別段何んの変りもないね。」
と矢代は久慈から顔を背けるようにして答えた。
「それで良いのかい? 変らなくたって。」
「変ろうたって、変りようがないよ。」
「しかし、まアそう云ったものでもないだろう。何んとか約束めいたものでもしとくとか、何んとか方法があるからな。帰ればとにかくもう駄目だよ。」
矢代は黙っていた。
「僕が代りに相談に乗っといてやってもいいよ。何んの表現もしないというのは、こちらが困るより向うが困るんだからな。」
「とにかく、好意は有り難いが今日はそのことは、まアよそう。」
矢代はあくまで慎重な態度だった。久慈は、自分の問題が自分の中ばかりで膨れているように、矢代のも外から触られぬところに疼いているのであろうと思い返し、婦人たちが近よって来たとき話を一変させるのだった。
しかし、久慈はここで二人の争いつづけたものは、婦人のことではなかったことを思って心も慰められて来た。
「僕らがこうしてパリの街を歩いていて、ふと自分の考えていることに気がつくと、どういうものだか、どっか胸の底で一点絶望しているものを感じるね。君はどうだかしらないが、僕はたしかにそうだ。何んというか、眼にするものを尽く知り尽そうとしていら立つ精神が、これやとても駄目だと知って投げ出された後の、まアいわば、あきらめみたいなものだよ。この街の成り立っているそもそもの初めから、人間が今まで考えて来たこと、して来たことを、全部くぐり込もうとするもんだから、絶望をするんだ。つまり、自分がたったこれだけより知らんのだと、思わせられてばかりいるんだね。」
ある街角のところで突然久慈がこう云い出したが、皆だれもそれにつづけては云わなかった。すると暫くして矢代は笑い出して云った。
「前へ行っても駄目、後へ戻っても駄目だというんだろ。」
「そうだよ。ここは戦場と同じだね。頭の中は弾丸雨飛だ。看護卒が傍へ助けに来てくれても、こ奴までピストルを突きつけやがる。もう僕もだいぶ負傷をしたよ。」
「どっちも生還おぼつかないかな。」
笑うところも考えればもう二人は笑えなかった。
久慈は西日の照りつける中へ動かす矢代の足を見ながら、彼も同様に無数の手傷だなと思われ自然に労わりの心が起って来るのだった。
その夜千鶴子のホテル附近の広場に祭があるというので、夕食後四人はそれを見物に出ていった。広場に繁り揃ったマロニエの幹の間で、いつもとは違った篝火のような明るい電灯が輝き、色めいた屋台の夜店が沢山出ていた。機械の中から吹き出る綿菓子を雪のように積らせた店や、彩色入りの長い飴棒を束ねた店や、玩具店などと並んだところは、日本の縁日に似た町祭だったが、その間を歩く人人はあまり嬉しそうな様子もなかった。四人は夜店の天蓋の下を散歩してから見世物の前に立った。大きな本物の馬ほどもある背の高い廻転木馬が眼を怒らし人も乗せず街路樹の青葉を擦りつつ廻転している様は、空を馳けぬける駻馬のように勇しかった。その横に円形の音楽堂のようなものがあって、コンクリートの狭い床の上を、二人乗りの豆自動車が十数台も動いていた。
四人はそれを一番面白がって長く見ていた。天井の全面に張られた鋼鉄の網には電流が通じていると見え、豆自動車の頭から天井へそれぞれポールが延びていた。運転する客たちはみな愛人らしい婦人を自分の横に乗せ、わざと他人の自動車へ自分のを衝突させ瞬間のスリルを楽しむ風な遊びだった。乗っている人種がさまざまなところへ衝突御免の遊びであるから、見ていてこれほど秩序のない乱暴なものもなく、露骨に好意や敵意のまま突進して相手の悲鳴や笑いを楽しむのである。一人乗っているものは自由にひらりひらり衝突を避け、ここぞと思うと首を廻して矢庭に敵の胴腹へ突撃した。衝突の度びに車体の間から火華が噴いた。お人好しは突き衝られてばかりで、左を除けると右から来、右を除けると左から攻められ、うろうろしている間に前後左右から突き衝てられて立往生をしたりした。
久慈は朝チュイレリイの噴水を見て来たためか、これも何んとなくフランス革命を象徴している遊びのように思われて面白かった。
「やってみようじゃないか。国際法のない戦争だ。こんな勉強はないぜ。やろう。」
しかし、まだ矢代は、「うむ。」と云ったままやり出しそうにもなかった。美人の愛人を横に乗せている自動車ほど衝てられる気味があり、またあまり衝てられないのも流行らぬ店のようで、手持無沙汰な愛人たちの顔つきだった。
「おい、やってみようよ。手さえ横へ出していなきゃ絶対安全だよ。皆でやろうやろう。」
久慈はそう云いながら矢代を曳いて無理に自分がさきに立ち段を上った。おじけるかと思った真紀子や千鶴子も素直に後からついて来た。空いた自動車の一つに乗った久慈は横へ真紀子を乗せ、他の車に矢代と千鶴子が乗って無造作に運転し始めた。二人がきっちりと腰を並べられるほどな狭さの低い自動車だったが、さて走らせるとなると、あんまり自由にどちらへでも辷りすぎる不安定さで、なかなか思うようには動かなかった。
「ははア、これや、いよいよ真人間だ。」
と久慈は矢代の方を面白そうに見て笑った。少し辷り出してまだ笑いの停らぬ間に、もう残酷に一台の車が突進して来だ。そして、「あッ。」と云う途端に横腹へひと突き衝っていった。大きな音の割りに痛さを身に感じない具合は急に久慈を大胆にさせた。彼は電流の不安定さに任せて群がる自動車の中へ辷り込んだ。みな誰も手もとの狂いのままに相手の狂いも赦している寛容な顔がひどく久慈に気に入った。初めは人に突き衝ることよりどうして避けようかと気を張ったが、無秩序を理性としている他の車の進行に注意していては、この混雑した闘争のさ中をきり脱けることが出来なかった。あ奴が衝って来そうだぞと勘づくと必ず衝って来る予想に緊張して、衝突の前に早や真紀子は、「あッ。」と悲鳴をあげ久慈の胴に獅噛みつくのだった。二つ三つも衝りをくってぐらついたころ、矢代の車の中でも千鶴子の叫びが上っていた。
「よし、ひとつ矢代に衝ててやろう。」
と彼は真紀子に云った。そして、ハンドルを廻し矢代の車の胴を直角に狙って勢いをつけてみた。矢代より千鶴子の方が眼ざとく久慈を見つけると、恐れおののく風に上体を横に反らせて矢代の胴を抱き、追って来る車を見詰めつつ、
「いや、いや。」
と眉を顰めた。そこを久慈はにんまりと笑って突撃した。物凄い音響と同時に火華が散った。どちらの車も停ったまま睨み合っていたが、すぐ矢代の方から辷り出すと今度は彼が、久慈の方へ突っかかって来るのだった。
久慈は失敬しながら矢代の首を避け、遠廻りに廻ろうとしかけたそのとき、さきから意志を少しも見せず衝るを幸い薙ぎ倒していた青年の車が、「がッ。」と久慈の後尾を突き動かした。ハンドルを取りそこね、久慈の車は半廻転ほど横になった。すると、そこをすかさずまた矢代の車が一撃した。二度の衝撃で久慈はS字形に曲ったまま、思わぬ車の横腹へ突き衝ってしまった。そこへまた他のが蹌踉けて来て首を突っ込む。三つが捻じれているところへ意地悪いのが故意に首を入れたので、たちまち楔に裂かれた三つが意外な開きで散っていった。
幾らか自由になったとき久慈は矢代の方を見てみると、彼も反対の隅へ押し籠められていて、出ようとする度びに、後から後から来るのに突き衝てられて困っていた。
ところが、気をつけるともなく久慈は気附いたことだったが、千鶴子に突進してゆく車の多くの婦人は、運転している自分の男のそのときの心を忖度する気色でむっと衝る時ごとに怒った表情に変った。そして、誰かから自分が突撃を受けると遽に笑顔の悲鳴となるのだった。しかし、そう思えば、たしかに久慈も矢代へ突きかかってゆくときには、千鶴子に点数を入れたい気持ちが強いのを思い出した。殊に千鶴子への態勢を構えるとき、ぴたりと矢代に身体をよせかける千鶴子のなまめかしさが、妙に敵意の残酷さを久慈に抱かせ、彼は廻すハンドルに手心も加えず突き放すのだった。
場内は絶えず微妙に変転するので、叫声と笑い以外に物を云うものは一人もなかった。同乗者は身体がくっついているためにその動きで忽ち意志が分った。久慈は真紀子の希望する男の車が近づくと、自然に延びる真紀子の体を感じ、突然その方へハンドルをひねり変えて突き衝った。が、また真紀子をつけ狙う男の車に向かっても容赦なく突撃した。
運転が馴れるのに随って車はかなり自由に操縦することが出来た。そうなると争う気持ちを技術の拙劣さに隠す便利も出来て、一層この勝負は時間を忘れ、同乗の婦人も看板娘のようにますます役目を自覚して来る。そして、衝突の度びに発する火華が口づけの変形とも成り深まって来るのだった。
特に自分の好きな男と衝突したとき、女のあげる悲鳴は大げさだった。一人の女は絶えずこれ見よとばかりに好んで悲鳴を上げた。久慈はその女が小憎らしくて突きかかったが、その度びにも女は喜びの悲鳴を上げるのだった。一番操縦の上手い顔の緊った美しい青年は、悠悠とひとり遠方を廻って来ては、急ピッチでいつも真紀子の横腹へ突入して来た。真紀子もその青年が近よる度びにそわそわとして、自分以外の誰に衝るものかと注意を怠らない風情だった。
久慈は度び度び美青年の自動車を狙って衝った。青年の猛烈な攻撃が頻発して来ると、久慈は真紀子