第一章
Kが到着したのは、晩遅くであった。村は深い雪のなかに横たわっていた。城の山は全然見えず、霧と闇《やみ》とが山を取り巻いていて、大きな城のありかを示すほんの微かな光さえも射していなかった。Kは長いあいだ、国道から村へ通じる木橋の上にたたずみ、うつろに見える高みを見上げていた。
それから彼は、宿を探して歩いた。旅館ではまだ人びとがおきていて、亭主は泊める部屋をもってはいなかったが、この遅い客に見舞われてあわててしまい、Kを食堂の藁《わら》ぶとんの上に寝かせようとした。Kはそれを承知した。二、三人の農夫がまだビールを飲んでいたが、Kはだれとも話したくなかったので、自分で屋根裏から藁ぶとんをもってきて、ストーブのそばで横になった。部屋は暖かく、農夫たちは静かだった。Kは疲れた眼で彼らの様子をうかがっていたが、やがて眠りこんだ。
だが、それからすぐ起こされてしまった。町方の身なりをした俳優のような顔の、眼が細く眉《まゆ》の濃い一人の若い男が、亭主とともにKのそばに立っていた。農夫たちもまだ残っていて、二、三の者はもっとよくながめて話を聞こうと、椅子をめぐらしている。若い男は、Kを起こしたことをひどくていねいにわびて、自分は城の執事の息子だと名のり、それからいうのだった。
「この村は城の領地です。ここに住んだり泊ったりする者は、いわば城に住んだり泊ったりすることになります。だれでも、伯爵の許可なしにはそういうことは許されません。ところが、あなたはそういう許可をおもちでない。あるいは少なくともその許可をお見せになりませんでした」
Kは身体を半分起こして、髪の毛をきちんと整え、その人びとを下から見上げて、いった。
「どういう村に私は迷いこんだのですか? いったい、ここは城なんですか?」
「そうですとも」と、若い男はゆっくりいったが、そこここにKをいぶかって頭を振る者もいた。「ウェストウェスト伯爵様の城なのです」
「それで、宿泊の許可がいるというのですね?」と、Kはたずねたが、相手のさきほどの通告がひょっとすると夢であったのではないか、とたしかめでもするかのようであった。
「許可がなければいけません」という答えだった。若い男が腕をのばし、亭主と客たちとに次のようにたずねているのには、Kに対するひどい嘲笑が含まれていた。
「それとも、許可はいらないとでもいうのかな?」
「それなら、私も許可をもらってこなければならないのでしょうね」と、Kはあくびをしながらいって、起き上がろうとするかのように、かけぶとんを押しやった。
「それでいったいだれの許可をもらおうというんですか?」と、若い男がきく。
「伯爵様のですよ」と、Kはいった。「ほかにはもらいようがないでしょう」
「こんな真夜中に伯爵様の許可をもらってくるんですって?」と、若い男は叫び、一歩あとしざりした。
「できないというのですか?」と、Kは平静にたずねた。「それでは、なぜ私を起こしたんです?」
ところが今度は、若い男はひどくおこってしまった。
「まるで浮浪人の態度だ!」と、彼は叫んだ。「伯爵の役所に対する敬意を要求します! あなたを起こしたのは、今すぐ伯爵の領地を立ち退かなければならないのだ、ということをお知らせするためです」
「道化《どうけ》芝居はたくさんです」と、Kはきわだって低い声でいい、ごろりと横になり、ふとんをかぶった。
「お若いかた、あなたは少しばかり度を越していますよ。あすになったらあなたの無礼についてお話しすることにしましょう。ご亭主とそこの人たちとが証人です。証人なんかが必要としてですがね。だがついでに、私は伯爵が招かれた土地測量技師だということは、よく聞いておいていただこう。器材をたずさえた私の助手たちは、あす車でやってくるのです。私は雪でここにくるのを手間取りたくなかったのだが、残念ながら何度か道に迷ってしまい、そのためにこんなに遅くなってやっと着いたのです。城に出頭するにはもう遅すぎるということは、あなたに教えられないうちから、自分でもとっくに知っていましたよ。だから私はここのこんな宿屋で満足もしたのです。それなのにあなたは、そのじゃまをするという――これはおだやかないいかただが――失敬なことをやられた。これで私のいうことは終りました。おやすみなさい、みなさん」そしてKは、ストーブのほうへぐるりと向きなおった。
「測量技師だって?」と、背後でためらうようにたずねる声が聞こえたが、やがてみんなが黙った。ところが若い男は、まもなく気を取りもどし、Kの眠りに気を使ってはいるといえる抑えた調子ではあるが、彼にも聞き取れるほどには高い声で、いった。
「電話で問い合わせてみよう」
なに、この田舎宿には電話まであるのか。すばらしい設備をしているものだ。この点ではKは驚いたが、全体としてはもちろん予期したとおりだった。電話はほとんど彼の頭の真上に備えつけられているとわかったが、寝ぼけまなこで見のがしていたのだ。その若い男が電話をかけなければならないとすると、どんなに気を使ったとしてもKの眠りを妨げないわけにはいかないわけで、問題はただKが男に電話をかけさせておくかどうかということだけである。Kはかけさせることに決心した。しかし、そうなるともちろん、眠っているふうをよそおうことは無意味なので、彼は仰向《あおむ》けの姿勢へもどった。農夫たちがびくびくしながら身体をよせ、話し合っているのが見えた。土地測量技師の到着という事件はつまらぬことではなかった。台所のドアが開き、ドアいっぱいにおかみのたくましい姿が立ちはだかった。亭主が彼女に報告するために爪先で歩いて近づいていった。それからいよいよ通話が始まった。執事は眠っていたが、執事の下役の一人のフリッツ氏が電話に出たのだ。例の若い男はシュワルツァーと名のったが、Kを見つけたことを語った。問題の人物は三十代の男で、ひどいぼろを着ており、藁ぶとんの上でゆっくりと眠っていた。ちっぽけなリュックサックを[#「リュックサックを」は底本では「リュックサツクを」]枕にし、ふしのついたステッキを手のとどくあたりに置いている。もちろん、この男は自分にはあやしい人物と思われた。宿の亭主が義務をおこたったらしいので、事を徹底的に調べることが、自分、つまりシュワルツァーの義務と考えた。起こしたことも、訊問《じんもん》をしたことも、伯爵領から追放するといって職務上の戒告を行なったことも、Kのほうはひどく不機嫌な態度で受け取った。それも、最後にわかったことだが、おそらくもっともなことであったらしい。というのは、この男は伯爵様に呼ばれた測量技師だと主張しているのだから。もちろん、そんな主張をもっと検討してみることは、少なくとも形式上の義務ではある。そこで自分シュワルツァーとしてはフリッツ氏にお願いするのだが、こんな測量技師がほんとうにくることになっているものかどうか、本部事務局へきき合わせ、その返事をすぐ電話してもらいたい、ということであった。
それから静かになった。フリッツがむこうで問い合わせしており、こちらでは返事を待っているわけだった。Kは今までどおりにしていて、一度も振り向いたりせず、好奇心なんか全然ないふうで、ぼんやり前を見ていた。悪意と慎重さとのまじったシュワルツァーの話のしかたは、いわば外交的な儀礼を身につけているといった感じを彼に与えたが、城ではシュワルツァーのような下っぱの者でもそうした儀礼を手軽に使っているのだ。また城の連中は勤勉さにも事欠かなかった。本部事務局は夜勤もやっていた。それですぐさま返事をよこしたらしかった。それというのは、早くもフリッツが電話をかけてきたのだ。とはいえ、この知らせはきわめて短いもののようだった。シュワルツァーが腹を立てて受話器を投げ出したのだ。
「ほら、いったとおりだ」と、彼は叫んだ。「測量技師なんていう話は全然あるものか。卑しい嘘つきの浮浪人なんだ。おそらくもっと悪いやつなんだろう」
一瞬Kは、シュワルツァーも農夫たちも亭主もおかみも、みんなが自分めがけて押しよせてくるのではないか、と思った。少なくとも最初の襲撃を避けようとして、すっかりふとんの下にもぐりこんだ。そのとき、電話がもう一度鳴った。しかも、とくに強く鳴ったようにKには思われるのだった。彼はゆっくりと頭をもたげた。またもやKについての電話だということはありそうにもなかったのだが、みんなは立ちすくんでしまい、シュワルツァーは電話機のところへもどっていった。彼はそこでかなり長い説明を聞き取っていたが、やがて低い声でいった。
「それじゃあ、まちがいだというんですね? そいつはまったく面白くない話ですよ。局長自身が電話をかけられたんですか? 変だ、変ですね。測量技師さんに私からなんて説明したらいいんです?」
Kはじっと聞いていた。それでは城は彼を土地測量技師に任命したのだ。それは一面、彼にとってまずいことだった。というのは、そうだとすると城では彼について必要なことをいっさい知っており、いろいろな力関係をすべて計算ずみで、微笑をたたえながら闘いを迎えた、ということになる。だが、他面、好都合でもあった。というのは、それは彼の考えによると、彼が過少に評価されており、そのためにはじめから望みうる以上に自由をもつ、ということを立証するものであった。そして、もしこうやって彼の土地測量技師としての身分を承認して、自分たちがたしかに精神的に上位にいることを示し、それによって長く彼に恐怖の気持を抱かせておくことができる、と思っているのなら、それは思いちがいというものだ。少しばかりぞっとさせられはしたが、それだけの話だ。
おどおど近づいてくるシュワルツァーにKは合図して、立ち去らせた。亭主の部屋へ移るようにみんなにせき立てられたが、彼はことわって、ただ亭主からは寝酒を、おかみからは石鹸と手拭といっしょに洗面器を受け取った。広間から出ていってくれと要求する必要は全然なかった。あしたになってKにおぼえておられることのないようにと、みんな顔をそむけてどやどやと出ていってしまったのだった。ランプが消され、彼はやっと休むことができた。ほんの一度か二度、走りすぎる鼠《ねずみ》の音にちょっと妨げられただけで、翌朝までぐっすり眠った。
朝食のあとで――その朝食の費用も、Kのすべての食事同様に、亭主の申し出によって城が支払うということであったが――彼はすぐ村へいこうとした。きのうのふるまいを思い出して亭主とはどうしても必要なことしかしゃべらないでいたのだったが、亭主が無言の哀願をこめていつまでも彼のまわりをうろつき廻っているので、ついかわいそうになり、しばらく身近かに腰をかけさせてやった。
「私はまだ伯爵を知らないが」と、Kはいった。「いい仕事をすればいい金を払ってくれるということだけれど、ほんとうかね? 私のように妻子から遠く離れて旅をすると、帰るときにはいくらかはもち帰りたいものだよ」
「その点なら心配ご無用です。支払いの悪いという苦情は別に聞かれませんから」
「そうかい」と、Kはいった。「私は臆病者の仲間ではないし、伯爵にだって自分の考えをいうことができる。しかし、おだやかに城の人たちと話がつくなら、むろんそのほうがずっとよいからね」
亭主はKと向かい合って窓ぎわの台に坐り、もっと楽に腰をかけようとはしなかった。そして、大きな褐色の不安げな眼でKをずっとながめつづけていた。はじめは彼のほうからKのところへ押しかけてきたのだったが、今では逃げ去りたいというような様子だった。伯爵のことをきかれるのがこわいのだろうか? Kのことも偉い人と思っているのだが、その「偉い人」たちの信用できないところがこわいのだろうか?
Kは亭主の気をそらさなければならなかった。彼は時計を見て、いった。
「もうまもなく私の助手たちがくるだろうが、彼らを君のところへ泊めてくれることができるかね?」
「それはもう、旦那」と、彼はいった。「でも、その人たちもあなたといっしょにお城に住むんじゃありませんか?」
亭主はこんなにあっさりと客たち、ことにKという客を棄ててしまおうとしているのだろうか? Kに対してどうしても城へいけといっているようなものではないか。
「それはまだきまっていないんだ」と、Kはいった。「まず、どんな仕事をさせようとしているのかを知らなければならない。たとえばこの辺で仕事をするというのなら、この辺に住むのがりこうだろう。それにおそらく、上の城のなかで暮らすことは私の性には合わないだろう。私はいつでも自由でいたいよ」
「あなたは城のことを知らないんですよ」と、亭主は低い声でいった。
「そりゃあ、そうさ」と、Kはいった。「早まって判断してはならない。今のところ私が城について知っていることといえば、ただ城の人たちはちゃんとした土地測量技師を見つけ出すことをわきまえているということだけだ。おそらく城にはそのほかにもいろいろすぐれたところがあるだろうがね」そして彼は立ち上がり、落ちつかない様子で唇をかんでいる亭主を自分のところから解放してやろうとした。この男の信頼を得ることはやさしいことではなかった。
部屋を出ようとして、壁の上の黒い額ぶちにはまった暗い肖像画がKの目にとまった。寝床のなかにいるときから気がついていたのだが、遠くからでは細部がはっきりわからず、ほんとうの絵は額ぶちから取り去られてしまったのであって、黒い裏打ちの布だけが見えているのだ、と思っていた。ところがそれは、今わかってみると、ほんとうに絵であった。およそ五十歳ばかりの男の半身像だ。頭を深く胸の上に垂れているので、ほとんど眼は見えないが、頭を垂れているために重たげな広い額とがっちりした鉤鼻《かぎばな》とがくっきりと目立つ。頭のポーズのために顎《あご》に押しつけられている顔一面の髯は、ずっと下まで突き出ている。左手は、指を拡げてふさふさした頭髪のなかに入れられているが、もう頭をもち上げる力はないという風情《ふぜい》だ。
「あれはだれだい?」と、Kはきいてみた。「伯爵かい?」Kはその絵の前に立ち、亭主のほうは全然振り向かなかった。
「いいえ、執事です」と、亭主がいった。
「城にはりっぱな執事がいるんだね。ほんとうだよ」と、Kはいった。「あんなできそこないの息子をもっているのは残念だけれど」
「いや」と、亭主はいって、Kを少し自分のほうに引きよせて、彼の耳にささやいた。「シュワルツァーはゆうべは大げさなことをいったんですよ。あの男のおやじさんはほんの下級の執事なんです。しかもいちばん下っぱの一人です」この瞬間、Kには亭主がまるで子供のように思われた。
「あん畜生!」と、Kは笑いながらいったが、亭主はそれに合わせて笑おうともせず、こういった。
「あの男のおやじだって力はあるんです」
「くだらない! 君はだれでも力があると思うんだ。私のことなんかもそうだろう?」
「旦那は力があるとは思いません」と、彼はおどおどしながら、しかしまじめくさっていった。
「それなら君は、ちゃんと見る目があるというわけだ」と、Kはいった。「つまり、打ち明けていうと、私にはほんとうに力はないんだよ。そこで力のある人たちにはおそらく君にも劣らず尊敬の気持をもっているのだが、ただ君ほど正直ではないから、いつでもそんなことを口に出していってしまおうとはしないわけさ」
そしてKは、亭主を慰めてやり、自分にもっと好意をもたせるようにしてやろうとして、亭主の頬を軽くたたいた。すると亭主もやっと少しばかり微笑した。亭主はほんとうに、ほとんど髯のない柔和《にゅうわ》な顔をした若者だった。どうしてこの男があのふとった老《ふ》けたような細君といっしょになんかなったんだろう? その細君といえば、そのときのぞき窓のむこうの台所で、両肘を身体のわきにぐっと突っ張ってせわしく立ち働いているのが見えた。Kは今はもう亭主にやかましいことをいいたくはなかった。やっと手に入れた相手の微笑を追い払いたくはなかったのだった。そこで、ドアを開けるように亭主に合図だけすると、晴れ渡った冬の朝景色のなかへ出ていった。
今やKは、城が澄んだ空気のなかで上のほうにはっきりと浮かび上がっているのを見た。あらゆるものの形をなぞりながらあたり一面に薄い層をつくって積っている雪のなかで、城はいっそうくっきりと浮かんでいた。ところで上の山のあたりは、この村のなかよりもずっと雪が少ないように見えた。ここの村のほうでは、きのう国道を歩いたときに劣らず、歩くのに骨が折れた。村では雪が小屋の窓までとどいていて、低い屋根の上にも重くのしかかっていたが、上の山のほうではすべてのものがのびのびと軽やかにそびえていた。少なくともここからはそう見えた。
城は、遠く離れたここから見える限りでは、Kの予期していたところにだいたい合っていた。古びた騎士の山城でもなく、新しい飾り立てた館《やかた》でもなく、横にのびた構えで、少数の三階の建物と、ごちゃごちゃ立てこんだ低いたくさんの建物とからできていた。これが城だとわかっていなければ、小さな町だと思えたかもしれない。ただ一つの塔をKは見たが、それが住宅の建物の一部なのか、それとも教会の一部なのかは、見わけがつかなかった。鴉《からす》のむれがその塔のまわりに輪を描いて飛んでいた。
Kは城に眼を向けたまま、歩みつづけた。ほかには彼の気にかかるものは何もなかった。ところが、近づくにつれ、城は彼を失望させた。それはほんとうにみじめな小さな町にすぎず、田舎家が集ってつくられていて、ただおそらくどの家も石でつくられているということによってきわだって見えるだけだった。だが、家々の上塗りもずっと前にはげ落ち、石はぼろぼろとくずれ落ちそうに見えた。Kはふと、自分の故郷の町を思い出した。故郷の町も、このいわゆる城なるものにほとんど劣ってはいなかった。Kにとって城を視察するだけが問題であったのなら、この長旅はもったいない話で、それくらいならもう長いあいだいったことのない昔の故郷をもう一度訪ねたほうがりこうというものだったろう。そして彼は、故郷の教会の塔とかなたにそびえる塔とを頭のなかで比べてみた。きっぱりした恰好で、尖端がためらうこともなく上空をめざしていて、屋根は広く、赤瓦につながっているあの故郷の教会の塔。それはたしかに地上の建物だが、――それ以外のものをどうしてわれわれは建てられるだろうか――低い家屋のむれよりはずっと高い目標をもち、陰鬱《いんうつ》な日常の日々がもっているよりはずっと明るい表情をもっていた。ここで上のほうに見える塔は、――それは眼に見えるただ一つの塔だった――今わかってみると、住居の塔、おそらくは城の母屋《おもや》の塔であり、単調な円い建物で、その一部はきづた[#「きづた」に傍点]によってうまく被われていた。小さな窓がいくつかついていて、それが今、太陽の光のなかで輝いていた。――その光景には何か気ちがいめいた趣きがあった――さらに塔の尖端はバルコニー風になっていて、その胸壁が、まるでおどおどした子供の手か投げやりな子供の手で描かれたように、不確かな様子で、不規則に、ぼろぼろに、青空のうちにぎざぎざの輪郭を浮かび上がらせていた。それは、何か正当の理由で家のなかのいちばん離れた建物に閉じこめられねばならなかった悲しい家の住人の一人が、わが身を世間に示そうとして、屋根を突き破り、ぐっと身体を起こしたような恰好だった。
Kは、立ちどまっているといっそう判断力がもてるというかのように、また立ちどまった。だが、そうはいかなかった。彼が立ちどまっていたそばにある村の教会の裏手に、――それはじつは礼拝堂にすぎなかったが、信者団を容れることができるように、納屋《なや》をつけたような恰好で拡張されたものだった――学校があった。ほんの一時的なものだという性格と、きわめて古いという性格とを奇妙に兼ねている低くて長い建物が、柵《さく》をめぐらした校庭のうしろに立っていた。その校庭は、今は雪野原になっていた。ちょうど子供たちが教師とともに出てきた。子供たちは密集して教師を取り囲み、みんなの眼が教師に向けられて、四方八方から口々に絶え間もなくしゃべり立てていたが、Kには子供たちの早口の言葉が全然聞き取れなかった。教師は、小柄で肩幅の狭い若い男だが、別に滑稽に見えるでもなく身体をひどくきちんと立て、すでに遠くからKを眼のうちに捉えていた。といっても、この教師の一団のほかには、Kがこのあたりにいるただ一人の人間だったのだ。よそ者であるKは、このひどく高圧的な小男に向って、自分のほうから挨拶した。
「こんにちは、先生」と、彼はいった。たちまち子供たちは黙った。この突然の静けさが自分の言葉を迎えるための準備となったので、教師の気に入ったようであった。
「城を見ていらっしゃるんですか?」と、教師はKが予期していたよりはものやわらかにたずねた。だが、Kがそんなことをやっているのに賛成できない、という調子だった。
「そうです」と、Kはいった。「私はよそからきたんです。ゆうべここにきたばかりです」
「城はお気に入らぬでしょう?」と、教師は早口でたずねた。
「なんですって?」と、Kは少しびっくりしてきき返し、それからもっとおだやかな形で問いをくり返した。「城が気に入ったかとおっしゃるんですか? 気に入らないなんて、どうしてお考えになるのです?」
「よその人には気に入らないのです」と、教師がいった。ここで相手に逆らうようなことはいうまいとして、Kは話を変え、きいてみた。
「あなたは伯爵をご存じでしょうね?」
「いや」と、教師はいい、身を転じようとした。だが、Kは追いすがって、もう一度たずねた。
「なんですって? 伯爵をご存じないとおっしゃるんですか?」
「どうして私が伯爵を知っているなんてお思いですか?」と、教師は低い声でいい、フランス語で声高《こわだか》につけたした。
「罪のない子供たちがいることを頭に入れておいてください」Kはその言葉をいいたねにして、たずねた。
「先生、一度あなたをお訪ねしてよろしいでしょうか? 私はしばらくこの土地にいるのですが、もう今から少し心細い気がするんです。私は農夫の仲間でもないし、城の人間でもないんです」
「農夫と城とのあいだには、たいしてちがいはありませんよ」と、教師はいった。
「そうかもしれません」と、Kはいった。「でも、それは私の状態を変えはしません。一度お訪ねしてよろしいですか?」
「私はスワン街にある肉屋に住んでいます」
これは招待するというよりは、住所をいったまでのことだったが、それでもKはいった。
「わかりました。伺います」
教師はうなずき、またもや叫び声を上げ始めた子供たちのむれといっしょに、立ち去っていった。彼らはまもなく急な坂になっている小路のうちに消えた。
Kのほうはぼんやりしてしまい、今の対話で気分をそこねていた。到着以来はじめて、ほんとうの疲労というものを感じた。ここにくるまでの遠い道が彼を疲れさせたなどとは思われなかった。どんなに何日ものあいだ、冷静に一歩一歩とさすらいつづけてきたことか!――ところが今や、過度の緊張の結果が現われたのだった。もちろん、はなはだまずいときにである。新しい知合いを探そうという気持が、逆らいがたく彼の心をひいていた。しかし、新しい知合いのできるごとに、疲労は強まっていく。きょうの状態では、少なくとも城の入口まで無理に散歩の足をのばそうとすれば、もう手にあまるほどの骨折り仕事だった。
こうして彼は歩みをつづけていった。しかし、長い道であった。つまり、村の大通りであるこの通りは、城のある山へは通じてはいなかった。通りはそこの近くへ通じているだけであり、次にまるでわざと曲がるように曲がってしまっていた。そして、城から遠ざかるわけではないのだが、近づきもしなかった。これでやっと通りは城のほうへ入っていくにちがいない、とKはいつでも期待するのだった。そして、そう期待すればこそ、歩みをつづけていた。疲労のために、この道をいくのをやめることをためらっているようであった。どこまでいっても終ろうとしないこの村の長さに彼は驚いてもいた。次から次へと小さな家々と凍《い》てついた窓ガラスと雪とがつづき、人気《ひとけ》はさっぱりなかった。――とうとうこのしつっこい通りから身体を引きちぎるようにして離れ、狭い小路へと入っていった。そこは雪がいよいよ深く、沈んでいく足を抜き出すことはむずかしい仕事で、汗がどっとふき出てきた。彼は突然立ちどまり、もうこれ以上は歩みをつづけられなくなった。
といって、彼はただひとり見捨てられてしまったわけではなかった。右にも左にも農家が立っていた。彼は雪の玉をつくって、とある窓へ投げつけた。すぐにドアが開き、――これは村の道を歩いているあいだに最初に開いたドアであった――褐色の毛皮の上衣を着た老人の農夫が、頭をわきにかしげて、親しげに、またよわよわしい様子で、そこに立っていた。
「少しあなたのところへよらせて下さいませんか」と、Kはいった。「とても疲れているんです」
彼は老人のいうことを全然聞いていなかったが、板が自分のほうにさし出されたのをありがたく受けた。板はすぐに彼を雪から救い出してくれた。二、三歩で彼は部屋のなかに立った。
薄暗い光のなかにある大きな部屋だった。戸外から入ってくる者には、はじめは何も見えなかった。Kは洗濯バケツにぶつかってよろめいた。女の手が彼の身体を押しとどめた。片隅からやかましい子供たちの叫び声がきこえてきた。もう一方の隅から煙が巻き上がり、薄明りをほんとうの暗がりに変えていた。Kはまるで雲のなかに立っているようだった。
「酔っ払っているんだ」と、だれかがいった。
「あんた、だれだね?」と、偉そうな声が叫んだが、老人に向けられたらしかった。「なぜその男をつれこんだんだ? 小路をのろのろ歩いているやつは、みんなつれこんでいいのか?」
「私は伯爵の土地測量技師です」と、Kはいって、なおも姿の見えない者に向って言いわけしようとした。
「ああ、測量技師なのね」と、一人の女の声がいい、それから完全な沈黙がつづいた。
「あなたがたは私をご存じなんですね?」と、Kはたずねた。
「知っていますとも」と、短く同じ声がいった。Kを知っているということは、そうかといってKに対して好感をもたせてはいないようだった。
やっと煙が少し消え、Kはおもむろに様子がわかってきた。いっせいに洗濯する日らしかった。ドアの近くでは下着の洗濯をやっていた。ところが煙はもう一方の隅からきていて、その隅ではKがこれまでに見たこともないような大きな木のたらいのなかで――そのたらいはおよそベッド二つ分ほども大きかった――湯気を立てている湯に二人の男が入浴していた。しかし、もっと驚くべきものは、どういう点が驚くべきかははっきりとはわからなかったのだが、右手の隅であった。そこでは部屋の裏壁にあるただ一つの大きな隙間《すきま》を通して、おそらく内庭からくるのだろうが、青白い雪明りが射しこんできて、部屋の隅の奥深くの背の高い肘掛椅子に疲れはてて横にならんばかりに坐っている一人の女の衣服に、絹のつやのような光を与えていた。女は乳呑児《ちのみご》を胸に抱いている。女のまわりには、見ただけで農夫の子供たちとわかるような二、三人の子供たちが遊んでいた。しかし、女はこの子供たちの母親とは見えなかった。もちろん、病気と疲労とは農夫をさえも繊細らしく見せるものだ。
「かけなさい」と、男たちの一人がいった。それは顔一面に髯《ひげ》を生やし、その上、口髭《くちひげ》までつけた男で、その口髭の下で荒い息をしながらいつでも口を開けたままにしているのだが、この男がおどけてみせようとして、たらいの縁ごしに手で長持を示しながら、湯をKの顔いっぱいにはねかけた。長持にはすでに、ぼんやり考えこんだようにして、Kをつれこんだ老人が腰をかけていた。Kは、やっと腰をかけてよいといわれたのがありがたかった。もうだれ一人として彼のことを気にかける者はいなかった。洗濯バケツのそばの女は、髪はブロンドで、若々しくぴちぴちしていたが、仕事をしながら低い声で歌っている。入浴している二人の男は、足を踏みならしたり、身体を向き変えたりしており、子供たちはこの男たちに近づこうとするが、Kにもとばっちりがこないではいない勢いのいいしぶきで追い払われた。肘掛椅子の女は死んだように身体を横たえ、胸の子供を少しも見ようともしないで、漠然と空《くう》をながめていた。
Kはおそらく、この変化しない美しい悲しげな女の姿を長いあいだ見つめていたのだったろうが、やがて眠りこんでしまったにちがいなかった。というのは、高い声に呼ばれてはっと眼をさましたときに、彼の頭は隣りに坐っている老人の肩の上にのっていたのだった。男たちは入浴を終えた。湯のなかでは、ブロンドの女に世話されながら、今度は子供たちがあばれ廻っていた。湯から上がった男たちは、衣服を着てKの前に立った。わめき立てる髯面《ひげづら》の男は、二人のうちでつまらぬほうの男であるとわかった。つまり、もう一方の男は髯面の男よりも大きいわけでなく、ずっと髯は少なかったが、もの静かな、ゆっくりとものを考える男で、身体つきがゆったりとし、顔の幅も広く、頭を垂れたままでいた。
「測量技師さん」と、男がいった。「あなたはここにいるわけにはいきません。ご無礼はお許しください」
「私もとどまるつもりはなかったのです」と、Kはいった。「ただちょっと休ませていただこうと思ったのでした。もうすみましたから、出かけましょう」
「おそらくこんなひどいおもてなしに驚いておられるでしょうね」と、男はいった。「しかし、お客をもてなすということは、私どものこの土地では慣《なら》わしではないので。私どもはお客はいらないのです」
眠ったことでいくらか元気を回復し、前よりか少し耳もはっきり聞こえるようになったKは、この率直な言葉を悦《よろこ》んだ。彼はずっと自由に身体を動かし、ステッキをあるいはここ、あるいはあそこというふうにつきながら、肘掛椅子の女のほうに近づいていった。それにKは、身体からいってもこの部屋ではいちばん大きかった。
「そうですとも」と、Kはいった。「どうしてあなたがたは客がいりましょう。でもときどきは客も必要ですよ、たとえばこの私のような土地測量技師をね」
「そんなことは知りませんよ」と、男はゆっくりといった。「あなたを呼んだのなら、おそらくあなたが必要なんでしょうよ。それはきっと例外なんです。しかし、私たち身分の低い者たちは、規則をきちんと守ります。その点は悪く思ってもらっては困ります」
「いや」と、Kはいった。「私はあなたやここのみなさんにお礼をいわなければならないくらいです」そして、だれにとっても思いがけないことだったが、Kはあざやかに身をひるがえし、女の前に立った。疲れた青い眼で女はKを見つめた。絹の透明な頭巾《ずきん》が額のまんなかまで垂れ下がり、乳呑児が胸のなかで眠っていた。
「君はだれです?」と、Kはきいた。
さげすむように――その侮蔑《ぶべつ》がKに向けられたのか、それとも自分自身の答えに向けられたのか、それははっきりはしなかったが――彼女はいった。
「城の娘ですわ」
これがほんの一瞬のことであった。早くもKの左右には例の男のそれぞれが立ち、まるでこのほかにわからせる手段はないとでもいうかのように、黙ったまま、しかし力いっぱいにKをドアのところへ引っ張っていった。何がおかしいのか、老人がそのとき大悦びで、手をたたいた。洗濯女も、突然気がちがったようにさわぎ立てている子供たちのわきに立って、笑った。
しかし、Kはまもなく小路に立っていた。男たちは戸口のところからKを監視している。また雪が降ってきた。それでも少しは明るくなったように思われた。髯面の顔がいらいらして叫んだ。
「どこへいこうっていうのかい? こっちは城へいくんだし、こっちは村へいくんだ」
Kはその男には返事をしなかった。で、この男よりはまさってはいるけれども、もったいぶっているやつだとKには思われるほうの男に向って、こういった。
「あなたはなんというかたで? 休ませていただいたお礼はどなたに申し上げたらいいんです」
「なめし革屋のラーゼマンです」という返事だった。「でも、あなたはだれにも礼などいう必要はありませんよ」
「そうですか」と、Kはいった。「おそらくまたお会いできるでしょう」
「できないと思いますね」と、男はいった。
この瞬間、髯面のほうが手を上げて叫んだ。
「こんにちは、アルトゥール! こんにちは、イェレミーアス!」
Kは振り返った。それではこの村の小路にもやはり人間が現われるのだ! 城の方角から二人の中背の若者がやってきた。二人ともひどく痩せていて、ぴったりした服を着ており、顔もひどく似ていた。顔の色は暗褐色だが、とがった髯がかくべつ黒いのできわ立っていた。二人は、通りがこんな有様なのに驚くほど足早に歩き、歩調をとりながら細い足を動かしていた。
「どうしたんだい?」と、髯面の男が叫んだ。叫ばなければ二人には話が通じなかったのだ。それほど足早に歩いており、立ちどまりもしなかった。
「仕事さ!」と、二人は笑いながら叫び返してきた。
「どこでだい?」
「宿屋でさ」
「私もそこへいくんだ!」と、Kは突然ほかのだれよりも大声で叫んだ。二人につれていってもらいたい、とひどく望んだのだった。この男たちと知合いになることはたいして有利だとも思われなかったのだが、元気をつけてくれるよい道づれであるようには思えた。二人はKの言葉を聞いたが、ただうなずいただけで、いき過ぎてしまった。
Kはなおも雪のなかに立っていた。雪から足を上げ、次にまた少し前の深い雪へその足を沈める気にはほとんどなれなかった。なめし革屋とその仲間とは、Kをさっぱりと追い払ったことに満足して、たえずKのほうを振り返りながら、ほんの少しばかり開いているドアを通って家のなかへゆっくりと身体を押しこんだ。そして、Kは身を包んでいく雪のなかにただひとりになっていた。
「もしおれがただ偶然、そしてこうしようというつもりでなくここに立っているのなら、ちょっとばかり絶望するところだな」と、そんなことが彼の頭に思い浮かんだ。
そのとき、左手の小屋でちっぽけな窓が開いた。閉まっているときは、それは濃い青色に見えていた。おそらく雪の反射を受けていたからだろう。あんまりちっぽけなので、開かれた今となると、のぞいている者の顔の全体は見えず、眼だけが見えた。老人の褐色の眼だった。
「あそこに立っているよ」と、ふるえるような女の声がいうのをKは聞いた。
「あれは測量技師だよ」と、男の声がいった。それから男のほうが窓のそばに出てきて、それほどぶっきらぼうにではなくKに問いかけてきたが、自分の家の前の通りで起こることは万事きちんとしていることが大切だ、というような調子だった。
「だれを待っているのかね?」
「乗せてくれるそりを待っているんだ」と、Kはいった。
「ここにはそりはきませんよ」と、男はいった。「ここには乗りものは通りませんよ」
「だって、これは城へ通じる道じゃないか」と、Kは異論を挾んだ。
「なに、それでも」と、男はある頑固さをもっていった。「ここには乗りものは通りませんよ」
それから二人は沈黙した。だが、男は何か考えているらしかった。というのは、煙の流れ出てくる窓をまだ開け放しのままにしているのだった。
「ひどい道だ」と、Kは男に助け舟を出すようにいった。しかし、男はただこういうだけだった。
「むろんそうでさあ」
だが、しばらくして男はいった。
「お望みならば、わしがあんたをわしのそり[#「そり」に傍点]でつれていってあげるがね」
「どうかそうしてくれないか」と、Kは悦んでいった。「いくらくれろというんだね」
「一文もいらないよ」と、男がいう。
Kはひどく不思議に思った。
「なにしろあんたは測量技師だからな」と、男は説明するようにいった。「で、お城の人というわけさ。ところで、どこへいきなさるのかね?」
「城へだよ」と、Kはすぐに答えた。
「それじゃあ、いかないよ」と、男はすぐさまいった。
「でも、私は城の者だよ」と、Kは男自身の言葉をくり返していった。
「そうかもしれないが」と、男は拒絶するようにいった。
「それじゃあ、宿屋へつれていってくれないか」と、Kはいった。
「いいとも」と、男がいった。「すぐそり[#「そり」に傍点]をもってくるよ」
こうしたすべては、かくべつ親切だという印象を与えるものではなく、むしろ、Kをこの家の前の広場から追っ払ってしまおうという、一種のひどく利己的で小心な、そしてほとんどひどくこだわっているような努力をしているのだ、という印象を与えるものであった。
庭の門が開き、弱そうな小馬に引かれた、座席などはない、まっ平らな、軽い荷物用の小さなそり[#「そり」に傍点]が出てきた。そのあとから男が出てきたが、腰をかがめ、よわよわしそうで、びっこをひき、痩せた、赤い、鼻風邪をひいたような顔をしていた。その顔は、頭のまわりにしっかと巻いた毛のショールのために、かくべつ小さく見えた。男は明らかに病気で、ただKを追い払うことができるようにというので、出てきたのだった。Kはそんな見当のことをいってみたが、男は手を振って押しとどめた。この男が馭者《ぎょしゃ》のゲルステッカーという者であり、この乗り心持の悪いそり[#「そり」に傍点]をもってきたのは、ちょうどこれが用意されていたからで、ほかのそり[#「そり」に傍点]を引き出すのならばあまりに時間がかかっただろう、ということだけをKは聞かされた。
「おかけなさい」と、男はいって、鞭でうしろのそり[#「そり」に傍点]を示した。
「君と並んで坐ろう」と、Kはいった。
「わしは歩くよ」と、ゲルステッカーがいった。
「いったいなぜだい?」と、Kはたずねた。
「わしは歩くよ」と、ゲルステッカーはまた同じ言葉をいい、咳の発作《ほっさ》を起こした。発作のために身体がひどくふるえるので、足を雪のなかにふん張り、両手でそり[#「そり」に傍点]のへりにつかまらないでいられなかった。Kはそれ以上一こともいわないで、うしろのそり[#「そり」に傍点]に腰を下ろした。咳はおもむろに鎮まり、二人は出かけた。
Kが今日のうちにいけると思ったあの上のほうの城は、すでに奇妙に暗くなっていたが、またもや遠ざかっていった。しばしの別れのためにKに合図をしなければならぬとでもいうかのように、城では鐘の音が、悦ばしげに羽ばたくような調子で鳴りわたった。胸が漠然《ばくぜん》と慕っているものの実現するのが近そうなことを告げるかのように、――というのは、その響きは胸に痛みをおぼえさせるのだった――少なくとも一瞬のあいだは胸をゆするような鐘の音であった。しかし、まもなくこの大きな鐘の音も沈黙して、別な弱い単調な小さな鐘の音にとってかわられた。その鐘の音は、おそらくやはり上のほうからくるのだろうが、おそらくもう村に入ったあたりで鳴っているのであった。もちろん、この鐘の響きのほうが、のろのろしたそり[#「そり」に傍点]の歩みと、見すぼらしいが頑固でもあるこの馭者とに、いっそうぴったりするものだった。
「君」と、Kは突然叫んだ。――彼らはもう教会のそばまできていて、宿屋へいく道ももはや遠くはなかったので、Kは今は何かいってみることもできるのだった――「君が自分の責任であえて私を乗せてくれるとは、どうも驚いたことだね。そんなことをやっていいのかね?」
ゲルステッカーは、その言葉を気にもとめずに、小馬と並んで静かに歩みつづけていった。
「おい!」と、Kはそり[#「そり」に傍点]の上でいくらかの雪を丸め、それをゲルステッカーの耳へ命中させた。すると相手は立ちどまり、振り向いた。だが、Kは男をこう身近かにながめると――そり[#「そり」に傍点]は少しばかり前方へ進んでいたからだ――この腰のかがんだ、いわば虐待されている姿、赤い、疲れた、痩せこけた顔、一方は平らで、一方は落ちくぼんだ、なんとなく不ぞろいな両頬、二、三本のまばらな歯だけが残っている、もの問いたげにぽかんと開けた口、そうしたすべてを身近かにながめると、Kはさっきは悪意からいったことを、今度は同情の気持からくり返さないではいられなかった。つまり、Kを運んだことで、ゲルステッカーが罰せられることがないだろうか、ときかないでいられなかったのだ。
「なんだっていうんです?」と、ゲルステッカーはわけもわからずにきいたが、それ以上Kの説明は期待しないで小馬に声をかけた。そして、彼ら二人は先へ進んでいった。
第二章
二人がほとんど宿屋の近くまでやってきたとき、――Kには道の曲り角でそれとわかった――Kが驚いたことには、もうすっかり暗くなっていた。そんなに長いあいだ出かけていたのだろうか? 彼の計算ではほんの一、二時間ぐらいのはずだった。それに、出かけたのは朝だったし、ものが食べたいという気も全然しなかった。ほんの少し前まではずっと変わらぬ日中の明るさだったのに、今は急に暗くなっている。「日が短いんだ、日が短いんだ!」と、彼は自分にいって聞かせ、そりからするりと降りて、宿屋のほうへ歩いていった。
都合よく、亭主が宿の小さな正面階段の上に立っており、ランタンをかかげて彼のほうを照らしていた。ふと馭者のことを思い出して、Kは立ちどまった。どこか暗闇《くらやみ》のなかで咳の音がした。それが馭者だ。そうだ、近いうちにまた会うことだろう。かしこまってお辞儀をする亭主のところへ上がっていったとき、ドアの両側にそれぞれ一人ずつの男が立っているのに気づいた。彼は亭主の手からランタンを取ると、二人の男を照らした。さっき出会った例の男たちで、アルトゥールとイェレミーアスと呼ばれていた者たちだった。二人は今度は軍隊式の敬礼をした。自分の軍隊時代という幸福な時代のことを思い出しながら、Kは笑った。
「君たちは何者なんだい?」と、彼はたずね、一人からもう一人のほうへと眼をやった。
「あなたの助手です」と、二人が答えた。
「これは助手さんたちですよ」と、亭主が低い声で裏づけをするようにいった。
「なんだって?」と、Kはきいた。「君たちが、くるようにいいつけておいた、あの私が待っている古くからの助手だって?」
二人はそうだという。
「それはいい」と、ほんの少したってからKはいった。「君たちがきたのはありがたい」
「ところで」と、Kはさらに少し間をおいてからいった。「君たちはひどく遅れてやってきた。君たちはひどくずぼらだな」
「道が遠かったんです」と、一人がいった。
「道が遠かったって?」と、Kはくり返した。
「でも私は、君たちが城からやってくるのに出会ったじゃないか」
「そうです」と、二人はそれ以上の説明はつけないでいった。
「器材はどこにあるんだい?」と、Kがきいた。
「何ももっていません」と、二人がいった。
「私が君たちにまかせた器械だよ」と、Kはいった。
「何ももっていません」と、二人はくり返した。
「ああ、なんていう連中なんだ!」と、Kはいった。「土地の測量についていくらか知っているのかい?」
「いいえ」と、二人はいう。
「でも、君たちが私の昔からの助手なら、知っているはずだよ」と、Kはいった。二人は黙っている。
「まあ、入れよ」と、Kはいって、二人をうしろから押して、家のなかへ入れた。
それから彼らは三人そろって、かなり無口のまま食堂の小さなテーブルでビールを飲んだが、Kがまんなか、左右にその助手たちが坐った。彼ら三人のほかには、ゆうべと同じようにただ一つのテーブルが農夫たちに占められているだけだった。
「君たちとつき合うのはむずかしいね」と、Kはいって、これまで何度もやったように二人の男を見くらべた。「どうやって君たちを区別したらいいんだろう? 君たちがちがっているのは名前だけで、そのほかはまるで似ている、まるで……」と、いいかけたが、つまってしまい、思わずこうつづけた。「そのほかはまるで似ている、まるで二匹の蛇みたいだよ」
二人はにやりとした。
「でも、普通は私たちをよく見わけてくれますよ」と、彼らは弁解していった。
「それはそうだろう」と、Kはいった。「私自身がそれを目撃したのだからね。しかし、私は自分の眼でものを見ているわけだ。ところがその眼が君たちを見わけられないのだよ。だから私は君たちをただ一人の人間のように扱い、二人ともアルトゥールと呼ぶことにしよう。たしか君たちの片方がそういう名前のはずだね。君のほうだろう」と、Kは片方の男にきいてみた。
「ちがいます」と、その男はいった。「イェレミーアスっていいます」
「どっちだっていいさ」と、Kはいって、「私は君たち二人をアルトゥールと呼ぶよ。私がアルトゥールをどこかへやるといったら、君たち二人がいくのだ。アルトゥールに何か仕事を与えたら、君たち二人がそれをやるのだ。君たちをちがった仕事に使うことができないというのは、なるほど私にとってはひどく不便だが、そのかわり、私が君たちに頼むすべてのことに、区別なしでいっしょに責任を負ってもらうという利点がある。君たちがどういうふうに仕事の割り振りをするかということは、私にはどうでもいい。ただ、おたがいに言いのがれをいってはいけないよ。君たちは私にとっては一人の人間なのだから」
二人はいわれたことを考えていたが、こういった。
「それは私たちにはほんとに不愉快ですが」
「そのはずだよ」と、Kはいった。「もちろん君たちには不愉快にちがいないが、そうすることにきめたんだ」
すでに少し前からKは、一人の農夫がテーブルのまわりを忍び歩きしているのを見ていたが、その男はついに決心して片方の助手のほうへ近づき、何かささやこうとした。
「ちょっと失敬」と、Kはいって、手でテーブルの上をたたき、立ち上がった。
「これは私の助手たちです。今、われわれは話をしているところです。だれもじゃまをする権利はないはずですよ」
「これは、これは、失礼」と、農夫はおどおどしながらいい、後しざりして自分の仲間のほうへもどっていった。
「このことは君たちに何よりもまず注意してもらいたいが」と、Kは腰を下ろしながらいった。「君たちは私の許可なしでだれとも口をきいてはいけない。私はここではよそ者だ。そして、君たちが私の昔からの助手だというのなら、君たちもよそ者のはずだ。だからわれわれ三人のよそ者は、団結しなければならない。さあ、君たちの手を渡したまえ」
あまりにも素直に二人はKに手をさし出した。
「そんな手はひっこめたまえ」と、Kはいった。「約束の握手はしないが、私の命令はいったとおりだよ。私はもう寝るが、君たちもそうするようにすすめておく。きょうは一日仕事をさぼってしまったから、あすは仕事を朝早く始めなければならない。君たちは城へ乗っていくそり[#「そり」に傍点]を用意し、六時にここの家の前にそり[#「そり」に傍点]をもってきておかなければいけないよ」
「わかりました」と、一方の男がいった。ところが、もう一方が言葉をはさんできた。
「お前、わかりましたっていうが、できないっていうことはわかっているじゃないか」
「黙っていろ」と、Kはいった。「君たちはもう、たがいに別な人間になりたがっているんだね」
ところが、最初の男が早くもいうのだった。
「こいつのいうことはもっともです。できませんねえ。許可なしではよそ者は城へは入れません」
「どこにその許可を願い出なければならないんだい?」
「知りませんが、おそらく執事のところでしょう」
「それなら、そこへ電話をかけて願い出ることにしようじゃないか。すぐ執事に電話をかけること。二人でだ!」
二人は電話機のところへかけていき、電話をつないだ。――なんという恰好で二人は電話のところで押し合いをやっていることだろう! 外見は二人とも滑稽なくらい従順だった――そして、Kが自分たちといっしょにあした城へいってもいいか、ときいた。「いけない!」という返事がテーブルにいるKのところまで聞こえてきた。ところが、返事はもっとくわしいもので、次のようにいっていた。
「あすも、ほかのときも、いけない」
「私が自分で電話してみよう」と、Kはいって、立ち上がった。Kとその二人の助手とは、これまでは例の一人の農夫が演じた一幕を除くと、ほとんど人びとから注意を向けられていなかったのだが、Kのその最後の言葉はみんなの注意をひいたのだった。みんながKとともに立ち上がり、亭主が彼らを押しもどそうと努めたのにもかかわらず、電話機のところでKを取り巻いて小さな半円をつくった。彼らのあいだでは、Kが全然返事をもらえないのだろうという意見が優勢であった。Kは、自分はなにも君たちの意見を聞くことを要求しているのではないのだから、静かにしてくれ、と頼まないではいられなかった。
受話器からはぶんぶんいう音が聞こえてきた。Kはこれまでに電話でこんな音を聞いたことがなかった。まるで無数の子供の声のざわめきから――しかし、このざわめきもじつはざわめきではなく、遠い、遠い声が歌っている歌声のようだったが――このざわめきから、まったくありえないようなやりかたでただ一つの高くて強い声がつくり上げられるようであり、耳を打つその声は、ただ貧弱な聴覚よりももっと奥深くにしみとおることを要求するかのようであった。Kは、電話もかけないでその声をじっと聞いていた。左腕を電話台に託したまま、耳を傾けていた。
どれくらいのあいだそうしていたのか、Kにはわからなかった。亭主が上衣を引っ張って、彼に使いの者がきた、というまで、そうしていた。
「じゃまだ!」と、Kは思わず叫んだが、おそらく電話へどなってしまったらしかった。というのは、だれかが電話に出たのだった。そして、次のような対話の運びとなった。
「こちらはオスワルトですが、そちらはどなた?」と、その声が叫んだ。きびしそうな、高慢な声で、ちょっとした言葉の誤りがあるようにKには思われた。その声は、きびしそうな調子をさらに加えることによって、そうした言葉の誤りを打ち消してしまおうとしていた。Kは、自分の名前をいうことをためらった。電話に対しては彼は無防備であり、相手は大きな声で彼をおどしつけることもできるし、受話器を投げ出すこともできるのだった。そうすれば、Kはおそらく、まんざらつまらないものでもない自分の進路をみずから遮断《しゃだん》してしまうことになるだろう。Kのためらいが相手の男をいらいらさせた。
「そちらはどなたです?」と、相手はくり返し、こうつけ加えた。「そちらからあんまり電話をかけてよこさないと、私にはありがたいのですが。ついさっきも電話がかかってきましたよ」
Kはこの言葉にはおかまいなしに、突然決心してこういった。
「こちらは測量技師さんの助手です」
「どの助手ですか? だれですか? どの測量技師ですか?」
Kはきのうの電話の対話を思い出した。
「フリッツにきいて下さい」と、Kはぶっきらぼうにいった。彼自身驚いたのだが、これがよかった。だが、それがよかったこと以上に、城の事務が一貫していることに驚いてしまった。返事はこうであった。
「もう知っています。永遠の測量技師ですね。そう、そう。で、それから? なんという助手です?」
「ヨーゼフです」と、Kはいった。彼の背後で農夫たちのつぶやく声が少しばかりじゃまになった。彼らは、Kがほんとうの名前をいわなかったことに承知できないらしかった。しかし、Kはその連中などに気を使っている暇はまったくなかった。というのは、電話の話が彼の緊張をひどく要求するのだった。
「ヨーゼフ?」と、きき返してきた。「助手たちは」――ちょっと間があった。その名前をだれかにきいているらしかった――「アルトゥールとイェレミーアスというはずだ」
「それは新しい助手たちです」と、Kはいった。
「ちがう。昔からのだ」
「新しい助手です。私は昔からの助手で、測量技師さんのあとを追ってきょうついたんです」
「ちがう!」と、相手は叫んだ。
「では、私はだれなんです?」と、Kは今までのように落ちついてたずねた。すると、間をおいてから、同じ声が同じような言葉の誤りをしながらいうのだった。しかし、まるで別なもっと深い、もっとおごそかな声であった。
「君は昔からの助手だ」
Kはその声の響きに聞き入っていて、次のような問いをほとんど聞きもらしてしまった。「用件は?」という問いだった。なんとかして受話器を投げ出してしまいたかった。もうこんな対話に何も期待はしていなかった。ただ、せっぱつまって、早口でこういった。
「私の主人はいつ城へいったらいいのでしょうか?」
「いつでもだめだ」という返事だった。
「わかりました」と、Kはいって、受話器をかけた。
彼のうしろの農夫たちはもう彼のすぐ近くまで押しよせてきていた。二人の助手は、しきりと彼のほうを横目でうかがいながら、農夫たちをKから遠ざけようと懸命になっていた。しかし、それはただの喜劇にすぎないように見えたし、農夫たちも電話の対話の結果に満足して、のろのろと退いていった。そのとき、農夫たちのむれはうしろから足早にやってくる一人の男にかきわけられた。その男はKの前でお辞儀をして、一通の手紙を渡した。Kはその手紙を手に取ったまま、その男をじっと見つめた。その男は、その瞬間、ほかの連中よりも重要そうな人間に見えたのであった。男と二人の助手とのあいだには大きな類似があった。二人と同じようにほっそりしていて、同じようにきちんとした服を着ており、また同じようにしなやかで敏捷《びんしょう》であった。だが、まったくちがってもいた。この男を助手にできたらいいんだがなあ、とKは思った。男はKに、なめし革職人のところで見た、乳呑児を抱いていた女のことを少しばかり思い出させた。ほとんど白ずくめの身なりをしており、衣服はきっと絹でつくったものではなく、ほかの連中のと同じように冬服だが、まるで絹の服のようなしなやかさとはなやかさとをもっていた。男の顔は明るくてわだかまりもなさそうであり、眼がひどく大きかった。彼の微笑はなみなみでなく人の心を明るくさせるものがあった。まるでこの微笑を追い払おうとするかのように、手で顔の上をなでたが、微笑を消すことはその男にはうまくできなかった。
「君はだれかね?」と、Kはきいた。
「バルナバスといいます」と、男はいった。「使いの者です」
男の唇は、ものをいうとき、男らしくではあるがものやわらかに、開いたり、閉じたりした。
「ここの様子は気にいったかね?」とKはきき、農夫たちを指さした。その農夫たちにとってKはまだ関心のまとでなくなってはいなかったのだが、彼らは明らかに苦しげな顔つきで――頭蓋骨はてっぺんを平たくたたきつぶされたように見えたし、顔の表情がたたかれる苦痛のうちにできあがったようであった――厚ぼったい唇とぽかんと開けた口とを見せながら、Kのほうを見ていた。しかしまた、彼のほうを見てはいないのでもあった。というのは、彼らの視線はときどきあらぬかたへと向けられ、もとへもどる前に、何かどうでもいい対象にじっととどまっているのだった。それからKは、助手たちのほうも指さしたが、二人はたがいに抱き合って、頬と頬とをよせ、従順なのか嘲笑的なのかわからなかったが、薄笑いを浮かべていた。Kはこれらの連中みんなを、まるで特別の事情で自分に押しつけられた従者を紹介するような調子で男に示し、このバルナバスが自分とこの連中とをはっきり区別するだろう、と期待した。そのなかにはこの男に対する親しさが含まれていたが、その親しさの気持こそKにとっては大切なものであった。ところがバルナバスは――もちろん、これはひどく無邪気なものであり、それははっきりとわかったが――この問いかけをまったく取り上げず、まるで良いしつけを受けた召使が、主人のただうわべだけは命じたように見える言葉をやりすごすような調子で受け流し、ただ問いかけに答えるようなそぶりであたりを見廻して、農夫たちのあいだの知人に手ぶりで挨拶し、二人の助手とは一、二の言葉を交わした。これらの態度はすべて自由で自主的であり、この連中のなかにとけこむことはなかった。Kは――はねつけられたが、恥かしい思いはさせられずに――手にした手紙へ注意をもどし、それを開いた。手紙の文句は次のようだった。
「拝啓。すでにご存じのように、あなたは領主の仕事に採用されました。あなたのすぐ上に立つ上役はこの村の村長で、この人があなたの仕事と報酬条件とについていっさいのくわしいことをお知らせするでしょう。また、あなたはこの村長に報告の義務を負います。しかし、私もやはりあなたを眼から放さないでしょう。この手紙を伝達するバルナバスは、ときどきあなたの希望を聞くためにあなたのところへいき、それを私に伝えるでしょう。私はできるだけあなたの意に添う用意があるものとご承知下さい。働く者が満足しているということこそ、私の関心事であります」
署名は読めなかったが、署名のそばに「X官房長」と印刷されていた。
「待ってくれ」と、Kはお辞儀をしているバルナバスにいい、自分に部屋を見せるように、宿の亭主にいいつけた。この手紙のことを考えるためにしばらくひとりになりたかったのだった。ところで、バルナバスは彼にひどく気に入ってはいたが、ただの使いにすぎないのだ、ということを思い出し、この男にビールをやるように命じた。男がビールをどんなふうに受け取るだろうか、とKは注意して見ていたが、彼は明らかにひどく悦んでそれを受け取り、すぐに飲んでしまった。それからKは亭主といっしょに出ていった。この小さな家にはKのためといってもただ小さな屋根裏部屋が用意できるだけであり、それさえもいろいろな困難があった。というのは、それまでその部屋に寝ていた二人の女中をほかへ住まわせなければならなかったのだ。実をいうと、ただ二人の女中を追い払っただけの話で、そのほかには部屋は少しも変わらず、たった一つのベッドにシーツ一枚あるわけでなし、ただ一、二枚のクッションと馬の鞍被《くらおお》い一枚とが、ゆうべ置き去りにされたままの状態で残されているだけであった。壁には一、二枚の聖人の絵と兵隊の写真とがかかっていた。風を入れた形跡もなかった。どうも新しい客が長くはいないと思っていたらしく、客を引きとめるために何一つやってはなかった。しかし、Kは万事承知して、毛布で身体をくるみ、机に腰を下ろして、一本の蝋燭《ろうそく》をたよりに手紙を読み始めた。
手紙はまとまりがなく、自由意志をみとめられた自由な人間に話すようにKに語りかけている個所があった。上書きがそうで、彼の希望に関する個所がそうだった。ところが一方、あけっ放しにか遠廻しにか、彼が例の官房長の地位からはほとんど目にとまらぬちっぽけな一労働者として扱われている個所があった。官房長は「彼を目から離さない」よう努める、というのだが、彼の上役は村長にすぎず、しかもこの村長に報告の義務を負わされているのだった。彼のただ一人の同僚は村の警官ぐらいなのだろう。これは疑いもなく矛盾《むじゅん》であり、矛盾はわざとつくられたにちがいないほど歴然としていた。こんな矛盾をさらけ出しているのは役所のあいまいな態度のせいにちがいないと考えるのは、こういう役所に関してはばかげた考えというもので、そんな考えはほとんどKの頭を掠《かす》めなかった。むしろ彼はその矛盾のうちに、公然とさし出された選択の自由を見たのであった。彼がこの手紙の指示から何をしようと思うのか、城とのあいだにともかくもほかの連中とはちがってはいるがただ見かけだけにすぎない関係をもつような村の労働者であろうとするのか、あるいは、ほんとうは自分の仕事関係のいっさいをバルナバスの通知によってきめさせる見かけだけの村の労働者であろうとするのか、この選択が彼にはまかせられているのだった。Kは選ぶのにためらわなかった。たといこれまでにしたような経験がなかったとしても、ためらいはしなかったろう。ただ、できるだけ城の偉い人たちから遠く離れて、村の労働者として働くときにだけ、城の何ものかに到達できるのだ。彼にとってまだ不信の念を抱いている村の連中も、もし彼がたとい彼らの友人ではなくとも彼らの仲間となったときに、やっと話し始めるだろう。そして、もし彼がひとたびゲルステッカーやラーゼマンと区別されなくなれば、――大至急そうならなければならない。それにすべてはかかっているのだ――彼にはきっとあらゆる道が一挙に開けてくるのだ。それらの道は、ただ上の城の偉い人たちと彼らの思召《おぼしめ》しとにまかせているだけであれば、永久に閉ざされているばかりか、目に見えないままでいるにちがいないのだが。もちろん一つの危険はあるのであって、その危険は手紙のなかにも十分に強調されており、まるでのがれることができないものであるかのように、一種の悦びをもって書き表わされている。危険というのは、労働者であることだ。勤務、上役、仕事、報酬条件、報告、働く者、そんなことが手紙にいっぱい書かれている。そして、別なこと、もっと個人的なことがいわれていても、それはそうした観点から述べられているのだ。Kがもし働く者であろうとすれば、それになれるのだが、そうすればひどく深刻な話で、ほかのものになる見込みはまったくないのだ。Kは、ほんとうの強制におびやかされているのではない、ということを知ってはいた。そんなものを恐れてなんかいなかったし、少なくとも今の場合そんなものを恐れはしなかった。しかし、気力を失わせるような環境、幻滅に慣《な》れてしまうこと、またそれぞれの瞬間の気づかない影響力、そうしたことのもつ大きな力を彼は恐れていた。だが、そうした危険とこそ彼は闘わなければならないのだ。手紙はまた、もし闘いを生じるようになったなら、Kのほうが不敵にも闘いを始めたのだ、ということもあからさまに書いていた。それは微妙に表現されていて、安らかでない良心だけが――それは安らかでないだけで、けっしてやましいわけではないのだ――気づくことができるものであった。つまり、彼を勤務に採用することに関して「ご存じのように」と書いてある言葉がそれである。Kはすでに到着を報告したが、それ以来、手紙が表現しているように、自分が採用されたのだ、ということを知っていたのであった。
Kは絵の一枚を壁からはずして、手紙をそのくぎにかけた。この部屋に住むことになろうから、ここに手紙をかけておこう、と思ったのだ。
それから彼は下の店へ降りていった。バルナバスは助手たちとともに小さなテーブルに坐っていた。
「ああ、君はここにいたんだね」と、Kはただバルナバスを見てうれしかったので、何とはなしにいった。バルナバスはすぐ飛び上がった。Kが部屋に入るやいなや、農夫たちは彼のところへ近づこうとして腰を上げた。いつでも彼のあとを追いかけることが、すでにこの男たちの習慣となっていた。
「いったい君たちはいつも私に何の用があるというのかね?」と、Kは叫んだ。彼らはKのこの言葉を悪くは取らずに、のろのろと自分の席へもどっていった。彼らの一人が、立ち去りながら説明するようにいった。
「いつでも何か新しいことが聞けるんでね」
その調子は軽率で、あいまいな薄笑いを浮かべていたが、ほかの何人かもそんな笑いかたをしていた。そして、いい出した男は、まるでその新しいことというのがご馳走でもあるかのように、唇をなめるのだった。Kは相手の意を迎えるようなことは何もいわなかった。それで連中が彼に対して敬意をもつようになれば、そのほうがよいのだ。ところが、彼がバルナバスのそばに腰を下ろすやいなや、たちまち一人の農夫の息を首すじに感じた。その男のいうところによれば、塩入れを取りにやってきたということだったが、Kが怒りのあまり足を踏みならしたため、その農夫は塩入れをもたずに逃げ去った。Kに手出しをすることはほんとうにたやすく、たとえばただ農夫たちを彼に向ってけしかけさえすればよかった。彼らのしつっこい関心は、Kにはほかの者たちのうちとけぬ態度よりもたちが悪いもののように思えたし、その上、それはうちとけぬ態度でもあった。というのは、もしKが彼らのテーブルに腰を下ろしたならば、彼らはそこに坐ったままでいなかったろう。ただバルナバスがいるため、Kはひとさわぎ起こすことを思いとどまった。しかし、彼はそれでもなおおびやかすように彼らのほうに向きなおった。彼らもまた彼のほうを向いていた。しかし、彼らがめいめい自分の席に坐り、たがいに話もせず、はっきりとしたつながりももたぬまま、ただみんなが彼をじっと見つめているということだけでたがいにつながりあっているのを見ると、彼らがKを追いかけている動機もけっして悪意なのではないように思われた。おそらく彼らはほんとうに何かを彼に望んでいながら、ただそれを口に出してはいえないのであろう。そして、もしそうでなければ、それはおそらくただ子供っぽさなのだろう。その子供っぽさというのは、ここではごくあたりまえのことのように見えた。亭主も子供っぽくないだろうか。亭主は、客のだれかのところへもっていくはずの一杯のビールを両手で支え、立ちどまり、Kのほうを見ていて、台所の小窓から身体を乗り出しているおかみの呼びかける言葉を聞きのがしている有様だった。
いくらか落ちついて、Kはバルナバスのほうへ向きなおった。助手たちを遠ざけたかったのだが、口実が見つからなかった。ところで助手たちのほうは、じっとしてビールをながめていた。
「手紙は読んだよ」と、Kは語り始めた。「君は内容を知っているかい?」
「いいえ」と、バルナバスがいった。彼のまなざしは言葉よりもたくさんのものを語っているように思われた。おそらくKは、農夫たちについて悪意ということで思いちがいしたように、この男については善意ということで思いちがいしたのであった。しかし、この男が眼の前にいることが気持よいという点では、変りがなかった。
「手紙には君のことも書いてあるよ。つまり君はときどき私と官房長とのあいだの通知を伝えるということだ。それで私は、君が手紙の内容を知っているものと思ったのだよ」
「私が受けている命令は」と、バルナバスがいった。「ただ手紙をお渡しし、それを読まれるまで待って、もしあなたに必要と思われるときには、口頭か文面で返事をもちかえるということだけです」
「わかった」と、Kはいった。「手紙の必要はない。お伝えしてくれ、官房長に。――ところで、なんという名前なのかね? 署名が読めなかったんだ」
「クラムです」と、バルナバスがいった。
「では、クラムさんに、ご採用くだすったこと、また特別にご親切なことに感謝している、とお伝えしてくれ。ここではまだ全然身のあかしを立てていない人間として、私はそのご親切をありがたく思っているってね。私は完全にその人の考えているとおりにふるまうよ。今日のところ、特別な願いはないよ」
バルナバスは、じっと耳を傾けていたが、伝えるようにいわれた言葉をKの前でくり返させてくれ、と頼んだ。Kがそれを許すと、バルナバスは全部一字一句そのままくり返した。そして、別れを告げるため、立ち上がった。
さっきからずっとKは彼の顔を探るように見ていたが、今度は最後にまたその顔をそっと見た。バルナバスはおよそKと同じ背の高さだが、それでもKに対しては伏し眼づかいのように見えた。だが、その様子がほとんど謙虚なほどなので、この男がだれかに恥かしい思いをさせるようなことはありえなかった。もちろん、この男はただの使者であり、自分が運ぶように命じられた手紙の内容を知らなかったが、彼のまなざし、微笑、歩きかたは、自分の使者という身分について何も知らなくとも、いかにも使者らしい様子であった。そして、Kが彼に手をさし出すと、彼はそれに驚いたらしかった。というのは、彼はただお辞儀だけしようと思ったのであった。
彼が立ち去ったすぐあと、――ドアが開く前に、Kはなお少し肩でドアによりかかり、もはやだれにということもないまなざしで部屋じゅうを見わたしていたのだ――Kは二人の助手にいった。
「部屋から私の書きものをもってくる。それからさしあたって仕事のことを話そう」
二人はいっしょにいこうとした。
「ここにいろ!」と、Kはいった。それでもなお二人はいっしょにいこうとした。Kはもっときびしくその命令をくり返さなければならなかった。玄関口にはバルナバスはもういなかった。しかし、彼はちょうど今、出かけていったばかりであった。しかし、家の前にも――また雪が降っていた――バルナバスは見つからなかった。Kは叫んだ。
「バルナバス!」
答えはなかった。まだ家のなかにいるのだろうか。ほかの可能性はないように思われた。それでもKはなお、力の限り名前を叫んだ。その名前を呼ぶ声が夜を通して高々と響いた。すると、遠くから微かな返事が聞こえてきた。こうやってみると、バルナバスはあんなに遠くへいっているのだ。Kは彼にもどってこいと叫び、自分のほうからも同時に彼のほうへ歩いていった。二人が出会ったところでは、二人の姿は宿屋からはもう見えなくなっていた。
「バルナバス」と、Kはいった。声のふるえを抑えることができなかった。「まだ君にいいたいことがあったんだよ。私が城に何か用事があるとき、ただ君が偶然やってくるのにたよっているだけでは、どうもまずい、と気がついたんだよ。もし今、偶然、君に追いついていなかったなら――君はまるで飛ぶようだね。まだ家にいると思ったんだが――君がこのつぎ現われるまで、どれほど長いあいだ待たねばならなかったことだろう」
「そうそう」と、バルナバスはいった。「あなたがきめたきまった時期に私がやってくるように、官房長に頼んだらいいですよ」
「それでもまだ十分じゃないだろう」と、Kはいった。「おそらく一年ぐらい私は何もいってやりたくないんだ。ところが、君が出かけてから十五分もたつと、何か延ばせない急用が起こるだろうよ」
「それでは、私を通じるほかに、官房長とあなたとのあいだにもう一つ別な連絡方法をつくるように、官房長へお伝えしましょうか?」
「ちがうんだ、ちがうんだ」と、Kはいった。「全然そうじゃない。このことはただついでにいっただけなんだよ。今日は君に運よく会えたからね」
「宿屋へもどりましょうか?」と、バルナバスはいった。「そこであなたが私に用事をいいつけて下さることができますから」彼は早くも宿屋のほうへ一歩進んでいた。
「バルナバス」と、Kはいった。「その必要はないよ。君と少しばかりいっしょに歩こう」
「なぜ宿屋へいらっしゃりたくないんですか」と、バルナバスがたずねた。
「あそこの連中がうるさくてね」と、Kはいった。「農夫たちの厚かましさを君も自分で見たろう」
「私たち二人だけで、あなたのお部屋へいくことができます」と、バルナバスはいう。
「あれは女中たちの部屋だ」と、Kはいった。「汚なくて、うっとうしい。あんなところにいなくてすむように、君といっしょに少し歩きたいんだ。ただ、頼むが」と、Kはためらいをきっぱり捨て去るために、つけ加えていった。「君と腕を組ませてくれたまえ。なにしろ君のほうが歩きかたがしっかりしているからね」そして、Kは相手の腕にすがった。すっかり暗くなっていて、Kには相手の顔がまったく見えず、その姿もおぼろげであった。Kはその少し前に、相手の腕を探ってつかもうとしたのだった。
バルナバスはKのいうなりになり、二人は宿屋から遠ざかっていった。もちろんKは感じていた。どんなに努めたところでバルナバスと同じ歩きかたをしていくことができないし、この男の自由な動きを妨げるだけなのだ。普通の場合ならこんなつまらぬことだけのためにいっさいがだめになってしまうのだ。どんな裏通りでだってそうだろう。けさもあの裏通りで雪のなかに埋まってしまったではないか。バルナバスに助けられてこそやっと抜け出すことができるのだ。そう感じたものの、Kはこうした心配を今は捨て去った。また、バルナバスが黙っていることが、彼の気持を楽にした。つまり、二人が黙ったまま歩いていくなら、バルナバスにとっても歩みつづけること自体が、二人のいっしょにいることの目的となっているはずだ。
二人は歩いていったが、どこへいくのかはKにはわからなかった。何一つ、Kには見わけがつかなかった。二人がもう教会のそばを通り過ぎてしまったのかどうかも、Kにはまったくわからなかった。ただ歩いていくことだけのために起こる大儀さによって、彼は自分の考えをまとめられないようになっていた。彼のさまざまな考えは、はっきりした目標に向ったままでいないで、さまざまに混乱した。たえず故郷のことが頭に浮かび、故郷の思い出が彼の心をみたした。故郷の町でも、広場に教会があり、その教会は一部分古い墓地に囲まれ、その墓地には高い塀《へい》がめぐらされていた。きわめて少数の子供たちだけがこの塀によじ登ることができたのであり、Kもまだできないでいた。好奇心が子供たちを駆ってこんなことをさせたのではない。墓地は子供たちには秘密などはまったくなかった。小さな格子戸を通って、子供たちはすでにしばしば墓地のなかに入っていた。ただ、高い塀を征服したかったのだった。ある朝――静かな、人気のない広場には光があふれていた。Kはそれ以前にもそれからも、そんな広場をいつ見たであろうか?――Kはその塀を驚くほどたやすくよじ登ることができた。それまで何度もはねつけられていた場所で、彼は小旗を歯のあいだに挾んで、その塀を一気によじ登ったのであった。まだ砂利が彼の足もとにざらざら落ちているうちに、もうてっぺんに登っていた。彼が旗を打ち立てると、風がその布をふくらませた。彼は見下ろし、ぐるりと見廻し、また肩越しにも見て、地面に沈んでいる十字架をながめた。そのとき、そこでは、彼自身よりも偉大な者はだれ一人いなかった。すると、たまたま先生が通りかかって、怒った目つきでKを降りさせた。飛び降りるとき、Kは膝を傷つけ、やっとの思いで家へ帰った。それでも、彼は塀の上に登ったのであった。そのとき、この勝利の感情は長い生涯《しょうがい》のあいだ一つの拠りどころを与えてくれるように彼には思われたが、それもまったくばかげたことではなかった。というのは、何年もたって雪の夜にバルナバスの腕にすがっている今も、その感情は彼の助けとなったのであった。
彼はいよいよしっかりと相手の腕にすがり、バルナバスのほうはほとんど彼を引きずっていった。沈黙は破られなかった。道について彼の知っていることといえば、通りの状態から推測するのに、自分たちがまだわき道へ曲がってはいないのだ、ということだけだった。道にどんなに困難があろうと、あるいは帰り道についての心配があろうと、歩みをつづけることをやめたりなんかしないぞ、と心に誓った。結局のところ、相手に引きずられていくのだから、彼の体力でも十分だろう。それに、道が無限だなどということはありえようか。昼間見ると、城はたやすくいきつくことができる目標のように眼前に横たわっているし、このバルナバスという使者はきっといちばんよく近道を知っているはずであった。
ふと、バルナバスは立ちどまった。自分たちはどこにいるのだろうか。バルナバスはKと別れるのだろうか。そんなことはうまくできないだろう。Kはバルナバスの腕をしっかとつかんでいたので、ほとんど自分の身体が痛いほどだった。それとも、信じられないことが起って、二人はもう城のなかか、城の門の前まできているのだろうか。しかし、Kの知る限りでは、彼らは登り道をやってきたのではなかった。それともバルナバスは、気づかぬうちに登っていく坂道を案内してきたのだろうか。
「ここはどこかね?」と、Kは低い声で、相手によりもむしろ自分に向ってきくような調子でいった。
「うちですよ」と、バルナバスは同じような調子でいった。
「うちだって?」
「滑らないように注意してください。下り坂ですから」
「下り坂だって?」
「もうほんの二、三歩です」と、相手はつけ加えたが、もう一軒の家のドアをノックしていた。
一人の娘がドアを開けた。二人は大きな部屋の入口に立ったが、その部屋はほとんどまっ暗だった。というのは、左手の奥の机の上に小さな石油ランプが一つかかっているだけだった。
「だれといっしょなの、バルナバス」と、その娘がきいた。
「測量技師さんだよ」と、彼がいった。
「測量技師さんですって」と、娘はテーブルに向ってもっと大きな声でくり返していった。すると、テーブルのところで老夫婦と、さらに一人の娘とが立ち上がった。みんなはKに挨拶した。バルナバスはみんなをKに紹介した。それは彼の両親と姉のオルガと妹のアマーリアとであった。Kは彼らをほとんど見なかった。家の者が、ストーブで乾かすために、Kのぬれた上衣を脱がせた。Kはされるままにしていた。
これでは二人とも家にいるわけではない。バルナバスだけが家にいるのだ。でも、この人たちはどうしてここにいるのだろう。Kはバルナバスをわきへ呼んで、きいてみた。
「なぜ君は家へきたんだい? それとも、君たちは城の構内に住んでいるわけかい?」
「城の構内にですって?」と、バルナバスはまるでKのいうことがわからぬように、きき返した。
「バルナバス、だって君は宿屋から城へいこうとしたんだろう?」と、Kはいった。
「いいえ」と、バルナバスはいう。「私は家へいこうと思ったんです。城には朝早くいくんで、城に泊まることはありません」
「そうかい」と、Kはいった。「君は城へいこうとしたんじゃなくて、ただここへ来ようとしたんだね」――バルナバスの微笑は彼には前よりも弱々しく見えたし、バルナバスという人間そのものも前よりは見ばえがしないように見えた――「なぜ、そのことを私にいわなかったんだね」
「おたずねにならなかったものですから」と、バルナバスはいった。「あなたはしきりに用事をいいつけようとされましたが、食堂でもあなたの部屋でもしたくないようでしたので、私はこう思ったんです。この私の両親のところでならじゃまもなく私に用事をいいつけることができるだろう、って。ご命令とあれば、みんなはすぐに座をはずします。また、私どものところがお気に入りましたら、ここに泊って下すっていいのです。これでよかったのではないでしょうか」
Kは返事ができなかった。それでは誤解だったのだ。ばかばかしい、つまらない誤解だったのだ。そして、Kはその誤解にすっかり身をまかせてしまったのだった。バルナバスのぴったりした、絹のように光沢のある上衣に心を奪われていたが、この男は今ではその上衣のボタンをはずしていて、上衣の下からは、下僕らしいたくましい角張った胸の上に、粗末な、汚れて灰色になった、つぎだらけのシャツが見えていた。そして、まわりのすべてがそのシャツにぴったり合っているばかりでなく、それを上廻ってさえいた。老いた、痛風を病んでいる父親。それは、ゆっくりと押し出すこわばった脚の力よりも、むしろ探るような手の助けで前へ歩いている。母親は、胸の上で手を組み、あまりふとりすぎてほんのちょっぴりしか歩くことができない。この父と母との二人は、Kがはいってきたとき以来、坐っていた部屋の片隅から彼のほうへ歩いているのだが、まだとても彼のところまではこられないでいる。二人の姉妹《きょうだい》はブロンドで、姉妹同士似ており、バルナバスにも似ているが、バルナバスよりもきつい顔つきをして、大柄でじょうぶそうであった。この二人が、やってきたKとバルナバスとを取り囲み、Kから何か挨拶の言葉を待っていた。しかし、Kは何一つ、いえなかった。この村ではだれもが自分にとって意味があるのだ、と彼は信じていたし、また実際にそうでもあったが、この家の人たちは全然彼の気にかからなかった。もしひとりで宿屋へいく道をいけるものなら、彼はすぐに出かけたことだろう。朝早くバルナバスといっしょに城へいけるという可能性は、彼の心をまったくひかなかった。今、この夜なかに、人目にもつかず、バルナバスの案内で城へ入っていきたかった。しかし、そのバルナバスは、これまでKに思われていたように、ここで出会っただれよりもKに近く、同時にまた、外見に表われている身分よりもはるかに城と関係が深いのだ、と信じていたようなバルナバスでなければならない。しかし、この家族の息子と――バルナバスは完全にこの家族の一員で、家族といっしょにすでにテーブルに坐っていた――つまり、注目すべきことだが、けっして城に泊ってはならない一人の男といっしょに、その腕にすがって真昼に城へいくということは不可能であり、滑稽なくらい望みのない試みなのだった。
Kは、やはりここで夜を過ごそう、しかし、泊めてもらう以外にはこの家族に何一つサービスしてもらうまい、と決心して、窓辺の台へ腰を下ろした。彼を追い払ったり、あるいは彼を恐れていた村の連中は、彼にはこれよりも危険が少ないもののように思われた。というのは、村の連中は、根本において自分自身だけにたよるように彼に教えたのであり、彼が力を集中しておくように助けてくれたのだった。ところが、こんな見かけの援助者たち、つまり、彼を城へ案内するかわりに、けちな仮装芝居を打って自分たちの家庭へつれてくるような人たちは、欲すると欲しないとにかかわらず、彼を目的からそらしてしまい、彼の気力を破壊することに一役買っているのだ。家族のテーブルから、こちらへどうぞ、という誘いの呼び声がかけられたが、それを彼はまったく無視し、頭を垂れたまま、窓辺の台に残っていた。
すると、オルガが立ち上がった。これは姉妹の優しいほうの娘で、また娘らしい当惑の色を示してもいたが、Kのほうにやってきて、食事にきてください、と頼んだ。パンとベーコンとが用意してあります、ビールももってきましょう、ということだった。
「どこからです?」と、Kがたずねた。
「宿屋からです」と、彼女がいう。
それはKにとってありがたかった。そこで彼は、ビールはもってこないで下さい、そのかわり宿屋まで私についていって下さい、宿屋にまだ重要な仕事が残っていますから、と彼女に頼んだ。ところが、彼女はそんなに遠くの彼の宿屋までいくのではなく、ずっと近い紳士荘へいこうとしているのだ、ということがわかった。それでもKは、彼女につれていくように頼んだ。おそらくそこに泊まることができるだろう、その寝場所がどんなものであろうと、この家のいちばんましなベッドよりもましだろう、と考えたのだった。オルガはすぐには返事をせず、テーブルのほうを振り返った。そこでは弟がもう立ち上がっていて、承知したようにうなずき、いうのだった。
「このかたがお望みなら、そうしなよ」
この同意の言葉はほとんどKに、彼の頼みを撤回しようというという気持にさせるくらいだった。この男ときたら、ただつまらぬことにだけ同意できるのだ。ところが、Kを宿屋へいかせたものだろうか、という問題が相談され、全部の者がそれはまずいというとなると、Kはいっしょにいきたい、と強情にせがんだ。しかし、自分の頼みに対する納得のいくような理由を考え出す努力はしなかった。この家族の一同は、あるがままの彼を受け入れて、そのいうことをきかなければならないのだ。彼はいわばこの家族に対して少しも羞恥感《しゅうちかん》を抱いていないのだ。ただアマーリアだけが、彼女のまじめで、率直で、動じない、おそらくはまたいくらか鈍感でもあるようなまなざしで、彼を少しばかり、とまどいさせた。
宿屋へいく短い道のりのあいだに――Kはオルガの腕にすがって、さっき弟にされたようにほとんど引きずられていった。そのほかにはどうもしようがなかったのだ。――この宿屋はほんとうは城の偉い人たちだけのためのもので、その人たちは、何か村に用事があるときにはそこで食事をしたり、ときどきは泊ったりするのだ、ということを聞いた。オルガは、低い声で、まるで親しみをこめるようにしてKと話した。彼女といっしょに歩くことは、ほとんど弟といっしょに歩くのと同じように気持がよかった。Kはこんな快感を抑えようとしたが、それには勝てなかった。
宿屋は外見上、Kが泊っている宿屋とひどく似ていた。およそこの村には、外見上に大きなちがいはないのだが、それでも小さなちがいはすぐにみとめられた。入口へ通じる前階段には手すりがあり、戸口の上には美しい角燈がつけられていた。二人がなかへ入っていったとき、頭の上で布がぱたぱた鳴ったが、それは伯爵家の紋章を染めぬいた旗であった。玄関ですぐに亭主に出会った。監視のために見廻っていたらしい。彼は通り過ぎながら、探るような、また眠たげでもある小さな眼で、Kを見て、いった。
「測量技師さんは酒場までしかいけません」
「わかっていてよ」と、オルガはすぐにKのかわりに返事を引き受けて、いった。「このかたは、ただ私についてこられただけなのよ」
ところが、Kは彼女の取りなしをありがたいとも思わずに、オルガから離れて、亭主をわきへ呼んだ。オルガはそのあいだ、我慢強く玄関の隅のところで待っていた。
「ここに泊まりたいんだが」と、Kはいった。
「残念ですが、それはできません」と、亭主がいう。「あなたはまだご存じではないようですね。ここは城のかたたちのための宿ときまっているんです」
「それはそういう規則かもしれないが」と、Kはいった。「でも、どこか片隅に私を寝かせてくれるぐらいのことは、きっとできるはずだね」
「ご希望をかなえてあげたいんですが」と、亭主がいった。「あなたが今、他国者のやりかたで口にされたその規則というのがきびしいことは別としても、それはとてもできない相談です。なにしろ、城のかたたちはひどく神経質なもんでしてね。私は確信しているんですが、あのかたたちは、少なくとも不意には、他国者を見ることに我慢できないんです。そこで、もし私があなたをここにお泊めし、あなたが偶然――そして、偶然というのはいつでも城のかたたちのほうに味方しているんですからね――見つけられでもしようものなら、私がひどい目にあうばかりでなく、あなた自身もそうなりますよ。ばかげたように聞こえるかもしれませんが、ほんとうなんです」
この背の高い、きちんとボタンをかけた亭主は、片手を壁に突っ張らせ、もう一方の手を腰に当てて、両手を交叉させ、少しばかりKのほうに身をかがめ、親しげに彼に話しかけた。彼の黒い服はただ農民の祭りのときに着るもののように見えるのだが、ほとんどこの村の者のようには見えなかった。
「あなたのいうことはそっくりそのまま信じますよ」と、Kはいった。「どうも言いかたがまずかったかもしれないけれど、規則の重要さを軽んじているわけでは全然ないのです。ただ、一つのことだけあなたに聞いていただきたい。私は城にいろいろ重要な関係者たちをもっているし、これからももっと重要な関係者たちをもつようになるでしょう。そういう人たちが、私がここに泊ったために起こるかもしれない危険からあなたを守ってくれるでしょうし、また、ちょっとしたご好意に対しても十分のお礼をすることができるのだ、ということを保証してくれるでしょう」
「わかっています」と、亭主はいい、もう一度、くり返した。「わかっています」
ここで、Kは彼の要求をもっと強く出すことができたでもあろう。しかし、まさに亭主のこの返事が彼の気をそいでしまったので、彼はただこういった。
「今晩は、城の多くのかたたちがここに泊っていらっしゃるんですか?」
「その点では、今晩は好都合です」と、亭主はほとんど誘いかけるようにいった。「ただお一人のかただけがここにお泊まりです」
まだKは押して頼むことができないでいたが、もうほとんど頼みが聞き入れられたものと期待した。そこでその人の名前だけをたずねてみた。
「クラムです」と、亭主はさりげなくいい、細君のほうを振り返った。細君は、ひだや折り目がいっぱいついている、珍妙なくらい着古した古風な服だが、それでも上品で都会風なのを着て、衣《きぬ》ずれの音を立てながらやってくるところだった。亭主を迎えにきたのだが、官房長様がなにかご用がおありなのだ、ということだった。ところが、亭主はむこうへいく前に、まるでもはや彼自身ではなくてKが泊まるかどうかをきめなければならないのだとでもいうかのように、なおKのほうに顔を向けた。しかし、Kは何もいえなかった。ことに、まさに彼の上役がここにいるという事情が、彼を面くらわせた。自分自身でもよく説明はつかないのだが、クラムに対しては、そのほかの城の人たちに対するように自由な気持ではいられなかった。ここで彼につかまるということは、なるほどKにとっては亭主のいった意味での恐れとはならないだろうが、ひどくまずいことにはちがいないだろう。いってみれば、彼が感謝しなければならない人に、軽率にも何かある苦痛を与えるようなものである。それとともに、彼は憂鬱《ゆううつ》な気分になってしまった。こうした懸念《けねん》のうちには、下僚の身分であること、労働者であることの、恐れていたような結果をはっきり示しているのだ、そして、そうした結果がはっきりと表われてきているここで、それに打ち勝つことができないのだ、と見て取ったからであった。そこで彼は立ちすくんだまま、唇をかみしめ、何もいわずにいた。亭主はドアへ消えていく前に、もう一度Kのほうを振り向いた。Kは亭主の後姿を見送って、その場を去らずにいたが、オルガがやってきて、彼を引っ張っていった。
「亭主になんのご用がありましたの?」と、オルガがきいた。
「ここに泊まろうとしたんだ」と、Kはいった。
「あなたはうちに泊まればいいのよ」と、オルガはいぶかるような調子でいった。
「そうだね、ほんとうだ」と、Kはいって、その言葉の意味をどう取るかは彼女にまかせた。
第三章
酒場はまんなかが完全にがらんとしている大きな部屋で、壁ぎわのいくつかの樽《たる》のそばや樽の上には、何人かの農夫たちが坐っていた。だが、ここの連中は、Kの泊っている宿屋の連中とはちがっているように見えた。灰色がかった黄色のあらい生地の服を着て、もっと清潔で、もっと一様な身なりをしていた。上衣はだぶだぶで、ズボンはぴったりしている。ちょっと見たところ、たがいにひどく似ている小柄な男たちで、平べったく、骨ばってはいるが、頬がまるまるしている顔をしていた。みんな静かにしていて、ほとんど動かない。ただ眼だけで部屋に入ってきた二人を追うのだが、それもゆっくりしていて、どうでもいいようなふうに見受けられた。それにもかかわらず、人数がひどく多く、またひどく静かなので、彼らはKにある影響を及ぼした。Kはまたオルガの腕を取ったが、それによって自分がここにいることを人びとに説明しようとしたのだった。片隅で一人の男が立ち上がった。オルガの知人で、彼女のほうに歩みよろうとしたが、Kはしがみついていた腕でオルガの身体を別な方向へ向けなおしてしまった。彼女以外のだれもそれに気づかなかったが、彼女は微笑を浮かべた横眼を使いながら、されるままになっていた。
ビールの給仕をしたのは若い娘で、フリーダという名前だった。人眼につかぬような小柄なブロンドの娘で、悲しげな眼をし、痩せこけた頬をしていた。ところが、この娘はそのまなざし、独特なすぐれた性格をおびたまなざしで、人を驚かした。このまなざしがKに注がれたとき、このまなざしがすでに彼に関することを片づけてしまってくれたように、Kには思われた。そうした問題の存在を彼自身はまだ全然知らないが、そのまなざしがそうしたことの存在をKに確信させるのだった。フリーダがオルガと話しているときにも、Kはフリーダを横からじっと見ることをやめなかった。オルガとフリーダとは友だち同士であるようには見えなかった。二人はほんの一こと二こと、冷たい言葉を交わしただけだった。Kは二人のあいだを取りもってやろうと思ったので、突然、たずねてみた。
「あなたがたはクラムさんをご存じですか?」
オルガが高笑いした。
「なぜ笑うんです」と、Kは怒ってきいた。
「笑っているんではありません」と、彼女はいったが、なおも笑いつづけた。
「オルガはまだほんとうに子供らしい娘なんだ」と、Kはいい、もう一度フリーダのまなざしをしっかりと自分に引きつけようとして、身体をかがめてスタンドの上に乗り出した。ところが、彼女は視線を伏せたままでいて、低い声でいった。
「クラムさんにお会いになりたいんですか?」
Kは会いたいと頼んだ。彼女はすぐ自分の左わきのドアを指さした。
「ここに小さなのぞき孔《あな》があります。ここからのぞいて見ることができますよ」
「で、ここにいる人たちは?」と、Kはたずねた。
彼女は下唇をそらせて、ひどく柔かい手でKをドアのところへつれていった。観察するためにあけられたらしい小さなのぞき孔を通して、彼はほとんど隣室全体を見渡すことができた。部屋のまんなかの机に向かい、心持よげな丸い安楽椅子に坐って、自分の前にたれ下がっている白熱燈にまばゆく照らされながら、クラム氏がいた。中背の、ふとった、鈍重そうな紳士であった。顔はまだつやつやしているが、頬はすでに年齢の重みで少しばかり垂れ下がっている。黒い髭《ひげ》がながながと引かれている。斜めにかけた、きらきら反射する鼻眼鏡が、両眼を被っていた。クラム氏が完全に机に向って坐っていたのであれば、Kはただ彼の横顔を見ただけであろう。ところが、クラムは彼のほうへまともに向っていたので、まともに顔をながめることができた。クラムは左の肘を机の上に置き、ヴァージニア葉巻をもった右手は膝の上にのっていた。机の上にはビールのグラスが置かれてあった。机のふち飾りが高いので、その上に何か書類がのっているのかどうか、Kははっきりとは見られなかったが、机には何ものっていないように彼には思われた。念のために、孔からのぞいて、見た結果を知らせてくれるようにと、フリーダに頼んだ。だが、彼女はほんの少し前までその部屋にいたので、すぐさまKに、そこには書類はのってはいない、と保証した。Kはフリーダに、自分はもうここから離れなければならないのだろうか、ときいたが、したいだけのぞいていてかまわない、と彼女がいった。Kはそのときフリーダと二人だけになっていた。彼がすばやくたしかめたところでは、オルガはあの顔見知りの男のところへいっており、樽の上に坐って、足で樽をばたばたとたたいていた。
「フリーダ」と、Kはささやいていった。「あなたはクラムさんをよく知っているんですか」
「ええ、とてもよく」と、彼女はいった。彼女はKと並んでもたれ、今やっとKが気づいたのだが、彼女の襟《えり》ぐりの広い、軽やかなクリーム色のブラウスを、もてあそぶような調子で整えていた。そのブラウスは彼女の貧弱な身体に、まるで似つかわしくないようについていた。それから彼女はいった。
「オルガの笑ったのをおぼえていなくて?」
「おぼえているよ。不作法な女だ」と、Kはいった。
「でも」と、彼女はとりなすようにいった。「笑ったのには理由があったのよ。わたしがクラムを知っているか、とあなたはおたずねでしたけれど、わたしは……」――ここで、彼女が思わず知らず身体を少しばかり起こすと、ここで話されていることとは全然かかわりのないような、勝ちほこったような視線が、またKの上をかすめるのだった――「だって、あの人の恋人なんですもの」
「クラムの恋人だって?」と、Kがいった。
女はうなずいた。
「それじゃ、あなたは」と、二人のあいだがあまりに気まずくならないように、微笑していった。「私にとっては尊敬すべき人というわけですね」
「あなたにとってじゃないのよ」と、フリーダは親しげに、しかし彼の微笑を取りあげることなしに、いった。Kは彼女の傲慢《ごうまん》さに対抗する手段を知っていたので、それを利用した。
「これまでに城にいったことがあるの?」
ところが、これが効果がなかった。彼女はこう答えたのだった。
「いいえ。でも、わたしがこの酒場にいることで十分じゃありません?」
彼女の気ぐらいはどうもばかげているようだったが、まさにKに対して、その気ぐらいを満足させたがっているように思われるのだった。
「もちろん、この酒場では、あなたは亭主の仕事をよくやられるわけですね」
「そうです」と、彼女はいった。「私は〈橋亭〉旅館の馬小屋下女から振り出したんですわ」
「そんなしなやかな手で」と、Kは半分たずねるようにいったが、自分がただお世辞をいっているのか、それともほんとうに彼女に魅惑されてそんなことをいったのか、自分でもわからなかった。彼女の両手は、小さくてしなやかではあったが、弱々しくてつまらぬ手ということもできた。
「あのころは、だれもそんなことを考えなかったわ」と、彼女はいった。「そして、今でさえ――」
Kは、問いかけるように彼女をじっと見つめた。彼女は頭を振り、それ以上、話を進めようとはしなかった。
「あなたはもちろん」と、Kはいった。「秘密もあるでしょうし、たった三十分のあいだ知っているだけであり、ほんとうは自分はどういう事情にあるのかをあなたにお話しする機会もないようなどんな人間にも、その秘密をお話しになることはないでしょう」
ところが、すぐにわかったように、これは適当でない言葉だった。まるでKは、自分にとって都合のよいまどろみからフリーダを眼ざめさせてしまったようなものだ。彼女は、帯に下げている革袋から小さな木を取り出し、それでのぞき孔をふさぎ、自分の気持が変ってしまったことを彼に少しもけどられないように、眼に見えて自分を抑えながら、Kにいった。
「あなたのことに関しては、なんでも知っていますわ。あなたは測量技師ですね」
それから次のようにつけ加えた。
「でも、もう仕事にかからなくちゃ」
そして、スタンドのうしろの自分の場所にもどった。そのあいだに、人びとのうちのだれかがあちこちで立ち上がり、空のコップを彼女にみたしてもらおうとするのだった。Kはもう一度、人眼につかないで彼女と話そうと思い、棚から空のコップを取って、彼女のほうに歩みよった。
「フリーダさん、もう一つだけ」と、彼はいった。「馬小屋の下女から酒場の女給にまでなるというのは、普通でないことですし、そのためには人並すぐれた力が必要です。でも、それで、こんなすぐれた人間が最終の目的に到達した、といえるでしょうか。ばかげた疑問です。私を笑わないでもらいたいけれど、フリーダさん、あなたの眼からは、過去の闘いよりも未来の闘いがものをいっています。けれども、世間の抵抗というものは大きいもので、目標が大きくなればなるほど、抵抗も大きくなっていきます。それで、なんの影響力ももってはいないつまらぬ人間だが、それでもあなたと同じように闘っている一人の人間の援助を手にしっかとにぎっておくということは、けっして恥ではありません。おそらく、私たちはいつか落ちついてお話しし合うことがあるでしょう、こんなに多くの人びとの眼にまじまじと見られることなしにね」
「何をお求めなのか、わたしにはわかりませんわ」と、彼女がいったが、その言葉の調子のなかには、今度は彼女の意志に反して、彼女の生活の勝利ではなく、限りない幻滅が鳴り響いているようであった。
「あなたは私をクラムから引き離したいのですの? ああ、なんていうことを!」と、彼女はいって、両手をぱちりと打ち合わせた。
「私の本心を見抜きましたね」と、Kはそんなにも不信を向けられていることに疲れてしまったように、いった。「まさにそれが私の心の奥底の意図だったのです。あなたはクラムを捨てて、私の恋人になるべきだ、というわけです。これだけいえば、もう出ていけます、オルガ!」と、Kは叫んだ。「家へ帰りましょう」
従順にオルガは樽からすべり下りたが、すぐには彼女を取り巻いている友人たちから離れてこなかった。するとフリーダが、おびやかすようにKを見ながら、低い声でいった。
「いつあなたとお話しできるの?」
「私はここに泊まれますか」と、Kがたずねた。
「ええ」と、フリーダはいった。
「このままここにいていいんですか」
「オルガといっしょに出ていって下さい。わたしがここにいる人たちを追い払うことができますから。それからすぐにここにもどってきていいのよ」
「わかった」と、Kはいい、落ちつかない様子でオルガを待っていた。ところが、農夫たちは彼女を手離さなかった。彼らは一種のダンスを考え出していたのだった。その中心はオルガだった。輪をつくって踊り廻り、たえずいっせいに叫び声をあげて、だれか一人が彼女のところへ歩みより、片手で彼女の腰のあたりをしっかと捉え、彼女を二、三度ぐるぐると廻すのである。輪舞はいよいよ速くなり、飢えたようなごろごろいう叫び声が次第にほとんどただ一つの叫びとなっていった。さっきまで笑いながら輪を突き抜けようとしていたオルガは、今では髪を振り乱して、男から男へとよろけていくだけだった。
「あんな人たちを私のところへこさせるのよ」と、フリーダはいい、怒りをこめて彼女の薄い唇をかんだ。
「どういう人なんです?」と、Kはきいた。
「クラムの使っている連中なのよ」と、フリーダはいった。「いつでもあの人はこんな連中をつれてくるの。あの人たちがいると、私の気持はめちゃめちゃにされるわ。測量技師さん、今日あなたと何をお話ししたのか、わたしにほとんどわかりませんわ。何かお気を悪くさせることがありましたなら、許して下さいね。あの連中がいるせいなの。あの人たちったら、わたしが知っているうちでもいちばん軽蔑すべき、いやな連中ですわ。それなのに、あの人たちのコップにビールを注いでやらなければならないの。あの人たちを城に残してくるようにって、これまでに何度クラムに頼んだかわからないわ。もしわたしがほかのかたたちの使っている人たちのことも我慢しなければならないのなら、あの人もわたしのことを考えてくれたかもわかりませんけど、どんなに頼んでもだめなの。あの人がやってくる一時間前には、いつでもあの連中が、まるで小屋へなだれこむ家畜のように押しよせてくるの。でも今はもう、あの人たちにふさわしい家畜小屋へほんとうにいかなければならないわ。あなたがここにいらっしゃらなければ、わたしがドアを引き開け、クラムも自分であの連中を追い出してくれるはずですのよ」
「あの連中の踊りさわいでいるのが、クラムには聞こえないんですか?」と、Kがきいた。
「そうなの。あの人、眠っているのよ」と、フリーダがいった。
「なんですって!」と、Kは叫んだ。「眠っているんだって? 私が部屋をのぞいて見たときには、まだ起きていて、机のところに坐っていたのに」
「いつでもそんなふうにして坐っているのよ」と、フリーダはいった。「そうでなければ、あなたにのぞかせたりなんかするものですか。あれがあの人の眠っている姿勢なの。城のかたたちはとてもよく眠り、ほとんど想像もできないくらいだわ。それに、あの人がそんなにたくさん眠らなかったら、この連中のことをどうして我慢できるでしょう? ところで、もうわたしが自分であの連中を追い出さなければならないわ」
彼女は片隅にあった鞭《むち》を取り出し、たとえば小羊が跳《と》ぶようなふうに、いくらかあぶなげだが高く一跳びして、踊っている連中のところへ飛び下りた。はじめは彼らは、新しい踊り手が舞いこんだとでもいうふうに、彼女のほうを振り向いたのだった。事実、一瞬のあいだは、フリーダが鞭を落してしまいそうに見えたが、つぎに彼女は鞭をふたたび振り上げた。
「クラムのかわりにいうんだけれど、小屋へいくのよ! みんな小屋へいくのよ!」
今や連中は、事がまじめなのだと見て取った。そして、Kには理解できないような不安を感じながら、ひしめくようにしてうしろのほうへ退き始めた。最初に退いていった何人かがドアに突きあたって、ドアが開き、夜気がさっと流れこんできた。みなはフリーダといっしょに消えてしまった。彼女は庭を横切って小屋まで連中を追い立てていったようであった。
今、突然生じた静けさのなかで、Kは玄関からやってくる足音を聞いた。何とか身構えするため、Kはスタンドのうしろへ飛びこんだが、スタンドの下だけが身を隠すことのできるただ一つの場所だった。彼が酒場にいるということは禁じられているわけではなかったものの、ここに泊まろうと思ったので、今のうちに見つけられることを避けなければならなかったのだ。そこで彼は、ドアがほんとうに開いたときスタンドの下にすべりこんだ。そんなところで見つけられることもむろん危険がないわけではなかったが、ともかくそんな場合には、荒れ出した農夫たちを避けて身を隠したのだ、という言いわけが信じられないものでもなかった。入ってきたのは亭主だった。
「フリーダ」と、亭主は叫んで、二、三度、部屋のなかをあちこちと歩き廻っていた。
幸いなことにフリーダがすぐもどってきて、Kのことにはふれずに、ただ農夫たちのことをこぼし、Kを探そうとしてスタンドのうしろへやってきた。台の下でKは彼女の足にさわることができ、もうこれで安全だと感じた。フリーダがKのことにふれないので、とうとう亭主がいい出さないではいられなかった。
「ところで、測量技師さんはどこへいったのだろうね?」と、彼はきいた。
この亭主はおよそ、はるかに高い身分の人たちと長いあいだかなり自由につき合っていて、そのため上品なしつけを身につけ、礼儀正しい男ではあったが、フリーダとはとくに敬意をこめたやりかたで話すのだった。そんな様子が目立つのはなによりも、この男が話をしながら、使っている女に対する雇い主という態度をやめないのに、それでもその相手がほんとうにふてぶてしいような女であるためであった。
「測量技師さんのことはすっかり忘れていたわ」と、フリーダはいって、Kの胸に彼女の小さな足をのせた。「きっと、ずっと前に出ていったのよ」
「でも、あの人を見かけなかったんですよ」と、亭主がいう。「私はほとんどずうっと玄関にいたんですがね」
「だって、ここにはいないわよ」と、フリーダは冷たくいった。
「おそらくあの人は隠れているんですよ」と、亭主がいった。「あの人から受けた印象では、いろいろなことをやりかねないようですからね」
「そんな大胆さはあの人にはないようじゃないの」と、フリーダはいい、Kの胸に足をいっそう強く押しつけた。彼女の人柄にはある快活さ、自由さがあった。それはKがそれまでは気づかなかったものだった。ところが、それがまったくありえないほどに拡がっていった。そして、突然、笑いながら、
「たぶん、この下に隠れているんだわ」と、いったかと思うと、Kのほうに身体をかがめ、彼にさっと接吻し、つぎにまた飛び上がって、顔を曇らせながらいった。
「いいえ、ここにはいないわ」
ところが、亭主も驚きのたねになるようなことをいうのだった。
「あの人が出ていったかどうか、はっきりとわからないということは、私にはとても不愉快なことです。ただクラムさんにかかわる問題だけではなく、規則にかかわることだからです。その規則は、フリーダさん、私と同様、あなたにもあてはまるべきものなのですよ。酒場のほうのことは万事あなたの責任ですよ。ここ以外のところは私が探してみることにします。おやすみなさい! ごきげんよう!」
亭主が部屋を出るか出ないかのうちに、フリーダは電燈を消してしまい、台の下のKのわきに身体を置いた。
「わたしの恋人! いとしい恋人!」と、彼女はささやいたが、Kには全然さわらない。恋しさのあまり気が遠くなってしまったように仰向けに寝て、両腕を拡げていた。時間は彼女の幸福な愛の前に無限であり、歌うというよりは溜息をもらすような調子で何か小さな歌をつぶやいていた。ところが、Kがもの思いにふけりながらじっと静かにしているので、彼女は驚いたように飛び起き、まるで今度は子供のように彼を引っ張り始めた。
「さあ、いらっしゃいな、こんな下では息がつまってしまうわ!」
二人はたがいに抱き合った。小さな身体がKの両腕のなかで燃えていた。二人は一種の失神状態でころげ廻った。Kはそんな状態から脱け出そうとたえず努めるのだが、だめだった。二、三歩の距離をころげて、クラムの部屋のドアにどすんとぶつかり、それから床の上にこぼれたビールと、床を被っているそのほかの汚れもののうちに身体を横たえた。そこで何時間も流れ過ぎた。かよい合う呼吸、かよい合う胸の鼓動の何時間かであった。そのあいだKは、たえずこんな感情を抱いていた。自分は道に迷っているのだ。あるいは自分より前にはだれもきたことのないような遠い異郷へきてしまったのだ。この異郷では空気さえも故郷の空気とは成分がまったくちがい、そこでは見知らぬという感情のために息がつまってしまわないではいず、しかもその異郷のばかげた誘惑にとらえられて、さらに歩みつづけ、さらに迷いつづける以外にできることはないのだ、という感情であった。そこで、クラムの部屋から、おもおもしい命令調の冷たい声でフリーダを呼ぶのが聞こえたとき、それは少なくともはじめには彼にとって驚きではなく、むしろ心を慰めてくれるほのぼのした感じであった。
「フリーダ」と、Kはフリーダの耳にささやき、人が呼んでいることを伝えてやった。まったく生まれつきの従順さのままに、フリーダは飛び起きようとしたが、次に自分がどこにいるのかを考え、身体をのばし、静かに笑って、いった。
「でも、わたしはいったりなんかしないわ。けっしてあの人のところにはいかないわ」
Kはそれに反対しようとし、せき立ててクラムのところへいかせようとして、ブラウスの裂け落ちた布切れを集め始めたが、一言もいうことはできなかった。フリーダを両腕に抱いて、彼はあまりにも幸福だった。不安になるほど幸福であった。というのは、もしフリーダが自分を捨てるようなことがあるなら、自分のもっているいっさいのものが失われてしまうのだ、と彼には思えるのだった。そして、フリーダもKの同意によって元気づけられたかのように、こぶしを固めると、そのこぶしでドアをたたいて、叫んだ。
「あたし、測量技師さんのところにいるのよ! 測量技師さんのところにいるのよ!」
それで、クラムは黙るには黙った。しかし、Kは身を起こし、フリーダのわきにひざまずくと、薄暗い夜明けの光のなかであたりを見廻した。何が起ったのだろうか。自分の希望はどこへいったのだろうか。いっさいが暴露してしまった今となって、何をフリーダから期待できるだろうか。敵と目標との大きさにふさわしく、慎重に前へ進んでいくかわりに、一晩じゅうここのこぼれたビールのなかでころげていたのだ。そのこぼれたビールのにおいは、今は頭をぼんやりさせるのだった。
「お前は何をやったのだ?」と、彼はつぶやいた。「私たち二人はもうだめだ」
「そんなことないわ」と、フリーダはいった。「あたしだけがだめになったのよ。でも、あたしはあなたという人を自分のものにしたんだわ。落ちついていなさい。でも、ごらんなさい、あの二人が笑っているわ」
「だれがだい?」と、Kはいい、振り返った。スタンドの上には、彼の二人の助手が、少し寝不足で疲れてはいるがはればれした面持《おももち》で坐っていた。義務を忠実に果たしたことが生み出す明るい顔つきであった。
「ここになんの用があるんだ!」と、まるでいっさいの責任はこの二人にあるとでもいうかのように、Kは叫んだ。フリーダがゆうべ手にしていた鞭を身のまわりに探した。
「私たちはあなたを探さなければならなかったんです」と、助手たちがいった。「あなたがたが食堂の私たちのところへ降りてこなかったんで、あなたをバルナバスのところで探し、最後にここで見つけたんです。ここに一晩じゅう坐っていましたよ。勤めもほんとに楽じゃありません」
「君たちが必要なのは昼間で、夜ではないんだ。出ていきたまえ」と、Kがいった。
「もう昼間ですよ」と、二人はいって、動かない。実際、もう昼であり、内庭へ出るドアが開かれており、農夫たちがオルガといっしょにどやどやと入ってきた。Kはオルガのことをすっかり忘れていた。彼女の服や髪毛はひどく乱れていたが、ゆうべ同様いきいきとしていて、ドアのところで早くも彼女の眼はKの姿を探していた。
「なぜわたしといっしょに家にいらっしゃらなかったの?」と、オルガはいって、ほとんど涙ぐんでいた。
「こんな女のために!」と、いい、その言葉を二度も三度もくり返した。ほんのわずかのあいだ姿を消していたフリーダが、小さな下着の包みをもってもどってきた。オルガは悲しげにわきへのいた。
「さあ、いきましょうよ」と、フリーダがいった。彼女がいくことになっている〈橋亭〉のことをいっているのは明らかであった。Kはフリーダといっしょに歩き、そのあとに二人の助手がつづくという一行だった。農夫たちはフリーダに対して大いに軽蔑の色を見せたが、それもあたりまえだった。これまでは彼女がその連中を牛耳っていたからだ。農夫の一人は、杖をとり、その杖を飛び越さなければいかせないぞ、というそぶりまで見せた。だが、彼女が視線を投げただけで、その男を追い払うのに十分であった。戸外の雪のなかで、Kは少し息をついた。戸外にいるという幸福感がひどく大きかったので、今度は歩いていく道の難儀も我慢できた。もしひとりであったなら、もっとよく歩くこともできたろう。宿に着くと、すぐに自分の部屋へいき、ベッドの上に横になった。フリーダはそのわきの床の上に寝床をつくった。助手たちはいっしょに入りこんできて追い出されたが、すると、今度は窓から入ってきた。Kはすっかり疲れていて、彼らをまた追い出す元気もなかった。おかみが、フリーダに挨拶するため、わざわざ上がってきた。フリーダに〈小母さん〉と呼ばれていた。接吻をしたり、長いあいだ抱き合ったりして、不可解なほど親しげな挨拶が交わされるのだった。その小さな部屋ではおよそ静けさがほとんどなかった。女中たちも、男物の長靴をはいてばたばた音を立てながら、何かをもってきたり、もち去ったりするためにしょっちゅうやってくるのだった。いろいろなものでつまっているベッドから何かが必要となると、遠慮もなくKの寝ている下から引き出していく。フリーダには同輩扱いの挨拶のしようである。こんなさわがしさにもかかわらず、Kは一日じゅう、また一晩じゅう、ベッドに入っていた。ちょっとした彼の世話はフリーダがした。つぎの朝、きわめて元気になってついに起き上がったが、すでにこの村に滞在するようになってから四日目であった。
第四章
彼はフリーダとうちとけて話したかったが、助手たちが厚かましくも目の前にいるというだけで、じゃまされた。ところでフリーダは、この二人とときどきふざけたり、笑ったりするのだった。なるほど二人の助手は別に要求が多いわけではなかった。片隅の床の上に二枚の古いスカートを敷き、その上で寝起きしていた。二人がしばしばフリーダと話し合っていたように、測量技師さんのじゃまをしないで、できるだけ少ない場所しかとらぬということが、彼らのせいぜいの望みであった。このために、とはいってももちろんいつでもささやいたり、くすくす笑ったりしながらではあったが、いろいろな試みをやるのだった。腕と脚とを組み合わせたり、いっしょにうずくまったりした。薄暗がりのなかで、彼らのいる片隅はただ大きな糸玉ぐらいにしか見えなかった。ところが、残念ながら昼間のいろいろな経験からわかっていたのだが、この糸玉がきわめて注意深い観察者であり、いつでもKのほうをじっと見ているのだ。この二人が、子供らしい戯れにふけっているように見せながらたとえば両手で望遠鏡の形をつくったり、そんなふうなほかのばかげたことをやったり、あるいはこちらに目くばせしたり、主として自分たちの髭の手入れに夢中になっているように見えたりするのであっても、じつはKのほうをじっと見ているのだ。ところでその髭だが、彼ら二人にはそれがすこぶる大切であり、何度でもその長さや濃さをたがいに比べ合い、フリーダにどちらのほうがりっぱか判定してもらうのだった。Kはしばしば、ベッドからこの三人のやることをまったく冷淡にながめていた。
これでもうベッドを離れるのに十分なだけ元気が出たと彼が感じたとき、三人は彼の世話をしようとして急いでやってきた。ところがKはまだ、彼らの手伝いを払いのけるほどには元気になっていなかった。こんな手伝いを受けることで、この三人にある種のたよりかたをすることになり、そんなたよりかたはいろいろ悪い結果を生むかもしれないのだ、と彼は気づきはしたのだが、どうもされるままになっているよりほかにしかたがなかった。それに、テーブルについて、フリーダが運んできてあるよいコーヒーを飲み、フリーダが燃やしたストーヴにあたり、熱心だが不器用な助手たちに階段を十ぺんも昇降させて洗面の水や石鹸やくしや鏡をもってこさせ、おまけに、Kが低い声でそれとわかる希望をいったからだが、小さなグラス一杯のラム酒を運ばせることは、それほど不愉快なことではなかった。
こんなふうに命令したりサービスしてもらったりしているうちに、ある成果を期待してというよりはむしろくつろいだ気分から、Kはこういった。
「さあ、君たち二人はむこうへいってくれ。今のところもう何もいらないよ。フリーダさんとだけで話したいんだ」
そして、二人の顔に別に反抗の気配《けはい》も見られなかったので、二人にそんなことをいった埋合せをするつもりで、さらにいった。
「私たち三人は、あとで村長のところへいくから、下の部屋で私を待っていてくれ」
めずらしく二人はいうことをきいたが、ただ部屋を去る前にいうのだった。
「私たちもここでお待ちできるといいんですが」
そこでKは答えた。
「わかっているよ。でも、そうしてはもらいたくないんだ」
フリーダは、助手たちが立ち去るとすぐにKの膝の上に坐って、いった。
「あなた、あの助手たちのどこが気に入らないの? あたしたちはあの人たちに秘密なんかもってはいけないわ。あの人たちは忠実なんですもの」
この言葉を聞いたとき、Kには腹立たしくはあったが、またある意味では好都合でもあった。
「え、忠実だって?」と、Kはいった。「あいつらは私をたえずうかがっている。ばかげたことだが、いまいましい」
「あなたのいうこと、よくわかると思うわ」と、彼女はいって、彼の首にすがりつき、なお何かいおうとしたが、それ以上しゃべることはできなかった。Kたちが坐っていた椅子はベッドのすぐわきにあったので、二人はベッドのほうへぐらついて、その上に倒れた。二人はそこへ横たわっていたが、先夜のように身をまかせ切りになってはいられなかった。彼女は何かを求め、彼も何かを求めていた。荒れ狂い、顔をしかめ、たがいに頭を相手の胸に強く押しつけながら、彼らは求めていた。そして、二人の抱擁《ほうよう》、二人の投げかけ合っている肉体は、求めるという義務を彼らに忘れさせはしないで、むしろそれを思い出させるのだった。犬たちが絶望して大地をかきむしるように、二人はたがいに肉体をかきむしり合った。そして、なお最後の幸福をつくり出すことは絶望し、幻滅して、彼らの舌はときどき相手の顔じゅうをなめ廻すのだった。疲れがやっと彼らを鎮まらせ、たがいに相手に感謝させた。やがて女中が上がってきた。
「まあ、二人はなんていう恰好でここに寝ているんでしょう」と、女中の一人がいって、同情の気持から彼らの上に一枚の布を投げかけた。
しばらくしてKがその布を押しのけ、あたりを見廻すと、――別に彼は驚かなかったが――助手たちがまた例の片隅にきていて、指でKをさしながら、たがいにまじめになるようにといましめ合い、敬礼をするのだった。ところが、二人の助手のほかに、ベッドのすぐわきに宿のおかみが坐って、靴下を編んでいた。こんな小さな手仕事は、部屋をほとんど暗くしてしまうほどの巨人のような彼女の身体にはぴったりしなかった。
「ずいぶん長いあいだ待っていたんですよ」と、彼女はいって、だだっぴろくて老いのしわがたくさん刻まれてはいるが、全体からいうとまだ色つやがよく、おそらくかつては美しかったにちがいない顔を、ふっと上げた。彼女の言葉は非難のように、それも見当ちがいの非難のように、ひびいた。というのは、Kはじつのところ、彼女にきてくれなどと頼まなかったのだ。そこで彼は、ただうなずいて彼女の言葉がわかったというそぶりを見せた。フリーダも起き上がったが、Kを離れて、おかみの椅子にもたれた。
「おかみさん」と、Kは放心したようにいった。「あなたが私にいおうとしていることは、私が村長のところからもどってきてからにしてくれませんか。私は村長のところで重要な話合いをしなければならないのです」
「こっちのほうが重要ですよ。いいですか、測量技師さん」と、おかみはいった。「村長さんのところではおそらくただ仕事のことだけが問題なんでしょうが、ここでは一人の人間のこと、私のかわいい女中のフリーダのことが問題なんですよ」
「なるほど」と、Kはいった。「だがしかし、なぜこの問題を、私たち二人にまかせておいてくれないのか、どうもわかりませんね」
「愛情のためです。心配からです」と、おかみはいい、フリーダの頭を自分の身体に引きよせた。フリーダは立っているのに、坐っているおかみの肩のところまでしかとどかない。Kはいった。
「フリーダがあなたをそんなに信頼しているのだから、私もほかにしようがありません。それに、フリーダがついさっき、私の助手たちは忠実だといったのですから、私たちはたがいに友人同士なわけです。それから私は、おかみさん、あなたにいえるんですが、フリーダと私とが結婚すれば、しかもすぐにもすれば、それがいちばんいいんだ、と私は考えているんです。残念しごくなことですが、結婚しても、フリーダが私によって失ってしまうもの、つまり紳士荘の地位とかクラムとのなじみとかをつぐなってやれないでしょうけれど」
フリーダが顔を上げたが、眼は涙でいっぱいだった。眼には勝利感などはまったく浮かんでいなかった。
「なぜわたしなの? なぜ、ほかならぬこのわたしがそのために選ばれたの?」
「なに?」と、Kとおかみとが同時にたずねた。
「この子は気が変になっているんだわ、かわいそうに」と、おかみがいった。「あまりの幸福と不幸とがいっしょになったので、気が変になっているんだわ」
すると、まるでこの言葉を裏書きするように、フリーダは今度はKの上に身を投げかけ、ほかにはだれも部屋にいないかのようにあらあらしく彼に接吻し、次に泣きながら、なお彼を抱きしめたまま、彼の前にひざまずいた。Kは両手でフリーダの髪をなでながら、おかみにたずねた。
「あなたは私のいうことがもっともと思われるでしょうね」
「あなたはりっぱなかたですわ」と、おかみはいったが、彼女も涙声で、いくらかがっくりしてしまったように見え、苦しげな息をついていた。それにもかかわらず、彼女はまだ次のようにいう元気があった。
「今度はただ、あなたがフリーダに与えなければならない何かの保証をいろいろと考えてみましょう。なぜなら、わたしのあなたに対する尊敬がどんなに大きくとも、あなたはやっぱりよその人ですからね。だれも証人にすることはできないし、あなたの家庭の事情もここではわかっていませんもの。だから、保証がどうしても必要です。それはよくおわかりですね、測量技師さん。だって、あなたご自身が、フリーダはあなたと結びついたために今後どんなに多くのものを失うか、ということを指摘なすったんですもの」
「そうですとも。保証、それはもちろんです」と、Kはいった。「保証は祭壇の前でするのがきっといちばんいいでしょう。だが、おそらくほかの伯爵領の役所が介入してくることでしょう。それに私は結婚式の前にどうしても片づけておかねばならぬことがあります。クラムと話さなければなりません」
「それはだめよ」と、フリーダはいって、少し身体をもたげ、Kに身体を押しつけてきた。「なんていうことを考えるの!」
「どうしてもしなければならないんだ」と、Kはいった。「もし私になしとげられないのなら、君がしなければならない」
「わたしにはできないわ、K、できないわ」と、フリーダがいった。「クラムはけっしてあなたと話なんかしないでしょう。クラムがあなたと話すなんて、どうしてそんなことを信じられるでしょう!」
「君となら話すかい?」と、Kはきいた。
「わたしもだめよ」と、フリーダがいう。「あなたもだめよ、わたしもだめよ。まったくできないことなのよ」
彼女は両腕を拡げておかみに向った。
「ごらんなさいな、おかみさん、なんていうことをこの人は求めているんでしょう」
「あなたは変っていますね、測量技師さん」と、おかみはいった。今度は身体をまっすぐに立て、両脚を組み合わせ、薄手のスカートを通してがっちりした膝を浮き出させている彼女の様子は、恐るべきものであった。「あなたはできないことを求めているんですよ」
「なぜできないんですか?」と、Kはたずねた。
「それは説明しましょう」と、まるでこの説明は最後の好意ではなくて、すでに彼女がくだす最初の罰なのだ、というような調子で、彼女はいった。「よろこんで説明しましょう。わたしはお城の人間ではなく、ただの女、ただこの最下等の宿のおかみにすぎませんわ。――この宿は最下等じゃないかもしれませんけど、でもそれよりあまりましじゃありません。――ですから、あなたはわたしの説明にあまり重きを置かないかもしれませんが、わたしだってこれまで二つの眼をちゃんと開けて生きてきたのですし、たくさんの人とも出会い、商売の重荷もすべてひとりで背負ってきました。というのは、主人はなるほどいい人間だけれど、どうも宿の亭主じゃありませんからね。責任というものがどんなものか、ということはあの人にはけっしてわからないでしょうよ。たとえば、あなたがこの村にいらっしゃるのも、またここでベッドの上に安らかに気楽に坐っていらっしゃるのも、ただあの人の投げやりな態度のおかげなんですよ。――わたしはあの晩はもう疲れ切って、倒れそうだったんです」
「どうしてです?」と、Kは腹立ちよりもむしろ好奇心に刺戟されて、ある種の放心状態から目ざめながら、いった。
「みんなあの人の投げやりな態度のおかげなんですよ!」とおかみはKに人差指を向けながら、もう一度叫んだ。フリーダがおかみをなだめようとした。
「なんだっていうのさ」と、おかみは身体全体を急に向けなおして、いった。「測量技師さんがおたずねだから、わたしはお答えしなけりゃならないんだよ。わたしがいわなければ、このかたにどうしておわかりになるのさ、わたしたちにはわかりきっていることを、クラムさんはけっしてこのかたとは話さないだろう、っていうことをさ。いいえ、わたしとしたことが、〈話さないだろう〉なんていって。このかたと話ができないんだよ。聞いて下さい、測量技師さん! クラムさんはお城の人ですよ。それだけのことでもう、クラムのほかの地位なんかは別としても、とても身分が高いということなんですよ。ところであなたはなんだというんです、わたしたちがここでこんなにへりくだってあなたの結婚の同意を得ようとしていたって! あなたはお城のかたではないし、村の出ではないし、あなたは何者でもないんですよ。でも残念ながらあなたは何者かではありますよ。よそ者、余計者でどこでだってじゃまになる人間なんです。その人のためにいつだって他人に迷惑がかかるような人、その人のために女中たちを別なところへどかせなければならないような人、どんなつもりでいるのかわからないような人、わたしたちのかわいいフリーダを誘惑してしまった人、残念なことにフリーダを妻としてあげなければならない人なんです。でも、根本からいうと、そんなすべてのことのためにあなたを非難しているわけじゃありませんよ。あなたは、ありのままのあなたですからね。わたしはこれまでの生涯ですでにいろいろなことを見てきましたから、こんな有様が我慢できないなんていうことはありませんよ。でも、あなたがじつはどんなことを求めていらっしゃるのか、ということを考えてもごらんなさいな。クラムみたいな人があなたと話すなんて! フリーダがあなたにのぞき孔《あな》を通してお見せしたということを、わたしはつらい気持で聞きました。この子がそんなことをしたとき、すでにこの子はあなたに誘惑されていたんです。あなたがどうやっておよそクラムの姿を平気で見ていられたのか、いって下さいな。いえ、いう必要はありません、わたしにはわかっています。あなたはあの人の姿を全然平気で見ていられたんです。でも、クラムにほんとうに会うなんていうことは、あなたにはできっこありません。これはなにもわたしの思い上りなんかじゃありません。というのは、わたし自身だってできないんですもの。あなたがクラムと話したいですって? クラムはけっして村の人とは話さないんです。あの人自身、村のだれかと話したことなんか、一度だってないんです。まったくフリーダの大きな名誉なんです、わたしが死ぬまでわたしの誇りとなるような名誉なんですよ、あの人が少なくともいつもフリーダの名前を呼んでいたこと、フリーダが好きなときにあの人と話ができたこと、そしてのぞき孔から見ることを許されていたことは。でも、あの人はこの子とも一度だって話したことがないんです。そして、あの人がときどきフリーダを呼んだということには、人が好んでつけたがるような意味はまったくないはずです。あの人はただ、〈フリーダ〉という名前を呼んだだけなんです。――あの人の考えていることをだれがわかるものですか。――フリーダはもちろん急いでいきましたが、それはこの子だけのことですし、この子が反対も受けずにあの人の部屋に入ることを許されたのは、クラムの好意なんです。でも、あの人がこの子をたしかに呼んだのだ、とはいい張るわけにはいきません。もちろん、今では、あったことも永久に過ぎ去ってしまいました。おそらくクラムはなお〈フリーダ〉という名前を呼ぶかもしれません。それはありうることです。でも、この子はもうきっとあの人の部屋へ入ることは許されないでしょう。あなたと関係してしまった娘なんですからね。で、ただ一つだけ、ただ一つだけ、わたしのあわれな頭ではわからないんですけれど、クラムの恋人――わたしはこれは誇張した呼びかただと考えていますがね――そういわれていたような娘が、どうしてあなたに心を動かされたりしたのでしょうねえ」
「まったく。それは変ですね」と、Kはいって、頭を垂れてではあるがすぐ応じてきたフリーダを、自分の膝の上にのせた。「でも、そのことが証明しているのは、ほかのこともなにからなにまでまったくあなたの信じているとおりではないのだ、ということでしょうね。たとえばたしかに、私がクラムに対しては何者でもない、とあなたがおっしゃるのは、もっともな話です。また、私が今でもクラムと話したいと望んでいて、しかもあなたの説明によって少しもその要求を捨てていなくとも、それで、へだてのドアなしでクラムの姿を平気で見ていられるのだ、ということにはなりませんし、あの人が部屋から出てくるときに逃げ出してしまうかもしれませんね。でも、こんな心配はたとい正しくとも、まだ私にとってはそれをやってみようとしない理由にはなりませんよ。ところで、もし私があの人に対して平気でいることができるなら、あの人が私と話すなんていうことはまったく必要じゃないんです。私の言葉があの人に与える印象を見とどけるならば、私にはもう十分です。そして、もし私の言葉があの人に少しも印象を与えず、あの人がそれを全然聞いていないにしても、一人の権力者の前で自由にものがいえたのだ、という勝利をおさめたことになります。でも、おかみさん、あなたは人生や人間のことをよく知っているといわれるし、きのうまではクラムの恋人だった――この言葉を避ける理由は私にはありませんよ――フリーダであってみれば、あなたがた二人はきっと、クラムと話す機会を私のためにたやすくつくってくれることができるはずです。ほかのやりかたではできないのなら、まさに紳士荘でね。おそらくあの人は今日もまだそこにいるでしょうからね」
「それはできませんよ」と、おかみがいった。「それに、わたしにはわかっているのですけれど、あなたにはそのことがわかる能力が欠けているのです。ところで、ひとつ教えてくれませんか、いったいクラムとどんなことについて話そうっていうんです?」
「もちろん、フリーダのことについてですよ」と、Kはいった。
「フリーダのこと?」と、おかみはわけがわからぬようにききただし、フリーダに向って、いった。「聞いたかい、フリーダ。この人はね、この人はあんたのことについてクラムと話したいんだってさ、クラムとだってさ」
「いや、どうも」と、Kはいった。「あなたは、おかみさん、とても賢い、尊敬の気持を起こさせるかたなのに、どんな小さなことにも驚くんですねえ。ところで、私はフリーダのことについてあの人と話そうと思うんだが、これはそう途方もないことじゃなく、むしろあたりまえのことですよ。というのは、たしかにあなたの思いちがいですね、私が登場した瞬間からフリーダはクラムに対して意味のないものになってしまったのだ、と思うのなら。そんなことを信じているのなら、あの人を軽く見すぎていますよ。この点であなたに教えようとするなんて生意気なことだ、とはよくわかっていますが、やはりそうしないではいられません。クラムのフリーダに対する関係で私が入りこんだために変ってしまったところなんか、少しだってありません。この二人のあいだには、つぎのような二つの場合があるだけです。一つは、本質的な関係なんかなかったという場合で――こういっているのは、元来は、フリーダから恋人という敬称を取り去っている人たちです――それなら、今でも関係はないわけです。しかし、もう一つの場合として、もし関係があったとすれば、あなたが正しくもいわれたようにクラムの眼にとって何者でもないこの私によって、その関係が乱されるというようなことが、どうしてありましょうか。そんなばかげたことは、驚いたときに最初の一瞬間だけ人が信じるものです。少しでも考えなおしてみさえすれば、そんなことは訂正されてしまいますよ。ところで、フリーダにこれについての意見をきいてみようではありませんか」
遠くのほうに漂っているようなまなざしを見せながら、頬をKの胸に埋めて、フリーダがいった。
「それはおばさんのいったとおりよ。クラムはもうわたしのことなんか何も知りたがっていません。でも、もちろん、あなたがきたからなんかじゃないの。そんなことであの人は少しも動じたりしないわ。きっと、あたしたちがあのスタンドの下で出会ったのもあの人のしわざなんだ、と思うわ。どうぞあの出会いが祝福されていますように。呪《のろ》われてはいませんように」
「もしそうなら」と、Kはゆっくりといった。フリーダの言葉が甘かったのだ。彼は二、三秒のあいだ眼を閉じ、その言葉を身体全体にしみとおらせようとした。「もしそうなら、クラムと話すことを恐れる理由はもっと少ないわけだ」
「ほんとに」と、おかみはいって、Kを高いところから見下した。「あなたって人は、ときどきわたしの主人のことを思い出させますね。あの人と同じように、あなたも反抗的で子供のようなんだわ。あなたはここへきてまだ二、三日にしかならないのに、もうなんでもこの土地の者たちよりもよく知りたがるのね、わたしのようなお婆さんよりも、また紳士荘でいろいろ見たり聞いたりしてきたフリーダよりも。きまりやしきたりにまったく反していつか何かをうまくやりとげるなんていうことはありえないことだ、とはいいません。わたしはこれまでにそんなことを体験したことはないけれど、どうもそういう例はあるようね。そうかもしれないわ。でも、そんなことがあるとすれば、きっとあなたのやるようなやりかたでではないでしょう。いつでも『ちがう、ちがう』といって、自分の頭だけでうけ合い、どんな好意ある忠告さえも聞きのがす、なんて。いったいあなたは、私の心配があなたのためなんだ、とでも思っているんですか。あなたがひとりだったあいだは、あなたのことなんかにわたしが気をかけていましたかね。たしかにそうしておいたほうがよかったでしょうし、いろいろな面倒が避けられもしたでしょうけれど。あのとき、わたしがあなたについて亭主にいったただ一つのことといえば、『あの人を避けるんですよ』ということだけでしたよ。もしフリーダが今ではあなたの運命に巻き添えをくっているのでなければ、この言葉は今でもまだわたしの気持というものでしょう。あなたの気に入ろうと、気に入るまいと、わたしの心づかいも、そればかりかわたしがしたてに出ているのだって、みんなこの子のおかげなんですよ。そして、あなたはこのわたしをさっぱりとのけ者にするわけにはいきません。なぜなら、かわいいフリーダの身の上を母親のような心配で見守っているただ一人の女であるこのわたしに対して、あなたは重い責任がありますからね。フリーダのいうことが正しくて、起ったことはみなクラムの意志のままなのだ、ということはありうることです。でも、クラムについてはわたしは今でも何一つ知らないのです。これからもけっしてあの人と話すことはないでしょうし、あの人はわたしにとっては手のとどかない人なんです。ところが、あなたはここに坐って、わたしのフリーダをつかまえ、――このことをなぜ隠しておく必要があるでしょう?――じつはこのわたしにつかまえられているのです。そうです、わたしにつかまえられているんですよ。なぜなら、もしわたしがあなたをこの家から追い出したら、犬小屋だろうとなんだろうと、村のどこかで泊まる場所を見つけてごらんなさいな」
「ありがとう」と、Kはいった。「それは率直な言葉ですね。あなたのいわれることはそのまま信じますよ。それでは、私の立場も、またそれと関連してフリーダの立場も、すこぶる不安定なものなのですね」
「ちがいます!」と、おかみはKの言葉をさえぎるようにして、あらあらしく叫んだ。「フリーダの立場は、この点については、あなたの立場と全然関係がありませんよ。フリーダはうちの者ですし、だれだって、この子の立場がここで不安定だなんていう権利はありませんよ」
「わかった、わかりましたよ」と、Kはいった。「その点でもあなたが正しいとみとめるとしましょう。その理由はとくに、フリーダがなぜか知らないけれど、あなたのことをひどくこわがっているようで、この話に加わろうとしないからです。そこで、さしあたっては、話を私のことだけに限りましょう。私の立場がきわめて不安定であるということ、これはあなたも否定なさらないし、むしろそのことを証明しようと一生懸命になっておられる。あなたのおっしゃるすべてのことと同様、これは大部分は正しいのですが、完全に正しいわけではありません。たとえば、私はいつでも泊まれるなかなかいい宿屋を知っていますよ」
「いったい、どこですか?」と、フリーダとおかみとが叫んだ。まるで、こうきくのには同じ動機があるかのように、時を同じくして、ひどく好奇心たっぷりなききかただった。
「バルナバスのところです」と、Kがいった。
「あのごろつきたち!」と、おかみが叫んだ。「あのずるいごろつきたち! バルナバスのところだってさ! お聞きよ――」そういうと、彼女は部屋の隅のほうに向きなおったが、助手たちはもうずっと前から進み出ていて、腕を組み合っておかみのうしろに立っていた。おかみは、まるで身体を支えてくれるのが必要であるような様子で、助手の一人の手をつかんだ。「お聞きよ、この旦那がどこをうろつき廻っているのか。バルナバスの家なんだよ! もちろん、あそこなら泊まれるさ。ああ、紳士荘よりもむしろあそこに泊ってくれていたら、どんなによかったかしれない。ところで、あんたたちはどこで待っているの?」
「おかみさん」と、Kはまだ二人の助手たちが答えぬうちに、いった。「この二人は私の助手ですよ。それなのにあなたは、まるで二人があなたの助手で、しかも私の見張り人であるかのように扱っておられる。ほかのことでならどんなことでも、きわめて鄭重《ていちょう》にあなたのご意見について少なくとも議論はするつもりでいますが、私の助手についてはそんなことはできません。というのは、その点では事はあまりにはっきりしていますからね。そこで、お願いしますが、どうか私の助手とは話をしないで下さい。もし私のこのお願いが十分でないなら、私の助手に、あなたにお答えすることを禁じます」
「それでは、私はあなたたちと話してはいけないわけね」と、おかみがいって、三人そろって笑った。おかみの笑いは嘲笑的であったが、Kが期待したよりもずっとおだやかではあった。助手たちのは、いつもの、いろいろ意味ありげだがまたなんの意味もないような、どんな責任も回避しているような笑いかたであった。
「ね、怒らないで」と、フリーダがいう。「わたしたちが興奮していることをよくわかって下さらなければいけないわ。いってみれば、わたしたちが今深い仲になっているのは、ただバルナバスのおかげだわ。あなたをはじめて酒場で見たとき、――あなたはオルガの腕にすがって入ってきたわね――わたしはあなたについていくらかのことをもう知っていたわ。でも、要するにあなたはわたしにとってはまったくどうでもよい人だったのよ。いえ、あなただけがどうでもよかったばかりでなく、ほとんどすべてのことが、ほとんど全部が全部、どうでもよかったの。あのとき、わたしはたくさんのことに不満だったし、いろいろなことに腹を立てていたの。でも、なんという不満だったのでしょう、なんという腹立ちだったのでしょう! たとえば、酒場のお客の一人がわたしを侮辱しました。あの人たちはいつでもわたしのあとをつけ廻していたんです。――あなた、あそこにいた連中を見たでしょう。ところが、もっとひどい連中がきたのよ。クラムが使っている人たちがいちばんひどい連中というわけではなかったんだわ。――そういうわけで、一人がわたしを侮辱したんです。それがわたしにどうだったというのでしょう。わたしには、それが何年も前に起ったように思われました。全然起こらなかったようにも思われました。ただそんな話を聞いただけのことのようにも思われ、わたし自身がそれをとっくに忘れてしまっていたようにも思われました。でも、わたしはそれを述べることができないし、もうけっして思い浮かべることができないの。クラムがわたしを捨ててしまってからは、そんなにすべてのことが変ってしまったんだわ」
フリーダは話を中断した。悲しげに頭を垂れ、両手は組んで膝の上に置いていた。
「ごらんなさい」と、おかみは叫んだが、まるで自分でしゃべっているのではなく、ただフリーダに自分の声を貸しているとでもいうふうだった。彼女は身体をずっと近づけて、フリーダのすぐそばに坐った。「ごらんなさいな、測量技師さん、あなたの行いの結果をね。そして、あなたの助手さんたちも、わたしはこの人たちと話してはいけないそうだけれど、勉強のために見ておくことだわね。あなたはフリーダを、これまでこの子が与えられていたもっとも幸福な状態から引き離してしまったのよ。そして、あなたがそのことに成功した理由は、何よりもまず、フリーダが子供らしいいきすぎた同情から、あなたがオルガの腕にすがっていて、そんなふうにしてバルナバスの一家のものになってしまっていることに、我慢できなかったからなんですよ。この子があなたを救って、そのために自分を犠牲にしたんです。そして、こうしたことが起ってしまい、フリーダが自分のもっているすべてのものと引き換えに、あなたの膝の上に坐るという幸福を選んだ今となって、あなたがやってきて、自分は一度バルナバスの家に泊まる可能性をもったのだ、などということを最後の切り札として出しているわけです。そんなことをいって、きっと、あなたはわたしにたよったりなんかしなくていいんだ、ということを証明したいんでしょう。たしかに、もしあなたがほんとうにバルナバスのところに泊ったのならば、あなたはたしかに私なんかたよりにしなくたっていいでしょうよ。そして、たちまち、しかもすぐ今からわたしの家を出ていかねばならないでしょうよ」
「私はバルナバス一家の罪なんか知りません」と、Kはいった。そして一方、まるで死んだようになっているフリーダを注意深く抱き上げ、ゆっくりとベッドの上に坐らせ、自分は立ち上がった。「おそらくその点であなたのいわれることは正しいんでしょう。しかし、フリーダと私とのことは私たち二人にまかせておいてくれ、と私があなたにお頼みしたとき、たしかにわたしの言いぶんが正しかったはずです。そのときにあなたは愛情とか心配とかいうことを何かいわれたけれど、それについてはそれ以上たいして私の眼につかないで、それだけに憎しみとか嘲笑とか家から追い出すということとかについては余計に眼についています。もしあなたが、フリーダを私からか、あるいは私をフリーダからか、引き離そうという狙《ねら》いであったのなら、まったくうまくやられたわけです。でも、そんなことはあなたには成功しない、と思いますよ。もしそんなことが成功するならば、あなたはそれを――私にも一度、気味の悪いおどしをいわせて下さい――ひどく後悔なさるでしょうよ。あなたが私に貸して下すっている部屋についていえば、――部屋といったって、あなたにはこのいやらしい穴ぐらのことぐらいしか考えられないんですが――この部屋を自分自身の意志で貸して下すっているのかどうか、まったく疑わしいものです。むしろこのことについては伯爵の役所の命令があるように思われますね。私は今、この宿から出るようにいわれた、ということをその役所に伝えてやりましょう。もし私に別な住居が示されるなら、あなたはきっとほっとして息をつかれることでしょうね。でも、私のほうはもっとほっとしますよ。ところで、私はあれやこれやの用事で村長のところへいきます。どうか、少なくともフリーダの面倒を見てやって下さい。あなたはこの子を、あなたのいわゆる母親らしい話ですっかりひどい目にあわせてしまったんです」
それから彼は、助手たちのほうに向きなおった。
「きたまえ!」と、彼はいって、クラムの手紙をかけ金から取り、出ていこうとした。おかみは黙って彼の動きを見ていたが、彼がすでにドアのハンドルに手をふれたときにはじめて、いった。
「測量技師さん、わたしはまだあなたにはなむけにあげるものがありますよ。というのは、あなたがどんな演説をなさろうと、またわたしというお婆さんをどんなに侮辱しようとなさろうと、あなたはフリーダの未来の旦那さんなんですからねえ。ただそのためにあなたにいうのですが、あなたはここの事情に関してひどく無知でいらっしゃる。あなたのいうことを聞いていたら、そして、あなたのいったり考えたりすることを頭のなかで実際の状態と比較するなら、頭がこんがらがってしまいますよ。こんな無知をなおすことは急にはできないし、おそらく全然できないでしょう。でも、もしあなたが少しでもわたしを信じて下すって、この無知をいつも念頭におかれているなら、たくさんのことがもっとよくなるのです。そうすれば、あなたはたとえばわたしに対してただちにもっと公正な態度を取り、わたしがどんな驚きを味わったか、ということを気づき始めるでしょう。――その驚きの結果は今でもつづいているんですよ。――つまり、わたしのいちばんかわいい子がいわば鷲《わし》を離れて足なしとかげ[#「とかげ」に傍点]といっしょになったのだ、とわたしが知ったときの驚きのことです。でも、ほんとうの事情はそれよりもっとずっと悪いんですからねえ。わたしはつねにそのことを忘れようと努めなければならないでしょう。そうでないと、わたしはあなたと一ことでもおだやかな言葉なんか交わせないでしょう。ああ、あなたはまた怒りましたね。いいえ、まだいかないで下さい。このお願いだけは聞いて下さい。どこへいこうと、あなたはここではいちばん無知な人間なのだということを、はっきり意識していて下さいよ。そして、気をつけて下さいな。フリーダがいるためにあなたが無事でいられたこの家で、あなたは心を開いておしゃべりしてかまいませんし、またたとえば、あなたがどんなふうにクラムと話すつもりでいるのかを、わたしたちに打ち明けることもできます。ただほんとうに話すということ、ほんとうにクラムと話すということ、そればっかりは、どうか、どうか、しないで下さい」
おかみは興奮のあまり少しよろよろしながら立ち上がり、彼の手を取ると、懇願するように彼をじっと見つめた。
「おかみさん」と、Kはいった。「あなたがなぜこんなことのためにへりくだって私に頼まれるのか、私にはわかりません。もしあなたのおっしゃるように、クラムと話すことが私にはできないものなら、私に頼もうが頼むまいが、それは私にはとてもできない相談というわけです。だが、もしそれができるものなら、どうして私がそれをしていけないのでしょう。その理由はとくに、もし私にできるのなら、あなたが反対される根本理由がなくなってしまうとともに、それ以外のあなたのさまざまな心配もきわめて疑わしいものとなるからです。もちろん、私は無知です。この事実はどうしても残りますし、それは私にとってとても悲しいことではあります。でも、それにはまた、無知な者はかえって多くのことをやってのける、という利点もあります。そのために私は、自分の無知とそのたしかに悪い結果とをよろこんで力の及ぶ限りもうしばらくは引きずっていこう、と思うのです。そうしたさまざまな結果は、本質的にはただ私だけに関するものです。それゆえ、何よりもまず、なぜあなたが懇願されるのか、私にはわからないのです。フリーダのためにはあなたはきっといつでも心配して下さることと思います。そして、もし私がフリーダの視界からすっかり消えるとしても、それはあなたの意味ではただ幸運を意味するだけのはずですからね。それなら、あなたは何を恐れているのですか。それなのにあなたが恐れているのは、もしや――無知な者にはどんなこともありうるように見えるんですが」と、Kはいって、すでにドアを開けていた。「あなたが恐れているのは、もしやクラムのためにではないでしょうね?」
おかみは黙ったまま、彼が階段を急いで降り、助手たちが彼のあとを追っていくのを、見送っていた。
第五章
村長との話合いは、ほとんどK自身が不思議に思ったくらいだが、彼にはほとんど気にかからなかった。彼はその点を、これまでの経験によると伯爵の役所との職務上の交渉がきわめて単純なものであったのだから、今度もたいしたことはないと思われるのだろう、ということで自分に説明してみた。それは一つには、彼の件の取扱いに関しては、外見上は彼にきわめて好都合な一定の原則がもうこれっきりと思われるほど決定的に出されてしまったためであり、もう一方では、役所には賞讃すべき統一性が保たれているためであった。その統一性は、ちょっと見ると統一性がないようなところにおいてとくに完璧《かんぺき》なもののように感じられるのであった。Kはときどきこうしたことばかり考えるのだったが、そういうときにも、自分の置かれている状態が満足すべきものと思うことからほど遠いわけではけっしてなかった。もっとも、こうした満足の快感に襲われたあとでは、たちまち自分に、これには危険がひそんでいるのだぞ、といい聞かせるのだった。
役所との直接交渉は、実際そうむずかしいものではなかった。というのは、役所はどんなによく組織されているにせよ、いつでもただ遠く離れた眼に見えぬ城の人びとの名において、遠く離れた眼に見えぬ事柄を擁護しなければならないのであった。ところが、Kのほうは、何かきわめていきいきした身近かなことのため、自分自身のために闘っているわけだ。その上、少なくともいちばん最初のころには、Kは自分自身の意志によって闘っていたのである。というのは、彼は攻撃者であったのだ。そして、彼はただ自分のために闘うばかりではなく、そのほかに、彼にはわからないが、役所の処置から察すると存在していると思われるほかの勢力も闘ってくれるようであった。ところが今や、本質的でないような事柄では――それ以上のことはこれまでは問題とはならなかった――役所は最初から大いにKの意を迎えてくれ、それによって役所は彼から小さなやさしい勝利の可能性を奪ってしまった。そして、この可能性といっしょに、それにともなう満足と、それから出てくる十分理由のあるような、今後のもっと大きな闘いに対する自信とを奪ってしまった。そのかわり、役所はKに、もちろん村の内部だけではあったが、どこであろうといたるところを歩き廻らせ、それによって彼を甘やかし、彼の気力を弱め、ここではおよそどんな闘いをも排除してしまい、そのかわり彼を職務外の、完全に見通しのきかぬ、陰鬱で奇異な生活のなかへ移してしまった。こうして、彼がいつでも用心していなかったら、とんだ結果になりかねないのだった。つまり、役所がどんなに親切にしてくれたところで、また極端にやさしい職務上のあらゆる義務を完全に果たしたところで、彼に示される見せかけの好意にあざむかれてしまって、いつの日にか彼の職務以外の生活をひどく不注意に営むことになったろう。その結果は、彼はこの土地で挫折してしまい、役所はなおもおだやかに親切に、いわば役所の意志に反してというように、しかし彼の知らない何らかの公的な秩序の名において、彼を追い払うということにならないではいないのだった。そして、その職務以外の生活というのは、ここではいったいどんなものなのだろうか。Kは、役所と生活とがこの土地でほどもつれ合っているのをどんなところでもまだ見たことがなかった。役所と生活とがその場所をかえているのではないか、と思われるほど、この両者はもつれ合っていた。たとえば、これまでのところはただ形式的にすぎない、クラムがKの勤務の上に及ぼしている力は、クラムがKの寝室において実際にもっている力に比べてみて、いったいどんな意味があろうか。そこで、ここでは、いくらか軽率なやり方、ある種の緊張弛緩といったものが許されるのは、ただ役所に直接立ち向かうときだけであって、そのほかの場合にはいつでも大きな用心、つまり一歩踏み出す前に四方八方を見廻すということが必要だ、ということになるのだった。
Kはまず村長のところで、ここの役所に対する自分の見解が裏書きされるのを見た。村長は、親切げな、ふとった、髭をきれいにそった男だが、病気で、ひどい痛風の発作にかかっており、ベッドに寝たままでKを迎えた。
「これはこれは、われわれの測量技師さんがおいでというわけですな」と、村長はいって、挨拶のために起き上がろうとしたが、それができないで、詑びながら両脚を指さして、またふとんのなかに身を投げた。部屋は窓が小さく、おまけにカーテンがかかっているためいっそう暗くなっていたが、その薄暗がりのなかで影のように見えるもの静かな一人の女が、Kのために椅子をもってきて、それをベッドのそばに置いた。
「おかけ下さい、おかけ下さい、測量技師さん」と、村長がいった。「で、どうかあなたのご希望をおっしゃって下さい」
Kはクラムの手紙を読みあげ、それにいくつかの言葉をつけ加えた。ふたたび彼は、役所との交渉が非常にやさしいものなのだという感情をもった。役所は明らかにどんな重荷でも担ってくれているのであり、いっさいを役所に背負わせることができ、自分ではそんなものに関係しないで、自由でいられるのだ。村長もそのことを彼なりに感じているかのように、不快そうにベッドのなかで寝返った。ついに村長がいった。
「測量技師さん、あなたもお気づきのように、私はこの件をすべて知っていました。私自身がまだ何も手をつけていない理由は、まず第一に私が病気であるためで、その次にはあなたがこんなにも長いあいだおいでにならなかったからですよ。私はもう、あなたがこのことにけりをつけてしまわれたのだ、と思いました。ところが、あなたはご親切にもご自分で私を訪ねて下すったのですから、私としてもむろん、不愉快ではあってもほんとうのところをみんな申し上げなければなりません。あなたのおっしゃるように、あなたは測量技師に採用されました。しかし、残念なことに、われわれは測量技師はいらないのです。測量技師のやる仕事なんか少しもないでしょう。われわれの小さな管理地域の境界は杭で標識をつけてあり、いっさいがきちんと登記されてあります。所有者の変動はほとんど起こらないし、小さい境界争いなどは自分たちで片づけます。そうだとしたら、測量技師なんかわれわれにとってなんだというんです?」
Kは、むろんその前にそんなことを思いめぐらしていたわけでなかったが、それに類した言葉を予期していたのだ、と心の奥底では確信していた。それだからこそ、彼はすぐいうことができた。
「それはひどく驚きました。これで私の計算はすっかりひっくり返ってしまいました。ただおそらく誤解があるのではないでしょうか」
「残念ながら、誤解ではありません」と、村長がいう。「私が申し上げているとおりです」
「でも、どうしてそんなことが!」と、Kは叫んだ。「私がこんな果てしのないような長旅をしたのは、これでまた追い返されるためではないんですよ!」
「それは別問題です」と、村長はいった。「私が決定できることではありませんが。だが、どうしてそういう誤解がありえたのかということは、私からあなたに説明して上げることができます。伯爵の役所のような大きな役所では起こりうることですが、一つの課がこのことをきめ、別な課があのことをきめるというふうで、どちらもほかの課のことは知らないのです。上の監督はなるほどひどく正確ではあるけれど、その性質からいってあとになってから下の役所へとどくのです。それでいつでも小さな混乱が起こりうるのです。むろん、それはほんの小さな取るにたらぬことで、たとえばあなたの場合のようなものです。大きな事柄ではまだ私が知っているまちがいなんかあったためしがありません。しかし、こまかなことがしばしばひどく面倒なものです。ところで、あなたの場合ですが、私はあなたに対して公務上の秘密なんかなしで――私はそれほどの役人ではないんですよ。私は農夫でして、今もそのことには変りがないのです――事の経過を打ち明けてお話ししましょう。ずっと前、私はそのころ村長になってまだ二、三カ月でしたが、一つの命令が私のところへきました。もうどの課から出たものかおぼえていませんが、その命令のなかで、役所の偉い人たち独特の断言的なやりかたで、測量技師が呼ばれることになっている、といい、村に対して、技師の仕事に必要な図面や書類を用意しておくように、と命令が下されたのでした。この命令はもちろんあなたに関することであったはずがありません。というのは、もう何年も前のことですからね。私も、今こうやって病気になり、寝床のなかでばかばかしい事柄をいろいろと考える暇がなかったら、そんなことを思い出さなかったことでしょうよ」そして、突然、言葉を中断して、細君に向って「ミッツィ」といった。細君はまだわけのわからぬほどせわしげな様子で部屋のなかを通り過ぎていくところだった。「そこの戸棚のなかを見てくれないか。たぶん命令書が見つかるだろう」
「それがつまり」と、村長はKに説明していった。「私が村長になったころのもので、あのころは私もまだあらゆる書類をしまっておいたんです」
細君がすぐに戸棚を開けた。Kと村長とはそれをながめていた。戸棚は書類がいっぱいつまっていた。開けたときに、二つの大きな書類束がころがり出た。よく薪《まき》を束ねるときにやるように丸くくくってあった。細君は驚いてわきへ飛びのいた。
「下にあるかもしれない、下だ」と、村長はベッドから指揮するようにいった。細君はおとなしく、両腕で書類を抱えてあらゆるものを戸棚から投げ出し、下の書類を見つけ出そうとした。書類がたちまち部屋の半分を埋めてしまった。
「大変な仕事になってしまったな」と、村長はうなずきながらいった。「で、これはほんの小部分にすぎないのです。主な部分は納屋《なや》にしまったのですが、大部分はなくなってしまいました。だれが全部をまとめてしまってなんかおけるものですか。でも、納屋にはまだきわめてたくさんの書類があります」
「おい、命令書を見つけられるかね?」と、彼はふたたび細君のほうを振り向いた。「上に〈測量技師〉って文字に青くアンダーラインしてあるのを探すんだよ」
「ここは暗すぎるのよ」と、細君がいった。「蝋燭《ろうそく》をもってきましょう」彼女は散らばった書類の上をまたいで部屋を出ていった。
「女房はこういうむずかしい公務上の仕事にはとても役に立つんです」と、村長がいった。「でも、そんな仕事はただ片手間にやらねばならないのですがね。書きものの仕事には、助手がいます。学校の先生ですが、それでも片づきません。いつでも、片づかない仕事が残っていて、それがあの箱のなかに集められているんです」そして、もう一つの戸棚を指さした。「それに、私が今は病気なものですから、増えていくばっかりでしてね」と、いうと、疲れてはいるが、得意そうにまた身体を横たえた。
細君が蝋燭をもってもどり、箱の前にひざまずいて命令書を探しているときに、Kはいった。
「奥さんが探されるのをお手伝いしましょうか?」
村長は微笑しながら頭を振った。
「すでに申し上げたように、あなたに対しては職務上の秘密なんてありません。でも、あなたにご自分で書類を探していただくなんて、そんなことまではとても」
今は部屋のなかは静まり返っていた。ただ書類が立てるかさかさいう音だけが聞こえていた。村長はおそらく少し居眠りしているようであった。ドアを軽くノックする音が、Kを振り返らせた。それはむろん二人の助手であった。これまでに少しはしつけられていたので、すぐ部屋のなかへ押しよせてはこないで、まず少しばかり開かれたドアを通してささやくのだった。
「外は寒すぎるんです」
「だれだね?」と、村長は驚いてきいた。
「私の助手たちですよ」と、Kはいった。「どこに待たせたらいいのか、私にはわからないんです。外では寒すぎますし、ここではじゃまになりますしね」
「私はかまいません」と、村長は親切にいった。「入れてやりなさいよ。それに、あの人たちは知っていますし。昔からの知人ですよ」
「でも、私にはじゃまなんです」と、Kは率直にいった。眼を助手たちから村長へと向け、また助手たちのほうへ走らせたが、三人とも、区別ができないほど同じように薄笑いを浮かべているのを見て取った。そこで彼は、ためしにいってみた。
「君たちはもう部屋へ入ってきたんだね。それなら、ここにいて、奥さんが書類を探すのを手伝いたまえ。その書類の上には〈測量技師〉という字に青くアンダーラインがしてあるんだよ」
村長は反対しなかった。Kがしてはならないことを、助手たちはしてもよいというわけだ。二人はすぐ書類へ飛びかかっていったが、探すというよりもむしろ紙の山をほじくり返しているのだった。そして、一人がまだ表紙の文字を一字一字読みあげているうちに、きまって早くも一人がそれを相手の手から奪い取るのだった。それに反して細君は空《から》になった箱の前にひざまずいて、もう全然探してはいないようだった。ともかく蝋燭は彼女からずっと遠いところに立っていた。
「それでは、助手さんたちはあなたのじゃまになるんですね。でもあなた自身の助手なのに」村長は満足げな微笑を浮かべながらそういった。まるでいっさいのことは自分の指図によって行われているのだが、だれもそれを察することさえできないでいる、とでもいうようであった。
「いや」と、Kは冷やかにいった。「あの二人は私がこの土地にきてからはじめて、私のところへ押しかけてきたのです」
「なんですって! 押しかけてきたなんて。割り当てられてきた、といわれるんでしょう」と、村長がいう。
「それなら、割り当てられてきたということにします」と、Kはいった。「でも、まるで天から降ってきたようなものなんです。この割当てはひどく思慮を欠いたものです」
「思慮を欠いたことなんか、ここでは一つだって起こりませんよ」と、村長はいったが、足の痛みさえ忘れてしまって、身体をまっすぐに起こした。
「一つだって、ですか」と、Kはいった。「それでは、わたしの招聘《しょうへい》のことはどうなっているんです?」
「あなたの招聘の件も十分に検討されてあるんですよ」と、村長はいった。「ただ附帯的な事情がごたごた入りこんできているのです。そのことを書類によって立証して上げましょう」
「書類は見つからないようですね」と、Kはいった。
「見つからない?」と、村長は叫んだ。「ミッツィ、どうかもう少し急いでくれ! でも、さしあたり書類なしでもあなたに話はして上げられます。さきほどお話ししたあの命令書に対してわれわれは、ありがたいが測量技師はいらない、と返事をしました。ところが、この返事は、本来の課――それをAと呼んでおきましょう――にはもどっていかないで、まちがって別なB課へいってしまったのです。そこで、A課は返事を受け取らなかったし、残念なことにB課もわれわれの返事の全部は受け取らなかったのです。書類の中身がわれわれのところに残ってしまったのであれ、途中で紛失してしまったのであれ、――課のなかでなくなったのではありません。それは保証します――ともかくB課でも書類の封筒だけしかとどきませんでした。その封筒の上には、そのなかに封入してあるはずの、しかし残念なことにほんとうはなくなっている書類は、測量技師の招聘に関するものである、ということ以外には書かれていません。そうしているうち、A課はわれわれの返事を待っていました。A課はこの件についての記録をもってはいましたが、こういうことはたしかによく起こり、万事の決済に正確を期しても起こりがちなことですが、照会係は、われわれが返事するのを当てにし、それによって測量技師を呼ぶことにするか、または必要に応じてさらにこの件に関してわれわれと文書を交わすことにするか、どちらかにしよう、と考えていたのです。そのために照会係はメモをとっておくことをおこたって、そこでいっさいが忘れられてしまったのです。ところが、B課ではその書類の封筒が、良心的なことで有名なある照会係の手に入りました。その男はソルディーニという名前でイタリア人です。事情に通じている私のような者にも、彼ほどの能力をもつ男がどうしてほとんど下僚同然の地位にほっておかれるのか、わかりません。ところで、このソルディーニが、むろん中身を入れて送れ、といって空の封筒を送り返してきました。ところが、A課の最初の文書以来、何年とはいわないにしても、何カ月かはたっていました。よく理解できることですが、規定どおり書類が正しい道を経てくるならば、おそくも一日のうちに相手の課にとどき、その日のうちに片づけられてしまいます。だが、一度道に迷ったとなると、――役所の組織が優秀であるだけにいよいよそのまちがった道を熱心に探さなければならないのですが――そうなると、もちろんひどく長い時間がかかります。そこで、われわれがソルディーニの覚え書を受け取ったときには、その一件をただまったく漠然《ばくぜん》としか思い出せませんでした。そのころはまだわれわれ二人だけ、つまりミッツィと私とだけで仕事をしていました。学校の先生はまだ私のところへ割り当てられてきてはいませんでした。で、書類の写しは重要な件だけについてしか保管しておかなかったんです。要するに、われわれはそんな招聘のことは全然知らないし、また測量技師の必要なんか全然ない、ときわめて漠然とした返事しかできませんでした」
「でも」と、村長はここで話を中断した。まるで話に熱中しすぎて度を超《こ》した、あるいは少なくとも、自分が度を超したということはありうることだ、といわんばかりであった。「こんな話はあなたにはご退屈でしょうな」
「いや」と、Kはいった。「なかなか面白いです」
すると、村長がいった。
「なにもおなぐさみに話をしているわけではありませんよ」
「面白いというのは、事情によっては一人の人間の生活を決定するようなばかばかしいもつれかたがあるものだ、ということをさとらせられるからなんです」
「あなたはまださとってなんかいませんよ」と、村長はまじめにいった。「で、さらに話をつづけましょう。われわれの返事では、もちろんソルディーニのような男は満足しませんでした。あの男ときたら私にとっては頭痛のたねですが、私はあの男に感心しています。つまり、あの男はだれのいうことも信用しないのです。たとえばだれかと何回となく機会を重ねて知り合い、信用のできる者だとわかっても、次の機会にはもうまるで全然知らないかのように、あるいはもっと正確にいうと、その人間がやくざなことはわかっているとでもいうかのように、信用しないのです。これは正しいことだと思いますね。役人はそういうふうにやるべきです。残念ながら、私は性分でこの原則に従うことができないのです。ごらんのように、他国者のあなたにも、すべて打ち明けてしゃべってしまいます。私にはこういうふうにしかできないのです。ところがソルディーニときたら、われわれの返事に対してただちに不信を向けました。そこで大変な文書往復が始ったのでした。どうして突然、測量技師は呼ばなくてもよい、という気になったのだ、とソルディーニはたずねてきました。私はミッツィのすばらしい記憶の助けを借りて、最初の発議は役所の職務上から出ているのだ、と答えてやりました。発議をしたのは別な課なのだということは、われわれはもちろんずっと前から忘れてしまっていました。それに対してソルディーニは、なぜこの役所の書簡のことを今になってやっといい出したのか、といってきました。私はふたたび、今になってやっとそのことを思い出したからだ、と答えてやりました。ソルディーニが、それはきわめて変だ、といいます。私は、こんなに長びいている件についてはちっとも変なことではない、と応酬しました。ソルディーニ――それでも変だ。というのは、お前が思い出したという書類は存在していないじゃないか。私――もちろん存在はしていない。なぜなら、書類全体が紛失したのだから。ソルディーニ――それでも、その最初の書簡に関して何かメモが取ってあるはずだ。ところが、そんなものはないではないか。そこで私は返答につまってしまいました。というのは、ソルディーニの課にまちがいがあったなどとは、私もあえて主張できないし、またそんなことは信じられなかったのです。測量技師さん、あなたはおそらく頭のなかでソルディーニを非難していらっしゃるんでしょう、私のいうところを考慮して、少なくとも別な課にその件を照会してみる気になってもよかったはずだ、とね。だが、そんな非難こそ正しくないでしょう。たといあなたの頭のなかだけにしろ、この男のことで一つの汚点が残ることを、私は欲しません。まちがいがありうるなどということはおよそ計算には入れないというのが、役所の仕事の原則なのです。この原則は、全体の優秀な組織によって正当なものとされますし、事の処理が極度に速やかになされなければならないときには、どうしても必要なのです。そこで、ソルディーニはほかの課に照会することはまったく許されていなかったのです。それに、ほかの課にしても全然返事はしなかったことでしょう。なにせ、これはまちがいがあったのではないかと調べようとしているのだ、とすぐに気づいたことでしょうからね」
「村長さん、お話の途中なのに失礼ですが、ちょっとおたずねしたいのですが」と、Kはいった。「さきほどあなたは監督の役所のことをいわれませんでしたか? 役所の仕事は、あなたのお話からいうと、統制がない場合のことを考えただけでも気持が悪くなるほど正確なものであるはずですね」
「あなたはなかなか厳密でいらっしゃる」と、村長はいった。「しかし、あなたがその厳密さを千倍にしても、役所が自分自身に対して課している厳密さに比べるなら、まだまだなんでもないものです。まったく事情に暗い人だけがあなたの問いのようなのを出せるのです。監督の役所があるかっていうんですか? およそあるのは監督の役所だけなんです。もちろん、普通ありふれた意味でのまちがいを見つけ出すためにそれらの役所があるのではありません。というのは、まちがいなんか起こらないのです。そして、たといあなたの場合のようにまちがいが起ったとしても、いったいだれがそれをまちがいだと決定的にいえますかね」
「それはまったく耳新しいお考えですね」と、Kは叫んだ。
「いや、私にとってはまったくありふれたことです」と村長はいった。「私も、まちがいが起ったのだ、と確信している点では、あなた自身とたいして変わらないのです。ソルディーニはそれに絶望するあまり、重い病気にかかってしまいました。われわれのためにまちがいの根源を明らかにしてくれる第一のいろいろな役所も、この件でまちがいをみとめているのです。しかし、第二の監督の役所も同じような判断を下すし、第三の役所やさらにそのほかの役所も同じような判断を下すとは、だれがいえるでしょうか」
「そうかもしれません」と、Kはいった。「私はむしろ首を突っこんでそんなことを考えたりしたくはないのです。そういう監督の役所のことなど聞くのははじめてですし、まだそれらのことがわかってはいないのですから。ただ、ここでは二つのことを区別しなければならない、と思います。つまり、第一はいろいろな役所の内部で起っていることです。それはまた、お役所式にあれやこれやと考えられるわけです。第二は、私という現にいる人間のことで、その私は役所の外にいて、いろいろな役所から害をこうむろうとしているのですが、その害があんまりばかげているものですから、私はまだ今でもその危険の深刻さというものを信ずることができないでいるのです。第一のほうにあたるのはおそらく、村長さん、あなたがあきれるほどの途方もない知識を傾けて私に話して下さったことなのでしょう。でも次に、私は自分のことについても一言お聞きしたいと思います」
「そのことも申しましょう」と、村長はいった。「だが、あらかじめもう少し説明しませんと、あなたにはおわかりにならないでしょう。私が今、監督の役所についていったことさえ、どうも早すぎたんでしてね。そこで、ソルディーニとのくいちがいのことに話をもどしましょう。すでに申しあげたとおり、私の防戦はだんだん勢いが弱くなりました。ところで、ソルディーニがたといどんなに小さな利点でも両手に握ったとなると、もう彼の勝ちなのです。というのは、そうなると彼の注意力、エネルギー、精神の落ちつきというものまで増すのです。そして、彼という人間をながめることは、彼から攻撃される者にとっては、おそろしいものであり、彼に攻撃される者の敵にとってはすばらしいものなのです。別な機会にこの後者の例を私は体験しましたが、今こうやって彼のことをお話しできるのも、まったくそのためです。ところで、私はまだ彼をこの眼で見ることはできないでいます。彼は城から下りてくることができないんです。仕事にあまりに忙殺されているんです。人の話によると、彼の部屋はこんなふうだということです。どの壁面も積み重ねられた柱のような大きな書類束で被われており、しかもそれがソルディーニのちょうど取りかかっている仕事分の書類だけだというのです。そして、いつでもその束のなかから書類が引き出されたり、またそれにさしこまれたりされ、しかもすべて大変な速さでやられるので、その柱のような書類の山がいつもくずれてしまい、まさにこのたえまのない、あとからあとからつづく物音が、ソルディーニの執務室の特徴となってしまった、ということです。まったく、ソルディーニは仕事屋で、どんな小さな用件に対しても、きわめて重大な用件に対するのと同じくらいの慎重さを向けるのですからね」
「村長さん、あなたは」と、Kはいった。「私の件を依然としてきわめてつまらぬものの一つと呼んでおられますが、それでもこの件はたくさんのお役人にとっての大変な仕事となったのです。そして、この件はおそらく最初のうちはきわめて小さなものだったのでしょうが、ソルディーニ氏のようなお役人たちの熱心さによって、大きなものとなってしまいました。残念なことですし、まったく私の意に反することです。というのは、私の野心は、私に関する大きな書類の柱をできあがらせ、音を立ててそれをくずれさせるということではなくて、ささやかな土地測量技師として小さな製図机の前に静かに坐って仕事をするということなのです」
「いや」と、村長がいった。「けっして重大な件なんかではありません。この点であなたは苦情をいう理由はありません。つまらぬ件のうちでもいちばんつまらぬものの一つなのです。仕事の量によって、用件の重要度がきまるのではないのです。そんなことを信じられるなら、あなたはまだまだ役所のことがわかるのにはほど遠いのです。だが、たとい仕事の量が問題だとするにしても、あなたの件などはいちばん小さなものの一つです。さまざまな普通の件、つまりいわゆるまちがいのない用件のことですが、それらのほうがもっとずっと大変な仕事になります。もちろん、このほうはずっと実のある仕事ですがね。ともかく、あなたはあなたの件がひき起こしたほんとうの仕事について、全然ご存じないのです。そのことについて、これからお話ししましょう。はじめソルディーニは私に構いつけないでいたのですが、彼の部下がやってきて、毎日、村の有力者たちの喚問が紳士荘で行われ、調書を取っていきました。たいていは私の味方で、ただ、何人かが頑固な態度を見せました。測量の問題は農夫にも痛切なので、その頑固な役人たちは何か秘密の申し合せとか不正とかでもあるのではないかとかぎ廻り、その上、一人の指導者を見つけ出したのでした。そして、ソルディーニは、彼らの報告からこういう確信を得たのにちがいありません。つまり、もし私がこの問題を村会へ提出したならば、みんながみんな測量技師の召聘に反対ではなかったのではなかろうか、と。そこで、わかりきったことが――つまり、測量技師なんか必要ではないということですが――ともかく少なくとも疑問の余地あることとされてしまったのです。その際、ブルンスウィックという男がとくに目立ちました。――この男のことはあなたはご存じありますまい。――この男はおそらく悪い人間ではないのですが、ばかで空想的なのです。ラーゼマンの義理の兄弟ですがね」
「あのなめし革屋のですか?」と、Kはたずね、ラーゼマンのところで会ったあの鬚面の男のことをいって聞かせた。
「そうです。その男ですよ」と、村長はいった。
「私は彼の細君のことも知っています」と、Kは少し当てずっぽうにいってみた。
「それはありうることです」と、村長はいって、口をつぐんだ。
「きれいな人ですね」と、Kはいった。「でも、ちょっと顔色が悪く、病身ですね。城の出なのでしょうね?」これは半分、たずねるようにいった言葉だった。
村長は時計を見て、薬をさじの上にあけ、それを呑みこんだ。
「あなたはきっと城のなかの事務組織のことだけしかご存じでないのでしょう?」と、Kはぶしつけにたずねた。
「そうです」と、村長は皮肉げな、しかしありがたいというような微笑を浮かべて、いった。「その組織がまたいちばん重要なものなのです。ところで、ブルンスウィックについていうと、あの男を村から追い払うことができたら、われわれはほとんどみんながうれしいんですがね。ラーゼマンだってうれしくないわけじゃないはずです。ところが、そのころ、ブルンスウィックはちょっとした勢力を得ました。雄弁家でないけれど、大声でわめく男で、それで多くの人たちには十分だったのです。そこで私はこの件を村会に提出せざるをえないというはめになったのですが、これはともかくはじめのうちはブルンスウィックのただ一つの成功でした。というのは、もちろん村会は大多数が測量技師のことなど別に問題にしていなかったのです。それに、この件はすでに何年も前から起っていたのですが、今にいたるまでずっと決着しなかったのでした。それは一部分はソルディーニの良心的なやりかたからきたことであり、彼は多数派の根拠も反対派の根拠もきわめて注意深い調査によって探り出そうとしたのでした。それから一部分はブルンスウィックの愚かさと名誉心とからきたのです。この男は役所といろいろな個人的なつながりがあって、彼の空想力によってたえず新しいことを考え出しては、そうした役所とのつながりを動かしていました。もとよりソルディーニはブルンスウィックにだまされたりなどはしませんでした。どうしてブルンスウィックがソルディーニをだますことなんかできるでしょう。――けれども、まさにだまされないためには、新しいいろいろな調査が必要で、それがまだ終らないうちに、ブルンスウィックは早くもまた何か新しいことを考え出しているのでした。まったくあの男は活動的なやつで、それも彼の愚かさからくるのです。ところで、われわれの役所の組織の特別な性格についてお話しするときになりましたね。その組織の正確さというものに対応して、それはきわめて敏感なのです。一つの件がきわめて長いあいだ吟味《ぎんみ》されていると、その吟味がまだ終ってしまってはいないのに、突然、電光石火の勢い、思いもかけなかったようなところ、またあとからではもう見出すことができないようなところに、一つの解決が生まれるということがあるものです。その解決は、用件をたいていはきわめて正しく、しかしともかく気まま勝手に片づけてしまうのです。まるで、役所の組織が、おそらくは取るにたらぬような一つの問題に何年ものあいだ駆り立てられ、緊張していることにもはや我慢できなくなり、役人の助けを借りないでみずから決定を下してしまうようなものです。もちろん何も奇蹟が起ったわけではなく、きっと役人のだれかがそうした処理を書いたのか、あるいは書かないで決定を下したのか、どちらかにちがいありません。ところが、いずれにしろ、少なくともわれわれのところからは、つまりここからは、いや、そればかりでなく役所からも、どの役人がこの件で決定を下したのか、そしてどういう理由から決定を下したのか、ということははっきりとさせられないのです。監督の役所がそのことをずっとあとになってやっとはっきりさせるのです。しかし、われわれにはもうその結果はわかりません。それに、そのころにはそれはほとんどだれにももう興味はありませんからね。ところで、すでに申し上げたように、まさにこうした決定はたいていの場合すばらしいものですが、ただそうした決定で困ることは、普通は次のようなことになるんですが、こうした決定についてわかるのは遅くなりすぎてからのことで、そのため決定がわかるまで、ほんとうはとっくに決定されてしまっている事柄について依然として熱心に論議している、ということになるのです。あなたの件でこうした決定が行われたかどうかは私にはわかりません。――いろいろな点でそうだといえますし、またいろいろな点でそうではないといえます――しかし、もし決定が下されたのであれば、招聘状があなた宛に送られ、あなたがここまで長い旅をしてこられたわけで、その場合に長い時間が経ち、ソルディーニはそのあいだ依然としてここで同じ問題にたずさわって、へとへとになるまで仕事をし、ブルンスウィックは策動をつづけ、私はこの二人に悩まされていたわけです。そういう可能性は今私がただ仄《ほの》めかしているだけのことですが、次のことは私もはっきり知っています。つまり、ある監督の役所がそのあいだに、A課から何年も前に村に宛てて測量技師についての照会が行われているのに、これまでその返事がきていない、ということを発見したのです。最近、私のところへ照会がきて、それでもちろん事の全貌《ぜんぼう》が明らかにされました。A課は、測量技師は必要でないという私の回答に満足し、ソルディーニは、自分がこの件については係ではなかったということ、そしてむろん自分の責任ではないのだが、こんなにたくさんの不必要な気骨の折れる仕事をやってきたのだということを、みとめないわけにいかなかったのです。もし新しい仕事がいつものように四方から殺到してきていなかったら、そしてもしあなたの件がただきわめて小さな件にすぎないのでなかったならば、――あなたの件は、小さな件のうちでももっとも小さなものといってもいいくらいです――われわれはきっとみなほっと息をついたことでしょう。ソルディーニ自身さえも息をついたことだろう、と思います。ただブルンスウィックだけがぶつぶついったのですが、それもほんのお笑い草にすぎませんでした。ところで、測量技師さん、私の失望を考えてもみて下さい。事が全部うまく片づいたあと――そして、それからもすでにまた長い時が流れ過ぎたのですが――突然、あなたが現われ、またこの件がはじめからやりなおしという模様なんですからね。この件は私に関する限りどうしてもみとめまい、と私は固く決心していますが、そのことはきっとわかっていただけましょうね」
「わかりますとも」と、Kはいった。「だが、もっとよくわかることは、この土地では私についておそろしく不法な扱い方をしているということです。おそらくは法律についてもです。私としてもそれを防ぐことができるでしょう」
「どうやってそれを防ぐおつもりですか?」と、村長がきく。
「それは打ち明けてしまうわけにはいきません」と、Kはいった。
「無理にとはいいませんがね」と、村長はいう。「ただ、あなたにお考えいただきたいのですが、あなたにとっては私は――なにも友人だなどとはいいません。というのは、われわれはまったくの他人ですからね――だが、いわば仕事の上の友だちなのです。ただ、あなたが測量技師として迎えられることは、私はみとめるわけにいきません。そのほかのことでは、いつでも信頼して私に相談して下すってかまいませんよ。もちろん、たいしたものではない私の権限の範囲内でのことですが」
「あなたはいつも、私が測量技師として採用されるべきかどうか、ということについてお話しになりますが、私はすでに採用されたのですよ。ここにクラムの手紙があります」
「クラムの手紙ね」と、村長はいった。「それはクラムの署名があることで貴重で名誉なものです。それにその署名はほんもののようです。しかし、そのほかの点では――まあ、自分ひとりだけでそれについて意見はあえて申しますまい。――ミッツィ!」こう叫んで、次にいった。「ところで、お前たちはいったい何をしているのかね?」
長いあいだ無視されていた助手たちとミッツィとは、探している書類を見つけ出さなかったようだった。そこで、いっさいのものをまた戸棚のなかへしまおうと思ったが、書類がきちんとまとめられていなかったので、うまくしまうことができないでいた。そこで、おそらく助手たちが思いついて、それを実行しているところだったが、二人は戸棚を床の上に寝かせ、すべての書類をそのなかにつめこみ、次にミッツィといっしょになって戸棚の扉の上に坐って、扉をじわじわと押えつけようとしていた。
「それではあの書類は見つからなかったのだね」と、村長がいった。「残念ですね。だが、その話はもうおわかりですね。ほんとうはもう書類なんかいらなくなったのです。ともかく書類はまだ見つかるでしょうが。おそらく学校の先生のところにあるのでしょう。あの人のところにはまだ非常にたくさんの書類があります。だが、ミッツィ、蝋燭をもってここへきてくれ。そして、この手紙を私といっしょに読んでくれ」
ミッツィがやってきたが、彼女がベッドのはしに坐り、頑強で元気あふれる夫に身体を押しつけると、彼女はいっそう色あせ、みすぼらしく見えた。夫は彼女を抱いたままでいた。彼女の小さな顔だけは、今や蝋燭の光のなかできわ立って見えたが、その顔の輪郭はきびしく、ただ老年の衰えによってだけいくらかやわらげられていた。手紙に視線を投げるやいなや、彼女は軽く両手を合わせた。
「クラムのだわ」と、彼女はいった。
次に二人はいっしょに手紙を読み、少しばかりささやきを交わしていた。一方、助手たちはちょうど「万歳!」と叫んだところだった。とうとう戸棚の扉を押えて閉めたのだ。ミッツィは静かに感謝の面持で彼らのほうを見やった。最後に村長がいった。
「ミッツィが完全に私と同意見なので、このことをあえて申し上げてよいと思います。この手紙はおよそ役所の公文書ではなくて、私簡です。それは〈拝啓〉という書き出しによってもすでにはっきりとわかります。その上、この手紙のなかでは、あなたが測量技師として採用された、ということは一こともいわれていません。むしろ一般的に領主に仕える勤務のことが問題となっていて、それも強制的にいっているわけではなく、ただ〈ご存じのように〉という条件つきであなたは採用されているのです。つまり、あなたが採用されたことの立証責任があなたに課せられているという意味です。最後に、職務上のことに関してはもっぱら村長であるこの私を直属の上役として相談しろ、と命令されています。この私がいっさいのこまかいことをあなたにお知らせするはずだ、とね。ところで、そのことは大部分はすでにお話ししてしまったわけです。公文書を読むことを心得ており、したがって公文でない手紙などはもっとよく読める者にとっては、こうしたことはすべてあまりにもわかり切ったことです。よそ者であるあなたがそのことをおわかりにならないのは、私には別に不思議ではありません。全体としてこの手紙の意味しているところはただ、あなたが領主に仕える勤務に採用された場合に、クラムが個人的にあなたのことを心配するつもりだ、というだけのことです」
「村長さん、あなたはあんまりうまくこの手紙を解釈されたので」と、Kはいった。「結局のところ一枚の白紙の上の署名しか残らなくなってしまいましたね。それによって、あなたが尊敬するとおっしゃったクラムの名前をおとしめておられるのだ、ということにお気づきにならないのですか」
「それは誤解です」と、村長がいった。「わたしはこの手紙の意味を見そこなってはいません。私の勝手な解釈でそれを軽んじたりなんかしていませんよ。その逆です。クラムの私簡は公文書よりもずっと意味をもっています。ただ、あなたがそれにつけ加えているような意味はもってはいないのです」
「シュワルツァーをご存じですか」と、Kがたずねた。
「いや、知りません」と、村長はいった。「お前ならたぶん知っているね、ミッツィ? お前も知らないのか。いや、私たち二人は知りません」
「それは変ですね」と、Kがいった。「彼は下級の執事の息子ですから」
「測量技師さん」と、村長はいった。「どうして私が、すべての下級の執事の息子まで全部知っていなければならないんです?」
「よろしい」と、Kがいった。「それなら、彼がそういう男だということを信じて下さい。私はこのシュワルツァーと、私が到着した日のうちに早くも腹が立つ一幕を演じたのです。そのとき、この男が電話でフリッツという下級の執事のところへ照会し、私が土地測量技師として採用されたという知らせをもらったのです。村長さん、あなたはこのことをどう説明されますか」
「きわめて簡単です」と、村長がいった。「だとすると、あなたはまだ一度もほんとうにわれわれの役所と接触されたことがないわけです。こうした接触はすべて見せかけのものにすぎないのに、あなたは事情をご存じないものですから、それをほんとうの接触と思っておいでです。それに、電話についていえば、ごらん下さい、ほんとうに役所とは十分連絡の仕事があるはずのこの私のところに、電話がありません。食堂とかそういったところでは、電話は大いに役に立つかもしれません。たとえば自動ピアノなんかのようにね。でもそれ以上のものではありません。あなたはこの土地でいつか電話をおかけになったことがありますか、え? それなら、おそらく私のいうことがおわかりでしょう。城では電話はすばらしく役に立っているらしいです。人びとの話では、城ではたえず電話をしているようで、それはもちろん仕事を非常にはかどらせています。このたえまのない電話をかける音が、この村の電話にざわめきや歌声のように聞こえるのですが、それはあなたもお聞きになったでしょう。ところで、このざわめきとこの歌声とが、われわれにここの電話が伝えてくれるただ一つの正しいことであり、信用に価することであって、そのほかのものはまやかしです。城との一定の電話連絡というものはないし、われわれがかける電話をつないでくれる本局というものもないのです。ここから城のだれかに電話をかけると、むこうではいちばん下級のあらゆる課の電話機のベルが鳴ります。いや、むしろ城のすべての電話が鳴ることでしょう、もし私がはっきり知っているように、ほとんどすべてのこの電鈴装置が切られてなければね。だが、ときどき、疲れ切った役人たちが少しばかり気晴しをやりたい要求をもちます。とくに夕方や夜です。そこで電鈴装置にスイッチを入れるのです。すると、われわれは返事をもらうのですが、そうはいってもただの冗談にすぎない返事ですよ。これもきわめて納得できることです。個人的なつまらぬ用事のために、きわめて重要な、いつでもすさまじい勢いで進行している仕事のまっただなかに電話のベルを鳴らして面倒をかけるなどということが、だれに許されるでしょうか。また、私にはわからないのですが、たといよそからきた人であっても、たとえばソルディーニに電話をかけて、自分に返事をしているのがほんとうにソルディーニなのだなどと、どうして信じることができるのでしょうかね。それはむしろ、おそらくはまったく別な課の下っぱの記録係なのでしょう。反対に、もし時間を選んでかけるならば、下っぱの記録係に電話をかけたのに、ソルディーニ自身が返事をする、ということが起こりえますがね。そういう場合には、もちろん、最初の声が聞かれるより前に、電話から逃げ出したほうがいいですよ」
「たしかにそんなことは考えませんでしたが」と、Kはいった。「そういうこまかいことは私にはわかりませんでした。でも、私はこの電話の話というものをたいして信用していませんでしたし、まさに城のなかで経験したり獲得したりすることだけがほんとうの意味をもつのだ、といつでも考えていました」
「いや」と、村長はKのその一言に固執しながら、いった。「そういう電話の返事にはほんとうの意味があるんですよ。どうして、ないなどといえますか? 城の役人が与える知らせが、どうして無意味なはずがあります? クラムの手紙についてお話ししたときに、そのことはもう申しましたね。つまりこうした言葉はみんな公務上の意味はもってはいません。もしあなたがそうした言葉に公務上の意味があるとお考えなら、あなたはまちがってしまいます。それに反して、その個人的な意味は、好意的な意味においてであれ、悪意をもった意味においてであれ、とても大きなものなのです。たいていは、公務上の意味よりも大きなものなのです」
「わかりました」と、Kはいった。「万事がそういう事情にあるとするなら、私は城にかなりな数の良い友だちをもっているわけですね。よく考えてみると、あの何年も前に例の課が、測量技師を呼ぶかもしれないと思いついたのは、私に対する好意の行為だったのですね。そして、それにつづいてずっとこの好意の行為が重なっていき、最後には、なるほどひどい結末ではありますが、私がおびきよせられ、そして私を追っ払うぞとおどしているわけですね」
「あなたの考えかたにはある真実な点があります」と、村長がいった。「城のいうことを言葉どおりに取ってはいけないという点では、あなたのいわれることはもっともです。しかし、用心はどこでも必要であって、ここだけのことではありません。そして、問題となっている発言が重要であればあるほど、それだけ用心が必要なのです。ところで、あなたが〈おびきよせる〉とおっしゃるのは、私には納得できません。もしあなたが私の説明をもっとよくたどっておられたら、あなたをここに招くという問題はあまりにもむずかしく、われわれがここでちょっとした談話をしているうちにとても答えられるようなものではない、ということを知られているにちがいないでしょうが」
「それでは、このお話の成果は」と、Kはいった。「私が追い払われるまで、万事がひどく不明瞭で、解決のつかぬままでいるのだ、ということなのですね」
「測量技師さん、だれがあえてあなたを追い払おうなんて思っているでしょうか」と、村長はいった。「いろいろな予備的問題が不明瞭だということこそ、あなたにもっとも鄭重な待遇を保証しているのです。ただ、あなたはお見かけしたところ、あまりにも神経質でいらっしゃる。ここではだれもあなたを引きとめないでしょうが、それはまたけっしてあなたを追っ払うということではありません」
「おお、村長さん」と、Kがいった。「多くのことをあまりにもあっさり見すぎていらっしゃるのは、またしてもあなたなのです。私をこの土地にとどめているいくつかのものを、あなたに数え上げてお聞かせしましょう。故郷の家から出てくるために私がもたらした犠牲、つらかった長い旅、ここで採用されるために思い描いたさまざまなちゃんとした理由のある希望、完全な無一物、今また家へ帰って別な適当な仕事を見つけ出すことの不可能なこと、そして最後にはこの土地の女である婚約者です」
「ああ、フリーダですね」と、村長は少しも驚かないで、いった。「知っています。でも、フリーダはあなたのいかれるところへどこへでもついていくでしょう。もちろん、そのほかのことに関しては、ここでいろいろお考えになることがたしかに必要ではあります。それについては城に報告しておきます。城の決定がくるにしろ、あるいはその前にもう一度あなたにいろいろおたずねすることが必要であるにしろ、あなたをお呼びしに人をやります。それはご承知下さいますね?」
「いや、承知できません」と、Kはいった。「私は城の施しものなどを望んでいるのではなく、当然の権利を欲しているのです」
「ミッツィ」と、村長は細君に向っていった。細君はまだ夫に身体を押しつけて坐っており、まるで夢のなかに没頭しているような様子で、クラムの手紙を手でもてあそんでいた。その手紙で彼女は小さな舟をつくっていた。Kは驚いてその手紙を彼女の手から奪い取った。「ミッツィ、脚がまたひどく痛み始めたよ。湿布を換えなければならないね」
Kは立ち上がって、いった。
「それでは、おいとましましょう」
「はい」と、ミッツィは村長にいって、早くも塗り薬を準備していた。「すきま風がひどく入ってくるんですわ」
Kは振り向いた。二人の助手が、いつものぎごちない職務熱心な態度で、Kの言葉を聞くとすぐ、観音開きのドアの両方を開けてしまっていた。Kはひどく侵入してくる寒気からこの病室を守るために、村長の前ですばやくお辞儀をするのがせいぜいだった。それから彼は、二人の助手を引っ張るようにしながら部屋から出て、急いでドアを閉めた。
第六章
宿屋の前では亭主が彼を待ちかまえていた。こちらからたずねなければ、あえて話そうとはしない様子だったので、Kは、どんな用だ、ときいた。
「新しい宿を見つけましたか」と、亭主は地面を見ながら、いった。
「おかみさんに頼まれて、きいているんですね」と、Kはいった。「あんたはきっとおかみさんにたよりっきりなんだね」
「いえ」と、亭主はいった。「あれに頼まれてうかがっているわけではありません。でも、あれはあなたのためにひどく興奮し、悲しがっています。仕事ができず、ベッドに入ったきりで、たえず溜息をついたり、嘆いたりしているんです」
「おかみさんのところへいこうか?」と、Kはきいた。
「どうか、そうして下さい」と、亭主はいう。「村長のところからおつれしようとして、あそこの戸口で聞き耳を立てていたんですが、あなたがたはお話をしておられて、おじゃまをしたくなかったし、女房のことが心配にもなったので、急いで帰ってきたのでした。ところが、あれは私をよせつけませんので、あなたをお待ちするよりほかにしかたがなかったのです」
「それなら、急いでついてきたまえ」と、Kはいった。「すぐおかみさんをなだめてやるよ」
「そううまくいきさえすれば、いいんですが」と、亭主がいった。
二人は明るい台所を通っていった。そこでは、三、四人の女中がたがいに離れたままで、たまたま何かの仕事をやっていたが、Kの姿を見ると、まったく立ちすくんでしまった。台所にいてさえ、おかみの溜息をもらす声が聞こえてきた。おかみは、薄い板壁で台所と隔てられた、窓のない仕切り部屋に横になっていた。そこには、大きなダブルベッドと戸棚一つとを置くだけの余地しかなかった。ベッドは、そこから台所全体が見わたせて、仕事を監督できるように置かれてあった。それに反して、台所からは仕切り部屋のなかのほとんど何も見られなかった。そこはまったく暗くて、ただ薄桃色の寝具だけが少しばかりぼんやり浮かび出ていた。部屋のなかへ入って、両眼が慣れるとやっと、こまかなところが見わけられるのだった。
「やっときて下すったのね」と、おかみは弱々しい声でいった。彼女は手足をのばして仰向けに寝ていたが、呼吸をするのが苦しい様子で、羽根ぶとんをうしろへはねのけていた。ベッドに寝ていると、服を着ているときよりもずっと若く見えたが、かぶっているレースで織った薄いナイトキャップ(それが小さすぎて、髪の上でずれ落ちそうに動いているのだが)のため、顔のやつれを見せていて、見るからにあわれをもよおさせるのだった。
「私がきてもよろしかったのですか?」と、Kはやさしくたずねた。「あなたは私をお呼びにはならなかったんですのに」
「こんなに長いあいだ私を待たせてはいけなかったのよ」と、おかみは病人特有のわがままさでいった。「おかけなさいな」と、彼女はいって、ベッドのはしを示した。「でも、ほかの者は出ていってちょうだい!」そのあいだに助手たちのほかに、女中までが入りこんでいたのだった。
「おれも出ていくよ、ガルディーナ」と、亭主がいった。Kははじめておかみの名前を聞いたのだった。
「もちろんですとも」と、彼女はゆっくりといったが、何か別な考えにふけっているらしく、うわの空でつけ加えた。「どうしてお前さんなんかがここに残るっていうの?」
だが、みんな台所へ引き下ってしまったときにも、――助手たちも今度はすぐそのあとについていった。とはいっても、一人の女中の尻を追っていったのだった――ガルディーナはそれでも注意深くて、ここで話すことは台所にまる聞こえだと見て取った。というのは、この仕切り部屋にはドアがなかったのだ。それで彼女は、全員に台所からも立ち去るように命じた。すぐ彼女のいうとおりになった。
「測量技師さん」と、ガルディーナが次にいった。「戸棚のなかのすぐ手前にショールがかかっています。それを取って下さいな。それを身体にかけたいんです。羽根ぶとんは我慢できないわ。息苦しくて」そして、Kがそのショールをもっていくと、いった。「ごらんなさいな、このショールはきれいでしょう?」
それはKにはありふれた毛織の布のように見えた。ただお世辞だけのために一度さわってみたが、一言もいわなかった。
「そうよ、これはきれいなショールだわ」と、ガルディーナはいって、それにくるまった。今度は落ちついたように身体を横たえていた。すべての苦悩が彼女から取り去られたように見えた。それに、横になっていたために乱れてしまった頭髪にまで気がついて、ちょっとのあいだ身体を起こし、ナイトキャップからはみ出た髪形をなおしていた。豊かな髪だった。
Kはじりじりしてきて、いった。
「おかみさん、あなたは私がもう別な宿を見つけたかって、私にきくようにいいましたね?」
「きくようにいったですって?」と、おかみはいった。「いいえ、それはまちがいです」
「でもご主人がたった今、そのことを私にきかれましたよ」
「きっとそうでしょうね」と、おかみはいった。「わたしはあの人とやり合っているんですよ。わたしがあなたをここに泊めたくないと思ったときには、あの人はあなたを引きとめましたし、今、あなたがここに泊っていらっしゃることをわたしがうれしく思っていると、あの人はあなたを追い出そうとします。あの人はいつでもこんな調子なんですよ」
「それではあなたは」と、Kはいった。「私についてのお考えをそんなに変えてしまわれたのですね? 一時間か二時間のうちにですか?」
「わたしの考えを変えたわけじゃありませんわ」と、また弱々しげにおかみはいった。「手を渡してちょうだい。そう。それじゃあ、なんでも正直にいうって私に約束して下さいね。わたしもあなたに対しては正直にいうことにします」
「いいです」と、Kはいった。「でも、どちらから始めるんです?」
「わたしからよ」と、おかみがいった。Kの機嫌を取ろうとしていっているようには見えず、自分のほうからしゃべりたがっているように見えるのだった。
おかみはふとんの下から一枚の写真を取り出し、それをKに手渡した。
「この写真をよくごらんなさい」と、彼女は頼まんばかりにいった。それをもっとよく見ようとして、Kは台所へ一歩ふみ入れたが、それでも写真の上に何かを見わけることは容易ではなかった。というのは、写真は古くなったために色があせてしまい、いくつも破れ目が入っていて、くちゃくちゃになり、しみがついていた。
「どうもあまりいい状態にはないようですね」と、Kはいった。
「残念ですわ、残念ですわ」と、おかみがいった。「何年も肌身につけていつももち運んでいると、そんなふうになるのよ。でも、よくごらんになると、なんでも見わけられますわ。きっとそうよ。それに、わたしがお手伝いしてあげるわ。何が見えるか、おっしゃって下さい。写真のことを聞くのは、とてもうれしいんです。何が見えるの?」
「若い男ですね」と、Kはいった。
「そうよ」と、おかみがいった。「で、何をしていると思う?」
「板の上に寝て、身体をのばし、あくびをしているのだと思うな」おかみは笑った。
「全然ちがうわ」と、彼女はいった。
「でも、ここに板があって、ここに男が寝ていますよ」と、Kは自分の見かたに固執した。
「もっとよくごらんなさい」と、おかみは怒ったようにいった。「ほんとうに寝ている?」
「いや」と、今度はKはいった。「寝ているんじゃない。空中に漂っています。そうだ、これは全然板なんかじゃなくて、おそらく紐《ひも》ですね。この若い男は高跳《たかと》びをやっているんですね」
「そうよ」と、おかみはよろこんでいった。「跳んでいるのよ。所長のお使いはこんなふうにして練習するんです。あなたにわかるものと、私は思っていました。顔も見えて?」
「顔のことはほんの少ししかわからないけれど」と、Kはいった。「ひどく骨を折ってやっているらしいですね。口は開いているし、眼をつぶり、髪をなびかせています」
「よくわかったわね」と、おかみは賞めるようにいった。「この人を直接見たのでない者には、それ以上はわからないわ。でも、すてきな若者だったのよ。ほんの一度ちらりと見ただけですけれど、あの人のことはけっして忘れないでしょう」
「いったいだれなんです?」と、Kはたずねた。
「これはね」と、おかみはいった。「使いの人です。この人をよこして、クラムがはじめて自分のところへこいって私にいってきたんです」
Kは相手の言葉をはっきりと聞いていることができなかった。窓ガラスのがたがたいう音に注意をそらされたのだった。彼はすぐ、このじゃまの原因を見とどけた。二人の助手が外の内庭に立ち、雪のなかで片足ずつ跳んでいた。Kにまた会えてうれしいというように、よろこびのあまりたがいにKを指さしては、たえず台所の窓をこつこつとたたくのだった。Kのおどかすようなしぐさですぐにそれもやめ、たがいに相手をうしろへのけようとするのだが、すぐ相手の妨害をかわして、また窓のところへやってくる。Kは急いで仕切り部屋へもどった。そこならば、助手たちが外から彼を見ることができず、彼のほうも二人を見ないですんだ。ところが、窓ガラスをたたく、低い哀願するような物音は、そこでもなお長いあいだ彼を追いかけてくるのだった。
「また助手たちなんです」と、彼は言いわけのためにおかみにいって、外を指さした。だが、おかみはKには注意を向けていなかった。写真を彼から取り上げ、それをじっとながめ、手でしわをのばし、またふとんの下に押し入れていた。彼女のしぐさは前より緩慢になっていたが、疲れのためではなく、思い出の重荷にあえいでいるためであった。Kに話そうとしたのだが、話をしているうちにKのことを忘れてしまっていた。ショールのへり飾りをもてあそんでいた。ちょっとの間をおいてからやっと眼を上げ、手で眼の上をこすり、いった。
「ああ、このショールもクラムからもらったのよ。それからナイトキャップも。写真とショールとキャップ、この三つはわたしがもっているクラムの記念の品なの。わたしはフリーダのように若くないし、あの子のように野心がないし、またあの子のように気がやさしくはないわ。あの子はとても気がやさしいのよ。つまり、わたしは生活に順応することを知っているのね。でも、このことを白状しなきゃならないけれど、この三つの品物がなければ、わたしはここでこんなに長いあいだ我慢できなかったことでしょう。いいえ、おそらく一日だって我慢できなかったことでしょうよ。この三つの記念の品は、あなたにはおそらくつまらぬもののように思われるでしょうけれど、ごらんなさいな。あんなに長くクラムとつき合っていたフリーダだって、記念の品なんて全然もっていないじゃないの。わたしはあの子にきいてみたんだけれど、あの子はあまりに夢想しすぎるし、あまりに満足を知らなすぎるのよ。ところがわたしのほうは、たった三度しかクラムのところにいかなかったのに、――あとではあの人はもうわたしを呼びに人をよこさなかったの、どうしてかわからないのだけれど――まるであの人とわたしとの関係が短いことを予感していたように、これらの記念の品をもってきたのよ。もちろん、自分からそのつもりにならなければならないのよ。クラムが自分でものをくれることなんてないわ。でも、クラムのところで気にいるものがあるのを見たら、くれってせがむことはできるのよ」
いくら自分に関係のあることでも、Kはこんな話を聞かされていて、不愉快に感じた。
「いったい、そういったことはどれくらい前のことなんです?」と、彼は溜息をもらしながらきいた。
「二十年以上も前のことよ」と、おかみがいった。「二十年よりずっと前の話よ」
「そんなに長いあいだクラムに対して変わらぬ愛の心を守っているんですね」と、Kはいった。「でも、おかみさん、私が自分の将来の結婚のことを考えると、あなたはこんな告白で私に大きな心配のたねを与えているんだっていうことを、気づいておられますか?」
おかみは、Kが自分のことをもち出して今の話に口を挾もうとしたのを無礼と思い、怒ってわきからKをじっと見た。
「そんなに気を悪くしないで下さい、おかみさん」と、Kはいった。「私はクラムにかれこれいうのではありません。しかし、私はさまざまなできごとの力でクラムとはある関係ができてしまったのです。それはいくらクラムの最大のファンだって否定はできないはずです。そうなんですよ。そこで私はクラムの話になると、いつでも自分のことを考えないではいられません。これはどうしようもないのです。それに、おかみさん――」――ここでKは彼女のためらう手をつかんだ――「考えても下さい、さっきの私たちの話合いはなんてまずい終りかたをしたことでしょう。今度は仲よく別れましょう」
「おっしゃることはもっともです」と、おかみはいって、頭を下げた。「でも、わたしのことも気の毒だと思って下さいよ。わたしはほかの人たちみたいに感じやすくはありません。それに反して、みんなはいろいろな泣きどころをもっているけれど、わたしはただこのクラムという泣きどころをもっているだけなのよ」
「残念ながら、それが同時に私のでもあってね」と、Kはいった。「でも、私はきっと自分を抑えるでしょう。ところで、おかみさん、私にいって聞かせて下さいませんか。結婚してから、クラムに対するこんなおそろしいほどの変わらぬ愛情をどうやって私は我慢したらいいのですか。フリーダもこの点であなたと似ているとしての話ですけれど」
「おそろしいほどの変わらぬ愛情ですって!」と、おかみはぶつぶついいながら、Kの言葉をくり返した。「これが変わらぬ愛情なんていうものですか? わたしは夫に対して操《みさお》を立てています。クラムにですって? クラムは一度わたしを恋人にしましたよ。わたしがいつかこの資格を失うことがあるんですかね? で、あなたはフリーダの場合にそれをどうやって我慢したらいいかですって? ああ、測量技師さん、そんなことをきくなんて、あなたはいったいなんという人なんです?」
「おかみさん」と、Kは相手をたしなめるようにいった。
「いいすぎましたわ」と、おかみはすなおにいった。「けれど、わたしの夫はそんな問いはしませんでした。あのころのわたしと今のフリーダと、どちらが不幸といえるのか、わたしにはわかりませんわ。気まぐれにクラムを捨てたフリーダでしょうか、それとも、クラムがもう呼びに人をよこさなくなった私のほうでしょうか。けれど、おそらくはフリーダのほうだわ。あの子にはまだそれがすっかりはわかっていないようだけれど。でも、あのころわたしの不幸はわたしの頭を今よりももっと占めていたのよ。というのは、いつでも自分自身に次のようにきかないではいられなかったし、ほんとうのところ今でもまだ自分にきくことをやめていないのよ。『どうしてこんなことになったのだろう? 三度クラムはお前を呼びに人をよこしたが、四度目はもうよこさない、四度目はもうけっしてよこさないなんて!』って。あのころ、このこと以上に何がわたしの心を占めていたでしょうか? そのすぐあとで結婚した夫と、このこと以外の何について話すことができたでしょうか? 昼のあいだは時間がありませんでした。わたしたちはこの宿屋をひどい状態で譲り受けたのですし、それをりっぱに繁昌させなければなりませんでした。でも、夜はどうでしたろう? 何年ものあいだ、わたしたちの夜の話は、ただクラムとあの人の心変りの理由とだけをめぐって行われました。そして、夫がこの話をしているうちに眠りこんでしまうと、わたしは夫を起こして、また話しつづけたものですわ」
「で、もしお許し下さるなら」と、Kはいった、「大変ぶしつけな質問をしたいのですが」
おかみは黙っていた。
「それでは、きいてはならないわけですね」と、Kはいった。「それでも十分です」
「もちろんですとも」と、おかみはいった。「それでも十分でしょうね。それがとくに十分でしょうね。あなたはなんでも誤解なさるのね。黙っていることもね。あなたには誤解するほかにできることってないのよ。わたしは、どうぞきいてくださいっていうつもりよ」
「私はなんでも誤解するのなら」と、Kはいった。「おそらくわたしの質問も誤解しているのでしょう。おそらく少しもぶしつけな質問なんかじゃないのでしょう。ただ、あなたがどうやってご主人を知るようになったかということと、どうしてこの宿屋があなたたちのものになったかということとを、知りたいだけなんです」
おかみは額にしわをよせたが、平静にいった。
「それはとても簡単な話ですわ。わたしの父が鍛冶屋で、わたしの今の夫のハンスはある豪農の馬丁で、しょっちゅう父のところへきたのです。そのころ、クラムと最後に会ったあとで、わたしはひどく不幸でした。けれども、ほんとうは不幸になんかなってはいけなかったのでしょう。というのは、万事は正確に進んでいたのです。そして、わたしがもうクラムのところへいっていけなかったのは、まさしくクラムがきめたことで、それだから正確だったはずです。ただ、そうなった理由だけがあいまいで、それは探ってもよかったのです。でも、わたしは不幸になんかなってはいけなかったのでしょう。ところで、それでもわたしは不幸で、仕事も手につかず、うちの前庭に一日じゅう腰を下ろしていました。そこでハンスがわたしを見て、ときどきわたしのそばへやってきては腰を下ろすのでした。わたしはあの人に自分の悩みを訴えませんでしたが、あの人はそれが何についての悩みなのかを知っていました。そして、あの人は善良な若者だったので、わたしといっしょに泣いてくれるという場面になったのです。あのころの宿の主人はおかみさんが死んで、そのために商売をやめなければならなかったのですが、――それにその人はもう老人でしたから――あるとき、うちのその小さな庭の前を通りかかって、そこでわたしたち二人が坐っているのを見ると、立ちどまり、むぞうさにこの宿屋を賃貸ししてやろうと申し出てくれました。わたしたちを信用してくれていたので、内金を取ろうとはしないで、賃貸料も大変安くしてくれました。わたしは父にだけは面倒をかけまいと思っていましたが、そのほかのことはみんなどうでもよかったのです。そこで、宿屋のことや、おそらくは少しは悩みを忘れさせてくれる新しい仕事のことを考えて、ハンスの結婚申込みに応じました。そういう話なんですよ」
しばらく二人は黙っていたが、やがてKがいった。
「その宿屋の主人のやりかたはたしかにりっぱだったのですが、軽率でしたね。それとも、その人にはあなたたちを信頼する特別の理由でもあったのですか?」
「その人はハンスをよく知っていました」と、おかみはいった。「ハンスの伯父《おじ》さんでしたから」
「それなら、むろんのことですね」と、Kはいった。「では、ハンスの家族はきっとあなたとの縁組を大いに問題にしていたのですね」
「きっとそうでしょう」と、おかみはいう。「わたしにはわかりません。そんなことに気を使ったことはありませんから」
「でも、きっとそうだったにちがいありませんね」と、Kはいった。「家族の人たちがこんな犠牲を払って、宿屋を担保もなしで簡単にあなたたちの手に渡す気になったんですからね」
「あとになってわかったように、それは軽率なやりかたではありませんでしたよ」と、おかみはいった。「わたしは仕事に没頭しました。鍛冶屋の娘のわたしは身体がじょうぶで、女中や下男もいりませんでした。食堂でも、台所でも、馬小屋でも、内庭でも、どこででも働きました。料理が上手なので、紳士荘のお客さえ取ってしまったほどです。あなたはまだ昼食に食堂へいらっしゃっていないので、うちの昼食のお客さんがたをご存じないのです。あのころはもっと多かったんです。あれからもうお客がだいぶ減ってしまいましたのでね。で、その結果は、わたしたちは賃貸料をきちんと払ったばかりでなく、二、三年ののちにはそっくり買い受け、今ではほとんど借金もなくなっています。ところが、それ以外の結果としては、もちろん、そのために私は身体をこわしてしまい、心臓が悪くなり、今ではお婆さんになってしまった、ということをあげなければなりません。おそらくあなたは、わたしのほうがハンスよりもずっと年上だとお思いでしょうけれども[#「お思いでしょうけれども」は底本では「お思いでしようけれども」]、ほんとうはあの人は私より二つか三つ若いだけなんです。そして、あの人はさだめしこれからもけっして年をとらないことでしょう。というのは、あの人のような仕事をしていては、――パイプをふかしたり、お客さんがたの話に耳を傾けたり、それからパイプをたたいて灰を出したり、ときどき一杯のビールをお客にもっていったりするぐらいなんですから――とても年なんかとるものではありませんよ」
「あなたのお手柄はすばらしいものです」と、Kはいった。「そのことは疑いありません。けれども、あなたはあなたの結婚以前のときのことをお話しになりましたが、そのころには、ハンスの家族が入るべき金を犠牲にし、あるいは少なくとも宿屋の譲り渡しというような大きな危険にあまんじて、あなたがたの結婚をうながし、しかもその場合にまだ全然わかっていなかったあなたの仕事の腕前と、ないということはよく知っていたにちがいないハンスの仕事の腕前と以外には少しも見込みというものをもたなかったとすると、どうも奇妙なことになりますね」
「まあ、まあ」と、おかみは疲れたようにいった。「あなたが見当をつけていること、しかもそれがまちがっていることは、よくわかりますよ。クラムについてはこうしたすべてのことはまったくかかわりもないことですわ。なぜクラムがこのわたしのために心配してくれたり、あるいはもっと正確にいって、このわたしのために心配してくれることができたりしたでしょうか? あの人はじつのところ、わたしのことなんか、もう全然知らなかったのです。あの人がもうわたしを呼びによこさなかったということは、わたしのことを忘れてしまったというしるしなんですわ。自分がだれを呼びにやらないのかは、完全に忘れているのですよ。こんなことはフリーダの前では申したくありません。ところで、それは忘れるということだけではなく、それ以上のことなんです。忘れてしまった者のことは、ふたたび知るということがありえます。ところが、クラムの場合には、そんなことはありえないんです。クラムがもう呼びに人をよこさない者のことは、その者の過去について完全に忘れてしまったばかりでなく、すっかりその者の未来についても忘れてしまったということなんです。わたしだって骨を折って考えれば、あなたの考えていらっしゃることぐらい察しはつきますわ。あなたの故郷であるよその土地ではたぶん通用しているのでしょうが、ここではばかばかしいような考えのことをいっているんですよ。おそらくあなたは、クラムが将来いつかわたしを呼ぶとき、わたしがあの人のところへいくじゃまにならないようにというので、ハンスのような男をわたしの夫にしたのだ、というようなばかげたことまで考えていらっしゃるんでしょう。ところで、ばかばかしいにもほどがあるというものです。もしわたしにクラムが合図したなら、わたしがクラムのところへ駆けつけるのを妨げることができるような夫なんて、いるものですか。ばかばかしい、ほんとにばかばかしいことですわ。こんなばかげた考えをもてあそんでいたら、頭が変になりますわ」
「いや」と、Kはいった。「おたがいに頭が変なんかになりたくありませんね。私も、あなたの考えておられるほどに私の想像をたくましくしたわけではありませんよ。もっとも、ほんとうをいうと、そんなことを考えかけていたんですけれどね。ただ、さしあたって不思議と思ったのは、親戚の人たちがこの結婚に大いに期待をかけ、しかもそうした期待が実際に実現されたということなんです。実現されたといっても、あなたの心臓と健康と引き換えということでしたがね。こうした事実とクラムとのあいだにある関連があるらしいという考えは、たしかにお話をうかがっていて私の頭に浮かんではきましたが、あなたがおっしゃったほど失礼なものではありませんでした。あるいは、まだそこまではいっていなかったといえます。あなたがあんなことをおっしゃったのは、あなたに面白いものだから、私をどやしつけようというだけの目的でなさったようですね。まあ、勝手に面白がって下さい。ところが、私が考えたのは、何よりもまずクラムが結婚のきっかけらしい、ということなんです。クラムというものがいなかったら、あなたは不幸にはならなかったでしょうし、仕事に手がつかぬようになって前庭に坐りこんでいることもなかったでしょう。クラムがいなかったら、あなたはハンスと前庭で会わなかったことでしょうし、あなたの悲しみというものがなかったら、気の小さいハンスはあなたにけっして話しかけようなどとしなかったことでしょう。クラムがいなかったら、あなたはけっしてハンスといっしょに涙を流したりしなかったでしょう。クラムがいなかったら、あの年とった善良な伯父さんの宿のご亭主も、けっしてハンスとあなたとが前庭でなごやかにいっしょにいるのを見はしなかったでしょう。クラムがいなかったら、あなたは人生に対してどうでもいいというようなふうにはならず、したがってハンスと結婚なんかしなかったでしょう。で、こうしたすべてにすでに十分にクラムが関係があるのだ、といわないわけにはいきません。ところが、もっと先があります。クラムがいなければ、あなたは過去を忘れようとはしなかったでしょうし、きっとそんなに考えなしに身体をいじめつけて仕事をしなかったでしょうし、また商売をこんなに栄えさせはしなかったでしょう。だから、その点でもクラムが関係しているわけです。ところで、クラムはまた、そうしたことは別としても、あなたの病気の原因でもあります。というのは、あなたの心臓は結婚の前にすでにかなわぬ恋の情熱に疲れ切っていたのですからね。で、なお残っている問題は、ハンスの親戚たちはなんであなたがたの結婚にそんなに乗り気になったのか、ということだけです。さっき、ご自分でいわれましたが、クラムの恋人であるということは、身分が上がることで、それはいつまでも消えるものではないってね。ところで、そのことがあなたの心をひきつけたのかもしれませんね。だが、そのほかに、こういう期待があったんだと思います。つまり、あなたをクラムのところへつれていったのはいい星のめぐり合せであり、――いい星だと仮定しての話ですが、あなたはそうなんだっておしゃっていますね――その星があなたのものであって、そしてあなたのところにいつまでもとどまるだろう、そして、クラムがやったようにあんなに早く、あんなに突然、あなたを見捨てることはないだろう、っていう期待です」
「そんなことをみんな本気で考えていらっしゃるんですか」と、おかみがきいた。
「本気ですとも」と、Kは口早にいった。「ただ私が思うのは、ハンスの親戚たちはそうした期待の点で正しかったのでもなければ、まったくまちがっていたのでもない、ということです。そして、その人たちがやったまちがいが私にはわかるように思います。たしかに外面的には万事がうまくいったように見えます。ハンスは暮しの心配がなくてすみますし、すばらしい奥さんをもち、人には尊敬され、家計は借金なしときています。でも、ほんとうは万事うまくいったわけではありません。ハンスは、自分をりっぱな初恋の人と見てくれた普通の娘といっしょになったほうが、きっとずっと幸福だったことでしょう。あの人が、あなたの非難されるように、ときどき食堂でまるで放心したように立っているなら、それはあの人がほんとうに自分はだめだと感じているからなんです。――といって、そのことで不幸にはなっていませんけれど。きっとそうです。私もそのくらいはあの人のことがわかっています。――でも、それと同じようにたしかなのは、このりっぱな、ものわかりのいい若者は、別な女の人といっしょになったら、もっと幸福だったろう、ということです。という意味は、それと同時に、もっと自主的になり、もっと勤勉に、もっと男らしくなったろうということなんです。そして、あなたご自身もきっと幸福ではないはずです。おっしゃったように、あの三つの記念の品がなければ、あなたは生きていく気が全然しないことでしょうし、また心臓をわずらってもいらっしゃるんですからね。それでは、ハンスの親戚たちは彼らの期待した点でまちがっていたのでしょうか。そうとは思いません。祝福はあなたの上にあったのですが、だれもその祝福を自分たちのところへ下ろすことを心得ていなかったのです」
「いったい何を取り逃がしてしまったっていうんですか」と、おかみはきいた。おかみは手足をのばして仰向けになり、天井を見上げていた。
「クラムにきいてごらんなさい」と、Kはいった。
「それでは、あたしたちはまたあなたのことにもどるのですね」と、おかみがいった。
「あるいは、あなたのことにね」と、Kはいった。「私たち二人のことはすぐ隣り合っているようなものですからね」
「それでは、あなたはクラムにどんなことを望んでいらっしゃるんです」と、おかみがきいた。彼女は身体をまっすぐにし、枕を振ってなおし、坐ったままでよりかかることができるようにした。Kの両眼をまともに見ていた。「わたしはあなたに、わたしのことを打ち明けてお話ししましたわ。あなたはこの話からいくらかのことを学べたはずですよ。今度はあなたが、クラムに望んでいることを打ち明けておっしゃって下さいな。フリーダに自分の部屋へ上がっていき、そこにいるようにって、わたしはやっとあの子を説得したんですよ。あなたは、あの子がいると、どうも十分に打ち明けて話して下さらないんじゃないか、と思ったものですから」
「隠すことなんか、何もありませんよ」と、Kはいった。「でも、まずあなたにご注意申し上げることがあります。クラムはすぐ忘れてしまう、ってあなたはおっしゃいました。ところでまず第一に、そのことが私にはとてもありえないことのように思われるんです。第二には、それは証明できないことです。クラムにかわいがられていた女の子たちが考え出した単なる伝説にすぎないように思われます。あなたがそんな明白なつくりごとを信じていらっしゃることが、私には不思議ですよ」
「伝説なんかじゃありませんよ」と、おかみはいった。「それはむしろみんなの経験から出ているんですわ」
「それなら、新しい経験によってそれを否定することもできるわけですね」と、Kはいった。「それに、あなたの場合とフリーダの場合とでは、ちがいがあります。クラムがフリーダをもう呼ばなくなったなどということは、いわば全然なっていないんです。むしろ、あの男があの子を呼んだのに、あの子はそれに従わなかったのですよ。クラムがまだあの子を待っているということだって、ありえますよ」
おかみは黙ってしまい、ただただ探るように視線をときどきKの上に走らせるのだった。やがていった。
「あなたのおっしゃりたいことはなんでもおとなしくうかがいましょう。わたしの気を悪くしないようになんて気づかわれるよりは、ざっくばらんにお話し下さい。ただ、一つだけお願いしておきます。クラムの名前を出さないで下さいな。〈あの人〉とかなんとかいって下さいね。でも名前を直接口にはしないで下さい」
「いいですとも」と、Kはいった。「でも、あの人に私が望んでいることは、いうのがむずかしいんです。まず、あの人を身近かに見たい、次にあの人の声を聞きたい、それからあの人が私たちの結婚にどんな態度をとるのか知りたいんです。それからたぶんそのほかにも頼みたいことは、話合いのなりゆきにかかっています。おそらくいろいろなことが話に出るでしょうが、私にとっていちばん大切なことは、あの人と面と向って会うことです。つまり、私はまだほんとうの役人と直接話をしたことがないんです。それは、私の考えていたよりむずかしいことのように思われます。ところで私としては、個人としてのあの人と話をする義務があります。そして、これは私の考えによると、ずっと実行がやさしいはずです。役人としてのあの人には、ただあの人の事務室で話ができるのですが、その事務室へはどうやら近づきがたいようです。それが城のなかにあるのか、紳士荘にあるのかが、すでに問題ですしね。でも、個人としてなら、あの人に会うことのできるどこでも、家のなかでも、路上でも、話ができるはずです。その場合に、ついでに役人としてのあの人と向かい合うことになっても、私にはいっこうかまいません。でも、それは私の第一の目的というわけではありません」
「わかりましたよ」と、おかみはいい、自分が何か恥知らずなことをいっているかのように、顔を枕に埋めた。「もしわたしがこちらの関係によって、お話がしたいのだというあなたの願いをクラムに伝えたときには、返事がくるまではあなたが何も独断ではやらない、ということを約束してくださいね」
「それはお約束できません」と、Kはいった。「あなたの頼みというか、あなたの気まぐれというか、それをかなえてあげたいのですけれどね。つまり、事は火急なんです。ことに、村長との話合いの結果が思わしくはないもんですからね」
「そんな異議はだめですわ」と、おかみはいった。「村長はまったく取るにたらぬ人物なんです。それにお気づきにはなりませんでしたか。なんでもやっているあの人の奥さんがいなければ、ただの一日だって村長の地位にとどまってはいられないのよ」
「ミッツィですか」と、Kはきいた。おかみはうなずく。「あの人は居合わせましたよ」と、Kはいった。
「あの人、何かいいましたか」と、おかみがきく。
「いや」と、Kはいった。「あの人がそんなことができるっていうような印象は、全然受けませんでしたよ」
「まあ、まあ」と、おかみはいった。「あなたはこの土地ではすべてをまちがって見ているのよ。ともかく、村長があなたについてやったことなんて、なんの意味もありませんわ。機会を見て、奥さんと話してあげましょう。そして、あなたにさらに、クラムの返事は遅くとも一週間以内にくるだろう、とお約束するのですから、わたしのいうことに従わないという理由はないはずですよ」
「そんなことでは、まだ決定的というわけではありません。私の決心は固くきまっていて、ことわりの返事がきたって、私は自分の決心をやりとげようと試みるでしょうよ。はじめからこんなつもりでいるとすれば、人を通じてあらかじめ話合いのことを頼んでもらうわけにはいきません。頼まないでやったのなら、大胆ではあっても悪気はないやりかたですむものが、ことわりの返事を受け取ってからやるならば、公然たる反抗になってしまうことでしょう。そのほうが、むろん、ずっと悪いでしょう」
「もっと悪いですって?」と、おかみはいった。「どっちにしたって、反抗ですよ。まあ、好きなようになさいな。スカートを取ってちょうだい」
Kがいることなどおかまいなしに、おかみはスカートをはき、台所へ急いでいった。かなり前から、食堂からはさわがしい音が聞こえていた。のぞき窓をたたく音もした。助手たちがその窓を突き開けて、腹がすいた、となかへどなった。次に、ほかの者たちの顔もそこから現われた。小さい声でだが、高低いろいろまじった合唱の歌さえ、聞こえてきた。
もちろん、Kがおかみと話していたため、昼食の料理がひどく遅くなっていた。まだ支度ができ上がらないのに、お客たちが集っていた。ところが、だれ一人としておかみの禁止に逆らって台所へ足を踏み入れようとする者はいなかった。ところが、のぞき窓の連中が、おかみさんがきたぞ、といったので、女中たちはすぐ台所へかけこんでしまった。Kが台所へ足を入れてみると、驚くほどたくさんの人たちが、男と女とで二十人以上もいるのだろうか、田舎風ではあるが農夫ではないようなみなりをして、今まで集っていたのぞき窓から、食卓へとなだれこみ、自分の席を確保しようとするのだった。それより前に坐っていたのは、片隅のテーブルにいる、二、三人の子供づれの一組の夫婦だった。夫は、親切そうな青い眼をした男で、灰色のもじゃもじゃな髪と髯とをしていて、子供たちのほうに身体をかがめて立ち、ナイフで子供たちの歌の拍子をとっていたが、たえずその歌声を抑えようと努めていた。おそらく歌で子供たちの空腹を忘れさせようとしているのだった。おかみはみんなの前で、二こと三こと、投げやりな言葉で詑《わ》びをいったが、だれもおかみに文句はいわなかった。おかみは亭主がいないかとあたりを見廻したが、亭主は事態がむずかしいのを見て、とっくの昔に逃げ出していた。それから、おかみはゆっくりと台所へいった。Kは自分の部屋にいるフリーダのところへと急いでいったが、おかみは彼に対してもはや目もくれなかった。
第七章
階上でKは教師に出会った。部屋はありがたいことに、見ちがえるほどになっていた。フリーダがそんなにも精出して働いたのだ。十分に空気を通し、ストーブにはたっぷり火が入っており、床はぞうきんがけがしてあって、ベッドは整えられ、女中たちの品物というあのいとわしい汚れものは、彼女らの写真を含めて、みんな消えていた。テーブルはさっきは、どちらを向いても汚らしいパン屑のちらばっているその上の光景がまるで人の眼から去らないような有様だったが、今は白い編んだテーブル・クロスで被われていた。もうお客を迎えることもできる。フリーダが朝のうちに洗っておいたらしいKのこまごました洗濯物が、乾かすためにストーブのそばにかけられていたが、それもたいして目ざわりではなかった。教師とフリーダとはテーブルのところに坐っていたが、Kが入っていくと、二人は立ち上がった。フリーダはKに挨拶の接吻をし、教師は少し身体をかがめて挨拶した。Kはおかみとの対談でぼんやりし、まだ気持が乱れていたが、これまでまだ教師を訪ねることができなかったことを詑び始めた。まるで、Kが訪ねていかないために教師のほうが待ちきれなくなって、自分のほうから訪問してきたのだ、とみとめているような詑びかただった。ところが、教師のほうは、落ちついたやりかたで、今やっと、いつだったか自分とKとのあいだには一種の訪問の約束がされていたのだ、ということをおもむろに思い出している様子だった。
「あなたは、そう、測量技師さんでしたね」と、彼はゆっくりといった。「二、三日前に教会前の広場でお話ししたあのよそのかたでしたね」
「そうです」と、Kは手短かにいった。あのときは一人ぽっちであったために我慢していたのだが、こんな言葉をこの自分の部屋で黙って聞いている必要はないのだ。彼はフリーダのほうを向き、これからすぐしなければならない大切な訪問があるのだが、それにはできるだけよい身なりをしていかなければならない、と、彼女に相談をもちかけた。フリーダはKにそれ以上たずねもしないで、ちょうど新しいテーブル・クロスを夢中になって調べている二人の助手たちにすぐ声をかけ、Kがすぐ脱ぎ始めた服と靴とに下の内庭で念入りにブラシをかけるように、と命じた。彼女自身は一枚のシャツをかかっている紐から取って、それにアイロンをかけるために下の台所へ急いで降りていった。
そこでKは、ふたたび無言のままテーブルに腰を下ろしている教師と、二人きりになった。もう少しお待ち下さい、といって、シャツを脱いで、洗面台で顔を洗い始めた。そこでやっと、教師に背を向けたまま、なんのご用でいらっしゃったのですか、ときいてみた。
「村長さんに頼まれてきました」と、教師はいった。Kはその用件をきくつもりだった。ところが、Kの言葉が水の音で聞き取りにくかったので、教師は近づいてこなければならなかった。そして、Kのそばの壁にもたれた。Kは、こうやって顔を洗ったり、そわそわしているのは、これからいくつもの訪問がさし迫ったためだからだ、と詑びた。教師はそんなことは聞き流しておいて、いった。
「あなたは村長さんに対して失礼だったようですね、あんなに年とった、功労のある、経験豊かな、尊敬すべき人なのに」
「私が失礼だったかどうかは、知りません」と、Kは顔をふきながらいった。「でも、上品なふるまいなどとは全然ちがったことを私が考えていたということは、ほんとうです。というのは、私にとっては生きるか死ぬかの問題だったんですからね。私の生存は恥知らずな役所の仕事ぶりであぶなくなっていたのです。そのこまかなことは、ご自身でこの役所で働いておられるあなたには申し上げる必要はありますまい。村長がわたしについて文句でもいったのですか」
「だれに向ってあの人が文句なんかいえるでしょうか」と、教師はいった。「だれか文句をいう相手がいるとしても、いったいあの人が文句なんかいってこぼすでしょうか。私は村長さんの口授であなたがたの話合いに関してちょっとした調書をつくっただけですが、それによって、村長さんの親切さとあなたの返事のしかたとについて十分に知ったのです」
フリーダがどこかへしまったにちがいないくしを探しながら、Kはいった。
「なんですって? 調書ですって? 話合いのときに全然いなかった者が、あとになって私のいないところで調書なんか取ったんですか。それも悪いことではありません。が、いったいなぜそれは調書なんです? では、あれはおおやけの話合いだったのですか」
「いや」と、教師がいう。「ただ半分おおやけのものです。調書もただ半分だけおおやけのものにすぎません。それをつくったのは、われわれのところではすべてに厳密な秩序がなければならないからです。ともかく、あなたの調書はあるのだし、あなたにとって名誉となるものではありませんよ」
ベッドのなかにすべりこんでいたくしをやっと見つけたKは、前よりは落ちついていった。
「そんな調書があるのなら、それでもかまいません。あなたは、そのことをいいに私のところへいらっしゃったのですね」
「いや」と、教師はいった。「でも、私だって機械じゃないんだから、自分の意見をいわないではいられなかったのです。ところで、私の依頼されてきた用件は、村長さんが親切であることをもっとよく証明するものです。私は強調しておきますが、こんな親切さというものは私には理解できないものであり、私がこの依頼を果たしているのは、ただ立場の上からどうしてもそうしなければならないからであり、また村長さんを尊敬しているからなのです」
顔を洗い、くしを使っていたKは、今度はシャツと服とがくるのを待って、テーブルのところに坐った。教師が伝えてきたことにはほとんど興味がなかった。彼はまた、おかみが村長について抱いている軽蔑的な意見に影響されてもいた。
「もうお昼を過ぎたことでしょうね」と、彼はこれからいくつもりの道のことを考えながらいったが、次にそれをいいなおした。「あなたは村長からいいつかった何かの用事を私におっしゃるんでしたね」
「そうですとも」と、教師はまるで自分のどんな責任をも身体から振い落すかのように、肩をすぼめて、いった。「村長さんが恐れていられるのは、あなたの件の決定があまりに長びくときに、あなたが何か軽はずみなことを独断でやるのではないか、ということです。私としては、村長さんがなぜそんなことを心配されるのか、わかりません。私の考えでは、あなたはしたいことをなさればいちばんいい、と思います。われわれは何もあなたの守り神ではないのだし、あなたのいくさきざきまで追いかけていく義務なんかありません。まあ、それはいいとしましょう。ところが村長さんときたら、それとはちがうご意見なのです。伯爵の役所がやるべき決定そのものは、もちろんあの人は早めるわけにはいきません。でも、あの人は自分の力の及ぶ範囲のうちで、ほんとうに寛大な仮の決定をしようというのですよ。それを受け入れるかどうかは、ただあなただけにかかっています。つまり、あの人はあなたにさしあたって学校の小使の地位を提供されているのです」
自分に提供されていることなどについては、Kははじめのうちほとんど気にはかけなかったけれども、何かが自分に提供されているのだという事実は、彼には無意味ではないように思われた。それは、彼という人間は、村長の考えによれば、自分の身を守るためにはどんなことでもできるのだ、そんなことを防ぐためには、村自身がある程度の金を使ったってかまわないのだ、ということを暗示するものであった。ああ、こんなことをなんて重大に考えているのだろう。ここですでに長いあいだ待ったし、なおその前に調書を取ったという教師は、まったく村長によって駆り立てられてやってきたものにちがいない。自分のいうことがKを考えこませてしまったのを見て取ると、教師は言葉をつづけた。
「私は異論を申し立てました。これまで学校の小使なんかいらなかった、ということを私は指摘しました。教会の小使の細君がときどき掃除をするし、女の先生のギーザ嬢がそれを監督します。私は子供たちの面倒でもううんざりしていますから、この上小使のことなんかで怒ったりしたくはありません。すると、村長は、でも学校のなかはひどく汚いじゃないか、といわれるんです。私は、ほんとうのことなんですが、そんなにひどくはありません、と答えました。それから、私はつけ加えました。われわれがその男を学校の小使に雇ったら、もっとよくなるでしょうか。そんなことは全然あるはずがないですよ。その男がそんな仕事のことを全然知らないことは別としても、学校の建物には控室なしの二つの大きな教室があるだけです。そこで、小使は家族の者とともにその一つの教室に住みこんで、寝たり、煮たきまでもしなければならないでしょう。そんなことではもちろん清潔さを増したりできません。ところが、村長さんは、この地位はあなたにとっては苦しいときの救い主になるだろうし、そのためにあなたもその仕事をよく果たすために全力を振りしぼって努力するだろう、とおっしゃいます。さらに、村長さんがおっしゃるには、あなたを雇えば、あなたといっしょにあなたの奥さんや助手さんたちの力も手に入れるわけで、そのため学校ばかりではなく、校庭も模範的にきちんと片づけておくことができるだろう、というのでした。そうしたことはすべて、私は苦もなく反駁《はんばく》しました。とうとう村長さんはあなたのためにもう全然何も提案することができなくなり、笑って、あなたは測量技師なんだから、校庭の花壇をとくに美しく設計することができるだろう、とだけいいました。で、冗談に対しては異論を述べてもしかたがありません。それで私は村長さんのその頼みをもってあなたのところへきたのです」
「あなたはむだな心配をしておられますね、先生」と、Kはいった。「その職を引き受けるなんていうことは、私には思いもよりませんね」
「りっぱなものです」と、教師はいった。「りっぱなものですよ、まったくなんの留保もなしにおことわりになるのですからね」そして、帽子を取ると、出ていった。
そのすぐあと、フリーダが困った顔をして上がってきた。シャツはアイロンをかけないままでもってきていた。いろいろきいても、返事もしない。気晴ししてやろうとして、Kは教師のことと例の申し出とのことを語って聞かせた。それを聞くやいなや、フリーダはシャツをベッドの上に投げ出し、急いでまた出ていった。まもなくもどってきたが、教師をつれてきていた。教師は不機嫌そうな面持で、全然挨拶もしない。フリーダは彼に、少しばかり我慢してくれるようにと頼むのだった。――どうもここへくるまでのあいだにすでに何度か頼んだものらしい。――それから、Kを引っ張り、これまでKが全然知らなかったわきのドアを通って隣りの屋根裏部屋へとつれていき、そこでとうとう、興奮して息を切らせながら彼女に起ったことを語って聞かせた。おかみは、Kにいろいろと告白させられ、その上もっと悪いことには、クラムがKと話し合うということについても折れてKのいうままに従ったのに、それで手に入れたものといえば、彼女のいうところによるならただ冷たくて、しかも率直でないことわりばかりだったので、それにすっかり腹を立ててしまい、もう自分の家にはKは置いてやらないと決心したということだった。もしKが城と関係があるなら、それを早くぞんぶんに利用したらいいでしょう。そして今日のうちにでも、たった今でも家を出ていってもらいたい。また直接役所の命令を受けてやむをえないのでもなければ、もう自分は二度とKをこの家に泊まらせはしない。といっても、おそらく役所の命令で泊めなければならなくなることもないだろう。というのは、自分だって城とかかわりがあり、それを生かすことだってできる。それに、彼はだいたい亭主のだらしなさのためにこの宿に入るようになったので、家を出たって全然困りはしないのだ。だって、けさも自分のために支度されている寝場所のことを自慢したんだもの。そんなことをいったという。フリーダはここにいてもらいたい。もしフリーダがKといっしょに引っ越しでもするなら、おかみはとても不幸になることだろう。今も下の台所でそのことを考えただけで泣きながらかまどの前にくずおれてしまった。かわいそうな心臓の悪いあの人が! でもおかみとしてはそれ以外にどんなふるまいができるだろう。今では、少なくとも彼女の頭のなかでは、まさしくクラムの思い出の品の名誉に関することなんだから。で、おかみのほうはこんな有様だ。フリーダとしては、Kがどこへいこうと、雪のなかだろうと氷のなかだろうと、もちろん、Kのいくところへついていくだろう。そのことについてはもちろんこれ以上くどくどいう必要はない。でも、自分たち二人の状態はいずれにしてもよくはないのだから、自分は村長の申し出を大悦びで歓迎した。それはKにとってはふさわしくない地位であろうと、それでもそれは、はっきり強調しているようにただ一時的なものではないか。これで当分のあいだ時間がかせげるし、たとい最終的な決定が都合悪いように下ろうとも、ほかの口がたやすく見つかるだろう。こんなことをフリーダはいったが、もうKの首にかじりついて、最後に叫ぶのだった。
「どうしてもしかたがない場合には、ここから出ていきましょうよ。なんでこの村にいなければならないの? でも、今のところは、ねえ、あなた、この申し出を聞くことにしようじゃありませんか。わたしは先生をつれもどしてきてあるんだし、〈承知しました〉といえば、それだけでいいんです。そして、わたしたち、学校へ引っ越していくのよ」
「それはまずいね」と、Kはいったが、まったく本気でいったのではなかった。というのは、住居のことなどは彼の気にはかからなかったし、それに下着だけの彼はこの屋根裏部屋でもひどく寒い思いをしていた。この屋根裏では、二方が壁も窓もなくて、寒い風が身を切らんばかりに吹き抜けていくのだった。「君が部屋をこんなにきれいにこしらえてくれたのに、もう出ていかなければならないなんて! どうもそんな地位なんか承知したくないんだ。あんなつまらぬ教師に一瞬間でも頭を下げていることさえ、私にとってはたまらないことだし、それに今度は私の上役にさえなっているんだからね。もう少しのあいだだけここにいられるならば、おそらくきょうの午後にでももう私の状態は変わるだろう。少なくとも君がここにとどまるなら、そうなるのを待っていられるし、教師にははっきりしない返事をしておけるんだ。私のことなら、いつだって寝場所ぐらい見つかるさ。もし探さねばならぬとしたらね。実際、バル――」
フリーダは手で彼の口をふさいだ。
「それはだめ」と、彼女は不安げにいった。「どうか、それは二度といわないでちょうだい。ほかのことならなんでもあなたのいうことをきくわ。もしあなたが望むのなら、いくらわたしは悲しくても、ここにひとりで残りますわ。あなたが望むなら、この申し出もことわってしまいましょう。ことわることは、わたしの考えではとてもまちがっていると思われるんですけれど。だって、そうじゃない、あなたがきょうの午後にでも別な口を見つけるなら、わたしたちが学校の職を捨てるのは当然よ。だれだってそのじゃまをする者はいないわ。そして、先生に頭を下げるということについていうなら、わたしにそのことをまかせておいて。そんなことにならないようにするから。わたし、あの人と自分で話すわ。あなたはただ黙ってそばに立ってさえいればいいのよ。そして、あとになったって同じだわ。もしあなたがしたくないなら、一度だってあの人と話す必要なんかないのよ。ほんとうはあたしだけがあの人の部下になるわけでしょうが、けっしてわたしは部下なんかにはならないわ。だって、あたしはあの人の弱味を知っているんですもの。だから、もしあの職を引き受けるなら、何も損はしないんだけれど、もしそれをことわればとても損をするのよ。何よりもまず、もしあなたがきょうのうちにでも城から何かを手に入れないなら、ほんとうにあなた一人のためにだって村ではけっして寝場所なんか見つかりっこないわ。つまり、あなたの将来の妻であるわたしが恥かしい思いをしないでもいいような寝場所のことよ。そして、もしあなたが寝場所を見つけることができなければ、あなたが夜の寒さのなかをさまよっているってわかっているのに、この暖かい部屋で自分だけで寝ていろ、とわたしに求めようとしているようなものよ」
少しばかりあたたまろうとして、そのあいだじゅう両腕を胸の上で組み、手で背中をたたいていたKは、いった。
「それじゃあ、承知するよりほかに手はないわけだ。おいで」
部屋へいくと、彼はすぐストーブのところへ急いだ。教師のことなどはかまってはいなかった。ところで教師のほうは、テーブルのところに坐っていて、時計を取り出すと、いった。
「遅くなりましたね」
「そのかわり、わたしたちは今は完全に意見が一致しましたの、先生」と、フリーダがいった。「わたしたちはその職をお受けしますわ」
「わかりました」と、教師はいった。「でも、この職は測量技師さんに申し出たものです。この人が自分でおっしゃらなければなりません」フリーダはKに助け舟を出した。
「もちろん」と、彼女はいった。「この人は職をお引き受けしますわ。ねえ、K?」
そこで、Kは自分の確答を簡単に「ああ、そうだ」というだけに限ることができたが、これはけっして教師に向けた返事ではなく、フリーダに向けたものだった。
「それでは」と、教師はいった。「私にまだ残っていることは、あなたに勤務上の義務について申し上げることだけです。この点でいつでも私たちの意見が一致しているためにです。測量技師さん、あなたは毎日、二つの教室を掃除し、火をもやし、学校内の、さらに学校用具や体操用具の、ちょっとした修理をやり、校庭に通じている道を除雪し、私と女の先生とのために使い走りをし、暖かい季節には庭仕事を全部やらなければなりません。そのかわり、あなたは二つの教室のうち一方を選んで住む権利があります。しかしあなたは、二つの教室で同時に授業が行われているのでなく、授業が行われるほうの部屋にあなたがたが住んでいるのであれば、むろん別な教室へ移らなければなりません。学校では炊事してはいけません。そのかわり、あなたとあなたのご家族は、村の費用によってこの宿でまかないをしてもらえます。学校の品位にふさわしいように行動しなければならないこと、とくに子供たちには、授業中であればなおさらですが、けっしてあなたの家庭生活の好ましくない光景などを見せないようにしなければならないこと、これはほんのついでに申し上げておきます。教養ある人として、こんなことはおわかりのはずですからね。このことと関連してさらに申し上げておきますが、われわれとしてはあなたがフリーダ嬢との関係をできるだけ早く法律上のものとするように主張しなければなりません。こうしたすべてのこと、またさらに若干の小さなことについては、雇傭契約をつくることになりますが、あなたが学校に移られたら、すぐそれに署名しなければなりません」
Kにはこんなことはすべて大したことではないように思われた。まるで自分のことではなく、少なくとも自分を縛るものではないように思われるのだった。ただ教師の大げさな態度が彼をいら立たせた。そこで彼はぞんざいにいった。
「そうですか、ごく普通の契約事項ですね」
このとげのある言葉を少しはやわらげようとして、フリーダが給料のことをたずねた。
「給料を払うかどうかは」と、教師はいった、「一カ月間の見習期間がすんでから考えることになります」
「でも、それではわたしたちにとってひどいことですわ」と、フリーダがいった。「わたしたちは無一文で結婚しなければならないし、家計を無からつくり上げなければならないのです。先生、村に願書を出して、すぐに少しばかり給料を下さるようにお願いできないものかしら? どうお考えになります?」
「いや」と、教師はいったが、彼は自分の言葉をいつでもKに向けていうのだった。「そうした願書は、私が推薦《すいせん》をするなら、なんとか聞き入れられることでしょうが、私はそんなことはしませんよ。職を与えることがそもそもあなたに対する好意なんですが、おおやけの責任をいつでも意識しているためには、好意もあまりいきすぎないようにしなければなりません」
ところがここで、Kはほとんど意志に反して口を挾んでしまった。
「好意ということについていえば、先生」と、彼はいった。「あなたはまちがっていらっしゃると思いますよ。その好意というのはおそらくむしろ私のほうにあることですよ」
「いや」と、教師は微笑しながらいった。これでKを話さないではいられないようにしむけたわけだ。
「そのことは私もよく知っております。でも、われわれとしては学校の小使も測量技師も必要の程度では同じくらいのものなんです。小使も測量技師も、われわれには重荷なんですよ。これにかかる支出について村に対してどういうふうに理由をつけていってやるかということは、これから私がいろいろ考えなければならないことでしょう。その要求をただ机の上に投げ出して、理由など述べないのが、いちばんいいし、またいちばん正直なことでしょうよ」
「私もそう思いますね」と、Kはいった。「あなたの意に反して、あなたは私を採用しなければならないわけです。そのためあなたにむずかしいもの思いのたねが出てくるにしても、あなたは私を採用しなければなりません。ところで、だれかが別な人間を採用する必要に迫られ、その人間が採用されることを承知するのであれば、好意的なのはその人間のほうですよ」
「奇妙な考えですね」と、教師はいった。「あなたを採用するようにと、何がわれわれに強制しているのですか。村長さんの善良な、底抜けに善良な心がわれわれに強制しているのですよ。測量技師さん、私にはよくわかっていますが、あなたはものの用に立つ小使になる前に、いろいろな空想を捨ててかからなければなりません。そして、万一給料をみとめることになるとしても、あなたのそんな言葉はそのためにはほとんどいい感じを与えませんね。また残念ながら私はみとめるのですが、あなたの態度は私にとってこれから大いに面倒なことになるでしょう。さっきからずっと――私はそれをずっと見ていながらも、ほとんど信じられないくらいなんですが――あなたはシャツとズボン下という恰好で私と話合いをしている始末ですからねえ」
「そうでした」と、Kは笑いながら叫び、手をたたいた。「ひどい助手たちだ! いったいどこにいるのだろう」
フリーダは急いでドアのところへいった。もうKは自分と話さないだろうと見て取った教師は、フリーダに向って、いつ学校へ移ってくるか、ときいた。
「きょういきます」と、フリーダはいった。
「それでは、あすの朝、検閲にいきます」と、教師はいって、手を振って挨拶して、フリーダが自分で出ていくために開けたドアを通って出ていこうとしたが、女中たちとぶつかってしまった。女中たちは、またこの部屋に住みこむために、彼女たちの品物をもってやってきたのだった。教師は、だれに対してもあとにはひくまいという気配《けはい》を見せている女中たちのあいだを、くぐり抜けていかなければならなかった。フリーダがそのあとにつづいていった。
「君たちは急ぐんだね」と、Kはいった。彼は今度は女中たちにとても愛想がよかった。「私たちがまだここにいるというのに、君たちときたら入りこんでくるんだね」
彼女たちは返事はしないで、ただあわてて自分たちの包みを廻すのだった。包みから見慣れた汚いぼろ類がぶら下っているのをKは見た。
「君たちはまだ一度も君たちの品物を洗濯してないんだね」と、Kはいった。悪意ではなく、ある種の愛情をもってそういったのだ。女中たちもそれに気づき、同時に固い口を開き、きれいでじょうぶな動物のような歯を見せて、声にはならぬ笑いをもらした。
「さあ、きたまえ」と、Kはいった。「使いなさい。君たちの部屋なんだからね」
二人の女中がまだためらっていると――自分たちの部屋があまりにも変ってしまったように見えるのだろう――Kは一人の腕を取って、もっと引っ張ろうとした。だが、彼はすぐその女中を離した。そんなにも二人のまなざしは驚きの色を浮かべているのだった。二人は、たがいに短くわかり合ったというように視線を交わしたあと、もうその視線をKから放さず、じっと彼を見つめているのだった。
「もう十分私の顔は見ただろう」と、Kは何か不快な感情を払いのけようとしながらいった。そして、ちょうどフリーダがもってきた服と靴とを受け取り、それを身につけた。フリーダのあとからは、おどおどした様子で二人の助手がついてきていた。フリーダが助手たちのことを我慢していられるのが、前からずっとKには理解できなかったが、今度もまたそうであった。彼女は、内庭で服にブラシをかけているはずの助手たちをかなり長いあいだ探したすえ、下の食堂でのんびり昼食のテーブルについているのを見つけ出したのだった。まだブラシをかけてない服は丸めて膝の上に置いてあった。そこでフリーダは自分で服や靴にブラシをかけなければならなかった。それでも、下層の連中をうまく扱うことを心得ている彼女は、彼らとがみがみいい合いなどはしなかった。そればかりか、彼らのいる前で、このたいしたなまけぶりについてちょっとした冗談でもあるかのように話し、まるで媚《こ》びるように、一人の助手の頬を軽くたたくようなことまでするのだった。Kは近いうちにそのことで彼女をとがめてやろうと思った。だが、今はもう出かけていかねばならぬ時間だった。
「助手たちはここに残る。引越しのときに君の手伝いをするためだ」と、Kはいった。とはいえ、二人はそんなことを承知はしなかった。腹がいっぱいになり、気分が朗らかだったので、少し運動したいのだ。
「そうよ、あなたたちはここに残るのよ」と、フリーダがいったとき、やっと二人は承知した。
「私がどこへいくのか、君知っているかい?」と、Kはきいた。
「ええ」と、フリーダはいう。
「それで、君はもう私のことを引きとめないのかい?」と、Kはきいた。
「いろいろな面倒におあいになるわ」と、彼女はいった。「でも、わたしが何をいったって、なんにもならないわ」
彼女はKに別れの接吻をし、Kが昼食を食べていなかったので、下から彼のために運んできていたパンとソーセージとの小さな包みを彼に渡した。そして、あとではもうここへではなく、まっすぐ学校へいくように、と彼に念を押し、彼の肩に手を置いて、ドアの前まで彼についてきた。
第八章
まずKは、あの暖かい部屋のなかに女中や助手がつめかけていたところを抜け出てきたことで、気分が楽になっていた。それに道はいくらか凍って、雪も前よりは固くなり、歩くのが楽だった。ただ、もちろんすでに暗くなり始めていた。そこで彼は歩みを早めた。
城は、その輪郭がすでにぼんやりとなり始めていたが、いつものように静かに横たわっていた。Kはまだ一度も、城に人が住んでいるほんのわずかな徴候でも見たことはなかった。こんなに遠いところから何かを見わけることは、おそらく全然できないだろう。それでも両眼はそれを求めており、その静けさを黙って受け入れようとはしないのだ。Kは城を見つめていると、落ちついて坐り、ぼんやり前をながめているだれかを見ているような気持が、ときどきするのだった。その人間は、もの思いにふけって、そのためにいっさいのものに対して自分を閉ざしてしまっているのではなくて、自由に、ものにこだわらずに、まるで自分一人だけがいて、だれも自分を見てなんかいないのだというような様子である。ところが、その人間は、自分が見られているということに気づいているにちがいないのだ。だが、それもその人間の落ちつきを少しも妨げはしない。そして、ほんとうに――それが原因なのか結果なのかはわからぬのだが――見ているこちらの視線はそこにじっととまっていることができないで、すべり落ちてしまう。こうした印象は、きょうは早くも暗くなり始めたあたりの気配によっていっそう強められた。長くながめていればいるほど、いよいよ見わけがつかなくなり、いっさいがいよいよ深く黄昏《たそがれ》のうちに沈んでいくのだった。
ちょうどKが、まだ明りのともっていない紳士荘のところまできたとき、二階の窓の一つが開いて、毛皮の上衣を着た一人の若い、ふとった、髭をさっぱりとそった男が、窓から身体を乗り出し、それから窓辺に立ちどまっていた。Kの挨拶に対して、ほんの軽いうなずきで答えることもしない様子だった。玄関口でも酒場でも、Kはだれとも出会わなかった。変質してしまったビールのにおいは、この前よりひどかったが、こんなことはきっと〈橋亭〉では起こらない。Kはすぐさま、この前のときクラムをのぞき見したドアのところへいき、用心深くハンドルを廻したが、ドアには鍵がかかっていた。それから彼は、のぞき孔《あな》があった場所を手探りしようとしたが、木の栓《せん》がとてもうまくはまっているらしく、その場所をこんなやりかたでは発見できなかった。そこでマッチをつけてみた。すると、叫び声にびっくりさせられた。ドアと配膳台とのあいだの片隅の、ストーブの近くに、一人の娘がうずくまって、マッチの光に照らされ、やっと見開いたねぼけ眼で彼を見つめていた。それはフリーダのあとにきた女の子らしかった。娘はすぐ落ちつきを取りもどし、電燈をつけた。娘の表情は、Kだとわかったときにも、まだ怒ったようだった。
「ああ、測量技師さんね」と、微笑しながらいって、彼に手をさし出し、自己紹介した。「あたし、ペーピーっていうんです」
娘は小柄で、赤い顔色をしていて、健康そうで、赤味がかったブロンドの豊かな髪は、きりっとお下げに編んであり、その上、顔のまわりにちぢれていた。ねずみ色のつやのある生地でつくった、ほとんど似合わない、なめらかに垂れ下っている服を着ていたが、下のほうは一つ目で終っている絹リボンによって子供らしく不器用にしめつけているため、きゅうくつそうだった。娘はフリーダのことをたずね、彼女はすぐにもどってこないだろうか、ときいた。これは、ほとんど悪意と境を接しているような質問だった。それから、いった。
「あたし、フリーダが出ていくとすぐ、急いでここにくるように呼ばれたのよ。だれでもいいからここで使うというわけにはいかないのですものね。それまでは客室つきの女中だったんですが、ここへきたことはあまり変りばえがしないのよ。ここでは晩から夜へかけての仕事がたくさんあって、とても疲れるわ。ほとんど我慢できないことでしょう。フリーダがここの仕事を捨てたことは、あたしにはちっとも不思議じゃないわ」
「フリーダはここでとても満足していましたよ」と、Kはいった。それはペーピーに、この子とフリーダとのあいだにあるのにこの子がないがしろにしているちがいをようやく気づかせてやろうとしたのだった。
「あの人のいうことを信じてはだめよ」と、ペーピーはいった。「フリーダは、だれだってたやすくはできないほど自分を抑えることができるのよ。打ち明けまいと思うことは、どうしても打ち明けないの。それでいて、あの人に打ち明けることがあるなんて、だれも全然気づかないのよ。あたしはこれでもう二、三年のあいだあの人といっしょにここで働いているんですし、いつでもあたしたちは同じベッドに寝ていたんだけれど、あの人とはうちとけていないのよ。きっとあの人は今ではもうあたしのことなんか思っていないわ。あの人のたった一人の友だちといえば、たぶん、橋亭の年とったおかみさんでしょう。それがまたいかにもあの人らしいわ」
「フリーダは私の婚約者ですよ」と、Kはいって、ついでにドアののぞき孔を探ってみた。
「知っていますわ」と、ペーピーはいった。「だからこんなことをお話しするんです。そうでなければ、あなたにとってはなんの意味もないでしょう」
「わかりましたよ」と、Kはいった。「あんな心を他人に打ち明けることのない女の子を私が手に入れたことは、私の自慢にしていい、というんですね」
「そうよ」と、娘はいって、フリーダのことについて自分とKとのあいだに秘密の同意を得たかのように、満足げに笑うのだった。
だが、Kの心をとらえ、少しばかりのぞき孔を探すことから彼の気をそらしたものは、ほんとうは彼女の言葉ではなく、彼女の姿恰好であり、この場所に彼女がいるということだった。もちろん、この娘はフリーダよりもずっと若くて、まだほとんど子供らしかった。彼女の服は滑稽だった。彼女が酒場の女給仕ということの意味について抱いている誇張された観念に合わせて、そんな身なりをしているのだ。そして、この観念は、彼女なりにもっともなのだ。というのは、彼女にまだ全然ぴったりしないこの地位は、きっと思いがけず、また不当にも、そしてほんの一時的に彼女に与えられたものにちがいなかった。フリーダがいつも帯に下げていた革の財布も、彼女にはまかされてはいないのだった。そして、彼女がこの地位に満足していないと称しているのは、思い上りにほかならなかった。けれども、子供っぽく分別を欠いてはいるが、彼女もおそらく城と関係をもっているのだろう。もし彼女のいうことが嘘でないなら、客室つきの女中だったというが、自分のもっているこの特権に気づかないで、ここで昼間を眠って過ごしているのだ。だが、この小柄でふとった、少しばかり丸い背中をした身体を抱くなら、彼女がもつ特権を奪うことはできないにしても、彼の心をゆすり、これからの困難な道を歩む元気をつけてくれるにちがいない。それなら、おそらくフリーダの場合とちがわないのではないか。いや、ちがうのだ。そのことを理解するためには、ただフリーダのまなざしのことを考えればいいのだ。Kはけっしてペーピーの身体にふれることはなかったろう。それでも彼は今やしばらく眼をおおわないではいられなかった。そんなに欲情をこめて彼女を見つめていたのだった。
「明りなんかつけておくことはないわ」と、ペーピーはいって、光をふたたび消した。「ただあなたがあんまり驚いたので、電燈をつけただけなのよ。ところでここにどんな用があるの? フリーダが何か忘れたの?」
「ええ」と、Kはいって、ドアを指さした。「この隣りの部屋に白い編んだテーブル・クロスを忘れたんです」
「ああ、あの人のテーブル・クロスね」と、ペーピーはいった。「思い出したわ。りっぱな細工ものね。それをつくるときあたしも手伝ったわ。でもこの部屋にはきっとないわよ」
「フリーダがあるはずだと思っているんですよ。いったいここにはだれがいるんです?」
「だれもいないわ」と、ペーピーがいう。「ここは城の人たちの部屋で、ここで城の人たちが飲み食いするのよ。つまり、そういうことのためにきめられているんです。でも、たいていの人たちは上の部屋にこもりきりでいるんです」
「もし」と、Kはいった。「今、隣りにだれもいないとわかっているなら、入っていって、テーブル・クロスを探したいんですがね。でも、それはたしかじゃない。たとえばクラムはしょっちゅうそこに坐っているね」
「クラムは今はそこにはいないはずよ」と、ペーピーはいった。「あの人はすぐに出かけていくんです。そり[#「そり」に傍点]がもう内庭で待っていたわ」
すぐさま、一こともことわりをいわないで、Kは酒場を出て、玄関で出口のほうへはいかずに、建物の内部へ向って入っていき、何歩と歩かないうちに内庭に達した。ここはなんと静かで、きれいだろう! 四角の内庭で、三方は建物に接し、通りに面しては――Kの知らない通りであった――大きな重そうな、今開いている門のついた高い白塀に接していた。内庭の側のここでは、建物は前面より高いように見えた。少なくとも二階は総二階につくられていて、前面よりもりっぱな外観をもっている。というのは、二階は目の高さの小さなすきまを除いては、木製の回廊がぐるりと取り巻いているのだった。Kの斜め前には、まだ中央の棟《むね》にはあるのだが、向う側にある翼の棟がつながる角になっているところに、建物の入口があって、ドアもなく、開いたままになっていた。その前には黒い、ドアを閉めた二頭立てのそり[#「そり」に傍点]があった。今この黄昏《たそがれ》のなかでKが離れた場所から見て馭者《ぎょしゃ》だろうと想像したのだが、その馭者を除いて、だれ一人見うけられる人影はなかった。
両手をポケットに突っこみ、注意深くあたりを見廻しながら、塀に沿って内庭の二つの側を通り、最後にそり[#「そり」に傍点]のところへいった。馭者はこの前酒場にいたあの農夫たちの一人で、毛皮のなかに埋まって、無関心げに彼が近よっていくのをながめていた。ちょうど猫の歩いている跡を追うようであった。Kが自分のすぐそばに立って挨拶し、二頭の馬が暗がりから浮かび上がってきた人間に驚いて少しさわぎ始めたときにも、馭者はまったく素知らぬ顔をしつづけていた。Kにとってはむしろありがたいことだった。塀によりかかって弁当の包みを開き、自分のためにこんなに心配してくれたフリーダのことを感謝をこめて思うのだったが、そうしながら建物の内部をうかがった。直角に曲がっている階段が下へ通じ、天井は低いが奥行のありそうな廊下と下で交叉している。いっさいが清潔で、白く塗られ、輪郭が鋭くまっすぐである。
そこで待つことは、Kが思っていたよりも長くつづいた。もうずっと前に弁当を食べ終っていた。寒さがこたえた。今までの黄昏がすでに完全な暗闇《くらやみ》と変っていたが、クラムはまだやってこなかった。
「まだだいぶ長くかかるかもしれない」と、突然、Kのすぐそばでしわがれた声がしたので、Kはぎくりとした。声の主は馭者で、ちょうど眼がさめたばかりのようにのびをし、大きなあくびをした。
「何が長くかかるのかね」と、Kはきいた。じゃまされたので迷惑しているのではなかった。というのは、長くつづいた静けさと緊張とがもういやでたまらなくなっていたのだ。
「あんたが立ち去るまでにだよ」と、馭者がいう。Kには相手の言葉の意味がわからなかったが、それ以上はきかなかった。そうしていることがこの高慢な男にものをいわせるのにいちばんいい方法だと思ったのだった。ここの暗闇のなかで返事をしないということは、ほとんど相手をけしかけるようなものだ。そして実際、馭者はちょっとたってから思わくどおりきいてきた。
「コニャックを飲みませんかね」
「うん」と、Kはこの申し出にひどく心を誘われて、考えもせずにいった。というのは、寒さにふるえていたところだった。
「それじゃあ、そり[#「そり」に傍点]のドアを開けなさるがいい」と、馭者がいう。「ドアのポケットに二、三|壜《びん》入っているからね。一壜取って、飲んだらあっしに渡してくんなさい。毛皮を着てるんで、下りていくのが難儀なんでさあ」
こんなふうに手を貸してやるのはいまいましかったが、もうこの馭者とかかわりをもってしまったので、Kはそり[#「そり」に傍点]のそばでクラムに不意打ちされる危険まで冒《おか》して、馭者のいうことをきいた。幅の広いドアを開け、ドアの内側につけられているポケットから壜を取り出すことができるはずであったが、そり[#「そり」に傍点]のなかへ入りたいという気持に駆られ、その気持に逆らうことができない。ちょっとのあいだ、そのなかに坐ってみようと思った。さっとなかへ飛びこんだ。そり[#「そり」に傍点]のなかの暖かさは非常なもので、Kが閉めようとしなかったのでドアが開けっ放しになっているにもかかわらず、暖かさは変わらなかった。長い腰かけに坐っているのかどうか、全然わからなかった。それほどすっかり膝かけやクッションや毛皮に埋もれていた。どの方向にも身体を廻したり、のびをしたりでき、柔かく暖かく、いよいよそのなかへ身体が沈んでいく。両腕を拡げ、頭はいつでも待ちかまえているようなクッションにもたれかけ、Kはそりのなかから暗い建物のなかをながめた。クラムが降りてくるまでに、なぜこんなに時間がかかるんだろう? 雪のなかに長くたたずんでいたあとなので暖かさで身体が麻痺したようになりながら、Kはクラムがついにやってくることを願った。今のままの状態でクラムに見られないほうがいいという考えは、微かな障害のようにぼんやりと意識に上ってくるだけだった。こんな放心状態のなかにいるのは、馭者の態度に助けられているためであった。馭者は、Kがそり[#「そり」に傍点]のなかに入っているのを知っているはずなのだが、彼をそこにほっておき、コニャックをくれといいさえしなかった。これは思いやりある態度だったが、Kは馭者にサービスしてやろうと思った。けだるげに、姿勢を変えないで、ドアのポケットのほうへ手をのばしたが、離れすぎている開いたほうのドアへでなく、自分のうしろの閉まっているドアのほうへであった。ところで、それはどちらでもよかった。そちらにも壜がいくつかあったのだ。一壜取り出して、栓を廻して開け、匂いをかいでみた。思わず微笑しないではいられなかった。匂いは甘美で、媚《こ》びるようであった。まるで、大好きな人から賞め言葉や親切な言葉を聞かされて、なんのことなのかよくはわからず、またわかろうともせず、そういう言葉を語ってくれるのが自分の大好きな人なのだということを意識しているだけで幸福感を味わうようなものであった。
「これはコニャックかな?」と、Kは疑いながら自問して、好奇心からためしてみた。ところが、驚いたことにやっぱりコニャックであり、身体が燃え、暖まった。これがどうして、ほとんどただ甘美な香りをもつだけのものから、飲んだ場合には馭者にうってつけの飲み物に変わるのだろう!「こんなことがありうるのだろうか?」と、Kはまるで自分自身を非難するように自問し、もう一度飲んだ。
そのとき――Kはちょうどぐうっとあおっているところだった――あたりが明るくなった。建物のなかの階段や廊下や玄関にも、屋外の入口の上にも、電燈があかあかとついたのだ。階段を降りてくる足音が聞こえた。壜がKの手からすべり落ち、コニャックが一枚の毛皮の上に流れた。Kはそり[#「そり」に傍点]から跳び出した。ドアを閉めると、大きな音がしたが、やっと閉めたとたんに、建物から一人の紳士がゆっくりと出てきた。それがクラムではなかったことがせめてもの慰めであるように思われた。それとも、それは残念に思うべきことだったのだろうか。その紳士は、Kがさっき二階の窓辺に見た人物だった。若い紳士で、色白で顔が赤く、見たところ健康そうであったが、ひどくまじめくさっていた。Kもその男を陰気そうに見つめたが、この眼つきで自分自身を見ているのだった。むしろ助手たちをここへよこしたほうがよかった、と思った。こんなふうに自分がやったようにふるまうことは、あの二人も心得ていたろう。彼と向かい合っても、その男はまだ黙っていた。このひどく胸幅の広い胸のなかにも、いうべきことをいうのに十分な息はないかのようであった。
「これはまったく驚いた」と、男はやがていって、帽子を少しばかり額からずらした。
え? この人はおそらく自分がそりのなかにいたことを全然知らないのに、何か驚くようなことを見出したのだろうか。自分が内庭のなかへ入りこんだことでもいっているんだろうか。
「いったい、どうしてここへこられたのです」と、早くも紳士は声を低めてたずねたが、もう息を吐いていて、動かしがたいことをじっとこらえているようだった。
なんという問いだろう! なんと返事したらいいのだろう! あんなに期待をこめて踏み出した道がだめだったのだ、ということをこの人にもはっきりと裏書きしてみせるべきだろうか。Kは答えるかわりに、のほうへ向きなおり、ドアを開いて、そのなかに置き忘れていた帽子を取り出した。コニャックが踏段の上にこぼれているのを不快な気持でながめた。
それからまた紳士のほうを向いた。自分がそりのなかへ入ったのをこの男に知らせることに、もうためらう気持はなかった。それもたいしてまずいことではないのだ。もしきかれたら、といってきかれたときにだけだが、馭者自身が少なくともそりのドアを開けるきっかけをつくったのだ、ということを隠してはおくまい、と思った。だが、ほんとうにまずかったのは、この人に不意を突かれ、身を隠すだけの余裕がもうなく、そこでじゃまされずにクラムを待つことができない点、あるいはそりのなかにとどまり、ドアを閉め、なかで毛皮の上に坐ったままクラムを待つだけの、あるいは少なくともこの人が近くにいるあいだはそり[#「そり」に傍点]のなかへとどまっているだけの心の落ちつきがなかった点である。もちろん、たぶんクラム自身が今にもやってこないものかどうかは、彼にはわからなかったのだ。その場合にはむろん、そりの外でクラムを迎えたほうがずっとよかったろう。まったく、今の場合にはいろいろ考えるべきことがあったのだ。しかし、今となってはもう考えることなんか全然ない。もういっさいが終ったのだ。
「私といっしょにいらっしゃい」と、紳士はいった。ほんとうは命令の調子ではなかったのだが、命令は言葉のなかに含まれているのでなく、そういいながら示した、わざと冷淡そうに短く手を振ったそのそぶりに含まれていた。
「ここで人を待っているんです」と、Kはいったが、もう何らかの結果を期待しているのではなく、ただ原則的なことをいったまでだった。
「いらっしゃい」と、その男は少しもためらわずにまたいった。Kが人を待っているということはけっして疑ってはいなかったのだ、と示そうとするような調子だった。
「でも、いってしまったら、待っている人と会えないことになります」と、Kはいって、身体をぴくっと動かした。起ったいっさいのことにもかかわらず、自分がこれまでに手に入れたものは一種の所有物のようなものであり、なるほどまた見かけだけ確保しているにすぎないけれども、それでもいいかげんな命令なんかで手放すことはないのだ、という感情をKはもった。
「ここでお待ちになろうと、いかれようと、どっちみちその人には会えませんよ」と、その人がいう。なるほど自分の意見はきびしく守っているが、Kの考えかたには明らかに譲歩しているのだった。
「それなら、むしろここで待っていて会えないほうがいいです」と、Kは反抗的にいった。この若い紳士の言葉だけではきっとここから黙って追い立てられはしないぞといわんばかりの様子だ。
それを聞いて紳士のほうは、のけぞらせた顔にふんというような表情を浮かべ、ちょっとのあいだ眼を閉じた。まるで、Kのものわかりの悪さから自分の理性へもどろうとするかのような調子だ。そして、人差指で少し開けた口の唇のまわりをなでていたが、次に馭者に向っていった。
「馬をはずしてくれ」
馭者は、紳士のいうことは従順に聞くのだが、Kには意地の悪い横眼づかいをしながら、今度は毛皮にくるまったまま馭者台を降りなければならなかった。そして、まるで紳士からは命令の変更は期待しないが、Kが考えを変えることを期待しているかのように、ひどくためらいながら、そり[#「そり」に傍点]のついている馬をうしろの翼になっている棟《むね》の近くまでつれていき始めた。その棟の大きな門のうしろに、馬小屋と車置場とがあるらしかった。Kは自分だけが取り残されていることに気づいた。一方の側ではそり[#「そり」に傍点]が遠ざかっていった。もう一方の側の、Kがやってきた道では、若い紳士のほうが遠ざかっていった。といっても両方ともひどくゆっくりと去っていくので、まるでKに対して、まだ自分たちを引きもどす力がお前にはあるのだ、ということを見せつけようとしているようであった。
おそらくKは相手を引きもどす力をもってはいた。だが、その力もなんの役にも立ちはしなかったろう。そりを引きもどすことは、自分をこの場から追い払うことを意味していた。そこで彼は、この場所の権利を主張するただ一人の人間として、静かにそこにとどまっていた。しかし、それはちっとも悦びの気持を起こさせない勝利だった。彼は紳士と馭者との後姿をかわるがわる見送っていた。紳士のほうは、Kがまず内庭に入ってくるときに通ったドアのところまでいったが、もう一度振り返った。Kには、自分がこんなに強情なのでその男が頭を振っているように思えた。それから男は、きっぱりした、すばやい、これでもうおしまいだというような動作で向きなおり、玄関に足を踏み入れ、すぐそのなかへ消えていった。馭者のほうはもっと長く内庭にとどまっていた。そり[#「そり」に傍点]を片づけるのに手間がかかるのだった。重い馬小屋の門を開け、そり[#「そり」に傍点]をバックさせて置場へ運び、二頭の馬をはずし、まぐさ槽《おけ》までつれていかなければならなかった。そうしたいっさいを馭者はまじめに、一心不乱にやっており、またすぐそりを出すことはまったく期待していないようだ。Kのほうへわき眼を投げることもなしに黙ったままやっているこの仕事ぶりは、紳士の態度よりもずっときびしい非難のようにKには思われた。そして、馬小屋での仕事を終えると、馭者はゆっくりした、身体をゆするような歩きかたで内庭を横切っていき、大きな門を閉め、それからもどってきた。すべて、ゆっくりした動作で、明らかにただ雪のなかの自分自身の足跡をながめているようだった。それから馬小屋のなかへ入った。すると、電燈がみな消えた。――だれのためにつけておかねばならぬというのだ?――上の木造回廊のすきまだけはまだ明るいままで、さまようまなざしをいくらか引きとめるのだった。そのとき、Kには自分とのいっさいのつながりがこれで絶ち切られ、今は自分がむろんかつてなかったほど自由であり、普通なら自分に禁止されているこの場所で、待ちたいだけ待っていいような気がするのだった。自分はこの自由を闘い取ったのであり、ほかの人間なんかにはそんなことはほとんどできないはずだ。だれも自分に手を触れたり、自分を追い払ったりしてはいけないのだ。そればかりか、話しかけてもいけないのだ。そんな気がした。だが――この確信は少なくともそれと同じくらい強いものだったが――それと同時に、この自由、こうやって待っていること、こういうふうに他人から傷つけられないでいること、それくらい無意味で絶望的なことはないようにも思われるのだった。
第九章
そこで彼は思いきってその場を去り、建物のなかへもどった。今度は塀沿いにではなく、内庭のまんなかの雪のなかをいった。玄関で亭主に出会った。亭主は無言のまま会釈《えしゃく》し、酒場のドアを指さした。その合図に従った。寒さに凍《こご》えていたし、人間に会いたかったからだ。ところが、ひどく落胆した。というのは、酒場では特別に置かれた小さなテーブル(ふだんはそこでは樽《たる》で間に合わせているのだ)のところに、さっきの若い紳士が坐り、彼の前には――Kにとっては気のめいる光景だった――橋亭のおかみが立っているのを見たからだった。ペーピーが、誇らしげに、頭をのけぞらせ、いつでも変わらない微笑を浮かべ、自分の品位を抗《あら》がいがたく意識し、身体の向きを変えるたびにお下げを振りながら、あちこちと早足で歩き廻り、ビールをもってきて、つぎにインクとペンとをもってきた。というのは、例の紳士が書類を前に拡げ、その書類の日付を見、次にまたテーブルのもう一方のはしにある書類の日付を見て、両者を比べ合わせ、それから何か書こうとしたのだった。おかみは高いところから、少し唇をそっくり返し、身体を休めているような態度で、静かに紳士と書類とを見下ろしていたが、もう必要なことは全部いってしまい、それがうまく受け入れられたとでもいうような様子だった。
「測量技師さんだ、とうとう」と、紳士はKが入ってきたとき、ちょっと眼を上げていったが、すぐまた書類に没頭してしまった。おかみもまた、全然驚いた様子もない冷淡な視線でKをちらりと見ただけだった。ところでペーピーは、Kがスタンドに歩みより、コニャックを一杯注文したときになって、はじめてKに気づいたようだった。
Kはスタンドにもたれ、両眼を手で抑え、何事にもかまわなかった。それから、コニャックをちびりと飲み、まずくて飲めないというふうにそれを押しもどした。
「みなさんがそれを飲むのよ」と、ペーピーは手短かにいって、その残りをあけ、グラスを洗って棚のなかに置いた。
「みなさんはもっといいのももっているよ」と、Kはいった。
「そうかもしれないわね」と、ペーピーはいった。「でも、わたしにはそんないいのはありません」
これでKのことは片づけ、また紳士の用をたしにいった。ところが、紳士のほうは何も用はないので、ただそのうしろを弧《こ》を描きながらたえずいったりきたりして、彼の肩越しに書類をちらりとのぞこうとしておそるおそるのぞき見するのだった。しかし、それはつまらぬ好奇心と大げさな身振りとだけだったが、おかみも眉をひそめてそれをとがめていた。
ところが、突然、おかみは聞き耳を立て、耳を傾けることにすっかり没頭したまま、空《くう》をじっと見つめた。Kは振り返ったが、何も特別な物音は聞こえず、ほかの連中にも何一つ聞こえないようだった。ところが、おかみは爪立ちの大股で内庭に通じているうしろ側のドアへいき、鍵穴《かぎあな》からのぞき、次に眼を見開き、顔をほてらせながらみんなのほうへ振り向いて、自分のところへくるように指で合図するので、みんなはそこへいってかわるがわるのぞくのだった。おかみがやはりいちばん多くのぞいていたが、ペーピーもなかなか念入りにのぞき、紳士はなかでいちばん気乗りしないようだった。ペーピーと紳士とはすぐもどったが、おかみだけはなお緊張した様子で、身体をかがめ、ほとんどひざまずくようになって、のぞいていた。まるで自分を通してくれと鍵穴に願ってでもいるかのような印象を与えるのだった。というのは、もうずっと前から見るものなんかなくなっていたはずだ。次にようやく身を起こし、両手で顔をなで、髪の毛を整え、深く息をつき、これでまた両眼を部屋とここにいる人たちとに慣らせなければならなくなり、いやいやそうしたとき、Kは自分の知っていることをたしかめるためではなく、彼がほとんど恐れているおかみの攻撃に先廻りするために、つぎのようにいった。彼は今ではそれほど傷つきやすくなっていた。
「では、クラムはもういってしまったのですか」
おかみは無言のまま彼のそばを通り過ぎていったが、紳士が小さなテーブルのところからこちらへ向っていった。
「そうですとも。あなたが見張り番をやめたので、クラムは出ていくことができました。でも、あの人の神経質なことは驚くべきものです。おかみさん、クラムがどんなに不安そうにあたりを見廻していたか、気がつきましたか」
おかみはそれに気づかなかったようだが、紳士は言葉をつづけた。
「それでは、ありがたいことにもう何も見られなかったのだな。馭者も雪のなかの足跡を掃《は》きならしてしまっていたし」
「おかみは何も気づかなかったんです」とKはいったが、それをいったのは何か思わくがあったわけではなく、ひどく断定的で異論を許さないような調子のその紳士の主張に刺戟されただけのことだった。
「おそらくちょうど鍵穴のところにいたときなんでしょう」と、おかみはまず紳士を弁護するためにいった。次に、クラムがやったことももっともだといおうとして、言葉をつけたした。「といっても、わたしはクラムがそんなに神経質だとは思いませんわ。わたしたちはたしかにあの人のことを心配し、あの人を守ろうとはしています。そこで、クラムが極端に神経質だということにして、その前提から出発するのです。それはいいことですし、クラムもそれをきっと望んでいます。でも、ほんとうはどうなのか、わたしたちにはわかりません。たしかに、クラムは自分が話したくない人間とは、けっして話さないでしょう。そんな人間がいくら骨を折って、我慢できないほど出しゃばったところで、そうよ。でも、クラムはそんな人とけっして話さないし、けっしてそんな人を自分の面前にこさせないというこの事実だけで十分だわ。でも、なぜあの人はほんとうにだれかを見るのもいやというのでしょうねえ。少なくともそのことは証明できないわ。だって、これはけっしてためしてみるわけにいかないんですもの」
紳士は本気でうなずいた。
「それはもちろん、根本において私の意見でもあります」と、彼はいった。「ちょっとばかり別なふうにいったのですが、それは測量技師さんにわかってもらうためにいったことです。でも、クラムが外へ出たとき、何度かあたりを見廻したということは、ほんとうなんですよ」
「きっと私のことを探していたんでしょう」と、Kはいった。
「そうかもしれません」と、紳士がいった。「そこまでは気がつきませんでしたが」
みんなが笑った。話の前後がほとんどわかっていないペーピーが、いちばん大きな声で笑った。
「今はわれわれはこんなに朗らかな気分で集っているんだから」と、次に紳士がいった。「測量技師さん、どうかいくらか陳述していただいて、私の書類を補って下さるようにお願いしたいんですが」
「それにはずいぶん書いてありますね」と、Kはいって、遠くから書類のほうを見た。
「ええ、悪い習慣です」と、紳士はいって笑った。「でも、あなたは私が何者か、まだご存じないでしょう。私はクラムの駐在秘書モームスです」
この言葉のあとでは、部屋じゅうがまじめになった。おかみとペーピーとはもちろんこの人を知ってはいたのだが、こうして名前といかめしい肩書が口にされると、すっかり驚いてしまったようだった。そして、紳士自身、自分の資格以上のことをいいすぎてしまったかのように、また少なくとも自分の言葉に含まれている、あとあとまで残るようなものものしさから逃がれたいというかのように、書類に没頭し、書きものをし始めたので、部屋のなかではペンの音以外には何も聞こえなかった。
「いったいなんなんです、村の駐在秘書っていうのは?」と、Kはちょっとたってからいった。今は、自己紹介をすませてしまったのだから、そんな説明を自分でやるのはもうふさわしくない、と考えているモームスにかわって、おかみがいった。
「モームスさんは、クラムのほかの秘書たちと同じように、クラムの秘書なんです。けれどもこの人の勤務の場所と、またもしわたしの思いちがいでなければ、勤務の性質とは――」そのとき、書きものをしていたモームスが勢いよく頭を上げた。で、おかみはいいなおした。「では、村に限られているのは、勤務の場所だけのことで、勤務の性質のことではないんです。モームスさんは、この村で必要になるクラムの書類上の仕事をいろいろやっているのでして、村から起こるクラム宛の請願はみんなこの人がまっさきに受け取るんです」Kがまだほとんどこうしたことに心を動かされずに、うつろな眼をしておかみをじっと見つめているので、彼女は半ば当惑してしまって、つけ加えた。「こういうふうになっているんですの。城のかたたちにはみんな、村に置いている駐在秘書っていうものがあるんです」
Kよりもずっと注意ぶかく耳を傾けていたモームスが、今の言葉を補うようにおかみにいった。
「たいていの駐在秘書っていうのは、ただ一人の城のかたのために仕事をするんだが、私はクラムとヴァラベーネと二人のかたのために仕事をしているんだよ」
「そうでしたね」と、おかみはそういわれて自分でも思い出しながら、いった。そして、Kのほうを向いた。
「モームスさんはクラムとヴァラベーネと二人のかたのために仕事をしているんですのよ。だから兼任の駐在秘書っていうわけです」
「兼任のねえ」と、Kがいうと、モームスに向ってうなずいてみせた。モームスは今ではほとんど身体を前に乗り出して、Kのほうをまともに見上げていたが、Kのそのうなずきかたは、眼の前でほめられている子供に向ってうなずいて[#「うなずいて」は底本では「うなずい」]みせるようなやりかたであった。そのなかにはある種の軽蔑がこもっていたが、二人は気がつかなかったか、それともまたむしろ軽蔑を望んでいるかであった。ほんの偶然にであってもクラムに会ってもらえるだけの値打をもってはいないKの面前で、クラムのすぐ側近にいる一人の男のいろいろな功績がことこまかに述べられるのだが、それはKに一目置かせ、賞めさせようという、見えすいた意図をもってやられるのだった。けれどもKにはそんなものがよく通じない。全力をあげてクラムを見ようと努めていたKではあるが、たとえばクラムの眼の前で暮らすことが許されているモームスのような男の地位でも、そう高くは評価していないし、いわんや感嘆や嫉妬といった気持からは遠かった。というのは、クラムの身近かにいるということが彼にとって骨折りがいのあることなのではなくて、ほかならぬKという自分だけがほかならぬこの自分の願望をもってクラムに近づくということこそ、骨折りがいのあることなのだ。しかもそれは、クラムのところに落ちつくためではなく、彼のところを通りすぎてさらに城へいくためなのだ。
で、彼は時計を見て、いった。
「ところで、もう家へ帰らなければならない」
たちまち事情が転じてモームスのほうが有利になった。
「むろん、そうですとも」と、この男はいう。「小使の仕事があなたを待っていますからね。でも、ほんのしばらく、私のために時間をさいていただきたい。ほんの二つ三つだけ質問があるので」
「そんなことはしてもらいたくありませんね」と、Kはいって、ドアのほうへいこうとした。モームスは書類の一つを机にたたきつけて、立ち上がった。
「クラムの名において、私の質問に答えるよう要求します」
「クラムの名において、ですって!」と、Kは相手の言葉をくり返していった。「いったいあの人は私のことなんかに気を使っているんですか?」
「そんなことは」と、モームスはいう。「私には判断できません。だが、あなたは私よりももっとずっと判断できないんですよ。判断を下すことは、私たち二人は安心してクラムにまかせておきましょう。だが、クラムからあずかっている私の地位において、私はあなたがここにとどまり、答えることを要求します」
「測量技師さん」と、おかみが口をはさんだ。「わたしはこれ以上あなたに忠告はしないようにします。これまでいろいろな忠告をし、しかもおよそありうる好意的な忠告をいろいろとしてあげたのに、それは法外なやりかたであなたに拒絶されてしまいました。そして、この秘書のかたのところへわたしがやってきたというのも――わたしは隠さなければならないことなんかちっともありませんけれど――ただ役所にあなたの振舞いともくろみとを相応にお知らせし、あなたが改めてわたしのところへ泊まるように命じられるなんてことがけっしてないようにするためだったのです。わたしたちのあいだはこんなふうになりましたし、この関係はもう全然変わらないでしょう。で、わたしが今、意見を申し上げるのは、なにもあなたをお助けするためではなくて、秘書のかたのむずかしい任務、つまりあなたのような人と交渉するという仕事を、少しばかりやさしくしてさしあげるためなんです。でも、わたしという人間は完全に公明正大なんですから、――わたしはあなたとは公明正大にしかおつき合いできないのです。わたしの意志に反してもそういうふうになるんです――もしあなたがやろうとお思いになりさえすれば、わたしのいうことをご自分のために利用できるはずです。そこで、今の場合、あなたにとってクラムへ通じているただ一本の道はこの秘書のかたの調書を通っていっているのだ、ということをご注意申し上げておきましょう。でもわたしは誇張したくないので申し上げますが、おそらくその道はクラムのところまで通じているのではなく、おそらくクラムのところへ達するずっと手前で終っているのですよ。そのことについて決定するのは、この秘書のかたのお考えによるものなのですよ。でも、いずれにせよ、これがクラムの方向へ通じているたった一つの道なんです。それなのに、あなたはこのただ一つの道を諦めようと思うんですか。それもただ反抗したいという以外にはなんの理由もないのに」
「ああ、おかみさん」と、Kはいった。「それはただ一つの道でもなければ、ほかの道よりも価値がある道でもないんです。ところで、秘書のかた、私がここでいうことをクラムまで伝えたほうがいいかどうかを、あなたが決定するんですか」
「そりゃあそうですよ」と、モームスはいって、誇らしげに眼を伏せて左右を見たが、見るものなんかは全然なかった。「そうじゃなかったら、私はいったい何のため秘書になっているのでしょう」
「それ、ごらんなさい、おかみさん」と、Kはいった。「クラムのところへいく道が必要なのではなく、まずこの秘書のかたのところへいく道が必要なわけです」
「その秘書のかたのところへいく道というのを、わたしはあなたに開いてさしあげようと思ったんですよ」と、おかみはいった。「あなたの頼みをクラムに通じてあげましょうか、とわたしは午前にあなたに申し出てあげませんでしたか。これはこの秘書のかたを通じてやられるはずだったんですよ。ところが、あなたはそれをおことわりになりましたが、あなたには今ではこの道だけしか残されてはいないんですよ。むろん、あなたのきょうのようなふるまいのあと、つまり、クラムを不意に襲おうなんていう試みのあとでは、成功する見込みはいよいよ減ってしまったのです。でも、この最後のちっぽけな消えかかっている期待、ほんとうは全然存在してなんかいない期待というものが、あなたのもちうるただ一つの期待なんですわ」
「おかみさん、どうしてなんです」と、Kはいった、「あなたは最初、私がクラムの前に出ようとするのをあんなにもとめようとしたくせに、今では私の願いをそんなにまじめに取って、私の計画が失敗する場合、私のことをいわばもうだめなんだと考えていらっしゃるらしいのは? およそクラムに会おうなどと努めることを本心からとめることができたのなら、今同じ人が同じように本心から、クラムへ通じている道を、たといそれが全然クラムまでは通じてはいないにしても、まるで前へ前へとけしかけるようなことが、いったいどうしてありうるのですか」
「わたしがあなたを前へ前へなんてけしかけているとおっしゃるんですか?」と、おかみはいった。「あなたのやることには望みがない、とわたしがいえば、それは前へ前へとけしかけるということになるんですか。そんなことは――もしあなたがそんなふうにご自分の責任をわたしに転嫁しようとされるのならば、ほんとうに極端な厚かましさというものでしょうよ。あなたがそんなことをする気になるのは、おそらくこの秘書のかたがいらっしゃるからでしょうね? いいえ、測量技師さん、わたしはあなたをどんなことにもそそのかしたりしてはいません。ただ一つだけ打ち明けていえることは、わたしがあなたに最初に会ったとき、あなたをおそらく少しばかし買いかぶりすぎたということですわ。あなたがすばやくフリーダを征服したことは、わたしを驚かせましたし、あなたがこの上さらに何をやるものか、わたしにはわかりませんでした。そこで、それ以上の禍いを未然に防ごうと思い、それには頼んだりおどしたりしてあなたの心を動かすこと以外には手がないのだ、と思ったのです。そのうち、わたしは全体をもっと落ちついて考えられるようになりました。お好きなようにすればいいわ。あなたのやることって、おそらく外の雪のなかに深い足跡を残すぐらいのもので、それ以上ではないんですわ」
「どうも矛盾《むじゅん》がすっかり説明しつくされたようには思えませんね」と、Kはいった。「でも、その矛盾にご注意してあげたことで満足することにしましょう。ところで秘書のかた、おかみさんのいわれることが正しいのかどうか、つまり、あなたが私について取ろうと思っておられる調書ができれば、私はクラムのところへ出ることが許されるのだ、というおかみの意見が正しいのかどうか、どうぞ私におっしゃって下さいませんか。もしそうなら、私はすぐどんなご質問にでもお答えするつもりですよ」
「いや」と、モームスはいう。「そんなつながりはありませんね。ただ問題は、クラムの村務記録のためにきょうの午後の記録をくわしく取っておくということなんです。記載はもうすみましたので、ただ二つ三つの穴を整理のために埋めておくだけなんです。ほかの目的なんかありませんし、またあったとしても、そんな目的なんていうものは達しられませんよ」
Kは黙ったまま、おかみを見つめた。
「なぜわたしを見つめるんです?」と、おかみがきく。「何かそれとちがったことをわたしがいいましたか。この人ったらいつでもこうなんです、秘書のかた、この人ったらいつでもこうなんですよ。人が伝えたいろいろな情報をみんなつくり変え、そうしておいて、まちがった情報を聞かされた、なんていい張るんですからね。クラムに迎えられる見込みなんか、ちょっとでもないのだ、ということは前からいっておきましたし、今でもいつだってそういっているんですよ。ところで、そうした見込みが全然ないとするなら、その調書によったって見込みなんか手に入るわけはありません。これよりはっきりしていることがあるでしょうか。さらにいえば、その調書だけが、この人のクラムとのあいだにもちうるただ一つのほんとうの公務上のつながりなんです。これも十分にはっきりしたことで、疑いの余地なんかありません。ところが、この人はわたしのいうことを信じないで、いつでも――なぜなのか、またなんのためなのか、わたしにはわかりませんが――クラムのところへ出ていくことができるかもしれないと期待しているとすれば、この人の考えかたのとおり考えてあげるとしてのことですが、この人がクラムとのあいだにもっているただ一つの公務上のつながり、つまりその調書というものが、あるだけなんです。このことだけをわたしはこの人に申しました。何か別なことをいい張る人は悪意でわたしの言葉をねじ曲げているんですわ」
「おかみさん、そういう事情でしたら」と、Kはいった、「あなたにお許しをお願いします。それなら、私があなたのおっしゃることを誤解していたんです。つまり、今はっきりしたことですが、私はまちがって、あなたがさっきおっしゃった言葉から、何かほんのわずかばかりの希望が私にはあるのだ、とお聞きできたと思ったんです」
「そうですよ」と、おかみはいった。「それはなるほどわたしの考えなんですが、あなたはまたわたしの言葉をねじ曲げていらっしゃるのよ。ただ、今度は反対の方向にですけれど。あなたにとってのそういう希望は、わたしの考えによれば、あるんです。とはいっても、その希望はただその調書に根拠を置いているだけなんですわ。けれども、あなたは『もし私がそういう質問に答えたら、クラムのところへいけるのですか』なんていう質問で、簡単にこの秘書のかたを襲うことができる、というような事情ではないんですよ。子供がそんなことをきくのなら、人は笑うだけですが、大人がそんなことをやれば、それは役所を侮辱するものです。この秘書のかたはただうまくお答えになってお情けでその役所に対する侮辱を隠して下すっているんですよ。ところで、わたしがここでいう希望っていうのは、あなたが調書を通じてクラムと一種のつながり、おそらく一種のつながりをもつということのうちにあります。これはりっぱな希望というものじゃありませんか。こんな希望を与えられるに価するだけの功績があなたにあるかってきかれたなら、あなたはほんのちょっとだって示すことができますか。もちろん、この希望についてくわしいことは申せませんし、ことに秘書のかたは職務の性質上、それについてほんのわずかでもほのめかすことはできないでしょう。このかたがおっしゃったように、このかたにとって問題なのは、きょうの午後のことを整理のために記録することだけなんです。たといあなたがわたしの言葉と関係づけて、今そのことをきいてみたところで、このかたはそれ以上のことをおっしゃらないでしょう」
「秘書のかた、いったいクラムはこの調書を読むんですか」と、Kはたずねた。
「いや」と、モームスはいった。「なぜかっていわれるんですか。クラムはとても全部の調書を読むことなんかできません。それに、あの人はおよそものを読まないんです。『君たちの調書はよこさないでくれ』と、あの人はいつでもいっていますよ」
「測量技師さん」と、おかみはこぼした。「あなたはそんな質問でわたしをうんざりさせます。クラムがこの調書を読んで、あなたの生活のこまごましたことを一つ一つ知るなんていうことが、必要なんですか。あるいは、必要とまでいかなくとも、望ましいことなんですか。それよりもむしろつつましやかに、その調書をクラムに対して隠してくれるようにとお願いしようとしないんですか。ところで、その願いも、前のと同じようにばかげた願いですけれどね。――というのは、だれだってクラムに対して何かを隠すというようなことができるものですか。――でも、その願いは前のよりも同情できるたちのものではありますけれどもね。ところでそれは、あなたがご自分の希望と呼ばれているものにとって、必要なんですか。あなたご自身、クラムがあなたに会い、あなたのいうことを聞いてくれなくたって、あの人の前で話す機会さえ得られるならば満足だって、おっしゃったじゃありませんか。ところがあなたは、その調書によって少なくともそのことは、いや、おそらくはもっとずっと多くのことができるじゃありませんか」
「もっとずっと多くのことですって?」と、Kはたずねた。「どうやってです?」
「あなたはいつでも」と、おかみが叫んだ。「子供のように、なんでもみんなすぐ食べられるようにしてさし出してもらいたがらないではいられないんですか! だれがそんな質問に答えられますか? 調書はクラムの村務記録に入れられるのです。そのことはお聞きになりましたね。そのことについてこれ以上のことははっきりとはいえません。でも、あなたは調書やこの秘書のかたや村務記録の意味をみんな知っているのですか? この秘書のかたがあなたから聴取するということは、どういうことなのか、あなたはご存じですか? おそらくこのかた自身知らないんですよ。あるいは、知らないように思っていらっしゃるんですよ。このかたは、ここに坐っておっしゃったように、整理のためにご自身の義務を果たしていらっしゃるんです。でも、考えてもごらんなさいな、クラムがこのかたを任命したんですし、このかたはクラムの名の下に仕事をしていらっしゃるんです。また、このかたのなさることは、たといけっしてクラムのところまではとどかないにしても、あらかじめクラムの同意を得ているんです。そして、クラムの精神にあふれていないようなことが、どうしてクラムの同意なんか得られるでしょう。こんなことをいって、へたなやりかたでこの秘書のかたにおもねろうなどと思っているんでは全然ありませんよ。そんなことは、このかたご自身、全然してもらいたくないとおっしゃることでしょう。でもわたしはこのかたの独立した人格のお話をしているんじゃなくて、今の場合のようにクラムの同意を得ているときのこの人のありのままの姿のことを申しているんですわ。こういう場合には、このかたは、クラムの手がのっている道具なんです。そして、このかたに従わない人は、だれでもひどい目にあいますよ」
Kはおかみのおどかしを恐れはしなかったし、彼を捉えようとしておかみが口にする希望というものにもうんざりしていた。クラムは遠くにいるのだった。さっきはおかみはクラムを鷲《わし》と比較したが、それはKには滑稽に思われた。ところが、今はもうそうではなかった。彼はクラムの遠さ、攻め取ることのできないこの男の住居、まだKが一度も聞いたことのないような叫び声によってだけおそらく中断される彼の沈黙、見下すような彼の視線のことを思ってみた。その見下すような視線は、けっして確認もされないし、そうかといってまたけっして否定もできないものだ。そしてまた、クラムが理解できがたい法則に従って、空に輪を描いて飛ぶ鷲のように上のほうで引いている、そしてKのいる低いところからとうてい打ち破ることのできない輪形のことを思ってみた。こうしたすべてがクラムと鷲との共通点だった。だが、きっとこの調書はそんなこととは全然関係がないのだ。その調書の上では、モームスはちょうど今、塩ビスケットを割っていた。それはビールのさかなにしているもので、彼はすべての書類の上にそのビスケットにかかっている塩とういきょう[#「ういきょう」に傍点]とをこぼしていた。
「おやすみなさい」と、Kはいった。「事情聴取なんていうのはどうもにがてでね」そして、今度はほんとうにドアのほうへいった。
「ではあの人はいくんだよ」と、モームスはほとんど不安げにおかみにいった。
「ほんとうに帰ったりなんかしないでしょうよ」と、おかみはいった。それ以上のことはKは聞かなかった。彼はすでに玄関に出ていた。外は寒く、強い風が吹いていた。向う側のドアから亭主がやってきた。そのドアののぞき孔のうしろで、玄関を見張っていたものらしい。上衣のすそを身体へ抑えつけなければならなかった。この玄関のなかでさえ、風が上衣のすそをそんなにもまくり上げるのだった。
「測量技師さん、もうお帰りですか」と、彼はいった。
「それを変だと思うんですか」と、Kはたずねた。
「ええ」と、亭主はいった。「いったい、あなたは事情聴取を受けないんですか」
「そうだよ」と、Kはいった。「聴取なんか黙って受けていなかったよ」
「なぜ受けないんですか」と、亭主がたずねた。
「私にはわからないんだ」と、Kはいった。「なぜ私が黙って事情聴取なんか受けなければならないのか、またなぜ冗談とか、あるいは役所の気まぐれなんかに従わなければならないのかがね。おそらく別なときになら、冗談か気まぐれかに事情聴取をしてもらうかもしれないけれど、きょうはだめだよ」
「そりゃあ、そうですとも」と、亭主はいったが、それはただ儀礼の上の同意で、けっして確信のある同意ではなかった。「もう、あの人に使われている連中を酒場に入れてやらなければなりません」と、つぎに彼はいった。「もうとっくにその時間です。ただ事情聴取のじゃまをすまいと思っただけなんです」
「そんなに重要なことと思っているのかい?」と、Kはたずねた。
「ええ、そうですとも」と、亭主はいった。「それじゃあ、ことわってはいけなかったんだね」と、Kはいった。
「いけなかったんですよ」と、亭主がいう。「そんなことはしてはいけなかったんですよ」
Kが黙っているんで、Kを慰めようとしてか、それとも早くこの場を去らせようとしてか、ともかく亭主はつけ加えていった。
「でもまあ、そのためにすぐ天から硫黄《いおう》が降ってくるわけでもありませんやね」
「そんなことはないさ」と、Kはいった。「そんな天気にも見えないからね」
そして、二人は笑いながら別れた。
第十章
はげしく風が吹きつけるおもての階段に出て、Kは暗闇のなかを見た。ひどく悪い天気だった。何かそれと関連して、おかみが彼におとなしく調書を取らせようと骨折ったこと、だが自分がそれをはねつけたことが、ふと彼の頭に浮かんだ。あれはもちろんわだかまりのない骨折りなんかではなくて、おかみはひそかに彼を同時に調書から引き離そうとしたのだった。結局、自分がはねつけたのか、それとも服従したのか、わからなかった。なかなかしたたかなやつで、けっして正体がつかめない遠くの見知らぬ者たちに命じられていながら、見かけはまるで風のように無心そうに働いているのだ。
国道を二、三歩いくやいなや、彼は遠くのほうに二つのゆらめく燈火を見た。この生命のしるしは彼をよろこばせた。彼はそのほうへ急いだが、その燈火のほうも彼のほうへ向って漂うように近づいてきた。それが二人の助手だと見わけがついたとき、なぜそんなに落胆したのか、彼にはわからなかった。だが、二人はおそらくフリーダに送り出されて、彼を迎えにやってきたのだ。まわりから彼に向ってさわがしく迫ってくるものがある暗闇から彼を解放してくれるこの二つの火は、たしかに彼の所有物にはちがいなかった。それにもかかわらず、彼は落胆した。彼は見知らぬ人間たちを期待したのであり、彼にとって重荷であるこんな古い顔なじみなんかを期待したのではなかった。だが、それは助手たちばかりではなくて、この二人のあいだの暗闇からバルナバスが現われた。
「バルナバス!」と、Kは叫んで、彼のほうに手をさしのべた。「君は私のところへきたのか?」再会の驚きは、バルナバスがかつてひき起こしたいっさいの怒りをまず忘れさせたのだった。
「あなたのところへです」と、バルナバスは前と変わらず親しげにいった。「クラムからの手紙をもってきました」
「クラムからの手紙だって!」と、Kは頭をのけぞらせながらいって、急いでバルナバスの手からその手紙を取った。
「照らしてくれたまえ」と、彼は助手たちにいった。彼らは左右からぴったり彼に身体をくっつけてきて、ランタンを高く上げた。手紙を風から守るために、Kは大きな便箋を読むためにごく小さく折りたたまなければならなかった。それから、彼は読んだ。
「橋亭宿泊中の測量技師殿。あなたがこれまでに実施された測量の仕事は、小生の多とするところであります。助手たちの仕事も賞讃すべきものであり、あなたは彼らをよく仕事にとどめておくことを心得ておられる。あなたの熱意のさめないことを! 仕事をよき成果に導くように! 中断するようなことがあれば、小生は怒るでしょう。ところで安心していただきたいが、解雇の際の報酬という問題は、近く決定されるでしょう。小生はつねにあなたに注目しているものです」
Kよりもずっとゆっくり読んでいた助手がよい知らせを祝って「万歳!」を三度高らかに叫び、ランタンを振ったときになって、Kはやっと手紙から眼を上げた。
「静かにしたまえ」と、彼はいって、バルナバスに向っては「これは誤解だ」と、いった。バルナバスは彼のいうことを理解しなかった。
「これは誤解だ」と、Kはくり返した。午後の疲れがまたもどってきた。学校へいく道はまだ遠いように思われた。バルナバスのうしろに彼の家族全体が浮かび出た。助手たちがまだ身体を押しつけてくるので、Kは二人を肘で追い払った。この二人はフリーダのところにとどまるように、とKが命令したのに、どうしてフリーダは彼らをKのところへよこしたのだろうか。帰り道はひとりでもわかっただろう。そして、ひとりのほうがこの一行といっしょよりも楽だったろう。ところで、その上、一人はマフラーを首に巻きつけていて、そのはじが風ではためき、二、三度Kの頬を打った。もう一方の助手はいつもすぐそのマフラーを、たえず動いている長い尖《とが》った指でKの顔から払いのけはしたのだが、事はよくはならなかった。二人はこうやっていききすることが気に入ったらしく、また風と夜の不安とが彼を興奮させているのだった。
「消えろ!」と、Kは叫んだ。「せっかくやってきたのに、なぜステッキをもってこなかったんだ? いったい何を振って君たちを家へ追いもどしたらいいのだ?」
二人はバルナバスのうしろに隠れたが、それほど心配そうでもなく、自分たちを守ってくれるバルナバスの左右の肩の上にランタンを置いた。むろんバルナバスはそれをすぐ振り落した。
「バルナバス」と、Kはいった。バルナバスが明らかに自分を理解していないことが、彼の心を重くした。また、無事なときには彼の上衣はあんなにきれいに輝いているのに、事態が深刻になると、なんの助けにもならず、ただ黙って反抗しているように見えることも、そうだった。そんな反抗にはくってかかるわけにもいかないのだ。というのは、彼自身は無抵抗なのだが、ただ彼の微笑だけが輝いているのだ。ところがそれも、天上の星がこの地上の嵐をどうにもできないように、なんの役にも立たないのだ。
「見たまえ。クラムが私に書いてよこしたのだ」と、Kはいって、手紙を彼の顔の前にもっていった。「あの人はまちがった知らせを受けているんだよ。私はまだ土地の測量の仕事なんかやっていなかったし、二人の助手がどのくらいの値打があるものかは、君自身が見るとおりだ。そして、やっていない仕事は、私もむろん中断なんかできるはずがないし、けっしてあの人の怒りなんかひき起こすこともできない。どうしてこの人に多としてもらうことなんかあるだろう。そして、安心してなんかいられるはずがないよ」
「私がそのことを伝えてさしあげましょう」と、バルナバスがいった。彼はKのしゃべっているあいだじゅう、手紙に眼を走らせていたが、そうかといって彼はその手紙を全然読めるはずがなかった。というのは、手紙を顔のすぐ前にもってきているのだった。
「ああ」と、Kはいった。「君は、それを伝えると私に約束するけれど、ほんとうに君のいうことを信じられるのかね? 私は信用できる使いの者をとてもほしいんだ。今はこれまで以上にそうなんだ」Kはいらいらして唇をかんだ。
「旦那」と、バルナバスは首を柔かに曲げていった。――Kはほとんどまたそのしぐさに誘われて、バルナバスのいうことを信じるところだった。――「私はたしかにそのことを伝えてさしあげますよ。あなたがこの前私にいいつけられたことも、きっと伝えますよ」
「なんだって!」と、Kは叫んだ。「いったい君はそのことをまだ伝えなかったのか。あの次の日、城へいかなかったのか」
「いきませんでした」と、バルナバスがいった。「私のおやじは、ごらんになったように年よりでしてね。また、ちょうどたくさん仕事があったものですから、おやじの手伝いをしなければならなかったのです。でも、近いうちにまた一度城へいくでしょう」
「君は何をやっているんだい、おかしな人だ」と、Kは叫んで、自分の額をたたいた。「クラムの用件はほかのどんなことよりも大切じゃないか。君は使いという高い職務をもちながら、その仕事をそんなに恥かしいやりかたでやるのか。君のお父さんの仕事なんてだれがかまうものか。クラムは報告を待っているのだ。君は、走りながらとんぼ返りをやるかわりに、馬小屋から馬糞を取り出すことを先にやるんだ」
「おやじは靴屋です」と、バルナバスはためらわずにいった。「おやじはブルンスウィックの注文を受けていました。で、私はおやじの職人でしてね」
「靴屋――注文――ブルンスウィック」と、Kは一つ一つの言葉を永久に使えなくしてしまうように、不機嫌そうに叫んだ。「そして、いつも人が全然通らないこの道で、だれが靴なんかいるのかね? そして、この靴商売なんか私となんのかかわりがあろう。使いの仕事を君にまかせたのは、君がその仕事を靴台の上に置き忘れ、めちゃめちゃにしてしまうためではなく、すぐそれをクラムのところへとどけるためなんだ」
ここでKは、クラムがおそらくずっと城にではなく紳士荘にいたのだ、と思いつき、少しばかり気持を休めた。だが、バルナバスが最初のKの報告をよくおぼえていることを示すため、それを暗誦《あんしょう》し始めたので、またKを怒らせてしまった。
「たくさんだ、私はなんにも知りたくはないよ」と、Kはいった。
「私に対してお気を悪くしないで下さい、旦那」と、バルナバスはいって、無意識にKを罰しようとするかのように彼から視線をそらせ、両眼を伏せてしまった。しかし、それはKが叫んだことに驚いたためにちがいなかった。
「私は気を悪くなんかしていないよ」と、Kはいったが、彼の心の乱れが今は自分自身に向ってくるのだった。「君にじゃないんだ。でも、大切な用件にこんな使いしかもたないことは、私にとって大変まずいことなんだ」
「いいですか」と、バルナバスはいって、使いとしての自分の名誉を守るために、許されている以上のことをいおうとしているように見えた。「クラムは報告なんか待ってはいません。あの人は、私がいくと、腹を立てさえするんです。『また新しい報告か』と、あるときはいいましたし、私がくるのを遠くから見ると、たいていは立ち上がり、隣室へいってしまい、私に会いません。また、私が知らせをもっていつでもすぐいくというふうにはきめられていないのです。もしそうきめられているなら、私はもちろんすぐいきます。でもそんなことは全然きめられてはいないんです。で、私が一度もいかなくたって、そのことをとがめられることはないんです。私が使いの用件をもっていくのは、自由意志でやることなんです」
「そうか」と、Kはバルナバスを見、助手たちから故意に眼をそらしながら、いった。二人の助手はバルナバスのうしろでかわるがわる、まるで沈んでいた底のほうから浮かび上がるようにそろそろと首を出すが、Kを見てびっくりしたように、風の音を真似たような軽いぴゅうという口笛の音を鳴らし、またたちまち姿を消してしまう。そんなふうにして二人は長いあいだ楽しんでいた。
「クラムのところでどうなっているのか、私は知らない。君がそこで万事をくわしく知ることができるということは、私は疑わしく思うよ。そして、たとい君がそんなことをできるとしても、私たちはこうした事柄を好転させることはできないだろう。でも、使いの用件をもっていくということは、君にもできるんだから、それを君に頼むよ。ほんの短い使いだ。あしたすぐその伝言をもっていき、その日のうちに私に返事ももってこられるかね? いや、少なくとも、君がどんなふうにクラムに迎えられたか、伝えてくれることができるかね? それができるかい? で、それをやる気があるかい? そうしてもらえれば、私にはとてもありがたいんだよ。それにおそらく、君にそれ相応のお礼をする機会があるだろう。それとも今もう、私が君のためにやってあげられる希望をもっているかね」
「きっとご用件を実行します」と、バルナバスはいった。
「それじゃあ、それをできるだけよく実行するようにやってみようというんだね。クラム自身にそのことを伝え、クラム自身から返事をもらってこようっていうんだね。すぐ、万事すぐ、あしたのうちに、いや午前中にやるっていうんだね」
「最善をつくします」と、バルナバスはいった。「でも、いつでもそうしているんです」
「もうそんなことをいい争うのはやめよう」と、Kはいった。「用件はこうだ。土地測量技師Kは官房長殿に対して、直接お話しすることを許されたいと願っている。このような許可と結びついているようなどんな条件でも、あらかじめ承知するつもりだ。こうしたお願いをしないでいられなくなったのは、これまですべての仲介者が完全に役に立たなかったからだ。その証拠としてあげることは、自分はこれまでほんの少しでも測量の仕事をやっていないのであり、村長のいうところによると今後もけっして実行されないだろう、ということだ。そこで官房長殿の最近の手紙を絶望的な恥らいの気持で読んだ。官房長のところへ直接出頭することだけが今の場合に役立つだろう。測量技師は、このお願いがどんなに度を超《こ》えたものかをよく知ってはいるが、官房長殿におじゃまはできるだけしないように極力努めるつもりでいる。どんな時間の制限にも従うし、会話のときに使われる言葉の数をきめることを必要とみとめられるならば、それにも従う。わずか十語でもすますことができると信じている。深い尊敬をもって、また極度に落ちつかぬ気持をもって、ご決定をお待ちする」
まるでクラムのドアの前に立ち、守衛と話しているかのように、Kはわれを忘れてしゃべった。
「思ったよりも長くなってしまったな」と、やがて彼はいった。「でも、君はこれをどうか口頭で伝えてもらいたい。手紙は書きたくないんだ。手紙はまた限りない書類の道をたどることになるだろうからね」
そこでKは、ただバルナバスの心おぼえのために、一枚の紙を一人の助手の背中に当てて走り書きしていた。そのあいだ、もう一人のほうはランタンで照らしていた。ところがKはもうバルナバスの口授によってその文句を書きつけることができるほどだった。バルナバスはみんなおぼえてしまって、まるで学校の生徒のように正確に暗誦し、助手たちのまちがった口出しなんかは気にもかけなかった。
「君の記憶力はなみなみでないね」と、Kはいって、バルナバスに紙を渡した。「だが、どうかほかのことでもなみなみでないことを見せてくれたまえ。で、君の望みは? 何もないのかい? はっきりいうが、君が何か望みをいってくれるならば、私の伝言の運命について少しばかり安心できるのだが」
はじめバルナバスは黙っていたが、やがていった。
「わたしの姉妹《きょうだい》たちがよろしくといっていました」
「君の姉妹たちだって?」と、Kはいった。「ああ、大柄でじょうぶな娘さんたちだね」
「二人ともよろしくといっていました。でもとくにアマーリアがそうです」と、バルナバスがいった。「アマーリアがきょうもこの手紙をあなたのために城からもってきたんです」
何よりもまずこの知らせにしっかりしがみついて、Kはたずねた。「アマーリアは私の伝言も城までもっていけないのかね? あるいは君たち二人がいって、めいめいうまくいくようにやってみてくれることができないかね?」
「アマーリアは事務局へ入ることができないんです」と、バルナバスがいった。「そうでなければ、あれはよろこんでやるでしょうが」
「私はおそらくあした君たちの家へいくよ」と、Kはいった。「君がまず返事をもってきてくれたまえ。学校で君のことを待っているよ。また、君の姉妹がたによろしくいってくれたまえ」
Kの約束はバルナバスをひどくよろこばせたようだった。別れの握手のあとで、彼はちょっとKの肩にさわりまでした。バルナバスが最初に輝くばかりの姿で食堂の農夫たちのところへ現われたときと、そっくりそのままの様子だった。Kは彼がそうやって肩にさわったことを、微笑をもってではあったが、何か特別のしるしと受け取った。気分がなごやかになったので、彼は帰り道には助手たちにしたいままにさせておいた。
第十一章
彼はすっかり凍《こご》えて家へ帰った。どこもまっ暗で、ランタンのなかの蝋燭は燃えつきていた。勝手を知っている助手たちに導かれて、彼は手探りで教室へ入っていった。
「君たちのはじめてのほめるのに価する仕事だね」と、彼はクラムの手紙のことを思い出しながら、いった。まだ半分眠ったままで、フリーダが片隅から叫んだ。
「Kを眠らせておいてちょうだい! この人のじゃまをしないで!」
彼女は眠気に負けて、Kの帰りを待てなかったにしても、Kのことが彼女の頭を占めていたのだ。明りがつけられた。といっても、ランプのしんはあまり大きく出せなかった。というのは、石油がほんのわずかしかなかったのだ。この新世帯には、まださまざまな欠点があった。火が燃やされてはいたが、体操にも使われていたこの大きな部屋は――体操用具がまわりに置かれてあり、天井からも下がっていた――貯えられている薪《まき》はすでに全部使い果たしてしまった。みながKにいうところによると、さっきはとても気持よく暖かだったが、残念なことにまたすっかり冷えてしまったということだった。薪の貯えが小屋にたくさんあるのだが、この小屋は閉じられていて、鍵は教師がもっており、授業時間に火を焚《た》く以外には薪を取り出すことを許さないのだ。それでもベッドがあって、そのなかに逃げこむことができるなら、まだしも我慢できただろう。ところが、寝るという点からいうと、ただ一つの藁《わら》ぶとんしかなかった。それにはフリーダの毛のショールでみごとなくらい清潔に被いがかけられていた。だが、羽根ぶとんはなく、粗末なごわごわした二枚の毛布だけで、それはほとんど身体を暖めてくれない。ところが、このみすぼらしい藁ぶとんさえ、助手たちはうらやましそうにじっと見ている。だが、その上にいつか寝ることができるという希望は、彼らはもちろんもてないのだ。フリーダは不安げにKをじっと見た。彼女はどんなにみじめな部屋であっても住めるように整えることを心得ているということは、橋亭で証明したのだったが、ここではもう何もやることができなかった。彼女はまったく金をもたなかったからだ。
「わたしたちのただ一つの部屋飾りは、体操用具なのよ」と、彼女は涙ぐみながらも無理に笑顔をつくって、いった。しかし、いちばん欠けているもの、つまり不十分な寝場所と暖房とについては、彼女はきっぱりと、あしたにもなんとか策を講じることを約束して、それまではどうか我慢してくれとKに頼んだ。どんな言葉も、どんなほのめかしも、またどんな顔の表情も、彼女がKに対して少しでもにがい気持を抱いているということを推察などさせなかった。じつをいえば、彼は自分にいい聞かせないでいられなかったが、彼女を紳士荘から、また今度は橋亭から無理にここへつれてきたのは、彼にほかならないのだ。そのため、Kは万事を我慢できるものと見ようと努力したが、それは彼にとっては全然むずかしいことではなかった。なぜかというと、頭のなかでバルナバスとつれ立って歩きながら、自分の伝言を一語一語くり返しているさまを思い描いたからだった。だが、その伝言はバルナバスに授けてやったようにではなく、その伝言がバルナバスの口からクラムの前で述べられるときにこんなふうだろうと思われるように思い描いていた。それとともに、彼のためにフリーダがアルコールランプの上でわかしているコーヒーのことは、たしかに心からよろこんだのだった。そして、冷えていくストーブによりかかったまま、彼女が教壇の机の上にとっておきの白いテーブル・クロスをかけ、花模様のついたコーヒー茶碗を置き、そのそばにパンとベーコンと、いわしの罐詰まで並べるさまを、眼で追っていた。今や万事ができ上がった。フリーダもまだ食事をすませてはいず、Kの帰りを待っていたのだった。椅子が二つあるので、机のそばでKとフリーダとはそれに腰かけ、助手たちは二人の足もとの教壇の上に坐った。だが、二人はじっとしていず、食事中も二人のじゃまをするのだった。助手たちはどれもたっぷりもらい、まだまだ食べ終ってはいないのに、ときどき立ち上がっては、まだ机の上にたくさん残っているかどうか、まだ自分たちにいくらかもらえそうかどうか、たしかめようとするのだった。Kはこの二人のことは気にとめてはいなかった。フリーダが笑ったので、はじめてこの二人に気がついたのだった。彼は机の上にある彼女の手の上に媚《こ》びるようにして自分の手をかさね、なぜこの連中のことをそんなに大目に見て、彼らの不作法さえも好意的にみとめてやるのか、と低い声でたずねた。こんなやりかたではやつらをけっして追い払えないよ。ところが、いわば手荒な、彼らのふるまいに実際にふさわしくもあるような取扱いをしてやれば、彼らを制御することができるか、あるいは(このほうがいっそうありうることだし、またいっそういいだろうが)彼らがこの地位にいや気がさし、そこでついに逃げ去ってしまうかするだろうよ。どうもこの学校ではあまり快適な滞在になりそうもないように思われるね。だが、ここに住むことも長くはつづかないだろう。それでも、助手たちが去ってしまい、二人だけが静かな家にいることになれば、すべての欠点にもほとんど気づかないようになるだろうよ。君は、助手たちが日ましに厚かましくなっていくのに気がつかないのかね? まるで、彼らをつけ上がらせるのは、ほんとうは君がいるためであり、また私が君の前ではほかの場合にならばやるかもしれないようにしっかと彼らにつかみかからないだろうという期待のためであるように見えるよ。さらにおそらく、彼らをすぐ面倒なしに追い払うすこぶる簡単な手段があるかもしれないね。それはきっと君だって知っているだろう。君はなにしろこの土地の事情にくわしいんだからね。そして、もし助手たちをなんとかして追い出すなら、やつらのためにもおそらくは一つの親切をしてやることになるだけなんだ。というのは、彼らがここで送る生活もそういいものじゃないし、彼らがこれまで楽しんできた怠惰な生活も、ここでは少なくともその一部分はやめなければならないんだから。というのは、君はこのところ二、三日つづいたさまざまな興奮のあとで自分の身体をいたわらなければならないし、また私としても、私たちの苦しい境遇からの逃げ道を見出そうとして一生懸命にならなければならないのだから、やつらはどうしても仕事を命じられてやらなければならないことになる。しかし、助手たちが出ていくことになれば、それで大いに気持が軽くなり、そこで小使の仕事もそのほかのこともみんなたやすくやることができるだろうよ。
こんなKの言葉に注意深く耳を傾けていたフリーダは、ゆっくりとKの腕をなでて、次のようにいうのだった。それはみんなわたしの考えでもありますわ。でもあなたはおそらく助手たちの不作法を大げさに考えすぎているんだわ。この人たちは陽気でいくらか単純な若者たちであって、きびしい城のしつけのために追い出されてしまい、はじめて見知らぬ人に仕えることになったのよ。だからいつも少しばかり興奮していて、びっくりしているのよ。こんな状態のなかでこの二人たちはときどきばかなことをしでかすわけで、それに腹を立てるのは自然だけれど、笑ってすますほうがもっと賢いやりかたなんだわ。わたしもときどき、笑わないでいられなくなるのよ。でも、この連中を追い払って、二人だけになるのがいちばんいいことだ、という点ではあなたと意見が一致しているわ。こういって、彼女はKに身体をよせて、顔を彼の肩に埋めた。そして、そのままの姿勢で何かいったが、いかにも聞き取りにくく、Kは彼女のほうに身体を曲げなければならなかった。彼女がいうには、助手たちに対する手段は何も知らないけれど、おそらくKが提案したことはみんなだめだろう。自分の知っている限り、K自身がこの二人を要求したのであって、今この二人を自分のところにおいているのだし、これからもおくことになるだろう。いちばんよいことは、二人を気軽におっちょこちょいとして扱うことだ。彼らは実際そうなんで、そういうふうに扱えば、いちばんよく我慢ができる。
Kはこの返事に満足しなかった。半ば冗談、半ばまじめに、彼はこういった。君はやつらとぐるになっているのか、あるいは少なくとも彼らに対して大きな愛情をもっているように思えるね。ところで、彼らはかわいい若僧たちだが、いくらか好意をもっていても追い払えない人間なんて、いないのだよ。このことをこの助手たちにおいて君に見せてあげよう。
フリーダはいった。もしあなたにそれができるならば、あなたにとても感謝するわ。ところで、わたしは今後、もうこの人たちのことを笑ったり、二人と不必要な言葉を交わしたりしないわ。もうこの人たちにおかしいことなんか見ませんし、それに二人の男にいつも観察されているなんて、ほんとうにつまらないことなんかじゃないわ。この二人をあなたの眼でながめることを、わたしは習ったわ。そして、今、助手たちがまた立ち上がったとき、彼女は言葉のとおり少し身体をぴくっとさせただけだった。二人は一つには食物の残りを検査するため、一つにはKたち二人がたえずささやき合っているのを見きわめるため、立ち上がったのだった。
Kはそれを利用して、フリーダに助手たちを嫌わせるようにしようとした。フリーダを自分のほうに引きよせ、ぴたりとより添って食事をすませた。もう寝にいくべきときだろう。みんなひどく疲れていた。助手の一人は食事しながら眠りこんでしまった。それがもう一人をひどく面白がらせ、Kたち二人にその眠っている男の間抜けた顔を見るようにうながそうとしたが、それはうまくいかなかった。Kとフリーダとは、それをはねつけて、高いところに坐っていた。寒さが耐えがたくなっていくうちに、二人は自分たちも寝にいくことをためらっていた。とうとうKが、もう少し火を焚《た》かなければならない、そうでないと眠ることはできない、といった。彼は斧《おの》でもないかと探したが、助手たちは一つのありかを知っていて、それをもってきた。そこで、薪小屋へ出かけていった。すぐ薄いドアは破られた。助手たちは、こんなすばらしいことはまだ体験したことがないかのように歓喜し、たがいに追いかけ合ったり、身体をつつき合ったりしながら、薪を教室へ運び始めた。まもなくそこには大きな薪の山ができた。火が焚かれて、みんなはストーブのまわりに横になった。助手たちは毛布をもらってそれにくるまろうとした。彼らにはそれで十分だった。というのは、いつも一人が起きていて、火を絶やさぬように、と取りきめができたのだった。やがてストーブのそばはひどく暖かくなり、もう毛布などはいらなかった。ランプが消され、Kとフリーダとは暖かさと静けさとにすっかり満足して、眠るために身体をのばした。
Kが夜中に何か物音で眼がさめ、さめぎわのはっきりとしない動作でフリーダのほうを手探りしたとき、フリーダのかわりに助手の一人が自分のそばに寝ているのに気づいた。おそらく神経過敏になっているためであり、またそのために突然眼がさめることになったのだが、それはこれまでこの村で体験した最大の驚きだった。叫びとともに半ば身体を起こし、考えるまもなくその助手に拳《こぶし》の一撃をくらわせたので、助手は泣き始めた。ところでこの事情はすべてすぐにわかった。フリーダが起こされてしまったのは――少なくとも彼女にはこう思われたのだが――何か大きな動物、おそらくは一匹の猫が彼女の胸の上に跳び上がって、すぐまた逃げていったためだった。彼女は起き上がり、一本の蝋燭に火をつけて、大きな部屋全体にその動物を探した。その機会を助手の一人が利用し、しばらく藁ぶとんの味を楽しもうとして、今、ひどくその罰を受けたところだった。ところが、フリーダは何も発見できなかった。おそらく錯覚《さっかく》だったのだ。彼女はKのところへもどってきたが、その途中、まるでゆうべの話合いを忘れてしまったかのように、うずくまって泣きじゃくっている助手の髪を慰めるようになでてやるのだった。Kはそれに対して何もいわなかった。ただ助手たちに、火を焚くのをやめるように命じた。というのは、集めた薪をほとんど全部焚きつくして、すでに暑くてたまらぬほどになっていたのだった。
第十二章
朝、みんながやっと眼をさましたときには、最初に登校した生徒たちがもうきていて、もの珍しげに寝床を取り巻いているのだった。これは愉快なことではなかった。というのは、ゆうべあまり暑かったため、今、明けがたになるとまた身にしみるほど冷えてきていたのだが、みんな下着まで脱いでいた。そして、ちょうど彼らが服を着始めたとき、女教師のギーザがドアのところへ現われたのだった。これは、金髪で、大柄の、美しいけれど、少し固い感じの娘だ。彼女は明らかに新しい小使のことを予期していて、たぶん例の教師からどういう態度を取るべきかを教えられているにちがいなかった。というのは、ドアのところで早くもこういったのだった。
「とても我慢できません。なんて結構な有様でしょう。あなたがたはただ教室で寝る許可を受けているだけで、わたしはあなたがたの寝室で授業する義務なんかありません。朝遅くまでベッドにごろごろしている小使の一家なんて。なんていうこと!」
ところで、これに対してはいくらかいってやらねばならないだろう、ことに一家とかベッドとかいうことについてはそうだ、とKは思った。一方、彼はフリーダといっしょに――助手たちはこの仕事に使うことはできなかった。二人の助手は床の上に横たわったまま、びっくりしたように女教師と子供たちとを見つめていた――大急ぎで平行棒と跳び箱とを押し出してきて、その両方に毛布をかけ、小さな空間をつくり、そこで子供たちの眼を避けて少なくとも服を着られるようにした。といって一瞬も落ちついてはいられなかった。まず女教師ががみがみいった。洗面器にきれいな水がなかったからだ。ちょうどKは、自分とフリーダとのために洗面器をもってこようと考えていたが、女教師をあまり刺戟しないように、この考えはまず捨てた。ところが、それをやめたことはなんの役にも立たなかった。というのは、すぐそのあとで大きながちゃがちゃいう音がした。つまり、運悪く晩飯の残りを教壇から片づけることを怠っていたので、女教師が定規でみんな払いのけてしまったのだ。いっさいのものが床の上へ飛んだ。いわしの油とコーヒーの残りとが流れ出し、コーヒーわかしがこなごなにくだけた。女教師はそんなことを気にかける必要はない、小使がすぐ片づけるだろう、といわんばかりだった。まだ服をすっかり着てはいなかったが、Kとフリーダとは平行棒にもたれて、自分たちのわずかばかりの所有物がめちゃめちゃになるのをながめていた。助手たちは服を着ようとは全然考えないらしく、下の毛布のあいだから様子をうかがっていて、その変な恰好が子供たちを大いに面白がらせていた。フリーダにとっていちばん痛手だったのは、もちろんコーヒーわかしを台なしにされたことだ。Kが彼女を慰めようとして、すぐ村長のところへいき、かわりを要求してもらってくる、といったとき、彼女はすっかり気を取りなおしたので、下着とスリップとだけの姿で囲いから飛び出し、少なくともテーブル・クロスだけはもってきて、これ以上汚されるのを防ごうとした。女教師はフリーダをおどかすため、定規で神経をかき廻すようにたえず机の上をたたいているのだったが、フリーダはうまくテーブル・クロスをもってくることができた。Kとフリーダとは服を着終わると、つぎつぎと起こることにすっかり呆然《ぼうぜん》としてしまっている助手たちに、命令したりつついたりして服を着させるように促さなければならなかったばかりでなく、自分たちも彼らに服を着せてやらなければならなかった。みんなすむと、Kは次にやるべき仕事を割り当てた。助手たちは薪をもってきて火を焚くように、だがまずもう一つのほうの教室から始めるように。ところで、その教室のほうにも大きな危険があった。――というのは、そちらにもおそらく例の教師がもうきているだろう。フリーダは床を掃除するように。K自身は水を運んできて、そのほかの整頓をするだろう。朝食のことはさし当っては考えなかった。だが、およそ女教師の機嫌がどうか見るために、Kはまっさきに囲いから出ていこうとした。ほかの者たちは、彼が呼んだら出ていけばよい。Kがこういう手順をきめたのは、一つには助手たちの愚かなふるまいで状況をはじめから悪化させまいと思ったからであり、もう一つにはフリーダをできるだけいたわってやろうと思ったからだ。というのは、彼女は名誉心をもっているが、自分はもっていない。彼女は神経質だが、自分はそうではない。彼女は眼の前の小さないやらしいことばかり考えているが、自分はバルナバスと未来とのことを考えているのだ。フリーダは彼のすべての指図に忠実に従い、Kからほとんど眼を離さなかった。彼が囲いから出ていくやいなや、女教師は子供たちがげらげら笑うなかで、「おや、よく眠りましたか?」と、いった。子供たちの笑いはそのときからやむことがなかった。女教師の言葉はけっしてほんとうの質問というものではなかったので。Kがそれを気にもかけずにまっしぐらに洗面盤のところへいくと、女教師がまたたずねた。
「あなたがた、わたしのミーツェに何をしたんです?」
一匹の大きな肉づきのよい猫が、四肢を拡げて机の上にものうげに寝そべっている。女教師は猫の少しけがをしているらしい脚を調べた。それでは、フリーダがいったことは正しかったのだ。この猫は彼女の身体に跳びのったのではなかった。というのは、この老いぼれ猫にはもう跳ぶことなんかできなかった。しかし、彼女の身体の上をはって越えていったのだ。ふだん人気のないこの建物のなかに人間たちがいることにびっくりして、急いで隠れたのだが、こうやってやりつけていない急ぎかたをしてけがをしてしまったのだ。Kはこのことをおだやかに女教師に説明しようと思ったが、女教師のほうは結果だけを取りあげて、いうのだった。
「まあ、なんてこと! あんたたちは猫にけがをさせたのね。これがここへやってきたご挨拶というわけね。見てごらん!」そして、Kを教壇の上に呼びつけ、彼に猫の脚を見せた。あっというまに、彼女は猫の爪でKの手の甲にかき傷をつくってしまった。爪はもう鈍くなっていたが、女教師が今度は猫のことを考えもしないでその爪をしっかと押しつけたので、引っかいたあとに血がにじんで、みみずばれになった。
「これで、仕事にかかるのよ」と、彼女はいらいらしながらいい、また猫のほうに身体を曲げた。助手たちといっしょに平行棒のうしろでこの様子をながめていたフリーダは、Kの手の血を見て、叫び声をあげた。Kは自分の手を子供たちに見せて、いった。
「ごらん、悪いいたずら猫が私にこんなことをやったんだよ」彼はもちろんこの言葉を子供たちに聞かせるためにいったのではなかった。子供たちの叫び声と笑いとはもうほかのこととはかかわりのないものになってしまっていたので、もうこれ以上のきっかけをつくったり、そそのかしたりする必要はなく、どんな言葉も子供たちの身にしみたり、彼らに影響を与えることはできなかった。女教師もこのKの侮辱《ぶじょく》に対してただちょっと横眼で答えただけで、そのほかは猫にかまいつづけていた。つまり、最初の怒りはKの手に血を流させるという仕置きでおさまったようだ。で、Kはフリーダと助手たちを呼び、仕事が始った。
Kが汚れ水の入ったバケツをもち去り、きれいな水を運んできて、今度は教室の塵を掃《は》き出し始めたとき、およそ十二歳ばかりの少年が長椅子から立ってやってきて、Kの手にさわって、この大さわぎのなかで何のことやらまったくわからぬことをいうのだった。そのとき、いっさいのさわぎがぴたりとやんだので、Kは振り返った。朝からずっと恐れていたことが起ったのだった。ドアのところに例の教師が立ち、この小柄な男はそれぞれの手で一人ずつの助手の襟首をつかんでいた。彼はおそらく助手たちが薪をもち出しているところをつかまえたのであった。というのは、力強い声で次のように叫び、一語一語に間をおいて区切っていうのだった。
「だれが薪小屋へ入りこもうなどとしたのだ? そいつはどこにいるんだ? ひねりつぶしてやる!」
そのとき、フリーダは女教師の足もとで懸命に床にぞうきんがけをやっていたが、ふと立ち上がってKのほうを見た。まるでKから力を授けられたというふうであった。そして、次のようにいったが、そういいながらも彼女の以前からの落ちつき払った様子がまなざしと態度とに表われていた。
「わたしがしたんです、先生。ほかにどうしたらよいのか、わからなかったんです。朝早く教室に火を焚くようにということだったので、小屋を開けなければならなかったんです。夜分、鍵をあなたのところからいただいてくることはできなかったし、私の婚約者は紳士荘へいっていて、夜はそこにずっといることになるかもしれなかったのです。で、わたしはひとりでどうするかきめなければなりませんでした。もしまちがったことをやったのなら、わたしが不慣れで未熟なためとお許し下さい。婚約者がわたしのやったことを見たとき、わたしはもうさんざどなりつけられたんです。それどころか、あの人は朝早く火を焚くことをわたしに禁じました。それは、あなたが小屋を閉めておくことで、あなたご自身がやってくるまでは火を焚いてもらいたくないということをお示しになろうとしているのだ、とあの人は思ったからです。そこで、火を焚いてないのはあの人のせいですが、小屋をぶち開けたのはわたしのせいですわ」
「だれがドアをぶち開けたのだ?」と、教師は助手たちにたずねた。助手たちはまだ教師のつかんでいる手を振りほどこうとむだな試みをつづけていた。
「あの人です」と、二人はいって、疑いの余地のないように、Kを指さした。フリーダは笑ったが、この笑いは彼女の言葉よりもいっそう事実を証明しているように見えた。次に彼女は、床をふいていたぞうきんをバケツのなかでしぼり始めた。まるで、この彼女の説明でこの突発事が終わり、助手たちのいうことはあとからつけた冗談ごとにすぎない、とでもいうようであった。仕事をつづける構えになって、ふたたび床に膝をついたときになってやっと、彼女はいった。
「わたしたちの助手は、いい年をしているくせに、まだここの生徒さんたちの長椅子に坐ったらいいような子供なんですのよ。つまり、わたしはきのうの夕方、ひとりでドアを斧で開けたんですの。とても簡単でしたわ。助手なんかそのためにはいらなかったし、手伝わせたって、どうせじゃまになっただけでしょう。それから夜になって婚約者がやってきて、小屋の損害をよく見て、できるなら修理しようとして、出ていきますと、助手たちもいっしょに走っていきました。おそらくここに自分たちだけ残っているのが恐ろしかったんでしょう。そして、わたしの婚約者が破り開けたドアのところで修理の仕事をしているのを見たんですわ。そこであの人たちは今、あんなことをいっているんです。――まあ、子供なんですわ」
助手たちはフリーダの説明のあいだじゅう、たえず頭を振って否定する様子を見せ、Kを指さしつづけ、無言のまま顔の表情によってフリーダに意見を変えさせようと努めてはいた。ところがそれが自分たちにうまくいかないとわかると、とうとう折れてしまい、フリーダの言葉を命令と受け取って、教師の新しい問いに対してはもう答えなかった。
「そうか」と、教師はいった。「では、君たちは嘘をいったのだね? あるいは少なくとも軽はずみに小使に罪をなすりつけているんだね?」
二人はまだ黙っていたが、彼らが身体をふるわせ、不安げなまなざしをしていることは、罪の意識を示すもののように見えた。
「それじゃあ、君たちをすぐ鞭でぞんぶんにたたいてやろう」と、教師はいい、一人の子供を別な部屋にやって籐《とう》の棒をもってこさせた。次に彼がその棒を振り上げたとき、フリーダが叫んだ。
「助手たちはほんとうのことをいったんです」そして、絶望してぞうきんをバケツのなかへ投げこんだので、水が高く跳ね返った。彼女は平行棒のうしろへ駆けこむと、そこに身を隠してしまった。
「嘘《うそ》つきの人たちねえ」と、猫の脚の繃帯《ほうたい》をちょうどし終えて、猫を膝の上に抱き上げていた女教師は、いった。彼女の膝には猫はほとんど大きすぎるくらいだった。
「それじゃあ、小使さんはここに残ること」と、教師がいった。そして、助手たちを押しのけると、Kのほうに向きなおった。Kはそのあいだじゅう、箒《ほうき》で身体を支えたまま、彼らの話に耳を傾けていたのだった。「この小使さんは卑怯なため、事実を曲げて他人に自分自身の卑劣行為がなすりつけられるのを、平気でながめているわけだね」
「まあ」と、Kはいったが、フリーダがあいだに入ったことで教師の最初のとめどもない怒りがやわらげられたのを、見て取っていた。「助手たちが少しぐらい鞭で打たれたところで、私には心苦しくなんかなかったことでしょうよ。十回も当然なぐられていい動機を見逃がしてもらったんだから、一回ぐらい正当でない動機でその罪ほろぼしになぐられたっていいんですよ。でも、そうでなくとも、先生、あなたと私とのあいだの直接の衝突が避けられたとすれば、それはおそらくあなたにとっても好ましいことにちがいありませんからね。ところで、フリーダが助手たちを救おうとして私を犠牲にしたんですから――」ここでKはちょっと間をおいた。あたりの静けさのなかに、囲いの毛布のうしろでフリーダがすすり泣く声が聞こえた。「もちろん、今は事に決着をつけなければならないわけです」
「なんていうことを!」と、女教師がいった。
「私も完全にあなたと同じ考えですよ、ギーザ先生」と、教師がいった。「小使さん、あんたはむろんこの恥ずべき職務怠慢のためにこの場ですぐ解雇です。まだこれにつづくべき罰は保留しておきます。だが、今はすぐあなたの品物をみんなもってここから出ていってもらいます。これで私たちはほんとうに気が軽くなるというものですよ。授業もとうとう始められますしね。さあ、急いでくれたまえ!」
「私はここから動きませんよ」と、Kはいった。「あなたは私の上役ではあるけれど、私にこの地位を与えた人じゃありません。この地位を与えてくれたのは村長さんで、ただ彼の解雇通知だけを私は受け入れます。ところで村長さんは、私がここで私の妻や助手たちといっしょに凍えるために、この地位を私に与えたのではなくて、――あなたご自身がいわれたように――私が絶望のあまり考えのないことをしでかすことを防ぐためだったんです。だから、今、突然、私をくびにすれば、村長さんの意図にも反しますよ。これと反対のことを村長さん自身の口から聞かない限りは、あなたのいうことなんか信じません。それに、あなたの軽率な解雇通知に従わなければ、おそらくあなたにとっての大きな利益となることでしょう」
「それじゃあ、いうことをきかないというんですね」と、教師はたずねた。Kは頭を振って、そのとおりだと示した。
「よく考えてみることですね」と、教師はいった。「あなたの決定は、いつも最善のものだとはきまっていません。たとえば、あなたが事情聴取を受けることをことわったきのうの午後のことを考えてみたまえ」
「なぜあなたは、今、そんなことをいうんです?」と、Kはたずねた。
「いいたいからいうんだ」と、教師がいった。「で、私は最後にもう一度いうが、出ていきたまえ!」
ところが、これも全然効果がなかったので、教師は教壇のほうへ歩みよって、女教師と低い声で話し合っていた。彼女は警察というようなことをいったが、教師はそれをことわった。とうとう意見が一致して、教師は子供たちに、先生の教室へ移りなさい、そこでむこうの子供たちといっしょに授業をするから、と命じた。子供たちはみんなこの変換を悦んで、すぐ笑ったり叫んだりしながら、部屋を空《から》にした。教師と女教師とがしんがりで子供たちのあとを追って出ていった。女教師はクラス名簿と、その上にのせられたまるまると肥った何くわぬような顔をしている猫とを運んでいった。教師は猫をここに残していきたかったが、それについてのほのめかしの言葉を、Kが残忍だから置いていけないといって女教師はきっぱりとこばんだ。そこで、Kはひどく腹を立てながらも、猫を教師に背負わせてやったのだった。これは、教師がドアのところでKに向っていった次のような最後の言葉にも影響したものらしい。
「女の先生は子供たちといっしょにやむなくこの部屋を出ていきましたよ。あなたが強情に私の解雇通知に従わないし、また若いお嬢さんのあの先生に向って、あなたがたの汚らしい世帯のまっただなかで授業をやるように、などとだれだって求めることはできないからです。それじゃあ、あなたがただけがここに残りなさい。まともな見物衆たちの反感にじゃまされずに、好きなだけここにのさばっていることができますよ。しかし、長くはつづきませんよ。それは保証します」
そういうと、彼はドアをぴしゃりと閉めた。
第十三章
みんなが立ち去るやいなや、Kは助手たちにいった。
「出ていきたまえ!」
この思いがけない命令に呆然として、二人はKのいうままになった。だが、Kが彼らの出ていったあとのドアを閉めてしまうと、もどってこようとして、ドアの外で泣きわめき、ドアをたたくのだった。
「君たちはくびだ!」と、Kは叫んだ。「二度と君たちなんか使わないぞ」
もちろん、二人はそんなことを承知しようとはしなかった。そして、手と足とでドアをどんどん打った。
「あなたのところへもどりたいんです、旦那?」と、彼らは叫んだが、まるでKこそ乾いた土地であり、自分たちは今にも洪水《こうずい》のなかに溺《おぼ》れようとしているとでもいうかのようだった。だが、Kは同情はせず、この我慢できないさわぎで教師がやむなく介入しないではいられなくなるのを、落ちつかぬ気持で待っていた。まもなく、予想したとおりになった。
「いまいましいこの助手たちを入れてやりたまえ!」と、教師が叫んだ。
「この連中はくびにしたんですよ!」と、Kはどなり返した。
この言葉は欲しなかった副作用をもたらした。つまり、ただ解雇通告を出すだけでなく、それを実行するだけの力をもっているならば、その結果がどうなるか、ということを示したのだ。今度は教師は助手たちをやさしくなだめようとし、ここでおとなしく待っているように、しまいにはKが君たちをまた入れてくれるだろう、というのだった。そして、彼はいってしまった。もしKが助手たちに向って、君たちはこれで最後的にくびにしたのだ、また使うなんていう望みはほんのちょっとでもないぞ、などと叫び始めなければ、きっとそのまま静かになっていたことだったろう。Kの言葉を聞いて、二人はまたさっきのようにさわぎ始めた。また教師がやってきたが、今度はもう助手たちと交渉なんかしないで、おそらくは恐ろしい籐《とう》の棒をふるって、彼らを建物から追い出してしまった。
まもなく二人は体操場の窓の前に現われ、窓ガラスをたたいて、叫ぶのだった。だが、その言葉はもう聞き取れなかった。けれども、二人もそこに長いあいだはとどまっていなかった。この深い雪のなかでは、彼らの不安な気持が求めるままに跳び廻ることはできなかったのだ。そこで彼らは校庭の格子塀《こうしべい》のところへ急いでいき、そこの石造の土台の上に跳びのった。そこでは、ただ遠くからだけではあるが、部屋のなかを前よりもよくのぞくことができた。二人は格子塀にしっかとつかまりながら、石の土台の上をあちこちとかけ廻り、次にまた立ちどまって、哀願するように両手を合わせてKのほうへのばすのだった。自分たちの努力の無益なことを考えようともせずに、彼らはそんなことを長いあいだやっていた。まるで眼がくらんでしまったようだ。彼らを見ないでもすむようにと思って、Kが窓のカーテンを下ろしたときにも、二人はまだそれをやめなかった。
今は薄暗くなった部屋のなかで、Kはフリーダを見るため、平行棒のところへいった。Kの視線の下で彼女は立ち上がり、髪を整え、顔をふくと、黙ったままコーヒーをわかし始めた。彼女はいっさいのことを知ってはいたが、Kははっきりと、助手たちを追い出してしまったことを彼女に知らせた。彼女はうなずくだけだった。Kは生徒用の長椅子の一つに腰かけて、彼女のものうげな動作を見守っていた。彼女のつまらぬ肉体を美しくしていたものは、いつでもあの新鮮さときっぱりした態度とであった。ところが今は、この美しさも消えてしまっていた。Kといっしょの生活をしたわずか何日かが、そんなふうな変化を起こすのに十分だったのだ。酒場での仕事はたやすくはなかったが、おそらくそのほうがぴったりしていたのだろう。それとも、クラムと離れたことが、彼女のやつれのほんとうの原因なのだろうか。クラムの近くにいることが彼女をあのようにばかげたほど魅力的にし、この魅力のなかで彼女はKを自分にひきつけたのだが、彼の腕のなかでしおれてしまったのだ。
「フリーダ」と、Kはいった。彼女はすぐコーヒーひきを手放して、Kのいる長椅子のところへやってきた。
「わたしのことを怒っているの?」と、彼女はたずねた。
「いや」と、Kはいった。「君はほかにしようがないのだと思うよ。君は紳士荘で満足して暮らしていた。私は君をあそこにあのままにしておくべきだったのだ」
「ええ」と、フリーダはいって、悲しげにぼんやりと前を見ている。「あなたはあたしをあそこにあのままにしておくべきだったんだわ。わたしには、あなたと暮らす資格はないのよ。わたしから解放されれば、あなたはおそらく望むことをなんでもできるのよ。わたしのことを考えて、あなたはあの横暴な教師に屈伏し、こんなみじめな地位を引き受け、苦労してクラムと一度話をしようと望んでいるんだわ。みんなわたしのためなのに、わたしのほうはそれに何もむくいることができないのよ」
「いや」と、Kはいって、慰めるように片腕を彼女の身体のまわりに廻した。「そんなことはみんなつまらぬことで、私はちっとも悲しんでなんかいないさ。それに、クラムのところへいきたいのは、何も君のためばかりではないんだ。そして、君は私のためになんでもやってくれたね! 君を知る前には、私はこの土地でまったく途方にくれていたんだ。だれも私を迎え入れてはくれないし、私のほうから無理に押しかけていくと、そちらではたちまち私にさよならをいうという始末だった。そして、だれかのところで安息を見出せるとするなら、それは私のほうでまた逃げ出してしまうような人びとだった。たとえばバルナバスの一家の――」
「あなたはあの人たちのところから逃げ出したの? ええ? あなた!」と、フリーダは力をこめてKの言葉を中断するように叫んだが、Kがためらいながら「そうだ」というと、また彼女のものうげな姿勢へと沈んでいった。だが、Kとしてももはや、フリーダとのつながりが彼のために万事を好転させた、ということを説明してやるだけのきっぱりした態度はもち合わせていなかった。彼はゆっくりと腕を彼女から離し、二人はしばらくのあいだ無言のまま坐っていた。やがてフリーダは、Kの腕が彼女に暖かみを与えてくれ、それは今ではもう自分には欠かせぬものであるとでもいうかのように、こういった。
「わたし、ここのこんな生活に我慢できないわ。もしあなたがわたしをつかまえておこうと思うなら、わたしたちはどこかへ移住しなければならないわ、南フランスか、スペインへでも」
「移住はできないよ」と、Kはいった。「私がここにきたのは、ここにとどまるためなんだ。私はここにとどまるよ」そして、矛盾をさらけ出しながら(彼はその矛盾を少しも説明しようとはしなかった)、ひとりごとのようにつけ加えていった。「ここにとどまりたいという要求のほかに、何が私をこのさびしい土地に誘うことができただろう?」つぎにまた、こういった。「でも、君だってここにとどまっていたいんだろうね、ここは君の故郷の土地なんだもの。ただクラムが君にいなくなったものだから、それが君を絶望的な考えに引き入れるんだよ」
「クラムがわたしにいなくなった、ですって?」と、フリーダはいった。「クラムなんかここにはあり余るほどいるのよ。クラムがいすぎるくらいよ。あの人から逃がれるために、わたしはここを去りたいのよ。クラムではなくて、あなたがわたしにとってはいないのよ。あなたのためにわたしはここを去りたいの。ここではみんながわたしを無理に引っ張って、そのためあなたをあきるほど愛することができないからなのよ。わたしが静かにあなたのところで暮らせるように、きれいな仮面がわたしからはぎ取られ、わたしの身体がみじめになればいい、と思うくらいなのよ」
Kはこの言葉からただ一つのことだけしか聞き取らなかった。
「クラムは今でもまだ君と連絡があるのかい?」と、彼はすぐたずねてみた。「君を呼ぶの?」
「クラムのことは何も知らないわ」と、フリーダはいった。「わたしは今、別な人たちのことをいっているのよ。たとえばあの助手たちよ」
「ああ、あの助手たち!」と、Kは驚いていった。「あいつらが君を追いかけているのかい?」
「いったい、そのことに気づかなかったの?」と、フリーダのほうでたずねた。
「気づかなかった」と、Kはいって、こまかいことをいろいろと思い浮かべようとしたが、だめだった。「たしかに厚かましくて好色なやつらだが、あいつらが君に近づこうなんてしていたとは、気がつかなかったよ」
「ほんと?」と、フリーダはいった。「あの人たちが橋亭のわたしたちの部屋から追い出せなかったこと、わたしたちの関係を嫉妬深く見張っていたこと、一人がゆうべ藁ぶとんの上のわたしの場所に寝たこと、またたった今も、あなたを追い出し、あなたを破滅させ、わたしとだけになろうとして、あなたに不利な発言をしたこと。こんなすべてのことに気づかなかったの?」
Kは返事をしないで、フリーダを見つめた。助手たちに対するこの告発はたしかに正しくはあったのだが、それらはみな、あの二人のまったく滑稽で、子供じみて、移り気で、自制のきかないたちからいうと、もっとずっと罪がないもののように解釈されるのだった。そして、彼ら二人がどこへでもKといっしょにいこうとして、フリーダのところにとどまろうとはしなかったことが、この告発に対する反証ではなかったろうか? Kはそんなこともいってみた。
「そんなふりをしているのよ」と、フリーダはいう。「それをあなたは見抜かなかったの? それなら、この理由でなかったなら、なぜあなたはあの人たちを追い出してしまったの?」
そして、彼女は窓のところへいき、カーテンを少しわきにどけて、外をながめ、次にKを自分のところへ呼んだ。まだ助手たちは外の格子塀のところにいて、すでに見る眼にも明らかなほどすっかり疲れていたが、それでもときどき、全力を振りしぼって、両腕を哀願するように学校のほうにさしのばしていた。一人のほうは、いつも塀にしがみついていなくてもいいように、上衣をうしろの格子の棒に突きさしていた。
「かわいそうな人たち! かわいそうな人たち!」と、フリーダがいった。
「なぜ私があいつらを追い払ったって?」と、Kはきいた。「その直接の動機は君だったんだよ」
「わたしですって?」と、フリーダは視線を窓の外から転じないままで、たずねた。
「君の助手に対するあまりになれなれしい扱いかた」とKはいった。「あいつらの不作法を許してやること、あいつらのことを笑うこと、あいつらの髪をなでること、いつでもあいつらに同情すること。『かわいそうな人たち、かわいそうな人たち』って、君はまたいっているね。それに最後はさっきの事件だ。君にとっては、助手たちを鞭でなぐられることから救い出すためには、私なんかどうなったってよかったんだからね」
「それなのよ」と、フリーダはいった。「わたしがさっきからいっていることは。わたしを不幸にし、わたしをあなたから引き離しているのは、それなの。いつも、中断されることなく、終わることもなくあなたのところにいるよりも大きな幸福なんて知らないわ。でもわたしは、この地上にはわたしたちの愛のための落ちついた場所なんかないんだ、村にもほかのどこかにもそんなところはないんだ、って気がするのよ。そのために、私は深く狭い墓のことを想像するの。そこではわたしたちはピンセットで挾まれたようにしっかと抱き合い、わたしはわたしの顔をあなたの身体に埋め、あなたはあなたの顔をわたしの身体に埋めて、だれもわたしたちをもうけっして見ないでしょう。でも、ここでは――助手たちをごらんなさいな! あの人たちが両手を合わせているのは、あなたに向ってではなくて、わたしに向ってなのよ」
「そして、私ではなくて、君があいつらをじっと見ているんだよ」と、Kはいった。
「そうよ、わたしですわ」と、フリーダはほとんど怒ったようにいった。「そのことをさっきからいっているのよ。そうでなければ、助手たちがわたしのあとを追い廻すということがどうして問題なんでしょう。あの人たちがたといクラムから派遣された者たちであってもね――」
「クラムから派遣された者たちね」と、Kはいった。この肩書は彼にはすぐ自然なものに思えたが、それでも驚いてしまった。
「そうよ、クラムから派遣された者たちなのよ」と、フリーダはいう。「あの人たちがそうだとしても、それでもあの人たちは同時に子供じみた若者たちで、あの人たちを教育するためにはやはり鞭がいるのよ。なんていやらしい、きたない若者たちなんでしょう! 大人か、ほとんど大学生かにさえ思えるあの人たちの顔つきと、子供っぽくてばかげたあの人たちのふるまいと、そのあいだのくいちがいはなんていやらしいんでしょう! わたしにそれがわからないとでも、あなたは思っているの? あの人たちのことをわたしは恥かしいと思っているのよ。でも、それはこういうことなんだけれど、あの人たちがわたしに反撥《はんぱつ》を感じさせるのでなくて、わたしがあの人たちを恥かしいと思うんです。いつでもあの人たちのほうを見ないではいられないのよ。人があの人たちに腹を立てるときには、わたしは笑わないでいられないの。人があの人たちをぶとうとするときには、あの人たちの髪をなでてやらないでいられないのよ。そして、夜なかにあなたのそばに寝ていると、眠ることができないの。あなたの身体越しに、一人がしっかと毛布にくるまって眠り、もう一人のほうは開けたストーブの焚《た》き口の前にひざまずいて、火を焚いている、なんていうことを見ないでいられないのよ。わたしは身体を曲げなければならず、ほとんどあなたを起こしてしまうの。それで、ゆうべも猫がわたしを驚かしたのではなくて、――ああ、わたし猫たちのことなんかよく知っているし、酒場での落ちつかない、たえずじゃまされるまどろみのことも知っているわ――猫がわたしを驚かしたんじゃなくて、わたしが自分を驚かしたんです。そして、私がぎくりとするためにはこの猫なんていう怪物は全然必要じゃなくて、どんな小さな物音でもわたしはぎくっとしてしまうの。一つには、あなたが眼をさまして、万事がおしまいになってはいけないと思うんだけれど、次には跳び起きて蝋燭に火をつけ、あなたが早く眼をさまし、わたしを守って下さることができるようにするのよ」
「そんなことは、全然知らなかったよ」と、Kはいった。「ただ、そんなことを予感したものだから、あいつらを追い払ったんだ。でも、今はあいつらはいなくなったから、もうおそらく万事がうまくいったわけだ」
「そうね、とうとうあの人たちいってしまったのね」と、フリーダはいったが、彼女の顔は苦しそうで、ちっともうれしそうでなかった。「ただ、わたしたちはあの二人が何者なのか、知らないわね。クラムの派遣した者、ってわたしが呼んだのは、ただ頭のなかで、冗談にそう呼んだんだけれど、でもおそらくあの二人はほんとうにそうなのね。あの二人の眼、あの単純そうだけれど光っている眼は、わたしになぜかクラムの眼を思い出させるの。そうよ、ほんとうにそうなの。あの人たちの眼からときどきわたしの身体のなかをさっと貫いていくのは、クラムの視線なの。ですから、わたしがあの人たちのことを恥かしく思っているなんていうなら、それは正しくはないんだわ。そんなふうであることを、ほんとは願っているの。ほかのところでほかの人たちの場合なら、同じふるまいが愚かしくて不快だろう、ということはわたしも知ってはいるんだけれど、あの人たちの場合にはそうでないの。尊敬と感嘆との気持でわたしはあの人たちの愚かしいふるまいを見ているんです。でも、あの二人がクラムの派遣した者なら、だれがわたしたちをあの二人から解放してくれるでしょう? そして、もしそうなら、あの人たちから解放されるっていうことは、そもそもいいことなんでしょうか。それならむしろ、早くあの人たちを呼び入れて、あの人たちがきたら幸福だと思わなければならないんじゃないの?」
「君は私があの二人をまたここに入れてやることを望んでいるんだね?」と、Kはたずねた。
「いいえ、そうじゃないの」と、フリーダはいった。「そんなことはちっとも望んでいないわ。あの人たちが今どやどや入ってくる有様、わたしとまた会うあの人たちの悦び、子供たちのように跳んだりはねたりする有様、男の人たちのやる腕をさし出す動作、そんなことはすべて、おそらくわたしには全然我慢ができないでしょう。でも次に、あなたがあの人たちに対してきびしい態度をつづけ、そのために、おそらくクラム自身があなたへ歩みよってくることをあなたがこばんでしまうことを考えると、わたしはあらゆる手段であなたをそんなことの結果から守ってあげようと思うの。そこでわたしは、あなたがあの人たちを入れてあげることを望むのよ。だから、K、早くあの人たちを入れておあげなさいな! わたしのことなんか考えないで! わたしなんかどうだというの! わたし、できるだけ、自分の身を守るわ。でも、身の破滅を招かなければならないときは、わたしはそれを招くことでしょう。でも、そうなるときは、これもまたあなたのためになったことだ、とはっきり意識してやることなのよ」
「君はただ助手たちについての私の判断の点で、私の確信を強めているだけなんだ」と、Kはいった。「けっしてあいつらは私の意志でここへ入ってはこないよ。私がやつらを追い出したということは、事情によってはあいつらを牛耳ることができるということを証明するものだし、さらにまた、やつらが何一つ本質的なことでクラムとは関係がないということを証明しているものだ。ゆうべになってやっと、クラムから一通の手紙をもらったが、その手紙からわかるのは、クラムが助手たちについてまったくまちがった情報を受けているということだ。そのことからもまた、やつらがクラムにとって完全にどうでもいい存在だということが結論されなければならないのだよ。というのは、もしそうでなければ、クラムはきっとあいつらについての正確な報告を手に入れることができたはずだ。ところで、君がやつらのうちにクラムを見るというのは、なんの証明にもならないさ。というのは、残念ながら君はまだおかみの影響を受けていて、どこにでもクラムを見るんだ。まだ君はクラムの恋人で、まだまだ私の妻になっていないんだよ。ときどき、そうしたすべてが私の心を暗くする。そんなとき、まるですべてを失ったように思えるんだ。そんなときには、やっと今、村へやってきたような感じがするんだ。でも、私がやってきたときほんとうにそうであったように希望にあふれながらでなく、私を待ち受けているのはただ失望だけであり、それをつぎつぎに最後の垢《あか》まで味わいつくさねばならないのだ、という意識をもってなのだよ。でも、それもときどきのことだよ」と、フリーダが彼の言葉を聞いてくずおれてしまったのを見たとき、Kは微笑しながらつけ加えていった。「でも君は根本においていいことを証明してくれているんだ。つまり、君が私にとってなんであるか、ということを証明してくれているんだ。もし君が今、君と助手たちとのどちらかを選べ、と私に要求するなら、それでもう助手たちの負けだよ。君と助手たちとのどちらかを選ぶなんて、なんていう考えだ! もう私はあの連中とは決定的に縁を切ろう、言葉においても頭のなかにおいてもね。それはそうとして、私たち二人を襲った弱気は、私たちがまだ朝飯を食べていないところからきているんじゃないかね?」
「そうかもしれないわ」と、フリーダは疲れたように微笑しながらいって、仕事に取りかかった。Kもまた箒をつかんだ。
しばらくして低くノックする音が聞こえた。
「バルナバスだ!」と、Kは叫んで、箒を投げ出し、二跳びか三跳びでドアのところへいった。ほかのことよりもその名前にびっくりして、フリーダはKをじっと見つめた。手が不確かで、Kは古いドア鍵をすぐには開けられなかった。「すぐ開けるよ」と、彼はたえずくり返したが、ほんとうはだれがノックしているのか、たずねなかった。そして次に、広く開かれたドアから入ってきたのは、バルナバスではなくて、さっきから一度Kに話しかけようとした小さな男の子だ、ということを見なければならなかった。しかし、Kはその子のことを思い出してみようという気はなかった。
「いったいここになんの用があるのかい?」と、Kはいった。「授業は隣りの部屋だよ」
「ぼく、そこからきたんです」と、少年はいって、その大きな青い眼で静かにKを見上げ、身体をまっすぐにし、両腕をぴったり身体につけたまま、いった。
「で、なんの用だい? 早くいいなさい!」と、Kはいって、少し身体を曲げた。というのは、その少年は低い声でものをいうのだ。
「お手伝いすることがありませんか」と、少年がたずねる。
「この子は私たちの手伝いをしたいんだってさ」と、Kはフリーダに向っていい、次に少年にこういった。「いったいなんていう名前だい?」
「ハンス・ブルンスウィックです」と、少年がいう。「第四学年の生徒で、マドレーヌ街の靴屋オットー・ブルンスウィックの子供です」
「そうか、ブルンスウィックっていうんだね」と、Kはいって、今度はその子に対して前より親しげな態度になった。ハンスは、女教師がKの手にひっかいてつけた血のにじむみみずばれを見て、ひどく心を動かされたので、そのときKの味方になろうと決心したのだ、ということがわかった。少年は今やみずから進んで、大きな罰を受ける危険を冒しながら、脱走兵のように隣りの教室から抜け出してきたのだった。彼の頭を支配しているのは、何よりもこうした少年らしい想像であるらしかった。彼がやるすべてのことが物語っている真剣さも、そうした想像に相応していた。はじめのうちは、はにかみに妨げられていたが、まもなくKとフリーダとに慣れ、次に熱いよいコーヒーを飲むようにと出されたときには、活溌でうちとけたふうになって、いろいろな質問をするのだが、それが熱心でしつっこく、できるだけ早くいちばん重要なことを聞いて、Kとフリーダとのために自分で決心をできるようにしたい、と思っているようだった。この子の態度のうちには何か命令的なものもあった。だが、それは子供らしい無邪気さとすっかりまじっているので、二人は半ばまじめに、半ばふざけながら、この子のいうことに服した。ともかく少年はあらゆる注意を自分に向けるように要求するので、すべての仕事が中断されてしまい、朝食はひどくのびのびになってしまった。この子は生徒用の長椅子に、Kは上の教壇に、フリーダはその隣りの肘掛椅子に坐っていたのだが、このハンスが教師であり、試験をして、返答に判定を下しているように見えた。少年の柔かな口もとに浮かぶわずかな微笑は、今問題になっているのは遊びにすぎないのだとよく知っていることをほのめかすようであり、それだけに少年はいっそうまじめにこの問題に没頭していた。唇のあたりに漂うものは、おそらく全然微笑などというものではなくて、少年時代の幸福だった。彼は目立って時間がたってからやっと、自分がラーゼマンのところへ立ちよって以来、Kのことを知っていたのだ、と告げた。Kはそれを大いによろこんだ。
「君はあのとき、おかみさんの足もとで遊んでいたのだったね」と、Kはたずねた。
「ええ」と、ハンスはいった。「あれは、ぼくのお母さんなんです」
そこで少年は母のことを語らねばならなかったが、ためらいながら、何度もうながされて、やっと語るのだった。だが今は、この子がまだほんの子供なのだということがわかった。だが、ときどき、とくに彼の質問においては、おそらく未来の予感だろうが、あるいはただ不安げに緊張している聞き手二人の錯覚のためだろうが、ほとんど一人前の精力的で、賢明で、見通しがきく男が話しているように思われるのだった。ところが、すぐそのあとでは、一足跳びにただの小学校生徒になってしまって、いろいろな質問が全然わからず、そのほかの質問も誤解してしまって、しばしば注意されるにもかかわらず、子供らしくおかまいなしに低い声で話したり、ついにはいろいろしつっこくたずねられることに対して、まるで反抗しているようにまったく黙りこくってしまうのだ。しかも、大人にはけっしてできないだろうと思われるように、少しも困ってはいないのだった。およそ、彼の考えによれば自分だけに質問が許されているのであり、他人が自分にたずねることはなんらかの規則を破るに等しいことであり、時間の浪費だ、といわんばかりだ。人が質問するときには、身体をまっすぐに起こし、頭を垂れ、下唇をそらして、長いあいだじっと坐っていた。これがとてもフリーダの気に入ったので、彼女は少年にしばしば問いかけ、こうやって少年を黙らせようと望んでいるのだった。それがまたときどきうまくいくのだが、Kはそれに腹を立てた。全体として少年から聞けることはほとんどなかった。母は少し病身であるが、どんな病気なのかはあいまいなままで、ブルンスウィックの細君が膝の上に抱いていた子供は、このハンスの妹で、フリーダという名前だ。(自分にうるさく問いかける婦人と妹が同じ名前であることを、少年は不快そうにみとめた。)この一家はみんな村に住んでいるのだが、ラーゼマンのところにではなく、彼らがラーゼマンのところへいっていたのは水浴するためだった。ラーゼマンのところには大きなたらいがあって、そのなかで水を浴びたり、追いかけっこをすることは、子供たちにとって大きな楽しみなのだ。もっともハンスは子供なんかの仲間に入らない。ハンスは父親については畏敬《いけい》の念をこめて、あるいは不安の気持を見せながら話すのだが、それもただ母親のことが同時に話に出ないときのことであって、母親に比べると父親の価値は小さいらしく、さらに家庭生活についてのすべての質問には、いくら話をそっちへもっていこうとしても、全然答えなかった。父親の職業については、この土地のいちばん大きな靴屋で、だれも彼にはかなわない、ということで、ほかにどんな質問がされても、このことだけをしょっちゅうくり返すのだった。父はほかの靴屋たち、たとえばバルナバスのおやじにも仕事をやるのだ。だがバルナバスのおやじに仕事をやることはただ特別の好意からで、少なくともハンスが誇らしげに頭を廻している恰好はこのことを暗示していた。ハンスが頭をそんなふうに廻すのを見て、フリーダは教壇から跳び下り、この少年に接吻しないでいられなくなった。君はこれまでに城へいったことがあるかいという問いに対しては、何度も質問をくり返されてやっと答えたが、しかもその返事は「いいえ」というだけだった。お母さんはどうか、という問いに対しては、全然答えない。とうとうKはあきてきた。彼自身にもこんな質問は無用に思えたし、その点で少年の態度ももっともだと思った。無邪気な子供にしゃべらせるという廻り道によって家庭の秘密を聞き出そうとするのは恥かしいことであったし、その上、何も聞き出せないということはたしかに二重に恥かしいことであった。そして、最後にけりをつけようとして、君はどんなことで手伝いしてくれようというのか、とKがたずねたとき、自分がここで仕事を手伝おうと思うのは、ただ先生と女の先生とがこれ以上Kのことをがみがみいわないためになのだ、とハンスは答えた。その答えを聞いてもKは別に驚きもしなかった。Kはハンスにこう説明した。そんな手伝いは必要ではない。がみがみいうのは教師の本性であって、いくら正確に仕事をしてもがみがみいわれないようにすることはほとんどできないものだ。仕事そのものはむずかしくはないのだが、ただ偶然起った事情によって自分は仕事をとどこおらせている。それにこんながみがみいわれることも、自分には生徒にほどはひびかない。自分はそんなものを払い落してしまう。そんなものは自分にはほとんどどうでもいいことだ。またもうすぐあんな教師の手から完全にのがれることのできる見込みがある。そこで問題は教師に対抗することを助けてくれるということにあるのだから、自分はそれに何よりも感謝するが、君はまた教室に帰ってよいのだ。おそらく今のうちならまだ罰せられることもあるまい。自分は教師に対抗するための助力だけは少しも必要でないのだ、ということをKは全然強調したのではなく、ただ思わず知らずにほのめかしただけであり、他方、ほかの助力についての問題にはふれないでいたが、ハンスはそれをはっきりと聞き取って、Kはおそらくほかの助力を必要とするのではないか、とたずねた。ぼくはよろこんでお手伝いをします。もしぼくにできないときには、母にそのことを頼んでみるし、そうすればきっとうまくいくでしょう。父に心配ごとがあるときも、母に頼むんです。母もまたいつだったかKさんのことをたずねました。母自身はほとんど家から出ないのですが、あのときはただ例外的にラーゼマンのところへいったのです。でもぼくはしょっちゅうあの家へいって、ラーゼマンの子供たちと遊ぶので、そこで母は一度、もしやまた測量技師さんがラーゼマンのところへこなかったか、ときいたんです。母はとても身体が弱く、疲れているので、無用に興奮させてはいけないのです。それでぼくはただ、測量技師さんにあの家で会わなかった、とだけいっておきましたし、ぼくと母とはそのことについてそれ以上話しませんでした。でも、今度この学校で測量技師さんに会ったので、母に報告することができるように、測量技師さんに話しかけないではいられなかったんです。というのは、はっきり母から命令されていないのに母の望みをかなえてやると、母はいちばん悦ぶからです。それを聞いて、Kは少し考えてから次のようにいった。――自分は助力を必要としない。必要なものはなんでももっている。だが、君が助けようといってくれることはとても親切なことで、その親切な志には感謝する。ところで、いつか何かを必要とするということはありそうなことであり、そのときには君にお願いすることになるだろう。君の住所はわかっている。そのかわり、おそらく自分のほうも今度は少しお手伝いできるだろう。君のお母さんが病弱で、しかもこの土地でその病気についてよくわかる者がいないらしいのは、残念なことだ。こんなふうに病気をほっておくと、しばしば本来は軽い病気が悪化して重い病気となることがある。ところで自分はいくらか医学の知識があるし、もっと貴重なことは、病人を扱う経験をもっていることだ。医者たちにうまくいかないいろいろなことが、自分にはこれまでうまく成功した。故郷では自分が病気を癒す力をもっているので、「にがい薬草」と呼ばれていた。ともかく君のお母さんと会って、お話ししたいと思う。おそらくいい忠告をしてあげることができるだろう。君のためにもよろこんでそうしたい。この申し出を聞いて、ハンスの眼は輝いた。そこでKは、勢いにのっていっそう熱心になったが、その結果は満足のいくものでなかった。というのは、ハンスはさまざまな質問に対して、けっしてそれほど悲しそうな様子も見せずに、母はひどくいたわってやる必要があるのだから、母のところへ見知らぬ者が訪ねてはいけないのだ、といった。あなたはあのときほとんど母と話をしなかったけれども、母はそのあと二、三日ベッドに寝ついていた。むろんこれはしばしばあることだ。父はあのときあなたのことにひどく腹を立てました。そこできっと、あなたが母のところへくることをけっして許さないでしょう。それどころか、父はあのときあなたを探し出し、あなたのふるまいについてあなたをとがめようとしたのですが、母がやっとそれをとめたのです。何よりもまず母自身が一般にだれとも話したがりません。母があなたのことをたずねたのは、けっしてそういうしきたりの例外ではないのです。それどころか反対に、あなたのことを口にしたおりに、あなたに会いたいという希望をはっきりいい出せたはずです。ところが母はそうはしませんでした。黙っていることではっきり自分の意志を示したわけです。母はただあなたのことを聞きたがっただけで、あなたと話すことを望んでいるのではありません。それに、母が苦しんでいるのはけっしてほんとうの病気ではないのです。母もとてもよく自分の身体の調子が悪いことの原因を知っていて、ときどきそれをほのめかします。母がたえられないのは、おそらくこの土地の空気なのでしょう。でも、母は父とぼくたち子供のために、この土地を離れようとはしません。それにもう、以前よりは身体の工合もよいのです。Kが聞いたのは、およそ以上のようなことだった。ハンスのものを考える力は、母をKから守らなければならないときに、目立って大きくなるのだった。Kのために彼は手伝いをしたいといっておきながら、そうなのだ。Kを母に会わせまいとするよい目的のために、彼は多くの点で自分自身のさきほどの発言とも矛盾するようなことさえもいうのだった。たとえば病気についてもそうだ。それにもかかわらず、Kは今になってもやはり、ハンスがまだ自分に対して好意を抱いていることをみとめた。ただ彼は母のことにかまけて、すべてを忘れてしまうのだ。だれがハンスの母の敵役《かたきやく》に置かれようと、その人間はすぐに悪者にされてしまう。今はそれがKだった。だが、たとえば父親もそうなっていいのだ。Kはこの父親の場合をためしてみようとして、こういってみた。お父さんがお母さんをどんなことにもじゃまされないように守っているのは、たしかにとても賢明なことだね。自分もあのときそういうことに気づきさえしたら、きっとお母さんに話しかけようなどとはしなかっただろう。今、遅ればせながら家へ帰ったらどうかお許しを願うようにいってもらいたい。それに対して、自分にどうもわからないのは、病気の原因がそんなにはっきりしているのなら、お父さんはなぜお母さんが転地保養をすることをとめるのだろうか、ということだ。お父さんがお母さんをとめているとしかいいようがない。というのは、お母さんはただ子供たちとお父さんとのためにこの土地を離れないんだからね。けれども、子供たちはいっしょにつれていけるんだし、お母さんだって長いあいだよそへいく必要はないのだ。またそんなに遠くまで出かける必要もない。城の山でだって空気はまったくちがうのだ。こうした転地の費用のことはお父さんは全然心配する必要はないはずだね。なにせお父さんはこの土地でいちばん大きい靴屋だし、きっと城にはお母さんをよろこんで迎えてくれるお父さんかお母さんの親戚や知人がいるだろう。どうしてお父さんはお母さんを手放さないのだろう? お父さんがこんな病気を軽く見ているはずはなかろう。自分はお母さんをほんのちょっと見ただけだが、お母さんの目立った顔色の悪さと衰弱とが気にかかって、お母さんと話す気になったのだ。あのときすでに自分は、お父さんがあの共同の風呂場兼洗濯場の悪い空気のなかに病気のお母さんを放っておき、声高《こわだか》にしゃべりながら少しも遠慮しようとしないのに驚いたのだった。お父さんは、病気がどんな工合なのか、きっと知らないのだ。病気は最近ではおそらくよくなったかもしれないが、こうした病気は気まぐれなもので、もしそれと闘って征服してしまわないと、ついには勢いが強くなってしまって、そうなるともうどんなことも役には立たなくなるよ。自分はお母さんとはお話しできないにしても、お父さんとお話しして、こういうことすべてを注意してあげたら、おそらくよいと思うよ。
ハンスは緊張して耳を傾け、大体のところを理解したが、残りの理解できないことはおどかしとして強く感じ取ったのだった。それにもかかわらず、ハンスはいった。あなたは父とも話せません。父はあなたを嫌っています。で、父はおそらくあの学校の先生のようにあなたを扱うことでしょう。ハンスはKのことを語るときには、微笑しながらおどおどしていい、父のことをいうときには、不機嫌そうに悲しげにいうのだった。けれども彼はつけ加えて、Kはおそらく母と話すことができるだろうが、ただ父にないしょでだ、といった。それからハンスは、何か禁じられていることをやろうとし、罰せられないでそれを実行できる可能性を探している女のように、じっと動かぬまなざしでしばらくのあいだ考えにふけっていたが、やがていった。おそらくあさってならできるでしょう。父は晩に紳士荘へいきます。そこで人と話合いがあるのです。そこで、ぼくは晩にやってきて、あなたを母のところへつれていきましょう。とはいっても、母がそれに同意するとしてのことですよ。でも、これはとてもありそうには思えないけれど。何よりもまず、母はなんでも父の意に反してはやらないで、どんなことにでも父の意に従うのです。ぼくにでも理に合わないとはっきりわかることにおいてもそうなんです。ほんとうのところは、今やハンスは、父親に対抗するための自分の助力をKに求めているのだ。まるでハンスは自分をあざむいているようなものだった。なぜならば、彼はKを助けようとしているのだ、と思っていたのに、ほんとうは、古くから身のまわりにいるだれも自分を助けてくれることができないので、この突然現われた、今では母も話題に出してさえいるこのKという見知らぬ男が自分を助けることができるのではないか、と探り出そうとしたからだ。この少年は、無意識のうちにまるで本音を隠していて、ほとんど陰険といえるほどではないか。そのことは、これまで少年の姿恰好やその言葉からはほとんど推察することができなかった。今になってやっと、偶然この子がしゃべってしまった告白とか、Kがしゃべらせようとして引き出した告白とかによって、それがわかったのだ。ところで、少年はKと長い対話を交わしているうちに、どんな困難を克服しなければならないのか、ということに思いついたのだった。ハンスがいくら考えてみても、ほとんど克服しがたい困難がいろいろあった。すっかりもの思いにふけりながら、しかし助けを求めるように、彼は不安げなまたたく眼でKをたえず見つめていた。父が家を出る前には、母に何もいうわけにいかない。そうでないと、父がそれを聞き知って、万事が不可能になってしまう。だが、父が家を出てからも、母のことを考えると、突然、急いで話すのでなく、ゆっくりと、しかも適当なチャンスを見つけて話さなければならない。そうしてはじめて母から同意が得られるのであり、そうしてやっとKをつれてくることができるのだ。だが、それではもう遅すぎるのではなかろうか。もう父の帰宅が迫っているのではなかろうか? いや、これは不可能だ。Kはそれに対して、それは不可能でないということを証明した。時間が十分にないということは、恐れる必要はないよ。ちょっと話し、ちょっと会えば十分だし、君は自分を迎えにくる必要はない。自分は君の家の近くのどこかに隠れて待ち、ハンスの合図があったらすぐいこう。それはだめです、とハンスがいう。あなたは家のそばで待ってはいけません。――またもや、彼の頭をいっぱいにしているのは、母を気づかう敏感さであった――母が知らないのにあなたが出かけてはいけません。こんな母にないしょの取りきめをぼくはあなたと結ぶわけにいきません。ぼくはあなたを学校からつれていかなければならないのです。しかも、母がそれを知って、許すまではいけません。いいよ、とKはいった。そうなるとほんとうに危険で、お父さんに家でつかまってしまうこともあるかもしれない。そんなことにはならなくとも、お母さんがそのことを恐れて、およそ自分をよせつけないだろうし、そうすれば万事はお父さんのために挫折してしまうだろう。それに対してまたハンスが反対し、その議論があれこれと進められていった。
ずっと前からKはハンスを生徒用の長椅子から教壇へ呼び、膝のあいだに引きよせて、ときどきなだめながらなでてやっていた。こうして二人が近づいたことは、ハンスがときどき反対したにもかかわらず、ある一致を見出すことに役立った。ついに次のように意見がまとまった。ハンスがまず母親にほんとうのことをすっかり話す。けれども、母親の同意を得ることをやさしくするために、Kがブルンスウィック自身とも話したいと思っている、といってもそれは母親のためでなく、K自身の用事のためだ、とつけ加えることにする。この申し合せはまた正しくもあった。話をしているうちにKは思いついたのだった。ブルンスウィックはふだんは危険で悪い人間であるかもしれないが、もうほんとうは自分の敵ではありえない。少なくとも村長が語ったところによれば、ブルンスウィックはたとい政治的な理由からにもせよ、測量技師を招くことを要求した人びとの指導者であった。だから自分が村へやってきたことは、ブルンスウィックにとって歓迎すべきことにちがいないのだ。とすると、どうも最初の日の怒ったような挨拶のしかたと、ハンスがいっているような嫌悪はほとんど理解しがたいものではあった。だが、おそらくブルンスウィックが気を悪くしたのは、自分がまず彼に助けを求めていかなかったからなのだ。おそらくそのほかの誤解もあるのかもしれない。だが、そんな誤解も一こと二こと話せば解くことができるはずだ。ところで、もしこういうことであったのなら、自分はブルンスウィックによって、ほんとうに教師に対して、そればかりでなく村長に対しても、いいうしろだてを手に入れることになるのだ。役所のあらゆるまやかし――いったい、まやかし以外のなんだろう――、つまり、村長と教師とが自分を城の役所にいかせないようにし、無理に小使の職につけてしまったまやかしが、暴露されるはずだ。もし自分をめぐって改めてブルンスウィックと村長とのあいだに争いが起こることになれば、ブルンスウィックは自分を彼の味方にするにちがいない。そうすれば、自分はブルンスウィックの家の客になるだろう。ブルンスウィックがもっているさまざまな権力手段は、村長に対抗して、自分のために使われることになるだろう。それによって自分がどういうことになるかはわかったものではないが、ともかくしょっちゅう細君の近くにいることになるだろう。――こんなふうに彼はいろいろと夢想をもてあそび、また夢想のほうも彼をもてあそぶのだった。一方、ハンスはただ母のことだけを考えて、Kが黙っているのを心配そうにながめていた。まるでむずかしい病気の治療方法を見つけ出そうと考えにふけっている医者に対しているようなものだった。土地測量技師の地位についてブルンスウィックと話し合いたいというKの提案にハンスは同意したが、そうはいってもその理由はただ、それによって自分の母親を父親に対して守ってやれるし、その上それは、おそらくは起こるまいと期待されるまさかの場合のことだからだった。少年はなお、Kが夜遅く訪問したことを父親にどう説明するのか、とたずねたが、我慢のならない小使の地位と教師による侮辱的な取扱いとが突然の絶望のなかで自分にいっさいの顧慮を忘れさせたのだ、ということにするというKの説明に、少し顔を曇らせはしたが、満足した。
今やこうして、いっさいのことが気のつく限りあらかじめ考えられ、成功の望みが少なくとももう全然ないわけでないということになったとき、ハンスはあれこれ考えめぐらすという重荷から解放されて、前よりも朗らかになり、はじめはKと、次にフリーダとも、しばらくのあいだ子供らしくしゃべっていた。フリーダは長いあいだ別なもの思いにふけっているようにそこに坐っていたが、やがてようやくまたこの対話に加わり始めた。ことに、あなたはなんになりたいの、とハンスにたずねた。少年はたいして考えもしないで、Kのような人になりたい、と答えた。次にその理由をたずねられると、彼はむろん答えることができなかった。小使のようなものになりたいのか、という問いに対しては、はっきりとそうではないといった。さらにいろいろたずねていってはじめて、どういう廻り道をたどってこの少年がそんな望みをもつことになったか、ということがわかった。現在のKの状態はけっしてうらやむにたるものではなくて、悲しい、軽蔑すべきものだ、ということはハンスもよく見ていて、それを知るためには何もほかの人びとを観察する必要はなかった。ハンス自身、Kが母親に会ったり、母親に話したりすることをどうか避けたい、と思っているのだ。それにもかかわらず、ハンスはKのところへやってきて、彼に助力を頼み、Kがそれに同意してくれたとき、うれしく思った。ほかの人びとにおいてだってKと似たところが見られるように思ったのだが、何よりもまず母親自身がKのことを口にしたのだ。こんな矛盾から、ハンスの心のなかには次のような信念が生まれたのだった。つまり、なるほど今はKはまだ身分が低くひどい状態にあるが、ほとんど想像もつかないような遠い未来のことではあるとしても、ゆくゆくはほかのすべての人をしのぐようになるだろう、というのである。そして、まさにこのまったくばかげたような遠い未来のことと、その未来に通じるはずの誇らしい発展とが、ハンスの心をそそったのだった。この未来の値打のために彼は現在のみすぼらしいKさえも買おうと思ったのだ。この願いのとくに子供らしくてしかも大人っぽい点は、ハンスはKをまるで年下の者のように見おろし、この年下の者の未来が小さな子供である自分の未来よりもはるかに先があるように思っている、というところにあった。そして、フリーダの質問につぎつぎに答えることをしいられながらこうしたことを語るハンスの調子には、ほとんど打ち沈んだようなまじめさがこもっていた。Kが次のようにいったとき、やっとまたハンスは朗らかさを取りもどした。君がなぜ私のことをうらやむのか、知っているよ。ふしのついた私の美しいステッキのためだ。(そのステッキは机の上にのっており、ハンスは話をしながらぼんやりとそれをいじっていた。)ところで、こんなステッキなんか、自分はつくりかたを知っている。もしわれわれの計画がうまくいったら、君のためにもっと美しいのをつくってあげよう。今はもう、ハンスがほんとうにただステッキのことだけしか考えていたのではないかどうか、あまりはっきりしなくなっていた。それほど少年はKの約束をよろこび、うれしそうに「さよなら」をいったが、Kの手を固くにぎって、「では、あさってね」と、いうのだった。
ハンスが出ていったのは、まさに潮時《しおどき》だった。というのは、すぐそのあとで教師がドアをさっと開け、Kとフリーダとが落ちつきはらって机のそばに坐っているのを見ると、叫んだ。
「おじゃまで失礼! だが、いつになったらこの部屋が片づくことになるのか、いってくれたまえ! われわれはむこうの部屋でぎっしりつめられて坐っているし、授業もろくにできないんだ。ところが君たちときたら、この大きな体操場で、のうのうと手足をのばしている始末だ。そして、この上もっと場所を取ろうとして、助手たちまで追い出してしまったんだ! だが、今は少なくとも立ち上がって、動いてくれたまえ!」そして、Kだけに向っていった。「君は今すぐ私のために橋亭から中食をもってきてくれたまえ!」
こんな言葉はみなひどく怒って叫ばれたのだったが、言葉は比較的おだやかで、それ自体ぞんざいなはずの「君」という言葉さえ、そうだった。Kはすぐいうことをきくつもりだったが、ただ教師の本音を探り出そうとして、いった。
「でも、私は解雇通告を受けているんですが」
「解雇通告を受けていようと、受けていまいと、中食をもってきてくれたまえ」と、教師はいう。
「解雇通告を受けているのか、受けていないのか、私が知りたいのはまさにその点なんですがね」と、Kはいった。
「何をぐちゃぐちゃいっているんだ?」と、教師がいった。「君は解雇通告を受け取らなかったじゃないか」
「あの通告を無効にするためには、それだけの理由で十分なのですか?」と、Kはたずねた。
「私には十分じゃないね」と、教師はいった。「私のほうは十分でないのだと思ってもらっていいが、村長には十分だそうだ。どうもわからない話だが。だが、急いでいってくれたまえ。そうでなければ、ほんとうにここから飛び出してくれたまえ」
Kは満足だった。それでは教師はあのあいだに村長と話したわけだ。あるいは、おそらくまったく話したわけではなく、ただ村長のいいそうな意見を解釈してみただけでそれがこちらの都合がいいようになっているのだ。そこで、Kはすぐ中食を取りに急いでいこうとしたが、まだ動き出したばかりのところを、教師が呼びもどした。教師は、この特別な命令を下すことによってKのサービス精神をためし、今後の目安としようとしたのであれ、それともまた新しく命令したい気になって、Kを急いでいかせながら、次に自分の命令でまるでボーイのように急いでもどってこさせることを楽しんでいたのであれ、いずれにせよKを呼びもどしたのだった。Kのほうは、あまりいうなりになっていると教師の奴隷か身がわりの犠牲者かになるだろう、ということを知ってはいたが、今はある限度までは教師の気まぐれを我慢強く受け入れるつもりだった。というのは、これまでにわかったように、教師は正式に彼をくびにすることはできないが、彼の地位を耐えがたいまで苦しいものにすることはきっとできるのだ。ところで、この地位こそ、今ではKにとっては以前よりももっと大切なものだった。ハンスとの対話は、根拠のない、ありそうもないものだとしても、もはや忘れることのできない新しい希望をKに抱かせた。この希望はほとんどバルナバスさえも忘れさせてしまった。Kはこの希望を追いかけ、ほかにどうすることもできないとすれば、全力をそれに集中し、そのほかのことには、食事のことも住居のことも村役場のことも、そればかりでなくフリーダのことも全然気にかけぬようにしなければならなかった。そして、根本においては問題はただフリーダのことだけだった。というのは、ほかのすべてはただフリーダと関係があるときにだけ気にかかるのだった。それゆえ、フリーダにいくらか安定を与える今の地位を彼は保つように努めなければならなかった。そこでこの目的のためには、ほかの場合ならば思いきって我慢したかもしれない以上に教師のことを我慢しているのだが、それを後悔などしてはならなかった。こうしたすべてはそれほど苦痛ではなかった。こうしたことは一連のたえず起こる小さな生活の苦しみの一つであって、Kが求めているものに比べれば、なんでもなかった。そして、彼がこの土地へやってきたのは、体面を保った平和な生活を送るためではなかったはずだ。
そこで彼は、命令を受けてすぐ宿屋まで一走りしようとしたように、今度はちがった命令を受けてもすぐ、まず教室を片づけ、女教師がいっしょに移ってこられるようにするつもりだった。ところが、きわめて早く取り片づけをしなければならなかった。というのは、そのあとでKはやっぱり中食を取ってこなければならない。教師はすでにひどく腹をすかし、喉《のど》がかわいていたのだ。Kは、万事お望みどおりにする、とうけ合った。ちょっとのあいだ教師は、Kが急いで立ち働き、寝床を片づけ、体操用具をもとの場所に押しもどし、すばやく床を掃くのをながめていた。一方、フリーダは教壇をぞうきんがけしたり、こすったりしていた。その熱心さは教師を満足させているようだった。教師はさらに、焚く薪の山をドアの前に準備するようにと注意し、――Kを小屋にはもういかせたくなかったのだ――次にまもなくまたやってきて仕事ぶりを見るからとおどかすと、子供たちのほうへもどっていった。
しばらく無言のまま仕事をしていたが、やがてフリーダが、なぜあなたは今度は教師のいうことをそんなに従順にきくのか、とたずねた。これはたしかに同情のこもった、心づかいにあふれた質問であったが、フリーダが本来の約束どおり彼を教師の命令と乱暴なふるまいとから守ることにほとんど成功しなかったということを考えていたKは、ただ簡単に、自分はいったん小使となった以上、その任務を果たさなければならないのだ、といった。それからふたたび無言の状態がつづいたが、ついにKは――今の対話で、フリーダが長いあいだ心配そうなもの思いにふけっていたようだったこと、ことに自分がハンスと話しているあいだじゅうほとんどそんなふうであったことを思い出したのだった――薪を運びながら、彼女にはっきりとそのことをたずねてみた。彼女は彼のほうにゆっくりと眼を上げながら、それはこれといってはっきりしたわけがあるのではない、と答えた。自分はただおかみのこととおかみの言葉の多くが真実だったこととを考えているだけだ、というのだ。Kがうながすと、やっと、何度か拒んだあとで彼女はもっとくわしい返事をしたが、そのときも仕事の手を休めなかった。その仕事もけっして熱心にやっているわけではないのだ。というのは、そのあいだに仕事がはかどっているのではなく、ただKの顔を見なければならないように追いこまれないためなのだ。で、今度は彼女はこんなことを語るのだった。自分はKとハンスとの対話をはじめは平静な気持で聞いていた。次にKの二、三の言葉によってびっくりし、それらの言葉の意味をもっとはっきりと捉えようとしはじめた。それからはもう、Kの言葉のうちにおかみから聞かせてもらったいましめの裏書きされているのを聞き取ることをやめなかった。そのおかみのいましめの正しさはそれまではけっして信じようとしなかったのだ。Kはこんな一般的な言い廻しに腹を立て、涙ぐんだ訴えるような彼女の声にも感動させられるというよりはいらいらさせられて、――その理由は何よりも、おかみが今やまた自分の生活に入りこんできたからだ。少なくとも回想によって入りこんできているのだ。なぜなら、おかみその人は、これまではほとんどKの生活に入りこむということでは成果を上げてはいなかったからだ――両腕に抱えていた薪を床の上に投げ出し、その上に坐って、今度はまじめな言葉で、そのことを完全にはっきりいってくれ、と要求した。
「これまでにしょっちゅう」と、フリーダは語り始めた。「ほんのはじめのときから、おかみさんはあなたのことを信用させまいと骨を折りました。おかみさんは、あなたが嘘をついているなんて主張はしませんでした。反対に、おかみさんはこんなことをいったんです。あなたは子供のように包み隠しのない人だ。でもあなたの人柄はわたしたちのとはまるでちがっているんだから、たといあなたが率直にものをいっていても、あなたのいうことを信じるわけにはなかなかいかない。よい女友だちでもわたしたちを早く救ってくれなければ、にがい経験を味わわされたあげくにやっとあなたの言葉を信じることに慣れなければならないでしょう。人を見る鋭い眼をもっているおかみさんでさえ、どうもほとんどそういう結果になったんだから、って。でも橋亭でのあなたとのこの前の対話のあとでは、――わたし、ただおかみさんの悪意の言葉をくり返すだけなんですが――あなたの計略を見破ったそうです。たといあなたが意図を隠そうと努力したところで、もうおかみさんをだますことなんかできないのだ、といいました。でも、あなたは何も隠してなんかいないんだ、とおかみさんはしょっちゅういうのでした。それからこんなこともいいました。いつでも[#「いつでも」は底本では「いっでも」]任意な機会にあの人のいうことをほんとうに聞こうと努めてごらん。ただ上っつらだけでなく、ほんとうに聞くようにね、って。おかみさんはそれ以上のことは何もしなかったけれど、そうしながらわたしのことに関係して次のようなことをあなたから聞き出したっていうんです。あなたがわたしにいいよった理由は――おかみさんはこんな恥かしい言葉を使ったのよ――わたしが偶然あなたの眼にとまり、まんざら気に入らぬこともなかったからで、それにあなたはひどく思いちがいをして、酒場の女給というものは手をさしのべてくるどんなお客にでも犠牲になるにきまっているものなのだ、と考えているからだ、っていうのよ。その上、おかみさんが紳士荘のご亭主から聞き出したところでは、あなたはあのとき何かの理由で紳士荘に泊まろうと思ったけれど、そうはいってもそれはわたしを通じてしかできなかったんですって。こうしたすべては、あの夜あなたをわたしの恋人にするのに十分な動機だった、けれどもこの関係がもっと深いものになるためには、もっとほかのものが必要で、そのほかのものっていうのがクラムだったのだ、というんです。おかみさんは、あなたがクラムに求めていることを知っているとは主張していません。おかみさんが主張しているのは、ただ、あなたはわたしを知る前にも、知ってからあとと同じように熱心にクラムに会いたがっていた、ということです。ただそのちがいは、あなたはわたしを知るまでは絶望的であったが、わたしを知るようになった今では、ほんとうに、間もなく、優位さえもってクラムの前に出る手段をもっていると思っている点にあるんだそうです。あなたがきょう、わたしを知る前には、この土地で途方にくれていたといったとき、わたしはどんなにびっくりしたことでしょう。驚いたのもほんのちょっとのあいだで、それほど深い理由もなかったんですけれど。これはおそらく、おかみさんが使ったのと同じ言葉です。おかみさんはまた、あなたはわたしを知るようになって以来、目標を意識するようになった、っていっています。どうしてそういうことになったかというと、わたしを手に入れることでクラムの恋人を征服したのだし、それによってただ最高の値段だけによってつぐなえるようないい持ち駒をもっている、と思っているからだ。その値段についてクラムとかけ合うことがあなたの努力のただ一つの目的なのだ。あなたにとってはわたしなんかどうでもよいので、万事は値段のほうにかかっているのだから、わたしについてはどんなことでも相手の意を迎える用意があるが、値段については頑固だ。こういうんです。だから、あなたにとっては、わたしが紳士荘の職を失ったこともどうでもいいことだし、わたしが橋亭からも出たこともどうでもよく、わたしがつらい小使の仕事をやらなければならないということもどうでもいいんです。あなたはやさしい愛情というものをもたず、それどころかもう少しもわたしのためにさいて下さる時間をもっていません。わたしを二人の助手にまかせて、嫉妬ももたないのです。あなたにとってのわたしのただ一つの価値といえば、わたしがクラムの恋人だったということだけで、あなたは何も知らないままにわたしにクラムのことを忘れさせまいと努力し、決定的な瞬間がきたときにわたしがあまり強く逆らわないようにしておこうとするんです。それなのにあなたはおかみさんとも争うのですわ。わたしをあなたの手から奪うことができるのはおかみさんだけだと信じて、そのためにおかみさんとのいさかいをとことんまでもっていって、とうとうわたしといっしょに橋亭を出なければならないようにしてしまったんですわ。わたしに関する限り、どんな事情の下でもあなたのものである、っていうことはあなたは疑ってもみません。クラムとの話合いは、現金での取引きだと思っているんだわ。あなたはあらゆる可能性を計算に入れているのね。もしあなたの望む高い値段を手に入れることができるとなったら、どんなことでもやるつもりなんだわ。クラムがわたしを欲しいといえば、わたしをあの人にやるでしょうし、あなたがわたしのところにとどまるようにとクラムが望めば、あなたはわたしのところにとどまるでしょう。わたしを捨ててしまえとクラムが望めば、わたしを捨てるでしょう。でも、お芝居を演じる用意さえあるんだわ。有利だとなれば、わたしを愛しているようなふりをするし、あの人が平気な顔をしていれば、あなたのつまらなさをさらけ出して、あなたがあの人にかわってわたしの愛人になったという事実によってあの人を恥じ入らせることで、あの人のそんな態度に打ち勝とうとすることでしょう。あるいは、あの人についてのわたしの愛の告白を――わたしはほんとうにそれをしたわけだけれど――あの人に伝えて、わたしをまた迎えてくれ、もちろん望みの値段は払ってはもらいたいが、と頼んで、あの人の平気な態度に打ち勝とうとするでしょう。そして、ほかのどんなことも役に立たないとなれば、K夫婦という名前でこじきのようなまねさえすることでしょう。でも、そうなって、おかみさんが結論を下しているように、あなたの推測も、あなたの希望も、クラムについてのあなたの想像も、クラムのわたしに対する関係も、みんな思いちがいしていたのだとわかるようになれば、そのときわたしの地獄が始まるでしょう。というのは、そのときわたしはいよいよあなたのただ一つの所有物となるんですわ。あなたはその所有物をたよりにするわけですが、それは同時に価値のないものとわかった所有物なのですから、あなたはそれにふさわしい扱いかたをするでしょう。なぜって、あなたはわたしに対して所有主という感情以外にどんな感情ももってはいけないんですから」
緊張し、口をぐっとひきしめて、Kはその言葉に耳を傾けていた。彼が腰かけていた薪がごろごろと転がり出し、彼はあやうく床の上に滑りそうになったが、そんなことは気にもかけなかった。やっと彼は立ち上がって、教壇に腰を下ろし、フリーダの手を取った。その手は弱々しく彼から逃がれようとした。Kはいった。
「君の話のなかで、君の考えとおかみさんの考えとどうも区別ができないところがあったよ」
「あれはみんなおかみさんの考えだったのよ」と、フリーダはいった。「わたしはなんでもよく聞いていました。おかみさんを尊敬しているんですもの。わたしがおかみさんの考えをすっかりはねつけたのは、あのときがまったく最初のことだったんです。おかみさんのいうことすべてがあんまりみじめに思えたし、わたしたち二人のあいだがどうなっているかということについてあんまりわかっていないように思えたのでした。むしろわたしには、おかみさんのいうことのまったく正反対のことが正しいように思われました。わたしは、わたしたちの最初の夜のあとのあの暗い気持だった朝のことを考えました。あなたがまるですべてだめになったようなまなざしでわたしのそばにひざまずいていた有様を思ってみたのです。そして、わたしがどんなに努力してみても、あなたを助けることにはならないで、実際あなたのじゃまをすることになってしまったことを考えたのでした。わたしのためにおかみさんはあなたの敵、しかも強力な敵となったのです、あなたはまだ軽視していますけれど。あなたがこんなにも心配をして下すっているわたしのために、あなたはあなたの地位を求めて闘わなければならず、村長に対しては不利な立場に立って、また先生のいうこともきかねばならなくなり、助手たちの手中に収められてしまったのです。けれどいちばん悪いことは、わたしのためにあなたはおそらくクラムに対して不正を働いてしまったのだわ。あなたが今たえずクラムのところへいこうとするのは、あの人をなんとかなだめようとする無力な努力にすぎなかったのです。そして、わたしは自分にいって聞かせたの。おかみさんはこうしたすべてをたしかにわたしよりずっとよく知っていたので、わたしに入れ知恵して、わたしがあまりにひどく自分を責めないようにしてくれようとしたのだ、って。善意ではあるけれど、余計な心配だわ。あなたに対するわたしの愛は、あらゆることをのり越えるようにわたしを助けてくれ、それはまたあなたをもついには前進させるでしょう、この村においてでなければ、どこか別なところでね。この愛はその力をもう証明したのです。つまり、それはバルナバスの一家からあなたを救ったんですわ」
「では、それがあのころおかみさんの考えに反対する君の考えだったんだね」と、Kはいった。「で、それからどう変ったんだい?」
「わかりませんわ」と、フリーダはいって、自分の手を取っているKの手を見た。「おそらく何も変っていないわ。あなたがわたしのこんなに身近かにいらっしゃって、そんなに落ちついておたずねになると、何も変わらなかったんだと思われてくるわ。でも、ほんとうは」――彼女はKから手を振り離し、身体をまっすぐにして彼と向き合って坐り、顔も被わないで泣いた。その涙にぬれた顔をまともに彼に向けていたが、自分自身のことを泣いているのではないのだ、だから何も隠すことはない、自分はKの裏切りを泣いているのだ、だから自分の泣いている姿のみじめさは彼にうってつけのものなのだ、といわんばかりだ。――「でも、ほんとうは、あなたがあの子と話しているのを聞いてから、すべてが変ってしまったのだわ。あなたはいかにも無邪気そうに話を始め、家庭の事情をたずねたり、そのほかあれこれとたずねました。まるであなたがなれなれしく率直な態度で酒場に入ってきて、子供らしく熱心にわたしのまなざしを求めているような気がしました。あのわたしたちが最初に出会ったときとちがいはありません。そして、わたしはただ、おかみさんがここに居合わせて、あなたの言葉を聞き、それでなお自分の意見に固執しようとするのだったら、と望みました。ところが次に、突然、どうしてそんなことになったのかわかりませんが、あなたがどんなつもりであの子と話しているのか、ということに気がつきました。思いやりのあるような言葉によって、あなたはなかなか手に入れられないあの子の信用を得てしまいました。それは、次にじゃまされないであなたの目標へ向って突進するためなのです。その目標というのはわたしにはだんだんわかってきました。それはブルンスウィックの奥さんだったのです。あの人のために心配しているように見えるあなたの話からは、あなたはただ自分の仕事だけしか考えていないのだということが、まったくあからさまに表われていました。あなたはあの人を手に入れるより前に、あの人をあざむいたのです。わたしはあなたの言葉から、わたしの過去ばかりでなく、わたしの未来も聞き取りました。まるでおかみさんがわたしのそばに坐っていて、わたしにすべてを説明しているような気がしました。そして、わたしは全力をふるっておかみさんを振り払ってしまおうとするけれど、こうした努力の見込みがないことをはっきりと見て取っているのです。そして、その場合に、あざむかれたのはじつはもうわたしではなく――これまでもわたしはけっしてあざむかれたりしませんでしたわ――知らない女の人だったのです。それから、わたしがなお元気をふるい起こして、ハンスに何になりたいのかとたずね、あの子があなたのような人になりたい、といい、従ってもう完全にあなたのものとなったときに、ここで利用されたあの善良な少年のハンスと、あのとき酒場にいたわたしと、いったいどれほど大きなちがいがあったでしょうか」
「君のいうことはすべて」と、Kはいったが、非難されることに慣《な》れて、自分を取りもどしていた。「ある意味では正しいよ。それはまちがってはいないのだけれど、ただ敵意を含んだものだね。それは君自身の考えだと君が思っても、私の敵であるあのおかみの考えなのさ。そのことは私をなぐさめてくれるね。でも、そうした考えには教えられるところが多いし、まだいろいろおかみから学ぶことができるよ。おかみはそのほかのことでは私に容赦《ようしゃ》しなかったけれど、私自身にはそのことはいわなかった。おかみがこんな武器を君にゆだねたのは、君がこの武器を私にとってとくに困る時期か、決定的な時期かに使うということを期待してのことだったらしいね。もし私が君を利用しているなら、おかみも君を同じように利用しているんだ。ところで、フリーダ、よく考えてごらん。もしすべてがおかみのいうとおりそのままだとしても、それがひどく悪質なのは、ただ一つの場合だけのことじゃないかね。つまり、君が私を愛していないという場合だ。そのときには、そのときにだけは、私が君を所有して暴利をむさぼるために、打算と術策とによって君を手に入れたのだ、ということにほんとうになるだろう。そうだとすると、私があのとき、君の同情を呼び起こすために、オルガと腕を組んで君の前に現われたということからして、おそらく私の計画のうちに入ることになるだろうよ。おかみはただ、このことを私の罪を数え上げるときにいい忘れただけなんだろう。でも、もしこれがそんな悪質な話ではなく、またずるい猛獣があのとき君を奪い去ったというのでなくて、君が私に向ってやってきたのであり、私も君に向って歩みよっていったのであって、私たち二人が自分を忘れてたがいに見出し合ったのだったとすれば、どうだい、フリーダ、そのときにはいったいどうなるんだね? そのときには、私は自分のことも君のことも同時にやることになるんだ。この場合には君と私との区別なんかなくて、ただ敵であるおかみがあるだけだ。これはすべてのことにあてはまるんだ。ハンスについてもそうだよ。私のハンスとの対話を判断するとき、ともかく君は感じやすいものだから、とても誇張して考えているんだよ。というのは、ハンスと私との意図は完全には一致しないにしても、この二つのあいだに対立関係といったものが生まれるまでにはいっていないよ。その上、ハンスには私たち夫婦の意見のくいちがいがわからずにいなかったのだよ。もし君がハンスはそれに気づかずにいたのだと思うなら、君はあの注意深い子供のことをひどく過小評価していることになるだろう。そして、万事がハンスにわからぬままであったとしても、そのために困る人間はだれ一人いないと私は思うんだけれど」
「ものをちゃんと見さだめるということはとてもむずかしいものね、K」と、フリーダはいって、溜息をもらした。「わたしはたしかにあなたに対して不信なんか抱いたことはなかったわ。そして、もし何かそういったものがおかみさんからわたしにのり移ってきているのであれば、わたしはそんなものをよろこんで投げ捨ててしまいましょう。また、ひざまずいてあなたの許しを願いましょう。わたしがなおそんな悪いことをいうとしても、ほんとうはいつでもあなたの前にひざまずいて許しを願っているのですわ。でも、あなたがたくさんのことをわたしに対して秘密にしているということは、やはりほんとうなんだわ。あなたは帰ってきて、また出かける。けれど、わたしにはどこから帰ってきて、どこへいくのかはわからないんです。さっき、ハンスがノックしたとき、あなたは〈バルナバス〉という名前を叫びさえしました。あのときわたしにはわからない理由からこのいやらしい名前を呼んだのと同じように、あなたがわたしの名前もそんな愛情をこめて呼んで下すったらいいのだが、とわたしは思うの。あなたがわたしを信用して下さらないとき、どうしてわたしのほうでも不信の気持が起きてはいけないのです? わたしを信用なさらないなら、わたしはすっかりおかみさんの手にまかされたことになるじゃありませんか。あなたの態度はおかみさんのいったことを裏書きしているように思えます。すべてがそうだ、なんて申しません。あなたがすべてにおいておかみさんのいうことを裏書きしているのだ、なんてわたしはいい張ろうとは思いません。だって、あなたはともかくわたしのために助手たちを追い払って下すったじゃありません? ああ、あなたにわかってもらえたら! わたしがあなたのやったりいったりするすべてのことのうちに、たといそれがわたしの心を苦しめるものであっても、わたしにとって好ましい核心をどんなに求めているかということを!」
「何よりもまず、フリーダ」と、Kはいった、「私は君にちょっとだって隠しごとなんかしてはいないよ。おかみのやつ、どんなに私を憎み、君を私から奪い去ろうとどんなに努力しているんだろう! そして、なんていう軽蔑すべき手段でおかみはそのことをやり、君はなんておかみのいうままになっているんだろう、フリーダ! いってくれたまえ、私が君にどんなことを隠し立てなんかしているんだい? 私がクラムのところにいきたがっているということは、君も知っている。彼に会うことで君が私を助けてくれることができないで、そこで私が自分の力でそれをやらなければならないということも、君は知っている。これまで私は彼に会うことができないでいるということは、君にはわかっている。この無益な試みはそれだけですでにほんとうにひどく私の心を傷つけているのに、そんなことを話して二重に私の心を傷つけなければならないのだろうか。クラムのそり[#「そり」に傍点]のドアのところで凍《こご》えながら、長い午後をむなしく待ったというようなことを、得意げに話さなければならないのかい? もうそんなことを考えなくてもよいのだと幸福感を味わいながら、私は君のところへ急いで帰ってくるんだ。ところが、君という人の口からそうしたすべてのことが私をおびやかすようにふたたびもち出されるのだ。そして、バルナバスだって? 私はなるほどあの男を待っている。あの男はクラムの使いの者だ。私があの男をそんな役にしたんじゃないんだ」
「またバルナバスなの!」と、フリーダは叫んだ。「あの男がよい使いの者だなんて、わたしには信じられないわ」
「それはおそらく君のいうとおりだろう」と、Kはいった。「だが、あの男は、私に送られてくるただ一人の使いの者なんだよ」
「それだけにいよいよ悪いのよ」と、フリーダはいう。「それだけにあなたはあの男のことをいよいよ用心しなければならないのよ」
「残念ながら、あの男はこれまでに一つもそのためのきっかけをつくらなかったよ」と、Kは微笑しながらいった。「あの男はまれにしかやってこない。そして、あの男のもってくることは、つまらぬことばかりだ。ただそれがクラムから直接に出ているということだけが、それを価値のあるものにしているんだ」
「でも、いい」と、フリーダはいった。「もうけっしてクラムがあなたの目標なんじゃないわ。おそらくそれがわたしをいちばん不安にするのよ。あなたがいつでもわたしをそっちのけにしてクラムに会おうと迫っていたことは、よくないことだったわ。それは、おかみさんがけっして予想しなかったことです。おかみさんの言葉によると、わたしの幸福、どうだかあやしいけれど、ほんとうの幸福は、クラムに対するあなたの期待が空しかったと決定的にさとった日に終わるんですって。ところが、あなたはもうけっしてそんな日のことを待ってはいないんです。突然、一人の小さな男の子が入ってくると、その子の母親を手に入れようとしてその子と争い始めるのです。まるで命をつなぐ空気を求めて闘っているという調子だわ」
「君はハンスとの私の対話を正しく理解したね」と、Kはいった。「ほんとうにそのとおりだったんだよ。でも、君のこれまでの生活がすっかり忘却の底に沈んでしまって(もちろんおかみは除いての話だ。あれはむざむざ突き落されるような女じゃないさ)、そのために、前へ進むためには闘いを行わなければならないのだということ、ことに下のほうからのぼっていくときにはそうだということが、君にはわからないんじゃないかい? なんらかの希望を与えることはなんでも利用しなければならないんじゃないかね? そして、あの細君は城の出なんだよ。私が到着した最初の日にラーゼマンの家に迷いこんだときに、あの人自身がそう私にいったんだ。あの人に助言か、あるいは助力さえ頼むということよりもわかりきったことがあったろうか? おかみが、クラムから引き離すあらゆる妨害だけをくわしく知っているとすれば、この細君はクラムのところへいく道をほんとうに知っているんだ。あの人は自分でその道を下りてきたんだからね」
「クラムのところへいく道ですって?」と、フリーダはたずねた。
「そうだよ、クラムのところへいく道だ。そのほかにどこへいくというんだ」と、Kはいった。それから彼は跳び上がった。「ところで、中食を取ってくるぎりぎりの時間だ」
フリーダはこのきっかけをはるかに超《こ》えて、ここにいてくれとしきりとKに頼むのだった。まるで、彼がここにいてくれてこそ、彼が彼女にいったすべてのなぐさめの言葉がはじめて裏書きされるのだ、といわんばかりであった。だが、Kは彼女に教師のことを思い出させ、いつでも雷のような音を立てて引き開けられかねないドアを指さした。そして、すぐ帰ってくると約束し、君はけっして火を焚《た》く必要はない、自分がその心配をするから、といった。とうとうフリーダもKのいうことに黙って従った。彼が外へ出て、雪のなかを踏みしめていったとき、――ほんとうはもうとっくに道の雪かきがすんでいなければならないところだったが、奇妙なことに、その仕事はなんとゆっくり進められていたのだろう――彼は格子塀のところに助手の一人が死んだように疲れ切ってしがみついているのを見た。一人だけしかいない。もう一人のほうはどこにいるのだろう? それではKは少なくとも一人のほうの忍耐力を打ち破ったわけか? むろん残ったほうの男はまだほんとうに真剣だった。そのことはその様子からも読み取れた。この男は、Kの姿を見て元気づき、すぐにあらあらしく両腕をさしのばし、こがれるように眼を大きく見開き始めた。
「あの男の強情さは模範的だ」と、Kはひとりごとをいったが、とはいってもこうつけ加えないでいられなかった。「そんな強情をつづけていると、格子のところで凍死してしまうぞ」
だが、Kは外見上はその助手に対してただ拳でおびやかし、近づくことをこばんでみせただけだった。はたして助手は不安げにかなりの距離をうしろへ退いていった。ちょうどそのとき、フリーダが窓の一つを開けた。Kと相談したように、火を焚く前に換気するためだった。すぐに助手はKをほっぽり出して、逆らいがたくひきつけられるように、窓のほうへ歩みよっていった。フリーダの顔は、助手に対しては親しみのために、Kに対しては訴えるような当惑のために、ゆがんだ。彼女は上の窓から少し手を振った。――それが追い払おうとするのか、挨拶しようとするのか、けっしてはっきりしなかった――助手はその動作によって窓へ近づくことをためらったりなどしてはいなかった。そのとき、フリーダは急いで外側の窓を閉めた。だが、そのうしろで、手を窓の取手に置き、頭を横に傾け、大きく眼を見開き、こわばったような微笑を浮かべて、たたずんでいた。そんな動作をすれば助手をおどかすよりはむしろ誘うようなものだ、ということを彼女は知っているのだろうか? しかし、Kはもう振り返らなかった。彼はむしろできるだけ急いでいって、すぐに帰ってこようと思ったのだった。
第十四章
とうとう――もう暗くなっていた。午後も遅かったのだ――Kは校庭の道の雪かきをすませた。道の両側に雪を高く積み上げ、それを打ち固めた。これで一日の仕事をしとげたのだ。校庭の門のところに立ったが、あたりをずっと見廻しても、彼だけしかいなかった。例の助手は何時間も前にもう追い払ってしまった。かなりな距離を追い立てていったのだ。すると助手は小さな庭と小屋とのあいだのどこかに身を隠してしまい、もう見つけられなくなったし、それからも二度と姿を見せなかった。フリーダは建物のなかにいて、もう洗濯物を洗うか、あるいはまだギーザの猫の身体を洗うかしていた。ギーザがフリーダにこの仕事をまかせたことは、ギーザのほうからの大きな信頼のしるしであった。とはいっても不潔でかんばしからぬ仕事ではあった。いろいろ職務をなまけてしまったあととなってみれば、ギーザに感謝させることのできるあらゆる機会を利用することが大いに有利であるのでなかったならば、こんな仕事を引き受けることはKにはおそらく我慢できなかっただろう。ギーザは、Kが屋根裏部屋から子供用の小さなたらいをもってきて、湯がわかされ、最後に用心深く猫をたらいのなかに入れるさまを、満足そうにながめていた。それから、ギーザは猫をすっかりフリーダにまかせさえしたのだった。というのは、最初の晩にKが見知ったシュワルツァーがやってきて、あの晩から尾をひいている恐れの気持と、小使ふぜいに対するにはふさわしいといわんばかりの度を超えた軽蔑《けいべつ》の気持とがまじった態度でKに挨拶し、それからギーザといっしょに別な教室のほうへいってしまったのだった。この二人はまだその教室にいた。橋亭で人が話していたところによると、シュワルツァーは執事の息子であるのに、ギーザに対する愛からすでに長いあいだ村に住み、彼がもついろいろな縁故関係の力で村の人びとから助教員と呼ばれるような地位を手に入れていた。だが、彼はこの職務を主として次のようなやりかたで実行しているのだった。つまり、ギーザの授業時間にはほとんど欠かさず出てきて、子供たちのあいだにまじって児童用の長椅子に坐るか、あるいはむしろ好んでギーザの足もとの教壇に坐るかするのだ。これはもう少しも授業のじゃまにならなくなっていた。子供たちはすでにずっと前からそれに慣れてしまったのだ。これがいっそうたやすくいったのは、おそらく次の理由からだ。つまり、シュワルツァーは子供たちに愛情も理解ももっていないで、ほとんど子供たちとは口をきかず、ただギーザの体操の授業だけを引き受け、そのほかはギーザの身近かで、彼女の身辺の空気と彼女の身体の暖かみとのなかで暮らすことに満足しているからだ。彼の最大の楽しみは、ギーザのわきに立って、練習帳の点検をすることだった。きょうも二人はその仕事をやっていた。シュワルツァーは山のような帳面の束をもってきていた。例の男の教師はいつでもこの二人に自分の分の仕事までやらせているのだ。そして、まだ明るいうちは、この二人が窓ぎわの一つの小さな机のそばで頭と頭とをよせて仕事をするのがKには見えたが、今ではそこで二本の蝋燭がちらちらしているのが見えるだけだった。この二人を結びつけているのは、まじめで無口な恋だった。この恋愛を牛耳っているのはギーザのほうだった。彼女の重苦しい人柄はときどき荒れて、あらゆるけじめを破るのだったが、彼女もほかの人たちがほかの場合に自分と同じようなことをするのであったら、けっして我慢はしなかっただろう。そこで元気のよいシュワルツァーのほうも彼女に調子を合わせて、のろのろと歩き、ゆっくりとしゃべり、黙りがちにしていなければならなかった。だが、彼にとっては――これは人眼にも明らかだが――ただギーザが黙って眼の前にいるというだけで、いっさいのことがむくいられるのだ。ところでギーザはおそらく彼を全然愛していないのかもしれない。いずれにせよ、彼女の円い、灰色の、まるっきりまばたきしない、むしろ瞳孔《どうこう》のなかが廻っているように見える両眼は、そのような問いかけには何の返答も与えないのだ。彼女が異論もいわないでシュワルツァーを我慢している、ということだけは見て取れた。だが、執事の息子に愛されるという名誉は、彼女がきっと評価できないものなのだ。そして、シュワルツァーが視線で自分を追っていようといなかろうと、いつも変わらずに落ちついて彼女のまるまるした豊満な身体を運んでいく。それに対してシュワルツァーのほうは、いつも村にとどまっているという不断の犠牲を彼女に捧げているのだ。彼をつれもどすためにしばしばやってくる父親の使者を、ひどく腹を立てて追い払うのだが、彼らによってちょっとでも城のことや子としての義務のことを思い出させられるのは、自分の幸福を取り返しのつかないほどひどく妨げられることだ、といわんばかりであった。それでも彼にはほんとうは自由な時間がたっぷりあった。というのは、ギーザはふだん、ただ授業時間中と練習帳の点検のときにだけ、彼に姿を見せるのだ。これはむろん打算からやっていることではなく、彼女はのびのびした生活が好きで、それゆえひとりでいることが何よりも好きであり、おそらく家にいて完全な自由を味わいながら長椅子の上に身体をのばすことができるときがいちばん幸福なのだった。そんなとき、彼女のそばには猫がいるが、これがもうほとんど動けないので、別にじゃまにもならない。そこでシュワルツァーは一日の大部分を仕事もしないでぶらぶら過ごすのだが、これがまた彼には好ましいのだ。というのは、そういうときにはいつでも次のような機会があるわけで、彼はそんな機会を十分に利用もする。つまり、そんなときにはギーザが住む獅子街へ出かけていき、屋根裏の彼女の小さな部屋まで上がっていって、いつでも鍵がかかっているドアのところで聞き耳を立て、部屋のなかが例外なくなぜかわからぬほど完全に静まり返っているのをたしかめると、また急いでそこを立ち去っていく。ともかく、それでも彼においてもこうした暮しかたの結果がときどき現われた。――だが、けっしてギーザの面前ではそんなことはなかった――それが現われるのは、ほんのちょっとのあいだ目ざめる役所一流の尊大さを滑稽に爆発させるときだけである。その役所一流の尊大さというのは、むろん彼の現在の地位にはすこぶるぴったりしないものだ。とはいえ、そんなときにはたいていはあまりかんばしくない結果になるのだった。そのことはKも体験していた。
ただ驚くべきことは、人びとが少なくとも橋亭では、尊敬すべきことというよりは滑稽であるようなことに関する場合であってさえ、ある種の尊敬をこめてシュワルツァーのことを話すという点であった。ギーザまでこの尊敬の余徳にあずかっていた。それにもかかわらず、助教員であるシュワルツァーがKよりも途方もなく優越した地位にいるのだと信じていることは、正しくなかった。そんな優越性などはないのだ。学校小使は教師たちにとって、ましてやシュワルツァーのたぐいの教師にとっては、なかなか重要な人物であり、それを軽蔑するようなことがあれば、その返報を受けないではすまない。そういう人物に対して軽蔑的な態度を取ることを身分の上からどうしても捨てかねるというのであれば、少なくともそれに対応するような返礼によってその人物にそんな軽蔑を耐えうるようにしてやらねばならぬのだ。Kはときどきそのことを考えようとした。それにまたシュワルツァーはあの最初の晩以来、こちらに対して借りがあるわけだ。あの晩以後のなりゆきからいうと、シュワルツァーの自分に対する応対のしかたはほんとうはもっともだったといえ、それによってこの男の自分に対する借りは小さくはなっていないのだ。というのは、その場合、あの応対のしかたがおそらくはそれにつづくいっさいのことにとっての方向を決定してしまったのだ、ということは忘れてはならない。シュワルツァーによって、まったくばかばかしいことだが、この村に着いた最初のときからただちに役所の注意が完全に自分の上に注がれるようになってしまったのだ。そのとき彼はまだこの村で完全に不案内で、知る人も逃がれ場所もなく、旅のために疲れきって、まったく途方にくれてあの藁ぶとんの上に寝て、役所のどんな干渉にも身をまかせきりになっていたのだった。たった一晩遅く着いていたら、万事はちがって、おだやかに、半ば人知れずに行われたことだろう。いずれにせよ、だれも自分のことなんか知らず、少しも嫌疑などはもたないで、少なくとも旅の若者として一日ぐらい自分の家に泊めてくれることをためらいはしなかったろう。役に立ち信用がおけるということを見て取ったでもあろうし、そのうわさが近所にも拡まって、おそらくすぐどこかに下僕として住むことになったろうと思われる。もちろん、そんななりゆきは城の役所の眼を逃がれることはなかったろう。だが、夜中に自分のために中央事務局か、あるいはそのほかの電話のそばにいた者がゆすり起こされ、その場ですぐ決定を下すように迫られ、しかも表面は謙虚そうだが、じつはうるさいくらいしつっこく要求され、その上その相手が上の人びとからはおそらく嫌われているシュワルツァーであった、というのと、それともこんな手順とはちがって自分が翌日になってから執務時間中に村長をたずね、自分はよそからきた旅の若者だが、これこれの村の住人のところにすでに泊っていて、おそらくあすはまた出発していくだろうと申し出るのとでは、その二つの場合に大きなちがいがあったのだ。ただし、そうやって申し出たとしても、まったくありそうもない事態になってしまい、自分がこの土地で仕事にありつくというようなことがなかったとしての話だ。もっとも、仕事にありつくといっても、もちろんほんの二、三日のことだったろう。というのは、自分はそれ以上はけっしてこんなところにとどまりたくはないからだ。もしシュワルツァーさえいなかったら、そんなふうなことになっただろう。それでも役所はやはりこの件をいろいろと取り扱ったことだろうが、落ちついて役所風に、おそらく役所がとくに嫌っている相手方のあせりなどには妨げられずにやったことだろう。そこで、じつはKにはいっさいのことに責任がなく、罪はシュワルツァーにあるのだ。だが、シュワルツァーは執事の息子であって、外見上は彼のふるまいは正しかったので、そのためKだけにつぐないをさせることができたのだ。そして、こういうすべてのばかげた結果を生んだ動機はなんだったのだろう? おそらくあの日のギーザの不機嫌な気分なのだ。そのためにシュワルツァーは夜分眠れぬままにうろつきまわり、つぎにKに自分の悩みの埋め合せをさせたのだ。むろん、別な面からいえば、Kはシュワルツァーのこんなふるまいに多くのものを負うているともいえる。ただそのことによってだけ、Kがひとりではけっしてできず、またけっしてしようとはしなかったと思えること、そして役所の側としてもほとんどみとめなかっただろうと思えること、つまりこんなことが役所においておよそ可能だとしての話だが、彼がはじめからてくだを使わず公然と面と向って役所に立ち向かうということが可能となったのだ。しかし、それは悪い贈物であった。なるほどそのためにKはいろいろないつわりや偽善をしないでもすんだが、それはまた彼をほとんど無防備の状態に陥れ、いずれにもせよ闘いにおいて彼を不利にさせたのだ。そして、もし彼が自分自身に向って、役所と自分とのあいだの力のちがいは途方もないくらい大きなものなので、自分にできる嘘とか術策とはその段ちがいの力の差異を本質的に自分に有利なように抑えつけておくことはできなかったのだ、といい聞かせなかったならば、彼は役所との闘いについて絶望させられてしまったことだろう。しかし、これはKがみずからなぐさめるための頭のなかだけの考えごとにすぎなかった。それにもかかわらず、シュワルツァーは今でも彼に借りがあるのだ。あのときKに損害を与えたのであれば、おそらく近いうちに彼を助けることだってできるはずだ。Kはこれからも、きわめて小さなことにおいてさえ、つまりいちばんはじめの予備的な条件においても、助力を必要とするだろう。たとえばバルナバスもやはりそういう点では役に立ちそうには思われなかった。
フリーダのために、Kは一日じゅう、バルナバスの家に様子を探りに行くことをためらっていた。フリーダの前でバルナバスを迎えねばならぬようなことがないように、彼は仕事を屋外でやり、仕事のあとでもバルナバスを待ちながらそこにとどまっていた。だがバルナバスはやってはこなかった。今では、バルナルバスの姉妹のところへいく以外にてだてはなかった。ただほんのちょっとのあいだだけ、ただほんの戸口のところからだけたずねてみようと思った。それならすぐもどってこられるだろう。そして、彼はシャベルを雪のなかにさしこんで、走っていった。息もつかずにバルナバスの家に着くと、ちょっとノックしたあとでドアを引き開け、部屋のなかがどんなふうかということには目もくれずに、たずねてみた。
「バルナバスはまだ帰ってきませんか」
そこではじめて気づいたのだが、オルガはいず、老人夫婦が遠くのほうに離れた机のそばにぼんやりした状態で坐っていて、ドアのところで何が起ったかまだはっきり呑みこめないで、ゆっくりと顔をKのほうに向けた。それから最後に気づいたのだが、アマーリアが毛布をかぶってストーブのそばの長椅子に寝ていて、Kが現われたことにびっくりして飛び起き、心をしずめようとして手を額にあてた。オルガがここにいてくれたら、彼女がすぐ返答してくれ、Kはすぐ帰れたであろうが、彼女がいないのでKは少なくとも二、三歩アマーリアのほうに歩みよって、手をさし出さなければならなかった。アマーリアはその手を取って無言のまま握手した。Kはまた、驚きでかり立てられた両親が歩き廻ったりしないようにしてくれ、と彼女に頼まなければならなかった。すると彼女は二こと三こと何かいってそのとおりにした。Kが聞いたところによると、オルガは内庭で薪を割っていて、アマーリアはすっかり疲れたので――彼女は理由はいわなかった――ちょっと前に横にならないでいられなかった。そして、バルナバスはまだ帰ってこないけれど、すぐ帰ってくるにちがいない。というのは、彼は城にはけっして泊まらない、ということだった。Kはいろいろ教えてもらったことに礼をいって、もう帰ることができたのだが、アマーリアがオルガのもどるのを待たないかとたずねた。だが、残念なことに自分はそのひまがない、といった。するとアマーリアは、きょうはもうオルガとお話しになったのか、とたずねた。彼は驚いて話してないといって、オルガが自分に何か特別なことを知らせようと思っているのか、とたずねた。アマーリアは少し怒ったように口をゆがめ、黙ったままKにうなずいてみせた。それは明らかに別れを告げる挨拶だった――そして、また身体を横たえた。寝たままKの様子をじろじろながめていたが、まるで彼がまだそこにいるのをいぶかしく思っているようであった。彼女のまなざしは、いつものように冷たく、澄んでいて、動かなかった。そのまなざしは彼女がながめているものにまともに向けられているのではなくて、――これはいかにもわずらわしかったが――ほとんど気づかぬくらい少しだが、疑いなくそれをとおり過ぎて遠くのほうへいっているのだった。その原因となっているのは、気の弱さとか当惑とか嘘いつわりといったものではなく、ほかのあらゆる感情をしのぐような孤独を求めるたえることのない欲求であるらしかったが、その欲求はただこんなふうにしてはじめて彼女自身に意識されてくるのであった。Kはそういえば思いあたるような気がしたが、彼がここにきた最初の晩にもこのまなざしが彼の心を捉え、そればかりかこの一家がたちまち彼の心に与えたいとわしい印象のすべてはこのまなざしからきていたのだった。そのまなざしはそれ自体としていとわしいものではなくて、誇らかで、その心を打ち明けようとしない点で正直なものであった。
「あなたはいつでもとても悲しそうですね、アマーリア」と、Kはいった。「なにか悩みがあるんですか? 私はまだあなたのような田舎《いなか》の娘さんを見たことがありません。ほんとうは、きょうはじめて、つまり今やっと、私はそれに気づいたのです。あなたはこの村の出なんですか。ここで生まれたのですか」
アマーリアは、この最初の問いのほうだけが自分に向けられたのだというように、そうだといって、次にいった。
「それではあなたはオルガをお待ちになるのね?」
「なぜあなたはいつでも同じことをおたずねになるのか、私にはわかりませんね」と、Kはいった。「もうこれ以上ここにいるわけにはいかないんです。家で婚約者が待っていますんでね」
アマーリアはむっくと起きて肘で身体を支えた。婚約者のことは知らなかったのだ。Kはフリーダの名前をいったが、アマーリアは彼女を知らなかった。アマーリアは、オルガがその婚約のことを知っているのか、とたずねた。Kは、きっと知っていると思う、オルガは自分がフリーダといっしょにいるのを見たし、村ではこんなうわさはすぐ拡がるものだ、といった。だがアマーリアは、オルガはそれを知らない、それを聞いたら彼女は悲しむだろう、というのは彼女はKを愛しているらしいのだ、と保証した。そして、こんなことをいうのだった。オルガはそのことをあからさまにはいわなかった。というのは、オルガはとてもひかえ目なのだ。でも、愛というものはほんとうに思わず知らずおもてに出るものだ、と。それに対してKは、アマーリアは思いちがいしていると確信する、といった。アマーリアは微笑したが、この微笑は悲しげであったが、暗くしかめていた顔を明るくさせ、よそよそしさをうちとけた態度へと変え、秘密を捨て去り、また取りもどすことができるかもしれないが、しかしけっしてもうそのままそっくりは取りもどすことのできない、これまで守ってきた秘密という自分のもちものを捨て去るものであった。アマーリアは、自分はほんとに思いちがいなんかしていない、それどころかもっと知っていることがある、Kのほうでもオルガに愛情を抱いていて、Kが訪ねてくることも、何かバルナバスのたよりを口実にしているが、ほんとうはただオルガが目あてなのだということを知っている、という。でも今では、アマーリアがなんでも知っているんだから、もうあまり固苦しく考える必要はないし、しばしばやってきていいのだ。このことを自分はあなたにいおうと思っていた、といった。Kは頭を振って、自分の婚約のことを思い出させた。アマーリアはこの婚約のことをあまり考えようとはしていないようだった。ただひとりで自分の前に立っているKの直接の印象が彼女にとっては決定的だったのだ。彼女はただ、いつその娘を知るようになったのか、だってあなたはほんの数日前に村へやってきたのではないか、とたずねた。Kは紳士荘でのあの晩のことを語った。それに対してアマーリアはただ簡単に、あなたを紳士荘へつれていくことに自分はとても反対だった、といった。彼女はその言葉の証人としてちょうど入ってきたオルガにも呼びかけた。オルガは片腕にいっぱい薪を抱えて家のなかへ入ってくるところだった。冷たい風に吹かれて新鮮な感じになり、頬を赤くして、元気よく、力強い様子だった。この前のとき部屋のなかに重苦しく立っていたのに対して、仕事によってすっかり様子が変ったように見えた。オルガは薪を投げ出し、こだわりもなくKに挨拶し、すぐフリーダのことをたずねた。Kはそれこのとおりだといわんばかりにアマーリアに目くばせして見せたが、彼女は自分の意見を否定されたものとは思っていないらしかった。Kはそれを見て少しやっきとなって、そういうことがなければやらなかったと思われるほどくわしくフリーダのことを語った。どんなにむずかしい事情の下でフリーダが学校でともかく一種の家政の切り盛りをやっているか、ということをくわしく語って聞かせたが、あんまり急いで話をしているうちに――彼はすぐ家へ帰ろうと思っていたのだ――思わず知らず別れの挨拶の形で二人の姉妹に、一度自分のところへいらして下さい、と招待さえしてしまった。とはいえ、そういってすぐに彼は気がついてびっくりし、言葉をつまらせてしまった。一方、アマーリアは、彼にそれ以上ものをいう余裕を与えず、すぐさま、その招待をお受けする、ときっぱりといった。そこでオルガもそれに合わせなければならなくなって、同じようにお受けするといった。だがKは、急いで別れなければならないという考えにたえず攻め立てられ、またアマーリアの視線の下で不安をおぼえながら、ほかに言葉を飾るようなことは抜きにして白状することをためらわなかった。この招待はよく考えた上のことではまったくなくて、ただ自分の個人的な感情から申し出たものであり、自分は残念ながらそれを固く主張することはできない、その理由は、自分にはまったくわからないのではあるが何か大きな敵意がフリーダとバルナバスの一家とのあいだに存在しているからだ、といった。
「それは敵意ではありませんわ」と、アマーリアはいって、長椅子から立ち上がり、毛布を跳ねのけた。「そんなに大げさなことじゃないんです。それはただ村の人びとの考えの受売りなんですよ。さあ、もうお帰りなさい、婚約者のところへお帰りなさい。あなたが急いでいらっしゃることはわかります。また、わたしたちがうかがうなんていうご心配には及びません。わたしがうかがうってはじめにさっそくいったのは、冗談といたずら半分の気持とからですわ。でも、あなたはしばしばうちへいらっしゃってかまいませんのよ。あなたがいらっしゃるのに対してならきっとさしさわりなんかないでしょうから。あなたはいつだってバルナバスの使いのことを口実にできるはずですからね。なお、あなたがいらっしゃるのをやさしくするため、このことをいっておきましょう。バルナバスは城からの使いをあなたのためにもってくるけれど、もう二度とそれをお伝えするために学校へいくことはできないんです。兄はかわいそうにそんなにほうぼうかけ廻ることはできませんわ。お勤めでくたくたになっているんです。あなたはご自分で知らせを取りにいらっしゃらなければならないでしょう」
アマーリアがそんなにたくさんのことを話の関連をつけながら話すのは、Kはまだ聞いたことがなかった。彼女の話はまたふだんとはちがった響きをもっていた。一種の威厳がそのなかには含まれていた。それはKが感じたばかりでなく、アマーリアには慣れている姉のオルガもそれを感じているらしかった。オルガは、少し離れて、両手を前に置き、ふたたびいつものように足を開いて、少し前こごみになって立っていた。眼をアマーリアに向けていたが、アマーリアのほうはただKをじっと見ていた。
「まちがいですよ」と、Kはいった。「大きなまちがいですよ、もし私がバルナバスを待っているのはまじめな話ではないなんて思われるなら。役所とのあいだの私のいろいろな用件を解決することは、私のいちばん大きな、ほんとうはただ一つの願望なんです。そして、バルナバスにはそのことで私を助けてもらわなければならないんです。私の期待の多くはバルナバスにかかっています。あの人はすでに一度私をひどく落胆させはしましたが、それはあの人の罪というよりはむしろ私のほうの罪なんです。ここに着いたばかりで頭が混乱しているときのことでした。あのとき私はちょっとした夕方の散歩ぐらいで万事を片づけられるものと思っていました。そして、不可能なことが不可能だと明らかになったことを、私はあの人のせいにしたんです。あなたがたの家族やあなたがたについての判断においてさえも、そのことが影響したのでした。それももうすんだことです。今ではあなたがたのことをもっとよく知っていると信じます。あなたがたはそれに」と、Kはうまい言葉を探してみたが、すぐには見つけられないので、附随的な言葉をいうだけにとどめた。「あなたがたはおそらく、村の人びとのだれよりも気持がやさしいんです、私がこれまで知っている限りの人たちのなかで。でも、アマーリア、あなたは兄さんの勤めは軽視していないにしても、兄さんが私に対してもっている意味は軽視していて、それによって私の頭をまたまどわしているんですよ。おそらくあなたはバルナバスの仕事のことを知っていないんでしょう。それならいいんで、これ以上そのことを追求しようとは思いません。でもおそらくあなたは知っているんでしょう。――むしろそういう印象を私はもっているんだけれど――そうなると、悪いですね。というのは、それはお兄さんが私をだましているということになりますからね」
「落ちついて下さい」と、アマーリアはいった。「わたしは知らないわ。そんなことを知ろうという気をわたしに起こさせるものは何一つありません。何一つそんな気を起こさせるものはありませんわ。あなたのことを考えてあげることだってね。そのためにはわたしはいろんなことをよろこんでしてあげるでしょうけれど。というのは、あなたのおっしゃったように、わたしたちは気持がやさしいんですもの。でも、兄のことは兄のことなんだわ。わたしが兄のことで知っていることといえば、聞こうとも思わないのに偶然ときたま聞くことだけなんです。それとはちがって、オルガのほうはあなたに洗いざらい教えてあげることができます。というのは、オルガは兄が信頼している相手なんですもの」
そして、アマーリアはまず両親のところへいき、この二人と何かささやいていたが、それから台所へいってしまった。彼女はKに別れの挨拶もしないでいってしまったのだった。まるで、Kがまだ長いあいだここにいるだろうということを知っていて、別れの挨拶なんか不要だ、といわんばかりの態度だった。
第十五章
Kはいくらか驚いた顔つきをしてあとに残っていたが、オルガが彼のことを笑って、彼をストーブのそばの長椅子へ引っ張っていった。オルガは、今やっとKと二人きりでここに坐っていることができるのをほんとうに幸福に思っているように見えた。だが、それは静かな幸福であり、嫉妬に曇らせられたものではなかった。そして、まさにこの嫉妬から遠いということ、それゆえどんなきびしさも含まないことが、Kには気持がよかった。彼はオルガの、人の心をそそるようでも威圧的でもなく、内気そうに安らい、いつまでも内気そうにしている青い眼を心楽しく見ていた。まるで、フリーダとおかみとの警告の言葉が彼をこうしたすべてに対していっそう敏感にさせたわけではないが、彼をいっそう注意深く、いっそう明敏にしたかのようであった。そして、オルガが、なぜあなたはアマーリアのことを気持がやさしいなどといったのか、アマーリアにはいろいろなところがあるけれど、ただ気持がやさしいなどとはとてもいえないのに、と不思議そうにたずねたとき、Kはオルガといっしょに笑った。それに対してKは、そのほめ言葉はむろん君、オルガにあてはまるものだったのだけれども、アマーリアはあんまり威圧的なものだから、自分の面前で話されるすべてのものを自分のものとしてしまうばかりでなく、彼女の相手になる人間は自分のほうから進んですべてのものを彼女にわけてやることになるのだ、と説明した。
「それはほんとうね」と、オルガは少しまじめになりながらいった。「あなたが考えていらっしゃるよりももっとほんとうよ。アマーリアはわたしよりも若いし、バルナバスよりも若いけれど、家のなかで事をきめるのはよかれ悪しかれあの人なんです。むろん、妹にはよいところも悪いところもみんなより多いんだわ」
Kはそれを誇張だと思う、といった。彼女はたとえば兄のことは気にかけていない、それに反してオルガは兄のことについてなんでも知っているといったではないか。
「そのことをどう説明したらいいのかしら」と、オルガはいった。「アマーリアはバルナバスのことも、わたしのことも気にはかけていません。妹はほんとうは両親以外のだれのことも気にはかけていないのです。両親の世話は昼も夜もするんです。今もまた両親の希望をたずねて、両親のために台所へ料理しにいったんですのよ。両親のために無理して起き上がってしまったんですわ。だって、妹はお昼から病気で、ここの長椅子に寝ていたんですもの。妹はわたしたち兄姉のことを気にはかけないけれど、私たちはまるで妹がいちばんの年上でもあるかのように妹にたよりっきりなんですわ。妹がわたしたちのことについて忠告するときには、わたしたちはきっと妹のいうとおりに従うでしょう。でも、妹はそんな忠告なんかしませんし、わたしたちは妹にとって他人のようなものなんだわ。でもあなたは人間についての経験をもっていらっしゃるし、よそからきた人です。それで、うかがいたいけれど、妹はとくに頭がいいように見えないこと?」
「とくに不幸そうに見えますね」と、Kはいった。「でも、あなたがたがあの人を尊敬していることと、たとえばバルナバスがアマーリアの気に入らない、おそらくは軽蔑さえしているような使者の勤務をしていることとは、どうして矛盾しないんです?」
「ほかにやることを知っていたら、バルナバスは自分が全然満足していない使者の勤めなんかすぐやめてしまうでしょうよ」
「弟さんは腕のいい靴屋じゃないんですか」
「そうなのよ」と、オルガはいった。「本職のほかにブルンスウィックの仕事もやっているんです。もし弟がやろうとすれば、昼も夜も仕事があって、たっぷり収入があるんです」
「それなら」と、Kはいった。「使者の勤めの補いがつくわけですね」
「使者の勤めのですって?」と、オルガは驚いてたずねた。「いったい弟がお金をもうけるためにあの勤めを引き受けたとおっしゃるの?」
「そうでしょうね」と、Kはいった。「だってあなたは、あの仕事はあの人を満足させていない、といったじゃありませんか」
「あの勤めは弟を満足させてはいないんです。そして、さまざまな理由からです」と、オルガはいった。「でも、あれは城の勤めですわ。ともかく一種の城の勤めです。少なくともそう思えます」
「なんですって」と、Kはいった。「その点でもあなたがたは疑いをもっているんですか?」
「そう」と、オルガはいった。「ほんとうはそうじゃないんです。バルナバスは事務局へいき、小使たちと仲間づき合いしていますし、遠くのほうから何人かのお役人たちも見ています。かなり大切な手紙もあずかり、口頭で伝える使いもまかされます。それはなかなかたいしたことで、弟があの若さでどんなに多くのものを手に入れたか、わたしたちはそれを誇りにしてもいいはずですわ」
Kはうなずいた。家へ帰ることはもう考えていなかった。
「あの人は自分のお仕着せももっていますしね?」と、Kはたずねた。
「あの上衣のことをいっていらっしゃるの?」と、オルガはいった。「いいえ、あれはアマーリアがつくってやったんです、まだ使者になる前に。でも、あなたは痛いところへふれてきましたわ。弟はもうずっと前に、城にはないお仕着せじゃなく、役所の制服をもらっていいはずです。そう確約もしてもらったのです。ところが、この点では城の人たちはとてもゆっくりしているんです。そして悪いことは、このゆっくりしていることがどんな意味をもっているのか、だれにもわからないんですの。それは、事がお役所式に進められていることを意味するのかもしれません。でもまた、お役所式の仕事がまだ全然始っていないこと、つまりたとえばバルナバスを今もまだためしに使おうとしていることを意味するのかもしれないのです。そして最後に、お役所式の仕事がすでに終ってしまっていること、何かの理由からあの確約を取り下げてしまったのであり、バルナバスはもう制服をけっして手に入れないということを意味するのかもしれません。それについてこれ以上くわしいことは知ることができませんし、知るとしてもずっとあとになってからなんです。この土地にはこんな言い廻しがあるんですの。おそらくあなたはご存じですわね。役所の決定は小娘のように内気だ、って」
「それはよい観察ですね」と、Kはいった。彼はその言葉をオルガよりもまじめに受け取っていた。「それはよい観察だ。役所の決定はほかの特徴においても娘と共通な点をもっているかもしれませんね」
「おそらくそうでしょうね」と、オルガはいった。「むろん、あなたがどんな意味でそれをいっているのか、わたしにはわからないけれど。おそらくほめるつもりでいっていらっしゃるんでしょうね。でも、役所の制服についていうと、これはまさにバルナバスの心配の一つなんです。そして、わたしたち姉弟は心配をともにしていますから、わたしの心配でもあるんです。なぜ弟が役所の制服をもらえないのかって、わたしたちはおたがいに話し合うんですけれど、わかりはしません。ところで、このことはすべてそう簡単じゃないんですわ。たとえば役人たちはおよそ役所の制服なんかもっていないらしいんですもの。この土地でわたしたちが知っている限り、そしてバルナバスが話してくれている限りでは、美しくはあるけれどあたりまえの服を着て歩き廻っているんですわ。それに、あなたはクラムをごらんになったのね。ところで、バルナバスはもちろん役人なんかじゃなく、いちばん下の階級の役人でさえもありません。またそんなものになろうなんて思い上がってもいません。でも、上級の従僕たちも、むろんこの人たちはこの村でもおよそ見られないんですけれど、バルナバスのいうところによると役所の制服はもってはいないそうです。それはお前たちにとって一種のなぐさめになるんじゃないか、とすぐ人は思うかもしれません。でも、それは嘘ですわ。だって、バルナバスは上級の従僕でしょうか。いいえ、いくら弟がそう思いたがっても、そんなことはいえませんわ。上級の従僕なんかじゃありません。弟が村へやってくるということ、それどころかこの村に住んでいるということからして、弟が上級の従僕なんかじゃないという証拠ですわ。上級の従僕たちは、役人たちよりももっとひかえ目なんです。おそらくそれももっともで、おそらくあの人たちは多くの役人よりも地位が高いんです。二、三のことがそれを物語っています。あの人たちは仕事をすることが少なく、バルナバスのいうところによると、このぬきんでて身体の大きい、頑丈そうな人たちがゆっくりと廊下を通っていくところを見るのは、すばらしい光景だっていうことです。要するに、バルナバスが上級の従僕だなんていうことは、問題にならない話です。そこで、弟がせめて下級の従僕の一人であってくれればいいんですが、ところがまさにこの下級の従僕の人たちこそ役所の制服をもっているんです。少なくとも、あの人たちが村へ下りてくるときにはそうですわ。それはほんとうのお仕着せなんかじゃなく、いろいろちがいがあるんですけれど、それでもともかく服を見ただけで城からやってきた従僕だって見わけがつくんです。あなたはそういう人たちを紳士荘でごらんになりましたね。その服でいちばん目立つ点は、それがたいていぴったり身体についているということです。農夫とか職人でしたらこんな服を着ることはできないでしょう。ところで、そういう服をああしてバルナバスはもっていないんです。それは何か恥かしいとか面目を失うとかいうことだけでじゃなくて(そんなことなら我慢もできるでしょうが)、とくに憂鬱なときには――ときどき、けっしてめずらしいことじゃないんですが、わたしたち二人、つまりバルナバスとわたしとはそんな気持になるんですの――それがあらゆることを疑わさせるんです。バルナバスがやっているのは、およそ城の勤めなんだろうか、とそういうときにわたしたちはたずねてみます。たしかに、弟は事務局へいきます。しかし、事務局はほんとうの城なんでしょうか。そして、たとい事務局が城の一部だとしても、バルナバスが入ることを許されているのは事務局なんでしょうか。弟は事務局へ入っていきます。でも、そこは事務局の全体からいったらほんの一部分にすぎません。次に柵《さく》があって、柵のうしろにはさらに別な事務局がいくつもあるんです。その先へいくことを弟は禁じられてはいませんけれど、弟が上役の人びとをすでに見つけてしまって、その人たちが弟の用事をすませてしまい、弟にもう帰るようにというときに、どうして弟はそれ以上奥へいくことができるでしょう。その上、あそこでは人はいつでも見張られているんです。少なくともみんなそう信じていますわ。そして、たとい弟が先までいったとしても、そこで何もおおやけの用事があるわけでなく、一人の侵入者にすぎないとしたら、入っていったことがなんの役に立つでしょう? この柵をあなたは一定の境界なのだと考えてはいけません。バルナバスもわたしにそのことをくり返して注意しますわ。柵は弟が入っていく事務局にもあるんです。弟が通り抜けていく柵もあるんです。その柵は弟がまだ越えたことのない柵と別にちがっているようには見えません。そのためにも、これらのうしろのほうの柵の背後にはバルナバスが入った事務局とは本質的にちがった事務局があるとは、すぐには考えられません。ところが、あの憂鬱な気分に襲われるときには、そう思いこんでしまうんです。すると疑いが大きくなっていき、それにはもうまったく逆らうことができません。バルナバスは役人と会い、使いの命令を受けます。それはどんな使いなんでしょう。現在、弟は自分でいっているようにクラムのところに配属されて、クラム自身から命令を受け取ります。ところが、これがとてもたいしたことで、上級の従僕たちだってそんなところまではいきつくことはできません。それはほとんど過分だといっていいくらいで、そのことがわたしたちを不安にさせるんですわ。直接クラムに配属され、あの人と口から口へ話をするということを、考えてみても下さい。でも、このとおりなのでしょうか? そうです、このとおりなんです。でもなぜバルナバスは、あそこでクラムと呼ばれている役人がほんとうにクラムなのだろうか、なんて疑っているんでしょう?」
「オルガ」と、Kはいった。「冗談をいおうなんてしちゃいけませんよ。クラムの外見についてどうして疑いなんか生まれる余地があるだろう。だって、あの人がどんな外見をしているか、人びとがよく知っているじゃありませんか。私自身もあの人を見たことがあるんだ」
「とんでもないわ、K」と、オルガはいった。「それは冗談なんかじゃなくて、わたしのいちばんまじめな心配なんです。でも、このことをお話しするのは、なにもわたしの心を軽くして、あなたの心を重くしようなんていうためじゃないの。そうじゃなくて、あなたがバルナバスのことをたずねていらっしゃるし、アマーリアもあなたに話すようわたしに頼んだからですわ。そして、くわしいことを知るのはあなたにも役に立つと思うからなの。またバルナバスのためにもこうやってお話ししているんです。あなたが弟にあまりに大きすぎる期待をかけないように、また弟があなたを失望させたり、次にあなたの失望で弟が悩んだりしないためになのよ。弟はとても神経質なんです。たとえばゆうべも眠らなかったんですよ、あなたがゆうべ弟に不満だったからですわ。あなたがバルナバスのような使いの者しかもっていないのは、あなたにとってひどくまずいことだって、あなたはいったということですね。この言葉が弟を眠れなくしてしまったんです。あなた自身はきっと弟の興奮に、たいして気づかなかったでしょうけれど。城の使者っていうものはとても自分を抑えなければならないんです。でも、弟にとってはそれはやさしいことじゃないんですわ。あなたの相手になるときだって、やさしいことではないんです。あなたはなるほどあなたのつもりでは弟に過大なことを要求しているわけじゃないんでしょう。あなたは使者の勤めについての一定の考えをもっていらっしゃるんだし、それによってあなたの要求を計っていらっしゃるんです。でも、城では人びとは使者の勤めについてあなたとはちがった考えをもっているんですの。その考えはあなたのとは一致するはずがありませんわ。バルナバスが勤めのために身を犠牲にしたとしても、だめでしょう。ところで、弟は困ったことにときどき身を犠牲にする用意があるように見えます。もっとも、バルナバスのやっていることがほんとうに使者の勤めなのだろうか、という疑問さえなかったら、弟のやることに従わないわけにいかないだろうし、それに対して何もいってはいけないでしょう。もちろん、あなたに向ってはそのことについての疑いを口にしてはいけないんです。そんなことをするなら、弟にとっては弟自身の生存の基盤を掘り返してしまうことを意味するでしょうし、自分がまだ従っていると信じているいろいろな掟《おきて》を乱暴に傷つけることになるでしょう。そして、わたしに対してさえも弟は打ち明けてはくれないんです。お世辞をいったり、接吻をしてやったりして、わたしは弟の口からそうした疑いを聞き取らなければなりません。そして、弟は話してしまってからも、その疑いが疑いであることをみとめまいとして抵抗するんです。弟は何かアマーリアと共通なものを血のなかにもっているんですわ。わたしこそ弟の信頼しているただ一人の人間ですけれど、弟はわたしにみんな打ち明けて話すわけじゃありません。でも、わたしたち二人はクラムについてはときどき話します。わたしはまだクラムを見たことはありません。――あなたもご存じのように、フリーダはわたしがあまり好きじゃありませんし、クラムの姿を一度ものぞかせてはくれなかったんです――でも、もちろん、クラムの外見は村ではよく知られていますわ。何人かの人びとはあの人を見ましたし、みんながあの人について聞いています。そして、実際に見たところやうわさや、それにまたいろいろな底意から出ているにせものの評判や、そうしたことをまぜ合わせてクラムのイメージがつくり上げられてしまったんです。それはきっと根本的な特徴についてはほんものと一致しているんですわ。でも、ただ根本的な特徴についてだけなんです。そのほかはいろいろ変わるんですが、おそらくけっしてクラムのほんものの外見ほどには変わらないでしょう。あの人が村にやってくるときと、村を出ていくときとではちがうし、ビールを飲む前と飲んだあととではちがうし、起きているときと眠っているときともちがい、ひとりでいるときと人と話をしているときともちがうんです。そして、このことからわかることは、上の城ではほとんど根本的にちがっているにちがいないっていうことです。そして、村のなかだけでもかなり大きなちがいがあって、そのことが人に知らされています。身長、態度、肥りかた、髯なんかのちがいです。ただ服装については知られていることが幸い一致しています。あの人はいつも同じ服を着ています。長いすそをした黒の上衣です。ところで、もちろんこうしたちがいはけっして魔術なんかのために起こることじゃなくて、とてもわかりきったことですけれど、ただ見る人が置かれている瞬間的な気分、興奮の程度、希望とか絶望とかの無数の段階から生まれるんですわ。それに見る人だって、たいていはほんの一瞬間だけしか見ることが許されないんですもの。こういうことはみんな、バルナバスがしばしばわたしに説明してくれたことをそっくりそのままあなたにお話ししているんですわ。そして一般には、もし個人的に直接こうしたことにかかわりをもっているのでなければ、これで安心できるはずです。けれども、わたしたちは安心ができません。バルナバスにとっては、自分がほんとうにクラムと話しているのか、そうでないか、ということは死活の問題ですもの」
「私にとってもそれに劣らぬくらいの問題ですね」と、Kはいった。そして二人はストーブのそばの長椅子の上で前よりも身体をよせ合った。
オルガのかんばしくないさまざまなニュースによって、Kは当惑してしまったが、それでも一つだけ埋合せになる点を見つけた。その埋合せになるというのは大部分は次の点にあった。つまり、少なくとも外面的に自分自身ととてもよく似た事情にある人間をここで見出したということ、つまり彼が仲間入りできるような人間、フリーダとのあいだのようにただ大部分の点でというのではなくて、多くの点でわかり合えるような人間をここに見出したということであった。なるほどKはバルナバスの使いの成功についての期待を次第に失ってしまっていたが、バルナバスの事情が上の城で悪くなればなるほど、それだけこの下の村では彼自身に近づくのだ。バルナバスとその妹のアマーリアとのようなこんな不幸な努力がこの村そのものから生まれ出ようなどということを、Kはこれまで一度も思ってもみなかったであろう。もちろんまだ事情はとても十分には説明されていないし、しまいにはまったく逆のほうへ向ってしまうかもしれなかった。オルガのある種の無邪気な人柄にすぐ誘惑されてしまって、バルナバスの誠実さのことも信じてしまうようなことがあってはならないのだ。
「クラムの外見についての話は」と、オルガは言葉をつづけた。「バルナバスはほんとうによく知っています。たくさんの話を集めたり、比べてみたりしました。おそらく多すぎるくらいですわ。また一度は自分でクラムの姿を村で馬車の窓越しに見ました。あるいは、見たと信じているんです。だから、あの人を見わける準備は十分にできているんですわ。ところが――あなたはこのことをどう説明なさるかしら?――バルナバスがある事務局へ入っていき、何人かの役人たちのうちの一人を示され、これがクラムなのだ、といわれたとき、クラムだと見わけることができなかったんです。そして、そののちも長いこと、その人がクラムだということになじむことができませんでした。で、今、あなたがバルナバスに、人びとがクラムについて抱いている普通の観念とあの人のほんとうの姿とがどの点でちがっているかとたずねても、弟は答えることはできません。それともむしろ、あなたに答えて、城でのあの役人のことをいろいろいうかもしれませんけれど、その弟がいうところとわたしたちの知っているクラムの姿とは、すっかり同じものになってしまうのです。『それなら、バルナバス』と、わたしはいうんです、『なぜ疑うの、なぜ自分を苦しめるの?』って。するとそれに対して、弟は眼に見えて苦しそうな様子で、城でのあの役人の特徴を数え上げ始めるんです。でも、弟はそうした特徴をありのままに話しているというよりは頭のなかで考え出しているように見えます。その上、そうした特徴はひどく取るにたらぬものなので――たとえば頭でうなずく特別なしぐさとか、あるいはただボタンをはずしたチョッキのこととかなんですわ――そんなものをまじめに受け取るわけにはいきません。わたしにもっと重要だと思われるのは、クラムがバルナバスと会うやりかたです。バルナバスはそのことをわたしにしばしば話してくれましたし、絵に描いて見せてくれさえもしました。普通、バルナバスは大きな事務室へつれていかれます。でも、それはクラムの事務局じゃありませんし、一人一人の役人の事務局なんかじゃないんです。その部屋は奥行きいっぱいに、壁から壁までとどいているたった一つの立ち机によって二分されています。その片方の狭いほうの部分は、二人の人間がやっとすれちがって歩けるくらいの広さですが、それが役人たちの部屋なんです。広いほうは、陳情者や見物人や従僕や使者などの部屋です。机の上にはページを開いて、大きな本が並んでのっています。たいていの本のところには役人たちが立って、それを読んでいるんです。けれども、いつまでも同じ本のところに立ちどまっているのではないのですが、本を交換するわけじゃなくて、場所を交換するんです。バルナバスにとっていちばんびっくりすることは、こうした場所の交換のときに、部屋が狭いため、役人たちがたがいに身体を押しつけ合ってすれちがっていかなければならないことだそうです。その大きな立ち机のすぐ前に低い小さな机があって、そこに書記たちが坐っていて、彼らは役人たちが望むときに口授によって書くのです。その有様にもバルナバスはいつでも驚いています。役人たちのはっきりした命令が下されるわけでもなく、また高い声で口授されるのでもないんです。口授が行われているなんてほとんど気がつかないくらいで、むしろ役人は前と同じように本を読んでいるように見えるんですが、ただその場合に、役人がそれでも何かささやいて、書記がそれを聞いているというわけです。しばしば役人があんまり低い声で口授するものですから、書記は坐っていてはそれを全然聞き取ることができないので、そこでいつでも跳び上がっては相手が口授していることを聞き取ろうとし、つぎに急いで坐ってそれを書き取り、今度はまた跳び上がる、というふうにつづくんです。なんて奇妙なんでしょう! ほとんどわけがわからぬくらいですわ。むろんバルナバスにはこうしたいっさいをながめている時間があります。というのは、弟はクラムの眼にとまるまで、そこの見物人の部屋に何時間でも、ときどきは何日でも立っているんです。そして、クラムがすでに弟を見て、バルナバスが気をつけの姿勢に身体を正しても、まだ何も決定が下されたわけじゃないんです。というのは、クラムはまた弟から本へと眼を転じ、弟のことを忘れてしまうかもしれないんですわ。そういうことはしょっちゅうあるそうですの。でも、そんなに重要でない使者の勤めなんてどんなものなんでしょうね? バルナバスが朝早く、これから城へいくんだ、っていうと、わたしは悲しくなります。このおそらくはまったく無益と思われる道、このおそらくはむだに失われる一日、このおそらくはむなしい期待。そんなすべてはいったいどんなものなんでしょう? そして、家には靴屋としての仕事がたまっているんですわ。それはだれもやるものがなくて、それをやるようにってブルンスウィックにせき立てられるんです」
「なるほどね」と、Kはいった。「バルナバスは、命令をもらうまで、長いあいだ待たなければならないんですね。それはよくわかることだ。ここでは使用人があり余っているようだからね。だれもが毎日、何か命令をもらうわけにはいかないんだから、それについてあなたたちは嘆く必要はないですよ。きっとだれでもそうなんだから。でも、しまいにはバルナバスも命令をもらうでしょうよ。私自身のところへ弟さんはもう二通の手紙をもってきましたよ」
「ほんとうにそうかもしれませんわ」と、オルガはいった。「わたしたちが嘆くのはまちがっているのかもしれないんだわ。とくに私はそうね。わたしったら、すべてをただ耳で聞いて知っているだけなんだし、また女の身ではそれをバルナバスのようによく理解できませんもの。それに弟はまだたくさんのことをわたしにはいってないんですものね。ところで、手紙のことがどうなっているか、たとえばあなた宛の手紙がどうなっているのか、ということをまあ聞いて下さいな。そうした手紙は直接クラムからもらうんじゃなくて、書記からもらうんです。任意の日、任意の時間に――そのために使者の勤めは、どんなにやさしく見えても、とても疲れるんですわ。だってバルナバスはいつでも注意していなければならないんですもの――書記がバルナバスのことを思い出して、弟に合図をするんです。クラムがそのことを命令したのでは全然ないらしいんですの。クラムは静かに本を読んでいます。もっとも、ときどきは(でも、これはふだんでもしばしばやるんですけれど)、クラムはバルナバスが入っていくとちょうど鼻眼鏡をふいています。眼鏡をふきながら、おそらくバルナバスをじっと見ます。もっとも、クラムが鼻眼鏡なしでものが見えるとしてのことですが。バルナバスは鼻眼鏡なしでは見えないんじゃなかろうか、って疑っていますわ。クラムは眼鏡をはずしているときは、両眼をほとんど閉じて、眠っているように見えるし、ただ夢のなかで鼻眼鏡をふいているように見えるんですもの。で、そうしているうちに書記が机の下にあるたくさんの書類や書簡類から、あなたに宛てた一通の手紙を取り出します。ですから、それは書記がちょうど今書き終った手紙なんかじゃなくて、むしろ封筒の外見からいうと、すでに長いあいだそこで眠っていたとても古い手紙なんですわ。でも、古い手紙なら、なぜバルナバスをそんなに長いこと待たせるんでしょうね? それからあなたもね? そして、もう一つ、その手紙もね。というのは、手紙は今ではもう古びてしまっているんですもの。そして、そのためにバルナバスは、かんばしくないのろのろした使者だっていう悪評を立てられてしまいました。といって書記にとっては仕事は簡単で、バルナバスに手紙を渡し、『クラムからK宛だ』といいます。それでバルナバスは追い出されるわけです。ところで、それからバルナバスは息もつかずに、やっと手に入れた手紙をシャツの下の肌にじかにつけて、家へ帰ってきます。それからこの長椅子にわたしたち二人は今みたいに坐り、弟が話して聞かせ、わたしたちはいっさいのことを一つ一つ検討し、弟がなしとげたことの価値を計るんです。そして結局は、それがとてもちっぽけなことで、しかもそのちっぽけなことさえもどうもあやしいものだということがわかります。そこでバルナバスは手紙を投げ出してしまい、それを配達する気にもなれず、かといって寝にいく気にもなれないので、靴屋の仕事にとりかかって、一晩じゅうあの小さな椅子に坐ったまま夜を過ごすのです。K、こんなふうなんですわ。そして、これがわたしの秘密なんです。おそらくあなたはもう、アマーリアがわたしの秘密のことなどあきらめていることを、何も不思議とは思わないでしょう」
「で、手紙は?」と、Kがたずねた。
「手紙ですって?」と、オルガはいう。「そう、しばらくして、わたしがバルナバスをせき立てると(そのあいだに何日も何週間もたってしまうことがあるんですよ)、弟はやっと手紙を取り上げて、それを配達しに出ていきます。こうした外面的なたいしたことではない点については、弟はとてもわたしのいうままになるんですの。つまり、わたしは弟の話の最初の印象に打ち勝ってしまうと、また気を落ちつけることができるんです。弟はおそらくわたし以上に知っていることがあるため、気を落ちつけるということができないんですわ。そこでそうなるとわたしは、くり返してこんなことをいえるんですわ。『バルナバス、いったいあんたはどんなことを望んでいるっていうの? どんな経歴、どんな目標のことを夢見ているの? あんたはわたしたち、いやこのわたしをすっかり見捨てなければならないようなことにまでなることを望んでいるんでしょう? それがあんたの目標じゃないの? わたしはそう思わないわけにはいかないじゃないの。だって、そうじゃなければ、なぜあんたがこれまでになしとげたことにそんなに不満なのか、わけがわからないじゃないの。ねえ、まわりを見廻してごらんなさいな。わたしたちの隣人のあいだでだれがあんたほどまでになったっていうの? もちろん、あの人たちの状態はわたしたちのとはちがうし、あの人たちは自分たちの暮しから抜け出ようと努力するいわれなんかありません。でも、そんな比較なんかしなくとも、あんたの場合がいちばんうまくいっているんだって、見ないわけにはいきませんよ。いろいろな障害があることはあります。いろいろな疑わしいことやいろいろな幻滅もあります。しかし、それはただ、わたしたちがもう前から知っていたこと、つまり、あんたは人から何一つもらったりはできないのだということ、あんたはどんな小さなことでも一つ一つ自分で闘い取らねばならないのだということを意味するだけなのよ。けれどそれはむしろ誇っていい理由であって、打ちひしがれてしまう理由じゃないわ。そして、あんたはわたしたちのためにも闘っているのじゃないの? それはあんたにとっては全然意味がないの? あんたにはそのことで新しい力が少しも湧《わ》いてはこないの? そして、こんな弟をもっていることをわたしが幸福に思い、ほとんど得意にさえ思っていることは、あんたにはなんの確信も与えないの? ほんとうに、あんたが城でなしとげたことではなくて、わたしがあんたのそばでなしとげたことで、あんたはわたしを失望させるんだわ。あんたは城のなかへ入っていいのだし、事務局をいつでも訪ねていけるし、一日じゅうクラムと同じ部屋で過ごすし、公認の使者であって、役所の制服を請求することができるし、大切な書簡類をまかされてだっているわ。そういうすべてをあんたはやっているし、そういうすべてをあんたは許されているんです。ところが、この村に下りてくると、わたしたちは幸福のあまり泣いて抱き合うことをしないで、わたしを見るとあんたからはすべての勇気が抜けてしまうように見えるんだわ。あらゆることをあんたは疑い、靴屋の仕事だけがあんたの心をそそるというわけね。そして、わたしたちの未来を保証してくれる手紙のことはほっぽり放しにしておくんだわ』こんなふうにわたしは弟にいってやるんです。そして、わたしがこんなことを何日もくり返したあとで、弟は溜息をもらしながら手紙を取り上げて出ていくんです。でもそれはおそらく私の言葉がそうさせるわけでは全然なくて、ただ駆り立てられるように城へひきつけられていくんですわ。命令されたことをやりとげないでは、城へいく気にはとてもなれないでしょうからね」
「でも、あなたが弟さんにいうことは、みんなもっともじゃありませんか」と、Kはいった。「あなたはみごとに正確にいっさいのことを要約しましたね。あなたの考えかたはなんて驚くほど[#「驚くほど」は底本では「驚くど」]明晰《めいせき》なんでしょう!」
「いいえ」と、オルガはいった。「あなたは思いちがいしているのよ。そしておそらくわたしは弟にもそんなふうに思いちがいさせているんです。いったい弟は何をなしとげたというんです。事務局に入ることが許されるけれど、それはけっして事務局のように見えないで、むしろ事務局の控室、いえ、控室でさえないんです。そして、そこには、ほんとうの事務局に入ることが許されないすべての人たちが引きとめられるんです。弟はクラムと話をします。けれど、その相手がクラムなのでしょうか。それはむしろ、クラムに少しばかり似ているほかの人なのではないでしょうか。おそらく秘書で、クラムに少しばかり似ていて、クラムにもっと似るようにと努力しており、クラムがやるように寝ぼけたような夢見ているような様子をしてもったいぶっている人なんでしょう。クラムの人柄のうちのこんな部分はいちばんまねしやすくて、まねしてみようとする人がたくさんいます。クラムの人柄そのほかの点については、そういう人びともむろん用心して指をふれないようにしています。そして、クラムのようにみんながあこがれていて、それでもまれにしか会えない人は、人びとの想像のなかではたやすくいろいろな姿を取るものです。たとえばクラムはこの村でモームスという駐在秘書を使っています。そう? あなたはあの人を知っていらっしゃるの? この人もとてもひかえ目にしています。わたしはこれまでに二、三度あの人を見ましたけれど。若い強そうな人です。そうでしょう? だからおそらくクラムには全然似ていません。それでも村には、モームスはクラムなのだ、クラム以外のだれでもない、と誓っている人たちだっているんです。こうして人びとは、自分の頭のなかの混乱をいよいよひどくしていっているのですわ。そして、城のなかでだってこれとちがうでしょうか。だれかがバルナバスに、あの役人がクラムなのだといいます。すると、ほんとうにその役人とクラムとの二人のあいだには似た点ができ上がるんです。でもその似た点はバルナバスがいつも疑っているものです。そして、すべてが弟の疑いを証明しているんです。クラムがこの一般の部屋でほかの役人たちのあいだに立ちまじって、鉛筆を耳に挾んで、もみ合いをやっているなんてはずがあるでしょうか。そんなことは全然ありそうもありません。バルナバスは、少し子供らしく、ときどき――でも、これは信頼できる気分なんです――いうのをつねとしています。あの役人はまったくクラムそっくりだ。もしあの人が自分の事務局で自分自身の机に坐って、その部屋のドアには彼の名前が書かれているならば、おれはもう疑いなんかもたないんだけれど、って。とはいっても、もしバルナバスが上の城にいるとき、すぐ何人かの人びとにほんとうの事情はどうなっているんだとたずねたなら、そのほうがずっと分別があることになるんですけれど。弟のいうところによると部屋のなかには十分たくさんの人がいるんですもの。そうすれば、その人たちのいうことは、何もきかれないのにバルナバスにあれがクラムだと教えた人のいうところよりはずっと信頼できるものでないにしても、少なくともその人たちがいっているさまざまなことからなんらかの拠《よ》りどころか折り合えるところかが出てくるにちがいありませんわ。これはわたしの思いつきでなく、バルナバスの思いつきなんですが、弟はそれを思いきって実行することができません。自分の知らない規則をどうかして思わずも犯してしまって、自分の地位を失うのではないか、という恐れからだれにも思いきって話しかけられないんです。それほど自分の地位が不安定だと感じているんですわ。このほんとうはみじめな不安定さが、どんな言葉よりもはっきりと弟の立場をわたしにさとらせるんです。こんな無邪気な質問のために思いきって口を開けないでいるときには、城でのすべては弟にとってどんなに疑わしく、おびやかすように見えることでしょう。わたしはそのことを考えてみると、わたしが弟をあの見知らぬ部屋部屋にほっておくのはお前に責任があるのだって自分を責めるんです。あそこでの事の進みかたののろさは、臆病というよりはむしろ無鉄砲な弟でさえおそらくふるえるくらいのものなんです」
「ここであなたはとうとう決定的な点まできたようですね」と、Kはいった。「つまりこうなのです。あなたが語ったすべてによると、今でははっきり私にもわかるように思います。バルナバスはこの任務のためには若すぎるんです。弟さんが語ることは何一つ、そのまままじめに取ることはできませんよ。上の城では弟さんは恐れのために消えてなくなるようなので、あそこではよく観察することができません。そして、それなのに城から下りてきて、ここで話すよう無理にいうと、混乱したおとぎばなしを聞かされるということになってしまうんですよ。私はこれをちっとも不思議とは思いません。役所に対する畏敬というものは、この村のあなたがたには生まれついたときから身についたもので、さらに生涯にわたって、さまざまなやりかたで、またあらゆる側からふきこまれるし、あなたがた自身もできる限りそれに調子を合わせているんです。でも私は根本においてはそれに何も反対しません。もしある役所がいいものなら、なぜそれに畏敬の気持をもってわるいということがあるでしょうか。ただ、そうだとしても、バルナバスのような村の範囲から出たことがない経験の浅い若者を突然城へやり、彼からありのままの知らせを要求しようとしたり、彼の言葉の一つ一つを啓示の言葉のように受け取って調べたり、その言葉の解釈に自分自身の生活の幸福をゆだねたりしてはならないんです。むろん私もあなたと同じように、弟さんのことを思いあやまって、あんまり期待をかけたものだから、弟さんに幻滅を味わわされることになったのです。どちらにしたって、ただ彼の言葉に根拠を置いたのです。つまりほとんど根拠をもたなかったわけです」
オルガは黙っていた。Kはつづけていった。
「私にとっては、弟さんに対する信頼という点であなたをぐらつかせることはやさしいことではありません。なぜかっていうと、あなたが弟さんをどんなに愛し、あの人のことをどんなに期待しているか、ということがよくわかるからです。でも、あなたの弟さんに対する確信をゆるがさなければなりません。あなたの愛と期待のためになおさらそうなんです。というのは、考えてもごらんなさい。いつまでもあなたの背後には何かがあって――それがなんであるかは、私にはわかりませんが――バルナバスが[#「バルナバスが」は底本では「バルバナス」]なしとげたものではなくて、あの人に恵まれたものを完全に見わけることを妨げているじゃありませんか。あの人は事務局へ、あるいはお望みなら控室へ入っていくことが許されています。ところで、それは控室としますが、もっと先へ通じるドアがあって、もし才覚があれば乗り越えていくことができる柵もあります。たとえば私にとっては、この控室は少なくとも今のところは完全に近よりがたい場所です。バルナバスがどんな人とそこで話しているのかは、私にはわかりません。おそらく例の書記はいちばん下級の従僕なんでしょう。でも、彼がいちばん下の従僕であっても、彼はすぐ上の者のところへつれていくことができます。そこへつれていけないにしても、少なくともその人の名前をいうことができます。その名前をいうことができないにしても、自分が名前をいうことのできるだれかを教えることができます。そのクラムなる人物はほんとうのクラムとはほんのわずかでも共通なものをもってはいません。似ているというのは、興奮のためにめくらになったバルナバスの眼にだけそう見えるんでしょう。その男は役人たちのうちでいちばん下級の者かもしれないし、それどころか全然役人なんかじゃないのかもしれません。でもそんな男でもなんらかの仕事を机の下にもっていて、大きな本を開いて何かを読んでおり、何かを書記にささやき、長いあいだには彼のまなざしがバルナバスの上に落ちるときに、何かを考えているんです。そして、こうしたすべてがほんとうではなく、その男とその男の行為とが全然なんの意味ももたないとしても、それでもだれかがその男をその地位にすえたのであって、そんなことをやったのは何か意図をもっていてのことにちがいありません。こうしたすべてによって、何かがそこにあり、何かがバルナバスにさし出されているのだ、少なくとも何かがそうなのだ、といいたいと思います。そこで、バルナバスがその何かによってただ疑惑や不安や絶望以外に何も手に入れられないとするなら、それはただ弟さん自身の罪なんですよ。そして、こう考えてきたのは、まだやはりとてもありえないと思われるようないちばん不利な場合から出発しての話ですよ。というのは、私たちは手紙を手に入れているんですからね。その手紙を私はなるほどたいして信用してはいないけれど、それでもバルナバスの言葉よりもずっと信用していますよ。それが無価値な古い手紙で、まったくそれと同じように無価値な手紙の山のなかから手あたり次第に引き抜かれたもので、任意の一人の男の運勢を山のようなおみくじのなかからついばんで引き出すために、歳《とし》の市でカナリヤを使うぐらいにしか頭を使わないで、手あたり次第に引き抜かれた手紙であるとしても、これらの手紙は少なくとも私の仕事とかかわりをもっているんです。おそらくは私の利益のために宛てられてきたものでなくとも、明らかに私に宛てられたものなのです。それに村長とその奥さんとがうけ合ったところによると、クラム自身の手でつくり上げられたもので、ふたたび村長の言葉によると、私的でほとんどはっきりしない意味ではあるけれど、ともかく大きな意味をもっているものなんです」
「村長がそういったんですか?」と、オルガがたずねた。
「そうですとも。村長がそういったんです」と、Kが答えた。
「そのことをバルナバスに話してやりましょう」と、オルガは早口にいった。「それは弟をとても元気づけるでしょう」
「あの人は元気づけてなんかもらう必要はありませんよ」と、Kはいった。「弟さんを元気づけるということは、あの人のいうことは正しいのだ、ただ今までのやりかたを貫いて前進していくべきだ、とあの人にいうようなものです。だが、まさにこのやりかたでは弟さんはけっして何かをなしとげることはできないでしょう。両眼に繃帯《ほうたい》した人に向って、繃帯を通して眼をじっとこらすようにといくら元気づけたところで、その人はけっして何かを見ることはできませんからね。繃帯を取り除いてはじめてその人はものを見ることができるんです。バルナバスに必要なのは助力であって、元気づけることじゃないんです。まあ考えてもごらんなさい。あの上の城にはからみ合って解きほどすことのできない大きな役所があります。――私はここへくるまでは、その役所について大体の観念をもっていると思っていたんですが、そんなものはみんな、なんて子供らしいことだったんでしょう――つまりあそこには役所があって、バルナバスはそれへ向って歩んでいくのです。そのほかにはだれもいず、あの人だけで、かわいそうなくらいひとりぽっちです。もし一生のあいだ姿を消して、事務局の暗い片隅にうずくまりつづけるというようなことにならなければ、それだけでもあの人の身に余る名誉なんですよ」
「K、あなたは」と、オルガはいった。「わたしたちがバルナバスの引き受けた任務のむずかしさを過小に評価していると思わないで下さい。役所に対する畏敬では、わたしたちに欠けるところはありません。それはあなた自身がおっしゃったことだわ」
「でも、それは迷わされた畏敬というものですよ」と、Kはいった。「おかどちがいの畏敬です。そうした畏敬は対象の品位を傷つけるものですね。バルナバスがあの部屋へ入る許可を濫用して、あそこで何もしないで毎日を過ごすとか、あるいは村へ下りてきて、今まで身体をふるわせながら向っていた人たちを疑ったり、けなしたりするとか、また弟さんが絶望のためか、それとも疲労のためか、手紙をすぐ配達しないで、自分にまかされた任務をすぐ果たさないとかいうのは、それでもまだ畏敬といえるでしょうか? それはおそらくもう畏敬などというものではないでしょう。ところで、この非難はもっと先まで、つまり、オルガ、あなたにまで及ぶんですよ。あなたを非難しないでおくわけにはいきません。あなたは役所に対して畏敬の気持をもっていると信じているのに、まだまだ若くて弱々しいバルナバスを、ただひとりほうり出して城へいかせた、少なくとも引きとめなかったんですからね」
「あなたがわたしに向ける非難は」と、オルガはいった。「自分でもとっくにわかっていますわ。とはいっても、わたしがバルナバスを城へやったということは、わたしには非難できないはずです。わたしが弟をやったのではなく、弟が自分でいったんです。でも、わたしはおそらくあらゆる手段で、力ずくでも、あるいは何かたくらみをやっても、または説得してでも、弟を引きとめるべきだった、とおっしゃるんでしょうね。わたしは弟を引きとめるべきだったのかもしれません。でも、もしきょうがあの決定的な日であって、わたしがバルナバスの困難、わたしたち家族の困難をあの日と同じように感じているとして、きょう、バルナバスがまたあらゆる責任と危険とをはっきりと意識して、微笑しながら静かにわたしのところから離れて出ていくなら、わたしはそのあいだにしたあらゆる経験があったってやはり弟を引きとめはしないでしょう。あなただって、もしわたしの立場にあったら、ほかにはしかたがないだろう、と思いますわ。あなたはわたしたちの困難をご存じないんです。そのために、あなたはわたしたち、ことにバルナバスに対して不当な扱いをされるんですわ。あのころはわたしたち、今よりも希望をもっていました。でも、あのころでも、わたしたちの希望はけっして大きなものではなかったんです。大きかったものはわたしたちの困難だけで、それは今もそのままつづいているんです。いったいフリーダはわたしたちについてなんにもいわなかったんですか?」
「ただほのめかしただけでしたよ」と、Kはいった。「はっきりしたことは何もいいませんでしたよ。でも、あなたの名前を聞いただけであれは興奮しますね」
「おかみさんも何も話しませんでしたか?」
「いや、何も」
「そのほかのだれも?」
「だれもなんともいわなかったですよ」
「もちろんそうですわ。だれだってどうして話せるものですか。だれでもわたしたちについて何かを知っています。ほんとうのことが人びとの耳に入るとしてのことですが、ほんとうのことか、少なくとも何か人から聞いたうわさか、あるいはたいていは自分で考え出した評判か、そんなものを知っています。そして、だれでも必要以上にわたしたちのことを考えています。でも、だれもそれを話したりはしないでしょう。そうしたことを口に出すことを遠慮するんです。そして、それももっともなんですわ。このことをお話しするのは、K、あなたに向ってでも、むずかしいことなんです。それに、あなたはこれを聞いてしまうと、よそへいき、それがどんなにあなたに関係がないように思われるにしろ、わたしたちについてもう何も知ろうなんて思わなくなるんじゃないでしょうか。そうなればわたしたちはあなたを失ってしまうわけです。あなたは今ではわたしにとっては、わたし告白するけれど、バルナバスのこれまでの城の勤めよりもほとんど大切なくらいなんですよ。それでも――この矛盾はすでに一晩じゅうわたしを苦しめているんですが――これをあなたに聞いていただかなければなりません。というのは、そうでないとあなたはわたしたちの置かれている状態がさっぱりわからなくて、いつまでもバルナバスに対して不当な態度を取ることでしょう。そして、それがとりわけわたしにはつらいことなんですわ。もしあなたがそれをご存じないとなると、わたしたちは必要な完全な一致をえられないでしょうし、あなたがわたしたちを助けて下さることも、わたしたちのほうからのなみなみでない助力をあなたが受けて下さることも、できないでしょう。でもまだ一つの問いが残っています。それは『いったいあなたはそれをお知りになりたいのですか』という問いです」
「なぜそんなことをきくんですか」と、Kはいった。「それが必要なことなら、それを知りたいと思いますよ。でも、なぜそんなことをきくんですか」
「迷信からですわ」と、オルガがいった。「あなたはわたしたちの事件に引きこまれてしまうでしょう、なんの罪もなしに、バルナバスよりもずっと罪があるわけでもないのに」
「早く話して下さい」と、Kはいった。「私はこわくなんかありません。それに、あなたは女らしい不安のために事態を実際よりもずっと悪く考えているんですよ」
アマーリアの秘密
「自分で判断して下さい」と、オルガはいった。「それに、それはとても簡単なように聞こえるんです。それが大きな意味をもちうるなんて、すぐにはわかりません。城には偉い役人でソルティーニという人がいます」
「その人のことはすでに聞きました」と、Kはいった。「その人は私の招聘《しょうへい》にかかわりがあったんです」
「そんなはずありませんわ」と、オルガがいった。「ソルティーニは大衆の面前にはほとんど現われないんです。ソルディーニとまちがえているんじゃないの、dと書く?」
「そのとおりです」と、Kはいった。「ソルディーニでした」
「そうです」と、オルガはいった。「ソルディーニはとても知られています。いちばん勤勉な役人の一人で、あの人のことはいろいろ話されています。それとはちがってソルティーニのほうはひどく引っこんでいて、たいていの人には知られていないんです。三年以上も前にわたしはあの人を見ましたが、それが最初の最後でした。七月三日の消防隊組合のお祭りのときでした。城もこれに参加して、新しい消防ポンプを一台寄贈してくれたんです。ソルティーニは仕事の一部として消防隊の件を扱っているということですが(でも、おそらくあの人はただ代表であそこに出ていたんだわ。たいてい役人たちはたがいに代表し合っていて、そのためにこの役人、あの役人というふうにそれぞれの管轄《かんかつ》を見わけることはむずかしいんです)、ポンプの引渡しに立ち会っていました。もちろんそのほかの人たちも城からきていました。役人とか従僕とかです。ソルティーニは、いかにもあの人の性格にふさわしく、すっかりうしろのほうに引っこんでいました。小柄で弱々しそうで、もの思いにふけっているようなかたなんです。この人に気がついたすべての人の眼にとまったことは、額にしわがよっているそのしわのよりかたなんです。すべてのしわが――あの人はきっと四十を越しているはずがないのに、大変な数のしわでした――つまり、扇形に額を越えて鼻のつけ根までのびていました。わたしはあんなのをまだ見たことがありませんでしたわ。ところで、そのお祭りでした。アマーリアとわたしとは、すでに何週間も前からそれを楽しみにしていました。晴着も一部分は新しくなおしておきました。アマーリアの服はきれいで、白いブラウスはレースの列をつぎつぎに重ねて、前のほうがふくらんでいました。母がそのために自分のレースをみんな貸してくれたんです。わたしはそのときそれがうらやましくて、お祭りの前の晩に夜の半分は泣いて明かしました。朝になって橋亭のおかみさんがわたしたちを見にやってきたときにはじめて――」
「橋亭のおかみですって?」と、Kがたずねた。
「そうです」と、オルガはいった。「あの人はわたしたちととても親しくしていたんです。で、あの人がやってきて、アマーリアのほうが得をしているとみとめないわけにいかなかったので、わたしをなだめるために、ボヘミヤざくろ石でつくった[#「つくった」は底本では「つくつた」]自分の首飾りをわたして貸してくれました。ところが、わたしたちが出かける支度をすっかりすませ、アマーリアがわたしの前に立ち、わたしたちがみんなアマーリアの姿を感心して見て、父も『私のいうことをおぼえておきなさい、きょうはアマーリアはおむこさんを手に入れるぞ』といったとき、わたしは自分が誇りにしていた例の首飾りをはずし、それをアマーリアの首にかけてやりました。もう全然うらやましくなんかありませんでした。わたしはあの子の勝利の前に頭を下げたんです。そして、だれでもあの子の前には頭を下げないではいられないだろう、と思いました。おそらく、あの子がふだんとはちがって見えたことが、そのときわたしたちを驚かしたんです。というのは、あの子はほんとうは美しくなんかないのですが、あのとき以来ずっともちつづけているあの子のあの暗いまなざしがわたしたちの頭上高くを超えていくので、わたしたちはほとんどほんとうに、思わず知らず彼女の前に頭を下げないではいられないのでした。みんなそれに気づきました。わたしたちを迎えにきたラーゼマンの夫婦もです」
「ラーゼマンですって?」と、Kはたずねた。
「そうよ、ラーゼマンよ」と、オルガはいった。「わたしたちはとてももてはやされました。たとえばお祭りもわたしたちがいなければうまく始まらなかったことでしょう。というのは、父は消防隊の第三指揮者だったんです」
「お父さんはまだそんなに元気だったんですか」と、Kはたずねた。
「父ですか?」と、オルガはKのいうことがよくわからないかのように、いった。「三年前はまだいわば若者といってもいいくらいでした。たとえば紳士荘の火事のときなど、身体の重いガーラターを背中に負って担ぎ出しましたわ。わたし自身あそこにいましたが、ほんとうは火事の危険なんかなかったんです。ただストーブのそばの薪が煙を出し始めただけでした。ところがガーラターがこわがって、窓から救いを求めて叫んだんです。そこで消防隊がきました。そして父は、もう火が消えていたのに、あの人を担ぎ出さなければならなかったんですわ。ところで、ガーラターは身動きがよくできない人ですから、こうした場合には用心しなければならなかったんです。わたしがこんなお話をするのはただ父のためになんですわ。あれから三年ぐらいしかたっていないのに、ごらんなさいな、父があそこに坐っている恰好を」
そのときKはやっと、アマーリアがまた部屋にもどっているのに気づいた。しかし、彼女は遠く離れて両親のテーブルのところにいて、リューマチのため両腕を動かすことのできない母親にものを食べさせながら、父親に向っては、もう少し食事をしんぼうして下さい、すぐお父さんのところへいって食べさせてあげますから、というのだった。しかし、彼女がたしなめても効果はなかった。というのは、父は自分のスープにありつこうとひどくがつがつして、自分の身体の弱さに打ち勝ち、あるいはスープをスプーンですすろうとしたり、あるいは皿から直接飲もうとしたりして、どちらもうまくいかないので不機嫌そうにうなっていた。スプーンは口のところへくるずっと前から空《から》になり、口までとどくためしがない。ただいつでもたれ下がっている髯《ひげ》がスープにひたって、スープのしずくが四方へたれたり、飛び散ったりして、口のなかへだけはどうしても入らない。
「三年の年月がお父さんをあんなにしてしまったんですか」と、Kはたずねた。しかし、彼はなお老夫婦とそこの片隅の家族のテーブルにくりひろげられている情景とに対して少しも同情はもたず、ただ嫌悪だけをおぼえるのだった。
「三年の年月なんです」と、オルガはゆっくりいった。「あるいは、もっと正確にいうと、あのときのお祭りの二、三時間なんです。お祭りは村はずれの牧場の小川のほとりでやられました。わたしたちがついたときには、もう大変な人ごみでした。近くの村からもたくさんの人がやってきました。さわぎでみんな頭がぼーっとなっていました。もちろんわたしたちはまず、父につれられて消防ポンプのところへいきました。父はそれを見ると、よろこびのあまり笑いました。新しいポンプが父をすっかりよろこばせたのです。父はポンプにさわって、わたしたちに説明し始めました。ほかの人たちが反対したりとめようとしても、父はいうことをききません。ポンプの下に何か見るべきものがあると、わたしたちはみんなしゃがんで、ほとんどポンプの下へはいこむくらいでした。そのときこばんだバルナバスは、そのためになぐられました。ただアマーリアだけはポンプには眼もくれず、あの子のきれいな服にくるまってまっすぐ立っていました。だれ一人、あの子に何かいおうとする者もいません。わたしはときどきあの子のところへ走っていき、腕を取るのですが、あの子は黙っていました。わたしはどうしてそんなことになったのか今でもまだわからないのですが、長いことポンプの前にいて、父がポンプから離れたときになってはじめてソルティーニに気づきました。あの人はすでに長いことポンプのうしろでポンプのてこ[#「てこ」に傍点]にもたれていたらしいのでした。そのころには、むろんおそろしいさわぎで、普通のお祭りのさわぎだけではなかったんです。つまり、城は消防隊に何本かのトランペットも寄贈してくれたのでした。これがまた、ちょっと力を入れて吹いただけで(子供でもできたでしょう)、ひどくすさまじい音を出すことができる楽器でした。それを聞くと、トルコ軍がすぐそこまできているのだ、と思われるくらいでした。そして、そんな音にみんな慣れることができず、新しく吹くたびに身体をちぢみ上がらせていました。新しいトランペットだったために、みんながためしに吹こうとしましたし、民衆のお祭りなもんですから、それも許されたのでした。ちょうどわたしたちのまわりには、おそらくアマーリアがその人たちをひきよせたのでしょうが、そういう吹き手が何人かいました。こんなところで気持を落ちつけているのはむずかしいことでした。そして、父の命令によって注意をポンプに向けていなければならないのでしたから、およそ人がなしうる極限の状態でした。そのため、異常なくらい長いあいだ、ソルティーニはわたしたちの眼にとまらなかったんです。それに、わたしたちはそれまでにあの人に全然会ったことがなかったんです。『あそこにソルティーニがいる』と、とうとうラーゼマンが父にささやきました。――わたしはそのそばに立っていたんですの――父は深くお辞儀をし、興奮してわたしたちにもお辞儀をするように合図をしました。父はそれまでソルティーニを知りませんでしたが、ずっと前からソルティーニを消防隊の件の専門家として尊敬しており、家でもしょっちゅうこの人のことを話していました。それで、今ソルティーニを実際に見るということは、わたしたちにとっては大変な驚きであり、また意味の大きいことだったわけです。ところが、ソルティーニはわたしたちのことなんか、気にもかけませんでした。――これはソルティーニの特別な性質なんかじゃなく、たいていの役人は人なかではそんなふうに無関心に見えるんです――それに、あの人は疲れてもいました。ただ職務上の義務があの人をこの下の村に引きとめていたわけです。こうした役所を代表する義務をとくに気が重いものと感じるのは、むしろいい役人なんですわ。ほかの役人や従僕たちは、もうここへきてしまったものですから、大衆のあいだにまじっていました。ところが、ソルティーニはポンプのそばにとどまって、何か頼みごとかお世辞をいってあの人に近づこうとする人たちにただ沈黙で答えて、追い払っていました。そんなふうにして、あの人はわたしたちがあの人に気づいたあとになって、わたしたちに気づいたのでした。わたしたちがうやうやしくお辞儀をし、父がわたしたちのことを詑びようとしたときになって、はじめてあの人はわたしたちのほうをながめ、疲れたような様子でわたしたちをつぎつぎと見ていきました。あの人はわたしたちがつぎつぎと並んでいるのを見て、溜息をもらしたようでしたが、最後にアマーリアのところまでくると、視線がとまりました。アマーリアを仰ぎ見なければなりませんでしたのよ。というのは、アマーリアのほうがあの人よりもずっと大きかったんですもの。すると、あの人はびっくりして、アマーリアへ近づこうとしてかじ棒を跳び越えました。わたしたちははじめその動作を誤解して、父に引きつれられてみんなであの人に近づこうとしました。ところが、あの人は手を上げてわたしたちを押しとどめ、それから、そこを立ち去るように合図しました。それだけの話でした。それから、わたしたちは、あんたはほんとうにおむこさんを見つけたんじゃないの、といってとてもアマーリアをからかいました。無分別のために、わたしたちはその午後のあいだじゅうとても愉快にさわぎました。ところが、アマーリアは前よりも無言でした。『あの子はすっかりソルティーニに惚《ほ》れてしまったんだ』と、ブルンスウィックがいいました。あの人はいつでも少し粗野で、アマーリアのような性質の人間に対しては理解する力をもっていないんです。ところが、そのときはあの人のいうことがほとんど正しいように思われました。そもそもわたしたちはあの日、はめをはずしていたんですわ。そして、真夜中すぎに家に帰ったときには、アマーリアを除いて、みんな甘い城のお酒で身体が麻痺してしまったようになっていました」
「それでソルティーニは?」と、Kはたずねた。
「そう、ソルティーニね」と、オルガはいった。「わたしはお祭りのあいだに通りすがりに何度もソルティーニを見ました。あの人はかじ棒に腰かけて、胸の上で腕を組み、城の馬車が迎えにくるまでそのままの恰好でいました。消防演習を見には一度もいきませんでした。そのとき父は消防演習で、まさにソルティーニに見られているという期待で、同じ年齢の男の人たちよりも目立っていました」
「それで、あなたがたはもうソルティーニのことを聞かなかったんですか」と、Kはたずねた。「あなたはソルティーニに対して大きな尊敬を抱いているように見えますね」
「そう、尊敬だわ」と、オルガはいう。「そうですわ。わたしたちはあの人のことをもっと聞きました。次の朝、わたしたちはお酒のあとの眠りから、アマーリアの叫び声で眼をさまされました。ほかの者はすぐまたベッドへもぐりこみましたが、わたしはすっかり眼がさめてしまって、アマーリアのところへかけつけました。あの子は窓のところに立って、一通の手紙を手にしているんです。その手紙はちょうど今一人の男が窓越しに手渡したところだったのです。その男はまだ返事を待っています。アマーリアはその手紙を――それは短かったんです――もう読み終えて、だらりと下げた手のなかにつかんでいました。あの子がこんなふうに疲れきったような様子でいるときは、いつでもわたしにはどんなにあの子をかわいいと思ったことでしょう。わたしはあの子のそばにひざまずいて、そのままの恰好で手紙を読みました。わたしが読み終えるやいなや、アマーリアはわたしをちらりと見たあとで、その手紙をまた取り上げましたが、それをもう読む気になどはならないで、引き裂いてしまい、その紙切れを窓の外の男の顔めがけて投げつけ、窓を閉めてしまいました。これがあの決定的な朝のことだったんです。わたしはあの朝のことを決定的といいましたが、じつは前の日の午後のどの瞬間も同じように決定的だったんです」
「で、手紙にはなんと書いてあったんです?」と、Kがたずねた。
「そうね、それをまだお話ししませんでしたわね」と、オルガはいった。「手紙はソルティーニからきたもので、ざくろ石の首飾りをつけた少女へ、という宛名になっていました。その内容はもうそのままいうことはできませんわ。それは、紳士荘の彼のところへくるようにという要求でした。しかも、アマーリアはすぐくるように、というのはソルティーニは半時間以内に出かけなければならないのだ、ということでした。手紙は、わたしが聞いたこともないような下品な表現で書いてあり、ただ全体の関連から半分ほど推量できただけでした。アマーリアのことを知らないで、ただこの手紙だけを読んだ人は、だれかがこんなふうに書く気になった娘ならば堕落した女にちがいない、ときっと考えることでしょう。ほんとうはその子がまったく純潔であったとしてもですよ。そして、あの手紙は恋文なんかではなかったのです。それにはくすぐるような言葉なんか書かれていませんでした。ソルティーニはむしろ、アマーリアを見たことがあの人の心を捉えてしまい、あの人を仕事から離してしまったというので、怒っているらしかったんです。わたしたちはあとになってこの手紙を次のように解釈したんです。ソルティーニはおそらく夕方すぐ城へ帰ろうと思ったんですが、ただアマーリアのために村に残ってしまい、次の朝になって、その夜アマーリアのことを忘れることができなかったことを大いに怒りながら、あの手紙を書いたらしいんです。あの手紙に対しては、どんな冷血漢でもはじめは腹を立てたにちがいありません。でも、そのあとでは、アマーリア以外の者の場合なら、おそらくあの手紙の悪意あるおびやかすような調子に対して、不安な気持のほうが強くなったにちがいありません。ところがアマーリアの場合には、腹立ちだけがつづきました。あの子は、自分のためにも、他人のためにも、不安なんて知らないんですわ。そして、わたしはまたベッドにもぐりこみ、『それゆえ君はすぐくるように、そうでないと――!』という中断された結びの言葉をくり返していましたが、アマーリアは窓ぎわの腰かけ台に坐ったままでいて、まるであとの使いの者がやってくるのを待ち、やってくるどんな使いもはじめの使いと同じように扱ってやるつもりでいるというように、窓の外をながめていました」
「それが役人たちというものですよ」と、Kはためらいながらいった。「こんなお手本みたいなやつがあいつらのあいだにはいるんです。で、お父さんはどうなされたんですか? もし紳士荘へ押しかけて、手っ取り早くてもっと確実な手段のほうを選ばなかったとすれば、おそらく当局へ出頭して強力にソルティーニについて文句をいってやったことでしょうね。この事件でいちばん憎むべきことは、アマーリアに対する侮辱なんかじゃないんです。そんなものは簡単につぐなえますからね。なぜあなたがそんなことを過大に考えているのか、私にはわかりませんよ。どうしてソルティーニがそんな一通の手紙でアマーリアを永久に危険にさらしてしまったなどということがあるでしょう。あなたの話を聞いていると、そんなことを信じるかもしれませんからね。しかし、そんなことはありえませんよ。アマーリアにとっては名誉回復はたやすくできたはずですし、二、三日経てばその事件も忘れられたでしょう。ソルティーニはアマーリアを危険にさらしたのではなく、自分自身を危険にさらしたんです。そこで、私が恐れを感じているのは、ソルティーニと、権力のこうした濫用がありうるという可能性とに対してなんです。この場合には失敗したが、それは事がおそろしくあけすけにいわれ、完全に見えすいていて、アマーリアといううわ手の相手にぶつかったためで、同じような無数の場合、これよりも少しまずい場合には、こうしたことがうまうまと成功して、どんな他人の眼もごまかすことができるかもしれませんからね」
「静かに」と、オルガはいった。「アマーリアがこっちを見ているわ」
アマーリアは両親に食事を与え終って、今度は母親の服を脱がせることにかかっていた。ちょうど母親のスカートをゆるめてやったところで、母親の両腕を自分の首のまわりにかけさせ、その身体を少しもち上げ、スカートをすべり落し、それから、ふたたびそっと椅子の上にのせてやった。父親のほうは、母親の世話が自分より先にやられるのが――これはただ、母親のほうが父親よりもどうにもならない状態にあるという理由だけでやられるらしかった――いつも不満で、おそらくまた、彼にはぐずだと思われる娘の仕事ぶりにあてつけてやろうとしてだろうが、自分で服を脱ごうとしていた。ところが、ただ足にぶかぶかにはまっているだけの屋内靴を脱ぐといういちばん不必要でいちばんやさしいことから始めたのに、どうしてもそれを脱ぐことがうまくいかない。そこで、喉をぜいぜいいわせながらそれをすぐやめ、また身体をこわばらせて自分の椅子によりかかった。
「あなたはいちばん決定的なことがわからないんですわ」と、オルガはいった。「すべてのことについてあなたのおっしゃるのはもっともかもしれないわ。でも、いちばん決定的なことは、アマーリアが紳士荘へいかなかったことです。あの子が使いの者をどんなふうに扱ったか、それはまだしもそのことだけとしてはなんとかなったかもしれません。それはもみ消されたことでしょう。けれども、あの子がいかなかったということによって、呪《のろ》いがわたしたちの一家にいい渡されてしまったんです。そして、そうなればもとより使いの者の扱いかただって許しがたいこととなってしまいました。そればかりか事が世間の前面に押し出されてしまったんです」
「なんですって!」と、Kは叫んだが、またすぐ声を落した。オルガが頼むように両手を上げたからだった。「姉さんであるあなたが、アマーリアはソルティーニのいうことをきいて、紳士荘へいくべきだった、なんていうんじゃありますまいね?」
「いいえ」と、オルガはいった。「そんな嫌疑はかけてもらいたくありませんわ。あなたはどうしてそんなことを考えることができるんでしょう? アマーリアのように、やることがみんなまったく正しいような人間は、わたしは一人だって知りませんわ。あの子が紳士荘へいったとしても、わたしはむろんあの子が正しかったのだとみとめたことでしょう。でもいかなかったことは、英雄的な行いだったんですわ。わたしについていえば、あなたに正直に申しますけど、こんな手紙をもらったら、いったことでしょう。わたしはそれから起こることに対する恐れに我慢できなかったことでしょう。そんなことができたのはアマーリアだからこそですわ。たしかにいろいろな逃げ道がありました。ほかの女ならたとえばほんとにきれいに身を飾っていき、そんなことでしばらくの時間が過ぎたことでしょう。それから紳士荘へいってみて、ソルティーニは出発した、おそらく使いの者を送り出したすぐあとで、自分も出発したのだ、というようなことを聞くことになったかもしれません。それも大いにありそうなことですわ。だって城のかたたちの気分というのはとても変わりやすいんですもの。でもアマーリアはそんなことも、それと似たようなこともしませんでした。あの子はあまりに深く感情を害し、少しも保留なしできっぱり答えました。なんとか表面だけでもいうことをきいて、紳士荘の敷居をあのときまたいでいたら、こんな禍いは避けられたでしょう。この村にはとても頭のいい弁護士たちがいます。この人たちは人のおよそ望むことをなんでも無からつくり出すことを心得ていますが、この事件においては、そういう有利な無というものもけっして存在しなかったんです。反対に、あったことというと、ソルティーニの手紙を冒涜《ぼうとく》したということと、使者を侮辱したということなんですの」
「いったい、どんな禍いなんです」と、Kはいった。「どんな弁護士たちなんです? ソルティーニの犯罪といっていい行状のためにアマーリアを告訴したり、あるいは罰しまでするなんてできるはずがないじゃありませんか?」
「ところが」と、オルガはいった。「それができたんです。むろん法にのっとった訴訟によってではなく、またあの子は直接罰せられたわけでもありませんが、別な方法であの子もわたしたち一家全体も罰せられました。そして、この罰がどんなに重いかということは、あなたもきっと今やっとわかりかけてきたことでしょうね。あなたにはその罰が不当で途方もないように思われるんでしょうけれど、それは村では完全に孤立した意見なんですわ。あなたの考えはわたしたちにとっても好意的で、わたしたちを慰めるはずのものかもしれません。また、もしそれが明らかにいろいろなまちがいからきているのでなかったら、ほんとにそうしてくれたことでしょうに。わたしはあなたにこのことをたやすく説明できますわ。その場合にフリーダのことをいっても、許して下さいね。でも、フリーダとクラムとのあいだには――最後にどうなったかということを除けば――アマーリアとソルティーニとのあいだとまったく似たようなことが起ったんですわ。ところがあなたは、はじめのうちはびっくりしたかもしれませんが、今ではそれを正しいと思っているじゃありませんか。それは慣れなんかじゃないんです。単純な判断が問題なとき、人は慣れなんかによってはそんなに感覚をにぶくされることはありません。それはただいろいろなあやまりを取り除いただけの話なんです」
「そうじゃない、オルガ」と、Kはいった。「なぜあなたがフリーダをこのことにもち出すのか、私にはわからない。場合がまったくちがうはずだ。そんなに根本からちがうことを混同したりなんかしないで、もっと先を話してくれたまえ」
「どうか」と、オルガはいった。「まだこの比較をやるのだとわたしがいっても、悪くは取らないで下さい。あなたがあの人のことを比較なんかされないように弁護してやらねばならないと思うなら、フリーダのことについてもまだあやまりが残っているんですわ。あの人は弁護なんかされる必要は全然なくて、ただほめられるはずなんですから。わたしがこの二人の場合を比較するといっても、その二つの場合が同じだなんていうんじゃありませんわ。それはたがいに白と黒とのようにちがっていて、白がフリーダなんです。いちばん悪くとも、フリーダについては人は笑うことができるだけです。ちょうどわたしが不作法にも――わたし、あのことをあとでとても後悔したわ――酒場でやったようにね。でも、この場合笑う者でさえ、すでに悪意をもっているか、嫉妬しているかなんです。いずれにしろ、人は笑うことができます。ところが、アマーリアは、もし人があの子と血でつながっていなければ、ただ軽蔑することができるだけです。それだから、あなたのいったように、根本からちがった二つの場合なんですが、それでもやはりこの二つは似ているんです」
「似てもいないさ」と、Kはいって、不機嫌そうに頭を振った。「フリーダのことは別にしてくれたまえ。フリーダは、アマーリアがソルティーニから受け取ったようなそんなきたならしい手紙を受け取りはしなかったし、フリーダはほんとうにクラムを愛していたんですよ。疑う者はあれにたずねたらいい。あれは今でもまだクラムを愛しているんですよ」
「でも、それが大きなちがいでしょうか」と、オルガはたずねた。「クラムはフリーダにソルティーニと同じように手紙を書くことはできなかった、なんてあなたは思っているんですか。城のかたたちは机から立ち上がると、そうね、世のなかのことはわからないんです。そこでぼんやりしたまま、ひどく粗野なことをいってしまうんです。みんなそうだというんじゃないけれど、多くのかたがそうなんです。アマーリア宛の手紙だって、ただ頭のなかだけで、ほんとうに書かれたことなんか全然無視してしまって、紙の上に書きなぐられたものかもしれないんです。城のかたたちが頭のなかで考えることなんて、わたしたちは何を知っているでしょうか! クラムがフリーダとどんな調子でつき合っていたのか、あなたは自分で聞くか、だれかから話しているのを聞くかしませんでした? クラムがとても粗野だっていうことは、よく知られています。人のいうところによると、あの人は何時間でも口をきかないかと思うと、突然、人をぞっとさせるようなことをいうそうです。ソルティーニについてはそんなことは知られていません。だってあの人はおよそ人に知られていないんですもの。ほんとうはあの人について人が知っていることといえば、ただあの人の名前がソルディーニと似ているっていうことだけなんです。この名前の類似がなかったならば、おそらくあの人のことは全然わからないでしょう。消防隊の専門家と思っているのだってきっとソルディーニと混同しているんだわ。ソルディーニはほんとうにそのほうの専門家で、名前の似ていることを利用し、ことに役所を代表する義務をソルティーニに背負わせ、じゃまされないで仕事をつづけようとしているんですわ。そこでソルティーニのような世間を知らない男が突然村の小娘に対する恋心に捉われてしまうと、それはもちろんそこいらの指物師の若い者が惚れたのとはちがった形を取るものです。それに、役人と靴屋の娘とのあいだにはなんとかして橋渡しされなければならない大きな距たりがある、っていうことも考えなければなりません。それでソルティーニはあんなやりかたでその橋渡しをしようとしたので、ほかの人なら別なやりかたでやったかもしれません。わたしたちはみんな城に属しているので、距たりなんかないし、何も橋渡しなんかすることはないのだ、といわれていますし、それはおそらく普通の場合にはあてはまるでしょう。でも残念なことに、そのことが問題になると、それが全然そうはいかないのだ、ということを見る機会をわたしたちはこれまでずっともってきました。ともかく、すべてをお聞きになったあとでは、ソルティーニのやりかたがもっと理解できるようになり、前ほど途方もないものとは思えなくなるでしょう。実際、ソルティーニのやりかたは、クラムのと比べると、ずっと理解できるもので、たといまったく身近かにそれと関係をもっても、ずっと我慢できるものなのですわ。クラムがやさしい手紙を書くと、それはソルティーニのいちばん粗野な手紙よりも人を苦しめるものになります。こう申しているわたしの言葉を正しくわかって下さいな。わたしは何も、クラムについて判断を下そうなどとしているんじゃありません。わたしが比較をやっているのは、ただあなたが二つの場合を比較することを拒んでいるからなのです。クラムは女たちの指揮官のようなものですわ。あるいはこの女に自分のところへくるように命令し、あるいは別な女にくるように命令し、どちらにも長つづきはしないで、くるように命じるのと同じように出ていくように命じます。ああ、クラムなら、はじめに手紙を書くというような骨折りは全然しないでしょう。そして、それに比べると、まったく引っこんで暮らしていて、少なくとも婦人関係のことなどまったく知られていないあのソルティーニが、椅子に腰かけ、役所流のきれいな書体で書かれてはいるけれどいやらしい例の手紙を書くということは、やっぱり途方もないことでしょうね。そして、この場合どんなちがいもクラムにとって有利なものでなく、反対にソルティーニにとって有利なものだとしたら、それはフリーダの愛のせいなんでしょうか。女の人たちの役人たちに対する関係は、判断するのがとてもむずかしいか、それともむしろとてもやさしいか、どちらかだとわたしは思うんです。この場合、愛が欠けていることなんかけっしてありません。役人の失恋なんてありません。この点からいうと、一人の娘がただ愛しているために役人に身をまかせたのだ――わたしはここでなにもフリーダだけのことをいっているんじゃありませんわ――といわれることは、けっしてほめ言葉なんかじゃないんです。その娘が役人を愛して身をまかせたというだけの話で、何もほめることなんかありません。でも、アマーリアはソルティーニを愛していなかった、とあなたは異論をおっしゃるでしょう。まあ、あの子はあの人を愛していませんでした。でもあるいは愛していたのかもしれません。だれがそんな区別をすることができるでしょうか。あの子自身だってできませんわ。あの子は、おそらく役人の一人がこれまでけっしてこんなふうにはねつけられたことはあるまいと思われるほど猛烈にあの人をはねつけたけれど、どうして自分はあの人を愛していなかったなんてあの子が思うことができるでしょうか。あの子は今でも、三年前に窓をばたりと閉めたときの心の動揺でふるえることがあるって、バルナバスがいっています。それはほんとうですし、それだからあの子にたずねたりしてはいけないんです。あの子はソルティーニとの関係をたち切ってしまったのであって、そのこと以外は何も知りません。自分があの人を愛しているかどうか、あの子にはわからないのです。でも、女の人たちというものは、役人が一度自分のほうを向くならば、その人を愛することよりほかにできることはないのだ、ということをわたしたちは知っています。それどころか、女の人たちはいくら否定しようとしても、役人たちをすでにはじめから愛しているのです。そして、ソルティーニはただアマーリアのほうを向いただけでなく、アマーリアを見たときにポンプのかじ棒を跳び越えたんですからね。あの人は机に向っての仕事でこわばっているあの脚でかじ棒を跳び越えたんですわ。でも、アマーリアは例外だ、とあなたはおっしゃるんでしょう。そうです、あの子は例外です。そのことは、ソルティーニのところへいくことを拒んだとき、証明しました。それはまったく例外です。でも、その上、アマーリアはソルティーニを愛したことなんかないのだ、というなら、それは例外として度がすぎるでしょう。そんなことはもうわからないのです。わたしたちはたしかにあの午後、眼を曇らせられてはいましたが、でもあのとき、あらゆるもや[#「もや」に傍点]を通してアマーリアの恋心をいくらか見て取れるように思ったのは、それでもいくらか正気を示したというものです。ところで、こうしたいっさいのことを併《あわ》せて考えると、フリーダとアマーリアとのあいだにどんなちがいがあるのでしょうか? ただ一つのちがいは、アマーリアが拒んだことをフリーダはやった、ということではありませんか」
「そうかもしれません」と、Kはいった。「でも私にとっては、主なちがいは、フリーダは私の婚約者だが、アマーリアのほうは、城の使者であるバルナバスの妹であって、あの人の運命はバルナバスの勤めといっしょにより合わされているという限りにおいてしか私とは関係がない、ということです、一人の役人があの人に対して、あなたのお話をうかがっているとはじめは私にもひどいと思われたようなあんな不正を働いたのであれば、私にとって大いに考えるべきこととなったでしょう。でも、それはアマーリアの個人的な悩みとしてよりも、むしろおおやけの問題としてです。ところが、あなたのお話をうかがったあとの今となっては、事件の様相は変ってしまいました。その変わりかたは、私にはどういうふうにして起ったのかどうもはっきりはわからないけれど、話しているのがあなたなんだから、十分信用していいはずですね。そこで私はこの件を完全に無視してしまいたいと思います。私は消防夫じゃなし、ソルティーニなんか私となんの関係がありますか。だがフリーダのことは気にかかります。ところで私に奇妙に思われるのは、あなたが、アマーリアについて話すという廻り道をしてフリーダをたえず攻撃しようとし、私にフリーダについて疑いを抱かせようとしていることです。あなたがわざと、あるいは悪意さえもってそんなことをやっているとは思いません。そうでなかったら、私はとっくにここから去ってしまったことでしょう。あなたは意図をもってわざとやっているわけでなく、いろいろな事情のためにそんなふうな結果になってしまうのです。アマーリアに対する愛情から、あなたはあの人をあらゆる女たちよりも高いところに置こうと思っています。そして、アマーリア自身のうちにこの目的にかなうような十分に賞讃すべきことを発見できないので、ほかの女たちにけちをつけることで自分の考えを立てようとするんです。アマーリアの行為は奇妙だけれど、あなたがこの行為について話せば話すほど、それが偉大だったかちっぽけだったか、賢明だったかばかげていたか、英雄的だったか卑怯だったか、いよいよきめかねるようになります。アマーリアは自分の行動の動機を胸にしまっておくので、だれだって彼女からそれを無理に聞き出すことはできないでしょう。それに反してフリーダはちっとも奇妙なことをやったわけでなく、ただ自分の心持に従ったんです。このことは、善意をもって彼女の心の相手になるようなだれにも、はっきりわかることです。だれにもそのことは確認できるし、うわさなんかする余地はありませんよ。しかし、私はアマーリアをおとしめようとしているのでも、フリーダを弁護しているんでもなく、ただ私がフリーダとどういう関係にあるかということ、フリーダに対するどんな攻撃も同時に私という人間の生存に対する攻撃だということをあなたにはっきりわからせようと思っているんです。私は自分自身の意志でここへやってきて、自分自身の意志でここにひっかかっているんですが、これまで起ったすべてのこと、そして何よりも私の将来の見込みというもの――その見込みはどんなに暗かろうと、ともかくちゃんとあるわけなんです――、そういうすべてを私はフリーダに負うているので、これを議論からのけるわけにはいきません。私はこの土地で測量技師として採用されたけれど、それはただ外見上だけで、私は人びとのおもちゃにされ、どの家からも追い出されました。きょうも私はおもちゃにされているわけです。でも、もっとやっかいなことは、私はいわばかさ[#「かさ」に傍点]を増して大きくなったようなもので、それだけでも相当なものです。私はこんなものがみんなどんなにつまらぬものであるとしても、すでに家も地位も実際の仕事ももち、婚約者ももっていて、この婚約者が、もし私にほかの仕事があるときは私の職務上の仕事をかわりに引き受けてくれます。私はその女と結婚し、村の一員になるでしょう。クラムに対して公的な関係のほかに、むろん今までのところでは利用できないでいるけれど、一種の私的な関係ももっています。これはまさかつまらぬものじゃないでしょう? 私があなたがたのところへくると、あなたがたはいったいだれに対して挨拶するんでしょう? あなたはあなたがたの一家の話をだれに打ち明けるんでしょう? だれからあなたはなんらかの助力の可能性を(それがどんなにちっぽけなありそうもない可能性であっても)期待しているのでしょう? まさかこの私からではありますまい。この私ときたら、たとえばほんの一週間前にラーゼマンとブルンスウィックとが力ずくで家から追い出した測量技師なんですからね。あなたがそんな助力を期待している男は、すでになんらかの力をもっているはずです。そして、私はその力をフリーダに負うているんですよ。フリーダはとても謙遜《けんそん》だから、あなたがそんなことをたずねようとするならば、きっとそんなことは少しも知らないと主張するだろうけれど。そして、あらゆることから考えてみて、あの無邪気なフリーダのほうがあのひどく高ぶっているアマーリアよりも多くのことをなしとげたように見えますね。というのは、いいですか、あなたはアマーリアのために助力を求めているのだ、という印象を私はもっています。そして、だれからですか? ほんとうはほかならぬフリーダからじゃありませんか?」
「わたしはほんとうにフリーダのことをそんなに悪くいったかしら?」と、オルガはいった。「たしかにそんなつもりじゃなかったんだし、またそんなことをしたとは思いませんわ。でも、そうかもしれないわね。わたしたちの状態は、まるで世界じゅうと不和になっているようなものなんです。そして、嘆き始めると、それに引きこまれてしまって、どこまでいくかわからないんですから。あなたのおっしゃることはもっともで、わたしたちとフリーダとのあいだには今では大きなちがいがあります。そして、それを一度強調してみるのはいいことよ。三年前にはわたしたちはちゃんとした市民の娘で、孤児のフリーダは橋亭の下女でした。あの人のそばを通りすぎるときには、あの人に眼もくれなかったものです。たしかにわたしたちは高慢でしたが、わたしたちはそんなふうに教育されていたんです。でも、あなたも紳士荘にお泊りになったあの晩に、現在の状態がよくわかったでしょう。フリーダは手に鞭をもち、わたしは下僕たちのむれのなかにいました。でも、それよりもっと悪いことがあるんですの。フリーダはわたしたちを軽蔑しているかもしれないんだわ。それはあの人の地位にふさわしいことで、実際の事情がそのことをしいるんです。でも、わたしたちのことをどうして軽蔑しない人がいるでしょう! わたしたちを軽蔑することにきめた人は、すぐ最大多数の仲間に入るんです。あなたはフリーダのあとをついだ女の子のことを知っている? ペーピーっていうんですわ。わたしはおとといの晩にはじめてあの子を知りました。それまであの子は客室つきの女中でした。あの子はたしかにわたしを軽蔑する点でフリーダ以上ですわ。わたしがビールを取りにいくのを窓のそばで見ていましたが、ドアのところへ走りよって、ドアを閉めてしまいました。わたし、長いこと頼んで、あの子に開けてもらうためには、自分が髪につけているリボンをあげる約束をしなければなりませんでした。ところが、わたしがそれをあげると、それを片隅へ投げてしまったんです。ところで、あの子がわたしを軽蔑するのも無理はありません。わたしはいくらかはあの子の好意をたよりにしているんですし、あの子は紳士荘の酒場の女給なんです。むろん、あの子はほんの臨時に女給になっているだけですし、あそこで引きつづき使われるに必要な適性というものをたしかにもっていません。あそこのご亭主があの子とどんなふうに話すか、聞いてみればいいわ。また、フリーダと話していたときの様子とそれを比較すればいいわ。でも、ペーピーはそんなことはかまわないで、アマーリアのことも軽蔑しています。アマーリアがちょっとにらみさえすれば、お下げ髪をしてリボンをつけているあのちっぽけなペーピーなんか、すぐ部屋から追い出してしまうでしょう。そして、あの子が自分の太い脚だけにたよっていたんでは、とてもやれないような速さでね。きのうもまた、あの子からアマーリアについて、なんという腹の立つようなおしゃべりを聞かなければならなかったことでしょう。とうとうお客さんたちがわたしを迎えにくるまで、聞かされたんです。お客さんが迎えにくるっていったって、むろん、あなたがごらんになったようなやりかたででしたけれど」
「あなたはなんてこわがりやなんだろう」と、Kはいった。「私はただフリーダを彼女にふさわしい場所に置いただけの話で、あなたが今思っているように、あなたたちのことをさげすもうと思ったわけじゃないんですよ。あなたがたの一家は私にとっても何か特別な意味をもってはいるが、そのことは私も隠しはしなかったはずですよ。でも、その特別な意味がどうして軽蔑のきっかけとなることができるのか、それは私にはわかりませんね」
「ああ、K」と、オルガはいった。「あなたもそれがわかるでしょうよ。それがこわいわ。ソルティーニに対するアマーリアの態度がこの軽蔑の最初のきっかけなのだ、っていうことをあなたはどうしてもわからないんですか?」
「でも、それはあんまり奇妙じゃないですか」と、Kはいった。「そのためにアマーリアをほめたり、けなしたりはできるだろうけれど、どうして軽蔑できるんです? そして、もし人が私にはわからない気持からほんとうにアマーリアを軽蔑しているなら、なぜその軽蔑をあなたたち罪のない一家の人たちにも及ぼすんだろう? たとえばペーピーが君のことを軽蔑しているということは、それはひどいことで、もし私がまた紳士荘にいったら、その仕返しをしてやるつもりですよ」
「もしあなたが、K」と、オルガはいった。「わたしたちを軽蔑している人たち全部の意見を変えようと思うなら、それは大変な仕事ですわ。だって、すべては城からきているんですもの。わたしはまだあの朝の事件につづいた午前のことをくわしくおぼえています。あのころわたしたちのうちで働いていたブルンスウィックが、いつものようにやってきました。父はあの人に仕事を割り当てて、家へ返してやりました。わたしたちはそれから朝食のテーブルにつき、みんな、アマーリアとわたしとまでも含めて、とてもいきいきとしていました。父はたえずお祭りのことを話していました。父は消防隊についていろいろな計画を胸に抱いていましたの。つまり、城には専属の消防隊があって、お祭りには派遣団を送ってきて、その人たちといろいろのことが話し合いされました。あの場にいた城のかたたちは村の消防隊の仕事ぶりを見て、それについてとても好意的な発言をし、城の消防隊の仕事ぶりを村の消防隊のと比較しました。その結果は村の消防隊のほうに有利でした。城の消防隊を再編成する必要について話され、そのためには村から指導員を出すことが必要だ、ということになりました。その役のために、二、三人の人が候補者に上がりはしましたが、父はその人選が自分にきまるだろうという期待をもっていました。父はあのときそのことを話していました。そして、食事のときにはすっかりくつろぐという父が好きないつものやりかたで、両腕でテーブルの半分ほども抱くような恰好で坐っていました。開いた窓から空を見上げるときには、父の顔は若々しく、希望で輝いていました。あんなふうな父を二度と見ないことになってしまったんですわ。そのときアマーリアは、あの子にそんなところがあるとはわたしたちが知らなかったような人を見下すような態度で、城の人たちのそんな話はあんまり信用してはならないのだ、あの人たちはそんなような機会には何か人の気に入るようなことをいいたがるものだが、そんなものはほとんど意味をもたないか、あるいは全然意味をもたないのだ、口に出されるやいなやもう永久に忘れられているのだ、むろん次の機会にはまたあの人たちにだまされてしまう、といいました。母はアマーリアのこんな言葉をとがめました。父はあの子のませくりかえっていることといかにもしったかぶりをいうこととを笑っていましたが、次にびっくりして、何かがなくなっていることを今やっと気づいて探しているように見えました。しかし、何一つなくなったものなんかありませんでした。それから、ブルンスウィックが使者のことや、何か手紙がやぶかれたとかいうことをいっていたが、といって、わたしたちがそのことを知らないか、それはだれのことか、いったいどういうことなのか、とたずねました。わたしたちはだまっていました。あのころはまだ小羊のようだったバルナバスが、何かとびきりばかげたことか無鉄砲なことをいいました。話題がほかのことに移って、そのことは忘れられてしまいました」
アマーリアの罰
「ところが、そのすぐあとで、わたしたちは四方八方から手紙の話について質問を浴びせられました。友人も敵も知人も知らない人もやってきました。けれど、だれも長くはいないんです。いちばん親しい友人たちがいちばん急いで帰っていきます。ふだんはいつもゆっくりしていて威厳のあるラーゼマンも、入ってきてもまるでただ部屋の広さを調べようというような恰好でぐるっと一廻りながめるともう終りでした。ラーゼマンが逃げ出し、父が居合わせたほかの人たちのところから離れ、ラーゼマンのあとを追って急いで家の入口のところまでいき、それからあきらめるという様子は、まるでとんでもない子供の遊びみたいでしたわ。ブルンスウィックがやってきて、父に暇をくれといいました。一本立ちしたいのだ、とあの人はまったく本気でいいました。りこうな人で、好機を利用することを心得ていたんですわ。お顧客《とくい》の人たちがやってきて、父の倉庫で自分の靴を探し出します。修理のためにそこに置いておいた靴です。はじめは父もお客さんたちの考えを変えさせようとしましたが――で、わたしたちもみんなできるだけのことをして父のあと押しをしましたが――あとになると父はそんな努力もやめてしまい、黙ったままその人たちが探すのを手伝うのでした。注文受帳には一行一行と消しの線が引かれていき、お客さんたちがわたしたちの家にあずけておいた革は持ち帰られました。貸しは払ってくれました。万事はほんのちょっとした争いもなく行われ、人びとはわたしたちとの関係を速やかに完全に解消することに成功すれば満足し、その場合に損をしても、そんなことは問題ではないのだというふうでした。そして最後には、これは予想されたことですが、消防隊長のゼーマンが現われました。あの情景が今でも眼の前に浮かぶような気がしますわ。ゼーマンは大柄で力強い人ですが、少し前かがみで、肺病にかかっており、いつもまじめで、全然笑うことができないんです。この人は父を買っていて、打明け話のときには消防隊長代理の地位を父に約束していましたが、そのとき父の前に立っていました。そして、組合が父を免職したこと、証書の返却を求めていることを、父に伝えなければならないのだ、というのです。ちょうど家にいた人びとは、仕事の手を休め、あの二人のまわりにつめかけて輪をつくりました。ゼーマンは何もいうことができず、ただ父の肩をたたくばかりです。まるで、自分がいうべきだが、どういってよいのかわからない言葉を父の身体からたたき出そうとしているようでした。そうしながら、あの人はたえず笑っています。それによって自分自身もほかのすべての人も少しはなだめようとしているようでした。でも、あの人は笑うことができないし、だれもあの人の笑うのを聞いたことがなかったので、それが笑いなのだと信じることはだれにも思いつきませんの。しかし、父はあの日のことでもうあまりにも疲れ、絶望していて、だれかを助けるなんていうことはできません。それどころか、あんまり疲れているものですから、何が問題なのかを考えることもできないくらいでした。わたしたちはみんな同じように絶望していましたが、若かったものですから、こんな完全な破滅があろうとは信じることができず、たくさんの訪問客がつぎつぎにやってくるうちには最後にはだれかがやってきて、もうやめだという命令を出し、万事をまた逆もどりに動き出すようにしむけてくれるんだろう、といつも考えていました。ゼーマンこそとくにそういうことをやってくれるのにぴったりした人だ、と無知だったわたしたちには思われました。この終わることのない笑いから最後にははっきりした言葉が出てくるだろう、とわたしたちは大いに期待して待っていました。わたしたちにふりかかったあの愚かしい不正を笑うのでなければ、いったいあのときに笑うことなんかあったでしょうか。『隊長さん、隊長さん、もうそのことを人びとにいってやって下さい』と、わたしたちは考え、あの人につめよっていきました。ところが、それもあの人に奇妙な工合に身体を廻させただけだったのです。ついにあの人は話し始めました。しかしそれは、わたしたちのひそかな願いをかなえてくれるためなんかではなく、人びとのけしかける叫びか腹を立てた叫びに応じるためだったわけです。わたしたちはまだ希望をもっていました。あの人は父を大いにほめあげることから始めました。父を組合の誉れ、後進の手本、欠かすことのできない組合員と呼び、父の退職は組合をほとんど破滅させてしまうだろう、といいました。みんなとてもすばらしい言葉でした。ここまでで終りにしてくれていたらよかったんですが! ところが、あの人は話しつづけました。それにもかかわらず、組合は父に、ただ一時的にではあるが、退職を求める決定をしたのであるから、組合がこうしなければならなくした理由の重大さは、みなさんにもわかっていただけるだろう。おそらくは父の輝かしい業績がなかったならば、きのうの祭りにおいても、あれほどまでに成功することはまったくできなかったにちがいない。だが、まさにこの業績が役所の注意をとくに喚起したのだ。組合は今はすべての人びとに公然とながめられているのであるから、組合の純潔についてこれまで以上に細心でなければならない。ところで今や使者侮辱事件が起ってしまった。そこで組合としてはほかの逃げ道を見出すことができなかったのであり、自分、ゼーマンがこのことを通達するというむずかしい任務を引き受けたのだ。父が自分にこの任務をこれ以上むずかしいものとしないことを望む。これを語り終えて、ゼーマンはうれしそうでした。この演説の成功を確信したので、あの人はもうけっして度を越して遠慮なんかしていませんでした。壁にかかっている証書を指さして、あれをもってくるように、と指で合図しました。父はうなずいて、それを取りにいきましたが、両手がふるえてかぎからはずすことができません。わたしは椅子にのって、父を助けました。そして、この瞬間からいっさいが終ってしまったのです。父はもう証書を額ぶちから取り出してなんかいないで、額に入ったまま全部をゼーマンに渡しました。それから、片隅に坐ると、もう身動きもしなければ、人と話すこともしません。わたしたちは自分たちだけで、できるだけうまくお客さんたちと用件の話をしなければなりませんでした」
「それで、あなたはその話のなかでどの点に城の影響をみとめるんです?」と、Kはたずねた。「今までのところ城はまだ干渉を加えていなかったように思われますね。あなたがこれまで語ったことは、ただ人びとの思慮を欠いた不安とか隣人の不幸を見てよろこぶ気持とか、たよりにならない友情とか、要するにどこででもぶつかるはずのことばかりですよ。とはいってもお父さんの側にも――少なくとも私にはそう思われるのですが――ある種の気持の小ささというものがありましたね。というのは、その証書だって、いったいなんだというんです? お父さんの能力の証明ですが、それはお父さんがまだもっていたものじゃありませんか。そうした能力がお父さんを組合に欠くことのできない人にしていたのであれば、いよいよいいわけで、隊長にそれ以上一こともいわせないでそんな証書を彼の足もとに投げつけてやることだけによって、隊長にとってこの件をほんとうにむずかしくしてやったことでしょうに。ところで、あなたがアマーリアのことに全然ふれなかったのがとくに特徴的なことのように思われました。アマーリアは、いっさいの罪があの人にあるのに、どうも落ちつき払ってうしろのほうに立ち、一家の荒廃をながめていたらしいですね」
「いいえ」と、オルガはいった。「だれのことも非難はできませんわ。だれもあれ以外にやりようがなかったんですもの。すべてがすでに城の影響だったんです」
「城の影響です」と、アマーリアがオルガの言葉をくり返した。気づかぬうちに内庭から入ってきていたのだった。両親はずっと前からベッドに入っていた。「城のことを話しているの? あなたたち、まだいっしょに坐っているの? K、あなたはすぐ帰るとおっしゃったじゃありませんか。ところで、もう十時になりますよ。いったいこんな話があなたの気にかかるんですか? この村には、こうした話で自分の心を養っているような人びとがいて、あなたがた二人がここに坐っているようにいっしょに坐り、うわさ話でおたがいにおごり合っているんです。でも、あなたはそんな人たちの仲間のようにはわたしには思われないけれど」
「ところが」と、Kはいった、「私はまさにそんな人たちの仲間ですよ。それに反して、こうした話を気にもかけずに、ただほかの話ばかり気にかけているような人たちは、私の心をそれほどひきませんね」
「そりゃあ、そうね」と、アマーリアはいった。「でも、人びとの関心というものはとてもさまざまなものだわ。わたしはいつだったか、昼も夜も城のことばかり考えている若い男のことを聞きましたが、その男はほかのあらゆることをほっぽり放しにしてしまったということです。人びとは、その男の頭がすっかり上の城のところへいっているものですから、その男にあたりまえの分別がないのではないかと心配しました。ところが、しまいに、その男はほんとうは城のことではなく、ただ事務局にいるある皿洗い女の娘のことを思っていたのだ、ということがわかり、そこでむろんその娘を手に入れることができ、それからまた万事うまくいった、ということですわ」
「その男は私の気に入りそうに思えますね」と、Kはいった。
「あなたにその男が気に入るだろうということは」と、アマーリアはいった。「わたしは疑わしく思うけれど、でもおそらくその奥さんはね。ところで、どうぞご勝手に。わたしはもうやすみます。それから、明りを消さなければならないわ、両親のためなんです。両親はすぐぐっすり眠りますが、一時間もするともうほんとうの眠りは終ってしまい、ちょっとした明りでもじゃまになるのよ。おやすみなさい」
そして、ほんとうにすぐ暗くなった。アマーリアは両親のベッドのそばで床の上のどこかに寝床をこしらえたのだった。
「アマーリアが話したその若い男っていうのは、だれなんですか」と、Kはたずねた。
「知らないわ」と、オルガがいう。「おそらくブルンスウィックなんでしょう。あの人としては話がぴったり合うわけじゃありませんけど。おそらく別なだれかかもしれません。妹のいうことを正確に理解することはやさしいことではないのよ。あの子が皮肉でいっているのか、まじめにいっているのか、わからないことが多いんですもの。たいていはまじめなんですが、皮肉に響くんです」
「説明なんかやめて下さい!」と、Kはいった。「どうして妹さんにそんなにひどくたよるようになったんです? 大きな不幸が起こる前からすでにそうだったんですか。それとも、そのあとからですか。そして、あなたはあの人にたよらないようになろうという願いをもったことがあるんですか。そして、いったいこのたよりかたには何か理にかなった理由でもあるというんですか。あの人は末娘ですし、末娘として服従すべきです。罪があろうとなかろうと、あの人が一家に不幸をもたらしたんじゃありませんか。ところが、毎日あなたがたの一人一人にそのことを許してくれと頼むかわりに、だれよりも頭を高くして、やっとお情けで両親の心配をしているほかには何一つ気にはかけず、あの人が自分でいったように、どんなことも知ろうとは思わないで、やっとあなたがたと口をきくかと思うと、たいていはまじめだが、皮肉に響くというんですからね。それともあの人はたとえばあなたがたびたびいっている美しさというものによって一家を支配しているんですか。ところで、あなたがたきょうだいはみんな似ているけれど、妹さんがあなたがた二人とちがっているところは、まったくあの人にとってよくない点なんです。私があの人をはじめて見たとき、すでにあの人の無感覚で愛情のないまなざしに驚きましたよ。それから、あの人は末娘だけれど、そのことはあの人の外見では少しもわかりません。ほとんど年を取らないけれど、かつてほとんど一度も若かったことがないというような女の人たちの年齢のない外見をしています。あなたは毎日妹さんを見ているので、あの人の顔の固さには気づいていないんです。だから私は、よく考えてみると、ソルティーニの愛情というのもけっしてひどくまじめだったとは考えられません。おそらく彼は例の手紙で妹さんを罰しようと思ったんで、呼ぼうと思ったんじゃないんでしょうよ」
「ソルティーニのことは話したくありません」と、オルガはいう。「城のかたたちには、どんなことでも可能なんですわ、きわめて美しい娘のことであろうと、きわめて醜い娘のことであろうと。でも、そのほかはアマーリアのことであなたは完全にまちがっているんですわ。いいですか、わたしは何もアマーリアのためにあなたを味方にしなければならないという理由なんかないじゃありませんか。それなのにそうしようとし、また実際にやってもいるのは、みんなあなたのためなのですわ。アマーリアはとにかくわたしたちの不幸の原因でした。それはたしかです。けれど、この不幸でいちばんひどい目にあった父さえ、そしてものをいうときけっしてうまく自制はできず、家ではことにそんなことができなかった父でさえ、いちばんひどい境遇にあったときにもアマーリアに対して一ことでも非難めいたことなんかいいませんでした。そして、それは父がアマーリアのやりかたを正しいとみとめたためなんかじゃないんです。ソルティーニの崇拝者である父がどうしてアマーリアのやりかたを正しいとみとめることなんかできたでしょう。父は少しでもそれが理解できなかったのです。自分の身も、自分のもっているすべても、父はソルティーニのためなら犠牲にしたことでしょう。とはいっても、ソルティーニがきっと怒ってしまったためにあれから実際になってしまったようなこんなふうな犠牲の払いかたではないでしょうが。ソルティーニがきっと怒ってしまった、つていったのは、わたしたちはあれからソルティーニのことを全然聞いていないのですもの。あのときまでは引きこもっていたのだとすると、あれからはまるであの人というものが全然いないようなことになりました。ところで、あのころのアマーリアをあなたに見ていただきたかったわ。はっきりした罰なんかくることはないだろう、ということはわたしたちみんなが知っていました。人びとがただわたしたちから遠のいていってしまったんです。この村の人たちも城の人たちもですわ。村の人たちが遠のいていくことは、むろんわたしたちも気づきましたが、城のことは全然わかりませんでした。わたしたちは以前は城の配慮なんかには少しも気づいていなかったので、どうしてあのとき、急な変化なんかに気づくことができたでしょう。この静かな様子がいちばん悪かったのです。これに比べると、村の人たちが遠のいていったなんていうことは、たいしたことではありませんでした。あの人たちは何か確信があってそうしたわけではないのだし、おそらくわたしたちを本気で嫌ってなんかいるのでは全然なかったのでしょう。今日のような軽蔑はまだ生じていませんでしたし、ただ不安の気持からやっただけなんです。そして今度は、これからどうなるか、と待ちかまえていたんです。また生活の困難もまだ全然恐れる必要はありませんでした。借金のある人たちはみんな払ってくれますし、決算は有利でした。食べものでないものがあると、親戚の人たちがこっそり助けてくれました。収穫期でしたから、それはやさしかったんです。とはいえ、うちには畑はありませんし、どこの家でも手伝いをさせてはくれませんでした。わたしたちは生涯ではじめて、ほとんどのらくらして暮らすがいい、という刑の宣告を受けたのでした。そこで、わたしたちは七月、八月の暑さのなかを、窓を閉めきってみんないっしょに坐りつづけていました。出頭命令も、通告も、報告も、訪問客も、なにもなかったんです」
「それなら」と、Kはいった。「何ごとも起こらなかったし、はっきりした罰も受けそうもなかったのに、あなたがたは何を恐れていたんです?」
「そのことをあなたにどう説明したらいいでしょうね?」と、オルガはいった。「わたしたちはやってくるものを何も恐れてはいませんでした。わたしたちはすでに眼の前にあるもののことで苦しんでいました。わたしたちは罰のまんなかにいたんですわ。村の人たちはただ、わたしたちが自分たちのところへくることを待ち、父がふたたび仕事場を開くことを待ち、とてもきれいな服をぬうことを心得ていた――とはいっても、ただ身分のきわめて高い人たちだけのためにやったのでしたが――アマーリアが、また注文を取りにくることを待っていました。実際、すべての人は、自分たちがやってしまったことで困っていました。村で名望ある一家が突然すっかり閉め出しをくってしまうと、だれもが何かしら損害をこうむるものです。あの人たちは、わたしたちから離れていったとき、ただ自分たちの義務を果たすのだ、と信じたのでした。わたしたちだって、あの人たちの立場にいたら、きっとそれとちがったことはしなかったでしょう。ほんとうのところ、あの人たちは問題がどういうところにあるのか、くわしくは知らなかったのです。ただ使いの者が手にいっぱいの裂かれた紙切れをもって紳士荘へもどってきた、というだけの話だったんです。フリーダがその使いを見て、つぎにまたその使いがもどってくるのを見ました。その男と一こと二こと言葉を交わし、そしてあの人が知ったことが、すぐに村じゅうへ拡がったのですわ。しかし、これもやはり全然わたしたちに対する敵意からやったことでなく、ただ義務からやったのです。同じ場合に出会ったなら、ほかのどんな人でもそうするのが義務であったことでしょう。そこで、村の人たちにとっては、すでにわたしが申しましたように、事の全体がうまく解決することがいちばん好ましかったことでしょう。そこでもしわたしたちが突然訪ねていき、もう万事は解決したのだ、たとえば、ただ一種の誤解があっただけで、その誤解はこれまでに完全に明らかにされた、あるいはたしかにあやまちはあったが、それも行為によってつぐなわれたのだ、――これだけだって村の人びとには十分でしたろうが――わたしたちの城とのつながりによって事をもみ消すことに成功した、というようなことを知らせてやったとします。そうすれば、あの人たちはきっとまたわたしたちを両手を拡げて迎え、接吻し合ったり抱き合ったりして、お祭りみたいな気分になったことでしょう。わたしはほかの人たちの場合に、そんなことを二、三度体験したことがあります。でも、そんなことを知らせてやることも全然必要じゃなかったことでしょう。ただわたしたちがこだわりから解放されて出かけていき、こちらから申し出て、昔からの関係をもとのとおりに始め、ただ例の手紙の話について一こともしゃべらぬようにしたならば、それで十分だったでしょう。みんなよろこんであの件のことを口にすることなんかやめてしまったことでしょう。ほんとうに、不安というものと並んで、何よりもあの件がうるさいために、人びとはわたしたちから縁を切ってしまったのでした。ただ、あの件について何も聞かず、何も語らず、何も考えず、けっしてそれにふれられないですむために、村の人たちはわたしたちから離れていったのでした。フリーダがこの件のことをもらしたのは、それを楽しむためにやったことじゃなくて、自分とあらゆる人とをこの件から守るために、そして、みんながきわめて用心深く避けていなければならぬ何ごとかが起ったのだ、ということに村の人びとの注意を呼びさますためにやったことでした。この場合に、わたしたちは家族として人びとの問題にされたのではなく、ただ事件が問題にされたのであり、ただわたしたちが巻きこまれたこの事件のためにだけわたしたちが問題にされたのでした。そこでもしわたしたちが、ただまた姿を見せ、過ぎ去ったことはそのままそっとしておき、どんなやりかたであってもかまわないから、事件をもう乗り超えたのだということをわたしたちの態度によって示してやったら、そして世間の人びとが、あの件はどんな性質のものであったにもしろ、もう二度と話に出ることはあるまい、という確信をもったならば、万事はうまくいったことでしょう。いたるところでわたしたちは昔ながらの好意的な助力を見出したことでしょうし、たといわたしたちがあの件を完全に忘れてしまっていなかったとしても、人びとはそれをわかってくれて、それを完全に忘れるようにわたしたちの力になってくれたことでしょう。ところが、そんなことをするかわりに、わたしたちは家で坐っていただけでした。わたしたちが何を待っていたのかは、わたしにはわかりません。きっとアマーリアが決定を下すことを待っていたのでしょう。あの子はあの例の朝に家族の指導権を自分の手に奪ってからは、それをしっかとにぎっていました。特別のことをやるでもなく、命令するでもなく、頼むでもなく、ほとんどただ沈黙によって、そういうことになったのでした。アマーリアを除いたわたしたちにはむろん相談すべきことがたくさんありました。朝から晩まで、たえまなくささやき合っていたのです。ときどき父は突然不安に駆られてわたしを自分のところに呼びつけ、わたしは父のベッドのふちで夜の半分も過ごしました。あるいはわたしたち、バルナバスとわたしとの二人は、ときどきいっしょにうずくまっていました。弟はまだやっと事の全体をほんのわずかのみこめるだけで、たえずすっかり逆上したようになって、説明を求めるのでした。いつも同じことなんです。自分の年ごろのほかの者たちが期待しているような心配の影というもののない歳月が自分にはもう存在しないのだ、ということを弟はよく知っていました。そうやってわたしたちはいっしょに坐っていました。――K、今わたしたちが坐っているのとまったく同じようにでしたわ――そして、夜になり、また朝がくるのも、忘れていたんです。母はわたしたちのうちでいちばん弱っていました。きっと、わたしたちに共通の悩みばかりでなく、めいめいの悩みを一つずついっしょに悩んでいたためです。そんなふうにして、母の身にいろいろな変化をみとめてわたしたちは驚きました。わたしたちが予感したように、母の変化はわたしたちの一家全部の前にあったのでした。母の気に入りの場所は長椅子の片隅でした。――もうずっと前からその長椅子はありません。今はブルンスウィックの家の大きな部屋に置かれています――母はそこに坐って、――どうしたことなのか、はっきりわかりませんでしたが――うとうとまどろんだり、あるいは、唇が動くことでそうだろうと想像されたのですが、長たらしいひとりごとをいっていました。わたしたちがいつでも手紙の件をいろいろ話し合い、確実なこまかい一つ一つのことやありとあらゆる不確実な可能性もあれやこれやと話し合ったのは、きわめて当然なことでした。また、うまい解決のためのさまざまな手紙を考え出そうとして自分たちの力以上のことをやっていたというのも、当然なことで、やむをえないことでした。だが、それはよくなかったのです。実際、そのためにわたしたちは、逃がれ出ようと思っているもののなかにいよいよ深入りしていくことになったのです。そして、こうしたすばらしいさまざまな思いつきも、いったい実際にはなんの役に立ったでしょうか。どんな思いつきもアマーリアを抜きにしてでは実行できません。すべてはただの下相談であり、そうした相談の結果が全然アマーリアの耳までとどかなかったことで、無意味なものだったのです。そして、たといあの子の耳に入ったところで、沈黙以外のどんなものにも出会わなかったことでしょう。ところで、ありがたいことに、わたしは今ではアマーリアをあのころよりもよく理解しています。あの子はわたしたちのだれよりもたくさんの重荷を担っていたのでした。あの子がそれに耐えたこと、そして今でもわたしたちのあいだで暮らしつづけていることは、考えられないほどのことですわ。母はおそらくわたしたちみんなの悩みを担っていたのでした。自分の上にふりかかってきたので、母はそれを担ったのです。しかし、長いあいだはとてもそれを担っていられませんでした。母が今でもまだともかくもその重荷を担っているということはできません。すでにあのころ、母の心は狂っていたのでした。ところが、アマーリアはその重荷を担っただけではなく、それを見抜くだけの頭ももっていたのです。わたしたちはただ結果だけを見ていたのに、あの子は原因まで見抜いていました。わたしたちは何かちっぽけな手段を望んでいたのに、あの子はすべてがもう決定されてしまっているのだ、ということを知っていました。わたしたちはこそこそと相談しなければならないのでしたが、あの子はただ沈黙していなければなりませんでした。真実と面と向かい合って立ち、生き、そしてそうした生活を今と同じようにあのころにも耐えていました。わたしたちはひどい困苦のなかにいたとはいえ、あの子よりもずっとよかったのです。むろん、わたしたちは家を出なければなりませんでした。ブルンスウィックがわたしたちの家に越してきて、わたしたちにはこの小屋があてがわれたのです。一台の手押車を使って、わたしたちは家財道具を二、三回で運んできました。バルナバスとわたしとが車を引き、父とアマーリアとがあとを押しました。母は最初にすぐここへつれてきていましたが、箱の一つに坐って、わたしたちが着くたびにいつでも低い声で嘆きながら、わたしたちを迎えました。でも、わたしは今もおぼえていますが、わたしたちはそうして苦労しながら車を引いてくるあいだも――それはまたとても恥かしいことでした。というのは、わたしたちはしょっちゅう刈入れの車に出会いましたが、そんな車についている人たちはわたしたちの前で黙ってしまい、視線をそらすのでした――バルナバスとわたしとは、こうして車を引いてくるあいだにも、わたしたちの心配や計画について話すことをやめることができませんでした。そのため、話しながらときどき立ちどまってしまい、父に『おい!』と声をかけられてはじめてわたしたちのしなければならない現在の仕事を思い出すのでした。しかし、あらゆる話合いは引越しのあとでもわたしたちの生活を少しも変えませんでした。ただ変ったことは、わたしたちがそれからようやく貧乏をも感じさせられるようになったということでした。親戚の人たちの補助はやみ、わたしたちの財産はほとんどつきてしまいました。ちょうどそのころに、わたしたちに対するあなたもご存じのあの軽蔑が始ったのでした。わたしたちが手紙の事件から脱け出る力をもっていないことに、人びとは気づいたのでした。そして、そのことでわたしたちに対してとても気を悪くしました。人びとはくわしくは知らなかったのですけれど、わたしたちの運命のむずかしさをみくびってはいませんでした。自分たちもこんな試練にはおそらくわたしたちよりもよくは耐え抜くことができなかっただろう、ということを知っていました。それだけに、わたしたちと縁を切ることが必要だったのです。もしわたしたちがそれに打ち勝っていたら、わたしたちをそれ相応に尊敬してくれたことでしょうが、それがわたしたちには成功しなかったので、それまではただ一時的にやっていたことを、決定的にやるようになったのでした。つまり、わたしたち一家をどんな仲間からも閉め出してしまいました。そうなるとわたしたちのことをもう人並みに話してはくれませんでした。うちの姓はもう人びとの口にはのぼらなくなりました。わたしたちのことを話さなければならなくなると、わたしたちのうちでいちばん罪のないバルナバスの名前で呼ぶのです。この小屋までが排斥されました。そして、あなたもよく考えてごらんになるなら、この家に最初に足を踏み入れたときに、この軽蔑がもっともなことに気づいた、と告白なさるでしょう。あとになって、人びとがときどきまたわたしたちのところへやってくるようになったとき、たとえば小さな石油ランプがあそこのテーブルの上にかかっているというようなまったくつまらぬことについても、鼻にしわをよせてみせるのでした。いったい、テーブルの上のほかのどこにかけたらいいというのでしょうか。ところが、あの人たちには我慢できぬように思われたのです。ところで、もしランプをほかのところへかけたとしても、あの人たちの嫌悪は変わらなかったでしょう。わたしたちという人間も、わたしたちのもっているものも、いっさいが同じように軽蔑を受けたのです」
嘆願廻り
「そのあいだにわたしたちは何をやったのでしょう。わたしたちがおよそできるうちもっとも悪いこと、ほんとうに軽蔑されていたよりももっと軽蔑されるにふさわしいようなこと、をやっていたのです。わたしたちはアマーリアを裏切り、あの子の無言の命令から離れていきました。わたしたちはもうあんなふうな生きかたをつづけることができなかったのです。少しも希望なしには、わたしたちは生きられませんでした。そして、わたしたちはそれぞれのやりかたで、わたしたちを許して下さい、と城に頼んだり、つめよったりしました。何かを回復することはできないのだ、ということをわたしたちは知ってはいました。また、わたしたちが城ともっていたただ一つの望みのあるつながり、つまり、父に対して好意を抱いていてくれた役人のソルティーニは、まさに例の事件によってわたしたちには近づきがたくなったのだ、ということも知っておりました。それにもかかわらず、わたしたちは仕事に取りかかったのでした。父が皮切りに始めました。村長のところ、秘書たちのところ、弁護士たちのところ、書記たちのところへというふうに、意味のない嘆願廻りが始まりました。たいていは迎えてもらえず、たとい何か策略か偶然かによって迎えられたところで――そういう知らせを聞くと、わたくしたちは歓声を上げ、手をこすり合わせて悦んだものでしたわ――すぐに追い払われてしまい、二度と迎えてもらえませんでした。父に返事をすることなんか、あまりにもやさしいことだったんです。城にとっては返事をするなんていうことはいつだってやさしいことなんです。いったい、君はどうしてくれというのだ? 君に何が起ったというんだ? 何を許してくれというのだ? いつ、まただれによって、城が君に指一本でもふれたというのだ? たしかに、君は貧乏になってしまったし、お顧客《とくい》もなくしてしまった、だがそんなことは日常生活において、また商売や取引きにおいて、いくらでも起こることだ。どうして城があらゆることに気を使わなければならないのだ? 城はたしかに実際あらゆることに気を使ってはいるけれども、なりゆきに乱暴に干渉するわけにはいかない。簡単に、ただ個人の利害関係に奉仕するというだけの目的で、干渉なんかするわけにはいかないのだ。城の役人たちを派遣してもらいたいというのか? またその役人たちに君のお顧客のあとを追いかけ、君のところへ無理につれもどしてくれというのか? こんな調子でした。ところが、父はそういうときにこう異論を申し立てました――わたしたちはこうしたことについて、いく前にもいってきたあとでも、うちで片隅に集ってはくわしく話し合っていたのでした。その相談は、まるでアマーリアの眼を逃がれようとするような様子でやったのでした。アマーリアは万事を知ってはいるけれど、なるがままにほっておくのでした。――で、父はこう異論を申し立てたのです。自分は何も貧乏になったことを嘆いているんではありません。自分がこの村で失ったものはたやすく取りもどして見せるつもりです。自分を許してさえいただけたら、そんなものはどうでもいいんです。すると、相手のほうでは答えます。『いったい、君に何を許してあげたらいいんだ?』今までのところ報告はとどいていない。少なくともまだ調書には書かれていない。少なくとも弁護士の仲間の手に入る調書には書かれていないのだ。したがって、確認されている限りでは、君に対して何ごとかが企てられていることもないし、何ごとかが進行しているということもないのだ。君に関して出された役所の指令がどういうものかいうことができるかね? 父はそんなことをいえるはずがありません。それとも役所の機関が干渉を加えたのかね? 父はそんなことを全然知りません。それなら、君は何も知らないし、何ごとも起こらなかったとすれば、いったい君はどうしようというのだ? こちらも何を許してやれるのだ? 許してやるといったって、せいぜいのところ、君が今、まじめな用件もないのに役所に迷惑をかけていることを許してやるぐらいのものだ。だが、それこそまさに許すことができぬものなのだ。こういう調子ですの。父はやめませんでした。あのころはまだとても元気があり、無為をしいられていたものですから、時間はたっぷりありました。『おれはアマーリアの名誉を取りもどしてやるぞ。もうすぐだ!』と、バルナバスとわたしとに向って一日に何回かいいました。でも、ほんの低い声でいうだけでした。というのは、アマーリアにそれを聞かせてはいけなかったんです。それにもかかわらず、それはただアマーリアのためにいわれたのでした。というのは、父はほんとうは名誉の回復なんかのことは考えていず、ただ許してもらうことを考えていたんです。ところが、許しを得るためには、まず罪をはっきりさせねばならず、罪は役所で否定されたのです。そこで父はこんな考えに陥ってしまいました。――そして、このことは父がすでに精神的に弱りきっていたことを示すものでした――自分が十分にお金を払わないために相手は罪のことを隠しているのだ、って。つまり、父はそれまではただきまりの料金しか払っていませんでした。それだって、少なくともわたしたちの境遇からすればとても高くつくお金でした。ところが、父は今度は、もっとたくさん払わなければならないのだ、と信じたのでした。それはきっとまちがいでした。というのは、わたしたちの役所では、事を簡単にして不必要な話なんか避けるために賄賂《わいろ》を取るには取りますけれど、それによって得るところなど何もないんです。しかし、それが父の希望であるとするなら、わたしたちはその点で父のじゃまをしたくはありませんでした。わたしたちは、まだもっているものを売り払いました。――それもほとんど欠くことのできぬものばかりでしたけれど――父がいろいろ調べ歩く費用をつくるためでした。長いこと、わたしたちは毎朝、父が出かけるときに、いつでも少なくともいくらかのお金をポケットのなかでじゃらじゃらいわせることができるようにしてやることで満足をおぼえていたのでした。むろん、わたしたちは一日じゅう飢えていました。こうやってお金をつくることでわたしたちがほんとうに実現することができたことといえば、ただ父がある種の希望を抱いてよろこんでいられるということだけでした。ところが、これがほとんど利益にはならぬことだったのです。こんなふうに歩き廻ることで、父は骨身をけずりました。お金がなければすぐにうまく終ってしまったはずのことが、こうやって永びかされたのでした。相手はこんな過分な支払いに対してほんとうは何も特別なことをやることができないのですから、ある書記はときどき少なくとも見たところ何かやっているようによそおおうとして、調査すると約束したり、ある種の見当はもうついているのだ、それを追いかけるのは何も義務からではなく、ただ父に対する好意からやっているのだ、とほのめかしたりするのでした。父は疑い深くなってもよさそうなものなのに、かえっていよいよ信用するようになりました。こうした無意味な約束をもって、まるでまたもや完全な祝福を家へもちこみでもするかのような様子でもどってくるのでした。父がいつもアマーリアの背後で、ゆがんだ微笑を浮かべ、大きく見開いた眼をアマーリアに向けながら、アマーリアを救うことも(そうなればだれよりもあの子自身がいちばん驚くだろうが)、自分の努力のおかげでごく近いうちにうまくいくことになった、でもこれはすべてまだ秘密で、その秘密を厳重に守らなければいけないのだ、とわたしたちにほのめかそうとする様子をながめることは、いかにも心苦しいことでした。もしわたしたちがついに、父にお金をそれ以上渡すことがどうしても不可能にならなかったならば、きっとこんなことがもっと長いあいだつづいたことでしょう。そのあいだに、バルナバスはさんざ頼みこんでやっとブルンスウィックによって職人として採用されました。とはいっても、それはただ、晩の暗闇にまぎれて注文を取りにいき、また暗闇にまぎれて出来上がった仕事をもっていくというやりかたでした。――ブルンスウィックがこの場合、自分の商売にとってのある種の危険をわたしたちのために引き受けたのだ、ということはみとめるべきですが、そのかわりバルナバスに対してとても少ししかお金を払わず、しかもバルナバスの仕事は欠点がないくらいりっぱなものでした――けれど、こうした仕事の手間賃は、わたしたちが完全に飢え死してしまうことから守るのにやっとたりるだけでした。父を大いにいたわりながら、またいろいろ下相談をやったあとで、わたしたちはもうお金の援助をやめるということを父に告げました。ところが、父はそれをとても落ちついて聞き入れました。父はもう分別によっては、自分のやっているいろいろなことには見込みがないのだ、ということを見抜けなくなっていました。つぎつぎの失望に疲れ切っていたのでした。なるほど、こんなことをいってはいました。――父はもう以前のようにはっきりとはものをいわなくなっていたのです。以前はほとんどはっきりしすぎるくらいにものをいっていたものですが――自分がもう少し金を使いさえしたなら、あしたには、いやきょうのうちにでもなんでも知ることができただろうに。これで万事はむだになってしまった。ただ金のことで挫折してしまったんだ、などというのです。でも、父がそれをいう調子は、そんなことはみんな信じてはいないのだ、ということを示していました。そうかと思うとすぐ、突然、新しいいろいろな計画を抱きさえするのでした。罪をはっきり証明することがうまくできなかったものだから、したがってこれ以上は役所を通じての手段ではなしとげることができなかったのだから、これからはもっぱら嘆願にたよって、役人たちに個人的に近づかなければならない。役人たちのなかにはたしかに親切で同情的な心の持主もいる。そんな人も役所ではそういう気持に負けることはできないけれど、役所のそとで、適当なときに突然訪ねていったら」
ここで、これまでまったくオルガの話に耳を傾けきっていたKが、つぎのようにたずねてオルガの話を中断した。
「それで、君はそれを正しいと思わないんですか」その返事は話をつづけていくうちに出てくるにきまってはいたのだが、彼はそれをすぐに知りたかったのだ。
「正しいとは思わないわ」と、オルガはいう。「同情とかあるいはほかのそういった気持などは全然問題にはならないのです。わたしたちはどんなに若く、どんなに無経験であったとしても、そんなことは知っていま