幸田露伴

名工出世譚—— 幸田露伴

   一

 時は明治四年、処は日本の中央、出船入船賑やかな大阪は高津のほとりに、釜貞と云へば土地で唯一軒の鉄瓶の仕上師として知られた家であつた。主人は京都の浄雪の門から出た昔気質の職人肌、頑固の看板と人から笑はれてゐた丁髷《ちよんまげ》を切りもやらぬ心掛が自然その技《わざ》の上にあらはれて、豪放無類の作りが名を得て、関東関西の取引の元締たる久宝寺町の井筒屋、浪花橋の釘吉《くぎよし》、松喜《まつき》、金弥などと云ふ名高い問屋筋の信用も厚く、註文引きも切らずと云つた状態であつた。九夏三伏の暑熱にも怯《め》げず土佐炭|紅※[#二の字点、1-2-22]《あか/\》と起して、今年十六の伜の長次と職人一人を相手として他念なく働いたお庇《かげ》で、生計も先づ裕《ゆた》かに折※[#二の字点、1-2-22]は魚屋の御用聞きなどを呼入れて、世話女房の酌で一杯やるといつた無事な日常《くらし》、世人も羨む位であつた。
 が、儘ならぬは浮世の常、この忠実な鉄瓶職人の家庭に思はぬ運命の暗影が射し始めた。それは、京都に名高い龍文堂といふ鉄瓶屋が時勢の変遷、世人の嗜好に敏なるところから在来の無地荒作りの鉄瓶に工夫を凝らして、華奢な仕上、唐草模様や、奇怪な岩組などといつた、型さま/″\の新品を製鋳して評判をとつたのが抑※[#二の字点、1-2-22]の初め、追ひ/\同職の誰彼もがそれを真似して益※[#二の字点、1-2-22]珍奇を競ひ立つたので、正直一|途《づ》、唯手堅い一方の釜貞は、時流に悠然として己が職分を守つてゐたが、水清ければ魚棲まず、孤高を衒《てら》ふ釜貞への註文は日に尠くなつてゆく所へ持つて来て、同じ土地の新八、太七と云ふ職人が考案した七彩浮ぶかと想はるゝやうな新鋳品が「虹蓋《にじぶた》」と名づけられて世間の評判を博するに至つたので、今迄釜貞の上顧客《じやうとくい》であつた数軒の問屋筋も商売大事さから一人減り二人減りして、何時しか釜貞の土間には炭火もとかく湿り勝ちで、結局仕事が無ければ貯蓄《たくはへ》のない職人のこととて米櫃の中も空であるのが多いやうな仕儀となつた。
 居喰《ゐぐひ》売喰《うりぐひ》の心細い生活がやがて窮迫を告げるに至つた。釜貞は無念の歯噛みと共に今は已むなく、我から問屋に足を運んで、せめて一つの仕事にでもといふのであつたが、彼の虹蓋さへ作つて呉れるなら二十が三十の仕事でも頼むとの口上に、頑固一徹の彼は火の如き憤怒と共に座を蹴つて帰宅した。

    二

 斯うして何の才覚もなくして我家へ帰る途中、釜貞の心中には時世へ対する呪詛に満ちてゐた。が、明日の糧《かて》にも気心を配る女房の顔を見れば、釜貞も人間、只暗澹として首を俯する他はなかつた。
 ふと土間を見ると、鎚を持つて何やら打つてゐた伜の長次が、親の憂を身に引取つたやうな眼付で、
「父さん、矢張り虹蓋の註文で腹をお立てになつて帰つたんですか!」
と尋ねるではないか。
「ウム、その通りだ。だが長次、お前も十七、虹蓋つくる奴等が手筋も大方知つてゐようが、世の中は千人寄つても盲ばかりの素人たち、見かけ倒しの品物でも異《ちが》つたものを嬉しがる馬鹿さ加減つたらねえ!」
 すると長次は、親の心子知らず、只目下の窮状を見るにつけて、父親の徒らなる憤慨に異見を挟みたくなつた。
「でも父さん、何も商売、お客様の喜ぶのが虹蓋なら、長年の経験で父さんにもその製法は判つてゐやうに、ひとつお気を入れ替へてそれを作つて問屋を奪《と》り返しては如何です。今日も御留守に米屋の親父《おやぢ》が来て蓄《たま》つた米代の催促をするやら、それに炭屋や質屋の……」
 云はせも果てず父親は、
「馬鹿! 手前《てめへ》までがそんな腐つた了簡で、歿《な》くなられた浄雪師匠に済まぬとは思はぬか。軽薄な細工物は云はば廃《すた》り易い流行物《はやりもの》、一流の操《みさを》を立てゝ己《おのれ》の分を守るのが名人気質だと云ふのが分らぬか、この不了簡者。米屋がどうの、炭屋がどうの――仮令《たとへ》餓ゑ死しようと、今更虹蓋つくるやうな卑劣《けち》な了簡を持つてたまるものか!」
と大喝するのを、蔭で女房は夫の日頃の気性を知つてゐるだけに只黙※[#二の字点、1-2-22]と涙を拭ふばかりである。
 かうして、背戸に泣く虫の音もいたく衰へた秋の夜長、親子三人枕を並べはしたが、思ひ/\の悲愁に満ちた不眠の幾夜、分けても釜貞にとつては辛い苦しい悪夢の夜が続くのであつた。

    

 貧すれば鈍するとか、分別も智慧もありながら、頑固な気性がつひした借金の負目《おひめ》となつて、釜貞は、一月二月と経つうちに、破れ障子破れ衾《ぶすま》の夜寒に思案もなく、有る程のものを悉く売り尽して露の命を細※[#二の字点、1-2-22]と繋いでゐたが、山と重なる諸方の支払も云訳《いひわけ》ばかりでは済まなくなつたので、万一にも此処ばかりは頼るまいと念じてゐた京都の親類を尋ねるため、川蒸気に乗つて出立した。
 久※[#二の字点、1-2-22]の訪問に手土産一つも調《ととの》ひかねて、きまり悪さに胸を掻きむしられる思ひで、霜の朝をその親類へと辿り着いた。と、何とはなく変つた家内の様子、奥の間より洩れて来る線香の香などにハッと驚きながらに通されると、未だ通知も届かぬ刻限なのにようこそ来た、実は母が八十の高齢で遂に昨日死んだとの悼《くや》み言《ごと》、釜貞は仏前へ差出す一物もなく、まして非常の際に無心に来たとも言はれもせず、茫然自失の体《てい》であつた。

    

 一方、釜貞の家では、倅の長次は朝起きると共に父親の居らぬを怪しみ母に仔細を問へば、斯※[#二の字点、1-2-22]《かく/\》の次第と涙の繰言《くりごと》に歯を喰ひしばつて口惜《くや》しがつたが、これもみな、新八、太七の類が為せし業《わざ》、ようし、斯うなつたら幼しと雖も我も釜貞の倅だ、虹蓋位の手口が判らずに措《お》くものかと、それから凡《あら》ゆる智慧と経験に照らして土間に転《ころが》つてゐた地金の屑をかき集め、灼《や》き、打ち、又焼き又叩き、虹蓋の秘伝を自ら編み出さうと夜の目も寝ずに苦心に苦心を重ねたが、どう工夫し、どう溶《と》かし合せても、似よりのものさへ出来ず、憔悴せんばかりに幾日を送るのであつた。
 釜貞は他《ひと》の不幸に際会して目的の無心も云へず、といふて明日の命を繋ぐ糧さへ無い我家を想ふと矢も楯もあらず、男を枉《ま》げ心を殺して幾許《いくばく》かの金を才覚して、大阪の家へ細※[#二の字点、1-2-22]と認めた手紙に添へて送つてやり、自分は他の職を見つけるべく尚京都の縁者の許に身を置くのであつた。
 長次はやがて思案の末、新八、太七の買《かひ》つけの薬舗《くすりや》に行つて薬を調べたりして腐心するのであつたが、一向その秘法も埒明かず、果ては病人のやうに幼な心を痛めるのを、母親はとかくに慰め訓へて無駄な労力を止めようとするのであつた。
 しかし長次も親譲りの負けぬ気性、湯加減を偸《ぬす》んで名刀の名を馳せし刀鍛治左文字の故事を学ぶの最後の智慧を以て、或日は薄暮、或日は暁暗、亦時として通りすがりの様を装《よそほ》つて、新八、太七の工場の前を窺つては中の様子にそれとなく注意を払ふのであつたが、却※[#二の字点、1-2-22]《なか/\》にその効もなく、そのまゝ日数を経て行つた。

    五

 一日《あるひ》、雪降り凜※[#二の字点、1-2-22]たる寒気の中を例の如く太七の家の前を通るうち、プッツと切れた下駄の鼻緒に転ぶ途端、無作法に笑ひこける太七の家の職人共に、何が可笑しいと詰り寄るうち、ふと一人の職人が細工場の戸を開けて外を窺つた。その瞬間であつた。一種の異臭の幽《かす》かに浮び出るを敏《さと》くも感覚した長次は、身体の痛みも口惜しさも忘れ、跣足《はだし》のまゝに我家へ一散走り、
「母さん、判りました、判りました。漸く虹蓋の秘法が判りました。鉄漿《おはぐろ》です、あ、あの苦い鉄漿だつたのです」
と、雪まぶれ泥まぶれの体を畳に擦りつけて、語気も乱れて埒なく云へば、母親は呆れて我子の顔を仰ぐの他なかつた。
 元来金属の細工には色を出すのに必ず鉄漿を用ゐるもので、釜の仕上師ならば何処の家にでもそれ/″\貯蓄があつて、殊に古いものを珍重するため、弟子は独立するときその師匠から幾許《いくら》か頒つて貰ひ、それをまた己が弟子に頒ち伝へるのが例で、中には百年余りの鉄漿を有つてゐる者さへある程で、もとより釜貞の家にも家伝の鉄漿がないではなかつたが、たゞそのありふれた鉄漿などが虹蓋の色だしに用ゐるものだとは、不幸年少の長次には考へ及ばなかつたのである。
 が、さて長次は、一度太七の家で嗅いだ鉄漿の臭にヒントを得て忽ちに利発の性は虹蓋の秘法を自知し、それからと云ふもの一心不乱、鍛へに鍛へた苦心の虹蓋は今迄の同職より一層鮮かな色を湛へたので、奪はれた顧客も難なく旧に復したのみか、家運頓に挙り、日に隆昌を追ふて、後には父親を迎へて目出度く家庭の和楽を悦び合ふ身となつた。

 この幼年の長次こそ、誰あらう今尚宮城前に威風颯爽たる馬上の勇姿を止める彼の楠公の銅像を鋳造した岡崎雪声氏ではあつた。

底本:「日本の名随筆39 藝」作品社
   1986(昭和61)年1月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第8刷発行
底本の親本:「露伴全集 第三十巻」岩波書店
   1954(昭和29)年7月初版発行
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月12日公開
2005年6月24日修正
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