近松秋江

伊賀國—– 近松秋江

 伊賀國は小國であるけれども、この國に入るには何方からゆくにも相應に深い山を踰《こ》えねばならぬ。自分はいつも汽車の中に安坐しながら、此の國を通過するのであるが、西から木津川の溪谷を溯つて來るのもいゝし、東から鈴鹿山脈を横斷して南畫めいた溪山の間を入つて來るのも興が饒《ふか》い。況《いは》んや俳聖芭蕉の生地である。吾々日本人の自然觀、人生觀乃至それ等の風物に對する趣味といふやうなものが芭蕉一人の存在によつて、いかに幽邃《いうすゐ》深遠の趣きを加へたかといふことを考へると、人間の世界には、烏合の群集ばかりでは足りない、寶玉の如き一人者がなければならぬ。
 私はこの伊賀國の野と山とを多年憧憬して居た。眺め飽かぬ鈴鹿山脈の溪谷を横斷して汽車が伊賀の國境を踰えると、すぐ柘植《つげ》の驛がある。芭蕉はこの柘植で生まれたといふことである。それを上野と柘植とで生地爭ひをしてゐるのはつまらぬことである。芭蕉はたゞ伊賀の人でよい。
 汽車がその上野の驛に着いた頃には、又今晩あたり雨になりさうな空模樣になつてきた。今日これからすぐ月ヶ瀬に往くつもりであるが、勿論梅にはもう季節は遲れてゐるが月ヶ瀬の溪山も亦た多年憧憬してゐるところである。
 ステーションを出て車夫に訊くと、そこから上野の町までは約一里ある。そしてすぐこれから月ヶ瀬に往くにしてもやつぱり上野の町を通過してゆくのである。手荷物を携へてゐるので、それを、今朝|鳥羽《とば》を立つ時、皆春樓《かいしゆんろう》で紹介状を書いてくれた上野の宿屋へ預けて置いて、單身月ヶ瀬に直行して彼地に泊まり、今宵は梅花はなくとも、十分梅溪の山水に浸らうと思つてゐたのに、とかく荷物の爲に累せられて行動の自由を缺く感があるのを憾《うら》みつゝともかくも俥を命じ、一臺にはトランクを載せて走つた。南に向つて行く手の方は四圍の山々遠く、平野が目も遙かに開展してゐる。そこから上野まではやゝ上り道になつてゐて、伊賀川の長橋を向うに渡ると、昔藤堂家の支城の跡の丘陵にさしかゝる。それを向うへ出拔けると上野の町がある。皆春樓の指状にある本町通りの友忠といふ旅館についてその状を示し、案内せられて座敷に通ると、宿の若主人がその手紙を見て挨拶に來り、
 これから月ヶ瀬まではまだ四里の道があるのみならず、最早梅花の季節は過ぎて自動車の往復も頻繁ならず、宿といつても土地の農家が、三月梅花の季間のみ片手間に客を泊めてゐるので不行屆きである。今晩は格別見る物のない處であるが、當處に一泊ありて上野の町を見物し、殊に芭蕉の舊跡|簔蟲庵《みのむしあん》へは是非御一覽をお勸めするといふので、月ヶ瀬にも泊つてみたかつたけれど、もとより上野の町にも、何となく、夙《つと》に親みを抱いてゐることであつたから、有無なくそれに一決し、まだ暮れには少しの間があるので、私は寫眞機を携へて市街にいで、主人に委しく教へられたとほり旅館の前の整然たる街路を眞直に南へゆくと五六町ばかりにして、やゝ街はづれる場末、一寸横丁を左折して入つた處に芭蕉翁の舊庵があつた。

底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「旅こそよけれ」冨山房
   1939(昭和14)年7月発行
※巻末に1923(大正12)年5月と記載有り。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月9日作成
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