ニッケルの文鎮—– 甲賀三郎

ええ、お話しするわ、あたしどうせお喋りだわ。だけど、あんたほんとに誰にも話さないで頂戴《ちょうだい》。だってあたし、あの人に悪いんですもの。
 もう一年になるわね。去年のちょうど今頃、そうセルがそろそろ膚《はだ》寒くなってコレラ騒ぎが大分下火になった時分よ。去年といえば、随分嫌な年で、新聞には毎日のように、自殺だの人殺しだの発狂だのって、薄気味の悪い事ばかし、それにあんた知ってるでしょう。妙な泥坊の事、ね、そら希代《きたい》に大きな宅《うち》ばかり狙って、どこから入ってどこから出たのやらちっとも分からないのに、いつの間にか金目のものがなくなっていたり、用心すればする程面白がって、思いがけない方法で忍び込んだりして、どこからでも入るからまるでラジオの様だというので、新聞に無電《ラジオ》小僧なんて書かれて随分騒ぎだったでしょう。それにとうとうしまいには御恩《ごおん》になった先生があの死に様《よう》でしょう。あたしほんとに悲観しちゃったわ。
 無電小僧といえば、あんたあの話知ってる? 去年の春だったか牛込《うしごめ》のある邸《やしき》の郵便受けの中に銀行の通帳と印形《いんぎょう》が入れてあって、昔借り放しにしていたのをお返しするって丁寧な添え手紙がしてあったという話。新聞に出てたでしょう。あそこの主人は清水ってお爺《じい》さんで、何とか議員をして上面《うわべ》は立派な紳士なんだけれども、実は卑しい身分から成り上がった成金で、慈悲《じひ》も人情もない高利貸しなのよ。今じゃもう警察のご厄介《やっかい》になって、おまけに呆《ぼ》けちまって、誰も見向きもしないけれども、ほんとにひどい奴で、先生の亡くなられたのも、つまりあの業突張《ごうつくば》りの為だわ。そんな欲張り爺《じじい》だから、手前んとこの郵便函に、聞いた事もない人の通帳が入れてあったのを、普通の人なら気味悪がって届けるものを、昔貸し倒れになったのを返して来たんだろうなんてノコノコ銀行に出かけたんだわ。ところが銀行では盗難の届けの出ていた所だから、たちまち爺さんは警察へ突き出されちゃったの。何べんもいうようだけれど、爺さんは欲張りで、倹約《けんやく》だなんて大金持ちの癖に、いつでも薄汚い身装《なり》をしているもんだから、何とか議員だって警察には通じやしないわ。それでとうとう一晩|拘留《こうりゅう》させられたのよ。痛快じゃないこと、ところが泣きっ面に蜂というのは爺さんが警察に宿《とま》っている晩に、無電小僧に入られたのよ。この事は新聞に出なかったんだけれども、訳があってあたしは知ってるの。郵便受けの中へ銀行の通帳を入れたのも無電小僧の策略だったんだわ。ほんとにいい気味ったらありゃしない。
 あたしはほんとにこの爺が嫌いで仕方がなかったんだけれども、月のうちに一、二度はきっと宅《うち》へやって来るのよ。そうしちゃ診察所の帳面を調べたり、書生さん達やあたしに用をいいつけたり、そりゃ横柄なの。先生はあんな優しい方でしょう。黙って平気で見ていらっしゃるんでしょう。あたし歯掻《はが》ゆくって仕方がなかったわ。あたし馬鹿ね。一年もご奉公しながら、なんで清水の業突張りがこんな事をするのか分からなかったの。男はやはり賢いわ。着物の柄を見る事なんか駄目だけれどもね。下村さんや内野さんは、――書生さんの名よ、――二人ともあたしより後から来たんだけれども、ちゃんと分かったと見えて、教えてくれたわ。何でも先生がご研究のお金に困って、清水からお金を借りなすったんだって、それがひどい仕組みで、どうしても返し切れないようになっていて、利に利が嵩《かさ》んで、とても大変なお金になったんですって。それでお宅の方も診察所の方もすっかり抵当に取られて、月々の収入も大方は清水に取られてしまって、先生の方へはホンのポッチリしか入らないんですって。会計の方は一切清水が握っていて、いわば先生は清水の懐《ふところ》を肥やす為に、毎日働いていなすったんだわ。先生はいろいろご本をお書きになって、世界に知られた方だったし、ご診察の方も名人だったんですから、名誉を思えばこそ、清水にそんなひどい事をされても黙っていなすったんだわ。それに奥様は永いご病気でずっと床に着き通しですものね。あたしこの頃になって先生のお心持ちを察するとほんとに自然《ひとりで》に涙が出て来るわ。
 普通の人間だったら、どうせいくら稼《かせ》いだって、他人の懐を肥やすだけですもの、働くのもいい加減嫌になるはずだけれども、先生は患者さんにはそれはご親切だし、前いったように、診察は名人だったから、なかなか流行《はや》ったわ。でもね、亡くなりなすった少し前から一層研究の方にお凝りになったので、自然患者さんも前程ではなかったようだったわ。ですから奉公人の数も、あたしの来た当座とは少し減ったの。診察所の方は薬剤師が一人と会計の爺さんとで、この二人は通い、その外に先刻《さっき》いった下村さんと内野さんの書生が二人。外に看護婦が二人。これは随分顔ぶれが変わったわ。しかし看護婦なんてものは起きてるうちは病人を豚の子かなんぞのように扱って、寝てしまえば自分が肥った豚みたいにグウグウ鼾《いびき》を掻いて、それこそ蹴飛ばしたって眼を醒ましやしないんだから、誰だって構やしない事よ。
 奥の方はご飯たきが一人、奥様付きが一人、それにあたしが先生付き。ええあたしは旦那様とはいわずに先生っていってたの。ご飯たきはもういい加減の婆さんで、台所ばかりに居たし、奥様付きはお米さんといって、いっぺん嫁《かたづ》いた人であたしよりは十位年上でしょう。おとなしい人で、それに寝た切りの奥様に付いているのですもの。沁々《しみじみ》話す暇もなかったわ。ええ、お子さんはなかったの。そういう訳で、診察所の方の人達と口を利くのはあたしだけといってよい位だったわ。そりゃああたしがお侠《きゃん》だからだけれども、先生の小間使いですもの、そりゃどうしたって診察所との交渉が多いわよ。ええ、こりゃ漢語よ。
 それで書生さんの下村さんと内野さんとがとても素敵なの。そりゃいい男なのよ。あら、そんな事いうなら、もう話を止《よ》すわよ。
 二人とも二十四、五だったわ。内野さんがなんでも三月か四月に来て、それから一月程して下村さんが来たの。二人とも江戸っ子だったわ。無論お互いに前は知りっこなし。よく旨く揃ったものだわね。どっちもいい体格でね。肉体美っていうのね、デッブリ肥っているんでなしに、スラリとしているんだけれども、肉が締まっているんだわ。下村さんの方は色が白くてニコニコすると、そりゃ愛嬌があるんだけれども、眼許に少し険があってね、どっちかというと考え深そうな顔でした。内野さんは少し浅黒い方で、ハイカラな言葉でいうと、そりゃ明るい顔なの、だからまあ、下村さんの前では打ち解けて話しても心の隅にはどっかこう四角張った所が残っているような気がするのが、内野さんの前では心底《しんそこ》から打ち解けて気が許せるという位の違いはあるの。ええ、そりゃまあどっちかといえば、内野さんの方が好きだったけれども、下村さんだって好きだし、あたし困るわ。あたしだけじゃなくてよ。誰でもきっと困ると思うわ。学問の事はあたしには判らないけれども、二人とも何でもよく知っているらしいのよ、頭脳《あたま》だって両方大したもんよ。むずかしい事をいってよく議論するの。昼間ならまだよいけれど、夜遅くまで書生部屋でやるんでしょう。あたし寝られなくって困った事があったわ。あたしにはよく分からないけれども二人ともちっとばかし、ほら、あの社会主義とかいうんでないかと思ったわ。
 先生はあとから考えて見ると、あの頃少し変だったわ。先の短い人のように、一分一秒を惜しんでせっせと暇さえあれば書斎に籠《こも》って書き物ばかししてらっしたし、それにこうなんとなく打ち沈んで元気がなかったし、あたしなんだか近い内に変わった事が起こりそうで仕方がなかったわ。
 あの晩ね。宵《よい》の内《うち》に内野さんと下村さんの二人でそりゃ大議論をしたのよ。先生は書斎でいつも通りご勉強でしょう。あたしお次室《つぎ》に坐っていると、書生部屋で二人が大声でいい争っているのがよく聞こえるのでしょう。あたし喧嘩になりやしないかと思って心配して、止めに行こうかと思っているうちに、先生がお呼びでしょう。ハーイってお部屋へゆくと、下村と内野を呼んで来いってんでしょう。あたしきっと叱られるんだろうと思ってヒヤリとしたわ。二人が入ってしまうと、あたし次室で聞き耳を立てて居たんだけれども、大分しんみりした話と見えて、ちっとも聞こえないの。そのうちにお手が鳴って紅茶を持っておいでというのでしょう。様子を見ると叱られている風でもないので、あたし安心したわ。
 紅茶を上げてから、そう十一時頃でしょう。二人は書生部屋へ帰って寝ちゃったの。先生はまだご研究に起きていらしったようでしたが、もう寝てもよいとおっしゃったので、部屋へ下がって寝たのよ。あたしウトウトとして、フト眼を覚ますと、書斎の方で何だか変な物音がするのよ。先生がまだ起きていらっしゃるのだろうと思って、寝返りを打とうと思って、廊下の方を見ると真っ暗でしょう。書斎に灯《あかり》がついていれば、それが差して、障子が白く闇に浮かぶはずなんですもの。ハッと思うと、眼がすっかり覚めてしまったの。念のため手探りで障子を開けて見ると真っ暗でしょう。その途端に確かに書斎から人の出て来るような気配がしたの。あたし震え上がっちゃったわ。床の中へ潜《もぐ》り込んで蒲団を被《かぶ》っていたの。しばらくすると辺りはしーんとして、もう物音も何も聞こえないでしょう。あたし恐々《こわごわ》起きて、電灯を点けて見たの。それからまたしばらく息を凝らしていたけれども別に何の変わった事もないので、少し元気が出て来て、廊下伝いに書生部屋へ出て、廊下の外から、下村さん内野さんと呼んだの。二人とも平常《ふだん》はそりゃ目覚《めざと》いんだけれども、その時に限ってグウグウ鼾を掻いているので、とても駄目だと思って、部屋へ帰って寝てしまったの。とても書斎の方へ行く元気はなかったわ。
 なかなか寝つかれなくて、それでも明け方にトロトロとしたでしょう。外が少し白んで来たと思うともう起き上がって、気になっていたもんだから先生のお寝みになる部屋を第一番に覗いて見ると、前の晩にあたしが取って置いた通り、床がチャンとして、先生のお休みになった様子がないじゃありませんか。あたしはハッと思って、急いで書斎へ行って、扉《ドア》をコツコツ叩《たた》いて見ても返事がないでしょう。胸をドキンドキンさせながら、恐々扉を開けてみたの。そうすると先生は背向《うしろむ》きに椅子にかけて正面の大きな書き物机にもたれて、ガックリとこう転《うた》た寝でも遊ばしているような恰好なんでしょう。先生、先生と呼んで見たけれどもちっとも返辞がありません。あたしもう耐《たま》らなく不安になって、書生部屋へ駈けつけて、二人を起こしたの。内野さんも下村さんもなかなか起きないんですものね。随分困ったわ。やっと眼を醒ました二人に先生が変だというと、二人はまるで弦《つる》から放れた矢のように部屋を飛び出したわ。あたしが後から追い駈けてゆくと、扉の所で二人が話しているの。
『君、ちょっと待ちたまえ』下村さんの声、『手袋をはめて入ろうじゃないか。誰かこの部屋を荒らしたようだから、指紋を消してしまうといけない』
 内野さんも異議がなかったと見えて、二人とも書生部屋に引き返して、手袋をはめて書斎へ入ったの。変に丁寧な事をすると思ったわ。あたしもあとからそっと部屋に入ると驚いたわ。本箱の中の本は残らずといっていい位外へ出して、開け放しのままや、閉じたままに積み重ねてあるし、抽斗《ひきだし》は残らず引き抜いて、そりゃもう部屋中はめちゃくちゃに引っ掻き回してあるの。先生は相変わらずじっとしていらっしゃるでしょう。つかつかと先生のお傍へ寄って行ってね。肩へ手をかけて起こそうと思ってふと頸《くび》の所を見ると真っ黒なものがベットリついているの。よく見るとそれが血なんでしょう。あたし内野さんが抱き留めてくれなきゃ、きっとあそこへ引っくり返ったに違いないわ。
『これでやったんだな』下村さんがそういって先生の側《そば》へしゃがんだので、見ると血のついた文鎮が足許の所に落ちていたわ。この文鎮というのは先生がフルスカップって、そら大きな西洋の罫紙《けいし》ね、あれを広げたまま押さえる為に特別にお拵《こしら》えになったので、長さ一尺以上あるでしょう。ニッケルなんですって。あたし掃除をする時によく持ったけれども、そりゃ重いもんよ。いつだったか先生が冗談に『八重《やえ》、これで力一杯ぶたれると一思いだよ』と仰しゃった事があったけれども、ほんとにこれでぶたれてしまいなすったんだわ。
 下村さんも内野さんも妙な人よ。あたしに何も触っちゃいけないといって、二人で一生懸命に、手袋をはめた手でそこいら中引っ掻き回して、といっても、そりゃ丁寧なのよ。ちゃんと元の通りにして置くんですものね。口なんか少しも利かないの。窓の様子を調べたり、床の上を這い回ったり、壁を叩いて見たり、あたしこう思ったわ。きっと二人共近頃|流行《はやり》の探偵小説にかぶれて、名探偵気取りで、犯人を探そうと思って競争しているんだと。二人はよく競争するんですものね。え、あたしが居るからだって。冗談でしょう。二人ともなかなかそんな人じゃなくてよ。それであたし二人が余り探し回るから、ちょっとからかおうかと思ったけれども、場合が場合でしょう。それに二人が余り真剣なんですものね。手持ち無沙汰でもあり、気味悪くもあり部屋を出ようとすると、内野さんが、『八重ちゃん。まだ外《ほか》の人には知らさない方がいいよ』といったので、あたしは自分の部屋へ帰ったけれどもどうしてよいのやら、いても立っても耐《たま》らなかったわ。
 そのうちに下村さんが警察へ電話をかけたらしいの。八時頃だったでしょう。自動車でドヤドヤと大勢お役人さんが来たの、あたし達みんな順繰りに調べられたわ。お役人さんて妙ね、髭をはやした立派な身装《みな》りをした人が、痩せこけたみすぼらしいお爺さん見たいな人にヘイヘイするんですものねえ。あのお爺さんがきっと判事さんとか検事さんとかいうのよ。まあ検事さんにしとくわ。あたしは知ってる通りいったわ。指紋とかをとられたわ。外の人達もみんな簡単にすんだらしいけれども、下村さんと内野さんは随分調べられたようだったの。しまいには二人一緒に調べられたようよ。つまりね、二人とも何も知らないでグッスリ寝ていたのが可笑《おか》しいというのでしょう。それに物奪《ものと》りだか、遺恨《いこん》だかとにかく先生を殺した奴は診察所の窓から入って、書生部屋の前を通り、書斎へ入って、背後《うしろ》から先生を文鎮で一打ちに殺して置いて、悠々《ゆうゆう》とそこいら中を探し回って裏口から逃げたというのが警察の見込みで、それに診察所の窓は一つだけ、中からかけ金がはずしてあったらしいというので、一層二人が疑われたんだわ。文鎮はどこに置いてあったかって。あんたも検事さん見たいな事をいうのね。あたしそれを聞かれるとちょっと困ったわ。妙なもので、毎日見ているものでも、だしぬけに部屋のどの辺にあったかと聞かれると、ちょっとまごつくわね。あたし多分先生の書き物机の左方にある別の机の上に置いてあったと思ったわ。え? ええ、先生の死骸は何でも死後何時間とかいうので、兇行は前の晩の二時頃と定《き》まったんです。
 内野さんと下村さんは訊問が済んで、書生部屋へ帰ると、何かコソコソ話し出したの。紅茶という声が聞こえたので、あたしは思わず聞き耳を立てると、
『君、どうして検事に先生の前で紅茶を飲んだ事をいわなかったのだい』内野さんの声、
『君こそどうして隠したんだい』下村さんの声。
『僕は先生に迷惑がかかりはせぬかと思ったのでいわなかったよ』
『僕もまあ君と同じ理由《わけ》だが、も一つは君が迷惑しないかと思ってね』
『何、僕が』内野さんは驚いたようだったわ。『どういう訳だい』
『君はグッスリ寝ていて何も知らなかったというのはほんとかい』
『残念ながらほんとだよ、君が何をしても知らなかったさ』
『妙な物のいい方だね』下村さんは案外落ち着いているわ。『僕こそ君が何をしても知らなかったのだよ』
 二人で疑りっこしているのだわ。あたし二人ともよく寝ていた事は知っているのだから、喧嘩になるようなら、そういってあげようかと思っていると、いい塩梅《あんばい》にそれっきり話がしまいになったらしいの。
 そうこうしているうちに大変な事が持ち上がったの。奥さんはほら前にいった通り瀕死《ひんし》の病人でしょう、先生の事なんかお耳に入れるとどんな事になるか分からないので、お役人も考えていたらしいのですけれども、聞かなきゃならない事もあるし、話さずに置く訳に行かなくなったので、まあお米さんが引き受けて、遠回しに話し出すと、奥さんは案外平気なんですって、気丈な方ね。そうしてお米さんに、『旦那さんはかねがねもしもの事があったら、書斎の西北の隅の腰羽目《こしばめ》の板を少しズラすと鍵穴があるから、そこを開けると遺言が入っているから開けて見るように』と仰しゃっていたからといって、奥さんは預かってあった鍵をお出しになったのよ。
 お役人なんてやっぱりあわてるのね。お米さんが自分が持って行くのは嫌なものだから、鍵をあたしに頼んだんでしょう。あたし仕方がないから書斎に持って行ったの。そうすると検事さんでしょう、痩せこけた上役らしい人がしかつめらしい顔で受け取ってあたしに『西北はどっちですか』と聞くでしょう。あたし達いつでも右左っていってるんですもの。突然《だしぬけ》に西だの東だのったって、容易に分かりゃしないわ、考え込んでいると、丸顔の肥《ふと》ったもう一人のお役人が磁石を出しかけたの。ところがそれがズボンの帯革に鎖がからまってなかなかはずれないの。肥っているから自分の腰の所がよく見られないのでしょう。あわてるから反《かえ》ってなかなかとれないの。検事さんは少しイライラしていたようだわ。やっと鎖が外れると、ほらあの金で出来た磁石によく蓋《ふた》がついているでしょう。あれなのよ。それでなかなか蓋が開かないの。検事さんはとうとう癇癪《かんしゃく》を起こして、下村さんか内野さんかを呼ぶつもりでしょう。壁に取りつけたポッチを一生懸命に押し出したの。呼び鈴のつもりなんでしょうけれども、あれは電灯のスイッチなんですもの。誰も来る気遣いはないわ。年寄りの癖に新式のスイッチを知らないんでしょうかね。あたし教えて上げようかと思っているうちに、やっと磁石の蓋が開いたの。
『えーとこっちが北で、こっちが西と、この隅です』と机の置いてある真後ろの隅を指したの。お爺さんはやっと壁の手を放して、その隅へ大急ぎで行ったわ。それから二人で一つ一つ羽目板を揺すぶったけれどもビクともしやしないわ。とうとう諦めて私に書生を呼んでくれといったの。あたしが内野さんと下村さんを連れて帰って来ると、検事さんが『君、西北というのはこの隅ですね』と今まで探していた隅を指したの。二人は、――やっぱり男は偉いわね、――すぐに『いいえこの隅です』と机とちょうど反対の隅を指したわ。
『君は一体何を見たんだ』と検事さんが怒鳴ったの。
『磁石を見たのです』若い方も少し怒りながらいったわ。
『見せて見たまえ』年寄りの方が引ったくるように磁石を受け取ってしばらく見てたっけ。
『馬鹿な。君はどうかしているこっちが北だから、君のいう方は東北じゃないか』
『そんなはずはありません』若い方はむっとしながら、磁石を受け取ったの。それから頓狂《とんきょう》な声を出したわ。
『オヤ、変だ。さっき見た時と針の指し方が違う』
『馬鹿な事をいっちゃいけない。磁石の針が五分や十分の間に狂うものか』
『――』腑《ふ》に落ちないのでしょう。若い人は黙ってじっと磁石を見つめていたわ。
 議論はともかく、遺言を出さねばならないでしょう。西北の隅というのは大きな本箱のある所ですものね。総がかりで本箱を動かしてね。検事さんが調べるとね。じきに板のズレる所が分かって、鍵穴があったの。鍵は無論合うし、訳なく遺言状が出たわ。奥さんでなければ開けられないので、あたしが枕頭《まくらもと》に持って行って開けたの。中にはいろいろ細かい事が書いてあったけれども、別に一枚の紙があって、思いがけない大変なことが書いてあったの。余程興奮してお書きになったと見えて、ブルブル震えて、字の大きさや行なども不揃いだったわ。あたし読んでいるうちに蒼くなっちゃったわ。
『私はきっと清水に殺されるに違いない。
 私はほんの僅かな借金が原因《もと》で、清水に長い年月|苛《さい》なまれて来た。私はただ彼の奴隷として生き永らえたのだ。私は涙を呑んで堪え忍んだ。私は研究が可愛かったのである。私はただ研究が完成したかったのだ。ところが清水は私のその大切な研究を金になりさえすればというので、密かに窺《うかが》っているのだ。彼は一方に私の復讐を恐れるのと、一方にこの研究を手に入れたい為に私を邪魔にしているのだ。私はきっと清水に殺されるに相違ない。もし私が変死をすれば、それは清水の手にかかったのだ――』
 よく覚えていないけれども文章はまあこんな風だったと思うわ。奥さんのいいつけでこの遺書を持って検事さんの所へ行くと、流石《さすが》のお爺さんも驚いたようだったわ。それから一時間程して、清水の業突張《ごうつくば》りが書斎へ連れられて来たの。まるで死人のような真っ蒼な顔をしていたわ。何しろ文鎮には立派に清水の指紋がついていた事が判ったのでしょう。前夜遅くまで家に帰らなかった弁解《いいわけ》は出来ないし、先生との関係がどんな風だか[#「どんな風だか」は底本では「どんな風だが」]、下村さん達がいったし、それに先生の書き置きでしょう。とても逃れる所はないんですものね、蒼い顔をして悄然《しょうぜん》としているのを見ると、あたしはほんとにいい気味だったわ。こいつが先生を殺したんだと思うと随分憎らしくもあったわ。
 あたしそう思ったわ。清水の奴、文鎮で先生を殺して置いて、ええ、傷口はピッタリ文鎮と合ったのよ。これで打った事は疑いの余地はないの。そして自分の事を書いてある遺書《かきおき》のあるのをどうかして知っていて、それを奪《と》ろうと部屋中探したに違いないとね。何てずうずうしいんでしょう。あたし達三人また検事さんの前に呼ばれて清水の事で調べられたわ。
『お前は被害者が清水宛てに手紙を出した事を知ってるか』って聞かれたわ。
 あたしそんな事知らなかったの。下村さん達も知らなかったわ。先生の手紙は大抵あたしが出しに行くのですから、あたしならまあ知っている訳だわ。
 清水がこういうんですって。昨日の昼先生から秘密の用談があるから、今晩遅くに来てくれという手紙を貰《もら》ったのですって、それで夜出かけたけれども、先《せん》に一度銀行の通帳の事で一杯喰わされた事があるので、何となく気が進まず、宅《うち》の前まで来てそのまま帰っちゃったんですって。だって可笑しいでしょう。先生の手紙が通帳の一件とは何の関係もないし、それに先生の手紙は破いてくれとあったのでその通り破いたのですって、怪しいわね。それに研究の事をいうと真っ蒼になったんですもの。何ていったって、清水のした事に違いないじゃありませんか。だけどどうしても白状しないのよ。
『甚《はなは》だ差し出がましいようですが』下村さんがだしぬけに検事さんにいったの、『本件には一、二矛盾した所があるように思います。第一には兇器たる文鎮には歴然と指紋があって、犯人が部屋中を捜索したと認められるにもかかわらず、他に同様の指紋が現れない事で、兇行後手袋をはめるという事はちょっと常識では考えられませぬ。つまり犯人が二人いたか、あるいは指紋が兇行前既についていたか――』
『そんな事はないわよ』あたし思わず下村さんにいったの。『だって先生はあの文鎮が錆《さ》びるのが心配で始終拭いてらしったし、あたしも毎朝一度はきっと拭くんですもの』
『私も下村君の説に賛成です』内野さんがいったの。『この本箱を探した男は明らかに余程背の低い男です。ご覧の通り下から出した本を積み重ねて踏み台にしています。清水さんなら、無論踏み台なしで届きましょう』
 あたしは何だか二人で清水の加勢をしているようで憎らしかったわ。二人は清水の回し者かしらと思ったわ。だって清水はあんなに先生を苦しめた奴じゃありませんか。何も弁護するに当たらないと思うわ、清水はひっつった死面《デスマスク》のような顔を二人の方に向けて、眼で拝んでいるようだったわ。
『文鎮の長さはどれ位でしょう』下村さんがあたしの思慮《おもわく》などお構いなしに聞いたわ。
『約一尺という事じゃが』検事さんの答え。
『もっと委《くわ》しく知りたいのです』
 刑事ってんでしょうか、清水の傍にくっついていた人は渋々巻き尺を出して計ったわ。
『十一インチ四分の三』
『えっ、間違いはありませんか。大丈夫ですか――内野君』内野さんの方を向いて『君とほら、二、三日前にあの文鎮の長さの賭けをしたろう、君は長さを覚えているかい』
『十一インチ八分の七』内野さんがきっぱり答えたわ。
 各自《めいめい》考えていたんでしょう。しばらく誰も口を利くものがなかったわ。あたしも考えて見たんだけれども何の事かちっとも分からなかったわ。下村さんは沈思黙考《ちんしもくこう》という形、内野さんはゴソゴソ本箱の辺で何やら調べ始めたようでした。
『文鎮を削って見て下さい』下村さんが突然叫び出したのであたし吃驚《びっくり》したわ。
 下村さんのいう事がもっともらしいので、お役人もいう通りに削って見たけれども、やっぱり中までニッケルだったの。下村さんの考えは鍍金《めっき》じゃないかと思ったのでしょう。
『中までニッケルですか』がっかりしたようにいってまた腕を組んで考え出したわ。
 そうすると今度は内野さんが怒鳴り出したの。
『あいつだ。そうだあいつだ』
 皆|吃驚《びっくり》して内野さんの方を見たわ。
『皆さん、ご承知でしょう。ドイツ語教師古田正五郎を、あいつです。ここへ忍び込んで来たのは』
 あたし二度吃驚したわ。だってこの古田の話はやっぱりあの無電《ラジオ》小僧と関係して、つい先頃新聞に喧《やかま》しく出された不思議な事件ですものね。今でこそもう覚えている人は余りありますまいが、当時は知らない人ってなかったでしょう。古田というのはね、どっか私立学校のドイツ語の先生で、片手間に翻訳なんかしている人なの。新聞に写真が出てたっけが、クシャクシャとした顔で、まるで狆《ちん》ね、それでいて頭が割合に大きくて背が人並はずれて低いっていうのですから、お化けに近いかも知れない。でも頭脳《あたま》が大変よくて、翻訳なんか上手なんですって。この人が突然行方不明になったんですわ。おかみさんが心配して、このおかみさんの写真も出ていましたがそりゃ別嬪《べっぴん》よ。あたし位かって、冗談いいっこなしよ。そのおかみさんが方々探しても見つからないので警察へ届けたの。そうすると何でも家出してから四、五日目におかみさん宛てに手紙が来て、余儀ない事情で二、三週間家に帰らないが、決して心配する事はない、愉快に暮らしているからって、手紙の中にはお金が入っていたのですって、警察でもうっちゃっといたらしいの。そうすると手紙通り三週間目かにブラリと元気のいい顔をして帰って来たのよ。警察でもいろいろ聞いたらしいけれども、ハッキリした事はいわなかったんですって。その時はそれでよかったんですけれども、一カ月経つとまた家出をしたの。二、三週で帰ってくると置き手紙がしてあったので、今度はおかみさんも騒がないでいると、二週間程すると今度は蒼い顔をして帰って来たんですって。三度目が大変なの、例によって二、三日留守にしたと思うと清水の爺さんの宅《うち》で切り傷を拵《こしら》えて気絶していたの。その時は何でも爺さんに翻訳の頼まれものをしていたらしいのですが、その晩に強盗が入ったの、人の宅だから黙ってりゃよいのに抵抗したんでしょう。切られた上に打《ぶ》たれて気絶しちゃったの。傷は浅かったんだけれども、ひどくぶたれたんですね。警察でも随分調べたけれども、手掛かりがちっともないの。それに清水の爺さんは盗人《ぬすっと》が恐いから随分用心しているので、そう容易には入れないはずだし、それに先にそら銀行の通帳の[#「通帳の」は底本では「通帳」]一件があったりして、てっきり例の無電小僧の仕業となったのよ。新聞でもそう書き立てたの。そしたらそりゃ[#「そりゃ」は底本では「そりぁ」]無電小僧が怒ってね、新聞に投書したのよ。大胆な泥坊じゃないこと。俺は無電小僧なんて名乗った事はないが、人がそういうのは多分俺の事と思うが、そういってくれる通りどこから入ったか、どこから出たか分からぬように立ち働くのが俺の腕の勝《すぐ》れた所で、俺は人に姿を見られた事はない。況《いわん》や切れ物を振り回したり、傷を負わした事があるものか。少し不可解な事件が起こると、自分の無能を隠す為に、あれも無電小僧これも無電小僧と俺に責任を負わせるのはご免|蒙《こうむ》ると偉い剣幕なの。警察では躍起となって探したけれども、とうとう捕まんなかったわ。それからしばらくするとまた二晩程古田がいなくなったんですって。おかみさんも仕方がないから抛《ほう》って置くと、二晩目の夜中に、押入れの中でうんうん唸るような声が聞こえるのですって、気丈なおかみさんと見えて押入れを開けると、長持ちの中で人が唸っているようなので家政婦と二人で恐々開けると、現在のご亭主が後手に縛られて猿ぐつわをはめられていたんだって、可哀相に二昼夜程自分の家の長持ちに入っていたんだわ。半死半生になっていたのですって。可哀相に、何でも突然《いきなり》、後ろから来て縛られちゃったので、どんな奴にやられたのか少しも分からないというのです。今度こそ正真|贋《まが》いなしの無電小僧にやられたんだわ。これはほんとうでしょう。今度は無電小僧も新聞に投書しなかったから。それにしてもそれだけの事を家の人に気づかれないでよくやったものねぇ。
 その古田がここへ来たというのでしょう。皆びっくりするのは当然《あたりまえ》だわ。
『ご覧なさい』内野さんはあっけに取られている皆の顔を見ながらいったの。『こうして開けてある本がみんな大形のドイツ語の本でしょう。抽斗《ひきだし》でもなんでも大きなものばかり抜いてあるでしょう。私はかねがね先生から聞いていましたが、先生のご研究を盗もうという奴があるのです。それで先生は書き上げると、秘密の場所に隠されるのです。先生のご研究は机の上を見ても分かる通り、みんなフルスカップに書いてあります。だから隠すにしても大形の本か大きい抽斗でなければならないのです。古田はドイツ語が読めます。だから彼はきっと先生のドイツ語で書かれた研究を盗み出そうという一味の一人に相違ないのです。彼は背が低い。そして何よりも動かすべからざる証拠はここに挟んである紙片です。彼は多くの本を調べて行くのにマゴつかないように、すんだ分には小さい紙片を挟んだのです。白紙のつもりであったのが、彼の翻訳の原稿の書き損ないでも入っていたと見えて、この反故《ほご》に彼の手蹟があります。私は実は古田にドイツ語を習った事があるので、彼の手蹟はよく知っています』
 歯切れのいい口調で、まるで朗読しているような朗《ほが》らかな声で堂々というのでしょう。あたしすっかり聞き惚れちゃったわ。外の人もみんなそうだったの。ところがね。下村さんだけがね。この人はさっきから腕組みして考え込んでいたのですが、この時ちょっと内野さんの喋っている顔を見てニヤニヤと笑ったわ。でもすぐ元の顔になったから、気がついたのはきっとあたしだけだったでしょう。
 検事さんも、古田の事は知っていたと見えて、内野さんの渡した紙片《かみきれ》を見ると、すぐ古田を捕まえに刑事をやったわ。清水の爺は相変わらず顔をゆがめて化石したように突っ立っていたわ。
『もう一本の文鎮を探す必要があるね』しばらくすると内野さんが下村さんにいったの。
『うん、確かに二本あるに相違ない。たとえわずかでも寸法が違うからね。しかしもう一本が鉄に鍍金《めっき》したものであるとしても、どうしてスリ替える事が出来るか。今落ちているのが鉄でなければ説明がつかない』下村さんは独り言のようにいったの。
『そうかッ』内野さんがそりゃ大きな声を出したわ。あたし飛び上がっちゃったわ。『君の考えは素敵だ。君、ニッケルでいいんだよ[#「ニッケルでいいんだよ」に傍点]。恐ろしい計画だったなあ。さあ天井裏だ』
 こういうかと思うと、内野さんはたちまち窓にスルスルと昇って、庇《ひさし》に手をかけ洋館の屋根に上がって、あの汽車の日よけ窓のようなシャッターのはまっている小さい窓をはずし出したわ。下村さんもすぐ後から登ったわ。しばらくすると内野さんが天井裏へ入り込んだので、続いて下村さんも入ろうとすると、中から内野さんが何か渡したらしいの。しばらくすると二人で何だか重そうな電気の機械みたいなものを抱えて下りて来たわ。
『これがコイル、これがマグネットです。コイルに強力な電流を通じると、マグネットに強力な磁力が生じます。ちょっとやって見ましょう』内野さんは机の下を探し回って、太い電線を見つけてつないで、それから先刻《さっき》の壁のスイッチを押して、ニッケルの文鎮を傍へ持って行くと、パチッと音がして吸いついちゃった。あたし吃驚したわ。
『文鎮が鉄だったら、恐らく下村君は一時間も前に謎を解いたでしょう。純粋のニッケルが磁石に吸引せられる事はちょっと人の知らぬ事です。先生は天井裏にこれを仕掛けて、電流を通じて文鎮を天井に吸いつかせ、次に電流を切ってそれを自分の頸の上へ落としたのです。自殺です。さっきほらあの方の磁石が狂ったでしょう。あの時は偶然検事さんがこのスイッチを押して居られたので、磁石が机の方を指したのです。文鎮は二つ拵《こしら》えてあってかねて清水さんの指紋を取ってあった方を使ったのです。嫌疑が清水さんにかかるように仕組んであったのは十分なる理由《わけ》があるように思います。この機械の傍にこの通りもう一本のニッケルの文鎮と、そしてもう一通の先生の遺書がありました』
 この遺書《かきおき》は警察宛てだったので、すぐ開けられたの。あたしは検事さんが読んでいる内にハラハラと熱い口惜《くや》し涙を流したわ。
『親愛なる警察官諸君。私はこの第二の遺書が私の死後幾日にして開かれるかを知らない。私が改めていうまでもなく、この遺書の見出される日はすなわち私の死が自殺である事が明らかになる日で、清水に対する嫌疑の晴れる日である。私はこの遺書の発見せられる時期が、彼清水が私に加えた暴戻《ぼうれい》に対する復讐に必要にして十分なる程度に、長からずかつ短からざるを祈る』
 短過ぎたわ。先生が生きて復讐する事が出来ないで、死んで仇《あだ》をとろうとあれだけの苦心《くしん》をなすったのに、こうむざむざと見つけられるとは。あの業突張りに何故もっと大きな天罰が与えられないのでしょう。あたし涙が止めどなく出て仕方がなかったわ。皆の思いも同じでしょう。暗い顔をしてしばらくは誰も口を利くものがありません。
 でも、後はもう古田の問題だけでしょう。殺人でなかったので検事さん達はホッとして帰り支度を始めたわ。清水は嬉しいんだか何だか気抜けしたようにポカンとしていましたっけ。
 そうすると突然内野さんが検事さんを呼びかけたのです。
『検事さん。まだ少し事件が残っています。私は清水氏を古田と共謀して先生の研究を盗み出した人として告発したいと思います。それからこの下村君も無罪ではありません。彼は診察室の窓を開けて置いて、古田の忍び込むのに便宜《べんぎ》を与えました』
 まあ。下村さんがそんな事をしたのかしら。じゃ下村さんは清水の手先だったのかしら。けれども何か内野さんの思い違いじゃないかしら。もし思い違いなら、随分ひどいわ。それとも平常《ふだん》の議論の仇討《あだう》ちかしら。そんならなおひどいわ。こんな場合にそんな事をいわれちゃどんなに迷惑するか知れやしない。けれども内野さんがそんな卑怯な事をする気遣いはなし、あたし随分思い迷っちゃったわ。でも下村さんは割合に平気だったわよ。
 こういわれると検事さんだって、うやむやにする訳にも行かないでしょう。内野さんのいう事を聞き出したの。あたしは外へ出されちゃったわ。それからどうしたものか、下村さんと清水さんは警察に連れて行かれちゃったわ。
 悪い事は続くもの。その晩とうとう奥さんも亡くなっちゃったの。内野さんが万事取り締って、一日置いて淋しいお葬《とむらい》を出してね、奉公人はそれぞれ暇を取って帰ったのですが、あたし内野さんと変になっちゃってね、下村さんを警察へやっちゃったと思うと、なんだか内野さんが頼もしくない人のように思えて、どうも前のようにはならなかったわ。それでも別れる時に、『八重ちゃん、さようなら、ご縁があったらまた逢いましょう』といわれた時には何だか心細くて涙が出たわ。
 その後の事はあんたも新聞で知っているでしょう。清水と古田は先生の研究を盗もうとした罪で刑務所へ入れられたわ。清水はあの日殺人の嫌疑が逃れられぬと思った為に、すっかり驚いてしまって、その後頭脳が呆けてまるで駄目になっちゃったそうだわ。矢張《やっぱ》り天罰ね。先生のご研究というのは何でも戦争に役に立つ事なんですって。これは無事に陸軍だか海軍だか知らないが、ちゃんとその方へ納まったんですって。ただ思いがけなかったのは下村さんが警察へ行く途中で逃げちゃった事だわ。あたしまさかそんな事する人とは思わなかったんですけれどもね。人って分からないものと思っていたの。そうしたらなんでも二、三カ月経って、清水や古田の事がすっかり落着《らくちゃく》した時分よ、あたしのこちらへ上がっている事をどこで知ったのか、内野さんと下村さんとから、しかも妙じゃない事、同じ日に手紙が来たの。あたし、下村さんの方から読んだのです。
『親愛なる八重子さん。
 ご無事にお暮らしで結構です。蔭ながら喜んでいます。私もお蔭で無事です。
 あの日警察へ行く途中で、私が逃げたので驚いたでしょう。私もあの日はかなり骨を折りましたよ。何しろ相手が内野君という豪《ごう》の者ですからね。あなたにもいろいろ分からない事があるでしょう。だからあなただけにそっと知らせてあげますよ。
 事の起こりはね。清水が先生のご研究を横取りした事なんです。先生のご研究というのは戦争に使う毒ガスなので非常に秘密にしておられたのです。それを清水が嗅ぎつけて何の研究だか[#「研究だか」は底本では「研究だが」]知らなかったんですが、とにかく金にさえなればというので、借金の返済を楯に、否応なしに取り上げたのです。もっともまだ完成していなかったのですが、大部分は清水の手に渡ったのです。ところがドイツ語で書いてあるので、清水は自分は少しも読めないから、誰かに翻訳を頼まねばならなかったのですが、迂闊《うかつ》には手が出せないので、古田を秘密に呼び寄せて、割のよい報酬で訳させたのです。ところが古田が無断で家を出たものだから、留守宅で騒ぎ出すし、いろいろ物騒な話のあった頃で、世間も喧しくなりそうだったので、途中で一度帰したのです。二度目に古田が清水の宅で翻訳をしている時に、無電小僧――本人はこの名を大変嫌がっているのですが――という例の盗人が清水をねらって、例の銀行の通帳でおびき出して、留守宅へ入ると、思いがけなく古田が翻訳をやっていたので、ちょいとその原稿を失敬したのです。無論一部分でした。清水も用心して古田に少しずつ渡していたのです。そこで無電先生宅へ帰って読んでみると、なかなか面白いもので、次第によったら金になりそうなのです。それで様子を窺っていると、三度目に清水に呼ばれた時、古田の奴、狂言強盗で入りもしない泥坊に、ホンのちょっと掠《かす》り傷を負わされて、ひどい目に遭わされたように見せかけ、残りの原稿をすっかり自分の懐へ入れちゃったのです。新聞で無電小僧の仕業と書き立てたでしょう。そこで無電小僧が怒って、古田の宅へ侵入して彼を縛りつけて探したけれども、ちょっと原稿の在処《ありか》が分からなかったのです。これがまああの古田の身の上に四度まで起こった怪事件の真相です。その後無電小僧は原稿の出所を先生の所と悟りました。つまりこうして研究の原稿が古田と無電小僧と先生――最後の方ですね――との三人に別れてしまったという訳です。そこで無電小僧は虎穴《こけつ》に飛び込んだのです。先生の所にいれば、隙があれば先生の持っている分を引きさらはうし、計事《はかりごと》で古田を誘《おび》き寄せて、彼を脅して原稿を出させる事も出来ます。
 で、ある日、無電小僧は古田に清水の偽手紙を書いて、先生の書斎の本箱の中に最後の分が隠してあるから、奪って来いといったのです。そうして置いて彼はそっと診察所の窓を開くようにして置いたのです。古田が来れば捕らえて、脅して原稿を吐き出させるつもりだったのです。ところが幸か不幸か、その晩ある人の術策によって、紅茶の中に麻酔剤を入れられて、前後不覚に寝かされてしまったのです。
 先生はあの晩に清水を誘き寄せて、話の最中に、電灯のスイッチを切って、部屋を真っ暗にすると共に、例の清水の指紋のついている文鎮を自分の頸に落として自殺を遂げる。清水があわてて逃げ出す拍子に私達に捕まる。とこういう計画だったらしいのです。ところが清水は来なかったのですから、無電小僧が起きてマゴマゴしようものなら、反《かえ》ってひどい眼にあったかも知れなかったのです。紅茶を飲んだのはあるいは幸いだったかも知れません。
 先生は古田が忍び込んで来たのをご存じだったのでしょう、思う存分探させて置いて、彼が出て行くのを見届けてからあの巧妙な自殺を遂げられたのです。私はあの日、内野君の頭脳には感服しました。内野君がいなかったら、私にはあの日に解決がつけられなかったかも知れません。それから内野君が脱兎《だっと》の如く天井裏へ駈け込んだ鋭さ。彼は先生の研究の最後の結果が天井裏の電気仕掛けと共に隠されている事を咄嗟《とっさ》に見破ったのです。それから驚いたのは診察室の窓の事で先手を打った事です。あれは内野君が開けて置いたのです。それを私にかぶせたのは一つには先手を打って私にいい出す機会を失わせ、一つには私を遠のけて、天井裏のどこかへ一時隠した原稿をゆるゆる取り出すつもりです。私はわざとその手に乗って、警察へ行く途中から逃げ出したように見せ、刑事と共に古田の家へ行きました。これは大変好結果でした。古田は証拠を消す為に、先生から奪《と》った原稿を焼こうとしている所でしたから、もう一足遅いと先生の研究は永久に葬られた訳です。内野君は古田は人の目につかぬ所に原稿を隠しているから、彼を刑務所へやってから探すつもりだったらしいが、彼が焼き棄てようとは思わなかったのでしょう。もうお気づきでしょうが、内野君は即ち無電小僧です[#「内野君は即ち無電小僧です」に傍点]。私は[#「私は」に傍点]? 私は私立探偵[#「私は私立探偵」に傍点]です。先生に身辺を保護すべく頼まれたのでしたが、今考えて見ると、先生は私に清水を捕らえさすつもりだったらしい。紅茶に酔わされた為に、先生の目的も私の目的も達せられなかったのでした。多分親切からでしょうが、紅茶に催眠剤を入れた方は飛んだ罪作りの方です。
 ではさようなら、お身体を大切に』
 私読んでいるうちにほんとにびっくりしちゃったわ。なんだか内野さんの方の手紙を見るのが恐いようだったけれども思い切って開けて見たの。
『私の好きな八重ちゃん。
 ご機嫌よう。相変わらずじれったいんでしょう。
 私もお蔭で達者です。
 私の事ももうそろそろ分かった時分でしょう。あの日は全く苦戦でしたよ。何しろ相手が下村君、実は木村清君という豪の者ですものね。ただあの場を切りぬけるだけなら訳はなかったのですが、先生のご研究をそっくり頂戴したいと思いましてね。古田の忍び込んで来たのは、元々、私が誘き寄せたのですから、証拠がなくたって、私にはちゃんと分かっている訳です。実は彼をその場で押さえて、原稿の在処《ありか》をいわせるつもりでしたが、紅茶に酔わされて駄目。そこでそれを逆用して、古田の事をいい立てて、検事の信用を博すると共に、古田を刑務所に送ろうとしたのです。無論留守中に彼の宅から原稿を盗み出すつもりです。
 それで、かねて古田の手から奪い取った彼の翻訳の原稿の切れ端を、手早く書物の間に挟んで、それを証拠に古田の来た事をいいたてたのですが、検事始め余人は騙せましたが、たちまち木村君に看破《みやぶ》られたらしいのです。私はもういけないと思いました。先生の仕掛けに気がついて天井裏に潜り込んだ時に、予期した通り最後の研究の原稿は見つかりましたが運び出す事が出来ません。多分診察所の窓を開けて置いた事も、木村君は気付いているだろうと思って先手を打ったのでしたが、思えば危ない事でした。
 とにかくこうして先生の原稿の頭と尻尾《しっぽ》は手に入ったのですが、胴中を思いがけなく古田の手から、木村君にしてやられました。木村君がお互いに国の為でもあり、先生の為でもあり、一つにして陸軍省へ出そうじゃないか。その代わり、君の事も確たる証拠は何一つないのだから、何にもいわぬというので、私も潔《いさぎよ》く原稿を差し出しました。
 紅茶のご馳走どうも有り難う。あれは私には幸いでもあり、不幸でもありました。それからいつか貰った写真ね。あれは私の身許が分かっては、あんたも嫌でしょうからお返しします』
 返さなくたってよいのに、私思わず声を出していったわ。最後にパラリと封筒から出た台紙のない手札の半身姿の自分の写真を、ビリッと破っちゃったわ。どうという訳もなかったの。それにしても二人とも偉いわね。あたしが紅茶の中へカルモチンを入れた事を看破ったわよ。あれはそら、あの晩二人が大議論したでしょう。それから先生に呼ばれたでしょう。あとであの続きをやられては叶《かな》わんでしょう。それに喧嘩にでもなってはいけないと思って、二人に飲ましたんだわ。そしたら夜中にあんな事が起こってしまって、ほんとに困ったわ。二人をああして寝かさなければ、先生は助かったのでしょうか。まさかそんな事ないわね。だって先生は覚悟の自殺ですもの。それとも清水にもっと疑いがかかって、あの機械仕掛けの事が、ああ早く分からなかったかしら。それとも内野さんなんかが疑われて、もっとこんがらがったでしょうか。何にしても先生に対して悪かったんでしょうかね。そうだとするとあたし悲観してしまうわ。

底本:「本格推理展覧会 第三巻 凶器の蒐集家」青樹社文庫、青樹社
   1996(平成8)年3月10日第1刷発行
入力:大野晋
校正:kazuishi
2000年11月14日公開
2005年12月7日修正
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