国枝史郎

鸚鵡蔵代首伝説—— 国枝史郎

仇な女と少年武士
「可愛い坊ちゃんね」
「何を申す無礼な」
「綺麗な前髪ですこと」
「うるさい」
「お幾歳《いくつ》?」
「幾歳でもよい」
「十四、それとも十五かしら」
「うるさいと申すに」
「お寺小姓? それとも歌舞伎の若衆?」
「斬るぞ!」
「ホ、ホ、ホ、斬るぞ、うるさい、無礼、なんて、大変威張るのね、いっそ可愛いいわ。……そうねえ、そんなように厳めしい言葉づかいするところをみると、やっぱりお武士《さむらい》さんには相違ないわね」
 女は、二十五六でもあろうか、妖艶であった。水色の半襟の上に浮いている頤など、あの「肉豊《ししむらゆたか》」という二重頤で、粘っこいような色気を持っていた。それが石に腰かけ、膝の上で銀張りの煙管を玩具にしながら、時々それを喫《す》い、昼の月が、薄白く浮かんでいる初夏の空へ、紫陽花《あじさい》色の煙を吐き吐き、少年武士をからかっているのであった。
 少年武士は、年増女にからかわれても、仕方ないような、少し柔弱な美貌の持主で、ほんとうに、お寺小姓ではないかと思われるような、そんなところを持っていた。口がわけても愛くるしく、少し膨れぼったい唇の左右が締まっていて、両頬に靨が出来ていた。それで、いくら、無礼だの、斬るぞだのと叱咤したところで、靨が深くなるばかりで、少しも恐くないのであった。玩具のような可愛らしい両刀を帯び、柄へ時々手をかけてみせたりするのであるが、やはり恐くないのであった。旅をして来たのであろう、脚絆や袴の裾に、埃《ほこり》だの草の葉だのが着いていた。
「坊ちゃん」と女は云った。
「あそこに見えるお蔵、何だか知っていて?」
 眼の下の谷に部落があり、三四十軒の家が立っていた。農業と伐材《きこり》とを稼業《なりわい》としているらしい、その部落のそれらの家々は、小さくもあれば低くもありして、貧弱《みすぼら》しかった。
 上から見下ろすからでもあろうが、どの家もみんな、地平《じべた》に食い付いているように見えた。信州伊那の郡《こおり》[#ルビの「こおり」は底本では「こうり」]川路の郷なのである。西南へ下れば天龍峡となり、東北へ行けば、金森山と卯月山との大|渓谷《たに》へ出るという郷で、その二つの山の間から流れ出て、天龍川へ注ぐ法全寺川が、郷の南を駛《はし》っていた。川とは反対の方角、すなわち卯月山の山脈寄りに、目立って大きな屋敷が立っていた。高く石崖《いしがき》を積み重ねた上に、宏大な地域を占め、幾棟かの建物が立ってい、生垣や植込の緑が、それらの建物を包んでいるのであった。女の云った蔵というのは、それらの建物の中の一つであって、構内の北の外れに、ポツンと寂しそうに立っていた。白壁づくりではあったが、夕陽に照らされて、見る眼に痛いほど、鋭く黄金色に輝いていた。
 少年武士は、その蔵へ眼をやったが、
「何だか知っているかとは何じゃ、蔵は蔵じゃ」
「鸚鵡《おうむ》蔵よ」
「鸚鵡蔵? ふうん、鸚鵡蔵とは何じゃ?」
「お蔵の前へ行って、何々さーんと呼ぶんですの。するとお蔵が、何々さーんと答えてくれるでしょうよ」
「蔵が答える?」
「ええ、だから鸚鵡蔵……」
「馬鹿申せ」
「それでもようござんす、馬鹿申せッて、呼ぶんですの。するとお蔵が、馬鹿申せと答えてくれるでしょうよ。……納谷《なや》様の鸚鵡蔵ですものねえ」
「納谷様?」と少年武士は驚いたように、
「では、あれが、納谷殿のお屋敷か?」
「そうよ。でもどうしたのさ、親しそうに納谷殿なんて?」
「拙者、納谷殿屋敷へ参る者じゃ」
「まア、坊ちゃんが。……では、坊ちゃんは?」
「納谷の親戚《みより》の者じゃ」
「まあ」
「身共《みども》の姉上が納谷家に嫁しておるのじゃ」
「まあ、それでは、奥様の弟?」
「うむ」
「お姓名《なまえ》は?」
「筧菊弥《かけいきくや》と申すぞ」
「まあまあ、そうでしたかねえ」と云うと女は立ち上った。

首を洗う姉
 それから、草の上へ、さもさも疲労《つかれ》たというように、両脚を投げ出して坐っている、菊弥を見下したが、
「では菊弥様、妾《わたし》もう一度|貴郎《あなた》様にお目にかかることでしょうよ。……そうして一度は、その愛くるしい……」
「斬るぞ!」
 キラリと白い光が、新酒のように漲《みなぎ》っている夕陽の中に走った。菊弥が三寸ほど抜いたのである。とたんに、女は走って、二人を蔽うようにして繁っている、背後の樺の林の中へ走り込んだ。でも、そこから振り返ると、
「醒ヶ井《さめがい》のお綱《つな》は、やるといったこときっとやるってこと、菊弥様、覚えておいで」

 婢《おんな》に案内され、薄暗い部屋から部屋、廊下から廊下へと、菊弥は歩いて行った。
「このお部屋に奥様はお居ででございます」と云いすてて、婢が立ち去った時、菊弥は、古びた襖の前に立っていた。
 菊弥は妙に躊躇されて、早速には襖があけられなかった。姉とはいっても、嬰児《みずこ》の時代に別れて、その後一度も逢ったことのない姉のお篠《しの》であった。
(どんな人だろう?)という懸念が先立って、懐しいという感情は起こらなかった。
(いつ迄立っていても仕方がない)
 こう思って菊弥は襖を開けた。
 しばらく部屋の中を見廻していた菊弥は、「あッ」と叫ぶとベッタリ襖を背にして坐ってしまった。
 この部屋は、宏大な納谷家の主家の、ずっと奥にあり、四方を他の部屋で包まれており、それに襖が閉めきってあるためか、昼だというのに、黄昏《たそがれ》のように暗かった。部屋の中央《まんなか》の辺りに一基の朱塗りの行燈《あんどん》が置いてあって、熟《う》んだ巴旦杏《はたんきょう》のような色をした燈の光が、畳三枚ぐらいの間を照らしていた。
 その光の輪の中に、黒漆ぬりの馬盥《ばたらい》が、水を張って据えてあり、その向こう側に、髪を垂髪《おすべらかし》にし、白布で襷をかけた女が坐っていた。そうして脇下まで捲れた袖から、ヌラヌラと白い腕を現わし、馬盥で、生首を洗っていた。生首はそれ一つだけではなく、その女の左右に、十個《とお》ばかりも並んでいた。いずれも男の首で、眼を閉じ、口を結んでいたが、年齢《とし》からいえば、七八十歳のもあれば、二三十歳、四五十歳、十五六歳のもあった。首たちは、燈火《あかり》の輪の中に、一列に、密着して並んでいた。その様子が、まるで、お互い生存《いき》ていた頃のことを、回想し合っているかのようであった。光の当たり加減からであろうが、十七八歳の武士の首は、鼻の脇からかけて口の横まで、濃い陰影《かげ》を、筋のように附けていたので、泣いてでもいるように見えた。
 女は、菊弥が入って来て、「あッ」と叫んで、ベッタリ坐っても、しばらくは顔を上げずに、額へパッと髪をかけたまま、馬盥に俯向き、左の手で生首の髻《もとどり》を掴み右の手の鬱金《うこん》の巾《きれ》で、その生首を洗っていた。
 菊弥は、全身をワナワナと顫わせ、見まい見まいとしても、生首へ、わけても、女の洗っている生首へ眼を引かれ、物も云えず、坐っていた。
 やがて女は顔を上げ、つくづくと菊弥を眺めたが、
「菊弥かえ」と云った。
「は、はい、菊弥でございます。……あ、あなた様は?」
「お前の姉だよ」
「お、お篠お姉様?」
「あい」
「お、お姉様! それは? その首は?」
「代首《かえくび》だよ」
「か、代首? 代首とは?」
「味方の大将が、敵に首を掻かれ、胴ばかりになった時、胴へ首を継いで葬るのが、戦国時代のこの土地の習慣だったそうな。……その首を代首といって、前もってこしらえて置いたものだそうだよ」
「まあ、では、その首は、本当の首ではないのでございますか?」
「本当の首ではないとも。木でこしらえ、胡粉《ごふん》を塗り、墨や紅で描き、生毛を植えて作った首形なのだよ」
「でも、お姉様、どうしてそんな首形が、いくつもいくつも、お家に?」

不幸な良人の話
「納谷家は、遠い昔から、この土地の武将として続いて来た、由緒のある家なのだよ。だから代首がたくさんあるのだよ」
「では、その代首の方々は?」
「ええ、みんな納谷家の武将方だったんだよ。でも、これらの方々は、幸い首も掻かれず、ご病死なされたので、それで代首ばかりが残ったのだよ」
「でも、どうして代首を、お洗いなさるのでございますか?」
「納谷家の行事なのだよ。年に一度、お蔵から、そう、鸚鵡蔵から、代首を取り出して、綺麗に洗ってあげるというのがねえ。……代首にもしろ、首を残しておなくなりになった方々の冥福をお祈りするためでもあり、残されたお首を、粗末に扱わぬためでもあり……」
「でも、どうしてお姉様が?」
「いいえ、これまでは、妾ではなくて、納谷家の当主――妾の良人《おっと》、そうそうお前さんには義兄《にい》さんの、雄之進様がお洗いになったのだよ」
「おお、そのお義兄《あにい》様は、お健康《たっしゃ》で?」
「いいえ、それがねえ」とお篠は顔を伏せた。
「遠い旅へお出かけなされたのだよ」
「旅へ? まあ、お義兄様が?」
「あい、何時《いつ》お帰りになるかわからない旅へ!」
 またお篠は顔を伏せた。話し話し代首を洗っていた手も止まった。肩にかかっていた垂髪が顫えている。泣いているのではあるまいか。
「お姉様、お姉様」と菊弥もにわかに悲しくなり、
「どうして旅へなど、お義兄様が※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「恐ろしいご病気におかかりなされたからだよ」
「恐ろしいご病気に?」
「あい、血のために」
「血のために? 血のためとは?」
「濁った血のためにねえ」
「…………」
「納谷家は、いまも云ったように、古い古い名家なのだよ。それで代々、親戚《みより》の者とばかり、婿取り嫁取りをしていたのだそうな。身分や財産《しんしょう》が釣り合うように、親戚をたくさん増やさないようにとねえ。……そのあげくが血を濃くし、濁らせて、とうとう雄之進様に恐ろしい病気を。……それでご養生に、つい最近、遠い旅へねえ。……お優しかった雄之進様! どんなに妾を可愛がって下されたことか! お前さんは知らないでしょうが、お前さんがまだ誕生にもならない頃、でも妾が十七の時、雄之進様には江戸へおいでになられ、浅草寺へ参詣に行った妾を見染められ……笑っておくれでない、本当のことなのだからねえ。……財産も身分も違う、浪人者の娘の妾を、是非に嫁にと懇望され、それで妾は嫁入って来たのだよ。その妾を雄之進様には、どんなに可愛がって下されたことか! 恐ろしいご病気になられてからも、どんなに妾を可愛がって下されたことか! でもご病気になられてからの可愛がり方は、手荒くおなりなさいましたけれど。……そう、こう髪を銜《くわ》えてお振りなどしてねえ」
 云い云いお篠は、代首の髻《もとどり》を口に銜え、左右へ揺すった。鉄漿《かね》をつけた歯に代首を銜えたお篠の顔は、――髪の加減で額は三角形に見え、削けた頬は溝を作り、見開らかれた両眼は炭のように黒く、眉蓬々として鼻尖り、妖怪《もののけ》のようでもあれば狂女のようでもあり、その顔の下に垂れている男の首は、代首《かえくび》などとは思われず、妖怪によって食い千切られた、本当の男の生首のようであった。
「お姉様! 恐うございます恐うございます!」
「いいえ」と云った時には、もう首は盥《たらい》の中に置かれ、お篠は俯向いて、鬱金の巾を使っていた。

襖の間に立った男
「菊弥や」とやがてお篠は云った。
「とうとうお母様もお逝去《なくな》りなされたってねえ」
「はい」と菊弥は眼をしばたたいた。
「先々月おなくなりなさいましてございます」
「妾はお葬式《とむらい》にも行けなかったが。……それもこれも婚家《うち》の事情で。……旦那様のご病気のために。……それで菊弥や、妾の所へ来たのだねえ」
「はい、お姉様、そうなのでございます。……お母様が臨終に仰せられました。『お父様は三年前に逝去り、その後ずっと、お篠からの貢ぎで、人並に生活《くらし》て来たわたし達ではあるが、妾が、この世を去っては、年齢《とし》はゆかず、手頼りになる親戚のないお前、江戸住居はむずかしかろう。だからお姉様の許へ行って……』と。……」
「よくおいでだった。そういう書信《たより》が、お前のところから来て以来、どんなに妾は、お前のおいでるのを待っていたことか。……安心おし、安心して何時までもここにお居で。この姉さんが世話《み》てあげます。子供のない妾、お前さんを養子にして、納谷の跡目を継いで貰いましょうよ」
「お姉様、ありがとうございます。万事よろしくお願い申します」
 菊弥は、はじめてホッとした。
 彼は、この部屋へ入って来るや、代首にしろ、首級《くび》を洗っている、妖怪じみた姉を見て、まず胆を潰し、ついで、納谷家の古事《ふるごと》や、当代の主人の不幸の話や、そのようなことばかりを云って、こちらの身の上のことなど、一向に訊いてもくれない姉の様子に接し、うすら寂しく、悲しく思っていたのであったが、ようやく姉らしい優しい言葉や、親切の態度に触れたので、ホッとしたのであった。
 犬ともつかず、何の獣の啼声とも知れない啼声が、戸外《そと》から鋭く聞こえてきた。昼でもこの辺りでは啼くという、※[#「鼬」の「由」に代えて「吾」、第4水準2-94-68]《むささび》の声であった。
 部屋の中は、寒い迄に静かであった。首を洗うお篠の手に弾かれて、盥の中の水が、幽かに音を立てている。音はといえばそればかりであった。
「お前もほんとうに可哀そうだったねえ」としみじみとした声でお篠は云った。
「お父様やお母様の書信《おたより》で聞いたのだが、いわばお前は、不具《かたわ》者のようにされて育てられて来たのだってねえ。……でもここへ来たからには大丈夫だよ。もうそのような固苦しいみなり[#「みなり」に傍点]などしていなくてもよいのだよ」
「はいお姉様、ありがとう存じます」
「おや」と不意にお篠は左右を見廻した。
「首がない! 妾の首が!」
「お姉様」と菊弥は驚き、
「いいえ首は……お姉様の首は……ちゃんとお姉様の肩の上に……」
「首がない! 妾の首がない! 男ばかりの首の中に、たった一つだけある女の代首! それが妾に似ているところから、旦那様が、お篠、これはお前の首じゃと云われ、日頃いっそう大切にお扱い下された首! その首がないのじゃ!」
 なお左右を見廻したが、
「お蔵へ残して来た覚えはなし……何としたことだろう?」
 じっと眼を据えた。
「奥様」とこの時、菊弥の背後《うしろ》から、濁《だ》みた、底力のある声が聞こえてきた。
 菊弥は振り返って見た。彼がこの部屋へ入って来た時、引き開け、そのまま閉じるのを忘れていた襖の間に、身丈《せい》の高い、肩巾の広い、五十近い男が、太い眉、厚い唇の、精力的の顔を、お篠の方へ向けて立っていた。
「お仕事は、まだお済みではございませんかな」
「チェ」とお篠は舌打ちをした。
「まだ済まぬよ。……向こうへ行っておいで。……お前などの来るところではないよ」
「へい。ちょっとお話を……」
「また! いやらしい話かえ! ……くどい」
「いいえ……よく聞いていただきまして……」
「お黙り!」

飯食い地蔵
 翌日菊弥は庭へ出て陽を浴びていた。
 寛文四年五月中旬のさわやかな日光《ひ》は、この山国の旧家の庭いっぱいにあたっていた。広い縁側を持った、宏壮な主屋を背後にし、実ばかりとなった藤棚を右手にし、青い庭石に腰をかけ、絶えず四辺《あたり》から聞こえてくる、老鶯《うぐいす》や杜鵑《ほととぎす》の声に耳を藉し、幸福を感じながら彼は呆然《ぼんやり》していた。納屋の方からは、大勢の作男たちの濁声《だみごえ》が聞こえ、厩舎《うまごや》の方からは、幾頭かの馬の嘶《いなな》く声が聞こえた。時々、下婢や下男が彼の前を通ったが、彼の姿を眼に入れると、いずれも慇懃に会釈をした。彼を、この家の主婦の弟と知って、鄭重に扱うのであった。
(いいなあ)と菊弥は思った。
(これからわし[#「わし」に傍点]はずっとここで生長《おおきく》なるのだ。そうしてここの家督を継ぐのだ。これ迄は、父親のない、貧しい浪人者の小倅として、どこへ行っても、肩身が狭かったが、もうこれからはそんなことはないのだ)
 こんなことを思った。
 と、この時、昨日《きのう》、主屋の奥の部屋で、姉が代首《かえくび》を洗っていた時、襖の間に立って、姉に話しかけた男が――後から姉から聞いたところによれば、嘉十郎と云って、この納谷家を束ねている、大番頭とのことであるが、――その嘉十郎が片手に、皿や小鉢を載せた黒塗の食膳を持ち、別の手に、飯櫃《めしびつ》を持って、厨屋《くりや》の方から、物々しい様子で歩いて来た。
「嘉十郎や、そんなもの、どこへ持って行くのだえ?」と菊弥は、嘉十郎が自分の前へ来た時声をかけた。
 少年の好奇心からでもあったが、下婢ならともかく大番頭ともある嘉十郎が、そんな物を持って、昼日中物々しく、庭など通って行くので、何とも不思議に堪えられなかったからでもあった。
 嘉十郎は足を止めたが、
「へい、これは菊弥お坊ちゃまで。……これでございますか、これは『飯食い地蔵様』へお供えする昼のお斎《とき》でございますよ」
「飯食い地蔵? 飯食い地蔵って何だい?」
「お坊ちゃまは、江戸から参られたばかりで、何もご存知ないでしょうが、飯食い地蔵と申しますのは、大昔から、この納谷家に祭られておる地蔵様のことでございましてな、お蔵の裏手……」
「お蔵って、鸚鵡蔵のことかい」
「ご存知で。これはこれは。へい、さようでございます、その鸚鵡蔵の、裏の竹藪の中に、安置されてあるのでございますがな、朝、昼、晩と、三度々々お斎を供えなければなりませんので。それが納谷家に伝わる、長い間の習慣《しきたり》で」
「地蔵様がお斎を食べるのかい?」
「さようでございます」
「嘘お云いな」
「あッハッハッハッ。……いずれは野良犬か、狐か狸か、乞食《ものごい》などが食べてしまうのでございましょうが、とにかくお斎は毎日綺麗になくなります」
「飯食い地蔵。……見たいな」
「およしなさいまし。あの方角へは、まずまずおいでにならない方がよろしゅうございます」
「お姉様も、昨日《きのう》、そんなことを云ったよ。鸚鵡蔵の方へは行かない方がいいって」
「さようでございますとも、魔がさしますで」
 行過ぎる嘉十郎のうしろ姿を見送りながら、菊弥は、鸚鵡蔵の由縁《いわれ》を、一番最初に自分へ話してくれた、お綱という女のことを思い出した。その女は、彼が目差す川路の郷を、目の下に見ることの出来る峠まで辿りついたので、安心し、疲労た足を休めているところへ、突然、樺の林の中から出て来て、からかった女であった。
(あの女何者だろう?)
(鸚鵡蔵だけは是非見たいものだ)

鸚鵡蔵
 その夜のことであった。菊弥は、鸚鵡蔵の前に立っていた。
 月のある夜だったので、巾の広い、身長の高い――普通の蔵の倍もありそうな鸚鵡蔵は、何かこう「蔵のお化」かのように、朦朧と照っている月光の中に、その甍《いらか》を光らせ、白壁を明るめて立っていた。白壁づくりではあったが、その裾廻りだけが、海鼠《なまこ》形になっていて、離れて望めば、蔵が裾模様でも着ているように見えた。正面に二段の石の階段があり、それを上ると扉であった。扉は頑丈の桧の一枚板でつくられてあり、鉄の鋲が打ってあり、一所に、巾着大の下錠が垂らしてあった。納谷家にとって一方ならぬ由緒のある蔵なので、日頃から手入れをすると見え、古くから伝わっている建物にも似合わず、壁の面には一筋の亀裂さえなく、家根瓦にも一枚の破損さえもなさそうであった。
 菊弥は、扉の前にしばらく佇んでいたが(声をかけてみようかな?)と思った。でも、姉の眼や家人の眼を盗んで、こっそり見に来たことを思い出し、止めた。知れたら大変だと思ったからである。
(手ぐらい拍ってもいいだろう)
 そこで彼は手を拍った。少年の鳴らす可愛らしい拍手の音が、二つ三つ、静かな夜の空気の中を渡った。と、すぐに全く同じ音が、蔵の面から返って来た。
(あ、ほんとうに、お蔵が返辞をしたよ。まったく鸚鵡蔵だ)
 日光の薬師堂の天井に、狩野|某《なにがし》の描いた龍があり、その下に立って手を拍つと、龍が、鈴のような声を立てて啼いた。啼龍といって有名である。
 が、要するにそれは、天井の構造から来ていることで、幽かな音に対しても木精《こだま》を返すに過ぎないのであって、そうしてこの鸚鵡蔵も、それと同一なのであったが、無智の山国の人達には、怪異《ふしぎ》な存在《もの》に思われているのであった。
 菊弥は鸚鵡蔵が鸚鵡蔵の証拠を見せてくれたので、すっかり満足したが、すぐに、少年の好奇心から、昼間嘉十郎の話した「飯食い地蔵」のことを思い出した。
(どんな地蔵かしら、見たいものだ。嘉十郎の持って行った飯をほんとうに食べたかしら?)
 そこで菊弥は、蔵を巡って、その裏手の方へ歩いて行った。蔵の裏手は、蓬々と草の茂った荒地で、遥か離れたところに、孟宗竹の林が立ってい、無数の巨大な帚でも並べたようなその竹林は、梢だけを月光に薄明るく色づけ、微風《そよかぜ》に靡いていた。そうして暗い林の奥から、赤黄色い、燈明の火が、朱で打ったように見えて来ていた。
(あそこに地蔵様の祠があるんだな)
 そこで菊弥はその方へ足を向けた。と、その時、蔵の右手から人の足音が聞こえてきた。
(しまった)と菊弥は思った。
(手を拍ったのを聞き付けて、誰か調べに来たのだ)
 目つかっては大変と、菊弥は左手の方へ逃げかけた。するとその方からも人の足音が聞こえてきた。
(どうしよう)
 眼《め》を躍《おど》らせて四方を見廻した菊弥の眼に入ったのは、蔵の壁に沿って、こんもりと茂っている漆らしい藪であった。
(あそこへ一時身をかくして……)
 そこで菊弥は藪の陰へ走り込み、ピッタリと壁の面へ身を寄せた。
「あッ」
 菊弥の身は蔵の中へ吸い込まれた。
 壁の一所が切り抜かれてい、菊弥が身を寄せた時、切り抜かれた部分の壁が内側へ仆れ、連れて、菊弥の体が蔵の中へ転がり込んだのであった。
「あッ」
 再度声をあげたのは、蔵の闇の中から手が延びて来て、菊弥の胸倉を掴んだからであった。
「何奴!」と叫ぼうとした口を、別の手が抑えた。
 菊弥の体の上に馬乗りになった重い体の主は、切り抜かれた壁の口から、幽かに差し込んで来た外光に照らした顔を、菊弥の顔の上へ近づけた。
「あッ」と声は出なかったが、菊弥は、抑えられている口の中で叫んだ。その顔が、お綱の顔だったからである。峠で、昨日、自分をとらえて挑戯《からか》った、「醒ヶ井のお綱」の顔だったからである。
「うふ!」とお綱は、薄い、大形の唇から、前歯をほころばせて笑ったが、強い腕の力で、菊弥をズルズルと蔵の奥へ引き摺って行き、依然として馬乗りになったまま、今は、外光さえ届いて来ない闇の中で、囁くように云った。
「菊弥! ナーニ、本名を云やアお菊か菊女だろう! 手前、女だからなア! うふ、いかに男に姿やつしていようと、この綱五郎の眼から見りゃア――そういう俺らア男さ! ナニ『醒ヶ井のお綱』だって! 箆棒めえ、そいつア土蔵破《むすめし》としての肩書だア。……この綱五郎の眼から見りゃア、一目瞭然、娘っ子に違えねえ!」

人か幽鬼か
「ところで俺ら約束したっけなア、もう一度きっとお目にかかるって! さあお目にかかった。どうするか見やがれ! ……女に姿やつしてよ、中仙道から奥州街道、東海道まで土蔵を破らせりゃア、その昔の熊坂長範よりゃア凄いといわれた綱五郎、聞きゃア草深え川路の山奥に納谷という旧家があって、鸚鵡蔵という怪体《けったい》な土蔵があるとのこと、しめた! そういう土蔵《むすめ》の胎内にこそ、とんだ値打のある財宝《はららご》があるってものさ、こいつア割《あば》かずにゃアいられねえと、十日あまりこの辺りをウロツキ廻り、今夜念願遂げて肚ア立ち割り調べたところ、有った有った凄いような孕子があった。現在《いまどき》の小判から見りゃア、十層倍もする甲州大判の、一度の改鋳《ふきかえ》もしねえ奴がザクと有った。有難え頂戴と、北叟笑いをしているところへ、割いた口から今度は娘っ子が転がり込んで来た! 黄金《かね》に女、盆歳暮一緒! この夏ア景気がいいぞ!」
 グーッと綱五郎は抑え込んだ。
(無念!)と菊弥は、抑え付けられた下から刎返そう刎返そうと※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]きながら、
(烈士、別木荘左衛門の一味、梶内蔵丞《かじくらのじょう》の娘の自分が、こんな盗賊に!)
 抑えられている口からは声が出ない! 足で床を蹴り、手を突張り、刎返そう刎返そうと反抗《あらが》った。
 そう、菊弥は娘なのであった。父は梶内蔵丞と云い、承応元年九月、徳川の天下を覆そうとした烈士、別木荘左衛門の同志であった。事あらわれて、一味徒党ことごとく捕えられた中に、内蔵丞一人だけは遁れ終わせ、姓名を筧求馬《かけいもとめ》と改め、江戸に侘住居をした。しかし大事をとって、当歳であった娘のお菊を、男子として育てた。というのは、幕府《おかみ》において、梶内蔵丞には娘二人ありと知っていたからであった。その菊弥も、官吏《かみやくにん》や世間の目を眩ますことは出来たが、土蔵破《むすめし》の綱五郎の目は欺むけず……
 だんだん抵抗力《ちから》が弱って来た。
(何人《どなた》か……来て! 助けてエーッ)
 そういう声も口からは出ない。
 と、この時蔵の中が、仄かな光に照らされて来た。光は、次第に強くなって来た。蔵の奥に、二階へ通っている階段があり、その階段から光は下りて来た。段の一つ一つが、上の方から明るくなって来た。と、白布で包んだ人の足が、段の一つにあらわれた。つづいて、もう一方の足が、その次の段を踏んだ。これも白布につつまれている。
 黒羽二重の着物を着、手も足も白布で包み、口にお篠の生首を銜え、片手に手燭を持った男が、燠のように赤い眼、ふくれ上った唇、額に瘤を持ち、頤に腐爛《くずれ》を持った獅子顔を正面に向け、階段を下り切ったのは、それから間もなくのことであった。髪を銜えられて、男の胸の辺りに揺れているお篠の首は、手燭の光を受けて、閉じた両眼の縁が、涙で潤っているように光っていた。その顔の左右へは、男の、髻の解けた長髪が振りかかり、女の首を抱いているように見えた。
「わッ」という怯えた声が響いた時には、綱五郎は躍り上っていた。刹那、匕首《どす》が閃めいた。綱五郎が抜刀《ぬい》て飛びかかったのである。再度悲鳴が聞こえた時には、生首を銜えた男の手に、血まみれの匕首が持たれ、その足許に綱五郎が斃れていた。その咽喉から迸《ほとばし》っている血に浸り、床の上に散乱しているのは、昨日、お篠が主屋の奥座敷で洗っていた、十個の代首《かえくび》と、その首の切口の蓋が外れ、そこから流れ出たらしい無数の甲州大判であった。
 恐怖から恐怖! ……賊に襲われる恐怖からは危うく助けられたが、殺人《ひとごろし》の悪鬼の出現に、戦慄のどん底へ落とされた菊弥は、床の上へ坐ったまま、悪鬼の姿を、両手を合わせてただ拝んだ。そういう菊弥を認めたのか認めないのか、仮面《めん》のような獅子顔を持った男は、胸の上の女の生首を揺りながら、よろめきよろめき、切り抜かれた壁の方へ歩いて行った。そうして、その男が落とし、落ちた床の上で、なお燃えている手燭の燈に、ぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]を照らし、壁の穴から出て行った。
 手燭はまだ燃えていた。代首を利用し、その中へ、先祖より伝わる、幾万両とも知れない大判を隠し入れ、首を洗うに藉口《かこつけ》て、毎年一度ずつ大判を洗い、錆を落とすところから、鋳立《ふきた》てのように新しい甲州大判! それが、手燭の光に燦然と輝いていた。

答えない鸚鵡蔵
 悲劇は、蔵の中ばかりにあるのではなかった。大竹藪の中、飯食い地蔵の祠の前にもあった。
 いわば後家のようになったお篠を手に入れ、二つには納谷家の大|財産《しんしょう》を自分のものにしようと、以前から機会を窺っていた番頭の嘉十郎が、お篠をここへおびき出し――先刻菊弥が蔵の裏手で耳にした足音は、その二人の足音なのであったが、今、くどいていた。
「かりにも主人の妾へ、理不尽な! 無礼な! ……汝《おのれ》が汝が!」
 大竹藪は、この不都合な光景を他人に見せまいとするかのように、葉を茂らせ、幹を寄り合わせ、厚く囲っていた。
「……飯食い地蔵に捧げるといって、世間の眼を眩ませ、こっそり私が持って行く食物を食べ、蔵の中で、生甲斐もなく生きている、あの化物のような旦那様より、まだまだわたしの方がどんなにか人間らしいじゃアありませんか。そう嫌わずに、わたしの云うとおりに。……あんまり強情お張りなさると、わたしは世間へ、納谷家の主人雄之進様が、長旅へ出たとは偽り、実は業病になり、蔵の中に隠れ住んでおりますと云いふらしますぞ。するとどうなります、数百年伝わった旧家も、一ぺん[#「ぺん」に傍点]に血筋の悪い家ということになって、世間から爪はじきされるじゃアございませんか」
 こういう光景を見ているものは、ささやかな家根の下、三方板囲いされた中に、赤い涎れ懸けをかけ、杖を持った、等身大の石地蔵、飯食い地蔵尊ばかりであり、それを照らしているものは、その地蔵尊にささげられてある、お燈明の光ばかりであった。
「痛! 畜生! 指を噛んだな!」と突然嘉十郎は咆哮した。
「ええこうなりゃア、いっそ気を失わせておいて!」と大きな手を、お篠の咽喉へかけた。
「わッ」
 瞬間、嘉十郎はお篠を放し、両手を宙へ延ばした。咽喉に匕首が突立っている。
「う、う、う、う!」
 のめっ[#「のめっ」に傍点]て、地蔵尊へ縋りついた。飯食い地蔵は仆れ、根元から首を折ったが、胴体では、嘉十郎を地へ抑え付けていた。
 お篠はベタベタと地べた[#「べた」に傍点]へ坐った。
(助かった! 助かった!)
 その時、祠の陰から、お篠の代首を、今は口には銜えず、可憐《いとお》しそうに両袖に抱いた、仮面のような獅子顔の男が妖怪《もののけ》のように現われ、お篠の横へ立った。
「雄之進殿オーッ」
 それと見てとったお篠は、縋り付こうとした。
 しかし、納谷雄之進は、自分の悪疾を、愛する妻へ移すまいとしてか、そろりと外して、じっとお篠を見下ろした。盲いかけている眼から流れる涙! 血涙であった!
「旦那様アーッ」
 なおお篠は、雄之進の足へ縋り付こうとした。
 しかしもうその時には、――蔵の中に隠れ住むことにさえ責任《せめ》を感じ、家の名誉と、愛する妻の幸福のために、今度こそ本当に、帰らぬ旅へ出て行こうと決心し、愛し愛し愛し抜いている妻の、俤を備えている代首、それだけを持った雄之進は、竹藪を分けて歩み出していた。
「妾もご一緒に! 雄之進殿オーッ」とお篠は後を追った。竹の根につまずいて転んだ。起き上って後を追った。またつまずいて仆れた。起き上って後を追った。いつか竹藪の外へ出た。茫々と蒼い月光ばかりが、眼路の限りに漲ってい、すぐ眼の前に、鸚鵡蔵が、白と黒との裾模様を着て立っていたが、雄之進の姿は見えなかった。絶望と悲哀とでお篠は地へ仆れた。そこで又愛し憐れみ尊敬している良人《おっと》の名を、声限りに呼んだ。
「雄之進殿オーッ」
 声は鸚鵡蔵へ届いた。
 鸚鵡蔵は、「雄之進殿オーッ」と木精《こだま》を返したか? いや、鸚鵡蔵は沈黙していた。
 しかしどこからともなく、哀切な、優しい声が、
「お篠オーッ」と呼び返すのが聞こえた。
「あ、あ、あ!」とお篠は喘いだ。
「ご病気でお声さえ出なくなった旦那様が、妾の名を、妾の名を、お篠オーッと……」
 嬉しさ! 恋しさ! お篠は又も声限りに呼んだ。
「雄之進殿オーッ」
「お篠オーッ」

 手燭の燈も消えた暗い蔵の中では、菊弥が恐怖で足も立たず、床を這い廻っていた。と、戸外から聞き覚えのある姉の声で、人を呼んでいるのが聞こえた。菊弥は嬉しさに声限り、
「お篠お姉様アーッ」と呼んだ。
 壁を切り抜かれて、鸚鵡蔵の機能を失った蔵は、お篠の呼び声に答えはしなかったが、そう呼んだ菊弥の声を、切り抜かれた穴から戸外《そと》へは伝えた。しかし菊弥は心身ともに弱り切っていたので、語尾の「お姉様アーッ」というのが切れ、戸外へは――お篠の耳へは、
「お篠オーッ」としか聞こえなかった。
 しかしお篠には、その声が、蔵の中で菊弥が呼んでいる声などとは思われなかった。良人が呼び返す声だと思った。
 幾度も幾度も呼んで、そのつど答える良人《おっと》の声に耳を澄ました。
「雄之進殿オーッ」
「お篠オーッ」
 竹藪の中では、首を折って、飯食い地蔵の名に背くようになった石の地蔵尊が、嘉十郎の死骸を、なおその胴体で抑えていた。

 その後の納谷家には、明るい生活がつづいた。先ず菊弥は女として育てられることになり、鸚鵡蔵と飯食い地蔵とは、その名に背くようになったところから、二つながら取り毀《こぼ》され、代首も真の秘密とその効用とが他人に知られた以上――知った綱五郎は殺されたにしても――保存する必要がないというので、これも取り捨られ、甲州大判は尋常の金箱の中に秘蔵されることになった。つまり、古い伝統を持った旧家の納谷家から、三種の悪質《わる》い伝統の遺物が取り去られたのであった。
 雄之進は永久納谷家へは帰らなかったそうな。しかし伝うるところによれば、この人の病気は、天刑病《てんけいびょう》ではなく、やや悪質の脱疽に過ぎなかったということであり、そうしてこの人は、やはり、別木荘左衛門一味の同伴者《シンパ》であり、お篠を娶ったのも、お篠が、別木党の、梶内蔵丞の娘であることを知っていたからだということである。そういう烈士であったればこそ、家のため妻のために、自分の生涯を犠牲にして、行衛不明になるというような、男らしい行為を執ったのであろう。お篠は勿論後半生を未亡人として送った。
 そうしてお篠は、死ぬ迄、「いいえ、あの時、妾の名を、『お篠オーッ』と呼んで下されたのは、蔵の中の菊弥ではなくて、良人、雄之進様でございますとも」と云い張ったということである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「冨士」特別増大号
   1937(昭和12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
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国枝史郎

鵞湖仙人—— 国枝史郎

     

 時は春、梅の盛り、所は信州諏訪湖畔。
 そこに一軒の掛茶屋があった。
 ヌッと這入って来た武士《さむらい》がある。野袴に深編笠、金銀こしらえの立派な大小、グイと鉄扇を握っている、足の配り、体のこなし、将しく武道では入神者。
「よい天気だな、茶を所望する」
 トンと腰を置台へかけた。物やわらかい声の中に、凛として犯しがたい所がある。万事物腰鷹揚である。立派な身分に相違ない。大旗本の遊山旅、そんなようなところがある。
「へい、これはいらっしゃいまし」
 茶店の婆さんは頭を下げた。で、恭しく渋茶を出した。
 ゆっくりと取り上げて笠の中、しずかに喉をうるおしたが、その手の白さ、滑らかさ、婦人の繊手さながらである。
 茶を呑み乍ら其の侍、湖水の景色を眺めるらしい。
 周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。
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信濃なる衣ヶ崎に来てみれば
    富士の上漕ぐあまの釣船
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 西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。
 が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつる[#「うつる」に傍点]のである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。
 水に突き出た高島城、四万石の小大名ながら、諏訪家は仲々の家柄であった。石垣が湖面にうつっ[#「うつっ」に傍点]ている。
「うむ、いいな、よい景色だ」
 武士は惚々と眺め入った。時刻は真昼春日喜々、陽炎《かげろう》が雪消の地面から立ち、チラチラ光って空へ上る。だが山々は真白である。ほんの手近の所まで、雪がつもって[#「つもって」に傍点]いるのである。
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思い出す木曽や四月の桜狩。
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 これは所謂翁の句だ。翁の句としては旨くない。だが信州の木曽なるものが、いかに寒いかということが、此一句で例証はされる。昔の四月は今の五月、五月に桜狩があるのだとすると、これは確に寒い筈だ。ところで諏訪も同じである。矢張り木曽ぐらい寒いのである。
 侍は婆さんへ話しかけた。
「話はないかな? 面白い話は?」
「へえへえ」
 と云ったが茶店の婆さん、相手があまり立派なので、先刻からすっかり萎縮して了って、ロクに返事も出来ないのであった。
「へいへいさようでございますな。……これと云って変った話も……」
「無いことはあるまい。ある筈だ。……それ評判の鵞湖仙人の話……」
 こう云った時、手近の所で、ドボーンという水音がした。
 侍は其方へ眼をやった。
 と、眼下の湖水の中に、老人が一人立泳ぎをしていた。
 寒い季節の水泳! まあこれは[#「これは」に傍点]可いとしても、その老人が打ち見た所、八十か九十か見当が付かない。そんな老齢な老人が、泳いでいるに至っては、鳥渡びっくりせざるを得ない。
「信州人は我慢強いというが、いや何うも実に偉いものだ」
 侍は感心してじっと見入った。
 ところが老人の泳ぎ方であるが、洵《まこと》に奇態なものであった。
 水府流にしても小堀流にしても、一伝流にしても大和流にしても、立泳ぎといえば大方は、乳から上を出すものである。それ以上は出せないものである。にも関らず老人は腰から上を出していた。で、まるで水の上を、歩いているように見えるのである。
 侍はホトホト感心した。
「だが一体何流かしらん? こんな泳ぎ方ははじめてだ、まことに以て珍らしい」
 だが侍の驚きは、間も無く一層度を加えた。と云うのは老人が、愈々でて愈々珍らしい、[#「、」は底本では「。」]不思議な泳ぎ方をしたからであった。
 老人はズンズン泳いで行った。湖心に進むに従って、形が小さくなる筈を、反対にダンダン大きくなった。しかし是は当然であった。老人は泳ぐに従って、益々体を水から抜き出し、二町あまりも行った頃には、文字通り水上へ立って了ったのである。

     

 これでは水を泳ぐのではない。水の上を辷っているのだ。
 スーッと行ってはクルリと振返り、スーッと行ってはクルリと振返る。
 侍は腕を組んで考え込んだ。
「む――」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「南宗流乾術《なんそうりゅうけんじゅつ》第《だい》一|巻《まき》九|重天《ちょうてん》の左行篇《さぎょうへん》だ! あの老人こそ鵞湖仙人だ! ……今に消えるに相違無い!」
 はたしてパッと水煙が上った。同時に湖上の老人の姿が、煙のように消えて了った。
 見抜いた武士も只者では無い。
 むべなる哉この侍は、由井民部介橘正雪。

 南宗流乾術第一巻九重天の左行篇に就いて、説明の筆を揮うことにする。
 これは妖術の流儀なのである。
 日本の古代の文明が、大方支那から来たように、この妖術も支那が本家だ。南宗画は本来禅から出たもので、形式よりも精神を主とし、慧能流派の称である。ところが妖術の南宗派は、禅から出ずに道教から出た。即ち老子が祖師なのである。道教の根本の目的といえば、長寿と幸福の二つである。この二つを得るためには、代々の道教家が苦心したものだ。或者は神丹を製造して、それを飲んで長命せんとし、或者は陰陽の調和を計り、矢張り寿命を延ばそうとした。幸福を得るには黄金が必要だ。それで或者は練金術[#「練金術」はママ]をやって、うんと黄金を儲けようとした。
 神仙説を産んだのも、矢張り長寿と幸福との為めだ。
 だが、併し、妖術の元は、幸福を得るというよりも、長寿を得ると云う方に、重きを置いていたらしい。ところで妖術の著書はと云えば、枹木子を以て根元とする。そこで筆は必然的に、枹木子に就いて揮わなければならない。
 ところが洵に残念なことには、枹木子の著者は不明なのである。これほど素晴らしい本の著者が、不明というのは不思議であるが、しかし一方から見る時は、不明の方が本当かもしれない。屹度神仙が作ったんだろう、と云ってた方が勿体が付いて、却って有難くもなるのだから、尤も一説による時は、葛洪《かっこう》という人の著書だそうだ。
 ところで枹木子は内篇二十篇外篇五十二篇という大部の本だ。詳しい紹介は他日を待ってすることにしよう。
 枹木子は妖術の根本書で、非常に非常に可い本である! ただ是だけでいいでは無いか。
 だが、本当を云う時は、この枹木子は妖術書では無くて、仙術の本という可きである。
 で、真実の妖術書といえば、その枹木子の精粋を取り、更に他方面の説術を加味した「南宗派乾流」という本なのである。

     

 その有名な妖術書の「南宗派乾流」は足利時代に、第一巻九重天だけ、日本へ渡って来たのである。第一巻九重篇だけでも、どうしてどうして素晴らしいもので、それを体得しさえしたら、どんな事でも出来るのだそうだ。
 それを何うして手に入れたものか、鵞湖仙人という老人が、何時の間にか手に入れて、ちゃんと蔵っているのであった。
 それを何うして嗅ぎ付けたものか、由井正雪が嗅ぎ付けて、それを仙人から奪い取ろうと、遙々江戸から来たのであった。

 物語は三日経過する。
 此処は天竜の上流である。
 一宇の宏大な屋敷がある。
 薬草の匂いがプンプンする。花が爛漫と咲いている。
 鵞湖仙人の屋敷である。
 その仙人の屋敷の附近へ、一人の侍がやって来た。他ならぬ由井正雪である。
 先ず立って見廻わした。
「ううむ、流石は鵞湖仙人、屋敷の構えに隙が無い。……戌亥にあたって丘があり、辰巳に向かって池がある。それが屋敷を夾んでいる。福徳遠方より来たるの相だ。即ち東南には運気を起し、西北には黄金の礎《いしずえ》を据える。……真南に流水真西に砂道。……高名栄誉に達するの姿だ。……坤《ひつじさる》巽《たつみ》に竹林家を守り、乾《いぬい》艮《うしとら》に岡山屋敷に備う。これ陰陽和合の証だ。……ひとつ間取りを見てやろう」
 で、正雪は丘へ上った。
「ははあ、八九の間取りだな。……財集まり福来たり、一族和合延命という図だ。……ええと此方が八一の間取り。……土金相兼という吉相だ。……さて此方は一七の間取り。僧道ならば僧正まで進む。……それから此方が八九の間取り。……仁義を弁え忠孝を竭《つく》す。子孫永久繁昌と来たな。……それから此方は七九の間取り。……うん、そうか、あの下に、金銀が蓄えてあると見える。金気が欝々と立っている。……さて、あいつが九六の間取りで庭に明水の井戸がある。薬を製する霊水でもあろう。六四の間取りがあそこ[#「あそこ」に傍点]にある。……公事訴訟の憂いが無い。……戌亥に二棟の土蔵がある。……即ち万代不易の相だ。……戌にもう[#「もう」に傍点]一つの井戸がある。……一家無病息災と来たな。……グルリと土塀で囲まれている。……厩《うまや》が二棟立っている。……母屋の庭は薬草園だ。……」
 由井正雪は感心した。
 正雪は一代の反抗児、十能六芸武芸十八番、天文地文人相家相、あらゆる知識に達していたので、曾て驚いたことが無い。
 それが驚いたというのだから、よくよくのことに相違無い。
「さて、これから何うしたものだ」
 彼は思案に打ち沈んだ。
「路に迷った旅人だと、嘘を云って乗り込もうか。いやいや看破かれるに違いない。では正直に打ち明けて「術書」の譲りを受けようか。なかなか譲ってはくれないだろう。……うん、そうだ。忍び込んでやろう。俺は忍術葉迦流では、これでも一流の境《いき》にある。目付けられたら夫れまでだ。叩っ切って了えばいい。旨く術書が探ぐりあたれば、そのまま持って逃げる迄だ。よし、今夜忍び込んでやろう」

     

 忍術も支那から来たものである。六門遁甲が根本である。「武備志」遁用術も其一つだ。
 しかし忍術は日本に於て、支那以上に発達した。それは日本人が体が小さく、敏捷であったが為である。
 忍術の根本は五遁にある。即ち水火木金土だ。
 ところで葉迦流は水遁を主とし、葉迦良門の開いたもので、上杉謙信の家臣である。
「滴水を以て基となす」
 こう極意書に記されてある。
 一滴の雨滴が地面に落ちる。それをピョンと飛び越すのである。二滴の雨滴が地面へ落ちる。それを復ピョンと飛び越すのである。
 雨滴はだんだん量を増す。地面の水域が広くなる。それをピョンピョン飛び越すのである。
 しまいには池となり沼となる。もう其頃には人間の方も、それを平気で飛び越す程の力量が備わっているのである。
 これ葉迦流の跳躍術の一つ。
 その他水を利用して、さまざまの忍びを行うのが、葉迦流忍術の目的なのである。世の勝れた忍術家なるものは、勿論、科学者ではあったけれど、更に夫れ以上忍術家は、心霊科学で云う所の、「霊媒(ミイジャム)」であったのであった。
 霊媒とは霊魂の媒介者である。
 人間は現在活きている。だが人間はいずれ死ぬ。さて死んだら何うなるか? 勿論肉体は腐って了う。しかし霊魂は存在する。これ霊魂不滅説だ。その霊魂は何処にいるか? 霊魂の世界に住んでいる! そうして夫れ等の霊魂は、活きている人間と通信したがる。しかし普通の人間とは、不幸にも絶体に通信が出来ない。そこで特別の器能を備えた、――霊魂の言葉が解る人間――即ち霊媒を要求する。
 霊媒とは霊魂のどんな言葉をでも、解し得る所の人間なのである。
 のみならず勝れた人間になれば、草木山川の言葉をも――宇宙の生物無生物の言葉。それをさえ知ることが出来るのである。
 そういう人間は此浮世に、極わめて稀に存在する。その中の或者が夫れを利用し、勝れた忍術家となったのである。
 由井正雪は丘を下り、どこへとも無く行って了った。
 こうして深夜五更となった。
 すべて忍術家というものは、五更と三更とを選ぶものである。
 鵞湖仙人の大館は森閑として静まっていた。
 月も無ければ星も無い、どんよりと曇った夜であった。
 と、竹藪から竹の折れる、ピシピシいう音が聞えて来た、風も無いのに竹が折れる、不思議と耳を傾けるのが、普通の人の情である。しかし、そっちへ耳傾けたが最後、心が一方へ偏して了う。偏すれば他方ががら[#「がら」に傍点]空きとなる、そこへ付け入るのが忍術の手だ。
 竹の折れる音は間も無く止んだ。後は寂然と音も無い。
 鵞湖仙人はどうしているだろう? 由井正雪は何処にいるだろう? 勿論竹を折ったのは、正雪の所業に相違無い。
 と、厩で馬が嘶いた。さも悲しそうな嘶き声である。
 だが夫れも間も無く止んだ。そうして後は森閑と、何んの物音も聞えなかった。
 屋敷は益々しずまり返り、人の居るような気勢も無い。
 と、二階の窓が開き、ポッと其処から光が射した。
 そこから一人の若い女が、夜目にも美しい顔を出した。どうやら何かを見ているらしい。仙人の屋敷に美女がいる? 少し不自然と云わざるを得ない。
 と、天竜の川の上に、ポッツリと青い光が見えた。それがユラユラと左右に揺れた。そっくり其の儘人魂である。
 すると窓から覗いていた、若い女が咽ぶように叫んだ。
「おお幽霊船! 幽霊船!」

     

「幽霊船だって? 何んの事だ?」
 こう呟いたのは正雪であった。
 彼は此時|厩《うまや》の背後、竹藪の中に隠れていた。
 で、キラリと眼を返すと、天竜川の方を隙かしてみた。
 いかにも此奴は幽霊船だ。人魂のような青い火が、フラフラ宙に浮いている。……提灯で無し、篝火で無し龕燈で無く松火《たいまつ》で無い。得体の知れない火であった。
 どうやら帆柱のてっぺん[#「てっぺん」に傍点]に、その光物は在るらしい。正雪は何時迄も見詰めていた。次第に闇に慣れて来た。幽霊船の船体が、朧気ながらも見えて来た。
 天竜川は黒かった。闇に鎖ざされて黒いのである。時々パッパッと白い物が見えた。岩にぶつかる浪の穂だ。その真黒の水の上に、巨大な船が浮かんでいた。それは将しく軍船《いくさぶね》であった。二本の帆柱、船首《へさき》の戦楼《やぐら》矢狭間が諸所に設けられている。
 そうして戦楼にも甲板にも、無数の人間が蠢いている。人魂のような青い火が、船を朦朧と照している。
 人々は甲冑を鎧っている。手に手に討物を持っている。槍、薙刀、楯、弓矢。……
 おお然うして夫れ等の人は、鵞湖仙人の屋敷の方へ、挙って指を指している。何やら罵っているらしい。しかし話声は聞えない。
 彼等はみんな[#「みんな」に傍点]痩せていた。
 と、続々甲板から、水の中に飛び込んだ。十人、二十人、三十人。……しかも彼等は溺れなかった。彼等は水の上に立っていた。
 飛ぶように水面を走り乍ら、続々と岸へ上って来た。彼等は岸へ勢揃いした。それから颯っと走り出した。
 鵞湖仙人の屋敷の方へ!
 近寄るままによく[#「よく」に傍点]見れば、彼等はいずれも骸骨であった。眼のある辺には穴があり、鼻のある辺には穴があり、口のある辺には歯ばかりが、数十本ズラリと並んでいた。
 甲冑がサクサク触れ合った。骨と骨とがキチキチと鳴った。
 竹藪の方へ走って来る。
 流石の正雪もウーンと唸った。すっかり度胆を抜かれたのである。
 彼は地面へ腹這いになった。
 サーッと彼等は走って来た。彼等の或者は正雪の背中を、土足のままで踏んで通った。しかし少しの重量も無い。彼等には重量が無いらしい。大勢通るにもかかわらず、竹藪はそよ[#「そよ」に傍点]との音も立て無い。一片の葉さえ戦《そよ》がない。彼等には形さえ無いと見える。
 いやいや併しハッキリと、恐ろしい形が見えるでは無いか! 甲冑をよそった骸骨の形が! そうだ、それは確かに見える! だが夫れは見えるばかりだ。物質としての容積を、只彼等は持っていないのだ!
 即ち彼等は幽霊なのだ!
 幽霊船の幽霊武者! そいつが仙人の屋敷を目掛け、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に走って行くのである。
 物凄い光景と云わざるを得ない。
 幽霊武者は一団となり、土塀の裾へ集まった。
 と、彼等は土塀をくぐり、サッと屋敷内へ乱入した。勿論土塀には穴が無い。それにもかかわらず潜ったのだ。
 湧き起ったのは女の悲鳴!
「ヒーッ」という魂消える声! つづいて老人の呶鳴り声! 鵞湖仙人の声らしい。討物の音、倒れる音、ワーッという閧声! ガラガラと物の崩れる音。
「お爺様! お爺様! お爺様!」
「おお娘、しっかりしろ!」
 ドッと笑う大勢の声。
「ヒーッ」と復も女の悲鳴。
 意外! 歌声が湧き起った。
[#ここから2字下げ]
武士のあわれなる
あわれなる武士の将
霊こそは悲しけれ
うずもれしその柩
在りし頃たたかいぬ
いまは無し古骨の地
下ざまの愚なる
つつしめよ。おお必ず
不二の山しらたえや
きよらとも、あわれ浄《きよ》し
不二の山しらたえや
しらたえや、むべも可
建てしいさおし。
[#ここで字下げ終わり]
 訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。
 由井正雪は腹這ったまま、じっと歌声に耳を澄ました。
 くり返しくり返し聞える歌!
 深夜である。
 山中である。
 その歌声の物凄さ!

     六

 復も土塀から甲冑武者が、恰も大水が溢れるように、ムクムクムクムクと現れ出た。
 彼等は何物かを担いでいた。
 数人が頭上に担いでいた。女である! 女の死骸だ! 窓から顔を差し出して「幽霊船!」と叫んだ女だ! その死骸を担いでいる。
 走る走る甲冑武者が走る。
 竹藪を通って天竜の方へ!
 或者は正雪の頭を踏んだ。或者は彼の足を踏んだ。そうして或者は手を踏んだ。矢張り重量は感じない。
 彼等は川の方へ走って行った。そうして水面を辷るように歩き、船の上へよじ[#「よじ」に傍点]上った。
 と、船が動き出した。天竜川を上るのである。人魂のような光物が、ユラユラと宙でゆらめい[#「ゆらめい」に傍点]た。上流へ上流へと上って行く。
 立ち上った正雪は腕を組んだ。
「深い意味があるに相違無い。彼奴等の歌ったあの歌にはな。……今夜の忍び込みはもう[#「もう」に傍点]止めだ。……ひとつ手段を変えることにしよう」
 彼は竹藪からするすると出た。そうして何処ともなく立ち去った。

 その翌朝のことである。
 鵞湖仙人の屋敷を目掛け、一人の武士が歩いて来た。
 余人ならぬ由井正雪。
 玄関へ立つと案内を乞うた。
「頼もう」と武張った声である。
 と、しとや[#「しとや」に傍点]かな畳障り、玄関の障子がスィーと開いた。婦人がつつましく[#「つつましく」に傍点]坐っている。
 それを見た正雪は「あっ」と云った。
 これは驚くのが、尤である。幽霊武者に担がれて行った、昨夜の娘が坐っているのだ。
「どちらからお越しでございます?」
 その婦人は朗かに云った。幽霊では無い、死骸では無い。将しく息のある人間だ。妙齢十八、九の美女である。ちゃんと三指を突いている。
「驚いたなあ」と心の中。正雪すっかり胆を潰した。しかし態度には現さず「拙者こと江戸の浪人、由井正雪と申す者、是非ご老人にお目にかかり度く、まかり出でましてございます。この段お取次ぎ下さいますよう」
「暫くお待ちを」と娘は云った。それからシトシトと奥へ這入った。間違いは無い足がある。どう睨んでも幽霊では無い。
 正雪、腕を組んで考え込んだ。
 そこへ娘が引き返して来た。
「お目にかかるそうでございます。どうぞお通り下さいますよう」
 で、正雪は玄関を上った。
 通されたのは奇妙な部屋だ。三間四方の真っ四角の部屋、襖も無ければ障子も無い。窓も無ければ出入口も無い。
「はてな」と正雪は復考えた。「俺はたしかに案内されて、たった今此部屋へ這入った筈だ。それだのに一つの出入口も無い。一体どこから這入ったのだろう?」
 どうにも彼には解らなかった。四方同じ肉色の壁で、それが変にブヨブヨしている。そうして無数に皺がある。その皺が絶えず動いている。延びたかと思うと縮むのである。壁ばかりでは無い。天井も然うだ。天井ばかりでは無い床も然うだ。現在坐っている部屋の板敷が、延びたり縮んだりするのである。床の間も無ければ違い棚も無い。一切装飾が無いのである。
 気味が悪くて仕方が無かった。
「ううむ、こいつは遣られたかな」
 正雪は心を落ち着けようとした。彼は眼を据えて板敷を見た。と不思議な筋があった。その筋は三本あった。部屋の一方の片隅から、斜めに部屋を貫いていた。
 それを見た正雪はブルブルと顫えた。しかし恐怖の顫えでは無く、それは怒りの顫えであった。
「巽から始まった天地人の筋、一つは坤兌《こんだ》の間を走り、一つは乾に向かっている。最下の筋は坎を貫く!」彼はバリバリと歯を噛んだ。
 矢庭に抜いた腰の小柄、ブツーリ突いたは板敷の真中! 途端に「痛い!」と云う声がした。
 その瞬間に正雪は、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って投げ出された。
 飛び起きた時には其部屋は無く、全く別の部屋があった。
 違い棚もあれば床の間もある。床の間には寒椿が活けてある。棚の上には香爐があり、縷々《るる》として煙は立っている。襖もあれば畳もある。普通の立派な座敷であった。
 床の間を背にして坐っているのは、他でも無い鵞湖仙人、渋面を作って右の掌を、紙でしっかり[#「しっかり」に傍点]抑えている。そこから流れるのは血であった。

     

「ひどい[#「ひどい」に傍点]ことをなさる、由井正雪殿」
 老人は相手を怨むように云った。
「お互いでござるよ、鵞湖仙人殿」
 正雪は哄然と一笑したが「いかがでござる。傷は深いかな?」
「深くは無いが、ちょっと痛い」
「アッハハハ、お気の毒だな。……手中に握った天罰でござる」
「でも宜く心が付かれたな」
「天地人三才の筋からでござる」
「大概な者には解らぬ筈だが」
「なにさ、手相さえ心得て居れば、あんなことぐらいは誰にでも解る。……が、あれは何術でござるな?」
「さよう、あれは、十宮伝」
「南宗派乾流九重天、第一巻の其中に、矢張りあるのでござろうな?」由井正雪は鎌をかけた。
 すると老人はジロリと見たが、
「さあ何うだかな、わし[#「わし」に傍点]は知らぬ」俄《にわか》に用心したものである。「それは然うと正雪殿、昨日[#「昨日」は底本では「明日」]は湖畔でお目にかかったな」
「え、それではご存じか」正雪ちょっとドキリとした。
「それに昨夜はご苦労だった。折竹探法、嘶馬《せきば》探法、いろいろ忍術をおやりのようだが、とうとう諦めて帰られたな。どうやら葉迦流をお学びと見える、が、まだまだ少しお若い。あれでは固めは破れぬよ」
「畜生」と正雪は腹の中「爺め、何んでも知っていやがる」しかし彼は屈しなかった。
 彼は一膝グイと進めた。
「が、流石のご老人も、幽霊船にはお困りのようだな」
「さて、そいつだ」と老人は、繃帯した右手を膝へ置いたが「余人ならぬ正雪殿だ、真実の所をお話しするが、仰せの通り、あれには参った」
「ご老人ほどの方術家にも、どうにもならぬと見えますな」
「天人にも五衰あり、仙人にも七難がござる。……死霊だけには手が出ない」
「歌に就いてのお考えは?」
「え、歌だって? なんの歌かな?」
「彼奴等の歌ったあの歌でござる」
「あああれか[#「あれか」に傍点]、考えて見た。……が、どうも解らない」
「ところが拙者には解って居る」
「ふうん、さようかな、その意味は?」
「不可ない不可ない」と手を振った。「そう安くは明されぬて」
「さようか、それでは聞かぬ迄だ」老人、不快そうに横を向いた。
「ところで一つお聞きしたい」正雪は老人を見詰め乍ら「あのご婦人はお娘御かな?」
「さようでござる、孫娘で」
「どうして活きて戻られたな?」
「いや夫れは毎晩でござる。毎晩彼奴等が征めて来ては、あの娘を死骸とし、船へ運んで虐んだ後、活かして返してよこすのでござる。……可哀そうなのは孫娘でござる。だんだん衰弱いたしてな、……つまりわし[#「わし」に傍点]には祟れぬので、そこで弱い娘に祟り、わし[#「わし」に傍点]を間接に苦しめるのでござるよ」
「老人、何か過去に於いて殺生なことはなされぬかな?」
「いいや、断じて」と老人は云った。「わしはこれでも方術家、一切罪悪は犯していませぬ」
「今後はなんとなされますな?」
「手が出ませぬ。捨てて置きます」
「お娘御のお命は?」
「可哀そうに、死にましょう」
「拙者、退治て進ぜよう」正雪は復も膝を進めた。
「いかがでござろう、褒美として、秘巻はお譲り下さるまいか」
 老人はじっと考え込んだ。それから徐ろに口をひらいた。
「最早秘巻此わし[#「わし」に傍点]には、殆ど必要が無いのでござる。何故と云うに既にわし[#「わし」に傍点]は、秘巻の意味を知り尽したからで、そこで他人に譲りたく、人材を求めたのでござる。その結果四人を目付けました。第一が他ならぬご貴殿でござる。第二が山鹿素行殿、第三が熊沢蕃山殿、第四が保科正之侯。……で、湖畔で貴殿に会いその人物を験めそうものと、例の立泳ぎお目にかけました。が、貴殿には残念にも、心に不軌を蔵して居られる。天下を乱すに相違無い。然るに南宗派乾流は、そういう人物には有害なのでござる。で、貴殿には譲りたくござらぬ。とは云え悪霊を退治して、娘をお助け下さるとあっては、矢張り譲らねばなりますまい。よろしうござる、お譲りしましょう」
 つと老人は立ち上り、隣の部屋へ這入って行った。持って来たのは一巻の巻物、恭しく額に押しあてたがやがて正雪の前へ置いた。
「術譲り! 襟を正されい」
 正雪はピタリと襟を正した。
「さて、秘巻はお譲り致した。……悪霊退散の方法はな?」

     

「不浄場をお取り壊しなさるよう」
 これが正雪の言葉であった。既に秘巻を譲られたからは、老人は彼に執り師匠であった。そこで言葉を慇懃にした。
「先生は博学でございます。それが尠《すくな》くも今度の事件では、失敗の基でございました。何故と申しますに先生には、その博学にとらわれ[#「とらわれ」に傍点]て、つまらない[#「つまらない」に傍点]彼等の歌の意味を、むずかしくお考えになりました。そのため難解に墜落ました。彼等の歌には意味は無く、文字に意味があったのでございます。既ち初の文句では、その頭にある「武」という文字に、意味があったのでございます。そうして其の次の文句ではその最後にある「将」という文字に、意味があったのでございます。そうして三番目の文句では、矢張り頭にある「霊」という文字に意味があったのでございます。そうして四番目の文句では、又最後の「柩」という文字に、意味があったのでございます、このようにして頭と尻との、各一字ずつの文字を取り、そのまま順序よく並べますと、次のような一連の言葉となります。
[#ここから2字下げ]
武将霊柩在地下
必不浄不可建
[#ここで字下げ終わり]
 武将の霊柩地下に在り、必ず不浄を建つ可からず。――このようになるのでございます。ところで何うしてこの私が、それに気が付いたかと申しますに、彼等が歌をうたう時、頭と尻とへ特別に、力を籠めるからでございました。……で、恐らくお屋敷内の便所の下に古武将の柩が、埋めてあるのでございましょう。その上へ便所が立ちましたので、その霊魂が憤慨し、仇をしたものと存ぜられます」
 そこで老人と正雪とは、急いで便所を取り壊し、その地の下を掘って見た。果たして一個の霊柩があり、甲冑を鎧った骸骨が、その附近に散在していた。

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「ポケット」
   1926(大正15)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○練金術:「錬金術」の誤記か。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

鴉片を喫む美少年—- 国枝史郎


(水戸の武士早川弥五郎が、清国|上海《シャンハイ》へ漂流し、十数年間上海に居り、故郷の友人吉田惣蔵へ、数回長い消息をした。その消息を現代文に書きかえ、敷衍し潤色したものがこの作である。――作者附記)

 友よ、今日は「鴉片を喫む美少年」の事について消息しよう。
 鴉片戦争も酣《たけなわ》となった。清廷の譎詐《きっさ》[#「譎詐」は底本では「譎作」]と偽瞞とは、云う迄もなくよくないが、英国のやり口もよくないよ。
 いや英国のやり口の方が、遥かにもっとよくないのだ。
 何しろ今度の戦争の原因が、清国の国禁を英国商人が破り、広東で数万函の鴉片を輸入し――しかも堂々たる密輸入をしたのを、硬骨蛮勇の両広《りょうこう》総督、林則徐《りんそくじょ》が怒って英国領事、エリオットをはじめとして英国人の多数を、打尽して獄に投じたことなのだからね。
 が、まあそんなことはどうでもよいとして「鴉片を喫む美少年」の話をしよう。
 僕といえども鴉片を喫むのだ。他に楽しみがないのだからね。日本を離れて八年になる。△△三年×月□□日、釣りに品川沖へ出て行って、意外のしけ[#「しけ」に傍点]にぶつかって、舟が流れて外海へ出、一日漂流したところを、外国通いの外国船に救われ、その船が上海へ寄港した時、その船から下ろされて、そのまま今日に及んだんだからね。今の境遇では日本の国へ、いつ帰れるとも解《わか》らない。藩籍からも除かれたそうだし、何か国禁でも犯したかのように、幕府の有司などは誤解していると、君からの手紙にあったので、せっかく日本へ帰ったところで、面白いことがないばかりか、冷遇されるだろうから、帰国しようと思っていないのさ。
 しかし一日として日本のことを、思わない日はないのだよ。勿論妻も子供もないから、君侯のことや朋輩のことや――わけても君、吉田惣蔵君のことを、何事につけても思い出すのだがね。
 黄浦《ホアンプー》[#ルビの「ホアンプー」は底本では「ホアシプー」]河の岸に楊柳《ようりゅう》の花が咲いて散って空に飜えり、旗亭や茶館や画舫などへ、鵞毛のように降りかかる季節、四五月の季節が来ようものなら、わけても日本がなつかしくなるよ。
 楊柳の花! 楊柳の花!
 友よ、友よ、楊柳の花のよさは、何と云ったらよいだろう!
 詩人李白が詠《うた》ったっけ。――
[#ここから3字下げ]
楊花落尽子規啼《ようかおちつくしてしきなく》。
聞道竜標過五渓《きくならくりゅうひょうごけいをすぐと》。
我寄愁心与明月《われしゅうしんをよせてめいげつにあたう》。
随風直到夜郎西《かぜにしたがってただちにやろうのにしにいたる》。
[#ここで字下げ終わり]
 詩人王維も詠ったっけ。――
[#ここから3字下げ]
花外江頭坐不帰《かがいこうとうざしてかえらず》。
水晶宮殿転霏微《すいしょうきゅうでんうたたひび》。
桃花細逐楊花落《とうかこまかにようかをおっておつ》。
黄鳥時兼白鳥飛《こうちょうときにははくちょうをかねてとぶ》。
[#ここで字下げ終わり]
 が、今は楊柳の花が、僕の心を感傷的にする、そういう季節ではないのだよ。しかし僕の語ろうとする「鴉片を喫む美少年」の物語の、主人公の美少年と逢ったのは、その今年の楊柳の花が、咲き揃っている季節だった。
 その夜僕は上海城内の、行きつけの鴉片窟「金花酔楼」へ、一人でこっそり入って行った。
 その家は外観《みかけ》は薬種屋なのだ。
 しかしその家の門口をくぐり、ちょっと店員に眼くばせをして、裏木戸から中庭へ出ようものなら、もう鴉片窟の俤《おもかげ》が、眼前に展開されるのさ。
 闇黒の中に石の階段が、斜めに空に延びていて、その外れに廊下があり、廊下の片側全体が、喫煙室と酒場と娯楽室、そういうものになっていて、酒場からは酔っ払った男女の声が、罵るように聞こえてき、娯楽室からは胡弓の音や、笛の音などが聞こえて来るのさ。
 僕は度々来て慣れているので、すぐに石の階段を上り、酒場の入口を素通りし、娯楽室の楽器の音を聞き流し、喫煙室へ入って行った。
 度々来て鴉片を喫《の》む僕にとっては、悪臭と煙と人いきれ[#「いきれ」に傍点]と暗い火影と濁った空気と、幽鬼じみて見える鴉片常用者と、不潔な寝台と淫蕩な枕と、青い焔を立てている、煙燈《エント》の火がむしろ懐かしく、微笑をさえもするのだが、そうでない君のような人間が、突然こんな部屋へやって来たら、その陰惨とした光景に、きっと眼を蔽うことだろうよ。


 僕は入口で金を払い、中へ入って一つの寝台へ上った。そうしてすぐ横|仆《た》わり、先ず煙燈《エント》へ火を点じ、それから煙千子《エンチェンズ》を取り上げた。それから煙筒《エンコ》に入れている液へ――つまり一回分の鴉片液なのだが、その中へ煙千子を入れ、鴉片液を煙千子の先へ着け、それを煙燈の火にかざした。つまり鴉片を煉り出したのだ。
 寝台は二人寝になっているのだ。寝台の三方は板壁で、一方だけが開いていて、そこには垂布《たれぎぬ》がかけてあるのだ。すなわち一つの独立した、小さい部屋を形成しているのさ。
 隣りの部屋も、その隣りの部屋も、その隣りの部屋もそうなっているのさ。
 どの部屋も客で一杯らしかった。
 何という奇怪なことなんだろう!
 政府が鴉片を輸入させまいとして――すなわち支那の人間に、鴉片を喫煙させまいとして、ほとんど一国の運命を賭して、世界の強大国|英吉利《イギリス》を相手に、大戦争をしているのに、肝心の支那の人間は、風馬牛視して鴉片を喫っている。鴉片窟はここばかりにあるのでなく、上海だけにも数十軒あり、その他上流や中流の家には、その設備が出来ているのだよ。
 そんなにも鴉片は美味なものなのか? 勿論! しかしそれについては、僕は何事も云うまいと思う。僕が故国へ帰って行かない理由の、その半分はこの国に居れば、鴉片を喫うことが出来るけれど、日本へ帰ったら喫うことが出来ない。――と云うことにあるということだけを、書き記すだけに止めて置こう。
 やっと鴉片を煉り終えて、煙斗へ詰めてしまった時、一人の少年が垂布をかかげて、僕の部屋へ入って来た。
 僕の部屋と云ったところでこの部屋へは、誰であろうともう一人だけは、自由に入ることが出来るのさ。
 で、その少年はこんな場合の、習慣としている挨拶の、
「大人《たいじん》、私もお仲間になります」
 こういう意味の挨拶をして、同じ寝台の向こう側に寝、ゆっくりと鴉片を煉り出したものだ。
 僕はすっかり驚いてしまった。
 と云うのはその少年の顔と四肢とが、――つまり容貌と、姿勢《すがた》とが、余りに整って美しかったからさ。
 友よ、全くこの国には、人間界の生き物というより、天界の神童と云ったような、美にして気高い少年が、往々にしてあるのだよ。
 勿論同じように素晴らしい天界の天女と云ったような、美にして気高い少女もあるがね。
 僕は無駄な形容なんか、この際使おうとは思わない。
 僕はただこう云おう。――
「僕は同性恋愛者ではない。しかし実のところその時ばかりは、その少年を見た時ばかりは、忽然としてかなり烈しい、同性恋愛者になってしまった程、その少年は美しく、そうして魅惑的で肉感的だった」と。
 その少年がそれだったのだ。この物語の主人公だったのだ。
 名は? さよう、宋思芳《そうしはん》と云ったよ。
(云う迄もなく後から聞いたんだがね)
 宋思芳は鴉片を煉り出した。
 ところがどうだろう、その煉り方だが、問題にもならず下手なのさ。
 君には当然解るまいと思うが、鴉片の煉り方はむずかしく、上手に煉ると飴のようになるが、下手に煉るとバサバサして、それこそ苔のようになってしまって、鴉片の性質を失ってしまい、そうして煙斗へ詰めることが出来ず、従って喫うことが出来ないのだ。
 少年の煉り方がそうだったのさ。で、幾度煉り直しても、苔のようになってしまったのさ。
 僕は思わず吹き出してしまった。
 僕はまだ鴉片を喫っていなかった。喫うのを忘れてその少年の美と、その美しい少年の、不器用極まる鴉片の煉り方とに、先刻から見入って居ったのさ。
「僕、煉ってあげましょうか」
 とうとう僕はこう云った。
「有難う、どうぞお願いします」
 そう云った少年の声の美しさ、そう云った少年の声の優しさ、又もや僕は恍惚《うっとり》としてしまった。
 僕はそれからその少年のために、鴉片を煉りながら話しかけた。


「これ迄喫ったことはないのですか?」
「鴉片を喫うのは今日がはじめてです」
「なるほどそれでは煉れないはずだ。……がそれなら鴉片なんか喫わない方がいいのですがね」
「こんな大戦争を起こす程にも、みんな喫いたがる鴉片なのですから、私も喫いたいと思いましてね」
「そう、誰もがそう云ったような、誘惑を感じて喫いはじめ、喫ってその味を知ったが最後、みすみす廃人となるのを承知で、死ぬまで喫うのが鴉片ですよ。……全く御国の人達と来ては、鴉片中毒患者ばかりです」
「御国の人? 御国の人ですって? ……では貴郎《あなた》は外人なのですか?」
(しまった!)と僕は思ったよ。
 とうとう化けの皮を現わしてしまった。
 友よ! 僕はね、八年もの間、この支那の国に住んでいるので、言葉も風俗も何も彼も、すっかり支那人になりきることが出来、誰にも滅多に疑われなかったのに、自分からこの日は底を割ってしまい「お国の人」なんて云ってしまったのさ。
 これには自分ながら愛想を尽かしたが、たとい身分を宣《なの》ったところで、害になることもなかったので、
「実は僕は日本人なのです」
 こう云ってから漂流したことや、ずっとそのまま支那にとどまり、支那人生活をしていることなどを、すっかりあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に話したものさ。
「日本の武士?」と宋思芳は、ひどく好奇心に煽られたように云い、それからそれといろいろのことを――日本の武士は任侠的で、人に頼まれるとどんなことでも、引き受けるというが本当かとか、日本の武士は剣道に達していて、強いというが本当かとか、そんなことを質問した。
 で、僕はみんな本当だと、そう云って宋思芳に答えてやった。
 宋思芳はひどく考え込んだが、
「英国のやり口をどう思いますか?」と訊いた。
「勿論正当のやり口ではないね」
 こう僕は答えてやった。
「グレーという英国人をご存じですか?」
「司令官ゴフの甥にあたる、参謀長のグレーのことなら、戦争以来耳にしています」
「大変もない怪物でしてね、あの男一人を殺しさえしたら、こう迄も清国は負けないのですよ。大胆で勇敢で智謀があって、まだ壮年で好色淫蕩で、女惚れさえするのです。でもエリオットとは仲が悪いのです」
 そう宋思芳少年は云った。
「エリオットはどっちのエリオットなのです?」
 そう僕は訊いて見た。
「水師提督の方のエリオットです」
 水師提督エリオットは、この上海の英国領事の、もう一人のエリオットの親戚なのだが、鴉片戦争が始まるや否や、印度及び喜望峰の兵、一万五千人を引率し、軍艦二十六隻をひきい、大砲百四十門を携え、定海《じょうかい》湾、舟山《しゅうさん》島、乍浦《チャプー》、寧波《ニンポー》等を占領し、更に司令官ゴフと計り、海陸共同して進撃し、呉淞《ウースン》を取り、上海を奪い、その上海を根拠とし、揚子江を堂々溯り、鎮江《チンチャン》を略せんとしている人間なのさ。
 グレーというのは英軍切っての、謂うところの花形で、毀誉褒貶いろいろあるが、人物であることは疑いなく、この男の参謀戦略によって、英軍は連戦連勝し、清国は連戦連敗しているのさ。
 僕達二人は鴉片を喫わず、永いことそんなような話をした。
 その翌夜も翌々夜も、僕達二人は同じ鴉片窟で逢った。
 宋思芳はだんだん鴉片を煉るに慣れ、追々鴉片の醍醐の味に、沈湎《ちんめん》するように思われた。
 僕はしばしば宋思芳に向かって、どういう素性の人間なのか、どこにどんな家に住んでいるのか、家族にどういう人達があるかと、そんなことを訊いて見たが、彼はいつもうまく逃げて、話をしようとはしなかった。
 ところが次第に変な調子になった。
 と言うのは宋思芳が僕に対して、思慕の情愛を示し出したのさ。
 女が男を恋するような情を。
 僕は同性恋愛者ではない。が、宋思芳が前に云った通りの、世にも珍しい美少年だったので、そういう彼のそういう情愛が、僕には不自然に感ぜられなかった。


 さて、それから一月ほど経った。にわかに宋思芳少年が、鴉片窟へ姿を見せなくなった。すると僕は恋しい女と、不意に別れたそれのような、寂寥と悲哀と嫉妬さえも、強く心に燃えるようになった。
(いつか俺もあの女を――女のようなあの美少年を、恋していたものと思われる。)
 そう僕はつくづく感じた。
 そういう心を慰めるため、僕は旅へ出ることにした。
(揚子江でも溯ってみよう!)
 で僕は出発した。もう楊花は散り尽くしてしまい、梨の花が河の岸あたりに、少し黄味を帯びた白い色に、――それも日本の梨の花のような、あんな淡薄な色でなく、あんな薄手の姿でなく、モクモクと盛り上り団々と群れて、咲いているのを散見しながら、岸に添って僕達の船は上った。戎克《ジャンク》、筏、帆をかけた筏――その筏の上で豚を飼い、野菜を作り、子供を産むと、そう云われている筏船などが、僕達の船の傍《そば》を通った。
 今にも鎮江が陥落しそうだとか、北京の清帝が蒙塵するらしいとか、戦争の噂は船中にあっても聞こえ、その噂はいつも支那側にとって、面白くないものだった。
 船は江陰《チャンイン》で碇泊した。で、僕は上陸した。江陰にも英国兵が駐屯していて、戦争気分が漲っていたが、昔から風光明媚として、謡われるところだけに、家の構造《つくり》、庭園の布置に、僕を喜ばせるものがあり、終日町や郊外を、飽かず僕は見て廻った。夕方まで見て廻った。船は三日程碇泊するので、今夜は陸の旅館へ泊まろう、こう僕は最初からきめていた。
 で、気持のよい旅館を探そう、こう思って町の方へ足を向けた。その時洋犬と支那美人とを連れた、中年の英国の将校が、僕を背後から追い越した。
「あ」と僕は思わず声を立てた。
 と云うのは支那美人が宋思芳と、非常に顔が似ていたからであった。
 すると支那美人も僕の顔を見たが、思い做《な》しか表情を変え、驚きと懐しさを現わしたようであった。
 しかしその儘歩み去ってしまった。
 友よ、こんな際、その支那美人の後を、僕がどこまでもつけて[#「つけて」に傍点]行ったところで、不都合だとは云わないだろうね。
 僕はその後をつけて[#「つけて」に傍点]行ったのだよ。
 と、その一行は町の入口の、かなり立派な屋敷へ入った。
 屋敷の門際に英国の兵士が、銃を担いで立っていたので、僕はその一人に訊いてみた。
「今行った将校は誰人《どなた》ですか?」と。
「参謀長グレー閣下」
「ご一緒のご婦人は奥様ですか?」
「奥様ではない、愛人だよ」
 英国兵などは気散じなもので、微笑しながらそう教えてくれた。
 僕はその夜町の中央の、××亭という旅館へ泊まったが、どうにも眠ることが出来なかった。
 そこで町を彷徨《さまよ》った。
 もう明け方に近い頃で、月が町の家並の彼方、平野の涯へ落ちかかっていた。
 と、不意に道の角を廻り、この辺りに珍しい二頭立の、立派な馬車が現われたが、その上に海軍の将校服をつけた、半白の髪をした英国人と、支那少年とが同乗していた。
 僕は以前上海の地で、英国の水師提督エリオットを、一二度見かけたことがあって、容貌風采を知っていたので、馬車中の老将校がエリオットであることを、僕は早くも見て取ることが出来た。
 娼公、俳優とでも云いたいような、艶かしい装いをした支那少年は? エリオットと同乗していた支那少年は? 友よそれこそ宋思芳だったのだ!
 その証拠にはその少年は、僕を見かけると微笑して、軽く一揖《いちゆう》したのだからね。
 では先刻の支那美人は! グレーと同伴していた支那美人は?
 解《わか》らない! 解らない! 解らない!

 僕は上海へ帰って来た。
 鎮江は容易に陥落しなかった。
 いろいろの噂が伝わった。鎮江は揚子江の咽喉で、地勢は雄勝で且つ奇絶、頗《すこぶ》る天険に富んでいる。そこへ清軍の精鋭が集まり、死守しているのでさすがの英軍も、陥落させることが出来ないのだと、そういう人間があるかと思うと、水師提督のエリオットが健康を害し、かつ頭を悪くして、昔日の俤がなくなったので、それが士気に影響して、鎮江が陥落しないのだと、そんなように云う人間もあった。しかし参謀長のグレーの方は、益々壮健で頭脳も明晰だから、早晩彼の策戦で、鎮江は陥落するだろうと、そんなように云う人間もあった。
 さて僕だが上海へ帰るや、例によって例の如く、鴉片窟や私娼窟へ入り浸って、その日その日をくらしたものさ。
 そこで君は不思議に思うだろうね、僕という人間が生活基礎を、どういうものに置いていて、そんな耽溺的生活に、毎日耽ることが出来るのかと?


 それについてはいずれ語ろう。
 そう、いずれ語るとしよう。が、今はそんなことより、その後僕が遭遇した、世にも奇怪な出来事について、消息する方がいいようだ。
 友よ、それから一カ月経った。
 その時僕の家の玄関に、厠で使う紙の面に、
「明後日迎いに参る可《べ》く候」
 こういう意味の文字が書かれてあり、心臓に征矢《そや》を突き刺した絵が、赤い色で描かれたものが、針によって止められていた。
 これには説明がいるようだから、一つ説明することにする。
 上海には上流の女ばかりによって、形成されている秘密倶楽部がある。
「加華荘舎《かかそうしゃ》」と云われている。
 その目的とするところは、性の享楽ということなのだ。
 で、これと[#「これと」に傍点]目星をつけた、美男の住んでいる家の玄関へ、今云ったような張り紙をし、それから轎《かご》で迎いに来るのだ。
 男は絶対に拒絶することが出来ない。もし拒絶しようものなら、その男一人ばかりでなく、その男の一家一族までが、ひどい惨害に遭うのだからね。
 この国における女の勢力! それは到底日本の比でなく、全く恐ろしい程なのだ。今日ばかりではなく事実この国の――支那の、ずっと昔からの、習慣であるということが出来る。則天武后だの呂后《ろごう》だの、褒似《ほうじ》だの妲妃《だっき》だのというような、女傑や妖姫《ようき》の歴史を見れば、すぐ頷かれることだからね。
 しかしそれにしても僕のようなものへ、白羽の矢を立てて召そうとは、尠《すくな》くも僕にとっては以外だったよ。
 と云って何も僕という人間が、醜男だったからと云うのではない。自画自賛で恐縮だが、僕という人間は君も知っている通り、かなりの好男子であるはずだからね。
 僕の云うのはそう云う意味からではなく「僕のような生活を生活[#「僕のような生活を生活」に傍点]している者に、そんな招待をするなんて、何て冒険的な女達だろう」――つまりこういう意味なのだ。
 僕のような生活を生活している者? のような生活[#「のような生活」に傍点]とはどんな生活なのか? おそらく君は知りたいだろうね。よろしい云おう、その中《うち》に云おう。
 とにかくこうして当日となり、その日が暮れて夜となり、その夜が更けて深夜となった。桂華徳街の百○参号、そこが僕の家なのだが、果たしてその処へ一挺の轎《かご》が、数人の者によって担い込まれた。
 僕は新しい衫《さん》を着け、そうして新しい袴《こ》を穿いて、懐中に短刀――鎧通《よろいどおし》[#ルビの「よろいどおし」は底本では「ろよいどおし」]さ、兼定《かねさだ》鍛えの業物だ、そいつを呑んで轎に乗った。
(淫婦どもめ、思い知るがいい!)
 こういう心持を持ちながら、轎に乗ったというものさ。
 さて轎は道を走った。その道筋を細描写しても、君には面白くあるまいと思う。で、一切はぶくことにする。
 轎は目的の館へ着いた。
 そこが「加華荘舎」の在場所なのさ。僕は一室に通された。
 ここで僕はこの館の構造《つくり》を、ほんの簡単にお知らせしよう。
 階段があると思ってくれたまえ。そうだ一筋の階段が。その階段を上り切った所に、一つの小広い部屋があり、その部屋から無数に細い廊下が、四方に通っているのだよ。そうしてその廊下の行き止まりに、一つずつ小さな婦人部屋があり、そこに会員達がいるのだそうだ。又、階段を下り切った所に、同じく小広い部屋があり、その部屋から今度は一筋の廊下が、一方の方へ通じて居り、その行き止まりに風呂場がある。そうしてその風呂場の一方の壁に、秘密の扉《ドア》が出来て居り、そこを出ると廊下となる。この廊下は充分長く、そうして風呂場と平行していて、そうして左右に部屋があるのだ。そうだ、いくつかの寝室が。会員の数だけの寝室が。
 で、召されたミメヨキ男は、先ず風呂に入れられて、すっかり体を洗われて、一つの寝室へ寝かされるのだ。と、互いに籤引きをして、真先に当選した会員の女が、これも最初風呂へ入り、体を洗いお化粧をし、それから男の寝ている部屋へ、導かれて侵入する。
 もうその後は書く必要はあるまい。
 さて、すっかり陶酔してしまうと、又女は風呂へ入り、綺麗に汗と膏《あぶら》とを落とす。そうして自分の部屋へ引き上げて行く。と今度は男の方が、風呂へ入れられて洗われる。それから別の寝室へ送られ、二番目の女を迎えることになる。こういうことが繰り返され、二日でも三日でも五日でも十日でも、男の精力のつづく中は、女達の欲望の消えない中は、無限に繰り返されて行くのだよ。
 友よ、そういう加華荘舎へ、僕は招待にあずかったのだ。そうして今云った手順を経て、一つの寝室へ通された。その寝室には寝台があり、寝台には鴉片の装置があり、酒を飲むようにもなっていた。ほのかな燈火《あかり》もともされていた。僕は寝台に横になり、
(来やがれ、淫婦ども?)と思っていた。
 とうとう女はやって来た。
 外から部屋の錠を外し、内へ入ると錠をかい、平然として近寄って来た。彼女等はすっかり慣れているのだ。男が女を弄ぶことに、すっかり慣れているように、彼女等は男を弄ぶことに、これまたすっかり慣れているのだ。
 僕はかづいていた衾《ふすま》の中で、鎧通の柄を握り――殺そうなどとは夢にも思わず、傷付けようなどとも夢にも思わず、せいぜいのところひっこ抜いて、嚇《おど》してやろうと考えていた。と、衾が捲くられた。つまり女が捲くったのだ。で、僕は女の顔を見た。
「あ」と僕は思わず云った。
 その女が彼女だったからだ。江陰の郊外でグレーと一緒に、散策していた支那美人――宋思芳と似ている支那美人だったからだ。
 僕は鎧通を手から放した。
 そうして寝台の一方を開けた。彼女が寄り添って寝られるように。
 で彼女は僕の側《そば》へ寝た。
 そうして二人は陶酔してしまった。
 満足して彼女が立ち去る時、彼女は僕へ囁いた。
「他の女へ貴郎をお渡しするのは、私大変厭なんですけれど、少なくももう一人の女へだけは、貴郎をお貸ししなければならないのです」と。
 僕はそれから風呂へ入れられ、別の寝室へ案内された。
 扉をあけて中へ入った途端、しかし意外の光景を見た。まぎれもない宋思芳少年が、一人の外人に咽喉を抑えられ、寝台の上へ捻じ仆《たお》され、圧殺されようとしているのだ。
「タ、助けて!」と息も絶え絶えに、その宋思芳が僕へ云った。
 で、僕はほとんど夢中で、その外人へ飛びかかり、持っていた鎧通で一えぐりした。外人――それはグレーだったが、もろくもそのまま死んでしまった。
 友よ、グレーの血に染まった、醜悪な死骸を寝台の側へ置いて、僕と宋思芳とが寝台の上で、再度の陶酔に耽ったことを――再度というのは宋思芳と、先刻の支那美人とが文字通り、同一人だからそういうのだが――友よ、咎めてくれたもうな。こんなことは青幇《チンパン》に嘱している、僕という人間には普通のことだし、又、紅幇《ホンパン》に嘱している、宋思芳にとっても茶飯事なのだからね。
 今日も例の鴉片窟「金華酔楼」で恋人同士として、僕は彼女――彼と云ってもいい。彼女は今日も男装であり、男装の方が似合うのだから。――その宋思芳と逢って来た。鴉片を喫って恍惚として、無我の境地で抱擁し合う、この極度の快感は、日本にいる誰も知らないだろうよ。
 だが彼は――いやいや彼女は……そうだやっぱり僕としては、彼女と云った方がいいようだ。で、彼女は、何者なのか? 事実彼女はその昔は、良家の娘だったということだ。が、今はこの国における、二つの大きな秘密結社――殺人、人買い、掠奪、密輸入、あらゆる悪行をやりながら、不断の貧民の味方として、かつ貧民の防禦団体として、根本においては祖国愛主義の、青幇《チンパン》、紅幇《ホンパン》という秘密結社の、その紅幇に嘱している、女班の利者《きけもの》の一人なのだ。
 そうして僕は青幇会員で、この会員であるがために、生活することが出来ているのだよ。
 今日彼女は僕に云ったっけ。――
「妾《わたし》、グレーとエリオットとの二人へ、女装をしたり男装をしたりして、自由に体を任かせたのも、紅幇の頭から命ぜられたのではなく、自分から進んでやったのよ。そうやって二人をだいなし[#「だいなし」に傍点]にして、殺してやろうと思ったからだわ。でもとうとうエリオットの方は、妾から鴉片を進めたのに乗って、鴉片を喫い出したので頭を悪くし、昔のあいつ[#「あいつ」に傍点]じゃアなくなったし、グレーの方はあんな具合に、貴郎《あなた》に殺して貰ったし、妾の目的は遂げられたってものよ。……これじゃアなかなか鎮江は、英軍の手には落ちないわね。……二人の大将が駄目になったんですもの」
「それにしてもどうしてグレーって男が、あんな所へやって来たんだい?」
「妾からやっぱり、呼んだからよ。例の厠の紙を使って。好奇《ものずき》にあいつ[#「あいつ」に傍点]やって来たのさ。毛唐って奴、好色だからねえ……ところが現われた女ってのが、自分だけの情婦だと自惚れていた、妾だったので嫉妬して、私の咽喉を締めたんだわ」
「じゃア僕を招《よ》んだのは、グレーの奴を殺させるため、……ただ、それだけのためだったんだね」
「それもあったわ、でももう一つ、妾あんたが好きだったからよ」
 ――それなら可《い》いと僕は思ったよ。
 友よ、これでお終《しま》いだ。
 古人《こじん》燭をとって夜遊ぶさ。今人《こんじん》の僕はこんな遊びをしている。あくどい[#「あくどい」に傍点]、刺戟の強い、殺人淫楽的の遊びを!
 しかもそれが生活でもあるのさ。
 さようなら、さよなら。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「オール読物」
   1931(昭和6)年12月
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

岷山の隠士——- 国枝史郎


「いや彼は隴西《ろうせい》の産だ」
「いや彼は蜀《しょく》の産だ」
「とんでもないことで、巴西《はせい》の産だよ」
「冗談を云うな山東《さんとう》の産を」
「李広《りこう》[#「李広《りこう》」は底本では「季広《りこう》」]の後裔だということだね」
「涼武昭王※[#「日/高」、第3水準1-85-36]《りょうぶしょうおうこう》の末だよ」
 ――青蓮居士謫仙人《せいれんこじたくせんにん》、李太白の素性なるものは、はっきり解《わか》っていないらしい。
 金持が死ぬと相続問題が起こり、偉人が死ぬと素性争いが起こる。
 偉人や金持になることも、ちょっとどうも考えものらしい。

 李白十歳の初秋であった。県令の下《もと》に小奴となった。
 ある日牛を追って堂前を通った。
 県令の夫人が欄干に倚《よ》り、四方《あたり》の景色を眺めていた。
 穢らしい子供が、穢らしい牛を、臆面もなく追って行くのが、彼女の審美性を傷付けたらしい。
「無作法ではないか、外《よそ》をお廻り」
 すると李白は声に応じて賦《ふ》した。
「素面|欄鉤《らんこう》ニ倚リ、嬌声|外頭《がいとう》ニ出ヅ、若シ是織女ニ非ズンバ、何ゾ必シモ牽牛ヲ問ハン」
 これに驚いたのは夫人でなくて、その良人《おっと》の県令であった。
 早速引き上げて小姓とした。そうして硯席に侍《はべ》らせた。
 ある夜素晴らしい山火事があった。
「野火山ヲ焼クノ後、人帰レドモ火帰ラズ」
 県令は苦心してここまで作った。後を附けることが出来なかった。
「おい、お前附けてみろ」
 県令は李白へこう云った。
 十歳の李白は声に応じて云った。
「焔ハ紅日《こうじつ》ニ隨ツテ遠ク、煙ハ暮雲ヲ逐《お》ツテ飛ブ」
 県令は苦々しい顔をした。それは自分よりも旨いからであった。
 五歳にして六甲を誦し、八歳にして詩書に通じ、百家を観たという寧馨児《ねいけいじ》であった。田舎役人の県知事などが、李白に敵うべき道理がなかった。
 ある日美人の溺死人があった。
 で、県令は苦吟した。
「二八誰ガ家ノ女、飄トシテ来リ岸蘆《がんろ》ニ倚ル、鳥ハ眉上《びじょう》ノ翆《すい》ヲ窺ヒ、魚ハ口傍《こうぼう》ノ朱ヲ弄《ろう》ス」
 すると李白が後を継いだ。
「緑髪ハ波ニ隨《したが》ツテ散リ、紅顔ハ浪ヲ逐《お》ツテ無シ、何ニ因《よ》ツテ伍相《ごしょう》ニ逢フ、応《まさ》ニ是|秋胡《しゅうこ》ヲ想フベシ」
 また県令は厭な顔をした。
 で李白は危険を感じ、事を設けて仕《つかえ》を辞した。
 詩的小人というものは、俗物よりも嫉妬深いもので、それが嵩ずると偉いことをする。
 李白の逃げたのは利口であった。
 剣を好み諸侯を干《かん》して奇書を読み賦《ふ》を作る。――十五歳迄の彼の生活は、まずザッとこんなものであった。
 年二十性|※[#「にんべん+蜩のつくり」、第4水準2-1-59]儻《てきとう》、縦横の術を喜び任侠を事とす。――これがその時代の彼であった。
 財を軽んじ施《し》を重んじ、産業を事とせず豪嘯す。――こんなようにも記されてある。
 ある日喧嘩をして数人を切った。
 土地にいることが出来なかった。
 このころ東巖子《とうがんし》という仙人が、岷山《みんざん》の南に隠棲していた。
 で、李白はそこへ走った。
 聖フランシスは野禽を相手に、説教をしたということであるが、東巖子も小鳥に説教した。彼は道教の道士であった。
 彼が山中を彷徨《さまよ》っていると、数百の小鳥が集まって来た。頭に止まり肩に止まり、手に止まり指先へ止まった。そうして盛んに啼き立てた。
 それへ説教するのであった。
 李白はそこへかくまわれる[#「かくまわれる」に傍点]ことになった。
 ある日李白が不思議そうに訊いた。
「小鳥に説教が解《わか》りましょうか?」
「馬鹿なことを云うな、解るものか。あんなに無暗《むやみ》と啼き立てられては、第一声が通りゃアしない」
「何故集まって来るのでしょうか?」
「俺が毎日餌をやるからさ。小鳥にもてる[#「もてる」に傍点]のもいいけれど、糞を掛けられるのは閉口だ」
 一度彼が外出すると、彼の道服は鳥の糞で、穢ならしい飛白《かすり》を織るのであった。
「一体道教の目的は、どこにあるのでございましょう?」
 ある時李白がこう訊いた。
「つまりなんだ、幸福さ」
「幸福を得る方法は?」
「長命《ながいき》することと金を溜めることさ」
 洵《まこと》にあっさり[#「あっさり」に傍点]した答えであった。


「どうしたら金が溜まりましょう?」
「働いて溜めるより仕方がない」
「その癖先生はお見受けする所、ちっとも働かないじゃありませんか」
「うん、どうやらそんな格好だな」
「働かないで溜める方法は?」
「よくこの次までに考えて置こう」
 一向張り合いのない挨拶であった。
「どうしたら長命が出来ましょう」
「いろいろ方法があるらしい」
「それをお教え下さいませんか」
「俺には解っていないのだよ」
「物の本で読みました所、内丹説、外丹説、いろいろあるようでございますね。枹木子《ほうぼくし》などを読みますと」
「ほほう、それではお前の方が学者だ。ひとつ俺へ話してくれ」
 李白これには閉口してしまった。
 ある日東巖子が李白へ云った。
「天とは一体どんなものだろう?」
「ははあこの俺を験《ため》す気だな」
 すぐに李白はこう思った。
「道教の方で申しますと、天は百神の君だそうで、上帝、旻天《びんてん》、皇天などとも、皇天上帝、旻天上帝、維皇上帝、天帝などとも、名付けるそうでございますが、意味は同じだと存じます。天は唯一絶対ですが、その功用は水火木金土、その気候は春夏秋冬、日月星辰《じつげつせいしん》を引き連れて、風師雨師《ふうしうし》を支配するものと、私はこんなように承《うけたま》わって居ります」
「ふうん、大変むずかしいんだな。俺にはそんなようには思われないよ。色が蒼くて真丸《まんまる》で、その端が地の上へ垂れ下っている。こんなようにしか思われないがな」
 これには李白もギャフンと参った。
「地についてはどう思うな?」
 これは浮雲《あぶな》いと思いながらも、真面目に答えざるを得なかった。
「地は万物の母であって、人畜魚虫山川草木、これに産れこれに死し、王者の最も尊敬するもの、冬至の日をもって方沢《ほうたく》に祭ると、こう書物で読みましたが」
「お前の云うことはむずかしいなあ。俺にはそんなようには見えないよ。変な色の、変に凸凹した、穢ならしいものにしか見えないがね」
 これにも李白は一言もなかった。
「お前は人の性をどう思うね?」
「はい、孔子に由る時は、『人之性直《ひとのせいちょく》。罔之生也《これをくらますはせいなり》。幸而免《さいわいにまぬかれよ》』こうあったように思われます。しかし孟子は性善を唱え、荀子は性悪を唱えました。だが告子は性可能説を唱え、又|楊雄《ようゆう》、韓兪《かんゆ》等は、混合説を唱えましたそうで」
「だがそいつは他人の説で、お前の説ではないじゃアないか」
「あっ、さようでございましたね」
「で、お前はどう思うのだ?」
「さあ、私には解《わか》りません」
「解るように考えるがいい」
「あの、先生にはどう思われますので?」
「俺か、俺はな、そんなつまらない[#「つまらない」に傍点]事は、考えない方がいいと思うのさ。形而上学的思弁といって、浮世を小うるさく[#「うるさく」に傍点]するものだからな」
 これには李白は何となく、教えられたような気持がした。
「不味《まず》[#ルビの「まず」は底本では「まづ」]い物ばかり食っていると、肉放れがして痩せてしまう。美味《うまい》物を食え美味物を」
 こう口では云いながら、稗《ひえ》だの粟《あわ》だの黍《きび》だのを、東巖子は平気で食うのであった。
「綺麗な衣裳《きもの》を着るがいい。そうでないと他人《ひと》に馬鹿にされる」
 こう云いながら東巖子は、一年を通してたった[#「たった」に傍点]一枚の、穢い道服を着通すのであった。
「出世をしろよ、出世をしろよ、いい主人を目つけてな」
 こう云いながら東巖子は、山から出ようとはしないのであった。
 彼は言行不一致であった。
 それがかえって偉かった。
 彼は盛んに逆理を用いた。
 李白は次第に感化された。※[#「にんべん+蜩のつくり」、第4水準2-1-59]儻不羈《てきとうふき》の精神が、軽快洒脱[#「洒脱」は底本では「酒脱」]の精神に変った。
 ある日突然東巖子が云った。
「お前は山川をどう思うな?」
「山は土の盛り上ったもの、川は水の流れるもの、私にはこんなように思われます」
「さあさあお前は卒業した。山を出て世の中へ行くがいい」
 ――で、翌日|岷山《みんざん》を出た。


 開元十二年のことであった。
 李白は出でて襄漢《じょうかん》に遊んだ。まず南|洞庭《どうてい》に行き、西金陵《にしきんりょう》揚《よう》州に至り、さらに汝海《じょかい》に客となった。それから帰って雲夢《うんぽう》に憩った。
 この時彼は結婚した。妻は許相公《きょそうこう》の孫娘であった。
 数年間同棲した。
 さらに開元二十三年、太原《たいげん》方面に悠遊した。
 哥舒翰《かじょかん》などと酒を飲んだ。
 また※[#「言+焦」、第3水準1-92-19]郡《しょうぐん》の元参軍《げんさんぐん》などと、美妓を携えて晋祠《しんし》などに遊んだ。
 やがて去って斉魯《せいろ》へ行き、任城《にんじょう》という所へ家を持った。孔巣父《こうそうほ》、裴政《はいせい》、張叔明《ちょうしゅくめい》、陶※[#「さんずい+眄のつくり」、第4水準2-78-28]《とうべん》、韓準《かんじゅん》というような人と、徂徠山《そらいざん》に集って酒を飲み、竹渓の六逸と自称したりした。
 こうして天宝《てんほう》元年となった。
 この時李白四十二歳、詩藻全く熟しきっていた。
 会稽《かいけい》の方へ出かけて行った。
 ※[#「炎+りっとう」、第3水準1-14-64]中《えんちゅう》に呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]《ごいん》という道士がいた。
 二人はひどく[#「ひどく」に傍点]ウマが合った。共同生活をやることにした。
 東巖子《とうがんし》に比べると呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]の方は、ちょっと俗物の所があった。それだけにその名は喧伝されていた。
 時の皇帝は玄宗であった。
「※[#「炎+りっとう」、第3水準1-14-64]中の呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]を見たいものだ」
 こんなことを侍臣に洩らした。
 呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]の許へ勅使が立った。
 出て行かなければならなかった。
「おい、お前も一緒に行きな」
「うん、よし来た、一緒に行こう」
 李白は早速行くことにした。
 やがて二人は長安へ着いた。
 長安で賀知章《がちしょう》と懇意になった。
 賀知章は李白を一見すると、驚いたようにこう云った。
「君は人間なのか仙人なのか?」
「どうもね、やはり人間らしい」
「仙人が誤って人間になると、君のような風采になるだろう。君は謫《たく》[#ルビの「たく」は底本では「てき」]せられた仙人だよ」
「まあさ、見てくれ、謫仙人の詩を」
 李白は旧稿を取り出して見せた。
 賀知章はすっかり[#「すっかり」に傍点]参ってしまった。
「素晴らしい物を作りゃアがる。こいつちょっと人間業じゃアねえ。君のような人間に出られると、僕の人気なんかガタ落ちだ。だがマアマア結構なことだ。御世万歳、文運隆盛、大いに友達に紹介しよう」
「話せる奴でもいるのかい?」
「杜甫という奴がちょっと話せる」
「聞かないね、そんな野郎は」
「だが会って見な、面白い奴だ。だがちっと[#「ちっと」に傍点]ばかり神経質だ」
「そんな野郎は嫌いだよ」
「まあまあそういわずに会って見なよ。君とは話が合うかもしれない。ひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると好敵手かもしれない」
「幾歳《いくつ》ぐらいの野郎だい?」
「そうさな、君よりは十二ほど若い」
「面白くもねえ、青二才じゃアないか」
「止めたり止めたり食わず嫌いはな」
「どうも仕方がねえ、会うだけは会おう」

 杜甫は名門の出であった。
 左伝癖《さでんへき》をもって称された、晋の杜預の後胤であった。曾祖の依芸《いげい》は鞏県《きょうけん》の令、祖父の審言《しんげん》は膳部員外郎であった。審言は一流の大詩人で、沈※[#「にんべん+全」、第4水準2-1-41]期《ちんせんき》、宋之門《そうしもん》と名を争い、初唐の詩壇の花形であった。
 父の閑《かん》は奉天《ほうてん》の令で、公平の人物として名高かった。
 杜甫は随分傲慢であった。弱い癖に豪傑を気取り、不良青年の素質もあった。ひどく愛憎が劇しかった。それに肺病の初期でもあった。立身出世を心掛けた。その顔色は蒼白く、その唇は鉛色であった。いつもその唇を食いしばっていた。人を見る眼が物騒であった。相手の弱点を見透しては、喰い付いて行くぞというような、変に物騒な眼付であった。威嚇的な物の云い方をした。その癖すぐに泣事を云った。
 決して感《かんじ》のいい人間ではなかった。
 体質から云えば貧血性であったが、気質から云えば多血質であった。
 いつも不平ばかり洩らしていた。
 だが意外にも義理堅く、他人の恩を強く感じた。
 忠義心が深かった。
 義理堅いのをのぞき[#「のぞき」に傍点]さえすれば、彼は実に完全に、近代芸術家型に嵌まった。
 彼の幼時は不明であった。
 が、彼の詩を信じてよいなら――又信じてもよいのであるが――七歳頃から詩作したらしい。
「往昔十四五、出デテ遊ブ翰墨《かんぼく》場、斯文崔魏《しぶんさいぎ》ノ徒、我ヲ以テ班揚ニ比ス、七齡思ヒ即チ壮、九齡大字ヲ書シ、作有ツテ一|襄《のう》ニ満ツ」
 すなわちこれが証拠である。
「七歳ヨリ綴ル所ノ詩筆、四十|載《さい》、向フ矣《い》、約千有余篇」
 こんなことも書いてある。
 開元十九年二十歳の時、呉越方面へ放浪した。
 四年の間を放浪に暮らし、開元二十三年の頃、京兆の貢拳《こうきょ》に応じたものである。
 だが旨々《うまうま》落第してしまった。


 彼はすっかり落胆した。
 奉天の父の許へ帰って行った。泰山《たいざん》を望んで不平を洩らした。
 二年の間ブラブラした。
 それから斉《せい》や趙《ちょう》[#ルビの「ちょう」は底本では「しょう」]に遊んだ。
 それから長安へ遣って来たのであった。

 李白と杜甫との会見は、賀知章が心配したほどにもなく、非常に円滑に行なわれた。
 会後李白が賀知章へ云った。
「彼は頗《すこぶ》る人間臭い。それが又彼のよい所だ。詩人として当代第一」
 また杜甫はこう云った。
「なるほどあの人は謫仙人だ。僕はすっかり面喰ってしまった。詩人としては第一流、とても僕など追っ付けそうもない」
 互いに推重をしあったのであった。
 李適之《りてきし》、汝陽《じょよう》、崔宗之《さいそうし》、蘇晋《そしん》、張旭《ちょうぎょく》、賀知章《がちしょう》、焦遂《しょうすい》、それが杜甫と李白とを入れ、八人の団体が出来上ってしまった。
 飲んで飲んで飲み廻った。
 いわゆる飲中の八仙人であった。
 酒はあんまりやらなかったが、一世の詩宗高適などとも、李白や杜甫は親しくした。
 三人で吹台や琴台へ登り、各自《めいめい》感慨に耽ったりした。
 ※[#「りっしんべん+更」、662-15]慨するのは杜甫であり、物を云わないのは高適であり、笑ってばかりいるのは李白であった。
 高適の年五十歳、李白の年四十四歳、杜甫の年三十二歳であった。
 だがこの時代は李太白が、誰よりも詩名が高かった。
 玄宗皇帝が会いたいと云った。
 で、李白は御前へ召された。
 誰が李白を推薦したかは、今日に至っても疑問とされている。
 ある人は道士呉※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63][#「※[#「竹かんむり/均」、第3水準1-89-63]」は底本では「※[#「くさかんむり/均」、662-下-1]」]だと云い、ある人は玉真公主だと云い、又ある人は賀知章だと云った。
 すべて人間が出世すると、俺が推薦した俺が推薦したと、推薦争いをするものであるが、これも将しくその一例であった。
 金鑾《きんらん》殿という立派な御殿で、玄宗は李白を引見した。
 帝、食を賜い、羹《あつもの》を調し、詔あり翰林《かんりん》に供奉《ぐぶ》せしむ。――これがその時の光景であった。非常に優待されたことが、寸言の中に窺われるではないか。
 彼は翰林供奉となっても、出勤しようとはしなかった。長安の旗亭に酒を飲み、いう所の管ばかりを巻いていた。
「李白に会いたいと思ったら、長安中の旗亭を訪ね、一番酔っぱらっている人間に、話しかけるのが手取早い。間違いなくそれが李白なのだからな」
 人々は互いにこんなことを云った。
 その時唐の朝廷に一大事件が勃発した。
 渤海《ぼっかい》国の使者が来て、国書を奉呈したのであった。
 国書は渤海語で書かれてあった。満廷読むことが出来なかった。
 玄宗皇帝は怒ってしまった。
「蕃書を読むことが出来なければ、返事をすることが出来ないではないか。渤海の奴らに笑われるだろう。彼奴《きゃつ》ら兵を起こすかもしれない。国境を犯すに相違ない。誰か読め誰か読め!」
 百官戦慄して言なし矣《い》であった。
 そこへ遣《や》って来たのが李白であった。
 飄々|乎《こ》として遣って来た。
「おお李白か、いい所へ来た。……お前、渤海語が解《わか》るかな?」
「私、日本語でも解ります。まして謂んや渤海語など」
「それは有難い。これを読んでくれ」
 渤海の国書を突き出した。
 李白は一通り眼を通した。
「では唐音に訳しましょう」
 そこで彼は声高く読んだ。
「渤海|奇毒《きどく》の書、唐朝官家に達す。爾《なんじ》、高麗《こうらい》を占領せしより、吾国の近辺に迫り、兵|屡《しばしば》吾|界《さかい》を犯す。おもうに官家の意に出でむ。俺《われ》如今《じょこん》耐《た》うべからず。官を差し来り講じ、高麗一百七十六城を将《もっ》て、俺に讓与せよ。俺好物事あり、相送らむ。太白山の兎、南海の昆布、柵城の鼓、扶余《ふよ》の鹿、鄭頡《ていきつ》の豚、率賓《そつびん》の馬、沃州綿《ようしゅうめん》[#ルビの「ようしゅうめん」は底本では「ようしうめん」]、※[#「さんずい+眉」、第3水準1-86-89]泌河《びんひつが》の鮒、九都の杏、楽遊《がくゆう》の梨、爾、官家すべて分あり。若《も》し高麗を還《かえ》すことを肯んぜずば、俺、兵を起こし来たって厮殺せむ。且《か》つ那家《いずれ》が勝敗するかを看よ」
 皇帝はじめ文武百官は、すっかり顔色を変えてしまった。
「いま辺境に騒がせられては、ちょっと防ぐに策はない。一体どうしたらいいだろう」
 風流皇帝の顔色には、憂が深く織り込まれた。
 誰一人献策する者がなかった。


 すると李白が笑いながら云った。
「文章で嚇《おど》して来たのです、文章で嚇して帰しましょう。蕃使をお招きなさりませ、私、面前で蕃書を認め、嚇しつけてやることに致します」
 翌日蕃使を入朝せしめた。
 皇帝を真中に顯官が竝んだ。
 紗帽《さぼう》を冠り、白紫衣《はくしい》を着け、飄々と李白が現われた。勿論微醺を帯びていた。
 座に就《つ》くと筆を握り、一揮して蕃書を完成した。
 まず唐音で読み上げた。
「大唐天宝皇帝、渤海の奇毒に詔諭す。むかしより石卵は敵せず、蛇龍は闘わず。本朝運に応じ、天を開き四海を撫有し、将は勇、卒は精、甲は堅、兵は鋭なり。頡利《きつり》は盟に背いて擒《とりこ》にせられ、普賛《ふさん》は鵞を鑄って誓を入れ、新羅《しらぎ》は繊錦の頌を奏し、天竺《てんじく》は能言の鳥を致し、沈斯《ちんし》は捕鼠の蛇を献じ、払林《ふつりん》は曳馬の狗を進め、白鸚鵡は訶陵《かりょう》より来り、夜光珠は林邑《りんゆう》より貢し、骨利幹《こつりかん》に名馬の納あり、沈婆羅《ちんばら》に良酢の献あり。威を畏れ徳に懐《なず》き、静を買い安を求めざるなし、高麗命を拒《ふせ》ぎ、天討再び加う。伝世百一朝にして殄滅す。豈《あ》に逆天の咎徴、衝大の明鑒に非ずや。況《いわん》や爾は海外の小邦、高麗の附国、之を中国に比すれば一郡のみ。士馬芻糧万分に過ぎず。螳怒是れ逞《たくまし》うし、鵝驕不遜なるが若《ごと》きだに及ばず。天兵一下、千里流血、君は頡利の俘《とりこ》に同じく、国は高麗の続とならむ。方今聖度汪洋、爾が狂悖を恕す。急に宣しく[#「宣しく」はママ]過を悔い、歳事を勤修し、誅戮を取りて四|夷《い》の笑となる毋《なか》れ。爾其れ三思せよ。故に諭す」
 実にどうどうたるものであった。
 皇帝はすっかり喜んでしまった。
 そこで李白は階を下り、蕃使の前へ出て行った。文字通り蕃音で読み上げた。
 蕃使面色土のごとく、山呼拝舞し退いたというが、これはありそうなことである。
 奇毒、すなわち渤海の王も、驚愕来帰したということである。

「俺は長安の酒にも飽きた」
 で、李白は暇《いとま》を乞うた。
 皇帝は金を李白に賜った。
 李白の放浪は始まった。北は趙《ちょう》魏《ぎ》燕《えん》晋《しん》[#ルビの「しん」は底本では「し」]から、西は※[#「分+おおざと」、664-上-20]岐《ぶんき》まで足を延ばした。商於《しょうお》を歴《へ》て洛陽に至った。南は淮泗《わいし》から会稽《かいけい》に入り、時に魯中《ろちゅう》に家を持ったりした。斉や魯の間を往来した。梁宋には永く滞在した。
 天宝《てんほう》十三年広陵に遊び、王屋山人|魏万《ぎまん》と遇い、舟を浮かべて秦淮《しんわい》へ入ったり、金陵の方へ行ったりした。
 魏万と別れて宣城《せんじょう》へも行った。
 こうして天宝十四年になった。
 ひっくり返るような事件が起こった。
 安祿山が叛したのであった。
 十二月洛陽を陥いれた。
 天宝十五年玄宗皇帝は、長安を豪塵して蜀に入った。
 李白の身辺も危険であった。宣城から漂陽にゆき、更に※[#「炎+りっとう」、第3水準1-14-64]中《えんちゅう》に行き廬山に入った。
 玄宋皇帝の十六番目の子、永王というのは野心家であったが、李白の才を非常に愛し、進めて自分の幕僚にした。
 安祿山と呼応して、永王は叛旗を飜えした。弟の襄成王《じょうせいおう》と舟師《しゅうし》を率い、江淮《こうわい》[#ルビの「こうわい」は底本では「こうれい」]に向かって東下した。
 李白は素敵に愉快だった。
「うん、天下は廻り持ちだ。天子になれないものでもない」
 こんな事を考えた。
 詩人特有の白昼夢とも云えれば、※[#「にんべん+蜩のつくり」、第4水準2-1-59]儻不羈《てきとうふき》の本性が、仙骨を破って迸しったとも云えた。
 意気|頗《すこぶ》る軒昂であった。自分を安石《あんせき》に譬えたりした。二十歳代に人を斬った、その李白の真骨頭[#「真骨頭」はママ]が、この時躍如としておどり出たのであった。
「三川北虜乱レテ麻ノ如シ、四海|南奔《なんぽん》[#ルビの「なんぽん」は底本では「なんぱん」]シテ永嘉ニ似タリ、但東山ノ謝安石《しゃあんせき》ヲ用ヒヨ、君ガ為メ談笑シテ胡沙《こさ》ヲ静メン」
 などとウンと威張ったりした。
「試ミニ君王ノ玉馬鞭《ぎょくばべん》ヲ借リ、戎虜《じゅうりょ》ヲ指揮シテ瓊筵《けいえん》ニ坐ス、南風一掃|胡塵《こじん》静ニ、西長安ニ入ッテ日延ニ到ル」
 凱旋の日を空想したりした。
 ところが河南の招討判官、李銑《りせん》というのが広陵に居た。永王の舟師を迎え[#「迎え」は底本では「迎へ」]討った。
 永王軍は脆く破れた。
 永王は箭《や》に中《あた》って捕えられ、ある寒駅で斬殺された。そうして弟の襄成王は、乱兵の兇刄に斃《たお》された。
 李白は逃げて豊沢に隠れたが、目つかって牢屋へぶち[#「ぶち」に傍点]込まれた。
「どうも不可《いけ》ねえ、夢だったよ」
 憮然として彼は呟いた。
「兵を指揮するということは、韻をふむ[#「ふむ」に傍点]よりむずかしい。そうすると俺より安石の方が、人殺しとしては偉いらしい。もう君王の玉馬鞭なんか、仮にも空想しないことにしよう……。ひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると殺されるかもしれねえ。何と云っても謀反人だからなあ、もう一度|洞庭《どうてい》へ行って見たいものだ。松江の鱸《すずき》を食ってみたい。女房や子供はどうしたかな? 幾人女房があったかしら? あっ、そうだ、四人あったはずだ」
 李白はちょっと感傷的になった。
 無理もないことだ、五十七歳であった。
 李白は皆に好かれていた。
 新皇帝|粛宗《しゅくそう》に向かって、いろいろの人が命乞いをした。
 宣慰大使《せんいたいし》崔渙《さいかん》や、御史中丞《ぎょしちゅうじょう》宋若思《そうじゃくし》や、武勲赫々たる郭子儀《かくしぎ》などは、その最たるものであった。
 そこで李白は死を許され、夜郎へ流されることになった。
 道々洞庭や三峡や、巫山《ふざん》などで悠遊した。
 李白はあくまでも李白であった。竄逐《さんつい》[#「竄逐《さんつい》」はママ]されても悲しまなかった。いや一層仙人じみて来た。人間社会の功業なるものが全然自分に向かないことを、今度の事件で知ってからは、人間社会その物をまで、無視するようになってしまった。
 乾元《かんげん》二年に大赦があった。
 まだ夜郎へ行き着かない中に、李白は罪を許された。
 そこで江夏岳陽に憩い、それから潯陽《じんよう》へ行き金陵へ行った。この頃李白は六十一歳であった。また宣城や歴陽へも行った。
 あっちこっち歩き廻った。
 到る所で借金をした。九割までは酒代であった。
 のべつ[#「のべつ」に傍点]に客が集まって来た。
 やがて宝応元年になった。
 ある県令に招かれて、釆石江で舟遊びをした。
 すばらしく派手やかな宮錦袍を着、明月に向かって酒気を吐いた。
 波がピチャピチャと船縁を叩いた。
 十一月の月が水に映った。
「ひとつ、あの月を捕えてやろう」
 人の止めるのを振り払い、李白は水の中へ下りて行った。
 水は随分冷たかった。
 彼の考えはにわかに変わった。
 どう変わったかは解らない。
 李白は水中をズンズン歩いた。
 やがて姿が見えなくなった。
 それっきり人の世へ現われなかった。
「李白らしい死に方だ」
 人々は愉快そうに手を拍った。

 東巖子《とうがんし》は岷山《みんざん》にいた。
 相変わらず小鳥の糞にまみれ[#「まみれ」に傍点]、相変らずぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と暮らしていた。
 ある日薄穢い老人が、東巖子を訪れて来た。
「先生しばらくでございます」
「誰だったかね、見忘れてしまった」
 老人は黙って優しく笑った。
 なるほどまさしく薄穢くはあったが、底に玲瓏たる品位があった。人間界のものであり、同時に神仙のものである、完成されたる品位であった。
 で、東巖子は思わず云った。
「おお貴郎《あなた》は老子様で?」
「いえ私は李白ですよ」
「いえ貴郎は老子様です」
 東巖子は云い張った。
「どうぞ上座へお直り下さい」
 李白は平気で上座へ直った。
 数百羽の小鳥が飛んで来た。音を立てて庵の中へ入った。
 そうして東巖子の頭や肩へ……いや小鳥は東巖子へは行かずに、李白の頭や肩へ止まった。すぐに李白は糞まみれになった。

 今でも岷山のどの辺りかに、李白とそうして東巖子とが、小鳥を相手に日向《ひなた》ぼっこ[#「ぼっこ」に傍点]をして、住んでいる事は確かである。

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「大衆文芸」
   1926(大正15)年4月
※漢詩漢文の読み下し文の旧仮名づかいは底本通りです。また促音の大小の混在も底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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国枝史郎

柳営秘録かつえ蔵—- 国枝史郎


 天保元年正月五日、場所は浅草、日は午後《ひるさがり》、人の出盛る時刻であった。大道手品師の鬼小僧、傴僂《せむし》で片眼で無類の醜男《ぶおとこ》、一見すると五十歳ぐらい、その実年は二十歳《はたち》なのであった。
「浅草名物鬼小僧の手品、さあさあ遠慮なく見て行ってくれ。口を開いて見るは大馬鹿者、ゲラゲラ笑うはなお間抜け、渋面つくるは厭な奴、ちん[#「ちん」に傍点]と穏しく見る人にはこっちから褒美を出してやる。……まず初めは小手調べ、結んでも結べない手拭いの術、おおお立会誰でもいい、一本手拭いを貸してくんな」
「おいよ」と一人の職人が、腰の手拭いをポンと投げた。
「いやこいつア有難え、こう気前よく貸して貰うと、芸を演《や》るにも演り可《い》いってものだ。どうだい親方そのついでに一両がとこ貸してくれないか。アッハハハこいつア嘘だ! さて」と言うと鬼小僧は、手拭いを二三度打ち振ったが、
「たった今借りたこの手拭い、種もなければ仕掛もねえ。さあこいつをこう結ぶ」
 云いながらヤンワリ結んだが、
「おおお立会誰でもいい、片っ方の端を引っ張ってくんな」
「よし来た」と云って飛び出して来たのは、この界隈の地廻りらしい。
「それ引っ張るぜ、どうだどうだ」
 グイと引いたのが自ずと解けて、手拭いには結び玉が出来なかった。
「小手調べはこれで済んだ。お次は本芸の水術だ。……ここに大きな盃洗《どんぶり》がんある。盃洗の中へ水を注《つ》ぐ」
 こう云いながら鬼小僧は、足下《あしもと》に置いてあった盃洗を取り上げ、グイと左手で差し出した。それからこれも足元にあった、欠土瓶《かけどびん》をヒョイと取り上げたが、ドクドクと水を注ぎ込んだ。
「嘘も仕掛けもねえ真清水だ。観音様の手洗い水よ。さてこの中へ砂糖を入れる」
 懐中《ふところ》から紙包みを取り出した。
「さあ誰でもいいちょっと来な。この砂糖を嘗めてくんな」
「ああ俺《おい》らが嘗めてやろう」
 一人の丁稚が飛び出して来た。ペロリと嘗めたがニヤニヤ笑い、
「やあ本当だ、甘《あめ》え砂糖だ」
「べらぼうめエ、あたりめエよ。辛《かれ》え砂糖ってあるものか。……そこで砂糖を水へ入れる。と、出来るのは砂糖水。これじゃア一向くだらねえ。手品でも何でもありゃアしねえ。そこでグッと趣向を変え、素晴しい物を作ってみせる」
 パッと砂糖を投げ込んだ。と盃洗の水面から、一団の火焔が燃え立った。
 ドッと囃す見物の声、小銭がパラパラと投げられた。
 盃洗の水をザンブリと覆《あ》け、鬼小僧はひどく上機嫌、ニヤリニヤリと笑ったが、
「さあ今度は何にしよう? うんそうだ鳥芸がいい。まず鳥籠から出すことにしよう」
 キッと空を見上げたが、頭上には裸体《はだか》の大|公孫樹《いちょう》が、枝を参差《しんし》と差し出していた。
「おお太夫さん下りておいで。お客様方がお待ちかねだ」
 こう云って招くような手附をした。
 と、公孫樹の頂上《てっぺん》から、何やらスーッと下《お》りて来た。それは小さな鳥籠であった。誰が鳥籠を下ろしたんだろう? それでは高い公孫樹の梢に、鬼小僧の仲間でもいるのだろうか? それに洵《まこと》に不思議なのは鳥籠を支えている縄がない。鳥籠は宙にういていた。これには見物も吃驚《びっくり》した。ワーッと拍手喝采が起こった。鳥籠はスルスルと下りて来た。しかし下り切りはしなかった。地上から大方一丈の宙で急に鳥籠は止まってしまった。
「あっ」と驚いたのは見物ではなくて、太夫の鬼小僧自身であった。
「どうしたんだい、驚いたなあ」
 呟《つぶや》いた途端に見物の中から、
「小僧、取れるなら取ってみろ!」
 嘲るような声がした。


 鬼小僧はギョッと驚いて、声のした方へ眼をやった。鶴髪《かくはつ》白髯《はくぜん》長身《ちょうしん》痩躯《そうく》、眼に不思議な光を宿し、唇に苦笑を漂わせた、神々しくもあれば凄くもある、一人の老人が立っていた。地に突いたは自然木の杖、その上へ両手を重ねて載《の》せ、その甲の上へ頤をもたせ[#「もたせ」に傍点]、及び腰をした様子には、一種の気高さと鬼気とがあった。
「小僧」と老人は教えるように云った。
「手品などとは勿体無い。それは『形学《けいがく》』というべきものだ。どこで学んだか知らないが、ある程度までは達している。しかしまだまだ至境には遠い。それに大道で商うとは、若いとはいえ不埒千万、しかし食うための商売《あきない》とあれば、強いて咎めるにもあたるまい。……とまれお前には見所がある。志があったら訪ねて来い。少し手を執って教えてやろう」
 老人はスッと背を延ばした。
「重巌に我|卜居《ぼっきょ》す、鳥道人跡を絶つ、庭際何の得る所ぞ、白雲幽石を抱く……俺の住居《すまい》は雲州の庭だ」
 老人は飄然と立ち去った。つづいてバラバラと見物が散り、間もなく暮色が逼って来た。
 腕を組んだ鬼小僧、考え込まざるを得なかった。
「驚いたなあ」と嘆息した。
「ズバリと見抜いて了《しま》やアがった。全体どういう爺《おじい》だろう? 謎のような事を云やアがった。俺の住居は雲州の庭だ。からきしこれじゃア見当がつかねえ。雲州の庭? 雲州の庭? どうも見当がつかねえなあ。……」
「どうしたのだよ、え、鬼公! 変に茫然《ぼんやり》しているじゃアないか」
 背後《うしろ》で優しく呼ぶ声がした。
「さあ一緒に帰ろうよ」
「うん、お杉坊か、さあ帰ろう」
 こうは云ったが鬼小僧は、身動き一つしなかった。
 お杉は驚いてじっと見た。黒襟の衣装に赤前垂、麻形の帯を結んでいた。驚くばかりのその美貌、錦絵から抜け出した女形《おやま》のようだ。
 笠森お仙、公孫樹《いちょうのき》のお藤、これは安永の代表的美人、しかしもうそれは過去の女で、この時代ではこのお杉が、一枚看板となっていた。身分は水茶屋の養女であったが、その綽名は「赤前垂」……もう赤前垂のお杉と云えば、武士階級から町人階級、職人乞食隠亡まで、誰一人知らないものはなかった。そうしてお仙やお藤のように、詩人や墨客からも認められた。彼女の出ている一葉《いちは》茶屋、そのため客の絶え間がなかった。お杉はこの頃十七であった。
 同じ浅草の人気者同士、鬼小僧とお杉とは仲宜《なかよ》しであった。
「お杉坊」と鬼小僧は物憂そうに、
「今日は一人で帰ってくんな。俺ら偉いことにぶつかってな、考えなけりゃアならないんだよ」
「妾《わたし》も実はそうなのさ。それで相談をしたいんだがね」
「え、それじゃアお前もか? アッハハハ大丈夫だ。養母《おっか》さんと喧嘩したんだろう。お粂婆さんと来たひにゃア、骨までしゃぶろう[#「しゃぶろう」に傍点]っていう強欲だからな。構うものか呶鳴ってやりねえ。俺らも助太刀をしてえんだが、今日は駄目だ、考え事がある」
「お養母《かあ》さんと喧嘩も喧嘩だが、今度はそれが大変なのでね、妾ひょっとすると浅草へは、もう出ないかもしれないよ」
「や、こいつア驚いたなあ。実は俺らもそうなのだ。術を見破られてしまったんだからな。気恥しくって出られやしねえ」
「じゃア一緒には帰られないの」
 お杉は寂しそうな様子をした。肩を縮め首を垂れ、車坂の方へ帰って行った。
「いやに寂しい様子だなア」
 ふと鬼小僧はこう思ったが、もうその次の瞬間には、自分の問題へ立ち返っていた。
 日が暮れて月が出た。寒月蒼い境内には、黙然と考えている鬼小僧以外、人の姿は見られなかった。
 と、鬼小僧は突然云った。
「解《わか》った! 箆棒《べらぼう》! 何のことだ!」


「解った! 箆棒! 何のことだ!」
 こう叫んだ鬼小僧は、尻をからげて走り出した。
 浅草から品川まで、彼は一息に走って行った。浜御殿を筆頭に、大名屋敷下屋敷、ベッタリその辺りに並んでいた。尾張《おわり》殿、肥後《ひご》殿、仙台殿、一ッ橋殿、脇坂殿、大頭《おおあたま》ばかりが並んでいた。その裏門が海に向いた、わけても宏壮な一宇の屋敷の外廻りの土塀まで来た時であった。その土塀へ手を掛けると、鬼小僧はヒラリと飛び上った。土塀の頂上《てっぺん》で腹這いになり、家内《やうち》の様子を窺ったが、樹木森々たる奥庭には、燈籠の燈《ひ》がともっているばかり、人の居るらしい気勢《けはい》もなかった。
「よし」と云うと飛び下りた。そこで地面へ這い這いになり、改めて奥庭を窺った。ある所は深山の姿、又ある所は深林の態《さま》、そうかと思うと谷川が流れ、向うに石橋こちらに丸木橋、更にある所には亭《ちん》があり、寂と豪華、自然と人工、それの極致を尽くした所の庭園は眼前に展開されていたが、これぞと狙いを付けて来た、目的の物はみえなかった。
「おかしいなあ?」と呟《つぶや》いたが、鬼小僧は失望しなかった。そろそろと爪先で歩き出した。と一棟の茶室《みずや》があった。その前を通って先へと進んだ。
「これ小僧」と呼ぶ声がした。
「感心々々よく参った。ここだここだ、こっちへ来い」
 茶室の中から聞こえてきた。
 鬼小僧は度胆を抜かれたが、それでも周章《あわて》はしなかった。足を払うと縁へ上った。と、雨戸が内から開いた。そこで鬼小僧は身を細め、障子をあけて中へ入った。しかし老人は居なかった。
「はてな?」と小首を傾げた時、正面の壁が左右へあいた。
「ここだここだ」と云う声がした。
「これじゃアまるで化物屋敷だ」
 またも度胆を抜かれたが、そこは大胆の鬼小僧、かまわず中に入って行った。地下へ下りる階段があった。それを下へ下りた。畳数にして五十畳、広い部屋が作られてあった。しかも日本流の部屋ではない。阿蘭陀《オランダ》風の洋室であった。書棚に積まれた万巻の書、巨大な卓《テーブル》のその上には、精巧な地球儀が置いてあった。椅子の一つに腰かけているのが、例の鶴髪の老人であった。
 ここに至って鬼小僧は、完全に度胆を抜かれてしまった。で、ベタベタと床の上に坐った。その床には青と黄との、浮模様|絨氈《じゅうたん》が敷き詰められてあった。昼のように煌々と明るいのは、ギヤマン細工の花ランプが、天井から下っているからであった。
「雲州の庭、よく解《わか》ったな」
 老人はこう云うと微笑した。手には洋書を持っていた。
「へえ、随分考えました。……雲州様なら松江侯、すなわち松平|出雲守《いずものかみ》様、出雲守様ときたひには、不昧《ふまい》様以来の風流のお家、その奥庭の結構は名高いものでございます。……雲州の庭というからには、そのお庭に相違ないと、こう目星を付けましたので」
 鬼小僧は正直にこう云った。
「ところで俺を何者と思う?」
「さあそいつだ、見当が付かねえ」
「あれを見ろ」と云いながら老人は壁へ指を指した。洋風の壁へかかっているのは、純日本風の扁額《へんがく》であった。墨痕淋漓匂うばかりに「紙鳶堂《しえんどう》」と三字書かれてあった。
「形学《けいがく》を学んだお前のことだ、紙鳶堂の号ぐらい知っているだろう」
「知っている段じゃアございません。だが紙鳶堂先生なら、安永八年五十七歳で、牢死されたはずでございますが?」
「うん、表て向きはそうなっている。が、俺は生きている。雲州公に隠まわれてな。つまり俺の『形学』を、大変惜しんで下されたのだ。俺は本年百十歳だ」
「それじゃア本当にご老人には、平賀先生でございますか?」
「紙鳶堂平賀源内だ」
「へえ」とばかりに鬼小僧は床へ額をすり[#「すり」に傍点]付けてしまった。


 その翌日から浅草は、二つの名物を失った。一つはお杉、一つは鬼小僧……どこへ行ったとも解《わか》らなかった。江戸の人達は落胆《がっかり》した。観音様への帰り路、美しいお杉の纖手から、茶を貰うことも出来なければ、胆の潰れる鬼小僧の手品で、驚かして貰うことも出来なくなった。
 鬼小僧はともかくも、お杉はどこへ行ったんだろう?
 八千石の大旗本、大久保|主計《かずえ》の養女として、お杉は貰われて行ったのであった。
 大久保主計は安祥《あんしょう》旗本、将軍|家斉《いえなり》のお気に入りであった。それが何かの失敗から、最近すっかり不首尾となった。そこで主計はどうがなして、昔の首尾に復《かえ》ろうとした。微行で浅草へ行った時、計らず赤前垂のお杉を見た。
「これは可《い》い物が目つかった。養女として屋敷へ入れ、二三カ月磨いたら、飛び付くような料物《しろもの》になろう。将軍家は好色漢、食指を動かすに相違ない。そこを目掛けて取り入ってやろう」
 で、早速家来をやり、養母お粂を説得させた。一生安楽に暮らせる程の、莫大な金をやろうという、大久保主計の申し出を、お粂が断わるはずがない。一も二もなく承知した。
 お杉にとっては夢のようで、何が何だか解らなかった。水茶屋の養女から旗本の養女、それも八千石の旗本であった。二万三万の小大名より、内輪はどんなに裕福だかしれない。そこの養女になったのであった。お附の女中が二人もあり、遊芸から行儀作法、みんな別々の師匠が来て、恐れ謹んで教授した。衣類といえば縮緬《ちりめん》お召。髪飾りといえば黄金珊瑚、家内こぞって三ッ指で、お嬢様お嬢様とたてまつる[#「たてまつる」に傍点]、ポーッと上気するばかりであった。
「妾《あたし》なんだか気味が悪い」
 これが彼女の本心であった。二月三月経つ中に、彼女は見違える程気高くなった。
 地上のあらゆる生物の中、人間ほど境遇に順応し、生活を変え得るものはない。で、お杉もこの頃では、全く旗本のお嬢様として、暮らして行くことが出来るようになった。
 そうして初恋にさえ捉えられた。
 主計の奥方の弟にあたる、旗本の次男|力石三之丞《りきいしさんのじょう》、これが初恋の相手であった。三之丞は青年二十二歳、北辰一刀流の開祖たる、千葉周作の弟子であった。毎日のように三之丞は、主計方へ遊びに来た。その中に醸されたのであった。
 今こそ旗本のお嬢様ではあるが、元は盛り場の茶屋女、男の肌こそ知らなかったが、お杉は決して初心《うぶ》ではなかった。男の心を引き付けるコツは、遺憾ない迄に心得ていた。
 美貌は江戸で第一番、気品は旗本のお嬢様、それで心は茶屋女、これがお杉の本態であった。そういう女が初恋を得て、男へ通って行くのであった。どんな男の鉄石心でも、とろけ[#「とろけ」に傍点]ざるを得ないだろう。一方三之丞は情熱家、家庭の風儀が厳しかったので、悪所へ通ったことがない。どっちかと云えば剣道自慢、無骨者の方へ近かった。とは云え旗本の若殿だけに、風貌態度は打ち上り、殊には生来の美男であった。女の心を引き付けるに足りた。
 この恋成就しないはずがない。
 しかし初恋というものは、漸進的のものである。心の中では燃えていても、形へ現わすには時間《とき》が必要《い》る。そうして多くはその間に、邪魔が入るものである。そうして消えてしまうものである。しかし往々邪魔が入り、しかも恋心が消えない時には、一生を棒に振るような、悲劇の主人公となるものである。
 ある日主計と奥方とは、ひそひそ部屋で囁いていた。


「貴郎《あなた》、ご注意遊ばさねば……」
 こう云ったのは奥方であった。
「うむ、お杉と三之丞か」
 主計はむずかしい顔をしたが、
「何とかせずばなるまいな」
「どうぞ貴郎から三之丞へ。……妾《わたし》からお杉へ申しましょう」
「うむ、そうだな、そうしよう」
 翌日三之丞が遊びに来た。
「三之丞殿、ちょっとこちらへ」
 主計は奥の間へ呼び入れた。
「さて其許《そこもと》も二十二歳、若盛りの大切の時期、文武両道を励まねばならぬ。時々参られるのはよろしいが、あまり繁々《しばしば》来ませぬよう」
 婉曲に諷したものである。
「はっ」と云ったが三之丞には、よくその意味が解《わか》っていた。で頸筋を赧《あか》くした。
 その夜奥方はお杉へ云った。
「其方《そなた》も今は旗本の娘、若い男とはしたなく[#「はしたなく」に傍点]、決して話してはなりませぬ」
 こうしてお杉と三之丞とは、その間を隔てられた。隔てられて募らない恋だったら、恋の仲間へは入らない。おりから季節は五月であった。蛍でさえも生れ出でて、情火を燃やす時であった。蛙でさえも水田に鳴き、侶《とも》を求める時であった。梅の実の熟する時、鵜飼《うかい》の鵜さえ接《つ》がう時、「お手討ちの夫婦なりしを衣更《ころもが》え」不義乱倫の行ないさえ、美しく見える時であった。
 二人は恋を募らせた。
 お杉はすっかり憂鬱になった。そうして心が頑固《かたくな》になった。ろくろく物さえ云わなくなった。そうして万事に意地悪くなり、思う所を通そうとした。
 三之丞は次第に兇暴になった。
 恐ろしいことが起こらなければよいが!

 それは夕立の雨後の月が、傾きかけている深夜であった。新吉原の土手八丁、そこを二人の若い男女が、手を引き合って走っていた。
 と、行手から編笠姿、懐手《ふところで》をした侍が、俯向きながら歩いて来た。擦れ違った一刹那、
「待て!」と侍は忍び音に呼んだ。
「ひえッ」と云うと男女の者は、泥濘《ぬかるみ》へペタペタと膝をついた。
「どうぞお見遁し下さいまし」
 こう云ったのは男であった。見れば女は手を合わせていた。
 じっと見下ろした侍は、
「これ、其方《そち》達は駈落だな」
 こう云いながらジリリと寄った。陰森たる声であった。一味の殺気が籠もっていた。
「は、はい、深い事情があって」
 男の声は顫《ふる》えていた。
「うむ、そうか、駈落か。……楽しいだろうな。嬉しいだろう」
 それは狂気染みた声であった。
「…………」
 二人ながら返辞が出来なかった。
「そうか、駈落か」とまた云った。
「うらやましいな。……駈落か、……よし、行くがいい、早く行け……」
「はい、はい、有難う存じます」
 男女は泥濘へ額をつけた。刀の鞘走る音がした。蒼白い光が一閃した。
「むっ」という男の息詰った悲鳴、続いて重い鈍い物が、泥濘へ落ちる音がした。男の首が落ちたのであった。
「ひ――ッ」と女の悲声がした。もうその時は斬られていた。男女の死骸は打ち重なり、その手は宙で泳いでいた。と、女の左手と男の右手とが搦み合った。月が上から照らしていた。血が泥濘へ銀色に流れ、それがピカピカ目に光った。
 茫然と侍は佇んだ。二つの死骸を見下ろした。女の衣装で刀を拭い、ゆるくサラサラと鞘へ納めた。
「可《い》い気持だ」と呟いた。
「お杉様!」と咽ぶように云った。
 それから後へ引っ返した。


 江戸へ「夫婦《めおと》斬り」の始まったのは、実にその夜が最初であった。あえて夫婦とは限らない。男女二人で連れ立って、夜更けた町を通って行くと、深編笠の侍が出て、斬って捨るということであった。江戸の人心は恟々とした。夜間《よる》の通行が途絶え勝ちになった。

 さて一方お杉の身の上には、来べきことが来ることになった。将軍|家斉《いえなり》の眼に止まり、局《つぼね》へ納《い》れられることになった。秋海棠が後苑に咲き、松虫が籠の中で歌う季節、七夕月のある日のこと、葵紋付の女駕籠で、お杉は千代田城へ迎えられた。お杉の局と命名され、寵を一身に集めることになった。もうこうなっては仕方がなかった。下様の眼から見る時は、将軍といえば神様であった。神様の覚し召しとあるからは、厭も応も無いはずであった。
 で、お杉は奉仕した。しかし心では初恋の人を、前にも増して恋い慕った。逢うことも話すことも出来ないと思えば、その恋しさは増すばかりであった。洵《まこと》に彼女の境遇は、女としては栄華の絶頂、夢のようでもあれば極楽のようでもあった。もし彼女に三之丞という、忘られぬ人がなかったなら、満足したに相違ない。恋の九分九厘は黄金《こがね》の前には、脆《もろ》くも挫けるものであった。しかし、後の一厘の恋は、いわゆる選ばれた恋であって、どんな物にも挫けない。選ばれた人の運命は、大方悲劇に終るものであった。それは浮世の俗流に対して、覚醒の鼓を鳴らすからで、たとえば遠い小亜細亜の、猶太《ユダヤ》に産れた基督《キリスト》が、大きな真理《まこと》を説いたため、十字架の犠牲になったように。……で、お杉と三之丞との恋は、選ばれた人の恋であった。反《そら》すことの出来ない恋であった。
 将軍家斉は風流人、情界の機微に精通した、サッパリとした人物であった。お杉に三之丞がなかったなら、恋さないでは居られなかったろう。
 後宮の佳麗三千人、これは支那流の形容詞、しかし家斉将軍には事実五十人の愛妾があった。いずれもソツのない美人揃い、眼を驚かすに足るものがあったが、しかしお杉に比べては、その美しさが及ばなかった。で、家斉は溺愛した。しかるに日を経るにしたがって、家斉はお杉の心の中に、秘密のあることに感付くようになった。相手を愛するということは、相手を占有することであった。愛は完全を要求《もと》める点で、ほぼ芸術と同じであった。占有出来ないということは、愛する人の身にとって、堪え難いほどの苦痛であった。で、家斉はどうがなして、お杉の秘密を知ろうとした。
 ある日お杉は偶然《ゆくりなく》、宿下りをした召使の口から、市中の恐ろしい噂を聞いた。それは「夫婦《めおと》斬り」の噂であった。
「人を殺したその後で、その辻斬りの侍は、さも恋しさに堪えないように『お杉様!』と呼ぶそうでございます」
「お杉様と呼ぶ? お杉様と?」
 お杉は思わず鸚鵡《おうむ》返した。
 彼女には辻斬りの侍の、何者であるかが直覚された。
「三之丞様に相違ない」
 彼女は固くこう思った。恋する女の敏感が、そういう事を感じさせたのであった。お杉様と呼ばれる若い女は、この世に無数にあるだろう。お杉様と呼ぶ侍も、この世に無数にあるだろう。しかしお杉はその「お杉様」が、自分であることを固く信じた。そうしてそう呼ぶ侍が、三之丞であることを固く信じた。
「気の毒なお方。……三之丞様。……そうまで兇暴になられたのか。……妾には解《わか》る、お心持が。……では妾も覚悟しよう。……妾はかつえ[#「かつえ」に傍点]蔵へ入ることにしよう。……あのお方のために。……三之丞様のために」


 浅草の夜は更けていた。馬道二丁目の辻から出て、吾妻橋の方へ行く者があった。子供かと思えば大人に見え、大人かと思えば子供に見える、変に気味の悪い人間であった。
 と一人の侍が、吾妻橋の方からやって来た。深編笠を冠っていた。憂いありそうに俯向いていた。まさに二人は擦れ違おうとした。
「待て」と侍は声を掛けた。
「何でえ」と小男は足を止めた。
「連れはないか? 女の連れは?」
「いらざるお世話だ、こん畜生」
 小男は勇敢に毒吐いた。
「片眼で傴僂《せむし》のこの俺を、馬鹿にしようって云うんだな。誰だと思う鬼小僧だ!」
「何、鬼小僧? それは何だ?」
「うん、昔は手品師さ。だが[#「だが」に傍点]今じゃア形学《けいがく》者だ! 紙鳶堂《しえんどう》主人平賀源内これが俺らのお師匠さんだ。手前なんかにゃア解るめえが、形学と云うなア形而《かたちの》学問だ! 一名科学って云うやつだ。阿蘭陀《オランダ》仕込みの西洋手品! 世間の奴らはこんなように云う。もっと馬鹿な奴は吉利支丹《キリシタン》だと云う。ふん、みんな違ってらい! 本草学にエレキテル、機械学に解剖学、物理に化学に地理天文、人事百般から森羅万象、宇宙を究《きわ》める学問だア! もっとも馬鹿野郎の眼から見たら、手品吉利支丹に見えるかもしれねえ。……おお、侍《さむれえ》それはそうと、お前さん一体何者だね?」
 深編笠の侍は、それには返辞をしなかった。彼は懐中《ふところ》へ手をやった。取り出したのは小判であった。
「これをくれる持って行け。なるほどお前の風貌《かおかたち》なら、美しい女に恋されもしまい。気の毒だな、同情する。俺はそういう人間へ、充分同情の出来る者だ。恋などするな、恋は苦しい。……さあ遠慮なく金を取れ。そうして酒でも飲んでくれ」
「馬鹿にするない! 乞食じゃアねえ」
 鬼小僧はすっかり怒ってしまった。
「だが、おかしな侍だなあ。どう考えてもおかしな野郎だ。ははあ失恋で気がふれたな。……せっかくの好意だが受けられねえ」
「そう云わず取ってくれ。俺はそういう人間なのだ。女連れと見ると斬りたくなる。若い男が一人通ると、俺は金をやりたくなる」
 これを聞くと鬼小僧は、後ろへピョンと飛び退いた。
「それじゃア手前は『夫婦《めおと》斬り』だな! こいつア可《い》い所で邂逅《ぶつか》った。逢いてえ逢いてえと思っていたのだ。ヤイ侍よく聞きねえ。俺はな、今から十日前まで、紙鳶堂先生のお側《そば》に仕え、形学の奥義を究めていたものだ。印可となってお側を去り、これから長崎へ行くところだ。そこでもっと[#「もっと」に傍点]修行するのよ。ところで久しぶりで市《まち》へ出てみると、夫婦斬り噂で大騒ぎだ。そこで俺は決心したのだ。よくよくそういう無慈悲の奴は、俺の形学で退治てやろうとな。で今夜も探していたのさ。ここで逢ったが百年目、さあ野郎観念しろ!」
 云い捨て懐中へ手を入れると一尺ほどの円管《つつ》を出した。キリキリと螺施《ねじ》を捲く音がした。と、円管先から一道の火光が、煌々然と閃めき出た。
「眼が眩んだか、いい気味だ! エレキで作った無煙の火、アッハハハ驚いたか! 古風に云やア火遁《かとん》の術、このまま姿を隠したら、絶対に目つかる物じゃアねえ。……や、刀を抜きゃアがったな! さあ切って来い、来られめえ! おっ、浮雲《あぶね》え!」と鬼小僧は、突然円管先の光を消した。
 光の後の二倍の闇、闇に紛れて逃げたものか、鬼小僧の姿は見えなかった。


 深編笠の侍は、白刃《しらは》をダラリと下げたまま、茫然と往来へ立っていた。
「ここだここだ!」と呼ぶ声がした。一軒の家の屋根の上に、鬼小僧は立って笑っていた。
「やいやい侍|吃驚《びっくり》したか。だが驚くにゃアあたらねえ。飛燕の術というやつさ。日本の武道で云う時はな。……形学《けいがく》で云うと少し違う。物理の法則にちゃんとあるんだ。教えてやろう『槓桿《こうかん》の原理』そいつを応用したまでだ。……さあ今度は何にしよう。水鉄砲がいい! うんそうだ!」
 また懐中から何か出した。
「おおおお侍気を附けろよ! ただの水鉄砲たア鉄砲が異《ちが》う。水一滴かかったが最後、手前の体は腐るんだからな」
 闇に一条の白蛇を描き、シューッと水が迸《ほとばし》り出た。
 危険と知ったか侍は、サッと軒下に身を隠した。
「あっ、畜生、こいつア不可《いけ》ねえ。あべこべに先方《むこう》が水遁の術だ。……中止々々! 水鉄砲は中止。……さてこれからどうしたものだ。ともあれ家根《やね》から飛び下りるとしよう」
 鬼小僧はヒラリと飛び下りた。
 途端に侍が走り出た。
「小僧!」と掛けた血走った声、ザックリ肩先へ切り込んだ。
「どっこい!」という声と共に、辛く身を反《かわ》せた鬼小僧、三間ばかり逃げ延びたが、そこでグルリと身を飜えし、ピューッと何か投げ付けた。それが地へ中《あた》った一刹那、ドーンと凄じい爆音がした。と、火花がキラキラと散り、煙りが濛々と立ち上った。
「へ、へ、へ、へ、どんなものだ。その煙りを嗅いだが最後、手前の鼻はもげ[#「もげ」に傍点]っちまうぜ。気息を抑える発臭剤! 可哀そうだなあ、死《くたば》れ死れ!」
 だが侍は死らなかった。煙りを潜《くぐ》って走って来た。
「わッ、不可《いけ》ねえ、追って来やがった!」
 吾妻橋の方へ逃げかけた時、天運尽きたか鬼小僧は、石に躓《つまず》いて転がった。得たりと追い付いた侍は、拝み討ちの大上段、
「小僧、今度は遁さぬぞ!」
 切り下ろそうとした途端、にわかに侍はよろめい[#「よろめい」に傍点]た。
「お杉様!」とうめくように云った。
 やにわに飛び起きた鬼小僧、侍の様子を窺ったが、
「え、何だって? お杉さんだって? 俺もお杉さんを探しているんだ。赤前垂のお杉さんをな。……お前さんそいつ[#「そいつ」に傍点]を知ってるのか? 俺にとっちゃアお友達、同じ浅草にいたものだ」
「お杉様!」と侍はまた云った。
「貴女《あなた》は死にかけて居りますね。……恋の一念私には解《わか》る。……餓えてかつえ[#「かつえ」に傍点]て死にかけて居られる」
 侍はベタベタと地に坐った。
 驚いたのは鬼小僧で、呼吸《いき》を呑んで窺った。
「細い細い糸のような声! 私を呼んでおいでなさる。三之丞様! 三之丞様と!」
「お前さん三之丞って云うのかい。……そうしてどこのお杉さんだね?」
 鬼小僧は顔を突き出した。


 いかにもこの時お杉の局《つぼね》は、柳営大奥かつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]の中で、まさに生命を終ろうとしていた。
 かつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]は柳営の極秘であった。
 そこは恐ろしい地獄であった。地獄も地獄餓鬼地獄であった。
 不義を犯した大奥の女子《おなご》を、餓え死にさせる土蔵であった。幾十人幾百人、美しい局や侍女達が、そこで非業に死んだかしれない。
 その恐ろしい地獄の蔵へ、どうしてお杉は入れられたのだろう?
 自分から進んで入ったのであった。
 お杉は家斉《いえなり》へこう云った。
「まだ大奥へ参らない前から、妾《わたし》には恋人がございました。今も妾は焦れて居ります。その方も焦れて居りましょう。……妾は死骸でございます。恋の死骸でございます。……不義の女と云われましても、妾には一言《いちごん》もございません。……どうぞかつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]へお入れ下さい」
 これは実に家斉にとって、恐ろしい程の苦痛であった。愛する女に恋人がある。そうして今も思い詰めている。自分からかつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]へ入りたいと云う。……一体どうしたものだろう?
「しかし大奥へ入ってから、密夫をこしらえたというのではない。決して不義とは云われない。思い切ってくれ、その男を。……かつえ蔵へは入れることは出来ない」
 将軍の威厳も振り棄てて、こう家斉は頼むように云った。
「思い詰めておるのでございます。昔も、今も、将来《これから》も。……」
 これがお杉の返辞であった。
 もうこうなっては仕方がなかった。かつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]へ入れなければならなかった。
 江戸城の奥庭林の中に、一宇の蔵が立っていた。黒塗りの壁に鉄の扉、餓鬼地獄のかつえ蔵[#「かつえ蔵」に傍点]であった。
 ある夜ギイーとその戸が開いた。誰か蔵へ入れられたらしい。他ならぬお杉の局であった。と、ドーンと戸が閉じた。蔵の中は暗かった。
 燈火《ともしび》一つ点《とも》されていない。それこそ文字通りの闇であった。一枚の円座と一脚の脇息、あるものと云えばそれだけであった。
 お杉は円座へ端座した。
 恋人|力石三之丞《りきいしさんのじょう》、その人のことばかり思い詰めた。
「三之丞様」と心の中で云った。
「どうぞご安心下さいまし。お杉は貴郎《あなた》を忘れはしません。妾は喜こんで貴郎のために、かつえ死に[#「かつえ死に」に傍点]するつもりでございます。思う心を貫いて、自分で死ぬという事は、何という嬉しいことでしょう。……」
 蔵の外では夜が明けた。しかし蔵の中は夜であった。蔵の外では日が暮れた。蔵の中には変化がない。こうして時が経って行った。
 お杉の心は朦朧となった。
 ほとんど餓《うえ》が極まった。
 その時突然お杉が云った。
「妾には解《わか》る、貴男《あなた》のお姿が! おお直ぐそこにお在《い》でなさる。……ああ直ぐにも手が届きそうだ。……左様ならよ、三之丞様! 妾は死んで参ります。……妾は信じて疑いません。こんなに焦れている私達、一緒になれないでどうしましょう。美しい黄泉《あのよ》で、魂と魂と……」
 お杉は脇息にもたれたまま、さも美しく闇の中で死んだ。
 それは力石三之丞が、鬼小僧と邂逅した同じ夜の、同じ時刻のことであった。

10

 一方|吾妻橋《あずまばし》橋畔の、三之丞と鬼小僧とはどうしたろう?
 三之丞は地の上へ坐っていた。
 鬼小僧は上から覗き込んでいた。
 と、突然三之丞が云った。
「小僧、俺は腹を切る。情けがあったら介錯しろ」
 抜身をキリキリと袖で捲いた。
「おっと待ってくれお侍さん。一体どうしたというんですえ? 腹を切るにも及ぶめえ」
 鬼小僧は周章《あわて》て押し止めた。
「辻斬りしたのが悪かったと、懺悔なさるお意《つもり》なら、頭を丸めて法衣《ころも》を着、高野山へお上りなさいませ」
「懺悔と?」
 侍は頬で笑った。
「懺悔するような俺ではない。俺は一心を貫くのだ! お杉様が今死んだ。その美しい死姿《しにすがた》まで、俺にはハッキリ見えている。俺は後を追いかけるのだ」
 グイと肌をくつろげた。左の脇腹へプッツリと、刀の先を突込んだ。キリキリキリと引き廻した。
「介錯」と血刀を前へ置いた。
 気勢に誘われた鬼小僧、刀を握って飛び上った。
「苦しませるも気の毒だ。それじゃア介錯してやろう。ヤッ」と云った声の下に、侍の首は地に落ちた。
「さあこれからどうしたものだ。せめて首だけでも葬ってやりてえ。……それにしても一体この侍、どういう身分の者だろう。何だか悪人たア思われねえ。……お杉様と云ったなア誰の事だろう? まさか浅草の赤前垂、お杉ッ子じゃアあるめえが。……まあそんなこたアどうでもいい。さてこれからどうしたものだ」
 鬼小僧はちょっと途方に暮れた。
 夜をかけて急ぐ旅人でもあろう吾妻橋の方から人が来た。
「うかうかしちゃアいられねえ。下手人と見られねえものでもねえ。よし」と云うと鬼小僧は、侍の片袖を引き千切り、首を包むと胸に抱き、ドンドン町の方へ走っていた。

 数日経ったある日のこと、東海道の松並木を、スタスタ歩いて行く旅人があった。他でもない鬼小僧で、首の包みを持っていた。
「葬り損なって持って来たが、生首の土産とは有難くねえ。そうそうこの辺りで葬ってやろう。うん、ここは興津だな。海が見えていい景色だ。松の根方へ埋めてやろう。……おっと不可《いけ》ねえ人が来た。……ではもう少し先へ行こう」
 で、鬼小僧は歩いて行った。

 爾来十数年が経過した。
 その頃肥前長崎に、平賀|浅草《せんそう》という蘭学者があった。傴僂で片眼で醜かったが、しかし非常な博学で、多くの弟子を取り立てていた。
 彼の書斎の床間に、髑髏《どくろ》が一つ置いてあったが、どんな因縁がある髑髏なのかは、かつて一度も語ったことがない。
 だが彼は時々云った。
「赤前垂のお杉さん、古い昔のお友達、あの人は今でも健康《たっしゃ》かしらん?」

底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
   1993(平成5)年7月20日初版
初出:「国民新聞」
   1926(大正15)年1月5日~15日
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年6月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

名人地獄—— 国枝史郎

    消えた提灯《ちょうちん》、女の悲鳴

「……雪の夜半《よわ》、雪の夜半……どうも上《かみ》の句が出ないわい」
 寮のあるじはつぶやいた。今、パッチリ好《よ》い石を置いて、ちょっと余裕が出来たのであった。
「まずゆっくりお考えなされ。そこで愚老は雪一見」
 立ち上がったあるじは障子を開けて、縁の方へ出て行った。
「降ったる雪かな、降りも降ったり、ざっと三寸は積もったかな。……今年の最後の雪でもあろうか、これからだんだん暖かくなろうよ」
「しかし随分寒うござるな」
 侍客はこういって、じっと盤面を睨んでいたが、「きちがい雪の寒いことわ」
「……雪の夜半、雪の夜半……」あるじは雪景色を眺めていた。
「よい上の句が出ないと見える」
「よい打ち手がめつからぬと見える」
 二人は哄然《こうぜん》と笑い合った。
「これからだんだん暖かくなろう」あるじはまたも呟《つぶや》いた。
「しかし今日は寒うござるな」侍客がまぜっかえす。
「さよう。しかし余寒でござるよ」
「余寒で一句出来ませんかな」「さようさ、何かでっち上げましょうかな。下萠《したもえ》、雪解《ゆきげ》、春浅し、残る鴨などはよい季題だ」「そろそろうぐいすの啼き合わせ会も、根岸あたりで催されましょう」
「盆石《ぼんせき》、香会《こうかい》、いや忙しいぞ」「しゃくやくの根分けもせずばならず」「喘息《ぜんそく》の手当もせずばならず」「アッハハハ、これはぶち壊しだ。もっともそういえば、しもやけあかぎれの、予防もせずばなりますまいよ」
「いよいよもって下《さ》がりましたな。下がったついでに食い物の詮議だ。ぼらにかれいにあさりなどが、そろそろしゅんにはいりましたな。鳩飯《はとめし》などは最もおつで」「ところが私《わし》は野菜党でな、うどにくわいにうぐいすな[#「うぐいすな」に傍点]ときたら、それこそ何よりの好物でござるよ。さわらびときたら眼がありませんな」「さといも。八ツ頭《がしら》はいかがでござる」「いやはや芋類はいけませんな」「万両、まんさく、水仙花、梅に椿に寒紅梅か、春先の花はようござるな」「そのうち桜が咲き出します」「世間が陽気になりますて」――「そこで泥棒と火事が流行《はや》る」
「その泥棒で思い出した。噂に高い鼠小僧《ねずみこぞう》、つかまりそうもありませんかな?」ふと主人《あるじ》はこんな事をいった。
「つかまりそうもありませんな」
「彼は一個の義賊というので、お上《かみ》の方でもお目零《めこぼ》しをなされ、つかまえないのではありますまいかな?」
「さようなことはありますまい」客の声には自信があった。「とらえられぬは素早いからでござるよ」
「ははあさようでございますかな。いやほかならぬあなたのお言葉だ。それに違いはございますまい」
「わしはな」と客は物うそうに、「五年以前あの賊のために、ひどく煮え湯を呑ませられましてな。……いまだに怨みは忘れられませんて」
「おやおやそんな事がございましたかな。五年前の郡上様《ぐじょうさま》といえば、名与力として謳《うた》われたものだ。その貴郎《ひと》の手に余ったといえば、いよいよもって偉い奴でござるな。……おや、堤《つつみ》を駕籠《かご》が行くそうな。提灯の火が飛んで行く」
「水神《すいじん》あたりのお客でしょうよ。この大雪に駕籠を走らせ、水神あたりへしけ[#「しけ」に傍点]込むとは、若くなければ出来ない道楽だ」
「お互い年を取りましたな。私《わし》はもうこれ五十七だ」
「私《わし》は三つ下の五十四でござる」
「あっ」と突然寮のあるじ一|閑斎《かんさい》は声を上げた。「提灯が! 提灯が! バッサリと!」
 その時|墨堤《ぼくてい》の方角から、女の悲鳴が聞こえて来た。
「ははあ何か出ましたな」
 ――与力の職を長男に譲り、今は隠居の身分ながら、根岸|肥前守《ひぜんのかみ》、岩瀬|加賀守《かがのかみ》、荒尾|但馬守《たじまのかみ》、筒井|和泉守《いずみのかみ》、四代の町奉行に歴仕して、綽名《あだな》を「玻璃窓《はりまど》」と呼ばれたところの、郡上平八は呟いたが、急にニヤリと片笑いをすると、
「やれ助かった」と手を延ばし、パチリと黒石《くろ》を置いたものである。「まずこれで脈はある」
「それはわからぬ」とどなったのは、縁の上の一閑斎で、「刃《やいば》の稲妻、消えた提灯、ヒーッという女の悲鳴、殺されたに相違ない!」
「いや私《わし》は碁《ご》の事だ」
「ナニ碁?」と、いかにもあきれたように、「人が殺されたのだ! 人が殺されたのだ! 行って見ましょう。さあさあ早く!」
「いや、それなら大丈夫」平八老人は悠々と、「提灯の消えたのは私にも見えた。が、私にはお前様のいう、刃の稲妻は見えなかった」
「フ、フ、フ、フ、実はそのな。……」
「お前様にも見えなかった筈だ」
「さよう、実は、おまけでござるよ」
「芝居気の抜けぬ爺様だ。刃の稲妻の見えるには、いささか距離が遠過ぎる」
「……が、あの悲鳴は? 消えた提灯は?」
「それがさ、変に間延びしている」
「殺人《ひとごろし》ではないのかえ?」
「ナーニ誰も殺されはしない」

    登場人物はまさしく五人

 しかし主人は不安そうに、「確かかな? 大丈夫かな?」
「三十の歳《とし》から五十まで、寛政七年から文政元年まで、ざっと数えて二十年間、私《わし》はこの道では苦労しています」
「が、そのお偉い『玻璃窓』の旦那も、鼠小僧にかかってはね」
「あれは別だ」と厭な顔をして「鼠小僧は私の苦手だ」
 おりから同じ方角から、鼓《つづみ》の音が聞こえて来た。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、堤に添って遠隔《とおざか》って行った。
 すいかけた煙管《きせる》を膝へ取り、平八老人は耳を澄ましたが、次第にその顔が顰《ひそ》んで来た。
 梅はおおかた散りつくし、彼岸の入りは三日前、早い桜は咲こうというのに、季節違いの大雪が降り、江戸はもちろん武蔵《むさし》一円、経帷子《きょうかたびら》に包まれたように、真っ白になって眠っていたが、ここ小梅の里の辺《あた》りは、家もまばらに耕地ひらけ、雪景色にはもってこいであった。その地上の雪に響いて、鼓の音は冴え返るのであった。
「よく抜ける鼓だなあ」思わず平八は感嘆したが、「これは容易には忘れられぬわい。ああ本当にいい音《ね》だなあ。……しかし待てよ? あの打ち方は? これは野暮だ! 滅茶苦茶だ! それにも拘らずよい音だなあ」
 ついと平八は立ち上がった。それからのそり[#「のそり」に傍点]と縁へ出た。
「さて、ご老体、出かけましょうかな」
「ナニ出かける? はてどこへ?」一閑斎は怪訝《けげん》そうであった。
「刃の稲妻……」と故意《わざ》と皮肉に、「消えた提灯、女の悲鳴、雪に響き渡る小鼓とあっては、こいつうっちゃっては置けませんからな」「ははあそれではお調べか?」「玻璃窓の平八お出張《でば》りござる」「鼠小僧がおりましょうぞ」「ううん」とこれには平八老人も、悲鳴を上げざるを得なかった。「八蔵八蔵!」と一閑斎は、下男部屋の方へ声をかけた。「急いで提灯へ火を入れて来い。そうしてお前も従《つ》いておいで。――それでは旦那出かけましょうかな。フ、フ、フ、フ、玻璃窓の旦那」
 そこで皮肉な二老人は、庭の上へ下り立った。下男の提灯が先に立ち、続いて平八と一閑斎、裏木戸を押すと外へ出た。と広々とした一面の耕地で、隅田堤《すみだづつみ》が長々と、雪を冠《かぶ》って横仆《よこたわ》っていた。雪を踏み踏みその方角へ、三人の者は辿《たど》って行った。
 堤へ上《のぼ》って見廻したが、なるほど死骸らしいものはない。血汐一滴|零《こぼ》れていない。ただ無数の足跡ばかりが、雪に印されているばかりであった。「提灯を」と平八はいった。「……で、あらかじめ申して置きます。こればかりが手がかりでござる、足跡を消してくださるなよ」
 八蔵から受け取った、提灯をズイと地面へさしつけると、彼は足跡を調べ出した。もう暢気《のんき》な隠居ではない。元《もと》の名与力郡上平八で、シャンと姿勢もきまって来れば、提灯の光をまともに浴びて、キラキラ輝く眼の中にも、燃えるような活気が充ちていた。一文字に結んだ唇の端《はし》には、強い意志さえ窺《うかが》われた。昔取った杵柄《きねづか》とでもいおうか、調べ方は手堅くて早く、屈《かが》んだかと思うと背伸びをした。膝を突いたかと思うと手を延ばし、何か黒い物をひろい上げた。つと立ち木の幹を撫《な》でたり、なお降りしきる雪空を、じっとしばらく見上げたりした。堤の端を遠廻りにあるき、決して内側へは足を入れない。やがて立ち上がると雪を払ったが、片手で提灯の弓を握り、片手を懐中《ふところ》で暖めると、しばらく佇《たたず》んで考えていた。提灯の光の届く範囲《かぎり》の、茫と明るい輪の中へ、しきりに降り込む粉雪が、縞を作って乱れるのを、鋭いその眼で見詰《みつ》めてはいるが、それは観察しているのではなく、無心に眺めているのであった。
「疑惑」と「意外」のこの二つが、彼の顔に現われていた。
「登場人物は締めて五人だ」彼は静かにやがていった。「二人は駕籠舁《かごか》き、一人は武辺者、そうして一人は若い女……」

    「玻璃窓」平八の科学的探偵

「そうして残ったもう一人は?」一閑斎が側《そば》から聞いた。
「その一人が私《わし》の苦手だ」
「ええお前様の苦手とは?」
「……どうも、こいつは驚いたなあ。……」平八はなおも考え込んだ。
「それじゃもしや鼠小僧が?」
「なに。……いやいや。……まずさよう。……が、一層こういった方がいい。鼠小僧に相違ないと、かつて私《わし》が目星をつけ、あべこべに煮《に》え湯《ゆ》を呑ませられた、ある人間の足跡が、ここにはっきりついているとな。――とにかく順を追って話して見よう。第一番にこの足跡だ。わらじの先から裸指《はだかゆび》が、五本ニョッキリ出ていたと見えて、その指跡がついている。この雪降りに素足《すあし》にわらじ、百姓でなければ人足だ。それがずっと両国の方から、二つずつ四つ規則正しい、隔たりを持ってついている。先に立った足跡は、つま先よりもかがとの方が、深く雪へ踏ん込んでいる。これはかがとへ力を入れた証拠だ。背後《うしろ》の足跡はこれと反対に、つま先が深く雪へはいっている。これはつま先へ力を入れた証拠だ。ところで駕籠舁《かごか》きという者は、先棒担《さきぼうかつ》ぎはきっと反《そ》る。反って中心を取ろうとする。自然かがとへ力がはいる。しかるに後棒《あとぼう》はこれと反対に、前へ前へと身を屈《かが》める。そうやって先棒を押しやろうとする、だからつま先へ力がはいる。でこの四つの足跡は、駕籠舁きの足跡に相違ない。ところで駕籠舁きのその足跡は、ここまでやって来て消えている。……と思うのは間違いで、河に向かった土手の腹に、非常に乱暴についている。これは何物かに驚いて、かごを雪の上へほうり出したまま、そっちへあわてて逃げたがためで、長方形のかご底の跡が、雪へはっきりついている」
 こういいながら雪の積もった、堤の一|所《ところ》を指差した。かご底の跡がついていた。
「こっちへ」といいながら平八は、堤を横切って向こう側《がわ》へ行ったが、「何んと一閑老土手の腹に、乱暴な足跡がついていましょうがな?」
「いかにも足跡がついています。おおそうしてあの跡は?」一閑斎は指差した。その指先の向かった所に、雪に人形《ひとがた》が印《いん》せられていた。
「恐《こわ》い物見たさで駕籠舁きども、あそこへピッタリ体《からだ》を寝かせ、鎌首ばかりを堤から出して、兇行を窺《うかが》っていたのでござるよ。で、人形がついたのでござる」
「何がいったい出たのでござるな?」「白刃をさげた逞《たくま》しい武辺者」「そうしてどこから出たのでござろう?」「あの桜の古木の蔭《かげ》から」
 こういいながら平八は、再び堤を横切って、元いた方へ引き返したが、巨大な一本の桜の古木が、雪を鎧《よろ》って立っている根もとへ、一閑斎を案内した。「ご覧なされ桜の根もとに、別の足跡がございましょうがな」「さよう、たしかにありますな」「すなわち武辺者が先廻りをして、待ち伏せしていた証拠でござる」
「何、待ち伏せ? 先廻りとな? さような事まで分《わか》りますかな?」「何んでもない事、すぐに分ります」平八は提灯を差し出したが、「両国の方からこの根もとまで、堤の端を歩くようにして、人の足跡が大股に、一筋ついておりましょうがな。これは大急ぎで走って来たからでござる。堤の真ん中を歩かずに、端ばかり選んで歩いたというのは、心に蟠《わだかまり》があったからで、他人に見られるのを恐れる人は、定《きま》ってこういう態度を執《と》ります。さて、しかるにその足跡たるや、一刻《しばらく》もやまない粉雪《こゆき》のために、薄く蔽《おお》われておりますが、これがきわめて大切な点で、ほかの無数の足跡と比べて蔽われ方が著しゅうござる。つまりそれはその足跡が、どの足跡よりも古いという証拠だ。すなわち足跡の主人公は、駕籠より先に堤を通り、駕籠の来るのを木の蔭で、待っていたことになりましょうがな」「いかにもこれはごもっとも。そしてそれからどうしましたな?」一閑斎は熱心に訊いた。
「まず提灯を切り落としました」「それは私《わし》にもうなずかれる。提灯の消えたのは私も見た」

    横歩きの不思議な足跡?

「それから駕籠へ近寄りました。その証拠には同じ足跡が、これこのように桜の木蔭から、駕籠の捨ててあった所まで、続いているではござらぬかな」「なるほどなるほど続いておりますな。そうしてそれからどうしましたな?」「駕籠から女を引き出しました」「さっき聞こえたは女の悲鳴、これはいかさまごもっとも。駕籠にいたのは女でござろう」「いやそればかりではございません。女の証拠はこれでござる」
 平八は雪の上を指差した。たびをはいた華奢《きゃしゃ》な足跡が、幾個《いくつ》か点々とついていた。
「ははあなるほど、女の足跡だ。が、子供の足跡ともいえる」一閑斎は呟いた。
「よろしい、それではもう一つ、動かぬ証拠をお目に掛けよう」平八は懐中へ手を入れると、さっき拾った黒い物を、一閑斎の前へ突き出した。
「おやおやこれは女の頭髪《かみのけ》……」
「根もとから一太刀できり落とした、刀の冴えをご覧《ろう》じろ。きり[#「きり」に傍点]手は武辺者に相違ござらぬ。しかも非常な手練の武士だ。……ところでその髪の髷《まげ》の形を、一閑老にはご存知かな?」「勝山《かつやま》でなし島田《しまだ》でなし、さあ何でござろうな」「その髷こそ鬘下地《かつらしたじ》でござる」「鬘下地? ははアこれがな」「したがって女は小屋者《こやもの》でござる。女義太夫か女役者でござる」「で、その女はどうしましたな? 締め殺されて川の中へでも、投げ込まれたのではありますまいかな?」「いや、それにしてはもがいた跡がない。人一人|縊《くび》れて死のうというのに、もがかぬという訳はない」「切られもせず縊られもせず、しかも姿が見えないとは、天へ昇ったか地へ潜ったか、不思議な事があればあるものだ」「駕籠へ乗って水神の方へ急いでひき上げて行ったのでござるよ」郡上平八は自信を持っていった。
「それには証拠がござるかな?」
「さよう、やはり足跡だが、まずこっちへ」といいながら、川に向かった土手の腹を、川の岸まで下りて行ったが、低く提灯を差し出すと、それで雪の上を照らしたものである。二つずつ四つの足跡が、規則正しい間隔を保って、川下の方へついていた。いうまでもなく駕籠舁きの足で、彼らは駕籠を担《かつ》ぎながら、堤の下を川に添い、水神の方へ行ったものと見える。一閑斎と平八とは、川下の方へ足跡を追って、十間余りも行って見た。すると足跡が見えなくなった。しかしそれは消えたのではなく、土手の腹を堤の上へ、同じ足跡がついていた。駕籠を担いだ駕籠舁きが、そこから堤へ上ったものであろう。そこで二人も堤へ上った。はたして同じ足跡が、堤の上を規則正しく水神の方へついていた。
「おや!」と突然一閑斎は不思議そうに声を張り上げた。「ここに見慣れない足跡がござる」
 いかにも見慣れない足跡が、駕籠舁き二人の足跡に添って、一筋水神の方へついていた。
「さよう、見慣れない足跡がござる」平八の声は沈痛であった。「これこそ鼠小僧と想像される、ある一人の足跡でござるよ」「おおこれがそれでござるかな」「よくよくご覧なさるがよい。奇妙な特徴がございましょうがな」「どれ」というと一閑斎は、顔を地面へ近づけた。「や、これは不思議不思議、蟹《かに》のように横歩きだ!」
「その通り」と平八は、やはり沈痛の声でいった。「その横歩きが特徴でござる。……すべて横歩きは縦歩きと比べて――すなわち普通の歩き方と比べて、ほとんど十倍の速さがござる。昔から早足といわれた者は、おおかた横歩きを用いましたそうな」「ほほうさようでございますかな」
「ところで」と平八は力をこめ、「この地点から水神へ向けて、一筋ついている足跡の外に、さらに一筋同じような、横歩きの足跡のついているのが、お解りではあるまいかな」「さようでござるかな、どれどれどこに?」一閑斎は雪の地面を、改めて仔細《しさい》に調べて見た。はたして足跡はついていた。今も降っている雪のために、おおかた消されてはいたけれど、その足跡は水神の方から、こっちへあるいて来たものらしい。
「つまり」と平八は説明した。「鼠小僧と想像される、ある一人の人間が、水神の方から大急ぎで、横歩きでここまで来たところ、十間のあなたで一組の男女が、何やら悶着《もんちゃく》を起こしている。そこでその男はここに佇《たたず》んで、しばらく様子を窺《うかが》ったあげく、やって来た駕籠に付き添って、元来た方へ引き返して行った。……とこう想像を廻《めぐ》らしたところで、さして不自然ではござるまいがな」

    泥棒の嚏《くさめ》も寒し雪の夜半《よわ》

「それに相違ござるまい。細かい観察恐れ入りましたな」一閑斎はここに至って、すっかり感心したものである。
 二人の老人は堤の上を、もと来た方へ引き返して行った。もとの場所へ辿《たど》りつくと、「さて最後にお見せしたい物が、実はここにもう一つござる」こういいながら平八は、巨大な桜樹《おうじゅ》の根もとから、川とは反対に耕地《はたち》の方へ、土手の腹を下って行ったが、提灯で地面を振り照らすと、「ご覧なされ足跡が、土手下の耕地《はたち》を両国の方へ、走っているではござらぬかな。さて何者の足跡でござろう?」
 一閑斎は眼を近づけ、仔細に足跡を調べたが、
「どうやらこれは武辺者の……」「さよう、武辺者の足跡でござる。目的をとげた武辺者は、人に見られるのを憚《はばか》って、堤から飛び下り耕地を伝い、両国の方へ逃げたのでござる」
「そうして、武辺者の目的というは?」
「それがとんと分《わか》らぬのでござるよ」平八の声には元気がない。「五人の人間の行動は、あらかた足跡で分ったものの、その外のことはトンと分らぬ」「お前様ほどの慧眼《けいがん》にも、分らないことがござるかな?」「不可解の点が四つござる」「四つ? さようかな、お聞かせくだされ」
「鼠小僧と想像される男が、この場へ来かかったのは何のためか? 偶然かそれとも計っての事か?」「いかさまこれは分らぬわい」「頭髪《かみ》を切ったは何のためか? 威嚇《いかく》のためか意趣斬りか? これが第二の難点でござる。武辺者はいったい何者か? 浪人か藩士かその外の者か? これが三つ目の難点でござる」「そこで四つ目の難点は?」
「美音の鼓! 美音の鼓!」
「さようさ、鼓が鳴りましたな」
「誰が鼓を持っていたのか? 何のために鼓を鳴らしたのか? 誰が鼓を鳴らしたのか? その鼓はどこへ行ったか?」
「いやはやまるっきり分りませぬかな?」「かいくれ見当がつきませぬ」
 この時下男の八蔵が、突然大きな嚏《くしゃみ》をした。彼はいくらかおろかしいのであった。さっきから一人|茫然《ぼうぜん》と雪中に立っていたのであった。下男の嚏が伝染《うつ》ったのでもあろう、一閑斎も嚏をした。
「これはいけない。風邪をひきそうだ。……そろそろ帰ろうではござらぬかな」
 しかし平八は返辞をしない。ただ一心に考えていた。
「玻璃窓の旦那、いかがでござる、そろそろ帰ろうではござらぬかな」例の皮肉を飛び出させ、一閑斎はまたいった。
 ようやく気がついた平八は、口もとへ苦笑を浮かべたが、「これは失礼、さあ帰りましょう」
 三人は耕地《はたち》を寮の方へ、大急ぎで帰って行った。
 とまた一閑斎は嚏《くしゃみ》をした。
「今夜は嚏のよく出る晩だ」平八は思わず笑ったが、「泥棒も嚏をした事であろう」
「何」というと一閑斎は、そのまま野良路へ立ち止まったが、「出来た! 有難い! 出来ましたぞ!」「ははあ何が出来ましたな」――「まずこうだ。……『泥棒の』と」「ははあなるほど『泥棒の』と」「『嚏も寒し』と行きましょうかな」「『嚏も寒し』と、行きましたかな」「『雪の夜半』」「『雪の夜半』」「何んと出来たではござらぬかな」「泥棒の嚏も寒し雪の夜半。……いかさまこれは名句でござる」「句のよし[#「よし」に傍点]悪《あし》はともかくも、産みの苦しみは遁がれましたよ。ああいい気持ちだ。セイセイした」「私《わし》は駄目だ!」と平八は、憂鬱にその声を曇らせたが、「見当もつかぬ。見当もつかぬ。しかしきっと眼付《めつ》けて見せる。耳についている鼓の音! これを手頼《たより》に眼付けて見せる」
 季節はずれの大雪は、藪も畑もまっ白にして、今なおさんさんと降っていた。

    無任所与力と音響学

 季節はずれの大雪で、桜の咲くのはおくれたが、いよいよその花の咲いたときには、例年よりは見事であった。「小うるさい花が咲くとて寝釈迦かな」こういう人間は別として、「今の世や猫も杓子も花見笠」で、江戸の人達はきょうもきのうも、花見花見で日を暮らした。
 一閑斎の小梅の寮へも、毎日来客が絶えなかった。以前《むかし》の彼の身分といえば、微禄のご家人に過ぎなかったが、商才のある質《たち》だったので、ご家人の株を他人に譲り、その金を持って長崎へ行き、蘭人相手の商法をしたのが、素晴らしい幸運の開く基で、二十年後に帰って来た時には、二十万両という大金を、その懐中《ふところ》に持っていた。利巧な彼は江戸へ帰ってからも、危険な仕事へは手を出さず、地所を買ったり家作を設けたり、堅実一方に世を渡ったが、それも今から数年前までで、総領の吾市に世を譲ってからは、小梅の里へ寮住居、歌俳諧や茶の湯してと、端唄の文句をそのままののんきなくらしにはいってしまった。そこは器用な彼のことで、碁を習えば碁に達し俳句を学べば俳句に達し、相当のところまで行くことが出来、時間を潰すには苦労しなかった。もっともそういう人間に限って、蘊奥《うんのう》を極めるというようなことは、ほとんど出来難いものであるが、そういう事を苦にするような、芸術的人間でもなかったので、結句その方が勝手であり、まずい皮肉をいう以外には、社交上これという欠点もなく、座談はじょうず金はあり、案外親切でもあったので、武士時代の同僚はじめ、風雅の友から書画骨董商等、根気よく彼のもとへ出入りした。
 しかるにこれも常連の、郡上平八だけはあの夜以来、ピッタリ姿を見せなくなった。それを不思議がって人がきくと、一閑斎は下手な皮肉で、こんな塩梅《あんばい》に答えるのであった。「なにさ、あの仁は無任所与力でな、隠居はしてもお忙しい。それに目下は音響学で、どうやら一苦労なすっているらしい。油を売りになど見えられるものか」「何んでござるな、音響学とは?」相手がもしもこうきこうものなら、一閑斎は大得意で、さらに皮肉を飛ばせるのであった。「音響学でござるかな、音響学とは読んで字の如し。もっともあのじん[#「じん」に傍点]の音響学は、ちと変態でござってな、ポンポンと鳴る小鼓の音から、鼠小僧を現じ出そうという、きわめて珍しいものでござるよ」
 これではどうにも聞く人にとっては、なんのことだかわからない。しかし実際郡上平八は、あの晩以来思うところあって、あの時耳にした鼓の音を、是非もう一度聞きたいものと、全身の神経を緊張《ひきし》めて、江戸市中を万遍《まんべん》なく、歩き廻っているのであった。人間の心理や世間の悪事を、玻璃窓を透して見るように、正しく明らかに見るというところから、あざ名を「玻璃窓」とつけられた彼は、老いても体力衰えず、職は引退《のい》ても頭脳は鋭く、その頭脳の働き方が、近代の言葉で説明すると、いわゆる合理的であり科学的であって、在来《ざいらい》の唯一の探偵法たる「見込み手段」を排斥し、動かぬ証拠を蒐集して、もって犯人をとらえようという「証拠手段」をとるのが好きで、若いかいなで[#「かいなで」に傍点]の与力や同心経験一点張りの岡《おか》っ引《ぴき》など、実にこの点に至っては、その足もとへも寄りつけなかった。その彼が何か思うところあって、鼓の音を追うというからには、その鼓の音なるものが、いかに大切なものなるかが、想像されるではあるまいか。
 江戸を飾っていた桜の花が「ひとよさに桜はささらほさらかな」と、奇矯な俳人が咏んだように、一夜の嵐に散ってからは、世は次第に夏に入った。苗売り、金魚売り、虫売りの声々、カタンカタンという定斎屋《じょうさいや》の音、腹を見せて飛ぶ若い燕の、健康そうな啼き声などにも、万物生々たるこの季節の、清々《すがすが》しい呼吸が感ぜられた。春にだらけた人々の心も、一時ピンとひきしまり、溌溂たる[#「溌溂たる」は底本では「溌※[#「さんずい+刺」]たる」]元気をとりかえしたが一人寂しいのは平八老人で、この時までも鼓の音を、耳にすることが出来なかった。そもそも鼓はどこにあるのであろう? 二度と再びあの鼓は、美妙な音色を立てないのであろうか?
 いやいや決してそうではない。鼓はこの時も鳴っていたのであった。思いも及ばない辺鄙《へんぴ》の土地、四時煙りを噴くという、浅間の山の麓《ふもと》の里、追分節の発生地、追分駅路のある旅籠屋で、ポンポン、ポンポンと美しく、同じ音色に鳴っていたのであった。

    浅間の麓《ふもと》追分宿

 いまの地理で説明すると、長野県北佐久郡、沓掛近くの追分宿は、わずかに戸数にして五十戸ばかり、ひどくさびれた宿場であるが、徳川時代から明治初年まで、信越線の開通しないまえは、どうしてなかなか賑やかな駅路で、戸数五百遊女三百、中仙道と北国街道との、その有名な分岐点として、あまねく世間に知れていた。
 まず有名な遊女屋としては、遊女七十人家人三十人、総勢百人と注されたところの、油屋というのを筆頭に、栄楽屋、大黒屋、小林屋、井筒屋、若葉屋、千歳屋など、軒を連ねて繁昌し、正木屋、小野屋、近江屋なども、随分名高いものであった。「追分|女郎衆《じょろしゅ》についだまされて縞の財布がから[#「から」に傍点]になる」「追分宿場は沼やら田やら行くに行かれぬ一足も」「浅間山から飛んで来る烏《からす》銭も持たずにカオカオと」
 こういったような追分文句が、いまに残っているところから見ても、当時の全盛が思いやられよう。
 同勢三千、人足五千、加賀の前田家は八千の人数で、ここを堂々と通って行った。年々通行の大名のうち、主なるものを挙げて見ると尾州大納言、紀州中納言、越前、薩摩、伊達、細川、黒田、毛利、鍋島家、池田、浅野、井伊、藤堂、阿波の蜂須賀、山内家、有馬、稲葉、立花家、中川、奥平、柳沢、大聖寺の前田等が最たるもので、お金御用の飛脚も行き、お茶壺、例幣使《れいへいし》も通るとあっては、金の落ちるのは当然であろう。
 さて、この時分この宿場に、甚三という馬子がいた。きだて[#「きだて」に傍点]はやさしく正直者で、世間の評判もよかったが、特にこの男を名高くしたのは、美音で唄う追分節が、何ともいえずうまかったことで、甚三の唄う追分節には、草木も靡《なび》くといわれていた。

 ある日甚三は裏庭へ出て、黙然《もくねん》と何かに聞き惚れていた。夕月が上《のぼ》って野良《のら》を照らし、水のような清光が庭にさし入り、厩舎《うまごや》の影を地に敷いていた。フーフーいうのは馬の呼吸《いき》で、コトンコトンと音のするのは、馬が破目板を蹴るのでもあろう。パサパサと蠅を払うらしい、かすかな尻尾の音もした。甚三は縁へ腰を掛け、じっと物の音に聞き惚れていた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、美妙な鼓の正調が、あざやかに抜けて来るからであった。
「ああ本当にいい音《ね》だなあ。……本陣油屋の逗留客だというが、何んとマア上手に調べるんだろう。鼓も上等に違えねえ。……『追分一丁二丁三丁四丁五丁目、中の三丁目がままならぬ』とおいら[#「おいら」に傍点]の好きな追分節の、その三丁目の油屋から、ここまで抜けて聞こえるとは、人間|業《わざ》では出来ねえ事だ。追分一杯鳴り渡り、軽井沢まで届きそうだ。それに比べりゃあ俺《おい》らの唄う、追分節なんか子供騙しにもならねえ。ああ本当にいい音だなあ」つぶやきつぶやき聞き惚れていた。
 この時背戸のむしろを掲げ、庭へはいって来た若者があった。「兄貴!」と突然《だしぬけ》に声をかけた。甚三の弟の甚内であった。「何をぼんやり考えているな」「おお甚内か、あれを聞きな。何んと素晴らしい音色じゃねえか」
「ああ鼓か。いい音だなあ」兄と並んで腰を掛け、甚内もしばらく耳を傾《かし》げた。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、なおも鼓は鳴っていた。と、鼓は静かに止んだ。恐らく一曲打ちおえたのであろう。甚三は一つ溜息をした。二人はしばらく黙っていた。
「あにき、この頃変ったな」不意に甚内が咎めるようにいった。「お前、どうかしやしないかな」
「何を?」と甚三は不思議そうに、「別に変った覚えもねえ」「いいや変った、大変りだ。この頃|頻《しき》りに考え込むようになった。そうして元気がなくなった。そうかと思うと歌を唄うと、まえにも優《ま》してうめえものだ」

    兄貴、どうだな、思い切っては

「俺《おい》らの追分のうめえのは、今に始まった事じゃねえ」甚三は多少の自負をもって、やや得意らしくこういったが、その声にもいい方にも、思いなしか憂いがあった。「宿一杯知れていることだ」
「ああそうともそれはそうだ。宿一杯は愚かのこと、参覲交代のお大名から、乞食非人の類《たぐい》まで、かりにも街道を通る者で、お前の追分を褒めねえものは、それこそ一人だってありゃしねえ。その追分を聞きてえばっかりに、歩いても行ける脇街道を、わざわざお前の馬に乗る、旅人衆だってあるくれえだ。お前の追分に堪能なことは、改めていうには及ばねえ。おいらのいうのはそれじゃねえ。そのお前の追分節が、近来めっきり変って来たのでね、それが心配でしかたがねえのさ」
 こういう甚内の声の中には、兄弟の愛情が籠《こ》もっていた。兄の甚三は感動しながらも、わざ[#「わざ」に傍点]とさりげない様子を作り、「どんな塩梅《あんばい》に変ったものか、とんとおいらにゃあ解らねえ」「冴えていたのが曇って来た。いかにも山の歌らしく、涼しかったのが熱を持って来た。それでいて途方もなくうまいのだ。聞いていて体中がゾッとする。蒸されるような気持ちになる。そうして何かよくない事でも、起こって来そうな気持ちになる。何かにむちゅうに焦《こが》れていて、その何かに呼びかけていると、こんな工合にも思われる。これはよくねえ変り方だ」「ふうん、こいつは驚いたな」甚三は内心ギョッとしながら、ことさら皮肉な言葉付きで、「お前はこれまで追分は愚か、鼻唄一つ唄えなかった筈だに、よくまあおいらの追分を、そうまで細《こまか》く調べたものだ」「いいや自分で唄うのと他人の歌を聞くのとは、自然に差別がある筈だ。おいらには歌は唄えねえ。まるっきり音《おん》をなさねえのだ。悲しくもなれば愛想も尽きる。そうしてお前が羨ましくもなる。お前の弟と生まれながら、そうしてこの宿に育ちながら、土地の地歌を一句半句、口に出すことが出来ねえとは、何んたら気の毒な男だろうと、時々自分が可哀そうにもなる。そこで俺《おい》らは考えたものだ。『これは俺らが悪いのじゃねえ。これはあにきがよくねえのだ。きっとあにきはおいらの声まで、さらって行ったに違ねえ』とな。アッハハハハこれは冗談だが、それほどおいらには歌は唄えねえ。それにも拘らず他人のを聞くと、善悪《よしあし》ぐらいはまずわかる。それに」と甚内はちょっと考えたが「お前の歌の変ったことは、この宿中での評判だからな」「え?」と甚三は胆を潰し、「何が宿中での評判だって?」「お前の歌の変ったことがよ」「おどかしちゃいけねえ、おどかしちゃいけねえ」小心の甚三は仰天し、顔色をさえかえたものである。
「それにもう一つあにきの事で、宿中評判のことがある」「話してくれ。話してくれ!」甚三はあわててきくのであった。
「それはな」と甚内はいい悪《にく》そうに、「あの油屋の板頭《いたがしら》、お北さんとの噂だが、お前の歌の変ったのも、そこらあたりが原因だろうと、宿中もっぱらの取り沙汰だが、おいらもそうだと睨んでいる。……あにきこいつは考えものだぜ」
 いわれて甚三は黙ってしまった。身に覚えがあるからであった。
「よしお北さんが飯盛りでも、宿一番の名物女、越後生まれの大|莫連《ばくれん》、侍衆か金持ちか、立派な客でなかったら、座敷へ出ぬという権高者《けんだかもの》、なるほどお前も歌にかけたら、街道筋では名高いが、身分は劣った馬方風情、どうして懇意になったものか、不思議なことと人もいえば、このおいらもそう思う。……だがもうそれは出来たことだ、不思議だきたい[#「きたい」に傍点]だといったところで、そいつがどうなるものでもねえ。おいらのいいてえのはこれからの事だ。あにき[#「あにき」に傍点]、どうだな、思い切っては」
 まごころ[#「まごころ」に傍点]をこめていうのであるが、甚三は返辞さえしなかった。ただ黙然と考えていた。
「こいつは駄目かな、仕方もねえ」甚内はノッソリ立ち上がったが、「あにき、おいらにゃあ眼に見えるがな。お前があの女に捨てられて、すぐに赤恥を掻くのがな」行きかけて甚内は立ち止まった。「あにき、おいらは近いうちに、越後の方へ出て行くぜ。おいらの永年ののぞみだからな」

    平手造酒と観世銀之丞

 甚内はじっとたたずんで甚三の様子を窺った。甚三は黙然と考えていた。その足の先に月の光が、幽《かす》かに青く這い上っていた。かじかの啼く音《ね》が手近に聞こえ、稲葉を渡って来た香《こう》ばしい風が、莚戸《むしろど》の裾をゆるがせた。高原、七月、静かな夕、螢が草の間に光っていた。
「お前の様子が苦になって、思い切っておいらは行き兼るのだ」甚内は口説《くど》くようにいい出した。
「でもおいらは近々に行くよ。海がおいらを呼んでいるからな……おいらには山は不向きなのだ。どっちをむいても鼻を突きそうな、この追分はおれには向かねえ。小さい時からそうだった、海がおいらの情婦《おんな》だった。おれは夢にさえ見たものだ。ああ今だって夢に見るよ。山の風より海の風だ。力一杯働いて見てえ! そうだよ帆綱を握ってな。……もう直《じ》きにお前ともおさらばだ。ああ、だが本当に気が揉めるなあ」
 フラリと甚内は出て行った。
 顔を上げて見ようともせず、なお甚三は黙然と、下|俯向《うつむ》いて考えていたが、その時またも清涼とした鼓の音が聞こえて来た。
「ああいいなあ」といいながら、ムックリ顔を上げたかと思うと、体も一緒に立ち上がった。「唄い負かすか負かされるか、かなわぬまでも競って見よう。よし! そうだ!」と厩舎《うまごや》へ走り、グイとませぼう[#「ませぼう」に傍点]をひっ外《ぱず》すと、飼い馬を元気よくひき出した。「さあ確《しっか》り頼むぞよ。パカパカパカと景気よく、ご苦労ながら歩いてくれ。蹄の音に合わせてこそ、追分の値打ちが出るのだからな。乗せるお客も荷もねえが、あると思って歩いてくれ! ハイ、ハイ、ハイ」と声を掛け、自分は手綱を肩に掛け、土間を通って街道へ出た。
 茫々と青い月の光、一路うねうねとかよっているのは、本街道の中仙道で、真《ま》っ直《す》ぐに行けば江戸である。次の宿は沓掛宿で、わずか里程は一里三町、それをたどれば軽井沢、軽井沢まで二里八町、碓井峠の険しい道を、無事に越えれば阪本駅路、五里六町の里程であった。
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西は追分、東は関所
関所越えれば、旅の空
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 咽《むせ》ぶがような歌声が、月の光を水と見て、水の底から哀々と空に向かって澄み通る。甚三の流す追分であった。パカパカパカと蹄の音が街道を東へ通って行った。
「おおまた追分が聞こえるな」
 いうと一緒に肩の鼓を膝の上へトンと置いた。「まるで競争でもするように、俺が鼓を打ちさえすれば、あの追分が聞こえて来る」
 本陣油屋の下座敷、裏庭に向かった二十畳の部屋に、久しいまえから逗留している、江戸の二人の侍のうち、一人がこういうと微笑した。名は観世銀之丞《かんぜぎんのじょう》、二十一歳の若盛りで、柔弱者と思われるほど、華奢《きゃしゃ》な美しい男振りであった。もう一人の武士はこれと異《ちが》い、年もおおかた三十でもあろうか、面擦れのした赭ら顔、肥えてはいるが贅肉《ぜいにく》のない、隆々たる筋骨の大丈夫で、その名を平手造酒《ひらてみき》といった。
 ゴロリと畳へ横になると、「どうも退屈で仕方がない。何をやっても退屈だ。実際世の中っていう奴は、こうも退屈なものか知ら」銀之丞はおはこ[#「おはこ」に傍点]をいうのであった。
「おい観世、また退屈か」造酒はニヤニヤ笑ったが、「何がそんなに退屈かな?」
「何がといって、何もかもさ」
「しかしこの俺の眼から見ると、貴公の退屈は贅沢だぞ」
「なに贅沢? これは聞き物だ」
「まず身分を考えるがいい」
「うん、身分か、能役者よ」
「観世宗家の一族ではないか」
「ああまずそういったところだな」
「観世宗家と来た日には、五流を通じて第一の家柄、楽頭職《がくとうしょく》として大したものだ。柳営お扱いも丁重だ」

    襖を開けた商人客

「なんだつまらない、それがどうしたえ」
「聞けば貴公のご親父《しんぷ》は、宗家当主の兄君だそうだが?」
「ああそうさ、それがどうしたな」
「宗家と貴公とは伯父甥ではないか」「うん、そうだ、伯父甥だよ」「宗家は病身だということだが」「まず余り永くはないな」「そこで貴公を養子として、楽頭職《がくとうしょく》を継がせるというのが、世間もっぱらの評判だ」「世間は案外物識りだな。ああいかにもその通りだよ」
「とすると貴公は観世家にとっては、大事な大事な公達《きんだち》ではないか」
「……公達にきつね化けけり宵の春か……やはり蕪村はうまいなあ」銀之丞はひょいと横へ反《そ》らせた。
「何んだ俳句か、つがもねえ[#「つがもねえ」に傍点]」造酒もとうとう笑い出したが、「真面目《まじめ》に聞きな、悪いことはいわぬ」
「といってあんまりいいこともいわぬ……とこう云うと地口になるかな」
「それそいつがよくない洒落《しゃれ》だ。かりにも観世の御曹司《おんぞうし》が、地口を語るとは不似合だな」
「それ不似合、やれ不面目、家名にかかわる、芸の名折れ、どっちを向いてもアイタシコ。そいつがきつい[#「きつい」に傍点]嫌いでな」「ナール」と造酒はそれを聞くと、ちょっと胸に落ちたらしく、「つまり窮屈が厭なのだな。鬱《ふさ》ぎの虫の原因も、基《もと》をただせばそいつだな」
「やさしくいえばまずそうだ」「ほかにも原因があるのかえ」「万事万端皆|癪《しゃく》だ」「大きく出たな。これはかなわぬ」「今の浮世の有様《ありさま》は、いって見れば蓋をした釜だ。人を窒息させようとする」「おれにははっきり解らないが」「世の縄墨《じょうぼく》に背《そむ》いたが最後、それ異端者だ、切支丹《キリシタン》だ、やれ謀反人《むほんにん》だと大騒ぎをする」「うん、こいつはもっともだ」「今の浮世の有様は、太平無事でおめでたい」「結構ではないか。何が不平だ」「何らの昂奮をも許さない、何らの感激をも許さない、まして何らの革命をやだ」「お前は乱を望んでいるな?」「うん、そうだ、精神的のな。……おれは感激したいのだよ!」「感激をしてどうするのだ?」「おれは創造したいのだ!」「何、創造? 何をつくるのだ?」「何んでもいい、ただ何かを」「勝手につくったらよいではないか」「創造するに感激がいる」「大きに勝手に感激するさ」「ところがひとの世[#「ひとの世」に傍点]が許さない」「なに無理にも感激するさ」「無理にも感激しようとすると、親友なるものが邪魔をする」「え? 親友が邪魔をするって?」「恋も一つの感激だ。せっかく情女《おんな》を見つけると、親友が邪魔をしてひき放してしまう」「それは女が悪党だからよ」「愛する物を捨てるのもまさしく一つの感激だ。すると親友が取りかえして来る」「それも物によりけりだ。伝家の至宝を失っては、先祖に対しても済むまいがな」「みやこに住むということは、おれにとっては感激だ。ところがおせっかいの親友なるものが、山の中へひっ張って来る」「その男が虚弱《よわい》からだ。その男が病気だからだ。そうだ少くとも神経のな」「で、何もかもその親友は、平凡化そうと心掛ける。そうして感激の燃える火へ、冷たい水をそそぎかけ、創造の魂《たましい》を消そうとする。しかも親友の名のもとにな。他はおおかた知るべきのみだ」
「おい!」と造酒は気不味《きまず》そうに、「親切で行《や》った友達のしわざを、そうまで悪い方へ取らないでも、よかりそうなものに思われるがな」
「アッハハハ」と銀之丞は、突然大声で笑ったが、「怒るな、怒るな、怒ってはいけない。鬱《ふさ》ぎの虫のさせるわざだ。ああしかし退屈だな。何もかも面白くない。ああ実際退屈だな」
「ご免ください」
 とそのとたん、襖の蔭から声がした。同時にスーと襖が開き、隣り座敷の商人客《あきゅうどきゃく》が、にこやかに顔を突き出した。
「お武家様のお座敷へ、旅商人の身をもって、差出がましくあがりましたは、尾籠《びろう》千万ではございますが、隣り座敷で洩れ承われば、どうやら大分ご退屈のご様子、実は私も退屈のまま、何か珍しい諸国話でも、お耳に入れたいと存じまして、お叱りを覚悟でまずい面を、突き出しましてござりますよ。真《ま》っ平《ぴら》ご免くださいますよう」
 ていねいにお辞儀をしたものである。

    不思議な商人千三屋

「おお町人か、よく来てくれた。ちょうど無聊に苦しんでいたところだ。さあさあずっと進むがよい」平手造酒は喜んで、歓迎の意を現わした。
「では遠慮なくお邪魔致します」商人《あきゅうど》はうしろで襖を立て擦り膝をして、はいって来た。四十がらみの小男ではあるが、鋭い眼付き高い鼻、緊張《ひきし》まった薄い唇など、江戸っ子らしい顔立ちで、左の頬に幽《かす》かではあるが、切り傷らしいものがつたる。敏捷らしい四肢五体、どこか猟犬を思わせた。藍縦縞《あいたてじま》の結城紬《ゆうきつむぎ》[#「結城紬」は底本では「結城袖」]の、仕立てのよいのをピチリと着け、帯は巾狭の一重|博多《はかた》、水牛の筒に珊瑚の根締め、わに革の煙草入れを腰に差し、微笑を含んで話す様子が、途方もなくいき[#「いき」に傍点]であった。
 こういう場合の通例として身もと調べから話がはずみ、さてそれから商売の方へ、話柄《わへい》が開展するものである。
「町人、お前は江戸っ子だな」造酒がまずこうきいた。
「へい、江戸っ子の端くれで、へ、へ、へ、へ」と世辞笑いをしたがそれが一向卑しくない。
「いったい何をあきなっているな?」
「へい、呉服商でございます」「女子《おなご》に喜ばれる商売だな」「その代り殿方にはいけません」「そう両方いい事はない。江戸はどこだ? 日本橋辺かな?」「なかなかもって、どう致しまして。そんな大屋台ではございません。いえもうほんの行商人で」「それにしては品がいいな」「これはどうも恐れ入りました」「屋号ぐらいは持っているだろう?」「へい、千三屋と申します」「ナニ千三屋? ばかを申せ。そんな屋号があるものか」「アッハハハハ、さようでございますかな、いえ私どもの商売と来ては、口から出任せにしゃべり廻し、千に三つの実《じつ》があれば、結構の方でございます。それそこで千三屋」「たとえ千三屋であろうとも、自分から好んでふいちょうするとは、とんとたわけた男だの」「そこは正直でございましてな。お気に召さずば道中師屋、胡麻《ごま》の蠅屋《はいや》大泥棒屋、放火屋とでもご随意に、おつけなすってくださいまし」「いよいよもって呆れたな。口の軽い男だわい。その口前《くちまえ》で女子をたらし、面白い目にも逢ったであろうな」「これはとんだ寃罪《えんざい》で、その方は不得手でございますよ。第一|生物《なまもの》は断っております」「そのいいわけちと暗いな」「ええ暗うございますって?」「あきゅうど[#「あきゅうど」に傍点]に不似合いな頬の傷、女出入りで受けたのでもあろう」
 すると商人は笑い出したが、「ああこれでございますか。とんだものがお目にさわり、いやはやお恥ずかしゅう存じます。ナーニこれは子供時代に、柿の木の上から落ちましてな、下に捨ててあった鎌の先で、チョン切ったものでございますよ」
「町人!」と造酒は語気を強め、「これこのおれを盲目《めくら》にする気か!」「これはまたなぜでございますな」「鎌傷か太刀傷か、それくらいのけじめが解らぬと思うか」
 すると商人はまた笑ったが、「これはいかさまごもっともで、私のいい間違いでございました。実はな今から十年ほど前に、上州方面へ参りましたが、若気《わかげ》の誤りと申すやつで、博徒の仲間へはいりましたところ忽ち起こる喧嘩出入り、その時受けましたのがこの傷で」「町人!」「ソーラ、おいでなすった」「このおれを盲目にする気か!」「へえ、どうもまたいけませんかな」「十年前の古傷か、ないしは去年の新しい傷か、それくらいのけじめが解らぬと思うか」「へえ、そこまでお解りで?」「五年前の太刀傷であろう?」「恐ろしい眼力でございますなあ。仰せの通りでございますよ」「とうとう泥を吐きおったな」造酒は快然と笑ったものである。
 観世銀之丞は起き上がろうともせず、畳の上へ肘を突き、それへ頭を転がしながら、面白くもないというように、ましらましら[#「ましらましら」に傍点]と上眼《うわめ》を使い、商人の様子を眺めていた。話の仲間へはいろうともしない。
 商人はひょい[#「ひょい」に傍点]と床の間を見たが、そこに置いてある小鼓へ、チラリと視線を走らせると、
「ははあ、あれでございますな。いつもお調べになる小鼓は」
 感心したように声をはずませ、
「よい鼓でございますなあ」

    寂しい寂しい別離の歌

 すると銀之丞は顔を上げたが、「お前のような町人にも、鼓の善悪《よしあし》がわかるかな。いったいどこがよいと思うな?」ちょっと興味を感じたらしく、こうまじめにきいたものである。
 すると商人《あきゅうど》は困ったように、小鬢《こびん》のあたりへ手をやったが、「へいへい、いやもうとんでもないことで、どこがよいのかしこがよいのと、さようなことはわかりませんが、しかし名器と申しますものは、ただ一見致しましただけでも、いうにいわれぬ品位があり、このもしい物でございます」「何んだ詰まらない、それだけか」
 銀之丞はまたもゴロリと寝た。そそられかかったわずかな興味も、商人の平凡な答えによって、忽ち冷めてしまったらしい。無感激の眼つきをして、ぼんやり天井を眺め出した。
「いえそればかりではございません」商人は一膝進めたが、「家内中評判でございます。いえもうこれは本当の事で」「何、評判? 何が評判だ?」「はいその旦那様のお鼓が」「盲目千人に何が判《わか》る」「そうおっしゃられればそれまでですが、一度お鼓が鳴り出しますと、三味線、太鼓、四つ竹までが、一時に音色をとめてしまって、それこそ家中|呼吸《いき》を殺し、聞き惚れるのでございますよ」
「有難迷惑という奴さな。信州あたりの山猿に、江戸の鼓が何んでわかる」かえって銀之丞は不機嫌であった。
「町人町人、千三屋、その男にはさわらぬがよい」
 見かねて造酒が取りなした。「その男は病人だ。狂犬病という奴でな、むやみに誰にでもくってかかる。アッハハハハ、困った病気だ。それよりどうだ碁でも囲《かこ》もうか」「これは結構でございますな。ひとつお相手致しましょう」
 そこで二人は碁を初めた。平手造酒も弱かったが商人も負けずに弱かった。下手《へた》同志の弱碁《よわご》と来ては、興味津々たるものである。二人はすっかりむちゅうになった。

 甚三甚内の兄弟の上へ、おさらば[#「おさらば」に傍点]の日がやって来たのは、それから間もなくの事であった。その朝は靄《もや》が深かった。甚三の馬へ甚内が乗り、それを甚三が追いながら、追分の宿を旅立った。宿の人々はまだ覚めず家々の雨戸も鎖《と》ざされていた。宿の外れに立っているのは、有名な桝形《ますがた》の茶屋であったがそこの雨戸も鎖ざされていた。そこを右すれば中仙道、また左すれば北国街道で、石標《いしぶみ》の立った分岐点を、二人の兄弟は右に取り、中仙道を歩《あゆ》ませた。宿を出ると峠道で、朝陽出ぬ間の露の玉が木にも草にも置かれていた。夜明け前の暁風に、はためく物は芒《すすき》の穂で、行くなと招いているようであった。
「せめて関所の茶屋までも」と、甚三の好きな追分節の、その関所の前まで来ると、二人は無言で佇《たたず》んだ。「あにき、お願いだ、唄ってくれ」「おいら[#「おいら」に傍点]は今日は悲しくて、どうにも声が出そうもねえ」「そういわずと唄ってくれ、今日別れていつ会うやら、いつまた歌が聞けるやら、こいつを思うと寂しくてならぬ。別れの歌だ唄ってくれ」
「うん」というと甚三は、声張り上げて唄い出した。草茫々たる碓井峠《うすいとうげ》、彼方《あなた》に関所が立っていた。眼の下を見れば山脈《やまなみ》で、故郷の追分も見え解《わか》ぬ。朝陽は高く空に昇り、きょうも一日晴天だと、空にも地にも鳥が啼き、草蒸《くさいき》れの高い日であったが、甚三の唄う追分は、いつもほどには精彩がなく、咽《むせ》ぶがような顫《ふる》え声が、低く低く草を這い、風に攫《さら》われて消えて行った。

 弟と別れた甚三が、空馬を曳いて帰りかけた時、
「馬子!」とうしろから呼ぶ者があった。振り返って見ると旅の武士が、編笠を傾けて立っていた。けんかたばみ[#「けんかたばみ」に傍点]の紋服に、浮き織りの野袴を裾短かに穿き、金銀ちりばめた大小を、そりだか[#「そりだか」に傍点]に差した人品は、旗本衆の遊山旅《ゆさんたび》か、千石以上の若殿の、気随の微行とも想われたが、それにしてはお供がない。

    病的に美しい旅の武士

 編笠をもれた頤《あご》の色が、透明《すきとお》るようにあお白く、時々見える唇の色が、べにを注《さ》したように紅いのが気味悪いまでに美しく、野苺に捲きついた青大将だと、こう形容をしたところで、さらに誇張とは思われない。開いたばかりの関所の門を、たった今潜って来たところであろう。
「戻り馬であろう。乗ってやる」こういった声は陰気であった。
「へい有難う存じます」甚三は実は今日一日は、稼業をしたくはなかったのであるが、侍客に呼び止められて見れば、断ることも出来なかった。「どうぞお召しくださいまし」
 シャン、シャン、シャンと鈴を響かせ、馬は元気よく歩き出した。どう、どう、どう、と馬をいたわり、甚三は峠を下って行った。手綱は曳いても心の中では、弟のことを思っていた。でムッツリと無言であった。馬上の武士も物をいわない。これも頻りに考え込んでいた。
 カバ、カバ、カバと蹄の音が、あたりの木立ちへ反響し、空を仰げば三筋の煙りが、浅間山から靡《なび》いていた。と、突然武士がいった。「追分宿の旅籠屋《はたごや》では、何んというのが名高いかな?」「本陣油屋でございます」「ではその油屋へ着けてくれ」「かしこまりましてございます」
 それだけでまたも無言となった。夏の陽射しが傾いて、物影が長く地にしいた。追分宿へはいった頃には、家々に燈火がともされていた。

 両親は去年つづいて死に、十四になった唖《おし》の妹と、甚内を入れて兄弟三人、仲よく水入らずに暮らして来たのが、その甚内が旅へ出た今は、二人ばかりの暮らしであった。……そのさびしい自分の家へ甚三は馬を曳いて帰って来た。
「おい、お霜《しも》、今帰ったよ」厨《くりや》に向かって声を掛けたが、声が掛かっても唖のことで、お霜が返辞をしようもない。いつもの癖で掛けたまでであった。厨《くりや》の中では先刻から、コトコト水音がしていたが、ひょいと小娘が顔を出した。丸顔の色白で、目鼻立ちもパラリとして、愛くるしいきりょう[#「きりょう」に傍点]であった。赤い襷を綾取って、二の腕の上まで袂をかかげ、その腕を前垂れで拭きながら、甚三を眺めて笑った様子には、片輪者らしいところもなく、野菊のような気品さえあった。
「あッ、あッ、あッ」と千切れるような、唖《おし》特有の叫び声を上げ、指で部屋の方を差したのは、夕飯を食えという意味であろう。
「よしよし飯が出来たそうな、どれご馳走になろうかな」つぶやきながら足を洗い、馬へ秣《まぐさ》を飼ってから、家の中へはいったが、部屋とは名ばかりで板敷きの上に、簀子が一枚敷いてあるばかり、煤けて暗い行燈《あんどん》の側に、剥げた箱膳が置いてあった。あぐら[#「あぐら」に傍点]を掻くと箸《はし》を取ったが、給仕をしようと坐っている、妹を見ると寂しく笑い、
「お前もこれからは寂しくなろうよ。兄《あに》やが一人いなくなったからな。それにしても甚内は馬鹿な奴だ。何故海へなぞ行ったのかしら。こんなよい土地を棒に振ってよ。ほんとに馬鹿な野郎じゃねえか。土地が好かない馬子が厭だ、この追分に馬子がなかったら、国主大名も行き立つめえ。馬方商売いい商売、そいつを嫌って行くなんて、ほんとに馬鹿な野郎だなあ。……だがもうそれも今は愚痴だ。望んで海へ行ったからには、立派に出世してもれえてえものだ、なあお霜そうじゃねえか。……おや太鼓の音がするな。四つ竹の音も聞こえて来る。ああ町は賑やかだなあ。あれはどうやら三丁目らしい。さては油屋かな永楽屋かな。いいお客があると見える。油屋とするとお北めも、雑《まじ》っているに相違ねえ」
 甚三はじっと考え込んだ。やがてカラリと箸を置くと、フラリと立って土間へ下り、草履《ぞうり》をはくとのめるように、灯の明るい町へ引かれて行った。
 お霜は茫然《ぼんやり》坐っていたが、やがてシクシク泣き出した。聞くことも出来ずいうことも出来ない、天性の唖ではあったけれど、女の感情は持っていた。可愛がってくれた甚内が、遠い他国へ行ったことも兄の甚三がお北という、宿場女郎に魅入《みい》られて、魂をなくなしたということも、ちゃんと心に感じていた。それがお霜には悲しいのであった。

    出合い頭《がしら》にいきあった二人

 絹|商人《あきんど》の千三屋は、ザッと体へ拭いを掛けると、丸めた衣裳を小脇にかかえ、湯殿からひょいと廊下へ出た。とたんにぶつかった者があった。「これは失礼を」「いや拙者こそ」双方いいながら顔を見合わせた。剣酸漿《けんかたばみ》の紋服を着た、眼覚めるばかりの美男の武士が、冷然として立っていた。
「とんだ粗忽を致しまして、真っ平ご免くださいまし」いい捨て千三屋は擦り抜けたが、十足ばかりも行ったところで、何気ない様子をして振り返って見た。とその武士も湯殿の口で、じろじろこっちを眺めていた。
「こいつ只者じゃなかりそうだ」こう千三屋はつぶやくと、小走りに走って廊下を曲がり、自分の部屋へ帰って来たが、どうも心が落ち着かない。「途方もねえ美男だが、美男なりが気に食わねえ。まるで毒草の花のようだ。よこしまなもの[#「よこしまなもの」に傍点]を持っている。ひょっとするとレコじゃないかな? これまでただの一度でも狂ったことのねえ眼力だ。この眼力に間違いなくば、彼奴《きゃつ》はただの鼠じゃねえ。巻物をくわえてドロドロとすっぽんからせり上がる溝鼠《どぶねずみ》だ」
 腕を組んで考え込んだ。
 剽軽者で名の通っている、女中頭のお杉というのが、夕飯の給仕に来た時である、彼は何気なくたずねて見た。
「下でお見掛けしたんだが、剣酸漿《けんかたばみ》の紋服を召した、綺麗な綺麗なお侍様が、泊まっておいでのご様子だね」「そのお方なら松の間の富士甚内様でございましょう」「おお富士様とおっしゃるか。稀《まれ》に見るご綺麗なお方だな。男が見てさえボッとする」「ほんとにお綺麗でございますね」「店の女郎《こども》達は大騒ぎだろうね」「へえ、わけてもお北さんがね」「ナニお北さん? 板頭《いたがしら》のかえ?」「へえ、板頭のお北さんで」「噂に聞けばお北さんは、馬子でこそあれ追分の名人、甚三という若者と、深い仲だということだが」「へえ、そうなのでございますよ」「可哀そうにその馬子は、それじゃこれからミジメを見るね」「それがそうでないのですよ」「そうでないとはどういうのかえ?」「つまりお北さんはお二人さんを、一しょに可愛がっているのですよ」「へえ、そんな事が出来るものかね」「お北さんには出来ると見えて、甚三さんは捨てられない、富士様とも離れられない、こういっているのでございますよ」「――つまり情夫《いろ》と客色《きゃくいろ》だな」「いいえどっちも本鴨《ほんかも》なので」「ははあ、それじゃお北という女郎は、金箔つきの浮気者だな」「浮気といえば浮気でもあり真実といえば大真実、どっちにしても天井《てんじょう》抜けの、ケタはずれの女でございますよ」「ちょっと面白いきしょう[#「きしょう」に傍点]だな」「面白いどころか三人ながら、大苦しみなのでございますよ」「三人とは誰々だな?」「お北さんと富士様と、甚三さんとでございますよ」「それじゃ何か近いうちに、恐ろしいことが起こって来るぞ」「内所《ないしょ》でもそれを心配して、ご相談中なのでございますよ」

    追分宿の七不思議

「相談とは何を相談かな?」「甚三さんは土地のお方、これはどうも断ることが出来ぬ。金使いも綺麗、人品もよく、惜しいお方ではあるけれど、富士様の方はフリの客、いっそご出立を願おうかってね」「それが一番よさそうだな。そうだ、早くそうした方がいい。しかし素直に行くかしら?」「それはあなた、行きますとも。人柄《ひとがら》のお方でございますもの」「ふうん、あれが人柄かな。人柄のお方に見えるかな。私《わし》には怪しく思われるがな」
 するとお杉はニヤニヤしたが、「その怪しいで思い出した。この追分の七不思議、あなたご存知じゃございませんかね」「ナニ追分の七不思議? いいや一向聞かないね」「それじゃ話してあげましょうか。まず隣室《となり》の観世様」「観世様が何故不思議だ?」「あんまり鼓がお上手ゆえ」「なるほどこれはもっともだ」「それから馬子の甚三さん」「はあて追分がうま過ぎるからか」「それから唖《おし》娘のお霜さん。あんな可愛い様子でいて、物がいえないとは不思議だとね」「うん、そうしてその次は?」「綺麗すぎる富士甚内様」「これは確かに受け取れた」「心の分らないお北さん」「いかにもいかにもこれも不思議だ。さてその次は何者だな?」「このお杉だと申しますことで」「アッハハハハ、これは秀逸《しゅういつ》だ。実際お前は不思議な女だ。見さえすればおかしくなる。ところでしまいのもう一人は?」「他ならぬあなた様でございます」「へえどうしておれが不思議だ?」「絹商人と振れ込み[#「振れ込み」はママ]ながら、毎日毎日商売もせず、贅沢《ぜいたく》に暮らしておいでゆえ」
「ふん、何んだ、そんな事か」吐き出すようにいったものの、千三屋はいやな顔をした。
「で、何かい七不思議は、今宿場で評判なのかい?」
「さあどうでございますか」いいいい膳を片付けたが、「そんな事もございますまいよ。と、いいますのはその七不思議は、このお杉がたった今、即席に拵えたのでございますもの。はいさようなら、お粗相様《そそうさま》」
 いい捨て廊下へすべり出た。後を見送った千三屋は、「馬鹿!」と思わず怒鳴ったが、周章《あわ》ててその口を抑えたものである。
「油断も隙もならねえ奴だ。まさかこのおれを怪しい奴と、感付いたのじゃあるめえな。……こいつ仕事を急がずばなるめえ」
 腕を組み天井を見上げ、じっと何か考え出したが、その眼の中には商人らしくない、不敵な光が充ちていた。と、パラリと腕を解くと、その手でトントンと襖を叩き、
「平手様、平手様、ご都合よくば一面いかがで? おうかがい致してもよござんすかえ?」
「おお千三屋か、平手は留守だ。が構わぬ、はいって来い」観世銀之丞の声であった。
「真っ平ご免くださいまし」
 スルリと千三屋は襖を開けると、隣りの部屋へ入り込んだ。
 相変らず銀之丞は寝転んでいた。無感激の顔であった。しかしその眼の奥の方に、火のようなものが燃えていた。圧迫された魂であった。
「おい千三屋、おれは考えたよ」珍しく銀之丞はしゃべり出した。「禁制の海外へ密行するか、そうでなければ牢へはいるか。この二つより法はないとな。こうでもしたらおれの退屈も、少しぐらいは癒《いや》されるかも知れない。海外密行はむずかしいとしても、牢へはいるのは訳はない。他人の物を盗めばいい。どうだ千三屋賛成しないかな」「へーい」といったが商人は、度胆《どぎも》を抜かれた格好であった。「今日は悪日でございますよ。お杉の奴には嚇《おど》される、あなた様には脅かされる、ゆうべの夢見が悪かった筈だ」「お杉が何を嚇かしたな?」「へい七不思議の講釈で」「ナニ、七不思議だ? 馬鹿な事をいえ。そんな言葉は犬に食わせろ。一切この世には不思議などはないのだ。おれは神秘を信じない。だから、だから、退屈だともいえる」

    後朝《きぬぎぬ》の場所|桝形《ますがた》の茶屋

 千三屋は無意味に笑ったが、その眼をキラリと床の間へ向けた。そこに小鼓が置いてあった。それへ視線が喰い入った。

 北国街道と中仙道、その分岐点を桝形といった。高さ六尺の石垣が、道の左右から突き出ていて、それに囲われた内側が、桝形をなしているからであった。これは一種の防禦堤なので、また簡単な関所でもあった。ここを抜けて左へ行けば、中仙道へ行くことが出来、ここを通って右へ行けば、北国街道へ出ることが出来た。でこの桝形へ兵を置けば、両街道から押し寄せて来る、敵の軍勢をささえることが出来た。大名などが参府の途次、追分宿へとまるような時には、必ずここへ夜警をおいて非常をいましめたものであった。しかし桝形はそういうことによって、決して有名ではないのであった。つるが屋、伊勢屋、上州屋、武蔵屋、若菜屋というような、幾つかの茶屋があることによって、この桝形は名高かった。いつづけの客や情夫《おとこ》などを、宿の遊女《おんな》達はこの茶屋まで、きっと送って来たものであった。つまり桝形は追分における、唯一の後朝《きぬぎぬ》の場所なので、「信州追分桝形の茶屋でホロリと泣いたが忘らりょか」と、今に残っている追分節によっても、そういう情調は伺われよう。大正年間の今日でも、ややそのおもかげは残っていた。一方の石垣は取り壊され、麦の畑となっているが、もう一つの石垣は残っていた。そうして上州屋、つるが屋等の、昔ながらの茶屋もあった。つるが屋清吉の白壁に「桝形」と文字《もんじ》が刻まれてあるのは、分けても懐しい思い出といえよう。なお街道の岐道《わかれみち》には、常夜燈といしぶみとが立っていた。
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右|従是《これより》北国街道 東二里安楽追分町 左従是中仙道
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 こう石標《いしぶみ》には刻まれてあるが、これも懐しい記念物であろう。
 さてある夜若菜屋の座敷に、客と遊女とが向かい合っていた。客は美貌の富士甚内で、遊女は油屋のお北であった。別離《わかれ》を惜しんでいるのであった。二人の他には誰もいない。人を避けて二人ばかりで、酒を汲み交わせているのであった。
「お北、いよいよおさらばだ」甚内は盃を下へ置いた。「いうだけの事はいってしまい、聞くだけの事は聞いてしまった。もう別れてもよさそうだ」
「別れてもよろしゅうございますとも」お北はぼんやりとうけこたえた。「ではお立ちなさりませ」「おれも果報な人間だな。お北そうは、思わぬかな」「それはなぜでございます?」「なぜといってそうではないか、女郎屋の亭主から謝絶《ことわ》られたのだ」「男冥利《おとこみょうり》でございますよ」「おれもそう思って諦めている」「それが一番ようございます。諦めが肝腎でございます」「止むを得ない諦めだ」「ようお諦めなさいました」「ふん、冷淡な女だな」「いいえわたしは燃えております」「ではなぜいうことを聞いてくれない」「もうその訳は先刻から、申し上げておるではございませんか」「ふん、お前はそんなにまで、あんな男に焦《こ》がれているのか」
 するとお北は眼を据えたが、
「解らないお方でございますこと!」「いやおれには解っている」「ではなぜそんなことをおっしゃいます」「愚痴だ」と甚内は息づまるようにいった。
 甚内は堅く眼をつむり、天井の方へ顔を向けた。思案に余った様子であった。お北は盃を握りしめていた。上瞼《うわまぶた》が弓形を作り、下瞼が一文字をなした、潤みを持った妖艶な眼は、いわゆる立派な毒婦型であったが、今はその眼が洞《うつろ》のように、光もなく見開かれていた。盃中の酒を見てはいるが、別に飲もうとするのでもない。
 夜は次第に更けまさり、家の内外静かであった。他に客もないかして、三味線の音締《ねじ》めも聞こえない。銀の鈴でも振るような、涼しい河鹿《かじか》の声ばかりが、どこからともなく聞こえて来た。
「芸の力は恐ろしいものだ」ふと甚内はつぶやいた。
「あの馬子の唄う追分が、そうまでお前の心持ちを、捉えていようとは想像もつかぬ」

    怪しい恋の三|縮《すく》み

「魅入られているのでございます」「魅入られている? いかにもそうだ」「あんな男と思いながら、一度追分を唄い出されると、急に心が騒ぎ立ち、からだじゅう[#「からだじゅう」に傍点]の血が煮え返り狂わしくなるのでございます」「そうして男から離れられぬ」「はいさようでございます」「そうしておれをさえ捨てようとする」「いいえそうではございません。何んのあなたが捨てられましょう」「いやいやおれをさえ捨てようとする」
 お北の眼はまた据わった。
「あなたこそ恋人でございます!」むせぶような声であった。「ああ、あなたこそ妾《わたし》にとって、本当の恋人でございます」
「おれのどこが気に入ったな?」嘲笑うような調子であった。
「ただれたような美しさが!」「おれがもしも悪党なら?」「その悪党を恋します」「おれがもしもひとごろしなら?」「そのひとごろしを恋します」「おれがもしも泥棒なら?」「その泥棒を恋します」「おれがお前を殺したら?」「わたしは喜んで死にましょう」「ではなぜおれについて来ない?」「申し上げた筈でございます」
「お北!」と甚内はさぐるようにいった。「もし追分が未来|永劫《えいごう》、お前の耳へ聞こえなくなったら、その時お前はどうするな?」「その時こそわたし[#「わたし」に傍点]というものはあなた[#「あなた」に傍点]の物でございます」「言葉に嘘はあるまいな」「何んのいつわり申しましょう」「その言葉忘れるなよ」「はいご念には及びませぬ」
 甚内は満足したように、不思議な微笑を頬に浮かべた。……思えば奇怪な恋ではあった。これというさしたる[#「さしたる」に傍点]あてもなく、追分宿へやって来て、本陣油屋へとまった夜、何気なくよんだ遊女に恋し、また遊女にも恋されながら、その女がいうこと[#「いうこと」に傍点]を聞かぬ。殺すといえば殺されようという。それほどの恋を持ちながら、にげようという男の言葉を、すげなく女はことわるのであった。外におとこがあるからでもあろうが、おとこその者には心をひかれず、その歌に心ひかれるのだという。立ち去るといえば立ち去れという。捨てたのかといえば捨てはしないという。そういう言葉には嘘はない。不思議な恋の三すくみ! 女が死ねば恋は終る。どっちか一人男が死ねば、いきた方が女を獲る。所詮一人は死ななければならない。そうでなければ苦しむばかりだ。
「いっそ自分が立ち去ったなら、万事平和に納まろうが、この女ばかりは放されぬ」これが甚内の心持ちであった。「天下の金は自分の物だ。金には何んの苦労もない。有難いことには自分は美貌だ。これまでほとんど至る所で、色々の女を征服もし、また女に征服もされた。女の秘密もおおかたは知った。与《くみ》し易《やす》いは女である。しかるに意外にも意外の土地で、意外の女とでっくわした。類例のない女である。だから自分には珍らしい。珍らしいものはほかへはやれぬ。是非征服しなければならない。ではどうしたらよかろうか? 女の心を引きつけている、不思議な追分の歌い手を、永遠にお北から遠避けなければならない。そのほかには手段はない」
 これが甚内の心持ちであった。「よしそうだ、やっつけよう!」
 冷えた盃を取り上げると、つと唇へ持って行った。
 河鹿の鳴く音《ね》は益※[#二の字点、1-2-22]冴え、夏とはいっても二千尺の高地、夜気が冷え冷えと身にしみて来た。
「お北、それではまたあおう」
「おあいしたいものでございます」
「すぐにあえる、待っているがいい」
「早くお帰りくださいまし」

    いつもと異《ちが》う歌の節

 頼んで置いた甚三が、馬をひいて迎えに来た、それに跨がった甚内がいた。北国街道を北へ向け、桝形の茶屋を出かけたのは、それから間もなくのことであった。
 間もなく追分を出外れた。振り返って見ると燈火《ともしび》が、靄《もや》の奥から幽《かす》かに見えた。
「旦那様」と不意に甚三がいった。「いよいよご出立でございますかな」
「うん」と甚内は冷やかに、「追分宿ともおさらばだ」
「永らくご滞在でございましたな」「意外に永く滞在した」「旦那様と私とは、ご縁が深うございますな」「縁が深い? それはなぜかな?」「宿までご案内致しましたのはこの甚三でございます」「そうであったな。覚えておる」「お送りするのも甚三で」「そういえば縁が深いようだ」「ご縁が深うございます」「ところで甚三われわれの縁は、もっと深くなりそうだな」
「え?」といって振り返った時には、甚内は口を噤《つぐ》んでいた。押して甚三も尋ねようとはしない。カパカパという蹄の音、フーフーという馬の鼻息、二人は無言で進んで行った。
「甚三、追分を唄ってくれ」しばらく経って甚内がいった。
「夜が深うございます」
「構うものか、唄ってくれ」「私の声は甲高で、宿まで響いて参ります」「構うものか、唄ってくれ」「よろしゅうございます、唄いましょう」
 やがて甚三は唄い出した。夜のかんばしい空気を通し、美音朗々たる追分節が、宿の方まで流れて行った。

「甚三の追分が聞こえて来る。はてな、いつもとは唄い振りが異《ちが》う。……うまいものだ、何んともいえぬ。……今夜の節は分けてもよい」
 こういったのは銀之丞であった。
 本陣油屋の下座敷であった。彼は相変らず寝そべっていた。鼓が床の間に置いてあった。
「おい平手、行って見よう」銀之丞は立ち上がった。
「何、行って見よう? どこへ行くのだ?」
 千三屋相手に碁を囲んでいた、平手造酒は振り返った。
「追分を聞きにだ、行って見よう」「今夜に限って酷《ひど》く熱心だな」「いつもと唄い振りが異うからだ」「そいつはおれには解らない」「行って見よう。おれは行くぞ」「何に対しても執着の薄い、貴公としては珍らしいな」「だんだん遠くへ行ってしまう。おいどうする、行くか厭か?」「さあおれはどっちでもいい」「おれは行く。行って聞く。後からこっそりついて行って、堪能するまで聞いてやろう」「全く貴公としては珍らしい。何に対しても興ずることのない、退屈し切ったいつもに似ず、今夜は馬鹿に面白がるではないか」「それがさ、今もいった通り、今夜に限って甚三の歌が、ひどく違って聞こえるからだ」「いつもとどこが違うかな?」「鬱《うっ》していたのが延びている。燃えていたのが澄み切っている。蟠《わだか》まっていたのが晴れている。いつもは余りに悲痛だった。今夜の唄い振りは楽しそうだ。心に喜びがあればこそ、ああいう歌声が出て来るのだろう。めったに一生に二度とは来ない、愉快な境地にいるらしい」「ふうん、そんなに異うかな。どれ一つ聞いて見よう」
 造酒は碁石を膝へ置き、首を垂れて聞き澄ました。次第に遠退き幽《かす》かとはなったが、なお追分は聞こえていた。節の巧緻声の抑揚、音楽としての美妙な点は、武骨な造酒には解らなかった。しかしそれとは関係のない、しかしそれよりもっと[#「もっと」に傍点]大事な、ある気分が感ぜられた。しかも恐ろしい気分であった。造酒はにわかに立ち上がった。
「観世、行こう。すぐに行こう」そういう声はせき立っていた。
「これは驚いた。どうしたのだ?」
「どうもこうもない捨てては置けぬ。行ってあの男を助けてやろう」「ナニ助ける? 誰を助けるのだ?」「あの追分の歌い手をな」「不安なものでも感じたのか?」「陰惨たる殺気、陰惨たる殺気、それが歌声を囲繞《とりま》いている」「それは大変だ。急いで行こう」
 ありあう庭下駄を突っ掛けると、ポンと枝折戸《しおりど》を押し開けた。往来へ出ると一散に、桝形の方へ走って行った。さらにそれから右へ折れ、月|明《あき》らかに星|稀《まれ》な、北国街道の岨道《そばみち》を、歌声を追って走って行った。

    馬上ながら斬り付けた

 こなた甚三は蹄に合わせ、次々に追分を唄って行った。彼の心は楽しかった。彼の心は晴れ渡っていた。……恋の競争者の富士甚内が、追分を見捨てて立ち去るのであった。お北を見捨てて立ち去るのであった。もうこれからは油屋お北は彼一人の物となろう。これまでは随分苦しかった。人知れず心を悩ましたものだ。相手は立派なお侍《さむらい》、殊に美貌で金もあるらしい。それがお北に凝《こ》っていた。そうしてお北もその侍に、心を奪われていたものだ。宿の人達は噂した。いよいよ甚三は捨てられるなと。誰に訴えることも出来ず、また訴えもしなかったが、心では悲しみもし苦しみもした。訴えられない苦しさは、泣くに泣かれない苦しさであった。泣ける苦痛は泣けばよい。訴えられる苦痛は訴えればよい。人に明かされない苦しさは、苦しさの量を二倍にする。宿の人達にでも洩らそうものなら、その人達はいうだろう、街道筋の馬子風情が、油屋の板頭と契るとは、分《ぶん》に過ぎた身の果報だ。捨てられるのが当然だと。では妹にでも訴えようか、妹お霜は唖《おし》であった。苦楽を分ける弟は、遠く去って土地にいない。神も仏も頼みにならぬ。……富士甚内が追分宿の、本陣油屋へ泊まって以来、甚三の心は一日として、平和の時はなかったのであった。……しかし今は過去となった。苦痛はまさに過ぎ去ろうとしていた。富士甚内がお北と別れ、追分宿を立ち去りつつある。すぐに平和が帰って来よう。これまで通り二人だけの、恋の世界が立ち帰って来よう。……
 甚三は声を張り上げて、次から次と唄うのであった。馬上では甚内が腕|拱《こまね》き、じっと唄声に耳を澄まし、機会の来るのを待っていた。
「もうよかろう」と心でいって、四辺《あたり》を窃《ひそ》かに見廻した時には、追分宿は山に隠れ、燈《ともしび》一つ見えなかった。おおかた二里は離れたであろう。左は茫々たる芒原《すすきはら》。右手は谷川を一筋隔て、峨々たる山が聳えていた。甚内は拱いた腕を解くと、静かに柄を握りしめた。知らぬ甚三は唄って行った。今はひとのために唄うのではない。自分の声に自分が惚れ、自分のために唄うのであった。
[#ここから3字下げ]
追分油屋掛け行燈《あんどん》に
浮気ご免と書いちゃない
[#ここで字下げ終わり]
 甚内はキラリと刀を抜いた。

    浅間山さんなぜやけしゃんす
   腰に三宿持ちながら

 甚内は刀を振りかぶった。

    北山時雨で越後は雨か
    あの雨やまなきゃ会われない

 甚内はさっと甚三の、右の肩へ切りつけた。「わっ」と魂消《たまぎ》える声と共に、甚三は右手《めて》へよろめいたが、そのままドタリと転がった時、甚内は馬から飛び下りた。止どめの一刀を刺そうとした。
「まあ待ってくれ、富士甚内! 汝《われ》アおれを殺す気だな!」
「唄の上手が身の不祥、気の毒ながら助けては置けぬ」
「さてはお北も同腹だな!」
「どうとも思え、うぬが勝手だ」
「弟ヤーイ!」と甚三は、致死期《ちしご》の声を振り絞った。「われの言葉、あたったぞヤーイ! おれはお北に殺されるぞヤーイ!」
 よろぼいよろぼい立ち上がるのを、ドンと甚内は蹴り仆した。とその足へしがみ付いた。
 のたうち廻る馬方を、甚内は足で踏み敷いたが、おりから人の足音が、背後《うしろ》の方から聞こえて来たので、ハッとばかりに振り返った。二人の武士が走って来た。「南無三宝!」と仰天し、手負いの馬子を飛び越すと、街道を向こうへ突っ切ろうとした。と、行手から旅姿、菅の小笠に合羽を着、足|拵《ごしら》えも厳重の、一見博徒か口入れ稼業、小兵《こひょう》ながら隙のない、一人の旅人が現われたが、笠を傾けこっちを隙《す》かすと、ピタリと止まって手を拡げた。腹背敵を受けたのであった。ギョッとしながらも甚内は、相手が博徒と見定めると、抜いたままの血刀を二、三度宙で振って見せ、
「邪魔ひろぐな!」
 と叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]した。

    この旅人何者であろう?

 博徒風の旅人は、微動をさえもしなかった。依然両手を広げたまま、地から根生《ねば》えた樫の木のように、無言の威嚇を続けていた。脈々と迸《ほとば》しる底力が、甚内の身内へ逼って来た。強敵! と甚内は直覚した。彼は忽然身を翻《ひるが》えすと、この時間近く追い逼って来た、二人の武士の方へ飛びかかって行った。一人の武士はそれと見るとつと傍《かたわ》らへ身をひいたが、もう一人の武士は足をとめ、グイと拳を突き出した。拳一つに全身隠れ、鵜の毛で突いた隙もない。北辰一刀流直正伝拳隠れの真骨法、流祖周作か平手造酒か、二人以外にこれほどの術を、これほどに使う者はない。「あっ」と甚内は身を締めた。この堅陣破ることは出来ぬ。ジリ、ジリ、ジリと後退《あとしざ》り、またもやグルリと身を翻えすと、窮鼠かえって猫を噛む。破れかぶれに旅人眼掛け、富士甚内は躍り掛かって行った。
「馬鹿め!」と訛《なまり》ある上州弁、旅人は初めて一喝したが、まず菅笠を背後《うしろ》へ刎ね、道中差《どうちゅうざし》を引き抜いた。構えは真っ向大上段、足を左右へ踏ん張ったものである。「あっ」とまたもや甚内は、声を上げざるを得なかった。日本に流派は数あるが、足を前後に開かずに、左右へ踏ん張るというような、そんな構えのある筈がない。
 今は進みも引きもならぬ。タラタラと額から汗を落とし、甚内は総身を強《こわ》ばらせた。
「よしこうなれば相討ちだ。相手を斃しておれも死ぬ。卑怯ながら腹を突こう」外れっこのない相手の腹。突嗟に思案した甚内が、下段に刀を構えたまま、体当りの心組み、ドンとばかりに飛び込んだとたん、「ガーッ」という恐ろしい真の気合いが、耳の側で鳴り渡った。武士が背後《うしろ》からかけたのであった。甚内の意気はくじかれたが、同時に活路が発見《みつか》った。張り詰めた気の弛みから機智がピカリと閃めいたのであった。彼は「えい!」と一声叫ぶと、パッと右手《めて》へ身を逸《いっ》したが、そこは芒の原であった。甚三の馬が悠々と、主人の兇事も知らぬ顔に、一心に草を食っていた。その鞍壺へ手を掛けると甚内は翩翻《へんぽん》と飛び乗った。ピッタリ馬背《ばはい》へ身を伏せたのは、手裏剣を恐れたためであって、「やっ」というと馬腹を蹴った。馬は颯《さっ》と走り出した。馬首は追分へ向いていた。月皎々たる芒原、団々たる夜の露、芒を開き露をちらし、見る見る人馬は遠ざかって行った。草に隠れ草を出で、木の間に隠れ木の間を出で、棒となり点とちぢみ、やがて山腹へ隠れたが、なおしばらくはカツカツという、蹄の音が聞こえてきた。しかしそれさえ間もなく消えた。
 余りの早業《はやわざ》に三人の者は、手を拱ねいて見ているばかり、とめも遮《さえぎ》りも出来なかった。苦笑を洩らすばかりであった。
「素早い奴だ、あきれた奴だ」
 博徒姿の旅人は、こうつぶやくとニヤリとしたが、道中差しを鞘へ納めると、その手で菅笠の紐を結んだ。それから二人の武士の方へ、ちょっと小腰を屈《かが》めたが、追分の方へ足を向けた。
「失礼ながらお待ちくだされ」一人の武士が声を掛けた。拳隠れの構えをつけ、甚内を驚かせた武士であった。他ならぬ平手造酒であった。
「何かご用でござんすかえ」旅人は振り返って足を止めた。
「天晴《あっぱ》れ見事なお腕前、それに不思議な構え方、お差し支えなくばご流名を、お明かしなされてはくださるまいか」
「へい」といったが旅人は、迷惑そうに肩を縮め、「とんだところをお眼にかけ、いやはやお恥ずかしゅう存じます。何、私《わっち》の剣術には、流名も何もござんせん。さあ強いてつけましょうなら、『待ったなし流』とでも申しましょうか。アッハハハ自己流でござんす」
「待ったなし流? これは面白い。どなたについて学ばれたな?」
「最初は師匠にもつきましたが、それもほんの半年ほどで、後は出鱈目でございますよ」
「失礼ながらご身分は?」「ご覧の通りの無職渡世で」「お差しつかえなくばお名前を。……われら事は江戸表……」
「おっとおっとそいつあいけねえ」
 造酒が姓名を宣《なの》ろうとするのを、急いで旅人は止めたものである。
「なにいけない? なぜいけないな?」
 造酒は気不味《きまず》い顔をした。
 それと見て取った旅人は、菅笠《すげがさ》の縁へ片手を掛け、詫びるように傾《かし》げたが、また繰り返していうのであった。
「へいへいそいつアいけません。そいつあどうもいけませんなあ」
 造酒はムッツリと立っていた。しかし旅人はビクともせず
「お見受け申せばお二人ながら、どうして立派なお武家様、私《わっち》ふぜいにお宣《なの》りくださるのは、勿体至極《もったいしごく》もございません。それにお宣《なの》りくだされても、私《わっち》の方からは失礼ながら、宣り返すことが出来ませんので、重ね重ね勿体ない話、どうぞ今日はこのままでお別れ致しとう存じます。広いようでも世間は狭く、そのうちどこかで巡り合い、おお、お前かあなた様かと、宣り合う時もございましょう。今は私《わっち》も忙《せわ》しい体、追い込まれているのでございましてな。兇状持ちなのでございますよ。それではご免くださいますよう」
 こういい捨てると旅人は、二人の武士の挨拶も待たず、風のように走って行った。

    鼓賊《こぞく》江戸を横行す

 馬子の甚三の殺されたことは、追分にとっては驚きであった。驚きといえばもう一つ、油屋のお北が同じその夜にあたかも紛失でもしたように、姿を隠してしまったことで、これは酷《ひど》く宿の人達を、失望落胆させたものであった。さて、ところで、紛失《なくな》ったといえば、もう一つ紛失《なくな》った物があった。他ならぬ銀之丞の鼓であった。それと知ると平手造酒は、躍り上がって口惜《くや》しがり、
「千三屋が怪しい千三屋が怪しい!」と、隣室の呉服商を罵ったが、なるほどこれはいかにも怪しく、同じその夜にその千三屋も、どこへ行ったものか行方が知れなかった。
「おい観世、計られたな」
「いいではないか。うっちゃって置けよ」
「あれは名器だ。何がいい!」
「ナーニこれも一つの解脱《げだつ》だ」銀之丞はのんきであった。
「何が解脱だ。惜しいことをした」「捨身成仏《しゃしんじょうぶつ》ということがある。大事な物を捨てた時、そこへ解脱がやって来る」「また談義か、糞《くそ》でも食らえ」「アッハハハ、面白いなあ」「何が面白い、生臭坊主め!」
 造酒は目茶苦茶に昂奮したが、「ああそれにしても一晩の中に、これだけの事件が起ころうとは、何んという不思議なことだろう」
「おい平手、詰まらないことをいうな」銀之丞はニヤリとし、「不思議も何もありゃしないよ。この人の世には不思議はない。あるものは事実ばかりだ」「事実ばかりだ! ばかをいうな! これだけの事件の重畳《じゅうじょう》を、ただの偶然だと見るような奴には、運命も神秘も感ぜられまい」「運命だって? 神秘だって? 馬鹿な、そんなものがあるものか。それは低能児のお題目だ。無知なるがゆえに判《わか》らない。その無知を恥ずかしいとも思わず、判らないところのその物を差して、不思議だ神秘だ宿命だという。馬鹿馬鹿しくて話にもならぬ。……それはそうと実のところ、おれは少々失望したよ」「それ見るがいい、本音を吐いたな」「これだけの事件の衝突《ぶつか》り合いだ。もう少しこのおれを刺戟して、創造的境地へ引き上げてくれても、よかりそうなものだと思うのだがな」「ふん、何んだ、そんなことか。刺戟、昂奮、創造的境地! 何んのことだか解りゃしない」
「おれは駄目だ!」と観世銀之丞は、悄気《しょげ》たみじめな表情をした。「おれの所へ来るとあらゆる物が退屈そのものに化してしまう」「我《わ》がままだからよ。貴公は我がままだ」「おれの心は誰にもわからない。おれは気の毒な人間だ」「そうだとも気の毒な人間だとも」「この地にもあきた。江戸へ行きたい」「おれもあきた。江戸へ帰ろう」
 翌日二人は追分を立ち、中仙道を江戸へ下った。

 この頃不思議な盗賊が、江戸市中を横行した。鼓を利用する賊であった。微妙きわまる鼓の音が、ポン、ポン、ポンと鳴り渡ると、それを耳にした屋敷では、必ず賊に襲われた。どんなに奥深く隠して置いても、きっと財宝を掠められた。大名屋敷、旗本屋敷、そうでなければ大富豪、主として賊はこういう所を襲った。不思議といえば不思議であった。屋敷を廻って鼓が鳴る。それ賊だと警戒する。無数の人が宿直《とのい》をする。しかしやっぱり盗まれてしまう。鼓賊《こぞく》、鼓賊とこう呼んで、江戸の人達は怖《お》じ恐れた。「何のために鼓を鳴らすのだろう? どういう必要があるのだろう?」こう人々は噂し合ったが、真相を知ることは出来なかった。南町奉行|筒井和泉守《つついいずみのかみ》、北町奉行|榊原主計守《さかきばらかずえのかみ》、二人ながら立派な名奉行であったが、鼓賊にだけは手が出せなかった。跳梁跋扈《ちょうりょうばっこ》に委《まか》すばかりであった。
 この評判を耳にして一人|雀躍《こおどり》して喜んだのは、「玻璃窓《はりまど》」の郡上《ぐじょう》平八であった。今年の春の大雪の夜、隅田堤で鼓の音を初めて彼が耳にして以来、実に文字通り寝食を忘れて、その鼓を突き止めようと、追っ駈け廻したものであった。しかるに不幸にも今日まで、行方を知ることが出来なかった。根気のよい彼も最近に至って、多少絶望を感じて来て、手をひこうかとさえ思っていた。その矢先に鼓賊なるものの、輩出したことを聞いたのであった。

    二人の虚無僧《こむそう》の物語

 そこは玻璃窓の平八であった。あの時の鼓とこの鼓賊とが、関係あるものと直覚した。「よしよし今度こそはのがさぬぞ」堅く心に誓いながら、鼓賊の詮議に着手したが、いわゆる今日での科学的捜索それを尊ぶ彼であったから、むやみと蠢動《しゅんどう》するのをやめ、理詰めで行こうと決心した。
「賊と鼓? 賊と鼓? この二つの間には、何らか関係がなくてはならない」まずここから初めたものである。で彼は何より先に、鼓に関する古い文献を、多方面に渡って調べたが、鼓と賊との関係について、記録したものは見つからなかった。そこで今度は方面を変え、鼓造り師や囃《はや》し方や、鼓の名人といわれている、色々の人を訪問し、この問題について尋ねたが、やはり少しも得るところがなかった。
「昔の有名な大盗で鼓を利用したというようなものは、どうも一向聞きませんな」誰の答えもこうであった。
「一人ぐらいはございましょう!」平八が押してたずねても、知らないものは知らないのであった。
「残念ながらこれは駄目だ」平八老人は失望したものの、
「小梅で聞いた鼓の音、何んともいえず美音であったが、いずれ名器に相違あるまい。それを鼓賊が持っているとすると、盗んだものに違いない。よしよしこいつから調べてやろう」
 また訪問をやり出した。鼓造り師、囃し方、鼓の名人といわれる人、各流能楽の家元《いえもと》から、音楽ずきの物持ち長者、骨董商《こっとうしょう》というような所を、根気よく万遍《まんべん》なく経《へ》めぐって「鼓をご紛失ではござらぬかな?」こういって尋ねたものである。
 しかるに麹町《こうじまち》土手三番町、観世宗家の伯父にあたる、同姓信行の屋敷まで来た時、彼の労は酬いられた。嫡子銀之丞が家に伝わる、少納言の鼓を信州追分で、紛失したというのであった。
「まず有難い」と喜んで、その銀之丞へ面会をもとめ、当時の様子をきこうとした。銀之丞は会いは会ったものの、盗難については冷淡であった。はかばかしく模様も語らなかった。
「これとあなたがご覧になって、怪しく思われた人間が、多少はあったでございましょうな?」
「さよう」といったが銀之丞は、例の物うい表情で、
「一人二人はありましたが、罪の疑わしきは咎めずといいます、お話しすることは出来ませんな」
 こうにべもなくいい切ってしまった。どこに取りつくすべもない。これが役付きの与力なら、押してきくことは出来るのであるが、今は役を退《の》いた平八であった。どうすることも出来なかった。「それにしても変った性質だな」こう思って平八は、つくづく相手の顔を見た。さすがは名門の嫡子である、それに一流の芸術家、銀之丞の姿は高朗として、犯しがたく思われた。
「これで三番手も破れたという訳だ」平八老人は観世家を辞し、本所の自宅へ帰りながら、さびしそうに心でつぶやいた。「さてこれからどうしたものだ。……どうにもこうにも手が出ない。これまで通り江戸市中を、あるき廻るより策はない。いや我ながら智慧のない話さ。むしゃくしゃするなあ、浅草へでも行こう」
 で平八は足を返し、浅草の方へ歩いて行った。
 いつも賑やかな浅草はその日もひどく賑わっていた。奥山を廻って観音堂へ出、階段を上《のぼ》って拝《はい》を済まし、戻ろうとしたその時であった、そこに立っていた虚無僧《こむそう》の話が平八の好奇心を引き付けた。
「小さいご本尊に大きい御堂《みどう》、これには不思議はないとしても、この浅草の観音堂と信州長野の善光寺とは、特にそれが著しいな」こういったのは年嵩《としかさ》の方で、どうやら階級も上らしい。「わしは善光寺は不案内だが、そんなに御堂は大きいかな」年下の虚無僧がきき返した。
「観音堂よりはまだ大きい。一|周《まわ》りももっとも大きいかな」「それは随分大きなものだな」「そうだ、あれは一昨年だった、わしは深夜ただ一人で、その善光寺の廻廊に立って、尺八を吹いたことがある。なんともいえずいい気持ちだった。まるで音色《ねいろ》が異《ちが》って聞こえた」「ナニ尺八のねいろが異った? ふうむ、それは何故だろうな?」「善光寺本堂の天井に、金塊が釣るしてあるからだ」「ナニ金塊が釣るしてある?」「さよう金塊が釣るしてある。つまり火災に遭《あ》った時など、改めて建立しなければならない。その時の費用にするために、随分昔から黄金《きん》の延棒《のべぼう》が、天井に大切に釣るしてあるのだ」「これは私《わし》には初耳だ」「ところで楽器というものは、分けても笛と鼓とはだな、黄金《おうごん》の気を感じ易い。名器になれば名器になるほど、黄金の気を強く感じ、必ずねいろが変化する。つまり一層微妙になるのだ。で鉱脈《こうみゃく》を探る時など、よく鉱山《かなやま》の山師などは、笛か鼓を持って行って、それを奏して金の有無《うむ》を、うまく中《あ》てるということだよ」
 黙って聞いていた平八は、思わずこの時膝を打った。「やれ有難い、いい事を聞いた。これで事情が大略《あらかた》解った。ははあなるほどそうであったか。鼓賊と呼ばれるその泥棒が、少納言の鼓を奪い取ったのは、その鼓を奏する事によって、目星をつけた家々の、金の有無《ありなし》を知るためだったのか。盗みも進歩したものだな。……よしよしここまで見当がつけば、後はほんの一息だ。きっと間違いなく捕えて見せる」
 踏む足も軽くいそいそと、本所|業平《なりひら》町一丁目の、自分の家へ帰って行った。

    千葉道場の田舎者

 北辰一刀流の開祖といえば、千葉周作成政であった。生まれは仙台気仙村、父忠左衛門の時代まで、伊達《だて》家に仕えて禄を食《は》んだが、後忠左衛門江戸へ出で、医をもって業とした。しかし本来豪傑で、北辰無双流の、達人であり、本業の傍ら弟子を取り、剣道教授をしたものであった。その子周作の剣技に至っては、遙かに父にも勝るところから、当時将軍お手直し役、浅利又七郎に懇望され、浅利家の養子となったほどであった。後故あって離縁となり、神田お玉ヶ池に道場を開き、一派を創始して北辰一刀流ととなえ、一生の間取り立てた門弟、三千人と註されていた。水戸藩の剣道指南役でもあり、塾弟子常に二百人に余り、男谷下総守《おたにしもうさのかみ》、斎藤弥九郎、桃井《もものい》春蔵、伊庭《いば》軍兵衛と、名声を競ったものであった。
 ある日、千葉家の玄関先へ、一人の田舎者《いなかもの》がやって来た。着ている衣裳は手織木綿《ておりもめん》、きたないよれよれの帯をしめ冷飯草履《ひやめしぞうり》を穿いていた。丈《たけ》は小さく痩せぎすで、顔色あかぐろく日に焼けていた。
「ご免くだせえ。ご免くだせえ」さも不器用に案内を乞うた。「ドーレ」といって出て来たのは小袴を着けた取り次ぎの武士。
「ええどちらから参られたな」
「へえ、甲州から参りました」そのいう事が半間《はんま》であった。
「して何んのご用かな?」「お目にかかりてえんでごぜえますよ」「お目にかかりたい? どなたにだな?」「千葉先生にでごぜえますよ」「お目にかかってなんになさる?」「へえ立ち合って戴きたいんで」
 取り次ぎはプッと吹き出したが、「では試合に参ったのか」「へえさようでごぜえます」「千葉道場と知って来たのか」「へえへえさようでごぜえます」「ふうん、そうか。いい度胸だな」「へえ、よい度胸でごぜえます」田舎者は臆面がない。
 取り次ぎの武士は面白くなったかからかう[#「からかう」に傍点]ようにいい出した。「で、ご貴殿のご流名は?」「流名なんかありましねえ」「流名がない。それはそれは。してご貴殿のご姓名は?」「姓名の儀は千代千兵衛でがす」「アッハハハ、千代千兵衛殿か。いやこれはよいお名前だ」「どうぞ取り次いでおくんなせえ」「悪いことはいわぬ。帰った方がいい」「へえ、なぜでごぜえますな?」「なぜときくのか。ほかでもない、大先生は謹厳のお方、さようなことはなさらないが、若い血気の門弟衆の中には、悪《わる》ふざけをなさるお方がある。うかうか道場などへ参って見ろ、なぶられたあげく撲《なぐ》られるぞ」「へえ、そいつはおっかないね」「おっかないとも、だから帰れ」「撲られるのは大嫌いだ」「好きな奴があるものか」「だからおいら撲られねえだ。おいらの方から撲ってやるだ」「呆れた奴だ。物もいえぬ」「だから取り次いでおくんなせえまし」「取り次ぐことは罷《まか》りならぬよ」「ではどうしても出来ねえだか」「さようどうしても出来ないな」「ではしかたがねえ、帰るべえ」「その方がいい。安全だ」「その代り世間へいい触らすがいいか」「ナニいい触らす? 何をいい触らすのだ?」「千葉周作だ、北辰一刀流だと、大きな看板は上げているが、その実とんだ贋物《いかさまもの》で、甲州の千代千兵衛に試合を望まれたら、おっかながって逢わなかったと、こういい触らしても文句あるめえな」

    大胆なのか白痴《ばか》なのか?

 これを聞くと取り次ぎの武士は、にわかにその眼を怒らせたが、「いやはやなんと申してよいか、田舎者と思えばこそ、事を分けて訓《さと》してやったに、それが解らぬとは気の毒なもの。よしよしそれほど撲られたいなら、望みにまかせ取り次いでやろう。逃げるなよ、待っておれ」
 こういい捨てて奥へはいったが、やがて笑いながらひっ返して来た。
「大先生はご来客で、そち[#「そち」に傍点]などにはお目にかかれぬ。しかし道場にはご舎弟《しゃてい》様はじめ、お歴々の方が控えておられる。望みとあらば通るがよい」「へえ、有難う存じますだ」
 で、田舎者は上がり込んだ。長い廊下を行き尽くすと、別構えの道場であった。カチ、カチ、カチ、というしないの音、鋭い掛け声も聞こえて来た。
「さあはいれ」といいながら、取り次ぎの武士がまずはいると、その後に続いて田舎者は、構えの内へはいっていった。見かすむばかりの大道場、檜《ひのき》づくりの真新しさ、最近に建てかえたものらしい。向かって正面が審判席で、その左側の板壁一面に、撃剣道具がかけつらねてあり、それと向かい合った右側には、門弟衆の記名札が、ズラとばかり並んでいた。審判席にすわっているのは、四十年輩の立派な人物、外ならぬ千葉定吉で、周作に取っては実の弟、文武兼備という点では周作以上といわれた人、この人物であったればこそ、北辰一刀流は繁昌し、千葉道場は栄えたのであった。性来無慾|恬淡《てんたん》であったが、その代りちょっと悪戯《いたずら》好きであった。で、田舎者の姿を見るとニヤリと笑ったものである。その左側に控えていたのは、周作の嫡子|岐蘇太郎《きそたろう》、また右側に坐っていたのは、同じく次男栄次郎であって、文にかけては岐蘇太郎、武においては栄次郎といわれ、いずれも高名の人物であった。岐蘇太郎の横には平手造酒が坐し、それと並んで坐っているのは、他ならぬ観世銀之丞であった。打ち合っていた門弟達は、田舎者の姿へ眼をつけると、にわかにクスクス笑い出したが、やがてガラガラと竹刀《しない》を引くと、溜《たま》りへ行って道具を脱ぎ、左右の破目板を背後《うしろ》に負い、ズラリと二列に居流れた。
「他流試合希望の者、召し連れましてござります」
 取り次ぎの武士は披露した。
 すると定吉は莞爾《にっこり》としたが「千代千兵衛とやら申したな」
「へえ、千代千兵衛と申しますだ。どうぞハアこれからはお心易く、願《ねげ》えてえものでごぜえます」田舎者はこういうと、一向平気で頭を下げた。胆《きも》が太いのか白痴《ばか》なのか、にわかに判断がつき兼ねた。
「で、流名はないそうだな?」
「へえ、そんなものごぜえません」
「当道場の掟として門弟二、三人差し出すによって、まずそれと立ち合って見い」
「へえ、よろしゅうごぜえます。どうぞ精々《せいぜい》強そうなところをお出しなすってくだせえまし」
「秋田|氏《うじ》、お出なさい」
「はっ」というと秋田藤作、不承不承に立ち出でた。相手は阿呆の田舎者である、勝ったところで名誉にならず、負けたらそれこそ面汚《つらよご》しだ。一向|栄《はえ》ない試合だと思うと、ムシャクシャせざるを得なかった。そのうっぷんは必然的に、田舎者の上へ洩らされた。「こん畜生め覚えていろ、厭というほどぶん撲ってやるから」で手早く道具を着けると、しない[#「しない」に傍点]を持って前へ出た。これに反して田舎者は、さも大儀だというように、ノロノロ道具を着けだしたが、恐ろしく長目のしない[#「しない」に傍点]を握ると、ノッソリとばかり前へ出た。双方向かい合ってしないを合わせた。
 礼儀だから仕方がない、「お手柔らかに」と藤作はいった。
「へえ、よろしゅうごぜえます」これが田舎者の挨拶であった。まるで頼まれでもしたようであった。
「よろしゅうござるとは呆れたな。悪くふざけた田舎者じゃねえか。よし脳天をどやしつけ、きな臭い匂いでも嗅がせてやろう」藤作は益※[#二の字点、1-2-22]気を悪くしたが、「ヤッ」というと立ち上がり、一足引くと青眼につけた。と相手の田舎者は、同時にヌッと立ち上がりはしたが、うん[#「うん」に傍点]ともすん[#「すん」に傍点]ともいわばこそ、背後《うしろ》へ一足引くでもなく、ぼやっとして立っていた。位取りばかりは上段であった。

    合点のいかない剣脈である

「へ、生意気《なまいき》な、上段と来たな。今に見ていろひっくり返してやるから」じっと様子を窺った。相手の全身は隙だらけであった。「ざまア見やがれ田舎者め。構えも屁ったくれもありゃしない。全身隙とはこれどうだ。といってこれが機に応じて、ヒラリ構えが変るというような、そんなしゃれた玉ではなし、フフン、こいつ狂人《きちがい》かな。他流試合とは恐れ入る。かまうものかひっ叩いてやれ」
 ツト一足進んだ時、どうしたものか田舎者は、ダラリとしない[#「しない」に傍点]を下げてしまった。
「もしもしお尋ね致しますだ」こんな事をいい出した。「ちょっくらお尋ね致しますだよ」
「なんだ?」といったが秋田藤作すっかり気勢を削がれてしまった。試合の最中しないを下ろし、ちょっくら待てという型はない。無作法にも事を欠く、うんざりせざるを得なかった。
「何か用か、早くいえ」
「あのお前様《めえさま》の位所《くらいどころ》は、どこらあたりでごぜえますな?」
「剣道における位置の事か?」「へえ、さようでごぜえます」「拙者はな、切り紙だ」「切り紙というとビリッ尻《けつ》だね」「無礼なことをいうものではない」「さあそれじゃやりやしょう」
 そこで二人はまた構えた。千葉道場の切り紙は、他の道場での目録に当たった。もう立派な腕前であった。その藤作が怒りをなし、劇《はげ》しく竹刀《しない》を使い出したので、随分荒い試合となった。「ヤ、ヤ、ヤ、ヤ……ヤ、ヤ、ヤ、ヤ」こう気合を畳み込んで、藤作は前へ押し出して行ったが、相手の田舎者は微動さえしない。同じ場所に立っていた。一歩も進まず一歩も退かない。盤石のような姿勢であった。そうして全身隙だらけであった。しかも上段に振り冠っていた。
 見当のつかない試合ぶりであった。
「胴!」とばかり藤作は、風を切って打ち込んだ。ポーンといういい音がした。
「擦《かす》った!」と田舎者は嘲笑った。審判席からも声が掛からない。で藤作はツト退いた。じっと双方睨み合った。
「小手!」とばかり藤作は、再度相手の急所を取った。
「擦った」と田舎者はまたいった。嘲けるような声であった。審判席からは声が掛からない。
 またも双方睨み合った。
「面!」と一|声《せい》藤作が、相手の懐中《ふところ》へ飛び込んだとたん、
「野郎!」という劇しい声がした。その瞬間に藤作は、床の上へ尻餅を突いた。プーンときな臭い匂いがして、眼の前をキラキラと火花が飛び脳天の具合が少し変だ。「ははあ、おれは打たれたんだな」……そうだ! 十二分にどやされたのであった。
「勝負あった」と審判席から、はじめて定吉の声がした。
「参った」といったものの秋田藤作は、どうにも合点がいかなかった。いつ撲られたのかわからなかった。
 審判席では定吉が、眉をしかめて考え込んだ。
「これは普通の田舎者ではない。十分腕のある奴らしい。道場破りに来たのかも知れない。それにしても不思議な剣脈だな。動かざること山の如しだ。それにただの一撃で、相手の死命を制するという、あの素晴らしい意気組は、尋常の者には出来ることではない。……迂濶《うかつ》な相手は出されない。……観世氏、お出なさい」
「はっ」というと観世銀之丞は物臭さそうに立ち上がった。

    観世銀之丞引き退く

 観世銀之丞は能役者であった。それが剣道を学ぶとは、ちょっと不自然に思われるが、そこは変り者の彼のことで、一門の反対を押し切って、千葉道場へは五年前から、門弟としてかよっていた。天才にありがちの熱情は、剣道においても英発《えいはつ》し、今日ではすでに上目録であった。千葉道場での上目録は、他の道場での免許に当たり、どうして堂々たるものであった。もっとも近来憂鬱になり、物事が退屈になってからは、剣道の方も冷淡となり、道場へ来る日も稀《まれ》となったが、今日は珍らしく顔を見せていた。
 道具を着けるとしない[#「しない」に傍点]を取り、静かに前へ進み出た。で田舎者もうずくまり、しない[#「しない」に傍点]としない[#「しない」に傍点]とを突き合わせた。と田舎者はまたいい出した。
「へえ、ちょっくらおきき致しますだ」「ああ何んでもきくがいい」「お前様の位所《くらいどころ》はえ?」「おれはこれでも上目録だよ」「へえさようでごぜえますかな。千葉道場での上目録は、大したものだと聞いているだ。さっきの野郎とは少し違うな」「これこれ何んだ。口の悪い奴だ」「それじゃおいらもちっとばかり、本気にならずばなるめえよ」「一ついいところを見せてくれ」
「やっ」と銀之丞は立ち上がった。ヌッと田舎者も立ち上がり、例によって例の如く、しない[#「しない」に傍点]を上段に振り冠ったが、姿勢が何んとなく変であった。「おや」と思って銀之丞は、相手の構えを吟味した。突然彼は、「あっ」といった。それと同時に審判席から、同じく、「あっ」という声がした。声の主は平手造酒だ。二人の驚いたのはもっともであった。千代千兵衛となのる田舎者は、足を前後へ構えずに、左右へウンと踏ん張っていた。銀之丞は考えた。
「ははあ、さてはあいつ[#「あいつ」に傍点]であったか。北国街道の芒原で、甚三殺しの富士甚内を、不思議な構えでおどしつけた、博徒姿の旅人があったが、ははあさてはこいつ[#「こいつ」に傍点]であったか。それにしてもいったい何者であろう?」……で、じっと様子を見た。相変らず全身隙だらけであった。胴も取れれば小手も取れた。決して習った剣道ではなかった。それにもかかわらず彼の体からは、不思議な力がほとばしり、こっちの心へ逼って来た。面《おもて》も向けられない殺気ともいえれば、戦闘的の生命力ともいえた。とまれ恐ろしい力であった。
「業《わざ》からいったら問題にもならぬ。おれの方がずっと上だ。しかし打ち合ったらおれが負けよう。ところで平手とはどうだろう? いや平手でも覚束ない、この勝負はおれの負けだ。負ける試合ならやらない方がいい」こう考えて来た銀之丞は、一足足を後へ引いた。そうして「参った」と声をかけた。道具を解くとわるびれもせず、元の席へ引き上げて行った。
「どうした?」と造酒はそれと見ると、気づかわしそうにささやいた。「お前の手にも合わないのか?」
 すると銀之丞は頷《うな》ずいたが、「恐ろしい意気だ。途方もない気合いだ」「追分で逢った博徒のようだが」「うん、そうだ、あいつだよ」「待ったなし流とかいったようだな」「うん、そうそう、そんなことをいったな」「ポンポンガラガラ打ち合わずに、最初の一撃でやっつける、つまりこういう意味らしいな」「うん、どうやらそうらしい」「足を左右に踏ん張ったでは、進みもひきもならないからな。居所攻《いどころぜ》めという奴だな」「そうだ、そいつだ、居所攻めだ。胴を取られても小手を打たれても、擦《かす》った擦ったといって置いて、敵が急《あせ》って飛び込んで来るところを、真っ向から拝み打ち、ただ一撃でやっつけるのだ」「観世、おれとはどうだろう?」「平手、お前となら面白かろう。しかし、あるいは覚束ないかもしれない」
 いわれて造酒は厭な顔をしたが、田舎者の方をジロリと見た。と田舎者は相も変らず、ノッソリとした様子をして、道場の真ん中に立っていた。たいして疲労《つか》れてもいないらしい。審判席では定吉先生が、さも驚いたというように、長い頤髯《ひげ》を扱《しご》いていた。眉の間に皺が寄っていた。神経的の皺であった。
「秋田藤作は駄目としても、観世銀之丞は上目録だ、それが一合も交わさずに、引き退くとは驚いたな。非常な腕前といわなければならない。しかしどうも不思議だな、そんな腕前とは思われない」

    平手造酒と田舎者

 定吉は思案に余ってしまった。「これはおれの眼が曇ったのかもしれない。どうにも太刀筋が解らない。とまれこやつは道場破りだな。このままでは帰されない。もうこうなれば仕方がない。平手造酒を出すばかりだ」
 で彼は厳然といった。「平手氏、お出なさい」
 平手造酒は一礼した。それから悠然と立ち上がった。
 千葉門下三千人、第一番の使い手といえば、この平手造酒であった。師匠周作と立ち合っても、三本のうち一本は取った。次男栄次郎も名人であったが、造酒と立ち合うと互角であった。しかしこれは造酒の方で、多少手加減をするからで、造酒の方が技倆《うで》は上であった。定吉に至ると剣道学者で、故実歴史には通じていたが、剣技はずっと落ちていた。
 由来造酒は尾張国、清洲在の郷士《ごうし》の伜《せがれ》で、放蕩無頼且つ酒豪、手に余ったところから、父が心配して江戸へ出し、伯父の屋敷へ預けたほどであった。しかしそういう時代から、剣技にかけては優秀を極め、ほとんど上手《じょうず》の域にあった。それを見込んだのが周作で、懇々身上を戒めた上己が塾へ入れることにした。爾来|研磨《けんま》幾星霜《いくせいそう》、千葉道場の四天王たる、庄司《しょうじ》弁吉、海保《かいほ》半平、井上八郎、塚田幸平、これらの儕輩《せいはい》にぬきんでて、実に今では一人武者であった。すなわち上泉伊勢守《こうずみいせのかみ》における、塚原小太郎という位置であった。もしこの造酒が打ち込まれたなら、もう外には出る者がない。厭でも周作が出なければならない。
 それほどの造酒が定吉の指図《さしず》で、不思議な田舎者と立ち合おうため、己が席から立ったのであった。場内しいんと静まり返り、しわぶき一つする者のないのは、正に当然な事であろう。そのおかし気《げ》な田舎者の態度に、ともすれば笑った門弟達も、今は悉くかたずを呑み、不安の瞳を輝かせていた。
 その息苦しい気分の中で、造酒は悠然と道具を着けた。彼の心には今や一つの、成算が湧いていたのであった。「恐ろしいのは一撃だ。そうだはじめの一撃だ。これさえ避ければこっちのものだ」彼は窃《ひそ》かにこう思った。「あせってはいけないあせってはいけない。こっちはあくまで冷静に、水のように澄み返ってやろう。そうして相手をあせらせてやろう。一ときでも二ときでも、ないしは一日でも待ってやろう。つまり二人の根比《こんくら》べだ。根が尽きて気があせり、構えが崩れた一|刹那《せつな》を、一気に勝ちを制してやろう。相手の不思議なあの構えを、突き崩すのが急務である」
 やがて道具を着けおわると、別誂えの太く長く、持ち重《おも》りのするしない[#「しない」に傍点]を握り、静かに道場の真ん中へ出た。両膝を曲げ肘を張り、ズイとしない[#「しない」に傍点]を床上へ置いた。それと見ると田舎者も、肘を張り両膝を曲げ、しない[#「しない」に傍点]の先を食っつけたが、「ちょっくらおたずね致しますだ」例のやつをやり出した。「平手様とおっしゃったようだが、そうすると平手造酒様だかね?」
「さよう、拙者は平手造酒だ」
「へえ、さようでごぜえますか。では皆伝でごぜえますな」「さよう、拙者は皆伝だ」「お前様さえ打ち込んだら、こっちのものでごぜえますな。ほかに出る人はねえわけだね。ヤレ有難い、とうとう漕ぎつけた。それじゃおいらも一生懸命、精一杯のところを出しますべえ」
 二人はしばらくおしだまった。ややあって同時に立ち上がった。造酒はピタリと中段につけ、しない[#「しない」に傍点]の端から真っ直ぐに、相手の両眼を睨みつけた。例によって田舎者は、二本の足を左右へ踏ん張り、しない[#「しない」に傍点]を上段に振り冠ったが、これまた柄頭《つかがしら》から相手の眼を、凝然《ぎょうぜん》と見詰めたものである。

    突き出された一本の鉄扇

 木彫りの像でも立てたように、二人はじっと静まっていた。双方無駄な掛け声さえしない。しない[#「しない」に傍点]の先さえ動かない。息使いさえ聞こえない。
 根気比べだと決心して、さて立ち上がった平手造酒は、水ももらさぬ構えをつけ、相手の様子を窺ったが、さっき銀之丞が感じたようなものを、やはり感ぜざるを得なかった。かつてこれまで経験したことのない、殺気といおうか圧力といおうか、ゾッとするような凄い力が、相手の体全体から、脈々として逼って来た。……「不思議だな」と彼は思った。「何んだろういったいこの力は? いったい何から来るのだろう?」……どうもはっきりわからない。わからないだけに気味が悪い。で、なお造酒は考えた。
「あいつはまるであけっぱなしだ。全身まるで隙だらけだ。それでいてやっぱり打ち込めない。不可解な力が邪魔をするからだ。それに反してこのおれは、あらゆる神経を働かせ、あらゆる万全の策を取り、全力的に構えている。おれの方が歩が悪い。おれの方が早く疲労《つかれ》る。おれの方が根負けする」
 こう思って来て平手造酒は、動揺せざるを得なかった。「あぶない!」と彼はその突嗟《とっさ》、自分の心を緊張《ひきし》めた。「考えてはいけない考えてはいけない。無念無想、一念透徹、やっつけるより仕方がない」
 で彼は自分の構えを、一層益※[#二の字点、1-2-22]かたくした。場内|寂然《せきぜん》と声もない。
 窓からさし込む陽の光さえ、思いなしか暗く見えた。
 こうして時が過ぎて行った。
 造酒にとってはその「時」が、非常に長く思われた。それが彼には苦痛であった。「打ち込んで行くか、打ち込まれるか、どうかしなければいたたまれない。とてもこのままでは持ち耐《こた》えられない……といって向こうからは打ち込んでは来まい。ではこっちから打ち込まなければならぬ」
 で造酒は構えたまま、ジリッと一足前へ出た。そうしてしばらく持ち耐えた。そうして相手の様子を見た。しかるに相手は動かない。凝然として同じ位置に、同じ姿勢で突ったっていた。これが常道の剣道なら、一方が進めば一方が退き、さらに盛り返し押し返すか、出合い頭を打って来るか、ないしはズルズルと押しに押され、つめに詰められて取りひしがれるか、この三つに帰着するのであるが、そこは変態の剣道であった。一足ジリリと詰め寄せられても、田舎者は微動さえしない。そこでやむを得ず造酒の方で、せっかく詰めたのを後戻りした。一歩後へひいたのであった。でまた二人は位取《くらいど》ったまま、木像のように動かない。しかしやはり造酒にとっては、この「動かない」ということが、どうにも苦しくてならなかった。で一足引いて見た。相手を誘《おび》き出すためであった。しかるに相手は動かない。左右に踏ん張った二本の足が、鉄で造られた雁股《かりまた》のように、巌然《がんぜん》と床から生え上がっていた。前へも進まず後へも退かず、真に徹底した居所攻《いどころぜ》めだ。で、やむを得ず造酒の方で、一端ひいたのを寄り戻した。同じ位置に復したのであった。「もうこれ以上は仕方がない。心気|疲労《つか》れて仆れるまで、ここにこうして立っていよう」造酒は捨鉢《すてばち》の決心をした。こうして二人は場の真ん中に、数百人の眼に見守られながら、静まり返って立っていた。
 と気味の悪い幻覚が、造酒の眼に見えて来た。相手が上段に構えている、しない[#「しない」に傍点]の先へポッツリと、真紅《しんく》のしみ[#「しみ」に傍点]が現われたが、それが見る間に流れ出し、しない[#「しない」に傍点]を伝い鍔《つば》を伝い、柄頭まで伝わった。と思うとタラタラと、床の上へ流れ落ちた。他でもない血潮であった。ハッと思って見直す、とそんなしみなどはどこにもない。「何んだ馬鹿な!」と思う間もなく、またもや同じしない[#「しない」に傍点]の先へ、ポッツリ真紅のしみが出来、それがタラタラと流れ下った。プンと生臭い匂いがした。とたんにグラグラと眼が廻った。同時に造酒は、「しまった!」と思った。「打たれる! 打たれる! いよいよ打たれる!」
 果然相手の千代千兵衛の眼が面越しに火のように輝いた。と同時に武者顫いがその全身を突き通った。
「今、打たれる! 今、打たれる!」造酒は我知らず眼を閉じた。しかし不思議にも相手のしない[#「しない」に傍点]が、体のどこへも落ちて来ない。彼はカッと眼を開けた。彼と敵とのその間に、一本の鉄扇が突き出されていた。太い指がガッシリと、鉄扇の柄《え》を握っていた。指に生えている細い毛が、幽かに幽かに顫えていた。造酒は鉄扇の持ち主を見た。

    忽ち崩れた金剛の構え

 中肉中|丈《ぜい》で色白く、眉目清秀で四十一、二、頬にも鼻下にも髯のない、一個|瀟洒《しょうしゃ》たる人物が、黒紋付きの羽織を着、白縞の袴を裾長に穿き、悠然とそこに立っていた。千葉周作成政であった。
「む」というと平手造酒は、構えを崩して後へ引いた。と、周作は造酒に代り、田舎者千代千兵衛へ立ち向かった。
 田舎者の上段は、なお崩れずに構えられた。それへ向けられた鉄扇は、一見いかにも弱々しく、そうして周作の表情には、鋭さを示す何物もなかった。
 静かであり冷ややかであった。しかるに忽然《こつぜん》その顔へ、何かキラリと閃めいた。その時初めて田舎者の金剛不動の構えが崩れ、両足でピョンと背後《うしろ》へ飛んだ。そうしてそこで持ち耐《こら》えようとした。しかしまたもや周作の顔へ、ある感情が閃めいた。とまた千代千兵衛は後へさがった。そうしてそこで持ち耐えようとした。しかし三度目の感情が、周作の顔へ閃めいた時、千代千兵衛の構えは全く崩れ、タ、タ、タ、タ、タ、タと崩砂《なだれ》のように、広い道場を破目板《はめいた》まで、後ろ向きに押されて行った。そうしてピッタリ破目板へ背中をくっつけてしまったのである。
 追い詰めて行った周作は、この時初めて「カッ」という、凄じい気合いを一つ掛けたが、それと同時に鉄扇を、グイとばかりに手もとへひいた。するとあたかも糸でひかれた、繰《あやつ》り人形がたおれるように、そのひかれた鉄扇に連れ、千代千兵衛のからだはパッタリと、前のめりにたおれたが、起き上がることが出来なかった。全く気絶したのであった。
 周作は穏《おだや》かに微笑したが、審判席へ歩み寄った。舎弟定吉が席を譲った。その席へ悠然と坐った時、道場一杯に充ちていた、不安と鬱気とが一時に、快然と解けるような思いがした。
「平手、平手」と周作は呼んだ。「今の勝負、お前の負けだ」
「私もさよう存じました」造酒は額の汗を拭き、「恐ろしい相手でございます」
「これはな、別に不思議はない。実戦から来た必勝の手だ」
「実戦から来た必勝の手? ははあさようでございますかな」
「というのは外でもない」周作はにこやかに笑ったが、「泰平の世の有難さ、わしの門弟は数多いが、剣《つるぎ》の稲妻、血汐の雨、こういう修羅場を経て来たものは、恐らく一人もあるまいと思う。いやそれはない筈だ。しかるにそこにいる千代千兵衛という男、その男だけは経て来ている。恐らくこやつは博徒であろう。それも名のある博徒であろう。彼らの言葉で出入《でい》りというが、百本二百本の長脇差が、縦横に乱れる喧嘩の場を、潜《くぐ》って来た奴に相違ない。それも一回や二回ではない。幾度となく潜って来た奴だ。それは自然と様子で知れる。そこだ、陸上の水練の、役に立たないというところは! 胴をつけ面を冠り、しないを取っての試合など、例えどんなに上手になっても、一端戦場へ出ようものなら、雑兵ほどの役にも立たぬ。残念ではあるが仕方がない、これは実にやむを得ぬことだ」
 こういって周作は、またにこやかに笑ったが、
「もうそろそろよいだろう。どれ」というと立ち上がり、田舎者の側へ寄って行った。この時までも緊《しっか》りと、しないを握っていた十本の指を、まず順々に解いて行き、やがてすっかり解いてしまうと、上半身を抱き起こした。やっ! という澄み切った気合い、ウーンという呻き声が、田舎者の口から洩れたかと思うと、すぐムックリと起き上がった。別にキョロキョロするでもなく、一渡り四辺《あたり》を見廻したが、周作の姿へ眼を止めると、「参った!」といって手を突いた。
「どうだな気分は? 苦しくはないかな?」
 気の毒そうに周作はきいた。
「へい、お肚《なか》が空きやした」これが田舎者の挨拶であった。
「おお空腹か、そうであろう、誰か湯漬《ゆづ》けを持って来い。……さてその間にきく事がある。もう本名を明かせてもよかろう」

    剣《つるぎ》の神様でございます

「へい、もうこうなりゃ仕方がない、何んでも申し上げてしまいますよ」「産まれはどこだ? これから聞きたい」「へい、上州でございます」「うん、そうして上州はどこだ?」「佐位郡《さいごおり》国定村《くにさだむら》で」
 すると周作は頷《うなず》いたが、「ではお前は忠次であろう?」
「へい、図星でございます。国定忠次でございます」
 これを聞くと道場一杯、押し並んでいた門弟の口から、「ハーッ」というような声が洩れた。これは驚いた声でもあり、感動をした声でもあった。当時国定忠次といえば、関東切っての大侠客、その名は全国に鳴り渡っていて、「国定忠次は鬼より怖い、ニッコリ笑えば人を斬る」と唄にまで唄われていたものである。その忠次だというのであるから、ハーッと驚くのももっともであろう。
「おお、そうか、忠次であったか、わしもおおかたその辺であろうと、実は眼星をつけていたが、いよいよそうだと明かされて見ると、妙に懐かしく思われるな。それはそうとさて忠次、よい構えを見つけたな」
「へい、これは恐れ入ります。ほんの自己流でございまして、お恥ずかしく存じます」
「剣の終局は自己流にある。一派を編み出し一流を開く、すべて自己の発揮だからな。いつその構えは発明したな?」
「島の伊三郎を討ち取りました時から、自得致しましてございます」
「しかし忠次その構えでは、お前も随分切られた筈だが?」
「仰せの通りでございます」こういうと忠次は右腕を捲った。五、六ヵ所の切傷《きず》があった。「かような有様でございます」それから彼は左腕を捲った。七、八ヵ所の切傷《きず》があった。「この通りでございます」それから彼はスッポリと、両方の肌を押し脱いだ。胸にも肩にも左右の胴にも、ほとんど無数の太刀傷があった。「ご覧の如くでございます」それから彼は肌を入れた。
「ううむなるほど、見事なものだな」周作は感心してうなずいた。
「へい、わっちが待ったなし流で、じっと構えておりますと、相手の野郎はいい気になって、ちょくちょく切り込んで参ります。それをわっちは平気の平左で、切らして置くのでございますな。ビクビクもので切って来る太刀が、何んできまることがございましょう。皮を切るか肉にさわるか、とても骨までは達しません。そこがつけ目でございます。そうやって充分引きつけて置いて、いよいよ気合いが充ちた時、それこそ待ったなしでございますな、一撃にぶっ潰すのでございます」忠次はここでニヤリとした。
「お前と立ち合った人間の中、これは恐ろしいと思った者が、一人ぐらいはあったかな?」「へい、一人ございました」「おおそうか、それは誰だな?」「そこにいらっしゃる平手様で」「ナニ平手? ふうん、そうか」「何んと申したらよろしいやら、細い鋭い針のようなものが、遠い所に立っている。とてもそこまでは手が届かない。こんな塩梅《あんばい》に思われました。技芸《わざ》の恐ろしさをその時初めて、感じましてございますよ」「しかし試合はお前の勝ちだ」「それはさようかも知れませぬ。わっちの構えは技芸だけでは、破られるものではございません」
 すると周作は莞爾《にっこり》としたが、「ではなぜおれに破られたな?」
 すると忠次はいずまいを正し、「へい、それは先生には、人間でないからでございますよ」「人間でない? それでは何か?」
「剣《つるぎ》のひじりでございます。剣の神様でございます。先生にじっとつけられました時、これまでかつて感じたことのない、畏敬の心が湧きました。そうして先生のお姿も、また鉄扇もなんにも見えず、ただ先生のお眼ばかりが、二つの鏡を懸けたように、わっちの眼前で皎々《こうこう》と、輝いたものでございます。とたんにわっちの構えが崩れ、あの通りの有様に気絶してしまったのでございます」
 忠次ほどの豪傑も、こういってしまうと額の汗を、改めて拭ったものである。

    国定忠次の置き土産

 上州の侠客国定忠次が、江戸へ姿を現わしたのは、八州の手に追われたからで、上州から信州へ逃げ、その信州の追分で、甚三殺しと関係《かかりあ》い、その後ずっと甲州へ隠れ、さらに急流富士川を下り、東海道へ出現し、江戸は将軍お膝元で、かえって燈台|下《もと》暗しというので、大胆にも忍んで来たのであった。千葉道場へやって来たのも、深い魂胆があったからではなく、自分の我無沙羅《がむしゃら》な「待ったなし流」を、見て貰いたいがためであった。
「千葉道場におりさえしたら、八州といえども手を出すまい。忠次ここで遊んで行け」
 千葉周作はこういって勧めた。
「へい、有難う存じます」忠次はひどく喜んで、二十日あまり逗留した。と云っていつまでもおられない、いわゆる忙《せわ》しい体だったので、やがて暇《いとま》を乞うことにした。
「お前達はずんで餞別をやれ」千葉周作がこういったので、門弟達は包み金を出した。それが積もって五十両、それを持って国定忠次は、日光指して旅立って行った。
 さて、これまでは無難であったが、これから先が無難でない。ある日造酒が銀之丞へいった。
「観世、お前はどう思うな?」藪から棒の質問であった。
「どう思うとは何を思うのだ?」銀之丞は変な顔をした。
「国定忠次のあの太刀筋、素晴らしいとは思わぬかな」「うむ、随分素晴らしいものだな」「ところであれは習った技ではない」「それは先生もおっしゃった」「人を斬って鍜えた[#「鍜えた」はママ]技だ」「それも先生はおっしゃった筈だ」「ところが我々はただの一度も、人を斬った経験がない」「幸か不幸か一度もないな」「そこで腕前はありながら、忠次風情にしてやられたのだ」「いやはや態《ざま》の悪い話ではあったぞ」「それというのもこのわれわれが、人を斬っていないからだ」「残念ながら御意《ぎょい》の通りだ」「観世、お前も残念と思うか?」「ナニ、大して残念でもないな」「貴公はそういう人間だ」「アッハハハ、仰せの通り」「張り合いのない手合いだな」「では大いに残念と行くか?」
 すると造酒はニヤリとしたが、
「観世、今夜散歩しよう」
「散歩? よかろう、どこへでも行こう。……が、散歩してどうするのだ?」
 すると造酒はまた笑ったが、
「観世、貴公は知っているかな、当時江戸の三塾なるものを」
「ふざけちゃいけない、ばかな話だ、三児といえども知っているよ。まず第一が千葉道場よ、つづいて斎藤弥九郎塾、それから桃井春蔵塾だ。それがいったいどうしたのだえ?」「その桃井の内弟子ども、吉原を騒がすということだ」「そういう噂は聞いている。無銭遊興をやるそうだな」
「だからこいつらは悪い奴だ」「義理にもいいとはいわれないな」「こんな手合いは叩っ切ってもいい」
 これを聞くと銀之丞は、造酒のいう意味がはじめてわかった。で彼は声をひそめ、
「平手、辻斬りをする気だな」
 すると造酒はうなずいて見せたが、「厭なら遠慮なくいうがいい」
 銀之丞は考え込んだ。「平手、面白い、やっつけようぜ!」
「それじゃ貴公も賛成か」「平手、おれはこう思うのだ。自分が何より大事だとな。おれの根深いふさぎの虫は、容易なことでは癒らない。海外密行か入牢か、そうでなければ人殺し、こんな事でもしなかったら、まず癒る見込みはない。……で、おれは思うのだ、構うものかやっつけろとな。……それも町人や百姓を、金のために殺すのではない。桃井塾の門弟といえば、こっちと同じ剣道家だ。殺したところで罪は浅い。それにうかうかしようものなら、あべこべにこっちがしとめられる。いってみれば真剣勝負だ。構うものかやっつけよう」「いい決心だ。ではやるか」
「うんやろう! 散歩しよう」「アッハハハ、散歩しよう」
 血気にまかせて二人の者は、その夜フラリと家を出た。

    江戸市中人心|恟々《きょうきょう》

 その翌日のことであるが、江戸市中は動揺した。日本堤の土手の上で、恐ろしい辻斬りがあったからであった。殺されたのは二人の武士で、桃井塾の門弟の中でも、使い手の方だということであったが、一人は袈裟掛け一人は腰車、いずれも一刀でしとめられていた。
「桃井塾の乱暴者、結句殺されていい気味だ」と、人々はかえって喜んだが、ただ喜んでいられないような、恐ろしい事件がもう一つ起こった。その同じ夜に谷中の辻で、掛け取り帰りの商家の手代が、これも一刀にしとめられ、金を五十両取られたのであった。
「おい観世、少し変だな」
 その翌日道場の隅で、二人顔を合わせた時、造酒は銀之丞へささやいた。「我々がやったのは二人だけだのに、死人が三人とはおかしいではないか」
「うん、少しおかしいな」銀之丞は首をかしげ、「我々以外にもう一人、辻斬りをやったものがあるらしいな」「そうだ、どうやらあるらしい。それにしても不都合だな。殺したあげく金を取るとは」
 二人はちょっと厭な顔をした。
「それはそうとオイ観世、人を斬ってどんな気持ちがしたな?」「平手、何んともいえなかったよ。まず一刀切りつけたね、するとカッと血が燃えたものだ。と思った次の瞬間には、スーッとそいつが冷え切ったものだ。頭が一時に澄み返り、シーンとあたりが寂しくなった。その時おれは思ったよ、生き甲斐がある生き甲斐があるとな」「ふうむなるほど、面白いな」「で、お前はどうだったな?」「真の手応え! こいつを感じたよ」「ふうむなるほど、面白いな」

 翌晩またも辻斬りがあった。場所は上野の山下で、殺されたのは二人の武士、やっぱり桃井の塾弟子であった。しかるにもう一人隅田堤で、町家の主人が殺されていた。
 それからひきつづいて十日というもの、毎晩三人ずつ殺された。二人はいつも武士であったが、一人はおおかた町人で、そうしてきっと金を取られていた。
 鼓賊の禍いにかててくわえて、辻斬り沙汰というのであるから、江戸の人心は恟々《きょうきょう》として、夜間の通行さえ途絶えがちになった。

 こういう物騒なある晩のこと、面白い事件が勃発した。いやそれはむしろ面白いというより、奇怪な事件といった方がよい。町人一人に武士五人、登場人物は六人であった。素晴らしい事件ではあったけれど、また非常に複雑を極めた、微妙な事件ではあったけれど、秘密の間に行われたためか、市民達はほとんど知らなかった。捕物帳にも載せてなければ、奉行所の記録にも記されてない。これは疎漏《そろう》といわなければならない。
 で、その晩のことであるが、みすぼらしい一人の侍《さむらい》が、下谷池ノ端をあるいていた。登場人物の一人であった。すると向こうから老武士が来た。登場人物の二人目であった。
 二人は事もなく擦れ違おうとした。「あいやしばらくお待ちくだされ」とたんに老武士が声を掛けた。
 すると、みすぼらしい侍は、そのまま静かに足をとめたが、「何かご用でござるかな?」
「用と申すではござらぬが、物騒のおりからかかる深夜に、どこへお越しなされるな?」
「これはこれは異なお尋ね、深夜にあるくが不審なら、なぜそこもともおあるきなさる」みすぼらしい侍はしっぺ返したが、これはいかにももっともであった。
「いやナニそのように仰せられては、角が立って変なもの、とがめ立てしたが悪いとなら、拙者幾重にもおわび致す」老武士は言葉を改めた。

    流名取り上げ破門の宣言《せんこく》

ほどの事でもない」みすぼらしい侍は笑ったが、「実をいえばお言葉通り、世間物騒のおりからといい、かような深夜の一人歩きは、好ましいことではござらぬが、実は拙者は余儀ない理由で、物を尋ねているのでな」
「ははあさようでござるかな。して何をお尋ねかな?」
「ちと変った尋ねものでござる」
「お差し支えなくばお明かしを」
「いやそれはなりませぬ」
「さようでござるかな、やむを得ませぬ。……実はな、拙者もそこもとと同じく、物を尋ねておるのでござるよ。ちと変った尋ねものをな」
「似たような境遇があればあるものだ」
「さよう似たような境遇でござる」
 二人はそっと笑い合った。
「ご免くだされ」「ご免くだされ」事もなく二人は別れたものである。
 で、老武士はゆるゆると、不忍池《しのばずのいけ》に沿いながら、北の方へあるいて行った。二町余りもあるいたであろうか、彼は杭《くい》のように突っ立った。
「聞こえる聞こえる鼓の音が!」
 果然鼓の音がした。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、微妙極まる音であった。
「うむ、とうとう見つけたぞ! 今度こそは逃がしはせぬ! 小梅で聞いた鼓の音! おのれ鼓賊! こっちのものだ!」
 音を慕って老武士は、松平出雲守の邸の方へ、脱兎のように走って行った。
 これとちょうど同じ時刻に、例のみすぼらしい侍は、黒門町を歩いていたが、何か考えていると見えて、その顔は深く沈んでいた。
 と、行く手の闇の中へ、二つの人影が現われたが、しずしずとこっちへ近寄って来た。登場人物の三人目と、登場人物の四人目であった。近付くままによく見ると、ふたりながら武士であった。
 双方ゆるゆる行き過ぎようとした。とたんに事件が勃発した。
 と云うのはほかでもない。行き過ぎようとした刹那、その三番目の登場人物が、声も掛けず抜き打ちに、みすぼらしい侍へ切り付けたのであった。その太刀風の鋭いこと、闇をつんざいて紫電一条斜めに走ると思われたが、はたしてアッという悲鳴が聞こえた。しかし見れば意外にも、切り込んで行った武士の方が、大地の上に倒れていた。そうしてみすぼらしい侍が、その上を膝で抑えていた。驚いた四番目の登場人物が、すかさず颯《さっ》と切り込んで行ったが、咄嗟《とっさ》に掛かった真の気合い、カーッという恐ろしい声に打たれ、タジタジと二、三歩後へ退った。間髪を入れず息抜き気合い、エイ! という声がまた掛かった。と四番目の人物は、バッタリ大地へ膝をついた。この間わずかに一分であった。後は森然《しん》と静かであった。と、みすぼらしい侍は、膝を起こして立ち上がったが、それからポンポンと塵を払うと、憐れむような含み声で、
「殺人剣活人剣、このけじめさえ解らぬような、言語に絶えた大馬鹿者、天に代って成敗しようか。いやそれさえ刀の穢れ、このまま見遁がしてやるほどに、好きな所へ行きおろう。……但し、北辰一刀流は、今日限り取り上げる。師弟の誼《よし》みももうこれまで、千葉道場はもちろん破門、立ち廻らば用捨《ようしゃ》せぬぞ」
 そのままシトシトと行き過ぎてしまった。実に堂々たる態度であった。二人の武士は一言もなく、そのあとを見送るばかりであった。
 と、一人が吐息《といき》をした。「オイ観世、ひどい目にあったな?」
「大先生とは知らなかった。平手、これからどうするな?」
「うむ」といって思案したが、「いい機会だ、旅へ出よう。そうして一修行することにしよう」
「武者修行か、それもいいな。ではおれもそういうことにしよう。但しおれは剣はやめだ。おれはおれの本職へ帰る。能役者としての本職へな」

    意外、意外、また意外!

 さて一方老武士は、ポンポンと鳴る鼓を追って、ドンドンそっちへ走って行ったが、松平出雲守の邸前まで来ると、音の有所《ありか》が解らなくなった。はてなと思って耳を澄ますと、やっぱり鼓は鳴っていた。どうやら西の方で鳴っているらしい。でそっちへ走って行った。そこに立派な屋敷があった。松平備後守の屋敷であった。しかしそこまで行った時には、もう音は聞こえない。しかしそれより南の方角で、幽《かす》かにポンポンと鳴っていた。
「素早い奴だ」と舌を巻きながら、老武士は走らざるを得なかった。式部少輔榊原家の、裏門あたりまで来た時であったが、はじめて人影を見ることが出来た。尾行《つ》ける者ありと知ったのでもあろう、もう鼓を打とうとはせず、その人影は走って行った。その走り方を一眼見ると、
「しめた!」と老武士は思わずいった。
「横あるきだ横あるきだ!」
 その横歩きの人影は、見る見る煙りのように消えてしまった。
「よし、あの辺は今生院《こんじょういん》だな。東へ抜けると板倉家、西へ突っ切ると賀州殿、これはどっちも行き止まりだ。さて後は南ばかり、あっ、そうだ湯島へ出たな!」
 考える間もとし[#「とし」に傍点]遅《おそ》しで、老武士は近道を突っ走った。

「これ、ばか者、気をつけるがいい、何んだ、うしろからぶつかって来て」
 こう怒鳴りつける声がした。湯島天神の境内であった。怒鳴ったのは侍で、ほかならぬ観世銀之丞であった。各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》好む道へ行こう、お前は武者修行へ出るがよい、おれは本職の能役者へ帰ると、こういって親友の平手造酒と、黒門町で手を分かつと、麹町のやしきへ戻ろうと、彼はここまで来たのであった。その時やにわにうしろから、ドンとぶつかったものがあった。
「これ何んとか挨拶をせい。黙っているとは不都合な奴だ」
 いいいい四辺《あたり》を見廻した。するとどこにも人影がない。
「あっ」と銀之丞は飽気《あっけ》に取られた。
「これは不思議、誰もいない」
 気がついて自分の手もとを見た。そこでまた彼は「あっ」といった。空身であった彼の手が、変な物を持っていた。
「なんだこれは?」とすかして見たが、三度彼は「あっ」といった。今度こそ本当の驚きであった。彼の持っている変な物こそ、ほかでもない鼓であった。それも尋常な鼓ではない。かつて追分で盗まれた、家宝少納言の鼓であった。
「むう」思わず唸ったが、そのままじっと考え込んだ。
 と、また人の足音がした。ハッと思って振り返った眼前《めさき》へ、ツト現われた老武士があった。
「卒爾《そつじ》ながらおたずね致す」
「何んでござるな、ご用かな?」場合が場合なので銀之丞は、身構えをしてきき返した。
「只今ここへ怪しい人間、確かに逃げ込み参った筈、貴殿にはお見掛けなされぬかな?」
「見掛けませぬな。とんと見掛けぬ」
「それは残念、ご免くだされ」
 いい捨て向こうへ駆け抜けようとしたが、幽かな常夜燈の灯に照らし、銀之丞の持っている鼓を見ると、飛燕のように飛び返って来た。
 銀之丞の手首をひっ掴むと、「曲者|捕《と》った……鼓! 鼓!」
「黙れ!」と銀之丞は一喝した。「鼓がどうした? 拙者の鼓だ!」
「何んの鼓賊め! その手には乗らぬ! 神妙に致せ! 逃《の》がしはせぬぞ!」
「鼓賊とは何んだ! おおたわけ! 拙者は観世銀之丞、柳営おとめ[#「おとめ」に傍点]芸の家門だぞ!」
 これを聞くと老武士は、にわかに後へ下がったが、
「ナニ観世銀之丞とな。誠でござるかな、どれお顔を……あっ、いかにも銀之丞殿だ!」
「掛《か》け値《ね》はござらぬ。銀之丞でござる。……ところで貴殿はどなたでござるな?」

    河中へ飛び込んだその早業《はやわざ》

「拙者は郡上平八でござる」
「おお玻璃窓の平八老か」
「それに致してもその鼓は?」
「家宝少納言の鼓でござる」
「では、ご紛失なされたという?」
「偶然手もとへ戻りましてな」
「ははあ」といったが平八は、深い絶望に墜落《おちい》った。「うむ残念、鼓賊めに、また一杯食わされたそうな」
「ご用がなくばこれで失礼」銀之丞は会釈した。
「ご随意にお引き取りくださいますよう」こういったまま平八は、首を垂れて考え込んだ。

 銀之丞と別れた平手造酒は、両国の方へあるいて行った。
「下総の侠客笹川の繁蔵は、おれと一面の識がある。ひとまずあそこへ落ち着くとしようか」こんな事を考え考え、橋なかばまで歩いて来た。
 と、悲鳴が聞こえて来た。「人殺しい!」と叫んでいた。向こう詰めから聞こえるのであった。造酒は大小を束《そく》に掴むと、韋駄天《いだてん》のように走って行った。
 見ると覆面の侍が、切り斃した町人の懐中から、財布を引き出すところであった。
「わるもの!」と叫ぶと、拳《こぶし》を揮い、造酒はやにわにうってかかった。「おお、さては貴様だな! 辻斬りをして金を奪う、武士にあるまじき卑怯者は!」
 すると覆面の侍は、抜き持っていた血刀を、ズイとばかりに突き出したが、
「貴様も命が惜しくないそうな」……そういう声には鬼気があった。その構えにも鬼気があった。そうして造酒にはその侍に、覚えがあるような気持ちがした。剣技も確かに抜群であった。
 油断はならぬと思ったので、造酒はピタリと拳を付けた。北辰一刀流直正伝拳隠れの固めであった。
 それと見て取った覆面の武士は、にわかに刀を手もとへひいたが、それと同時に左の手が、橋の欄干へピタリとかかった。一呼吸する隙もない、その体が宙へうき、それが橋下へ隠れたかと思うと、ドボーンという水音がした。水を潜ってにげたのであった。
「恐ろしい早業《はやわざ》、まるで鳥だ」造酒は思わず舌を巻いたが、「しかしこれであたりが付いた。ううむ、そうか! きゃつであったか」

 玻璃窓の平八と別れると、観世銀之丞は夜道を急ぎ、邸の裏門まで帰って来た。と、門の暗闇から、チョコチョコと走り出た小男があった。
「観世様、お久しぶりで」その小男はいったものである。
「お久しぶりとな? どなたでござるな?」
「へい、私《わっち》でございます」ヌッと顔を突き出した。
「おお、お前は千三屋ではないか」
「正《まさ》に千三屋でございます」
「なるほどこれは久しぶりだな」
「へい、久しぶりでございます」
「して何か用事でもあるのか?」
「ちと、ご相談がございましてな」
「ナニ相談? どんな相談だな?」
「鼓をお譲りくださいまし」千三屋はいったものである。
 すると銀之丞は吹き出してしまった。それから皮肉にこういった。
「貴様、実に悪い奴だ。鼓を盗んだのは貴様だろう?」「いえ、拝借しましたので」「永い拝借があるものだな」「長期拝借という奴で」「黙って持って行けば泥棒だ」「だからお返し致しました」
「ははあ、湯島の境内で、おれにぶつかったのは貴様であったか?」「その時お返し致しました」
 千三屋はケロリとした。

    捨てるによって拾うがよい

「是非欲しいというのなら、譲ってやらないものでもないが、お前のような旅商人に、鼓が何んの必要があるな?」銀之丞は不思議そうに訊いた。
「是非欲しいのでございますよ」千三屋は熱心であった。「命掛けで欲しいので」
「いよいよもっておかしいな。この鼓で何をする気だ?」
「ちょっとそいつは申されませんなあ」当惑をした様子であった。
「いえないものなら聞きたくもない」銀之丞はそっけなく「その代り鼓も譲ることは出来ぬ」潜《くぐ》り戸を開けてはいろうとした。
「おっとおっと観世様、そいつアどうも困りましたなあ」「ではわけを話すがいい」「ようがす。思い切って話しましょう」「おお話すか、では聞いてやろう」「その代り理由《わけ》を話しましたら、鼓は譲って戴けましょうね」「胸に落ちたら譲ってやろう」「へえなるほど、胸に落ちたらね。……どうもこいつア困ったなあ。胸に落ちる話じゃねえんだから。……ええままよ話しっちめえ、それで譲って戴けなかったら、ナーニもう一度盗むまでだ。……世間の黄金《こがね》を手に入れるために、鼓が必要なのでございますよ」「世間の黄金を手に入れるため?」「ハイ、江戸中の黄金《こがね》をね。ナニ江戸だけじゃ事が小せえ。日本中の黄金《かね》を掻き集めたいんで」「鼓が何んの用に立つな?」「名鼓は金気《きんき》を感じます。ポンポンポンポンと打っていると、自然と黄金のあり場所が、わかって来るのでございますよ」
 これを聞くと銀之丞は、しばらくじっと打ち案じていたが、
「さては貴様は鼓賊だな」忍び音で叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]した。
「へい、お手の筋でございます」
「ううむ、そうか、鼓賊であったか」
「相済みませんでございます」
「おれに謝《あやま》る必要はない」銀之丞は笑ったが、「どうだ鼓賊、儲かるかな?」
「一向不景気でございます」
「そうでもあるまい。もとでいらずだからな」
「が、その代り命掛けで」
「だから一層面白いではないか」
「これはご挨拶でございますな。相変らずの観世様で」
「ところでお前は知っているかな、あの有名な『玻璃窓』が、お前の後を追っかけているのを」
「へい、今夜も追っかけられました」
「貴様、今に取っ捉かまるぞ」
「いい勝負でございます」
「なに、いい勝負だ、これは面白い。で、どっちが勝つと思うな?」
「とにかく今は私の勝ちで。……あすのことは判りませんなあ。……ところで鼓は頂けますまいかな?」
「さあそれだ」と銀之丞は、皮肉な笑を浮かべたが、「鼓賊であろうがあるまいが、おれには何んのかかわりもない。金を盗もうと盗むまいと、それとておれには風馬牛だ。ところで少納言の鼓だが、たとえ名器であるにしても、一旦賊の手に渡ったからは、いわば不浄を経て来たものだ。伝家の宝とすることは出来ぬ。なあ千三屋、そんなものではないか」
「へい、そんなものでございましょうな」
「と云ってお前へ譲ることは出来ぬ」
「え、どうでもいけませんかな」
「ただしおれには不用の品だ。捨てるによって拾うがよい」
 鼓をひょいと地へ置くと、ギーと潜り戸を押し開き、銀之丞は入って行った。

 もう夜は明けに近かった。その明け近い江戸の夜の、静かな夜気を驚かせて、またも鼓が鳴り出したのは、それから間もなくのことであった。ポンポンポンポンと江戸市中を、町から町へと伝わって行った。

    弟を呼ぶ兄の声


     追分油屋掛け行燈に
      浮気ご免と書いちゃない

 清涼とした追分節が、へさき[#「へさき」に傍点]の方から聞こえて来た。
 ここは外海の九十九里ヶ浜で、おりから秋の日暮れ時、天末を染めた夕筒《ゆうづつ》が、浪|平《たいら》かな海に映り、物寂しい景色であったが、一隻の帆船が銚子港へ向かって、駸々《しんしん》として駛《はし》っていた。
 その帆船のへさき[#「へさき」に傍点]にたたずみ、遙かに海上を眺めながら、追分を唄っている水夫《かこ》があった。
[#ここから5字下げ]
北山時雨で越後は雨か
この雨やまなきゃあわれない
[#ここで字下げ終わり]
 続けて唄う追分が、長い尾をひいて消えた時、
「うまい」という声が聞こえて来た。で、ヒョイと振り返って見た。若い侍が立っていた。
「かこ[#「かこ」に傍点]なかなか上手だな」至極《しごく》早速な性質と見えて、その侍は話しかけた。
「どこでそれほど仕込んだな?」
「これはこれはお武家様、お褒めくだされ有難い仕合わせ」かこ[#「かこ」に傍点]は剽軽《ひょうきん》に会釈したが、「自然に覚えましてございますよ」
「自然に覚えた? それは器用だな」こういいいい侍は、帆綱の上へ腰を掛けたが、「実はなわしにはその追分が、特になつかしく思われるのだよ」
「おやさようでございますか」
「というのは他でもない。その文句なりその節なり、それとそっくりの追分を、わしは信州の追分宿で聞いた」
 するとかこ[#「かこ」に傍点]は笑い出したが、「甚三の追分でございましょうが」
「これは不思議、どうして知っているな?」
「信州追分での歌い手なら、私の兄の甚三が、一番だからでございます」
「お前は甚三の弟かな?」
「弟の甚内でございます」
「そうであったか、奇遇だな」侍はちょっと懐かしそうに、「いや甚三の弟なら、追分節はうまい筈だ」
「ところがそうではなかったので、唄えるようになりましたのは、このごろのことでございます」
「というのはどういう意味だな?」侍は怪訝《けげん》な顔をした。
「はい、こうなのでございます。ご承知の通り私《わたし》の兄は、あの通り上手でございますのに、どうしたものかこの私は、音《おん》に出すことさえ出来ないという、不器用者でございましたところ、さああれはいつでしたかな、月の良い晩でございましたが、ぼんやり船の船首《へさき》に立ち、故郷《くに》のことや兄のことを、思い出していたのでございますな。すると不意にどこからともなく、兄の声が聞こえて参りました」
「ふうんなるほど、面白いな」
「いえ面白くはございません。気味が悪うございました。『弟ヤーイ』と呼ぶ声が、はっきり聞こえたのでございますもの」
「弟ヤーイ、うんなるほど」
「『お前のいったこと中《あた》ったぞヤーイ』と、こうすぐ追っ駈けて聞こえて参りました」
「それはいったいどういう意味だ?」
「どういう意味だかこの私にも、解らないのでございますよ。とにかく大変悲しそうな声で、それを聞くと私のからだは、総毛立ったほどでございます。と、どうでしょうそのとたんに、私の口から追分が、流れ出たではございませんか」
「不思議だなあ、不思議なことだ」
「不思議なことでございます。いまだに不思議でなりません。これは冗談にではございますが、よく私は兄に向かって、こういったものでございます。『兄貴はきっとおれの声まで、攫《さら》って行ったに違《ちげ》えねえ。だからそんなにうめえのだ』とね。で、私はその時にも、これは兄貴めがおれの声を、返してくれたに相違ねえと、こう思ったものでございますよ」
「それはあるいはそうかも知れない」若い侍はまじまじと、かこの顔を見守ったが、「いつ頃お前は追分を出たな?」
「今年の夏でございます」
「その後一度も帰ったことはないか?」

    初めて知った甚三の死

「はい一度もございません」
「……だから何んにも知らないのだ。……悪いことはいわぬ一度帰れ。それも至急帰るがいい」
「はい、有難う存じます。実は私は思いたって、故郷《くに》を出て海へ来たからには、海で一旗上げるまでは、追分の土は踏むまいと、心をきめておりましたが、そんな事があって以来、兄のことが気にかかり、どうも心が落ち着きませんので、この頃一度帰ってみようかと、思っていたところでございますよ」「それは至急に帰るがいい。……恐らくお前の驚くようなことが、持ち上がっているに相違ない」
「へえ、さようでございましょうか?」かこ[#「かこ」に傍点]甚内は疑わしそうに、侍の顔を見守った。
「わしはな、事情を知っているのだ。しかしどうも話しにくい。話したらお前はびっくりして、気を取り乱すに違いない。それが気の毒でいい兼ねる」
「それではもしや兄の身の上に、変事でもあったのではございますまいか?」
 甚内はさっと顔色を変えた。
「それそういう顔をする。だからいい悪《にく》いといったのだ。……変事があったら何んとする?」
「変事によりけり[#「よりけり」に傍点]でございますが、もしや人にでも殺されたのなら、そやつ活かして置きません」
「ふうむ、そうか」と若い侍は、それを聞くと眼をひそめたが、「さては予感があったと見える」
「ええ、予感とおっしゃいますと?」
「お前の兄が何者かに、深い怨みでも受けていて、そやつに殺されはしないかと……」
「飛んでもないことでございます。何んのそんなことがございますものか。兄は善人でございます。よい人間でございます。私と異《ちが》って穏《おとな》しくもあり、宿の人達には誰彼となく、可愛がられておりました。……だが、ここにたった一つ……」
「うむ、たった一つ、どうしたな?」
「心配なことがございました」
「恋であろう? お北との恋!」
「おお、それではお武家様には、そんなことまでご存知で?」
「その恋が悪かったのだ」
「ではやっぱり私の兄は……あの女郎のお北めに?」
「無論お北も同腹だが、真の殺し手は他にある」
「それじゃ兄はどいつかに、殺されたのでござんすかえ?」
 甚内はワナワナ顫え出した。
「助けてやろうと我々二人、すぐに後を追っかけたが、一足違いで間に合わなかった」
「嘘だ嘘だ! 殺されるものか!」
「凄いような美男の武士……」
「凄いような美男の武士?」思わず甚内は鸚鵡返《おうむがえ》した。
「定紋は剣酸漿《けんかたばみ》だ。……」
「定紋は剣酸漿!」
「お北の新しい恋男だ。……」
「ううむ、そいつが殺したんだな!」
「その名を富士甚内といった」
「それじゃそいつが敵《かたき》だね!」
「おおそうだ、尋ね出して討て!」
「お武家!」
 というと甚内は、侍の袂《たもと》を引っ掴んだ。
「う、う、嘘じゃあるめえな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「嘘をいって何んになる!」
「う、う、嘘じゃあるめえな※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「…………」
「嘘じゃねえ、嘘じゃねえ、ああ嘘じゃなさそうだ!」
 ガックリ甚内は首を垂れたが、しばらくは顔を上げようともしない。
 この間も船は帆駛《ほばし》って行った。名残《なごり》の夕筒《ゆうづつ》も次第にさめ、海は漸次《だんだん》暗くなった。帆にぶつかる風の音も、夜に入るにしたがって、次第にその音を高めて来た。

    敵《かたき》が討ちとうござります

 と、甚内は顔を上げた。
「お武家様」といった声には、強い決心がこもっていた。「よく教えてくださいました。厚くお礼を申します。いえもう兄はおっしゃる通り、殺されたに相違ございますまい。可哀そうな兄でございます。死んでも死に切れはしますまい。また私と致しましても、諦めることは出来ません。その侍とお北とを、地を掘っても探し出し、殺してやりとうございます。ハイ、敵《かたき》が討ちたいので。……そこでお尋ね致しますが、そいつら二人は今もなお、追分にいるのでございましょうか?」
「いや」と侍は気の毒そうに、「甚三を殺したその晩に、二人ながら立ち退《の》いた」
「それはそうでございましょうな。人を一人殺したからには、その土地にはおられますまい。じゃそいつらは行方不明《ゆくえふめい》で?」
「さよう、行方《ゆきがた》は不明だな」
「それは残念でございますなあ」見る見る甚内は打ち悄《しお》れた。
 しかし侍は元気付けるように、「恐らくは江戸にいようと思う」
「え、江戸におりましょうか?」
「江戸は浮世の掃き溜《だめ》だ。無数の人間が渦巻いている。善人もいれば悪人もいる。心掛けある悪党はそういう所へ隠れるものだ」「へえ、さようでございますかな」「また自然の順序からいっても、まず江戸から探すべきだ」「へえ、さようでございますかな」「で、江戸から探してかかれ」
「ハイ、有難う存じます。それではお言葉に従いまして、江戸を探すことに致します」
 侍はにわかに気遣《きづか》わしそうに、
「ところで剣道は出来るのか?」
「え?」と甚内は訊き返した。
「剣術だよ。人を切る業《わざ》だ」
「ああ剣術でございますか。いえ、やったことはございません」
「ははあ、少しも出来ないのか。それはどうも心もとない。……おおそうだいいことがある。お前江戸へ参ったら、千葉先生をお訪ね致せ。神田お玉ヶ池においでなさる、日本一の大先生だ。よく事情をお話し致し、是非お力を乞うようしろ。先生は尋常なお方ではない。堂々たる大丈夫だ。場合によっては先生ご自身、助太刀をしてくださるかもしれない」
「何から何まで有難いことで。そういう訳でございましたら、何を置いても千葉先生とやらを、お訪ね致すでございましょう」甚内は嬉しそうに頭を下げた。
「それがよい、是非訪ねろ。……そこでお前に頼みがある。千葉先生におあいしたら、一つこのように伝言《ことづけ》てくれ。大馬鹿者の観世銀之丞も、あの晩以来改心し、真人間になりました。そうして自分の本職を、いよいよ練磨致すため、犬吠崎へ参りました。岸へ打ち寄せる大海の濤《なみ》、それへ向かって声を練り、二年三年のその後には、あっぱれ日本一の芸術家となり、再度お目にかかります。その時までは剣の方は、一切手にも触れませぬと、こう先生へ申し上げてくれ」
「やあ、それじゃあなた様は、観世様でございましたか?」さも驚いたというように、甚内は声を筒抜かせた。
「さよう、わしは観世だが、お前わしを知っているかな?」
「知っているどころじゃございません。本陣油屋でお調べになった、あの素敵もねえ鼓の手を、どんなにか喜んで死んだ兄は、お聞きしたか知れません」

「そういわれれば思い出す」銀之丞はその顔へ、寂しい笑いを浮かべたが、「おれが鼓を調べさえすれば、甚三も追分を唄ったものだ。おれと競争でもするようにな。……もうその追分も聞く事は出来ぬ」
 いつかすっかり夕陽が消え、星が点々と産まれ出た。風は次第に勢いを強め、帆の鳴る音も凄くなった。

    風雨を貫く謡《うたい》の声

「オーイ甚内!」と呼ぶ声がした。「しけが来るぞヨー、帆を下ろせヨー」
「オーイ」と甚内はすぐ応じた。それから銀之丞へ会釈したが、「しけが来るようでございます。ちょっとご免を被ります」
 いい捨てクルリと身を翻《ひるが》えすと、兄の死を痛み悲しんでいた、もう今までの甚内ではない。熟練をした勇敢な、風浪と戦うかこ[#「かこ」に傍点]であった。
 帆綱を握るとグイと引いた。ギーギーという音がして、左右に帆柱が揺《うご》いたかと思うと、張り切った帆が弛んで来た。
「ヨイショヨイショ、ヨイショヨイショ!」
 掛け声と共に手繰《たぐ》り下ろした。
 星が消えたと見る間もなく、ザーッと雨が落として来た。篠突《しのつ》くような暴雨であった。雨脚《あまあし》が乱れて濛気《もうき》となり、その濛気が船を包み、一寸先も見えなくなった。轟々《ごうごう》という凄じい音は、巻立ち狂う波の音で、キキー、キキーと物悲しい、咽《むせ》ぶような物の音は、船の軋《きし》む音であった。空を仰げば黒雲湧き立ち、電光さえも加わった。凄じい暴風雨となったのであった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 その荒涼たる光景の中から、十数人のかこ[#「かこ」に傍点]の声ばかりが、雄々しく勇ましく響いて来た。
 乗客は悉く胴の間に隠れ、不安に胸を躍らしていた。ただ一人銀之丞ばかりが、船のへさき[#「へさき」に傍点]に突っ立っていた。
「ああいいな。勇ましいな」彼は呟いたものである。「自然の威力に比べては、何んて人間はちっぽけなんだろう? だがいやいやそうでもないな、かこ[#「かこ」に傍点]はどうだ! あの姿は!」
 銀之丞は武者揮いをした。
「自然の威力を突き破ろうと、ぶつかって行くあの力! 恐ろしい運命にヒタと見入り、刃向かって行くあの態度! これが本当の人間だな! ふさぎの虫も糸瓜《へちま》もない! あるものは力ばかりだ! いいな、実にいい、生き甲斐があるな!」
 嵐は益※[#二の字点、1-2-22]吹き募り、雨はいよいよ量を増した。所は名に負う九十九里ヶ浜、日本近海での難場であった。四辺《あたり》は暗く浪は黒く、時々白いものの閃めくのは、砕けた浪の穂頭《ほがしら》であった。
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 かこ[#「かこ」に傍点]どもの呼ぶ掛け声は、益※[#二の字点、1-2-22]勇敢に響き渡った。しかし人力には限りがあり、自然の暴力は無限であった。
 かこ[#「かこ」に傍点]は次第に弱って来た。船がグルグルと廻り出した。
「もういけねえ! もういけねえ!」
 悲鳴の声が聞こえて来た。
 真っ黒の大浪がうねりをなし、小山のように寄せたかと思うと、船はキリキリと舞い上がった。
「助けてくれえ!」
 と叫ぶのは、胴の間にいる乗客達であった。
 と、この時、朗々たる、謡《うたい》の声が聞こえて来た。
 神か鬼神かこの中にあって、悠々と謡をうたうとは! 暴風暴雨を貫いて、その声は鮮かに聞こえ渡った。
「誰だ誰だ謡をうたうのは!」
「偉《えれ》えお方だ! 偉えお方だ!」
「偉えお方が乗っておいでになる! 船は助かるぞ助かるぞ!」
「ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ!」
 ふたたびかこ[#「かこ」に傍点]の声は盛り返した。その声々に抽《ぬき》んでて、謡の声はなおつづいた。
 船が銚子へ着いたのは、その翌日のことであった。

    「主知らずの別荘」の別荘番

「オイオイ若いの。オイ若いの」
※[#歌記号、1-3-28]かくばかり経高く見ゆる世の中に、羨ましくも澄む月の、出汐をいざや汲もうよ……
「オイオイ若いの。オイ若いの」
※[#歌記号、1-3-28]影はずかしき我が姿、忍び車を引く汐の……
「うなっては困る。うなっては困る」
「誰もうなってはいないではないか」
「お前の事だ。うなっては困る」
「おれは何もうなってはいない」
「今までうなっていたじゃないか」
※[#歌記号、1-3-28]おもしろや、馴れても須磨の夕まぐれ、あま[#「あま」に傍点]の呼び声かすかにて……
「あれ、いけねえ、またうなり出した」
※[#歌記号、1-3-28]沖に小さき漁《いさ》り舟の、影|幽《かす》かなる月の顔……
「やりきれねえなあ、うなっていやがら」
※[#歌記号、1-3-28]仮りの姿や友千鳥、野分《のわき》汐風いずれも実《げ》に、かかる所の秋なりけり、あら心すごの夜すがらやな……
「オイオイ若いの。困るじゃねえか」
「なんだ貴様。まだいたのか」
「お前がうなっているからよ」
「解らない奴だ。うなるとは何んだ。これはな謡をうたっているのだ」
「ははあ、そいつが謡ってものか」
「めったに聞けない名人の謡だ。後学のために謹聴しろ」
「あれ、あんなことをいっていやがる。自分で自分を名人だっていやがる」
「アッハッハッハッそれが悪いか」
「なんと自惚《うぬぼ》れの強いわろ[#「わろ」に傍点]だ」
「アッハッハッハッ、自惚れに見えるか。……さて、もう一度聞かせてやるかな」
「オットオットそいつあいけねえ。勘弁してくんな、おれが叱られる」
「おかしな奴だな。誰に叱られる?」
「旦那によ、旦那殿によ」
「なぜ叱られる。何んの理由で?」
「やかましいからよ。うなるのでな」
「ははあ、それでは謡のことか」
「うん、そうとも、他に何がある」
「我がままな奴だな。こういってやれ。ここは銚子獅子ヶ岩、向こうは荒海太平洋だ。あたり近所に人家はない。謡おうとうなろうと勝手だとな。その旦ツクにいってやれ」
「うんにゃ、駄目だ。おれが叱られる」
「よかろう。勝手に叱られるさ」
「おれが困るよ。だから頼む。……第一声が透《とお》り過ぎらあ。洞間声《どうまごえ》[#「洞間声」はママ]っていう奴だからな」
「洞間声[#「洞間声」はママ]だって? こいつは助からぬ。アッハッハッハッ、いや面白い」
「面白くはねえよ。面白いものか。叱られて何んの面白いものか」
「よっぽど解らずやの旦那だな」
「フン、何んとでもいうがいいや」
「いったい誰だ? お前の旦那は?」
「お金持ちだよ。大金持ちだ」
「金があっても趣味がなければ、馬や牛と大差ないな」

    厳重を極めた別荘普請

「だがお前の主人というのは、いったいどこに住んでるのか?」
「お前さんそいつを知らねえのか」
「知らないとも、知る訳がない」
「だが、やしきは知ってる筈だ」
「お前の主人のやしきをな?」
「うんそうさ、有名だからな」
「いいや、おれはちっとも知らない」
「そんな筈はねえ、きっと知ってる」
「おかしいな。おれは知らないよ」
「獅子ヶ岩から半町北だ」
「獅子ヶ岩から半町北と?」
「近来《ちかごろ》普請に取りかかったやしきだ」
「や、それじゃ『主《ぬし》知らずの別荘』か?」
「そうれ、ちゃアんと知ってるでねえか」
「その別荘なら知ってるとも」
「それがおれの主人の巣だ」
「ふうん、そうか。やっと解った」
「随分有名な邸《やしき》だろうが?」
「銚子中で評判の邸だ」
「それがおれの主人の邸だ」
「そこでお前にきくことがある。何んと思ってあんな普請をした?」
「あんな普請とはどんな普請だ?」
「まるで砦《とりで》の構えではないか」
「…………」
「厚い石垣、高い土塀、たとえ大砲を打ちかけても、壊れそうもない厳重な門、海水をたたえた深い堀、上げ下げ自由な鉄の釣り橋、え、オイまるで砦じゃないか」
「おれの知ったことじゃねえ」
「で、主人はいつ来たのだ?」
「うん、主人はずっと以前《まえ》からよ……そうさ今から二月ほど前から、こっそりあそこへ来ているんだ」
「ほほう、そうか、それは知らなかった」
「ところが他のご家族達も、二、三日中には越して来るのだ」
「それで家族は多いのか?」
「うん、奥様とお嬢様と、坊様と召使い達だ」
「では『主知らずの別荘』が、いよいよ主を迎えた訳だな」
「そうかもしれねえ。うん、そうだ」
「ところで主人の身分は何んだ?」
「主人の身分か? 主人の身分はな……いやおれは何んにも知らねえ」
「ははあ隠《かく》すつもりだな」
「おれは何んにも知らねえよ」
「で、お嬢様は別嬪《べっぴん》かな?」
「おれは何んにも知らねえよ」
「いよいよ隠すつもりだな」
「おれはちっとばかりしゃべり過ぎたからな」
「ところでお前は何者だな?」
「おれは何んにも知らねえよ」
「ふざけちゃいけない、馬鹿なことをいうな」
「ああおれか、別荘番だよ」
「うん、そうか、別荘番か。『主知らずの別荘』の別荘番だな」
「別荘番の丑松《うしまつ》ってんだ」
「噂は以前から聞いていたよ」
「おれは銚子では名高いんだからな」
「そうだ、お前は名高いよ。『主知らずの別荘』と同じにな」
「ところでお前さん、何者だね?」
「おれか、おれは能役者だ」
「ああ役者か、何んだ詰まらねえ」
「口の悪い奴だ。詰まらねえとは何んだ」

    駕籠から覗いた美しい

「姓名の儀は何んていうね?」
「姓名の儀はとおいでなすったな。姓名は観世銀之丞」
「ほほん、銀之丞か。役者らしい名だ。詰めていうと銀公だな。そうじゃアねえ、銀的だ」
「口の悪い奴だ。いよいよ口が悪い。が、まあ銀公でも銀的でもいい」
「お前さん、この土地へはいつ来たね?」
「二十日ほどまえだ。それがどうしたな」
「あッ、やっと思い出した。そうそうお前さんはお品《しな》の婿だね」
「お品の婿だって。何んのことだ?」
「隠したって駄目だ。評判だからな」
「そうか、何んにしても有難い」
「厭な野郎だな、礼をいっていやがる」
「めでたそうな話だからよ」
「だってお前さん評判だぜ。お品の所へ江戸の役者が、入《い》り婿《むこ》となって来たってな」
「お品の家の離れ座敷を、たしかにおれは借りているよ」
「ソーレ見たか、泥を吐きおった」
「そうしてお品はいい娘だ」
「甘え野郎だ、惚気《のろけ》ていやがる」
「銚子小町だということだな」
「鼻持ちがならねえ、いろきちげえ!」
「だが、銚子の小町娘も、田の草を取ったり網を干したり、野良馬の手綱をひいたりしたでは、こいつどうも色消しだな」
「そいつはどうも仕方がねえ。この辺は半農半漁だからな。よっぽどいい所の娘っ子でも、漁にも出れば作もするよ」
「それはそうだ、御意《ぎょい》の通りだ。そうして実はお品にしてからが、その網干しの姿とか、ないしは草取りの姿の方が、ちんと澄ました姿より、よっぽど可愛く見えるからな」
「おやまたかい。また惚気《のろけ》かい」
「どれ、そろそろ帰ろうかな、お品の顔でも見に帰るか」
「変な野郎だ。どう考えても変だ」
 観世銀之丞と丑松とはこんな塩梅《あんばい》に親しくなった。

「銀之丞さま、銀之丞さま!」
 お品が往来で呼んでいた。
「オイ何んだい、お品さん」
「出てごらんなさいよ、通りますよ」
 そこで銀之丞は離れ座敷から、往来の方へ出て行った。
 お品や、お品の両親や、近所の人達が道側《みちばた》に立って、南の方を眺めていた。
 とそっちから行列が、だんだんこっちへ近寄って来た。馬が五頭駕籠が十挺、それから小荷駄を背に負った、十数人の人夫達で、外ならぬ「別荘」の家族連であった。今|移転《ひっこ》して来たのであろう。
「ねえ、随分大勢じゃないか」「そうさね、随分大勢だね」「荷物だって沢山じゃないか」「そうさ随分沢山だなあ」「どんな人達だか見たいものだね」「お生憎様《あいにくさま》、駕籠が閉じている」「これでマア別荘も賑やかになるね」「化物屋敷でなくなるわけさ」「それにしても妙だったね。十年このかたあの別荘には主人《ぬし》って者がなかったんだからね」「ところが主人《ぬし》が来るとなると、この通り大仰だ」「きっと主人はお金持ちで、あっちにもこっちにも別荘があるので、こんな辺鄙《へんぴ》な別荘なんか、今まで忘れていたのかもしれない」「それにしてもおかしいじゃないか、あの厳重な普請の仕方は」「ちょうど敵にでも攻められるのを、防ぐとでもいったような構えだね」「黙って黙って、ソレお通りだ」
 そこへ行列がやって来た。
 すると三番目の駕籠の戸が、コトンと内から開けられて、美しい女の顔が覗いた。

    そそられた銀之丞の心

 銀之丞は何気なくそっちを見た。
 女の視線と銀之丞の視線が、偶然一つに結ばれた。と、女はどうしたものか、幽《かす》かではあるがニッと笑った。「おや」と銀之丞は思いながらも、その笑いにひき込まれて、思わず彼もニッと笑った。
 と、駕籠の戸がポンと閉じ、そのまま行列は行き過ぎた。
 はなれへ戻って来た銀之丞は、空想せざるを得なかった。
「悪くはないな、笑ってくれたんだ! だがいったいあの女は、おれをまえから知っていたのかしら? そんな訳はない知ってる筈はない。……とにかく非常な別嬪《べっぴん》だった。さて、恋が初まるかな。こんな事から恋が初まる? あり得べからざる事でもない」
 その時庭の飛び石を渡り、お品がはなれへ近寄って来た。色は浅黒いが丸顔で、眼は大きく情熱的で、そうして処女らしく清浄な、すべてが初々《ういうい》しい娘であったが、手に茶受けの盆を捧《ささ》げ、にこやかに笑いながら座敷へ上がった。
「お茶をお上がりなさいませ」
「ああお茶かね、これは有難い。旨《うま》そうなお茶受けがありますな」
「土地の名物でございますの」
「ふうむ、なるほど、海苔煎餅《のりせんべい》」
 お品はいそいそと茶を注いだ。
 豪農というのではなかったが、お品の家は裕福であった。主人夫婦も人柄で、しかもなかなか侠気があり、銚子の五郎蔵とも親しくしていた。銀之丞が頼むと快く、すぐにはなれを貸したばかりか、万事親切に世話をした。ひとつは銀之丞が江戸で名高い、観世宗家の一族として、名流の子弟であるからでもあったが、主人嘉介が風流人で、茶の湯|活花《いけばな》の心得などもあり、謡の味なども知っていたからであった。
 お品は一人子で十九歳、肉体労働をするところから、体は発達していたが、心持ちはほんのねんねえ[#「ねんねえ」に傍点]であった。一見銀之丞が好きになり、兄に仕える妹のように、絶えず銀之丞へつきまとった。
 そういう家庭に包まれながら、本職の謡を悠々と、研究するということは、彼にとっては理想的であった。それに彼にはこの土地が、ひどく心に叶《かな》っていた。漁師町であり農村であり、且つ港である銚子なる土地は、粗野ではあったが詩的であった。単純の間に複雑があり、「光」と「影」の交錯が、きわめて微妙に行われていた。もちろん、信州追分のような、高原的風光には乏しかったが、名に負う関東大平原の、一角を占めていることであるから、森や林や丘や耕地や、沼や川の風致には、いい尽くせない美があって、それが彼には好もしかった。
 それに何より嬉しかったのは、太平洋の荒浪が、岸の巌《いわお》にぶつかって、不断に鼓の音を立てる、その豪快な光景で、それを見るとしみじみと「男性美」の極致を感じるのであった。
 そこで彼は毎夜のように、獅子ヶ岩と呼ばれる岩の上へ行って、声の練磨をするのであった。
 彼は本来からいう時は、観世の家からは勘当され、また観世流の流派からは、破門をされた身分であった。でもし彼が凡人なら、そういう自家の境遇を、悲観せざるを得なかったろう。しかるに彼は悲観もせず、また絶望もしなかった。それは彼が天才の上に、一個文字通りの近代人だからで、真の芸術には門閥はないと、固く信じているからであった。
 とはいえ彼とて人間であり、殊には烈々たる情熱においては、人一倍強い芸術家のことで、父母のことや友人のことは、忘れる暇とてはないのであった。わけても親友の平手造酒の、その後の消息に関しては、絶えず心を配っていた。
 それに彼は生まれながら、都会人の素質を持っていて、江戸の華やかな色彩に対しては、あこがれの心を禁じ得なかった。
 ところが今日はからずも、江戸めいた美しい女の顔を、駕籠の中に見たばかりか、その女から笑い掛けられたのであった。
 彼の心が動揺し、それが態度に現われたのは、やむを得ないことであろう。

    紙つぶてに書かれた「あ」の一字

「どう遊ばして、銀之丞様」
 お品が不足そうに声をかけた。「考え込んでおりますのね」
「や、そんなように見えますかな」
「お菓子を半分食べかけたまま、手に持っておいでではありませんか」
「これはこれは、どうしたことだ」
「どうしたことでございますやら」
「おおわかった、これはこうだ」テレ隠しにわざと笑い、「あんまりお品さんが可愛いので、それで見とれていた次第さ」
「お気の毒様でございますこと」
「ナニ気の毒? なぜでござるな?」
「なぜと申してもあなた様のお目は、わたしの顔などご覧なされず、さっきからお庭の石燈籠ばかり、ご覧になっているではございませんか」
「いや、それには訳がある」
「なんの訳などございますものか」
「なかなかもってそうでない。すべて燈籠の据え方には、造庭上の故実があって、それがなかなかむずかしい」
「おやおや話がそれますこと」
「冷《ひや》かしてはいけないまずお聞き、ところでそこにある石燈籠、ちとその据え方が違っている」
「オヤさようでございますか」いつかお品はひき込まれてしまった。
「茶の湯、活花、造庭術、風雅の道というものは、皆これ仏教から来ているのだ」
「まあ、さようでございますか」
「ところが中頃その中へ、武術の道が加わって、大分作法がむずかしくなった」
「まあ、さようでございますか」お品は益※[#二の字点、1-2-22]熱心になった。
「で、そこにある石燈籠だが、これはこの室《へや》と枝折戸《しおりど》との、真ん中に置くのが本格なのだ」
「どういう訳でございましょう?」
「門の外から室の様子を、見られまいための防禦物《ぼうぎょぶつ》だからで、横へ逸《そ》れては目的に合わぬ。ところがこれは逸れている。室の様子がまる見えだ」
「そういえばまる見えでございますね」
 お品はすっかり感心して、銀之丞の話に耳傾けた。
 それが銀之丞には面白かった。もちろん彼の説などは、拠《よ》りどころのない駄法螺《だぼら》なので、それをいかにももっともらしく、真顔《まがお》を作って話すというのは、どうやらお品に弱点を握られ、今にもそこへさわられそうなのが、気恥ずかしく思われたからであった。つまりいい加減の出鱈目《でたらめ》をいって、話を逸《そ》らそうとするのであった。
「だから」と銀之丞はいよいよ真面目《まじめ》に、「もしもここに敵があって、この部屋の主人を討とうとして、あの枝折戸の向こうから、鉄砲か矢を放したとしたら、ここの主人はひとたまりもなく、討たれてしまうに相違ない。すなわち防禦物の石燈籠が、横へ逸れているからだ」
「ほんにさようでございますね」
「しかるによって……」
 といよいよ図に乗り、喋舌《しゃべ》り続けようとした銀之丞は、にわかにこの時「あッ」と叫び、グイと右手を宙へ上げた。間髪を入れずとんで来たのは、紙を巻いたいしつぶて! さすがは武道にも勝れた彼、危いところで受けとめた。
「あれ」
 と驚くお品を制し、銀之丞は紙をクルクルと解いた。
 と、紙面にはただ一字「あ」という文字が記されてあった。

    刎《は》ね橋と開けられた小門

 その翌日のことであったが、銀之丞が一人野をあるいていると、どこからともなくいしつぶてが、例のように飛んで来た。受け取って見ると紙が巻いてあった。そうして紙にはただ一字「い」という文字が書いてあった。
 最初のつぶてには「あ」と書いてあり、次のつぶてには「い」と書いてあった。二つ合わせると「あい」であった。「ハテ『あい』とはなんだろう?」思案せざるを得なかった。「これを漢字に当て嵌《は》めると『鮎《あい》』ともなれば『哀《あい》』ともなる。『間《あい》』ともなれば『挨《あい》』ともなる。そうかと思うと『靉《あい》』ともなる。いずれ何かの暗号ではあろうが、さて何んの暗号だろう? そうしていったい何者が、こんな悪戯《いたずら》をするのだろう?」
 考えてみれば気味が悪かった。とはいえ大剛《たいごう》の彼にとっては、恐怖の種とはなりそうもなかった。
 それはとにかく、銀之丞は、駕籠の中に見た女の俤《おもかげ》を、忘れることが出来なかった。
「女は確かに娘らしい。あの『主知らずの別荘」の、家族の一人に相違ない。それも決して女中などではなく、丑松の話したお嬢さんでもあろう」
 女色《じょしょく》に淡い彼ではあったが、不思議と心をそそられた。
 二度目の暗号を渡された日の、その翌晩のことであったが、彼はフラリと宿を出ると、別荘の方へ足を向けた。それは月影の美しい晩で、そぞろあるきには持って来いであった。少しあるくと町の外《はず》れで、すぐに耕地となっていた。その耕地を左右に見て、一本の野良道を先へ進んだ。土橋を渡るともう荒野で、地層は荒々しい岩石であったが、これは海岸に近いからであった。そういえば波の音がした。
 彼はズンズンあるいて行った。間もなく別荘の前へ出た。
 廻れば五町はたっぷりあろうか、そういう広大な地所の中に、別荘は寂然《せきぜん》と立っていた。三間巾の海水堀、高い厚い巌畳《がんじょう》な土塀、土塀の内側《うちがわ》の茂った喬木、昼間見てさえなかの様子は、見る事が出来ないといわれていた。
 夜はかなり更けていた。堀の水は鉛色に煙り、そとへ突き出した木々の枝葉で、土塀のあちこちには蔭影《かげ》がつき、風が吹くたびにそれが揺《ゆ》れた。前と左右は物寂しい荒野で、そうして背後《うしろ》は岩畳《いわだたみ》を隔てて、海に続いているらしい。
 人っ子一人通っていない。市《まち》の燈火《ともしび》は見えていたが、ここからは遙かに隔たっていた。別荘には一点の火光もなく、人のけはいさえしなかった。
 それは別荘というよりも、荒野の中の一つ家《や》であり、わすれ去られた古砦であり、人の住居《すまい》というよりも、死の古館《ふるやかた》といった方が、ふさわしいように思われた。すでに刎ね橋はひき上げられていた。
「何という寂しい構えだろう」
 呟きながら銀之丞は、堀に沿って右手へ廻った。すると意外にも眼の前に、刎ね橋が一筋かかっていた。そこは別荘の側面で、土塀には小門が作られてあったが、それへ通ずる刎ね橋であった。こういう場合おおかたの人は好奇心に捉われるものであった、で、彼も好奇心に駆られ、刎ね橋を向こうへ渡って行った。そうして小門へさわってみた。と、手に連れて音もなく、小門の戸が向こうへ開いた。
「おや」とばかり驚きの声を、思わず口から飛び出させたが、さらに一層の好奇心が、彼の心を駆り立てた。

    魔法使いの魔法の部屋か

 彼は小門をくぐったものである。
 あたりを見ると鬱蒼《うっそう》たる木立で、その木立のはるか彼方《あなた》に、一座の建物が立っていた、どうやら、別荘のおも屋らしい。さすがに彼もこれ以上、はいり込むには躊躇《ちゅうちょ》された。
「しかし」と彼は思案した。「何んというこれは不用心だ。賊でもはいったらどうするつもりだ。一つ注意をしてやろう」で、彼は進んで行った。やがて建物の戸口へ出た。
「ご免」と小声でまず訪《おとな》い、トントンと二つばかり戸を打った。と、何んたることであろう! その戸がまたも内側へ開き、闇の廊下が現われた。
「おや」とばかり驚きの声を、また出さざるを得なかった。しかし驚きはそれだけではなく、
「おはいり」
 というしわがれた声が、廊下の奥から聞こえて来た。
 これには銀之丞も度胆を抜かれた。でぼんやり佇《たたず》んでいた。するとまたもや同じ声がした。
「待っていたよ、はいるがいい」
 度胆を抜かれた銀之丞は、今度は極度の好奇心に、追い立てられざるを得なかった。
 彼は大胆にはいって行った。三十歩あまりもあるいた時、「ここだ!」という声が聞こえて来た。それは廊下の横からであった。見るとそこに開いた扉《と》があった。で、内《なか》へはいって行った。カッと明るい燈火《ともしび》の光が、真っ先に彼の眼を奪った。そのつぎに見えたのは一人の老人で、部屋の奥の方に腰かけていた。
「オイ若いの、戸を締めな」その老人はこういった。
 いわれるままに戸を閉じた。それから老人を観察した。身長《たけ》が非常に高かった。五尺七、八寸はあるらしい。肉付きもよく肥えてもいた。皮膚の色は銅色《あかがねいろ》でそれがいかにも健康らしかった。ただし頭髪《かみのけ》は真っ白で、ちょうど盛りの卯の花のようで、それを髷《まげ》に取り上げていた。銀《しろがね》のように輝くのは、明るい燈火《ともしび》の作用であろう。高い広い理智的な額、眼窩《がんか》が深く落ち込んでいるため、蔭影《かげ》を作っている鋭い眼……それは人間の眼というより、鋼鉄細工とでもいった方が、かえって当を得るようだ。美術的高い鼻、強い意志を現わした、固く結ばれた大きな口……顔全体に威厳があった。着ている衣裳も美術的であった。しかしそれは日本服ではなく、阿蘭陀風《オランダふう》の服であった。それも船員の服らしく、袖口と襟とに見るも瞬《まば》ゆい、金モールの飾りがついていた。手には変った特色もない。ただ手首がいかにも太く、そうして指がいかにも長く、船頭の手などに見るような、握力の強そうな手であった。さて最後に足であるが、足は最も特色的であった。というのは右の足が、膝の関節《つけね》からなくなっているので、つまり気の毒な跛足《びっこ》なのであった。でズボンも右の分は、左の分よりは短かかった。
 彼は長椅子に腰かけていた。その長椅子も日本の物ではなく、やはりオランダかイスパニヤか、その辺の物に相違なかった。長椅子には毛皮がかけられていた。それは見事な虎の皮で、玻璃製《はりせい》の義眼が燈火に反射し、キラキラ光る有様は、生ける虎の眼そっくりであった。毛皮の上には短銃があった。それとて日本の種子ヶ島ではなく、やはり舶来の品らしかった。
 部屋はかなり広かった。そうして老人を囲繞《いにょう》して、珍奇な器具類が飾られてあった。縅《おどし》の糸のやや古びた、源平時代の鎧甲《よろいかぶと》、宝石をちりばめた印度風《インドふう》の太刀、磨ぎ澄ました偃月刀《えんげつとう》、南洋産らしい鸚鵡《おうむ》の剥製、どこかの国の国王が、冠っていたらしい黄金の冠、黒檀の机、紫檀の台、奈良朝時代の雅楽衣裳、同じく太鼓、同じく笛、大飛出《おおとびで》、小飛出、般若《はんにゃ》、俊寛《しゅんかん》、少将、釈迦などの能の面、黄龍を刺繍《ぬい》した清国の国旗、牧溪《ぼくけい》筆らしい放馬の軸、応挙筆らしい大瀑布の屏風、高麗焼きの大花瓶、ゴブラン織の大絨毯、長い象牙に豺《さい》の角、孔雀《くじゃく》の羽根に白熊の毛皮、異国の貨幣を一杯に充たした、漆塗りの長方形の箱、宝石を充たした銀製の箱、さまざまの形の古代仏像、青銅製の大香炉、香を充たした香木の箱、南蛮人の丸木船模型、羅針盤と航海図、この頃珍らしい銀の時計、忍び用の龕燈提灯《がんどうぢょうちん》、忍術用の黒小袖、真鍮製《しんちゅうせい》の大砲模型、籠に入れられた麝香猫《じゃこうねこ》、エジプト産の人間の木乃伊《みいら》、薬を入れた大小|黄袋《きぶくろ》、玻璃に載せられた朝鮮人参、オランダ文字の異国の書籍、水盤に入れられた真紅の小魚……もちろんいちいちそれらの物が、一巡見渡した銀之丞の眼に、理解されて映ったのではなかったけれど、しかし決して夢ではなく、まさしく「実在」として映ったのであった。

    奇妙な老人の奇妙な話

「いったいこの部屋は何んだろう? この老人は何者だろう?」銀之丞は茫然と、驚き呆れて佇んでいた。
 と、老人が声をかけた。
「待っていたのだ。よく来てくれた。ところでお前は本人かな? それともお前は代理かな?」
 いうまでもなくこの言葉は、銀之丞にはわからなかった。すると老人がまたいった。
「本人なら市之丞と呼ぼう。もし代理なら別の名で呼ぼう。黙っていてはわからない」
「いや」と銀之丞はようやくいった。「市之丞ではございません。そんな者ではございません。……」
「ふん、それなら代理だな。それは困った。代理は困る」
「全然話が違います。……刎ね橋が下ろされてありましたので……」
「そうさ、お前を迎えるために、わざわざ下ろして置いたのだ」
「いえ、それに小門の戸も……」
「いうまでもない、開けて置いたよ。それは最初からの約束だからな」
「……それでうかうか参りましたので」
「ナニうかうか? 不用心な奴だ」
「と、いいますのもその不用心を、ご注意しようと存じましてな。……」
「うん、それがいい、お互いにな。不用心は禁物だ。……で、お前は代理なのだな? やむを得ない、我慢しよう。……で、お前の名は何んというな?」
「さよう、拙者は銀之丞……」
「ナニ銀之丞? よく似た名だな。市之丞代理銀之丞か。なるほど、これは代理らしい。よろしい、話を進めよう」
「しばらく、しばらく。お待ちください!」
「えい、あわてるな! 臆病者め! ははあ、お前は恐れているな。いやそれなら大丈夫だ。家族の者は遠避けてある。そこで話を進めよう。だがその前にいうことがある、なぜお前達は俺を嚇した! あんな手紙を何故よこした! 何故この俺を強迫した!」
「俺は知らない!」と銀之丞は、とうとう怒って怒鳴りつけた。「人違いだよ、人違いなのだ」
「ナニ人違いだ? 莫迦をいえ! 今さら何んだ! 卑怯な奴だ! だがマアそれは過ぎ去ったことだ。蒸し返しても仕方がない。しかし俺はいっとくがな、以後強迫は一切止めろ! そんな事には驚かないからな。もちろん本当にもしないのさ。だがいうだけはいった方がいい。そう思って返辞はやった。何んのこの俺が決闘を恐れる! アッハハハ、莫迦な話だ。しかし話がつくものなら、そんな厭な血など見ずと、そうだ平和の談笑裡に、話し合った方がいいからな。で、返辞はやったのさ。そうして俺から指定した通り、ちゃんと小門も開けて置いたのさ。それでも感心に時間通りに来たな。よろしい、よろしい、それはよろしい。ふん、やっぱりお前達も、血を見るのは厭だと見える。あたりめえだ、誰だって厭だ。お互い命は大事だからな。粗末にしては勿体《もったい》ないからな。……よろしい、それでは話を進めよう。さて、お前達の要求だが、あれは全然問題にならない。あの要求は暴というものだ。まるっきり筋道が立っていない。いわば場違いというものだ。それに時効にもかかっている。オイ、大将、そうじゃないかな! だからあれは肯《き》くことはならぬ! とこうにべもなくいい切ったでは、お前達にしても納まりがつくまい。俺にしても気の毒だ。今夜の会見も無意味になる。後に怨みが残ろうもしれぬ。それではどうも面白くない。そこで少しく色気をつけよう。といってお前達に怖じ恐れて、妥協すると思うと間違うぞ! なんのお前達を恐れるものか! 昔ながらの九郎右衛門だ」

    胸に向けられた短銃の口

「俺には一切恐怖はない。恐怖を知らない人間なのだ。それはお前達も知ってるだろう。人の命を取ることなどは、屁とも思わぬ人間なのだからな。だから、それだから、そこを狙って、……いやいやそれはどうでもいい。お互い気取りや示威運動や、威嚇というような詰まらないものは、封じてしまわなければならないのだからな。……つまりお前達の境遇が――どうやら大分貧しいらしいな――それがおれには気の毒なので、そこで一片の慈悲心から、恵みを垂れるという意味で、俺の財産の幾分かを、分けてやろうとこう思うのだ。よいか、解ったか、解ったかな? アッハハハ、それにしてもだ、お前達の要求は大きかったな。みんなよこせというのだからな。それが正当だというのだからな。オイ大将よく聞くがいい。俺は正直な人間だ。決して仲間など裏切りはしない。嘘もなければ偽《いつわ》りもない。で分配はどこから見ても、一点の不公平もなかったのだ。三人ながら同じように、同じタカに分け合ったのだ。それを俺は上手に利用し、あるが上にもなお蓄《た》めた。それだのに一人藤九郎ばかりは、無考《むかんが》えにも使い果たしてしまった。そうして恐ろしく貧乏して貧乏の中に死んでしまった。それを伜の市之丞めが、何をどこから聞き込んだものか、俺だけ一人余分に取ったの、藤九郎を殺したのは俺だのと、それこそ途方もないいいがかりをつけ、あげくのはてには強迫して俺から財産を取ろうとする! 莫迦な話だ、とんでもないことだ! ……ところで俺の財産だが、大部分この部屋に集めてある。いやこれで一切だ。この外には一文もない。金につもったら大したものだ。五万や八万はあるだろう。で俺はこの中《うち》を、半分だけお前達にくれてやろう。勿体ないが仕方がない。昔の仲間の伜のことだ、貧乏させても置けないからな。……俺のいうことはこれで終えた。代理のお前ではわかるまい。帰って市之丞にいうがいい。そうして急いで返答しろ。どうだ、不足はあるまいがな。……や! 貴様どうしたんだ! 何をぼんやりしているんだ! おや、こいつめが、聞いていないな! いったい貴様は何者だ!」
 老人は突然怒号した。ようやく相手の若者が、怪しいものに見えて来たらしい。
「おれは観世銀之丞だ。おれは江戸の能役者だ」
 銀之丞はひややかにいった。老人の話しでその老人が、善人ではないということを、早くも直感したからであった。「気の毒だが人違いだ」
「ナニ観世だと? 能役者だと?」
 見る見る老人の眼の中へ、凄まじい殺気が現われた。つとその手が毛皮の上の、短銃の方へ延びて行った。
「では貴様は、あいつらではないのか? 市之丞の代理ではなかったのか?」
「その市之丞とかいう男、見たこともなければ聞いたこともない」
「しかし、しかし、それにしても、どうしてここへはいって来た?」
「それはもうさっきいった筈だ。小門が開いていたからよ」
「だが、指定した、こんな時刻に……」
「俺の知ったことではない。恐らくそれは暗合だろう」
「では、いよいよ人違いだな!」
「うん、そうだ、気の毒ながら」
「それだのに貴様は俺の話しを、黙ってしまいまで聞いてしまったな!」
「むやみとお前が話すからよ。俺は幾度もとめた筈だ」
「ふうむ、なるほど」と呻くようにいうと、九郎右衛門は眼を据えた。短銃を持った右の手がソロリソロリと上へ上がった。
「では、貴様は、生かしては帰せぬ!」
「そうか」と銀之丞は冷淡に「よかろう、一発ドンとやれ」
 ピッタリ短銃の筒口が、銀之丞の胸へ向けられた。絶息しそうな沈黙が、分を刻み秒を刻んだ。

    助太刀をしてくださるまいか

 と、ピストルがソロソロと、下へ下へと下ろされた。
「そんな筈はない。能役者ではあるまい」
「何故な?」と銀之丞は平然ときいた。
「素晴らしい度胸だ。能役者ではあるまい」
「嘘はいわぬ。能役者だ」
「そうか」
 と九郎右衛門は考えながら、
「無論剣道は学んだろうな?」
「うん、いささか、千葉道場でな」
「ははあ、千葉家で、それで解った」
 九郎右衛門は眼をとじた。どうやら考えに耽るらしい。と、パッと眼を開けると、にわかに言葉を慇懃《いんぎん》にしたが、
「いかがでござろう今夜のこと、他言ご無用に願いたいが」
 そこで銀之丞も言葉を改め、
「そこもと、それが希望なら……」
「希望でござる、是非願いたい」
「よろしゅうござる。申しますまい」
 二人はまたも沈黙した。
「さて、改めてお願いがござる」一句一句噛みしめるように、九郎右衛門はいい出した。「何んとお聞き済みくださるまいか」
「お話の筋によりましては。……」
「いかさまこれはごもっとも」
 九郎右衛門はまた眼をとじ、じっと思案に耽ったが、
「私、昔は悪人でござった。しかし今は善人でござる。……とこう申したばかりでは、あるいはご信用くださるまいが、今後ご交際くださらば、自然お解りにもなりましょう。ところが先刻不用意の間にうっかりお耳に入れました通り、私には敵がござる」
「どうやらそんなご様子でござるな」
「それがなかなか強敵でござる」
「それに人数も多いようでござるな」
「しかし恐ろしいはただ一人、金子市之丞と申しましてな、非常な小太刀の名人でござる」
「ふうむ、なるほど、さようでござるかな」
「それが徒党を引率して、最近襲撃して参る筈、ナニ私が壮健なら、ビクともすることではござらぬが、何を申すにも不具の躰、実は閉口しておるのでござる。そのため使者《つかい》を遣《つか》わして、今晩参って話し合うよう、その市之丞まで申し入れましたところ、その者は来ずに代りとして、あなたがお見えになられたような次第、もうこうなっては平和の間に折り合うことは不可能でござる。是が非でも戦わねばならぬ。ところで味方はおおかた召使い、太刀取る術さえ知らぬ手合い、戦えばわれらの敗けでござる。お願いと申すはここのこと、何んと助太刀してくださるまいか。侠気あるご仁と見受けましたれば、折り入ってお願い致すのでござる」
「ははあ、なるほど、よくわかってござる」
 銀之丞は腕をくんだ。「さてこれはどうしたものだ。自分は能役者で剣客ではない。それに当分剣の方は、封じることにきめている。それに見たところこの老人、善人とはいうがアテにはならぬ。その上相手の市之丞というは、小太刀の名人だということである。うかうか助太刀して切られでもしたら、莫迦《ばか》を見る上に外聞も悪い。これは一層断わった方がいいな。……だが両刀を手挾《たばさ》む身分だ、見込んで頼むといわれては、どうも没義道《もぎどう》に突っ放すことは出来ぬ。どうもこれは困ったぞ。……いや待てよ、この老人には、美しい娘があった筈だ。こんなことから親しくなり、恋でもうまく醸《かも》されようものなら、こいつとんだ儲けものだ。といって誘惑するのではないが、だが美人と話すのは、決して悪いものではない。第一生活に退屈しない。よしきた、一番ひき受けてやれ」
 そこで彼は元気よくいった。
「よろしゅうござる、助太刀しましょう」

    厳重を極めた邸の様子

「もうこうなりゃア謡なんか、どうなろうとままのかわ[#「ままのかわ」に傍点]だ。面白いのは恋愛だ! 恋よ恋よ何んて素敵だ!」
 これが銀之丞の心境であった。
 つまり彼は九郎右衛門の娘、お艶《つや》というのと恋仲になり、楽しい身の上となったのであった。
 だがしかし恋の描写は、もう少し後に譲ることにしよう。

 助太刀の依頼に応じてからの、観世銀之丞というものは、九郎右衛門の別荘へ、夜昼となく詰めかけた。
 彼の眼に映った別荘は、まことに奇妙なものであった。まずその構造からいう時はきわめて斬新奇異なもので、宅地の真ん中と思われる辺に、平屋造りの建物があった。一番広大な建物で、城でいうと本丸であった。ここには九郎右衛門の肉親と、その護衛者とが住んでいた。その建物の真ん中に、一つの大きな部屋があった。九郎右衛門の居間であった。あらゆる珍奇な器具類が、隙間もなく飾ってあった。すなわち過ぐる夜偶然のことから、銀之丞がこの家を訪れた時、呼び込まれたところの部屋であった。その部屋は四方厚い壁で、襖や障子は一本もなく、壁の四隅に扉を持った、四つの出入り口が出来ていた。そうして四つのその口からは、四つの部屋へ行くことが出来た。
 さてその四つの部屋であるが、東南にある一室には、九郎右衛門の病身の妻、お妙《たえ》というのが住んでいた。またその反対の西南の部屋には、娘のお艶が住んでいた。さらに東北の一室には、これも病身の伜の六蔵が、床についたままで住んでいた。最後の西北の一室には、別荘番の丑松と、護衛の男達が雑居していた。
 以上五つの部屋によって、本邸の一郭は形作られていたが、それら部屋部屋の間には、共通の警鐘《けいしょう》が設けられてあって、異変のあった場合には、知らせ合うことになっていた。
 この本邸を囲むようにして、独立した四つの建物があった。城でいうと出丸に当たった。これも低い平屋づくりで、本邸と比べては粗末であったが、しかし牢固《ろうこ》という点では、むしろ本邸に勝っていた。四つとも同じような建て方で、その特色とするところは、矢狭間《やざま》づくりの窓のあることと、四筋の長い廻廊をもって、本邸と通じていることとであった。そうして本邸との間には、共通の警鐘が設けられてあった。
 別荘の人達はこれらの建物を、四つの出邸《でやしき》と呼んでいた。この四つの出邸には、いずれも屈強な男達が、三十人余りもこもっていた。すなわち警護の者どもであった。
 なおこの他にも厩舎《うまごや》とかないしは納屋とか番小屋とか細々《こまごま》しい建物は設けられていたが目ぼしい物は見当たらなかった……構内を囲んだ堅固な土塀。土塀の外側の深い堀。堀にかけられた四筋の刎ね橋。そうして邸内至る所に、喬木が林のように立っていた。南にあるのが表門で、北にあるのが裏門であった。その裏門を半町ほど行くと、大洋の浪岩を噛む、岩石|峨々《がが》たる海岸であり、海岸から見下ろした足もとには、小さな入江が出来ていた。入江の上に突き出しているのが、象ヶ鼻という大磐石《だいばんじゃく》であった。

    観世銀之丞人数をくばる

「人数は全部で五十人、このうち女が十人いる。非戦闘員としてはぶかなければならない。九郎右衛門殿と六蔵殿とは、不具と病人だからこれも駄目だ。正味働けるのは三十八人だが、このうちはたして幾人が武術の心得があるだろう?」
 それを調べるのが先決問題であった。で、ある日銀之丞は、それらの者どもを庭に集めて、剣術の試合をさせて見た。準太、卓三、千吉、松次郎、そうして丑松の五人だけは、どうやら眼鼻がついていた。
「俺を加えて六人だけは、普通に働けると認めていい。よし、それではこの連中を、ひとつ上手に配置してやろう」
 そこで銀之丞は命令した。
「準太は八人の仲間《ちゅうげん》をつれ東南の出邸《でやしき》を守るがいい。卓三も八人の仲間をつれ東北の出邸を守るがいい。千吉も松次郎も八人ずつつれて、西北と西南の出邸とを、やはり厳重に守るがいい。俺と丑松とは二人だけで、邸の警護にあたることにしよう。……敵の人数は多くつもって[#「つもって」に傍点]、百人内外だということである。味方よりはすこし[#「すこし」に傍点]多い。しかし味方には別荘がある。この厳重な別荘は、優に百人を防ぐに足りる。で油断さえしなかったら、味方が勝つにきまっている。ところで夜間の警戒だが、各自《めいめい》の組から一人ずつ、屈強の者を選び出して、交替に邸内を廻ることにしよう。そうして変事のあったつど、警鐘を鳴らして知らせることにしよう。どうだ、異存はあるまいな?」
「なんの異存なぞございましょう」
 こうして邸内はその時以来、厳重に固められることとなった。
 親しく一緒に暮らして見て、九郎右衛門という人物がはじめの考えとは色々の点で、銀之丞には異《ちが》って見えた。彼には最初九郎右衛門が、足こそ気の毒な不具ではあるが、体はたっしゃのように思われた。ところが九郎右衛門は病弱であった。肥えているのが悪いのであり、血色のよいのがよくないのであった。彼は今日の病名でいえば、動脈硬化症の末期なのであった。いやそれよりもっと悪く、すでに中風の初期なのであった。
 それから銀之丞は九郎右衛門を、最初悪人だと睨んだものであった。しかしそれも異っているらしい。なかなか立派な人物らしい。敢為冒険《かんいぼうけん》の精神にとんだ、一個堂々たる大丈夫らしい。そうして珍奇な器具類や、莫大もない財産は、壮年時代の冒険によって、作ったもののように思われた。とはいえどういう冒険をして、それらの財産を作ったものかは、九郎右衛門が話さないので、銀之丞には解らなかった。
 それからもう一つ重大なことを、銀之丞は耳にした。というのは他でもない、九郎右衛門の財産なるものが、予想にも増して豪富なもので、別荘にあるところの財産の如きは、全財産から比べれば、百分の一にも足りないという、そういう驚くべき事実であって、そうしてそれを明かしたのは、別荘番の丑松であった。
「……つまりそいつをふんだくろうとして、市之丞めとその徒党が、ここへ攻め込んで来るんでさあ。が、そいつは見つかりッこはねえ。何せ別荘にはないんだからね。それこそ途方もねえ素晴らしいところに、しっかり蔵《しま》ってあるんだからね」
 その丑松はこの邸では、かなり重用の位置にいた。九郎右衛門も丑松だけには、どうやら一目置いているらしかった。年は三十とはいっているけれど、一見すると五十ぐらいに見え、身長《たけ》といえば四尺そこそこ、そうして醜いみつくちであった。
 彼はいつも象ヶ鼻の上から、入江ばかりを見下ろしていた。
 この家で一番の不幸者は、お艶の弟の六蔵であった。それは重い心臓病で、死は時間の問題であった。それに次いで不幸なのは、六蔵達の母であった。良人《おっと》の強い意志のもとに、長年の間圧迫され、精も根も尽きたというように、いつもオドオドして暮らしていた。

    妖艶たる九郎右衛門の娘

 この中にあってお艶ばかりは、太陽のように輝いていた。美しい縹緻《きりょう》はその母から、大胆な性質はその父から、いずれも程よく遺伝されていた。そうして彼女の美しさは、清楚ではなくて艶麗であった。もし一歩を誤れば、妖婦になり兼ねない素質があった。肉付き豊かなそのからだは、雪というより象牙のようで、白く滑らかに沢《つや》を持っていた。涼しい切れ長の情熱的の眼、いつも潤おっている紅い唇、厚味を持った高い鼻、笑うたびに靨《えくぼ》の出る、ムッチリとした厚手の頬……そうして声には魅力があって、聞く人の心を掻きむしった。
 いつぞや駕籠から顔を出し、ニッと銀之丞へ笑いかけたのは、このお艶に他ならない。
 そうして丑松をそそのかし、例の「あ」と「い」の紙飛礫《かみつぶて》を、投げさせたのも彼女であった。彼女にいわせるとその「あい」は、「愛」の符牒だということであった。つまり彼女は銀之丞に、一目惚れをしたのであった。そうしてそういう芝居染みた、大胆不敵な口説き方をして、思う男を厭応なしに、引き付けようとしたのであった。
 ところが人々の噂によると、その美しいお艶に対し、醜いみつくちの丑松が、恋しているということであった。これはもちろん銀之丞の心を、少なからず暗くはしたけれど、しかし信じようとはしなかった。「まさか」と彼は思うのであった。
 銀之丞ほどの人物も、お艶の美しさには勝てなかった。近代的の人間だけに、お艶のような変り種には、一層心を引き付けられた。強烈な刺戟、爛《ただ》れた美、苦痛にともなう陶酔的快楽! そういう物にあこがれる彼には、お艶のような妖婦型の女は、何よりも好もしい相手であった。
 で、彼は文字通り、恋の奴隷となり下がってしまった。
 やがて初冬がおとずれて来た。岸に打つ浪が音を高め、沖から吹いて来る潮風が、肌を刺すように寒くなった。銚子港の寂れる季節が、だんだん近寄って来たのであった。
 敵は襲って来なかった。で別荘は平和であった。無為《むい》の日がドンドンたって行った。
 とはいえその間怪しいことが、全然なかったとはいわれなかった。ある朝、どこから投げ込んだものか、一通の手紙が東側の、出邸の畔《ほとり》に落ちていた。書かれた文字は簡単で、「図面を渡せ」とあるばかりであった。でもちろん銀之丞には、なんのことだかわからなかった。だがしかし九郎右衛門には、恐らくその意味がわかったのであろう、さっとばかりに顔色を変えた。それから数日たった時、またも手紙が投げ込まれた。「鍵を渡せ」というのであった。
「いよいよ敵が逼《せま》って来た。警戒警戒、警戒しなければならない」
 九郎右衛門はこういった。しかしその後は変ったこともなく、またも無為に日が経った。と、またもや一通の手紙が邸の内に落ちていた。
「観世銀之丞よ。早く立ち去れ」
 こうその手紙には書いてあった。
 これには銀之丞も仰天したが、しかし恐れはしなかった。
「うん、面白い、張り合いがある」かえってこんなように思ったものであった。
 変な様子をした二、三人の者が、邸の周囲をさまよったり、夜陰堀の中へ石を投げたり、突然大勢の笑い声が、明け方の夢を驚かしたり、そういったような細々しい変事は、幾度となく起こっては消えた。
 だが攻めては来なかった。で、邸内の人々は、次第にそれに慣れて来た。だんだん油断をするようになった。
 お艶とそうして銀之丞との恋は、この間にも進歩した。
 ところで二人のその恋を、快く思わない人間が、邸の内に一人あった。醜い例の丑松で、彼は内々蔭へまわっては、二人の悪口をいうらしかった。しかし恋する二人にとっては、そんなことは苦にもならず、問題にしようともしなかった。
 こうしてまた日が経って、やがて初雪が降るようになった。

    深い深い水の底で重々しく開いた扉の音

 そのうちだんだん銀之丞に、ある疑問が湧くようになった。
「それにしてもゆうちょう[#「ゆうちょう」に傍点]な敵ではないか。いつ攻めて来るのだろう? それに邸内の人達も、変に最近ダレて来た。全体が一向真剣でない」
 一つの疑いは二つの疑いを呼ぶ。
「邸内の構造も不思議なものだ。どうもなんとなく気味がわるい。そういえば主人の九郎右衛門にも、変に隠すようなところがある。それに素晴らしい珍器異具、どうも少々異国的に過ぎる。若い時代の冒険によって、蒐集《しゅうしゅう》したのだといわれてみれば、そんなようにも思われるが、しかしそれにしても怪しいところがある。……わけても最も怪しいのは、象ヶ鼻という大磐石だ。決して人を近寄らせない。そうしていつも丑松めが、恐ろしい様子をして頑張っている」
 こう思って来ると何から何まで、怪しいもののように思われてならない。
「そういえば娘のお艶の恋も、大胆なようでよそよそしい」
 しまいには恋をまで疑うようになった。
「よし、ひとつ心を入れ替え、邸内の様子を探ることにしよう。」
 彼は態度を一変させた。この時までは全力を挙げて、邸のために尽くしたものであった。その時以来はそれとはあべこべに、自分をすっかり邸から放し、第三者として観察することにした。
 するとはたして心得ぬことが、続々として起こって来た。例えば深夜こっそりと、邸内多数の人間が、象ヶ鼻の方へ出て行ったり、ある夜の如きは燈火を点けない、大型の一隻の帆船が、どこからともなく現われて来て、象ヶ鼻の真下の小さい入江へ、こっそり碇《いかり》を下ろしたりした。
「怪しい怪しい」
 と、銀之丞は、いよいよその眼をそばだてた。
 しかしこれらはよい方であった。そのうちとうとう銀之丞は、恐ろしいことを発見した。
 というのは他でもない。四つの出邸を繋いでいる廊下が、十字形をなしていることであった。
「おおこれは十字架の形だ!」
 つづいて連想されたのは、ご禁制|吉利支丹《キリシタン》のことであった。
「ううむ、それではこの邸は、邪教の巣窟ではあるまいか」
 さすがの彼もゾッとした。
「これは大変だ。逃げなければならない」
 しかし逃げることは出来なかった。
 出邸にこもった数十人の者が、夜も昼も警戒していた。
「ああこれこそ自縄自縛だ。出邸に人数を配ったのは、他でもないこの俺だ。その人数に見張られるとは、なんという矛盾したことだろう」
 止どまっていることは破滅であった。しかし脱出は不可能であった。ではいったいどうしたらいいのか?

 銀之丞の様子の変ったことに、彼らが気づかない筈がない。
 ある夜丑松と九郎右衛門とが、九郎右衛門の部屋で囁《ささや》いていた。
 何をいったい囁き合ったのか? 何をいったい相談したのか? それは誰にもわからなかった。とはいえ、いずれ恐ろしいことが、囁きかわされたに相違ない。その証拠にはその夜以来、銀之丞の姿が見えなくなった。空へ消えたのか地へ潜ったのか、忽然姿が消えてしまった。
 しかも邸内誰一人として、それを怪しんだものがない。もっとも彼らはその夜遅く、金属製の大きな戸が、深い深い水の底で、重々しく開くような音を聞いた。
 が、誰一人それについて、噂しようともしなかった。
 で、邸内は平和であった。無為《むい》に日数が経って行った。
 全く不思議な邸ではある。
 だが銀之丞はどうしたのだろう? いずれは恐ろしい運命が、彼を見舞ったに相違ない。はたして生きているだろうか? それとも死んでしまっただろうか? 死んだとしたら殺されたのであろう。
 可哀そうな彼の運命よ!
 だが私の物語は、ここから江戸へ移らなければならない。

    家斉《いえなり》将軍と中野|碩翁《せきおう》


    赤い格子に黒い船
    ちかごろお江戸は恐ろしい

 こういう唄が流行《はや》り出した。
 十数年前にはやった唄で、それがまたもやはやり出したのであった。
 恐ろしい勢いで流行し、柳営にまで聞こえるようになった。
 時の将軍は家斉《いえなり》であったが、ひどくこの唄を気にかけた。
「不祥の唄だ、どうかしなければならない」
 こう侍臣に洩らしさえした。侍臣達はみんな不思議に思った。名に負う将軍家斉公ときては、風流人としての通り者であった。どんなはやり唄がはやろうと、気にかけるようなお方ではない。ところがそれを気にかけるのであった。
「珍らしいことだ。不思議だな」こう思わざるを得なかった。
 ある日お気に入りの中野碩翁《なかのせきおう》が、ご機嫌うかがいに伺候した。
「おお播磨か、機嫌はどうだな」将軍の方から機嫌をきいた。
「変ったこともございませんな」
 碩翁の方でも友人づきあいであった。
 この二人の仲のよさは、当時有名なものであった。というのも碩翁の養女が、将軍晩年の愛妾だからで、もっとも碩翁その人も一個変った人物ではあった。才智があって大胆で、直言をして憚らない。そうして非常な風流人で、六芸十能に達していた。だから家斉とはうま[#「うま」に傍点]があった。で二人の関係は主従というよりも友達であった。
 身分は九千石の旗本で、たいしたものではなかったが、その権勢に至っては、老中も若年寄もクソを喰らえで、まして諸藩の大名など、その眼中になかったものである。
 したがって随分わがままもした。市井の無頼漢《ぶらいかん》を贔屓《ひいき》にしたり、諸芸人を近づけたりした。いわゆる一種の時代の子で、形を変えた大久保彦左衛門、まずそういった人物であった。
 賄賂《わいろ》も取れば請託《せいたく》も受けた。その代わり自分でも施しをした。顕職を得たいと思う者が、押すな押すなの有様で、彼の門を潜ったそうだ。
 悪さにかけても人一倍、善事にかけても人一倍、これが彼の真骨頭であった。恐れられ、憚られ、憎まれもした。とまれ清濁併せ飲むてい[#「てい」に傍点]の、大物であったことは疑いない。
「お前、聞いたろうな、あの唄を」家斉は早速いい出した。
「お前あいつをどう思うな?」
「厄介《やっかい》な唄でございますな」碩翁はこうはいったものの、厄介らしい様子もない。
「十数年前にはやった唄だ」
「そんな噂でございますな」
「海賊赤格子をうたった唄だ」
「ははあさようでございますかな」碩翁はちゃんと知っているくせに、知らないような様子をした。これが老獪なところであった。家斉をしていわせようとするのだ。
「そうだよ赤格子を唄った唄だよ。あの海賊めがばっこ[#「ばっこ」に傍点]した、十数年前にはやった唄だ」
「海賊の上に邪教徒だったそうで」
「うん、そうだ、吉利支丹だったよ」
「ただし噂によりますと、なかなか大豪《だいごう》の人間だったそうで」
「それに随分と学問もあった。吉利支丹的の学問がな」
「つまり魔法でございますかな」
「いいや、違う、その反対だ」
「反対というと? ハテ何んでしょうな?」
「実際的の学問なのさ。うん、そうだ科学とかいった」
「科学? 科学? こいつ解らないぞ」
「建築術なんかうまかったそうだ」
「建築術? これは解る」
「それから色々の造船術」
「造船術? これもわかる」
「それから色々の製薬術」
「製薬術? これもわかる」
「大砲の製造、火薬の製造、そういう物もうまかったそうだ」
「恐ろしい奴でございますな」
「学問があって大豪で、それで海賊というのだから、随分ととらえるには手古摺《てこず》ったものだ」
「それはさようでございましょうとも」
「その上神出鬼没と来ている」
「さすがは名誉の海賊で」
「何しろ船が別製だからな」
「自家製造の船なのでしょうな」
「うん、そうだ、だから困ったのさ。……その上、いつも日本ばかりにはいない」
「ははあ、海外を荒らすので」
「支那、朝鮮、南洋諸島……」
「痛快な人間でございますな」
「海賊係りの役人どもも、これには全く手古摺ったものだ」
「それでもとうとう大坂表で、とらえられたそうでございますな」
「大坂の役人めえらいことをしたよ」
「どうやら万事大坂の方が、手っ取り早いようでございますな」
「莫迦《ばか》をいえ、そんなことはない」
 家斉はここで厭な顔をした。
「で、さすがの大海賊も、処刑されたのでございますな」
「ところが」と家斉は声をひそめ、「それがそうでないのだよ」
「それは不思議でございますな」これは碩翁にも意外であった。
「もっとも訴訟の面《おもて》では、処刑されたことになっている」
「では、事実は異いますので」
「きゃつ[#「きゃつ」に傍点]は今でも生きている筈だ」
「とんと合点がいきませんな」
「というのは外でもない。命乞いをした人間がある」
「しかし、さような大海賊を。……」いよいよ碩翁には意外であった。
「いや、さような海賊なればこそ、命乞いをしたのだよ」
「とんと合点がいきませんな」
「とまれきゃつ[#「きゃつ」に傍点]は生きている筈だ」

    文庫から出した秘密状

「恐ろしいことでございますな」
「ただし南洋にいる筈だ。いや、いなければならない筈だ」
「ははあ、南洋にでございますか」
「国内に置いては危険だからな」
「申すまでもございません」
「しかるにきゃつめ、最近に至って、日本へ帰って来たらしい」
「どうしてお解りでございますな」
「赤い格子に黒い船……こういう唄がはやっているからよ。……それにこの頃犬吠付近で、よく荷船が襲われるそうだ」
「それは事実でございます」
「だから、俺は、そう睨んだのさ」
「こまったことでございますな」
「どうでもこれはうっちゃっては置けぬ」
「なんとか致さねばなりますまい」
「きゃつがこの世に生きているについては、この家斉、責任がある」
「これはこれはどうしたことで」碩翁すっかり面喰らった。
「きゃつの命を助けたのは、他でもない、このおれだ」
「あなた様が? これはこれは!」
「おれはその頃は野心があった。海外に対する野心がな。で、きゃつを助けたのさ。その素晴らしい科学の力、その素晴らしい海外の知識、それをムザムザ亡ぼすのが、おれにはどうにも惜しかったからな」
「これはごもっともでございます」
「で、南洋へ追いやったのさ、ただし、その時約束をした」
 手文庫をあけて取り出したのは、文字を書いた紙であった。
「これがきゃつの書いたものだ」
「ははあ、なんでございますな?」
「民間でいう書証文《かきしょうもん》だ」
「妙なものでございますな」
「これをきゃつに見せてやりたい」
「何かの役に立ちますので」
「きゃつがほんとうの勇士なら、赤面するに相違ない。そうして日本を立ち去るだろう」
「手渡すことに致しましょう」
「だが、どうして手渡したものか」
「きゃつの根拠を突き止めるのが、先決問題かと存じます」
「だが、どうして突き止めたものか」
「海賊係りを督励《とくれい》し……」
「駄目だよ、駄目だよ、そんなことは」
 駄々っ子のように首を振った。
「まさか海賊の張本へ、俺から物を渡すのに、幕府の有司は使えないではないか」
「これはいかにもごもっともで」
「どうだ、民間にはあるまいかな?」
「は、なんでございますか?」
「忍びの術の名人とか、それに類した人物よ」
 碩翁はしばらく考えたが、ポンと一つ手を拍《う》った。
「幸い一人ございます」
「おおあるか、何者だな?」
「郡上平八と申しまして、与力あがりにございます」
「うん、そうか、名人かな」
「探索にかけては当代一人、あだ名を玻璃窓と申します」
「ナニ、玻璃窓? どういう意味だ?」
「ハイ、見とおしの別名で」
「見とおしだから玻璃窓か、なるほど、これは名人らしい」
「命ずることに致しましょう」
「俺からとあっては大仰になる。お前の名義で頼んでくれ」
「その点|如才《じょさい》はございません」
 やがて碩翁は退出した。
 退出はしたが碩翁は、少なからず肝をひやした。いかに我がままが通り相場とはいえ、国家を毒する大賊を、将軍たるものが助けたとあっては、上《かみ》ご一人に対しても、下《しも》万民に対しても、申し訳の立たない曲事であった。
「これが世間へ洩れようものなら、どんな大事が起ころうもしれぬ。早く手当をしなければならない」――で倉皇《そうこう》として家へ帰った。

    ようやくわかった切り髪の女

「旦那お家でござんすかえ」
 ご用聞きの松五郎が、こういいながら訪ねて来たのは、その同じ日の午後のことであった。「おお小松屋か、こっちへはいれ。……どうだ、大分寒くなったな」
 玻璃窓の平八は炬燵の上で、市中図面を見ていたが、物憂そうに声をかけた。
「へい、有難う存じます。ではご免を蒙《こうむ》りまして。おや何かお調べ物で?」
「ナーニ江戸の図面だよ。俺《わし》も近頃は暇だからな、所在なさに見ているやつさ」
「お暇は結構でございますな」「やむを得ない暇なのさ」「やむを得ないはいけませんな」
 すると平八は苦笑したが、「俺もこの頃はヤキが廻ったよ。どうも一向元気がない」「いよいよもっていけませんな」「と、いうのもあの事件|以来《から》だ」「鼓賊からでございますかな?」
 すると平八は頷いたが、「こう目星が外れては、俺もねっから[#「ねっから」に傍点]値打ちがないよ」
「実はね、旦那。その事について、よい耳をお聞かせにあがったんで」小松屋松五郎は膝を進めた。
「ふうん、そうかい、そいつは有難いね」
「旦那、目星がつきましたよ。切り髪女の目星がね」
「ほほう、そいつは耳よりだな」平八の顔は輝いた。「で、もちろん小屋者だろうな?」
「へい、両国の女役者で」
「そいつは少し変じゃないか。両国橋の小屋者なら、とうに悉皆《しっかい》洗ってしまった筈だ」
「ところが最近別の一座が、新規に掛かったのでございますよ」
「ううむ、そうか、そいつは知らなかった」
「旦那としてはちょっと迂濶《うかつ》だ」
「まさに迂濶だ、一言もない。それというのもこの事件では、気を腐らせていたからさ。……ひとつ詳しく話してくれ」
「ところが旦那、詳しいところは、まだわかっていませんので。実はこうなのでございますよ。……それもきのうのひるすぎですが、ちょっと野暮用がありましてね、両国を通ったと覚し召せ。ふと眼についた看板がある。わっち[#「わっち」に傍点]はおや[#「おや」に傍点]と思いやした。その芸題《げだい》が面白いので、『名人地獄』とこういうのですよ……わっちはそこで猶予《ゆうよ》なく、木戸を潜って覗いたものです。あッとまたそこで驚ろかされました。何んとその筋が大変物なので。そっくり鼓賊じゃありませんか」
「ナニ鼓賊? 鼓賊がどうした?」平八はグッと眼を据えた。
「へい、そっくり鼓賊なので、いや全く驚きやした」「頼む、筋立てて話してくれ」「順を追って申しましょう。序幕は信州追分宿、そこに旅籠《はたご》がございます。何んとかいったっけ、うん油屋だ。その油屋に江戸の武士が、二人泊まっているのですね。その一人が能役者で、そうして鼓《つづみ》の名人なので。すると隣室に商人がいます。すなわち鼓賊の張本なので」「ふうん、なるほど。それからどうした?」「いろいろ事件があった後で、鼓を盗むのでございますよ。そこで幕が締まります」「ふうん、なるほど、それからどうした?」「で、また幕がひらきます。すると大江戸の夜景色で」「まだるっこいな。それからどうした?」「さあそれからは話し悪《にく》い」松五郎は妙にこだわった。
「どうしたんだ? 何が話しにくい。気取らずにサッサと話してくれ」「ようがす、思い切って話しましょう。つまりなんだ、その鼓賊と、あるやくざな与力あがりとが、競争するのでございますな。ところでいつも与力あがりの方が、カスばかり食わされるのでございますよ。それがまた途方もなく面白いので」「なるほど、そいつは面白そうだな」
 こうはいったが平八は、苦く笑わざるを得なかった。

    名人地獄! 名人地獄!

「ふん、それからどうしたな?」平八は先をうながした。
「……で、おおかた筋といえば、そういったものでございますがね、どうもつくりがあくどいので。へへへへ、全くあくどいや」「なんだい、いったいつくりとは?」「へい役者のつくりなので」
「役者のつくりがどうしたんだ?」「こればっかりは申されません。旦那ご自分でごらんなすって」
 小松屋松五郎はこういうと、何かひどく気の毒そうに、クックックッと含み笑いをした。
「で、座頭《ざがしら》は何んというんだ?」
「阪東米八といいますので」
「そいつが切り髪の女なのか?」「へい、さようでございます。滅法《めっぽう》仇《あだ》っぽい美《い》い女で、阪東しゅうかの弟子だそうです」
「鬘《かつら》を着けていたひにゃア、切り髪なんかわかるまいに、どうしてお前は探ったな?」「いえ、そいつはこうなので、見物の中に見巧者がいて、噂をしたのでございますよ」「ほほう、なるほど、どんな噂だな?」「なんでも今年の春のこと、旦那というのに髪を切られ、世間に顔向けが出来ないので、それでずっと休んでいたのが、今度旦那から金を取り、自分が座頭で一座を作り、打って出たのだとこういうので」「これは筋道が立っているな。いかさまこいつはいい[#「いい」に傍点]耳で、知らせてくれて有難い。ゆっくり茶でも飲んで行きな」
 一つ二つ世間話があって、やがて松五郎は帰って行った。その後から平八も、仕度《したく》をして家を出た。
 さすがの玻璃窓の平八も、鼓賊ばかりには手古摺っていた。鼓の音を目あてとして、尋ねあぐんだそのあげく、うまく池ノ端で探りあてたはいいが、湯島天神へ追い込んで、さていよいよ捉えてみると、何んのことだ観世銀之丞! それ以来方針を一変し、髪を切られた小屋者はないかと、その方面から探ることにしたが、ねっから目星しい獲物もなかった。で、すっかり悄気《しょげ》返り、「鼓賊はどうでも俺の苦手だ。ひどい間違いのないうちに、手を引いた方がよさそうだ」などと思いあぐんでいたところであった。
 で、松五郎の話にも、大して気乗りしてはいないのであった。「どうせアブレるに違いない、今度アブレたらそれを機会に、一切探索にはたずさわるまい。頭を丸めて法衣を着て、高野山へでも登ってやろう。ああああ浮世は面白くねえ」
 こんなことを思いながら、彼はポツポツ歩いて行った。
 阪東米八の掛け小屋は、かなり立派で大きかった。絵看板も美しく、「名人地獄」と記した文字も、躍り出しそうに元気がよい。
 しばらく見ていた平八は、木戸を潜って内へはいった。
 ギッシリ見物が詰まっていた。そうして幕が開いていた。上野山下池ノ端、美しい夜景が展開されていた。と、一人の人物が、鼓を打ちながら現われた。縦縞の結城紬《ゆうきつむぎ》、商人じみた風采であった。
「ははあこいつが鼓賊だな」
 平八は口の中で呟いた。と、もう一人の人物が、それを追いながら走り出た。古ぼけた紋服、古ぼけた袴、年の頃は五十四、五、皺の寄った痩せた顔、郡上平八そっくりであった。
「ううん、さてはこいつだな、松五郎めがいいにくそうに、あくどいつくりだといったのは! いかにもこれはあくど過ぎる。だが、それにしても不思議だな。どうして俺と鼓賊とが、あの晩湯島と池ノ端とで、追いつ追われつしたことを、この役者達は知っているのだろう? これではまるでこの俺を、からかっているとしか思われない」
 奥歯を噛みしめ、こぶしを握り、平八はブルブル身ぶるいをした。
 と、その時、鼓の音が、一きわ高く打ち込まれた。

    さすがの玻璃窓行きづまる

 聞き覚えある鼓であった。忘れられようとしても忘れない、例の鼓の音であった。
 ポンポンポン! ポンポンポン!
 あたかも彼を嘲笑うように、舞台一杯に鳴り渡った。
「これはいけない」と平八は、思わず耳を手で抑えた。「こんな筈はない。こんな筈はない。こんなところで、あの鼓が、こんなにおおっぴらに鳴る筈がない! どうかしている、俺の耳は!」
 いやいや決して彼の耳が、どうかしているのではないのであった。間違いもなくあの鼓が、元気よく鳴り渡っているのであった。
 もう見ているに耐えられなかった。で、平八は小屋を出た。これは実際彼にとっては、予期以上の痛事《いたごと》であった。
 打ち拉《ひし》がれた平八は、両国橋の方へ辿って行った。雪催《ゆきもよ》いの寒い風が、ピューッと河から吹き上がった。「おお寒い」と呟いたとたん、彼の理性が回復された。橋の欄干へ体をもたせ、河面へじっと眼をやりながら、彼は考えをまとめようとした。
「何んでもない事だ、何んでもない事だ」彼は自分へいい聞かせた。「あらゆる浮世の出来事は、成るようにして成ったものだ。不合理のものは一つもない。よし、一つ考えてみよう。……最初に鼓を聞いたのは、今年の春の雪の夜で、そうしてその場に落ちていたのは、鬘下地の切り髪であった。で、切り髪と鼓とは、深い関係がなければならない。さて、ところで、鼓の音を、二度目に俺が聞いたのは、池ノ端の界隈であった。そうしてその時は鼓賊めが、確かに鼓を打っていた筈だ。しかしいよいよとらえてみれば、能役者観世銀之丞であった。ううむ、こいつが判らない」
 ここまで考えて来て平八は、行きづまらざるを得なかった。
 彼の考えを押し詰めて行けば、能役者観世銀之丞が、鼓賊でなければならなかった。
「いやいや断じてそんなことはない」
 ぼやけた声でこういうと、彼はトボトボとあるき出した。彼はスッカリまいってしまった。精も根も尽きてしまった。

 その日も暮れて夜となった時、彼は自宅へ帰って来た。と、全く意外なことが、彼の帰りを待ちかまえていた。
 碩翁様からの使者であった。
「はてな?」
 と彼は首を傾《かし》げた。
 役付いていた昔から、碩翁様には一方ならず、彼は恩顧を蒙っていた。役目を引いた今日でも、二人は仲のよい碁敵《ごがたき》であった。
「わざわざのお使者とは不思議だな」
 怪しみながら衣服を改め、使者に伴われて出かけて行った。

 彼が自宅へ帰ったのは、夜もずっと更けてからであったが、彼はなんとなくニコツイていた。ひどく顔にも活気があった。
 彼は家の者へこんなことをいった。
「俺はあすから旅へ出るよ。鼓賊なんか七里けっぱい[#「けっぱい」に傍点]だ。もっともっと大きな仕事が、この俺を待っているのだからな。」

    南無幽霊頓証菩提

 隅田のほとり、小梅の里。……
 十一月の終り頃。弱々しい夕陽が射していた。
 竹藪でしずれる[#「しずれる」に傍点]雪の音、近くで聞こえる読経の声、近所に庵室《あんしつ》でもあるらしい。
 古ぼけた百姓家。間数といっても二間しかない。一つの部屋に炉が切ってあった。
 雪を冠った竹の垣、みすぼらしい浪人のかり住居。……
 美男の浪人が炉の前で、内職の楊枝《ようじ》を削っていた。あたりは寂然《しん》と静かであった。
「少し疲労《つか》れた。……眼が痛い。……」
 茫然と何かを見詰め出した。
「ああきょうも日が暮れる」
 また内職に取りかかった。
 しずかであった。
 物さびしい。
 ポク、ポク、ポク、と、木魚の音。……
 夕暮れがヒタヒタと逼って来た。
 隣りの部屋に女房がいた。昔はさこそと思われる、今も美しい病妻であった。これも内職の仕立て物――賃仕事にいそしんでいた。
 ふと女房は手を止めた。そうして凝然と見詰め出した。あてのないものを見詰めるのであった。……が、またうつむいて針を運んだ。
 サラサラと雪のしずれる音。すっかり夕陽が消えてしまった。ヒタヒタと闇が逼って来た。
 浪人は一つ欠伸《あくび》をした。それから内職を片付け出した。
 と、傍らの本を取り、物憂そうに読み出した。あたりは灰色の黄昏《たそがれ》であった。
「何をお読みでございます?」
「うん」といったが元気がない。「珍らしくもない、武鑑《ぶかん》だよ」
 二人はそれっきり黙ってしまった。
 と、浪人が誰にともつかず、
「どこぞへ主取りでもしようかしらん」
 しかし女房は返辞をしない。
 浪人は武鑑をポンと投げた。
「だが仕官は俺には向かぬ」
「それではおよしなさりませ」女房の声には力がない。むしろ冷淡な声であった。
「やっぱり俺は浪人がいい」浪人の声にも元気がない。
 女房は黙って考えていた。
 また雪のしずれる音。……
「その仕立て物はどこのだな?」
「お隣りのでございます」
「隣りというと一閑斎殿か」
 女房は黙って頷《うなず》いた。
 すると浪人は微笑したが、それから物でも探るように、
「あのお家は裕福らしいな?」
「そんなご様子でございます」
「ふん」と浪人は嘲笑った。「昔の俺なら見遁がさぬものを……」
 ――意味のあるらしい言葉であった。気味の悪い言葉であった。
 ここで二人はまた黙った。
 と、浪人は卒然といった。
「俺はすっかり変ってしまった」嘆くような声であった。
「妾《わたし》も変ってしまいました」女房の声は顫えていた。
「俺は自分が解らなくなった。……それというのもあの晩からだ」
 女房は返辞をしなかった。返辞の代りに立ち上がった。
「これ、どこへ行く。どうするのだ」
「灯でもとも[#「とも」に傍点]そうではございませんか」
 やがて行燈がともされた。茫《ぼう》っと立つ黄色い灯影《ほかげ》に、煤びた天井が隈取《くまど》られた。
 と、女房は仏壇へ行った。
 カチカチという切り火の音。……
 ここへも燈明が点《とも》された。
「南無幽霊頓証菩提《なむゆうれいとんしょうぼだい》。南無幽霊頓証菩提」
 ブルッと浪人は身顫いをした。
「陰気な声だな。俺は嫌いだ」
「南無幽霊頓証菩提」
「その声を聞くと身が縮《すく》む」
「どうぞどうぞお許しください。どうぞどうぞお許しください」
「止めてくれ! 止めてくれ!」
「妾はこんなに懺悔しています。どうぞ怨んでくださいますな」
 ザワザワと竹叢《たけむら》の揺れる音。……
 どうやら夜風が出たらしい。

    悪人同志の夫婦仲

「俺の心は弱くなった。それというのもあの晩からだ。……憎い奴は平手造酒だ!」
 なお女房は祈っていた。
 ザワザワと竹叢の揺れる音。……
 次第に夜が更けて行った。
「天下の金は俺の物だ。斬り取り強盗武士の習い。昔の俺はそうだった。……両国橋の橋詰めで、あいつに河へ追い込まれてからは、何彼《なにか》につけて怖じ気がつき、やることなすこと食い違い……」
 なお女房は祈っていた。
 やがてそろそろと立ち上がると、おっと[#「おっと」に傍点]の側へ膝をついた。
 そうして何かを聞き澄まそうとした。しかし何んにも聞こえない。
「ああ」と襟を掻き合わせたが、「まだ今夜は聞こえて来ない。どうぞ聞こえて来ないように」
 チェッと浪人は舌打ちをした。
「毎晩きこえてたまるものか。なんの毎晩きこえるものか」
「毎晩きこえるではございませんか。ゆうべも、おとついも、その前の晩も。……」
「あれは……あれはな……空耳だ」
「なんの空耳でございましょう。あなたにも聞こえたではございませんか」
 二人は顔をそむけ合った。
「……あれはな、亡魂の声ではない。……たしかに人間の声だった」
 しかし女房は首を振った。
「あの人の声でございました。何んの妾《わたし》が聞き違いましょう。……」
 近くに古沼でもあるとみえて、ギャーッと五位鷺《ごいさぎ》の啼く声がした。
 と、それと合奏するように、シャーッ、シャーッという狐の声が、物さびしい夜を物さびしくした。ホイホイホイ、ホイホイホイ、墨堤《つつみ》を走る駕籠であった。
 二人はもはや物をいわない。
 物をいうことさえ恐れているのだ。
 行き詰まった二人の心持ち! しかも生活までも行き詰まっていた。
 二人はいつまでも黙っていた。黙っていても不安であった。物をいっても不安であった。いったいどうしたらいいのだろう?
 と、浪人はうめくようにいった。
「それにしても俺には解らない。……あんなものが! 馬方が! ふん、あんな馬子の唄が、そうまでお前の心持ちを……」
「魅入られているのでございます」
「魅入られていると? いかにもそうだ! ああそれも、昔からだ!」
「あんな男と思いながら……それも死んでいる人間だのに……一度あの唄が聞こえて来ると、急に心が狂わしくなり、体じゅうの血が煮えかえり……生きている空とてはございません」
 女は髪を掻きむしろうとした。
「因果な俺達だ。救いはない」
 憐れむような声であった。
 ふと、笑い声が聞こえて来た。この場に不似合いな笑い声であった。それを耳にすると二人の心は、一瞬の間晴々しくなった。
「なにか取り込みでもあるらしいな」
「ご客来だそうでございます。……能面をおもとめなされたそうで」
「ふん、それを見せるのか」
「お知り合いのお方をお呼びして」
「勝手なものだ。金持ちは」ギラリと浪人は眼を光らせた。「お北!」と相手の眼を見ながら、
「昔のお前に返る気はないかな?」
 女房は凝然と動こうともしない。
「たかが相手はオイボレだ。……お前にぞっこん参っているらしい。……女中が去った、手伝いに来い。……などとお前をよぶではないか……急場のしのぎだ。格好な口だ」

    亡魂のうたう追分節

「妾はイヤでございます」
「今の俺達は食うにも困る。それはお前も知っている筈だ。……なにもむずかしいことはない。ただ、笑って見せてやれ」
「昔の妾でございましたら……」
「俺から頼む、笑って見せてやれ」
「妾には出来そうもございません」
「そこを俺が頼むのだ」
「…………」
「ではいよいよ不承知か! そういうお前は薄情者か!」
 ポキリポキリと枯れ枝を折り、それを炉の火へくべ[#「くべ」に傍点]ながら、美男の浪人はいいつづけた。
「落ち目になれば憐れなものだ。女房にさえも馬鹿にされる。その女房とはその昔、殺すといえば殺されましょうと、こういい合ったほどの仲だったのに。が、それも今は愚痴か」
 浪人はムッツリと腕をくんだ。
「俺はお前と別れようと思う」浪人は憎々《にくにく》しくやがていった。「くらしが変れば心持ちも変る。……俺は成りたいのだ、明るい人間にな」
 女は肩をすくませた。
「それがあなたに出来ましたら……」
「別れられないとでも思うのか」
「あなたも妾も二人ながら、のろわれている身ではございませんか。二人一所におってさえ、毎日毎夜恐ろしいのに。……それがあなたに出来ましたら」
 夜がふけるにしたがって、隣家の騒ぎもしずまった。笑い声もきこえない。
 ボーンと鐘が鳴り出した。諸行無常の後夜《ごや》の鐘だ。
「酒はないか?」と浪人はいった。
「なんの酒などございましょう」
 きまずい沈黙が長くつづいた。耳を澄ませば按摩の笛。それに続いて夜鍋うどんの声……。
「こんな晩には寝た方がよい。ああせめてよい夢でも。……」
 枕にはついたが眠れない。
 犬の遠吠え、夜烏の啼《な》く音《ね》、ギーギーと櫓を漕ぐ音。……隅田川を上るのでもあろう。
 寂しいなアと思ったとたん、
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西は追分東は関所……
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 追分の唄が聞こえて来た。
「あッ」
 というと二人ながら、ガバと夜具の上へ起き上がった。
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関所越えれば旅の空
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「あなた!」と女房は取り縋った。
「うむ」といったが、耳を澄ました。
「あの唄声でございます!」
「いやいやあれは……人間の声だ!」
「甚三の声でございます!」
「そっくりそのまま……いや異う!」
「亡魂の声でございます!」
「待て待て! しかし似ているなア」
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碓井《うすい》峠の権現さまよ……
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 だんだんこっちへ近寄って来た。
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わしがためには守り神
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 もう門口へ来たらしい。
 浪人は刀をツト握った。そっと立つと夜具を離れ、足を刻むと戸口へ寄った。
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追分、油屋、掛け行燈に
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 聞き澄まして置いて浪人は、そろそろと雨戸へ手をかけた。
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浮気ごめんと書いちゃない
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「うん」というとひっ外した。抜き打ちの一文字、横へ払った気合いと共に、跣足《はだし》[#「跣足」は底本では「洗足」]で飛び下りた雪の中、ヒヤリと寒さは感じたが、眼に遮る物影もない。

    忽然響き渡る鼓の音

 今年の最初の雪だというに、江戸に珍らしく五寸も積もり、藪も耕地も白一色、その雪明りに照らされて、遠方《おちかた》朦朧《もうろう》と見渡されたが、命ある何物をも見られなかった。
 行燈の灯が消えようとした。
 その向こう側に物影があった。
「誰!」
 といいながら隙《す》かして見たが、もちろん誰もいなかった。で、女房は溜息をした。
 鼬《いたち》が鼠を追うのであろう、天井で烈しい音がした。バラバラと煤が落ちて来た。
 すると今度は浪人がいった。
「肩から真っ赤に血を浴びて、坐っているのは何者だ!」
 そうして行燈の向こう側を、及び腰をして透かして見たが、
「ハ、ハ、ハ、何んにもいない」
 空洞《うつろ》のような声であった。
 二人はピッタリ寄り添った。しっかり手と手が握られた。二人に共通する恐怖感! それが二人を親しいものにした。
 冬なかばの夜であった。容易なことでは明けようともしない。丑満《うしみつ》には風さえ止むものであった。鼠も鼬も眠ったらしい。塵の音さえ聞こえそうであった。
 と、その時、ポン、ポン、ポンと、鼓《つづみ》の音が聞こえて来た。
 聞き覚えのある音であった。追分で聞いた鼓であった。江戸の能役者観世銀之丞が、追分一杯を驚かせて、時々調べた鼓の音だ。いいようもない美音の鼓、どうしてそれが忘られよう。
 しかし打ち手は異うらしい。正調でもなければ乱曲でもない。それは素人の打ち方であった。
 しかも深夜の静寂を貫き、一筋水のように鳴り渡った。
 誰が調べているのだろう? 何んのために調べているのだろう? それも厳冬の雪の戸外で!
 ポン、ポン、ポン!
 ポン、ポン、ポン!
 一音、一音が一つ一つ、冬夜の空間へ印を押すように、鮮やかにクッキリと抜けて響いた。
 と、鼓は鳴り止んだ。
 二人はホーッと溜息をした。
 鼓の鳴り止んだその後は、鳴る前よりも静かになった。鳴る前よりも寂しくなった。
 そうして凄くさえ思われた。
 二人はビッショリ汗をかいていた。
 その凄さ、その寂しさ、その静かさを掻き乱し、「泥棒!」という声のひびいたのは、それから間もなくのことであった。
 戸のあく物音、走り廻る足音。「こっちだ」「あっちだ」「逃げた逃げた」詈《ののし》る声々の湧き上がったのも、それから間もなくのことであった。
「そうか」
 と浪人ははじめていった。「噂に高い鼓賊であったか」
「お気の毒に、一閑斎様は、能面でも取られたのでございましょう」
「ふん、それもいいだろう。金持ちの馬鹿道楽、あらいざらい盗まれるがいい」
 賊は首尾よく逃げたらしい。
 やがて人声もしずまった。
 また静寂が返って来た。
 サラサラと崩れる雪の音。……
「俺は鼓賊が羨《うらや》ましい」
 呟《つぶや》くと同時に浪人は、刀を提げて立ち上がった。
「どちらへお越しでございます?」
「俺か」というと浪人は、顔に殺気を漂わせたが、「仕事に行くよ。仕事にな。……今夜は仕事が出来そうだ」
「どうぞお止めくださいまし」
「ふん、何故な? なぜいけない」
「後生をお願いなさいませ」
「うん後生か。それもよかろう。が、どうして食って行くな」
「饑《う》え死のうではございませんか」
「死ぬには早い。俺はイヤだ」
「妾は死にそうでございます。……殺されそうでございます。……自分で縊《くび》れて死のうもしれぬ。……」
「死にたければ死ぬもよかろう」
「あなた!」といって取り縋った。「ひと思いに殺してくださいまし」
「そんなに俺の手で死にたいか」
 浪人は鼻でセセラ笑ったが、「そうさ、いずれはそうなろうよ」縋られた手を振り払い、「俺は行くのだ。行かなければならない。鼓賊が俺をそそのかしてくれた。鼓賊が俺を勇気づけてくれた」
「悪行《あくぎょう》はおやめくださいまし」
「どうしてきょうの日を食って行く」
「ハイ、この上は、この妾が……」
 女房は袂《たもと》で顔を蔽うた。
「うん、やるつもりか! 美人局《つつもたせ》!」
「ハイ、夜鷹《よたか》でも、惣嫁《そうか》でも」
「そんなことではまだるッこいわい!」
 ポンと足で蹴返すと、浪人はツト外へ出た。
 ……開けられた門口《かどぐち》から舞い込んだのは、風に捲かれた粉雪であった。
 女房は門の戸を閉じようともしない。
 遠くで追分が聞こえていた。
 今の雪風に煽られたのか、炉の埋《うず》み火が燃え上がった。
 サラサラと落ちる雪の音。……
「身を苦しめるが罪障消滅。……もうあの人は帰って来まい。……ああまた追分が聞こえて来る」
 耳を澄まし眼を据えた。
 木立ちに風があたっていた。
 どこぞに遠火事でもあると見えて、ひとつばんが鳴っていた。カーンと一つ聞こえて来ては、そのまましんと静まり返り、ややあってまたもカーンと鳴った。
 女房はヨロヨロと立ち上がった。
 そうして部屋の中を廻り出した。
「お前に習った信濃追分、お前が唄うなら妾も唄う。……『信州追分桝形の茶屋で』……妾が悪うございました。どうぞかんにんしてくださいまし。……『ほろりと泣いたが忘らりょか』……妾が悪うございました。そんなに怨んでくださいますな。……おおおおだんだん近寄って来る!」
 振り乱した髪、もつれた裳《もすそ》、肋《あばら》の露出したあお白い胸。……懊悩地獄《おうのうじごく》の亡者であった。
 手を泳がせ、裾を蹴り、唄いながら女房は部屋を廻った。
 富士甚内とお北との生活。……

    鋭利をきわめた五寸釘の手裏剣

「あッあッあッ、あッあッあッ」
「おおよしよし、解った、解った」
「あッあッあッ、あッあッあッ」
「もういいもういい、解った解った。あッハハハハ、びっくりしていやがる。いや驚くのがあたりめえだ。信州追分とは違うからな。名に負う将軍お膝元、八百万石のお城下だからな。土一升金一升、お江戸と来たひにゃア豪勢なものさ。しかも盛り場の両国詰め、どうだいマアマアこの人出は! ペンペンドンドンピーヒャラピーヒャラ、三味線太鼓に笛の音、いや全く景気がいいなあ。ははあ、あいつは女|相撲《ずもう》だな。こっちの小屋掛けは軽業《かるわざ》一座。ええとあれは山雀《やまがら》の芸当、それからこいつは徳蔵手品、いやどうも全盛だなあ」「あッあッあッ。あッあッあッ」「うんよしよし、解った解った、あんまりあッあッといわねえがいい。人様がお笑いなさるじゃねえか。きりょうは結構可愛いのに、ふふんなアんだ唖娘《おしむすめ》か、こういってお笑いなさるからな」「あッあッあッ、あッあッあッ」「あれまたあッあッていやアがる。あッハハハ、どうも仕方がねえ。じゃ勝手にいうがいいさ。いう方がこいつ本当かも知れねえ。追分宿からポッと出の、きょうきのう江戸へ来たんだからな。見る物聞く物といいてえが、お前は唖だから聞くことは出来ねえ。そこで見る物見る物だが、その見る物見る物が、珍しいなあ無理はねえ。うん、精々いうがいい。あッあッあッていうがいい」
 こんなことをいいながら、雪解けでぬかる往来を、ノッソリノッソリやって来たのは、甚三の弟の甚内と、その妹のお霜とであった。
 ここは両国の盛り場で、興行物もあれば茶屋もあり、武士も通れば町人も通り、そうかと思えばおのぼりさんも通る。色と匂いと音楽と、……雑沓と歓楽との場であって、大概|変梃《へんてこ》な田舎者でも、ここではたいして目立たなかった。
 急にお霜が立ち止まり、じっと一点を見詰め出したので、甚内も連れて立ち止まった。
「どうしたどうした、え、お霜、オヤ何か見ているな。ははあ芝居の看板か」
 坂東米八の掛け小屋が、旗や幟《のぼり》で飾られて、素晴らしい景気を呼んでいたが、そこに懸けられた、絵看板に、宿場女郎らしい美女の姿が、極彩色《ごくさいしき》で描かれていた。その顔の辺へお霜の眼が、しっかり食いついて離れない。
「奇態だな、見たような顔だ」
 呟きながら甚内も、その絵看板へ見入ったが、思わずポンと膝を叩いた。
「ううん、こいつア油屋お北だ!」
 兄甚三を殺害した、富士甚内と油屋お北、そのお北に看板の絵が、そっくりそのままだということは、それら二人を敵《かたき》と狙う、甚内兄妹の身にとっては、驚くべき発見といわざるを得ない。
 しばらく見詰めていた甚内の眼へ、一抹の殺気の漂ったのは、当然なことといわなければならない。「チェ」と彼は舌打ちをした。「看板にゃ罪はねえ。が、お北にゃ怨みがある。幸か不幸か看板の絵が、こうもお北に似ているからにゃ、こいつうっちゃっちゃ[#「うっちゃっちゃ」に傍点]置けねえなあ」
 彼はあたりを見廻した。人通りは繁かったが、彼ら二人を見ている者はない。木戸に番人は坐っているものの、これまた二人などに注意してはいない。
「イラハイイラハイ、今が初まり、名人地獄、鼓賊伝、イラハイイラハイ、今が初まり!」大声でまねいているばかりであった。
「よし」というと甚内は、右手で懐中をソロソロと探った。そうしてその手がひき抜かれた時には、五寸釘が握られていた。ヤッともエイとも掛け声なしに、肩の辺で手首が閃めいたとたん、物をつん裂く音がした。
「態《ざま》ア見やがれ」と捨てゼリフ、甚内はお霜の手を曳くと、橋を渡って姿を消した。
 いったい何をしたのだろう? 絵看板を見るがいい。宿場女郎の立ち姿の、その右の眼が突き抜かれていた。それも尋常な抜き方ではない。看板を貫いたその余勢で、掛け小屋の板壁を貫いていた。小柄を投げてもこうはいかない。

    甚内の喧嘩の得手

 これには当然な理由があった。というのはその師匠が、千葉周作だからであった。
 千葉道場へ入門してから、すでに三月経っていた。
 初め敵討ちの希望をもって、千葉道場を訪《おと》ずれて、武術修行を懇願するや、周作はすぐに承知した。
「どうやら話の様子によると、富士甚内というその人間、武術鍛練の豪の者のようだ。ところでお前はどうかというに、以前は馬方今は水夫《かこ》、太刀抜く術《すべ》も知らないという。ちとこれは剣呑《けんのん》だな。なかなか武術というものは、二年三年習ったところで、そう名人になれるものではない。しかるに一方敵とは、いつなん時出逢うかもしれぬ。今のお前の有様では返り討ちは必定だ。……そこでお前に訊くことがある。どうだ、喧嘩などしたことがあろうな?」
「へえ」といったが甚内は、びっくりせざるを得なかった。「喧嘩なら今でも致しますので。馬方船頭お乳《ち》の人と、がさつな物の例にある、その馬方なり船頭なりが、私の稼業でございますので。」
「そこで喧嘩は強いかな?」
「へえ」といったが甚内は、いよいよ変な顔をした。「強いつもりでございます」
「得手は何んだな? 喧嘩の得手は?」「へえ、得手とおっしゃいますと?」「突くとか蹴るとか撲るとか、何か得意の手があろう」「ああそのことでございますか。へえ、それならございます。石を投げるのが大得意で」「石を投げる? 石飛礫《いしつぶて》だな。いやこれは面白い。どうだタマにはあたるかな?」
 すると甚内は不平顔をしたが、
「へえ、なんでございますかね?」「石飛礫だよ、タマにはあたるかな」「いえ、タマにはあたりません」「ナニあたらないと、それは困ったな」「へえタマにはあたらないので、その代りいつもあたります」「アッハハハ、そういう意味か」
 千葉周作は笑い出してしまった。
「ところでどういうところから、そういう変り手を発明したな?」「それには訳がございます。つまり撲られるのがイヤだからで」「それは誰でもイヤだろう」「私は特別イヤなので。撲られると痛うございます」「うん、そういう話だな」「それに撲られると腹が立ちます」「礼をいって笑ってもいられまい」「ところが取っ組んでしまったら、一つや二つは撲られます。それが私にはイヤなので。そこでソリャコソ喧嘩だとなると、二間なり三間なりバラバラと逃げてしまうのでございますな。それから小石を拾うので。そうして投げつけるのでございますよ。へえ、百発百中で、それこそ今日まで、一度だって、外れたことはございません」「おおそうか、それは偉いな」
 こういうと周作は立ち上がった。「甚内、ちょっと道場へ来い。……これ誰か外へ行って小石を二、三十拾って来い」
 で、道場へやって来た。
「さて、甚内、お前の足もとに、小石が二、三十置いてある。それを俺に投げつけるがいい」
「へえ」といったが甚内は、困ったような顔をした。
「それは先生様いけません」
「なぜな?」と周作は笑いながら訊いた。
「もってえねえ話でございますよ」
「そうさ、一つでも中《あた》ったらな」「では中《あた》らねえとおっしゃるので?」「ひとつお前と約束しよう。お前の投げた石ツブテが、一つでも俺に中ったら、この道場をお前に譲ろう」「こんな立派な道場をね。……そうして先生はどうなされます」「俺か、アッハハハ、そうしたら、武者修行へでも出るとしようさ」「それはお気の毒でございますな」「そうきまったら投げるがいい」

    北辰一刀流手裏剣用の武器

「へえ」といったが甚内は、なお何か考えていた。「で、どこを目掛けましょう?」「人間の急所はまず眉間《みけん》だ。眉間を目掛けて投げてこい」「それじゃ思いきって投げますべえ」
 二人は左右へス――ッと離れた。あわい[#「あわい」に傍点]はおおかた十間もあろうか、一本の鉄扇を右手に握り、周作は笑って突っ立った。
「はじめの一つはお毒見だ」
 こういいながら甚内は、手頃の小石を一つ握った。
「それじゃいよいよやりますだよ」叫ぶと同時にピュ――ッと投げた。恐ろしいような速さであった。と周作の鉄扇が、チラリと左へ傾いたらしい。カチッという音がした。つづいてドンという音がした。石が鉄扇へさわった音と、板の間へ落ちた音であった。
「やり損なったかな、こいつアいけねえ。が、二度目から本式だ」
 甚内は二つ目の石を取った。とまたピュ――ッと投げつけた。今度は鉄扇が右に動き、カチッという音がして、石は右手へ転がり落ちた。
「ほう、こいつも失敗か」甚内は呆れたというように、口をあけて突っ立ったが、「よし」というと残りの石を、一度に掬《すく》って懐中へ入れた。
「ようござんすか、先生様、今度は続けて投げますぞ」
「うん、よろしい、好きなようにせい」
 その瞬間に甚内の左手《ゆんで》が、懐中の中へスルリとはいり、石を握った手首ばかりを、襟からヌッと外へ出した。と、その石を右手《めて》が受け取り、取った時には投げていた。そうして投げた次の瞬間には、左手《ゆんで》に握っていた送り石を、すでに右手《めて》が受け取っていた。するともうそれも投げられていた。最初の石の届かないうちに、二番目の石が宙を飛び二番目の石が飛んでいるうちに、三番目四番目の石ツブテが、次から次と投げられた。
 石は一本の棒となって、周作目掛けて飛んで行った。自慢するだけの値打ちのある、実に見事な放れ業《わざ》であった。
 しかし一方それに対する、周作の態度に至っては、子供に向かう大人といおうか、まことに悠然たるものであって、ただ端然と正面を向き、突き出した鉄扇を手の先で、右と左へ動かすばかり、微動をさえもしなかった。
 カチカチと鉄扇へさわる音、トントンと板の間へ落ちる音、それが幾秒か続いたらしい。
「もういけねえ。元が切れた」
 甚内の叫ぶ声がした。
 周作は微笑を浮かべたが、
「どうだ、甚内、少しは解ったか」
「一つぐらい中《あた》りはしませんかね?」
「道場は譲れぬよ、気の毒だがな」
「へえ、さようでございますかね」
「こっちへこい。いうことがある」
 元の座敷へ戻って来た。
「さて甚内」と改まり、「思ったよりも立派な業だ。周作少なからず感心した。稽古して完成させるがいい。しかし小石では利き目が薄い、小石の代りに五寸釘を使え」
 それから周作は説明した。
「というのは剣道の中に、知新流の手裏剣といって、一個独立した業がある。俺も多少は心得ている。それをお前に伝授するによって、お前の得手のツブテ術に加えて、発明研究するがいい。以前から俺はそれについて、一つの考えを持っていた。……武士は平常《へいぜい》護身用として、腰に両刀をたばさんでいる。で剣術さえ心得ていたら、まずもって体を守ることが出来る。しかるに町人百姓や、なおそれ以下の職人などになると、大小は愚か匕首《あいくち》一本、容易なことでは持つことがならぬ。これは随分危険な話だ。そこで俺は彼らのために、何か格好な護身具はないかと、内々研究をした結果、見つけ出したのが五寸釘だ。ただし普通の五寸釘では、目方が軽くて投げにくい。そこで特別にあつらえてみた」
 こういいながら周作は、手文庫から釘を取り出した。
「見るがいいこの釘を。先が細く頭部が太く、そうして全体が肉太だ。ちょっと持っても持ち重りがする。しかし形や寸法は、何ら五寸釘と異《かわ》りがない。で幾十本持っていようと、官に咎められる気遣いはない。これ北辰一刀流手裏剣用の五寸釘だ」

    急拵えの大道芸人

 周作は優しく微笑した。
「どうだ甚内、この五寸釘を、練磨体得する所存はないか」
「なんのないことがございましょう。習いたいものでございます」勇気を含んで甚内はいった。
「おお習うか、それは結構。この一流に秀でさえしたら、敵《かたき》に逢ってもおくれは取るまい。なまじ剣術など習うより、これに専念をした方がいい」「そういうことに致します」「実はな、俺は案じていたのだ。剣術槍術弓薙刀、一流に達していたところで、一撃で相手を斃すことは出来ない。例えば鎌倉権五郎だ、十三|束《ぞく》三|伏《ぶせ》の矢を、三人張りで射出され、それで片目射潰されても、なお堂々と敵を斬り、生命には何んの別状もなかった。剣豪塚原卜伝でさえ、一刀では相手を殺し兼ねたという。まして獲物が五寸釘とあっては、機先を制して投げつけて、精々《せいぜい》相手を追い散らすぐらいが、関の山であろうと思っていた。ところがお前の精鋭極まる、ツブテの手並みを見るに及んで、俺の不安は杞憂となった。一本二本では討ち取れないにしても、三本目には斃すことが出来よう」「へえ、大丈夫でございましょうか」「大丈夫だ。保証する」「有難いことでございます」
 こうして甚内はこの日以来、千葉道場の内弟子となり、五寸釘手裏剣の妙法を周作から伝授されることとなった。教える周作は天下一の剣聖、習う甚内には下地がある。これで上達しなかったら、それこそ面妖といわざるを得ない。
 ところで一方甚内は、武芸を習う余暇をもって、江戸市中を万遍《まんべん》なくあるき、目差す敵《かたき》を探すことにした。しかし直接の用事もないのに、広い市中をブラブラと、手ぶらであるくということは、かなり退屈なことであった。そこでいろいろ考えた末、「追分を唄って合力を乞い、軒別に尋ねてあるくことにしよう」こういうことに心をきめた。
 既に以前《まえかた》記したように、元来甚内は追分にかけては、からきし唄えない人間であった。それが一夜奇怪な理由から、唄えるようになってからは、彼はにわかに興味を覚え、ない歌詞までも自分で作って、折にふれては唄い唄いした。しかるにまことに不思議なことには、彼の唄の節たるや、兄甚三そっくりであった。ちょうど甚三その人が、甚内の腹にでも宿っていて、その甚三の唄う唄が、甚内の口から出るのではないかと、こう疑われるほどであった。で、誰か追分宿あたりで、甚三のうたう追分を聞き、さらに大江戸を流して歩く、甚内の追分を耳にしたとしたら、その差別に苦しんで、恐らくこういうに違いない。
「いやいやあれは甚三の唄だ。もし甚三が死んでいるとすれば、甚三その人の亡魂の唄だ」
 とまれ甚内は追分を唄って、江戸市中をさまよった。しかし敵の手がかりはない。そこでまた彼は考えた。
「油屋お北は知っている。だが肝腎の富士甚内を、俺は一度も見たことがない。彼奴《きゃつ》について聞き知ってることは、非常な美男だということと、着物につけた定紋が、剣酸漿《けんかたばみ》だということだけだ。これではよしや逢ったところで、彼奴《きゃつ》が紋服を着ていない限りは、敵だと知ることが出来ないだろう。これはどうも困ったことだ」
 これは実際彼にとって、何よりも辛い事柄であった。しかしとうとう考えついた。
「うん、そうだ、いいことがある。唖者《おし》ではあるが、妹のお霜は、富士甚内を見知っている筈だ。妹を江戸へ連れて来て、一緒に市中を廻ったら、よい手引きになろうもしれぬ」

    復讐の念いよいよ堅し

 そこで周作に暇を乞い、故郷の追分へ帰ることにした。
 この頃お霜は油屋にいた。
 一人の兄は非業《ひごう》に死し、もう一人の兄は他国へ行き、二、三親類はあるとはいえ、その日ぐらしの貧乏人で、片輪のお霜を引き取って、世話をしようという者はない。で甚三が殺されてからの、お霜の身の上というものは、まことに憐れなものであったが、捨てる神あれば助ける神ありで、油屋本陣の女中頭、剽軽者《ひょうきんもの》の例のお杉が、気の毒がって手もとへ引き取り、台所などを手伝わせて、可愛がって養ったので、かつえ[#「かつえ」に傍点]て死ぬというような、そんな境遇にはいなかったが、さりとて楽しい境遇でもなかった。自分はといえば唖者《おし》であった。周囲といえば他人ばかり、泣く日の方が多かった。自然兄弟を恋い慕った。
 そこへ甚内が現われたのであった。
 お霜の喜びも大きかったが、お杉もホッと安心した。
「おお甚内さん、よう戻られたな。お前さんの兄さんの甚三さんは、お前さんと同じ名の富士甚内に、むごたらしい目に合わされてな、今は石塔になっておられる」
 お杉をはじめ近所の人達に、こんな具合に話し出されて、甚内は悲しみと怨みとを、またそこで新たにした。
 貧しい二、三の親類や、近所の人達の情《なさけ》によって、営まれたという葬式の様子や、形ばかりの石塔を見聞きするにつれ、故郷の人々の厚情を、感謝せざるを得なかった。
「これから甚内さんどうなさる?」
 こう宿の人に訊かれた時、甚内は正直に打ち明けた。
「草を分けても探し出し、敵を討つつもりでございます」
「おおおお、それは勇ましいことだ」宿の人達は驚きながらも、賞讃の辞を惜しまなかった。
 追分宿で七日を暮らし、いよいよ江戸へ立つことになった。心づくしの餞別も集まり、宿の人達は数を尽くして、関所前まで見送った。妹お霜を馬に乗せ、甚内自身手綱を曳き、関所越えれば旅の空、その旅へ再び出ることになった。
 見れば三筋の噴煙が、浅間山から立っていた。思えば今年の夏のこと、兄甚三に送られて、この曠野まで来た時には、緑が鬱々《うつうつ》と茂っていた。その時甚内の乞うに委《まか》せ、甚三の唄った追分節は、今も耳に残っていた。しかるに今は冬の最中《もなか》、草木山川|白皚々《はくがいがい》、見渡す限り雪であった。自然はことごとく色を変えた。しかし再び夏が来れば、また緑は萌え出よう。だが甚三は帰って来ない。遠離茫々《えんりぼうぼう》幾千載。たとえ千載待ったところで、死者の甦えった例《ためし》はない。如露《にょろ》また如電《にょでん》これ人生。命ほどはかないものはない。
 人は往々こういう場合に、宗教的悟覚に入るものであった。しかし甚内は反対であった。
「この悲しさも、このはかなさも、富士甚内とお北とのためだ。討たねば置かぬ! 討たねば置かぬ! 敵の名前は富士甚内、富士に対する名山と云えば、俺の故郷の浅間山だ。それでは今日から俺が名も、浅間甚内と呼ぶことにしよう。聞けば昔京師の伶人、富士と浅間というものが、喧嘩をしたということだが、今は天保|癸未《みずのとひつじ》ここ一年か半年のうちには、どうでも敵を討たなければならぬ」
 いよいよ復讐の一念を、益※[#二の字点、1-2-22]ここで強めたのであった。

 二人が江戸へ着いたのは、それから間もなくのことであった。
 子柄がよくて不具というので、かえってお霜は同情され、千葉家の人達から可愛がられ、にわかに幸福の身の上となった。
 爾来二人は連れ立って、時々市中を彷徨《さまよ》ったが、甚内が唄う追分たるや、信州本場の名調なので、忽ち江戸の評判となった。ひとつは歌詞がいいからでもあった。
[#ここから2字下げ]
日ぐれ草取り寂してならぬ、鳴けよ草間のきりぎりす
親の意見と茄子《なすび》の花は、千に一つのむだもない
めでた若松|浴衣《ゆかた》に染めて、着せてやりましょ伊勢様へ
思いとげたがこの投げ島田、丸く結うのが恥ずかしい
かあいものだよ鳴く音《ね》をとめて、来たを知らせのくつわ虫
百日百夜《ももかももよ》をひとりで寝たら、あけの鶏《とり》さえ床《とこ》さびし
浅間山風吹かぬ日はあれど、君を思わぬ時はない
よしや辛かれ身はなかなかに、人の情の憂やつらや
見る目ばかりに浪立ちさわぎ、鳴門船《なるとぶね》かや阿波で漕ぐ
月を待つ夜は雲さえ立つに、君を待つ夜は冴えかえる
君と我とは木框《きわく》の糸か、切れて離れてまたむすぶ
山で小柴をしむるが如く、こよいそさまとしめあかす
[#ここで字下げ終わり]
 多くは甚内自作の歌詞で、情緒|纏綿《てんめん》率直であるのが、江戸の人気に投じたのであった。
 深編笠《ふかあみがさ》で二人ながら、スッポリ顔を隠したまま、扇一本で拍子を取り、朗々と唄うその様子は、まさしく大道の芸人であったが、いずくんぞ知らんその懐中に、磨《と》ぎ澄ましたところの釘手裏剣が、数十本|蔵《ぞう》してあろうとは。

    お船手頭《ふなてがしら》向井|将監《しょうげん》

 赤格子九郎右衛門の本拠を突き止め、何かを入れた封じ箱を、その九郎右衛門に手渡せというのが、碩翁様からの命令であった。
 郡上平八は名探偵、すぐに品川から船に乗り出し、日本の海岸をうろつくような、そんなへまはしなかった。
 市中の探索から取りかかった。
 翌朝早く家を出ると、駕籠を京橋へ走らせた。
「ここでよろしい」
 と下り立ったところは、新船松町の辻であった。
 そこに宏壮な邸があった。
 二千四百石のお旗本、お船手頭《ふなてがしら》の首位を占める、向井将監《むかいしょうげん》の邸であったが、つと平八は玄関へかかり、一封の書面を差し出した。碩翁様からの紹介状であった。
「殿様ご在宅でございましたら、お目通り致しとう存じます」
「しばらく」
 と取り次ぎは引っ込んだが、すぐに引っ返して現われた。
「お目にかかるそうでございます。いざお通りくださいますよう」
「ご免」
 というと玄関へ上がり、そこで刀を取り次ぎへ渡し、郡上平八は奥へ通った。
 待つ間ほどなく現われたのは、大兵肥満威厳のある、五十年輩の武士であったが、すなわち向井将監であった。
「おおそこもとが郡上氏か、玻璃窓の高名存じておる。碩翁殿よりの紹介状、丁寧《ていねい》でかえって痛み入る。くつろぐがよい、ゆっくりしやれ」
 濶達豪放な態度であった。
「早速お目通りお許しくだされ、有難き仕合わせに存じます」
「大坂表で処刑された、海賊赤格子九郎右衛門について、何か聞きたいということだが」
「ハイ、さようにございます。お殿様には先祖代々、お船手頭でございまして、その方面の智識にかけては、他に匹儔《ひっちゅう》がございませぬ筈、つきましては赤格子九郎右衛門が、乗り廻したところの海賊船の、構造ご存知ではございますまいか?」
「さようさ、いささかは存じておる」
「やっぱり帆船でございましたかな?」
「さよう、帆船ではあったけれど、帆の数が非常に多かったよ」
「ははあ、さようでございますか」
「それにその帆の形たるや、四角もあれば三角もあり、大きなのもあれば小さなのもあった」
「ははあ、さようでございますか」
「日本の型ではないのだそうだ。南蛮の型だということだ」
「それは、さようでございましょうとも」
「で、船脚《ふなあし》が恐ろしく速く、風がなくても駛《はし》ることが出来た。ヨット型とか申したよ」
「ははあ、ヨット型でございますな」
 平八は手帳へ書きつけた。
「それから」と将監はいいつづけた。
「櫓《やぐら》の格子が朱塗りであったな。それが赤格子の異名ある由縁だ」
「ははあ、さようでございますか」平八は手帳へ書きつけた。
「ええと、それから大砲が二門、船首《へさき》と船尾《とも》とに備えつけてあった。それも尋常な大砲ではない。そうだ、やっぱり南蛮式であった」
「南蛮式の大砲二門」
 平八はまたも書きつけた。
「まず大体そんなものだ」
「よく解りましてございます。……ええと、ところで、もう一つ、その赤格子の襲撃振りは、いかがなものでございましたかな?」
「襲撃ぶりか、武士的であったよ」
「は? 武士的と申しますと?」
「決して婦女子は殺さなかった。そうして敵対をしない限りは、男子といえども殺さなかった」

    町奉行所の与力たち

「それは感心でございますな」
 こういいながら平八は、またも手帳へ書きつけた。
「つまり彼は威嚇をもって、相手を慴伏《しょうふく》させたのだ」将監は先へ語りつづけた。「こいつと目差した船があると、まずその進路を要扼《ようやく》し、ドンと大砲をぶっ放すのだ。だがそいつは空砲だ。つまり停まれという信号なのだ。それで相手が停まればよし、もしそれでも停まらない時には、今度は実弾をぶっ放すのだ。が、それとてもあてはしない。相手の前路へ落とすのだ。これが頗《すこぶ》る有効で、大概の船は顫えあがり、そのまま停まったということだ。しかしそれでも強情に、道を転じて逃げようとでもすると、その時こそは用捨《ようしゃ》なく、三発目の大砲をぶっ放し、沈没させたということだ」
「一発は空砲、二発は実弾、ただしそのうち一発は、わざとあてずに前路へ落とす、つまりかようでございますな」
 平八は四たび書きつけた。
「もはや充分でございます」
 お礼をいって邸を出ると、平八はふたたび駕籠へ乗った。
「駕籠屋、急げ! 数寄屋町だ!」
「へい」
 と駕籠屋は駈け出した。
「よろしい、下ろせ」
 と駕籠を出たところは、南町奉行所の門前であった。
 裏門へ廻ると平八は、ズンズン内《なか》へはいって行った。
 与力詰所までやって来ると、顔見知りの与力が幾人かいた。
「いよう、これは郡上氏」
「いよう、これは玻璃窓の旦那」
「いよう、これは無任所与力」
 などといずれも声を掛けた。それほどみんなと親しいのであった。
「玻璃窓の爺《おやじ》の出張だ。大事件が起こったに違いない、うかつにノホホンに構えていて、抜かれでもしたら不面目、あぶねえあぶねえ、用心用心」
 なかにはこんなことをいう者もあった。
 平八はニヤリと笑ったばかり、一人の与力へ眼をつけると、
「石本氏、ちょっとお顔を」
「なんでござるな」
 と立って来るのを、平八は別室へ誘《いざな》った。
「秘密に書き上げを拝見したいが」
「ははあ、書き上げ? どうなされるな?」
「いやちょっと、ご迷惑はかけぬ」
「貴殿のこと、よろしゅうござる」
 持って来た書き上げをパラパラめくると、二、三平八は書きとめた。
「そこで、もう一つお願いがござる。……貴殿のお名を拝借したい」
「いと易いこと、お使いなされ」
 また平八は駕籠へ乗った。
「日本橋だ、河岸へやれ」
 下りたところに廻船問屋、加賀屋というのが立っていた。
「許せよ」
 と平八はズイとはいった。
「これはおいでなさいませ。ええ、何か廻船のご用で?」
 店の者は揉み手をした。
「いやちょっと主人に逢いたい」
「どんなご用でございましょう?」迂散《うさん》らしく眼をひそめた。
「逢えば解る、主人にそういえ」
「失礼ながらあなた様は?」
「南町奉行所吟味与力、石本勘十郎と申す者だ」
「へーい」
 というと二、三人、奥へバタバタと駈け込んだ。それほどまでに吟味与力は、権勢のあったものである。
「どうぞお通りくださりますよう」
「そうか」というと郡上平八はズイと奥の間へ通って行った。

    廻船問屋を歴訪す

 茶と莨盆《たばこぼん》と菓子が出て、それから主人が現われた。
 額をピッタリ畳へつけ、
「当家主人、卯三郎《うさぶろう》、お見知り置かれくだされますよう」
「早速ながら訊くことがある」
「は、は、何事でござりましょうか?」
「今月初旬、七里ヶ浜沖で、そちの持ち船|琴平丸《こんぴらまる》、賊難に遭ったということだな。書き上げによって承知致しておる」
「御意《ぎょい》の通りにございます」
「で、水夫《かこ》どもは今おるかな?」
「二、三人おりますでござります」
「ちょっと訊きたいことがある。多人数はいらぬ、一人出すよう」
「かしこまりましてござります」
 やがてそこへ現われたのは、八助という水夫《かこ》であった。
「八助というか、恐れなくともよい。遭難の様子を話してくれ。……で、賊船は幾隻あったな?」
 八助はオドオド顫えながら、
「へえ、親船が一隻で」
「櫓《やぐら》の格子は赤かったかな?」
「いえ、黒塗りでございました」
「ナニ、黒塗り? ふうむ、そうか」平八は小首を傾げたが、「無論、帆船であったろうな?」
「へえ、さようでございます」
「異《かわ》ったところはなかったかな?」
「へ? なんでございますか?」
「帆の形だ。帆の形だよ」
「へえ、べつに、これといって……」
「普通の型の帆船であったか?」
「へえ、さようでございます」
「ふうむ、そうか。……ちょっと変だな」
 考えざるを得なかった。
「で、大砲でも打ちかけたか?」
「なかなかもって、そんなこと」
「大砲二門、備えている筈だ。そんなものは見かけなかったかな?」
「なんであなた、大砲など……」
「ふうむ、そうか、これもいけない」
 平八はまたも考え込んだ。
「で、どうだな、海賊どもは、穏《おとな》しかったかな、乱暴だったかな?」
「仲間が五人殺されました」
「いずれ抵抗したのだろうな?」
「敵は大勢、味方は小人数、争ったところで追っ付きません」
「……これもいけない」
 と平八は、呟《つぶや》かざるを得なかった。
 加賀屋を出るとその足で、尚二、三軒廻船問屋を、郡上平八は訪問した。いずれも諸方の近海で、海賊に襲われた手合いであった。しかるに答えはどれも同じで、櫓格子《やぐらごうし》は黒塗りであり、帆の形も尋常であり、大砲などは備えていず、海賊どもは乱暴で、武士的などとはいわれない。――と、こういう返辞であった。
「解った」
 と平八は自分へいった。「この海賊は赤格子ではない。手口を見れば明らかだ。他の奴らに相違ない。……さて、では肝腎の赤格子は、いったいどこにいるのだろう?」
 かえって見当がつかなくなった。
「それはとにかく、腹が減った。きょうは少々動き過ぎたからな」
 で、平八は駕籠を返し、手近の縄暖簾《なわのれん》へ飛び込んだ。
 こんなことは彼にとって、ちっとも珍らしいことではない。
 彼の前に職人がいた。威勢のいい江戸っ子で、扮装《みなり》の様子が船大工らしい。
「おお初公、変じゃないか、どう考えても変梃《へんてこ》だよ」
 一人の職人がこういった。
 と、もう一人が、それに応じた。
「うん、まったく変梃だなあ。なんと思って選《よ》りに選って、船大工ばかりを攫《さら》うのだろう」

    二人の職人の耳寄りな話

「はてな」
 と平八は胸でいった。「おかしな話だ。なんだろう?」
 で、捨て耳を働かせ、職人の話に聞き入った。
「喜公《きいこう》も消えたっていうじゃねえか」
「それから松ヤンもなくなったそうだ」
「平河町の政兄イ、あそこでは一時に五人というもの、姿がなくなったということだぜ」
「ところがお前《めえ》、石町では、親方がどこかへ行っちゃったそうだ」
「天狗様かな? お狐様かな?」
「天狗様にしろお狐様にしろ、船大工ばかりに祟《たた》るなんて、どうでも阿漕《あこぎ》というものだ」
「見ていや、今に、江戸中から、船大工の影がなくなるから」
「亭主、いくらだ?」
 と代を払って、郡上平八は外へ出た。
「おい駕籠屋、本所へやれ」
 新しくやとった駕籠へ乗り、平八は自宅へ引き返した。
「おい、松五郎を呼びにやりな」
 間もなくご用聞きの松五郎が、きのう見せた顔と同じ顔を、平八の前へ突きつけた。
「旦那、なにかご用でも?」
「うん、訊きたいことがある」
「へい、やっぱり切り髪女の?」
「いや、あれは打ち切りだ」
「え、なんですって? 打ち切りですって?」
 松五郎は驚いて眼を見張った。「おどろいたなあ、どうしたんですい? いよいよヤキが廻りましたかね」
「いやいやそういう訳ではない。実はな、もっと重大な事件を、あるお方から頼まれたのだ」
「おおさようで、それはそれは」
「ところでお前に訊くことがある。この江戸の船大工が、姿を消すっていうじゃないか」
「ええ、もう、そりゃあズッと以前《まえ》からで」
「どうして話してくれなかった?」
 ちょっと平八は不機嫌そうにいった。
「だって旦那、この事件は、鼓賊とは関係ありませんよ」
「うん、そりゃそうだろう」
「で、黙っておりましたので」
「そういわれりゃあそれまでだな」平八は止むを得ず苦笑したが、「幾人ほど攫《さら》われたな?」
「さあ、ザッと五十人」
「ナニ、五十人? それは大きい」
「ええ、大きゅうございます」
「ところで、いつ頃から始まったんだ?」
「秋口からポツポツとね」
「どんな塩梅《あんばい》になくなるのだ?」
「どうもそれがマチマチで、こうだとハッキリいえませんので」
「まず一例をあげて見れば?」
「神田の由太郎でございますがね、随分有名な棟梁《とうりょう》で、それが羽田へ参詣したまま、行方《ゆくえ》が知れないじゃありませんか」
「おお、そうか。で、その次は?」
「業平町《なりひらちょう》の甚太郎、これも相当の腕利きですが、品川へ魚釣りに行ったまま、家へ帰って来ないそうで」
「おお、そうか。で、その次は?」
「龍岡町の鋸安《のこぎりやす》は、仕事場から姿が消えたそうで」
「ふうん、なるほど、面白いな」
「まったく変梃《へんてこ》でございますよ」
「で、見当はついてるのか?」
「なんの見当でございますな?」
「当たりめえじゃねえか、人攫いのよ」
「それならついていませんそうで」
「呆れたものだ。無能な奴らだ」
「へえ、さようでございますかね」
「たった今耳にしたばかりだが、俺には目星がついている」
 これには松五郎も驚いた。
「旦那、そりゃあ本当のことで?」
「嘘をいって何んになるかよ」

    玻璃窓の平八江戸を離れる

「聞きてえものだ。教えてくだせえ」
「どこかで大船《おおぶね》を造っているのさ」
「へへえ、ナーンだ、そんなことですかい」
「なんだとはなんだ。なんだではないよ」
「だがね、旦那、少しおかしいや。なにも大船を造るのに、大工を攫わなくてもよさそうなものだ」
「いやいや、それがそうでない。造り主が大変者《たいへんもの》なのだ」
「大変者って、何者なので?」
 松五郎はいくらか熱心になった。
「一口にいうと日蔭者《ひかげもの》だ」
「どうも私《わっち》には解らねえ」
 すると平八は声を落としたが、
「教えてやろう。海賊だ」
「ははあ、海賊? ナール、日蔭者だ」
「しかも一通りの海賊ではない。やはりこれは赤格子だ。そうでなければその余党だ。そいつがどこかでご禁制の船を、建造しているに相違ない」
 益※[#二の字点、1-2-22]声を落としたが、
「小松屋、そこで頼みがある。あすかないしはあさって頃、船脚が遅くて小さな船で、そうして金目《かねめ》を積み込んでいる、つまり海賊に襲われそうな船が、どこかの問屋から出はしないか、そいつを調べて来て貰いたい」
「変なご注文でございますね」
「是非今夜中に知りたいのだ」
「ようございます。すぐ行って来ましょう」
 松五郎はとつかわ[#「とつかわ」に傍点]出て行ったが、真夜中になって戻って来た。
「旦那、一隻みつかりました」
「それはご苦労。どこの船だな」
「へい、淀屋の八|幡丸《わたまる》で」
「あ、そうか、それは有難い。……いいから帰って休んでくれ」
 松五郎が帰ると平八は、すぐに変装にとりかかった。髯を剃り、髪を結い変え、紺の腹がけに同じ股引《ももひき》、その上へ革の羽織を着たが、まさに一カドの棟梁であった。
 夜のひきあけに家を出ると、深川の淀屋まで歩いて行った。
「許せ」
 と声だけは武士のイキで、
「俺はな、南町奉行所吟味与力の石本だ、仔細あって犬吠へ行く。ついては八幡丸へ乗せてくれ」
「よろしい段ではございません。ご苦労様に存じます」
 淀屋では異議なく承知した。

 こうして名探索玻璃窓は、江戸から足を抜いたのであった。

    阪東米八と和泉屋次郎吉

 ここは両国の芝居小屋、阪東米八の楽屋であった。
 午後の陽《ひ》が窓からさしていた。あけ荷、衣桁《いこう》、衣裳、鬘《かつら》、丸型朱塗りの大鏡台、赤を白く抜いた大入り袋、南京繻子《なんきんじゅす》の大座布団、ひらいたままの草双紙、こういった物が取り乱されてあったが、女太夫の部屋だけに、ひときわ光景がなまめかしい。
「ねえ、お前さん、ねえ吉っあん、ほんとに気色が悪いじゃないか。妾《わたし》アつくづく厭になったよ」
 燃え立つばかりの緋縮緬《ひぢりめん》、その長襦袢《ながじゅばん》をダラリと引っかけ、その上へ部屋着の丹前を重ね、鏡台の前へだらしなく坐り、胸を開けて乳房を見せ、そこへ大きな牡丹刷毛で、ヤケに白粉《おしろい》を叩きつけているのは、座頭《ざがしら》阪東米八であった。年はおおかた二十五、六、膏《あぶら》の乗った年増盛り、大柄で肉付きよく、それでいて姿のぼやけないのは、踊りで体を鍛えたからであろう。肉太の高い鼻、少し大きいかと思われたが、それがかえって役者らしい。紅《べに》をさした玉虫色の口、それから剃り落とした青い眉、顔の造作は見事であったが、とりわけ眼立つのはその眼であって、上瞼《うわまぶた》が弓形をなし、下瞼が一文字を作った、びっくりするほど切れ長の眼は、妖艶|婀娜《あだ》たるものであった。※[#「白+光」、204-4]々《こうこう》という形容詞が、そっくりそのままあてはまるような、光沢を持った純白な肌は、見る人の眼をクラクラさせた。
「妾アつくづく厭になったよ」くり返して彼女はこういった。
「いや俺も驚いた」
 こう合い槌を打ったのは、彼女にとっては旦那でもあり、且つは嬉しい恋人でもある、魚屋の和泉屋《いずみや》次郎吉であった。唐棧《とうざん》ずくめの小粋ななり、色の浅黒い眼の鋭い、口もとのしまった好男子で、年はそちこち四十でもあろうか、小作りの体は敏捷らしく、五分の隙もない人品であったが、座布団の上へ腹這いになり、莨《たばこ》をプカプカ吹かしていた。
「つぶてでなし手裏剣でなし、なんでいったいぶち抜いたものかな。看板と板壁とを突き通すなんて、ほんとにこいつ素晴らしい芸だ」
「そんなことどうでもよござんすよ。それより、妾|癪《しゃく》にさわるのは、選《よ》りに選って妾の顔へ、あんな大きな穴をあけて……」
「ナーニそれとて曰《いわ》くはないのさ。あんまりお前が綺麗なので、それでいたずらをしたってやつさ」
「ヘン、おっしゃいよ、おためごかしを」
 米八は横目で睨む真似をした。
「そうはいうものの惜しいことをした。あれは俺から五|渡亭《とてい》に頼んで、わざわざ描かせた看板だからな」
「そんなことどうでもよござんすよ」まだ米八は機嫌が悪い。「それに妾にはこの芝居、なんだか小気味が悪くってね」
「へえ、どうしてだい、おかしいね。いり[#「いり」に傍点]だってこんなにあるじゃないか」今度は次郎吉が不満そうにした。
「だって、あんまりなまなましいんですもの」
「なまなましいって? どうしてかい?」
「だってお前さんそうじゃないか。泥棒芝居の鼓賊伝、ところで主人公の鼓賊ときては、現在江戸を荒し廻っていて、お上に迷惑をかけてるんでしょう」
「うん、そうさ、だからいいのさ。つまり何んだ、はしりだからな。そうとも素敵もねえ際物《きわもの》だからな。……もっとも他にも筋はある」
「ええ、そりゃありますとも。追分唄いの甚三馬子だの、宿場女郎のお北だの、あくどい色悪《いろあく》の富士甚内だの。……」
「それから肝腎の探索がいらあ」
「ええ、見透しの平七老人」
「で、素晴らしくいい芝居さ」次郎吉はツルリと顎《あご》を撫でたが、にわかにズンと声を落とし、「実はおいらの道楽から行くと、その『見透しの平七』を『玻璃窓の平八』にしたかったのさ。だが、それじゃあんまりだからな。で、平七に負けてやったやつさ」
「おや変ですね、玻璃窓といえば、郡上の旦那じゃありませんか」米八は不思議そうに見返った。
「うん、そうさ、その旦那さ。あけすけにいえばこの芝居はだ、その玻璃窓に見せたいばっかりに、おいら筋立てをしたんだからな」

    深い怨みの敵討ち

「その玻璃窓の旦那なら、おとつい観《み》に来たじゃありませんか」
「百も承知だ。待っていたんだからな。そこで早速秀郎の野郎に例の鼓を打たせたのさ。アッハハハ、いい気味だった。あの鼓を聞いた時の玻璃窓の爺《だんな》の顔といったら、今思い出しても腹がよじれる。いいみせしめ[#「みせしめ」に傍点]っていうやつさな」さもおかしいというように、揺《ゆ》り上げ揺り上げ笑ったものである。
 米八には意味がわからなかった。
「でもどうして玻璃窓の旦那に、こんどの芝居を見せたいんでしょう?」
「それか、それには訳がある。……ひらったくいうとまずこうだ。彼奴《きゃつ》、としよりの冷水《ひやみず》で、鼓賊を追っかけているんだよ。ところがさすがの名探索も、こんどばかりは荷が勝って、後手ばかり食らっているやつさ。それを俺は知ってるんだ。うん、そうさ、ある理由からな。ところで俺はあの爺《じじい》に五年前から怨みがあるんだ。で、そこで敵討ちよ。つまり彼奴《きゃつ》のトンマぶりを、そっくり芝居に仕組んだあげく、彼奴《きゃつ》の眼の前にブラ下げたって訳さ。胸に堪《こた》える五寸釘! そいつがこれだ。『名人地獄』だ!」
「どんな怨みだか知らないけれど、つまらない事をしたものね」米八は浮かない顔をした。
「それはそうと、ねえお前さん、秀郎さんの鼓賊のつくり、何から何までお前さんじゃないか」
「俺が注文したからよ」次郎吉はそこでニタリとした。
「どうしてだろう? ねえお前さん」
「それも玻璃窓に見せたかったからさ」
「なんだか妾《わたし》にゃあ解らない」きまずそうに眉をひそめ、「とにかく妾にゃあこの芝居は、気になることばかりで面白くないよ」
「それじゃ明日から芸題《げだい》替えだ」次郎吉は煙管《きせる》のホコを払い、「もう玻璃窓に見せたんだから、俺の目的はとげられたってものさ。いつ替えたって惜しかあねえ」
「アラそう、それじゃ替えようかしら」
「それがいい、つき替えねえ」
 米八はいくらか愁眉をひらき、チラリと鏡を覗いてから、次郎吉の方へ膝を向けた。
「まだあるのよ、気になることが」
「文句の多い立《たて》おやまさね」次郎吉はちょっとウンザリしたが、「おおせられましょう、お姫様、とこう一つ行くとするか」
「真面目にお聞きよ、心配なんだからね」
「おい、どうするんだ、邪慳《じゃけん》だなあ。煙管《きせる》ならそっちにあるじゃねえか」
「お前さんの煙管でのみたいのさ」
「へん、安手《やすで》な殺し文句だ」
「でも、まんざらでもないでしょうよ」
「こんどは押し売りと来やがったな。あッ、熱い! なにをしやがる!」
 左の頬を抑えたのは、雁首《がんくび》の先をおっつけられたからで。
「いい気味いい気味、セイセイしたよ」
「地震の後はどうせ火事だ。諦めているからどうともしなよ」
 ゴロリと次郎吉はあおむけになった。
「節穴《ふしあな》の多い天井だなあ。暇にまかせて数えてやるか。七ツ八ツ九ツ十」
「莫迦《ばか》にしているよ、呆れもしない」
「そのまた莫迦が恋しくて、離れられないというやつさ」
「いい気なものさ、しょってるよ」
「あっ、畜生、五十八もあらあ」
 とうとうみんな数えたらしい。

    腑に落ちない色々の事

「ほんとにそうだよ」と米八は、何をにわかに考え出したものか、しみじみとしていい出した。
「どこがよくって惚れたのか、妾にゃまるっきり見当がつかない」
「オヤ、今度は恩にかけるのかい」
 次郎吉はもっけな顔をした。
「なあに、そうじゃないけれどね、お前さんのためにゃほんとにほんとに、髪まで切られているんだからね」
「おっと、そいつアいいっこなしだ」
 こうはいったが次郎吉も、これには多少こたえたらしい。
「どうだ、それでもすこしは伸びたか?」
「三月や半年で女の髪が、なんでそうそう伸びますかよ」米八は額で睨むようにした。
「あれは一生の失敗だった」むしろ次郎吉は慨然《がいぜん》と、「厭がるお前を無理にすすめ、一幕うったほどでもねえ、たいした儲けもなかったんだからな」
「罪もない観世様をそそのかし、色仕掛けで巻き上げたまでは、まあまあ我慢をするとして、ご親友だとかいう平手さんに、駕籠から雪の中へ引き出され、鼓を取られたあげくのはてに、ブッツリ髷を切られたんだもの、悪い役ったらありゃしない」
「あんまり来ようが遅いので、心配をして迎えに出たら、アッハハハ、あの活劇さ」
「助けにも来ず、薄情者! 思い出すと腹が立つよ」
「そっと仕舞《しま》って置くことさな。だが全くあの時は、見ていた俺さえ冷汗《ひやあせ》をかいた」
「今こそ笑って話すけれど、あの時|妾《わたし》は殺されるかと思った」
「だがな、あんな時俺が出たら、騒ぎは大きくなるばかりさ。そこでゆっくり拝見し駕籠が来たので付き添って、茶屋へ行ってからは思う存分、可愛がってやったからいいじゃねえか」
「だがね」と米八は探るように、「どうしてお前さんはあの鼓を、そうまで苦心して欲しがったのだろう?」
「なに、そんなことはどうでもいい」
 次郎吉はヒョイと横を向いた。
「妾ア気がかりでならないんだよ」
「ふふん」というと舌なめずりをした。
「そうかと思うと今年の夏中、フイと姿を消したりしてさ」
「旅へ行ったのさ、信州の方へな」
「その旅から帰ったかと思うと、例の鼓を持っているんだもの」
「ナーニ、そいつあ観世さんから、相談ずくで譲って貰ったのさ」
「そりゃあそうだろうとは思うけれど、それから間もなく起こったのが、鼓泥棒の鼓賊なんだもの……」
「ふん、それがどうしたんだい?」
 次郎吉はギロリと眼をむいた。
「だから気が気でないんだよ」
 その時チョンチョンと二丁が鳴った。
「おやもう幕が開くんだよ。それじゃ妾は行かなけりゃならない」
「では俺もおいとまとしよう」
 次郎吉はポンと立ち上がった。
「オイ、はねたら飲みに行こうぜ」
「ええ」
 というと部屋を出た。
 チェッと次郎吉は舌打ちをしたが、
「あぶねえものだ、火がつきそうだ」
 ちょっとあたりを見廻してから、部屋を出ると廊下へかかり、裏梯子《うらばしご》を下りると裏口から、雪のたまっている往来へ出た。
 プーッと風が吹いて来た。
「寒い寒い、ヤケに寒い」
 チンと一つ鼻をかみ、
「さあて、どっちへ行ったものかな」
 あてなしにブラブラ歩き出した。がその眼には油断がない。絶えず前後へ気をくばっていた。

    バッタリ遭ったは河内山

「おお和泉屋、和泉屋ではないか!」
 こう背後《うしろ》から呼ぶ者があるので、次郎吉はヒョイと振り返って見た。剃り立て頭に頭巾をかむり、無地の衣裳にお納戸色《なんどいろ》の十徳、色の白い鼻の高い、眼のギョロリとした凄味《すごみ》のある坊主、一見すると典医であるが、実は本丸のお数寄屋《すきや》坊主、河内山宗俊《こうちやまそうしゅん》が立っていた。
「おや、これは河内山の旦那で」
 こうはいったが和泉屋次郎吉、たいして嬉しそうな顔もしない。むしろ酸っぱい顔をした。
「どこへ行くな、え、和泉屋」
 黒塗りの足駄で薄雪を踏み、手は両方とも懐中手《ふところで》、大跨《おおまた》にノシノシ近寄って来たが、
「穴ッぱいりか、え、和泉屋、羨ましいな、奢《おご》れ奢れ」
「えッヘッヘッヘッ、どう致しまして。ちょっとそこまで野暮用で」
「冗談だろう、嘘をいえ。野暮用というなりではない。ここは浅草雷門、隅田を越すと両国盛り場。聞いたぞ聞いたぞその両国に、新しい穴を目つけたそうだな。羨ましいな一緒に行こう」
 始末につかない坊主であった。
「それはそうと、オイ和泉屋、近来ちっとも顔を出さないな」
「へえ、ちょっと、稼業の方が……」
「ナニ稼業? そんなものがあるのか」そらっ呆《とぼ》けてやり込めた。
「やりきれねえなあ、魚屋で」
「いや、それなら知ってるよ。だが、そいつあ表向き、お上を偽《あざむ》く手段じゃねえのか」
「とんでもないこと、どう致しまして」次郎吉はいやアな顔をした。
「ほんとに魚を売るのかえ」
「売る段じゃございません」
「塩引きの鮭でも売るのだろう」
「ピンピン生きてるたい[#「たい」に傍点]やこち[#「こち」に傍点]をね」
「おお、そうだったか、それは気の毒。アッハハハ、面白いなあ」
 益※[#二の字点、1-2-22]厭味に出ようとした。
「なにの、俺は、お前の稼業は、こいつだろうと思っていたのさ」壺を振るような手付きをし、
「ソーレどうだ、袁彦道《えんげんどう》!」
「そいつあ道楽でございますよ」
「ふふん、なるほど、道楽だったのか。それはそれはご結構なことじゃ。……それにしても思い切ったものだ。ちっとも賭場《とば》へ顔を出さないな」
「なあにそうでもございませんよ」気がなさそうに笑ったが、「やっぱりチョクチョク出かけているので」
「それにしては逢わないな」
「駆け違うのでございましょうよ」
「ちげえねえ、そうだろう。……だが細川へは行くまいな」こういうと宗俊はニヤリとした。これには意味があるのであった。
 はたして次郎吉は厭な顔をしたが、
「七里けっぱい[#「けっぱい」に傍点]でございますよ」
「ハッハッハッハッ、そうだろうて。……そこでいいことを聞かせてやる。気に入ったらテラを出せ」
「へえ、何んでございましょう?」
「玻璃窓の平八がいなくなったのさ」
「おっ、そりゃあほんとですかい?」思わず次郎吉は首を伸ばした。
「どうして旦那、ご存知で?」
「碩翁様からお聞きしたのさ」
「ははあなるほど、さようでございますか」
「どうだどうだ、いい耳だろう。十両でいい、十両貸せ」
「お安いご用でございますがね、……ようございます、では十両」
 紙に包んで差し出した。
「安いものさ、滅法《めっぽう》安い」チョロリと袖へ掻き込んだが、「オイ和泉屋、羽根が伸ばせるなあ」
 しかし次郎吉は返事をしない。
「お前にとっては苦手の玻璃窓、そいつが江戸から消えたとあっては、ふふん、全く書き入れ時だ。盆と正月が来たようなものだ。なあ和泉屋、そんなものじゃねえか」
 宗俊はネチネチみしみしとやった。

    鼓賊と鼠小僧は同一人

「旦那」と次郎吉は探るように、「いったいどこへいったんですい?」
「え、誰が? 玻璃窓か?」
「あの好かねえじじく玉で」
「どうやら大分気になるらしいな。聞かせてやろうか、え、和泉屋」
「ききてえものだ。聞かせておくんなせえ」
「が、只じゃあるめえな」
「十両あげたじゃありませんか」
「これか、こいつあさっきの分だ。一話十両といこうじゃねえか」
「厭なことだ、ご免|蒙《こうむ》りましょう」
「よかろう、それじゃ話さねえまでだ」
「旦那も随分あくどいねえ」とうとう次郎吉は憤然とした。「悪党のわりに垢抜けねえや」
「お互い様さ、不思議はねえ」
 宗俊はノコノコ歩き出した。
「旦那旦那待っておくんなさい」
 未練らしく呼び止めた。
「何か用か、え、和泉屋、止まるにも只じゃ止まらねえよ」
「出しますよ、ハイ十両」
「感心感心、思い切ったな」
「で、どこへ行ったんですい?」
「海へ行ったということだ」
「え、海へ? どこの海へ?」
「そいつはどうもいわれねえ」
「へえ、それじゃそれだけで、私《わっち》から二十両お取んなすったので?」
「悪いかな、え、和泉屋、悪いようなら、ソレ返すよ」
「ナーニ、それにゃ及ばねえ。それにしても阿漕《あこぎ》だなあ。……ようごす、旦那、もう十両だ、詳しく話しておくんなさい」
「莫迦《ばか》をいえ」と宗俊は、苦笑いをして首を振り、「いかに俺があくどいにしろ、そうそうお前から取る気はねえ。……詳しく話してやりたいが、実はこれだけしか知らねえのさ。いかに中野碩翁様が、俺《おい》らの親分であろうとも、秘密は秘密、お堅いものだ。実はこれだけ聞き出すにも、たいてい苦労をしたことじゃねえ。……だが、この俺の考えでは、お前もとうから聞いていよう、ひんぴんと起こる海賊沙汰、それと関係があるらしいな」
「へへえ、なるほど、海賊にね。いや有難うございました。そこでついでにもう一つ、いつ江戸をたったので?」
「今朝のことだよ。あけがたにな」
「いつ頃帰って参りましょう」
「仕事の都合さ、俺には解らねえ」
「それはそうでございましょうな」
 次郎吉はじっと考え込んだ。
「オイ和泉屋」と宗俊は、にわかにマジメな顔をしたが、「気をつけろよ気をつけろよ。あいつのことだ、じき帰って来よう。そうしたらやっぱりこれまで通り、お前をつけて廻そうぜ。あの細川の下屋敷以来、お前は睨まれているんだからな」
「ほんとに迷惑というものだ」次郎吉は変に薄笑いをしたが、「人もあろうに私《わっち》のことを、鼠小僧だっていうんですからね」
「そいつあどうともいわれねえ」宗俊も変に薄笑いをし、「鼠小僧だっていいじゃねえか。俺ア鼠小僧が大好きだ。腐るほど持っている金持ちの金を、ふんだくるなあ悪かあねえよ」
「ほんとに迷惑というものだ」パチリと頬を叩いたが、「この片頬の切り傷だって、あの爺《じじい》に付けられたんでさあ」
「あれはたしか五年前だったな」
「ほんとに迷惑というものだ」
「ところがことしの秋口から、鼠小僧は影をかくし、代りに出たのが評判の鼓賊、オイ和泉屋、玻璃窓はな、その鼓賊と鼠小僧を、同じ人間だといってるぜ」
「ふふん、どうだって構うものか。私《わっち》の知ったことじゃねえ」
「おおそうか、それもいいだろう。が宗俊は苦労人だ。よしんばお前がなんであろうと、洗い立てるような野暮はしねえ。だからそいつあ安心しねえ。……長い立ち話をしたものさ。どれ、そろそろ行こうかい。和泉屋、それじゃまた逢おう」
 宗俊はノシノシ行ってしまった。
 後を見送った和泉屋次郎吉、
「ふん、あれでもお直参か」吐き出すように呟いたが、「だがマアそれでもいいことを聞いた。鬼のいぬ間の洗濯だ。あばれて、あばれて、あばれ廻ってやろう」

 その夜、江戸の到る所で、鼓の音を聞くことが出来た。そうして市内十ヵ所に渡って、大きな窃盗が行われた。

    気味の悪い不思議な武士

 品川を出た帆船で、銚子港へ行こうとするには、ざっと次のような順序を経て、航海しなければならなかった。
 千葉、木更津《きさらづ》[#ルビの「きさらづ」は底本では「きさらず」]、富津《ふっつ》、上総《かずさ》。安房《あわ》へはいった保田《ほた》、那古《なご》、洲崎《すさき》。野島ヶ岬をグルリと廻り、最初に着くは江見《えみ》の港。それから前原港を経、上総へはいって勝浦、御宿《おんじゅく》。その御宿からは世に名高い、九十九里の荒海で、かこ[#「かこ」に傍点]泣かせの難場であった。首尾よく越せば犬吠崎。それからようやく銚子となり、みちのりにして百五十里、風のない時には港へ寄って、風待ちをしなければならなかった。
 で、玻璃窓の平八の乗った、淀屋の持ち船八幡丸も、この航路から行くことにした。海上風波の難もなく、那古の港まで来た時であったが、一人の武士が乗船した。
 本来八幡丸は貨物船で、客を乗せる船ではないのであったが、やはり裏には裏があり、特に船頭と親しいような者は、こっそり乗ることを許されていた。
 武士の年齢は四十五、六、総髪の大|髻《たぶさ》、見上げるばかりの長身であったが、肉付きはむしろ貧しい方で、そのかわりピンと引き締まっていた。着ている衣裳は黒羽二重。しかし大分年代もので、紋の白味が黄ばんでいた。横たえている大小も、紺の柄絲《つかいと》は膏《あぶら》じみ、鞘の蝋色は剥落《はくらく》し、中身の良否はともかくも、うち見たところ立派ではない。それにもかかわらずその人品が、高朗としてうち上がり、人をして狎《な》れしめない威厳のあるのは、学か剣か宗教か、一流に秀でた人物らしい。
 船尾《とも》の積み荷の蔭に坐り、ぼんやりあたりを見廻していた、郡上平八の傍《そば》まで来ると、ふとその武士は足を止めた。
「職人職人よい天気だな」声をかけたものである。
「へい、よい天気でございます」平八はちょっと驚きながらも、こう慇懃《いんぎん》に挨拶をした。
「どこへ行くな? え、職人?」ひどくきさくな調子であった。
「へい、銚子まで参ります」
「うん、そうか、銚子までな」こういうと武士は坐り込んだが、それからじっと平八を眺め、「なんに行くな、え、銚子へ?」
「へい、いえちょっと、仕事の方で。……それはそうとお武家様も、やはり銚子でございますかな?」
「いやおれはすこし違う」武士は変に笑ったが、「ところでお前は何商売だな?」
「へい、船大工でございます」こうはいったが平八は、気味が悪くてならなかった。
「なに船大工? 嘘をいえ」武士はいよいよ変に笑い、「これ、大工というものはな、物を見るのに上から見る。ところがお前は下から見上げる。アッハハハ、これだけでも異《ちが》う。どうだ、これでも大工というか?」
 これを聞くと平八は「あっ、しまった」と胸の中でいった。武士の言葉に嘘はない。すべて大工というものは、棟《むね》の出来栄《できばえ》へまず眼をつけ、それからずっと柱づたいに、土台の仕組みまで見下ろすものであり、それが万事に習慣づけられ、人を見る時には頭から眺め、足に及ぼすものなのであった。これに反して与力、同心、岡っ引きなどというようなものは、何より先に足もとを見、その運びに狂いがないかを、吟味するのに慣らされていた。しかるに平八は思うところあって棟梁《とうりょう》風にやつしてはいたが、ついうっかりとその点へまで、心を配ることをうち忘れ、武士を見る時にも与力風に、まず足から見たものであった。
「それにしてもこの侍、いったいどういう人物であろう?」改めて平八はつくづくと、武士を見守ったものである。
 その混乱した平八の様子が、武士にはひどく面白いと見え、奥歯をかむようにして笑ったが、
「どうだ、これでも船大工かな」
「へい、大工でございますとも、だってそうじゃございませんか、旦那に嘘を申し上げたところで、百も儲かりゃあしませんからね」いわゆるヤケクソというやつで、こう平八はつっぱねた。

    たたみ込んだ船問答

「おお、そうか、これは面白い、ではお前へ訊くことがある。どうだ、返辞が出来るかな」
「へい、わっちの知っていることなら、なんでもお答えいたしますよ」「知ってることとも、知ってることだよ、お前がほんとに船大工なら、いやでも知らなければならないことだ」
 こういうと武士は懐中から、一葉の紙を取り出した。見れば絵図が描かれてあった。船体横断の図面であった。
「さあ、これだ、よく見るがいい」武士は一点を指差したが、「ここの名称は何というな?」
「へい、腰当梁《こしあて》でございましょうが」平八は笑って即座にいった。己が姿を船大工にやつし、敵地へ乗り込もうというのであるから、忙しいうちにも平八は、一通り船のことは調べて置いた。
「それならここだ、ここは何というな?」「へい、赤間梁《あわち》と申しやす」「うん、よろしい、ではここは?」「三|間梁《のま》でございますよ」「感心感心よく知っている。ではここは? さあいえさあいえ」「下閂《したかんぬき》でございまさあ」「ほほう、いよいよ感心だな。ここはなんという? え、ここは?」
「なんでもないこと、小間《こま》の牛で」「いかにもそうだ、さあここは?」「へい、横山梁《よこやま》にございます」「うん、そうだ、さあここは?」「ヘッヘッヘッヘッ、蹴転《けころ》でさあ」「ではここは? さあわかるまい?」「胴《どいがえ》じゃございませんか。それからこいつが轆轤座《ろくろざ》、切梁《きりはり》、ええと、こいつが甲板の丑《しん》、こいつが雇《やとい》でこいつが床梁《とこ》、それからこいつが笠木《かさぎ》、結び、以上は横材でございます」
 ポンポンポンといい上げてしまった。
「ふうむ、感心、よく知っている。さては多少しらべて来たな。……よし今度は細工で行こう。……縦縁《たてべり》固着はどうするな?」
「まず鉋《かんな》で削りやす。それからピッタリ食っつけ合わせ、その間へ鋸《のこぎり》を入れ、引き合わせをしたその後で、充分に釘を打ち込みやす。漏水のおそれはございませんな」
「上棚中棚の固着法は?」
「用いる釘は通り釘、接合の内側へ漆《うるし》を塗る。こんなものでようがしょう」
「釘の種類は? さあどうだ?」
「敲《たた》き釘に打ち込み釘、木釘に竹の釘に螺旋《らせん》釘、ざっとこんなものでございます」
「螺旋釘の別名は?」
「捩《ね》じ込み釘に捩じ止め釘」
「船首《とも》の材には何を使うな?」
「第一等が槻材《けやきざい》」
「それから何だな? 何を使うな?」
「つづいてよいのは檜材《ひのきざい》、それから松を使います」
「よし」というと侍は、またも懐中へ手を入れたが、取り出したのは精妙を極めた、同じ船体の縦断面であった。
「さあここだ、なんというな?」
 航《かわら》と呼ばれる敷木《しき》の上へ、ピッタリ指先を押しあてた。
「なんでもないこと、それは航で」「いかにも航だ。ではここは?」「へい、弦《つる》でございます。そうしてその下が中入れで、そうしてその上が弦押しで」「矧《は》ぎ付きというのはどのへんだな?」
「弦押しの上部、ここでございます」「では、ここにある一文字は?」「船の眼目、すなわち船梁《ふなばり》」
「もうよろしい」といったかと思うと、武士は図面を巻き納めた。と、居住居《いずまい》を正したが、にわかに声を低目にし、「正直にいえ、職人ではあるまい」
「くどいお方でございますな」平八は多少ムッとしたが「なにを証拠にそんなことを。……わっちは船大工でございますよ」
「そうか」というとその武士は、平八の右手をムズと掴んだ。
「これは乱暴、なにをなされます」

    ご禁制の二千石船

 不意に驚いた平八が、引っ込めようとするその手先を、武士は内側へグイと捻った。逆手というのではなかったので、苦痛も痛みも感じなかったが、なんともいえない神妙の呼吸は、平八をして抗《あらが》わせなかった。
「さて、掌《てのひら》だ、ここを見ろ!」いうと一緒に侍は、小指の付け根へ指をやったが、「よいか、ここは坤《こん》という。中指の付け根ここは離《り》だ。ええと、それから人差し指の付け根、ここを称して巽《そん》という。ところで大工の鉋《かんな》ダコだが、必ずこの辺へ出来なければならない。しかるにお前の掌を見るに、そんなものの気振りもない。これ疑いの第一だ。それに反して母指《おやゆび》の内側、人差し指の内側へかけて、一面にタコが出来ている。これ竹刀《しない》を永く使い、剣の道にいそしんだ証拠だ。……が、まずそれはよいとして、ここに不思議なタコがある。と、いうのは三筋の脉《みゃく》、天地人の三脉に添って、巽《そん》の位置から乾《けん》の位置まで斜めにタコが出来ている。さあ、このタコはどうして出来た?」武士はニヤリと一笑したが、「お前、捕り縄を習ったな! アッハハハ、驚くな驚くな、すこし注意をしさえしたら、こんなことぐらい誰にでも解る。……さて次にお前の足だが、心持ち内側へ曲がっている。そうしてふくらはぎに馬擦れがある。これ馬術に堪能の証拠だ。ところで、捕り縄の心得があり、しかも馬術に堪能とあっては、自ら職分が知れるではないか。これ、お前は与力だろうがな! いや、しかし年からいうと、今は役目を退いている筈だ。……与力あがりの楽隠居。これだこれだこれに相違ない! どうだ大将、一言もあるまいがな」
 武士は哄然と笑ったものである。
「おい」と武士はまたいった。「変装をしてどこへ行くな? しかも大工のみなりをして。いやそれとてこのおれには、おおかた見当がついている。そこでお前へ訊くことがある、いま見せてやった図面の船、何石ぐらいかあたりがつくかな?」
「へえ」といったが平八には、その見当がつかなかった。それに度胆を抜かれていた。で、眼ばかりパチクリさせた。
「解らないかな」と冷やかに笑い、フイと武士は立ち上がったが、「お前の目的とおれの目的と、どうやら同じように思われる。……それはとにかくこの船はな、二千石船だよ! ご禁制の船だ!」いいすてると武士は大跨に歩き、胴の間の方へ下りていった。
 後を見送った平八が、心の中で、「あっ」と叫んだのは、まさに当然というべきであろう。彼はウーンと唸り出してしまった。「武術が出来て手相が出来、そうしてご禁制の大船の図面を、二葉までも持っている。……みなりは随分粗末ながら、高朗としたその風采、一体全体何者だろう?」
 しかし間もなく武士の素性は、意外な出来事から露見された。
 それは上総の御宿の沖まで、船が進んで来た時であったが、忽ち海賊におそわれた。その時はもう夕ぐれで、浪も高く風も強く、そうしてあたりは薄暗かったが、忽然一せきの帆船が行く手の海上へあらわれた。べつに変ったところもない、普通の親船にすぎなかったが、しずかにしずかに八幡丸を、あっぱくするように近寄ってきた。ちょうどこの時平八は、船のへさきに胡坐《あぐら》をかき、海の景色をながめていたが、その鋭い探偵眼で、賊船であることを見てとった。
「ははあ、いよいよおいでなすったな」
 ニヤリとほくそ笑んだものである。
 正直のところ平八は、海賊を待っていたのであった。そうして彼は十中八九、現われてくるものと察していた。というのは八幡丸は、船脚が遅くかこ[#「かこ」に傍点]が少なく、しかも船としては老齢なのに、某《なにがし》大名から領地へ送る、莫大《ばくだい》もない黄金を、無造作《むぞうさ》に積みこんでいるからで、こういう船を襲わなかったら、それこそ海賊としては新米であった。

    武士の剣技精妙を極む

 八幡丸のかこ[#「かこ」に傍点]どもが、海賊来襲に気がついたのは、それから間もなくのことであったが、しかしその時は遅かった。賊船から下ろされた軽舟が、すでに周囲《まわり》をとりまいていた。と、投げかけた縄梯子をよじ、海賊の群がなだれこんで来た。
 怒号、喚声、呻吟、悲鳴、おだやかであった船中が、みるまに修羅場と一ぺんしたのは悲惨というも愚かであった。賊は大勢のそのうえに手に手に刀を抜き持っていた。勝敗の数は自《おのずか》ら知れた。最初はけなげに抵抗もしたが、あるいは傷つけられまたは縛られ、悉くかこ[#「かこ」に傍点]たちは平げられてしまった。
 船腹へ飛び込んだ海賊どもが、黄金の箱をかつぎだしたり、積み荷の行李を持ちだしたりする、不気味といえば不気味でもあり、壮快といえば壮快ともいえる、掠奪の光景が演じられたのも、それから間もなくのことであった。
 海上を見ればすぐ手近に、その櫓《やぐら》を黒く塗った、海賊船の親船が、しずまりかえって横たわり、こっちの様子をうかがっていた。あたりを通る船もなく、煙波は茫々と見渡すかぎり、夕暮れの微光に煙っていた。
 では不幸な八幡丸は、そのまま海賊の掠奪にあい、全部積み荷を奪われたのであろうか? いやいやそうではなかったのであった。胴の間に眠っていた例の武士が、その眠りから覚めた時、形勢は逆転したのであった。
 まず胴の間から叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]する、武士の声が響いて来た。と、つづいてウワーッという、海賊どもの喚き声が聞こえ、忽ち田面《たのも》の蝗《いなご》のように、胴の間口から七、八人の、海賊どもが飛び出して来た。と、その後ろから現われたのが、怒気を含んだ例の武士で、両手に握った太い丸太を、ピューッピューッと振り廻した。が、振り方にも呼吸があり、決してむやみに振り廻すのではない。急所急所で横に縦に、あるいは斜めに振り下ろすのであった。
 しかし一方賊どもも、命知らずの荒男《あらおとこ》どもで、危険には不断に慣れていた。ことには甲板には二十人あまりの、味方の勢がいたことではあり、一団となって三十人、だんびら[#「だんびら」に傍点]をかざし槍をしごき、ある者は威嚇用の大まさかりを、真《ま》っ向《こう》上段に振りかぶり、さらにある者は破壊用の、巨大な槌を斜めに構え、「たかが三ピンただ一人、こいつさえ退治たらこっちのもの、ヤレヤレヤレ! ワッワッワッ」と、四方八方から襲いかかった。
 が、武士の精妙の剣技たるや、ほとんど類を絶したもので、人間業とは見えなかった。まず帆柱を背に取ったのは、後ろを襲われない用心であった。握った丸太はいつも上段で、じっと敵を睥睨《へいげい》した。静かなること水の如く、動かざること山の如しといおうか、漣《さざなみ》ほどの微動もない。と、ゆっくり幾呼吸、ジリジリ逼る賊の群を一間あまり引きつけて置いて、「カッ」と一|声《せい》喉的破裂《こうてきはれつ》、もうその時には彼の体は敵勢の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音! 丸太が斜めに振られたのであった。生死は知らずバタバタと、三人あまり倒れたらしい。「エイ」という引き気合い! まことに軟らかに掛けられた時には、彼のからだは以前の場所に、以前と同じに立っていた。と、ワッと閧《とき》を上げ、バラバラと逃げる賊の後を、ただ冷然と見るばかり、無謀に追っかけて行こうとはしない。帆柱を背に不動の姿勢、そうして獲物は頭上高く、やや斜めにかざされていた。と、また懲りずにムラムラと、海賊どもが集まって来た。それを充分引きつけておいて、ふたたび喉的破裂の音、「カッ」とばかりに浴びせかけた時には、どこをどのようにいつ飛んだものか、長身|痩躯《そうく》の彼の体は、賊勢の只中に飛び込んでいた。またもやピューッという風を切る音、同時にバタバタと倒れる音、「エイ」と軟らかい引き呼吸、もうその時には彼の体は、帆柱の下に佇んでいた。それからゆるやかな幾呼吸、微塵|労疲《つか》れた気勢《けはい》もない。で、また賊はムラムラと散ったが、それでも逃げようとしないのは、不思議なほどの度胸であった。彼らは口々に警《いまし》め合った。
「手強《てごわ》いぞよ手強いぞよ!」「用心をしろよ用心をしろよ!」

    秋山要介と森田屋清蔵

 そこで遠巻きにジリジリと、またも賊どもは取り詰めて来た。しかし武士は動かない。ただ凝然《じっ》と見詰めていた。口もとの辺にはいつの間にか、憐れみの微笑さえ浮かんでいた。
 と、また同じことが繰り返された。賊どもがまたも押し寄せて来た。忽ち掛けられた喉的破音《こうてきはおん》。同時に武士の長身は、敵の中へ飛び込んでいた。ピューッという風鳴りの音、続いて賊どもの倒れる音、そうして軟らかい気合いと共に、武士の姿は帆柱のもとに、端然冷然と立っていた。
 判で押したように規則正しい、その凄烈の斬り込みは、なんと形容をしていいか、言葉に尽くせないものがあった。
 帆綱の蔭に身をひそめこの有様を眺めていた、玻璃窓の郡上[#「郡上」は底本では「那上」]平八が、感嘆の溜息を洩らしたのは、まさに当然なことであろう。
「人間ではない天魔の業だ。それにしてもいったいこの人は、どういう身分のものだろう? 無双の剣客には違いないが、はて、それにしても誰だろう? 当時江戸の剣豪といえば、千葉周作に斎藤弥九郎、桃井春蔵に伊庭親子、老人ながら戸ヶ崎熊太郎、それから島田虎之助、お手直し役の浅利又七郎、だがこれらの人々は、みんな顔を知っている。武州練馬の樋口十郎左衛門、同じく小川の逸見《へんみ》多四郎、それから、それからもう一人! うん、そうだ、あの人だ!」
 その時、ボ――ッという竹法螺《たけぼら》の音が、賊の親船から鳴り渡った。それが何かの合図と見え、武士を取り巻いていた海賊は、一度に颯《さっ》と引き退いたが、ピタピタと甲板へ腹這いになった。びっくりしたのは平八で、「はてな、おかしいぞ、どうしたのだろう?」グルリと海の方を振り返って見た。と、賊の親船が、数間の手前まで近寄っていた。そうして船の船首《へさき》にあたり、一個の人物が突っ立っていた。どうやら海賊の首領らしく、手に一丁の種子ヶ島を捧げ、じっとこっちを狙っていた。武士を狙っているのであった。
「あっ、飛び道具だ! こいつはいけない!」平八は思わず絶叫した。「種子ヶ島だア! 飛び道具だア! お武家あぶねえ! あぶねえあぶねえ!」そうして両手を握り締めた。武士はと見れば、冷然と、帆柱の下に立っていた。ただ上段に構えていたのを、中段に取り直したばかりであった。
 風もやみ、浪も静まり、海賊どもは腹這いを続け、四辺|寂《せき》として声もなく、ただ平八の声ばかりが、こだまも起こさぬ大洋の上を、どこまでもどこまでも響いて行った。と、薄闇を貫いて、パッと火縄の火花が散り、ドンと一発鳴り渡ろうとした時、武士が大音《だいおん》に呼ばわった。
「おお貴様は、森田屋じゃねえか!」
「えっ」といったらしい驚きの様子が、鉄砲の持ち主から見て取られたが、「やあそうおっしゃるあなた様は、秋山先生じゃございませんか!」
「いかにも俺は秋山要介、貴様を尋ねてやって来たのだ!」
「あっいけねえ、そいつあ大変だ! わっちも先生のおいでくださるのを、一日千秋で待っていやした。いやどうもとんだ間違いだ! 取り舵イイ」とばかり声を絞った。ギ――と軋《きし》る艫櫂《ろかい》の音、見る見る賊船は位置を変え、八幡丸の船腹へ、ピッタリ船腹を食っつけてしまった。
 この二人の問答を聞き、はっと思ったのは平八で、剣技神妙の侍が、秋山要介であろうとは、たった今し方感づいたところで、これには別に驚かなかったが、海賊船の頭領が、森田屋清蔵であろうとは、夢にも思わなかったところであった。
 天保六花撰のその中でも、森田屋清蔵は宗俊に次いで、いい方の位置を占めていた。しかも人物からいう時は、どうしてどうして宗俊など、足もとへも寄りつけないえらもの[#「えらもの」に傍点]なのであった。気宇《きう》の広濶希望の雄大、任侠的の精神など、日本海賊史のその中でも、三役格といわなければならない。産まれは駿州江尻在、相当立派な網持ちの伜で、その地方での若旦那であり、それが海賊になったのには、いうにいわれぬ事情があったらしい。

    海賊船は梵字丸《ぼんじまる》

 郡上平八が隠居せず、立派な与力であった時分、その豪快な性質を愛し、二、三度|目零《めこぼ》しをしたことがあった。で清蔵からいう時は、まさしく平八は恩人なのであり、また平八からいう時は、恩を施してやった人間なのであった。
 しかるに清蔵はここ七、八年、全く消息をくらましていた。もう死んだというものもあり、南洋へいったというものもあり、日本近海からは彼の姿は、文字どおり消えてなくなっていた。で、今度の海賊沙汰についても、彼の噂はのぼらなかった。したがって平八の心頭へも、清蔵の名は浮かんで来なかった。しかるにいよいよぶつかってみれば、その海賊は森田屋なのであった。
「俺はまたもや目違いをした」
 思うにつけても平八は、憮然たらざるを得なかった。
 この時|船縁《ふなべり》を飛び越えて、森田屋清蔵がやって来た。と見て取った平八は、つと前へ進み出たが、
「おお森田屋、久しぶりだな!」
「え?」といって眼を見張ったが、
「やあ、あなたは郡上の旦那!」
「ナニ、郡上?」といいながら、ツカツカやって来たのは武士であったが、
「うむ、それでは世に名高い、玻璃窓の郡上平八老かな」
「そうして、あなたは秋山殿で」「いかにも拙者は秋山要介、名探索とは思っていたが、郡上老とは知らなかった」「奇遇でござるな。奇遇でござる」二人はすっかりうちとけた。
「ヤイヤイ野郎どもトンデモない奴だ! 秋山先生と郡上の旦那へ、手向かいするとは不量見、あやまれあやまれ、大馬鹿野郎!」森田屋清蔵は手下の者どもを、睨み廻しながら怒鳴りつけた。
「ワーッ、こいつあやりきれねえ。強いと思ったが強い筈だ。だが、お頭は水臭いや。掛かれといったから掛かったんで。ぶん撲られたそのあげく、あやまるなんてコケな話だ」
「みんな手前《てめえ》達がトンマだからさ。文句をいわずとあやまれあやまれ」――で、賊どもがあやまるという、滑稽な幕がひらかれた。

 森田屋清蔵の海賊船は梵字丸《ぼんじまる》と呼ばれていた。その梵字丸の胴の間に、苦笑いをして坐っているのは、他でもない平八で、それと向かい合って坐っているのは、すなわち森田屋清蔵であった。四十五、六の立派な仁態《じんてい》、デップリと肥えた赧ら顔、しかもみなりは縞物ずくめで、どこから見ても海賊とは見えず、まずは大商店《おおどこ》の旦那である。側《そば》に大刀をひきつけてはいるが、それさえ一向そぐわない。
 掠奪を終えた梵字丸は、しんしんと駛《はし》っているらしい。轟々という浪の音、キ――キ――という帆鳴りの音、板と板とがぶつかり合う、軋り音さえ聞こえて来た。
「旦那がおいでと知っていたら、けっして掛かるんじゃなかったのに、とんだドジをふみやした。どうぞマアごかんべんを願います」森田屋清蔵は手を揉んだが、「それに致してもそのおみなりで、どちらへお出かけでございましたな。」
「うん、これか」といいながら、平八は自分を見廻したが「どうだ森田屋、似合うかな」「そっくり棟梁でございますよ」「アッハハハ、それは有難い。実はな、森田屋、この風で、海賊を釣ろうとしたやつさ」意味ありそうにきっといった。
「ええ、海賊でございますって? おお、それじゃわっちたちを?」さすがにその眼がギラリと光った。
「うん、まずそうだ。そうともいえる。がまたそうでないともいえる」謎めいたことをいいながら、一膝グイと進めたが、「森田屋、正直に話してくれ。船を造っちゃいないかな?」「ええ、船でございますって?」森田屋はあっけにとられたらしく「それはなんのことでございますな?」「ご禁制の船だよ。ご禁制のな」「へえ、それじゃ千石船でも?」「どうだ、造っちゃいないかな?」
「とんでもないことでございますよ」森田屋清蔵は否定した。
「ふうむ、そうか、造っちゃいないのだな。……いやそれを聞いて安心した。それじゃやっぱり他にあるのだ。……まるまる目違いでもなかったらしい」どうやら安心をしたらしい。

    莫大もない赤格子の財産

 森田屋清蔵には平八の言葉が、どういう意味なのか解らなかった。で、ちょっとの間だまっていた。
 が、やがて意味がわかると、
「ええええ、お目違いじゃございませんとも」急に森田屋は乗り出して来た。
「ご禁制の二千石船を、こしらえている者がありますので」
「それをお前は知ってるのか?」平八は思わず乗り出した。
「知ってる段じゃございません。私《わっち》らはそいつらと張り合ってるので」「誰だな? そいつは? え、誰だな?」「赤格子九郎右衛門でございますよ」
 これを聞くと平八は、しばらく森田屋を見詰めていたが、「うん、それでは赤格子は、日本の土地にいるのだな」「ハイ、いる段じゃございません。赤格子本人がやって来たのは、今年の秋のはじめですが、手下の奴らはずっと前から、日本へ入りこんでいたのですな。そうして連絡を取っていたので」「で、今はどこにいるのだ?」「へい、銚子におりますので」「ううむ、そうか、銚子にな……そこで大船《おおぶね》を造っているのだな? ……なんのために造っているのだろう?」「莫大もない財産を、持ち運ぶためでございますよ」森田屋は居住居を正したが、「実はこうなのでございます。十数年前大坂表で、赤格子九郎右衛門一味の者が、刑死されたと聞いたとき、そこはいわゆる蛇《じゃ》の道は蛇《へび》で、眉唾《まゆつば》ものだと思いました。はたしてそれから探ってみると、刑死どころかお上の手で、丁寧に船で送られて、南洋へ渡ったじゃございませんか。そこでわたしたちは考えたものです。彼奴《きゃつ》が永年密貿易によって、集めた財産は莫大なものだが、どこに隠してあるだろうとね。南洋へ移した形跡はない。ではどうでも日本のうちにある。ソレ探せというところから、随分手を分けてさがしましたが、ねっから目っからないではございませんか。そうこうしているうち年が経ち、ある事情でこのわたしは、海賊の足を洗いました。……」
「ううむ、そうか、それじゃやっぱり、お前は海から足を洗い、素人《しろと》になっていたのだな」
 平八はうなずいて言葉を※[#「插」のつくり縦棒を下に突き抜ける、第4水準2-13-28]んだ。「で、どこに住んでいたな?」「へい、江戸におりました」「ナニ江戸に? 江戸はどこに?」「日本橋は人形町、森田屋という国産問屋、それが私の隠れ家でした」「人形町の森田屋といえば、江戸でも一流の国産問屋だが、それがお前の隠れ家だとは、今が今まで知らなかった。……世に燈台《とうだい》下《もと》くらしというが、これは少々暗すぎたな。いや、どうも俺も駄目になった」またも平八は憮然《ぶぜん》として嘆息せざるを得なかった。「そのお前がどうしてまた、荒稼ぎをするようになったのかな?」「それには訳がございます。どうぞお聞きくださいますよう。ある日ヒョッコリ訊《たず》ねて来たのが、義兄弟の金子市之丞で、父の仇が討ちたいから、どうぞ助太刀をしてくれと、こう申すではございませんか。仇は誰だと訊きましたところ、赤格子九郎右衛門だというのです。その赤格子なら南洋にいる、どうして討つ気かと訊ねましたところ、最近日本へ帰って来て、銚子にいるというのです。そこでわたしも考えました。相手が赤格子九郎右衛門なら、持って来いの取り組みだ。それにおりから商売にも飽き、平几帳面《ひらきちょうめん》の素人ぐらしにも、どうやら面白味を失って来た。河育ちは河で死ぬ。よし一生の思い出に、それでは、もう一度海賊となり、赤格子めと張り合ってやろう。それがいいというところから、数隻の廻船を賊船に仕立て、昔の手下を呼び集め、なにしろ赤格子と戦うには、兵糧もいれば武器もいる。やれやれというので近海を、荒らしまわったのでございますよ」さすがにそれでも気が咎《とが》めると見え、こういうと森田屋は俯向《うつむ》いた。

    ムーと絶望した郡上平八

「なるほど」といったが平八は、しばらくじっと打ち案じた。「どうだろう森田屋、この俺を、船からおろしてはくれまいかな」「船をおりてどうなされます?」「実は」というと平八は、森田屋の側へズイと寄り、「さるお方に頼まれて、大事の密書を預かっているのだ。渡す相手は赤格子、そこでこんな変装までして、彼奴《きゃつ》の行方をさがしていたのさ。銚子にいると耳にしては、どうも一刻もうっちゃってはおけない。頼む、小船を仕立ててくれ。そうして銚子へ着けてくれ」
 これを聞くと森田屋は、にわかに当惑の表情をした。「旦那、せっかくのお頼みですが、どうもそいつだけは出来かねますなあ」「なぜ出来かねる? え、なぜだ?」「秋山先生のおいでを待って、赤格子攻めをやろうというのが、私達の計画なのでございますよ。その先生がおいでなされた今は、一刻も急がなければなりませんので。で今船は根拠地へ向けて、走っているのでございますよ。それだのに旦那をお送りして、うっかり小船を陸へでも着け、もし役人にでも感づかれたら、それからそれと足がつき、一網打尽に私達は、召し捕られないものでもありません。大事な瀬戸際なのでございますよ。ですからどうもこればかりは、おひきうけすることはできませんなあ」「だが俺はどうしても、赤格子攻めのその前に、九郎右衛門に行き会わなかったら、頼まれたお方に申し訳が立たぬ。ぜひとも小船を仕立ててくれ」「残念ながらそればかりは……」「では、どうしても駄目なのだな」「どうぞお察しを願います」「ううむ」と唸ると平八は、絶望したように腕を組んだ。と、この時甲板の方から陽気な笑い声がドッと起こった。秋山要介を賓客《ひんきゃく》とし、森田屋の手下の海賊どもが、酒宴をひらいているのであった。

 ここは梵字丸の甲板であった。
 十七日あまりの冴えた月が、船をも海をもてらしていた。船はしんしんとはしっていた。根拠地をさしてはしっているのだ。
 大杯で酒をあおりながら、談論風発しているのが、他ならぬ秋山要介であった。武州|入間郡《いるまごおり》川越の城主、松平大和守十五万石、その藩中で五百石を領した、神陰《しんかげ》流の剣道指南役、秋山要左衛門勝重の次男で、十五歳の時には父勝重を、ぶんなぐったという麒麟児《きりんじ》であり、壮年の頃江戸へ出て、根岸お行《ぎょう》の松へ道場を構え、大いに驥足《きそく》を展《の》ばそうとしたが、この人にしてこの病《やま》いあり、女は好き酒は結構、勝負事は大好物、取れた弟子も離れてしまい、道場は賭場《とば》と一変し、門前|雀羅《じゃくら》を張るようになった。こいつはいけないというところから、道場をとじて武者修行に出たが、この武者修行たるや大変もので、どこへ行っても敬遠された。秋山要介の名を聞くと、「いやもう立ち会いは結構でござる。些少ながら旅用の足しに」こういってわらじ銭を出すのであった。というのは試合ぶりが世にも、荒っぽいものであって、小手を打たれると小手が折れる、横面を張られると耳がつぶれる、胴を取られると肋骨が挫《くじ》ける、もしそれお突きでやられようものなら、そのまま冥途へ行かなければならない。で、敬遠するのであった。彼の流儀は神陰流ではあったが、事実は流儀から外れていた。むりに名付けると秋山流であった。「飛込《とびこみ》一刀」といわれたところの、玄妙な一手を工夫して、ほとんどこればかり用いていた。遠く離れてじっと構え、飛び込んで行ってただ一刀! それだけでカタをつけるのであった。あんまり諸方で敬遠されるので、彼もいいかげん閉口してしまった。そこで博徒を訪問しては、そいつらに武芸を教えることにした。大前田英五郎、国定忠治、小金井小次郎、笹川繁蔵、飯岡助五郎、赤尾林蔵、関八州の博徒手合いで、彼に恩顧を蒙《こうむ》らないものは、一人もないといってもよい。ある時は高級用心棒として、賭場を守ったこともあり、またある時はなぐりこみへ出張り、直々武勇を現わしたこともあった。ただしなぐりこみへ出た時は、剣を用いなかったという事であった。
 さて秋山要介は、そういう人物であったので、取り立てた弟子も多くなかったが、しかし一面関東の侠客は、全部弟子だということが出来た。その間特に可愛がった弟子に金子市之丞という若者があった。下総国|葛飾郡《かつしかごおり》流山在の郷士の伜で、父藤九郎は快男子、赤格子九郎右衛門と義兄弟を結び、密貿易を企てたが、その後ゆえあって足を洗い、酒造業をいとなんだところ、士族の商法で失敗した。そこで昔の縁故を手頼《たよ》り、度々九郎右衛門へ無心をしたが、そのうち行方が知れなくなった。そこで市之丞は前後の関係から、九郎右衛門が無心を恐れ、父をあやめたに相違ないと、かたく心に信ずるようになった。そうして復讐をしたいというので、秋山要介に従って、武術の修業をするようになった。ところで彼も父に似て、海を愛したところから、いつか森田屋と義を結び、海賊の仲間にはいってしまった。
 そこへ赤格子が帰って来た。そこで一方森田屋を説き、ふたたび海へひっぱり出し、一方諸国漫遊中の、秋山要介へ使いを出し、助太刀を依頼したのであった。そういう間にも赤格子の屋敷へ、威嚇の手紙を投げ込んだり、あるだけの財産を引き渡せという、不可能の難題を持ちかけたりまたは不時に上陸し、鬨《とき》の声をあげておびやかしたり、さらにある時は使者をもって、無理に会見を申し込みながら、先方が承知して待ち構えているのに、わざと行かずにじらしたりして、敵をして奔命《ほんめい》に疲労《つか》れさせようとした。そうしていよいよ今日となり、師匠秋山も来たところから、一旦根拠地へ引き上げた上、急速にしかし堂々と、赤格子攻めをしようというので、今や勇んでいるのであった。

    鼓賊旅へ出立する

 船は白波を高く上げ、九十九里ヶ浜の沖中を、北へ北へと走っていた。
 いま酒宴は真っ盛りであった。
 秋山要介の左側には、金子市之丞が坐っていた。総髪の大髻《おおたぶさ》、紋付きの衣裳に白袴、色白の好男子であった。その二人を取り巻いて、ガヤガヤワイワイ騒いでいるのは、さっきまで、要介を向こうへ廻し、切り合っていた海賊どもで、白布で手足を巻いているのは、いずれも要介に船板子で、打ち倒された者どもであった。いわゆる山海の珍味なるものが、あたりいっぱいに並んでいた。眼まぐるしく飛ぶは盃《さかずき》で、無茶苦茶に動くのは箸であった。牛飲馬食という言葉は、彼らのために出来ているようだ。
「どうやら最近赤格子めは、散在していた手下どもを、大分集めたということだが、ちと手強《てごわ》いかもしれないぞ。だが俺がいるからには、五十人までは引き受ける。後はお前達で片づけるがいい。年頃指南した小太刀の妙法、市之丞うんと揮うがいいぞ」こう要介は豪快にいった。
「先生さえいれば千人力、いかに赤格子が豪傑でも、討ち取るに訳はございません」市之丞は笑《え》ましげに、「それはそうと先生には、どうしてそのような船図面を、お手に入れたのでございますな?」「これか」というと要介は、膝の上へひろげていた例の図面へ、きっと酔眼を落としたが「いやこれは偶然からだ。……実は便船を待ちながら、木更津の海辺をさまよっていると、細身蝋塗りの刀の鞘が、波にゆられて流れ寄ったものだ。何気なく拾い上げて調べてみると、口もとに粘土が詰めてある。ハテナと思って掘り出して見ると、中からこれが出て来たのさ」「それは不思議でございますな」「不思議だといえば全く不思議だ」「では赤格子めが造っているという、素晴らしく大きなご禁制船のたしかな図面ともいえませんな?」「うん、たしかとはいえないな」「しかしそれにしてもそんな図面を、なんで刀の鞘などへ入れ、海へ流したのでございましょう?」「わからないな、トンとわからぬ。しかし、赤格子めを退治てみたら、案外真相がわかるかもしれない。……さあ貴様達酒ばかり飲まずと、景気よく唄でもうたうがいい!」「へえ、よろしゅうございます」海賊どもは手拍子をとり、声を揃えてうたい出した。月が船縁《ふなべり》を照らしていた。海は真珠色に煙っていた。その海上を唄の声が、どこまでもどこまでも響いて行った。

 ある時は千三屋、またある時は鼠小僧、そうして今は鼓賊たるところの、和泉屋次郎吉はこの日頃、ひどく退屈でならなかった。「チビチビ江戸の金を盗んだところで、それがどうなるものでもない。どうかしてドカ儲けをしたいものだ」こんなことを思うようになった。
「気が変っていいかもしれない、ひとつ旅へでも出てみよう」……で鼓を風呂敷へ包み、そいつをヒョイと首っ玉へ結び、紺の腹掛けに紺の股引き、その上へ唐棧の布子を着、茅場町の自宅をフラリと出た。「東海道は歩きあきた、日光街道と洒落のめすか。いや、それより千葉へ行こう。うん、そうだ、千葉がいい。酒屋醤油屋の大家ばかりが、ふんだんに並んでいるあの町は、金持ちで鼻を突きそうだ。千葉へ行ってあばれ廻ってやろう。しかし海路は平凡だ。陸地《くがじ》を辿って行くことにしよう」

    腹へ滲みわたる鼓の音

 亀戸《かめいど》から市川へ出、八幡を過ぎ船橋へあらわれ、津田沼から幕張を経、検見川《けみがわ》の宿まで来た時であったが、茶屋へ休んで一杯ひっかけ、いざ行こうと腰を上げた時、ふと眼についたものがあった。というのは道標《みちしるべ》で、それには不思議はなかったが、その道標の真《ま》ん中所《なかどころ》に、十文字の記号が石灰で、白く書かれてあるのであった。「婆さん」と次郎吉は話しかけた。「ありゃあ何だね、あの印は?」「あああの十文字でございますかな」茶店の婆さんは興もなさそうに、「さあ、なんでございますかね。妾にはトンとわかりませんが。なんでも今から一月ほど前から、あっちにもこっちにもああいう印が、書いてあるそうでございますよ」「あっちにもこっちにもあるんだって? ヘエ、そいつあ不思議だね」「それもあなた成東街道を、銚子まで続いているそうで」「ふうむ、なるほど、銚子までね」次郎吉は腕を組んで考え込んだ。
「ははあわかった。これはこうだ。人寄せの符号に相違ねえ。仲間へ知らせる人寄せ符号だ。……なんだかちょっと気になるなあ。……よし、ひとつ突き止めてやろう。とんだいい目が出ようもしれぬ」そこで婆さんへ茶代をやると、街道を東へ突っ切った。さて川野辺へ来てみると、なるほどそこの道標《みちしるべ》にも同じ十文字が記してあった。「こいつあいよいよ面白いぞ」そこで例の横歩き、風のように早い歩き方で、グングン東南へ走り下った。吉岡の関所の間道を越え、田中、大文字、東金宿、そこから街道を東北に曲がった。成東、松尾、横芝を経、福岡を過ぎ干潟を過ぎ、東足洗《ひがしあしあらい》から忍阪、飯岡を通って、銚子港、そこの海岸まで来た時には、夕陽が海を色づけていた。と見ると海岸の小高い丘に、岩《いわお》のように厳《いか》めしい、一宇の別荘が立っていたが、そこの石垣にとりわけ大きく、例の十文字が記されてあった。
「ははあ、こいつが魔物だな」そこは商売みち[#「みち」に傍点]によって賢く、次郎吉は鋭い「盗賊眼」で早くもそれと見て取った。あたりを見廻すと人気がなく、波の音ばかりが高く聞こえた。「よし」というと岩の根方に、膝を正して坐ったが、まず風呂敷の包みを解き、取り出したのは少納言の鼓、調べの紐をキュッと締め、肩へかざすとポンと打った。とたんにアッといって飛び上がったのは、思いもよらず鼓の音が、素晴らしく高鳴りをしたからであった。「こんな筈はない。どうしたんだろう?」そこでもう一度坐り直し、ポンポンポンと続け打ってみた。と、その音は依然として、素晴らしい高鳴りをするのであった。「どうもこいつは解せねえなあ」こう次郎吉は呟いたが、そのまま鼓を膝へ置くと、眉をひそめて考えこんだ。「千代田城の大奥へ、一儲けしようと忍び込み、この鼓を調べたとき、ちょうどこんなような音がしたが、名に負う柳営とあるからは、八百万石の大屋台、腹のドン底へ滲み込むような、滅法な音がしようとも、ちっとも驚くにゃあたらねえが、いかに構えが大きいといっても、たかが個人の別荘から、こんな音色が伝わって来るとは、なんとも合点がいかねえなあ」……じっと思案にふけったが「三度が定《じょう》の例えがある。よし、もう一度調べてみよう。それでも音色に変りがなかったら、十万二十万は愚かのこと、百万にもあまる黄金白金《こがねしろがね》が、あの別荘にあるものと、見究めたところで間違いはねえ。いよいよそうなら忍び込み、奪い取って一|釜《かま》起こし、もうその後は足を洗い、あの米八でも側へ引き付け、大尽《だいじん》ぐらし栄耀栄華、ううん、こいつあ途方もねえ、偉い幸運にぶつかるかもしれねえ。犬も歩けば棒というが、鼠小僧が田舎廻りをして、こんなご馳走にありつこうとは、いや夢にも思わなかったなあ。どれ」というと鼓を取り上げ、一調子ポ――ンと打ち込んだ。やっぱり同じ音色であった。
「こいつあいよいよ間違いはねえ。驚いたなあ」と呟いた時、
「オイ、千三屋!」
 と呼ぶ声がした。
「え!」と驚いた次郎吉が、グルリ背後《うしろ》を振り返って見ると、一人の武士が岩蔭から、じっとこっちを見詰めていた。
「おっ、あなたは平手様!」ギョッとして次郎吉は叫んだものである。

    地下二十尺救助を乞う

「おおやっぱり千三屋か。妙なところで逢ったなあ。これは奇遇だ、いや奇遇だ」こういいながら近寄って来たのは、他ならぬ平手造酒であった。今年の真夏追分宿で、仲よく(?)つきあった頃から見ると、多少やつれてはいたけれど、尚精悍の風貌は、眉宇《びう》のあいだに現われていた。「オイ千三屋」と叱るように、「実に貴様は悪い奴だな。観世の小鼓をなぜ盗んだ」「ああこいつでございますか」次郎吉はテレたように笑ったが、「へい、いかにも追分では、無断拝借をいたしやした。だがその後観世様へ、一旦ご返却いたしましたので」「嘘をいえ、悪い奴だ」造酒は一足詰めよせたが「一旦返した観世の小鼓を、どうしてお前は持っている?」「それには訳がございます」気味が悪いというように、小刻みに後へ退りながら、「実はこうなのでございますよ。一旦お返ししたあとで、是非に頂戴いたしたいと、お願いしたのでございますな。すると観世様はこうおっしゃいました。盗まれてみれば不浄の品、もう家宝にすることはできぬ。往来へ捨てるから拾うがよいと。……で往来へお捨てなされたのを、わっちが急いで拾ったので。嘘も偽《いつわ》りもございません。ほんとうのことでございますよ」次郎吉は額の汗を拭いた。
 造酒は迂散《うさん》だというように、黙って話を聞いていたが、不承不承に頷いた。
「貴様も相当の悪党らしい。問い詰められた苦しまぎれに、ちょっと遁《の》がれをいうような、そんなコソコソでもなさそうだ。それに観世の精神なら、そんな態度にも出るかもしれない。お前のいいぶんを信じることにしよう」「へえ、ありがとう存じます。ヤレヤレこれで寿命が延びた、抜き打ちのただ一刀、いまにバッサリやられるかと、どんなにハラハラしたことか。……それはそうと平手様、どうしてこんな辺鄙《へんぴ》な土地に、おいでなさるのでございますな?」……聞かれて造酒は気まずそうに、寂しい笑いをうかべたが、「銚子港ならまだ結構だ。もっと辺鄙な笹川にいるのだ」「おやおやさようでございますか」「おれも江戸をしくじってな。道場の方も破門され、やむを得ずわずかの縁故を手頼《たよ》り、笹川の侠客繁蔵方に、態のいい居候《いそうろう》、子分どもに剣術を教え、その日をくらしているやつさ」「そいつはどうもお気の毒ですなあ。……それで今日はこの銚子に、何かご用でもございまして?」「うん」といったが声を落とし、「実は騒動が起こりそうなのだ」「へえ、なんでございますな?」「飯岡の侠客助五郎が、笹川繁蔵を眼の敵《かたき》にして、だんだんこれまでセリ合って来たが、いよいよ爆発しそうなのさ。そこでおれは今朝早く、笹川を立って飯岡へ行き、それとなく様子を探って見たが、残念ながら喧嘩となれば、笹川方は七分の負けだ。なんといっても助五郎は、老巧の上に子分も多く、それにご用を聞いている。こいつは二足の草鞋といって、博徒仲間では軽蔑するが、いざといえば役に立つからな。……喧嘩は負けだと知ってみれば、気がむすぼれて面白くない。そこで大海の波でも見ようと、この銚子へやって来たのさ。それに銚子ははじめてだからな。……おや、あれはなんだろう? おかしなものが流れ寄ったぞ」
 つと渚《なぎさ》へ下りて行き、泡立つ潮へ手を入れると、グイと何かひき出した。それは細身の脇差しの鞘で、渋い蝋色に塗られていた。
「はてな?」と造酒は首をかしげたが、
「この鞘には見覚えがある」……で、鞘口へ眼をやった。と粘土が詰められてあった。粘土を取って逆に握り、ヒューッとひとつ振ってみた。すると、中から落ちて来たのは、小さく畳んだ紙であった。「これは不思議」と呟きながら、紙をひらくと血で書いたらしい、一行の文字が現われた。読み下した造酒の顔色が、サッと変ったのはどうしたのであろう? これは驚くのが当然であった。紙には次のように書かれてあった。
「主知らずの別荘。地下二十尺。救助を乞う。観世銀之丞」
 差し覗いていた次郎吉も、これを見ると眼をひそめた。
「こいつあ平手さん大変だ。文があんまり短くて、はっきりしたことは解らねえが、なんでも観世銀之丞さんは、悪い奴らにとっ掴まり、主知らずとかいう別荘へ、押し込められているのです。地下二十尺というからには、恐ろしい地下室に違えねえ。救助を乞うと血で書いてあらあ。まごまごしちゃいられねえ」「だが、どうして助け出す?」造酒は呻くように訊きかえした。「主知らずの別荘だって、どこにあるのかわからないではないか」「ナーニ、そんなことは訳はねえ。刀の鞘の鞘口へ、粘土が詰められてありましたね。そいつが崩れていなかったのは、永く海にいなかった証拠だ。いずれ手近のこの辺に、別荘はあるに違えねえ。銚子からはじめて付近の港を、これからズッと一巡し、人に訊いたら解りましょうよ」「いかさまこれはもっともだ。では一緒に尋ねようか」「いうにゃ及ぶだ。参りましょう!」そこで二人は手をたずさえ、町の方へ走って行った。

    造酒と次郎吉別荘へ忍ぶ

 次郎吉とそうして平手造酒とが「主知らずの別荘」のあり場所について、最初に尋ねた家といえば、好運にもお品の家であった。そこで二人は一切を聞いた。銀之丞が銚子へ来たことも、お品の家に泊まっていたことも、主知らずの別荘へ行ったきり、帰って来なかったということも。
「だからきっと銀之丞様は、いまでもあそこの『主知らずの別荘』に、おいでなさるのでございましょうよ」こういってお品は寂しそうにした。そこで二人はあすともいわず、今夜すぐに乗り込んで行って、造酒としては銀之丞を救い、次郎吉としては莫大もない、別荘の中の財宝を、盗み取ろうと決心した。
 別荘へ二人が忍び込んだのは、その夜の十二時近くであった。不思議なことに別荘には、何の防備もしてなかった。刎《は》ね橋もちゃんと懸かっていたし、四方の門にも鍵がなかった。で、二人はなんの苦もなく、広い構内へ入ることが出来た。中心に一宇の館があり、その四方から廊下が出ていて、廊下の外れに一つずつ、四つの出邸のあるという、不思議な屋敷の建て方には、二人ながら驚いた。しかし、それよりもっと驚いたのは、その屋敷内が整然と、掃除が行き届いているにも似て、闃寂《げきじゃく》[#「闃寂」は底本では「※[#「闃」の「目」に代えて「自」]寂」]と人気のないことで、あたかも無住の寺のようであった。
 しかしじっと耳を澄ますと、金《かつ》と金と触れ合う音、そうかと思うと岩にぶつかる、大濤《おおなみ》のような物音が、ある時は地の下から、またある時は空の上から、幽《かす》かではあったけれど聞こえて来た。
「平手さん、どうも変ですね」次郎吉は耳もとで囁いた。「気味が悪いじゃありませんか」
「うむ」といったが平手造酒は、じっと出邸へ目をつけた。「とにかくあれは出邸らしい。ひとつあそこから探るとしよう」
 土塀の内側に繁っている、杉や檜の林の中に、二人は隠れていたのであったが、こういうと造酒は歩き出した。
「まあまあちょっとお待ちなすって。そう簡単にゃいきませんよ。なにしろここは敵地ですからね。いかさまあいつが出邸らしい。と、するといっそうあぶねえものだ。人がいるならああいう所にいまさあ。つかまえられたらどうします」「いずれ人はいるだろうさ。これほどの大きな屋敷の中に、人のいない筈はない。が、おれは大丈夫だ。五人十人かかって来たところで、粟田口《あわたぐち》がものをいう。斬って捨てるに手間ひまはいらぬ」「それはマアそうでございましょうがね。君子は危うきに近寄らず、いっそそれより本邸の方から、さがしてみようじゃございませんか」「いやいやそんな余裕はない。観世から来た鞘手紙、危険迫るとあったではないか。一刻の間も争うのだ」「なるほどこいつあもっともだ。だがあっしは気が進まねえ。うん、そうだ、こうするがいい。あなたは出邸をお探しなせえ。あっしは本邸を探しやしょう」「おお、こいつはいい考えだ。それではそういうことにしよう」
 ここで二人は左右へ別れ、次郎吉は本邸へ進んで行った。木立ちを出ると小広い空地で、戦いよさそうに思われた。左手を見れば長廊下で、出邸の一つに通じていた。右手を見ても長廊下で、また別の出邸に通じていた。空地を突っ切ると本邸で、戸にさわると戸が開いた。と眼の前に長い廊下が、一筋左右に延びていた。耳を澄ましたが人気はなく、ただ薄赤い燈火《ともしび》が、どこからともなくさしていた。「ともしがさしているからには、どこかに人がいなけりゃあならねえ」で次郎吉はその廊下の、右手の方へと忍んで行った。すぐに一つの部屋の前に出た。これぞお艶の部屋なのであったが、今夜は誰もいなかった。で次郎吉は引き返そうとした。
 しかし何んとなく未練があった、で、しばらく立っていた。

    森田屋一味の赤格子|征《ぜ》め

 しかるにこの頃暗い暗い、銚子の海の一所に数隻の親船が現われた。森田屋一味の海賊船で、赤格子ぜめに来たのであった。すなわち彼らの根拠地から、用意万端ととのえて、総勢すぐって二百人、有司の鋭い警戒網をくぐり、ここまでやって来たのであった。……親船は岸へ近づいて来た。やがて碇《いかり》を下ろしたとみえ、ゆたかに海上へ漂った。と小船《はしけ》が無数に下ろされ、それが一斉に岸へ向かって、さながら矢のように漕ぎ寄せられた。と、ヒラヒラと人が下りた。すると小船《はしけ》は帰って行った。と、またその船が岸へ漕がれ、ヒラヒラと人が岸へ飛んだ。これが数回繰り返され、一百人あまりの人数が、海から岸へ陸揚げされた。森田屋の部下の海賊どもであった。
 賊どもは一団に固まった。真っ先に立った人影は、秋山要介正勝で、櫂《かい》で造った獲物を提《ひっさ》げ、一巡一同を見廻したが、重々しい口調でいい出した。
「森田屋は船へ残すことにした。海路を断たれると危険だからな。……さて市之丞前へ出ませい」声に連れて一つの人影が、ツト前へ現われた。「赤格子九郎右衛門はそちにとり、不倶戴天《ふぐたいてん》の父の仇だ。で五十人の部下を率い、東の門から乱入し、赤格子一人を目掛けるよう。さて次に郡上殿!」呼ばれて一つの人影は、立ったままで一礼した。「貴殿には尊いお方から、密書を預かっておられる由、十人の部下をお貸し致す。それに守られてご活動なされ。行動は一切ご自由でござる。次に小頭小町の金太!」「へい」というと一つの人影が、群を離れて進み出た。「お前は二十人の部下を連れて、西の門から乱入しろ。そうして出邸へ火を掛けろ。さて、最後にこの俺だが、残りの二十人を引率し、表門から向かうことにする。一世一代の赤格子|征《ぜ》めだ、命限り働くがいい」
 全軍|粛々《しゅくしゅく》と動き出した。
 玻璃窓の郡上平八としては、ここが名誉と不名誉との、別れ際《ぎわ》ともいうべきであった。赤格子が殺されてしまったら、せっかくの密書が役に立たぬ。これはどうでも戦いの前に、是非赤格子に渡さなければならない。で、つと群から駈け抜けると、付けられた十人の部下も連れず、大手の門へ走っていった。自由行動を許されていたので、誰も咎める者はない。来て見れば刎ね橋が下ろされてあった。それを渡って表門にかかり、試みに押すとギーと開いた。さて構内へはいって見ると、まことに異様な建築法であった。一渡り素早く見廻したが、中央に立っている建物へ、目を付けざるを得なかった。で、彼は足音を忍ばせ、空地を横切って本邸へ走った。手に連れて扉が開き、長い廊下が眼の前を、左右にズッと延びていた。彼はちょっとの間思案したが、つと廊下へ踏み入った。そうしてすぐに左へ廻った。
 この時和泉屋次郎吉は、反対側の廊下の上に、考え込んで立っていたが、誰やら人の来たらしい、軽い足音が聞こえて来たので、ハッとして耳を引っ立てた。
「いずれ屋敷の者だろう。逢ってもみたし逢いたくなし。少し様子を探ってやれ」
 で彼は西へ廻った。
 この本邸の建て方は、中央に九郎右衛門の部屋があり、その部屋の四面を囲繞《いにょう》して、廊下がグルリと作られてあり、その廊下の隅々に、四つの部屋が出来ている。
 で、次郎吉の立っていた所は、その北側の廊下であって、それを今西の方へ歩き出した。また平八の立っていた所は、南側の廊下であったが、それを今東へ歩き出した。
 九郎右衛門の居間たるや、四方厚い石壁で、各※[#二の字点、1-2-22]《おのおの》の四隅に戸口はあったが、石壁の色と紛らわしく、発見することは不可能であった。
 玻璃窓の平八は足を止めた。それは自分の反対側で、誰かこっそり歩いているとみえ、幽かな足音がしたからであった。しかしもちろん足音の主が、鼓賊だなどとは夢にも思わず、邸内の者だろうと想像した。

    追いつ追われつ鼓賊と玻璃窓

「九郎右衛門には逢わなければならない。その他の者には逢いたくない。深夜に他家へ忍び込み、ウソウソ歩いているところを、とっ捉まえられたらそれっきりだ。泥棒といわれても仕方がない。しかし誰かに聞かないことには、九郎右衛門のありかは解らない。歩いているのは誰だろう? 九郎右衛門なら有難いが? いやいや恐らく召使いだろう。とまれ様子をうかがってみよう」そこで彼は歩いて行った。行く手に一つの部屋があった。九郎右衛門の病身の妻、お妙の住んでいた部屋なのであるが、今は誰もいなかった。で、平八はその部屋へ素早くからだを辷《すべ》り込ませ、扉《と》の隙間から廊下の方を息を凝らしてうかがった。こなた鼓賊の次郎吉は、西へ西へと歩を運んだが、かつて丑松の住んでいた、そうして今はガラ空きの、一つの部屋の前まで来た時反対側を歩いていた、忍ぶがような足音が、にわかにピッタリ止まったので、これもピッタリ足を止めた。そうして彼は考えた。
「銀之丞様も銀之丞様だが、俺の真の目的は、この家の巨財を奪うことだ。鼓に答えた億万の巨財! いったいどこにあるのだろう? ポンポンと鼓を調べさえしたら、音色を通して、感じられるのだが、まさかここでは打たれない。眼を覚まさせるようなものだからな。……おや足音が止《や》んでしまったぞ。いずれはこの家の召使いだろうが、ちょっと様子を見たいものだ。……待ったり待ったりあぶねえあぶねえ、泥棒とでも呼ばれたものなら、百日の説法何とやらだ。……おおここに部屋がある。ここに少し忍んでいてやろう」
 丑松の部屋へはいり込み、廊下の様子をうかがった。しんしんと四辺《あたり》は静かであった。物寂しく人気がない。
 お妙の部屋へ忍び込み、様子をうかがっていた平八は、向こう側の足音が絶えたので、小首を傾けざるを得なかった。
「さてはこっちの木精《こだま》かな? 奇妙きわまる館の造り、俺の歩く足音が、向こうの壁へ響くのかもしれない。名代の赤格子九郎右衛門だ、建築学でも大家だそうな。これは木精《こだま》に相違ない。どれソロソロ歩いてみようか」
 首につるした密書箱を、懐中《ふところ》の中でしっかりと握り、平八は部屋から廊下へ出た。そうしていっそう足音を忍ばせ、東側の長廊下を北へ辿った。
 和泉屋次郎吉は名誉の盗賊、相手がいかに足音を忍ばせ、空を踏むように歩いたところで、聞きのがすようなことはない。
「ははあ、そろそろ歩き出したな。待てよ、こいつは家人ではないぞ。召使いでもなさそうだ。この歩き方は忍術《しのび》の骨法だ。……これはおかしい。不思議だな。まさか俺《おい》らと同じように、金を目掛けて忍び込んだ、白浪《しらなみ》の仲間でもあるまいが。……いや全くこれは不思議だ。浮かぶような足取りで歩いている。よし、一つ驚かせてやろう。……エヘン!」と一つ咳をした。それから部屋から廊下へ出、西側の廊下を南の方へ、お艶の部屋までツツ――と走った。これも忍術《しのび》の一秘法、電光のような横歩きであった。
 胆を潰したのは平八であった。これも空っぽの六蔵の部屋の、まず正面でピタリと止まり、思わず「ムー」と呻き声を上げた。
「木精《こだま》ではない、木精ではない! やはり人間が歩いているのだ。ううむ、咳までしたんだからな。ではやっぱり召使いかな? いや待てよ、あの歩き方は?」彼はそこで考え込んだ。「これは普通の歩き方ではない。エヘンと咳をしておいて、ツツ――と辷って行ったあの呼吸。何んともいえない身の軽さ。……だがしかし俺はこんなところで、まごまごしてはいられない。至急赤格子に逢わなければならない。グズグズしていると秋山が、兵を率いて攻めて来る。もし赤格子が殺されたら、俺の使命は無駄になる。碩翁様《せきおうさま》にも合わす顔がない。……さんざ鼓賊に翻弄《ほんろう》され、尚その上に今度の使命まで、無駄にされては活きてはいられぬ。……だが、どうも気になるなあ誰がいったい歩いているのだろう? 俺が歩けば向こうも歩き、俺が止まれば向こうも止まる。俺をからかってでもいるようだ。館の造りもまことに変だ。真ん中に四角な石壁があって、その周囲に廊下があり、廊下の隅々に部屋がある。だが、どれも空っぽだ。いったい四角な石壁は、なんの必要があって出来ているのだろう? 部屋にしては戸口がない。打《ぶ》っても叩いてもビクともしない。……おや、畜生歩き出したかな?」平八はじっと耳を澄まし、向こう側の様子を聞き澄ました。

    丑松短銃で玻璃窓を狙う

 しかし足音はきこえなかった。
「では俺の方から歩いてやれ」丹田《たんでん》の気を胸へ抜き、ほとんど垂直に爪先を立て、これも一種の忍術《しのび》骨法、風を切って一息に、北側の廊下を丑松の部屋まで、電光のように走って行った。やっぱりその部屋も空であった。そうして憎い相手の者も、それに劣らぬ早足をもって、一瞬に位置を変えたとみえ、西側の廊下一帯には、人の姿は見えなかった。
 勃然《ぼつぜん》と平八の胸の中へ、怒りの燃えたのは無理ではなかろう。「よし、こうなれば意地ずくだ。どんなことをしても捉えてみせる!」
 彼は四角の石壁に添い、四筋の廊下を猟犬のように、追い廻してやろうと決心した。
 で、彼はそれをやり出した。風が烈しくぶつかって来た。独楽《こま》のようにぶん廻った。しかも少しも音を立てない。十回あまりも繰り返した。しかし憎むべき嘲弄者《ちょうろうしゃ》を、発見することは出来なかった。やはり相手も彼と同じく、彼と同じ速力で、四筋の廊下を廻ったらしい。そうしていつも反対側に、その位置を占めているらしかった。平八は五十を過ごしていた。いかに鍛えた体とはいえ、疲労せざるを得なかった。彼は今にも仆れそうになった。ハッハッハッハッと呼吸《いき》が逸《はず》んだ。で彼は北側の廊下で、しばらく休むことにした。と、その時形容に絶した、恐ろしい事件が勃発した。しかしそれは彼以外の者には、痛痒を感じない出来事なのであった。ただし平八の身の上にとってはまさしく悪鬼のまどわしであった。ポンポンポン! ……ポンポンポン! と、例の鼓が反対側から、ハッキリ聞こえて来たのであった。最初彼は茫然として、棒のように突っ立った。それから左へよろめいた。それから両手で顔を蔽うと、廊下の上へつっ伏した。彼の全身は顫え出した。彼の理性は転倒し、考えることが出来なくなった。彼は悪夢だと思いたかった。しかし決して悪夢ではない。
「これはいったいどうしたことだ! ……俺は鼓賊に憑かれている。行く所行く所で鼓が鳴る! ここは銚子だ江戸ではない! ……」彼には起きる元気もなかった。
 と、この時、もう一つ、驚くべきことが行われた。石壁へ縞が出来たのであった。それは一筋の光の縞で、だんだん巾が広くなった。そうしてそこから一道の光が、廊下の方へ射し出でた。そうしてそれがうずくまっている、平八の背中を明るくした。と、その石壁の明るみへ、短い棒切れが浮き出した。つづいて人の手が現われた。それから半身が現われた。種子ヶ島を握った一人の子供が――子供のような片輪者が――すなわち赤格子の腹心の、醜い兇悪な丑松が、秘密の扉を窃《ひそ》かにあけて、様子をうかがっているのであった。
 顔を蔽い、背中を向け、うずくまっている平八には、光の縞も丑松も、見て取ることが出来なかった。……種子ヶ島の筒口が、ジリジリと下へ下がって来た。そうして一点にとどまった。その筒口の一間先に、平八の背中が静止していた。今、丑松の母指《おやゆび》が、引き金をゆるゆると締め出した。
 この時和泉屋次郎吉は、南側の廊下に立っていた。彼は愉快でたまらなかった。彼は相手の人間が、平八であるとは知らなかった。彼と同じ稼ぎ人が、彼と同じ目的のもとに、忍び込んでいるものと推量した。そうしてそやつは忍術《しのび》にかけては、名ある奴であろうと想像した。そいつをうまうま翻弄《ほんろう》したことが、彼にはひどく愉快なのであった。

    美しいかな人情の発露

 しかしにわかに静かになったのが、彼には怪訝《けげん》に思われた。「疲労《つか》れたかな、可愛そうに」で彼は耳を澄ました。次第に好奇心に駆られて来た。行って見たくてならなかった。そこで彼はソロソロと、南側の廊下を西にとり、お艶の部屋まで行って見た。そうしてそこから見渡される、西側の廊下を隙《す》かして見た。しかし誰もいなかった。で、今度は西側の廊下を、北の方へ歩いて行った。そうして丑松の部屋まで行った。そうしてそこから見渡される、北側の廊下を隙かして見た。と、驚くべき光景が、彼の眼前に展開されていた。一人の老人がうずくまっていた。一人の小男が種子ヶ島で、その老人を狙っていた。石壁から火光《ひかり》が射していた。……その老人が思いもよらず、玻璃窓の平八だと見て取った時、彼はドキリと胸を打った。そうして彼はクラクラとした。「それじゃ今まで玻璃窓めと、追いつ追われつしていたのか!」彼はブルッと身顫いした。
「江戸から追っかけて来たんだな! 恐ろしい奴だ。素早い奴だ!」彼は身の縮む思いがした。
「だが小男は何者だろう! そうして何のために種子ヶ島で玻璃窓を狙っているのだろう? 玻璃窓はなんにも知らないらしい。顔を抑えてうずくまっている。泣いてるのじゃあるまいかな? なんでもいい、いい気味だ! 殺されてしまえ! 消えてなくなれ!」
 彼は嬉しさにニタニタ笑った。と、そのとたんに彼の心へ、別の感情が湧き出した。「ああ、だがしかし玻璃窓めは、俺にとっちゃ好敵手だった。あいつの他にこの俺を、鼓賊だと睨んだものはねえ。あの玻璃窓に縛られるなら、俺も往生して眼をつぶる。その玻璃窓めが殺されようとしている。……うん、こいつあうっちゃっちゃ置けねえ! こいつあどうしても助けなけりゃあならねえ。あっ、引き金を締めやがった! いけねえいけねえ間に合わねえ! 畜生!」
 と怒鳴ると持っていた鼓を、種子ヶ島目掛けて投げ付けた。瞬間にド――ンと発砲された。
 それから起こった格闘は、真に劇的のものであった。
 少納言の鼓は種子ヶ島にあたり、鼓と種子ヶ島とは宙に飛んだ。で、鉄砲の狙いは外れた。玻璃窓の平八は飛び上がった。そうして丑松へ組み付いた。それを外した丑松は、逃げ場を失って北側の廊下を、西の方へ走って行った。そこへ飛び出したのが次郎吉であった。撲る、蹴る、掴み合う! やがて一人が「ウ――ン」と呻き、バッタリ仆れる音がした。二人の人間は立ち上がり、はじめて顔を見合わせた。
「玻璃窓の旦那、お久しぶりで」
「おっ、貴様は和泉屋次郎吉!」
「あぶないところでございましたなあ」
「それじゃ貴様が何かを投げて……」
「走って行っちゃ間に合わねえ。そこで鼓を投げやした」「ううん、そうして俺を助けた!」「へん、敵を愛せよだ!」「眼力たがわず和泉屋次郎吉、わりゃあやっぱり鼓賊だったな!」「だが鼓はこわれっちゃった」「捕《と》った!」というと平八は、次郎吉の手首をひっ掴んだ。
「見事捕る気か! さあ捕れ捕れ! だが命の恩人だぞ!」
「ううん」というと平八は、とらえた次郎吉の手を放した。
 森然《しん》と更けた夜の館、二人は凝然と突っ立っていた。

 一方こなた平手造酒は、次郎吉と別れるとその足で、出邸の一つへ走って行った。出邸には全く人気がなく、矢狭間《やざま》造りの窓から覗くと、内部は整然と片付けられていた。で、内へはいってみた。ここへ七人立てこもったなら、五十人ぐらいは防げようもしれぬと、そう思われるほど厳重をきわめた砦《とりで》のような構造であったが、しかしどこにも隠れ戸もなければ、地下へ通う穴もなかった。で、造酒はそこを出て、次の出邸へ行ってみた。そこも全く同じであった。構造は厳重ではあったけれど、人気というものがさらになかった。

    お艶と造酒一室に会す

 こうして順次四つの出邸を、平手造酒は訪ね廻った。その結果彼の得たところは、疲労とそうして空虚とであった。親友の観世銀之丞については、全く知ることが出来なかった。
「ふうむ、それでは本邸に、観世は隠されているのだな」こう考えると猶予《ゆうよ》ならず、彼は本邸へ走って行った。戸にさわるとすぐに開き、廊下が眼前に展開された。すなわち北側の廊下であった。正面に巨大な石壁があった。それについて西の方へ歩いた。と、廊下がそこで曲がった。西側の廊下が真《ま》っ直《す》ぐに、彼の足もとから延びていた。その廊下の一所に、三人の人影が集まっていた。一人は床の上に仆れているし、二人は向かい合って突っ立っていた。造酒はハッと胸を躍らした。しかしそれよりももう一つのことが、彼の心を引き付けた。それは石壁の一角が、扉のように口をあけ、そこから火光が洩れていることで、どうやら部屋でもあるらしい。
 つと造酒は踏み込んでみた。そこははたして部屋であった。かつていつぞや観世銀之丞が、偶然のことから呼び込まれた、赤格子九郎右衛門の部屋であった。しかしその頃とは異《ちが》っていた。金銀財宝珍器異類、夥《おびただ》しかったそれらのものが、今は一つも見られない。ガランとした灰色のだだっぴろい部屋が、味も素《そ》っ気《け》もなく広がっていた。そうして天井から飾り燈火が、明るい光を投げていた。その光に照されて、一人の女が浮き出ていた。女は床の上に仆れていた。そうして荒縄で縛られていた。口には猿轡《さるぐつわ》が嵌められていた。それは妖艶たる若い女で、他ならぬ九郎右衛門の娘であった。
 造酒は意外に驚きながらも、女の側へ走り寄り、縄を解き猿轡《さるぐつわ》を外した。するとお艶は飛び上がったが、扉の側へ飛んで行き、ガッチリ内側から鍵を掛けた。
「態《ざま》ア見やがれ丑松め!」あたかも凱歌《がいか》でも上げるように、男のような鋭い声で、こう彼女は叫んだが、そこで初めて造酒を眺め、気高い態度で一礼した。
「お娘《むすめ》ご、お怪我はなかったかな?」
 造酒はその美に打たれながら、こういう場合の紋切り型、女の安否を気遣った。
「あぶないところでございました。でも幸い何事も。……あれは丑松と申しまして、父の家来なのでございます。ずっと前から横恋慕をし、今日のような大事の瀬戸際《せとぎわ》に、こんな所へおびき出し、はずかしめようとしたのでございます。……失礼ながらあなた様は?」お艶は気が付いてこう訊いた。造酒はそれには返辞をせず、
「お見受けすればあなたには、どうやらこの家のお身内らしいが、しかとさようでござるかな?」
「ハイ、さようでございます。別荘の主人九郎右衛門の娘、艶と申す者でございます」「有難い!」と叫ぶと平手造酒はツカツカ二、三歩近寄ったが、「しからばお訊きしたい一義がござる。江戸の能役者観世銀之丞、当家に幽囚されおる筈、どこにいるかお明かしください!」勢い込んで詰め寄せた。
 と、お艶の眼の中へ、活々《いきいき》した光が宿ったが、
「仰せ通り銀之丞様は、当家においででございます」「おお、そうなくてはならぬ筈だ。で、今はどこにいるな? おおよそのところは解っている。地下にいるだろう、数十尺の地下に!」「ハイ」といったがニッコリと笑い、「ああそれではあなた様は、鞘に封じたあの方の文を、お拾いなされたのでございますね。それでここへあの方を、助けにおいでなされたので。……そうですあれは十日ほど前に、空洞内の土牢から、海へ投げたものでございます」「空洞内の土牢だと※[#感嘆符疑問符、1-8-78] これ、なんのためにそんな所へ、あの観世を入れたのだ! お前では解らぬ主人を出せ! なんとかいったな九郎右衛門か、その九郎右衛門をここへ出せ!」造酒は威猛高《いたけだか》に怒号した。しかしお艶は恐れようともせず、水のように冷然と立っていた。

    その後の観世銀之丞

「父はこの世にはおりません」やがてお艶が咽ぶようにいった。「父さえ活きておりましたら。……中風で斃れたのでございます。……つづいて母が死にました。そうしてそれ前に可愛い弟の六蔵が死んでしまいました。心臓で死んだのでございます。そうして母の死んだのは、悲しみ死になのでございます。……名に謳《うた》われた赤格子も、妾《わたし》一人を後に残し、死に絶えてしまったのでございます。永い年月苦心に苦心し、ようやく出来あがった黒船へも、乗ることが出来ずに死にましたので。……それはそうとあなた様は、平手造酒さまでございましょうね?」
 図星を指されて平手造酒は、思わず大きく眼を見開いた。
「お驚きになるには及びません」お艶は微笑を含んだが、「観世さまからこの日頃、お噂を承まわっておりました。それとそっくりでございます。それに鞘文《さやぶみ》をご覧になり、この『主知らずの別荘』へ、すぐに踏み込み遊ばすような、そういう勇気のあるお方は、平手様以外にはございません。……それはとにかく観世さまは、只今はご無事でございます。そうして現在は黒船の上に、妾達一統の頭領として、君臨しておられるのでございます。……いえいえ嘘ではございません。どうぞお聞きくださいまし。みんなお話し致しましょう。でも時間がございません。出帆しなければなりませんので。妾の行衛《ゆくえ》が知れないので、騒いでいることでございましょう。……それではほんの簡単に、申し上げることに致しましょう。……今年の秋の初め頃、妾達はこの地へ参りました。妾達の本当の国土といえば、南洋なのでございます。そうして妾はその南洋で成長したものでございます。ボルネオ、パプア、フィリッピン諸島に、とりまかれているセレベス海に、妾達の国土はございますので。どうして日本に参りましたかというに、父の財産がそっくりそのまま日本に残してございましたからで。それを南洋へ移したいために、やって参ったのでございます。……この地へ参ったその日のうちに、妾はあの観世様を愛するようになりました。どうぞおさげすみくださいますな。妾のような異国育ちのものは、愛とか恋とかいうようなことを、憚からず申すものでございますから。……するとある晩観世様が、別荘へ迷って参られました。そうして父と逢いました。そうして父の依頼を諾《き》かれ、この別荘へお止どまりくだされ、妾達を狙うある敵から、妾達を守ってくださるように、お約束が出来たのでございます。……どんなに妾が喜んだか、どうぞご推察くださいますよう。妾達二人はその時から、大変幸福になりました。妾達は恋の旨酒《うまざけ》に酔いしれたのでございます。けれどそういう幸福には、きっとわざわいがつきやすいもので、一人の恋仇が現われました。あの丑松でございます。丑松は父に讒《ざん》をかまえ、観世様を地の底の、造船工場へ追いやりました。――妾達の秘密を観世様が、探り知ったという罪条でね。で、それからの観世様は、多くの大工と同じように、暗い寒い空洞内で、働かなければなりませんでした。するとそのうち丑松は、また父にこんなことを申しました。それは観世様が二葉の図面を――ご禁制船の図面なので、それを妾達は地下の空洞で、拵えていたのでございますが、それをこっそり奪い取り、刀の鞘へ封じ込み、外海へ流したというのです。そうしてこれは事実でした。ほんとに観世様は二葉の地図を、海へ流したのでございます。幕臣である観世様としては、無理のないことと存じます。ご禁制船の建造は、謀反罪なのでございますもの。それをあばいて官に知らせるのは、当然なことなのでございますもの。でもそれは妾達にとり、特に父にとりましては、大打撃なのでございます。うっちゃって置くことはできません。処分しなければなりません。それでとうとう観世様を、妾達仲間の掟通りに、空洞内の土牢へ入れ、飢え死にさせることにいたしました。けれど観世様は死にませんでした。妾が毎日こっそりと、食物を差し入れたからでございます。……そのうちに船が出来上がり、つづいて父が死にました。そうして妾は申し上げましたように、一人ぼっちとなりました。するとそこへ付け込んで、丑松が口説くのでございます。妾は途方にくれました。その結果妾は観世様へお縋りしたのでございます。妾をお助けくださいまし。妾はあなたを愛しております。どうぞどうぞ丑松から、妾をお助けくださいまし。そうしてどうぞ妾達のために、頭領となってくださいまし。そうしてどうぞ妾達と一緒に、南洋へおいでくださいまし。美しい島でございます。椰子《やし》、橄欖《かんらん》、パプラ、バナナ、いちじくなどの珍らしい木々、獅子《しし》だの虎だの麒麟《きりん》だのの、見事な動物も住んでおります。妾の領地でございます。経営の手を待っております。男子一生の仕事として、これほど愉快で華々《はなばな》しいことは、他にあろうとは思われません。そこへ君臨してくださいましと。……すると最初観世様は、妾の恋をお疑いなされ、信じようとはなさいませんでした。でもとうとうお信じくだされ、やがてこのように仰せられました。『よし、お艶、俺は信じる。お前と一緒にその島へ行こう。俺は前から望んでいたのだ! 牢屋へはいるか海外へ行くか、この二つを選びたいとな! 俺は退屈で仕方なかったのだ。その退屈は慰められよう。さあ俺を牢から出せ。俺はお前達の大将となろう。そうしてお前を妻にしよう』――で、あの方は只今では、妾の良人《おっと》でございます。南洋へ参るのでございます」
 この時別荘の四方にあたって、鬨の声がドッと上がった。秋山要介の軍勢が、赤格子征めに取りかかったのであった。

    堂々浮かび出た赤格子の巨船

 お艶はニコヤカに微笑したが、
「あれは敵でございます。妾達の敵でございます。あの人達の征めて来ることは、解っていたのでございます。父が活きてさえおりましたら、蹴散らしてしまうでございましょう。妾は嫌いでございます。血を見るのが嫌いなので。そうして妾の恋しいお方も、お嫌いなのでございます。で、別荘はあの人達に明け渡してやるつもりでございます。決して逃げるのではございません。大きなものへ向かうために、小さいものを見棄てますので。あの人達にも神様のめぐみが、どうぞどうぞありますよう。そうして、あなた、平手様には、さらにさらにもっともっと、神様のおめぐみがございますように! 妾はクリスチャンでございます。そうして只今は観世様も。――あなたの厚いご友情は、観世様へ伝えるでございましょう。どんなにかお喜びでございましょう。……もう行かなければなりません。待ちかねていることでございましょう。……ごめんください平手さま! さようならでございます。神の恩寵《おんちょう》あなたにありますよう。……一間ほどお下がりくださいまし。それではあぶのうございます。……ああそれからもう一つ、船出をご覧遊ばしたいなら、別荘の北、海の岸、象ヶ鼻へお駈けつけくださいまし。岩は人工でございます。開閉自由でございます。大きな湾がありますので。この別荘は湾の上に、造られてあるのでございます。父が造ったのでございます。父は科学者でございました。どんなことでも出来ましたので。……いよいよお別れでございます」
 再びドッと鬨の声! 館へ乱入する足の音! 石壁を破壊する槌《かけや》の音!
「さようならよ! さようならよ!」
 叫びながらお艶は手を上げて、石壁の一点へ指を触れた。と、お艶の足の下、一間四方の石床が、音もなくスーと下へ下がった。今日のエレベーター、そういう仕掛けがあったのであった。その時洞然と音を立てて、さすが堅固の石壁も、槌《かけや》に砕かれて飛び散った。ムラムラと込み入る賊の群、それと引き違いに飛び出した造酒、敵と間違えて追い縋る賊を、刀を抜いて切り払い、象ヶ鼻へ走って行った。

 ここは絶壁象ヶ鼻、太平洋の荒浪が、岩にぶつかり逆巻いていた。と、ゴーゴーと音がした。蝶つがいで出来た大扉が、あたかも左右にひらくように、今、岩が濤《なみ》を分け、グ――と左右へ口をあけた。と、濛々《もうもう》たる黒煙り。つづいて黒船の大船首。胴が悠々と現われた。一本|煙突《チムニイ》二本マスト、和船洋風取りまぜた、それは山のような巨船であった。船首に篝《かがり》が燃えていた。その横手に一人の武士が、牀几に端然と腰かけていた。他ならぬ観世銀之丞であった。その傍らにお艶がいた。と、象ヶ鼻の岩上から、
「観世!」と呼ぶ声が聞こえて来た。平手造酒の声であった。闇にまぎれて立っているのだ。銀之丞は牀几から立ち上がった。
「おお平手!」と彼はいった。「おさらばだ、機嫌よく暮らせ!」
「航海の無事を祈るばかりだ!」
「有難う! お礼をいう! 遠く別れても友情は変らぬ!」「お互い愉快に活きようではないか!」
「新天地! 新天地! それが俺を迎えている! 生活は力だ! 俺は知った!」「ふさぎの虫など起こすなよ!」「過去の亡霊! 大丈夫!」「おさらばだ! おさらばだ!」
「平手様、さようなら!」お艶の声が聞こえて来た。
「お艶どの、さようなら!」
 船は沖へ駛《はし》って行った。
 間もなく大砲の音がした。森田屋の賊船が襲ったのであった。それを二発の大砲で、苦もなく追っ払ってしまったのであった。
 恋の船、新生活の船、銀之丞とお艶の黒船は、明けなんとする暁近《あけちか》い海を、地平線下へ消えて行った。

    因果応報悪人の死

 物語りは三月経過する。
 桜の花が咲き出した。春が江戸へ訪ずれて来た。この物語りの最初の日から、ちょうど一年が過ぎ去った。「今の世や猫も杓子《しゃくし》も花見笠」の、そういう麗かの陽気となった。隅田川には都鳥《みやこどり》が浮かび、梅若塚には菜の花が手向《たむ》けられ、竹屋の渡しでは船頭が、酔っぱらいながら棹《さお》さしていた。
 一閑斎の小梅の寮へは、相変らず人が寄って来た。ある日久しぶりで訪ねて来たのは、玻璃窓の郡上平八であった。
「これはこれは珍しい。それでも生きていたのかえ」「裾を見な、足があるから。へ、これでも幽霊じゃないのさ」皮肉な二老人は逢うと早々、双方で皮肉をいい合うのであった。「一局|囲《かこ》もうかね、一年ぶりだ」「心得た。負かしてやろう」「きつい鼻息だ、悲鳴をあげるなよ」
 パチリパチリと打ち出した。最初の一局は一閑斎が勝ち、次の一局は平八が勝った。で一|服《ぷく》ということになった。
「そこでちょっとおききするが、もう鼓賊はお手に入れたかな?」ニヤニヤ笑いながら一閑斎は訊いた。もちろんいやがらせの意味であった。
「うむ」といったが平八は、不快な顔もしなかった。「さよう実は捕えたがな、捕えてみれば我が子なり。……恩愛の糸がからまっていて、どうにもならなかったという訳さ」「へえ、本当に捕えたのか? ふうむ、どこで捕えたな?」「銚子だよ、去年の冬」「で、鼓賊の素性はえ?」「それだ」いうと平八は、会心の笑みを浮かべたが、「わしの眼力は狂わなかった。鼠小僧と同一人だった」「ふうん、そいつあほんとかね?」一閑斎は眼を見張った。
「嘘をいってなんになる。ほんとだよ、信じていい。……だがどうしてもショビケなかったのさ。しかしその時約束した。『天運尽きたと知った時は、わしの手から自首しろ』とな。『あっしの娑婆も永かあねえ。その時はきっと旦那の手で、送られることに致しましょう』こうあいつもいったものだ。それでおれは待ってるのさ。……ところでどうだこの二、三ヵ月、鼓賊の噂を聞かないだろうな?」「さようさよう、ちっとも聞かない」「それは鼓がこわれてしまって、もう用に立たないからだ。投げた拍子にこわれたのさ。そうしてそのためこのわしは、命びろいをしたというものさ。いや全く世の中は、なにが幸いになるか解りゃしない」感慨深そうに平八はいった。もちろんそれがどういう意味だか、一閑斎にはわからなかった。しかし平八は日頃から、嘘をいわない人物であった。で一閑斎は平八の言葉を、是認せざるを得なかった。
 そこへ下男の八蔵が、眼の色を変えて飛んで来た。「旦那様、大変でございますよ。あの綺麗な浪人の内儀が、しごきを梁《はり》へ引っかけて、縊《くび》れているじゃありませんか」
「おっ、ほんとか、そりゃあ大変だ!」一閑斎は仰天した。
「郡上氏、行ってみましょう」あわてて庭下駄を突っかけた。二人がその家へ行った時には、見物が黒山のようにたかっていた。病《や》みほうけても美しい。油屋お北の死骸《なきがら》は、赤いしごきを首に纏《まと》い、なるほど梁《はり》から下がっていた。
 壁に無数の落書きがあった。「ゆるしてください。恐ろしい」「馬子甚三」「信濃追分」「南無幽霊頓証菩提」「もう、わたしは生きてはいられない」「あの人、あの人、あの人、あの人」
 意味のわからない落書きであった。
 検死の結果は自害となった。乱心して死んだということになった。ただしどうして乱心したかは、誰も知ることは出来なかった。
「春になると自殺者が多い」平八は憮然として呟いた。
「いい女だったのに惜しいことをした」こういって一閑斎は苦笑したが、「亭主の浪人はどうしたかな?」
 その浪人は殺されていた。それの解ったのは翌朝のことで、隅田堤の桜の幹へ、五寸釘の手裏剣で、両眼と咽喉《のど》とを縫いつけられていた。
 奇抜といおうか惨酷といおうか、その不思議な殺され方は、江戸市中の評判となった。
「いったい誰が殺したのだろう?」人々はこういって噂した。
 もちろん甚内が殺したのであった。兄の敵の富士甚内を、浅間甚内が殺したのであった。

    浅間甚内復讐を語る

 どんな具合に巡り会い、どんな塩梅《あんばい》に立ち合って、兄の敵を討ったかについては、彼は恩師たる千葉周作へ、次のように話したということである。
「……とうとう本望をとげました。先生のお蔭でございます。一生忘れはいたしません。兄もどんなにか草葉の蔭で、喜んでいることでございましょう。おそらく修羅《しゅら》の妄執《もうしゅう》も、これで晴れたことでございましょう。……では、どうして敵と出会い、どんな具合に討ち止めたか、お話しすることに致します。なかばは偶然でございました。そうして後の半分は妹のおかげでございます。……追分をうたい、市中を流し、敵を目付けておりますうち、ふと隅田の片ほとり、小梅の里のみすぼらしい家に、お北によく似た若い女を、見掛けたことがございました。でもそれはたった一度だけで、後はいつもその家は、雨戸がしまっておりましたので、見かけることは出来ませんでした。それでも気になるところから、毎夜のようにそのあたりを、彷徨《さまよ》ったものでございます。そのうち秋が冬となり、年が明けて春となり、昨夜となったのでございますが、いつもの通りお霜を連れて、信濃追分をうたいながら、隅田の方へ参りました。そうしてその家の前に立ち、しばらく様子をうかがってから、堤を歩いて行きました。と、ご承知のようによい月夜で、おりから桜は満開ではあり、つい私はよい気持ちになり、次々にうたいながら歩いて行きますと、後の方から何者か、つけて来るではございませんか。ふと振り返って見ましたが、それらしい人の影もない。不思議なことと思いながら、また歩いて行きますと、やっぱり足音が致します。春の月夜にうかれ出た。狐か狸のいたずらであろうと、そのまま歩いて参りますと、ピタピタピタピタと足音が、近付いて来るではございませんか。で、振り返ってみましたところ、山岡頭巾で顔を包んだ、一人の武士が一間の背後《うしろ》に、追い逼っているではございませんか。ハッと思ったものでございます。と、いうのはその武士が、刀の柄をシッカリと、握っていたからでございます」

    光風霽月大団円

「『ははあこいつが噂に高い、辻斬り強盗の張本だな』と、私は突嗟《とっさ》に思いましたが、よい気持ちはいたしませんでした。で、自然と右の手が、懐中へ忍ばせた手裏剣へ、つと走ったものでございます。すると突然妹のお霜が、千切れるような声を上げ、私の袖をグイグイと、三度引くではございませんか! 『うん』と私は呻きました。合図だったからでございます。……富士甚内を目っけたら、三度袖を引くようにと、教え込んで置いたからでございます。素早《すばや》くこいつが敵かと、躍り立った一|刹那《せつな》『亡霊追分、正体見た! 二つになれ!』とその武士が、サッと斬り込んで参りました。その太刀風の物凄さ、なんで私に避けられましょう。真っ二つにされた筈でございます。ワッ、やられた! と叫びながら、足もとを見ると妹のお霜が、真《ま》っ向《こう》から胸板まで、切り割られて仆れておりました。身代りになったのでございます。私をかばう一心から、飛び込んで来たのでございます。可哀そうなことをいたしました。でも妹はああいう片輪《かたわ》、なまじ活きておりますより、死んだ方がよかったかもしれません。いえいえそんなことはございません。やっぱり活きておりましたら、何彼《なにか》につけて頼みにもなり、嬉しいことも楽しいことも、分け合うことが出来ますのに。……可哀そうなことをいたしました。もう取り返しがつきません。でも妹が死んでくれたため、私は敵《かたき》の第一の太刀を、避けることが出来ました。そうして敵が第二の太刀を、私に向けて来ました時には、もう私は二間のあなた[#「あなた」に傍点]に、飛びしさっていたのでございます。もうこうなればこっちのもの、ビューッと繰り出した釘手裏剣、狙いたがわず敵の右眼へ、叩き込んだものでございます。これは全く敵にとっては、予期しなかったことでございましょう。アッと叫ぶとヨロヨロと、桜の老木へ寄りかかりました。そこを狙ってもう一本、左眼へぶち込んだものでございます。これで勝負はつきました。敵は盲目《めくら》になりましたので。そこで初めて私は、宣《なの》りを上げたものでございます。『富士甚内よっく聞け、俺は汝《おのれ》に殺された馬方甚三の実の弟、追分産まれの浅間甚内だ! 兄の敵妹の仇、思い知ったかこん畜生め! 口惜しくば立ち上がってかかって来い! どうだどうだ富士甚内!』……敵は身顫いをいたしました。動くことは出来ません。そこで私は止どめとして三本目の釘を投げつけて、咽喉《のど》を貫いたのでございます。それから妹を肩へかけ、帰って参ったのでございます。……聞けばお北もあの家で、首を縊《くく》ったと申すこと。因果応報なのでございましょう。恨みはこれで晴れました。ああいい気持ちでございます。でも寂しゅうございます。一人ぼっちでございますもの。……お手数恐縮ではございますが、どうか私を召し連れて、お上《かみ》へお訴えくださいますよう。人殺しをしたのでございます。兄の敵とはいいながら、武士を殺したのでございます。おしおきになりとうございます」
 周作が甚内を召し連れて、西町奉行[#「西町奉行」はママ]へ訴えたのは、その翌日のことであった。
 そこで奉行は取り調べた。敵討《かたきう》ちに相違なく、それに相手の富士甚内は、辻斬りの張本というところから、甚内はかえって賞美され、なんのお咎めも蒙らなかった。
 喜んだのは周作で、甚内を屋敷へ引き取るや、今後の方針を訊ねてみた。
「追分へ帰りとう存じます。故郷はよい所でございます。兄の墓場もございますし、妹お霜も同じ土地へ、葬ってやりとう存じます。そうして私は追分で、兄の代りに馬を追い、馬子で暮らしとう存じます」
 これが甚内の意志であった。
 そこで周作もそれに同じ、諸方から集まった同情金へ、さらに周作が金を足し、門弟達にも餞別を出させ、三百両の大金とし、これを甚内へ送ることにした。
 江戸で需《もと》めた馬の前輪《まえわ》へ、妹お霜の骨をつけ、
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信州出た時ゃ涙で出たが
今じゃ信州の風もいや
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 それとは反対の心持ち――その信州の風を慕い、江戸を立ってふるさとの、追分宿へ向かったのは、それから一月の後であった。
 こうして江戸の人々は、信州本場の追分を、永久聞くことが出来なくなったが、その代り恐ろしい辻斬りからは、首尾よく遁《の》がれることが出来た。で、私の物語りも、この辺で幕を下ろすことにしよう。

底本:「名人地獄」国枝史郎伝奇文庫7、講談社
   1976(昭和51)年5月20日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
   1925(大正14)年7月5日~10月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「鬨」と「閧」の混在は、底本通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

国枝史郎

娘煙術師——- 国枝史郎

楽書きをする女

 京都所司代の番士のお長屋の、茶色の土塀《どべい》へ墨《すみ》黒々と、楽書きをしている女があった。
 照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧《おぼろ》月夜にしくものはなしと、歌人によって詠ぜられた、それは弥生《やよい》の春の夜のことで、京の町々は霞《かすみ》こめて、紗《しゃ》を巻いたように朧《おぼろ》であった。
 寝よげに見える東山の、円《まろ》らの姿は薄墨《うすずみ》よりも淡く、霞の奥所にまどろんでおれば、知恩院《ちおんいん》、聖護院《しょうごいん》、勧修寺《かんじゅじ》あたりの、寺々の僧侶たちも稚子《ちご》たちも、安らかにまどろんでいることであろう。鴨《かも》の流れは水音もなく、河原の小石を洗いながら、南に向かって流れていたが、取り忘れられた晒《さら》し布が、二|筋《すじ》三筋河原に残って、白く月光を吸っていた。
 祇園の境内では昔ながらの、桜の老木が花を咲かせて、そよろと吹き過ぎる微風につれられ、人に知られず散っていたが、なやましくも艶《なま》めかしい眺めであった。
 更《ふ》けまさっても賑《にぎ》やかであると、いいつたえられている春の夜ではあったが、しかし丑満《うしみつ》を過ごした今は、大路にも小路にも人影がまばらで、足の音さえもまれまれ[#「まれまれ」に傍点]である。
 二条のお城を中心にして、東御奉行所や西御奉行所や、所司代などのいかめしい官衙《かんが》を、ひとまとめにしているこの一画は、わけても往来の人影がなくて、寂しいまでに静かであった。
 と、拍子木《ひょうしぎ》の音がしたが、非常を警《いまし》めているのでもあろう。丸太《まるた》町あたりと思われる辺から、人をとがめる犬の吠え声が、猛々《たけだけ》しくひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]聞こえて来たが、拍子木の音の遠のいたころに、これも吠え止めてひっそり[#「ひっそり」に傍点]となった。
 一軒のお長屋の土塀を越して、白木蓮《しろもくれん》の花が空に向かって、馨《かん》ばしい香《にお》いを吐いている。
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くもるとも
なにかうらみん
つき今宵《こよい》
はれを待つべき
みにしあらねば
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 紅色のかった振り袖を着て、髪を島田に取り上げている、まだ十八、九の年ごろの娘が、一軒一軒お長屋の土塀へ、楽書きをして行く文字といえば、このような一首の和歌なのであった。
 京都所司代の役目といえば、禁闕《きんけつ》を守衛し、官用を弁理《べんり》し、京都、奈良、伏見《ふしみ》の町奉行を管理し、また訴訟《そしょう》を聴断《ちょうだん》し、兼ねて寺社の事を総掌《そうしょう》する、威権|赫《かく》々たる役目であって、この時代の所司代は阿部伊予守《あべいよのかみ》で、世人に恐れはばかられていた。したがってこれに仕えている、小身者の番士なども、主人の威光を笠に着て、威張り散らしたものであった。
 そういう番士のお長屋の土塀へ、若い女の身空《みそら》をもって、いかに人目がないとはいえ、楽書きを書いて行こうとは、白痴でなければ狂人《きちがい》でなければならない。
 しかし娘は白痴でもなければ、また狂人でもなさそうであった。書く手に狂いがないばかりか、書かれた文字にも乱れがない。
 こうして同一の一首の和歌を、五軒あまりのお長屋の土塀へ、しだいしだいに書いて行ったが、六軒目のお長屋の土塀の面へ、同じその和歌を書こうとした時に、
「女子《おなご》よ」と呼ぶ声が背後から聞こえた。
 無言で振り返った娘の眼の前に、一人の供侍《ともざむらい》を従えて、おおらか[#「おおらか」に傍点]にたたずんでいる人物があったが、道服《どうふく》の下から括《くく》り袴《ばかま》の裾が、濃《こい》紫に見えているところから推して、公卿《くげ》であることがうかがわれた。
「およびになりましたのは妾《わたし》のことで? 何かご用でござりますかしら?」
 りっぱな公卿にとがめられても、娘はたいして驚こうともしないで、平然として訊き返した。
 と、呼びかけた公卿のほうでも、あえて突っ込んでとがめようとはせずに、これも平然たる態度と口調で、
「なんと思うてそのような所へ、そのような和歌を楽書きするぞ? 風流にしては邪《よこしま》である。悪戯《いたずら》にしては度が過ぎる。そち[#「そち」に傍点]の思惑を聞きたいものだ」こういって相手の返辞を待った。

疑問の問答

 と、娘は月の光の中で、大胆に艶《つや》めいた笑い方をしたが、
「決して風流ではござりませぬ。さりとて悪戯《いたずら》でもござりませぬ。ただ書きたくなりましたので、楽書きをいたしましてござります」
 こういって依然として大胆に、艶めいた笑い方を公卿へ見せた。
 しかしどうやら公卿のほうでは、それを諾《うべな》おうとはしないようであった。
「麿《まろ》にはそのようには思われぬよ。何らか深い思惑があって、楽書きをしたものと思われるよ。麿に遠慮をすることはない。そちの思惑を話すがよい」こういって娘の顔をのぞいた。
 しかし娘は同じように、大胆な艶めいた笑い方を、顔一杯に漂わせるばかりで、答えようとはしなかった。
 と、そういう娘のようすが、公卿にはいよいよ審《いぶ》かしくも、疑わしくも思われたらしい、胸と胸とが合わさるばかりに、近々と娘へ近づいたが、
「そも、そちの名は何というぞ?」
「はい、粂《くめ》と申します」
「で、年は幾歳《いくつ》であるか?」
「はい、十九にござります」
「ここの長屋をいずこと思うぞ?」
「所司代様のご番士方の、組お長屋と存じます」
「それと知っていて楽書きをしたか?」
「はいはい、さようにござります」
「恐ろしいとは思わずにな?」
「なんの恐ろしいことがござりましょう。この妾《わたし》にとりまして、恐ろしくも尊くも思われますお方は、お一方《ひとかた》のほかにはござりませぬ」
「それが聞きたい、申してみやれ?」
「はい、禁裡《きんり》様にござります」
「…………」
 りっぱな公卿はその言葉を聞くと、襟を正して粛然《しゅくぜん》としたが、
「改めてそちに訊《き》くことがある。『くもるとも、なにか怨《うら》みん、月|今宵《こよい》、晴れを待つべき、身にしあらねば』――この和歌の意味を存じておるかな?」
「存じておりますでござります」
「和歌の詠者《よみて》も存じておるか?」
「存じておりますでござります」
「どのような場合に詠《うた》ったものか、その点もそちは存じておるかな?」
「存じておりますでござります」
「では改めてもう一度訊くが、そちとこの和歌の詠者とは、有縁のものと思われるが、それに間違いはあるまいな」
「有縁のものにござります」
「さようか」といったがりっぱな公卿は、顔をゆすってうなずいてみせた。「所司代の番士の長屋の土塀へ、楽書きをした心持ちも、これでおおよそ[#「おおよそ」に傍点]わかって来た。反抗的に書いたのであろう?」
「御意《ぎょい》の通りにござります」
「うむ」というとりっぱな公卿は、また顔をゆすってうなずいてみせたが、「そち、この麿《まろ》を存じているかな?」
「徳大寺《とくだいじ》様と存じまする」
「いかにも」と徳大寺|大納言《だいなごん》家は、それを聞くとまたもやうなずいてみせたが、「麿とその歌の詠者とは、昔多少の縁があった。自然そちとも有縁といえよう。……麿の別邸は烏丸にある。いつなりと訪ねて参るがよい。そちの力にもなるであろう。麿にも頼みたいことがある」
「お訪ねいたしますでござります」
 娘はうやうやしく一礼したが、そのまま顔を上げなかった。感泣《かんきゅう》をしているのかも知れない。
「くわしいそちの身分なども、まいった時に訊《たず》ねるとしよう」
 こういいすてると徳大寺大納言は、供侍を見返ったが、「青地《あおち》、青地、清左衛門《せいざえもん》!」
「は」と身近く寄り添ったのは、公卿侍の青地清左衛門であって、二十八、九歳の優《やさ》男であった。「何ご用にてござりまするか?」
「今夜のことは秘密にいたせ」
「かしこまりましてござります」
 青地清左衛門を従えて、霞《かすみ》の中へ悠々と、徳大寺大納言家の歩み去った後は、お粂《くめ》という娘一人だけとなった。
「徳大寺様を手の中へ入れた。金ちゃんに話したら嬉しがるだろう。その金ちゃんが何をしているやら。いまだに姿を見せやしない」
 いやこのころ金ちゃんは、千本お屋敷とご用地との露路で、片耳のない大男と、妙な立ち話をやっていた。

片耳の大男と変面の小男

「で、お前さんの名はなんというんで?」こう訊いたのは金ちゃんである。醜男《ぶおとこ》で小兵で敏捷《びんしょう》らしい。
「へい、私の名は鴫丸《しぎまる》というんで」こう答えたのは片耳のない、大兵だが魯鈍《ろどん》らしい男であった。年|格好《かっこう》は二人ながら、二十七、八歳と思われる。
「へー、鴫丸? いい名だなあ、が、柄とは釣り合わないよ」
「皆様もそうおっしゃいます。――が、これは芸名なので」
「フーッ、芸名? これは呆《あき》れた。ではお前さんは芸人なので?」
「芸人衆様でございますよ」
「ふざけちゃアいけない、何が『様』だ。がまあまあそれはどうでもいい。何を商《あきな》っているんだい?」
「え? 商い? これはどうも、私は芸人衆様でございますよ」
「だからよ、訊いているじゃアないか。どんな芸を商っているのかってね」
「あッ、なるほど、そういう意味なので。……へいへい軽業《かるわざ》を商っております」
「ハーン、そうか、軽業か」
「それから手品も商っております」
「おや、二色《ふたいろ》もやるのかい」
「それからお芝居もいたします」
「凄《すご》い芸人があったものだ」
「ええと、それから女相撲なども」
「フーッ、とほうもない芸人衆様だ」
「ええとそれから猿芝居なども」
「おい、いい加減で許してくれ」
「長崎渡りの奇術なども、幕間《まくま》幕間に演じます」
「で、お前さんは何役なので?」
「口上いいでございますよ」
「そんなものだろうと思っていた。舞台へ上がる柄じゃアない」
「ところがこれが大切な役で」
「面妖《めんよう》だね。なぜだろうね」
「へい、お客様を笑わせます」
「悪ふざけをしてくすぐる[#「くすぐる」に傍点]んだろう」
「軽い口上を申し上げまして、お上品に笑わせるのでござりますよ」
「お妻さんというのはどういうお方で?」
「女太夫さんでございますよ」
「ははあお前さんの一座にいなさる?」
「へいへいさようでございますよ」
「で、どうしてお前さんには、『お妻さんお妻さん』と泣き声を上げて、うろつき[#「うろつき」に傍点]まわっていなすったので?」
「へい、お客さんに連れられまして、京へ来たからでございますよ」
「ははあ逃げたと、こう思って、それで探しに来なすったので?」
「へいへいさようでございますよ」
「が、大丈夫帰りましょうよ。女太夫がお客さんと一緒に、どこかへしけ[#「しけ」に傍点]込むというようなことは、ざら[#「ざら」に傍点]にあることでござりますからな。いずれは戻るでござりましょうよ。そいつをいちいち追っかけていたでは、女太夫はやりきれますまい」
「それがそうではございませんので」
「へー、なぜだね、そうでないとは?」
「お妻太夫さんは情女《いろ》なので」
「情女《いろ》? へー、誰の情女なので?」
「この鴫丸《しぎまる》めの情女なので」
 とうとう金兵衛は吹き出してしまった、「ひどい[#「ひどい」に傍点]目に逢えば逢うものだ。こんなことなら親切気を出して、声など決して掛けるのじゃアなかった」
 仲間のお粂《くめ》に逢おうという、そういう約束があったがために、車屋町の隠れ家を出て、烏丸、室《むろ》町、新町、釜座《かまんざ》、西洞院《にしのとういん》の町々を通って、千本お屋敷とご用地との間の、露路まで急いで歩いて来たところが、そういう道々を相前後して、片耳の大きな図体《ずうたい》の男が、泣くような声を響かせて、「お妻さんお妻さん」と呼んでいるので、なんだか不思議な気持ちもしたし、またいじらしく[#「いじらしく」に傍点]も思われたところから、ついつい声をかけたところ、惚気《のろけ》を聞かされてしまったのであった。
「が、それにしてもよくしたものだ、こんな片耳の醜男にも、情女《いろ》があるというのだからな」――忙しいのも打ち忘れて、金兵衛は心をノンビリとさせた。「よしよし根掘《ねほ》って訊いてやろう」――で金兵衛は真面目《まじめ》顔をして訊いた。

不具者の片恋

「いずれお妻さんという女太夫さんは、美しいお方でございましょうね」
 こう加工的の真面目顔をもって、金兵衛に訊かれて鴫丸という男は、相好《そうごう》を崩してニタニタ笑いをしたが、
「素晴らしい美人でございますよ。たとえば吉祥天女《きっしょうてんにょ》様のようで」
「いやいやそうではありますまい」
 いよいよ金兵衛は面白くなった。で、揶揄的《やゆてき》になろうとする、そういう心持ちを苦心しておさえて、ますます加工的に真面目顔をしたが、
「吉祥天女様というような、仏くさいお方ではありますまい。松浦佐用姫《まつらさよひめ》様というような、仇《あだ》っぽい色っぽいお方のはずで」
「はいはいそうでございますとも、佐用姫様のように仇っぽい女で」
 油をかけられていることも知らずに、鴫丸という男は嬉しそうに、それこそ真面目に答えるのであった。
 それがどうにも金兵衛にとっては、面白くもあればおかしくもある。で、いよいよ図に乗った口調で、
「やつがれ[#「やつがれ」に傍点]の思うところによれば、そのお妻さんという女太夫さんは、佐用姫様のように色っぽいと一緒に、佐用姫様のように操《みさお》が正しいはずで」
 すると片耳の鴫丸という男は、うなだれ[#「うなだれ」に傍点]て足もとを睨《にら》みつけた。なんとなく悄気《しょげ》たようすである。
「おや」と金兵衛は意外に思ったが、揶揄《やゆ》を止めようとはしなかった。「で、やつがれ[#「やつがれ」に傍点]の思惑によれば、お前さん一人だけを大切に守って、決してほかへは仇《あだ》し男などは、お妻太夫さんはこしらえないはずで」
 しかし片耳の鴫丸という男は、依然として足もとを睨みつけているばかりで、返辞をしようとはしなかった。図抜けて大柄な男だけに、悄気返っているそういう姿が、おかしみと憐《あわ》れさを二倍にして見せる。
「ところで」と金兵衛は吹き出しそうになる心を、大変な努力で制しながら、「お妻太夫さんとお前さんとは、いつごろから深い仲になりましたので?」こう訊いてしばらく間を置いて、相手の男の返辞を待った。
 と、鴫丸という片耳の男は、ようやく臆病そうな顔を上げたが、「私のほうだけで想っているばかりで、お妻太夫さんのほうでは想っていないので」
「え?」と、それを聞くと金兵衛は、わざと大仰《おおぎょう》に驚いて見せたが、
「なんですかい、それでは、片恋なので」――しかしもちろん心の中では、「そんなことだろうと思っていたよ」とこんなように思っているのであった。と、鴫丸は意外に順直《すなお》に、
「へー、さようで、そんな塩梅《あんばい》なので」
 それからまたも首を垂れて、じっと足もとを睨みつけた。
 揶揄《やゆ》しようという心持ちが、そういう鴫丸のようすを見たために、にわかに金兵衛の心から消えた。「もうひやかすのは止めにしよう。正直な順直《すなお》な好人物らしい。そうしてとうてい[#「とうてい」に傍点]及ばない恋に、夢中になっているらしい。こういう男が思い詰めると、どんな事をやり出すかわからない」つまりこんなように思ったからであった。で、ひょいと話を変えた。
「で、只今はお前さんの一座は、どこで興行をしておりますので」
「大津の宿《しゅく》でございますよ」
「それじゃア大津からこの京都へまで、お妻太夫さんを探しに来たので?」
「どこへでも探しにまいりますよ」
「大変な執心《しゅうしん》でございますなあ」
「死ぬまで私は思い詰めます。そうして私の死ぬ時には、お妻太夫さんも殺します」
 金兵衛は急に寒気がした。「白痴《ばか》の一念というのでもあろう。思い込まれたお妻という太夫にも、俺《おれ》は大いに同情するよ」――もう金兵衛は別れようと思った。
「では鴫丸さんご免なすって、これでお別れをいたしましょう」
「これでお別れをいたしましょう。いろいろ有難うございました」
 朧《おぼろ》の月光と紗《しゃ》のような霞《かすみ》とで、練《ね》り合わされているがために、千本お屋敷とご用地との露路は、煙りの底のように眺められたが、その中をトボトボと鴫丸の姿が、人間の殻《から》のように歩いて行く。と、曲がって見えなくなった。小堀《こぼり》屋敷のほうへ行ったようである。
「とんだ道草を食ってしまった。どれ急いで走って行こう。お粂姐《くめあね》ごが待っているだろうに」
 金兵衛は小刻みに走り出したが、下立売《しもたてうり》から丸太《まるた》町を抜けて、所司代の番士のお長屋の、塀の側まで間もなく来た。と、お粂が立っていた。

開けられた窓

「金ちゃん、どうしたんだよ、遅かったじゃないか」
 息せき[#「息せき」に傍点]切って走って来た、金兵衛の姿を迎え取るようにして、このように声をかけたのは、徳大寺卿を送ってから、半|刻《とき》あまりもたたずんで、じれ[#「じれ」に傍点]切っていたお粂《くめ》であった。
 と、金兵衛はお粂の前へ、ピョコリと一つお辞儀をしたが、「姐《あね》ご済みません、あやまります。実は道草を食いましてね」
「道草?」と聞き返したがお粂の声は、不安なものを持っていた。
「それではなにかい、てき[#「てき」に傍点]らの一人と?」
「なんのなんの」とそれを聞くと、金兵衛は手を振って払うようにしたが、「そんなたいした道草の種なら、済みませんなんて謝罪《あやま》りはしません。ただ道化《どうけ》者に逢っただけで」
「道化者? ふうん、どんな道化にさ?」やはりお粂は不安らしい。
「へい、こういう道化者なので」思い出してもおかしいというように、金兵衛は一件を話し出した。
「お妻さんという綺麗な女太夫さんに、片耳で大男で縹緻《きりょう》の悪い、鴫丸《しぎまる》さんという口上いいが、片恋なるものをしていましてね、深夜の京都の町々を『お妻さんお妻さん』と呼び歩きますので、惻隠《そくいん》の情を起こしましてね、私が事情をたずねましたところ……」
「およしよ」とお粂は止めてしまった。「相変わらず暢気《のんき》な金ちゃんじゃアないか。お前さんそんなもの[#「そんなもの」に傍点]にかかりあっていたのかい」
「ざっとそういった塩梅《あんばい》で。もしなんならもっと[#「もっと」に傍点]詳しいところを……」
「よしておくれよ、聞きゃアしないよ」
 お粂はなんとなく不快そうであった。と、そういう不快そうなお粂の、浮かない気分が感ぜられたらしい、金兵衛もいくらかてれ[#「てれ」に傍点]たように、しばらくの間無言でいたが、
「それはそうと姐ごどうしたんで、今夜ここへ来るようにと、私に伝言《ことづて》をなすったので、そこでやっては来たんですが、どういうご用がおありなさるので?」
「ああそう、そう、話してあげよう」
 ようやく機嫌をなおしたらしい、お粂は気軽そうにこういったが、かたわらに立っていた長屋の土塀へ、ヒョイとばかりに指をさした。
「ね、ご覧よ、楽書きがあるから」
 ――で、金兵衛は土塀を見た。
「おッ、これは例の和歌《うた》だ」
「そうともそうとも例の和歌だよ」
「で誰が楽書きをしたんですい?」
「つい[#「つい」に傍点]お前さんの鼻の先の人さ」
「あッ、それじゃお前さんだ」
「あいよあいよ妾が書いたのさ」
「なんで?」と金兵衛は怪訝《けげん》そうにした。
「ああさ、大物を手に入れるためにさ」
「大物? へーい。どなた[#「どなた」に傍点]のことで?」
「徳大寺大納言|公城《こうき》様さ」
「え?」
「そうなのさ!」
「そいつア本当で?」
「どうだい細工《さいく》は?」
「りゅうりゅう[#「りゅうりゅう」に傍点]ですなあ」で、二人は寄り添ったが、互いにひそひそ[#「ひそひそ」に傍点]とささやき合った。とお粂が声を上げた。
「……といったようなやり口で、徳大寺様のご注意を引いて、わざとお声をかけさせて、そうしてお心を引き付けて、妾というものを植えつけたのさ」
「そうした結果というものが……」
「出入りを許す、訪ねて参れ! というところへまで漕《こ》ぎつけたのさ」
「姐ご、明日にもお訪ねしましょう」ここで金兵衛は嘆息を洩《も》らした。「いろいろの芸当を持っているので、姐ごは全く幸せだよ」
「さあ帰ろうよ」
「お供しましょう」
 依然として四辺《あたり》は月の光と、紗のような霞の世界とであったが、そういう世界を分けるようにして、お粂と金兵衛とが立ち去った時に、木蓮の花の咲いている、一軒のお長屋の窓の扉《とびら》が、――その時まで細目に開いていたが、この時一杯に押しあけられて、主人の矢柄源兵衛《やがらげんべえ》の顔が、戸外へ黒く突き出された。
「すっかり見もし聞きもしたよ。組頭《くみがしら》へさっそく言上《ごんじょう》しよう」
 ――で、お粂と金兵衛との二人が、立ち去ったほうを見送ったが、以上を物語の発端《ほったん》として、次回から序曲にはいることにしよう。

奉書取り

 三回ばかり足《テンポ》を早めて書こう。
 ここは京都の烏丸通りの、徳大寺別邸の裏庭である。植え込みがしげく繁っていて、一宇《いちう》の亭《ちん》が立っている。時刻は夜で星がある。
 亭で話している二人がある。一人は主人の徳大寺卿で、一人は公卿|武士《ざむらい》の清左衛門であった。
「これこそ大切の巻き奉書だ、留書《とめが》き奉書といってもよい。大先生へお渡しするよう」
「かしこまりましてござります」
「で、すぐにも出立するよう」
「かしこまりましてござります」で、清左衛門は植え込みをくぐって、どことも知れず立ち去ってしまった。
 と、その時一所で、物のうごめく気配がしたが、夜鳥か? それとも風の音であろうか? いやいや人間がいたのである。
 番士の矢柄源兵衛であった。
「青公卿《あおくげ》どもが懲りようとはせずに、またも陰謀を企てているそうな。ご城代様にはお心にかけられ、この俺を隠密《おんみつ》に仕立て上げて、ここの邸へ入り込ませたが、大変な話を聞いてしまった。……よしよしこれから追っかけて行って、叩っ切って奉書を奪い取ってやろう」
 で、庭から忍び出た。
 徳大寺卿は知る由《よし》もない。亭に腰をかけて黙念としている。
 と、二つの人影が、植え込みをくぐって現われて来た。
 一人は美しい娘であって、一人は変面《へんめん》の小男であった。
「ああ参ったか、ご苦労ご苦労、用というのはほかでもない、今大切の巻き奉書を、青地清左衛門へつかわして、大先生へもたらせた[#「もたらせた」に傍点]が、道中のほどが心もとない。で、そのほうたち二人へ命ずる、それとなく清左衛門を警護するよう。なお江戸の地へ着いたならば、大先生の指揮の下に、何かと事を運ぶよう。これだけの用事だ、さあさあ行け」で、娘と小男とは、一礼をして立ち去ったが、後は徳大寺卿一人となった。「万端うまく行けばよいが」心にかかるようすである。
 卯木《うつぎ》の花が咲いている。石榴《ざくろ》の花が咲いている。泉水に水|禽《どり》でもいるのであろう、ハタ、ハタ、ハタと羽音がする。
「皇室の衰微もはなはだしい。王覇《おうは》の差別もなくなってしまった。どうともして本道へ返さなければならない」徳大寺卿は微吟《びぎん》をした。
 忠怠於宦成、病加於小愈。禍生於懈惰、孝衰於妻子。
 細い美しいその声が、花木で匂う夜気の中を、絹糸のように漂って行く。

 さてその日から数日たった。
 ここは箱根の山中である。
 一人の武士が急いで行く。と、背後から一人の武士が、小走って来てすれ違ったが、抜き討ちに一刀に叩ッ切った。
 悲鳴、血汐、それっきりであった。叩っ切った武士は手をのばすと、死骸の懐中から巻き奉書を出した。
「うむ、これでいい。……お届けしよう」で、その武士の走り去った後は、死骸ばかりが残っていた。
 日がテラテラと照っている。木々の新葉が光っている。老鶯《ろうおう》の声が聞こえている。が、一人の人通りもない。血溜《ちだま》りの中で幾匹かの蟻《あり》が、もがき苦しんで這いまわっている。
 と、二つの人影が、峠の道へ現われた。
「しまった、姐ご、殺されている。清左衛門様が殺されている」それは変面の小男であった。
「しらべてご覧よ、巻き奉書を」こう叫んだのは娘であった。二人で死骸をしらべたが、巻き奉書のあるはずがない。
「切られたはほんの今し方らしい。切った野郎を追っかけて行こう」
「合点《がってん》! 姐ご、追っかけやしょう」で、二人ははせ下ったが、追いつくことができるだろうか?

 江戸の本郷の一画にりっぱな邸が立っていた。潜《くぐ》り戸をトントンと打つ者がある。
「どなたでござるな、かかる深夜に……」

二隻の屋形船

「京都所司代よりまいりましたるもの、大切の文書をたずさえてござる。至急ご主人にお目にかかりたく、この段お取次ぎくださいますよう」門番のとがめた声に答えて、表の声がこう答えた。
「で、ご姓名はなんといわれる」
「番士の矢柄源兵衛と申す」
「よろしゅうござる。おはいりなされ」で、潜り戸がギーとあいて、源兵衛の姿の吸い込まれた後は、ひっそりとして寂しかった。拍子木の鳴る音がする。遠くで犬の吠え声がする。
 で、要するにそれだけであった。

 こういう事件のあってから、数日たったある日の夜、大川の流れを屋形船が、二隻音もなくすべっていた。
 その一隻の屋形船には、不思議にも燈火《ともしび》がついていない。で、真っ暗な船である。漕《こ》いでいる船頭の姿さえ、陰影のように真っ黒だ。
 が、お客が一人あった。どうやらみすぼらしい浪人らしい。屋形の中に端坐して、物音を聞いているらしい。
 船は下流へすべって行く。
 が、もう一隻の屋形船には、行燈《あんどん》が細々とともっている。三人の客の影法師が、屋形の障子へうつっている。
 その面《おも》ざしがよく似ている。どうやら三人は兄弟らしい。その中の二人は武士であったが、一人は前髪を立てたままの、十七、八歳の少年であった。
「私には兄上のご行動が、奔放《ほんぽう》に過ぎるように存ぜられます。不安で不安でなりませぬ。少しご注意くださいますよう。少なくも石置き場の空《あき》屋敷などへは、あまりお行きになりませぬよう、願わしいものに存じます」
 誠実を面《おもて》に現わして、諌《いさ》めるようにそういったのは、その前髪の少年武士であった。
 が、兄上と呼ばれた武士は、物にかかわらない性質と見えて、聞き入れるようすも見えなかった。
「一つの仕事を仕とげようとするには、相当の危険を冒《おか》さなければならない。あの石置き場の空屋敷などは、たいして危険な場所ではないよ。集まってくる連中のなかには、なかなか面白い手合いがある。ああいう手合いと交際《まじわ》るのも、必要があろうというものだよ。それより俺《わし》はお前へいいたい、お前こそもう[#「もう」に傍点]少し元気を出して、ことを大胆に振る舞うがよい。お前の姉の鈴江などは、女ながらも心得たものだ、俺と行動を一にして、いつも俺を助けてくれる。空屋敷などへも一緒に行く。お前にもそのようになってほしい」
 兄上と呼ばれた青年の武士は、このようにいくらか[#「いくらか」に傍点]たしなめるようにいったが、憎く思っていったのではなくて、弟に覇気《はき》を持たせようとして、むしろ慈愛的にいったようであった。
 が、弟の少年武士には、かえってそれが不安そうであった。「その姉上のご行動も、私には心配でなりませぬ。やはり女子は女子らしく、おとなしくご行動なさいますほうが、およろしいように存ぜられます」こういってかたわらを振り返った。
 そこに娘がすわっていた。二十歳《はたち》ぐらいの年|格好《かっこう》である。快活で無邪気で大胆らしい。
 顔の表情や態度でわかる。さっきから黙って微笑をして、二人の話を耳にしていたが、行燈の前へ左手を差し出し、掌《てのひら》に載《の》っている数十本の針の、数を右の指でかぞえ出した。「これが雄針《おばり》、これが雌針《めばり》、これが雄針、これが雌針……五十本の針さえ持っていたら、妾《わたし》にはなんだって怖《こわ》くはない。……鷲津七兵衛《わしずしちべえ》、泥子土之助《どろこつちのすけ》、根岸兎角《ねぎしとかく》、逸見無車《へんみむしゃ》、妾は吹き針の業《わざ》にかけたら、この人たちにだって負けない気だよ」
 で、弟を振り返ったが、
「小次郎や、お前さんは優《やさ》し過ぎるよ。もっとやんちゃ[#「やんちゃ」に傍点]になるがいいよ。この妾のようにお転婆《てんば》におなり」またもや針を数え出した。この船も下流へすべって行く。
 一間あまりの距離をおいて、二隻の屋形船がすべって行く。
 と、小次郎が気がかりそうに訊《たず》ねた。「兄上、どちらへ参られますので?」
「石置き場の空屋敷へ行くのだよ」二隻の船は船首《へさき》を揃えた。

宣戦の小柄

「石置き場の空屋敷へ行くのだよ」と、兄なる武士に明かされて、小次郎は仰天したらしかった。
 で、何かいおうとした。
 と、それをおさえるように、兄なる武士はいいつづけた。「鈴江と相談をしたのだよ。小次郎へ勇気をつけてやろう、小次郎へ歓楽を味わせてやろう。それには二人でおびき[#「おびき」に傍点]出して、石置き場の空屋敷へ連れて行くのが、一番手早くてよろしかろうとな。……何もいわずについておいで、そこにはいいものがあるのだから。……そうしてお前は聞くがよい。俺《わし》が巷《ちまた》へ呼びかけた声が、どんなに大勢の口々によって、叫ばれているかということを」
 しかしどうにも小次郎にとっては、空屋敷へ行くということが、恐ろしくも不快にも思われるらしい。
「いやでござります、いやでござります」身もだえをしていうのであった。
 それが鈴江にはおかしかったらしい。明るいあけっぱなしの笑い方をしたが、
「まあまあ一度は行ってごらんよ。悪い所ではないのだから。一度あそこの味を知ったら、私たち二人が誘わないでも、たいがい一人でお前さんから進んで、しげしげ通うようになるだろうよ。……白粉《おしろい》の匂い、口紅の色、カランカランという賽《さい》コロの音、お酒、ご馳走、いい争い、悪口、組打ち、笑い声……それでいてみんな[#「みんな」に傍点]が仲がよくて、そのくせみんなが仲が悪くて、しかも元気で活気があって、そうして全体が平和なのだよ」
「そうだよ」
 といったのは兄にあたる武士で、莞爾《かんじ》という言葉にうってつけ[#「うってつけ」に傍点]の笑いを、その口|端《ばた》に漂わせたが、鈴江の話の後をつづけた。
「そこへ集まって来る人間こそは、人間の中の人間なのだよ。虚飾《かざり》だの見得《みえ》だの外聞だの、ないしは儀礼《ぎれい》だのというようなものを、セセラ笑っている人間なのさ。が、他面からいう時には、浮世の下積みになっている、憐れな人間だということができる。で、彼らは怒っているのだ。浮世と浮世の人間とをな。……そうしてそういう人間こそ、本当の人間だということができる。本当の人間とは交際《つきあ》ったほうがいい。いざという場合に役に立つ」
 しかしやっぱり小次郎としては、石置き場の空屋敷へ行くということが、どうにも心に染まないらしい。で、頑固にいうのであった。
「いやでござります、いやでござります」しかし小次郎の思惑などに、船はかかわろう[#「かかわろう」に傍点]とはしなかった。
 下流へ下流へとすべって行く。
 大川の流れはかなりゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]で、そうして水上は暗かった。
 しかし対岸の西両国には、華やかな光がともっていた。船宿だの料理屋だの水茶屋だのが、岸に並んでいるからである。水へ向いた室々《へやべや》の窓や障子に、燈火《ともしび》の光が橙色《だいだいいろ》にさして、それが水面に映ってもいた。
 三味線の音などもまれまれ[#「まれまれ」に傍点]に聞こえる。
 二隻の屋形船はすべって行く。
 石置き場のほうへ行くのである。
 大川を右へそれたならば、一ツ目橋となるであろう。一ツ目橋の袂《たもと》から、水戸様石置き場へ上がることができる。
 こうして三人を乗せたところの、燈影《ほかげ》の暗い屋形船が、一ツ目橋のほうへそれようとした時に、一つの意外な珍事が起こった。
 浪人者の乗っている、燈火のついていない屋形船から、一本の小柄が投げ出されて、三人の兄弟の乗っている、屋形船の障子をつらぬいて、薄縁《うすべり》の上へ落ちたことである。
 その柄に紙片が巻きつけてある。
「私情から申しても怨《うら》みがござる。公情から申せば主義の敵でござる。貴殿に闘《たたか》いを宣するしだい、ご用心あってしかるべく候《そうろう》。――桃《もも》ノ井《い》久馬《きゅうま》の息《そく》兵馬《ひょうま》より山県紋也《やまがたもんや》殿へ」
 紙片に書かれた文字である。兄上と呼ばれた青年の武士は、さすがにその眼を険《けわ》しくはしたが、躊躇《ちゅうちょ》しようとはしなかった。同じ小柄へ紙片を巻きつけ、相手の屋形船へ投げ返したが、紙片には文字をこう書いた。「心得て候。山県紋也より」と。
 以上の三回を序曲として、いよいよ本筋へはいることにする。
 その翌日のことであったが、ニヤリニヤリと笑いながら、西両国の広小路《ひろこうじ》を、人をつけて行く人物があった。

武士ばかりを狙う

 ニヤリニヤリと笑いながら、人をつけ[#「つけ」に傍点]て行く人物があった。藍微塵《あいみじん》の袷《あわせ》に、一本|独鈷《どっこ》の帯、素足に雪駄《せった》を突っかけている。髷《まげ》の形が侠《きゃん》であって、職人とも見えない。真面目に睨んだら鋭かろう。だが、現在はニヤリニヤリと、笑《えみ》をたたえているがために優しく見える大形眼の、鼻は高いが節《ふし》があるので、十分りっぱということはできない。特徴のあるのは薄手の口で、これまた真面目に引きしめたならばさぞ酷薄に見えるだろう。ところが今は笑っているので、愛嬌あふれるばかりである。年の格好は四十一、二で、精悍らしく小兵である。
「あ、やりおった、またやりおった。ずいぶん上手にはたく[#「はたく」に傍点]なあ」
 口の中でつぶやいてつけて行く。
 この人物は何者であろう? 誰かが懐中《ふところ》をのぞいたならば、すこしふくらんだふところの中に鼠色《ねずみいろ》をした捕縄《ほじょう》と白磨き朱総《しゅぶさ》の十手とが、ちゃんと隠されてあることに、きっと感づいたに相違ない。そうしてその人はいうだろう「ははそうか、目明《めあか》しなのか」と。
 この人物こそ目明しなのであった。住居は神田代官町で、そうしてその名を松吉といった。そこで綽名《あだな》して代官松――などと人は呼んだりした。乾児《こぶん》も七、八人持っていて、目明し仲間での腕っこきであった。
「あ、やりおった、またやりおった、ずいぶんりっぱにはたく[#「はたく」に傍点]なあ」
 またも口の中でつぶやいたが、依然としてニヤリニヤリと笑い、悠々としてつけて行く。
 つけられているのは二人の掏摸《すり》で、これがまた変わった風采《ふうさい》であった。すなわち一人は女であり、町娘ふうにやつしている。水色かった振り袖を着、鹿子《かのこ》をかけた島田髷へ、ピラピラの簪《かんざし》をさしている。色が白くて血色がよくて、眼醒《めざ》めるばかりに縹緻《きりょう》がよい。古い形容《いいぐさ》だが鈴のような眼つき、それがきわめて仇《あだ》っぽい。で、この眼で笑われたならば、たいがいの男はグンニャリとなろう。
 ところで鼻だがオンモリと高く、そうして上品になだらかである、口はというにまことに小さく、その上いうところの受け口でこれがまた非常に色っぽい。ニッと笑って前歯でも見せたら、おそらく男はフラフラとなろう。その年ごろは十八、九で、二十歳《はたち》までは行ってはいないだろう。身長《せい》が高くて痩《や》せぎすである。首なんか今にも抜けそうに長い。
 その女|掏摸《すり》と並びながら、手代《てだい》ふうの若い男が行く。相棒であることはいうまでもない。どこか道化《どうけ》た顔つきである。薄くて細くて短い眉毛、それと比較して調和のとれた、細くて小さくてショボショボした眼つき、獅子鼻《ししばな》ではないが似たような鼻、もうこれだけでも贔屓目《ひいきめ》に見ても、美男であるとはいわれない。その上に口が大変物である。俺は自信のある雄弁家だとそう披露《ひろう》でもしているように、やけに大きく薄いばかりか反歯《そっぱ》でさえもあるのである。年はそちこち二十八、九か、色浅黒く肥えている。
 で、二人を一見すれば、相当大家の商人の娘を、醜い手代がお供して、歩いているということができる。が、二人へ接近して、その会話を聞いたならば、胆を冷すに相違ない。
「姐《あね》ご、あいつは関東方で」「そうかい、それじゃア引っこ抜いてやろう」「おっとおっと今度はいけない、あのお侍さんは京師《けいし》方で」
「そうかいそうかい止めにしよう」などといっているのだから。
 さてそのすり方だが見事であった。つまりこんなようにする[#「する」に傍点]のである。向こうから武士がやって来る。と、人波に押されたかのように、ヒョロヒョロと女掏摸がよろめいて行って、武士の胸もとへポンとぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]。
「とんだ粗相《そそう》をいたしました。ホッ、ホッ、ホッ、ごめんあそばせ」例の眼で笑い例の口で笑う。と、ぶつかられた[#「ぶつかられた」に傍点]武士であるが、ぶつかられた[#「ぶつかられた」に傍点]瞬間にはちょっと怒る。
「注意しゃっしゃい! 粗忽《そこつ》千万な!」よくよく見ると美形である。で、ガラリと調子が変わる。「これはこれは娘ごで。大事ござらぬ、ハッ、ハッ、ハッ。もしなんならもう一度でも」それから同僚を振り返って、「拙者非常に幸福でござる」
 だが非常にお気の毒である。もうこのころには懐中物は、とうにすられているのだから。
 そういう掏摸《すり》をつけながら、代官松は捕えようともせずに、悠々と歩いて行くのであった。
「武士ばかりをするのが不思議だよ」これが松吉には不思議なのであった。

偉いお方をすりゃアがった

「武士ばかりをするのが不思議だよ。いったいどうしたというのだろう? それにさ、も一つ変なことがある。関東方だの京師方だのと、妙な符牒《ふちょう》をつけている。どうも俺にはわからないよ。――と、こういうと穏当《おんとう》なのだが、ナーニ俺にはわかっている。だからいっそう眼が放されない」
 目前に男女の二人の掏摸が、ボンボン仕事をやっているのを、目明したるところの代官松が、引っ捕えようともしないのは、そういう疑念があるからであった。すなわち二人の男女の掏摸が「関東方だ、京師方だ」と、符牒をつけて分けへだてをして、関東方の武士ばかりを、狙《ねら》ってするということが、ひどく疑わしく思われるからであった。
「どうやらきゃつらの残党どもが、最近に江戸へ入り込んで来て、何やら策動をしているそうだ。……こいつら二人の男女の掏摸も、なんとなくきゃつらの残党らしい。……取っておさえるのは訳はないが、それよりももう少しつけて行って、はたしてきゃつらの残党なのか、そうでないかを確かめてやろう。そのほうが俺には大事なのだからな」でニヤリニヤリ笑って、二人の後をつけるのであった。
 処は名に負う江戸一番の盛り場の両国の広小路である。で、往来の両側には、女芝居や男芝居の、垢離場《こりば》の芝居小屋が立っている。軽業《かるわざ》、落語、女義太夫――などの掛け小屋もかかっている。木戸銭はたいがい十六文で、芝居の中銭も十六文、――といったような安物である。
 野天芸人《のてんげいにん》の諸※[#二の字点、1-2-22]《もろもろ》も、葦簾《よしず》を掛けたり天幕《テント》を張って、その中で芸を売っている。「蛇使い」もあれば「鳥娘《とりむすめ》」もある。「独楽《こま》廻し」もあれば「籠《かご》抜け」もある。「でろでろ祭文《さいもん》」や「居合抜き」「どっこいどっこい」の賭博《かけもの》屋から「銅の小判」というような、いかもの屋までも並んでいる。そういう間に介在《かいざい》して、飲食店ができている。卵の花[#「卵の花」はママ]|寿司《ずし》、鰯《いわし》の天麩羅《てんぷら》、海老《えび》の蒲焼《かばや》き、豆滓《まめかす》の寿司――などというような飲食店で、四文出せば口にはいろうという、うまくて安い食物ばかりを、選んで出している飲食店なのである。
 大川に添った川岸には、水茶屋がビッシリと並んでいる。軒を並べているところから、これを一名|並《なら》び茶屋《ちゃや》ともいう。
「梅本」「嬉《うれ》し野」「浮舟《うきぶね》」「青柳《あおやぎ》」など、筆太《ふでふと》に染め出した、浅黄《あさぎ》の長い暖簾《のれん》などが、ヒラリヒラリとなびいている。店の作りが変っていて、隣りの店とのへだてがない。隣り同士で話ができる。「柳原《やなぎはら》へ出る夜|鷹《たか》のひととせ[#「ひととせ」に傍点]、そりゃアとほうもない別嬪《べっぴん》で。ためしに買ってご覧なさい」「へいへい昨晩こころみました」「ああさようか、お早いことで」などというような会話もできる。銀ごしらえではあるまいか? そんなようにも思われるほどに、ピカピカ光る大きな茶釜《ちゃがま》が、店の片隅に置いてある。そこから白湯《さゆ》を汲み出しては、桜の花をポッチリ落とし、それを厚手《あつで》の茶碗などへ入れて、お客の前へ持って来る。持って来る茶屋女が仇者《あだもの》であって、この土地の名物である。抜けるような綺麗な頸足《えりあし》をして、冷《ひや》つくような素足をして、臆面もなく客へ見せて、「おや、近来《ちかごろ》お見限《みかぎ》りね」――はじめてのお客へ向かってさえ、こんなお世辞を振りまくのであった。
 そういう建物にはさまれて、広々と延びている往来には、今や人が出盛っていた。勤番者らしい武士が行けば、房州出らしい下女も行く。職人も通れば折助も通る。宗匠《そうしょう》らしい老人から、侠《いなせ》な鳶《とび》らしい若者も通る。ごった返しているのである。時刻からいえば夕暮れ近くで、カッと明るい日の光が、建物にも往来にもみなぎっている。その中で幟《のぼり》がハタハタとひらめき、その中で絵看板が毒々しく輝き、そうしてその中で太鼓の音が、オデデコオデデコと鳴っている。万事が明るく花やかで、そうして陽気で賑やかであった。そういう境地を縫いながら、二人の掏摸がすってまわる、そうしてそれを代官松が、笑いながらつけて歩いて行く。
「あ、またやった[#「やった」に傍点]なあ、またはた[#「はた」に傍点]いた。ずいぶん綺麗にはたく[#「はたく」に傍点]なあ。ああも綺麗に仕事をされると、俺といえども感心するよ」感心しながらつけて行く。が、その直後に代官松は、感心してばかりはいられないような、一つの事件にぶつかることになった。というのは群衆を分けるようにして、一人の威厳のある大身らしい武士が、二人の家来を供に連れて、行く手のほうから歩いて来たのを娘姿の例の掏摸が、例のごとくにしてすったからである。
「ありゃア『本郷の殿様』だ! 偉いお方をすりゃアがった。こいつアうっちゃってはおかれない!」

追う者と追われる者

「本郷の殿様」と呼ばれた武士は、まことに威厳のある風采であった。年の格好は五十歳あまりで、鬢髪《びんぱつ》に塩をまじえている。太くうねっている一文字の眉は、臥蚕《がさん》という文字にうってつけ[#「うってつけ」に傍点]である。眼は細くて切れ長で、眼尻が耳まで届いていると、そうもいいたいほどである。その眼の光の鋭いことは! まさしく剃刀《かみそり》の刃であった。鼻の附け根には窪味《くぼみ》がなくて、額からすぐに、盛りあがっている。小鼻が小さくて食い上がっている。で、そのために高い鼻が、完全の鉤鼻《かぎばな》をなしている。鼻の下から唇《くちびる》へつづく、人中の丈が短くて、剣先形《けんさきがた》をなしている。すなわち貴人の相である。ところが口はどこにあるのだろう? そんなにもいわなければならないほどにも、唇が薄くて引き締っていた。で、一見酷薄に見える。が、左右の端に、深い笑窪《えくぼ》ができているので酷薄の味を緩和している。顎《あご》の中央を地閣《ちかく》というが、そこの窪味がきわだって深い。これは剣難の相である。がそういう欠点も、広い額、厚い垂《た》れ頬《ほお》、意志強そうないかめしい顎、そういうものが救っている。驚くべきは顔色であって、白皙《はくせき》に赤味を加えている、二十歳時代の、青年の顔の色そっくり[#「そっくり」に傍点]というべきであった。鉄色の羽織を着ていたが、それは高価な鶉織《うずらおり》らしく、その定紋は抱茗荷《だきみょうが》である。はいている袴《はかま》は精好織《せいこうおり》で仕立上がりを畳へ立てたら、崩れずにピンと立つでもあろうか、高尚と高価と粋《すい》と堅実とを、四つ備えた織物として、この時代の少数の貴人たちが、好んで用いた品である。さて帯びている大小であるが、鞘《さや》は黒塗りで柄糸《つかいと》は茶で、鍔《つば》に黄金《こがね》の象眼《ぞうがん》でもあるのか、陽を受けて時々カッと光る。
 そういう風采の人物であったが決して四辺など見廻そうとはせずに、グッと正面へ眼をつけたままで歩調《あしなみ》正しく歩いて来る。まさかに円光《えんこう》とはいわれないけれど、異様に征服的の雰囲気とはいえる、そういう雰囲気が立っているかのように、その人物が進むにつれてみなぎり流れている群衆が、自然と左右へ道をよける。で、掻き分ける必要はなく、歩いて来ることができるのであった。そうしてシトシトと歩いて来て垢離場《こりば》の芝居小屋の前まで来て、通り過ぎようとした時に、娘姿の例の掏摸が、例によって人波に押されたかのように、ヒョロヒョロとよろめいて出たが、ポンと「本郷の殿様」の胸へ、美しい身体《からだ》をぶっつけたのであった。
「とんだ粗相《そそう》をいたしました。ホッ、ホッ、ホッ、ご免あそばせ」――で、スルリと抜けたのである。だがその瞬間に右の手が上がって、真白い腕が肘《ひじ》の辺まで現われ、それが夕陽にひらめいた。どうやら何かを投げたらしい。それを受け取った者がある。手代ふうをした相棒の掏摸で、両手をヒョイと腹の前へ出すと、落ちて来た何かをチョロリと受け、スーッと袖の中へ入れてしまった。眼にも止まらない早わざである。で、男女の二人の掏摸は、人波をくぐって歩き出した。
 すられた「本郷の殿様」は、すられたことに気づかなかったらしい。変わらぬ歩き方で歩いて行く。しかしぶつかられ[#「ぶつかられ」に傍点]た一刹那には、さすがにちょっとばかり驚いたらしく、いくらか胸を反らすようにしたが、切れ長の細い眼をパッと開いた。と、夕陽の加減ばかりではなくて、本来が鋭い眼だからでもあろう、瞳のあたりに燠《おき》のような光が、チラ、チラ、チラと燃えるように見えた、妖精じみた光である。が、それとてほんの一瞬間で、上|眼瞼《まぶた》がすぐに瞳をおおうて、もとの通りの細い眼となった。そうしてあえて叱ろうともせず、ましていわんや振り返ろうともせず変らぬ歩き方で歩き出した。で、すった者はすったまま、すられた者はすられたまま何の事件も起こらずにすれ違ってそのまま別れようとした。
 しかし目明しの代官松だけは見過ごしておくことはできなかった。「ありゃア『本郷の殿様』だ、偉いお方をすりゃアがった。こいつアうっちゃってはおかれない!」はじめて捕《と》る気になったらしい。裾を捲《ま》くると人波をひらいて、二人の掏摸を追っかけた。と、二人の掏摸であるが、いち早く気配を感じたらしい、一緒に背後を振り返ったが、「姐ご、いけない、目つけられた」「お逃げよ、急いで……まいてやろうよ」これも人波を押しひらき、裾を蹴ひらいて走り出した。

死んだはずの老儒者が?

 二人の掏摸が逃げて行くのを、目明しの代官松が追って行く。所は両国の広小路で、人が出盛ってうねっている。逃げるには慣れている掏摸であった。掻いくぐり掻いくぐり逃げて行く。令嬢姿の女掏摸の、衣裳の裾がひるがえり、深紅の蹴出しが渦を巻き、石榴《ざくろ》の花弁《はなびら》そっくりである。それを洩れて脛《はぎ》がチラチラしたが、ピンと張り切った脛であり、脂肪《あぶら》づいてもいるらしく、形のよいこともおびただしい。で、行人が眼を止めたが、「悪くないなあ」と眼でささやく。
 女掏摸は相棒を見返ったが、
「素晴らしい物をすったんだよ。目的の獲物をすったのさ、取り返されたら大変だ、どうでもこうでも逃げおわせなければならない。……あ、いけない、追いせまって来た」
「え、本当で、そいつア偉い、へえ、あいつ[#「あいつ」に傍点]をはたい[#「はたい」に傍点]たんで、偉いなあ、大できだ! たまるかたまるか取り返されてたまるか! ナーニ大丈夫だ、逃げおわせますとも」それから人波を掻きわけたが、「ご免ください、ご免ください、忘れ物をしたのでございますよ。急いで取りに行きますので」それから背後を振り返ったが、「あ、いけない、とっ[#「とっ」に傍点]捕まりそうだ」
 二人は懸命にひた走る。女掏摸の髪の簪《かんざし》が夕陽をはねてピラピラとひらめき、眼のふちのあたりが充血をして、美しさと凄さとを見せている。前こごみにのばした上半身の、胸が劇《はげ》しく揺れているのは、乳房が踊っているからであろう。引き添って走っている男掏摸の、醜い顔には殺気がある。唇を漏れてはみ出している、反歯《そっぱ》が犬の歯を想わせる。陽がたまって光っているからである。
 で、二人は素早く走る。
 二人の逃げ方は素早かったが、代官松の追い方は、さらにいっそう素早かった。これは当然というべきであろう。稼業が目明しというのであるから。追うのには慣れているはずである。
「『本郷の殿様』と承知の上で、懐中物をすったのであろうか? それとも知らずにすったのであろうか? きゃつらがきゃつらの残党なら承知ですったと見なさなければならない。何をいったいすったのだろう? 大事な物をすったかもしれない。とっ捕まえて絞り上げて、取った物をこっちへ取り返さなければならない」
 左手で衣裳の裾をたぐり、右手で人波を左右へ分け、「どけ! 寄るな! 御用の者だ!」で、ヒタヒタと追っかけた。
 こうして十間とは走らなかったであろう、二人の掏摸へ追いついた。
「待て! こいつら! 悪い奴らだ!」
 女掏摸の振り袖が風になびいて、眼の前へ流れて来たところを、グッと握った代官松は、こう怒声をあびせかけたが、にわかにその手をダラリと下げると、あらぬ方へ驚きの眼を投げた。
「よッ、これはどうしたのだ、あの老人が歩いている。あの老人に相違ない! 背後《うしろ》姿だが見覚えがある。だがどうにもおかしいなア、あの老人なら去年の四月に、三宅《みやけ》の島で死んだはずだ」
 茫然といったような形容詞は、まさにこの時の代官松の、表情にかぶせるべき[#「かぶせるべき」は底本では「かぶせべき」]ものであろう。そんなようにも茫然と――掏摸のことなどは忘れたかのように――代官松は眼を据えた。
「あの老人があの老人なら、とほうもない獲物《えもの》といわなければならない。こいつアしっかり見届けてやろう」
 小刻みに忍びやかに走り出した。
 両国橋の橋詰めをめがけて、歩いて行く一人の老人があった。編笠《あみがさ》をいだいている上に、向こうを向いているところから、顔の形はわからなかったが、半白の切下げの長髪が、左右の肩へ振りかかって、歩調につれて揺れるのが、一種の特色をなしていた。人波の上をぬきんでて、五寸あまりも身丈《たけ》が高い。非常な長身といわなければならない。清躯《せいく》あたかも鶴《つる》のごとしと、こうもいったら当たるであろうか、そんなにも老人は痩せていて、そうしてそんなにも清気《きよげ》であった。無紋の黒の羽織を着して、薄茶色の衣裳をまとっている。袴を避けた着流しである。大小はどうやら短いらしい、羽織の裾をわずかに抜いて鐺《こじり》の先だけを見せている。儒者といったような風采である。これが目明しの代官松が、疑心を差しはさんだ老人なのであったが、このほかにもう一人の人が、この老人へ眼をつけて、そうして同じように疑心をはさんだ。
「本郷の殿様」その人なのであった。で、立ち止まって見守った。

]この陰謀は大きいぞ

 両国橋の橋詰めのほうへ、歩いて行く儒者ふうの老人を、「本郷の殿様」と呼ばれた武士は、疑念を差しはさんで見守ったが、足を止めるとつぶやいた。「おッ、これはどうしたのだ、あの老人が歩いている。あの老人に相違ない。背後《うしろ》姿だが見覚えがある。……だがどうにもおかしなことだ、あの老人なら去年の四月に、三宅の島で死んだはずだ」――代官松のつぶやきと、同じつぶやきをつぶやいたのである。だがその次につぶやいた言葉は、かなり恐ろしいものであった。「あの老人があの老人なら、とうてい活《い》かしてはおかれない。幕府にとっての一敵国だ、俺にとっても一敵国だ。……これはぜひとも確かめなければならない」
「本郷の殿様」と呼ばれた武士と、代官松という目明しとに、疑念を持たれて見守られているとは、儒者ふうの老人は知らぬ気《げ》であった。いわれぬ気高さと清らかさとを、やや前こごみの姿勢に保たさせ、おおらか[#「おおらか」に傍点]として歩いて行く。円光《えんこう》などとはいわれなかったが、一種の雰囲気とはいうことができよう。そういう一種の雰囲気を、儒者ふうの老人もまとっていた。で、群衆が自然と分かれて、老人の行く手をひらくようにした。が、儒者ふうの老人のまとっているところの雰囲気は、「本郷の殿様」と呼ばれている武士のまとっているところの雰囲気とは、全然別趣のものであって、穏和と清浄と学者的の真面目さ――そういうものを合わせたような、限りない奥ゆかしい雰囲気であった。「本郷の殿様」に対しては、人は威圧を感ずるのであろう、儒者ふうの老人に対しては、尊敬を払うに相違ない。
 往来の片側に大道|売卜者《ばいぼくしゃ》が、貧しい店を出していたが、そこまで行くと儒者ふうの老人は、ほんのわずかに顔を向けた。と、編笠から洩れていた髪が、ゆるやかにうねって襞《ひだ》を作って、半白の色が真珠色に光った。が、すぐ前通りに正面を向いて、おおらか[#「おおらか」に傍点]として歩いて行った。
「本郷の殿様」はうなずいたが、「矢柄、矢柄」と声をかけた。
「は」といいながら腰をかがめたのは、三十七、八の供の武士であったが、京都所司代の番士をしていた、ほかならぬ矢柄源兵衛であった。
 と、「本郷の殿様」は、心持ち顎をしゃくって[#「しゃくって」に傍点]見せたが、「見覚えはないかな、あの老人に?」
「は」というと矢柄源兵衛は、儒者ふうの老人へ眼をつけた。
「殿、あの仁《じん》は……これは不思議……」
「うむ、お前にも合点が行かぬか」
「合点が行きませんでござります、死なれたはずのあの仁が……」
「そち走れ! たしかめ[#「たしかめ」に傍点]て参れ」
「は。たしかめ[#「たしかめ」に傍点]ると申しますと?」
「編笠から顔をのぞいて見い!」
「かしこまりましてございます」こういった時には矢柄源兵衛は、すでに幾足か踏み出していた。群衆を排して老儒者を追って、橋詰めのほうへ走って行く。
 見送った「本郷の殿様」は、ヒョイと懐中へ手を入れたが、「あの老人があの老人なら、京都から送られた留書《とめが》き奉書が、いよいよ重大なものとなる。……はてな?」というと愕然《がくぜん》とした。
「ない! 失われた! 先刻の娘!」
 で四辺をキラキラと見た。と、誰かに追われてでもいるのか、さっき胸もとへぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来た振り袖姿の町娘が、人波を分けてあわただしそうに、これも両国の橋詰めのほうへ走って行く姿が眼についた。
「掏摸《すり》だな! 女め! 一大事だ……下坂《しもさか》下坂」と声をかけ、もう一人の供の侍の、下坂源次郎の寄って来るのへ、「追え捕《とら》えろ! あの娘を!」
 もちろん下坂源次郎には何の理由だかわからなかったが、烈《はげ》しい主人の気合に打たれて、思わず自分も意気込んだ。「は」というと身をひるがえして、「どけ! どけ! どけ!」と人波を割って娘の後を追っかけた。
 ガチガチと歯音の聞こえたのは、「本郷の殿様」が口の中で、歯叩きをしたがためであろう。
「今回の陰謀は大きいぞ! しかも連絡があるらしい! 女の掏摸! あの老人!」
「本郷の殿様」は顫《ふる》える左手で、刀の鍔際《つばぎわ》をひっつかんだ。眼では老儒者を睨んでいる。
 しかるに儒者ふうの老人を合点が行かないというように、みつめているもう一人の人物があった。貧しい店を出していたところの、大道売卜者の老人であった。

切り合うぞ!

 大道売卜者の老人が、儒者ふうの老人へ気づいたのは、決して自分のほうからではなかった。呼びかけられて気づいたのである。その左は並び床であり、その右は矢場であり、二軒にはさまれて空地があったが、そこに売卜者の店があった。算木《さんぎ》、筮竹《ぜいちく》、天眼鏡、そうして二、三冊の易《えき》の書物――それらを載せた脚高《あしだか》の見台《けんだい》、これが店の一切であった。葦簾《よしず》も天幕も張ってない。見台には白布がかかっていて、「人相手相家相|周易《しゅうえき》」などという文字が書かれてあって、十二宮殿の人相画や、天地人三才の手相画が、うまくない筆勢で描かれてもいた。それさえひどく[#「ひどく」に傍点]墨色が褪《あ》せて白がよごれて鼠色をなした掛け布の面ににじんでいた。が、そういう店を控えて、牀几《しょうぎ》に腰をかけている老売卜者の、姿や顔というものは、いっそうによごれて褪せていた。黒の木綿《もめん》の紋付きの羽織、同じく黒の木綿の衣裳、茶縞《ちゃしま》の小倉のよれよれの小袴。でも大小は帯びていた。といって名ばかりの大小で、柄糸《つかいと》はゆるく[#「ゆるく」に傍点]ほぐれているし、鞘の塗りなどもはげていた。老年になって知行《ちぎょう》に離れた、みじめな浪人の身の上だとは、一見してわかる姿であった。
 地の薄くなった胡麻塩《ごましお》の髪を、小さい髷に取り上げている。顔は小さくて萎《しな》びていて、そうして黄味を帯びていた。古びた柑橘《かんきつ》を想わせる。にもかかわらず顔の道具は、いかめしいまでに調《ととの》っていた。高くて順直《すなお》でのびやかな鼻には、素性のよさが物語られているし、禿げ上がった広い額には、叡智的《えいちてき》のところさえある。が、大きくて厚手の口には、頑固らしいところがうかがわれる。心の窓だといわれている眼こそは、何より特色的であった。何物をか怒り何物をか呪い、何物をか嘲笑しているぞ――といっているような眼つきなのである。しかしそういう眼つきのために、表情は穢《けが》されてはいなかった。むしろそのために老売卜者の顔は、悲壮にも見え純真にも見えた。
 往来を人波はうねっていたが、店へ立ち寄る者はなかった。で売卜者は鼻の先を黒表紙の易書であおぎながら――すなわち塵埃《ほこり》を払いながら、無心に人波を眺めていた。
 その時呼び声が聞こえて来たのである。
「お気をおつけなされ、今日があぶない[#「あぶない」に傍点]! お手前の人相をご覧なされ!」
 で、ギョッとして老売卜者が、声の来たほうへ眼をやった時に、儒者ふうの老人を目つけたのである。「おお!」という声が筒抜けた。老売卜者が漏らしたのである。「おおこれはどうしたのだ、大先生が歩いておられる。大先生に相違ない。背後姿だが見覚えがある。……とはいえどうにもおかしなことだ、大先生なら去年の四月に、三宅の島で逝去《なく》なられたはずだ!」
 つぶやきながらも老売卜者は、懐しさ類《たぐ》うべきものもない――牀几《しょうぎ》から、腰を上げると立ち上がって、両手を見台の上へつくと、毛をむし[#「むし」に傍点]られた鶏《とり》の首のような細いたるんだ[#「たるんだ」に傍点]筋だらけの首を、抜けるだけ長く襟から抜いて、儒者ふうの老人を見送った。
「本郷の殿様」と呼ばれた武士や、代官松がつぶやいたところの、つぶやきと同じようなつぶやきを、老売卜者もつぶやいたのであった。が、その後のつぶやきは、二人とは反対なものであった。
「大先生がお丈夫なら、こんな嬉しいことはない。また私は浮世へ出ることができる」
 感情が昂《たか》ぶったがためでもあろう、見台へついていた左右の手の、指の先がピリピリと顫《ふる》え出した。と、うっすりと眼の中へ、涙のようなものが浮かみ出た。
「お確かめしようお確かめしよう。たしかに大先生であられるか、それとも全くの人違いか」
 で、牀几から踏み出した。追って行こうとしたのである。しかしその時意外の事件が、老売卜者の足を止めた。
「お爺《じい》さん頼むよ、預かっておくれよ!」
 優《やさ》しくはあったがあわただしそうな、女の声がこう聞こえて、それと同時に見台の上へ、厚手に巻かれた奉書の紙が、音を立てて落ちて来たことである。
 反射運動とでもいうのであろう、老売卜者はそれと見ると、ドンと牀几へ腰を下ろして、片袖を上げると巻き奉書を、その袖の下へ隠したが、眼を返すと声の来た方角を見た。と、往来の人波を分けて、誰かに追われてでもいるように、さもあわただしく走って行く、娘と手代とが眼にはいった。「はてな?」とつぶやきはしたものの、それよりも大切なものがあった。儒者ふうの老人の行方である。で、ふたたび眼で追ったが、「おッ危険だ! 切り合うぞ!」老売卜者は体をこわばら[#「こわばら」に傍点]せた。

落ちて来た巻き奉書

「おッ、危険だ、切り合うぞ」老売卜者が体をこわばら[#「こわばら」に傍点]せたのは、次のような事件が起こったからである。目明しふうの壮漢が、人波を分けて泳ぐように、儒者ふうの老人に近寄って行く。と、もう一人の若い武士が、これも人波を押し分けて儒者ふうの老人へ近寄って行くその態度でおおよそは知れる、二人ながら儒者ふうの老人へ、禍《わざわい》を加えようとしているらしい。しかしそのために老売卜者が、「おッ、危険だ、切り合うぞ」と、驚きの声をあげたのではなかった。五人の中年の逞《たくま》しい武士が、目明しふうの壮漢と、若い武士とへ立ち向かうように、にわかに足を止めて振り返って、刀にソリを打たせたからであった。
 五人の武士は何者なのであろう? 儒者ふうの老人の護衛らしかった。どこにこの時までいたのであろう? 往来の人たちに気づかれないように、儒者ふうの老人を囲繞《いにょう》して、さっきから歩いていたのであった。つまりそれとなく方陣を作って、真ん中へ儒者ふうの老人を入れて、互いに関係がありながら、関係ないというように、さっきから歩いていたのであった。それがにわかに足を止めて目明しと若い武士とへ向かったのである。
 距離が少しくへだたっていたので、五人の中年の逞しい武士の姿は仔細にはわからなかったが、いずれも目立たぬ扮装《いでたち》をして、いずれも編笠を真深にかぶって、そうして袴を裾短かにはいて、意気込んでいるということだけは十分に看取《かんしゅ》することができた。で、じっと静まっている。で、もし目明しと若い武士とが、執念《しゅうね》く儒者ふうの老人へ、追いすがってでも行こうものなら、五人の中年の逞しい武士は、いっせいに抜いて叩っ切るであろう。
 そこで老売卜者が声を上げたのである。「おッ、危険だ! 切り合うぞ!」と。
 が事件は案じたほどにもなく、呆気《あっけ》なく無事に終わりをつげた。すなわち目明しと若い武士とが、五人の中年の逞しい武士の、不意の敵対に胆を奪われたように、ギョッとした塩梅に立ちすくんだが、駄目だと観念をしたのであろう、人波をくぐってもと来たほうへ、引っ返してしまったからである。
「ああ安心、これでよかった」声を漏らした老売卜者は、のばした首をもとの座へ据えたが、眼では儒者ふうの老人を、なおも熱心に見守った。
 そういう事件のあったことを、少しも知らないというように、儒者ふうの老人は変らぬ姿勢で、おおらか[#「おおらか」に傍点]に足を運んでいた。むしろ神々《こうごう》しい姿である。と、まもなく両国橋の、橋詰めの擬宝珠《ぎぼし》の前まで行った。そうしてそれを渡りかけた時に、逞しい中年の五人の武士が、追いついてすぐ囲繞した。六人が橋を渡って行く、河風が吹き上げて来たからでもあろう、身の長《たけ》の高い儒者ふうの老人の、編笠を洩れた長髪が、二、三度斜めになびいたが、それさえ気高く思われた。
 こうして一行が見えなくなった時に、太い溜息を一つ吐《つ》いたが、老売卜者は腕を組んだ。
「いよいよ大先生に相違ない。護衛の人たちを連れておられる……では大先生には三宅の島で、おなくなりなされたのではなかったのか? ……それにしてもこのような江戸の土地などへ、いつからお乗り込みなされたのであろう? ……どうともしてお住まいを突きとめたい、そうしてお預かりの品を、どうともしてお手へ渡したい」
 瞑目《めいもく》をして考えている。陰惨《いんさん》としていた顔の上に、歓喜の色が浮かんだのは、明るい希望が湧いたからでもあろう。が、まことに不思議なことには、その歓喜の色なるものが、にわかに顔から影を消して、反対のもの[#「もの」に傍点]が現われた。疑惑と不安との色なのである。それは老売卜者の心の中へ、儒者ふうの老人の呼びかけた言葉が、この時|甦生《よみがえ》って来たからであった。「お気をつけなされ、今日があぶない[#「あぶない」に傍点]! お手前の人相をご覧なされ!」それはこういう言葉なのであった。「私に呼びかけたに相違ない!」で、老売卜者は刀を抜いた。こしらえ[#「こしらえ」に傍点]は粗末ではあったけれども中身は十分に磨かれていた。三寸あまりも抜いた時に、夕陽がぶつかった[#「ぶつかった」に傍点]からでもあろう、虹のような光を放ったが、それの面《おもて》へ顔を写して見た。人相を写して見たのである。
「ああ、なんだ! この人相は!」で、ガックリと見台の上へ両手をつくと沈み込んだ。その手に触れたものがあった。
「うむ、さっきの巻き奉書だな!」夢中でスルスルと解いて見たが、グーッと懐中へねじ込んでしまった。「死なれない! 死なれない! 死なれない!」で、茫然《ぼうぜん》と空を見た。いつまでもいつまでも眺めている。が、その空もすっかりと暮れて、夜が大江戸を包んだ時に、上野に向かう下谷の道を、一つの人影が歩いていた。浪人ふうの若い武士である。

つけて行く浪人者

 浪人ふうの若い武士が、下谷の通りを歩いている。今しがた降った雨が止んで、雲切れがして月が出たが、往来の左右は寺々で、燈火一筋さしていない。で、四辺が暗闇で姿がハッキリわからなかった。しかしどうやら尾羽《おは》打ち枯らした、みすぼらしい浪人のようすである。少しばかり酒気も帯びているらしくて、歩く足つきが定まらない。高台寺、常林寺、永昌寺、秦宗《しんそう》寺を通れば広徳寺で、両国についでの盛り場であったが、今夜は妙にうら[#「うら」に傍点]寂しい。おでん、麦湯、甘酒などの屋台店が出ているばかりである。と家蔭から一人の女が白い手拭いを吹き流しにかぶって、菰《こも》を抱いてチョロチョロと現われたが、「もしえ、ちょいと」と声をかけた。「ふん」と浪人は鼻を鳴らしたが、「二十四文も持ってはいないよ」錆《さび》のあるドスのきく声であった。「いやはや俺も夜鷹《よたか》風情《ふぜい》に声をかけられる身分となったか。どこまでおっこち[#「おっこち」に傍点]て行くことやら」でヒョロヒョロと先へ進んだ。往来が突きあたると常照寺になる。向かい合ってタラタラと並んでいるのはお筒持《つつも》ちの小身の組屋敷であったが、そこを右へとって進んで行けば、寂しい寂しい鶯谷《うぐいすだに》となる。そっちへ浪人は歩いて行く。と、にわかに足を止めたが、グッと前方を睨むようにした。
「うむ、ありゃ爺《おやじ》めだ!」わずかばかり思案をしたようであったが、すぐに足音を忍ばせて、シタシタシタシタと追っかけた。「私情からいっても恨みがある。公情からいえば主義の敵だ。どうせ生かせてはおけない奴だ」――でシタシタと追っかけた。そういう恐ろしい浪人者につけられているとは感づきもせずに一人のわびし気な老人が、二間あまりの先を歩いている。両国にいた大道売卜者であった。いつものように店の道具を、一軒の懇意な水茶屋へ預けて、深い考えに沈みながら、ここまで歩いて来たのであった。
「準頭《じゅんとう》に赤色が現われていた。赤脈《せきみゃく》が眸《ひとみ》をつらぬいていた。争われない剣難の相であった」先刻方自分の人相を、刀の平へ写して見た時、それが現われていたことを、今改めて思い出したのであった。「それでは俺は殺されるのか。誰がこの俺を殺すのだろう? ……ああ死にたくない死にたくない! ……大先生にお遭《あ》いしなければならない。お遭いするまでは死なれない。……お遭いして品々をお渡ししたい。……ああそして巻き奉書を!」ツト懐中へ手を入れると巻き奉書をしっかりとつかんだ。
「恐ろしい恐ろしい巻き奉書だ、幕府の有司《ゆうし》の手に渡ったら、上は徳大寺大納言様から、数十人の公卿方のお命が消えてしまわないものでもない。のみならず下は俺のような廃者《すたりもの》さえも憂目《うきめ》を見る」――それにしても老売卜者は巻き奉書があんな偶然の出来事から、自分の手へはいったということについて、一面この上もなく不思議に思い、他面感謝をしたくなった。「町娘ふうのあの娘と、手代ふうをしたあの男とは、俺という人間を知っていて、それであのように預けたのであろうか? それとも二人は俺というものの、素性も身分も少しも知らずに、ほんの偶然に預けたのであろうか? ……誰やらに追われていたようであったが、誰に追われていたのであろう?」
 群集を掻き分けてあわただしそうに、逃げて行った二人の男女の姿が、老売卜者の眼に見えて来た。
「どっちみち恐ろしい巻き奉書が、俺の手へはいったということは、天佑というよりいいようがない。有難いことだ」
 老売卜者は歩いて行く。そのうなだれたぼんのくぼ[#「ぼんのくぼ」に傍点]あたりへ、月の光が落ちていて、抜き衣紋《えもん》になっている肩の形が、いかにも寂しく見受けられる。歩き方にも力がなくて、素足の踵が裾をはねて、よろめくように動くのは、心の乱れている証拠ともいえよう。帯びている大小も重そうである、羽織の裾をかかげるようにして、はみ出している鞘のひと所が、時々生白く光るのは、月の光の加減でもあろう。と、老売卜者はつぶやいた。
「佐幕党の手へは渡されない。大先生へお目にかかって、どうでもお渡ししなければならない。……死なれない死なれない死なれない!」
 しかしまもなく傷《いた》ましい事件が老売卜者の身の上に起こった。筆法を変えて描写しよう。冴えた腕だ! 背後袈裟《うしろげさ》に切った!

一本の小柄

 冴えた腕だ、うしろ袈裟に切った。悲鳴をあげて倒れたのは、例の売卜者の老人であったが、ガリガリと土を引っ掻いた。
「た、たれだ――ッ」と引き声でいう。
 血刀を下げて突っ立ったのは、例のつけて来た浪人であったが、裾を高々と端折《はしょ》っていた。
「武左衛門殿、拙者でござる」
「むッ、わりゃア……」
「拙者だよ」
「悪人!」
「くたばれ」
「に、人畜生《にんちくしょう》!」
 傷手《いたで》にも屈せず起き上がって、浪人の腰へむしゃぶりついた。その武左衛門を蹴返すと、またもや一太刀あびせかけた。
 もう、武左衛門は動かれない。かすかに呻《うめ》きをあげながら、背に波を打たせるばかりである。
 しばらく浪人は見ていたが、ゆるゆると武左衛門へまたがると、そろそろと切っ先をこめかみへ下ろした。プッツリと止どめを刺そうとしたとき足早に歩いて来る足音がした。チェッと舌打ちをひとつしたが、身をひるがえすと浪人者は、いずこへともなく走り去った。
 やがて来かかった人影がある。誰か迎いにでも来たのだろう、傘を二本持っている。みなりの粗末な二十歳ぐらいの女で、ぬかるみを踏み踏み近よって来た。
「おや」とつぶやいてたたずんだのは、武左衛門の姿を見かけたからであろう。月あかりでじっと見守ったが、
「お父様」と叫ぶとベタベタとすわった。
 と、武左衛門は顔を上げたが、「君江か……敵《かたき》は……」それっきりであった。いやいや最後にもう一声いった。「渡すな、文書を頼んだぞよ」まったく息が絶えてしまった。君江は死骸を抱くようにしたが、死骸へ額を押しあてた。あまりに意外な出来事なので気がボーッとしたのらしい、泣き声をさえも立てようとはしない。うずくまっているばかりである。その時君江の肩を、うしろからおさえるものがあった。ハッとして君江は振り返ったが、
「ま、あなたは竹之助様!」
「君江か。ふうむ、どうしたことだ! ……おッこれは武左衛門殿が……」
「はい何者かにむごたらしく殺されましてござります」
 胸へ腕を組んで見下ろしているのは、着流し姿の武士であった。感慨に堪えないというように、しばらく武士は黙っていたが、つぶやくように声を洩らした。
「頑固なお方でございましたゆえ恨みをうけたのでござりましょうよ。……子さえできている二人の仲を生木《なまき》をさくように割《さ》かれたお方だ」
 不意に君江が声を上げた。「小柄《こづか》が一本、落ちております!」
「小柄?」と武士は手をのばしたが、「なんだ、こいつは、俺の小柄だ」それから寒いように笑ったが、「浪人ぐらしも久しくなる。刀の鞘などガタガタだ。で、今しがた落としたのだろうよ。……それはとにかくうっちゃってはおけない、届ける所へ届けずばなるまい。俺は一走り行って来る」
 南条《なんじょう》竹之助という若い武士が、こういいすてて走り去った、後には一つの死骸と一人の娘とが、凄《すご》く寂しく只《ただ》に残った。と雨が降って来た。さっき方あがった雨である。ふたたび下ろして来たのである。死骸の上に降りかかる。君江は傘をひらいたが、死骸の上へおおいかざした。
「お気の毒なお父様、お可哀そうなお父様、君江はこんなに泣いております。成仏《じょうぶつ》なすってくださいまし。そうしてどうぞこの妾《わたし》を、お許しなすってくださいまし。妾は一人になりました。みよりのないものになりました。で、お父様がお嫌いでも、子まである仲でございますゆえ、竹之助様と一緒になりまする。お許しなすってくださいまし」
 片手で傘の柄《え》を握りしめて、片手をひらいて額へあてて拝むような形をしたが、泣きながら君江はいうのであった。傘の破れ目から雨が漏って、それが傘の柄を伝わって、ボタボタと死骸の上へ落ちる。それが君江には悲しいらしい。ひた泣きに泣いて掻《か》き口説《くど》くのであった。

疑いの心

 泣いても泣いても泣ききれなければ、口説《くど》いても口説いても口説ききれない。これが君江の心らしかった。
「雨におぬれにならないようにと、傘を持ちましてわざわざと、お迎えに参ったのでございます。傘はお役に立ちませんでした。いえいえお役に立ちました。このようにお父様をおおうております。でもわたくしといたしましては、傘で死なれたお父様をおおうてあげようとは思いませんでした。ほんとに夢のようでございます。悲しい悲しい悲しい夢! ……ああボタボタと雨が漏る。雨までがお父様をさいなむ。不幸な不幸なお父様!」
 木立ちを通して田圃《たんぼ》を越して、雨に漉《こ》されて色を増したはるかの町に燈火が見える。
 自分は傘をさそうともせずに、しとどに[#「しとどに」に傍点]雨にぬれながら、ひた泣きに君江は泣くのであった。
「上州|甘楽郡《かんらぐん》小幡《こはた》の城主、織田美濃守|信邦《のぶくに》様と申せば、禄《ろく》はわずかに二万石ながら、北畠内府常真《きたばたけないふつねさね》様のお子、兵部大輔信良《ひょうぶだいすけのぶよし》様の後胤《こういん》、織田一統の貴族として、国持ち城持ちのお身柄でもないのに、世々|従《じゅ》四位下|侍従《じじゅう》にも進み、網代《あじろ》の輿《こし》に爪折《つまお》り傘を許され、由緒《ゆいしょ》の深いりっぱなお身分、そのお方のご家老として、世にときめいた吉田|玄蕃《げんば》様の一族の長者として、一藩の尊敬の的になられた妾のお父様が事もあろうに、みすぼらしい売卜者の姿として、所もあろうに夜の往来で、誰にともなく闇討ちにされて、このようにあえなく亡くなられようとは、妾には本当には思われません。その上に敵の手がかりはなく、怨みを晴らす術《すべ》もない。成仏なすってくださいましと、どのように妾が申しましたところで、成仏なされてはくだされますまい。また妾にいたしましても、憎い敵を見つけ出して、一太刀なりと怨みませねば、この心が落ちつきませぬ。……どこかに手がかりはないものであろうか?」
 闇をあてもなく見廻したが、雨や枝や葉を顫《ふる》わせている藪畳《やぶだたみ》が茂っているばかりであった。と、君江の心の中へ、ピカリとひらめくものがあった。で「小柄!」とつぶやいた。殺された父の死骸の横に、落ち散っていた小柄のことが、瞬間に思い出されたからである。
「でも、あの小柄は竹之助様が、自分の小柄だと仰せられた。では敵《かたき》の小柄ではない」
 で、君江は考え込んだ。と、にわかに身を固くした。闇の中で君江は眼を閉じた。
「あの竹之助様とお父様とは、婿舅《むこしゅうと》でありながら、恐ろしいまでに不和であられた。……子まである仲を引き裂いて、竹之助様をおいだされた。……そのくせはじめはお父様のほうから、婿として竹之助様を望まれたのに。……何がお二人を不和にしたのやら、いまだに妾にはわからない。……不和! 憎しみ! 舅と婿! ……それではもしや竹之助様が?」
 この疑いは君江にとっては、悲しくもあれば恐ろしくもあった。
「そんなことがあってよいものか。こんな疑いはやめよう」しかし悲しくも恐ろしい、この疑いは君江の心から消え去ろうとはしなかった。
 この間も雨は降りつづいて、柄漏《えも》れの滴《しずく》がいよいよ繁く、武左衛門の死骸へ降りかかる。ふと君江は腕をのばしたが、死骸の懐中へ手を入れた。
「臨終《いまわ》にお父様が仰せられた――渡すな、文書を、懐中の文書を! ――どのような文書があるのやら」で、ソロソロとひき出した。
「たしかにお預かりいたしました。誰にも渡すことではござりませぬ。ご安心なすってくださいまし」自分の懐中へ巻き奉書を、大事そうに手早く納めた時に、町の方角から提灯《ちょうちん》の火が、点々とこちらへ近寄って来た。
 こういう事件の起こったのは、明和六年の晩春初夏の、ようやく初夜へはいったころのことで、所は下谷の車坂から、根岸の里へ下りようとする、上野の山の裾の辺で、人家がとだえて藪畳があったが、その藪畳での出来事である。
 日数がたってその月が暮れて、翌月の中旬となった時に、本郷の高台の一郭で、ひとつの変った事件が起こった。というのは女|煙術師《えんじゅつし》が、煙術を使っていたのである。

煙りの文字

 一人の女煙術師が、往来で煙術を使っている。赤い手甲《てこう》に赤い脚絆《きゃはん》、鬱金《うこん》の襷《たすき》をかけている。編笠をかぶっているところから、その顔形はわからなかったが、年の格好は十八、九でもあろうか、小づくりではあるが姿がよくて、たしかに美人に思われる。手に持ったは煙管《きせる》であったが、長さ五尺はありそうである。羅宇《らお》に蒔絵《まきえ》が施してある。
 ところで煙術とはどういうものなのであろう? 支那から渡って来たもので、煙草《たばこ》の煙りを口へ吸って、それを口から吐き出して、柳《やなぎ》に蹴毬《けまり》とか、仮名《かな》文字とか、輪廓だけの龍虎《りゅうこ》とかそういうものを空へかいて、見物へ見せる芸なのである。小規模のお座敷の芸としても、きわめて小規模のものであって、とうてい嵐の吹くような、往来などでは演ずることができない。元禄年間に一時|流行《はや》って、それからしばらく中絶したが、明和年間にまた流行《はや》った。というのは一人の美人が出て、上手にそれを使ったからでもあったが、それよりむしろその美人が、目立つような派手やかな風俗をして、その風俗とその美貌とを、売り物にしたがためである。
 で、今一人の女煙術師が、往来で煙術を使っている。まず煙管《きせる》をポンと上げたが吸い口を口へ持って来た。深く呼吸《いき》を吸ったかと思うとモクモクと煙りを吐き出した。首を左右前後に振る。それで調子をとるのであろう、はたして空へ文字ができた。幾個《いくつ》か幾個《いくつ》かできたのである。が、なんと書かれたものか、それはほとんどわからなかった。というのは空に月こそあれ、そうして月光が満ちてこそおれ、今日の時刻でいう時は、十二時を過ごした夜だからである。夜の暗さにぼかされて、煙りの文字がわからないのである。
 とはいえ女煙術師が、すきとおるような綺麗な声で、その口上を述べ出したので書かれた文字も明らかになった。
「ただ今書きました煙りの文字は、和歌の一首でござります。『くもるともなにか怨みん月|今宵《こよい》晴れを待つべき身にしあらねば』こういう和歌なのでござります。どういう意味かと申しますことは、いまさらわたくしが申さずとも、ご承知のことと存ぜられます。辞世の和歌なのでござります。こういう和歌を作った後で、その人は不幸にも切られました。そうして獄門にかけられました。では悪人かと申しますに、決してそうではございません。よいお方だったのでござります。そうしてよいお方でありましたので、そんな目にあったのでございます。全く全く浮世には、そういうことがございますねえ。よいお方であったがために、かえって不幸にお逢いなさる――というそんな変なことが……」
 だがいったい女煙術師は、誰に向かって煙術を使って、口上を述べているのだろう。一人も見物はいないではないか。またいないのが当然でもある。時刻は深い夜であり、所は本郷の一画で、大名屋敷が並んでいる。下町と違って昼間でも、人通りの少ない地点である。
 で、見物はいなかった。それでは女煙術師は、いない見物を相手にして、そんなことをいっているのであろうか? ――と思うと少し違う。一人だけ見物はいたのである。
 夜だからこれもハッキリとは、その風貌はわからなかったが、袴を着けない着流し姿で、たしかに蝋塗《ろうぬ》りと思われるが、長目の大小を帯びている。京都あたりの武士ではあるまいか? とそんなように思われるほどにも、身体《からだ》全体は優しかったが、腰の構えがドッシリとしていて、いわゆる寸分の隙もない。どっちかというと身長《せい》は高く、胸などのびやかに張っている。鼻が端麗だということは、斜めに受けている月光のために、際《きわ》立っている陰影《かげ》によって、受け取ることができそうである。
 そういう若い武士《さむらい》が女煙術師の、二間あまりの背後に立って、煙術を眺めているのであった。
「どうもな俺には不思議だよ」ふと若い武士はつぶやいた、「どうしてあの和歌を知っているのであろう。それにどうしてあのような和歌を、ああも大っぴらに喋舌《しゃべ》るのであろう? うっかり口に出すとあぶない和歌だ。それにさ、あの[#「あの」に傍点]和歌はこの俺にとっては、縁故の深い和歌なのだ。おかしいなあ、どうしたのだろう!」――だがその次の瞬間には、もっとおかしな事件が起こった。

すられた印籠

 そのおかしな事件というのはクルリと身を返した女煙術師が、小走りに走って来たかと思うと、ボンと若い武士へぶつかって、
「とんだ粗相をいたしました」
 こういって謝ったことである。
「いや拙者こそ。……どういたしまして」
 かえって気の毒だというように、若い武士は笑って挨拶をした。
「粗忽《そこつ》な妾《わたし》でございますこと。ホッ、ホッ、ホッご免あそばせ」
 女煙術師は行き過ぎた。
 だがぶつかられた[#「ぶつかられた」に傍点]若い武士は、どうやらテレたらしい。女煙術師を見送ったが、口の中でつぶやいた。
「油断をしているとこんな目に逢う。一刀流では皆伝の技倆、起倒流《きとうりゅう》では免許の技倆、などと自慢をしていながら、真正面から女の子のためにポンとばかりにぶつかられて、かわすことさえできなかったんだからなあ。油断をしているとこんな目に逢う」
 どうやら苦く笑ったらしい、顔の一所へ白々と、一列の歯が現われた。
「そうはいってももっともともいえるさ」また口の中でつぶやいた。「こんな深夜にこんな所で、見物もないのに煙術を使って、迂濶《うかつ》にはいえないあのような和歌を、あんなにも大っぴらに喋舌《しゃべ》っていたのだからなあ。見とれていたのは当然だよ。……いったいどういう女なのだろう!」
 左側は十五万石榊原式部大輔、そのお方のお屋敷で、海鼠《なまこ》壁が長く延びている。その海鼠壁をぬきんでて、お庭の植え込みが繁ってい、右側は普門院《ふもんいん》常照寺で、白壁が長く延びている。それの間にはさまれている道を、松平備後守のお屋敷のほうへ、女煙術師は小走っていた。白くひらめくものがある。月夜を海にたとえたならば、その中で魚がひらめくように、女煙術師の足の踵が、チロチロと白くひらめくのであった。
「立っていたところでしかたがない。どれソロソロ帰ろうか」
 女煙術師の行ったほうとは、全く反対の方角へ、若い武士はゆるゆると方向を変えたが、雪駄《せった》の音を響かせて二足三足歩き出した。
 と、どうしたのか立ち止まったが、「しまった、すられた、印籠をすられた」
 腰のあたりへ片手をあてている。で、クルリと振り返ったが、女煙術師を眼で追った。
「あの女がすったに相違ない。さっきまであった印籠だ。どこへも落とす気遣《きづか》いはない。あの女がすったに相違ない。そういえばちょっとおかしかったよ。肩を少しく前へかしげて、顔を地面へうつむけて、小走るように走って来て、ポンとこの俺へぶつかったんだからなあ。粗忽でぶつかったぶつかり[#「ぶつかり」に傍点]方ではないよ。すり取る手段としてぶつかったものさ。こいつうっちゃっては[#「うっちゃっては」に傍点]おかれないなあ」
 で、若い武士は小戻りに戻って「待て!」と声をかけようとしたが「待ったり」と自分で自分をおさえた。「これは迂濶《うかつ》には呼べないよ」ニヤリと苦く笑ったらしい。また顔へ白く歯が見えた。「さて呼び止めて調べてみて、もし印籠がなかろうものなら、引っ込みのつかない不態《ぶざま》となる。それにさ、疑いというようなものは、むやみと人にかけるものではない。困った困った困ったことになったぞ」
 女煙術師を眼で追った。
 女煙術師の後ろ姿は、月光を浴びているところから、見えていることは見えていたが、今は小さくなっていた。まもなく右へ曲がるだろう。すると松平備後守の、宏大な屋敷の前へ出る、そこをまた右へ曲がるかもしれない。と不忍《しのばず》の池畔《いけのはた》へ出る。それから先は町家町で露路や小路が入り組んでいる、自由にまぎれて隠れることができる。
 追っかけるなら今であった。
「印籠のことはともかくとして、ずいぶん変っている女煙術師だ、こっそり後をつけて行って、住居だけでも突きとめてやろう」
 これが若い武士の本意であった。でシトシトと追っかけた。
 もうこれだけの事件でも、変った事件といわなければならない。ところが同じこの一郭で、またもや変った事件が起こった。二人の姿の消えた時に、それと反対の方角から、一人の武士が現われて、こっちへ近寄って来たのである。

現われた敵

 現われた武士は浪人らしくて、尾羽《おは》打ち枯らした扮装《みなり》であって、月代《さかやき》なども伸びていた。朱鞘《しゅざや》の大小は差していたが、鞘などはげちょろけているらしい。が時々光るのは、月光が宿っているからであろう。
 地上へ細っこい影を曳《ひ》いて、だんだんこちらへ近寄って来る。足もと定まらず歩いて来る。どうやら酒にでも酔っているらしい。痩せてはいるが身長《せい》は高く、肩が怒って凛々《りり》しいのは、武道に深い嗜《たしな》みを持っている証拠ということができる。
 と、月を振り仰いだ。まさしくりっぱな顔であった。が、気味の悪い顔ともいえる。はね上がった眉、切れ長の眼、高くて細い長い鼻、いつも苦い物をふくんでいるぞと、そういっているような食いしばった口、顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》は低く頬骨は高く、頤《あご》はずっこけ[#「ずっこけ」に傍点]てはいたけれど、頤の骨は張っていた。年はおよそ二十三、四で、五までは行っていないらしい。
 そういう浪人がヒョロヒョロと、足もと定まらず歩いて来た。
 こうして榊原式部大輔のお屋敷の外側を通り抜けて、松平備後守のお屋敷の外壁の近くまでやって来た時に、一つの事件が湧き起こった。そこは丁字形《ていじがた》をなしていたが、右手の道から遊び人ふうの男が、これも酒にでも酔っているのであろう、千鳥足をして現われて来たがドーンと浪人にぶつかった。
 が、その時には浪人者は、酔ってはいても正気であるぞと、そういったような塩梅《あんばい》に、スルリと体を右へそらして、そのぶつかりを流してしまった。と遊び人ふうの人間は、自分の力に自分が負けて、グーッとのめると地へ倒れた。
「気をつけろよ、なんという態《ざま》だ」
 声をかけておいて浪人者は、丁字形の道を曲がりかけた。
 するとまたもや同じような、遊び人ふうの人間が、行く手にあたって現われたが、ドーンと浪人へぶつかって来た。
 が、その時には浪人者は、すでに左手へ避けていた。で、同じように遊び人ふうの男は、自分の力に自分が負けて、グーッとのめると地へ倒れた。
「気をつけろよ、なんという態だ」
 いいすてると浪人は丁字形を曲がった。
 しかしまたもや行く手にあたって、三人のこれも遊び人ふうの男が、抜いた匕首《あいくち》に相違ない、それを月光にキラつかせながら、のっそりと立っているのを見た時、浪人はちょいと足を止めた。
 それから「ふうん」と鼻を鳴らしたが、ゆっくりと背後を振り返って見た。
 地に倒れていた遊び人ふうの、二人の男が立ち上がっていて、これも抜いた匕首を、月の光にキラつかせている。
 腹背に敵を受けたのである。はさみ打ちの位置に置かれたのである。
「ははあそうか、あいつら[#「あいつら」に傍点]の仲間か」
 口に出して浪人はつぶやいたが、たいして驚いたようすもなかった。
「どうせ撲《なぐ》り合いにはなるだろうよ。切り合いになんかなるものか」
 セセラ笑いを洩らしたが、それでも左手を鍔際《つばぎわ》へやると軽く鯉口をくつろげた。
「さてこれからどうしたものだ?」
 小首を傾《かし》げはしたものの、逃げようかなどと思ったのではなく、こちらから先方へ進んで行こうか、それとも先方からやってくるのをたたずんでここで待ち受けようかと、一瞬間思案をしたものらしい。
「どっちみちたいした相手ではない。俺のほうから行ってやろう。なにさ自宅《うち》へ帰るのさ」
 で、浪人は無造作《むぞうさ》に、三人のほうへ歩き出した。その結果起こったのが乱闘であった。
 遊び人ふうの一人の男は、匕首を月光にひらめかすと、毬《まり》のように弾《はず》んで突いて来た。とそれよりも少しばかり早く、同じく月光をひらめかして、水平に流れる光物があった。すぐに悲鳴が起こったが、同時に一つの人の影が、往来のはずれへケシ飛んだ。浪人が腰の物を素破《すっぱ》抜いて、斬ろうともせず、突こうともせず柄頭《つかがしら》で喰らわしたのを眉間へ受けて、遊び人ふうの人間が、往来のはずれへケシ飛んだのである。が、そういう一刹那に、今度は遊び人ふうの人間が、前後から二人突いて来た。

呼び止めた声

 前後から浪人へ突いてかかった二人の遊び人の運命も、きわめて簡単に片づけられた。
 斜めにぶっつけた体当たりで、まず一人の遊び人の、腰の構えを砕いておいて、さっと振り返った浪人は、片手|撲《なぐ》りの峰打ちで、もう一人の遊び人の肩を打った。
 と、背後へ下がったが、背後に海鼠壁が立っていた。それへ背中をあてるようにしたが、あたかも威嚇《いかく》でもするように、片手下段にのびのびと、頭上へ刀を捧げたのである。
「まだ来る気かな。……今度は切るぞ!」
 で順々に五人を見た。左の腕を肘《ひじ》から曲げて、掌《てのひら》を腰骨へあてている。右足を半歩あまり前へ踏み出し、左足の踵を浮かせている。で、いくばくか上半身が、前方に向かって傾いている。のっかかった[#「のっかかった」に傍点]ような姿勢なのである。捧げた刀は月光をまとって、鯖《さば》の腹のように蒼白く光り、柄の頭が額にかかって、その影が顔を隈《くま》どっている。で両眼が穴のように、黒くそうして深く見える。しかも浪人はそういう姿勢で、静まり返っているのである。ただし刀身は脈々と、漣《ささなみ》[#ルビの「ささなみ」はママ]のように顫えている。で、月光がはねられて、顔の隈がたえまなく移動する。居つかぬように軟かく、刀をゆすっているのである。
 静まり返っているだけ、かえって凄く思われる。もしも本当に斬る気になって、翻然《ほんぜん》と飛び出して来たならば、そんな五人の遊び人などは、一|薙《な》ぎ二薙ぎで斃されるであろう。
 ところが一方遊び人たちも、武道のほうはともかくとして、喧嘩《けんか》の骨法《こっぽう》は知っているとみえて、そうしてとうてい浪人に対して、勝ち目はないと思ったものとみえて、眉間を突かれた遊び人は、その眉間を両手でおさえ、肩を打たれた遊び人は、その肩を片手でしっかりとつかみ、体当たりを喰らった遊び人は、横腹のあたりを両手で抱き、二人の無傷の遊び人と一緒に、脛を月光にチラチラと見せて、右手のほうへ一散に、素ばしっこい呼吸で逃げ出した。
 と、浪人は捧げていた刀を、ダラリと垂直に引っ下げたが、
「これ」と遊び人たちを呼び止めた。
「お前たちの姐ごのお粂《くめ》にいえ! 浪人こそはしているが、まだまだ芸人ごろん棒[#「ごろん棒」に傍点]などに、拙者めったにヒケは取らぬと! ハッ、ハッ、ハッ、しっかりといえ! そうしてさらにこういいたせ、あくまでお前たちに張り合ってみせると! お前たちは大勢、俺は一人、それで十分張り合ってみせると! さらにこうもいってくれ! お粂よ、おおかたお前の素性と、そうしてお前のやり口とを、俺はおおよそ探り知ったと! そうして俺とは一切合財《いっさいがっさい》、あべこべであり逆であると!」
 だが浪人の最後の言葉が、まだすっかりとはいいきらないうちに、五人の遊び人の逃げて行く姿は、小さくなって消えてしまった。
 で、ひっそりとなったのである。
 と、浪人は左手を上げたが、刀身へ袖を軽くかけた。それからゆるゆると拭《ぬぐ》ったが、単に塵埃《ほこり》をふいたまでである。すぐにささやかな鍔音《つばおと》がした。無造作に刀を納めたのであろう。胸のあたりへ手をやったが、乱れた襟を直したのである。と、シトシトと歩き出した。
 さすがに酔いだけは醒めたらしい。踏んで行く足に狂いがない。おちついて歩いて行くのである。だがなんとなくその姿は、浮世の裏道を、人目を憚《はばか》り人目を恐れ、そうして自分でも人を呪い、そうして自分でも浮世を呪い、こそこそ通って行くところの、気の毒な陰惨な廃人の、姿を思わせるものがあった。
 その左側に海鼠壁《なまこかべ》を持って、その背後に影法師を曳いて、そうして半身を月光にさらして、腰から下を茫《ぼう》とぼかして、浪人は先へ歩いて行く。
 しかし十間とは歩かなかった。
「お武家、お待ち、ちょっとお待ち!」
 一種の素晴らしい威厳を持った男の声が背後《うしろ》のほうから、こういって浪人を呼んだからである。で、浪人は足を止めた。
「また変な物が出たらしい。今夜はよくよくおかしな晩だ、いろいろの役者が登場するよ」
 つぶやいて浪人は振り返ったが、「ふうん こいつは素敵もない鴨《かも》だ」
 頭巾で面を包んでいるので、容貌は少しもわからなかったが、大名のように貫禄のある、一人のりっぱな侍が、二人の武士を供につれて眼の前に立っていたのである。

いわれぬ圧迫

 浪人の眼の前に立っている大名のような貫禄のある武士は、身体《からだ》つきや声のようすから見て、年はそちこち五十ぐらいでもあろうか身長《せい》は高く肥えてもいた。折り目正しく袴をはいて、長目の羽織を着ていたが、おかしなことには定紋がない。無紋の羽織を着ているのであった。で、胸高《むなだか》に大小をたばさみ、その柄頭を右手の扇で、軽く拍子どって叩いているが、それはその武士の癖《くせ》のようであった。そうしてそういう癖にさえ、一種のいわれぬ威厳があった。しかし向かい合って立っている浪人にとって苦痛なのは、その武士全体から逼《せま》って来る、陰森《いんしん》とした圧力で、それが浪人の心持ちを、理由なしに圧迫するのであった。頭巾に包まれている眉深《まぶか》の顔は、月にそむいているがために、ほとんど見ることはできなかったが、刺すように見ている眼ばかりが、陰影の奥に感ぜられて、それがまた浪人の心持ちを、恐怖的に圧迫するのであった。
 武士は浪人をみつめている。というよりも浪人のようすを、検査しているといったほうがよい。そんなにも執念《しゅうね》くおちつき払って、無言で浪人を見ているのであった。
「なんだこいつは無礼な奴だ」浪人は思わざるを得なかった。「呼び止めておいて物をいわない。なめるようにいつまでもジロジロ見る」
 で、皮肉をいおうとした。しかしいうことはできなかった。例の理由のない圧迫が、浪人の口を封ずるからである。
「なんの素敵な鴨なものか、うっかりすると酷《ひど》い目に逢うぞ」何となく浪人には思われた。「これは躊躇なく逃げたほうがいい」しかし逃げることもできそうもなかった。例の理由のない圧迫が、浪人の足を止めるからである。「叩っ切ろうかな? 叩っ切ろうかな?」
 だがこう思った瞬間に、そう思ったことが相手の武士へ、どうやら直感されたらしい。
 つと武士は一足前へ出たが、
「むやみと刀など揮《ふる》わぬがよい」
「は」
「よいか」「は」「よいか」
 といつか浪人はうなだれていた。
 と、武士は刀の柄頭を、右手の白扇で拍子づけて、軽く二、三度叩いたが、
「通りかかって、見たというものさ。そちの素晴らしい手並みをな。で、呼び止めたというものさ。何も恐れるにおよばない。俺《わし》は決して役人ではないよ」ここで口調を優《やさ》しくしたが、「見受けるところ、浪人らしいの」
「は、さようにございます」浪人の本当の心としては「そち」と下目に呼ばれたり、「何も恐れるにおよばない」などと、威嚇的に物をいわれたこと不快でもあれば業腹《ごうはら》でもあったが、例の理由のない圧迫に押されて、そういう本心を出すことができず、つい和《おとな》しく慇懃《いんぎん》にそんなように口から出したのであった。
 と、武士は肩でうなずいてみせたが、
「俺の屋敷へ遊びに参れ」不意にこんなことをいい出した。
 浪人は意外に感じたのであろう、ぼんやりとして黙っている。
「俺はな、久しく探していたのだよ」そういう浪人のようすなどには、かかわりがないというように武士は後をいいつづけた。「お前のような人間をな。浪人でそうして腕が立って、人を殺した経験のある。……俺にはわかるよ、殺したことがあろう?」
 今度は浪人は怯《おびや》かされたらしい、思わず二、三歩後へ下がった。
「で、姓名はなんというな?」
 ――いったいこれはどうなるんだ? これが浪人の心持ちであった。追っかけ追っかけ訊かれることが、いちいち浪人には恐怖だからである。
「は、私の姓名は……」
「おいい、これ、何というな?」
 どうしたものかそれに応じて、浪人は宣《なの》ろうとはしなかった。足もとをみつめて黙っている。しかし心ではいっているのであった。「名を宣《なの》ることはいやなのだ。俺の本名を聞いたが最後、たいがいの武士は俺に対して、憎むか嘲るかするのだからな」
 で、宣《なの》ろうとはしなかった。そういう浪人の困惑した態度を、相手の武士は訝《いぶか》しそうに、しばらくの間見守っていたが、にわかに笑声をほころばせた。
「やはり恐れているようだの。俺《わし》を恐れているようだの。では俺から宣るとしよう」

恐ろしい惑星

 では俺から宣ることにしよう。――大名のような貫禄のある武士は、さも無造作にこういったが、すぐに無造作に名を宣った。
「俺は北条美作《ほうじょうみまさか》だよ」
 しかし無造作には宣ったけれども、その北条美作という名は、恐ろしい姓名《なまえ》だと思われる。
 というのはそれを聞いた浪人が、まるで雷にでも打たれたかのように、おかしいほどにも飛び上がって、そうして背後へ引き下がったが、すぐに土下座をしたからである。
「北条の殿様でござりましたか、さようなこととは少しも存ぜず、まことにご無礼をいたしました。お許しおかれくださいますよう」
 慇懃に丁寧に挨拶をした。
 ところで北条美作とは、どういう身分の武士なのであろう?
 九千石の旗本なのであった。がそれだけではなんでもない、たかが旗本にすぎないのだから。ところが北条美作は、ある者には、一世の豪傑として、恐れ敬われ尊ばれていた。が、一方では奸物《かんぶつ》として憎まれ嫌われはばかられていた。何がいったいそうさせるのであろう? 時の老中の筆頭で、松平|左近将監武元《さこんしょうげんたけもと》なる人の、遠縁にあたっているばかりか、その武元に取り入って切れ味の鋭い懐中刀《ふところがたな》として、その武元を自在に動かす、――というのが理由の一つであった。そうして京都の貧しい公卿の、美しい姫を養女として養い、巧みに時の将軍に勧《すす》めて、その側室としたことによって、将軍家のお覚えがいともめでたい。――というのが理由の一つであった。いやいやそういう美しい女を一人将軍家へ勧めたばかりではなくて、いろいろの手蔓《てづる》を求めては、美しい女を狩り集めて来て、利《き》き所《どころ》利き所の諸侯へ勧めて、その側室とすることによって、一種の閨閥《けいばつ》を形成《かたちづ》くった。――というのが理由の一つでもあった。
 で賄賂請託《わいろせいたく》が到る所から到来した。それに密《ひそ》かに佐渡の金山の、山役人と結托[#「結托」はママ]をしていた。で美作は暴富であった。そうして美作はその暴富を、巧妙に活用することによって、自分の勢力を布衍《ふえん》した。というのはこれも利き所利き所の諸侯へ金子を貸すことによって、金権を手中に握ったのである。
 これを要約していう時は、金と女とを進物にして、閥《ばつ》をつくったということになる。
 で、若年寄をはじめとして、大目附であろうと町奉行であろうと、北条美作に対しては一目置かざるを得なかった。
 その上に美作は人物としては、胆力が大きく機智が縦横で、それにすこぶる執拗であって、かつ用心深かった。そうして性質からいう時は、この上もなく陰性で、黒幕的性質にできていた。もし美作が望んだならば、五万石以上の大名ともなれるし、役付くこともできるのであったが、それも望もうとはしなかった。表面に立つことを嫌ったからである。
 もう一つ美作の特徴として、挙《あ》げなければならない一事がある。徹底したる佐幕思想――ということがそれである。したがって美作は同じ程度に、勤王思想を嫌忌《けんき》した。で、有名な宝暦事件、すなわち竹内式部なる処士が、徳大寺卿をはじめとして、京都の公卿に賓師《ひんし》となって、勤王思想を鼓吹《こすい》した時に、左近将監武元に策して、断然たる処置をとらせたり、その後ほどを経て起こったところの、山県大弐《やまがただいに》、藤井右門の、同じような勤王事件に際して、これも将監武元に策して苛酷《かこく》な辛辣《しんらつ》な処置をとらせた。
 幕府方にとっては力強い味方で、京都方にとっては恐ろしい敵――というのが北条美作なのであった。
 どっちみち北条美作なる武士は、この当時一個の惑星として、諸人に凄《すさ》まじく思われていたことは、争われない事実であった。
 その美作だというのである。浪人が飛び下がって土下座をして慇懃に丁寧に挨拶をしたのは、当然なことといわなければなるまい。
 しかし北条美作にとっては、そうも慇懃に丁寧に、その浪人に土下座までされて、挨拶をされたということは、ちょっとおかしく思われたらしい。声を立てるようにして笑ったが、「さあさあ俺は宣りを上げたよ、今度はお前が宣るがいい」
「桃ノ井兵馬と申します」これが浪人の宣りであった。
「桃ノ井? ふうむ、兵馬というか?」美作は何やら考え込んだ。

浪人者の素性

「桃ノ井? ふうむ、兵馬というか」こういって考え込んだ北条美作は、月光を浴びながら土下座をしている浪人の姿をあらためて見たが、理由ありそうにうかがうように訊《たず》ねた。
「桃ノ井の姓が気にかかる。そちの父の名はなんというぞ?」
 ――と、兵馬はいよいよますます、慇懃の度を強めたが、「桃ノ井|久馬《きゅうま》と申します」
「何?」とこれを訊くと北条美作は、あたかも物にでも引かれたかのように――いやいやむしろ懐しそうに、二、三歩前へツカツカと出たが、
「桃ノ井久馬ならば存じている。神田小柳町に住居していたはずだ」
「はい、さようでござります」
「そうであったか、そうであったか、桃ノ井久馬の伜《せがれ》であったか。では俺とは縁の深い者だ」
「ご縁深き者にござります」
「…………」美作はここで沈黙をした。探るように兵馬を見下ろしている。それを兵馬が下のほうから顔をあお向けて見上げている。異様な沈黙となったのである。が、その沈黙が破られた時に、二人の間に次のような、意味深い問答が取り交わされた。
「お前の父は忠義者であったよ」
「が、お咎めを受けまして、日本橋において三日間晒らされ、遠島されましてござりまする」
「宮崎|準曹《じゅんそう》、佐藤源太夫、禅僧|霊宗《れいそう》らの忠義者とな」
「はい、同罪とありまして、遠島されましてござります」
「気の毒な身の上となったものよ。助けようと俺も手を尽くしてはみたが、そこまでは力がおよばなかった」
「口惜しい儀にござりました」
「そち、この俺を怨んではいまいな?」
「なかなかもちましてそのような事、もったい至極もござりませぬ」
「久馬は怨んでいたであろうか?」
「いえいえ反対にござります。遠島まぎわに父の口より承《うけたま》わりましてござります。北条の殿様があったればこそ、死罪にも行なわれず軽い遠島と! ご恩のほどを忘れるなよと……」
「怨まれれば怨まれる節《ふし》もあるが、怨んでいないと耳にすれば、やはり俺には有難い」
「なんのお怨みなどいたしましょう。怨みは他の人にござります」
「他の人?」と美作は首を伸ばしたが、「さあ何者であろうやら?」
「山県大弐にござります。藤井右門にござります」
「が、彼は殺されたはずだ。死罪獄門になったはずだ。で、この世にはいない者どもだ」
「しかし後胤《こういん》や一味の者が、残っているはずにござります」
「なるほど」という北条美作は、兵馬へ身近く進んだが、「そち、消息を知っていると見える?」
「さぐり知りましてござります。よりより彼らの後胤や一味が、京都から江戸をさしまして、いろいろのものに姿をやつして、入り込みました由《よし》にござります」
「しかもな」という北条美作は、前こごみに体をこごませたが、「恐ろしい大物も入り込んだらしい」
「は?」と訊き返した桃ノ井兵馬は、合点がいかないというようにしたが、「と仰せられる大物の意味は?」
「いずれは話す。今日はいうまい」しかし兵馬は押し返した。「三宅の島でなくなられたはずの、あの恐ろしい人物が、江戸入りされたものと存じますが?」
「そこまでそちは知っておるのか?」北条美作は驚いたらしい。「よくもあくまできわめたものだ」
 ――と、兵馬はヌッとばかりに、顔を月光に上向けたが、沈痛の口調でいい出した。
「この私という人間が世間の者に嫌われまして、裏切り者の子であるとか、不義の人間の子であるとか、噂を立てられます根本は、その三宅の島で死なれたところの、あの恐ろしい人物に、端を発しておりますゆえ、あの人物に関しましては、詳しく詳しく詳しく詳しく従来も探っておりました。で、その結果知りましたことは……」しかしここまでいって来ると、兵馬は憂鬱のようすになったが、突然話の方向を変えて、全くあらぬこと[#「あらぬこと」に傍点]をいい出した。

十分に怨め

 兵馬はこのようにいい出したのである。
「……其方共儀《そのほうどもぎ》、一途《いちず》ニ御為ヲ存ジ可訴出《うったえいずべく》候ワバ、疑敷《うたがわしく》心附候|趣《おもむき》、虚実《きょじつ》ニ不拘《かかわらず》見聞《けんぶん》ニ及《およ》ビ候|通《とおり》、有体《ありてい》ニ訴出《うったえいず》ベキ所、上モナク恐《おそれ》多キ儀ヲ、厚ク相聞《あいきこ》エ候様|取拵申立《とりこしらえもうしたて》候儀ハ、都《すべ》テ公儀ヲ憚《はばか》ラザル致方、不届ノ至《いたり》、殊ニ其方共ノ訴《うったえ》ヨリ、大勢無罪ノモノ迄《まで》入牢イタシ、御詮議ニ相成リ、其上無名ノ捨訴状《すてそじょう》、捨文《すてぶみ》等|有之《これあり》、右|認《したため》方全ク其方共ノ仕業《しわざ》ニ相聞エ、重科《じゅうか》ノ者ニ付死罪|申付《もうしつく》ベキ者ニ候|処《ところ》、大弐《だいに》、右門|企《くわだて》ノ儀ハ、兵学雑談、或《あるい》ハ堂上方ノ儀、其《その》外恐入候不敬ノ雑談|申散《もうしちらし》候ハ、其方共|申立《もうしたて》ヨリ相知レ候、大弐ハ[#「大弐ハ」は底本では「大弐は」]死罪、右門儀ハ獄門|罷《まかり》成、御仕|置《おき》相立候ニ付、不届ナガラ訴《うったえ》人ノ事故此処ヲ以テ、其方共|助命《じょめい》申付、日本橋ニ於テ、三日|晒《さらし》ノ上、遠島之ヲ申付ル」
 兵馬の口調は暗誦的であった。永らくの間心の中にあって、しばしば繰り返していた文章を、暗誦《そらんじ》たというようなところがあった。
「これは私の父をはじめ、宮崎準曹、佐藤源太夫、禅僧霊宗に下されました、断罪の文にござります。つまり私の父などは、幕府《おかみ》のおためを存じまして、謀叛人企てを明らさまに、お訴えを致しました結果としてかえってお叱りを受けましたしだいで、逆《さか》しま事のようには存じますが、こういう結果になりましたのも山県大弐や藤井右門の、恐るべく憎き陰謀にその端を発しておりまする。しかるに大弐や右門なるものの、その陰謀の源泉は、三宅島において逝《な》くなられましたはずの、あの恐るべき人物から流れ出ているはずにござります。したがって私にとりましては、三宅島において逝くなられたはずの、その恐るべき人物こそ、怨みの的にござります」
 なお兵馬はいいつづけようとしてか、片膝を立てて胸を反らせたが、感情がにわかにたかぶったからでもあろう、言葉切れがして絶句した。と見てとった北条美作は、なだめるように片手を伸ばすと、おさえつけるように上下したが、
「詳しいことは屋敷で聞こう。明日にも訪ねて来るがよい」
 立てた片膝を地へ敷くと、兵馬はつつましく頭を下げた。
「参上いたしますでござります」
「隠し扶持《ぶち》なども進ぜよう。生活《くらし》に事を欠かぬように、この美作が世話をしてやろう」
「は、忝《かたじ》けのう存じます」
「十分に怨め! 猟《か》って取れ!」
「…………」
 この意味は兵馬にはわからなかったらしい、無言で美作の顔を見た。と、美作は笑ったが、
「例の恐るべき人物と、大弐や右門の後胤や一味を怨んで猟《か》り取れと申しておるのだ」
「それこそ私にとりましては……」兵馬は一種の武者振るいをしたが、「唯一の目的でござります」
「同時に幕府《おかみ》のためにもなる」
「何よりのことに存じます」
「同時に俺のためにもなる」
「お殿様のお為《ため》でござりましたら……」
「粉骨砕身してくれるか?」
「愚かのことにござります。命《いのち》一つさえ捧げまする」
「ああよい片腕が俺にはできた」
「いえこの私にこそ力強い後ろ楯《だて》ができましてござります」
「では」というと北条美作は、鷹揚《おうよう》に顎《あご》をしゃくった[#「しゃくった」に傍点]が、「今夜はこれで別れよう」
 二人の供を従えると、シトシトと美作は足を運んだ。
「大大名や大旗本が、この本郷にはたくさんあるが『本郷の殿様』と一口にいえば、すぐにも北条美作のご前と、誰も彼もがいちように、納得するほどにも有名なお方だ。そのお方に俺が見いだされたのだ。世に出ることができるかも知れない」
 大名屋敷の海鼠壁《なまこかべ》に添って、肩のあたりを月光に濡らして、二人の供に前後を守らせ、歩いて行く美作の背後《うしろ》姿が、曲がって見えなくなった時まで目送をしていた桃ノ井兵馬は、こうつぶやくと立ち上がった。「俺も寝倉《ねぐら》へ帰るとしよう」
 無人となった境地には、月光ばかりが零《こぼ》れていた。しかるにこのころ一人の武士が、下谷《したや》の町の一所に、腕を組みながらたたずんでいた。「こんなりっぱな屋敷の中へ、はいって行ったとは不思議でならない。たかが女の煙術師ではないか」――眼の前に宏壮な屋敷があったが、眺めながら考えているのであった。

怪しの屋敷

 武士の眼の前にそびえている、宏壮な屋敷の構造は、大旗本の下屋敷ふうで、その正面には大門がありそれと並んで潜り門があり、土塀がグルリと取り巻いていた。おびただしいまでに庭木があって、いずれも年を経た常磐木《ときわぎ》と見えて、土塀の甍《いらか》から高くぬきんでて、林のように繁っていた。幾棟《いくむね》か建物もあることであろうが、しかし庭木におおわれて、その一棟さえ見えなかった。大門の瓦《かわら》屋根にさえぎられて、門の扉が裾のあたりで、月の光からのがれていたが、その薄暗い門の扉の上にいかめしい大|鋲《びょう》が打ってあるのが、少しく異様に見てとられた。用心堅固に守っているぞと、威嚇しているように感ぜられる。
 いやいや用心堅固といえば、庭木の形にも見られるのであった。すなわち内側から土塀の方へ、鉄よりも堅く思われるような老木をビッシリ植え込んで、枝や葉を網のように参差《しんし》させて防禦《ぼうぎょ》の態を造っているからである。何者か屋敷内へ入り込もうとして、たとえ土塀を乗り越したところで庭木の塀にさえぎられて、目的をとげることはできないであろう。屋敷の大きさは一町四方もあろうか、周囲《まわり》の家々から独立をして、ひとりそびえているのである、あえてこの辺は屋敷町ではなくてむしろ町家町というべきであった。もっともはるか東北の方には藤堂|和泉守《いずみのかみ》や酒井|左衛門尉《さえもんのじょう》や佐竹左京太夫や宗対馬守《そうつしまのかみ》の、それこそ雄大な屋敷屋敷が、長屋町家を圧迫して月夜の蒼白い空を摩《ま》して、そそり立ってはいたけれど……。
 で、この辺は町家町であった。しかもいうところの片側《かたがわ》町であった。反対の側は神田川で、今、銀鱗《ぎんりん》を立てながら、大川のほうへ流れている。下流に橋が見えていたがそれはどうやら和泉橋《いずみばし》らしい。とするとここは佐久間町の三丁目にあたっているのかもしれない。
「こんなりっぱな屋敷の中へ、はいって行ったとは不思議でならない、たかが女の煙術師ではないか」たたずんで見ていた若い武士は、今度は声に出してつぶやいたが、いかにも腑に落ちないというようすであった。本郷の往来で煙術を見ていて、うっかり油断をしていたところを女煙術師に印籠をすられた、――その若い武士であった。で、若い武士の思惑《おもわく》としては、たかが安手の芸人である。どこかみすぼらしい露路の奥の、棟割《むねわり》長屋の一軒へでも、はいって行くものと思っていた。しかるにどうやら期待は裏切られて、堂々たる構えのりっぱな屋敷へ女煙術師は入り込んだのである。
 で、武士としてはこの事実は、化かされたようにも思われるのであった。
「他人の屋敷へはいったのではない。自分の家へはいったのだ。少なくもあの女の懇意な者の屋敷へはいったということはできる。……スタスタと道を歩いて来て、この屋敷の前まで来て、トン、トン、トンと潜り門を打って、二声三声物をいったかと思うと、すぐに内から潜り門の扉があいて、あの女を内へ入れたのだからな。……自分の屋敷か懇意な人の屋敷さ」眼の前に立っている屋敷の中へ、女煙術師がはいった時の、――そのはいり方の無造作だったことを、あらためて回想することによって武士の疑惑は深まったらしい。
「女煙術師も曲者《くせもの》らしいが、この屋敷も怪しく思われる」
 で、しばらくは見まわしていた。屋敷内は寝静まっているらしい。人声もしなければ足音もしない。繁っている庭木の一所で、ねぐらをつくっていた雀でもあろうか、ひとしきり羽音が聞こえたが、それとてもすぐ止んでしまって、まったく物音が聞こえなくなった。
「いつまで眺めていたところで、別に得をすることもあるまい。思い切りよく帰るとしよう」
 ――で若い武士は立ち去ろうとしたが、立ち去ることはできなかった。
「印籠に未練がございますなら、お返しすることにいたしましょう」
 潜り門の内側からの女の声が、悪戯《いたずら》ッ児らしい語調をもって、揶揄《やゆ》するように呼んだからである。
「ほう」という若い武士は、ちょっと度胆を抜かれたように、潜り門の前まで寄って行ったが、
「それではやはり拙者の印籠を、あなたにはおすりなされたので?」どうという訳ともなかったが、こんなような丁寧な言葉使いで若い武士は訊き返した。と、すぐに女の声がした。

本職は放火商売

「妾《わたし》にとりましては印籠などは、どうでもよかったのでございますよ。欲しいと思ったのではございませんよ」依然としてその声は悪戯《いたずら》ッ児らしい、揶揄的の調子を帯びていた。潜り門の扉をへだてておりながら、声がハッキリと聞こえて来るのは、扉の合わせ目へ近々と口を寄せて物をいっているからであろう。追っかけて女の声がした。
「妾の本当に欲しいものは、ほかにあるのでございますよ」
「ほう、さようかな、なんでございましょう?」
 どうやら若い武士の性質は、磊落《らいらく》で放胆で明るいらしい、叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]も浴びせずに訊き返した。
 と、女の声がした。
「誠心《まごころ》なのでございますよ」
「誠心? ほほう誠心がお好きか。風変りのものがお好きと見える」
 またもや女の声がした。「鉄石心《てっせきしん》と申しましても、よろしいようでございますよ」
「だんだんヘチ物を望まれるようで」若い武士は興味を感じたらしい、面白そうにこういったが、「忠魂義胆《ちゅうこんぎたん》などはいかがなもので?」――で、女の言葉を待った。
「何より結構でございますよ。ぜひとも頂戴いたしたいもので」だがこういった女の声には、今まであったような揄揶的のところや、悪戯ッ児らしいところなどは、おおよそ封ぜられてなくなっていた。真面目な語調となったのであった。
 しかし若い武士はなんと思ったか、道化た口調で押し切った。「忠魂義胆がご入用なら、これからせいぜい骨を折って仕入れることにいたしましょう」
 ――と、女の声がした。「それにはおよぶまいと存ぜられます。ずっと昔から今日まで、変らずお持ちつづけておいでになる、その忠魂義胆だけで、もうもう十分でございますよ」
「どうもな、いよいよ変な女だ。俺のことをいくらか[#「いくらか」に傍点]知っているらしい」若い武士はいささか気味が悪くなった。で、打ち案じて黙っていた。潜り門の向こう側でも黙っている。で、しばらくはひそか[#「ひそか」に傍点]であった。
 神田川を越した向こう側の、市橋下総守《いちはししもうさのかみ》の屋敷の辺から、二声三声犬の声がしたが、つづいてギャッという悲鳴が起こった。往来の者に蹴られたのでもあろう。佐久間町の二丁目の方角から、駕籠が一挺来かかったが、相生町のほうへ曲がってしまった。
 で、この境地は静かであった、霜でも置いたような月光が、往来を一杯に満たしている。
 と、その時女の声が、潜り門の向こう側から呼びかけた。「妾は掏摸《すり》ではございません。でも掏摸かもしれません。妾は煙術師ではございません。でも煙術師かもしれません。……いえいえ本当の商売はそんなものではございません。放火《ひつけ》商売なのでございますよ。……ちょうどあなた様と同じように!」
 こんな妙なことをいい出したのである。
「ナニ拙者と同じように、放火《ひつけ》商売だとおっしゃいますので?」さもさも驚いたというように、若い武士は胸を背後《うしろ》へ引いたが、「拙者は決して放火などはしませぬ」
 しかし女はうべなわ[#「うべなわ」に傍点]なかったらしい。同じ口調でいいつづけた。「神田の雉子《きじ》町の四丁目で、一刀流の剣道指南の、道場をひらいておいでなされる、山県紋也というお方の本当のご商売は、放火商売なのでございますとも」
 もしもこの時が昼であったならば、若い武士が心から仰天して、その眼を大きくみはったことに、恐らく感づいたことであろう。
「ほう」と若い武士はまたもいったが、「拙者の姓名をご存じとみえる」
「はいはい存じておりますとも。お名前ばかりではござりませぬ。ご素性からご行動から目的まで存じておるのでございますよ。で申し上げるのでございますよ、放火商売が本職だと。……そうして妾は幾度となく、あなた様とお逢いいたしました。そうしてお話をいたしました。ご懇意のはずでございますよ」
 若い武士の山県紋也にとっては女のいうことが何から何まで意表に出るように思われた。「お逢いした覚えはござりませぬが、どこでお逢いしましたかしら?」
「はいはい石置き場のお屋敷で」
 女はクスクスと笑ったようである。

活殺の問答

 石置き場の空屋敷で逢ったという。しかしそういう記憶はなかった。で、紋也はそれをいった。「その石置き場の空屋敷へは、私もたびたびまいりましたよ。しかし一度もあなたらしい、女煙術師などには逢いませんでした」
 するとまたもや笑い声が、潜門扉《くぐりど》の内側から聞こえて来たが、「それでは今度は女煙術師として、お目にかかることにいたしましょう」
「ほう」と紋也はそれを聞くと、声を洩らさざるを得なかった。
「それではあなたは女煙術師のほかに商売を持っておられますので?」
「はいはい、さようでございますとも」女の声は愉快そうであった。
「娘師《むすめし》、邯鄲師《かんたんし》、源氏追い、四ツ師、置き引き、九官引き、攫浚付《かっさらいつけ》たり天蓋《てんがい》引き、暗殺《あんさつ》組の女|小頭《こがしら》、いろいろの商売を持っております」
「うーん」とそれを聞くと山県紋也はこういわざるを得なかった。「参った!」という意味なのである。事実紋也は女のお喋舌《しゃべり》に、かなり参ってしまったのであった。しかし紋也は思い返した。「どこまでもこの俺を嬲《なぶ》る気なのだな」と――で、こだわらず[#「こだわらず」に傍点]に話しかけた。
「それでは石置き場の空屋敷では娘師、邯鄲師、源氏追い、四ツ師、置き引き、九官引き、攫浚付たり天蓋引き、暗殺組の女小頭――といったような商売の中の、その一つの商売人として、私とお逢いくださいましたので?」
 とまた女の笑い声が、潜門扉《くぐりど》の内側から聞こえて来たが、つづいてこういう声がした。「たった今し方も申しました、妾の本当の商売は放火《ひつけ》商売なのでございますよ。で、石置き場の空屋敷では、その本職の放火商売人として、あなたにお目にかかりましたはずで」ここでプツリと話を止めたが、どうやら考え込んでいるようであった。と、後をいい継いだ。奇妙にも声が真面目である「ご回想なすってくださいまし、お思い出しなすってくださいまし、きっとお思い出されましょう。部屋の片隅の卓に倚《よ》って、醜い小男と肩を並べて、あなた様のお話に耳を澄まして、誰よりも先に手を拍《たた》き、誰よりも先に喝采《かっさい》をし、誰よりも先に賛成をする、一人の女がありました事を。……それが妾なのでございますよ」
「ああそれではあの私娼《じごく》か!」山県紋也は思い出した。いかさまそういう女があった。が、紋也には合点がいかなかった。年齢《とし》とそうして風貌との相違が、著るしいがためであった。
「いかさま」と紋也は声をかけた。「そういう女とはあの空屋敷で、行くたびごとに逢いましたよ。しかし、その女は三十五、六で、風采《なり》もいやらしく容貌も醜く、態度も荒《すさ》んで淫蕩《いんとう》で、あなたとは似ても似つかないような、そういう女でありましたよ。たしか私娼《じごく》でありましたはずで」
 すぐに女の声がした。
「顔や姿を変えることなどは、妾にはなんでもありません。年や態度を変えることなども、妾には何でもありません」
「では」と紋也はとがめるようにいった。「数あるあなたの商売の中には私娼《じごく》という商売もありますので」
「はいはい私娼もいたしますとも」
「穢《きたな》い女だ! いやな女だ!」
「でもお信じくださいまし、妾は処女でございますよ」
「何を莫迦《ばか》な! 私娼だというのに!」
「でもお信じくださいまし。一歩手前で踏み止まります」
「一歩手前で?」と鸚鵡《おうむ》返した。
「許さないのでございますよ」
「ああなるほど。……ああなるほど」
「で、処女でございますよ」
 二人はしばらく沈黙した。月がわずかばかり西へまわった。で、紋也が地へ敷いている影法師が少し東へ移った。
「妾の名はお粂《くめ》と申します」潜門扉《くぐりど》の内側の女の声が、沈黙を破ってこういったのを、いうところのキッカケとして、驚くばかりに能弁にお粂という女はいい出した。

恋人同士に

「さっきも妾は申し上げましたが、なんの妾が印籠などに、眼をくれることがございましょう。印籠など欲しくはございません。さっそくお返しいたします。――と、このように申しましたならば、あなた様はおっしゃるでございましょう、では何ゆえ印籠をすったのかと。……それには訳がございます。この妾という人間を、強く強くあなた様に印象づけたく思いましたからで。……これが一つでございます。だがもう一つございます。このお屋敷をあなた様へ強く強く強く強く印象づけたいがためだったので。……つまりあなた様をここの屋敷へ、引っ張って来たかったためだったので……するとあなた様はおっしゃいましょう。ここは何者の屋敷なのかと? どういう性質の屋敷なのかと? ……今はお答えいたしかねます。でもこれだけは申し上げられます。あなた様と同じような考えを持って、あなた様と同じような仕事をしている、そういう人たちの籠《こも》っている、そういう屋敷でございますと。……で、妾は申し上げます。もしもあなた様が何かの事件で、危険が迫ってまいりましたならば決してご遠慮にもご斟酌《しんしゃく》にもおよばず、ここの屋敷へおいでなされましと。ご保護いたすでござりましょう。また私たちにいたしましても、あなた様のようなおりっぱなお方に、保護をしていただきたいのでございますよ。妾は思うのでございますよ。あなた様には敵がありましょうと。表立った敵も、隠れた敵も! ……私たちもそうなのでございますよ、たくさんに敵がございます。表立った敵も隠れた敵も! ……で、妾は申し上げましょう。同盟しなければいけませんと! ……はいはいあなた様と私たちとは! ……だがあなた様はおっしゃいましょう、お前は全体何者なのかと? お前の素性はなんであるかと? お答えすることにいたしましょう」
 潜門扉《くぐりど》の内側から聞こえていた、お粂という女の話し声が、ここでにわかにプッツリと絶えた。が、それもほんのわずかの間で、すぐ声が聞こえて来た。しかしそれは歌声であった。
「くもるとも……何か恨みん……月今宵……晴れを待つべき……身にしあらねば……」朗詠めいた節であった。「ね」とお粂の声がした。
「この和歌を作られた人物と、深い深い関係が、妾にはあるのでございますよ。そうしてこの和歌を作られた人と、あなた様のお父様にあたられる方とも、深い深い関係が、やはりあったはずでございますよ。したがってあなた様と妾とも、深い関係があるものと、こう申し上げてもよろしいようで。ああ……」という一種の嘆息めいた声が、潜門扉の内側から聞こえて来た。「父上同士は師弟で親友! ではお互いの息子と娘は師弟以上に親友以上に……ああ」とまたもや声がした。「恋人同士になったところで、不思議ではないではありませんか! ……恋し合い愛し合い助け合って、そうして同じ道へ向かう! ……なんていいことでございます。……妾はあなた様を恋しております。……でもこれ以上は申し上げられません。……さようならよ、さようならよ! でもまたすぐにお逢いできましょう。……印籠をお返しいたしますよ」
 月光に水のように濡れて見える土塀の甍《いらか》を躍り越えて、石塊のような小さな物が、紋也の頭上へ落ちて来たのは、そういった声の終えたころであった。で紋也は右手を伸ばして、宙で受け止めて握ったが、それはすられた印籠であった。で、手早く腰へつけたが、
「お粂《くめ》殿。お粂殿」と声をかけた。が、お粂は立ち去ったのでもあろうか、潜門扉の内側から返事がなかった。
「はーン」と紋也は笑ったが、自分へ向かって笑ったのである。「これではまるっきり[#「まるっきり」に傍点]化《ば》かされたようなものだ。いつまでもまごまごしていようものなら、どんな目に逢わされるかわからない。帰ろう、帰ろう、家へ帰ろう」――で、紋也は二丁目のほうへ、片側町の家並みに添って、足を早めて歩き出した。しかし十間とは歩かないうちに、足を止めざるを得なかった。異様の行列が行く手のほうからこちらへ歩いて来たからである。

妖艶の姫

 一挺の女駕籠を取り巻いて、数人の男女が歩いて来る。――これが行列の大体であった。異様なことではないではないか。――と、こういう事もいえばいえる。しかしやっぱり異様なのであった。駕籠が第一に異様である。大大名のお姫様が、外出の場合に使用するような、善美をきわめた女駕籠であって、塗りは総体に漆黒《しっこく》で、要所要所に金銀の蒔絵《まきえ》が、無比《むひ》の精巧をもってちりばめ[#「ちりばめ」に傍点]られてある。引き扉《ど》には朱総《しゅぶさ》が飾られてあって、駕籠の動揺に従って、焔《ほのお》のようにユラユラと揺れる。駕籠を取り巻いている男女の姿も、かなり異様なものであった。駕籠の前に立って二人の武士が、足音を盗んで歩いていたが、かぶっているところの覆面頭巾も、着ているところの無地の衣裳も、一様《いちよう》に濃厚な緑色であった。駕籠の後からつき従って来る、二人の武士の服装も、すなわち覆面も無地の衣裳も、同じように濃厚な緑色であった。
 が、まだこれらはよいとしても、駕籠の左右を取り巻いている四人の女たちが揃《そろ》いも揃って、同じように濃厚な緑色の被衣《かつぎ》を深々とかぶっている姿は、どうにも異様といわなければならない。以上を簡単に形容すれば、濃緑《こみどり》の立ち木に取り巻かれて、黒塗りの朱総《しゅぶさ》金銀|蒔絵《まきえ》の駕籠が、ゆらめき出たということができよう。歩き方がいかにもしとやかで、誰も彼も物をいおうとはせず、咳《しわぶき》一つ立てようともしない。しとやか[#「しとやか」に傍点]に進んで来るのである。いやいや異様なのはこればかりではなかった。四人の武士が揃いも揃って、若くてそうして美貌だのに、四人の女が揃いも揃って、老年でそうして醜いのも、異様なことといわなければなるまい。
 こういう異様な行列が、昼間でもあることか深い夜を、田舎《いなか》でもあることか大江戸の町を、辻番などにも咎められずに、しとやか[#「しとやか」に傍点]に練って来るということは、異様以上に奇怪ともいえよう。そういう行列に出会ったのである、山県紋也が足を止めたのは、当然のことというべきであろう。
「いったい何者の行列なのであろう? 駕籠には誰がいるのだろう?」――で、茫然と眺めやった。そういう紋也を驚かせて、異様以上の、怪奇以上の、凄いような事件の起こったのは、それからまもなくのことであった。駕籠が紋也の前まで来て、宙に舁《か》かれたままで静止して、駕籠の扉が内から開けられて、女の顔がのぞいたのが、凄いような事件のはじまりであった。
 月光がさえぎられているがために駕籠の中は闇に閉ざされていたが、その闇をさえ押しのけるほどにも、女の顔色は白かった。年が若いということと、高貴の女性だということと、艶麗の容貌だということと、姫君姿だということが、感覚的にではあったけれど、山県紋也には感じられた。濃緑《こみどり》の衣裳、濃緑の裲襠《かいどり》、それを着ているということも感ぜられた。衣裳の襟から花の茎のように、白く細々しく鮮かに、頸足《えりあし》が抜け出していることも、紋也の眼には見てとれた。
 が、何よりも紋也の瞳に、強く印象されたのは、うつむけた顔の額越しに、凝然《じっ》とみつめている女の眼つきで、よくいえば二粒の宝石であり、悪くいえば蝮《まむし》の眼であるといえた。つまりそのように[#「そのように」に傍点]も光が強くて魅力を持っているのであった。でその眼でみつめられた者は、一種の恍惚とした陶酔境に、墜落しなければならないであろう。闇の中に一輪の白|芙蓉《ふよう》が咲き出て、そこへ二滴の露が溜って、その露が光を放っていると、こうも形容をしたならば、駕籠の中の容貌を、描き出すことができるかも知れない。と、その女が声をかけた。
「この若侍は凛々《りり》し過ぎるよ。接吻《くちづけ》をしても駄目かもしれない。でも妾《わたし》はこういう男も好きだよ。妾はこの男を手に入れてみせる。……でもこの男は拒絶《ことわ》るだろうよ。あの北条左内様のように。でも左内様は妾の物さ。……今夜から妾の物になるのさ。……今夜はこの男には用はないよ。だから今夜は帰るがいいよ。でも妾を覚えておいで。妾のほうでも覚えておくから。……一度|接吻《くちづけ》をしてあげよう。お前はフラフラになるだろう。いいえ一|呼吸《いき》をかけてあげよう。お前はフラフラになるだろう。……一呼吸なのよ! 一呼吸なのよ!」

忽然と消えた駕籠

 高貴の姫君に相違ないのに、駕籠の中の女のそういった声の、なんと荒《すさ》んでいることぞ! そうしてそういった言葉つきの、なんとはしたなく[#「はしたなく」に傍点]下卑《げび》ていることぞ! たたずんで見ていた山県紋也は驚きと一緒にいわれぬ憎悪を胸に持たざるを得なかった。
「それにしてもこの女は何者なのであろう? 白痴でなければ狂人《きちがい》だ。何をいいかけているのだろう? 意味をなさない言葉ではないか……それにしてもこれはどうしたのだ? 胸を掻き乱す芳香は!」
 ※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]物《たきもの》を※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]《た》いているのでもあろうか? 香料を身につけているのでもあろうか? 駕籠の中から形容に絶した、馨《かんば》しい匂いが匂って来た。いやいやそうではなさそうであった。※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]物を※[#「火+(麈-鹿)」、第3水準1-87-40]いているのでもなければ香料を身につけているのでもなくて、全く別の何物かから匂いは匂って来るようであった。では女の体臭であろうか? いやいやそうでもなさそうであった。もしも体臭であったならば、駕籠の扉をあけたその時から、匂いは匂って来なければならない。しかるに馨しいその匂いは、女が物をいい出した時から、忽然と匂い出して来たのである。
「もしこの芳香をたてつづけ[#「たてつづけ」に傍点]に、四半刻《しはんとき》というものをきいていたならば俺はそれこそ色情狂《いろきちがい》になろう」山県紋也がこう思ったほどにもその匂いは催情的のものであった。そういう匂いを漂わせながら、なおも女はみつめていた。その女を蔽うているものといえば、黒塗り蒔絵の駕籠である。その駕籠を護っているものといえば、被衣《かつぎ》をかぶった四人の老女と、覆面姿の四人の若武士と、脛《すね》を出した二人の駕籠|舁《か》きとである。そうしてそれらを見下ろしているのは、白けた晩《おそ》い大輪の月で、燐のような光をこぼしている。
 この一群をほかにしては人ッ子一人も通っていない。で、往来は空っぽであった。往来の片側に軒を並べて、無数の家々は立っていたが雨戸も窓もとざされているので、一筋の燈火さえ洩れて来ない。屋根ばかりを月光に化粧させて、地の上へ一列の家影を引いて、静まり返っているばかりである。この光景は幽鬼的といえる。そういう幽鬼的の光景を前にあたかも釘づけにでもされたかのように山県紋也は突っ立っていたが、それは動くことができないからであった。魅せられ麻痺されているからであった。
「匂いはいったいどこから来るのだ。……駕籠の中の女は何者なのだ。……なぜ老女たちも若い武士たちも、黙って無表情で突っ立っているのだ。……こいつらは俺を莫迦《ばか》にしている」
 いかさま四人の被衣をかぶった老女と、覆面姿の四人の武士とは、無表情のままで立っていた。顔が無表情というよりも、躯と態度とが無表情なのであった。すなわち老女も若い武士も、そこに紋也がいるということを、勘定に入れていないかのように、紋也のほうを見ようともせずに、空を見上げているのであった。
「こういう事件には慣れている」
「俺たちは毎々の出来事なのだ」
 ――こう語ってでもいるような、それは無視した態度でもあれば、冷淡をきわめた態度でもあった。
 無表情でもなければ冷淡でもなく、まして無視していないものといえば、駕籠の中の女の眼であった。これは反対に執拗に、あたかも検査でもするかのように、紋也をいつまでもみつめている。
 こういう両様の態度の中へ、紋也ははさまれているのである。しだいに怒りの感情が、胸の中へ盛り上がり昂《たか》まって来たのは、当然のことといってよかろう。「莫迦にしているのだ。嬲《なぶ》っているのだ」紋也はそろそろと右手を上げた。「叩き斬ってやろう! 叩き斬ってやろう!」で刀の柄を握った。と、その時駕籠の中で、ゆるゆると持ち上がる白い物があった。女が腕を上げたのである。と、コトリと音がした。見れば駕籠の扉がとざされている。女が内からとざしたのであろう。すぐに女の声がした。
「さあ駕籠をやるがよい」
 駕籠がユラユラと動き出して、それを取り巻いた男女の者が長く往来へ影を曳《ひ》いて、佐久間町三丁目の方角へ、シトシトシトシトと歩き出したのは、それからまもなくのことであって、そのために紋也は殺生沙汰から、あやうく救われることができたが、どうしたものか、にわかに「あッ」といった。駕籠の一団が三間足らずの先で、忽然とばかりに消えたからである。
 駕籠の一団が紋也の眼の前の、三間足らずの先において、忽然とばかりに消えてしまったのは争われない事実ではあったけれど、さりとて地の中へ潜《くぐ》ったのでもなければ天へ上って行ったのでもなかった。一軒の家の中へはいったのである。
 片側町の家並みが、月の光に染められもせずに、黒々と線を引いていたが、その一所に小さい門を持った、二階建ての家が立っていた。その造りは貧しげで、かつ小さくて狭そうであった。これという特色も備えていない、隠居家めいた家といえよう。
 と、駕籠の一団であるが、その家の小門の前まで行くと予定の行動だというかのように、歩みをとどめて静まった。と、一人の若い武士であったが、群れから離れて小門の前まで行くと、ホトホトと小門を叩いたようであった。中からは声がしたらしい、まもなく小門が一杯に開いたが、それが再び閉ざされた時には、駕籠の一団は見えなくなっていた。小門の中へはいったのである。
 だからこういう順序からいえば、駕籠の一団の見えなくなったのを、「忽然とばかりに消えてしまった」と、こういうことはいえないかもしれない。しかし紋也からいう時には、「忽然とばかりに消えてしまった」と、やはりいわなければならなかった。というのは駕籠の一団が、さも物々しく思われたがために、いずれは駕籠の一団は、ゆるゆると往来を進んで行って、厳《いかめ》しい立派な大きな屋敷へ、はいるものと思っていたのである。しかるに予想は裏切られて、すぐ眼の前の貧しげの家へ無造作にはいり込んでしまったのである。
「あやかし[#「あやかし」に傍点]のように忽然と、眼の前へ現われて来た駕籠の一団は、あやかし[#「あやかし」に傍点]のように忽然と、眼の前から消えてなくなってしまった」
 こう紋也には思われたのである。
 自然紋也の心の中へ、駕籠の一団を吸い込んだ小門を持った貧しげの家が、どういう性質の家であるのか、そうしてその家へはいり込んだ、駕籠の一団の正体と、そうしてこれからの行動とを思い切って見きわめてやりたいという、好奇的情熱が燃え上がったことは、至極のことというべきであろう。
 いまだに流れている額の汗を、紋也は手の甲で拭《ぬぐ》いながら、しばらくは立ったままで考え込んだ。「まだまだ俺の心や躯は麻痺陶酔をしているようだ」しかし紋也は歩き出した。そうして小門の前へまで行った。耳を澄ましたが物音もしない。屋内はひたすら森閑としている。「こうなると俺は俺の眼を疑わざるを得なくなった。はたして駕籠の一団は、この家の中へはいったのであろうか? はいったように思われる。が、それにしては静かすぎるではないか」なおも耳を傾けたが、依然として屋内は静かであった。「ひとつ裏口へでもまわってみようか」屋内が静かだということが、いっそうに好奇的情熱を、紋也の心へ燃え立たせたらしい。
 紋也はその家の壁に添って、横手の露路を裏へまわった。裏は小広い空地ではあったが、地面には雑草がぼうぼうと生えて、ところどころに木立ちがあって、切り石などが置いてあった。建築用の空地のようである。一所に生白く光るものがあった。地面には水が溜っていて、月が接吻《くちづ》けているからであろう。紋也は少しく距離を置いて、家のようすを一渡り見た。黒い板塀がかかっていて、その上へ家の二階だけが、月明の空を押し分けて、黒々と輪郭をつけていた。雨戸が引かれているからでもあろうか、一筋の燈火さえ洩れていない。依然として屋内は静かである。
「こうなると俺は俺の耳を、疑わなければならないようだ。あれだけの人数がはいり込んだのだ。人声のしないはずがない。それだのに人声がしないばかりか、咳《しわぶき》の声さえ聞こえない。……聾者《つんぼ》になったのではあるまいかな?」
 紋也は少しく莫迦《ばか》らしくなった。で、家へ帰ろうとした。で、塀に添って露路のほうへ、二足三足歩き出した。だが、その次に起こったのが第二段の恐ろしい出来事であった。塀の内側から足の音がしたが、ややあって塀の一所へ、ポッカリと四角の穴があいた。切り戸が内側からあけられたのらしい。と、その切り戸から黒い物体が、無造作に塀の外へ転がし出されたが、またすぐに切り戸は閉ざされてしまった。
「はて、なんだろう?」と怪しみながら、紋也は物体へ近寄ったが「若い男の死骸だ!」――と、数人の足音がした。

怪異連続

 塀の切り戸

になりましたようで。ハッ、ハッ、ハッ、これも結構。……それではご免をこうむります。……あなた様もお帰宅なさりませ」
「※[#歌記号、1-3-28]うらに来いとの笛の音、うら道来いとの笛の音……いや、いや、いや、来てはなりませぬ」
 嘉門はクルリと振り返ったが、例の蹣跚《まんさん》とした足どりで、馬酔木の叢の裾をまわって、今度こそ左内とお菊とを見すてて、家のほうへ引き返した。
 このように泉嘉門のために、あけすけに拒絶をされてみれば、情熱家の北条左内としても、立ち去るよりほかに手段はなかった。悲しみと絶望とに顫えながら、それでも左内は取り乱そうとはせずに、
「お菊殿お暇《いとま》をいたします」と、このように声をかけておいて、捨て石につっぷし[#「つっぷし」に傍点]て泣きじゃくっているお菊へ背中を向けたかと思うと百日紅《さるすべり》の立ち木の幹をまわって、その向こうに立っている裏木戸から抜けて、左内は姿を消してしまった。
 で、その後のここの庭には、白々と頸《うなじ》を日にさらして、その頸へかかった後ろ髪を、細《こま》かく細かく細かく、顫わせて泣いているお菊のほかには、人の姿は見られなかった。
 が、お菊の悲しい心を、慰めようとでもするかのように、一人の女が現われて来た。ほかでもないそれは山県紋也の、妹にあたる鈴江であったが、泉嘉門の屋敷の玄関へ、小走るように駆け込んで来た。
 と、玄関の左の側に、裏庭へ通う小門があったが、そこから嘉門が顔をのぞかせた。
「おおこれは鈴江様で」
「お師匠様でござりますか。今日は稽古日でございますので、兄とともどもまいりました」
「稽古? ははあ、お狂言のな。……が、今日は駄目でござる。このように酔いしれて[#「しれて」に傍点]おりますのでな。……ああそうそうちょうど幸い、お菊が泣いておりますので、あなた様の明るいご気象で、慰めてやってくださりませ。……さあさあこちらへおいでなされ。裏庭の片隅で泣いております。※[#歌記号、1-3-28]柳の下のお稚子《ちご》様は、朝日に向こうて、お色が黒い――おいでくだされ、おいでくだされ」
 小門をあけて引き入れたので、鈴江は胆をつぶしながらも、裏庭へはいって行った時、兄の紋也が笑《えみ》をふくみながら、往来から玄関へはいって来た。
「ご免くだされ、ご免くだされ」
 声をかけたが返辞がない。ただし裏庭の方角から、酔っているらしい嘉門のうた[#「うた」に傍点]声が、むしろ悲壮に聞こえて来た。「今日もお酒を召されたと見える」つぶやいて小門をくぐろうとした時に、またもや一人の侍が、往来から玄関へはいって来た。
「うむ、貴殿は山県氏か」
「ほほう、これはどなたでござるな?」
「拙者は桃ノ井兵馬でござる」

顔を合わせた讐敵《しゅうてき》

 一歩進んだ桃ノ井兵馬は、激怒に燃えるするどい[#「するどい」に傍点]瞳を、紋也の顔へ注いだが、どうしたのかにわかに笑い出した。
「貴殿の生活《くらし》向きはいかがでござる」
「え?」とこれには紋也のほうが、度胆を抜かれた格好となったが、「ご親切は感謝、心配はござらぬ、裕福にくらしておりますよ」
「アッハッハッ、そうでもあるまい」兵馬はまたもや笑ったが、「道場の主の浪人ぐらし、仕官の拙者とは相違がござろう」
「いらぬ斟酌《しんしゃく》、ご無用ご無用」
「拙者の主人をご存知かな?」――なぜこんなことをいい出したのであろう? 兵馬はこういって紋也を見た。
「知りもいたさねば知ろうとも思わぬ」紋也の冷淡な声というものは!
 が、兵馬は後をつづけた。「お明かしいたそう、拙者の主人を。権臣《けんしん》北条美作殿よ」
「ほほう」という山県紋也は、のぞくようにして兵馬を見たが、すぐにその眼へ冷笑を浮かべた。
「結構なご主人、似つかわしゅうござる。まことに貴殿に似つかわしゅうござる」
「貴殿もご仕官をなされてはいかが?」兵馬の笑殺的な声というものは!
「誰にな?」と紋也は怪訝《けげん》そうにした。
「美作殿へよ、いうまでもござらぬ」
「ふん」と紋也は突っぱねたが、「まずご免、いやでござる」
「何ゆえな?」と兵馬は毒々しい。
「一世の奸物! 彼《かれ》美作! なんの拙者が! 穢《けが》らわしいわい!」
「それに貴殿には讐敵《しゅうてき》のはずで」
「まさしくさよう、讐敵でござる」
「さてそこだ、不思議なことがある」罠《わな》にでも落とそうとするのであろうか、兵馬はネチネチといって来たが、「一世の奸物で貴殿の讐敵の、その北条の美作のご前の、ご子息の北条左内殿と、貴殿はお仲がよろしいそうで。不思議だの、なぜでござろう?」
 ここへ搦《から》ませようとしたものと見える。こういうと小気味よさそうに、ニヤリニヤリとほくそえんだ。「申し分ござらば、承るとしましょう」
 しかし紋也はこういわれても、さして動揺しなかった。かえって愉快そうに笑いたくなるのである。
「美作殿は一世の奸物、これに相違はござらぬよ。が、ご子息の左内様は、それに反して潔白のご気象、……で、交《まじわ》りを結んでおるばかりで」
「ナーニそうではござるまい」兵馬は狡猾な笑い方をしたが、「取り入ろうと思っていられるのでござろう」
「誰にな?」と紋也は不審そうにした。
 と、兵馬はどうしたものか、話を横にそらしたが、不意にこんなことをいい出した。
「ここの主人《あるじ》の嘉門殿には、美しい娘がいられるはずで」
 ――おやおや妙なことをいい出したぞ――紋也は見当を失ったが、
「いかにもござる、お菊殿と申す、それがなんとかいたしましたかな?」
 ――と、また兵馬はニヤリニヤリとしたが、
「駄目でござるよ、駄目でござるよ」
 いよいよ紋也にはわからなくなった。で黙ってみつめやった。そういう山県紋也のようすが、兵馬にはおかしく思われたのであろう、例によって、唇をまくり上げて、犬歯を出して笑ったが、
「いけないいけない、取り持ってはいけない!」
 しかしどうにもこの言葉も紋也には意味がわからなかった。で、黙然とみつめている。
「というわけはこういうわけで」兵馬は紋也のようすが、ますますおかしく思われるのであろう、嵩《かさ》にかかった能弁で、まくし立てるように喋舌り出した。
「な、ご貴殿、そうでござろう。やはり浪人は辛《つら》いもので。そこで誰かに仕官をしたい。北条のご前は権臣だ。そこでご前に仕えようと思う。が、いかんせん伝手《つて》がない。考えたのが左内様のことよ。将を獲《え》ようとする者は、まずその馬を射よというので美人の娘のお菊をけしか[#「けしか」に傍点]け、巧く左内様に取りもって、そいつの縁で北条のご前へ……ハッハッハッ、いかがでござる! 拙者の眼力は狂うまいがな」しかしここまでいってくると、兵馬はまたもや話をそらせた。「紋也殿、紋也殿、紋也殿そういえば貴殿の俤《おもかげ》も、よくご尊父に似ていられますな」
 すると今度は紋也のほうが、ヌッとばかりに前へ出た。

父の怨みを繰り返す

 ヌッとばかりに前へ出た、山県紋也の心持ちには、いいたいことがたくさんあったが、紋也はいっさいそれを封じて、逆手で相手を圧伏しようとした。「やはりな」とまずもって軽《かろ》らかにいった。「美作殿と左内殿との、父子の関係は別なものとして、親と子は万事が似ているものと見えます。心も似るでござりましょうよ」
「心も?」といった兵馬の声にはなんとなく不安なものがあったが、
「心? いわっしゃい! なんの心か!」
「さればさ」紋也は嘲《あざけ》るようにしたが、「裏切る心よ! ……伝わっておろうよ!」
「裏切る心! ふふんばか[#「ばか」に傍点]な!」こうはいったものの桃ノ井兵馬はいよいよ不安に堪えないようであった。
 と、そういう兵馬の心を、早くも紋也は見抜いたらしく、紋也のすがすがしい性質としては、少しく大人気ないほどにも、突っ込んだ調子で繰り返した。
「美作殿と左内殿との、父子の関係は別なものとして、親や子は万事が似ているものと見えます。心も似るでござりましょうよ」
 で、相手の返辞を待った。
 紋也の言葉は兵馬に痛いもののように思われた。ブルッと一つ身顫《みぶる》いをしたが、噛みつきたげの兇猛の眼つきで、紋也の顔を見上げ見下ろした。
「なるほど」と突然に兵馬はいったがその声は憤懣《ふんまん》に満たされていた。「裏切る心が拙者にあると、こう貴殿にはいわれる気か!」相手の言葉の出よう一つで、すぐにでも切ろうとでもいうように、柄頭を拳でトントンと打った。と、目貫《めぬき》の象篏《ぞうがん》が、黄金無垢《きんむく》でできていたのでもあろう。陽をはねてキラキラと輝いた。
「さようさ」と紋也はうそぶくようにいったが、これもいつしか右の掌