西瓜—— 岡本綺堂

     

 これはM君の話である。M君は学生で、ことしの夏休みに静岡|在《ざい》の倉沢という友人をたずねて、半月あまりも逗留していた。

 倉沢の家は旧幕府の旗本で、維新の際にその祖父という人が旧主君の供をして、静岡へ無禄移住をした。平生から用心のいい人で、多少の蓄財もあったのを幸いに、幾らかの田地を買って帰農したが、後には茶を作るようにもなって、士族の商法がすこぶる成功したらしく、今の主人すなわち倉沢の父の代になっては大勢の雇人《やといにん》を使って、なかなか盛んにやっているように見えた。祖父という人はすでに世を去って、離れ座敷の隠居所はほとんど空家同様になっているので、わたしは逗留中そこに寝起きをしていた。
「母屋《おもや》よりもここの方が静かでいいよ。」と、倉沢は言ったが、実際ここは閑静で居心のいい八畳の間であった。しかしその逗留のあいだに三日ほど雨が降りつづいたことがあって、わたしもやや退屈を感じないわけには行かなくなった。
 勿論、倉沢は母屋から毎日|出張《でば》って来て、話し相手になってくれるのではあるが、久し振りで出逢った友達というのではなし、東京のおなじ学校で毎日顔をあわせているのであるから、今さら特別にめずらしい話題が湧き出して来よう筈はない。その退屈がだんだんに嵩《こう》じて来た第三日のゆう方に、倉沢は袴羽織という扮装《いでたち》でわたしの座敷へ顔を出した。かれは気の毒そうに言った。
「実は町にいる親戚の家から老人が急病で死んだという通知が来たので、これからちょっと行って来なければならない。都合によると、今夜は泊まり込むようになるかも知れないから、君ひとりで寂しいだろうが、まあ我慢してくれたまえ。このあいだ話したことのある写本だがね。家《うち》の者に言いつけて土蔵の中から捜し出させて置いたから、退屈しのぎに読んで見たまえ。格別面白いこともあるまいとは思うが……。」
 彼は古びた写本七冊をわたしの前に置いた。
「このあいだも話した通り、僕の家の六代前の主人は享保から宝暦のころに生きていたのだそうで、雅号を杏雨《きょうう》といって俳句などもやったらしい。その杏雨が何くれとなく書きあつめて置いた一種の随筆がこの七冊で、もともと随筆のことだから何処まで書けばいいということもないだろうが、とにかくまだこれだけでは完結しないとみえて、題号さえも付けてないのだ。維新の際に祖父も大抵のものは売り払ってしまったのだが、これだけはまず残して置いた。勿論、売るといったところで買い手もなく、さりとて紙屑屋へ売るのも何だか惜しいような気がするので、保存するという意味でもなしに自然保存されて、今日まで無事であったというわけだが、古つづらの底に押し込まれたままで誰も読んだ者もなかったのを、さきごろの土用干しの時に、僕が測らず発見したのだ。」
「それでも二足三文で紙屑屋なんぞに売られてしまわなくって好かったね。今日《こんにち》になってみれば頗《すこぶ》る貴重な書き物が維新当時にみんな反古《ほご》にされてしまったからね。」と、わたしはところどころに虫くいのある古写本をながめながら言った。
「なに、それほど貴重な物ではないに決まっているがね。君はそんなものに趣味を持っているようだから、まあ読んでみて、何か面白いことでもあったら僕にも話してくれたまえ。」
 こう言って倉沢は雨のなかを出て行った。かれのいう通り、わたしは若いくせにこんなものに趣味をもっていて、東京にいるあいだも本郷や神田の古本屋あさりをしているので、一種の好奇心も手伝ってすぐにその古本をひき寄せて見ると、なるほど二百年も前のものかも知れない。黴《かび》臭いような紙の匂いが何だか昔なつかしいようにも感じられた。一冊は半紙廿枚綴りで、七冊百四十枚、それに御家《おいえ》流で丹念に細かく書かれているのであるから、全部を読了するにはなかなかの努力を要すると、わたしも始めから覚悟して、きょうはいつもよりも早く電燈のスイッチをひねって、小さい食卓《ちゃぶだい》の上でその第一冊から読みはじめた。
 随筆というか、覚え帳というか、そのなかには種々雑多の事件が書き込まれていて、和歌や俳諧の風流な記事があるかと思うと、公辺の用務の記録もある。題号さえも付けてないくらいで、本人はもちろん世間に発表するつもりはなかったのであろうが、それにしても余りに乱雑な体裁《ていさい》だと思いながら、根《こん》よく読みつづけているうちに「深川仇討の事」「湯島女殺しの事」などというような、その当時の三面記事をも発見した。それに興味を誘われて、さらに読みつづけてゆくと、「稲城《いなぎ》家の怪事」という標題の記事を又見付けた。
 それにはこういう奇怪の事実が記《しる》されてあった。
 原文には単に今年の七月初めと書いてあるが、その年の二月、行徳《ぎょうとく》の浜に鯨が流れ寄ったという記事から想像すると、それは享保十九年の出来事であるらしい。日も暮れ六つに近い頃に、ひとりの中間体《ちゅうげんてい》の若い男が風呂敷づつみを抱えて、下谷《したや》御徒町《おかちまち》辺を通りかかった。そこには某藩侯の辻番所《つじばんしょ》がある。これも単に某藩侯とのみ記してあるが、下谷御徒町というからは、おそらく立花家の辻番所であろう。その辻番所の前を通りかかると、番人のひとりが彼《か》の中間に眼をつけて呼びとめた。
「これ、待て。」
 由来、武家の辻番所には「生きた親爺《おやじ》の捨て所」と川柳に嘲られるような、半|耄碌《もうろく》の老人の詰めているのが多いのであるが、ここには「筋骨たくましき血気の若侍のみ詰めいたれば、世の人常に恐れをなしけり」と原文に書いてある。その血気の若侍に呼びとめられて、中間はおとなしく立ちどまると、番人は更に訊《き》いた。
「おまえの持っているものは何《なん》だ。」
「これは西瓜でござります。」
「あけて見せろ。」
 中間は素直に風呂敷をあけると、その中から女の生首《なまくび》が出た。番人は声を荒くして詰《なじ》った。
「これが西瓜か。」
 中間は真っ蒼になって、口も利けなくなって、唯ぼんやりと突っ立っていると、他の番人もつづいて出て来て、すぐに彼を捻じ伏せて縄をかけてしまった。三人の番人はその首をあらためると、それは廿七八か、三十前後の色こそ白いが醜《みにく》い女で、眉も剃らず、歯も染めていないのを見ると、人妻でないことは明らかであった。ただ不思議なのは、その首の切口から血のしたたっていないことであるが、それは決して土人形の首ではなく、たしかに人間の生首である。番人らは一応その首をあらためた上で、ふたたび元の風呂敷につつみ、さらにその首の持参者の詮議に取りかかった。
「おまえは一体どこの者だ。」
「本所の者でござります。」
「武家奉公をする者か。」
 それからそれへと厳重の詮議に対して、中間はふるえながら答えた。かれはまだ江戸馴れない者であるらしく、殊に異常の恐怖に襲われて半分は酔った人のようになっていたが、それでも尋ねられることに対しては皆、ひと通りの答弁をしたのである。彼は本所の御米蔵《おこめぐら》のそばに小屋敷を持っている稲城《いなぎ》八太郎の奉公人で、その名を伊平といい、上総《かずさ》[#ルビの「かずさ」は底本では「かずき」]の八幡在から三月前に出て来た者であった。したがって、江戸の勝手も方角もまだよく判らない。きょうは主人の言いつけで、湯島の親類へ七夕《たなばた》に供える西瓜を持ってゆく途中、道をあやまって御徒町の方角へ迷い込んで来たものであるということが判った。
「湯島の屋敷へは今日はじめて参るものか。」と、番人は訊いた。
「いえ、きょうでもう四度目でござりますから、なんぼ江戸馴れないと申しても、道に迷う筈はないのでござりますが……。」と、中間は自分ながら不思議そうに小首をかしげていた。
「主人の手紙でも持っているか。」
「御親類のことでござりますから、別にお手紙はござりません。ただ口上だけでござります。」
「その西瓜というのはお前も検《あらた》めて来たのか。」
「お出入りの八百屋へまいりまして、わたくしが自分で取って来て、旦那様や御新造様のお目にかけ、それで宜しいというので風呂敷につつんで参ったのでござりますから……。」と、かれは再び首をかしげた。「それが途中でどうして人間の首に変りましたか。まるで夢のようでござります。まさかに狐に化かされたのでもござりますまいが……。なにがどうしたのか一向にわかりません。」
 暮れ六つといっても、この頃の日は長いので往来は明るい。しかも江戸のまん中で狐に化かされるなどということのあるべき筈がない。さりとて田舎者丸出しで見るから正直そうなこの若い中間が嘘いつわりを申立てようとも思われないので、番人らも共に首をかしげた。第一、なにかの子細があって人間の生首を持参するならば、夜中《やちゅう》ひそかに持ち運ぶべきであろう。暮れ方といっても夕日の光りのまだ消え残っている時刻に、平気でそれを抱えあるいているのは、あまりに大胆過ぎているではないか。もし又、かれの申立てを真実とすれば、近ごろ奇怪千万の出来事で、西瓜が人間の生首に変るなどとは、どう考えても判断の付かないことではないか。番人らも実に思案に惑った。
「どうも不思議だな。もう一度よく検めてみよう。」
 かれらは念のために、再びその風呂敷をあけて見て、一度にあっ[#「あっ」に傍点]と言った。中間も思わず声をあげた。
 風呂敷につつまれた女の生首は元の西瓜に変っているのである。叩いてみても、転がして見ても、それは確かに青い西瓜である。西瓜が生首となり、さらに西瓜となり、さながら魔術師に操られたような不思議を見せたのであるから、諸人のおどろかされるのも無理はない、それも一人の眼ならば見損じということもあろうが、若い侍が三人、若い中間が一人、その四人の眼に生首とみえたものが忽ち西瓜に変るなどとは、まったく狐に化かされたとでもいうのほかはあるまい。かれらは徒《いたず》らに呆れた顔を見合せて、しばらくは溜息をついているばかりであった。

     

 伊平は無事に釈《ゆる》された。
 いかに評議したところで、結局どうにも解決の付けようがないので、武勇を誇るこの辻番所の若侍らも伊平をそのまま釈放してしまった。たといその間にいかなる不思議があったにしても、西瓜が元の西瓜である以上、かれらはその持参者の申立てを信用して、無事に済ませるよりほかはなかったのである。伊平は早々にここを立去った。
 表へ出て若い中間はほっとした。かれは疑問の西瓜をかかえて、湯島の方へ急いで行きかけたが、小半町《こはんちょう》ほどで又立ちどまった。これをこのまま先方へとどけて好いか悪いかと、かれは不図《ふと》かんがえ付いたのである。どう考えても奇怪千万なこの西瓜を黙って置いて来るのは何だか気がかりである。さりとて、途中でそれが生首に化けましたなどと正直にいうわけにもいくまい。これはひとまず自分の屋敷へ引っ返して、主人に一応その次第を訴えて、なにかの指図を仰ぐ方が無事であろうと、かれは俄かに足の方角を変えて、本所の屋敷へ戻ることにした。
 辻番所でも相当に暇取ったので、長い両国橋を渡って御米蔵に近い稲城の屋敷へ帰り着いたころには、日もまったく暮れ切っていた。稲城は小身の御家人《ごけにん》で、主人の八太郎夫婦と下女一人、僕《しもべ》一人の四人暮らしである。折りから主人の朋輩の池部郷助《いけべごうすけ》というのが来合せて、奥の八畳の縁さきで涼みながら話していた。狭い屋敷であるから、伊平は裏口からずっと通って、茶の間になっている六畳の縁の前に立つと、御新造《ごしんぞう》のお米《よね》は透かし視て声をかけた。
「おや、伊平か。早かったね。」
「はい。」
「なんだか息を切っているようだが、途中でどうかしたのかえ。」
「はい。どうも途中で飛んだことがござりまして……。」と、伊平は気味の悪い持ち物を縁側におろした。
「実はこの西瓜が……。」
「その西瓜がどうしたの。」
「はい。」
 伊平はなにか口ごもっているので、お米も少し焦《じ》れったくなったらしい、行燈の前を離れて縁側へ出て来た。
「そうして、湯島へ行って来たの。」
「いえ、湯島のお屋敷へは参りませんでした。」
「なぜ行かないんだえ。」
 訳を知らないお米はいよいよ焦れて、自分の眼のまえに置いてある風呂敷づつみに手をかけた。
「実はその西瓜が……。」と、伊平は同じようなことを繰返していた。
「だからさ。この西瓜がどうしたというんだよ。」
 言いながらお米は念のために風呂敷をあけると、たちまちに驚きの声をあげた。伊平も叫んだ。西瓜は再び女の生首と変っているのである。
「何だってお前、こんなもの持って来たのだえ。」
 さすがは武家の女房である。お米は一旦驚きながらも、手早くその怪しい物に風呂敷をかぶせて、上からしっかりと押え付けてしまった。その騒ぎを聞きつけて、主人も客も座敷から出て来た。
「どうした、どうした。」
「伊平が人間の生首を持って帰りました。」
「人間の生首……。飛んでもない奴だ。わけを言え。」と、八太郎も驚いて詮議した。
 こうなれば躊躇してもいられない。もともとそれを報告するつもりで帰って来たのであるから、伊平は下谷の辻番所におけるいっさいの出来事を訴えると、八太郎は勿論、客の池部も眉をよせた。
「なにかの見違いだろう。そんなことがあるものか。」
 八太郎は妻を押しのけて、みずからその風呂敷を刎ねのけてみると、それは人間の首ではなかった。八太郎は笑い出した。
「それ見ろ。これがどうして人間の首だ。」
 しかしお米の眼にも、伊平の眼にも、たしかにそれが人間の生首に見えたというので、八太郎は行燈を縁側に持ち出して来て、池部と一緒によく検《あらた》めてみたが、それは間違いのない西瓜であるので、八太郎はまた笑った。しかし池部は笑わなかった。
「伊平は前の一件があるので、再び同じまぼろしを見たともいえようが、なんにも知らない御新造までが人間の生首を見たというのは如何《いか》にも不思議だ。これはあながちに辻番人の粗忽や伊平の臆病とばかりは言われまい。念のためにその西瓜をたち割って見てはどうだな。」
 これには八太郎も異存はなかった。然らば試みに割ってみようというので、彼は刀の小柄を突き立ててきりきりと引きまわすと、西瓜は真っ紅な口をあいて、一匹の青い蛙を吐き出した。蛙は跳ねあがる暇もなしに、八太郎の小柄に突き透された。
「こいつの仕業かな。」と、池部は言った。八太郎は西瓜を真っ二つにして、さらにその中を探ってみると、幾すじかの髪の毛が発見された。長い髪は蛙の後足《あとあし》の一本に強くからみ付いて、あたかもかれをつないでいるかのようにも見られた。
 髪の毛は女の物であるらしかった。西瓜が醜《みにく》い女の顔にみえたのも、それから何かの糸を引いているのかも知れないと思うと、八太郎ももう笑ってはいられなくなった。お米の顔は蒼くなった。伊平はふるえ出した。
「伊平。すぐに八百屋へ行って、この西瓜の出どころを詮議して来い。」と、主人は命令した。
 伊平はすぐに出て行ったが、暫くして帰って来て、主人夫婦と客の前でこういう報告をした。八百屋の説明によると、その西瓜は青物市場から仕入れて来たのではない。柳島《やなぎしま》に近いところに住んでいる小原数馬《おはらかずま》という旗本屋敷から受取ったものである。小原は小普請入《こぶしんい》りの無役といい、屋敷の構えも広いので、裏のあき地一円を畑にしていろいろの野菜を作っているが、それは自分の屋敷内の食料ばかりでなく、一種の内職のようにして近所の商人《あきんど》にも払い下げている。なんといっても殿様の道楽仕事であるから、市場で仕入れて来るよりも割安であるのを幸いに、ずるい商人らはお世辞でごまかして、相場はずれの廉値《やすね》で引取って来るのを例としていた。八百屋の亭主は伊平の話を聴いて顔をしかめた。
「実は小原さまのお屋敷から頂く野菜は、元値も廉し、品も好し、まことに結構なのですが、ときどきにお得意さきからお叱言《こごと》が来るので困ります。現にこのあいだも南瓜《かぼちゃ》から小さい蛇が出たと言ってお得意から叱られましたが、それもやっぱり小原さまから頂いて来たのでした。ところで、今度はお前さんのお屋敷へ納めた西瓜から蛙が出るとは……。尤もあの辺には蛇や蛙がたくさん棲んでいますから、自然その卵子《たまご》がどうかしてはいり込んで南瓜や西瓜のなかで育ったのでしょうな。しかし西瓜が女の生首に見えたなぞは少し念入り過ぎる。伊平さんも真面目そうな顔をしていながら、人を嚇かすのはなかなか巧いね。ははははは。」
 八百屋の亭主も西瓜から蛙の飛び出したことだけは信用したらしかったが、それが女の首に見えたことは伊平の冗談と認めて、まったく取合わないのであった、伊平はそれが紛れもない事実であることを主張したが、口下手の彼はとうとう相手に言い負かされて、結局不得要領で引揚げて来たのである。しかし、かの西瓜が小原数馬の畑から生れたことだけは明白になった。同じ屋敷の南瓜から蛇の出たことも判った。しかしその蛇にも女の髪の毛がからんでいたかどうかは、伊平は聞き洩らした。
 もうこの上に詮議の仕様もないので、八太郎はその西瓜を細かく切り刻んで、裏手の芥溜《ごみため》に捨てさせた。あくる朝、ためしに芥溜をのぞいて見ると、西瓜は皮ばかり残っていて、紅い身は水のように融《と》けてしまったらしい。青い蛙の死骸も見えなかった。
 事件はそれで済んだのであるが、八太郎はまだ何だか気になるので、二、三日過ぎた後、下谷の方角へ出向いたついでに、かの辻番所に立寄って聞きあわせると、番人らは確かにその事実のあったことを認めた。そうして、自分たちは今でも不審に思っていると言った。それにしても、なぜ最初に伊平を怪しんで呼びとめたかと訊くと、唯なんとなくその挙動が不審であったからであると彼等は答えた。江戸馴れない山出しの中間が道に迷ってうろうろしていたので、挙動不審と認められたのも無理はないと八太郎は思った。しかもだんだん話しているうちに、番人のひとりは更にこんなことを洩らした。
「まだそればかりでなく、あの中間のかかえている風呂敷包みから生血《なまち》がしたたっているようにも見えたので、いよいよ不審と認めて詮議いたしたのでござるが、それも拙者の目違いで、近ごろ面目もござらぬ。」
 それを聞かされて、八太郎はまた眉をひそめたが、その場はいい加減に挨拶して別れた。その西瓜から蛙や髪の毛のあらわれた事など、彼はいっさい語らなかった。
 稲城の屋敷にはその後別に変ったこともなかった。八太郎は家内の者を戒めて、その一件を他言させなかったが、この記事の筆者は或る時かの池部郷助からその話を洩れ聞いて、稲城の主人にそれを問いただすと、八太郎はまったくその通りであると迷惑そうに答えた。それはこの出来事があってから四月ほどの後のことで、中間の伊平は無事に奉公していた。彼は見るからに実体《じってい》な男であった。
 その西瓜を作り出した小原の家については、筆者はなんにも知らなかったので、それを再び稲城に聞きただすと、八太郎も考えながら答えた。
「近所でありながら拙者もよくは存じません。しかし何やら悪い噂のある屋敷だそうでござる。」
 それがどんな噂であるかは、かれも明らかに説明しなかったそうである。筆者も押し返しては詮議しなかったらしく、原文の記事はそれで終っていた。

     

「はは、君の怪談趣味も久しいものだ。」と、倉沢は八畳の座敷の縁側に腰かけて、団扇を片手に笑いながら言った。
 親類の葬式もきのうで済んだので、彼は朝からわたしの座敷へ遊びに来て、このあいだの随筆のなかに何か面白い記事はなかったかと訊いたので、わたしはかの「稲城家の怪事」の一件を話して聞かせると、彼は忽ちそれを一笑に付してしまったのである。
 暦の上では、きょうが立秋というのであるが、三日ほど降りつづいて晴れた後は、さらにカンカン天気が毎日つづいて、日向《ひなた》へ出たらば焦げてしまいそうな暑さである。それでもここの庭には大木が茂っているので、風通しは少し悪いが、暑さに苦しむようなことはない。わたしも縁側に蒲蓙《がまござ》を敷いて、倉沢と向い合っていたが、今や自分が熱心に話して聞かせた怪談を、頭から問題にしないように蹴散らされてしまうと、なんだか一種の不平を感じないわけにもいかなかった。
「君はただ笑っているけれども、考えると不思議じゃないか。女の生首が中間ひとりの眼にみえたというならば格別、辻番の三人にも見え、稲城の家の細君にも見えたというのだから、どうもおかしいよ。」
「おかしくないね。」
「じゃあ、君にその説明がつくのかね。」
「勿論さ。」と、倉沢は澄ましていた。
「うむ、おもしろい。聞かしてもらおう。」と、わたしは詰問するように訊いた。
「迷信家の蒙《もう》をひらいてやるかな。」と、彼はまた笑った。「君が頻《しき》りに問題にしているのは、その西瓜が大勢の眼に生首とみえたということだろう。もしそれが中間ひとりの眼に見えたのならば、錯覚とか幻覚とかいうことで、君も承認するのだろう。」
「だからさ。今も言う通り、それが中間ひとりの眼で見たのでないから……。」
「ひとりでも大勢でも同じことだよ。君は『群衆妄覚』ということを知らないのか。群衆心理を認めながら、群衆妄覚を認めないということがあるものか。僕はその事件をこう解釈するね。まあ、聴きたまえ。その中間は江戸馴れない田舎者だというから、何となくその様子がおかしくって、挙動不審にも見えたのだろう。おまけにその抱えている品が西瓜ときているので、辻番の奴等はもしや首ではないかと思ったのだろう。いや、三人の辻番のうちで、その一人は一途《いちず》に首だと思い込んでしまったに相違ない。そこで、彼の眼には、中間のかかえている風呂敷から生血がしたたっているように見えたのだ。西瓜をつつんで来たのだから、その風呂敷はぬれてでもいたのかも知れない。なにしろ怪しく見えたので、呼びとめて詮議をうけることになって、その風呂敷をあけると、生首がみえた。――その男には生首のように見えたのだ。あッ、首だというと、他の二人――これももしや首ではないかと内々疑っていたのであるから、一人が首だというのを聞かされると、一種の暗示を受けたような形で、これも首のように見えてしまった。それがいわゆる群衆妄覚だ。こうなると、もう仕方がない。三人の侍が首だ首だと騒ぎ立てると、田舎生れの正直者の中間は面食らって、異常の恐怖と狼狽とのために、これも妄覚の仲間入りをしてしまって、その西瓜が生首のように見えたのだ。それだから彼等がだんだんに落ち着いて、もう一度あらためて見ることになると、西瓜は依然たる西瓜で、だれの眼にも人間の首とは見えなくなったというわけさ。こう考えれば、別に不思議はあるまい。」
「なるほど辻番所の一件は、まずそれで一応の解釈が付くとして、その中間が自分の家へ帰った時にも再び西瓜が首になったというじゃあないか。主人の細君がなんにも知らずに風呂敷をあけて見たらば、やっぱり女の首が出たというのはどういうわけだろう。」
「その随筆には、細君がなんにも知らずにあけたように書いてあるが、おそらく事実はそうではあるまい。その風呂敷をあける前に、中間はまず辻番所の一件を報告したのだろうと思う。武家の女房といっても細君は女だ。そんな馬鹿なことがあるものかと言いながらも、内心一種の不安をいだきながらあけて見たに相違ない。その時はもう日が暮れている。行燈の灯のよく届かない縁先のうす暗いところで、怖々のぞいて見たのだから、その西瓜が再び女の首に見えたのだろう。中間の眼にも勿論そう見えたろう。それも所詮は一時の錯覚で、みんなが落ち着いてよく見ると、元の通りの西瓜になってしまった。詰まりそれだけの事さ。むかしの人はしばしばそんなことに驚かされたのだな。その西瓜をたち割ってみると、青い蛙が出たとか、髪の毛が出たとかいうのは、単に一種のお景物に過ぎないことで、瓜や唐茄子からは蛇の出ることもある。蛙の出ることもある。その時代の本所や柳島辺には蛇も蛙もたくさんに棲んでいたろうじゃないか。丁度そんな暗合があったものだから、いよいよ怪談の色彩が濃厚になったのだね。」
 彼は無雑作《むぞうさ》に言い放って、又もや高く笑った。いよいよ小癪に障るとは思いながら、差しあたってそれを言い破るほどの議論を持合せていないので、わたしは残念ながら沈黙するほかはなかった。外はいよいよ日盛りになって来たらしく、油蝉の声がそうぞうしく聞えた。
 倉沢はやがて笑いながら言い出した。
「そうは言うものの、僕の家《うち》にも奇妙な伝説があって、西瓜を食わないことになっていたのだ。勿論、この話とは無関係だが……。」
「君は西瓜を食うじゃないか。」
「僕は食うさ。唯ここの家にそういう伝説があるというだけの話だ。」
 私は東京で彼と一緒に西瓜を食ったことはしばしばある。しかも彼の家にそんな奇妙な伝説があることは、今までちっとも知らなかったのである。倉沢はそれに就いてこう説明した。
「なんでも二百年も昔の話だそうだが……。ある夏のことで、ここらに畑荒らしがはやったそうだ。断って置くが、それは江戸の全盛時代であるから、僕らの先祖は江戸に住んでいて、別に何のかかり合いがあったわけではない。その頃ここには又左衛門とかいう百姓が住んでいて、相当に大きく暮らしている旧家であったということだ。そこで今も言った通り、畑あらしが無暗にはやるので、又左衛門の家でも雇人らに言いつけて毎晩厳重に警戒させていると、ある暗い晩に西瓜畑へ忍び込んだ奴があるのを見つけたので、大勢が駈け集まって撲り付けた。相手は一人、こっちは大勢だから、無事に取押えて詮議すれば好かったのだが、なにしろ若い者が大勢あつまっていたので、この泥坊めというが否や、鋤《すき》や鍬《くわ》でめちゃめちゃに撲り付けて、とうとう息の根を留めてしまった。主人もそれを聞いて、とんだ事をしたと思ったろうが、今更どうにもならない。殺されたのは男でなく、もう六十以上の婆さんで、乞食のような穢い装《なり》をして、死んでも大きい眼をあいていたそうだが、どこの者だか判らない。その時代のことだから、相手が乞食同様の人間で、しかも畑あらしを働いたのだから、撲り殺しても差したる問題にもならなかったらしく、夜の明けないうちに近所の寺へ投げ込み同様に葬って、まず無事に済んでしまったのだが、その以来、その西瓜畑に婆さんの姿が時々にあらわれるという噂が立った。これは何処にもありそうな怪談で、別に不思議なことでもなかったが、もう一つ『その以来』という事件は、又左衛門の家の者がその畑の西瓜を食うと、みんな何かの病気に罹って死んでしまうのだ。主人の又左衛門が真っ先に死ぬ、つづいて女房が死ぬ、伜が死ぬという始末で、ここの家では娘に婿を取ると同時に、その畑をつぶしてしまった。それでも西瓜が祟《たた》るとみえて、その婿も出先で西瓜を食って死んだので、又左衛門の家は結局西瓜のために亡びてしまうことになったのだ。もちろん一種の神経作用に相違ないが、その後もここに住むものはやはり西瓜に祟られるというのだ。」
「持主が変っても祟られるのか。」
「まあそうなのだ。又左衛門の家はほろびて、他の持主がここに住むようになっても、やはり西瓜を食うと命があぶない。そういうわけで、持主が幾度も変って、僕の一家が明治の初年にここへ移住して来たときには、空家《あきや》同様になっていたということだ。」
「君の家の人たちは西瓜を食わないかね。」と、わたしは一種の興味を以って訊いた。
「祖父は武士で、別に迷信家というのでもなかったらしいが、元来が江戸時代の人間で、あまり果物――その頃の人は水菓子といって、おもに子供の食う物になっていたらしい。そんなわけで、平生から果物を好まなかった関係上、かの伝説は別としても、ほとんど西瓜などは食わなかった。祖母も食わなかった。それが伝説的の迷信と結びついて、僕の父も母も自然に食わないようになった。柿や蜜柑やバナナは食っても、西瓜だけは食わない。平気で食うのは僕ばかりだ。それでもここで食うと、家の者になんだかいやな顔をされるから、ここにいる時はなるべく遠慮しているが、君も知っている通り、東京に出ている時には委細構わずに食ったよ。氷に冷やした西瓜はまったく旨いからね。」
 かれはあくまで平気で笑っていた。わたしも釣り込まれて微笑した。
「そこで、君の家は別として、その以前に住んでいた人たちが西瓜を食ってみんな死んだというのは、本当のことだろうか。」
「さあ、僕も確かには知らないが、ここらの人の話ではまず本当だということだね。」と、倉沢は笑った。「たといそれが事実であったとしても、西瓜を食うと祟られるという一種の神経作用か、さもなくば不思議の暗合だよ。世のなかには実際不思議の暗合がたくさんあるからね。」
「そうかも知れないな。」
 私もいつか彼に降伏してしまったのであった。西瓜の話はそれで一旦立消えになって、それから京都の話が出た。わたしは三、四日の後にここを立去って、さらに京都の親戚をたずねる予定になっていたのである。倉沢も一緒に行こうなどと言っていたのであるが、親戚の老人が死んだので、その二七日や三七日の仏事に参列するために、ここで旅行することはむずかしいと言った。自分などはいてもいないでも別に差支えはないのであるが、仏事をよそにして出歩いたりすると、世間の口がうるさい。父や母も故障をいうに相違ないから、まず見合せにするほかはあるまいと彼は言った。そうして、君は京都に幾日ぐらい逗留するつもりだと私に訊いた。
「そう長くもいられない。やはり半月ぐらいだね。」と、わたしは答えた。
「そうすると、廿七八日ごろになるね。」と、かれは考えるように言った。「帰りに又ここへ寄ってくれるだろう。」
「さあ。」と、私もかんがえた。再びここへ押し掛けて来ていろいろの厄介になるのは、倉沢はともあれ、その両親や家内の人々に対して少しく遠慮しなければならないと思ったからである。それを察したように、彼はまた言った。
「君、決して遠慮することはないよ。どうで田舎のことだから別に御馳走をするわけじゃあなし、君ひとりが百日逗留していても差支えはないのだから、帰りには是非寄ってくれたまえ。僕もそのつもりで待っているから、きっと寄ってくれたまえよ。廿七日か廿八日ごろに京都を立つとして、廿九日には確かにここへ来られるね。」
「それじゃあ廿九日に来ることにしよう。」と、私はとうとう約束してしまった。
「都合によると、僕はステーションへ迎いに出ていないかも知れないから、真っ直ぐにここへ来ることにしてくれたまえ。いいかい。廿九日だよ。なるべく午前《ひるまえ》に来てもらいたいな。」
「むむ、暑い時分だから、夜行の列車で京都を立つと、午前十一時ごろにはここへ着くことになるだろう。」
「廿九日の午前十一時ごろ……。きっと、待っているよ。」と、彼は念を押した。

     

 その日は終日暑かった。日が暮れてから私は裏手の畑のあいだを散歩していると、倉沢もあとから来た。
「君、例の西瓜畑の跡というのを見せようか。昔はまったく空地《あきち》にしてあったのだが、今日《こんにち》の世の中にそんなことを言っちゃあいられない。僕はしきりに親父に勧めて、この頃はそこら一面を茶畑にしてしまったのだ。」
 彼は先に立って案内してくれたが、成程そこらは一面の茶畑で、西瓜の蔓が絡み合っていた昔のおもかげは見いだされなかった。広い空地に草をしげらせて、蛇や蛙の棲家にして置くよりも、こうすれば立派な畑になると、彼はそこらを指さして得意らしく説明した。その畑も次第に夕闇の底にかくれて、涼しい風が虫の声と共に流れて来た。
「おお、涼しい。」と、わたしは思わず言った。
「東京と違って、さすがに日が暮れるとずっと凌ぎよくなるよ。」
 こう言いかけて、倉沢はうす暗い畑の向うを透かして視た。
「あ、横田君が来た。どうしてこんな方へ廻って来たのだろう。僕たちのあとを追っかけて来たのかな。」
「え、横田君……。」と、私もおなじ方角を見まわした。「どこに横田君がいるのだ。」
「それ、あすこに立っているじゃあないか。君には見えないか。」
「見えない、誰も見えないね。」
「あすこにいるよ。白い服を着て、麦わら帽をかぶって……。」と、彼は畑のあいだから伸び上がるようにして指さした。
 しかも、わたしの眼にはなんにも見えなかった。横田というのは、東京の××新聞の社員で、去年からこの静岡の支局詰めを命ぜられた青年記者である。学生時代から倉沢を知っているというので、ここの家へも遊びに来る。わたしも倉沢の紹介で、このあいだから懇意になった。その横田がたずねて来るのに不思議はないが、その人の姿がわたしの眼にはみえないのである。倉沢は何を言っているのかと、わたしは少しく烟《けむ》に巻かれたようにぼんやりしていると、彼はわたしを置去りにして、その人を迎えるように足早に進んで行ったかと思うと、やがて続けてその人の名を呼んだ。
「横田君……横田君……。おや、おかしいな。どうしたろう。」
「君は何か見間違えているのだよ。」と、わたしは彼に注意した。「横田君は初めから来ていやあしないよ。」
「いや、確かにそこに立っていたのだが……。」
「だって、そこにいないのが証拠じゃないか。」と、わたしはあざけるように笑った。「君のいわゆる『群衆妄覚』ならば、僕の眼にも見えそうなものだが……。僕にはなんにも見えなかったよ。」
 倉沢はだまって、ただ不思議そうに考えていた。どこから飛んで来たのか、一匹の秋の蛍が弱い光りをひいて、彼の鼻のさきを掠めて通ったかと見るうちに、やがてその影は地に落ちて消えた。

 それから三日の後に、わたしは倉沢の家を立去って京都へ行った。彼は停車場まで送って来て、月末の廿九日|午前《ひるまえ》にはきっと帰って来てくれと、再び念を押して別れた。
 京都に着いて、わたしは倉沢のところへ絵ハガキを送ったが、それに対して何の返事もなかった。彼が平生の筆不精を知っている私は、別にそれを怪しみもしなかった。
 廿九日、その日は二百十日を眼のまえに控えて、なんだか暴《あ》れ模様の曇った日で、汽車のなかは随分蒸し暑かった。午前十一時をすこし過ぎたころに静岡の駅に着いて、汗をふきながら汽車を降りると、プラットフォームの人混みのなかに、倉沢の家の若い雇人の顔がみえた。彼はすぐ駈けて来て、わたしのカバンを受取ってくれた。
 つづいて横田君の姿が見えた。かれは麦わら帽をかぶって、白い洋服を着ていた。出迎えの二人は簡単に挨拶したばかりで、ほとんど無言でわたしを案内して、停車場の前にあるカフェー式の休憩所へ連れ込んだ。
 注文のソーダ水の来るあいだに、横田君はまず口を切った。
「たぶん間違いはあるまいと思っていましたが、それでもあなたの顔が見えるまでは内々心配していました。早速ですが、きょうは午後二時から倉沢家の葬式で……。」
「葬式……。誰が亡くなったのですか。」
「倉沢小一郎君が……。」
 わたしは声が出ないほどに驚かされた。雇人は無言で俯向いていた。女給が運んで来た三つのコップは、徒《いたず》らにわれわれの眼さきに列べられてあるばかりであった。
「あなたが京都へお立ちになった翌々日でした。」と、横田君はつづけて話した。「倉沢君は町へ遊びに出たといって、日の暮れがたに私の支局へたずねて来てくれたので、××軒という洋食屋へ行って、一緒にゆう飯を食ったのですが、その時に倉沢君は西瓜を注文して……。」
「西瓜を……。」と、わたしは訊き返した。
「そうです。西瓜に氷をかけて食ったのです。わたしも一緒に食いました。そうして無事に別れたのですが、その夜なかに倉沢君は下痢を起して、直腸カタルという診断で医師の治療を受けていたのです。それで一旦はよほど快方にむかったようでしたが、廿日過ぎから又悪くなって、とうとう赤痢のような症状になって……。いや、まだ本当に赤痢とまでは決定しないうちに、おとといの午後六時ごろにいけなくなってしまいました。西瓜を食ったのが悪かったのだといいますが、その晩××軒で西瓜を食ったものは他《ほか》にも五、六人ありましたし、現にわたしも倉沢君と一緒に食ったのですが、ほかの者はみな無事で、倉沢君だけがこんな事になるというのは、やはり胃腸が弱っていたのでしょう。なにしろ夢のような出来事で驚きました。早速京都の方へ電報をかけようと思ったのですが、あなたから来たハガキがどうしても見えないのです。それでも倉沢君が息をひき取る前に、あなたは廿九日の午前十一時ごろにきっと来るから、葬式はその日の午後に営んでくれと言い残したそうで……。それを頼りに、お待ち申していたのです。」
 わたしの頭は混乱してしまって、何と言っていいか判らなかった。その混乱のあいだにも私の眼についたのは、横田君の白い服と麦わら帽であった。
「あなたは倉沢君と××軒へ行ったときにも、やはりその服を着ておいででしたか。」
「そうです。」と、横田君はうなずいた。
「帽子もその麦藁で……。」
「そうです。」と、彼は又うなずいた。
 麦わら帽に白の夏服、それが横田君の一帳羅《いっちょうら》であるかも知れない。したがって、横田君といえばその麦わら帽と白い服を連想するのかも知れない。さきの夜、倉沢が一種の幻覚のように横田君のすがたを認めた時に、麦わら帽と白い服を見たのは当然であるかも知れない。しかもその幻覚にあらわれた横田君と一緒に西瓜を食って、彼の若い命を縮めてしまったのは、単なる偶然とばかりは言い得ないような気もするのである。
 かれが東京で西瓜をしばしば食ったことは、わたしも知っている。しかも静岡ではなるべく遠慮していると言ったにも拘らず、彼は横田君と一緒に西瓜を食ったのである。群衆妄覚をふりまわして、稲城家の怪事を頭から蹴散らしてしまった彼自身が、まさかに迷信の虜《とりこ》となって、西瓜に祟られたとも思われない。これもまた単なる偶然であろうか。
 彼はわたしに向って、八月廿九日の午前《ひるまえ》には必ず帰ってくれといった。その廿九日の午前に帰って来て、あたかもその葬式の間に合ったのである。わたしは約束を守ってこの日に帰って来たのを、せめてもの幸いであるとも思った。
 そんなことをいろいろ考えながら、わたしは横田君らと共に、休憩所の前から自動車に乗込むと、天候はいよいよ不穏になって、どうでも一度は暴《あ》れそうな空の色が、わたしの暗い心をおびやかした。

底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房
   1999(平成11)年7月2日第1刷
初出:「文學時代」
   1932(昭和7)年2月
入力:網迫、土屋隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月26日作成
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