一
ある年の夏、わたしが房州の旅から帰って、形《かた》ばかりの土産物《みやげもの》をたずさえて半七老人を訪問すると、若いときから避暑旅行などをしたことの無いという老人は、喜んで海水浴場の話などを聴いた。
そのうちに、わたしが鋸山《のこぎりやま》へ登って、おびただしい蛇に出逢った話をすると、半七は顔をしかめながら笑った。
「わたしの識っている人で、鋸山の羅漢《らかん》さまへお参りに行ったのもありましたが、蛇の話は聴きませんでした。別にどうするということも無いでしょうが、それでも気味がよくありませんね。蛇と云えば、いつぞやお化け師匠のお話をしたことがあるでしょう。師匠を絞め殺して、その頸《くび》に蛇をまき付けて置いた一件です。あれとは又違って、わたくしの方に蛇のお話がありますが、蛇にはもう懲《こ》りましたか」
「かまいません。聴かせて下さい」
「では、お話をしますが、例のわたくしの癖で、前置きを少し云わせてください。それでないと、今の人達にはどうも判り兼ねますからね。御承知の通り、小石川に小日向《こびなた》という所があります。小日向はなかなか区域が広く、そのうちにいろいろの小名《こな》がありますが、これから申し上げるのは小日向の水道|端《ばた》、明治以後は水道端町一丁目二丁目に分かれましたが、江戸時代には併《あわ》せて水道端と呼んでいました。その水道端、こんにちの二丁目に日輪寺という曹洞宗の寺があります。その本堂の左手から登ってゆくと、うしろの山に氷川《ひかわ》明神の社《やしろ》がありました。むかしは日輪寺も氷川神社も一緒でありましたが、明治の初年に神仏混淆を禁じられたので、氷川神社は服部《はっとり》坂の小日向神社に合祀《ごうし》されることになって、社殿のあとは暫く空地《あきち》のままに残っていましたが、今では立ち木を伐《き》り払って東京府の用地になっているようです。
そういうわけで、今日そこに明神の社はありませんが、江戸時代には立派な社殿があって、江戸名所図会にもその図が出ています。ところが、その明神の山に一種の伝説があって、そこには『かむろ蛇』という怪物が棲んでいるという。それに就いてはいろいろの説がありまして、胴の青い、頭の黒い蛇、それが昔の子どもの切禿《きりかむろ》に似ているのでかむろ蛇と云うのだと、見て来たように講釈する者もあります。また一説によると、天気の曇った暗い日には、森のあたりに切禿の可愛らしい女の児が遊んでいる。その禿は蛇の化身《けしん》で、それを見たものは三日のうちに死ぬという。勿論めったに出逢った者も無いんですが、安永年間、水道端の荒木坂に店を開いている呉服屋渡世、松本屋忠左衛門のせがれは、二、三日|煩《わずら》い付いて急に死んだ。その死にぎわに、実は明神山でかむろ蛇を見たと話したそうです。
そのほかにも二、三人、そういう例があると云い伝えられて、夜は勿論、暁方《あけがた》や夕方や、天気の曇った日には、みな用心して明神山へ登らない事にしていました。そんなところへ近寄らないのが一番無事なんですが、この氷川さまは小日向一円の総鎮守《そうちんじゅ》というのですから、御参詣をしないわけには行かない。祭礼は正五九《しょうごく》の十七日、この日にはかむろ蛇も隠れて姿を見せなかったようです。一体そんな云い伝えは嘘か本当かと、こんにちのあなた方から議論をされては困りますが、昔の人は正直にそれを信じていたんですから、まあ、そのつもりでお聴きください」
安政五年の七月から八、九月にかけて、江戸には恐るべき虎列剌《コレラ》病が流行した。いわゆる午年《うまどし》の大コロリである。凄まじい勢いを以って蔓延《まんえん》する伝染病に対して、防疫の術《すべ》を知らない其の時代の人々は、ひたすら神仏の救いを祈るのほかは無いので、いずこの神社も仏寺も参詣人が群集して、ふだんは比較的にさびしい小日向の氷川神社にも、この頃は時をえらばぬ参詣人のすがたを見た。伝説のかむろ蛇よりも、目前のコロリが恐ろしかったのであろう。
悪疫の大流行を来たした年だけに、秋とは名ばかりで残暑が強かった。その八月の末である。小日向水道|町《ちょう》の煙草屋、関口屋の娘お袖が母のお琴と女中のお由と、三人連れで氷川神社に参詣した。関口屋はここらの老舗《しにせ》で、ほかに地所|家作《かさく》も持っていて、小僧二人のほかに若い者三人、女中三人の暮らしである。家族は主人の次兵衛が四十一歳、女房のお琴が三十七歳、娘のお袖が十八歳で、隠居夫婦は二十年前に相前後して世を去った。
もとより近所のことであるから、お袖らの三人は午《ひる》過ぎに店を出た。朝は晴れていたが、四ツ(午前十時)頃からときどきに薄く曇って、いくらか涼しい風が吹いていた。町を通りぬけて上水堀《じょうすいぼり》に沿って行くあいだにも、二つの葬式に出逢った。いずれもコロリに取り憑《つ》かれた人々であろうと推し量《はか》られて、女たちは忌《いや》な心持になった。
日輪寺へ行き着いて、うしろの明神山へ登ると、きょうは珍らしく一人の参詣者も見えないで、大きな杉の森のなかに秋の蝉《せみ》が啼いているばかりであった。明神の社前に額《ぬか》ずいて、型のごとく一家の息災を祈っているうちに、空はいよいよ曇って来て、さらでも薄暗い木の下蔭が夕暮れのように暗くなった。
「なんだかお天気が可怪《おか》しくなって来ましたね」と、お琴は参詣を終って空をみあげた。
「降らないうちに早く帰りましょう」と、お由も急《せ》き立てるように云った。
蝉の声もいつか止んで、あたりは気味の悪いようにひっそりと鎮まった。冷たいような重い空気が三人の肌に迫って来た。ここで降り出されては困ると思って、三人はすこし足を早めて下山《げざん》の路にさしかかると、何を見たかお袖は俄かに立ちどまった。彼女は無言で母の袖をひくと、お琴も立ちどまった。お由もつづいて足をとめた。かれらは路ばたの杉の大樹のあいだに、ひとりの少女の立ち姿を見いだしたのである。
少女は十二三歳ぐらいで、色の蒼白い清らかな顔容《かおかたち》であった。白地に鱗《うろこ》を染め出した新らしい単衣《ひとえ》を着て、水色のような帯を結んでいた。それらの事はともかくも、今この三人の注意をひいたのは、少女の黒髪である。彼女の髪は切禿であった。
前にも云う通り、この頃のコロリ騒ぎのために、明神参詣の人々も俄かに増して、かむろ蛇のおそろしい伝説も暫く忘れられたような姿であったが、その伝説がまったく掻き消されたのではない。きょうの曇った暗い日に、ここで切禿の少女のすがたを目前に見いだした三人が、異常の恐怖に襲われたのも無理はなかった。かれらの顔は少女の帯とおなじような水色になって、一旦はそこに立ちすくんでしまった。
お由はお袖よりも年上の十九歳である。殊にふだんから勝気の女であるので、この場合、さすがにふるえてばかりもいなかった。彼女は小声で主人に注意した。
「見付かると大変です。逃げましょう」
幸い少女は正面を向いていないので、三人はその横顔を見ただけである。抜き足をして駈け抜けたらば、或いは覚られずに逃げおおせることが出来るかも知れない。しかも駈け出しては足音を聴かれる虞《おそ》れがあるので、お琴はまた二人にささやいて、息の声さえも洩れないように、両袖で口を掩った。
三人は足音を忍ばせて、この杉木立の前を通り抜けようとする時、お袖が最も恐怖を感じていたのかも知れない、すくみ勝の足をひき摺って行くうちに、木の根か石につまずいて、踏み留める間もなしにばったりと倒れたので、お琴もお由もはっ[#「はっ」に傍点]とした。もうこうなっては、足音などを偸《ぬす》んではいられない。半分は夢中でお袖をひき起こして、お琴とお由が左右の手をとって、むやみに引き摺りながら駈け出した。山の降り口は石逕《いしだたみ》になっている。その坂路を転げるように逃げ降りて、寺の本堂前まで帰り着いて、三人はまずほっ[#「ほっ」に傍点]とした。お袖は顔の色を失って、口も利かれなかった。
お琴は寺男に水を貰って、お袖に飲ませた。自分たちも飲んだ。山を降りると、急に暑くなったように思われたので、お琴は手拭を絞って顔や襟の汗を拭いた。しかも山のなかで怪しい少女に出逢ったことは、寺男にも話さなかった。
「家《うち》へ帰っても黙っておいでなさいよ。誰にも決して云うのじゃありませんよ」と、お琴はお由に固く口留めをした。
三人は不安な心持で関口屋の店へ帰った。取り分けてお袖はぼんやりして、その晩は夕飯も碌々に食わなかった。
お琴はきょうの一条を夫の次兵衛にも打ち明けなかった。夫に余計な心配をかけるのを恐れたばかりでなく、自分もそれを口にするのが何だか恐ろしいように思われたからである。翌日も再びお由に注意して、かならず他言《たごん》するなと戒めた。三人は後をも見ずして逃げて来たのであるから、かの少女が自分たちを見つけたかどうだか一向に判らなかった。覚られなければ幸いであると、お琴は心ひそかに祈っていた。
その頃、誰が云い出したのか知らないが、コロリの疫病神を攘《はら》うには、軒に八つ手の葉を吊《つる》して置くがいいと云い伝えられた。八つ手の葉は天狗の羽団扇《はねうちわ》に似ているからであると云う。関口屋でも本当にそれを信じていたわけでも無かったが、ともかくもこの時節だから、いいと云うことは真似るがいいと思って、自分の庭に大きい八つ手の木があるのを幸いに、その葉を折って店の軒さきに吊しておいた。
翌日の午後、お琴が店へ出てみると、軒の八つ手の大きい葉がもう枯れかかって、秋風にがさがさと鳴っていた。枯れてしまっては呪《まじな》いの効目《ききめ》もあるまいと思ったので、お琴は庭から新らしい葉を折って来て、人に頼むまでもなく、自分がその葉を吊り換えようとする時、ふと見ると古い枯葉には虫の蝕《く》ったような跡があった。更によく見ると、その虫蝕いの跡は仮名文字の走り書きのように読まれた。おそでしぬ――こう読まれたのである。お袖死ぬ――お琴はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。
彼女はお由をそっと呼んで、八つ手の古い葉を見せると、お由もその虫蝕いのような仮名文字を「おそでしぬ」と読んだ。八つ手に虫の付くことは少ない。しかもその枯れかかった葉のおもてに、「お袖死ぬ」という虫のあとを残したのである。
きのうの今日であるから、お琴は総身《そうみ》の血が一度に凍ったように感じた。
二
関口屋の裏には四軒の貸長屋があった。いずれも関口屋の所有で、その奥の一軒には年造という若い大工の独り者が住んでいたが、若い職人であるから、この時節に酒も飲む、夜歩きもする、その不養生《ふようじょう》の祟りで疫病神に見舞われた。かれは夜半《よなか》から吐瀉《としゃ》をはじめて、明くる日の午後に死んだ。
独り者であるから、仲間の友達や近所の者があつまって葬式《とむらい》を出すことになった。関口屋でも自分の家作内《かさくない》であるから、店の者に香奠《こうでん》を持たせて悔みにやった。
「うちの地面うちへも、とうとうコロリが来た」と、主人の次兵衛も顔をしかめた。
コロリの伝染することを知っていても、それを予防することを知らないのであるから、近所の人々はいたずらに恐怖するばかりであった。この頃は伝染を恐れて、コロリの死人の家へは悔みや通夜《つや》に行く者が少なくなったが、それでも年造の家には近所の者をあわせて五、六人が集まって、型ばかりの通夜を営んだ。年造のとなりに住んでいるのは、大吉という煙草屋であった。これも若い独り者で、煙草屋といっても店売りをするのではなく、刻み煙草の荷をかついで、諸藩邸の勤番小屋や中間部屋、あるいは所々の寺々などへ売りに行くのである。彼は関口屋の長屋に住んでいるばかりでなく、商売物の煙草を関口屋から元値で卸《おろ》して貰っているので、朝に晩に親しく出入りをしていた。
大吉と年造とは壁ひとえの相長屋で、ひとり者同士の仲よく附き合っていたので、年造がゆうべから病気に罹《かか》ると、彼は商売を休んで看病した程であるから、今夜の通夜には勿論詰めかけていた。残暑の強い時節といい、閉め込んで置いては疫病の邪気が籠《こも》るというので、狭い家内は残らず明け放してあった。
その夜の五ツ半(午後九時)頃である。露路のなかに犬の吠える声がきこえるので、大吉は家内から伸びあがって表を覗くと、井戸のそばに白い影が見えた。家内の灯《ひ》のひかりが表まで流れ出ているので、その影の正体もおおかたは判った。それは白地の単衣《ひとえ》を着た少女である。少女は関口屋の裏口に立って、木戸のあいだから内を窺っているらしかった。大吉は自分の隣りに坐っている相長屋の甚蔵の袖をひいてささやいた。
「あの子はどこの子だろう」
甚蔵も伸びあがって表をのぞくと、犬はつづけて吠えた。少女は犬を恐れるように木戸のそばを離れて、しずかに露路の外に立ち去ったが、草履を穿《は》いていたと見えて、その足音はきこえなかった。
「見馴れない子ですねえ」と、大吉は又ささやいた。
「むむ、ここらの子じゃあ無いようだ」
とは云ったが、甚蔵は深く気にも留めなかった。大吉はなんだか気になると見えて、そこにある下駄を突っかけて露路の外まで追って出たが、少女の姿はもう見えなかった。
「あの子はどこの子だろう」
大吉はまだ頻りに考えていたが、他の人々は甚蔵と同様、それに格別の興味も注意もひかなかったので、話はそのままに消えてしまった。流行病《はやりやま》いであるから、あしたは早朝に死体を焼き場へ送る筈であったが、この頃は葬式《とむらい》が多いので棺桶が間に合わない。よんどころなく夕方まで延ばすことにして、係り合いの人々は怖るべきコロリの死体を守りつつ一日を暮らした。
この日の午後である。三十前後の男が関口屋の店さきに立った。
「ここの裏に年造という大工がいますかえ」
「その年造さんはコロリで死にました」と、店の者が答えた。
「コロリで死んだ」と、その男はすこし慌てたように云った。「そりゃあ飛んでもねえ。そうしていつ死んだね」
「きのうの午過ぎに……」
「やれ、やれ」と、男は舌打ちした。
葬式はまだ済まないというのを聞いて、男は急いで露路のなかへ駈け込んだ。彼は線香の煙りのただよう門口《かどぐち》から声をかけた。
「もし、年造は死んだのかえ」
「きのう亡くなりました」と、入口にいた大吉が答えた。「どうぞこちらへ……」
悔みに来たと思いのほか、男はつかつかと内へはいって、六畳の隅に横たえてある若い大工の死体をながめた。彼は忌々《いまいま》しそうに舌打ちした。
「畜生、運のいい野郎だ」
コロリで死んで運がいいとは何事かと、一座の人々はおどろいた。いずれも呆気《あっけ》に取られたように男の顔を見つめていると、その疑いを解くように彼は説明した。
今から四日前の晩に、湯島天神下の早桶屋伊太郎が何者にか殺された。前にも云う通り、このごろはコロリの死人が多いので、どこの早桶屋も棺を作るのに忙がしく、自分たちの手では間に合わないので、大工や桶屋などを臨時に雇い入れて手伝わせた。一人前の職人は棺桶などを作ることを嫌ったが、腕のにぶい者や若い者は手間賃《てまちん》の高いのを喜んで、方々の早桶屋へ手伝いに行った。ここの家《うち》の年造もその一人で、先日から彼《か》の伊太郎の店に働いていたのである。
伊太郎が何者にか殺されたのは、その金に眼をつけたものと認められた。早桶屋に取っては、疫病神は福の神で、商売繁昌のために伊太郎は意外の金儲けをした。それが禍《わざわ》いとなって、伊太郎は殺され、女房は傷を負った。詮議の末に、その盗賊の疑いは雇い大工の年造にかかって、召し捕りに来て見ると此の始末である。召し捕られて重罪に処せられるよりも、コロリで死んだが優《ま》しであろう。運のいい野郎だ、と云われたものも無理はなかった。
召し捕りに来て失望した男は、神田の半七の子分の善八であった。こうなっては空《むな》しく引き揚げるのほかはなかったが、それでも年造の平素の行状や、死亡前の模様などを一応取り調べて置く必要があるので、年造と最も親しくしていたと云う隣家の大吉が表へ呼び出された。善八は井戸端の柳の下に立って、暫く大吉を調べて帰った。
「おどろいたねえ」
「人は見かけに因らねえものだ」
「年公もちっとは道楽をするが、まさかにそんな恐ろしい事をしようとは思わなかった」
コロリで死んだ年造に対して、人々の同情が俄かにさめた。まったく運のいい野郎だと云うことになってしまった。さりとて今更その死骸を捨てて帰るわけにも行かないので、人々は迷惑ながら日の暮れるのを待っていると、暮れ六ツ頃に棺桶をとどけて来たので、すぐに死体を押し込んで担《かつ》ぎ出した。
店子《たなこ》が死んだのであるから、家主《いえぬし》も見ていることは出来ない。関口屋でも主人の名代《みょうだい》として店の者に送らせる筈であったが、それがコロリの葬式《とむらい》であるばかりでなく、本人は恐ろしい罪人であるという噂を聞いて、店の者らは送って行くことを嫌った。それを無理にとは云いかねて、関口屋でも少し困っていると、女中のお由が行こうと云い出した。
「お前は女だからお止しなさいよ」と、お琴は一応止めた。しかし誰か行かなければ悪いから私が行きますと云って、お由がとうとう行くことになった。
「お由さんはコロリが怖くないのかしら」
「なに、大さんと一緒に行きたいんだよ」
ほかの女中たちはささやいていた。煙草屋の大吉は二十三四で、色白の華奢《きゃしゃ》な男であった。
秋の宵の暗い露路から提灯の火が五つ六つ寂しくゆらめいて、年造の棺桶は送り出された。五ツを過ぎたころにお由は帰って来て、千住《せんじゅ》の焼き場には棺桶が五十も六十も積んであるので、とてもすぐに焼くことは出来ない。今夜はそのままに預けて置いて、七日か八日の後に骨揚《こつあ》げに行く筈であると云った。コロリのために焼き場や寺が混雑することはかねて聞いていたが、いま又そんな報告を聞かされて、関口屋の一家も暗い心持になった。
そのなかでも、更にお琴の心を暗くする事があった。お由はおかみさんにそっと話した。
「ゆうべお通夜をしている時に、白地の着物を着た女の子が裏の木戸から覗いていたそうです」
「うちの裏口を覗いていたのかえ」と、お琴は顔の色を変えた。
「煙草屋の大さんが見たそうです。甚さんも見たと云います」
かむろ蛇、八つ手の葉、それにおびえ切っている矢さきへ、又もやこの話を聞かされて、お琴は眼がくらみそうになった。白地の着物を着た女の子は、明神山から降りて来たらしい。お袖死ぬという、その呪われた運命がいよいよ迫って来たように思われた。
今まではお袖にもお由にも口留めをして、自分ひとりの胸におさめていたが、お琴ももう堪まらなくなって、夫の次兵衛に一切《いっさい》を打ち明けた。次兵衛は決して愚かな人物ではなく、商売の道にも相当に長《た》けていて、関口屋の古い暖簾《のれん》を傷つけないだけの器量を具えていたが、彼は非常に神仏を信仰した。その信仰が嵩《こう》じて一種の迷信者に似ていた。お琴が明神山の一条を秘《かく》していたのも、迂濶にそれを口外すれば夫をおどろかすに相違ないと懸念《けねん》したからであった。
果たして次兵衛はおどろいた。彼は涙をうかべて嘆息するのほかはなかった。かむろ蛇に呪われた娘の生命《いのち》は、しょせん救われぬものと諦めているらしかった。
三
八月の晦日《みそか》から俄かに秋風が立って、明くる九月の朔日《ついたち》も涼しかった。
「さすがに暦《こよみ》は争われねえ。これでコロリも下火《したび》になるだろう」
女房のお仙と話しながら、半七が単衣《ひとえ》を袷《あわせ》に着かえていると、早朝から善八が来た。
「急に涼しくなりました」
「今も云っているところだが、善さん、コロリはどうだね」と、お仙は云った。
「まだ流行《はや》っていますよ」と、善八は答えた。「涼風《すずかぜ》が立ってもすぐには止みますめえ。七月から八月にかけて随分殺されましたね」
「悪い人の殺されるのは仕方がないが、善い人も殺されるから困るよ」
「わっしらの商売から云うと、悪い人の殺されるのも困る。折角お尋ね者を追いつめて、さあという時に相手がコロリと参ってしまわれちゃあ、洒落《しゃれ》にもならねえ。現にこのあいだの湯島の一件……。ようやく突きとめて小石川まで出張って行くと、大工の奴はコロリ。実にがっかりしてしまいますよ」
云いかけて、善八はまた声を低めた。
「もし、親分。今の小石川ですがね。そこで又すこし変な噂を聞き込みました」
「変な噂とはなんだ」
お仙が立って行ったあとで、半七は善八と差し向かいになった。
「御承知の通り、人殺しの大工は水道町の煙草屋の裏に住んでいました」と、善八は話しつづけた。「その家主の煙草屋は関口屋という古い店で、身上《しんしょう》もよし、近所の評判も悪くない家《うち》です。そこの女中のお由という若い女が二、三日前に死にました」
「それもコロリか」と、半七は訊《き》いた。
「いや、コロリじゃあねえ、まあ、頓死のようなわけで……。関口屋でもすぐに医者を呼んだが、もう間に合わなかったそうです。その死に方がなんだか可怪《おか》しいというのですが、関口屋じゃあ店の者や女中に口留めをして、なんにも云わせねえ。それだけに猶更いろいろの噂が立つわけです。世間でかれこれ云うばかりでなく、お由の親許《おやもと》でも不承知で、娘の死骸を素直に引き取らない。コロリの流行《はや》る時節に、死骸をいつまでも転がして置くわけには行かねえので、名主や五人組が仲へはいって、ともかく死骸だけは引き取らせることにしたが、その後始末が付かねえで、いまだにごたごたしているそうですよ」
「お由という女の親許では、なぜ不承知をいうのだ。死骸に何か怪しいことでもあるのか」
「どうもそうらしい。それが又、変な話で……。近所の噂じゃあ、氷川の明神山のかむろ蛇に祟られたのだそうで……。そんな事が本当にありますかね」
「氷川のかむろ蛇……」と、半七も考えた。「昔からそんな話を聞いてはいるが、噂か本当か請け合われねえ。そうすると、そのお由という女は明神山の蛇に出逢ったのか」
「関口屋の女房と娘とお由と三人連れで、氷川へ参詣に行って、その帰り路で出逢ったそうで……。蛇じゃあねえ、切禿《きりかむろ》の女の子だそうですが……」
「女の子か」と、半七は又かんがえた。「お由は蛇に祟られて頓死したというのだな。頓死にもいろいろあるが、どんな死に方をしたのだ」
「それにもいろいろの噂があるのですが、わっしがお千代という女中をだまして聞いたところじゃあ、まあ、こんな話です」
関口屋ではお由、お千代、お熊という三人の女を使っているが、お由は仲働きで、他の二人は台所働きである。その晩はまだ残暑が強いので、裏口の空地にむかって雨戸を少し明けて、四畳半の女部屋に一つの蚊帳《かや》を吊って、三人が床をならべて寝た。いずれも若い同士であるから、正体もなく眠っていると、夜なかになってお由が急に騒ぎ出した。両側に寝ているお千代とお熊もおどろいて眼をさますと、お由は小声で「蛇……」と叫んだらしくきこえたので、二人はいよいよ驚いた。
お千代もお熊も夢中で蚊帳をころげ出して、台所から行燈《あんどん》をつけて来ると、お由は寝床の上に蜿打《のたう》って苦しんでいる。二人はあわてて店の男たちを呼び起こすと、その騒ぎを聞きつけて、主人夫婦も起きて来た。小僧は出入りの医者を呼びに行った。
何分にも夜なかの事であるから、医者もすぐには来なかった。お由は医者の来る前に死んでしまった。その死因は医者にもはっきり判らないのであるが、お由が「蛇……」と云ったのから想像して、恐らく蝮《まむし》か何かの毒蛇に咬まれたのであろうと云った。その当時はここらは森や岡も多く、武家屋敷の空地や草原も多いのであるから、蝮や蛇もめずらしくない。明けてある雨戸のあいだから這い込んで来て、運の悪いお由がその生贄《いけにえ》になったのであろう。なにしろ其の正体を見とどけなければ安心が出来ないので、若い者も小僧も総掛かりで毒蛇のゆくえを詮策したが、家内《かない》は勿論、庭にもそれらしい姿は見いだされなかった。
こうして奉公人らが立ち騒いでいるあいだに、主人側は比較的冷静であった。主人の次兵衛も女房のお琴も殆ど無言であった。娘のお袖は奥に隠れたままで顔も出さなかった。毒蛇狩りが一旦片付いた後、次兵衛は医者を奥へ呼び入れて、女房と一緒にかむろ蛇の一条を話した。それが店の者にも洩れて、自然にうわさの種を播《ま》くことになったのである。
これによって考えると、主人らの冷静は不人情というのでなく、余儀なき運命と諦めている為であったらしい。お由ばかりでなく、お琴もお袖も同じ運命に陥らないとは限らない。お由ひとりが人身御供《ひとみごくう》になって、それでかむろ蛇の祟りが消えるのか、三人ながら同じ祟りを受けるのか、そんなことは誰にも判らない秘密である。主人らは冷静というよりも、強い恐怖にとらわれて、一時は碌々に口も利かれなかったのであろう。しかもお由の親許では、その態度を不人情と難じた。
「いくら不人情にしたところで、親許で娘の死骸を引き取らねえというのは判らねえ」と、半七は云った。
「関口屋で殺したとでも云うのか」
「まさかに殺したとも云いませんが、寝床で蝮に咬まれたなんぞと云うのは、どうもまじめに聞かれねえ。ましてかむろ蛇なんぞは作り話だか何だか判らねえ。大事の娘が死んだ以上、どうして死んだのか確かに判らねえでは、迂濶《うかつ》に死骸を引き取ることは出来ねえと、こう云うのだそうで……。関口屋でも相当の弔い金は出す気でいるのだが、親の方じゃあ五百両か千両も取るつもりでいるらしいので……」
「五百両か千両……」と、半七もすこし驚かされた。「人間の命に相場はねえと云っても、奉公人が死んだ為に五百両も千両も取られちゃあ堪まらねえ。一体その親というのは何者だ」
「五百両千両は別として、親許でぐずるにも仔細があるのです」と、善八は説明した。「だんだん聞いてみると、お由という女は仲働きのように勤めてはいるが、実は主人の姪だそうで……」
「唯の奉公人じゃあねえのか」
「主人の兄きの娘です。兄きは次右衛門といって、本来ならば総領の跡取りですが、若い時から道楽者で、先代の主人に勘当されてしまって、弟の次兵衛が関口屋の家督を相続することになったのです。先代が死ぬときに勘当の詫びをする者もあったが、先代はどうしても承知しないで、あんな奴は決して関口屋の暖簾《のれん》をくぐらせてはならないと遺言《ゆいごん》したそうです。それは二十年も昔のことですが、それがために次右衛門は今でも表向きに関口屋の店へ顔出しは出来ない。裏口からそっとはいって来ると云うわけです」
「次右衛門は何をしているのだ」
「下谷の坂本で小さい煙草屋をしているそうです。表向きは勘当でも、関口屋の総領で、今の主人の兄きには相違ないのですから、関口屋でもいくらか面倒を見てやって、商売物の煙草なぞも廻してやっているようです。その娘がお由で、これも表向きに親類というわけには行かないので、まあ奉公人同様に引き取られて、関口屋の厄介になっていたのです。詳しいことは判りませんが、関口屋へお由を引き取るに就いては、行くゆくは相当の婿を見付けて、それに幾らかの元手でも分けてやって、兄きの家を相続させると云うような約束になっていたらしい。そのお由がだしぬけに死んでしまったので、一番困るのは兄きの次右衛門です」
「その兄きは堅気《かたぎ》になっているのか」
「次右衛門はもう五十で、今は堅気になっているようですが、昔の道楽者の肌は抜けない。自分に落度があるにしても、関口屋の身代を弟に取られたのだから、内心は面白くない。その上に、世話をするという約束で引き取られた娘が得体《えたい》の知れない死に方をする。こうなると、何とか因縁を付けたくなるのが人情で、死骸を引き取るとか、引き取らねえとか、駄々を捏《こ》ねているのでしょう。次右衛門に云わせると、表向きはともかくも、肉親の姪を預かって置きながら、なんだか訳の判らない死に方をさせて、死んだものは仕方が無いというような顔をしているのは、あんまり不人情だ、不都合だ……。それも畢竟《ひっきょう》お由の死に方がはっきりしねえからの事で、確かに蝮に咬まれたのかどうだか、医者にもよく見立てが付かねえようですよ」
「やっぱり蝮だろうな」と、半七は云った。
「蝮でしょうか」と、善八もうなずいた。「そうすると、喧嘩にもならねえ。いくら次右衛門がじたばたしても、追っ付かねえ訳ですね」
「いや、喧嘩にならねえとも限らねえ。そのお由というのはどんな女だ」
「お由は十九で、家《うち》の娘とは一つ違いです。家の娘はお袖と云って、ことし十八。表向きは主人と奉公人のようになっていますが、つまり従妹《いとこ》同士《どうし》で、どっちも容貌《きりょう》は良くも無し、悪くも無し、まあ十人並というところでしょうが、お由の方が年上だけにませていて、男好きのする風でした」
「関口屋の裏の四軒長屋には誰と誰が巣を食っている……」
「コロリで死んだ大工の年造、それから煙草屋の大吉、そのほかに仕立屋職人の甚蔵、笊《ざる》屋の六兵衛……。甚蔵と六兵衛には女房子《にょうぼこ》があります」
「大吉というのは年造の隣りにいる奴だな。そりゃあどんな奴だ」
「二十三四の、色の生《なま》っ白《ちろ》い、華奢《きゃしゃ》な奴です。生まれは上方《かみがた》で、以前は湯島の茶屋にいたとか云うことですよ」
「湯島の茶屋にいた……。男娼《かげま》のあがりか」
「そんな噂です」
「そうか」
半七は薄く眼を瞑《と》じて、又かんがえていた。
四
関口屋の娘お袖は煩い付いた。
医者にもその病症がよく判らないのであったが、お由の変死につづいて、娘が煩い付いたのであるから、関口屋の夫婦には大抵その病いの原因が想像されないでも無かった。今度は自分の番であると思えば、女房も生きた心地はなく、これも食事が進まないようになって、やがては半病人の体《てい》になってしまった。いかに秘密を守っても、何かの事が口《くち》さがない奉公人らから洩れ伝わって、かむろ蛇のうわさが近所近辺に拡がった。コロリも恐ろしいが、かむろ蛇も恐ろしい。関口屋の一家は今にみんな執《と》り殺されてしまうであろうなど、途方もないことを云い触らす者もあった。
その最中に、又もやその長屋うちに一つの怪談が伝えられた。仕立屋職人甚蔵の女房が夜の四ツ(午後十時)近い頃に、近所の湯屋から帰って来ると、薄暗い露路のなかで一人の男に摺れ違った。それが彼《か》の大工の年造の姿に相違ないように思われたので、彼女は真っ蒼になってわが家に逃げ込んだ。
「今そこを年さんが通った……」
「ばかを云え」と、亭主の甚蔵は叱った。
コロリで死んだ年造は焼き場へ送られて、幾日かの後に骨揚《こつあ》げをして、近所の寺へ納めて来たのである。それがここらを歩いている筈がない。しかも女房は確かにその姿を見たと云うのである。それを聞いて、隣りの笊屋の女房も顔色を変えた。
「それじゃあ年さんの幽霊に違いない」
悪疫が流行して、そこにも此処にも死人の多い時節には、とかくに種々の怪談が生み出されるものである。笊屋では女房ばかりでなく、亭主の六兵衛もそれを信じて、コロリで死んだ年造の魂がそこらに迷っているのであろうと云った。その噂が表町まで伝わった時、年造とは壁ひとえの隣りに住んでいる煙草屋の大吉もこんなことを云い出した。
「実はわたしも年さんの姿を見た」
こうなると、幽霊の噂はいよいよ大きくなって、関口屋の長屋には年造の幽霊が毎晩あらわれるなどと、尾鰭《おひれ》を添えて吹聴《ふいちょう》する者もあった。さなきだに、コロリの噂におびえ切っている折柄、かむろ蛇や幽霊や、忌《いや》な噂がそれからそれへと続くので、ここらの町は一種の暗い空気に包まれてしまった。
取り分けて暗い空気のうちに閉じられているのは、関口屋の一家であった。娘は煩い付き、女房は半病人となっている上に、お由の後始末がまだ完全に解決しなかった。町内の五人組が関口屋と次右衛門との仲に立って、いろいろに和解を試みているのであるが、次右衛門は容易に折れない。それが普通の奉公人の親許であれば、こちらから相当の弔い金を投げ出して、これで不承知ならば勝手にしろと突き放すことも出来るのであるが、たとい勘当とは云いながら、次右衛門は関口屋の惣領息子で、当主次兵衛の兄である。次兵衛は兄と闘うことは好まない。仲裁人らも兄を手ひどく遣り込めるに忍びない。そこへ附け込んで次右衛門は飽くまで横ぐるまを押すのである。こんにちの言葉でいえば一種の扶助料として、金千両を出せと彼は主張した。
云うまでもなく、この時代の千両は大金であるが、ひとり娘のお由をうしなっては、自分の老後を養ってくれる者がないから、一年五十両の割合で二十年分、すなわち千両の扶助料をよこせと云うのである。しかも一年五十両ずつの年賦は不承知で、金千両の耳をそろえて一度に渡せと、次右衛門は迫った。理窟のようでもあり、不理窟のようでもあり、仲裁人らもその処置に困って、結局三百両というところまで交渉を進めたが、次右衛門は断じて譲らなかった。
仲裁者もあぐねて手をひこうとする時、次右衛門は白髪《しらが》まじりの鬢《びん》の毛をふるわせて云った。
「次兵衛は現在の兄を追い出して、家督を乗っ取った奴だ。その上に、兄の娘を十五の春から十九の秋まで無給金同様に追い使って、挙げ句の果てに殺してしまって、老後の兄を路頭に迷わせる。おれももう堪忍袋の緒が切れた。おととしは女房に死なれ、ことしは娘に死なれ、自分ひとり生き残ったところでなんの楽しみもねえ。命はいつでも投げ出す覚悟だ」
次兵衛を殺して自分も死ぬといったような、一種の威嚇《おどかし》である。よもやとは思うものの、仲裁人らもなんだか薄気味悪くなって、そのままに手を引くことも出来なくなった。こうして、同じ押し問答を幾日も送るうちに、九月も十日を過ぎて、ここに又一つの騒ぎがおこった。関口屋の裏長屋に住む笊屋六兵衛の女房が頓死したのである。
まだ宵のことで、亭主の六兵衛は不在であった。女房が突然にきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と悲鳴をあげたので、隣りの甚蔵夫婦が駈けつけると、かれは台所に倒れていた。早速に医者を呼んで来たが、これも病症がよく判らない。やはり蝮にでも咬まれたのであろうと云うのである。笊屋の女房は手当ての効《かい》もなくて、明くる朝死んでしまった。それに就いて又いろいろの噂が立った。
「関口屋の蛇が長屋へ這い込んだのだ」
「いや、年さんの幽霊が出たのだ」
蛇と幽霊とに執念ぶかく悩まされている人々のあいだに、第二のコロリ騒ぎが又おこった。
この頃はだんだんに涼風《すずかぜ》が立って、コロリの噂も少しく下火になったという時、関口屋の小僧の石松がコロリに罹《かか》って、二日目に死んだ。それが伝染したと見えて、半病人の女房お琴もつづいて同じ病いに取り憑かれて、これもひと晩のうちに死んだ。関口屋はまったくの暗黒《くらやみ》である。近所の人たちの心も暗黒になった。
病気が病気であるから、関口屋でも女房の葬式《とむらい》を質素に行なった。その葬式が済んだ後に、次兵衛は思い切ったように云い出した。
「こうなっては、娘もやがて死ぬかも知れない。わたしもどうなるか判らない。関口屋の潰れる時節が来たのでしょう。兄の望み通りに、五百両でも千両でも出してやります」
さりとて千両は法外であると云うので、仲裁人らは再び交渉をすすめて、六百両までに相場をせり上げると、次右衛門もここらが見切り時と思ったらしく、渋々ながら承諾した。しかも大金であるから迂濶に渡すことは出来ない。後日《ごにち》のために、次右衛門から今後異論がないという一札《いっさつ》を入れさせて、町役人も立ち会いの上で引き渡しを済ませた。
これらの事件の蔭には、善八の眼が絶えず光っていた。半七も一々その報告を聞いていた。さしあたりは何処へむかって手を着けることも出来なかったが、事件の筋道はだんだんに明るくなって来るように思われた。
五
九月二十日の夜なかに、下谷坂本の煙草屋次右衛門は何者にか殺された。その怪しい物音を聞きつけて、近所の者共が駈け付けた頃には、相手はもう姿を隠していた。次右衛門は刃物で喉《のど》と胸を刺されていたが、微かな息の下で云った。
「大……年……年造……」
まだ何か云いたそうであったが、それぎりで息は絶えた。勿論、早速に訴え出て検視を受けたが、下手人は遺恨か喧嘩か物奪《ものと》りか、すぐには判らなかった。善八がそれを聞き込んだのは明くる日の朝で、半七を案内して下谷へ乗り込んだのは四ツ(午前十時)頃であった。二人は自身番へ寄って、ひと通りの報告を聞いて、更に家主の案内で次右衛門の煙草屋へ踏み込んだ。二間|間口《まぐち》の小さい店で、奥は六畳と二畳のふた間、二階は四畳半のひと間である。
女房には死なれ、娘は奉公に出ているので、次右衛門は当時ひとり者である。その裏に下駄の歯入れが住んでいて、その婆さんのお酉《とり》というのが朝晩の手伝いに来ていたと、家主は説明した。
「じゃあ、そのお酉というのを、ともかくも呼んで貰いましょう」
呼ばれて、半七の前に出て来たのは、五十四五の正直そうな老婆であった。それと一緒に隣りの荒物屋の亭主も呼ばれた。亭主は喜兵衛といって、ゆうべ一番さきに駈け付けた男である。お酉と喜兵衛の申し立てによると、次右衛門は道楽者の揚がりだけに、近所の人達にも愛想がよく、これまで別に悪い噂もなかった。場所も悪し、店も小さいので、碌々の商売もないのに、毎日かなりの酒を飲むので、暮らし向きは楽でなかったらしい。それでも娘に婿を取れば、自分は左団扇《ひだりうちわ》で暮らせるなどと大きなことを云っていた。殊に先ごろお酉にむかって、酔ったまぎれに、こんなことを云った。
「おれは今、大金儲けが眼の先にぶらさがっているのだ。ここでコロリなんぞになっちゃあ堪まらねえ」
娘が不意に死んだので、彼はひどく力を落としたらしく、毎日やけ酒を飲んでいた。そうして、関口屋から弔い金をうんと取ってやると云っていた。その掛け合いもどうにか旨くまとまったらしく、この二、三日は機嫌がよかった。
「ここの家《うち》へふだん近しく来る者はねえかね」と、半七は訊《き》いた。
「煙草屋の大さんです」と、お酉は答えた。「色の白い、華奢《きゃしゃ》な人で……。次右衛門さんの口ぶりじゃあ、行くゆくはお由ちゃんの婿にでもするような様子でした。そのほかには大工の年さんという人がときどき来ましたが、この人はコロリで死んだそうです」
「そうかね」と、喜兵衛が口を入れた。「その年さんという人は、二、三日前の晩にたずねて来たようだが……。わたしの店の前を通ったのは、どうもあの人のように思ったが……。それとも人違いかな」
「大さんという煙草屋は、この頃に来なかったかね」と、半七は又訊いた。
「きのうお午過ぎに見えました」と、お酉は云った。「わたしに少し店を頼むと云って、次右衛門さんと大さんと一緒に二階へあがって、暫く話していました」
半七は二階へあがって見ると、狭い四畳半は案外に綺麗に片付いていた。念のために戸棚をあけてあらためたが、そこにはちっとばかりのがらくたを押し込んであるばかりでなく、これぞというほどの物も見あたらなかった。更に台所へ降りて来て、揚げ板などを払ってあらためたが、ここにも変ったことは無かった。
「次右衛門は、死にぎわに何か云ったそうだね」
「はい」と、喜兵衛は答えた。「それが微かな声でよく聴き取れなかったのですが……。なんでも『大……年……年造』と云ったように聞こえましたが……」
「そうすると大工の年造だね」と、善八は云った。
「ですが、その年造という人は、コロリで死んだそうですから……」
「おめえは二、三日前の晩に見たと云うじゃあねえか」と、善八は又云った。
「それは人違いかも知れませんので、どうもはっきりした事は申し上げられません」
これで先ずひと通りの調べを終って、半七と善八はここを出た。
「大工の年造という奴は生きているんでしょうか」と、善八はあるきながら訊いた。
「コロリで死んで、焼き場へ運んで、骨揚げをして来た奴が、生きていると云うのも不思議だが、関口屋の長屋へも年造の幽霊が出たと云うから、どうかして生きているのかも知れねえ」と、半七は云った。「次右衛門が死にぎわに、年造と云った以上、どうも年造が殺したとしか思われねえ。そこで『大』と云ったのは大工の『大』か、煙草屋の大吉の『大』か、それを考えなけりゃあならねえ。おそらく大吉だろうな」
「そうでしょうか」
「なにしろ此の一件には大吉が係り合っているに相違ねえ。おれにはもう大抵見当がついた。早く大吉を挙げてしまえ。人間はずうずうしくっても、男娼《かげま》あがりのひょろひょろした野郎だ。おめえ一人でたくさんだろう。いや、待て。下手に逃がして何処かの寺へでも逃げ込まれると面倒だ。おれも一緒に行こう」
二人は連れ立って小石川の水道町へゆくと、関口屋の長屋に大吉のすがたは見えなかった。隣りの甚蔵の女房の話によると、大吉は年造の幽霊を怖がっている処へ、又もや家主の関口屋にコロリ患者が二人もつづいて出来たので、いよいよ顫え上がってしまい、とてもこんな処にはいられないと云って、五、六日前から殆ど我が家へは寄りつかない。昼間《ひるま》一、二度帰って来たことがあるが、夜は毎晩どこをか泊まりあるいているとの事であった。半七は肚《はら》のなかで笑いながら聴いていた。
「そこで、年造の幽霊はまだ出るかえ」
「あたしは一度見たきりですが……」と、女房は声をひそめて云った。「その後にも出ると云う人もあり、出ないと云う人もあり、どっちが本当だか知りませんが、笊屋のおかみさんもあんな事になって、なんだか気味が悪くって堪まらないので、あたし達は日が暮れると滅多《めった》に表へ出ないようにしています」
「年造の寺はどこだね」
「改代町《かいだいまち》の万養寺です」
「年造の菩提所かえ」
「いいえ。年さんのお寺は無いとかいうことで、大さんが自分の知っているお寺へ納めて貰ったのです」
「いや、ありがとう。わたし達が訊きに来たことは、誰にも内証にして置いてくんねえ」
表へ出てみると、関口屋は女房の初七日《しょなのか》も過ぎたのであるが、コロリ患者を続いて出したので、近所へ遠慮の意味もあるのか、大戸を半分おろして商売を休んでいるらしかった。半七は気の毒に思った。
改代町は牛込であるが、ここから遠くない。二人は江戸川の石切橋を渡って、改代町へ行き着くと、ここらは俗に四軒寺町と呼ばれて、四軒の寺のほかに、古着屋の多い町である。寺々のうしろは草原で、又そのうしろには一面の田畑が広がっている。草原には丈《たけ》の高い芒《すすき》がおい茂って、その白い穂が青空の下に遠くなびいていた。どこかで鵙《もず》の啼く声もきこえた。
二人は万養寺の前に立った。あまり大きい寺ではないが、内福であるという噂を近所で聞いた。「寺は困るな」と、半七はつぶやいた。「年造は幽霊じゃあねえ、確かにほんものらしい。大吉と一緒にここに潜《もぐ》り込んでいるのだろうと思うが、迂濶に踏み込むわけにも行かねえ。又ぞろ寺社へ渡りを付けるか。うるせえな」
この時、うしろの草原で犬の吠える声が頻りにきこえるので、二人は顔を見あわせた。半七は先に立って裏手へまわると、草原はなかなか広く、その芒の奥で幾匹かの野良犬が吠えたけっている。二人は犬の声をしるべに、高い芒をかき分けて行くと、その行く手からも芒をがさがさと潜《くぐ》って来る者がある。たがいに先が見えないので、殆ど出合いがしらに眼と眼が向かい合ったとき、善八は俄かに半七の袂《たもと》をひいた。
「大吉ですよ」
相手も不意の出合いに慌てたらしく、身をひるがえして逃げようとするのを、善八はすぐに追いかけると、彼は持っている鍬《くわ》をふり上げて、真向《まっこう》へ撃ち込んで来た。善八はあやうく身をかわすと、芒の中から又一人、鋤《すき》を持って撃って来る者があった。
「幾人もいるぞ、気をつけろ」
半七も善八に注意しながら、鋤を持つ男に飛びかかった。あとの敵の方が手剛《てごわ》いと見たからである。何分にも芒が深いので、それが眼口《めくち》を打ち、手足に絡んで、思うように働くことが出来ない。善八も同様で、どうにかこうにか大吉の腕をつかんだが、芒の葉に妨げられて眼を明いていることも出来なかった。その不便は敵も同様であったが、この場合には弱い者の方に都合がよい。芒の邪魔を利用して、大吉らは必死に抵抗した。
四、五匹の野良犬も駈け寄った。かれらは半七らの味方をするように、大吉らを取り巻いて、吠え付き、飛び付いた。鋤を持つ男は半七を突き放して、一間ほども逃げ延びたかと思うと、芒の根につまずいて倒れた。半七は折り重なって組み伏せた。
大吉は案外に激しく抵抗したが、これもやがて善八の膝の下に倒れた。芒の葉に切られて、敵も味方も、頬や手足に幾ヵ所の擦《かす》り疵を負った。二人が早縄をかけて立ち上がる時、犬は半七らを導くように吠えて走るので、芒のあいだを付いてゆくと、そこには芒が倒れて乱れているひと坪ほどの空地が見いだされた。新らしく掘り返された土は柔らかく、そこに何物をか埋めてあるように見られたので、大吉の鍬をとって掘り起こすと、土の下には若い大工の死骸が横たわっていた。
六
「これで捕物は終りました」と、半七老人は云った。「捕物で怪我をしたことは度々ありますが、その時のように芒のお見舞を受けたことはありません。当分は顔や手足がひりひりして、湯に入るにも困りましたよ」
「わたしも曾て石橋山組打の図に俳句を書いてくれと頼まれて『真田股野くらがりの芒つかみけり』という句を作ってやったことがありますが、まったく芒のなかの組打ちは難儀でしょうね」と、わたしは云った。
「うっかりすると眼を突かれますからね」と、老人は笑った。「そこで例の種明かしですが、何からお話し申しましょうかね」
「鋤を持って出た男は何者です」
「それは万養寺の寺男で、名は忠兵衛……梅川と道行《みちゆき》でもしそうな名前ですが、年は五十ばかりで、なかなか頑丈な奴でした。生まれは上方《かみがた》で、大吉の親父です。こいつも昔は道楽者で、せがれの大吉が小綺麗に生まれたのを幸いに、子どもの時から陰間《かげま》茶屋へ売りました。江戸の陰間茶屋は天保度の改革で一旦廃止になったのですが、その後も給仕男という名義《めいぎ》で営業していました。男娼《かげま》のことは余談にわたりますから、詳しくは申し上げませんが、なにしろ女と違って、子供時代が売り物ですから、十七八にもなればもうお仕舞いです。男娼の揚がりは馴染の客……多くはお寺さんですが、それに幾らかの元手を出して貰って小商いでも始めるか、寺侍の株でも買ってもらうか、又は小間物や煙草の行商になる。お寺にむかし馴染があるので、煙草を売って歩くのが多かったようです。大吉もその一人で、関口屋の長屋に住んで煙草屋になっていたんです。万養寺の住職も大吉のむかしの馴染で、その関係から親父の忠兵衛を引き取って、自分の寺男に使っていたと云うわけです」
「そこで、問題のかむろ蛇の一件ですが、それは大吉や次右衛門の狂言ですか」
「そうです、そうです。御承知の通り、次右衛門は総領でありながら、関口屋の身代《しんだい》を弟の次兵衛に取られてしまったので、内心甚だ面白くない。しかし次兵衛は元来いい人ですから、兄きはこれに娘を預けて置いて、万事よろしく頼んでいればいいのですが、それではどうも気が済まない。又その娘のお由というのが気の勝った女で、関口屋の娘とは従妹《いとこ》同士でありながら、表向きは奉公人同様に働かされているのが口惜《くや》しくてならない。そんなわけで、関口屋の方ではやがて相当の婿をさがして、行く末の面倒を見てやろうと思っているのに、次右衛門親子は内心|修羅《しゅら》を燃やして、なにか事あれかしと狙っているという始末、それでは無事に納まる筈がありません。どうしてもひと捫著《もんちゃく》おこるのは知れています。そこへかの大吉が煙草を仕入れるために、関口屋へ毎日出入りをする。男娼あがりで、男振りも優しく、口前もいいので、お由はいつか大吉と出来合ってしまったんです。うわべは柔らかでも肚《はら》のよくない大吉、これが次右衛門親子と共謀して、ひと芝居打つことになったんです」
「その芝居の筋立ては……」
「芝居の筋立ては、関口屋のひとり娘を殺してしまって、従妹同士のお由をその相続人に直そうという策略です。ひとり娘のお袖がコロリで死んでくれれば申し分はないが、お誂え向きにも行かない。さりとて毒殺などをすれば、あとが面倒。そこで考えたのがかむろ蛇です。お袖親子がこのごろ水道端の氷川明神へ参詣に行くのを幸いに、まずかむろ蛇で嚇かして置いて、それからお袖を殺すことにする。殺す方法は毒蛇に咬ませる。かむろ蛇のことは世間でも知っているから、その祟りで蛇に殺されたと云えば疑う者もあるまい。親の次兵衛は迷信者だから、勿論うたがう筋はない。今の人から思えばちっと拵え過ぎた芝居のようですが、なにしろかむろ蛇の信じられていた時代ですから、それを利用してこんな芝居も考えられたんです。
その頃、湯島天神の境内《けいだい》にも芝居小屋がありました。その芝居に出ている力三郎という子役を大吉が借りて来て、明神山にかむろ蛇の姿をあらわすという趣向……。なんと云っても芝居の子役ですから、こういう役には都合がよかったでしょう。殊にお袖親子が参詣の時には、一味徒党のお由も一緒に付いて行ったのですから、怪談がかりの芝居をうまく運んだと見えます。その芝居が図にあたって、娘は気病《きやみ》になる。おふくろも半病人になる。おまけに長屋の大工がコロリで死ぬ。そこを狙って、いよいよお袖を殺す段取りになる。その蛇は大吉が捕って来て、お由に渡しました。今とちがって、その頃の小石川あたりには蛇や蝮は幾らでも棲んでいましたから、近所の藪《やぶ》からでも捕って来たんでしょう。それを小さい箱に入れて、それをお由に渡したんです」
「蝮ですか」
「蝮です。お由は夜なかにそれを持ち出して、お袖の蚊帳《かや》の中に放そうとしたんですが、やっぱり悪いことは出来ないもので、その蝮をとり出すときに誤って自分が咬まれてしまって……。どこを咬まれたのか知りませんが、忽ちに毒がまわって死んだという訳です。人を呪わば穴二つとか云うのは、まったくこの事でしょう。思いもよらない仕損じに、大吉も次右衛門もびっくりしたが、今更どうにもならない。そこで今度は法を変えて、怪しい死に方をした娘の死骸は引き取れないと、親の次右衛門から因縁をつけて、とうとう関口屋から六百両をまき上げました」
「その六百両のために、次右衛門は殺されることになったんですね」
「お察しの通り」と、老人はうなずいた。「それに就いては、大工の年造のお話をしなければなりません」
「私もそれが気になっていました。年造はどうして生きていたんです」
「まあ、お聴きなさい。年造は湯島の早桶屋へ手伝いに行っていて、亭主の伊太郎がコロリで金儲けをしたのを知って、夜なかに忍び込んで亭主を殺し、女房に疵をつけて、十両ばかり金を取りました。その時に、隣りの大吉も一緒に行って、表で見張り番を勤めていたんです。ところが、天罰と云うのか、運がいいと云うのか、年造はコロリに罹《かか》って、善八が召し捕りにむかった時には、もう死んでいました。そのときに善八がもう少し上手に大吉を調べれば、こいつも同類という見あらわしが出来たんですが、そこまでは行かないで一旦は見逃がしました。
それから年造の死骸を千住の焼き場へ持って行くと、コロリ騒ぎで焼き場は大繁昌、五十も六十も棺桶が積んであって、とても右から左には焼けないというので、棺桶をそのまま預けて帰りました。その頃の焼き場は乱暴なもので、殊に大混雑の際だから滅茶苦茶です。そこで、近所の者が棺桶を置いて帰った後、どうしたものか年造は息を吹きかえして、棺桶を毀して這い出しました。夜は更けて、あたりは真っ暗、もちろん誰にも断わらずに、年造はそこを立ち去ってしまいました。
こんにちならば、それで済むわけは無いんですが、前にもいう通りの混雑ですから、誰も構わない。幾日かの後に骨揚《こつあ》げに行って、年造の灰を拾って来たんですが、勿論それは人違いで、誰の骨を拾ったのか判りません。大コロリの時には、こんな間違いが幾らでもありました」
「それで年造は生き返ったんですね」
「一旦コロリで死にながら、また生き返りました。不思議といえば不思議です。或いは真症のコロリでは無かったのかも知れません。年造は焼き場を立ち退いて、それから何処にどうしていたのか、死人に口無しでよく判りませんが、なにしろ骨揚げが済んだ後で、或る晩ふらりと帰って来ました。そうして、隣りの大吉の家へ顔を出すと、大吉も一旦は驚いたが、生き返ったわけを聞いて先ず安心した。しかし安心できないのは、湯島の人殺しが露顕して、善八が召し捕りに来たことです。死んでしまえばそれっきりだが、生きて帰ると剣呑《けんのん》だから、大吉は年造に注意して、ひとまず万養寺の親父のところへ忍ばせました。
相長屋の甚蔵の女房が幽霊を見たというのは其の時のことです。幽霊でないと云っては面倒だと思って、大吉も一緒になって幽霊の噂をひろめていると、又その最中に笊屋の女房が変死をする。これはお由を殺した蝮が関口屋の裏手へ逃げ出して、そこらを這い廻っていたのか、それとも別に訳があるのか、その頃の医者にはよく判らないので、いろいろの噂も立つことになるんです。そこへ又、関口屋のコロリ騒ぎ、それからそれへとよくも変事の続いたものですが、女房と小僧のコロリは誰の仕業でもなく、これは自然の災難で仕方がありません。
大吉は煙草屋であり、殊に関口屋へも出入りをしているので、次右衛門とも心安くしている。その関係から年造も大吉に連れられて行って、次右衛門と知り合いになっていました。しかし湯島の人殺しと関口屋の一件とは全く別問題で、湯島の方は年造と大吉の二人、関口屋の方は、次右衛門とお由と大吉の三人、それぞれに役割りが違っているわけで、双方掛け持ちは大吉だけです。上方生まれの男娼揚がりなどというものは、忌《いや》にねちねちしていて、肚《はら》のよくないのが往々ありました」
「大吉と年造と共謀で、次右衛門を殺したんですか」
「お由が死んでしまって、かむろ蛇の一件は失敗しましたが、次右衛門が因縁をつけて関口屋から金を取る。それを大吉も目当てにしていたんですが、さてその談判がまとまって、いよいよ六百両の金を受け取ると、次右衛門はみんな自分のふところへ入れて、大吉には一文もやらない。お由が死んだ以上、大吉なぞにはもう用が無いという顔をしている。それでは大吉も不承知です。おれに相当の分け前をくれなければ、関口屋へ行っていっさいの種明かしをすると嚇かしたが、次右衛門は鼻であしらって、どうとも勝手にしろと空うそぶいている。せめて百両くれろと掛け合ったが、それも肯《き》かない。とうとう十両で追っ払われてしまったので、大吉は残念でならない。万養寺に隠れている年造と相談して、いわゆる最後の手段を取ることになりました。
尤もそれまでには、年造も下谷へこっそりとたずねて行って、大吉のために口を利いてやったんですが、次右衛門はどうしても承知しない。その上に、湯島の一件を薄々気取っているような様子も見えるので、いよいよ助けては置かれないということになったんです。そこで九月二十日の夜なかに、年造が裏口から忍び込む。その露路は抜け裏になっているので、こういう時には都合がいい。安普請《やすぶしん》の古家ですから、年造は何の苦もなしに台所の雨戸をこじ明けてはいる。例のごとく、大吉は外で見張り番を勤めていました。
大吉は現場を見ていないというので、詳しいことは判りませんが、年造は小刀のような物を持って、次右衛門の寝込みを襲って、思い通りに相手を仕留めて、さてその金のありかを探すと、仏壇の抽斗《ひきだし》に百両、ボロ葛籠《つづら》の底から百両、あわせて二百両だけは見付け出しましたが、残りの四百両の隠し場所がわからない。そのうちに近所の者が起きて来るらしいので、怱々《そうそう》にそこを逃げ出して、二人は無事に牛込へ帰りました。
目あての六百両は残念ながら二百両しか手に入らない。それでも年造は正直に山分けにして、大吉も先ず納得したんですが、その親父の忠兵衛も悪い奴、その山分けの百両を年造に取られるのが惜しくなって、せがれの大吉をそそのかし、年造が疲れて寝ているところを絞め殺して、百両を取り上げてしまいました。死骸は寺の裏手の草原に埋め、ほとぼりの少し冷めた頃に、親子は二百両を持って、故郷の大阪へ帰るつもりでした。
死骸は夜の明けないうちに埋めたんですが、この辺には野良犬が多い。それが何か嗅ぎ出したとみえて、明くる日になると野原にあつまって、頻りに吠える。初めは打っちゃって置いたんですが、あまり吠えるので大吉親子も不安心になった。もしや死骸の埋めてある所を掘り返されたりしては困る。犬がむやみに吠えると人に怪しまれるかも知れない。二人は鋤《すき》と鍬《くわ》を持って現場を見届けに出て行くと、死骸に別条はない。集まっている犬を追い散らして、芒をかき分けながら帰って来ると、丁度わたくし共と顔をあわせた。それが二人の運の尽きで、さっきお話し申したような事になってしまいました。どう考えても悪いことは出来ませんね」
「四百両のゆくえは知れないんですか」
「次右衛門の店の床下に埋めてありました。その金はどう処分されたか確かには知りませんが、都合よく関口屋の手へ渡ったように聞いています。関口屋の娘のお袖は、かむろ蛇の正体が判ったので、急に気が強くなったのでしょう、やがて全快して元のからだになりました。この娘が大吉らに狙われた御本尊でありながら、とうとう無事に助かりました。人間の運は判りません」
「八つ手の葉にお袖死ぬと書いたのは、お由の仕業ですか」
「お由の小細工です。わたくしはその実物を見ませんが、なにかの焼き薬か腐れ薬で虫蝕《むしく》いのように書いたんでしょう。気をつけて見たらば、お由の筆蹟だと云うことも判ったんでしょうが、そこが素人の不注意で仕方がありません。いや、わたくし共の商売人でも時々に飛んだ不注意の失敗をやりますから、素人を咎めるわけには行きませんよ。八丁堀の役人だって、岡っ引だって、みんな神様じゃあない。時には案外の見込み違いをして、あとで大笑いになることがありました」
云いかけて、老人は笑い出した。
「大笑いと云えば、こんな事があります。明治以後、氷川明神が服部《はっとり》坂へ移されてからのお話ですが、小石川の縁日にかむろ蛇の観世物《みせもの》が出ました。これは昔から氷川の明神山に棲んでいた大評判のかむろ蛇でございと云うんですが、よくよく聞いて見ると、どこからか大きい青大将を生け捕って来て、その頭へコールターを塗って、頭の黒いかむろ蛇と囃し立てていたのだそうで……。明治の初年には、こんないかさま[#「いかさま」に傍点]の観世物がまだ幾らも残っていました。ははははは」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(五)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年10月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
1999年4月25日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
コメント