月の出の間もない夜更けである。暗さが弛《ゆる》んで、また宵が来たやうなうら懐かしい気持ちをさせる。歳子は落付いてはゐられない愉《たの》しい不安に誘はれて内玄関から外へ出た。
「また出かけるのかね、今夜も。――もう気持をうち切つたらどうだい。」
洋館の二階の書斎でまだ勉強してゐた兄が、歳子の足音を聞きつけて、さういつた。
窓|硝子《ガラス》に映る電気スタンドの円いシエードが少しも動揺しないところを見ると、兄は口だけでさういつて腰を上げてまで止めに出ては来ないらしい。
「ええ、もう今夜たつた一晩だけ――ですから心配しないで、兄さんもご自分の勉強をなさつて……。」
歳子は自分の好奇な行為だけを云はれるのに返事をすればたくさんなのに、兄の勉強のことにまで口走つてしまつたので、すこし云ひ過ぎたかと思つたのに、兄は「うむ、さうか」と温順《おとな》しく返事をしたので、却《かえ》つて気が痛みかけた。
「兄さん、棕櫚《しゅろ》の花が咲いてますのよ。葉の下の梢《こずえ》に房のやうに沢山《たくさん》。あたし何だか、ぽち/\冷たい小粒のものが顔に当るので雨かしらと思ひましたらね、花が零《こぼ》れるのですわ。」
兄の気持ちを取做《とりな》し気味に、歳子はあどけなくかう云つた。すると兄はすつかり気嫌よく、
「棕櫚の花が咲いたか。ぢや、下を見てご覧、粟《あわ》を撒《ま》いたやうに綺麗《きれい》に零れてゐるよ。」と云つた。
歳子は跼《せぐくま》つて、掌《てのひら》で地をそつと撫《な》でて見た。掌の柔い肉附きに、さら/\とした砂のやうな花の粒が、一重に薄く触れた。それは爽《さわや》かな感触だが、まだ生の湿り気を持つて、情味もあつた。かの女は「闇中《あんちゅう》に金屑《かなくず》を踏む」といふ東洋の哲人の綺麗《きれい》な詩句を思ひ出し、秘密で高踏的な気持ちで、粒々の花の撒《まき》ものを踏み越した。そして葉の緻密《ちみつ》な紫※[#「くさかんむり/威」、第3水準1-91-11]《のうぜんかずら》のアーチを抜けた。歳子は今夜あたりの自分は、兄ともまた自分の婚約の良人《おっと》とも、まるで縁のない人間のやうに思へた。
歳子の兄の曾我弥一郎と、歳子の婚約者の静間勇吉とは橋梁《きょうりょう》と建築との専門の違ひはあるが、同じ大学の工科の出身で、永らく欧洲に留学してゐた。文化人とは恐らくこの二壮年などをいふのであらう。彼等は近代の文化人とはあまりに知性が冴《さ》え返るその寂しさと、退屈をいつも事務か娯楽で紛らしてゐなければならないといふことを十分承知して、そして実際それをやつてゐるほどの文化人だつた。
帰朝後はいよ/\交際を密接にした弥一郎と勇吉とは、寵愛《ちょうあい》してゐるパイプ――ネクタイピン――卓上の一枝の花――を一方は割愛し、一方は愛用し始めるといつた無雑作《むぞうさ》な調子で、兄はその友人と自分の妹の婚約を取計《とりはから》つた。もつとも、二人の男同志の間には、歳子をよその人間には遣《や》り度《た》くない愛惜があつた。兄は折角素直に生ひ立つた妹の愛すべき性格を知らない他人に、猥《みだ》りに逆撫《さかな》でさせたくないといふ真意から、また勇吉は自分が自分とはまつたく性格の反対なこのナイーヴなロマン性の娘を兄に代つて護り育てられる資格と自信を持つたものだから歳子の授受の内容には極めて親切で緊密な了解が働いてゐた。
「あの子は近頃どうしてゐるかね」
「あの子かね。は、は、は、あの子は少し退屈してゐるやうだね。僕が少し詰めて工房へ入り切りだからね。」
何か弥一郎と勇吉が外の会合で顔を合はす場合には、こんな問答が交された。歳子をあの子と呼ぶことに二人はおの/\の立場で、歳子を愛し理解する黙契を示し合つてゐた。
「ぢや、僕の方へ少し寄越《よこ》しとけ、僕はここ三週間ほど仕事の合間だから、相手になつてゐてやれる。」
こんなふうにして歳子は婚約中の良人《おっと》の家と兄の家の間を愛撫《あいぶ》され乍《なが》ら往復した。幸ひ兄はまだ独身だし、良人の家には叔母《おば》がゐたが、この中年寄《ちゅうどしより》は寄人《よりうど》の身分を自認して、何にも差出なかつた。
「一體こんな呑気《のんき》なことであたしいゝのでせうか。」
歳子は飽満に気付いて、あるとき婚約中の良人に訊《き》いた。すると良人は思慮深く考へてゐたが、すぐ明るく眉《まゆ》を開いていつた。
「といつて、なにも強《し》ひて苦労を求めるのも不自然ですよ。まあ、呑気にしてゐられるうちはしてゐるんですね。」
歳子は未来の良人の頭の良さを信頼すると共に、あまり抱擁力のある明哲なものに向つて、なぜかいくらか反感を持つた。
兄の家へ戻つてから間もない日のことである。歳子は兄と一緒に音楽会へ行つて帰りにベーカリーに寄つて、そこで喰べたアイスクリームのバニラの香気が強かつたためか、かの女は家へ帰つて床《とこ》についても眠られなかつた。腺病質《せんびょうしつ》のこどもだつた時分に、かういふ夜はよく乳母《うば》が寝間着の上に天鵞絨《ビロード》のマントを羽織《はお》らせて木の茂みの多い近所の邸町《やしきまち》の細道を連れて歩いて呉《く》れた。天地の静寂は水のやうに少女を冷やした。するとかの女は踏む足の下が朧《おぼろ》になつてうと/\として来た。かの女の口が丸く自然に開いて小さい欠伸《あくび》が出た。目敏《めざと》く見付けた乳母は、「さあ、やつと宵の明星さまがお手を触れて下さいました」といつて、ふうはりかの女を抱き取つて家へ入り、深々と寝床に沈めて呉《く》れた。
それを想ひ出したので、歳子はやはり寝間着の上へ兄が洋行|土産《みやげ》に買つて来て呉れた編糸《あみいと》のシヤーレで肩を包んで外へ出て見た。今更死んだ乳母《うば》に伴つて連れて歩いて貰《もら》ひ度《た》いといふやうな幼い憧憬《あこがれ》の気持ちもなかつたが、さればといつて、兄や婚約中の良人《おっと》にがつちり附添つて歩いて貰ひ度いと思ふ慾求も案外に薄かつた。二人の紳士は歳子の上に現はれる眠りのやうな生理的現象を生理的生活の必然的要求と受取つて、親切に労《いたわ》つては呉れようが、それ以上の深いものを認めては呉れないだらう。それは極めて幼稚な考へ方にしろ、あの乳母のやうに人間の総《すべ》てのものとして、しんからの尊敬と神秘観を持つてかの女を扱つて呉れる素質は兄にも良人にも全然なかつた。たとへ愛の手は同じでも、あの乳母とは感触の肌触りに違つたものがあつた。歳子は生れつきかういふことを感じ分けるに敏感な本能を持つた女だつた。
かういふ時にかの女は兄と良人と、そして自分との間柄を考へて、自分はある意味で非常に幸福な女であるかも知れないが、またかういふ自分の肝腎《かんじん》な気持ちを自分に一ばん近しい人が了解しない以上、自分は却《かえ》つて世の中で一ばん不幸な女であるかも知れないとも考へた。だが、このことは口でいつても判ることではなし、むしろ独りで夜の空気の中を彷徨《ほうこう》する方が焦燥《しょうそう》の感じを少くした。
歳子の兄の住む土地の一劃は、道路まで誰か個人の私有地になつてゐて、道の口々は柵門《さくもん》で防がれ、割合ひに用心堅固の場所だつた。女の真夜中の一人歩きもたいした心配はなかつた。かの女はそろ/\出かかつた月の光を吸ひつゝ木の茂みから来る理智的な湿り気と、大地から蒸発する肉情的な蘊気《うんき》の不思議な交錯の中に漂渺《ひょうびょう》とした気持ちになつて、いくつか生垣《いけがき》について角を折れ曲つた。鋏《はさみ》を入れず古い茨《いばら》の株を並木のやうに茫々《ぼうぼう》と高く伸びるがまゝにした道の片側があつて、株と株の間は荒つぽく透けてゐた。何気なく通るかの女は、同じく何気なく垣の中からすうつと出て来た青灰色のブルーズ着の一人の青年とぱつたり顔を見合して、思はず立停《たちどま》つた。山中で珍らしく人と人とが出遇《であ》つたときのやうな眼の離されない惧《おそ》ろしさと、同時に物なつかしい感情がかの女の胸を掠《かす》めた。月光に明瞭《めいりょう》に照された青年の顔は、端正な目鼻立ちにかすかな幽愁《ゆうしゅう》を帯びてゐた。青年はやゝ控へ目に声をかけた。
「いゝ夜ですね。曾我さんの妹さんでせう。中へ入りませんか。」
歳子はさすがに狐疑《こぎ》した。「これはどういふ青年なのであらう。兄がこの近所に学校の後輩の家があるといつたが、大方それだらうか。」
青年はすぐ「今夜、うちの庭はとてもいゝですよ。」と云つた。
その声はあまりに世の中の普通の言葉に何のかゝはりも持たない、卒直で親しみのある声だつた。歳子は青年の誘ふその声に自然する/\と入つてみる方に気持ちを傾けてしまつた。しかし表面静かに微笑して一応辞退した。
「有難う。でも――」
「懸念なさることありませんよ。」
「でも」
「あんたのお兄さんは僕を知つてられる筈《はず》ですよ。兄さんは僕の学校の先輩です。」
歳子はやつぱりさうかと思つた。かの女はさう了解がつくと妙な遠慮はいらないと思つた。
青年は牧瀬と云つた。その夜から牧瀬の庭を知り、その池の周囲の饗宴《きょうえん》を知つた。それは淡々とした味を持ちつゝ何となく気がかりの魅惑があつて、あとを引いた。
翌朝兄に話すと、兄は、
「牧瀬が帰朝してると聞いたが、やつぱりさうかい。うん、あの男は後輩の中でも天才的な特長があるらしいけど、多少変りものなのだ、根は君子人《くんしじん》だ。さうなあ、交際つて別に毒になるほどのこともないが、利益にもならんね。」
といふ観方で、強《し》ひてかの女を阻《はば》みもしなかつた。
歳子は知らず/\二十日ばかりの間に、間を置いて七八夜も牧瀬の庭に遊びに行つたが、もう婚約の良人《おっと》の家へ帰る期日も近づいたので、いよ/\今夜もう一晩ぐらゐの交際だと思つて、茨《いばら》の垣の門内に入つた。
「今夜あたりはあなたが来さうな晩だと思ひましたよ。月の出が最初お目にかゝつた晩と同じですからね。」
牧瀬は歳子を迎へるなり直ぐかう云つた。
周りは小さい丘や築山《つきやま》の名残りをとゞめた高みになつてゐて、相当な庭園だつた証拠には、楓《かえで》とか百日紅《さるすべり》とかいふ観賞樹の木の太さに、庭師の躾《しつ》けが残つた枝振りで察しられた。歳子の兄の家の屋上庭園から春は雲のやうに眺められるその桜の木も、庭の中にあつて近づいて見るとみな老樹だつた。中央の池泉は水が浅くなり、渚《なぎさ》は壊れて自然の浅茅生《あさじう》となり、そこに河骨《こうほね》とか沢瀉《おもだか》とかいふ細身の沢の草花が混つてゐた。
石橋の架《かか》つてゐる中の島の枯松を越して、奥座敷に電燈が煌々《こうこう》とついてゐた。座敷の中には美術品らしいものが一ぱいに詰つてゐるのが見えた。だが最初の夜から歳子を一番驚かしたのは、一面|茫々《ぼうぼう》と生えてゐる夏草だつた。野菊もあれば箒草《ほうきぐさ》もあるが、兎《と》に角《かく》、庭全体を圧倒して草の海原《うなばら》の感じだつた。
なるべくクローヴアーの厚く生え重つた渚《なぎさ》の水気の切れた辺に席を取つて、牧瀬と歳子はもう二三十分も神経を解放し、たゞ黙つて夏の夜の醸《かも》す濃厚で爽《さわや》かで多少|腕白《わんぱく》なところもある雰囲気に浸《ひた》つてゐた。蛙《かえる》が低く鳴いて、月は息を吐きかけた程の潤《うる》みを持つてゐた。
「あゝいゝ気持ち」
歳子は喰べても喰べてもうまくだけあつて、少しも腹に溜まらない飲食物に味《あじわ》ひ耽《ふけ》るやうについさう云つた。
「まだ、少女のときのやうに眠くなりませんかね。」
牧瀬は横にしてゐた体を悠々と立て直しながら、いくらか揶揄《からか》ひ気味に訊《き》いた。七八夜の間に歳子は今までの生涯の体験やら感想やらを識らず知らず彼に話してゐた。
「眠くなつちやゐられないほどいゝ気持ちよ。それとも眼が覚めてゐて眠つてゐると同じやうな気持ちなのかも知れない。」
「うまいこと云ふ」と呟《つぶや》きながら笑つて牧瀬は、すこし歳子に躪《にじ》り寄り、籐《とう》で荒く編んだ食物|籠《かご》の中の食物と食器を掻《か》き廻した。
「喉が渇きませんか。今夜はこれをあがつてご覧なさい。おいしいですよ。」
牧瀬は月にきら/\光らせながら魔法|罎《びん》からコツプへ液汁をなみ/\と注いだ。
歳子がそのコツプを月にさしつけて、透《すか》してゐると、牧瀬は「水晶|石榴《ざくろ》のシロツプです。シロツプでは上品な部ですね。」と云つた。
それから彼は不器用にパパイヤを切つて小皿に載せ、レモンを絞つてかけてから、匙《さじ》と一緒に差出した。藐姑射山《はこやのやま》に住むといふ神女《しんにょ》の飲みさうな冷たく幽邃《ゆうすい》な匂ひのするコツプの液汁を飲み、情熱の甘さを植物性にしたやうな果肉を掬《すく》つて喰べてゐると、歳子はこころがいよ/\楽しくなつた。蚤《のみ》の喰つたあとほどの人恋しさの物憎い痒《かゆ》みが、ぽちりと心の面に浮いた。牧瀬のスポーツシヤツの体からは、半人半獣のやうな健やかな感触が夜気に伝つて来た。
森から射上げられるやうな鳥の影が見えて、「きや/\」といふ鳴声がした。梟《ふくろう》に脅《おど》かされた五位鷺《ごいさぎ》だと牧瀬はいつた。歳子の襲はれさうになる恋愛的な気持ちを防ぐ本能が、かの女にぶる/\と身慄《みぶる》ひをさして、その気持ちを振り落さした。
東京の中にこんな山の窪地《くぼち》のやうに思はれるところがあるとは、歳子は牧瀬に誘はれて、この庭へ来るまで想像しても見なかつた。ここは三四代前からの牧瀬の邸《やしき》で、隣接する歳子の兄の家の敷地も昔はこの邸内になつてゐた。昔この辺は全く江戸の田舎《いなか》で、狐《きつね》や狸《たぬき》が棲《す》み、この池の排《は》け口へは渋谷川から水鶏《くいな》が上つた程だつた。
牧瀬はまるで他人ごとのやうに歳子にさういふ話をした。歳子は一体この青年が夜な夜な断片的に語る自分の経歴やら、生活やらがまるで他人ごとのやうに淡々と話されるだけ、却《かえ》つて印象が明確なのに気付いて不思議に思つてゐた。
牧瀬の断片的の話を綜合《そうごう》してみるとかうであつた。彼は建築史の研究を近代からだん/\原始へ遡《さかのぼ》つて行つた。建築を通して見た古い昔の民族の素朴な魂と単純な感情に、極めて雄渾《ゆうこん》で溌溂《はつらつ》とした生命が溢《あふ》れてゐるのに、彼は精神を虜《とりこ》にされてしまつた。しかし、歳子の観察によると、彼は趣味の高さから来る近代文化に対する自虐的な反抗と、複雑濃厚なあらゆるものに飽き果てゝ素朴なものゝ愛に引き返した一種洗練された健気《けなげ》にも寂しい個性が感じられた。いはゞ世紀末的な敗頽《はいたい》の底を潜つて、何か清新なものを掴《つか》まうと漁《あさ》つてゐる、老《おい》と若さと矛盾《むじゅん》してゐる人間に見えた。彼はまだ、その目的の精神的なものは掴まないにしろ、肉体の健康と情操の高さだけは感じられた。これは彼から取り除《の》けやうにも取り除けられない彼の二次的性格になつてゐた。
どういふわけか、今夜の彼からは淡々とした話振りの底に熱い情熱が間歇《かんけつ》的に迸《ほとばし》つて、動揺し勝ちの歳子をしば/\動揺さした。そして彼は頻《しき》りに恋愛の話をしたがつた。昔語りでも嘘でもロマンスの性質を帯びれば、それがすべて現実に思へるやうな水色の月が冴《さ》えた真夜中になりかけてゐた。彼は恋愛を愛するが、しかし情熱の表現の仕方については、かういふ風変りなことを云つた。
「――肉体も精神も感覚を通して溶け合つて、死のやうな強い力で恍惚《こうこつ》の三昧《さんまい》に牽《ひ》き入れられるあの生物の習性に従ふ性の祭壇に上つて、まる/\情慾の犠牲になることも悪くはありませんが――しかし、ちよつと気を外《そ》らしてみるときに、なんだか醜い努力のやうな気がします。しかも刹那《せつな》に人間の魂の無限性を消散してしまつて、生の余韻を失《な》くしてしまつたやうな惜しい気持ちがしますね。
僕はそれよりも健康で精力に弾《は》ち切れさうな肉体を二つ野の上に並べて、枝の鳥のやうに口笛を吹きかはすだけで、充分愛の世界に安住出来るほど徹底して理解し合つた男性と女性とでありたく思ふのです。」
微風が草の露《つゆ》を払ふ。気流の循環する加減か遠い百合《ゆり》の畑からの匂ひに混つて、燻臭いにほひがする。歳子が気にすると、それは近所の町の湯屋が夜陰《やいん》に乗じて煙突の掃除をしてゐるのだと牧瀬はいつた。その埃《ほこり》の加減か、または夜気で冷えた加減か池の面には薄く銀灰色の靄《もや》が立て籠《こ》めて来て、この濃淡の渦巻は眺める人に幻を突きつけて、記憶に潜在するあらゆる情緒を語れ/\と誘ふやうに見える。牧瀬はしばらくたゆたつてゐたが、靄の幻を見詰めながらたうとう語つた。
「むかしの牧神と仙女はそんな無駄なあがきを彼等の間柄の仲では一切しませんでした。彼等は愛があるうちは愛の完全透徹した力を信じてゐた。二人は子供のやうに遊び狂ひながら絶対に心は恋愛に充《みた》されてゐた。随分性質の悪い悪戯《いたずら》をし合つて怒つたり、苛《いじ》めたりし合つても、愛の揺ぎを感じなかつた。星の摂理を信じ、互ひの性質の自然を尊敬し合つてゐるものには、疑ひだの不平といふものを挟む必要がなかつた。さういふものを挟む必要が来た時は、もうその星の司《つかさど》る運命は終つたので、彼等は次の星の運命の支配の下に引取られてゐるのだつた。そこでまた彼等は彼等の生命を一ぱいに張り切つた次の生活が始められる。
僅《わず》か七八夜の僅かな話のうちに僕は判りました。あなたは愛だの好意だのに対して素直で無条件に受容れられさうな理想家風の女性らしいですね。僕の直観に従へば、あなたは僕の考へてゐる恋愛論に共鳴が出来る方らしいですね。
この夏の七八夜あなたとここで話したメモリーは僕の一生のうちの最も好いメモリーになりさうです。こんなこと云つて失礼だつたら許して下さい。あなたは静間君と結婚なさつても僕はあなたの特異性を貰《もら》つたやうな気がします」
「私の特異性つてものがございませうか。」
「あなたの特異性を強調していふなら、あなたは純潔な処女のまゝ受胎せよといつたら、その気になる方らしいですかな……はははは……。」
「…………。」
突然牧瀬はつか/\立つて行つて、今までの話題に関《かかわら》せぬやうな、またその続きのやうにも、池の渚《なぎさ》に祈る人のやうに跪《ひざまず》いた。そして歳子をも促してさうさせた。澄む水に二人の顔が写つた。暁《あかつき》まへの水の面は磨きたての銅鏡のやうにこつくり澱《よど》んで照度に厚味があつた。
いつの時代、どこの人間とも判らない若い男女の顔が水底から浮び出た。
しばらく見詰めてゐた牧瀬は云つた。
「やつぱり人間の男と女だ、はははは。」
歳子は襟元《えりもと》へ急に何かのけはひが忍び寄るものゝやうに感じたが、牧瀬に対してまた周囲の情勢に対して何の不安も湧《わ》かなかつた。
それよりもむしろ自分の一生のうち二度と来ない夢の世界の恍惚《こうこつ》に浸《ひた》つてゐるやうな渺茫《びょうぼう》とした気持ちだつた。
近くの森から飛び立つた小鳥が池の面を掠《かす》めて飛ぶと二人は同時に顔をあげた。
月は西に白けて、大空は黎明《れいめい》の気を見せて来た。そこに天地が口を開けたやうな一種いふべからざる神厳と空虚の面貌《めんぼう》の寸時がある。
歳子は殆《ほとん》ど一晩語りに語り続けた青年の矛盾《むじゅん》してゐるやうな、独断のやうな言葉を聞き明したが、決して退屈しなかつた。そして高踏極まる話をする青年の言葉の底に却《かえ》つて切ない人間の至情を感じて、何か歎《なげ》かずにはゐられない気持ちになつた。歳子は哀れな優しい溜息《ためいき》をした。
「たうとうあなたに溜息をさせてしまひましたね。それは僕ばかりのせゐぢやないのです。月のせゐでもあり、夏の夜のせゐでもありますよ。夜気に湿つた草の匂ひのせゐでもありますよ。でもよく幾夜も僕の夢遊病症につき合つて下さいましたね。これが最後の夜と思へばお名残り惜しいけれど、もう夜もぢきあけます。僕たちはもうお別れしなくちや……。平凡で常識な昼日中がやつて来ます。僕たちが折角《せっかく》夜中《よるじゅう》かかつて摘み蒐《あつ》めた抒情の匂ひも高踏の花も散らされて仕舞《しま》ひます。」
そして彼はさう云つたあとはむつつりと無言で、丈《たけ》の高い庭草を分けてのし/\と歩き出した。
結婚の前夜、歳子は良人《おっと》に牧瀬の庭の夏の夜を話した。すると良人は例の思慮深さうに一考した後、眉《まゆ》を開いて云つた。
「美しい経験だ。『夏の夜の夢』と題して、あなたのメモリーに蔵《しま》つて置くといゝですね。そしてあなたのこころが結婚生活の常套《じょうとう》に退屈したとき、とき/″\思ひ出してロマンチツクなそのメモリーを反芻《はんすう》しなさい。僕もとき/″\分けて貰《もら》ふ。」
歳子はこの時から良人の頭脳の明哲を愛しかけて来た。
間もなく歳子は牧瀬が中央|亜細亜《アジア》へ、決死的な古代建築の遺蹟《いせき》の発掘に出発したといふ消息を兄から聞いた。
底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
1992(平成4)年1月23日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1974(昭和49)年発行
初出:「文芸」
1937(昭和12)年7月
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2005年2月22日作成
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