右門捕物帖 血の降るへや—– 佐々木味津三

     

 その第三十七番てがらです。
 二月の末でした。あさごとにぬくみがまして江戸も二月の声をきくと、もう春が近い。
 初午《はつうま》に雛市《ひないち》、梅見に天神祭り、二月の行事といえばまずこの四つです。
 初午はいうまでもなく稲荷《いなり》まつり、雛市は雛の市、梅見は梅見、天神祭りは二十五日の菅公祭《かんこうさい》、湯島、亀戸《かめいど》、天神と名のつくほどのところはむろんのことだが、お社でなくとも天神さまに縁のあるところは、この二十五日、それぞれ思い思いの天神祭りをするのが例でした。
 寺小屋がそうです。
 書道指南所がそうです。
 それから私塾《しじゅく》。
 およそ、文字と筆にかかわりのあるところは、それぞれ菅公の徳をたたえ、その能筆にあやかろうという祈念から、筆子、門人、弟子《でし》一統残らずを招いて、盛大なところは盛大に、さびれているところはさびれたなりに、それぞれおもいおもいの趣向をこらしながら、ともかくにも、この日一日を楽しむのがそのならわしでした。
「だからいうんだ。理のねえことをいうんじゃねえんですよ。あっしゃ無筆だから、先生も師匠も和尚《おしょう》もねえが、だんなはそうはいかねえ、物がお違いあそばすんだからね。それをいうんですよ! それを!」
 やっているのです。
 ご番所をさがって帰っての夕ぐれのしっぽりどき……伝六、でんでん、名人、むっつり、ふたりの、これは初午であろうと二十五日であろうと、年じゅう行事であるから……ここをせんどと伝六のやっているのに不思議はないが、やられている名人はとみると、あかりもないへやのまんなかに長々となって、忍びよる夕ぐれを楽しんでいるかのようでした。つまり、それがよくないというのです。
「きのうやきょうのお約束じゃねえ、もう十日もまえからたびたびそういってきているんですよ。牛込の守屋《もりや》先生、下谷《したや》の高島先生、いの字を習ったか、ろの字を習ったかしらねえが、両方から二度も三度もお使いをいただいているんだ。去年も来なかった。おととしもみえなかった。古いむかしの筆子ほどなつかしい。今度の天神まつりにはぜひ来いと、わざわざねんごろなお使いをくだすったんじゃねえですか。のっぴきならねえ用でもあるなら格別、そうしてごろごろしている暇がありゃ、両方へ二、三べんいってこられるんですよ。じれってえっちゃありゃしねえ。日ぐれをみていたら、何がいってえおもしれえんです」
「…………」
「え! だんな! ばくちにいってらっしゃい、女狂いにいってらっしゃいというんじゃねえですよ。親は子のはじまり、師匠は後生のはじまり、ごきげん伺いに行きゃ先生がたがよぼよぼのしわをのばしてお喜びなさるから、いっておせじを使っていらっしゃいというんだ。世話のやけるっちゃありゃしねえ。そんな顔をして障子とにらめっこをしていたら、何がおもしれえんですかよ。障子には棧《さん》はあるが、棧は棧でも女郎屋の格子《こうし》たア違いますぜ。それをいうんだ。それを!」
「…………」
「じれじれするだんなだな。なんとかいいなさいよ」
 ことり、とそのとき、何か玄関先へ止まったらしいけはいでした。どうやら、駕籠《かご》らしいのです。と思われるといっしょに、呼ぶ声がきこえました。
「お待ちどうさま。お迎えでござんす……」
「そうれ、ごらんなせえ。だから、いわねえこっちゃねえんだ。牛込か下谷か、どっちかの先生が待ちかねて、お迎えの駕籠をよこしたんですよ。はええところおしたくなせえまし!」
「…………?」
「なにを考えているんです。首なぞひねるところはねえんですよ。しびれをきらして、どっちかの先生がわざわざお迎えをよこしたんだ。行くなら行く、よすならよすと、はきはき決めたらいいじゃねえですかよ!」
「あの、お待ちかねですから、お早く願います……」
 せきたてるようにまた呼んだ表の声をききながら、不審そうに首をかしげて、しきりと鼻をくんくん鳴らしていたが、不意に名人がおどろくべきことをいって立ちあがりました。
「医者の駕籠だな! たしかに、煎薬《せんやく》のにおいだ。どこかで何かが何かになったかもしれねえ。ぱちくりしている暇があったら、十手でもみがいて出かけるしたくでもしろい。うるせえやつだ……」
 のぞいてみると、まさしくそのことばのとおり医者の駕籠です。それもよほど繁盛している医者とみえて、りっぱな乗用駕籠でした。
 しかし、ちょうちんはない。それがまず不審の種でした。あかりも持たずにいきなり玄関先へ駕籠をすえて、しきりとせきたてているところをみると、急用も急用にちがいないが、それよりも人目にかかることを恐れている秘密の用に相違ないのです。
「人違いではあるまいな」
「ござんせぬ。だんなさまをお迎えに来たんです。どうぞ、お早く願います」
 たれをあげて促した駕籠の中をひょいとみると、何か書いた紙片が目につきました。
「くれぐれもご内密に願いあげ候《そうろう》」
 という字が見えるのです。
「よし、わかりました。――ついてこい!」
 どこのだれが、なんの用で呼びに来たのか、ところもきかず名もきかず、行く先一つきこうとしないで、すうっとたれをおろすと、さっさと急がせました。
 ききたくも鳴りたくも伝六なぞが口をさしはさむひまもないほど、駕籠がまた早いのです。

     

 海賊橋から江戸橋を渡って、伊勢町《いせちょう》を突き当たると大伝馬町《おおでんまちょう》、そこから左へ曲がると、もう雛市《ひないち》の始まっている十軒店《じゅっけんだな》の通りでした。その突き当たりが今川橋、――渡って、土手ぞいに左へ曲がったかと思うと、まもなく駕籠はその塗町《ぬしちょう》のかどの一軒へ、ぴたりと息づえをおろしました。案の定、このあたり評判の町医、岡三庵《おかさんあん》の前なのです。
「お越しだな! こちらへ、こちらへ。そこでは人の目にたつ。失礼じゃが、こちらからご案内申せ」
 待ちきっていたとみえて、あわただしい声といっしょに、その三庵がうろうろしながら取り乱した顔をみせると、おろした駕籠を内玄関のほうへ回させて、そのまま人の目にかかるのを恐れるようにあたふたと招じあげました。
「わざわざお呼びたていたしまして、なんとも申しわけござりませぬ。いえ、なに、じつはその、なんでござります。てまえ参邸いたすが本意でござりますが、――これッ、これッ、なにをうろうろしておるのじゃ。来てはならぬ。行け、行け。のぞくでない!」
 ことばもしどろもどろに、うろたえているのです。ひとり残らず家人の者も遠ざけて、きょときょとと八方へ目を配りながら、案内する間もおびえおびえ導いていったところは、二階の奥まった豪壮きわまりないへやでした。
 高い天井、みごとな柱、凝ったふすま、なにからなにまでが入念な品を選んだ座敷です。そのへやの床ぎわへこわごわすわると、恐ろしいものをでもしらせるように、三庵が青ざめた顔をふり向けながら、黙って床の間をゆびさしました。
 血だ! 大きな床いっぱいのようにかかっている狩野《かのう》ものらしい大幅の上から下へ、ぽたぽたと幾滴も血がしたたりかかっているのです。
「なるほど、わざわざお呼びはこれでござりまするな。いったい、これはどうしたのでござる」
「どうもこうもござりませぬ。岡三庵、今年五十七でござりまするが、生まれてこのかた、こんな気味わるい不思議に出会うたことがござりませぬゆえ、とうとう思いあまって、ご内密におしらべ願おうと、お越し願ったのでござります。よくまあ、これをご覧くださりませ。天井からも、壁からも、ただのひとしずくたれたあとはござりませぬ。床にもただの一滴たれおちてはおりませぬ。それだのに、どこから降ってくるのか、このへやのこの床の間へ軸ものをかけると、知らぬまにこのとおり血が降るのでござります」
「知らぬまに降る?――なるほど、そうでござるか。では、今までにもたびたびこんなことがあったのでござりまするな」
「あった段ではござりませぬ。これをまずご覧くださりませ」
 そういうまも、三庵はあたりに気を配りながら、こわごわ袋戸だなをあけると、気味わるそうに幅物を取り出して、名人の前にくりひろげました。
 数は六本。その六本のどれにもこれにも、同じようにぽたぽたと血がしたたりかかっているのです。
「なるほど、ちと気味のわるい話でござりまするな。血のいろに古い新しいがあるようじゃが、いつごろから、いったい、こんなことが始まったのでござる」
「数のとおり、ちょうど六日まえからでござります。そちらの右はじがいちばんさきの幅でござりまするが、前の晩までなんの変わりもございませんでしたのに、朝、ちょっとこのへやに用がござりましたゆえ、なんの気なしに上がってまいりまして、ひょいと床を見ましたら、そのとおり血が降っていたのでござります。医者のことでござりますゆえ、稼業《かぎょう》がら、血にはおどろかぬほうでござりまするが、それにしても場所が床の間でござりますそのうえに、このとおり、かかっている品が軸物でござりますゆえ、見つけたときはぎょうてんいたしまして、腰をぬかさんばかりにおどろきましたが、何かのまちがいだろう、まちがいでなくばだれかのいたずらだろうぐらいに思いまして、そちらの二本めのと掛け替えておきましたところ、朝になると、また血が降っているのでござります。掛ければまた降る、替えればまた降る、三朝、四朝、五朝とつづきましたゆえ、すっかりおじけだちまして、すぐにもだれかに知らせようと思いましたが、うっかり人に話せば、たちまち八方へうわさがひろがるのは知れきったことでござりますのでな、やれ幽霊屋敷じゃ、やれ血が降るそうじゃとつまらぬ評判でもたちまして、せっかくあれまでにした門前がさびれるようなことになってはと、家人にも知らさずひたがくしにかくしておりましたが、きょうというきょうは、とうとうがまんができなくなったのでござります。いつもは朝降っておるのに、いまさっき日ぐれがたに、なにげなく上がってまいりまして、ひょいとみたら、このとおりなまなまとしたのが降っておりましたゆえ、生きた心持ちもなく、あの駕籠を大急ぎであなたさまのところへ飛ばしたのでござります」
 こんな怪事はまたとない。犬の血、ねこの血、人の血、なんの血であるにしろ、替えれば替える一方から知らぬまに降っているとは、いかにも不思議です。念のために、名人は、軸のうえ、天井、左右のぬり壁、軸の下、残るくまなく手燭《てしょく》をさしつけて見しらべました。しかし、軸の外には血らしいものの飛沫《ひまつ》一滴見えないのです。
「さあ、いけねえ。左|甚五郎《じんごろう》の彫った竜《りゅう》は夜な夜な水を吹いたという話だが、狩野《かのう》のほうにだって、三人や五人、左甚五郎がいねえともかぎらねえんだ。ひょっとすると、こいつが血を吹く絵というやつにちげえねえですぜ。え、ちょいと、違いますかい」
「黙ってろ。うるさいやつだ。へらず口をたたくひまがあったら、こっちへ灯《ひ》を出しな」
 さっそくに横から始めかけた伝六をしかりとばして、自身も手燭をかざしながら廊下へ出ると、へやの位置、出窓、内窓、間取りのぐあい、四方八方へ目を光らせました。
 二階はこのへやと、次の間を入れてふた間きりです。そのふた間の前に、ずっと広い廊下があって、廊下の外はあまり広くない内庭でした。その庭をはさんで、脈べや、治療べや、薬べやなぞが別棟《べつむね》になっているらしく、あかりを出してすかしてみると、庭木はあるが高いのはない。ひさしもあるが、外からこのへやへ闖入《ちんにゅう》してくる足場は一つもないのです。
 当然のように、名人の静かな問いが下りました。
「はしご段は?」
「いま上がってきたのが一カ所きりでござります」
「夜はどなたが二階におやすみでござるか」
「どうして、どうして、見らるるとおりこれは自慢の客間でござりますのでな。寝るどころか、家人のものもめったにあげませぬ。この下がてまえども家族の居間に寝間、雇い人どもは向こうの別棟でござります」
「その雇い人はいくたりでござる」
「まず代脈がひとり、それから書生がふたり、下男がひとり、陸尺《ろくしゃく》がふたり、それに女中がふたり」
「うちうちのご家族は?」
「てまえに、家内、それから娘、それから――いいや、いいや、それだけじゃ、ことし十九になる娘がひとりきりでござります」
「しかとそのお三人か!」
「まちがいござりませぬ。天にも地にも娘がひとり、親子三人きりでござります」
「別棟からの廊下は筒ぬけでござるか。それとも、なにか仕切りがござるか」
「大ありでござります。なにをいうにも、表のほうへは、朝から晩までいろいろの病人が出はいりしますのでな、奥と表とごっちゃになって不潔にならぬようにと、昼も仕切り戸で仕切って、夜は格別にきびしく雇い人どもへ申し渡してありますゆえ、この二階はおろか、奥へもめったには参られませぬ」
 奥への出入りさえもきびしく止めてあるというのです。しかし、外からこの二階へはいりうべき足場は、なおさらどこにもないのでした。ないとしたら、伝六のいうがごとく、絵みずからが血を吹けば知らぬこと、でないかぎり、ホシはまず家の中に、とにらむのが至当です。
「しようがねえ、あんまりぞっとしねえ手だが、やっつけてみようぜ。ねえ、おい、あにい」
「へ……?」
 ふり向いた顔へ、ぽつりと不意に不思議な右門流が飛びだしました。
「なにか踏み台をお借り申して、なげしへこの絵をみんな裏返しにして掛けな」
「裏返し!」
「掛けりゃいいんだ。早くしな!」
 床の間の一軸も裏返しに掛けさせて、ずらり七枚並んだのを見ながめると、静かに三庵に命じました。
「いらざる口をさしはさんではいけませぬぞ。雇い人からがよい。家の者残らずを順々にここへ呼んでまいらっしゃい」

     

 待ちうけているところへ、ことりことりと下から足音が近づいて、若い男の顔がまずぽっかりと現われました。
「書生か」
「さようでござります」
「名は?」
「平四郎と申します」
 なにかもっときくだろうと思ったのに、それっきりです。
「よし。行け」
 けげんそうに帰っていったのと入れ違いに、また若い顔が現われました。
「おまえも書生だな」
「さようでござります」
「親は男親がすきか、母親がすきか」
「は……?」
「よしよし。もう帰れ」
 不思議そうに首をかしげて降りていったあとから、ことことと足音が近づきました。軽いその足音を聞いたばかりで、あげもしないのです。
「よし、わかった。下男だな。来んでもいい。かえれ」
 入れ違いに重い足音が近づくと、代脈らしい男の顔が現われました。ちらりとその顔を見たばかりです。
「よし。おまえにも用はない。早く行け。あとはふたりずつ来るよう言いつけろ」
 これもけげんそうに帰ったあとから、陸尺《ろくしゃく》たちがふたり現われました。ふん、といったきり、ききもしないのです。入れ違いにあがってきたのは、ふたりの女中でした。
「おまえ、すきだろう。伝六、何かきいてみな」
「へ……?」
「おふたりとも、なかなかご器量よしだ。もののはずみで、どんなことにならねえともかぎらねえ。ききたいことがあったら、尋ねてみろといってるんだよ」
「はずかしいや……」
「がらかい!――よし、よし、ご苦労さまでした。もう用はありませぬ。あとはおうちのおふたりだ。すぐに来るよう申してもらいましょう」
 同じように首をかしげながら降りていったのと入れ違いに、ものやわらかなきぬずれの音が近づきました。
 妻女と娘のふたりです。母は五十くらい、あたりまえな顔だが、しかし、娘はうって変わって、寒くなるような美人でした。手、指、つめ、どこからどこまでがほっそりとしていて、青く白く、血のない女ではないかと思えるほどに、しんしんと透きとおっているのです。そのうえに震えが見える。美しい顔が、足が、かすかに波をうっているのです。
「お名まえは?」
「千萩《ちはぎ》と申します……」
「ほほう、千萩さんといいますか。いまにも散りそうな名でござりまするな」
 上から下へ、右から左へ、娘の顔とふた親の顔とを、じろり、じろりと見比べていたが、なにを見てとったか、ふいと立ち上がると、さっさと帰りじたくを始めました。
「ぞうさはござりますまい。なんとか目鼻がつきましょう。だれにもいっさい他言せぬようお気をつけなさいませよ。いいですかい。お忘れなすっちゃいけませんぞ」
 特に念を押しておくと、早いものです。すうと出ていったかと思うと、しかし、とつぜん、伝六をおどろかして命じました。
「この町内か、近くの町内に、お針の師匠はねえか、洗ってきな」
「お針……? お針の師匠というと、おちくちくのあのお針ですかい」
「決まってらあ。つり針や意地っぱりに師匠があるかい。どこの町内でも、娘があるからにゃお針の師匠もひとりやふたりあるはずだ。がちゃがちゃしねえで、こっそりきき出してきな」
「…………?」
「なにをぼんやりひねっているんだよ。おひねりだんごじゃあるめえし、まごまごしていりゃ夜がふけるじゃねえか」
「あんまり人を小バカにしなさんな。ひねりたくてひねっているんじゃねえですよ。裏を返して軸物を掛けてみたかと思や、ひとりひとり呼びあげて、ろくでもねえことをきいて、町内にお針の師匠がおったら何がどうしたというんです。ひねってわるけりゃ、もっと人情のあることをいやいいんですよ」
「しようのねえ男だな。これしきのことがわからなくてどうするかい。くれぐれもご内密にと、三庵《さんあん》先生が拝むように頼んでおるじゃねえか。だからこそ、血の一件を知らすまいと思って、わざわざ裏返しに掛けさせたんだ。裏は返しておいても、あの家の者の中にいたずらをしたやつがおったら、軸を見ただけでもぴんと胸を刺されるにちげえねえんだ。胸を刺されりゃ、自然と顔のいろも変わろうし――」
「足も震えるだろうし――」
「それだけわかってりゃ、なにも首なんぞひねるがものはねえじゃねえかよ。ほかの者はみんなけげんそうな顔をして降りていったが、あの娘だけが震えていたんだ。ばかりじゃねえ。おまえさんはあの娘の顔と親たちの顔を比べてみたかい」
「いいえ、自慢じゃねえが、あっしゃそんなむだをしねえんですよ。べっぴんはべっぴんでけっこう目の保養になるんだからね。しわくちゃな親の顔なんぞと比べてみなくとも、ちゃんと堪能《たんのう》できるんですよ」
「あきれたやつだ。だから、伝六でんでんにしんの子、酒のさかなにもなりゃしねえなんぞと、子どもにまでもバカにされるんだよ。とびがたかを産んだという話はきくが、おやじの三庵はあのとおりおでこの慈姑頭《くわいあたま》、おふくろさんは四角い顔の寸づまり、あんな似たところのねえ親子なんてものはありゃしねえ。不審はそれだ。娘のことを探るのは娘どうし、その娘っ子の寄り集まるところといや、まずてっとり早いところがお針のお師匠さんじゃねえか。三人五人と町内近所の娘が寄りゃ、あっちの娘の話、こっちの娘のうわさ、今のあの不思議な娘のことも、何かうわさを聞いているだろうし、陰口もたたき合っているにちげえねえんだ。それを探るというんだよ、それをな。ほかのところじゃねえ、女護が島を見つけに行くんだ。わかったら、勇んでいってきなよ」
「かたじけねえ。そういうふうに人情を割って話してくれりゃ、あっしだってすねるところはねえんですよ。べらぼうめ、どうするか覚えていろ。ほんとうに……! おうい、どきな、どきな、じゃまじゃねえか。道をあけな」
 べつにだれも道をふさいでいるわけではないのに、事ひとたび伝六が勇み立ったとなるとすさまじいのです。ひらひらとそでを振っていったかと思うまもなく、姿が消えました。

     

 春近い江戸の宵《よい》は、もう風までがぬくやかでした。まちわびているところへ、飛んでかえると、目を丸めているのです。
「見つからねえのかい」
「相手は娘じゃねえですか。あっしともあろう者が、娘っ子の巣を見のがしてなるもんですかい。ふたところあるんですよ」
「そいつあ豪儀だ。この近所か」
「近所も近所も裏通りの路地に一軒、向こうの横町に一軒、裏通りは五人、向こう横町のほうは八人、お節句着物でも縫っているとみえてね、両方ともあかりをかんかんともして、いっしょうけんめいとおちくちくをやっているんですよ。いい娘のそろっているほうがご注文なら、ちっと遠いが向こう横町だ。いきますかえ」
「いい娘が見たくて行くんじゃねえ、近いほうがいいや、連れていきな」
 てがら顔に連れていったその裏通りへ曲がってみると、なるほど路地を奥へはいった一軒の表障子に、それらしい娘たちの影が見えました。
「許せよ」
 つかつかとはいっていくと、あんどんのまわりから、いっせいにふり向いた五人のお針子たちをじいっと見比べていたが、あごで示した娘が不思議なのです。
「あの右から三人めの不器量な娘だ。あそこのかどまで呼んできな」
「な、な、なんですかい。冗談じゃねえ、えりにえって、あんなおででこ娘に白羽の矢を立てなくともいいでしょう。ほかに見晴らしのいいのが、ふたりもおるじゃねえですかよ」
「大きな声を出すな。聞こえるじゃねえか。器量のいい娘のうわさに、器量のわるい娘ほど知っているものなんだ。勘のにぶいやつだ。ご苦労だがちょっと来てくれといって、おとなしく連れてきな」
 いちいちとむだのない計らいでした。にやにや笑って、伝六が連れてきたのを見迎えると、おだやかに尋ねました。
「お仕事中をおきのどくさまでしたな。隠しちゃいけませんぜ。あんたの町内はどこでござんす」
「…………?」
「こわいこたあねえ、ちょっとききたいことがあってお呼び申したんですよ。この近くのお町内ならお知りでしょうが、あそこの岡三庵先生のところのお嬢さんのことを何かご存じじゃござんせんかい」
 いぶかしそうに右門の顔を見ながめながら、おどおどと言いためらっていたが、これをみろというように伝六が横からぴかぴかと振った十手に気がついたとみえて、ふるえふるえ意外なことをいったのです。
「ほ、ほかのことは知りませぬが、なんでもお櫃《ひつ》を、おまんまを入れる大きなお櫃を、人にも見せずに毎日毎日宝物のようにして、たいへんだいじにしているといううわさでござります」
「お櫃! 中には、なにがはいっているんです」
「知りませぬ。毎晩夜ふけになるとそのお櫃をたいせつにかかえて、お女中さんをひとりお供につれて、こっそりどこかへ出ていくとかいううわさでござります」
「どこへ行くんです」
「そ、それも知りませぬ。ほかには何も存じませんゆえ、もう、もうごかんべんくださいまし……」
 言い捨てると、娘は逃げるように駆け去りました。
 聞き捨てならないうわさでした。
 名人の目が底深く微笑して、きらりと光りました。
「べらぼうめ、くせえとにらんだらあの青娘、案の定これだ、夜ふけにはまだ一刻《いっとき》近くはあろう。おいらがおじきじきに立ちん坊しちゃもったいねえや。わら人形でも見つけようぜ。ついてきなよ」
 ずんずん通りを塗町《ぬしちょう》へ 出て、土手に沿いながら歩いていると、辻占《つじうら》ア、辻占ア、というわびしい声といっしょに、土手の切れめから、ぽっかり白いあかりが浮きあがりました。
「子どもだな。ちっとかわいそうだが、張り番させるにゃかえっていいかもしれねえ。――大将大将」
 目も早いが、思いつくのも早いのです。手をあげてさし招きながら呼びよせると、ちゃりちゃりと小銭をたっぷり握らせて言いつけました。
「辻占《つじうら》はみんなおじさんが買ってやるからな。そのかわり、おまえのからだを貸しておくれ。もう少したったら、あそこのお医者のうちの内玄関か裏のほうから、女がふたりこっそりと出てくるからな、出たらすぐに知らせておくれ」
「見張りをするのかい」
「そうよ。なかなかわかりがいい。だから、向こうに見つからねえようにしなくちゃいけねえぜ。おじさんは、ほら、みろ、そこの川の中に小船があるだろう。あの中に寝ているから、万事抜からねえようにやるんだぜ」
「あいきた。わかったよ。出てきたら、合い図にあのうちの前の土手でちょうちんを振るからね。すぐに来ておくれよ」
 小ざるのように飛んでいったのを見送りながら、つなぎ捨ての小船の中へ降りていくと、身を忍ばせて合い図を待ちうけました。
 事ここにいたっては、伝六ももう鳴りどころの騒ぎではないのです。船へはいるから十手にうねりをうたせて、いまかいまかと目をさらにしながら待ち構えました。
 のび上がり、のび上がり、待ちわびているうちに、四半刻、半刻と夜が沈んで、しだいにしんしんとふけ渡りました。家のあかりもまた一軒一軒と消えていって、ふわり、ふわりとえり首をなでる夜風の気味わるさ、ぱったりと人影もなくなりました。
 もうそろそろ合い図があってもいいころです。
 と思ったせつな――ちらちらとはげしく土手の向こうであかりが動きました。
「それ、きたぞ! さあ来い! お櫃娘《ひつむすめ》、すべって川におっこちますなよ」
 ぱっとこうもりのように飛び出した伝六のあとから、ひたひたと名人も足音ころして追いかけました。
「どっちだ!」
「あそこ! あそこ! あのへいかどを左へ曲がっていくふたりがそうですよ」
 てがら顔に辻占売りが指さしたやみの向こうを見すかすと、なるほど二つの黒い影が急いでいるのです。
 ふたりともにすっぽりと、お高祖頭巾《こそずきん》でおもてをかくしていたが、前を行くやせ型のすらりとした影こそは、まさしくあの娘の千萩《ちはぎ》でした。しかも、うわさのとおり、大きなお櫃《ひつ》をかかえているのです。
「懐剣を持っているな」
「懐剣!」
「あのうしろを守って行く女中のかっこうを見ろ。左手で胸のところをしっかり握っているあんばいは、たしかに懐剣だ。どうやら、こいつは思いのほかの大物かも知れねえぜ」
 ぴんと名人の胸先にひらめいたのは、――血! 血! 血! あの軸物に降るいぶかしい生血のことでした。
 娘のかかえている不思議なお櫃は、血を入れるお櫃かもしれないのです。うしろの女中の懐剣は、その血をとりにいく懐剣かもしれないのです。
 生き血を盗みに行く娘。
 犬の血か? 人の血か?
 左右をすかしつ、見つつ、人目を恐れるようにひたひたと急いでいく様子は、ともかくもなにか大きな秘密を持っているにちがいないのです。
「だいじなどたん場だ。声を出したらしめ殺すぞ」
「だ、だ、だ、だいじょうぶ。なんだか変なこころもちになりやがって、出したくとも、で、で、出ねえんですよ……」
 震え声にもうちぢみあがっている伝六を従えながら、注意深く影を隠してふたりのあとをつけました。

     

 ひと曲がり、ふた曲がり、三曲がりと曲がって、忍びに忍びながら、ふたつの影は、通り新石町をまっすぐに柳原へかかりました。
 右は籾倉《もみぐら》、左は土手。
 さびしいその柳原堤に沿って下ると、和泉橋《いずみばし》です。櫃《ひつ》をかかえた影を先に、二、三尺離れて女中の影がこれを守りながら、ふたりの女は、その和泉橋からくるりと左へ折れました。
 同時のように、ふたりは、にわかにあたりへ注意を配りはじめましたが、目ざした場所が近づいた証拠なのです。
 と思うまもなく、ふたつの影は、そこの松永町《まつながちょう》の横通りをはいった福仙寺《ふくせんじ》の境内へ、ひらひらと吸われるように駆けこみました。
「ちくしょう。墓だ! 墓だ! 新墓をあばいて、死人の血を絞りに来たにちげえねえですぜ」
「黙ってろい。しゃべらねえという約束じゃねえか。聞こえて逃げたらどうするんだ」
「だ、だ、だまっていてえんだが、あんまり気味のわりいまねばかりしやがるんで、ひとりでに音が出るんですよ。埋めたばかりの死人なら、血の一合や二合絞り取れねえってえはずはねえんだ。きっと、新墓をねらいに来たんですぜ」
 だが、ふたりのはいっていったところは、意外なことにも本堂なのです。しかも、ここへ来ればもうだいじょうぶといわぬばかりに、足音さえも高めて、須弥壇《しゅみだん》の横からどんどん奥へぬけると、かって知ったもののように、がらがらとそこの網戸をあけながら位牌堂《いはいどう》の中へはいって、ぴたりとまた戸を締めきりました。
 中にはうすぼんやりとお燈明が二つともっているのです。戸もまた板戸ではなく網戸なのです。のぞけば網目を通して、おぼろげながらも中の様子が見られたが、しかし、うっかりのぞいたらこちらの顔も見つけられる危険があるのです。のぞきたいのをこらえて、ふたりはそこへうずくまりながら、じっと息をころして聞き耳立てました。
 同時のように、娘の千萩のほそくなまめかしい引き入れられそうな声が耳を制しました[#ママ]。
「お待ちかねでしたでしょう。千さま、もういいですよ。早くいっていらっしゃい……」
「…………」
「いいえ。だいじょうぶ。だれも見ちゃいないから、こわいことなんぞありませんよ。ええ、そう、――そう。まあ、かわいらしい。わたしにあいさつしていらっしゃるの。長遊びしちゃいけませんよ。早く帰っていらっしゃいね……」
 声といっしょに、するする、とかすかなきぬずれのような音がありました。
 右門主従は、おもわず息をのみました。のぞきたいのをけんめいにこらえて、じっと耳をすましながら、中のけはいをうかがいました。
 と思うまもなく、かたことと、位牌《いはい》でもが動くような物音があがりました。同時に、ちゅうちゅうと、まさしくねずみの鳴きもがきでもするような異様な声が伝わりました。あとから千萩の透き通るような声がまた耳を刺しました。
「まあ。おてがらおてがら。千さま。おみごとですよ。もういいでしょう。早くいらっしゃい。来なければしかりますよ」
 せつなです。名人主従は、引き入れられるようなその声につられて、われ知らずにさっと身を起こしました。しかし、同時に、右門も伝六も、おもわずぞっと身の毛がよだちました。
 へびです。へびなのです。大きなねずみをあんぐりとくわえて、位牌の間から長いかま首をぬっともたげながらのぞいているのです。
 いましがたちゅうちゅうと鳴きもがいたのは、じつにそのかま首がくわえているねずみなのでした。なまめかしい声で今、千萩が話をした相手も、そのへびなのでした。お櫃の中の正体も、またその長虫なのでした。
 へびを飼う娘!
 へびと話をする娘!
 意外な秘密を隠していた奇怪なお櫃《ひつ》は、意外ななぞを生んだのです。とみるまに、長虫はあんぐりとねずみをくわえたままで、ぬるぬると千萩の足もとへはいよると、なにかの化身のようにかま首をもたげながら、黒光りしている長いからだをその足へしきりとすりつけていたが、そのままするするとお櫃の中へはいこみました。
 伝六はもとよりのこと、さすがの名人も全身あわつぶだって、そこへ立ちすくんだままでした。それにしても、あの床の間へ降った血の出どころが不思議です。櫃に隠れた今のへびが降らせるとも思えないのです。
 しかし、そのとき、くぎづけになったように立ちすくんでいるふたりをおどろかして、とつぜん、庫裡《くり》の向こうから、ばたばたと人の足音が近づきました。ふたりは、はっとなって須弥壇《しゅみだん》の横へ身を隠すと、怪しみながら近づいた影を見すかしました。
 年は二十三、四。寺の者ではない、町人でもない、侍でもない、なにものかかいもく素姓のわからぬ不思議な若い男なのです。なにをいきどおっているのか、憤怒《ふんぬ》に目を光らして、荒々しく位牌堂の中へ飛び込んでいくと、やにわに千萩をにらみつけながら、あびせました。
「聞き分けのないおかたでござりまするな! あれほどいったのに、まだおやめなさらないのでござりますか!」
「…………」
「こんなものを飼えば、こんな気味のわるいものを飼ったら、なにがおもしろいのでござります! どこがかわいいのでござります」
 なじるようにいったのを、しかし千萩はひとことも答えないで、悲しげに微笑しながら、取り合うのも煩わしそうに目をそらしました。
 なにかふたりの間に、秘密のつながりがあるに相違ないのです。もうためらっている場合ではない。ひらりとわき出たように姿を見せると、黙って近づいて、黙って名人は千萩の前に立ちふさがりました。
「あッ。あなたは……! あなたさまは……!」
「右門でござる。さきほどはお宅の二階でお騒がせいたしましたな」
 不意を打たれて、千萩はまっさおに色を変えると、なによりもというように、うろたえながら足もとのお櫃にあわててふたをきせました。しかし、もうおそいのです。名人の射るような声と目が、ぶきみに笑ってその胸を貫きました。
「始終の様子は、のこらず見せていただきました。とんだにょろにょろとした隠し男をおかわいがりでござりまするな」
「ではもう……ではもう、なにもかも……」
「聞きもいたしましたし、詳しく拝見もいたしましたゆえ、ここらが潮どきとおじゃまに出てきたんでござんす。虫も殺さぬようなお美しい顔をしておいでなすって、あんまり人騒がせをするもんじゃござんせんよ。いま聞きゃ、こっちのこの若いおかたと、なにかいわくがありそうでござんすが、なにをいったい、どうしたというんでござんす。あれほどいったのに、まだやめないかと、たいへんこちらがおしかりのようでしたが、このかたはいったい、どういう掛かり合いのおかたなんです」
「…………」
「え? お嬢さま!」
「…………」
「じれったいね、むっつりの右門といわれるあっしが耳に入れて、このとおりにょろにょろとはい出してきたんです。櫃の中の大将に比べりゃかま首もみじけえし、からだもみじけえが、目はもっと光っているんだ。手間を取らせねえほうがおためですぜ。え? お嬢さん! はきはきいったらどんなものでござんす」
 たたみかけたことばに、千萩はわなわなと身を震わせていたが、とつぜん、おもてを伏せると、しみ入るような声をあげて、すすり泣きだしました。
 聞いていて、右門ということに気がついたとみえるのです。横から不審な若い男が割ってはいると、これさいわいというように口をはさみました。
「わたくしが申しましょう。あなたさまなら大事ござりますまい。そのかわり、くれぐれもご内密に頼みますぞ」
「そなた何もかもご存じか」
「知っている段ではござりませぬ。その女は、千萩は、なにを隠しましょう。このわたくしの妻たるべき女でござります」
「おいいなずけか!」
「そうでござります。どういうお詮議《せんぎ》で塗町の父のほうへ参られましたか知りませぬが、てまえはあの岡三庵《おかさんあん》のせがれでござります。血を分け合った一粒種の三之助《さんのすけ》と申すものでござります」
「なに、ご子息!――なるほど、そうか。道理で、さきほど家族しらべをしたおり、ほかに子はない、この娘ひとりきりじゃと、しどろもどろにいった様子がちとおかしいとにらんでおったが、やっぱり隠し子がありましたな。血を分けた実のせがれが家を出て、いいなずけの女が娘同様家におるとは、なんぞ深い子細がござろう。それが聞きたい。どうしてまた、そなたは家を出ておるのじゃ。夜遊びでも高じて、勘当でもされましたか」
「めっそうもござりませぬ。それもこれもみんな、もとはといえば、千萩のこの気味のわるい病気ゆえでござります。こうなりますればもう、千萩の素姓も申しましょうが、この女は、わたくしの父三庵が、書生のうちからかわいがられて、今のような医業を授けていただいたたいせつな先生の、お師匠さまの忘れ形見なのでござります。年をとってからこの千萩をもうけて、まだ成人もせぬうちにご他界なさいましたゆえ、父の三庵が子ども同様にして引きとり、わたくしともいいなずけの約束を取りかわし、四年まえまで一つ家に育ってきたのでござりまするが、なんの因果か、千萩めがちいさいうちから、こんなものを、こんな気味のわるい長虫をかわいがって、昼も夜もそばを離さないのでござります。それゆえ――」
「そなたがきらって家出をしたと申されるか」
「一口に申さばそうなんでござります。一匹や二匹ではござりませぬ。多いときは七匹も八匹も飼って、死ねばとっかえとっかえ、またどこからか手に入れて、あげくのはてには、夜一つふとんへ抱いて寝るような始末でござりましたゆえ、ほかの生き物とはちがうのじゃ、人のきらう長虫なのじゃ、いいかげんにおやめなされと、口のすっぱくなるほどいさめたのでござりまするが、どうあっても聞き入れないのでござります。父からしかってもらいましょうと、父に申したところ、その父がまたいっこうにわたくしの味方となってくれないのでござります。たわけを申すな、だれのお嬢さまと思っておるのじゃ、わしにとってはかけ替えのないご恩人の娘じゃ、先生の娘じゃ、お師匠さまの忘れ形見じゃ、わしが一人まえの医者になれたのも、みんな千萩どののおとうさまのたまものじゃ、恩人の娘に意見ができるか、バカ者、ほかの男を抱いて寝るとでもいうなら格別、長虫をかわいがるくらい、がまんができなくてどうなるのじゃ、おまえがいやなら、たって添いとげてもらわなくともいい、ほかから養子を迎えて千萩に跡目を継がせるから、気に入らずばどこへでも出ていけと、実の子のわたくしをかえってしかりつける始末なのでござります。くやしいのをこらえて、三度、五度と千萩にも頼み、父にも頼みましたが、いっこうにわたくしのいうことなぞ取りあげてくれませぬゆえ、ええままよ、恩じゃ、義理じゃ、先生の娘じゃと、他人の子をわがままいっぱいに育てて、実の子をそでにするような親なら、かってにしろとばかり、家を飛び出し、こっそりと長崎《ながさき》へくだって、きょうが日までの丸四年、死に身になって医業を励み、どうにかこうにか一人まえの医者となって、つい十日ほどまえにこっそりまた江戸に帰ってまいったのでござります。帰ってきて、それとなく千萩の様子を見ますると、このとおりだんだんと年ごろになってはいるし、四年まえとはうって変わって、どことのう――」
「美しくなっていたゆえ、また未練が出てきたというのじゃな」
「お恥ずかしゅうござります。未練といえば未練でござりまするが、いいなずけの約束までした女じゃ、他人にとられとうはない。けれども気味のわるい長虫はいまだにやめぬ、――どうしたものかと迷っていたやさき、さいわいなことに、ここの寺はてまえたち一家の菩提寺《ぼだいじ》なのでござります。千萩がまたこの寺へ毎夜毎夜へびのえさのねずみ取りに来ることをかぎ知り、こっそりとこの寺に寝泊まりしておりまして、このとおり、毎夜毎夜ころあいを見計らっては意見に来ますけれど、千萩は相手になってもくれないのでござります。こんなものの、こんな長虫のどこがかわいいのか。く、くやしくてなりませぬ。千、千萩めが、うらめしゅうてなりませぬ……」
 美しいだけに、なお一倍千萩の長虫いじりがくやしくてならないとみえて、三之助はじわりと目がしらへ涙さえ浮かべながら、うらめしそうに、足もとのお櫃《ひつ》をにらみすえました。――目をおおい、おもてを伏せて、千萩も消え入りたげな忍び音をあげながら、しくしくと泣き入りました。
 意外な秘密が隠れていたのです。
 しかし、それにしても、床へ降ったあの血が奇怪でした。だれがしたたらしたか、千萩か? それとも三之助か――残ったなぞは、それ一つなのです。名人のさえた声が、とつぜん、えぐるように襲いました。
「憎いか! 三之助!」
「は……」
「千萩は憎いかときいておるのじゃ」
「こ、恋しゅうござります。いいえ、うらめしゅうござります。こんなに思うておるのに、人の心を知らない千萩が、ただただうらめしゅうござります……いいえ! いいえ! 千萩よりも父が憎い! 親が憎い! 実の子を捨てても他人の子をかばうような、父が、親が、もっともっとうらめしゅうござります……」
「そうか! 親が憎いか! 父がうらめしいか! では、おまえだな!」
 その恨めしさのあまりにやったいたずらにちがいないのです。名人の声が刺すように三之助の胸をつきえぐりました。
「隠しても目は光っているぞ! おまえがあんないたずらしたんだろう」
「気、気味のわるい。不意になんでござります! あんないたずらとは、なんのことでござります」
「しらっばくれるな! 父が憎い、親がうらめしいと、今その口でいったはずだ。他人の子をかばって自分を追ん出した腹いせに、あんないたずらをしたんだろう!」
「な、な、なんのことでござります! いっこうてまえにはわかりませぬが、何をお疑いなさっているんでござります!」
「血だ! 床の間へたらしたあの血のことなんだ!」
「血! 床の間の血……?」
 ぎょっとなって、おどろきでもするかと思いのほかに、三之助はけげんそうな顔をしているのです。ばかりか、まあどうしたんでござりましょう、――というように、そばから、千萩もおもてをあげて、泣きぬれた目をみはりました。
 名人もいささかずぼしがはずれて、意外そうにふたりの顔を見比べました。目のいろ、顔のいろ、三之助にうそはない。千萩にも疑わしい色は見えないのです。それのみか、急に三之助がいとしくなりでもしたように、ぬれたひとみへ情熱の光をたたえて、微笑すらもかわしているのです。
「へへえ……とんだ長いしっぽがお櫃の中から出たかと思ったら、またにょろりと隠れてしまったか。――どうやら、こいつあ難物だよ。来い! あにい! なにをまごまごしているんだ」
「へ……?」
「へじゃないよ。新規まき直し、狂ったことのねえ眼《がん》が狂ったから、出直さなくちゃならねえといってるんだ。まごまごしねえで、ついてきなよ」
「まごまごしているのは、あっしじゃねえですよ。ばかばかしい。だんなこそまごまごして、どこへ行くんですかよ。そんなところは出口じゃねえんです。木魚ですよ。外へ出るなら、ここをこう曲がって、こっちへ出るんですよ」
 どこに出口があるか、どっちへ道が曲がっているか、霧の中をでも歩くようなこころもちで、名人はしんしんと考えこんだままでした。
 不思議は不思議につづき、ぶきみはぶきみにつづいて、しかも血のなぞは、いよいよ深い迷霧の中へはいってしまったのです。
 家族以外の者……? いや断じてそんなはずはない。丹念にあのとき調べたとおり、外からあの二階へはいりうる足場は皆無でした。家人の目をくらまして押し入ったら格別、でないかぎりは、どうあっても岡三庵一家のものにちがいないのです。しかし、その家族のものは、宵のあの裏返しでためしたとおり、書生、代診、母親、女中、だれひとりそれと疑わしい顔いろさえ変えたものもないのでした。わずかにひとりあった娘の千萩は、血をたらすどころか、生き血を吸いたがるとんだ長虫を飼っていたのです。あのときあんなに震えたのは、その秘密を知られたくないために、われしらずおびえたにちがいないのです。しかも、その秘密の長い尾につながっていた三之助も、あの目、あのいろ、あの様子では、どこに一つ疑わしいところはないのでした。なぞの雲は、はてしもなく深くなったのです。
 考え迷い、考え迷って、いつどこを歩いたとも知らないように歩いてきた名人は、ぴたりとそこの和泉橋《いずみばし》の上に立ち止まると、くぎづけになったようにたたずんだまま、しんしんとまた考えこみました。

     

 夜もまたまったくふけ渡って、星もいつのまにか消えたか、深夜の空はまっくらでした。
 影もない。音もない。思い出したようにざわざわと吹き渡る川風が、なまあったかくふわりふわりと、人の息のようにえり首をなでて通りました。
 遺恨あってのしわざか? いたずらか……?
 それすらもわからないのです。つかみどころがないのです。
 思い出したように、また川風がふわりふわりとなでて通りました。あざけるように橋の下で、びちゃびちゃと川波が鳴りました。
 名人はしんしんと考えつづけたままでした。
 考えているうちに、しかし、名人の手はいつのまにか、そろりそろりとあのあごをなではじめました。――せつなです。
「アハハハ。なんでえ、つまらねえ。あんまり考えすぎるから、事がむずかしくなるんだ。手はいくらでもあるじゃねえかよ。ばかばかしい。アハハ……アハハ……」
 吹きあげたように、とつぜん大きく笑いだしたかと思うと、さわやかな声がのぼりました。
「ねえ、あにい!」
「…………」
「あにいといってるんだ。いねえのかよ、伝六」
「い、い、いるんですよ。ここにひとりおるんですよ。気味のわるいほど考えこんでしまったんで、どうなることかとこっちも息を殺していたんです。いたら、いきなりぱんぱんと笑いだしたんで、気が遠くなったんですよ。あっしがここにおったら、なにがどうしたというんです」
「どうもしねえさ。岡の三庵先生は何商売だったっけな」
「医者じゃねえですかよ」
「医者なら、血があったって不思議はねえだろう」
「だれも不思議だといやしませんよ。おできも切りゃ、血の出る傷も手当をするのがお医者の一つ芸なんだ。医者のうちに血があったら、なにがどうしたというんですかよ」
「血をいじくるが稼業《かぎょう》なら、血を始末するかめかおけがあるだろうというのさ。どう考えたって、あの床の間へ降った血は、外から忍びこんできたいたずらのしわざじゃねえ。たしかに、あの家の者がやったにちげえねえんだ。その血も、十中八、九、おけかかめにためてある病人の血を塗ったものに相違あるめえというんだよ。だから、血がめにえさをたれに行くのよ。ついてきな」
「えさ……?」
「変な声を出さなくともいいんだよ。そういうまにも、また今夜血を降らされちゃ事がめんどうだ。早いことえさをたれておかなくちゃならねえから、とっととついてきな」
 なにか目ざましい右門流を思いついたとみえるのです。飛ぶように夜ふけの町をぬけて、岡三庵の屋敷通りの塗町《ぬしちょう》へ曲がっていくと、軒をそろえてずらりと並んでいるそこの塗屋《ぬしや》の一軒へずかずかと近づいていって、いつにもなく御用名を名のりながら、どんどんたたき起こしました。
「八丁堀の右門じゃ。御用の筋がある。早くあけろ」
 あわてうろたえながら丁松らしいのがあけたのを待ちうけて、ずいと中へはいると、やにわに不思議な品を求めました。
「生うるしがあるだろう。なにか小つぼに入れて少しよこせ」
 塗町とまで名のついた町の塗屋なのです。生うるしがないはずはない。なにごとかというように筆まで添えて、小つぼに入れながら持ってきたのを片手にすると、そのままさっさと岡三庵の屋敷まえへ取ってかえして、せきたてながら伝六に命じました。
「おめえの一つ芸だ。はええところ血がめのありかを捜してきなよ」
「…………?」
「なにをまごまごしてるんだ。内庭か、外庭か、どっちにしても外科べやの近所の庭先にちげえねえ。あり場所さえわかりゃ、おいらがちょいとおまじないするんだ。大急ぎで捜してこなくちゃ、夜が明けるじゃねえかよ」
 ひねりひねり、横路地のくぐり木戸からはいっていくと、中べいを乗り越えてでもいるとみえて、しばらくがさがさという音がつづいていたが、ぽっかりとまた顔をのぞかせると、息をころしながら名人のそでを引きました。
 伝六一つ芸の名に恥じず、中べいを乗り越えていってみると、案の定、内庭と外庭との境になっている外科べやの小窓下に、ねらいをつけたその血がめがあるのです。ふたをあけてみると、中はぐっちゃり……なまぐさい異臭がぷうんと鼻を刺しました。
「このどろりとしたやつをちょっぴり棒切れにでもつけていきゃ、床の間にだって、天井にだって、自由自在に血が降らあ。では、ひとつ右門流のえびでたいをつろうよ。そっちへどきな」
 今のさき求めてきた用意の生うるしを筆にしめすと、何を思ったか、血がめのそのふたのつまみ柄のまわりへ、ぺたぺたとぬりつけました。それだけなのです。
「さあ、できた。ねぐらへ帰って、いい夢でも見ようぜ。きょときょとしていると、置いていくよ……」
 居合い切りのようなあざやかさでした。鳴るひまも、ひねるひまも、声をはさむすきさえないのです。さっさと風のように八丁堀へ帰っていくと、ぶつぶつと口の中で何かいっている伝六をしりめにかけながら、ふくふくと夢路を急ぎました。
 と思うまもなく、明けるに早い春の夜は、夢いろの暁にぼかされて、しらじらと白みそめました。同時です。ぱたぱたという足音がしののめの道にひびいて、表の向こうからあわただしく近づきました。
「つれたな……!」
 ぐっすりと眠りに落ちていたかと思ったのに、さすがは名人右門、心の耳は起きていたのです。足音の近づくと同時に、がばと起きあがって待ちうけているところへ、三庵《さんあん》の家の下男が、案内も請わず内庭先へ飛び込んでくると、密封の一書を投げこみながら、そのまま急ぐようにせきたてました。
「すぐさまお運び願えとのことでござりました。なんでござりまするか、委細は手紙の中にしたためてあるそうでござりますゆえ、お早くお出まし願います」
 うろたえた文字で、走り書きがしてあるのです。
 「奇怪千万、またまた生血が降り候《そうろう》。ただし、軸物にはそうらわず、念のためにと存じ、咋夜は床の物取りはずし置き候ところ、ただいま見れば壁に二カ所、床板に三カ所、ぺったりと血のしたたりこれあり候。ご足労ながら、いま一度ご検分願わしく、ご来駕《らいが》待ちわびおり候」
 読み下しながら、静かな笑《え》みをみせると、ふりかえって、伝六を促しました。
「大だいがつれたようだぜ。早くしゃっきりと立ちなよ。なにをぽうっとしているんだ」
「がみがみいいなさんな。変なことばかりなさるんで、まくらもとへすわってだんなの寝顔をみていたら、頼みもしねえのに夜が明けちまったんですよ。ひと晩寝なきゃ、だれだってぽうっとなるんです」
「あきれたやつだな。寝ずの番をしていたって、夜が明けなきゃあさかなはつれねえんだ。ゆうべぬったうるしが、ものをいってるんだよ。目がさめるから、飛んできな」
 声も早いが足も早い。朝風ぬるい町から町を急いで、塗町かどの三庵屋敷へはいっていくと、床の血でもしらべるかと思いのほかに、そんなけぶりもないのです。内玄関先へ出て待って、青ざめ震えていた三庵の姿をみると、やにわにずばりと命じました。
「手を見たい。家の者残らずこれへ呼ばっしゃい」
「手……? 手と申しますると?」
「文句はいりませぬ。言いつけどおりにすればいいのじゃ。早くこれへひとり残らず呼ばっしゃい」
 いずれもいぶかりながら、書生、代診、下男、下女、残らずの雇い人たちがぞろぞろと出てくると、左右から手の林をつくって名人の目の前にさし出しました。ちらりと見たきり、だれの手にも異状はないのです。あとからゆうべのあの千萩が、おもはゆげに姿を見せると、そこのついたての陰から、白い美しい手を恥ずかしそうにさし出しました。しかし、異状はない。――あとにつづいて、母親が姿を見せました。
 ちらりと見ると、その左手に白い布が巻いてあるのです。せつなでした。鋭く名人の目が光ったかと思うといっしょに、えぐるような声がその顔を打ちました。
「その手はうるしかぶれでござろう」
 ぎょっと色を変えて、うろたえながら隠そうとしたのを、しかしもうおそいのです。名人が莞爾《かんじ》と大きく笑いながら、手を振るようにして雇い人たちを追いやって、まず秘密の壁をつくっておくと、静かにあびせました。
「これが右門流のつりえさだ。よくおわかりか。ゆうべおそくにわざわざやって来て、こっそりとあの血がめのふたへうるしを塗っておいたんだ。そのふたにさわったからこそ、そのとおりうるしにかぶれたんでござろう。なに用あって、あの血のかめのふたをおあけなすった」
「…………」
「いいませぬな! 情けも水物、吟味|詮議《せんぎ》も水物だ。手間を取らせたら、いくらでも啖呵《たんか》の用意があるんですぜ。ただの用であのかめのふたへさわったんではござんすまい。たびたび二階の床の間へ血が降っているんだ。そのうるしかぶれがなにより生きた証拠、すっぱりと、ネタを割ったらどうでござんす」
「わ、わかりました……なるほどよくわかりました。この証拠を見られては、もう隠しだてもなりますまいゆえ申します……申します……」
 名人に責めたてられてはと、覚悟ができたと見えるのです。たえかねるようにそこへ泣きくずおれると、老いたる母親は涙にしゃくりあげ、しゃくりあげ秘密を割りました。
「も、申しわけござりませぬ。人騒がせのあの血をまいたのは、いかにもてまえでござります。それもこれも、みんなこのもらい子の娘ゆえ、千萩ゆえ、いいえ、実の子に跡をつがせたい親心の迷いからでござります。お知りかどうか存じませぬが、どうした星のせいか、この千萩が人のきらう長虫をもてあそぶ癖がござりまして、せがれの三之助がこれを忌みきらい、家出してしまったのでござります。父親は、恩ある人の娘じゃ、ほかから養子をもろうて跡をつがせるゆえ嘆くにあたらないと、このように申しますなれど、わたくしから見れば、三之助は腹を痛めた実のせがれ、人のうわさに聞けば長崎で医者の修業を終えて、こっそりと江戸へ帰った由、さぞやせがれも千萩と添いたかろう、跡目をつぎたかろうと、親ゆえに胸を痛めて、できるものなら千萩に長虫遊びをやめさせようと、たびたび父親にせつきましたなれど、がんとしてお聞き入れがないのでござります。ばかりか、近いうちに千萩の養子を取り決めるような口ぶりさえ漏らしましたゆえ、女心のあさはかさに、いっそ悪いうわさをこの家にたてさせてと存じ、あのように床の間へ血を降らせたのでござります。さすれば、いつかは人の口の端にも伝わり、あそこは幽霊屋敷じゃ、血が降るそうじゃとうわさもたちましょうし、たてば養子に来てもない道理、来てがなければやがては実のせがれの三之助も跡を継がれる道理と、親心からついあのような人騒がせをしたのでござります。――お察しくださりませ。千萩はいかにも恩ある人の娘ではござりますが、やっぱり他人、三之助は実のせがれ、できるものなら、できることなら、実の子に跡を継がせとうござります……それが、それが、子を持った親の心でござります……」
 意外にも、事はやはり千萩の長虫遊びにかかわっていたのです。しかも、親ゆえの子を思う親心ゆえに血を降らしたというのです。――名人の目には、さわやかな微笑とともに、かすかなしずくの光が見えました。
「そうでござったか! よくおこころもちがわかりました。なにも申しますまい。――かかわったが縁《えにし》じゃ。てまえ取り計らってしんぜよう。千萩どの!」
 最後まで心づかいがゆかしいのです。おどろきと悲しみに打たれながら、ついたての陰にしょんぼりとたたずんでいた千萩のそばへ歩みよると、しずかにさとすように声をかけました。
「長虫の膚なぞより、人の心は、人の膚はもっとあたたかい。そなた、三之助どのがいとしゅうはござらぬか」
「…………」
「アハハ……まっかにおなりじゃな。首のそのもみじでよくわかりました。三庵どの、千萩どのは三之助どのがきらいではないそうじゃ。お早く駕籠《かご》の用意をさっしゃい。行くさきは松永町《まつながちょう》の正福寺」
 声も出ないほどに三庵がうち喜んで、騒がしく乗り物の用意をさせながら迎えに出そうとしたのを、
「いや、待たっしゃい。乗せていくものがござる。夫婦和合にあのお櫃は禁物じゃ。寺へ届けたら、あの長虫の始末は和尚《おしょう》がねんごろにしてくださりましょうゆえ、三之助どのと引き換えに迎えておいで召されい。千萩どのもたんと人膚にあやかりなさいませよ……」
「えへへ……人膚たア、うめえことをいったね。ちくしょう。ようやく今になって音が出やがった」
「おそいや。おまえが鳴らなくて、いつになく静かでよかったよ。それにしても、おいらとおまえは出雲《いずも》の神さ。ざらざらしてちっと気味がわるいが、ほかになでる人膚はねえ、おまえの首でもなでてやらあ。こっちへかしなよ」
 くすぐったそうに首をすぼめた伝六と肩を並べながら、爽々颯々《そうそうさつさつ》と吹く朝風の中へ急ぎました。

底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年4月20日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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