右門捕物帖 因縁の女夫雛—– 佐々木味津三

     

 ――その第二十二番てがらです。
 場所は少しく飛んで、いわゆる江戸八宿のうちの一つの新宿。竹にすずめは仙台《せんだい》侯、内藤様は下がり藤《ふじ》、と俗謡にまでうたわれたその内藤駿河守《ないとうするがのかみ》の広大もないお下屋敷が、街道《かいどう》ばたに五町ひとつづきの築地《ついじ》べいをつらねていたところから、当時は内藤新宿といわれたものですが、品川の大木戸、ここの大木戸、共に読んで字のごとくその大木戸が江戸との境で、事実は町つづき軒つづき、新宿のねこきょうも江戸に通いけり、という戯《ざ》れ句《く》があるくらいですから、江戸八百八町に加えてもさしつかえはなかろうと思われるのに、大木戸を一歩外へ出るともう管轄違いです。だから、罪人のうちにも少し知恵の働くやつがあって、闕所《けっしょ》所払い、いわゆる江戸追放の刑を受けた場合、十里四方三里四方というようななわ張り書きがあったときは格別、単に江戸追放とだけで里数に制限がないとなると、よくこの新宿や品川の大木戸外にひっこし、大いに江戸を離れたような顔をして、係り役人をからかったものだそうですが、それゆえにこそ追放区域の分かれめという意味から、今も新宿に追分という地名が残っているのだそうで、いずれにしても管轄違いならば、当然宿役人の手によって諸事万端処理さるべきはずなのに、ぜひにも名人でなくばという名ざし状が、なまめかしい朱房《しゅぶさ》の文筥《ふばこ》とともに、江戸桃源の春風に乗って舞い込みました。しかもそれが、またよりによって三月の三日、すなわちおひな祭りの当日なのです。いうまでもなく太陰暦ですから、桃の節句の桃も咲いているであろうし、桜はもとより満開……
 しかし、事ご番所の公務となると、犯罪は地震と同様、いつなんどき、どこから揺れてくるかわからないので、夢まどろにいつものごとく控え室に陣取りながら、うつらうつらとあごの下に手の運動をつづけていると、今いったそのなまめかしい朱ぶさの文筥が、とつぜん内藤駿河守のお下屋敷から届きました。あまつさえ、中に書いてある文言が、たいそうもなくよろしくないのです。
[#ここから1字下げ]
「取り急ぎひと筆しめしまいらせそろ。いまだお目もじつかまつらずそうらえども、ご高名はつとに拝承、ぜひにもお力借りたき大事|出来《しゅったい》そうろうまま、すぐさまご入来願わしく、他行お名ざしのことなぞ上辺の首尾については、当方より人をもってご奉行職に申しあげおくべくそうろうあいだ、右お含みおしのびにてご光来わずらわしたく、万事はお目もじのうえにて、あらあらかしこ」
[#ここで字下げ終わり]
 書き出しのひと筆しめしまいらせそろというあたり、結句のおしのびにてうんぬんかしこといったあたり、春情春意おのずから整って、いかな君子人が読んだにしても、そのなまめかしさ、いろめかしさ、あきらかに差し出し人は女性であることを物語っていたので、聖人君子にはおよそ縁の遠いわが伝六が、伸び上がり伸び上がりうしろから盗んで読んで、ことごとく猪首《いくび》をちぢめながら、たちまち悦に入ったのは当然でした。
「たまらねえな。陽気がぽかついてくるてえと、ものごとがこういうふうにはずんでくるんだからね。どうです? まあ、この字の行儀のよさというものは――。見ただけでもほれぼれするじゃござんせんか。お将軍さまが召し上がる目刺しだっても、これほど行儀よく頭をそろえちゃおりませんぜ。べっぴんですよ! べっぴんですよ! この字の書きっぷりじゃ、きっと大べっぴんですぜ」
「うるさいよ」
「え……?」
「耳もとでガンガンとうるさくほえるなといってるんだ。おまえのようなあきめくらがのぞいたっても、犬が星をみるようなものなんだから、尾っぽを巻いておとなしくかしこまってな」
「ちぇッ。あきめくらとはなんですかい! なんですかい! いかに伝六が無学文盲だっても、このぐれえの色文なら勘だけでもわかるんだ。これが世間にほまれのたけえ水茎の跡うるわしき玉章《たまずさ》っていうやつなんだ。名は体を表わし、字は色を現わすといってね、さぞおくやしいでござんしょうが、この主はべっぴんですよ」
 でないにしても、なよやかにほっそりとした美しい文字のぐあいでは、少なくも若い女性であろうと想像されたのに、しかし名人の目のつけどころ、眼《がん》の働きどころは別とみえて、問題の手紙を裏に返したり表に返したり、と見つこう見つ、しきりと丹念に見しらべていましたが、何を理由に看破したものか、にやりと微笑すると、ことごとく伝六を驚かしていいました。
「せっかくお楽しみのようだが、このご用主はおばあさんだぜ」
「何を途方もねえことおっしゃるんですかい! だから、女ぎれえは自慢にならねえというんですよ。はばかりながら、色模様にかけちゃ、あっしのほうがちょっとばかりご無礼しているんだからね。あらあらかしこなぞと若々しい止め文句を使う年寄りのばんばあが、どこの世界にあるんですかい。論より証拠、行ってみりゃわかるんだ。いらっしゃい! いらっしゃい! すぐさまご入来願わしくとあるんだから、早いところおいでなさいましよ」
 素足に雪駄《せった》、巻き羽織のしのび姿で、いななき勇む伝六を従えながら、それなるご用主の内藤家へ行きついてみると、しかるにこれがなんともふつごうなことに、名人の看破したとおりなのです。
「あッ、ようこそ。ご隠居さまがさきほどから、まだかまだかと、たいへんにお待ちかねでございますゆえ、お早くどうぞ――」
 門のところから若党ふうの小者があわただしげに顔を出して、あきらかにご隠居さまといいながら、その間も待ち遠しいように、屋敷のうちの木立ちがくれになったお組屋敷の一軒へいざなっていったものでしたから、女のことにかけては大きに目の肥えているはずの伝六が、すっかりかぶとをぬいでしまいました。
「へへえね。ちっとばかりあきれたな。当節のご隠居さまは、血の道がおかれあそばしましても、ひと筆しめしまいらせそろなんて、いろっぽいお手紙をお書きなさるのかね――」
 腑《ふ》におちかねるようにひねりはじめた首の前へ、名人がこれを見ろといわぬばかりで、にやりとやりながら黙ってさし出したのは、先刻のあの書面です。
「なんです? どこかにご隠居さまが書いたっていう判じ絵でもあるんですかい」
「あいかわらず手数のかかるやつだな。このご書面の紙をみろな。もみくちゃになったやつを、火のしかなんかで伸ばしたようなこじわが、たくさんついているじゃねえかよ。いろけ盛りの若い女だったら、こんなつましいまねはしねえもんだよ。お年寄りだからこそ、捨てるももったいないと、丹念にしわをのばして、巻き紙に使ったんだ。目を変えろ、目玉をな。ねずみおどしにぴかぴか二つ光らしているんじゃねえんだから、今度ついでがあったら、神田の鍛冶《かじ》町へでもいって、もっとドスのきく目玉に打ち直してもらってきなよ」
 着眼するところ、つねにかくのごとく細密鋭利、しかも相手がまたことばのとおり、懐紙一枚たりともむだにはしまいと思われるような七十あまりの、一見するに内藤家老職のご後室さまといったようなみだしなみも好もしい切り下げ髪のお上品なご隠居さまでしたから、その慧眼《けいがん》の鋭さには、何度舌を巻いても巻ききれないくらいです。いや、事実相手のご老体は、駿河守《するがのかみ》家老職のご後室さまなのでした。
「お忙しいところを、ようこそいらせられました。当屋敷の側《そば》用人を勤めおります渡辺助右衛門《わたなべすけえもん》の母めにおじゃります。さっそくじゃが、不審はあれなる品でおじゃりますゆえ、とくとお調べくださりませ」
 ことばゆかしく請《しょう》じながら、いっときも待ちきれないというように、そこの床の間に飾ってある桃の節句の祝い雛《びな》を指さしたので、静かに見ながめると、なにさまちと不審なのです。あるべきはずの内裏雛がそろっていない! 矢大臣も、官女も、庭侍も五|人囃子《にんばやし》もほかの雛人形に異状はないが、肝心かなめの内裏雛が片一方の親王家ご一人だけで、お相方のみ台さまが欠けているのです。
「盗難にお会いなすったのでござりまするか」
「いいえ、それだけのことなら、わざわざお呼びたてすることはござりませぬが、ちとこみ入っておじゃりますのでな、これなる雛のいわれから先にお話しいたしましょう――」
 うれわしげに老眼をしばたたきながらこまごまと語りだしたところによると、いかさま少々どころか、大いにいわれ因縁のある雛でした。――ご後室に春菜という孫娘があって、これがちょうど十八歳、内藤小町とうわさが高いほどな美人だそうなが、七つの年に同家中の重役古島|五郎左衛門《ごろうざえもん》の長子六郎次といいなずけの縁を結び、その約束の印にと、右古島家に歴代伝わる内裏雛を二つにわかち、娘の里のほうへはのちの夫婦《めおと》の契りを現わし、約束誓言を堅く守らせる意味から男雛《おびな》の親王さまを分け与え、古島家そのもののほうにはこれまた行く末先の女夫《めおと》を誓い、うれしい契りの日のよきお輿入《こしい》れを一日も早かれと待ち願う意味から、女雛《めびな》のみ台さまを残しておいて、娘の春菜は男雛を、せがれの六郎次はまた女雛を、それぞれいとしい思い人思い雛に愛し祭りながら、この年までの十二|歳《とせ》十二春、なんのまちがいもなく飾りつづけてきたところ、そうするのが毎年の吉例になっていたので、けさほど古島家から親子を招き、娘ともども白酒祝いをやったのち、何心なく男雛を手にとってよくよく調べてみると、いつのまににせものとすり替えられたか、たいせつなその思い雛恋の預かり雛が、現在ここに飾ってあるような偽物偽作とすり替えられていたというのです。
「それゆえ――」
 ご後室は悲しげに目をうるませると、悲しげに声をおとしながら訴えるのでした。
「こちらでは夢にも知らないことでおじゃりますのに、古島様親子はこのように申されて、ことのほかご立腹あそばされたのでおじゃります。知ってしたことならなおのこと、たとえ盗難にかかってのことであろうと、女夫《めおと》の約束代わりに預けたたいせつな片雛が、こんなまがいものとすり替えられているは、とりもなおさず生きた夫をすり替えたも同然じゃ。盗難悪意いずれであろうと了見ならぬゆえ、あらためてしかとの返答さっしゃいと、たいへんなお腹だちでな、うちの春菜にかぎっては、人さまもおほめくださるほど身堅い娘でござりますのに、やれ隠し男ができたであろうの、目を盗んだみだらな色狂いしているためにこのような細工したであろうのと、口ぎたないはずかしめまでもおっしゃって帰りましたゆえ、すぐにもほんものの預かり雛を捜し出し、娘のぬれぎぬが晴れるよう、どなたかに力となってもらいましょうと存じましたなれど、あいにくなときというものはしかたがおじゃりませぬ。親兄弟親類までが娘の身内は、みんな去年の秋から、殿とごいっしょに帰藩中でおじゃりますゆえ、ふと思い出したのが、そなたさまのおうわさでおじゃりました。密事は密事、情けは情けと、秘密を割ってお願いすれば、どれだけでもご内密にお計らいくださるとのご評判でおじゃりますゆえ、なまなか家中の者に力を借りてよからぬうわさを言いたてられるよりも、いっそ、あなたさまにとこうしてお力におすがり申すしだいでおじゃります。それもこれも、事の起こりはみんなあれなる男雛《おびな》のにせものがもとでおじゃりますゆえ、ようく手にとって、お調べくださりませ」
 いいつつ目をしばたたきながら、孫思うご後室は、身も世もないというように、老いのしずくを払い落としました。無理はない。小町娘の愛孫が一生一度の契りごとにかかわる大事とすれば、おぼれる者のわらのように、必死とわが捕物《とりもの》名人にすがりついたのは無理のないことです。いや、無理がないといえば古島親子のおこったのも大いに無理がない。契りの片雛恋の思い雛が、いつのまにかにせもの偽物にすり替えられていたとすれば、いかさま生きた夫が知らぬまに寝返られ、すり替えられたのと同然だったからです。
「ちとこれは久方ぶりでなまめかしゅうなったかな――」
 いうように、名人は目に微笑を浮かべながら、じろじろと問題の男雛を見ながめていましたが、まず事はそれから確かめるが第一と、至極静かにきき尋ねました。
「では、なんでござりまするな。こちらの雛をお飾りなさるときは、十二年このかた預かっている男雛に相違ないとお思いなすって、お飾りあそばしたのでござりまするな」
「ええ、もう相違ないどころか、形も同じ、着付けも同じ、しまったところも去年のままで、なにひとつ変わった個所も、疑わしいところもおじゃりませんなんだゆえ、娘もわたくしもこれがにせものであろうなぞとは夢にも知らずこうして飾りましたところ、古島のててごさまが不意にびっくりなさいまして、これは偽物じゃとおっしゃりましたゆえ、てまえどももぎょうてんしてお尋ねいたしましたら、何から何までほんものそっくりにまねて作ってはあるが、着付けの金襴《きんらん》の生地がまがいものじゃ、うちから預けた雛は二百年このかた伝わっている品で、一寸十両もする古金襴地のはずなのに、これは今できの安い京金襴じゃとおっしゃいましたゆえ、わたくしどもも生地を調べてみて、ようやくそれと知った始末でおじゃります」
 こころみに取りあげて手に触れてみると、いかさまのりけたくさんの手ざわりからしてがよろしくない駄金襴《だきんらん》です。そのうえ、雛も重い。二百年このかたの古雛なら、もっと土も枯れて目方も軽くなければならないはずなのに、粘土が新しくてまだよくかわききっていないためか、案外なくらいに重いのです。
「ほほう。なるほど、おっしゃるとおり、近ごろでこしらえた新品のようでござりまするな。そういたしますると、すり替えられた真物というは、よほどのご名品でござりましたろうな」
「ええ、もう名品も名品も、内藤家の古島雛と評判されている逸品じゃそうにおじゃります」
「なるほど、さようでござりましたか。いや、それならばてまえも耳にしたことがござります。内藤家の古島雛に、小笠原大膳《おがさわらだいぜん》様の源氏雛、それに加賀百万石の光琳雛《こうりんびな》は、たしか天下三名宝のはず、してみると、十中八、九まず――」
「盗難じゃとおっしゃるのでおじゃりまするか」
「ではなかろうかと考えるのが事の順序かと存じます。これが世間にもざらにある安物の駄雛《だびな》でござりましたら、ねらってすり替えようという盗心も起こりますまいが、天下に指折り数えられるほどの名品とすれば、ほしくなるのが人情でござりまするからな。しかし、気になるのはお嬢さまの婚期でござりまするが、お約束のお輿入《こしい》れはいつごろのご予定なのでござります」
「十八の年の五月五日が来たら、という約定でおじゃりますゆえ、もう目前に迫っているのでおじゃります」
「なるほど、なかなかゆかしいお約束でござりまするな。女夫雛《めおとびな》を片雛ずつ分けて持って、女の節句に祭りかわし、五月五日の男の節句に、雛と人と二組みの女夫をめでたくこしらえ納めようというのでござりまするな。いや、いろいろと事の子細、納得が参りました。では、念のためでござりますゆえ、春菜様とやらおっしゃったそのお嬢さまにも、ちょっとお会わせさせていただきましょうかな」
「は、よろしゅうおじゃります、と申しあげたいのでござりまするが、それが、じつは……」
「いかがあそばされたのでござります」
「どうしたことやら、騒ぎが起きるといっしょに、どこかへ姿が消えたように、見えなくなったのでおじゃります」
「えッ――」
 名人はおもわず声を放ちました。名宝なればこそ、まず十中八、九ただの盗難であろうと言いきったばかりのときに、意外や突如として、新しい疑問と新しい不審がわき上がったからです。
「ふうむ。ちとこれはまた少しこみ入ってまいりましたな。どのようなご様子で見えなくなったのでござります」
「古島様親子がご立腹なすっているさいちゅうに、なにやら悲しそうに顔色を変えて、ふらふらと奥庭のほうへ出てまいりましたゆえ、思いつめてなんぞまちがった考えでも起こしてはと、腰元の多根《たね》にすぐさま追いかけさせましたところ、もうどこへいったか見えなくなっていたそうなのでおじゃります。それゆえ、大騒ぎいたしまして、心当たりのところへは残らず人を飛ばし、くまなく捜させましておじゃりまするが、かいもく居どころがわかりませぬゆえ、それもついでにお捜し願おうと存じまして、あなたさまをお呼びたてしたのでおじゃります」
「容易ならぬことになりましたな。ようござります、なんとか力を傾けてお捜し申しましょう。では、お多根どのとやら申されるそのお腰元を、ここへちょっとお招きくだされませな」
「ところが、その多根もいつのまにやら、ふいっと消えてなくなったのでおじゃります」
「なんでござります! お腰元もいなくなりましたとな! ふふうむ! いよいよこれは事がむずかしくなりましたな。いなくなりましたのは、いつごろでござりました」
「手分けして春菜を捜しているさいちゅうに、多根がまたうち沈んだ様子で、同じようにふらふらと奥庭のほうへ出てまいりましたゆえ、若党にすぐさまあとを追わしましたところ、やはりもういなかったそうなのでおじゃります」
「お年はいくつぐらいでござりました」
「一つ下の十七でおじゃります」
「気だては……?」
「やさしゅうて、すなおで、かわゆらしゅうて、そのうえ主人思いの、なにひとつ非の打ちどころもない子でおじゃりますゆえ、春菜もいっそほんとうの妹にしたいと、口ぐせに申していたくらいでおじゃりました」
 名人は聞き終わるとともに、じっと瞑目《めいもく》しながらうち考えたままでした。単純な事件と思われたのが俄然《がぜん》ここにいたって多岐《たき》多様、あとからあとからと予想外な新事実が降ってわいたからです。春菜の行くえ知れずになったのも不審なら、あいついで腰元お多根の姿が消えたのもすこぶる不審でした。
 ふたりはしめし合わせて姿を消したのであるか? それとも、別々の理由からいなくなったか? あるいはだれか背後に糸を引く者でもあったか? もしくは、ふたりともさらわれていったか?
 いずれにしても、もちろん、雛そのものにふたりのいなくなった原因があるに相違ないのです。しかも、原因のその雛がまた尋常一様の雛人形ではないのだ。因縁の雛、恋の思い雛、行く末かけてと七つの年から誓い祭り飾りつづけた契りのしるしの片雛であるうえに、あまつさえすり替えられた真物は、天下三宝の一つと名を取ったゆゆしき名品なのです――。これでは考えざるをえない。考えまいとしても考え込まざるをえない。どこから知恵のふたをあけて、この容易ならざるなぞを解いていったらいいか? 黙々沈々、石のごとく冷静に、おしのごとくおし黙りながら、長い間まなこをとじて考えつづけていましたが、そろり、そろりとあの手があのあごのあたりへ散歩を始めたかと思われたせつな! なぞを解くべき銀のかぎが見つかったとみえて、美しく静かな微笑がのぼると、いともたのもしいことばが漏れました。
「なに、それほども心配したことはござりますまいよ。しばらくこのにせものの雛をご拝借願いましょうかな。では、またのちほど――」
 こわきにするや、すうと表へ。――表がまた憎らしいくらいな桃びよりです。見るもの、きくもの、うらうらとうららかににおやかな春でした……。

     

 だから、伝六がことごとくもうぽうッとなって、待っていましたといわぬばかりに、たちまち千鳴り太鼓を鳴らしはじめたのはあたりまえです。
「たまらねえな。まったくどうもたまらねえな。内藤小町に思い雛とかけてなんと解く、とはどんなもんですかい。それにつけても、おべっぴんさまさまだ。ときどきはこういうのに出会わねえと、ぜんそくが起きるからね。ちくしょうめ、桜の花びらまでがのぼせやがって、ひらひらと浮かれていやがらあ。べっぴんって名をきくてえと、これがまたじっさい妙なものでね――」
「…………」
「ちぇッ。なにも急にそんなに気どらなくたってもいいじゃござんせんか。やけにうれしくなったんだから、いっしょにほがらかになっておくんなさいよ。今も申したとおり、これがまたじっさい妙なものでね。同じ女の子の話でも、べっぴんでねえと気が乗らねえんだ。ぜんそくにべっぴん、のぼせ引き下げにはとうがらしといってね、ときどき持薬にしねえと、胸のつかえがおりねえんですよ。だから、ねえ、だんな!」
「…………」
「やりきれねえな。なんだってまた、きょうはやけにそうむっつりとしているんです? 七つのときから十二年このかた、男雛をかわいがってきたべっぴんなんて、思っただけでもべっぴんべっぴんしているじゃござんせんか。それにまたいっしょにいなくなったお腰元が、しとやかで、すなおで、かわいらしくて、あっしのように主人思いだというんだから、――だんなは小町、あたしは腰元、はええところパンパンとふたりの居どころを突きとめて、けえりに四人して夜桜見物とでもしゃれたら、豪儀に似合いの女夫雛《めおとびな》と思うんですがね。どうですね、いけませんかね」
「…………」
「おや?」
「…………」
「はてな……?」
 面くらったのも当然です。何をいってもむっつりとおし黙りながら、しきりと足を早めていましたが、おりよく通りかかったもどり駕籠《かご》を見つけると、
「人形町じゃ。急いでやりな」
 命じて、だいじそうに雛を小わきにしながら、ゆうぜんと腰をおろしたので、朗らかに鳴りつづけていた伝六太鼓の調子が急に乱れました。
「ちょっと! ちょっと! 何をのぼせているんですかよ。雛は飾り物、人間は生身の生き物じゃござんせんか。雛の詮議《せんぎ》に行くんだったら、三日や四日おくれたって人形町がなくなるわけじゃねえんだから、べっぴんどものほうを先になんとか目鼻つけておくんなさいよ。生身に虫がついたら、ひとのものでも気がめいるじゃござんせんか!」
「…………」
「ねえ、ちょいと!」
「…………」
「じれってえな! 目色を変えて、何を急ぐんです? 雛の出どころ詮議《せんぎ》だったら、人形町は逃げも隠れもしやしねえといってるんだ。ねえ、ちょいと! お待ちなさいよ!」
 しかし、名人は沈々黙々。頑強《がんきょう》におし黙って駕籠を急がせながら、やがて乗りつけたところはその人形町名どころの十軒店《じゅっけんだな》です。――むろん、十軒店はここをせんどと雛人形を飾りつけ、見に来た者、買いに来た者、おひやかし、ぞめき客、通りから横町までずっと人の顔の波でした。
「許せよ」
 その最初の一軒へ、声も鷹揚《おうよう》にずかずかはいっていくと、居合わせた若い番頭の目の前へ、黙ってぬうとさしつけたのは、こわきにしていた問題の偽物雛です。
「これが何か……?」
「扱った覚えがあるかないかときいているのじゃ」
「さてな……? てまえどもの店で商った品かどうかはわかりませんが、たしかにこれは古島雛のまがい雛ですね」
 ちらりと一瞥《いちべつ》するや同時に、なんらのためらいもなく番頭が、一言に古島雛のまがいとホシをさしたものでしたから、当然のごとく名人のことばがさえました。
「だいぶ詳しいようじゃが、どうしてこれを古島雛の偽物と存じておるか!」
「どうもこうもござりませぬ。あのとおり、あそこにもたくさんございますゆえ、ごろうじなさりませ」
 指さされた店の飾り段を見ながめると、こはそもなんと不思議! 同じそのまがい雛が十体ほどもあるのです。しかも、男雛《おびな》ばかりか、女雛《めびな》もそろっているうえに、そのまた男雛が、名人のこわきにしてきた問題のまがい雛と、形も同じ、塗りも同じ、着付けの京|金襴《きんらん》の色までがまったく同様同形同色でしたから、名人のことばがさらにさえました。
「あのようにたくさん、どうしたというのじゃ!」
「よく売れるから仕入れたんでございますよ」
「なに! よく売れるとな! それはまた、いったいどうしたというのじゃ!」
「評判というものは変なものですよ。なにしろ、内藤様の古島雛といえば、もともとが見ることも拝むこともできないほどのりっぱな品だとご評判のところへ、あのとおりほかの内裏雛とよく比べてごろうじませ、こちらのまがい雛がまた比較にならんほどずばぬけてよくできておりますんでな、どこから評判がたちましたか、ことしは古島雛のまがいが新品にできたそうだとたいした人気で、どんどん羽がはえて売れるんですよ」
 いっているさいちゅうへ、それを裏書きするかのように、景気よく飛び込んできたのは、細ももひき、つっかけぞうりの、きりりとした江戸名物伝法型のあにいです。
「ちくしょうめ、なるほどたくさん並んでいやがるな。おい! 番頭の大将! あのいちばん上にあるやつが古島雛のまがい雛とかいうやつかい」
「へえい、さようで――」
「いくらするんだ」
「ちとお高うございますが……」
「べらぼうめ! 安けりゃ買おう、高けりゃよそうというような贅六《ぜいろく》じゃねえんだ。たけえと聞いたからこそ買いに来たんじゃねえか。夫婦《めおと》一対で、いくらするんだい」
「五両でございます」
「…………」
「あの、五両でございます」
「…………」
「聞こえませんか! 女雛男雛一対が大枚五両でございますよ!」
「でけえ声を出さねえでも聞こえていらあ! ちっと高すぎてくやしいが、五両と聞いて逃げを張ったとあっちゃ、江戸っ子の名に申しわけがねえんだ。景気よく買ってやるから、景気よくくんな」
 入れ違いにはいってきたのが若い娘。
「あたしにも一対ちょうだいな」
 いいつつ、これがまた争うように買って帰ったものでしたから、名人のことばがいよいよさえました。
「なるほど、羽がはえて飛んでいくな。これをこしらえたやつは何者じゃ!」
「それがちと変なんですよ。にせものではございましても、これほどみごとな品を作るからにはさだめし名のある人形師だと思いますのに、だれがこしらえたものか、さっぱりわからないのでございます」
「でも、これを売るからには、卸に参った者があるだろう。そいつがだれかわからぬか!」
「ところが、肝心のそれからしてが少々おかしいのでございます。おばあさんの人が来たり、若い弟子《でし》のような男が来たり、雛のできしだい持ち込んでくる使いがちがうんですよ」
「しかとさようか!」
「お疑いならば、ほかの九軒をもお調べくださいまし。同じようにして持ち込み、同じようにみな売れているはずでございますから、それがなによりの証拠でございます」
 たしかめに出かけようとしたところへ、たまには伝六も血のめぐりのいいときがあるから、なかなか妙です。
「おてがら、おてがら。どうもちっと変じゃござんせんか」
「なんでえ。じゃ、きさま、先回りして九軒をもう洗ってきたのか」
「悪いですかい」
「たまに気がきいたかと思って、いばっていやがらあ。どんな様子だ」
「やっぱり、九軒とも、気味のわるいほど古島雛のまがい雛が売れているんですぜ」
「それっきりか」
「どうつかまつりまして。これから先が大てがらなんだから、お聞きなせえまし。その作り手の人形師がね――」
「わかったのかい」
「いいえ、それがちっともだれだかわからねえんですよ。そのうえ、売り込みに来た使いがね、手品でも使うんじゃねえかと思うほど、来るたんびに違うというんだから、どうしても少し変ですぜ」
 ほかの九軒もやはり同様、人形師も不明なら、使者もまた人が違うというのです。なぞはその一点、――つとめて正体を隠そうとした節々のあるところこそ、まさに秘密を解くべき銀のかぎに相違ないはずでした。
「なかなか味をやりやがるな。そうするてえと――」
 あごの下にあの手をまわして、そろりそろりと散歩をさせていましたが、まったく不意でした。
「なんでえ。そうか。アッハハハ」
 やにわに、途方もなく大声でカンカラ笑いだすと、伝六を驚かしていいました。
「たわいがねえや。だから、おれゃべっぴんというやつが気に食わねえよ」
「え……?」
「目の毒になるだけで、人を迷わすばかりだから、べっぴんというやつあ気に入らねえといってるんだ」
「なんです! なんです! 悪口にことを欠いて、おらがひいきのべっぴんをあしざまにいうたあ、何がなんです! だんなにゃ目の毒かもしれねえが、この伝六様にはきいてもうれしい気付け薬なんだ。ひいきのべっぴんをかれこれといわれたんじゃ、あっしが承知できねえんだから、聞こうじゃねえですか! ね! どこが目の毒だか聞こうじゃござんせんか! さ! おっしゃいましよ! 言いぶんがあったらおっしゃいましよ!」
「うるせえな。ふたりも若い女がいなくなったと聞いたんで、何かいわくがあるだろうと、せっかく力こぶを入れてみたんだが、やっぱりこりゃただの盗難だというんだよ」
「へえ、じゃなんですかい。まがい雛をこしれえて売り出すために、どやつか了見のよくねえ人形師が、古島雛の真物を盗み出したというんですかい」
「まず十中八、九、そこいらが落ちだよ。売りに来るたび人を変えて、こしらえた人形師の正体をひた隠しに隠している形跡のあるのが第一の証拠さ。盗んだればこそ、名の知れるのがおっかねえんだ。ばかばかしいっちゃありゃしねえや」
「でも、べっぴんがふたり消えてなくなったのが変じゃござんせんか」
「だから、目の毒、迷いの種はそのべっぴんだといってるんだ。なんのことはねえ、久米《くめ》の仙人《せんにん》がせんたく娘の白いはぎを見て、つい雲を踏みはずしたというやつよ。いなくなったり、消えたり、人騒がせをやりやがるから、むっつりの右門様もちょっと眼《がん》を踏みはずしたんだ。春菜とやらのいなくなったは、十二年このかた思いこがれたおかたとも破談になりそうになったんで、悲しみ嘆いての家出だろうさ。腰元お多根の家出出奔も、主人の難儀はわが難儀と、悲しさあまって心中だてに忠義の出奔というやつよ。たわいがなさすぎて、あいそがつきらあ。真物が姿を見せたら、うわさを聞いて女どももひとりでににょきにょきと姿を見せるにちげえねえから、ひとっ走りいって洗ってきな」
「え……?」
「京金襴の出どころをかぎつけてこいといってるんだ」
「そんなものを洗や、なんのまじないになるんです」
「いちいちとうるせえな。これだけたくさんのまがい雛を作るからには、着付けに使った京金襴だってもおろそかなかさじゃねえんだから、どやつかどこかの店でひとまとめに買い出した野郎があるにちげえねえんだ。その野郎をかぎ出しゃ、自然といかもの作りの人形師もわかるだろうし、わかれば盗まれた真物の行くえにも眼がつく道理じゃねえかよ。べっぴんをごひいきとかのおあにいさまは、血のめぐりがわるくてしようがねえな」
「ちげえねえ!」
「てめえで感心していやがらあ。日本橋の呉服町に京屋と清谷といううちが二軒、浅草の田原町《たわらまち》に原丸という家が一軒、つごう三軒がいま江戸で京金襴ばかりをひと手にさばいている店のはずだから、きょときょとしていねえで、早いところいってきな」
「ようがす! ちくしょうめ! 盗み出す品に事を欠いて、因縁つきの思い雛に手をかけやがったから、かわいそうにお姫さまたちが泣きの涙で雲がくれあそばしたんだ。むろんのことに、だんなは八丁堀へけえって、あごをおなででござんしょうね」
「決まってらあ」
 遠いところから先にと、伝六は浅草田原町へ、名人はお組屋敷へ、――表はうらうらとなおうららかな桃びよりでした。

     

 かくして待つこと小|一刻《いっとき》――
「ざまあみろ! ざまあみろ! 眼《がん》だッ! 眼だッ。ずぼしですよ!」
 なにもざまをみろといわなくてもよさそうなのに、ひとたび伝六がてがらをたてたとなると、じつにかくのごとくおおいばりです。しかも、その啖呵《たんか》がまた、いいもいったり――。
「だんなの口まねするんじゃねえが、まったくべっぴんというやつも、ときにとっちゃ目の毒さね。ほんとにたわいがなさすぎて、あいそがつきらあ。人形師の野郎がね――」
「眼的《がんてき》か」
「的も的も大的なんです。浅草の原丸も、呉服町の清谷も、最初の二軒はしくじったからね、心配しいしい三軒めの京屋へ洗いにいったら、あのまがい雛《びな》の着付けとおんなじ金襴を百体分ばかり、人形師の野郎が自身でもって買い出しに来たというんですよ。しかも、買うとき味なせりふをぬかしやがってね、こういうものは人まかせにすると、気に入ったのが手にへえらねえからと、さんざんひねくりまわして買ってけえったといやがったからね、能書きをぬかしたところをみるてえと、いくらか名人気質の野郎かなと思って探ってみたら――」
「桃華堂の無月だといやしねえか!」
「気味がわるいな。そうなんですよ! そうなんですよ! 四ツ谷の左門町とかにいるその桃華堂無月とかいう野郎だというんですがね。どうしてまた、そうてきぱきと、いながらにして眼《がん》がつくんですかね」
「またお株を始めやがった。むっつりの右門といわれるおれが、そのくれえの眼がつかねえでどうするんかい。いま江戸で名の知れた雛人形師のじょうずといえば、浅辰《あさたつ》に、運海に、それから桃華堂無月の三人ぐれえなものなんだ。なかでも桃華堂はことのほか偽作がじょうずとかいう評判だから、もしかすると野郎じゃねえかと思っていたやさきへ、おめえがいま京金襴を買い出しにいって能書きうんぬんといったんで、名人気質のやつならてっきり野郎とホシがついただけのことさ。そのあんばいならば、大将め、ちょろまかした古島雛をどこかへ隠して、今ごろはぬくぬくしていやがるだろう。じゃ、駕籠《かご》だよ。いってきな」
「ちゃんともう二丁――」
「大束決めたな。じゃ、急いで乗りな」
 風を切ってその左門町へ――行きついたとき、桃の節句びよりはそこはかとなく夕暮れだって、春風柳水に桜、桜にふぜいのともしび、いろめきたって大路小路は行く人帰る人、雪駄《せった》の足もうきうきと踊っているようでした。
「ここがそうかい」
 まもなく捜し当てた一軒は、わび住まいながらそれと名を取った人形師の家らしいひと構えです。案内も請わずにずいとはいっていくと、そこの仕事べやで、三人ほどの弟子《でし》たちといっしょに、せっせとどろいじりをやっていた五十がらみのおやじこそ、まさしく桃華堂無月に相違ない。と見るや、いつものあの生きのいい啖呵《たんか》が、まもおかずなめらかに飛んでいきました。
「江戸名物のおふたりさまが、このとおりおそろいでお越しあそばしたんだ。けえりにゃ、夜桜見物に回らなきゃならねえんだから、先を急がなくちゃならねんだ。手間取らせずと、すっぽり吐きな」
「なんでござります?」
「しらばくれるな! 京屋で買い込んだ京金襴をつきとめて、古島のまがい雛|詮議《せんぎ》にやって来たんだ。おれの啖呵で不足なら、こちらにお控えあそばすおしゃべり屋のおあにいさんは、特別音のいい千鳴り太鼓をお持ちだよ。四の五のいってしらをきりゃ、勇ましいところが鳴りだすぜ。すっぱりきれいにどろを吐きなよ」
「なるほど、そうでござりましたか、いや、さすがでござります。京金襴から足をおつけなさるたア、さすがご評判のおふたりさまでござります。それまでお調べがついたとなりゃ、むだな隠しだていたしましても罪造りでございますゆえ、いかにも白状いたしましょう。おめがねどおり、古島のまがい雛をこしらえたのは、この無月めにござります」
「ほほう、おぬしもさすがに名のある江戸の職人だな。それだけあっさり口を割ったら、あとの一つも隠すところはないだろう。ねこばばきめた真物も、ついでにこれへ出しな」
「なんでござります?」
「渡辺《わたなべ》様から盗み出した古島雛の真物も、隠さずにこれへ出せといってるんだよ」
「冗、冗談じゃござんせんよ! やにわと変なことをおっしゃいますが、何かお勘違いなすっているんじゃござんせんか」
「なに、勘違い? 勘違いとは何を申すか! まがいものをこしらえる以上は、真物をねこばば決めて雛型とったに相違ねえから、盗んで隠したその古島雛をあっさりこれへ出しゃいいんだ」
「め、めっそうもござんせぬ! しがない渡世はしておりましても、わたしはまだ人のものをかすめたり盗んだり、そんなだいそれた悪党じゃござんせんよ。あるおかたから頼まれまして、あのまがいものをこしらえただけでござんす」
 意外とも意外! うそとは見えぬ真実さをもって、寝耳に水の新事実を陳述したものでしたから、はてな?――というように、名人の目も、声も、ことばも変わりました。
「へへえ。ちっとこれはまた空もようが変わりましたかな。人から頼まれたというは、どういうわけだ」
「どうもこうもござんせぬ。あるおかたがひょっくりお越しなさいまして、おまえはまがいものをこしらえるがじょうずとのうわさじゃ、ないしょに急いで古島雛《こじまびな》の男雛《おびな》を一つ、――ようござんすか、ここがだいじでもあり、あたしの冤罪《えんざい》の晴れる急所でもございますから、よくお聞きくださいましよ。女夫雛《めおとびな》を一対のご注文じゃねえんでござんす。なんのごつごうか、古島雛の男雛ばかりを一つ、至急にこしらえろとのご注文でござりましたゆえ、ご存じのとおり、あの内裏雛は天下のお名物お宝物でございます。未熟ながらてまえも雛造り渡世の人形師ならば、せめてまがいものなりと古島雛ぐらいの品を造ってみたいと日ごろ念じておりましたゆえ、さっそくご注文どおり男雛を一体造りあげて向こうさまにお渡ししたのでございます。ところが、そのできぐあいが、なんと申しますか、このわたくしの口からいうのも変でございますが、思いのほかにみごとでござりましたのでな、さいわい節句のまえではございますし、いっそついでに女雛も作り、女夫一対にそろえて売り出してみたらと、こっそり人形町へ持ち込んでいったのが、評判というものは恐ろしいくらいでござります。世間さまには目の高いおかたがいらっしゃるとみえて、古島雛じゃ、古島雛のまがい雛じゃと、あのとおり羽がはえて、てまえのまがい作りが売れましたのでございます」
「なるほどな。うそとも思えぬ話のようじゃが、では、それなる頼み手が、真物の古島雛を携えてまいって、そのほうに見せたうえ、雛型をとらしたと申すか」
「いいえ、それがちっと変なんでございますよ。頼んだおかたは手ぶらのままお越しになって、いきなり古島雛をこしらえろとおっしゃいましたゆえ、いくらまがいものでも、手本の真物がなくてはと、はじめは二の足を踏みましたんですが、名の高いもの、天下に知られたご名品は、何によらず暇のあるかぎり見ておくものでござります。じつは、二年ほどまえ、ふとした手づるから真物を古島様のお屋敷で拝見したことがございましてな、やはり神品となると、後光がさすとでも申しますか、そのおり拝ましていただいた一対の雛、形、まゆの引き方、鼻のかっこうのみごとさは申すに及ばず、着付けの色のほどのよさまでが目に焼きつき、あとあとも夢に見るほど心の底から離れませなんだゆえ、ご注文の男雛はもとより、あとからこしらえて売りに出した女雛そろっての一対も、そのときのわたしの心覚えをたどって、着付けの金襴もようやく似た品を捜し出し、ああして売り出したのでござります」
「しかし、ちと不審じゃな。それならば、なにもそなたには後ろ暗いところはないはず。にもかかわらず、売り込みに参ったみぎり、人を替え使いを替えて、ひた隠しに正体隠そうとしたのは、なんのためじゃ」
「お疑いはごもっともでござりまするが、古島雛は天下の名宝、二つとないその名宝に、まがいものながら似た品がたくさん世に出たとあらば、真物にも傷がつく道理でございますゆえ、それがそら恐ろしかったのと、金がほしさに桃華堂無月がまたにせものをこしらえたといわれるが悲しさに、わざと名も隠し、正体も隠したのでござります」
「いかにもな、一寸の虫にも五分の魂、偽作のじょうずにも名人気質というやつだな。しからば、その頼み手じゃが、男雛ばかり一つというような変な注文したのは、どこのなんというやつだ」
「…………」
「ほほう、肝心かなめのことになったら、急に黙り込んだな。しかし、いくら隠しても、こいつばかりはいわさなきゃおかねえぜ。どこのだれから頼まれたんだ」
「…………」
「ふふん、いわねえな。いわなきゃ手があるぜ。裏表合わすりゃ九十六手、それで足りずばもう一つ右門流というドスのきいた奥の手もそろっているんだ。隠してみたとて三文の得にもならなかろうじゃねえか。不思議なその注文主は、どこのどやつか、すっぱりいったらどうだい。功徳になるぜ」
「いや、わかりました。なるほど、そうでござります。てまえが隠したとても、三文どころか半文の得にもなるわけじゃねえんですから、いかにも申しましょうよ。じつは、古島雛にかかわりのあるおかたでござります」
「なに! 縁のあるやつとな! だれじゃ! 古島の親子か!」
「いいえ、違います」
「では、預かり主の春菜とやらいったあのお嬢さまか!」
「いいえ、違います。じつは、そのお姫さまのお付き人の――」
「えッ。じゃ、あの腰元か!」
「へえい、お多根様でございます。できたらこっそりお下屋敷のほうへとのことでございましたゆえ、わたしがじかにあのお腰元のところへ持参したのでございます」
「こいつあ意外だな。ちっとあきれたよ」
 まったく意外! 意外も意外! 急転直下したうえに、なおさらにかくのごときところへ急転直下するとは、まさにこれこそ、意外の中の意外です。いかな名人もしたたか驚いたらしく、あごの下にあの手をやって、そろりそろりと、しきりに散歩をさせていましたが、しかし、やがてうそうそと笑いだすと、静かにいいました。
「ね、伝六あにい」
「フェ……?」
「変な声を出すなよ。雲だよ。雲だよ」
「なんでござんす? 夕だち雲でも出ましたかい」
「久米《くめ》の仙人《せんにん》がまた雲を踏みはずしたといってるんさ。ただの雛どろぼうだろうとにらんだやつが、またここでどんでん返しよ、だから、やっぱり、どうもべっぴんは目の毒さ。いいや、だんだん魔物に近づきかけたよ」
「さようでございますかね」
「ちぇッ、ごひいき筋を悪口いわれるんで、御意に召さねえのかい。しかし、こうなりゃお多根のかたさまがどんなにいじらしくて、すなおで、かわいかろうとも、おれの目にゃ如夜叉《にょやしゃ》なんだ。出直しだよ、出直しだよ。内藤新宿へもどって、いろはからまた出直すんだから、急いで駕籠を仕立てな」
 飛ばして行きついたところは、そもそもの振り出しのあのお下屋敷です。

     

 すうと門をはいって、すうと木立ちをくぐり、あごをなでなでご後室の隠居住まいにはいっていった名人の姿を知って、待ちかねたように出てきたのはそのご後室です。
「どうでおじゃりました。だめでおじゃりましたか」
「いえ、どうやらめぼしがつきましてござりまするが、そのかわり」
「なんでおじゃります」
「おひざもとからとんだ悲しい科人《とがにん》を出さねばなりませんぞ」
「だれでおじゃりましょう。科人とやらは、だれでおじゃりましょう」
「お多根どのでござります」
「えッ――。でも、あの子が、あの子にかぎってそのような」
「ごもっともでござります。美しい子なら美しいだけに、そのような悪事はいたすまいとお思いでござりましょうが、疑うべき証拠があがってみれば、やむをえませぬ。擬物の男雛をあつらえてこしらえさせたことまでわかりましてござりますゆえ、念のため、お多根どののおへやを拝見させていただきましょうよ」
 しかるに、その居室へいってみると、これがはなはだよろしくない。一点の非も打ちどころがないと折り紙ついた当人ならば、万事が整然と行き届いていなければならないはずなのに、器具調度があちらこちらに乱れ散っているばかりか、たんすの引き出しが開いたままになっていたものでしたから、ぴかりと名人の目が光りました。
「お多根どのは、あなたさまがだいぶおほめのようでござりましたが、このふしだらはどうしたのでござります」
「いえ、これはほんの先ほど兄の敬之丞《けいのじょう》が参って、なにやらお多根に預けた品があるとか申し、捜して持ち帰ったようでおじゃりますゆえ、そのためこのように散らかしたのでおじゃりましょうよ」
「なに! お多根どのに兄がござりますとな! 兄はどのような男でござります」
「これもけっしてけっして疑うべき男ではおじゃりませぬ。今は禄《ろく》に離れまして、この近くに浪人住まいをいたしておりますが、家内の者同様に、ときおり屋敷へも参り、よく気心もわかった善人でおじゃりますゆえ、あれにかぎってはご詮索《せんさく》ご無用におじゃります」
 しかし、事実がこれを許さないのです。妹に預けておいた品というなら、兄自身のものでなければなるまいと思われるのに、持ち出していった品々は、妹多根の髪道具らしいもの、化粧用の品々、着物もたしかに二、三枚あいている引き出しの中から抜きとっていった形跡があったので、名人の声がさえました。
「とんだ善人のおにいさまさ。ねえ、大将!」
「フェ……?」
「べっぴんびいきのおまえさんは、さぞ耳が痛いことでござんしょうが、とかく美人と申すしろものが、外面如菩薩《げめんにょぼさつ》、内心如夜叉《ないしんにょやしゃ》というあのまがいものさ。まず上等なところでお多根|菩薩《ぼさつ》のやきもちというところかね。そろそろ春菜姫のおめでたが近づいたんで、やはり女は水ものよ、日ごろは忠義たいせつと仕えた主人であっても、目の前でうらやましがらせを聞かされちゃ、お菩薩さまとて番茶の出花だからな、ついふらふらと、やきもちねたみじるこに身をこんがりこがして、何か小細工をやったか、でなくばたいそうもなく善人の兄貴とふたりしての欲得仕事に預かり雛を売り飛ばし、代わりにまがい雛をまにあわせたというようなところが、まず話の落ちさ。とにらむのが順序だが、おまえさん気に入らないのかい?」
「知りませんよ。あたしゃお多根っ子の兄貴でも亭主でもねえんだからね、だんながそれに相違ねえとおっしゃるんなら、まだ先ゃなげえんだ。姫君も見つけ出さなきゃならねえし、ひょっとするてえと、きょうだいふたりゃ風をくらってずらかったかもしれねえんだから、急いで追っかけましょうよ」
「せくな! ここまで眼《がん》がつきゃ、もうひと息だ。ご後室さま、敬之丞とか申した兄の浪宅はどこでござります」
「いえ、ようわかりました。信用しすぎましたのが災いのもとやも知れませぬゆえ、どこここと申さずに、てまえがご案内つかまつりましょう」
 先へたって夜桜ふぶきの道をくぐりながら、導いていったところは、いかさま遠くない大木戸内の近くです。
「あれでおじゃります」
 いわれた一軒は路地奥のもちろんわび住まい――。しかるに、聞こえるのだ。その表まで歩みよると、こは不思議! お多根の身回り道具を持ち出していった以上は、十中八、九兄妹ふたりして出奔したか逐電したか、いずれにしても今ごろまで浪宅にいる気づかいはあるまいと思われたのに、家の中から、よよと泣き合う忍び音が漏れ聞こえるのです。しかも、声は三人! 女と、男と、そして女と、まさしく三人なのです。
「おや! ――。ちょっと変だな」
「ね!」
「おまえにも聞こえるかい?」
「ちぇッ、聞こえるからこそ、不思議に思って首をかしげているじゃござんせんか」
「とするてえと、またこれは眼《がん》ちげえかな」
 とにかくとばかりはいっていくと、さらに不思議! 泣いていたのは、お多根に兄の敬之丞に、そのうえ、あの春菜なのです。
「ま! おまえはここに! おまえはここにおじゃりましたか!」
 ご後室のおどろきも大きかったが、名人のおどろきはさらに数倍でした。
「これはまた、いったいどうしたのでござります!」
 鋭くききとがめたのを、ご後室が奪っていいました。
「お多根! おいい! おいい! 何もかもいっておしまい! おまえに疑いがかかってじゃ! おこりませぬ! おこりませぬ! おまえのことならけっしておこりませぬゆえ、もう何もかもいっておしまい!」
「でも……でも……」
「いえぬとおいいか! あの預かり雛がなくば、かわいい春菜の身に大事がふりかかります。おまえがあの男雛を盗んだとのお疑いじゃ。どこぞへ隠したであろう。おいい! おいい! ほんとうのことをいっておしまい!」
「いえ、おばあさま! 違いまする! 違いまする! 多根ではありませぬ! あれを盗み出したは、多根ではござりませぬ!」
 ことばを押えて、不意に横からいったのは当の春菜でした。
「あれを盗み出したのは、あの男雛を隠しましたは、このわたくし、この春菜でござります」
「えッ――」
 事実は三たび急転直下、意外のなかの意外な陳述、予想外の真犯人に、さすがの名人も愕然《がくぜん》となりました。
「ご本人のあなたさまがたいせつな契り雛を隠すとは、またなんとしたことでござります」
「お恥ずかしゅうござります。それもこれも、じつは……」
「なりませぬ! なりませぬ! それをお嬢さまがおっしゃってはなりませぬ!」
「お黙り! 多根! いいまする! いいまする! おまえに難儀がかかってはなりませぬゆえ、もう何もかも申しまする。それというのも、もとはといえば……」
「いえ、ではわたくしが、この多根が代わって申しまする。ご後室さまもお許しくださりませ。このような騒ぎの起きたもとはといえば、――でも、どうしましょう。恥ずかしゅうて言い憎うござります。いえ、申しまする、申しましょう。それもこれも、もとはといえば、こちらに控えておりまするわたくしの兄めが、おりおりわたくしをたずねてお屋敷へ参り、お嬢さまと一度会い、二度会ううちに、ついした縁の端から、ひと目を忍んでの割りない仲になりましたのでござります。なれども、お嬢さまは、古島の若さまと堅いお約束のあるおん身、――兄なぞとそのようなことにおなりあそばしてはと、わたくしひとり胸を痛めましたけれど、恋とやら情けとやら申すものは、どうせきとめようにも、せきとめるすべのないものとみえまして、三度は四度と重なり、四度は五度と重なるごとに、古島様とのお約束を破ってもと、おいじらしくも思いつめたお心におなりあそばしたのでござりましょう。今こうして三人泣き合いながら、わたくしもありのままを申しあげ、お嬢さまからも事の子細みんな承りましたのでござりまするが、ことしの節句が無事に済めば、遠からずもうお輿入《こしい》れせねばなりませぬゆえ、いっそ思いきってと、あの預かり雛をお隠しあそばされたのだそうでござります。さすれば、古島様がたいせつな契り雛を粗略にしたとご立腹あそばし、したがって十二年このかたのお約束も、ご立腹のあまりご破談になることであろうし、なればひとりでに兄めにも添いとげられるとお思いあそばして、こっそりどこかへお隠しなさいましたのを、ちらりとこのわたくしが見かけたのでござります。それゆえぎょうてんいたしまして、兄は、このとおりのやせ浪人、こんな浪々の身分卑しい者とご大身のお嬢さまが、りっぱなおいいなずけにおそむきあそばしてまでも添いとげたとて、いずれは先々お身の不幸と、ご恩顧うけたご主人さまの行く末々を思う心から、二つにはまた身のほど知らぬ兄めをもたしなめましょうと存じまして、お嬢さまの目を忍び、こっそり桃華堂様のところへ駆けつけて、あのようなまがい雛をこしらえさせたのでござります、契りのしるしの男雛さえあれば、よしまがいものでござりましょうと、またお嬢さまにひそかごとがござりましょうとも、約束どおり八方無事にお輿入れもできますことでござりまするし、とすればまた兄との仲もおのずと水に消えることでありましょうと、女心のあさはかさからしたことが、けさほどのように古島様親子からひと目にまがいものじゃと見現わされまして、このような騒ぎになりましたのでござります。これがなんぞの罪科《つみとが》になりますことなら、だれかれと申しませぬ、この多根めがすべての罪を負い、どのようなおしおきでもいただきますゆえ、よしなにお取り計らいくださりませ……」
 ききつつ、おのが身を省みつつ、恥ずかしさ、やましさ、腰元お多根の心づくしの美しさ、いじらしさにこらえかねたとみえて、当の春菜がうなじまでも一面に染めながら、消えも入りたいようにたもとで面をおおって、よよと泣きくずおれました。
 まことに意外、意外から意外、あまつさえ美しくも可憐《かれん》な多根女の心意気に、したたか名人も胸を打たれたらしく、知らぬまの涙が知らぬまに秀麗たぐいなきその両ほおを伝わりました。泣きぬれながら、しかし名人は静かに多根女にきき尋ねました。
「では、そなた、お嬢さまとお兄人との恋が、憎うて妨げようとしたのではござりませぬな」
「それはもう、わたくしとてもおなごのはしくれ――、なんで恋が憎うてなりましょう。いっそ、わたくしにもそのような恋がと――、いえ、いえ、恥ずかしゅうござります。いえ、そうではござりませぬ。ただもうお嬢さまがいとしいばっかりに、身分のふつり合いは不幸不縁のもとと、涙を忍んで兄との恋を忘れていただこうと思うただけのことでござります……」
 いよいよいでていよいよ美し! 名人はそのいじらしさ、可憐《かれん》さにしとどほおをぬらしながら、ことばを改めていいました。
「ご後室さま、お聞きのとおりでござりまするが、いかがお計らいあそばされます」
「計らいもくふうもおじゃりませぬ。わたくしまでも多根のかわゆらしい心根におもわずもらい泣きいたしました。ほんとうに、古島の婿どのが、しんそこ春菜がかわゆければ、雛一つぐらい失ったとて、あのように口ぎたなくはののしりませぬはず。いかほどたいせつな家の宝でありましょうと、人の子よりも雛のほうがたいせつじゃといわぬばかりのおことば聞いては、向こうがわびてまいりましょうと、こちらがもうまっぴらでおじゃります。それに、春菜がそれほどまでに敬之丞を好いているとあらば――いえいえ、そのようなことはもういわぬが花、恋に身分の上下隔てはおじゃりませぬものな。のう、春菜、そうでおじゃろう。こうならば、もうわしがそなたたちの味方じゃ。だれがなんと申しましょうと、必ずともに敬之丞どのと添いとげさせてしんぜまするぞ」
「いや、おみごと! おみごと! おさばきあっぱれでござります。そうなりますれば、もうただ一つ気になるは、お隠しなすった雛のことでござりますが、春菜さま、どこへおしまいでござります」
「ここにござります」
「ほうこれはまた?」
「なにも不審はござりませぬ。お屋敷裏の高円寺へそっと預けておきましたなれど、こうならばもうしょせんただでは済むまいと、先ほどこっそりまた持ちかえり、古島様のほうへきっぱりご返却いたしましたうえで、しばらくお多根ともども三人して、どこぞへ身を潜めるよりしかたがあるまいと存じましたゆえ、多根の身のまわりの品から先にまずここまで運び出して、その相談をしていたところなのでござります」
「それならばもう何も申しあぐることはござりますまい。この雛はたった今、すぐにご返却なさいませな。心の去ったおしるしに。さすれば古島家のほうでも察しましょうよ。――いや、これでもうてまえどもの役目は終わりました。恋のおふたりさん。それから、いじらしいお多根さん。おしあわせでお暮らしあそばしませよ。さ! 伝あにい! 何をまごまごしているんだ。じゃまだよ! じゃまだよ! 長居はじゃまっけじゃねえか」
 しかるに、その伝六が表へ出ると、
「ね……!」
「ね……!」
「どう思ってもたまらねえね」
 しきりにひとりでうなずきながら、しきりとひねりつづけていたものでしたから、名人の明るい声がとびました。
「何を感心しているのかい」
「いいえね、見ましたかい」
「何をよ」
「べっぴんたちの顔ですよ。内藤小町の春菜さんもくやしいほどべっぴんでしたが、お多根っ子も気がもめるほどあでやかでしたぜ。そのうえにまた、敬之丞っていうご浪人が、きりりっとこう苦み走っていてね、だんなの次くらいなべっぴん男なんですぜ」
「つまらねえことばかりを感心してらあ。だから――」
「いいえ、だからはこっちでいうことなんだ。べっぴんのなかにもああいう掘り出しものがいるんだからね、親のかたきみてえに、目の毒だの、如夜叉《にょやしゃ》だのと悪口いうもんじゃねえんですよ」
「そうよな。たまには顔も心もそろったべっぴんがいるのかな」
「ちぇッ、それほどものがわかっていたら、なんでだんなもはええところ五、六人見つけねえんですかよ。あっしが気がきかねえようで、江戸のみなさまにも会わする顔がねえじゃござんせんか。了見入れ替えて、お捜しなさいましよ!」
 声の流れていくあとへ、夜桜ふぶきが無心にはらはらと散って流れて舞いました。

底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:鈴木伸吾
2001年2月7日公開
2005年9月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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