今昔茶話
国枝史郎
一 風見章さんのこと
前司法大臣風見章閣下、と、こう書くと、ずいぶん凄いことになって、僕など手がとどかないことになる。しかし、前大阪朝日新聞記者風見章、と、こう書くと、僕といえども気安くもの[#「もの」に傍点]が云える。そこで、その頃の風見さんのことを書く。
その頃僕はその大阪朝日新聞社の社会部の記者であった。その時の同僚といえば、この記事を掲載する「外交」の社長の竹内夏積(本名は、克己だ)や、画家の幡恒春や、今は無き橋戸頑鉄や、水島爾保布や、釈瓢斉などであり、社会部長は長谷川如是閑先生であった。通信部には支那通の波多野乾一がいた。
そうして風見さんは、社会部で無くて、外報部の副部長格であったような気がする。
さて或日、その風見さんが、頭を白い布で捲《ま》いて、和服姿で、ヌッと編集室へ入って来たことがあった。
「オーイ、風見、どうした?」
「喧嘩して、頭、割られたのか」
などと、あちこちから、悪童どもが声をかけた。
すると風見さんは、山ヌケが起こって、俺を埋めようとしたって、俺、ビクともしないよ、といったような、よく云えば剛胆、素直に云えば胆汁質のボーッとした態度で、
「禿頭病にかかったんだ」
と云って、ノンビリと椅子へ腰をかけた。
禿頭病といえば、かなりウルサイ病気で、わけても風采や面子を気にする性格者にとっては致命的に苦痛の病気の筈だのにそれにかかった本人がノホホンだったので、それを取巻いた、編集室の悪童どももノホホンで。
「禿頭病! フーン、そうかい」
「なおる見込みあるのかい?」
などと、自分の席から、対岸の火事でも見るような態度で声をかけた。
「時の問題だそうだ」
――これが、その時の風見さんの返事であった。
「時の問題でね。――つまり、この病気には二種類あるんだそうだ。一つは神経性、一つは黴菌性――ところで俺ののは神経性禿頭病なのだそうだ。だからボーッとしているとなおるんだそうだ」
果して、その後、六ヶ月ばかり経つと、以前よりも、もっと濃い、厚い髪が生えた。
さて、その髪も、内閣書記官長だの、司法大臣だの、翼賛会の産婆役だのという、ウルサイ役目を、次々と担任された現在ではどうなっていることやら。
だいぶ白くなったということも聞いているが、三十年近くもお逢いしない僕には真偽のほどはわからない。
二 小林商相の昔
商工大臣小林一三閣下といえば、僕など三歩さがってお辞儀をしなければならない。
だから然《そ》ういう偉い小林さんのことはお預けとしておいて、ざっと三十年もの昔、阪神鉄の社長であった頃のことを書く。
その頃僕は大阪朝日新聞の記者をしていて、前項に書いたように、風見章さんなどと一緒に上福島の下宿屋にコロガッていた。
その頃の或日、小林さんの経営しておられる宝塚の少女歌劇を見に行った。僕が演芸と文芸とを担任していたからである。案内役は、その頃の小林さんの秘書、今の東宝の重役吉岡重三郎さんであった。
ノンビリした格好で、その頃のスターの雲井浪子の歌舞を見ていると、背広姿の小兵の人が吉岡さんに連れられて現われ、
「国枝先生ですか、ようこそ」と云われた。それが小林さんであった。
ここで註を加えておくが、いかに如才のない小林さんといえども、国枝史郎の人間に対して、先生という敬語を使われたのでは無くて、その肩書の大阪朝日新聞記者に対して使われたのであることは云う迄《まで》も無い。
これが小林さんとの初対面であった。
その後僕は朝日をやめて松竹会社の脚本部員となったが、芝居の空気が僕に会わず退社しようとし、小林さんへ、
「何かいい仕事はありませんかな」
と、漠然とした態度で相談すると、漠然とした態度で何やら返事をされた。
ところが数日経った時、小林さんから手紙が来た。見ると、逢いたいから来訪するようにとのことであって、ご丁寧にも阪神電車の切符が同封してあった。
そこで僕はお訪ねした。
「ねえ国枝君、松竹を出るのは考えものだよ、松竹は今でも大したものだが、将来はもっと大したものになるのだから、わがままを起こさずに辛棒《しんぼう》したらどうかね」
――これが小林さんの言葉でつまり小林さんは大多忙の時間を僕のために裂いて、わざわざ僕を訓《いまし》められたのであった。
小林さんは、それから、じゅんじゅんと訓められた。
僕はポカンとして聞いていた。そうして、小林さんの話の切れた時、
「私は昨日松竹の方はやめて了《しま》ったんですがねえ」
と云った。
その通りだったからである。
小林さんは、これには呆れ返ったらしかった。
でも、怒りもしないで、
「そうかね、やめて了ったのかね。それじゃア浪人だね。では、東京へ行った方がいいね。大阪は、浪人に住み心地のよい所では無いのだから――そこへ行くと東京は、浪人の掃溜めのようなもので、大臣の古手なんかウザウザいるからね」
と云われた。
その小林さんもとうとう大臣になられた。いずれは大臣の古手になることであろうが、東京に居られるのであるから、大臣の古手になったところで住み心地はよいに相違ない。
三 白い糸
徳冨蘆花に、『外交綺談』という著書がある。翻訳の短篇集であったような気がする。その中の一つに、白い糸をテーマにした物語があった。何んでも、ある外交官が、夜会帰りの外套の背中に、白い糸がついていたのを、ある婦人が「あなた、糸がついておりますよ」といって、取りすててくれた。さて、会場を出て、その外交官が、モスコーの通りを歩いてゆくと(この物語の舞台はロシアなのである)うしろから、人が近よって来て、その外交官を刺そうとしたが「おや、白い糸が無い」と云って外交官を刺すのをやめて立去った。……つまり、白い糸を外套につけた外交官を殺せという指令をうけた虚無党員が、それとめざした外交官を刺殺《さしころ》そうとしたところ、白い糸が無かったので、刺殺さずに立去ったというだけの話なのである。
僕がこの物語を読んだのは、中学の初年生ごろのことであって、その後、繰返えして読んだことはない。だから、おそらく物語の筋も、原作とは違っているかもしれない。
白い糸を取りすてた婦人は、あるいは、外交官の恋人であったかもしれない。又、その外交官は、――今の僕には記憶はないが、何か重大な使命を持った人物だったかもしれない。
それに、第一、それだけの筋では、探偵小説にはならない(その『外交綺談』は、探偵小説集なのであった)
それにもかかわらず、この物語が、三十年以上も、僕のアタマにつき[#「つき」に傍点]纏っていて、何か小説でも書こうとすると、きっと、アタマの隅へ浮んでくる。
何故だろう?
そんなに、僕の創作の圏内へ顔を出す物語なら、その著書をもう一度手に入れて、読返しもっとハッキリとその筋を掴んだらよいではないか!
ところが、幾度となく、その『外交綺談』を、神田辺の古本屋や、夜店の見切物の古本屋で見かけるのであるが、買おうともせず、読返そうともしない。
何故だろう?
思うに、これは、少年時代に楽しく経験した、遊戯や、風景や、初恋などを、大人になってから、もう一度経験することによって、幻滅することを恐れるあの心理と似ているのであろう。
さて、これはこれでよいとして、こう書いて来た順序として何か尤《もっと》もらしいことを云って、この茶話のしめくくり[#「しめくくり」に傍点]をつけたいものだ。
こんなことを云おう。――
「外交官などというものは、天下国家に関する、重大なことばかりに、日夜、アタマを使っていて、案外、こまかい[#「こまかい」に傍点]ことには不注意らしい。昔はそれでよかったろう。しかし、国際情勢がこう複雑怪奇になった今日ではそれではいけない。やはり、一筋の白い糸にも注意していただいて、婦人に取りすてて貰う前に、自分から取りすてて貰いたい。まして、赤い糸などはね」と。――
四 骨牌の打ちかた
ベルリン会議のはじまる前の、ある夜、ビスマルクは、露西亜《ロシア》の宰相ゴルチャコフと、私的の夜会をひらき、その席で骨牌をした。
ビスマルクとゴルチャコフとは、それ以前から親交があったというのは、ビスマルクが露西亜駐剳の独逸《ドイツ》大使としてペテルスブルグにいた時、ゴルチャコフは、その露西亜《ロシア》の宰相であり、皇帝の無二の寵臣であり、欧洲最大の政治家、且《かつ》、大外交家として、国内にありては飛鳥をおとすような勢力を持ち、国外に於ては「政治外交の神様」とまで謳われていたところから、ビスマルクは、ほとんど師事するような態度で、ゴルチャコフに接し、その政治ぶりと外交ぶりとを自家の薬籠にとり入れ、ゴルチャコフも、その真摯な若きビスマルクの態度に好感を寄せ、何かと世話をしてやったからである。
さて夫《そ》れから長い年月が経ち、今回のベルリン会議が開催されることになり、ゴルチャコフは露西亜《ロシア》を代表して、会議に列するため、ベルリンへ来たのであった。
ベルリン会議とは、露西亜《ロシア》とトルコとが戦い、ステファノ条約によって平和となったところ、英国が、その条約に不安をいだき、抗議を申入れたのを、独逸《ドイツ》のビスマルクが仲裁に入り、その相談をするための会議であって、これへは、ゴルチャコフやビスマルクのほか、オーストリアの宰相のアンドラシイ、英吉利《イギリス》の宰相ジスレーリ、仏蘭西《フランス》のワジントン、伊太利《イタリー》のコルチ等、当時欧洲の堂々たる政治家たちが列することになっていた。
ところで、ゴルチャコフは、むかし、自分の門下であったビスマルクが、この会議を主催するというので、気をよくし[#「よくし」に傍点]、充分頑張ることが出来るものと安心していた。
しかし、この頃のビスマルクは、もう昔のビスマルクではなく、ナポレオン三世を屈伏させその鉄血外交の手腕を発揮しつつあった時であった。
さて、夜会の席で、ビスマルクとゴルチャコフとは骨牌をした。その時のビスマルクの傍若無人ぶりはどうだったか?
骨牌を一々たたきつけて打つ、唾を吐く、はな[#「はな」に傍点]をかむ、歯をせせる、豪然と笑う、相手を睥睨する、足踏みをして喚く、……非社交的の限りをつくしたことであった。
ゴルチャコフの驚くまいことか!(変わったなあ)と先ず思い(まるでタイラントだ)と思い、不愉快から次第に嫌悪となり、やがて恐怖となった。何故ビスマルクは、そんな非社交的の行動をしたのであろう?
それは、(昔は昔、今は今さ、現在の僕は、むかし、ペテルスブルグで、君の靴の紐をといた時代の僕とは違うのだよ。そのつもり[#「つもり」に傍点]でね!)
という意味を、あらかじめゴルチャコフに知らせ、その胆を奪ったのであった。
この事前の、ビスマルクの外交手段が功を奏し、ベルリン会議では、ゴルチャコフは、終始、意気銷沈し、ビスマルクに牛耳られた。
その結果、ステファノ条約は破棄され、露西亜《ロシア》に不利の新条約が締結された。
どうも是《これ》によると、外交官というものは、骨牌一つ打つにも、細心の注意をしなければいけないものらしい。
五 縦横家
いま、支那に関する、ちょいとした著述をしているので、支那の現在と過去のことをしらべている。
戦国時代の七国の興亡が両白い。
戦国の七雄――秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙、これらの国のうち六国が亡《ほろ》びて、秦に併呑されたのは、けっきょく、縦横の説を説いた蘇秦と張儀とのためだということになる。
蘇秦という男は、最初は、連衡の策を、秦に説いたのであった。
連衡の策というのは、秦を頭にして、楚や斉等の六国を、これに服従せしめて、天下を統一しようという策なのであった。
ところが秦の王がその手にのらなかったので、蘇秦は、それでは合従の策を講じて秦をとっちめてやろうと、楚をはじめとして、六国の王に、その策を説いた。
合従の策というのは、六国が同盟して、六国の力で秦を亡ぼそうという策なのであった。
これは成功して、蘇秦は六国同盟の盟主となった。
ところが、秦が、その切崩しに着手し、これが成功して、間もなく合従は破れ、蘇秦は逃出した。
その後に又起こったのが、連衡の策で、それを成功させたのは蘇秦の友人の張儀という男であった。
張儀は、友人蘇秦の合従策が成功している間は、ノンビリと構えて、秦王に仕えて、何《いず》れにも仕事をしなかった。しかし、合従策が破れるや、僕の出場所だと云って、六国を順々に廻わって連衡策を説き成功させた。
ところが、これも間もなく破れ、六国は秦から離れて、バラバラとなった。
面白いのは、秦をはじめ、支那の六大強国が、そんなように合従したり連衡したりしたのは蘇秦と張儀の弁舌一つにかかわっていることである。
いかに、この二人の弁舌がすぐれていて、いかに、各国の王侯がそれに幻惑されたか。
ところで、この二人の説の根本をなすものは、孔子や孟子のように、先《ま》ず人間個々の身を修め、それから家を治め、しかる後に天下を大平にする――などという迂遠なものでは無く、のっけに、楚なら楚の王に逢い、楚国の得点をもち上げたり、欠点を突いたりして、かくかくの楚国であるから、とても一国だけでは国家を保つことが出来ませんから、他の国々と同盟したらよいでしょう、と、説くのであった。この二人にとっては、個々の人間の道徳問題など問題でなく、国そのものの富強その他物質的方面のみが問題だったのである。
だから、各国の王にはわかりよく、一時的ではあったが、その説は行われ、その策は具体化し、本人たちは宰相となり、父母兄弟、妻君、アニヨメ等に威張ることが出来たのである。
これに反して、孔子や孟子などは、個々の人間が、ほんとうの人間にならなければ、天下国家は治まらないなどと、あんまり本当のことを説いたため、一生貧乏をして、時には餓死しようとした。
さて、ところがである。蘇と張との二人が出て、その縦横の説(後世の人は、二人の説を縦横の説と呼んだ)を振《ふる》い、六国をして、合従させたり連衡させたりしたため、六国は奔命につかれ、互いに疑い合い、とうとう秦のために、次々に亡ぼされて了った。
六国を亡ぼしたのは、秦では無くて、成上がり者の、法螺《ほら》吹きの、便乗家の、口舌の雄ばかりで真理の把持者で無い蘇秦と張儀という縦横家だったのである。
六 ウエルスの予言
H・G・ウエルスは、現代英国の文豪というよりも、世界の文豪であることは、周知のことであり、その彼の科学小説が、単なる科学小説にとどまらず、宇宙の将来を予言している「予言文学」であることも、周知のことである。
僕は、コーナンドイルの探偵小説と、イブセンの戯曲と、ウエルスの科学小説――この三つだけは、全部読んでいる。
そこで、此処《ここ》では、ウエルスの科学小説のことについて、ほんの寸感を洩らすことにするが彼の『火星人の来襲』の一篇を諸君よしっかりと肚をしめて読んでみたまえ。
それは、現在、独逸《ドイツ》が試みて成功を納めつつある「火焔砲」なるものを、ウエルスは、その『火星人の来襲』という小説に於て、二十数年前に百倍千倍にもして予言しているからである。
その小説の筋のあらましは、一人の火星人が、地球へ降りて来て、殺人光線放射器を使い、世界中――地球全部を征服するというのである。
不幸にしてこの火星から地球へ天下った生物は地球の気候や温度の研究におろそかだったため、細菌に食われて死んで了い地球征服は不成功に終ったのである。
ここで注意すべきことは、火星人の持って来たような、あんな発達した殺人光線放射器が発明されたら、まったく、一人で地球を征服することが出来ることである。軍隊も、政治家も外交官も必要なくなることである。
ところで、今度の欧洲戦争でドイツ軍は、火焔砲なる新武器を用いて、ずいぶん凄い効果をあげているらしい。
その火焔砲は、勿論、殺人光線放射器ではなくて、単に、強烈の火焔を筒口から放射して、人間や鋼鉄やペトン等を焼きとろかすだけのものであるらしくウエルスが頭脳で創造した火星人の殺人光線放射器とは、比較すべくもない低い程度の新兵器ではある。
しかし僕の思うところでは、ドイツの科学者は、この火焔砲発明あたりから発足して、そのうちには、おそるべき、殺人光線放射器を発明しはしまいかということである。
まったく、ドイツの火焔砲はウエルスが頭脳の中で創造した殺人光線放射器に可成《かな》り似ているのである。
数十年の過去に於て、飛行機や潜水艦の、今日の発達を、幾人予想したろうか?
ところが、文学方面に於ては飛行機や潜水艦の今日の発達をちゃんと予想して、小説に書いているのである。仏蘭西《フランス》のユール・ベルヌの諸作など夫れであり、日本の押川春浪の諸作も、程度こそ幼稚ではあるが、矢張《やは》り夫れである。
文学の或るものは予言の書といってよい。
そうして、文学に於て予言されたことは、後年、九分九厘迄具体化されている。
では、ウエルスの予言小説『火星人の来襲』の中に書かれてある殺人光線放射器が、やがて発明されないと誰がいい得よう。
七 後詰め
後詰め(ゴズメ)というのは、日本の昔の戦争に於ける専門語であって、それは、Aという国がBという国を征《せ》める時、Cという友邦に向い、
「どうぞ兵を出して、私たちの軍隊の後衛をして下さい」
と申しやる。
「よろしい」と云って、C国がA国軍を助ける意味で兵を出した時、その兵を後詰めという。
その後詰めの兵は、ただ出兵して、ぼんやりしているのではなく、同盟軍のA国兵が不利の時には、勿論合戦に加わって力戦するのである。
秀吉が高松城を水攻めにした時、薩摩の島津が高松城を救おうとし、出兵し、水に遮られてどうにも救うことが出来なかったが、しかしこの時の島津の兵は後詰めの兵なのである。又、尼子氏の上月城を毛利の兵が攻めた時、秀吉が上月城を助けようとして出兵した、それも後詰めの兵なのである。
ところで、現在行われつつある欧洲大戦で、英国が、
「わしらの国が味方をするからドイツと戦いなさい、大丈夫勝ちますよ」
とすすめて、ノールエイだのベルギイだの、ポーランドだのチェックだの、オランダだの、フランスだの、ユゴだのギリシャだの出兵したのも、後詰めの兵なのである。
但《ただし》、これは、英国の方から、それらの国々へ、押売りをした後詰めの兵で、頼まれたから、義侠心で出した後詰めの兵ではない。だから、それらの国々が負けはじめると、そりゃこそ、とばかり、マラソン競争のような勇敢さで撤兵し、あたらしく又、後詰めの兵を押売りして、その国を地図の上から消し、そうして、その都度いくらかでもドイツの兵と物資とを消モーさせようと、キョロキョロあたりをネメ廻わす。
およそ、世界に歴史あって以来、アングロサクソンの後詰めの兵ほど薄ッ気味のわるい、悪質の狡猾な戦略というものはない。
兵こそ出さないが、重慶政権に対する英国のやり口が、後詰めの兵と同じである。
「わしらの国が附いている、武器でも食糧でも金でもドンドン送《お》くる、頑強に抗日をつづけなさいよ」
と云って、ビルマルートを閉じたり、開けたりカー大使を自動車でマゴマゴさせたり、香港と重慶との空を飛行機を行ったり来させたりする。
ところが、この頃は、英本土が、ドイツのためにあぶなくなったところから、
「わしらの方はもうアカン、そこで亜米利加《アメリカ》へ肩代りじゃ」
と、どうやら冷淡の素振りを見せはじめた。
後詰めの兵を、そろそろ繰引きに引き出したと同じである。
目下、最大級に、英国の、その後詰め戦術に引っかかっているのが米国である。
ドンキホーテ、アンクルトムは、自由主義というイスラエリズムをお題目にして、
「英国がドイツに負けたら、同じ自由主義国の我米国もあぶない」
とばかり、今度は米国の方から、英国を後詰めしている。
しかし、これは、老獪英国がもう後詰めの手で、自国防衛が出来なくなったので、その手をさえ、たくみに米国へ肩代りさせたまでで、カラクリの糸のあやつり主は、依然として英国なのである。
八 天才
十九世紀には随分すぐれた外交家が出たが、そのうちでも墺国のメッテルニッヒはわけても傑物であったと思う。
もっとも愉快に思うことは、彼が十五歳の時、ストラスブルグの大学へ入ったところ、ナポレオンが同じ学校にいて、同じ教師から数学を学んだことである。
その後、長い年が経って、ナポレオンは仏国の皇帝となり、メッテルニッヒは墺国の駐仏大使としてパリに駐在した。
この頂、仏国と墺国とは犬と猿のように仲がわるく、そうして墺国はそれ以前ナポレオンによって連戦連敗させられていた。そればかりでなく、ナポレオンは、この頃、大挙して墺国に侵入し、墺国をして城下の誓いをさせようと企てていたのであった。
ところで、墺国の方はどうかというに、そのナポレオンの侵略を食い止める手段として、当時勃興の途にあった普魯西《プロシア》と同盟しようと策していた。
ところが、その普国と墺国とは、それ以前から、隣国というところから、却《かえ》って反目嫉視し合っていた仲であった。
そういう国際関係の渦中にあって、しかも敵国ともいうべき仏蘭西《フランス》の首府パリに在って、外交手段を揮《ふる》わなければならないのであるから、メッテルニッヒの位置は、きわめて困難であったといわなければならない。
しかるに、後世、権謀術数の権化のようにいわれているメッテルニッヒは、その高い家柄と勝れた教養と、まれに見る美貌と、端麗な風采とを以って、堂々と振舞い、談笑の間に折衝し着々と自国の利益を計りながら各国使臣の間に嶄然《ざんぜん》頭角をあらわし、尊敬のマトとなった。仏国外相のタレーランの如きは、もっとも彼を敬重し、何彼と好意を寄せた。
彼の堂々たる、又、円転滑脱たる外交ぶりは、ざっと次のような有様だったのである。
難問題に就いて、彼はナポレオンと差向かいで話さなければならないことがあった。
そうして、その難問題を、ナポレオンは容易に解決しようとしなかった。
全欧洲が、獅子のように恐れ憚《はばか》る大皇帝と、マキャベリズムの実行者のような三十三歳の大外交官とは、そこで、しばらく沈黙した。千両役者同志の腹芸なのである。
卒然とメッテルニッヒはいった。
「陛下は、ストラスブルグの大学におられた頃から、数学の天才として有名でございましたな」
すると、ナポレオンは、眼へ水でもはじき込まれたような顔をして、
「そういえば貴官もその頃、同じ大学にいたように思うが……」
「さようでございます。……ですから私は、陛下とは同校のよしみある者でございます」
皇帝ナポレオンの態度は、俄《にわか》に、十五六歳の、イタズラ小僧のような、昔懐かしい態度にかわり、
「さようさよう同校生じゃ」
「陛下は、数学の天才の他に、もう一つ天才があるというので評判でございました」
「何かな?」
「陛下が、乳屋の娘へおやりになりました恋文が、たいへん名文だというので……」
この時のナポレオンの顔を、なぜ当時の宮廷画家はスケッチして置かなかったのであろう。
メッテルニッヒは云いつづけた。
「陛下は、数学の他に、文章の天才だという大評判だったのでございます。……特に婦人におつかわしになる文章が……」
「もうその辺でよろしい」
難問題は、数日後、墺国に有利に解決したそうである。
九 裏の事情
今度の独ソ戦争で、常識的に思い出されるのは、ナポレオンのモスコー遠征であろう。
ナポレオンがモスコーを遠征したのは、即ち、露国を征伐したのは、勿論、ナポレオンの英国に対する封鎖政策に、露国が協力しなかったのが大きな原因なのであるが、それ以外に、小さないくつかの感情問題があったのである。
そうして夫れは、女と外交官に関係あることなのである。
第一には、ナポレオンが、皇后ジョセヒンに子がないところから、これを離別し、露国皇帝の皇妹を皇后として迎えようとしたところ、露帝アレキサンダー一世は、大体承諾したが、皇太后が反対して成立せず、それをナポレオンが心よく思わなかったことである。
第二は、その露国皇太后が音頭取りで、国内に排仏熱を高め、駐露仏国公使サバリーに対し、皮肉な、陰険な、女性的迫害を加え、首都ペテルブルグ中で、泊るに旅館の一室をも貸与しないような酷遇をしたことである。
ところが、このサバリーが、又、めずらしい、女性的な、愚痴っぼい外交官で、そういう自分に対する私的の迫害を一々本国へ通知し、それがナポレオンの感情を害した。
その結果、仏国内には、露国懲すべしの声が、徐々に起った。
これに対して心痛したのが、駐仏露国公使のクラキンで、クラキンは、本国に向い、仏国内の排露熱を報じ、今に於て、ナポレオンの増長慢の心を砕かなかったならば、露国に対して何をやりだすかわからないと警告した。
そこで、アレキサンダー一世は、剛頑の大官チェルニシェフを特派大使として仏国へ派遣した。
世界征服を心掛けているナポレオンと、剛頑のチェルニシェフが逢ったのである、事々に折合わなかったのは当然で、為めにナポレオンの露国に対する悪感情は倍加した。
このナポレオンの心情を洞察して、ナポレオンを駆って、露国征伐の暴挙をさせようと、裏から策動したのが、墺国の大外交家で、梟雄ともいうべきメッテルニッヒであった。
彼は、これ以前に、ナポレオンが露国皇妹をめとり損なったと見るや、ナポレオンに、墺国の皇女マリア・ルイゼをめとるよう慫慂《しょうよう》し、墺国皇帝に対しても、政策上、ルイゼ姫をナポレオンへ人身御供とすべきよう進言し、これが成功して、欧洲第一の名家、ハプスブルグ家の姫君は、コルシカ島の成上がり者の配偶となったのである。
曠世の英雄ナポレオンも、マリアを皇后に迎え一子、羅馬王を儲けてからは、わが秀吉が淀君を妾とし、秀頼を儲けて以来、いささか凡人に還ったように凡人化し、マリア皇后の歓心を買うためには、どんなことでもやろうという心持ちになっていた。
それへ付けこんだのがメッテルニッヒで、
「新皇后のお心をよろこばせるためにも、一つ、はなばなしく露国をたたきつけて……」などと焚きつけた。
こうして起ったのが露西亜《ロシア》遠征で、その結果は失敗した。
十 残心
剣道に於て、残心(ザンシン)ということは重大のことになっている。私もすこし剣道のことを知っているので、残心のことに就いて書こう。そうして残心は、剣道ばかりでなく、人生いっさいのことに有用である。だから、一国の運命を背負っている外交官などには特に必用なのである。それで、残心のことを書く。
宮本武蔵が、佐々木岸柳を、木刀で真向を打って斃《たお》した。「それから、しばらく様子を見ていたが、やがて、ソロソロと進み岸柳の鼻へ、手をかざし、その生死をたしかめ」それから、はじめて、検分の人々へ一礼し、船に乗って立去った。
「 」この記しのある間が、残心なのである。
今度は、残心の無かった外交問題に就いて書く。その一つは……
日清戦争後に、露、仏、独の三国が連合して、日本に対し、遼東半島を支那へ還附すべく、理不尽の交渉をして来たのに対し、日本が寝耳に水の如くに驚き、その意に従った事。
第二は、日露戦争が終了し、小村侯が米国で、ウイッテ相手に講和談判をやっている時、米国の鉄道王ハリマンが日本へやって来て、日本の元老連を説き折角日本国民が血を流して取った満鉄を、買い取ろうとした。元老連はそれを承知して、仮調印をした此事である。(幸いに、この事はその直後に帰朝した、小村侯によって、覆《くつが》えされたが)
さて。こう書いて来て、残心とは何んぞやということに就いて説明しよう。
残心とは――
一つの事を遂行し(即ち、武蔵が、岸柳を打殺した事や、日清、日露の戦争に於て、日本が勝った事や)の後に於て、果たして、打殺したか、果たして勝ったか? と、たしかめる事、是である。
これが残心である。然り、これが残心の一つである。
もう一つは――
打殺したにしても、又、勝ったにしても、その後から、その反動が来はしまいかと、よく周囲を見廻わして、その反動に対して用心をする事。
是である。
然り、是が、残心の第二である。
わが国民のホープ、日本外交界の獅子、松岡さんは、一面、大布呂敷を拡げながら、他面、細心、緻密の人として定評がある。残心に就いても特に留意しておられることとは思うが、独ソ戦争の惹起した今日に於ては、一層の戒心をわずらわしたい。
但し、残心のみに心を止めれば、臆病となって、革新も進取も不可能のこととなる。
底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交」
1941(昭和16)年3月1日、3月11日、3月21日、4月1日、5月1日、5月21日、6月1日、6月21日、7月1日、7月11日
初出:「外交」
1941(昭和16)年3月1日、3月11日、3月21日、4月1日、5月1日、5月21日、6月1日、6月21日、7月1日、7月11日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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