発端《ほったん》 如是我聞《にょぜがもん》
上 一向《いっこう》専念の修業|幾年《いくねん》
三尊《さんぞん》四天王十二童子十六|羅漢《らかん》さては五百羅漢、までを胸中に蔵《おさ》めて鉈《なた》小刀《こがたな》に彫り浮かべる腕前に、運慶《うんけい》も知《し》らぬ人《ひと》は讃歎《さんだん》すれども鳥仏師《とりぶっし》知る身の心|耻《はず》かしく、其道《そのみち》に志す事《こと》深きにつけておのが業《わざ》の足らざるを恨み、爰《ここ》日本美術国に生れながら今の世に飛騨《ひだ》の工匠《たくみ》なしと云《い》わせん事残念なり、珠運《しゅうん》命の有らん限りは及ばぬ力の及ぶ丈《た》ケを尽してせめては我が好《すき》の心に満足さすべく、且《かつ》は石膏《せっこう》細工の鼻高き唐人《とうじん》めに下目《しため》で見られし鬱憤《うっぷん》の幾分を晴《は》らすべしと、可愛《かわい》や一向専念の誓を嵯峨《さが》の釈迦《しゃか》に立《たて》し男、齢《とし》は何歳《いくつ》ぞ二十一の春|是《これ》より風は嵐山《らんざん》の霞《かすみ》をなぐって腸《はらわた》断つ俳諧師《はいかいし》が、蝶《ちょう》になれ/\と祈る落花のおもしろきをも眺《なが》むる事なくて、見ぬ天竺《てんじく》の何の花、彫りかけて永き日の入相《いりあい》の鐘にかなしむ程|凝《こ》り固《かたま》っては、白雨《ゆうだち》三条四条の塵埃《ほこり》を洗って小石の面《おもて》はまだ乾かぬに、空さりげなく澄める月の影宿す清水《しみず》に、瓜《うり》浸して食いつゝ歯牙香《しがこう》と詩人の洒落《しゃれ》る川原の夕涼み快きをも余所《よそ》になし、徒《いたず》らに垣《かき》をからみし夕顔の暮れ残るを見ながら白檀《びゃくだん》の切り屑《くず》蚊遣《かや》りに焼《た》きて是も余徳とあり難《がた》かるこそおかしけれ。顔の色を林間の紅葉《もみじ》に争いて酒に暖めらるゝ風流の仲間にも入《い》らず、硝子《ガラス》越しの雪見に昆布《こんぶ》を蒲団《ふとん》にしての湯豆腐を粋《すい》がる徒党にも加わらねば、まして島原《しまばら》祇園《ぎおん》の艶色《えんしょく》には横眼《よこめ》遣《つか》い一《ひ》トつせず、おのが手作りの弁天様に涎《よだれ》流して余念なく惚《ほ》れ込み、琴《こと》三味線《しゃみせん》のあじな小歌《こうた》は聞《きき》もせねど、夢の中《うち》には緊那羅神《きんならじん》の声を耳にするまでの熱心、あわれ毘首竭摩《びしゅかつま》の魂魄《こんぱく》も乗り移らでやあるべき。かくて三年《みとせ》ばかり浮世を驀直《まっすぐ》に渡り行《ゆか》れければ、勤むるに追付く悪魔は無き道理、殊さら幼少より備《そなわ》っての稟賦《うまれつき》、雪をまろめて達摩《だるま》を作《つく》り大根を斬《き》りて鷽《うそどり》の形を写しゝにさえ、屡《しばしば》人を驚かせしに、修業の功を積《つみ》し上、憤発《ふんぱつ》の勇を加えしなれば冴《さえ》し腕は愈々《いよいよ》冴《さ》え鋭き刀《とう》は愈《いよいよ》鋭く、七歳の初発心《しょほっしん》二十四の暁に成道《じょうどう》して師匠も是《これ》までなりと許すに珠運は忽《たちま》ち思い立ち独身者《ひとりもの》の気楽さ親譲りの家財を売ってのけ、いざや奈良鎌倉日光に昔の工匠《たくみ》が跡|訪《と》わんと少し許《ばかり》の道具を肩にし、草鞋《わらじ》の紐《ひも》の結いなれで度々解くるを笑われながら、物のあわれも是よりぞ知る旅。
下 苦労は知らず勉強の徳
汽車もある世に、さりとては修業する身の痛ましや、菅笠《すげがさ》は街道の埃《ほこり》に赤うなって肌着《はだぎ》に風呂場《ふろば》の虱《しらみ》を避け得ず、春の日永き畷《なわて》に疲れては蝶《ちょう》うら/\と飛ぶに翼|羨《うらや》ましく、秋の夜は淋《さび》しき床に寝覚《ねざ》めて、隣りの歯ぎしみに魂を驚かす。旅路のなさけなき事、風吹き荒《すさ》み熱砂顔にぶつかる時|眼《め》を閉《ふさ》ぎてあゆめば、邪見《じゃけん》の喇叭《らっぱ》気《き》を注《つ》けろがら/\の馬車に胆《きも》ちゞみあがり、雨降り切《しき》りては新道《しんどう》のさくれ石足を噛《か》むに生爪《なまづめ》を剥《はが》し悩むを胴慾《どうよく》の車夫法外の価《ね》を貪《むさぼ》り、尚《なお》も並木で五割|酒銭《さかて》は天下の法だとゆする、仇《あだ》もなさけも一日限りの、人情は薄き掛け蒲団《ぶとん》に襟首《えりくび》さむく、待遇《もてなし》は冷《ひややか》な平《ひら》の内《うち》に蒟蒻《こんにゃく》黒し。珠運《しゅうん》素《もと》より貧《まずし》きには馴《な》れても、加茂川《かもがわ》の水柔らかなる所に生長《おいたち》て初《はじめ》て野越え山越えのつらきを覚えし草枕《くさまくら》、露に湿《しめ》りて心細き夢おぼつかなくも馴れし都の空を遶《めぐ》るに無残や郭公《ほととぎす》待《まち》もせぬ耳に眠りを切って破《や》れ戸《ど》の罅隙《すきま》に、我は顔《がお》の明星光りきらめくうら悲しさ、或《ある》は柳散り桐《きり》落《おち》て無常身に染《しみ》る野寺の鐘、つく/″\命は森林《もり》を縫う稲妻のいと続き難き者と観ずるに付《つけ》ても志願を遂ぐる道遠しと意馬《いば》に鞭《むち》打ち励ましつ、漸《ようや》く東海道の名刹《めいさつ》古社に神像木仏|梁《はり》欄間《らんま》の彫りまで見巡《みめぐ》りて鎌倉東京日光も見たり、是より最後の楽《たのしみ》は奈良じゃと急ぎ登り行く碓氷峠《うすいとうげ》の冬|最中《もなか》、雪たけありて裾《すそ》寒き浅間《あさま》下ろしの烈《はげ》しきにめげず臆《おく》せず、名に高き和田《わだ》塩尻《しおじり》を藁沓《わらぐつ》の底に踏み蹂《にじ》り、木曾路《きそじ》に入りて日照山《ひでりやま》桟橋《かけはし》寝覚《ねざめ》後になし須原《すはら》の宿《しゅく》に着《つき》にけり。
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第一 如是相《にょぜそう》
書けぬ所が美しさの第一義諦《だいいちぎたい》
名物に甘《うま》き物ありて、空腹《すきはら》に須原《すはら》のとろゝ汁殊の外《ほか》妙なるに飯《めし》幾杯か滑り込ませたる身体《からだ》を此尽《このまま》寝さするも毒とは思えど為《す》る事なく、道中日記|注《つ》け終《しま》いて、のつそつしながら煤《すす》びたる行燈《あんどん》の横手の楽落《らくがき》を読《よめ》ば山梨県士族|山本勘介《やまもとかんすけ》大江山《おおえやま》退治の際一泊と禿筆《ちびふで》の跡《あと》、さては英雄殿もひとり旅の退屈に閉口しての御《おん》わざくれ、おかしき計《ばか》りかあわれに覚えて初対面から膝《ひざ》をくずして語る炬燵《こたつ》に相《あい》宿《やど》の友もなき珠運《しゅうん》、微《かすか》なる埋火《うずみび》に脚を※[#「火+共」、第3水準1-87-42]《あぶ》り、つくねんとして櫓《やぐら》の上に首|投《なげ》かけ、うつら/\となる所へ此方《こなた》をさして来る足音、しとやかなるは踵《かかと》に亀裂《ひび》きらせしさき程の下女にあらず。御免なされと襖《ふすま》越しのやさしき声に胸ときめき、為《し》かけた欠伸《あくび》を半分|噛《か》みて何とも知れぬ返辞をすれば、唐紙《からかみ》する/\と開き丁寧《ていねい》に辞義《じぎ》して、冬の日の木曾路《きそじ》嘸《さぞ》や御疲《おつかれ》に御座りましょうが御覧下され是《これ》は当所の名誉|花漬《はなづけ》今年の夏のあつさをも越して今降る雪の真最中《まっさいちゅう》、色もあせずに居《お》りまする梅桃桜のあだくらべ、御意に入りましたら蔭膳《かげぜん》を信濃《しなの》へ向《む》けて人知らぬ寒さを知られし都の御方《おかた》へ御土産《おみやげ》にと心憎き愛嬌《あいきょう》言葉|商買《しょうばい》の艶《つや》とてなまめかしく売物に香《か》を添ゆる口のきゝぶりに利発あらわれ、世馴《よな》れて渋らず、さりとて軽佻《かるはずみ》にもなきとりなし、持ち来《きた》りし包《つつみ》静《しずか》にひらきて二箱三箱差し出《いだ》す手《て》つきしおらしさに、花は余所《よそ》になりてうつゝなく覗《のぞ》き込む此方《こなた》の眼《め》を避けて背向《そむ》くる顔、折から透間《すきま》洩《も》る風《かぜ》に燈火《ともしび》動き明らかには見えざるにさえ隠れ難き美しさ。我《が》折《お》れ深山《みやま》に是《これ》は何物。
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第二 如是体《にょぜたい》
粋《すい》の羯羅藍《かららん》と実《じつ》の阿羅藍《あららん》
見て面白き世の中に聞《きい》て悲しき人の上あり。昔は此《この》京《きょう》にして此|妓《こ》ありと評判は八坂《やさか》の塔より高く其《その》名は音羽《おとわ》の滝より響きし室香《むろか》と云《い》える芸子《げいこ》ありしが、さる程に地主権現《じしゅごんげん》の花の色|盛者《しょうじゃ》必衰の理《ことわり》をのがれず、梅岡《うめおか》何某《なにがし》と呼ばれし中国浪人のきりゝとして男らしきに契《ちぎり》を込め、浅からぬ中となりしより他《よそ》の恋をば贔負《ひいき》にする客もなく、線香の煙り絶々《たえだえ》になるにつけても、よしやわざくれ身は朝顔のと短き命、捨撥《すてばち》にしてからは恐ろしき者にいうなる新徴組《しんちょうぐみ》何の怖《こわ》い事なく三筋《みすじ》取っても一筋心《ひとすじごころ》に君さま大事と、時を憚《はばか》り世を忍ぶ男を隠匿《かくまい》し半年あまり、苦労の中にも助《たすく》る神の結び玉《たま》いし縁なれや嬉しき情《なさけ》の胤《たね》を宿して帯の祝い芽出度《めでたく》舒《の》びし眉間《みけん》に忽《たちま》ち皺《しわ》の浪《なみ》立《たち》て騒がしき鳥羽《とば》伏見《ふしみ》の戦争。さても方様《かたさま》の憎い程な気強さ、爰《ここ》なり丈夫《おとこ》の志を遂《と》ぐるはと一《ひ》ト群《むれ》の同志《どうし》を率いて官軍に加わらんとし玉うを止《とど》むるにはあらねど生死《しょうじ》争う修羅《しゅら》の巷《ちまた》に踏《ふみ》入《い》りて、雲のあなたの吾妻里《あづまじ》、空寒き奥州《おうしゅう》にまで帰る事は云《い》わずに旅立《たびだち》玉う離別《わかれ》には、是《これ》を出世の御発途《おんかどいで》と義理で暁《さと》して雄々《おお》しき詞《ことば》を、口に云わする心が真情《まこと》か、狭き女の胸に余りて案じ過《すご》せば潤《うる》む眼《め》の、涙が無理かと、粋《すい》ほど迷う道多くて自分ながら思い分たず、うろ/\する内《うち》日は消《たち》て愈※[#二の字点、1-2-22]《いよいよ》となり、義経袴《よしつねばかま》に男山《おとこやま》八幡《はちまん》の守りくけ込んで愚《おろか》なと笑《わらい》片頬《かたほ》に叱《しか》られし昨日《きのう》の声はまだ耳に残るに、今、今の御姿《おすがた》はもう一里先か、エヽせめては一日路《いちにちじ》程も見透《みとお》したきを役|立《たた》ぬ此眼の腹|立《だた》しやと門辺《かどべ》に伸び上《あが》りての甲斐《かい》なき繰言《くりごと》それも尤《もっとも》なりき。一《ひ》ト月過ぎ二《ふ》タ月|過《すぎ》ても此《この》恨《うらみ》綿々《めんめん》ろう/\として、筑紫琴《つくしごと》習う隣家《となり》の妓《こ》がうたう唱歌も我に引き較《くら》べて絶ゆる事なく悲しきを、コロリン、チャンと済《すま》して貰《もら》い度《た》しと無慈悲の借金取めが朝に晩にの掛合《かけあい》、返答も力|無《な》や男松《おまつ》を離れし姫蔦《ひめづた》の、斯《こう》も世の風に嬲《なぶ》らるゝ者《もの》かと俯《うつむ》きて、横眼に交張《まぜば》りの、袋戸《ふくろど》に広重《ひろしげ》が絵見ながら、悔《くや》しいにつけゆかしさ忍ばれ、方様《かたさま》早う帰って下されと独言《ひとりごと》口を洩《も》るれば、利足《りそく》も払わず帰れとはよく云えた事と吠付《ほえつか》れ。アヽ大きな声して下さるな、あなたにも似合わぬと云いさして、御腹《おなか》には大事の/\我子《わがこ》ではない顔見ぬ先からいとしゅうてならぬ方様《かたさま》の紀念《かたみ》、唐土《もろこし》には胎教という事さえありてゆるがせならぬ者と或夜《あるよ》の物語りに聞しに此ありさまの口惜《くちおし》と腸《はらわた》を断つ苦しさ。天女も五衰《ごすい》ぞかし、玳瑁《たいまい》の櫛《くし》、真珠の根掛《ねがけ》いつか無くなりては華鬘《けまん》の美しかりける俤《おもかげ》とどまらず、身だしなみ懶《ものう》くて、光ると云われし色艶《いろつや》屈托《くったく》に曇り、好みの衣裳《いしょう》数々彼に取られ是《これ》に易《か》えては、着古しの平常衣《ふだんぎ》一つ、何の焼《たき》かけの霊香《れいきょう》薫ずべきか、泣き寄りの親身《しんみ》に一人の弟《おとと》は、有っても無きに劣《おと》る賭博《ばくち》好き酒好き、落魄《おちぶれ》て相談相手になるべきならねば頼むは親切な雇婆《やといばば》計《ばか》り、あじきなく暮らす中《うち》月|満《みち》て産声《うぶごえ》美《うるわ》しく玉のような女の子、辰《たつ》と名|付《づけ》られしはあの花漬《はなづけ》売りなりと、是《これ》も昔は伊勢《いせ》参宮の御利益《ごりやく》に粋《すい》という事覚えられしらしき宿屋の親爺《おやじ》が物語に珠運も木像ならず、涙|掃《はら》って其後《そののち》を問えば、御待《おまち》なされ、話しの調子に乗って居る内、炉の火が淋《さみ》しゅうなりました。
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第三 如是性《にょぜしょう》
上 母は嵐《あらし》に香《か》の迸《はし》る梅
山家《やまが》の御馳走《ごちそう》は何処《いずく》も豆腐|湯波《ゆば》干鮭《からざけ》計《ばか》りなるが今宵《こよい》はあなたが態々《わざわざ》茶の間に御出掛《おでかけ》にて開化の若い方には珍らしく此《この》兀爺《はげじい》の話を冒頭《あたま》から潰《つぶ》さずに御聞《おきき》なさるが快ければ、夜長の折柄《おりから》お辰《たつ》の物語を御馳走に饒舌《しゃべり》りましょう、残念なは去年ならばもう少し面白くあわれに申し上《あげ》て軽薄《けいはく》な京の人イヤ是《これ》は失礼、やさしい京の御方《おかた》の涙を木曾《きそ》に落さ落《おと》させよう者を惜しい事には前歯一本欠けた所《とこ》から風が洩《も》れて此春以来|御文章《おふみさま》を読《よむ》も下手になったと、菩提所《ぼだいしょ》の和尚《おしょう》様に云《い》われた程なれば、ウガチとかコガシとか申す者は空抜《うろぬき》にしてと断りながら、青内寺《せいないじ》煙草《たばこ》二三服|馬士《まご》張《ば》りの煙管《きせる》にてスパリ/\と長閑《のどか》に吸い無遠慮に榾《ほだ》さし焼《く》べて舞い立つ灰の雪袴《ゆきんばかま》に落ち来《きた》るをぽんと擲《はた》きつ、どうも私幼少から読本《よみほん》を好きました故《ゆえ》か、斯《こう》いう話を致しますると図に乗っておかしな調子になるそうで、人我《にんが》の差別《しゃべつ》も分り憎くなると孫共《まごども》に毎度笑われまするが御聞《おきき》づらくも癖ならば癖ぞと御免《おゆるし》なされ。さてもそののち室香《むろか》はお辰を可愛《かわゆ》しと思うより、情《じょう》には鋭き女の勇気をふり起して昔取ったる三味《しゃみ》の撥《ばち》、再び握っても色里の往来して白痴《こけ》の大尽、生《なま》な通人《つうじん》めらが間《あい》の周旋《とりもち》、浮《うか》れ車座のまわりをよくする油さし商売は嫌《いや》なりと、此度《このたび》は象牙《ぞうげ》を柊《ひいらぎ》に易《か》えて児供《こども》を相手の音曲《おんぎょく》指南《しなん》、芸は素《もと》より鍛錬を積《つみ》たり、品行《みもち》は淫《みだら》ならず、且《かつ》は我子《わがこ》を育てんという気の張《はり》あればおのずから弟子にも親切あつく良い御師匠《おししょう》様と世に用いられて爰《ここ》に生計《くらし》の糸道も明き細いながら炊煙《けむり》絶《たえ》せず安らかに日は送れど、稽古《けいこ》する小娘が調子外れの金切声《かなきりごえ》今も昔わーワッとお辰のなき立つ事の屡《しばしば》なるに胸苦しく、苦労ある身の乳も不足なれば思い切って近き所へ里子にやり必死となりて稼《かせ》ぐありさま余所《よそ》の眼《め》さえ是《これ》を見て感心なと泣きぬ。それにつれなきは方様《かたさま》の其後《そののち》何の便《たより》もなく、手紙出そうにも当所《あてどころ》分らず、まさかに親子|笈《おい》づるかけて順礼にも出られねば逢《あ》う事は夢に計《ばか》り、覚めて考うれば口をきかれなかったはもしや流丸《それだま》にでも中《あた》られて亡くなられたか、茶絶《ちゃだち》塩絶《しおだち》きっとして祈るを御存知ない筈《はず》も無かろうに、神様も恋しらずならあり難くなしと愚痴と一所《いっしょ》にこぼるゝ涙流れて止《とどま》らぬ月日をいつも/\憂いに明《あか》し恨《うらみ》に暮らして我《わが》齢《とし》の寄るは知ねども、早い者お辰はちょろ/\歩行《あるき》、折ふしは里親と共に来てまわらぬ舌に菓子ねだる口元、いとしや方様に生き写しと抱き寄せて放し難く、遂《つい》に三歳《みっつ》の秋より引き取って膝下《ひざもと》に育《そだつ》れば、少しは紛《まぎ》れて貧家に温《ぬく》き太陽《ひ》のあたる如《ごと》く淋《さび》しき中にも貴き笑《わらい》の唇に動きしが、さりとては此子《このこ》の愛らしきを見様《みよう》とも仕玉《したま》わざるか帰家《かえら》れざるつれなさ、子供心にも親は恋しければこそ、父様《ととさま》御帰りになった時は斯《こう》して為《す》る者ぞと教えし御辞誼《おじぎ》の仕様《しよう》能《よ》く覚えて、起居《たちい》動作《ふるまい》のしとやかさ、能《よ》く仕付《しつけ》たと誉《ほめ》らるゝ日を待《まち》て居るに、何処《どこ》の竜宮《りゅうぐう》へ行かれて乙姫《おとひめ》の傍《そば》にでも居《お》らるゝ事ぞと、少しは邪推の悋気《りんき》萌《きざ》すも我を忘れられしより子を忘れられし所には起る事、正しき女にも切なき情《じょう》なるに、天道怪しくも是《これ》を恵まず。運は賽《さい》の眼の出所《でどころ》分らぬ者にてお辰の叔父《おじ》ぶんなげの七《しち》と諢名《あだな》取りし蕩楽者《どうらくもの》、男は好《よ》けれど根性図太く誰《たれ》にも彼にも疎《うと》まれて大の字に寝たとて一坪には足らぬ小さき身を、広き都に置きかね漂泊《ただよい》あるきの渡り大工、段々と美濃路《みのじ》を歴《へ》て信濃《しなの》に来《きた》り、折しも須原《すはら》の長者何がしの隠居所作る手伝い柱を削れ羽目板を付《つけ》ろと棟梁《とうりょう》の差図《さしず》には従えど、墨縄《すみなわ》の直《すぐ》なには傚《なら》わぬ横道《おうどう》、お吉《きち》様と呼ばせらるゝ秘蔵の嬢様にやさしげな濡《ぬれ》を仕掛け、鉋屑《かんなくず》に墨さし思《おもい》を云《い》わせでもしたるか、とう/\そゝのかしてとんでもなき穴掘り仕事、それも縁なら是非なしと愛に暗《くら》んで男の性質も見《み》分《わけ》ぬ長者のえせ粋《すい》三国一の狼婿《おおかみむこ》、取って安堵《あんど》したと知らぬが仏様に其年《そのとし》なられし跡は、山林|家《いえ》蔵《くら》椽《えん》の下の糠味噌瓶《ぬかみそがめ》まで譲り受けて村|中《じゅう》寄り合いの席に肩《かた》ぎしつかせての正坐《しょうざ》、片腹痛き世や。あわれ室香《むろか》はむら雲迷い野分《のわけ》吹く頃《ころ》、少しの風邪に冒されてより枕《まくら》あがらず、秋の夜|冷《ひややか》に虫の音遠ざかり行くも観念の友となって独り寝覚《ねざめ》の床淋しく、自ら露霜のやがて消《きえ》ぬべきを悟り、お辰|素性《すじょう》のあらまし慄《ふる》う筆のにじむ墨に覚束《おぼつか》なく認《したた》めて守り袋に父が書き捨《すて》の短冊《たんざく》一《ひ》トひらと共に蔵《おさ》めやりて、明日をもしれぬ我《わ》がなき後頼りなき此子《このこ》、如何《いか》なる境界に落《おつ》るとも加茂《かも》の明神も御憐愍《ごれんみん》あれ、其人《そのひと》命あらば巡《めぐ》り合《あわ》せ玉いて、芸子《げいこ》も女なりやさしき心入れ嬉《うれ》しかりきと、方様の一言《ひとこと》を草葉の蔭《かげ》に聞《きか》せ玉えと、遙拝《ようはい》して閉じたる眼をひらけば、燈火《ともしび》僅《わずか》に蛍《ほたる》の如く、弱き光りの下《もと》に何の夢見て居るか罪のなき寝顔、せめてもう十《とお》計りも大きゅうして銀杏《いちょう》髷《まげ》結わしてから死にたしと袖《そで》を噛《か》みて忍び泣く時お辰|魘《おそ》われてアッと声立て、母様《かかさま》痛いよ/\坊《ぼう》の父様《ととさま》はまだ帰《か》えらないかえ、源《げん》ちゃんが打《ぶ》つから痛いよ、父《とと》の無いのは犬の子だってぶつから痛いよ。オヽ道理《もっとも》じゃと抱き寄すれば其《その》儘《まま》すや/\と睡《ねむ》るいじらしさ、アヽ死なれぬ身の疾病《やまい》、是《これ》ほどなさけなき者あろうか。
下 子は岩蔭《いわかげ》に咽《むせ》ぶ清水《しみず》よ
格子戸《こうしど》がら/\とあけて閉《しめ》る音は静《しずか》なり。七蔵《しちぞう》衣装《いしょう》立派に着飾りて顔付高慢くさく、無沙汰《ぶさた》謝《わび》るにはあらで誇り気《げ》に今の身となりし本末を語り、女房《にょうぼう》に都見物|致《いた》させかた/″\御近付《おちかづき》に連《つれ》て参ったと鷹風《おおふう》なる言葉の尾につきて、下ぐる頭《かしら》低くしとやかに。妾《わたくし》めは吉《きち》と申す不束《ふつつか》な田舎者、仕合《しあわ》せに御縁の端に続《つな》がりました上は何卒《なにとぞ》末長く御眼《おめ》かけられて御不勝《ごふしょう》ながら真実《しんみ》の妹とも思《おぼ》しめされて下さりませと、演《のぶ》る口上に樸厚《すなお》なる山家《やまが》育ちのたのもしき所見えて室香《むろか》嬉敷《うれしく》、重き頭《かしら》をあげてよき程に挨拶《あいさつ》すれば、女心の柔《やわらか》なる情《なさけ》ふかく。姉様《あねさま》の是《これ》ほどの御病気、殊更《ことさら》御幼少《おちいさい》のもあるを他人任せにして置きまして祇園《ぎおん》清水《きよみず》金銀閣見たりとて何の面白かるべき、妾《わたし》は是《これ》より御傍《おそば》さらず[#「ず」は底本では「す」]御看病致しましょと云《い》えば七蔵|顔《つら》膨《ふく》らかし、腹の中《うち》には余計なと思い乍《なが》ら、ならぬとも云い難く、それならば家も狭しおれ丈《だ》ケは旅宿に帰るべしといって其《その》晩は夜食の膳《ぜん》の上、一酌《いっしゃく》の酔《よい》に浮《うか》れてそゞろあるき、鼻歌に酒の香《か》を吐き、川風寒き千鳥足、乱れてぽんと町か川端《かわばた》あたりに止《とど》まりし事あさまし。室香はお吉に逢《あ》いてより三日目、我子《わがこ》を委《ゆだ》ぬる処《ところ》を得て気も休まり、爰《ここ》ぞ天の恵み、臨終|正念《しょうねん》たがわず、安《やすら》かなる大往生、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》は嬌喉《きょうこう》に粋《すい》の果《はて》を送り三重《さんじゅう》、鳥部野《とりべの》一片の烟《けむり》となって御法《みのり》の風に舞い扇、極楽に歌舞の女菩薩《にょぼさつ》一員《いちにん》増したる事疑いなしと様子知りたる和尚様《おしょうさま》随喜の涙を落《おと》されし。お吉|其儘《そのまま》あるべきにあらねば雇い婆《ばば》には銭《かね》やって暇《ひま》取らせ、色々|片付《かたづく》るとて持仏棚《じぶつだな》の奥に一つの包物《つつみもの》あるを、不思議と開き見れば様々の貨幣《かね》合せて百円足らず、是はと驚きて能々《よくよく》見るに、我身《わがみ》万一の時お辰《たつ》引き取って玉《たま》わる方へせめてもの心許《こころばか》りに細き暮らしの中《うち》より一銭二銭積み置きて是をまいらするなりと包み紙に筆の跡、読みさして身の毛立つ程悲しく、是までに思い込まれし子を育てずに置《おか》れべきかと、遂《つい》に五歳《いつつ》のお辰をつれて夫と共に須原《すはら》に戻《もど》りけるが、因果は壺皿《つぼざら》の縁《ふち》のまわり、七蔵本性をあらわして不足なき身に長半をあらそえば段々悪徒の食物《くいもの》となりて痩《や》せる身代の行末《ゆくすえ》を気遣《きづか》い、女房うるさく異見《いけん》すれば、何の女の知らぬ事、ぴんからきりまで心得て穴熊《あなぐま》毛綱《けづな》の手品《てづま》にかゝる我ならねば負くる計《ばか》りの者にはあらずと駈出《かけだし》して三日帰らず、四日帰らず、或《あるい》は松本善光寺又は飯田《いいだ》高遠《たかとお》あたりの賭場《とば》あるき、負《まく》れば尚《なお》も盗賊《どろぼう》に追い銭の愚を尽し、勝てば飯盛《めしもり》に祝い酒のあぶく銭《ぜに》を費す、此癖《このくせ》止めて止まらぬ春駒《はるごま》の足掻《あがき》早く、坂道を飛び下《おり》るより迅《すみやか》に、親譲りの山も林もなくなりかゝってお吉心配に病死せしより、齢《とし》は僅《わずか》に十《とお》の冬、お辰浮世の悲《かなし》みを知りそめ叔父《おじ》の帰宅《かえ》らぬを困り途方《とほう》に暮れ居たるに、近所の人々、彼奴《きゃつ》め長久保《ながくぼ》のあやしき女の許《もと》に居続《いつづけ》して妻の最期《さいご》を余所《よそ》に見る事憎しとてお辰をあわれみ助け葬式《ともらい》済《すま》したるが、七蔵|此後《こののち》愈《いよいよ》身持《みもち》放埒《ほうらつ》となり、村内の心ある者には爪《つま》はじきせらるゝをもかまわず遂《つい》に須原の長者の家敷《やしき》も、空《むな》しく庭|中《うち》の石燈籠《いしどうろう》に美しき苔《こけ》を添えて人手に渡し、長屋門のうしろに大木の樅《もみ》の梢《こずえ》吹く風の音ばかり、今の耳にも替《かわ》らずして、直《すぐ》其傍《そのそば》なる荒屋《あばらや》に住《すま》いぬるが、さても下駄《げた》の歯《は》と人の気風は一度ゆがみて一代なおらぬもの、何一《ひ》トつ満足なる者なき中にも盃《さかずき》のみ欠かけず、柴木《しばき》へし折って箸《はし》にしながら象牙《ぞうげ》の骰子《さい》に誇るこそ愚《おろか》なれ。かゝる叔父を持つ身の当惑、御嶽《おんたけ》の雪の肌《はだ》清らかに、石楠《しゃくなげ》の花の顔|気高《けだか》く生れ付《つい》てもお辰を嫁にせんという者、七蔵と云う名を聞《きい》ては山抜け雪流《なだれ》より恐ろしくおぞ毛ふるって思い止《とま》れば、二十《はたち》を越《こ》して痛ましや生娘《きむすめ》、昼は賃仕事に肩の張るを休むる間なく、夜は宿中《しゅくじゅう》の旅籠屋《はたごや》廻《まわ》りて、元は穢多《えた》かも知れぬ客達《きゃくだち》にまで嬲《なぶ》られながらの花漬売《はなづけうり》、帰途《かえり》は一日の苦労の塊《かたま》り銅貨|幾箇《いくつ》を酒に易《か》えて、御淋《おさび》しゅう御座りましたろう、御不自由で御座りましたろうと機嫌《きげん》取りどり笑顔《えがお》してまめやかに仕うるにさえ時々は無理難題、先度《せんど》も上田《うえだ》の娼妓《じょうろ》になれと云い掛《かかり》しよし。さりとては胴慾《どうよく》な男め、生餌《いきえ》食う鷹《たか》さえ暖《ぬく》め鳥は許す者を。
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第四 如是因《にょぜいん》
上 忘られぬのが根本《こんぽん》の情《じょう》
珠運《しゅうん》は種々《さまざま》の人のありさま何と悟るべき者とも知らず、世のあわれ今宵《こよい》覚えて屋《や》の角に鳴る山風寒さ一段身に染《し》み、胸痛きまでの悲しさ我事《わがこと》のように鼻詰らせながら亭主に礼|云《い》いておのが部屋《へや》に戻《もど》れば、忽《たちまち》気が注《つく》は床の間に二タ箱買ったる花漬《はなづけ》、衣《きぬ》脱ぎかえて転《ころ》りと横になり、夜着《よぎ》引きかぶればあり/\と浮ぶお辰《たつ》の姿、首さし出《いだ》して眼《め》をひらけば花漬、閉《とず》ればおもかげ、是《これ》はどうじゃと呆《あき》れてまた候《ぞろ》眼をあけば花漬、アヽ是を見ればこそ浮世話も思いの種となって寝られざれ、明日は馬籠峠《まごめとうげ》越えて中津川《なかつがわ》迄《まで》行かんとするに、能《よ》く休までは叶《かな》わじと行燈《あんどん》吹き消し意《い》を静むるに、又しても其《その》美形、エヽ馬鹿《ばか》なと活《かっ》と見ひらき天井を睨《にら》む眼に、此《この》度《たび》は花漬なけれど、闇《やみ》はあやなしあやにくに梅の花の香《かおり》は箱を洩《も》れてする/\と枕《まくら》に通えば、何となくときめく心を種として咲《さき》も咲《さき》たり、桃の媚《こび》桜の色、さては薄荷《はっか》菊の花まで今|真盛《まっさか》りなるに、蜜《みつ》を吸わんと飛び来《きた》る蜂《はち》の羽音どこやらに聞ゆる如《ごと》く、耳さえいらぬ事に迷っては愚《おろか》なりと瞼《まぶた》堅《かた》く閉《と》じ、掻巻《かいまき》頭《こうべ》を蔽《おお》うに、さりとては怪《け》しからず麗《うるわ》しき幻《まぼろし》の花輪の中に愛矯《あいきょう》を湛《たた》えたるお辰、気高き計《ばか》りか後光|朦朧《もうろう》とさして白衣《びゃくえ》の観音、古人にも是《これ》程の彫《ほり》なしと好《すき》な道に慌惚《うっとり》となる時、物の響《ひびき》は冴《さ》ゆる冬の夜、台所に荒れ鼠《ねずみ》の騒ぎ、憎し、寝られぬ。
下 思いやるより増長の愛
裏付股引《うらつきももひき》に足を包みて頭巾《ずきん》深々とかつぎ、然《しか》も下には帽子かぶり、二重とんびの扣釼《ぼたん》惣掛《そうがけ》になし其上《そのうえ》首筋胴の周囲《まわり》、手拭《てぬぐい》にて動《ゆる》がぬ様《よう》縛り、鹿《しか》の皮の袴《はかま》に脚半《きゃはん》油断なく、足袋二枚はきて藁沓《わらぐつ》の爪《つま》先に唐辛子《とうがらし》三四本足を焼《やか》ぬ為《ため》押し入れ、毛皮の手甲《てっこう》して若《もし》もの時の助けに足橇《かんじき》まで脊中《せなか》に用意、充分してさえ此《この》大吹雪、容易の事にあらず、吼立《ほえたつ》る天津風《あまつかぜ》、山山鳴動して峰の雪、梢《こずえ》の雪、谷の雪、一斉に舞立つ折は一寸先見え難く、瞬間《またたくま》に路《みち》を埋《うず》め、脛《はぎ》を埋《うず》め、鼻の孔《あな》まで粉雪吹込んで水に溺《おぼ》れしよりまだ/\苦し、ましてや准備《ようい》おろかなる都の御《お》客様なんぞ命|惜《おし》くば御逗留《ごとうりゅう》なされと朴訥《ぼくとつ》は仁に近き親切。なるほど話し聞《きい》てさえ恐ろしければ珠運《しゅうん》別段急ぐ旅にもあらず。されば今日|丈《だけ》の厄介《やっかい》になりましょうと尻《しり》を炬燵《こたつ》に居《すえ》て、退屈を輪に吹く煙草《たばこ》のけぶり、ぼんやりとして其辺《そこら》見回せば端なく眼《め》につく柘植《つげ》のさし櫛《ぐし》。さては花漬売《はなづけうり》が心づかず落し行《ゆき》しかと手に取るとたん、早《は》や其人《そのひと》床《ゆか》しく、昨夕《ゆうべ》の亭主が物語今更のように、思い出されて、叔父《おじ》の憎きにつけ世のうらめしきに付け、何となく唯《ただ》お辰《たつ》可愛《かわい》く、おれが仏なら、七蔵《しちぞう》頓死《とんし》さして行衛《ゆくえ》しれぬ親にはめぐりあわせ、宮内省《くないしょう》よりは貞順善行の緑綬《りょくじゅ》紅綬紫綬、あり丈《たけ》の褒章《ほうしょう》頂かせ、小説家には其《その》あわれおもしろく書かせ、祐信《すけのぶ》長春《ちょうしゅん》等《ら》を呼び生《いか》して美しさ充分に写させ、そして日本一|大々尽《だいだいじん》の嫁にして、あの雑綴《つぎつぎ》の木綿着を綾羅《りょうら》錦繍《きんしゅう》に易《か》え、油気少きそゝけ髪に極《ごく》上々|正真伽羅栴檀《しょうじんきゃらせんだん》の油|付《つけ》させ、握飯《にぎりめし》ほどな珊瑚珠《さんごじゅ》に鉄火箸《かなひばし》ほどな黄金脚《きんあし》すげてさゝしてやりたいものを神通《じんつう》なき身の是非もなし、家財|売《うっ》て退《の》けて懐中にはまだ三百両|余《よ》あれど是《これ》は我身《わがみ》を立《たつ》る基《もと》、道中にも片足満足な草鞋《わらじ》は捨《すて》ぬくらい倹約《つましく》して居るに、絹絞《きぬしぼり》の半掛《はんがけ》一《ひ》トつたりとも空《あだ》に恵む事難し、さりながらあまりの慕わしさ、忘られぬ殊勝さ、かゝる善女《ぜんにょ》に結縁《けちえん》の良き方便もがな、噫《ああ》思い付《つい》たりと小行李《こごうり》とく/\小刀《こがたな》取出し小さき砥石《といし》に鋒尖《きっさき》鋭く礪《と》ぎ上げ、頓《やが》て櫛《くし》の棟《むね》に何やら一日掛りに彫り付《つけ》、紙に包んでお辰|来《きた》らばどの様な顔するかと待ちかけしは、恋は知らずの粋様《すいさま》め、おかしき所業《しょぎょう》あてが外れて其晩吹雪|尚《なお》やまず、女の何としてあるかるべきや。されば流れざるに水の溜《たま》る如《ごと》く、逢《あ》わざるに思《おもい》は積りて愈《いよいよ》なつかしく、我は薄暗き部屋の中《うち》、煤《すす》びたれども天井の下、赤くはなりてもまだ破《や》れぬ畳の上に坐《ざ》し、去歳《こぞ》の春すが漏《もり》したるか怪しき汚染《しみ》は滝の糸を乱して画襖《えぶすま》の李白《りはく》の頭《かしら》に濺《そそ》げど、たて付《つけ》よければ身の毛|立《たつ》程の寒さを透間《すきま》に喞《かこ》ちもせず、兎《と》も角《かく》も安楽にして居るにさえ、うら寂しく自《おのずから》悲《かなしみ》を知るに、ふびんや少女《おとめ》の、あばら屋といえば天井も無《な》かるべく、屋根裏は柴《しば》焼《た》く煙りに塗られてあやしげに黒く光り、火口《ほくち》の如き煤は高山《こうざん》の樹《き》にかゝれる猿尾枷《さるおがせ》のようにさがりたる下に、あのしなやかなる黒髪|引詰《ひきつめ》に結うて、腸《はらわた》見えたるぼろ畳の上に、香露《こうろ》凝《こ》る半《なかば》に璧《たま》尚《なお》※[#「車+(而/大)」、第3水準1-92-46]《やわらか》な細軟《きゃしゃ》な身体《からだ》を厭《いと》いもせず、なよやかにおとなしく坐《すわ》りて居《い》る事か、人情なしの七蔵め、多分《おおかた》小鼻怒らし大胡坐《おおあぐら》かきて炉の傍《はた》に、アヽ、憎さげの顔見ゆる様な、藍格子《あいごうし》の大どてら着て、充分酒にも暖《あたたま》りながら分《ぶん》を知らねばまだ足らず、炉の隅《すみ》に転げて居る白鳥《はくちょう》徳利《どくり》の寐姿|忌※[#二の字点、1-2-22]《いまいま》しそうに睨《ね》めたる眼《め》をジロリと注ぎ、裁縫《しごと》に急がしき手を止《とめ》さして無理な吩附《いいつけ》、跡引き上戸の言葉は針、とが/\しきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さに慄《ふる》う歟《か》唇《くちびる》、それに用捨《ようしゃ》もあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨|露《あらわ》れし壁|一重《ひとえ》、たるみの出来たる筵《むしろ》屏風《びょうぶ》、あるに甲斐《かい》なく世を経《ふ》れば貧には運も七分《しちぶ》凍《こお》りて三分《さんぶ》の未練を命に生《いき》るか、噫《ああ》と計《ばか》りに夢現《ゆめうつつ》分《わか》たず珠運は歎《たん》ずる時、雨戸に雪の音さら/\として、火は消《きえ》ざる炬燵《こたつ》に足の先|冷《つめた》かりき。
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第五 如是作《にょぜさ》
上 我を忘れて而生其心《にしょうごしん》
よしや脊《せ》に暖《あたたか》ならずとも旭日《あさひ》きら/\とさしのぼりて山々の峰の雪に移りたる景色、眼《め》も眩《くら》む許《ばか》りの美しさ、物腥《ものぐさ》き西洋の塵《ちり》も此処《ここ》までは飛《とん》で来ず、清浄《しょうじょう》潔白|実《げ》に頼母敷《たのもしき》岐蘇路《きそじ》、日本国の古風残りて軒近く鳴く小鳥の声、是《これ》も神代を其儘《そのまま》と詰《つま》らぬ者《もの》をも面白く感ずるは、昨宵《ゆうべ》の嵐《あらし》去りて跡なく、雲の切れ目の所所、青空見ゆるに人の心の悠々とせし故なるべし。珠運《しゅうん》梅干渋茶に夢を拭《ぬぐ》い、朝|飯《はん》[#「飯」は底本では「飲」]平常《ふだん》より甘《うま》く食いて泥《どろ》を踏まぬ雪沓《ゆきぐつ》軽《かろ》く、飄々《ひょうひょう》と立出《たちいで》しが、折角|吾《わが》志《こころざし》を彫りし櫛《くし》与えざるも残念、家は宿の爺《おやじ》に聞《きき》て街道の傍《かたえ》を僅《わずか》折り曲りたる所と知れば、立ち寄りて窓からでも投込まんと段々行くに、果《はた》せる哉《かな》縦《もみ》の木高く聳《そび》えて外囲い大きく如何《いか》にも須原《すはら》の長者が昔の住居《すまい》と思わるゝ立派なる家の横手に、此頃《このごろ》の風吹き曲《ゆが》めたる荒屋《あばらや》あり。近付くまゝに中《うち》の様子を伺えば、寥然《ひっそり》として人のありとも想《おも》われず、是は不思議とやぶれ戸に耳を付《つけ》て聞けば竊々《ひそひそ》と※[#「口+耳」、第3水準1-14-94]《ささ》やくような音、愈《いよいよ》あやしく尚《なお》耳を澄《すま》せば啜《すす》り泣《なき》する女の声なり。さては邪見な七蔵《しちぞう》め、何事したるかと彼此《あちこち》さがして大きなる節《ふし》の抜けたる所より覗《のぞ》けば、鬼か、悪魔か、言語同断、当世の摩利《まり》夫人とさえ此《この》珠運が尊く思いし女を、取って抑えて何者の仕業ぞ、酷《むご》らしき縄からげ、後《うしろ》の柱のそげ多きに手荒く縛《くく》し付け、薄汚なき手拭《てぬぐい》無遠慮に丹花《たんか》の唇を掩《おお》いし心無さ、元結《もとゆい》空にはじけて涙の雨の玉を貫く柳の髪|恨《うらみ》は長く垂れて顔にかゝり、衣《きぬ》引まくれ胸あらわに、膚《はだえ》は春の曙《あけぼの》の雪今や消《きえ》入らん計《ばか》り、見るから忽《たちま》ち肉動き肝《きも》躍って分別思案あらばこそ、雨戸|蹴《け》ひらき飛込《とびこん》で、人間の手の四五本なき事もどかしと急燥《いらつ》まで忙《いそがわ》しく、手拭を棄《す》て、縄を解き、懐中《ふところ》より櫛《くし》取り出《いだ》して乱れ髪|梳《す》けと渡しながら冷え凍《こお》りたる肢体《からだ》を痛ましく、思わず緊接《しっかり》抱《いだ》き寄せて、嘸《さぞ》や柱に脊中がと片手に摩《な》で擦《さ》するを、女あきれて兎角《とかく》の詞《ことば》はなく、ジッと此方《こなた》の顔を見つめらるゝにきまり悪くなって一《ひ》ト足離れ退《の》くとたん、其辺《そこら》の畳雪だらけにせし我沓《わがくつ》にハッと気が注《つ》き、訳《わけ》も分らず其《その》まゝ外へ逃げ出し、三間ばかり夢中に走れば雪に滑りてよろ/\/\、あわや膝《ひざ》突かんとしてドッコイ、是は仕《し》たり、蝙蝠傘《こうもりがさ》手荷物忘れたかと跡《あと》もどりする時、お辰《たつ》門口に来《きた》り袖《そで》を捉《とら》えて引くにふり切れず、今更余計な仕業したりと悔むにもあらず、恐るゝにもあらねど、一生に覚《おぼえ》なき異な心持するにうろつきて、土間に落散る木屑《きくず》なんぞの詰《つま》らぬ者に眼を注ぎ上《あが》り端《はな》に腰かければ、しとやかに下げたる頭《かしら》よくも挙げ得ず。あなたは亀屋《かめや》に御出《おいで》なされた御客様わたくしの難儀を見かねて御救《おすくい》下されたは真《まこと》にあり難けれど、到底《とても》遁《のが》れぬ不仕合《ふしあわせ》と身をあきらめては断念《あきらめ》なかった先程までの愚《おろか》が却《かえ》って口惜《くちおしゅ》う御座りまする、訳《わけ》も申さず斯《こ》う申しては定めて道理の分らぬ奴《やつ》めと御軽侮《おさげすみ》も耻《はずか》しゅうはござりまするし、御慈悲深ければこそ縄まで解《とい》て下さった方に御礼も能《よく》は致さず、無理な願《ねがい》を申すも真《まこと》に苦しゅうは御座りまするが、どうぞわたくしめを元の通りお縛りなされて下さりませと案の外《ほか》の言葉に珠運驚き、是《これ》は/\とんでもなき事、色々入り込んだ訳もあろうがさりとては強面《つれなき》御頼《おたの》み、縛った奴《やつ》を打《ぶ》てとでも云《い》うのならば痩腕《やせうで》に豆|計《ばかり》の力瘤《ちからこぶ》も出しましょうが、いとしゅうていとしゅうて、一日二晩|絶間《たえま》なく感心しつめて天晴《あっぱれ》菩薩《ぼさつ》と信仰して居る御前様《おまえさま》を、縛ることは赤旃檀《しゃくせんだん》に飴細工《あめざいく》の刀で彫《ほり》をするよりまだ難し、一昨日《おととい》の晩忘れて行かれたそれ/\その櫛を見ても合点《がてん》なされ、一体は亀屋の亭主に御前の身の上あらまし聞《きき》て、失礼ながら愍然《かわいそう》な事や、私《わたし》が神か仏ならば、斯《こう》もしてあげたい彼《ああ》もしてやり度《たい》と思いましたが、それも出来ねばせめては心計《こころばかり》、一日肩を凝らして漸《ようや》く其彫《そのほり》をしたも、若《もし》や御髪《おぐし》にさして下さらば一生に又なき名誉、嬉《うれ》しい事と態々《わざわざ》持参して来て見れば他《よそ》にならぬ今のありさま、出過《ですぎ》たかは知りませぬが堪忍がならで縄も手拭も取りましたが、悪いとあらば何とでも謝罪《あやま》りましょ。元の通りに縛れとはなさけなし、鬼と見て我を御頼《おたのみ》か、金輪《こんりん》奈落《ならく》其様《そのよう》な義は御免|蒙《こうむ》ると、心清き男の強く云うをお辰聞ながら、櫛を手にして見れば、ても美しく彫《ほり》に彫《ほっ》たり、厚《あつさ》は僅《わずか》に一分《いちぶ》に足らず、幅は漸《ようや》く二分|計《ばか》り、長さも左《さ》のみならざる棟《むね》に、一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、薄荷《はっか》の花の眼《め》も及ばぬまで濃《こまか》きを浮き彫にして香《にお》う計《ばか》り、そも此人《このひと》は如何《いか》なればかゝる細工をする者ぞと思うに連れて瞳《ひとみ》は通い、竊《ひそか》に様子を伺えば、色黒からず、口元ゆるまず、眉《まゆ》濃からずして末|秀《ひい》で、眼に一点の濁りなきのみか、形状《かたち》の外《ほか》におのずから賎《いや》しからぬ様|露《あらわ》れて、其《その》親切なる言葉、そもや女子《おなご》の嬉《うれ》しからぬ事か。
中 仁《なさけ》はあつき心念《しんねん》口演《くえん》
身を断念《あきらめ》てはあきらめざりしを口惜《くちおし》とは云《い》わるれど、笑い顔してあきらめる者世にあるまじく、大抵《たいてい》は奥歯|噛《か》みしめて思い切る事ぞかし、到底《とても》遁《のが》れぬ不仕合《ふしあわせ》と一概に悟られしはあまり浮世を恨みすぎた云い分、道理には合《あ》っても人情には外《はず》れた言葉が御前《おまえ》のその美しい唇《くちびる》から出るも、思えば苦しい仔細《しさい》があってと察しては御前の心も大方は見えていじらしく、エヽ腹立《はらだた》しい三世相《さんぜそう》、何の因果を誰《たれ》が作って、花に蜘蛛《くも》の巣お前に七蔵《しちぞう》の縁じゃやらと、天燈様《てんとうさま》まで憎うてならぬ此《この》珠運《しゅうん》、相談の敵手《あいて》にもなるまいが痒《かゆ》い脊中《せなか》は孫の手に頼めじゃ、なよなよとした其肢体《そのからだ》を縛ってと云うのでない注文ならば天窓《あたま》を破《わ》って工夫も仕様《しよう》が一体まあどうした訳《わけ》か、強《しい》て聞《きく》でも無《なけ》れど此儘《このまま》別れては何とやら仏作って魂入れずと云う様な者、話してよき事ならば聞《きい》た上でどうなりと有丈《あるたけ》の力喜んで尽しましょうと云《いわ》れてお辰《たつ》は、叔父《おじ》にさえあさましき難題《なんだい》云い掛《かけ》らるゝ世の中に赤の他人で是《これ》ほどの仁《なさけ》、胸に堪《こた》えてぞっとする程|嬉《うれ》し悲しく、咽《む》せ返りながら、吃《きっ》と思いかえして、段々の御親切有り難《がとう》は御座りまするが妾《わたくし》身の上話しは申し上ませぬ、否《いい》や申さぬではござりませぬが申されぬつらさを御《お》察し下され、眼上《めうえ》と折り合《あわ》ねば懲《こ》らしめられた計《ばかり》の事、諄々《くどくど》と黒暗《くらやみ》の耻《はじ》を申《もうし》てあなたの様な情《なさけ》知りの御方に浅墓《あさはか》な心入《こころいれ》と愛想《あいそ》つかさるゝもおそろし、さりとて夢さら御厚意|蔑《ないがしろ》にするにはあらず、やさしき御言葉は骨に鏤《きざ》んで七生忘れませぬ、女子《おなご》の世に生れし甲斐《かい》今日知りて此《この》嬉しさ果敢《はか》なや終り初物《はつもの》、あなたは旅の御客、逢《あう》も別れも旭日《あさひ》があの木梢《こずえ》離れぬ内、せめては御荷物なりとかつぎて三戸野《みどの》馬籠《まごめ》あたりまで御肩を休ませ申したけれどそれも叶《かな》わず、斯《こう》云う中《うち》にも叔父様帰られては面倒《めんどう》、どの様な事申さるゝか知れませぬ程にすげなく申すも御身《おんみ》の為《ため》、御迷惑かけては済《すみ》ませぬ故どうか御帰りなされて下さりませ、エヽ千日も万日も止めたき願望《ねがい》ありながら、と跡《あと》の一句は口に洩《も》れず、薄紅《うすくれない》となって顔に露《あらわ》るゝ可愛《かわゆ》さ、珠運の身《み》になってどうふりすてらるべき。仮令《たとい》叔父様が何と云わりょうが下世話にも云う乗りかゝった船、此儘《このまま》左様ならと指を※[#「口+敢」、第3水準1-15-19]《くわ》えて退《の》くはなんぼ上方産《かみがたうまれ》の胆玉《きもだま》なしでも仕憎《しにく》い事、殊更|最前《さいぜん》も云うた通りぞっこん善女《ぜんにょ》と感じて居る御前《おまえ》の憂目《うきめ》を余所《よそ》にするは一寸の虫にも五分の意地が承知せぬ、御前の云わぬ訳も先後《あとさき》を考えて大方は分って居るから兎《と》も角《かく》も私の云事《いうこと》に付《つい》たがよい、悪気でするではなし、私の詞《ことば》を立《たて》て呉《く》れても女のすたるでもあるまい、斯《こう》しましょ、是《これ》からあの正直|律義《りちぎ》は口つきにも聞ゆる亀屋《かめや》の亭主に御前を預けて、金も少しは入るだろうがそれも私がどうなりとして埒《らち》を明《あけ》ましょう、親類でも無い他人づらが要《い》らぬ差出《さしで》た才覚と思わるゝか知らぬが、妹《いもと》という者|持《もっ》ても見たらば斯《こう》も可愛い者であろうかと迷う程いとしゅうてならぬ御前が、眼《め》に見えた艱難《かんなん》の淵《ふち》に沈むを見ては居られぬ、何私が善根|為《し》たがる慾《よく》じゃと笑うて気を大きく持《もつ》がよい、さあ御出《おいで》と取る手、振り払わば今川流、握り占《しめ》なば西洋流か、お辰はどちらにもあらざりし無学の所、無類|珍重《ちんちょう》嬉しかりしと珠運後に語りけるが、それも其時《そのとき》は嘘《うそ》なりしなるべし。
下 弱《よわき》に施《ほどこ》すに能以無畏《のういむい》
コレ吉兵衛《きちべえ》、御《お》談義流の御説諭をおれに聞かせるでもなかろう、御気の毒だが道理と命と二つならべてぶんなげの七《しち》様、昔は密男《まおとこ》拐帯《かどわかし》も仕《し》てのけたが、穏当《おとなしく》なって姪子《めいっこ》を売るのではない養女だか妾《めかけ》だか知らぬが百両で縁を切《きっ》で呉《く》れろという人に遣《や》る計《ばかり》の事、それをお辰《たつ》が間夫《まぶ》でもあるか、小間癪《こましゃく》れて先の知れぬ所へ行《ゆく》は否《いや》だと吼顔《ほえづら》かいて逃《にげ》でも仕そうな様子だから、買手の所へ行く間|一寸《ちょっと》縛って置《おい》たのだ、珠運《しゅうん》とかいう二才野郎がどういう続きで何の故障《こしょう》。七《しち》、七、静《しずか》にしろ、一体貴様が分らぬわ、貴様の姪だが貴様と違って宿中《しゅくじゅう》での誉者《ほまれもの》、妙齢《としごろ》になっても白粉《おしろい》一《ひ》トつ付《つけ》ず、盆正月にもあらゝ木の下駄《げた》一足新規に買おうでもないあのお辰、叔父なればとて常不断|能《よく》も貴様の無理を忍んで居る事ぞと見る人は皆、歯切《はぎしり》を貴様に噛《か》んで涙をお辰に飜《こぼ》すは、姑《しゅうと》に凍飯《こおりめし》[#「飯」は底本では「飲」]食わするような冷い心の嫁も、お辰の話|聞《きい》ては急に角《つの》を折ってやさしく夜長の御慰みに玉子湯でもして上《あげ》ましょうかと老人《としより》の機嫌《きげん》を取る気になるぞ、それを先度《せんど》も上田の女衒《ぜげん》に渡そうとした人非人《にんぴにん》め、百両の金が何で要《い》るか知らぬがあれ程の悌順《やさしい》女を金に易《かえ》らるゝ者と思うて居る貴様の心がさもしい、珠運という御客様の仁情《なさけ》が半分汲《く》めたならそんな事|云《い》わずに有難涙《ありがたなみだ》に咽《むせ》びそうな者。オイ、亀屋《かめや》の旦那《だんな》、おれとお吉《きち》と婚礼の媒妁役《なこうどやく》して呉れたを恩に着せるか知らぬが貴様々々は廃《よし》て下され、七七四十九が六十になってもあなたの御厄介《ごやっかい》になろうとは申《もうし》ませぬ、お辰は私の姪、あなたの娘ではなしさ、きり/\此処《ここ》へ御出《おだし》なされ、七が眼尻《めじり》が上《あが》らぬうち温直《すなお》になされた方が御為《おため》かと存じます、それともあなたは珠運とかいう奴《やつ》に頼まれて口をきく計《ばか》りじゃ、おれは当人じゃ無《なけ》れば取計いかねると仰《おっし》ゃるならば其男《そのおとこ》に逢いましょ。オヽ其男御眼にかゝろうと珠運|立出《たちいで》、つく/″\見れば鼻筋通りて眼つきりゝしく、腮《あぎと》張りて一ト癖|確《たしか》にある悪物《しれもの》、膝《ひざ》すり寄せて肩怒らし、珠運とか云う小二才はおのれだな生《なま》弱々しい顔をして能《よく》もお辰を拐帯《かどわか》した、若いには似ぬ感心な腕《うで》、併《しか》し若いの、闘鶏《しゃも》の前では地鶏《じどり》はひるむわ、身の分限を知《しっ》たなら尻尾《しりお》をさげて四の五のなしにお辰を渡して降参しろ。四の五のなしとは結構な仰《おお》せ、私も手短く申しましょうならお辰様を売《うら》せたくなければ御相談。ふざけた囈語《ねごと》は置《おい》てくれ。コレ七、静《しずか》に聞け、どうか売らずと済む工夫をと云うをも待たず。全体|小癪《こしゃく》な旅烏《たびがらす》と振りあぐる拳《こぶし》。アレと走り出《いず》るお辰、吉兵衛も共に止《とめ》ながら、七蔵、七蔵、さてもそなたは智慧《ちえ》の無い男、無理に売《うら》ずとも相談のつきそうな者を。フ相談|付《つか》ぬは知れた事、百両出すなら呉れてもやろうがとお辰を捉《とら》え立上《たちあが》る裙《すそ》を抑え、吉兵衛の云う事をまあ下に居てよく聞け、人の身を売買《うりかい》するというは今日《こんにち》の理に外れた事、娼妓《じょうろ》にするか妾に出すか知らぬが。エヽ喧擾《やかま》しいわ、老耄《おいぼれ》、何にして食おうがおれの勝手、殊更内金二十両まで取って使って仕舞《しま》った、変改《へんがい》はとても出来ぬ大きに御世話、御茶でもあがれとあくまで罵《ののし》り小兎《こうさぎ》攫《つか》む鷲《わし》の眼《まな》ざし恐ろしく、亀屋の亭主も是《これ》までと口を噤《つぐ》むありさま珠運|口惜《くちおし》く、見ればお辰はよりどころなき朝顔の嵐《あらし》に逢《あ》いて露|脆《もろ》く、此方《こなた》に向いて言葉はなく深く礼して叔父に付添《つきそい》立出《たちいず》る二タ足《あし》三足め、又|後《うしろ》ふり向きし其《その》あわれさ、八幡《はちまん》命かけて堪忍ならずと珠運七と呼留《よびと》め、百両物の見事に投出して、亭主お辰の驚《おどろく》にも関《かま》わず、手続《てつづき》油断なく此《この》悪人と善女《ぜんにょ》の縁を切りてめでたし/\、まずは亀屋の養女分となしぬ。
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第六 如是縁《にょぜえん》
上 種子《たね》一粒《いちりゅう》が雨露《うろ》に養わる
自分|妾狂《めかけぐるい》しながら息子《むすこ》の傾城買《けいせいがい》を責《せむ》る人心、あさましき中にも道理ありて、七《しち》の所業|誰《たれ》憎まぬ者なければ、酒|呑《のん》で居ても彼奴《きゃつ》娘の血を吮《す》うて居るわと蔭言《かげごと》され、流石《さすが》の奸物《かんぶつ》も此処《ここ》面白からず、荒屋《あばらや》一《ひ》トつ遺《のこ》して米塩《こめしお》買懸《かいがか》りの云訳《いいわけ》を家主《いえぬし》亀屋《かめや》に迷惑がらせ何処《どこ》ともなく去りける。珠運《しゅうん》も思い掛《がけ》なく色々の始末に七日余り逗留《とうりゅう》して、馴染《なじむ》につけ亭主《ていしゅ》頼もしく、お辰《たつ》可愛《かわゆ》く、囲炉裏《いろり》の傍《はた》に極楽国、迦陵頻伽《かりょうびんが》の笑声《わらいごえ》睦《むつま》じければ客あしらいされざるも却《かえっ》て気楽に、鯛《たい》は無《なく》とも玉味噌《たまみそ》の豆腐汁、心|協《あ》う同志《どし》安らかに団坐《まどい》して食う甘《うま》さ、或《あるい》は山茶《やまちゃ》も一時《いっとき》の出花《でばな》に、長き夜の徒然《つれづれ》を慰めて囲い栗《ぐり》の、皮|剥《むい》てやる一顆《いっか》のなさけ、嬉気《うれしげ》に賞翫《しょうがん》しながら彼も剥《む》きたるを我に呉《く》るゝおかしさ。実《げ》に山里も人情の暖《あたたか》さありてこそ住《すめ》ば都に劣らざれ。さりながら指折り数うれば最早《もはや》幾日か過《すぎ》ぬ、奈良という事|臆《おも》い起しては空《むな》しく遊び居《お》るべきにあらずとある日支度整え勘定促し立出《たちいで》んというに亭主《ていしゅ》呆《あき》れて、是《これ》は是は、婚礼も済《すま》ぬに。ハテ誰が婚礼。知れた事お辰が。誰と。冗談は置玉《おきたま》え。あなたならで誰とゝ云《いわ》れてカッと赤面し、乾きたる舌早く、御亭主こそ冗談は置玉《おきたま》え、私約束したる覚《おぼえ》なし。イヤ怪《け》しからぬ野暮《やぼ》を云《いわ》るゝは都の御方《おかた》にも似ぬ、今時の若者《わかいもの》がそれではならぬ、さりとては百両|投出《なげだし》て七蔵にグッとも云《い》わせなかった捌《さば》き方と違っておぼこな事、それは誰しも耻《はず》かしければ其様《そのよう》にまぎらす者なれど、何も紛《まぎら》すにも及ばず[#「ず」は底本では「す」]、爺《じじ》が身に覚あってチャンと心得てあなたの思わく図星の外れぬ様致せばおとなしく御《お》待《まち》なされと何やら独呑込《ひとりのみこみ》の様子、合点《がてん》ならねば、是是《これこれ》御亭主、勘違い致さるゝな、お辰様をいとしいとこそ思いたれ女房に為様《しよう》なぞとは一厘《いちりん》も思わず、忍びかねて難義を助《たすけ》たる計《ばかり》の事、旅の者に女房授けられては甚《はなは》だ迷惑。ハハハヽア、何の迷惑、器量美しく学問|音曲《おんぎょく》のたしなみ無《なく》とも縫針《ぬいはり》暗からず、女の道自然と弁《わきま》えておとなしく、殿御《とのご》を大事にする事|請合《うけあい》のお辰を迷惑とは、両柱《ふたはしら》の御神以来|図《ず》ない議論、それは表面《うわべ》、真《まこと》を云えば御前の所行《しょぎょう》も曰《いわ》くあってと察したは年の功、チョン髷《まげ》を付《つけ》て居ても粋《すい》じゃ、実《まこと》はおれもお前のお辰に惚《ほれ》たも善《よ》く惚た、お辰が御前に惚たも善く惚たと当世の惚様《ほれよう》の上手なに感心して居るから、媼《ばば》とも相談して支度出来次第婚礼さする積《つもり》じゃ、コレ珠運年寄の云う事と牛の鞦《しりがい》外れそうで外れぬ者じゃ、お辰を女房にもってから奈良へでも京へでも連立《つれだっ》て行きゃれ、おれも昔は脇差《わきざし》に好《このみ》をして、媼も鏡を懐中してあるいた頃《ころ》、一世一代の贅沢《ぜいたく》に義仲寺《ぎちゅうじ》をかけて六条様参り一所《いっしょ》にしたが、旅ほど嚊《かか》が可愛《かわゆ》うておもしろい事はないぞ、いまだに其頃《そのころ》を夢に見て後での話しに、此《この》間も嫗《ばば》に真夜中|頃《ごろ》入歯を飛出さして笑ったぞ、コレ珠運、オイ是は仕《し》たり、孫でも無かったにと罪のなき笑い顔して奇麗なる天窓《あたま》つるりとなでし。
中 実生《みしょう》二葉《ふたば》は土塊《つちくれ》を抽《ぬ》く
我今まで恋と云《い》う事|為《し》たる覚《おぼえ》なし。勢州《せいしゅう》四日市にて見たる美人三日|眼前《めさき》にちらつきたるが其《それ》は額に黒痣《ほくろ》ありてその位置《ところ》に白毫《びゃくごう》を付《つけ》なばと考えしなり。東京|天王寺《てんのうじ》にて菊の花片手に墓参りせし艶女《えんじょ》、一週間思い詰《つめ》しが是《これ》も其《その》指つきを吉祥菓《きっしょうか》持《もた》せ玉《たも》う鬼子母神《きしぼじん》に写してはと工夫せしなり。お辰《たつ》を愛《めで》しは修業の足しにとにはあらざれど、之《これ》を妻に妾《めかけ》に情婦《いろ》になどせんと思いしにはあらず、強《し》いて云わば唯《ただ》何となく愛《めで》し勢《いきおい》に乗りて百両は与《あたえ》しのみ、潔白の我《わが》心中を忖《はか》る事出来ぬ爺《じい》めが要《いら》ざる粋立《すいだて》馬鹿《ばか》々々し、一生に一つ珠運《しゅうん》が作意の新仏体を刻まんとする程の願望《のぞみ》ある身の、何として今から妻など持《もつ》べき、殊にお辰は叔父《おじ》さえなくば大尽《だいじん》にも望まれて有福《ゆうふく》に世を送るべし、人は人、我は我の思わくありと決定《けつじょう》し、置手紙にお辰|宛《あ》て少許《すこしばかり》の恩を伽《かせ》に御身《おんみ》を娶《めと》らんなどする賎《いや》しき心は露持たぬ由を認《したた》め、跡は野となれ山路にかゝりてテク/\歩行《あるき》。さても変物、此《この》男木作りかと譏《そし》る者は肉団《にくだん》奴才《どさい》、御釈迦様《おしゃかさま》が女房|捨《すて》て山籠《やまごもり》せられしは、耆婆《きば》も匕《さじ》を投《なげ》た癩病《らいびょう》、接吻《くちづけ》の唇《くちびる》ポロリと落《おち》しに愛想《あいそ》尽《つか》してならんなど疑う儕輩《やから》なるべし、あゝら尊し、尊し、銀の猫《ねこ》捨《すて》た所が西行《さいぎょう》なりと喜んで誉《ほ》むる輩《ともがら》是も却《かえっ》て雪のふる日の寒いのに気が付《つか》ぬ詮義《せんぎ》ならん。人間元より変な者、目盲《めしい》てから其《その》昔拝んだ旭日《あさひ》の美しきを悟り、巴里《パリー》に住んでから沢庵《たくあん》の味を知るよし。珠運は立鳥《たつとり》の跡ふりむかず、一里あるいた頃《ころ》不図《ふと》思い出し、二里あるいた頃珠運様と呼ぶ声、まさしく其人《そのひと》と後《うしろ》見れば何もなし、三里あるいた頃、もしえと袂《たもと》取る様子、慥《たしか》にお辰と見れば又人も居《お》らず、四里あるき、五里六里行き、段々遠くなるに連れて迷う事多く、遂《つい》には其顔見たくなりて寧《いっそ》帰ろうかと一《ひ》ト足|後《あと》へ、ドッコイと一二|町《ちょう》進む内、むか/\と其声|聞度《ききたく》て身体《からだ》の向《むき》を思わずくるりと易《かゆ》る途端|道傍《みちばた》の石地蔵を見て奈良よ/\誤ったりと一町たらずあるく向《むこう》より来る夫婦|連《づれ》の、何事か面白相に語らい行くに我もお辰と会話《はなし》仕度《したく》なって心なく一間《いっけん》許《ばか》り戻《もど》りしを、愚《おろか》なりと悟って半町歩めば我しらず迷《まよい》に三間もどり、十足《とあし》あるけば四足《よあし》戻りて、果《はて》は片足進みて片足戻る程のおかしさ、自分ながら訳も分らず、名物|栗《くり》の強飯《こわめし》売《うる》家《いえ》の牀几《しょうぎ》に腰|打掛《うちかけ》てまず/\と案じ始めけるが、箒木《ははきぎ》は山の中にも胸の中にも、有無分明《うむぶんみょう》に定まらず、此処《ここ》言文一致家に頼みたし。
下 若木《わかき》三寸で螻《けら》蟻《あり》に害《そこの》う
世の中に病《やまい》ちょう者なかりせば男心のやさしかるまじ。髭先《ひげさき》のはねあがりたる当世才子、高慢の鼻をつまみ眼鏡《めがね》ゆゝしく、父母干渉の弊害を説《とき》まくりて御異見の口に封蝋《ふうろう》付玉《つけたま》いしを一日粗造のブランディに腸|加答児《カタル》起して閉口|頓首《とんしゅ》の折柄、昔風の思い付、気に入らぬか知らぬが片栗湯《かたくりゆ》こしらえた、食《たべ》て見る気はないかと厚き介抱《かいほう》有難く、へこたれたる腹にお母《ふくろ》の愛情を呑《のん》で知り、是《これ》より三十銭の安西洋料理食う時もケーク丈《だけ》はポッケットに入れて土産《みやげ》となす様になる者ぞ、ゆめ/\美妙なる天の配剤に不足|云《い》うべからずと或人《あるひと》仰せられしは尤《もっとも》なりけり。珠運《しゅうん》馬籠《まごめ》に寒あたりして熱となり旅路の心細く二日|計《ばか》り苦《くるし》む所へ吉兵衛とお辰《たつ》尋ね来《きた》り様々の骨折り、病のよき汐《しお》を見計らいて駕籠《かご》安泰に亀屋《かめや》へ引取り、夜の間も寐ずに美人の看病、藪《やぶ》医者の薬も瑠璃光薬師《るりこうやくし》より尊き善女《ぜんにょ》の手に持たせ玉える茶碗《ちゃわん》にて呑《の》まさるれば何|利《きか》ざるべき、追々《おいおい》快方に赴き、初めてお辰は我身の為《ため》にあらゆる神々に色々の禁物《たちもの》までして平癒せしめ玉えと祷《いの》りし事まで知りて涙|湧《わ》く程|嬉《うれ》しく、一《ひ》ト月あまりに衰《おとろえ》こそしたれ、床を離れて其《その》祝義《しゅうぎ》済みし後、珠運思い切ってお辰の手を取り一間《ひとま》の中《うち》に入り何事をか長らく語らいけん、出《いず》る時女の耳の根《ね》紅《あか》かりし。其翌日男|真面目《まじめ》に媒妁《なこうど》を頼めば吉兵衛笑って牛の鞦《しりがい》と老人《としより》の云う事どうじゃ/\と云さして、元より其《その》支度《したく》大方は出来たり、善は急いで今宵《こよい》にすべし、不思議の因縁でおれの養女分にして嫁|入《いら》すればおれも一トつの善《よ》い功徳をする事ぞとホク/\喜び、忽《たちま》ち下女下男に、ソレ膳《ぜん》を出せ椀《わん》を出せ、アノ銚子《ちょうし》を出せ、なんだ貴様は蝶《ちょう》の折り様《よう》を知らぬかと甥子《おいご》まで叱《しか》り飛《とば》して騒ぐは田舎|気質《かたぎ》の義に進む所なり、かゝる中へ一人の男|来《きた》りてお辰様にと手紙を渡すを見ると斉《ひとし》くお辰あわただしく其男に連立《つれだち》て一寸《ちょっと》と出《いで》しが其まゝもどらず、晩方になりて時刻も来《きた》るに吉兵衛|焦躁《いらっ》て八方を駈廻《かけめぐ》り探索すれば同業の方《かた》に止《とま》り居し若き男と共に立去りしよし。牛の鞦《しりがい》爰《ここ》に外れてモウともギュウとも云うべき言葉なく、何と珠運に云い訳せん、さりとて猥褻《みだら》なる行《おこない》はお辰に限りて無《なか》りし者をと蜘手《くもで》に思い屈する時、先程の男|来《きた》りて再《また》渡す包物《つつみもの》、開《ひらき》て見れば、一筆啓上|仕《つかまつり》候《そうろう》未《いま》だ御意《ぎょい》を得ず候《そうら》え共お辰様身の上につき御|厚情《こうせい》相掛《あいかけ》られし事承り及びあり難く奉存候《ぞんじたてまつりそうろう》さて今日貴殿|御計《おんはからい》にてお辰婚姻取結ばせられ候由|驚入申《おどろきいりもうし》候|仔細《しさい》之《これ》あり御辰様儀婚姻には私|方《かた》故障御座候故従来の御礼|旁《かたがた》罷《まか》り出て相止申《あいとめもうす》べくとも存《ぞんい》候え共《ども》如何《いか》にも場合切迫致し居《お》り且《かつ》はお辰様心底によりては私一存にも参り難《がたく》候|様《よう》の義に至り候ては迷惑に付《つき》甚《はなは》だ唐突不敬なれども実はお辰様を賺《すか》し申し此《この》婚姻|相延《あいのべ》申候よう決行致し候|尚《なお》又《また》近日参上|仕《つかまつ》り入り込《こみ》たる御話し委細|申上《もうしあぐ》べく心得に候え共《ども》差当り先日七蔵に渡され候金百円及び御礼の印までに金百円進上しおき候|間《あいだ》御受納下され度《たく》候|不悉《ふしつ》 亀屋吉兵衛様へ岩沼子爵|家従《けらい》田原栄作《たはらえいさく》とありて末書に珠運様とやらにも此旨《このむね》御|鶴声《かくせい》相伝《あいつたえ》られたく候と筆を止《とど》めたるに加えて二百円何だ紙なり。
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第七 如是報《にょぜほう》
我は飛《とび》来《き》ぬ他化自在天宮《たけじざいてんぐう》に
オヽお辰《たつ》かと抱き付かれたる御方《おかた》、見れば髯《ひげ》うるわしく面《おもて》清く衣裳《いしょう》立派なる人。ハテ何処《どこ》にてか会いたる様《よう》なと思いながら身を縮まして恐々《おそるおそる》振り仰ぐ顔に落来《おちく》る其《その》人の涙の熱さ、骨に徹して、アヽ五日前一生の晴の化粧と鏡に向うた折会うたる我に少しも違わず扨《さて》は父様《ととさま》かと早く悟りてすがる少女《おとめ》の利発さ、是《これ》にも室香《むろか》が名残の風情《ふぜい》忍ばれて心強き子爵も、二十年のむかし、御機嫌《ごきげん》よろしゅうと言葉|後《じり》力なく送られし時、跡ふりむきて今|一言《ひとこと》交《かわ》したかりしを邪見に唇|囓切《かみしめ》て女々《めめ》しからぬ風《ふり》誰《たが》為《ため》にか粧《よそお》い、急がでもよき足わざと早めながら、後《うしろ》見られぬ眼《め》を恨《うら》みし別離《わかれ》の様まで胸に浮《うか》びて切《せつ》なく、娘、ゆるしてくれ、今までそなたに苦労させたは我《わが》誤り、もう是からは花も売《うら》せぬ、襤褸《つづれ》も着せぬ、荒き風を其《その》身体《からだ》にもあてさせぬ、定めしおれの所業《しわざ》をば不審もして居たろうがまあ聞け、手前の母に別れてから二三日の間実は張り詰《つめ》た心も恋には緩《ゆる》んで、夜深《よふか》に一人月を詠《なが》めては人しらぬ露|窄《せま》き袖《そで》にあまる陣頭の淋《さび》しさ、又は総軍の鹿島立《かしまだち》に馬蹄《ばてい》の音高く朝霧を蹴《け》って勇ましく進むにも刀の鐺《こじり》引《ひ》かるゝように心たゆたいしが、一封の手簡《てがみ》書く間もなきいそがしき中、次第に去る者の疎《うと》くなりしも情合《じょうあい》の薄いからではなし、軍事の烈《はげ》しさ江戸に乗り込んで足溜《あしだま》りもせず、奥州《おうしゅう》まで直押《ひたおし》に推す程の勢《いきおい》、自然と焔硝《えんしょう》の煙に馴《なれ》ては白粉《おしろい》の薫《かお》り思い出《いだ》さず喇叭《らっぱ》の響に夢を破れば吾妹子《わぎもこ》が寝くたれ髪の婀娜《あだ》めくも眼前《めさき》にちらつく暇《いとま》なく、恋も命も共に忘れて敗軍の無念には励《はげ》み、凱歌《かちどき》の鋭気には乗じ、明《あけ》ても暮《くれ》ても肘《ひじ》を擦《さす》り肝《きも》を焦がし、饑《うえ》ては敵の肉に食《くら》い、渇しては敵の血を飲まんとするまで修羅《しゅら》の巷《ちまた》に阿修羅《あしゅら》となって働けば、功名|一《ひ》トつあらわれ二ツあらわれて総督の御覚《おんおぼ》えめでたく追々《おいおい》の出世、一方の指揮となれば其任|愈《いよいよ》重く、必死に勤めけるが仕合《しあわせ》に弾丸《たま》をも受けず皆々|凱陣《がいじん》の暁、其方《そのほう》器量学問見所あり、何某《なにがし》大使に従って外国に行き何々の制度|能々《よくよく》取調べ帰朝せば重く挙《あげ》用《もちい》らるべしとの事、室香に約束は違《たが》えど大丈夫青雲の志|此時《このとき》伸《のぶ》べしと殊に血気の雀躍《こおどり》して喜び、米国より欧州に前後七年の長逗留《ながとうりゅう》、アヽ今頃《いまごろ》は如何《どう》して居おるか、生れた子は女か、男か、知らぬ顔に、知られぬ顔、早く頬摺《ほおずり》して膝《ひざ》の上に乗せ取り、護謨《ゴム》人形空気鉄砲珍らしき手玩具《おもちゃ》数々の家苞《いえづと》に遣《や》って、喜ぶ様子見たき者と足をつま立《だ》て三階四階の高楼《たかどの》より日本の方角|徒《いたず》らに眺《ながめ》しも度々なりしが、岩沼卿《いわぬまきょう》と呼《よば》せらるる尊《たっと》き御身分の御方《おんかた》、是も御用にて欧州に御滞在中、数ならぬ我を見たて御子《おんこ》なき家の跡目に坐《すわ》れとのあり難き仰せ、再三|辞《いな》みたれど許されねば辞《いなみ》兼《かね》て承知し、共々|嬉《うれ》しく帰朝して我は軽《かろ》からぬ役を拝命する計《ばかり》か、終《つい》に姓を冒して人に尊まるゝに付《つい》てもそなたが母の室香が情《なさけ》何忘るべき、家来に吩附《いいつけ》て段々|糺《ただ》せば、果敢《はか》なや我と楽《たのしみ》は分《わ》けで、彼岸《かのきし》の人と聞くつらさ、何年の苦労一トつは国の為《ため》なれど、一トつは色紙《しきし》のあたった小袖《こそで》着て、塗《ぬり》の剥《はげ》た大小さした見所もなき我を思い込んで女の捨難《すてがた》き外見《みえ》を捨て、譏《そしり》を関《かま》わず危《あやう》きを厭《いと》わず、世を忍ぶ身を隠匿《かくまい》呉《く》れたる志、七生忘れられず、官軍に馳《はせ》参《さん》ぜんと、決心した我すら曇り声に云《い》い出《いだ》せし時も、愛情の涙は瞼《まぶた》に溢《あふ》れながら義理の詞《ことば》正しく、予《かね》ての御本望|妾《わたくし》めまで嬉《うれしゅ》う存じますと、無理な笑顔《えがお》も道理なれ明日知らぬ命の男、それを尚《なお》も大事にして余りに御髪《おぐし》のと髯《ひげ》月代《さかやき》人手にさせず、後《うしろ》に廻《まわ》りて元結《もとゆい》も〆力《しめちから》なき悲しさを奥歯に噛《か》んできり/\と見苦しからず結うて呉れたる計《ばかり》か、おのが頭《かしら》にさしたる金簪《きんかんざし》まで引抜き温《ぬく》みを添えて売ってのみ、我身のまわり調度にして玉《たま》わりし大事の/\女房に満足させて、昔の憂《う》きを楽《たのしみ》に語りたさの為《ため》なりしに、情無《なさけなく》も死なれては、花園《はなぞの》に牡丹《ぼたん》広々と麗《うるわ》しき眺望《ながめ》も、細口の花瓶に唯《ただ》二三輪の菊古流しおらしく彼が生《いけ》たるを賞《ほ》め、賞《ほめ》られて二人《ふたり》の微笑《ほほえみ》四畳半に籠《こも》りし時程は、今つくねんと影法師相手に独《ひとり》見る事の面白からず、栄華を誰《たれ》と共に、世も是迄《これまで》と思い切って後妻《のちぞい》を貰《もら》いもせず、さるにても其子|何処《どこ》ぞと種々《さまざま》尋ねたれど漸《ようや》くそなたを里に取りたる事ある嫗《ばば》より、信濃《しなの》の方へ行かれたという噂《うわさ》なりしと聞出《ききいだ》したる計《ばか》り、其筋の人に頼んでも何故《なにゆえ》か分らず、我《われ》外《ほか》に子なければ年老《としおい》る丈《だ》け愈《いよいよ》恋しく信州にのみ三人も家従《けらい》をやって捜《さが》させたるに、辛《から》くも田原が探し出《いだ》して七蔵《しちぞう》という悪者よりそなた貰《もら》い受けんとしたるに、如何《どう》いう訳か邪魔|入《いり》て間もなくそなたは珠運《しゅうん》とか云う詰《つま》らぬ男に、身を救われたる義理づくやら亀屋《かめや》の亭主の圧制やら、急に婚礼するというに、一旦《いったん》帰京《かえっ》て二度目にまた丁度《ちょうど》行き着《つき》たる田原が聞《きい》て狼狽《ろうばい》し、吾《わが》書捨《かきすて》て室香に紀念《かたみ》と遺《のこ》せし歌、多分そなたが知《しっ》て居るならんと手紙の末に書《かき》し頓智《とんち》に釣《つ》り出《いだ》し、それから無理に訳も聞かせず此処《ここ》まで連《つれ》て来たなれば定めし驚いたでもあろうが少しも恐るゝ事はなし、亀屋の方は又々田原をやって始末する程に是からは岩沼子爵の立派な娘、行儀学問も追々覚えさして天晴《あっぱれ》の婿《むこ》取り、初孫《ういまご》の顔でも見たら夢の中《うち》にそなたの母に逢《あ》っても云訳《いいわけ》があると今からもう嬉《うれし》くてならぬ、それにしても髪とりあげさせ、衣裳《いしょう》着かゆさすれば、先刻《さっき》内々戸の透《すき》から見たとは違って、是程までに美しいそなたを、今まで木綿|布子《ぬのこ》着せて置《おい》た親の耻《はずか》しさ、小間物屋も呼《よば》せたれば追付《おっつけ》来《くる》であろう、櫛《くし》簪《かんざし》何なりと好《すき》なのを取れ、着物も越後屋《えちごや》に望《のぞみ》次第|云付《いいつけ》さするから遠慮なくお霜《しも》を使《つか》え、あれはそなたの腰元だから先刻《さっき》の様《よう》に丁寧《ていねい》に辞義なんぞせずとよい、芝屋や名所も追々に見せましょ。舞踏会《ぶとうかい》や音楽会へも少し都風《みやこふう》が分って来たら連《つれ》て行《ゆき》ましょ。書物は読《よめ》るかえ、消息往来|庭訓《ていきん》までは習ったか、アヽ嬉しいぞ好々《よしよし》、学問も良い師匠を付《つけ》てさせようと、慈愛は尽《つき》ぬ長物語り、扨《さて》こそ珠運が望み通り、此《この》女菩薩《にょぼさつ》果報めでたくなり玉いしが、さりとては結構づくめ、是は何とした者。
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第八 如是力《にょぜりき》
上 楞厳呪文《りょうごんじゅもん》の功も見えぬ愛慾《あいよく》
古風作者《こふうさくしゃ》の書《かき》そうな話し、味噌越《みそこし》提げて買物あるきせしあのお辰《たつ》が雲の上人《うえびと》岩沼《いわぬま》子爵《ししゃく》様《さま》の愛娘《まなむすめ》と聞《きい》て吉兵衛仰天し、扨《さて》こそ神も仏も御座る世じゃ、因果|覿面《てきめん》地ならしのよい所に蘿蔔《だいこ》は太りて、身持《みもち》のよい者に運の実がなる程理に叶《かなっ》た幸福と無上に有難がり嬉《うれ》しがり、一も二もなく田原の云事《いうこと》承知して、おのが勧めて婚姻さし懸《かけ》たは忘れたように何とも云わず物思わしげなる珠運《しゅうん》の腹《はら》聞《きか》ずとも知れてると万端|埒《らち》明け、貧女を令嬢といわるゝように取計《とりはから》いたる後、先日の百両|突戻《つきもど》して、吾《われ》当世の道理は知《しら》ねど此様《このよう》な気に入らぬ金受取る事|大嫌《だいきらい》なり、珠運様への百両は慥《たしか》に返したれど其人《そのひと》に礼もせぬ子爵から此《この》親爺《おやじ》が大枚《たいまい》の礼|貰《もらう》は煎豆《いりまめ》をまばらの歯で喰《く》えと云わるゝより有難迷惑、御返し申《もうし》ますと率直に云えば、否《いや》それは悪い合点《がてん》、一酷《いっこく》にそう云われずと子爵からの御志、是非|御取置《おとりおき》下され、珠運様には別に御礼を申《もうし》ますが姿の見えぬは御|立《たち》なされたか、ナニ奥の坐敷《ざしき》に。左様《さよう》なら一寸《ちょっと》と革嚢《カバン》さげて行《ゆき》かゝれば亭主《ていしゅ》案内するを堅く無用と止めながら御免なされと唐襖《からかみ》開きて初対面の挨拶《あいさつ》了《おわ》りお辰素性のあらまし岩沼子爵の昔今を語り、先頃《さきごろ》よりの礼厚く演《のべ》て子爵より礼の餽《おく》り物数々、金子《きんす》二百円、代筆ならぬ謝状、お辰が手紙を置列《おきなら》べてひたすら低頭平身すれば珠運少しむっとなり、文《ふみ》丈《だ》ケ受取りて其他には手も付《つけ》ず、先日の百両まで其処《そこ》に投出し顔しかめて。御持帰《おもちかえ》り下さい、面白からぬ御所置、珠運の為《し》た事を利を取ろう為《ため》の商法と思われてか片腹痛し、些許《ちとばかり》の尽力したるも岩沼令嬢の為にはあらず、お辰いとしと思うてばかりの事、夫《それ》より段々|馴染《なじむ》につけ、縁あればこそ力にもなりなられて互《たがい》に嬉敷《うれしく》心底打明け荷物の多きさえ厭《いと》う旅路の空に婚礼までして女房に持とうという間際になりて突然《だしぬけ》に引攫《ひきさら》い人の恋を夢にして貘《ばく》に食《くわ》せよという様《よう》な情《なさけ》なきなされ方、是はまあどうした訳と二三日は気抜《きぬけ》する程恨めしくは存じたれど、只今《ただいま》承れば御親子《ごしんし》の間柄、大切の娘御を私風情の賎《いやし》き者に嫁入《よめいら》してはと御家従《ごけらい》のあなたが御心配なすッて連《つれ》て行《ゆか》れたも御道理、決して私めが僣上《せんじょう》に岩沼子爵の御令嬢をどうのこうのとは申《もうし》ませぬから、金円品物は吃度《きっと》御持帰り下され、併《しか》しまざ/\と夫婦約束までしたあの花漬売《はなづけうり》は、心さえ変らねばどうしても女房に持つ覚悟、十二月に御嶽《おんたけ》の雪は消ゆる事もあれ此念《このおもい》は消《きえ》じ、アヽ否《いや》なのは岩沼令嬢、恋しいは花漬売と果《はて》は取乱《とりみだ》して男の述懐《じゅっかい》。爰《ここ》ぞ肝要、御主人の仰せ受《うけ》て来た所なり。よしや此恋|諏訪《すわ》の湖《うみ》の氷より堅くとも春風のぼや/\と説きやわらげ、凝りたる思《おもい》を水に流さし、後々の故障なき様にせではと田原は笑顔《えがお》あやしく作り上唇《うわくちびる》屡《しば》甞《なめ》ながら、それは一々至極の御道理、さりとて人間を二つにする事も出来ず、お辰様が再度《また》花漬売にならるゝ瀬も無《なか》るべければ、詰りあなたの無理な御望《おのぞみ》と云者《いうもの》、あなたも否《いや》なのは岩沼令嬢と仰せられて見ると、まさか推して子爵の婿になろうとの思召《おぼしめし》でも御座るまいが、夫婦約束までなさったとて婚礼の済《すみ》たるでもなし、お辰様も今の所ではあなたを恋しがって居らるゝ様子なれど、思想の発達せぬ生《なま》若い者の感情、追付《おっつけ》変って来るには相違ないと殿様の仰せ、行末は似つかわしい御縁を求めて何《いず》れかの貴族の若公《わかぎみ》を納《いれ》らるゝ御積り、是《これ》も人の親の心になって御考《おかんがえ》なされて見たら無理では無いと利発のあなたにはよく御了解《おわかり》で御座りましょう、箇様《かよう》申せばあなたとお辰様の情交《あいなか》を割《さ》く様にも聞えましょうが、花漬売としてこそあなたも約束をなされたれ、詰る所成就|覚束《おぼつか》なき因縁、男らしゅう思い切られたが双方《そのほう》の御為《おため》かと存じます、併《しか》しお辰様には大恩あるあなたを子爵も何でおろそかに思われましょう、されば是等《これら》の餽物《おくりもの》親御からなさるゝは至当の事、受取らぬと仰《おっしゃ》ったとて此儘《このまま》にはならず、どうか条理の立様《たつよう》御分別なされて、枉《まげ》ても枉《まげ》ても、御受納と舌《した》小賢《こざか》しく云迯《いいにげ》に東京へ帰ったやら、其後|音沙汰《おとさた》なし。さても浮世や、猛《たけ》き虎《とら》も樹《き》の上の猿《さる》には侮られて位置の懸隔を恨むらん、吾《われ》肩書に官爵あらば、あの田原の額に畳の跡深々と付《つけ》さし、恐惶謹言《きょうこうきんげん》させて子爵には一目置《いちもくおい》た挨拶《あいさつ》させ差詰《さしづめ》聟殿《むこどの》と大切がられべきを、四民同等の今日とて地下《じげ》と雲上《うんじょう》の等差《ちがい》口惜し、珠運を易《やす》く見積って何百円にもあれ何万円にもあれ札《さつ》で唇にかすがい膏打《こううつ》ような処置、遺恨千万、さりながら正四位《しょうしい》何の某《なにがし》とあって仏師彫刻師を聟《むこ》には為《し》たがらぬも無理ならぬ人情、是非もなけれど抑々《そもそも》仏師は光孝《こうこう》天皇|是忠《これただ》の親王等の系に出《いで》て定朝《じょうちょう》初めて綱位《こうい》を受《う》け、中々《なかなか》賎《いやし》まるべき者にあらず、西洋にては声なき詩の色あるを絵と云い、景なき絵の魂|凝《こり》しを彫像と云う程|尊《たっと》む技を為《な》す吾《われ》、ミチエルアンジロにもやはか劣るべき、仮令《たとい》令嬢の夫たるとも何の不都合あるべきとは云え、蝸牛《ででむし》の角立《つのだて》て何の益なし、残念や無念やと癇癪《かんしゃく》の牙《きば》は噛《か》めども食付《くいつく》所なければ、尚《なお》一段の憤悶《ふんもん》を増して、果《はて》は腑甲斐《ふがい》なき此身|惜《おし》からずエヽ木曾川の逆巻《さかまく》水に命を洗ってお辰見ざりし前に生れかわりたしと血相|変《かわ》る夜半《よわ》もありし。
下 化城諭品《けじょうゆぼん》の諫《いさめ》も聴《きか》ぬ執着《しゅうじゃく》
痩《やせ》たりや/\、病気|揚句《あげく》を恋に責《せめ》られ、悲《かなしみ》に絞られて、此身細々と心|引立《ひきたた》ず、浮藻《うきも》足をからむ泥沼《どろぬま》の深水《ふかみ》にはまり、又は露多き苔道《こけみち》をあゆむに山蛭《やまびる》ひいやりと襟《えり》に落《おつ》るなど怪しき夢|計《ばかり》見て覚際《さめぎわ》胸あしく、日の光さえ此頃《このごろ》は薄うなったかと疑うまで天地を我につれなき者の様《よう》恨む珠運《しゅうん》、旅路にかりそめの長居《ながい》、最早《もはや》三月《みつき》近くなるにも心|付《つか》ねば、まして奈良[#「良」は底本では「見」]へと日課十里の行脚《あんぎゃ》どころか家内《やうち》をあるく勇気さえなく、昼は転寝《うたたね》勝《がち》に時々|怪《け》しからぬ囈語《うわごと》しながら、人の顔見ては戯談《じょうだん》一《ひ》トつ云わず、にやりともせず、世は漸《ようや》く春めきて青空を渡る風|長閑《のどか》に、樹々《きぎ》の梢《こずえ》雪の衣脱ぎ捨て、家々の垂氷《たるひ》いつの間にか失《う》せ、軒伝う雫《しずく》絶間《たえま》なく白い者|班《まばら》に消えて、南向《みなみむき》の藁《わら》屋根は去年《こぞ》の顔を今年初めて露《あらわ》せば、霞《かす》む眼《め》の老《おい》も、やれ懐かしかったと喜び、水は温《ぬる》み下草は萌《も》えた、鷹《たか》はまだ出ぬか、雉子《きじ》はどうだと、終《つい》に若鮎《わかあゆ》の噂《うわさ》にまで先走りて若い者は駒《こま》と共に元気|付《づき》て来る中に、さりとてはあるまじき鬱《ふさ》ぎ様《よう》。此《この》跡ががらりと早変りして、さても/\和御寮《わごりょ》は踊る振《ふり》が見たいか、踊る振が見たくば、木曾路に御座れのなど狂乱の大陽気《おおようき》にでも成《なら》れまい者でもなしと亀屋《かめや》の爺《おやじ》心配し、泣くな泣きゃるな浮世は車、大八の片輪《かたわ》田の中に踏込んだ様《よう》にじっとして、くよ/\して居るよりは外をあるいて見たら又どんな女に廻《めぐ》り合《あう》かもしれぬ、目印の柳の下で平常《ふだん》魚は釣《つ》れぬ代り、思いよらぬ蛤《はまぐり》の吸物から真珠を拾い出すと云う諺《ことわざ》があるわ、腹を広く持て、コレ若いの、恋は他《ほか》にもある者を、と詞《ことば》おかしく、兀頭《はげあたま》の脳漿《のうみそ》から天保度《てんぽうど》の浮気論主意書《うわきろんしゅいがき》という所を引抽《ひきぬ》き、黴《かび》の生《はえ》た駄洒落《だじゃれ》を熨斗《のし》に添《そえ》て度々進呈すれど少しも取り容《い》れず、随分面白く異見を饒舌《しゃべ》っても、却《かえ》って珠運が溜息《ためいき》の合《あい》の手の如《ごと》くなり、是では行かぬと本調子整々堂々、真面目《まじめ》に理屈《りくつ》しんなり諄々《くどくど》と説諭すれば、不思議やさしも温順《おとなし》き人、何にじれてか大薩摩《おおざつま》ばりばりと語気|烈《はげ》しく、要《い》らざる御心配無用なりうるさしと一トまくりにやりつけられ敗走せしが、関《かま》わず置《おけ》ば当世|時花《はや》らぬ恋の病になるは必定、如何《どう》にかして助けてやりたいが、ハテ難物じゃ、それとも寧《いっそ》、経帷子《きょうかたびら》で吾家《わがや》を出立《しゅったつ》するようにならぬ内|追払《おっぱら》おうか、さりとては忍び難し、なまじお辰と婚姻を勧めなかったら兎《と》も角《かく》も、我口《わがくち》から事|仕出《しいだ》した上は我《わが》分別で結局《つまり》を付《つけ》ねば吉兵衛も男ならずと工夫したるはめでたき気象《きしょう》ぞかし。年《とし》は老《と》るべきもの流石《さすが》古兵《ふるつわもの》の斥候《ものみ》虚実の見所誤らず畢竟《ひっきょう》手に仕業《しわざ》なければこそ余計な心が働きて苦《くるし》む者なるべしと考えつき、或日《あるひ》珠運に向って、此日本一果報男め、聞玉《ききたま》え我昨夜の夢に、金襖《きんぶすま》立派なる御殿の中《うち》、眼《め》もあやなる美しき衣裳《いしょう》着たる御姫様床の間に向って何やらせらるゝ其《その》鬢付《びんつき》襟足《えりあし》のしおらしさ、後《うしろ》からかぶりついてやりたき程、もう二十年若くば唯《ただ》は置《おけ》ぬ品物めと腰は曲っても色に忍び足、そろ/\と伺いより椽側《えんがわ》に片手つきてそっと横顔拝めば、驚《おどろい》たりお辰、花漬売に百倍の奇麗をなして、殊更|憂《うれい》を含む工合《ぐあい》凄味《すごみ》あるに総毛立《そうけだち》ながら尚《なお》能《よ》くそこら見廻《みまわ》せば、床に掛《かけ》られたる一軸|誰《たれ》あろうおまえの姿絵|故《ゆえ》少し妬《ねた》くなって一念の無明《むみょう》萌《きざ》す途端、椽の下から顕《あらわ》れ出《いで》たる八百八狐《はっぴゃくやぎつね》付添《つきそい》て己[#「己」は底本では「已」]《おれ》の踵《かかと》を覗《ねら》うから、此奴《こやつ》たまらぬと迯出《にげだ》す後《うしろ》から諏訪法性《すわほっしょう》の冑《かぶと》だか、粟《あわ》八升も入る紙袋《かんぶくろ》だかをスポリと被《かぶ》せられ、方角さらに分らねば頻《しきり》と眼玉を溌々《ぱちぱち》したらば、夜具の袖《そで》に首を突込《つっこ》んで居たりけりさ、今の世の勝頼《かつより》さま、チト御驕《おおご》りなされ、アハヽヽと笑い転《ころ》げて其儘《そのまま》坐敷《ざしき》をすべり出《いで》しが、跡は却《かえっ》て弥《いや》寂《さび》しく、今の話にいとゞ恋しさまさりて、其事《そのこと》彼事《かのこと》寂然《じゃくねん》と柱に※[#「憑」の「心」に代えて「几」、第4水準2-3-20]《もた》れながら思ううち、瞼《まぶた》自然とふさぐ時あり/\とお辰の姿、やれまてと手を伸《のば》して裙《すそ》捉《とら》えんとするを、果敢《はか》なや、幻の空に消えて遺《のこ》るは恨《うらみ》許《ばか》り、爰《ここ》にせめては其|面影《おもかげ》現《うつつ》に止《とど》めんと思いたち、亀屋の亭主《ていしゅ》に心|添《そえ》られたるとは知らで自《みずから》善事《よきこと》考え出《いだ》せし様《よう》に吉兵衛に相談すれば、さて無理ならぬ望み、閑静なる一間《ひとま》欲《ほ》しとならばお辰|住居《すまい》たる家|尚《なお》能《よか》らん、畳さえ敷けば細工部屋にして精々《せいぜい》一ト月位|住《すま》うには不足なかるべし、ナニ話に来るは謝絶《ことわる》と云わるゝか、それも承知しました、それならば食事を賄《まかな》うより外に人を通わせぬよう致しますか、然《しか》し余り牢住居《ろうずまい》の様《よう》ではないか、ムヽ勝手とならば仕方がない、新聞|丈《だ》けは節々《せつせつ》上《あげ》ましょう、ハテ要《い》らぬとは悪い合点《がてん》、気の尽《つき》た折は是非世間の面白|可笑《おかし》いありさまを見るがよいと、万事親切に世話して、珠運が笑《えま》し気《げ》に恋人の住《すみ》し跡に移るを満足せしが、困りしは立像刻む程の大きなる良《よき》木なく百方|索《さが》したれど見当らねば厚き檜《ひのき》の大きなる古板を与えぬ。
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第九 如是果《にょぜか》
上 既《すで》に仏体《ぶったい》を作りて未得《みとく》安心《あんしん》
勇猛《ゆうみょう》精進潔斎怠らず、南無帰命頂礼《なむきみょうちょうらい》と真心を凝《こら》し肝胆《かんたん》を砕きて三拝|一鑿《いっさく》九拝一刀、刻み出《いだ》せし木像あり難や三十二|相《そう》円満の当体《とうたい》即仏《そくぶつ》、御利益《ごりやく》疑《うたがい》なしと腥《なまぐさ》き和尚様《おしょうさま》語られしが、さりとは浅い詮索《せんさく》、優鈿《うでん》大王《だいおう》とか饂飩《うどん》大王《だいおう》とやらに頼まれての仕事《しわざ》、仏師もやり損じては大変と額に汗流れ、眼中に木片《ききれ》の飛込《とびこむ》も構わず、恐れ惶《かしこ》みてこそ作りたれ、恭敬三昧《きょうけいざんまい》の嬉《うれし》き者ならぬは、御本尊様の前の朝暮《ちょうぼ》の看経《かんきん》には草臥《くたびれ》を喞《かこ》たれながら、大黒《だいこく》の傍《そば》に下らぬ雑談《ぞうだん》には夜の更《ふく》るをも厭《いと》い玉わざるにても知るべしと、評せしは両親を寺参りさせおき、鬼の留守に洗濯する命じゃ、石鹸《シャボン》玉|泡沫《ほうまつ》夢幻《むげん》の世に楽を為《せ》では損と帳場の金を攫《つか》み出して御歯涅《おはぐろ》溝《どぶ》の水と流す息子なりしとかや。珠運《しゅうん》は段々と平面板《ひらいた》に彫浮《ほりうか》べるお辰《たつ》の像、元より誰《たれ》に頼まれしにもあらねば細工料取らんとにもあらず、唯《ただ》恋しさに余りての業、一刀《いっとう》削《けずり》ては暫《しばら》く茫然《ぼうぜん》と眼《め》を瞑《ふさ》げば花漬《はなづけ》めせと矯音《きょうおん》を洩《もら》す口元の愛らしき工合《ぐあい》、オヽそれ/\と影を促《とら》えて再《また》一《ひ》ト刀《かたな》、一ト鑿《のみ》突いては跡ずさりして眺《なが》めながら、幾日の恩愛|扶《たす》けられたり扶けたり、熱に汗蒸れ垢《あか》臭き身体《からだ》を嫌《いや》な様子なく柔《やさ》しき手して介抱し呉《くれ》たる嬉しさ今は風前の雲と消えて、思《おもい》は徒《いたずら》に都の空に馳《は》する事悲しく、なまじ最初お辰の難を助けて此家《このいえ》を出し其折《そのおり》、留《とど》められたる袖《そで》思い切《きっ》て振払いしならばかくまでの切なる苦《くるしみ》とはなるまじき者をと、恋しを恨む恋の愚痴、吾《われ》から吾を弁《わきま》え難く、恍惚《うっとり》とする所へ著《あらわ》るゝお辰の姿、眉付《まゆつき》媚《なまめ》かしく生々《いきいき》として睛《ひとみ》、何の情《じょう》を含みてか吾《わが》与《あた》えし櫛《くし》にジッと見とれ居る美しさ、アヽ此処《ここ》なりと幻像《まぼろし》を写して再《また》一鑿《ひとのみ》、漸《ようや》く二十日を越えて最初の意匠誤らず、花漬売の時の襤褸《つづれ》をも著《き》せねば子爵令嬢の錦をも着せず、梅桃桜菊色々の花綴衣《はなつづりぎぬ》麗しく引纏《ひきまとわ》せたる全身像|惚《ほれ》た眼からは観音の化身《けしん》かとも見れば誰《たれ》に遠慮なく後光輪《ごこう》まで付《つけ》て、天女の如《ごと》く見事に出来上り、吾《われ》ながら満足して眷々《ほれぼれ》とながめ暮《くら》せしが、其夜の夢に逢瀬《おうせ》平常《いつも》より嬉しく、胸あり丈《た》ケの口説《くぜつ》濃《こまやか》に、恋|知《しら》ざりし珠運を煩悩《ぼんのう》の深水《ふかみ》へ導きし笑窪《えくぼ》憎しと云えば、可愛《かわゆ》がられて喜ぶは浅し、方様《かたさま》に口惜しい程憎まれてこそ誓文《せいもん》移り気ならぬ真実を命|打込《うちこ》んで御見せ申《もうし》たけれ。扨《さて》は迷惑、一生|可愛《かわゆ》がって居様《いよう》と思う男に。アレ嘘《うそ》、後先|揃《そろ》わぬ御言葉、どうでも殿御は口上手と、締りなく睨《にら》んで打《ぶ》つ真似にちょいとあぐる、繊麗《きゃしゃ》な手首|緊《しっか》りと捉《とらえ》て柔《やわらか》に握りながら。打《ぶた》るゝ程憎まれてこそ誓文《せいもん》命|掛《かけ》て移り気ならぬ真実をと早速の鸚鵡《おうむ》返し、流石《さすが》は可笑《おか》しくお辰笑いかけて、身を縮め声低く、此《この》手を。離さぬが悪いか。ハイ。これは/\く大きに失礼と其儘《そのまま》離してひぞる真面目《まじめ》顔を、心配相に横から覗《のぞ》き込めば見られてすまし難《がた》く其眼を邪見に蓋《ふた》せんとする平手、それを握りて、離さぬが悪いかと男詞《おとこことば》、後《あと》は協音《きょうおん》の笑《わらい》計《ばか》り残る睦《むつま》じき中に、娘々《むすめむすめ》と子爵の※[#「金+肅」、第3水準1-93-39]声《さびごえ》。目《め》覚《さむ》れば昨宵《ゆうべ》明放《あけはな》した窓を掠《かす》めて飛ぶ烏《からす》、憎や彼奴《あれめ》が鳴いたのかと腹立《はらだた》しさに振向く途端、彫像のお辰夢中の人には遙《はるか》劣りて身を掩《おお》う数々の花うるさく、何処《どこ》の唐草《からくさ》の精霊《ばけもの》かと嫌《いや》になったる心には悪口も浮《うか》み来《きた》るに、今は何を着すべしとも思い出《いだ》せず工夫錬り練り刀を礪《と》ぎぬ。
下 堅く妄想《もうそう》を捏《でつ》して自覚|妙諦《みょうたい》
腕を隠せし花一輪削り二輪削り、自己《おの》が意匠の飾《かざり》を捨て人の天真の美を露《あら》わさんと勤めたる甲斐《かい》ありて、なまじ着せたる花衣|脱《ぬが》するだけ面白し。終《つい》に肩のあたり頸筋《くびすじ》のあたり、梅も桜も此《この》君の肉付《にくづき》の美しきを蔽《おお》いて誇るべき程の美しさあるべきやと截《た》ち落《おと》し切り落し、むっちりとして愛らしき乳首、是《これ》を隠す菊の花、香も無き癖《くせ》に小癪《こしゃく》なりきと刀|急《せわ》しく是も取って払い、可笑《おかし》や珠運《しゅうん》自ら為《し》たる業《わざ》をお辰《たつ》の仇《あだ》が為《し》たる事の様《よう》に憎み今刻み出《いだ》す裸体《はだかみ》も想像の一塊《いっかい》なるを実在《まこと》の様に思えば、愈々《いよいよ》昨日は愚《おろか》なり玉の上に泥絵具《どろえのぐ》彩りしと何が何やら独り後悔|慚愧《ざんき》して、聖書の中へ山水天狗楽書《やまみずてんぐらくがき》したる児童が日曜の朝|字消護謨《じけしゴム》に気をあせる如《ごと》く、周章|狼狽《ろうばい》一生懸命|刀《とう》は手を離れず、手は刀を離さず、必死と成《なっ》て夢我《むが》夢中、きらめく刃《やいば》は金剛石の燈下に転《まろ》ぶ光きら/\截切《たちき》る音は空《そら》駈《かく》る矢羽《やばね》の風を剪《き》る如く、一足|退《すさ》って配合《つりあい》を見《み》糺《ただ》す時は琴《こと》の糸断えて余韵《よいん》のある如く、意《こころ》糾々《きゅうきゅう》気|昂々《こうこう》、抑《そ》も幾年の学びたる力一杯鍛いたる腕一杯の経験|修錬《しゅれん》、渦《うず》まき起って沸々《ふつふつ》と、今|拳頭《けんとう》に迸《ほとばし》り、倦《うむ》も疲《つかれ》も忘れ果て、心は冴《さえ》に冴《さえ》渡る不乱不動の精進波羅密《しょうじんはらみつ》、骨をも休めず筋をも緩めず、湧《わ》くや額に玉の汗、去りも敢《あえ》ざる不退転、耳に世界の音も無《なく》、腹に饑《うえ》をも補わず自然《おのず》と不惜身命《ふじゃくしんみょう》の大勇猛《だいゆうみょう》には無礙《むげ》無所畏《むしょい》、切屑《きりくず》払う熱き息、吹き掛け吹込《ふっこ》む一念の誠を注ぐ眼の光り、凄《すさ》まじきまで凝り詰むれば、爰《ここ》に仮相《けそう》の花衣《はなごろも》、幻翳《げんえい》空華《くうげ》解脱《げだつ》して深入《じんにゅう》無際《むさい》成就《じょうじゅ》一切《いっさい》、荘厳《しょうごん》端麗あり難き実相|美妙《みみょう》の風流仏《ふうりゅうぶつ》仰ぎて珠運はよろ/\と幾足うしろへ後退《あとずさ》り、ドッカと坐《ざ》して飛散りし花を捻《ひね》りつ微笑《びしょう》せるを、寸善尺魔《すんぜんしゃくま》の三界《さんがい》は猶如《ゆうにょ》火宅《かたく》や。珠運さま珠運さまと呼声《よびごえ》戸口にせわし。
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第十 如是本末究竟等《にょぜほんまつくきょうとう》
上 迷迷迷《めいめいめい》、迷《まよい》は唯識所変《ゆいしきしょへん》ゆえ凡《ぼん》
下碑《げじょ》が是非|御来臨《おいで》なされというに盗まれべき者なき破屋《あばらや》の気楽さ、其儘《そのまま》亀屋《かめや》へ行けば吉兵衛|待兼顔《まちかねがお》に挨拶して奥の一間へ導き、扨《さて》珠運《しゅうん》様、あなたの逗留《とうりゅう》も既に長い事、あれ程|有《あり》し雪も大抵は消《きえ》て仕舞《しまい》ました、此頃《このごろ》の天気の快《よ》さ、旅路もさのみ苦しゅうはなし其道《そのみち》勉強の為《ため》に諸国|行脚《あんぎゃ》なさるゝ身で、今の時候にくすぶりて計《ばか》り居らるるは損という者、それもこれも承知せぬでは無《なか》ろうが若い人の癖とてあのお辰《たつ》に心を奪《うばわ》れ、然《しか》も取残された恨《うらみ》はなく、その木像まで刻むと云《いう》は恋に親切で世間に疎《うと》い唐土《もろこし》の天子様が反魂香《はんごんこう》焼《たか》れた様《よう》な白痴《たわけ》と悪口を叩《たた》くはおまえの為を思うから、実はお辰めに逢《あ》わぬ昔と諦《あき》らめて奈良へ修業に行《いっ》て、天晴《あっぱれ》名人となられ、仮初《かりそめ》ながら知合《しりあい》となった爺《じい》の耳へもあなたの良《よい》評判を聞せて貰《もら》い度《た》い、然し何もあなたを追立《おいたて》る訳ではないが、昨日もチラリト窓から覗《のぞ》けば像も見事に出来た様子、此《この》上長く此地に居《いら》れても詰りあなたの徳にもならずと、お辰憎くなるに付《つけ》てお前|可愛《かわゆ》く、真から底から正直におまえ、ドッコイあなたの行末にも良様《よいよう》昨夕《ゆうべ》聢《しか》と考えて見たが、何《どう》でも詰らぬ恋を商買《しょうばい》道具の一刀に斬《きっ》て捨《すて》、横道入らずに奈良へでも西洋へでも行《ゆか》れた方が良い、婚礼なぞ勧めたは爺が一生の誤り、外に悪い事|仕《し》た覚《おぼえ》はないが、是《これ》が罪になって地獄の鉄札《てっさつ》にでも書《かか》れはせぬかと、今朝《けさ》も仏様に朝茶|上《あげ》る時|懺悔《ざんげ》しましたから、爺が勧めて爺が廃《よ》せというは黐竿《もちざお》握らせて殺生《せっしょう》を禁ずる様《よう》な者で真に云憎《いいにく》き意見なれど、此《ここ》を我慢して謝罪《わび》がてら正直にお辰めを思い切れと云う事、今度こそはまちがった理屈ではないが、人間は活物《いきもの》杓子定規《しゃくしじょうぎ》の理屈で平押《ひらおし》には行《ゆか》ず、人情とか何とか中々むずかしい者があって、遠くも無い寺|参《まいり》して御先祖様の墓に樒《しきみ》一束|手向《たむく》る易《やす》さより孫娘に友禅《ゆうぜん》を買《かっ》て着《きせ》る苦しい方が却《かえっ》て仕易《しやす》いから不思議だ、損徳を算盤《そろばん》ではじき出したら、珠運が一身|二一添作《にいちてんさく》の五も六もなく出立《しゅったつ》が徳と極るであろうが、人情の秤目《はかりめ》に懸《かけ》ては、魂の分銅《ふんどう》次第、三五《さんご》が十八にもなりて揚屋酒《あげやざけ》一猪口《ひとちょく》が弗箱《ドルばこ》より重く、色には目なし無二|無三《むざん》、身代《しんだい》の釣合《つりあい》滅茶苦茶《めちゃくちゃ》にする男も世に多いわ、おまえの、イヤ、あなたの迷《まよい》も矢張《やっぱり》人情、そこであなたの合点《がてん》の行様《ゆくよう》、年の功という眼鏡《めがね》をかけてよく/\曲者《くせもの》の恋の正体を見届た所を話しまして、お辰めを思い切《きら》せましょう。先《まず》第一に何を可愛《かわゆ》がって誰《たれ》を慕《した》うのやら、調べて見ると余程おかしな者、爺の考《かんがえ》では恐らく女に溺《おぼ》れる男も男に眩《くら》[#「眩」は底本では「呟」]む女もなし、皆々手製の影法師に惚《ほれ》るらしい、普通《なみなみ》の人の恋の初幕《しょまく》、梅花の匂《におい》ぷんとしたに振向《ふりむけ》ば柳のとりなり玉の顔、さても美人と感心した所では西行《さいぎょう》も凡夫《ぼんぷ》も変《かわり》はなけれど、白痴《こけ》は其女の影を自分の睛《ひとみ》の底に仕舞込《しまいこん》で忘れず、それから因縁あれば両三度も落合い挨拶《あいさつ》の一つも云わるゝより影法師殿段々堅くなって、愛敬詞《あいきょうことば》を執着《しゅうじゃく》の耳の奥で繰り返し玉い、尚《なお》因縁深ければ戯談《じょうだん》のやりとり親切の受授《うけさずけ》男は一寸《ちょっと》行《ゆく》にも新著百種の一冊も土産《みやげ》にやれば女は、夏の夕陽《ゆうひ》の憎や烈《はげ》しくて御暑う御座りましたろと、岐阜団扇《ぎふうちわ》に風を送り氷水に手拭《てぬぐい》を絞り呉《く》れるまでになってはあり難さ嬉《うれ》しさ御馳走《ごちそう》の瓜《うり》と共に甘《うま》い事胃の腑《ふ》に染渡《しみわた》り、さあ堪《たま》らぬ影法師殿むく/\と魂入り、働き出し玉う御容貌《ごきりょう》は百三十二|相《そう》も揃《そろ》い御声《おんこえ》は鶯《うぐいす》に美音錠《びおんじょう》飲ましたよりまだ清く、御心《ごしん》もじ広大|無暗《むやみ》に拙者《せっしゃ》を可愛《かわゆ》がって下さる結構|尽《づく》め故《ゆえ》堪忍ならずと、車を横に押し親父《おやじ》を勘当しても女房に持つ覚悟|極《き》めて目出度《めでたく》婚礼して見ると自分の妄像《もうぞう》ほど真物《ほんもの》は面白からず、領脚《えりあし》が坊主《ぼうず》で、乳の下に焼芋の焦《こげ》た様《よう》の痣《あざ》あらわれ、然も紙屑屋《かみくずや》とさもしき議論致されては意気な声も聞《きき》たくなく、印付《しるしつき》の花合《はなあわ》せ負《まけ》ても平気なるには寛容《おおよう》なる御心《おこころ》却《かえ》って迷惑、どうして此様《このよう》な雌《めす》を配偶《つれあい》にしたかと後悔するが天下半分の大切《おおぎり》、真実《まこと》を云《いえ》ば一尺の尺度《ものさし》が二尺の影となって映る通り、自分の心という燈《ともしび》から、さほどにもなき女の影を天人じゃと思いなして、恋も恨《うらみ》もあるもの、お辰めとても其如《そのごと》く、おまえの心から製《こしら》えた影法師におまえが惚《ほ》れて居る計《ばか》り、お辰の像に後光まで付《つけ》た所では、天晴《あっぱれ》女菩薩《にょぼさつ》とも信仰して居らるゝか知らねど、影法師じゃ/\、お辰めはそんな気高く優美な女ならずと、此爺《このじい》も今日悟って憎くなった迷うな/\、爰《ここ》にある新聞を読《よ》め、と初《はじめ》は手丁寧後は粗放《そほう》の詞《ことば》づかい、散々にこなされて。おのれ爺《じじい》め、えせ物知《ものしり》の恋の講釈、いとし女房をお辰めお辰めと呼捨《よびすて》片腹痛しと睨《にら》みながら、其事《そのこと》の返辞はせず、昨日頼み置《おき》し胡粉《ごふん》出来て居るかと刷毛《はけ》諸共《もろとも》に引※[#「怨」の「心」に代えて「手」、第4水準2-13-4]《ひきもぐ》ように受取り、新聞懐中して止むるをきかず突《つ》と立《たっ》て畳ざわりあらく、馴《なれ》し破屋《あばらや》に駈戻《かけもど》りぬるが、優然として長閑《のどか》に立《たて》る風流仏《ふうりゅうぶつ》見るより怒《いかり》も収り、何はさておき色合程よく仮に塗上《ぬりあげ》て、柱にもたれ安坐《あんざ》して暫《しばら》く眺《なが》めたるこそ愚《おろか》なれ。吉兵衛の詞《ことば》気になりて開く新聞、岩沼令嬢と業平侯爵《なりひらこうしゃく》と題せる所をふと読下せば、深山《みやま》の美玉都門《びぎょくともん》に入《いっ》てより三千の※[#「石+武」、第4水準2-82-42]※[#「石+夫、第4水準2-82-31]《ぶふ》に顔色なからしめたる評判|嘖々《さくさく》たりし当代の佳人岩沼令嬢には幾多の公子豪商熱血を頭脳に潮《ちょう》して其《その》一顰一笑《いっぴんいっしょう》を得んと欲《ほっ》せしが預《かね》て今業平《いまなりひら》と世評ある某侯爵は終《つい》に子爵の許諾《ゆるし》を経て近々結婚せらるゝよし侯爵は英敏閑雅今業平の称|空《むな》しからざる好男子なるは人の知所《しるところ》なれば令嬢の艶福《えんぷく》多い哉《かな》侯爵の艶福も亦《また》多い哉《かな》艶福万歳|羨望《せんぼう》の到《いたり》に勝《たえ》ず、と見る/\面色赤くなり青くなり新聞紙|引裂《ひきさき》捨《す》て何処《いづく》ともなく打付《うちつけ》たり。
下 恋恋恋《れんれんれん》、恋《こい》は金剛不壊《こんごうふえ》なるが聖《せい》
虚言《うそ》という者|誰《たれ》吐《つき》そめて正直は馬鹿《ばか》の如《ごと》く、真実は間抜《まぬけ》の様《よう》に扱わるゝ事あさましき世ぞかし。男女《なんにょ》の間変らじと一言《ひとこと》交《かわ》せば一生変るまじきは素《もと》よりなるを、小賢《こさか》しき祈誓三昧《きしょうさんまい》、誠少き命毛《いのちげ》に情《なさけ》は薄き墨含ませて、文句を飾り色めかす腹の中《うち》慨《なげ》かわしと昔の人の云《いい》たるが、夫《それ》も牛王《ごおう》を血に汚《けが》し神を証人とせしはまだゆかしき所ありしに、近来は熊野《くまの》を茶にして罰《ばち》を恐れず、金銀を命と大切《だいじ》にして、一《ひとつ》金《きん》千両|也《なり》右借用仕候段実正《みぎしゃくようつかまつりそうろうだんじっしょう》なりと本式の証文|遣《や》り置き、変心の暁は是《これ》が口を利《きき》て必ず取立《とりたて》らるべしと汚き小判《こばん》を枷《かせ》に約束を堅《かた》めけると、或書《あるしょ》に見えしが、是《これ》も烏賊《いか》の墨で文字書き、亀《かめ》の尿《いばり》を印肉に仕懸《しかく》るなど巧《たく》み出《いだ》すより廃《すた》れて、当時は手早く女は男の公債証書を吾名《わがな》にして取り置《おき》、男は女の親を人質《ひとじち》にして僕使《めしつか》うよし。亭主《ていしゅ》持《もつ》なら理学士、文学士|潰《つぶし》が利く、女房|持《も》たば音楽師、画工《えかき》、産婆三割徳ぞ、ならば美人局《つつもたせ》、げうち、板の間|※[#「てへん+(上/下)、第3水準1-84-76]《かせ》ぎ等の業《わざ》出来て然《しか》も英仏の語に長じ、交際上手でエンゲージに詫付《かこつけ》華族の若様のゴールの指輪一日に五六位《いつつむつくらい》取る程の者望むような世界なれば、汝《なんじ》珠運《しゅうん》能々《よくよく》用心して人に欺《あざむ》かれぬ様《よう》すべしと師匠教訓されしを、何の悪口なと冷笑《あざわらい》しが、なる程、我《われ》正直に過《すぎ》て愚《おろか》なりし、お辰《たつ》を女菩薩《にょぼさつ》と思いしは第一の過《あやま》り、折疵《おれきず》を隠して刀には樋《ひ》を彫るものあり、根性が腐って虚言《うそ》美しく、田原が持《もっ》て来た手紙にも、御《おん》なつかしさ少時《しばし》も忘れず何《いず》れ近き中《うち》父様《ととさま》に申し上《あげ》やがて朝夕《ちょうせき》御前様《おまえさま》御傍《おそば》に居《お》らるゝよう神かけて祈り居《お》りなどと我を嬉《うれ》しがらせし事憎し憎しと、怨《うらみ》の眼尻《まなじり》鋭く、柱にもたれて身は力なく下《さげ》たる頭《かしら》少し上《あげ》ながら睨《にら》むに、浮世のいざこざ知らぬ顔の彫像|寛々《かんかん》として大空に月の澄《すめ》る如《ごと》く佇《たたず》む気高さ、見るから我胸の疑惑|耻《はずか》しく、ホッと息|吐《つ》き、アヽ誤《あやま》てり、是程の麗わしきお辰、何とてさもしき心もつべき、去《さり》し日|亀屋《かめや》の奥|坐敷《ざしき》に一生の大事と我も彼も浮《うき》たる言葉なく、互《たがい》に飾らず疑わず固めし約束、仮令《たとい》天《あま》飛ぶ雷が今|落《おち》ればとて二人が中は引裂《ひきさか》れじと契りし者を、よしや子爵の威権烈しく他《あだ》し聟《むこ》がね定むるとも、我の命は彼にまかせお辰が命は珠運|貰《もら》いたれば、何《ど》の命|何《ど》の身体《からだ》あって侯爵に添うべきや、然《しか》も其時、身を我に投懸《なげかけ》て、艶《つや》やかなる前髪|惜気《おしげ》もなく我膝《わがひざ》に押付《おしつけ》、動気《どうき》可愛《かわゆ》らしく泣き俯《ふ》しながら、拙《つたな》き妾《わたくし》めを思い込まれて其程《それほど》までになさけ厚き仰せ、冥加《みょうが》にあまりてありがたしとも嬉しとも此《この》喜び申すべき詞《ことば》知らぬ愚《おろか》の口惜し、忘れもせざる何日《いつ》ぞやの朝、見所もなき櫛《くし》に数々の花|彫付《ほりつけ》て賜《たま》わりし折より、柔《やさ》しき御心ゆかしく思い初《そめ》、御小刀《おこがたな》の跡|匂《にお》う梅桜、花弁《はなびら》一片《ひとひら》も欠《かか》せじと大事にして、昼は御恩賜《おんめぐみ》頭《かしら》に挿《さ》しかざせば我為《わがため》の玉の冠、かりそめの立居《たちい》にも意《き》を注《つけ》て落《おち》るを厭《いと》い、夜は針箱の底深く蔵《おさ》めて枕《まくら》近く置《おき》ながら幾度《いくたび》か又|開《あけ》て見て漸《ようや》く睡《ねむ》る事、何の為とは妾《わたくし》も知らず、殊更其日|叔父《おじ》の非道《ひどう》、勿体《もったい》なき悪口|計《ばか》り、是も妾《わたくし》め故《ゆえ》思わぬ不快を耳に入れ玉うと一一《いちいち》胸先《むなさき》に痛く、さし詰《つむ》る癪《しゃく》押《おさ》えて御顔|打守《うちまもり》しに、暢《のび》やかなる御気象、咎《とが》め立《だて》もし玉わざるのみか何の苦もなくさらりと埒《らち》あき、重々の御恩|荷《にの》うて余る甲斐《かい》なき身、せめて肩|揉《も》め脚|擦《さす》れとでも僕使《つかい》玉わばまだしも、却《かえっ》て口きゝ玉うにも物柔かく、御手水《おちょうず》の温湯《ぬるゆ》椽側《えんがわ》に持《もっ》て参り、楊枝《ようじ》の房少しむしりて塩|一小皿《ひとこざら》と共に塗盆《ぬりぼん》に載《の》せ出《いだ》す僅計《わずかばかり》の事をさえ、我|夙起《はやおき》の癖故に汝《そなた》までを夙起《はやおき》さして尚《なお》寒き朝風につれなく袖《そで》をなぶらする痛わしさと人を護《かば》う御言葉、真《しん》ぞ人間五十年君に任せて露|惜《おし》からず、真実《まこと》あり丈《たけ》智慧《ちえ》ありたけ尽《つく》して御恩を報ぜんとするに付《つけ》て慕わしさも一入《ひとしお》まさり、心という者一つ新《あらた》に添《そう》たる様《よう》に、今迄《いままで》は関《かま》わざりし形容《なりふり》、いつか繕う気になって、髪の結様《ゆいよう》どうしたら誉《ほめ》らりょうかと鏡に対《むか》って小声に問い、或夜《あるばん》の湯上《ゆあが》り、耻《はずか》しながらソッと薄化粧《うすげしょう》して怖怖《こわごわ》坐敷《ざしき》に出《いで》しが、笑《わらい》片頬《かたほ》に見られし御|眼元《めもと》何やら存《あ》るように覚えて、人知らずカッと上気せしも、単《ひとえ》に身嗜《みだしなみ》計《ばかり》にはあらず、勿体《もったい》なけれど内内《ないない》は可愛《かわゆ》がられても見たき願い、悟ってか吉兵衛様の貴下《あなた》との問答、婚礼せよせぬとの争い、不図《ふと》立聞《たちぎき》して魂魄《たましい》ゆら/\と足|定《さだま》らず、其儘《そのまま》其処《そこ》を逃出《にげいだ》し人なき柴部屋《しばべや》に夢の如《ごと》く入《いる》と等しく、せぐりくる涙、あなた程の方の女房とは我身《わがみ》の為《ため》を思われてながら吉兵衛様の無礼過《なめすぎ》た言葉恨めしく、水仕女《みずしめ》なりともして一生|御傍《おそば》に居られさいすれば願望《のぞみ》は足る者を余計な世話、我からでも言わせたるように聞取《ききと》られて疎《うと》まれなば取り返しのならぬ暁《あかつき》、辰は何になって何に終るべきと悲《かなし》み、珠運様も珠運様、余りにすげなき御言葉、小児《こども》の捉《とっ》た小雀《こすずめ》を放して遣《や》った位に辰を思わるゝか知らねどと泣きしが、貴下《あなた》はそれより黙言《だんまり》で亀屋を御立《おたち》なされしに、十日も苅《か》り溜《ため》し草を一日に焼《やい》たような心地して、尼にでもなるより外なき身の行末を歎《なげき》しに、馬籠《まごめ》に御病気と聞く途端、アッと驚く傍《かたわら》に愚《おろか》な心からは看病するを嬉《うれし》く、御介抱|申《もうし》たる甲斐《かい》ありて今日の御|床上《とこあげ》、芽出度《めでたい》は芽出度《めでたけ》れど又もや此儘《このまま》御立《おたち》かと先刻《さっき》も台所で思い屈して居たるに、吉兵衛様御内儀が、珠運様との縁|続《つ》ぎ度《たく》ば其人様の髪一筋知れぬように抜《ぬい》て、おまえの髪と確《しっか》り結び合《あわ》せ※[#「口+急」、224-9]※[#「口+急」、224-9]《きゅうきゅう》如律令《にょりつりょう》と唱《とな》えて谷川に流し捨《すて》るがよいとの事、憎や老嫗《としより》の癖に我を嬲《なぶ》らるゝとは知《しり》ながら、貴君《あなた》の御足《おんあし》を止度《とめた》さ故に良事《よいこと》教《おし》られしよう覚《おぼえ》て馬鹿気《ばかげ》たる呪《まじない》も、試《やっ》て見ようかとも惑う程小さき胸の苦《くるし》く、捨《すて》らるゝは此身の不束《ふつつか》故か、此心の浅き故かと独り悔《くや》しゅう悩んで居《お》りましたに、あり難き今の仰せ、神様も御照覧あれ、辰めが一生はあなたにと熱き涙|吾《わが》衣物《きもの》を透《とお》せしは、そもや、嘘《うそ》なるべきか、新聞こそ当《あて》にならぬ者なれ、其《それ》を真《まこと》にして信《まこと》ある女房を疑いしは、我ながらあさましとは思うものゝ形なき事を記すべしとも思えず、見れば業平侯爵とやら、位|貴《たっと》く、姿うるわしく、才いみじきよし、エヽ妬《ねた》ましや、我《われ》位なく、姿美しからず、才もまた鈍ければ、較《くらべ》られては敵手《あいて》にあらず。扨《さて》こそ子爵が詞通《ことばどお》り、思想も発達せぬ生《なま》若い者の感情、都風の軽薄に流れて変りしに相違なきかと頻《しきり》に迷い沈みけるが思いかねてや一声|烈《はげ》しく、今ぞ知《しっ》たり移ろい易《やす》き女心、我を侯爵に見替《みかえ》て、汝《おのれ》一人の栄華を誇《ほこ》る、情《なさけ》なき仰せ、此《この》辰が。
アッと驚き振仰向《ふりあおむけ》ば、折柄《おりから》日は傾きかゝって夕栄《ゆうばえ》の空のみ外に明るく屋《や》の内|静《しずか》に、淋し気に立つ彫像|計《ばか》り。さりとては忌々《いまいま》し、一心乱れてあれかこれかの二途《ふたみち》に別れ、お辰が声を耳に聞《きき》しか、吉兵衛の意見ひし/\と中《あた》りて残念や、妄想《もうぞう》の影法師に馬鹿にされ、有《あり》もせぬ声まで聞し愚《おろか》さ、箇程《かほど》までに迷わせたるお辰め、汝《おのれ》も浮世の潮に漂う浮萍《うきくさ》のような定《さだめ》なき女と知らで天上の菩薩《ぼさつ》と誤り、勿体《もったい》なき光輪《ごこう》まで付《つけ》たる事口惜し、何処《いずこ》の業平《なりひら》なり癩病《なりんぼ》なり、勝手に縁組、勝手に楽《たのし》め。あまりの御言葉、定めなきとはあなたの御心。あら不思議、慥《たしか》に其《その》声、是もまだ醒《さめ》ぬ無明《むみょう》の夢かと眼《め》を擦《こす》って見れば、しょんぼりとせし像、耳を澄《すま》せば予《かね》て知る樅《もみ》の木の蔭《かげ》あたりに子供の集りて鞠《まり》つくか、風の持来《もてく》る数え唄《うた》、
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一寸《ちょと》百|突《つい》て渡《わた》いた受取《うけと》った/\一つでは乳首|啣《くわ》えて二つでは乳首|離《はな》いて三つでは親の寝間を離れて四つにはより糸《こ》より初《そ》め五《いつつ》では糸をとりそめ六つでころ機織《はたおり》そめて――
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と苦労知らぬ高調子、無心の口々|長閑《のどか》に、拍子取り連《つれ》て、歌は人の作ながら声は天の籟《おと》美しく、慾《よく》は百ついて帰そうより他なく、恨《うらみ》はつき損ねた時罪も報《むくい》も共に忘れて、恋と無常はまだ無き世界の、楽しさ羨《うらやま》しく、噫《ああ》無心こそ尊《たっと》けれ、昔は我も何しら糸の清きばかりの一筋なりしに、果敢《はか》なくも嬉しいと云う事身に染初《しみそめ》しより、やがて辛苦の結ぼれ解《とけ》ぬ濡苧《ぬれお》の縺《もつれ》の物思い、其色《そのいろ》嫌よと、眼《め》を瞑《ふさ》げば生憎《あいにく》にお辰の面影あり/\と、涙さしぐみて、分疏《いいわけ》したき風情、何処《どこ》に憎い所なし。なる程定めなきとはあなたの御心、新聞一枚に堅き約束を反故《ほご》となして怒り玉うかと喞《かこ》たれて見れば無理ならねど、子爵の許《もと》に行《ゆき》てより手紙は僅《わずか》に田原が一度|持《もっ》て来《きた》りし計《ばか》り、此方《こなた》から遣《や》りし度々の消息、初《はじめ》は親子再会の祝《いわい》、中頃は振残《ふりのこ》されし喞言《かこちごと》、人には聞《きか》せ難《がた》きほど耻《はずか》しい文段《もんだん》までも、筆とれば其人の耳に付《つけ》て話しする様《よう》な心地して我しらず愚《おろか》にも、独居《ひとりい》の恨《うらみ》を数うる夜半《よわ》の鐘はつらからで、朧気《おぼろげ》ながら逢瀬《おうせ》うれしき通路《かよいじ》を堰《せ》く鶏《とり》めを夢の名残の本意《ほい》なさに憎らしゅう存じ候《そろ》など書《かい》てまだ足らず、再書《かえすがき》濃々《こまごま》と、色好み深き都の若佼《わこうど》を幾人《いくたり》か迷わせ玉うらん御標致《ごきりょう》の美しさ、却《かえ》って心配の種子《たね》にて我をも其等《それら》の浮《うき》たる人々と同じ様《よう》に思《おぼ》し出《いず》らんかと案《あん》じ候《そうろう》ては実《げ》に/\頼み薄く口惜《くちおし》ゅう覚えて、あわれ歳月《としつき》の早く立《たて》かし、御《おん》おもかげの変りたる時にこそ浅墓《あさはか》ならぬ我《わが》恋のかわらぬ者なるを顕《あらわ》したけれと、無理なる願《ねがい》をも神前に歎《なげ》き聞《きこ》え候《そろ》と、愚痴の数々まで記して丈夫そうな状袋を択《えら》み、封じ目油断なく、幾度か打《うち》かえし/\見て、印紙正しく張り付《つけ》、漸く差し出《いだ》したるに受取《うけとっ》たと計《ばかり》の返辞もよこさず、今日は明日はと待つ郵便の空頼《そらだのめ》なる不実の仕方、それは他《あだ》し婿がね取らせんとて父上の皆|為《な》されし事。又しても妄想《もうぞう》が我を裏切《うらぎり》して迷わする声憎しと、頭《かしら》を上《あぐ》れば風流仏悟り済《すま》した顔、外には
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清水《きよみず》の三本柳の一羽の雀《すずめ》が鷹《たか》に取られたチチャポン/\一寸《ちょっと》百ついて渡いた渡いた
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の他音もなし、愈々《いよいよ》影法師の仕業に定まったるか、エヽ腹立《はらだた》し、我|最早《もはや》すっきりと思い断ちて煩悩《ぼんのう》愛執《あいしゅう》一切|棄《すつ》べしと、胸には決定《けつじょう》しながら、尚《なお》一分《いちぶん》の未練残りて可愛《かわゆ》ければこそ睨《にら》みつむる彫像、此時《このとき》雲収り、日は没《い》りて東窓の部屋の中《うち》やゝ暗く、都《すべ》ての物薄墨色になって、暮残りたるお辰白き肌|浮出《うきいず》る如く、活々《いきいき》とした姿、朧《おぼろ》月夜に真《まこと》の人を見る様《よう》に、呼ばゞ答もなすべきありさま、我《わが》作りたる者なれど飽《あく》まで溺《おぼ》れ切《きっ》たる珠運ゾッと総身の毛も立《たち》て呼吸《いき》をも忘れ居たりしが、猛然として思い飜《かえ》せば、凝《こっ》たる瞳《ひとみ》キラリと動く機会《はずみ》に面色|忽《たちま》ち変り、エイ這顔《しゃっつら》の美しさに迷う物かは、針ほども心に面白き所あらば命さえ呉《くれ》てやる珠運も、何の操なきおのれに未練残すべき、其《その》生白《なましら》けたる素首《そっくび》見《みる》も穢《けがら》わしと身動きあらく後向《うしろむき》になれば、よゝと泣声して、それまでに疑われ疎《うと》まれたる身の生甲斐《いきがい》なし、とてもの事|方様《かたさま》の手に惜《おし》からぬ命|捨《すて》たしと云《いう》は、正しく木像なり、あゝら怪しや、扨《さて》は一念の恋を凝《こら》して、作り出《いだ》せしお辰の像に、我魂の入《いり》たるか、よしや我身の妄執《もうしゅう》の憑《の》り移りたる者にもせよ、今は恩愛|切《きっ》て捨《すて》、迷わぬ初《はじめ》に立帰《たちかえ》る珠運に妨《さまたげ》なす妖怪《ようかい》、いでいで仏師が腕の冴《さえ》、恋も未練も段々《きだきだ》に切捨《きりすて》くれんと突立《つったち》て、右の手高く振上《ふりあげ》し鉈《なた》には鉄をも砕くべきが気高く仁《やさ》しき情《なさけ》溢《あふ》るる計《ばかり》に湛《たた》ゆる姿、さても水々として柔かそうな裸身《はだかみ》、斬《き》らば熱血も迸《ほとばし》りなんを、どうまあ邪見に鬼々《おにおに》しく刃《やいば》の酷《むご》くあてらるべき、恨《うらみ》も憎《にくみ》も火上の氷、思わず珠運は鉈《なた》取落《とりおと》して、恋の叶わず思《おもい》の切れぬを流石《さすが》男の男泣き、一声|呑《のん》で身をもがき、其儘《そのまま》ドウと臥《ふ》す途端、ガタリと何かの倒るゝ音して天より出《いで》しか地より湧《わき》しか、玉の腕《かいな》は温く我|頸筋《くびすじ》にからまりて、雲の鬢《びん》の毛|匂《にお》やかに頬《ほほ》を摩《なで》るをハット驚き、急《せわ》しく見れば、有《あり》し昔に其儘《そのまま》の。お辰かと珠運も抱《だき》しめて額《ひたい》に唇。彫像が動いたのやら、女が来たのやら、問《とわ》ば拙《つたな》く語らば遅し。玄《げん》の又《また》玄《げん》摩訶不思議《まかふしぎ》。
団円 諸法実相
帰依仏《きえぶつ》の御利益《ごりやく》眼前にあり
恋に必ず、必ず、感応《かんのう》ありて、一念の誠|御心《みこころ》に協《かな》い、珠運《しゅうん》は自《おの》が帰依仏《きえぶつ》の来迎《らいごう》に辱《かたじけ》なくも拯《すく》いとられて、お辰《たつ》と共に手を携え肩を駢《なら》べ優々と雲の上に行《ゆき》し後《あと》には白薔薇《ホワイトローズ》香《におい》薫《くん》じて吉兵衛《きちべえ》を初め一村の老幼|芽出度《めでたし》とさゞめく声は天鼓を撃つ如《ごと》く、七蔵《しちぞう》がゆがみたる耳を貫けば是《これ》も我慢の角《つの》を落《おと》して黒山《こくざん》の鬼窟《きくつ》を出《いで》、発心《ほっしん》勇ましく田原と共に左右の御前立《おんまえだち》となりぬ。
其後《そののち》光輪《ごこう》美《うるわ》しく白雲に駕《のっ》て所々《しょしょ》に見ゆる者あり。或《ある》紳士の拝まれたるは天鷲絨《ビロウド》の洋服|裳《すそ》長く着玉いて駄鳥《だちょう》の羽宝冠に鮮《あざやか》なりしに、某《なにがし》貴族の見られしは白|襟《えり》を召《めし》て錦の御帯《おんおび》金色《こんじき》赫奕《かくえく》たりしとかや。夫《それ》に引変え破《やぶれ》褞袍《おんぼう》着て藁草履《わらぞうり》はき腰に利鎌《とがま》さしたるを農夫は拝み、阿波縮《あわちぢみ》の浴衣《ゆかた》、綿八反《めんはったん》の帯、洋銀の簪《かんざし》位《ぐらい》の御姿を見しは小商人《こあきんど》にて、風寒き北海道にては、鰊《にしん》の鱗《うろこ》怪しく光るどんざ布子《ぬのこ》、浪《なみ》さやぐ佐渡《さど》には、色も定かならぬさき織を着て漁師共の眼《め》にあらわれ玉いけるが業平侯爵《なりひらこうしゃく》も程《ほど》経て踵《かかと》小さき靴をはき、派手なリボンの飾りまばゆき服を召されたるに値偶《ちぐう》せられけるよし。是《これ》皆|一切経《いっさいきょう》にもなき一体の風流仏、珠運が刻みたると同じ者の千差万別の化身《けしん》にして少しも相違なければ、拝みし者|誰《たれ》も彼も一代の守本尊《まもりほんぞん》となし、信仰|篤《あつ》き時は子孫|繁昌《はんじょう》家内|和睦《わぼく》、御利益《ごりやく》疑《うたがい》なく仮令《たとい》少々御本尊様を恨めしき様《よう》に思う事ありとも珠運の如くそれを火上の氷となす者には素《もと》より持前《もちまえ》の仏性《ほとけしょう》を出《いだ》し玉いて愛護の御誓願《ごせいがん》空《むな》しからず、若《もし》又《また》過《あやま》ってマホメット宗《しゅう》モルモン宗《しゅう》なぞの木偶《もくぐう》土像などに近づく時は現当二世《げんとうにせ》の御罰《おんばち》あらたかにして光輪《ごこう》を火輪《かりん》となし一家《いっけ》をも魂魂《こんぱく》をも焼滅《やきほろぼ》し玉うとかや。あなかしこ穴《あな》賢《かしこ》。
底本:「日本の文学3 五重塔・運命」ほるぷ出版
1985(昭和60)年2月1日初版第1刷発行
底本の親本:「風流仏」吉岡書籍店
1889(明治22)年9月発行
入力:kompass
校正:今井忠夫
2003年12月8日作成
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