突貫紀行——- 幸田露伴

 身には疾《やまい》あり、胸には愁《うれい》あり、悪因縁《あくいんねん》は逐《お》えども去らず、未来に楽しき到着点《とうちゃくてん》の認めらるるなく、目前に痛き刺激物《しげきぶつ》あり、慾《よく》あれども銭なく、望みあれども縁《えん》遠し、よし突貫してこの逆境を出《い》でむと決したり。五六枚の衣を売り、一|行李《こうり》の書を典し、我を愛する人二三にのみ別《わかれ》をつげて忽然《こつぜん》出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。桃内《ももない》を過ぐる頃《ころ》、馬上にて、
  

  きていたるものまで脱《ぬ》いで売りはてぬ いで試みむはだか道中

 小樽《おたる》に名高きキトに宿りて、夜涼《やりょう》に乗じ市街を散歩するに、七夕祭《たなばたまつり》とやらにて人々おのおの自己《おの》が故郷の風《ふう》に従い、さまざまの形なしたる大行燈《おおあんどう》小行燈に火を点じ歌い囃《はや》して巷閭《こうりょ》を引廻《ひきま》わせり。町幅一杯《まちはばいっぱい》ともいうべき竜宮城《りゅうぐうじょう》に擬《ぎ》したる大燈籠《おおどうろう》の中に幾《いく》十の火を点ぜるものなど、火光美しく透《す》きて殊《こと》に目ざましく鮮《あざ》やかなりし。
 二十六日、枝幸丸《えさしまる》というに乗りて薄暮《はくぼ》岩内港《いわないみなと》に着きぬ。この港はかつて騎馬《きば》にて一遊せし地なれば、我が思う人はありやなしや、我が面を知れる人もあるなれど、海上|煙《けむ》り罩《こ》めて浪《なみ》もおだやかならず、夜の闇《くら》きもたよりあしければ、船に留《とど》まることとして上陸せず。都鳥に似たる「ごめ」という水禽《みずとり》のみ、黒み行く浪の上に暮《く》れ残りて白く見ゆるに、都鳥も忍《しの》ばしく、父母すみたもう方、ふりすてて来し方もさすがに思わざるにはあらず。海気は衣を撲《う》って眠《ねむ》り美ならず、夢魂《むこん》半夜|誰《た》が家をか遶《めぐ》りき。
 二十七日正午、舟《ふね》岩内を発し、午後五時|寿都《すっつ》という港に着きぬ。此地《ここ》はこのあたりにての泊舟《はくしゅう》の地なれど、地形|妙《みょう》ならず、市街も物淋《ものさび》しく見ゆ。また夜泊《やはく》す。
 二十七日の夜ともいうべき二十八日の夙《はや》くに出港せしが、浪風あらく雲乱れて、後には雨さえ加わりたり。福山すなわち松前《まつまえ》と往時《むかし》は云《い》いし城下に暫時《ざんじ》碇泊《ていはく》しけるに、北海道には珍《めず》らしくもさすがは旧城下だけありて白壁《しらかべ》づくりの家など眸《め》に入る。此地には長寿《ちょうじゅ》の人|他処《よそ》に比べて多く、女も此地生れなるは品よくして色|麗《うる》わしく、心ざま言葉つきも優しき方なるが多きよし、気候水土の美なればなるべし。上陸して逍遥《しょうよう》したきは山々なれど雨に妨《さまた》げられて舟を出でず。やがてまた吹き来し強き順風に乗じて船此地を発し、暮るる頃|函館《はこだて》に着き、直《ただ》ちに上陸してこの港のキトに宿りぬ。建築《けんちく》半ばなれども室広く器物清くして待遇《たいぐう》あしからず、いと心地よし。
 二十九日、市中を散歩するにわずか二年余見ざりしうちに、著しく家列《いえなら》びもよく道路も美しくなり、大町末広町なんどおさおさ東京にも劣《おと》るべからず。公園のみは寒気強きところなれば樹木の勢いもよからで、山水の眺《なが》めはありながら何となく飽《あ》かぬ心地すれど、一切の便利は備わりありて商家の繁盛《はんじょう》云《い》うばかり無し。客窓の徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》むるよすがにもと眼にあたりしままジグビー、グランドを、文魁堂《ぶんかいどう》とやら云える舗《みせ》にて購《こ》うて帰りぬ。午後、我がせし狼藉《ろうぜき》の行為《こうい》のため、憚《はばか》る筋の人に捕《とら》えられてさまざまに説諭《せつゆ》を加えられたり。されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑《がん》として屈《くっ》せず、他の好意をば無になして辞して帰るやいなや、直ちに三里ほど隔《へだ》たれる湯の川温泉というに到《いた》り、しこうして封書《ふうしょ》を友人に送り、此地に来れる由《よし》を報じおきぬ。罪あらば罪を得ん、人間の加え得る罪は何かあらん。事を決する元来|癰《よう》を截《き》るがごとし、多少の痛苦は忍ぶべきのみ。此地の温泉は今春以来かく大きなる旅館なども設けらるるようなりしにて、箱館《はこだて》と相関聯《あいかんれん》して今後とも盛衰《せいすい》すべき好位置に在り。眺望《ちょうぼう》のこれと指して云うべきも無けれど、かの市より此地まであるいは海浜《かいひん》に沿《そ》いあるいは田圃《たんぼ》を過ぐる路《みち》の興も無きにはあらず、空気|殊《こと》に良好なる心地して自然と愉快《ゆかい》を感ず。林長館といえるに宿りしが客あしらいも軽薄《けいはく》ならで、いと頼《たの》もしく思いたり。
 三十日、清閑《せいかん》独り書を読む。
 三十一日、微雨《びう》、いよいよ読書に妙《みょう》なり。
 九月一日、館主と共に近き海岸に到りて鰮魚《いわし》を漁する態を観《み》る。海浜に浜小屋《はまごや》というもの、東京の長家《ながや》めきて一列に建てられたるを初めて見たり。
 二日、無事。
 三日、午後箱館に至りキトに一宿す。
 四日、初めて耕海入道と号する紀州の人と知る。齢《よわい》は五十を超《こ》えたるなるべけれど矍鑠《かくしゃく》としてほとんと伏波将軍《ふくはしょうぐん》の気概《きがい》あり、これより千島《ちしま》に行かんとなり。
 五日、いったん湯の川に帰り、引かえしてまた函館に至り仮寓《かぐう》を定めぬ。
 六日、無事。
 七日、静坐《せいざ》読書。
 八日、おなじく。
 九日、市中を散歩して此地には居るまじきはずの男に行き逢《あ》いたり。何とて父母を捨て流浪《るろう》せりやと問えば、情婦のためなりと答う。帰後|独坐感慨《どくざかんがい》これを久《ひさし》うす。
 十日、東京に帰らんと欲すること急なり。されど船にて直航せんには嚢中《のうちゅう》足らずして興|薄《うす》く、陸にて行かば苦《くるし》み多からんが興はあるべし。嚢中不足は同じ事なれど、仙台《せんだい》にはその人無くば已《や》まむ在らば我が金を得べき理《ことわり》ある筋あり、かつはいささかにても見聞を広くし経験を得んには陸行にしくなし。ついに決断して青森行きの船出づるに投じ、突然《とつぜん》此地を後になしぬ。別《わかれ》を訣《つ》げなば妨《さまた》げ多からむを慮《おもんぱか》り、ただわずかに一書を友人に遺《のこ》せるのみ。
 十一日午前七時青森に着き、田中|某《ぼう》を訪《と》う。この行|風雅《ふうが》のためにもあらざれば吟哦《ぎんが》に首をひねる事もなく、追手を避《さ》けて逃《に》ぐるにもあらざれば駛急《しきゅう》と足をひきずるのくるしみもなし。さればまことに弥次郎兵衛《やじろべえ》の一本立の旅行にて、二本の足をうごかし、三本たらぬ智恵《ちえ》の毛を見聞を広くなすことの功徳《くどく》にて補わむとする、ふざけたことなり。
 十二日午前、田中某に一宴《いちえん》を餞《せん》せらるるまま、うごきもえせず飲み耽《ふけ》り、ひるいい終わりてたちいでぬ。安方町《やすかたまち》に善知鳥《うとう》のむかしを忍び、外の浜に南兵衛のおもかげを思う。浅虫というところまで村々|皆《みな》磯辺《いそべ》にて、松風《まつかぜ》の音、岸波の響《ひびき》のみなり。海の中に「ついたて」めきたる巌《いわお》あり、その外しるすべきことなし。小湊《こみなと》にてやどりぬ。このあたりあさのとりいれにて、いそがしぶる乙女《おとめ》のなまじいに紅染《べにぞめ》のゆもじしたるもおかしきに、いとかわゆき小女のかね黒々と染《そめ》ぬるものおおきも、むかしかたぎの残れるなるべしとおぼしくて奇《き》なり。見るものきくもの味《あじわ》う者ふるるもの、みないぶせし。笥《け》にもるいいを椎《しい》の葉のなぞと上品の洒落《しゃれ》など云うところにあらず。浅虫にいでゆあるよしなれど、みちなかなればいらずありき、途中《とちゅう》帽子《ぼうし》を失いたれど購《あがな》うべき余裕《よゆう》なければ、洋服には「うつり」あしけれど手拭《てぬぐい》にて頬冠《ほおかぶ》りしけるに、犬の吠《ほ》ゆること甚《はなはだ》しければ自ら無冠《むかん》の太夫《たゆう》と洒落ぬ。旅宿《やど》は三浦屋《みうらや》と云うに定めけるに、衾《ふすま》は堅《かた》くして肌《はだ》に妙ならず、戸は風|漏《も》りて夢《ゆめ》さめやすし。こし方行末おもい続けてうつらうつらと一夜をあかしぬ。
 十三日、明けて糠《ぬか》くさき飯ろくにも喰《く》わず、脚半《きゃはん》はきて走り出づ。清水川という村よりまたまた野辺地《のべち》まで海岸なり、野辺地の本町《ほんまち》といえるは、御影石《みかげいし》にやあらん幅《はば》三尺ばかりなるを三四丁の間|敷《し》き連ねたるは、いかなる心か知らねど立派なり。戸数は九百ばかりなり。とある家に入りて昼餉《ひるげ》たべけるに羹《あつもの》の内に蕈《きのこ》あり。椎茸《しいたけ》に似て香《かおり》なく色薄し。されど味のわろからぬまま喰《く》い尽《つく》しけるに、半里ほど歩むとやがて腹痛むこと大方ならず、涙《なみだ》を浮《うか》べて道ばたの草を蓐《しとね》にすれど、路上|坐禅《ざぜん》を学ぶにもあらず、かえって跋提河《ばだいが》の釈迦《しゃか》にちかし。一時《ひととき》ばかりにして人より宝丹《ほうたん》を貰《もら》い受けて心地ようやくたしかになりぬ。おそろしくして駄洒落《だじゃれ》もなく七戸《しちのへ》に腰折《こしお》れてやどりけるに、行燈《あんどう》の油は山中なるに魚油にやあらむ臭《くさ》かりける。ことさら雨ふりいでて、秋の夜の旅のあわれもいやまさりければ、


   さらぬだに物思う秋の夜を長み いねがてに聞く雨の音かな

 食うものいとおかしく、山中なるに魚のなますは蕈のためしもあれば懼《おそ》れて手もつけず、椀《わん》の中のどじょうの五分切りもかたはら痛きに、とうふのかたさは芋《いも》よりとはあまりになさけなかりければ、


   塩辛《しおから》き浮世のさまか七《しち》の戸《へ》の
     ほそきどじょうの五分切りの汁《しる》

 十四日、朝早く立《たち》て行く間なく雨しとしとふりいでぬ。きぬぎぬならばやらずの雨とも云うべきに、旅には憂《う》きことのかぎりなり。三本木もゆめ路にすぎて、五戸《ごのへ》にて昼飯す。この辺牛馬殊に多し。名物なれど喰うこともならず、みやげにもならず、うれしからぬものなりと思いながら、三の戸まで何ほどの里程《みちのり》かと問いしに、三里と答えければ、いでや一走りといきせき立《たっ》て進むに、峠《とうげ》一つありて登ることやや長けれども尽《つ》きず、雨はいよいよ強く面をあげがたく、足に出来たる「まめ」ついにやぶれて脚《あし》折るるになんなんたり。並木《なみき》の松もここには始皇をなぐさめえずして、ひとりだちの椎はいたずらに藤房《ふじふさ》のかなしみに似たり。隧道《トンネル》に一やすみす。この時またみちのりを問うに、さきの答は五十町一里なりけり。とかくして涙ながら三戸につきぬ。床《とこ》の間《ま》に刀掛《かたなかけ》を置けるは何のためなるにや、家づくりいとふるびて興あり。この日はじめて鮭《さけ》を食うにその味美なり。
 十五日、朝、雨気ありたれども思いきりて出づ。三の戸、金田一、福岡《ふくおか》と来りしが、昨日《きのう》は昼餉《ひるげ》たべはぐりてくるしみければ今日はむすび二ツもらい来つ、いで食わんとするに臨み玉子うる家あり。価を問えば六|厘《りん》と云う。三つばかり買いてなお進み行くに、路傍《ろぼう》に清水いづるところあり。椀《わん》さえ添えたるに、こしかけもあり。草を茵《しとね》とし石を卓《たく》として、谿流《けいりゅう》の※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1-90-16、90-2]回《えいかい》せる、雲烟《うんえん》の変化するを見ながら食うもよし、かつ価も廉《れん》にして妙なりなぞとよろこびながら、仰《あお》いで口中に卵を受くるに、臭《におい》鼻を突《つ》き味舌を刺《さ》す。驚《おどろ》きて吐《は》き出すに腐《くさ》れたるなり。嗽《くちそそ》ぎて嗽げども胸わろし。この度は水の椀にとりて見るにまたおなじ、次もおなじ。これにて二銭種なしとぞなりける。腹はたてども飯ばかり喰いぬ。


   鳥目《ちょうもく》を種なしにした残念さ
     うっかり買《かっ》たくされ卵子《たまご》に
   やす玉子きみもみだれてながるめり
     知りなば惜《お》しき銭をすてむや

 これより行く手に名高き浪打峠《なみうちとうげ》にかかる。末の松山を此地という説もあり。いずれに行くとも三十里余りを経《へ》ずば海に遇《あ》うことはなり難かるべし。但《ただ》し貝の化石は湯田というところよりいづるよしにて処々《ところどころ》に売る家あり、なかなか価安からず。かくてすすむほどに山路に入りこみて、鬱蒼《うっそう》たる樹、潺湲《せんかん》たる水のほか人にもあわず、しばらく道に坐《ざ》して人の来るを待ち、一ノ戸[#「一ノ戸」の「ノ」は小書き]まで何ほどあるやと問うに、十五里ばかりと答う。駭然《がいぜん》として夢か覚《うつつ》か狐子《こし》に騙《へん》せらるるなからむやと思えども、なお勇気を奮《ふる》いてすすむに、答えし男急に呼《よ》びとめて、いずかたへ行くやと云う。不思議に思いて、一の戸に行くなりと生《なま》いらえするに、彼《かれ》笑って、ああおのし、まようて損したり、福岡の橋を渡《わた》らねばならずと云う。余ここにおいていよいよ落胆《らくたん》せり。されどそのままあるべきにもあらず、日も高ければいそぎて行くに、二時《ふたとき》ばかりにして一の戸駅と云える標杭《しるしぐい》にあいぬ。またまたあやしむこと限りなし。ふたたび貝石うる家の前に出《い》で、価を問うにいと高ければ、いまいましさのあまり、この蛤《はまぐり》一升|天保《てんぽう》くらいならば一|石《こく》も買うべけれと云えば、亭主《ていしゅ》それは食わむとにやと問う。元よりなりと答う。煮《に》るかと云うに、いや生《なま》こそ殊《こと》にうましなぞと口より出まかせに饒舌《しゃべ》りちらせば、亭主、さらば一升まいらせむ、食いたまえと云う。その面《つら》つきいと真面目《まじめ》なれば逃げんとしたれども、ふと思い付きて、まず殻《から》をとりてたまわれと答えける。亭主|噴飯《ふきだ》して、さてさておかしきことを云う人よと云う。おかしさはこれのみならず、余は今日二時間ばかりにて十五里歩みぬ、またおかしからずやと云えば、亭主、否々、吾等《われら》は老《おい》たれども二時間に三十里はあゆむべしと云う。だんだん聞くに六町一里にて大笑いとなりぬ。昼めし過ぎて小繋《こつなぎ》まではもくらもくらと足引の山路いとなぐさめ難く、暮れてあやしき家にやどりぬ。きのこずくめの膳部《ぜんぶ》にてことごとく閉口す。
 十六日、朝いと早く暗き内に出で、沼宮内《ぬまくない》もつつと抜けて、一里ばかりにて足をいため、一寸余りの長さの「まめ」三個できければ、歩みにくきことこの上なけれど、休みもせず、ついに渋民《しぶたみ》の九丁ほど手前にて水飲み飯したため、涙ぐみて渋民に入りぬ。盛岡《もりおか》まで二十銭という車夫あり、北海道の馬より三倍安し。ついにのりて盛岡につきぬ。久しぶりにて女子らしき女子をみる。一体土地の風俗温和にていやしからず。中学は東京の大学に似たれど、警察署は耶蘇《やそ》天主堂に似たり。ともかくも青森よりは遥《はるか》によろしく、戸数も多かるべし。肴町《さかなまち》十三日町|賑《にぎわ》い盛《さかん》なり、八幡《はちまん》の祭礼とかにて殊更《ことさら》なれば、見物したけれど足の痛さに是非《ぜひ》もなし。この日岩手富士を見る、また北上川の源に沼宮内より逢《あ》う、共に奥州《おうしゅう》にての名勝なり。
 十七日、朝早く起き出でたるに足|傷《いた》みて立つこと叶《かな》わず、心を決して車に乗じて馳《は》せたり。郡山《こおりやま》、好地《こうち》、花巻、黒沢尻《くろさわじり》、金が崎、水沢、前沢を歴《へ》てようやく一ノ関に着す。この日行程二十四里なり。大町なんど相応の賑いなり。
 十八日、朝霧《あさぎり》いと深し。未明|狐禅寺《こぜんじ》に到り、岩手丸にて北上《きたかみ》を下る。両岸景色おもしろし。いわゆる一山|飛《とん》で一山来るとも云うべき景にて、眼|忙《いそが》しく心ひまなく、句も詩もなきも口惜《くちお》しく、淀《よど》の川下りの弥次よりは遥かに劣れるも、さすがに弥次よりは高き情をもてる故なるべしとは負惜《まけおし》みなり。登米《とよま》を過ぐる頃、女の児《こ》餅《もち》をうりに来る。いくらぞと問えば三文と答う。三毛かと問えばはいと云い、三厘かといえばまたはいと云う。なおくどく問えば怫然《ふつぜん》として、面ふくらかして去る。しばらくして石の巻に着す。それより運河に添うて野蒜《のびる》に向いぬ。足はまた腫《は》れ上りて、ひとあしごとに剣をふむごとし。苦しさ耐《た》えがたけれど、銭はなくなる道なお遠し、勤《ごん》という修行、忍《にん》と云う観念はこの時の入用なりと、歯を切《くいしば》ってすすむに、やがて草鞋《わらじ》のそこ抜けぬ。小石原にていよいよ堪《た》え難きに、雨降り来り日暮るるになんなんたり。やむをえず負える靴《くつ》をとりおろして穿《うが》ち歩むに、一ツ家のわらじさげたるを見当り、うれしやと立寄り一ツ求めて十銭札を与うるに取らず、通用は近日に廃《はい》せらるる者ゆえ厭《いと》い嫌《きら》いて、この村にては通用ならぬよしの断りも無理ならねど、事情の困難を話してたのむに、いじわる婆《ばばあ》めさらに聞き入れず。なくなく買わずにまた五六町すぎて、さても旅は悲しき者とおもいしりぬ。鴻雁《こうがん》翔天《しょうてん》の翼《つばさ》あれども栩々《くく》の捷《しょう》なく、丈夫《じょうふ》千里の才あって里閭《りりょ》に栄|少《すくな》し、十銭時にあわず銅貨にいやしめらるなぞと、むずかしき愚痴《ぐち》の出所はこんな者とお気が付かれたり。ようやくある家にて草鞋を買いえて勇を奮《ふる》い、八時半頃|野蒜《のびる》につきぬ。白魚の子の吸物《すいもの》いとうまし、海の景色も珍《めず》らし。
 十九日、夜来の大雨ようよう勢衰《いきおいおとろ》えたるに、今日は待ちに待ちたる松島見んとて勇気も日頃にましぬ。いでやと毛布《ケット》深くかぶりて、えいさえいさと高城にさしかかれば早や海原《うなばら》も見ゆるに、ひた走りして、ついに五大堂|瑞岩寺《ずいがんじ》渡月橋《とげつきょう》等うちめぐりぬ。乗合い船にのらんとするに、あやにくに客一人もなし。ぜひなく財布《さいふ》のそこをはたきて船を雇《やと》えば、ひきちがえて客一人あり、いまいましきことかぎりなし。されどおもしろき景色にめでて煩悩《ぼんのう》も軽きはいとよし。松島の景といえばただただ、松しまやああまつしまやまつしまやと古人もいいしのみとかや、一ツ一ツやがてくれけり千松島とつらねし技倆《ぎりょう》にては知らぬこと、われわれにては鉛筆《えんぴつ》の一ダース二ダースつかいてもこの景色をいい尽し得べしともおもえず。東西南北、前後左右、あるいは大あるいは小、高きあり、ひくきあり、みの亀《がめ》の尾《お》ひきたるごとき者、臥《ふ》したる牛の首あげたるごとき者あり、月島星島|桂島《かつらじま》、踞《きょ》せるがごときが布袋島《ほていじま》なら立てるごときは毘沙門島《びしゃもんじま》にや、勝手に舟子《かこ》が云いちらす名も相応に多かるべし。松吟庵《しょうぎんあん》は閑《かん》にして俳士《はいし》髭《ひげ》を撚《ひね》るところ、五大堂は寂《さ》びて禅僧《ぜんそう》尻《しり》をすゆるによし。いわんやまたこの時金風|淅々《せきせき》として天に亮々《りょうりょう》たる琴声《きんせい》を聞き、細雨|霏々《ひひ》として袂《たもと》に滴々《てきてき》たる翠露《すいろ》のかかるをや。過《すぐ》る者は送るがごとく、来《きた》るものは迎《むか》うるに似たり。赤き岸、白き渚《なぎさ》あれば、黒き岩、黄なる崖《がけ》あり。子美太白《しびたいはく》の才、東坡柳州《とうばりゅうしゅう》の筆にあらずはいかむかこの光景を捕捉《ほそく》しえん。さてそれより塩竈《しおがま》神社にもうでて、もうこの碑《ひ》、壺《つぼ》の碑《いしぶみ》前を過ぎ、芭蕉《ばしょう》の辻《つじ》につき、青葉の名城は日暮れたれば明日の見物となすべきつもりにて、知る人の許《もと》に行きける。しおがまにてただの一銭となりければ、そを神にたてまつりて、


  からからとからき浮世《うきよ》の塩釜《しおがま》で
     せんじつめたりふところの中

 はらの町にて、


  宮城野《みやぎの》の萩《はぎ》の餅《もち》さえくえぬ身の
     はらのへるのを何と仙台

 二十日、朝、曇《くも》り。午前九時知る人をたずねしに、言葉の聞きちがえにて、いと知れにくかりければ、


  いそがずはまちがえまじを旅人の
     あとよりわかる路次のむだ道

 二十一日、この日もまた我が得べき筋の金を得ず、今しばらく待ちてよとの事に逗留《とうりゅう》と決しける。
 二十二日、同じく閑窓《かんそう》読書の他なし。
 二十三日、同じく。
 二十四日、同じく。
 二十五日、朝、基督《キリスト》教会堂に行きて説教をきく。仏教もこの教も人の口より聞けば有難《ありがた》からずと思いぬ。
 二十六日、いかがなしけん頭痛|烈《はげ》しくしていかんともしがたし。
 二十七日、同じく頭痛す。
 二十八日、少許《すこし》の金と福島までの馬車券とを得ければ、因循《いんじゅん》日を費さんよりは苦しくとも出発せんと馬車にて仙台を立ち、日なお暮れざるに福島に着きぬ。途中白石の町は往時《むかし》民家の二階立てを禁じありしとかにて、うち見たるところ今なお巍然《ぎぜん》たる家無し。片倉小十郎は面白き制を布《し》きしものかな。福島にて問い質《ただ》すに、郡山より東京までは鉄路|既《すで》に通じて汽車の往復ある由《よし》なり。その乗券の価を問うにほとんど嚢中有るところと相同じければ、今宵《こよい》この地に宿りて汽車賃を食い込み、明日また歩み明後日また歩み、いつまでも順送りに汽車へ乗れぬ身とならんよりは、苦しくとも夜を罩《こ》めて郡山まで歩み、明日の朝一番にて東京に到らん方極めて妙《みょう》なり、身には邪熱《じゃねつ》あり足はなお痛めど、夜行をとらでは以後の苦みいよいよもって大ならむと、ついに草鞋穿《わらじば》きとなりて歩み出しぬ。二本松に至れば、はや夜半ちかくして、市は祭礼のよしにて賑やかなれど、我が心の淋《さび》しさ云うばかりなし。市を出はずるる頃より月明らかに前途《ゆくて》を照しくるれど、同伴者《つれ》も無くてただ一人、町にて買いたる餅《もち》を食いながら行く心の中いと悲しく、銭あらば銭あらばと思いつつようよう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何《すいか》せられて、辛《から》くも払暁《あけがた》郡山に達しけるが、二本松郡山の間にては幾度《いくど》か憩《いこ》いけるに、初めは路の傍《かたわら》の草あるところに腰《こし》を休めなどせしも、次には路央《みちなか》に蝙蝠傘《こうもりがさ》を投じてその上に腰を休むるようになり、ついには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たえ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵《たいてい》かかる光景ならんと、悲しき想像なんどを起すようなりぬ。
 二十九日、汽車の中に困悶《こんもん》して僅《わず》かに睡《ねむ》り、午後東京に辛《から》くも着きぬ。久しく見ざれば停車場より我が家までの間の景色さえ変りて、愴然《そうぜん》たる感いと深く、父上母上の我が思いなしにやいたく老いたまいたる、祖母上《ばばうえ》のこの四五日前より中風とやらに罹《かか》りたまえりとて、身動きも得《え》したまわず病蓐《びょうじょく》の上に苦しみいたまえるには、いよいよ心も心ならず驚《おどろ》き悲しみ、弟妹等の生長せるばかりにはやや嬉《うれ》しき心地すれど、いたずらに齢《よわい》のみ長じてよからぬことのみし出《いだ》したる我が、今もなお往時《むかし》ながらの阿蒙《あもう》なるに慚愧《ざんき》の情身を責《せ》むれば、他を見るにつけこれにすら悲しさ増して言葉も出でず。
                          (明治二十年八月)

底本:ちくま日本文学全集『幸田露伴』 筑摩書房
   1992(平成4)年3月20日第一刷
親本:「ちくま文学の森」筑摩書房
入力:真先芳秋
校正:丹羽倫子
1998年9月16日公開
2003年11月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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