骨董といふのは元来支那の田舎言葉で、字はたゞ其音を表はしてゐるのみであるから、骨の字にも董の字にもかゝはつた義が有るのでは無い。そこで、汨董と書かれることもあり、又古董と書かれることもある。字を仮りて音を伝へたまでであることは明らかだ。さて然し骨董といふ音が何様して古物の義になるかといふと、骨董は古銅の音転である、といふ説がある。其説に従へば、骨董は初は古銅器を指したもので、後に至つて玉石の器や書画の類まで、すべて古いものを称することになつたのである。なるほど韓駒《かんく》の詩の、「言ふ莫《な》かれ衲子《なふし》の籃《らん》に底無しと、江南の骨董を盛り取つて帰る」などといふ句を引いて講釈されると、然様かとも思はれる。江南には銅器が多いからである。しかし骨董は果して古銅から来た語だらうか、聊か疑はしい。若し真に古銅からの音転なら、少しは骨董といふ語を用ゐる時に古銅といふ字が用ゐられることが有りさうなものだのに、汨董だの古董だのといふ字がわざ/\代用されることが有つても、古銅といふ字は用ゐられてゐない。※[#「櫂のつくり」、第3水準1-90-32]晴江《てきせいかう》は通雅《つうが》を引いて、骨董は唐の引船の歌の「得董※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]那耶《とくとうこつなや》、揚州銅器多《やうしうどうきおほし》」から出たので、得董の音は骨董二字の原《もと》だ、と云つてゐる。得董※[#「糸+乞」、第3水準1-89-89]那耶は、エンヤラヤの様なもので、囃し言葉である、別に意味も無いから、定まつた字も無いわけである。其説に拠つて考へると、得董又は骨董には何の意味も無いが、古い船引き歌の其の第二句の揚州銅器多の銅器の二字が前の囃し言葉に連接してゐるので、骨董といふことが銅器などを云ふことに転じて来たことになるのである。又それから種※[#二の字点、1-2-22]の古物をも云ふことになつたのである。骨董は古銅の音転などといふ解は、本を知らずして末に就いて巧解したもので、少し手取り早過ぎた似而非《えせ》解釈といふ訳になる。
又、蘇東坡が種※[#二の字点、1-2-22]の食物を雑へ烹《に》て、これを骨董羮と曰《い》つた。其の骨董は零雑の義で、恰も我邦俗のゴッタ煮ゴッタ汁などといふゴッタの意味に当る。それも字面には別に義があるのでは無い。又、水に落つる声を骨董といふ。それもコトンと落ちる響を骨董の字音を仮りて現はしたまでで、字面に何の義も有るのでは無い。畢竟骨董はいづれも文字国の支那の文字であるが、文字の義からの文字では無く、言語の音からの文字であつて、文字は仮りものであるから、それに訓詁的のむづかしい理屈は無い。
そんな事は何様でも可いが、兎に角に骨董といふことは、貴いものは周鼎漢彝玉器《しうていかんいぎよくき》の類から、下つては竹木雑器に至るまでの間、書画法帖、琴剣鏡硯、陶磁の類、何でも彼でも古い物一切を云ふことになつてゐる。そして世におのづから骨董の好きな人が有るので、骨董を売買する所謂骨董屋を生じ、骨董の目きゝをする人、即ち鑑定家も出来、大は博物館、美術館から、小は古郵便券、マッチの貼紙の蒐集家まで、骨董畠が世界各国都鄙到るところに開かれて存在して居るやうになつてゐる。実におもしろい事で、又盛んなことで、有難い事で、意義ある事である。悪口を云へば骨董は死人の手垢の附いた物といふことで、余り心持の好いわけの物でも無く、大博物館だつて盗賊《どろばう》の手柄くらべを見るやうなものだが、そんな阿房げた論をして見たところで、野暮な談《はなし》で世間に通用しない。骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行はれるお蔭で、世界の文明史が血肉を具し脈絡が知れるに至るのであり、今までの光輝が吾曹の頭上にかゞやき、香気が我等の胸に逼つて、そして今人をして古文明を味はゝしめ、それから又古人とは異なつた文明を開拓させるに至るのである。食欲色欲ばかりで生きてゐる人間は、まだ犬猫なみの人間で、それらに満足し、若くはそれらを超越すれば、是非とも人間は骨董好きになる。云はゞ骨董が好きになつて、やつと人間並になつたので、豚だの牛だのは骨董を捻くつた例を見せてゐない。骨董を捻くり出すのは趣味性が長じて来たのである。それから又骨董は証拠物件である。で、学者も学問の種類によつては、学問が深くなれば是非骨董の世界に頭を突込み手を突込むやうになる。イヤでも黴臭いものを捻くらなければ、いつも定まりきつた書物の中をウロツイてゐる訳になるから、美術だの、歴史だの、文芸だの、其他いろ/\の分科の学者達も、有りふれた事は一[#(ト)]通り知り尽して終つた段になると、いつか知らぬ間に研究が骨董的に入つて行く。それも道理千万な談で、早い譬が、誤植だらけの活版本で何程《いくら》万葉集を研究したからとて、真の研究が成立たう訳は無い理屈だから、何様も学科によつては骨董的になるのがホントで、ならぬのがウソか横着かだ。マア此様な意味合もあつて、骨董は誠に貴ぶべし、骨董好きになるのは寧ろ誇るべし、骨董を捻くる度《ど》にも至らぬ人間は犬猫牛豚同様、誠にハヤ未発達の愍《あはれ》むべきものであると云つても可いのである。で、紳士たる以上はせめてムダ金の拾万両も棄てゝ、小町の真筆のあなめ/\の歌、孔子様の讃《さん》が金《きん》で書いてある顔回の瓢《ひさご》、耶蘇の血が染みてゐる十字架の切れ端などといふものを買込んで、どんなものだいと反身になるのもマンザラ悪くは有るまいかも知らぬ。
骨董いぢりは実にオツである、イキである。おもしろいに違ひ無い、高尚に違ひ無い、そして有意義に違ひない、そして場合によつては個人のため社会のためになる事も有るに違ひ無い。自分なぞも資産家でさへあれば屹度すばらしい贋物《がんぶつ》や贋筆を買込で大ニコ/\であるに疑ひ無い。骨董を買ふ以上は贋物を買ふまいなんぞといふ其様なケチな事で何様なるものか、古人も死馬の骨を千金で買ふとさへ云つてあるでは無いか。仇十州の贋筆は凡そ二十階級ぐらゐあるといふ談だが、して見れば二十度贋筆を買ひさへすれば卒業して真筆が手に入るのだから、何の訳は無いことだ。何だつて月謝を出さなければ物事はおぼえられない。贋物贋筆を買ふのは月謝を出すのだから、少しも不当の事では無い。扨月謝を沢山出した挙句に、いよ/\真物真筆を大金で買ふ。嬉しいに違ひ無い、自慢をしても可いに違ひ無い。嬉しがる、自慢をする。其の大金は喜悦税だ、高慢税だ。大金と云つたつて、十円の蝦蟇口から一円出すのは其人に取つて大金だが、千万円の弗箱から一万円出したつて五万円出したつて、比例をして見れば其人に取つて実は大金では無い、些少の喜悦税、高慢税といふべきものだ。そして其の高慢税は所得税などと違つて、政府へ納められて盗賊役人だかも知れない役人の月給などになるのでは無く、直に骨董屋さんへ廻つて世間に流通するのであるから、手取早く世間の融通を助けて、いくらか景気をよくしてゐるのである。野暮でない、洒落切つた税といふもので、いや/\出す税や、督促を食つた末に女房の帯を質屋へたゝき込んで出す税とは訳が違ふ金なのだから、同じ税でも所得税なぞは、道成寺では無いが、かねに恨が数※[#二の字点、1-2-22]ござる、思へば此のかね恨めしやの税で、此方の高慢税の如きは、金と花火は飛出す時光る、花火のやうに美しい勢の好い税で、出す方も、ソレ五万両、やすいものだ、と欣※[#二の字点、1-2-22]《にこ/\》として投出す、受取る方も、ハッ五万円、先づ此位のものをお納めして置きますれば私も鼻が高うございますると欣※[#二の字点、1-2-22]して受取る。悪い心持のする景色では有るまい。誰だつて高慢税は出したからうでは無いか。自分も高慢税は沢山出したい。が、不埒千万、人生五十年過ぎてもまだ滞納とは怪しからぬものだ。
此の高慢税を納めさせることをチャンと合点してゐたのは豊臣秀吉で、何といつても洒落た人だ。東山時分から高慢税を出すことが行はれ出したが、初めは銀閣金閣の主人みづから税を出してゐたのだ。まことに殊勝の心がけの人だつた。信長の時になると、もう信長は臣下の手柄勲功を高慢税額に引直して、所謂骨董を有難く頂戴させてゐる。羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》なぞも戦《いくさ》をして手柄を立てる、其の勲功の報酬の一部として茶器を頂戴してゐる。つまり五万両なら五万両に相当する勲功を立てた時に、五万両の代りに茶器を戴いてゐるのである。其の骨董に当時五万両の価値が有れば、然様いふ骨董を頂戴したのはつまり筑前守は五万両の高慢税を出して喜んでそれを買つたのと同じことである。秀吉が筑前守時代に数※[#二の字点、1-2-22]の茶器を信長から勲功の賞として貰つたことを記して居る手紙を自分の知人が持つてゐる。専門の史家の鑑定に拠れば疑ふべくも無いものだ。で、高慢税を払はせる発明者は秀吉では無くて、信長の方が先輩であると考へらるゝのであるが、大に其の税法を広行したのは秀吉である。秀吉の智謀威力で天下は大分明るくなり安らかになつた。東山以来の積勢で茶事は非常に盛んになつた。茶道にも機運といふものでがな有らう、英霊底の漢子が段※[#二の字点、1-2-22]に出て来た。松永|弾正《だんじやう》でも織田信長でも、風流も無きにあらず、余裕も有つた人で有るから、皆|茶讌《ちやえん》を喜んだ。然し大煽りに煽つたのは秀吉で有つた。奥州武士の伊達政宗が罪を堂ヶ島に待つ間にさへ茶事を学んだほど、茶事は行はれたのである。勿論秀吉は小田原陣にも茶道宗匠を随へてゐたほどである。南方外国や支那から、おもしろい器物を取寄せたり、又古渡の物、在来の物をも珍重したりして、おもしろい、味のあるものを大に尊んだ。骨董は非常の勢をもつて世に尊重され出した。勿論おもしろくないものや、味の無いものや、平凡のものを持囃したのでは無い。人をして成程と首肯点頭せしむるに足るだけの骨董を珍重したのである。食色の慾は限りがある、又それは劣等の慾、牛や豚も通有する慾である。人間はそれだけでは済まぬ。食色の慾が足り、少しの閑暇が有り、利益や権力の慾火は断えず燃ゆるにしても其れが世態漸く安固ならんとする傾を示して来て、然様無暗に修羅心に任せて※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]きまはることも無効ならんとする勢の見ゆる時に於て、何様して趣味の慾が頭を擡げずに居よう。況んや又趣味には高下も有り優劣も有るから、優越の地に立ちたいといふ優勝慾も無論手伝ふことであつて、こゝに茶事といふ孤独的で無い会合的の興味ある事が存するに於ては、誰か茶讌を好まぬものが有らう。そして又誰か他人の所有に優るところの面白い、味のある、平凡ならぬ骨董を得ることを悦ばぬ者が有らう。需《もと》むる者が多くて、給さるべき物は少い。さあ骨董が何様して貴きが上にも貴くならずに居よう。上は大名達より、下は有福の町人に至るまで、競つて高慢税を払はうとした。税率は人※[#二の字点、1-2-22]が寄つてたかつて競《せ》り上げた。北野の大茶の湯なんて、馬鹿気たことでも無く、不風流の事でも無いか知らぬが、一方から観れば天下を茶の煙りに巻いて、大煽りに煽つたもので、高慢競争をさせたやうなものだ。扨又当時に於て秀吉の威光を背後に負ひて、目眩いほどに光り輝いたものは千利休であつた。勿論利休は不世出の英霊漢である。兵政の世界に於て秀吉が不世出の人であつたと同様に、趣味の世界に於ては先づ以て最高位に立つべき不世出の人であつた。足利以来の趣味は此人によつて水際立つて進歩させられたのである。其の脳力も眼力も腕力も尋常一様の人では無い。利休以外にも英俊は存在したが、少※[#二の字点、1-2-22]は差が有つても、皆大体に於ては利休と相呼応し相追随した人※[#二の字点、1-2-22]であつて、利休は衆星の中に月の如く輝き、群魚を率ゐる先頭魚となつて悠然として居たのである。秀吉が利休を寵用したのは流石秀吉である。足利氏の時にも相阿弥其他の人※[#二の字点、1-2-22]、利休と同じやうな身分の人※[#二の字点、1-2-22]は有つても、利休ほどの人も無く、又利休が用ゐられたほどに用ゐられた人も無く、又利休ほどに一世の趣味を動かして向上進歩せしめた人も無い。利休は実に天仙の才である。自分なぞは所謂茶の湯者流の儀礼などは塵ばかりも知らぬ者で有るけれども、利休が吾邦の趣味の世界に与へた恩沢は今に至て猶存して、自分等にも加被してゐることを感じてゐるものである。斯程の利休を秀吉が用ゐたのは実に流石に秀吉である。利休は当時に於て言はず語らずの間に高慢税査定者とされたのである。
利休が佳なりとした物を世人は佳なりとした。利休がおもしろいとし、貴しとした物を、世人はおもしろいとし、貴しとした。それは利休に一毫のウソも無くて、利休の佳とし、おもしろいとし、貴しとした物は、真に佳なるもの、真におもしろい物、真に貴い物であつたからである。利休の指点したものは、それが塊然《くわいぜん》たる一陶器であつても一度其の指点を経るや金玉たゞならざる物となつたのである。勿論利休を幇《たす》けて当時の趣味の世界を進歩させた諸星の働きも有つたには相違ないが、一代の宗匠として利休は恐ろしき威力を有して、諸星を引率し、世間をして追随させたのである。それは利休のウソの無い、秀霊の趣味感から成立つたことで、何等其間にイヤな事も無い、利休が佳とし面白しとし貴しとした物は、長へに真に佳であり面白くあり貴くある物であるのであるが、然し又一面には当時の最高有力者たる秀吉が利休を用ゐ利休を尊み利休を殆んど神聖なるものとしたのが利休背後の大光※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1-87-64]《だいくわうえん》だつた事も争へない。で、利休の指の指した者は頑鉄も黄金となつたのである。点鉄成金は仙術の事だが、利休は実に霊術を有する天仙の臨凡《りんぼん》したのであつたのである。一世は利休に追随したのである。人※[#二の字点、1-2-22]は争つて利休の貴しとした物を貴しとした。これを得る喜悦、これを得る高慢のために高慢税を納めることを敢てしたのである、其の高慢税の額は間接に皆利休の査定するところであつたのである。自身は其様な卑役を取るつもりは無かつたらうが、自然の勢で自分も知らぬ間に何時か然様いふ役廻りをさせられるやうになつてゐたのである。骨董が黄金何枚何十枚、一郡一城、或は血みどろの悪戦の功労とも匹敵するやうなことになつた。換言すれば骨董は一種の不換紙幣のやうなものになつたので、そして其の不換紙幣の発行者は利休といふ訳になつたやうなものである。西郷が出したり大隈が出したりした不換紙幣は直に価値が低くなつたが、利休の出した不換紙幣は其後何百年を経て猶其価値を保つてゐる。流石に秀吉はエライ人間をつかまへて不換紙幣発行者としたもので、そして利休は又ホントに無慾で而も煉金術を真に能くした神仙であつたのである。不換紙幣は当時|何程《どれほど》世の中の調節に与つて霊力が有つたか知れぬ。其利を受けた者は勿論利休では無い、秀吉で有つた。秀吉は恐ろしい男で、神仙を駆使して吾が用を為さしめたのである。扨祭りが済めば芻狗《すうく》は不要だ。よい加減に不換紙幣が流通した時、不換紙幣発行は打切られ、利休は詰らぬ理屈を付けられて殺されて終つた。後から/\と際限無く発行されるのでは無いから、不換紙幣は長く其の価値を保つた。各大名や有福町人の蔵の中に収まりかへつてゐた。考へて見れば黄金や宝石だつて人生に取つて真価値が有るのでは無い、矢張り一種の手形ぢやまでなのであらう。徹底して観ずれば骨董も黄金も宝石も兌換券も不換紙幣も似たり寄つたりで、承知されて通用すれば樹の葉が小判でも不思議は無いのだ。骨董の佳い物おもしろい物の方が大判やダイヤモンドよりも佳くもあり面白くもあるから、金貨や兌換券で高慢税をウンと払つて、釉《くすり》の工合の妙味言ふ可からざる茶碗なり茶入なり、何によらず見処の有る骨董を、好きならば手にして楽しむ方が、暢達した料簡といふものだ。理屈に沈む秋のさびしさ、よりも、理屈をぬけて春のおもしろ、の方が好さゝうな訳だ。関西の大富豪で茶道好きだつた人が、死ぬ間際に数万金で一茶器を手に入れて、幾時間を楽んで死んでしまつた。一時間が何千円に当つた訳だ、なぞと譏《そし》る者が有るが、それは譏る方がケチな根性で、一生理屈地獄でノタウチ廻るよりほかの能の無い、理屈をぬけた楽しい天地の有ることを知らぬからの論だ。趣味の前には百万両だつて煙草の煙よりも果敢《はかな》いものにしか思へぬことを会得しないからだ。
骨董は何様考へてもいろ/\の意味で悪いものでは無い。特《こと》に年寄になつたり金持になつたりしたものには、骨董でも捻くつて貰つてゐるのが何より好い。不老若返り薬などを年寄に用ゐて貰つて、若い者の邪魔をさせるなどは悪い洒落だ。老人には老人相応のオモチャを当がつて、落ついて隅の方で高慢の顔をさせて置く方が、天下泰平の御祈祷になる。小供はセルロイドの玩器《おもちや》を持つ、年寄は楽焼の玩器を持つ、と小学読本に書いて置いても差支無い位だ。又金持は兎角に金が余つて気の毒な運命に囚へられてるものだから、六朝仏《りくてうぶつ》印度仏ぐらゐでは済度されない故、夏殷周の頃の大古物、妲己《だつき》の金盥に狐の毛が三本着いてゐるのだの、伊尹《いゐん》の使つた料理鍋、禹《う》の穿いたカナカンジキだのといふやうなものを素敵に高く買はすべきで、此《これ》は是れ有無相通、世間の不公平を除き、社会主義者だの無産者だのといふむづかしい神※[#二の字点、1-2-22]の神慮をすゞしめ奉る御神楽の一座にも相成る訳だ。
が、それはそれで可いとして、年寄でも無く、二才でも無く、金持でも無く、文無しでも無い、所謂中年中産階級の者でも骨董を好かぬとは限らない。斯様いふ連中は全く盲人《めくら》といふでも無く、さればと云つて高慢税を進んで沢山納め奉るほどの金も意気も無いので、得て中有に迷つた亡者のやうになる。ところが書画骨董に心を寄せたり手を出したりする者の大多数は此の連中で、仕方が無いから此の連中の内で聡明でも有り善良でも有る輩《やから》は、高級骨董の素晴らしい物に手を掛けたく無い事は無いが、それは雲に梯《かけはし》の及ばぬ恋路みたやうなものだから、矢張り自分等の身分相応の中流どころの骨董で楽しむことになる。一番聡明善良なるものは分科的専門的にして、自分の関係しようとする範囲を成るべく狭小にし、そして歳月を其中で楽しむ。所謂一
一ト筋を通し、一ト流れを守つて、画なら画で何派の誰を中心にしたところとか、陶器なら陶器で何窯《なにがま》の何時頃とか、書なら書で儒者の誰※[#二の字点、1-2-22]とか、蒔絵なら蒔絵で極古いところとか近いところとか、と云ふやうに心を寄せ手を掛ける。此の「筋の通つた蒐集研究をする」これは最も賢明で本当の仕方であるから、相応に月謝さへ払へば立派に眼も明き味も解つて来て、間違無く、最も無難に清娯を得る訳だから論は無い。しかるに又大多数の人々はそれでは律義過ぎて面白くないから、コケが東西南北の水転《みづてん》にあたるやうに、雪舟くさいものにも眼を遣れば応挙くさいものにも手を出す、歌麿がゝつたものにも色気を出す、大雅堂や竹田ばたけにも鍬を入れたがる、運が好ければ韓幹《かんかん》の馬でも百円位で買はふ気で居り、支那の笑話にある通り、杜荀鶴《とじゆんかく》の鶴の画なんといふ変なものをも買はぬとは限らぬ勢で、それでも画のみならまだしもの事、彫刻でも漆器でも陶器でも武器でも茶器でもといふやうに気が多い。左様いふ人々は甚だ少く無いが、時に気の毒な目を見るのも左様いふ人々で、悪気は無くとも少し慾気が手伝つてゐると、百貨店で品物を買つたやうな訳では無い目にも自業自得で出会ふのである。中には些《ちと》性《しやう》が悪くて、骨董商の鼻毛を抜いて所謂掘出物をする気になつてゐる者もある。骨董商は一寸取片付けて澄まして居るものだが、それだつて何も慈善事業で店を開いてゐる訳では無い、其道に年期を入れて資本を入れて、それで妻子を過してゐるのだから、三十円のものは口銭や経費に二十円遣つて五十円で買ふつもりでゐれば何の間違は無いものを、五十円のものを三十円で買ふ気になつて居ては世の中がスラリとは行かない。五円のものを三十円で売附けられるやうなことも、罷り間違へば出来ることになる道理だ。それを弥《いや》が上にもアコギな掘出し気で、三円五十銭で乾山の皿を買はうなんぞといふ図※[#二の字点、1-2-22]しい料簡を腹の底に持つて居たとて、何の、乾也だつて手に入る訳は有りはしない。勧業債券は一枚買つて千円も二千円もになる事は有つても、掘出しなんといふことは先以て無かるべきことだ。悪性の料簡だ、劣等の心得だ、そして暗愚の意図といふものだ。然るに骨董いぢりをすると、骨董には必ず何程かの価があり金銭観念が伴ふので、知らず識らずに賤しく無かつた人も掘出し気になる気味のあるものである。これは骨董のイヤな箇条の一つになる。
掘出し物といふ言葉は元来が忌はしい言葉で、最初は土中|冢中《ちようちゆう》などから掘出した物といふことに違ひ無い。悪い奴が棒一本か鍬一挺で、墓など掘つて結構なものを得る、それが即ち掘出物で、怪しからぬ次第だ。伐墓といふ語は支那には古い言葉で、昔から無法者が貴人などの墓を掘つた。今存してゐる三略は張良の墓を掘つて彼が黄石公から頂戴したものをアップしたといふ伝説だが、三略は然様して世に出たものでは無い。全く偽物だ。然し古い立派な人の墓を掘ることは行はれた事で、明の天子の墓を悪僧が掘つて種※[#二の字点、1-2-22]の貴い物を奪ひ、おまけに骸骨を足蹴にしたので罰が当つて脚疾になり、其事遂に発覚するに至つた読むさへ忌はしい談は雑書に見えて居る。発掘さるゝを厭つて曹操は多くの偽塚を造つて置いたなどといふことは、近頃の考証で然様では無いと分明したが、王安石などさへ偽塚の伝説を信じて詩を作つたりして居たところを見ると、伐墓の事は随分めづらしいことで無かつたことが思はれる。支那の古俗では、身分のある死者の口中には玉を含ませて葬ることもあるのだから、酷い奴は冢中の宝物から、骸骨の口の中の玉まで引ぱり出して奪ふことも敢てしようとしたことも有らう。※[#「さんずい+維」、第3水準1-87-26]県《ゐけん》あたりとか聞いたが、今でも百姓が冬の農暇になると、鋤鍬を用意して先達を先に立てゝ、あちこちの古い墓を捜しまはつて、所謂掘出し物|※[#「てへん+峠のつくり」、第3水準1-84-76]《かせ》ぎをするといふ噂を聞いた。虚談では無いらしい。日本でも時々飛んでもないことをする者があつて、先年西の方の某国で或る貴い塋域《えいゐき》を犯した事件といふのが伝へられた。聞くさへ忌はしいことだが、掘出し物といふ語は無論かういふ事に本づいて出来た語だから、苟も普通人的感情を有してゐる者の使ふべきでも思ふべきでも無い語であり事である。それにも関はらず掘出し物根性の者が多く、蚤取り眼、熊鷹目で、内心大掘出しを仕度がつてゐる。人が少し悪い代りに虫が大に好い談である。然様いふ人間が多いから商売が険悪になつて、西の方で出来たイカサマ物を東の方の田舎へ埋めて置いて、掘出し党に好い掘出しを仕たつもりで悦ばせて、そして釣鉤へ引掛けるなどといふ者も出て来る。京都出来のものを朝鮮へ埋めて置いて、掘出させた顔で、チャンと釣るなぞといふケレン商売も始まるのである。若し真に掘出しをする者が有れば、それは無頼溌皮の徒で無ければならぬ。又其の掘出物を安く買つて高く売り、其間に利を得る者があれば、それは即ち営業税を払つてゐる商売人で無ければならぬ。商売人は年期を入れ資本を入れ、海千山千の苦労を積んでゐるのである。毎日々々真剣勝負をするやうな気になつて、長い物、悪い物、二番手、三番手、いづれ結構上々の物は少い世の中に、一ト眼見損へば痛手を負はねばならぬ瀬に立つて、いろ/\さまざまあらゆる骨董相応の値ぶみを間違はず付けて、そして何がしかの口銭を得ようとするのが商売の正しい心掛である。何様して油断も隙もなりはしない。波の中に舟を操つてゐるやうなものである。波瀾重畳が此の商買の常である。そこへ素人が割込んだとて何が出来よう。今此の波瀾重畳険危な骨董世界の有様を想見するに足りる談を一寸示さう。但しいづれも自分が仮設したので無い、出処は有るのである。所謂「出」は判然《はつきり》してゐるので、御所望ならば御明かし申して宜しいのです。ハヽヽ。
これは二百年近く古い書に見えてゐる談である。京都は堀川に金八といふ聞えた道具屋があつた。此の金八が若い時の事で、親父にも仕込まれ、自分も心の励みの功を積んだので、大分に眼が利いて来て、自分ではもう内※[#二の字点、1-2-22]、仲間の者にもヒケは取らない、立派な一人前の男になつた積りでゐる。実際また何から何までに渡つて、随分に目も届けば気も働いて、もう親父から店を譲られても、取りしきつて一人で遣つて行かれるほどに成つてゐたのである。併し何家《どこ》の老人《としより》も同じ事で、親父は其の老成の大事取りの心から、且は有余る親切の気味から、まだ/\位に思つてゐた事であらう、依然として金八の背後《うしろ》に立つて保護してゐた。
金八が或時大阪へ下つた。其の途中深草を通ると、道に一軒の古道具屋があつた。そこは商買の事で、一寸一[#(ト)]眼見渡すと、時代蒔絵の結構な鐙《あぶみ》がチラリと眼についた。ハテ好い鐙だナ、と立留つて視ると、如何にも時代といひ、出来といひ、中※[#二の字点、1-2-22]めつたには無い好いものだが、残念なことには一方しか無かつた。揃つて居れば、勿論こんな店にあるべきものでは無い筈だが、それにしても何程《いくら》といふだらうと、価を聞くと、ほんの端金だつた。アヽ、一対なら、おれの腕で売れば慥に三十両にはなるものだが、片方では仕方が無い、少しの金にせよ売物にならぬものを買つたつて何様もならぬと、何とも云へない其鐙の好い味に心は惹かれながら、振返つては見つゝも思ひ捨てゝ買はずに大阪へと下つた。いくら好い物でも商売にならぬものを買はなかつたところは流石に宜かつた。ところが、それから道の程を経て、京橋辺の道具屋に行くと、偶然と云はうか天の引合せと云はうか、たしかに前の鐙と同じ鐙が片方あつた。ン、これが別れ/\て両方後家になつてゐたのだナ、しめた、これを買つて、深草のを買つて、両方合はせれば三十両、と早くも腹の中で笑を含んで、価を問ふと片方の割合には高いことを云つて、これほどの物は片方にせよ稀有のものだからと、中※[#二の字点、1-2-22]廉くない。仕方が無いから割に高いけれども、腹の中に目的があるので、先方の云ひ値で買つて、吾が家へ帰ると直に此話をした、勿論親父に悦ばれるつもりであつた。すると親父は悦ぶどころか大怒りで、「たはけづらめ、慾に気が急いて、鐙の左右にも心を附けずに買ひ居つたナ」と罵られた。金八も馬鹿ぢや無かつた。ハッと気が付いて、「しまつた。向後《きやうこう》気をつけます、御免なさいまし」と叩頭したが、それから「片鐙の金八」といふ渾名を付けられたといふことである。これは、もとより片方しか無かつた鐙を、深草で値を付けさせて置いて、捷径《ちかみち》のまはり道をして同じ其鐙を京橋の他の店へ埋めて置いて金八に掘出させたのだ。心さへ急かねば謀られる訳は無いが、他人に仕て遣られぬ前にといふのと、なまじ前に熟視して居て、テッキリ同じ物だと思つた心の虚といふものとの二ツから、金八ほどの者も右左を調べることを忘れて、一盃食はせられたのである。親父は流石に老功で、後家の鐙を買合せて大きい利を得る、そんな甘い事が有るものでは無いといふところに勘を付けて、直に右左の調べに及ばなかつたナと、紙燭をさし出して慾心の黒闇を破つたところは親父だけあつたのである。勿論深草を尋ねても鐙は無くつて、片鐙の浮名だけが金八の利得になつたのである。昔と今とは違ふが、今だつて信州と名古屋とか、東京と北京とかの間で此手で謀られたなら、慾気満々の者は一服頂戴せぬとは限るまい。片鎧の金八は一寸おもしろい談だ。
も一ツ古い談をしようか、これは明末《みんまつ》の人の雑筆に出てゐるので、其の大分に複雑で、そして其談中に出て来る骨董好きの人※[#二の字点、1-2-22]や骨董屋の種々の性格、風貌《ふうぼう》がおのづと現はれて、且又高貴の品物に搦む愛着や慾念の表裏が如何様に深刻で険危なものであるといふことを語つて居る点で甚だ面白いと感ずるのみならず、骨董といふものに就て一種の淡い省悟《せいご》を発せしめられるやうな気味があるので、自分だけかは知らぬが興味有ることに覚える。談の中に出て来る人※[#二の字点、1-2-22]には名高い人々も有り、勿論虚構の談では無いと考へられるのである。
定窯《ていえう》といへば少し骨董好きの人なら誰でも知つてゐる貴い陶器だ。宋の時代に定州で出来たものだから定窯といふのである。詳しく言へば其中にも南定と北定とあつて、南定といふのは宋が金に逐はれて南渡してからのもので、勿論其前の北宋の時、美術天子の徽宗皇帝の政和|宣和《せんな》頃、即ち西暦千百十年頃から二十何年頃までの間に出来た北定の方が貴いのである。又、新定といふものがあるが、それは下つて元の頃に出来たもので、ほんとの定窯では無い。北定の本色は白で、白の※[#「さんずい+幼」、170-下-17]水《いうすゐ》の加はつた工合に、何とも云へぬ面白い味が出て、然程に大したもので無くてさへ人を引付ける。
ところが、こゝに一つの定窯の宝鼎があつた。それは鼎のことであるから蓋し当時宮庭へでも納めたものであつたらう、精中の精、美中の美で、実に驚くべき神品であつた。はじめ明の成化弘治の頃、朱陽の孫氏が山水山房に蔵してゐた。曲水山房主人孫氏は大富豪で、そして風雅人鑑賞家として知られた孫七峯《そんしちほう》とつゞき合で、七峯は当時の名士であつた楊文襄《やうぶんじやう》、文太史《ぶんたいし》、祝京兆《しゆくけいてう》、唐解元《たうかいげん》、李西涯《りせいがい》等《とう》と朋友《ともだち》で、七峯の居たところの南山で、正徳十五年七峯が蘭亭の古のやうに修禊《しうけい》の会をした時は、唐六如が図をつくり、兼ねて長歌を題した位で、孫氏は単に大富豪だつたばつかりで無かつたのである。そこで其の定窯の鼎の台座には、友人だつた李西涯が篆書《てんしよ》で銘を書いて、鐫《ゑ》りつけた。李西涯の銘だけでも、今日は勿論の事、当時でも珍重したものであつたらう。然様いふスバらしい鼎だつたのである。
ところが嘉靖《かせい》年間に倭寇に荒されて、大富豪だけに孫氏は種※[#二の字点、1-2-22]の点で損害を蒙つて、次第※[#二の字点、1-2-22]※[#二の字点、1-2-22]に家運が傾いた。で、蓄へてゐたところの珍貴な品※[#二の字点、1-2-22]を段々と手放すやうになつた。鼎は遂に京口の※[#「革+斤」、第3水準1-93-77]尚宝《きしやうはう》の手に渡つた。それから毘陵《びりよう》の唐太常凝菴《たうたいじやうぎようあん》が非常に懇望して、とう/\凝菴の手に入つたが、此の凝菴といふ人は、地位もあり富力もある上に、博雅で、鑒織《かんしき》にも長け、勿論学問も有つた人だつたから、家には非常に多くの優秀な骨董を有して居た。然し孫氏旧蔵の白定窯鼎が来るに及んで、諸の窯器《えうき》は皆其の光輝を失つたほどであつた。そこで天下の窯器を論ずる者は、唐氏凝菴の定鼎を以て、海内《かいだい》第一、天下一品とすることに定まつてしまつた。実際無類絶好の奇宝で有り、そして一見した者と一見もせぬ者とに論無く、衆口、嘖々《さく/\》として云伝へ聞伝へて羨涎を垂れるところのものであつた。
こゝに呉門の周丹泉《しうたんせん》といふ人があつた。心慧思霊の非常の英物で、美術骨董にかけては先づ天才的の眼も手も有して居た人であつたが、或時|金※[#「門<昌」、第3水準1-93-51]《きんしやう》から舟に乗り、江右に往く、道に毘陵を経て、唐太常に拝謁を請ひ、そして天下有名の彼の定鼎の一覧を需めた。丹泉の俗物で無いことを知つて交つてゐた唐氏は喜んで引見して、そして其需に応じた。丹泉はしきりに称讃して其鼎をためつすがめつ熟視し、手をもつて大さを度《はか》つたり、ふところ紙に鼎の紋様を模《うつ》したりして、斯様いふ奇品に面した眼福を喜び謝したりして帰つた。そしてまた舟を出して自分の旅路に上つてしまつた。
それから半歳余り経《たつ》た頃、また周丹泉が唐太常をおとづれた。そして丹泉は意気安閑として、過ぐる日の礼を述べた後、「御秘蔵のと同じやうな白定鼎をそれがしも手に入れました」と云つた。唐太常は吃驚した。天下一品と誇つてゐたものが他所にも有つたといふのだからである。で、「それならば其品を視せて下さい」といふと、丹泉は携へて来てゐたのであるから、異議なく視せた。唐は手に取つて視ると、大きさから、重さから、骨質から、釉色《いうしよく》の工合から、全く吾が家のものと寸分|達《たが》はなかつた。そこで早速自分の所有のを出して見競べて視ると、兄弟が※[#「戀」の「心」に代えて「子」、第4水準2-5-91]生《ふたご》か、いづれをいづれとも言ひかねるほど同じものであつた。自分のの蓋を丹泉の鼎に合せて見ると、しつくりと合する。台座を合せて見ても、又それが為に造つたもののやうにぴたりと合ふ。愈々驚いた太常は溜息を吐かぬばかりになつて、「して君の此の定鼎は何様いふところからの伝来である」と問うた。すると丹泉は莞爾《につこ》と笑つて、「此の鼎は実は貴家から出たのでござりまする。嘗て貴堂に於て貴鼎を拝見しました時、拙者は其の大小軽重|形貌《けいばう》精神、一切を挙げて拙者の胸中に了※[#二の字点、1-2-22]と会得しました。そこで実は倣《なら》つて之を造りましたので、有り体に申します、貴台を欺くやうなことは致しませぬ」と云つた。丹泉は元来|毎々《つね/″\》江西の景徳鎮《けいとくちん》へ行つては、古代の窯器の佳品の模製を良工に指図しては作らせて、そして所謂掘出し好きや、比較的低い銭で高い物を買はうとする慾張りや、訳も分らぬ癖に金銭づくで貴い物を得ようとする耳食者流の目をまはさせて居たもので、其の製作は款紋色沢、すべて咄々として真に逼つたものであつたのである。恐ろしい人も有つたもので、明の頃に既に斯様いふ人が有つたのであるから、今日でも此人の造らせた模品が北定窯だの何だのと云つて何処かの家に什襲珍蔵されて居ぬとは限るまい。扨、周の談を聞いて太常は又今頃に歎服した。で、「それならば此の新鼎は自分に御譲りを願ふ、真品と共に秘蔵して永く副品としますから」といふので、四十金を贈つたといふことである。無論丹泉は其後復同じ品を造りはしなかつたので有らう。
此談だけでも可なり骨董好きは教へられるところが有らうが、談はまだ続くのである。それから年月を経て、万暦の末年頃、淮安《わいあん》に杜九如《ときうじよ》といふものが有つた。これは商人で、大身上で、素敵な物を買出すので名を得てゐた。千金を惜まずして奇玩を是れ購ふので、董元宰《たうげんさい》の旧蔵の漢玉章、劉海日の旧蔵の商金鼎なんといふものも、皆杜九如の手に落ちた位である。此の杜九如が唐太常の家に在る定鼎の噂を聞いて居て、かね/″\何様かして手に入れたいものだと覗つてゐた。太常の家は孫の代になつて、君兪《くんゆ》といふものが当主であつた。君兪は名家に生れて、気位も高く、且つ豪華で交際を好む人であつたので、九如は大金を齎らして君兪の為に寿を為し、是非とも何様か名高い定鼎を拝見して、生平の渇望を慰したいと申出した。君兪は金で面を撲《は》るやうな九如を余り好みもせず、且つ自分の家柄からして下眼に視たことでゞも有らう、ウン御覧に入れませうと云つて半分冗談に、真鼎は深蔵したまゝ、彼の周丹泉が倣造した副の方の贋鼎《がんてい》を出して視せた。贋鼎だつて、最初真鼎の持主の凝菴が歎服した位のものでは有り、まして真鼎を目にしたことは無い九如であるから、贋物と悟らうやうは無い、すつかり其の高雅妙巧の威に撲たれて終つて、堪らない佳い物だと思ひ込んで惚れ/″\した。そこで無理やりに千金を押付て、別に二百金を中間に立つて取做して呉れる人に酬ひ、そして贋鼎を豪奪するやうにして去つた。巧偸豪奪といふ語は、宋の頃から既に数※[#二の字点、1-2-22]《しば/\》見える語で、骨董好きの人※[#二の字点、1-2-22]には豪奪といふことも自然と起らざるを得ぬことである。マアそれも恕すべきこととすれば恕すべきことである。
然し君兪の方では困ることであつた。何故と云へば持つて行かれたのが真物では無いからである。君兪は最初は気位の高いところから、町人の腹ッぷくれなんぞ何だといふ位のことで贋物を真顔で視せたのであるが、元来が人の悪い人でも何でも無く温厚の人なので、欺いたやうになつたまゝ済ませて置くことは出来ぬと思つた。そこで門下の士を遣つて、九如に告げさせた。「君が取つて行つたものは実は贋鼎である。真の定鼎はまだ此方に蔵してあるので、それは太常公の戒に遵《したが》つて軽※[#二の字点、1-2-22]しく人に示さぬことになつてゐるから御視せ申さなかつたのである。然るに君が既に千金を捐《す》てゝ贋品を有つてゐるといふことになると、君は知らなくても自分は心に愧ぢぬといふ訳にはゆかぬでは無いか。何様か彼の鼎を還して下さい、千金は無論御返しするから」と理解させたのである。ところが世間に得て有るところの例で、品物を売る前には金が貴く思へて品物を手放すが、手放して了ふと其物の無いのが淋しくなり、それに未練が出て取返したくなるものである。杜九如の方ではテッキリそれだと思つたから、贋物だつたなぞといふのは口実だと考へて、約束変改をしたいのが本心だと見た。そこで、「何様いたしまして。あの様な贋物が有るものではございますまい。仮令贋物にしましたところで、手前の方では結構でございます、頂戴致して置きまして後悔はございません」とやり返した。「そんなに此方の言葉を御信用が無いならば、二つの鼎を列べて御覧になつたらば如何です」と一方は云つたが、それでも一方は信疑相半して、「当方は何様しても頂戴して置きます」と意地張つた。そこで唐君兪は遂に真鼎を出して、贋鼎に比べて視せた。双方とも立派なものでは有るが、比べて視ると、神彩霊威、もとより真物は世間に二ツとあるべきで無いところを見《あら》はした。然し杜九如も前言の手前、如何ともしようとは云はなかつた。つまり模品だといふことを承知しただけに止まつて、返しはし無かつた。九如の其時の心の中は傍《はた》からは中※[#二の字点、1-2-22]面白く感ぜられるが、当人に取つては随分変なもので有つたらう。然し此の委曲を世間が知らう筈は無い、九如の家には千金に易へた宝鼎が伝はつたのである。九如は老死して、其子がこれを伝へて有つてゐた。
王廷珸《わうていご》字《あざな》は越石《ゑつせき》と云ふ者が有つた。これは片鐙を金八に売りつけたやうな性質の良く無い骨董屋であつた。この男が杜九如の家に大した定鼎の有ることを知つてゐた。九如の子は放蕩もので有つたので、花柳の巷に大金を捨てゝ、家も段※[#二の字点、1-2-22]に悪くなつた。そこへ付込んで廷珸は杜生に八百金を提供して、そして「御返金にならない場合でも御宅の窯鼎《えうてい》さへ御渡し下されば」といふことを云つて置いた。杜生はお坊さんで、延珸の謀つた通りになり、鼎は廷珸の手に落ちて了つた。廷珸は大喜びで、天下一品、価値万金なんどと大法螺を吹立て、かねて好事《かうず》で鳴つてゐる徐六岳《じよりくがく》といふ大紳に売付けにかゝつた。徐六岳を最初から延珸は好い鳥だと狙つて居たのであらう。ところが徐はあまり延珸が狡譎《かうきつ》なのを悪んで、横を向いて了つた。延珸はアテがはづれて困つたが仕方が無かつた。もとよりヤリクリをして、狡辛《こすから》く世を送つてゐるものだから、嵌め込む目的《あて》が無い時は質に入れたり、色気の見える客が出た時は急に質受けしたり、十余年の間といふものは、まるで碁を打つやうなカラクリを仕てゐた其の間に、同じやうな族類系統の肖《に》たものをいろ/\求めて、何様かして甘い汁を啜らうとして居た。其中に泰興の季因是《きいんぜ》といふ、相当の位地のある者が延珸に引かゝつた。
季因是もかねて唐家の定窯鼎の事を耳にしてゐた。勿論見た事も無ければ、詳しい談を聞いてゐたのでも無い。たゞ其の名に憧れて、大した名物だといふことを知つて居たに過ぎない。延珸は因是の甘いお客だといふことを見抜いて、「これが其の宝器でございまして、これ/\の訳で出たものでございまする」と宜い加減な伝来のいきさつを談して、一つの窯鼎を売りつけた。それも自分が杜生から得た物を売つたのならまだしもであつて、贋鼎にせよ周丹泉の立派な模品であるから宜いが、似ても似つかぬ物で、しかも形さへ異つてゐる方鼎であつた。然し季因是はまるで知らなかつたのだから、廷珸の言に瞞着されて、大名物を得る悦びに五百金といふ高慢税を払つて、大ニコ/\で居た。
然るに毘陵の趙再思《てうさいし》といふ者が、偶然泰興を過ぎたので、知合で有つたから季因是の家をおとづれた。毘陵は即ち唐家の在るところの地で、同じ毘陵の者であるから、趙再思も唐家に遊んだことも有つて、彼の大名物の定鼎を見たことも有つたのである。其の毘陵の人が来たので、季因是は大天狗で、「近ごろ大した物を手に入れましたが、それは乃ち唐氏の旧蔵の名物で、わざとにも御評鑒《ごひやうかん》を得たいと思つて居りましたところを、丁度御光来を得ましたのは誠に仕合せで」と云ふ談だ。趙再思はたゞハイ/\と云つてゐると、季は重ねて、「唐家の定窯の方鼎は、君も曾て御覧になつたことが御有りですか」と云つた。そこで趙は堪へかねて笑ひ出して、「何と仰《おつし》あります、唐氏の定鼎は方鼎ではございませぬ、円鼎で、足は三つで、方鼎と仰あるが、それは何で」と答へた。季因是はこれを聴くと怫然として奥へ入つて了つて久しく出て来なかつた。趙再思は仕方無しに俟つてゐると、暮方になつて漸く季は出て来て、余怒猶ほ色に在るばかりで、「自分に方鼎を売付けた王廷珸といふ奴めは人を馬鹿にした憎い奴、南科の屈静源は自分が取立てたのですから、今書面を静源に遣はしました。静源は自分の為に此の一埒を明けて呉れませう」といふことであつた。果して屈静源は有司に属して追理しようとしたから、王廷珸は大しくじりで、一目散に姿を匿して仕舞つて、人をたのんで詫を入れ、別に偽物などを贈つて、やつと牢獄《らうや》へ打込まれるのを免れた。
談はこれだけで済んでも、可なり可笑味も有り憎味も有つて沢山なのであるが、まだ続くから愈ゝ変なものだ。延珸の知合に黄※[#二の字点、1-2-22]石、名は正賓といふものがあつた。廷珸と同じ徽州《きしう》のもので、親類つゞきだなど云つてゐたが、此男は※[#「てへん+晉」、第3水準1-84-87]紳《しんしん》の間にも遊び、少しは鼎彝《ていい》書画の類をも蓄へ、又少しは眼もあつて、本業といふのでは無いが、半黒人で売つたり買つたりも仕ようといふ男だ。斯様いふ男は随分世間にも有るもので、雅のやうで俗で、俗のやうで物好でも有つて、愚のやうで怜悧《りこう》で、怜悧のやうで畢竟は愚のやうでもある。不才の才子である。此の正賓はいつも廷珸と互に所有の骨董を取易へごとをしたり、売買の世話をしたりさせたりして、そして面白がつてゐた。此男が自分の倪雲林の山水一幅、すばらしい上出来なのを延珸に託して売つて貰はうとしてゐた。価は百二十金で、一寸は無い程のものだつた。で、延珸の手へ託しては置いたが、金高ものでもあり、口が遠くて長くなる間に、何様な事が起らぬとも限らぬと思つたので、そこで中※[#二の字点、1-2-22]ウッカリして居ぬ男なので、其幅の知れないところへ予じめ自分の花押《くわあふ》を記して置いて、勿論延珸にも其事は秘して居つたのである。廷珸は其の雲林を見ると素敵に好いので、欲しくなつて堪らなかつた。で、上手な贋筆かきに頼んで、すつかり其通りの模本をこしらへさせた。正賓が取返しに来た時、米元章流の巧偸をやらかして、※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1-84-88]本《もほん》の方を渡して知らん顔をきめようと云ふのであつた。ところが先方にも荒神様が付いてゐない訳では無くて、チャント隠し印のあることには気が付かなかつたのである。斯様いふイキサツだから何時まで経つても売れない。そこで正賓は召使の男を遣つて、雲林を取返して来いと云付けた。隠し印のことは無論男に呑込ませたのである。此の男の王仏元といふのも、平常《いつも》主人等の五分もすかさかいところを見聞して知つてゐるので、中々賢くなつてゐる奴だつた。で、仏元は延珸のところへ往つて、雲林を返して下さいと云ふと、廷珸は承知して一幅を返した。一幅は何も彼も異つては居なかつた。しかし仏元は隠しじるしの有り処に就いて其の有無を査べた。不思議や主人の花押は影も形も無かつた。無い筈である、延珸が今渡したものは正しく※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1-84-88]品なのであるもの。
仏元は扨こそと腹の中でニヤリと笑つた。ところで此男がまた真剣白刃取りを奉書の紙一枚で遣付けようといふ男だつたから、これは怪しからん、模本贋物を御渡しになるとは、と真正面から此方の理屈の木刀を揮つて先方の毒悪の真剣と切結ぶやうな不利なことをする者では無かつた。何でも無い顔をして模本の雲林を受取つた。敵の真剣を受留めはしないで、澄まして体を交はして危気の無いところに身を置いたのである。そして斯様いふことを言つた。「主人はたゞ私に画を頂戴して参れとばかりでは無く、こちらの定窯鼎をお預かり致してまゐれ、御直段の事はいづれ御相談致しますといふことで」と云つた。定鼎の売れ口が有りさうな談である。そこで延珸は悦んで例の鼎を出して仏元に渡した。延珸は仏元に、より長い真剣を渡して終つたのである。
そこへ正賓は遣つて来た。そして画を検査してから、「售《う》れないなら售れないで、原物を返して呉れるべきに、狡いことをしては困る」と云ふと、「飛んでも無い、正しくこれは原物で」と延珸は云ひ張る。「イヤ、然様は脱けさせない。自分は隠しじるしを仕て置いた、それが今何処に在る。ソンナ甘い手を食はせられる自分ぢやない」と云ふ。「そりや云掛りといふもので、原物を返せば論は無い筈だ」と云ふ。双方負けず劣らず遣合つて、チャン/\バラと闘つたが、仏元は左右の指を鼎の耳へかけて、此鼎を還すまじいさまをして居た。論に勝つても鼎を取られては詰らぬと気のついた延珸は、スキを見て鼎を奪取らうとしたが、耳をしつかり持つてゐたのだつたから、巧くは奪へなかつた。耳は折れる、鼎は地に墜ちる。カチャンといふ音一ツで、千万金にもと思つて居たものは粉砕してしまつた。ハッと思ふと憤恨一時に爆裂した廷珸は、夢中になつて当面の敵の正賓にウンと頭撞《づつ》きを食はせた。正賓は肋を傷けられて卒倒し、一場は無茶苦茶になつた。
元来正賓は近年逆境に居り、且又不如意で、惜しい雲林さへ放さうとして居た位のところへ、廷珸の侮りに遭ひ、物は取上げられ、肋は傷けられたので、鬱悶苦痛一時に逼り、越夕《ゑつせき》して終に死んで仕舞つた。延珸も人命沙汰になつたので土地には居られないから、出発して跡を杭州にくらました。周丹泉の造つた模品はこれで土に返つた訳である。
談はもうこれで沢山であるのに、まだ続くから罪が深い。延珸が前に定窯の鼎類数種を蒐《あつ》めた中に、猶ほ唐氏旧蔵の定鼎と号して大名物を以て人を欺くべきものが有つた。延珸は杭州に逃げたところ、当時※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王が杭州に寓して居られた。延珸は※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王の承奉兪啓雲といふ者に遇つて、贋鼎を出して示して、これが唐氏旧蔵の大名物と誇耀した。そして※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王に手引して貰つて、手取り千六百金、四百金を承奉に贈ることにして、二千金で売付けた。時はもう明末にかゝり、万事不束で、人も満足なものも無かつたので、一厨役の少し麁※[#「滷-さんずい」、第3水準1-83-35]《そろ》なものに其鼎を蔵した管龠《くわんやく》を扱はせたので、其男があやまつて其の贋鼎の一足を折つて仕舞つた。で、其男は罪を懼れて身を投げて死んで終つた。其頃大兵が杭州に入り来たつて、※[#「さんずい+路」、第3水準1-87-11]王は奔り、承奉は廃鼎を銭塘江《せんたうかう》に沈めて仕舞つたといふ。
これで此の一条の談は終りであるが、骨董といふものに附随して随分種※[#二の字点、1-2-22]の現象が見られることは、ひとり此の談のみの事では有るまい。骨董は好い、骨董はおもしろい。たゞし願はくはスラリと大枚な高慢税を出して楽みたい。廷珸や正賓のやうな者に誰しも関係したくは思ふまい。それからまた、何程《いくら》詰らぬ人にだつて、鼎の足を折つたために身を投げて貰つたりなぞしたくは有るまい。
(大正十五年十一月「改造」)
底本:「日本現代文學全集 6 幸田露伴集」講談社
1963(昭和38)年1月19日初版第1刷発行
1980(昭和55)年5月26日増補改訂版第1刷
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字、旧仮名にあらためました。
※底本中164頁2段5行の「骨董羮」に《い》とルビがふってありますが、異本では《こつとうかん》となっているのでルビは削除しました。
※底本中167頁2段10行の「釉の工合《くすり》の」は異本を参照し、「釉《くすり》の工合の」としました。
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校正:浅原庸子
2007年11月9日作成
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