龍土會といつても誰も知る人のないぐらゐに、いつしか影も形もひそめてしまつてゐる。そのやうに會はたとへ消滅したものであるにしても、會員であつた人々は殘つてゐなくてはならないが、さて自分が會員であつたと名のりを揚げる特志者はまづ無いといつてよいだらう。然しどうやら會合のやうなものが存在して、そこへ最初から出席した二三のものには、今日でもなほ幾許かの追懷の情が殘つてゐるはずである。
その龍土會が實は終末期に臨んでゐて、却て外面だけは賑やかに見えてゐた時代のことである。毎月のやうにふえる新顏が、こつそりと會の正體を覗きにくる。何ともさだかならぬこの會合が文藝革新に關する或野心を包藏して、文壇一般を脅かすかのやうに、側からは見られてゐたのである。自然主義の母胎もまさしく此處であり、更にまた半獸主義、神祕主義、象徴主義などの、新主義新主張がその奇怪な爪を磨くのもこの邊であり、そしてそれが龍土會の機構でゝもあるかの如く、一部からは買ひかぶられ、また嫉視されてゐたをりがあつたことかとも思はれる。少くとも龍土會は當時の文壇からあやしまれてゐたにちがひない。
かやうな外間の推測は無理もないとは云ふものゝ、それはまた誤解であつた。何故かと云ふに、會員の間には龍土會を神輿のやうに擔ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、何かにつけて地歩を占めたり、利を圖らうとするが如き考をもつたものはただの一人もなかつたからである。その上共同の利害のために會そのものを働かせた事實すらなかつたのである。龍土會は謂はば一の微小なる移動的倶樂部の如きものであつたに過ぎない。その會合で文藝上の共通の新空氣が導入され、自由な思想の交流が行はれたことは眞實であつたとしても、會員たるものは、誰に遠慮會釋をするでもなく、それぞれの途を勝手に歩いてゐたまでゝある。各自が我儘放題な振舞をなしつゝも、殆ど十年間に亙つて毎月一囘は必ず席を同うして談論し、興に乘りては美酒を酌み交はして一夕の歡を盡したことは、今から追想して見て、何としても一の不思議であつたと云ふより外はない。
この氣儘な會員たちは、かくして十年の歳月を經て、首尾よく龍土會の塒を飛び立つてしまつたのである。季節の折目が來たからである。
明治三十五年から十年間といへば、明治革新史上、收獲の夕であると同時に更に播種の曉でもあつた多事多端な時代である。日露戰爭が丁度その眞中にはさまれてゐる。龍土會はこの十年間をからんで、動搖と刺戟、興奮と破壞、麻痺倦怠等、あらゆる變調の中に生息して來たことにわたくしは深い意義を感ずるのであるが、この會も前に述べたやうな事情で、初めから會名が定つてゐたのではなかつたのである。
そもそもの起りはかうである。話好きの柳田國男君がをりをり牛込加賀町の自邸で花袋、藤村、風葉、春葉、葵(生田)諸君と、それに自分も加へられて招待された會合があつた。この會には柳田君の學友で、後に派手な政治の舞臺に活躍することゝなつた江木翼さんの顏も見えた。それから暫く經つてその會を表に持ち出すことになつて、矢張同じ連中の顏ぶれで、その第一囘が麹町英國公使館裏通りのさゝやかな洋食店快樂亭で催された。明治三十五年一月中旬のことである。その時わたくしが肝入であつたといふのは、會場がわたくしの家に近かつたからでもある。この店は生田君などとは馴染が深かつた。その頃同じ區内の元園町に巖谷小波さんの住居があつて、木曜會といふのが設けられてあつた。これも極めて自由な會合で、わたくしは會員ではなかつたが、年中開放されてゐた巖谷さんの家の下座敷へしばしば出入したものである。玄關には澁い顏を時々思ひ出したやうににつこりさせる老執事が机を控へてゐたことをおぼえてゐる。たまには一六先生の義太夫の聲が奧の間から傳つてくるのを聽いたこともある。小波さんの門下であつた生田君として見れば、この界隈は綱張内のことゝて、快樂亭を會場とするやう、わたくしにすゝめたものと思はれる。實際快樂亭は我々が會合を開くには恰好な店で、場所も靜かであつた。坂路に寄せて建てた二階家で、食堂の方は一室ぎりであつたが、坂の上から平たく直に入れるやうになつてゐた。さういふ風の建て方であるから、料理はすべて下から運び上げるのである、入口には絡みつけた常春藤の青い房が垂れてゐた。表に向つた窓からは、折からの夕日に赤褐色に温く染められた公使館の草土手とその上につづく煉瓦の塀が眺められるのみである。單調ではあるが俗ではない。雜駁からは遠ざかつて、しかも却て風變りの趣がある。わたくしの眼底にはこの亭の印象がこびりついて忘じ難いものゝ一つとなつてゐるのである。
第二囘の會合は赤城下の清風亭で開かれたが、新に眉山、秋聲の兩君も加はり、水彩畫家の大下藤次郎君の出席もあつたやうにおぼえてゐる。第三囘は風葉、春葉兩君の幹事で、會場は鬼子母神境内の燒鳥屋であつた。小山内君が馳せ參じたのも多分この時であつたらう。會合は追々度數を重ねていつたが、その席上いつも音頭を取つたのは矢張柳田君であつた。纏つた話、新知見を開くやうな話を柳田君は常に用意されてゐたのである。例へばポオル・ブウルジエの作物である。柳田君はその作物を讀んで來て、その梗概と讀後感に就て話をするといふやうな次第である。ブウルジエの小説はその後も殆んどわたくしとは沒交渉であつたが、その日柳田君の携へてゐた短篇集は青色の表紙の本であつた。その事だけをわたくしは記憶してゐる。
會合の場所は幹事の好みに隨つて變つたが、便宜がよかつたので多くは快樂亭を使つてゐた。そのうちに獨歩君が鎌倉の廬を出ることになつた。矢野龍溪翁に招かれて、「近事畫報」の計畫に參加するためであつた。この畫報が間もなく日露戰の勃發により「戰時畫報」と改稱されてから獨歩君の活躍は目ざましいものがあつた。自然我々の會合は獨歩君を迎へることになつて、急に賑はしくなつた。獨歩君は柳田君と共に談話の名人であつた。獨歩君の創作はおほむね小篇であり、人はその描寫の筆致を褒めるが、作者はその筋を大抵二三度は友人に繰り返し語つたものである。推敲がその間に行はれたと想像するのは強ち不當でもあるまい。然しわたくしは後に書かれて公にされた作品よりも、既に聽いて感銘を受けてゐた談話の方をよろこんだ。そしてその談話の熟したものが獨歩君の創作であつたとすれば、そこに談話家の特徴を爲すユウモアが活用されてゐることを怪しむべきではない。それが間髮を容れず打出されて一瞬の反省を與ふると同時に、その餘裕ならぬ餘裕が歪曲すべからざる客觀の事實を愈々鮮明ならしめてゐる。これがわたくしの發見であるかどうかは別として、柳田、國木田兩君の外に田山君もまたしたゝかの談話家であつた。會合は否が應でも面白くならざるを得なかつたのである。然しこの頃となつても定まつた會名もなかつたぐらゐで、それが龍土會と稱せられるまでには、なほ多少の曲折を經なければならなかつた。
これより先、明治三十六年十月のことである。神田の寶亭で琴天會の發會があつた。岩村透さんの主唱であつたと思ふが、畫家、音樂家、その他新らしい藝術に縁のあつた人たちが集つた。巴里の藝術家の物に拘束されぬ生活に親しんで來た人々である。勿論この會に狂瀾怒濤を惹き起した二三の連中に就いては、わたくしは餘り知るところがなかつたのであるが、その放縱不覊の調子には全く醉はされてしまつたのである。實はわたくしもその會合の中に紛れこんでゐて、感激して、「琴天會に寄す」と題した小曲を作つて
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手弱女しのべば花の巴里の園生、
朽ちせぬ光暢べたるみ空趁へば、
なつかし、伊太利亞の旅路、精舍の壁。
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と拙い詩句を連ねて見たものゝ、それでは格別に上品すぎてゐた。わたくしは唯素直に藝術の自由を讚美して見たかつたまでのことである。
琴天會は翌年になつて水弘會とか云ふ名稱に改まつて、麻布は新龍土町の龍土軒で開かれた。琴天會といつたのは琴平社天神社の縁日を、今また水弘會と稱ふるのも矢張同樣の結合せで、水天宮と弘法大師の縁日を會日と定めるといふ洒落である。今度の會に巖谷小波さんや岡野知十さんの出席を見たのも珍らしかつた。巖谷さんはこの席上で「變客蠻來」と、達筆で額を一枚書いた。龍土軒がこの書をどう處置したか知るところがない。わたくしは豫て龍土軒發見の由來に就いて、噂には聞いてゐたが、この日始めて、さしも名だたる佛蘭西御料理の店の閾をまたいだのである。
龍土軒發見といへば少し言草が仰山であるかも知れない。然しながらこの發見の主人公が飄逸な岩村透さんであつて見れば、そこにはいとど興味ある一條のいきさつが繋がつてゐるのである。岩村さんは再度の外遊から歸朝して未だ幾年もたゝなかつたことであらう。本場仕込のこの大通人の目さきに如何にも取すました看板がちらついた。新龍土町といへば三聯隊前で、決して風雅ではない町である。表通りから少し引込んだ道の片側に、佛蘭西御料理と厚がましくも金文字の看板をあげてゐた店がふと目についた。岩村さんの住居はその頃芋洗坂下であつたから、この邊はさして遠くもないところである。多分散歩のをりでもあつたのだらう。同伴者があつたとすれば、岡田さん、和田さんあたりであらう。岩村さんはその金文字の看板をちらと睨んで、「うそをつけ。一つ試めして、からかつてやらう」と、いきなりこの僭越至極なレストランのドアに手を掛けて飛込んだといふことは確に想像されていゝ。
岩村さんは名家の出で、豁達で、皮肉で、隨分口も惡かつた。それでゐて世話好きで、親切氣があつて、いつでも人を率ゐてゆく勝れた天分があつた。
龍土軒の女將は後になつてわたくしにこんなことを云つて聞かせた。「岩村さんはほんとに氣さくで面白いお方と思つてをります。でも始めて宅の店へお出くださつた時は、御冗談だとは思ひましても、どんなにか腹を立てましたことやら。何しろかうでしよう。お迎へするとだしぬけに、お前のところは佛蘭西料理ださうだが、をかしいね、三聯隊の近所だから多分兵食だらうつて、かうおつしやるぢやありませんか。それではどの邊の御注文にいたしましようかとおたづねしますと、さうだな、どうせ兵食なら一番下等がよからうつて、どこまでも店を見縊つておいでゝすから、わたくしも餘りのことにむしやくしやして、料理場で主人にさう申しますと、主人もあの氣性で大層つむじを曲げましたが、店としてはどなたに限らず大切なお客樣といふことに變りはありませんから、思ひ直して、大奮發いたしましてこゝぞと腕をふるつた皿を默つて差上げますと、今度はどうでしよう。それがすつかりお氣に召して、それからこつちといふもの、色々とお引立に預りました」と、かう云つたのである。
この龍土軒の主人といふのがまた風變りの人物であつた。少し耳が遠かつた。自信の強い男で、自分を料理の天才とまで思ひつめたところが見えてゐた。メニユウの端に漢文くづしの恐ろしくむづかしい文字を列べて、日本人の口に適せぬ西洋料理は到底何等の効果をも收め難いものである。日本人の口に適するやうに心掛くると共に、正式の西洋料理たることを忘れてゐてはいけない。庖丁の妙技はそこにあるのだと、かう云ふやうな意味のことが自讚してあつた。主人のつもりでは、佛蘭西料理こそ日本人の口に適し、しかもそれが正式の西洋料理であることを云はうとしたものであらう。これは代筆でなく主人自作の文章であるといふことであつた。何かにつけて特色を出さうとする側の人物であつた。
こゝの食堂の部屋は十疊と八疊ぐらゐの二間ぎりで、會合のをりは自然貸切のすがたであつた。一方の壁には當時流行であつた刀の古鍔の蒐集が垂撥のやうな板に上から下へかけられて、それが二列になつてゐる。その傍には能樂の面も見え、がつしりした飾棚が適當に配置されてゐる。他方には煖爐があり、入口の側には名士寄書きの屏風が立てゝある。更に上部の壁面には岡田さんの描いた主人の肖像と、小代さんの白馬會初期の風景畫が光彩を添へてゐる。かういふやうな體たらくで、調度や裝飾品が狹い部屋をいよいよ狹くしてゐた。この部屋はもともと日本室を直したものと見えて、天井が低かつたが、ごてごてしてゐたものゝ、どこかしつくりした空氣が漂つてゐて、居心地はわるくなかつた。
鎌倉から出て來た國木田君もいつしかこの店の贔負の客となつて、青山に墓參の歸り途には必ず家族を連れて立寄るといふことになつてゐた。我々の會合もその勢に押された擧句こゝに持出されたが、依然として無名の會であつたことが不滿足に思はれて、皆で相談の結果「凡骨會」として一會を催したことがある。龍土軒主人はこれをよろこんで、會日にはわざわざ獻立表を會員の數だけ印刷して置いたものである。その獻立表を見れば、はつきり明治三十七年十一月二十二日晩餐としるされてある。然し會名が「風骨會」と變つてゐたので大笑ひをした。風字は凡字の誤植であつたらうが、考へて見れば寧ろこの方が佳名であつた。
この會名の骨字から思ひついたのでもあらうが、獻立がまた振ひすぎてゐた。「尾崎紅葉の墓」といふのが表に見えてゐる。何のことか全く見當もつけかねたが、出された料理には一同が惘れてしまつた。第一食べ方からして分らない。一寸ばかりに切つた牛の骨が皿の中央に轉つて、それに燒パンの一片と竹篦が添つてゐる。主人の説明によれば、竹篦は卒堵婆に擬へたものであり、それを使つて、骨の膸を抉り出して、燒パンに塗つて食べるのだといふことである。これは餘りにもデカダン趣味に墮した嫌ひがあつたといふよりも、主人のふざけ方がちとあくどかつた。紅葉山人はその前年に歿してゐて、こゝは山人の墓域に程遠からぬところである。骨の膸をトオストに塗つて食べるだけならば、それは食通のよろこびさうな乙なものであるにちがひない。しかるにこの始末で、會衆はしたゝか辟易したのである。
たまたまそんな事柄があつたために大略分ることではあるが、凡骨會がいよいよ龍土會と改まつて一段と生長したのは翌三十八年の新春であつたらう。國木田君の畫報社關係からは小杉、滿谷、窪田、吉江、其他の顏も見えたが、武林、小山内、中澤、平塚の諸君は、すでにその前から會盟に加つてゐただらうと思はれる。論客としての岩野君を迎へたのもその頃であつたらう。拔打に對手に懸つてゆくあの無遠慮な遣り口が岩野君の身上であつた。あの眞似は一寸出來にくい。岩野君の唱道した刹那的燃燒の肉靈合致説は解り難かつたが、それをそのまゝ一々身邊に實行して見せたのである。それに對しては誰もその善惡は云はれないのである。岩野君は肉靈の合致と云つて、決して一如とは云はなかつた。一如とか淨化とか云ふことは通途の宗教の爲すところである。合致とは肉が直ちに靈に食ひ入ることである。別言すれば肉が靈に依憑する状態から現實の實踐が行はれることである。それは無意識の本能ではありえない。悲痛の肉である。かの無智の巫女における神憑りとは全く反對のものである。岩野君はこゝで一種の主觀主義を建立したが、それは矢張東洋哲理の系列を飛躍するものでもなく、恐らくはその源泉を天臺に掬んだものであらう。
わたくしは岩野君の説について思はず談義を試みて、ふと氣がついて、今は後悔してゐるところである。岩野君一人がそんなに威張つて會を壓倒してゐたやうに見られる虞がないでもないからである。當時の大勢は自然主義に歸してゐた。岩野君とても自然主義を必ずしも排するものではなかつた。ただその無技巧の暴露的描寫を論ずるだけでは不徹底だと突込んでゐたのである。そんな風に勝手に論議が行はれたと云つても、會の席上では、食卓を同うするが如く相互に共感する餘裕を失はなかつたから、論議とは云へ、それは一の談笑に過ぎなかつた。
會は大抵夕景の五時頃に開かれて深夜に及んだ。その間興に乘じて、生田君や平塚君が自慢で新詩の獨唱をやつたこともあり、さういふ折には若菜集の醉歌などがよく歌はれたし、武林君が一度杜牧の江南春を思ひきり聲を張りあげて吟誦したこともあつた。龍土軒主人もまたはしやいで、珍らしい洋酒をリキユウグラスに注ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて、それを寄附するといふのである。いつであつたか、蝮蛇酒といふのをすゝめられたことがある。茴香のにほひの高かつたことをいまだにおぼえてゐる。
そのうちに會はまた白鳥、葉舟、江東、秋骨の諸君を容れて急に脹らんできた。西本、柴田兩君の出席も殆ど同時期であつたやうに思はれる。龍土會の名が廣く知れわたると共に、この會が文界の牛耳を執るものゝやうに訝かられだしたのも、當時の状況から推せば強ち無理とも思はれないのである。明治三十八年といへば、島崎君が足掛け七年目に、「破戒」を抱いて、信州の山を下つて來て、西大久保の家に落着いた記念すべき年である。それがこの年の四月のことであつた。會は更にこの文星を迎へて足並を揃へたわけである。わたくしは囘顧して見て、こゝらがまづ會として花ではなかつたかと考へてゐる。
人數が殖えるやうになつてからは龍土軒では少し手狹で窮屈に感ぜられてきた。烏森や、鮫洲や、後にはしばしば柳橋で大會が催されたのも、そんな理由が多少はあつたかも知れない。一遍田山君が幹事で、愛好地の利根川べりの川股で盛んな會が開かれたことがある。田中屋といふ土地の料亭の別宅で利根川の堤に接して建てられた一軒家が、その日の會場であつた。田山君はよくこの家に滯留して製作に耽つたといふことである。こゝが即ち田山君の筆に上つて知られてゐる「土手の家」である。田舍藝者を相手に一晩中騷いで一泊した。小杉未醒君が醉つたまゝ、裸になつて、川に飛びこんで、對岸との間を往復して、われわれを驚かした。明治三十九年十月七日のことである。
國木田君が確か「疲勞」を書いてた頃である。國木田君は明治四十一年六月に茅ヶ崎の南湖院で病歿したのであるから、その前年の初冬の時分ではなかつたかと思ふ。例會が赤坂の東京亭で開かれたことがある。撞球場を兼ねたレストランで、玉突に凝つてゐた岩野君の馴染の場所である。この會日に國木田君が珍らしく出席した。畫報社の事業で過勞に陷り、それを引ついだ獨歩社も戰後は思はしくなく、遂に失敗に歸して、唯贏ち得たものは不治の病のみであつた。國木田君はどう考へたか、近くもない郊外の隱棲からわざわざ車を雇つてこゝに乘りつけたのである。夜氣は冷やかであつたし、病氣柄の發熱はつづいてゐたのであるから、これは非常な冒險であつたと云つてよい。會友に對して元氣を裝ふだけの努力にも堪へられなかつたことゝ思はれる。ひどく寂しくまた寒さうに見えた。岩野君はこの時アブサンを持參して來てゐたが、國木田君はその強烈な酒の一盞を水も割らずに飮み干した。そして龍土會に國木田君の列席を見たのも、この夜が最後となつたのである。
明治四十一年には國木田君が逝き、また川上眉山君が不慮の死を遂げた。
とかくするうちに、「龍土會も最早ソツプの出殼だ」と云ふ評判が立つやうになつた。會が衰へて來たことは事實として、その原因の一つにジヤアナリズムの波の浸入といふことが擧げられる。然しさう大袈裟に詮索するまでのこともない。何故かとなれば、龍土會はもともと無心であつたからである。無心のうちにも小さな魂だけは包藏してゐたからである。問題はその小さな魂の行方である。わたくしはこゝで臆測して多言を費したくはない。若し果してソツプの出殼であるなればまだまだ功利的の處置に委ねられやう。失はれた魂であつて見れば手のつけやうがない。
龍土會もかゝる状態で、久しく麻痺の徴候に陷り、進行が遲々となつてゐたものゝ、長谷川天溪君が先立つて英吉利に向ひ、後れて島崎藤村君が佛蘭西への旅に出發する日に遇つて、兩君の行を送るだけの力はなほ幾らか餘してゐたものゝやうに考へられる。島崎君の外遊は大正二年春のことであつたから、龍土會の終幕が完全におろされたのも恐らく同時であつたかも知れない。わたくしは既に文壇に遠ざかつてゐたことであるし、その後のことは何一つ記憶してゐない。
大正二年。昭和十三年)
底本:「明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)」筑摩書房
1980(昭和55)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「飛雲抄」書物展望社
1938(昭和13)年12月10日
初出:「文章世界」
1915(大正4)年4月
※初出時の表題は、「龍土會追想録」。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:広橋はやみ
校正:川山隆
2007年8月14日作成
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