つき姫とは仮に用ひし名なり、もとの事蹟悽愴むしろきくに忍びず、口碑によれば「やよがき姫」な り、領主が寵をうけしものから、他の嫉みを招くにいたり、事を構へて讒する者あり、姦婬の罪に行はる。身には片布をだに着くるを允《ゆる》さず馬上にして城下に曝《さら》す、牽《ひ》きゆくこと数里、断崖の上より擲《なげう》ちて死にいたらしむ、臭骸腐爛するに及ぶも白骨を収むる人なかりきといふ。その処わが郷里にあり、「やよがき落し」と呼ぶ古城の跡なれば更にものすさまじ。姫が幽魂を祀りし小龕今もなほ残れり。この歌の下の巻に、姫がはづかしき姿を憐むあまり布とりいでゝ恵みしものある、これ亦口碑に拠るこの時すでに姫の心狂じて、直《たゞち》にそを棄て去りしといふ、その蹟《せき》の規《き》を逸するの嫌《けん》あるものから、かくはことわりおくのみ。
誉《ほまれ》よはやく黄泉《よみ》の人
兜《かぶと》の星よ光きえ
みだれておつる高き影
血しほに書きし家の名よ
やさけびきかず二百年
ひとり驕れる城の墻《かき》
見ればまぼろし夕日さす
雲の台《うてな》か山の盾《たて》
河に橋|断《た》つかためさへ
誇るはかれにあらずして
銀屏《ぎんびやう》かこむ室《むろ》の花
酒かんばしき歌の海
よしや悲しき手弱女《たをやめ》を
乗せゆく駒の爪の音
血を踏むばかりいたましき
ひゞき一度《ひとたび》世に伝ふ
いかに栄華の勢も
今はたこれを鎮めえじ
悄々《せう/\》として往き悩み
躓《つまづ》く石に鳴る蹄《ひづめ》
城下に牽《ひ》きて罪人を
曝《さら》すもあはれ誰《たれ》か見む
しづむは谷の雲独り
風いたむにも似たりけり
すがるも涙|鬣《たてがみ》に
くずをれ伏すか都喜姫《つきひめ》が
姿いろある袖袂
一重もつひにゆるされず
つゝむとみしは練の絹
はだに日影の清きのみ
さばかり深きその罪の
名は嫉みある人のわざ
よしなし言《ごと》を殿きゝて
きのふの寵は夢ひと夜
けふはかへりてはづかしめ
賜はる恨いかならむ
野に初恋や乙女子の
身をばけがれし玉の床《とこ》
理《ことわり》ならぬ契には
をみなの操はやゆきぬ
死するやすしと思ふ姫
はぢも忘れつ馬の脊に
かくては龍《たつ》のまどわしに
天女も黄泉《よみ》に堕ちぬべき
つまづきてまた悲しげに
嘶《いなゝ》く駒の声迷ふ
きけや巷《ちまた》に市《いち》の神
姫の心もうちそへて
矢倉に高き鯱《さち》のかげ
降魔の悪魚日を睨《にら》み
みはる眼《まなこ》に吹く毒霧
風に城下の塵ふかし
あはれ雲|焚《た》く火もこよひ
裂けて領主が罪を問へ
夏の夜星の泣く泪《なみだ》
氷りて冴ゆる峰の雪
夢まのあたり渡守
つまの媼《をうな》も姫ひとめ
堤に駒をとめさせし
姿うつゝとわきまどふ
老の手すさびあやなくも
白布《しらぬの》かけし機《はた》の前
たち切る丈《たけ》よよし足らじ
あかきは情夕映ゆる
日も川上の秋の色
浮べて下《くだ》す水のこゑ
闇かぎりなき迷より
みだれてめぐるつき姫の
おもひや胸の淵の上
心も底に沈みつゝ
はたかへりこぬこの別れ
わかき命のかげ悩む
あるはおさなき曙《あけぼの》に
春の香《か》醸《かも》す里の野べ
あるはとる手のます鏡
恋や優しき眉ねがき
けふ見かへせば耻《はぢ》と死《しに》
めぐらむ岸にたつ姫よ
媼がなさけ白布に
しめる涙は愁《つら》くとも
とてもこの世に繋《つな》ぐ身の
狂ふまどひのあらしより
せめても魂のよき匂ひ
つゝむは神の花の園
さあれ何処《いづこ》へこの河を
渡して駒のくつわとり
ひくは卑しき人の子や
姫かきのせて道いそぐ
ゆくて千歳《ちとせ》の砦《とりて》あと
枝に戟《ほこ》とる木々たかし
かの絶壁よいたましき
名をこそ後の世に残せ
「つき姫おとし」旅人の
昔|吊《とむ》らふ谷間には
梟《ふくろふ》なきて夕まぐれ
かげに木精《こだま》を恋ひ慕ふ
なやめる歌のもろ翅《つばさ》
今なか空に吹くはやて
さちよ静けき天《あま》の原
この世は遠《をち》にたそがれつ
悲しき調《しらべ》琴とりて
誰かはこゝに奏《かな》づべき
たゞ魂《たま》の身の姫ひとり
星の野にしももの思ふ
胸乳《むなぢ》のあたり靡《なび》く雲
めぐりて遊ぶ虹のわの
色はくろ髪かきみだる
風にいつしか消ゆるなり
新小説 第四年第七巻 明治三十二年六月)
底本:「蒲原有明論考」明治書院
1965(昭和40)年3月5日初版発行
初出:「新小説 第四年第七巻」
1899(明治32)年6月
入力:広橋はやみ
校正:小林繁雄
2010年12月8日作成
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