佐々木味津三

右門捕物帖 足のある幽霊—— 佐々木味津三

     

 ――今回は第十三番てがらです。
 それがまた妙なもので、あとを引くと申しますのか、それともこういうのがまえの世からの約束ごととでも申しますのか、この十三番てがらにおいて、ひきつづき、またまたあのあばたの敬四郎がおちょっかいを出して、がらにもなく右門とさや当てをすることになりましたから、まことに捕物《とりもの》名人としては、こうるさい同僚をかたき役に持ったというべきですが、事の端を発しましたのは、二月もずっと押しつまって、二十八日の朝でした。
 しばしば申しますとおり、二月は二月であっても旧暦の二月なんだから、もう少しはぽかぽかしてもいっこうに不思議はないはずですが、それにしてもちょっと狂い陽気で、おまけに朝からしとしとと、絹糸のような小ぬか雨です。いきにいえば、忍び音の糸もみだるる春の雨――というあの雨なのですが、あいきょう者の伝六は来ず、たずねていくべき四畳半はなし、せっかくいきな春雨が降るのに、寝ころがってあごばかりまさぐっていても芸のない話だと思いつきましたものでしたから、ふと右門の気がついたところは、このごろ席を始めたという向こう横町の碁会席でありました。
 さいわいご番所は非番でしたので、まだちっと時刻が早すぎるとは思いましたが、久方ぶりにしみじみと碁でも打ちながら、いきな春雨に聞きほれるのも時にとっての風流と思いましたものでしたから、じゃのめを片手になにげなく表へ出ると、ところがその出会いがしらに往来ばたに、何がけげんでならないものか、しきりと首をひねりながらたたずんでいた者は、だれでもないあいきょう者のその伝六でした。根が伝六のことだから、そのひねり方というものがまた並みたいていではないので、傘《かさ》もささずに絹雨を頭からしょぼしょぼと浴びながら、しきりと町の向こうをながめながめ、右へ左へいとも必死にひねりつづけていたものでしたから、ちょっと右門も不審に思って呼びかけました。
「大将ッ。おい、伝六大将ッ」
「えッ?」
「そっちじゃねえ、うしろだよ、うしろだよ。おれじゃねえか、おれがわからねえのか」
「あッ、だんなでござんしたか! いいところへおいでなさいました。ちっと、どうも不思議なことがあるんですがね」
「なんでえ。からかさ小僧でも通ったのか」
「ちぇッ、あっしがまじめな口をきくと、いちいちそれだからな。ね! 今、あばたのやつこが通ったんですよ」
「なにも不思議はねえじゃねえか。あいつにだって足は二本くっついてるぜ」
「きまってまさあ。その二本の足で、いやに目色を変えながら、走っていきゃあがったから、いっしょうけんめいで頭をひねっているんですよ」
「というと、なにかい、いくらか事件《あな》のにおいでもするというのかい」
「する段じゃねえ、ひょっとすると、何かでか物じゃねえかと思うんですがね。だって、あのやつこもきょうは非番のはずでがしょう。しかるにもかかわらず、今あっしがここまで来たらね、ご番所のほうからあばたの野郎の手下が、ふうふういいながら駆けてきやがったから、はてなと思ってここのところに隠れているてえと、手下め、あばたのやつを連れ出して、またあっちへ目の色変えながら走っていったんですよ」
「いかにもな。ちっとくせえかな」
 相手が余人ならばおそらく歯牙《しが》にもかけなかったことでしょうが、どうかして一度抜けがけの功名をしてやろうやろうと、栃眼《とちまなこ》になっている敬四郎でしたから、右門はちょっと気にかけながらたたずんでいると、突然向こうから、おうい、おういという呼び声でした。どうやら、そのおういが、自分たちふたりへ呼びかけているようでしたから、ふた足み足近づいて待ち迎えながら顔を見定めると、だれでもないご番所の小者です。それも普通の小者ではなく、何か事件が突発したとき、非番の者をそうして呼び出しに駆け歩く小者であることがわかりましたものでしたから、さては伝六、きょうばかりはホシを当てたかなと思って、用向きを待っていると、小者は駆け寄りながら、やにわと口をとがらして右門をきめつけました。
「さっきおことづてをしてあげましたのに、なぜご出仕なさらないんでございますか!」
「おれのことかい」
「そうですよ、ほんのいましがた、たしかにおことづてをしたんですが、お聞きにならなかったんでございますか」
「知らねえよ、だれも使いなんか来やしなかったぜ」
「えッ、行かなかったんですか! どうしたんだろうな。あんなにくどく、念を押しましたのにな」
 おどろきながら小者が、不審にたえないといったように首をかしげましたものでしたから、早くもその烱眼《けいがん》のピカピカとさえたものは名人右門です。伝六はまだぽかんとしながら目をきょときょとさせていましたが、名人の頭には、いっさいのからくりが察せられましたので、微笑しながら尋ねました。
「わかったよ、わかったよ。おめえがあんまり人を信じすぎたので、ことづてが途中で消えたのだ。おそらく、頼んだ相手というのは、あばたの敬公の手下じゃねえのかい」
「ええ、そうですよ。そうなんですよ。お奉行《ぶぎょう》さまがすぐにあなたを呼んでまいれとおっしゃいましたのでね、駆けだそうとしたら、門のところに敬だんなのお手下がおいでなさって、ことづてならばおれんが今お組屋敷へ帰るところだから、ついでに伝えてやろうといいましたんで、ついうっかりとお頼みしたんですよ」
「よし、わかった、わかった。おめえが悪いんじゃねえ、人の仏心を裏切るやつが悪いんだよ。あばたがあばたなら、手下も手下だが、それでご用向きはどんなことかい。お奉行さまからのお呼び出しというと、尋常一様のあなじゃなさそうだが、おれでなくちゃとでもおっしゃっていられるのかい」
「そうなんですよ、そうなんですよ。こりゃ右門でなくちゃ手に負えまいとおっしゃいましたのでね。すぐにまたこうしてお呼びに参ったんですが、ゆうべ二ところへおかしな押し込みがはいりましてね、変なものを盗み取られたという訴えがあったんですよ」
「なんだ、押し込みどろぼうか。そんなものなら、なにもおれがわざわざ出るにも当たらねえじゃねえか」
「いいえ、それがただの豆どろぼうや、小ぬすっとじゃねえんですよ。一カ所は小石川の台町、一カ所は方面違いの厩河岸《うまやがし》ぎわですがね、その飛び離れたところへ、半刻《はんとき》と違わねえのに同一人らしいおかしな野郎が押し込みゃがってね、両方ともそこの主人の手の指を二本ずつ切り取っていったというんですよ」
「なに、手の指? なるほど、からだについている品をとられたとすると、品物がちっと変わっているな。じゃ、なにかい、ふたりともぐっすり寝ついているときにでも、知らずに切りとられたというのかい」
「いいえ、床にこそはついていたが、はいってきたのをちゃんと知っていながら、相手の野郎がとても怪力なんで、どうもこうもしようのねえうちに、そろいもそろってふたりとも、左手の親指と人差し指を二本切りとられちまったというんだから、ちっとばかりおかしいじゃござんせんか。それも、厩河岸《うまやがし》のほうは町人だから、相手の怪力に手も足も出なかったとて不思議もありますまいが、小石川の台町のほうは一刀流だかをよく使うりっぱな若侍だっていうんだからね。こいつああっしだっても、どうしたって、だんなの畑だと思うんですがね」
「なるほどな。じゃ、なんだな、相手の野郎は大入道みたいなやつででもあったというんだな」
「ところが大違いですよ。みたところ五尺とねえ小男でね、そのうえ女みたいな優男だったというんだから、ご番所のみなさまがたもその怪力っていうのが不思議だ不思議だとご評定しなさっていらっしゃるんですがね」
「いかさまな。そうするてえと、おれもちっとてつだうかな」
 物静かにいいながら、ではまた、そろそろはなばなしいところをお目にかけるかな、というようにゆうぜんとあごをなでだしたものでしたから、すっかり有頂天になってしまったものは伝六です。
「ちぇッ、ありがてえ。筋書きがこうおいでなさらなくちゃ、せっかくおれさまが雨にぬれながらここでつっ立っていたかいがねえんだ。じゃ、また駕籠《かご》ですね」
 言いざま、もう早がてんをして、しりはしょりをやりだしましたものでしたから、右門が笑いわらい呼びとめました。
「駕籠なんぞ遠くもねえのに、いらねえよ。いらねえよ。春雨に降られていくのもおつだから、そろそろおひろいで行こうじゃねえか」
「だって、あばたの野郎が、あのとおりことづてを横取りしたとわかりゃ、捨てておけねえじゃござんせんか」
「忘れっぽいやつだな。いったい、おめえは何度おれにその啖呵《たんか》をきらせるんだい」
「どの啖呵ですい」
「わからねえのか。だてや酔狂でおれあご番所のおまんまをいただいているんじゃねえんだよ。はばかりながら、あばたの敬公なんかとは、ちっとできが違わあ」
「だって、あば芋のだんなも、今度しくじりゃ五へんめだから、ただじゃしっぽを巻きませんぜ」
「うるせえな。口があいていると、しゃべってしようがねえから、あめチョコでも買ってしゃぶっていなよ」
 しかりすてると、伝六がやきもきするのもまんざら無理はあるまいと思われるのに、右門はいたって悠揚《ゆうよう》と春雨の優雅を愛しながら、ご番所のほうへ歩を運ばせてまいりました。

     

 ところが、ご番所へ行ってみると、果然伝六の言が的中いたしました。今度失敗すれば五へんめであり、かたがた相手はあばたの敬四郎という破廉恥漢なんだから、いかなむっつり右門でも、もう少し警戒したほうがよさそうにと思われたのに、少しおちついていすぎたものか、敬四郎の魔の手がすでに伸びていたあとでした。
 それも、根が敬四郎のことだから、普通の魔の手ではないので、右門のはいっていった姿を見ると、それに居合わした同僚のひとりが、きのどくそうにいいました。
「せっかくじゃが、ひと足おそうござったな。お奉行《ぶぎょう》さまがだいぶそなたをお待ちかねの様子じゃったが、お越しがなかったから敬四郎どのにご命令が下りましたぞ。もっとも、ああいうかただから、しきりと敬四郎どののほうからお頼みしていた様子じゃったがな」
「ではもう、てまえが手を下さなくともよろしいとのご諚《じょう》でござりまするな」
「そのような仰せでござりましたよ。敬四郎だけではちっと心もとないが、それほど本人が頼むなら、任してみるのもよろしかろうから、右門が参ったならば、いさぎよく手を引くよう申して、二、三日ゆっくり休養いたせと、このような仰せでござりましたよ」
 うまくことづてを横取りしたのをさいわい、お奉行職へ陰険な自薦運動を試みて、あきらかに右門の出馬を阻止した形跡が歴然としていましたものでしたから、さっそく鼻を高くしてがみがみときめつけだしたものは、いわずとしれた伝六でした。
「そら、ご覧なせえましな! 相手が人間の皮をかぶったやつならいいが、どぶねずみみたいなけだものだから、あんなにさっきせきたてたのに、雨がおつだの、柳がどうのと、隠居じみた寝言に夢中でいなすったから、こういうことになるんですよ。あっしゃもう知りませんぜ」
 水の出ばなの美丈夫右門を、とうとう隠居にこきおろしてしまって、しきりと口をとがらしていましたが、しかし右門は静かに微笑したきりでした。そこの訴状箱をかきまわしながら、指を切りとられたという訴えの、小石川台町と厩河岸の所番地を書き取って、そっとそれを懐中しながら、何かうそうそと皮肉そうに笑っていましたが、表へ出るとぽつり伝六にいいました。
「ではひとつ、どこかへ物見|遊山《ゆさん》にでも行こうかな。二、三日ゆっくり休養しろとおっしゃったそうだから、久方ぶりに浅草の見せ物小屋でものぞきに行こうじゃねえか」
「いやですよ!」
「ほう、えらいけんまくだな。では、しかたがねえや。ひとりで出かけようぜ」
 伝六の雲行きがすばらしく険悪でしたので、右門は笑いわらい濠《ほり》ばたのほうへ曲がっていくと、そこに帳場を張っているご番所の町駕籠をあごでしゃくりながら、ゆったりうち乗りました。
 とみて、すねはすねたが、やっぱり伝六はかわいいやつで――
「行きますよ! 行きますよ! あっしのかんしゃくは親のせいなんだから、いまさらひとりぼっちにしなくったっていいじゃござんせんか! ――おうい、駕籠屋! 駕籠屋!」
 べそをかかんばかりに駆け寄りながら、あわてて駕籠を仕立てましたので、右門はくすくす笑いながら、絹雨にけむりたつ枝柳の濠ばたを、ずっと浅草めがけて走らせました。
 だが、いったように浅草へ行くには行ったが、その駕籠を乗りつけさせたところは不思議です。例の苦み走った折り紙つきの男まえに、それも前夜|月代《さかやき》をあたらしたばかりなんだから、いっそう水々しくさえまさってみえる男まえに、おなじみの蝋色鞘《ろいろざや》をおとし差しで、
「許せよ」
 おうようにいいながら、そこの支倉屋《はぜくらや》と書かれた絵双紙屋の店先へずかずかとはいっていったようでしたが、店の奥にこごまっている主人らしい男をみかけると、とつぜん妙な品を尋ねました。
「江戸の絵図面を板《はん》におこして、売りさばいている店は、たしかにそのほうのところだったと存じて参ったが、違うかな」
「いいえ、てまえのところでございます。こればっかりはお許しがないと売り出せぬ品でございますゆえ、てまえの店の一枚看板にしておりますが、ご入用でございますか」
「さよう、あったら一枚売ってくれぬか」
 買いとってだいじそうに懐中すると、見せ物小屋のほうへ行くかと思うとそうではないので、待たしておいた駕籠をうたせながら、ずっと帰ってきたところは八丁堀《はっちょうぼり》の組屋敷です。それも帰ってくると、いまさら江戸の地図なぞを調べて、なんのたしになるかと思われるのに、あちらへこちらへと何本も赤い線を引きつつ、しきりにながめ入っていたものでしたから、またお株を始めたのは伝六でした。
「ちぇッ、がみがみいうまいと思っても、これじゃかんしゃくの起きるのがあたりまえじゃござんせんか。だましたり、すかしたり、うれしがらしたり、かついだり、さんざにおいだけをかがしておいて、奥山の見せ物小屋はいったいどこへひっこしたというんですか! ぽッと出のいなか与力じゃあるめえし、ちゃきちゃきの江戸のだんなが、いまさらおひざもとの絵図面に見とれるがところはねえじゃござんせんか。そうでなくとも、あば芋のやつにしてやられて腹がたっているのに、あんまり人をおなぶりなさると、今度こそは本気にすねますぜ!」
 しかし、右門は馬耳東風と聞き流しながら、しきりと丹念に町から町へ朱線を入れていましたが、と――、不意に莞爾《かんじ》と笑《え》みをみせると、気味のわるいことをぽつりといいました。
「な、おい、伝六大将! 今夜は指切り幽霊、日本橋の本石町と神田の黒門町へ出没するぜ」
「えッ。不意に御嶽《おんたけ》さまでも乗りうつったようなことをいいますが、支倉屋で売る絵図面の中には、そんなことまでが書いてあるんですかい」
「おれの目にゃそう書いてあるように見えるんだから、目玉一つでも安物は生みつけてもらいたくねえじゃねえか。まず、この絵図面のおれがいま引いた赤い線をたどってみろよ。てめえもさっき聞いたろうが、訴えてきたホシの野郎は、たしか、同一人といったろう。にもかかわらず、小石川の台町と浅草の厩河岸みたいな飛び離れたところへ、よくも町方の者に見とがめられねえで、二カ所もつづけて押し込みやがったなと思ったんで、不審に思って地図を調べてみたら、な、ほら、この赤い線をとっくりたどってみねえな。台町から厩橋へ行く道筋のうちにゃ、番太小屋も自身番も一つもねえぜ」
「いかさまね。おそろしい眼力だな。じゃ、なんでしょうかね、ホシの野郎はよっぽど江戸の地勢に明るいやつだろうかね」
「しかり。だから、今夜はきっと本石町と黒門町へ出没するにちげえねえよ。この二つの町をつなぐ道筋が、やっぱりゆうべ出没した町筋と同じように、一カ所だって番太小屋も自身番も見当たらねえんだからな」
「なるほどね。するてえと、野郎ちゃんとそれを心得ていて、恐れ多いまねをしやあがるんだね」
「あたりめえさ。どんな姿の野郎だか知らねえが、人が寝床へはいっているような寝しずまった夜ふけに、のそのそそこらを歩いていりゃ、どっかで番太小屋か自身番の寝ずの番に、ひっかからねえってはずあねえんだからな。野郎め、そいつを恐れやがって、番所のねえ町をたどりながら押し込みやがるんだよ」
「するてえと、敬公の野郎、そいつを気がついているでしょうかね」
「と申してあげたいが、あの下司《げす》の知恵じゃ、まず知るめえな。おおかた、今ごろは、まんまとおれに手を引かすることができたんで、のぼせかえりながら、せっせと被害者の身がらでも洗っているだろうよ」
「ちくしょう、くやしいな。お奉行さまもまたお奉行さまじゃござんせんか。なんだって、あんな野郎にお任せなすったんでしょうね。もし、今夜もだんなのおっしゃるように、指を盗まれる者があるとするなら、災難に会う者こそきのどくじゃござんせんか」
「だから、おれもさっきから、ちっとそれを悲しく思っているんだよ。おまえはおれのお番所へ行きようがおそかったんで、がみがみどなったようだが、断じておれのおそかったせいじゃねえよ。あばたの大将がことづてを横取りしやがったのが第一にいけねえんだ。第二には、身のほども知らずに、お奉行さまへ食いさがって、おれをのけ者にしたことがいけねえんだ。お奉行さまからいや、それほどあばたの敬公が意気込んでいるのに、おまえでは役にたたぬ、ぜひにも右門にさせろとやつの顔をつぶすようなことはできねえんだからな。それに、敬公といやなにしろ同心の上席で、ちったあ腕のきく仲間として待遇されてもいるんだからな。潔く手を引いていろとご命令があった以上は、それに服するよりしかたがねえさ」
 いうと、黙念としながら腕をくんで、ややしばしうち沈んでいたようでしたが、ふと見ると、右門のまなこの奥に、かすかなしずくの宿されているのが見えましたものでしたから、気早な伝六にはそれがくやし涙と思われたのでしょう。
「お察しします……お察しします。さぞおくやしいでござんしょうが、それもこれもみんなあばたの畜生がいけねえんだから、あんなげじげじ虫ゃ人間の数にへえれねえやつだと思って、おこらえなすってくだせえまし……おこらえなすってくだせえまし……」
 あわてて目がしらを手の甲でぬぐい去ると、くやしそうに歯ぎしりをかみました。伝六としてはまたそう解釈されたのも無理のないことでしたが、しかし名人右門のしずくを見せたのは、そんなせまいくやしさや、そんな狭い了見からではないので、苦痛げに声をくもらせると、しんみりとうち沈んでいいました。
「違うよ、違うよ、おめえの勘違いだよ。おれゃお奉行さまのしうちが恨めしかったり、あばたの敬公が憎かったりして、めめしい泣き顔なんぞするんじゃねえんだよ。敬公に任せろとのご命令ならばすなおに任せもするが、そのためにまた今夜も黒門町と本石町とで、たいせつな指を切りとられるかたがたがあるだろうと思うと、そのかたたちが、きのどくでならねえんだよ。おれが手がけていたらそんなことはさせまいものに、つまらねえ同僚のねたみ根性に犠牲となって、会わなくもいい災難にお会いなさるかたたちのことを思うと、おれゃきのどくで涙が出るよ」
 しみじみとつぶやくと、真実難に会う人たちがきのどくでならないといったように、うるんだ目を伏せました。まことに、聞くだに感激しないではおかれぬ心の清さというべきですが、しかしそのまに不快な一夜は明けて、からりと晴れた朝が参りました。

     

 と――、果然、その翌朝の、それもまだ五ツ少し下がったばかりのころです。命令もないのに、伝六が気をきかしてお番所へ様子探りに駆け走っていったようでしたが、ふうふう息を切りながらもどってくると、わめくようにいいました。
「ね、だんな! さ、啖呵《たんか》ですよ! 啖呵ですよ! いつものように、胸のすっきりするやつをきっておくんなせえよ。お奉行さまからご命令が下りましたぜ。やっぱり、右門でなくちゃだめだとおっしゃいましたぜ」
「えッ、じゃ、おれのいったところへ、ゆうべ出やあがったか」
「出やあがったどころの段じゃねえんですよ。おっしゃったとおり、黒門町と本石町と両方へ現われやがってね。それも、本石町のほうは、ふたりもまたゆうべと同じように左手の人さし指と親指を切られたというんですよ」
「そうか。だから、いわねえこっちゃねえんだ。それで、敬公はどうしたい。どんな顔をしていやがったい」
「そいつがほんとうにあきれるんですよ。身のほども知らねえまねをしやがったんで、こういうのをばちが当たったというんでしょうがね。野郎め、ゆうべ日本橋で、さらわれちまったというんですぜ」
「えッ、じゃ、行くえ知れずになったのか」
「そうなんですよ。そうなんですよ。なんでも、ゆうべまだ宵《よい》のうちだったそうですがね、野郎め、ただのつじ切りでも押えるような了見でいたんでしょう。手下を三人つれて日本橋の橋たもとまでやっていったらね、いきなりぽかぽかとおかしなやつに当て身を食わされて、ぐうと長くなってしまったところを、そのままどっかへさらわれていっちまったというんですよ」
「じゃ、手下もいっしょにさらわれたのか」
「いいえ、それならまだいいんですが、三人ともに、野郎どもめ、目の前で親分ののされちまうのをちゃんとながめていながら、手出しひとつできなかったっていうんですよ」
「うすみっともねえ野郎どもだな。じゃ、けさになるまで、手下たちぁ敬公のさらわれちまったことを、ひたかくしに隠していたんだな」
「ええ、そうなんですよ、そうなんですよ。うっかりしゃべっておこられちゃたいへんだと思って、隠していたというんですがね。だから、今あっしも野郎たちにさんざん啖呵《たんか》をきってやったんですよ。ろくでもねえ親分が、平生ろくでもねえお仕込みをしやがるから、いざというとき、こんなぶざまなことしなきゃならねえんだってね、うんとこきおろしてやったんですよ」
「そうか。じゃ、お奉行さまはすぐとおれに出馬しろとおっしゃったんだな」
「おっしゃった段じゃねえんですよ。手数のかかることをしでかして、さぞかし腹がたつだろうが、お公儀の面目のために、早く敬四郎を救い出してやってくれと、あっしにまでもお頼みなすったんですよ」
「そうか、人のしりぬぐいをするなちっと役不足だが、お公儀の面目とあるなら、お出ましになってやろうよ。では、そろそろ出かけるかな」
「じゃ、駕籠《かご》ですね」
「いいや、いらねえよ」
「だって、敬公、急がねえとゴネってしまうかもしれませんぜ」
「おれがこうとにらんでのさしずじゃねえか。命までもとるんだったら、ゆうべ日本橋で出会ったときに、もう殺されていらあ。わざわざ手数をかけてさらっていったところを見ると、どっか穴倉にでもほうり込まれているにちげえねえよ。でも、おめえは少し遠道しなくちゃならねえからな、一丁だけ駕籠を雇って、すぐ黒門町のほうを洗ってきなよ。おれあ、本石町のほうで待っているからな。ぬからずに洗っておいでよ」
 命じておくと、ひと足先に伝六を駕籠で送り出しておきながら、右門は結城袷《ゆうきあわせ》の渋好みづくりに、細身の蝋色鞘《ろいろざや》をおとし差しにして、ゆうぜんと本石町へやって参りました。
 二軒も騒がしたうえに、あまつさえ盗み取られたものが変わった品でしたから、本石町まで行ってみると、もうよりよりそのうわさばかりで、一軒はつくだに屋の主人、一軒は紙問屋の主人がその被害者であったことがわかりましたものでしたから、右門はさっそくに見つかった紙問屋のほうへやって行くと、つくだに屋の主人をそこへ呼び招いて、例のごとくに右門流吟味方法の憲法にもとづき、すぐにまず被害者両名の身がら素姓を先に洗いたてました。いうまでもなく、この奇怪なる犯行が、恨みをうけての結果からであるか、それとも単なる怪魔のしわざであるか、それを調べたので。
 ところが[#「ところが」は底本では「ところか」]、ふたりとも、これが実に善良そのもののごとき、模範市民でありました。つくだに屋のほうは、親孝行のゆえに二度もご公儀から感状をいただいたほどのほめ者で、紙屋の主人にいたってはむしろ善良すぎてお人よしのあだ名があるほどの好人物であることが判明いたしましたものでしたから、しからばとばかり、右門はただちに両名について、犯行もようの調査を開始いたしました。
「紙屋の亭主」
「へえい」
「そちのところを襲ったのは、何どきごろじゃった」
「さよう、九ツ少しまえだったかと思いますがね、少しかぜけでございましたので、いつもより早寝をいたしまして、ぐっすり寝込んでいると、いきなり雨戸がばりばりとすさまじい音をたてて、破れましたからね。はっと思って目をあけてみると、もうそのとき、野郎があっしのまくらもとに来ていやがったんですよ」
「小がらのやさ男だったという話じゃが、そのとおりか」
「へえい、なにしろこわかったので、しかとした背たけはわかりませんでしたが、五尺の上は出ていなかったように思われますよ。お定まりのような覆面でしてね。着物は唐棧格子《とうざんこうし》の荒いやつでしたが、だのに野郎とても怪力でござんしてな、あっしがはね起きようとしたら、やにわに片足で胸のところを踏んづけておきやがって、声もなにも出す暇がないうちに、短いわきざしでこのとおり、左手の親指と人さし指だけを二本根もとからすぱりと切りゃがって、すうと出てうせやがったんですよ」
「なるほどな。では、つくだに屋の主人、そちのほうはどんなもようじゃった」
「わたしのほうもだいたい手口が同じでございますが、ただ一つ妙なことには、どうしたことか、野郎の着物が水びたしにぐっしょりぬれていたんですがね。そのうえ妙なことには、たしかにぷんとその着物のうちに松やにのにおいがしみ込んでいたんですよ」
「なにッ、着物がぬれていて、松やにのにおいがしみ込んでいたとな※[#疑問符感嘆符、1-8-77] まさか、ねぼけていて勘違いしたのではあるまいな」
 と――、話を奪って、紙屋の主人がとつぜんことばをさしはさみました。
「そうそう、あっしも今つくだに屋さんにいわれて思い出しましたが、べっとり胸のあたりまでぬれていましてな、やっぱりぷんと松やにのにおいがたしかにいたししましたよ」
 聞くや同時でありました。名人の眼光がらんらん烱々《けいけい》として輝いたとみえましたが、あの秀麗きわまりない面に、莞爾《かんじ》とした微笑がのると、ずばりいったもので――
「よし、もうあいわかった。おそくも明朝までには必ずかたきをとってつかわすにより、安心して傷養生をいたせよ」
 いうと、それっきり尋問調査を切りあげながら、すでにもうすべての確信がついたもののごとく、静かにあごをなでていましたが、ところへ息せききりながら駕籠を走りつけてきたものは伝六でした。その伝六がまたすばらしい大車輪で、黒門町のほうばかりではなく、前々夜襲われた小日向《こひなた》台町と厩河岸《うまやがし》へまでも回って調べ、本石町での陳述と同様、やっぱり下手人は右三個所を襲ったときにも、たしかに松やにのしみついた水びたしの着物を着用していたという共通な事実をかぎ出してまいりましたものでしたから、聞くやそろそろ始められだしたものは、名人特有の右門流です。なにかにやにやと笑いながら、しきりにあごをなでさすっていたようでしたが、不意と伝六にいいました。
「きさま、深川筋で、どこか舟宿を知っていねえか」
「えッ? 舟宿というていと、よく女の子をこっそりつれて、舟遊山《ふなゆさん》をやりに行くあの舟宿のことですかい」
「ああ、そうだよ」
「ちぇッ、そんなものなら、おめえ知っているかはすさまじいね。はばかりながら、こうみえてもいきな江戸っ子ですよ。舟宿の二軒や三軒知らねえでどうなるもんですかい。深川ならば軒並み親類も同様でさあ。まず第一は菱形屋《ひしがたや》でしょ。この家の持ち舟は屋台が三艘《さんぞう》。つづいて評判なのは一奴《いちやっこ》。それから海月、丁字屋、舟吉《ふなよし》とね、まず以上五軒が一流ですよ」
「ほほう、だいぶ博学だが、遊んだことでもあるのかい」
「ところが、その、それがつまりなんでしてね」
「はっきりいいなよ、遊んだことでもあるのかい」
「いいえ、その、なんですよ、去年潮干狩りに行ったとき、おれもこういういきな家で、五、六日しみじみと昼寝をしてみたいなと思いながら通ったんで、ついその今も名まえを忘れずにいるんですよ」
「なんでえい、情けねえ江戸っ子もあったもんだな。じゃ、おれが今から思いきり昼寝をさせてやるから、小さくなってついておいでよ」
「えッ、でも、深川の舟宿といやあ、ちっとやそっとのお鳥目じゃ出入りもかないませんぜ」
「しみったれたことをいうと、みなさんがお笑いになるよ。小さくなって、しっぽを振りながらついてきな」
「だって、肝心のホシゃどうするんですかい。それに、敬公のほうだっても急がなきゃならねえんでがしょう。どぶねずみみてえな野郎にゃちげえねえが、さぞやあいつ今ごろは生きた心持ちもしていめえからね。どっちかを先にお急ぎなすったらどうですかい」
「うるせえな、黙ってろよ。おれがお出馬あそばしているじゃねえか。それより、早く駕籠《かご》を呼んできな」
 命じて息づえをあげさせながら、ゆうぜんと深川さして駕籠をうたせていくと、乗りつけたところは伝六のいったその菱形屋でありました。

     

 いかさま舟宿としては一流らしい構えで、数寄《すき》をこらしたへやべやは、いずれも忍ぶ恋路のための調度器具を備えながら、見るからに春意漂ういきな一構えでした。
 だから、伝六のことごとく悦に入ったのは当然なことで、七十五日長生きをしたような顔をしながら、あけっぱなしで始めました。
「ほう、ねえ、だんな、座ぶとんは緞子《どんす》ですぜ。また、このしゃれた長火ばちが、いかにもうれしくなるじゃござんせんか。総桐《そうぎり》の小格子《こごうし》造りで、ここにこうやりながらやにさがってすわってみると、お旗本も五千石ぐらいな気持ちだね――ついでだからちょっと念を押しておきますが、まさか本気に昼寝をなさるおつもりで、わざわざこんなところへ来たんじゃござんすまいね。例の右門流をそろそろここでまた始めなさるんでしょうね」
 しかし、右門はいたってすましたもので、そこへ茶道具を運びながら姿を見せた小女に向かうと、ごくきまじめな顔でいいました。
「こいつが舟宿の二階で、しみじみ昼寝をしてみたいと申したによって連れまいったからな、さっそく床を二つとってもらいましょうかな」
 いうと、けげんな顔をしながら、小女のとってくれた床の中へ、自身先にたってさっさともぐりましたものでしたから、いつもながらに鳴りだしたのは雷の伝六です。
「ちぇッ、後生楽にもほどがあるじゃごわせんか。いくらあっしが昼寝をしてみてえといったからって、こんな火のつくように忙しいとき、眠ったって寝られるもんじゃねえんですよ。きのう浅草の支倉屋で買った江戸の絵図面をあっしがこうしてここに気をきかして持ってきているんだから、とっくりご覧なすって、また今夜出そうな町筋を早く見つけておくんなせえな。そうしなきゃ、また指を切られるものがありますぜ」
 まくらもとへあの地図をひろげてしきりに催促いたしましたが、名人の胸中にはなんの成算あってか、すでに悠々閑々《ゆうゆうかんかん》と夢の国にはいっているらしい様子でありました。それも一刻《いっとき》や二刻の短い時間ではないので、品川浜の海波にほのぼのとして晩景の迫ってきた時分まで、ぐっすり眠りつづけていたようでしたが、と――ようやく起き上がると、そこに寝もやらで、おこりふぐのごとくかんかんになっていた伝六に微笑を送りながら、小女を呼び招いて、ふいっと命令を与えました。
「元気のいい船頭をふたりほど雇うてな、舟足の軽い伝馬船《てんません》を一艘用意してくれませんかな。いうまでもないことじゃが、おいしいものを見つくろって、晩のしたくも整えましてな。そっちにすわっているおこり虫は左がいけるほうじゃから、それも二、三本忘れずに用意しておいてくださいましよ」
 舟遊山ならば屋台船にしそうなものであるが、どうしたことか伝馬船を雇って用意万端の整うのを待ちうけながら、さっさと乗りうつりました。しかも、命じた行き先が不思議です。
「ことによると、墨田の奥まで行くかも知れませぬからな、そのつもりで大川を上ってくださいましよ」
 いいながら、しきりと用意のお料理をおいしそうに用いていたようでしたが、だのに、なにを捜し求めようとするのか、その両眼は絶えず烱々《けいけい》として、川の右岸、すなわち京橋日本橋とは反対側の深川本所側ばかりにそそがれました。それも短い距離ではないので、舟が大川筋にはいると同時から注ぎはじめて、相生河岸《あいおいがし》、安宅河岸《あたかがし》、両国河岸、厩《うまや》河岸と、やがて吾妻《あづま》河岸にさしかかってもなお右岸ばかりを見捜しつづけていたものでしたから、しきりに伝六が首をひねっていると、ちょうど舟が墨田堤にかかろうとしたそのとたんです。土手を隔てたすぐの向こうに、くねりと枝を川に向かって張っている一本の松を邸内にかかえ込んだ、高い厳重な白壁回しの屋敷を発見すると、それこそ今まで捜し求めた目的物だといわぬばかりに、にんめり微笑を漏らしていたようでしたが、不意と船頭に命じました。
「よしッ、あの松の木の見える白壁屋敷のこっ側へ舟をつけろ」
 のみならず、舟|龕燈《がんどう》を船頭から借りうけて、ぬうと枝を壁外にくねらしている松の木の下に近づいていくと、しきりに白壁の表を見照していましたが莞爾《かんじ》として大きな笑《え》みをみせると、とつぜん伝六にいいました。
「もうこっちのものだよ。おれがお出ましになったとなると、このとおりぞうさがねえんだから、たわいがねえじゃないか」
「だって、こりゃ、松の木がへいぎわにはえている白壁のお屋敷というだけのことで、なにもまだ目鼻はつかねえんじゃござんせんか」
「だから、おめえはいつまでたってもあいきょう者だっていうんだよ。まず第一に、この松の木の強いにおいをかいでみねえな」
「かいでみたって、松やにのにおいが少しよけいにするだけのことで、なにも珍しかねえじゃござんせんか」
「あきれたものだな、下手人の野郎の着物に松やにのにおいがしていたってことを、もうおまえは忘れちまったのかい」
「いかさまな、ちげえねえ、ちげえねえ。するていと、下手人の野郎の着物が、水びたしにぐっしょりぬれたっていうな、この大川を泳ぎ越えてきたからなんだね」
「そうさ。きのう支倉屋で買った絵図面を調べたときに、おそらく下手人の野郎は、大川の向こうに根城を構えていやあしねえかなと気がついていたよ。あの二筋の自身番も番太小屋もねえ道筋へ線を引いてたどってみると、不思議にどれもこれもその道の先がこの大川端で止まっていたんだからな。ところへ野郎の着物が水びたしになっていたと、もっけもねえことを聞いたんで、てっきり川向こうだと確信がついたわけさ。そのうえ、松やにのにおいがしみついていたといったろう。だから、こうして川下から松の木のある家を捜してきたというわけさ」
「でも、ちょっと変じゃござんせんか。こんな大きなお屋敷でこそはなかったが、松の木のある家や、今までだってもずいぶん舟の中から見たようでしたぜ」
「それがおれの眼力のちっとばかり自慢していいところさ。まあ、よく考えてみねえな。松やにのにおいが着物にしみついていたといや、野郎が松の木を上り下りした証拠だよ。としたら、どこの家にだって、門もあろうし出入り口もあるんだから、なぜまたわざわざご苦労さまに松の木なんぞを上り下りしなきゃならねえだろうかってことが、不思議に考えられそうなものじゃねえか。そこが不思議に考えられてくりゃ、野郎め、大ぴらに大手をふって門の出入りができねえうしろ暗い身分の者か、さもなくばお屋敷奉公でもしている下男か下働きか、いずれにしても、門を自由に大手をふっては出入りのできねえ野郎だってことが、だれにだっても考えられるんだからな。そこまで眼がついてくりゃ、よしんば松の木はいくらあったにしても、ちっちぇい家には目もくれねえで、大きな屋敷をめどに捜してきたってことがわかりそうなものじゃねえか」
「いかにもね。だが、それにしても、河岸《かし》っぷちだけに見当をつけて上ってきたなあ、少しだんなの勘違いじゃござんせんかい。本所深川を捜していたら、もっと奥にだって、へいぎわに松の木のあるお屋敷がいくらでもあるにちげえねえんだからね」
「いろいろとよく根掘り葉掘り聞くやつだな。もし、河岸の奥に野郎の住み家があったら、水びたしになったうろんなかっこうで夜ふけに通るんだもの、火の番だっても怪しく思って騒ぎたてるに決まっているじゃねえか。しかるにもかかわらず、いっこう、そんなやつの徘徊《はいかい》した訴えが、この奥のどこからもご番所へ届いていねえところをみると、河岸っぷちに住み家があるため、だれにも見とがめられねえんだってことが見当つくじゃねえか。だいいち、何よりの証拠は、この白壁へべたべたとついている足跡をよく見ろよ」
「えッ、ど、どこですか」
「ほら、こことここと、足のかっこうをしたどろの跡が、ちゃんとついているじゃねえか。しかも、松の木の枝の出ている真下に足跡がついているんだから、ここを足場にしやがって、上り下りしたにちげえねえよ」
「なるほどね。おっそろしい眼力だな。じゃ、すぐに踏ん込みましょうよ」
「まあ、そうせくなよ。なにしろ、敬公という人質を取られているうえに、そもそもこのでけえ屋敷なるものが、なにものともわからねえんだからな。細工は粒々、右門様の眼力のすごいところと、捕物さばきのあざやかなところをゆっくり見せてやるから、急がずについておいでよ」
 軽く言い捨てながら、ふたたび舟に帰っていったと見えましたが、まもなく船頭に命じてこがせていったところは、なぞの白壁屋敷とはちょうど真向かいになる反対側の岸でした。しかも、舟をそこの葦叢《あしむら》にとまらせると、あかりをすっかり消させてしまって、船頭たちにもそうすることを命じながら、ぴたり船底に平みついて、じっといま来た向こう岸に耳を傾けだしました。

     

 かくして、時を消すことおよそ小半時《こはんとき》――。もちろん、もうあたりは深夜のような静けさなので、ところへ、やがてのことにいんいんと、風もない初春の夜の川瀬に流れ伝わってきたものは、金竜山《きんりゅうざん》浅草寺《せんそうじ》の四ツの鐘です。と同時に、ぱちゃりと右門の耳を打ったものは、たしかに向こう岸から、だれか大川に飛び入ったらしい水音でした。
「伝六ッ。そら、来るぞ。来るぞ。よほどの怪力らしいから、命を五ツ六ツ用意しておけよ」
「ちくしょうッ、だんなの草香流がありゃ万人力だ。さ、来い!」
 互いにしめし合わせながら、ぴたりと船底に平みついて、いまやおそしと近づくのを待っていましたが、まこと相手はおそるべき水泳の達人でした。いや、おそるべき怪技を有する怪人でした。相当目方があるべきはずなわきざしを鞘《さや》ぐるみしっかと口にくわえて、あざやかな抜き手をきりながら、ご府内名うての大隅田川《おおすみだがわ》を一気にこちらまで泳ぎ渡ってまいりましたので、息をころしながら待ちうけていると、だが、不思議です。じつに不思議です。覆面の小がらなそれなる怪人は、岸へ泳ぎつくと、ぐっしょりぬれた着物からぽたぽたと水玉をおとしながら、まるで何かの物の化《け》につかれてでもいるかのごとく、ひょうひょうふらふらと歩きだしました。それも、尋常普通のふらふらした歩き方ではないので、足のある幽霊がさながら風に乗ってでもいるかのごとく、まっすぐに向こうを向きながら、ふわりふわりと歩きだしましたので、伝六はもとよりのこと、さすがの右門もややぎょッとなっていたようでしたが、やにわとうしろに近づくと、一声鋭く大喝《だいかつ》いたしました。
「バカ者ッ。どこへ行くかッ」
 と――なんたる奇怪さでありましたろう! 右門の大喝一声とともに、ふわりふわりと風に乗ってでもいたかのように歩みつづけていた怪人が、いきなりそこにばたりと倒れてしまいました。その倒れ方がまた尋常ではないので、さながら棒を折りでもしたかのごとく、ポキリとのけぞってしまいましたものでしたから、伝六がくるくると目を丸めながら、何度もなまつばをごくごくのみ下していましたが、ようやく震え声でいいました。
「おっかねえ隠し芸を持っているだんなですね。あっしゃ今まで、だんなの得意は、草香流の柔術と錣正流《しころせいりゅう》の居合い切りだとばかり思い込んでいましたが、いつのまに、どこでこんな気合い術を新しくお仕込みなすったんですかい。まるで雷にでも打たれたように、すっかり長くなってしまったじゃござんせんか」
 しかし、右門ははげしく首を振るといったので――、
「知らねえよ、知らねえよ。おらあ気合い術なんかは知らねえよ。それだのに、どうしたというんだろうな。まるで、妖怪変化《ようかいへんげ》にでも化かされているようじゃねえか」
 けげんな顔をしながら舟龕燈《ふながんどう》をさしつけて、じっとうち倒れている怪人の姿を見調べていましたが、とっぜん意外なことをでも発見したかのごとく、おどろいて叫びました。
「おい、伝六ッ、伝六ッ。こりゃ女だぜ!」
「えッ。ど、どこにそんな証拠がござんすかい!」
「あの胸のところを見ろ! ぬれてぴったり吸いついている着物の下から、ふっくらと乳ぶさの丸みが見えるじゃねえか。念のため、きさまその覆面をはいでみろ!」
「えッ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「えじゃねえ、覆面をはいでみろ!」
「でもだ、だ、だいじょうぶですか」
「いざといや、草香流がものをいわあ。早くはいでみろ!」
 おそるおそる伝六が近よって、こわごわ[#「こわごわ」は底本では「こわごろ」]覆面をはいでいた[#「はいでいた」は底本では「はいでみた」]ようでしたが、と――果然、黒布の下から、妖々《ようよう》として現われ出たものは、まだ二十六、七歳のあだめかしい、根下がりいちょうに結った青白い女の顔でしたから、ふたりが等しく意外な面持ちに打たれているとき、突然でありました。ぱっちりと妖女《ようじょ》がまなこをあけて、夢からさめでもしたかのごとく、きょときょとあたりを見まわしていたようでしたが、そこに右門主従のいたのを見ると、ぎょッとしたように起き上がりながら、あわててすそを直して、不意にいいました。
「ま! では、あの、またあたしは、だいそれたまねをしたんでござんしょうか! 指を切りに出かけたんでござんしょうか!」
 いうと、恐ろしいものをでも見るかのように、自身の身のまわりをうち調べていましたが、ぐっしょり着物の水びたしになっているのを発見すると、
「どうしましょう! どうしましょう! また知らずに夢にうなされて恐ろしいまねをしたとみえます。どうしたらいいでござんしょう! どうやったら、この病が直るんでござんしょう!」
 ぞっとおぞ毛[#「おぞ毛」はママ]を立てながら、おのが身ののろわれた病を嘆き悲しむかのようにつぶやいたものでしたから、伝六はいうまでもないこと、右門も事の意外から意外へ急転直下したのに、したたかおどろいていましたが、しかし、さすが捕物|侠者《きょうしゃ》です。妖女がはしなくもつぶやいた夢にうなされてといった一語を耳にすると、いっさいのなぞがわかったかのごとく、伝六を顧みていいました。
「どうやら、この女、夢癆《むろう》にかかっているらしいよ」
「え? ムロウってなんですかい。かっぱの親類ででもあるんですかい」
「とんきょうなことをいうやつだな。夢癆っていう病気なんだよ。それが証拠には、おれの大喝に出会って夢からさめたものか、きょときょとしているじゃねえか」
「はてね、奇態な病気があるもんですね」
 しきりとけげんそうに首をひねりましたが、伝六としてはまた無理もないことで、夢癆というのは夢の病、すなわち今のことばでいえば夢遊病です。全然原因も動機もなくて、夜きまった時間になると必ず同じ夢にうなされ、本人は少しも知らないで、よく庭先をふらふらと歩きまわったり、あるいはまたお墓場へ行って、卒塔婆《そとば》の表をなでまわしてくるといったような実例をしばしば聞きますが、同時にまたなにか強く脅迫されたり迫害をうけたりすると、それが夢から幻に変じて、本人は全然知らないでいるのに、夢中のその幻に左右されながら、よく人をあやめたり、盗みを働いたりする場合があるので、右門は早くも妖女《ようじょ》の言動動作から夢遊病者だなということを看破しましたものでしたから、ここに問題は、それなる夢癆妖女がいずれの場合に属して、かかるのろうべき犯行をあえてしたか、その詮索《せんさく》が重大となってまいりました。
 まことに、事件は怪奇な犯行より端を発して、さらに怪奇な発展をとげることになりましたが、見ると妖女は夢からさめて正気に返ったためか、水びたしになった五体を寒そうにぶるぶると震わしていたものでしたから、明知のさえとともに、いかなるときも慈悲の心を忘れぬ右門は、さっそく伝六に命じてたき火をこしらえ、女をいたわるようにあたらせてやると、例の烱々《けいけい》とした眼光を鋭く放って、いかなる秘密もなぞもおれにかかってはかなわないぞというように、じっとその身辺を見調べました。と――はしなくも名人の目に強く映ったものは、火にかざした女の両腕首に見える紫色のなまなまとしたあざのあとです。ついぞ今までなわにでもくくられていたために残ったあざあとのようでしたから、いかで名人の目の光らないでいらるべき――鋭くさえた声が飛んでいきました。
「そなた今まで手ごめに会っていたなッ」
「えッ!」
「おどろかいでもいい。そなたもうわさになりと聞いたであろうが、八丁堀のむっつり右門というはわしのことじゃ。白を黒といっても、この目が許さんぞ!」
 鋭くいわれて、女はこわごわ面を上げながら、燃えさかってきたたき火のあかりで、しげしげ右門の姿を下から上に見ながめていましたが、そのみずみずしくも秀麗な美丈夫ぶりに、それとうなずかれたものでありましょう。くちびるまでも青ざめながら、観念したかのごとくにいいました。
「こうしてたき火にあたためさせてくださったご慈悲深さといい、いずれただのおかたではあるまいと存じていましたが、右門のだんなさまだったら、しょせん何もかももうお見のがしはなさりますまいゆえ、ありていに申し上げますでござりましょう」
「さようか、神妙ないたりじゃ。手ごめに会っていたとすると、あの屋敷がそもそも不審じゃが、いったい何者の住まいじゃ」
「あれこそは何を隠しましょう。絵師|眠白《みんぱく》の屋敷でござります」
「なに、眠白とな。眠白といえば、当時この江戸でも一、二といわれる仏画師のはずじゃが、それにしても一介の絵かきふぜいには分にすぎたあの屋敷構えはどうしたことじゃ」
「名代の強欲者でございますゆえ、高い画料をむさぼって、ためあげたものにござります」
「聞いただけでも人の風上に置けなさそうなやつじゃな。して、そなたは、眠白の何に当たる者じゃ。そのあだめいた姿から察するに、たぶん娘やきょうだいではあるまいが、囲われ者ででもあるか」
「はい。お恥ずかしいことながら、お目がねどおり囲われ者として、この三年来情をうけている者にござります」
「もうよほどの年のはずじゃが、眠白は何歳ぐらいじゃ」
「六十を二つすぎましてござります」
「ほほう、六十二とな。よし、もうそれで先はだいたいあいわかった。六十を過ぎたちょぼくれおやじに、そなたのような年の違いすぎるあだ者が囲われ者となっていると聞かば、両腕首のあざのあとも何の折檻《せっかん》かおおよそ察しはついたが、思うに、そなた眠白の情をいとうているな」
「はい……ご眼力恐れ入ってござります。このようなのろわしい病にかかって、夢の間に人の指なんぞを切り盗むようになりましたのも、みんなそれがもとでござりまするが、実は眠白様のおふるまいがあんまりあくどく、しつこうござりますゆえ、いとうとものういとうているうちに、ついお弟子《でし》の五雲様と人目を忍ぶような仲になってしもうたのでございます。その五雲様がまたあいにくと申しますか、このごろめっきり絵のほうがお上達なさいまして、お師匠よりもだんだんと画名が高まってまいりましたので、わたくしたちの仲をお気づきなさいましたとき、つい眠白様の憎しみが二倍したのでござりましょう。おかわいそうに、五雲様は眠白様の嫉刃《ねたば》にお会いなさいまして、画工には何よりもたいせつな右の腕を切りとられたのでござります。それというのも、眠白様のお考えでは、わたくしが五雲様に心を移したのも、あのかたのご名声が高まってきたゆえからと思い違えたのでござりましょう。筆とる右腕を切ってやったら絵はかけぬはずじゃ、絵がかけなくば名声がすたるはずじゃ、名声がすたらばわたくしの恋もさめるはずじゃ、とこのようにあさはかなことを申されまして、おむごたらしいことに根もとからぷっつりとお切り取りなさいましたのでござります。けれども、五雲様にはまだ満足な左腕が一本ござりましたゆえ、人の一心というものはあのように恐ろしい力を見せるものかと驚いてでござりまするが、半年とたたぬうちに、その残った左腕で、またまた五雲様がまえよりもいっそう名声のお高くなるような絵をいくつもいくつもお仕上げなさいましたのでござります。それに、わたくしどもの間がらも、ますます深まってこそまいりましょうとも、そのくらいなことでお考えのようにさめるはずはござりませなんだゆえ、とうとう眠白様の嫉刃《ねたば》が三倍にも八倍にも強まったのでござりましょう。おかわいそうに、今度は残った五雲様のその左腕を、それも意地わるく筆をとるにたいせつな親指と人さし指を、またもむごたらしゅう切りとったのでござります」
「そうか。よし、もうそれでことごとく皆あいわかった。――では、伝六! そろそろあばたの敬公を救い出しに出かけようよ」
「えッ?」
「あばたの敬公をしゃばの風に吹かしてやろうといってるんだよ」
「わからねえことをとつぜん[#「とつぜん」は底本では「とっぜん」]おっしゃいますね。だって、まだ話を中途まで聞いただけで、この女がどうしてまたあんなだいそれたまねをしやがったか、それさえわからねえんじゃござんせんか」
「血のめぐりのおそいやつだな。ほれた絵かきの男が、最後に残った左手のたいせつもたいせつな親指と人さし指をまたもや見せしめに切りとられたんで、このご新造さんそれをかわいそうに思いつめた結果、夢癆病《むろうびょう》に取りつかれて、ご自身は知らずにあんなまねをしたんだよ。それが夢癆病の気味のわるいとこだが、正気じゃだれだってもそんなことは考えることさえもできねえのに、夢まぼろしの中で考えると、他人の指を切りとってくりゃ、ほれた男のだいなしになった手の指が、満足に直ると思われたんで、ふらふらとあんなふうに、ぶきみなまねをしちまったんだ。さっきのあの足のある幽霊みていな歩き方を見てもわかるが、それよりも大きな証拠は、今このご新造さん、おれの一喝《いっかつ》で夢からさめたとき、自身でもまたやったかとおっかながって、おぞ毛[#「おぞ毛」はママ]をふるっていたじゃねえか」
「なるほどね。そういわれると、ふにおちねえでもねえんだが、それにしてもあの怪力はどうしたんですい。こんな優女に、あんな怪力の出たのが不思議じゃござんせんか」
「それが夢の中の一念だよ。きつねが乗りうつったようなものだからな、自身じゃ知らねえ力がわくんだよ。ついでだから、このご新造さんが夢の中を歩いていても、あのとおり江戸の地勢に詳しかった手品の種もあかしてやるが――な、ご新造さん、あなたは今のその眠白のお囲い者になるまえに、江戸節か、鳥追い節を流して江戸の町を歌い歩いたおかたじゃなかったのかい」
「ま! 恐れ入ってござります。恥ずかしい流し稼業《かぎょう》でございましたゆえ、そればっかりはお隠しだてしてでございましたが、どうしてまた昔の素姓までがおわかりでございましたか」
「むっつり右門は伊達《だて》にそんなあだ名をもらっているんじゃござんせんよ。ほかでもねえ、その眼のついたのは、あなたの右手先に見える三味線《しゃみせん》のばちだこからさ。どうだい、伝六。わかったら、そろそろあばたの敬公に人ごこちをつけてやろうじゃねえか」
「まあお待ちなせえよ、お待ちなせえよ。人ごこちをつけてやるはいいが、だいいち野郎がどこにいるかもまだわからねえじゃござんせんか」
「うるせえな。右門のにらんだまなこに、はずれたためしはただの一度だってもねえじゃねえか。ちっちゃくなってついてきなよ」
 ずばりというと、それなる江戸節上がりの女を引き連れながら、舟に命じてふたたびこぎつかせたところは、仏画師眠白の白壁屋敷でありました。それも、岸へ上がるとただちにあの松の木の枝の下へゆうぜんとして歩みよったと見えましたが、奥儀をきわめた武道鍛練の秘技こそは、世にもおそるべきものというべきです。
「えッ!」
 鋭い気合いとともに、ぱッと土をけると、右門の五体はふんわり宙に浮いて、五尺の上もある土べいの上に軽々とのっかりました。
 かくして、容易に右門が内側から門を開きましたので、伝六は女を引き連れながら、ただちにそのあとにつづきました。はいってみると、これがどうしてよくもこれだけためあげたと思われるほどな一倍の広大きわまりない大邸宅で、ことに目をひいたものは、家棟《やむね》にすぐとつづいた二戸前の土蔵でありました。
 右門はそれを見ると、ふふんというように微笑を漏らしていましたが、女の手引きがありましたものでしたから、ただちに主人眠白の居室に押し入りました。と同時に、眠白もむくりと夜具の中から起き上がりながら、もう幾筋も大しわが寄っているくせに、てかてかといやにあぶらぎっている女好きらしい下品な顔をふり向けながら、ぎょッとなって、右門主従を見つめていましたが、それと気がついたものか、とたんでありました。やにわとまくらもとのわきざしを、がらにもなく取りよせましたものでしたから、当然のごとく名人の口にカラカラという大笑がわき上がると、いとも胸のすく小気味のいい啖呵《たんか》が、ずばりときられました。
「ふざけたまねはよしねえな。敬四郎たあ、ちっと品が違うぜ。むっつり右門とあだ名のおれを知らねえのかい」
 と――いきなりわきざしを片手にしながら、ばたばたと眠白が逃げ出しましたので、右門は莞爾《かんじ》とうち笑っていましたが、音をあげたのは伝六でした。
「野郎人を食ったまねしやがったな! 待てッ、待てッ」
 うなりながら、ここを必死と追いかけていったようでしたが、まもなくおおぎょうに叫ぶ声がありました。
「だんなだんな! 追い詰めましたよ! 追い詰めましたよ! この土蔵の中へ追いつめましたから、早く来て草香流をかしてくださいな」
 だが、右門はいたって悠揚《ゆうよう》としたものでした。にやにやとうち笑《え》みながら、片手をふところにして、のっそりとあとからはいっていったようでしたが、しかし一歩それなる土蔵へはいると同時に、ややぎょっとなりました。もう燃えたれかかったろうそくの鬼気あたりに迫るようなぶきみに薄暗いあかりの下に、右手のない一個の死体が、からだじゅうを高手小手にいましめられながら、やせ細った芋虫のようになって、ころがされてあったからです。そして、その死骸《しがい》のそばに、不憫《ふびん》というか、笑止というか、それとも憫然《びんぜん》のいたりというか、同じく高手小手にくくしあげられて、げっそり落ちくぼんだ目ばかりピカピカ光らせていた者は、だれでもない、あのあばたの敬四郎でした。
 右門はその死体を見ると、片手の切りとられているという一事から、すぐとそれが弟子《でし》の五雲であることを察しましたので、がぜん鋭い叱声《しっせい》があげられました。
「バカ者めがッ。まだ五雲を生かしておいたら、ずいぶんと慈悲をたれてもやろうかと思うていたが、この血迷ったしうちはなんのざまだッ。それも、見りゃどうやら食い物をとりあげて、干し殺しにさせやがったじゃねえかッ。うぬのようなちょぼくれおやじを、色餓鬼というんだ。さ! 神妙になわをうけろッ」
 しかし、眠白はいらざるまねをするやつでした。右門のその叱声《しっせい》を耳にすると、不意にぎらりとわきざしを抜き放ちながら、とらば一突きにとばかり近より迫った相手は、なわめの恥をうけている敬四郎ののど輪です。だから、敬四郎が血のけを失いながら、すっかり青ざめてしまったことはいうまでもないことでしたが、それとともに三たび音をあげた者は伝六で、こやつ日ごろは敬四郎をどぶねずみにまでもこきおろしていながら、いざとなるとやはり右門のうれしい配下です。憎みは憎み、愛は愛、人の危急を見ては捨ておけぬ江戸まえの気魄《きはく》を小者は小者並みに持っていたものでしたから、けたたましく怒号いたしました。
「やい、野郎ッ、なんてまねしやがるんだッ。引けッ、引けッ。そのなまくら刀を引かねえかッ。ね、だんな! なんとか法をつけておくんなせよ! 早くどうにか、おまじないをしてやってくだせえよ!」
 いうと、おろおろしながら右門に迫りました。それをききながら、捕物名人は、うれしい気性の手下だなというように微笑を含みふくみ眠白のほうをながめていましたが、例のすっと溜飲《りゅういん》が下がるような啖呵《たんか》が、おもむろに放たれました。
「古風なまねあよしねえな。そんな大時代な人質攻めは、当節奥山の三文しばいでだってもはやらねえぜ。あっさり手を引かねえと、いまにけがするよ」
 いいつつ腰のものの小柄《こづか》に、そっと片手がかけられたと見えると、目にも止まらぬ名人の名人わざでした。
「ざまあみろ! いううちに、けがをしたじゃねえか」
 いったときは、名人の小柄が、ぷっつり眠白の右手の甲にささって、ぽろりわきざしが手のうちから床にすべったところを、近よりながら例の草香流で、すでにぎゅっと片手捕えにねじあげていたあとでした。のみならず、捕物名人はしずかに伝六をかえりみるといっていたので――。
「きさまにゃ、どうして眠白が敬四郎どのをさらってきたかわかるまいから、ふにおちるように締めあげてみなよ」
 命令があったものでしたから、伝六はにわかに強くなると、ぎゅうぎゅうとくくしあげながら責めたてました。
「なんだって、こんな手数をかけやがったんだ。さあ、どろを吐け! さっさと吐いちまえ!」
 かくなるうえは、老痴漢とてももう施すべきすべがなかったものとみえまして、なにゆえ敬四郎をさらいとったか、恐れ入って実を吐きました。
「年がいもないあさはかなまねをいたしまして、面目しだいもござりませぬ。おおかたのことは、もうあれなるおなごめからお聞き及びのことでござりましょうから、改めて申しませぬが、あやつめが気味のわるい罪を犯して帰りましたゆえ、さぞご番所でもお騒ぎだろうと存じまして、こっそり様子を探りに参りましたら、こちらの敬四郎様とかおっしゃるだんなが、お手当にお出ましなさると知りましたので、あのおなごめが下手人とわかって、もし召しとらわれましたならば、てまえの隠しておいた五雲殺しの罪も自然わかるだろうとあさはかに考えまして、おとといの夜日本橋にてお手向かいだてをいたしましたのでござります。と申したら、絵かきふぜいががらにない腕だてじゃとおぼしめしますでござりましょうが、若いころ、いささかばかり剣術のまねごとをいたしましたので、はからずもそれが役に立ちましたのでござります。それに、こう申しましたら、こちらのだんなさまはお腹だちでござりましょうが、ご番所にお勤めのかたにしてはちっとお情けないお腕まえのように存じましたので、てまえごとき非力者にもたわいなくお眠らせすることができましたのでござります」
 敬四郎がその軽侮きわまりない眠白のことばにことごとくまっかになったのはいうまでもないことでしたが、伝六というやつは実に喜ぶべき天真らんまんなあいきょう者でした。きくと同時に、意地わるく敬四郎の顔をしげしげと見ながめながら、いたって大きな声でいいました。
「ね、ちょっと、敬四郎のだんな、今の眠白のせりふをお聞きなさいましたかい。こちらのだんなは、ご番所のかたにしては、ちっとお情けないお腕まえだといいましたぜ。ね、だんな、とっくりお聞きなさいましたでございましょうね」
 これで胸がすっとしたというように、あけすけといやがらせをいったものでしたから、右門はくすくす笑っていましたが、伝六を顧みるといいました。
「かわいそうだが、あっちの女も伝馬町へいっしょに引いていけよ。病気が直るまでじゃ。物騒で、うっかり放し飼いはできねえからな。――眠白もまた覚悟をしろよ。ともかくも、人間ひとりをなぶりごろしにしたんだからな。それから、召し使いに忘れずいっておきなよ。かわいそうな五雲のあとの始末を、ねんごろに営んでつかわせとな。では、伝六、そろそろ参ろうかな」
 命じておいて、敬四郎のかたわらに歩みよりながら、ぷつりそのいましめを切り解くと、あの秀麗な面に、ほのぼのとした微笑をうかべながら、いかにも右門らしい皮肉をずばりとひとこと浴びせかけました。
「げっそりおやせなすったようだが、どうやらこれでまた命がつながりましたから、たんと娑婆《しゃば》の風でもお吸いなさいましよ」
 そして、そのひとことの皮肉で、いっさいの憎みが洗い流されでもしたかのように、さっさと伝六のあとを追いました。

底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年1月21日公開
2005年7月6日修正
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佐々木味津三

右門捕物帖 毒色のくちびる—– 佐々木味津三

     

 ――ひきつづき第十二番てがらにうつります。
 事の勃発《ぼっぱつ》いたしましたのは、前回の身代わり花嫁騒動が、いつもながらのあざやかな右門の手さばきによってあのとおりな八方円満の解決を遂げてから、しばらく間を置いた二月上旬のことでしたが、それも正確に申しますればちょうど二日のことでした。毎年この二月二日は、お将軍日と称しまして、江戸城内ではたいへんめでたい日としていましたので、というのは元和《げんな》九年のこの二月二日に、ご当代|家光《いえみつ》公がご父君台徳院|秀忠《ひでただ》公から、ご三代の将軍職をお譲りうけになられましたので、それをお祝い記念する意味から、この日をお将軍日と唱えまして、例年なにかお催し物をするしきたりでしたが、で、ことしも慣例どおりなにがな珍しい物を催そうと、いろいろ頭をひねった結果が、上覧|相撲《ずもう》をということに話が決定いたしました。それというのが、将軍さまから、相撲にせい、という鶴《つる》の一声がございましたので、たちまちこれに決定したのですが、しかしお将軍さまという者は、偉そうに見えましても、存外これでたわいがないとみえまして、いつも木戸銭なしでご覧できるご身分なんだから、どうせお催しになるなら幕内力士の、目ぼしいところにでも相撲をさせたらよさそうなものを、どうしたお物好きからか、当日召しいだされた連中は、いずれも三段目突き出し以下の、取り的連中ばかりでありました。もっとも、相撲通のかたがたにいわせると、相撲のほんとうにおもしろいところは、名のある力士どうしの型にはまってしまった取り組みではなくて、こういうふうに取り的連中の全然予測できないもののほうが、ずっと溌溂《はつらつ》でおもしろいという話ですから、その点から申しますと、存外将軍さまもすみにおけないお見巧者であったことになりますが、いずれにしてもその日お呼び出しにあずかった者どもは、番付面に名があるにはあっても、虫めがねで大きくしなければその存在がわからない、いわゆる拡大鏡組の連中ばかりでありました。
 しかし、そう申しますと、ひどくこの虫めがね組が取るに足らない雑兵《ぞうひょう》のように聞こえますが、これがなかなかどうして、ただの取り的どもだと思うとたいへんな勘違いで、実にこのお三代家光公の寛永年間は、そのかみ垂仁《すいにん》天皇の七年に、はじめて野見《のみの》宿禰《すくね》と当麻《たいまの》蹴速《けはや》とがこの国技を用いて以来、古今を通じて歴史的に最も相撲道が全盛をきわめた時代でありました。それが証拠は、今も伝わる日の下開山の横綱制度は、実にこの寛永年間にはじめて朝廷からお許しなされたもので、その第一世だった明石《あかし》志賀之助《しがのすけ》は身のたけ六尺五寸、体量四十八貫、つづいて大関を張った仁王《におう》仁太夫《にだゆう》は身のたけ七尺一寸、体量四十四貫、同じく大関だった山颪《やまおろし》嶽右衛門《たけえもん》は体量四十一貫、身のたけ六尺八寸といったように、いずれもその時代全盛をきわめた関取連中は、大仏さんの落とし子みたいな者ばかりでしたから、したがってその幕下に位する者どもも、番付面でこそは虫めがね組の取り的連中でありましたが、同じ取り的は取り的でも、今の国技館で朝暗いうちにちょこちょこと取ってしまう連中に比較すると、どうして、つり鐘とちょうちんほどな相違の者ばかりでありました。
 なかでもいちばん人気を呼んだものは、当日の結び相撲だった秀《ひで》の浦《うら》三右衛門《さんえもん》と、江戸錦《えどにしき》四郎太夫《しろうだゆう》の一番でありました。それというのは、秀の浦が三段目突き出しの小相撲にしては割に手取りのじょうずでしたが、どうしたことか珍しい小男で、そのうえいたっての醜男《ぶおとこ》であったに反し、相手方の江戸錦四郎太夫はまた、当時相撲取り中第一の美男子だったという評判のうえに、力量かっぷく共に将来の大関とうわさされた新進気鋭の若相撲でしたから、その醜男と美男子の取り組みという珍奇な手合わせが、珍しもの好きな有閑階級の大名旗本たちに刺激となったとみえまして、始まらぬまえからもうたいへんな人気でありました。いや、それよりも大奥のお局《つぼね》、腰元、お女中たちの間における美男相撲江戸錦の人気はむしろすさまじいくらいで――
「な、九重さま。あなた、わたしのひいき相撲《ずもう》に、断わりなしでご声援なさいましたら、そのままではほっておきませぬぞ!」
「汐路《しおじ》さまこそ口はばったいことをおっしゃりますな! 江戸錦はわたしのひいき相撲にござりますゆえ、めったなことを申しますると、晩にお灸《きゅう》をすえてしんぜましょうぞ」
 といったようなぐあいで、いずれもまだ江戸錦その者にはお目にかかったことがないくせに、もう寄るとさわるとたいへんな評判でありました。
 しかし、そこへいくと、さすがに将軍さまはお大腹で、江戸八百万石三百諸侯旗本八万騎のご統領だけがものはございます。江戸錦が染め物の名やら、秀の浦が干菓子の名やら、いっこうお気にも止めないで、余は暇つぶしにさえなればよいぞ、といったような、いたってのご沈着ぶりを示しながら、定めのとおり九ツのお城太鼓が打ち出されますと、右に御台《みだい》、左にご簾中《れんちゅう》を従えさせまして、吹上|御苑《ぎょえん》に臨時しつらえましたお土俵の正面お席にお着座なさいました。ひきつづいて現われましたものは、おなじみ松平|伊豆守《いずのかみ》を筆頭に、いずれも今、世にときめいている閣老諸公たちです。それから、加賀百万石を禄高《ろくだか》がしらの三百諸侯、つづいて美姫《びき》千名と注された、いずれ劣らぬ美形たちのお局、腰元、お女中の一群でありました。これがまた自然そうなったものか、美男相撲の江戸錦が結びを張っている東方に着座したので、その反対の秀の浦がいる西方はまた、いつのまにそうなったものか、大久保彦左衛門以来とかくに大名連と仲のよろしくない旗本八万騎の連中でありました。しかも、当時は旗本どもがいちばんはばをきかした時代で、おなじみのがまん会なぞというものをこしらえ、寒中にかたびら一枚で扇子を使ってみたり、暑中にこそでを重ねてあつものをすすってみたり、まぐべからざるところにつむじを曲げて、じゅうぶんまっすぐに通ったら通れる世の中を、意地にも横にはっていこうというような、変にいこじの強い連中が全盛をきわめていた時代でしたから、もちろん八万人は誇張ですが、これが三十人五十人集まると、不思議とそこに妙な空気がかもされだすものとみえまして、べつに東方が憎いという理由はないはずなのに、だんだん取り組みが結び相撲の江戸錦秀の浦の一番に近づいてくると、自然にその声援が殺気を帯びて、ことごとに東方の大名連中に当たりだしました。
「秀の浦、しっかりしろよ! 相撲は顔で取るものでない、力で取るものじゃ。家名にかけても天下のご直参が声援するによって、負けるなよ! 負けるなよ! 負けるなよ!」
 至極もっともなことをいいながら、しきりとつらあてがましい声援を始めました。すると、これが奇態なもので、大名たちのうちにも気骨のある者が交じっているのか、応じて叫ぶ声がきこえました。
「いや、相撲とて、醜男より美男子のほうがよいに決まっているぞ。江戸錦負けやるなッ。負けやるなッ」
 これも一理あることを叫びながら、遠慮せずに旗本どもの声援を交ぜっ返しました。それを聞いてすっかり悦にいったものは、いうまでもなくお局連のお女中群で――、
「ま! 意気なことをおっしゃる殿さまじゃ。江戸錦! そのとおりでありますぞ、わらわが控えているほどに、負けてはなりませぬぞ。勝ってたもれよ! 勝ってたもれよ!」
 身のたしなみをうち忘れ顔で、中にははしたなくもほおさえも染めながら、ここを先途と声援をつづけました。
 ところで、気にかかるのはわれわれのむっつり右門がどこにいるか、その居どころですが、こういう催しごとのあるたびごとに、いつもお町方付きの与力同心たちは、警衛警備がその第一の目的でしたから、かれら一統のさし控えていた席はちょうど東方西方のまんなかになっている棧敷《さじき》土間でありました。
 だから、自然両方の声援ぶりがいちどきに耳にもはいり、目にもはいりますので、さっそく場所がらもわきまえず十八番《おはこ》のお株を始めましたものは、右門のいるところ必ず影の形に沿うごとくさし控えている例のおしゃべり屋伝六です。
「おッ、ね、だんなだんな! ちょっとあちらをご覧なせえましよ。世の中にゃ妙な顔をした女もあるもんじゃござんせんか。いま黄色い声で江戸錦に声援した腰元は、目が三角につり上がっていますぜ。あの顔で江戸錦をものにする気でいるんだから笑わせるぜ。――だが、そのうしろにちんまりとすわっている小がらのほうは、なかなか話せそうだな、ひと苦労するなら、まずあの辺かね」
 そうかと思うと、今度は河岸《かし》を変えて、旗本席のほうをしきりにじろじろ見回していたようでしたが、うるさくまた話しかけました。
「ね、ちょっと、だんな、だんな! あそこのすみにとぐろを巻いている三人の旗本どもは、ずいぶんと人を食ったやつらじゃござんせんか。将軍さまがご出座なさっているというのに、恐れげもなくおしりを向けて、さかんにちびりちびりと杯をなめていますぜ」
 なかには相撲より酒の好きなのもいることだろうし、反対にまた酒よりも玉ころがしの好きな旗本だっていることでしょうから、なにもいちいちそでを引いて呼びたてるにはあたらないことですが、黙っていたら頭痛でもするのか、ひっきりなしにうるさく話しかけました。
 しかし、右門は何を話しかけられても、お手のもののむっつり屋を決め込んで、よほどたいくつしたものか、しきりにあごのまばらひげをまさぐりつづけました。また、これは右門のごとき捕物名人にしてみるとそうあるのが当然なことで、何か右門畑のネタにでもなりそうな事件でもが起きかかっているなら格別ですが、うち見たところ旗本どもに親のかたきがいるというわけでもなし、べつにまた腰元たちの群れの中に秘密な親類筋があるというわけでもありませんでしたから、例の苦み走った秀麗きわまりない顔に、おりおりなまあくびすらものせながら、いたってたいくつげな様子でありました。
 でも、さすが上覧相撲のありがたさには、だれも見苦しい物言いなぞをつける者はなくて、定めの番数は滞りなくとんとんと運び、いよいよ待たれた江戸錦と秀の浦の結び相撲にあいなりました。お約束どおりまず木の音がはいると、これにて本日は打ち止めの口上があってから、声自慢らしい呼び出しの美声につられて、ゆうぜんと東のたまりから、土俵に姿を現わしたものは、これぞお局群に呼び声高い江戸錦四郎太夫でありました。見ると、いかさま呼び声の高いだけがものはあって、筋骨隆々とした六尺豊かな肉体は見るからにほれぼれとするような健康美をたくわえ、けわしからず、めめしからぬ整ったその顔は、なにさま相撲取り中第一の美男を思わするものがありました。さればこそ、お局群の熱狂ぶりは、正気のほどが疑われるくらいで、江戸錦ィ、江戸錦という声援とともに、いずれもぽっとほおを染めながら、棧敷《さじき》の前へのめり出してしまいました。
 それをあざけり顔で、冷ややかな笑《え》みを見せながら、つづいておどり出るように姿を見せたものは、ききしにまさる醜男の、西方結び相撲秀の浦です。だが、この秀の浦が、なるほど珍しいくらいな小男の醜男でしたが、剽悍《ひょうかん》の気その全身にみなぎりあふれて、見るからにひとくせありげな、ゆだんのならぬつらだましいでありました。だから、旗本連の熱狂したことはまた当然なことで、剽悍そのもののような秀の浦のつらだましいがひとしおたのもしくでも思えたものでありましょう。負けず劣らずに声をそろえて、しきりと秀の浦に声援をつづけました。
 ために、場内は刻一刻と殺気だって、東の声援、西の呼び声、喧々囂々《けんけんごうごう》と入り乱れながら、ほとんど耳も聾《ろう》せんばかりでしたが、しかし、名人はいかなる場合においてもやはり名人です。依然あごのまばらひげをまさぐりながら、しきりとたいくつそうになまあくびをつづけていましたが、そのとき右門は東の棧敷のお局群から、突如として聞こえた不思議な叫び声をふと聞きつけて、ぎろりその眼を光らせました。今まではもとよりのこと、今もお局たちのここを先途と声援しつづけている相手は、いずれもが美男相撲の江戸錦であるに、どうしたことか、そのお局のひと声高く突如として呼びあげた相手は、意外、西の醜男の秀の浦でしたので、ささいなること針のごときできごとであっても、断じて見のがし聞きのがしたことのない右門の眼が烱々《けいけい》として異常な輝きを増すと、鋭いことばがすかさずに、あいきょう者のところへ飛んでまいりました。
「な、伝六ッ」
「えッ?」
「世の中にゃいか者食いの女もあるもんじゃねえか。どんな顔のどんなお腰元だかわからねえが、しきりと金切り声で秀の浦を声援しているやつがあるぜ」
「どうどう? どこですか」
「ほら、あっちのいちばんすみの奥から、さかんにやっているじゃねえか」
「いかさまね。女の旗本というのも聞いたことがねえから、虫のせいかな――」
 主従が疑問のまなこを光らしていぶかり合っているとき、土俵の上では仕切り直すこと六回、ようやく阿※[#「口+云」、第3水準1-14-87]《あうん》の呼吸合するのとききたったとみえて、まず江戸錦の左の腕が、じり、じりと砂の上におろされました。つづいて剽悍児秀の浦の松かさみたいな左のこぶしが、同じくじりじりと砂の上におろされましたので、さっと軍配が引かれるといっしょに、肉弾相打って国技の精緻《せいち》が、いまやそこに現出されんとした瞬間――まことにどうも変な結果になったものでした。にらみ合っただけで一合も渡り合わずに、突然江戸錦がぷいと立ち上がって、にたり微笑を漏らすと、
「おいどんが負けでごんす」
 つぶやきながら、さっさとたまりへ引き揚げてしまったからです。それも一突きなりと突きあったうえで、そのうえ土俵を割ったとしたなら、まだ同じあっけなさでも考えようがあるというものですが、今立ち上がるか、いま取り組むかと、さんざん手に汗をにぎらしたうえで、行司が軍配を引くや同時に、ぷいと背をうしろに向けながら、おいどんが負けでごんすと、にやつきにやつき引き揚げてしまいましたので、あっけないというよりか、人を食ったその相撲ぶりに、西も東もあらばこそ、今はもうごっちゃになりながら、いっせいに総立ちとなって、口々にののしり叫びました。
「なんじゃ、見苦しい八百長《やおちょう》か! 八百長ならさし許さんぞ、もう一度取り直せッ。行司、なにをまごまごいたしおるか! 取り直させんか! 取り直させんか!」
 無理もないので、いずれもそれを八百長相撲と解したものか、なかにはお場所がらもわきまえず、土俵に駆け上がってしきりと怒号するものすらもありました。
 しかし、それらの騒ぎをよそにながめて、ただひとり微笑を含みながら、わが活躍のときようやくきたるとばかりに、烱々《けいけい》と眼を鋭く光らしていたものは、余人ならぬわれらの大立て者むっつり右門でありました。この珍中の珍とすべき世にもたぐいのない珍奇な相撲をながめて、早くもわれわれの捕物名人は、なにごとか常人に異なるところを発見したらしく、将軍家ご一統がふきげんな面持ちで、揚げ幕の向こうにお姿を消すまでそこに両手をつきながらお見送りしていましたが、伊豆守様を最後に上《うわ》つ方《かた》のご一統、いずれも引き揚げてしまったのを知ると、ふりかえりざまに鋭く伝六へいいました。
「さ! 伝六ッ、どうやらまた忙しくなったようだぞ」
「えッ、どこかに忍術使いでもいるんですか」
「あいかわらずのひょうきん者だな。今の相撲を見なかったのか!」
「見たからこそ、いってるんじゃござんせんか。あんなおかしな相撲ってものは、へその緒切ってはじめてなんだからね。西方の棧敷《さじき》に忍術使いでもいやがって、あんなまねをさせたんじゃねえかと思うんですよ」
 珍相撲の原因を忍術使いにもっていったところが、いかにも伝六らしい解釈でしたので、右門はあいも変わらぬあいきょう者のひょうきんな答弁に、こらえきれぬ笑《え》みがこみあげてきたものか、朱を引いたようなその美しいくちびるに、ほのぼのと微笑をのせていましたが、例の蝋色鞘《ろいろざや》を音もなく腰にすると、すぐさま立ち向かったところは、いわずと知れた東方力士のしたくべやでした。

     

 だが、右門主従がいで向かうと同時に、目色を変えてあわただしく立ち上がりながらそのあとを追った三人づれの、同じような同心隊がありました。まことに久しぶりでのお目見えですが、あとからの三人づれは、だれでもないあのおなじみのあばたの敬四郎とその一党でした。こやつは二番てがらの生首事件と、六番てがらの村正事件と、つづいて八番てがらほりもの事件に、つごう三回顔をさらして、三回が三回右門と張り合い、三回ともに打ち負かされたあげく、最後の八番てがらの卍《まんじ》騒動のときなどは、せっぱつまって腹までも切ろうとしたところを、右門の情けと義侠《ぎきょう》であやうく救い出されているんですから、いかに厚顔無恥でも、もうそのあばたづらをさらすまいと思われましたが、人の持って生まれた性分がらというものは、しかたがないものとみえます。どれほどかれが意気張ってみても、しょせん右門との取り組みは問題になるまいと思われますのに、またしてもそこへ割ってはいろうとしたものでしたから、八番てがら以来すっかりけいべつの度を増している伝六が、さっそくに口をとがらして右門のそでを引きました。
「ちぇッ、身のほどを知らねえ親方だな。あのいもづらのだんなが、またしつこく追っかけてきましたぜ」
 いわれて右門もはじめてそれと気がついたようでしたが、しかしわれらの捕物名人は、その秀麗な面のように、心がらのすがすがしいいたって大腹な寛仁長者でした。
「ほほう、さすがは敬公だな。おめえのように、そうがみがみとたなおろしをするもんじゃねえよ。きょうここに詰めかけていた与力同心は、南北あわせて何十騎いたか知らねえが、今の変なあの一番を見て、こいつ臭そうだなとにらんだものは、おれをのぞいてあの敬四郎一人だけじゃねえか。了見はちっと気に食わねえが、さすが腕っききだけがものはあるから、ほめてやれよ、ほめてやれよ」
「だって、あのげじげじ、きっとまただんなのじゃまをしますぜ」
 いっているまに、右門と顔を合わせて、こづらにくいせせら笑いをその醜い顔に見せていたようでしたが、ふたりをつきのけるようにしながら駆けぬけると、案の定もう功を争いだしたものでしたから、おこぜのごとくカンカンになってしまったものは義憤児伝六でありました。
「それ、ご覧なせえまし、いううちに、もうじゃまだてを始めたんじゃござんせんか。だんなもあの江戸錦を洗ってみるお考えだったんでがしょう」
「そうだよ」
「なら、だんなのほうがひと足はええんだから、こっちへ玉をさらったらどうですか」
「まあそう鳴るなよ、鳴るなよ。おれの知恵は、いつだって出どころが違うじゃねえか。ほしいものならやっときな――」
 それを右門はあくまでもすがすがしい大腹で、微笑を含みながら見ながめていましたが、そのときはからずも、いま出どころが違うといった右門のその明知の鏡にちらりと映じ写ったものは、そこのしたくべやの明け荷の前に、腕組みをしている一人の勧進元《かんじんもと》らしい年寄りでありました。青ざめ顔でしんねりむっつりと腕を組んでいる様子が、やはり今の珍相撲の一番に頭を悩ましてでもいるらしく思われましたので、右門は目ざとくもそれを認めると、あばたの敬四郎たち一党に気づかれないようにというつもりから、腰にしていた白扇をそっと抜きとって、こっそりそのほうへ投げつけました。年寄りはおどろいたように面をあげたので、右門は目まぜでいざないながら、棧敷《さじき》のすみの目だたないところへ連れていくと、さっそくに尋問を開始いたしました。
「思うに、そちの思案していることも、今のあの奇怪至極な勝負に胸を痛めてのことじゃろうと察するが、どうじゃ、違ったか」
「へえい……」
「ではわからぬ。どうじゃ、違ったか」
「いいえ、おめがねどおりでござんす」
「するとなんじゃな、やっぱりあの一番は、わしのにらんだとおり八百長ではなかったのじゃな」
「ええ、もう八百長どころか、どうしてあんな遺恨相撲になったかと、いっしょうけんめいそれを思案していたのでごんす」
「ほほうのう。やっぱり、遺恨相撲じゃったか。わしもちらりとあの秀の浦とやらいう西方相撲の仕切りぐあいを見たとき、あやつの目のうちにただならぬ殺気が見えたゆえ、どうもおかしいなと思うていたのじゃが、ではなんじゃな。そちの口裏から推しはかってみるに、今までふたりは遺恨なぞ含むようなかかり合いはなかったというのじゃな」
「ええ、もう遺恨どころか、もともとあの野郎どもは相べやで、そのうえ相|弟子《でし》どうしの評判な仲よしだったんでござんすのに、さっきの仕切りぐあいを見ると、だんなもお気づきでござんしたろうが、秀の浦めがどうしたことか、封じ手の鉄砲をかませようとしたんでござんすよ」
「ほほう、西方相撲のあのときの妙な手つきは、あれが鉄砲というのか」
「ええ、そうでごんす。それも、あの野郎の鉄砲とくると、がらはちまちまっとしていてちっせえが、わっちたち仲間でもおじ毛立つくれえな命取りでごんしてな。あの野郎からその鉄砲をくらって、今まで三人も土俵で命をとられたやつがあるんで、爾後《じご》いっさい使ってならぬときびしく親方が封じ手にしておいたんでごんすが、バカにつける薬はねえとみえて、将軍さまのご面前だというのに、野郎めがその封じ手の鉄砲をかませようとしたものだから、さすが江戸錦や、さきざき大物になるだろうと評判されているだけがものはあって、命取りの鉄砲に会っちゃかなわねえと早くも気がついたものか、あんなふうに殿さまがたからおしかりをうけるようなことになっちまったんでござんすよ」
 果然、右門のいぶかしとにらんだとおり、表面ただの珍奇と見えたあれなる結び相撲のかくれた裏面のうちには、容易ならぬ封じ手の命までをもねらおうとした遺恨が含まれていたとはっきりわかったものでしたから、もう事がここまであばかれてまいりますれば、いよいよこの先はわれらの捕物名人の独擅場《どくせんじょう》となるべきはずでありました。
 そこで、従来の右門ならば、つねにかれの好んで用いるからめて攻めの吟味方法によって、まず第一に江戸錦その者を洗いたて、いかなる原因によってそれなる相手がたの秀の浦から、関取りたちもおじ毛立つと称されている命取りの鉄砲をかまされようとまでされるにいたったか、それを詮索《せんさく》し推断するのが事の順序でしたが、しかしこしゃくなことには、あばたの敬四郎がすでにもう江戸錦を独占していましたので、ここにおいて右門の選ばねばならぬ進路は、勢い直接に秀の浦その者に当たらなければならなくなりました。右門としてはあまり好ましくない大手攻めの吟味方法でしたが、今となっては事情やむをえないことでしたから、伝六に目くばせすると、うち連れだって、ただちに西方相撲連のしたくべやにはせ向かいました。
 雨となるか、あらしとなるか、いかなる遺恨子細によってかかる封じ手を用いようとするにいたったか、事は疑問の慓悍児《ひょうかんじ》秀の浦の告白にすべての興味がつながれることになりましたが、しかし総じて物事というものは、とかくいま一歩ひと息というところで蹉跌《さてつ》しがちなものです。
「え? 秀の浦でごんすかい。あの野郎は、だれかごひいき筋のお客から、お酒のごちそうがあるんだとか申しまして、ほんの今ひと足先にけえりましたよ」
 はせつけて秀の浦の在否をきくと、惜しいことにひと足違いでたち帰ったあとといったので、右門はいささかの狼狽《ろうばい》も見せませんでしたが、伝六がすっかりあわを吹いてしまって、八つ当たりにどなり散らしました。
「バカ野郎ども! おれさまたちが御用があるっていうのに、なぜ無断でけえしたんだ!」
「だって、からだがあきゃ、こっちの気ままでごんすからね。あの野郎もきょうの一番で、うめえご祝儀にあずかれると思ったか、まるくなってけえりましたよ」
「どっちへ行ったかわからねえか」
「さあね。どことも行き先ゃいわねえようでしたが、ここをまっすぐ北のほうへめえりましたよ」
 だいたいの方角がわかりましたものでしたから、右門はまだぶつぶつ鳴っている伝六を促して、ただちにそのあとを追いました。なにしろ、小男の醜男の相撲取りという特徴のある相手でしたので、道々足を取りながら追っていくと、牛込御門のほうを目ざしていったという事実が判明したものでしたから、右門は居合わした詰め所の御門番衆について、それから先の行き先を尋ねました。
「いましがた色の黒い出っ歯の相撲取りがここを通ったはずでござりまするが、さだめしご門鑑改めをしたのでありましょうな」
「ええ、いたしました。秀の浦とやら、姫の浦とやら申したようでござりまするが、あいつのことでござりまするか」
「さよう。ご門を外へ出てからどちらへ参ったか、お気づきではござりませなんだか」
「それがちょっと妙なんでございますよ。相撲取りなどが乗るにしては分にすぎた駕籠《かご》が一丁、向こうの濠端《ほりばた》に待ち受けていましてな、まえから話でもついていたものか、あごでしゃくってそれに乗ると、濠端を四ツ谷のほうへいったようでござりましたよ」
 しだいに秀の浦の身辺が、疑問と不審の黒雲に包まれだしましたものでしたから、右門はわざわざ出馬したかいがあるといいたげな面持ちで、すぐさま言われたとおり、濠端を四ツ谷目ざして追いかけました。

     

 けれども、そこまでははっきりと足跡が取れましたが、そこから先が少々ふつごうなことになってしまいました。というのは、ご門番が教えたような身分不相応の駕籠を打たせていったというその距離は、ほんのそこから二、三町ばかりのことだけで、佐内坂への曲がりつじまでさしかかると、そこにもう一丁からの別な町駕籠が待ち構えていて、ほとんどむりやりのように秀の浦をそのほうへ移し乗せながら、四人の替え肩づきでいっさんに駆けだしていったということが判明したからです。それも、駆け去っていった方向がだいたいながらもわかればまだいいのですが、あいにくと時刻はしゃくなたそがれどきで、あまつさえ乗せ移していったというその駕籠が、前の上駕籠とは品の違った、いっこう目じるしも特徴もない町駕籠でしたため、残念なことにはだれにきいてもその先がわからなくなってしまったものでしたから、とうとう伝六が音を上げてしまいました。
「ちぇッ、おかしなまねをしやあがるじゃござんせんか。どこへ消えちまったんでござんしょうね」
 しきりと首をひねっていましたが、しかし右門はいたっておちつきはらったものでした。せっかく追いかけてきた肝心の秀の浦が行き先不明になったとしたら、当然の順序として、大手攻めの吟味方針は、ここに一|頓挫《とんざ》をきたさなければならないはずでしたのに、ごく物静かにいったものです。
「では、伝六、いつもの駕籠にしようかな」
「えッ、いつもというと、あの例のいつもの駕籠ですかい!」
「そうだよ。おまえと差しで、仲よくいこうじゃねえか」
「ちぇッ、ありがてえッ。おらにゃあのもぐら野郎がどこへ消えたかわからねえが、だんなにゃ先の先までもう見通しがついているとみえらあ。――ざまアみろい! あばたの野郎! 口まねするんじゃねえが、うちのだんなはちょっとできが違うぞッ!」
 しかし、ひとりで伝六が強がって、さっそく駕籠を連れてきたまでは無事でしたが、右門があごをなでなでゆったりとそれへ乗ると同時に、がぜんそこから例の右門流が小出しにされだしました。
「行き先は八丁堀じゃ。それもゆっくりでよいぞ」
 のみならず、八丁堀のそのお組屋敷へ駕籠を乗りつけると、意外や事件にさじを投げてしまったといったような面持ちで、ぬくぬくと置きごたつの中にはいりながら、草双紙かなんかをべらべらとやりだしたものでしたから、当然のごとくに口をとがらしました者は伝六でした。
「ちぇッ、ぬか喜びさせるにもほどがあるじゃごわせんかッ。ここはだんなのうちですぜ。さっき駕籠とおっしゃったときゃ、例のとおりと特にお断わりなさいましたから、てっきり秀の浦の野郎の行き先に眼がついてのことだろうと思ってましたが、珍しくもない、ここはだんなのねぐらじゃござんせんか。それとも、どこかその辺の押し入れの中にでも、秀の浦の野郎がころがっているというんですかい!」
 しきりとずけずけ例のお株を始めましたが、しかし右門はまったくもうさじを投げきったといいたげな顔で、草双紙のにしき絵に見入っていたものでしたから、かんしゃく持ちの伝六ががらにもなく偉い啖呵《たんか》をきってしまいました。
「じゃ、もうかってになさるがいいや。うすみっともねえ。むっつり右門のだんなともあろうおかたが、このぐれえなネタ切れで、さじを投げるってことがありますかッ。だんなはそれでいいかもしれませんが、あっしにゃ因縁づきの相手だからね。あばたのだんななんかに、みすみすとしっぽを巻いてたまりますかい。あとで後悔しなさんな!」
 自分ひとりでてがらにでもしようというつもりからか、ぷんぷんおこって出ていったようでしたが、駆けだしていくと同時でありました。表へ出るか出ないうちに、かみつくような声をあげて、けたたましく呼びたてました。
「ね、だんな、だんな! 大至急、大至急! 薄気味のわるいことをするやつがあるもんじゃござんせんか! うちの屋敷の門前に、死人を入れた駕籠がすえてありますぜッ」
 聞くや、右門もちょいとぎくりしたようでしたが、しかしほんのそれは一瞬だけのことでした。にんまり微笑を含みながら顔をのぞかせると、右門はやはり底知れぬ慧眼《けいがん》の持ち主です。ろくろく見改めもしないうちから、ことごとく伝六をおどろかしていいました。
「たぶん、秀の浦の死骸《しがい》じゃねえか」
「えッ※[#疑問符感嘆符、1-8-77] そのとおりですが、どうしてまた見ないうちにそんなことがわかりますかい」
「そのくれえな目先が見えなくてどうするかい。おまえの言いぐさじゃねえが、こんなことで音を上げるような右門だったら、それこそみなさまがたに会わする顔がねえや。さっき左内坂で新手の駕籠が奪い乗せるように秀の浦をさらっていったと聞いたときから、おそらく無事なからだじゃけえるめえと思ったからこそ、こうして行火《あんか》にぬくまりながら、騒ぎの起きるのを待ってたんだ。だが、それにしても、この死骸をおれの門前にすえておくなあちっと解せねえな。なにかそこらに書いたものでもありゃしねえかい」
「ありますよ、ありますよ。暗くてよくはわからねえが、ここに紙切れみたいなものが張ってありますぜ」
「そうかい。じゃ、だれのいたずらか、ぞうさなくめぼしがつくだろう。ちょっくら龕燈《がんどう》を持ってきてみせな」
 伝六の持ち運んできた龕燈をさしつけてみると、果然その紙片には次のごとき文句が書かれてありました。
「――おきのどくだが、むっつり右門も今度はびっくり右門になったようだな。たぶん、きさまの会いたいやつはこの死人だろうから、顔だけは拝ましてやらあ。せいぜい悔やしがって、じだんだでも踏みな――」
 だれともはっきりした名まえは書いてなかったので、伝六はむろんのことに首をひねりましたが、しかし右門は読み下すと同時に、かんからと大笑しながら吐き出すようにいいました。
「笑わしゃがるね、敬四郎のしわざだよ。それにしても、およそ子どもっぽいいたずらをしたもんじゃねえか。悔やしがってじだんだ踏めとしてあるが、どこのじだんだを踏むのかな」
「じゃ、あのいもづらのだんながしたんですかい」
「そうさ、敬四郎でなきゃ、こんな自慢たらしい狂言はやらないよ。きっと、そこらあたりでこっちの様子でも伺っているにちげえねえから、ちょっくらその辺を捜してきてみな」
 いったとき、案の定、あばたの敬四郎がうしろにその一党を引きつれて、しかもいかなる嫌疑《けんぎ》のもとにか、あの美男相撲の江戸錦を高手小手にいましめながら、せせら笑いわらい近よってまいりましたので、何をいうかと待ちかまえていると、近づくやまずこづら憎げにいどみかかりました。
「おきのどくだが、今度はお先にご無礼したな。何もかもめぼしがついてしまったから、てがらはこっちへちょうだいするぜ」
 むろんのことに、伝六はかんかんになったようでしたが、しかし右門はいたってゆうぜんとしたものでした。例のあの苦み走った男まえに、ほんのりと微笑を見せると、物静かにききたずねました。
「とおっしゃいますと、なんでござりまするか、あの一番が遺恨相撲であったことも、それなる江戸錦がこの秀の浦の下手人であるということも、すっかり眼がついたというのでござりますな」
「あたりめえだ。眼がついたからこそ、こうしてきさまにも拝ませに連れてきたんじゃねえか」
「でも、ちょっと不思議じゃござんせぬか」
「何が不思議だ」
「遺恨を仕掛けられたものこそ江戸錦のほうなんだから、その江戸錦が秀の浦をあやめるたあ、ちっと筋が通らないように思いますがね」
「だって、こういうれっきとした証拠がありゃ、しかたがねえじゃねえか」
「ほほう、りっぱな印籠《いんろう》のようだが、どこかに江戸錦の持ち物だっていう目じるしでもござんすかな」
「そのでかい字が読めねえのか、印籠の表に、ひいきより江戸錦へ贈るっていう金泥《きんでい》流しの文字がちゃんと書いたるじゃねえか」
「なるほどね。この字が見えねえようじゃ、おれもあき盲にちげえねえや。そうするとなんですな、昔からよくある古い型だが、この印籠が秀の浦の死骸《しがい》のそばにでも落っこちていたというんですな」
「いうまでもねえや。それも、ただのところに落っこちていたんじゃねえんだ。この江戸錦の野郎をいくら締め上げても、知らぬ存ぜぬと言い張って遺恨相撲の子細をぬかしゃがらねえから、それなら秀の浦とふたりを突き合わして白状さしてやろうと、こやつめをしょっぴきながら秀の浦のあとを追っかけていったら、かわいそうに、四ツ谷見付の土手先でこの駕籠へはいったまま、あけに染まってゴネっているんだ。しかも、その駕籠の中にこの印籠が落っこちていたんだから、だれだって江戸錦が下手人と思うに不思議はねえじゃねえか」
 事実としたら、いかさまこれは、敬四郎が江戸錦を下手人と思うに不思議はないことでした。左内坂から行き先不明になった秀の浦が死骸となって駕籠にのったまま四ツ谷見付の土手先にころがっていて、その駕籠の中の死骸のそばに、江戸錦所有の印籠が落ちていたというんですから、まことに敬四郎が大得意になって、こんな狂言じみた死骸持ち運びの一幕を演じたのは当然のことです。が、しかし、われらのむっつり右門は常に別あつらえの頭脳の持ち主です。早くもなにごとか思い当たったとみえて、うそうそと笑いながら龕燈《がんどう》を駕籠の中へ差し入れると、しきりに秀の浦の傷口を見調べていたそうでしたが、――と刃先の血のりをぬぐって、そのまま不用意に捨ておいていったらしいふところ紙がそこにころがっていたのを見つけて、すばやくそれをたもとに拾い入れると、もうこれさえ見つかればおれのものだといわぬばかりに、莞爾《かんじ》とうち笑《え》みながらいいました。
「いや、どうもけっこうなおみやげをわざわざお届けくださりまして、ありがとうござんした。だが、いかにてまえがひとり者でも、死人と同居はあまりぞっといたしませんからな。せっかくながら、お持ち帰りを願いますかな。では、失礼つかまつりますよ」
 いたって皮肉に言い去ると、あごをなでなでへやの内へ取って返したようでしたが、そこへ伝六が目をぱちくりさせながらやって来たのを見ると、猪突《ちょとつ》に命令を発しました。
「さ、忙しいぞ。きさまこれから大急行でお城まで行ってこい!」
「えッ、お城なんぞに今ごろ何か用があるんですかい。さすがのだんなも、今度という今度は、あのあばたづらにしてやられたんで、退職願いでもしようとおっしゃるんですかい」
 不意に御殿へ行ってこいといったものでしたから、いつもながらの伝六がすっかりそれを辞職願いと勘違いしたのも無理のないことですが、しかし右門はポンと大きく胸をたたくと、しかるようにいいました。
「江戸八百八町がごひいきのむっつり右門じゃねえか。退職願いを出すなあ敬四郎のほうだよ」
「じゃ、なんですかい、だんなはまだ勝つつもりでいらっしゃるんですかい」
「おかしなことをいうね。するてえと、なにかい、おまえこそおれが負けるとでも思っているのかい」
「だって、そう思うよりほかにしかたがねえじゃござんせんか。秀の浦の死骸《しげえ》のそばに江戸錦の持ち物の印籠《いんろう》がおっこちていたっていやあ、だれだってもうしっぽを巻くよりほかにしかたがねえんだからねえ」
「あきれたもんだな。じゃ、おまえにきくが、おまえはいったい江戸錦がふたりいると思っているのかい」
「ちぇッ、バカにしなさんな! そんなこと、ひとりにきまってるじゃござんせんか」
「そうだろ。だとしたら、おまえももうちっとりこうになってみねえな。江戸錦が殺した殺したというが、その江戸錦ゃああの相撲が終わるからずっと今まで、敬四郎の野郎がそばにくっついて番をしているはずじゃねえのかい」
「な、なるほどね。大きにそれにちげえねえや。あばたの野郎自身も、たしかにそういいましたっけね。いくら江戸錦を締めあげても遺恨の子細を白状しねえので、四ツ谷見付までしょっぴいていったら、秀の浦の死骸《しげえ》にぶっつかったとは、たしかにはっきりいいましたっけね」
「そうだろ、にもかかわらず、あばたの大将ときちゃ、てめえで本人の張り番をしていたことをすっかり忘れちまっているんだからね。そんなでくの棒のくせに、折り紙つきのこの右門と張り合おうというのは大違いだよ」
「ちげえねえ、ちげえねえ、そのせりふを聞いて、すっかり溜飲《りゅういん》が下がりやした。じゃ、なんですね、だれかほかに下手人があって、そやつが江戸錦に罪をきせるため印籠の細工をしたというんですね」
「あたりめえさ。だから、お城へひとっ走り行ってこいといってるんだよ」
「まあま、待ってください。行くはいいが、お城にその肝心の下手人がいるとでもいうんですかい」
「聞くまでもねえこったよ。おれの目玉が安物でねえ証拠をいま見せてやるから驚くな。下手人は女だぜ」
 ずばりと断定するように言い切ると、なにやらごそごそたもとの中を探っていたようでしたが、まもなく右門の取り出したものは、さっきすばやく駕籠の中から拾い取ってしまっておいたあのふところ紙でありました。妙な品物でしたので、伝六は目をぱちくりさせていましたが、右門は莞爾《かんじ》とばかりうち笑《え》むと、それを伝六の眼の前にさしつけながらいいました。
「どうだ、早わざに驚いたろ。まず第一は、この紙ににじんでいる赤い色が二通りになっているから、目のくり玉をあけてよく調べてみなよ」
「いかにもね。こっちのべたべたにじんでいるどす黒いやつア、たしかに血の色にちげえねえが、そっちのちっちぇえ赤い色は、どうやら口紅のあとじゃござんせんかい」
「そうだよ、ふところ紙に口紅のあとがついているとするなら、この紙の持ち主が女であるこたあ確かだろ。そこで、第二はこの紙そのものだがね、おまえのような無粋なやつあ、このなまめかしいふところ紙がなんてえ品物かも知るめえなあ」
「ちぇッ、つまらんところでたなおろしなんぞしなくたってようがすよ。無粋だろうと、ぶこつだろうと、大きなお世話じゃござんせんか。なんてえ紙ですかい」
「これが有名な筑紫漉《つくしずき》だよ」
「へへえ、なるほどね。筑紫漉といやあ思い出しましたが、大奥のお腰元が使うとかいう紙ゃあこれですね」
「そうさ。だから、これでこのふところ紙の持ち主ぁ女で、しかも大奥のお腰元だっていうことがわかったろ。しかるにだ、まだ一つおれでなくっちゃ見破ることのできねえネタがあるんだが、さっき秀の浦の傷口を調べてみたら、あれあおまえ、だんびらやわきざしの切り傷じゃなくて、たしかに懐剣の突き傷だったぜ」
「そうですか、わかりやした、わかりやした。じゃ、ほんとうの下手人は、大奥の女中の中にいるからしょっぴいてこいというんですね」
「そのとおり。だが、おまえ、ただどなり込んでいったって下手人は容易にゃ見つからねえはずだが、どうして本人をしょっぴいてくるつもりかい」
「ちぇッ。こう見えたって、だんなの一の子分じゃござんせんか。はばかりながら、見当はもうついていますよ。だんなはお忘れなすったかもしらねえが、あの結び相撲のときに、お腰元の中からしきりと秀の浦へ声援したやつがあったじゃござんせんか。あいつを捜し出してしょっぴいてきたら、よし下手人でなかったにしたって、何か目鼻がつくでがしょう」
「偉いッ! そのとおりだが、まだ一つ忘れてならんことがあるぞ。きっと、あの時刻に外出をしたやつがあるはずだからな。いたら三人でも五人でもかまわねえから、みんなしょっぴいてきなよ」
「がってんの助だ。自慢じゃねえが、こういうことああっしの畑なんだから、あごでもなでなで待っていなせえよ」
 威勢よく伝六が駆けだしていったものでしたから、ここにおいてむっつり右門はほんとうにあごをなでなで、その帰りを待つこととなりました。

     

 かくして、時を消すことおよそ小半刻《こはんとき》――。
「だんなだんな、大てがらですぜ。ホシの女《あま》しょっぴいてきましたから、さ、とっくり首実検をなせえましよ」
 叫びながら伝六が表玄関に威勢よく駕籠《かご》をのりつけて、鼻高々とひとりの御殿女中を引ったててまいりましたものでしたから、右門はおもむろに短檠《たんけい》のあかしをかきたてると、まずそれなる女の首実検に取りかかりました。
 ところが、それなる腰元がまた、こはそもなんと形容したらよいのか、まるでいもりのようなあくどさを備えた女でありました。わけても、そのくちびるにこってり塗られた口紅の赤さというものは、さながらいもりの赤い腹のごとき毒々しさを示していましたものでしたから、さすがの右門もちょっと毒気に当てられぎみで、ややしばしまゆをひそめていたようでしたが、やがて威厳を持った重々しいことばが、ずばりとその口から放たれました。
「すなおに白状すればそのように、強情を張らばまたそのように、相手方しだいによって変通自在の吟味をするのが右門の本領じゃ。いったんてまえの目に止まったら、おしでも口をあけさせないではおかぬによって、そなたも心してすなおに白状なさるがよいぞ。お名はなんと申さるるか」
 実際またむっつり右門の名まえを聞いているほどの者でしたら、事実右門がみずから折り紙をつけたとおり、変通自在|慧眼《けいがん》無類、この世にかれの明知と眼力の届かない者はないはずでしたから、その、出方しだいによってはずいぶん慈悲もいとわないといわぬばかりのことばを聞けば、たいていの者が恐れ入るべきはずでしたが、このくちびる赤き毒の花は、あくまでも、われらの捕物名人むっつり右門の烱眼《けいがん》をおおいくらまそうとしたものか、反対に食ってかかりました。
「いっさい白状せぬというたらなんとなさりまするか」
「ここで白状させてお目にかけまするわ」
「ま、自慢たらしい。こことおっしゃりまして、お偉そうにおつむをたたきなさいましたところをみますると、知恵で白状させてみせるとおっしゃいますのでござりまするな」
「さようじゃ。頭をたたいてここといえば、知恵よりほかにないはずでござる。それも、右門の知恵袋ばかりは、ちっとひとさまのとは品物が違いまするぞ」
「あなたさまの知恵袋とやらが別物でござりまするなら、わたしの強情も別物でござります。いま道々聞けば、秀の浦とやらを殺害の嫌疑《けんぎ》でお呼び立てじゃそうにござりまするが、わたしも二の丸様付きの腰元のなかでは人にそれと名まえを知られた秋楓《あきかえで》、いかにも知恵比べいたそうではござりませぬか」
「ほほう、なかなか強情なことを申さるるな。では、どうあっても、秀の浦をあやめた下手人ではないと申さるるか」
「もとよりにござります」
「でも、あの御前|相撲《ずもう》がうち終わってからまもなく外出をしたことは確かでござろうがな!」
「確かでござりまするが、それがいかがいたしました」
「いかがでもない。これなる伝六へあの時刻ごろ外出をしたものがあったら、三人五人と数はいわずに皆連れてまいれと申したところ、そなたひとりだけを召し連れて帰ったによって、そなたに下手人の疑いかかるは理の当然でござらぬか。それに、第二の証拠はこのふところ紙じゃ。見れば、そなたの内ぶところから顔をのぞかせている紙もこれと同じ品じゃが、それでも強情を言り張りますか!」
「えッ!」
 ぎょッとしながら、あわててそれなる秋楓といった御殿女中がふところ紙に手を添えたとたん!――まことに疾風迅雷《しっぷうじんらい》の早さでありました。右門があけに染まった証拠のふところ紙を右手に擬して、やにわに女の身近へにじり寄るや、判でも押し取るようにその紙切れを毒々しい紅殻《べにがら》染めのくちびるへ押しつけたと見えましたが、そこに古い紅跡と新しい紅跡が二つ並んで押されたのを知ると、女の心を突きえぐるようにいい叫びました。
「人のくちびるは千人千色、似たのは二つとないはずじゃ! しかるに、この二つの紅跡は、小じわの数までそっくり似ているではないか! これでもまだ右門と知恵比べすると申さるるか! たわけものめがッ!」
 まことに右門ならでは考えつかぬ意表を突いた証拠攻めですが、いわれたとおり新旧二つの紅跡を比較すると、げに小じわの数までが似たりも似たり、寸分たがわぬ一つのものの相似を示していたものでしたから、ここにいたって、いかに強情がまんの腰元もついに自白を余儀なくさせられたかに見られましたが、がぜん事件はそこから意外な結果を呼びまねきました。女が首筋までも青々と血色を失って、毒々しいそのくちびるをわなわなと震わせながら、なにやらもじもじとふところの中で片手を動かしていたようでしたが、実に彼女もまた電光石火の早さでありました。すでにここへ来るまえから隠し持っていたものか、ぎらり懐剣を抜き放ったかと見るまに、右門ほどの早わざ師ですらも止めるいとまのないほどの早さで、ぐさりとおのが乳ぶさに突き立てましたものですから、さすがの右門もあっと驚いて、殺してならじとその手を押えながら、ののしるごとくにしかりつけました。
「早まったことをいたしてなんとするか! すなおに申さば、ずいぶんと慈悲をかけまいものでもなかったのに、死なば罪が消えると思うかッ」
「いえいえ! 罪からのがれたいための自殺ではござりませぬ! 罪を後悔すればこそ、覚悟のうえのことにござります。それが証拠は、この内ぶところに書き置きがござりますゆえ、ご慈悲があらば今すぐお読みくださりませ!」
「なに、書き置き※[#疑問符感嘆符、1-8-77] では、もしこの右門を言いくるめえたら格別、かなわぬときは自殺しようと、まえから用意してまいったのか!」
「は、どのように隠しだていたしましても、いま八丁堀でご評判のあなたさまに、しょせんたち打ちはかのうまいと存じましたゆえ、いよいよ罪に服さねばならぬときがまいりましたら、いさぎよう身を殺しまして、そのかわりに用意のこれなる書き置きをお読みねがうつもりでござりました。それに、生き長らえたままで白状いたしましたら、いくじなきものよとのそしりもござりまするが、わが身を殺すとともにいたす自白ならば、おなごのいささかばかりな操もたちますことゆえ、かくお目前を汚しました。どうぞ、かわいそうとおぼしめしくださりましたら、はようこれなる書き置きをご覧くださりませ」
 苦しい息の下からあえぎあえぎ語り終わると、女は用意の一封を右門の手に渡しておいて、ばったりそこへあけに染まりながらうち伏しましたので、右門も今はなんじょうちゅうちょすべき、ただちにその封を押し開きました。見ると、それはさすがに御殿仕えの筆跡もうるわしく、水茎の跡も新しい次のような一文が書かれてありました。
「――秀の浦の下手人は、いかにもてまえでござります。なれども、それには深い子細のあることにござりますゆえ、その子細からお聞きくださりませ。詳しく申せば長い物語で、それももう六歳《むとせ》ほど昔のことでござりまするが、そもそもの事の起こりは、あの美男相撲と評判の江戸錦様がもとでござります。今こそあのかたさまは人もきらう裸|稼業《かぎょう》のお相撲取りに身を落としてでござりまするが、身がらお素姓を申しますれば、由緒《ゆいしょ》正しき五百石取りの旗本|真柄《まがら》権之丞《ごんのじょう》様の、ただおひとりのお落胤《らくいん》にござります。なれども、悲しいことに、そのお腹さまがあまりご身分でない婢女《はしため》でござりましたゆえ、ただおひとりの跡取りでありながらとかくうとんぜられがちなところへ、ふと悪心をいだきましたものはそれなる真柄家へご奉公の用人でござりました。名は大島|弥三郎《やさぶろう》と申しますかたでござりまするが、思いのほかに悪知恵の深いかたでござりましたゆえ、おぞましきことには主家横領をたくらみ、六歳《むとせ》まえにそのときご病身の主人権之丞様を毒殺いたし、みずから遺言書をこしらえつくって、養子の内約あったごとくに装い、りっぱなお血筋の江戸錦様を巧みに放逐いたしましたうえ、まんまと旗本五百石の家禄《かろく》を横領してしまいなされました。なれども、首尾よく主家横領はいたしましたものの、すねに傷もつだけに江戸錦様のいられることは目の上のこぶでござりましたゆえ、これをもついでにあやめようと思いたたれてごくふうなさりましたのが、今日ご不審のもととなった秀の浦とのあの一番でござりました。それというのも、わたしとあの秀の浦とが幼なじみの間がらゆえ、わたしに事情を打ちあけなされまして、秀の浦にあの封じ手を使わするようそそのかしたのでござります。むろんのことに、かようなまわりくどい手段を講じました子細は、土俵の上での殺傷ならば、うまうま犯跡をくらましえられますものと思いましたからでござりまするが、それはそれでよいといたしまして、ご不審が一つおありでござりましょう。と申しますのは、そういうわたしが、なぜにまたそのような悪人の大島弥三郎様から、おぞましい悪事の荷担相談をうけるにいたりましたか、それがご不審でござりましょうと存じまするが、お笑いくださりますな。恋は思案のほかとたとえのとおり、その悪人の弥三郎様を悪人と知りながら、わたしは恋しているのでござります。さればこそ、悪事を悪事と知って、つい罪の深間にはいりましたが、江戸錦様はさすがお血統のかただけのものがござります。あのとき早くも秀の浦の殺意を見破り、あのような番狂わせの相撲となりましたゆえ、口さがない下司《げす》下郎をなまじ生かしておかば、のちの災いと存じまして、わたしが秀の浦をおびき出し、四ツ谷見付の土手ぎわで、おめがねどおりあやめたのでござります。あの印籠《いんろう》はもとよりわたしの細工もの、ちょうど手もとにあの品がござりましたゆえ、さも江戸錦様の持ち物らしく見せかけて、あのような金泥《きんでい》で名まえを書きこみ、あわよくば江戸錦様に罪をきせようためでござりました。もうこれでいっさいがおわかりのことと存じますゆえ、なにとぞお慈悲を持ちまして、悪人にはござりまするがわたしには掛け替えのない心の思い人、大島弥三郎めをご寛大のご処分くださりませ。右あらあら書きしたためたしだいにござります――」
 右門は一気に読みくだすと同時に、じっと腕をくんでややしばし思案にふけっていましたが、恋に狂って罪を犯したいたましい女の命が、もうそのとき完全に絶たれてしまっているのを見ると、決然として立ち上がりながら、蝋色鞘《ろいろざや》をがっきと腰にして、ののしるごとくに言い放ちました。
「せっかくだが、大島弥三郎とかいった旗本|奴《やっこ》は、もう見のがしちゃおかれねえや。このかわいそうな腰元の命を取ったのも、けっきょく野郎のしわざのようなもんじゃねえか。さ! 伝六ッ、駕籠だッ、駕籠だッ。今度はほんとうの駕籠だッ!」
「ちぇッ、ありがてえや! もうのがしっこねえぞ!」
 伝六が丸くなって表へ飛び出していきましたので、右門はそのまになおこの場にいたっても優しい心がらから、押し入れの絹夜具を取り出すと、ふうわり死骸《しがい》の上に掛けておいて駕籠の用意のできるのを待ち受けていましたが、まもなく伝六の呼びたてる声がありましたものでしたから、時を移さず駕籠にうち乗りました。むろんのことに、命じた先は、旗本屋敷の林立している番町でありました。

     

 いつもながら所捜しは伝六が得意で、目ざした番町の内でこそはありませんでしたが、濠《ほり》一つ向こうへ越した市ガ谷本村町のかど地面に、それなる不逞漢《ふていかん》弥三郎が、今、旗本|真柄《まがら》弥三郎に成りすまして、そしらぬ顔に高禄《こうろく》の五百石を私しているということがわかりましたものでしたから、右門はゆうぜんとして駕籠をおりると、おどろき怪しんでいる門番のおやじをしりめにかけながら、ずっと玄関にかかりました。
 ――と、はいるや同時に、ちらりと右門の目を射たものは、そこの玄関先に不行儀そのもののごとく脱ぎすてられている三足の雪駄《せった》と、それからまだ土のつかない一足のわらじでありました。人が出はいりするために設けられた玄関ですから、雪駄があろうと、わらじがあろうと、べつに不思議も不審もなさそうに思われましたが、右門の観察眼はしばしばいうごとく、少しばかりできが違いますので、早くもそれと見ると、微笑しながら伝六にささやきました。
「あぶねえあぶねえ、いまひと足おくれたら、おれたちもこの寒空に旅へ出かけなきゃならなかったかもしれねえぜ」
「えッ。じゃ、野郎め、事のバレたのをかぎつけやがって、逐電の用意をしているとでもいうんですかい」
「そうさ、この不行儀な雪駄の脱ぎぐあいをまずよく見ねえな。三足が三足ともに、あっちへ一方、こっちへ一方飛び飛びになっているところをみると、どうやらはき主があわてて駆けつけて、あわてて駆け上がったらしい様子だよ。しかも、見りゃどれもこれも印伝鼻緒で、金めらしい二枚裏だからな。おそらく、このはき主ゃ、道楽仲間の悪旗本連だよ。そのうえに、土のちっともつかねえ真新しいわらじが、はくのを待つばっかりでこちらむきにそろえてあるとすりゃ、野郎が逐電の覚悟をつくりゃがって、大急ぎに道楽仲間を呼び寄せたとしきゃ読めねえじゃねえか」
「いかさまね。じゃ、ここで待ち伏せしててやりましょうか」
「ああ。しだいによると、野郎たちダンビラ抜くかもしれんから、十手の用意をしておくがいいぜ」
 うまいぐあいに寒竹笹《かんちくささ》の浅い繁みが玄関わきの左手にあったものでしたから、伝六は十手、右門はゆうぜんとふところ手をしたままで姿をかくしながら、様子やいかにと耳をそばだてていると、果然どやどやとあわただしい足音をさせて一刻をも争い顔にそこへ姿をみせた者は、右門のにらんだとおり、ひと目にそれと察しられる三人の旗本と、それから旅装束の一人でありました。念を押してみるまでもなく、旅装束のその小がらのやつが、目ざした不逞漢弥三郎とわかりましたものでしたから、右門はのっそりと両手を懐中にしたままで姿を見せると、満面に莞爾《かんじ》とした笑《え》みをのせながら、黙ってぬうッとその面前に立ちふさがりました。
 ぎょッとなったのは、むろんのことに四人の者で、それも立ちふさがった相手が不敵なことに、両手を懐中にしたままでにこやかにうち笑ってさえいたものでしたから、ややしばしぼうぜんと気をのまれたもののようでしたが、ようやくそれと気がついたのでありましょう――、
「さては、きさまが右門じゃなッ。まんまと鼻をあかしてやろうと存じていたが、もうこうなりゃあ水のあわじゃ。それッ、おのおの、ぬかりたもうなッ」
 いうや、三人の旗本がいっせいにけしきばむと、期したるごとくにその強刀へ手をかけて、必死に弥三郎をうしろにかばいました。とみるや、右門は期したることではありましたが、できうべくんばけがもさせず、事も荒だてずにとり押えたいと思いましたので、いたってしずかに威嚇いたしました。
「抜くはよろしいが、ちとおん身たちでは手にあまる相手でござるぞ。それでも刃向かいだていたされるか」
 しかるに、向こう見ずなやつがあればあるものでした。
「ほざくなッ。義によってせっかく逐電させようと思いたったわれわれ三人じゃ。きさまこそ、たかが不浄役人の分際で、直参旗本を見くびると命がないぞッ」
 おろかなところへ旗本風を吹かして、いっせいに抜き放ちながら刃ぶすまをこしらえましたので、右門はゆうぜんとふところ手をしたまま、微笑しいしい三人の太刀《たち》の構えをうち見守っていましたが、と……弥三郎はけっきょく笑止千万な鍍金《めっき》旗本でありました。右門のぶきみなくらいにゆうぜんとしたおちつきぶりを見て、とうてい三人の悪友だけではわが身の安全がおぼつかないと思ったものか、いきなり家の内めがけて逃げ出しましたものですから、もう事ここにいたらば、右門に待たれるものはおなじみのあの草香流のみです。どこか別の出口をたよって遠くへ逐電したらあとがめんどうと思いましたので、おもむろにふところから両手を出すと、ぽきぽきと小気味よげに節鳴りをさせていましたが、もうそれが鳴れば、草香流の物をいうのは実に一瞬のうちのことでありました。
「ちょっくら地獄までいって涼んできなせえよッ」
 叫ぶや、刃先の下をかいくぐって、右、左、まんなかと、疾風迅雷《しっぷうじんらい》の早さであっさり三人をのけぞらしておくと、さあ伝六ッとばかりに、弥三郎のあとを追って屋内深く駆け入りました。
 ところが、どうもこれが奇態です。先に駆け込んでいったとはいうものの、たった七足か十足ぐらいの相違でしたから、まだどこかに弥三郎がまごまごしていなければならないはずでしたが、天にもぐったか地にもぐったか、不思議とその姿が見えませんでしたから、例のごとくに伝六がまず音をあげてしまいました。
「まるでのみみてえな野郎だね。どこの廊下口も雨戸はちゃんと締まっているんだから、表へ逃げ出したはずあねえと思うんだが、野郎め畳のめどへでももぐったんでしょうかね」
 またそう思われるのも無理がないので、出口出口の雨戸は厳重にかぎがかけられたままでしたから、とするならばいきおいまだ屋敷内に潜伏していなければならないはずでしたのに、へやべやを捜してみても、押し入れご不浄までのぞいてみても、どうしたことか杳《よう》としてその行くえがわからなかったものでしたから、とうとう弥三郎をのみにしてしまいました。
 その言い方がいかにも伝六らしい比喩《ひゆ》でしたから、右門もほほえむともなくほほえみながら、しきりにあごのまばらひげをまさぐっていましたが、そのときはしなくも捕物名人の耳に伝ってきたものは、ざアざアという水の流れる音です。それもどうやら一時にあふれ出るような水音で、あまつさえその方角がまだのぞいてみなかった召し使いどもの用いる湯殿のほうでしたから、右門は時を移さずにやって行くと、この世におれの目の届かないところはないはずだといわぬばかりに、ぎろり中をのぞきました。
 と――、果然水音の出どころはそれなる湯殿の中で、不思議なことに丸い湯ぶねはちゃんとふたがきせられてあるにかかわらず、その周囲には今おけからあふれ出たばかりらしい暖かそうなお湯がもうもうと湯気をたてながら流れていたものでしたから、右門はそれを認めるや、くすり大きく笑っていたようでしたが、いきなり歩みよって、しっかり湯おけのふたを上から押えつけると、笑いわらい、伝六へ命じました。
「長生きはしてえもんじゃねえか。今日さまが毎日東から出るこたあ知っているが、まだこんな珍しい湯おけを見たことがねえよ。ついでのことに、伝馬町までみやげにしてやろうから、どこかその辺へ駆けていって、力のありそうな駕籠屋どもを三、四人ひっぱってきなよ」
「なるほどね、こいつあいかにも珍品にちげえねえや。じゃ、ひとっ走りいってきますから、しっかりふたを押えていなせえよ」
 魯鈍《ろどん》なること伝六ごときものをもってしても、ふたはふさったままでいるのに、外には今なかからあふれ出でもしたような、お湯の流れ伝わっているそんな化けぶろおけは、めったにお目もじのできない品物でしたから、早くもそれと知ったか、丸くなって表へ飛び出していったようでしたが、まもなく命じたとおりの屈強な裸人足どもを四人引き連れまして、珍しくも気のきいたことには、がんじょうな麻なわすらも携えてまいりましたので、右門はただちに人足どもに命じて、じゅうぶんに湯おけをふたごとくくらしました。
 といっしょに、ばちゃばちゃと中でもがきながら、案の定言い叫んだ弥三郎の声がありました。
「恐れ入りましてござります。もうけっしてむだなお手数はおかけいたしませぬによって、どうかふただけお取りくださいまし。とても湯気がこもって生きた心持ちはござりませぬゆえ、ふただけはお取りのけくださいまし」
 しかし、右門は厳としていいました。
「うすみっともねえ泣きごとをいうな。加賀百万石のお殿さまだっても、お湯に浸ったままで江戸の町を道中するなんておぜいたくはなさらねえじゃねえか。それに、きさまひとりのために命を失ったものがふたりもあるんだから、熱いくらいはがまんしろ」
 きびしくしかりつけておくと、いかさま加賀百万石をうちしのぐ珍道中ぶりで、人足どもにそれをかつがせながら、草香流におまじないをされたままで玄関先にのけぞっている悪旗本どもをしり目にかけつつ、さっさと伝馬町へ急がせました。
 いうまでもなく、伝馬町にはあばたの敬四郎が例のあの悪い癖を出して、見当違いなホシとも知らずに、きっと今も無実の美男|相撲《ずもう》、江戸錦四郎太夫を痛み吟味にかけているだろうと思ったからでありますが、案の定乗りつけてみると、ありとありたけの責め道具をそこに並べて、いたけだかになりながら必死と痛めつづけていましたものでしたから、右門はやにわに敬四郎の目前へどかりふろおけをうちすえさせると、微笑を含みながら、やや皮肉にいいました。
「やぶにらみもいいかげんにしなせえよ。さっきの死骸の駕籠のお礼に、人間の湯づけを一匹おみやげに持ってまいりましたから、じっくりとこの中の野郎をご覧なせえな」
 いうや、ぷつりとなわを切って、ふたを取りはずしてやったものでしたから、ゆでだこのようなまっかな顔でへとへとになりながら飛び出した者は、旅装束をつけたままで湯づけの道中をしてきた不逞漢《ふていかん》弥三郎でした。
 といっしょで、感謝あまったものか、江戸錦が、うしろ手にいましめられたままの大きなからだをがばとそこへ折り曲げると、右門のほうを伏し拝むようにしながら、白州の砂礫《されき》にしみるほどな大粒の涙をぼろぼろとはふり落としました。
 しかし、右門はいつもながらの右門でした。いたたまらないもののごとくこそこそと逃げていったあばたの敬四郎のうしろ姿を笑止げに見送りながら、そのいましめをぷっきりほどいてやると、物静かにいいました。
「もうこうなりゃ、右門というあっしがお味方だから、お血筋の真柄家を再興するなり、おすきならば関取り修業を励むなり、お気ままにしなせえよ。――では、伝六、そっちの湯づけのほうは揚がり屋敷へおっぽり込んでおいてな、江戸錦どんとあとからゆっくりやって来なよ。豪気に寒いようだから、お近づきのしるしにお関取りといっしょで寄せなべでもつつこうじゃねえか」
 言いおくと、ふところ手の中からあごをなでなで、ゆうぜんと歩み去りました。
 ――これは余談ですが、人はやはり身に備わった芸技と、その命運の示すところに左右されるものとみえて、りっぱなお直参にもなれる身分でありながら、断然江戸錦は関取修業をつづけ、のち三年にして関脇《せきわけ》の栄位を修め、恰幅《かっぷく》貫禄《かんろく》ならびにその美貌《びぼう》から、一世の人気をほしいままにしたということでした。

底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年2月16日公開
2005年7月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木味津三

右門捕物帖 身代わり花嫁 —–佐々木味津三

     

 ――ひきつづき第十一番てがらに移ります。
 事の勃発《ぼっぱつ》いたしましたのは師走《しわす》の月ずえ。今までもしばしば申し上げたように、当今とは一カ月おくれの太陰暦ですから、師走は師走であっても、ずっと寒気がきびしくて、朝夕はへそまでが凍りそうな寒のさいちゅうでした。
 しかし、陽気はいかに寒いにしても、犬が東を向けばその尾は必ず西へ向くように、師走が来ればその次にお正月が来ると決まっているんですから、さらでだに火事と師走どろぼうで忙しい江戸の町は、このときにいたってますます忙しさを加え、それだけにまためいめいのふところぐあいも負けないで火の車とみえ、行き行く人の顔は、いずれも青息吐息でありました。
 だが、そういう忙しげな周囲のなかにあって、忙しければ忙しいほど反対にほくほくしているところが、同じその江戸の中にただ一軒ありました。――屋号を生島屋《いくしまや》といった日本橋小田原町の呉服屋七郎兵衛の一家です。というのは、毎年の吉例どおりにこの十五日から始めた年末歳暮の大売り出しが、いつになくすばらしい大当たりを取ったからでしたが、ことにことしはせがれの陽吉が親の跡めをついで、その新婚記念と相続記念に、特別景品つきの大勉強をするというところから、売り出し初日の十五日には、これくらいあればじゅうぶんだろうと用意しておいた秩父銘仙《ちちぶめいせん》ばかりでもが、優に二千反を売り切ったというような、比類なき大景気でありました。銘仙ですらがそんな景気ですから、その他のもののはけぐあいがいいことはもちろんのことで、二日三日と大売り出しが重なっていくにつれて、客は客を呼び、評判は評判を生んで、まことに文字どおり店先は市をなすの盛況でありました。
 その評判を聞きつけたのが例のおしゃべり屋の伝六で――
「ちぇッ、世の中にゃ金のなる木を持っていやがるやつが、ふんだんにあるとみえらあ。ね、だんな、おたげえひとり者どうしで、お歳暮にくれてやる女の子もねえんだが、せっかくお正月が来るっていうのに、暮れの景気も知らねえじゃ、いかにもしみったれみたいで業腹だから、ひとつぶらぶらといってみますかね」
 朝湯がえりにひょっくりと顔をみせると、ちょうどその日は非番のために、右門が屈託顔でねこごたつにあたりながら、おなじみのあの十八番のあごひげをまさぐりまさぐり、草双紙かなんかに読みふけっていましたので、そそのかすように水を差し向けました。
「そうそう、おれァあの子に帯を買ってやる約束だっけ。腹ごなしに出かけようか」
 すると、右門が、まさかと思っていたのに、妙なひとりごとを漏らしながら、ふいと立ち上がりましたものでしたから、水を向けるには向けましたが、案外な気のりのしかたに、かえって伝六があわててしまいました。
「そりゃほんとうですかい」
「みくびっちゃいけねえよ。おめえのひとり者と、おれのひとり者とは、同じひとり者はひとり者でも、できが違うんだ――行くなら早くお小屋へけえって、へそくりをさらってきなよ」
 本気で促しましたものでしたから、おしゃべりとほっつき歩きの大好物な伝六は、犬ころのようになってしたくに駆け帰りました。
 寒は寒でしたが、いいぐあいに小春日で、それがまたいっそう客足を呼んだものか、小田原町の通りまでいってみると、もう店先はいっぱいの黒山でありました。それらの黒だかりしている客の間を、少年店員が右往左往しながら、わめくようにあちらからもこちらからも呼び合いました。
「えい、一両で二十八文のおかえしイ」
「さらしの上物一反――」
「こちらは黄八丈のどてら地イ――」
 しかし、そのとき、ふと右門の目をひいたものは、そこの帳場ごうしの向こうにそろばんをぱちぱちとはじきながら、手が八本あっても忙しくてたまらないといいたげに、しきりに金勘定をやっている若者でありました。たぶん、それが今度親の跡めを継いだという生島屋呉服店の新当主陽吉にちがいないが、右門の目をひいたというのは陽吉のすばらしい美男子ぶりで、それがまた並みたいていの美男子ではなく、おなごにしてもこのくらいな上玉はそうたくさんあるまいと思われるほどな逸品でしたから、ついひかれるともなくそのほうへ目をひかれました。
 それと知って、ところかまわずがらッ八を始めた者は、例のとおりおしゃべり屋伝六で、こやつはほかのこととなるとご存じのようにいたってどじの伝六なんだが、どうしたことか回り気だけはおかしいくらい発達していたものでしたから、あたりには黒山のお客がいるというのに、おかまいなく右門を粗略に扱いながら、あけすけとやりだしました。
「ちぇッ、あきれるな。いくらべっぴんだからって、男のべっぴんじゃ、おかしくもおもしろくもねえじゃござんせんか。どんな帯をお買い上げだか知らねえが、買うなら早いことおしなせえよ」
 その声がつつぬけに聞こえたとみえて、若主人陽吉がふとこちらを向きましたので、右門の視線と陽吉の視線とが、はしなくもそこでぱたりとぶつかりました。と同時に、どうしたことか、陽吉の両ほおがぱっと首筋のあたりまでまっかになりました。その赤らみ方というものが、また、まるで男とは見えないほどにいかにもういういしく娘々していたものでしたから、右門もちょっとそれにはめんくらったようでしたが、ちょうどそのとき手すきとなった店員が腰低くやって来て、注文の品を尋ねましたので、気がついてぶっきらぼうに答えました。
「女の子の丸帯じゃ――」
「えッ? じゃ、冗談でなくてほんとうですかい」
 出がけにああはいっても、右門にかぎって、あの子やこの子が自分の知らないまにできようとは思いませんでしたから、当然のごとくに伝六はお株を始めましたが、右門は取り合おうともしないで店員に命じました。
「なるべく、はで向きで、それもごく上等を見せてもらおうかな」
「へえ、かしこまりました。こちらは繻珍《しゅちん》、こちらの品はつづれ織りでございます」
 声と同時に十八、九ごろから二十がらみのはで向きを、ずらずらとそこへ並べましたので、さあ一大事とばかりに伝六がいっそう目を丸くしていると、だが、買うものは余人ならぬわれわれのむっつり右門です。たとえ、はで向きといったにしても、店員の持ち出したようなそんな年ごろの、聞きずてならぬ隠し人や届け先がいつのまにかできていたとしたら、いち伝六の問題ばかりではなく、やがて江戸に女|一揆《いっき》の起きるやも計られない大問題でしたから、右門はあわてて手を振ると、にが笑いしいしいいいました。
「いや、違うよ違うよ。もっとずっと若い、十二、三の子どもものじゃよ」
「ちぇッ」
 みごとにまた右門得意の肩すかしに出会って、伝六はちぇッと舌を鳴らしながらそっぽを向きましたが、反対に右門はおおまじめでありました。店員が新しくそこに並べ直したがらものの中から、緞子《どんす》のすばらしい一本を選び出すと、宝の小づちを背負ってでもいるような顔つきで尋ねました。
「三十両がほどもするかね」
「いいえ、十八両でございます」
「ああ、そうか。ちっと物足らないが、では、これをいただきましょうかな」
 まだ慶長小判が流通している時代の十八両なんだから、いいかげんなかど地面が買えるほどの金高ですが、しかるに右門は、ちっと物足らないが、といたって大きく出ながら、ちゃりちゃりとそこへ山吹き色を惜しげもなく並べると、念をおすように尋ねました。
「むろん、届けてくださるだろうね」
「へえい、もうすぐと伺わせまするでござります。おところはどちらさまで――」
 ことごとくもみ手をしたのを見ると、伝六というやつはうるさいといえばうるさいが、一面また実にかわいらしいあいきょう者でありました。
「どちらさまとはなんでえい、なんでえい、江戸っ子にも似合わねえ、おらが自慢のだんなを知らねえのか、右門のだんなさまだよ、八丁堀の右門のだんなさまだよ」
 いらざるところにいらざる自慢の名のりをあげたものでしたから、
「おいこら、伝六ッ――」
 あわててしかっておくと、右門は届け先を告げました。
「松平|伊豆守《いずのかみ》様のお屋敷に、静と申すお腰元がいるはずじゃからな。こちらの名まえをあかさずに届けなよ」
 言いおくと、右門と知って目引きそで引きしながら、いっせいにどよめきたったお客たちの視線をのがれるようにして表へ出ていきました。――お記憶のよいかたがたはいまだにお忘れないことと存じますからあらためて説明するまでもないことですが、右門がゆかしくも贈り主の名まえをかくして、かく高価な丸帯を惜しげもなくお歳暮に届けろと、店員に命じた相手のその静というのは、すでにお紹介しておいた六番てがらの継母《ままはは》事件で、右門に生まれてたった一度のごとき男涙をふり絞らしたあの孝女静のことです。その節、右門が声明しておいたとおり、世にも可憐《かれん》な孝女の孤児は、その後右門が親もととなって、伊豆守様のお屋敷奉公に上がっていますので、義を見てはだれより強く、情に会っては何びとより涙もろい人情家のむっつり右門は、年の瀬が迫ってきても、だれひとり人の世の親身な暖かさを与え知らすもののないこの可憐な孤児に、かくもゆかしく名まえをかくして、至愛の一端を示したのでありました。
「えれえッ、えれえッ。なにをなさっても、だんなのやることにゃ、そつがねえや。あの丸帯をお静坊に贈るたあ気がつきませんでしたよ。このとおり、あっしゃうれし涙がわきました――」
 伝六にも右門のゆかしさがわかったとみえて、がらッ八はがらッ八であっても、こやつがまた存外の人情家でしたから、ほんとうに往来なかで、栃《とち》のようなのをぽろぽろとやっていましたが、右門はべつにほめられるほどがものでもないといったような面持ちで、さっさと八丁堀《はっちょうぼり》のほうへ引き揚げていきました。

     

 と――、帰ろうとしたその道の途中で、はしなくも右門の第十一番てがらとなるべき事件の発端が、突如として勃発《ぼっぱつ》したのです。いや、道の途中でというよりも、正確にいえば伝六が生島屋の店先で、あのとき、右門にしかられるような不必要と見える名のりをあげたからこそ、事件が向こうから右門のふところに飛び込んできたんですが、かどを曲がった近道伝いに八丁堀のほうへ帰ろうとすると、あわただしく追いかけてきて呼ぶ声がうしろにありました。
「そこのだんなさま! おふたり連れのだんなさま!」
 振り返ってみると、呼び手は先ほど右門に丸帯を見せてくれた生島屋のあの店員でしたから、いぶかって待っていると、店の者は息せき切りながら追いついて、遠慮深げにきき尋ねました。
「先刻店先でこちらのかたがおっしゃいましたようでしたが、そちらのだんなさまは、八丁堀の右門様でござんすね」
「そうじゃよ」
「では、あの、うちの大だんなさまが、大至急で、ご内聞にちょっとお目にかかりたいと申してでござりますゆえ、ご足労ながらお立ち寄り願えないでござりましょうか」
「用は何でござる」
「詳しゅうは存じませぬが、いましがただんなさまがたが店先にお越しのさいちゅう、奥でなにやら妙なことが起きたそうでござります」
 いるさいちゅうに事が起きたといったものでしたから、事件のいかんを問わず聞きずてならじと思いまして、ただちに右門は伝六に目くばせしながら生島屋へ引きかえしてまいりました。
「どうぞ、こちらから――」
 言いつつ先にたって内玄関のほうへ案内しましたので、通されるままに上がっていくと、いかさま何か珍事が勃発したとみえまして、そこにうろうろしていたものは、生島屋の大だんな七郎兵衛《しちろうべえ》でありました。うち見たところまだ五十そこそこの年配でしたから、せがれの陽吉に跡めを譲って隠居するにはまだ少し早いくらいに思いましたが、今の場合はそんな不審の穿鑿《せんさく》よりも、事の何であるかが第一でしたので、一礼するとただちに事件の顛末《てんまつ》の聴取にかかりました。
「何ぞ出来《しゅったい》いたしたそうじゃが、どんなことでござる」
「あっ、ご苦労さまに存じます。あの、妙なことをしちくどく念押しするようでござりまするが、ほんとうに右門のだんなさまでござんしょうか」
 すると、奇妙なことには、七郎兵衛がまた、右門であるかどうか、改まって念押ししたものでしたから、いぶかしく思って尋ねました。
「先ほど、お店のかたも念を押されたようじゃが、もしてまえが右門でなかったならば、なんと召さる?」
「おふたりさまを前にして、変なことを申すようでござりまするが、もし右門のだんなさまでござりませなんだら、なまじ事を荒だててもどうかと存じますので、差し控えようかと思うているのでござります」
「すると、なんじゃな、右門なら事をまかしても安心じゃというのじゃな」
「へえい、ま、いってみればさようでござります」
「いや、なかなか味のありそうな話じゃ。いかにも拙者が右門でござるよ」
「あっ、さようでござりまするか。では、ちとご内聞に申し上げとうござりますので、そちらのかたをお人払いを願いとうござりまするが、いかがなものでござりましょう」
「だいじょうぶ、ご心配無用じゃ。これはてまえの一心同体のごとき配下じゃから、なんでも申されよ」
「さようでござりまするか。では申し上げまするが、実は今これなる座敷で、ふいっと軸が紛失いたしましてな」
「軸と申すと、書画のあの軸でござるか」
「へえい」
「品物は何でござる」
「雪舟の絹本でござりました」
「雪舟と申すとなかなか得がたい品じゃが、家宝ででもござったか」
「へえい。代々家に伝わりました、二幅とない逸品でござりますので、かくうろたえているしだいでござります」
「いつごろでござった」
「ほんのただいま、それもまだだんなさまがたがお買い物中のことでござります」
「聞き捨てならぬことじゃな。場所はどこでござった」
「その床の間に掛けてあったのでござりまする」
「でも、この床には現在なにやらめでたそうな新画が掛かっているではないか」
「いいえ、それが不思議の種なんでござりまするよ。実は、いましがた出入りの鳶頭《とびがしら》が参りましてな、つい十日ほどまえにてまえのせがれが嫁をめとりましたので、その祝儀じゃと申しまして、この新画の幅をくれたものでござりますから、さっそくこれと雪舟とを掛け替えて鳶頭とふたりでながめておりましたら、そのまに取りはずしておいた雪舟が、いつか消えてなくなったのでござりまするよ」
「ほほう。では、その間だれもこのへやへははいらなかったというのじゃな」
「ええ、もうはいるどころではござんせぬ。てまえと鳶頭がちゃんとここについていましたのに、あとで気がつきましたら、雪舟だけがなくなっていたのでござります」
「なに、あと……? あとと申すと、鳶頭が帰ってからのことじゃな」
「へえい。いつも気ぜわしげな男で、すぐに帰りましたゆえ、うちのものに玄関まで送らせまして、ふと気がつくと、もう雪舟が消えてなくなったのでござります」
「すると、なんじゃな、もし疑いをかけるなら、その鳶頭とやらが怪しいわけじゃな」
「ところが、それが大違いでござります。に組の金助といや古顔の鳶頭でござんすから、だんながたもご存じだろうと思いまするが、てまえの家はもう先代からの出入りで、今年七十になるまでただの一度も人からうしろ指さされたことのないっていうりちぎ一方の江戸っ子なんでござりますから、疑うどころか、怪しい節一つないんでござりまするよ。それに、てまえがその間座をはずしたとか、ご不浄にでも立ったとか申しますなら、鳶頭にも疑いがかかるんでござりますが、なんしろ来るから帰るまで、ちゃんとてまえがこの二つの目で見張っていましたのに、雪舟だけが消えてなくなったんでござんすから、どうにも解せないのでござります」
 ――事実としたら、いかにもこれは奇怪至極な盗難事件というべきでした。紛失した雪舟の名画が、まるめてふところにでもはいる品だとか、あるいはちょいとたもとの中へでも失敬できるような小さな品でしたら、ずいぶんとまだ疑いようもあるわけなんですが、なにをいうにも、たった今しがたまで床に掛けてあった幅物の、いたってかさばる品なんですから、いかさまこれは不思議千万な話というべきでした。しかも、唯一の容疑者というべきそれなる鳶頭の金助なる者が、いうとおりのりちぎ一方な江戸っ子で、あまつさえ先代からの古い出入りだったというにおいては、だれかキリシタン・バテレンの密法でも使う者が忍び込んで持ち出さないかぎり、あるいは雪舟の名画に足がはえて、自分からひとりでにどこかへ姿をかくしてしまわないかぎり、まことに奇怪至極、不思議千万な盗難事件というべきでした。
 けれども、このくらいな盗難事件に出会って、たわいなくあわを吹くようなむっつり右門だったら、だいいち伝六の、おらのだんな、おらのだんなと称して、ああも人に自慢するはずはないわけです。さればこそ、右門は例の秀麗きわまりない眉目《びもく》に、観察の深さを物語る一文字のくちびるをきりりと引き締めて、しきりとそこに掛けられてある床の新画を見ながめていましたが、ふふん、というような微笑をみせると、やぶからぼうに尋ねました。
「見れば、この新画の落款には栄湖としてあるようじゃが、栄湖というのはあの四条派の久和島栄湖であろうな」
「へえい。新画番付では三役どころの画工だそうにござります」
「すると、相当な値ごろのものじゃな」
「へえい。よそから祝儀にいただいて値ぶみをするのも変なものでござりまするが、安い品ではござりませぬ」
「では、箱ぐらいついていそうなものじゃが、どうしたことか、これは無箱のようではないか」
「いいえ、無箱ではござりませぬ。ちゃんと箱に入れて持ってきてくれたのでござりまするが、途中でまにあわせに買いととのえたもので、まだ箱書きがしてございませんからと申しまして、鳶頭が箱だけを――持ち帰ったのでござりまするよ」
 と、――聞くや同時に、右門のまなこが、期したる答えに接したもののごとく、きらきらと輝きを帯びてまいりました。いや、ただにまなこが輝きを帯びてきたばかりではなく、すでにいっさいの解法がついたかのごとくに、莞爾《かんじ》とうち笑《え》んでいましたが、ややことばを強めると、七郎兵衛をおどろかすように尋ねました。
「盗まれた雪舟は、たぶん尺二でござったろうな」
「へえい、そ、そうでござりまするが、どうしてまた、そんなことがおわかりでござりまするか」
 ぎょっとなったように七郎兵衛がきき返しましたので、右門はふたたび莞爾《かんじ》とうち笑んでいましたが、がらりと調子を変えると、ようやくむっつり右門本来の面目に立ち返ったといわんばかりで、おそろしく伝法に、おそろしく切れ味のよろしい啖呵《たんか》をずばりときりました。
「おれの名は、二度も三度も念を押して聞いているじゃねえか。むっつり右門はただのできあいじゃねえや、知恵の出どころがちっと違わあ。――さ、伝六、また少し忙しくなったぜ」
 のみならず、ゆうゆうとして蝋色鞘《ろいろざや》を腰にすると、ぱんぱんひざがしらをはたきながら、おちついて帰りじたくを始めましたものでしたから、どこにどう犯人のめぼしがついたものか、まるでまだ五里霧中の七郎兵衛があわをくって尋ねました。
「では、あの、雪舟の行くえはもうおわかりになったのでござりまするか」
「わかったからこそ、こうして帰りじたくをしているんじゃねえか。ねこごたつにでもはいって、金の勘定でもしていなよ」
 言い捨てるや、迫らずに表へ出ていったようでしたが、ふと伝六をかえりみると、述懐するようにいいました。
「思うに、あのおやじ、少し握り屋らしいな」
 伝六にはその突然な述懐がよくわからなかったとみえて、ぼけぼけしながら、いぶかしそうにきき返しました。
「とおっしゃると、だんなは、あのおやじの握り屋らしいところに、なんかこの事件《あな》の糸口があるっておっしゃるんですかい」
「あたりめえよ。ひと口にいや、小欲が深すぎるんだよ。だから、あの軸物をもらったんで、もらうものならなんでもござれとばかり、ほくほくもので有頂天になっているすきを、ちょろりと雪舟に逃げられてしまったんだ」
「じゃ、やっぱり、あの鳶頭の金助とやらが怪しいとおっしゃるんですね」
「決まってらあ。あのおり、ほかにだれもあの座敷へ来たものがねえとすりゃ、雪舟の絵に足がはえてでも逃げ出さねえかぎり、金助よりほかに盗んだやつあねえじゃねえか」
「でも、先代からのお出入りで、評判の正直者だといったじゃござんせんか」
「だから、なおのこと、あのおやじ小欲が深すぎるにちげえねえっていうんだよ。相手が正直者だから安心しきって、もらいものに有頂天となっているすきを、ちょろりと細工されちまったんだ。また、鳶頭のほうからいや、日ごろ正直者として信用されているのをさいわい、そこをつけ込んで裏かいたのさ」
「いかにもね。そうすると、やっぱり、箱書きをするといって、あの箱を持ちけえったことがなんか細工の種ですかね」
「ほほう。じゃ、おまえもやっぱり箱書きが怪しいとにらんだかい」
「だって、考えてみりゃおかしいじゃござんせんか。お祝儀の進物に持ってくるくれえなら、箱書きなんぞまえからちゃんと用意してくるのがあたりめえなんだからね。しかも、きいてみりゃ、盗まれた雪舟がやっぱり尺二で、さっきあそこに掛かっていた新画のほうも同じ尺二じゃござんせんか。だから、思うに、あれと雪舟とを掛け替えるとき、うまいこと目をちょろまかして、持ってきた箱の中へ雪舟を盗み入れたうえで、箱書きを口実に、まんまと持ち帰ったんじゃござんせんかね」
「偉い! そのとおりだよ。そのとおりだよ。きさまもだいぶこのごろ修業が積んだな」
「ちぇッ、つまらないことを、めったにほめてもらいますまいよ。あっしだって、三年たちゃ三つになりますからね。それに、でえいち、盗まれた品物が品物ですからね。あんなかさばるものを、おやじの見ている前でどうして持ち出したろうと不審をうっているとき、ひょっくりとだんなが箱のことを尋ねなすったものだから、さてはそいつが急所だなと思って、いっしょうけんめい聞いていたところへ、箱書きうんぬんのことを申し立てたので、こいつ鳶頭が細工したなと気がついたまでのことでさ」
「いや、偉いよ。どっちにしても、それを気がつくようじゃ、きさまもめっきり腕をあげたよ。――だが、こいつ、ぞうさなさそうに見えて、存外根が深いかもしれねえぜ」
「とおっしゃいますと、なんですかい。盗み手のめぼしはついたが、肝心の雪舟はちょっくらちょいとめっからないとでもおっしゃるんですかい」
「いいや、そんなものの行くえやありかは、このおれが出馬するとなりゃまたたくまだがね。とかくこういうふうにぞうさがなさそうに見える事件《あな》ってものが、思いのほかに根の深いもんだよ。ついこないだの達磨《だるま》さんの捕物《とりもの》でもそうなんだが、うわべに現われているたねの小さいものほど、底が深いものさ」
「だって、雪舟が人の見ている前で、ひゅうどろどろと消えてなくなるなんて、ちっとも小さかねえじゃござんせんか」
「そりゃ、きさまが雪舟という絵の値うちに目がくらんでいるからだよ。そいつをとりのけてみりゃ、ただの盗難さ。けれども、その盗んだやつが七十近い老人のりちぎ者だっていうんだからな。根が深いかもしれねえっていうなあ、そのりちぎ者のとったってことそのことさ」
「大きにね。だんなの目のつけどころは、いつも人と違うからね」
「それに、あの生島屋のおやじが、二度も三度もおれに右門だかどうだか念を押したのが、ちっと気に入らねえじゃねえか」
「いかにもさよう。あっしもあの一条がいまだに気持ちがわるいんですがね。右門のだんなならお頼みするが、ほかの八丁堀衆なら頼むまいっていわんばかりのことを、変に気を持たせてぬかしゃがったからね」
「だから、こいつちっと大物かと思っているのさ。それに、時が時だからな……おっと、いけねえ、いけねえ。話に夢中になっているうちに、とんでもねえほうへ来ていらあ。ここをいっちゃ深川へ出てしまうじゃねえか。に組っていや、たしか神田だったろ」
「へえい、さようでござんす。連雀町《れんじゃくちょう》あたりに火の見があったはずでござんすよ」
「じゃ、めんどうくせえや。ひと飛びにまた例の駕籠《かご》[#「駕籠」は底本では「駕駕」と誤記]にしようよ」
「そらッ、おいでなすった。もう出るか、もう出るかと待っていましたっけが、だんなの口から駕籠っていうお声がかかりゃ、槍《やり》が降ろうと、火の玉が舞おうと、もうおれが天下だ。――おいそこの裸虫! 大急ぎ二丁ご用だぜ」
 この師走空《しわすぞら》にしり切れじゅばん一枚きりで、そこの橋たもとにふるえていた裸人足を見かけると、景気よく伝六が呼び招きましたので、右門はむっつりとくちびるを引き締めながら、いよいよこれより右門流の水ぎわだった捕物にかかろうといわんばかりで、筑波《つくば》おろし吹きしきる大江戸の昼日中町を、神田連雀町目ざして駆けさせました。

     

 目じるしが火の見やぐらというのっぽの背高でしたから、に組の火消し番所は労せずしてすぐと見つかりました。火消し番所が見つかった以上、鳶頭《とびがしら》の金助はさらに手間暇を要せず居どころが判明したものでしたから、右門はまず在否を尋ねました。
 しかし、居合わした若い者の答えによると、金助は一度帰宅したが、その足でただちにまたいずれかへ他出したということでありました。だから、普通の者ならば、少しうろたえて他出先とか立ちまわり先を、目の色かえながらききただすところでしたが、しかるに右門は、いたっておちつきはらいながら、さようか、では、引き揚げようとばかりに、ろくろく出先もきこうとしないで、さっさと帰りだしたものでしたから、いつもながら、ことごとく首をひねってしまったのはおしゃべり屋伝六です。
「ね、どうしたんですかい。野郎品物を持ってどこかへこかしに行ったとするなら、すぐと足を洗わなくちゃなりませんが、いやにおちつきはらっていなさるところをみると、急にここまでやって来てほしが狂ったんですかい」
 すると、右門がうるさいといわんばかりに、ずばりと答えました。
「人を見て法を説けというやつだよ。かりそめにも、に組の鳶頭っていや、侍にしたら城持ち大名ほどの格式じゃねえか。高飛びすりゃしたで顔がきいているからすぐにわかるし、また江戸っ子のちゃきちゃきが、そんなぶざまなまねもしめえじゃねえか。大船に乗った気で、晩のおかずの心配でもしなよ」
 女もいらじ、金もいらじ、ただのぞむものはおいしいものばかりといいたげに、ごくおちついていたものでしたから、伝六もそれっきりむだな問いを発しませんでしたが、しかし、そう見えながらむっつりとおし黙って、例のおなじみのあごひげをまさぐりまさぐり、不断になにごとかを考案くふうしているのが、いつもながら捕物名人の癖です。果然、なにごとかくふうがついたとみえて、その夜のかれこれもう二更すぎたころでした。
「さ、伝六! お出ましだッ」
 むくりとこたつからはい出ると、おおかた人々が寝に就こうというそんな夜ふけに、ふいっと外出のしたくを始めましたものでしたから、ぎょうてんしたのはいうまでもなく伝六です。
「この寒いのに、正気ですかい」
「正気でなくてどうするかい。火事は、寒い暑いにかかわらず、燃えるときが来りゃ燃えるんだよ」
「えッ? どっかで今、半鐘でも聞こえるんですか」
「あいかわらずどじを踏みだすと、感心してえほど連発するな。いま半鐘が鳴っているっていうんじゃねえんだよ。このからッ風じゃいつ火事を出すかわからねえから、そろそろ出かけようっていってるんだ」
「禅の問答みたいなことおっしゃいますね。よしんばからッ風が吹いているにしても、だんなやあっしが火の番でもねえのに、なにもうろうろするにゃ当たらねえじゃござんせんか」
「決まってらあ。おれたちが火事見回りに行くんじゃねえんだよ。火事が出そうなこんな晩にゃ、火消しや鳶《とび》人足はうちをあけずに寝ず番で起きているから、おおかた金助ももう外出から家へけえっているにちげえねえっていってるんだ」
「な、なるほどね。目のつけどころが凝ってらあ。いかにも金助め、この風じゃ心配になって、うちにいるにちげえねえでがしょう。では、また駕籠《かご》ですかい」
「寒い風に当たるのも一つの修業じゃ。歩いて参ろう」
 いうや雪駄《せった》をうがって、ゆうぜんとふところ手をしながら、いっそうひゅうひゅうとこがらしの吹きつのりだした往来へ歩きだしましたので、伝六も負けずにあとを追いました。
 年の瀬近い江戸の大路の屋並みは、すでにまったく大戸をおろして、まこと名物の江戸の花が、いまにもそこらあたりからじゃんじゃんぼうとやりだしそうな夜ふけでした。
 行きついてみると、案の定金助は出先からもどりかえって、そこの長火ばちの向こうに古稀《こき》の老体とは見えぬがんじょうな体躯《たいく》をどっしりと横すわりにさせていたものでしたから、右門はごめんとばかり上がっていきました。
 しかし、金助のそのつらだましいをしげしげと見て、右門はちょいと、二の足を踏んだかたちでありました。生まれおちるから火事の中に育って、この世にこわいものは一つもないといいたげな、不敵無類の面貌《めんぼう》をしていましたものでしたから、人を見て術を施すにさとい右門は、はて、いかにして口をあかしたものかというように、ややしばしためらっていたようでしたが、そのときはからずもかれの目にとまったものは、そこのへやの境に使われている四本のからかみふすまです。ふすまは家につきものの造作ですから、いっこう不思議でも不審でもなかったが、いぶかしかったことは、その四本だけが他のへやの古すぎるほど古いのに比べて、特別の新しさを備えていることでした。それも尋常一様の新しさではなく、のりのしめりぐあい、紙のかわきぐあいなぞから推しはかってみると、つい一、二刻まえあたりに張り替えたらしいような点が見うけられましたものでしたから、早くも右門の特別仕立ての明知が、ピカピカとさえ渡ったもののごとくでありました。いや、同時にもうその盗難品の隠匿場所も、どうしてそれを完全に看破したらいいか、その方法も、すでにいっさいのくふうがついたもののごとく、突然にやりと笑っていたようでしたが、はじめからこの家を目ざして来たというのに、ぽつりと妙なことをいいました。
「失礼失礼。ついお隣とまちがえて、とんだ無作法をつかまつった。あしからずごめん――」
 いうと、そのまま表へ出ていってしまいました……そろそろ右門流が始まったなと、伝六が次の行動を待っていると、果然右門が奇怪至極な命令を発しました。
「一二三の合い図をするから、きさまもいっしょに、この家の前で、お隣が火事だと大声で叫べ!」
「だって、火事でもねえのに、そんな人騒がせのことを叫んだら、のされちまいますぜ」
「八丁堀の右門様がどなれとお命じになってるんだ。――いいか、そら、一二三!」
 なにごとか成算のあるもののごとく、右門が一二三と合い図をしたものでしたから、そういうこととなると特別大好物な伝六です。
「火事だア。火事だア。お隣が大火事だア」
 右門の叫ぶ声に合わせて、必死と伝六も叫びました。なにしろ、宵《よい》のうちからひゅうひゅうとからッ風が吹き荒れて、今晩あたり出火したら、と大びくびくのところへ、場所もあろうに鳶頭《とびがしら》金助の家の前で、お隣が大火事だア、とばかり大声でどなったものでしたから、なんじょうあわてないでいられましょう! 刺し子をまとって用意をしていたいなせの若者が、どやどやと金助の家から飛び出しました。
 と――、そのあとから商売がらにも似合わずに大狼狽《だいろうばい》で、血色を失いながら駆けだしたものは、だれあらぬ鳶頭の金助自身でありました。けれども、飛び出しながら金助のけんめいにひっかついでいたものは、なにかとおぼしめす?――これぞ、笑止というか、こっけいというか、それとも当然なことというか、あの先ほど右門が不審を打った、四本の新しいからかみふすまの一本でありました。――まことにいつもながら捕物名人の、いわゆる右門流は、人の意表をつくことかくのごとく、また、水ぎわだってあざやかなことかくのごときものばかりでしたから、三嘆これ久しゅうしてもほめきれないぐらいでしたが、隣が火事とききつけ、まっさきにふすまをかつぎ出したことは、いうまでもなくそのものが第一番に貴重な品であることを問わず語りに物語っていましたので、最初から四本のふすまを怪しとにらみ、そのうちのいずれに秘密の細工をしてあるか労せずしてそれを看破しようと、かく奇計をめぐらしてその思うつぼに相手をおとしいれた右門は、早くもそれと知るや、例の十八番草香流やわらの一手で、ぐいと金助の腕をねじあげておきながら、莞爾《かんじ》とうち笑みうち笑みいいました。
「火事に慣れないものなら、仏壇と石うすをまちがえてかつぎ出すということもあるが、おあいにくさまにきさまは鳶頭だったんで、あわてましたと申し開きのできないことがおきのどくだな。――苦心して罪を隠そうとしたてめえの手品の種をあかしてやるから、さ、来い!」
 ぐいぐい家の内へひきずっていくと、いきなり小柄《こづか》をぬいて、おらがだんなの知恵はどんなものじゃい、というように大得意で伝六が持ち運んできたそれなるふすまを、ばりばりと注意深く引きさきました。といっしょで、果然上張りの一枚下からにょっきりと正体を現わしたものは、画面だけを切り抜いた名画雪舟の一幅でした。
「それみろッ。これがバカの小知恵というやつじゃ。なまじりこうぶって、こんなものの下張りに張り込んでおくから、余人は知らず右門の目にかかっては、隠しきれなかったのじゃ。さ! 神妙に申し立てろッ」
 だが――、かく歴然と現品は剔発《てきはつ》されているのに、この期に及んで鳶頭の金助は、その不敵無類なつらだましいが物語っているごとく、がんとして口をとじたままでした。それも犯行を自白しなかったばかりでなく、何がゆえにかような品を盗み出すにいたったか、石のごとくに無言でありました。
「たとえ口がさけても、このことばかりは断じて申されませぬ!」
 ただひとこといったきり、江戸っ子魂の意地の強さを眉宇《びう》にみなぎらしながら、厳として緘黙《かんもく》したきりでしたから、当然の帰結としてなんびとにもただちに想起される問題は、拷問火責めの道具ばかりとなりました。
 けれども、余人は知らずわがむっつり右門の得意としたところのものは、拷問火責めの荒道具を用いざるところにあったはずです。そのかわりに、たぐいまれな、安物でない明知という武器が残っていたはずでありました。さればこそ、そのときはからずもかれの胸中に思い出されたものは、生島屋の七郎兵衛が、特に右門ならばというように、念を押したあの一条のいぶかしい記憶でありました。それとともに思い合わされたものは、昼間生島屋を引き揚げる道の途中で、伝六に述懐したごとく、りちぎ者と名をとった公人の鳶頭が盗みを働く以上は、なにか深い根があるだろうといった、その推断でありました。それこれを思い合わしてみるに、案の定ぞうさのなさそうに見えた事件は、ここに及んでがぜん第二のなぞと秘密に包まれた雲霧の中に吸い込まれていきましたので、それみろ、いったとおりだったろう、と言いたげに右門はややしばしなにごとかをうち案じていましたが、それならそれでまた別な吟味方法でとばかり、ふいっと伝六に意表をついた命令を発しました。
「どこか近くの自身番に、座敷手錠があるだろうから、借りてきてはめときな」
「じゃ、ご番所へしょっぴいていくんじゃねえんですかい」
「鳶頭といや、とにもかくにも人の上に立つ人間だ。盗みの罪状は罪状にちげえねえが、これほどの分別ざかりな人間がやるからにゃ、なんぞ子細があるだろうからな。それに、お年寄りがこの寒空に火の種一つねえご牢屋《ろうや》住まいも身にこたえることだろうから、なるべくいたわってやんな」
「わかりやした。――みろッ、そこら辺のまごまごしているわけえ者、おらのだんなのなさるこたあ、このとおり、いつだってそつがねえんだぞ。後学のため、ちっとだんなのつめのあかでももらって煎《せん》じて飲みな」
 いつも変わらぬ右門のゆかしい一面をここにおいても見せましたので、すっかり伝六がわがことのように大みえをきりながら、さっそく命令どおり近くの自身番へ手錠を取りに駆けだそうとすると、まことに人は意気のものです。いや、げにこそ徳は孤ならずでありました。およそ世のこと人のことは、その人おのずからの心がら人徳によって、きのうの敵もきょうは味方になるとみえ、今まで江戸魂の意地張り強く、死しても口はあけじといわんばかりに、がんとして緘黙《かんもく》を守っていたそれなる鳶頭金助が、右門のつねに忘れぬいたわりと慈悲の心に、さしも強情の手綱がとけて、ころりと参ったものか、走りだそうとした伝六を呼びとめていいました。
「ちょっと、ちょっとお待ちなせえまし。こればっかりは口が裂けても申しますまいと思ってましたが、慈悲の真綿責めに出会っちゃかなわねえ。おわけえに似合わず、そちらのだんなは、あっぱれ見上げた男っぷりだ。あっしも江戸っ子|冥利《みょうり》に、すっぱりかぶとをぬぎましょうよ」
 うって変わって自白するといいだしたものでしたから、右門の喜びはいうまでもないことでした。
「そうか、それでこそそのほうも男の中の男|伊達《だて》じゃ。きいてつかわそう、どんな子細じゃ」
「ちっとこみ入った話でごぜえますから、よっくお聞きくだせえましよ。実は、生島屋のおおだんなに八郎兵衛《はちろべえ》っていうおにいさんがもうひとりごぜえましてね、そのかたが兄でありながら、あんまりおかわいそうなご沈落をしていなさるので、見るに見かねて、あっしがちっとばかり侠気《おとこぎ》を出したんでごぜえますよ」
「なるほど、さようか。ともかくも、人のかしらといわれるほどのそのほうがいたしたことじゃから、ただの盗みではあるまいと存じおったが、では、雪舟を盗みとって金にでも引き換え、ないしょにみつごうというつもりじゃったのじゃな」
「めっそうもござんせんや。だから、よくお聞きなせえましといってるんですよ。あっしががらにもなく侠気を出してこの品を盗みとったなあ、そんなちっぽけな了見からじゃねえんですよ。ピンが出るか、ゾロが出るか、生島屋の身上を目あてに賭《か》けて張った大勝負でさあ」
「なに、生島屋の身代……? では、なんぞあの一家には秘密な節でもあると申すか」
「ある段じゃござんせぬ。だんなもとっくりお考えになったらおわかりでござんしょうが、唐《から》や天竺《てんじく》の国なら知らぬこと、おらが住んでいるこの国じゃ、どこの家へいっても、兄貴があったら兄貴へ身代を譲るのが昔からのしきたりじゃござんせんか」
「しかり、それでこそ豊葦原《とよあしはら》瑞穂国《みずほのくに》が、ご安泰でいられると申すものじゃが、そうすると、なにか、あれなる七郎兵衛とか申すのが、兄をさしおいて、なんぞよこしまなことでもいたしおったのじゃな」
「ではないかと存じましてな、あっしが雪舟でちょっと細工してみたんでがすが、どこの家へいったって兄がありゃ兄に家督を譲るのがあたりめえなのに、どうしたことか、あの生島屋っていううちには昔から妙な言い伝えがごぜえまして、子どもがふたり以上生まれたときにゃ、その成人を待って嫁をめとり、そのせがれたちの設けた孫のなかで、男の子を産んだものに、次男だろうと三男だろうと、うちの身代を譲るっていう変なしきたりがあるんですよ。だから、今の大だんなの七郎兵衛さんと、ご沈落しなさっている兄の八郎兵衛さんと、このおふたりが成人なすったときにも、先代の親ごさんていうのがさっそく言い伝えどおり、それぞれむすこさんにお嫁をめとらしたんですがね。するてえと、ご運わるく兄の八郎兵衛さんには女のお子ども衆が生まれ、弟の七郎兵衛さんにはまたご運よくもあの陽吉さんていう男の子どもが生まれたんでね、代々の家憲どおり、七郎兵衛さんが兄をさしおいて、今の生島屋の何万両っていうご身代を、ぬれ手でつかみ取りにしちまったんですよ」
「なるほど、わかったわかった。そうすると、なんじゃな、その七郎兵衛の設けた陽吉っていう男の子どもが少し不審じゃと申すのじゃな」
「へえい。いってみりゃつまりそれなんですが、どうもいろいろとおかしい節がごぜえましてね」
「どのようなことじゃ」
「第一はお湯殿でごぜえますが、男の子ならなにもそんなまねしなくてもいいのに、どうしたことか陽吉さんは昔からひとりきり、別ぶろへへえりなさるんですよ。それも、四方板壁で、のぞき窓一つねえっていう変なお湯殿なんでね。だから、妙だなと思っているやさきへ、今度陽吉さんがおめとりなさった嫁っていうのが、どうもおかしなしろものなんですよ。だんながたはご商売がらもうご存じでごぜえましょうが、日本橋の桧物町《ひものちょう》に鍵屋《かぎや》長兵衛《ちょうべえ》っていうろうそく問屋があるんですが、お聞き及びじゃござんせんか」
「ああ、存じおる。名うての書画気違いと聞き及んでいるが、そのおやじのことか」
「さようさよう、その書画気違いのおやじでごぜえますよ。そいつの娘がつまり陽吉さんのお嫁さんになったんですが、奇妙なことに、その鍵屋にはふたり子どもがあっても、みんな男ばかりで女の子はねえはずだったのに、生島屋とのご婚礼まえになってから、ひょっくりと女の子がひとりふえましてね。そのふえ方ってものがまた妙なんで、今まで長崎のほうの親戚《しんせき》へ預けてあった娘を呼びよせたってこういうんですが、それはまあいいとして、そのかわり今までふたりあった男の子どものうちの、弟むすこってほうが、女の子のふえるといっしょに、ひょっくり消えてなくなったんですよ。長兵衛のいうには、長崎のその親戚へ女の子の代わりに次男のほうを改めてくれてやったと、こういってるんですがね。いずれにしても、男がひとり消えてなくなって、そのかわり女の子がひょっくりとひとりふえてきたんだから、もしや、と思ったんですがね」
「では、なんじゃな、そこに何か細工があって、若主人の陽吉は実際は女であり、嫁に来たろうそく問屋の娘っていうのが、もしやほんとうは男であるまいかと、こういう疑いがわいたと申すのじゃな」
「へえい、あっしだけの推量なんでごぜえますが、陽吉さんの別ぶろのことといい、ろうそく問屋の次男坊の見えなくなったことといい、なんかうすみっともねえ小細工しているんじゃねえかと思うんですよ」
 なんぞ深い子細があっての盗みだろうとはすでに見きわめがついていましたが、七郎兵衛一家の上に、陳述のような疑雲がかかっているとするなら、ここに事件は意想外な方向への急転直下を始めかけましたので、捕物名人の全知全身は急激に緊張の度を加えて、見るまに両のまなこがらんらんと活気を帯びてまいりました。と同時に、その記憶の中へ、ぴかりと電光のごとくにひらめき上がったものは、朝ほど買い物にいったとき、生島屋の店先でふとかいま見た若主人陽吉の美男ぶりでした。いや、美男ぶりのその記憶よりも、あのとき、はしなくもみせた陽吉の女にも見まほしいほおの赤らみとはにかみでした。
 こりゃ思わぬ色っぽい捕物になりそうだなと思いましたので、右門は語をついで尋ねました。
「しからば、雪舟は何がゆえに盗みとったのじゃ」
「それがあっしの苦心なんですよ。だんなはさっき、バカの小知恵とおっしゃいましたが、あっしとすりゃあれを盗むのがいちばん近道と思いやしたからね。さればこそ、一生一度の盗みもしたんですが、それってものは、あのろうそく屋の長兵衛めがちっと気にいらねえ癖があってね。いま手もとに集めている書画の掛け物はおおかた二、三百幅もあるんでしょうが、一本だっててめえが金を出して買った品はねえんですよ」
「では、いずれも盗みとった品物じゃと申すのか」
「いいえ、もっと根のふけえやり口で巻きあげるんですがね。ひとくちにいや、みんなゆすり取るんですよ。そのゆすり方ってものがまた並みたいていのゆすりようじゃねえんだがね、どこかにいい幅のあることを耳に入れると、しつこくその家をつけまわして、何かそこの家の急所になるような秘密とかあら捜しをやったうえに、うまいこと巻きあげちまうんですよ。だから、生島屋のこの雪舟にしたって、やっぱりその伝でね、こないだ長兵衛がこいつをくれろといって、ゆすりに来たと小耳へ入れたものだから、長兵衛がくれろというからにゃ、何か生島屋の急所となる秘密かあらを握ってからのことだろうと思いやしたので、もしかすると、おれのにらんでいる急所じゃねえかと思ったところから、こいつを盗み取らば、自然事が大きくなって生島屋のほうでもあわてだすだろうし、長兵衛のほうでもゆすりの種をなんかの拍子に明るみへさらけ出さないもんでもあるまいと思って、ちっとまわりくどい方法でしたが、ためしに盗んでみたんですよ」
 いっさいのなぞがその陳述によって解きあかされましたものでしたから、右門の全能力はここに戛然《かつぜん》と音を発せんばかりに奮い起こりました。第一はその侠気《おとこぎ》です。一介の市人鳶頭の金助ですらが、かく侠気からあえて盗みをも働いたというのに、それほどの奇怪至極な秘密を聞き知って、われらの義人むっつり右門が黙視のできる道理はないはずでしたから、凛《りん》として言い放ちました。
「よしッ。おれがそのからくりをあばいてやらあ。さ、伝六ッ。ちっとまたおめえには目の毒になることを見せなきゃならなくなったから、しっかりと了見のひもを締めておきなよ……じゃ、参ろう、駕籠《かご》だッ」
 たちまち伝六が二丁をそこにそろえましたので、右門は雪舟をこわきにしながら、時を移さずに、飛びのりました。

     

 時刻はすでに四ツを回って、普通ならばとっくに寝ついているべきはずでしたが、昼の大売り出しの勘定がつかないとみえて、まだ生島屋ではいずれもが起きていましたので、右門はかって知った内玄関のほうへ駕籠を乗りつけると、案内も請わずにずかずかと門内へはいっていきました。
 と……そのときはしなくも耳を打ったものは、そこの勝手わきの井戸ばたで、じゃぶじゃぶと洗い物をでもしているらしい水の音でした。昼のせんたくならばけっして右門とて不審はいだかなかったが、この夜ふけにないしょがましい洗いすすぎは、いかなる微細なことをも見のがし聞きのがしたことのない捕物名人にふと不審をわかしましたので、突然襲い入るように井戸ばたへ回っていきました。
 見ると、洗いすすぎをやっていたものは生島屋の下女でしたから、右門はのぞき込むようにしてきびしく尋ねました。
「品物はなんじゃ」
「えッ、た、たびでございますよ」
「なに、たび……! だれのたびじゃ」
「若だんなさまがたのたびでございます」
「どれ、みせろ」
 取りあげてみると奇怪です。男のはくべき黒のほうがわずか八文七分で、女のはくべき白のほうが、なんとばかでかい足のことには十文半もありましたものでしたから、仁王《におう》様のおつれあいででも用いるたびなら格別、大和《やまと》ながらの優にやさしい女性に十文半の大足は、不審以上に奇怪と思いましたので、右門は時を移さず奥へ通ると、そこにねこぜを丸めながら、しきりと金の勘定に夢中だった七郎兵衛に向かって、こわきの雪舟を投げつけるようにしながら、ずばりといいました。
「そら、のぞみの品じゃ。よく改めろ」
「あっ、たしかに見覚えの雪舟でござりまするが、この変わり方はどうしたのでござります」
「どうしてこんなになったかは、そちの胸に思い当たることがあるはずじゃ。ちと一見いたしたきことがあるから、職分をもって申しつくる。せがれの陽吉夫婦をすぐさまこれへ呼びよせろッ」
「えッ……!」
 案の定、七郎兵衛はぎくりとなりましたが、右門のことばは間をおかないで、峻厳《しゅんげん》そのもののごとくに飛んでいきました。
「八丁堀同心近藤右門が、役儀の名によって申しつくるのじゃ、そうそうに呼びよせろッ」
 七郎兵衛がしぶしぶと手を鳴らしながら陽吉夫婦を呼び招きましたので、右門は烱々《けいけい》とまなこを光らしながら、両名のはいりくるのを待ちうけました。
 と――いまにしてはじめてみる、若主人陽吉夫婦は、いかにもいぶかしき一対でありました。夫たるべき陽吉が内輪に歩行を運び、妻たるべき新嫁《にいよめ》は大またに外輪だったのです。しかし、事はいやしくも犯してならぬ性の秘密にかかわっていましたので、念には念を入れるためから、一瞬、――右門は腰をひねって手だれの蝋色鞘《ろいろざや》をさッと抜いて放つや、そこにはいりきたろうとした陽吉の足もとめがけて、まずきらりとそれなる抜き身をさしつけました。玉散るやいばがおのが足もとに飛んできたんですから、いかで陽吉のいたたまるべき、ついわれを忘れたもののごとくに、あっとすそ前を散らしながら飛びのきました。
 そのとたん! まことそれは伝六ならずとも見てならぬ目の毒でしたが、ちらりとすそ前下からさしのぞかれたものは、表こそ男のなりをよそうといえども、やはり大和《やまと》ながらの女性は女性のたしなみを忘れかねるとみえて、見るも悩ましく、知るも目にあざやかな紅の切れでありました。同時に、その赤色にまつわりからんで、雪なす羽二重はだのむっちりとしたふくらはぎが、神秘の殿堂はそこにあるといわぬばかりに、ちらりとさしのぞいたのです。と、いっしょでありました。返すやいばを電光石火の早さで、さッとまた突き出すと、そばに立ちすくんでいた陽吉の新嫁に、きらりさしつけました。一瞬、すそ前下から同じようにさしのぞかれたその足の、むくつけき毛もじゃらさかげんというものは、なんと笑止千万なことでありましたろう! 髪は文金の高島田に結いあげ、召し物帯いっさいが女の服装でありながら、一枚下はあきらかに男性だったのです。
 早くもふたりの珍奇な秘密を看破するや、右門の口から鋭いののしりが発せられました。
「バカ者ッ。茶番狂言ではあるまいし、一生それで押し通すつもりじゃったか! ――さ、伝六ッ。駕籠《かご》をとばして、金助と、おきのどくな八郎兵衛どのとやらを大急ぎにつれてまいれッ」
 伝六がまるくなって駆けだしましたものでしたから、右門はそのまに七郎兵衛の口からいっさいの秘密を自白させました。果然、事実は鳶頭金助の陳述したとおり、生島屋の奇妙な家憲に事を発し、七郎兵衛の設けた子どもも、兄の八郎兵衛の子どもと同様女でしたが、根が小欲に深い拝金宗の七郎兵衛はここに悪才を働かし、かく娘を男に仕立てて、名も陽吉と男名まえをつけながら、巧みに生島屋の六万両という大身代を私していたのでありました。
 けれども、性の秘密はかく別ぶろをしつらえるほどの苦心をやって、うまうまと男に見せかけることができたにしても、偽りきれぬものは芽ぐみゆく人の春のこころです。女男の陽吉は、肉体の秘密をかくしながらも、自然の理法に従ってその円満な発育をとげましたので、妻ならぬ夫を選ぶことにたちいたりましたが、事は初めから不自然をあえて行なっていたんですから、選ぶべき配偶者にはたと行き詰まって、ついにおろかにも書画気違い長兵衛のせがれを女に仕立てて、かく十日まえに世人のまなこを瞞着《まんちゃく》しながら、男と女を入れ替えて、夫婦の契りを結ばせたのでありました。それというのも、長兵衛親子が、やはり欲得金づくからで、一生不自由しなければならないことを知りながら、かく窮屈な女に化けて、生島屋の六万両を目あてにこのような不自然きわまる和合を取り結んだのでしたが、そこにはしなくも大きな破綻《はたん》の原因となったものは、ほかならぬろうそく問屋長兵衛の狂気に近い書画収集癖でありました。鳶頭金助のいったとおり、生島屋七郎兵衛方に古画雪舟の名品が秘蔵されているのを知ったので、例のゆすり手を発揮しながら、せがれたちの秘密をもっけの急所におどしたてて、うまうま雪舟を巻きあげようとしたその一歩手前に、はからずも七十の老侠児《ろうきょうじ》金助のかぎ知るところとなり、事はさらにわれらの捕物侠者むっつり右門の手に移り渡って、かく今の今このひと間において、はしなくも人々の心をはらはらとさせたごとき、くしくも悩ましき男女鑑別の色模様となったのでありました。
 さればこそ、見破られた本人たちの、まっかになって恥じ入ったことはむろんのことで、穴あらば穴にでもはいりたいといいたげに、ふたりともえり首までももみじを散らして、じっとそこにちぢこまったままでした。
 かくするところへ、伝六がふうふう息を切りながら、鳶頭金助と兄の八郎兵衛を伴って駆け帰ったものでしたから、右門は莞爾《かんじ》とばかりうち笑《え》むと、すぐに金助へいったことでした。
「さすがは年の功じゃ。陽吉夫婦は、そちのにらんだとおりじゃぞ」
「えッ、じゃ、やっぱりご亭主が嫁さんで、お嫁さんがご亭主だったんですかい」
「そのとおりじゃ」
「いくら欲の皮がつっ張っていたからのことにしたって、あきれたものだね。この先、もし赤ん坊が生まれるようなことになったら、どうするつもりだったんでしょうね。男で通っていたご亭主の陽吉さんが岩田帯をするなんてことになったら、天下の一大事ですぜ」
 金助のこのうえもない急所をついた痛いことばに、男と女と入れ替わっていた若夫婦たちは、さらに首筋までもまっかにしながら、消えてでもなくなりたいといったような様子でしたが、それよりも急ぐことは事件のあとのさばきでしたから、右門はやおらことばを改めると、おごそかに申し渡しました。
「七郎兵衛の罪は良俗を乱し、美風を損じたる点において軽からざるものがあるが、右門特別の慈悲により、お公儀への上申は差し控えてつかわすによって、ありがたく心得ろ。そのかわり、生島屋の身代六万両はこんにちかぎり二分いたし、その一半はこれなるお兄人八郎兵衛どのにつかわせよ。どうじゃ、よいか」
「えッ。では、三万両もの大金をただくれてやるんでござりまするか」
 握り屋の握り屋らしい面目を遺憾なく発揮いたしまして、七郎兵衛が不服そうに申し立てたものでしたから、右門のいつにない初雷がその頭上に落下いたしました。
「控えろッ、控えろッ。ただくれてやるとはなにごとじゃッ。そのほうこそ、ただもらっているではないかッ。それとも、六万両みんな八郎兵衛どのにつかわすようお公儀に上申してもさしつかえないかッ」
「め、めっそうもございませぬ。では、三万両さしあげるでござります。さしあげますでござります」
 六万両みなつかわそうかといったことばに、ことごとく震え上がりながら、手もなくそこにひれふしましたので、右門は微笑をふくみながら、いとここちよげに立ち上がると、だが、かえりしなに右門らしい揶揄《やゆ》をひとこと、なおはにかみつづけている若夫婦にいってやりました。
「もうそのほうたちも、今宵《こよい》から天下晴れて、女は女、男は男の勤めができるから、お湯なども人にかくれてはいるには及ばぬぞ」
 ふたりはむろんまっかになって、両ほおはいっぱいのもみじでありました。ことに、男となっている陽吉はひとしおの赤らみ方で、それゆえいっそう艶《えん》にういういしさを増したくらいでありました。
 ――しかし、表は年の瀬まえのこがらし吹きつのる冷たい夜半《よわ》でした。右門十一番てがらは、かくして冷たい夜半のうちに、めでたくも美しい結果をつげたしだいです。

底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tat_suki
校正:はやしだかずこ
1999年12月21日公開
2005年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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佐々木味津三

右門捕物帖 耳のない浪人—– 佐々木味津三

     

 ――今回は第十番てがらです。
 ところが、少しこの十番てがらが、右門の捕物《とりもの》中でも変わり種のほうで、前回にご紹介いたしました九番てがらの場合のごとく、抜くぞ抜くぞと見せかけてなお抜かなかったむっつり右門が、今度ばかりはほんとうにあの細身の一刀を鞘《さや》走らせて、切れ味一品のわざものにはじめてたっぷり人の生き血を吸わすることとなりましたから、いよいよ右門の捕物秘帳は、ここにいっそうの凄艶《せいえん》みと壮絶みとをそのページの上に加えることとなりました。
 事件の勃発《ぼっぱつ》いたしましたのは、前回の遊女事件が終結を告げまして幾日もたたないまもなくのことでしたが、例年のごとくにまた将軍家がご保養かたがたお鷹狩《たかが》りを催すこととなりまして、もうその日も目前に迫ってまいりましたから、今でいえば当日の沿道ご警戒に対する打ち合わせ会とでも申すべきものでしょう、ご奉行《ぶぎょう》職からお招き状がありましたので、右門も同役たち一同とともにそのお私宅のほうへ参向いたし、何かと協議を遂げて、お組屋敷へ引きさがったのは、かれこれもう晩景に近い刻限でした。
 ところが、帰ってみると、火もつけないで暗い奥のへやに、るす中例のおしゃべり屋伝六がかってに上がり込んで、ちょこなんとすわっているのです。伝六とても生き物である以上は、ときに横へはうこともあるであろうし、あるいはまたさかだちもするときがあるでしょうから、たまにお行儀よくすわっていたとて、なにもことさらに不思議がる必要はありませんが、どうしたことか、そのすわり方というものがまたおそろしく神妙で、あの口やかましいがさつ者が、まるで人が変わったようにひどくきまじめな顔をしながら、しきりとなにか考え込んでいたものでしたから、珍しく主客が変わって、きょうばかりは右門が聞き役となりました。
「どうしたい。いやにおちついているが、おへそのつくだ煮でも食べすぎたのかい」
 すると、伝六が黙ってなにか気味のわるいものでも見るように、向こうのへやのすみをあごでしゃくったものでしたから、なにげなく右門も視線を移すと、少しばかりめんくらいました。そこの薄暗いへやのすみに、豆からはえた子どもではないかと思われるくらいな、珍しいほどにも小造りのちまちまっとした少年僧が、衣のそでをたくしあげて、いかにもこまちゃくれたかっこうをしながら、ちょこなんとこちら向きにすわっていたからです。たいていなことにはおどろかない右門でしたが、それにしてもその豆僧の小さかげんというものは、むしろかわいさを通りこして少しおかしいくらいでしたから、ついいぶかしさのあまり冗談をいって尋ねました。
「ひどくまとまって粒がちっちゃいが、まさかおもちゃじゃあるまいね」
「そう思えるでしょう、だから、あっしもさっきからこうやって、しげしげと見物していたんですよ」
「じゃ、おめえが連れてきたんじゃねえのかい」
「いいえ、連れてきたな、いかにもあっしですがね、それにしたって、どうも少し変わりすぎているから気味悪がっているんですよ」
「何が変わっているんだ、少し造りが小粒なだけで、見りゃなかなか利発そうじゃねえか」
「ところが、いっこうバカだかりこうだか見当がつかねえんですよ。年はやっと九つだとかいうんだがね。さっき通りがかりに見たら、くまを切るんだといって、しきりとつり鐘をたたいていたんですよ」
「禅の問答みたいだな。じゃなにかい、そのつり鐘がくまのかっこうでもしていたのかい」
「いいえ、それならなにもあっしだって不思議に思やしねえんだがね。実あきょう池《いけ》ノ端《はた》にちょっと用足しがあって、いまさっき行ったんですよ。するてえと、そのかえり道に切り通しを上がってきたらね、あそこの源空寺っていうお寺の門前で、しきりとこのお小僧さんが、その門のところにひっころがしてあったつり鐘を竹刀《しない》でたたいていましたからね、なにふざけたまねするんだ、つり鐘だってそんなものでたたかれりゃいてえじゃねえかっていったら、いまさっきいったように、こうやってくまを切るんだっていうんですよ」
「じゃ、それがおかしいんで、ひっぱってきたんだな」
「ええ、ま、そういえばそうなんだが、その先が少し不思議だから、そう急がずにお聞きなせえよ。だから、あっしも妙なことをいう豆僧だなと思いましたからね、だって、このつり鐘がくまの形も犬のかっこうもしていねえじゃねえかってきいてやったら、あたりめえだい、つり鐘がくまやこまいぬのかっこうしていたら、おじさんの頭はとっくに三角のはずだいって、こんなことをいうんですよ」
「ほほう、なかなか達者だな。じゃ、なんだっていうんだな。そのつり鐘をけいこ台にして、剣術のけいこでもしていたっていうんだな」
「そ、そうなんですよ。だから、いよいよいわくがありそうだなと思いやしたから、どこにそのくまがいるんだってきいてやったら、どこにいるかわからねえが、うちのたいせつなあんちゃんがそのくまに殺されたから、それでかたきを取るためこうやって、毎日けいこしているんだっていうのでね、ひょっとすると、こいつあまただんなの畑だなと気がついたものだから、何はともあれいっぺんおめがねにかけなくちゃと思って、わざわざひっぱってきたんですよ」
「そうか、なかなか禅味のある話でおもしれえや。蛇《じゃ》が出るか蛇《へび》が出るか知らねえが、じゃおれがひとつ当たってやろう」
 すでになにか見抜いたところでもあるかのごとく、右門はまず一服というようにしみじみと茶をたしなんでいましたが、そこへ伝六が灯《ひ》を入れて短檠《たんけい》を持ってきたので、すわり直しながら少年僧を手招きました。
 すると、少年僧は恐るるけはいもなくちょこちょこと前へ進みながら、さすがは作法に育てられた仏弟子《ぶつでし》だけあって、活発にあいさつをいたしました。けれども、まだなんといっても頑是《がんぜ》ない子どもでしたから、あいさつはあいさつであっても、少々ばかりふるった口上でありました。
「遠いところをよくいらっしゃいました」
 つい平生お寺で人の顔をみたらそういえと教えられてもいたものか、主客をまちがえて主人の右門によくいらっしゃいましたといったものでしたから、むろんのことに思いやりのない伝六はぷッと吹き出しましたが、しかし右門は反対に、かえってそのむじゃきなまちがいが愛くるしさを添えましたので、目を細くしながら答えました。
「はいはい、これはどうもごていねいなごあいさつで痛み入りました」
 そして、自分の手あぶりを半分そちらへ回してやると、赤くかじかんでいる少年僧の豆みたいにちっちゃな両手を、上下から暖めるように持ち添えてやりながら、やさしく尋ねました。
「お名まえはなんといいますな」
「モクザンと申します」
「モクザン……? モクとはどのように書きますな?」
「黙った山と書きます」
「ああ、なるほど、その黙山でありましたか。なかなかよいお名まえでありますな。生まれたお国は?」
「天竺《てんじく》だと申しました」
「なに、天竺……? 天竺と申せば唐《から》の向こうの国じゃが、どなたにそのような知恵をつけられました」
「うちのお師匠さまが申されました。仏の道に仕える者は、みんな如来《にょらい》さまと同じ国に生まれた者じゃとおっしゃいましたので、おじさんとても万一わたくしのお弟子になるようなことがござりますれば、やはり天竺の生まれになります」
「ははあ、なるほどな、なかなか利発なことをいいますな。きけばお兄いさまがあったそうじゃが、おいくつでありました」
「十二でござりました」
「ほう。では、そなたのようにかわいかったでありましょうな」
「はい、みなさまが源空寺の豆兄弟、豆兄弟とおっしゃいまして、ときどきないしょに、くりのきんとんなぞをくださりました」
「ほほう、くりのきんとんをとな。では、お兄いさまもそなたのように源空寺へお弟子《でし》入りをしていましたのじゃな」
「はい、鉄山と申しまして、わたくしよりか太鼓を打つことがじょうずでありました」
「なるほどのう。でも、今きけばくまに殺されたとかいうてでしたが、そのくまというのは、けだもののくまでありましたか、それともくまという名の人でありましたか」
「それがくまという名の人じゃやら、けだもののくまじゃやらわかりませぬゆえ、毎朝お斎《とき》のおりにいっしょうけんめい如来《にょらい》さまにもお尋ねするのだけれど、どうしたことやら、阿弥陀《あみだ》さまはなんともおっしゃってくださりませぬ」
 いうと少年僧は、阿弥陀如来の何もいってくれぬことが、くやしくてくやしくてならぬというように、突然じわじわと両眼をいっぱいのしずくにうるませました。右門もついそのむじゃきな信仰に胸を打たれて、ほろほろと涙を催しましたが、それだけにいっそうこの少年僧の偽りを含まぬ陳述は、しだいに職業本能をそそりましたので、語をつづけながらさらにやさしく尋ねました。
「では、お兄いさまが、どこで、どのようにご最期をとげたかもわかりませんのじゃな」
 すると、少年僧は急に元気づいて、活発に陳述いたしました。
「いいえ、そのことならばよう存じてござります。つい十日ほどまえの晩がたでござりましたが、お師匠さまのお使いで浅草へ参りましたのに、どうしたことやらお帰りがおそうござりましたので、わたしがあそこの門前へ出てお待ちしておりましたら、衣までまっかになさって、よろよろしながら帰ってまいりますると、いきなりわたくしの足もとへばったり倒れたのでござります」
「ほう。では、そのときお兄いさまはどこぞ切られておいでなすったのじゃな」
「はい、肩のところを大きくぐさりと切られてでござりました」
「肩をのう。それで、そなたはどういたしました」
「だから、いっしょうけんめい傷口のところを押えて、お兄いさまお兄いさまと呼んでさしあげましたら、くまにやられた、くまにやられた、とこのように、たったふたことおっしゃっただけで、それっきりもう極楽へいんでしまわれました」
「なに、たったふたこと? では、どこでそのくまに会うたかもいわずにいんでしまわれたというのでありますな」
「はい、よっぽどおくやしそうだったとみえて、息が絶えてしまうときにも、お兄いさまはお目々にいっぱい涙をためてでござりました」
「おかわいそうにのう、そなたもさぞお力おとしでありましたろう。――では、それゆえ人間のくまじゃやら、けだもののくまじゃやらわからぬけれど、お兄いさまのかたきを討つために、ああして毎日、つり鐘と剣術のおけいこをしていなさるのじゃな」
「はい。如来《にょらい》さまの教えのうちには殺生戒《せっしょうかい》とやら申すことがあるんじゃそうにござりますけれど、わたくしとふたりできんとんをないしょにいただいたほかには、なに一つわるいことをせぬあんなおやさしいお兄いさまですもの、くやしゅうてなりませぬ」
 言い終わると、少年僧はじいっと空をみつめて、太鼓を打つことがじょうずだったというその兄僧が、どんなに自分にとってやさしくなつかしい存在だったかを新しく思い出しでもしたかのように、きらきらとまたまつげをしずくにぬらしました。

     

 ――右門は逐一のその陳述を聞いてしまうと、ややしばし腕を組みながら、じっとまなこを閉じて、なにごとかを考えつづけていましたが、だんだんと不審な徴候をみせだしました。第一はその沈思黙考の時間が珍しく長引いたことです。第二にときどき立ち上がって腕を組んだまま、みしりみしりと廊下を歩きだしたことです。第三はいつにない困惑の情を見せて、いくたびもふうっと大きなためいきをついたことでありました。
 それらのどれもこれもが、あの事件に当たってつねに推断の早きこと神のごとく、明知の俊敏透徹たること古今に無双というべきむっつり右門にしては珍しすぎることでしたから、いかにも不審といわなければなりませんが、しかしひるがえって、よくよくこれを右門とともにわれわれも考えてみるとき、かれがかくのごとくに思い悩むのは、一面また無理のないことというべきでした。
 なぜかならば、そこに材料として提供されているところのものは、あまりにも少なすぎたからです。各自が胸に手をおいて考え直してみてもわかることですが、ただひっかかりとなりうべきものは、それなる非業の凶刃に倒れた兄少年僧の断末魔のときに叫び残したことばのみがあるばかりでありました。くまにやられた、くまにやられた、というそのたったふたことがあるのみでした。しかも、そのくまなるものが人間の名まえのクマであるか、あるいはけだもののクマであるか、事実はいたずらなるなぞを残したままで、本人とともに遠く幽明境を異にしたあの世へいってしまっているんですから、これはいかにむっつり右門が神人に等しい無双の捕物《とりもの》名人であったにしても、死人をふたたび蘇生《そせい》さすべきすべでも知っているか、でなくば自身|冥土《めいど》まで聞きに行ってくる切支丹《きりしたん》伴天連《ばてれん》の秘法でも心得ていないかぎり、推断に苦しむのは当然なことというべきでありました。
 けれども、そういうとき右門には、忘れてならぬ最後の手段がまだ一つあるのです。こんなふうに考えのつかないときや、容易に推断の下せないときは、これまでもしばしばその手を用いましたからむろんご記憶のことと思いますが、ほかでもなくそれはあの碁盤に向かうことなので、だからかれはふと思いつくと、重そうに床の間から愛用のそれなる一式を持ち出して、端然と正座しながら、心気をその一石にこめるごとく、音もほがらかにピシリと石を打ちました。
 と――、まことに効果はてきめんとでもいうべきでしたか、一石打ちおろすやいなやに、突然にやにやと笑いだしながら、つぶやくようにいいました。
「なんでえい。とんでもねえだいじなことを忘れてるじゃねえか」
 それもたちまちいっさいの氷解がついたもののごとくに、とんだことを忘れているといったものでしたから、はらはらとしていた伝六のおどり上がって悦に入ったことはもちろんのことなので――、
「ちえッ、ありがてえッ。碁盤さまさまだ。じゃ、例のごとく駕籠《かご》ですね」
 飛び出しそうにすると、だが、右門の忘れていたというその忘れごとは、少し意外な方面でありました。
「違うよ、違うよ。さっきからどうも何かだいじな忘れ物をしているように思ったから、いっしょうけんめいああやって廊下を歩きながら考えていたんだが、よく考えてみりゃ、おら、おなかがへっているよ」
 人を食ったことに空腹だといったものでしたから、出鼻をくじかれて、伝六が当然のごとくに鳴りだしました。
「ちえッ、冗談も休み休みおっしゃいよ! ほんとうにあきれただんなだね。まじめくさって、おなかがすいてるたあなんのことです。だんなのおなかは、身の内じゃねえんですか!」
 しかし、右門はようように重大事件を思いついたというような顔つきで、至極きまじめにいいました。
「おこったってしかたがないよ、おれがすきたくてすくんじゃねえ、おなかのほうがかってに減ってくるんだからね。大急ぎでなにかこしらえておくれよ」
「知りませんよ。いくらかってにおなかのほうから減ってくるにしたって、他人のものならだが、お自分の身の内なんだからね。なにもそんなことわざわざ碁盤を持ち出してみなくっても、わかりそうなもんじゃござんせんか」
 伝六の雲行きがとりつくしまのないほどにも、ひどく険悪でしたものでしたから、苦笑しいしいお台所のほうへはいっていったようでしたが、まもなく興津鯛《おきつだい》のひと塩干しを見つけてくると、天下の名同心むっつり右門ともあろう者が、みずからそれを火に焼いて、ようよう一食にありついたというようにちゃぶ台へ向かいました。
 しかし、そのときふと気がついたのは、そこにちんまりとお行儀よくすわりながら、手あぶりの上へ両手をかざしていた少年僧のことです。ちらりと見ると、少年のむじゃきさに、しきりと空腹らしいけぶりを見せていたものでしたから、思いついて右門は声をかけました。
「そなたもまだでありましたか」
「はい。お相伴させていただければしあわせに存じます」
 活発にいうと、おくする色もなくちゃぶ台についたものでしたから、右門は当然のごとくにあり合わせの精進物だけをそちらへ分けてやりました。しかるに、少年僧は少しく奇怪でありました。いっこうそれらの精進物にはしをつけようとしないで、しきりと興津鯛のほうにむじゃきな色目を使いだしたものでしたから、なんじょう右門のまなこの光らないでいらるべき、普通の者ならたいてい見のがすほどのささいなことでしたが、早くも大きな不審がわきましたので、さりげなく尋ねました。
「そなた生臭をいただくとみえますな」
「はい、ときおり……」
「なに、ときおり? でも……? 仏に仕える者が、生臭なぞいただいたのでは仏罰が当たりましょう?」
「だけど、お師匠さまがときおりないしょで召し上がりますゆえ、そのお下がりをいただくのでござります」
 と、――はしなくもいったその一語を聞くやほとんど同時でありました。それまでは、どこからこの難事件に手をつけていくのか危ぶまれていましたが、がぜん捕物名人はらんらんとそのまなこを鋭く輝かさすと、伝六をしかるようにいいました。
「それみろ! きさまはおれが腹の減っていることを思い出したといったら、人間じゃねえような悪態をついたが、碁盤のききめはもうこのとおりてきめんだ。思い出したからこそ、こんなもっけもねえ手がかりがついたじゃねえか。さッ、大急ぎに行って、あの源空寺の住職をしょっぴいてこいッ」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 不意にまた何をおっしゃるんですか。源空寺の和尚《おしょう》に何用があるんですかい」
「どじだな。きさまの耳はどっち向いてるんだ。うちのお師匠さまはときおりないしょで生臭を食うと、たった今、この黙山坊がはっきりといったじゃねえか。何宗であるにせよ、仏にかしずいている身で、生臭なんぞ用いるやつにろくなものはねえや、ひとっ走りいってしょっぴいてこい!」
「なるほどね。こうなりゃ腹の減るのも見捨てたものじゃねえや。じゃ、寺社|奉行《ぶぎょう》さまのほうへも渡りをつけてから行くんですね」
「そんなやかましい手続きはいらねえや。ちょっとお尋ねしたいことがあるからといって、じょうずにおびき出してこい!」
 がってんだとばかりにしりからげて走りだしたものでしたから、もうここまで道がひらけていけば、あとは、右門の国宝ともいうべき、鋭利|犀抜《さいばつ》なる手腕のさえを待つばかりとなりました。

     

 かくして、待つことおよそ小半とき――。
 むろん、もう伝六もこういうことには相当場数を踏んでいるはずでしたから、まさかへまをするようなこともあるまいと思って安心しながら待っていると、だが、案外なことに、帰ってきたのはその伝六ひとりでした。
 しかし、ひとりではあったが、はいりざまに、珍しく今度ばかりはすこぶる景気のよい報告をもたらしました。
「ね、だんな、だんな! 下手人の野郎は、いよいよあの生臭坊主と決まりましたよ」
「だって、肝心の玉を連れてこないことにはしようがねえじゃないか」
「だから、あの坊主がくせえっていうんですよ。ね、あっしがお番所の者だといったら、やにわと逐電しちまいましたぜ」
「えッ、そりゃほんとうかい」
「ほんとうにもうそにも、だからこうやって、あっしひとりでけえったんじゃござんせんか」
「じゃ、なにか事件《あな》のことをにおわしたんだな」
「ところが、そいつがおおちげえなんですよ。どうやら、生臭坊主うたたねをしているようすだったからね、いきなり庫裡《くり》のほうへへえっていって、ちょっとお番所でききたいことがあるから、八丁堀まで来てくんなといったら、野郎むくりと起きざまに青くなって、そのままやにわとずらかってしまったんですよ」
「なるほどな、少しにおいがしてきたかな」
「においどころじゃねえんですよ。だから、久しぶりでひとつ、だんなの鼻をあかしてやろうと思ってね、近所の者にこっそり身がらを当たってみたら、なにをかくそう、あの生臭坊主がくまっていう名だそうですぜ」
「なに、くま! そりゃほんとうか!」
「ちゃんとこの耳でいま聞き出してきたばっかりだから、まちがいっこありませんよ。ちっと変な名なんですがね。永守《ながもり》熊仲《くまなか》っていうんだそうですぜ」
 事実としたら、八丁堀の者と聞いて、やにわに逐電した点といい、その名に熊《くま》という呼び文字があるぐあいといい、少なくも今の場合の最も有力な容疑者に思われだしたものでしたから、右門は立ち上がると同時に、ぎらりと腰の細身を抜き放ちました。いうまでもなく、もしそれなる永守熊仲が、僧形の身をも顧みず殺生《せっしょう》戒を犯したとしたら、その場に力をかして少年僧黙山のために、兄のかたきを報じてやろうと思いついたからです。
 まことに回を重ねることここに十回、今度こそはようように待たれたむっつり右門の太刀《たち》のさばきに接しられそうな形勢となりましたが、剣もまたその心をくんでか、細身二尺三寸の玉散る刃《やいば》は、ほのめく短檠《たんけい》の下に明皎々《めいこうこう》と銀蛇《ぎんだ》の光を放って、見るから人の生き血に飢えているもののごとき形相でありました。
 右門はなつかしむようにややしばしうち見守っていましたが、にんめりとぶきみに微笑しながら、ぱちりと鍔音《つばおと》もろとも鞘《さや》へ納めると、例のごとく伝六に早|駕籠《かご》を命じて、用意のできるや同時に、先を急ぐもののごとく少年僧黙山を促しながら、自分の駕籠に共乗りさせると、ただちに息づえをあげさせました。
 けれども、不審なのはその目ざした方角でありました。いま伝六が帰ってきての報告によれば、疑問の住持熊仲和尚は早くも風をくらって逐電したとはっきりいっているのに、お供を急がせた行き先は紛れもなくその源空寺でしたから、逃げ伸びたあとへなぞ行って何にするのだろうと思われましたが、しかし行きつくと同時に、すぐとそのなぞは判明いたしました。ほかでもなく、その逐電した行き先が、遠方へ高飛びしたか、それとも近所に潜伏しているかそれを点検に来たので、少年僧黙山を案内に立たせながら、そこに取り散らかされてあった身の回りの品を巨細《こさい》に調べると、路用の金すらも持たずに、ほとんど着のみ着のままで飛び出したことがまず第一に判明いたしましたから、早くも右門はその逐電先が遠方でないことを知って、なお入念に調べてみると、そのときはしなくも目についたのは長火ばちの向こうにころがっていたなまめかしい朱|羅宇《らう》です。本来、朱羅宇そのものが男ばかりの僧院には許しがたき不似合いな品であるところへ、よくよく見るとそれなるキセルの雁首《がんくび》のところには、さらになまめかしい三味線《しゃみせん》の古糸がくるくると巻きつけてあったものでしたから、すでに右門は、その逐電先までも見通しがついたごとくに、薄気味わるくにたりとほほえみをみせていましたが、と――つづいてよりいっそうの注意をひいたものは、さっきうたたねをしていたときに用いてでもいたらしいがんじょうなかぎのかかっている不審な木まくらでありました。およそ何がいぶかしいといっても、様子ありげに引き出しへじょうぶなかぎをかけている箱まくらなぞというものは、そうざらにあろうとは思えませんでしたので、容赦なく小柄《こづか》の先でこじあけてみると、果然中からは怪しき一本の手紙が現われました。
[#ここから1字下げ]
「――あんなことにかんしゃくをおこして、ほんとうにいやな人だね。あたいはこんな水商売こそしているが、金や男ぶりに目がくらんでおまえさんなんかに……じゃないよ。だから、きげんを直して、もう一度あすの晩にでもおいでよ。ただし、来る節は忘れずに……またおみやげをね。でないと、あたいはまた血の道をおこしてやるよ。では、万事その節のうれしい口説まで、――ひのき稲荷《いなり》のご存じより」
[#ここで字下げ終わり]
 見ると、中には以上のごとくに、許しがたき女犯にまで立ち及んだ痴文がしたためられてあったものでしたから、なんじょう右門ののがすべき、ただちに烱々《けいけい》とまなこを光らすと、まをおかないで質問が黙山のところに飛んでいきました。
「そなたひのき稲荷というのはどこか知っておりませぬか」
「よく存じております。こないだお兄いさまのおつかいにいんだところも、やはりそこでござりました」
「なに※[#感嘆符疑問符、1-8-78] では、浅草でありますな」
「はい。お師匠さまのお姪御《めいご》さんとやらが、三味線《しゃみせん》のじょうずなかたで、近所のお子ども衆にお手ほどきしているとかいうことでござりました」
 がぜん事件の秘密はここに一道の光明をもたらして、いよいよ熊仲《くまなか》和尚《おしょう》の身辺はいっそう濃厚な疑惑の雲に包まれだしたものでしたから、きくや同時に、右門の口からは鋭い声が発せられました。
「ちくしょうッ、ふざけたことぬかしやがって、姪御さんが聞いてあきれらあ。肉親のおじさんにみだらがましい……をねだる姪もねえじゃねえか。さ、伝六ッ、十手の用意をしておけよ!」
 いうと、表に待たしておいた駕籠に飛び乗りながら、いっさんに浅草めがけて道を急ぎました。
 行ってみると、なるほど田原町を左へ折れた路地口に大きなひのきが一本あるので、目あての三味線の師匠というのは、ちょうどそのひのきの奥隣に見つかったものでしたから、右門は万一逃走の場合を考えて、裏口に伝六を張り込ませておくと、黙山を伴いながら案内も請わずに、ずいと座敷へ上がりこみました。
 と――、それなる熊仲和尚は、なんという生臭でありましたろう! 青てかの道心頭をも顧みず、女のなまめいたどてらをひっかけて、蛤鍋《はまなべ》かなんかをつつきながら、しきりと女に酌をとらせていたものでしたから、右門は大声に叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》すると、まずその荒肝をひしぎました。
「この生臭めがッ。そのざまはなんじゃ。もう逃がしはせぬぞ。さッ、神妙にどろをはけッ」
 むろんのことに、相手はぎょッとなって、すでに生きた心持ちもないような青ざめ方でしたが、しかし震えながらいったことばが少し意外でした。
「ど、どうも恐れ入りました。いかにも出家の身に不届きな女犯をおかしましてござりますゆえ、もうこうなれば神妙におなわをちょうだいいたしましょう。――さ、おみち、おまえももう度胸をすえて、おとなしくお番所へいきな」
 いうと、女はおみちという名まえであるのか、因果を含めて両手をうしろに回しながら、割合神妙におなわを受けようとしたものでしたから、右門はやや不審をいだいてたたみかけました。
「まてまて。今きさまの申したところをきけば、女犯の罪ばかりのようなことをいうが、では、これなる黙山の兄をあやめた下手人ではないというのか!」
「め、めっそうもござりませぬよ。では、だんながたは、てまえが兄の鉄山を討った下手人と見込んで、お越しなさったのでござりまするか」
「さようじゃ。いろいろ考え合わしてみるに、てっきりそのほうのしわざとめぼしがついたゆえ、かく黙山同道にて助太刀《すけだち》に参ったのじゃが、目きき違いじゃと申すか」
「目きき違いも、目きき違いも、大きなおめがね違いにござりますよ」
「でも、これなる黙山の申すには、兄を討った者は、そなたの名まえ同様、くまと名がつくというてじゃぞ」
「ばかばかしい。わたしの熊は同じ熊でも読み方が違いますよ」
「なんと申す」
「ユウチュウと申します」
「なに、ユウチュウ?」
「はい、熊という字と仲という字がありますから、クマナカと読みたいところですが、あれはユウチュウと読むのがほんとうでござります。また、坊主の名まえにクマナカというのもおかしいではござりませぬか。ユウチュウと読んでこそ、坊主らしい名まえでござりましょう?」
「いかにもな。しかし、それにしてはあのとき小者が呼びに参ったのに、なぜいちはやく姿をかくした」
「お番所に用があると申されましたゆえ、てっきりもうてまえの女犯の罪があがったものと早がてんいたしまして、かく逐電したのでござります」
「なんじゃ、ばかばかしい。これがほんとうにひょうたんから駒《こま》が出たというやつじゃな」
 意外にもにらんだほしは全然の見当違いであったことがわかりましたものでしたから、右門はおもわず吐き出すようにいうと、からからとうち笑いました。
 けれども、いうがごとくにひょうたんから駒は出たかもしれませんが、ここにいたって、いよいよ迷宮にはいってしまったものは鉄山殺しの犯人自体です。熊仲《くまなか》と思ったそのクマが実は熊仲《ゆうちゅう》のユウであったとすれば、自然ここにもう一度鉄山の死にいくとき漏らしたというくま[#「くま」に傍点]についての詮議《せんぎ》を進め直さなければなりませんが、と――そのとき今はクマナカ和尚《おしょう》ではなく、ユウチュウ和尚となったそれなる女犯僧が、もじもじといいよどみながら、ふと右門にことばをかけました。
「まちがいとおわかりでしたら、実はだんなにおりいってのご相談がござりますがな」
「なんじゃ」
「もう二度とかような女犯は重ねませぬによって、今度のところはお目こぼしを願いたいものでござりますがな」
「虫のよいことを申すな。女犯の罪は出家第一の不行跡じゃ。おって寺社奉行のほうに突き出し、ご法どおり日本橋へさらし者にしたうえ百たたきの罰を食わしてやるから、さよう心得ろ」
「いいえ、ただでとは申しませぬよ。だんなのお捜しになっていらっしゃる鉄山殺しの下手人に思い当たりがござりますので、それを引き換えにしていただきとうござりまするが、いけませぬかな」
「なにッ? では、きさま、その下手人をよく存じていると申すのか」
「知らいでどういたしますか、兄の鉄山も、そこの黙山も、もとはといえばてまえが門前に行き倒れとなっているのを拾いあげたのでござりまするよ」
「それは何年ごろじゃ」
「忘れもしないちょうどおととしの秋でござりましたが、朝からひどい吹き降りのした晩でござんしてな、檀家《だんか》の用を済ましておそく帰ってくると、兄弟が旅の装束のままで門前に行き倒れとなっていたのでござりますよ」
「すると、生まれは江戸の者ではないのじゃな」
「へえい。南部藩のご家中で、どういうものかおじいさまの代から浪人をしていたとか申してでしたが、きいたらかたき討ちに来たと、このようにいうのでござりますよ」
「なに、かたき討ち? では、なんじゃな、もうそのとき、このいたいけな兄弟たちは、なみなみならぬ素姓なのじゃな」
「へえい、さようで。そこの黙山はまだ七つくらいでしたから何も存じませなんだようでしたが、兄の鉄山は九つか十でござりましたから、いろいろ手当をすると、いま申したようにかたきを捜して、江戸へ来たといいましたのでな、だれのかたきだと尋ねましたら、姉だというのでござりまするよ」
「では、親たちを国に残してきたというのじゃな」
「いいえ、それが早く両親に死に別れて、姉と三人兄弟だったというんですがな」
「するとなんじゃな、よくある横恋慕がこうじて、つい手にかけたとでもいうのじゃな」
「たぶんそうでござりましょう。おねえさまは南部のお城下で、お殿さまさえもがおほめになった小町娘だったというてでござりましたからな」
「女のこととなると、感心にくわしいことまで覚えているな」
「ご冗談ばっかり――。だから不憫《ふびん》と存じましてな。このようにひとまず兄弟とも出家をとげさせたうえで、てまえが今まで手もとにさし置いたのでござりまするが、するとつい死ぬふつかまえでござりました。夕がた兄の鉄山に門前をそうじさせていましたら、いきなり血相を変えて駆け込んでまいりましてな、かたきが今くまを連れて門前を通ったと、このようにいうのでござりますよ」
「なに、くま※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どんなくまじゃ」
「生きた二匹のくまを大きな檻《おり》に入れて、そのそばに南部名物くまの手踊りと書いた立て札がしてあったと申しましたから、思うにくまを使って興行をして歩く遊芸人の群れだろうと存じますがな」
「なるほどな、またとない手がかりじゃ。して、そのとき鉄山はいかがいたした」
「だから、すぐにも飛び出しそうにしたゆえ、てまえがきつくしかっておいたのでござりまするよ。なにをいうにもまだ十二やそこらの非力な子どもでござりますからな、もし早まって返り討ちにでもなったらたいへんだと存じましたので、もう少し成人してから討つように堅くいいきかせておいたのでござりまするが、やっぱり子どもにはきき分けがなかったのでござりましょう。ちょうどあのけがをして帰った日のことでござります、お恥ずかしいことですが、これなる女のもとへ使いによこしましたところ、その帰り道かなんかで、またまたくまを連れたかたきを見かけ、てまえの堅くいいおいたことばも忘れて、むてっぽうに名のりをあげたために、ついついあのような返り討ちに会うたのではないかと存じます」
「いかにもな。それならば、くまにやられたと申した鉄山のことばとも符節が合うているが、しかし、なぜそれほども詳しい下手人の面書きがついているのに、これなる黙山へは厳秘にしておいたのじゃ」
「だんなにも似合わないお尋ねでござりまするな。もしも黙山に詳しいことを知らして、またまたこれが子ども心にかたきを追いかけ、このうえつづいてむごたらしく返り討ちになるようなことがござりましたら、いったいあとはだれがきょうだいたちのかたきを討つのでござります? まるで、血を引いたものは根絶やしになるではござりませぬか」
「いかさまな。女道楽なぞするだけあって、なかなか才はじけたことを申すわ」
 いうと、右門はしばらく黙考をつづけていましたが、ことばを改めると強く念を押すようにいいました。
「では、さきほどの見のがしてくれという問題じゃが、けっして二度とは女犯の罪を犯すまいな」
「へえい、もう今夜ぐらい命の縮まった思いをしたことはござりませぬから、今後いっさいこのようなバカなまねはいたしませぬ」
「でも、蛤鍋《はまなべ》かなんかでやにさがっていたあたりは、あんまり命が縮まったとも思えないではないか」
「それが縮まったなによりの証拠でござります。いたっててまえはこれが好物でござりますので、もうお番所からさきほどのようにお使いがあった以上は、いずれてまえのお手当もそう遠くないと存じ、今生の思い出に腹いっぱい用いておこうと思いまして、やぶれかぶれにやっていたのでござります」
「猥褻《わいせつ》至極なやつじゃ。女のもとへ逃げ走って、今生の思い出に蛤鍋なぞをたらふく用いるとはなにごとじゃ。――だか、うち見たところ存外のおろか者でもなさそうじゃから、今回だけは兄弟ふたりを拾い育てたという特志に免じ、見のがしておいてつかわそうよ」
「えッ、すりゃ、あの、ほんとうでござりまするか!」
「しかし、このままでは許さぬぞ。もとはといえば、そのほうがあの日鉄山を、所もあろうにかくし女のもとへなぞ使いによこしたから、あたら少年の前途ある命もそまつにせねばならぬようになったのじゃ。だから、あすより手先となって、これなる黙山のかたき討ちに助力をいたせ」
「へえ、もうお目こぼしさえ願えますれば、どのようなことでもいたしますでござります」
「むろん、鉄山からきいて、かたきの人相はどんなやつじゃか、そのほうはよく存じているであろうな」
「へえい、もう大知りでござんす。またこのかたきの人相くらい覚えやすいやつはございませんよ。どうしたことか、右の耳が片一方なくなっている浪人上がりだとか申しましたからな」
「さようか、なによりじゃ。では、黙山坊を同道いたして、明日早く八丁堀《はっちょうぼり》へたずねてまいれよ」
「へえい、承知いたしました。だが、八丁堀はどなたと申しておたずねすればよろしゅうござりまするか」
「名まえを告げて、もう一度びっくりさせてやりたいが、そのほうごとき生臭に名のるのはもったいないわ。黙山坊が屋敷はよく存じているはずじゃから、くれぐれもいたわって、いっしょに参れ」
 言いおくと、右門はひょうたんから飛び出した駒《こま》が案外にも王手飛車取りに使えることになりましたものでしたから、万事は明日を期して、まず八丁堀へ引き揚げることといたしました。

     

 かくて、その翌日となりました。
 もちろん、朝のうちに熊仲《ゆうちゅう》和尚《おしょう》が黙山を道案内で訪れてくるだろうと思いましたから、心しいしい待ちあぐんでいると、ところがまんまと一杯食わしたか、いっこう姿が見えないのです。
「ちくしょうッ、甘く見やあがったかな」
 あまりとんとんと鉄山殺しのめぼしがつきすぎたので、あるいはと思いながら多少の不安をおぼえて待っていると、だが、熊仲も、女犯の罪こそは犯したというものの、やはり法《のり》の道に仕える沙門《しゃもん》でありました。とうにお昼を回って、もうかれこれ八つに近い刻限、ようように姿を見せましたものでしたから、右門はさっそくにきめつけました。
「てかてか顔のほてっているところを見ると、またひのき稲荷《いなり》へ回って、般若湯《はんにゃとう》でも用いてきたな」
「冗、冗談じゃございませんよ。こりゃ、大急ぎに駆けてきたので、赤くなったんでござんすよ」
「大急ぎとは何が出来《しゅったい》したのじゃ」
「鉄山殺しの居どころがわかったんでござりますよ」
「なに、わかった? どこじゃ、どこじゃ」
「ここでなにかてがらをたてなきゃ、罪ほろぼしができないと存じましたからな。あんなぼろ寺でも住職のありがたさに、けさほど檀家《だんか》の縁日あきんどを狩りたてて、江戸じゅう総ざらえをいたさせましたら、耳なし浪人くまの檻《おり》を引き連れて、きょうから向こう三日間、四谷《よつや》の毘沙門《びしゃもん》さまの境内で、縁日興行を始めているというんですよ」
「そうか、さすがは仏に仕える者じゃ。よくてがらをたててまいった。では、伝六ッ、今度こそはほんとうに十手の用意がいるぞッ」
 善根善果はてきめんで、許しがたき罪をも許してやったばっかりに、かく居ながら事がとんとんと運ばれましたものでしたから、右門の一行は躍然として、豆からはえたごとき愛らしき少年僧をまんなかにいたわりながら、ただちにそれなる四谷の毘沙門天をめがけて八丁堀を立ちいでました。
 行きついてみると、なるほど熊仲和尚の報告どおり、南部名物くまの手踊りはいまし興行のさいちゅうでありました。がんじょうな木造りの檻《おり》にはいっているのは大小二頭の荒ぐまで、そばには道化た服装をした男が三人ばかりむちを携えて付き添いながら、かわるがわるにとんきょうな声で口上を言いたてました。
「さあさ、前へ回ってよっくごらんなさいよ。これは奥州南部|兜明神《かぶとみょうじん》ガ岳《だけ》の山奥でいけどりましたる女夫《めおと》ぐまでござい。右が雄ぐま、左が雌ぐま。珍しいことには、人のことばをよく聞き分けまする。安珍清姫恨みの恋路、坂田の金時|女夫《めおと》の相撲《すもう》、牛若丸はてんぐのあしらい、踊れといえば、そら、あのとおり、――牛若丸はてんぐの踊りとござい」
 いいながらむちでたたくまねをすると、いかさま二匹のくまはのっそりのっそりと立ち上がって、いとも器用に鞍馬山《くらまやま》の牛若丸を思わすような剣術の型を使いました。――見物人はむろんのことに、巧みなその踊りを見ると、わッとばかり二匹のくまに拍手の雨を送りました。
 しかし、右門ら一行のものにとっては、くまの手踊りよりも片耳のない浪人者が、その一団のうちに交じっているかいないかが第一の問題でしたから、見物人のうしろにかくれて、各自の目を光らしながら、ひとりひとり遊芸人の耳を調べました。
 ところが、不思議なことに、どこにもそれらしい人物がいないのです。木戸にいる者、檻のそばについている者、くま使いの者なぞを合わせると、全部で六、七人の遊芸人がいましたが、いずれも一くせありげなつら魂ではあっても、その耳は両方共に完全無欠な者ばかりでしたから、いぶかしく思っていると、そのときまたくま使いの道化者が、見物人の拍手に調子づいたもののごとく、とんきょうに口上を言いたてました。
「――では、次なる芸当差し替えてご覧に入れまする。楠公《なんこう》父子は桜井の子別れ。右なる雄ぐまは正成《まさしげ》公。左の雌ぐまは小楠公。そら、あのとおり、ここもとしばらくの間は、忠臣孝子別れの涙にむせぶの体とござい」
 いうと、まことや二匹のくまは、人のことばが聞き分けられるもののごとくに、ちょこなんと向き合ってすわりながら、器用な身ぶりで愁嘆のしぐさを演じてみせましたものでしたから、見物人はふたたびまたやんやと喝采《かっさい》の雨を送りました。
 しかし、その喝采が鳴りやむかやまないかのとたんでありました。右門の目を鋭く射たものは、左の雌ぐまは踊りも動作もぶ器用であるのに、右なる雄ぐまはさながら人間ではないかと思われるほどもすべてがあまりに器用すぎる一事でした。と知るや、突然見物人を押し分けて前へ出ると、ぎらりおのれのわきざしを抜き放って、それを黙山の手に持たせながら、叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》するように鋭く叫びました。
「ようよう捜していたかたきが見つかりましたぞ! お兄いさまがそなたへいうたように、あの右の雄ぐまが憎いかたきじゃから、それなるわきざしで存分に突きなされッ、突いて突いて突きなされッ」
 不意にわきざしを持たせて、檻の中のくまを突けといったものでしたから、伝六|熊仲《ゆうちゅう》の驚いたことはもとよりでしたが、それをむっつり右門と知らぬ並みいる見物人は、どこの気違い男が血迷ったことをいいだしたのだろうというように、おどろきよりもあきれ果てた顔つきで、いずれもが目をみはりました。いや、それよりもいっそうあわをくらったのは、くま使いのひとくせありげな遊芸人たちで、どやどやと左右から飛び出してくると、口をそろえながら必死にいいました。
「な、な、なにを血迷ったことをしやがるんだ! だいじなくまなぞを、そんなもので突き殺されてたまるけえい! どけッ、どけッ」
 いうや、大手をひろげてその行く手をさえぎろうとしましたので、突きのけておくと右門は小気味のいい啖呵《たんか》を大音声《だいおんじょう》できりました。
「見そこなうなッ。おれが八丁堀のむっつり右門だ。江戸じゅう残らずの者の目をかすめることができても、むっつり右門だけはできが違うぞッ! さ! 黙山! かまわずに、そっちの雄ぐまを突け突けッ」
 下知を与えると、どんどん檻の前へひっぱっていって、右の大きな雄ぐまを目がけながら必死と突きを入れさせました。なにしろ、一方は自分の兄がくまにやられたとばかり無心に信じきっている少年です。しかるに、相手の突かれるくまのほうは、悲しいことに檻の中という不自由な場所にいたものでしたから、身をかわすべきすべもなく、哀れ三突きめの鋭い切っ先にぐさりとその脾腹《ひばら》をやられて、うおうと一声、けもののような人間のようなわけのわからないうめき声を発しながら、あけに染まってのけぞりました。
 それと見るや、右門は疾風迅雷の早さで、黙山の手からわきざしを奪いとると、さしもがんじょうな檻の木格子《きごうし》をただ一刀のもとにばらりと切り開いて、刺された雄ぐまを地上にひきずりおろすと、ばりばりと首の皮を切りはがしました。――と、なんたる意外でありましたろう! いや、むっつり右門のやることに意外のあろうはずはないので、なんたる鋭い慧眼《けいがん》でしたろう! 果然、はぎとった皮の一枚下からは、くまと思いきや、りっぱな人間の首が現われたのです。しかも、その耳!
 目をみはるまでもなく、その耳は左の片一方しかなかったものでしたから、右門はまだ絶えだえとしてあがき苦しんでいるそれなる耳のない浪人者に、ののしるごとくいいました。
「ざまをみろ! これがほんとうに下司《げす》の知恵というやつじゃ。こんな縫いぐるみなぞをかぶって、笑止なことに孝子のやいばを避けようとしたゆえ、一太刀《ひとたち》も合わさずに討たれるような恥をさらしたのじゃ」
 そして、黙山を顧みると、ふたたびわきざしを持ち添えてやりながら、促すように叫びました。
「さ! 姉上兄上ふたりのかたきじゃ。門前のつり鐘を打ちのめす意気合いで、みごとに恨みを晴らしてしんぜられよ」
 なんじょう黙山の今はちゅうちょすべき、かわいい声をふりあげると、姉上兄上ふたりのかたき思い知ったかとばかりに、大きく袈裟掛《けさが》けに二太刀切りさげました。
 同時に、周囲の人がきからは、孝子のかたき討ちをほめそやす賞賛の声と拍手がどっとあがりました。
 しかし、その拍手のまっさいちゅうです。意外なできごとが突如としてそこに勃発《ぼっぱつ》[#ルビの「ぼっぱつ」は底本では「ばっぱつ」]いたしました。まことにそれは意外以上に予期しなかったできごとでしたが、かく助勢のうえで首尾よく黙山のかたき討ちもとげ、世間を瞞着《まんちゃく》していた熊芸人の正体を看破した以上は、自然そこに居合わした遊芸人たちも四散するだろうと思いましたので、伝六以下の三人を従えて拍手賞賛の間をゆうゆう引き揚げようとすると、まったく不意打ちでありました。ひとくせありげなつら魂の者たちとは思っていても、いずれも名もない世間渡りのありふれた遊芸人だろうと多寡をくくっていたのが、右門にも似合わない目きき違いで、意外にも居合わした五人の遊芸人たちは、いっせいにおっ取り刀で駆けだしてくると、ぎらり刃ぶすまを作りながらその行く手をさえぎって、中なる年かさの一人が鋭く叫びました。
「よくも兄弟を討ったなッ、ただのさか恨みとはいわせぬぞッ。こうなりゃ商売のじゃまをされた仲間の恨みだッ。さッ、すなおにそこへ直れッ」
 いうと、理不尽なことにも、仲間を討たれたさか恨みと、商売を妨げられた恨みとをたてにとりながら、不敵にも右門へ刃《やいば》を合わせようとしたものでしたから、予期しなかった敵対に不意を打たれて、おもわず二、三歩あとずさりながら、まずじっと五人の太刀先《たちさき》に目をつけました。
 と、――いぶかしや、ただの素浪人と思っていたのが、いずれも相当に使うらしく、それぞれ型にはまった太刀筋を示していたものでしたから、右門は騒がずに声をかけました。
「では、きさまらも一つ穴の浪人上がりじゃな」
「今はじめて知ったかッ。放蕩《ほうとう》無頼に身をもちくずしたために、南部家を追放された六人組のやくざ者だ。むっつり右門だか、とっくり右門だか知らねえが、南部の浪人者にも骨があるぞッ! さ! 抜けッ!」
 天下公知の大立て物を、ののしるべきことばに事を欠いて、とっくり右門と冷笑したものでしたから、なんじょう右門の許すべき、いよいよ今度こそは抜かなくちゃならないかな、というように会心そうな笑《え》みを見せていましたが、静かに黙山と熊仲の両名をうしろへかばうと、ぷつりと音もなく細身の鯉口《こいぐち》を切りながら、威嚇するようにいいました。
「とっくり右門でもびっくり右門でもさしつかえはないが、このからだが二寸動くと錣正流《しころせいりゅう》の居合い切りで、三人ぐらいいちどきに命がとぶぞッ。それでも来るかッ。それとも、今のうちに刃《やいば》を引くかッ」
 それがまたほんとうに抜いたとならば掛け値のない事実なんだから、もし五人の者がもう少しむっつり右門の名声に親しかったらそんな向こう見ずもしなかったのでありましょうが、いうように仲間を討たれたさか恨みに思い上がってでもいたのか、それともまた、せっかくくふうした商売を妨げられた恨みに破れかぶれとなっていたものか、あるいはみずから名のったごとき南部藩食いつめの、放蕩無頼上がりという愚にもつかない肩書きにうわずっていたものか、中なるひとりを中心に、左右ふたりずつ両翼八双の刃形をつくりながら、ひたひたとつまさき立ちで押し迫ってきたものでしたから、右門はついに一声鋭く叫びました。
「バカ者ッ、そんなに死にたいかッ」
 同時におどり入りざま、ひと腰ひねった奥義の一手は、これぞ右門がみずから折り紙をつけた錣正流《しころせいりゅう》の居合い切りです。二寸からだが動けば三人の命は飛ぶぞと威嚇したとおり、すでに左の両三名はたっぷり右門の細身に生き血を吸われて、だッと声もなくそこにのけぞったところでありました。いっしょに泳いで切りさげたふたりの太刀《たち》を、間髪の間にうしろへ流しておくと、右門は片手中段に構え直しながら、その蒼白《そうはく》の美貌《びぼう》に莞爾《かんじ》とした笑《え》みをみせて、静かに叫びました。
「どうじゃ。まだ業物《わざもの》が血を吸い足らぬというているぞッ。どこからかかってくるかッ」
 そして、じっと呼吸を静めながら、二本の刃に向かってじりじりと押し迫っていきました。なんじょうそれが避けえられましょうぞ。誘いのすきとも知らずに、右門のわざと見せた小手のみだれへ、あせりながら相手がつけ入ってきたので、太刀風三寸の下に左へぱっと体を開くと、一閃《いっせん》するや同時に、右門のここちよげな叫び声がきこえました。
「ざまをみろ! いっしょに地獄へいって舌でも抜かれるがいいや!」
 とたんに、どっとまた人がきからは賞賛の声があがりました。
 しかし、右門は切ってしまうと同時に、突然悲しげな表情をうかべました。むしろ愁然として、ややしばしそこに切り倒された五人の者のあけに染まった骸《むくろ》を見守っていましたが、ふとうしろの熊仲、黙山両人をかえりみると、つぶやくようにいいました。
「自業自得は自得じゃが、でも、思わぬ罪を重ねたな。さいわい、そなたたちは仏道に仕えている者たちじゃ。わしに代わって、よくこの者どもの菩提《ぼだい》をも弔ってつかわせよ」
 そして、みずから手を添えてやると、たとえ自業自得に倒れた者たちではあっても、いったん死者の数にはいったものは、このうえ恥ずかしめてはならぬというかのように、そこの小屋からむしろを取りはずしてきて、六つのあさましい骸《むくろ》へおおいかぶせてやりました。
 ――並み居る見物人は、抜いてもあざやかであるが、切ってもまた、最後まで右門らしさを失わないその人がらのゆかしさに、いまさらのごとく胸を打たれたとみえて、いっせいに感嘆のどよめきをみせました。
 右門十番てがらは、かくしてその捕物《とりもの》秘帳に、最初の血で描かれた美花をさらに一つ添えて、いよいよ次の第十一番てがらにうつることとなりました。

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tat_suki
校正:はやしだかずこ
1999年12月21日公開
2005年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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佐々木味津三

右門捕物帖 達磨を好く遊女 —-佐々木味津三

     

 ――今回はいよいよ第九番てがらです。
 それがまた妙なひっかかりで右門がこの事件に手を染めることとなり、ひきつづいてさらに今回のごとき賛嘆すべきてがらを重ねることになりましたが、事の勃発《ぼっぱつ》いたしましたのは、前回の卍《まんじ》事件がめでたく落着いたしまして、しばらく間をおいた九月下旬のことでありました。下旬といってもずっと押しつまった二十八日のことでしたが、それも夜半をすぎた丑満《うしみつ》どきに近い刻限のことです。あたかも、その日は右門の先代の祥月命日に当たりましたので、夕がたかけて小石川の伝通院へ墓参におもむき、そこの院代の南円|和尚《おしょう》が、ちょうどまたよいことに右門とは互先という碁がたきでしたから、久しぶりについ一石と石をにぎり出したのが病みつきとなって、とうとう丑満どきに近いころまで打ちつづけ、ようようそのとき三石めの勝負番に中押しで勝ちをとりましたものでしたから、ほっとした気持ちで和尚の仕立ててくれた寺駕籠《てらかご》にうち乗りながら、ずっと道をお濠《ほり》ばたへ出て、あれから一本道をお茶の水へさしかかろうとすると、はしなくもその道の途中で、今回の第九番てがらとなるべき糸口にぶつかったのでありました。右門のそこを通り合わせたことが、それも父親のご命日に偶然とはいいながら、えりにえってそこを通り合わせたんだから、これも何かの因縁といえば因縁ですが、いずれにしても、右門にとってはまったく予期しないできごとでした。
「あッ、ちくしょう! だんな! 首っつりですよ! 首っつりですよ!」
 発見したのはお供の先棒でしたが、心魂を打ち込んで石を囲んだ疲れのために、ついまどろむともなくまどろみながら、駕籠にもたれてとろとろやりだしたその出会いがしらに、突然お供が悲鳴をあげて右門を呼び起こしたものでしたから、ぎょっとなって、たれをはねのけながらやみをすかすと、なるほど、十間とへだたないそこの木の枝に、黒い影がだらりと見えたのです。しかし、よくよく見ると、ほんのいましがたやったものか、まだ手や足をひくひくさせていたものでしたから、駕籠をとび出すと同時でした。
「だいじょうぶ! まだ息があるぞ! 足場にするから、駕籠をもってこい!」
 寺駕籠のお陸尺《ろくしゃく》にも似合わないで、もう歯の根も合わずにがたがたと震えているお供の者をしかり飛ばしながら、急いで木の下へかけつけると、ようやくさげてきた寺駕籠をふみ台にして、ともかくも大急ぎに本人を地上へ抱きおろしました。当人はまだ二十三、四ぐらいの、どこかお店者《たなもの》らしい若者でしたが、遠目に見届けたときのとおり、おりよくもそのときが断末魔へいま一歩という危機一髪のときでしたが、まだ肢体《したい》にぬくもりがありましたので、そこはもうお手のもの、術によって急所に活を入れると、徐々に息をふき返しましたものでしたから、普通の者ならばただちにその場で、事の子細を問いただすのがありきたりの型ですが、そこがむっつり右門の少し人と違うところでありました。顔の形相こそ、今の苦しみのためにまだ青ざめていましたが、その他の風采《ふうさい》をうち見たところ、ひと目に実直なりちぎ者ということがわかったものでしたから、当人には何もいわずに、すぐと駕籠の者に命じました。
「どうせ八丁堀へ行く駕籠だ。おれの代わりに、この若者を乗せていけ」
 息を吹き返しているとはいいじょう、ついいましがた地獄の二丁目か三丁目あたりまで行ってきた人間を乗っけていけというのでしたから、いかに仏と縁の深い寺駕籠の陸尺たちであっても、これはあまりぞっとしない命令のはずでしたが、しかしむっつり右門の名声は、かれらにいやな顔をさせる余地のないほど広大でありました。深夜の町を黙々として八丁堀まで送り届けましたので、くだんの若い者を座敷へ伴っていくと、そこでようやく事の子細を尋ねることになりましたが、けれどもその尋ね方がまたまことに右門流です。
「どうだ、まだ死にたいか」
 そして、からからとうち笑ったものです。その尋ね方のよく人情の機微をうがって少しもむだ口をきかないあたりといい、ことばは簡単ながらなおよく言外に義侠心《ぎきょうしん》の強さをはらましているあたりといい、普通の場合の人間であっても、ぐっと骨身にこたえるところでしたから、くだんの若者にとっては右門のたのもしそうなその一言は、なおさら心魂をゆりうごかしたことだったでしょう。もうたまらないといったように、わっとそこへ男泣きにくずれ伏しましたものでしたから、すかさずに右門が、なおいっそうのたのもしさと侠気《きょうき》とを言外に含めて、男の悲しみと苦痛を、その大きな胸へ抱き包むように尋ねました。
「もうよい、もうよい。わしという人間がどういう人がらの男であるか、それがわかってのことであろうから、もう泣くのはよして、かくさずに胸のうちを物語ったらどうじゃ」
 しかし、男は嗚咽《おえつ》をつづけたままで、ただ身をよじるばかりでありました。告白するのが身の恥辱となるような内容ででもあるのか、それとも口外してはならぬようなことがらででもあるのか、じっと歯をくいしばるようにして、男泣きに泣きつづけながら、いつまでも子細を物語ろうとしなかったものでしたから、たいていの者ならばせっかく命を救ってやったのにと思って、いいかげん腹をたてるところでしたが、しかし口外せねば口外しないで、右門にはまた右門にのみ許された手段と明知という鋭い武器があります。しかも、それがまた右門にとってはまことによい偶然でしたが、身をよじって泣き入っているうちに、ふと男の懐中からはみ出して、はしなくも今いった右門のその鋭い明知の鏡に、ちらりと映った一品がありました。それも尋常一様の品物ではなく、一見して女の持ち物であったことを物語るなまめかしい紙入れでしたから、なんじょう右門のきわめつきの鋭知がさえないでいられましょう。さては女出入りが原因だなと、ただちにだいたいのめぼしがついたものでしたから、すばやく片手を伸ばすと、奪いとるようにして取り上げながら、鋭く若者にいいました。
「こんな品物、何用あって冥途《めいど》まで持参するつもりじゃった」
「あッ。いけませぬ! いけませぬ! そればかりは、どなたにも見られてはならぬ品でござりますから、お手渡しくださりませ! お手渡しくださりませ!」
 取られたことをはじめて気がついて、若者がにわかにおどろきうろたえながら、必死に奪い返そうとしたものでしたから、いっそう疑惑のつのった右門が、どうしてそれを許すべき――。少し手荒なしうちとは思いましたが、この一品になにもかも事の子細の秘密がかくされていると思いましたので、十八番の草香流をちょっと用いて、なるべく痛くないように、だがけっして抜き取ることのできないように、術をもって若者の両手をおのがひざの下に敷いておくと、すばやく紙入れを改めました。
 けれども、予期に反して、その紙入れの中にはただ一本の銀かんざしがだいじそうに忍ばされてあるばかりでした。何か子細をかぎ知りうるような女からの艶文《つやぶみ》だとか、ないしはまた誓紙証文とでもいったようなものでもありはしないかと、心ひそかに予期していたのでしたが、ただ一本銀のかんざしがすべてのなぞを物語っているように、奥深く隠されてあったばかりだったのです。だか、その銀かんざしがなみなみの品ではないので、珍しい紋がきざまれてありました。達磨《だるま》の紋です。師僧|般陀羅《はんだら》の遺示により、はるばるインドから唐土に渡って、河南のほとり崇山に庵室《あんしつ》をいとなみながら、よく面壁九年の座禅修業を行ないつづけたと伝えられている、あの達磨禅師をかたどった紋様です。
 およそ何が珍しいといっても、おきあがりこぼしの達磨を紋にしておくような変わったかんざしもまれでしたから、早くも右門は明知の鋭さをそこに現わして、ひざに敷いている若者の心をえぐるようにいいました。
「よし、もうなにもかもあいわかったから、そなたの秘密をこのうえ聞こうとはいわぬが、そのかわり爾今《じこん》けっしてさきほどのような人騒がせのまねはせぬと誓約するか。さすれば、必ずともにわしがそなたの相談相手となってしんぜるが、どうじゃ」
 いかなる難解の事件も、いかに秘密の堅い殻《から》に包まれたできごとであっても、いったん八丁堀のむっつり右門がこれに手を染めた以上は、あくまでも解決しないではおかぬといったように、侠気《きょうき》とたのもしさとをその目に物語らせながら、ぎろり若者の面を見すえたものでしたから、ようやく男も安心と決意がついたのでしょう。おろおろして、嘆願するように念を押しました。
「では、ほんとうにもう、てまえに子細をきかぬとお約束してくださりまするか」
「男の一言じゃ、くどうきかぬというたら断じてきかぬ」
「ありがとうござります。それならば、けっしてもうわたくしも、あのようなバカなまねはいたしませぬ」
「よしッ。では、この紙入れもそなたに返してつかわすによって、しっかり残り香なと抱き締めて、もうやすめ」
 いちばんの懸念だった自殺のおそれがないと見きわめがついたものでしたから、右門も少しほっとなって若者の傷ついた魂を一刻も早く休息させてやるために、みずから夜具の用意をととのえてやりました。
 おりからそれを待っていたもののごとく、いよいよ秋のふけまさった庭の草間で、ちち、と身にしみ入るごとく鳴きだした虫の声に、魂の傷つけられた若者はさらにひとしお世のはかなさをおぼえたものか、いくたびも輾転《てんてん》と床の中で寝返りを打っているけはいでしたが、みずからの明知を信じ、みずからの力量を信ずることの厚い右門は、憎いほどの安らかさを示して、いつかもう軽いいびきの中でした。

     

 さて、そのあくる朝です。
 いつものごとくおしゃべり屋伝六が、年じゅう忙しくてたまらないといったふうに、せかせかしながらやって来ると、しょうぜんと顔の青ざめた見知らぬ若者が、おどおどしながらへやのすみにうずくまっていたものでしたから、よほど不意を打たれたとみえて、遠慮もなく例のお株を始めました。
「おや、妙な若いお客人が天から降っていますね、だんなのご親類ですかい」
 知らない男の顔をみると、すぐに親類と決めてしまう伝六も、およそ血のめぐりのよろしくない男といわねばなりませんが、しかし右門はいまさらそんなむだな質問に答うべきはずもありませんでしたから、伝六の来合わしたのと同時に、すぐさま外出のしたくをととのえました。それがまた、きょうはどうしたことか、黒羽二重五つ紋の重ね着を着用に及んで、熨斗目《のしめ》の上下こそつけね、すべての服装が第一公式のお武家ふうでしたものでしたから、うるさいことにまた伝六が、血のめぐりのよろしくないところを遺憾なく発揮いたしました。
「はてな、きょうは何かご番所に寄り合いでもござんしたかな――」
 しきりと首をひねっていましたが、右門はひとことかんたんに前夜の若者へ外出を禁じておくと、いよいよこれから右門流の行動を開始するといわぬばかりに、さっさと表のほうへ出てまいりました。
 しかも、出るといっしょにその目ざした方角は、意外や吉原《よしわら》の大門通りです――。誤解があるといけませんから、ちょっと地理についての説明をしておきますが、ここで申しあげる吉原は、むろん現在の新吉原ではないので、特に新吉原と新の字がついているように、現今の吉原は明暦三年の江戸大火以後いまの土地に移転したことになっていますから、この話の当時の吉原は、いわゆるもと吉原と称されている一郭です。和泉《いずみ》町、高砂《たかさご》町、住吉《すみよし》町、難波《なんば》町、江戸町の五カ町内二丁四方がその一郭で、ご存じの見返り柳がその大門通りに、きぬぎぬの別れを惜しみ顔で枝葉をたれていたところから、いき向きの人々はときに往々、柳町なぞとも隠し名にして呼んでいましたが、いずれにしても堅人たること天下折り紙つきのむっつり右門が、それも無粋といえば無粋な黒羽二重の五つ紋といういかめしい武家ふうの姿で、駕籠《かご》もうたせず、おひろいのまま、さっさとその大門をくぐって廓《くるわ》へはいりましたものでしたから、伝六がついにみたびめのうるさい質問を発しました。
「ちょっと待ってください、待ってください。廓へおはいりになるのはよろしゅうござんすが、まさかに、この朝っぱらからお遊びなさるんじゃござんすまいね」
 実際、いちいちうるさいおしゃべり屋ですが、しかしまた一面からいえば無理もないのです。流連《いつづけ》大バカ、朝がえり小バカ、いきは昼間のないしょ遊びと番付はできていても、なにしろまだ五つといえば午前の八時なんだから、そんな時刻に大手をふりふり、さもお役所へ勤めにでも行くような気組みをみせて、どんどんと大門をくぐっていったものでしたから、一面からいうと伝六のうるさくなるのも無理のないことでしたが、すると右門がうそうそと笑いながら、おどろくべきことをぽつりといいました。
「廓《なか》へはいる以上は、遊ぶと決まっているじゃねえか。おれとて、石や木じゃねえんだからな」
 のみならず、ほんとうに遊ぶけはいで、どこにしようかというようにあたりを物色しはじめたものでしたから、とうとう伝六がうわずった声を出してしまいました。
「そりゃだんな、ほんとうですか!」
「ほんとうだよ」
「きっとですね!」
「きっとだよ」
 と――。聞き終わったそのとたんです。何を考えついたか、伝六が突然まっさおな顔になって、ややしばしからだを震わせていましたが、不意に変なことをいいました。
「だんな、あっしゃもう帰らしていただきます」
 がらにもないおびえを見せたものでしたから、今度は右門のほうが不思議に思ったので――
「バカだな、いざとなっておっかなくなったのかい」
「いいえ、ちがいます」
「じゃ、うちへけえって、おめかしをし直して来ようというんか」
「めったなことをおっしゃいますな! 遊ぶとなりゃ、あっしだって、顔やがらで遊ぶんじゃねえんです」
「そんなら、なにもしり込みするこたあねえんじゃねえか。傾国の美人ってしろものをおめえにもとりもってやるから、しっぽを振ってついてきなよ」
「いやです、あっしゃ今から伊豆守《いずのかみ》さまのお屋敷へ駆け込み訴訟に参りますよ」
「伊豆守さま……? 急にまた、変な人の名まえを引き合いに出したものだが、伊豆守さまっていや、松平のあの殿さまのことかい」
「あたりめえじゃござんせんか。伊豆守さまはふたりとござんせんよ」
「そりゃまた何の駆け込み訴訟に行く考えなんだ」
「知れたこっちゃあござんせんか。もっと早く伊豆守さまがだんなにご新造をお世話しておいてくださいましたら、今になってだんなにこんな気の狂いはおきねえはずなんだからね。あっしゃ今から駆け込んでいって、うんと殿さまに不足をいうつもりですよ。だんなをごひいきなら、ごひいきのように、もっと身のまわりのことをお世話くださったって、ばちゃ当たらねえんだからね」
 何かと思ったら、けっきょくそれは右門自身を思う純情からのこととわかりましたので、さすがの捕物《とりもの》名人も、苦笑するともなく苦笑していましたが、しかし伝六のほうはごくのまじめで、いまにもほんとうに駆けだしそうなあんばいでしたから、やむをえずに右門はちょっと本心をにおわしました。
「そんなに心配ならば、ほんとうのところを聞かしてやろう。実あ、さっきうちにころがっていたあの若い野郎のねた[#「ねた」に傍点]洗いだよ」
「えッ? じゃ、また何か事件《あな》ができたんですかい」
「まだ洗ってみねえんだからわからねえが、ひょっとすると大物じゃねえかと思ってな。とりあえず、小当たりにやって来たところさ」
「なんだ、ねた洗いだったのですかい。あっしゃまた、あんまりだんなが人騒がせなことをきまじめな顔でおっしゃいましたからね、ほんとうに松平のお殿さまをお連れ申そうと思いましたぜ。――ようがす、そうとわかりゃ、一刻も早く参りましょうよ。役目のかどで大門をくぐるぶんには、だんなをおひいきの女の子に見とがめられたって、ちっとも恥じゃござんせんからね。大手を振って参ろうじゃござんせんか」
 まことに、伝六こそは腹に毒のない江戸っ子の典型で、それが役目のこととなると、にわかに相好をくずしながら先へたって、どんどん歩きだしたものでしたから、いろいろに態度を使い分ける伝六のかわいさに右門はいっそう苦笑しながら、ちょうどそこに見つかった尾張屋という揚げ屋へはいってまいりました。
 ――これもついでだから申し添えておきますが、当時はまだ現今のごとく揚げ屋と遊女屋が一軒ではなく、別々に営業を行ない、揚げ屋にはまた多くの場合同屋号のお茶屋がこれに付随していて、大通なお客はまず先にこのお茶屋へ上がり、敵娼《あいかた》となるべき人を遊女屋から招きよせて、しまり屋はしまり屋のごとくに感興を買い、はで好きはまたはで好きのように感興を買ってからはじめて揚げ屋へ参り、それぞれの流儀に浩然《こうぜん》の気を養うというのがその順序だったので、けれども右門はその他のすべての方面においては大々通であっても、この一郭ばかりはやや苦手でしたものでしたから、いきなり揚げ屋へとび込んでまいりました。しかも、そのあいさつたるや、またすこぶるぶこつの右門流だったのです。
「許せよ。少々遊興をいたしに参ったが、さしつかえはなかろうな」
 揚げ屋へ参る以上は遊興すると相場が決まっているのに、それをごていねいに断わったものでしたから、これには向こうもひどくめんくらった様子でありましたが、よくよく見れば黒羽二重五つ紋の高家ふうで、やや少しがらっぱちながら、ともかくもそこにはお供をひとり召し連れていたものでしたから、なまじっかな半可通よりこのほうがだいじなかも[#「かも」に傍点]と思いましたものか、たいへんなもて方でありました。
 しかし、右門はあいかわらずのぶこつまる出しで、いわゆる通人がきいたら笑うに耐えないようなことを、揚げ屋の者に尋ねました。
「女どもの種類はみな一様か」
「いえ。すべてでは千人あまりもござりましょうが、そのうちで太夫《たゆう》、格子《こうし》、局女郎《つぼねじょろう》なぞと、てまえかってな差別をつけてござります」
「ほう。では、遊女らも禄高《ろくだか》があるとみえるな」
 遊女に禄高とはよくいったものですが、右門はおおまじめでしたから、揚げ屋の者は吹き出したいらしいところを必死ともみ手にごまかして、目的の中心へはいっていきました。
「ですから、お客さまのほうのお鳥目にしたがいまして、遊女のほうでもそれぞれの禄高のものが参りますが、どなたかおなじみでもござりましょうか」
「なじみと申すと、親類の者かな」
「さ、さようです。親類と申せば大きに親類でございますが、てっとり早く申せば、お一夜なりとご家内になったもののことで――」
「ああ、そのことか。残念ながら、ひとりもないわい」
「といたしますと、てまえどものほうでころあいの者をお見立ていたしまするが、よろしゅうござりまするか」
「よいとも、よいとも。だが、少々注文があるのじゃがな」
「どのようなご注文なんで――」
「なるべくがさつ者で、べらべらとよくしゃべる女がよいのじゃがな」
「それはまた変わったお好みで――。では、さっそく呼びたてまするでござりましょう」
 心得たもののごとくに立ち上がりましたから、右門があわてて呼びとめました。
「まてまて、女はおおぜいいらぬ。その者ひとりでよいぞ」
「え? だんながたはおふたりでござりますのに、お敵娼《あいかた》は、あの、おひとりでよろしゅうござりまするか」
 これは少し解せない注文でしたから、揚げ屋の者がいぶかってきき返したのを、このときまで黙って聞いていた伝六が、何がためひとり呼べばいいか、右門の意のあるところはちゃんともう知っていたので、突然横合いから口をさしはさみながら、例の調子でがらっぱちにしかりつけました。
「うるせえや。ひとりだって半分だっていいじゃねえか。煮て食うんでも、焼いて食うんでもねえんだから、さっさといいつけどおりに呼んできなよ」
 特におしゃべり者をと注文したあたりといい、ふたりの男に女はひとりでいいといったあたりといい、揚げ屋の者はしきりとうさんくさがりながら引きさがっていきましたが、やがてのことに、注文の者に相当する女がみつかったとみえて、ひとりの花魁《おいらん》をそこに伴ってまいりました。
 見ると、いかさまがさつ屋らしく、そこらあたりの小格子《こごうし》遊女ででもあるのか、すこぶる安手の女で、あまつさえもう大年増《おおとしま》です。しかし、ほかにどこにも要求のなかった右門には、むしろ大年増であったことが偶然中のさいわいで、いうまでもなく年増であることは、それだけ廓《くるわ》の内に長いこと住み古した事情通であることを物語っていましたから、心中喜びながら、まず何はおいてもしゃべらすための鼻薬にと、惜しげもなく小判一枚を祝儀にふるまいました。
 揚げ代金が二十文だとか三十文だとかいわれていた安値の時代に、天下ご通宝の山吹き色一枚は、米の五、六石にも相当する大金でしたから、年増の小鼻を鳴らしたことはもちろんのことで、でれでれともう右門にしなだれかかろうとしたのを軽くあしらっておくと、静かに質問の矢を放ったものです。
「ちと異なことを尋ぬるがな。そなたはこの廓五町内のうちで、達磨《だるま》のおもちゃとか、達磨の紋様を特別に好む花魁衆《おいらんしゅう》を知ってはいぬか」
 今ぞはじめて知らるる、わがむっつり右門のこの一郭に、ぶこつをひっさげておじけもなくやって来たそもそもの心中は、まこと前夜の首をつりそこなった若者の懐中からとび出したところの、あの達磨の紋様打ち彫りぬいた銀かんざしを愛用していた女の探索にあったので、しかるに偶然中のさいわいなことには、安手の、軽口屋らしい年増女は、果然事情通であったことを証拠だてて、右門のその質問をきくと、一瞬の考えまどう様子もなしに、すぐと答えました。
「知ってざますよ。知ってざますよ」
「なに、知っている※[#感嘆符疑問符、1-8-78] どこのものじゃ」
「江戸町の角菱楼《かどびしろう》にいなました薄雪さんざますよ」
「その者は、特に達磨がすきじゃったか」
「大好きも大好きも、どうしてあんなひょうげたものが好きやら、髪飾り帯下じゅばんの模様まで、身につけるほどの品物はみんな達磨の模様でありんした」
「さようか。では、その者いまも角菱楼とかにおるのじゃな」
「いいえ、それがもう手いけの花になりいした」
「なに、根引きされた※[#感嘆符疑問符、1-8-78] それはいつごろのことじゃ」
「つい十日ほどまえのことざます」
「相手は何者で、今の住まいはどこか知っていぬか」
「上方のものざますとかで、住まいは浅草馬道の、二つめ小路とかいうことでありいした」
「さようか、よいことを教えてくれた。では、ついでにも一つ相尋ぬるが、もしやその薄雪とやら申す花魁に、深く言いかわした男はなかったか」
「知ってざます、知ってざます。清吉さんとやらいいなまして、三年越しの深間だとかでありんした」
「二十三、四の、色の白い、小がらな男ではなかったか」
「そうざます、花魁衆の間夫《まぶ》にしては、思いのほかにりちぎらしいかたざました」
 果然その面書きは前夜の若者の人相風体と一致していましたので、そのうえはそれなる達磨を好いた女について事実の有無をたしかめ、縊死《いし》を企つるに及んだ素因が単なる失恋の結果からであるか、それともほかに何かかくされた事件があるか、その二つを剔抉《てっけつ》すればいいのでしたから、もうこうなるとくるわにおける一介のぶこつ者は、断然として天下公知の捕物《とりもの》名人に早変わりいたしまして、その場からただちに例の疾風迅雷的な行動が開始されることとなりました。
「いや、いろいろとよいこと聞いて重畳《ちょうじょう》じゃった。では、せいぜいお客をたいせつに勤め果たして、はようそなたも玉の輿《こし》にお乗りなせえよ」
 あっさりいうとすうと立ち上がって、おどろきあきれている揚げ屋の者に、ちゃらりと小判を投げ与えておくと、表へ出るや、伝六にもう鋭い声をかけました。
「さ、例のとおり、駕籠《かご》だ、駕籠だ」
「ようがす、だんなの口からそれが出るようになれば、もうしめこのうさぎだ」
 用意のくるわ駕籠にうち乗ると、見返り柳もなんのその、思案橋も勇んで飛んで、一路目ざしたところは、いわずと知れた浅草馬道の二つめ小路です。

     

 行き行くほどに空は曇って、まもなくぽつりぽつりとわびしい秋の雨でありました。見れば見捨てておけぬ侠気《きょうき》からとはいいじょう、死を選ぼうとした男のために、それほども愛し恋していた女のもとを代わって訪れようとする今のおのが身をふりかえると、わびしくふりだした秋雨についさそわれて、まだ恋知らぬ右門も、なにかしらあじけなく、はかない感じをおぼえましたが、そのまに駕籠はもう二つめ小路までさしかかっていたものでしたから、さっそくに目ざした家を捜しはじめました。
 むろん、こういう仕事は伝六の役目で、またたくうちに当の住まいを見つけてまいりましたから、近寄って一見すると、だがこれが少し不思議です。お約束どおりの、舟板べいで見越しの松でもがあるかと思いのほかに、ただの町家で、それがまた、ついこのごろ建てたらしい新普請の、しかし人けは少ないらしい一構えでしたから、右門はややしばしなにごとかをうち案じていましたが、ふいっとまた伝六の目をぱちくりさせるような行動を開始いたしました。というのは、さっさと道をもとへ引き返してくると、むやみにぐるぐると、そこらあたりを回りだしたのです。それも、あっちの町へいったり、こっちの路地奥へいってみたり、しきりと何かを捜しているようなあんばいでしたが、三つめ小路の横かどに、按摩《あんま》灸針《きゅうしん》、吉田|久庵《きゅうあん》と看板の出ていた一軒を発見すると、ようやく見つかったといったような顔つきで、おどろき怪しんでいる伝六をしりめにかけたまま、ずかずかとそれなる家へはいってゆきながら、不意に横柄《おうへい》な口調で尋ねました。
「亭主はいるか」
「へえい、ここにひとりおります」
「ひとりおればたくさんだ。きさまが看板主の久庵か」
「へえい、さようで」
「でも、目があいているな」
「目あきじゃ按摩をしてならぬというご法度《はっと》でもあるんですか」
「へらず口をたたくやつじゃな。わしは八丁堀の者じゃ。隠しだてをすると身のためにならぬから、よく心して申すがよいぞ」
「あッ、そうでござんしたか。ついお見それ申しやして、とんだ口をききました。ときどき針の打ち違いはございますが、うそと千三つを申しあげないのがてまえの身上でございますので、だんながたのお尋ねならば、地獄の話でもいたします」
「いう下から地獄の話なぞと申して、もううその皮がはげるじゃないか。うち見たところ正直者らしゅうはあるが、なかなかきさまとんきょう者じゃな」
「へえい、さようで。それもてまえの身上でございますから、よく町内のお茶番狂言に呼ばれます」
「お座敷商売の按摩だけあって、口のうまいやつじゃ。では、相尋ぬるが、そこの二つめ小路に、このごろ吉原から根引きされた囲い者がいることを存じおるじゃろうな」
「へえい、よく存じおります。むっちりとした小太りで、なかなかもみでがございますよ」
「やっぱりそうか。にらんできたとおりじゃったな」
「え? にらんできたとおりとおっしゃいますと、どこかでだんなは、てまえがあの家へ出入りすること、お聞きなさったんでござんすか」
「くろうと上がりの女は、どういうものか女按摩より男按摩を好くと聞き及んでいたから、きさまの家の表に吉田久庵と男名があったのをみつけて、ちょっと尋ねに参ったのじゃ」
「さすがはお目が高い、おっしゃるとおりでござんすよ。このかいわいをなわ張りの女按摩がござんすのに、ご用といえばいつもこの老いぼれをお呼びですから、男は死ぬまですたりがないとみえますよ」
「むだ口をたたくに及ばぬ。家内は幾人じゃ」
「ふたりと一匹でございます」
「一匹とはなんじゃ」
「ワン公でございます。それもよくほえる――」
「亭主は何歳ぐらいじゃ」
「四十五、六のあぶらぎった野郎――と申しちゃすみませんが、人ごとながら、あんなべっぴんにゃくやしいくらいな、いやな男ですよ」
「商売はなんじゃ」
「上方の絹あきんどとか申しやしたがね」
 予期しなかった一語を聞いたものでしたから、同時に右門の目がぴかりと光りました。これはまた光るのが当然なんで、甲州の絹商人とか、伊勢崎《いせざき》の銘仙《めいせん》屋とかいうのなら聞こえた話ですが、上方の絹商人とはあまり耳にしないことばでしたから、早くもいっそうの疑いを深めて、さらに屋内の様子を尋ねました。
「それなる亭主は、いつごろ在宅じゃ」
「さよう――ですな、夜分はいるようですが、昼のうちはたいてい不在のようでございますよ」
「そうか。では、すずりと紙をかしてくれぬか」
 求めた二品を受け取ると、右門は即座にさらさらと次のような文面を書きしたためました。
「――事急なり。会いたし。かどのすずめずしにてお待ちいたす。清の字」
 だが、書きおわるとややしばらくなにごとかをうち案じていましたが、すぐとまたそれを引き破くと、あらためて久庵に命じました。
「いや、おまえの口からじかに言ってもらおう。心きいた女ならば、偽筆ということ看破しないともかぎらないからな。あの家へいって、もしいま亭主がいないようだったら、女にこっそりというんだぞ。清吉さんから頼まれての使いだが、あそこのかどのすし屋で待っているから、ちょっくら顔を貸しておくんなさいとな。もし、そのとき女が清吉の人相をきいたら、二十三、四の小がらな男だというんだぞ。――いいか、そら、少ないがお使い賃じゃ」
 小銀を一粒紙にひねって渡したものでしたから、何もかせぎと思ったものか、目あき按摩の久庵はほくほくしながら駆けだしました。
 さて、もうここまで事が運べば、それなる達磨《だるま》を好いた花魁《おいらん》薄雪の来るか来ないかが、右門の解釈と行動の重大なる分岐点《ぶんきてん》です。彼女が清吉の名による呼び出しにすぐにと応ずるぐらいだったら、あれなる若者を苦しめて縊死《いし》を決行させるにいたった原因は、あの疑惑中の人物上方の絹商人ひとりにあるに相違なく、もしまた彼女が今の呼び出しに応じないで、少しでも清吉という名まえから逃げのびようとするけはいがあったら、断然女も上方の絹商人と同腹にちがいないと思われましたものでしたから、そのときはこう、このときはこうと、それぞれに対する成案をたてておいて、静かに右門はすずめずしの二階で、今の使いの結果を待ちうけました。
 すると、まもなくのことです。
「おへやはどちら?」
 なまめかしい声に胸のはずみを現わして、そこに姿をみせたものは、だれならぬ問題の女、薄雪その人でありました。薄雪は清吉とは似てもつかぬ右門主従がそこに居合わしたものでしたから、はいりざま少しぎょっとなって狼狽《ろうばい》の色をみせましたが、右門は女が清吉という名をきいて、胸をはずませながらとぶように駆けつけた事実から、身請けの主の絹商人とは同腹でないことをまず知りましたので、それならばと思いながら、源氏名薄雪といったそれなる女が、はたしてどんな人がらのものであるか、その点から観察の歩をすすめてまいりました。
 ところがひと目見ると、これがまたどうして、なかなかたいへんな美人なのです。この種の商売人上がりの美女を形容する場合、おおむね世上では窈窕《ようちょう》という文字を使いますが、しかしそれなる薄雪にかぎってはその名の示すとおり窈窕は不適当で、むしろ玲瓏《れいろう》としてすがすがしい玉をのぞむような美しさでありました。そのすがすがしさがまたくるわの水でみがきあげたすがすがしさなんだから、普通一般の清楚《せいそ》とかすがすがしさといったすがすがしさではなく、艶《えん》を含んでかつ清楚――といったような美しさのうえに、そったばかりの青まゆはほのぼのとして、その富士額の下に白い、むっちりともり上がった乳をおおっている浜|縮緬《ちりめん》の黒色好みは、それゆえにこそいっそう艶なる清楚を引き立てていたものでしたから、同じ遊女のうちでもこんなゆかしい品もあるかと、ややしばらく右門もうち見とれていましたが、かくてはならじと思いつきましたので、こういう女の心を攻めるにはまた攻める方法を知っている右門は、ずばりと、いきなりその急所を突いてやりました。
「まだ存じまいが、そなたの好いている人は、ゆうべ首をくくりなすったぞ」
「ええ! あの、清、清さんは死になましたか!」
 よほどの深い愛情を今も清吉に寄せているとみえて、薄雪は右門のことばを聞くと、もうすでにおろおろとしながら地ことばと里ことばをまぜこぜにして、身も世もあられないような驚愕《きょうがく》を見せたものでしたから、右門はここぞと、隠されているなぞをあばくべく、徐々に女の心をつかんでいきました。
「だから、そなたはこれからどうなさる?」
「知れたこと、二世かけて契った主さんでござりますもの、わちきもすぐと跡を追いましょう」
「では、なんじゃな、そなたも二世かけて契った主さんというたが、今のおつれあいはいっしょにいても、ほんとうにただのでくのぼうじゃというのじゃな」
 すると、女はしまったというような色をみせて、つい驚きのために言いすぎたおのれの失言を後悔するかのように、極度な困惑の情を現わしたものでしたから、なんじょう右門ののがすべき、すぐに追いつめました。
「くどうはいわぬ。わしも多少は人に知られた男のつもりじゃ。いったんこうとにらんで乗り出した以上は、どのようにしてもそなたたちのために尽くしてみようと思うが、どうじゃ。何もかも隠さずにいうてみぬか」
「でも、そればっかりは……」
「だれであってもいえぬというか」
「はい……これを口外するくらいならば、わちきはもうひと思いに死にとうござります」
 隠されている秘密は、一身上にとってよほどの重大事ででもあるのか、女も前夜の清吉同様、がんとして口外すまじきけしきを示したものでしたから、当然右門も困惑に陥るべきはずでしたが、しかし右門にはいくつかの右門流があります。最初は清吉を死んだことにしておいて、急所をついたが、こうなるうえはもう一度生き返して、秘密のなぞを物語らしてしまおうと思いつきましたものでしたから、不意に莞爾《かんじ》とするや、ごくこともなげにいいました。
「では、こちらから先にほんとうのことをいってやろう。清吉さんはてまえが救い出して、まだぴんぴんしていなさるぜ」
「えッ。まあ、あの、それは、ほんとうのことでござりますか!」
 果然、二度めの薬がきいて、薄雪は目を輝かしだしたものでしたから、右門はさらに第三服めの薬を盛りました。
「だから、そなたも、もう隠さないで何もかもお打ち明けなさったらどうでござる。むやみと自慢たらしく自分の名まえを名のりたくはないが、むっつり右門といえばわしのことじゃ」
 まあ! というように目をみはって、すでに薄雪もその名声には知己であるかのごとく、しげしげと右門の面を見直していましたが、並びのよろしい白い歯をかすかにのぞかせながら、こころもち微笑を含んだ右門の顔は、今にしていっそう男性美を増したごとく凛々《りり》しい美丈夫ぶりでしたから、慈悲、侠気《きょうき》、名声広大なむっつり右門ならば、思いきってそのふところにすがりついてみようという決心がついたものか、ようやく女は秘密の告白に取りかかりました。
「そうとは知らず、わちきにも似合わないお見それをいたしました。では、何もかも申しまするが、実は、あのだんなさんも、清吉さんも、ただの素姓ではござりませぬ」
「と申すと、なんぞうしろ暗い素姓ででもござるか」
「はい、浪花《なにわ》表で八つ化け仙次《せんじ》といわれている人が、なにを隠そう、わちきのだんなさんざます」
 呉服屋専門の凶賊で、神出鬼没、変装自在なところから八つ化け仙次と称されて、もう長いことおたずね中にかかわらず、いまだにお手当とならないことを、同じ蛇《じゃ》の道で右門も耳に入れていましたものでしたから、はからずも女のいった陳述により、意外なことから意外な大捕物になりかけたことを心中右門も喜んで、ずんずんと女に告白を迫りました。
「すると、清吉さんもその手下だというのじゃな」
「それが芯《しん》からの悪仲間でござりましたら、わちきとてなじみはいたしませぬが、仙次さんのたくらみにかかって、ふたりとも今のように苦しめられ通しでありいすから、あんまりくやしいのでござります」
「では、なじみとなるまえ、清吉さんは真人間だったと申さるるか」
「真人間も真人間も、あの人がらでもわかるように、それまでは浪花表のさるご大家で、人の上に立つお手代衆でござりましたのを、思い起こせばもう三年まえでござります。わちきが廓《くるわ》へはいりぞめ、そのおりちょうど清吉さんも商用で江戸表に参られて遊里《さと》へ足をはいりぞめに、ふと馴《な》れそめたのが深間にはいり、それからというもの江戸に来るたびわちきのもとへお通いなさりましたが、そのうちにとうとうあのかたも行きつくところへ行きなまして、大枚百両というご主人のお宝を、わちきのためにつかい込みましたのでござります……」
「では、その百両の穴を八つ化け仙次が救ってでもくれたと申さるるのじゃな」
「はい、それもただのお恵み金ではありいせぬ。仙次さんもあちらで盗んだ品を江戸へさばきに来るうちときおりわちきのもとへお通いなさりましたが、たとえ遊女に身はおとしていても、おなごに二つの操はないと存じましたので、柳に風とうけ流していたのに、執念深いとはきっと、あの人のことでござりましょう。たまたま清吉さんが百両の穴に苦しんでいると聞きつけ、男を見せたつもりでわちきにお貸しなされまして、そのかわりに操を買おうとなされましたが、でもわちきがなびこうといたしませなんだので、とうとう今度のような悪だくみをしたのでござります」
「すると、なにか、百両貸してもそなたがはだを許さなかったために、むりやり身請けをしてしまったと申すのじゃな」
「いいえ、お目きき違いでござります。身請けされましたのは、わちきが進んでお頼み申したのでござります」
「なに、進んで? それはまた異なことをきくが、それほどきらいな男に、そなたが進んでとは、どうしたわけじゃ」
「仙次さんがあまり清吉さんを苦しめたからでござります」
「どのような方法で苦しめおった」
「金で買ってもわちきがなびかないゆえ、その償いにといっておどしつけ、とうとう無垢《むく》の清吉さんに恐ろしいどろぼうの罪を働かさせたのでござります」
「なるほど。それで、そなたたちふたりとも、申し合わせたように秘密を守っていたのじゃな。よし、おおよそもう話はあいわかったが、ときにその盗ませたとか申す品物はなにものでござった」
「それがだいそれた品を盗ませたのでござります。清吉さんがお勤めのお店にはご身代にも替えがたい品で、昔|豊太閤《ほうたいこう》様から拝領しなましたとかいう唐来の香箱なのでござります。それも、盗ませるおりに、もし首尾よくその香箱を持ち出してきましたならば、あのときの百両は帳消しにしたうえで、このわちきをももう執念《しゅうね》くつけまわすようなことはせぬといいなましたので、つい清さんも気が迷うたのでござりましょう。うかうか盗み出してきたその香箱をうけとると、急に今度は仙次さんがいたけだかになりまして、おまえもいったん盗みをしたうえは、もう傷のついたからだだと、このようにいうておどしつけ、そのうえになおわちきにも約束をたがえて、いろいろとしつこくいいよりましたので、清吉さんの身は詰まる、わちきも身は詰まる、いっそもうこうなればと心を決めまして、わちきが進んで身請けされたのでござります。そうやって敵のふところに飛び込んだうえで、おりあらば香箱を奪いとり、清さんの身の浮かばれるようにと思うのでござりましたが、相手も名うての悪党だけあって、なかなかわちきなぞの手にはおえませんので、それを苦にやみ思いつめて、おかわいそうに、とうとう死ぬ気にもなられたのでござりましょう――思えば、それもこれも、みんなわちきゆえからできたこと、ふびんでふびんでなりませぬ……」
 いうと、美女薄雪はその愛の深さを物語るように、こらえこらえて忍び音に泣きくずれました。
 しかし、右門は聞いた以上もう猶予すべきはずはないので、凛《りん》としながらいいました。
「よしッ、むっつり右門が腕にかけてもひっくくってやろう! すぐさま案内されい!」
「えッ! では、あの、ではあの、わちきたちの命を救ってくださりまするか!」
「聞いちゃほっておかれねえのがわしの性分じゃ。ふざけたまねしやがって、このうえおひざもとを荒らされたんじゃ、江戸一統の名折れではござらぬか。ついでに、その香箱とやらも取り返してしんぜようが、いま仙次の野郎は在宅でござるか」
「今は不在でござりまするが、暮れ六つまえには帰ると申しましたので、おっつけもうそのころでござります」
「さようか。では、張り込んでてやろう。さ、伝六! ひょっとすると、きさまの十手にものをいわさなくちゃならねえかもしれんから、土性骨を入れてついてきなよ」
 かりにも浪花表で八つ化け仙次といわれている以上は、草香流ばかりではいけないかもしれないと思いましたものでしたから、ここに捕物《とりもの》を重ねること第九回、いまぞはじめて腰の一刀にものをもいわせようというかのように、蝋色鞘《ろいろざや》細身のわざものにしめりをくれておくと、さっそうとして立ち上がりました。

     

 行きつくと幸運でした。早めに帰宅したものか、そこの茶の間の長火ばちの向こうに、どっかりとおおあぐらをかいて、八端《はったん》のどてらにその醜悪な肉体を包みながら、いかさま上方くだりの絹あきんどといったふうに化け込んで、当のその八つ化け仙次がやにさがっていたものでしたから、右門はずいと座敷へ上がっていきました。
 しかし、上がると同時にちょっとまた意表をついたので。当の相手がそこにのめのめとやにさがっているんだから、すぐにも飛びかかるだろうと思われたのが、意外にも右門はくるりひざをまくると、伝法に長火ばちのこちらへおおあぐらをかいて、同じく伝法に、不意と妙な啖呵《たんか》をきりだしました。
「八つ化けの仙次さんとやら、お初でござりますね。聞きゃ、こちらへお越しで、いろいろおひざもとを食い荒らしていなさるそうだが、あんたは江戸に、ご家人の右衛門介《うえもんのすけ》っていうならずもののあっしがいることお耳にゃしなかったかね」
 みずから無頼漢と名のる妙な男がぬうとはいってきて、いかにも度胸がよさそうに、いきなりくるりとひざをまくりながら、気味わるくにたりにたりとやって、突然八つ化け仙次とずぼしをさしたものでしたから、相手はおもわずぎょっとなったようでしたが、いっこうにおちつきはらっているのは右門です。度胸のよさがどの程度のものかわからないといったように、にたりにたり笑いながら、ますます伝法なことばをつづけていきました。
「いや、不意にとび込んできたんだから、びっくりなさるなあ無理ゃござんせんがね。なあ、八つ化けの仙次さん、あんたは見くびってのことかしらねえが、江戸のならずものぁ贅六《ぜいろく》のぐにゃぐにゃたあ、ちっと骨っぷしのできが違ってますぜ。聞きゃ清公をおどかしつけて香箱をまきあげ、あまつさえそこにいるあっしにゃ妹分の薄雪をしつこくつけまわっていなさるというが、こうと聞いちゃあとへ引かねえご家人の右衛門介が、わざわざお越しなすったんだ。ね、おい、八つ化けさん、すっぱり気よく色をつけてもらおうじゃござんせんか」
 いいながら、しきりとじろじろあたりを見まわしました。実は、このじろじろとあたりを見まわしたのが右門流の手なんで、それというのはあの香箱をどこにかくまってあるか、それが第一の懸念だったからです。召し取ることはよいが、相手も相当名を売ったやつなんだから、もし刀にものをいわせるようなことになって、そのまま命を奪ってしまうようなことになれば、せっかく虎穴《こけつ》に入って、貴重な虎児《こじ》を取り逃がしてしまったのでは、また捜し出すまでの手数がいると思われましたものでしたから、召し取るまえにその隠匿個所をつき止めておこうと、そのためにありもせぬご家人の右衛門介にまで化け込んで、何かと時を引き伸ばしながら、じろじろとへや内を見まわしたのでしたが、しかしこういう場合、その目のつけどころがまたあくまでも右門流です。たいていの捕方《とりかた》だったら、品物が品物だからおそらくたんすか長持ちといったような貴重品の入れてある家財道具に着目すべきところを、右門は例のごとくその逆のからめてをたどって、なるべくなんでもなさそうなところ、くだらないちょっとしたところというような個所にばかり、鋭い視線を働かせていきました。
 ――と、はしなくも、その鋭い視線のうちにいぶかしくも映じたものは、床の間の隣の妙な壁です。本式な床なら格別、普通の略式なお座敷であったら、まず一間の床があって、その隣にはからかみ二本の押し入れでもが設けられてあるのがあたりまえですが、しかるに、それなる茶の間の奥の座敷を見ると、床は床であってもその床の隣の押し入れであるべきところが、妙なことに出っ張った土壁なのです。引っ込んだ土壁ならばまだよろしいが、壁をもってふさいだ押し入れのように、そこの一間が出っ張っていたものでしたから、なんじょう右門の慧眼《けいがん》ののがすべき、臭いなと思ってすっくと立ち上がりながら近づいていって、こころみにたたいてみると、果然出っ張った土壁の奥は空洞《くうどう》らしく、ぼんぼんと陰にこもった響きでありました。
 と――そのとたんです。
「聞いたこともねえ名まえをぬかしやがって、おかしな因縁つけやがると思ったから黙っていわしておいたが、さては八丁堀のやつらじゃな」
 仙次もさる者、それと見破ったもののごとく、がぜん敵意を示してきましたものでしたから、今ぞ莞爾《かんじ》としてうち笑ったのは右門でした。
「ようやくわかったか。ついでに名まえも聞かしてやらあ。おれがいま八丁堀でかくれもねえむっつり右門だ!」
「うぬッ、きさまだったか。こうなりゃもう百年めだ。黙ってさっき聞いてりゃ、ぐにゃぐにゃの贅六《ぜいろく》なんかときいたふうなせりふぬかしゃがって、とれるものならみごととってみろッ」
 いうやいなや、かたわらの中わきざしを引きよせて、ぎらり秋水にそりを打たしながら八つ化け仙次が立ち上がったものでしたから、それぞ右門の期したるところ。さらに莞爾としてうち笑《え》むと、いとも涼しげに言い放ちました。
「無手なら草香流、得物をとらば血を見ないではおかぬ江戸まえの捕方《とりかた》じゃ、それでも来るか!」
「行かいでどうするッ。いざといわば仕掛けのその壁へかくれて、まんまと抜け裏へ逃げるつもりだったが、そいつを気づかれたんじゃ、八つ化け仙次も運のつきだ。さ、そっちのひょうげた野郎もいっしょにかかってこい!」
 案の定、秘密の壁を右門に発見されたことによって、もう仙次はやぶれかぶれか、庭の土間先に逃げ口をふさぎながらがんばっていた伝六にまでもいどんできたので、伝六の目をむいたこと――。
「ちくしょうッ、おれさまをひょうげた野郎とほざきゃがったな!」
 いうと同時に、手なれの十手をぴたり及び腰に擬しました。
 だが、われらのむっつり右門は、仕掛けの壁をうしろにやくして、ごく泰然自若たるものです。なるべくならば血ぬらさないで、身ぐるみ丸取りにしようと思いましたものでしたから、仙次の腕やいかにと静かにその体へ目を配りました。見ると、浪花表の凶賊と誇称されている八つ化け仙次も、江戸まえの捕物名人むっつり右門の目にかかってはまことにたわいもないので、その小手先に歴然たる大きなすきがあったものでしたから、右門のとっさに抜き取ったるは奥義の手裏剣! 石火の早さでひゅうと飛んでいくと、ぷつりと小手にささりました。と同時に、肉をえぐる痛さで、ぽろり仙次がわきざしを取り落としたものでしたから、飛鳥のように体へはいると、血にぬれたその手をぎゅっとねじ上げたものはおなじみの草香流です。
「バカ野郎! みい! 痛いめに会うじゃねえか!」
 いっしょに莞爾《かんじ》としたもので――、
「さ、伝六! くくしあげろ」
 そして、その捕縛を命じておくと、なにより香箱の行くえをと、右門はただちに仕掛けの壁をあけるべく、巨細《こさい》にその構造を点検いたしました。
 と――その目に映ったものは、床柱の横にぽっちりとみえた節のごとき一個のポチです。こころみにそれなるポチを押してみると、果然土壁は、からくり仕掛けの龕燈《がんどう》返しに、くるりと大きな口をあけました。見れば、いうまでもなくそのうしろには抜け裏がありましたが、それよりも右門の鼻をゆかしく打ったものは、そこのたなの上にある桐《きり》の小箱から発する異香のかおりでしたから、もう以下は説明の要がないくらいで、案の定それなる桐の外箱の中には、南蛮渡りの古金襴《こきんらん》に包まれて、その一品ゆえに若者清吉をして首をくくらし、遊女薄雪をして単身敵の胸中に入らしめた、豊太閤ゆかりの遺品と称する香箱が秘められてありました。だから、遊君薄雪のおどり上がったのは当然なことで――
「まあ! うれしゅうござります! うれしゅうござります!」
 品物をうけとるやいなや、処女のごとき喜びをみせて、かきいだき占めたものでしたから、右門はなすがままにまかせながら促しました。
「では、早いこと清吉どんに、うれしい顔をみせてあげなさいましよ」
「はい、もうどこへでも参ります。お連れしてくんなまし」
 すでにかいがいしい旅のしたくをととのえて立ち上がりましたものでしたから、右門はくくしあげられている八つ化け仙次に、いやがらせを一ついいました。
「江戸のならずものは、ちっと手口が違うだろ。どうだ、少しは身にこたえたかい。くやしかろうが、きさまの手いけの花も、ついでに憎い恋がたきのところへみやげにするぜ」
 仙次は、いまいましそうに歯ぎしりしたが、むろんもうこれは手遅れなので――その歯ぎしりしたままのやつを、右門は道の途中の自身番へ投げこんでおくと、一路急いだところは八丁堀の組屋敷です。おどろいたのは清吉ですが、自分ではなに一つ密事も打ちあけなかったのに、右門が僅々《きんきん》一日の間で、胸中を読むこと鏡のごとく、おのれのほしいもののことごとくをそこにみやげとしながら携えかえったものでしたから、前後も忘れて薄雪に取りすがりました。右門はそれをここちよげに見守っていましたが、そのときふと思いついたので、まさにふたりの激発せんとしている愛情をせきとめながら、薄雪に尋ねました。
「そうそう、聞こうと思ってつい忘れていたが、あんたはまたなんで、あんなに達磨《だるま》なんかがお好きじゃった」
 すると、薄雪はほんのりほおへ紅を散らしたと見えましたが、ちょっと意外なことをいいました。
「今まで三年ごし、どなたにも申しませんだが、だんなさまだから申します。実は、わちきのくるわへ身を売りましたのは、人さまのように、親のためや、恩をうけた主人のためではござりませぬ。もともと生まれおちるからの親なし子でござりましたのを、さるご親切なおかたさまに拾われて成人しましたが、人のうわさに、くるわはおなごにいちばんの苦界と聞きましたゆえ、すき好んでわれとわが身をその苦界に沈めたのでござります」
「それはまた珍しい話を聞くものじゃが、どうしてまた苦界と知って、われとわが身をお沈めなさったのじゃ」
「くるわはおなごの操のいちばん安いところと聞きましたゆえ、その安いくるわでどのくらいまでおなごの操を清く高く守り通されるかためすためでござりました。さればこそ、達磨大師の、面壁九年になぞらえて、わちきも操を守るための修業をしようと、朋輩《ほうばい》からさげすまれるほど、あのようなひょうげたものの姿を身のまわりにつけていましたが、お恥ずかしゅうござります……ついここの清さんばかりには心からほだされまして、守りの帯も解いてしまいました。――でも、ここの主さんをのぞいては、百万石を積まれてもだれひとりなびいた殿御はござりませぬ。身請けされた仙次さんなぞはいうまでもないこと、一つ家に十日あまり暮らしていても、指一つふれさせないで、主さんにさし上げたこのはだは守り通してござります」
 おどろくべき貞操修業者の告白をきいて、右門はいまさらのごとくにその清楚《せいそ》とした遊君薄雪のあでやかさを見つめていましたが、いつにもないことをふいと感慨深げに漏らしました。
「そうか、それは惜しいことをしたな。そなたのようなかたがいると知ったら、わしも清吉どんの果報に少しあやかればよかったにな――」
 ふたりが恥ずかしげに顔を伏せていきましたので、右門が追っかけていいました。
「さ、もうこれでわしの仕事は終わった。清吉どんは早くもとの無傷なからだになって、今度はふたりで夫婦達磨《めおとだるま》の修業をする義務があるゆえ、その香箱を携えて、こよいのうちにも上方へともども出立いたされよ」
 なんで若きふたりの喜ばないでいられるべき、おどり狂うようにして右門に感謝の意をのこしながら、すぐと江戸をあとにいたしました。――そのうしろ姿にしぐれそぼふる九月末の、ふけまさった秋の夕やみが、そくそくと迫っていきました。
 右門九番てがらは、かくて終わりを告げるしだいです。

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2000年5月24日公開
2005年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木味津三

右門捕物帖 卍のいれずみ—– 佐々木味津三

     

 ――今回は第八番てがらです。
 それがまた因縁とでも申しますか、この八番てがらにおいても、右門はまたまたあの同僚のあばたの敬四郎とひきつづき第三回めの功名争いをすることになりましたが、事の起きたのは八月上旬でありました。
 旧暦だからむろんひと月おくれで、現今の太陽暦に直すと、ほぼ九月の季節にあたりますが、だから暦の上ではすでに初秋ということになってはいるものの、日ざかりはかえって真夏よりしのぎにくいくらいな残暑です。加うるに厄日の二百十日がひとあらしあるとみえて、もよったままの降りみ降らずみな天候でしたから、その暑いこと暑いこと、五右衛門が油煎《あぶらい》りも遠くこれには及ぶまいと思われるほどの蒸しかたでしたが、しかし宮仕えするものの悲しさには、暑い寒いのぜいたくをいっていられなかったものでしたから、しかたなくおそめに起き上がると、ふきげんな顔つきで、ともかくもご番所へ出仕のしたくにとりかかりました。
 けれども、したくはしたものの、いかにも出仕がおっくうでありました。暑いのもその一つの原因でありましたが、それよりも事件らしい事件のなかったことが気を腐らしたので、事実また前回の村正騒動が落着以来、かれこれ二十日近くにもなろうというのに、いっこう右門の出馬に値するような目ぼしい事件が持ち上がらなかったものでしたから、ちょうど、よく切れる刀には血を吸わしておかないとだんだんその切れ味がにぶるように、自然と右門の明知も使い場所のないところから内攻していって、そんなふうにお番所へお出仕することまでがおっくうになったのですが、そのためしたくはしたものの、なにかと出渋って、ぼんやりぬれ縁ぎわにたたずみながら、しきりとあごの無精ひげをまさぐっていると、ところへ息せききって鉄砲玉のように駆け込んできたものは、例のおしゃべり屋伝六でありました。
「ちえッ、あきれちまうな、人の気をもますにもほどがあるじゃござんせんか! とっくにもうお番所だと思いましたから、あっしゃご不浄の中までも捜したんですぜ。なにをそんなところでやにさがっていらっしゃるんですか!」
 べつにやにさがっていたわけではないのですが、どうせご出仕しても、また一日控え席のすみっこであごのひげをまさぐっていなければなるまいと思いましたものでしたから、てこでも動くまいというように、ふり向きもしないでうずくまっていると、しかし伝六は不意にいいました。
「さ! ご出馬ですよ! ご出馬ですよ!」
 いつも事をおおげさに注進する癖があるので、ふだんならば容易に伝六のことばぐらいでは動きだす右門ではなかったのですが、長いことしけつづきで気を腐らしていたやさきへ、突然出馬だといったものでしたから、ちょっと右門も目を輝かして色めきたちました。
「何か事件《あな》かい」
「事件かいの段じゃねえんですよ。お番所はひっくり返るような騒ぎですぜ」
「ほう。そいつあ豪儀なことになったものだな。三つ目小僧のつじ切りでもあったのかい」
「なんかいえばもうそれだ。いやがらせをおっしゃると、あっしだけでてがらしますぜ」
「大きく出たな。そのあんばいじゃ、おれが出る幕じゃねえらしいな」
「ところが、おめがね違い、足もとから火が出たんですよ。ね、平牢《ひらろう》にもう半月ごし密貿易の科《とが》で、打ち込まれていた若造があったでがしょう」
「ああ、知ってるよ。長崎のお奉行《ぶぎょう》から預かり中の科人《とがにん》だとかいってたっけが、そいつがくたばってでもしまったのかい」
「しまったのなら、なにもお番所の者がこぞって騒ぐにはあたらねえんだがね、そやつめが運わるくあばたのだんなのお係りだったものだから、かわいそうに毎日の痛め吟味でね、尋常なことではそんなまねなんぞできるからだではねえはずなのに、どうやってぬけ出やがったものか、まるきり跡かたも残さねえで、ゆうべ消えてなくなっちまったんですよ」
「破牢《はろう》したのか」
「それがただの破牢じゃねえんですよ。牢番の者が三人もちゃんと目をさらにしていたのに、いつのまにか消えちまったっていうんだからね、もうお番所は上を下への騒ぎでさあ」
「じゃ、むろんあばたの大将おおあわてだな」
「おおあわても、おおあわても、血の色はござんせんぜ。なんしろ、よそからの預かり者を取り逃がしたんだから、事と場合によっちゃ、あっしども一統の名折れにもなるんだからね」
「よし、そう聞いちゃ、相手がちっと気に入らねえが、おれも一口買って出よう!」
「ほんとうですかい!」
「いったん買って出るといったからにゃ、おれもむっつり右門じゃねえか。まさかに唐天竺《からてんじく》までもおっ走ったんじゃあるめえよ」
 証跡を残さずに破牢したという事実も奇怪でしたが、それ以上に江戸八丁堀の一員として、こしゃくなまねをされたことが、ぐっと右門の癇《かん》にこたえたものでしたから、時機はよし、もうこうなるからには御意もよし、さっそうとしてその場に出動いたしました。

     

 むろん、右門のただちに目ざした場所は伝馬町です。破牢当時の状態と、その罪状履歴をまずもって洗うことが第一のなすべき順序でしたから、さっそくにその夜当直だった牢番の者三人について、証跡収集に取りかかろうといたしました。
 しかし、捜索順序はかく整然として用意されましたが、そうそう問屋はいつも右門にばかり味方するとはかぎっていないので、事実に直面してみると、まず第一の故障がそこに横たわっていました。いうまでもなく、それはあばたの敬四郎でしたが、一回ならず二度までも右門のために功名を奪われていたものでしたから、今度は必勝を期しているのか、右門がむっつりとしてそこに現われたのをみとめると、ろこつな敵意を示して、その出動を拒絶いたしました。
「せっかくだが、こりゃおれのなわ張りだからね。いらぬ手出しはやめにしてもらおうじゃねえか」
 右門は敬四郎が当面の責任者である点からいって、ほぼそうあることを予期していたものでしたから、それほど気にかけませんでしたが、腹をたてたのは伝六で――。
「じゃなんですかい、だんなはあっしどもが八丁堀の人間じゃねえとおっしゃるんですかい」
「上役に向かって何をいうかッ」
「ちえッ、上役も時と場合によりけりですよ。これがつかまらなかったひにゃ、だんなはじめあっしども一統の恥っさらしなんだからね。せっかくおいらのだんながお出ましくだすったっていうのに、今のごあいさつあ、ちっと肝ったまが小さすぎるじゃござんせんか」
 しきりと伝六が敬四郎に食ってかかっているのを、右門はあごをなでながら黙ってにやにややっていましたが、なに思ったかふいッとそこを立ち去ると、どんどん牢屋敷《ろうやしき》のほうへやって参りました。ついでだから、ここでちょっと当時の牢屋敷のもようについて簡単なご紹介をしておきますが、同じ伝馬町のお牢屋といっても、これにはだいたい三とおりの牢舎があって、すなわち第一は上がり座敷、別に揚がり座敷とも書きますが、読んで字のごとく身分あるもの、それも禄高《ろくだか》にして五百石以下、家格にしてお目見得以上のお旗本が罪人となった場合、この上がり座敷へ投獄するので、第二は揚がり屋と称され、お目見得以下の者、あるいは御家人《ごけにん》ないし大名旗本の陪臣、それから僧侶《そうりょ》、山伏し等の囚罪人がこれに投ぜられるのならわしでありました。第三は俗称平牢と唱えられて、爾余《じよ》の囚罪人が一列一体に投ぜられる追い込み牢でありますが、かくして刑の決まった者は、またそれぞれ処刑どおりその刑舎と刑期に服し、ご牢屋奉行配下の同心とその下男がこれの監視に当たり、今回の破牢罪人のごとき未審の者については、あばたの敬四郎がみずからおのれのなわ張りと称したように、町奉行付きの同心がその支配に当たり、万一これらの囚罪人の中から病気にかかったものの生じた場合は、別棟《べつむね》の病人だまりにこれを移獄して、形ながらもお牢屋付きのご官医がこれに投薬する習慣でありました。もっとも、これは名目ばかりで、多くの場合めんどうなところから、俗に一服盛りと称される官許ご免の毒殺手段によって、たいていあの世へ病気保養にかたづけられるのがしきたりでありましたが、だから右門は破牢罪人の禁獄中だった平牢へやって行くと、おりよくそこに牢番付きの下男が居合わしたものでしたから、さっそく問いを発しました。
「ゆうべの破牢罪人は何番牢じゃ」
「あっ! だんなもお出ましでござんすか。えらい騒ぎになったものでござんすが、いったいあっしゃ、あばたのだんながあんまりひどい痛め吟味に掛けすぎたと思うんでがすよ」
「じゃ、きさま、あらましのことは知ってるな」
「知らないでどうしますかい。ずっともうひと月ごし、病人だまりにいたんですからね」
「ほう、それは耳よりな話じゃが、ではどこぞわずらっていたのじゃな」
「そこがつまり、あばたのだんなのひどすぎるところだというんでがすがね。なにしろ、あのとおり吟味といや、きまって拷問に掛けるのがお得意のだんななんだから、ずいぶんとかわいそうな責め折檻《せっかん》をしましたとみえましてね、もうここのところずっと半死半生の病人でしたよ」
「どんな科《とが》でそんなに責められたのか、耳にしていることはないか」
「あっしどもは下人だから詳しい様子は知りませんが、密貿易をやった仲間がまだ三、四人とか御用弁にならないのでね、そいつらのいどころを吐かせるためにお責めなすったとかいいましたがね」
 耳よりなことを聞いたものでしたから、右門の活気づいたことはもとよりのことで、ただちに昨夜まで禁獄中だったという病人たまりへやって行くと、ちらりと中の様子をのぞいていたようでしたが、不意に莞爾《かんじ》としながら伝六にいいました。
「なんでえ、ぞうさのねえことじゃねえか。おめえがちっとこれから忙しくなるぜ」
「えッ! じゃ、もうほしがついたんですかい」
「おれがにらみゃ、はずれっこはねえや」
「ありがてえッ。じゃ、すぐにひとっ走り出かけましょうが、方角はどっちですかい」
「まあ、そうせくなよ。こうなりゃもうこっちのものだから、あばたの大将にさっきの礼をいってけえろうじゃねえか」
 皮肉そうににやにやと笑いながら、牢番詰め所の中へはいっていったと見えましたが、そこにあばたの敬四郎が必死のあぶら汗を流して、ゆうべ当直だった三人の牢番を吟味にかけながら、証跡収集に目の色変えているのを見ると、きわめていんぎんな先輩への礼をとりながら、ごく静かにいったことでした。
「お暑い中を、ご心配なことでござりますな。では、お先に失礼」
 何かののしろうとしてつっ立ち上がりながら、二足三足追っかけてまいりましたが、右門はもうそのとき白扇で涼風を招きながら、さっさとお牢屋敷の表門を往来へ踏み出しているときでありました。
 しかし、出ると同時に、伝六へいったもので――。
「さ、きさまは非人をあげてくるんだ」
「非人――? 非人が何かこの事件《あな》にからまっているんですかい」
「じゃ、きさまは、あそこに清め塩の盛ってあったことも気がつかなかったんだな」
「そんなものが、どこにござんした?」
「病人たまりのこうし口に、ちゃんと盛ってあったよ」
「するてえと、ゆうべあそこから死骸《しがい》になって、かつぎ出されたものがあったんですね」
「まずそんなところさ。一つ屋根にいた者に死んで出られりゃ、いくら科人《とがにん》どもだってあんまり縁起のいい話じゃねえんだからな。どやつか牢番に鼻薬をかがして、清め塩を盛らしたんだろうよ」
「じゃ、破牢罪人の野郎め、そのすきになんか細工をしやがったんですね」
「穴も掘らず、壁も破らずに破牢したっていや、牢役人どもとぐるでのことか、でなきゃ死骸を運び出すときに細工したとしか、にらみようがねえじゃねえか。聞いてみりゃ、足腰も立たねえほどな半病人だったというから、なおさらこいつは腕ずくの破牢じゃねえよ」
「ちげえねえ! 神さまにしたって、だんなほど目はきかねえや、あそこの係りの非人どもは、日本橋のさらし場にいるはずだから、じゃ、ひとっ走り行ってきますからね。どっちへしょっぴいてまいりましょうね」
「八丁堀へつれてきなよ」
 命じておくと、右門は伝六とたもとを分かって、ただちにお牢屋づきの官医、玄庵《げんあん》先生のお組屋敷へたち向かいました。にらんだごとくに、病囚人が死骸となって、定法どおり非人に下げ渡されたとしたら、必ずやその以前に玄庵先生の手を通じていたはずでしたから、事実の有無を確かめてみようというのがその第一の目的でしたが、それとともに、もう一つの目的は、破牢罪人も病人たまりにいた以上、少なくも両三度ぐらいは玄庵先生のおみたてにあずかっているに相違ないので、敬四郎のいこじのために知ることをえなかったそれなる罪人の人相風体を、からめてからかぎ出そうという計画のためでした。

     

 計画はとどこおりなく運ばれて、玄庵先生は気軽に右門を請じ上げましたものでしたから、ただちに目的の中心へ触れていきました。
「ちょっと承りたいことがありまして参じましたが、もしや、ゆうべ伝馬町の平牢から、死人となって出た者はござりませなんだか」
「ああ、ありましたよ、ありましたよ。まだ宵《よい》のうちじゃったがな。もう長いこと労咳《ろうがい》でわしがめんどうみていた無宿者の老人が、急にゆうべ変が来たというて呼び迎いに参ったのでな。行くにはあたるまいとも存じたが、役儀のてまえそうもなるまいから、検診してさっそく非人どものほうへ下げ渡させましたわい」
「そのとき、なんぞお気づきのことはござりませなんだか」
「さようのう。死因はたしかに病気じゃったし、ほかに不審とも思われた節はないが、身寄りもない無宿者に、だれがそんな手回しのいいことをしたものか、棺にして運び出したようでござりましたよ」
「え? 棺でござりましたとな!」
「さよう、それもふたり分ぐらいはゆっくりはいれそうな大きい寝棺でしたよ」
 引き取り人のあった場合ならば格別でしたが、この場合の死囚人のごとく非人の手に下げ渡すときは、普通こも包みのままであるのが慣例であるのに、意外にもふたりぐらいはいれそうな大寝棺によって運搬したといったものでしたから、右門のまなこは聞くと同時にらんらんとして、異状なる輝きを呈しました。推察してみるまでもなく、その大寝棺になにか細工がしてあったと思われましたので、ただちにかれは次の目的に向かって質問の矢を放ちました。
「では、もう一つ承らせていただきまするが、あの病人たまりに若造の囚人が居合わしたはずでござりまするが、なんぞお気づきではござりませなんだか」
「ああ、存じてますよ。よく存じていますよ。わしが二、三度脈をとったことがござりますでな」
「どのような風体の男でござりましたか」
「さようのう。まず、ああいうふうのが中肉|中背《ちゅうぜい》と申そうが、娑婆《しゃば》にいたときはよほどの荒仕事に従事いたしおったとみえて、骨格なぞは珍しいくらいがんじょうでござったわい」
「年は?」
「二十七、八ででもござりましたろうかな」
「顔に特徴はござりませなんだか」
「さようのう、まず四角な面だちとでもいうほうかな。目が少しおちくぼんで、鼻がとても大きいだんご鼻でござったから、それがなによりな目じるしでござるよ」
「ほかにはなんぞ変わったところはござりませなんだか」
「それがさ、妙なところに妙なものがあるのでな。実は、てまえもいぶかしく思うておるが、右乳の下に卍《まんじ》のほりものがありましたんですよ」
「卍というと、あのお寺の印のあれでござりまするか」
「さようさよう。それも、腕にあるとか背にあるとか申すなら格別、世の中にはずいぶんと変わったいれずみをする者がござるのでな、愚老もべつに不思議とは思わぬが、右乳の下に、ほんのちょっぴりと朱彫りにいたしおったのでな、いまだにいぶかしく思うているのじゃわい」
 右門もよい目印を知ることができたものでしたから、もう飛び立つほどの思いで、厚く礼を述べると、伝六の首尾やいかにと心をおどらしながら、すぐさまおのがお組屋敷にたちかえりました。
 ところが、帰りついてみると、予想とは反対に、伝六がしょんぼりとそこの縁側のところにうなだれていたものでしたから、右門は不快な予感をうけて、少しあわてながら尋ねました。
「まさかに、取り逃がしたのではあるまいな」
 すると、どうしたことか、伝六が急にぽろぽろと栃《とち》のようなやつをはふりおとしていたようでしたが、突然妙なことをいいました。
「なんにもいわずに、あっしへお暇をくだせえましよ」
「なんじゃい、不意にまた、おめえらしくもねえこというじゃねえか」
「ちっともあっしらしくねえこたあねえんです。さっきからいっしょうけんめい考えたんでがすが、それよりほかにゃ行く道がねえんだから、お願いするんですよ」
「じゃ、おめえ、今になっておれにあいそがつきたのか」
「めっそうもねえことおっしゃいますな! ここらがご恩返しのしどころと思うからこそ、命も的にしようって覚悟をしたんです」
「ウッフフ、そうか。じゃ、敬四郎の野郎にでもじゃまされたんだな」
「じゃまどころの段じゃねえんです。いかに上役だからって、あんまりあばたのだんなもくやしいことをするじゃござんせんか」
「どんなまねやりゃがった」
「お尋ねの非人はすぐめっかりましたからね、出すぎたこととも思いましたが、ちっとばかりあっしも里心出して、野郎どもにかまをかけてみたんですよ。するてえと――」
「破牢罪人から酒手をもらって、ふたり分へえれる寝棺を、ゆうべあそこへかつぎ込んだといったろ」
「ええ、そう、そうなんですが、だんなはどこでお調べなすったんですかい」
「ご官医の玄庵先生だよ。こもで運び出すのが定《じょう》なのに、ぜいたくな棺で運搬したといったのでな、おおかた破牢罪人の野郎が非人どもに金をばらまいて、そんな細工をやりやがったんだろうと、たったいましがた、にらみがついたところさ」
「そんなら詳しいことは申しますまいが、死人が出たから取りに来いというお達しがあったんで、野郎たちふたりで始末に出かけていったら、破牢罪人の若造が酒手を一両はずんで、寝棺を買ってこいといったんで、すっかりそいつに目がくらんじまって、おおかた破牢だろうと特別でけいやつをかつぎ込んだというんですがね。それをまた牢番たちもどじなやつらだが、そばについてでもいりゃいいのに、ぼんやり格子口《こうしぐち》に立っていたもんだから、すばやくこの死人といっしょに寝棺の中へへえってしまって、まんまと破獄させてやったというんですよ」
「じゃ、どこへ飛んだか、行き先もたいてい見当がついたんだろ」
「だから、あっしゃ、くやしいっていうんですよ。こいつ、いいねた[#「ねた」に傍点]あげたと思ったからね、まずだんなのところへ連れてこなくちゃと、おおいばりで非人どもしょっぴいてけえりかかったら、あばたのだんなが息を切りながら駆けつけてきて、いきなりぽかりとくらわしたんですよ」
「おめえをぽかりとやったのか」
「そ、そうなんです。だから、あっしも食ってかかったらね、下人が何を生意気なことぬかすんだとおっしゃって、せっかくあっしがつかまえた非人を腕ずくで横取りしたんですよ」
「じゃ、あばたの野郎も、牢番の者から寝棺のことを聞き込んだんだな」
「だろうと思うんですがね。でなくちゃ、いくらあばたのだんなが上役だからって、あっしの眉間《みけん》にこんなこぶをこしらえるはずあござんせんからね。いいえ、そいつもときによっちゃいいんですよ。どうせ、あっしゃましゃくにも合わねえ下人だからね、なぐろうと、けろうと、それがあっしたち下人どもの模範ともなるべき上役のかたのおやりなすってもいいことでしたら、いっせえあっしもみれんたらしい愚痴はこぼしませんがね。でも、それじゃ、せっかく今までご恩をうけただんなに合わす顔がねえんじゃござんせんか。あばたの野郎になぐられました、非人も途中で横取りされました、といってすごすごけえってきたんじゃ、あっしがだんなに二度と合わす顔がねえじゃござんせんか……だから、あっしゃ、だからあっしゃ……」
「よし、わかった、わかった。うすみっともねえ、大の男がおいおいと手放しでなんでえ! 泣くな! 泣くな! 泣くなったら泣くなよ!」
「だって、あっしゃ、こんなくやしいこたあねえんです。平生はだんなをずいぶんとそまつにもした口のきき方をいたしますが、あっしがだんなを思っている心持ちは、どこのどやつが来たって負けやしねえんです。だから、だから、命を的にしても、あっしゃ、あばたの野郎と刺し違えます! 刺し違えて死んでやります! ええ! やりますとも! やらいでいられますか! それも、よその国の者でしたら、ときにとってはてがらの横取りもいいんですが、同じおひざもとで、同じお番所のおまんまいただいている仲間うちじゃござんせんか! それになんぞや、肝ったまの小せえまねしやがって、このうえそんな野郎を生かしておかれますか! ええ! やりますよ 殺してみせますよ! きっと刺し違えてみせますよ! だから……だから……きょうかぎりあっしにおいとまをくだせえまし……そして、そして、早くだんなも美しい奥さまをお迎えなさいましよ。なにより、それがあっしの気がかりでござんすからね。草葉のかげでお待ちしましょうよ……」
 面に真情あふれた一句一句に、したたか右門も心を打たれながら、しばらくじっと伝六のくやしさに嗚咽《おえつ》するその男涙をうち見まもっていましたが、しかし右門はつねに右門でありました。不意に、かんからと大笑すると、光風|霽月《せいげつ》な声音でいいました。
「虫けらみたいな了見のせめえ野郎を相手に、刺し違えたってしようがねえや。それより、はぜつりにでもいこうぜ」
「えッ。じゃ、じゃ、だんなはどうあっても、あっしにおいとまをくださらないんですかい!」
「あたりめえだ。非人を横取りされたからって、なにもまだ勝負に負けたわけじゃねえんだからな。品川辺へでも夕づりに出かけようよ。ざらにつれるさかなだから、みんな小バカにしているようだが、秋口のはぜのてり焼きときたら、川魚みたいでちょっとおつだぜ」
「でも、そんなのんきなまねをしなすって、もしあばたの野郎にてがらされっちまったら、だんなまでがいい恥さらしじゃござんせんか」
「負けたら恥っさらしかもしらねえが、寝棺で破牢した手口なんぞから見るてえと、このほしゃあばたのやつの知恵だけじゃ、ちっともてあますかもしれねえよ。どうやら、向こうのほうが一枚役者が上のようだからな。知者は寝て暮らせといってな、そのうちにまた何かおれでなくちゃ判断のつかねえようなことが起きるかもしれねえから、大船に乗った気で、ゆっくりはぜつりでもするさ」
「そうでござんすか、じゃ、ついでにあの変な立て札をもってきて、お目にかけておきゃあようござんしたね」
 すると、不意に伝六が、右門のそのことばではからずも思い出したといったように、変な立て札といったものでしたから、おれでなくちゃ判断がつかねえと、みずから折り紙をつけた右門のその別あつらえな明知が、突然ぴかぴかとさえ渡ってまいりました。
「なんじゃい、なんじゃい。いま変なこといったが、その立て札とかいうやつは、どこにあったしろものじゃい」
「なあにね、日本橋のたもとに立っていたやつを、来がけにちらりと見たんですがね。文句は忘れちまいましたが、おかしな符丁を書いてあったんで、ちょっと妙に思っているんですがね」
「どんな符丁だ」
「そら――、なんとかいいましたっけな。よくお寺のちょうちんなんかに染めてあるじゃござんせんか」
「寺のちょうちん……? じゃ、卍《まんじ》じゃねえか!」
「そうそう、その卍が、立て札の文句のおしまいに、たった一つちょっぴりと書いてあったんですよ」
 事実としたら、その符丁こそは、先刻ご官医|玄庵《げんあん》先生から耳に入れた、あの破牢罪人の右乳の下にあったといういぶかしき卍のいれずみと一致すべきものでしたから、右門の眼の烱々《けいけい》と火を発したことはいうまでもないことで――。
「すばらしいねた[#「ねた」に傍点]だ! やっぱり、天道正直者を見捨てずというやつだよ。ひとっ走り行って引きぬいてこい!」
「じゃ、何かそいつが糸を引いているんですかい!」
「右門の知恵は、できあいの安物じゃねえよ!」
 ずばりと小気味のいい折り紙をつけたものでしたから、いま泣いたからすはたちまち笑顔《えがお》になって、その早いこと早いこと、からだじゅう足になったかと思われるようなはやさで、駆けだしたかと見えましたが、まもなく帰ってくると、
「さ! これがその立て札だ! こんなものがねた[#「ねた」に傍点]になるなら、早いところあばたの野郎のかたきとっておくんなせえよ!」
 いいざま、こわきにしていた立て札をぐいと右門の目の前にさしつけましたものでしたから、右門も胸をおどらしながら目をそそぎました。見ると、それには次のような文言が書かれてありました。


「――諸兄よ。恒藤権右衛門《つねとうごんえもん》はみごとわれら天誅《てんちゅう》を加えたれば、意を安んじて可なり――卍」

 文言はなんの変哲もなさそうに見える簡潔なものでしたが、これを読んだ読み手がただの読み手ではなかったものでしたから、瞬時も待たずに、鋭い声が右門の口から飛んだので――。
「さ、伝六! 例のとおり駕籠《かご》だ! 駕籠だ!」
「えッ? だって、恒藤権右衛門が殺されたことはわかっていますが、どこの恒藤権右衛門だか、居どころはわからねえじゃござんせんか」
「だから、おめえは少し正直すぎるんだよ。日本橋へ立て札を掲げるほどの人殺しがあって、お番所へ殺された身内の者から訴えが来ていねえはずはねえんだ。訴状箱ひっくり返してみりゃ、どこの権右衛門だかすぐとわからあ」
「なるほど、それにちげえねえ。そういわれてみりゃ、きょうはまたいっぺんもお番所へ顔を出さねえや。じゃ、お待ちなせえよ、四丁肩で勇ましいところをひっぱってめえりますからね」
 まをおかずに、そこへ替え肩づきのたくましいところを二丁ひっぱって帰りましたので、ただちに右門は息づえをあげさせると、まず第一着手に数寄屋橋《すきやばし》お番所へ駕籠先を向けさせました。

     

 行ってみると、果然、訴状箱の中には、恒藤権右衛門とこそ明記はしてありませんでしたが、朝ほど子どもを連れた女が、夫の討たれた旨を訴えに来たことがちゃんとご記録帳にのせられてありました。幸運なことには、破牢事件の騒ぎのために、まだだれもご検視にすらついていないことがわかりましたものでしたから、道灌山裏《どうかんやまうら》としるされてあったその居どころをたよりに、右門主従は一路駕籠を飛ばしました。
 今でこそ道灌山かいわいは市内のうちになっておりますが、当時はむろんわびしい武蔵《むさし》ガ原《はら》で、旗本、小大名のお茶寮が三、四軒、ぽつりぽつりと森の中に見えるばかりといったような江戸郊外でしたから、訴えのごとき殺傷事件のあった家はただちにわかりました。何を職業としていたものか、一見|分限《ぶげん》者らしい別邸構えが、ちょっと右門に不審をいだかせましたが、事の急はそれなる家が立て札に指名されてある災難者であるかどうかが先でしたから、ずいと中へ通ると、出迎えた妻女に向かって、おもむろに問いを発しました。
「けさほどお訴えに来られたかたは、そなたでござったか」
「はっ……では、あの、お番所のおかたさまにござりまするか」
「さよう、近藤右門と申す八丁堀同心でござる」
「まあ、あなたさまが右門様でござりましたか、よいおかたのお越しを願えまして、仏となった者もしあわせにござりましょう」
「では、もちろんそなたが恒藤権右衛門どののご妻女でござるな」
「はっ……このとおり、もう今年六歳になるかわいい者までなした仲にござります」
 夫を討たれた者の妻女としては、ことばの応対なぞがややおちつきすぎていると思われましたが、しかし、それはおそらく、恒藤権右衛門とその姓名の示すとおり、士籍にある者の妻ゆえのおちつきであろうと思われましたので、念のために右門は尋ねました。
「どうやら、由緒《ゆいしょ》あるらしいかたがたのように思われるが、ご主人はご浪人中ででもござったか」
「はっ……さよう……さようにござります」
 すると、どうしたことか、妻女がちょっとぎくりとしながら、ことばを濁しぎみにためらいを見せましたので、右門は追っかけて尋ねました。
「いや、ご藩名やご浪人をなさった子細までも聞こうというのではござらぬ。士籍にあられたかたかどうか承ればよろしゅうござるから、もっとはっきり申されませい」
「では申します。いかにも権右衛門は父の代までさるご家中で、相当由緒ある家門をつづけていた者にござりまするが、仕官をきらい、もう十年このかた浪人してでござります」
「さようか。では、不慮の災に会われたことも、なんぞ恨みの節とか、かたきの筋とかがあってのことでござったか」
「それがあんまり理不尽にござりますので、訴えに参ったわけでござります」
「ほう、理不尽とな。では、なんの恨みもうける覚えがないのに、討たれたと申さるるか」
「はっ、わたくし主人にかぎっては、なに一つ人さまから恨みなぞうける覚えはござりませぬのに、昨夜四つ過ぎでござりました。このあたりでは珍しいつじうら売りが流してまいりましたものでしたから、なにげなく権右衛門がそれなる者を呼び入れましたら、やにわに主人へ飛びかかりまして、長年の恨み思い知れと呼ばわりながら、ひきょうな不意打ちを食わしたのでござります」
「いかにもの。して、それなるつじうら売りは、どのくらいの年輩でござった」
「二十七、八くらいでござりました。そのうえ、つい今までご牢屋《ろうや》にでもつながれていたというような節の見うけられたかたでござりました」
 にらんで駆けつけたとおり、破牢罪人と恒藤権右衛門を理不尽に討ったつじうら売りとが、いちいち符節を合わしていたものでしたから、右門はもはや事の容易なるを知って、こおどりしながら尋ねつづけました。
「いや、よいことをお聞かせくだされた。では、それなるつじうら売りは、ご主人を理不尽に切りつけて、そのまま立ち去ったと申さるるのでござるな」
「いいえ、それが切り倒しておきまして、このとおり家内はわたくしとこの子どもとのふたりきりでござりましたから、無人の様子を知って急に気が強くでもなりましたものか、今より中仙道《なかせんどう》へ参るから、路用の金を二十両ばかり出せとおどしつけまして、金をうけとるとすぐに逃げ出しましてござります」
「ほほう、さような大胆不敵なことまでいたしおりましたか。――いや、なによりなことを承って重畳《ちょうじょう》でござる。下手人の人相書きはすでに上がっているゆえ、二日《ふつか》とたたぬうちに、きっとこの右門が、ご主人のかたきを討ってしんぜましょうよ。では、念のために、仏をちょっと拝見させていただきますかな」
「はっ、どうぞ……」
 ただちに妻女が仏間へ案内いたしましたので、伝六ともどもついてまいりましたが、しかし、右門はひと目その死骸《しがい》を見ると、おもわずあっと顔をそむけました。――なんたる残虐な切り方だったでありましょうぞ! 腰に見舞われたふた太刀《たち》の致命傷はそれほどでもなかったが、何がゆえそこまでも残虐をほしいままにする必要があったものか、恒藤権右衛門の顔は、目も鼻も口も、どこにあるかわからないほど、めったやたらに切りさいなまれてあったからです。
「いや、おきのどくなことでござった」
 あまりのむごたらしさに、さすがの右門も長居に忍びなかったものでしたから、そうそうに悔やみを述べて引き揚げると、それだけに下手人の残虐を強く憎んで、断固としながら伝六にいいました。
「ちくしょう! むだな殺生《せっしょう》をやっていやがらあ。牢《ろう》疲れで足腰もまだ不自由なはずだから、そう遠くへは行くめえよ。さっそくお奉行さまに遠出のお届けをしておいて、すぐにも中仙道を追っかけようじゃねえか」
「ちえッ、ありがてえや、まだ夏場の旅でちっと暑くるしいが、久しぶりに江戸を離れるんだから、わるい気持ちじゃねえや」
 官費の旅行だから、大きにそれにちがいないが、しかし、十町と行かないうちに、いっこうそれがいい気持ちでないことになりました。というのは、ちょうど加賀さまのお屋敷前までやって行くと、はからずも、向こうから意気揚々と、旅のしたくをしながら、こちらへやって来る一団にばったりと出会ったからです。しかも、それが余人ではなく、あばたの敬四郎とその一党であることがはっきりとわかったものでしたから、右門もぎょっとなったが、伝六のいっそうぎょっとなったのは当然なことでした。
「ちくしょうめ、いやなかっこうで来やがるが、かぎつけたんでしょうかね」
「そうよな。どうやら、遠出の旅じたくらしいな」
「そうだったら、野郎め、あの非人からかぎ出したにちげえねえから、あっしゃあいつらと刺しちげえて死にますぜ」
「むやみと死にてえやつだな。まだかぎつけたかどうだかもわからねえじゃねえか」
 たとえ足はついたにしても、まさかに中仙道へ落ちたことまでは知るまい、と思いましたから、右門はかれらの知らぬ恒藤権右衛門虐殺事件の証跡を持っているだけに、安心していましたが、しかし、それが少し意外でありました。ばったり両方が顔を合わすと、いつにもなくあばたの敬四郎が勝ち誇って、尋ねもしないのにべらべらとやりだしたからです。
「おきのどくだが、今度はお先に失礼するよ。これからもあることだから、参考のためにいっておくがな、さきほどはせっかくあげた非人をこちらへいただいてしまって、ごちそうさまだったよ。おかげで、あいつらの口からほしの野郎が、刀屋でわきざしを買い入れ、本郷方面へ駕籠《かご》でつっ走ったと聞いたからね。いまさっき駆けつけて、すっかり洗いあげたら、途中でつじうら売りに化けやがって、中仙道口を落ちたと足がついたから、このとおりお奉行のお手札をいただいて、おつな道行きとしゃれてるところさ。おおかた、そのあわて方じゃ貴公たちも足を見つけたらしいが、今度はおれがお先に失礼するよ。では、せいぜいあごの無精ひげでも抜いていねえな」
 のみならず、つら憎そうなせせら笑いを残すと、手下の者三人を引き連れて、揚々と過ぎ去っていったものでしたから、せっかくこれまで証跡を洗い出していたのに、いま一歩という手前でみんごと先鞭《せんべん》を打たれましたので、常勝将軍の右門もおもわず歯ぎしりをかんでしまいました。それも、洗った証跡があばたの敬四郎と一致していなかったならば、まだ右門一流の疾風迅雷的な行動と、人の意表をつく機知奇策によって、多分に乗ずべきすきがないでもなかったが、恒藤権右衛門を理由なくして虐殺したことすらも、刀屋でわきざしを買いととのえた事実とともに総合してみれば、中仙道へ走るための路用金略奪に行なった犯跡に考えられましたものでしたから、これではもう右門とてさじを投げるより道はないので、加うるにご奉行のお手札までも、すでにあばたの敬四郎に占取されていることがわかったものでしたから、回天動地の大事件ならば格別、たったひとりの破牢罪人ぐらいのめしとりで、そう何人もの出動は許されないことを知っている右門は、とうとう苦笑して、つぶやくように言いました。
「珍しいこともあるもんだ。おれがあばたのやつに負かされるなんて、さるが木からおっこちたより、もっとおかしいよ」
 でも、右門にはまだしゃくしゃくとして、それをつぶやくだけの余裕がありましたが、伝六は黙然と歯ぎしりをかみつづけたままで、さながらふたりの位置は、むっつり屋とおしゃべり屋とが、入れ替わったようなかっこうでありました。

     

 しかし、八丁堀へ引き揚げてしまうと、右門は今までのむだぼねに対する落胆と疲労とがいちじに発したものか、時刻はちょうどお昼どきだというのに、昼食をとろうともしないで、ぐったりそこにうち倒れてしまいました。伝六のそれにならったのはもとよりのことでしたが、するとまもなく、うるさいことには、表でしきりとどなる声がありました。
「もし、どなたもおりませんか! わっちゃ急ぎの使いで来た者ですがね、この家ゃあき家ですか!」
「べらぼうめ! あき家じゃねえや、なに寝ぼけたことぬかすんでえ」
 しかたがないので、伝六がぶりぶりしながら取り次ぎに出向きましたが、帰ってくると黙って右門に一本の手紙をさしつけました。
「うるせいや、きさま読め!」
「じゃ、封を切りますぜ」
 寝そべったままで右門がうけとろうともしなかったものでしたから、代わって伝六が読みあげました。
「ええと、前略、先刻は遠路のところをわざわざご苦労さまにそろ。その節ご検死くだされそうらえども、埋葬ご許可のおことば承り漏れそうろうあいだ、使いの者をもっておん伺い申し上げそろ。なにぶん、いまだ夏場のことにそうらえば、仏の始末なぞも火急に取り行ないたく、ご許可くださらば今夕にも急々に式葬つかまつりたくそうろうあいだ、右おん許し願いたく、貴意伺い上げそろ。頓首《とんしゅ》不宣。恒藤権右衛門家内より、近藤右門様おんもとへ――」
「こめんどうくせえこといってくるじゃねえか。検死を済ましゃ、埋葬許可をしたも同然だから、そういって追っ払いなよ!」
 少し雲行きのよろしくないところへ、ご念の入りすぎた手紙でしたから、吐き出すようにいっていましたが、伝六が使いの者を追い返して帰ってきたのを見ると、がぜん、右門が何思いついたか、むくりとはね起きながらいいました。
「今の手紙はどこへやった!」
「これこれ、ここにありますよ」
「使いに来た者はさかな屋だな」
「そう、そう、そうですよ。魚勘と染めたはっぴを着ていましたからね、たぶん、そこの家のわけえ者でがしょうが、会いもしねえのに、どうしてまたそれがわかりますかい」
「手紙にさかなのにおいがしみてるじゃねえか」
 そろそろ右門一流の気味がわるいほどな明知のさえを小出しにしかけて、じっとその手紙の文字と、まだそばにころがしたままであるさきほどの、伝六が日本橋から引き抜いてきた、あの立て札の文字とを見比べていたようでしたが、真に突然でありました。にやりと意味ありげな笑いをうかべると、不意に妙なことをまたいいはじめました。
「なあ、伝六、人間の心持ちってものは、おかしな働きをするもんじゃねえか」
「気味のわるい。突然変なことおっしゃって、坊主にでもなるご了見ですかい」
「いいやね、おれ自身じゃちっともあせったつもりはねえんだが、どうもあばたの野郎が向こうに回るたびに、こういうしくじりがあるんだから、いつのまにかおれもあせるらしいよ」
「じゃ、何かお見おとしでもあったんですかい」
「それが大ありだから、おれにも似合わねえって話さ。まあ、おめえもよく考えてみなよ。だいいち、おかしいのはこの立て札なんだが、中仙道へ突っ走ったやつが、いつのまにこいつを日本橋へもってこられるんだい」
「なるほどね。考えてみりゃ、足の二十本ぐれえもあるやつでなきぁできねえや」
「だから、そいつがまず第一の不審さ。第二の不審は、この立て札の文句だよ。念のために、もういっぺんおめえも読み直してみるといいが、諸君よ、恒藤権右衛門はみごとわれら天誅《てんちゅう》を加えたれば、意を安んじて可なり、としてあるぜ」
「ちげえねえ。いくら無学でも、あっしだって天誅という文句ぐれえは知ってらあ。天に代わって討ったってえ意味じゃござんせんか」
「しかるにだ、権右衛門のおかみは、理不尽に切りつけたといったぞ」
「なるほど、少しくせえね」
「まだあるよ。第三の不審は、いま使いがもってきたこの手紙の筆跡と、こっちの立て札の筆跡だが、実に奇妙なこともあるじゃねえか。棒の引き方、点の打ちぐあい、まるで二つが同じ人間の書いたほどに似ているぜ」
「なるほどね、墨色までがそっくりでござんすね」
「しかも、恒藤権右衛門家内といや、女でなくちゃならねえはずなのに、だれが書いたものか、この手紙はそっちの立て札の筆跡同様、れきぜんと男文字だよ」
「ちげえねえ。じゃ、また駕籠ですかい」
「いや、まだ早いよ。それから、第四の不審は、恒藤夫人自身だがな、おめえもなにか思い出すことはねえのかい」
「あるんですよ、あるんですよ。あっしゃ行ったときから変に思ってるんだがね。あの家の構えは、浪人者親子三人にしちゃ、すこしぜいたくすぎゃしませんか」
「しかり。まだあるはずだが、気のついたことはねえかい」
「あのおかみさんのおちつきぐあいじゃござんせんかい」
「そうだよ、そうだよ。おれゃさっき、あのおちつきかたを実あ感心したんだがね。日ごろの身だしなみがいいために、あんな非常時に出会っても取りみだした様子を見せないところは、さすが侍の妻女だなあと思ってな、つい今まで感服していたんだが、考えてみりゃ、ちっとおさまりすぎているぜ。しかもだ、それほどの巴《ともえ》板額ごときおちつきのある侍の勇夫人が、目の前で夫の殺されるのを指くわえて見ているはずもねえじゃねえか。あまつさえ、路用の金を二十両もみすみす強奪されたというにいたっては、ちっとあの恒藤夫人くわせ者だぜ」
「しかり、しかりだ。それに、あの恒藤権右衛門も、切られ方がちっと不思議じゃござんせんか。物取り強盗が時のはずみで人を殺したにしても、あれまで顔をめった切りにする必要はねえんだからね」
「だからよ、急におら腹がへってきたから、まずお昼でもいただこうよ」
「気に入りやした。いわれて、あっしも急にげっそりとしましたから、さっそく用いましょうが、なんかお菜がござんしたかね」
「くさやの干物があったはずだから、そいつを焼きなよ。それから、奈良《なら》づけのいいところをふんだんに出してな。そっちの南部のお鉄でゆっくりお湯を沸かして、玉露のとろりとしたやつで奈良茶づけとはどんなものだい」
「聞いただけでもうめえや。じゃ、お待ちなせいよ。伝六さまの腕のいいところを、ちょっくらお目にかけますからね」
 にわかにほのぼのとして事件に曙光《しょこう》が見えだしたものでしたから、伝六はもうおおはしゃぎで、ふうふうとひとりで暑がりながら、右門のいわゆる奈良茶づけのしたくをととのえていましたが、かくてじゅうぶんに満腹するほどとってしまうと、ふたたび主従は道灌山《どうかんやま》裏の恒藤権右衛門宅に向かって、駕籠《かご》を走らせました。むろん、それは今にして新しく疑問のわいた権右衛門の横死と、その妻女の陳述のうちに潜んでいる不審な点をあばこうためで、それにはまず第一に、さきほどろくに調べもしなかったあの横死死体を、いま一度入念に点検する必要がありましたものでしたから、案内も請わずに玄関へかかると、右門はずかずかと奥へ通っていきました。
 仏間ではすでに死体を棺に納め、いましちょうど僧侶《そうりょ》の読経《どきょう》が始まろうとしていましたので、右門はまずそこに居合わす会葬者の、あまりにも少なすぎるのに目を光らせました。へや数にしたら十間以上もあろうというお屋敷住まいをしながら、家具調度なぞも分限者らしい贅《ぜい》をつくしているのに、居合わした会葬者は、先刻の恒藤夫人と、ことし六歳になるとかいった子どもをのぞいてはたった六人きりで、しかもその六人が士籍にある者はひとりもなく、ことごとく町人ばかりでしたから、まず右門の鋭い尋問がそれに向かって飛んでいきました。
「みりゃあみなさんいずれも町家の者らしいが、これが恒藤家のご親戚《しんせき》衆でござるか」
 突然また右門が姿を見せて、不意に鋭い質問をしたものでしたから、恒藤夫人はぎょっとなったようでしたが、しかし弁舌さわやかに申し開きをいたしました。
「いいえ、これはみな、出入りの町人ばかりでござります」
「では、ご親戚のかたがたをなぜお呼び召さらなかったか」
「いずれも遠国にござりますので、急の間には招きかねたゆえにござります」
「知人も江戸にはござらぬか」
「はっ、一人も居合わしませぬ」
「では、その六人に相尋ねる。そちらのいちばんはじにいるやつは何商売だ」
「てまえは米屋にござります」
「次はなんじゃ」
「やお屋の喜作と申します」
「その次の顔の長いのはなんじゃ」
「なげえ顔だからそんな名まえをつけたんじゃござんせんが、あっしゃ炭屋の馬吉と申しやす」
「人を食ったこと申すやつじゃな。お次はなんじゃ」
「酒屋の甚兵衛《じんべえ》めにござります」
「その隣のくりくり頭をしたおやじは何者じゃ。按摩《あんま》でもいたしおるか」
「じょ、じょうだんじゃござんせんぜ、こうみえても、この家の家主でござんすよ」
「さようか、失敬失敬。では、そちらのいちばんはじにいるいなせな若い者は何商売じゃ」
「うれしいな、わっちのことばかりゃ、いなせな若い者とおっしゃってくだせえましたね。それに免じて名を名のりてえが、ところで、どいつにしましょうかね」
「そんなにいくつもあるのか」
「ざっと三つばかり。うちの親方はぬけ作というんですがね。河岸《かし》のやつらはぽん助というんでげすよ」
「よし、もうあいわかった。さては、きさまがさっき手紙の使者に参った魚勘とかの若い者だな」
「へえ、そうなんですが、どうしてまたそれがおわかりなすったんですかい」
「きさま今、河岸といったじゃねえか」
「ちえッ、おっかねえことまで見ぬいてしまうだんなだな。してみるてえと、おれが隣のお美代《みよ》坊に去年から夢中になっていることも、もうねた[#「ねた」に傍点]があがっているんかな――」
 とんだところで魚勘の若い者は、あだ名どおりのぬけ作たる馬脚を現わしてしまいましたが、右門はもはや第一段の尋問を了しましたので、ずかずかと棺のそばに歩みよると、ぶきみさにもひるまずに、そのうわぶたをはねあげて、死者の白衣をはだけながら、第二の死体点検にとりかかりました。
 と同時に、右門のまなこを最初にはげしく射たものは、その胸の右乳下に見えるあの卍《まんじ》のいれずみ――たしかに破牢罪人の同じ右乳下にもあったはずの、あのいぶかしき卍の朱彫りでありました。だから、なんじょうその慧眼《けいがん》の光らないでいらるべき、烱々《けいけい》としてまなこより火を発しさせると、突き刺すごとくに鋭い質問が夫人のところに飛んでいきました。
「少しくいぶかしい節があるが、これなる仏は、たしかにご主人恒藤権右衛門どのに相違ないか」
 夫人はぎょっとなったようでしたが、間をおかずに、なじるごとく答えました。
「死者をお恥ずかしめなさりまするな! 浪人者ながらも武士の妻にござります。たしかに主人の死体と申しあげましたら、それに相違ござりませぬ」
「では、この右乳下の、卍のいれずみは何の印でござる!」
「それあればこそ、恒藤権右衛門のなによりな証拠にござりますゆえ、お疑いにござりますなら、お立ち会いのかたがたにもお尋ねくださりませ」
 他の立証を求めるように、居合わした者たちへの尋問を迫りましたものでしたから、右門は一同に矢を向けました。
「そのほうどもも聞いてのとおりじゃが、権右衛門どのの右乳下に卍のいれずみのあったことを、だれぞ存じおるか」
 すると、待ってましたというように、魚勘の若い者が、威勢よくいいました。
「知ってますよ、知ってますよ。こないだ、だんながこの縁側で、もろはだ脱ぎでいたところを見やしたからね。わっちが妙ないれずみでござんすねと尋ねたら、なあに、お寺の娘と昔約束をしてな、忘れねえように彫っておいたのさって、こんなふうにおっしゃいましたぜ」
 事もなげに立証したものでしたから、右門はいよいよ事件の迷宮にはいったのを知って、まゆを強く一文字によせ、そのやや蒼白《そうはく》な面に沈吟の色を見せながら、雲霧の中に小さな玉を探ろうとするように、じっとくちびるを結んでいましたが、と、――ちょうどそのときでありました。突然、天井裏で、何かねこかいたちのようなものの、けたたましく走りまわる音があったと思われましたが、さっと一匹の黒ねこが、それも特別大きい黒ねこが、なにやら口にくわえて、梁《はり》を伝わりながら、おどり逃げるようにそこの庭先へ天井裏から飛び出してきたので、右門のまなこはのがさずに、口へくわえているその品物に鋭くそそがれました。見ると、それはなんたるいぶかしさでありましたろうぞ! ねずみでもあろうと思われたのに、意外や、一匹の頭も尾もあるりっぱなさかなだったのです。しかも、生ではなく焼いたさかなで、あまつさえおしょうゆらしいもののつゆしるがしたたっていたものでしたから、右門のまなこは、ここにみたびらんらんと輝きを呈しました。なにをいうにも、くわえ出してきた場所は天井裏です。それも、古いさかなならば格別ですが、今、食膳《しょくぜん》にでものせようとしていたらしくみえる、たべごろの焼きざかなでしたから、右門のまなこはらんらんと輝くと同時に、その口のあたりにはにたりと会心の笑《え》みが浮かんで見られましたが、突然、いんぎんに恒藤夫人へわびをいいました。
「いや、つまらないことを申し立てまして、いかい失礼をいたしました。さぞお腹だちでござりましたろうが、お奉行に上申いたすおりに、何かと手落ちがあっては役儀の面目が相立ちませぬによって、かくいま一度検視に参ったまででござるから、なにとぞ失礼の段はひらにお許しくださりまするように……。ついででござるが、ご主人権右衛門殿に不慮の災を与えた憎むべきつじうら売りの下手人は、さきほど同僚の者が板橋口でめしとりましてな。それなる者が自白いたしましたによって、よくそのことも仏に申しきけ、ねんごろにお弔いなさりませよ。では、伝六、きさまもちょっとお参りしておきな」
 いうと、死者に向かってしばし黙礼を与えていたようでしたが、そのままなにごともなかったような面持ちで、さっさと八丁堀へ引き揚げてしまいました。

     

 さて、引き揚げてしまってからの右門が、そろそろとまたむっつり右門の右門たるところを遠慮なく発揮しだしましたので、毛抜きを取り出しながらあごひげの捜索を始めたのもその一つですが、それよりもっと変なことは、ときどきにやりとひとりで思い出し笑いをやりながら、
「もう来そうなものだな。まだかえらんのかな」
 そういっては、だれかを待ちでもするかのように、しきりとひとりごとをつぶやきつづけましたものでしたから、伝六がまた伝六の本来に返って、右門を右門とも思わぬ、粗略な言を無遠慮に弄《ろう》しはじめたのは当然なことでありました。
「ちえッ、うすっ気味がわるい! 思い出し笑いなんぞおよしなせえよ。どなたさまをお待ちかねか知らねえが、あっしにないしょでそんな隠し女をこしらえたりなんかすりゃ、だんなにおぼしめしのある江戸じゅうの女を狩りたててきて、娘|一揆《いっき》を起こさせますぜ」
 しかるに、右門は依然あごひげをまさぐりながら、にたりにたりとやっては、その日一日、まだ来ないか、まだ帰らんかをつぶやきつづけたのみならず、それが翌朝にまでも及びましたものでしたから、伝六がさらに右門をそまつにした言を弄しました。
「あきれちまうな、きのうくさやの干物で奈良づけをたべるまでは、とても調子のいいだんなでしたが、あれからこっち、また少し気が変のようじゃござんせんか。奈良づけの粕《かす》にまだ酔ってらっしゃるんですかい」
 ところが、お昼ちょっとまえでありました。ぶつぶつと言い通しだった伝六が、真に意外なる来訪者を取り次ぐことになりました。ほかでもなく、それは、きのう意気揚々と中仙道《なかせんどう》へ追っかけていったあのあばたの敬四郎なので、だから伝六は犬ころのように、玄関から座敷へ引きかえしてくると、そこにごろりと寝ころびながらまだ二日ごしにあごひげをまさぐっている右門へ、事重大とばかりに声をひそめてささやきました。
「ね、だんなだんな! なにか知らぬが、あばたの野郎がまっさおな顔つきで、目をまっかにしながら、しょんぼりとしてたずねてきましたぜ」
「そうか! やっといま来たか」
 すると、右門は、やっといま来たかといって、何を隠そう、きのうからの待ち人こそはその敬四郎であったことを裏書きしながら、自身玄関まで出迎えにいって、あまつさえ丁重に上座へ直すと、伝六が目をぱちくりするほどのいんぎんさをもって、大海のごとき虚心|坦懐《たんかい》な淡泊さを示しながら、笑い笑いいいました。
「さぞ暑かったでござりましょう。昨日来、拙者は心してご貴殿の帰来をお待ちうけしていたところでござりますから、お気安くおくつろぎくださるように――」
 導かれてきたときは、すっかり青ざめて、なにかまだおどおどしながら、警戒している節がみえましたが、右門の坦々《たんたん》たること清らかな水のごとき心の広さに、あれほど意地のくね曲がっていたあばたの敬四郎も、ぐんと胸を打たれたものか、かつてない神妙さをもって口を開きました。
「いや、おことば、いまさらのごとくてまえも恥じ入ってござる。貴殿にそう淡泊に出られると、てまえも大いに勇気づいてお願いができるしだいじゃが、どうでござろう。今度という今度は、ほとほとてまえも肝に銘じてござるから、今までの失礼暴言はさらりと水にお流しくだすって、てまえの命をお助けくださるわけにはいくまいかな。このとおり、手をついての願いでござるが……」
「もったいない。お手をあげくだされませ。もうじゅうぶんにてまえには、こうやってご貴殿のお越しなさることまでもわかってでござりますによって、どうぞもうそれ以上はおっしゃらずに――、中仙道はどこまでお越しでござったか存じませぬが、暑い中を、ひどいめにお会いでござりましたな」
「そう申さるるところをみると、では破牢罪人の行く先、ご貴殿にはもうわかってでござるか!」
「さようにござります。中仙道へ参ろうと、東海道へ参ろうと、ことによったら唐天竺《からてんじく》までお捜しなすっても、ちょっとあいつめを見つけること困難でござりましょうよ」
「さようか、ありがたい! では、敬四郎一期のお願いじゃ。なにとぞ、お力をお貸しくださらぬか。貴殿のことだからもうご存じでござろうが、あいつめをてまえが逃がすと、切腹ものでござるからな」
「ええ、ようわかってでござります。ひょっとしたら、へびといっしょに蛇《じゃ》が飛び出すかもしれませぬから、どうぞ今からごいっしょにお越しくだされませ」
 いうと、いよいよ右門の右門たるところをお目にかけましょうといわんばかりに、莞爾《かんじ》とうち笑《え》みながら立ち上がったようでしたが、不意に伝六へ意外なものの用意を命じました。
「どこか、ご近所のお組屋敷に槍《やり》をお持ちのかたがあるだろうから、急いで一本借りてこい!」
「えッ? 槍……? 槍というと、あの人を突く槍ですかい」
「あたりめえだ。槍に幾色もはねえはずじゃねえか、なるべく長いやつがよいぞ」
 めんくらいながら駆けだしていって、伝六がどこで見つけたものか長槍を借り出してきたものでしたから、右門はそれを高々とかつがせると、意表をつかれて目をぱちくりしている敬四郎に、ごくさばさばとしながらいいました。
「さ、参りましょうよ。おひろいではちっとまだ暑うござるが、小者に槍をかつがせておひざもとの町中を歩くのも、にわか大名のようで近ごろおつな道中でござりますからな。ゆっくりと楽しみ楽しみ参りまするかな」
 そして、みずから先にたちながら、行き向かったところは、きのうことさら安心させるようなことばを残したままで引き揚げたあの道灌山裏の恒藤権右衛門宅でした。
 むろん、敬四郎も伝六も鼻をつままれたような面持ちでしたが、それよりぎょっとなったのは恒藤夫人で、おそるべき右門がみたび案内も請わずに、ぬうとまた訪れたばかりでなく、そこには長いやつを一本伝六にかつがせていたものでしたから、青ざおと青ざめて、震えるくちびるに虚勢を張っているもののごとく、とがめだていたしました。
「白昼許しもなく女こどもばかりの住まいに長物持参で押しかけ、なにごとにござりまするか!」
「いや、どらねこ退治に参ってな」
 しかし、右門は相手にもせずに、にやにやとうち笑みながら、伝六からくだんの長槍をうけとると、さッと石突きをふるって毛鞘《けざや》をはねとばしたと見えたが、えい! とばかり気合いを放つと、意外や、そこの天井めがけて、ぶすりとそのどきどきととぎすまされた九尺柄の穂先を突きさしました。しかも、そのへやの天井一カ所ばかりではなく、次々と疾風の早さをもって、残らずのへやの天井を同じく長槍の穂先を突き刺してまわったと見えましたが、突然、真に突然、意外な人の姓名を大音声《だいおんじょう》で天井めがけながら呼びました。
「さ! 恒藤権右衛門、降りてこぬと、右門の槍先がこのとおり見舞っていくぞ!」
 伝六のおどろいたことはもちろんでしたが、それよりも妻女の青ざめたことはいっそうのもので、へたへたとそこにうずくまってしまったのをみると、右門はさらに勢い鋭く天井を突き刺してまわりながら、ふたたび大音声で叫びました。
「さ! 権右衛門! 男らしく正体を現わさぬか! 降りてこぬと、ほんとうに突き刺すぞ!」
 すると、まことに意外でありました。右門のその慧眼《けいがん》を裏書きして、天井裏から答える声がありました。
「恐れ入りました。いかにも正体は現わしまするによって、どうぞ気味のわるい穂先だけはもうお控えくださいまし」
 つづいて、みしみしという音とともに、押し入れの中の出入り口を伝わって、果然そこに姿を見せたものは、二日の天井裏|籠城《ろうじょう》で、ほこりとすすによごれ染まっている死んだはずの恒藤権右衛門でしたから、右門は会心そうな笑《え》みをみせていましたが、しかし不平そうなのはあばたの敬四郎で、ややなじるがごとくにいいました。
「拙者の尋ねるものは、恒藤某なぞではござらぬよ。破牢罪人の源内でござるよ」
 すると、右門が莞爾《かんじ》とばかりうち笑みながらいいました。
「その源内とやら申す破牢罪人は、こやつが殺して、おのれの身代わりとなし、もうきのう土の下へうずめてしまいましたよ」
「なに※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 殺した※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 殺した※[#感嘆符疑問符、1-8-78] なぜ、てまえのたいせつな罪人をかってに殺しおったか、さ! 子細を申せ! 申さぬか!」
 あまりな意外のために、つい本性が出たものか、あばたの敬四郎が権右衛門に飛びかかって、その首筋を締めあげながら、いまにも悪い癖の痛め吟味を始めようとしたものでしたから、右門はあわててさえぎると、痛いところを一本刺していいました。
「いや、お待ちめされ! 拷問ばかりが吟味の手ではござらぬ。物には順序と道理があるはずじゃから、理詰めに調べたてれば、実を吐かぬというはずはござらぬ。てまえが代わって吟味つかまつろう。――さ、権右衛門、上には目のある者も、慈悲を持つ者もあるゆえ、ありていに申すがよいぞ。何がゆえに、なんじは源内を一昨夜かようにむごたらしき死に落とし、おのれの死骸《しがい》のごとくによそおって、人目をたぶらかそうといたしおった。このうえ白を黒と申しても、八丁堀にむっつり右門といわるる拙者の目が光っているかぎり、偽りは申させぬぞ!」
 敬四郎ならば一言も自白しまいとするかのように見えた恒藤権右衛門も、右門の慈悲あるらしい様子とことばに隠すことの愚を知ったものか、神妙に恐れ入って尋ねました。
「おことば身にしみてござります。いかにも白状いたしましょうが、それより、どうしてだんなは、あの死体がてまえの替え玉であるとおにらみでござりましたか」
「いうまでもないことじゃ。きのうあのような愚かしき手紙を持たしてよこしたによって、不審がわいたのじゃ。それも、日本橋にさらした立て札と手紙とは別々に、どちらか妻女にでも代筆させたら、まだ不審はわかなかったかもしれぬが、両方ともにそのほうが書くとは、りこうそうにみえても愚かなやつじゃ」
「なるほど、とんだしくじりでござりましたが、でも、てまえが天井裏に潜みおること、よくおにらみでござりましたな」
「あれなるねこに焼きざかなを取られたことが、そちの運のつきじゃったわい。人間がいなくば、天井裏に食べごろの焼きざかななぞあるはずはないからな」
「さようでござりましたか。いや、かさねがさね慧眼《けいがん》恐れ入りました。では、いかにも、神妙に白状いたしましょうが、何をかくそう、てまえは、もと、あれなる非業の死をとげしめた破牢罪人の源内などとともに、長崎《ながさき》表に根城を構えて、遠くは呂宋《るそん》、天竺《てんじく》あたりまでへもご法度《はっと》の密貿易におもむく卍組《まんじぐみ》の一味にござりました。しかるうちに、これなる妻女となじみましてな、はじめのうちは船の帰るたびに相会うだけで、てまえも妻女も満足してござりましたが、いつかあれなるかわいいせがれができまして、それからというもの、急に妻女にもせがれにもいとしさがつのり、いろいろと考えましたところ、上の目をおかすめたてまつって、いつまでもご法度の密貿易なぞに従っていましたのでは、いずれ遠からずご用弁になって打ち首にでもなり、家内はおろか、せっかく設けたかわいいせがれとも、死に別れいたさねばなるまいと存じましたによって、お恥ずかしいことながら、妻子たちのかわいさゆえに、死すとも友は売るまじと神に誓って、あのようにめいめい右乳下へ卍《まんじ》のいれずみすらしておいた身にかかわらず、つい仲間の者にそむいて、長崎奉行に密告したのでござります。それも、密告すればお奉行さまがてまえの罪をお許しくださるというご内達でござりましたから、せがれのために行く末長いてまえの命ほしさで、ついつい、血をすすり合った兄弟を裏切ったのでござりまするが、いや、わるいことはできないものでござる。兄弟たちが極度にてまえを恨み、いかにしても裏切り者のてまえに天誅《てんちゅう》を加えねばと、一度長崎表でご用弁となったにかかわらず、仲間のうちの四人が決死隊となって破牢《はろう》を企て、どこでどうかぎつけたものか、てまえが江戸に潜んでいることを聞きつけまして討っ手に向かったと知りましたので、じゅうぶんてまえも気をつけまして、ついひと月ほどまえに、わざわざこんなへんぴな土地へ逃げかくれ、首尾よく身を隠しおおせていたつもりでござりましたが、それが一昨夜でござりました。その四人のうちのひとりのあれなる源内が、長崎表からのお達しでこちらのだんなにご用弁となり、運よくというか、入牢していたうちにだれからか、はからずもてまえがここにいるということをかぎつけ、あのように破牢いたしましてつじうら売りとなり、てまえを討ち取りに参りましてござるが、昔とったきねづかに、てまえのほうが少しばかり力があまっているため、かえってきゃつめを討ち取ってしまったのでござります。そのとき、ふとこれなる妻女が知恵をつけてくれましたので、てまえも急に替え玉のことを思いつき、さいわい右乳下には源内にもてまえにも同じ卍のいれずみがござりましたから、源内の面をあのようにめった切りといたしまして、その卍のいれずみをなによりの証拠のようにみせかけるつもりで、ひとしばい打ってみたのでござります。そうして、上のお目をかすめ、あの日本橋へかかげた立て札によって、いずこにいるか、たしかにまだこの江戸の中にてまえをねらって潜んでいるはずの、残る三人の卍組|刺客《しかく》たちにも、てまえがもう死んだごとくに装って、その凶刃から一生安楽にのがれるつもりでござりましたが、右門のだんなの慧眼《けいがん》に、とうとうこのように正体を見現わされたのでござります。かくのとおり、なにもかも包まずに申し上げましたによって、さいわいに、あれなるてまえのせがれのために、特別のお慈悲あるおさばきをいただければしあわせにござります……」
 長い自白の陳述をようやく終わると、子ゆえに一味の者すらも売り、子の愛ゆえに今はまた死体の替え玉すらも思い決し行なった不憫《ふびん》なる父恒藤権右衛門は、そこにじっと両手をつきながら、右門の慈悲を願うようにその顔を見仰ぎました。仰がれて右門もじっとしばらく裁断を考えまよっているかのようでしたが、やがて断固としていいました。
「情状|不憫《ふびん》にも思うが、天下のご法度《はっと》をまげることは相成らぬ。遠島申しつけられるよう上へ上申するから、さよう心得ろ!」
「えッ! 遠島――あの、遠島でござりまするか!」
「不服か」
「でも、てまえの密貿易の科《とが》は、すでに長崎お奉行さまからご赦免になっているではござりませぬか!」
「囚人とはいいじょう、許しなくして人をむごたらしくあやめた罪じゃ」
「でも、それは、それは、わが身を守ったがための科でござります。そのうえ、てまえは今こそ浪々の身でござりまするが、れっきとした士籍にある身ではござりませぬか!」
「愚かなやつじゃな。これほどいうても、まだわしの慈悲がわからぬか。そちは今なんと申した、子のかわいさゆえに人も切ったと申したではないか。さればこそ、その子ゆえに、そちの命の長かるべきよう慈悲をたれて、縛り首打ち首にもすべきところを遠島に上申すると申すのじゃ。それも、島流しすべきものはそちひとりではない。それなる妻女も、夫の罪業を手助けいたした罪により、同罪の遠島じゃ。せがれは――上の席にあるものとして教ゆることはならぬが、係り役人なぞに用いてはならぬそでの下を使って、手荷物なぞに装い、うまいこと船に積み込んだりしてはあいならぬぞ。どうじゃ、まだそれでもわしの慈悲がわからぬか」
「はッ……よくわかってござります。せがれの手荷物のことも、よく胸におちてござります。ありがとうござりました。ありがとうござりました」
 なぞの手荷物のことすらもわかったごとく、権右衛門夫婦がひれふしましたものでしたから、右門はかたわらの敬四郎を顧みると、さわやかな面持ちでいいました。
「これでてまえの八番てがらは、九分どおりかたづいてござる。知恵をお貸し申すといったのでは失礼にござるが、ついでに卍組残りの三人をもめしとられるよう、てまえがちょっと一しばい書いてしんぜますから、それをご貴殿のてがらになされい」
 そして、伝六に立て札を五枚ほど急場にこしらえるよう命じていましたが、ほど経てできあがったのを受け取ると、さらさらと次のごとき文言をその五枚の表に書きつけました。

[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
「諸兄よ、恒藤権右衛門の居どころ判明したり。
[#ここから2字下げ]
明六日夜、五つ下がりに道灌山《どうかんやま》裏の森まで参集されよ。――卍」
[#ここで字下げ終わり]

「この五枚を、日本橋とか浅草といったような、人出の個所へすぐさまお立てなすって、夜この時刻に、あの森のあたりにでも張り込んでいたら、十中八、九逐電中の三人をも、ご貴殿のてがらにめしとることができましょうよ」
 立て札を手渡しながら敬四郎に注意をしておくと、右門はさらに権右衛門夫妻に言い渡しました。
「わしの慈悲が肝に銘じたならば、逃ぐるようなこともあるまいによって、流罪のおさばきが決まるまでこのまま当屋敷に起きふしをさし許すから、その間にじゅうぶん島へ渡るしたくなど整えておくがよいぞ。――では、伝六、そろそろまた主従ふたりきりの大名道中いたそうかな」
 そして、伝六に槍をかつがせると、さっさと表へ出ていってしまいました。
 ――その翌々日の朝でありました。右門の貸してやったあの立て札の機知によって、案の定残りの卍組三人をめしとって、あばたの敬四郎がほくほくしながらお組屋敷を訪れると、精いっぱいの感謝を現わしながらいいました。
「いや、おかげで、えらいてがらにありつき、お礼のいいようもござらぬ。どうしたらよろしいか、てまえにはくふうもつかぬが、何をお礼にしたらよろしゅうござろうな」
 すると、右門が言下に答えました。
「拙者へのお礼よりも、これから先、ここにいる伝六なぞを、あまりむごく扱わぬことがなによりでござりまするな。お互いこういうかわいい小者があってこそ、お上のご用も勤まるのでござりまするからな」
 そして、そこに敬四郎がいるというのに、右門はたったそれだけいってしまうと、なにごともなかったような顔つきで、もうつんとあごのひげをまさぐりだしました。

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2000年4月10日公開
2005年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木味津三

右門捕物帖 村正騒動——- 佐々木味津三

     

 ――今回はいよいよ第七番てがらです。
 由来、七の数は、七化け、七不思議、七たたりなどと称して、あまり気味のよくないほうに縁が多いようですが、しかし右門のこの七番てがらばかりは、いたって小気味のよい捕物《とりもの》美談ともいうべきもので、しかも事の勃発《ぼっぱつ》いたしましたのは、あの古井戸事件がめでたく落着してからまもなくの、といっても十日ほどたったちょうどお盆の十六日のことでした。
 下世話にも、この日は地獄のかまのふたのあく日だなぞと申しますが、お番所のほうでも平生おえんまさまの出店みたいな仕事に従事しているためにか、この十六日ばかりは少数の勤番当直をのぞいては、いずれも十手取りなわをすててしまい、お昼すぎから例年うちつれだって築地河岸《つきじがし》の木魚庵《もくぎょあん》という料亭におもむき、親睦会《しんぼくかい》をかねた慰労の宴を催すならわしでしたから、右門もちょうど非番でございましたので、少しおそがけに伝六を伴って、その会場に出向いてまいりました。
 ところが、この木魚庵というのが、お盆の十六日に宴会なぞするにはもってこいの、いたって風変わりな料亭なんで、当時の江戸名物帳を見ましても、そのもようがちゃんと記載されてありますが、河岸《かし》にのぞんだ横町にはいっていくと、まずお寺の山門になぞらえた大玄関の入り口が人の目をそばだてるのです、むろんのこと、そこには小さいながらも鐘楼があって、給仕は全部女気ぬきの十二、三くらいな小坊主ばかり。料理、器物、いっさいがっさいがまたお寺にちなんだ抹香《まっこう》臭いものばかりなんでしたが、しかし酒は般若湯《はんにゃとう》と称して飲むことを許され、しかもその日の会費はしみったれな割り勘なぞではなく、全部お番所のお手もと金から出ることになっていたものでしたから、右門たちが行ったときは非番の者の残らずが全部もう席について、あちらにもこちらにもめいめいが、めいめい同気相求むる者たちとひざをつらねながら、すでに酒三行に及んでいるさいちゅうでした。
 で、右門も宴にのぞんだ以上は勢いいずれかの仲間と同席しなければならないはずでしたが、しかし、こういうときいつもかれは金看板どおりのむっつり右門で、べつにだれといって憎い者がないと同時に、まただれといって特別に親しい者もなかったものでしたから、いちばんはずれの、人々からは全然独立した席へついてちょこなんと席を占めると、いっこうおもしろくもおかしくもないといったような、ごくぶあいそうな顔をしながら、黙々とした料理の品にはしをつけだしました。
 すると、また妙なもので、一番てがらの南蛮幽霊以来、右門の名声は旭日《きょくじつ》昇天の勢いで高められ、今では八丁堀といえば、ああ右門のだんなか、といわれるほどにも評判となっていたものでしたから、いくぶん嫉妬《しっと》の心持ちも交じっていたものか、同僚の同心たちはもちろんのこと、上席の与力たちも、下席の目あかし岡《おか》っ引《ぴ》きのやからにいたる者たちまでも、いつのまにかふたりを敬遠するともなく敬遠してしまって、自然に右門と伝六は一座の者から、仲間はずれの形となってしまいました。
 だから、わけても右門思いのおしゃべり屋伝六が黙っていられるわけはないので、しかし人前でしたから、小さな声でいったものです。
「ね、だんな、きょうは地獄のおえんまさまでさえもがくぎ抜きに錠をおろしておくんですぜ。ですもの、いくらむっつり屋のだんなだって、きょうぐれえはもっとおもしろそうな顔をしたらよさそうなもんじゃござんせんか」
 けれども、右門は、ふんともうんとも返事一つせずに、ただむやみとお料理の品ばかりをせせっていたものでしたから、こうなるといっそうやきもきするのがまた伝六の性分で、とうとう大きな声を出していってしまいました。
「ほんとうに、いやんなっちまうな。いくら木魚庵だからって、これじゃまるでお通夜《つや》に来たようなもんじゃござんせんか」
 すると、偶然というものはまったくどこにあるかわからないものですが、伝六のはからずもいったそのことばでふと思い出したように、隣の席の者が声高に向こうの相手へ話しだしました。
「そうそう、お通夜といえば、さっき出がけにお番所へ、妙な訴えをもってきたお坊さんがあったぜ。なんでも、小石川の仁光寺《にんこうじ》とかいうお寺なんだそうだが、ゆんべのうちに裏の墓をあばいて、二つばかり死骸《しがい》を胴切りにしていったものがあったそうだよ」
「ほう、死骸をね。このお盆のさいちゅうに、またうすっ気味のわるいいたずらするやつがあったものだな。なんぞ恨みの筋でもありそうなほしなのかい」
「ところが、どうもただのいたずらだろうというんでね。勤番の者の評定じゃ、べつに取り上げるようなけしきを見せなかったっけが、でも、そのあばかれた墓っていうのが、そろいもそろって四、五日まえに仏となった新墓《にいはか》で、そのうえに二つとも死骸は女だというんでね。いたずらにしても、ちっといろけがあるように思われるんだがね」
「そうよな、女がふたりとも小町娘の姉妹かなんかで、胴切りがまた恋のさか恨みとでもいうのなら、めったな草双紙でも見られない筋だがな」
 ご当人たちはいっこう冗談のように話し合っていましたが、最後の新墓うんぬんといったことばが、ちらり右門の耳へはいったとたんです。ぎろり目を光らしながら、音もなく蝋色鞘《ろいろざや》を腰にさして、静かにはかまのちりを払っていたとみえたが、すっくと立つや、同時に鋭い声がかかりました。
「伝六ッ」
「ええ」
「駕籠《かご》だよ」
「駕籠……?」
「おれが駕籠といや、もうわかりそうなものじゃねえか」
 まったく右門のいうとおりですが、ひとたびかれの口に駕籠ということばがのせられたときは、およそつねに事重大であることを裏書きしていたものでしたから、ようやくがてんのいった伝六は、さあたいへん――
「ちくしょうッ、ざまあみろい。この席にいくたり八丁堀のでくのぼうがいるかしらねえが、おらのだんなの耳ゃ節穴じあねえんだぞ。くそおもしろくもない、おれさまたちを仲間はずれにしやがって、いまにみろい、ほえづらかくな!」
 啖呵《たんか》をきっていたかと思いましたが、もう横っとびで――まもなく、そこへあつらえの二丁をすえると、いかにも溜飲《りゅういん》の下がったようにいったものです。
「よくよくまた、うっそりもあったものじゃござんせんか。おらがだんなのいることを知らねえで、あんないい事件《あな》をのめのめと話しやがるんだからね。どうです、だんな、腹の底がすっとしましたね」
 けれども、駕籠が目的の仁光寺へついたとき、事態はそこではしなくも伝六のいったほどにあまり腹の底をすっとさせなくなりました。というのは、ふたりのあとを追っかけるようにして、もう一組みの駕籠が同じ仁光寺の門前へ止まったと思われましたが、中から降り立った人の姿をみると、意外やそれはつい先の先まで木魚庵に居合わした同心主席の、あばたの敬四郎とその配下だったからです。このあばたの敬四郎については、右門|捕物《とりもの》中の第三番てがらに詳しくご紹介しておきましたから、記憶のよいかたがたにはまだ耳新しい名まえだと存じますが、もし八丁堀の同僚たちのうちで気組みだけなりと、われわれのむっつり右門に対抗してみようという意地のあるものがありとすれば、わずかにたったひとりこのあばたの敬四郎があるのみで、事実またそれだけの老巧さもあり、かつまた相当才覚をもった男でしたが、さればこそ、かれひとりのみがでくのぼうではなかったか、いち早くさっきの話を聞きつけたとみえて、かくあとを追ってきたらしいことがわかりましたものでしたから、今度は右門が溜飲の下がったように、はじめて口をあけたのです。
「お盆の十六日にまたあいつと顔を合わせるなんぞは、ほんとうに因縁話だな。では、一つもういっぺんあの親方の鼻をあかすかね」
 ちくしょうッ、いやな野郎がうせやがった、というような顔つきで、口をとがらかしていた伝六をしり目にかけながら、にたにたとうち笑って敬四郎のところへ歩みよっていったとみえましたが、いきなりぺこりと腰を曲げると、ごく屈託のなさそうにあいさつをいたしました。
「よくお越しなされました。では、ごいっしょに現場の検分をいたさせてもらいますかな」
 めんくらったのは敬四郎で、またこれはめんくらうのが当然でしたろう。普通の場合ならば、お互い先にねたをあげたものがてがらとなるんだから、負けるまでにも競争するのは当然なのに、われらのむっつり右門にかぎっては、いっこうそんなけぶりすらも見えないで、涼しげにばたばたと胸もとへ白扇の風を入れていたものでしたから、敬四郎はむッとただ右門をにらみかえしたばかり――。しかし、右門はすましたもので、にやにや笑いながらあとへついていくと、べつに鋭い観察を下すようなそぶりも見せずに、敬四郎のうしろからちょいと顔を出して、お検視がすまないためまだそこにひっころがしたままの二つの仏を、ほんのいっぺんどおりじろりと検分いたしました。しかも、検分と名のつくものはただそれっきりで、軽く敬四郎に一礼すると、さっさと表へ回って寺の庫裡《くり》へずんずんはいっていったと見えましたが、ちょうどそこに小坊主の居合わしたのを見ると、仏の姓名身がらでも洗いたてるのかと思われたのが、意外にも、突然妙な品を求めたのです。
「すずりと半紙をちょっと拝借させてくれぬか」
 のみならず、小僧が求めたその二品を持ってくると、いきなりさらさらと次のごとき文句を紙にしたためました。
「――ご心配の節あるらしき若衆へ一筆かきのこしおきそうろう。いつにてもご相談相手とあいなり申すべくそうろうあいだ、ご遠慮なくお越しくだされたく、八丁堀近藤右門――」
 書いてしまうと、それをまたぺったりと仁光寺の山門に張りつけて、やっとこれで勝ちめに向かったといわんばかりな顔つきをしながら、さっさと歩きだしたものでしたから、いつものとおりに伝六がことごとく首をひねってしまいました。
「ちっと、どうもやることがそそっかしいように思われますが、ねえ、だんな、だんなはまさか、今度の仕事の相手に、どんなやつが向こうに回ったか、お忘れじゃござんすまいね」
「知らないでどうするかい、あばたの敬四郎じゃねえか」
「そうでがしょう。だのに、たったあれだけの調べ方じゃ、ちっとどうもそそっかしいように思われますがね」
「じゃ、おれの目は節穴だというのかい」
「ど、どういたしまして――、だんなの目のくり玉は、天竺《てんじく》までにも届いていらっしゃるこたあよっく心得ていますがね。でも、あばたのだんなはいろいろともっと調べていましたぜ。墓のあばき方だとか、戒名なんぞのことまでも必死とね」
「おおかた、敬四郎にゃあの胴切りが、恨みの末のしわざに思われているんだろうよ」
「え、なんですって……? じゃ、だんなはそうじゃないというんですかい」
「あたりめえさ。まさに判然と、ただの死に胴だめしだよ」
「死に胴だめし……? でも、あの仏たちゃまだなまなましい若そうなべっぴんどうしですぜ」
「だから、なおのことそうじゃねえか。死に胴をためすからにゃ、新仏ほど切りがいがあるんだからな」
「それにしたって、新仏ならば、まだいくらもあそこにあったじゃござんせんか」
「わからねえやつだな。おおかた、おめえはあの女どもの妙なところばっかり見ていたんだろうが、ありゃふたりとも水死人だぜ」
「道理でね、いっこうわずらった跡もなし、死人にしちゃちっと太りすぎていると思いましたが、するてえと、なんですね、あれをぶった切った野郎は、どこかであの仏どもの水にはまったことを知っていて、あんなまねしたんですね」
「あたりめえさ。しかも、あの下手人はすばらしいわざ物の持ち主で、おまけに左ききだぜ」
「え? 左きき……なるほどね。そういわれれゃ、二つとも左胴ばかりをぶった切っていたこと今あっしも思い当たりやしたが、大きにそれにちげえねえや。剣術のことはよくあっしゃ知らねえが、生きている相手ならともかく、手向かいもなんにもしねえ死人の胴を、なにもわざわざ左から切るこたあねえからね。しかし、それにしても、あの門前のおかしな張り紙は、いったいなんのおまじないですかい」
「それがおれの目の節穴じゃねえといったいわれだよ。おめえもあばたの先生もいっこう気がつかねえような様子だったが、あの墓の五、六間先に、子細ありげな前髪立ての若衆がひとりしゃがんでいたんだ。どうもそいつのおれたちを見張っている眼《がん》の配りが、とても心配顔でただごとじゃねえと思ったからね。ひょっとすると、なにかこの事件《あな》にひっかかりがあるかもしれねえなとにらみがついたから、ちょっと右門流の細工をしたまでさ」
「ありがてえッ、そうと聞きゃ、もうこっちのものだ。じゃ、前祝いに駕籠《かご》をおごろうじゃござんせんか。この暑いのに、右門のだんなともあろうおかたを汗びたしにさせたといっちゃ、あっしが女の子たちに合わす顔がござんせんからね」
 現金なところもあるがあいきょうのあるやつで、伝六がかってな理屈をつけながらつじ駕籠を雇ってまいりましたので、右門も苦笑しながらうちのりました。もちろん、行き先はわき道もせずに八丁堀へ――。

     

 ついたときにとっぷりと日が暮れて、八丁堀あたり下町かいわいはちょうど今が夕涼みの出さかりどき、もちろん右門はあの張り紙をくだんの若衆が発見するかぎりにおいては、まちがいなくこよいにも訪れてくることと確信を持っていたものでしたから、その夕涼みにも出かけないで、いまかいまかと待ちわびていましたが、しかしどうしたことか、予期の訪問者はなかなか姿を見せなかったのです。五つ、四つと、やがてもう夜なか近くになろうとしても、いっこうその人らしい足音すらも聞こえなかったものでしたから、信ずることも早いが疑うことも早い伝六が、不安の声を発しました。
「あばたのだんなだって、あれが商売なんだからね。ひょっとすると、とんびに油揚げをさらわれてしまったかもしれませんぜ」
 けれども、にらんだ者はわが右門です。さるはよし木から落ちることがあっても、右門の目に狂いのあろうわけはないはずでしたから、いってるうちにことりと表の辺にあたって、足音を止めたけはいがありました。と同時に、立ち上がった者は伝六でなく、右門です。珍しや、自身出迎えに表まで出ていったと思われましたが、まもなく伴ってきた者は、今にしてはじめて知らるる十七、八のぬれ羽色に輝く前髪をふっさりとたくわえた一人のお小姓でありました。おそらくは、ご大身の大々名にでも近侍している者とおぼしく、あでやかというよりも、むしろさっそうとしたりりしさを備えていましたが、そのやや青まって見える悩みありげな面ざしは、右門のいったとおりに、なにごとか深い子細のあり余りげなふぜいでありました。それゆえか、導かれて座についてからも、しばしがほどは黙々として面をうち伏せながら、なお思いに悩みつづけているらしい様子でありましたから、右門がまずいったのです。
「てまえも八丁堀で少しは人に知られた者でござる。わざわざあのような張り紙をしておいてまいったからには、いかようなことなりとご貴殿の力になってしんぜようから、まず事の子細を先に承りましょうではござらぬか」
「はっ……」
 小さくいうにはいいましたが、よほどの考慮を費やすべき問題ででもあるのか、いっこうにあとをつづけようとしなかったものでしたから、右門がずばりと一本くぎをさしました。
「では、なんでござるな、てまえに信が置けぬと申すのでござるな」
「いいえ、め、めっそうもござりませぬ。あの張り紙をはからずも目に入れたとき、そなたさまのことはとうにてまえも聞き及んでござりましたので、これはよいおかたの味方を得たものだと存じまして、ふたときあまりも、とつおいつ思案ののちに、ようやっとこのように夜ふけのことをも存じながら、おじゃまさせていただきましてござりまするが、さていざとなると、やっぱりどうも……」
「打ちあけぬほうがよいと申さるるか」
「いいえ、それをどうしたものかと、今もなおかように思い迷ってでござります……」
 いうと、またしばしの間、悩み深げにうちしおれていたものでしたから、右門が少ししびれをきらして、急所へさらに一本くぎを打ちました。
「では、てまえのほうからお尋ね申すが、もしやそなたは刀の詮議《せんぎ》をなさってではござらぬか」
 と――、ずぼしに的中したかのごとく、おもわずぎくりとなった様子でしたが、そのほしを見ぬかれてはと思ったものか、ようやくにして相手が口を開きました。
「慧眼《けいがん》、いまさらのごとくに感服つかまつりました。それまでも、わたくし腹中をお見通しでござりましたら、このうえ隠すは無益にござりますので、いかにも胸中の秘密お明かしいたしまするが、けっしてお他言はござりませぬでしょうな」
「かくのとおりにござる」
 莞爾《かんじ》として笑《え》みをのせると、かちりと強く金打《きんちょう》して見せましたものでしたから、たのもしげな右門のその誓約にようやくお小姓は愁眉《しゅうび》を開いて、事の子細を打ち明けました。
「何を隠しましょう、わたくしは越前松平家のお小姓にて、石川|杉弥《すぎや》と申す者にござりまするが、殿からお預かり中のけっして世に出してはならぬたいせつな一腰を、お目がねどおり何者にか盗みとられ、殿よりもきついおしかりをこうむりましたので、爾来《じらい》六日ばかりというもの、かく面やつれのいたすほど心魂を砕いて詮議をいたしておりましたところ、はからずもきょう、あの寺の墓地で、新墓をあばいた者のあった由を承りましたから、もしやその下手人でもが死に胴だめしをしたのではなかろうかと存じ、なんぞの手がかりでもと、こっそり様子探りに出向いたところを、かくあなたさまに見つけられたのでござります」
 さもあろうと思っておりましたから、右門は石川杉弥と名のったそのお小姓の告白をうちうなずきながら聞いていましたが、しかし問題は盗みとられたというその刀です。けっして世に出してはならぬといったその刀です。何者の作だろうとしばらくうち案じていましたが、まもなく推定がつきましたものですから、右門はずばりとほしをさしていいました。
「いや、よく打ち明けくだされて、てまえも心うれしく存ずるが、おそらくその刀、村正《むらまさ》でござろうな」
 すると、同時に石川杉弥がぎょッとなりながら、人に聞かれてはならぬというように、すばやくあたりを見まわしました。……一見不思議な態度に思われまするが、しかし、実は少しもこれが不思議でないので、なぜかならば、当時のごとき徳川もまだお三代ごろのご時勢においては、最もこの村正の作刀が忌みきらわれた絶頂だったのです。なぜ、あれほどの名刀がそんなにも嫌忌《けんき》されたか、この話の中心ともなるべきものでございますから、簡単にその理由を説明しておきますが、いくつか説のあるうちで、今に最もよく喧伝《けんでん》されているものは、すなわち、あの村正の妖刀説《ようとうせつ》です。その説をなすものの言によると、本来刀を打つ要諦《ようてい》は、身を守るために鍛えるのが主であって、人を切ろうという鍛法は従であるのに、どうしたことか初代の千子院村正《せんじゅいんむらまさ》が切る一方の刀ばかりを打つので、とうとう師の正宗が涙を奮ってこれを破門したところ、今度は村正がそれを根にもって、では師匠正宗すらもしのぐほどな刀を鋳ようと、ひたすら切る一方の刀を打ったために、いつしか妖気と殺気がその作刀に乗りうつって、そのためこれを腰にする者はつい血を見たくなったり、人を切りたくなったりするというのが、いわゆるその妖刀説ですが、しかし、これは村正の刀があまりによく切れすぎるのと、その刀相に一抹《いちまつ》の妖気が見られるところから、いつだれがこしらえたともなくこしらえた伝説で、ほんとうの因縁いわれは、徳川の始祖、すなわち神君|家康《いえやす》が、ひどくこの千子院を忌みきらったからのことなのです。なぜ、それほどにきらったかというに、祖父|清康《きよやす》が天文四年尾州|守山《もりやま》の陣において、阿部弥七郎《あべやしちろう》なる者のために、この村正をもって袈裟《けさ》がけの一刀をうけ、弥七郎の帯びていた村正によって、清康の子|広忠《ひろただ》、すなわち家康の父がまた天文十四年に、その家臣の岩松|八弥《はちや》なる者に股《また》を刺され、本人の家康また関ガ原の陣において、これは別な村正でしたが、同様千子院作の槍《やり》のために指を突かれ、さらにその長子|岡崎三郎信康《おかざきさぶろうのぶやす》なる者が、父家康の怒りにあって自刃したとき、これを介錯《かいしゃく》した天方|山城守《やましろのかみ》の一刀がやはり村正の刀だったというところから、数代重なったこの不思議きわまる因縁に権現さまともいわれた家康がすっかりと縮み上がって、自今村正作の打ち物類は見つかりしだい取り捨てるべし、というご禁令をお納戸方《なんどがた》に向かって発したものでしたから、それがいつしか村正の嫌忌される原因となり、二代三代はもとよりのこと、四代五代の村正作でも、およそ村正と名のつく打ち物類はことごとく忌みきらわれるにいたったのです。
 しかも、それを嫌忌した者はただに徳川一族の者ばかりではなく、外様《とざま》又者の類までが、もしこの作を手に入れたときは、徳川への恐れと遠慮のために、その銘をすりつぶして佩用《はいよう》するといったような当時のご時勢でしたから、又者までもがそうであるのに、江戸へ親藩筋の松平家が宗家の忌みきらう村正を蔵するはふつごう中のふつごうなので、さればこそ、石川杉弥は刀を盗まれたといってもその銘は秘し、そして、そのなにものであるかを右門に言い当てられたとき、かくぎょッとなってあたりを見まわしたしだいでしたが、慧眼《けいがん》右門には杉弥のそのわずかな動作だけで、早くもいっさいのことが推定されましたから、ここちよげにうち笑《え》むと、力をつけるように杉弥へいいました。
「いや、ご懸念は無用でござる。そなたがなにゆえきょうが日まで、密々にそのような詮議《せんぎ》のご苦心をなさったか、なにゆえまた今のようにかくお驚きなさったか、すべてはてまえにもとっくりと判明してござるから、いったん耳に入れた以上は、拙者も近藤右門、こよいからさっそくそなたのおてつだいをしようではござらぬか」
「すりゃ、あの、わたくしめにお助勢くださるとおっしゃるのでござりまするか!」
「さよう、二日《ふつか》とたたないうちに、きっとそなたのご心配は取りのけてしんぜましょうよ」
「ありがとうござります、ありがとうござります。あなたさまのお助力をうければもう千人力、やっぱりご相談に上がってよいことをいたしました」
 しばしがほどは面すらもあげえないで、ただ感激にうちふるえていましたが、ようやくあでやかさをましてきたその美しい顔に感謝の色をみせると、石川杉弥は水色|絖《ぬめ》の小姓ばかまに波を打たせながら、こっそり深夜の表へ消え去っていきました。

     

 かくて、いよいよむっつり右門の義によって奮いたった第七番てがらの端緒につくことになりましたが、第一にまずかれの目がけたところは江戸の剣術道場でありました。というのは、あの新墓の死に胴切りについて検分したところによると、その切り口のすばらしくあざやかなところから案ずるに、必ずやわざものは世に名をとった銘刀で、腕もまた相当の達人だろうとめぼしがついていたものでしたから、それにはあの左ききという判定のあったのをさいわい、まず道場出入りの剣士について、それなる左ききの、あるいは左り胴の癖ある者をあげてみようと考えついたからのことでしたが、しかし、いざ捜そうという段になると、肝心の道場なるものがまたなかなかたいへんな数でありました。将軍家お指南番役たる柳生《やぎゅう》の道場を筆頭にして、およそ剣道指南と名のつく末流もぐりの類までも合算していったら、優に三十カ所以上の数でしたから、どうしておろそかな労力では洗いきれるものではなかったのですが、もとよりそれをいとう右門ではないので、その翌早朝伝六を従えると、まず第一番に木挽《こびき》町なる柳生の道場に出向きました。
 当時はもちろんまだ但馬守宗矩公《たじまのかみむねのりこう》がご存生中で、おなじみの十兵衛三厳公《じゅうべえみつよしこう》は大和柾木坂《やまとまさきざか》のご陣屋にあり、そのご舎弟の宗冬公《むねふゆこう》が父但馬守とともに道場を預かって、出入りの門弟三千名と称せられたほどのご盛大でしたが、しかるにその門前へさしかかったところで、はしなくもぱったりと顔を合わせた者がありました。ほかでもなく、きのう墓地へ置き去りにしてきたあのあばたの敬四郎です。
 むろん、村正の一件なぞは知らないでのことでしょうが、しかしあの胴切りの下手人を左ききの達人とにらんだうえで、敬四郎も同じ道場洗いを始めたのだろうという推定がついたものでしたから、右門もちょっと舌を巻きながら、とぼけてまずあいさつをいたしました。
「きのうはいかい失礼をつかまつりました。また、妙なところでお出会いいたしましたな」
 だが、敬四郎はもとより無言です。せめてもこういうときにあいさつを返すくらいの余裕だけなとあったならば、てがらの半分くらいは分かつにやぶさかならざる右門でしたが、なにをこの駆けだしが、というような憎悪《ぞうお》の色をみせたものでしたから、こうなると右門のほうも自然と意地になるので、ためにはからずも柳生道場門前において、宇治川もどきの先陣争いとなったのです。
 けれども、これは最初から先陣争いをしてみるまでもないことで、敬四郎の名まえの初耳であるのに反し、わがむっつり右門の驍名《ぎょうめい》は但馬守にもすでに旧知の名まえでしたから、まず最初に右門が面接を許されることになりました。
 ところが、先陣争いではみごとに勝ちを得ましたが、残念ながら結果は徒労に終わったのです。疑問の逆胴名人でかつ左ききというのが、門弟中につごう三人ほどあるにはあったのですが、ひとりはすでに物故、ひとりは池田|備前守《びぜんのかみ》侯の家臣でこの二月から帰藩中、残りのひとりはこれも土井|大炊守《おおいのかみ》のご家臣で、同様この四月から帰国中ということでしたから、むろん、これは疑いすらもかけるべき余地がないので、ただちに右門は一日通しの早駕籠《はやかご》を仕立てさせると、いよいよ本式に、下町は伝六の受け持ち、山の手は右門自身が立ち回ることにして、その場から江戸一円の道場洗いに取りかかりました。そのまたすぐあとを追っかけて、敬四郎側のほうでも二組みに分かれながら、同じ道場洗いをやりだしましたので、はからずも両者の捕物《とりもの》競争はここにいたって白熱の度を加えることとなり、右門勝つか、敬四郎負けるか、興味はその結果につながれることとなりましたが、しかしその日の夕がたが来たときでありました。
 右門がまず失望とともにへとへととなって八丁堀へ引き揚げ、つづいてひと足おくれながら伝六も帰りついて、やけにそこへからだを投げ出すと、いかにもむだ足に耐えぬというようにいったものです。
「ばかばかしいや、だれに頼まれてこんな商売始めたんですかね。あっしゃきょう一日で、三百匁ばかり目方をへらしましたぜ」
 それを聞き流しながら、右門もそこにぐったりとからだを投げ出していましたが、と、やにわにむっくり起き上がると、突然くすくす笑いながらいいました。
「なあ、伝六」
「え?」
「どうやら、おれも焼きが回ったかな」
「不意にまたいくじのねえことおっしゃいますが、どうしてでござんす」
「だって、よく考えてみなよ。おれはかりにもむっつり右門といわれている男なんだぜ」
「でも、柳の下にゃどじょうのいねえときだってあるんだからね。時と場合によっちゃ、しかたがねえじゃござんせんか」
「いいや、そうじゃねえんだよ。おれにはもっとほかに、おれ一流の吟味方法があったはずじゃねえのかい」
「な、なるほどね、大きにそれにちげえねえや。だんなの口癖にしていらっしゃるからめての戦法というやつだ」
「だからよ、今はじめておれも気がついたところだが、とんだむだぼねをおったもんさ。肝心かなめのお小姓というたいせつなほしのいることを忘れているんだからな」
「ちげえねえ、ちげえねえ。逆胴切りの詮議《せんぎ》から先に手がけるなんてどじな洗い方は、せいぜいあばたのだんなぐらいにやらしておきゃたくさんですからね」
「だから、ひとつ顔を洗い直して、今からその右門流を小出しにするかね」
「今から?」
「不足かい」
「だって、兵糧《ひょうろう》をつめないことには、いくらあっしだって、いくさはできませんよ」
「それだから、金葉へでもちょっくら寄って、中ぐしのふた重ねばかりも食べようかといってるんだよ」
「え? うなぎ?」
「おめえきらいか」
「どうつかまつりまして、うなぎときちゃ、おふくろの腹にいたうちから、目がねえんですがね。でも、この土川うちじゃ、目のくり玉の飛び出るほどぼられますぜ」
「しみったれたことをいうやつだな。その悲鳴が出るあんばいじゃ、ふところが北風だろうから、じゃこいつをおめえに半分くれてやろうよ」
「な、なんです?――こりゃだんな、切りもち包みじゃござんせんか」
「そうよ、その中にある品は、まさに判然と山吹き色をした二十五両だよ」
「近ごろ珍しく金満家になったもんですね」
「ねたを割りゃ、お奉行《ぶぎょう》さまのお手元金だよ。これまでのてがら金だといって、きのう五十両ばかりお中元にくだすったのでね、おれのてがらはおめえのてがらなんだから、半分そっちへおすそ分けさ」
「ちッ、ありがてえ。持つべきものは、べっぴんの女房と、いいご主人さまだ。こうなりゃ、もうお大尽です。きょうのおあいそは、みんなあっしが持とうじゃござんせんか」
「天から降った小判だと思って、いやに大束を決めだしたね。では、そろそろ出かけようか」
 いうと、欣舞《きんぶ》足の踏みどころも知らないように喜び上がっている伝六を従えながら、京橋を右に曲がって、そこの横町にあった目的の金葉にゆうぜんとはいっていったとみえましたが、思いどおりにたっぷりと中ぐしをとってしまうと、がぜん十八番《おはこ》の右門流が、もうその次の瞬間から、小出しにされだしたのです。堪能《たんのう》したといったように、しきりと小楊子《こようじ》で歯をせせくっていましたが、座敷へはいってきた小女の顔をみると、やんわりと、まずこんなふうにいったもので――。
「ときに、うなぎの佃煮《つくだに》は、何日くらいもつかね」
「うちのは特別製ですから、この土用でも三日はだいじょうぶでございます」
「そうか、あした一日さえもってくれりゃいいんだから、じゃ五人まえばかり折り詰めにしてな、お代は食べたのといっしょに、そっちの男からもらってくんな」
 だから、伝六が変な顔をして、だめを押したのは当然でありました。
「ね、だんな、いやみなことをいうようですが、いったんもらった以上はこっちの金ですぜ」
 しかし、右門はいっこうに取り澄ましながら、でき上がってきた折り詰めを片手にすると、さっさと道を本郷台に向けて取りました。いうまでもなく、石川杉弥の屋敷を目ざしたので――。
 ところが、その門のくぐり戸に手をかけようとしたときでありました。
「ね、だんな、だんな! あばたのだんなが、あとをつけてきていますぜ。やっこさんも道場洗いにしくじったとみえて、何かかぎ出そうという魂胆らしいですぜ」
 そっとそでを引きながら伝六がささやいたものでしたから、右門もちょっとぎくりとなって、うしろの小やみをすかすと、なるほどことばどおり敬四郎でしたが、すでにもうかくのごとくに右門流の吟味方法を取り出した今となっては、たとえ百人の敬四郎がつけていようと、いっこう問題ではなかったので、かまわず案内を求めて、杉弥の居間に通るやいなや、真に霹靂《へきれき》の一声で、突然鋭く伝六に命じました。
「容赦《ようしゃ》をしねえで、こやつをくくしあげろ!」
 これには伝六も驚きましたが、それよりも杉弥の驚愕《きょうがく》はまた格別でありました。
「な、なにを不意に理不尽なことをなさりまするか! わたくしのどこがご不審でござりまするか!」
 必死に抗弁したのをぎゅっと草香流でねじあげて、面くらっている伝六をせかしながらくくらせると、しかりつけるようにいいました。
「なまっちろい顔をして、だいそれたことをするやつだ。不審のかどがあればこそ、なわ打つんだ。さ! じたばたせずと歩け! 歩け!」
 のみならず、自身そのなわじりを取って表へ出ていくと、その門のところにどろぼうねこのごとく目を光らしていた敬四郎へ、ことさら聞こえよがしに、突然第二の命令を伝六にいいつけました。
「そこの片町を本通りへ出ると、越前さまのお屋敷があるからな、ちょっとひとっ走り行って、こういってきな。お小姓の石川杉弥は、少しく不審のかどがあって、八丁堀の右門がめしとったから、その旨奥女中一統をはじめご家中の者残らずへ、こよいのうちにお忘れなくご披露《ひろう》してくださいまし、といってきなよ」
 そして、伝六の帰りを待っていましたが、まもなく命を果たして駆けもどったのを見ると、だにのごとくにあとをつけているあばたの敬四郎をしりめにかけながら、さっさと伝馬町へ引き揚げていって、その場に石川杉弥を上がり屋敷へ投獄するように命じました。しかし、そのときこっそりと伝六へあの佃煮《つくだに》の折り詰めを手渡しながら、意味ありげにささやきました。
「ご大身のお小姓に、ただのもっそう飯でもかわいそうだからな。これでもおかずにしてお上がりなさいといって、ほうり込んでおきなよ。それから、蚊いぶしでも特別にたくさんあてがってやってな」
「なるほど、がてんがめえりましたよ。うなぎの佃煮以来、どうもいろいろと変なことするなと思っていましたっけが、あれもこれもみんな右門流ですね。そうとわかりゃ、牢名主《ろうなぬし》の野郎にもよっくいいきかせて、殿さま扱いにさせますからね。お先に帰って、ゆっくりとお休みなせいよ」
 わかったものか、伝六がまめまめしくいっさいを取りしきりましたので、右門はひたすらに、次の朝を待ちました。

     

 さて、その翌朝です。起きるから右門はしきりとなにか人待ち顔でいましたが、と、それを裏書きするように、あわただしく表のかたにあたって、右門のお組屋敷を訪れた人の足音がありました。
「ほしかな」
 つぶやいていましたが、伝六の取り次ぎによってそれが越前侯のご用人であることがわかると、右門はおそろしくぶあいそうに命じました。
「石川杉弥のお掛かり合いならば、私宅で面会はなりませぬといっておやりよ」
 ぶりぶりしながら用人のたち帰ったのを聞きすますと、右門はなおなんびとか人待ち顔に、しきりと表のほうへ耳を傾けていましたが、それからおよそ一|刻《とき》ほどののち、どうやら女らしい来客の足音を聞きつけると、むくりと起き上がりながら伝六に命じました。
「今度こそ、ほしだほしだ。丁重に案内しなよ」
 はたして、伝六に導かれながら、おどおどとしてそこに姿を見せた者は、まだ十六、七の可憐《かれん》きわまりなき美少女でありました。さながら雨にぬれ沈んだ秋海棠《しゅうかいどう》をみるがごとき可憐さで、もの思わしげにうち震えていたものでしたから、座につくや同時に、右門がずばりと先手を打って尋ねました。
「越前さまのご家中でござりましょうな」
「はい……お下屋敷の奥勤めをいたしておりまする百合江《ゆりえ》と申す者でござります」
「おおかたその辺でござろうと、右門けさからお待ちうけいたしておりました。なんのためにお越しなさったかも存じてござるによって、けっしてお隠しなさってはなりませぬぞ。おそらく、石川殿と秘めごとがござりましょうな」
 と、百合江と名のったそれなる少女は、胸中を射ぬかれたごとくに、ぱっと面を染めながら口ごもったので、のがさずに右門が追いかけました。
「察するところ、それあるために、杉弥どのめしとられたと聞いて、てまえに掛け合うためにお越しでござりましょうが、むだなお隠しなさりますれば、いとしいおかたの生死にもかかわる大事でござるぞ。まだ人目を忍ばねばならぬお仲なればお仲のように、拙者が誓ってお力となってしんぜようから、包まずにお明かしめされよ」
 しかし、なお少女は言いためらっていましたが、ようやくにして思い決しましたか、案のとおり秘めごとを打ち明けました。
「よく納得が参りました。お恥ずかしい仕儀にござりまするが、お目がねどおり、まだ人目を忍ばねばならぬ仲にござります」
「いつごろからでござった」
「つい十日ほどまえのふとした夜さに、はじめてあのかたさまから熱いお心のうちを承りましたので、末始終の恋をお誓いしたのでござります」
「そのとき、だれぞに見とがめられたお記憶はござらぬか」
「いいえ、少しも……」
「では、どなたかほかの者で、まえからお身を慕っていた者にお心当たりはござらぬか」
「それもいっこう存じ寄りはござりませぬ…」
「ほう、ないとな」
 ややめんどうになったなといいたげな面持ちで、しばらく右門はうち案じていましたが、まもなく質問の矢向きを変えて、また尋ねつづけました。
「では、異なことをお尋ねするが、そのとき言いかわすまで、杉弥どのとはお近づきでござらなんだか」
「いいえ、幼いころから存じてでござります」
「ならば、杉弥どのの朋輩《ほうばい》なぞも、よくご存じでござりましょうな」
「はい、道場通いのころからのご朋輩を五人ほど存じてでござります」
「そのなかに左ききの腕達者の者はござらぬか」
「ござります、ござります、波沼様と申しまして、要介様《ようすけさま》と欣一郎様《きんいちろうさま》と申されるふたごのご兄弟が、どうしたことか、生まれおちるからのそろいもそろった左ききだそうでござります」
「なに、ふたごの兄弟※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「はい、おふたりとも杉弥さまよりか二つ上のはたちとかにござりまするが、お家がらもよろしいし、日ごろおとなしやかなおかたたちでござりましたので、ついおととしの春ご元服あそばされるまでは、やはりお小姓方をおふたりともお勤めでござりました」
「むろん、剣道達者でござろうな」
「はい、おふたりとも、そろいもそろって無念流とかのおじょうずにござりますので、家中のみなさまがたが、珍しいおふたごだと、もっぱらのご評判にござります」
 聞くと同時に、右門のまなこはぎらぎらと異様な輝きを見せていましたが、突然、意外なことを少女に尋ねました。
「そなた水泳ぎはご堪能《たんのう》でござらぬか」
「ござりましたら、いかがなされまするか」
「そなたのいとしい杉弥どののお難儀を救ってしんぜるが、おできにござるか」
「できますでござります、できますでござります。杉弥さまをお救い願えますことならば、どのようなことでもいたしまするでござります」
「でも、男どもといっしょに泳ぐのでござるぞ」
「恋しいおかたのためならば、身の恥も悲しみも、けっしていといませぬ」
 げにや恋ぞ強し!――可憐《かれん》きわまりなかった少女の面は、ほのぼのと熱をきたして、言下に答えたその声すらも、凛乎《りんこ》として決断の強さを示していたものでしたから、右門も同時に命ずるごとくいいました。
「では、夕月ごろまでに、それなるふたごの兄弟を巧みに誘い合わせて、なるべく薄着の水じたくをご用意しながら向島の水神へお越しめされい。少々ぐらいは秋波《ながしめ》なりとそれなる兄弟にお与えなさって、巧みに誘い出さるがよろしゅうござりまするぞ。かの者どもといっしょに泳ぐ旨も忘れずに申されてな。のう、よろしゅうござるか」
 なにかは知らぬながらも、すぐと百合江がうちうなずいて、欣々《きんきん》としながら立ち去りましたものでしたから、右門はすばらしく朗らかにいったものです。
「さ、伝六、これから英雄閑日月というやつだ。きさまにも今夜ちっとばかり目の毒になることを見せてやるから、今のうちにゆっくりと昼寝でもしておきなよ」
 いったかと思いましたが、ほんとうにもうその閑日月ぶりをそこに始めました。

     

 かかるうちにも迫りきたったるは、十七夜の夕月のいまに空をいろどらんとした暮れ六つ下がりです。例のごとくの落とし差しで、伝六に龕燈《がんどう》を一つ用意させると、右門はまず伝馬町の上がり屋敷へおもむいて、前夜投獄させた石川杉弥の牢《ろう》前に、ずかずかと近づいていったとみえましたが、みずからかちりと錠をあけると、なにも告げずに、驚き怪しんでいる杉弥を表へ丁重に迎え出して、用意させておいた駕籠《かご》にいざない請じながら、息づえをそろえて向島の水神に走らせました。
 行きついたときは、いまし七月十七夜の夕月が、葛飾野《かつしかの》の森をぽっかりと離れのぼって、さざら波だつ大川に、きららな銀光の尾を映し出したときです。と――待つ間ほどなく、はるか土手向こうにちいさく姿を見せたものは、紛れなきふたごの兄弟波沼要介と欣一郎に、可憐《かれん》な少女百合江でありましたから、すばやく右門は杉弥を伴ってそこの葦叢《あしむら》に身を潜めると、命ずるごとくにいいました。
「いかようなことが目前にあらわれてまいりましょうとも、けっして声をたてたり、おどろいてはなりませぬぞ」
 杉弥はただいぶかり怪しんでいましたが、やがてしばし――。百合江は右門たち三人の姿をすでに途上で認めていたものか、かくれ忍んでいるその葦叢《あしむら》のまんまえに兄弟たちをいざなってくると、なんたる恋ゆえのおおしさであったろうぞ! すべてを心得たもののように、薄青白な月光のもとで、ぱッとその着衣をぬぎすてたのです。
 と、同時に現われた雪白の裸体姿! いや、下半身にはひらひらと夕風になびいて、それゆえにひとしお悩ましき美しさを増す緋《ひ》の色の布がまとわれてありました。しかも、それらをいよいよ明るまってきた月光にさらしながら、しばらく人々の目を射るにまかしていましたが、やがて清らかに波沼兄弟たちへいう声が聞こえました。
「では、おあとからお越しなされませ。わたくしが先に参りますわ」
 いっしょに水煙が上がって、波間に彼女の姿はくねくねと動いたとみえたが、まさにそれは人魚です。明るさまさった月光を浴びて、青の水に白を浮かして、ただ美しく悩ましき人魚です。さるをどうして波沼兄弟ばかりがあとを追わないでいられましょうぞ! うしろに右門がそれを手ぐすね引いて待っているとも知らず、おのおの腰帯一つになると、抜き手をきってつづきましたから、鋭く右門が杉弥に命じました。
「さ! このあいだに、あの両名の腰のものをお改めめされよ!」
 はじめてわかったもののごとく、杉弥が駆けだして、伝六のさし出した龕燈《がんどう》の下に中身を改めていましたが、と、まもなく歓声が上がりました。
「ござりました、ござりました。兄の要介めが帯びていたこれなる一腰の刀身、たしかに見覚えの村正にござります」
 きくと同時に、右門が水の上へ叫びました。
「百合江どの、百合江どの! 杉弥どののご難儀は救われましたぞ!」
 さて、もうあとはぞうさがなかったのです。根が深い悪心のあったことではなかったものでしたから、要介は神妙にすぐ自白をいたしました。
 それによると、動機はむろん百合江に対する恋ゆえで、幼なじみ以来の恋情と思慕をひそかに寄せていたところ、はしなくも彼女の心が杉弥に向かって傾いたことをその挙動で感づいたものでしたから、つい目がくらんで、おろかな悪計を思いたち、杉弥が殿から村正のひとふりを預かっていたことはちゃんと知っていたので、それを盗みとったら、おそらく杉弥は詰め腹か追放に会うだろうと思って、杉弥なきあとの百合江の恋を私することができるだろうと考えついたものでしたから、殿の怒りを激発させるために、かく秘蔵中の秘蔵の村正を盗みとったのです。しかし、盗み取ってはみたが、要介も根からの悪人でなかった証拠には、村正の世に出してはならぬ刀であることはよく知っていたものでしたから、ご恩をうけた君侯の名に傷をつけまいために、また二つには自分の犯跡をくらますために、平素身近に帯ぶることが最も臟品《ぞうひん》を隠匿するに聡明《そうめい》な方法と思いついたものでしたから、かように作りを変えて佩用《はいよう》していたのでしたが、それとて右門の慧眼《けいがん》のために、はしなくも看破されて、今のごとき艶麗《えんれい》無比な機知の吟味となったのです。
 もちろん、新墓の死に胴ためしも要介のしわざで、村正のあまりによく切れそうな妖相《ようそう》についそそのかされて、かく罪なき仏の肉体を汚したのでありました。
 そこで、いかに右門がこれを裁断するか、それが興味ある問題でしたが、むっつり右門はあくまでもうれしきわれらの右門です。よこしまな恋のために、友を裏切った若者を、たしなめるがごとくに、じゅんじゅんと言いきかせました。
「そなたもこれまでは一点非もなく育てられ、またこれから先も、望みのある身ではござらぬか。振り分け以来の朋友《ほうゆう》の清らかな恋を祝ってやるくらいな雅量がなくてなんとなる。また、女の心というものは、そなたのようなよこしまな考えをもつものに、けっしてなびきはいたしませぬぞ。本来ならば死人を恥ずかしめた罪に問うべきでござるが、それをすれば自然世に出してならぬ一腰のことも、あかるみに出さねばならなくなるゆえ、松平家というたいせつなご親藩の名のために、右門が一生このことは胸に秘めて、今度だけは見のがしいたすによって、自今けっして杉弥どのたちの美しい秘めごとに、横水をさしてはなりませぬぞ」
 そして、目を転ずると、美しき恋のふたりたちにも、さとすごとくにいいました。
「越前さまも上さまのお血を引いたご名君でござるから、すべてのことは申しあげなくともおわかりくださるだろうによって、そなたたちもはようむつまじい実を結ばれたまえよ」
 言い終わると、ただ感謝のために声もなき杉弥以下四人の者へ静かに黙礼をのこしながら、さっさと歩を運ばせていましたが、ふと思い出したように伝六へいいました。
「あばたの敬四郎めが、下手人はあのときであがったと思い違えて、ここまでつけてこなかったのは、もっけのさいわいだったな。あいつはむやみと人を罪におとしたがるやつだからな。――おお、いい月だ! 今はじめてお目にかかるんじゃねえが、いつ見てもお月さんはいい色をしておいでだな」
 ――かくて、義によって立ち、義をもってさばき終わった右門の第七番てがらは、その月のゆかしい光のごとくに、知る人の心にのみ、ゆかしくも高いかおりを残すことになりました。

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:Juki
1999年12月28日公開
2005年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木味津三

右門捕物帖 なぞの八卦見 —–佐々木味津三

     

 今回はその第六番てがらです。
 事件の端を発しましたのは、前回のにせ金事件がめでたく大団円となりましてから約半月ほどたってからのことでしたが、半月のちといえばもちろんもう月は変わって、文月《ふみづき》七月です。ご承知のごとく、昔は太陰暦でございますから、現今とはちょうどひと月おくれで、だから七月といえば、まさに炎熱のまっさいちゅうです。それがまたどうしたことか目もあてられない酷暑つづきで、そのときのお奉行所《ぶぎょうしょ》お日誌によると、この年炎暑きびしく、相撲《すもう》取り的にて三人蒸し死んだるものある由、と書かれてありますから、それだけでもどのくらいの暑さだったかが想像がつくことと思いますが、わがむっつり右門とて生身の人間である以上、暑いときはやっぱり人並みに暑いんだから、西日がやっとかげっていくらか涼風の出かかったお組屋敷のぬれ縁ぎわに大あぐらをかきながら、しきりとうちわを使っていると、大いそぎで今お湯をすましたばっかりといったかっこうで、せかせかと裏庭口から姿を見せたものは、例のおしゃべり屋伝六でありました。それというのは、いつまでたっても変人の右門が、もう少しこのほうだけは人並みすぎるほうがいいと思われるに、いっこう、女げをよせつけようとしないものですから、右門のこととなるとむやみと世話をしたがる伝六が、このごろずっとお通いで、朝晩のお勝手を取りしきっているからのことですが、だからわが家のごとく無遠慮に上がってくると、いっぱしの板番になったような顔つきで、ざっくばらんに始めました。
「米びつがけさでからだから、清水屋《しみずや》の小僧が来たらおいいなせえよっていっといたはずですが、まさかお忘れじゃねえでしょうね」
 すると、右門という男は、どうもどこまで変わり者だか、すましていったものです。
「ねぼけんない。おらそんなこたあ知らねえよ」
「えッ。ねぼけんないっですって……? あきれちまうな。だんなのおなかにへえる品物ですぜ」
「でも、きさま、おれがきのうこの暑っくるしいのに河岸《かし》の物ばかりでも気がきかねえから、たまにゃ冷ややっこでも食わせろといったら、ご亭主っていうもな、お勝手のことなんぞへ口出すもんじゃねえっていったじゃねえか」
 ほんとうにきのうそんなことをいったものか、めったにしっぽを巻いたことのない伝六も一本参ったとみえて、頭をかきながら苦笑いをしていましたが、するとちょうどそのときでありました。不意に、するすると忍び込みでもするかのように表玄関の格子戸《こうしど》があいたんで――。
「おやッ、変なあけ方をしやあがるな。いかにむてっぽうな野郎でも、まさか右門のだんなのところへ、こそどろにへえろうなんてんじゃあるめえね」
 夕暮れどきではあり、いかにもそのあけ方が少しおかしかったものでしたから、いぶかって伝六が出ていったようでしたが、まもなく引っ返してくると、いつもの口調でやや不平がましく、不意に変なことをがみがみといったものでした。
「ねえ、だんな、あっしゃこれでも、だんなのためにゃ命までもと打ち込んでいるつもりなんですが、まさか急にだんなは、あっしにみずくさくなったわけじゃござんすまいね」
「やぶからぼうに、おかしなことをからまってくるが、いったいどうしたのかい。米俵でも玄関にころがっていたのかい」
「しらきりなさんな。だんながその気なら、あっしもその気で考え直しますが、そもそもいってえ、いつのまに、あんな女の子を手なずけなすったんですかい」
「え……? 女の子?」
「え、があきれまさあ。いくらだんなが変わり者だからって、あれじゃまだせいぜい九つか十ぐれえにしかならねえんじゃねえですか。それとも、今からあんなちっちぇい娘を予約でもしておくんでげすかい」
「変なことばっかりいうが、そんな小娘でもたずねてきたのかい」
「来ただけじゃねえんだから、あっしゃみずくせいっていってるんですよ。ね、せっかくあっしがああやってわざわざお出迎いにいってやったのに、ちくしょうめ、おかしなまねをしやがって、あっしの顔みるてえと、じゃまなやつが出やがったなんていうようなつらしながら、赤くなってまた逃げてきましたぜ」
「ほんとうなら、少し変だな」
「だからこそ、いつあんな小娘を手なずけたんですかって、きいてるんじゃござんせんか。もうあんな色っぽい手管おぼえやがって、それとも、だんながあっしの顔みたら逃げてかえれとでも悪知恵つけておいたんですかい」
 相手はなにしろまだ九つか十ぐらいの小娘なんでしたから、たとえどんなに色っぽくまっかな顔になって逃げかえったにしても、それをただちに右門とおかしな仲ででもあるかのように思う伝六もちっと酔狂がすぎますが、しかしその報告がもし事実としたなら、相手が小娘だけに、右門も少しいぶかしく思ったので、もう一度たずねてくるかと心待ちに待ちました。
 しかるに、この奇怪なる来訪者は、右門の予期を裏切って、いぶかしきなぞの雲に包まれたまま翌日となりました。翌日もむろん前日にまさる炎暑でしたが、勤番は半日交替で午前中にひけるはずでしたから、伝六の怪しげなる腕まえによって調理された朝食を喫すると、あまりぞっとしない顔つきで、むっつりとしながら出仕いたしました。例のようにすぐと訴訟箱をひっかきまわしてみたが、いっこう目ぼしい事件もございませんので、屈託げにあごのひげをまさぐっていると、かれこれもうひけどきに近いお昼ごろのことです。伝六があたふたと駆けつけていったもので――。
「ねえ、だんな。ちっとどうもおかしいじゃござんせんか。ゆんべ八丁堀のほうにやって来たあのちっこい小娘が、まただんなを名ざしてたずねてきましたぜ」
 名ざしといったものでしたから、ますますいぶかしさをおぼえまして、すぐと右門が立とうとすると、しかし伝六が押えていいました。
「まちなせえよ、まちなせえよ。そんなに目色をお変えなすったってだめですよ。ね、小娘のくせに、いよいよもって、どうもふざけたまねしゃがるじゃござんせんか。今はらちがねえにしても、五、六年たちゃそろそろ年がものをいうからね。だんなに気があるならあると、すなおにいやいいのに、あっしの顔みたら、またまっかになって、いちもくさんに逃げてきましたぜ」
 と――、聞き終わるやいなや、むっつり右門がどうしたことか莞爾《かんじ》とばかり微笑を見せていましたが、まもなく例のごとくにかれ一流の意表をつく命令が、疾風迅雷的にその口から放たれました。
「な、伝六! きさま清水屋にお糸っていう小娘のあること知っているな」
「え? 知ってますよ。知ってますが、清水屋っていや米屋じゃござんせんか。お米ならもうとうにゆんべまにあいましたぜ」
「米に用があるんじゃねえんだ。娘のお糸に用があるから、ひとっ走りいって、ちょっくら借りてこい!」
「あきれちまうな。そんな小娘ばっかり集めなすって、鬼ごっこでもする気ですかい」
 少しも右門のやることに予測がつかなかったものでしたから、正直一点の伝六が首をひねったのは当然なことでしたが、しかるに本人の右門のほうはいよいよいでていよいよ不審だったのです。ひと足先にお組屋敷へかえって、ゆうゆうと寝そべっていましたが、伝六が汗をふきふき米屋の小娘を伴ってきたのを見ると、急に目を細めながらいいました。
「ね、お糸坊。おまえこないだっから、おじさんが好きだといったな」
「ええ、大すきよ。絵双紙でみた名古屋|山三《さんざ》そっくりなんだもの――」
 この少しこまっちゃくれた下町娘は、もうよほど右門とはなじみとおぼしく、いささかもはにかみを見せないですぐと答えましたものでしたから、右門がいよいよ伝六の目を丸くするようなことを平然としていいました。
「じゃ、きょう一日おじさんの子どもにならんかい」
「いちんちだけなの……?」
「ああ。だけど、おまえがもっと幾日もなりたいというなら、してあげてもいいよ」
「じゃ、なりましょう! なりましょう!」
 すばらしく勇敢に、すぐと答えましたものでしたから、伝六がとちめんぼうのような顔つきをしていると、反対に右門はにやにやとやっていましたが、まもなくそこに碁盤をさげ出しながら、すましきっていいました。
「じゃ、さっそく、これからおはじきを始めるからね」
 そういうと、ほんとうにお糸坊を相手にしながら、もうぱちぱちとおはじきをやりだしたもので、しかもなにがそんなにおもしろいものか、あきもせずに夕がた近くまで同じことを繰り返し繰り返しやっていたものでしたから、伝六がとうとうお株を始めました。
「らちもねえことするにもほどがごわさあ。くそおもしろくもない、あっしゃもうけえりますよ」
「そうかい。けえりたきゃけえってもいいが、でも、すぐとまた来なくちゃならんぜ」
 それを意味ありげに引き止めながら、しぎりと右門はお糸を相手に興がっていましたが、やがてまもなくのことです。そろそろたそがれが近づきかかったのをみると、突然お糸をこかげに招いて、耳へ口をよせながら、なにやらこまごまと秘策をさずけました。
「まあ、そう。ええ、わかりました、わかりました。おもしろいのね」
 すぐと了解がついたものか、きゃっきゃっといって、お糸坊は丸くなりながら表へ駆けだしたようでしたが、四半ときばかりもたつと、これは意外! ふるえながら青ざめている同じくらいのいじらしい小娘をもうひとりそのうしろに伴って、てがらをほこり顔に、にこにこしながらかえってまいりましたものでしたから、ひと目見るやいなや、あッとばかり伝六が目をさらにしてしまいました。
「ね、だんな! ね、だんな! こ、こりゃ、ゆうべときょう、だんなをたずねてきたあの小娘じゃござんせんか」
 すると、右門が涼しい顔をしていったものです。
「そうさ。まさに判然とあの小娘だよ。どうだい、おまえの胸も、ちっとはすっとしたろう」
「しました、しました。富士の風穴へでもへえったようですよ。さすがはだんなだけあって、やることにそつがねえや。なるほどな。じゃ、なんですね、きのうからのこの小娘のそぶりをお聞きなすって、ひと事件《あな》あるなっとおにらみなすったんですね」
「あたりめえよ。わざわざ右門を目ざしてたずねてきたのもおかしいが、二度もたずねて二度とも帰ってしまったなあ、恥ずかしいよりもよくよくでかい事件なんで、訴えることがおっかねえんだなとにらみがついたから、きょうもてっきりまたたずねてくると思って、子どもは子どもどうしに、お糸坊をちょっとえさに使ったんだ。――な。嬢や、さ、いってみな。このとおり、もうおじさんがついているからにゃ、鬼の首だって取ってあげるから、隠さずにいってみなよ」
 いうと、いたいけなその小娘は、案の定よくよく思いあまっていたこととみえて、右門のそのたのもしい一言に、ほろりと一つたまりかねたようなしずくを見せていましたが、やがてぽつりぽつりと、事のあらましを訴えました。
 それによると、このいじらしい小娘の父親は、もと中国筋のさる藩中で、ささいなことから君侯の怒りにふれて浪々の身となり、もう半年ほどまえから深川|八幡《はちまん》裏に継母と三人暮らしのわび住まいをしていたのだそうですが、十日ほど以前のある晩、父親が突然不思議な死に方をしたというのです。なんでも、日ごろからたいへんな迷信家で、ことごとにご幣をかつぎ、浪々の身となって深川に住むようになったことも、男は占い者のことばのうちに、辰巳《たつみ》の方角へ住まいをしたらふたたび運が開けるだろうという注意があったためからのことだったそうでしたが、しかるに殿の勘気はいっこうにゆるまず、さらに開運のきざしをすら見せなかったので、新たに八幡宮へ三七二十一日のご立願《りゅうがん》を掛けようとお参りにやって行くと、はからずもその境内にいぶかしきひとりの占い者が居合わせて、それなる少女の父親が通りかかったのを認むるや、頼みもしないのに、突然おかしなことをいったというのでありました。それがいわゆる八卦見《はっけみ》占い者の常套《じょうとう》手段といえば手段ですが、とにかくその前を通りかかると、突然、あなたには死相が浮かんでいるというようなことをいったのだそうで、そうでなくとも平生が迷信深い浪人者でしたから、すっかりそのひとことにはまってしまい、こわごわ卦《け》をたててもらうと、それなる八卦見がまたなんによってそんな奇怪きわまる判定をしたものか、断ずるごとくに、こよいの丑満《うしみつ》どきに死ぬだろうということを言いきったというのです。だから、浪人者のびっくりぎょうてんしたのはむろんのことで、今はもう八幡宮へご立願どころではなくなったものでしたから、うろたえて浪宅に帰りつき、厳重に戸締まりを施しながら、家人の者をすら遠ざけて奥の一間に立ちこもっていたのだそうでしたが、しかるに、浪人者の態度は大いに奇怪至極でありました。夜半すぎまではいっこう何も変った点は見せなかったそうでしたのに、売卜者《ばいぼくしゃ》のいったかっきり丑満どきがやって来ると、実もって奇怪なことには、急に気違いのごとくに狂いだし、なにやら声高にわめきながら、やにわに往来へ駆けだしたんだそうで、のみならず、そのままやみの中をいっさんに永代橋に向かって駆けつけていくと、あれよあれよと追いすがった妻女の手をふりのけながら、いきなり身をおどらして、橋の欄干ぎわからざんぶとばかり大川に身を投じ、それなりどこへ流されてしまったか、死体もわからない不審な自殺を遂げてしまったということでありました。で、小娘の訴え嘆願していうのには、いかにもその死に方がいぶかしすぎるから、右門の知恵と力によって、その不審な父親の死のなぞを解いてほしいとこういうのでした。
 事実としたら、なるほどその死に方は、少しばかり奇怪です。いかに浪人者が昔からの迷信家であったにしても、このご時世にそんな死に方は、めったにはあるべきことがらではないんですから、即座に小娘の哀願を引きうけて、よしとばかりに、右門一流の疾風迅雷的な行動が、その場からすぐと開始されそうに思われましたが、しかるに、かれは一部始終を小娘から聞いてしまうと、不意に意外なことをぽつりと尋ねました。
「そなたのおとうさんは、ご藩にいられたおり、どんなお役がらでござったな」
「殿さまのお手紙とかを書くお役目にござりました」
「ほほうのう。ご祐筆《ゆうひつ》でござったのじゃな。では、剣術なぞのご修業は自然うとかったでござろうな」
 すると、小娘が年に似合わない利発者か、ぱっと面を赤く染めて、いうのを恥辱とでも思うように、あわてながら目を伏せたので、右門はひとりうなずき、ひとり胸のうちに答えながら、鋭い視線を放って、しばらくじろじろと小娘のからだを上から下へ見ながめていましたが、突然、さらに奇妙なことをぽつりと尋ねました。
「そなた、ご飯たきをしたことがあるかな」
「ござります……」
「そうか。では、どうじゃ。今晩からしばらく、おじさんのうちのままたきなぞをてつだってみないか」
 と、――、小娘がまた意外でした。右門のそのいたわるような一言をきくと、急に面を喜びの色にみなぎらせながら、どうしたことか、ぽろぽろと突然あふれるほどにもうれし涙を流したもので――。のみならず、もうかいがいしく立ち上がりざま、すぐとお勝手へおり立って、まだおそらく十か十一くらいの年歯《としは》だろうと思われるのに、手おけを片手にしながら、さっさと井戸ばたへ出ていったものでしたから、鼻をつままれて少しくぼんやりとしてしまったものは、いつもながらの伝六だったのです。
「だんなのするこったから何かいわくがござんしょうが、まさかこれっぽちの暑さで、脳のぐあいをそこねたんじゃござんすまいね」
 いったかいわないかのときでありました。しかるように鋭いことばが、不意に右門の口から発せられました。
「あいかわらずのひょうきん者だな。さ! 深川だ、深川だ! 深川へいって、あの小娘のおふくろを洗ってくるんだ!」
「えッ、おふくろ……? だって、小娘はまさに判然と、おやじの死に方がおかしいから、そいつを洗ってくれろといいましたぜ。だんなの耳は、どこへついているんでござんすかい」
「あほうだな。おれの耳は横へついているかもしれねえが、目は天竺《てんじく》までもあいていらあ。てめえにゃあの子の首筋と手のなま傷がみえなかったか!」
「え……? なま傷……? なるほどね。そういわれりゃ、三ところばかりみみずばれがあったようでござんしたが、ではなんですかい。そのみみずばれは、おふくろがこしらえたものとでもおっしゃるんですかい」
「あたりめえよ。あの小娘のおれに訴えてえものは、おやじのこともことだが、ほんとうはあのみみずばれのことがおもにちげえねえんだ。けれども、さすがは武士の血を引いて年より利発者なんだから、おふくろの折檻《せっかん》やそんなことは、家名の恥になると思って、このおれにさえいわねえんだよ。だから、見ねえな、おれが察して、当分ままたきのおてつだいでもするかといったら、あのとおり、ぽろぽろとうれし泣きをやったじゃねえか。きっと、おふくろに何か家へ帰りたくねえようないわくがあるにちげえねえから、ひとっ走り行ってかぎ出してこい」
「なるほどね。いわれてみりゃ、大きにくせえや、じゃ、もうこっちのお糸坊のほうはご用ずみでしょうから、道のついでに帰してもようがすね」
「ああ、いいよ。途中であめん棒でも買ってやってな――ほら、二朱銀だ」
「ありがてえッ。残りは寝酒と駕籠《かご》代にでもしろってなぞですね。では、ひとっ走り行ってめえりますから、手ぐすね引いて待っていなせえよ」
 伝法に言いすてると、米屋のお糸を促して、景気よく飛び出したものでしたから、ここにいたってむっつり右門の別あつらえな明知と才腕は、配下伝六の骨身をおしまざる活躍とあいまって、いよいよその第六番てがらの端緒につくこととなり、今は伝六が深川からの報告を待つばかりとあいなりました。

     

 しかし、待つ間とてもあだに時をすごすべき右門とは右門が違いましたから、その間にもと思って、かれ一流の鋭利なる観察眼を用意しながら、聞きえられるだけのことを少女について尋ねました。しかるに、少女はその名を静と呼ばれているということと、疑問のおふくろをのぞいてはひとりの身よりも肉身もないということのみは包まずに答えましたが、右門のききたい肝心の継母に関しては、一言もことばを触れなかったのです。どれほどかまをかけてみても、利発そのもののような愛くるしいまなざしを伏せるだけで、ほとんどその片鱗《へんりん》をさえ伝えようとしなかったものでしたから、いよいよ右門が疑いの雲を深めているとき、通しの早駕籠《はやかご》かなんかで勢いよく駆け帰ってきたものは、深川へ行った伝六でありました。
「さ、だんな、お出ましだ。ほし! ほし! 大ぼしですぜ」
 的中したことを喜ぶあまり、おかまいもなくすぐにぶちまけようとしたものでしたから、右門は少女のいじらしい心根をおしはかって、とっさに目まぜでしかっておくと、別間に伝六をいざないながら、その報告を聞きました。
 それによると、お静への打擲《ちょうちゃく》折檻《せっかん》はむろんのことににらんだとおりで、今までも近所かいわいに評判なほどでしたが、ことに浪人者の不審なる入水《じゅすい》以後は、どうしたことか毎夜五つから四つまでの時刻にいっそう折檻の度が強まって、ひいひいと痛苦に泣き叫ぶお静の悲鳴が近所にもしばしば聞こえたということでありました。それから、つけたりに、それなる問題の継母が、お静とは姉妹ぐらいにしか見られないまだ二十五、六の若新造で、すばらしくいろっぽい容色の持ち主であるということ、および夫のいぶかしき入水以来どうしたことかめきめき金回りがよくなったということの、思い設けぬ材料が二つも報告されたものでしたから、右門のまなこはぎらぎらと予定のごとくに輝きを帯び、その口からは憤るがごとき、つぶやきが鋭く放たれました。
「ちくしょうめ。八丁堀にゃめくらしかいねえと思ってやがるな」
 だから、ただちになんらかの疾風迅雷的な行動がその場にも開始されるだろうと思われましたが、しかるに右門の伝六へ与えた命令は、またちょっとばかり奇妙だったのです。
「じゃ、あした久しぶりに、浅草へでもべっぴんの顔見に出かけるかな」
 それも不意にべっぴんといったから、伝六が例のようにすぐとお引ぎずりを始めたのは当然なことで――。
「なんだか少しまた薄っ気味がわるくなりましたね。一つなぞが解けたかと思や、また妙ななぞをおかけになりますが、まさかあっしをからかっているんじゃござんすまいね」
 しかし、右門は答えずにぷいと表へ出ていくと、行きつけの権十郎床で、何を考え出したものか、しきりと念入りに月代《さかやき》を当たらせました。のみならず、そのあくる朝が来ると、珍しく鏡に向かって、と見つ、こう見つしながら、鬢《びん》のほつれを入念に直したもので、まもなく髪から顔の手入れがひと渡り済んでしまうと、少し荒めと思われるはでな結城縮《ゆうきちぢみ》を素膚へ涼しげにひっかけながら、茶無地の渋い博多《はかた》を伊達《だて》に結んで、蝋色《ろいろ》の鞘《さや》の細いやつをややおとしめにたばさみながら、りゅうとしたいでたちで、さっとばかりに立ち上がりました。同じ美男は美男でも、ぐにゃぐにゃとした当節の銀座っぺいとはできが違いますので、こうなるとまったくその男ぶりのすごいこと、すごいこと――だから、年百年じゅう見なれている伝六すらが、とうとうぽうっとなってしまったのです。
「ああ、つまらねえ、どうしておれゃ女に生まれてこなかったろうな。こんないい男を前にして、野郎に生まれたばっかりの因果には、どうにも手の出しようがねえじゃねえか――」
 まことにこれは伝六の嘆声がもっともですが、しかし右門はそれほどもあざやかな美男ぶりであるにもかかわらず、べつにみずからはそれを鼻にかけようともしないで、おこったごとくにむっつりとおし黙りながら、さっさと表へ出ていきました。むろん、出ればすぐと駕籠《かご》で、しかも目ざしたところはほんとうに浅草だったのです。
 けれども、浅草を目ざしたことは目ざしましたが、右門の駕籠からおりたったところは、山の見せ物小屋とは反対に、雷門のまんまえでありました。それも、お参りをしようとするのではなくて、この暑いのにごった返している仲みせ通りの人込みをしきりとぶらぶらしながら、二度も三度も同じところを行ったり来たりやりだしたものでしたから、こういうときのむっつり右門がしばしば人の意表を突くような行動を取ることはよく知っていても、あんまり変なことをしすぎるために少々うだってしまったものか、伝六がとうとうお株の気短を小出しにさせて、ちえッと舌鼓を打ちながら、そのそでを引きました。
「あきれちまうな。きんのうやきょうお江戸の土を踏んだ人間じゃあるめえし、観音さまはいつ来たってこのとおりの人込みですぜ。薄みっともない、ぼんやりと口をあけて、なにがいったいそんなに珍しいんですかい。あっしゃもうほんとうにおこりますぜ」
 しかるに、右門はいっこうに馬耳東風と聞き流しながら、しきりとなにか物色顔で同じところを行ったり来たりしていましたが、そのときはからずも人込みの中から、まだ二十《はたち》ぐらいのみずみずとしたあだっぽい女の姿をみとめると、不意に鋭い口調で、ささやくように伝六へ命じました。
「ずいぶん待たしやがった。さ、伝六! どうやらむくどりが一匹かかりそうだから、あの女から目を放すなよ」
「えッ、女……? どこです? どこです?」
「あそこを行くじゃねえか。ほら、みなよ。黒っぽい明石《あかし》の着付けで、素足に日傘《ひがさ》をもったくし巻きのすばらしいあだ者が、向こうへ行くじゃねえか」
「な、な、なるほどね。どうやら堅気の女じゃねえ様子だが、あいつに目を放さなかったら、暑気当たりの薬にでもなるんですかい」
「よくも口のへらないやつだな。ひょうきん口をたたいている場合じゃねえんだよ。ずいぶん暑い思いをさせやがったが、あのあだ者が、今うわさに高いくし巻きお由にちげえねえんだ」
「えッ、くし巻きお由……? くし巻きお由っていや、きんのうもご番所でやつのうわさが出ましたっけが、この節浅草を荒らしまわる女すりじゃござんせんかい」
「だろうとにらんだればこそ、目を放さずにいろといってるんだ」
「でも、深川のまま母は、あいつじゃござんせんぜ」
「うるせえや、見てろといったら見ていろい!」
 はげしくしかりつけましたものでしたから、無我夢中ながら伝六も必死に目を放さないでいると、くし巻きお由と目ききされたそれなる疑問のあだ者は、どうしたことか、手にちゃんと日傘をもっているくせに、それをすぼめたままで、ごった返している人込みの間を右に左に縫いながら、仲みせを奥へ小急ぎに行ったようでしたが、と、ちょうど仁王門《におうもん》の手前――その手前までさしかかったところで、はしなくも向こうから日本橋あたりのお店者《たなもの》らしい若い男が、お参りをすまして帰ってきたのに行き合わせると、うしろに慧眼《けいがん》はやぶさのごときわがむっつり右門が控えているとも知らずに、女はまずにっとばかりそれなる男に向かって、ひと目千両の媚《こび》をつくってみせました。と、お店者のたちまちぐんにゃりとなってしまったのはもちろんのことで――、ありがてえッ、気があるな、というようにとろんとなったところへ女はふうわり軽く近づくと、涼しい声でこんなふうにいったものでした。
「ご信心ですことね」
 しかし、いったそのとたんです。果然、疑問のあだ者は、右門の目ききしたとおり、いま江戸で売り出しのくし巻きお由であったとみえて、そのわざの早いこと、早いこと!――目にも止まらぬすばしっこさで、しなやかに美しい指先がぽんとお店者の胸をたたいたとみるまに、早くも懐中のぽってりと小判をのんでいるらしい一物はするり女の手先にすられて、音もなく左手のすぼめて持っている日傘の中にすべりおちました。
「ちくしょうッ。器用なまねをしやがるね」
 だから、むろん伝六は御用にすることとばっかり思い込んで、勢い込みながら身を浮かそうとすると、しかるに右門は、意外な行動を突如としてまた取り出したのです。とっさに目顔で伝六を制しておいて、にやにや笑いながら女のあとを追っていったようでしたが、人込みのとだえた観音裏までつけていくと、ぽんと軽く女の背中をたたきながら、さわやかにいったもので――。
「ちょいと、お由さん! 妙なところでお目にかかったもんですな」
「えッ!」
 不意に自分の名を呼んで、しかもそこにりゅうとしたいい男の若い侍がなれなれしげに立っていたものでしたから、くし巻きお由の目をぱちくりとさせたのはいうまでもないことでしたが、右門はそのおどろきを見流しながら、莞爾《かんじ》とばかりにうち笑《え》むと、いっそうのさわやかさでいったものでした。
「おうわさじゃ聞いていましたが、あんなに器用な腕まえたあ思いませんでしたよ」
「えッ……まあ、突然――突然なんのことでございますかね」
「いいえ、なにね、今そこの日|傘《がさ》の中にちょいとこかし込んだしろもののことですがね」
「えッ!」
 ぎくりとなって、やや青ざめながらおもわずあとずさったのを、右門は心持ちよさそうに見ながめながら、くすりと一つえくぼをみせると、おちつきはらっていったもので――。
「まあ、あたしの顔をよくごらんなさいましよ」
 すると、くし巻きお由は、と見つ、こう見つ、右門のからだを上から下へ見ながめていましたが、さすがは彼女もそれと江戸に名を売ったかせぎ人だけのことはあってか、青ざめた顔に引きつったような笑いをむりに浮かべると、伝法な口調で悪びれずにいいました。
「――そうでござんしたか。男も参るほどの殿御ぶりと、かねがねおうわさに聞いちゃいましたが、じゃむっつり右門のだんなでござんしたね。そうとは知らず、お出回り先を汚して、お目こぼしをといいたいが、あたしも新まいながらくし巻きお由でござんす。だんなのようないい男のお手にかかるならせめても女|冥利《みょうり》でござんすから、さ、ご随意におなわをかけなさいましな」
 だから、じゃ、といって、すぐにも伝六へなわさばきを命じでもするだろうと思われたのに、意外なことに、むっつり右門はさらに莞爾《かんじ》とうち笑《え》むと、涼しげにいったものです。
「ところが、どうして、筋書きがそう定石どおりにいかねえんだから、人見知りはしておきたいものだね。実あ、お由さんの今のあの器用な腕まえをちょっとばかり見込んで、特にお頼みしてえことがあるんだがね」
「えッ……。だんながあたしに……?」
「さよう。そのために、この暑いさなかをわざわざ八丁堀から出張ったんですがね」
「まあ、近ごろうれしいことをおっしゃいますわね。そう聞いちゃ、あたしもくし巻きお由ですもの、その意気とやらに感じまして、どんなお仕事かひとつお頼まれしてみましょうかね」
「さすがは名をとった人だけあって、わかりがはええや。実は、今のあの器用なまねを逆にやってみせてもれえてえんだがね」
「え? 逆……? 逆というと」
「知れたことじゃござんせんか。ふところに品物をねじ込むんですよ、今のは器用にすり取ったようだがね。逆といや、つまり、あれをあべこべに、ふところへ品物をねじ込むんでさあ。むろんのこと、相手には気のつかないようにね」
「ああ、そんなことなら……」
 お茶の子さいさいですよといわないばかりに、ちょっとお由は考えていましたが、そこにおしゃべり屋伝六がいよいよいでていよいよ奇怪な右門のしぐさに、目をさらにしながらぼんやりとつっ立っていた姿をみると、不意ににっこりと笑いながら近よっていったもので――。
「ね、こちらのだんな。そら、そこのえり首に、大きな毛虫がはってますよ」
「えッ、毛、毛虫? 毛虫……?」
 不意でしたから、悲鳴をあげて伝六が飛び上がったのを、お由は目もとであだっぽく笑いながら制すると、静かにまたいいました。
「いいえ、えりじゃない、ふところですよ」
 と――、なんたる早わざなりしか、さらにうろたえて伝六が懐中に手を入れてみると、今までたしかに日傘の中に忍ばされていたと思われたあのお店者《たなもの》からすり取った紙入れが、もういつのまにか位置を換えて伝六の懐中にねじ込まれていたものでしたから、伝六も二度びっくりしましたが、期したることながら右門の舌を巻いたのも当然で、ついおもわず賛嘆の声を発しました。
「名人わざだ、名人わざだ。さすがは見込んでお頼みに来ただけのものがありますね――じゃ、今の調子で、この品物をねじ込んでもらいますかな」
 そして、いうと、出がけにでもちゃんともう用意してきたものか、ふところから取り出したものは、厳封をした十四、五本ばかりの書面でありました。
「あら! 少しこれじゃ役割がひどうござんすのね。あたしを使って、箱入り娘にでもつけぶみをさせるんでござんすか」
 だから、お由はすぐとそう取って、あたしだってもめったにひけを取らないあだ者ですよ、というように、ちょっと目もとをいろめきたたせましたが、しかるに右門がまずあれに一本と命じた相手は、いうがごとくどこかの箱入り娘ででもあろうと思いのほかに、これはまたなんたる意外ぞや、そこに店を張っていたじじむさい天神ひげの八卦見《はっけみ》だったのです。しかも、右門がお由に例の神わざを命じた相手の八卦見は、そこに居合わしたひとりばかりではないので、あちらこちらと捜しながら境内《けいだい》に居合わした全部で七人の八卦見たちに、一本ずつおまじないを施さしておくと、駕籠《かご》を命じてお由をも従えながら飛ぶように駆けつけさせたところは、神田明神の境内でありました。そこで同じように売卜者《ばいぼくしゃ》を見つけて、また三本ばかりふところにおまじないを施させておくと、さらに駆けつけさせたところは問題の深川|八幡《はちまん》で、その境内に居合わしたふたりの風体よろしくない八卦見たちにも同様に目まぜでお由に命じ、例の一本ずつをふところへ敏捷《びんしょう》にねじこませておくと、右門はさっさと駕籠《かご》を八丁堀へ帰させて、家へ上がるやお由の目をそばだてたのもかまわずに、さっとばかり胸をくつろげながら、わだかまりなくいったものでした。
「おう、暑い! 見る者はあっしとこの伝六ばかりだから、ご遠慮なくお由さんも薄着におなんなせえな」
 おなんなせえなといったって、なにをいうにも若い男をふたりも目の前にしてのことなんだから、冗談にもそんなだいそれた薄着なんぞになれるものではないのだが、蒸し返すような炎熱はがまんにもしんぼうができなかったとみえて、それにその筋のおだんな衆がちゃんとそばについていて、いいというお許しが出たものだから、ついお由も心がゆるんだものか、水色麻の長じゅばんをなまめかしくちらちらさせると、くつろげるともなく胸のあたりを少しばかりくつろげました。――むろん、雪のはだえは瑠璃色《るりいろ》にしっとり湿気を含んで、二九まさるはたちばかりの今ぞ色濃き春のこころは、それゆえにひとしおあだめかしい髪のくし巻き姿とともにいちだんのふぜいを添えて、魂までもあの世の遠くへ抜け出ていきそうななまめかしさでしたが、しかし相手は折り紙つきのむっつり右門でしたから、ちらりとそれを横目に見流しただけで、至極さばさばとした顔をしながらくるり伝六のほうへ向き返ると、くすくす笑いわらい、いたってあっさりといいました。
「おどろいたかい」
「ちえッ。あんまり人をいじくりなさんな。あっしゃもう無我夢中で少し腹がたっているんですよ」
「じゃ、お由さん、まだ二、三本手紙が残っているようだから、このかわいそうな気短者に、おまじないの種をみせてやっておくんなさいな」
 応じて、お由が残った中から一本をとって伝六のほうへ投げやったものでしたから、取る手おそしと封を切りながら、目を吸いよせられて読み下したようでしたが、同時におもわず伝六はあッと叫びました。――書中には次のごとき文書がかきしたためてあったからです。


――いつぞやは深川八幡境内にてご難役お頼み申し深謝このところにそうろう。おかげにて、あれなる浪人者は望みどおりの結果とあいなりそうらえば、それにつき改めてお礼の品なぞさし上げたくそうろうあいだ、こよい五つ半までに日本橋たもとへお越しくだされたく、右要用まで。いつぞやお頼みの者より。

 ――これではいかに伝六がうっそりといえども、はっきりと右門のいぶかしかった今までの行動が読めたものでしたから、額をたたかんばかりにしていいました。
「なるほどな。さすがだんなのやることだけあって、芸がこまかいや。じゃ、なんですね、このおまじないをおとりに使って、まずあのときの八卦見の野郎をおびき出そうというんですね」
「あたりめえよ。人相とか年かっこうでもわかっていりゃ、こんなまわりくどい捨て石なんか打たなくたっていいんだが、ただ深川の八幡にいた八卦見といっただけじゃ、どうせあいつらは渡り者なんだもの、どれがどいつだかわからんじゃねえか。だから、きょうだけの捨て石じゃ獲物がかからねえかもしれないよ。江戸にいる八卦見の数は、あれっぽちじゃねえんだからな」
「その心配ならだいじょうぶ。おらがだんなのやるこっちゃござんせんか。いますよ、いますよ。きっとあの十二匹のうちにいますぜ。それに、渡り者といったって、あいつらにもなわ張りはあるんだからね。思うに、あっしゃ深川の境内に今もまだいるんじゃねえかという気がするんですがね」
「そうばかり問屋でも卸すめえさ。――だからねえ、お由さん、あんたも今の話で、あっしどもがなにしているか、もうおおかためぼしがついたでしょうが、場合によっちゃ、まだ二、三日あんたの例の早わざをお借りしてえんだからね。当分おてつだいをしてはくださるまいかね。ごらんのようなひとり者で、家の人数といっちゃあ、そこのお勝手にいるお静坊とあっしきりなんだから、寝言をいおうと、さかしまにはい出そうと、ご随意なんだがね。――もっとも、あっしが生身のひとり者なんだから信用がおけねえっていうんなら、そいつあまた格別ですが」
「いいえ、もうだんななら――、だんなのようなおかたのそばでしたら――」
 こっちが押しかけてもといわんばかりに、すぐとお由が引き取って、すりなぞ手内職にやっている素姓の者とは見えないような、娘々したはにかみを見せたものでしたから、腕のほうはどじのくせにそのほうばかりはまたやけに気の回る伝六が、たちまちそばから茶々を入れました。
「ちえッ。いい男にゃなりてえもんだな。女のほうから、このとおり、もうたかってくるんだからね」
 それにはちょっと右門も顔を赤らめたようでしたが、宵《よい》の五つ半といえばまだだいぶ間がありましたから、名人閑日月のたとえどおりごろりと横になると、ここちよげに午睡の快をむさぼりだしました。

     

 かくて、日は愛宕《あたご》の西に去って、暮るれば大江戸は宵の五つ――。五つといえば、昔ながらに江戸の町はちょうど夕涼みのさかりです。虫かごにはまだ少し早いが、そのかわり軒端《のきば》の先には涼しい回りとうろうがつるされて、いずこの縁台も今を繁盛に浮き世話のさいちゅうでした。だから、右門も涼みがてらにゆかたがけかなんかで出かけそうに思われましたが、しかし出てきた姿を見ると、昼のままの長いやつをおとし差しです。したがって、伝六がもも引きたびに十手を内ふところに忍ばしているのは当然なことですが、でもまだ月の初めでしたから、空は星あかりばかりで、そのためよくよく近よって見ないことには、かれらが八丁堀の者であることを見きわめることは、ちょっと困難なよいやみでした。
 さればこそ、そのよいやみをさいわいに、大身の若殿が供をつれて夕涼み、といったように見せかけながら、指定しておいた日本橋の橋たもとにたどりつくと、はたして、むくどりや来たるとばかり、目を八方に配りながら、ぶらぶらとその辺を逍遙《しょうよう》しておりました。
 と――。けがの功名なことには、伝六の予言がみごとに的中いたしました。総髪の毛束を風に吹かせて、人捜し顔に向こうからやって来た人影があったものでしたから、ひとみをこらしてよく人体を見定めると、まさに昼間深川の境内で最後におまじないをやっておいたそのひとりです。
「ね、だんな、どうですい。あっしの鉄砲玉だって、たまにゃ的に当たりやしょう」
 とんだところで伝六はすっかり鼻を高くしてしまいましたが、しかしそのときはもう右門が近よって、しらばくれながらかま[#「かま」に傍点]をかけていたときで――。
「おう、来てくだすったか。ご苦労だな」
「あっ――、暗くてよくわかりませんが、さきほど書面をくださっただんなですね。うちにけえってみると、いつもらったものか、ふところにあいつがへえっていたもんだから、あっしもびっくりしちゃいましてね」
「そうかい。とんだおつなまねしてすまなかったが、知ってのとおり、ちと内密に頼んだ仕事だったものだから、人に見とがめられちゃあとぐされが恐ろしいと思ってな、ちょっとばかり隠し芸をしたまでさ」
「ええ、そうでがしょう。大きにそうでがしょう。あのときもそういうお話でしたからね。ところで、ご書面によるとうまくいったとありますが、あの浪人者はほんとうにあれで死にましたかい」
「死んだからこそ、こうやってお礼に来たんだ。ときに、あのときゃいくら礼金をやるって約束をしたっけな」
「三両――たしかに三両っておっしゃいましたよ。だから、あっしゃ欲にかまけて、いまに来るか、いまに来るかと思いながら、はやりもしないのにあの八幡の境内で、きょうが日までだんなのおたよりを待っていたんですぜ」
「そうか、きのどくでしたな。じゃ、とりあえずその三両を先にやっておこうから、手を出しなよ」
「ありがてえなあ。久しぶりで小判の顔が拝まれますかね――」
 出したところをむんずと見舞ったものは、おなじみのむっつり右門が十八番中の一つなる草香流やわらの逆腕の一手です。
「いてえ! な、な、なにするんでえ!」
 いったが、もうこれはどう考えてみても少しおそいので――。
「バカ野郎! 調子につられて、つべこべとどろ吐きやがって――おれをだれと思ってるんだ。八丁堀のむっつり右門といや名ぐれえは聞いているだろうから、じたばたせずについてこい!」
 人だかりがしてはと思いましたものでしたから、逆腕を取ったままでもよりの自身番へしょっぴいていくと、すぐに吟味へかけました。もう半ば以上はかまにかかってどろを吐いていたから、ただちに八卦見も全部の白状に及んだので、それによると、浪人者にいった死相うんぬんのことは、むろん人から頼まれてやったことでしたが、しかるにその依頼者なる者がちょっと意表をついて、たしかに六十ばかりの身分ありげなお侍だったというのです。六十のおやじならば、いかにくらがりだったにしても、まだ三十まえのむっつり右門と見まちがうのは少しおかしいわけですが、しかし八卦見がいうのには、その見まちがいは三両に目がくらんだからのことで、あのときの頼み手は正真正銘たしかに六十ばかりの身分ありげなお侍だったといったものでしたから、右門は意外な面持ちで、ややしばらく考えておりました。
 しかし、考えていたのはほんのしばしで、伝六を顧みると、不意にいったものです。
「きさま、きのう深川のまま母を洗ってきたとき、このごろじゅう毎晩五つから四つの間に、折檻《せっかん》の悲鳴が聞こえるといったっけな」
「へえい、たしかに申しやしたよ」
「それなら、身分ありげな六十のおやじっていうのも、いっこうに不思議はねえや。じゃ、五つから四つといや、ちょうど今がその時刻だから、大急ぎに深川へ駕籠《かご》だ、駕籠だ!」
 いうと、八卦見の始末は自身番に頼んでおいて、すぐに飛びつけさせたところは、いうまでもなく八幡裏の路地奥にあるお静が継母のわび住まいです。しかし、家の中へははいらずに、足音を忍ばしながら裏口へ回ると、ちょうどそこに障子の破れめがあったものでしたから、息をころして中の様子を伺いました。
 と――、問題の継母は、こんな時刻になってなんの必要があるものか、伝六の報告したとおりな色香ざかりのみずみずしい上半身をあらわにむき出して、しきりにせっせとお化粧のさいちゅうでしたから、右門はずぼしが的中したとでも言いたげに、にたりとほくそえみをのこすと、伝六を伴ってぬき足に引き返しながら、ぴたりとこごむように身を潜めさせたところは、それなる家に通ずる細路地の入り口のくらがりでありました。いうまでもなく、これは何者か待ち人のあることを物語っていた行動でしたから、伝六も察して息を潜めていると、ややあって、ちゃらりちゃらりと雪駄《せった》の音も忍びやかに、その細路地めがけてやって来た者は、いかにも身分ありげな黒ずぎん姿の大小にはかましたる一人です。
 とみるや、右門はぱっとばかり行く手をさえぎりながらいったもので――。
「ご老体! 八丁堀の近藤右門でござる。お待ち受けしてござりました」
 しかるに、いささか意外でありました。相手はその一言を耳へ入れると、ぎょっとしたようにあとずさりしながら、やにわにくびすを返すと、ばたばたともと来たほうへ逃げ去ろうとしたものでしたから、右門はものをもいわずに伝六の内ふところに手を入れて、瞬間の早さに朱ぶさの十手をぬきとったと見えましたが、えッとばかりに気合いもろとも小|柄《づか》代わりに投げつけた手の内は堤流の手裏剣で、ねらいはあやまたずにひゅうッと飛んで、朱ぶさの十手は逃げ行くそのうしろからまともに相手の右足をしたたか打ったものでしたから、たわいもなく黒ずきんは大道にのめってしまったのです。それを悠揚《ゆうよう》として近づぎながら、えり首つかんでぐいと起こすと、右門は静かにいいました。
「お身分もあろうと存じ、手荒なことはさし控えようと思うたが、痛いめにお会われなすったのはそなたの不心得からでござる。右門少しばかり不審のかどあってじきじきにお調べしたいことがござるから、お同道くだされい」
 しかるに、右門の同道を求めたところは、もよりの自身番でもなく、吟味にはいたって縁の遠い永代橋の橋の上でしたから、まことに意外の中の意外というべきでありました。しかも、さらに意外なことは、橋のまんなかまで相手をしょっぴいていくと、いきなりその弱腰をけりながら、まっさかさまに大川めがけ、欄干から水中に突きおとしたもので――、だから、悲鳴に近い声をあげて伝六が叫んだのはあたりまえです。
「だんな、だんな、冗談じゃござんせんぜ! 見りゃ身分のありそうなかたのようだが、万が一のことがありゃ、だんなもあっしも切腹ものですぜ」
 すると、右門が莞爾《かんじ》としながらいいました。
「そう安っぽい腹がいくつもあってたまるかい。むっつり右門といわれるおれがにらんでからのことじゃねえか。いまにみろよ、あいつがすばらしい河童《かっぱ》ぶりをみせて、たちまちどっちかの岸に泳ぎつくから――」
 と、案の定そのことばのとおりで、水源《みなもと》には夕だちつづきでもあることか、いつもより水勢のました大川の流れをものともせずに、しゅっしゅっと抜き手をきりながら向こう岸に泳ぎつこうとしたものでしたから、ひと足先に走りついて土手に上がるのを待ちながら、その手をぐいともう草香流で逆にねじあげると、右門がおちつきはらっていいました。
「ご老体に似合わず、たいした河童ぶりでござりましたな。それを見たいばっかりに変なまねもしたんだが、みんなこりゃ右門流の吟味方法だからあしからず――では、あすまた伝馬町の上がり屋敷のほうへお届けいたしまして、おっつけ鈴ガ森か小塚《こづか》ッ原《ぱら》にでも参るようになりましょうから、それまでご窮屈でござんしょうが、あそこの自身番でごゆっくり蚊にでも食われなせえよ」
 いいながら、道のついでに見つかった自身番へこかし込んでおくと、疾風のごとくただちに駆けもどったところは、若新造がもろはだぬぎで人待ち顔にお化粧をやっていた路地奥のあの一軒でありました。行ったかと思うと、もうずいと中へはいったので、それからずばりと鋭い声で、胸をえぐるがごとくいったものです。
「浪人者にしても、ともかく侍の妻じゃねえか。ふざけた年寄りを相手に不義いたずらをやりくさって、八丁堀に右門のいることを知らねえか――さ、伝六! じたばたしたら少々ぐらいの痛いめはかまわねえから、もがかねえようにくくしあげろ!」
 命ずると、あんどんをさしあげて、あそこここと家の内の間取りぐあいをしきりに見まわしていましたが、そのときふと右門の鋭く目を光らした個所は、ほかならぬお台所のいぶせき浪宅には広すぎる土間のまんなかに設けられた新しいかまどです。それが新しすぎて不審なところへ、ひとりやふたりのお炊事をするささやかなるべき浪人者のあと家内たちのかまどにしては、少し造りが豪気に大きすぎたものでしたから、鋭く目を光らしながら近づいて、巨細《こさい》にあたりを調べあげると、はからずも右門の胸により以上の不審を打たれたものは、それなるかまどの上の天井ぎわに見える車井戸の井戸車でありました。
「ふふん、このかまどの下は井戸だな」
 慧眼《けいがん》はやぶさのごとき眼力で早くも推定がついたものでしたから、こころみにそこをたたいてみると、果然聞こえるものは、ぼうんぼうんという、まだ埋められてない古井戸の音響です。と同時でありました。
「伝六! 町内の鳶頭《とびがしら》をたたきおこして、わけえ者を五、六人借りてこい」
 もうこうなると、伝六がまた早いこと早いこと、たちまちいなせな鳶の若い衆を七、八人ばかり引き連れて、どやどやと駆けもどってきたものでしたから、右門は確信をもって命令を発しました。
「ご苦労だが、このかまどの下の古井戸の中に、人間の死体が浮いているはずだから、堀りあげてくれ!」
「そりゃ聞き捨てがなんねえや。そら、野郎ども、手を借しなッ」
 言いざまに頭《かしら》がまずまっさきにもろはだぬぎになりましたから、勇みと侠気《きょうき》と伝法はおよそ江戸鳶の誇りです。くりからもんもんの勇ましいところが、四半ときばかり力を合わせたとみるまに、案の定、かまどの下にはぽっかりとぶきみをたたえた古井戸の大きな口があいたものでしたから、それからあとはつねに不死身の頭の役で――、ひんやりと夏なお冷たき怪みたっぷりの古井戸へ、するするとなわを伝わりながら降りていったと思われましたが、同時に水の音があったと思うと、地の底で陰にこもる叫び声が聞こえました。
「だんなだんな、おめがねどおりだ。氷のように冷えきった裸んぼうの仏ですぜ」
 時をまたずに引き揚げてみると、それこそは実に小娘お静の父親なるあの浪人者のいたましき死骸《しがい》だったのです。しかも、うしろ袈裟《けさ》に刀傷を二|太刀《たち》も見舞われて、――そして、その刀傷でもわかるように、くくされている不貞な妻女についてどろを吐かせてみると、下手人はいうまでもなく、すでに自身番預けの身となった身分ありげのあれなる老人の侍でありました。その老人の侍こそは、また身分ありげの侍とにらんだとおり、中国|出石藩《いずしはん》の老職で、だからお静の父なる浪人者の藩名もそれでわかったわけですが、同時にその藩を追われた真実の原因も、実はそれなる老職がまえからくだんの妻女に年がいもなく懸想していたためで、まずその目的を果たすためには浪人させる必要があるというところから、君侯に讒《ざん》を構えてまんまと江戸に追いたて、しこうしてのちに権力と金力をもってあさはかな淫奔《いんぽん》の妻女をたらしこみ、ようやくにして不義の目的を達するにいたりましたから、ここに当然起こったのは夫なる浪人者の始末で、さいわいかれが生まれおちるからの迷信家だったのを利用して、あの八卦見が三両で利欲にはまり、けしからぬ死相うんぬんの当たらぬ八卦をたてたのです。だから、浪人者がうろたえて一室に閉じこもったのを見すまして、しめし合わせた老職が袈裟掛《けさが》けの二太刀で無残にもこれを追い傷にしとめ、また元来が藩の祐筆《ゆうひつ》であまり刀法には通じていなかったものでしたから、手もなくしてやられたその死骸《しがい》をば、今われらのむっつり右門が胸のすくような眼力であばいたとおり、家の内の井戸中へ投げ込んでおいて、その上には急ごしらえのかまどをしつらえ、そして不義のざれごとに目のくらんだ六十侍が、運よくも――あるいは運わるくも水泳の達人でしたから、妻女とぐるのひとしばいをかいて、小娘のお静が訴え出たように、浪人者の発狂投身と見せかけながら永代橋上よりおどり込み、むろん自身はこっそりとそのまま泳ぎ帰って、さもそれを入水《じゅすい》行くえ不明なるがごとくに、妻女の口から近所かいわいに言い触れさせたのでありました。右門がそのときみずから右門流の吟味方法と称しながら、その六十侍を永代橋からけおとしたゆえんのものは、早くもそれとにらんだので、老職自身に世のつねのような痛み吟味をかけて自白させるかわりに、ちょっとばかりあざやかな右門特有のからめ手の吟味戦法を小出しにしたまでのことでしたが、さればこそ、あのときの達者すぎる河童ぶりに、もはや疑いもなく下手人とにらみがついたものでしたから、あんなふうに追っつけ鈴ガ森か小塚ッ原へ送られるだろうなぞと気味のわるいことをいったので、そして宵の五つから四つまでに毎夜のごとき小娘お静の悲鳴があったというそのいきさつは、ほかでもなく、身分がらをはばかったあれなる老職が、そのおりにこっそりと忍んでくるので、用もない用を言いつけて、夜中表へ使いに追いだすための打擲《ちょうちゃく》折檻《せっかん》なのでありました。だから、もうこうなれば、いかに不貞の妻女といえどもただ恐れ入るよりほかはないので、今にして八丁堀にわがむっつり右門のあったことを知ったもののごとくに、青ざめていったことでした。
「だんながいられるとは知らずに、とんだだいそれたことをいたしました……」
 と、右門の鋭い声が間もおかないで、がんと一つ見舞いました。
「バカ者! おそいや!」
 まったく、これはどう考えたっておそすぎますが、そこへちょうど、町方見まわりの者たちが変をきいて駆けつけたものでしたから、右門はあとの始末を託しておくと、例のおとし差しで足を早めたのは、わが八丁堀の住まいです。いうまでもなく、まだそこには処分すべきいたいけな小娘お静と、すりながらちょっと戯れてもみたいようなあだ者くし巻きお由が残っていたものでしたから、帰りつくとまずお静にいいました。
「おそくまで待たして、さぞかし眠かったろう。でものう、お静坊、おまえのかたきは、このおじさんがいま討ってきてあげたぞ」
「えッ……では、あのやっぱり、もしやおじいさんのお侍……」
 つい喜びに心のうちもいおうとしたのを、右門は押えて、いいました。
「いわぬほうがいい。そのあとは、みんないわぬほうがいい。いうと、おまえの人がらのゆかしさに傷がつくまいものでもないからな。のう、お静坊、さすがそなたは武士の娘だけあって、子どもながらあっぱれな者じゃな。ちゃんと心には気がついていても、そういう疑いはちゃんともっていても、家名の恥になると思って、このおじさんにさえほんとうのことはいわなかったからな。それも、憎いまま母なのにな――だから、みい。おじさんのこの目のうちをよくみい。おじさんはおまえのいじらしい心根に、このとおり泣けているんだぜ……」
 いうと同時でした。右門の栃《とち》のような涙に合わせて、小娘お静は、うれしかったか、感激したか、わっとばかりにそこへ泣き伏しました。それをいしくもいじらしげな面持ちでしばらく右門は見守っていましたが、はっとしたように気がつくと、振り向いて、くし巻きお由のほうへいったものです。
「そうそう、たいへんな人のいらっしゃいましたことを忘れていましたな。さっき出がけには、まだ二、三日お頼みしなくちゃなるまいかとも思ったものだから、寝言でもさかだちでもご随意のように願っておきましてたっけが、お聞きのとおりの仕儀でござんすからな。あんたのようなべっぴんになにかと長居されりゃ、いろいろと世間のバカがつまらぬうわさをたてやがるから、早いとこ引き取ってもらいますかね」
「まあ! じゃ、だんなはほんとうに、あたしをご用弁にする気じゃござんせんでしたか!」
 やや意外のごとき面持ちでしたが、右門はみずからもそれをいうのが涼しいといったような口調で、莞爾《かんじ》とばかりうち笑《え》むと、人の性の善をつきえぐるがごとくに柔らかにお由にいいました。
「人間は意気のもんです。あっしの心意気に少しでも見どころがあったら、八丁堀に右門のような者もいたことの記念に、もうつまらない小かせぎは、これっきりおやめなせえな。みりゃ、どこへ突き出したって玉の輿《こし》に乗られるご器量じゃござんせんか。だから、あすにでも堅気におなんなすってね、いい赤ちゃんでもお産みなせえよ。おたよりをくださいましたら、またそのとき産着《うぶぎ》の一枚も贈りましょうわい」
 そして、みずから立ち上がりながら、玄関の格子戸《こうしど》をあけてやったものでしたから、なにとてくし巻きお由ばかりが鬼の心をもっていられましょうぞ! ――今ぞ真実心から人の性の善にかえり、悔悟の自責にこらえかねたものか、たもとですすり泣きの涙をおしかくしながら、黙々と重い足どりで表のやみに消えていきました。
 そのうしろ姿を右門は会心の面持ちで見送りながら、ふとまた気がついたようにお静のほうを顧みると、やさしくいいました。
「そうそう、まだたいへんなことを一つ忘れていたっけよ。松平伊豆守様がまえからお小間使いをひとりお捜しだったからな。お静坊はあしたにもおじさんが伴って、お屋敷へつれていってあげようよ。おまえならば、おじさんが親代わりになってもいいからね」
 いうと、そして右門はそっと近よって、感激のためにかいよいよそこに泣きよじっているお静のふっさりとしたうしろ髪を、黙ってやさしくなでさすりました。

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tat_suki
校正:湯地光弘
1999年7月25日公開
2005年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木味津三

右門捕物帖 笛の秘密 ——佐々木味津三

     

 ――今回はその五番てがらです。
 事の起こりましたのは山王権現、俗に山王さんといわれているあのお祭りのさいちゅうでした。
 ご存じのごとく、山王さんのお祭りは、江戸三|社祭《じゃまつ》りと称せられている年中行事のうちの一つで、すなわち深川|八幡《はちまん》の八月十五日、神田明神の九月十五日、それから六月十五日のこの山王祭りを合わせて、今もなお三社祭りと称しておりますが、中でも山王権現は江戸っ子たちの産土神《うぶすながみ》ということになっていたものでしたから、いちばん評判でもあり、またいちばん力こぶも入れたお祭りでした。しかし、当時はまだ今の赤坂|溜池《ためいけ》ではないので、あそこへ移ったのは、この事件の起きたときより約二十年後の承応三年ですから、このときはまだもと山王、すなわち半蔵門外の貝塚《かいづか》に鎮座ましましていたのですが、時代は徳川お三代の名君家光公のご時世であり、島原以来の切支《きりし》丹《たん》宗徒《しゅうと》も、長いこと気にかかっていた豊臣《とよとみ》の残党も、すでにご紹介したごとく、わがむっつり右門によってほとんど根絶やしにされ、このうえは高砂《たかさご》のうら舟に帆をあげて、四海波おだやかな葵《あおい》の御代を無事泰平に送ればいいという世の中でしたから、その前景気のすばらしいことすばらしいこと、お祭り好きの江戸っ子たちはいずれも質を八において、威勢のいい兄哥《あにい》なぞは、そろいのちりめんゆかたをこしらえるために、まちがえて女房を七つ屋へもっていくという騒ぎ――。
 ところで当日の山車《だし》、屋台の中のおもだったものを点検すると、まず第一に四谷伝馬町は牛若と弁慶に烏万燈《からすまんどう》の引き物、麹町《こうじまち》十一丁目は例のごとく笠鉾《かさほこ》で、笠鉾の上には金無垢《きんむく》の烏帽子《えぼし》を着用いたしました女夫猿《めおとざる》をあしらい、赤坂今井町は山姥《やまうば》に坂田金時《さかたのきんとき》、芝|愛宕《あたご》下町は千羽|鶴《づる》に塩|汲《く》みの引き物、四谷大木戸は鹿島《かしま》明神の大鯰《おおなまず》で、弓町は大弓、鍛冶町《かじちょう》は大|太刀《たち》といったような取り合わせでしたが、それらが例年のごとく神輿《みこし》に従って朝の五つに地もとを繰り出し、麹町ご門から千代田のご城内へはいって、松原小路を竹橋のご門外へぬけ出ようとするところで、将軍家ご一統がお矢倉にてこれをご上覧あそばさるというならわしでした。
 だから、老中筆頭の知恵伊豆をはじめ幕閣諸老臣のこれに列座するのはもちろんのことで、一段下がったところには三百諸侯、それにつらなって旗本八万騎、それらの末座には今でいう警察官です。すなわち、南北両|奉行《ぶぎょう》所配下の与力同心たちがそれぞれ手下の小者どもを引き具して、万一の場合のご警固を申しあげるという順序でした。
 さいわいなことに、当日は返りの梅雨《つゆ》もまったく上がって、文字どおりの日本晴れでしたから、見物がまた出るわ出るわ――半蔵門外に密集したものがざっと二万人、竹橋ご門外は倍の四万人、それらが今と違ってみんな頭にちょんまげがあるんですから、同じまげでも国技館の三階から幕内|相撲《ずもう》の土俵入りを見おろすのとは少しばかりわけが違いますが、だから、なかにはまたおのぼりさんのいなか侍も交じっているので、足を踏んだとか踏まないとか、お国なまりをまる出しでたいへんな騒ぎです。
「うぬッ、きさまわスのあスを踏んだなッ、武スを武スとも思わない素町人、その分にはおかんぞッ」
 侍のほうではたといおのぼりさんでもとにかく二本差しなんだから、いつものときと同じようにおどし文句が通用すると心得ているのでしょう。しかし、きょうの江戸っ子は同じ江戸っ子でも少しばかり品が違っているので、その啖呵《たんか》がまた聞いていても溜飲《りゅういん》の下がるくらいなのです。
「なにいやがるんでえ。このでこぼこめがッ、おひざもとの産土《うぶすな》さまが年に一度のお祭りをするっていうんじゃねえか。村の鎮守さまたあわけが違うぞ。足を踏まれるぐれえのこたあ、あたりめえだ!」
 実際またそうなんで、ことに山王さまは将軍家お声がかりのお祭りなんだから、氏子どもの気の強いのはあたりまえなことですが、いってるところへ、ショッワッ、ショッワッ、ショッワッ――という声、不思議なことに、江戸の三社祭りのもみ声となると、必ずまたきまってワッショッワッショッとは聞こえないで、ショッワッ、ショッワッとさかさまに聞こえるから奇妙です。だから、もうこうなればお国なまりの二本差しも珍しいので、先になって、足を踏まれたぐらいは問題でないので。かくするうちにも、山王権現のおみこしは、総江戸八十八カ町の山車《だし》引き物、屋台を従えながら、しずしずと、いや初かつおのごとく威勢よく竹橋ご門外に向かって、お矢倉さきにさしかかってまいりました。
 将軍家光公はもちろんもう先刻からのおなりで、五枚重ね朱どんすのおしとねに、一匁いくらという高直《こうじき》のお身おからだをのせながら、右に御台《みだい》、左に簾中《れんちゅう》、下々ならばご本妻におめかけですが、それらを両手に花のごとくお控えさせにあいなり、うしろには老女、お局《つぼね》、お腰元たちの一統を従えさせられて、ことのほかの上きげんです。
 すると、これらの山車引き物の中で、四谷伝馬町の牛若と弁慶がちょうど将軍家ご座所前にさしかかったときでありました。将軍家のご上覧に供するというので、最初からこの牛若丸と弁慶の山車だけは人形でなくほんものの人間を使い、ご座所の前へさしかかったところで、それなる牛若と弁慶が五条の橋の会見を実演するという予定でしたから、ここを晴れの舞台と、弁慶は坊主頭に紅白ないまぜのねじはち巻きをいたし、ご存じの七つ道具を重たげに背負いまして、銀紙張りの薙刀《なぎなた》をこわきにかい込みながら、山車の欄干を五条橋に見たてて、息をころしころし忍びよると、髪は稚児輪《ちごわ》にまゆ墨も美しく、若衆姿のあでやかな牛若丸が、まばゆいばかりの美男ぶりで、しずしずと向こうから現われてまいりました。それがまた弁慶はとにかくとして、牛若にこしらえた者は四谷伝馬町で糸屋|業平《なりひら》といわれている大通りの若主人が扮《ふん》していたものでしたから、将軍家はそれほどでもありませんでしたが、御台さまをはじめお局《つぼね》腰元たちはことのほかその若衆ぶりが御感に入ったらしく、いっせいにためいきをついて目を細めながら、ざわざわとざわめきたちました。
 だから、牛若丸の大得意はもちろんのことで、日本中の美男子を背負って立ったごとく、しずしずと屋台に姿を見せると、腰なる用意の横笛を抜きとって、型のごとくにまず音調べをいたすべく、その息穴へやおらしめりを与えました。すると、ひとなめ牛若が息穴をなめたとたんです。笛てんかんというのもおかしいですが、生まれつきのてんかん持ちででもあったか、それとも人出にのぼせたものか、稚児輪《ちごわ》姿《すがた》の牛若丸が笛にしめりを与えると同時に、突然|苦悶《くもん》のさまを現わして、水あわを吹きながら、その場に悶絶《もんぜつ》いたしました。しかも、悶絶したままで、容易に起き上がるどころか、みるみるうちに顔色が土色に変じだしたものでしたから、まず武蔵坊《むさしぼう》弁慶が先にあわてだし、つづいて屋台のはじにさし控えていた町内の者があわてだすといったぐあいで、はからずも騒ぎが大きくなりました。
 だから、家光公がけげんな顔をあそばして、かたわらにさし控えていた松平伊豆守を顧みながら、不審そうに尋ねました。
「のう、伊豆、絵物語なぞによっても、牛若どのはもっと勇者のように予は心得ているが、あのように弱かったかのう。見れば、弁慶の顔を見ただけで卒倒いたしおったようじゃが、世が泰平になると、牛若どのにもにせ者が出るとみえるのう」
 牛若をにせ者ときめてしまったあたりは、なかなかに家光公もしゃれ者ですが、しかし、ここが松平伊豆守の偉物たるゆえんだったのです。なにかは知らぬが、この珍事容易ならぬできごとだなということを早くも見てとりましたから、それには答えないで、さっと立ち上がると、とっさにまず身をもって家光公をかばったもので、同時にことばを強めながら、せきたてるように腰元たちへ下知を与えました。
「なに者かためにするところあって、かような珍事をひきおこしたやも計られぬ。おのおのがたは上さまをご警固まいらせ、そうそうご城中へお引き揚げなさりませい!」
 命じ終わるととっさにまたかたわらをふり返って、お茶坊主をさしまねきながら、さらに知恵伊豆らしい下知を与えました。
「町方席に右門が参り合わせているはずじゃ。火急に呼んでまいれ」
 人物ならば掃くほどもその辺にころがっているのに、事件|勃発《ぼっぱつ》と知ってすぐに右門を呼び招こうとしたあたりなぞは、どう見てもうれしい話ですが、より以上にもっとうれしかったことは、命をうけて茶坊主が立とうとしたそのまえに、ちゃんともう当の本人であるむっつり右門がそこにさし控えていたことでありました。まことに、知恵伊豆とむっつり右門の腹芸は、いつの場合でもこのとおり胸のすくほどぴったりと呼吸が合っておりますが、いうまでもなく、それというのは、右門もはるか末座においてこの珍事をみとめ、早くもこいつ物騒だなとにらんだからのことで、だからわいわいとたち騒いでいる満座の者を押し分けて、倉皇《そうこう》としながら参向すると、一言もむだ口をきかないで、ただじいっとばかり伊豆守の顔を見守ったものです。
「おう、右門か。さすがはそちじゃ。場所がらといい、場合といい、深いたくらみがあって、わざわざかように人騒がせいたしたやもあいわからんぞ。はよう行けい!」
 同時に、伊豆守のせきたてるような命令があったものでしたから、ここにいよいよわれらがむっつり右門の捕物《とりもの》第五番てがらが、はからざるときに計らざることから、くしくも開始されることにあいなりました。

     

 もちろん、牛若丸はあれっきり屋台の上に水あわを吹いたままで、町内の者をはじめ各山車山車の騒擾《そうじょう》はいうまでもないこと、物見高いやじうまが黒山のごとくそれをおっ取り巻いて、さながら現場は戦争騒ぎでありましたが、見るからにたのもしげなむっつり右門が自信ありげなおももちで、人波を押し分けながらさっそうとしてそこに現われてまいりましたものでしたから、何かは知らずに群集はかたずをのんで、たちまちあたりは水を打ったごとくにしいんと静まり返ってしまいました。それを早くも認めたものか、人波を押し分け押し分け右門のあとから駆けつけてきたものは、例のおしゃべり屋伝六で――
「おっ、ちょっとどいてくんな、おいらがだんなの右門様がお通りあそばすんじゃねえか、道をあけなってことよ」
 つまらないところで自慢をしなくともよいのに、よっぽど鼻が高かったものか、つい聞こえよがしにしゃべってしまったものでしたから、どっと周囲から一時にささやきとどよめきがあがりました。
「おっ、熊《くま》の字きいたかよ、きいたかよ。あれがいま八丁堀で評判のむっつり右門だとよ。なんぞまたでかものらしいぜ」
「大きにな、ただのてんかんにしちゃ、ちいっとご念がはいりすぎると思ったからな。それにしても、なんじゃねえか、うわさに聞いたよりかずっといい男じゃねえか」
「ほんとにそうね。あたし、もうお祭りなんかどうでもよくなったわ」
 なかにはぼうっとなった女の子も出るといった騒ぎで、それにしては産土《うぶすな》さまもとんだ氏子をおこしらえになったものですが、しかし本人のむっつり右門は、いうまでもなくもう看板どおりです。群集のざわめきなぞは耳にも入れないで、苦み走った面をきっと引き締めながら、黙々として屋台の上に上がっていったと見えましたが、懐紙を出して不浄よけに口へくわえると、そこに倒れたままでいる牛若丸の全身をまずひと渡りていねいに調べました。と同時に、涼しく美しかった両のまなこは、さっと異様に輝きました。死骸《しがい》のいたるところに紫の斑点《はんてん》がはっきりと、浮かび上がっていたからです。いうまでもなく、その斑点は毒死した者のいちじるしい特徴で、だから右門は異状に緊張しながら、黙ってあたりを見まわしていましたが、ふとそこに横笛が――その息穴をなめたために牛若が悶絶《もんぜつ》するにいたりましたその横笛がころがっているのを発見すると、突然伝六に向かって、いつもの右門がするごとく、意表をついた命令を発しました。
「犬でもいいし、ねこでもいいから、ともかく生き物を一匹、きさま大急ぎでどこかへいってしょっぴいてこい!」
 こういうふうな人にわからない命令がやぶからぼうに右門の口から出るようになると、もうしめたものであるということは、今までしばしばの経験で、ちゃんと心得ていたものでしたから、伝六の鼻のいっそう高くなったことはむろんのことで、屋台の上からしきりとあたりを見まわしていましたが、さいわいなことに、一つうしろの麹町十一丁目の山車《だし》の上に、金の烏帽子《えぼし》をかむってほんものの生きざるが二匹のっかっていたのを発見すると、有無をいわさず、その一匹をひっ捕えてまいりました。だから、いっせいに見物がかたずをのんで、どんな種明かしをするだろうというように、右門の身辺を注視したことはいうまでもないことでしたが、しかし本人の右門はいっこうにおちついたもので、伝六がこわきにしているさるのところへゆうゆうと近づいていくと、しずかにその口を割って、問題の横笛の息穴をペロリとなめさせました。
 と――果然、右門のにらんだとおりの結果が、そこに現出いたしました。牛若丸にかくのごとき非業な最期をとげしむるにいたった猛毒は、問題の横笛のその息穴に塗ってあったとみえて、ひとなめ小ざるがそこをなめるやいなや、あわれにも小動物はきりきりとねずみ舞いしながら、さっき糸屋の若主人が陥ったと同じように、たちまち水あわを吹いてその場に悶絶《もんぜつ》してしまいましたものでしたから、同時に右門の口から裁断の命令が発せられました。
「事ここにいたっては、祭礼中といえども容赦はならぬ。吟味中|入牢《にゅうろう》を申しつくるによって、これなる屋台にかかわり合いの町人一統、神妙におなわをうけいッ」
 これには町内の者残らずが一様にあわを吹かされてしまいましたが、しかし右門の剔抉《てっけつ》したとおり、糸屋の若主人の急死が、のぼせたんでもなく、てんかんでもなく、まぎれなき毒殺であったとわかってみれば、向こう三軒両隣の縁で、いまさらのがれるわけにもいきませんでしたから、しぶしぶながらもおなわをちょうだいいたしまして、町内三十七人の者残らずが、お組|頭《がしら》を筆頭に、ぞろぞろとその場から八丁堀の平牢《ひらろう》にひったてられていきました。
 そこで、型のごとくにむっつり右門の疾風迅雷的な行動が、ただちに開始される順序となったわけですが、しかるに、今度ばかりは大いに不思議でありました。その日のうちにも吟味にかけて、しかるべき見込み捜査を開始するだろうと思っていたのに、どうしたことか、三十七人の者は平牢に投げ込んだままで、いやに右門がおちつきだしたものでしたから、あてのはずれたのは例のごとくおしゃべり屋の伝六です。
「ちえッ、あきれちまうな。いかにもっそう飯だからって、三十七人ものおおぜいを食わしておいたんじゃ、入費がたまりませんぜ。あっしの考えじゃ、こんな事件《あな》ぼこ、だんなほどの腕をもってすりゃぞうさはねえと思うんだが、それともなんか奇妙きてれつなところがあるんですかね」
 けれども、右門はいかほど伝六にあきれられようがいっこうにすましたものでした。さっぱりとお湯につかって汗を流してくると、風通しのいい縁側に碁盤をもち出しながら、古い定石の本を片手にパチリパチリとやりだしたもので――だから伝六がたちまち早がてんをいたしました。
「へへいね。こいつあ近ごろ珍しいや。だんながそうやって碁をお打ちなさるときゃ、見込みのたたんときと決まっていやすが、するてえと、なんでげすかね。ぞうさがなさそうに見えて、こいつがなかなかそうでねえんでげすかね」
 しかし、右門は一言も答えずに、必死とパチリパチリ打ちつづけましたものでしたから、伝六がいよいよそうとひとりがてんしてしまったのは無理からぬことでしたが、しかし実はそれが右門の考え深いところで、あのとき松平伊豆守も言明したとおり、もしも何者かがためにするところがあって、かような騒擾《そうじょう》をわざわざ将軍家面前でひきおこし、そのどさくさまぎれに、恐るべき陰謀を決行しようという魂胆であったら、この毒殺事件は単なる添えものにすぎなくて、必ずやほかになんらかの大事件がひきつづいて勃発《ぼっぱつ》するにちがいないだろう、という考えがあったものでしたから、万一の場合をおもんばかって、わざとかように一統の者の吟味を延引さしておいたのでした。だから、その日一日だけではなく、爾後《じご》五日間というもの、一統の者はずっと平牢にさげたままで、しきりと右門は次なる事件の勃発を心まちに待ちました。
 けれども、柳の下にそういつもいつも大どじょうはいないもので、おおかた七日にもなるというのに、いっこう疑わしい事件も風評も起きなかったものでしたから、断然として毒殺事件を単調なものに取り扱うべき決心をいたしまして、ここにようやく伝六の待たれたる右門一流の疾風迅雷的な探索行動が開始されました。いうまでもなく、最初から例のごときからめての戦法で、そもそも、いったい何の目的で、かかる毒殺が、かかる場合に、かくのごとく公然と敢行されるにいたったか、まずその判定と見込みをつけるべく、三十七人の町内の者について、当の本人である糸屋の若主人の素姓身がらを巨細《こさい》に洗いたてました。
 しかるに、頭数だけでも三十七人あるんだから、少なくも十五色や二十色の陳述があってしかるべきでしたが、町内一統の者の期せずして申し立てたところのものは、わずかに次の数条にすぎなかったのです。
 すなわち、第一は、もう三十近いのに、どうしたことかまだ独身であること。第二は、非常に繁盛する店であること。――これは当然そうあるべきで、女に縁の深い糸屋の若い主人がまだひとり者で、あのとおりの美男子としたら、たとえはすっぱな女でなくとも、顔を拝まれるのが功徳と思って、いらない糸まで買いに行くのは理の当然なんだから、繁盛するなといったって繁盛するのはあたりまえなことですが、だからいたって金回りのよいこと。金回りがよいから勢いまた金放れもきれいになるというもので、したがって町内一統の者からも、日ごろたいへんなほめ者であったという数条だけでした。
 とすると、他人から毒殺されるほどにも恨みをうけるはずはないわけなんだから、自然ここで、右門の見込み捜査は一|頓挫《とんざ》をきたすべきでしたが、しかし、いったん手を染めたとならば、毎度申しあげたように、そんなことでおめおめとたたらを踏む右門とは右門が違います。早くもかれは、明|皎々《こうこう》とさえ渡りたること玻璃《はり》鏡《きょう》のごとき心の面に、糸屋の主人が独身であったという一条と、女の客が多すぎたという一条との二つに不審をおぼえたものでしたから、一瞬のうちにかれ一流の方法を案出いたしまして、突然伝六の意表をつきました。
「なあ、伝六。きさまにゃ女の子の知り合いはなかったっけかな」
「えっ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] なんですって? 不意に変なことおっしゃいまして、なかったっけかなといいますと、さもあっしが醜男《ぶおとこ》のように聞こえますが、なかったら、それがいったいどうしたというんですかい」
「どうもしないさ。その若さで女の子に知り合いがないとなりゃ、口ほどにもないやつだと思ってな。これからおれは、きさまをけいべつするだけのことだよ」
「ちッ、めったなことをおっしゃいますなよ。大きにはばかりさまですね。さぞおくやしいでしょうが、女の子のひとりやふたり、ちゃんとれっきとしたやつが、あっしにだってありますよ」
「ほう、そいつあ豪儀だな。いったい、何歳ぐらいじゃ」
「うらやましくてもおこりませんね」
「おまえの女なんぞ、うらやんでもしようがないじゃないか」
「じゃ申しますがね、きいただけでもうれしいじゃござんせんか、番茶も出ばなというやつで、ことしかっきり十八ですよ」
「いっこうに初耳で、ついぞ思い当たらないが、その者はいま江戸に在住か」
「ちえッ、あきれちまうな、そりゃどうみたって小町娘というほどのべっぴんじゃござんせんからね。だんななんぞにはお目に止まりますまいし、鼻もひっかけてはくださいますまいがね。それにしたって、江戸に住んでいるかはちっとひどいじゃごわせんか。かわいそうに、ああ見えたって、あいつああっしの血を分けたたったひとりの妹ですよ」
「ああ、乃武江《のぶえ》のことか」
「ちえッ、またこれだ。ああいえばこういい、こういえばああいって、じゃなんですかい、だんなはそいつが乃武江って名まえなことは知ってるが、あっしの妹だってことはご存じなかったんですかい」
「知っているよ、知っているよ、知っていればこそいま思い出したんだが、――なんとかいったな、もう長いことどこかお大名のお屋敷奉公に上がっているとかいったけな」
「へえい、さようで。辰之口《たつのくち》向こうの遠藤様に、もう四年ごしご奉公しているんですがね。それにつけても、ねえ、だんな。血を分けたきょうだいってものは、うれしいじゃござんせんか、ついきんのうもきんのうでしたがね、わざわざ前ぶれの手紙をよこしましてね。近いうちにまたお宿下がりをもらうから、そのときあっしの好きなところてんを、うんとこさえてくれるとぬかしましたよ」
「そいつあもっけもないさいわいだ。どうだろうな、きょうくりあげて、乃武江にそのお宿下がりをもらうわけにいくまいかな」
「え? じゃなんですかい、だんなもところてんが好きなんですかい」
「食い意地の張っているやつだ。ところてんに用があるんじゃない、乃武江にちょっとないしょの用があるんだよ」
「え? ないしょのご用……? たまらねえことになったもんだね。そうれみろい。たまにゃ身内の恥もさらしてみるもんじゃねえか。あんな者でもついうわさをしたばっかりに、だんながないしょのご用とおいでなすったんじゃねえか。これがえにしになって、あのお多福がだんなの玉のこしに乗られるとなりゃ、おいらが一門の名誉というものだ。ようがす、じゃ、ひとっ走り今から呼びに行ってきますからね。ちょっくらお待ちなせえよ」
「バカだな。まてッ」
「えッ?」
「ないしょの用だからといって、すぐときさまのように気を回すやつがあるかッ。女でなくちゃ役者になれんから、ちょっと乃武江を借りるんだ」
「ははあ、なるほどね。じゃなんですね。こんどの事件《あな》の手先にでもお使いなさろうっていうんですね」
「あたりめえよ。ひとり者であったぐあい、女客の多かったぐあいから察するに、色恋からの毒殺とにらんでいるんだ」
「わかりやした、わかりやした。それだけ聞きゃ、あっしだって岡っ引きだ、あとはもうおっしゃらなくとも胸三寸ですよ。じゃ、なんですね、乃武江のやつをおとりにつかって、だれか出入りの女客をつかまえ、そいつの口から色ざたをきき出させようって寸法なんですね」
「しかり――だが、きさまのようにおしゃべり屋じゃあるまいな」
「ちえッ。うりのつるにもなすびがなるってことご存じじゃねえんですか。血を分けたきょうだいだからって、おしゃべり屋ばかりじゃござんせんよ。細工はりゅうりゅうだから、あごひげでも抜いて待ってらっしゃい」
 わかればなかなかに伝六もうれしいやつで、骨身をおしまず韋駄天《いだてん》に遠藤屋敷をめがけて駆けだしたものでしたから、右門ももはや五分どおり事のなったものと考えまして、ゆうゆうねそべりながら、伝六の報告を待ちました。

     

 出かけたのが朝の四つ、自分も妹につき添って四谷まで行ったものか、なかなか姿を見せませんでしたが、かれこれもう暮れ六つ近いころに、ようやく待たれた伝六が大景気でかえってまいりました。見るからに様子が事の成功したことを物語っていましたので、右門も目を輝かしながら尋ねました。
「ほしが当たったらしいな」
「お手の筋、お手の筋。なにしろ、あっしという千両役者の兄貴がついているんだから、太夫《たゆう》もしばいがやりいいというものでさあね、まあよくお聞きなせえよ。こんなにとんとん拍手でてがらたてたこたあめったにねえんだから、あっしもおおいばりでお話ししますがね。あれから辰之口《たつのくち》へめえってお屋敷に願ったら、晩までというお約束ですぐに暇くれたんでね、横っとびに妹とふたりで四谷まで出かけていったないいんですが、勤めが勤めなんだから、乃武江のやつめどう見たってお屋敷者としか見えねえんでしょう。だから、ずいぶん心配したんだが、兄貴がりこう者なら血につながる妹もりこう者とみえましてね。うまいこと横町のだんご屋の娘と仲よしになって、洗いざらい女出入りをきき込んじまったんですよ」
「じゃ、情婦《いろ》めかしいやつをかぎ出してきたんだな」
「いうにゃ及ぶですよ。なにしろ、美男子のひとり者で親はなし、きょうだいはなし、あるものは金の茶釜《ちゃがま》に大判小判ばっかりときたんじゃ、女の子だって熱くなるなああたりめえじゃござんせんか、むろんのこと、だんご屋の娘もぼおっとなっていたお講中なんだからね。乃武江のやつが、あたしもあのひとには参っていたんだが、というようなかまをかけたら、すっかりしゃべっちまってね、あそこのやお屋のやあちゃんもそうだとか、お隣の畳屋のたあちゃんもそうだとか、いろいろ熱くなっていた女の名まえをあげているうちに、ひときわ交情こまやかというやつが出てきたんですよ」
「何者だ」
「そいつがまた筋書きどおり、笛には縁の深い小唄《こうた》のお師匠さんというんだから、どう見たっておあつらえ向きの相手じゃござんせんか」
「なるほどな、事のしばいがかりだった割合にゃぞうさなくねた[#「ねた」に傍点]があがるかもしれないな」
「と思いやしてね。大急ぎに妹のやつを送り届けておいて、このとおり大汗かきながらけえってきたんですがね。なんでも、毎日のように男のほうが入りびたっていたというんだから、あっしゃてっきりそいつが下手人と思うんですがね。それに、だいいち、女のほうが少し年増《としま》だというんだから、なおさらありそうな図じゃござんせんか。てめえはだんだんしわがふえる、反対に、かわいい男はますます若返って、いろいろとほかの女どもからちやほやされる、いっそこのままほっておくより――というようなあさはかな考えから、ついつい荒療治をするなんてこたあ、よくある手だからね」
「いかにもしかり。ところで、番地はむろんのことに聞いてきたろうな」
「そいつをのがしてなるもんですかい。芝の入舟町だそうですよ」
「じゃ、ぞうさはねえ。涼みがてらに、くくっちまおうよ」
 実際、もうぞうさはあるまいと思われたものでしたから、いううちに右門は立ち上がったもので――荒い弁慶じまの越後《えちご》上布に、雪駄《せった》へ華奢《きゃしゃ》な素足をのせながら、どうみてもいきな旗本のお次男坊というようないでたちで、ほんとうにぶらりぶらりと涼みがてらに入舟町さしてやって参りました。
 行ったとなれば、うちを捜しあてるくらいなことはなおさらぞうさがないので、小唄の一つも教えようというような細ごうし造りのうちを捜していくうちに、菊廼屋歌吉《きくのやうたきち》といった目的のお師匠さんがすぐと見つかりましたものでしたから、念のために伝六を表へ張らしておいて、単身中へずいとはいっていきました。
 ところが、右門は座敷へ上がると同時に、おもわずぷッとふき出してしまいました。いかにも菊廼屋歌吉なる小唄の師匠は話どおりに年増の女でしたが、女は女であっても少しばかり年増すぎたからです。どう若く踏んでも六十七、八というおばあさん。で、もうおおかた腰は曲がり、耳も少し遠いようで、しかもまったくのいなかばあさんでしたから、これで色恋ができるかできないかの詮議《せんぎ》よりも、われながら目きき違いのあまりに大きすぎたことにおのずから右門は苦笑がわいて、おもわずぷっと吹き出してしまいました。
 けれども、万が一ということもありましたから、年ごろの娘とか養女とか、そういった者はないかと遠回しに探りを入れてみましたが、全然それもむだな詮議で、糸屋の若主人のしげしげ出入りしたということも、ただの小唄のおけいこにすぎなかったということまで判明したものでしたから、これではいかなむっつり右門でも、ほうほうの体で引き揚げるより道はなくなりました。
 だから、右門は表へ出ると、いまかいまかというように十手を斜《しゃ》に構えながら、気張っていた伝六を顧みて、くつくつと笑いながらいいました。
「われながらおかしくてしようがねえや。もう十手なぞを斜に構えてなくたっていいんだよ。とんだほしちげえさ」
「えッ。じゃ、菊廼屋歌吉っていうやつあ男の野郎なんですかい」
「女は女だがね、おあいにくさまなことに、もう七十に近い出がらしの梅干しばあさんさ」
「ちえッ。妹のやつも兄貴に似やがって、ちっとばかり早気だな。じゃ、なんですね、来るまじゃえらくぞうさがなさそうに見えやしたが、こう見えてこの事件は存外大物のようですね」
「と思って、おれもいま考え直しているんだが、どうやらこいつ相当に知恵を絞らなきゃならんかもしれんぜ」
 事実において、今となってはもうそう簡単に見くびることができなくなりましたものでしたから、右門はいかにしてこの失敗をつぐなったらいいか、捜査方針についてもう一度初めから出直す必要に迫られてまいりました。あくまでも色ざんまいのうえの毒殺とにらんで、このうえともにその点へ見込み捜査をつづけていくならば、もっと方面をひろめてかたっぱし出入りの女を当たってみる必要があるのです。でなくば、全然出直して見込み捜査を捨ててしまい、いわゆる大手攻めの常識捜査を進めていくか?――行くならば、第一に当たってみることは、あのときの祭りにつかった問題の横笛がなんぴとの手を経ていずこから渡ってきたか、まっさきにまずその出所を調べることが必要でありました。それから、第二は毒の出所――。思うに、回りの猛烈であるところから判断すると、必ずや鴆毒《ちんどく》にちがいないので、鴆毒ならば南蛮渡来の品だから、容易にその出所を知ることは困難ですが、しかし、いよいよとならばそれもまた大いに必要な探査でした。
 時刻はちょうど、そのとき青葉どきのむしむしとした宵《よい》五つごろで、だからふと右門は思いついて、涼みがてらに四谷へ回り、念のために横笛の出所を探ってみようと、急に足を赤坂のほうへ向けました。虎《とら》の門《もん》からだらだらと上がったところが今も残る紀国《きのくに》坂で、当時は食い違いご門があったから俗に食い違い見付とも言われてましたが、いずれにしても左は人家の影も見えないよもぎっ原で、右は土手上の松籟《しょうらい》も怪鳥の夜鳴きではないかと怪しまれるようなお堀《ほり》を控えての寂しい通り――。あいにくと新月なんだから、もうとっぷりと暮れきった真のやみで、職掌がらとはいい条少し気味のわるい道筋なんですが、そこを通らねば四谷へは出られなかったものでしたから、右門は先へたってそろりそろりと坂を上ってまいりました。すると、坂をのぼりきった出会いがしらに、きゃっというような悲鳴をたてながら不意にいった声がありました。
「わッ、おっかねえ! それみろい、いううちに白いものがふんわりと出たじゃねえか」
 職人らしい者のふたり連れで、白いものといったその白いものは右門の着ていた越後上布であることがすぐに受け取れたものでしたから、それをお化けとでも勘違いしての悲鳴であったことはただちにわかりましたが、だから普通の者ならば当然苦笑いでも漏らして、そのまま、なんの気なく通りすぎてしまうべきところでしたのに、ところが少しばかりそこがむっつり右門の他人とは異なる点でありました。不断に細かく働かしているその頭の奥へ、今の職人の口走った、それみろい、いううちに出たじゃねえか、という一語がぴんとひびいたものでしたから、のがさずに突然うしろから呼びとめました。
「これ、町人、まてッ」
「えッ……! ご、ご、ごめんなさい、だ、だんなを幽霊といったんじゃねえんですよ」
「だから、聞きたいことがあるんだ。そんなにがたがたと震えずに、もそっとこっちへ来い」
「い、い、いやんなっちまうなあ。ますます気味がわるくなるじゃござんせんか。ま、ま、まさかに出ていったところをばっさりとつじ切りなさるんじゃござんすまいね」
「江戸っ子にも似合わねえやつだな。しかたがない、名まえを明かしてとらそう。わしは八丁堀の右門と申すものじゃ」
「えッ。そ、そうでしたかい。お見それ申しやした。むっつり右門のだんなと聞いちゃ、おらがひいきのおだんなさまだ。そうとわかりゃ、このとおり急に気が強くなりましたからね。なんでもお尋ねのことはお答えしますが、もしかしたら、今の幽霊の話じゃござんせんかい」
「では、やっぱり、どこかにそんなうわさがあるんじゃな。今そちが、それみろい、いううちに出たじゃねえか、と口走ったようじゃったからな、たぶんそんなうわさでもしいしい来たんだろうと思って呼び止めたのじゃが、いったいそのうわさの個所はどの辺じゃ」
「どの辺もこの辺も、つい目と鼻の先ですよ。そう向こうのよもぎっ原に本田様のお下屋敷が見えやしょう。あの先に変な家が一軒あるんですがね。ふさがったかと思えばすぐとあき家になるんで、何かいわくがあるだろうあるだろうといっているうちに、ついこのごろで、あの山王さんのお祭り時分から、ちょくちょくと変なうわさを聞くんですよ。真夜中に縁の下で赤ん坊の泣き声がしたんだとか、庭先の大いちょうの枝に白い煙がひっかかっていたとか、あまりぞっとしないことをいうんですね」
「さようか。どうもご苦労だった」
「いいえ、どうつかまつりまして――ところで、だんなは、おやッ、ひどくあっさりしてらっしゃいますな。聞いてしまうともうさっさとお歩きですが、ご用っていうのはそれっきりですかい」
 右門ときいて、ひいきの客がひいき役者と近づきになりたがるように、相手はふた足み足追っかけながら、しきりとそれ以上の好意を見せようとしましたが、聞くだけのことを聞いてしまえば先を急ぐからだでしたから、右門は返事もせずに、さっさと伝馬町めがけて足を早めました。
 まもなく、目的の糸屋をみつけましたものでしたから、主人の没後あとあとのことを取りしきっている召し使いの老婢《ろうひ》について、右門は八方から聞かれるだけのことを聞きました。しかるに、事件はどこまで迷宮にはいるつもりであるか、老婢の証明によって、あらゆる見込みと材料が、根底からくつがえされるにいたりました。
 彼女の述ぶるところによれば、いかにも女の客の多かったのは事実であるが、向こうだけのかってなうわきからで、うちの若主人にかぎっては、かつて一度も女との浮いたうわさなどを聞かなかったというのです。それから、肝心の横笛に関する陳述も、同様に右門の予想を裏切りました。先代からの下女奉公であるから、はしのあげおろしにいたるまで知っているが、だいたい問題の笛なるものが親の形見で、だから日ごろその愛用も深く、現にお祭りの前後にはわざわざ自身で吹いてみて音調べをしたくらいだから、それに疑問の点なぞはないという申し立てでありました。してみれば、あの横笛の息穴へあれなる猛毒を塗った時刻も、それを塗った人間の出没した時刻も、お祭りのどさくささいちゅうということにならなければなりませんでしたから、事は迷宮にはいったばかりではなく、いよいよめんどうとなったわけで、さすがの右門も、この一見ぞうさなさそうに見えた事件にことごとく見込みを逸し、すっかり気を腐らして八丁堀へかえりつくと、いつもそういうとき名案を浮かばさすための碁盤にさえ向かう元気すらも失い、ぐったりとそこへあおのけになってしまいました。
 神のごとくに信頼しきっている親分の右門がそうなんだから、おしゃべり屋伝六のしょげかえってしまったことはむろんのことで、ひざ小僧をそろえながらへたへたとうずくまると、泣きだしそうな顔つきで、そこにころがっていた証拠物件のあの横笛を恨めしげにひねくりまわしました。すると同時です。まことに偶然というものはどこにあるかわかりませんが、恨めしげに笛をひねくりまわしていた伝六が、突然とんきょうな叫びを発しました。
「ね。だんな! だんな! この笛の中に、おかしなものが詰まっていますぜ!」
 気を腐らしていたやさきに耳よりなことばでしたから、はね起きざまに奪いとってあんどんにすかしてみると、なるほど伝六のいったとおりです。紙切れの巻いたものが、笛の胴の中に詰められてありましたので、胸をおどらしながら火ばしの先でつつき出してみると、いっしょに右門も伝六もあっと息をのみました。紛れもなく、その紙切れは書き置きだったからです。あまりじょうずな手跡ではなかったが、書き置きの事――と初めにはっきり断わって、次のような文句が乱暴にこまごまとしたためられてあったからです。
「やい、野郎たち、よくもよくもおれを裏切りやがったな。そんな古手でうぬらばかりうまいしるが吸われると思うとあてが違うぞ。くやしくてならんから、いっそのことに訴人してやろうかとも思ったが、それじゃおれの男がすたるから、それだきゃがまんしておいてやらあ。そのかわりに、ただじゃおかねえからそう思え。おれはてめえたちへのつらあてに死んでやるんだ。それもただのところで死ぬんじゃねえんだぞ、さいわい聞きゃ、あさっての山王さんにおれが牛若丸になり、将軍さまのご面前で踊るてはずになっているということだから、おれはそのとき毒をあおって、りっぱに死んで見せらあ。てめえたちへのつらあてに、死んでみせらあ。そうすりゃ騒ぎも大きくなって、おれがなんで死んだかもお調べがつき、そのうちにはきさまらのやっていることも、ぼちぼち世間に知れるにちげえねえんだからな。そうすりゃ、てめえたちの塩首が獄門にさらされる日もそう遠くはあるめえよ。どうだい、おどろいたか、ざまみろ」
 まことに意外以上の意外というべきで、いずれにしてもこの書き置きが糸屋の主人自身したためたものなることはいずれの点からいっても一目|瞭然《りょうぜん》であり、しかもそれが書かれてある文言から判じて何者か仲間の一団に対するつらあての計画的な毒薬自殺と判明したものでしたから、さすがの右門もあまりの意外にうなってしまいました、伝六の肝をつぶしてしまったことはまた数倍で――。
「なんのつらあてで死んだか知らねえが、世の中にはずいぶん変わったやつもあるもんだね。将軍さまの面前でわざわざ毒をなめやがったのもしゃれているが、書き置きを笛の胴の中にしまっておくなんぞは、もっとしゃれているじゃござんせんか。これじゃ、いかなだんなでも尾っぽを巻くなあたりめえでしょうよ。てめえが好きでおっ死《ち》んだものを、人がばらしたとにらんでたんだからね。しかし、それにしても、だんな、この文句が気になるじゃござんせんか。いまにきさまらの塩首が獄門台にのぼるだろうよと書いてあるが、このきさまらというそのきさまらは、なにものだろうね」
「今そいつを考えているんだ。うるせえ、しゃべるな!」
 しかりつけながら、右門は例のように、あごのまばらひげをまさぐりまさぐり、なにごとかをしばらく考えていましたが、突然きっとなったとみるまに、鋭い命令が伝六に下りました。
「今からお奉行所へ行って、訴訟箱の中をかきまわしてみてこい!」
「えッ! だって、もう五つ半すぎですぜ」
「五つ半すぎならいやだというんか」
「いやじゃねえ、いやじゃねえ。そりゃ行けとおっしゃりゃ唐天竺《からてんじく》にだって行きますがね。こんなに夜ふけじゃ、ご門もあいちゃいませんぜ」
「天下の一大事|出来《しゅったい》といや、大手門だってあけてくれらあ」
「なるほどね、天下の一大事といや、大久保の彦左衛門《ひこざえもん》様がちょいちょい使ったやつだ。一生の思い出に、あっしもちょっくら使いますかね」
 夜ふけをいといもなく数寄屋橋《すきやばし》へころころしながら行ったようでしたが、案ずるよりもたやすく用が足りたとみえて、小半ときとたたないうちに帰ってまいりましたものでしたから、右門は待ちうけてその報告を聞きました。この数日間に訴えのあった事件というのはだいたい次の五つで、まず第一は湯島切り通し坂のおいはぎ事件です。難に会ったものは近所の町医で、被害品は金が三両、第二は質屋の屋尻《やじり》切り、第三は酒のうえで朋輩《ほうばい》どうしがけんか口論に及び、双方傷をうけたからしかるべく取り扱ってくれという訴えでした。第四はだんご鼻の竹公という遊び人が、他人の囲い者をこかして金子六十両をかっさらい、いずれかへ逐電したからめしとってほしいというだんなからの訴え、最後は所々ほうぼうからの訴えをひっくるめた一件で、浅草と神田と日本橋ににせ金をつかました者があったという、あまりぞっとしない事件でした。
 だから、当然右門は失望するだろうと思われましたが、しかるに事実はその反対で、伝六の報告を全部きいてしまうと、突然にたりと笑いました。のみならず、不思議なことをごくあっさりといったもので――。
「じゃ、今からひっこしをするかな。そこのまくらと蚊やりとを持って、きさまもいっしょについておいでよ」
 いうと、笑顔《えがお》ではなくほんとうにさっさと表へ歩きだしたものでしたから、例のごとく口をとがらしたのは伝六でした。
「またいつもの癖をそろそろ始めましたね。だんなのこの癖にゃ、たこのあたるほど出会っているんだから、けっしてもう愚痴もいいませんが、それにしても少しうすみっともねえじゃござんせんか。この真夜中に木まくらとかやり粉をもってのそのそしていたひにゃ、だれが見たってつじ君あさりとしきゃ思いませんぜ」
 しかし、右門はもうそのとき完全に、われわれのむっつり右門でありました。黙然たることその金看板のごとく、行動の疾風迅雷的にして、その出所進退の奇想天外たることまたいつものとおりで、面に自信の色を現わしながら颯爽《さっそう》として足を向けたところは、伝六のいったつじ君の徘徊《はいかい》している柳原の土手ではなくて、つい宵《よい》の口に通ったばかりのあの紀国坂《きのくにざか》だったのです。しかし、かれは坂の中途で立ち止まりながら、しきりとやみをすかして、あのとき通りすがりの職人から聞いた大いちょうのありかを捜していましたが、やがてその方向を見定めると、容赦もなくよもぎっ原をどんどんそのほうへやって参りましたものでしたから、ようやく気がついたとみえて、伝六がぶるぶるッと身ぶるいしながら、そでを引くように呼びとめました。
「ね、だんな、待っておくんなさいよ。待っておくんなさいよ。人をからかうにもほどがあるじゃごわせんか。どうやら、行く先ゃさっきの職人からきいた化け物屋敷のように思われますが、あっしゃこう見えても善人なんです。生得お寺の太鼓と化け物ばかりゃきれえなんだから、このお供ばっかりはごめんですよ、ごめんですよ」
 しかし、右門は依然黙々たるものでありました。本田の下屋敷を裏へ抜けて、だらだらと小二町ばかり南のがけのほうへやって行くと、なるほど、不思議なところに一軒変な家があるのです。こんな原っぱのまんなかにどこの酔狂者が建てたんだろうと思われるような一軒家なんで、まず間取りならばせいぜい三間か四間くらい、けれども存外その建てつけが古そうなんだから、隠居所にか寮にでも建てたものらしいですが、あのとき職人がいったように、今はただの貸し家になっているとみえて、門のあたり、かきねのあたり、草ぼうぼうとして荒れるがままのぶきみな一軒家でありました。これではどう見ても化け物屋敷といううわさのたつのは当然なんで、しかも門前ににょっきりと立っている大いちょうなるものが、はなはだまたいけないかっこうをしているのです。枝葉は半分葉をつけ、半分は枯れ木のままで、それがぬっと深夜の空にそびえ立っているあんばいは、それだけでも化けいちょうといいたいくらいな趣でした。
 右門は立ち止まってまずその大いちょうを見あげ見おろしていましたが、その枝葉の半分枯れかかっているのを発見すると、つぶやくようにいいました。
「ははあ、どこか根もとにうつろがあるな」
 回ってみると、案の定、向こう側の草むらに面したところに大うつろがあったんで、一刀をぬきながら中をかきまわしてみると、穴はずっと地中深くあいているらしいのです。それがわかると、右門はにやりと笑いました。同時に、ふるえている伝六にいったもので――、
「なるべく大きな音をさして家へはいれよ」
 だから、伝六がいっそう震えながらそでを引きました。
「いやんなっちまうな。じゃ、まくらと蚊やりはこの家で使うんですかい」
「あたりめえだ。この草むらじゃさぞかし蚊が多いだろうと思ってな、それでわざわざ用意してきたんだ。八丁堀のごみごみしているところとは違って、この広っぱならしずかだぜ」
「ちえッ。静かにもほどがごわさあ。あんまり静かすぎて、あっしゃもう、このとおりわきの下が冷えていますよ」
「じゃ、おめえさんおひとりでおけえりなせえましよ」
「またそれだ。あっしがひとりでけえられるくらいなら、だんなにしがみついちゃいませんよ。ばかばかしい。いくら夏場だって、化け物屋敷へ寝にくるなんて酔狂がすぎまさあ。しかたがねえ、もうこうなりゃ、だんなと相対死にする気で泊まりやすがね。それにしても、わざわざでけえ音をたてるこたあねえんじゃござんせんか。寝ている化け物までが目をさましますぜ」
「さましてほしいから、わざと、音をたてるんだよ、な、ほら、こういうふうにしてへえるんだ」
 いいざまに、がたぴしと戸を繰りあけて、鼻先をつままれてもわからないようなまっくらな座敷へどんどんと上がっていったものでしたから、伝六はとり残されたらたいへんとみえて、必死と右門のそでにしがみつきながら、あとを追って中にはいりました。
 同時のようにぷんと鼻をつくものは、あのとき職人のいったように長いこともう住み手がなかったとみえて、あき家特有の湿気をふくんだかびのにおいです。それが文字どおりの深夜だからまた格別で、承知をして来たものの右門も少々ぞっとするくらい――と、いっしょに、ぎゃあ、という変な声が、不意に縁の下から聞こえました。つづいて、おぎゃあ、おぎゃあと三声ばかり……。
「だ、だ、だんな! 出ましたよ、出ましたよ」
 しかし、右門はすましたものでありました。
「今度はどこかな」
 小声でつぶやきながらゆうゆうと蚊やりに火をつけたもので、そのすりつけ木の火なるものがまためらめらと青く燃えて、それがぼうっとやみの中にぼかしたあかりを見せましたものでしたから、いよいよ屋のうちは陰にこもってまいりました。思ったとたんに、今度は天井裏で、げらげらという女の笑い声です。それがまたひと声ではなく、三声四声とげらげら笑いつづけていましたが、そのとき突然、ぺったりと何か天井裏から落ちたものがありました。あいにくと、そのぬるぬるしたやつが、床に落ちたこんにゃくのようにぶるぶると胴ぶるいしている伝六の首筋へぺったりと来たものでしたから、もうことばはないので――、きゃっといったきり、破れ畳の上へしがみついてしまいました。それがまぎれもなく生き血のかたまりであるということが伝六にわかったときは、真に意外!
「野郎ども、あわてるな! まごまごしていると焼け死ぬぞ!」
 叫ぶといっしょに、右門がめらめらとそばの破れ障子に、すりつけ木の火を移していたときでしたから、震えながらも伝六がぎょうてんして叫んだのです。
「火、火、火事おこすんですか! このうちを焼、焼くんですか!」
 障子に火をつけてぼうぼうとそれが燃えだせば火事に決まっているんだが、しかるにわがむっつり右門は、それが予定の行動のごとく、どんどんとうちじゅうの障子という障子残らずに火をつけて回ったものでしたから、伝六は伝六並みの鑑定を下してしまったのです。
「かわいそうに、だんなもとうとうその年で、気がふれてしまいましたね」
 けれども、われわれの右門にかぎって、そうたやすく気なんぞふれてはたまらないので、会心そのもののごとく火炎が盛んになっていくのをながめていましたが、と見るより疾風のごとく、さきほど見ておいた大いちょうのうつろの入り口へ飛んでいくと、例の草香流やわらの突き手を用意して、にやにや笑いながら待ち構えていたものでありました。それを裏書きするように、うつろの中から必死にはい出してきたものは、たぬきでもない、きつねでもない、りっぱに二本足のある人間です。
「バカ野郎! 八丁堀にむっつり右門のいることを知らねえか! そこでゆっくり涼むがいいや!」
 いううちにぽかり! たわいなく気絶してしまったやつをあっさり草むらへけころがしておくと、また草香流を構えながらいいました。
「さあ、早く出ろ! あとは幾人だ! ほほう、五人とはだいぶいるな! さ、てめえたちもゆっくり涼め!」
 ぽかりぽかりとかたづけておいて、さらにのぞきながらいいました。
「まだ女がひとりいるはずだが、おいでがなくば迎えに行くぞ」
「出ますよ、出ますよ、どうせ一度は納めなくっちゃならねえお年貢《ねんぐ》ですからね。大きにご苦労でござんした。へえい。さ、ご自由に――」
 ひどく鉄火なことばつきで、わるびれもせずにのっそりと、白いふくらはぎを見せながら上がってきたものは、三十がらみの、見るからに油ぎった中|年増《どしま》でありました。しかし、異様なのはその髪の形で、ざんばらとした洗い髪なのです。それから白衣――。
 だから右門はすかさずにいいました。
「幽霊のまねして、この大いちょうにでもぶらさがるつもりだったんだな」
 女は答えるかわりにやや凄艶《せいえん》な顔つきで、にたにたと笑いました。
 そのとき、じゃんじゃんと鳴り渡るすり半とともに、どやどやと駆けつけてきたものは、江戸の名物火事ときいて鳶《とび》の装束の一隊でありました。とみると、右門は頭《かしら》に向かって凛《りん》といったものです。
「八丁堀の近藤右門じゃ。にせ金使いの一味をめしとるために、わざわざ放った火じゃによって、消すには及ばぬ。ただしかし、近所へ迷惑かけてはならんからな、飛び火だけは気をつけるがよいぞ」
 言いすてると、急に気の強くなった伝六になわじりをとらして、さっそうとしながら引き揚げてまいりました。お白州へかけるまでもなく、一団は右門のいったとおりのにせ金使いで、のみならず火にかけたあの一軒家こそは、それなる一味の巣窟《そうくつ》であったばかりではなく、にせ金を鋳造していた場所だったのです。大いちょうのうつろを通路に、地下へ穴倉をほりぬき、驚くばかりの大きな設備を地下のその穴倉に設けて、大々的に鋳造したのでしたが、それをするについてはあき家に住み手のはいるのがじゃまでしたから、赤子の泣きまねをやったり、血をたらしたりして住み手をおどかしたうえにその居つくのを防いだので、しかるに手ぬかりだったことは、大枚三万両というにせ金の鋳造をようやく終わり、それを市中に使いに出ればいいという一歩手前のときにいたって、はからずも一味のうちに仲間割れが生じたのです。事の起こりは、悪党のくせに人間の色恋からで、相手はざんばら髪の白衣姿でにたにたと笑ったあの女、それを中心に一味の首領と、あの毒死した糸屋の若主人とが張り合ったのですが、すでにいくたびも説明したとおり、糸屋のほうがずっと美男子でもあり、若さもまたちょうど食べごろの年かっこうでしたから、最初は女がそのほうになびいていっしょに雁鍋《がんなべ》もつつき、向島の屋台船で大いに涼しい密事《みそかごと》もなんべんとなく繰り返していたのに、年のいったのもまた格別な味といわんばかりで、もう五十を過ぎた、上方者のねっちりとした首領といつのまにかできてしまったものでしたから、江戸っ子の糸屋の主人がすっかりみけんに青筋を立ててしまったのです。それが嵩《こう》じて、利益の分配のことにもけんかの花が咲き、その結果があの笛の中の書き置きにあったようなしばいがかりのつらあて毒死になったものでしたが、運よくもまたそれをわれわれの崇拝おかないむっつり右門に発見されましたのでしたから、かれの明知が瞬間にさえ渡って、遺書の中に見えた、いまにぼちぼちと世間に知れるだろうという一句から、早くも伝六が奉行所から持ってかえった報告中のにせ金事件に推定を下し、かくのごとくに奇想天外疾風迅雷的の、壮快きわまりなき大|捕物《とりもの》となるにいたったのでありました。
 だから、右門は吟味をとげて、女もろとも一味の者を獄門送りに処決してしまうと、いとも心もちよさそうにいったことでした。
「これで糸屋の若主人も迷わず成仏するだろうよ。遺言どおりに、塩首が見られるんだからな」
 しかし、伝六は不平そうにいったものです。
「ところが、あっしゃ成仏しませんよ。もうこんりんざい、だんななんぞに幽霊屋敷や化け物話を聞かせるこっちゃねえ。だんなの知恵じゃ、すぐとそいつが一味の巣窟《そうくつ》にも穴倉にも見当がつくんでがしょうが、あっしゃぺったり生き血を首筋へやられたときゃ、五年ばかり命がちぢまりましたぜ」
「じゃ、きげん直しに乃武江《のぶえ》でも招いて、いっしょにところてんでも食べるかな」
 すると、伝六が急にくつくつ笑いながらいいました。
「だんなも悪党をつかまえるこたあ天下一品だが、あっしのような善人には眼力が届かんとみえらあ。あの日四谷からの帰りがおそすぎたでしょう。なんのために、あれっぽちのねた[#「ねた」に傍点]洗いがあんなにおそすぎたかご存じですかい。ちゃんともうあのとき妹のやつを家へひっぱっていって、早いところ五、六本すすったんですよ。どうです。くやしかありませんか」
 憎めないやつで、かわいいことをとうとう白状してしまいましたものでしたから、右門は目を細めながら、この愛すべくむじゃきな部下をしみじみと愛撫《あいぶ》するようにながめていましたが、いつにもなく右門に似合わない述懐をもらしました。
「きさまがべっぴんで、女の子だったら、ひと苦労してみるがな」

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
   1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:Juki
1999年11月26日公開
2005年6月29日修正
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佐々木味津三

右門捕物帖 青眉の女 ——佐々木味津三

     

 ――その第四番てがらです。
 すでにもうご承知のごとく、われわれの親愛なる人気役者は、あれほどの美丈夫でありながら、女のことになると、むしろ憎いほどにも情がこわくて、前回の忍《おし》の城下の捕物《とりもの》中でも、はっきりとそのことをお話ししておいたとおり、尋常な女では容易なことに落城いたしませんので、右門を向こうへ回してぬれ場やいろごとを知ろうとするなら、小野小町か巴御前《ともえごぜん》でも再来しないかぎり、とうてい困難のようでございますが、まてば海路のひより――いや、捕物怪奇談でございますから、海路ではなくて怪路のひよりとでもしゃれたほうがいきでしょう。それほどの石部《いしべ》金吉なむっつり右門が、今回の四番てがらにばかりは珍しくも色っぽいところも少少お目にかけることになりましたから、まことに春は価千金、あだやおろそかにはすべからざるもののようです。
 ところで、その事件の勃発《ぼっぱつ》いたしましたのは、右門がおなじみのおしゃべり屋伝六とともに、前節の忍の城下から江戸へ引き揚げてまいりまして約半月後の六月初めのことでございましたが、普通ならばあのとおり遠い旅先へてごわい大捕物に行ってきたあとでございますから、月の十日や半月ぐらい大手をふって骨休みがもらえますのに、われわれのむっつり右門はどこまでも変わり者の変わり者たるところを発揮いたしまして、べつに疲れたというような顔もせず、すぐとそのあくる日からご番所へ出仕したものでありました。
 しかし、出仕はいたしましても、根が右門のことですから少々様子が変わっていますが、まず朝は五つに出勤いたしますと――五つといえばただいまのちょうど八時です。その五つかっきりにご番所へ参りますると、さっそく訴状箱をひっかきまわして、ひと渡りその日の訴状を調べます。これは自分の買って出るような事件があるかないかを当たって見るので、ないとなるとフンといったような顔つきで同心控え室の片すみに陣取り、もう右門党のみなさまがたにはおなじみな、あのひげをぬく癖をあかずにくりかえしくりかえし、半日でも一日でも金看板のむっつり屋をきめ込むのがそのならわしでした。もっとも、その間になにか珍しいお吟味でもあるときは、お白州に出向いていって、にこりともせず玉川じゃりを見つめていることもあるにはありますが、で、その日も無聊《ぶりょう》に苦しんでおりましたから、例のごとく同心控え室へ陣取り、そこの往来に面したひじ掛け窓の上にあごをのっけて、あの苦み走った江戸まえの男ぶりを惜しげもなく風にさらしていると、
「だんな! ね、だんなえ!」
 ささやくような小声ではありましたが、なにごとか重大なことをでもかぎ出してきたとみえて、人目をはばかりながら、ぽんと右門の肩をたたいた者がありました。いうまでもなく、おしゃべり屋の伝六でした。けれども、そういうときのむっつり右門は、まゆげが焦げだしてきてもめったに返事なぞすることではないのでしたから、振り向きもせずにぼんやりと往来の人通りを見詰めておりますと、相手にしないので伝六は少し腹がたったか、ぐいとその肩をこちらへねじ向けて、兄貴をでもたしなめるようにいいました。
「ちえッ。またなんかごきげんがわるいですね。うすみっともねえ。心中の相手を捜すんじゃあるめえし、だんなほどの人気男がぼんやり往来ばたへつら突き出して、なんのざまです。ね、いい事件《あな》みつけてきたんですよ」
 しかし、右門はぐいと伝六にその顔をねじ向けさせられるにはさせられましたが、依然ぼんやりと小首をかしげて、さもたいくつしきったようにむっつりとおし黙ったままでしたから、心得て伝六がかってにあとをつづけました。
「ようがす、ようがす。そんなにあごがだるけりゃ、あっしがこうやってつっかえ捧になってあげますからね、話の筋だけをお聞きなせえよ。ね、ゆうべおそくになって駆け込み訴訟をしたんだそうですが、だんなは牛込の二十騎町の質屋の子せがれが、かどわかされたって話お聞きになりませんでしたか」
「なんだ、それか。じゃ、きさま、小当たりに当たってみたな」
 すると、意外にも右門がちゃんとその事件を知っていて、あごを伝六にささえさせたまま話に乗ってまいりましたものでしたから、おしゃべり屋が急に活気づきました。
「へえい。じゃとおっしゃいましたところをみると、だんなもその事件もうご存じですね」
「あたりめえさ。それがために、毎朝訴訟箱をひっかきまわしているんじゃねえか。きさまのこったから、当たるには当たったが、しくじっちまったんだろ」
「ずぼし、ずぼし。実あ、だんなのめえだがね、あっしだっていざとなりゃ、これでなかなか男ぶりだってまんざら見捨てたもんじゃねえでがしょう。それに、なんていったってまだ年やわけえんだからね、人さまからも右門のだんなの一の子分と――」
「うるせえな。能書きはあとにして、急所だけてっとり早く話したらどうだ」
「ところが、そいつがくやしいことにはおあいにくさま。だんなの一枚看板がむっつり屋であるように、あっしの能書きたくさんもみなさまご承知の金看板ですからね。だから、はじめっから詳しく話さねえと情が移りませんが、でね、今いったとおり、あっしだってもこの広い江戸のみなさまから、むっつり右門のだんなの一の子分だとかなんだとか、ちやほやされているんでしょう。しかるになんぞや、一の子分のその伝六様がいつまでたってもどじの伝六であったひにゃ、たといだんなはご承知なすったにしても、あっしひいきの女の子たちが承知しめえと思いやしてね、ひとつ抜けがけの功名に人気をさらってやろうと思って、こっそりいましがた話のその二十騎町へちょっと小当たりに当たってきたんですが、お目がねどおり、そいつがどんなにしても、あっしひとりの力じゃ手におえなくなったんでね。だんなの知恵借りに、おっぽ振ってきたんですよ。不憫《ふびん》とおぼしめして聞いてくださいますか」
「ウッフフフ。若い娘《こ》と差しになりゃ恥ずかしくてものもいえなくなるくせに、女の子が承知しねえたあよかったよ。陽気のせいだよ、陽気のせいだよ。しかたがねえ、不憫をたれてやるから、早いとこ急所を話してみな」
「ありがてえッ。じゃ、大急行で話しますがね。あの訴え状にもあるとおり、時刻は夕がたとしてありますが、その夕がたのおよそいつ時分に、どこでどうやってあの質屋の子せがれがかっさらわれたのか、かいもく手がかりがねえっていうんでしょ。だから、こいつやり口のしっぽをちっとものこさねえあたりからいって、ただの人さらいや人買いのしわざじゃねえなとにらみましたからね、けさご番所へ来てみるてえと、まだだれも手をつけてねえようでしたから、すぐ駆けつけていったんですよ。するてえと――」
「ちょっと待ちな。その質屋は牛込のどこだとかいったな。そうそう、二十騎町といったな」
「へえい、さようで――二十騎町から市ガ谷のお見付のほうへぬけていくちょうど四つつじですよ。のれんに三河《みかわ》屋という屋号が染めぬいてありましたから、たぶん生国もその屋号のほうでござんしょうがね」
「ござんしょうがねというところを見ると少し心細いが、じゃ詳しい素姓は洗ってみなかったんだな」
「いいえ、どうつかまつりまして――。あっしだっても、だんなの一の子分じゃごわせんか。だんながいつも事件にぶつかったとき、まずからめてからねた[#「ねた」に傍点]を集める手口や、あっしだっても見よう見まねでもう免許ずみですからね、ご念までもなく、ちゃんともうそいつあまっさきに洗ったんですよ」
「どういう見込みのもとに洗ったんだ」
「知れたこと、牛込の二十騎町といや、ともかくも二本差《りゃんこ》ばかりの、ご家人町じゃござんせんか。こいつが下町の町人町にのれんを張っているただの質屋だったら、それほどに不思議とも思いませんがね、わざわざお武家を相手のあんな山の手に店を張ってるからにゃ、ひとくせありそうな質屋だなと思いやしたんで、あっしの力でできるかぎりの素姓を洗ったんですよ」
「偉い! 大いに偉い! おれも実あ今ちょっとそのことが気になったんで、わざときいてみたんだが、そこへきさまも気がつくたあ、なかなか修業したもんだな。おめえのてがらを待ってるとかいったその女の子のために、久しぶりで大いにきさまをほめといてやろう。やるが、それにしてはしかし、生国が三河だというだけの洗い方じゃ少し心細いな」
「だから、そのほうもだんなの知恵を借りたいといってるんでがすよ。とにかく、生国が三河であるということと、十年ばかりまえからあそこで今の質屋渡世を始めたってことだきゃはっきりと上がったんですが、それ以上はあっしの力でどうにも見込みがたちませんからね、じゃ別口でもっと当たってやろうと思いやして、子せがれの人相書きやかっさらわれた前後のもようをいろいろにかき集めてみるてえと――」
「何か不審なことがあったか」
「大あり、大あり。消えてなくなったその子せがれは、十だとか十一だとかいいましたがね、女中の口から聞き出したところによると、質屋の子せがれのくせに、だいいちひどく鷹揚《おうよう》だというんですよ。金のありがたみなんてものは毛筋ほども知らず、商売《しょうべえ》が商売だからそろばんぐれえはもう身を入れて習いそうなものだのに、朝っちからいちんちじゅう目の色変えて夢中になっているものは、いったいだんな、なんだとおぼしめします?」
「八卦見《はっけみ》じゃあるめえし、おれにきいたってわからねえじゃねえか。だが、察するに鷹揚《おうよう》なところを見ると、その子せがれは万事がきっと上品で、顔なぞも割合にやさ形だな」
「お手の筋、お手の筋。そのとおりの殿さま育ちで、今いったそのいちんちじゅう目色を変えて夢中になっているっていうものがまた草双紙のたぐいというんでしょう。だから、自然おしばやのまねとか、役者の物まねばかりを覚えましてね、女中なんかにも、おれゃ大きくなったら役者になるんだって口ぐせにいってたところへ、ちょうどまた行きがた知れずになったというその日の夕がた、質屋の家のまわりをうろうろとうろついていたしばや者らしい男があったっていうんだから、あっしがこいつをてっきりほしとにらんだな、おかしくも目違いでもねえじゃごわせんか」
「たれもおかしいとはいやしないよ。このとおり、さっきから神妙に聞いているんだが、それでなにかい、知恵を借りたいっていうな、そのほしが実は目きき違いだったとでもいうのかい」
「いいえ、どうつかまつりまして。今もあっしゃ、むろんのことに、もうそいつめが人さらいのほしだとにらんでいますが、だからね、いろいろと番頭や主人にも当たって、そいつの人相書きから探りを入れてみるてえと、やっぱりしばや者で、久しいまえから家へも出入りの源公というやつなんだそうでがすよ。下谷《したや》の仲町に住んでいて、おくやま(浅草)の掛け小屋しばやとかの道具方をやっているというねた[#「ねた」に傍点]が上がりましたからね。こいつてっきり欲に迷いやがって、子せがれに役者の下地のあるのをさいわい、そこの小しばやへ子役にでもたたき売りやがったなと思いやしたから、さっそくしょっぴきに駆けつけていってみるてえと、少しばかり不審じゃごわせんか。野郎が裏口の日あたりへ出やがって、にたにたと青白い顔にうすっ気味のわりい笑いをうかべながら、いま切りたてのほやほやといったような子どもの足を二本、日にかわかしているんでがすよ」
「なに? 子どもの足※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「そうでがしょう。だんなだって、そいつを聞きゃ、聞いただけでもおもわずぎくっとしなさるでがしょう。なにしろ、ももから下の両足ばかりをぶらぶらと両手にさげて、日に干していたんですからね、あっしがちっとばかり肝を冷やして、このとおり、今もおぞ毛をふるいながら、だんなのところへ、いちもくさんに知恵借りに来たな、まんざら筋にはずれたことでもねえじゃごわせんか」
「そうよな。で、なにかい、その日にかわかしていたとかいう子どもの足にゃ、ほかに何か不審と思える節は気がつかなかったのかい」
「ところが、それが大ありなんでがすよ。ね、血をね、血をぬぐいとって、もう長いこと日にあててでもいたものとみえましてね、いやにのっぺりとなまっちろいうえに、なんだか少しかさかさとしているように思えたものでしたから、このあんばいだとこいつ何かのまじないに子どもをかっさらっては足を干していやがるなと思ったんで、なまじなま兵法《びょうほう》に手出しをやって、せっかくのほしを逃がしでもしてはと、だんなの草香流を大急ぎで拝借に駆けつけてきたんでございますよ」
 すると、右門が、聞き終わるやいなやのように、伝六のからだをはじき飛ばすがごとく突きのけながら、すっくと立ち上がってすっくと長刀をたばさみ、両手の指節をぽきぽきと音も高らかに鳴らして、今いったその草香流、柔術《やわら》の奥儀を、いかにも所望どおりに貸してやろうといわんばかりなたのもしいいでたちで、黙々と表へ歩きだしたものでしたから、右門のそういうときのたのもしすぎる以上にたのもしい点をだれよりも多く知り、だれよりも多く接している伝六は、ことごとくもう親舟に乗ったような気になって、活気づきながらひとりでうれしがりました。
「ちえッ、ありがてえッ。ありがてえッ。こいつがてがらになりゃ、あっしもこれでようやっとごひいきの女の子たちに一人まえの顔が合わされるというもんだ。ねえ、だんな、このとおりにわか天気じゃござんすが、きのうまでの梅雨《つゆ》で往来はまだぬかるみだから、ひとっ走りまたつじ駕籠《かご》でも仕立てますかね」
 けれども、右門の行動のうちに、伝六のそのひとりよがりを、しだいしだいにぬか喜びとさせるがごとき節が見えだしましたものでしたから、少々不思議でありました。
「――さるほどに雪姫の申すには……」
 なんという名の謡曲の文句であるか、小声で渋いのどを続けながら、片手の扇子であざやかな素謡の手の内を見せていたようでありましたが、まずだいいちにその方向が違いだしたので、伝六が必死に呼び止めました。
「あっ、だんな! だんな! そっちゃ方角違いじゃごわせんか。今のそのほしの居どころは下谷ですよ、下谷の仲町ですよ!」
 だのに、右門は右へ濠《ほり》ばた沿いに曲がるべきところを断然反対の左へ曲がりながら、ごく澄ましきって、同じほがらかさをつづけました。
「――雪姫の申すには、われ今生に生まれおちて、いまだ情けの露を知らず、いまだ情けの露を知らず、のうのうそこの影法師、わがために情けがあるならば、日のみ子の顔見せてたべ、われみずから露となって散らむ、みずから露となって散らむ――」
 ゆうゆうとうたいながら、京橋めがけてやって参りましたようでしたが、そこの橋のたもとについせんだってから昼屋台を出している『いさこずし』というのへぬうと首をつっ込むと、おちつきはらってあなごをもうその指先につまみだしたものでしたから、あっけにとられて伝六があたりかまわずに口をとんがらかしました。
「ちえッ。すし屋なんぞは今でなくとも逃げやしねえじゃごわせんか! 下谷のほうはいっときを争うってだいじなどたん場ですよ。また夢中になって、がつがつといくつ召し上がるんですか! あなごの味を知らねえ国から来たんじゃあるめえし、いいかげんにおしなすって、早く草香流の腕まえを貸してくだっせえよ」
 しかし、右門は目をほそくしながら、伝六ではなく、そこのおやじに、ごく上のきげんでいったものです。
「ほう。あなごばかりと思ったら、こっちの蛤《はま》のほうもなかなかの味だな。この梅雨《つゆ》どきに、これほどの薄酢だけで、かくもみごとな味をもたせる腕まえは、どうして江戸随一じゃ。これからもちょいちょいやっかいかけに参るによって、よく顔を覚えておきなよ。あなごと蛤をまたたくうちに二十平らげたおおぐらいの男と思ってな――」
 そして、満腹そうに炮《ほう》じ立ての上がりばなを喫しながら、小ようじで並びのいい歯の上下をさかんにせせくっていましたが、ちゃらりとそこへ小銀を投げ出すと、のどを鳴らしながらも手を出しえないほどに、もうさっきからひとり気をあせりきっていた伝六のほうへようやくにふり返って、おどろくべきことをごくさわやかにいったものでした。
「だいぶ手間どらしたな。おかげでじゅうぶんの満腹、これでぐっすり昼寝もできるというものだ。じゃ、おれはこれからお小屋にかえってひと寝入りするからな。また、晩にでもなったら遊びにきなよ」
 しかも、人を食ったあいさつをしたばかりではなく、ほんとうに八丁堀めがけてさっさと帰りかけたものでしたから、伝六のかんかんにおこってしまったのはむろんのことです。
「えッ。じゃ、なんですかい。だんなはあっしにこれまで気を持たせておいて、あんたには一の子分がせっかくてがらをしようていうのに、お自分は高見の昼寝で、あっしなんぞは見殺しになさるご了見でげすかい」
 けれども、右門はさようとも、いいやともいわずに、さっさと引き揚げていってしまったものでしたから、かんかんどころか、蛸《たこ》のようになって伝六があびせかけました。
「じゃ、もうようござんす! あっしも江戸の岡《おか》っ引《ぴ》きだ、手を貸してやろうっていったって頼むことじゃねえんだから、あとでじだんだ踏みなさんなよ!」
 むきになって下谷を目がけて駆け去りましたが、それすらも右門には耳にはいったかどうか疑わしいくらいのものでした。

     

 まことにこれは、伝六でなくともかんかんになるのは当然なことにちがいありますまい。草双紙狂で役者志願の一見不良じみた少年でこそはありましたが、ともかくも人間ひとりが生死も不明の誘拐《ゆうかい》をされたというんですから、犬やねこがまい子になったのとは、おのずから事が相違しなければならないはずだからです。しかも、その下手人とおぼしいしばや者の小道具方が、白昼恐れげもなくにたにたと薄気味のわるい笑いをうかべて、まごうかたなき人間の子どもの足を日なたぼっこさせていたというのに、右門はいかにも涼しい顔をしながら、色消しなことには握りずしを二十個も平らげて、これからゆるゆると昼寝をしようといったんですから、右門を信ずることだれよりも厚く、また右門を崇拝することだれよりも厚い伝六にしても、これはかんかんになっておこるのがもっともなことにちがいないのです。
 けれども、それらのいぶかしい右門の態度も、夕がたが来るとすっかりなぞが解けてしまったんですから、やはりこれは、われわれの親愛なる右門にあなごと蛤《はま》を二十個平らげさせてゆるゆる昼寝をさせたほうがましなくらいなものでありました。なぜかならば、あれほどかんかんにおこって行った伝六が、その夕がたになるとしょうぜんとしょげ返って、いかにもきまりわるげに帰ってきたからでありますが、ただきまりわるげに帰ってきたばかりでなく、伝六は力なくそこへべたりとすわると、いきなり両手をついて、まずこんなふうに右門にわびをいったものです。
「さすがはだんなでござんした。さっきはつい気がたっていたものでしたから、聞いたふうなせりふをほざきましたが、どうもご眼力には恐れ入りやした」
 すると、右門は縁側でひと吹き千両の薫風《くんぷう》に吹かれながら、湯上がりの足のつめをしきりとみがいていましたが、にたりと微笑すると、いたわるようにいいました。
「じゃ、あの日に干していた子どもの足は、しばやに使う小道具だってことが、きさまにもはっきりわかったんだな」
「へえい。なんともどうもお恥ずかしいことでござんした。だんなは話を聞いただけであの足が小道具だという眼力がちゃんと届くのに、あっしのどじときちゃ、現物を見てさえももういっぺんたしかめないことにはそれがわからないんですから、われながらいやになっちまいます」
「ウッフフフ……そうとわかりゃ、そうしょげるにもあたらない! 少しバカていねいじゃあるが、念に念を入れたと思やいいんだからね。だが、それにしても、ほかにもうあの事件のねた[#「ねた」に傍点]になるようなものはめっからなかったかい」
「それがですよ。あっしもせっかくこれまで頭突っ込んでおいて、あのほしが見当はずれだからというんですごすご手を引いちまっちゃいかにも残念と思いやしたからね、下谷のあのほしはもう見切りをつけて、すぐにもういっぺん二十騎町の質屋へすっ飛んでいってみたんですが、ほかにゃもう毛筋一本あの事件にかかわりのあるらしいねた[#「ねた」に傍点]がねえんでがすよ」
「そうすると、依然質屋の子せがれは生きているのかも死んでいるのかも、まだわからんというんだな」
「へえい。けれども、そのかわり、あの質屋のおやじがあっしをつかまえて、おかしな言いがかりをつけやがってね。南町はどなたのご配下の岡っ引きだとききやがるから、へん、はばかりさま、いま売り出しのむっつり右門様っていうなおれの親分なんだって、つい啖呵《たんか》をきっちまいましたら、おやじめがこんなにぬかしやがるんですよ。むっつり右門といや、南蛮幽霊事件からこのかた、江戸でもやかましいだんなだが、それにしては、子分のおれがどじを踏むなんて、きいたほどでもねえなんてぬかしやがったんですよ」
「たしかにいったか!」
 すると、右門の顔がやや引き締まって、その涼しく美しかった黒いひとみが少しばかりらんらんと鋭い輝きを見せだしましたものでしたから、伝六が勢い込んでそれへ油をそそぎかけました。
「いいましたとも! いいましたとも! はっきりぬかしやがってね。それからまた、こうもいいやがったんですよ。お上の者がまごまごしてどじ踏んでいるから、たいせつな子どもをかっさらわれたばかりでなしに、もう一つおかしなことを近所の者から因縁づけられて、とんだ迷惑してるというんですよ」
「ど、ど、どんな話だ」
「なあにね、そんなことあっしに愚痴るほどがものはねえと思うんですがね、なんでもあの質屋の近所に親類づきあいの古道具屋がもう一軒ありましてね。そうそう、屋号は竹林堂とかいいましたっけ。ところが、その竹林堂に、もう十年このかた、家の守り神にしていた金の大黒とかがあったんだそうですが、不思議なことに、その金の大黒さまがひょっくり、どこかへ見えなくなってしまうと反対に、今度はそれと寸分違わねえ同じ金の大黒さまが、ぴょこりとあの質屋の神だなの上に祭られだしたというんですよ。だからね、古道具屋のほうでは、てっきりおれんちのやつを盗んだんだろうとこういって、質屋に因縁をつける――こいつあ寸分違わねえとするなら、古道具屋の因縁づけるのがあたりめえと思いますが、しかるに質屋のほうでは、あくまでもその金の大黒さまを日本橋だかどこかで買ったものだというんでね。とうとうそれが争いのもとになり、十年来の親類つきあいが今じゃすっかりかたきどうしとなったんだというんですがね。ところが、ちょっと変なことは、その大黒さまのいがみあいが起きるといっしょに、ちょうどあくる日質屋の子せがれがばったりと行きがた知れずになったというんですから、ちょっと奇妙じゃごわせんか」
「…………」
 答えずに黙々として右門はしばらくの間考えていましたが、と、俄然《がぜん》そのまなこはいっそうにらんらんと輝きを帯び、しかも同時に凛然《りんぜん》として突っ立ち上がると、鋭くいいました。
「伝六! 早|駕籠《かご》だッ」
「えッ。じゃ、じゃ、今度は本気でだんなが半口乗ってくださいますか※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「乗らいでいられるかい。こんなこっぱ事件、おれが手にかけるがほどのものはねえと思っていたんだが、質屋のおやじのせりふが気に食わねえんだ。右門ひとりを見くびるなかんべんしても、お上の者がどじを踏むとぬかしやがるにいたっては、お江戸八百万石の名にかかわらあ。朝めしめえにかたづけてやるから、大手を振ってついてこいッ」
「ちえッ、ありがてえッ。そう来なくちゃ、おれさまの虫もおさまらねえんだ。今度という今度こそは、もうのがしっこねえぞ」
 伝六にしてみれは、右門の出馬はまったくもう万人力にちがいないんですから、こうなるともう早いこと、早いこと、三尺帯を締め直したとみえたが、鉄砲玉のように表へ飛んでいくと、
「へえい、だんな! おあつらえ」
 すぐに駆けかえってきて、みずから駕籠のたれをあげながら、右門の乗るのを待ち迎えました。
 ここにいたれば、もはやただわがむっつり右門の、名刀|村正《むらまさ》のごとき凄婉《せいえん》なる切れ味を待つばかりです。やや青みがかった白皙《はくせき》の面にきりりと自信のほどを示すと、右門は長刀をかるくひざに敷いて、黙然と駕籠をあげさせました。
 宵《よい》はこのときに及んでようやく春情を加え、桜田御門のあたり春意ますます募り、牛《うし》ガ淵《ふち》は武蔵野《むさしの》ながらの大濠《おおほり》に水鳥鳴く沈黙《しじま》をたたえて、そこから駕籠は左へ番町に曲がると、ひたひたと大江戸城の外廓《そとぐるわ》に出ぬけてまいりました。
 けれども、右門の命じたそこからの行く先は、二十騎町の三河屋なる質屋でなくて、伝六に聞いた今の話の古道具商竹林堂だったのです。
「許せよ」
 駕籠から降りて鷹揚《おうよう》にいいながら、ずいと店先へはいっていったものでしたから、男まえといい、貫禄《かんろく》といい、番町あたりの大旗本とでも目きき違いをしたのでしょう。四十五、六の小太りな道具屋のおやじが、ことごとくもみ手をいたしまして、へへい、いらっしゃいまし――とばかり、そこへ平月代《ひらさかやき》の額をすりつけました。そして、べらべらとつづけました。
「――お品はお腰の物でございましょうか。お刀ならばあいにくと新刀ばかりで、こちらは堀川の国広、まず新刀中第一の名品でござります。それから、この少し短いほうは肥前の忠吉《ただよし》、こちらは、京の埋忠――」
「いや、刀ではない。わしは八丁堀の者じゃ」
 道具屋のくせに、なんとまあ目のきかないやつだ、といいたげなまなざしでぎろり右門がおやじの顔を射ぬいたものでしたから、亭主のぎょうてんしたのはもちろんのこと、もみ手が急にひざの上でのり細工のように固まってしまいました。と――右門のいっそうに鋭いまなざしが、そののり細工のように堅くなった亭主の右腕を、じっと射すくめていましたが、不意にえぐるような質問が飛んでいきました。
「おやじ! おまえのその右小手の刀傷はだいぶ古いな」
「えッ!」
「隠さいでもいい。十年ぐらいにはなりそうだが、昔はヤットウをやったものだな」
「ご、ご冗談ばっかり――このとおりの見かけ倒しなただの古道具屋めにござります……」
「でも、道具屋にしてはわしを見そこなったな、新まいか」
「えへへへ……そういう目きき違いがおりおりございますので、とんだいかものをつかませられることがございます……」
「ウハハハハハハ」
 と、不思議なことに、突然また右門の態度が変わって、さもおかしそうに大声で、からからとうち笑っていましたが、ずいと座敷へ上がると、からかうように亭主にいいました。
「不意にわしがおかしなことをいったので、きさま、がたがたと、いまだに震えているな。なに、心配せいでもいいよ。ときに、きさまのところで金のお大黒さまとかが紛失したそうじゃってのう」
「あっ。その件でお越しくださりましたか。遠路のところ、わざわざありがとうございます。実は、それが、そのいかにも不思議でござりましてな。あのお大黒さまは、てまえが、命にかけてもたいせつな品でござりますので、神だなにおまつり申しあげ、朝晩朝晩欠かさずにお供物も進ぜるほどの信心をしてござりましたが、さよう、まさしく一昨日のことでござります。朝お茶を進ぜようと存じまして、ひょいと神だなを見ますると、不思議なことに、それが紛失しているのでございますよ。ところが、もっと奇妙なことには、つい目と鼻の先のあのかどの三河屋でございますが、あの質屋の神だなに、その日から寸分たがわぬ大黒さまがちゃんとのっかってござりますのでな、てまえはもうてっきり家のものと存じまして、さっそく掛け合いに参りますると――」
 正体がわかって安心したように、べらべらとのべつにしゃべりだした亭主のことばをうるさそうに押えると、右門は突っ立ったままで尋ねました。
「わかった、わかった。もうわかってる。そのことでおまえたちがいがみ合っていることを聞いたから参ったのじゃが、いったいそのお大黒さまはどんな品じゃ」
「正真正銘|金無垢《きんむく》のお大黒さまでござります」
「金無垢とのう。すると、なんじゃな、いずれは小さい品じゃな」
「へえい。実はその小さいのが大の自慢で、まずあずき粒ほどの大きさででもござりましたろうか。ところが、その豆大黒さまには、ちゃんとみごとな目鼻も俵もついてございますのでな。どうしたって、そんな珍しい上できのお大黒さまなんてものは、たとえこの江戸が百里四方あったにしても、二つとある品じゃないのでござりますよ。しかるに、それが――」
「わかった、わかった。あとは言わいでもわかってると申すに! ところで、その豆大黒はどこへ祭ってあった」
「ここでござります」
 いいながら道具屋の亭主がなにげなく次のへやとのふすまをあけたせつな――右門はおやッ! と目をみはりました。なぜかならば、そこの長火ばちの向こうに、ひとりの異様な姿の女がさし控えていたからでありました。

     

 女は年のころがまず三十五、六。太り肉《じし》で、食べ物のよさを物語るようにたいへん色つやがよろしく、うち見たところいかにも艶《えん》に色っぽいのです。しかるに、異様な姿だというのはまずその髪の毛でありました。まだじゅうぶんに情けの深さを示す漆黒のぬれ羽色をしていながら、中ほどをぷっつりと切った切り下げ髪で、だからまゆは青々とそって落として、口をあけてはいないからわからないが、歯はむろんのことにおはぐろ染めに相違なく、したがってどこのだれがどう見ても、ひと目に若後家とうなずかれるいでたちをしていたものでしたから、若後家さんである以上その者が古道具屋の妻女でないことは、はっきりと右門にわかりました。のみならず、食べ物のよさを物語るようなそのたいへんぐあいのよろしい太り肉《じし》の色つやから判断すると、どうしてもご大家の育ちらしいので、しかもそれが普通のご大家ではなく、おうへいに長火ばちの向こうの正座を占めているところから察すると、このみすぼらしい古道具屋のおやじには主人筋にでも当たる身分の者のような節がありましたから、右門は異様以上に不調和な両人の対照のために、先鋭きわまりなきその心鏡を、早くもぴかぴかととぎすましました。
 けれども、たとえ心にどんな変動があったにしても、それをみだりに色へ出す右門とは右門が違います。微笑を含みながら、それなる青まゆの女に目であいさつすると、右門は黙ってその前を通りすぎました。
 すると、やや不思議です。まゆをおとしたそれなる女が、その青々しいまゆげの下にこってりと見ひらかれている切れ地の長い目もとで、あきらかに媚《こび》を含んだ笑いを、ためらうこともなく、そしてまたひるむところもなく、ただちに右門に向かって返礼したではありませんか! これは右門にとって、実に容易ならざるできごとでなければなりませんでした。たといその種のごく食べ物がよろしい太り肉《じし》の若いお後室さまが、いかにりりしく美しい筋肉の引き締まった若い侍をお好物であったにしても、そういうことが神代ながらの因果な約束であったにしても、わが道心堅固なるむっつり右門においては、そんな心で彼女に向かい目もとの微笑をほころばしたのではなかったからです。しかるに、女は切れ地の長いその目で、あきらかに媚《こび》を送ったのです。ともかくも、右門が非常なる好物であることを、ひと目で好物になったらしいことを、はっきりと示したんですから、右門にとっては実に容易ならざる珍事でした。ために、右門は少し足もとの見当が狂ったような様子を見せていましたが、しかし、それはほんのしばし――
「あの神だなが、お大黒さまを祭ってあったところでござります」
 いった亭主のそばへ近づいていくと、伸び上がるようにしてぎろりとまずその特有の目を光らしました。みると、なるほど亭主のいうとおり、なげしの上に造りつけた箱だなの中には、お不動さまのお守りもあるが、それから天照皇太神宮のお札もあるが、豆大黒はその上に飾ってあったらしい小さな台座が残っていても、金無垢《きんむく》の福々しいそのお姿をばどこにも見せていないのです。
 と、そのときじっと目を光らしていた右門のまなこに、はからずも映った一個の古ぼけたお茶わんがありました。豆大黒さまが出奔してからというもの、気も転倒してしまったとみえて、それっきりもう朝ごとのお茶も進ぜないらしく、茶わんはほこりにまみれたままでありましたが、その位置がちょうど大黒さまがまつられてあったお台座の真下になっていたものでしたから、なにげなく取りおろして、ふと中をのぞいてみると、とたんに右門はにっこりと笑いながら、言下に命じました。
「伝六ッ、きさまにもてがらを半分おすそ分けができそうになってきたぞ。筋向こうの質屋へ行って、そこの家にある豆大黒といっしょに、亭主をここへしょっぴいてこい」
 心得て、すぐに伝六が命令どおり、うしろへ質屋の亭主を引き連れながら、疑問の豆大黒をてのひらの上にのせてたち帰ってまいりましたものでしたから、形勢われに有利と見てとったかのごとくに、古道具屋のあるじがたちまちおどり上がってしまいました。
「三河屋さん、そうれごろうじろ、やっぱり大黒さまはてまえのうちのものですぜ。ねえ、八丁堀のだんな、そうなんでがしょう」
 ところが、右門は意外でありました。なんとも答えずに伝六のてのひらの上からあずき粒ほどの大黒をつまみあげると、自分の目の前になみなみとつがれてあった饗応《きょうおう》の薄茶の中へ、容赦なくぼちょりとそれを落としこんだのです。と――なんたる不思議、いや、なんたる右門の明知のさえであったでしょう! 純真|無垢《むく》の金大黒と見えたくだんの小粒は、熱いお茶に出会って、みるみるうちにたわいもなく、とろんこと、どろになってしまったものでしたから、同時にいくつかの、あっ! という驚きの声が、右から左から、そしてうしろから、右門の手もとにそそがれました。
 けれども、わがむっつり右門は、それらのあっ! という驚きの中から、ただ一つなまめかしいお後室さまのあっ! といった声のみを耳に入れると同時のように、そのほうへふり返って、ほんのりと微笑を送りました。そして、今なお驚き怪しんでいる道具屋のおやじと質屋のおやじとをしりめにかけながら、立ち上がって箱だなの中からさっき見ておいたお茶わんを取りおろすと、一座の者に二つの茶わんの中をさし示しつつ、明快流るるごとき鑑識のさえを見せました。
「よくまあ、この両方の茶わんの中を見るがいいや。道具屋にも似合わしからぬお眼力のうといことでござんしたな」
「へへい、なるほどね、両方とも茶わんの中はどろ水ですが、そうすると、こりゃお大黒さまはやっぱり二つで、両方ともどろ細工でしたんですかい」
「ま、ざっとそんなところかな。おまえんところのやつは、ねずみかなんかにけおとされて、ご運がわるくもお茶わんの中におぼれちまったんで、金無垢の豆大黒さまもたわいなく正体をあらわしちまったんさね。これがほんとうに箔《はく》のはげるというやつさ。でも、どろ水の中にちかちか光った金粉がいまだに残っているところを見ると、金は金の金粉だったろうが、それにしてもこんな子どもだましの安物をお家の宝にしていたり、それがもとで仲たがいするところなんぞをみると、ほかに何かもっといわくがありそうだな」
 いいながら、若いご後室さまのやや青ざめた面にぎろりと鋭い一瞥《いちべつ》を投げ与えていたようでしたが、その鋭い一瞥のあとで急にまたいともいぶかしい微笑を彼女に送ると、右門はこともなげに言いすてて立ち上がりました。
「さ、伝六。これで一つかたがついたから、お小屋へかえってゆっくり寝ようかね」
 だのに、立ち上がってのそのかえりしな、それほどもこともなげにふるまっている右門の右足が、いかにも不思議きわまる早わざを瞬間に演じました。ほかでもなく、若いご後室さまの、そこにちょっぴりとはみ出していた足の裏をぎゅっと踏んだからです。
「まあ!」
 たいていのご婦人ならばそういって、少なくも右門の失礼至極な無作法を叱責《しっせき》するはずなのに、ところが青まゆのそれなる彼女にいたっては、いかにも奇怪でありました。踏まれたことを喜びでもするかのように、じいっと右門のほうをふり向いて、じいっとその流し目にとてもただでは見られないような、いわゆる口よりも物を言い、というその物をいわせたものでしたから、表へ出ると同時に何もかも知っていたか、伝六が少しにやにやしていいました。
「ね、だんな。ちょっと妙なことをききますがね。だんなはそのとおりの色男じゃあるし、べっぴんならばほかに掃くほどもござんすだろうに、あのまあ太っちょの年増《としま》のどこがお気に召したんですかい。まさかに、あの女の切り下げ髪にふらふらなすって、だんなほどの堅人が目じりをさげたんじゃござんすまいね」
「ござんしたらどうするかい」
 ところが、右門が意外なことを口走ったものでしたから、伝六がすっかり鼻をつままれてしまいました。
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78] じゃなんですかい、あのぶよんとしたところが気にくっちまったとでもいうんですかい?」
「でも、ぶよんとはしているが、残り香が深そうで、なかなか美形だぜ」
「へへい、おどろいちゃったな。そ、そりゃ、なるほどべっぴんはべっぴんですがね、まゆも青いし、くちびるも赤いし、まだみずけもたっぷりあるから、残り香とやらもなるほど深うござんすにはござんすだろうがね、でも、ありゃ後家さんですぜ」
「後家ならわるいか」
「わ、わ、わるかない。そりゃわるい段ではない。だんながそれほどお気に召したら、めっぽうわるい段じゃごわすまいが、それにしても、あの女はだんなよりおおかた七、八つも年増じゃごわせんか。ちっとばかり、いかもの食いがすぎますぜ」
 さかんに伝六が正面攻撃をしていたちょうどそのときでした。何者かうしろに人のけはいをでもかぎ知ったごとくに、突然右門がぴたりと歩みをとめて、そこの小陰につと身を潜めましたものでしたから、伝六も気がついてふりかえると、かれらを追うようにして道具屋の店から姿を現わした者は、塗りげたにおこそずきんの、まぎれもなき彼女でした。
 とみると、驚きめんくらっている伝六をさらに驚かせて、わるびれもせずに右門が近づきながら、はっきりと、たしかにこういいました。
「まさかに、拙者をおなぶりなすったのではござりますまいな」
 すると、女が嫣然《えんぜん》と目で笑いながら、とたんにきゅっと右門の手首のあたりをでもつねったらしいのです。往来のまんなかにいるというのに、一間を隔てないうしろには伝六がいるというのに、どうも風俗をみだすことには、きゅっとひとつねり、ともかくも右門のからだのどこかをつねったらしいのです。と、困ったことに、右門が少しぐんにゃりとなったような様子で、ぴったりと女に身をより添えながら、その行くほうへいっしょに歩きだしました。けれども、根が右門のことですから、そう見せかけておいて、実はどこかそのあたりまで行ったところで、何か人の意表をつくようなことをしでかすだろうと思いたいのですが、事実はしからず、土台もういい心持ちになって、うそうそとどこまでも肩を並べていたものでしたから、伝六は少し身のかっこうがつかなくなりました。
 しかし、身のかっこうがつかなくなったとはいっても、それはわずかの間でありました。
「お供のかたもどうぞ……」
 いうように青まゆの女が目でいって、右門とともに伝六をも導き入れた一家というのは、おあつらえの船板べいに見越しの松といったこしらえで、へやは広からずといえども器具調度は相当にちんまりとまとまった二十騎町からは目と鼻の市《いち》ガ谷《や》八幡《はちまん》境内に隣する一軒でありました。むろん、男けはひとりもなくて、渋皮のむけた小女がふたりきり――
「だんなはこちらへ……」
 というように、緋錦紗《ひきんしゃ》の厚い座ぶとんへ右門をすわらせると、女は銅《あか》の銅壺《どうこ》のふたをとってみて、ちょっと中をのぞきました。そのしぐさだけでもう心得たように、すぐと運ばれたものは切り下げ髪なのに毎晩用いでもしているか、古九谷焼きの一式そろった酒の道具です。それから、台の物は、幕の内なぞというようなやぼなものではない。小笠原豊前守《おがさわらぶぜんのかみ》お城下で名物の高価なからすみ。越前《えちぜん》は能登《のと》のうに。それに、三州は吉田名物の洗いこのわた。――どうしたって、これらは上戸にしてはじめて珍重すべき品なんだから、青まゆの女の酒量のほどもおよそ知られるというものですが、それをまた下戸のはずであるむっつり右門が、さされるままにいくらでも飲み干し、飲み干すままに女へも返杯しましたものでしたから、これはどうあっても伝六として見てはいられなくなったのです。
「陽気が陽気ですからね、およしなさいとはいいませんが、むっつり右門ともいわれるだんなが、酒に殺されちまったんじゃ、みなさまに会わされる顔がござんせんぜ」
 けれども、右門は答えもしないで、しきりとあびるのです。あびながら、そのあいまあいまに、見ちゃいられないほど彼女のほうへしなだれてはしなだれかかり、どうかするとぱちんと指先で女のほおをはじいてみたりなんぞして、いつのまにどこでそんな修業を積んだものかと思えるほどの板についたふるまい方をやりましたものでしたから、事ここにいたっては、酒に目のない伝六のとうてい忍ぶべからざる場合にたちいたりました。
「よしッ。じゃ、あっしも飲みますぜ」
 たまっていた唾涎《すいえん》をのみ下すように、そこの杯洗でぐびぐびとあおってしまいました。まもなく、右門がまずそこに倒れ、そのそばを泳ぐようにはいまわっている伝六の姿を見ることができましたが、そのときはもう夜番の音も遠のいて、江戸山の手の春の夜は、屋根の棟《むね》三寸下がるという丑満《うしみつ》に近い刻限でありました。

     

 しかし、翌朝はきのうと反対に、降りみ降らずみのぬか雨で、また返り梅雨《つゆ》の空もようでした。右門主従のその家に酔いつぶれてしまったことはもちろんのこと、ところが目をあけてよくよく気をつけて見ると、どうも寝ているへやがおかしいのです。あかりのはいるところは北口に格子《こうし》囲いの低い腰窓があるっきり。それでもへやはへやにちがいないが、畳も敷いてない板張りで、万事万端がどう見ても、あれほど青まゆの女に思い込まれた美男子の宿るべき場所ではなかったうえに、しかも奇怪なことに、右門はたいせつな腰の物、伝六はこれもかれになくてはかなわぬ重要な朱ぶさの十手を、いつのまにか取りあげられてあったのです。それらの護身用具であり、同時にまた攻撃用具である品品をかれらの身辺から取り上げてしまったということは、いうまでもなくかれらから第一の力をそいだことにほかならないので、のみならず子細に調べてみると、その物置き小屋らしい一室の出入り口は、厳重に表から錠をかけられ、あまつさえへやの外には、見張りの者らしい人声が聞こえるのです。それも二、三人で、さようしからば、そうでござるか、というようないかついことばつきから察すると、番人はたしかに武士らしく判断されました。しかも、それらの番人の中にまじって、まぎれもなく前夜きき覚えの、あの青まゆの女の声と、そしてそれから、あの古道具屋のおやじの声があったものでしたから、ぎょっと青ざめて伝六がいいました。
「ちえッ。だから、いわねえこっちゃなかったんだ。きつねにでも化かされたのかと思いましたが、どうやら酒で殺されて、まんまとあいつらに、あっしたちがはめ込まれているんじゃごわせんか。ね! しっかりおしなせいよッ」
 しかし、右門は黙ってただくすくすと笑っているのです。あれほどあびるように飲んだのに、格別ふつか酔いにやられたような顔もせず、いつもよりかそのりりしい面がやや青白いというだけのことで、くすくすとただ笑ってばかりいたものでしたから、伝六がむきになってきめつけました。
「なにがおかしいんですか! ごらんなさい! だんならしくもなく、あんなくらげのふやけたような女に目じりをおさげなすったから、刀はとられる、十手はとられる、あげくのはてにこんな物置き小屋へたたき込まれちまって、うすみっともないざまになったんじゃごわせんか! いったい、どうしてここから逃げ出すおつもりですかい!」
 だのに、右門は依然くすくすと笑ったままでした。笑いながら、そしてその青白い顔を転じると、格子窓からぬか雨にけむる庭先のぬかるみに向かって、伝六の愚痴をさけるように面をそむけました。とたんに、そのとき、そこの庭先でちらりと右門の目についた異様な人影があったのです。いや、人影はただの人足らしい者でありましたから、けっして異様でも奇怪でもなかったのですが、その足にはいているわらじが、どうしたことか逆に、すなわち前後がさかしまになっていたものでしたから、はっとなったように右門はひとみを凝らしました。見ると、男はうしろに長方形の箱を背負って、ちょうどそれは子どもの寝棺のような箱でしたが、その奇妙な箱を相当重そうに背負って、上に雨よけの合羽《かっぱ》をおおいながら、いましも表へ向かって歩みだそうとしているのです。いかにもその足のわらじが不思議でありましたから、ひとみをすえてじっと耳を澄ましていると、あきらかに青まゆの女の声で命令するのが聞こえました。
「では、気をつけてね。あそこだよ」
「へい。心得ました。そのかわり、晩にはたんまりと酒手を頼んまっせ」
 いうと、人足は酒手にほれたもののごとく、表へ向かって歩きだしました。返り梅雨《つゆ》で庭先はぬかるみでしたから、地上にはかれが歩くのとともに、はっきりとうしろ前をさかしまにはいているわらじの跡がついたのです。すなわち、人と足は事実表へ向かって出ていきつつあるのに、ぬかるみの地上に残された足跡は、さながら反対に表から帰ってきたように見えました。
 それを知ると同時でありました。突然右門が突っ立ち上がってポキポキと指の関節を鳴らすと、さっと全身に血ぶるいをさせながら、不意に大声で意外なことを叫びました。
「いかい、ごちそうになりましたな。では、ここから帰らせていただきますぞ」
 いう下から、ばりばりと腰窓の下の羽目板をはがしだしました。――実は、それが右門の人よりよけい知恵の回るところで、そんなことではけっして破れる羽目板でもなく、またそんなやわな物置き小屋でもなかったのですが、さも窓を破って逃げ出しそうなばりばりという音をたてたものでしたから、右門の誘いの手段とは知らずに、うっかりと表の番人が出入り口をあけて、あわてふためきながら顔をのぞかせたのです。とみるより早く、そのわき腹にお見舞い申したのは、なにをかくそう、わがむっつり右門が得意中の得意の、草香流やわらの秘術はあて身の一手。――また、右門から腰の物さえ取り上げておけば、それでけっこう力をそぎうると考えた愚人どもが、愚かも愚かの骨頂だったのです。伝六から十手を取り上げたはいいにしても、わがむっつり右門には剣の錣正流居合《しころせいりゅういあ》いのほかに、かく秀鋭たぐいなき敏捷《びんしょう》の秘術がなお残っているのです。まことに、その秘術こそは、紀州|熊野《くまの》の住人|日下《くさか》六郎次郎が、いにしえ元亀《げんき》天正のみぎり、唐に流れついて学び帰った拳法《けんぽう》に、大和《やまと》島根の柔術《やわら》を加味くふうして案出せると伝えられる、護身よりも攻撃の秘術なのでした。草香流の草香は日下《くさか》のその日下をもじったもので、さるを知らずに大小をのみ取り上げたならば、じゅうぶんそれで右門をもなべの中に入れうると考えていたんだから、いかにも少し右門を甘く見すぎたものですが、いずれにしてもかれが草香流を小出しにするに及んでは、たとえそこに白刃の林が何本抜きつれあってきたにしても、もう結果はこっちのものでした。それから伝六の急に強くなったのもむろんのことで、無頼の徒らしい三名の武士と古道具屋のおやじとのつごう四人を、いい心持ちそうにくくしあげてしまうと、そこに草香流のあて身でみだらにもすそをみだしながらぐんにゃりとなっている青まゆのあわれなる女を見おろし見おろし、伝六が相談するようにききました。
「ね、だんな。あんたのお心もち一つですが、このぶよんとしたくらげのほうも、くくるんですかい」
「あたりめえだ。おれがそんな女に参ってたまるけえ。ゆうべのことだって、みんなこいつらの裏をかいてやりたいために、わざと酒もあびたんだ。そんな女に指一本だって触れたんじゃねえんだぞ」
 まことにそれは、そういうのがもっともにちがいなく、そして言いすてながら表へ駆けだしていったとみえましたが、まもなく右門のしょっぴいて帰ったものは、わらじをさかしまにはいたさっきの人夫です。
「バカ野郎ッ。さかしまにはいたわらじぐらいで、たぶらかされるおれと思うかッ」
 ぽかりとくわしておくと、男の背負っていた長方形の箱を急いでこじあけました。同時のように、中からむっくりと起き上がった者は、みめかたちのゆうにやさしいひとりの少年です。――少年は目をぱちくりさせながら、いぶかるようにいいました。
「あら! もうおじさん役者のまねは終わったの?」
 ――その一語でもわかるがごとく、少年はむろんのことにかどわかされていた質屋の子せがれで、しかし今は質屋の子せがれとなっていましたが、いっさいをお白州にかけてみると、意外にもその産みの母は、あの青まゆの女なのでありました。事件は一口にいうと小さなお家騒動で、青まゆの女の夫こそは、右門が彼女をご大家のお後室さまとにらんだとおり、いにしえはれっきとした二千石取りの大旗本でありました。しかも、大久保|加賀守《かがのかみ》の血につながる一族で、ちょうどこの事件のあった十年まえ、あれなる青まゆの女を向島の葉茶屋から退《ひ》かして正妻に直したころから、しだいにその放埓《ほうらつ》が重なり、ついにお公儀の譴責《けんせき》をうけるに及んだので、三河侍の気風を最後に発揮して、大久保甚十郎といったその旗本は、当時はまだご二代台徳院殿公のご時世でありましたが、将軍家|秀忠《ひでただ》が砂村先にお遊山《ゆさん》へおもむいたみぎり、つらあてにそのお駕籠《かご》先で割腹自刃を遂げたのでありました。そういう場合のそういう事件を仮借することなしに裁断する公儀のことばは、上へたてつく不届き者という一語に尽きていましたものでしたから、大久保甚十郎一家は、ならわしどおり秩禄《ちつろく》召し上げ、お家はお取りつぶしということになりました。けれども、いったんの怒りはあったにしても、士歴は三河以来の譜代でもあり、かたがた一族中には大久保加賀守のごとき名門と権勢があったものでしたから、ご当代家光公に至って、憐憫《れんびん》の情が加えられ、甚十郎の死後十年のちにして新規八百石のお取り立てをうけることになったのです。ところが、そのご内意を知ったとき、はしなくもここに一つの故障がもち上がりました。右門の出馬するにいたったこの少年|誘拐《ゆうかい》事件の発端が、すなわちその故障に基因していたのですが、すでに知らるるとおり、あれなる青まゆの女は、生まれが葉茶屋の多情者でしたから、お家の断絶後における淫楽《いんらく》の自由を得んために、じゃまな嫡子はもとの忠僕であったあの質屋、すなわち三河屋へくれてしまったのでした。そこへ新規八百石にお取り立てという宗家大久保加賀守からのご内意があったものでしたから、青まゆの女のにわかに狼狽《ろうばい》したのは当然なことで、しかも嫡子なる質屋へくれた少年を召し連れて、宗家大久保加賀守のところへ出頭するについては、あの茶わんの中でたわいもなく溶けてしまった金の大黒がぜひに必要でありました。あの見かけ倒しなどろ大黒こそは、実をいうと加賀守から少年がまだ幼時のみぎりお守りとして拝領したもので、それにしてはろくでもないお守りをやったものですが、しかるにその証拠となるべき豆大黒は、彼女のまだ世にあったころからの不義の相手であった当時の用人、お家断絶後に古道具屋となってしまったあの右の小手に刀傷のあるおやじの神だなで消えてしまい、反対に日本橋の人形町で見つけてきた別のどろ大黒が、質屋の神だなに飾られだしたものでしたから、てっきり三河屋のおやじがすべてのことをかぎ知って、金の大黒を動かぬ証拠に養子を引き具して宗家へ乗り込み、新規八百石のお旗本の後見者になる魂胆だろうと早がてんしてしまったので、さっそくに今もときおりつまみ食いの相手である道具屋のおやじをそそのかして、まず少年を誘拐せしめ、しかるのち金の大黒へ因縁をつけたのです。もちろん、右門をあんなふうに酒でころして物置き小屋に閉じこめたのは、早くも事露見と知ったものでしたから、持って生まれた淫婦《いんぷ》の腕によりをかけてかようにたぶらかし、そのまに少年を引き具していちはやく新規八百石を完全に手中しようとしたからの小しばいにすぎなかったのでした。
 ねた[#「ねた」に傍点]を割ってみれば、まことに右門にとって、たわいのないような事件でしたが、しかし事件はどろ細工の金大黒とともにかくもたわいのないものではあったにしても、われわれのむっつり右門はやはり最後まで少し人と変わった愛すべく賞すべき右門でありました。
「上には、かくもご憐憫《れんびん》とご慈悲があるのに、それなる女、みずから腹を痛めし子どもを他家へつかわすとはなにごとじゃ。なれども、事はなるべくに荒だてぬが従来もわしの吟味方針じゃによって、そのうえにまた加賀守家というご名門の名にもかかわることゆえ、いっさいは穏便に取り扱ってつかわすゆえ、爾今《じこん》はせっかくご新規八百石をたいせつにいたさねばならぬぞ。したがって、それなる少年にはもうこのうえ河原乞食《かわらこじき》のまねなどをさせたり、あまりろくでもない草双紙なぞを読ませてはならぬぞ。それから、そこの古道具屋、そちはもっといかものをつかまされないように、じゅうぶん目ききの修業をいたし、ずんと家業に精を出さねばならぬぞ、最後に質屋のおやじ、そのほうはこの近藤右門をののしったばかりではなく、恐れ多くもお上一統を卑しめたと申すが、どうじゃ。ちっとはこれで右門が好きになったか。うん?――ああ、そうか。好きになればそれでよろしいによって、今後は伝六なぞの参った節も、なるべく高く融通するがよいぞ。では、いずれも下げつかわしてやるゆえ、そうそう退出いたせ。あ、待て待て、それなる青まゆの女、昨夜の酒の代はなにほどじゃ。なに、気は心じゃからいらぬと申すか。上の座にある者がさようなまいないがましいものを受けるは本意でないが、新規お取り立て祝いのふるまいとして、今回かぎり飲み捨ててつかわすによって、爾今《じこん》道なぞで会うても、予にことばなぞをかけてはあいならんぞ」
 それから立ち上がると、むっつり右門はそこの三方にのっかっていたきよめ塩をひとつまみつまみあげて、ぱッぱッと自分のからだにふりかけました。職務のためのこととはいいながら、前夜来のあだがましかった青まゆの女との不潔な酒のやりとりに、濁ったからだを浄《きよ》め潔《きよ》めるように、ばらばらとふりかけました。

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
   1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:ごまごま
2000年1月5日公開
2005年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木味津三

右門捕物帖 血染めの手形—— 佐々木味津三

     

 ――今回は第三番てがらです。
 しかし、今回の三番てがらは、前回と同様|捕物《とりもの》怪異談は怪異談でございますが、少々ばかり方角が変わりまして、場所はおひざもとの江戸でなく、武州|忍《おし》のご城下に移ります。江戸|八丁堀《はっちょうぼり》の同心が不意になわ張りを離れて、方面違いも方面違いの武州くんだりまでも飛び移るんですから、なかにはさだめし不審に思われるおかたもございましょうが、不審に思った者はなにもあなたがたばかりではなく、本人のむっつり右門もまた同様で、あの生首事件――前回に詳しくご紹介いたしましたあの生首事件がかたづいてちょうど八日めのお昼すぎでした。いいこころもちで右門がお組屋敷の日当たりのいい縁側にとぐろを巻きながら、しきりと例のように無精ひげをまさぐっていると、突然|数寄屋橋《すきやばし》から急使があって、旅のしたくをととのえ即刻ご番所まで出頭しろという寝耳に水のお達しがあったものでしたから、めったには物に動じないむっつり右門も、少々ばかりめんくらったことでした。
「近ごろのだんなの色男ぶりときちゃ業平《なりひら》もはだしの人気なんだから、ひょっとするとなんですぜ、だんなに首ったけというどこかの箱入り娘が、ご番所の名まえをかたって、だんなを道行きにおびき出したのかもしれませんぜ」
 むろん、そばにはおなじみのおしゃべり屋伝六が影の形に添うごとくさし控えていたものでしたから、ちらりとそのお達しを小耳にはさんで、聞く下からもう例のごとくお株を始めながら、右門ともどもに不審を打ったのは無理からぬことでしたが、いずれにしても火急にというお達しでありましたから、伝六にも長旅の用意をさせて、さっそくご奉行所《ぶぎょうしょ》までやって参りますと、それがつまり忍《おし》行きの命令だったのです。しかも、今から取り急ぎ出立いたせという火のつくようなお奉行の命令で、命令だけは足もとから鳥の立つような気ぜわしなさでありましたが、肝心の内容についてはどういう事件がいったい起きたものか、そもそもだれの差し金であるか、少しもその辺の事を明かしてくれなかったものでしたから、明哲神のごときわがむっつり右門も、少なからずめんくらってしまいました。だが、めんくらうことはめんくらいましたが、もとよりそれは一瞬間だけのことで、右門はどこまでもわれわれの尊敬すべき立て役者です。あごの無精ひげを指先でつんつんとひっぱりながら、じっとご奉行神尾元勝の顔を見ているうちに、かれの玻璃板《はりばん》のごとき心鏡は、玲瓏《れいろう》として澄み渡ってまいりました。と同時に、心鏡へまず映ったものは、今から火急に出立いたせというその忍藩が、ほかならぬ松平伊豆守の邑封《ゆうほう》であるという一事でありました。松平伊豆守とは、いうまでもなくご存じの知恵伊豆ですが、その知恵伊豆も身は大徳川の宿老という権勢並びなき地位にありながら、当時はまだその忍藩三万石だけが領邑《りょうゆう》で、右門は早くもそのことに気がつきましたものでしたから、もうあとは宛然《えんぜん》たなごころをさすがごとし、奉行神尾元勝の目色によっておおよその見当がつきましたので、よどまずにさぐりを入れました。
「察しまするに、伊豆守様ご帰藩中でござりますな」
「しッ、声が高い! そちのことじゃから、忍まで参れといえばだいたいの見当がつくだろうと思って、わざとおしかくしていたが、察しのとおり、つい四、五日ほどまえにご帰国なさったばかりじゃ」
「といたしますると、むろんのこと、このたびのお招き状も、伊豆守様がご内密でのお召しでござりましょうな」
「さようじゃ」
「よろしゅうござります。そうとわからば、さっそくただいまから出立いたしましょうが――」
 言いかけてしばらくなにごとかを考えていましたが、右門は突然驚くべきことを、奉行神尾元勝にいいました。
「――ついては、わたくしめにご官金壱百両ほどをお貸しくださりませ」
 徳川もお三代のころ壱百両といえば、四、五年くわえようじで寝ていられるほどの大金なんでしたから、お奉行の目を丸くしたのは当然で――。
「そんな大金をまた何にいたす?」
 ぎょっとしたようにきいたのを、右門はきわめておちつきはらいながら答えました。
「伊豆守様は当代名うての知恵者。その知恵袋をもってしましてもお始末がつかなくて、はるばるてまえごとき者までをもお召しでござりましょうから、これはよほどの重大事に相違ございませぬ。百両どころか、しだいによっては千両がほども必要かと存じまするが、あとあとはまたあとあとで急飛脚でも立てましょうゆえ、さしあたり百金ほどご貸与くださりませ」
「いかにものう」
 おねだりをする人間が、じゃりを食ったり、鉄道を食べたりするような当節のお役人だったら、百両は夢おろか、穴あき銭一枚だって容易に出すんではないのだが、なにしろ、むっつり右門というわれわれの信頼すべき大立て者がぜひに必要というんだから、これは出さないほうがまちがっているので、さっそく奉行元勝が切りもち包みを四つ手文庫から取り出してくれたものでしたから、右門のそばで目をみはりながらきょときょとしていた伝六にそれを懐中させると、ただちに武州めがけてわらじをはきました。むろん、喜んだのは伝六で、
「ちえッ、ありがてえな。近ごろばかに耳たぶがあったけえと思っていたら、必定こういう福の神が舞い込むんだからね。忍《おし》っていや、日光さまにもう半分っていう近くじゃごわせんか。てっとり早く仕事をかたづけて、けえりにゃ官費の日光参りなんて寸法はどうですかね」
 不意に切りもち包みが四つふところに飛び込んでまいりましたものでしたから、すっかりもう有頂天、出るからほんとうに日光参りにでも行くようなはしゃぎ方でいましたが、右門はしかしちょっとばかり不思議だったのです。わらじを締めてすたすたと足を早めるには早めましたが、忍のお城下を目がけるならば、当然板橋口から奥州|街道《かいどう》へ向けて北上すべきなのに、気がついてみると新宿を通りすぎて、いつのまにか甲州口を西へ西へとこころざしていましたものでしたから、すっかり有頂天になっていた伝六は少々興ざめしたとみえて、ふところの百両をぽんぽんと上から平手でたたきながら、不服そうに呼びかけました。
「だんなえ? ね、だんなえったら! こっちへ来たんじゃ、ちっとばかり方角が違うように思いやすが、まさかにこの百両は、堀《ほり》の内《うち》のお祖師さまへお賽銭《さいせん》にあげるっていうんじゃござんすまいね」
 だのに、右門はごくすましたものです。金看板どおりにむっつりおし黙って、すたすたと甲州口を西へ西へと急いでいましたが、行くことおよそ十町ばかり、道を少し左へ切れて武蔵野《むさしの》特有の疎林に囲まれながらわびしく営まれていた幽光院というお寺を見つけると、さもわが家のごとく、すうと奥へはいってまいりました。
「な、な、なあるほどね。このまえのときにゃ御嶽教《おんたけきょう》の行者になったんだが、今度は虚無僧《こむそう》になろうていうんですね」
 その幽光院というのは元和《げんな》元年の建立《こんりゅう》にかかるもので、慶安四年の由比《ゆい》正雪騒動のときまで前後三十年間ほど関八州一円に名をうたわれていた虚無僧寺でしたから、鈍いようには見えてもさすがに伝六も右門の手下、早くもここへ回り道した理由がわかったのですが、それよりも賛賞すべきは右門のここへ立ち寄って虚無僧に変装していこうと気のついた点で、呼び招いた相手が知恵伊豆だから、こいつ尋常一様の事件ではないな、ということがいち早くもかれの脳裏に予断されたからでした。まことに賛賞どころか、三嘆にあたいする推断というべきですが、だからおしゃべり屋の伝六の喜び方は、もうひととおりやふたとおりのものではありませんでした。
「こいつあおつだ。おしばや[#「おしばや」に傍点]に出る虚無僧だって、こんないきな虚無僧なんてものはふたりとごわせんぜ。天蓋《てんがい》の下をのぞくと、だんなが業平《なりひら》、あっしが名古屋|山左衛門《さんざえもん》ていう美男子だからね。ときに、この尺八ゃどこへどう差すんですかい」
 竹しらべひとつ吹けないくせに、もういっぱしの虚無僧になったつもりで、ことごとく大喜びでしたが、右門はむろんむっつりと唖《おし》でした。隠してしまうには惜しいくらいな明眸皓歯《めいぼうこうし》のりりしい男まえを深々と天蓋におおって、間道を今度こそは板橋口へ一刻を争うように足を早めました。坂東太郎を暮れ六つに渡って、浦和へ宿をとったのが、もうとっぷりと春の夜もふけた五ツ過ぎ。――大宮を一本道に熊谷《くまがや》へ出て右に忍まで行くほうがずっと近いことを知っていましたが、右門はわざと反対に久喜から羽生《はにゅう》へ回り道をいたしました。この回り道をした点が、やはりむっつり右門の少しばかりほかの連中とは違った偉いところで、今までもしばしば紹介いたしましたからめての戦法――事にのぞんでつねにかれの選ぶあのからめての戦法にもとづいたものでした。というのは、知恵伊豆といわれるほどの大人物がわざわざ自分を江戸から呼ぶくらいだから、必ずやこの犯罪は忍一藩だけのものであるまいとにらんだからで、とすれば、なにか江戸とも連絡がある犯行に相違あるまいから、あるならばそういう場合の犯罪者の心理として、江戸との連絡通信網をだれにも選びやすい近道の熊谷|街道《かいどう》へおかずに、かえって人の選びにくい遠道の羽生《はにゅう》街道へ置くに相違あるまいという考えが起こりましたものでしたから、むろんまだどういう犯罪が起きているのかまるで見当さえもついていなかったのでしたが、万が一の場合にと思って裏の裏をかいていこうという計画から、わざと羽生街道を迂回《うかい》してみる気になったのでした。だから、右門は道々をなんの気なさそうに歩いていながらも、何か目をひくような旅人でも通りかかりはしないかと思って、たえず注意をつづけてまいりました。久喜の宿へはいったのが翌日の午《うま》の下刻――。
「おっ、こいつあめっけものだ。ね、だんな、ごらんなせえよ、あそこに名物いなりずしとありますぜ。あっしゃもう三里も前から、とんと腹が北山しぐれなんですから、早いところ二十ばかりつまんでめえりましょうよ」
 右門も少々空腹でしたから、伝六の動議に従って、天蓋のままずいと茶店の中へはいっていきました。と、そのとき、ちらりと右門の目をひいた異様な二組みの旅人がありました。いずれも四十まえの年配で、秩父《ちちぶ》名物のさるまわしなんですが、それぞれ、一匹ずつのさるをひざにかかえながら、しきりといなりずしをつまんでいるのに、眼光が少しばかり烱々《けいけい》として底光りがありすぎるのです。この目というやつは、人間の五官のうちでおよそいちばん的確にその人の職業を物語るものですが、たとえばすりの目はたえずおちつきがなく、うどんやの目はのし棒のように横へ長く動き、糸屋さんだったらくるくると糸車のように動くのが定《じょう》なものですが、しかるに、ふたりのさるまわしたちの目の色は、そのすわり方といい眼の配りといい、どうも一刀流ぐらいはつかいそうな底光りをもっていたものでしたから、右門の探偵眼《たんていがん》は天蓋の中において瞬間に武装をととのえ、ぎろりと両人の挙動の上にそそがれていきました。
 ――と、いかにも不思議です。それぞれさるのえさは各自が各自の分だけを持っているはずなのに、茶店を立ちぎわになると、互いに飯籠《はんご》をあけて、中にあった椎《しい》の実を、なにかのまじないででもあるかのように、一つかみずつ相手のほうへ移しあったものでしたから、伝六はむろんのことにむしゃむしゃとまだいなりずしをほおばっていましたが、右門はもうすしどころではなくなりました。きわめつけの慧眼《けいがん》によって、こいつ変なまねをしたなと思いましたから、じっと様子を見守っていると、ではおかせぎなせえよ――互いにそう言いかわしながら、ひとりは江戸の方角へ、ひとりは反対の羽生《はにゅう》街道へわかれわかれになってすたすたと足を早めだしましたので、右門はまをおかず羽生へいったほうのあとをつけだしました。
「あっ! だんな、だんな! ほんとうにあきれちまうね。旅に出てまでも、またあの癖を出すんだからね。あっしをひとりおいてきぼりにしておいて、ねずみにでも引かしてしまうつもりですかい」
 うろたえながら伝六が追ってきたのを右門はちいさな声でしかっておくと、二町ほどの間隔をおいて見えずがくれに、くだんのさるまわしをつけていきました。
 と――、いよいよどうもこのさるまわしなる旅の者が不審なのです。ちゃんと太鼓もかかえ、さるも背に負っているんですから、道々商売をかせぎそうなものなんですが、いっこうにそういうけはいはなくて、一直線にずんずんと羽生めがけてやって参りましたものでしたから、右門の秀抜きわまりなき探偵眼は、ますますさえだしました。羽生へついたのがもうかれこれ夕暮れどきで、普通ならばそこへ一宿するんですが、前をやって行く怪しのさるまわしが泊まるけはいのなかったばかりではなく、今はもうはっきりと忍のご城下をこころざして、ぐんぐんと歩度をのばしだしたものでしたから、事態はいよいよ不審、右門もわらじにしめりを与えて、ひたすらにあとをつけました。忍の城下へようようにたどりついたのは、ぬんめりとくもり空の五つ少しまえ、いずれにしても様子のわかるのはもう一息でしたから、勢いこんで城下の町へまっすぐにはいろうとすると――。
「まてッ」
 不意に、やみの左右からそういう声です。同時に、ばらばらっと両三人が行く手を立ちふさぎましたものでしたから、右門もおもわず体をひらいて尺八に片手をかけようとすると、龕燈《がんどう》がぎらりと光って、底力のある声がつづいて横から聞こえました。
「役儀によって面を改める。その天蓋《てんがい》をおとりめされよッ」
 課役の藩士だなとわかりましたから、しずかに天蓋をはねあげると、相手は深々と御用龕燈をつきつけて、しげしげ右門の顔をのぞき込んでいましたが、がらりそのことばが変わりました。
「どうやら、ご人相が伊豆守様おことばに生き写しでござりまするが、もしやご貴殿は江戸からおこしの近藤右門どのではござらぬか」
「いかにも、さようにござる」
「やっばり、ご貴殿でござったか! 実は、殿さまがかようにお申されましてな。右門のことゆえ、察するに姿を変えて、わざわざ羽生回りをしてくるにちがいあるまいから、それとのう出迎えいたせと、かようにお申されましたのでな。かくは失礼も顧みず、人体改めをしたのでござる」
 明知はよく明知を知るというべきで、さすが伊豆守は知恵伊豆といわれるだけがものはあり、よくも右門の変装と回り道をにらんだものですが、しかし右門はそのことよりも、今つけてきた怪しのさるまわしが気になったものでしたから、急いでやみの向こうを見透かすと、あっ! おもわず声をあげてせき込みながら、ご番士たちに尋ねました。
「いましがた、たしかにここをさるまわしが通りすぎたはずでござるが、お気づきではござりませなんだか!」
「えっ※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
 おどろいたようにぎょっとなって、番士たちがいっせいに左右を見まわしたときでした。
「ちッ、いてえい! おう、いてえい!」
 つい七、八間向こうのやみの中で突然悲鳴をあげた者がありましたので、すかさずに駆けつけていってみると、意外にも悲鳴の主は伝六で、いつそこへやっていって、いつのまにそんなことをされたものか、両手の甲をばらがきにされながら、くやしそうにつっ立っていましたものでしたから、右門はすぐにそれと気づいてたたみかけました。
「逃がしちまったか!」
「え、このとおり。あいつ、ちっとばかしくせえやつだなと思いましたんでね。なにかは知らぬがしょっぴいていってやろうと思って、せっかくえり首をつかまえたんですが、さるのやつめが手の甲をひっかきむしったそのすきに、逃げうせちまったんでげすよ」
「なるほど、血がにじんでいるな。しかし、それにしても、あいつをしょっぴいていこうと気がついたなあ、さすがおめえも江戸の岡《おか》っ引《ぴ》きだな。そのおてがらに免じて、逃げたものならほっとくさ。いずれ二、三日うちに、またあいつにもお目にかかるような筋になるだろうからな。――いや、これはこれは、どうもとんだお手間をとらせました。さぞかし伊豆守様お待ちかねにござりましょうから、ではご案内くださりませい」
 何が何やら解しかねるといったおももちで、ぽかんとそこに番士たちが待ちあぐんでいましたものでしたから、右門は改まって声をかけると、城中への案内を促しました。

     

 石高はわずか三万石の小藩ではありましたが、さすがは天下の執権松平伊豆守の居城だけあって、とわに栄える松の緑は夜目にもそれと青み、水は満々と外濠《そとぼり》内濠の兵備の深さを示して、下馬門、二の門、内の門と見付け見付けの張り番もきびしく、内外ともに水ももらさぬ厳重な警備でした。むろん、伊豆守はことごとくお待ちかねでしたので、右門参着と聞くやただちにご寝所へ通して、刻下に人払いを命ずると、すわるもおそしと声をかけました。
「遠路のところわざわざ呼びだていたして、きのどくじゃった。そちのことであるゆえ、重大事とにらんで参ったことであろうが、実は少しばかり奇っ怪なできごとが突発いたしよってな」
 思いに余ったもののごとく、すぐと事件の内容に触れてこられましたものでしたから、右門も相手が大徳川の顕職にあることも忘れて、ひざをすすめながらざっくばらんに尋ねました。
「なにかは存じませぬが、その奇っ怪事とやらは、殿さまご帰国ののちに起こったのでござりまするか、それとも以前からあったのでござりまするか」
「それがわしの帰国と同時に起こりよったのでな、不審にたえかね、そうそうにそのほうを呼び招いたのじゃわ」
「といたしますると、何かご帰国に関係があるようにも思われまするが、いったいどのような事件にござります?」
「一口に申さば、つじ切りなのじゃ」
「つじ切り……? つじ切りと申しますると、いくらでも世の中にためしのあることでござりますゆえ、別段事変わっているようには思われませぬが、なんぞ奇怪な節でもがござりまするか」
「大ありなのじゃ。難に会うた者は、奇怪なことに、いずれも予が家中での腕っききばかりでの、最初の晩にやられた者は西口流やわらの達人、次の晩は小太刀《こだち》の指南役、三日めは家中きってのつかい手が、一夜に三人までもやられたのじゃ。しかも、それらが、――」
「一|太刀《たち》でぱっさりと袈裟掛《けさが》けにでもされたのでござりまするか」
「いや、ぱっさりはぱっさりなんじゃが、奇怪なことには、どれもこれもが一様にみんなそろって右腕ばかりを切りとられたんじゃから、ちっとばかりいぶかしいつじ切りではないか」
「なるほど、少し不思議でござりまするな」
 口では少し不思議でござりまするなというにはいいましたが、右門はしかしそのとき、心の中でいささか失望を感じました。家中の者の腕っききばかりをねらって、その右腕をのみ切り取るという点は、いかにも不思議に思えば思えないこともありませんでしたが、なにしろたくさんある流儀のことでしたから、考えようによれば剣法の中にだって右腕ばかりを切るというような一派が全然ないとは保証できなかったからです。かりに一歩を譲って、そういうような流儀がなかったにしても、剣士によってずいぶんと右小手のみを得意とするつかい手がないとは断言できないんですから、むやみと奇怪がるのも少々考えもので、してみれば何か江戸と連絡のある犯罪ではあるまいかなぞと先っ走りをして考えたことも全然の思いすごしであり、したがってわざわざ羽生街道を迂回《うかい》したことも、久喜の茶店からご苦労さまにさるまわしのあとをつけてきたことも、今となってはとんだお笑いぐさとしか考えられなくなったものでしたから、右門はその二つの理由からして、大いに失望を感じないわけにはいかなくなりました。
「なるほど、奇怪でござりまするな。奇怪と考えれば奇怪に考えられぬわけもござりませぬな」
 少し不平がましい口つきで、皮肉ととれば皮肉ともとられるようなつぶやきを、うわのそらでそんなふうにくり返していましたが、そのときしかし、右門の心鏡は、突如ぴかり――と例のように裏側からさえ渡ってまいりました。しばしば申しあげましたかれ独特の見込み捜索、すなわちあのからめての戦法なんで、まてよ、そうかんたんに失望するのはまだ早すぎるぞ、と思いつきましたもんでしたから、ふいっと顔をあげると、遠くからまじまじ伊豆守のおもてを穴のあくほど見つめました。見ているうちに、かれの緻密《ちみつ》このうえもなき明知は利刃のごとくにさえ渡って、犯行のあった土地が徳川宿老のご城下であるという点と、さながらその犯行が伊豆守の帰藩を待つようにして突発したというその二つの点に、ふと大きな疑問がわいてまいりましたものでしたから、右門は猪突《ちょとつ》にことばをかけました。
「ぶしつけなお尋ねにござりまするが、お多忙なおからだをもちまして、なにゆえまた殿さまはかように突然ご帰国なさったのでござりまするか」
「えっ? 帰国の理由……?」
 と――どうしたことか、不意に伊豆守が不思議なほどな狼狽《ろうばい》の色を見せて、右門の鋭い凝視をあわててさけながら、濁すともなくことばを濁されましたので、あれかこれかと心の中にその理由についての推断を下していましたが、まもなくはッと思い当たったものがありましたから、右門は突然にやにやと微笑すると、ずぼしをさすよういいました。
「上さまは――将軍さまは、この二、三年とんと日光ご社参を仰せいだしになりませぬが、もうそろそろことしあたりがご順年でござりまするな」
「そ、そ、そうのう。そういえば、もう仰せいだしになるころじゃのう……」
 案の定、ずぼしが命中したか、日光ご社参と聞くと伊豆守の顔色にいっそうの狼狽が見えましたので、もうこうなれば右門の独擅場《どくせんじょう》でした。いつも公表するのが例であるご社参を、なにがゆえに今回にかぎりかくも厳秘に付しているか、まずその点についての見込みをつけて、しかるうえに伊豆守の突然な帰国の事実と、同時のように突発したこの事件とを結びつけて推断したなら、おそらく二日とたたないうちに下手人の摘発ができるだろうという自信がついたものでしたから、右門はもうまことに余裕しゃくしゃくたるもので、少しとぼけながら、伊豆守にいいました。
「旅であう春の夜というものは、また格別でござりまするな。では、もうおいとまをちょうだいしとうござりまするが、よろしゅうござりまするか」
「お! そうか! ならば、もう確信がついたと申すんじゃな」
「ご賢察にまかしとう存じまする」
「では、何もこれ以上申さなくとも、そちにはわしの胸中にある秘事も、見込みも、ついたのじゃな」
「はっ。万事は胸にござります。なれども、わたくしが捜査に従うということは、なるべく厳秘に願わしゅうござります」
「そうか。それきいて、松平伊豆やっと安堵《あんど》いたした。では、今後の捜査なぞについて不自由があってはならぬゆえ、この手札をそちにつかわそう。遠慮なく持ってまいれ」
 さし出された手札を見ると、この者の命令は予が命令と思うべし、松平伊豆守――と大きく書かれてあったものでしたから、まったくもう右門は鬼に金棒で、躍然としながら城中を辞し去りました。出ると、これもつるの一声。表にはご番士のひとりがちゃんと待ち構えていて、城中からほど遠からぬ数寄屋《すきや》造りの一構えに案内してくれましたものでしたから、まだ虚無僧姿のままの伝六の喜ぶこと、喜ぶこと――。
「ちえッ、ありがてえな、人間はまったく何によらず偉物になっておくもんさね。くたぶれた足をひきずってくると、このとおりちゃんともう向こうさまがお宿をこしらえておいてくだすって、ね、ほら、お座ぶとんは絹布でしょう。火おけは南部|桐《ぎり》のお丸胴でね。水屋があって、風炉《ふろ》には松風の音がたぎっているし、これはまたどうでがす。気がきいてるじゃござんせんか。だんなが知恵をひねり出すときにゃ碁を打つことを日本じゅうのみなさんがもうご存じとみえて、このとおり榧《かや》の碁盤が備えつけてありますぜ。それから、あっしのほうには――待ちなってことよ、江戸っ子にも似合わねえ意地のきたねえ腹の虫だな。はじめて酒の顔を拝んだんじゃあるめえし、そうぐうぐう鳴き音をあげるねえ。まだちっとぬるいようじゃねえか」
 ひょいとみると、銅《あか》の銅壺《どうこ》に好物がにょっきりと一本かま首をもたげていたものでしたから、ことごとくもう上きげんで、とくりのしりをなでなで燗《かん》かげんを計っていると、突然でした。風のようにお次の間のふすまがあいたかと思うと、見るからにういういしい高桃割れに結って、年のころならやっと十五、六くらいの楚々《そそ》とした小女が、いま咲いた山ゆりででもあるかのように、つつましくもそこへ三つ指をついていたものでしたから、口ではいろいろときいたふうなことをいうにはいいますが、面と女に向かうと、うれしいことに、からもういくじのなくなるたちでしたので、まことにどうも笑止千万、すっかり伝六はこちこちになってしまって、あわてながらひざ小僧をかき合わせると、しかられたかめの子のように、そこへちまちまとかしこまってしまいました。同時に、右門も隣のへやから気がついたのですが、さすが右門は右門だけのことがあったものでしたから、べつに顔の色もかえず、静かに問いかけました。
「どうやら、ここはどなたかのご茶寮《さりょう》のようにも思われまするが、あなたさまは?」
「はっ……あの……わたくしは……」
 いいかけましたが、まこと陰陽《おんよう》の摂理というものはあやかなものとみえて、小娘ながらも右門のごとき天下執心の美丈夫をかいま見ては、ちいさな胸もおののかずにはおかれなかったのでしたか、伝六を見たときはちっとも異状を現わさなかったその顔に、ぱっといちめんのもみじを散らして、ことばもとぎれがちにうつむいてしまいましたので、右門は少し微笑をみせながら、はじらいを救ってやるようにやわらかく尋ねました。
「わかりました、わかりました。なんでござりまするな。伊豆様からのおいいつけで、お越しなされたのでござりますな」
「はっ……なにかといろいろご不自由もござりましょうゆえ、旅の宿のつれづれなぞをお慰めに参れとかようにお申されましたので、ふつつかながら参じましてござります……」
「それはお奇特なこと。お名まえはなんと申されまするか」
「ゆみ――あの、弓と申しまする……」
「ほほう、お弓様と申されまするか、いちだんとよいお名まえでござりまするな。さいわい、わたくしめは白羽|矢之助《やのすけ》と申しますゆえ、弓に白羽の矢では、ちょうどよい取り合わせでござりまするな」
 珍しくむっつり右門が浮かれ屋右門になって、そんな冗談をいっていましたが、しかし、かれのまなこはそういう間にも絶えず小娘の身辺に鋭くそそがれ、その耳はまた絶えずなにものかを探るように表のほうに傾けられたままでした。
 と――夜陰にこもって、おりからちょうど、ごうんごうんと、遠寺のときの鐘です。数えると、まさに九ツ! 同時に、右門の態度ががらり変わりました。
「さ! 伝六! ひとかせぎしような」
 突然鋭く言いすてると、不意にすっくと立ち上がったものでしたから、こちこちになっていた伝六は、はじめて毒気が抜けたようにお株を取りもどして、すっかり生地のままの伝六となりました。
「まただんなの病気が始まりましたね。きょう来てきょう着いたというのに、突然人聞きのわるいことおっしゃいまして、ご金蔵でも破るんじゃあるまいし、ひとかせぎたあなんですか」
 しかし、右門は凛然《りんぜん》として、もはやむっつり右門にかえり、江戸から用意の雪駄《せった》をうがち、天蓋《てんがい》を深々と面におおい、腰には尺八をただ一つおとし差しにしたままで、すうと表のやみの中へ、吸われるように歩きだしたものでしたから、ようやく伝六もそれと察しがついたものか、朱ぶさの十手をこっそりとふところに忍ばせて、すぐあとから同じ虚無僧姿をやみの中へ包ませてしまいました。

     

 孟春《もうしゅん》四月の半ばをすぎた城下の夜半は、しんとぬばたまのやみに眠って、まこと家の棟《むね》も三寸下がらんばかりな、底気味のわるい静けさでした。あらぬつじ切りのうわさは、城下の町のもののおびえやすい心をいよいよおびえさせたとみえて、行く道はげに死せるがごとく、人っ子ひとり見かけない寂しさでした。――その寂しい大路小路を、どうしたことか、右門はわざとちゃらちゃら雪駄の音を特別高くちゃらつかせて、ふらりふらりとやって参りました。下手人を捕えようとするなら、少なくも息ぐらい殺していくのが定《じょう》なんですから、だのにことさら高めだした雪駄の音は、どうみても少し不思議なんですが、いかにもそれがなにか自信でもありそうに見えましたものでしたから、何かは知らず伝六もそのとおりまねをしてやっていくと、果然! いや、突然でありました。
「そこのふたり、待てッ!」
 叫びながら路地口から飛び出してきて、さッと行く先をさえぎった七、八人の一団がありました。もちろん、おっとり刀で、――だが、右門はおどろくと思いのほかに、さながらそれを心に期したるもののごとく静かに近づいていくと、さびのある声で、鷹揚《おうよう》にいったものです。
「ご苦労でござる。ご異状はござりませぬかな」
「なにッ、ご異状? なれなれしゅう申しおるが、いずこの何やつじゃ!」
 いかにも右門のことばつきがつら憎いほどおちついていたものでしたから、おっ取り刀の面々のおこって詰めよったのはあたりまえなことでしたが、しかし右門は綽然《しゃくぜん》たるものでした。
「不審はごもっとも、てまえはこういうものでござる」
 静かにいって、そして先ほど城中を退きがけにちょうだいいたしました例の手札を――この者の命令は予の命令と思うべし、松平伊豆守と、釜《かま》のような書き判のある例の一札を、ずいと龕燈《がんどう》の下に突き出して見せましたものでしたから、いやはや、どうもおっ取り刀の面々のめんくらったこと。うへッとばかりに声をそろえながら、塩だらのように堅くなりながら、こちこちとそこへ棒立ちになってしまいました。それをきのどくそうにながめながら、右門は天蓋の中から鷹揚《おうよう》にいいました。
「例のやつをご警戒中と思われまするが、このあたりはどなたのお屋敷つづきでござる」
「はっ、このうち四、五町がほどは、当家中一流のつかい手ばかりがお屋敷を賜わっていますゆえ、例のつじ切りめ腕ききばかりの藩士をねらう由承りましたから、かく宵《よい》のうちから一団となって、このかいわいを警固中にござります」
「それはご殊勝なこと、ずいぶんとごゆだんめさるなよ。では、ごめん――」
 いうと、右門はことさらまた雪駄の音を例のように高めながら、ちゃらちゃらと向こう町のやみの中へ消え去ってしまいました。だが、まことに不思議です。二、三十間やっていくと、今まで高かった雪駄の音を突然ころして、ぴたりとそこの築地《ついじ》べいに平ぐものごとく身をよせてしまいましたので、伝六はいぶかって、首をちぢめながらささやきました。
「ね、――あいつが出たんですかい?」
 しかし、右門はひとことも答えないで、じっと同じかっこうをつづけていたようでしたが、それから五分とたたないまもなくでした。不意に、やみの向こうの屋敷の中から、けたたましくわめき叫ぶ声が聞こえました。
「おのおのがた、お出会いそうらえ! 例のくせ者が押し入ってござるぞ! お早くお出会いそうらえ!」
 それを聞くと、右門ははじめてわが意をえたりというように、ぱんぱんと手についた土ほこりをはたきながら、涼しい声でいいました。
「やっぱり、おれのにらんだとおり、下手人は気のきいた知恵者だよ。警固の者をまんまとやりすごしておいて、そのあとからすぐに裏をかいて押し入るなんてところは、なかなかあっぱれ者だよ」
「なるほどね。どうりで、だんながまたさっきからばかにちゃらちゃらと雪駄《せった》の音をさせると思ってましたが、じゃだんなが、またそやつの裏の裏をかこうとしたんですね」
「そうさ。ああやって、わざと雪駄をちゃらつかせて、いま通ったぞと知らして歩いたら、気のきいた下手人だったら、きっとそのすきに何かしでかすと思ったからな、ちょっとばかり誘いのすきをこしらえてやったのさ。災難に会ったご藩士にはおきのどくだが、おれはまだ一度も手口の現場を見ていないんだからな――どうやら警固の面々も駆けつけたようだから、ではひとつ検分に行くかな」
 騒がずにゆうゆうとして、いま声のあった屋敷のほうへ参りましたものでしたから、伝六もすっかり江戸っ子かぜを肩に切りながらあとに従ってまいりますると、案の定、屋敷うちは上を下への混雑で、右往左往とやみの中を、先ほどの警固の者が、下手人いずこと捜しまわっているところでした。しかし、右門はそれらの面々なぞには目もくれないで、ずいと座敷の中へ上がってまいりました。
「どなたでござる!」
 型のごとく身内の者らしい若侍が血相変えてさえぎったのを、右門は用意のあのお手札を示して身のあかしをたてておくと、むっつりとして災難に会った主人のうち倒れている奥座敷へやって参りました。見ると、なるほどうわさにたがわず、あるじは右腕をすっぽりと切ってとられて、あけに染まりながらそこにうめきつづけていたものでしたから、右門は黙って近よると、まずその切り口をとっくりと改めました。よほどのわざ師が、よほどのわざ物で、ただ一刀にすぽりとやったとみえて、いかにも切れ味がみごとです。しかも、主人のまくら刀はそこに置かれたままで、一太刀《ひとたち》も抜き合わしたらしいけはいがなかったものでしたから、右門は聞くのが少しきのどくでしたが、正直に思ったとおりを尋ねました。
「貴殿とて一流のつかい手でござりましょうが、抜き合わす暇のなかったところを見ると、よほど不意を打たれたとみえまするな」
「面目しだいもござらぬ。つじ切りはしても、まさかにこのように夜中寝所まで押し入ろうとは思いもよらなかったゆえ、つい心を許して寝入っていたところを、不意にやられたのでござる」
「しかし、なんぞそのまえほかに気を奪われたようなことはござりませなんだか」
「さよう、たしかにお尋ねのようなことがあったゆえ、ちと不思議でござる。なんでも、何かばりばりとひっかくような音がありましたのでな――」
「なにッ。ばりばりとかく音がござりましたとな! すりゃ、まことでござるか!」
「まこととも、まこととも、真もってまことでござる。その廊下のあたりで、何かこうばりばりとかきむしるような音が耳にはいったのでな、不審と思って、そのほうへつい気をとられた拍子に、あれなるうしろのふすまを不意に押しあけて、覆面の武者わらじをはいたやつが、いきなりおどり入りさま、物をもいわずに、このとおり腕を切りとったのでござるわ」
「ふうむ、さようでござるか。そうするとそろそろほしが当たりかけてきたな」
 ばりばりという音がしたといったその一語によって、すでになにものかの推定がついたもののごとく、腹の底から絞り出したようなうめき声を発して、じっと廊下先の障子を一本一本|巨細《こさい》に見まわしていましたが、と――果然、その痕跡《こんせき》があった。歴然としてそこの障子の一本に何かつめでひっかきむしったような紙の破れのあとがあったものでしたから、右門の声は突如として力に満ちながらさえだしました。
「切られたその腕は、どうしたのでござる!」
「え! 腕ですかい。腕なら、だんな、ここにころがってますぜ」
 さすが伝六もおひざもとの岡っ引き、さしずをうけないうちに先回りして、犯跡の証拠収集に努めていたものか、右門のことばに応じて、庭先からそういう声があったものでしたから、まをおかずに、やっていってみると、いかにも手首はまっかに血を吹いて、これがつい数分まえに人のからだへくっついていたんだろうかと怪しまれるようなぶきみな姿をしながら、縁側つづきの便所のわきに投げすてられてありました。しかも、ひょっと見ると、そこの便所の白壁になにやらべったりと黒い跡がついていたものでしたから、右門はあかりをとりよせて、なにげなくのぞき入りました。と同時に、さすがの右門も、おもわず少しばかりぎょっとなりました。見ると、その黒い色とみえたのは紛れもなく生き血の色で、さながらやつでの葉かなんかを押したように歴然と、切り取った手首のてのひらの跡が押されてあったからです。のみならず、その手形の下には、同じ生き血をもって、次のごとき文字がはっきりと書きしるされてありました。

  ――あと少なくも十本はこのように手首ちょうだいいたすべくそうろう。

「おそろしくおちついたやつじゃな」
 おもわずうなりながら、じっとそこにころがっている腕首を見改めていましたが、と――不意に、右門の鼻先へぷんとにおってきたえもいわれぬかぐわしい不思議な高いかおりがありました。はてな、と思いましたので、腕首を取り上げて鼻先へもっていきながらかいでみると、いかにも不思議! かつて聞いたこともないようなすばらしく上等の香のにおいがするのです。しかも、あきらかにそれが移り香なんでしたから、右門はあわてて腕を切り取られた当の主人のところへやっていって、それとなく身体をかぎためしました。しかるに、奇怪とも奇怪、その移り香はあるじの身についていたものではないのです。とすると、むろん下手人の身についていた移り香で、ただ一度それをつかんだだけでもこんなにかおりの強く乗り移ったところを見れば、よほど高価な香ということが推察できたものでしたから、もう一度丹念にかいでいると、まさにそのときでした。
「くせ者じゃッ。くせ者じゃッ。例のやつめがこちらにも押し入りまして[#「押し入りまして」は底本では「押り入りまして」]ござりますゆえ、お早くお出会いめされい!」
 不意にまた二、三軒向こうの屋敷の中から、やみをついてそう呼び叫ぶ声がありました。まだこちらの始末がつききらないうちでしたから、居合わした警固の面々のいまさらのごとくに二度青ざめたのはいうまでもないことでしたが、伝六もぎょっとなって、血相変えながら警固の面々のあとを追おうとしましたので、すばやくそれを認めた右門が、おちついた声でうしろから呼びとめました。
「まてッ」
「だって、逃げちまうじゃござんせんか!」
「どじだな。今から追っかけていったって、おめえたちの手にかかるしろものじゃねえんだよ。こっちを騒がしておいて、そのすきに隣へ押し入る大胆な手口だけだって、相手の一筋なわじゃねえしろものってことがわかりそうなものじゃねえか。それよりか、ほら、これをな――」
「えっ?」
「わからんか、な、ほら、ぷんといい女の膚みたいなかおりがするんじゃねえか。おそらく、向こうの手首にもこれと同じ移り香があるにちげえねえから、ちょっといってかいでこい」
「なるほどね。ようがす、心得ました。じゃ、それだけでいいんですね」
「しかり――だが、みんなにけどられねえようにしろよ。騒ぎたてると、ぼんくらどもがろくでもない腕だてをして、せっかくのほしをぶちこわしてしまうからな」
「念にや及ぶだ。あっしもだんなの一の子分じゃごわせんか。どっかそこらの路地口であごひげでもまさぐりながら、待っていなせえよ」
 自分のてがらででもあるかのように伝六が駆けだしたものでしたから、右門は災難に会った一家の者に悠揚《ゆうよう》として黙礼を残しながら立ち去ると、門を出たそこの路地口のところで、いったとおりあごひげをまさぐりまさぐり、伝六のかえりを待ちうけました。まもなく駈けもどってきた伝六の報告によると、果然切り取られた手首には同じ香のにおいがあったばかりでなく、血の手形の跡もばりばりと何か障子をひっかいた手口も、全然両者が同様であるということがわかったものでしたから、もうそれからの右門は例のごとし――いいこころもちにふところ手で宿に引き揚げていくと、すっぽりと郡内かなんかの柔らかいやつをひっかむって、すやすやとすぐに快い寝息をたてだしました。

     

 しかし、朝になると、右門はまだ朝飯さえもとらないうちから、反対におそろしく疾風迅雷的《しっぷうじんらいてき》な命令を伝六に与えました。
「きさまこれからお城下じゅうの宿屋という宿屋を一軒のこらず当たって、例のきのうつけてきたあのさるまわしな、あいつの泊まったところを突きとめてこい!」
「なるほどね、やっぱりそうでしたか。ありゃあれっきりのお茶番と思ってましたが、じゃいくらかあいつにほしのにおいがするんですね」
「においどころか、ばりばり障子をひっかいた音っていうのは、そのさるなんだよ。とんだ古手の忍術つかいもあったものだが、しかし、さるをつかってまず注意をそのほうへ集めておいてから、ぱっさりと腕首を盗むなんていうのは、ちょっとおつな忍術つかいだよ。石川|五右衛門《ごえもん》だって知るめえからな」
「石川五右衛門はようござんしたね。そうと決まりゃ、もうしめこのうさぎだ。じゃ、ひとっ走り行ってきますからね。だんなはそのるす中に、あの、なんとかいいましたね、そうそう、お弓さんか、まだけさは姿を見せませんが、おっつけご入来になりましょうからね。江戸へのみやげ話に、ちょっぴりとねんごろになっておきなせえ。ゆうべの赤い顔は、まんざらな様子でもなかったようでがしたからね」
 つまらんさしずをしながらかいがいしく伝六が命を奉じて駆けだしたので、右門はそのあとに寝そべりながら、例のごとくあごの無精ひげをでもつまみそうに思われましたが、どうして、かれもまた今は文字どおり疾風迅雷でした。すぐに裏口伝いを濠《ほり》に沿って城中へ参向すると、ようやくお目ざめになったばかりの伊豆守に向かって、猪突《ちょとつ》に不思議なことを申し入れました。
「つかぬことをお願いいたしまするが、ただいますぐと、ご城中にお使いのお腰元たちのこらず、わたくしにかがしてくださりませぬか」
「なに、かぐ?――不思議なことを申すが、腰元たちのどこをかぐのじゃ」
「膚でござります」
「そちには珍しいいきな所望をまた申し出たものじゃな。よいよい。なんぞ捜査の手づるにでもいたすことじゃろうから、安心してかがしてつかわそうわい。こりゃこりゃ、誰《た》そあるか」
 すぐと右門の目的がよめたものか、お手を鳴らしたので、つるの一声はひびきの物に応ずるごとく、たちまち後宮の千姫《せんき》に伝わって、間をおかず色とりどり腰元たちがぞろぞろとそこへ現われてまいりましたので、冗談かと思うと、ほんとうに右門は鼻をもっていって、ひとりひとり彼女らの招かばなびかんばかりな色香も深い膚のにおいを順々にかいでいましたが、すべてでおよそ七十人、しかしかぎ終わったかれの面には、来たときと違って、どうしたことか、はなはだしい失望の色が見えました。少し見込みがはずれたかな――というように首をひねりながら、しばらく考えていましたが、やがてぷいと立ち上がると、ややうなだれて、あっけにとられている腰元たちをしり目にかけながら、さっと引きさがってしまいました。
 だが、かえりつくと、そこに三つ指ついてつつましく待っていたものは、前夜来から旅寝の間の侍女として伊豆守がお貸しさげくださったあのゆみで、右門はまだ朝食もとっていなかったものでしたから、ゆみは右門のむっつりとしておし黙りながら考え込んでいる姿を見ると、ことばをかけるのを恐れるように、おずおずといいました。
「あの……朝のものが整ってでござりまするが……」
「おう、そうか! では、いただかしてもらいましょう」
 なにげなくお茶わんを差し出して、なにげなくそれをお給仕盆に受け取ったおゆみの腕首をちらりと見守ったときでした。実に意外! たしかに前夜見たときはなかったはずの腕首に、まっかなばらがきのあとが――さるかねこにでもひっかかれたように、赤いみみずばれの跡がはっきりとついていたものでしたから、突然右門の胸はどきどきと高鳴りました。しかも、それがまだ新しいつめの跡らしかったのでしたから、右門はやや鋭く尋ねました。
「そなた、けさほど姿を見せなかったようじゃが、どこへ行ってこられた」
「えっ!」
「おどろかんでもいい。見れば、手首にみみずばれの跡があるが、さるにでもひっかかれましたか!」
 と――ぎくりとなったようにうろたえて、その腕首をあわてながらそでにおし隠したものでしたから、右門は心の底までをも見抜くようにじっと彼女の顔を射すくめていましたが、はしもつけないで突然ぷいと立ち上がりました。目ざしたところは、いうまでもなく城中で、ふたたび例のようにどんどんと大奥までも参向すると、突如として伊豆守にいったものです。
「ゆうべお貸し下げの弓とか申すあの小女は、殿さまのお腰元でござりまするか」
「さようじゃ。城中第一の美姫《びき》、まだつぼみのままじゃが、所望ならば江戸へのみやげにつかわしてもよいぞ」
「またしてもご冗談でござりますか、そのような浮いた話ではござりませぬ。あの者の素姓をご存じにござりまするか」
「よくは存ぜぬが、ついこの濠《ほり》向こうの仁念寺《にんねんじ》という寺の養女じゃそうな」
「えっ! お寺! お寺でござりまするとな!」
「さよう――住持が大の碁気違いじゃそうでの。それから、なんでもあの小女に、もうひとり有名なおくびょう者じゃそうなが唖の兄とかがあって、どういうつごうでか、その兄もいっしょに養われているとかいうことじゃわ」
 濠向こうの寺、そしてその寺の養女とおくびょう者の唖《おし》の兄? ――なにものか胸中に明察のついたもののごとく、ぴくりとまゆを動かして考え込んでいましたが、そのまま右門はおし黙って、ぷいと立ち去りました。ただにぷいと城中を立ち去ったばかりではなく、実に不思議――それっきりむっつり右門の姿は、どこへ行ったものか、皆目行くえがわからなくなってしまいました。宿へもかえらず、おしゃべり屋の伝六もそこへ置いてきぼりにしたままで、さながら地へもぐりでもしたかのように、煙のごとく城下からぷいと消えてなくなってしまいました。

     5

 けれども、そのかわりに、同じ日の夕暮れどきから、むっつり右門のいなくなったのに安心でもしたかのごとく、ぽっかりとどこからかひとりの怪しい秩父《ちちぶ》名物のさるまわしが、忍《おし》の城下の羽生街道口に現われてまいりました。見ると、そのさるまわしはもう五十をすぎた老人で、腰はよぼよぼと弓のごとく曲がり、目にはいっぱいの目やにがたまって、顔は赤黒く日にやけ、いかにも見すぼらしいかっこうでした。だのに、怪しいそのさるまわしは、たえず何者かを恐れつつ、それでいてたえず何者かを捜し求めでもするかのように、きょときょととまわりを見まわしながら、どっかりと道ばたに腰をすえると、道ゆく城下の人たちを集めて、一文二文のお鳥目を請い受けながら、じょうずにさるをあやつりました。さるもきわめて手なれたもののごとく、よくさるつかいの命に従いましたが、しかし、さるつかいの目は、さるを踊らしながらも、不断に城下のほうへそそがれました。そして、ちらりとでも虚無僧姿の男が見えると、よぼよぼの腰でありながら、すばらしい早さでどこともなく姿をかくし、見えなくなるとまたどこからか現われて、同じところに陣取りながら、今度はしきりと羽生街道口のほうにその目をそそぎました。しかも、それが一日ばかりではなく、二日三日と、きまって夕暮れどきに同じ場所へ陣取りますので、しだいに怪しさが加わってまいりましたが、かれがそこへ姿を見せだしましてからちょうど四日め――ふいと今度は別なひとりの秩父名物さるまわしが、羽生街道のほうからやって参りました。新しく来たそのさるまわしの姿をよく見ると、どうやら右門と伝六が先の日、久喜のあのいなりずし屋で見かけたうちのひとりの、江戸へ行ったほうのに似ているらしいのですが、不思議なことに、くだんの新しいさるまわしは、そこにうずくまって商売を開いていたまえからの老人のさるまわしのところにやって来ると、突然腰をこごめて、ひどく何かを恐れながら、あのとき久喜の宿でもしたように、飯籠《はんご》をあけて、ひとつかみ中の椎《しい》の実を老人のほうへ移しました。と同時に、老人の目は怪しく輝き、いま移されたその椎の実の中から、ひときわ大きい一つを捜し出して、やにわにそれを歯でこわし、意外なことにはその椎の実の中から小さく丸めた紙切れを取り出すと、手早く押し開きながら、そこに書かれた通信の文句を読んでいたらしいようでしたが、そうか、事急だ――突然そうつぶやくと、大急ぎにさるを背負って、あとから来たのといっしょに足を早めながら、いずこにともなく城下の夕暮れやみに消え去りました。
 それとも知らずに、その怪しいできごとがあって一|刻《とき》ほどすぎたのち――。今、忍《おし》のご城内では、何か高貴のおかたでもこよい城中に迎えるらしく、熨斗目麻裃《のしめあさかみしも》の家臣たちが右往左往しながら、しきりとその準備に多忙をきわめているさいちゅうでした。しかし、よほどそれは内密のお来客とみえて、準備に当たっている者はいずれも黙々と口をとじたきりでした。しかも、不思議なことに、高貴のおかたと見えるそのお来客の接待場所は、ついふた月ほどまえに松平伊豆守がわざわざそのために造営さしたお庭つづきのお濠《ほり》ばたの、ほんとうに文字どおりお濠ばたの数寄《すき》をきわめたちいさな東亭《あずまや》でした。唐来とおぼしき金具造りの短檠《たんけい》にはあかあかとあかりがとぼされ、座にはきんらんのおしとねが二枚、蒔絵《まきえ》模様のけっこうやかなおタバコ盆には、馥郁《ふくいく》として沈香入りの練り炭が小笠原流《おがさわらりゅう》にほどよくいけられ、今は、ただもうそのお来客と城主伊豆守のご入来を待つばかりでした。
 と――警蹕《けいひつ》の声とともに、家臣たちがひらめのごとく土下座している中を、伊豆守とおぼしき人が先頭で、うしろに一見高貴と見ゆるおんかたを導きながら、しずしずと東亭へおなりになりました。そして、今おんふたかたがおしとねにつかれようとしたとき! 突如、真に突如、意外な大珍事がそこに持ち上がりました。床が没落したのです! がばッ! という大音響とともに、堅固なるべきはずの東亭の床が、めりめりとおんふたかたをのせたままで、突然地の中へ没落してしまったのです。
「わあッ! 一大事! 一大事! 将軍家と伊豆守様とのお命をちぢめまいらした不敵なくせ者がござりまするぞッ。それッ。おのおの、ぬかりたまうな! 城内要所要所の配備におんつきそうらえ!」
 すわ、事おこりしと見えましたので、家老とおぼしき者の叫びとともに、どッと城中が騒乱のちまたに化そうとしたとき――だが、そこへいま没落した床の下の抜け穴らしいところから、ぬうと現われてきたひとりの怪しき男の姿があったのです。手に手にともしたあかりのまばゆい光でよくよく見ると、これは意外! その男こそはだれあろう、あの老人の怪しきさるまわしでした。四日まえの晩からお城下の羽生街道口に陣取って、怪しの別なさるまわしから椎の実をうけとり、かき消すように姿をかくしたあの老人のさるまわしでした。
「それッ、あいつだ! くせ者はあの者だ! めしとれ! めしとれッ」
 むろん、下手人はそれにちがいないことがわかりましたので、さっと左右から家臣の者が迫ろうとすると、しかし意外! さらに意外! 老人の曲がった腰はまずしゃっきりと若者のごとくに伸び直り、そして悠揚《ゆうよう》とそこの泉水で面を洗うと、りりしくもくっきりとした美丈夫の姿と変わったのです。と同時でした。たち騒いでいる人々の中から鉄砲玉のように飛んできて、すがりつくようにいった声がありました。
「おっ? おいらのだんなじゃごわせんか! 右門のだんなじゃごわせんか! よくまあ、よくまあ生きていてくれましたね。あっしゃ、てっきりあのつじ切りのやつに殺されたと思いましてね、だから、もう、このとおり、このとおり――ああ、ちくしょう、うれしくて泣けやがるなあ! 泣けやがるなあ。ね! どうしたんです。いったいこりゃ、どうしたんです!」
 まことにそれは忽焉《こつえん》として先の日消えてなくなったむっつり右門で、右門は伝六のうれし泣きに泣いている姿を静かに見おろすと、涼しそうにいいました。
「さ、伝六、あの穴の中からくくされて出てくるやつを、ご城中のかたがたに引き渡してやりな」
「え? 地の下にはまだ人間がいるんですかい」
「例のさるまわしたちさ。七人ばかりを一網にして、今くくしておいたからな、みなさまがたに引き渡してやりな」
 いう下から、前髪立ちの美少年姿をしたさるまわしを先頭に、高手小手の七人が、ぞろぞろと穴の中から送り出されて、しかもそのうしろからは、先ほどの将軍家と伊豆守に見えた両名が、そのなわじりをとって現われ出ましたものでしたから、伝六もおどろきましたが、家中の者はいっせいにあっと声を放ちました。それを冷ややかに見ながめながら、右門はいっそう涼しい声で家臣の者たちにいいました。
「とんだお人騒がせをつかまつり、恐縮いたしました。ごほんものの将軍家と伊豆様は、今ごろご城中でご安泰におくつろぎでござりましょうから、ご安心くださりませい。これなる七人の者の素姓も、つじ切りの下手人も万事伊豆守様がもうご承知でござりますから、ゆるゆるとお聞きになりましてな、それからなわじりをとっているそこの両名は、ご城下で興行中の江戸の旅役者どもでござりますから、こよいの命を的にした大役をじゅうぶんおねぎらいなされて、ごちそうなとなされましたらよろしゅうござりましょう――では、伝六、宿へかえってまた虚無僧になるかな」
 いうと、べつに功を誇る顔もせず、さっさと引き揚げました。けれども、今度ばかりはさすがの右門も事件の重大さにいくぶん興奮していたか、いつになくむっつり屋のお株を忘れて、珍しいほどのおしゃべりになりながら、伝六のきかない先に自分からねた[#「ねた」に傍点]を割りました。
「きさまも驚いたろうが、おれもちっとばかり今度という今度は知恵を絞ったよ。なにしろ、恐れ多い話だが、上さまと伊豆さまを一時になきものにしようとしていたんだからな」
「大きにそうでがしょう。あっしもおおよその見当がつきやしたが、察するにあの七人のやつは、豊臣《とよとみ》の残党じゃごわせんかい」
「さすがにきさまだけのことがあるな。残党じゃねえが、いずれも豊家恩顧の血を引いたやつばらさ。あくまでも徳川にふくしゅうしようっていう魂胆で、まずそれには、というところから伊豆さまのご藩中へ先に巣を造り、巧みに所所ほうぼうへあのとおりのさるまわしとなって駆けまわり、将軍家の日光ご社参の機会を探っていたというわけさ。ところが、伊豆様はさすがに知恵者、早くもにおいでかぎ知ったとみえて、今度の日光ご社参ばかりはこのおれにさえ隠すほど絶対にご内密を守り、ああやってこっそりとお先にご帰藩もして、それから今夜のようにごく密々で上さまを城中へお迎えするつもりだったんだが、じょうずの手から水が漏れるというやつで、あべこべにそのおん密事をかぎ取ったやつがあの七人組のほかにもうひとりあったものだから、それと知ってさるまわしたちが久喜の宿でも会ったように、たちまち八方へ飛び、まずつじ切り事件が最初に起きたというわけさ」
「なるほどね。じゃ、そろいもそろって腕っききばかりの右腕を切り取ったっていうのも、ねたを割りゃ、いざ事露見というときの用心に、まえもって力をそいでおくつもりなんですね」
「そのとおり、そのとおり。なにしろ、てめえたちの仲間はたった七人しきゃねえんだからな。目抜きのつかい手の肝心な腕切ってかたわにしておきゃ、雑兵《ぞうひょう》ばらの二、三百は物の数じゃねえんだから、さすが真田幸村《さなだゆきむら》の息がかかった連中だけあって、しゃれたまねしたものだが、ところがそれが大笑いさ。なま兵法《びょうほう》はなま兵法だけのことしかできねえとみえて、きさまもかいだあの香の移り香を残しておいたことが、そもそもねたの割れた真のもとだよ」
「ちょっと待ってくだせえよ。だって、だんなはまだ、その香の持ち主をひっくくったとも、捕えたとも聞きませんが、あの七人組の中にそやつもござんしたかい」
「いたとも、いたとも。まっさきに穴の中から出てきたあの前髪のまだ若いやつがその香の持ち主で、つじ切りの下手人なんだよ。おくびょう者と見せかけて、その実は一刀流の達人、しかもかわいそうに、生まれつきの唖《おし》さ」
「えっ、唖※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 唖がまたなんだってかたわのくせに、あんな上等の香なんぞからだにたきこめていたんですかい」
「それがあのとおりの美少年だけあって、うれしいといえばうれしい話だが、つまり武士のたしなみなんだよ。いつ不覚な最期を遂げないともわからないっていうんで、つね日ごろ身にたきこめていたらしいんだが、そいつが伊豆守様のお話で、そら、あそこの濠《ほり》の向こうに見えるお寺があるだろう、あの仁念寺というお寺に養われていると聞いたものだから、そこの住持が碁気違いだというのをさいわい、江戸上りの碁打ちに化け込んで様子を確かめに行ってみるてえと、仁念寺というお寺そのものが、だいいち臭いんだ。おびただしい新土が裏口に山のごとく盛り上がっているから、よく見ると、つまりその土の正体は、さきほどおれが地中の下からはい出てきたあの抜け穴の入り口なんだよ。さっきの東亭《あずまや》というのが、そもそも上さまを迎えるためにこしらえたということがきゃつらにわかっていたものだから、二カ月かかってあの穴をお寺から濠《ほり》の下をくぐって掘りぬき、しかるうえでさきほどの珍事のように、いちじにおふたかたのお命をちぢめようって魂胆だったのさ。そのからくりがまずだいたいわかったところへ、案の定、唖がさるを飼ってはいる、あまつさえぷんと例の香のにおいがしたものだから、もうあとはぞうさがないさ。いかな一刀流の達人でも、おれの草香流やわらの逆腕にかかっちゃ、赤子の手をねじるのと同然だからな。まずやっこめをひっくくっておいて、きさまも久喜の宿でとくと見届けたはずだが、あの椎の実のやりとり一件をはからず思い出したから、唖に白状させる手数よりか、あの手品を先にあばいたほうが早手まわしと思って、飯籠《はんご》をかっさばいてみるてえと、あるわあるわ、椎の実を割ってみると中に仕込んで無数の江戸から届いた手紙があったものだから、それによってあいつらの頭目が年寄りの腰の曲がったさるまわしに化けているのをかぎだし、ちょっとばかりしばいをうって、羽生街道口のところに陣取っていたんだよ。そのとききさまの天蓋姿を見つけて、いっぺんは逃げたが、とうとうほしどおりおれのしばいが当たって、江戸から飛んできた新しいさるまわしのやつをまんまとわなにひっかけて、椎の実の中の手品から今夜上さまのお忍びで江戸からご入城のこともわかり、あいつらの計画もいっさいがっさいねた[#「ねた」に傍点]があがっちまったから、それからの大車輪っちゃなかったよ。あとの五人をてっとり早くおびき出して、ひと網にくくしあげる。そのあとで伊豆様とお打ち合わせをする、それからお城下をとびまわって、江戸を出がけのときにお奉行様からいただいた百両で役者をふたり見つけ出し、うまうまとおんふたかたに化けさせて、ようやっと豊家《ほうけ》の残党をあのとおり根だやしにしおわせたというわけさ。思えば、でけえ大しばいさな」
 しかし、右門が語り終わったとき、しきりと伝六がまだ何かふにおちないように首をひねっていましたが、ふいっと尋ねました。
「でも、不思議じゃごわせんか。七人組のほかにもうひとり、伊豆様のおん密事をかぎ知ったやつがあると、たしかにさっきだんながおっしゃいましたが、そいつあいったいどこのだれですい」
 いわれて、ぎくりとなったように、右門は珍しくうろたえながら、ややその顔を赤らめていましたが、やがてぽつりと念を押しました。
「きさま、一生一度の内密に必ず他言しないことを先に誓うか」
「ちえッ、うたぐり深いだんなだな。あっしだって、おしゃべり屋ばかりが一枚看板じゃござんせんよ。意気と意気が合ったとなりゃ、これでなかなかがっちりとした野郎なんだから、ええ、ようがす、いかにも八幡《はちまん》やわた[#「やわた」に傍点]にかけて、誓言しようじゃごわせんか」
「さようか。では、こっそりとその者を見せてやろう」
 いいながら、ちょうどそのとき帰りついた宿の中へ、静かにはいっていったようでしたが、そこのほの暗い朱あんどんのそばで、いじらしくも可憐《かれん》にうつ伏しながら、よよとばかり泣きくずれていたあの小女のお弓の姿をみとめると、右門は黙ってそのほうを目顔でさし示しました。
「えっ※[#感嘆符疑問符、1-8-78] あの、このお弓さんが、そのちっこく美しいお弓さんが、将軍のお社参までもかぎつけて、そもそもこんなだいそれた陰謀をたくらました張本人なんでがすかい※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「さようじゃ。お腰元としてお城中へ上がりこみ、怜悧《れいり》にもご城内の様子までかぎ出したのだろうわい。おれときさまの江戸から下ることまでをもかぎ出してな。それから伊豆様にわざと願って、おれたちの小間使いになられたものとみえるよ」
「ちくしょう? じゃ、豊臣《とよとみ》がたの犬も同然じゃごわせんか。おっかねえべっぴんに、またおまんまのお給仕までもしてもらったもんだね。ようがす、あっしがだんなの代わりに、料ってやりましょう」
 飛びかかろうとした伝六のきき腕をむんずと捕えて、どうしたことか、右門が突然ぽろりと栃《とち》のような涙を落としながら、やや悲しげにいいました。
「まてッ。わしがきさまに内聞にしろといったのは、この手の傷だ。美しい人の美しい心ざし、よくみてやりな」
 そして、なおよよとばかりに泣き伏していたお弓のむっちりと美しい右手を取りあげながら、そおっと伝六の目の先につきつけたものでしたから、伝六はいぶかって、まじまじと見ながめていましたが、やがて吐き出すようにいいました。
「こんなもの、なにもありがてえ傷あとでもなんでもねえんじゃごわせんか。ねこかさるにでもひっかかれたつめのあとじゃごわせんか」
 その伝六の不平そうなことばを聞いて、右門はしばし瞑黙《めいもく》しながら考えていましたが、わからなければしかたがない、知らせてやろう、といったように、そっと一枚のちいさな紙きれをふところから取り出して、伝六の鼻先へ黙々とさし出しました。見ると、紙片には次のようなうるわしい女文字の水茎のあとが、はっきりと書かれてありました。
「――おあにいさま、おあにいさま。お美しいおかたをはじめてかいま見て、女が恋を――一生一度の恋をいたしまするのは、おわるいことでございましょうか! おあにいさまはおりがあったら江戸からお下りのおかたのお命を奪えとのおいいつけでございましたけれど、そのかたが、そのかたがお美しすぎるためにわたくしの心がみだれましたら、人としてまちがった道でござりましょうか! いいえ、人の道としてではござりませぬ。女として、そのおかたさまにはじめての恋をおぼえましたために、お命をいただくことができませなんだら、わるいことでござりましょうか! おわるいことでござりましょうか!」
 繰り返し繰り返し読み直していたようでしたが、ようやくいっさいがわかりましたものか、伝六が打って変わって、うめくようにいいました。
「いや、とっくりとわかりました。あっしももらい泣きをいたしやした。じゃ、このお弓さんが唖とかいった先ほどのあのお寺の若衆のお妹御でござんしたんですね。この手紙を書いて、その唖のおあにいさんとご筆談をしたときにおしかりなさられて、さるめにひっかかれたんですね。そいつをだんなが、あそこであの唖の下手人をくくし上げたときに、お手にでも入れたんですね」
 右門は黙ってうなずいていましたが、伝六のそのことばを聞いてたえ入るもののようにひときわ泣きむせびだしたお弓のいじらしい姿をみると、決心したかのごとく、はっきりと最後のことばをいいました。
「のう、お弓どの、よくご納得なさるがよろしゅうござりますぞ。そなたがわたくしへの美しいお心根は、右門一生の思い出としてうれしくちょうだいいたしまするが、不幸なことに、そなたは豊臣恩顧のお血筋、わたくしは徳川の禄《ろく》をはむ武士でござる。武道のおきてとして、そなたのお心根を受納することはなりかねまするによって、悲しい因縁とおあきらめなさりませえよ。のう、ようござりまするか。そのかわりに、そなたのことは右門一生の秘事として、堅く口外はいたしませぬによって、ご不幸なお兄上はじめお七人のかたがたの菩提《ぼだい》なとお弔いなさるがよろしゅうござりまするぞ。のう、わかりましたか。おわかりになりましたか」
 はい――というように、ちいさくかぶりをふって、嗚咽《おえつ》しながら身をよじらしているお弓のいじらしい姿を、じっとしばらく見守っていましたが、やがて右門はこらえかねたように、ぽろぽろと涙をぬぐいすてると、黙々として天蓋《てんがい》を面におおい、忍び去るようにして城下の町のやみに消え去りました。珍しや、こよいばかりはむっつりとうち沈んでうなだれた伝六をそのうしろに従えて、そしてふりかえりふりかえり、泣きくずれたままでいるお弓のほうを見返しながら、右門はあとにみれんの残るかのように、黙々と暗い城下の道のやみの中を江戸へ向けて立ち去りました。

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
   1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:ごまごま
1999年9月25日公開
2005年6月29日修正
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佐々木味津三

右門捕物帖 生首の進物—— 佐々木味津三

     

 ――むっつり右門第二番てがらです。
 前回の南蛮幽霊騒動において、事のあらましをお話ししましたとおり、天下無類の黙り虫の変わり者にかかわらず、おどろくべき才腕を現わして、一世を驚倒させたあの戦慄《せんりつ》すべき切支丹《きりしたん》宗徒の大陰謀を、またたくうちにあばきあげ、真に疾風迅雷《しっぷうじんらい》の早さをもって一味徒党を一網打尽にめしとり、八丁堀お組屋敷の同僚たちを胸のすくほど唖然《あぜん》たらしめて、われわれ右門ひいきの者のために万丈の気を吐いてくれたことはすでに前節で物語ったとおりでありますが、しかし人盛んなれば必ずねたみあり――。世のこと人のことは、とかく円満にばかりはいかないものとみえます。あの大|捕物《とりもの》とともにわれわれのひいき役者むっつり右門がうなぎのぼりに名声を博し、この年の暮れにはその似顔絵が羽子板になって売られようというほどな評判をかちえてまいりましたものでしたから、同じお上の禄《ろく》をはむ仲間どうしにそんな不了見者はあってはならないはずでしたが、やはり人の心は一重裏をのぞくと、まことに外面如菩薩内心如夜叉《げめんにょぼさつないしんにょやしゃ》であるとみえまして、しだいに高まってきた右門のその名声に羨望《せんぼう》をいだき、羨望がやがてねたみと変わり、ねたみがさらに競争心と変わって、ついには右門を目の上の敵と心よく思わない相手がひとり突如としてここに現われてまいりました。通称あばたの敬四郎といわれている同じ八丁堀の同心で、いうまでもなくその顔の面にふた目とは見られぬあばた芋があったからのあだ名ですが、しかし一面からいうと、あばたの敬四郎が、その顔の醜いごとく右門に対して心に醜い敵対心をいだきだしたことは、まんざら無理からぬことでした。もともとがむっつり右門などの駆けだし同心とは事かわって、敬四郎は年ももうおおかた四十に手が届こうという年配であり、その経験年功からいってはるかに右門なぞには大先輩の同心でありましたから、後輩もずっと後輩のまだ青々しい右門によってすっかり人気をさらわれてしまったことが、第一にしゃくの種となったのです。そこへもっていってまた悪いことには、通常二十五人が定めである与力にひとり欠役があって、順序からいえば上席同心の敬四郎がはしごのぼりにその職へつかれるはずでありましたが、奉行職《ぶぎょうしょく》にどういう考えがあったものか、いっこうにお取り立てのおさたがなかったものでしたから、いわゆる疑心暗鬼というやつで、あまりにもむっつり右門の評判が高まりすぎたために、ひょっとすると自分をさしおいて右門が先に抜擢《ばってき》昇進されるのではないだろうか、という不安がわいたからでした。功名を期するほどの男子にとってはまことに無理からぬねたみというべきですが、だから敬四郎は南蛮幽霊事件の落着後ことごとに右門を敵に回し、同時にまた功もあせって、今度こそはという意気込みを示しながら、何か犯罪があったと知ると、その大小を見きわめず、かたっぱし手を染めて、しきりと右門に競争的態度をとってまいりました。しかし、われわれの右門はそんなことに動ずる右門ではない。すべては力と腕と才略の競争なんだから、きわめて平然とおちついたもので、むっつりとまた昔の唖《おし》にかえると、敬四郎の敵対行為などはどこを風が吹くかといいたげに黙殺したままでした。勤番の日は奉行所の控え席に忘れられた置き物のごとく黙々と控え、非番の日にはお組屋敷でいかにもたいくつそうにどてらを羽織り、ひねもすごろごろと寝ころがって、しきりと無精ひげを抜いては探り、探ってはまた抜いてばかりいましたので、こうなると自然気をもみだしたのは右門の手下の岡《おか》っ引《ぴ》き、おなじみのおしゃべり屋伝六です。また、伝六にしてみれば、右門のてがらのしりうまにのっかって、かれの名声も相当高まっていたものでしたから、もう一度柳の下の大どじょうをすくってみたく思ったのは無理もないことだったのでしょう。ちょうどその日は非番の日でしたが、じれじれしながら様子を伺いにやって行くと、表はもう四月の声をきいてぽかぽかと頭の先から湯気の出そうな上天気だというのに、右門は豚のように寝ころがりながら、あいかわらず無精ひげを抜いては探り、探っては抜いていましたので、伝六はさっそくお株を出して、例のごとく無遠慮にがみがみといったものでした。
「ちえッ。だんなにかかっちゃかなわねえな。このあったけえのにどてらなんぞ着ていたひにゃ、おへそにきのこがはえますぜ」
 しかし、右門はすましたものです。金看板のむっつり屋をきめこみながら、じろりと伝六に流し目をくれただけで、依然あごひげを抜いては探り、探ってはまた抜いていましたので、伝六はますますじれ上がって、いっそうつんけんといいました。
「だから、今までだっても顔を見るたびいわねえこっちゃねえんだ。だんなほどの男まえなら、女房の来てなんぞ掃くほどあるから、早くひとり者に見切りをつけなせえといっているのに、ちったあいろけもお出しなせえよ。色消しにもほどがごわさあ、芋虫みたいに寝っころがって、その図はなんですかい。きのこどころか、うじがわきますぜ」
 と――少し意外でした。ほんとうに芋虫のごとく寝ころがって無精ひげをまさぐっていた右門が、むっくり起き上がると、きまじめな顔でぽつりと伝六にいいました。
「では、今からその女房二、三人掃きよせに参ろうか」
「え? ほんとうですかい? 正気でおっしゃったのでげすかい?」
 いつにも口にしたことのないいきなことばを、きわめて真顔で右門がいったものでしたから、おもわず伝六が正気でげすかいと念を押したのも無理からぬことでしたが、すると右門はいよいよ意外でした。
「この天気ならば、辰巳《たつみ》の方角がよいじゃろう。三、四匹ひっかけに、深川あたりへでも参るかな」
 さらにいきなことを言いながら、やおらのっそりと立ち上がると、どてらを小格子双子《こごうしふたご》の渋い素袷《すあわせ》に召し替えて、きゅっきゅっとてぎわよく一本どっこをしごきながら、例の蝋色鞘《ろいろざや》を音もなく腰にしたので、伝六はすっかり額をたたいてしまいました。
「ちえっ、ありがてえな。だから、憎まれ口もきくもんさね。おいらのだんなにかぎって女の子の話なんざ耳を貸すめえて思ってましたが、急に目色をお変えなすったところをみると、その辰巳《たつみ》とやらにはさだめしお目あてがござんしょうね」
 しかし、右門はいかにも伝六の額をたたいて喜んだとおりりゅうとした身なりを整え、まちがいもなく表へやってまいるにはまいりましたが、出がけにふと庭すみの物置きへ立ち寄ると、袋入りのつりざおにすすけきった魚籃《びく》を片手にさげながら、ゆうゆうと現われてまいりましたものでしたから、いま額をたたいて喜んだ伝六の口からは、たちまち悲鳴が上がりました。
「こいつだ。だんなのやるこたあ、いつでもこの手なんだからね。ほんとうに人をぬか喜びさせるにもほどがあるじゃごわせんか。なんでげすかい。春先にゃ辰巳の方角につりざおへひっかかる女の子がいるんですかい?」
 けれども、これは不平をいう伝六が無理でした。美丈夫なること右門のごとく、道心堅固なることまた右門のごとき、男でさえもほれぼれとするようなその人がらを、よく知っていながら、早まって早がてんをしたほうが悪いので、むろん右門は最初から気晴らしに、すすきでもつりに行こうというつもりでしたから、にこりともせずに伝六の不平をうしろへ聞き流しておくと、さっさと門を外へ出ていきました。
 と、その出会いがしらに、ぱったりとぶつかった男がある。ほんとうに、文字どおりぱったりとぶつかった男がありました。だれか?――だれでもない、あばたの敬四郎です。そして、真にその一瞬でありましたが、いや一瞬というよりもそのとたんといったほうが正しい。行きずれに、なにやらあわてふためいてお組屋敷へ駆け込んでいった敬四郎の姿をちらり右門が認めたかと思うと、まことに不思議な変わり方だった。ぴたり――右門の足が突然そこへくぎづけにされてしまいました。同時に、鋭い声で――。
「伝六!」
「え? てんかんでも起きたんでござんすか?」
「バカ! どうやら大きなさかながかかりそうだぞ」
「どこです? どこに泳いでいます?」
「あいかわらず、きさまはひょうきん者だな、敬四郎どのの様子が尋常でない。今からすぐお奉行所までひとっ走り行ってこい!」
「またあれだ。やぶからぼうに変なことをおっしゃって、このうえあっしをかつぐ気でござんすかい?」
 これは無理もないので。ひとことも訳は語らないで、ほんとうにやぶからぼうに右門の空もようががらりと変わりましたものでしたから、なにがなにやらふにおちかねて伝六が二の足を踏んだのはまことに無理からぬことでしたが、しかし、名犬はよくそのにおいによって獲物の大小をかぎ分く――実はそれが右門の右門たるところで、早くもかれは、その全身にみなぎりあふれている名同心のたぐいまれな嗅覚《きゅうかく》で、事の容易ならざるけはいをかぎとったのです。何によってかぎとったか?――いわずと知れた今のその敬四郎の目の色で、それからそのうろたえ方で、こいつなにかでか物[#「でか物」に傍点]の事件が起きたな、というけはいを見てとったものでしたから、こうなるとむっつり右門はつねにそうでありましたが、すべての態度がもはやまったく疾風迅雷という形容そのままでした。かれは、きょとんと目をひらいて戸惑っている伝六へ、しかるようにいいました。
「きさまだって、あばたの敬四郎がこのごろおれと功名争いしているくらいなことは知ってるだろう」
「え! あっ! そうでしたかい。じゃ、今のあいつの様子で、事起こるとにらんだのですね」
 ひょうきん者のおしゃべり屋ではありましたが、そこはやはり職業本能で、右門のそのひとことで、ぴりっと胸にこたえたものがあったのでしょう。ところへ、さながらおあつらえ向きのように、今あわてふためいて自分のお小屋のほうへ駆け込んでいった相手の敬四郎が、大急ぎで狩り集めたらしく、配下の手下小者を引き具して、どやどやと血相変えながら出てまいりましたので、いよいよ伝六にも事の容易ならぬけはいが感得できたものか、もうあとはいっさいが目まぜと目まぜと、それからましらのごときすばしっこさのみでした。むしろ、こうなると、がってんの伝六とでもいうほうが適当なくらいですが、しかし右門は反対に、もうそのときは林のごとく静かでした。面の清らかなることはまた天上の星のごとくに清澄で、騒がずにおのがお小屋に帰っていくと、ごろり横になりながら、自信そのもののごとくに、すぐと毛抜きを取り出したものでした。

     

 待つことおよそ小半とき――。日はうららにもうららかな孟春《もうしゅん》四月の真昼どきでした。そして、案の定、右門のにらんだずぼしは、まちがいもなく的中したのです。
「偉い! さすがに目が高い!」
 肩息で駆けかえりながら、汗もふかずに、まず伝六がずぼしの的中を証拠だてたので、右門もようやく手から毛抜きを放しました。しかし、ことばは氷のごとく冷ややかでした――。
「どうだ。さかなは大きかったろう」
「大きいにもなんにも、まるで怪談ですぜ」
「つじ切りか」
「どうしてどうして、これですよ。これですよ」
 話すまもぶきみにたえないといいたげな身ぷりをしながら、手まねでこれといったので、そのこれといった伝六の指先でさし示している方角を見守ると、右門の眼光は同時にぎろりと光って、ことばに鋭さが加わりました。
「首?」
「さようで、それもただの首じゃごわせんぜ。まだ血のべっとりと流れている生首ですぜ」
「どこかにそいつがころがってでもいたというんか」
「ところが、そいつがただのところにころがっちゃいないんだから、まるで怪談じゃごわせんか。ね、肝をすえてお聞きなせえよ。お屋敷は番町だそうで、名まえは小田切久之進《おだぎりきゅうのしん》っていうもう五十を過ぎたお旗本だそうながね、お禄高《ろくだか》は三百石だというんだから、旗本にしちゃご小身でしょうが、とにかくそのお旗本のだんなが、眠っている夜中に、どうしたことか急に胸が重くなって、なんか胸先のあたりを押えつけられるような気がしましたものだからね、はっと思って、ふと目をあけてみるてえと――」
「胸のうえに、生首が置いてあったというのか」
「さようで、お約束どおりのざんばら髪でね。青黒いその生首に、べっとりと、いま出たばかりと思われるようなまだ少しなまあったかい血がしみているというんですよ。しかも、そいつが女の首で、おまけに片目えぐりぬいてあるっていうんですよ」
「なるほど、少し変わってるな」
「変わってる段じゃない。いまにおぞ毛が立ちますから、もう少しお聞きなせえよ。ところでね、その生首がひと晩きりじゃねえんですよ。あくる晩にも、やっぱりまた胸もとが変に重くなったから、ひょいと目をあけてみるてえと、今度は座頭の坊主首――」
「なに、座頭? めくらだな」
「さようで。ところが、その生首のめくらの目玉が、やっぱり片方えぐりぬいてあるっていうんだから、どうしたってこいつ怪談ですよ」
「目はどっちだ。左か、右か」
「そいつが、女の生首のときも、座頭の生首のときも、同じように左ばかりだというんだから、いよいよもって怪談じゃごわせんか、だからね、騒ぎがだんだんと大きくなって、三晩めには屋敷じゅう残らずの者が徹夜で警戒したっていうんですよ。するてえと、三晩めにはいいあんばいに生首のお進物がやって来なかったものでしたから、ちょうどきのうです、ご存じのように、きのうはいちんち朝から陰気なさみだれでしたね。ほんとうに降りみ降らずみっていうやつでしたが、つい前夜の疲れが出たものでしたから、屋敷じゅうの者残らずがうたた寝をしているてえと、その雨の真昼間に寝ている旗本のだんなの胸先が、やっぱりまた急に重くなったんで、ひょいと目をさましてみると、今度は年寄りの生首のお進物が、同じように左の目をえぐりぬかれて、べっとりと生血に染まりながら胸先にのっかっていたというんですよ」
「ふうむのう」
 二度まではさほどにぶきみとも思わなかったのですが、ついにそれが三たびも続き、しかもその三たびめは雨の日とはいいながら昼日中に行なわれて、加うるに三度が三度違った生首であることが奇異なところへ、いずれもその死に首の左目ばかりがえぐり抜かれていたといったのでしたから、さすが物に動じない右門も、はじめてそのときぞっと水を浴びながら、おもわず、うめき声を発しました。けれども、それはしかし、ほんの瞬間だけのうめき声でした。明皎々《めいこうこう》たること南蛮渡来の玻璃鏡《はりきょう》のごとき、曇りなく研《と》ぎみがかれた職業本能の心の鏡にふと大きな疑惑が映りましたので、間をおかず伝六に不審のくぎを打ちました。
「だが、一つふにおちないことがあるな。それほどの奇異なできごとを、小田切久之進とやら申すその旗本は、なぜ今日まで訴えずにいたのかな」
「そこでがすよ、そこでがすよ。あっしもねた[#「ねた」に傍点]は存外その辺にあるとにらんだのでがすがね。三百石の小身とはいい条、ともかくもれっきとしたお直参のお旗本なんだから、ご奉行さまだって、ご老中だって、身分がらからいったひにゃ同等なんでがしょう。してみりゃ、なにも三日の間それほどの化け物話を隠しだてしたり、ないしはまた遠慮なんぞするにゃあたらないんだからね。しかるに、おかしなことには、きょうそのお旗本のだんながこっそりお奉行所へやって来て、直接お奉行さまに会ったうえで、身分がらにかかわるんだから、事件のことも、探索のことも、ごく内密にしてくれろといったんだそうでがすよ」
「え? そりゃほんとうか」
「ほんとうともほんとうとも、そこは蛇《じゃ》の道ゃなんとやらで、すっかりかぎ出しちまったんですがね。だもんだから、お奉行さまも、ではだれか腕っこきの者にでもごく内密にやらせましょう、っていってるところへ、運よく行き合わしたのがあばたのあのだんななんです。だから、先生すっかりおどり上がって、今度こそはという意気込みで、自分からそれを買って出たという寸法なんですよ」
 聞き終わると同時に眼をとじてしばらく黙々と考えていましたが、まもなく右門の口からは、りんとして強い一語が放たれました。
「よしッ、そうと聞きゃ男の意地だ! 勝つか負けるか、功名を争ってやろうよ」
 決心したとなれば、まことにはやきこと風のごとし――もう、かれの足は真昼中の往来を小急ぎに歩きつづけていたのでした。行く先はいうまでもなく番町の旗本小田切久之進方――目的は、これまたいうまでもないこと、どこからどういうふうに探索の手を下すにしても、まず小田切その人に当たる必要があったからです。会って、そしてまず第一に、それが目的あっての犯罪であるか、それともただのいたずらであるか? 犯罪としたら、どういう目的のもとにかかる奇怪事を三たびまでも繰り返して行なったか? 第二には、疑問の中心点であるごく内密にしてほしいといったそのことの理由について、なんらかの糸口とひっかかりを発見しないことには、それこそ伝六のいいぐさではないが、このぶきみきわまる怪談のあばきようがないと思いついたからでした。
 けれども、せっかく勢い込んでやって行ったのに、残念ながら右門の出動はひと足おそかったのです。
 むろん、自分より先にあばたの敬四郎が手を下していることは知っていましたから、おおよその覚悟も予想もつけていったのでしたが、事実ははるかにそれを越えて、小田切方の屋敷内はすでにその直属の岡っ引き目あかしなぞ配下一統の者によつて、秘密に厳重な出入り禁止を施されたあとだったからでした。小しゃくなと思いましたが、目的は主人の小田切久之進にありましたから、かれらが町方の者ならば、自分も同じお公儀の禄《ろく》をはむ者であるという見識を示して、堂々その禁を破り、堂々と官職姓名を名のって主人に面会を申し込みました。
 ところが――当然会わねばならないはずのものが会ってくれない! 不思議なことに、会ってくれない! もはや手配済みでござるから、このうえのご配慮は迷惑でござる――そういう理由のもとに、半ばお直参の威嚇を示しながら、ぴたりと面会を峻拒《しゅんきょ》いたしました。
「臭いな」
 右門の疑惑は二倍に強まりましたので、その威嚇を犯して、あくまでも面談を強請いたしました。けれども、小田切久之進は顔さえも見せないで、いよいよ奇怪なことに、いっそうろこつなお直参の威嚇を示しながら、重ねて右門の申し入れを峻拒いたしました。これはどうしたって、会わないというその事がらに対して疑いを深めるより道はないのだけれども、相手は小身ながらともかくもお直参のかさを着たお旗本なんでしたから、右門は三倍に疑惑を強めながらも、第一段の方策は放棄するのほかはありませんでした。放棄すれば、いうまでもなく事件のいっさいについて、いたずらであるか、目的を持った犯行であるか、また何がゆえにそうまでも秘密を守り、かつまた会うことを避けねばならないのであるか、それらの糸口となるべき材料をつかむことも、その探索への順序を立てることすらも、なんら判断を下すことが不可能になったのですから、自然の結果として、かれに残された道はただ一つ、その事件から手を引く以外にはないことになりました。
 しかし、そんなことで、さじを投げるような右門とは右門が違います。こうなれば、残らず物的証拠を洗いたてて、かれがつねに得意の戦法としているからめてから糸をたぐり、あくまでもこの怪奇な秘密に包まれた事件の底を割ってみせようと思いたちましたから、ふふんというように小気味のいい冷笑を敬四郎配下の小者どもに残しておくと、さっさと表へ出ていきながら、たこのように口をとんがらしてひとり腹をたてていた伝六に突然命じました。
「大急ぎで駕籠《かご》屋を二丁ひっぱってこい!」
「え? また駕籠ですか。南蛮幽霊のときもそうでござんしたが、あいつと同じ轍《てつ》で、また江戸じゅうを駆けまわるんでげすかい?」
「いやか」
「どうしてどうして、生まれつき、あっしゃ駆けまわるのが大好きですからね。回ってろといや、一年でも二年でも回ってますが、いったいきょうは、どこを探るんでげすかい?」
「きさまは南町ご番所配属の自身番という自身番を残らず改めろ。この三日以内に、生首をもぎとられた者はないか、行くえ知れずになったものはないかといってな、あったら、例の三つの首の主と思える者の素姓を洗ってくるんだ」
「ありがてえッ、じゃ、いよいよあばたのだんなと本気のさや当てになりましたね。ちくしょう! おしゃべり屋の伝六様がついてらあ。じゃ、ちょっとお待ちなせえよ。この辺は屋敷町で店駕籠はねえかもしれませんからね」
 いうや否や、韋駄天《いだてん》で行ったかと思いましたが、案外にさっそく見つかったとみえて、屈強な替え肩を二人ずつ伴いながら、早駕籠仕立てで威勢のいいところを二丁ひっぱってまいりましたので、一丁は伝六へ、一丁は右門自身で、そして右門みずからは北町奉行ご配下をひとめぐりしようと、すぐに息づえを上げさせました。
 順序として、右門はまず呉服橋の北町ご番所へ乗りつけました。だが、首を切られた、という届け出も、首のない死体があったという届け出も、行くえ知れずの者さえも、およそ事件に関係のあるらしい殺傷ごとはなに一つなかったのです。ではというので、ただちにもよりの自身番からかたっぱし当たってまいりましたが、しかし、どこの番所でも、答えたことばは、ただ次のごときあっさりとした一語のみでした。
「へえい、またですか。つい先ほど、あばたの敬四郎だんなもそんなことおっしゃって、目色を変えながら早駕籠で尋ねてまいりましたが、どこかで首を盗まれた人間でもあるんですか」
 しかも、行った先、行った先の番所の者が異口同音にそういって、すでにひと足お先に敬四郎の回ったことを立証しましたものでしたから、心当たりのなかったことよりも、あてのはずれてしまったことよりも、敬四郎に先んじられたくやしさと、敬四郎と同じ方法で探索の歩を進めていることに対する焦燥とで、右門はことごとくがっかりとなってしまいました。しかたなくあきらめると、とっぷりとすでに暮れきった夜の町を、力なく駕籠にゆられながらお組屋敷へ引き揚げました。ところへ、同時のように伝六も引き揚げてまいりましたが、その報告はこれも同様、手がかりとなるべきものはなに一つなく、やはり敬四郎配下の者が、すでにひと足先に回っていたということだけがわかったばかりでしたから、右門はいよいよがっかりとなって、黙然と腕こまぬきながら、今後いかにすべきかその方法について、ひたすら考えを凝らしました。
 だが、どれだけ考えてみても、この三日前後に江戸において行き方しれずになった者もなく、首を失った者の届け出もないとすれば、けっきょく探索の中心点を疑問の旗本小田切久之進において、事件の糸口をほぐし出すべく、詳細な犯罪調査と、同時に久之進その人の身がら調査を行なうよりほかには、もう残された方法がないわけでしたから、としたならば、いかにしてその二つの調査を進めていったらいいか?――右門は考えの中心をその一点に集めて、いかにすべきかの方法について、くふうをこらしました。その結果として案出されたものは、次の二つでした。知らるるとおり、正面から当たったのでは面会をさえも拒絶しているんですから、いずれもからめてから糸をほぐしていこうという方法でありましたが、すなわち第一は、なんびとか久之進一家の内情を熟知している者によって、あの疑雲に包まれている秘密の殿堂をあばこうという方法で、第二は、ほかならぬあばたの敬四郎に向かって間者か付き人かを放ちながら、その手中に納めている材料を巧みに盗みとろうという手段――。そこで、あらたに起こって来る問題は、一と二とのそのいずれを選ぶべきかという点でありますが、いうまでもなく二の方法は一の方法よりもたやすいのです。間諜間者《かんちょうかんじゃ》を放つというような問題になれば、何をいうにもそれが本職の人たちなんだから、たとい鈍感なることおしゃべり屋の伝六のごとき者を使ったにしても、一の方法のなにほどか多分の手数を要するに反し、二の方法は少なくも半分の手軽さで行かれるわけでした。だから――だが、そのたやすい第二の方法には、人の苦心を盗み取るということで、卑しむべき卑劣さがありました。少なくも二本差している者の面目上からいって、恥ずべき卑劣さがありました。卑劣や、ひきょうは、断わるまでもなく、またいうまでもなく、われわれの嘆賞すべきむっつり右門の断じて選ぶべき道ではない!
「よしッ。おれはあくまでもおれひとりの力によって、正々堂々と天地に恥じぬ公明正大な道を選んでやろう!」
 ですから、瞬時のうちに、迷うところなく進むべき道が決心つきましたので、右門は凛然《りんぜん》として立ち上がると、ただちにはせ向かったところは、ほかならぬ松平|伊豆守信綱《いずのかみのぶつな》のお下屋敷でありました。いうまでもなく、伊豆守は時の老中として右門なぞのみだりに近づきがたい権勢な位置にありましたが、前章で述べたとおり、あの奇怪な南蛮幽霊の大捕物によって、右門はその功を伊豆守から認められ、過分のおほめのことばをさえ賜わっていたので、小当たりにそれとなく当たってみたら、老中というその職責からいって、疑問の旗本小田切久之進の身がら人がら素姓に関し、何か得るところがあるだろうと思いついたからでした。
 案の定、伊豆守は老中という権職の格式を離れて、親しくそのご寝所に右門を導き入れながら、気軽に接見してくれました。けれども、たやすく引見はしてくれましたが、結果は案外にも不首尾だったのです。疑惑の中心人物小田切久之進については、次のごとき数点を語ってくれたばかりで、すなわちその素姓に関しては、ご当代に至って新規お取り立てになった旗本であるということ、それまでは卑禄《ひろく》のお鷹匠《たかしょう》であったということ、だから他の三河以来の譜代とは違って、僅々《きんきん》この十年来の一代のお旗本にすぎないということ、したがって人がらはお鷹匠上がりの生地そのままにきわめて小心小胆であること、小胆なくらいだから性行はごくごくの温厚篤実で、その点さらになんらの非の打ちどころはないというのでした。加うるに、肝心の屋敷の様子ならびに家族の者に関する内情はいっこうに存じ寄りがないというのでしたから、これはどうあっても不結果です。ことに、その性行が温厚篤実という一条に至っては、いやしくも老中職の松平知恵|伊豆《いず》が、釜《かま》のような判を押して保証しただけに、大のおもわく違いで、温厚なものならむろん人に恨みを買うような非行もないはずでしたから、人に恨みをうけないとすれば、置かれるものに事を欠いて胸の上に気味のわるい生首なぞをのっけられるはずもないわけで、とすると全然のいたずらか?――それとも、あるいは伝六のいったごとく、ほんとうの怪談か?――右門の心はしだいに乱れ、推断もまたしだいに曇って、美しい顔の色がだんだんとくらまっていきました。その顔の色で万策の尽きたことを知ったものか、伝六がそばから伝六なみの鬱憤《うっぷん》を漏らしました。
「ちくしょうめ。相手にことを欠いて、また悪いやつが向こうに回ったものだね。ほかのだんななら、それほどくやしいとも、しゃくだとも思いませんが、あのあばたの大将にてがらされると思うと、あっしゃ江戸じゅうの女の子のためにくやしいね。どこの女の子にしたって、いい男にいいてがらさせるほうが、夢に見るにしたって、話に聞くにしたって、ずっといいこころもちがするんだからね」
 まったくそうかもしれないが、しかし、あばたの敬四郎がたとい日本第一の醜男《ぶおとこ》であったにしても、一歩先んじられたという事実はあくまでも事実なんだから、右門はそのきりっとした美しい面にほろ苦い苦笑をもらすと、やがて寂しくいいました。
「あした来な」
 そして、ごろりそのまま横になってしまいました。

     

 しかし、翌日はあいにくのじめじめとしたさみだれでした。わるいことには、その雨の日にかぎってまたちょうど勤番で、もちろん事件がその手にあったならば、勤番、非番の区別はないわけでしたが、知らるるとおりこの生首事件はかれの手に委嘱されたものではなかったのでしたから、非役のてまえとして、出仕するの必要がありました。けれども、たとい非役であったにしても、このぷきみな怪談を耳に入れて、いまさら出仕などゆうちょうなまねが、なぜにしていられましょうぞ! 手に材料がないだけに、一歩敬四郎に先んじられているだけにいっそう競争意識をあおられましたので、かれは病気のていにつくろって、当分出仕ご免の許しを得ておくと、心を新たにして事件に向かおうと思いたちました。こういうときに、すなわち、心を新たにしようというときに、いつも右門の取る方法は、碁盤に向かうことです。お打ちになられるかたがたはご存じのことと思いますが、心に煩悶《はんもん》の多いときに、ないしはくふうのつかない事件なぞがあるときに、まず端然と威儀を改め、それからおもむろに心気を静めて盤に面し、しかるのちに、あのかぐわしきかや[#「かや」に傍点]の木の清浄なかおりをたしなみながら、ひんやりと手に冷たい石をとりあげて、戞然《かつぜん》と音たてながら打ちこんで行くことは、まことに颯々爽々《さつさつそうそう》として心気の澄み静まるもので、だから右門はちゅうちょなく盤に対しました。腕は職業初段に先というところ――したがって、石の音は真に戞然と高い!
 と――まことに人は碁のごとき清戯をも覚えておくものですが、その第一石の石の音が終わるか終わらないうちに、ふと気がついて、右門はおもわず、なんのことだ! そう吐き出すように大きく叫びました。肝心なことに、ほんとうに肝心かなめの肝心なことについて気がつかずにいたことが、ふと思い出されたからです。ほかでもなく、それは首――三晩つづけて胸の上にのっかっていたというその生首の実物を、このときにいたるまで、まだ一度も改めずにいたことが思い出されたからでした。訴えてきた以上は、むろんご番所へその実物を提供してあるにちがいないと思われましたので、右門は気がつくと同時に、一刻を争いながら数寄屋橋《すきやばし》へ駆けつけました。
 と――はたしてあった。三個とも厳重に蝋封《ろうふう》を施した箱に入れて、ちゃんとご奉行席のわきに置かれてあったのです。かれはただちに、内見をお奉行神尾元勝に申し入れました。功名はたてておきたいもので、これが普通の与力同心ならば、ごく内密にといったそのことばのてまえ、容易に披見は許されないはずですが、右門の才腕がものをいいました。
「内聞にいたせよ」
 そういう注意のもとに、お奉行神尾元勝みずからが蝋封を破ってくれましたものでしたから、右門はひとみをこらしながら、順次に三個の生首へ目をそそぎました。伝六の報告どおり、第一の首はまだうら若い女、第二の首は坊主頭、第三の首は五十を越した老人で、左の片目はこれも報告どおり、一様にえぐりぬかれてあるのです。それから、べっとりと血がまだたれたままで。――
 けれども、じっと見つめているうちに、右門ははっと思いました。血が新しい割合にしては首が古い! だのに、首が古い割合にしては腐乱が見えない! 四月というこの陽気ですから、かりに腐乱が来ないにしても、もうにおいぐらいはついていなければならないはずですが、古い首なのに、それすらもないのです。
「はてな!」
 と思いましたから、右門はぶきみなことをも忘れながら、かまわずに指先をもってその首の面をなであげました。と――なにかねっとりとした湿気を感じましたから、さらにひるむことなく首に触れたその指先をくちびるにあててみると――塩っ辛い! まるで、口がゆがむほど塩っ辛いのです! 右門はすかさずにお奉行へ問いただしました。
「これなる首は、当ご番所へ参りましてから塩づけになされたのでござりまするか」
「なに、塩づけ……? そのような形跡があるとすれば少しく奇怪じゃが、いずれもそれらは小田切殿持参されたままの品じゃぞ」
 持参のままの品と聞きましたから、右門の明知は瞬時にさえ渡って、瞬間に断案を下しました。首は拾いものか買いものか、いずれにしても塩づけの骨董品《こっとうひん》をほかから求めきたったものに相違ないのです。そして、その骨董品を生首と見せかけるべく、別な血を塗ったものに相違ないのです。としたら――右門は必死と考えました。いったい、この首の骨董品はいずこに売っているか?――いうまでもなく、人の死に首なぞ売りひさぐ酔狂な商家は、江戸広しといえどもあるはずはないんですから、出所はむろんのことに、平生塩づけの首の貯蔵を許されている個所に相違ないはずでした。しからば、その公許の塩づけ貯蔵個所なるものは、そもそもどこであるか?――右門の判断を待つまでもなく、それは鈴ガ森と小塚《こづか》ッ原《ぱら》の二個所です。すなわち、首は罪人の首、いまわしきあの獄門首に相違ないという判定が、たなごころをさすごとくたちどころにつきましたものでしたから、右門はただちにお番所の獄門記録について、事件前後に死罪に処せられたさらし首で、右の三名に相当するものの有無を調査いたしました。
 と――ある、ある! 俗称|白縫《しらぬい》のお芳《よし》、窃盗きんちゃっ切りの罪重なるをもって四月三日死罪に処せられしうえ梟首獄門《きょうしゅごくもん》。座頭《ざとう》松の市、朋輩《ほうばい》をあやめしかどにより四月四日|斬罪《ざんざい》のうえ梟首獄門。尾州無宿の久右衛門《きゅうえもん》、破牢の罪により四月五日江戸引きまわしのうえ梟首獄門。しかも、三個ともにさらし首とされたところは小塚ッ原であることまでも判明しましたのでしたから、もうしめたものでした。さみだれをおかしながら、時を移さずに小塚ッ原へ一路ご番所を駆けだそうとすると、いいことのあるときは、いいことの重なるものですが、ばったり出会ったのは伝六で――顔を合わせるやいなや、のっけにいいました。
「おっ、だんな! いいところで会いやした。もう、しめこのうさぎでがすよ」
 なんか新しい材料をつかんできたらしいなということがすぐにわかりましたから、右門はたたみかけてききました。
「きさまも何かひきあげたな」
「え? きさまもというと、じゃ、だんなもほしを拾いましたね。そうと決まりゃてっとり早くいいますがね。ちょうどゆんべでさ。あれからうちへけえったんですが、あばたのだんなにしてやられるかと思うと、いかにも業腹で寝られませんからね、当たって砕けろと思って、実あこっそり小田切のお屋敷へ様子見に出かけたんでがすよ。するてえと、裏口の不浄門がこっそりあいて、中間かなんかでがしょう、いいかげん年寄りのおやじが、とくりをさげて出てきたじゃごわせんか。こいつ寝酒の買い出しだなとにらんだものでしたから、あばたのだんなの手下どもが居眠りしてたのをさいわい、うまいことそのおやじを抱き込んで、二、三本もよりの居酒屋でふるまいながら、すっかりうちの様子聞いちまったんでがすよ」
「なに、うちの様子? そいつぁおめえに似合わないてがらだが、ほしゃどんな筋だ」
「どんなにもこんなにも、つまり、そのほしが下手人でがさあ。ね、そのおやじのいうことにゃ、ついこの一カ月ばかりまえに、小田切のだんなのうちで長年使われていた用人がお手討ちになったっていうんでがすよ。ところが、その首にされた用人の顔てえものがただの顔じゃなくて、つまり、この事件の因縁話になるところだと思うんでがすがね。そら、例の目が、左の目玉が、あの生首の顔のように、一方つぶれていたというんでがすよ。だから、ははんそうか、さてはだれかその用人の身内の者がお手討ちの恨みを晴らすために、あんな左の目のない生首をこしらえて、味なまねしやがったんだなと思いましたからね、すぐにおやじへきいたんでがすよ。その用人にゃ、せがれか、甥《おい》か、血筋の者はなかったかってね」
「あったか!」
「大あり、大あり。二十五、六のせがれで、飲む、打つ、買うの三拍子そろったならず者があったというからね、あっしゃもうてっきりそいつのしわざだと思うんでがすがね」
「ちげえねえ」
 その報告が事実とするなら、まさにこれは「ちげえねえ」にちがいありますまい。手討ちにされた用人の片目であったところから思いついて、生首の左の目玉ばかりを同じようにくりぬき、これでもかこれでもかと、いやがらせにあんなまねをしたにちがいないので、それにしては今までの苦心の大きかった割合に、あまりにもてっとり早く下手人のめぼしがつきすぎたものですが、しかし、だいたいのほしがついた以上はもう猶予がなりませんでしたから、小塚ッ原行きなぞはむろん不必要、伝六が聞いてきたそのならず者の宿所をたよりに、右門はすぐさまめしとりの行動を開始いたしました。
 伝六は十手、取りなわ、右門はふところ手に例の細身を長めにおとして、雨中を表へご番所を門から出ようとすると、行き違いに向こうから、意気|昂然《こうぜん》とひとりのなわつきを従えながらやって参りました者がありました。だれでもない、あばたの敬四郎です。
「あっ!」
 同時にそれを認めた伝六があっといいましたので、右門もぴんと感じてささやきました。
「あのなわつきが、きさまの聞いたほしか!」
「そうらしいでがすよ、そうらしいでがすよ。おやじの話した人相書きによると、その若い野郎は右ほおに刀傷があるといいましたからね。ちえッ! ひと足先にやられたか。くやしいな! いかにもくやしいな!」
 まことならば万事休す!

     

 だが、事実は、そこからさらに怪談以上の怪談に続いていたから、まだまだ、万事は休さなかった。しょっぴいてきた若者をお白州へ引きすえて、大得意の敬四郎がぴしぴしと痛み吟味をかけているさいちゅうへ、その配下の者がまろび込むように駆け込んできながら、歯の根も合わずに新しい事実を敬四郎に報告したからです。
「ね、だんな、だんな! 下手人はあがったから、もう小田切様のところの張り込みを解けというお使いでございましたからね。その気になってみんなの者が引き揚げようとしたら、また変なことがわき上がりましたぜ。にわかにお屋敷が騒がしくなって、小田切のだんなが気を失っちまったというんでね、引き返してみましたら、また生首が――あれと同じ左の目のない生首が、それも今度はいっぺんに四つ、床の間へずらりと並べてあったのですよ」
 この昼中に、それも今度はいちどきに四つ、しかもまだ敬四郎の配下の者が屋敷うちにちゃんと張り込み中、大胆に怪業が繰り返されたというんですから、敬四郎のぎょっとなって青ざめたのはもちろんのことですが、右門もまた同様でした。しかし、右門のぎょっとなったのはほんの一瞬で、突然、あっそうか! おれにも似合わねえ早がてんしたもんだな……つぶやきながら、かんからとうち笑っていましたが、ふいっと立ち上がって伝六をこかげに手招くと、ささやくように小声でききました。
「きさま、さっき小田切の家の様子、みんなきいたっていったな」
「ええ、いいやした。いいましたが、なんぞふにおちないことでもあるんでげすか」
「あるからこそきくんだよ。腰元とか女中とか女がいるんだろうが、幾人ぐれえだ」
「え※[#感嘆符疑問符、1-8-78] 女?」
「男でない人間のことを、昔から女っていうんだ。そういう人間がいるはずだが、いくたりぐれえだ」
「たった三人きりだっていいやしたよ」
「どういう三人だ」
「ひとりは飯たきばばあ、あとのふたりはきょうだい娘で、姉は二十一、妹は十六だとかいいやしたがね」
「その姉妹が、つまり小田切のお腰元なんだな」
「お腰元にもなんにも、女のけはその三人。男のけは、例のおやじと、小田切のだんなと、もうひとり玄関番の三人きりで、ご内室はとうになくなったっていうんだから、いずれその姉妹がいろいろとお腰元代わりをするんでがしょうがね、しかし、その娘たちゃ身内同然だといいましたぜ。なんですか、小田切のだんなの姪《めい》の姪に当たるとか、いとこの娘だとかで、ともかくも血筋引いてるといいましたからね」
「そのふたりの娘について、なんぞ変わったことは聞かなかったか」
「それがでさあ、だんなにそういわれて、今ふいっとあっしも気がつきやしたがね。なんでも、その姉娘はすばらしい器量よしだそうなが、どうしたことか、ついこの五、六日まえから急にきつねつきになったそうでがすよ」
「なに、きつねつき※[#感嘆符疑問符、1-8-78]」
「突然きゃっというかと思うと、いきなりげらげらと笑ってみたりしてね、いちんちじゅう夜となく昼となく髪をおどろにふりみだしながら、屋敷じゅうをうろうろしてるとかいいましたよ」
 聞きながら、右門はじっと目をとじて何ものかをさぐっていましたが、突然意想外なことを伝六に命じました。
「よしッ。きさま今から古着屋へとっ走って、御嶽行者《おんたけぎょうじゃ》の衣装を二組み借りてこい」
 意表をついた命令で目をぱちくりしている伝六をしり目にかけながら、右門はそのまますうと内奥へやって参りました。内奥はいわずと知れた南町奉行神尾元勝のお座所です。そのことがすでに不思議なところへ、右門はいよいよ不思議なことをおくめんもなくお奉行へ猪突《ちょとつ》に申し入れました。
「ちと必要がござりまして、ご奉行職ご乗用の御用|駕籠《かご》を二丁ばかりご拝借願いたいものでござりますが、いかがなものでござりましょうか」
「私用ではあるまいな」
「むろん、公用にござります」
「公用とあらば、お上の聞こえもさしつかえあるまい。自由にいたせ」
 お許しが出たものでしたから、右門は飛んでかえると、ただちに供の者へ出駕《しゅつが》の用意を命じました。ところへ、伝六が命じた御嶽行者の装束を抱きかかえながら、帰ってまいりましたので、右門は即座にその一着を自身にまとい、他の一着を驚き怪しんでいる伝六にまとわせて、すっかり御嶽教の怪行者になりすましてしまうと、定紋打ったる奉行職の御用駕籠にはみずからうち乗り、紋ぬきのご番所駕籠には伝六をうち乗せながら、番町の小田切邸へ――ほがらかな声でそう行き先を命じたものでしたから、伝六はとうとう奇声をあげて、うしろの駕籠から呼びかけました。
「だんな! 気はたしかですかい?」
「しゃべるな、きょう一日は近藤右門が南町奉行、きさまは供の者だ」
 まったく、駕籠だけの外観を見た者はだれしもそう解釈したいいでたちで――行くほどにやがて近まってまいりましたものは小田切久之進の陰気な屋敷。むろんのことに、敬四郎がもうひと足先に駆けつけ、配下の者を集めも鳩首謀議《きゅうしゅぼうぎ》をこらしながら、出入り禁止の厳重な見まわりをしていましたものでしたから、ばらばらと門内の木立ちの中から見知った顔が現われて、その行く手をさえぎりました。しかし、駕籠にはれきれきとしたご奉行職の絞がある――。
「あっ! ご奉行さまおじきじきにご入来だ! さあ、どうぞお静かに――」
 まことすうと胸のすくこと、駕籠そとの定紋が物をいって、にせ者とは知らずにさっさと道を開いたものでしたから、いかな伝六にもわからないはずはありますまい。人々の視線からのがれて式台ぎわへ駕籠がつくと同時のように、溜飲《りゅういん》をさげていいました。
「さすがはおいらのだんなだ。御用駕籠なぞに納まって、なんにするかと思ってましたが、出入り禁止の見張りのがれに使うたあ、お釈迦《しゃか》様でも気がつきますめえよ。偉い! 偉い! 知恵伊豆様だって、おらがだんなにゃ及びますまいよ!」
 しかし、まだそれでは伝六のほめ方が足りませんでした。なぜかならば、わが親愛なるむっつり右門はただにそれをあばたの敬四郎にむかって使用したばかりではなく、さらにその駕籠の定紋を小田切久之進一家の者に向かって利用したからです。
「ごらんのとおり、てまえども両人はご奉行神尾殿からお話しこうむって、きつねつきのお腰元をお静めに参った御嶽行者でござる。霊験はまことにあらたか、たちまちきつねめは退散させてお目にかけるによって、その者にお会わしくだされい」
 こういわれたら、いかな小田切久之進でも会わさないわけにはいきませんでしたので、せめてきつねつきのほうなりと直してくれたらと思いましたものか、すぐに通しましたものでしたから、右門はすましながら奥へ上がりました。
 と、見ると、なるほど窈窕《ようちょう》としてあでやかなひとりの美人が、おどろ髪に両眼をきょとんとみひらいて、青白い面にはにたにたとぶきみな笑いをのせながら、妹の介添えうけてちょこなんとそこにすわっておりましたから、右門はすぐに言いかけました。
「きさまはどこの野ぎつねじゃ」
「てへへへへ、道灌《どうかん》山のおきつねさまじゃ。きさまこそ、どこのこじき行者じゃ」
 すると、言下に女は下等な笑いをつづけながら、この種のきつねつきがつねにそうするように、目をむいて反抗の態度を示しましたものでしたから、右門も負けずに続けました。
「よろしい、おれの霊験を見せてやろう。おれのいうとおりまねができるな!」
「できるとも!」
「では、一二三四五六七八九十」
「一二三四五六七八九十」
「そのさかしまだ、十から一までいってみい!」
「十九八七六五四三二一!」
 立て板に水を流すごとく、そのきつねつきが答え終わったとたんでありました。
「伝六! きさま、このにせ者のきつねつきと妹とをしょっぴいていって駕籠にのせろ!」
 命じながら先へたって、もう右門が表へおりていったので、伝六のあっけにとられたのはもちろんですが、それ以上あぜんとしたのはお庭先にまだまごまごしていた敬四郎の一味で、今ゆうぜんとしてはいっていったお駕籠のお奉行が実はむっつり右門であったばかりではなく、その右門が身には異様な着衣をまとい、しかもゆうぜんとしながら、きつねつき姉妹をめしとって出てまいりましたものでしたから、等しくその顔の色がさっと変わりました。しかし、顔の色を変えたくらいではもう手おくれで、さっそくお白州へかけてみると、案の定右門のにらんだごとくに、きつねつきはにせ者で、そしてその姉妹両名が、怪談めかしたこの生首事件の真犯人でした。しかも、犯行の動機は、可憐《かれん》といえば可憐ですが、一種しゃれたかたき討ちでした。
 小田切久之進とはやはり血縁の者で、彼女らの父親は小田切久之進の前身と同様、微禄《びろく》なお鷹匠《たかしょう》だったのですが、お鷹匠といえばご存じのとおり、鷹を使って、将軍家がお鷹野へおこしになられたみぎり鷹先を勤める役目ですから、慣らした鷹にとらせるための野鳥小鳥をおびき集めることが必要でした。そのために、すなわち小鳥たちをおびきよせるために、自然お鷹匠たちは小鳥の鳴き声をまねたいろいろの小笛をくふうするもので、ところが彼女らの父親が、その小笛について実に七年という長い年月の心血をそそいだ結果、希代の名品をくふうしたのです。
 それまでは小鳥の種類によっていちいち擬音の小笛を取り替えねばならなかったのですが、新たにくふうされたその名品というのは、一本の竹を吹き方によっていろいろと鳴き分けられるという便利なもので、だが、奸黠《かんきつ》な小田切久之進がことば巧みにその名笛を巻きあげて、まんまとそれを自分のくふうのごとくによそおいながら、将軍家に披露《ひろう》しましたものでしたから、松平伊豆守が右門に小田切久之進のその素姓を物語ったごとく、新規お旗本にお取り立てという古今|未曾有《みぞう》の出世となったわけで、だからその功を盗まれた彼女らの父親が、悲憤のうちに悶死《もんし》したのは当然なことにちがいなく、しかし、その臨終のときに父親は、まだいたいけな子娘だった彼女ら姉妹に、おどろくべき一語を言いのこしたのです。ふくしゅうをしろ。必ずこのふくしゅうをしろ。それも最も残忍な方法で。あの名笛は七年間の心血をそそいだものだから、それに相当するだけの最も残忍な方法で、必ずふくしゅうをしろ――実に恐るべき一語といわなければなりませんが、ことほどさように、彼女らの父親の悲憤のさまが彷彿《ほうふつ》と思い浮かべられますが、だから、久之進がいくぶんの罪滅ぼしというつもりから、彼女ら姉妹をその邸内に引き取ってくれたのをさいわいに、そのふくしゅうの機会をねらっていると、十年ののちに好機きたる! あの片目の用人が、何かのことから手討ちにされて首を飛ばされてしまったのです。ところが、その首の形相がすごいにもすごいにも、半眼をあけてきっと久之進をにらみつけたものでしたから、伊豆守が折り紙をつけたとおり、小心なにわか旗本の小田切久之進は、その夜からうなされるというわけで、そこへ目をつけたのは、残忍な方法でという遺言を守りながら、十年|臥薪嘗胆《がしんしょうたん》をしていた姉妹たちでした。片目の首を取っ替え取っ替え胸の上にのっけておいたら、手討ちにした用人の怨霊《おんりょう》とおじけあがって、いまに小胆な久之進が狂い死にするだろうと考えついたわけで、まことに小心な久之進にしてみれば、このくらい残忍にしてかつまたぶきみなふくしゅうのされ方というものはまたとないわけですが、したがって事件の発生当時から、一はおのれの旧悪をおおわんがために、二にはおのれの旗本にも似合わしからぬ小胆をおし隠そうためから、ごく内密にという条件が付されたわけでした。けれども、問題はその無数の首です。出所はむろん右門のにらんだとおり、あとの四つも小塚ッ原の獄門首だったのですが、しかし、いかにしてかかる無数の生首を天下のご法に反して手に入れたか! まっかになってうつむいていた姉娘の代わりに、それらの首の提供者であった小塚ッ原の獄門番人の見るからにけがらわしい中年の非人が、べろり舌なめずりをして恬然《てんぜん》と答えました。
「えへへへへへ。獄門首にしろ、ともかくもお上の預かりものなんですからね。それをくれてやるからにゃ、銭金ぐらいの安い代償じゃ、命にかかわるご法はまげませんよ。あの姉のほうの、まっかな顔をしてうつむいている、そこの美しい女の子の、命よりもたいせつな雪の膚をちょうだいしたんですよ」
 貞操との交換といったそのひとことには、がらっ八なることおしゃべり屋の伝六までがまゆをひそめていましたが、事件に組みした連座の者を八丁堀の平牢《ひらろう》にさげてしまうと、ふと思いついたか、伝六がたちまちおしゃべり屋のお株を発揮して、黙々とゆううつげに押し黙っている右門に、しつこく話しかけました。
「ね、だんな、それにしても、あっしゃ解せないことがあるんですがね。このまえの南蛮幽霊のときにゃ、だんなはその耳でほしを聞きあてたとおっしゃいましたが、今度のほしはなんでかぎ出したんでがすかい? あっしにゃ、今もってあの女を下手人とだんなのにらんだことがわかりやせんがね」
 と――右門の顔が少しばかり明るくなったと思うと、ねっちりいいました。
「それが初めはおれも、おれに似合わねえ大早がてんをしたものさ。きさまからあの片目の用人のせがれのならず者の話を聞いたときにゃ、てっきりほしと思ったんだが、あとで考えてみると大笑いだよ。お旗本の用人といや、ともかくもりっぱな二本差しの身分だろ。そのせがれなら、いかにならず者でも武士のはしくれだから、武士ならばかたき討つのに、あんなまわりくどいまねはしないよ。返り討ちになるにしても、一度はばっさりやる気になるんだからな。としたら、子どものしわざか、女の子のしわざか、刀持つすべを知らない人間とにらむな順序じゃないか。それに、あのときご注進に来た敬四郎の手下の者の話を聞くと、まだ屋敷の外に綱張っているうちに、また首が床の間にあったといったからな、こいつ屋敷の中に巣食っている人間のしわざだなとにらんだだけさ。そこへきさまが、きつねつきの女がいるといったものだから、ぴんときたのさ。きつねつきときちゃ、怪談に縁のあるしろものだからな」
「なるほどね。しかし、あの御嶽行者のまじないは、なんのためでがしたい?」
「きつねつきがほんものかにせものかをためしただけだよ。ところが、大にせものさ。ほんものだったら、一二三四でも百まででも、こっちの口まねをするから数えるだけいわれるがね。こっちで数えないでその逆をいってみろというと、そこがけだもののあさましさ、数字の観念がないからな、口まねならいえるが、自分で数えることはできないものだよ。しかるに、あの女にせものだったから、その計略を知らずに、べらべらとつい人間の本性を出して自分で数えたのさ」
「それにしても、なんできつねつきなんぞのまねをしたのかね。あったら女がバカなことをしたものじゃごわせんか」
 すると、右門は急に悲しげな表情を現わして、ほんとうにこの世でいちばん悲しいときの悲しげな表情を現わして、吐き出すように答えました。
「女が命よりもたいせつなはだを、人の仲間にもはいれない非人に許すんだもの、気違いのまねでもしなきゃ、正気じゃできねえじゃねえか」
 ――しかし、それほどのしんけんなふくしゅうに、貞操をふみにじってまでも行なったふくしゅうに、上のお慈悲が届かないはずはありませんでした。獄門番の非人は上つ方の女性を犯したうえに首を与えし罪軽からずとなして極刑の斬罪《ざんざい》、旧罪をあばかれた小田切久之進の江戸払いは当然のことでしたが、ふたりの姉妹たちのうえには、人を騒がした罪は憎しとするも、根がかたき討ちにその動機を発していましたものでしたから、四日の入牢《にゅうろう》だけで軽く放免になりました。放免するとき、右門は姉妹たちに寂しい声で言い渡しました。
「ふたりとも尼寺へでもいきなよ――」
 寂しい声ではあったが、情けあることばでそういいました。

底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
   1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:福地博文
1999年6月8日公開
2005年6月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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佐々木直次郎

落穴と振子 THE PIT AND THE PENDULUM エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳

Impia tortorum longos hic turba furores
Sanguinis innocui, non satiata, aluit.
Sospite nunc patria, fracto nunc funeris antro,
Mors ubi dira fuit vita salusque patent.


「ここにかつて神を恐れざる拷問者の群れ、飽くことなく、
罪なき者の血に、長くそが狂暴の呪文《じゅもん》を育《はぐく》みぬ。
今や国土やすらかに、恐怖の洞穴はうちこわされ、
恐ろしき死のありしところ、生命と平安と現われたり」
[#ここから10字下げ]
〔パリのジャコバン倶楽部の遺趾《いし》に建てらるべき市場の門扉にしるすために作られた四行詩〕

 私は弱っていた、――あの長いあいだの苦痛のために、死にそうなくらいひどく弱っていた。そして彼らがやっと私の縛《いまし》めを解いて、坐ることを許してくれたときには、もう知覚が失われるのを感じた。宣告――恐ろしい死刑の宣告――が私の耳にとどいた最後のはっきりした言葉であった。それからのちは、宗教裁判(1)官たちの声が、なにか夢のような、はっきりしない、がやがやという音のなかに呑みこまれてしまうように思われた。それは私の心に回転[#「回転」に傍点]という観念を伝えた。――たぶん、水車の輪のぎいぎいまわる音を連想したからであったろう。それもほんのちょっとのあいだであった、やがてもう私にはなにも聞えなくなったから。しかし少しのあいだはまだ、私には眼が見えた、――がなんという恐ろしい誇張をもって見えたことであろう! 私には黒い法服を着た裁判官たちの唇が見えた。その唇は白く――いまこれらの言葉を書きつけている紙よりも真っ白に――そして怪奇なほど薄く、その冷酷――動かしがたい決意――人間の苦痛にたいするむごたらしい軽侮を強く示してあくまでも薄く、私の眼にうつった。私は、自分にとっては運命であるところの判決が、なおその唇から出ているのを見た。その唇が恐ろしい話しぶりでねじれるのを見た。その唇が私の名の音節を言う形になるのを見た。そしてそれにはなんの音もないので私は戦慄《せんりつ》した。私はまた、この無我夢中の恐怖の数瞬間に、その部屋の壁を蔽《おお》うている黒い壁掛けが静かに、ほとんど眼にたたぬほどかすかに、揺れるのを見た。それから私の視線はテーブルの上にある七本の高い蝋燭《ろうそく》に落ちた。最初はその蝋燭が慈悲深い様子をしていて、自分を救ってくれそうな白いほっそりとした天使たちのように思われた。だがその次には、たちまち非常に恐ろしい嫌悪の情が私の心をおそってきて、体じゅうのあらゆる繊維が流電池の線にでも触れたようにぴりぴりと震えるのを感じ、同時に天使の姿は炎の頭をした無意味な妖怪《ようかい》となってしまい、彼らからはなんの救いも得られないということがわかった。それから私の空想のなかへは、墓のなかにはさぞ甘美な休息があるにちがいないという考えが、美しい音楽の調べのように、しのびこんできた。この考えはゆっくりと、またこっそりとやってきて、それを十分味わえるようになるまでにはだいぶ長くかかったようであった。だが私の心がやっとはっきりとその考えを感じ、それを味わったちょうどその瞬間、裁判官たちの姿は魔法のように私の前から消えた。高い蝋燭は虚無のなかへ沈み、その炎もすっかり消えうせてしまった。真っ黒な暗闇がそれにつづいた。あらゆる感覚は冥府《めいふ》へ落ちる霊魂のように、狂おしい急激な下降のなかに嚥《の》みこまれるように思われた。そのあとはただ、沈黙と、静止と、夜とが、宇宙全体であった。
 私は気絶していたのであった。しかしそれでも意識がすっかり失われていたとは言いたくない。それがどれくらい残っていたかということは、ここで断定しようとは思わないし、書こうとも思わない。だがすべてが失われていたのではなかった。深い眠りのなかでも――いや! 無我夢中のときでも――いや! 気絶しているときでも――いや! 死んでいても――いや! 墓のなかにあってさえも、すべてが失われるものではないのだ[#「ものではないのだ」に傍点]。でなければ人間にとって不滅ということがなくなる。もっとも深い眠りから覚めるとき、我々はなにかしら[#「なにかしら」に傍点]薄紗《うすもの》のような夢を破るものである。しかし一秒もたつと(その薄いものはそれほど脆《もろ》いものであろう)我々はいままで夢をみていたことをもう覚えていない。気絶からよみがえるまでには二つの段階がある。第一は、心的もしくは精神的存在の知覚の段階であり、第二は、肉体的存在の知覚のそれである。もし我々がこの第二の段階に達したときに、第一の段階の印象を思い起すことができるとするなら、これらの印象が彼岸の深淵《しんえん》の記憶を雄弁に語っていると言ってもよいようだ。そしてその深淵とは――なんであるか? 我々はどうして、少なくともその深淵の影を死の影と区別したらいいか? しかし私が第一の段階と名づけたものの印象がもし意のままに思い起されないものとしても、長いあいだたったのちに、それらの印象が自然にやってきて、どこからやってきたのかと怪しむようなことはあるまいか? かつて一度も気絶したことのない人は、赤々と燃え輝いている石炭のなかに、不思議な宮殿やどこか見知ったような顔などを見る人ではない。世の多くの人々の眼にはうつらないような悲しげな幻影が空中に浮んでいるのを見る人でもない。なにかの珍しい花の香を嗅《か》いでもの思いにふける人でもない。いままではなんの注意もひいたことのないような音楽の韻律の意味を考えて頭が乱される人でもない。
 思い出そうとする考え深いいくたびもの試みの最中に、私の霊魂が落ちていったあの虚無らしい状態の形跡をよせ集めようとする熱心な努力の最中に、ときどきうまく思い出せたと思う瞬間があった。あとになって明晰《めいせき》な理性の保証するところによると、その無意識らしい状態にだけ関している記憶を、呼び起した短い、ごく短い時期があった。この影のような記憶がぼんやりと語っているところによると、背の高い者たちが、無言のまま私の体を持ち上げて、下の方へ――下の方へ――なおも下の方へと運んでいったので、とうとう私はその果てしない下降ということを考えただけで気持の悪い眩暈《めまい》に圧倒されてしまったのだ。また私は、心が不自然なほど静かだったので、漠然とした恐怖を感じたのだ。次にはすべてのものがみな急に動かなくなったという知覚がきた。まるで私を運んでいる者たち(恐ろしい一行!)が下降しながらとっくに限りないものの限界をも越えてしまって、彼らの労苦に疲れはてた歩みをとどめたかのように。そののちに思い起すのは平坦と湿気との感じである。それからはすべてが狂乱[#「狂乱」に傍点]――考えることを許されないいまわしいもののあいだを忙しくとびまわる記憶の狂乱である。
 まったくとつぜんに、私の魂に運動と音とが――心臓のはげしい運動と、耳に響くその鼓動の音とが、戻ってきた。それからいっさいが空白である合間。やがてまた音と、運動と、触覚――体じゅうにしみわたるぴりぴり疼《うず》く感覚。次に思考力を伴わない単なる生存の意識、――この状態は長くつづいた。それからまったくとつぜんに、思考力[#「思考力」に傍点]と、戦慄するような恐怖感と、自分のほんとうの状態を知りつくそうとする熱心な努力。つぎには無感覚になってしまいたいという強烈な願望。それから魂の急速なよみがえりと、動こうとする努力の成功。そして今度は審問や、裁判官たちや、黒い壁掛けや、宣告や、衰弱や、気絶などの完全な記憶。それからは、その後につづいたすべてのことの、後日になって熱心な努力でやっと漠然と思い起すことのできたすべてのことの、完全な忘却。
 これまでは私は眼を開かなかった。私は縛めを解かれて仰向けに横たわっているのを感じた。手を伸ばすと、何かじめじめした硬いものにどたりと落ちた。何分間もそこに手を置いたまま、自分がどこにいてどうなって[#「どうなって」に傍点]いるのか想像しようと努めた。眼を開いて見たかったが、そうするだけの勇気がなかった。身のまわりのものを最初にちらと見ることを私は恐れたのだ。恐ろしいものを見るのを恐れたのではない。なにも[#「なにも」に傍点]見るものがない[#「ない」に傍点]のではあるまいかと思って恐ろしくなったのだった。とうとう、はげしい自暴自棄の気持で、眼をぱっとあけてみた。すると私のいちばん恐れていた考えが事実となってあらわれた。永遠の夜の暗黒が私を包んでいるのだ。私は息をしようとしてもがいた。濃い暗闇は私を圧迫し窒息させるように思われた。空気は堪えがたいほど息づまるようであった。私はなおじっと横たわって、理性を働かせようと努めた。宗教裁判官のやり方を思い出して、その点から自分のほんとうの状態を推定してみようと試みた。宣告が言いわたされ、それから非常に長い時間がたっているような気がした。しかし自分が実際に死んでいると想像したことは一瞬時もなかった。そのような想像は、物語では読むことはあるが、ほんとうの生存とはぜんぜん矛盾するものである。――だが、いったい私はどこに、どんな状態でいるのであろう? 死刑を宣告された者が通常 〔autos-da-fe’〕(「信仰の行為(2)」)で殺されることは私も知っていた。そしてそれが私の審問された日のちょうどその夜にも執行されたのであった。私は自分の牢《ろう》へ送りかえされて幾月ものあいだ起りそうにもない次の犠牲を待つことになったのであろうか? そんなことがあるはずはないと私はすぐ悟った。犠牲者はすぐに必要なのだ。そのうえ、私の前の牢は、トレード(3)にあるすべての監房と同じように、石の床であって、光線がぜんぜんさえぎられてはいなかった。
 恐ろしい考えがこのとき急に念頭に浮び、血は奔流のように心臓へ集まった。そして少しのあいだ、私はもう一度無感覚の状態にあともどりした。我に返るとすぐ、全身の繊維が痙攣《けいれん》的に震えながらも、すっと立ち上がった。頭の上や身のまわりやあらゆる方向に両腕を乱暴に突き出してみた。なんにも触れなかった。それでも墓穴[#「墓穴」に傍点]の壁に突き当りはしないかと思って、一歩でも動くことを恐れた。汗が体じゅうの毛孔から流れ出て、額には冷たい大きな玉がたまった。この不安な苦痛にとうとう堪えられなくなった。そこで両手をひろげ、かすかな光線でもとらえようと思って眼を眼窩《がんか》から突き出すようにしながら、注意深く前へ動いた。私は何歩も進んだ、しかしやはりすべてが暗黒と空虚とであった。私はいままでよりも自由に呼吸をした。私の運命が少なくともいちばん恐ろしいものではないことはまず明らかであるように思われた。
 そしてなおも注意深く前へ歩きつづけているあいだに、今度はトレードの恐怖についてのいろいろの漠然とした噂《うわさ》が、私の記憶に群がりながら浮んできた。牢については前から奇妙なことが言い伝えられていた。――つくり話だと私はいつも思っていたが――しかしいかにも奇妙な、声をひそめてでなければくりかえして話すことができないくらいにもの凄《すご》い話であった。私はこの地下の暗黒の世界で餓死させられるのであろうか? さもなければ、たぶん、それよりもっと恐ろしいものではあろうが、どんな運命が私を待っているのであろうか? その結果が死であり、それも普通の苦しさ以上の死であろうということは、あの裁判官らの性質をよく知っている私には疑う余地もなかった。ただその方法と時間とが、私を考えさせ、あるいは悩ましたすべてであった。
 ひろげていた手はとうとうなにか固い障害物につき当った。それは壁であったが、石造らしく――ひどくなめらかで、ぬらぬらしていて、冷たかった。私はそれについて行った。ある昔の物語が教えてくれた注意深い警戒の念をもって、一歩一歩進んだ。しかし、この方法は牢の広さを確かめる手段とはならなかった。というのは、一まわりしてもとの出発点に戻っていても、そのことがわからないからであって、それほどその壁は完全に一様なものらしかった。そこで私は、宗教裁判所の部屋のなかへ連れて行かれたときにポケットのなかにあったナイフを探した。がそれはなかった。私の衣服は粗末なセルの着物にかわっていたのだ。出発点を認められるようにそのナイフの刀身をどこか石の小さい隙間にさしこんでおこうと思ったのであったが。しかしこの困難は、心が乱れていたので初めはどうにもできないもののように思われたが、実はちょっとしたものにすぎなかった。私は着物のへりを一部分ひき裂いてその布片《きれ》をずっと伸ばして、壁と直角に置いた。牢獄のまわりを手さぐりして回っているうちに、完全に一周すればこの布片に出会うことはまちがいない。少なくともそう私は考えた。だが、この牢の広さや、または自分の衰弱を、勘定に入れていなかった。地面はじめじめしてすべった。私はしばらくのあいだ前へよろめきながら進んでいたが、そのうちにつまずいて倒れた。ひどい疲労のために倒れたまま起き上がれなかった。そして横になるとすぐ眠りが私をおそった。
 目が覚めて、片腕を伸ばすと、かたわらには一塊のパンと水の入った水差しとが置いてあった。ひどく疲れきっていたので、私はこの事がらを十分考えてみることもなく、がつがつと貪《むさぼ》るように食ったり飲んだりした。それから間もなく牢獄のなかをまた回りはじめ、かなり骨を折ってやっとあのセルの布片のところへやってきた。つまずいて倒れるときまでに五十二歩を数え、また歩きはじめてからさらに四十八歩を数えて――そのときに布片のところへ着いたのであった。してみると全体で百歩あることになる。そして二歩を一ヤードとして私はこの牢獄の周囲を五十ヤードと推定した。しかし壁のところで多くの角に出会ったので、この窖《あなぐら》――窖であろうということは想像しないわけにはゆかなかった――の形状を推測することはできなかった。
 このような調査には私はほとんど目的を――たしかに希望などは少しも――持っていなかった。けれども漠然とした好奇心が私を駆ってその調査をつづけさせた。私は壁のところを離れて、この構内の地域を横断してみようと決心した。初めは非常に用心しながら進んだ。床は固い物質でできているらしかったが、ねばねばしていて油断がならなかったからだ。しかしとうとう勇気を出して、ためらわずにしっかりと足を踏み出した、――できるだけ一直線によぎろうと努めながら。こんなふうにして十歩か十二歩ばかり進んだときに、さっきひき裂いた着物のへりの残片が両足のあいだに絡まった。私はそれを踏みつけて、ばったりと俯向《うつむ》けに倒れてしまった。
 倒れた当座は狼狽《ろうばい》していたので、一つのちょっと驚くべき事がらにすぐ気づくわけにはゆかなかったが、何秒かたつと、まだ倒れているあいだに、それが私の注意をひいた。それはこういうことであった。私の頤《おとがい》は牢獄の床の上についていたが、唇や頭の上部が、顎よりも低くなっているらしいのに、なににも触れていないのである。同時に額がしっとりとした湿気にひたっているように思われ、腐った菌類の独得の臭いが鼻をついてきた。私は片手を突き出した。すると自分が円い落穴《おとしあな》のちょうど縁のところに倒れていることに気がついたので、ぞっと身ぶるいした。その落穴の大きさはもちろん、そのときには確かめる方法もなかったが。私はその縁のすぐ下の石細工のあたりを手さぐりして、うまく小さな石のかけらを取り出し、それをその深淵のなかへ落してみた。何秒ものあいだ、石が落ちてゆくとき落穴の壁につき当る反響に、私はじっと耳を傾けていた。とうとう陰鬱に水のなかへ落ちて、高い反響がそのあとにつづいた。それと同時に、頭上で戸をぱっとあけ、また同じようにすばやくしめるような音がして、一すじの弱い光線がとつぜん暗闇のなかにひらめいたかと思うと、またたちまちにして消えてしまった。
 私は自分のために用意されてあった運命をはっきりと知った。そしてちょうど折よく偶然に起った出来事によって助かったことを喜んだ。倒れる前にもう一歩進む、すると私はふたたびこの世に出ることができなかったのだ。そしていままぬかれた死こそは、宗教裁判所に関する話のなかで荒唐無稽な愚にもつかぬものと私のそれまで思いこんでいた種類のものであったのだ。宗教裁判の暴虐の犠牲者には、もっとも恐るべき肉体的の苦痛を伴う死か、またはもっともいまわしい精神的の恐怖を伴う死か、どちらかを選ぶのである。私はその後者を受けることになっていたのだ。長いあいだの苦痛のために、私の神経は自分の声にさえ身ぶるいするほど衰弱し、どんな点からでも、自分を待ち受けているこの種の迫害にはたいへん適当な材料となっていたのであった。
 手足をぶるぶる震わせながら、私は壁の方へ手さぐりで戻った、――私の想像力がいまこの牢獄のいろいろな位置にたくさん描き出した落穴の恐怖をおかすよりも、むしろその壁のところで死のうと心を決めながら。もっとも他の心持ちでいたときなら、私はこれらの深淵の一つへ跳びこんで一思いに自分の惨めな運命の結末をつけてしまう勇気があったろう。だがそのとき私はもっとも完全な臆病者であった。私はまたこれらの落穴について前に読んだこと――とっさに[#「とっさに」に傍点]生命を絶つということは彼らの恐ろしい計画のなかには少しもないということ――も忘れることができなかった。
 精神の興奮は幾時間も私を眠らせなかった。がとうとう私はふたたび眠りに落ちた。目を覚ますと、前と同じように一塊のパンと水の入った水差しとが置いてあった。焼くような渇きを覚えたので、私はその水差しの水を一飲みに飲みほした。それには薬がまぜてあったにちがいない、――飲むか飲まないうちにたまらなく睡くなったから。深い眠りが私におそいかかってきた、――死の眠りのような深い眠りが。どれだけ長くそれがつづいたか、もちろん私にはわからない。しかしまた眼を開いたときには、今度は身のまわりのものが見えるようになっていた。どこにその光源があるのか初めはわかりかねた異様な硫黄色の微光によって、この牢獄の広さや様子を見ることができたのだ。
 牢獄の大きさについて私はひどく思い違いをしていた。壁の全周囲は二十五ヤードを超えていなかった。この事実は数分のあいだ、私に役にも立たない非常な苦労をさせた。まったく役にも立たない、――なぜなら、私の取りまかれているこの恐ろしい事情のもとにあって、牢獄の面積などということよりも下らないことがあろうか? だが、私の心はつまらないことに異常な興味を持っていた。そして、測量をするときに自分が犯した誤ちの理由を明らかにしようとする努力に没頭した。とうとう真相が頭に閃《ひらめ》いた。最初に探索しようと試みたときには、倒れるまでに五十二歩を数えていた。そのときはセルの布片へもう一歩か二歩というところへまで来ていたにちがいない。実際、私はほとんど窖を一周していたのだ。それから眠った、――そして眼が覚めると、前に歩いたところを逆に戻ったにちがいない、――こうして周囲を実際のほとんど二倍に想像したのだ。心が混乱していたので、私は壁を左にして歩きだし、戻ったときには壁を右にしていたことに気づかなかったのだ。
 私はまた、この構内の形についてもだまされていた。手さぐりながら歩いたときに角がたくさんあったので、ずいぶん不規則な形だという考えを持っていたのであった。昏睡《こんすい》や睡眠からさめた者に与えるまったくの暗闇の効果というものはこんなに強いものなのだ! 角というのはただ、不規則な間隔をおいたいくつかの凹み、あるいは壁龕《へきがん》にすぎなかった。牢獄の全体の形は四角であった。私が前に石細工だと考えたものは、今度は鉄かあるいはなにか他の金属の大きな板らしく思われ、その継目《つぎめ》が凹みになっているのであった。この金属板を張った構内の壁の全面には、修道僧の気味の悪い迷信が生みだした恐ろしく厭《いと》わしい意匠の画が、不器用に描きなぐってあった。骸骨《がいこつ》の形をして脅すような容貌をした悪鬼の姿や、そのほか実に恐ろしい画像などが、一面にひろがって壁をよごしていた。私は、これらの怪物の輪郭は十分はっきりしているが、その色彩が湿った空気のためであろうか、褪《あ》せてぼんやりしているらしいことを認めた。それから今度は床にも注意してみた――が、それは石造だった。その真ん中に、さっきその虎口をのがれたあの円い落穴が口を開いていた。がそれはこの牢獄のなかにただ一つしかなかった。
 こういうことをすべて私はぼんやりと、しかも非常な努力をして、見たのだ。――というわけは、体の状態が眠っているあいだにひどく変っていたからである。今度は仰向けになって体をながながと伸ばし、低い木製の枠組《わくぐみ》のようなものの上に臥《ね》ていた。その枠に馬の上腹帯に似た長い革紐でしっかりと縛りつけられているのだ。革紐は手足や胴体にぐるぐると巻きつけてあって、頭と左腕とだけが自由になっていたが、その左腕も非常な骨折りをしてやっと、かたわらの床の上に置いてある土器の皿から食物を取ることができるだけの程度にすぎなかった。恐ろしいことには、水差しがなくなっていた。恐ろしいことには――というのは、堪えがたいほどの渇きのために体が焼きつくされるようであったからだ。この渇きを刺激するのが私の迫害者どもの計画であったらしい、――なぜなら皿のなかの食物はひりひりするように辛く味をつけた肉であったから。
 眼を上の方へ向けて、私はこの牢獄の天井を調べた。高さは約三、四十フィートであって、側面の壁と非常によく似た造りであった。その天井の鏡板の一枚にあるたいへん奇妙な画像が、私の注意をすっかり釘《くぎ》づけにするように強くひきつけた。それは普通によく描かれているような時《タイム》の画像(4)であって、ただ違うのは大鎌のかわりに、ちょっと見たところでは、古風な掛時計についているような巨大な振子《ふりこ》を描いたのであろうと想像されるものを、持っていることであった。しかしこの機械の様子には、なにかしら私にもっと注意深く眺めさせるものがあった。まっすぐに上を向いてそれを眺めると(というのはそれの位置はちょうど私の真上にあったから)、なんだかそれが動いているような気がした。間もなくその考えは事実だということがわかった。その振動は短く、もちろんゆっくりしていた。私はいくらか恐怖を感じながらも、それよりももっと驚異の念をもって、数分間それを見まもっていた。とうとうそののろい運動を見つめるのに疲れてしまって、監房のなかのほかの物に眼をうつした。
 かすかな物音が私の注意をひいたので、床の方に眼をやると、大きな鼠が何匹かそこを走っているのが見えた。彼らはちょうど私の右の方に見えるところにある例の井戸から出てきたのだ。私が眺めているときでさえ、彼らは、肉片の匂いに誘われて、がつがつした眼つきをして、あわただしそうに群れをなしてやってきた。彼らを脅して肉片によせつけないようにするには、たいへんな努力と注意が必要だった。
 ふたたび視線を上の方へ向けたときまでには、半時間か、それともあるいは一時間も(というのは完全に時間を注意することはできなかったから)たっていたかもしれない。そのとき見たことで、私はすっかり狼狽《ろうばい》し、驚かされた。振子の振動は一ヤード近くもその振幅を増しているのだ。当然の結果として、その速度もまた大きくなっていた。しかし、私がもっとも不安だったのは、それが眼に見えて下降してくる[#「下降してくる」に傍点]という考えであった。それから私は、その振子の下端がきらきら光る鋼鉄の三日月形になっていて、先端から先端までは長さが一フィートほどあり、その先端は上の方を向き、下刃は明らかに剃刀《かみそり》の刃のように鋭いということを見てとった。――それを見てどんなに恐ろしく感じたかは言うまでもない。それは剃刀のようにがっしりしていて重いらしく、刃の方からだんだんに細くなって、上は固くて幅の広い部分になっている。そして真鍮《しんちゅう》の重い柄につけてあって、空気を切って揺れるときに全体がしゅっしゅっと音をたてた[#「しゅっしゅっと音をたてた」に傍点]。
 私はもう、拷問の巧みな僧侶によって自分のために用意された運命を疑うことができなかった。私があの落穴に気がついたということは、とっくに宗教裁判所の役人どもには知れていた。――あの落穴[#「あの落穴」に傍点]――その恐怖こそ私のような大胆不敵な国教忌避者のために用意してあったのだ。あの落穴[#「あの落穴」に傍点]――それこそ地獄の典型であり、噂によれば彼らのあらゆる刑罰のなかの極点と考えられているものだ。この落穴に落ちこむことを、私はまったく偶然の出来事によってのがれたのであった。そして私は驚愕《きょうがく》、つまり拷問の罠《わな》に落ちこんで苦しむことが、この牢獄のいろいろな奇怪な死刑の重要な部分となっていることを知った。深淵へ落ちなかったからには、私をその深淵のなかへ投げ込むということは、かの悪魔の計画にはなかった。そこで(ほかにとるべき方法もないので)それより別の、もっとお手やわらかな破滅が私を待つことになったのだ。お手やわらかな! こんな言葉をこんな場合に使うことを思いつくと、私は苦悶《くもん》のなかでもちょっと微笑したのだった。
 鋼鉄の刃のもの凄い振動を数えているあいだの、死よりも恐ろしい長い長い幾時間のことを、話したところでなんになろう! 一インチずつ――一ライン(5)ずつ――長い年月と思われる間《ま》をおいて、やっとわかるような降り方で――下へ、もっと下へと、降りてくる! それがひりひりするような息で私を煽《あお》りつけるくらい身近に迫ってくるまでには、幾日か過ぎた、――幾日も幾日も過ぎたにちがいない。鋭い鋼鉄の臭いが私の鼻孔をおそった。私は祈った、――それがもっと速く降りてくるようにと、天がうるさがるほど祈った。気が狂ったようになり、揺れているその偃月刀《えんげつとう》の方へ向って自分の体を上げようともがいた。それからまた急に静かになって、子供がなにか珍しい玩具を見たときのように、そのきらきら輝く死の振子を見て微笑しながら横たわっていた。
 もう一度、まったく無感覚のときがあった。それは短いあいだであった。なぜなら、ふたたび我に返ったときに振子は眼につくほど下っていなかったから。しかしあるいは長いあいだであったかもしれない、――というのは、私の気絶するのに気をつけていて、振子の振動を思うままに止めることもできる悪魔どものいることを、私は知っていたから。正気づくとまた、私はひどく――おお! なんとも言いようもないほど――気分が悪く衰弱していることを感じた、ちょうど長いあいだの飢え疲れのように。その苦痛のあいだにさえ、人間の本能は食物を求めるのであった。私は苦しい努力をして左腕を紐の許すかぎり伸ばし、鼠が食い残しておいてくれた食物のわずかな残りを手に入れた。その一片を口のなかへ入れたとき、私の心には半ば形になった歓喜の――希望の――念が湧《わ》きあがった。しかしこの私が[#「この私が」に傍点]希望などになんの用があろう? それはいま言ったとおり、なかば形になった考えであった。――人はよくそんな考えを持つが、それは決して完成されるものではない。私はそれが歓喜の――希望の――念であることを感じた。しかしまたそれが形になりかけて消えてしまったことを感じた。それを仕上げようと――取りもどそうと努めたが無駄だった。長いあいだの苦しみは、私のあらゆる普通の心の能力をほとんど絶滅させてしまっていた。私は低能者になっていた、――白痴になっていた。
 振子の振動は私の身の丈《たけ》と直角になっていた。私は偃月刀が自分の心臓の部分をよぎるように工夫してあることを知った。それは外衣のセルを擦り切るだろう、――それから返り、そしてまたその動作をくりかえすだろう、――二回――三回と。振幅がもの凄く広くなり(約三十フィートか、またはそれ以上)、しゅっしゅっと音をたてて降りてくる勢いが鉄の壁さえ切り裂くくらいであっても、数分間というものはそれのすることはやはり私の外衣を擦り切ることだけであろう。ここまで考えてくると私の考えはとまった。この考えより先へは行けなかった。私はしつこくこの考えに注意を集めた、――ちょうどそうすれば鋼鉄の刃の下降をそこで[#「そこで」に傍点]とめることができるかのように。私は偃月刀が衣服を切って通るときの音を――布地が摩擦されることが神経にさわる奇妙なぞっとするような感覚を、わざと考えてみた。こうしたくだらないことをいろいろと歯の根が浮くくらいになるまで考えてみた。
 下へ――じりじり下へ、振子は這《は》い降りてくる。私はその振子の横に揺れる速度と、下へ降りてくる速度とを照らしあわせて、狂気じみた快感を感じた。右へ――左へ――遠く広く――悪鬼の叫びをあげて! 私の心臓めがけて、虎のような忍び足で下へ! この二つの考えのどっちかが力強くなるにしたがって、私はかわるがわるに笑ったり叫んだりした。
 下へ――まちがいなく、無情に下へ、それは私の胸から三インチ以内のところを振動しているのだ! 私は左腕を自由にしようとしてはげしく――猛《たけ》りくるって――もがいた。その左の腕はただ肘《ひじ》から手首までだけが自由になっていた。手は非常な苦心をしてやっとかたわらの皿から口のところへ動かせるだけで、それ以上は動かせなかった。もし肘から上の紐を切ることができたら、私は振子をつかまえて止めようとでもしたことであろう。それは雪崩《なだれ》を止めようとするのと同じようなことだ!
 下へ――なおも休みなく――なおも避けがたく下へ! それが振動するたびに私はあえぎ、もがいた。一揺れごとに痙攣的に身をちぢめた。眼はまったく意味のない絶望からくる熱心さで、振子が外の方へ、上の方へと跳びあがるあとを追った。そしてそれが落ちてくるときには発作的に閉じた、死は救いであったろうが。おお、なんという言うに言われぬ救いであろう! あの機械がほんの少しばかり下っただけであの鋭いきらきら光る斧《おの》を私の胸に突きこむのだ、ということを考えると、体じゅうの神経がみなうち震えた。この神経をうち震えさせ――体をちぢませるものは希望[#「希望」に傍点]であった。宗教裁判所の牢獄のなかであってさえ死刑囚の耳にささやくものは希望[#「希望」に傍点]――拷問台の上にあってさえ喜びいさむ希望――であった。
 もう十回か十二回振動すれば鋼鉄の刃が私の外衣にほんとうに触れるということがわかった。――そしてそれがわかると、ふいに、私の心には鋭い落ちついた絶望の静けさがやってきた。この幾時間ものあいだ――あるいはおそらく幾日ものあいだ――いま初めて私は考えた[#「考えた」に傍点]。すると、自分を巻いている革紐つまり上腹帯は一本だけ[#「一本だけ」に傍点]だということが思いついた。私は何本もの紐で縛られているのではなかった。剃刀のような偃月刀の最初の一撃が紐のどの部分をよぎっても、その紐が切りはなされて、左手を使って体から解きはなすことができるにちがいない。だが、その場合には鋼鉄の刃のすぐ近くにあることがどんなに恐ろしいことだろう! ほんのちょっとでももがいたらどんなに危ないことになるだろう! そのうえに拷問吏の手下どもが、こんなことがありそうだと察して、それに備えておくということもありそうなことではなかろうか? 紐が私の胸の振子の通るところに巻いてあるということがありそうだろうか? このかすかな、そして最後と思われる希望が破られるのを恐れながらも、私は胸のところをはっきり見られるくらいにまで頭を上げてみた。革紐は手足も胴も縦横にぐるぐると堅く巻いてあった、――ただ人をうち殺すその偃月刀の通り路だけはのけて[#「ただ人をうち殺すその偃月刀の通り路だけはのけて」に傍点]。
 頭をもとの位置に下ろすとすぐ、前にちょっと言ったところの、そしてその半分が、燃えるような唇に食物を持って行ったときにぼんやり浮んだところの、あの救いという考えのまだ形をなさない半分、というより以上にうまく言いあらわせないものが、私の心にひらめいた。全体の考えがいまあらわれてきたのだ。――弱い、あまり正気でもない、あまりはっきりしないものであったが、――それでもとにかく全体であった。私はすぐに自暴自棄の勇気で、その考えの実行にとりかかった。
 もう幾時間も、私の臥ている低い枠組のすぐ近くには、鼠が文字どおり群がっていた。彼らは荒々しく、大胆で、がつがつして飢えていた。――彼らの赤い眼は、ただ私が動かなくなりさえしたら私を餌食にしようと待ちかまえているように、私の方を向いてぎらぎらと光っていた。「この井戸のなかであいつらはいったいどんな食物を食いつけてきたのだろう?」と私は考えた。
 彼らは、私がいろいろ骨を折って追い払おうとしたのに、もう皿のなかの食物をちょっぴり残しただけで、すっかり食いつくしてしまっていた。私はただ手を皿のあたりに習慣的に上げ下げして振っていたのだが、とうとうその無意識に一様な運動は効き目がなくなってしまった。貪欲《どんよく》にも鼠どもはちょいちょい鋭い牙《きば》を私の指につきたてた。私は残っている脂っこいよい香のする肉片を、手のとどくかぎり革紐にすっかりなすりつけて、それから手を床からひっこめて、息を殺してじっと臥ていた。
 初めはその飢えきった動物どもも、この変化に――運動の中止されたのに――驚きおそれた。彼らはびっくりして尻込みした。井戸の方へ逃げたやつも多かった。しかしこれはほんのしばらくのことにすぎなかった。彼らの貪欲をあてにしたのは無駄ではなかった。私が身動きもしなくなったのを見てとると、いちばん大胆なやつが一、二匹、枠の上に跳びあがって、革紐を嗅《か》いだ。これがまるで総突撃の合図のようであった。彼らは井戸から出てきて、新たに群れをなして駆け集まってきた。枠の木にかじりつき――それを乗りこえ、そして幾百となく私の体の上に跳びあがった。振子の規則正しい運動などはちっとも彼らの邪魔にはならなかった。彼らは振子に撃たれるのを避けながら、油を塗った革紐に忙しく群がった。彼らは押しよせ――群がって私の上に絶えず積みかさなった。咽喉の上でのたうちまわった。その冷たい唇が私の唇を探した。彼らの群がってくる圧迫のために私はなかば窒息しかかった。なんとも言いようのない不快な感じが胸に湧きあがり、じっとりとした冷たさで心臓をぞっとさせた。それでも一分もたつと、私はこの争闘もやがて終ってしまうだろうと感じた。私は革紐の緩むのをはっきりと悟った。すでに一カ所以上も切れているにちがいないことがわかった。超人間的の決心をもって、私はじっと[#「じっと」に傍点]横たわっていた。
 私の予想はまちがっていなかった、――忍耐も無益ではなかった。やっと私は自由[#「自由」に傍点]になったのを感じた。革紐は幾すじかになって体からぶら下がった。しかし振子の刃はもう胸のところに迫った。それは外衣のセルを裂いていた。その下のリンネルも切っていた。またも二回揺れた。すると鋭い苦痛の感覚があらゆる神経に伝わった。しかし逃げ出る瞬間がきているのだ。手を一振りすると、私の救助者どもはあわてふためいてどっと逃げさった。じりじりと身を動かし――気をつけて、横ざまにすくみながら、ゆっくりと――革紐からすりぬけて、偃月刀のとどかないところへ身をすべらした。少なくとも当分は、私は自由になったのだ[#「私は自由になったのだ」に傍点]。
 自由! ――宗教裁判所の手につかまれながら! 恐怖の木の寝台から牢獄の石の床に足を踏み出すとすぐ、あの地獄のような恐ろしい機械の運動がぴったりと止り、なにか眼に見えない力でするすると天井の上に引き上げられるのを私は見た。これは非常に強く身にしみた教訓であった。私の一挙一動がみな看視されていることは疑いがない。自由! ――私はただ苦悶の一つの形式による死をのがれて、なにか他の形式の、死よりもいっそう悪いものの手に渡されることになったにすぎないのだ。そう考えながら、私をとり囲んでいる鉄の壁をびくびくして見まわした。なにか異常なことが――初めははっきりと見分けることのできなかったある変化が――この部屋のなかに起ったことは明らかであった。何分間も夢み心地にわななきながら茫然《ぼうぜん》として、私はただいたずらにとりとめのない臆測にふけっていた。そのあいだに、この監房を照らしている硫黄色の光の源を初めて知るようになった。それは幅半インチほどの隙間からくるのだ。その隙間というのは壁の下の方で牢獄をぐるりと一まわりしている。だから壁は床から完全に離れているように見えたし、またほんとうに離れていたのである。その隙間からのぞこうと骨を折ったが、もちろん無駄であった。
 この試みをやめて立ち上がると、この部屋の変化の神秘が急に理解されるようになってきた。私は前に、壁上に描かれている画の輪郭は十分はっきりしてはいるが、その色彩がぼんやりしていて明瞭ではないようだということを述べた。ところがその色彩がいまや驚くほどの強烈な光輝を帯びて、しかも刻一刻とその光輝を増し、その幽霊のような悪鬼のような画像を、私の神経より強い神経をさえ戦慄させるほどの姿にしたのだ。狂暴なもの凄い生き生きした悪魔の眼は、らんらんとして前にはなにも見えなかったあらゆる方向から私をにらみつけ、気味のわるい火の輝きでひらめくので無理にも想像力でそれを幻だと考えてしまうわけにはゆかなかった。
 幻どころか! ――呼吸をするときでさえ、灼熱《しゃくねつ》した鉄の熱気が鼻をついてくるのだ! 息のつまるような臭いが牢獄に満ちた! 私の苦悶をにらんでいる眼は一刻ごとにらんらんとした光を強くした! 血の恐怖の画の上には真紅のもっと濃い色がひろがった! 私はあえいだ! 息をしようとしてあえいだ! 私の迫害者どもの計画についてはなんの疑いもない、――おお、人間のなかでもいちばん無慈悲な! おお、いちばん悪魔のような者ども! 私はその真っ赤に熱した鉄板から監房の真ん中の方へあとじさりした。眼の前にさし迫った火刑の死を考えると、あの井戸の冷たさという観念が、苦痛をやわらげる香油のように心に浮んできた。私はその恐ろしい井戸のふちへ走りよった。眼を見はって下の方を見た。燃えたった屋根のぎらぎらする光が井戸の奥そこまで照らしていた。それでもしばらくは、私の心は錯乱していて自分の見たものの意味を理解しようとはしなかった。やっとそれが私の心に入ってきた、――無理に押し入った、戦《おのの》き震える理性に焼きつけた。おお、ものを言う声が出たらいいのだが! ――ああ、恐ろしい! ――ああ、このほかの恐ろしさならなんでもよい! 鋭い叫び声をあげて私はそのふちから駆けもどり、両手に顔をうずめた、――はげしく泣きながら。
 熱は急速に増した、私は瘧《おこり》の発作のようにぶるぶる震えながら、もう一度眼をあげた。監房のなかには二度目の変化が起っていた、――そして今度の変化は明らかに形[#「形」に傍点]に関するものであった。前と同様に、初めのうちは起りつつあることを感知し理解しようと努めたが、無駄だった。だが、疑念のなかにとり残されているのも長くはなかった。二回も私がのがれたので、宗教裁判所は復讐《ふくしゅう》を急いでいた。そして懼怖《おそれ》の王(6)とこのうえふざけているわけにはゆかなくなったのだ。部屋は前には四角形であった。私はいまその鉄の四隅のなかの二つが鋭角をなしているのを――したがって当然ほかの二つは鈍角をなしているのを認めた。この恐ろしい角度の違いは、低くごろごろいうような、または呻《うめ》くような音とともに急速に増した。またたくまに部屋はその形をかえて菱形となった。しかしこの変化はそれでやみはしなかった、――私はそれがやむのを望みもしなければ願いもしなかった。その灼熱した壁を私は、永遠の平和の衣服として胸にぴったり着けることができるのだ。私は言った、「死――この落穴の死でさえなければどんな死でもいい!」ばかな! この落穴のなかへ[#「この落穴のなかへ」に傍点]私を駆りたてるのが、この燃える鉄板の目的であることを知らなかったのか? その灼熱に耐えることができるか? あるいはもしそれに耐えることができるとしても、その圧力に逆らうことができるか? そしていまや菱形は、なにも考えるひまを与えないくらいの速さでますます平たくなってきた。その中心、つまりその幅の広いところは、大きく口を開いているあの深淵の真上であった。私はたじろいだ、――が迫ってくる壁は抵抗できないように私を前へ押しすすめた。とうとう焼けこげて悶《もだ》えくるしむ私の体には、もう牢獄の堅い床の上に一インチの足場もなくなった。私はもうもがかなかった、が私の苦悶は、一声の高い、長い、最後の、絶望の絶叫となってほとばしった。私は自分が落穴のふちへよろめきよったのを感じた、――私は眼を逸《そ》らした――
 がやがやいう人声が聞えた! 多くの喇叭《らっぱ》の音のような高らかな響きが聞えた! 百雷のような荒々しい軋《きし》り音が聞えた! 炎の壁は急にとびのいた! 私が失神してその深淵のなかへ落ちこもうとした瞬間に、一つの腕がのびて私の腕をつかんだ。それはラサール将軍(7)の腕であった。フランス軍がトレードに入ったのだ。宗教裁判所はその敵の手に落ちた。

(1) 十二世紀ごろから始まりその後数世紀にわたって、ローマ教会の教権擁護のために、異端その他宗教に関する罪悪を摘発撲滅するために行われた、歴史上有名な裁判。――フランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ポルトガル、その他ヨーロッパの諸国においてさかんに行われて、異教徒の迫害に利用され、ことにスペインにおける宗教裁判はその糺問《きゅうもん》が峻烈《しゅんれつ》で処刑が残酷なので有名であった。第十八世紀にいたってようやくやみ、スペインでは最も遅く、一八三四年まで行われた。
(2) ポルトガル語で「信仰の行為」の意。宗教裁判所の異教徒処刑の判決宣告式、およびその処刑、ことに火刑を言う。ここではその火刑の意味である。――宗教裁判において有罪と決定されたものは、異端の帽と異端の服とをつけさせられ僧侶の行列に囲まれて、跣足《はだし》で市街をひきまわされ、最後に聖壇の前に立って死刑を宣告され、刑吏の手によって生きながら焚《や》き殺されるのであった。
(3) Toledo――スペイン中央部のトレード州の町。マドリッドの南西にある。
(4) 普通よく見られるとおり、大鎌を肩にし、砂時計を手にしている老人の画。
(5) 一インチの十二分の一の長さ。
(6) 「死」のこと。――旧約ヨブ記第十八章第十四節、「やがて彼はその恃《たの》める天幕より曳離《ひきはな》されて懼怖の王[#「懼怖の王」に傍点]の許《もと》に駆《おい》やられん」
(7) Antonie Charles Louis Colinet Lasalle(一七七五―一八〇九)――ナポレオン一世の部下の有名な将軍。彼がスペインに攻め入ったのは一八〇八年である。
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底本「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1998(平成10)年12月25日78刷
※本文中の(1)~(7)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。
入力:江村秀之
校正:鈴木厚司
2005年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

宝島 宝島 スティーブンソン Stevenson Robert Louis-佐々木直次郎訳

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買うのを躊躇する人に


もしも船乗《ふなのり》調子の船乗物語や、
 暴風雨《あらし》や冒険、暑さ寒さが、
もしもスクーナー船や、島々や、
 置去《おきざ》り人《びと》や海賊や埋められた黄金《おうごん》や、
さてはまた昔の風のままに再び語られた
 あらゆる古いロマンスが、
私《わたし》をかつて喜ばせたように、より賢い
 今日《こんにち》の少年たちを喜ばせることが出来るなら、
――それならよろしい、すぐ始め給え! もしそうでなく、
 もし勉強好きな青年たちが、
昔の嗜好を忘れてしまい、
 キングストンや、勇者バランタインや、
森と波とのクーパー(註一)[#「(註一)」は行右小書き]を、もはや欲しないなら、
 それもまたよろしい! それなら私と私の海賊どもは、
それらの人や彼等の創造物の横《よこたわ》る
 墳墓の中に仲間入りせんことを!
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第一篇 老海賊

第一章「ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ来た老水夫

 大地主のトゥリローニーさんや、医師のリヴジー先生や、その他の方々《かたがた》が、私に、宝島についての顛末を、初めから終りまで、ただまだ掘り出してない宝もあることだから島の方位だけは秘して、すっかり書き留めてくれと言われるので、私は、キリスト紀元一七――年に筆を起し、私の父が「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋(註二)[#「(註二)」は行右小書き]」という宿屋をやっていて、あのサーベル傷のある日に焦《や》けた老水夫が、初めて私たちの家《うち》に泊りこんだ時まで、溯ることにする。
 私は、彼が、船員衣類箱(註三)[#「(註三)」は行右小書き]を後から手押車《ておしぐるま》で運ばせながら、宿屋の戸口のところへのそりのそりと歩いて来た時のことを、まるで昨日《きのう》のことのように覚えている。背の高い、巌乗な、どっしりした、栗色の男だった。タールまみれの弁髪がよごれた青い上衣の肩に垂れていた(註四)[#「(註四)」は行右小書き]。手は荒れて傷痕だらけで、黒い挫けた爪をしていた。そしてサーベル傷が片頬にきたなく蒼白くついていた。私はまた覚えている。彼は入江を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、そうしながらひとりで口笛を吹いていたが、それから突然、その後もたびたび歌ったあの古い船唄を歌い出したのだった。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!

 揚錨絞盤《キャプスタン》の梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのに調子を合せて歌って嗄《しゃが》らしたらしい、高い、老いぼれたよぼよぼの声だった。それから彼は持っていた木挺のような[#「木挺のような」はママ]棒片《ぼうぎれ》で扉《ドア》をこつこつと叩き、私の父が出ると、ぶっきらぼうにラム酒を一杯注文した。それを持ってゆくと、彼は、酒の品評家のように、ちびりちびりと味いながらゆっくり飲み、その間も、あたりの断崖を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したり店の看板を見上げたりしていた。
「これぁ便利な入江だ。」とようやく彼は言い出した。「この酒屋も気の利いた処《とこ》にあるな。客は多いかね、大将《てえしょう》?」
 父は、いや、残念ながら客はごく少くてどうも、と彼に言った。
「うむ、そうか、」と彼は言った。「じゃあ己《おれ》にゃ持って来いの泊り場所だ。おいおい、お前《めえ》、」と手押車を押して来た男に呼びかけて、「ここへ車をつけて己の箱をおろしてくんねえ。己はしばらくここに泊ることにするぜ。」と言い続けた。「己ぁあっさりした男でな。ラムと|卵かけ塩漬豚肉《ベーコン・アンド・エッグズ》さえあれぁいいんだ。そしてあそこのあの岬を通る船を見張ってるのさ。己を何と言ったらいいって? 船長と言って貰《もれ》えてえ。おお、なるほど、あれか、――そうれ。」と彼は三枚か四枚の金貨を閾《しきい》のところへ投げ出した。「そいつがすっかりなくなったら、そう言って来い。」と司令官のように厳《いかめ》しい顔をして言った。
 そして、実際、衣服こそ粗末でものの言い方もぞんざいではあったけれども、彼には平水夫《ひらすいふ》らしいところは少しもなく、平生人をこき使ったりぶん殴ったりし慣れている副船長か船長のように思われた。手押車を押して来た男の話によれば、彼はその日の朝「|ジョージ王《ロイアル・ジョージ》屋」のところで駅逓馬車(註六)[#「(註六)」は行右小書き]を降り、海岸沿いにどんな宿屋があるかと尋ねて、私の家が多分評判がよく、また一軒離れていると聞かされたのであろう、他のところよりも私の家を滞在処に択んだのだという。そしてこの客人について私たちの知り得たことはそれだけだった。
 彼はいつもごく無口《むくち》な男であった。昼は一日中、真鍮の望遠鏡を持って、入江の周りや、または断崖の上をうろついていた。晩はずっと談話室《パーラー》の隅の炉火のそばに腰掛けて、あまり水を割らない強いラムを飲んでいた。話しかけられても大抵は口を利かなかった。ただ不意におそろしい顔をして見上げ、霧笛のように鼻を鳴らすだけだった。で、私たちも家《うち》のあたりへ来る人々も間もなく彼を相手にしないようになった。毎日、彼は、ぶらぶら歩きから帰って来ると、だれか船乗《ふなのり》が街道を通って行かなかったかと尋ねるのが常であった。初めのうちは、私たちは、彼がこういう質問をするのは自分と同じ仲間がほしいからだと思っていた。が、彼には、彼がそういう連中を避けたがっているのだということがわかりかけて来た。海員が「ベンボー提督屋」に泊ると(折々海岸伝いにブリストル(註七)[#「(註七)」は行右小書き]へ行く者が泊ることがあったのだ)、彼はカーテンをつけてある入口からその男を覗いて見てから、談話室へ入るのであった。そしてだれでもそういう人のいる時には、彼はいつでも必ず小鼠のようにこっそりしていた。少くとも私だけには、この事柄は不思議ではなかった。というのは、私は幾分彼と懼れを共にする者であったからである。彼は或る日私を脇へつれて行き、もし「一本脚の船乗を油断なく」見張っていて、見えたらすぐに知らせてくれさえしたら、毎月の一日に四ペンス銀貨を一枚ずつやると約束したのだ。月の一日が※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って来て、私が自分の報酬を請求すると、彼はただ私に向って鼻を鳴らして、私をじっと睨みつけることが、たびたびあった。が、その週の終らないうちに必ず考え直して、その四ペンスの銀貨を持って来てくれ、「一本脚の船乗」に気をつけておれという例の命令を繰返した。
 その人物がどんなに私の夢を悩ませたかは、言うまでもないくらいである。嵐の夜々、風が家全体を揺り動かし、激浪が入江や断崖に轟きわたる時には、その男がいろいろの姿で、またいろいろの悪魔のような形相をして現れるのであった。時には脚が膝のところで切れており、時には股《もも》のつけ根から切れていた。また時には、もとからその一本脚しかなくて、それが胴体の真中についているという怪物であることもあった。その男が生垣《いけがき》や溝を跳び越えてぴょんぴょん跳びながら私を追っかけて来るのは、中でも一番怖しい悪夢であった。で、結局、私は毎月四ペンスの金《かね》を貰うためにこんな忌わしい妄想に悩まされて、かなり割が合わない訳だった。
 しかし、私はその一本脚の船乗のことを思うとそんなに脅かされはしたけれども、船長その人には彼を知っている他のだれよりもずっと怖《こわ》くはなかった。彼は頭がもたないほどのたくさんのラムを飲む晩もあったが、そういう時には、時としては、坐りこんで例のいやな古い奇怪な船唄を歌い、だれをも念頭に置かなかった。が「時には、みんなにぐるりと杯をゆきわたらせて、ぶるぶるしている一座の者すべてに、無理に自分の話を傾聴させたり、自分の歌う後をつけて合唱させたりすることもあった。「よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と」で家が家鳴《やな》りするのを、私はたびたび聞いたことがある。近所の人々は皆びくびくしながら一所懸命に歌う仲間入りをし、目をつけられないようにと銘々が互に競って大声を出して歌ったのだ。なぜなら、こういう発作の時には彼はこの上なく高飛車に出たからで、みんなに黙れと言ってテーブルを手でぴしゃりと打つ。何か尋ねるとかっと癇癪を起したり、時には何も尋ねないからと言って、一座の者が自分の話を聞いていないのだときめこんで、怒ったりする。そして、自分が眠くなるまで飲んで寝床へよろめきこむまでは、だれ一人も宿屋を立去らせようとしないのであった。
 彼の話は中でも最も人々を怖がらせたものであった。それは実に恐しい話だった。首絞《くびし》めや、板歩かせ(註八)[#「(註八)」は行右小書き]や、海上の暴風雨《あらし》や、ドゥライ・トーテューガズ(註九)[#「(註九)」は行右小書き]や、スペイン海(註一〇)[#「(註一〇)」は行右小書き]での乱暴な所業やそこの土地土地などの話だった。彼自身の言うところから察すれば、彼はかつて海上を航海した最も邪悪な人間どもの間で過して来た者に相違ない。そして彼がこういう話をする時の言葉遣いは、彼の語った罪悪とほとんど同じくらいに、樸訥な私たちの田舎の人々をぞっとさせたのであった。父は、これでは宿屋も潰されてしまうだろう、やたらにいじめつけられ、口を利けば呶鳴《どな》りつけて黙らされ、震えながら寝床へやらされるのでは、間もなくだれもここへ来なくなるだろうから、といつも言い言いしていた。しかし、私は、彼が泊りに来たことは私たちのためになったと、ほんとうに信じている。人々もその当時は怖がっていたが、しかし振り返ってみると彼のいたことをむしろ好いていたのだ。それは平穏無事な田舎の生活には素敵な刺激だった。そして、若い人たちの中には、彼のことを「まことの船乗」だとか、「ほんとの老練な水夫」だとか、その他そういうような名で呼び、イギリスが海上で覇をなしたのはああいう類《たぐい》の人がいたればこそだと言って、彼に敬服するような顔をする連中さえもいたのである。
 一方から言えば、実際、彼は私たちの家を潰しそうにも思われた。というのは、彼は幾週も幾週も、そうしてついには幾月も幾月も滞在し続けたので、前の金はみんなとっくに使い尽したのだが、それでも父にはどうしてもまた勘定を頂きたいと言い張るだけの勇気が出なかったのである。もしいつでもそれをちょっと口に出したところで、船長は唸ると言ってもいいくらいに大きく鼻息を鳴らして、可哀そうな父を睨みつけて部屋から追い出してしまうのだった。そんなのにはねつけられた後に父が両手を揉み絞って(註一一)[#「(註一一)」は行右小書き]いるのを私は見たことがある。そして、そんな苦悩や恐怖の中に日を送ったことがきっと父の不幸な若死《わかじに》をよほど早めたのに違いないと思う。
 船長は、私たちのところにいた間に、靴下を数足行商人から買った他《ほか》には、身につけるものを何一つ変えたことがなかった。帽子の縁《ふち》の上反《うわぞり》が一箇処垂れると、彼はその日以来それをぶら下げておき、風の吹く時などずいぶんうるさいにも拘らず、そのままにしていた。私は彼の上衣の有様も覚えているが、彼は二階の自分の部屋でそれに綴布《つぎ》をあて、死ぬ前にはそれはまったく綴布だらけだった。彼は手紙を一度も書くこともなければ受取ることもなかったし、近所の人たち以外にはだれとも口を利いたこともなく、その人たちと口を利くのも大概はラムに酔った時だけだった。例の大きな船員衣類箱は私たちの中のだれ一人も開けてあるのを見た者はかつてなかった。
 彼は一度だけ逆《さから》われたことがあった。それはもう彼の末期に近い頃で、私の父が死病に罹って病勢がよほど進んでいる時のことだった。リヴジー先生が或る日の午後遅く父を診《み》に来て、母の出したちょっとした夕食をとり、「ベンボー屋」には厩舎《うまや》がなかったので、村から馬が迎えに来るまで一服やろうと談話室へ入って行った。私は先生の後からついて入ったが、雪のように白い髪粉《かみこ》をつけ(註一二)[#「(註一二)」は行右小書き]、きらきらした黒い眼をした、挙動の快活な、品のよい立派なその医師と、粗野な田舎の人々、就中《なかんずく》、ラムが大分※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、テーブルに両腕を張って腰掛けている、垢じみた、鈍重な、酔眼朦朧たる、ぼろぼろ着物の案山子《かかし》みたいな例の海賊君との対照が、目に止ったことを覚えている。突然、彼は――というのは船長のことだが――あの相も変らぬ唄を歌い出した。――


「死人箱にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!
 残りの奴は酒と悪魔が片附《かたづ》けた――
  よいこらさあ、それからラムが一罎と!

 初め私は「死人箱《しびとのはこ》」というのは二階の表側の室にある彼のあの大きな箱のことだと思っていて、それが私の悪夢の中では例の一本脚の船乗のこととこんがらかっていたものだった。しかしこの時分には私たちは皆とっくにその唄に特別の注意を払わなくなっていた。で、それは、その晩、だれにも珍しくはなかったのだが、リヴジー先生だけには初めてで、先生にはあまりよい感じを起させなかったのを私は見て取った。というのは、先生はいかにも腹を立てた顔でちょっとの間見上げたからで、それから植木屋のテーラー爺さんにリューマチスの新療法についての話を続けた。とかくしているうちに、船長は自分の歌でだんだんと元気づいて来て、とうとう前のテーブルを手でぴしゃりと敲いた。黙れ――という意味であることを私たちみんなが知っているやり方だった。みんなの話し声はぴたりと止んだが、リヴジー先生の声だけは別であった。彼は、はっきりと穏かにしゃべり、言葉の合間合間にパイプをぱっぱっと吸いながら、前の通りに話し続けた。船長はしばらくの間彼を睨みつけ、それからもう一度手でぴしゃりと敲いて、さらに強く睨み、とうとうひどい野卑な罵り言葉を吐き出した。「おい、黙れ、野郎ども!」
「君は私《わたし》に言っているのかね?」と医師が言った。そしてその悪党が、また罵り言葉で、そうだと言うと、「私はたった一|事《こと》君に言っておくことがあるがね、」と医師は答えた。「それは、もし君が相変らずラムを飲み続けていると、この世から間もなくごく下劣なならず者が一人消え失せるだろうということだ!」
 老人めの激怒は恐しいものだった。彼は跳び立って、水夫用の摺込ナイフをひき出して刃を開き、それを掌にのせて振り動かしながら、医師を壁に突き刺してやると脅しつけた。
 医師は身動きさえもしなかった。前の通りに肩越しに振り向いて、同じ調子の声で、彼に話しかけた。室中の者に聞えるようにと幾らか高くはあったが、しかしまったく落着き払ったしっかりした声だった。――
「そのナイフをすぐさまポケットにしまわぬと、私は名誉にかけてお前をきっと次の巡回裁判で絞首《しめくび》にしてやるぞ。」
 それから二人の間に睨み合いが始まった。が、船長の方が間もなく降参し、武器を収めて、負けた犬のようにぶつぶつ言いながら、再び自分の席に坐った。
「ところでね、」と医師は続けて言った。「私の区にそういう奴がいるとわかったからには、私はこれからしょっちゅうお前に気をつけているから、そのつもりでいるがいい。私は医者だけじゃない。治安判事もやっているのだ。で、お前に対するちょっとした告訴でも握ったが最後、それがただ今夜のような無作法のためであったにしろ、お前をひっ捕えさせてここから追っ払わせることにしてやるからな。これだけ言っておく。」
 それから間もなくリヴジー先生の馬が戸口のところへ来たので、先生はそれに乗って帰って行った。が、船長は、その晩も、またそれから後の幾晩も、黙っておとなしくしていたのであった。

第二章 黒犬《ブラック・ドッグ》現れて去る

 この後遠からず、私たちにとうとう船長を厄介払いしてくれたあの不可思議な出来事の最初の事件が起ったのである。もっとも、その出来事というのは、だんだんとわかる通り、船長に関することをすっかり厄介払いしたという訳ではないのであるが。その冬はひどく寒くて、永い間|厳《きび》しい霜が降《お》り、烈しい風が吹いた。そして、可哀そうな父が春まで持ち越しそうにもないことは、初めからよくわかっていた。父は日毎に衰弱してゆき、母と私とは宿屋のことを何から何まで切り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]していて、ずっととても忙しくて、例の厭な客人には大して構わずにいた。
 一月の或る朝、ごく早い頃のことであった。――刺すような酷寒の朝で、――入江は一面に霜で真白になっており、漣《さざなみ》は静かに磯の石ころを洗い、太陽はまだ低くて、丘の頂《いただき》に射《さ》し、遠く海の方を照しているだけだった。船長はいつもより早く起きて、浜を下って行った。古びた青色の上衣の広い裾の下に彎刀《カトラス》(註一三)[#「(註一三)」は行右小書き]をぶら下げ、小脇に真鍮の望遠鏡を抱え、帽子を阿弥陀にかぶっていた。私は覚えているが、彼が大胯《おおまた》に歩いてゆくにつれてその後に彼の息が煙のように残っていた。そして彼が大きな岩角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った時に私の聞いた最後の音は、怒ったような大きな荒い鼻息で、それはちょうど心ではまだリヴジー先生のことを思っているかのようだった。
 さて、母は二階に父と一緒にいた。私は船長の帰って来た時の用意に朝食の支度をしていたが、その時|談話室《パーラー》の扉《ドア》が開《あ》いて、それまでに私の一度も見たことのない男が入って来た。蒼白い色の男で、左手の指が二本なかった。彎刀を身につけてはいるけれども、あまり強そうには見えなかった。私はいつも船乗なら、一本脚でも二本脚でも、よく気をつけていたのだが、この男には頭を悩ましたのを覚えている。水夫らしくもないが、しかしまたどことなく海臭いところがあったのだ。
 何の御用ですかと尋ねると、彼はラムをくれと言った。しかし、私がそれを取りに室から出かけると、彼はテーブルの上に腰を下して、私にそばへ来いと手招きした。私は手にナプキンを持ったまま立ち止った。
「坊やこっちへ来な。」と彼は言った。「もっとこっちへ来な。」私は一歩近づいた。
「この食事は己《おれ》の仲間のビルのかい?」と彼はちょっと横目をして尋ねた。
 私は、あんたの仲間のビルという人は知らない、これは家《うち》に泊っている、私たちが船長と言っている人のだ、と言ってやった。
「なるほど、」と彼は言った。「己の仲間のビルのことなら船長と言われもするだろうな。あいつは片頬に切傷《きりきず》がある。そしてなかなか面白《おもしれ》えとこがあるよ、ことに酔っ払うとだ、ビルの奴はね。まあ証拠として申し上げようかな。その船長という男にゃ片頬に切傷がある、――そしてお望みとあれば言うが、それぁ右の頬だ。ああ、それ御覧、言いあてたろう。ところで、己の仲間のビルはこの家《うち》にいるかね?」
 私はその人は散歩に出ていると言った。
「どっちの方だ、坊や? どっちの方へ行っているんだい?」
 で、私が例の岩を指し、あの方から帰って来そうで、もう間もなく帰るだろうと言い、その他二三の問に答えると、その男は言った。「ああ、ビルの奴にゃ己に逢うなあ飲むのと同じくれえ嬉しいだろうな。」
 この言葉を言った時の彼の顔付はちっとも愉快そうではなかった。また、彼が言った通りのことを思っているとしたところで、この男は考え違いをしているのだと思う理由が私にはあった。しかし何も自分の知ったことではない、と私は思った。それにまた、どうしていいかもわからなかった。その他所《よそ》の男は宿屋の戸口のすぐ内側のところをうろついてばかりいて、鼠を待ち構えている猫のように岩角の方を窺っていた。一度私は街道へ出てみたが、彼はすぐさま私を呼び戻し、私が彼の気に入るように速くそれに従わなかったところが、彼の蒼白い顔が非常に怖しく変り、私を跳び上らせたほどの罵り言葉で、入れと命令した。私が戻るや否や彼は半ば御機嫌をとり半ば鼻であしらうような元の態度に返り、私の肩を軽く叩いて、お前はよい子だ、己はほんとにお前が好きなんだ、と言った。「己にも倅《せがれ》が一人あるがね、」と彼は言った。「お前《めえ》と瓜二つで、己の自慢の種よ。だが子供に大切なことは躾《しつけ》だ、坊や、――躾だよ。ところでだ、もしお前がビルと一緒に航海したことがあれぁ、二度言われるまでそこに立っているなんてこたぁしめえ、――お前はそんなこたぁしねえよ。そんなやり方はビルは決してやらねえ。またあの男と一緒に航海した者だってもやらねえさ。さて、あれぁいかにも仲間のビルだぞ、遠眼鏡《とおめがね》を抱えてね、おやおや、ほんとにな。坊や、お前と己とはちょいと談話室《パーラー》へ戻って、扉《ドア》の後《うしろ》にいてさ、ビルをちょっとばかりびっくりさせてやろうよ、――うん、確かにそうだ。」
 そう言いながら、その男は私と一緒に談話室へ戻り、隅の方で私を彼の背後に立たせ、二人とも開いている扉の蔭に隠れるようにした。諸君も想像されるように、私はひどく不安でびくびくしていたが、その他所の男も確かに怖がっているのを見て取ると、私の恐怖の念はさらに加わった。彼は彎刀の柄《つか》にすぐ手をやれるようにしたり、刀身が鞘からいつでも抜けるようにしたりした。そして私たちがそこに待っている間中、彼は咽喉《のど》の詰る思いをしているかのように絶えず唾をごくりごくりと嚥みこんでいた。
 やがて大胯に船長が入って来て、右も左も見ずに扉を背後にばたんと閉《し》めると、朝食の用意のしてあるところへと室を突っ切ってまっすぐに進んだ。
「ビル。」と他所の男が言ったが、その声は強いて大胆そうに見せかけようとしているように思われた。
 船長はぐるりと後へ向いて私たちと向き合った。その顔には赭味《あかみ》がすっかりなくなっていたし、鼻までが蒼かった。幽霊か、悪魔か、それよりももっと怖いものでも見た人間のような顔付であった。そして、確かに、まったくちょっとの間にひどく老いぼれて元気のなくなった彼を見ると、私は気の毒に思った。
「おい、ビル、己を知ってるだろ。お前《めえ》は昔の船友達を知ってるな、きっと、ビル。」と他所の男が言った。
 船長は喘ぐような息をした。
「黒犬《ブラック・ドッグ》だな」」と彼は言った。
「でなくてだれなものか?」と一方は大分落着いて来て返答した。「まさにその黒犬《ブラックドッグ》が昔の船友達のビリーに逢いに来たのさ、『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』へな。ああ、ビル、ビル、お互《たげえ》にずいぶんといろんな目に遭ったものだな、己がこの二本指をなくしてから此方《このかた》よ。」と不具になった手を挙げてみせた。
「で、おい、」と船長が言った。「お前《めえ》は己を探し出した。己はここにいる。だから、さあ、はっきり言ってくれろ。何の用だ?」
「さすがはお前だ。」と黒犬が言った。「お前の言う通りだよ、ビリー。ところで己はこの子供からラムを一|杯《ぺえ》貰えてえんだ。己ぁこの子がとても気に入ったのだ。それから、どうか掛けてくんねえ。昔の船友達らしく、ざっくばらんに話すとしようじゃねえか。」
 私がラムを持って戻って来た時には、二人はもう船長の朝食の食卓の両側に腰を掛けていた。――黒犬の方は扉の近くにいて、片方の眼を昔の友達に、片方の眼を私の思ったところでは逃げ場所につけておけるようにと、斜に腰掛けていた。
 彼は、私に、あっちへ行っておれ、そして扉を広く開けっ放しにして行ってくれ、と言いつけた。「鍵穴《かぎあな》から覗いたりなんかすると承知しねえぞ、坊や。」と彼は言った。で、私は二人を残して、帳場へ退いた。
 私は耳をすまして聞いてやろうと確かに一心になってはいたけれども、大分永い間、早口にべらべらしゃべる低い声の他《ほか》には何一つ聞えなかった。が、とうとう、その声はだんだん高くなり出して来て、船長の一語二語を聞き取ることが出来た。大抵は罵り言葉だった。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。それでおしまいだ!」と船長は一度|呶鳴《どな》った。そしてまた呶鳴った。「もしぶらんこ(註一四)[#「(註一四)」は行右小書き]になるなら、みんながぶらんこだ、ってえんだ。」
 それから突然、凄じく罵り言葉やその他のやかましい物音が起った。――椅子とテーブルとが一度にひっくり返り、続いて刃物の打ち合う音がし、それから苦痛の叫び声がしたかと思うと、次の瞬間には、私は、黒犬が全力で逃げ、船長が猛烈に追っかけてゆくのを見た。二人とも抜き放った彎刀を手にし、黒犬は左の肩からたらたらと血を出していた。ちょうど戸口のところで、船長はその逃げてゆく男を狙って最後の物凄い一撃を浴《あび》せかけたが、もし家《うち》のベンボー提督の大きな看板で妨げられなかったなら、その一撃は確かにその男を背骨まで切り下したことだろう。今でも看板の下側にその刀痕が残っている。
 この一撃が果合《はたしあい》の終りであった。一度街道へ出ると、黒犬は、傷を負っているにも拘らず、一目散に走り逃げ、しばらくのうちに丘の縁の向うへ姿を消してしまった。船長はと言えば、彼は呆然としたように看板を見つめながら突っ立っていた。それから手で眼を何遍もこすり、やっと家の中へ引返して来た。
「ジム、」と彼が言った。「ラムだ。」そしてそう言った時に、少しよろめき、片手を壁にあてて身を支えた。
「怪我しましたか?」と私は叫んだ。
「ラムだ。」と彼は繰返して言った。「己はここから行かなきゃならん。ラムだ! ラムだ!」
 私はラムを取りに走って行った。しかし、さっきから起ったいろいろのことですっかりあわてていたので、コップを一つ壊したり樽の注口を駄目にしたりした。そしてまだまごまごしているうちに、談話室で何かがどかりと倒れる音が聞えたので、駆け込んで見ると、船長が床の上に大の字になって寝ていた。それと同時に、叫び声や喧嘩《けんか》騒ぎに驚いた私の母も私を助けに階下《した》へ駆け降りて来た。私たちは二人がかりで彼の頭を抱え上げた。彼は大層烈しく苦しそうに息をしていた。が、眼は閉じ、顔は気味の悪いほどの色をしていた。
「やれやれ、何てことだろう。」と母が叫んだ。「この家《うち》にゃ何て情《なさけ》ないことになったものだろう! それにお父さんは御病気だしねえ!」
 しばらくの間、私たちは船長の手当をするにはどうしたらいいかまるでわからなかった。また、彼があの他所の男との格闘で致命傷を受けたものと思いこんでもいたのだ。私はラムを持って来て、彼の咽喉へ流しこんでやろうとしたことはしたけれども、彼は歯をしっかりと喰いしばっていて、顎は鉄のように固かった。そこへ扉が開いてリヴジー先生が父を診察しに入って来たので、私たちはほっとした。
「おお、先生、」と私たちは叫んだ。「どうしたらよろしいでしょう? この人はどこを怪我しているのでしょう?」
「怪我だと? 馬鹿なことを!」と医師が言った。「あんた方《がた》や私と同様ちっとも怪我なんかしていませんよ。この男は中風を起したのだ、私が注意してやった通りにね。さあ、ホーキンズさんのおかみさん、あなたは早く二階の御主人のところへ行って下さい。そして、なるべくならこのことは御主人には話さずにな。私の方は、こいつのやくざな命《いのち》を助けるために一所懸命にやらねばならん。それからジムには金盥《かなだらい》をここへ持って来て貰おうね。」
 私が金盥を持って戻って来た時には、医師はもう船長の袖を切り開いて、大きな逞しい腕をまくりあげていた。その腕には数箇処に文身《いれずみ》がしてあった。「幸運あり」というのと、「順風」というのと、「ビリー・ボーンズのお気に入り」というのが、二の腕にごく巧みにはっきりと彫ってあった。それから、肩に近いところには、絞首台とそれにぶら下っている男とのスケッチがあり、なかなか生々《いきいき》と出来ていると私は思った。
「自分のことの予言だな。」と医師は指でその絵に触りながら言った。「さて、ビリー・ボーンズ君、というのが君の名前ならだが、君の血の色をちょっと拝見するよ。ジム、」と私に向って、「君は血を見るのが怖《こわ》いかね?」
「いいえ。」と私は答えた。
「よし、では、」と彼が言った。「金盥を持っていてくれ給え。」そう言って彼は刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]針を取って血管を切り開いた(註一五)[#「(註一五)」は行右小書き]。
 ずいぶんたくさん血が取られてから、船長はやっと眼を開《あ》けてぼんやりとあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。最初は医師の顔がわかると、紛れもない顰《しか》め面《づら》をした。次に私が目に入ると、ほっとした様子だった。しかし突然顔色が変り、起き上ろうとしながら、叫んだ。――
「黒犬《ブラック・ドッグ》はどこだ?」
「黒犬《ブラック・ドッグ》なんぞはここにはおらんよ、君が自分で背負っている他《ほか》にはな。(註一六)[#「(註一六)」は行右小書き]」と医師が言った。
「君は相変らずラムを飲んでいたものだから、中風を起したんだ、私が君に言ってやった通りに。で、私は、ずいぶん厭ではあったが、君を墓から頭を先にしてひきずり出してやったのだ。ところで、ボーンズ君――」
「それぁ俺《わし》の名じゃねえ。」と彼は遮った。
「どうだっていいさ。」と医師が答えた。「私の知合《しりあい》の海賊の名だよ。簡短でいいから君をそう言うことにするのだ。で、君に言っておかねばならんのはこういうことなのだ。ラムの一杯くらいなら君の命を取ることもあるまい。が、一杯やれば、もう一杯、もう一杯とやることになる。で、私は自分の仮髪《かつら》を賭けて言うが、もしお前はぴたりと止《や》めてしまわなければ、きっと死ねぞ、――わかったかね? ――死んで、聖書に書いてあるあの男みたいにお前の往くべき処へ行くんだぞ。(註一七)[#「(註一七)」は行右小書き]さあ、さあ、力を出すんだ。今度だけは手伝って寝台《ベッド》までつれて行ってやるよ。」
 私たちは、二人がかりで、ひどく骨折って、やっと彼を二階へひっぱり上げ、寝台へ寝かしてやった。すると彼は、ほとんど気絶しているかのように、頭をぐたりと枕に落した。
「さあ、いいかね。」と医師が言った。「これで私は責任をすませたのだ。――ラムということは君には死ということだぜ。」
 そう言うと彼は、私の腕を取りながら、父を診察しにそこを去った。
「何でもないことさ。」彼は扉を閉めるや否や言った。「あの男をしばらく静かにしておけるだけの血をぬいてやったのだ。あの男は一週間はあそこで寝ていなければいけない、――それがあの男にも君|方《がた》にも一番よいことだ。しかしもう一度発作を起せばあの男も往生だよ。」

第三章 黒丸《くろまる》

 午《ひる》頃、私は冷い飲物と薬とを持って船長の室へ入って行った。彼は、少しばかりずり上っただけで、私たちが室を出て来た時とほとんど同じようにして寝ていて、弱ってもおり興奮してもいるようだった。
「ジム、」と彼が言った。「ここじゃあ頼りになるなあお前《めえ》ばかりよ。で、己だっていつもお前にゃよくしてやったろう。一月《ひとつき》でも四ペンス銀貨をやらなかった月はないしさ。ところで、ねえ、己は今このようにずいぶ弱ってるし、だれも構っちゃくれねえ。で、ジム、お前己にラムを一|杯《ぺえ》持って来ておくれ。なあ、くれるだろ、え?」
「お医者さまが――」と私は言いかけた。
 けれども彼は急に、力のない声で、しかし心から、医師の悪口を言い出した。「医者なんて奴あみんな阿呆だ。」と彼は言った。「それに、あの医者なんか、へん、船乗のことなんぞ何を知ってるんだ? 己ぁ、瀝青《チャン》みてえに暑くって、仲間の奴らあ黄熱でばたばた斃《たお》れる処《とこ》にもいたことがあるし、地震で海みてえにぐらぐらしてる御結構な土地にもいたことがある。――そんな処をあの医者が知っているかい? ――そして己はラムで命を繋いでいたんだ、ほんとうによ。己にゃあ、ラムは何よりの好物だ、大事《でえじ》な女房だ。己は今|風下《かざしも》の海岸に浮いている情ねえ老いぼれ船みてえなもんだから、そのラムが飲めねえとなれぁ、ジム、お前に祟《たた》るぞ。それからあの医者の阿呆にもな。」と彼はそれからまたしばらくの間悪口を言い続けた。「見てくれ、ジム、己の指はこんなにぶるぶるしているよ。」と口説くような調子で続けた。「じっとさせておけねえのだ。出来ねえんさ。今日《きょう》はまだ一|滴《しづく》もやらねえんでね。あの医者は馬鹿だよ、ほんとに。もしラムを少しも飲まなけれぁ、ジム、己は酒精《アルコール》中毒が起るよ。もう少しは起ってるのだ。己にゃあその隅に、お前の後《うしろ》に、フリント親分が見えてるんだ。刷物《すりもの》みてえに、はっきりと見えてるんだ。もし酒精中毒を起すとなると、己ぁ荒《あれ》え渡世をして来た男だ、大騒ぎを起すぜ。あの医者だって一杯だけなら何でもあるめえって言ったよ。一杯持って来れぁ一ギニー金貨を一枚やるよ、ジム。」
 彼はだんだんと興奮して来たので、父に障りはしないかと私ははらはらした。父はその日はひどく悪くて、安静が必要だったのだ。それに、今船長の言った先生の言葉もあるから大丈夫だろうと思ったし、鼻薬でつろうとするのにはちょっと癪にさわった。
「あんたのお金なんかちっともほしかあないよ。お父さんにあんたが借りてる分の他《ほか》にはね。」と私は言った。「一杯だけ持って来てあげるが、それだけだよ。」
 それを持って来てやると、彼はひったくるように掴んで、すっかり飲み干してしまった。
「よしよし、」と彼が言った。「確かに、幾らかよくなったよ。ところでな、おい、あの医者はどのくれえこの寝床ん中に寝てなきゃなんねえって言ってた?」
「どうしても一週間は、って。」と私は言った。
「ひえっ!」と彼は叫んだ。「一週間だと! そんなこたぁ出来ねえ。それまでにゃあ奴らは黒丸《くろまる》を持って来らあ。あのやくざ水夫どもはこの今だって己の風上へ出てうまくやろうとしてうろつき※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってるんだ。あいつらは自分の分を取っておけねえんで、他人《ひと》の分をふんだくろうとするんだ。それが船乗らしい振舞《ふるめえ》か? え、聞きてえもんだ。だが己はつましい人間だ。自分の大事な金は一度も無駄使いもしなけれぁ、なくしもしねえ。も一度奴らに一|杯《ぺえ》喰わしてくれよう。奴らなんざあ怖《こわ》かねえ。なあ、己はまた帆を広げて、もう一度奴らを出し抜いてやるぞ。」
 こう言いながら、彼は、私が痛くてもう少しで大声を出しかけたほど私の肩をぎゅっと掴んで、脚を重量品のように重そうに動かしながら、ようようのことで寝台《ベッド》から起き上った。彼の言葉は意味には元気があったけれども、それを言っている声が弱々しいので、その対照が哀れだった。彼は寝台の端に腰を掛けた姿勢をとると、語をちょっと休んだ。
「あの医者にやられた。」と彼は呟いた。「耳鳴りがする。寝かしてくれ。」
 私が大して手伝わないうちに彼はまた以前の場所へ倒れ、しばらくは黙ったままでいた。
「ジム、」とようやく彼は言い出した。「今日あの水夫を見たろう?」
「黒犬《ブラック・ドッグ》かい?」と私は尋ねた。
「ああ! 黒犬《ブラック・ドッグ》だよ。」と彼は言った。「あいつ[#「あいつ」に傍点]は悪い奴だ。が、あいつをけしかけたもっと悪い奴がいるのだ。でな、己がどうにかして逃げられねえで、奴らが己に黒丸をさしつけたらな、いいかね、奴らの狙ってるのは己の古い衣類箱なんだよ。お前、馬に乗ってな、――乗れるね、乗れるかな? うむ、よしよし、じゃあ、馬に乗ってな、行くんだ、――そのう、なあに、言っちまえ! ――あのいまいましい医者の阿呆んとこへ行って、みんなを――治安判事だの何だのを――呼び集めてくれって話すんだ。そうすれぁ、あの男は『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』へ押しかけて来て――奴らをひっ捕えてくれるだろう、――フリントの船員をそっくりみんな、残ってる奴らみんなをな。己は一等運転士だったんだ、己はな。フリントの一等運転士だったのだ。そしてあの場所を知ってるのは己一人なんだよ。あの人は、今の己みてえに死にかけていた時に、サヴァナ(註一八)[#「(註一八)」は行右小書き]であれを己にくれたのだ。だがな、奴らが黒丸を己んとこへ持って来るまでは、それとも、お前がまた黒犬か、一本脚の船乗をだ、ジム、――ことに其奴《そやつ》だぜ、――其奴らを見るまでは、お前、言いに行くんじゃねえぞ。」
「だけど、その黒丸って何ですか、船長さん?」と私は尋ねた。
「それはね、呼出状さ。奴らが持って来たらお前に言ってやるよ。だが油断なく見張っててくれ、ジム。そうすりゃお前を相棒にして分けてやるからな、きっと。」
 彼はそれからしばらく取りとめのないことを言い、その声はだんだん弱っていった。が、私が薬をやると、「船乗で薬を飲みたがるなんて奴あ己だけだ。」と言いながら、子供のようにそれを服《の》んでから間もなく、とうとうぐっすりと気絶したように寝入ってしまったので、私はそこを立去った。もし万事が無事にいっていたなら自分がどうしていたかということは、私にはわからない。恐らくは医師にすべての話をしてしまったことであろう。というのは、私は、船長があの打明け話をしたことを後悔して私を殺しはしまいかと思って、とても怖かったからである。しかし実際起ったのは、その晩父がまったく急に亡《な》くなったことで、そのために他の事は皆そっちのけになってしまった。私たちの当然な悲歎、近所の人たちの弔問、葬式の手配、その間にもしなければならない宿屋のすべての仕事、などでずっとひどく忙しくて、私は船長のことを思う暇も碌々なく、まして彼を恐しがってなぞいられなかったのだ。
 彼は翌朝には階下へ降りて来るには来たし、いつもの通りに食事はした。もっとも、食べる方は少ししか食べなかったが、ラムはいつもよりもたくさん飲んだかも知れない。なぜなら、顔を顰め鼻息を鳴らしながら帳場から自分で勝手に取って来て飲み、だれ一人もそれを止《と》めようとする者がなかったのだから。葬式の前の晩にも彼は相変らず酔っ払っていたが、その喪中の家で、例のいやな古い船唄を彼がのべつに歌っているのを聞くのは、たまらないことだった。だが、彼は弱ってはいたけれども、私たちはみんな彼をひどく怖がっていたし、医師は急に何マイルも離れた患者のところへ行って、父の死んだ後は家の近くへ一度も来なかったのだ。私は船長が弱っていると言ったが、実際、彼は力を回復するよりも却って弱ってゆくように思われた。彼は這うようにして二階を上り下りし、談話室《パーラー》から帳場へ行ったりまた戻ったりした。時には、壁につかまって身を支えながら歩いてゆき、嶮《けわ》しい山を登る人のように苦しくはあはあ息をしながら、鼻を戸口の外へ突き出して海の香を嗅ぐこともあった。私に特に話しかけることは別になかった。自分のした内証話はほとんど忘れてしまっていたのだろうと思う。しかし気分は前よりはそわそわして、体《からだ》の弱っていることを差引すると前よりは荒っぽくなった。酔っ払った時などは、彎刀《カトラス》を引き抜いて、前のテーブルの上に抜身のまま置いたりするような、ひやひやさせることをした。しかし、そんなような有様ではあったけれども、前よりは他の人々のことを気にかけなくなり、自分だけの考えに耽って、幾らか気が変になっているのかと思われた。例えば、一度などは、私たちの非常に驚いたことには、鄙《ひな》びた恋唄のような、違った歌を歌い出したりしたものだった。それは、彼がまだ船乗にならない前の若い時分に覚えたものに違いなかった。
 このようにして過ぎていったが、葬式の翌日、霧深い、身を斬るような、霜寒の午後の三時頃、私は戸口のところにしばらく立って、父についての悲しい思いに耽っていた。すると、だれかが街道をのろのろとこっちへやって来るのが見えた。その男は、杖で自分の前をこつこつ叩いているし、眼と鼻との上に大きな緑色の覆いをかけているところをみると、明かに盲《めくら》であった。そして年か衰弱のせいのように傴僂《せむし》になっていて、頭巾《ずきん》附の大きな古びたぼろぼろの水夫マントを着ているので、実に不恰好《ぶかっこう》な姿に見えた。私は生れてからあんな恐しい様子をした者を見たことがなかった。彼は宿屋から少し離れたところに止ると、声を張り上げて奇妙な単調な調子で、前に向ってだれにともなく言いかけた。――
「どなたか御親切な旦那さま、哀れな盲人《めくら》に教えてやって下さい。私はわがイギリスのために、ジョージ陛下万歳! 名誉の戦争に出まして、大事な眼をなくした者でございます。――私の今おりますのは、この国のどこでございましょう、何という処でございましょうか?」
「ここは黒丘《ブラック・ヒル》入江の『|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋』だよ、小父《おじ》さん。」と私が言った。
「声がしましたな、」と彼は言った。――「お若い方《かた》の声だ。どうか御親切なお若い方、私にお手を貸して、中へ案内して下さいませんか?」
 私が手を差し出すと、今まで物言いのやさしかった、その怖しい、眼のつぶれた奴は、たちまちその手を万力《まんりき》のようにしっかと掴んだ。私はびっくりしてひっこもうと身を※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いた。が、盲人は腕をぐっとひっぱっただけで私を身近へひきつけた。
「さあ、小僧、俺《わし》を船長のところへつれて行け。」と彼は言った。
「それぁとても駄目ですよ。」と私が言った。
「おお、言ったな!」と彼はせせら笑った。「まっすぐにつれて行け。でねえと、この腕をへし折ってくれるぞ。」
 そう言いながら、私の腕を捩り上げたので、私は思わず叫び声をあげた。
「でも、私《わたし》の言うのはあんたのためなんですよ。」と私が言った。「船長さんは以前の船長さんじゃないんだもの。抜身の彎刀《カトラス》を持って坐っているよ。この間も他《ほか》の方《かた》が――」
「さあ、さっさと歩くんだ。」と彼は私の言葉を遮った。私はその盲人の声のような無慈悲な、冷酷な、不愉快な声はかつて聞いたことがなかった。手の痛さよりもその声の方がもっと私をおじけさせた。それですぐ彼の言うことをきいて、まっすぐに歩いて戸口のところから談話室の方へと進んで行った。その談話室に、あの病気の老海賊がラムに酔ってぼんやりして坐りこんでいるのだ。盲人は私にぴったりとくっついて、鉄のような拳で私を掴み、堪えられないほどの重さで私に凭《もた》れかかっていた。「まっすぐに奴のところへつれて行って、奴に見えるとこまで来たら、『ビルさん、あんたの友達が来ましたよ。』って呶鳴《どな》るんだ。もししねえと、こうしてやるぞ。」そう言うと彼は私の腕をぐいとひっぱり上げたので、私は気が遠くなりそうに思った。あれやこれやで、私はこの盲乞食がすっかり怖くなったので船長の恐しさを忘れてしまい、談話室の扉《ドア》を開《あ》けると、言いつけられた言葉を震え声で呶鳴った。
 可哀そうに、船長は眼を上げると、一目でラムの気《け》がなくなり、まったく酔いが醒めてしまった。その顔の表情といったら、恐怖というよりもむしろ死病の表情であった。彼は立ち上ろうとしたが、しかし、それだけの力も体に残っていたとは私には思えない。
「さあ、ビル、そのままで坐ってろよ。」と乞食が言った。「眼は見えなくても、耳は指一本動かしたってわかるんだ。用事は用事さ。お前《めえ》の右の手を出してくんな。小僧、奴の右手の手頸を掴んで、俺の右手の近くへ持って来い。」
 私たちは二人とも寸分違わず盲人の言う通りにした。と、私は、盲人が杖を持っている手の掌中から、船長の掌の中へ、何かを渡したのを見た。船長は直ちにそれを握った。
「さあこれですんだ。」と盲人が言った。そしてその言葉を口にすると急に私を掴んでいる手を放し、ほんとうとは思えないくらいに見当も違えず素速く、談話室から街道へと跳び出し、私がまだじっと突っ立っていると、彼の杖の音が街道をこつ、こつ、こつ、こつと遠くまで行くのが聞えた。
 私か船長かが我に返ったようになるまでにはしばらく間があった。が、とうとう、そしてほとんど同時に、私はまだ掴んでいた船長の手頸を離し、彼の方は手をひっこめて掌の中をぱっと見た。
「十時!」と彼は叫んだ。「六時間ある。まだ奴らを出し抜けるぞ。」そして跳び立った。
 と同時に、彼はよろめき、咽喉へ手をあて、ちょっとの間ぐらぐらしながら立っていたが、それから、異様な声を立てながら、ばたりと俯伏に床《ゆか》へ倒れた。
 私は、母を呼びながら、直ちに彼のそばへ駆け寄った。が急いでももう無駄だった。船長は猛烈な卒中にやられて死んでしまっていた。奇妙なことだが、近頃こそ彼を可哀そうに思いかけてはいたけれども、私は確かに彼を好いたことなんぞ決してないのに、彼が死んだのを見るや否や、どっと涙が出て来たのであった。それが私の見た二度目の死で、一度目の死の悲しみが私の心にまだ生々《なまなま》しかったのだ。

第四章 船員衣類箱

 私は、もちろん、時を移さず、自分の知っている限りのことを母に話した。多分、ずっと前に話しておくべきであったのだが。そして直ちに私たちはむずかしい危険な立場にいることに気がついた。船長の金《かね》――もし彼が幾らかでも持っているなら――には確かに私たちに支払うべき分があった。が、船長の船友達、とりわけ私の見た二人の例証たる人間、黒犬《ブラック・ドッグ》とあの盲乞食とが、その死んだ男の借金の支払のために自分たちの分捕品を見棄てる気になるということは、ありそうにもなかった。船長の言いつけたようにすぐに馬に乗ってリヴジー先生のところへ駆けつけるとすると、母は独りぽっちになって保護する者がなくなるので、それは思いもよらぬことだった? 実際、もうあまり永くこの家に居残っていることは、私たちどちらにとってもとても出来ないように思われた。台所の炉の中で石炭の落ちる音にも、掛時計のかっちかっちいう音にさえも、私たちはびくびくした。私たちの耳には、近づいて来る跫音《あしおと》が四辺に頻りにどかどか聞えるような気がした。談話室《パーラー》の床《ゆか》に倒れている船長の死体やら、あのいやらしい盲乞食がすぐ近くにうろついていて今にも帰って来そうなことを思うやらで、私は恐しくて身の毛のよだつ時があった。何とか速くきめなければならなかった。そして私たちはとうとう、二人一緒に出かけて隣村《となりむら》へ行って助けを求めようという考えが思いついた。言うが早いかやり出した。帽子もかぶらないままで、私たちは直ちに、迫って来る夕闇の霜寒の霧の中へ駆け出した。
 その村というのは、次の入江の向側にあって、こちらから見えはしないが、何百ヤードも離れていなかった。それに大層心強かったのは、例の盲人がやって来た方、また恐らく帰って行った方とは、反対の方角にあったことだった。私たちはそう永くは街道にいなかったのだが、それでも時々立ち止って互に縋《すが》り合い耳をすました。しかし何も変った音はしなかった。――ただ、岸に打ち寄せる漣《さざなみ》の低い音と、森で鴉がかあかあ鳴く声だけだった。
 村へ着いたのはもう灯《ひ》ともし頃《ごろ》だった。そして、家々の戸口や窓から洩れる黄ろい光を見た時の嬉しさを、私は決して忘れることがあるまい。だが、それが、後でわかったように、私たちがそこで得られた最上の助けだったのだ。という訳は、――人々が自分を恥じたろうと思われるであろうが、――だれ一人として私たちと一緒に「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ引返そうという者がなかったからである。私たちの難儀を話せば話すほど、ますます――男も女も子供も――皆自分たちの家へすっこむのだった。フリント船長の名は、私には初めてであったけれども、村ではよく知っている人もあって、非常に恐れさせる力があった。それに、「ベンボー提督屋」の先の方の側で野良《のら》仕事をしていた人たちの中には、見慣れない男が何人も街道にいるのを見て、それを密輸入者だと思って逃げ出したことがあるのを、思い出す者もあったし、また、少くとも一人は、キット入江と言っているところに小さな帆船《ラッガー》を一艘見たことがあった。実際、フリント船長の仲間であった者ならだれであろうと、村の人を死ぬほど怖がらせるに十分であった。で、結局、別の方角にあるリヴジー先生のところへなら進んで馬を走らせようという者が幾人もいたけれども、私たちを助けて宿屋を護ろうとする者は一人もいなかったのである。
 臆病はうつると世間では言う。しかしまた、一方、議論は非常に勇気をつけるものである。で、銘々が言うだけのことを言ってしまうと、母は皆に言った。父親のないこの子のものであるお金は損したくない、と母は言い切った。「あなた方《がた》がどなたも来て下さらないなら、ジムと私《あたし》が行きます。」と母が言った。「戻って行きますよ、来た道をね。いやどうも有難うござんした。図体《ずうたい》ばかり大きくて、胆っ玉の小さい方《かた》ばかりですね。死んだっていいから、私たちはあの箱を開《あ》けてみます。すみませんがその嚢を貸して下さいな、クロスリーさんのおかみさん。私たちの貰う権利のあるだけのお金を入れて来るんですから。」
 もちろん、私は母と一緒に行くと言った。また、もちろん、人々はみんな私たちのことを無鉄砲だと呶鳴《どな》った。が、それでもなお、一緒に行ってやろうという者は一人もなかった。ただ、私たちが襲われないようにと、弾丸を籠めた一挺のピストルを私に渡してくれ、また帰りに追いかけられた場合の用意に、馬にちゃんと鞍をつけておこうと約束してくれただけだった。一方、一人の若者が、武装した援助の人を探しに、医師の許へ馬を走らせることになった。
 私たち二人がその寒い晩この危険な冒険に出かけた時には、私の胸はひどくどきどきと動悸うった。ちょうど満月が昇り始めていて、霧の上の方の縁《へり》を通して赤くほのかに現れた。このために私たちはますます急いだ。という訳は、これでは、再び出て来る前に、すっかり昼のように明るくなっていて、家から私たちの出るのが見張っている者どもに見つけられてしまうことは、明かだったからである。私たちは音を立てずに速く生垣に沿うて走って行った。また、私たちの恐怖の念を増すものは何一つ見もしなければ聞きもしなかった。そしてとうとう「ベンボー提督屋」へ着いて、入口の扉《ドア》を背後にぴたりと閉めると、まったくほっとした。
 私がすぐさま閂《かんぬき》をさし、私たちは、船長の死体のある家の中にただ二人きりで、暗闇《くらやみ》の中でちょっとの間はあはあ喘ぎながら立っていた。それから母が帳場から蝋燭を取って来て、私たちは互に手を取り合いながら、談話室へ入って行った。船長は私たちの出て来た時のまま、仰向になって、眼を開いて、片腕を伸ばしながら、横っていた。
「鎧戸を下《おろ》して、ジムや。」と母が小声で言った。「あいつらが来て外から覗くかも知れないから。それからね、」と、私が鎧戸を下してしまうと、母が言った。「あれ[#「あれ」に傍点]から鍵を取らなきゃならないんだがね。あんなものに触《さわ》るなんてねえ!」そう言いながら母はしゃくり泣きのようなことをした。
 私はすぐさましゃがんで膝をついた。船長の手の近くの床《ゆか》の上に、片面を黒く塗った、小さな丸い紙片《かみきれ》があった。これがあの黒丸[#「黒丸」に傍点]であることは疑えなかった。取り上げて見ると、裏面に、頗る上手な明瞭な手跡で、こういう簡短な文句が書いてあった。「今夜十時まで待ってやる。」
「十時までなんだって、お母さん。」と私は言った。ちょうどそう言った時、家《うち》の古い掛時計が鳴り出した。この不意の音で私たちはぎょっとして跳び上った。けれども、これはよい知らせだった。というのは、まだ六時だったから。
「さあ、ジムや、あの鍵だよ。」と母が言った。
 私は彼のポケットを一つ一つ探った。小さな貨幣が二三箇に、指貫《ゆびぬき》が一つに、糸と大きな縫針、端を噛み切ってある捩巻煙草《ねじまきたばこ》が一本と、曲った柄の附いた|大形ナイフ《ガリー》と、懐中羅針儀と、それから引火奴箱《ほくちばこ》、これだけが入っているだけだったので、私は絶望し始めた。
「じゃ多分頸の周りについてるんだろうよ。」と母が言ってくれた。
 厭でたまらないのをこらへて、シャツの頸のところを引き裂くと、果して、タールまみれの紐に鍵が下げてあったので、私は彼の大形ナイフでその紐を切った。この上首尾に私たちはもう大丈夫だと思い、さっそく二階へ駆け上って船長が永い間寝泊りしていた小さな室へ入った。そこに例の箱が彼の着いた日以来置いてあるのだ。
 その箱は、外から見たところでは他の船乗衣類箱と同じようだった。蓋には「B.」という頭字《かしらじ》が烙鉄《やきがね》で烙印してあった。永い間手荒く扱われたためか角は幾分ひしゃげて壊れていた。
「鍵をおくれ。」と母が言った。そして、錠は非常に固かったけれども、瞬く間に母はそれを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して蓋をはね開けた。
 煙草とタールとの強い臭いが内部からぷんとして来たが、一番上には、入念にブラシをかけて折り摺んである一着のすこぶる上等な服の他《ほか》には、何も見えなかった。この服はまだ一度も着てない、と母は言った。その下からは、ごったまぜで、――四分儀、ブリキの小鑵が一箇、煙草が数本、ごく立派なピストルが二対、銀の棒が一本、古いスペインの懐中時計が一箇、それにあまり値打のない大抵は外国製の装身具類が幾つか、真鍮で拵えたコンパスが一つ、それから珍しい西インドの貝殻が五つ六つあった。その時以来、私は、どうして船長が悪業を犯してお尋ね者の放浪生活を送っている間この貝殻を持ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたのかと、不審に思うことがたびたびある。
 これまでに私たちの見つけた幾らかでも値打のあるものは銀と装身具だけで、これはどちらとも私たちには不向のものだった。その下に古びた船員作業服が一着あった。方々の港口の洲で海水を浴びたために白っぽくなっていた。母はいらいらしてそれをひっぱり出した。すると箱の中にある最後の物が私たちの前に現れた。油布《ゆふ》でくるんだ書類のような包と、触《さわ》ると金《かね》の音のじゃらじゃらするズックの嚢だった。
「あの悪者たちに私が正直な女だということを見せてやろう。」と母が言った。「私は自分の貰わなきゃならない分だけは貰うが、一文だって余計にゃ取らないよ。クロスリーさんのおかみさんの嚢を持っていておくれ。」そして母は船長の勘定高をその海員の嚢から私の持っている嚢の中へと数えて入れ始めた。
 それはなかなか永くかかる面倒な仕事だった。なぜなら、その貨幣はいろいろの国のさまざまの大きさのもので、――ダブルーン金貨や、ルイドール金貨や、ギニー金貨や、八銀貨や、その他私の知らないものなどが、みんなめちゃくちゃに詰め込んであったのだから。それにまた、ギニー金貨がほとんど一番少く、母に勘定の出来るのはそのギニー金貨だけなのであった。(註一九)[#「(註一九)」は行右小書き]
 私たちが半分ばかり数えた時、私は突然母の腕に手をかけた。しいんとした霜寒の空気の中に、私をぎょっとさせた音を聞いたからである。――冱《い》てついた街道をあの盲人の杖がこつ、こつ、こつと叩く音だ。私たちが息を殺して坐っている間に、その音はだんだんだんだんと近づいて来た。やがて杖で宿屋の入口の扉を強く敲いた。それから把手《とって》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す音が聞え、あの盲人めが入ろうとするのであろう、閂ががたがたいうのが聞えた。それから永い間、内も外もひっそりしていた。とうとう、また、こつ、こつと杖の音がし始めて、ゆっくりと再び微かになってゆき、ついに聞えなくなったので、私たちは言うに言われぬくらい喜び、また有難く思った。
「お母さん、みんな持って逃げて行きましょうよ。」と私が言った。きっと、扉に閂がさしてあるのが怪しいと思われて、面倒を惹き起すに違いないと思ったからである。もっとも、その閂をさしておいたことを私がどんなに有難く思ったかは、あの恐しい盲人に逢ったことのない人には到底わからないのであるが?
 しかし母は、怖がってはいる癖に、自分の当然受取るべき分より少しでもたくさん取ることを承諾しようとせず、またそれより少いのも頑固に承知しなかった。まだなかなか七時にもならない、と母は言った。母は自分の権利を知っていて、それだけを得たいというのだ。そしてなおも私と言い争っていた時に、小さな低い呼子《よびこ》の音が丘の大分離れた処で鳴った。二人ともそれを聞けば十分だった。いや、十二分だった。
「取った分だけ持ってゆくことにするよ。」と母は跳び上りながら言った。
「じゃ僕は勘定を帳消しするためにこれを持ってゆこう。」と私は油布の小包を取り上げながら言った。
 次の瞬間には、空《から》の箱のそばに蝋燭を残したまま、私たちは二人とも階下へ手探りして降りていた。その次の瞬間には扉を開けて一散に逃げ出していた。私たちの出たのは一刻も早過ぎるということはなかった。霧はずんずんと霽《は》れてゆくところであった。月はもうどちらの側の高地をもまったくはっきりと照していた。そして谷のちょうど底のところと旅店の戸口の周りだけにまだ薄い霧が破れずにかかっていて、私たちが逃げ出す初めの間だけ身を隠すことが出来たのだ。丘の麓から少ししか行かないところ、村までの半分道よりずっと手前で、私たちは月光の中に出なければならなかった。それだけではなかった。走っている何人もの跫音《あしおと》がもう私たちの耳に聞えて来たのである。その方向を振り返って見ると、灯が一つあちこちと揺れ動き頻りに速くこちらへ進んで来るので、今やって来る者どもの中の一人が角燈を持っていることがわかった。
「ねえ、お前、」と母が急に言った。「このお金を持ってずんずん逃げておくれ。私は気が遠くなりそうだから。」
 これではどうしたって私たち二人とももうおしまいだ、と私は思った。どんなに私は近所の人々の臆病を呪ったことだろう。どんなに私は母が正直であってまた慾張りであったことや、さっきは無鉄砲でありながら今は心弱くなったことを、咎めたことだろう! 幸運にも、私たちはちょうど小さな橋のところにいた。それで私はよろよろしている母を助けて土手の縁までつれて行くと、果して、母はほっと吐息《といき》をついて私の肩にぐったりと倒れかかった。私はどうしてそれだけの力が出たのかわからないし、手荒なことをしたのかも知れないが、とにかく、どうにかこうにか母を橋のアーチの下から少し離れた土手の下へ曳きずって行った。それ以上は動かすことが出来なかった。橋があまり低くてその下は私が這ってゆけるだけだったからである。そういう訳で私たちはそこに止《とど》まっていなければならなかったが、――母はほとんど全身が見えるところにいたし、二人とも宿屋から声の聞えるところにいたのである。

第五章 盲人の最期

 私の好奇心は、或る意味で、私の恐怖の念よりも強かった。なぜなら、私は自分のいた処にじっとしていられなくて、再び土手へ這い上ったからで、そこから、頭を金雀花《えにしだ》の茂みの後に隠して、私の家の前の街道を見渡そうと思ったのである。私がちょうどよい場所を占めるか占めないに、敵どもはやって来始めた。七八人で、ばたばたと調子を乱した足音をさせながら街道を激しく走り、角燈を持った男が数歩先に立っていた。三人の男が互に手を取り合って一緒に走っていたが、霧を通してながらも、この三人組の真中の男が例の盲乞食だと私は見て取った。次の瞬間、その男の声で私の思った通りだということがわかった。
「戸をぶっ壊せ!」と彼が叫んだ。
「よしきた!」と二三人が答えた。そして「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へどっと突進し、角燈持ちがそれに続いた。それから私には彼等が立ち止ったのが見え、今までとは低い調子で何か言っているのが聞えた。戸口が開いているのを見てびっくりしたのであろう。しかしその静かなのはしばらくしか続かなかった。盲人が再び命令を下したのである。彼があせって怒り狂っているかのように、その声はさらに大きく高く響きわたった。
「入《へえ》れ、入れ、入れ!」と彼は喚《わめ》き、皆がぐずぐずしているのを罵った。
 四五人の者が直ちに命令に従い、二人がその怖しい乞食と共に街道に残った。しばらく間《ま》があったが、やがて驚きの叫び声がし、それから家の中から喚く声がした。――
「ビルの奴あ死んでるぞ!」
 しかし盲人は再び彼等がぐずぐずしているのを口ぎたなく罵った。
「ずるけ野郎ども、二三人で奴の体《からだ》を調べるんだ。残りの奴らは上へ行って箱を手に入れろ。」と彼は叫んだ。
 彼等の足が私の家の古い階段をがたがたっと駆け上る音が私に聞えた。あれでは家はぐらぐら揺れたに違いない。それからすぐ後に、またびっくりした声が起った。船長の室の窓がばたんと開《あ》け放され、硝子ががちゃんと壊れる音がした。そして一人の男が月光の中へ頭と肩とをぐっと出して、その下の街道にいる盲乞食に話しかけた。
「おい、ピュー、」と彼が叫んだ。「先に来た奴らがいるんだ。だれかが箱をすっかり掻き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してあるぜ。」
「あれぁあるか?」とピユーが呶鳴《どな》った。
「金《かね》はあるよ。」
 盲人は金なんぞ糞喰らえだと言った。
「フリントの書《け》えたものがあるか、ってえんだ。」と叫んだ。
「それぁここにゃ見えねえ。」とその男は答えた。
「じゃあ、下にいる野郎ども、ビルの体についてやしねえか?」と盲人が再び叫んだ。
 すると、多分船長の体を調べるために階下に残っていた男であろう、別の奴が宿屋の戸口のところへ出て来て、「ビルの体はもうすっかり検査してあらあ。何一つ残っちゃいねえ。」と言った。
「じゃ宿屋の奴らだ、――あの小僧だ。奴の眼をくり抜いてくれりゃあよかった!」と盲人のピューが叫んだ。「奴らはたった今ここにいたんだ、――俺が入《へえ》ろうとした時に戸に閂をさしていやがったんだ。おい、みんな、散らばって、奴らを見つけ出せ。」
「違《ちげ》えねえ、奴らはここに燈《ひ》を残してゆきやがった。」と窓のところにいる奴が言った。
「散らばって奴らを見つけ出せい! 家を探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ!」とピューは杖で街道を敲きながら繰返して言った。
 それに続いて、私の古い家中が大騒ぎになった。ずっしりした足があちこちとどやどや歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。家具がひっくり返される。扉が蹴破られる。あたりの岩までが反響するくらいだった。それから、その連中は一人一人再び街道へ出て来て、家の者たちがどこにも見当らないと言った。ちょうどこの時、さっき死んだ船長の金を数えていた母と私とを狼狽させたと同じ呼子の音が、もう一度夜気を擘《つんざ》いてはっきりと聞えたが、この時は二回繰返して鳴った。私は前にはそれを盲人が仲間を襲撃に呼び集める彼のいわば喇叭《らっぱ》のようなものと思っていたのであった。が、今度は、それが村の近くの丘辺からの合図で、それを聞いた時の海賊どもの様子から考えて、危険が迫っていることを彼等に警告する合図であるということが、わかった。
「ダークがまた鳴らしたぜ。」と一人が言った。「二度だぞ! 引揚げなきゃなるめえ、兄弟《きょうでえ》。」
「引揚げるだと、この卑怯者め!」とピューが叫んだ。「ダークは初めっから馬鹿で臆病者なんだ、――あんな野郎にゃ構うこたぁねえ。奴らはすぐ近くにいるに違えねえんだ。遠くへ行ってるはずはねえ。つかめえているも同じだ。散らばって奴らを捜せ、やくざども! えい、畜生、俺に眼が見えたらなあ!」と喚いた。
 この言葉は幾らか利目《ききめ》があったらしい。二人の男ががらくた物の間をここかしこと探し始めたが、しかし、私には、本気にやっているのではなくて、始終自分の身の危険に半ば気を配っているように思われた。一方、他の連中は街道にぐずついて立っていた。
「この馬鹿野郎どもめ、何万両が手に入《へえ》ろうってのに、尻込みしてやがるなんて! あれを見つけ出しゃあ、手前《てめえ》たちは王様みてえに金持になれるんだ。それがここにあるってことがわかってながら、もじもじして突っ立ってやがる。手前たちの中にゃビルに面と向えた奴が一人もなかったんだ。それを俺がやったんだぞ、――この盲人《めくら》がな! それだのに手前たちのために俺は運をなくしなきゃならねえ! 馬車を乗り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]せようってのに、這《へ》えつくばいの乞食になって、ラムを貰って歩かなきゃならねえんだ! 手前たちにビスケットについている虫だけの勇気でもありゃあ、奴らを掴めえられるんだがなあ。」
「ちぇっ、ピュー、己たちぁダブルーン金貨を手に入れたんだぞ!」と一人がぶつぶつ言った。
「奴らがあのいまいましい物を隠したんかも知れねえ。」と別の男が言った。「ジョージ金貨(註二〇)[#「(註二〇)」は行右小書き]をやるからな、ピュー、ぎゃあぎゃあいうのはよせよ。」
 ぎゃあぎゃあいうとは当嵌《あてはま》った言葉であった。こういう反対を受けてピューの憤怒はますますひどくなった。ついにはまったく逆上してしまって、右に左に盲滅法彼等に打ってかかり、彼の杖で一人ならずしたたか殴りつけられる音がした。
 彼等の方も、盲の悪漢を罵り返し、ひどい言葉で嚇《おど》しつけ、彼の杖を掴んで※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ取ろうとしたが駄目だった。
 この喧嘩《けんか》で私たちは助かったのだ。こうしてまだ盛んに暴《あば》れている間に、村の側にある丘の上から別の物音が聞えて来た。――駆けて来る馬の蹄の音である。それとほとんど同時に、生垣の方からピストルの音がしてぱっと火花を発した。これは明かに危険を知らせる最後の合図であった。なぜなら、海賊どもは直ちに向を変えて四方八方へ分れて走り出したから。或る者は入江伝いに海の方へゆき、或る者は丘を斜に横切ってゆきなどして、半|分《ぷん》とたたないうちに彼等の影も見えなくなり、ピューだけが残された。彼を見棄てて行ったのは、狼狽のあまりか、それとも彼の悪口や打擲《ちょうちゃく》に意趣返しをするためか、私にはわからない。がとにかく彼は後に残って、狂気のように街道を行ったり来たりしながらこつこつ叩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、仲間の者を手探りしたり呼び立てたりした。その挙句に方角を間違え、私の前を通り越して村の方へ数歩走りながら、叫んだ。――
「ジョニー、黒犬《ブラック・ドッグ》、ダーク、」とその他の名も呼び、「お前《めえ》たちは年寄のピューをおいてゆくんじゃねえだろうな、兄弟《きょうでえ》、――年寄のピューをな!」
 ちょうどその時、馬蹄の音が高地の頂上に達したかと思うと、四五人の騎者の姿が月光の中に現れ、全速力で坂路を駆け下りて来た。
 これを聞いてピューは方向を間違えていたのに気がつき、きゃっと叫んで向を変え、溝の方へまっすぐに走って、その中へ転《ころ》げ込んだ。しかし彼はすぐさま再び立ち上って、また駆け出したが、今度はすっかり顛倒していたので、走って来る一番近い馬の真下へ突き進んだ。
 騎手は彼を救おうとしたが、駄目だった。悲鳴をあげてばったりとピューは倒れ、その声は夜の空気の中へ高く響きわたった。四つの蹄は彼を踏みにじり蹴飛ばして通り過ぎた。彼は横倒しに倒れ、それからぐにゃりと俯向になって、それっきり動かなくなった。
 私は跳び立って、馬に乗っている人たちに声をかけた。彼等もこの椿事《ちんじ》にびっくりして、ともかく馬を留めようとしていた。それで彼等が何者か私にはすぐにわかった。皆の後に後《おく》れてやって来たのは、村からリヴジー先生の許へ行った若者であった。その他の人々は税務署の役人たちで、その若者は途中でこの人たちに会い、気転を利かして一緒に直ちに引返して来たのだ。例の帆船《ラッガー》がキット入江に入っているという知らせが監督官のダンスさんの耳に入ったので、彼はその晩私の家の方向へやって来たのだった。そのお蔭で母と私とは命拾いをしたのである。
 ピューは死んでいた。まったくことぎれていた。母の方は、村まで運んで行って、冷い水を少しや嗅塩《かぎしお》(註二一)[#「(註二一)」は行右小書き]や何やをやると、間もなく再び正気に返った。怖がったのだがそのために別条はなかった。しかしまだ受取るお金の足りなかったことをこぼし続けていた。一方、監督官は出来るだけ速くキット入江へ馬を走らせた。けれども彼の部下の人たちは、馬から下りて、それをひっぱったり、時には支えてやったりして、その上絶えず伏兵を恐れながら、峡谷を手探って下って行かねばならなかったので、皆が入江へ下り着いた時には、例の帆船がすでに錨を上げて航進し始めていたのは、怪しむに当らないことだった。もっとも、船はまだ入江の中にはいた。監督官はその船に声をかけた。すると中からだれかの声が答えて、月明りのところへ出ないようにしろ、さもないと弾《たま》を喰らうぞ、と言った。そして同時に、一発の弾丸がぴゅうっと飛んで来て彼の腕を掠めた。それから間もなく、帆船は岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って見えなくなってしまった。ダンスさんは、彼の言葉で言えば、「水を離れた魚《さかな》みたいに」そこに突っ立った。もうこうなっては出来ることはB――へ急いで人をやって税関の監視船に知らせてやることだけだった。「でもそうしたところでまず何にもなるまい。奴らはすっかり逃げてしまって、もうおしまいだからな。」と彼は言って、「ただ、私《わたし》はピュー先生を踏んづけてやったのは愉快だよ。」と言い足した。この時までには彼は私の話を聞いて知っていたからである。
 私は彼と一緒に「ベンボー提督屋」へ戻ったが、あれほどめちゃめちゃになった家は諸君にも想像出来ないくらいである。掛時計さえも、あいつらが母と私とを乱暴に探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた間に叩き落されていた。そして、実際に持って行かれたものは、船長のあの金嚢《かねぶくろ》と、銭箱の中の銀貨が少しとだけではあったけれども、私にはすぐに私たちの家《うち》はもう潰されたということがわかった。ダンスさんにはこの場の有様が合点がゆかなかった。
「奴らは金を持って行ったと言うんだね? ふうん、とすると、ホーキンズ、奴らの探していたのは一体何だい? もっと金がほしかったのかな?」
「いいえ、お金じゃないと思います。」と私は答えた。「実は、私の胸ポケットに持っている物だと思うのです。実を申しますと、それを安全なところへ置きたいんですが。」
「なるほどね。いいとも。」と彼は言った。「よければ、私が預ってあげよう。」
「私は、多分、リヴジー先生が――」と私が言いかけた。
「まったくそうだ。」と彼はごく機嫌よく私の言葉を遮った。「まったくそうだよ、――紳士で治安判事だからね。で、今思いついたんだが、私もあそこへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、あの人か大地主さんに報告した方がよかろう。ピューさんは死んだのだ、何と言ったところでな。と言って、私はそれを残念に思う訳じゃないが、とにかく彼は死んだんだ。で、世間の人たちはこのことを種にして陛下の税務署の役人を非難するだろう、もし種に出来ればだ。でね、どうだい、ホーキンズ。よければ、一緒につれて行ってあげよう。」
 私はその言葉に対して心から彼に礼を言った。そして二人は馬の繋いである村へ歩いて戻った。私が自分のつもりを母に話してしまった時分には、一同はもう馬に跨っていた。
「ドッガー、君の馬はいい馬だから、この子を君の後《うしろ》に乗せてあげ給え。」とダンスさんが言った。
 私がドッガーの帯革につかまって馬に乗るや否や、監督官は命令を下し、一行はぽかぽかと早足で街道をリヴジー先生の家へと向った。

第六章 船長の書類

 私たちは途中をずっと疾く馬を走らせて、とうとうリヴジー先生の家の戸口の前に停った。家は前面から見ると真暗《まっくら》だった。
 ダンスさんが私に跳び下りて戸を敲いてくれと言ったので、ドッガーのくれた鐙《あぶみ》にぶら下って私は降りた。ほとんどすぐに女中が戸を開いた。
「リヴジー先生はいらっしゃいますか?」と私は尋ねた。
 いいえ、と女中は言った。先生は午後帰って来たのだが、お屋敷へ晩餐によばれて行って、今夜は大地主さんと一緒に過している、とのことだった。
「それではそこへ行こう、諸君。」とダンスさんが言った。
 今度は、道程《みちのり》が近かったので、私は馬には乗らずに、ドッガーの鐙革《あぶみかわ》につかまりながら門番小屋附の門まで走って行った。そこから、葉が落ちてしまって、月光に照されている、長い並木路を上って、屋敷の建物の白い輪廓が大きな古い庭園を両側に見渡している処まで来た。ここでダンスさんは馬から下りて、私を一緒につれてゆき、一言通ずると、家の中へ通された。
 下男は私たちを導いて筵《むしろ》を敷いた廊下を通ってゆき、ついに大きな書斎へと案内した。書棚がぎっしりと列んでいて、その一つ一つの書棚の上には胸像が置いてあった。そこに、大地主さんとリヴジー先生とが、パイプを手にして、真赤に燃えている炉火の両側に腰掛けていた。
 私は大地主さんをそんなに間近に見たことがそれまでに一度もなかった。彼は六フィート以上もある背の高い人で、それに相応して幅もあり、無骨な豪傑風の顔は、永い間の旅行ですっかり荒れて赤らみ皺がよっていた。眉毛は真黒で、すぐぴりぴり動いた。そのために、怒りっぽいというのではないが、気短で傲慢といったような顔付に見えた。
「お入りなさい、ダンス君。」と彼はすこぶる厳かに、また丁寧に言った。
「やあ、今晩は、ダンス。」と医師は頷いて会釈しながら言った。「それから、ジムも、今晩は。どういう風の吹き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しでここへやって来たのかね?」
 税務監督官は硬くなって直立しながら、学課をやるように一部始終の話をした。すると、二人の紳士がどんなに身を乗り出し、互に顔を見合せ、驚きと興味とのために煙草を吸ふのも忘れていたかは、諸君にお目にかけたかったくらいであった。私の母が宿屋へ引返したところまで聞くと、リヴジー先生は腿をぽんと打ち、大地主さんは「えらいぞ!」と叫んで、その途端に持っていた長いパイプを炉の鉄格子にぶっつけて折ってしまった。話のすむ大分前から、トゥリローニーさん(というのは、覚えておられるであろうが、大地主さんの名である)は自分の席から立ち上って、室内を大胯に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたし、医師は、もっとよく聞き取ろうとでもするように、髪粉をつけた仮髪《かつら》を脱いで腰掛けていて、その短く刈込んだ黒い頭はまったくすこぶる珍妙に見えた。
 とうとうダンスさんは話を終った。
「ダンス君、」と大地主さんが言った。「君はなかなか立派な男だ。それから、その腹黒い極悪な不埒者を馬蹄にかけたことは、私《わたし》は善行だと思うねえ、君。油虫を踏み潰したようなものだよ。このホーキンズという子も偉い。ホーキンズ、そのベルを鳴らしてくれないか? ダンス君にビールをあげなくちゃならんから。」
「それで、ジム、」と先生が言った。「君は奴らの探していた物を持っているんだね?」
「はい、ここにあります。」と私は言って、油布の包を彼に渡した。
 医師はそれをつくづく眺めながら、開けたくて指をむずむずさせていたようだった。が、開けないで、静かに上衣のポケットの中へしまった。
「大地主さん、」と彼は言った。「ダンスはビールを頂戴したら、無論、陛下の御用を勤めに行かねばなりません。しかし、ジム・ホーキンズは私の家《うち》に泊めるためにここにいさせたいと思いますから、御免を蒙って、冷《コールド》パイを取りよせて、ジムに夕食を食べさせたいのですが。」
「どうぞ、リヴジー君。」と大地主さんが言った。「ホーキンズは冷《コールド》パイなんぞよりももっといいものを手に入れたんだ。」
 そこで大きな鳩パイが運ばれて側《サイド》テーブルに載せられ、私は鷹のように空腹だったので、たっぷり食べた。その間にダンスさんはなおいろいろとお世辞を言われて、やがて引下って行った。
「ところで、大地主さん。」と医師が言った。
「ところで、リヴジー君。」と大地主さんが同じ瞬間に言った。
「一時《いちどき》にゃ一人ずつ、一時にゃ一人ずつ。」とリヴジー先生が笑った。「あなたは今のフリントのことを聞いたことがおありでしょうな?」
「聞いたことがあるかって!」と大地主さんが叫んだ。「あるどころじゃないさ! あいつはこの上なしという残忍な海賊だった。黒髯《ブラックビアド》(註二二)[#「(註二二)」は行右小書き]だってフリントに比べれぁ子供みたいなものだった。スペイン人が彼をべらぼうに恐れておったので、私は、実際、時には彼がイギリス人であるのを自慢したこともあったくらいだよ。私はトゥリニダッド(註二三)[#「(註二三)」は行右小書き]の沖であいつの船の中檣帆《トップスル》をこの眼で見たことがあるが、私の乗っていた船の臆病船長の大馬鹿野郎めが引返したのだ、――引返したんだよ、君、スペイン港(註二四)[#「(註二四)」は行右小書き]へな。」
「いや、私も彼のことはイングランドで聞いたことがありますがね。」と医師が言った。「しかし要点は、彼は金《かね》を持っていたろうか? ということです。」
「金だって!」と大地主さんが叫んだ。「君はさっきの話を聞かなかったのかい? あの悪党どもの探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているのが金でなくて何だね? あいつらが金でなくって何をほしがるものかね? あいつらが碌でなしの命《いのち》を賭けるのは金でなくって何のためかね?」
「それはやがてわかるでしょう。」と医師が答えた。「だがあなたのように滅法に熱してしまって大声を出されては、私は一|言《こと》も口を出せませんよ。私の知りたいのはこういうことなんです。このポケットに私の持っているものが、フリントが宝を埋めた場所の何かの手掛りになるとして、その宝は多額のものだろうか? ということですよ。」
「多額だともさ、君!」と大地主さんは叫んだ。「もし君の今言ったような手掛りがあるとすれば、私はブリストルの波止場で船を一艘艤装して、君やこのホーキンズを一緒につれて行って、たとい一年かかってもその宝を探し出すつもりだ。それくらいの額はあるだろうよ。」
「よろしい。」と医師が言った。「それでは、ジムが承知なら、この包を開けてみましょう。」と彼はそれを自分の前のテーブルの上に置いた。包は縫いつけてあったので、医師は自分の器械箱を持ち出して来て、医療鋏で縫目を切らなければならなかった。中には二つの物が入っていた、――一冊の帳薄と、封緘した一枚の紙と。
「まず先に帳簿の方を調べてみよう。」と医師が言った。
 彼がそれを開ける時には彼の肩越しに大地主さんも私も二人とも覗きこんでいた。私は、リヴジー先生が親切に手招きしてくれたので、食事をしていた側テーブルを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、その詮索の楽しみに与《あずか》りに行っていたのである。最初の頁には、ペンを手に持った人が無駄書きか練習にやったような、書き散らした文字があるだけだった。その中の一つは例の文身《いれずみ》の文句と同じ「ビリー・ボーンズ お気に入り」というのであった。それから、「副船長W・ボーンズ氏」というのと、「ラムもうなくなる」というのと、「パーム礁島(註二五)[#「(註二五)」は行右小書き]沖で彼はあいつを貰った」というのがあった。他にも幾つか文句があったが、大抵は一語のもので読めなかった。私は、「あいつを貰った」のはだれなのか、またその男の貰った「あいつ」とは何なのか、不審に思わずにはいられなかった。大方、背中にナイフでも喰らったのだろう。
「これぁ大して得るところがないな。」とリヴジー先生が言って、頁をめくった。
 次の十一二頁には、奇妙な記入が一杯にしてあった。行の一端に日附があり、もう一方の端に金額が書いてあることは、普通の会計簿と同様であるが、しかし、説明の文句の代りに、二つの間にはただ違った数の十字記号だけが記《しる》してあった。例えば、一七四五年の六月十二日には、七十ポンドの額が明かにだれかに支払ったことになっているが、その事由の説明としては十字記号が六つ記《しる》してあるばかりであった。もっとも、「カラカス(註二六)[#「(註二六)」は行右小書き]沖」というように場所の名や、または六二度一七分二〇秒、一九度二分四〇秒というように単に緯度経度が、書き加えてあるところも少しはあった。
 この記録はかれこれ二十年以上も続いていて、年月がたつにつれて一々の記入高が大きくなってゆき、終りに、五六度間違った寄算をした後に総高が出してあって、「ボーンズの身代」という言葉が書き加えてあった。
「何のことだか私にはさっぱりわからん。」とリヴジー先生が言った。
「真昼のように明白だよ。」と大地主さんが大声で言った。「これはあの腹黒の畜生めの会計簿さ。この十字記号は奴らの沈めた船か掠奪した町の名の代りなんだ。金高はあの無頼漢の貰った分前だし、それから、曖昧ではいけないと奴《やっこ》さんの思ったところでは、何とか幾分はっきりと書き足してあるだろう。それ、『カラカス沖』とあるね。これは、その海岸の沖で海賊どもに乗り込まれた不幸な船があったということなんだよ。可哀そうに、その船に乗っていた人たちはねえ、――とっくの昔に珊瑚になっているだろうよ。(註二七)[#「(註二七)」は行右小書き]」
「なるほど!」と医師が言った。「さすがに旅行家は違ったものだ。いや、その通り! そして、この男の地位が上るにつれて、金高が殖えていますね。」
 この帳簿には、その他に、終り近くの白紙のところに記《しる》してある二三の場所の方位と、フランスと、イギリスと、スペインの金《かね》を共通の価格に換算する表くらいしかなかった。
「倹約家《しまつや》だ!」と医師が叫んだ。「この男は騙《だま》されるような人間じゃなかったですな。」
「ところで今度はもう一つの方だ。」と大地主さんが言った。
 紙の方は、封印の代りに指貫《ゆびぬき》で幾箇処も封緘してあった。多分、私が船長のポケットの中にあるのを見つけたあの指貫だろう。医師はその封緘を非常に注意して開けると、ばらりと現れ出たのは、或る島の地図(註二八)[#「(註二八)」は行右小書き]で、緯度経度、水深、山や湾や入海の名、それから船をその海岸の安全な碇泊所に入れるに必要らしいあらゆる細目なども書いてあった。その島は長さ約九マイル、幅五マイルで、肥った竜が立ち上ったといったような形をしていて、陸で囲まれた良港が二つあり、中央部には「遠眼鏡《スパイグラース》山」と記された山があった。それより後の日附の書き加えが幾つかあったが、とりわけ、赤インクで書いた十字記号が三つあって、」――その二つは島の北部に、一つは南西部にあり、この後の十字記号のそばには、同じ赤インクで、船長のたどたどしい筆蹟とはよほど違った」小さな、綺麗な手蹟で、「宝の大部分はここに。」――と書いてあった。
 裏には、同じ手蹟で、次のようなさらに詳しいことが書いてあった。――

「北北東より一ポイント(註二九)[#「(註二九)」は行右小書き]北に位して、遠眼鏡の肩、高い木。
 骸骨島東南東微東。
 十フィート。
 銀の棒は北の隠し場にあり。東高台の傾斜面にて、黒い断巌に面を向けてその十尋南のところに見出すを得。
 武器は、北浦の岬の北方、東に位し四分の一ポイント北に寄れる砂丘に容易に見出さる                      
 J・F。

 これだけだった。が、簡短なものではあり、私には理解の出来ないものではあったけれども、これを見ると大地主さんとリヴジー先生とは大喜びだった。
「リヴジー君、」と大地主さんが言った。「君は厄介な医者商売なんぞはさっそくやめだね。明日《あす》私はブリストルへ立つ。三週間のうちに――三週間だぜ!――いや、二週間で――十日でだ、――我々はイギリスでも最上の船とだね、君、それから選り抜きの乗組員を手に入れるのだ。ホーキンズは船室給仕《ケビンボーイ》になって来るんだ。お前は素敵な船室給仕になるよ、ホーキンズ。君は、リヴジー君、船医だ。私は司令官になる。レッドルースと、ジョイスと、ハンターもつれてゆこう。我々は、順風を受けて、速く航海し、何の苦もなくその場所を見つけ、どうにも出来んほどの――あり余るほどの金を手に入れて、――それからはずっと金が湯水のように使えるようになるんだ。」
「トゥリローニーさん、」と医師が言った。「私は御一緒に行きますよ。それからジムも行くことは私が請合います。ジムはきっとこの企ての誉《ほまれ》たる者になるでしょう。ただ、私には気にかかる人が一人だけいます。」
「で、それぁだれだい?」と大地主さんが大声で言った。「君、其奴《そやつ》の名を言い給え!」
「あなたです。」と医師が答えた。「あなたは口を慎めないからです。この紙のことを知っているのは私たちだけじゃありません。あの今晩宿屋を襲った奴らや――確かに大胆な向う見ずの暴れ者たちだが――それから、例の帆船《ラッガー》に残っていた者どもも、また、恐らくあまり遠くもないところにいるその他の奴らも、みんな、水火を冒してもその金を手に入れようと決心しているんです。私たちは出帆してしまうまでは一人も離れてはなりません。ジムと私とはそれまでの間くっついていましょう。あなたはブリストルへ行かれる時にはジョイスとハンターとをつれてお出でなさい。そして、初めからおしまいまで、私たちのだれ一人も、私たちの見つけたもののことを一言も口にしてはなりません。」
「リヴジー君、」と大地主さんが答えた。「君の言われることはいつも正しい。私は墓のように黙っていますよ。」
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第二篇 船の料理番《コック》

第七章 ブリストルへ行く

 海へ出る準備が出来るまでには、大地主さんの想像したよりも永くかかった。また、私たちの最初の計画は一つとして――私をそばに置いておくというリヴジー先生の計画でさえ――思ったように実行されはしなかった。先生は留守の間を預る医者を探しにロンドンへ行かなければならなかった。大地主さんはブリストルで頻りに奔走していた。そして私は、猟場番人のレッドルース爺さんの監督の下に、ほとんど囚人のようにして、屋敷にずっと住んでいた。だが、海の空想や、見知らぬ島々や冒険などの恍惚となるような予想で、頭は一杯だった。私は例の地図のことを幾時間も打続けて考えた。その地図の細かいところまでみんなよく覚えていたのだ。家事管理人の室の炉火のそばに腰掛けながら、私は、空想の中で、あらゆる方向からその島に近づいて行き、その島の表面を残る隈なく踏査し、遠眼鏡《スパイグラース》山と言われるあの高い山に千回も攀《よ》じ登って、その頂上からいろいろに変化する素晴しい跳望を眺めて楽しんだ。時にはその島は野蛮人で一杯で、それと私たちは闘った。時には危険な獣がたくさんいて、それが私たちを追っかけて来た。しかし、そういうあらゆる空想の中でも、私たちが後に実際の冒険で出合ったような奇妙な傷ましい出来事は一つも思い浮ばなかったのである。
 こうして何週間も過ぎていったが、或る日、リヴジー先生に宛てた手紙が一通来た。それには「同氏不在の節はトム・レッドルース又はホーキンズ少年開封の事」と書き添えてあった。この命令に従って、私たちは、というよりもむしろ私は――というのは猟場番人は印刷した物の他《ほか》はうまく読めなかったからであるが――次のような重大な知らせを読んだ。――

  「一七――年三月一日
ブリストル、古錨《オールド・アンカー》 旅宿にて。

 リヴジー君、――小生は貴下が屋敷に居られるか、それともまだロンドンに居られるかわからないので、この手紙を両地へ二通出します。
 船は購入して艤装してあります。いつでも出帆出来るように準備して、碇泊している。あれより気持のよいスクーナー船(註三〇)[#「(註三〇)」は行右小書き]は貴下にも想像出来ないでしょう。――子供でも操縦が出来るかも知れない。――二百トンで、名はヒスパニオーラ号。
 この船は小生の旧友ブランドリーの周旋で手に入れたもので、彼は始めから終りまで実によくしてくれています。この感心な男は小生のために一心に働いてくれました。それからまた、ブリストルの人々も、我々の目指している港のことを――というのは宝のことだが――嗅ぎつけるや否や、だれも彼も非常によく働いてくれたと言ってもよいでしょう。」
「レッドルースさん、」と私は手紙を途中で止《や》めて言った。「リヴジー先生はこんなことは喜ばれますまいよ。あんなに言ってあったのに、大地主さんはやっぱりしゃべっておしまいになったんだね。」
「ううん、うちの旦那さまより偉《えれ》え人があるかな?」と猟場番人は唸るように言った。「大地主さんがリヴジー先生に遠慮してものが言えねえなんて、そんなべらぼうな話があるもんか。」
 そう言われたので私は説明するのは一切やめて、すぐに読み続けた。――

「ブランドリー自身がヒスパニオーラ号を見つけて、非常にうまく掛合ってごく安価で手に入れてくれたのです。ブリストルにはブランドリーをひどく毛嫌いしている連中もいます。彼等は、この正直な男を、金のためには何でもやるとか、ヒスパニオーラ号は彼のものだったのを、馬鹿に高い値で小生に売りつけたのだ、などとまで言います。――実に見え透いた中傷だ。だが、彼等の中の一人だって、この船の真価を否定する者はありません。
 今までのところは何一つ故障もありませんでした。もっとも、職工たちは――艤装人やら何やらは――じれったいくらいのろのろしていた。が、それは時のたつうちにどうにかなった。小生を悩ませたのは乗組員でした。
 小生はちょうど二十人ほしいと思いました、――土人や、海賊や、またはかの憎むべきフランス人に襲われた場合の用意にです。――そして六人だけ見つけるのにさえ非常に苦労をしました。ところがそのうちに実に素敵な幸運で小生は正に自分の必要とする男にめぐりあったのです。
 小生は波止場に立っていたのですが、その時、ほんのちょっとした偶然の機会で、その男と口を利くようになりました。聞いてみると、以前船乗をやっていた男で、今は居酒屋をやっているが、ブリストル中の船乗をみんな知っている、陸で健康を害したので、もう一度海へ出るために料理番《コック》としてのよい口を得たい、ということでした。彼の言うところでは、その朝は潮《しお》の香を嗅ぎにそこへやって来ていたのだそうです。
 小生は非常に感動して、――貴下ももし居られたらそうだったでしょう、――そして、ただ気の毒と思う情から、その場で彼を船の料理番に雇い入れました。のっぽのジョン・シルヴァーと彼は呼ばれています。そして脚が一本ありません。しかしこのことは推薦状だと小生は見倣《みな》しました。彼はかの不朽の名声あるホーク(註三一)[#「(註三一)」は行右小書き]の下で国家の為に働いてその片脚をなくしたのだからです。ところが彼には扶助料がついていないんだよ、リヴジー君。今は何という怪《け》しからん時代だろう!
 ところで、君、小生は料理番を一人見つけただけだと思ったのだが、しかし実は小生の発見したのは全乗組員であったのです。シルヴァーと小生と二人で数日の中にこの上なしの倔強な老練な水夫の一団を集めたのです。――見た目はよくはないが、その面付《つらつき》から察すれば実に性根《しょうね》のしっかりした奴らです。これならきっと軍艦でも動かせるよ。
 のっぽのジョンは小生のすでに雇い入れておいた六七人の中から二人を除けさえしました。彼は、彼等が大事な冒険には恐れなければならぬあの海に慣れぬ奴らだということを、直ちに小生に見せてくれました。
 小生は、牡牛の如《ごと》くに食い、丸太の如くに眠って、素晴しく健康で元気です。しかし、わが老練な水夫君らが揚錨絞盤《キャプスタン》の周りを足踏み鳴らして歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る(註三二)[#「(註三二)」は行右小書き]のを聞くまでは、小生は一刻をも享楽しないでしょう。さあ、海へ! 宝なんぞはどうだっていい! 小生を夢中にさせているのは海の輝きだ。だから、リヴジー君、大急ぎでやって来給え。もし貴下が小生に敬意を持つならば、一時間も無駄にし給うな。
 ホーキンズ少年は、レッドルースを守護役にして、母親に会いにやって下さい。それから二人とも全速力でブリストルへよこして下さい。
[#地から3字上げ]ジョン・トゥリローニー。
 追伸。――書き洩したが、ブランドリーは航海長に素晴しい男を見つけてくれました。――頑固な男なのは残念だが、しかし他のあらゆる点では宝のような人物だよ。ブランドリーで思い出したから序《ついで》に書いておくが、彼はもし我々が八月末までに帰って来ない場合には伴船《ともぶね》を後からよこすことになっている。それから、のっぽのジョン・シルヴァーは副船長にすこぶる有能な男を発見した。アローという名の男だ。また、呼子を吹いて号令する正式の水夫長《ボースン》もいるよ、リヴジー君。だから、ヒスパニオーラ号では万事軍艦式にやります。
 書くのを忘れていたが、シルヴァーは財産家です。小生は彼がまだ一度も借越したことのない銀行通帳を持っているのを知っています。彼は細君を残して宿屋の方をやらせるそうだ。そしてその細君というのは黒人なんだから、貴下や小生の如《ごと》き永年の独身者は、彼がまた海へ出ようとするのは、健康のためと同じく細君のためだと推量しても、もっともな次第だ。
[#地から3字上げ]J・T。
 再追伸。――ホーキンズは母親の許で一晩泊ってもよろしい。
[#地から3字上げ]J・T。」

 この手紙がどんなに私を興奮させたかは諸君も御想像出来るであろう。私は嬉しくて我を忘れるくらいであった。そしてもし私がだれかを軽蔑したことがあるとするなら、それはトム・レッドルース爺さんだった。彼はただぶつぶつ言ったり泣言を並べたりするだけだった。猟場番人の下働はだれでも喜んでレッドルースと地位を代えたろう。がそれは大地主さんの意向ではなかった。そして大地主さんの意向は彼等みんなの間では法律のようなものであったのだ。レッドルース爺さんの他にはぶつぶつ不平を言う者さえだれ一人もいなかったろう。
 その翌朝、爺さんと私とは徒歩で「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」へ向った。行ってみると母は丈夫で元気だった。永い間あれほどの苦労の種だった船長は、もう悪《あ》しき者|虐遇《しひたげ》を息《や》める処(註三三)[#「(註三三)」は行右小書き]へ行ってしまった。大地主さんは、何もかも修繕させ、食堂などや看板も塗り換えさせ、家具も幾つか買い足してくれた。――とりわけ、帳場には母のために美しい臂掛椅子が一脚買ってあった。それからまた、私が出かけて行っている間母に手不足がないようにと、小僧として子供を一人見つけて来ておいてもあった。
 この子供を見ると、私は初めて自分の立場がわかった。その瞬間までは私は目前の冒険のことばかり考えて、後に残してゆく家《うち》のことはちっとも考えていなかった。それが、今、この不器用などこかの子供を見て、これが母のそばに私の代りになってここにいるのかと思うと、初めて涙がこみ上げて来た。私はその子供に苦労させたかも知れない。というのは、彼はその仕事には新米で、私は何回となく機会のある度に彼を直してやったり叱ったりしたし、そういう機会をつかまえることにかけては私は迂濶な方ではなかったから。
 その夜が過ぎて、次の日、昼食の後に、レッドルースと私とは再び徒歩で街道へ出た。私は、何と、生れて以来住み慣れた入江と、懐しい「ベンボー提督」――彼は塗り換えられていたので、もうさほど懐しくはなかったが――とに、さよならを言った。最後に私の心に思い浮んだものの一つは、縁反帽《ふちぞりぼう》をかぶって、頬にサーベル傷をつけ、真鍮の古い望遠鏡を抱えて、たびたび浜辺を大胯に歩いていたあの船長のことであった。間もなく私たちは角を曲ったので、私の家は見えなくなった。
 黄昏《たそがれ》頃、灌木の生い茂った荒地にある「|ジョージ王《ロイアル・ジョージ》屋」のところで、私たちは駅逓馬車に乗り込んだ。私はレッドルースとでっぷり太った老紳士との間に挟み込まれた。そして、馬車は疾く動いていたし夜気は冷かったにも拘らず、私は最初からよほどうとうとしていて、やがて、宿駅から宿駅へと丘を上り谷を下りながら、ぐっすりと丸太のように眠ったに違いない。というのは、横腹を肱《ひじ》でつかれてようやく目を覚し、眼を開《あ》けて見ると、馬車は或る都会の街路の大きな建物の前に止っていて、夜はもうとっくに明けていたからである。
「どこですか?」と私は尋ねた。
「ブリストルさ。」とトムが言った。「降りるんだよ。」
 トゥリローニーさんは、スクーナー船での作業を監督するために、波止場のずっと下手にある宿屋に泊っていた。で、そこまで私たちは歩いて行かねばならなかったが、その途は埠頭に沿うていて、大小さまざまの、いろいろの艤装の、あらゆる国々の船が無数にいるそばを通ってゆくので、私の嬉しさは非常なものだった。或る船では、水夫たちが歌いながら作業をしていた。また或る船では、檣や帆桁などの、私の頭上高いところに、蜘蛛の巣ほどに細く見える索にぶら下っている人たちがいた。私は生れてからずっと海浜に育って来たのではあるが、それまでは海の近くにいたことが一度もなかったような気がした。タールや潮《しお》の香も何か物珍しいものだった。私は、いずれも遠く大洋を渡って来た、実に珍奇な船首像を見た。また、耳に環を嵌《は》め、頬髯をくるくるとちぢらせ、タールまみれの弁髪を下げて、肩で風を切りながら、不恰好《ぶかっこう》な水夫歩きをやっている、老練な水夫たちをたくさん見た。たといそれだけの人数の王様や大僧正を見たにしたところで、私はそれ以上に喜びはしなかったろう。
 そして私自身も航海に出ようとしているのだ。呼子を吹いて号令する水夫長や、弁髪を垂れて船唄を歌う海員たちと一緒に、スクーナー船に乗って航海に出ようとしているのだ。まだ知らない島へ向けて、埋められた宝を捜しに、航海に出ようとしているのだ!
 私がなおもこういう喜ばしい夢想に耽っている間に、私たちは不意に或る大きな宿屋の前へ出て、大地主のトゥリローニーさんに出会った。大地主さんは、丈夫な青い服を着用して、すっかり船の士官のように着飾り、顔をにこにこさせながら、水夫の歩き方を素敵にうまく真似て、戸口から出て来るところだった。
「やあ、やって来たな。」と彼は叫んだ。「先生も昨夜《ゆうべ》ロンドンから来られたよ。万歳! これで船の乗組員がすっかり揃ったぞ!」
「おお、そうですか。」と私は叫んだ。「でいつ出帆するんですか?」
「出帆か!」と彼は言った。「うむ、明日《あす》出帆するんだ!」

第八章 「遠眼鏡《スパイグラース》屋」の店で

 私が朝食をすませると、大地主さんが「遠眼鏡《スパイグラース》屋」の店のジョン・シルヴァーに宛てた手紙を一通私に渡して、波止場に沿うて、大きな真鍮の望遠鏡を看板にした小さな居酒屋をよく気をつけて行けば、訳なくそこが見つかる、と言ってくれた。私は、船や水夫をもっと見られる機会が出来たのに大喜びで、出かけてゆき、ちょうど波止場が今が一番忙しい時だったので、人や車や荷物がひどく込合っている間を拾い歩きし、やがてその居酒屋を見つけた。
 それはなかなか立派な小ぢんまりした酒場だった。看板は近頃塗り換えたもので、窓には瀟洒な赤いカーテンが掛っており、床《ゆか》には綺麗に砂が撒いてあった。両側に街路があり、どちら側にも開け放した扉《ドア》があったので、その天井の低い大きな室は、煙草の煙が濛々としていたのに、かなりよく見通された。
 客は大部分船乗だった。そしてずいぶん大きな声でしゃべり合っているので、私は、入ってゆくのが怖《こわ》いような気がして、戸口でためらっていた。
 そうしてぐずぐずしている時に、一人の男が脇の室から出て来たが、私は一目でそれがのっぽのジョンに違いないと思った。左の脚がほとんど股のつけ根のところから切れており、左の腋の下に※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖《かせづえ》(註三四)[#「(註三四)」は行右小書き]を持っていて、それを驚くべく器用に扱い、それをあてて鳥のようにぴょんぴょん跳び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた。大層|丈《たけ》が高くて巌乗な男で、顔はハムのように大きく、――不器量で蒼白いが、利口そうでにこにこしていた。実際、非常に機嫌がよいらしく、口笛を吹きながらテーブルの間を動き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、贔屓《ひいき》の客人たちには愛想のいい言葉をかけたり、その肩をぽんと叩いたりしていた。
 さて、実を言うと、私は、大地主のトゥリローニーさんの手紙にのっぽのジョンのことを書いてあるのを見た実に最初の時から、その男こそ私が「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」で永い間見張っていたあの一本脚の水夫ではあるまいかと、心の中で恐れを抱いていたのであった。しかし今目前にいる男を一目見ただけで十分だった。私は船長や、黒犬《ブラック・ドッグ》や、盲人のピューを見ていたので、海賊がどんなようなものかということは知っているつもりだった。――海賊とは、私の考えによれば、このさっぱりした快活な気質の亭主とはまるで違った人間なのだ。
 私は直ちに勇気を出して、閾《しきい》を跨ぎ、その男が※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れながら一人の客と話している処へ、まっすぐに歩いて行った。
「シルヴァーさんですね?」と私は尋ねて、手紙を差し出した。
「そうですよ。」と彼が言った。「いかにも、それがわっしの名でさあ。してあんたはだれですかね?」それから大地主さんの手紙を見ると、彼は何だかぎょっとしたように私には思われた。
「おお!」と彼は、手を差し出しながら、大層大きな声をして言った。「なるほど。君はわっしたちの今度の船室給仕《ケビンボーイ》だね。やあ、初めて。」
 そして彼は私の手を大きな掌の中にしっかりと握った。
 ちょうどその時、ずっと向うの方にいた客の一人が、急に立ち上って、扉の方に進んだ。その扉は彼のじきそばにあったので、彼はすぐに街路へ出てしまった。しかしそのあわただしい様子が私の注意を惹き、私は一目でそれがだれだかわかった。それは、「ベンボー提督屋」へ最初にやって来た、指の二本ない、あの蒼白い顔をした男だった。
「おお、あいつを止めて! あれは黒犬《ブラック・ドッグ》だ!」と私は叫んだ。
「だれだろうと構やしねえが、しかし奴あ勘定を払ってねえんだ。おい、ハリー、走ってって奴を掴めえてくれ。」とシルヴァーが叫んだ。
 するとその扉の一番近くにいた中《うち》の一人が跳び立って、後を追っかけて行った。
「よしんば奴がホーク大将にしろ勘定は払わせてやる。」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。それから私の手を放して、――「奴がだれだと言いなすったかね?」と尋ねた。「黒《ブラック》、何だったかね?」
「犬《ドッグ》ですよ。」と私は言った。「トゥリローニーさんはあの海賊どものことを話しませんでしたか? あいつはあの中の一人でしたよ。」
「そうかい?」とシルヴァーが叫んだ。「わっしの店にそんな奴が! ベン、お前《めえ》走ってってハリーに加勢してくれ。あの馬鹿どもの一人だったのか、奴が? モーガン、奴と飲んでたのはお前だったな? ここまでやって来い。」
 モーガンと呼ばれた男――年寄の、白髪の、マホガニー色の顔をした水夫――は、噛煙草《かみたばこ》をもぐもぐやりながら、大分おずおずして出て来た。
「ところで、モーガン、」とのっぽのジョンはすこぶる厳《いかめ》しく言った。「お前はあの黒《ブラック》――黒犬《ブラック・ドッグ》を前に一度も見たことがねえな、え、そうだろ?」
「ねえんですよ。」とモーガンは言って、お辞儀をした。
「お前は奴の名前《なめえ》を知らなかったんだな、そうだろ?」
「そうですよ。」
「よし、トム・モーガン、そいつぁお前のためにゃ結構なこった!」と亭主は大声で言った。
「もしあんなような奴とつきあってたんなら、二度と己《おれ》の家《うち》へ足を入れさすんじゃなかったぞ。そいつぁ間違《まちげ》えっこなしだ。で、奴あお前に何と言ってたい?」
「おいらはほんとに知らねえんですよ。」とモーガンは答えた。
「お前の肩の上にのっかってるのは、そりゃあ頭か、それとも三孔滑車《みつめせみ》(註三五)[#「(註三五)」は行右小書き]か?」とのっぽのジョンは呶鳴《どな》りつけた。「ほんとに知らねえんですだと、ほんとに! 多分お前はだれと話してたのかほんとに知らねえっていうんだろ、多分な? おい、こら、あいつは何のことをしゃべってたんだ、――航海《こうけえ》のことか、船長《せんちょ》のことか、船のことか? さっさと言ってみろ! 何の話だった?」
「船底潜《ふなぞこもぐ》らせ(註三六)[#「(註三六)」は行右小書き]のことを話してたんでさ。」とモーガンが答えた。
「船底潜らせだと? 大層《てえそう》お似合なこったよ。違《ちげ》えねえや。元んとこへ戻れ、トムの間抜《まぬけ》野郎め。」
 そして、モーガンが彼の席へよろめき帰ると、シルヴァーは私に内証話のような囁き声で言ったが、それは非常に諂《へつら》うような調子に私には思えた。――
「あれぁとても正直者なんだよ、あのトム・モーガンはね。ただ頓馬《とんま》なだけでね。ところで、」と彼は声高に再びしゃべり続けて、「待てよ、――黒犬《ブラック・ドッグ》と? いいや、己ぁそんな名前は知らねえ。知らねえとも。だが、どうやら見たような気が――そうだ、見たことがある、あの野郎を。あいつはよくここへ盲乞食と一緒に来たぞ。うん、よく来たよ。」
「そうですよ、間違いありません。」と私は言った。「僕はその盲人《めくら》も知っています。ピューという名前でしたよ。」
「そうだった!」とシルヴァーは今はまったく興奮して叫んだ。「うん、ピューだ! 確かにそういう名前だった。ああ、あいつはぺてん師らしかったな、まったく! とにかく、もしあの黒犬をつかめえれば、トゥリローニー船長《せんちょ》に、いいお知らせが出来る訳だぞ! ベンはなかなか走る男だ。水夫にゃあベンくれえよく走る男はあんまりいねえ。あの男なら訳なく奴に追いつくだろう、きっとな! 奴は船底潜らせのことを話してたと? この己が[#「この己が」に傍点]奴に船底潜らせをやってやるぞ[#「やるぞ」に傍点]!」
 彼は、こういう文句を吐き出すように言っている間、始終、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖で店をあちこちとぴょんぴょん歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら、手でテーブルを叩いたり、中央刑事裁判所《オールド・ベーリー》(註三七)[#「(註三七)」は行右小書き]の裁判官やボー街(註三八)[#「(註三八)」は行右小書き]の警吏でも得心させそうなくらいの興奮した様子を見せたりしていた。「遠眼鏡屋」で黒犬を見てから私の例の疑念はすっかり再び呼び覚されていたので、私はその料理番《コック》をよく気をつけて注視していた。しかし、彼は私などにわかるには余りに心が深く、余りに悟り早く、余りに利口だった。そして、さっきの二人の男が息を切らして戻って来て、追っかけて行った奴を人込みの中で見失ってしまったと言って、まるで泥棒などのように呶鳴《どな》りつけられている頃には、私はのっぽのジョン・シルヴァーの潔白なことを請合ってもいいくらいの気持になっていたのであった。
「ねえ、ホーキンズ、」と彼は言った。「俺《わし》のような人間にもこんな情ねえ辛《つれ》えことがあるんだ。わしなあ、そうじゃねえかい? トゥリローニー船長がねえ、――あの方《かた》はどう思いなさるかなあ? いめいめしいあん畜生めが、俺の家《うち》に坐りこんで、俺んとこのラムを飲んでやがったなんて! そこへ君がやって来て、そいつをはっきり言ってくれたのだ。それだのに俺は、このいまいましい眼の前で、みすみす奴を逃がしちまったんだ! で、ホーキンズ、君は船長さんと一緒に俺を公平に判断しておくれ。君は子供だ。子供じゃあるが、ペンキみてえにはしっこい。それは君が初めて入《へえ》って来た時に俺にゃあちゃんとわかってるんだ。で、こういう訳だよ。こんな古|棒片《ぼうぎれ》をついてぴょっこぴょこ歩いてる俺に、何が出来るかね? 俺も丈夫な船長だった時なら、すぐに訳なく奴に追っついて、さっそくひっ捕えてくれるんだ。そうともよ。だがこれじゃあ――」
 と言いかけて、突然、言葉を切り、そして、何かを思い出したように口をあんぐり開けた。
「勘定を!」と彼は喚いた。「ラムが三杯だ! えい、こん畜生、勘定のことを忘れちまうなんて!」
 そして、腰掛にどかんと腰を落して、彼は涙が頬を流れ落ちるまで笑いこけた。私もそれにひきこまれずにはいられなかった。そして私たちは一緒に笑い続けたので、酒場中が鳴り響いた。
「やれやれ、己も何てやくざな老いぼれ水夫になったものだろう!」と彼はようやく頬を拭いながら言った。「君と俺とは仲よくしような、ホーキンズ。これじゃあ俺もきっと船のボーイ並《なみ》に扱われるだろうからねえ。だが、さあ、出かける用意をし給え。こうしちゃいられねえ。義務は義務だ、なあ君。俺も自分の古ぼけた縁反帽をかぶって、君と一緒にトゥリローニー船長んとこへ行って、この事件を報告するとしよう。なぜって、いいかい、これぁ大事件なんだからね、ホーキンズ君。そして、君だって俺だって、信用っていったようなものでは、これはどうもすまされんことだからね。君だってそう思うだろう。利口じゃなかったな、――俺たち二人とも利口じゃなかったさ。だが、畜生! あの勘定を取り損うなんてうめえ洒落だったよ。」
 そして彼は再び笑い始めた。余り心《しん》から笑うので、私は彼のようにその洒落はわかりはしなかったけれども、また彼と一緒になって笑い興ぜずにはいられなかった。
 埠頭に沿うて二人がしばらくの道を歩いてゆく間も、彼は実に面白い連《つれ》になってくれた。途にあるいろいろの船について、その艤装や、トン数や、国籍などを言ってくれたり、やっている作業を――これは荷卸ししているのだとか、あれは船荷を積み込んでいるところだとか、あれは出帆しようとしているのだとか――説明してくれたりした。また時々は、船や水夫などのちょっとした逸話を話してくれたり、海語を私がすっかり覚えこんでしまうまで繰返して言ってくれたりした。私はこれは実にいい船友達が出来たものだと思い始めた。
 宿屋に着くと、大地主さんとリヴジー先生とは一緒に着席していて、スクーナー船を検査に行く前に、祝杯に一クォート(註三九)[#「(註三九)」は行右小書き]のビールを飲み終えたところであった。
 のっぽのジョンは、例の話を、初めから終りまで、非常に熱心に、またまったくありのままに話した。「そういうわけでした。ね、そうだったね、ホーキンズ?」と彼は時々言い、私はその度にまったくその通りだと言うことが出来た。
 二人の紳士は黒犬が逃げたのを残念がった。が私たち皆はどうも致し方がないということに意見が一致した。そして、お愛想を言われてから、のっぽのジョンは※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を取り上げて出て行った。
「今日の午後四時までに全員乗船だぜ。」と大地主さんが彼の後から呶鳴《どな》った。
「はいはい。」と料理番は廊下で叫んだ。
「いや、大地主さん、」とリヴジー先生が言った。「私は概してあんたの発見されたものにはあまり信を措きませんが、これだけは言えますな? ジョン・シルヴァーは気に入りましたよ。」
「あの男はまったく頼もしい奴さ。」と大地主さんが断言した。
「ところで、ジムも一緒に船へ来てもいいでしょうな?」と先生が言い足した。
「無論いいとも。」と大地主さんが言った。「帽子をお持ち、ホーキンズ。船を見にゆくんだ。」

第九章 火薬と武器

 ヒスパニオーラ号は少し沖に碇泊していたので、私たちはたくさんの他の船の船首像の下を通ったり船尾を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ったりしてゆき、それらの船の錨索が、時には私たちの舟の竜骨《キール》の下で軋り、時には私たちの頭上で揺れ動いた。しかし、とうとうヒスパニオーラ号に横附けになり、上ってゆくと、副船長のアローさんが出迎えて挨拶した。日に焦《や》けた老海員で、耳に耳環をつけ、眇《すがめ》だった。この人と大地主さんとはごく親しくて仲がよかったが、トゥリローニーさんと船長との間は同じようにいっていないことに私は間もなく気づいた。
 船長は鋭敏らしい人であった。船の中のことには何もかも腹が立っているような様子で、間もなくその理由を私たちに話すことになった。私たちが船室《ケビン》の中へ下りてゆくかゆかぬに、一人の水夫が後からついて来たのである。
「スモレット船長がお話申したいとのことで。」と彼が言った。
「私はいつでも船長の命令の通りにする。お通ししろ。」と大地主さんが言った。
 船長は、その使者のすぐ後にいたので、直ちに入って来て、扉《ドア》を背後に閉《し》めた。
「で、スモレット船長、どういうお話ですかな? 万事うまくいっていてほしいものだが。万事きちんと整頓して航海にさしつかえないようになっていますか?」
「は、」と船長が言った。「たとい御立腹を蒙っても、はっきり申し上げた方がよいと思います。私《わたし》はこの航海を好みません。船員を好みません。それから副船長を好みません。これが手っ取り早いところです。」
「多分、君はこの船も好まんのだろうね?」と大地主さんが尋ねた。大層怒っているのが私にはわかった。
「まだ験《ため》してみないので、それは何とも申し上げられません。」と船長は言った。「結構な船のようです。それ以上は言えません。」
「恐らく、君は君の雇主も好まんのかも知れんね?」と大地主さんが言った。
 しかしここでリヴジー先生が口を入れた。
「ちょっと待って下さい、」と彼は言った。「ちょっと待って下さい。そういうような質問は感情を害するばかりで何にもなりゃせん。船長は言い過ぎているか、あるいは言い足りないのです。で、私は船長の言葉について説明を求めなければなりません。あなたはこの航海を好まないと言われますね。で、それはなぜですか?」
「私は、いわゆる封緘命令(註四〇)[#「(註四〇)」は行右小書き]で、その方《かた》のためにその方が命ぜられる処へこの船をやるのに雇われたのです。」と船長が言った。「そこまでは結構です。しかし私には今わかったのですが、平水夫たちが一人残らず私の知っている以上のことを知っております。これは公平じゃないと私は思います。公平だとお思いですか?」
「いや、思いませんな。」とリヴジー先生が言った。
「次にです。」と船長が言った。「私は我々が宝を探しに行くのだということを聞いております――それも、いいですが、私自身の部下から聞いたんですよ。ところで、宝というものはなかなか気をつけねばならないものです。私は宝探しの航海はどうしても好みません。しかも、それが秘密の航海で、その上(トゥリローニーさん、失礼ですが)その秘密が鸚鵡《おうむ》にまで話してあるのでは、ますます好みません。」
「シルヴァーの鸚鵡にかね?」と大地主さんが尋ねた。
「まあものの譬えがです。」と船長が言った。「べらべらしゃべってある、という意味です。どうもあなた方はお二人とも御自分のしようとしておられることがおわかりでないと思いますが、私の考えを申し上げましょう、――生きるか死ぬるか、際《きわ》どい仕事ですよ。」
「それはまったく明かなことです。そして多分その通りでしょう。」とリヴジー先生が答えた。「私たちはその危険を冒している。が、私たちはあなたの思っておられるほどに物識らずではありません。次に、あなたは乗組員を好まないと言われますね。あれらはよい水夫じゃありませんか?」
「私は好まないのです。」とスモレット船長は答えた。「その段になれば、私は自分の部下は自分で選ぶべきだったと思います。」
「多分そうあるべきだったでしょう。」と医師が答えた。「私の友人は、多分、乗組員を選ぶ時にはあなたにも一緒に来て頂くべきであったでしょう。しかし、あなたを軽んじたようなことがよしあったにしても、それは何気《なにげ》なくやったことで、故意ではありません。それから、あなたはアロー君も好まないのですね?」
「好みません。あれはよい海員だとは信じます。が、乗組員と狎々《なれなれ》し過ぎるので、よい高等船員とは申されません。副船長というものは交際を避けておるべきです、――平水夫と酒を飲んだりなぞすべきじゃありません!」
「あの男が酒を飲むというのかね?」と大地主さんが大声で言った。
「いいえ。ただ親しみ過ぎるというだけで。」と船長が答えた。
「なるほど。で、船長、結局のところは?」と医師が尋ねた。「あなたの希望されることを言って下さい。」
「さよう。あなた方は飽くまでこの航海をおやりになる決心ですか?」
「断然。」と大地主さんが答えた。
「よろしい。」と船長が言った。「それなら、私が自分の証明出来ないことを言っていたのをこれまで我慢して聞いて頂いたのですから、もう少し言うのを聞いて下さい。彼等は火薬と武器とを前部船艙に入れています。ところで、この船室《ケビン》の下によい場所があります。なぜそこへ入れないのですか? ――これが第一の点。それから、あなた方は四人の従者をつれてお出でですが、その中には前の方で寝ることになっている人もあるそうです? なぜこの船室のそばの棚寝床《バース》に寝させないのですか? ――これが第二の点。」
「まだあるのかな?」とトゥリローニーさんが尋ねた。
「もう一つです。」と船長が言った。「もう秘密が洩され過ぎています。」
「非常に洩され過ぎていますな。」と医師が相槌を打った。
「私が自分の耳で聞いたことを申し上げましょう。」とスモレット船長が続けて言った。「あなた方は或る島の地図を持っておられるそうです。その地図には宝のある処を示すのに十字記号がついているそうです。そしてその島の在る処は――」と言ってその緯度と経度とを正確に挙げた。
「私はそれを言ったことは決してない、だれ一人にも!」と大地主さんが叫んだ。
「でも船員は知っております。」と船長が返答した。
「リヴジー君、それは君かホーキンズかに違いない。」と大地主さんが叫んだ。
「だれが言ったかということは大したことじゃありません。」と医師が答えた。そして私にはわかったが、医師も船長もどちらともトゥリローニーさんの抗弁には大して顧慮しなかった。実際のところ、私だってそうだった。大地主さんは実に口に締りのないおしゃべり屋だったから。だが、この場合には私はほんとうに彼の言った通りだろうと思うし、まただれも島の位置まで言った者はなかったのだと思う。
「ところで」と船長が続けて言った。「私はどなたがその地図を持っておられるかは存じません。しかし、それは私やアロー君にだって秘密にしておいて頂きたいと、私は主張します。でなければ私は辞職させて頂きたいと思います。」
「なるほど。」と医師が言った。「あなたは私たちに、その事を秘密にしておいて、それから、ここに私の友人の従者たちを置き、船内のすべての武器と火薬とを備えて、船尾の部分を守備所にして貰いたい、と言われるのですね。つまり、あなたは暴動を気遣っておられるのですね。」
「もしもし、」とスモレット船長が言った。「別に気を悪くするつもりではありませんが、言うべきことを私に教えられる権利はお持ちにならんはずです。もし船長にそんなことが言えるだけの根拠があれば、まったく航海などする理由はない訳でしょう。アロー君のことを言えば、あれはまったく正直な男だと私は信じています。船員たちの或る者もそうです。いや、みんな案外正直者かも知れません。しかし、私はこの船の安全とこの船に乗っている人一人残らずの生命について責任があります。どうも、私の考えるところでは、万事が十分よくいっていないようです。それであなた方に確実な予防手段を執って頂きたいというのです。でなければ私に職を罷めさせて下さい。これだけです。」
「スモレット船長、」と医師は微笑しながら言い始めた。「大山鳴動して鼠一匹という寓話を聞かれたことがありますか? 失礼ですが、あなたはその寓話を思い出させます。あなたがここへ入って来られた時には、私は自分の仮髪《かつら》を賭けて言うが、それ以上のことを心に思っておられたのでしょう。」
「先生、」と船長が言った。「あなたは賢い方《かた》です。私がここへ来ました時には、解職させて頂くつもりでした。トゥリローニーさんが一|言《こと》でもお聞きになろうとは思いませんでしたから。」
「いかにも聞きはしなかったろうさ。」と大地主さんが叫んだ。「リヴジー君がここにいなかったら、私は君を叩き出してでいたろうよ。が実際は、このように君の言うことを聞いてやったのだ。で、まあ、君の望む通りにするとしよう。しかし、君のことはよく思わんよ。」
「それは御随意です。」と船長が言った。「私は自分の義務は果してお目にかけます。」
 そう言うと彼は立去った。
「トゥリローニーさん、」と医師が言った。「案に相違して、あなたはこの船に二人も正直な人間を乗せましたね、――あの人とジョン・シルヴァーと。」
「シルヴァーはそう言いたければ言ってもいいさ。」と大地主さんが叫んだ。「が、あの我慢の出来んいかさま師のことなら、私は断言するが、あの男の振舞は男らしくない、海員らしくない、全然イギリス人らしくない、と思うよ。」
「まあ、今にわかるでしょう。」と医師が言った。
 私たちが甲板へ出て来た時には、水夫たちはもう、よいこら、よいこらと掛声をしながら、武器と火薬とを運び出しにかかっていて、船長とアローさんとがそばに立って監督していた。
 今度の配置はまったく私の気に入った。スクーナー船全部が検査された。中部船艙の後の部分であったところに、六箇の棚寝床《バース》が船尾に拵えてあった。そしてその一組の船室は左舷の側にある円材(註四一)[#「(註四一)」は行右小書き]の出ている廊下で厨室と前甲板下水夫部屋《フォークスル》とに続いているだけだった。初めは、船長と、アローさんと、ハンターと、ジョイスと、医師と、大地主さんとがこの六つの棚寝床を占めることにきまっていたのであった。ところが今度は、レッドルースと私とがその中の二つに入ることになり、アローさんと船長とが甲板の船室昇降口室《コムパニヨン》で寝ることになった。そこは両側とも拡げられていて、最上後甲板下船室《ラウンドハウス》と言ってもいいくらいであった。もちろん、やはり天井はごく低かった。が二つの吊床《ハンモック》を吊《つる》すだけの余地はあった。そして副船長でさえこの配置には喜んでいたようだった? 多分、彼でさえ乗組員には疑いを抱いていたのであろう。だがこれはただ推量である。というのは、後にわかるように、私たちは永くは彼の世話にならなかったのだから。
 私たちが皆一所懸命に働いて、火薬と棚寝床とを移していると、その時、船員の最後の一二人と、のっぽのジョンとが、艀《はしけ》でやって来た。
 料理番《コック》は猿のようにうまく舷側《ふなばた》を上って来て、やっていることを見るや否や、「おや、兄弟《きょうでえ》! これぁ何だい?」と言った。
「火薬の場所を変えてるんだよ、ジャック。」と一人が答えた。
「やれやれ、何てこった。」とのっぽのジョンが叫んだ。「そんなことをしていちゃあ、きっと明日《あす》の朝の潮時《しおどき》をはずしちまうぜ!」
「俺《わし》の命令さ!」と船長がぶっきらぼうに言った。「お前は下へ行くがいい。みんなが夕食を待っているだろう。」
「はいはい。」と料理番は答えた。そして前髪に手を触れる敬礼をして、すぐ厨室の方へ姿を消した。
「あれはよい男ですぬ、船長」と医師が言った。
「そうかも知れませんな。」とスモレット船長は答えて、「おい、それはゆっくりやれ、ゆっくり。」と火薬を運んでいる連中に向って続けてしゃべった。それから突然、私たちが船の中央部に運んで来た旋回砲、真鍮の九ポンド砲を私が調べているのを目に留めると、――「こら、その給仕《ボーイ》、そこにいちゃいかん! 料理番《コック》のところへ行って何か手伝いをしろ。」と呶鳴《どな》った。
 それで私は急いで駆けてゆくと、彼がずいぶん大きな声で医師にこう言うのが聞えた。――
「私にはこの船で気に入った者は一人も出来ますまいよ。」
 確かに、私は大地主さんとまったく同感で、船長を心の底から憎んだ。

第十章 航海

 その夜は一晩中、私たちはいろいろの物をその各の場所にしまいこむのに大混雑し、またブランドリーさんやその他の大地主さんの知人たちが、大地主さんの平安な航海と無事の帰航とを祈りに、小舟何艘にも一杯乗ってやって来た。「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋では私にその半分の仕事があった晩も一晩だってなかった。そして、明方《あけがた》少し前に、水夫長《ボースン》が呼子を鳴らして、船員が揚錨絞盤《キャプスタン》の梃《てこ》に[#「梃《てこ》に」は底本では「挺に」]就《つ》き始めた時分には、私はへとへとに疲れていた。その二倍も疲れていたにしても、私は甲板を去りはしなかったろう。それほどすべてが私には物新しくて興味があったのだ、――簡短な号令も、呼子の鋭い音《ね》も、船の角燈のちらちらする光の中をそれぞれ自分の場所へ駆けてゆく人々も。
「さあ、|肉焼き台《バービキュー》、歌を一つやれよ。」と一人の声が叫んだ。
「あの昔のをな。」と別の声が叫んだ。
「よしきた、兄弟。」と※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れてそばに立っていたのっぽのジョンが言って、すぐに節《ふし》も文句も私のよく知っているあの唄をやり出した。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――」

すると全部の水夫が合唱《コーラス》をやった。――


「よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!」

そしてその「さあ!」のところで梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]威勢よく※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 こんな気の立った瞬間にさえ、その唄は私の心をたちまちにして懐しい「ベンボー提督屋」へつれ帰らせた。そして私にはあの船長の声がその合唱の中で歌っているのが聞えるような気がした。しかし、やがて錨がまっすぐに上げられた。やがてそれは水をぽたぽた滴らせながら船首のところにぶら下った。やがて帆が風を十分に孕み出し、陸や船が両側で飛ぶように動き出した。そして、私が一時間ばかりの眠りを貪ろうとして横になることが出来る前に、ヒスパニオーラ号はもう宝の島をさして航海を始めていたのである。
 私はその航海のことを詳細に物語ろうとは思わない。航海はかなり順調にうまくいった。船はよい船であることがわかったし、船員たちは腕利きの水夫だったし、船長は自分の任務を十分に了解していた。しかし、私たちが宝島まで来ないうちに、知っておいて貰わなければならぬ二三の事件が起った。
 第一に、アローさんが船長の気遣っていたより以上に、厄介な人間になった。水夫たちには少しも睨みが利かず、部下の者は彼に対して勝手なことをした。しかし、悪いのは決してそれだけではなかった。航海に出てから一二日たつと、彼は、眼をとろんとさせ、頬を赤くし、口を吃《ども》らせ、その他の酔っている徴候も示しながら、甲板へ出て来出したのである。幾度も彼は恥をかいて下へ行けと命ぜられた。時には自分で転《ころ》んで怪我《けが》をしたり、時には一日中あの船室昇降口室《コムパニヨン》の片側にある自分の小さい寝床の中に横になっていたり、そうかと思うと、時には、一二日の間はほとんど素面《しらふ》でいて自分の仕事を少くとも普通にやっていることもあった。
 一方、彼がどこで酒を手に入れるのか、私たちにはどうしてもわからなかった。それは船での謎だった。私たちはずいぶん彼に注意していたけれども、少しもそれを解くことが出来なかった。そして、面と向って彼に尋ねれば、酔っている時には彼はただ笑っているばかりだったし、素面の時には、水の他《ほか》は何もついぞ飲んだことがないと真面目《まじめ》くさって否定するのだった。
 彼は副船長として役に立たず、水夫たちに悪い感化を及ぼすばかりではなく、この分では間もなく自分の身をも滅ぼすことになるに違いないということは明白だった。そういう訳だったから、逆浪の立っている或る暗い晩、彼がまったく姿を消して二度と出て来なかった時には、だれも大して驚きもせず、さほど気の毒がりもしなかった。
「海へ落ちたんだな!」と船長が言った。「いや、これであの男に足械《あしかせ》をかける手数が省けたようなものですよ。」
 しかし副船長がいなくなったものだから、もちろん、水夫たちの一人を昇進させることが必要となった。水夫長のジョーブ・アンダスンが船中では一番適任だったので、水夫長という名称は旧《もと》通りであったけれども、幾分か副船長の役を勤めることになった。トゥリローニーさんは航海をしたことがあって、その知識のために大層役に立った。凪《なぎ》の時にはたびたび自分で当直勤務《ウオッチ》をやることがあったからである。また、舵手《コクスン》のイズレール・ハンズは注意深い、狡猾な、老練な、経験のある海員で、まさかの時にはほとんど何でも任《まか》すことが出来る男だった。
 彼はのっぽのジョン・シルヴァーの腹心の友であって、彼の名を挙げると、私は自然、皆が|肉焼き台《バービキュー》(註四二)[#「(註四二)」は行右小書き]と呼んでいる、私たちの船の料理番《コック》のことを話す順序になって来る。
 船の中では、彼は、両手とも出来るだけ自由に使えるようにと、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を頸の周りにかけた一本の締索《しめなわ》にぶら下げていた。彼が隔壁に※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖の足を突っぱって、それで身を支え、船の揺れ動くままに任せながら、陸上にいて安全な人のように料理をやり続けているのを見るのは、なかなか面白かった。天候の非常に荒れた日に彼が甲板を横切ってゆく有様は、なお一層奇妙だった。彼は一本か二本の索を用意して一番幅の広い場所を突っ切る時にはそれを頼りにした。――その索のことをのっぽのジョンの耳環と皆は言っていたが。そして、或る時は※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を使い、また或る時はそれを例の締索で脇に曳きずって、他の人の歩くのと同じくらいに速く、一つの場所から他の場所へと動いてゆくのであった。それでも、以前に彼と一緒に航海したことのある人々の中には、彼がそんな有様になったのを見るのは可哀そうだと言う者もいた。
「あの男は並《なみ》の人じゃねえんだよ、あの|肉焼き台《バービキュー》はな。」と舵手が私に言った。「若《わけ》え時にゃ良《え》え教育を受けたんで、その気になれぁ書物みてえにちゃんと立派にしゃべれるんだ。それから強《つえ》えぞ、――獅子《ライオン》だってのっぽのジョンのそばあたりにもよれやしねえんだぜ! 己は、あの男が四人の者と取っ組み合って、其奴《そいつ》らの頭を叩き合したのを見たことがある。――あの男の方は素手《すで》でよ。」
 水夫たちは皆彼を尊重し、彼に服従さえした。彼は一人一人に対しての口の利き方を心得ていたし、だれにも何か特別の世話を焼いてやった。私にはずっと変らず親切で、私が厨室へ行くといつも喜んでくれた。そこは彼が始終新しいピンのように綺麗にしておいた。皿なども磨き立てて掛けてあり、彼の鸚鵡《おうむ》が一隅にある鳥籠の中にいた。
「来給え、ホーキンズ、」と彼はよく言った。「来てジョンと話をしておくれ。だれよりも君が来てくれるのが嬉しいよ、坊や。まあ腰を掛けて変った話でも聞いてくれ給え。これがフリント船長《せんちょ》だ、――己はこの鸚鵡をあの名高《なだけ》え海賊の名を取ってフリント船長って言ってるんだよ、――このフリント船長がな、今度の航海《こうけえ》はうまくゆくって予言しているぜ。そうじゃなかったかね、船長?」
 すると鸚鵡は「八銀貨! 八銀貨! 八銀貨!」と非常に速いのに言い続け、息が切れはしまいかと思われるまで、またはジョンがハンケチを鳥籠の上に投げかけるまで、それを止《や》めない。
「ところで、この鳥はね、」とジョンは言う。「多分二百歳ぐらいだろうよ、ホーキンズ。――鸚鵡って奴は大概《てえげえ》いつまででも生きてるものなんだ。で、だれでもこいつよりももっとたくさん悪い事を見て来たものがあれぁ、それは悪魔だけに違えねえさ。この鳥はイングランドと一緒の船にいたこともあるんだ。あの大海賊のイングランド船長(註四三)[#「(註四三)」は行右小書き]とね。こいつはマダガスカルにもいたことがあるし、マラバーにも、スリナムにも、プロヴィデンスにも、ポートベロー(註四四)[#「(註四四)」は行右小書き]にもいたことがある。あの銀貨や銀塊を積んだ難破船の引揚げの時にもいたんだ。そこでこいつは『八銀貨』を覚えたんだから、不思議はない訳さ。その八銀貨が三十五万枚もあったんだぜ、ホーキンズ! こいつはまたゴア(註四五)[#「(註四五)」は行右小書き]の港の外でインド太守の船に乗込みのあった時にもいたんだよ。でも、こうして見ていると、まるで赤ん坊みてえに思えるだろう。だがお前《めえ》は火薬の臭《にお》いを嗅いだことがあるんだ、――そうだろ、船長?」
「針路転換用意。」と鸚鵡《おうむ》は金切声を立てる。
「ああ、利口な奴だ、こいつは。」と料理番は言って、ポケットから角砂糖を出して鸚鵡にやる。それから、その鳥は横木をつついて、信じられないほど口ぎたない言葉を吐き続ける。「ほら、ねえ、君、」とジョンが言い足す。「朱に交れば赤くなる、って奴さ。己のこの無邪気な鳥が、可哀そうに、こんなひどい言葉を使うんだからね。無論、何にも知らずにだよ。言わば牧師さんの前だってこれと同じことを言うんだろうからねえ。」そして、牧師さんと言うところで、彼はいつものしかつめらしいやり方で前髪に手を触れるので、私はこんなよい男はまたとあるまいと思ったものだった。
 とかくしているうちにも、大地主さんとスモレット船長とはやはりよそよそしい間柄であった。大地主さんはそのことを少しも意に介しなかった。彼は船長を軽蔑した。船長の方は、話しかけられた時の他は決して口を利かなかったし、その話しかけられた時でも、つっけんどんで、ぶっきらぼうで、素気《そっけ》なく、一言も無駄口を利かなかった。一度言いこめられた時に、彼は、船員については自分は思い違いをしていたようだ、中には自分の希望通りに敏捷な者もいるし、みんながかなりよくやっている、と白状した。船に関しては、彼はそれがまったく気に入っていた。「この船はほとんど風上に間切《まぎ》っても進めますな。女房にだってこれほど言うことをきかせる訳にはゆきますまいよ。しかし、」と彼は言い足すのだった。「まあ、我々が帰国していないのが残念です。私はこの航海を好みません。」
 大地主さんは、それを聞くと、ぷいと顔を背けて、頤を突き出しながら(註四六)[#「(註四六)」は行右小書き]、甲板をあちこちと歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。
「もうちっとでも失敬なことを言うと、俺《わし》の癇癪玉も破裂するぞ。」と彼はよく言った。
 私たちは幾度か暴風に遭ったが、それはただヒスパニオーラ号の優良な性質を証拠立てただけであった。船の中の者は皆十分に満足しているようだった。そうでなければ、よくよくの気むずかし屋だったに違いない。というのは、私の信ずるところでは、ノアの方舟《はこぶね》此方これほど甘やかされた船員は決してなかったのだから。ちょっとした口実があっても、強い|水割りラム《グロッグ》が振舞われたりした。また、何でもない日に、例えば、大地主さんがだれかの誕生日だということを聞いたというような日などには、プディングが出た。それから、林檎の樽が一ついつでも中部甲板に蓋を開けたまま置いてあって、だれでも好きな者が勝手に食べられるようになっていた。
「こんなことからよいことが起ったというのは、まだ聞いたことがない。」と船長はリヴジー先生に言った。「水夫を甘やかすのは、彼等を悪魔にする。私はそう信じています。」
 しかし、これからわかるように、よいことがその林檎樽から確かに起ったのである。というのは、もしその林檎樽がなかったなら、私たちは何の警告も受けることがなかったろうし、一人残らず叛逆の手にかかって殺されてしまったかも知れないのだから。
 それは次のような次第であった。
 私たちは、目指している島――私はもっとはっきり書くことは許されていない――の風上に出るために、これまでは貿易風について赤道の方へ走っていたが、今度は赤道から離れてその島へ向って走り、昼夜油断なく見張りをしていた。最も多くに見積っても、私たちの往航の最後の日に当る頃のことであった。その夜のうちか、遅くとも翌日の正午前には、宝島が見えるはずであった。私たちは南南西に進んでいて、正横にむらのない風を受け、浪は静かだった。ヒスパニオーラ号は絶えず一様に横揺れし、時々船首の第一斜檣《ボースプリット》を水に突っ込んでぱっと飛沫《しぶき》をあげた。上も下もすべての帆が風を孕んでいた。だれも彼も大元気だった。もう私たちの冒険の最初の部分の終りにごく近かったからである。
 さて、日没のすぐ後、私は自分の仕事をすっかりすませて、自分の棚寝床《バース》へ行く途中、ふと林檎を食べたいと思った。私は甲板へ走り上った。当直の者は皆前部にいて島を見張っていた。舵輪を握っている男は帆の前縁を見ながら、ゆっくりとひとりで口笛を吹き続けていた。そしてその口笛の音が、船首や舷側《げんそく》にあたる浪のしゅうしゅうという音を除けば、聞える唯一の音であった。
 私は体《からだ》ぐるみ林檎樽の中へ入り込んだ。すると林檎がほとんど残っていないのがわかった。が、そこで暗がりの中に坐っていると、波の音やら船の動揺やらで、つい寝込んだか、それとも眠りかけようとしていたか、その時、だれか重い男がすぐ近くにどしんと腰を下した。その男が肩を樽にもたせかけると樽がぐらぐらと揺れたので、私がもう少しのことで跳び上ろうとした時、その男がしゃべり始めた。それはシルヴァーの声だった。そして、私は一ダースの言葉も聞かないうちに、どんなことがあっても出てゆくどころではなく、極度の恐怖と好奇心とで、ぶるぶる震えながらも耳を傾けて、そこに蹲った。というのは、その一ダースの言葉から、私は船中にいるすべての正直な人たちの生命が自分一人に懸っていることを知ったからである。

第十一章 林檎樽の中で聞いた話

「いいや、己じゃねえ。」とシルヴァーが言った。「フリントが船長《せんちょ》だったんだ。己は、こんな木の脚をついてるんで、按針手《クォータマスター》だったよ。己が脚をなくした時の片舷《かたがわ》からの一斉射撃で、ピューの奴めも眼玉をなくしたのさ。己の脚を切ってくれたのは上手な外科医だった、――大学なんかもみんなすまして、――ラテン語もどっさり知ってたし、その他《ほか》何でも知っていてね。だが、その男も犬みてえに縊《くび》り殺されて、他の奴らと同じに天日《てんぴ》に曝されたぜ、コーソー要塞(註四七)[#「(註四七)」は行右小書き]でよ。あれはロバーツ(註四八)[#「(註四八)」は行右小書き]の手下だった、あれはな。あれも船の名を変えたんで起ったことさ、――大幸運《ロイアル・フォーチュン》号とか何とかね。だから、船に名をつけたら、そのままにしておくことだな。イングランドがインドの太守を虜《とリこ》にしてから、己たちみんなを無事にマラバーから乗せて戻ったカサンドラ号だってそうだったし、赤い血を見て暴れ狂って手当り次第の船をやっつけ、金貨で今にも沈みそうになった、フリントの船の海象《ウオルラス》号だってそうだったよ。」
「ああ!」と別の声が叫んだが、それは船中で一番若い水夫の声で、明かに感歎しきった声だった。「あの人は仲間の華《はな》だったんだね、あのフリントって人は!」
「デーヴィス(註四九)[#「(註四九)」は行右小書き]も偉い奴だったそうだ、みんなの話じゃあな。」とシルヴァーが言った。「己は一度もあの人と一緒に船に乗ったことはねえ。初めはイングランドの船に乗り、それからフリントの船に乗った、というのが己の経歴だ。そして今じゃあ、言わば自前《じまえ》になったって訳さ。己はイングランドの時には九百ポンド貯《た》め、フリントのところでは二千ポンド貯めた。これぁ平水夫にしちゃあ悪かあねえだろ。――みんなちゃんと銀行に預けてあるよ。肝腎なのは稼ぐことじゃねえ、貯めることだ。こいつあ違えねえとこだぜ。イングランドの手下の奴らあ今みんなどこにいる? わからねえ。フリントの手下は? それぁ、大抵はこの船にいて、プディングを貰って喜んでやがるが、――その前《めえ》にゃ乞食をしていた奴もある。眼をなくしたピューの奴などは、恥しくもなく、国会の議員さまみてえに一年に千二百ポンドも使ったものだ。奴は今どこにいる? そうさ、もう死んじゃって、あの世にいらあ。だがその前二年ってものは、馬鹿めが! あいつは饑《かつ》えていやがったんだよ。奴は乞食をする、盗みはやる、人殺しをやる、おまけに飢死《うえじに》と来るんだからなあ!」
「じゃあ、金《かね》だって大して役にゃ立たない訳ですね、つまり。」とその若い水夫は言った。
「馬鹿にゃあ大《てえ》して役に立たねえとも、違えねえさ、――金だって何だって。」とシルヴァーが大声で言った。「だが、なあ、おい。お前《めえ》は若《わけ》え。若えが、ペンキみてえにはしっこい。それはお前をちょっと見た時から己にゃあちゃんとわかってるんだ。だから己はお前を一人前の男と同じに話をするんだぜ。」
 この憎むべき老いぼれの悪漢が、私に使ったのとそっくり同じ言葉のおべっかを、他の人間に言っているのを聞いた時の私の気持がどんなだったかは、諸君も想像出来るであろう。私は、もし出来さえしたら、樽越しに彼を突き殺してやったろうと思う。その間に、彼は、窃《ぬす》み聞きされているとは少しも思わずに、しゃべり続けた。
「分限紳士《ぶんげんしんし》ってなあこういうものなんだ。奴らは荒仕事をやるし、ぶらんこ往生覚悟の仕事をやるが、闘鶏《けあいどり》みてえに贅沢に飲み食いする。そして一航海やって来ればだ、そうさなあ、ポケットにゃ何百ファージングの代りに何百ポンドと入《へえ》ってる。(註五〇)[#「(註五〇)」は行右小書き]ところで、大概《てえげえ》の奴らはそれをラムや大尽遊びに使っちまって、またぞろシャツ一枚で海へ出かけるという訳さ。だが己のやり口はそうじゃねえ。己はそれをそっくりためておく。こっちに少し、あっちに少しという風にして、どこにもあんまりたんとはおかねえ。嫌疑がかかるからな。己ぁ五十だぜ、いいかね。今度の航海から帰《けえ》りせえすりゃ、真面目《まじめ》な紳士の暮しを始めるんだ。まだずいぶん早《はえ》え、ってお前は言うだろう。ああ、だが己は今までだって安楽に暮して来たのだ。してえと思うことでやらなかったことは何一つなかったし、いつも柔かな寝床に寝てうめえものばかり食ってたんだ。海に出てる時だけあ別だがね。その己が初めはどうだったかね? お前と同じに、平水夫さ!」
「なるほど、」と一方の男が言った。「だが他の金はみんなもうなくなった訳ですね? これから後はあんただってブリストルへは顔が出せねえでしょう。」
「じゃあ」己の金がどこにおいてあると思うかね?」とシルヴァーは嘲笑《あざわら》うように尋ねた。
「ブリストルにさ、銀行だの何だのにな。」と相手の男が言った。
「この船が錨を揚げた時にゃあそうだったのさ。」と料理番《コック》は言った。「だが今時分は己の女房がそいつをすっかり握ってるのだ。そして『遠眼鏡《スパイグラース》屋』は借地権も暖簾《のれん》も道具一式もすっかり売り払って、嬶《かかあ》どんは己と逢うためにそこを出ているよ。己はお前を信用してるから、どこで逢うことにしているのか言ってやってもいいが、そうすると仲間の奴らが嫉むだろうからな。」
「で、あんたはおかみさんを信用出来るのかい?」と一方の男が尋ねた。
「分限紳士って者は、」と料理番が答えた。「普通は仲間同志じゃあんまり信用しねえものだ。そしてそれももっともなんだ、確かにな。だが、己にゃあまた己の流儀があるのさ。だれかが仲間の者を裏切るなんてこたぁ、――己を知っているだれかのことだが、――このジョンのいる同じ場所じゃ起りっこねえんだ。ピューを恐れてる奴もいた。またフリントを恐れてる奴もいた。がそのフリントはまたフリントで己を恐れていた。恐れてはいたが、また己のことを自慢にもしていた。あいつらはこの上なしの乱暴な船乗だった、フリントの船員はな。悪魔だってあいつらと一緒に海へ行くのは尻込みしたろうよ。ところでだ、ほんとのところ、己は法螺吹きじゃねえし、お前の見てる通り己は仲間を仲よくさせているが、己が按針手だった時にゃあ、フリントの手下の海賊どももおとなしいことったら、小羊[#「小羊」に傍点]と言ったって追っつかねえくれえだったぜ。ああ、お前だってこのジョンと一緒の船にいりゃあひとりでにわかるよ。」
「いや、実はね、」と若者が答えた。「ジョン、あんたと今の話をするまでは、あっしは今度の仕事は大して気が進まなかったんでさ。だがもうわかった。握手しましょう。」
「お前は強え男だ。おまけにはしっこい。」とシルヴァーは、樽ががたがた揺れるくらい心をこめて握手しながら、答えた。「それに分限紳士としちゃあ己の見たことのねえくれえ男前がいいしな。」
 この時分には、彼等の遣っている言葉の意味が私にはわかりかけていた。「分限紳士」というのは明かに普通の海賊のことに違いなく、(註五一)[#「(註五一)」は行右小書き]私の窃《ぬす》み聞きしたこの小場面は、実直な船員の一人が堕落させられる最後の一幕だったのだ。――恐らくそれは船中に残っている最後の実直な者であったのだろう。しかし、この点では私は間もなく安堵させられる話を聞いたのだ。シルヴァーがちょっと口笛を吹くと、もう一人の男がぶらぶら歩いて来て二人のそばに坐った。
「ディックは話がついたよ。」とシルヴァーが言った。
「おお、ディックが話がつくってこたぁ己ぁ知ってたよ。」と舵手《コクスン》のイズレール・ハンズの声が答えた。「この男は馬鹿じゃねえからな、このディックは。」それから彼は噛煙草をぐにゃぐにゃやって唾をぺっと吐いた。「だが、おい、」と続けて言った。「己の聞かして貰《もれ》えてえのはこういうことさ、|肉焼き台《バービキュー》。一|体《てえ》、いつまで己たちはうろうろ舟みてえにぐずぐずしてるんだね? 己ぁもうスモレット船長《せんちょ》にゃうんざりしてる。奴は永《なげ》えこと己をこき使いやがったよ、畜生! 己ぁあの船室《ケビン》へ入りてえんだ、そうさ。奴らの漬物《ピックル》だの葡萄酒だの何だのがほしいんだ。」
「イズレール、」とシルヴァーが言った。「お前の頭は大して役に立たねえぞ、相変らずな。だがお前は聞くことだけは出来そうだ。何しろでっけえ耳をしているからな。ところで、己の言うことはこうだ。お前は水夫部屋に寝てるんだ、せっせと働くんだ、丁寧な口を利くんだ、酔っ払わずにいるんだ、己が命令するまではだ。その通りにしてるんだぞ、小僧。」
「うむ、いやだなんて己は言やしねえ。言ったけえ?」と舵手はぶつぶつ言った。「己の言うのは、いつだ? ってえんだ。それが己の言ってることなんだ。」
「いつだと! こん畜生!」とシルヴァーが叫んだ。「よし、では、聞かして貰えてえんなら、いつだか言ってやろう。己がこれならやれると思う最後のぎりぎりの時、それがその時なんだ。スモレット船長という立派な海員《けえいん》がいて、この有難《ありがて》え船を己たちのために動かしてくれる。あの大地主と医者の奴が地図やなんぞを持っていてくれる。――それがどこにあるのか己にはわからねえじゃねえか? お前たちだってわからねえだろ。そこでだ、己は、あの大地主と医者とに金《かね》をめっけ出させて、それを船に積み込む手伝いをさせてやろう、ってつもりなんだ。それからがこっちのやる番だよ。もしお前たち大馬鹿野郎どもがみんなが頼りになるなら、己は、スモレット船長にまた船を半分途まで戻させて、それからやっつけるのだ。」
「なあに、ここに乗ってる己たちだってみんな海員だ、と己は思うんだがな。」と若者のディックが言った。
「己たちだってみんな平水夫だ、って言う間違えだろうよ。」とシルヴァーがつっけんどんに言った。「なるほど己たちは一つの針路に船を進めることは出来るが、しかしだれがその針路をきめるんだい? お前さん方みんながたびたびしくじるのは、そこなんだ。もし己の思う通りにするとすりゃあ、己はスモレット船長に少くも貿易風の中まで船を戻させる。そうすりゃ、いまいましい見込違いもなければ、一日にちょっぴりの水だけ飲んでなけれぁならんような目にも遭わずにすむだろう。だが手前たちがどんな質《たち》の連中か己は知ってる。現なまを船に積み込み次第《しでえ》、己は島で奴らをやっつけねばなるめえ。情《なさけ》ねえやり方さ。しかし手前たちは酔っ払うまでは決して仕合せになれねえって連中なんだ。えい、糞いまいましい、手前たちのような手合と一緒に船に乗ってるのはつくづく厭《いや》んなっちゃうぜ!」
「止《や》めろよ、のっぽのジョン。」とイズレールが叫んだ。「だれがお前《めえ》に逆《さから》ったい?」
「うむ、己がこれまでにどれほどたくさんの立派な船が舷側《ふなばた》に攻め寄せられたのを見て来たとお前は思う? それから、どれほどたくさんの元気な若え奴らが仕置波止場(註五二)[#「(註五二)」は行右小書き]で天日に曝されたのを見たと思う?」とシルヴァーが叫んだ。「そりゃあみんな、ただ急ぎに急いだからなんだぜ。わかったか? 己は海のことならちったぁ心得てるんだ、己はな。もし手前たちが今のままにして、うまくやってきせえすれぁ、馬車に乗って歩く身分になれるのだ、そうともよ。だが手前たちゃ駄目さ! 己はお前たちを知ってる。お前たちは明日にでもラムを一口飲んで、縊り殺されることになるだろうよ。」
「お前が牧師みてえな男だってこたぁだれだって知ってるよ、ジョン。だが、他《ほか》にもお前と同じくれえ帆も捲けれぁ舵も取れる者だっているぜ。」とイズレールが言った。「奴らはちっとは遊びも好きだった、そうとも。とにかく、奴らはそんなに世間離れがしてねえで、どいつもみんな陽気に大尽遊びをやったものさ。」
「そうかね?」とシルヴァーが言った。「なるほど。で、その連中は今はどこにいる? ピューはそんな風な奴だったが、乞食になって死んじまった。フリントもそうだったが、サヴァナでラムで命をなくした。ああ、あの連中は立派な船乗だった、ほんとにな! ただ、今はどこにいる?」
「しかしねえ、」とディックが尋ねた。「奴らを攻撃して、それから奴らをどう始末するんですね、とにかく?」
「うん、お前はさすがだ!」と料理番は感歎したように叫んだ。「それが己が仕事と言ってることだよ。ところで、お前はどう思う? 島流しみてえに奴らを島に残して来るかね? それならイングランドのやり方だろう。それとも豚肉《ぶたにく》みてえに奴らを叩っ切るかね? それならフリントかビリー・ボーンズのやり方だろうな。」
「ビリーはそれにゃお誂《あつれ》え向きの男だったな。」とイズレールが言った。「『死人《しびと》は咬みつかず』って奴《やっこ》さんはよく言ってたっけ。ところで、今じゃ自分で死んでござるので、咬みつくかつかねえかってことはちゃんと何もかも御存知の訳だ。もし今までに荒っぽい船員があの世へ行ったことがあるとすりゃ、それぁビリーだな。」
「お前の言う通りだ。」とシルヴァーが言った。「荒っぽくてめちゃな奴だった。だが、いいかね。己は穏かな人間だ、――まるで紳士だ、ってお前たちも言うだろう。しかし今度は大事《でえじ》な場合だ。やることはやらにゃならんよ、兄弟《きょうでえ》。己は投票する、――殺しちゃう方へだ。己が国会にいて、馬車に乗って歩いている時に、あの船室《ケビン》にいる口やかましい奴どもにゃ一人だって帰って来て貰えたかねえ、お祈りの式に出て来た悪魔みてえに思いがけなくな。己の言うのは待てということだ。しかし時機が来たら、やっつけるのだ!」
「ジョン、お前は偉者《えらもの》だ!」と舵手が叫んだ。
「見てからそう言うがいいさ、イズレール。」とシルヴァーは言った。「たった一つ己に望みがある、――トゥリローニーが望みだ。己はこの手であの間抜野郎の首を胴体から捩じ切ってやるのだ。ディック!」と彼は急に言葉を止めて言い足した。「お前、いい子だから、ちょっと跳び上って、己に林檎を一つ取ってくれ。咽《のど》を湿《しめ》すんだから。」
 その時の私の恐怖は想像出来るであろう! その力さえあったなら私は跳び出て逃げ出したことだろう。けれども私の手足も心も同様に私をためらはせた。ディックが立ち上りかけるのが聞えた。それからだれかが彼を止めたようだった。そしてハンズの大声に言う声が聞えた。――
「おお、止《よ》せ止せ! その樽の中のものなんかしゃぶるなよ、ジョン。ラムを一|杯《ぺえ》やろうじゃねえか。」
「ディック、」とシルヴァーが言った。「お前を信用するよ。樽の上に計量器がある、いいかい。それ、鍵だ。小皿に一杯入れて持って来てくれ。」
 私はびくびくしてはいたけれども、アローさんが身を滅ぼすようになった強い酒を手に入れたのも、こんな風にしてだったに違いない、と思わずにはいられなかった。
 ディックはほんのしばらくの間行っていたが、彼のいない間イズレールは料理番にずっと囁き続けていた。私の聞き取れたのはほんの一二語に過ぎなかったけれども、それでも私は重大な消息を知った。というのは、他にも同じような意味のきれぎれの文句の他に、こういう文句全体が聞えたからである。「あいつらはもう一人もこっちへつくめえよ。」とすると、船中にはまだ忠実な船員もいる訳であった。
 ディックが戻って来ると、三人は順々に小皿を取って飲んだ。――一人は「運がいいように。」と言って飲み、もう一人は「フリントのために祝杯を。」と言って飲み、シルヴァーは歌のような調子で「己たちのために祝杯を挙げる。しっかりやるんだ。そうすりゃ獲物はどっさり、御馳走もどっさりだ。」と言って飲んだ。
 ちょうどその時、樽の中にいる私に何だか明るい光がぱっと射《さ》して来た。見上げると、月が昇っていて、後檣《ミズンマスト》の頂を銀色にし、前檣帆《フォースル》の前縁に白く輝いているのだった。そして、それとほとんど同時に、見張りの者の声が「陸が見えるぞう!」と叫んだ。

第十二章 戦争会議

 甲板をどかどかと走る足音がした。人々が船室《ケビン》や水夫部屋《フォークスル》から駆け上って来るのが聞えた。それで、私はたちまちに樽の外へひらりと出て、前檣帆《フォースル》の後《うしろ》に隠れ、船尾の方へくるりと向を変えて、広い甲板のところへ出て来ると、ちょうど折よく、風上船首へと走ってゆくハンターとリヴジー先生とに一緒になった。
 そこには船員がすでにみんな集っていた。帯のようになっていた霧が月の出とほとんど同時に霽《は》れていた。船から遥か南西に当って、二つの低い山が二マイルばかり離れて立っているのが見え、その中の一つの背後に第三のもっと高い山が聳えていて、その山嶺はまだ霧に包まれていた。三つとも尖っていて円錐形をなしていた。
 これだけを私はほとんど夢心地で見た。というのは、一二分前のあのぞっとするほどの恐しさから、私はまだ恢復していなかったからである。その時スモレット船長が命令を下す声が聞えた。ヒスパニオーラ号は二ポイントだけ風の吹いて来る方角の方へ向けられ、今度はちょうど島の東側を島に触れずに通り過ぎるような針路で進んで行った。
「さて、みんな、」と船長は、すべての帆が帆脚索で十分に張られた時に、言った。「君たちの中でだれか以前に前のあの島を見た者があるかね?」
「わっしが見ました。」とシルヴァーが言った。「わっしは或る貿易船に料理番《コック》をしてました時に、あそこへ水を取りに行ったことがごぜえます。」
「碇泊所は南側で、小島の蔭だと思うが?」と船長が尋ねた。
「はあ、そうです。骸骨《スケリトン》島ってその島を皆は申しております。もとは海賊どもの大事《でえじ》な処でして、わっしらの船にいた一人の水夫が奴らのつけていた名前をみんな知ってました。北の方にあるあの山を奴らは前檣《フォーマスト》山と言っております。三つの山が南の方へ一列に並んでますな、――前檣山と、大檣《メーンマスト》山と、後檣《ミズンマスト》山という風に。けれど、大檣山を――あの雲のかかったでっけえ奴ですが――奴らは普通は遠眼鏡《スパイグラース》山って言っておりますよ。奴らが船を掃除するのに碇泊していた間、あの山に見張りを置いたという訳でね。失礼ながら、奴らが自分らの船を掃除しましたのは、あそこなんですから。」
「ここに海図があるがね。」とスモレット船長が言った。「それがあの場所かどうか見てくれ。」
 その海図を手にした時、のっぽのジョンの眼はきらりと輝いた。しかし、紙が新しいので、私には彼が失望しなければならぬことがわかった。それは私たちがビリー・ボーンズの衣類箱の中で見つけたあの地図ではなくて、正確な写しで、すべてが――地名も高度も水深も――すっかり書いてあったが、ただあの赤い十字記号と書込みの備考とだけがなかった。シルヴァーの苦悩はひどかったに違いないが、彼にはそれを隠すだけの意力があった。
「そうですよ、」と彼は言った。「これは確かにあの場所で。なかなかうまく描《け》えてありますねえ。だれが描えたんですかなあ? 海賊なんて奴あとても物識らずで描けめえとあっしは思いますがな。はあ、ここにありますよ、『キッド船長(註五三)[#「(註五三)」は行右小書き]碇泊所』とね、――あっしの船友達もそう言ってました。南の岸に沿うて強い潮が流れていて、それから西の岸を北の方へずうっと上っております。なるほどね、」と彼は言った。「船を風上に向けて島の風上へおやりになったのは、ようごぜえましたな。ともかく、船を入れて手入れをなさろうっておつもりなら、この辺にゃここよりよい処はごぜえませんよ。」
「有難う。」とスモレット船長が言った。「また後で力を貸して貰うことがあるだろう。行ってよろしい。」
 私はジョンが島について自分の知っていることをいかにも冷静に公言したのには驚いた。そして、彼が私の方へ近づいて来るのを見た時にはどきどきしたことを白状する。無論、私が林檎樽で彼の話を窃《ぬす》み聞きしたことは彼は知らなかったのだが、それでも、この時分には、私は彼の残忍さと二枚舌と勢力とには非常に怖しくなっていたので、彼が私の腕に手をかけた時にはほとんど身震いを隠せないくらいであった。――
「ああ、ここは面白《おもしれ》え処《とこ》だぜ、この島はな、――若《わけ》え者が上陸するにゃほんとに面白え処だ。」と彼は言った。「水浴びも出来る、木にも登れる、山羊も狩れるぞ。それに、自分でも山羊みてえにあの山のてっぺんへも行けるんだ。うむ、己だって若返《わかげえ》って来る。自分の木の脚を忘れちまいそうだよ。若くって、足指が十本揃ってるってこたぁ、楽しいことさ。違えねえぜ。君がちょいと探検にでも行ってみてえと思ったら、ちょっとジョン爺《じい》に言って来いよ。持ってく弁当を拵《こせ》えてやるからな。」
 そう言って私の肩を実に親しそうにぽんと叩くと、彼はぴょっこぴょっこ歩き出して、下へ行った。
 スモレット船長と、大地主さんと、リヴジー先生とは、後甲板で一緒に話していた。私はその人たちに自分の聞いた話を知らせたくてたまらなかったけれども、おおっぴらにその人たちの中へ割り込む訳にもゆかなかった。それで何かもっともらしい口実を見つけ出そうと頭の中であれこれと思案している間に、リヴジー先生が私をそばへ呼びつけた。彼は自分のパイプを下に置いて来たのであるが、非常な煙草好きなので、私にそれを取りにやらせるつもりだったのだ。けれども、私は人に洩れ聞きされずに話せるくらいに彼に近づくや否や、すぐに言い出した。――「先生、お話があります。船長さんと大地主さんとを船室《ケビン》へつれて降りて下さい。それから何かにかこつけて私を呼んで下さい。私は恐しいことを聞いたんです。」
 医師はちょっと顔色を変えたが、次の瞬間には自分の心を制した。
「有難う、ジム。」と彼は大層大きな声で言い、「それだけ聞けばよかったのだ。」と私に何か尋ねたかのようにした。
 そう言うと彼はくるりと後へ向いてまた他の二人の仲間に加わった。三人はしばらく一緒に話していた。そして、だれ一人もぎょっとしもせず、声を高めもせず、驚いたような声さえ立てなかったけれども、リヴジー先生が私の頼みを伝えたことは十分明かだった。というのは、私の聞いた次のことは船長がジョーブ・アンダスンに命令を下したことで、全員が呼子で甲板に召集されたからである。
「諸君、」とスモレット船長が言った。「私は諸君に一|言《こと》言いたいことがある。向うに見えるあの島が我々の目当にして来た場所だ。トゥリローニーさんは、我々みんなの知っている通り、大層気前のよい方《かた》であるので、今しがた私に一二言お尋ねになり、私が船中の各員上下ともその義務を尽し、これ以上は望まれないくらいであるとお答が出来たところが、トゥリローニーさんと私と先生とは船室へ降りて諸君の[#「諸君の」に傍点]健康と幸運とを祝して杯を挙げることになり、諸君にも酒を振舞って私たちの[#「私たちの」に傍点]健康と幸運とを祝して飲んで貰うことになった。これについて私の思うところを言うことにすると、誠に結構なことであると思う。それで諸君も私と同様に思われるならば、そうして下すった紳士のために万歳を唱えて貰いたい。」
 万歳の声が続いて起った。――それは当然のことだった。けれども、それがいかにも盛んに心から熱誠に響きわたったので、私はこの同じ人々が私たちの血を流そうと企《たく》らんでいるのだなどとはほとんど信じられぬくらいであった。
「もう一つスモレット船長《せんちょ》のために万歳だ。」とのっぽのジョンが、初めの万歳が鎮まった時に、叫んだ。
 するとそれもまた威勢よく唱えられた。
 それが終ると三人の紳士は下へ降りて行ったが、程なく、ジム・ホーキンズは船室に用があるという伝言があった。
 行って見ると、三人ともテーブルの周りに着席していて、スペインの葡萄酒が一罎《ひとびん》と乾葡萄とが前に載せてあり、医師は仮髪を膝の上に置いて、絶えず煙草を吹かしていたが、それが先生の昂奮しているしるしだということは私は知っていた。暖かい晩だったので、船尾の窓は開けてあって、海に残っている船跡《ふなあと》に月光がきらきらと輝いているのが見えた。
「さあ、ホーキンズ、」と大地主さんが言った。「何か言うことがあるそうだね。すっかり話しておくれ。」
 私は命ぜられた通りにし、シルヴァーの会話の一部始終を出来るだけ簡短に話した。それを話し終えるまではだれも口を出さなかったし、また三人の中の一人も身動きさえせず、初めから終りまで私の顔にじっと眼を注いでいたのであった。
「ジム、お掛け。」とリヴジー先生が言った。
 そして彼等は私をテーブルに向ってそばに掛けさせて、私に葡萄酒を一杯|注《つ》いでくれ、乾葡萄を手にいっぱい入れてくれて、それから三人とも代る代る、銘々会釈をしながら、私の幸運と勇気とのために、私の健康を祝して乾杯してくれた。
「さて、船長、」と大地主さんが言った。「君の言った通りだった。私は間違っていた。私は自分の馬鹿であることを認めて、君の命令を待ちます。」
「馬鹿なのは私も同じです。」と船長は答えた。「暴動をやるつもりの船員が前にその前兆を示さなかったということは聞いたことがありません。いやしくもそれを見抜く眼のある人ならわかりますし、それに応じて手段を執ります。しかし、この船員には、」と彼は言い足した。「私はまんまと一杯喰わされました。」
「船長、」と医師が言った。「失礼ですが、そこがシルヴァーです。実に素敵な男ですな。」
「帆桁《ほげた》の端に吊り下げてやったら素敵に似合いましょうな。」と船長が答えた。「しかしこれは無駄話です。こんなことを言っていても仕方がありません。私は三つ四つ考えていることがありますが、トゥリローニーさんのお許しを得て、申してみましょう。」
「君は船長です。話されるのは当然ですよ。」とトゥリローニーさんが鷹揚に言った。
「第一にです。」とスモレットさんは始めた。「我々はやり続けねばなりません。引返すことが出来ないからです。もし私が針路を転ずる命令を下そうものなら、彼等は直ちに謀叛を起しましょう。第二に、我々には時間がまだあります、――少くとも、あの宝を見つけるまでは。第三に、忠実な船員もいます。ところで、早かれ晩《おそ》かれ打合いを始めなければならんのですが、私の提議しますのは、いわゆる機会の前髪を捉えて、或る日彼等が少しも予期していない時に撃ってかかるということです。トゥリローニーさん、あなたのお家《うち》の召使たちは信用出来ると思いますが?」
「私自身と同様です。」と大地主さんが断言した。
「あの三人に、」と船長は数えた。「私たちで七人になりますな、このホーキンズも入れて。ところで、実直な船員の方は?」
「恐らくトゥリローニー君の選ばれた者でしょう。シルヴァーに出会われない前に、自分で見つけられた連中ですな。」と医師が言った。
「いいや、」と大地主さんが答えた。「ハンズは私の選んだ中の一人だったからねえ。」
「私もハンズは信用出来るものと思っていました。」と船長が言い添えた。
「そしてあいつらがみんなイギリス人だとはな!」と大地主さんは呶鳴《どな》り出した。「私はこの船をぶち壊してしまいたい気になるよ。」
「そこで、皆さん、」と船長が言った。「私の申し得る最善のことはこれだけです。どうか、じっとしていて、油断なく警戒していなければなりません。それは男にはつらいことだということはわかっています。撃ってかかる方がよっぽど愉快ではありましょう。だが味方の者がわかるまでは何とも致し方がありません。じっとしていて、風の出るのを待つ、これが私の意見です。」
「このジムは、」と先生が言った。「だれよりも我々の役に立ってくれますよ。皆もこの子には気を許していますし、それにジムは気のつく子ですから。」
「ホーキンズ、私はお前を非常に信用しているよ。」と大地主さんが言い添えた。こう言われると私はかなり絶望しかけた。まるで頼りない心細い気がしたからだ。しかし、不思議に引続いて起った出来事で、実際、私のために皆が救われることになったのである。とかくするうちに、私たちは思うままに話し合ったが、私たちの信頼出来るとわかっている者は二十六人の中に僅か七人であった。そしてこの七人の中で一人は子供だから、私たちの側の大人は向側の十九人に対して六人の訳だった。
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第三篇 私の海岸の冒険

第十三章 どうして海岸の冒険を始めたか

 翌朝私が甲板へ出て見た時には、島の様子はすっかり変っていた。風はその時はまったく凪いでいたけれども、船は夜の間によほど進行していて、今は、低い東海岸の南東半マイルばかりのところに動かずにいた。灰色の森林が島の表面の大部分を蔽うていた。その一様な色合は、低地にある黄ろい砂地の縞と、他の樹々より高く立っている――或るものは一本で、或るものは群をなして――たくさんの松柏類の高い樹木とで、破られてはいた。が、全体としての色調は変化がなくてくすんでいた。例の山々は裸岩の尖峯をなして植物帯の上にくっきりと聳え立っていた。どの山も奇妙な恰好《かっこう》をしていたが、三四百フィートあって島では一番高い遠眼鏡《スパイグラース》山は、やはり形も一番奇妙で、ほとんどどの方面からも垂直に聳え立っていて、それから頂上のところで突然切り取られたようになっているので、彫像を載せる台のようだった。
 ヒスパニオーラ号は大洋のうねりで排水孔が水の下へ入るほど横揺れしていた。帆の下桁は滑車《せみ》を強くひっぱり、舵はあちこちへばたんばたんと音を立て、船全体はぎいぎい軋ったり、唸るような音を立てたり、跳び上ったりして、工場のようだった。私は後支索にしっかりと縋《すが》りついていなければならなかったが、何もかも私や眼の前で眩暈《めまい》するほどぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた。というのは、船足がついている時は私はなかなか船に酔わなかったのだが、こうじっとしていて罎《びん》のようにころころさせられるのでは、胸がむかむかせずにはいられなかったからで、とりわけ、朝の、空腹の時ではそうだった。
 多分そのためであったろうが、――多分、灰色の憂鬱な森林や、荒涼たる岩石の尖峯や、嶮《けわ》しい磯に白波を立てて轟きわたっているのが見えも聞えもする寄波《よせなみ》など、そういう島の光景のためであったろうが、――とにかく、太陽は赫々《あかあか》と焼くが如《ごと》くに輝いていたし、海辺《うみべ》の鳥は私たちの周り中で魚を漁《あさ》って啼き叫んでいたし、永く航海をして来た後に上陸出来ることはだれだって嬉しかろうと思われるだろうが、私の心はすっかり滅入っていた。そして、前方をそうして最初に眺めた時から、宝島のことなど思うさえも厭になった。
 退屈な朝仕事を私たちはやらなければならなかった。少しでも風の吹きそうな気配《けはい》もないので、ボートを下して水夫を乗り込ませ、船を曳索《ひきなわ》で曳いて、島の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、狭い水路を上って、骸骨《スケリトン》島の蔭の碇泊所まで三四マイル行かねばならなかったのだ。私はそのボートの中の一艘に自ら進んで乗り組んだ。もちろん、何の用事もなかったのであるが。暑気はひどくて、水夫たちは仕事に猛烈に不平を鳴らした。アンダスンは私の乗っていたボートを指揮していたが、乗員を取締るどころか、一番ひどくぶつぶつ言った。
「ふん、こんなことは永《なげ》えこっちゃねえんだ。」と彼は罵り言葉と共に言うのだった。
 これはずいぶん悪い徴候だなと私は思った。というのは、その日までは船員は任務を活溌に喜んでやって来たのだからである。が、島が見えるともう訓練の綱が弛んでしまったのだ。
 入って行く間中、のっぽのジョンは舵手《かじとり》のそばに立って船の操舵を指揮していた。彼はその水路を自分の掌のように知っていた。そして、舷側《ふなばた》にいて測鉛で水深を測っている男がどこでも海図に記《しる》してあるよりも水が深いと言ったけれども、ジョンは一度も躊躇しなかった。
「退潮《ひきしお》で底がぐうっと洗い流されてるんだよ。」と彼は言った。「で、この水路はまあ言わば鋤で掘り出されてるようなものなのさ。」
 私たちはちょうど海図に錨の記してある処に投錨した。一方は本島、もう一方は骸骨島で、どちらの岸からも三分の一マイルばかりのところだった。海底は綺麗な砂であった。錨を投げ込むと、鳥の群《むれ》がぱっと飛び立って森の上をぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら啼き叫んだ。けれども一分とたたないうちに再び舞い降りて、すべてがもう一度ひっそりとした。
 その場所はまったく陸で囲まれており、森で埋ったようになっていて、樹木はちょうど高潮線(註五四)[#「(註五四)」は行右小書き]のところまでも生い茂り、海岸は大抵平坦で、山々の頂は、ここに一つ、彼処に一つと、円形劇場のようになって遠くにぐるりと立っていた。二つの小川が、というよりもむしろ二つの沼が、この池と言ってもいいところへ注いでいて、海岸のその部分のあたりにある簇葉《むらば》は一種の毒々しい輝きを持っていた。船からは、小屋や柵壁はちっとも見えなかった。それらは樹木の間にすっかり埋っていたからだ。それで、もし船室昇降口室《コムパニヨン》にあの海図がなかったなら、私たちは、その島が海中から生じてから此方《このかた》そこにかつて碇泊した最初の者であると思ったかも知れなかった。
 そよとの風もなかったし、また、半マイルも彼方に、外洋の磯に打ち寄せ岩石に激して、どどうっと響いている寄波の他《ほか》には、何の物音もしなかった。その碇泊所一面には一種特別の澱んだ臭いが漂うていた、――水に浸った木の葉や腐った木の幹の臭いが。私は、医師が、悪い卵を口にした人のように、頻りに鼻でくんくん嗅いでいるのを認めた。
「実のことは知らないが、しかしここに熱病があることは私はこの仮髪《かつら》を賭けるよ。」と先生は言った。
 水夫たちの挙動はボートの中では驚くべきものであったとするなら、彼等が船へ帰って来た時にはそれはほんとうに険悪なものとなって来た。彼等は甲板のあちこちに寝ころんで呶鳴《どな》りながら話し合っていた。ほんのちょっとした命令が出されたところが、脹《ふく》れっ面《つら》をし、不承不承にぞんざいにそれをやった。実直な船員までがかぶれたに違いない。船中には他の者を匡正してやる者が一人もいなかったからである。暴動が雷雲のように私たちの上に覆いかかっていることは明かだった。
 そして、この危険を看て取った者は、私たち船室《ケビン》の連中ばかりではなかった。のっぽのジョンはあっちの群からこっちの群へと熱心に歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、頻りに忠告をしていた。手本としてはだれもそれ以上は示せないくらいであった。彼はまったくいつにもないほどいそいそとしていて慇懃だった。だれに対してもにこにこしていた。何か言いつけられると、ジョンは、この上もなく快活に「はいはい!」と言いながら、直ちに自分の※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をあてた。そして、他に何もすることのない時には、他の者の不平を隠そうとでもするように、次から次へと唄を歌い続けた。
 その陰鬱な午後のあらゆる陰鬱な事柄の中でも、のっぽのジョンのこの一目瞭然たる心遣いは最も気味悪く思われた。
 私たちは船室で会議を開いた。
「さて、」と船長が言った。「もし私が構わずにもう一度命令を出そうものなら、全船の者がたちまちにどっと私たちを襲って来るでしょう。御覧の通り、こういったような有様です。私に乱暴な返事をしましたでしょう? ところで、私が何か言い返せば、たちまち槍が飛んで来るでしょうし、何も言わなければ、シルヴァーはこれには何か訳があるのだと悟るでしょう。そうなれば万事休すです。そこで、頼りになる人間がたった一人だけおります。」
「で、それはだれです?」と大地主さんが尋ねた。
「シルヴァーです。」と船長が答えた。「あいつはあなた方や私と同様に一所懸命に揉み消そうとしています。これはちょっとした不平です。あいつは機会さえあれば間もなく奴らを説いてそれを止めさせましょうよ。で、私の提議しますのは、奴にその機会を与えようということなんです。水夫たちに午後の上陸を許してやろうじゃありませんか。もし彼等がみんな行けば、私たちはこの船を操縦して戦いましょう。もし彼等が一人も行かなければ、その時は、私たちは船室《ケビン》を守るのです。神が正しき者を護って下さいますように。もし何人かが行けば、よろしいですか、シルヴァーは奴らをまた小羊のようにおとなしくして船へつれて来ますよ。」
 そういうことに決定された。弾丸を籠めたピストルが確実な味方の者全部に配られた。ハンターと、ジョイスと、レッドルースとは秘密を打明けられたが、それを聞いても、私たちの予期していたよりも驚きもしなかったし元気も盛んだった。それから、船長は甲板へ行って船員に言い渡した。
「諸君、」と彼は言った。「今日は暑くて、みんな疲れていて元気がない。一度上陸しても別にさしつかえはあるまい、――ボートもまだ揚げてないことだし。君たちはあの快艇《ギッグ》に乗って、何人でも好きなだけ午後中上陸してもよろしい。日没《ひのいり》の半時間前に砲を撃《う》って知らせる。」
 その愚かな奴らは陸へ上るや否や宝に蹴躓《けつまず》いて向脛《むこうずね》をへし折るくらいに思っていたに違いない。というのは、彼等はみんなたちまち仏頂面を直して、万歳を叫んだからで、その声は遠くの山に反響して、鳥がもう一度碇泊所の周りに飛び立ってがあがあ鳴き騒いだ。
 船長は彼等の邪魔になっているようなへまなことはしなかった。彼は、上陸隊を取纏めることはシルヴァーに任せて、すぐに身を隠した。彼がそうしたのはよかったと私は思う。もし船長が甲板にいたなら、もはや現在の事態を知っていないような風をしていることさえ出来なかったろう。事態は白昼のように明かだったのだ。シルヴァーは船長で、有勢な叛徒の船員を部下に有しているのだ。実直な水夫というのは――そして私は間もなく船中にそういう者たちがいるという証拠を知ることになったのであるが――ごく愚鈍な連中だったに違いない。いや、もっと正確に言えば、ほんとうのところはこうではなかったろうかと思う。すなわち、発頭人どもの示す手本によってすべての船員が不平を抱くようになったので、ただ、或る者はその程度がひどく、或る者はそれが少かったのだ。そして、少数の者は、大体善良な連中なので、それ以上になりもしなければさせられもしなかったのであろう。ぶらぶらしていてずるけることと、船を奪って罪もない多くの人を殺すこととは、まったく別のことなのである。
 とにかく、やがて上陸隊が編成された。六人のものが船に留《とど》まることになり、シルヴァーをも含めた残りの十三人が乗り込み始めた。
 その時のことだった、私たちの生命を救うによほど与《あずか》って力のあったあの向う見ずな考えの最初のものが、私の頭に思い浮んだのは。シルヴァーが六人を残してゆくとなれば、味方が船を占領してそれを操縦して戦うことが出来ないことは明かであった。また、たった六人だけ残されるのだから、船室の連中が現在のところ私の助力を必要としないことも同じく明かだった。私は上陸しようと直ちに思いついたのだ。で、すぐさま舷側を滑り下りて、近い方のボートの艇首座に身を丸くしてちぢこまった。と、ほとんど同時にそのボートは押し出された。
 だれも私に目を留める者がなく、ただ舳《へさき》の漕手が「お前かい、ジム? 頭を低くしていろよ。」と言っただけだった。しかし、シルヴァーは、もう一艘のボートから、目ざとくこっちを見て、それが私かどうかを大声で尋ねた。で、その瞬間から私は自分のしたことを後悔し始めた。
 船員たちは渚まで競漕したが、私の乗っていたボートは、幾分先に出発していた上に、軽くもあり漕手もよかったので、もう一艘のボートを遥かに抜いて進み、舳が岸辺の樹木の間に突き込むと、私は一本の枝を掴んでぶら下って、一番近くの茂みの中へ躍り込んだ。その時にはシルヴァーやその他の者はまだ百ヤードも後にいた。
「ジム、ジム!」とシルヴァーが大声で呼んでいるのが聞えた。
 しかしもちろん私はそれには少しも気を留めなかった。跳んだり、屈《かが》んだり、押し分けたりしながら、真正面へとまっすぐにひた走りに走り、とうとうその上走れなくなった。

第十四章 第一撃

 私はのっぽのジョンをすっぽかしてやったのがひどく嬉しかったので、愉快な気持になって、自分の今いる奇妙な土地を多少の興味をもって見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し始めた。
 私は、柳や、蒲《がま》や、変てこな見慣れない沼沢性の樹木などが一面に生い茂っている沼のような地域を横切って来て、その時は、波のように起伏している広い砂原の端のところに出ていた。その砂原は長さ約一マイルあり、松の樹が少しと、大きくなったのは樫に似ているが、葉が柳のように青白い、曲りくねった樹木がたくさん、点々と散在していた。この空地の向側には、例の山の一つが立っていて、二つの奇怪な峨々《がが》たる峯をぎらぎらと太陽に輝かせていた。
 私は今初めて探検の喜びを感じた。この島は無人島であった。船の仲間は後にして来たし、行手には口の利けない獣と鳥の他《ほか》には何一つ生物《いきもの》がいなかった。私は樹々の間をここかしこと歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。あちこちに私の知らぬ花の咲いた植物があった。あちこちに蛇が見えたが、その中の一匹は岩棚から鎌首をあげて、独楽《こま》の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るような音を立てながら私を睨んでいた。それが有毒な敵で、その音こそあの有名ながらがら蛇の音だとは、私は少しも思ってもみなかった。
 それから、あの樫のような樹――鮮色樫あるいは常緑樫という名だということを後になって聞いた――の長く続いた茂みのところへやって来た。その樹は黒苺《くろいちご》のように砂に沿うて低く生えていて、大枝は妙にねじれ、葉は藁屋根のようにこんもりしていた。この茂みは一つの砂丘の頂から下へ延びていて、下へゆくにつれて拡がりもし高くもなり、蘆の生い茂った広い湿地の縁まで達していた。その湿地を近い方の小川が滲み込みながら進み、碇泊所へ流れ込んでいた。沼は強烈な太陽の光の中に湯気を立てていて遠眼鏡《スパイグラース》山の輪廓はもやもやとして震えて見えた。
 突然、蒲の間がざわざわし始めた。野鴨が一羽ぐわあと鳴いて飛び立ち、続いてまた一羽また一羽と、間もなく沼の全表面の上には鳥の大群が空中に啼き叫びながら輸を描いて飛び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。私はすぐに、船の仲間のだれかが湿地の縁に沿うて近づいて来たのに違いないと判断した。果して私の思った通りだった。間もなく、ずっと遠くに低い人声《ひとごえ》が聞え、なおも耳を傾けていると、それがだんだん大きく近くなって来た。
 それを聞くと私は非常に怖《こわ》くなって、一番近くの鮮色樫のこんもりしている下へ這い込んで、耳をすましながら、小鼠のように黙って、そこにしゃがんでいた。
 別の声が返事をした。すると初めの声が、それはシルヴァーの声だということが私にはその時わかったが、また話し始めて、永い間|滔々《とうとう》としゃべり続け、ただ時々別の声が口を出すだけだった。その音調から察すれば、彼等は熱心に、またほとんど烈しいくらいに、話し合っているに違いなかった。しかし、はっきりした言葉は一つも私の耳に入らなかった。
 とうとうその話し手たちは立ち止ったらしかった。そして多分坐ったようであった。というのは、彼等がそれ以上近づいて来なくなったばかりではなく、鳥の群もだんだん静かになりかけ、再び沼地の自分たちの場所に下り始めたからである。
 そして今私は自分の仕事を等閑《なおざり》にしていることに気がついて来た。無鉄砲にもあの兇漢どもと一緒に上陸したからには、いくら何でも自分の出来ることは彼等の相談を窃《ぬす》み聞きすることだ、そして自分の明白な義務は、都合よく低く這っている樹々の下に隠れて出来るだけ近くへ忍び寄ることだ、と思い始めたのだ。
 話し手のいる方角は、彼等の声の響だけではなく、数羽の鳥がまだその闖入者《ちんにゅうしゃ》たちの頭上に驚いて舞っている様子でも、かなり精確にわかった。
 四つん這いになって這いながら、私は彼等の方へそろそろと、しかし脇目もふらずに進んで行った。とうとう、木の葉の隙間へ頭を上げると、沼のそばに、樹木が密に生えている小さな緑の谷がはっきりと見下されて、そこにのっぽのジョン・シルヴァーともう一人の船員とが向い合って話しながら立っていた。
 太陽が彼等を全身照していた。シルヴァーは帽子をそばの地面の上に投げ出していて、彼の暑気でてらてらしている、大きな、すべすべした、色白の顔は、哀願するように相手の男の顔に向けられていた。
「兄弟《きょうでえ》、」と彼は言っていた。「これもお前《めえ》を尊敬してるからのことだぜ、――尊敬だぞ、違《ちげ》えねえぜ! もしお前が好きでなけりゃあ、己がこんなとこまで来てお前にわざわざ言って聞かせてやると思うか? もうすっかりきまってることだ、――今更お前がどうにもこうにも出来やしねえ。己がこう言ってるのもお前の首をつなぐためなんだ。で、もしあの乱暴な奴らのだれかがこのことを知ったら、己ぁどうなるか、トム、――え、おい、どうなると思う?」
「シルヴァー、」と相手の男が言った。――そして私には、彼が顔を真赤にしているばかりではなく、鴉のように嗄《しゃが》れた声を出し、またその声がぴんと張った索のように震えているのがわかった。――「シルヴァー、」と彼は言った。「お前は年寄だ。そして正直者だ。ともかくそういう評判を取ってるんだ。それにまた、たくさんの貧乏な水夫たちの持っていねえほどの金《かね》も持っている。それから胆っ玉もある、確かにな。それだのに、お前はあの馬鹿どもの仲間にひきこまれようって言うのかい? そんなお前じゃねえ! 己はそんなことをするくれえなら片手をなくしたっていい。それぁ神様が己を照覧していらっしゃるくれえ確かにだ。もし己が自分の義務に背いたら――」
 と、その時突然、彼の言葉は或る叫び声で遮られた。私は実直な船員を一人見つけたのであったが、――さて、今、ちょうどそれと同時に、もう一人の実直な船員の知らせがわかって来たのである。沼のずっと遠くで、突然、怒った叫び声のような音声が起ったかと思うと、それに続いて別の声がし、それから恐しい長く引いた悲鳴が一声聞えた。遠眼鏡山の岩は幾度となくその悲鳴を反響した。沼の鳥の群はことごとく一斉にぶうんと羽音を立てて再び飛び立ち、天を暗くした。そして、永い間その死のをめき声がなおも私の頭の中で鳴り響いていた後に、ようやく寂寞が再びあたりを領し、ただ、また降りて来る鳥のさわさわという羽音と、遠くの大浪のどどうっと響いて来る音とが、午後の懶《ものう》さを擾《みだ》しているだけだった。
 トムはその声を聞くと拍車をかけられた馬のように跳び上った。が、シルヴァーは眼を瞬きもしなかった。彼は軽く※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖に凭《もた》れながら、じっとその場所に立っていて、今にも跳びかかろうとする蛇のように相手の男を見守っていた。
「ジョン!」と水夫は片手を差し伸ばしながら言った。
「手を触《さわ》るな!」とシルヴァーは一ヤードほど跳び退きながら叫んだ。それは熟練した体操家のような速さと確かさだと私には思われた。
「厭なら触らねえよ、ジョン・シルヴァー。」と一方の者が言った。「お前に己をこわがらせるのは、良心が咎めるからだぞ。だが、一|体《てえ》、あの声は何だったい?」
「あれか?」とシルヴァーが、ずっと微笑はしていたが、しかし前よりはもっと用心深くしながら、答えた。彼の眼は大きな顔の中でほんのピンの先ほども小さくなっていたが、しかし硝子の破片のように閃いていた。「あれか? おお、あれぁアランだろうと思うな。」
 それを聞くと可哀そうなトムは勇士のようにかっと怒った。
「アランだと!」と彼は叫んだ。「では、まことの船乗としてあの男の魂を安らかならしめ給え! で、ジョン・シルヴァー、お前は永《なげ》えこと己の仲間だったが、これからはもう仲間じゃねえぞ。己は犬みてえにみじめな死に方をしようとも、義務をしながら死ぬつもりだ。お前たちはアランを殺したんだろう? 殺せるなら、己も殺せ。だが己はお前たちなんぞ物ともしねえぞ。」
 そう言うと、その勇敢な男は料理番《コック》にくるりと背を向けて、海岸の方へ歩き出した。しかし彼は遠くまでは行かれぬ運命だった。一声叫びながら、ジョンは一本の木の枝を掴むと、手早く※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を腋の下から外して、その奇怪な飛道具を空気を切ってぶうんと投げつけた。それは、尖頭を先にして、可哀そうなトムの背中の真中のちょうど両肩の間に、恐しい勢でぶっつかった。彼は虚空を掴み、ううんと呻いて、倒れた。
 彼がひどく怪我《けが》をしたかさほどでもなかったかは、だれにもわからなかった。その音から判断すれば、恐らく、彼の背中は即座に打ち砕かれたのであろう。それに彼には恢復するだけの時間も与えられなかった。シルヴァーは、片足はなく※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖もなくとも、猿のように敏捷で、次の瞬間にはトムの上に跨って、その抵抗も出来ない体《からだ》に二度もナイフを柄《つか》のところまで突き刺したのだ。彼がそうして突き刺している時に息を切らしてはあはあいっているのが、私の隠れている場所からも聞えた。
 私は気が遠くなるということはほんとうはどんなことであるか知らないが、それからしばらくの間は見えるものことごとくが自分の前から渦巻く靄《もや》の中をぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行ったことは知っている。シルヴァーも、鳥も、高い遠眼鏡山の山頂も、私の眼の前で倒になってくるくるくるくると※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行き、耳の中では、あらゆる種類の鐘が鳴り響き、遠くの声がわあっと叫ぶのが聞えた。 私が再び正気に返った時には、かの極悪人は気を落着けていて、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を腕の下にし、帽子をかぶっていた。そのすぐ前には、トムが芝生の上にじっと動かずに横っていた。けれどもその殺人者は彼のことを少しも気にかけないで、その間血塗れのナイフを一把の草で拭いていた。その他のものは何の変化もなく、太陽は、湯気立っている沼や、山の高い尖頂に、依然として無慈悲に輝いていて、私は、自分の眼の前で殺人が実際に行われて、一人の人間の生命がつい一瞬前に無残に絶たれたのだということを、ほとんど信ずる気にはなれないのであった。
 しかしその時ジョンは手をポケットの中に入れて、呼子を取り出し、いろいろの調子の音《ね》で吹くと、それが暑い空気の中を遠くまで響きわたった。私には、無論、その合図の意味はわからなかった。が、それを聞くとたちまちに私の恐怖が目覚めて来た。もっとたくさん人がやって来るのだろう。私は発見されるかも知れない。彼等はすでに実直な人々を二人まで殺しているのだ。トムとアランとの後に、私が次にやられるのではなかろうか?
 すぐさま私は逃げ出すことにして、出来るだけ速くこっそりと、森のもっと開けた部分へと、再び這い戻りかけた。そうしていると、あの老海賊とその仲間たちとの間に互に呼び交している声が聞え、危険を知らせるその声が私の足を早めさせた。茂みを出るや否や、私は、人殺しどもから離れられさえすれば逃げる方向などにはほとんど構わずに、それまでに走ったことのないほどひた走りに走った。そして走っている間に、恐怖はいよいよ募って来て、しまいには狂気じみたものになった。
 実際、だれでも私より以上に助かる見込のなくなった者はあるだろうか? 合図の砲の鳴る時が来ても、どうして私は、人殺しの罪悪を犯したばかりのあの悪鬼どもにまじって、ボートのところまで下りて行かれようか? 私を真先に見つけた奴が鴫《しぎ》の首でもひねるように私をひねり殺しはしないだろうか? 私が姿を見せないそのことが彼等には私が彼等を恐れていることの、従って私が彼等のやったことを知っていることの証拠と思われはしないだろうか? もうどうしたって駄目だ、と私は思った。さようなら、ヒスパニオーラ号よ。さようなら、大地主さんや、先生や、船長さん! 私には、餓死するか、謀叛人どもの手にかかって殺されるかの他には、何も残されてはいなかった。
 この間もずっと、前に言ったように、私はなおも走り続けていて、少しも気がつかずに、あの二つの峯のある小山の麓に近づいて、島の中でも、鮮色樫がもっと疎《まばら》に生えていて、恰好《かっこう》も大きさももっと森林樹らしく見える部分へ入り込んでいた。その樹々にまじって、或るものは五十フィート、或るものは七十フィート近くの高さのある、数本の松の樹がちらほら生えていた。空気もまた、下の沼のほとりよりは爽かな香がした。
 そしてここでまた、新たな驚きが、私に、胸をどきんとしながら立往生させたのであった。

第十五章 島の男

 山はこのあたりでは嶮《けわ》しくて石だらけだったが、その山腹から礫《こいし》がばらばらと離れて、樹の間をがらがらと音を立てて跳びながら落ちて来た。私の眼が本能的にその方向へ向くと、一つの姿が非常な速さで一本の松の樹の幹の後へ跳び込んだのが見えた。それが何であったか、熊か、人間か、猿か、私にはまるでわからなかった。どす黒くて、毛でむしゃむしゃしているようだった。それ以上はわからなかった。しかしこの新しい怪物の出現は私を立ち止らせた。
 私は今や両側とも断たれたようなものであった。背後にはあの人殺しどもがいる。前にはこの得体《えたい》の知れぬものが潜《ひそ》んでいる。そこで直ちに私は自分の知らぬ危険よりはむしろ自分の知っている危険の方を取ることにした。シルヴァーだってこの森の怪物に比べればそれほど恐しくないような気がしたので、私は急に踵を返して、肩越しに油断なく振り返りながら、ボートの方角へと引返しかけた。
 と、たちまちその怪物が再び姿を現し、大きく迂回して、私の行手を遮りかけた。私はともかく疲れていたが、よし朝起きた時のように元気があったにせよ、そういうような相手と速さを競うことは自分には到底無駄だということがわかった。幹から幹へとその怪物は鹿のように跳び移り、二本の脚で人間のように走ってはいたが、走る時にはほとんど身を二つに折り曲げて屈んでいて、私のそれまでに見たどの人間とも似ていなかった。でもそれは人間だった。それはもはや疑うことが出来なくなった。
 私はふと以前に聞いたことのある食人種の話を思い出した。私はもう少しのことで救いを呼ぼうとした。けれども、いかに野蛮人ではあってもそれが人間だったという事実だけでも、幾らか私を安心させ、それに比例してシルヴァーの恐しさが甦って来た。それで、私は立ち止って、何か逃げる方法はないかと思案した。そうして考えていると、自分がピストルを持っていたことがぱっと頭に思い浮んだ。自分が素手《すで》ではないことを思い出すや否や、勇気が再び心の中に燃え上った。そして私はその島の男にきっぱりと顔を向け、彼の方へつかつかと歩いて行った。
 彼はこの時には他の樹の幹の後に隠れていた。が、私をよく見守っていたに違いない。という訳は、私が彼のいる方角へ動き出すや否や、また姿を現して、私に逢うために一歩踏み出したからである。それから、躊躇したり、あとしざりしたり、再び前へ出たりしたが、その挙句、私のびっくりしまごついたことには、ぺたんと跪いて、組み合した両手を哀顔するようにして差し出した。
 それを見ると私はもう一度立ち止った。
「君はだれだい?」と私は尋ねた。
「ベン・ガンだよ。」と彼は答えた。その声は嗄《しゃが》れていてぎごちなくて、銹びた錠前のようだった。「俺《わし》は可哀《かええ》そうなベン・ガンだよ。この三年間も人間と口を利いたことがねえんだ。」
 私にはその時、この男が自分と同じく白人で、その目鼻立ちは人好きのするくらいでさえあることが、わかった。彼の皮膚は、むき出しになっているところはどこも、日に焦《や》けていた。唇までが黒くなっていた。そして碧い眼はそのようなどす黒い顔の中でまったく際立っていた。私のそれまでに見たり空想したりして来たあらゆる乞食の中で、彼はぼろぼろの着物を着ている点では大将だった。彼は古びた船の帆布と古びた船布とで拵えた襤褸《ぼろ》着物を着ていた。そしてこの異様な補綴細工《つぎはぎざいく》は、真鍮のボタンだの、木片だの、タールまみれの括帆索の紐輪だのという、実に種々様々な不調和な留具《とめぐ》ですっかりくっつけてあった。腰には真鍮のびじょ金《がね》のついた古びた革帯を巻いていたが、それが彼の服装全体の中で唯一の確かなものだった。
「三年間もだって!」と私は叫んだ。「じゃあ君は難破したのかい?」
「いいや、そうじゃねえよ、兄弟《きょうでえ》。」と彼は言った。――「置去りにされたんさ。」
 この置去りと言う言葉は私も前に聞いたことがあって、それが海賊仲間にはごくありふれた一種の怖しい刑罰で、反則者に僅かばかりの火薬と弾丸とを持たせ、どこか遠くの人のいない島に上陸させて、置いて来ることだ、ということは知っていた。
「三年前に置去りにされてね、」と彼は言い続けた。「それからこっちは、山羊と、苺《いちご》と、牡蠣《かき》で命を繋いで来たんだ。どこにいても人間ってものはね、人間てものはどうにかやってゆけるもんだねえ。だが、兄弟、俺は人間の食物《くいもの》がほしくってたまんねえのさ。お前《めえ》さんはひょっとしてチーズを一|片《きれ》持ち合していやしねえかね、え? 持たねえって? やれやれ、俺あ幾晩も幾晩も永《なげ》え夜《よ》うさりチーズの夢をみたよ、――大概《てえげえ》、炙《あぶ》った奴さ。――そしてまた目が覚めてみると、やっぱりここにいるのさ。」
「もしいつか僕がまた船へ乗れたら、君にチーズをどっさりあげるよ。」と私が言った。
 この間中、彼は、私のジャケツの地質に触ってみたり、私の手を撫でたり、私の長靴を眺めたり、概して、彼の話している合間合間に、同じ人間仲間のいることに子供のような喜びを示していたのであった。けれども、私の最後の言葉を聞くと、彼はぎっくりとしたようにこすく顔を振り上げた。
「もしいつかまた船に乗れたら、ってお前さんは言ったね?」と彼は私の言葉を繰返して言った。「ふうん、すると、だれがお前さんの邪魔をするのかい?」
「君じゃあないことだけは確かさ。」と私は答えてやった。
「そりゃそうだよ。」と彼は叫んだ。「ところでお前さんは――お前さんは何ていう名だね、兄弟?」
「ジムだよ。」と私は言ってやった。
「ジム、ジム。」と彼はまったく喜んでいるらしく言った。「じゃ、ねえ、ジム、俺はね、お前さんが聞くと恥しがるくれえ乱暴な渡世をして来た男だよ。まあ、例えばさ、お前さんはこの俺に信心|深《ぶけ》え母親《おふくろ》があったとは思うめえ、――この俺を見てね?」と彼は尋ねた。
「いや、なあに、格別そうでもないがねえ。」と私は答えた。
「ああ、そうかね。」と彼は言った。「とにかく、俺にゃあそんな母親があったのさ、――素敵に信心深え母親がな。それに俺も行儀のいい信心探え子供だったよ。教義問答なんか、とても聞き取れねえくれえ早口に、ぺらぺら言えたもんだぜ。それがこういう有様になったのだよ、ジム。そしてこれも墓石の上で投銭戯《あないち》(註五五)[#「(註五五)」は行右小書き]をやったのが始まりさ! それが始まりだったが、それからだんだん深入りしたんだ。俺の母親は俺にそうなるって言ってたよ。何もかもすっかり言いあてたのさ、母親はな。信心深え女《ひと》だったなあ! だが、俺がこんなとこに置かれることになったなあ、神様の思召しだったよ。俺あこの淋しい島でそんなことをすっかり考えて来たんで、今じゃまた信心深え男に返《けえ》ってるんだ。もうラムなんか決してあんなにたくさん飲みやしねえ。もっとも、初めてありつけた時にゃあ、もちろん、縁起にほんのちょっとくれえはやるがね。俺あ真人間にならなくちゃあならんし、その見越しもちゃんとついているんだ。それにね、ジム、」――とあたり中を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、耳語くらいに声を低めて、――「俺は金持なんだぜ。」
 私は、その時、この男はこんな寂しいところに独りぽっちでいたために可哀そうに気が変になっているのだと思った。そして、その気持がきっと私の顔に現れたのだろうと思う。というのは、彼は躍起となってその言葉を繰返したから。――
「金持だぜ! 金持だってえんだよ! で、お前さんにいい話をしてあげよう。俺はお前さんを立派な男にしてあげるぜ、ジム。ああ、ジム、お前さんは自分の運勢を有難く思うようになるよ、きっと。何《なん》しろ、お前さんは俺を一番先にめっけてくれた人だからなあ!」
 そして、こう言った時、突然彼の顔に不機嫌な影がさし、彼は片手に掴んでいる私の手を強く握ると、私の眼の前に嚇《おど》すように人差指を挙げた。
「ところで、ジム、ほんとのとこを言っておくれよ。あれぁフリントの船じゃねえのかい?」と尋ねた。
 この言葉を聞くと、私にはうまい考えが思い浮んだ。私は味方を一人見つけたと思いかけ、すぐに彼に答えてやった。
「フリントの船じゃないよ。それにフリントはもう死んじゃった。だが、君が訊《き》くから、ほんとのことを言ってあげるんだが、――あの船にはフリントの子分が何人か乗っているんだ。私たち残りの者はそれで困ってるんだよ。」
「一本――脚の――男はいねえかね?」と彼は喘ぐように言った。
「シルヴァーかい?」と私は尋ねた。
「ああ、シルヴァーだ! そういう名前《なめえ》だったよ。」と彼が言った。
「あの男は料理番《コック》なんだ。そしてまた張本人なんだよ。」
 彼はまだ私の手頸を持っていたが、これを聞くとそれをぎゅっと握り締めた。
「もしお前がのっぽのジョンの使に来たんなら、己《おれ》あ豚みてえにやられるんだ。それぁ己にゃわかってる。だがお前はどこにいると思う?」と彼は言った。
 私は直ちに心をきめて、彼に、返事として、私たちの航海の一部始終や、私たちが今どんな苦境に陥っているかということを、話してやった。彼は非常に熱心な興味をもって聞いていたが、話し終えると、私の頭を軽く叩いた。
「お前さんはいい子だ、ジム。」と彼が言った。「で、お前さん方《がた》はみんな困った羽目になっているんだね? よし、じゃあ、ベン・ガンを信用しなせえ、――ベン・ガンはそれにゃあお誂《あつれ》え向きの男だよ。ところで「その大地主さんて人は人を助けるのに太《ふと》っ腹《ぱら》になれそうな人だとお前さんは思うかね?――お前さんの話だと、その人も困った羽目になってるということだが。」
 私は大地主さんはこの上なく心の大きい人だと言ってやった。
「そうかい。だがね、」とベン・ガンは答えた。「俺は門番にして貰ったり、仕着《しきせ》をして貰ったり、そんなようなことをして貰《もれ》えてえ、って言うつもりじゃねえんだぜ。そんなこたぁ俺の目当じゃねえんだよ、ジム。俺の言うつもりなのは、大地主さんが、もう或る人間のものも同様な金の中から、大枚、まあ千ポンドぐれえ、分けて下さりそうかい? ということなのさ。」
「それぁきっとして下さると思うよ。」と私は言った。「ほんとは、みんなが分前を貰うことになってるんだから。」
「それから[#「それから」に傍点]国へ帰る船賃は要《い》らないのかい!」と彼は非常にずるい顔付をしながら言い足した。
「知れたことさ。」と私は叫んだ。「大地主さんは紳士だもの。それにまた、あいつらを厄介払いしてしまえば、君にも船を国へ帰す手伝いをして貰わなきゃならないしね。」
「ああ、それぁそうだろな。」と彼は言った。そして非常に安堵したような様子だった。
「じゃあ、お前さんにいい話をしてあげるとしよう。」と彼は話し続けた。「それだけ言うことにするぜ。俺はね、フリントがあの宝を埋めた時にゃあ、あの人の船にいたんだ。あの人は六人の者と一緒さ、――六人とも丈夫な水夫だった。あの連中は一週間近くも陸にいたし、俺らは海象《ウオルラス》号に乗って岸に寄ったり離れたりしてたんだ。或る日のこと、合図があって、フリントが一人で小さなボートに乗って帰《けえ》って来た。頭を青い肩巾《スカーフ》で包んでね。お陽《ひ》さんが昇りかけてた時で、あの人の顔は恐しく真蒼に見えたね。だけど、あの人だけで、いいかね、六人はみんな死んだのだ、――死んで埋められたんだぜ。どうしてあの人にそんなことがやれたのか、俺らの船の者一人も合点《がてん》がいかなかったな。何にしてもともかく、闘い、殺害、不意の死(註五六)[#「(註五六)」は行右小書き]だったのさ、――あの人が六人を相手にしてな。ビリー・ボーンズは副船長だったし、のっぽのジョンは按針手《クオータマスター》だった。その二人が宝はどこにあるのかって訊いたんだよ。するとあの人は言った。『ああ、手前《てめえ》たちぁしたけりゃ上陸してもええぜ、そしてここに残るがいいや。』とね。『だが、この船の方は、もっと獲物を探しに荒し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るんだぞ、畜生!』そう言ったものさ。
 ところで、俺は三年前に別の船に乗っててね、この島を見たんだ。で、言ったのさ、『おい、みんな、ここにゃフリントの宝があるんだ。上陸してめっけようじゃねえか。』とね。船長《せんちょ》はそれにゃ気が進まなかったが、仲間の奴らはみんな賛成して、上陸した。十二日もみんなで宝を探し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、毎日毎日奴らは俺に悪態《あくたい》をつき、とうとう或る朝みんなが船へ行っちまった。『お前《めえ》はな、ベンジャミン・ガン、』って奴らは言うんだ。『ここに鉄砲を置いとくぜ、それから鋤と、鶴嘴《つるはし》とをな。』とね。『お前はここに残ってるがいいや。そしてフリントの金をめっけ出して自分のものにしな。』って奴らは言うのさ。
 でね、ジム、もう三年間俺はここにいるのさ。そしてその日から此方ってもの、人間の食物は一口も食わねえんだよ。だがねえ、おい、俺を見ておくれ。俺は平水夫みてえに見えるかい? 見えねえだろ。また、そうじゃなかったんだからな。」
 そう言うと、彼は瞬きをして、私をきゅっと抓《つね》った。
「その大地主さんて人に言っておくれよ、ジム。」――と彼は話し続けた。「あの男はそうじゃなかったんです、――とそう言うんだぜ。三年が間あの男はこの島の人間になっていました、昼も夜も、天気のよい日も雨の日も。そして時々はお祈りのことも考えてたようでした(と言うんだよ)。それから時々は、年とった母親がまだ生きてるなら、その母親のことも考えてたようでした(とね)。だけどガンは大抵(とこうだよ)――あの男は大抵別の事に夢中になってました。そう言ってからお前さんは大地主さんを一つつねるんだぜ、こんな工合にな。」
 と言って彼は非常に親しげな風にまた私を抓った。
「それからな、」と彼は続けた。――「それから、行ってこう言うんだよ。――ガンは善人でごぜえます(とな)。そして、あの男も元はやっぱりその仲間でしたが、あんな分限紳士よりは、生れつきの紳士の方を、とっても――いいかい、とってもだよ――信用しています、とね。」
「うん、君の言ったことは僕には一|言《こと》もわからないねえ。」と私は言った。「だが、そんなことはどうだっていい。どうして僕が船へ帰れるかね?」
「ああ、そりゃあ困ったこったね、確かに。」と彼が言った。「よしよし、俺のボートがあるよ。俺がこの二本の手で拵《こせ》えた奴さ。白い岩の下に隠してある。まさかの時にゃあ、暗くなってからあれを使ってみてもいいよ。おやっ!」と彼は急に呶鳴《どな》り出した。「あれぁ何だね?」
 ちょうどその時、日が沈むまでにはまだ一二時間はあったのに、雷のような砲声が起って島中が鳴り響いたのである。
「戦《いくさ》を始めたんだよ!」と私は叫んだ。「僕について来給え。」
 そして私は碇泊所の方へ、怖《こわ》さも何もすっかり忘れて、走り出した。すると、山羊の皮を着た島に置去りにされた男は、私のそばにくっついて、身軽く楽々と駆けた。
「左、左、」と彼が言った。「左手へ左手へと行くんだよ、ジム君! その木の下へ入《へえ》るんだ! そこが俺が初めて山羊を殺した処さ。今じゃあ山羊の奴らはこんなとこまで下りて来やしねえ。ベンジャミン・ガンが怖《こえ》えんで、みんなあの山の上へ逃げちまったよ。ああ! そこにはばかがある。」――墓場というつもりだったに違いない。「塚があるだろ? 俺は時々ここへ来てお祈りをするんさ。多分|今日《きょう》あたりは日曜だろうと思った時にね。それぁなるほど礼拝堂じゃねえさ。だけど、この方がよっぽど有難《ありがて》えような気がしたよ。で、お前さんは言うんだぜ、ベン・ガンは手不足で困りやした、ってね。――牧師さまはいらっしゃらねえし、聖書や旗でせえねえんですから、とね。」
 私が走ってゆく間に彼はそのようにしゃべり続けていたが、別に返事を期待するのでもなく、また私も何の返事もしなかった。
 大砲の音の次に、かなり間をおいてから、小銃の一斉射撃が聞えた。
 それが止んでまたひっそりとし、それから、私は、前方四分の一マイルとないところに、英国国旗《ユニオンジャック》が森の上の空中に翻っているのを見た。

第四篇 柵壁


第十六章 医師が続けた物語 どうして船を棄てたか

 あの二艘のボートがヒスパニオーラ号から岸へ行ったのは、一時半――海語で言うと三点鐘(註五七)[#「(註五七)」は行右小書き]――頃であった。船長と、大地主と、私とは、船室《ケビン》でいろいろと相談をしていた。一陣の微風でもあったなら、吾々は船に残っている六人の謀叛人を襲い、錨索を放って、沖へ出たであろう。しかし風はなかったし、その上、どうにも仕方がなくなったことには、ハンターが降りて来て、ジム・ホーキンズがいつの間にかボートへ入り込んで皆と一緒に上陸してしまったと知らせてくれた。
 吾々はジム・ホーキンズを疑う気は少しも起らなかったが、彼が無事でいられるかと非常に心配になった。ああいう気の荒くなっている連中と一緒に行ったのでは、吾々が再びあの子を見られるかどうか見込は五分五分のように思われた。吾々は甲板へ駆け上った。瀝青《チャン》が板の接目《つぎめ》で泡立っていた。その場所に漂う気持の悪い悪臭が私の胸を悪くさせた。もし熱病や赤痢を嗅げる処があるとするなら、あの厭な碇泊所こそ正にそれであった。例の大人の悪党は前甲板の帆の下でぶつぶつ言いながら坐っていた。岸には河口のすぐ近くにあの二艘の快艇《ギッグ》が繋いであって、両方ともに一人ずつ残って坐っていた。その中の一人は「リリバリアロー(註五八)[#「(註五八)」は行右小書き]」を口笛で吹いていた。
 何もせずに待っていることはたまらなかった。それで、ハンターと私とが情報を求めに小形端艇《ジョリボート》に乗って上陸しようということになった。
 前の快艇はその漕手らの右の方に曲っていたが、ハンターと私とは、海図にある柵壁の方向へと、真直《まっすぐ》に漕いで行った。ボートの番をするのに残された二人の者は、吾々の現れて来たのにあわて出したようだった。「リリバリアロー」もぴたりと止んだ。そして両人がどうしたらいいかと相談しているのが見えた。もし彼等がシルヴァーのところへ知らせに行ったなら、すべては違った成行になったかも知れなかった。が、彼等は何か命令されていたのであろう、元のところに静かに坐って、また「リリバリアロー」をやり出した。
 海岸にはちょっと出張った処があって、私はそこを彼等と吾々との間にするように舟を進めた。そういう訳で、吾々は上陸しない先にもう快艇が見えなくなっていた。岸に着くと私は舟から跳び出し、暑さを避けるのに大きな絹のハンケチを帽子の下に入れ、安全のためにちゃんと火薬を填めた一対のピストルを持って、ほとんど走るようにして進んだ。
 百ヤードと行かないうちに、柵壁に着いた。
 それはこういう風になっていた。清水の泉が一つの円い丘のほとんど頂上のところに湧き出ていた。さて、この丘の上に、その泉をも取り入れて、堅牢な丸太小屋が造ってあり、危急の場合には四十人くらいの人数を収容出来たし、四方とも壁に小銃射撃が出来るように銃眼を穿ってあった。小屋の周り中は樹木を伐り払って広い空地にしてあり、その上にまた、高さ六フィートの※[#「木+戈」、U+233FE、148-2]囲《くいがこい》をめぐらしてあった。この※[#「木+戈」、U+233FE、148-3]囲には開き戸もなければ明《あ》いている箇所もなく、非常に堅固なので、時間や勢力をかけずには引き倒すことが出来ないし、相当間隔を置いてあるので、包囲者は身を隠すことも出来なかった。この丸太小屋の中にいる人々の方は、あらゆる点で包囲者に対して有利であった。静かに隠れていて、敵を鷓鴣《しゃこ》のように射撃することが出来るのだ。ただ食糧があってよく見張りをしていさえすればよかった。まったくの奇襲を受けるのでない限りは、一聯隊の敵に対してもその場所を守ることが出来たかも知れなかった。
 私に特に気に入ったのは、泉であった。吾々はヒスパニオーラ号の船室に十分よい場所を占めていて、武器と弾薬も、食べる物も、種々の上等の酒も豊富にあったけれども、一つだけ手抜りがあった。――水がなかったのである。私がそのことを考えている時、断末魔の人間の悲鳴が島中に響きわたった。私は非業の死はこれが初めてではない。――かつてカムバランド公爵(註五九)[#「(註五九)」は行右小書き]閣下に仕えていたことがあり、フオンテノイ(註六〇)[#「(註六〇)」は行右小書き]では自分も負傷したことがある。――が、この時は心臓がどきんとした。「ジム・ホーキンズがやられた。」と真先に思ったのである。
 昔軍人だったということは有難いことであるが、しかし医者であるということはなおさらである。もう一刻もぐずぐずしてはいられない。そこで私は直ちに決心をし、時を移さず海岸へ引返して、小形端艇に跳び乗った。
 好運にもハンターは上手な漕手だった。吾々のボートは水を切って進み、間もなく横附けになったので、私はスクーナー船に上って行った。
 みんなは、当然のことながら、すっかりどぎまぎしていた。大地主は敷布《シーツ》のように蒼白な顔をして坐っていて、自分がみんなをこんな災難に陥れたことを考えていた。善良な人だ! 六人の前甲板の水夫の中の一人も大地主と同じくらいの顔色をしていた。
「こんなことには初めての男が一人いますよ。」とスモレット船長は、その男の方へ頭を動かしながら、言った。「彼《あれ》はあの悲鳴を聞いた時には、今少しで気絶しそうでしたよ、先生。ちょっと舵を動かしてやれば、あの男は我々の味方になりましょう。」
 私は自分の計画を船長に話した。そしてそれを実行する細かい手筈《てはず》を二人で決定した。
 吾々は、レッドルース老人に装弾した銃を三四挺と身を護るための敷蒲団《マットレス》を一枚与えて、船室と前甲板下水夫部屋《フォークスル》との間の廊下に立たせた。ハンターはボートを船尾窓の下に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、ジョイスと私とはそのボートに火薬の鑵や、銃や、堅《かた》パンの嚢や、豚肉の小樽や、コニャックの樽や、私には何より大事な薬箱などを積み込み始めた。
 その間に、大地主と船長とは甲板に留《とど》まり、船長は舵手《コクスン》に声をかけた。船に残っている者の中の頭立《かしらだ》った男なのである。
「ハンズ君、」と彼は言った。「ここに我々二人は銘々一対ずつのピストルを持っている。もし君ら六人の中のだれでもちょっとでも信号めいたことをすれば、その者は命《いのち》をなくするんだぞ。」
 彼等は大層びっくりした。そして、ちょっと相談してから、一人残らず船首の昇降口を転《ころ》げ込んで下りて行った。疑いもなく、吾々を背後から不意打しようと思ったのであろう。ところが、円材の出ている廊下にレッドルースが彼等を待ち構えているのを見ると、彼等は直ちに方向を転じて、一人の頭が再び甲板にひょいと出た。
「降りろ、畜生!」と船長が叫んだ。
 するとその頭はまたひょいとひっこんでしまった。そして、しばらくは、その六人のごく意気地のない水夫どもは何の音も立てなかった。
 この時分までには、吾々は、手当り次第の物を抛り込んで、小形端艇に積めるだけ積み込んでしまった。ジョイスと私とは船尾窓から抜け出して、再び岸へ向って進み、オールの動く限り速く一所懸命に漕いだ。
 こうして二度もやって来たので、岸にいる見張人はかなり驚いた。「リリバリアロー」はまた止んだ。そして、吾々がちょうど例の小さな岬の蔭に彼等を見失おうとする時に、彼等の一人がひらりと岸へ跳び移って姿を消した。私は計画を変えて彼等のボートを破壊してやろうかとも思ったが、シルヴァーやその他の者どもがすぐ近くにいるかも知れないし、余り慾張り過ぎてはあるいはすべてが失敗に終るかも知れないと思って、思い止《とど》まった。
 吾々は間もなく前と同じ場所に上陸し、丸太小屋に必要品を入れにかかった。最初は三人ともどっさり荷物を背負って行って、それを防柵の上から投げ込んだ。それから、ジョイスを残して、それの番をさせ――無論一人ではあるが、銃を半ダースも持たせておいた――ハンターと私とは小形端艇に引返して、もう一度荷物を背負った。こうして二人は息をつく間もなく進み、とうとう全部の積荷を運んでしまうと、二人の召使は丸太小屋の中に自分たちの位置を占め、私は全力を出してヒスパニオーラ号へ漕ぎ戻った。
 吾々が二回もボートに荷を積み込もうとしたことはずいぶん大胆らしく思われるが、ほんとうはそれほどでもなかった。彼等は無論人数では優っていたが、吾々は武器で優っていた。上陸している連中は一人も銃を持っていないので、彼等がピストルの射撃出来る距離以内に来ないうちに、吾々は少くとも六人はやっつけることが出来るつもりだった。
 大地主は船尾の窓のところで私を待っていた。さっきの気の遠くなったような様子はすっかりなくなっていた。彼は繋艇索を掴んでそれを結びつけ、それから吾々二人は命がけでボートに荷を積み込み始めた。積荷は豚肉と火薬と堅パンで、それに、大地主と私とレッドルースと船長とに銘々ただ銃が二挺ずっと彎刀《カトラス》が一本ずつだった。残りの武器と火薬とは二尋半の水の中へ投げ込んだ。それで、そのぴかぴかした鋼鉄の刃物などがずっと下に綺麗な砂の底で太陽に輝いているのが見えた。
 この時分には潮が退《ひ》き始めていたので、船は錨の周りをぐるぐる動いていた。例の二艘の快艇の方角で微かにおういと呼ぶ声が聞えた。ジョイスとハンターとはそれとはずっと東の方にいるので、二人のことはそれで安心出来たけれども、その声は吾々の一行に早く出かけなければならないことを警告した。
 レッドルースは廊下の彼の場所を引揚げて、ボートの中へ跳び下りた。そこで吾々はスモレット船長に便利なようにとボートを船の船尾張出部《カウンター》のところへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
「おい、お前ら、」と船長が言った。「私の言うことが聞えるか?」
 水夫部屋からは何の返事もなかった。
「お前にだ、エーブラハム・グレー、――お前に私は口を利いているのだぞ。」
 それでも答がない。
「グレー、」とスモレット氏は少し声高に再び言い始めた。「私はこの船を立退《たちの》くところだ。で、お前に船長について来いと命令する。お前が心底《しんそこ》は善人だということは私は知っている。また、恐らく、お前たちみんなの中の一人だって悪党ぶっているほどの悪党じゃあないのだ。私はここに時計を手に持っている。私のところへ来るのにお前に三十秒だけ余裕を与えてやる。」
 しばらく間があった。
「さあ、お前、」と船長が言葉を続けた。「そんなに永くぐずぐずしていちゃいかん。私は一秒一秒自分の命もここにいられる方々《かたがた》の命も危険に曝《さら》しているのだ。」
 突然格闘が始まり、打合いの音がしたかと思うと、片頬にナイフの傷を受けたエーブラハム・グレーが躍り出て来て、口笛で呼ばれた犬のように、船長のところへ走って来た。
「来ましたよ、船長。」と彼は言った。
 そして次の瞬間には、彼と船長とは吾々のボートに跳び下り、吾々はボートを押し出して漕ぎ出した。
 吾々は本船からはすっかり離れた。が、まだ上陸して吾々の柵壁の中にいるのではないのだ。


第十七章 医師が続けた物語    小形端艇《ジョリボート》の最後の航行

 この五度目の航行は今までの時とはまるで違っていた。第一に、吾々の乗り込んでいた薬壺のような小さいボートは非常に積み込み過ぎていた。大人が五人で、その中の三人――トゥリローニーと、レッドルースと、船長――は丈が六フィート以上あり、これだけでももうそのボートの運ぶことになっているよりも以上だった。それに加えて、火薬と豚肉とパン嚢とがあったのだ。艫《とも》では舷側《げんそく》上部まで水に触れていた。何度か舟は水をかぶり、私のズボンと上衣の裾とは、百ヤードと行かないうちに、すっかりびしょびしょに濡れてしまった。
 船長は吾々を釣合よく坐らせたので、ボートは前よりは幾らか平らになった。けれどもやはり、吾々は息をするのさえ気がかりだった。
 第二に、潮がその時は退いていて、――漣《さざなみ》の立っている強い潮流が内湾を西の方へ流れ、それから吾々がその朝入って来た海峡を南の方へ外海の方へと流れていた。その漣でさえ積み込み渦ぎた吾々の舟には危険であったが、最も悪いことは、舟がほんとうの針路《コース》から押し流されて、例の岬の蔭の吾々の正当な上陸所から遠ざかっていることだった。もし潮流のままに任せていたなら、舟はあの快艇《ギッグ》のそばに着いて、そこへは海賊どもがいつ現れるかも知れなかった。
「柵壁の方へボートの先を向けておけないんですがね。」と私は船長に言った。私が舵を操っていて、船長とレッドルースとの二人の新手《あらて》がオールを漕いでいたのだ。「舟は潮《しお》に流され通しです。もう少し強く漕げませんか?」
「そうするとボートがひっくり返ってしまいます。」と船長が言った。「どうか、あなたは舟を風上へ向けて下さらなければいけません、――潮に勝って進めるのが見えるまで風上へ向けて下さい。」
 私はその通りにやってみたが、潮は絶えずボートを西の方へ押し流すので、とうとう舳《へさき》を真東に、すなわち吾々の行くべき方向とちょうど直角くらいに、向けるようになってしまった。
「この分ではとても岸に着けませんな。」と私が言った。
「これが我々の執れる唯一の針路《コース》だとすれば、こうする他《ほか》はありませんね。」と船長が答えた。
「我々は潮に逆《さから》って漕いでいなければなりません。おわかりの通り、」と彼は言い続けた。「もしあの上陸所の風下へ流されたら最後、どこで岸に着けるかわかったものじゃありません。おまけに奴らの快艇《ギッグ》に襲われるかも知れないのです。しかし、こうして進んでおれば潮もだんだん弱くなるにきまっているし、そうすれば岸伝いにすぐに漕ぎ戻れますよ。」
「潮はもう弱って来ましたよ。」と艇首座に坐っていたグレーが言った。「舟をちっとは緩めてもいいでしょう。」
「有無う、君。」と私はまるでこれまで何もなかったかのように言った。吾々はみんな彼を味方の一人として遇することに心の中できめていたからである。
 突然船長がまた口を開いたが、その声が少し変っているように私は思った。
「あ、大砲!」と彼は言った。
「私もそのことは考えていました。」と私は言った。船長がきっと堡塁を砲撃されることを考えているのだと思ったからである。「奴らはとても大砲を陸に揚げることは出来ません。よしんばそれが出来たにしても、あの森の中をひっぱり上げることは決して出来やしませんよ。」
「艫《とも》の方を御覧なさい、先生。」と船長が答えた。
 吾々は九ポンド砲のことをすっかり忘れていたのだ。そして、怖しいことには、五人の悪漢がその砲の周りで忙しく立ち働いていて、砲身の被筒《ジャケット》と言っている、航海中はそれに被せてあったあの丈夫な防水布の覆いを取除けているのだった。それだけではなかった。同時に私の心にぱっと思い浮んだのは、その砲の砲弾と火薬とを残して来たことで、斧を一振りすればそれがそっくり船にいる悪者どもの手に入るのであった。
「イズレールはフリントの砲手でしたよ。」とグレーが嗄《しゃが》れ声で言った。
 どんな危険を冒しても、吾々はボートの舳《へさき》をまっすぐに上陸地に向けた。この時分には吾々は、吾々のやらなくてはならぬ穏かな漕ぎ方でさえ舵が利くだけの速力が得られるくらいに、潮流からずっと離れていたので、私は舟を目的地の方へしっかりと向けておくことが出来た。しかし、非常に困ったことには、私が今執っている針路のために、吾々の舟はヒスパニオーラ号に艫《とも》を向ける代りに舷側《ふなばた》を向けて、納屋の大扉のような射外すことのない大標的になっているのだった。
 私には、あのブランディー面《づら》の悪党のイズレール・ハンズが甲板の上に砲弾を一つどしんと抛り出したのが、見えたばかりではなく、聞えもした。
「だれが一番射撃のうまい人です?」と船長が尋ねた。
「トゥリローエーさんがずぬけています。」と私が言った。
「トゥリローニーさん、あいつらの中の一人を狙い撃ちして下さいませんか? なるべくならハンズの奴を。」と船長が言った。
 トゥリローニーは鋼鉄のように冷静だった。彼は自分の鉄砲の点火薬を調べてみた。
「もしもし、」と船長が叫んだ。「その鉄砲は静かにやって下さい。でないとボートがひっくり返りますから。トゥリローニーさんが狙いをつけられる時にはボートの釣合を取るように全員用意。」
 大地主が鉄砲を肩に上げると、漕手は手を止《や》め、みんなは平衡を保つために反対の側に凭《もた》れかかり、すべてが実にうまくいって舟が一滴の水もかぶらなかったくらいであった。
 この時分には悪漢どもは大砲を旋軸の上で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してしまっていて、ハンズは※[#「木+朔」、第3水準1-85-94]杖《こみや》を持って砲口のところにおり、従って最も弾丸に身を曝している訳だった。けれども、吾々は運が悪かった。というのは、ちょうどトゥリローニーが発砲した時にハンズは身を屈め、弾丸は彼の頭上をぴゅっと掠めたからで、倒れたのは他の四人の中の一人であった。
 その男のあげた悲鳴に反響する如《ごと》く声をあげたのは、船にいる仲間どもだけではなかった。岸からも大勢の声が起った。で、その方向を眺めると、上陸している方の海賊どもが樹立の間からぞろぞろと出て来て、あわててボートの中へ跳び込むのが見えた。
「こちらへあの快艇《ギッグ》がやって来ますよ。」と私が言った。
「では、力漕だ。」と船長が叫んだ。「もう舟が沈みはしないかと構っちゃおられません。もし岸に着けなけりゃあ、おしまいです。」
「一艘だけに乗り込んでいる。」と私は言い足した。「もう一艘の方の奴らは岸を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って我々の行手を断つつもりらしい。」
「奴らには走るのがつらいでしょうよ。」と船長が答えた。「何しろ、陸へ上った船乗ですからね。私の気になるのは奴らじゃありません。砲弾です。まるで絨毯の上の球《たま》ころがしだ! だれがやったってやり損ねるはずがありゃしません。大地主さん、火縄が見えたら言って下さい。オールで舟を停めますから。」
 この間にも、舟はそのような積み込み過ぎたボートとしてはかなり速く前進していたし、進んでゆく間に水もほとんどかぶらなかった。もう岸に迫っていて、三四十本も漕げば浜に乗り上げたろう。というのは、退潮《ひきしお》のために、簇生している樹々の下に、狭い砂地が帯のようにすでに現れていたからである。快艇はもはや恐れるには及ばなかった。例の小さな岬のためにそれはもう吾々のところからは見えなくなっていた。あれほどひどく吾々を手間取らせた退潮は、今度はその償いをして、吾々の攻手《せめて》を手間取らせていた。ただ一つの危険は大砲だった。
「出来さえすれぁ、停って、もう一人狙い撃ちしてやりたいんだがな。」と船長が言った。
 しかし、彼等がどんなことがあろうと発砲を遅らせないでおくつもりでいることは明かであった。さっきの倒れた男が死んではいなくて、這って行こうとしているのが私にも見えたのに、彼等はその仲間の方を見ようとさえしなかった。
「用意!」と大地主が叫んだ。
「停れ!」と船長は反響のように速く叫んだ。
 そして船長とレッドルースとは舟の艫《とも》がそっくり水の中へ入ったくらいに力を入れてぐっと逆漕《バック》した。その刹那《せつな》、砲声が轟然と起った。これがジムの聞いた第一の砲声であったのだ。大地主の射撃の音は彼のところでは聞えなかったのだから。その弾丸がどこを通ったかは、吾々の中の一人も正確にはわからなかった。が、それはきっと吾々の頭上を飛んで行ったのであって、吾々の災難はその煽り風のせいもあったかも知れない、と私は思う。
 ともかく、ボートは、三フィートの水の中へ、ごく静かに艫の方から沈んで行って、船長と私とは向い合いながら突っ立った。他の三人は真逆さまに落ちて、ずぶ濡れになりぶくぶくと泡を立てながら起き上って来た。
 ここまでは大した損害はなかった。一人も命は落さなかったし、吾々は無事に岸まで徒渉することが出来た。しかし、吾々の荷物はみんな水の底に沈み、その上困ったことには、五挺の鉄砲の中の二挺しか役に立たなくなったのであった。私のは、私は一種の本能で膝から素早くひっ掴んで頭の上に差し上げた。船長の方は、弾薬帯で肩に背負っていて、賢い人らしく弾機装置の方を上にしていた。他の三挺はボートと一緒に沈んだのである。
 さらに吾々の懸念を増したことには、岸沿いの森の中に人声《ひとごえ》がすでに近づいて来るのが聞えた。そして、吾々には、この半ば跛になったような有様で柵壁へ行く道を断たれる危険があるだけではなく、ハンターとジョイスとが六七人の敵の者に攻撃されたなら、しっかりと踏み止まるだけの分別や気転があるかどうかという憂慮もあった。ハンターはしっかりした男だった。それは吾々にはわかっていた。がジョイスの方が怪しかった。――従僕としては、また人の衣服にブラシをかけるには、面白い、丁寧な男であったが、軍人としてはまったく適していないのだ。
 こんなことを考えながら、吾々は、小形端艇と、吾々の火薬と食糧品との大半とを後に残して、出来るだけ速く岸まで徒渉した。


第十八章 医師が続けた物語       第一日の戦闘の終り

 吾々は、今吾々と柵壁との間にある細長い森林地を突っ切って、一所懸命に前進した。すると一歩一歩と進む毎に海賊どもの声がだんだん近くにがやがや言っているのが聞えて来た。間もなく、彼等の走る跫音《あしおと》や、彼等が藪を押し分けてゆく時の枝のぽきぽき折れる音までも、聞えるようになった。
 私はこれでは本気で一合戦やらなければなるまいということがわかりかけて来たので、自分の点火薬を調べた。
「船長、」と私は言った。「トゥリローニー君は射撃の名人です。あなたの鉄砲をやって下さい。あの人のは役に立たんのですから。」
 二人は鉄砲を取換え、トゥリローニーは、この騒動の始まり以来のように黙々として冷静に、ちょっと立ち止って、どこもみな役に立っようになっているかを確めた。同時に、私は、グレーが何も武器を持っていないのに気がついて、自分の彎刀《カトラス》を渡してやった。彼が手に唾し、眉を顰《しか》めて、その刀身をびゅうびゅうと空気を切って振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのを見ると、吾々みんなは元気が出て来た。彼の体《からだ》のどの線を見ても、この新しい味方が一|廉《かど》の役に立つ人間だということは、明かだった。
 さらに四十歩ほど進むと、森の縁へ来て、前面に柵壁が見えた。吾々はその囲柵の南側の真中あたりに行き着いた。すると、ほとんど同時に、七人の謀叛人が――水夫長《ボースン》のジョーブ・アンダスンを先頭にして――その南西の隅のところにどっと一斉に現れて来た。
 彼等はびっくりしたように立ち止った。そして彼等が気を取直さないうちに、大地主と私だけではなく、丸太小屋からハンターとジョイスまでが、火蓋を切る暇があった。この四人の射撃は幾らかばらばらな一斉射撃となったが、しかしその役目は果した。敵の一人は実際倒れ、残りの奴らはすぐさまくるりと背を向けて樹立の中へ跳び込んだ。
 弾丸を籠め直してから、吾々は倒れた敵を介抱してやろうと防柵の外側について下りて行った。その男はまったく死んでいた。――心臓を射貫かれたのだ。
 吾々がこの成功を喜びかけていたちょうどその瞬間、ピストルが叢林の中でばあんと鳴り、一発の弾丸が私の耳を掠めてぴゅっと飛び、可哀そうにトム・レッドルースがよろよろして地面へばったり倒れた。大地主も私も二人とも撃ち返した。が、何も狙うものがなかったのだから、恐らく火薬を浪費しただけであったろう。それから吾々はまた弾丸を籠めると、可哀そうなトムに注意を向けた。
 船長とグレーとがすでに彼の傷を調べていたが、私は一目でもう駄目だと見て取った。
 吾々が敏捷に一斉射撃を返したので、謀叛人どもはもう一度潰走したのだろうと思う。吾々はその上もう妨害を受けずに、その可哀そうな年寄の猟揚番人を持ち揚げて柵壁を越し、血を出しながら呻いているのを丸太小屋の中へ運び込んだ。
 可哀そうなこの老人は、吾々が難儀なことになったまったくの始まりから、今こうして丸太小屋の中に横らされて死んでゆこうとしている時に至るまで、一言の驚きや、不平や、恐れの言葉も、承諾の言葉さえも、口に出したことがなかった。彼はトゥロイ人の如《ごと》く勇敢にあの船の廊下の敷蒲団《マットレス》の蔭で敵に備えていた。彼はいかなる命令にも黙々として、頑固に、よく従った。彼は吾々の仲間の中の最年長者で、吾々よりも二十歳も年長だった。そして今、死んでゆこうとしているのは、このむっつりした、年寄の、勤勉な召使であったのだ。
 大地主は彼のそばにどかりと膝をついて、子供のように泣きながら、彼の手に接吻した。
「お医者さま、わっしは行くのでごぜえますか?」と彼は尋ねた。
「トムや、」と私は言った。「お前はほんとうの故郷《くに》へ行くのだよ。」
「俺《わし》は先に鉄砲で奴らに一発喰らわしてやりたかった。」と彼が答えた。
「トム、」と大地主が言った。「私を赦《ゆる》すと言ってくれないか?」
「そんな勿体《もってえ》ねえことが、わっしからあんたさまに言えますか、旦那さま?」というのがその返事であった。「だが、それでようごぜえます、アーメン!」
 しばらくの間黙っていた後、彼はだれかが祈祷を上げてくれた方がよいと思うと言った。「それが慣例《しきたり》ですからね。」と言訳するように言い足した。それから間もなく、その上一言も言わずに、死んでしまった。
 それまでの間に、船長は、胸やポケットのあたりが非常に膨らんでいるのは前から私も気づいていたが、そこからさまざまな品物をたくさん出した。――英国の国旗や、聖書や、一巻きの丈夫そうな綱や、ペンや、インクや、航海日誌や、何ポンドかの煙草などであった。彼は囲柵の中に伐り倒して枝を切り去った相当長い樅の木が一本あるのを見つけて、ハンターに手伝って貰って、それを、丸太小屋の隅の樹幹が交叉して角をなしている処に立てた。それから、屋根に攀《よ》じ登って、自分の手で国旗を結びつけて掲げた。
 それをしてしまうと船長は大いに安堵したようだった。彼は再び丸太小屋へ入って来て、他には何事もないかのように、さっきの品物を数え始めた。しかし彼はそれにも拘らずトムの臨終には目を離さなかった。そして、息を引取るや否や、別の国旗を持って来て、それを恭しく死体の上にかけた。
「そんなにお歎きなさるな。」と彼は大地主の手を握りながら言った。
「この人のことはこれですっかりいいのです。船長と主人とに対する義務を果しながら斃《たお》れた船員には何も心配はありません。これは教会で言うのとは違うかも知れません。が、それが事実です。」
 それから彼は私を脇へひっぱって行った。
「リヴジーさん、」と彼が言った。「あなたと大地主さんとは何週間たったら件船《ともぶね》が来ると思ってお出でですか?」
 私は、それは週ではなくて月できめてあるのであって、もし吾々が八月の末までに帰らなかったら、ブランドリーが吾々を探しに伴船を出すことになっているが、それよりも早くもなければ遅くもない、と彼に言った。「ですから御自分で計算してみて下さい。」と私は言った。
「ははあ、なるほど、」と船長は頭を掻きながら答えた。「とすると、どんなに神様の有難い思召しを蒙っていることを酌量してみましても、我々はかなり詰開《つめびら》き(註六一)[#「(註六一)」は行右小書き]になっていると申さなければなりませんな。」
「それはどういう意味ですか?」と私は尋ねた。
「我々があの二度目の積荷をなくしたのは残念です。私の言うのはそのことですよ。」と船長が答えた。「火薬と弾丸とは、まあ足りましょう。しかし食糧が不足なんです。非常に不足で、――リヴジーさん、恐らくあの余分の口が減って我々に好都合なくらい、それくらいに不足なんです。」
 そう言って彼は旗の下の死体を指した。
 ちょうどその時、どおんという轟然たる音とびゅうっと唸る音を立てて、一発の砲弾が丸太小屋の屋根の上を飛び去って、ずっと遠くの森の中に落ちた。
「ほほう!」と船長が言った。「どんどん撃て撃て! お前らにはもう火薬があんまりないぜ。」
 二度目に撃った時には、狙いは前よりはよくて、弾丸は柵壁の内側に落下して、ぱっと砂煙を立てたが、しかしそれ以上に何の損害も与えなかった。
「船長、」と大地主が言った。「この小屋は船からちっとも見えないはずです。奴らの狙っているのは国旗に違いない。あれを卸した方がよかありませんか?」
「私の旗を引下すのですって!」と船長が叫んだ。「いいえ、私は下しません。」そして彼がその言葉を言うや否や、吾々は皆彼に賛成したと思う。なぜなら、それは単に剛毅な、海員らしい、正常な感情であったばかりではない。その上にそれは立派な策略でもあって、敵に吾々が彼等の砲撃を軽蔑していることを示したからである。
 その夕刻中彼等はずっと大砲を撃ち続けた。次々に来る弾丸は、飛び越して行ったり、届かなかったり、囲柵の中で砂を蹴上げたりした。しかし、彼等は高く発射しなければならなかったので、弾丸は威力を失って落ち、柔かい砂の中に埋ってしまった。弾丸の跳ね返る恐れは少しもなかった。そして、一弾が丸太小屋の屋根を突き抜けて跳び込み、さらに床《ゆか》を突き抜けて行ったけれども、吾々は間もなくそういう荒遊びに慣れてしまって、クリケットくらいにしか気にかけなくなった。
「こうなるとよいことが一つありますな。」と船長が言った。「前の森にはだれもいそうにもないことです。潮はよほど退《ひ》いているから、さっきの荷物は水から出ているだろう。豚肉を取りに行こうという志願者。」
 グレーとハンターとが真先に進み出た者であった。十分に武装して二人は柵壁の外へそっと出た。が、その派遣が無益であることがわかった。謀叛人どもは吾々の思ったよりも大胆であった。それとも彼等はイズレールの砲術に案外信頼していたのだ。というのは、四五人の奴らが頻りに吾々の荷物を運び去って、それを持って一艘の快艇《ギッグ》のところまで徒渉していたからである。その快艇はすぐそばにあって、潮流に押し流されないようにするためにオールを漕いだりしていた。シルヴァーは艇尾座にいて指揮していた。そして彼等は皆、今は、彼等自身のどこか秘密の武器庫から持ち出した銃を一挺ずつ持っていたのであった。
 船長は腰を下して航海日誌を書き出した。その記入の初めの方はこうである。――
「船長アレグザーンダー・スモレット、船医デーヴィッド・リヴジー、二等船匠手エーブラハム・グレー、船主ジョン・トゥリローニー、船主の従僕、非海員ジョン・ハンター及びリチャード・ジョイス――以上は船の乗員中の忠実なる者として残れる者の全部なり――は、切詰めたる定量にて十日間の糧食を携えて、本日上陸し、宝島の丸太小屋に英国国旗を掲ぐ。船主の従僕、非海員トマス・レッドルース、叛徒に射殺さる。船室給仕ジェームズ・ホーキンズ――」
 そして、ちょうど同時に、私は可哀そうなジム・ホーキンズの運命がどうなったろうかと思っていたところであった。
 すると陸の方からおういと呼ぶ声がした。
「だれかが俺《わし》らを呼んでおります。」と見張りに立っていたハンターが言った。
「先生! 大地主さん! 船長さん! おうい、ハンター、君かい?」という叫び声がした。
 それで私が戸口のところまで走ってゆくと、ちょうど、ジム・ホーキンズが無事で達者で柵壁を攀《よ》じ越えてやって来るのが見えたのであった。


第十九章 ジム・ホーキンズが再び始めた物語       柵壁内の屯営

 べン・ガンは旗を見るや否や立ち停り、私の腕を掴んでひき止め、腰を下した。
「おい、」と彼が言った。「あすこにお前《めえ》さんの仲間がいるぜ、確かに。」
「あれぁどうも謀叛人らしいよ。」と私は答えた。
「そんなことがあるもんか!」と彼は叫んだ。「なあに、分限紳士でなけりゃだれ一人船をつけやしねえこんな処《とこ》だもの、シルヴァーなら海賊旗《ジョリー・ロジャー》(註六二)[#「(註六二)」は行右小書き]を立てるだろうよ。それにゃあ間違《まちげ》えなしさ。いいや、ありゃお前さんの仲間だ。それに、さっき戦争があったろう。でお前さんの仲間が勝ったんだと思うねえ。それでここへ上陸してあの古い柵の中に入《へえ》ってるのさ。あの柵は何年も何年も前にフリントが拵《こせ》えたものだ。ああ、あの人はまったく大将《てえしょう》らしい人だったよ、あのフリントはな! ラムの他《ほか》にゃあ、あの人にかなうものは何にもなかったんだ。怖《こえ》え者なんて一人だってなかったんだぜ。シルヴァーだけは別だがね。――シルヴァーはそれっくれえ気の利いた奴だったよ。」
「なるほど、」と私は言った。「じゃそうかも知れない。そんならそれでいい。それなら僕は一層急いで行って味方と一緒にならなくちゃ。」
「いやいや、兄弟《きょうでえ》、」とベンが答えた。「そうはゆかねえ。お前はいい子だ。違《ちげ》えねえよ。だが、何と言っても、まだほんの子供だよ。ところで、ベン・ガンとなるとなかなか抜目はねえ。ラムに酔ってたってそこへは行かねえぜ、お前さんの行こうとしてる処へはな、――ラムに酔ってたって行かねえとも、俺《わし》がその生れつきの紳士って人に逢って、その人から名誉にかけての約束てえ奴を聞くまではな。でお前さんは俺の言った言葉を忘れはしねえだろな。『とっても(とこう言うんだぜ)、とっても信用しています。』とね、――それからあの人をつねるんだよ。」
 そして彼は前と同じような巧みな様子で三度目に私を抓《つね》った。
「それからベン・ガンに用のある時にゃ、どこへ行きゃあ会えるか知ってるね、ジム。今日《きょう》お前さんと会ったあすこだぜ。それから、会いに来る人は手に何か白い物を持って来るんだよ。そして一人だけで来なきゃいけねえ。おお! それからお前さんはこう言ってほしいね。『ベン・ガンにゃあ自分の仔細があります。』って言うんだぜ。」
「なるほど、」と私は言った。「わかったようだよ。君には何か言い出したい話があって、大地主さんか先生に逢いたいのだね。それから、君は僕と会ったあすこへ行けばいるんだね。それだけかい?」
「それからいつ頃? っていうことだな。」と彼は言い足した。「そうさな、正午《ひる》頃から六点鐘頃までだ。」
「よろしい。」と私は言った。「じゃあ僕はもう行ってもいいかい?」
「お前さんは忘れやしねえだろな?」と彼は心配そうに尋ねた。「とっても、ということと、仔細がある、ということを、言うんだぜ。仔細がある。これが大事なことなんだよ。男と男の話としてね。よし、さあ、」――とやはり私を掴まえながら――「もう行ってもいいだろうよ、ジム。それからね、ジム、もしお前さんがシルヴァーに逢っても、ベン・ガンを売るようなことはしめえな? 拷問にかけられたってしゃべりゃしめえな? 大丈夫だね。それから、もしあの海賊どもが浜で野営するならばだ、ジム、朝にはきっと人死《ひとじに》があるだろうぜ。」
 この時に轟然たる音が彼の言葉を遮り、一発の砲弾が樹立を突き裂いて、私たち二人が話していた処から百ヤードと離れていない砂地の中へ落下した。次の瞬間には二人とも別々の方向へ逃げ出していた。
 それから後のたっぷり一時間は、砲撃が頻りに島を震わせて、砲弾が絶えず森に落ちた。私はその恐しい弾丸に始終追われて、あるいは追われているような気がしたのであるが、隠れ場所から隠れ場所へと逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。しかし、砲撃がそろそろ終りかける頃には、弾丸が一番多く落ちる柵壁の方へはまだ行く勇気はなかったけれども、再び幾らか元気が出かけていた。そして、東へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り路をしてから、岸辺の樹立の間をそろそろと下りて行った。
 太陽はちょうど沈んだばかりで、海風《うみかぜ》は森の樹をざわざわと鳴らして吹きまくり、また碇泊所の灰色の水面を波立たせていた。潮も遠くまで退いていて、広々とした砂地が現れていた。空気は、日中の暑さの後に、冷えて来て、私のジャケツを通して身に滲み込んだ。
 ヒスパニオーラ号はやはり前に投錨した処にいた。けれども、果して、海賊旗《ジョリー・ロジャー》――海賊の黒い旗――をその斜桁上外端《ピーク》にひらひらと翻していた。私が見ている時にもまだ、また赤く砲火が閃き轟然たる砲声がして、大きな反響を起し、もう一発の砲弾が空中をびゅうっと飛んで行った。それが最後の砲撃だった。
 しばらくの間私は横って、攻撃の後の騒ぎを見ていた。柵壁の近くの渚では、水夫たちが斧で何かを叩き壊していた。後でわかったが、例の小形端艇《ジョリボート》であった。彼方の、川口の近くには、樹立の間に焚火が盛んに燃えていて、その地点と本船との間を一艘の快艇《ギッグ》が絶えず行ったり来たりしており、前にはあんなに不機嫌だった水夫たちは、オールを漕ぎながら子供のように喚いていた。しかし、その声にはラムを飲んだらしい調子があった。
 とうとう、私はもう柵壁の方へ戻れるだろうと思った。私は低い砂の出洲《です》をかなりずっと下っていた。この出洲は碇泊所を東で抱え、半潮(註六三)[#「(註六三)」は行右小書き]の時には骸骨《スケリトン》島と連っているのである。そして今、私は立ち上ると、出洲をもう少し下ったところに、低い灌木の間から、かなり高い、色が妙に白っぽい岩が一つだけ立っているのが目に入った。私は、これがベン・ガンの話したあの白い岩かも知れない、いつかボートが要《い》ることになるかも知れないが、それを捜す処はわかった訳だ、と思いついた。
 それから森の中を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行って、柵壁の裏手、すなわち海岸向きの側へ再び着き、間もなく味方の人たちに大いに歓迎された。
 私は間もなく自分の一部始終の話をしてしまって、あたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し始めた。その丸太小屋は角材にしない丸木のままの松の幹で造ってあった、――屋根も、壁も、床《ゆか》も。床は数箇処砂地の面から一フートないし一フート半も高くなっていた。戸口のところにはポーチがあり、そのポーチの下に、例の小さな泉が、幾らか奇妙な性質の人工の溜池――というのは、船の大きな鉄釜の底を抜いて、船長の言葉で言えば「船荷を満載した時の水準線まで」砂の中に埋めたものなのであるが――の中へ湧き出ていた。
 小屋の骨組の他にはほとんど何も残されてはいなかった。が、一つの隅に、炉床の代りに敷いてある板石と、火を入れる古い銹びた鉄の籠とがあった。
 円い丘の傾斜面と柵壁の内側全部とは、この小屋を建てるために樹木をすっかり伐り払ってあった。その切株で見ると、ずいぶん立派な喬木の林が伐り倒されたことがわかった。土は大抵、その樹木を取除けた後に、雨に流しやられたり、風の吹き寄せた砂に埋められたりしていた。ただあの釜から流れ下っている小川のところだけでは、苔や、何かの羊歯《しだ》や、地を這っている小さな灌木などが、こんもり生い茂っていて、砂地の中にまだ緑色をしていた。柵壁のすぐ近くの周りに――防禦のためには近過ぎると皆は言ったが――森林がまだ高く密に繁っており、陸の側は皆樅だが、海の方は鮮色樫がよほどまじっていた。
 前に言ったあの寒い夕風は、この粗末な建物のありとあらゆる隙間からぴゅうぴゅう吹き込んで来て、細かい砂の雨を絶間なしに床《ゆか》に撒き散らした。私たちの眼の中にも砂、歯の間にも砂、夕食の中にも砂があり、あの釜の底の泉の中にも、まさしく、煮えかかった粥のように、砂が踊っていた。この小屋の煙突というのは、屋根に開《あ》いている一つの四角な穴であった。だから、外へ出てゆく煙はほんの僅かで、残りは小屋の中に渦巻いて、私たちに絶えず咳をさせたり涙を出させたりした。
 これにかてて加えて、新たに味方になったグレーは、謀叛人の中から跳び出して来る時に受けた傷のために、顔に繃帯をしていたし、可哀そうなトム・レッドルース爺さんは、まだ埋葬されずに、硬くなって、英国国旗《ユーニヨン・ジャック》に蔽われたまま、壁に沿うて横っているのであった。
 もし私たちが何もせずに坐りこんでいさせられたならば、私たちは皆きっと意気銷沈してしまったことだろう。しかし、スモレット船長は決してそんなことをするような人ではなかった。全員が彼の前に呼び集められ、彼は私たちを当直の組に分けた。医師と、グレーと、私とが一組、大地主さんと、ハンターと、ジョイスとが他の一組になった。私たちみんなは疲れていたけれども、二人は薪を取りにやられるし、他の二人はレッドルースの墓を掘りにかからされるし、医師は料理番《コック》に指命されるし、私は戸口のところに歩哨に立たされた。そして船長自身は一人一人のところへ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私たちを励ましたり、どこでも必要なところでは手を貸したりした。
 折々、医師は戸口のところへやって来て、少し外気を吸ったり、けむくてたまらぬ眼を休ませたりした。そうして来る度に、私にちょっと言葉をかけた。
「あのスモレットという人は私よりは偉い人間だよ。そして私がこう言う時にはなかなかのことだぜ、ジム。」と彼は一度は言った。
 また或る時は彼はやって来てからしばらくの間黙っていた。それから頭をかしげて、私をじっと眺めた。
「そのベン・ガンというのはしっかりした男かね?」と彼が尋ねた。
「私にはわかりません。」と私は言った。「正気な男かどうかもよくわからないんです。」
「正気かどうかという疑いがあるくらいなら、その男は正気だよ。」と先生が答えた。「無人島に三年もただ爪を咬んで暮していた人間というものはね、ジム、君や私と同様に正気に見えるというはずがないのだ。そんなことは人間の性質としてはないことだよ。その男がほしがっていると君の言ったのはチーズだったかね?」
「ええ、チーズです。」と私は答えた。
「じゃあ、ジム、」と彼は言った。「食物にやかましいとどんないいことになるか見て御覧。君は私の嗅煙草《かぎたばこ》入れを見たことがあるだろうね? で君は私が嗅煙草を取り出すのは一度も見たことがないだろう。その訳はこうだ、あの嗅煙草入れの中にはパルマ・チーズ(註六四)[#「(註六四)」は行右小書き]が入れてあるのさ、――イタリーで出来たチーズで、すこぶる滋養のある奴だ。そこで、あれをベン・ガンにくれてやるとしよう!」
 夕食を食べる前に私たちはトム爺さんを砂の中に埋葬して、帽子を脱いだまま風に吹かれて暫くの間その周りに立っていた。薪はずいぶんたくさん取って来てあったが、船長の気に入るほどではなかった。彼は頭を振って、私たちに「明日《あす》はもっと元気を出して取って来なくっちゃいけません。」と言った。それから、みんなが豚肉を食べ、一人一人がかなり強いブランディーを一杯ずつ飲んでしまうと、三人の頭株は一隅に集って、これから先のことを相談した。
 三人はどうしたらいいか途方に暮れている様子だった。糧食がごく乏しいので、救助の来るずっと前に私たちは飢餓に迫られて降服するより他しようがなかったからである。しかし、私たちの最上の望みは、海賊どもをどしどし殺して、彼等が旗を曳き下して降参するか、ヒスパニオーラ号に乗って逃げ出すまでやっつけることだ、ということに決定した。彼等はすでに最初の十九人から十五人に減っていたし、その他に二人が負傷しているし、少くとも一人――あの大砲のそばで撃たれた男――は、よし死んでいないにしても、重傷を負うていた。私たちは彼等にずどんとやってやる度毎に、自分たち自身の命を落さずに、極度の注意をしてやらなければならない訳だった。そして、この他に、私たちには二つの有力な味方があった。――ラムと風土とである。
 ラムについて言えば、私たちは約半マイルも離れていたのに、彼等が夜遅くまで喚いたり歌ったりしているのが聞えるくらいであった。また風土の方について言えば、彼等は沼地に野営していて、医薬の用意もないので、一週間とたたぬうちに半分の者は病気に罹って寝込むだろう、と先生はその仮髪《かつら》を賭けて断言した。
「そういう訳で、」と彼は言い足した。「もし我々がみんな先に撃ち倒されなければ、あいつらは喜んであのスクーナー船でこそこそ逃げて行ってしまうでしょうよ。奴らのほしいのはいつでも船で、船さえあればまた海賊を始められるんですからな。」
「私はまた船をなくしたのは今度が初めてで。」とスモレット船長が言った。
 諸君も想像される通り、私はへとへとに疲れていた。そして、何遍も何遍も寝返りうつまでは寝つかれなかったが、寝ついてしまうと、丸太のようにぐっすりと眠った。
 他の人たちがとっくに起きていて、もう朝食をすませて、薪の山を前日の一倍半ばかりもたくさんにした頃に、私はどさくさする物音と人の声とで目を覚した。
「休戦旗だ!」とだれかが言うのが私に聞えた。それから、すぐ後に、驚いたような叫び声と共に、「シルヴァーが自分で来たぞ!」と聞えた。
 それを聞くと、私は跳ね起きて、眼を擦《こす》りながら、壁の銃眼のところへ走って行った。

第二十章 シルヴァーの使命

 果して、柵壁のすぐ外側に二人の男がいて、一人は白い布片を振っており、もう一人はまさしくシルヴァーで、そのそばに落着き払って立っていた。
 まだごく早くて、私が戸外で感じた一番寒い朝だったように思う。寒気は骨の髄までも滲み徹った。空は晴れわたって頭上には一片の雲もなく、樹々の頂は太陽に照されて薔薇色に輝いていた。しかしシルヴァーが彼の副官と共に立っている処では、すべてがまだ影の中にあって、彼等は、夜の間に沼沢地から這い上った低い白い靄《もや》に、深く膝のところにまでも浸されていた。この寒気と靄とを合せて考えると、この島の有難くない処であることがわかった。それは、明かに、湿気のひどい、熱病に罹り易い、不健康な場所であった。
「諸君、屋内《なか》にいるんだ。」と船長が言った。「九分九厘までこれは策略ですから。」
 それから彼はかの海賊に声をかけた。
「だれだ? 止れ。でないと撃つぞ。」
「休戦旗ですぜ。」とシルヴァーが叫んだ。
 船長はポーチにいて、用心深く騙《だま》し撃《う》ちをやられても中《あた》らぬところにいるようにしていた。彼は振り向いて私たちに言った。――
「先生の組は見張りに就《つ》け。リヴジー先生はどうか北側にいて下さい。ジムは東側。グレーは西。非番の組、全員銃に装填せよ。諸君、元気よく、注意深く。」
 それから再び彼は謀叛人たちの方へ振り向いた。
「で、そんな休戦旗を持って来て何の用があるんだ?」と彼は呶鳴《どな》った。
 今度は、返事をしたのはもう一人の男だった。
「シルヴァー船長《せんちょ》が話を纏めにお出でなすったんで。」とその男が叫んだ。
「シルヴァー船長《せんちょ》だと! そんな人は知らんな。だれのことだい?」と船長は大声で言った。そして独り言のようにこう言い足すのが私たちに聞えた。「船長だって? おやおや、驚いたな。えらい御出世だ!」
 のっぽのジョンは自分で答えた。
「わっしのことでさあ。あんたが脱走なすってから、この若《わけ》え奴らがわっしを船長《せんちょ》に選んだのでさ。」――と「脱走」という言葉に特に力を入れた。「わっしらは、もし折合いせえつくものなら、喜んで降参しますよ、ぐずぐず言わずにすぐさまね。わっしの聞かして貰《もれ》えてえのは、スモレット船長、わっしをこの柵の外へ無事に出させて、鉄砲を撃たねえ前に弾丸《たま》の届かねえとこへゆくまで一分ほど待ってくれる、てえあんたの約束ですよ。」
「おい、」とスモレット船長が言った。「己《おれ》は貴様に口を利きたいとはちっとも思っちゃおらん。もし貴様の方で己に口が利きたいなら、来たっていい。それだけのことさ。不信義なことをするとなれぁ、それは貴様の方だろうよ。そんなことをすれぁ有難い目に遭うぜ。」
「それで十分ですよ、船長。」とのっぽのジョンは機嫌よく叫んだ。「あんたから一|言《こと》約束の言葉を聞けば十分ですよ。わっしは紳士ってものを知ってますからなあ、間違えなくね。」
 休戦旗を持っている男がシルヴァーを制止しようとするのが見えた。また、船長の返事がいかにも横柄なのを聞けば、これは不思議ではなかった。しかし、シルヴァーは声を立ててその男を笑い、そんなにびくびくするなんて馬鹿げているよとでもいうように、その男の背中をぽんと叩いた。それから柵壁まで進んで、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をその上から投げ込み、片脚を上げると、非常に勢よく上手に柵を乗り越して無事に内側へひらりと下りた。
 白状するが、私はこういう有様にすっかり気を取られてしまって、歩哨の役目などはちっともやりはしなかった。実際、私はもう自分の東側の銃眼を離れて、船長の背後までこっそり行っていたのである。船長はその時は閾《しきい》の上に腰を掛けて、膝の上に肱《ひじ》をつき、両手で頭を支えながら、砂の中の古い鉄の釜からぶくぶくと湧いている水をじっと見ていた。彼は「いざ、乙女《おとめ》よ、若人《わこうど》よ。(註六五)[#「(註六五)」は行右小書き]」と口笛を吹いていた。
 シルヴァーは丘を登って来るのに恐しく骨を折った。傾斜は嶮《けわ》しいし、木の切株はたくさんあるし、砂地は柔かいと来ているので、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を持った彼は方向を換えようとしている帆船のように体が自由に利かないのであった。しかし彼は黙々として男らしくそれをやり通し、とうとう船長の前まで来て、見事な態度で船長に挨拶した。彼は晴着を着飾っていた。真鍮のボタンのたくさんついている素敵に大きな青色の上衣は膝まで垂れており、綺麗なモールで飾った帽子は阿弥陀に頭にのっかっていた。
「おお、来たな。」と船長は顔を上げながら言った。「坐ったがよかろう。」
「内へ入れてくれねえんですかい、船長?」とのっぽのジョンは不平を言った。「ほんとに、えらく寒い朝だから、外の砂の上に坐るなんてつれえですねえ。」
「そうさなあ、シルヴァー、」と船長が言った。「もし貴様が実直にさえしていたなら、今頃は船の炊事室に坐っていられたんだろうがな。それは自業自得さ。お前は、己の船の料理番《コック》であるか、――それなら立派な待遇を受けるんだが、――それとも、くだらん謀叛人で海賊のシルヴァー船長であるかだ。その方なら絞首《しめくび》になるがいいや!」
「ようがす、ようがす、船長。」と船の料理番《コック》は、命ぜられた通り砂地に腰を下しながら、答えた。「あんたは後でまたわっしに手を貸して立たしてくれなくちゃならんでしょうからな。それだけのことでさ。これぁなかなか気持のいい立派な処《とこ》にお出でですなあ。やあ、ジムがいるね! お早う、ジム。先生、御機嫌よう。これはこれは、皆さん方《がた》は言わば仕合せな一家族みてえに御一緒にお出ででごぜえますな。」
「おい、何か言うことがあるなら、言った方がいいぜ。」と船長が言った。
「御もっともで、スモレット船長。」とシルヴァーが答えた。「いかにも、義務は義務ですからね。じゃあ、申しますがね、昨晩《ゆうべ》のあれはあんた方はうめえことをおやんなすったもんですなあ。確かに、うめえことでしたよ。それぁわっしも隠しやしません。あんた方の中にゃ木挺を[#「木挺を」はママ]ずいぶ器用に使う人がいるんですねえ。で、隠しやしませんが、そりゃあわっしの手下ん中にゃびくついた奴もいましたよ。――いや、みんながびくついたかも知れねえ。そういうわっしだってびくついたかも知れねえ。そのためにわっしがこうして折合いをつけにやって来たんかも知れませんよ。だがね、いいですかい、船長、二度とああはゆきませんぜ、畜生! わっしらの方も歩哨を立てますし、ラムもちったぁ控えることにしますからな。あんた方はわっしらがみんなほろ酔い加減だったと思ってるかも知れねえ。だが、わっしは確かに素面《しらふ》でしたぜ。ただえらく疲れてただけでさ。わっしがもうちょっとだけ早く目が覚めせえしたら、その場であんた方を掴めえたんですがねえ。掴めえましたとも。わっしがあの男んとこへ行って見た時にゃ、あの男はまだ死んでやしませんでしたからね、まだね。」
「それで?」とスモレット船長はこの上なく冷静に言った。
 シルヴァーの言ったことはすべて船長には謎のようでまるでわからなかったが、船長はそんな口振りは少しも示さなかった。私はと言えば、薄々わかりかけて来た。ベン・ガンが最後に言った言葉が頭に思い浮んだのだ。私は、海賊どもがみんな焚火の周りに酔っ払って寝ている間にあのベン・ガンが奴らを見舞ったのだろうと思い始め、私たちの相手にする敵がたった十四人になったと数えて喜んだ。
「それで、こういう訳ですよ。」とシルヴァーが言った。「わっしらはあの宝がほしいし、またどうあっても手に入れるつもりだ、――それがわっしの方の目的ですよ! あんた方はむしろただ命《いのち》が助かりたいんでしょう。それがあんた方の方の目的でさあね。あんたは海図を持っていなさるね?」
「それはそうかも知れん。」と船長が返事した。
「おお、なあに、持ってなさるよ。それぁわっしにゃわかってますさ。」とのっぽのジョンが答えた。「そんなに人に素気《そっけ》なくなさるこたぁありませんや。そんなことをしたって何の役にも立たねえんですから。そいつぁ間違えっこなしでさ。わっしの言いてえのは、わっしらはあんたの海図がほしいってことだ。でねえ、あんた方に害をしようってつもりはちっともねえんでさあ――わっしはね。」
「それは駄目だぜ、おい。」と船長が口を挿んだ。「貴様らがやろうとしていたことは己たちにはちゃんとわかっているし、己たちの方は平気だ。なぜって、貴様らはもうそれが出来ないんだからな。」
 そして船長は泰然と彼を眺め、パイプに煙草を填《つ》め出した。
「もしエーブ・グレーの奴が――」とシルヴァーが急に呶鳴《どな》り出した。
「止《や》めろ!」とスモレットさんが大声で言った。「グレーは己に何も言わなかったし、己もあの男に何も尋ねはしなかった。それに、己はむしろ貴様もあの男もこの島全体も海の中から地獄へ吹き飛ばしてやりたいくらいなんだ。おい、これでそのことについちゃ貴様には己の心がわかったはずだ。」
 こうちょっと呶鳴りつけられたのでシルヴァーは冷静になったようだった。彼はそれまではだんだんいらだって来ていたのだが、今は気を落着けた。
「いや、これはどうも、」と彼が言った。「多分、あっしは、紳士って方々がその時の場合によってどんなことを適当と考《かんげ》えるか考えねえかってことの区別をつけなかったんでしょう。で、船長、あんたはパイプをやろうとしていなさる様子だから、わっしも遠慮なくやりますぜ。」そう言って彼はパイプに煙草を填めて、それに火をつけた。そして、その二人の人はしばらくの間は煙草を吹かしながら無言で坐り、互に顔を見合ったり、また煙草を止《や》めたり、また前へ屈んで唾を吐いたりしていた。その二人の様子を見ているのは芝居のように面白かった。
「ところで、こういう話ですよ。」とシルヴァーがまた始めた。「宝を手に入れられる海図をわっしらに渡して貰《もれ》えましょう。それから、可哀《かええ》そうな水夫らを撃ち殺したり、寝てる間に頭に孔をあけたりするのは、やめて貰えましょう。そうして下さりゃ、どっちでもお好きな方《ほう》にしてあげますぜ。宝を積み込みせえすりゃ、わっしらと一緒に船に乗んなさるか。それなら、あっしが名誉にかけてきっとあんた方をどっかへ無事に上陸させてあげましょう。それともまた、もし、わっしの手下の中にゃ乱暴な奴もいて、こき使われた怨みを持ってるんで、一緒に船に乗るのがお気が進まねえなら、ここに残ったってようがすぜ。それなら、あんた方と食物を一人一人に分けましょう。そして、これもきっと、船を見かけ次第それに信号して、あんた方を迎えにここへ来させてあげますよ。どっちでもね。どうです、訳のわかった話でしょう。これよりいいことって望めやしませんぜ。しませんともさ。それからね、」――と声を張り上げて――「この丸太小屋ん中にいるみんなの人に、わっしの言ったことをよく考えて貰えてえんだ。一人に言ってることは、みんなに言ってることなんだから。」
 スモレット船長は坐っていたところから立ち上って、パイプの灰を左手の掌にはたき出した。
「それだけか?」と彼は尋ねた。
「一|言《こと》も残さずすっかりだ、畜生!」とジョンは答えた。「これを厭だというなら、あんた方はわしの見納《みおさ》めで、後は鉄砲|丸《だま》をお見舞《みめえ》するだけだ。」
「至極結構。」と船長が言った。「今度は己の言うことを聞かしてやる。もし貴様らが武器を持たずに一人一人やって来るなら、己は、貴様らみんなた鉄械《かせ》をかけた上で、イギリスへつれて帰って公平な裁判にかけてやるということを、約束してやろう。もしやって来ないというなら、このアレグザーンダー・スモレットは陛下の旗を掲げているのだ、きっと貴様らみんなを魚《さかな》の餌食にしてくれるぞ。貴様らは宝を見つけることが出来ない。貴様らは船を動かすことも出来ない、――貴様らの中には船を動かせそうな奴が一人だっていないよ。貴様らは我々と戦うことも出来ない、――そら、グレーは貴様らの仲間の六人の中から抜け出て来たんだぜ。お前さんの船は動きが取れなくなっていますよ、シルヴァーさん。お前さん方は危い風下の海岸にいるようなものなんだ、すぐにわかるだろうがね。己はここに立って貴様にそれだけ言ってやる。これが貴様が己から聞く最後の親切な言葉だぞ。この次己が貴様に逢った時には、必ず、貴様の背中に一発撃ち込んでやるんだからな。おい、小僧、歩くんだ。とっとと出て行け、どうか、ずんずん、駆足でな。」
 シルヴァーの顔は観物《みもの》だった。激怒のために眼玉は跳び山しそうだった。彼はパイプから火を振い出した。
「手を貸して立たしてくれ!」と彼は叫んだ。
「己は厭だ。」と船長が答えた。
「だれか手を貸して立たしてくれねえか?」と彼は喚いた。
 私たちは一人も動かなかった。彼は、非常に口ぎたない呪いの言葉をがなり立てながら、砂地を這って行って、ポーチに掴まると、ようやく再び立ち上って※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をあてた。それから泉の中へぺっと唾を吐いた。
「そら! これが己の手前《てめえ》たちに思っていることだ。」と彼は呶鳴《どな》った。「一時間とたたねえうちに、この古ぼけた丸太小屋にラム樽みてえに穴をあけてくれるぞ。笑っとけ、畜生、笑っときやがれ! 一時間とたたねえうちに、手前らは笑う反対《はんてえ》に泣面《なきづら》をかくんだ。死ぬ奴は運のいい奴だぞ。」
 そして、恐しい罵り言葉を吐いて彼は躓《つまず》きながら立去り、砂地をやっとのことで下って、四遍か五遍しくじった後に、休戦旗を持った男に助けられて柵壁を越すと、瞬く間に樹立の中へ姿を消してしまった。

第二十一章 攻撃

 シルヴァーの姿が見えなくなるや否や、それまでその姿をじっと見送っていた船長は、小屋の内部の方へ振り向くと、グレーの他には私たちが一人も自分の持場にいないのを見た。私たちが船長の立腹したのを見たのは、この時が初めてであった。
「部署に就《つ》け!」と彼は呶鳴《どな》った。それから、私たちがみんなこそこそと自分の場所に戻ると、「グレー、」と船長は言った。「君の名は航海日誌に記《しる》しておく。君は海員らしく自分の義務を守ったのだ。トゥリローニーさん、あなたには驚きましたな。先生、あなたは兵役に就《つ》いておられたことがあったと思いますがな! もしフォンテノイでもそういう風に服務しておられたのでしたら、寝床に入っておられた方がよかったでしょうよ。」
 医師の組は皆銘々の銃眼のところに戻り、残りの者は頻りに予備の銃に装填したが、だれも彼も顔を赤くし、小言で耳が痛がったのは、諸君も信じられることだろう。
 船長はしばらくの間無言のままで見ていた。それから口を開いた。
「諸君、」と彼は言った。「私はシルヴァーに罵詈の一斉射撃を浴《あび》せてやりました。わざと猛烈にやつつけたのです。で、奴の言ったように、一時間とたたないうちに、我々は攻め込まれましょう。我々が人数で劣っていることは、私が申すまでもありませんが、しかし我々は隠れて戦うのです。そしてもうちょっと前なら、我々は紀律をもって戦うのだと言えたでしょう。諸君にその気さえあれば、奴らを打ち負かすことが出来るということは、私は少しも疑いません。」
 それから彼は各自の持場を巡回し、すべて異状のないのを確めた。
 小屋の二つの短い側の東側と両側とには、銃眼が二つしかなかった。ポーチのある南側にも、また二つあり、北側には、五つあった。銃は私たち七人に対してちょうど二十挺あった。薪は四つの山に――テーブルとでも言ったように――積み上げてあって、各の側の真中あたりに一つずつあり、この各のテーブルの上には、弾薬と四挺の装填した銃とがいつでも防禦者の手に取れるように置いてあった。小屋の真中には、彎刀《カトラス》が並べてあった。
「火を抛《ほう》り出しなさい。」と船長が言った。「寒くなくなったし、眼に煙《けむ》を入れてはなりませんから。」
 鉄製の火籠をそっくりトゥリローニーさんが持ち出して、燃えさしは砂の中に突っ込んで消された。
「ホーキンズは朝飯《あさめし》がまだだな。ホーキンズ、勝手に取って、自分の持場へ帰って食べなさい。」とスモレット船長が続けて言った。「さあ、早くするんだ。すまないうちにまた食べたくなるだろうよ。ハンター、全員にブランディーを配れ。」
 そして、それが配られている間に、船長は心の中で防禦の計画をすっかり立てた。
「先生、あなたは戸口を引受けて下さい。」と彼は再び言い始めた。「気をつけて、体を出さないことです。内にいて、ポーチから撃って下さい。ハンター、東側を守ってくれ、そこだ。ジョイス、君はな、西側に立つんだ。トゥリローニーさん、あなたは一番射撃の上手な人です、――あなたとグレーとは、銃眼の五つある、この長い北側を引受けて下さい。危険のあるのはそこですから。もし奴らがそこまで上って来て、こっちの窓から我々に向って撃ち込むようになっては、すこぶる面白からん形勢になりますよ。ホーキンズ、君と私とは射撃にはあまり役にたたんから、そばに立ってて弾丸籠《たまご》めをして手伝いをするとしよう。」
 船長の言ったように、寒気はもう過ぎていた。太陽は小屋の周りをぐるりと取巻いた樹立の上まで昇るとすぐ、開拓地へ強く照りつけて、靄《もや》をたちまちに飲み干してしまった。間もなく砂地は焼け、丸太小屋の丸太の樹脂《やに》が融け出した。ジャケツも上衣も脱ぎ棄て、シャツは胸をはだけ、袖を肩までもまくり上げて、私たちは、銘々が自分の持場で、暑気と不安とで熱に浮かされたようになって立っていた。
 一時間たった。
「畜生め!」と船長が言った。「こいつあどうも赤道無風帯みたいに退屈だな。グレー、口笛を吹いて風を呼んでくれ。(註六六)[#「(註六六)」は行右小書き]」
 ちょうどその瞬間に攻撃の最初の知らせがあった。
「お尋ねいたしますが、」とジョイスが言った。「だれかが見えましたら、撃つんですか?」
「そう言ったじゃないか!」と船長は叫んだ。
「有難うございます。」とジョイスはやはり穏かな慇懃な調子で答えた。
 その後しばらくは何事もなかった。が、今の話で私たちみんなは気をひきしめて、耳も眼も緊張させていた。――銃手は銃を両手で構え、船長は口を堅く結び、顔を顰《しか》めて、小屋の真中に突っ立った。
 そうして数秒たつと、突然ジョイスが銃を手早く上げて発砲した。その銃声が消え去るか去らないに、外からはそれに応じてばらばらな一斉射撃が起り、囲柵のあらゆる側から引続いて一弾また一弾と飛んで来た。数発の弾丸が丸太小屋に中《あた》ったが、一発も内へは入らなかった。そして、煙が消え去った時には、柵壁も、その周りの森も、前と同じようにひっそりとしてだれもいなかった。枝一本揺れないし、銃身がぴかりと閃いて敵のいることを示しもしなかった。
「君の狙った奴に中ったか?」と船長が尋ねた。
「いいえ。」とジョイスは答えた。「中らなかったと思います。」
「それでもほんとのことを言うのはまだしも結構。」とスモレット船長が呟いた。「ホーキンズ、この人の鉄砲に弾丸《たま》を籠めてやりなさい。先生、あなたの側には何発ほど来ましたか?」
「はっきりとわかっています。」とリヴジー先生が言った。「この側には三発発砲して来ました。ぴかりと光るのが三つ見えたのです、――二つはくっついて、――一つはずっと西の方で。」
「三発と!」と船長は繰返して言った。「それから、トゥリローニーさん、あなたの側は何発でしたか?」
 しかしこれはそう容易には答えられなかった。北からはたくさん来たのだ。――大地主さんの計算では七発、グレーの言うところによれば、八発か九発だった。東と西とからは、たった一発ずつしか発砲されなかった。だから、攻撃は北側から開始されるので、他の三方では見せかけの敵対行為に煩わされるだけだ、ということは明かだった。しかしスモレット船長は彼の手配を少しも変えなかった。彼の主張するところでは、もし謀叛人どもが柵壁を越えるのに成功すれば、どれでも護りのない銃眼を占領して、私たちをこの砦《とりで》の中で鼠のように射殺してしまうだろう、というのであった。
 それにまた、私たちには考えている余裕も大してなかった。不意に、わあっと喊声をあげながら、一群の海賊が北側の森から躍り出して、柵壁へとまっすぐに走って来た。同時に、銃火がもう一度森から開かれて、一発のライフル銃の弾丸がひゅうっと戸口から飛んで来て、医師の銃をめちゃめちゃに壊してしまった。
 突撃隊は猿のように柵の上に群った。大地主さんとグレーとは続けざまに発砲した。三人の奴が倒れた。一人は前へ倒れて囲柵の中へ落ち、二人は後へ倒れて外側に落ちた。しかしこの中で、一人は明かに負傷したよりもびっくりして倒れたのであった。なぜなら、彼はたちまち再び立ち上って、すぐに樹立の中へ姿を消してしまったから。
 二人が斃《たお》れ、一人が逃げ、四人がうまく私たちの防禦陣地の内へ足を入れた。同時に、森の蔭からは、七八人の者が、いずれも明かに数挺ずつの銃を持っているらしく、丸太小屋めがけて、中りはしないが猛烈な射撃を続けた。
 闖入《ちんにゅう》して来た四人の者は小屋に向ってまっすぐに突進し、走りながら喚き声をあげた。すると樹立の中にいる連中もわあっと喚き返して彼等を声援した。こちらからは数発撃った。しかし、射手があせっていたので、一発も効果はなかったらしい。瞬く間に、四人の海賊は丘を攀《よ》じ登って私たちに迫って来た。
 水夫長《ボースン》のジョーブ・アンダスンの頭が中央の銃眼のところににゅっと現れた。
「奴らをやっつけろ、みんな、――みんな!」と彼は雷のような声で呶鳴《どな》った。
 同時に、もう一人の海賊はハンターの銃口を掴み、それを彼の手から捩り取り、銃眼からひったくって、猛烈な一撃を喰わしたので、ハンターは可哀そうに気絶して床《ゆか》の上に倒れた。その間に、もう一人の奴は無事に小屋をぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、不意に戸口に現れ、彎刀で医師に打ってかかった。
 私たちの位置はすっかり反対になった。もうちょっと前には、私たちは掩護物の蔭から身を曝している敵を射撃していたのだが、今では、曝露されていて一撃も返すことの出来ないのは私たちの方となった。
 丸太小屋は煙で一杯になった。私たちが割合に無事だったのはそのためであった。叫び声とどたばたする音、ピストルを発射する閃光と轟音、一声の高い呻き声などが、私の耳の中に鳴り響いた。
「出るんだ、諸君、出るんだ。外で戦うんだ! 彎刀《カトラス》を取れ!」と船長が叫んだ。
 私は例の薪の山から一本の彎刀を素早くひっ掴んだ。と同時にだれかが別のをひっ掴んで、私の指の関節をさっと切ったが、私はそれをほとんど感じなかった。私は戸口を跳び出して明るい日光の中に出た。だれかがすぐ背後から来たが、だれだかわからなかった。真正面には、医師が自分の攻撃者を追って丘を下っていたが、ちょうど私の視線が先生に落ちた時に、先生は刀を打ち下し、その海賊は顔に大きな斬傷を受けて、仰向に※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》きながら倒れた。
「小屋を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ、諸君! 小屋を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れ!」と船長が叫んだ。そして、この騒ぎの中でさえ、私は船長の声に変ったところがあるのに気がついた。
 機械的に私は命令に従い、東の方へ振り向き、彎刀を振りかざしながら、小屋の角を走り曲った。すると次の瞬間にはアンダスンとばったり顔を合せた。彼は大きな声で喚いて、短剣を頭上高く振り上げ、それが月光にきらりと光った。私は恐しいと思う暇もなかったが、今にも一撃が下されようとする途端に、たちまち一方の脇へ跳び退き、柔かい砂の中に足を踏み外して、斜面を真逆さまに転げ落ちた。
 私が最初戸口から跳び出した時には、他の謀叛人どもも、私たちをやっつけてしまおうと、すでに防柵に攀《よ》じ登っていたのである。赤い寝帽《ナイトキャップ》をかぶって、口に彎刀を啣《くわ》えた一人の男などは、もう上まで登ってしまって、片脚をこちらへ跨いでいたのだった。ところで、その間はごくしばらくだったので、私が再び立ち上った時にはすべての者が元と同じ姿勢で、赤い寝帽をかぶった奴はやはり半分跨ぎかけたままだし、もう一人の奴はやはり柵壁の上に頭だけを出していた。しかし、この僅かな間に、戦はもう終って、勝利は味方のものとなった。
 グレーが私のすぐ背後からついて来て、大男の水夫長が打ち損じたのをやり直す暇もないうちに、水夫長を斬り倒してしまったのだ。もう一人の奴は、小屋の中へ発砲しようとしていた刹那《せつな》に銃眼のところで撃たれて、今は断末魔の苦悶をやりながら横っていて、手にしているピストルからはまだ煙が出ていた。第三人目の奴は、私の見たように、先生が一撃でやっつけたのだ。防柵を攀《よ》じ登ってやって来た四人の中で、たった一人だけが殺されずに残った訳で、その男は、戦場に彎刀を残して、殺されはしまいかと恐れながら今再び柵を攀じ出ようとしているところだった。
「撃て、――小屋から撃て!」と先生が叫んだ。「おい、君ら、隠れ場へ戻るんだ。」
 しかしこの言葉は顧みられず、一発も撃たれなかったので、闖入者《ちんにゅうしゃ》の一人だけ生き残った奴は逃げおおせて、他の連中と一緒に森の中へ姿を消してしまった。三秒もたつと、倒れている五人の他には攻撃隊は影もなかった。四人は防柵の内側に、一人はその外側に倒れていた。
 先生と、グレーと、私とは、大急ぎで小屋の方へ走り戻った。生き残った奴らは間もなく自分たちの銃の置いてある処へ戻るだろうし、いつ射撃を再び始めるかも知れなかった。
 小屋の中はこの時分には幾らか煙が少くなっていた。そして私たちは勝利を得るために払った価格を一目で見て取ったのである。ハンターは自分の銃眼のそばに昏倒して横っていたし、ジョイスは自分の場所で頭を射貫かれて、二度と動けない有様になっていた。そして、小屋のちょうど真中には、大地主さんが船長を支えていて、二人とも同じくらい蒼ざめていた。
「船長が負傷した。」とトゥリローニーさんが言った。
「奴らは逃げましたか?」とスモレットさんが尋ねた。
「逃げられる奴だけはみんな、確かに。」と先生が答えた。「だが、どうしてももう逃げられない奴が五人います。」
「五人ですって!」と船長が叫んだ。「ふうむ、それぁいい。こっちの三人に対して五人やられたんなら、今じゃ我々は九人に対する四人ですな。それなら初めより歩《ぶ》がよくなった訳ですよ。あの時は我々は十九人に対する七人でした。またはそう思っていたのでしたが、あれではどうもやりきれませんからねえ。」★

 ★謀叛人は間もなく総計僅か八人になったのである。というのは、スクーナー船の船上でトゥリローニーさんに撃たれた男が、負傷したその晩に死んだからだ。しかし、このことは、もちろん、忠実な側の者には後になるまでは知られなかったのである。

第五篇 私の海の冒険

第二十二章 どうして海の冒険を始めたか

 謀叛人どもは引返しては来なかった、――森の中から発砲さえして来なかった。彼等は、船長の言うのによれば、「その日の食糧だけは貰って」しまったのである。それで私たちはその場所を自分たちだけのものに出来たし、負傷者の傷を調べたり食事をとったりする平穏な時間もあった。大地主さんと私とは、危険をも構わずに、屋外で料理をした。そして屋外にいてさえ、医師が手当をしている負傷者の高い呻き声が聞えて来るのが怖《こわ》くて、自分たちのしていることがほとんどわからないくらいであった。
 戦闘で倒れた八人の中で、たった三人だけがまだ息《いき》があり、――それは、銃眼のところで撃たれた海賊の一人と、ハンターと、スモレット船長とである。そしてこの中の初めの二人は死んでいるも同様だった。実際、謀叛人の方は、先生の外科手術を受けているうちに死んだし、ハンターは、私たちが出来るだけのことはしたが、一度も意識を恢復しなかった。彼はその日|中《じゅう》死生の間をさまよい、私の家《うち》で卒中の発作に罹ったあの老海賊のように荒い息遣いをしていた。しかし、彼の胸の骨はあの一撃で打ち砕かれていたし、頭蓋骨は倒れた時に挫けていて、その夜のうちに、何の徴候もなく声も立てずに、彼は神の許へ行ってしまった。
 船長はと言えば、彼の傷はいかにも重くはあったが、しかし危険なものではなかった。どの器官にも致命傷は負っていなかった。アンダスンの弾丸が――というのは最初に船長を射撃したのはジョーブの奴だったからであるが――肩胛骨《けんこうこつ》を折って肺に触れていたが、ひどいことはなかった。第二弾は脹脛《ふくらはぎ》の筋肉を少し切り裂いて引違えただけだった。彼はきっと恢復するが、しかしその間、これから数週間は、歩いても腕を動かしてもいけないし、出来る時には口を利くことさえよくない、と先生が言った。
 私自身の偶然に受けた指関節の切傷は、ほんの蚤の喰ったくらいのものだった。リヴジー先生はそれに膏薬《こうやく》を貼って、おまけに私の耳をひっぱった。
 食事の後に、大地主さんと先生とは船長のそばにしばらく坐って相談をした。そして思う存分にしゃべり合ってしまうと、それは正午を少し過ぎた頃であったが、先生は自分の帽子とピストルとを取り上げ、彎刀《カトラス》を佩《お》び、例の海図をポケットに入れ、銃を肩にかけて、北側の防柵を乗り越え、さっさと樹立の中へ入って行った。
 グレーと私とは、上官たちの相談しているのが聞えないようにと、丸太小屋のずっと端の方に一諸に坐っていたが、グレーは、医師が出て行ったのにまったく呆気《あっけ》に取られて、パイプを口から取り出したまま、それをまた口に啣《くわ》えるのもすっかり忘れたほどだった。
「おやおや、」と彼は言った。「一体全体、リヴジー先生は気でも違ったんかい?」
「なあに、そんなことはないさ。」と私が言った。「気が違うということになれぁ、この僕たちの中では先生が一番おしまいだよ。僕はそう思うさ。」
「じゃあ、兄弟《きょうでえ》」とグレーが言った。「先生は気が違っていねえんかも知れねえ。だが、あの人[#「あの人」に傍点]の方が気が変になっているのでねえとするとだ、いいかい、このわっし[#「わっし」に傍点]の方が変なのだな。」
「僕はこう思うよ、」と私が答えた。「先生には何か思いつきがあるんだとね。そしてもし僕の思う通りなら、先生は今ベン・ガンに会いにいらしったんだよ。」
 後で明白になったことだが、私の思った通りだった。しかし、とかくするうちに、小屋の中は息苦しいまでに暑く、防柵の内側の狭い砂地は真昼の太陽に照りつけられて燃え立っようだったので、私の頭にはまた一つの考えが浮び始めた。それは決してさほど正しい考えではなかった。私に思い浮び始めたというのは、先生を羨むことなのであった。先生は森のひいやりとする樹蔭を歩きながら、周りに鳥の啼くのを聞いたり、松の樹の心地よい香を嗅いだりしているのに、私は、暑さで融けた樹脂《やに》のくっついた衣服を着て、焙《あぶ》られるような思いをしながら坐っていて、自分の周りには血がたくさん流れているし、あたり中に死体がごろごろ横っているので、それを見ていると、この場所がつくづく厭になり、その厭だという気持はほとんどここが恐しいというくらいに強いものだった。
 私が丸太小屋を洗い落したり、それから食後の食器を洗って始末している間中、この厭だという気持と羨ましいという気持はますます強くなる一方で、とうとうしまいには、自分がパン嚢のそばにいて、その時だれも私を見ていないのを幸いに、逃げ出す用意の手始めに、上衣の両方のポケットに堅《かた》パンを一杯詰め込んだ。
 私は馬鹿だった、と言われても仕方がない。確かに私は馬鹿な大胆過ぎることをやろうとしていたのだ。しかし、自分の出来るだけの用心をしてそれをやる決心だった。それだけの堅パンがあれば、どんなことが起ったにしても、少くとも、次の日のよほど遅くまではひもじい思いをすることはなかったろう。
 次に私が身につけたものは一対のピストルであった。そして角《つの》製火薬筒と弾丸とはすでに持っていたので、武器はこれで十分だと思った。
 私が頭に描いた計画はと言えば、それはそれだけとしては悪い計画ではなかった。碇泊所を東で外海と分っている例の砂の出洲《です》を下って行って、昨夕目についたあの白い岩を見つけ出して、ベン・ガンがボートを隠しておいたのがそこかどうかをつきとめようというのだ。これは確かにやる価値のあることだと私は今も信じている。しかし私は囲柵から出ることは許されまいと思いこんでいたので、私の唯一の方法は、だれも気をつけていない時に何とも言わずに無断でこっそり抜け出ることであった。これは、計画そのものをまで悪いものにするくらいな、悪いやり方であった。しかし私はほんの子供だったし、ぜひやろうと決心していたのだ。
 さて、とうとう素晴しい機会を見つけることになった。大地主さんとグレーとは頻りに船長に繃帯を巻く手伝いをしていた。だれも見ている者がなかった。私は跳び出して柵壁を越え樹立の茂みの中へ駆け込み、私のいないことが気づかれないうちに、もう仲間の人たちの呼び声の聞えないところまで行っていた。
 これが私の二度目の愚かな行いで、小屋を護るのに健康な人をたった二人だけ残して出たのだから、一度目のあの冒険とは遥かに悪かったのだ。しかし、これも、一度目の時のように、私たちみんなを救うことの助けになったのである。
 私は島の東海岸をさしてまっすぐに進んで行った。碇泊所から決して目を留められないようにするために、出洲の外海に面した側を下って行くことにしていたからである。まだ暖かくて日が照ってはいたけれども、もう午後も大分遅くなっていた。喬木の森を縫うようにしてどんどん歩いて行くと、ずっと前の方から間断なく雷のように轟いている寄波《よせなみ》の音が聞えたばかりではなく、樹の葉のざあざあ鳴る音や大枝の擦れ合う音までが聞えて来たので、海風《うみかぜ》がいつもよりも強く海岸に吹きつけていることがわかった。間もなく、冷い風が私の体《からだ》にあたって来た。そしてさらに数歩行くと、森の縁の開けたところへ出て、見渡すと、海は水平線までも青々として日に照され、寄波は磯に沿うてのたうち白波を立てているのだった。
 私は宝島の周囲では海が静かだったのを一度も見たことがない。太陽が頭上に輝きわたり、空気はそよとも動かず、海面は波立たずに青々としていようとも、こういう大浪はいつも外海に面した海岸にはどこでも打ち寄せて、昼も夜も雷のように轟きわたっているのだった。それで私にはこの島では浪の音の聞えない処が一箇所でもあろうとはほとんど信じられない。
 私は大喜びで寄波のそばをずっと歩いて行き、とうとう、もう十分に南の方まで来たと思って、何かのこんもり茂った灌木に身を隠して、用心しながら出洲の背へ這い上った。
 私の背後は海で、前面は碇泊所であった。海風は、いつになく烈しく吹いたためにいつもよりも早く吹き尽してしまったとでもいう風に、すでに止んでいた。その後には、南南東からの弱い変り易い微風が吹いて、大きな層をなした霧を運んで来た。そして碇泊所は、骸骨《スケリトン》島の風蔭で、初めて私たちが入って来た時のように静かで鉛のようにどんよりしていた。ヒスパニオーラ号は、その滑かな一面の鏡のような水面に、檣冠から吃水線までくっきりと映っていて、海賊旗《ジョリー・ロジャー》が|斜桁上外端《ピーク》にぶら下っていた。
 その舷側には一艘の快艇《ギッグ》が横附けになっていて、シルヴァーがその艇尾座におり、――彼は私にはいつでも見分けがついた、――それから、二人の男が本船の船尾の舷牆に凭《もた》れていたが、その中の一人は赤い帽子をかぶっていた。――まさしく、数時間前に防柵に馬乗りになっているのを私が見たあの悪漢だ。見たところでは彼等はしゃべったり笑ったりしているようだった。もっとも、その距離――一マイル以上――では、無論、言っていることは私には一語も聞き取れなかったが。と、突然、実に怖しい、この世のものとは思えぬ叫び声がして、最初は私はひどくびっくりしたが、すぐフリント船長の声を思い出し、その鳥が飼主の手頸に棲《とま》っているのがその鮮かな羽毛の色でそれと見分けられるような気さえした。
 それから間もなくその端艇は本船を離れて岸に向って漕いでゆき、赤い帽子をかぶった男とその仲間の男とは船室《ケビン》の昇降口から下へ降りて行った。
 ちょうどその時に太陽は遠眼鏡《スパイグラース》山の背後に沈んで、霧がずんずん集って来るので、いよいよ本式に暗くなりかけて来た。私は、もしその夜ボートを見つけるのなら、一刻もぐずぐずしてはいられないと気がついた。
 例の白い岩は、矮林の上に十分見えてはいたが、まだ八分の一マイルばかり出洲を下ったあたりにあって、矮木の間を時々は四つん這いになって這いながらそれに近づくまでには、かなりの時間がかかった。そのごつごつした岩の面に私が手をかけた時には、ほとんど夜になっていた。岩のすぐ下手に、緑の芝地のごく小さな凹地《くぼち》があって、それが、土手と、その辺にすこぶるたくさん生えている膝くらいまでの高さのこんもりした下生《したばえ》とで隠されていた。そして、この凹《へこ》みの真中に、果して、山羊の皮で作った小さなテントがあった。ちょうどイギリスでジプシー人が持ち※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているようなテントだった。
 凹地の中へ降りて、そのテントの端を上げてみると、ベン・ガンのボートがあった。――まさしく紛れもない手製のものだった。強靱な木を不器用な一方に偏った枠組にして、それに、毛の方を内側にした山羊の皮を張ったものである。これは私にさえ極めて小さいので、大きな大人を乗せて浮ぶことが出来ようとは私にはほとんど想像出来ないくらいであった。出来るだけ低く取附けた腰掛梁《こしかけばり》が一つと、舳《へさき》に足架《あしかけ》のようなものと、推進用の両櫂《ダブル・パッドル》(註六七)[#「(註六七)」は行右小書き]が一本とあった。
 私はその当時は古代のブリトン人が造ったような革舟《コラクル》(註六八)[#「(註六八)」は行右小書き]をまだ見ていなかったが、その後になって見たことがある。それで、ベン・ガンのボートを一番はっきり説明するには、かつて人間の造った最初の最もまずい革舟のようなものだと言えばいいと思う。しかし、それは革舟のあの大きな便益は確かに持っていた。すなわち、極めて軽くて持ち運び易いのである。
 さて、もうボートを見つけてしまったのだから「私も今度だけは隠れ遊びもたんのうしたろうと思われるだろう。けれども、それまでの間に、私は別の考えを思いつき、それがとてもやりたくなっていたので、たといスモレット船長にさえ逆《さから》ってでもそれを実行したろうと思う。それは、夜陰に乗じてそっと海へ乗り出し、ヒスパニオーラ号の錨索を切って、どこでも流れ着く処へ船を坐礁させようというのであった。私は、謀叛人どもが、その朝撃退されてからは、錨を揚げて海へ出て行くことを何よりも望んでいるものと、すっかりきめこんでいた。で、それを邪魔してやるのは面白いことだろうと思った。そして、あのように番人どもに一艘のボートも残しておかないのだから、それはほとんど危険なしに出来そうだと考えたのである。
 私は真暗《まっくら》になるのを待っために腰を下して坐り、堅パンをたらふく食べた。その夜は私の目論《もくろみ》には万に一つという誂え向きの夜だった。霧はその時は空をすっかり蔽うていた。昼の名残《なごり》の光がだんだん淡くなってまったく消えてしまうと、真の暗闇《くらやみ》が宝島を包んだ。そして、とうとう、私が革舟を担《かつ》いで、夕食を食べたその凹地《くぼち》から躓《つまず》きながら手探りして出た時には、その碇泊所全体で目に見える箇所はたった二つしかなかった。
 一つは、岸の大きな焚火で、そのそばに敗北した海賊どもが湿地で酒宴を開いていた。もう一つは、暗闇の中のほんの朦朧たる明りで、碇泊している船の位置を示しているものだった。船は退潮《ひきしお》につれてぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていて、――船首が今私の方へ向いており、――船中の唯一の灯は船室にあったのだ。それで、私に見えたのは、船尾の窓から流れ出る強い光線が霧に反映しているものに過ぎなかったのである。
 退潮はすでにしばらく続いていたので、私は長い一帯のじくじくした砂地を徒渉しなければならなかった。そこでは何回も踝《くるぶし》の上までもずぶずぶと沈んだ。それからやっと退《ひ》いていっている水の縁のところまで来たので、少し水の中へ入って行って、多少力を出して機敏に革舟を竜骨《キール》のところを下にして水面に浮べた。

第二十三章 退潮《ひきしお》が流れる

 この革舟《コラクル》は――それを使わない前から十分わかっていたが――私くらいの背や重さの人間にはごく安全なボートで、荒海でもふわふわと浮くし敏捷に動いた。しかし、操縦するにはこの上もなくひねくれた偏屈な舟だった。どうやってみても、いつも風下へばかり流れるし、ぐるぐるぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのがそいつの一番得意の手だった。ベン・ガンでさえあの舟が「その癖がわかるまでは扱いにくい」奴だったということを認めている。
 無論、私にはその癖がわかっていなかった。その舟は私の行かねばならぬ方角以外のあらゆる方向へぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。大抵の時は横向になっていたので、潮《しお》がなかったなら私は到底船に着けなかったろうと思う。幸運にも、私がどう櫂を漕いでいても、潮は舟を絶えず押し流していた。そしてちょうど行手にヒスパニオーラ号があって、ほとんどそれに会い損うはずがなかった。

初めは船は私の前に何か暗闇よりももっと黒いものの汚点のようにぼうっと見えていたが、それからその円材や船体が形をなして見え始めたかと思うと、次の瞬間には、というように思われたのであるが(なぜなら、先へ進むにつれて、退潮《ひきしお》の流れがだんだん疾くなって来ていたから)、私はもう船の錨索のそばに来ていたので、すぐにそれを掴まえた。
 錨索は弓の弦《つる》のようにぴんと張っていた。――船はそれほど強く錨をひっぱっていたのだ。船体の周りでは、真黒な闇の中で、漣《さざなみ》を立てた潮流が小さな山川のように泡立ちさざめいていた。私の船用|大形ナイフ《ガリー》でぷっつりと切ってやれば、ヒスパニオーラ号はぶんぶん帆を唸らせながら潮流と共に流れ下るだろう。
 ここまではよかった。しかし次に私の思い浮べたのは、ぴんと張っている錨索を急に切るというのは、蹴る馬のような危険なものだということだった。もしヒスパニオーラ号を錨から切り離すような無鉄砲なことをしようものなら、九分九厘まで、私と革舟とはまるっきり空中へ叩き飛ばされるだろう。
 それで私はそのことはすっかり思い止《とど》まった。そして、もし幸運が再び私に特別に恩恵を与えてくれなかったなら、私は自分の計画を放棄しなければならなかったろう。けれども、南東南から吹き始めていた弱い微風は、日が暮れてからは、次第に南西風に変っていた。ちょうど私が考えこんでいる間に、一陣の風が起って、ヒスパニオーラ号に吹きつけ、船を潮流の中へ無理に押し上げた。そのために、非常に嬉しかったことには、錨索が私の手の中で弛んだのが感じられ、それを掴んでいた手がちょっとの間水の下へ入った。
 そこで私は決心して、大形ナイフを取り出し、歯でそれを開いて、索の股《こ》を一つ一つと切り、とうとう船は二つの股で揺れ動いているだけになった。それから私はじっとして、もう一度風が吹いて来て索の緊張が緩んだらこの残りの股を切断しようと待っていた。
 この間中、船室《ケビン》から高い声が聞えていた。が、実を言えば、私は他の考えにすっかり気を取られていたので、それにはほとんど耳を籍《か》さずにいた。けれども、もう他にすることがなくなったので、もっとそれに注意し始めた。
 一方の声は、以前フリントの砲手だったという舵手《コクスン》のイズレール・ハンズの声だと私にはわかった。もう一方は、もちろん、例の寝帽《ナイトキャップ》をかぶった男だった。二人とも明かに酒に酔っていたが、それでもまだ飲み続けていた。という訳は、私が耳を傾けている間にさえ、その中の一人が、酔っ払った叫び声をあげながら、船尾の窓を開《あ》けて何かを抛《ほう》り出したが、それを私は空罎《あきびん》だろうと判断したからである。しかし彼等は酩酊しているだけではなかった。猛烈に怒っていることは明かだった。罵り言葉が霰のように飛び、時々はきっと殴り合いになるに違いないと思うほどの呶鳴《どな》り声がした。けれどもその度に喧嘩《けんか》は次第にやんで、声はしばらくの間ぶつぶつと低くなり、やがてまた次の喧嘩が始まり、それも何事もなく次第にすんでゆくという風だった。
 岸の方には、岸辺の樹立を通して野営《キャムプ》の大きな焚火があかあかと燃えているのが見えた。だれかがのろい単調な古びた水夫の唄を歌っていて、一節の終り毎に声を下げて震わし、歌い手に根気がなくなって止《や》めるより他《ほか》にはまるで終りがないように思われた。私はその唄を航海中に一度ならず聞いたことがあって、こういう文句を覚えこんだ。――


「七十五人で船出をしたが、
 生き残ったはただ一人《ひとり》。

そして、これは、その朝あれほど無残にも死傷者を出した連中にとっては、幾らか陰惨にも適切過ぎる唄だと、私は思った。しかし、実際、私の見たところから考えると、こういう海賊たちは皆、彼等が船を走らせる海と同じように無神経なものだったのだ。
 やがて風が吹いて来た。スクーナー船は闇の中で斜に動いて近づいて来た。私は錨索がもう一度弛んだのを感じたので、ぐっと力をこめて残りの縄をぷっつりと切った。
 風は革舟にはほんの僅かしか作用を及ぼさなかったので、私はもう少しでヒスパニオーラ号の船首にぶっつけられようとした。同時にそのスクーナー船は後端を中心にして潮流を横切ってゆっくりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って両端が今までと反対の位置になりかけた。
 私は今にも革舟が顛覆するかと思ったので、死物狂いになって努力した。そして革舟を直接に押し離すことが出来ないとわかったので、今度は船尾の方へまっすぐに押し進んで行った。ついに私はその危険な隣人から免れた。そして最後に革舟をぐっと推進させたちょうどその時に、私の手がふと船尾の船牆を越えて水中に垂れ下っている一本の軽い索にあたった。と、即座に私はそれを掴んだ。
 どうしてそんなことをしたのか自分でもほとんどわからない。初めはただ本能だったのだ。が、一度それを手に握って、それがしっかりしているのがわかると、好奇心がむらむらっと湧き起って来て、船室の窓からちょっと覗いてやろうと決心した。
 私はその索を手繰《たぐ》って引き寄せ、もう十分近づいたと思った頃に、非常な危険を冒して自分の半身ほど立ち上り、そうして船室の天井と室内の一部とを見渡した。
 この時分には、スクーナー船とそれの小さな伴船《ともぶね》とはかなり速く水を分けてすうっと流れていた。実際、私たちはすでに野営の焚火と平行になるところまでも来ていた。船は絶えず水沫を跳ばしながら無数の漣を押し切って進み、ざあざあ大きな音を立てていた。それで、窓閾《まどしきい》の上へ眼をやるまでは、私はなぜあの番人どもが一向驚かないのか合点がゆかなかったのだ。だが、一目見ると十分だった。また、そのぐらぐらしている小舟からは、一目だけしか見られなかった。その一目で、ハンズと彼の仲間の男とが絡み合って猛烈な組打をやっており、互に相手の喉頸《のどくび》をひっ掴んでいるのが見えたのである。
 私は再び腰掛梁にどかんと腰を下した。ちょうどよい時だった。すんでのことに舟から水中へ落ちるところであった。しばらくの間は、私には、煙ったランプの下で一緒にゆらいでいたあの狂暴な真赤になった二つの顔の他には、何一つも見えなかった。それで私は眼を閉じて、もう一度眼を闇に慣らそうとした。
 例の果しのない唄もとうとう終って、野営の焚火を囲んでいる人数の減った仲間全体は、私のたびたび聞いたあの合唱をやり出していた。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!
 残りの奴は酒と悪魔が片附けた――
  よいこらさあ、それからラムが一罎と!」

 ちょうど私が、酒と悪魔とが正にその瞬間にヒスパニオーラ号の船室でどんなに活躍しているかを考えていた時に、急に革舟がぐっと傾いたのに驚かされた。同時にそれはぐらぐらとして、それから針路を変えたように思われた。速力はその間に異様に増していた。
 私は直ちに眼を開《あ》けた。周り中には一面に漣があり、鋭いざあざあいう音を立てて泡立ち、微かに燐光を発していた。私の舟は依然としてヒスパニオーラ号の船跡《ふなあと》の数ヤードのところをぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていたが、そのヒスパニオーラ号までも針路がよろよろしているようであったし、その円材が夜の闇の中で少し揺れ動いているのが見えた。いや、もっと見つめていると、その船もやはり南の方へ方向を転じているのが確かにわかった。
 私は肩越しに振り返って見た。すると心臓がどきんとして肋骨にぶつかったような気がした。自分の真後《まうしろ》に、野営の焚火の光があったのである。潮流は直角に曲っていて、それと共に高いスクーナー船と小さな踊っているような革舟とをぐるりと押し流して来たのだ。だんだん速くなり、だんだん烈しく泡立ち、だんだん高い音を立てながら、潮は瀬戸を通って外海へとぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら進んでゆく。
 突然、私の前にあるスクーナー船は激しく針路を逸して、多分二十度も曲った。するとほとんど同時に船中で叫び声が起り、続いて別の叫び声がした。船室昇降梯子をどかどかと歩く足音が聞えた。それで、あの二人の酔漢もとうとう喧嘩《けんか》を中止して自分たちが災難に遭っていることに気がついたのだということがわかった。
 私はそのみすぼらしい小舟の底にぺったりと寝そべって、自分の魂を神にひたすらに委ねていた。海峡の終るところで、私たちはきっと荒波の砕けている沙洲にぶっつかるに違いなく、そこで私のすべての心労も迅速に終ってしまうだろうと思った。そして私は死ぬことは多分堪えられたろうが、近づいて来る運命を傍観しているのは堪えられなかった。
 絶えず大浪にあちこちと押しやられ、時々は飛び散る飛沫《しぶき》に濡れ、今度水の中に突き込まれたら死ぬだろうと絶間なく思いながら、そうして私は何時間も横っていたに違いない。次第に疲れが増して来た。こういう恐怖の中でさえ、私の心は痺《しび》れたようになり、折々は無感覚になった。遂にはとうとう眠ってしまい、波に揺られる革舟の中で、私は横になって故郷と懐しい「|ベンボー提督《アドミラル・ベンボー》屋」とを夢にみた。

第二十四章 革舟《コラクル》の巡航

 目が覚めた時はもうすっかり夜が明け放れていて、私は宝島の南西端のところに漂うているのだった。太陽は昇っていたが、大きな山容の遠眼鏡《スパイグラース》山の背後にあって私にはまだ見えなかった。その山はこっち側では恐しい断崖をなしてほとんど海へ下っていた。
 ホールボーリン岬と後檣《ミズンマスト》山とが私のすぐ近くにあった。山は禿山で暗い色をしており、岬は四五十フィートの高さの断崖になっていて、その縁《へり》には落ちて来た岩石がたくさんごろごろしていた。私は海の方へ四分の一マイルも出ていないので、漕ぎ寄せて上陸しようというのが最初に考えたことだった。
 その考えは間もなく断念した。ごろごろしている岩石の間には砕け波が噴き上って轟いていた。高い反響が次から次へと起り、ひどい飛沫が飛び散っていた。それで、私は、近よったところで、荒磯に打ちつけられて死ぬか、でなければ、突き出た険岩を攀《よ》じ登ろうとして徒らに体力を使い尽すだけだとわかった。
 それだけではなかった。巨大なぬらぬらした怪物――いわば、非常な大きさの蝸牛《かたつむり》の柔かいようなもの――が、岩石の平たくなった上を一緒に這ったり、ざぶんと高い水音を立てて海の中へ落ち込んだりしているのが、見えたのである。そういうものが五六十匹も群っていて、それの吠える声は岩々にこだましていた。
 私はその後になって、それが海驢《あしか》というものであり、全然害をしないものであることを知った。
 しかし、磯が険難で寄波が高く荒立っている上に、この動物の恰好《かっこう》を見ては、私がその上陸所が厭になるのには十二分であった。そういう危難に向ふくらいなら、むしろ海上で餓死する方がよいと思った。
 とかくするうちに、もっとよい機会と思われるものが前に現れた。ホールボーリン岬の北に、陸がずっと続いていて、潮が低いので、長く延びた黄ろい砂地を露《あら》わしていた。その北には、もう一つ、別の岬――例の海図には|森の岬《ケープ・オヴ・ザ・ウッヅ》と記されているもの――があって、高い緑の松の樹で蔽われ、その樹が海の縁《へり》までも生えていた。
 私は、シルヴァーが宝島の西海岸全体に沿うて北の方へと流れている潮流があると言ったのを思い出した。そして、自分の位置から考えて、自分がすでにその潮流に乗っていると知ったので、ホールボーリン岬を後にして、それよりは都合がよさそうに見える森の岬に上陸を企てるために体力を使わずに貯えておくことにしよう、と考えたのである。
 海には大きな滑《なめら》かなうねりがあった。風は南からむらなくそよそよと吹いていたので、風と潮流とには喰違いがなく、大浪はぐうっと高まってはまた砕けずに下って行った。
 もしそうでなかったなら、私はとっくに命を失っていたに違いない。ところが、そういう訳だったから、私の小さな軽いボートが易々《やすやす》と安全に波に乗ってゆく有様は驚くべきものだった。私が舟の底にじっと横っていて、ただ片眼だけを舟縁の上へやっていると、幾度も、大きな青い波の頂上が私のすぐ上にぐうっと高く上るのが見えた。それでも革舟《コラクル》はただちょっと跳ね上って、弾機《ばね》仕掛のように踊り、鳥のように軽々《かるがる》と向側の波窪へ降りてゆくのであった。
 少したつと私はずいぶん大胆になり出して、自分の櫂を漕ぐ手並を試《ため》してみようと起き上った。しかし、重さの按排が少し変っただけでも、革舟の動作には甚しい変化が生ずるのだった。そして私が動くか動かないに、ボートは、今までの穏かな踊るような運動は直ちにやめて、眩暈《めまい》がするほどの嶮《けわ》しい水の斜面をまっすぐに走り下って、次の波の横腹へぱっと水煙《みづけむり》をあげながら舳《へさき》を深く突っ込んだ。
 私はびしょ濡れになって度胆を抜かれ、すぐさま元の位置に返った。すると革舟は再び落着いたようで、私を前のようにふわふわと大浪の間を運んでくれた。この舟には手出しをしてはならぬということは明かだった。で、自分にはこの舟の針路を左右することは毫も出来ないのだから、この分では、私には陸へ着けるどんな望みが残されているだろうか?
 私は非常に怖《こわ》くなって来たが、それでも心を乱さずにいた。先ず第一に、十分に用心して体を動かしながら、自分の航海帽で少しずつ革舟の淦《あか》(註六九)[#「(註六九)」は行右小書き]をかい出した。それから、もう一度眼を舟縁の上へやりながら、どうしてこの舟がこんなに静かに大狼を滑り抜けてゆくのかということを研究しにかかった。
 すると、どの波も、海岸や船の甲板から見えるような、大きな、滑かな、つやつやした山ではなくて、まさしく、陸上の山脈のように嶺や平坦な処や谷間がたくさんあるものだ、ということがわかった。革舟は、なすがままにさせておくと、くるくる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りながら、その低い処をいわば縫うようにしてゆき、波の嶮《けわ》しい斜面や高いすぐ崩れ落ちる頂上を避けてゆくのであった。
「ははん、なあるほど、」と私は思った。「僕がこうして寝ていて、釣合を失わずにいなければならないことは確かだ。しかしまた、櫂を舟縁に置いて、時々平らな処で陸の方へ一推し二推しやれることも確かだぞ。」こう思うが早いか実行した。私は両肱《りょうひじ》で体を支えて実に苦しい姿勢をしながら寝て、折々一二本弱いのに漕いでは舳《へさき》を岸の方へ向けた。
 これはすこぶるくたびれもするし、まだるっこくもある仕事ではあったが、それでも私は確かに進んでいるのが目に見えた。そして、森の岬に近づいて来た時には、その岬にはきっと着き損うに違いないことはわかったけれども、それでも数百ヤード東の方へ来ていた。実際、私は岸に迫っていた。涼しげな緑の梢が一緒に風に揺れ動いているのが見え、次の岬には間違いなく着けるにきまっていると思った。
 その時に、非常に困ったことには、私は咽喉《のど》の渇きに苦しめられかけて来た。太陽が頭上からかんかん照りつける、それを波が千倍にも反射する、海水が私にかかって乾き、唇までも塩で硬《こわ》ばる、こういうことが一緒になって咽喉は焼けつき頭がずきずき痛み出した。で、そんなに間近に樹立が見えると、私はそこが恋しくてたまらなかった。しかし潮流は間もなく岬を通り越して私を流して行った。そして次の海の視界が展開した時に、私は或るものを見て、それが私の考えの性質を変えたのであった。
 ちょうど私の正面に、半マイルと離れていないところに、私は帆を揚げて走っているヒスパニオーラ号を見たのだ。もちろん、私は捕虜にされるものと思った。けれども、水のないのにひどく苦しめられていたので、そう考えると嬉しいのか悲しいのかほとんどわからなかった。そして、それがどちらとも判断がつかないうちに、私はすっかり驚いて、ただ眼を丸くして訝るより他にしようがなかった。
 ヒスパニオーラ号は大檣帆《メーンスル》と二つの斜檣帆《ジブ》とを張っていて、その美しい真白な帆布は雪か銀のように太陽に輝いていた。私が最初にその船を見た時には、すべての帆が風を受けて膨らんでいて、北西へ針路を向けていた。それで私は船に乗っている人たちは島をぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って碇泊所へ戻って行こうとしているのだろうと思った。ところが、やがて船がだんだんと西の方へ転回しかけたので、彼等が私を認めて、追っかけて来ようと船首を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しているのだと考えた。しかし、とうとう、船は真正面に風上へ向き、すっかり逆帆を喰って、帆を風に震わせながら、しばらくはそこに立往生した。
「へまな奴らだな。」と私は言った。「あいつらはまだやっぱり梟のように酔っ払っているのに違いない。そして、スモレット船長ならどんなに彼等を叱りとばして追い使ったろうと思った。
 とかくするうちに、スクーナー船は次第に風下へ向い、再び別の針路を執って、一分くらいの間疾く帆走したかと思うと、もう一度ちょうど風上に向って停った。こういうことを再三再四繰返した。あちこちへ、上ったり下ったり、北へ、南へ、東へ、西へと、ヒスパニオーラ号は急に突き進み、その度毎に初めにやったように止って、帆布をものうげにぱたぱたさせるのだった。だれも舵を扱っていないのだということが私にはもう明かになって来た。そして、もしそうとすれば、あの連中はどこにいるのだろう? 彼等は正体もなく酔いつぶれているか、それとも船を見棄ててしまったのだろうから、多分、もし私が船に乗り込めるならば、船を船長に返せるかも知れない、と私は考えた。
 潮流は革舟とスクーナー船とを同じ速度で南の方へ(註七〇)[#「(註七〇)」は行右小書き]押し流していた。スクーナー船の方の帆走はずいぶん気儘で間歇的で、ずいぶん永い間動きが取れなくなってうろうろしていることがあったので、潮流とは遅くはならないにしても、確かに少しも速くはなかった。もし私が起き上って櫂を漕ぎさえしたなら、きっとその船に追いつけると思った。この計画はちょっと冒険のようなところがあって私の興味を湧き起し、船首の昇降梯子のそばに水樽があることを思うと私の勇気は二倍になった。
 起き上ると、ほとんどすぐにまたぱっと水煙のお見舞を受けた。が今度は自分の目的をやり通すことにした。そして出来るだけの力を揮い用心をして、舵を操られていないヒスパニオーラ号を追って漕ぎ出した。一度ひどく波をかぶったので、心臓を鳥のようにどきどきさせながら、漕ぐのを止めて淦《あか》をかい出さねばならなかった。けれども次第に慣れて来て、ただ時々|舳《へさき》をぶっつけたり顔に白波をぶっかけられたりするだけで、波の間を革舟を進めて行った。
 私は今や急速にスクーナー船に近づいていた。舵柄がばたんばたんと動く度にそれについている真鍮がぴかぴか光るのまでが見えた。それでも一人の姿も甲板には見えなかった。船は見棄てられたのだと想像しない訳にはゆかなかった。もしそうでなければ、あの連中は下で酔って寝ているのだ。それなら多分私は彼等を当木《あてぎ》で塞いでしまって、船を自分の思うままに出来るかも知れない。
 しばらくの間は船は私には何より困ることをしていた。――じっとしていることだ。船は正南へ向い、無論、始終針路がぐらぐらした。風下へ向く度毎に帆は幾分膨らみ、そうするとすぐにまた風の方へ向くのだ。これが私には何より困ることだと言う訳は、船は、帆布が大砲のようにばたばた鳴り、滑車《せみ》が甲板の上で転《ころ》がってがらがら音を立て、そういうどうにも出来ないような様子に見えながら、それでもなお、潮流の速さのためだけではなくて、当然にも大きいものである風圧を全部受けるために、やはり私から向うへ走り続けていたからである。
 しかし、ついに、いよいよ機会が来た。風がしばらくの間落ちてごく弱くなり、潮流が次第にヒスパニオーラ号を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、船は中央を舳《へさき》にしてゆっくりと回転し、ついには船尾を私に向けた。船室の窓はやはり開《あ》けっ放しになっており、テーブルの上に懸っているランプは昼になってもまだやはりともれていた。大檣帆は旌旗のようにだらりと垂れた。潮流がなかったなら船はちっとも動かなかったのだ。
 それまでしばらくの間は私は船と遠ざかってさえいた。が、こうなって来ると、努力を二倍にして、もう一度船に追いつこうとし始めた。
 もう船から百ヤードとないところまで来た時に、突然また風が吹いて来た。船は左舷に風を受け、身を屈めて燕のようにすっと波を掠めながら再び動き出した。
 私は最初は絶望しかけたが、すぐにそれは喜びに変った。船は※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って私に舷側《ふなばた》を向け、――なおも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私との距離を半分、それから三分の二、それから四分の三と縮めて来た。竜骨前端部の下で波が白く泡立っているのが見えた。革舟の中の私の低い位置からは、船は非常に高いものに見えた。
 それから、不意に、私はわかって来た。それまでは考える余裕が――身を動かして自分を救う余裕がほとんどなかったのだ。私が一つのうねり波の頂にいる時に、スクーナー船が次のうねり波を越えて下って来た。第一斜檣《ボースプリット》が私の頭上にあった。私は跳び立って、革舟を水の下へ強く蹴って飛び上った。片手で第二斜檣《ジブブーム》を掴み、片足は支索と転桁索との間にひっかけた。そしてそこにしがみついて喘いでいる時に、鈍い物音がして、スクーナー船が革舟にぶっつかってそれを打ち壊して、私が戻る処もなしにヒスパニオーラ号に残されたのだということがわかった。

第二十五章 海賊旗《ジョリー・ロジャー》を引下す

 私が第一斜檣《ボースプリット》の上にのっかるかのっからないに、第三斜檣帆《フライイング・ジブ》が大砲のような音を立てて煽られ、今までと反対の舷に風を受けることになった。そうして反対になったためにスクーナー船は竜骨《キール》のところまでも震えた。だが、他の帆はやはり風を受けて膨らんでいたので、次の瞬間にはその斜檣帆《ジブ》は再び煽り返されて、だらりとぶら下った。
 このために私はもう少しのことで海の中へはね飛ばされるところだった。それで、もう一刻もぐずぐずせずに、第一斜檣を這ってゆき、甲板の上へ頭を先にして転がり下りた。
 私は最上前甲板の風下の側にいたので、やはり風を受けて膨らんでいる大檣帆《メーンスル》のために、後甲板の或る部分は私には見えなかった。だれ一人も見当らなかった。あの謀叛以来一度も洗ったことのない甲板の板には、たくさんの足跡がついていた。そして、頸のところを叩き割られた空罎《あきびん》が一本、排水孔の中を生きているもののようにあちこちと転がっていた。
 突然ヒスパニオーラ号は真正面に風上に向った。私の背後の斜檣帆はばたばたと大きな音を立てた。舵はどんとぶっつかった。船全体が気持の悪いほど動き震え、同時に大檣帆の[#「大檣帆の」は底本では「大縦帆の」]下桁が船の内側に揺れ動き、帆が滑車のところで唸って、私に風下の後甲板が見えるようにした。
 二人の番人は、なるほど、そこにいた。赤帽の男は、木挺の[#「木挺の」はママ]ように硬ばって、仰向に倒れ、両腕を十字架のように伸ばして、開いた唇の間から歯を見せていた。イズレール・ハンズは、舷牆に倚りかかっていて、頤を胸につけ、両手は前へ投げて甲板に投げ出し、顔は、日に焦《や》けた表皮の下が、脂蝋燭のように蒼白かった。
 しばらくの間は船は悍馬のように跳びはねたり横へ動いたりし、帆は今左舷に風を受けて膨らんだかと思うと、次には右舷からの風で膨らみ、帆の下桁があちこちと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るので、そのために檣《マスト》がぎいぎいと高い音を立てた。それにまた、時々は、舷牆を越えてぱあっと水煙が飛んで来たり、船首をうねり波に猛烈にぶっつけたりした。今はもう海の底へ沈んでしまった、あの手製の一方に偏った革舟《コラクル》よりも、この艤装した大きな船の方がずっとひどく揺れるのだった。
 スクーナー船が跳び上る度に、赤帽の男はあちこちと滑り動いた。しかし、――見ていて物凄いことには、――彼の姿勢も、歯を露わしたにやにや笑いの表情も、そういう手荒い取扱いを受けても、少しも変らないのであった。また、船が跳び上る度に、ハンズの方はだんだんに一層|体《からだ》を沈めて甲板へずり下ってゆくようで、両脚は絶えず前へ滑り出し、体全体が船尾の方へ傾いてゆくので、その顔は、だんだんと私に見えないようになり、とうとう、片耳と、一方の頬髯の擦り切れた捲毛だけしか、見えなくなってしまった。
 同時に、私は、二人ともの周りに、甲板の板にどす黒い血のはねかった痕を認めたので、彼等が酔った怒りにまかせて互に殺し合ったのに違いないと思いかけて来た。
 私がこうして眺めて不審に思っている間に、静かな瞬間、船がじっとしている時に、イズレール・ハンズは少し向き直って、低い呻き声を出しながら、身を捩って私の最初に見た時の位置に戻った。その呻き声は苦痛と死ぬほどの衰弱とを語っていて、呻く時の顎をだらりと開けた様子は私の心に哀れを催させた。しかし、林檎樽で窃《ぬす》み聞きした話を思い出すと、憐みの情はすっかりなくなった。
 私は船尾の方へ歩いて行って、大檣《メーンマスト》のところまで行った。
「来たよ、ハンズさん。」と私は皮肉に言った。
 彼は大儀そうに眼玉を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。が、余りにひどく弱っていて驚きを言い現すことも出来なかった。出来たのは一|言《こと》「ブランディーを。」と言うことだけだった。
 これはもうぐずぐずしていてはならぬと私は思った。で、また甲板を横切って突然傾いた帆の下桁をくぐり抜けながら、船尾へ走って行って、船室昇降口の階段を下って船室《ケビン》へ入った。
 そこはほとんど想像も出来ないほどの乱雑な有様になっていた。錠を下した箇処はどこも皆、海図を捜すのに打ち壊して開けてあった。床《ゆか》には泥がべたべたついていた。悪党どもが野営《キャムプ》の周りの沼地を捗って来た後に、ここに坐って酒を飲んだり相談をしたりしたのだ。一面に真白に塗って、鉱金《めつき》で玉縁にしてある隔壁には、きたない手の痕がついていた。何ダースというたくさんの空罎《あきびん》が、船の揺れ動くのにつれて、隅で一緒にがちゃがちゃ音を立てていた。先生の医書が一冊テーブルの上に開いてあって、その紙が半分ほども引きちぎってあった。煙草の火をつけるのに使ったのだろうと思う。こういう有様の真中に、ランプはまだやはり薄暗い焦茶色のくすぼった光を投げていた。
 私は穴蔵へ入って行った。樽はみんななくなっていたし、罎《びん》の方は実に驚くほど多数が飲み干したり投げ棄てたりしてあった。確かに、謀叛が始まって以来、彼等は一人でもかつて素面《しらふ》でいられるはずがなかったのだ。
 私はそこここと捜し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、ブランディーが幾らか残っている罎を一本見つけたので、ハンズにやることにした。それから自分には、堅パンと、漬けた果物を幾つかと、乾葡萄の大きな房を一つと、チーズを一片見つけ出した。これだけのものを持って甲板へ出て行き、自分の分は舵手《コクスン》の手には決して届かない、舵の頭の蔭のところに置き、前部の水樽のところまで行って、水をぐうっと十分に飲んで、それから、ようやく、ハンズにブランディーをやった。
 彼はその罎を口から離すまでには一ジル(註七一)[#「(註七一)」は行右小書き]は飲んだに違いない。
「ああ、うまかったな、畜生。こいつがほしかったんだ!」と彼が言った。
 私はすでに自分の場所に腰を下して食べ始めていた。
「大分《だいぶ》怪我《けが》したかい?」と私が尋ねた。
 彼はぶうぶう言い出した。というよりも、むしろ、吠えたと言った方がいいかも知れない。
「もしあの医者が船にいたら、己《おれ》ぁすぐに癒ったろうがな。だが己にゃあ運がねえんだ、この通りにな。が、これぁ己だけのことさ。そこにいる間抜めはすっかりくたばってやがるぜ、其奴《そやつ》は。」と彼は言い足して、赤い帽子をかぶった男を指した。「奴はどのみち船乗じゃなかったんだ。ところでお前《めえ》はどっから来たんだい?」
「うむ、僕はこの船を占領しに来たんだよ、ハンズ君。だから、追って何とかお達しがあるまでは、君は僕を船長と思っていてくれ給え。」と私は言った。
 彼はずいぶん苦々《にがにが》しい顔をして私を見たが、何とも言わなかった。幾分か顔の色がよくなっては来たが、まだやはり体の工合がひどく悪いように見え、船ががたんがたん動く度に、やはり向うへのめり、ずり下っていた。
「それはそうと、ハンズ君、」と私は言い続けた。「僕はあんな旗を揚げておくことは出来ないよ。だから、失礼だけれど、あれを引下すぜ。あんなものよりはない方がましだ。」
 そして、私は、再び帆の下桁をくぐり抜けながら、旗索《はたづな》のところへ走って行き、彼等のいまいましい黒い旗を下して、それを海の中へ抛《ほう》り投げた。
「国王陛下万歳!」と私は帽子を打ち振りながら言った。「そしてシルヴァー船長はもうおはらい箱だ!」
 ハンズは、その間もずっと頤を胸につけながら、鋭くずるそうに私を見つめていた。
「己の考《かんげ》えじゃあ、」と彼はとうとう言い出した。――「己の考えじゃあな、ホーキンズ船長《せんちょ》、お前だって幾らか岸に着きてえんだろ、なあ。で、相談をするとしようじゃねえか。」
「ああ、よかろう、喜んで相談に乗るよ、ハンズ君。言ってみ給え。」と私は言った。そしてまたむしゃむしゃと食べ出した。
「この男はな、」と彼は、死骸を力なく頤で示しながら、言い始めた。――「オブライエンって名で、――げびたアイルランド人さ、――この男と己とが、船を戻すつもりで、船に帆を張ったのさ。ところがだ、奴はもう死んじゃった、奴はよ、――淦《あか》みてえに死んじゃった。で、だれが一|体《てえ》この船を走らせるかね。己の考えるとこじゃ、己がお前に教えてやらなきゃあ、お前はそんなことの出来る人間じゃねえ。そこでだ、いいかな、おい、お前は己に食物だの飲物だの、それから傷のとこを縛る古い肩巾《スカーフ》かハンケチだのを持って来てくれるんだ。いいかい。そうすりゃ、己はお前に船の動かし方を教えてやろう。それなら何もかも五分五分だろうと思うがな。」
「僕も一つ言いたいことがあるんだがね。」と私が言った。「僕はキッド船長の碇泊所へは戻らない。北浦へ入って行って、あすこで船をそうっと浜に乗り上げるつもりなんだ。」
「なるほど、そりゃそうだろ。」と彼は叫んだ。「なあに、己だってそんなにひでえ阿呆でもねえ、つまりはな。わかってるよ。わからねえものかい? 己は自分の賽を投げてみてだ、負けたんさ。そして勝ってるのはお前なんだ。北浦だと? まあ、仕方がねえや。ねえとも! お前の手伝いをしてこの船を仕置渡止場まででも※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してやろうよ、畜生! してやるとも。」
 さて、この言葉には幾分条埋の通ったところがあるように、私には思われた。それで、私たちは即座に相談を纏めた。三分もたつうちに、私はヒスパニオーラ号を追風で易々と宝島の岸に沿うて走らせていて、心の中には、正午前に北の岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、さらに高潮になる前に北浦まで間切って(註七二)[#「(註七二)」は行右小書き]行き、高潮になった時に船を安全に浜に乗り上げて、潮が退《ひ》いて上陸出来るようになるまで待とう、という楽しい希望を抱いていた。
 それから私は舵柄を括りつけて、下へ降り、自分の衣類箱のところへ行って、母に貰った柔かい絹のハンケチを取って来た。そのハンケチで、私も手伝って、ハンズは腿に受けた血の出ている大きな突傷《つききず》を繃帯し、そして、少しばかり食べ、ブランディーをまた一口二口飲むと、彼は目に見えて元気づき、前よりはまっすぐにも坐り、大きな声ではっきりも口を利き、すべての点で別人になったように見えた。
 風は素晴しく私たちに役立ってくれた。船は追風を受けて鳥のようにすっすっと走り、島の岸は閃くように過ぎ去り、眺望は一分毎に変って行った。間もなく高台を通り過ぎ、矮生の松が疎《まばら》にちらほらと生えている低い砂地のそばをどんどん進み、やがてそこもまた通り越して、島の北の端をなしている岩山の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってしまった。
 私は自分の新しい司令者たる地位に大いに得意だったし、日の照っている晴れわたった天候とこのように刻々に違ってゆく海岸の展望とで愉快だった。今はもう水もうまい食物もたっぷりあるし、柵壁を脱走したことでこれまでひどく私を責めていた良心も、自分がこの大きな獲物を手に入れたために静められた。だから、甲板のあちこちと私の後を追うて嘲弄するように見ている舵手の眼と、彼の顔に絶えず浮んでいる変な微笑さえなかったなら、私にはその上望むものは何一つなかったろうと思う。その微笑は、何か苦痛と衰弱とのようなものを含む微笑――窶《やつ》れた老人の微笑だった。が、その他に、私の働いているのを狡猾にじろじろじろじろと見守っている彼の表情には、ちょっぴり嘲弄のようなものが、どこか陰険なところが、あったのだ。

第二十六章 イズレール・ハンズ

 風は、望み通りに吹いてくれて、今度は西風に変った。それで私たちはそれだけ易々と島の北東の角(註七三)[#「(註七三)」は行右小書き]から北浦の入口まで帆走することが出来た。ただ、投錨することは出来ないし、潮がもっと十分に満ちて来るまでは船を浜に乗り上げる訳にはゆかなかったので、私たちは無聊に苦しんだ。舵手《コクスン》は停船の仕方を私に教えてくれた。私はずいぶん何度もやってみてようやくうまくいった。それから二人とも黙ったまま坐って、また食事をした。
「船長《せんちょ》、」と彼はやがて、前と同じあの不愉快な微笑を浮べながら、言い出した。「ここに己の船仲間のオブライエンがいるがねえ。お前こいつを船から抛《ほう》り出してくれちゃどうだい。己は大概《てえげえ》はものを気にする男じゃねえし、こいつをばらしたことなんぞ何とも思ってやしねえ。だが、こうしておいても別に飾りにもなるめえと思うが、え、どうだね?」
「僕はそんなに力がないし、それにそういう仕事は嫌いだ。その男がそこにころがっていたって、僕ぁ構わないよ。」と私が言った。
「この船は縁起の悪い船さ、――このヒスパニオーラ号はね、ジム。」と彼は眼をしばたたきながら話し続けた。「このヒスパニオーラ号じゃずいぶたくさん人が殺されたよ、――お前や己がブリストルで乗り込んでからこっち、可哀《かええ》そうに死んじゃった水夫はとてもたくさんなものだ。己ぁこんな不運な目にゃ遭ったことがねえ。ねえとも。それに、このオブライエンの奴もいるが、――こいつも死んでる。そうだろな? ところでと、己ぁ学問がねえが、お前は読み書きも勘定も出来る子だ。で、ぶちまけて言うが、お前は、死んだ人間ってものは死んでそれっきりのものと思うか、それとも、また生き返《けえ》って来るものと思うかね?」
「人間の体は殺すことが出来るがね、ハンズ君、魂は殺せないものだよ。君だってそんなことぐらいはちゃんと知ってるはずだ。」と私が答えた。「そこにいるオブライエンは今じゃ別の世界にいるんだ。そしてそこから多分僕たちを見ているだろうよ。」
「ああ!」と彼は言った。「やれやれ、そいつぁいけねえ、――そいじゃ人を殺すなんて暇潰しみてえなもんだなあ。だが、己のこれまでの経験じゃあ、魂なんてものは大《てえ》したもんじゃねえ。己は魂って奴を相手に一か八かやってみてやろうよ、ジム。ところで、お前はもう存分にしゃべったんだから、一つ頼みがあるんだ。お前、あの船室《ケビン》へ降りて行って、己にあれを――ええと、あのう――えい、畜生! 名が思い出せねえぞ」うん、そうそう、お前、葡萄酒を一罎《ひとびん》、持って来てくんねえか、ジム。このブランディーは己にゃ強過ぎて頭へ来るんでね。」
 ところで、舵手のこうして口籠ったのはちょっと不自然に思われた。それに、ブランディーよりも葡萄酒の方がよいと言うのに至っては、私は全然ほんとうにしなかった。話全体が口実なのだ。彼は私に甲板から去らせたいのだ。――それだけは明かだった。けれども、どういう目的でそうするのか、私にはどうしても想像がつかなかった。彼の眼は決して私の眼と会わなかった。
 その眼は、空を見上げたり、死んでいるオブライエンをちらりと見たり、あちこちと、上へ下へと、絶えずきょろきょろしていた。その間も始終、彼は微笑し、ひどく気が咎めて極《きま》りの悪いような様子で舌をべろべろ出しているので、彼が何かを企《たく》らんでいるのだということは小さな子供にでもわかったろう。しかし、私は、自分の有利な点がどこにあるかもわかっていたし、こんなひどく愚鈍な奴には自分の疑念を最後まで容易に隠しておくことが出来るとわかっていたので、すぐに返事をしてやった。
「葡萄酒かい?」と私は言った。「その方がずっといいとも。白がいいか、それとも赤がいいかれ?」
「そうさな、己にゃどっちだって同じだよ、兄弟《きょうでえ》。」と彼は答えた。「強くって、たっぷりありせえすりゃ、そんなこたぁ構うもんか。」
「よしよし。」と私は答えた。「ポート葡萄酒を持って来てあげよう、ハンズ君。だが、探さなくちゃならんだろうよ。」
 そう言って、私は出来るだけ大きな音を立てて船室昇降階段を駆け降りると、靴を脱いで、円材の出ている廊下をそっと走って行き、|前甲板下水夫部屋《フォークスル》の梯子を上って、船首の昇降口から頭をひょいと出した。私がそんなところにいようとは彼が思いもよらぬということは私にはわかっていた。しかしそれでも私は出来る限りの用心をした。すると、確かに、私の最悪の疑いがまったくほんとうであるということがわかったのであった。
 彼は両手と両膝とで自分のいた場所から体を上げていた。そして、動く度に脚がかなりぴりぴり痛むようではあったが、――呻き声を抑え隠すのが私に聞き取れたから、――それでも、かなりの速さで甲板を横切って身を曳きずって行った。半|分《ぶん》ほどのうちに彼は左舷の排水孔のところへ行って、一巻きの綱の中から、柄までも血塗れになっている長いナイフ、というよりもむしろ短剣を取り出した。下顎を突き出しながら、ちょっとの間それを見て、切先《きっさき》を手にあてて試《ため》してから、ジャケツの懐の中へ急いで隠すと、また元の場所へ戻って舷牆に凭《もた》れかかった。
 これだけわかれば十分だった。イズレールは動き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ることが出来る。彼は今では武器を持っている。で、もし私を遠ざけるために彼がさっきあれほど骨折ったのなら、私を殺すつもりなのだということは明かだった。その後に彼がどうするつもりなのかということは、――北浦からあの湿地の間にある野営《キャムプ》までまっすぐに島を横切って這って行こうとするつもりなのか、それとも、大砲を発射して、自分の方の仲間の者が先に助けに来てくれるのを頼みにするつもりなのかということは、無論私にはわからないことだったが。
 しかしながら、私は彼を一つの点で信頼することが出来ると確信した。というのは、その点で私たちの利害が一致していたからだ。それはこのスクーナー船の処置ということである。私たちは二人とも、船をどこかの避難所へ十分安全に乗り上げさせて、時機の来た時には、なるべく骨も折らず危険もなしに再び海へ出られるようにしておきたい、と望んでいるのだ。それで、それをやってしまうまでは自分の命は確かに助けておかれるだろうと私は考えた。
 このように心の中でいろいろと考えている間も、私は体を遊ばせてはいなかった。そっと船室へ戻って、また靴を穿き、手当り次第に葡萄酒の罎《びん》を一本掴むと、それを申訳の理由に持って、再び甲板に出て行った。
 ハンズは私が降りて行った時のようにしていて、すっかり体を丸めて、光にも堪えられないほど衰弱しているとでもいった風に眼瞼《まぶた》を伏せていた。しかし、私が来ると顔を上げ、よく慣れた手付で罎の頸を叩き折り、「運がいいように!」という彼の気に入りの乾杯の言葉を言いながら、ぐうっと飲んだ。それからしばらくはじっとしていたが、今度は噛煙草を一本ひっぱり出して、私に一片切ってくれと頼んだ。
「そいつを一|片《きれ》切ってくんねえ。己はナイフを持っていねえから。よし持ってたって、切るだけの力もねえ。ああ、ジム、ジム、己ぁやり損ったようだよ! 一片切ってくれ。それがどうやらこの世の噛み納《おさ》めらしいよ、兄弟。己ぁもう墓場へ行くんだ、きっとな。」
「よし、」と私が言った。「煙草を切ってあげよう。だが、もし僕が君で、自分がそんなに工合が悪いと思ったら、キリスト教徒らしくお祈りをするがねえ。」
「なぜだい?」と彼は言った。「え、なぜだか言ってくれよ。」
「なぜだって?」と私は叫んだ。「君はつい今しがた死人のことを僕に尋ねたじゃないか。君は自分の信用を破ったんだ。君は罪を犯したり偽《いつわ》りを言ったり人の血を流したりして暮して来たんだ。今だって君の殺した人間が君の足許にころがっている。それだのに君はなぜって訊《き》くんだね! 神様のお慈悲をお願いするためだよ、ハンズ君、そのためさ。」
 私は、彼が血塗れの短剣をポケットの中に隠していて、それで私を殺してしまおうと企らんでいることを思うと、思わず少し熱して話した。彼の方は、葡葡酒をぐっと飲むと、ひどく真面目《まじめ》くさって口を利き出した。
「三十年も己は方々の海をわたり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、その間にゃいい目にも悪《わり》い目にも遭えば、もっといい目にももっと悪い目にも遭ったし、いい天気にも悪い天気にも遭ったし、食物がなくなったこともあれば、斬り合いをやったこともあるし、その他《ほか》いろんな目に遭ったよ。ところでね、実際のところ、己ぁいい事をしていい目に遭ったってこたぁまだ一度だってねえ。先に打ってかかる奴が己ぁ好きだ。死人《しびと》は咬みつかねえ。これが己の考《かんげ》えといったところさ、――アーメン、まあそれでいいや。時にねえ、おい、」と彼は、急に口調を変えて、言い足した。「こんな馬鹿っ話《ぱなし》はこれっくれえでたくさんだ。潮がもうずいぶんさして来たぜ。さあ、ホーキンズ船長、己の指図する通りにやるんだ。そうすりゃ船はすぐに走り出して片附いちまおうぜ。」
 すっかりで二マイル足らず船を走らせればよかったのだ。けれどもここの航行はなかなか面倒だった。この北の碇泊所の入口は狭くて浅い上に、東と西とに陸があるので、スクーナー船を入れるにはよほどうまく操縦しなければならなかった。が、私は上手な機敏な助手だったと思うし、ハンズは優れた水先案内人《パイロット》だったと信ずる。というのは、船は、見るも気持のよいくらい正確に手際よく、代る代る針路を変えて、岸を掠めながら、ひらりひらりと身を交すようにして入って行ったからである。
 岬を通り過ぎるや否や、陸地が私たちのぐるりに迫って来た。北浦の岸は南の碇泊所の岸と同様に樹木がこんもりと生い茂っていた。が湾内はもっと狭くて長く、広い河口のようで、実際またそうなのであった。私たちの真正面の、南の瑞に、もうぼろぼろに腐朽してしまって見る影もない船が一艘見えた。もとは三本|檣《マスト》の大きな船であったのだが、ずいぶん永い間|雨風《あめかぜ》に曝されていたので、ぽたぽた水を滴らしている海藻が大きな蜘蛛の巣のように周囲にぶら下っていたし、甲板には海岸に生える灌木が根をおろしていて、今ちょうど花が一杯咲き乱れていた。それは実に傷《いた》ましい光景であったが、しかしまたこの碇泊所が穏かなところであることを私たちに示していた。
「おい、あそこを見ろよ。」とハンズが言った。「船を乗り上げるにゃ持って来いの処《とこ》があらあ。細かな平たい砂地で、ちっとの風もねえし、ぐるりにゃあずっと樹があるし、あの古船《ふるぶね》の上にゃ庭みてえに花が咲いてるぜ。」
「で、乗り上げたら、また船を出すにはどうするんだろう?」と私は尋ねた。
「なあに、それぁこうさ。」と彼が答えた。「干潮《ひきしお》の時に綱を持ってあっちの向側の岸へ行くんだ。あのでっけえ松の樹のどれか一つにその綱をぐるりと巻く。それからそいつを持って帰《けえ》って」揚錨絞盤《いかりまき》に巻いて、潮を待ってるんだ。満潮《みちしお》になったら、みんなでその綱をひっぱれば、船はひとりで出るみてえにすうっと出るよ。さあさあ、坊や、用意するんだ。船着場が近いのに、船足が速過ぎるぞ。少し面舵《おもかじ》、――そうだ、――ようそろ(註七四)[#「(註七四)」は行右小書き]、――面舵、――少し取舵《とりかじ》、――ようそろ、――ようそろ!」
 そんな風に彼は命令を下すと、私は息もつかずにそれに従った。そのうちに、突然、彼は「さあ、おい、開け!」と叫んだ。そこで私は舵輪をぐっと風上に操った。するとヒスパニオーラ号は急速にぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、低い樹の茂った岸に船首を向けて走り続けた。
 こういう操縦に興奮していたために、それまでは私が絶えずずいぶん油断なく舵手を警戒していたのが、幾分お留守になっていた。その時でさえ、私は、船が水底に触れるのを今か今かと待ちながら、やはり非常に面白がっていたので、自分の頭上に懸っている危難をすっかり忘れてしまい、右舷の舷牆の上から首を伸ばしながら、船首の前に広く拡がっている漣を見つめていたのである。それで、急に何だか不安になって、頭を振り向けなかったなら、私はひとたまりもなく殺されてしまったことであろう。恐らく、靴か何かのきしむ音が聞えたのか、彼の影の動くのが眼尻で見えたのかも知れない。それとも、恐らく、猫のような本能のためであったかも知れない。が、とにかく、私が振り返った時には、果して、ハンズが、右手に例の短剣を握って、私の方へすでに半分も近よっていたのであった。
 私たちは眼と眼とがぶつかった時には二人とも大きな声を立てて叫んだに違いない。しかし、私の声は恐怖の金切声であったが、彼のは突っかかって来る牡牛のような憤怒の唸り声だった。それと同じ瞬間に彼は前へ躍りかかり、私は船首の方へ横さまに跳んだ。その時に、私は掴んでいた舵柄を放すと、それが風下の方へ烈しく跳ねた。このために私は命が助かったのだと思う。という訳は、その舵柄がハンズの胸にあたって、彼はしばらくの間ぴたりと止ったからである。
 彼が立直れないうちに、私は彼に追いつめられていた隅っこから無事に出て、甲板中をあちこち逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]れるようになった。大檣《メーンマスト》のすぐ前で立ち止って、ポケットからピストルをひき出すと、彼がもう向を変えてまっすぐに私をまた追って来ていたけれども、冷静に狙いを定めて、引金を引いた。撃鉄はかちっと落ちたが、火花も出なければ音もしなかった。点火薬が海水のために役に立たなくなっていたのだ。私は自分の不注意がいまいましかった。なぜもっとずっと前に自分の唯一の武器に火薬を入れ換え弾丸を籠め換えておかなかったのか? それをしておいたなら、今のように、この屠殺者の前に逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってばかりいる羊のような目に遭わなかったろうに?
 彼は負傷してはいたが、素速く動くことは驚くべきほどで、彼の白髪《しらが》雑りの髪の毛は顔に振りかかり、その顔は焦心と憤怒とで英国商船旗のように真赤だった。私は自分のもう一挺の方のピストルを試してみる暇もなかったし、また、実際、役に立たないにきまっていると思ったので、試してみようという気持も大してなかった。ただ、一つのことだけは私にははっきりわかっていた。私はただ彼の前から逃げるだけではいけない。そんなことをしていれば、彼は、ちょっと前に私をもう少しで船尾へ追い込もうとしたように、じきにまた船首へ追い込んでしまうだろう。そうして掴まったが最後、あの九インチか十インチもある血塗れの短剣でぐざりとやられて、それがこの世の最後となるだろう。私は、かなりの大きさの大檣に掌をあてて、全神経を張りつめて待っていた。
 私が逃げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るつもりだということを見て取ると、彼も立ち止った。そしてしばらくの間は、彼の方は剣で打ってかかる真似をし、私の方はまたそれに対応する動作をしていた。それはまるで私が故郷の黒丘《ブラック・ヒル》入江の岩のあたりでよくやったような遊び事であった。だが前には、勿論、今のように胸をひどくどきどきさせてやったことは一度もなかった。それでも、やはり、それは子供の遊び事だった。そして、私はこんな腿に負傷をしている大分年とった水夫なんぞに負けるものかと思った。実際、私は大いに元気が出かかっていたので、この事件の結末がどうなるかということを二三ちらちらっと考えてみることが出来た。そして、自分がこれを永びかせることが出来るということは確かにわかったが、また、結局逃げおおせてしまう見込がないということもわかった。
 さて、こういう有様になっているうちに、突然ヒスパニオーラ号は乗り上げて、ぐらぐらとし、ちょっとの間砂地に擱坐したかと思うと、どっと左舷へ傾いて、甲板が四十五度の角度になり、一桶ほどの水が排水孔の中へはね込み、甲板と舷牆との間に水溜りのようになって溜った。
 私たちは二人ともその途端にひっくり返り、二人ともほとんど一緒になって排水孔の中へ転がり込んだ。死んでいる赤帽の男も、両腕をやはり拡げたまま、硬ばって私たちの後から転げて来た。私たちは実際ごく近くなっていて、私の頭が舵手の脚にごつんとぶっつかって私の歯が音を立てたくらいであった。そうして打ちあたったけれども、再び立ち上ったのは私の方が先であった。
 なぜなら、ハンズは死体と絡み合っていたからである。このように船が急に傾いたために甲板は走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る場所ではなくなってしまった。私は何か新たな逃げる方法を見つけなければならなかった。それもすぐ見つけなければならなかった。敵は私に触れんばかりのところにいるからだ。とっさに私は後檣《ミズンマスト》の横静索(註七五)[#「(註七五)」は行右小書き]に跳びついて、索を手繰りながらずんずんと攀《よ》じ登り、檣頭横桁に腰を下すまでは息もつかなかった。
 私はそうして機敏にやったために助かったのだ。私が上へ逃げ上っている時に、短剣が私の下半フートとないところに突き刺さったのである。そして、イズレール・ハンズが口をぽかんと開け顔を私の方へ振り上げながら突っ立っている有様は、まったく驚きと失望との彫像のようだった。
 私はちょっと暇が出来たので、時を移さず自分のピストルの点火薬を換え、それから、一挺がいつでも使えるようになると、念に念を入れるために、もう一挺の方の弾薬を取り出して、それも初めから新たに装填し直しにかかった。
 私がこういう事を始めたのでハンズはびっくり仰天した。彼には形勢が彼の方に悪くなっていることがわかりかけた。そして、どうしようかと明かに躊躇した後、彼もまた横静索に大儀そうに掴まって、短剣を歯で啣《くわ》えながら、ゆっくりと苦しそうに登り始めた。負傷した足をひきずり上げるには、非常に時間もかかり、幾度も呻き声を出さねばならなかった。それで、彼が三分の一より上へさほど上らないうちに、私は悠々と自分の準備をすませてしまった。それから、どちらの手にもピストルを持って、彼に話しかけた。
「ハンズ君、」と私は言った。「もう一歩でも上ってみ給え。君の脳天を撃ち抜くよ! 死人《しびと》は咬みつかないはずだね。」と言い足して、私はくっくっと笑った。
 彼はすぐさま止った。その顔がぴりぴり動いているので、何かを考えようとしているのだということが、私にはわかった。ところがその考え方がいかにものろのろしていて骨折っているので、私は、今の安全な立場にいて、声を立てて笑った。とうとう、彼は三度唾を嚥みこんでから、口を利き出したが、顔にはやはり極度に困りきった同じ表情を浮べていた。口を利くために口から短剣を取らねばならなかったが、しかしその他には彼は少しも動かずにいた。
「ジム、」と彼は言った。「己たちぁどうも料簡《りょうけん》がいけねえようだ、お前も己もな。で、仲直りしなけりゃなるめえ。船があんなによろけせえしなけれぁ、己はお前をつかめえたんだがな。だが己にゃあ運がねえんだ、まったくよ。己は降参しなくちゃならねえようだ。船長をしたこともある人間が、お前みてえな小僧っ子に降参するなあ、辛《つれ》えこったよ。なあ、ジム。」私は彼の言葉を面白がって聞きとれ、微笑し続けて、飼場の雄鶏のように得意になっていた。と、はっと思う間に、彼の右手が肩の後へ行った。何かが空気を切って矢のようにぴゅうっと飛んで来た。私は打たれた感じがしたかと思うと次には烈しい痛みを感じ、肩のところを檣に突き刺された。その瞬間の怖しい痛みと驚きとで――それは自分の意思でしたのだとは私はほとんど言えないし、意識した狙いはなしにやったのだと確信するが――私のピストルが二挺とも発射して、二挺とも私の手から離れた。落ちたのはそのピストルだけではなかった。息の詰ったような叫び声と共に、舵手は横静索を掴んでいる手を放して、頭を先にして海の中へ落ち込んだのである。

第二十七章 「八銀貨」

 船が傾いているために、檣《マスト》はずっと遠く水の上へ突き出ていて、檣頭横桁の私の棲木《とまりぎ》の下には、湾の水面の他に何もなかった。ハンズはさほど上まで上っていなかったので、従って私よりは船の近くにいて、私と舷牆との間に落ちた。彼は一度だけ白波と血との石鹸《シャボン》泡のようになった水面へ浮び上ったが、それからまた沈んで、それっきり浮き上らなかった。水が静まると、船の舷側の影の、綺麗な、ぴかぴかする砂の上に、彼が体をちぢこめて横っているのが見えた。一二尾の魚が彼の体の前をすいすいと通って行った。時々、水が震えると、彼が起き上ろうとでもするように少し動いたように見えた。しかし、それでも、彼は撃たれた上に溺れたのだから、すっかり死んでいるのだ。私を殺そうとしたその場所で魚の餌食になることになったのだ。
 そのことがはっきりすると、私は急に気持が悪くなり、気が遠くなり、恐しくなり出して来た。熱い血が背中と胸とにたらたらと流れていた。短剣が私の肩を檣に突き刺している箇処は、熱した鉄のように焼けつくように思われた。だが、私を苦しめたのは、こういう実際の痛みはさほどでもなかった。それなら自分には声も立てずに我慢が出来るように思われたからだ。私を悩ませたのは、檣頭横桁からあの静かな緑色をした水の中の舵手《コクスン》の死体のそばへ落ちはしまいかという、心に抱いている恐怖であった。
 私は爪がずきずきするまで両手でしがみつき、危険を見まいとでもするように眼を閉じた。すると次第に心が落着いて来て、動悸もいつもの速さに静まり、再び我に返った。
 最初に思ったのは短剣を抜き取ろうということだった。が、余りに強く突き刺さっていたのか、それとも怖くて出来なかったのか、とにかく私は烈しく身震いをして止《や》めてしまった。ところが、まったく奇態なことには、そうして身震いしたためにその事が出来てしまった。ナイフは、事実、もう少しのことでまったく外れるところだったのだ。それは皮膚をほんのちょっとだけ刺していたので、身震いするとそこが裂き取れたのである。もっとも、血は前よりは盛んに流れ出たが、私は再び自分の自由になり、ただ上衣とシャツとを檣に打ちつけられているだけとなった。
 この上衣とシャツとは急に体をぐいと動かして切り取り、それから右舷の横静索を伝って再び甲板に戻った。私は心弱くなっていたので、イズレールがついさっきそこから落ちた、水の上へ差し懸っている左舷の横静索を、再び伝って降りる気にはどうしてもなれなかったのだ。
 私は船室へ下りて行って、自分の傷に出来るだけのことをした。その傷はずいぶん痛んだし、まだどんどん出血していた。しかし深い傷でもなければ危険な傷でもなく、また腕を動かしてもひどく苦痛だということもなかった。それから私はあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、船が今では或る意味で自分のものだったから、その船の最後の乗客をも船から掃い出してやろうと思い立った。――例の死人のオブライエンである。
 彼は、前に言ったように舷牆に突き当って、そこで、気味の悪い不恰好《ぶかっこう》な人形のようにころがっていた。なるほど人間の大きさはしているが、人間らしい色や人間らしい綺麗さとは何と違っていることだろう! その場所にいてくれたので、私は容易に彼を始末することが出来た。それに、私は悲惨な冒険に慣れたために死人に対する恐怖がほとんどすっかりなくなっていたので、糠《ぬか》の嚢か何かのように彼の腰を掴んで、ぐっと一度持ち上げると、船の外へ投げ落した。彼はどぶんと音を立てて水の中へ沈んで行った。赤い帽子は取れて、水面に浮んだ。そしてはねかった水が静まると、彼とイズレールとが並んで横っているのが見えて、二人とも水が揺れるにつれてゆらゆらしていた。オブライエンは、まだごく若い男なのに、頭がひどく禿げていた。その禿頭を、彼は自分を殺した人間の膝にのっけて横っていた。そして敏捷に動く魚がその二人の上をあちこちと泳いでいた。
 私は今では船にただ一人となった。潮はつい今変ったばかりであった。太陽はやがて沈もうとしていて、すでに西岸の松の樹の影がちょうど碇泊所のあたりに射《さ》しかけて、甲板の上に模様をなして落ちていた。夕風が吹き起っていて、それは東にある峯の二つある山のためによほど受け止められてはいたけれども、それでも索具は静かに少し歌うように鳴り出していたし、垂れていた、帆はあちこちとばたばたし出していた。
 私は船が危険になったのがわかりかけた。で、斜檣帆《ジブ》を急いで下して甲板へばたばた落した。が大檣帆《メーンスル》の方はそれよりは厄介だった。もちろん、スクーナー船が傾いた時に、帆の下桁が舷外へぐらりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、帆桁帽と一二フィートの帆布とが水の中へ入ってさえいた。このためになおさら危険だと私は思った。それでも、非常に強く張りつめているので手を出すのが恐しいような気もした。とうとう、私はナイフを取り出して揚索を切った。すると斜桁上外端《ピーク》が直ちにばったりと落ちて、弛んだ帆布の大きな腹部が水の上に拡がって浮いた。そして、どうひっぱってみても下索《さげなわ》は動かすことが出来なかったので」私に出来たのはそれだけだった。それ以上のことでは、ヒスパニオーラ号は、私自身と同様、運に頼るより他はなかった。
 この時分には碇泊所全体はすっかり影になってしまっていたが、――落陽の最後の光線が、森の隙間から射して来て、あの破船を覆うている花に、宝石のようにきらきらと輝いたのを、私は今も忘れられない。もう寒くなりかけて来た。潮は急速に外海の方へ流れて行っていて、スクーナー船はますます傾いて船梁が垂直になるほどになった。
 私は船首の方へ這って行って下を覗いた。よほど浅いようだったので、まさかの時の用心にあの切れている錨索に両手で掴まって、そうっと船の外へ体を下して行った。水は私の腰までもなかった。砂は固くて、漣の痕が一面についていた。それで、大檣帆を湾の水面に広く曳きずって、傾いているヒスパニオーラ号を後に残して、私は大元気で岸まで徒渉した。ほとんど同時に太陽はまったく沈み、風は揺れ動いている松林の間で薄暮の中を低くひゅうひゅうと鳴っていた。
 ともかく、とうとう、私は海から上ったし、また空手《からて》で戻って来たのでもなかった。あそこに、ヒスパニオーラ号が、とうとう海賊どもの手からすっかり離れて、いつでも味方の人々を乗せて再び海に出られるようになっているのだ。私は何よりも柵壁へ帰りついて自分の手柄話をしたくてたまらなかった。あるいは私は自分のやった隠れ遊びについてちょっとぐらい叱られるかも知れない。がヒスパニオーラ号を取戻したことはそういう文句をすっかり決着させてしまうだけの答になるのだ。そして私はスモレット船長でも私がただ暇潰しをしていたのではないと言ってくれるだろうと思った。
 そんなことを思いながら、素敵な元気で、丸太小屋の味方の人たちの方へ戻りかけた。ふと、キッド船長の碇泊所へ注いでいる川の中の一番東にあるのが自分の左手にある二つ峯の山から流れ出ていることを思い出したので、川幅が狭い間に流れを渡っておこうと思って、その方向へ進路を曲げた。森はかなり開けていて、低い方の山嘴に沿うて行くと、やがてその山の角を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってしまい、それから間もなくその川を脛の半ばまで水に入って渉った。
 渉ってしまうと、私があの置去り人《びと》のベン・ガンに出会った処の近くへ来た。それで眼を四方へ配りながら、一層用心して歩いた。もうほとんど薄暗くなっていて、私が二つの峯の間の割目が開けている処まで来ると、一条のゆらゆらした火の光が空に映えているのに気がついた。そこにはあの島の男が盛んに火を燃して夕食の料理をしているのだろう、と私は考えた。しかし、どうして彼がそんなに不注意に自分の居所を示しているのかと、心の中で不審に思った。というのは、あの光が私に見えるくらいだから、海岸の沼地に野営しているシルヴァーの眼に入らない訳がなかったからである。
 だんだんと夜はますます暗くなって来た。私はただ自分の目指す方向へめちゃくちゃに進んで行くだけだった。私の背後の二つ峯の山も、右手の遠眼鏡山も、だんだんと微かにぼんやりして来た。星も稀で光が薄かった。私は、自分のさまよい歩いている低地で、絶えず藪の中で躓《つまず》いたり砂の凹穴の中へ転がり込んだりした。
 急に何だかあたりが明るくなった。見上げると、淡い微かな月光が遠眼鏡山の頂上に射していた。それから間もなく、何か幅の広い銀色のものが樹々の後《うしろ》に下へ低く動いてゆくのが見え、月が昇ったことがわかった。
 これを助けにして、残りの道程《みちのり》を急いで進み、時には歩いたり、時には走ったりして、気をあせりながら柵壁へ近づいて行った。それでも、柵壁の前にある森の中へ入りかかった時には、さすがに歩みを弛めて少しは気をつけて進むだけの用心はした。誤って自分の味方の人に撃ち倒されては、私の冒険も情ない結末となってしまうからだ。
 月はだんだんと高く昇った。その光は森の幾分開けた箇処を通してここかしこに広く注ぎ始めた。ところが、私の真正面に、それとは違った色の光が樹立の間に見えて来た。それは赤い熱そうな光で、時々少し暗くなり、――ちょうど、くすぶっている篝火の余燼のようであった。
 どうしても私にはそれが何なのかわからなかった。
 とうとう私は開拓地の縁のところまで下って来た。そこの西端はすでに月光を浴びていた。その他の処は、丸太小屋も、まだ黒い影の中にあって、長い銀色の光線で市松模様になっていた。小屋の両側には、大きな焚火が燃え尽きて明るい余燼となっていて、赤い強い反射光を放ち、柔かな淡い月光とひどく対照していた。人影《ひとかげ》一つも動かず、風の音の他には物音一つしなかった。
 私は、心の中で非常に不審に思いながら、また恐らく少しは怖くも思いながら、立ち止った。大きな火を焚くということは味方の習慣ではなかった。実際、私たちは、船長の命令で、薪には幾分けちなくらいであったのだ。それで、自分のいない間に何か悪いことになったのではないかと気がかりになり出した。
 私は絶えず影にいるようにして東側をこっそりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってゆき、闇の一番濃い、都合のよい処で、防柵を越えた。
 念に念を入れて、私は四つん這いになり、何の音も立てずに小屋の隅の方へそろそろと進んだ。もっと近づくと、私の心は急に大いに気楽になった。鼾《いびき》の声というものは本来は気持のよいものではないし、他の場合には私はそれに苦情を言ったことも段々あったが、この時だけは、味方の人たちが眠りながら一緒に大きく安らかに鼾をかいているのを聞くと、音楽を聞くような気がした。海上で当直夜番の叫ぶ声、あの美しい「変りなあし。」という声でも、これ以上に心強く私の耳に響いたことはなかった。
 その間にも、一つのことだけは疑いがなかった。あの人たちの夜番の仕方が非常に悪いということである。もし今こうして忍び寄って来ているのがシルヴァーと彼の一味の者であったなら、一人だって夜明《よあけ》の光を見られまい。それというのも船長が負傷しているからのことだ、と私は思った。そして、こうして当番に就《つ》く者も少いほどの危険な状態に皆を残して出て来たことに対して、私はまた烈しく自分を責めた。
 この時分には私は戸口のところまで行って立ち上っていた。内はただ真暗なので、眼では何一つ見分けることが出来なかった。音の方は、一様な単調な鼾の声と、時々、私にはどうしてもわからぬ、ばたばたしたり、こつこつしたりする、小さな音とが聞えた。
 両腕を前へ差し出しながら私は落着いて入って行った。私は自分の場所に寝ていて、朝になって皆が私を見て驚く顔を見てやろう。(そう思って、私は声を立てずに含み笑いをした。)
 私の足が何か蹴ると動くものにぶつかった。――それは眠っている人の脚だった。その男は寝返りをうって唸ったが、目は覚さなかった。
 と、その時、突然、闇の中から鋭い声が起った。
「八銀貨! 八銀貨! 八銀貨! 八銀貨! 八銀貨!」と小さな碾臼《ひきうす》の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る音のように切間もなく変化もなしに続けた。
 シルヴァーの緑色の鸚鵡《おうむ》のフリント船長だ! こつこつと木の皮をつついているのが聞えたのは、その鳥だったのだ。どの人間よりもよく夜番をして、こうしてそのうるさい繰返し文句で私の来たことを知らせたのは、その鳥だったのだ。
 私は気を取直すだけの暇もなかった。鸚鵡の鋭い速い声で、眠っていた人々は日を覚して跳び起きた。そして、力強い罵り言葉と共に、シルヴァーの声が叫んだ。――
「だれだ?」
 私は振り向いて逃げようとしたが、一人の人に猛烈にぶっつかって跳ね返り、また走り出すと今度は別の男の腕の中へ跳び込んでしまった。その男は私を掴んでしっかりと抱きすくめた。
「松明《たいまつ》を持って来い、ディック。」私がそうして確実に捕えられた時にシルヴァーが言った。
 すると、一人の男が丸太小屋から出て行って、やがて火のついている焼木《やけぎ》を持って戻って来た。
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第六篇 シルヴァー船長

第二十八章 敵の宿営で

 松明《たいまつ》の赤い光が丸太小屋の内部をぱっと照すと、私の懸念していた中でも一番悪いことが起っているのがわかった。海賊どもが小屋も食糧も占領していた。前のように、コニャックの樽もあれば、豚肉やパンもあった。そして、私の恐怖を十倍にも増したことには、捕虜の影もなかった。私は味方の人たちが皆殺されてしまったのだと判断するより他《ほか》はなかった。そして、自分もそこにいて皆と一緒に死ななかったことを思うと、非常に心苦しかった。
 そこにはみんなで海賊が六人いた。他の奴らは生き残ってはいなかったのだ。六人の中の五人までは立っていて、酔って寝入ったばかりのところを不意に起されたので、赤い腫《は》れぼったい顔をしていた。六人目の者は肱《ひじ》をついて体《からだ》を起しているだけだった。彼は死人のように蒼い顔をしていて、頭に巻いている血のにじんだ繃帯は、彼が近頃負傷したのであって、しかもつい先頃手当をしたのだということを語っていた。私は、あの大攻撃の時に撃たれて森の中へ逃げ戻った男がいたことを思い出し、こいつがその男だということを疑わなかった。
 鸚鵡《おうむ》はのっぽのジョンの肩にとまって、羽毛を嘴で整えていた。ジョン自身も、私のいつも見慣れているよりは幾らか蒼ざめていたし、もっといかつい顔をしていると、私は思った。彼はまだ、例の談判にやって来た時の上等な広幅羅紗の一着を着ていたが、それは、泥土でよごれたり、森の鋭い茨で裂けたりして、ひどく傷《いた》んでいた。
「ふん、そうか、」と彼は言った。「こいつあジム・ホーキンズだな、畜生! ちょいとお立寄り、ってとこかね、え? よしよし、まあ、友達らしく扱ってやろう。」
 そう言うと彼はブランディーの樽に腰を下して、パイプに煙草を填《つ》め始めた。
「その松明《たいまつ》を貸してくれ、ディック。」と彼は言い、それから、煙草に火を十分つけてしまうと、「ああ、それでいいよ。」と言い足した。「その火を薪の山の中へ突っ込んでくれろ。そいから、お前《めえ》たち、紳士|方《がた》、坐ったらどうだい! ――ホーキンズ君のために立ってなくたっていいんだぜ。ホーキンズ君はお前たちをゆるして下さるだろうよ[#「下さるだろうよ」に傍点]。そいつぁ間違《まちげ》えっこなしさ。ところで、ジム、」――と煙草を止めて、――「お前《めえ》がここへやって来たなあこのジョン爺《じい》もまったくもって嬉しいが驚いたよ。お前がはしっこい奴だってこたぁ己《おれ》が初めてお前を見た時からわかってるさ。だが、これぁどうも己にゃまるで合点がいかねえぞ、まったくな。」
 以上の言葉に対しては、十分想像されるであろうように、私は何の返事もしなかった。彼等は私に壁を背にして立たせてるた。私は、臆せずにシルヴァーの顔を見ながら、そこに立っていた。表面はずいぶん大胆そうにしていたつもりであるが、心の中には暗澹たる絶望を抱いていた。シルヴァーは大いに落着いてパイプを一二服吹かし、それからまたしゃべり続けた。
「ところで、なあ、ジム、お前がここへ来た[#「来た」に傍点]からにゃあ、ちっとばかし言って聞かせることがあるんだ。己ぁいつもお前が好きだった、お前がな。元気な小僧だし、己の若くっていい男だった時に生写《いきうつ》しだからよ。いつも己はお前が仲間に入《へえ》ってくれて、紳士で死んで貰《もれ》えてえもんだと思ってた。ところが、なあ大将《てえしょう》今度はお前はどうもそうしなくっちゃならねえ。なるほどスモレット船長《せんちょ》は立派な海員《けえいん》だ。それぁ己もいつだって白状するさ。だが紀律が厳《きび》し過ぎらあ。『義務は義務だ。』って奴《やっこ》さんはよく言う。またそれにゃあ違《ちげ》えねえ。お前もうあの船長に近よらねえようにしろよ。あの医者だってお前にゃひどく怒ってるぜ、――『恩知らずの腕白者』って言ってたんだ。で、手つ取り早《ばえ》えとこを言っちまえば、まずこうだ。お前は自分の組の方へは帰《けえ》れねえ。あいつらはお前に帰って貰えたかあねえんだからね。そこで、お前が一人っきりでまた一つの組を起すとなると、こいつあどうも淋しかろうて。で、そうするんでなけりゃ、お前はシルヴァー船長の組に入らなきゃなるめえな。」
 ここまではよかった。とすると、味方の人たちはまだ生きているのだ。私は、船室《ケビン》の人たちが私の脱走を怒っているというシルヴァーの言葉の真実であることを幾分か信じたけれども、自分の聞いたことのために、悲しむよりは、むしろほっとした。
「お前が己たちに掴まってるってことは己は何も言わねえ。」とシルヴァーが言い続けた。「ほんとはそうなんだがね、間違えなしにな。己ぁ万事相談づくでやる人間だ。嚇《おど》していいことになったってこたぁ己ぁ一度も知らねえ。もしお前が働いてくれる気ならだ、なあ、こっちへつくがいい。もし厭ならばだ、ジム、そうさ、自由に厭だって返事するんだ。――自由で結構さ、兄弟《きゃうでえ》。で、どんな海員だってこれより公平なことが言える者がいるなら、お目にかかりてえや!」
「それじゃあ、僕は返事をしなきゃいけないのかい?」と私はひどく震えた声で尋ねた。彼のこの鼻であしらうような話の全体にわたって、私は自分に迫りかかっている死の威嚇を感じさせられ、頬はほてり心臓は胸の中で苦しいほど動悸うった。
「なあ、おい、」とシルヴァーは言った。「だれもお前に無理強いはしねえ。篤《とく》と考《かんげ》えろよ。己たちぁ一人だってお前をせき立てはしねえつもりだ、兄弟。お前と一緒にいると愉快で時のたつのがわからねえくれえだからなあ。」
「ではね、」と私は少し大胆になって言った。「もし僕がどちらかにきめなきゃならないんなら、僕は、ほんとうのことや、あんた方《がた》がどうしてここにいるのか、僕の方の人たちがどこにいるのかってことを、知らして貰う権利がある訳だねえ。」
「ほんとのとこだと!」と海賊の一人が太い唸り声で私の言葉を繰返して言った。「ふん、そいつがわかった奴は仕合せ者だろうて!」
「おい、お前に話しかけられるまではお前は黙って控えてるがいいんだ。」とシルヴァーはその男に向って荒々しく呶鳴《どな》った。それから、元の優しい口調で、私に答えた。「昨日《きのう》の朝のことだ、ホーキンズ君、折半直(註七六)[#「(註七六)」は行右小書き]に、リヴジーさんが休戦旗を持ってやって来たんさ。『シルヴァー船長、お前は裏切られたんだ。船は行っちまったぞ。』ってお医者は言うのだ。そうさな、多分己たちは酒を飲んで、盃を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す景気づけに唄でも歌っていたんだろう。そうじゃねえとは言わねえ。ともかくだれ一人気をつけていた者はなかったんだ。で、外を見ると、驚いたな! あの古船《ふるぶね》はいねえんさ。あの時のみんなみてえなぽかんと間抜面《まぬけづら》をした阿呆どもは見たことがねえな。いや、この己が中でも一番ぽかんとしてたって言っても、間違えなしさ。『ところで、相談をしようじゃないか。』ってお医者は言うんだ。己たちは相談をした。あの人と己とな。それで、己たちはここにいることになったって訳さ。食物も、ブランディーも、丸太小屋も、お前たちが気を利かして切っといてくれた薪も、まあ言わばこの結構な舟を檣頭横桁《クロスツリーズ》から内竜骨《ケルソン》までそっくり、貰ったんだ。あの人たちの方は、てくてく出て行った。どこにいるのか己にゃわからねえ。」
 彼は再び静かにパイプを吸った。
「それからな、」と彼は話し続けた。「お前がその頭に、お前もその条約の中へ入ってるんだと思いこむといけねえから、一番おしめえに聞いた言葉を聞かしてやろう。『あんた方《がた》は何人で立退《たちの》くんですかい?』と己が言ったんだ。すると、『四人だ。』ってあの人は言うのさ。――『四人で、その中《うち》一人は負傷してる。あの子供は、どこにいるのか俺《わし》は知らん、畜生。またどこにいようと大して構わん。俺らはあいつにゃほとほと閉口した。』こうあの人は言ってたぜ。」
「それだけかい?」と私が尋ねた。
「そうさ、お前に聞かさんけりゃならんことはこれだけだよ、坊や。」とシルヴァーが答えた。
「と今度は僕がどちらかきめなきゃならないんだね?」
「で今度はお前がどっちかきめなきゃならねえんだ。違えねえ。」とシルヴァーが言った。
「じゃ言おう。」と私は言った。「僕は、自分がこれから先どんなことを覚悟しなけりゃならないかよくわからないような馬鹿じゃない。どんな悪いことになろうと、僕は気にかけやしないんだ。君たちと一緒になってから此方《このかた》、ずいぶんたくさん人の死ぬのを見て来たからね。だが一つ二つ君たちに言うことがある。」とここまで言って来た時分には私はすっかり興奮していた。「まず第一にはこういうことだ。君たちは今悪い有様になっている。船はなくなる、宝は手に入らない、人数は減る。君たちの仕事はすっかり駄目になっちまった。そこで、だれがそうしたのか知りたければ言うが、――それは僕だったんだよ! 僕は、島が見えたあの晩に林檎樽の中にいて、ジョン、君と、それから、ディック・ジョンソン、君と、それから、今はもう海の底にいるハンズとが話しているのを聞いて、一時間とたたないうちに君たちの言ったことを一語も残さずみんな知らせたんだ。それから、スクーナー船はと言うと、あれの錨索を切ったのも僕なら、君たちがあの船に乗せておいた人たちを殺したのも僕、あの船を君たちの中の一人だって二度ともう見られない処へ隠したのも僕だよ。勝って笑えるのは僕の方なんだ。僕はこの事件では初手《しょて》から上手《うわて》に出ているんだ。僕はもう君たちが蝿ほども怖《こわ》かあない。さあ、僕を殺すとも生かすとも、好きなようにしてくれ給え。だが一つのことだけ言っておこう。もうこれっきりだ。もし君たちが僕の命を助けてくれるなら、すんだことはすんだことにして、君らが海賊をしたために裁判にかけられる時にゃ、僕は出来るだけのことをして君たちを救ってあげよう。どちらかきめるのは君たちの方だ。他人《ひと》を殺して君たち自身に何にもならぬことをするか、それとも、僕を生かしておいて、君たちが絞首《しめくび》になるのを助かる証人を残しておくかだ。」
 私はここで言葉を止めた。というのは、実際、私は息が切れたし、それに、驚いたことには、そこにいる者が一人も身動きもしないで、みんなが羊のようにただ私を見つめて坐っていたからである。そして彼等がまだじっと見つめている間に、私は再び口を切った。――
「それからね、シルヴァーさん、あんたはここにいる中で一番偉い人だと思うが、もし僕が殺されるようなことになったなら、あんたはどうか先生に僕の死に方を知らせてあげて下さい。」
「心に留めておこう。」とシルヴァーは言ったが、非常に奇妙な口調だったので、彼が私の頼みを嘲笑《あざわら》っているのか、それとも私の勇気に感心していたのか、私にはどうしてもいずれとも判断しかねた。
「まだ一つ言い添えることがある。」と例のマホガニー色の顔をした年寄の船乗――モーガンという名の――私がブリストルの埠頭にあったのっぽのジョンの居酒屋で見たことのあるあの男――が叫んだ。「黒犬《ブラック・ドッグ》を知ってたのもこいつだったぞ。」
「そうさ、それからな、」と船の料理番《コック》は言い足した。「もう一つ言い添えることもあるぜ、畜生! ビリー・ボーンズから海図をかっぱらったのもやっぱりこの子供だったよ。たびたび己たちはこのジム・ホーキンズのためにしくじったんだ!」
「じゃあこうしてくれるぞ!」とモーガンは罵り言葉と共に言った。
 そして彼は、二十歳の若者のような勢でナイフを抜いて、跳び立った。
「止《や》めろ!」とシルヴァーが叫んだ。「お前は何だ、トム・モーガン? 多分お前は船長のつもりだったんだろう、大方な。馬鹿めが。だが己がよく教えてやろう! 己に逆《さから》えば、お前はこの三十年|前《めえ》からたくさんの奴がお前の前に遭ったような目に遭うんだぞ。――帆桁の端にぶら下げられた奴もいやがるんだ、畜生! それから船の外へ抛《ほう》り出された奴もいる。みんな魚の餌食になったものさ。己に面と向って反対《はんてえ》した奴で、その後でいい目に遭った奴は、一人だっていねえんだぜ、トム・モーガン。そいつぁ間違えっこなしだぞ。」
 モーガンはじっとしてしまった。しかし他の連中からぶつぶつ嗄《しゃが》れ声の不平が起った。
「トムの方に道理があるよ。」と一人が言った。
「己はずいぶん永《なげ》え間一人にいじめられるのを我慢して来たんだ。この上またお前《めえ》にいじめられてたまるもんか、ジョン・シルヴァー。」と別の者が言い足した。
「手前《てめえ》ら紳士たちの中でだれかこの己[#「この己」に傍点]と議論か喧嘩《けんか》できまりをつけてえって奴がいるのか?」とシルヴァーは、まだ火のついているパイプを右手に持ったまま、樽の上の坐り場所からぐっと前へ身を屈めながら、奴鳴った。「どうしようってのか言ってみろ。手前らあ唖《おし》じゃあるめえ。してえ奴にゃさせてやる。己も永え年月《としつき》過して来て、今になって大馬鹿野郎めに己の面先《つらさき》で生意気な真似をさせておくと思うか? 手前たちだってやり方は心得てるんだ。みんな自分じゃ分限紳士のつもりなんだからな。さあ、いつだって向って来い。やれる奴は彎刀《カトラス》を手に取れ。そうすりゃ、己は、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖《かせづえ》をついちゃいるが、このパイプが空《から》にならねえうちに、其奴《そやつ》の臓腑がどんな色をしているか見てやろう。」
 だれも動かなかった。だれも答えなかった。
「それがお前たちのやり方だ、そうだろ?」と彼はパイプを口へ戻しながら言い足した。「そうさ、お前たちゃどのみち見掛ばかりの奴らだ。相手にするほどの値打もねえ、手前らはな。多分手前たちだって自分の国の言葉はわかるだろう。己は選ばれてここで船長になってるんだぞ。己はずんと一番|偉《えれ》え人間だからこそここで船長になってるんだぞ。手前らにゃ分限紳士らしく勝負する気はねえんだ。それなら、畜生、己の言うことをきいてりゃいいんさ、まったくよ! ところで、己はこの子供が好きなんだ。こんないい子供は見たことがねえ。この子はこの小屋ん中にいる手前ら鼠野郎を二人一緒にしたよりも以上の人間だ。で、己の言うのはこうだ。この子に手をかける奴は己が相手になってやる、――これが己の言うことだ。違えねえぞ。」
 この後は永い合間があった。私は壁を背にしてまっすぐに立っていて、心臓はまだ大鎚のように烈しく動悸うっていたが、しかし今では一条の希望の光が胸の中に射《さ》し込んで来た。シルヴァーは壁に凭《もた》れかかって、腕を組み、パイプを口の隅に啣《くわ》えて、まるで教会にでもいるように落着いていた。それでも、眼は絶えずこっそりときょろきょろし、不従服な部下を眼尻で見ていた。彼等の方はと言うと、だんだんに丸太小屋の遠くの方の端へ寄り合ってゆき、彼等のひそひそと囁く低い声が流れのように私の耳に絶間なしに聞えて来た。一人一人彼等はこっちを見上げ、そして松明《たいまつ》の赤い光がちょっとの間彼等の興奮した顔を照すのだった。しかし彼等が眼を向けるのは私の方へではなく、シルヴァーの方へだった。
「手前らはたんと言うことがあると見えるな。」とシルヴァーは言って、空中へぺっと唾を吐き跳ばした。「大声で言って己に聞かせるか、でなきゃ止《や》めちまえ。」
「失礼だがね、」と彼等の中の一人が答えた。「お前《めえ》さんは規則によっちゃずいぶんずぼらだが、多分|他《ほか》の規則は守ってくれるんだろうな。ここにいる船員は不服があるんだ。ここにいる船員はこけおどかしはちっとも有難かねえんだ。ここにいる船員は他の船員と同じに自分たちの権利があるんだ、遠慮のねえとこを言えばね。で、お前さんの拵《こせ》えた規則で、己たちは一緒に話し合ってもいいだろうと己は思うんだ。今んとこはお前さんを船長と認めるから、お前さんの許しを願う訳さ。だが己は自分の権利を要求して、会議を開きに外へ出ますぜ。」
 こう言って、いやに丁寧な水夫式の敬礼をして、のっぽの、面相の悪い、黄ろい眼をした、三十五くらいのその男は、戸口の方へすまして歩いて行って、小屋の外へ出てしまった。すると残りの連中も順々にそれに倣《なら》った。一人一人が出てゆく時に敬礼をし、一人一人が何とか言訳を添えた。「規則に従ってね。」と一人は言った。「水夫部屋会議で。」とモーガンは言った。そんな風に何とか言って皆が出て行き、後にはシルヴァーと私とだけが松明と共に残された。
 船の料理番は直ちにパイプを口から取った。
「さて、ねえおい、ジム・ホーキンズ。」と彼はしっかりした囁き声で言った。その声はやっと聞き取れるくらいのものだった。「君はもう少しで殺されるかも知れんところだ。いや、もっとずっと悪いことにゃ、拷問されるかも知れんところだ。奴らは己を排斥《へえせき》しようとしてるからな。だが、いいかね、己はどんなことがあっても君に味方してやる。己にゃそういうつもりはなかったんだ。そうだ、君があんなにぱすぱすとしゃべるまではなかったんさ。己は、あんな大金《てえきん》を手に入れ損《そこ》ねるし、おまけに首を絞《し》められるとなったんで、やけっぱちになりかかっていた。だが己にゃ君が頼りになる男だってことがわかったんだ。己は自分にこう言ったのさ。ジョン、お前はホーキンズに味方しろ。そうすりゃホーキンズはお前に味方してくれるだろう。お前はあの子の最後のカルタ札だし、それから、ジョン、あの子はお前の最後のカルタ札だってこたぁ違えねえんだぞ! 持ちつ持たれつだ。お前が自分の証人を救えば、あの子はお前の首を救ってくれるだろうよ! とね。」
 私はぼんやりとわかりかけて来た。
「君は何もかも駄目になったと言うんだね?」と私は尋ねた。
「うん、まったく、そうなんだ!」と彼は答えた。「船はなくなる、首もなくなる、――そういった有様さ。一度は己もあの湾を捜してみたんだよ、ジム・ホーキンズ。だがスクーナー船なんてまるで見えやしねえ。――で、己も強情者だが、へこたれてしまったよ。あの会議を開いてる奴らはね、まったくの馬鹿野郎の臆病者さ。己は君の命をあいつらから救ってあげるよ、――出来る限りはだ。だがね、いいかい、ジム、――その代りにだ、――君はのっぽのジョンがぶらんこになるのを救ってくれるんだぜ。」
 私は当惑した。彼の求めていることはそれほど望みのないことと思われたのだ。――何しろ、彼は永年の海賊で、初めから終りまで張本人なんだから。
「僕に出来ることは、してあげるよ。」と私は言った。
「じゃこれで話がきまった!」とのっぽのジョンが叫んだ。「君は元気よく言ってくれた。で、有難《ありがて》え! 己に助かる見込が一つ出来た訳だ。」
 彼は、薪の中に立てかけてある松明のところまでぴょこぴょこ跳んで行って、パイプに新しく火をつけた。
「己の言うことをよく聞いてくれ、ジム。」と彼は元のところへ戻りながら言った。「己は分別のある人間だよ、そうともさ。己は今じゃ大地主の側についてるんだ。君があの船をどこかへ無事に※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したってことは己にゃわかってる。どんな風にしてやったか、そいつぁわからねえが、とにかくあれは無事なんだ。ハンズとオブライエンとは丸めこまれたんだろうと思う。あいつら[#「あいつら」に傍点]はどっちとも己は大《てえ》して信用していなかったよ。ところでよく聞いてくれ。己は何も訊《き》かねえし、他の奴らにも訊かせはしねえ。勝負のついた時を己は知っている。知ってるとも。それから頼りになるしっかりした若者を知っている。ああ、君は若《わけ》えし、――君と己とが一緒になれぁたんといいことが出来るかも知れねえなあ!」
 彼は樽から錫の小杯にコニャックを注いだ。
「兄弟、飲まねえか?」と彼が尋ねた。そして私が断ると、「じゃあ、自分だけで一口やるぜ、ジム。」と言った。「己は一|杯《ぺえ》やらなきゃならねえんだ。面倒な事を控えてるんでね。面倒な事って言えば、あのお医者はどうして己に海図をくれたんだろうな、ジム?」
 私の顔はありありと不審の色を浮べたので、彼はその上尋ねる必要のないのを見て取った。
「ああ、そうさ、でもくれたんだよ。」と彼は言った。「あれにゃきっと何か訳があるぜ、――あれにゃあ確かに何か訳がな、ジム、――いいにしろ悪いにしろ。」
 そして彼はまたそのブランディーを一口飲んで、最も悪い事を予期している人のように、大きな薄色の頭を振った。

第二十九章 再び黒丸

 海賊どもの会議はしばらく続いていたが、やがて一人の者が小屋へ入って来て、私の眼には何となく皮肉に見える、さっきと同じ例の敬礼をまたやってから、ちょっとの間|松明《たいまつ》を貸して貰いたいと頼んだ。シルヴァーは簡単に承諾した。するとその使者は再び出て行き、後には私たちが暗闇《くらやみ》の中に残された。
「そうら、そろそろ騒ぎが起って来るぜ、ジム。」とシルヴァーが言った。彼は、この時分には、すっかり親しい打解けた口調になっていた。
 私は一番近くの銃眼のところへ行って、外を見た。例の大きな焚火の余燼はもうほとんど燃え尽きて、今ではごく弱くぼんやりと光っているので、私にはあの密謀者たちが松明をほしがった訳がわかった。柵壁までの傾斜面を半分くらい下ったところで、彼等は一団になって集っていた。一人が松明を持っていた。もう一人が皆の真中に膝をついていたが、その手に持っている開いたナイフの刀身が、月光と松明の光とで違った色に輝くのが見えた。その他の者は身を前へ屈めて、膝をついている男のしていることを見ているようだった。その男が手にナイフと共に一冊の書物を持っているのを私はどうにか見分けることが出来た。そして、どうしてそんな不似合なものが彼等の手に入ったのだろうとまだ訝っていると、その時膝をついていた者がまた立ち上って、一同が小屋の方へ一緒に歩き出した。
「やって来るよ。」と私は言った。そして自分の元の場所へ戻った。彼等を見ていたのを見つけられては自分の沽券《こけん》にかかわるような気がしたからである。
「よしよし、奴らを来させろ、なあ、――奴らを来させろだ。」とシルヴァーは陽気に言った。
「己にゃまだ最後の手段があるからな。」
 戸が開いて、五人の男が、入ったばかりのところにごたごたとかたまって立ったが、その中の一人を前へ押し出した。その男が一足一足と踏み出す毎にためらいながら、それでも握った右の手を前へ差し出しながら、のろのろと進んで来るのを見るのは、他の場合だったらずいぶんとおかしかったろう。
「おい、こら、さっさとやって来い。」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。「取って喰おうたぁ言やしねえ。そいつを手渡ししろ、間抜め。己ぁ規則は知ってるよ、そうともさ。総代をやっつけるようなことはしねえや。」
 この言葉で勇気がついて、その海賊は前よりは速く進み出て、シルヴァーに手から手へ何かを渡すと、もっと一層敏捷に仲間たちのところへ再び戻って行った。
 料理番《コック》は渡されたものを眺めた。
「黒丸《くろまる》だな! そうだろと思ってた。」と彼は言った。「手前らはどっからこの紙を取って来たんだ? おやおや、こりゃどうだい! なあ、おい、これぁ縁起がよくねえぞ! 手前たちは監督からこれを切るなんて馬鹿な真似をしたんだな。どの馬鹿が聖書を切ったんだ?」
「ああ、そら見ろ!」とモーガンが言った。――「そうら見ろ。おいらの言わねえこっちゃあねえ。そんなことをしていいことになるはずがねえって、おいらが言ったんだ。」
「ふうむ、手前たちは仲間で相談してきめたんだな。」とシルヴァーが言い続けた。「じゃ手前らはみんなぶらんこ往生することになると思うな。どの阿呆の間抜めが聖書なんぞを持ってたんだ?」
「ディックだよ。」と一人が言った。
「ディックだと? じゃあディックはお祈りをするがいいや。」とシルヴァーが言った。「奴の好運もこれまでだ、ディックのな。そいつぁ間違えっこなしだぜ。」
 しかしこの時例の黄ろい眼をしたのっぽの男が口を出した。
「おしゃべりは止《や》めろ、ジョン・シルヴァー。ここにいる船員は、規則通りにみんなで会議を開いて、お前に黒丸をつきつけたんだ。お前も、規則通りに、そいつを裏返して、そこに書《け》えてあることを見てくんねえ。それからしゃべるがいいさ。」
「有難うよ、ジョージ。」と料理番が答えた。「お前はいつも仕事はてきぱきしてるし、規則は十分心得てるし、ジョージ、己ぁお前を見るなあ好きだよ。さてと、とにかく、こりゃ何だな? ははあ! 『免職』と、――なあるほど、そうだな? なかなかうまく書えてあるわい、確かにな。刷った物みてえだ、まったくさ。ジョージ、お前の手蹟《て》かい? まあ、お前はすっかりここにいる船員の中での頭《かしら》になってるんだな。お前は次にゃ船長《せんちょ》になれるぜ、きっとだよ。すまねえが、ちょいとその松明《たいまつ》をも一度取ってくんねえか? このパイプが消えたんだ。」
「さあ、おい、」とジョージが言った。「ここにいる船員を馬鹿にするのもいい加減にしねえ。お前はおどけてるつもりなんだろう。がお前はもう駄目だよ。その樽から下りて来て、投票するがよかろうて。」
「手前は規則を知ってるって言ったように思うがな。」とシルヴァーは軽蔑したように答えた。「ともかく、手前が知らねえにしろ、己は知ってるんだ。だから己はここにいる、――己はまだ手前たちの船長だぞ、いいか、――手前たちが自分の苦情を言って、己がそれに答えてやるまではだ。それまでの間は、手前らの黒丸は堅《かた》パン一つほどの値打もねえんだ。それがすんでから、考えるとしよう。」
「おお、」とジョージが答えた。「お前はちっとも心配《しんぺえ》するこたねえや。己たちゃ[#「己たちゃ」に傍点]間違ったこたぁしねえよ、己たちはな。第《でえ》一、お前は今度の仕事をやり損《そこ》ねた。――いくらお前がずうずうしい男だって、これにゃそうじゃねえとは言えめえ。第二に、お前は敵をこの罠から何にもならねえのに逃がしちまった。なぜ奴らは出て行きたがったか? そりゃ己ぁ知らねえ。だが奴らがそうしたがってたこたぁ確かだ。第三、お前は、己たちが奴らの出かけるとこをやっつけようとするのを、させなかった。おお、己たちぁお前の腹の底を見抜いてるんだよ、ジョン・シルヴァー。お前は奴らに内通したがってるんだ。それがお前の不都合なとこだ。それから、第四は、この小僧のことだ。」
「それだけか?」とシルヴァーが平然と答えた。
「これだけあれぁたくさんさ。」とジョージが言い返した。「お前のへまのために己たちぁみんなぶらんこになって天日《てんぴ》に曝《さら》されるだろうよ。」
「よし、じゃあ、いいか。その四箇条に返答してやろう。一つ一つ返答してやる。己が今度の仕事をやり損ねたと? ふむ、ところで、手前たちはみんな、己のやりたかったことを知ってるはずだ。それから、もしその通りになってたら、己たちぁ明日《あす》といわず今晩にもヒスパニオーラ号に乗り込んでて、一人残らず生きていて、元気で、うめえ乾葡萄入りのプディングをたらふく食べ、宝を船艙に一|杯《ぺえ》積み込んでた、ってことも知ってるはずだ、畜生! そんなら、だれがその己の邪魔をしたんだ? だれがこの正式の船長の己をせき立てて早まらせたんだ? だれが己たちの上陸した日に己にあの黒丸をつきつけて、この舞踏《ダンス》を始めたんだ? ああ、面白《おもしれ》え舞踏だよ、――違えねえや、――ロンドンの仕置波止場でぶら下げられて縄の先でやる踊りみてえさ、まったくな。だが、だれがこんなことをやったんだ? そうさ、それぁアンダスンと、それからハンズと、それから手前、ジョージ・メリーだぞ! そして手前はそのおせっかいな奴らの中で一人だけ生き残ってる奴なんだ。それだのに、生意気千万にも己に代って船長になろうとするなんて、――己たちみんなをこんな目に遭わせた手前がだ! こん畜生め! こんな大べらぼうな話って聞いたこたぁねえ。」
 シルヴァーはちょっと言葉を切ったが、私は、ジョージとその仲間の者たちの顔で、以上の言葉が無駄ではなかったのを見て取ることが出来た。
「それが第一条の答だ。」と被告のシルヴァーが呶鳴って、額から流れる汗を拭うた。小屋が震えるほど猛烈にしゃべっていたからである。「やれやれ、ほんとに、手前たちと話してると厭んなっちまうぜ。手前たちゃ物の弁《わきめ》えもなけりゃ物覚えも悪いと来てるんだからな。手前たちの母親《おふくろ》は何だって手前らを海へなんぞ出したのか己にゃあわからねえ。海だと! 分限紳士だと! 仕立屋が手前たちに相応の商売《しょうべえ》だろうよ(註七七)[#「(註七七)」は行右小書き]。」
「さあ、続けろ、ジョン。」とモーガンが言った。「残りのもさっさと言え。」
「ああ、残りのか!」とジョンが答えた。「ありゃあなかなか立派なものだな、そうじゃねえか? 手前たちは今度の仕事はやり損ねたと言う。ああ! もしどのくれえひどくやり損ねてるか手前たちにわかりゃあ、きっと、手前たちゃびっくりするぜ! 己たちゃもうすぐ絞首《しめくび》になりそうなとこなんだぞ。それを考えただけでも己は頸が硬《こわ》ばるくれえだ。多分、手前らも見たことがあるだろう、鎖で絞《し》め殺されて、鳥がその周りに集ってる奴らを。潮《しお》で流されてゆくのを船乗が指してるんだ。『あれぁだれだい?』って一人が言う。『あれかい! ああ、あれぁジョン・シルヴァーさ。己ぁ被奴《あいつ》をよく知ってたよ。』と別の奴が言う。それから上手※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しをして次の浮標《ブイ》の方へ船を走らせていると、その鎖ががちゃがちゃ鳴るのが聞える、って訳さ。まあ、それが己たちのゆきつくところだ、己たちみんなのな。これもこいつと、ハンズと、アンダスンと、その他《ほか》手前たちいまいましい馬鹿野郎どものお蔭なんだ。それから、第四条の、その小僧のことが聞きてえんならだ、畜生! 言ってくれるが、其奴《そいつ》は人質じゃねえか? 人質をなくしちまおうってえのか? いいや、いけねえ。其奴は己たちの最後の頼みになるんだ、きっとだ。その小僧を殺すって? 己ぁ厭だよ、兄弟! それから、第三条か? ああ、そうだ、第三条にゃ言うことがうんとある。大方、手前たちはほんとの大学出の医者が毎日|診《み》に来てくれるのを有難えとも思わねえんだろな?――ジョン、頭を打ち割られたお前も、――ジョージ・メリー、まだ六時間とたたねえ前に瘧《おこり》をやって、今の今だってレモンの皮みてえな色の眼をしているお前もさ。それから、大方、手前たちは伴船《ともぶね》のやって来るのも知らねえんだろ、多分な? だが、来るんだぞ。それもそんなに永えこっちゃねえ。で、そうなって来ると人質があって喜ぶのはだれだかわかるだろ。それからと、第二条の、己がなぜ取引をしたかってことならだ、――へん、手前らがそれをして貰えたくって己んとこへ膝をついて這《へ》えつくばってやって来たんだ、――膝をついてな、やって来たんじゃねえか。それっくれえ手前たちゃ萎《しを》れてたんだ。――それにまた、己がそれをしなかったら、手前らは飢死《うえじに》してたろうて。――だが、そんなこたぁどうだっていい! こいつを見ろ、――そうすりゃ訳がわからあ!」
 そう言って彼は床《ゆか》の上に一枚の紙を投げ出したが、私にはすぐにそれが何だかわかった。――まさしく、私があの船長の衣類箱の底で油布に包んであるのを見つけた、三つの赤い十字記号のついている、黄ろい紙の海図であった。なぜ先生がそれを彼にやったのかということは、私には想像出来ないことだった。
 しかしそのことが私には合点のゆかぬことだったとするなら、海図の現れたことは生き残っている謀叛人どもには信じられぬことだった。彼等は鼠に跳びかかる猫のようにそれに跳びかかった。海図は手から手へと渡され、一人が別の奴からひったくった。そして、それを調べながら罵ったり呶鳴《どな》ったり子供のように笑ったりしている有様は、彼等が黄金そのものをいじっているばかりではなく、さらにもう無事にそれを積んで海に出ているようだと、思われるくらいであった。
「そうだよ、」と一人が言った。「こりゃ確かにフリントだ。J・Fと書えて、下に線を引いて、それに索結びみてえなものも書えてある。あの人はいつもこう書えてたよ。」
「こりゃいいや。」とジョージが言った。「だが己たちゃ船がねえから、どうしてあれを持って行くんだい?」
 シルヴァーが突然跳び立って、片手を壁にあてて身を支え、「手前に断《ことわ》っておくぞ、ジョージ。」と呶鳴った。「もう一|言《こと》生意気な口を利こうものなら、己は手前をひっぱり出して勝負するんだぞ。どうしてだと? へん、そんなことを己が知ってるものか? 手前らこそそれを己に教えてくれなきゃならなかったんだ、――余計な差出口をして己のスクーナ一船をなくしちまった手前とその他の奴らとがだ、この馬鹿野郎どもめが! だが手前らは駄自さ。それが言えるもんか。手前らにゃ油虫ほどの智慧もねえんだ。だが、ジョージ・メリー、手前だって丁寧な口だけは利けるんだし、また己がそうさせてやるぞ、いいか。」
「そいつぁまず申分のないとこだ。」と老人のモーガンが言った。
「申分がないだと! 己もそう思う。」と料理番が言った。「手前らは船をなくした。己は宝をめっけた。これじゃあだれが偉《えれ》え人間だい? で、もう己は辞職するぜ、畜生! さあ、もう手前らの好きな奴を選挙して船長にしろ。己はやめちまったんだ。」
「シルヴァーだ!」と皆が叫んだ。「いつまでも|肉焼き台《バービキュー》だ! 肉焼き台が船長《せんちょ》だ!」
「じゃそうきまったんだな?」と料理番が叫んだ。「ジョージ、お前はどうやらもう一度待たなきゃならねえようだなあ、おい。己が怨み深《ぶけ》え人間でねえのがお前にゃ仕合せだ。だがそいつぁ己の流儀じゃなかったんだぞ。それから、兄弟、この黒丸はどうする? もう大《てえ》して役にも立つめえな? ディックが自分の運をそこねて自分の聖書を駄目にした。まあそれっくれえのところさ。」
「この聖書は接吻《キス》して宣誓するにゃまだ役に立っだろうね?」とディックはぶつぶつ言った。彼は自分で呪いを招いたのに明かに不安を感じているのだった。
「少し切り取ってある聖書がかい!」とシルヴァーが嘲笑するように答えた。「駄目さ。そんなものは小唄本ほどの利目もねえや。」
「だって、そうかね?」とディックは嬉しそうに叫んだ。「まあ、でもね、持っててもいいだろうと思うねえ。」
「そら、ジム、――お前にゃ珍しいものだよ。」とシルヴァーが言って、その紙を私にひょいと抛《ほう》ってくれた。
 それはクラウン貨幣(註七八)[#「(註七八)」は行右小書き]ほどの大きさの円い紙だった。一番終りの紙だったので、片側は白かった。もう一方の側にはヨハネ黙示録の一二節が見え、――その中でもこういう文句が私の心にぎくりとこたえた。「犬および殺人者は外に居るなり。(註七九)[#「(註七九)」は行右小書き]」その印刷している側は焼木の炭を塗って黒くしてあったが、その炭がもう剥げかかって私の指を少しよごしていたのだ。白い側には同じく炭で「免職」という一語が書いてあった。私はその珍品を現在もそばに持っている。が、今では文字はすっかり消えて、拇指の爪でつけたようなかすり痕が一つ残っているだけである。
 それがその夜の事件の結末であった。その後間もなく、酒がみんなにぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]されて、私たちは寝ることになった。そしてシルヴァーの復讐は、高々、ジョージ・メリーを歩哨に立たせて、もし誠実にやらないと殺してしまうぞと嚇したことだけだった。
 私は永い間眼を閉じることが出来なかった。確かに私には考えることがたくさんあったのである。その日の午後自分が殺した男のことや、自分の非常に危険な立場のことや、とりわけ、シルヴァーの今やって見せた素晴しい芸当――片手では謀叛人どもをくっつけておき、もう一方の手では、出来るものでも出来ないものでもありとあらゆる手段によって、和解をして自分のみじめな命を救おうと努める――のことなどについてである。そのシルヴァー自身は安らかに眠って、高い鼾《いびき》をかいていた。それでも、彼を取巻いている暗澹たる危難や、彼を待っている恥ずべき絞首台のことを考えると、彼が悪人ではあっても、私の胸は彼のために痛むのであった。

第三十章 宣誓解放

 森の縁から呼びかける、はっきりした、力強い声で、私は目を覚された。――実際、私たちみんなが目を覚されたのだ。歩哨でさえも、戸口の柱に凭《もた》れていたのを身を起して、睡気ざましに体をゆすっているのが見えたから。――
「おうい、丸太小屋あ!」とその声は叫んだ。「医者が来たぞ。」
 まさしくそれは医師であった。その声を聞くと私は嬉しかったが、それでもその嬉しさには夾雑物《まざりもの》がないではなかった。私は自分の不従順なこそこそした行為を思い出してどぎまぎした。そして、その行為のために自分がどんなことになったか――どんな連中の間にいてどんな危険に取巻かれているか――ということを思うと、面目なくて先生に顔が合されなかった。
 夜がまだすっかり明けきっていなかったから、先生は暗い中に起きて来たのに相違ない。私が銃眼のところへ駆け寄って外を見ると、先生は、この前一度シルヴァーが来た時のように、地を這っている靄《もや》に膝のところまでも包まれて立っているのが見えた。
「やあ、先生! お早うごぜえまあす!」とシルヴァーは、すぐにすっかり目を覚して好人物らしいにこにこ顔をしながら、叫んだ。「ずいぶんとお早《はえ》えんですねえ、まったく。諺にもあります通り、喰物《くいもの》にありつくのは早起きの鳥ですよ。(註八〇)[#「(註八〇)」は行右小書き]おい、ジョージ、お前、体をゆすぶり起して、リヴジー先生が柵をお越しになる手伝いをしてあげろ。みんな工合がようごぜえますよ、あんたの患者はね、――みんな工合がよくって元気でさあ。」
 ※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖を肱《ひじ》の下にあて、片手を丸太小屋の側壁につけて、丘の頂に立ちながら、彼はこうぺらぺらとしゃべり続けたが、――声も、態度も、顔付も、まったく以前のジョンであった。
「それに、あんたがまったくびっくりなさることがありますぜ。」と彼は言葉を続けた。「ここにゃちっちゃなお客がいますんで、――ひっ! ひっ! 新規の賄《まかない》附の下宿人って訳でさ。達者でぴんぴんしてますよ。このジョンのすぐ横で、船荷の宰領(註八一)[#「(註八一)」は行右小書き]みてえに寝ましたよ、――夜っぴて、枕を並べてね。」
 リヴジー先生はこの時分には柵壁を越えて料理番《コック》のかなり近くへ来ていた。それで先生がこう言う時の声の変っているのが私にはわかった。――
「ジムじゃないか?」
「まさに間違えなくそのジムで。」とシルヴァーが言った。
 先生は何も言わなかったが、ぴたりと止った。そして、また動き出すことが出来るようになったと思われるまでには、何秒かかかった。
「よし、よし、」とやがて彼は言った。「義務第一で、遊びその後だ。お前だってそう言うだろうな、シルヴァー。まずお前のところのあの患者たちを診察するとしよう。」
 それからすぐ医師は丸太小屋へ入って来て、私には怖い顔をして頷いて会釈し、病人の間で仕事にとりかかった。彼は、こういう不信義な悪魔どもの間では自分の生命が一本の髪の毛に懸っているようなものだということは知っていたには相違ないが、少しの懸念もしていないような様子をしていた。そして、まるで平静なイギリスの家庭を普通に往診してでもいるように、自分の患者たちにいろいろとしゃべっていた。彼の態度は皆に反応したのだろうと思う。というのは、彼等も医師に対して、何事も起らなかったかのように――彼がやはり船医であり、彼等がやはり忠実な平水夫であるかのように――振舞っていたから。
「お前は工合がよくなっているよ、なあ、おい。」と彼は頭に繃帯をした男に言った。「九死に一生を得た人間というのがいるなら、それはお前のことだ。お前の頭は鉄のように堅いに違いないな。それからと、ジョージ、どんな様子だ? ひどい顔色をしているな、確かに。ふうむ、お前の肝臓がな、でんぐり返っているんだぞ。お前はあの薬を飲んだか? 皆の者、この男はあの薬を飲んだかね?」
「はいはい、旦那、確かにこいつは飲みましたよ。」とモーガンが答えた。
「うむ、私もこのように謀叛人の医者になっている以上は、というよりも監獄医になっている以上はと言った方がいいんだがね、」とリヴジー先生は非常に快活な調子で言った。「とにかく、ジョージ陛下と(陛下万歳!)絞首台とのために一人の命でもなくしないようにするというのは面目にかけて大切なことだからな。」
 悪漢どもは互に顔を見合せたが、この手痛い言葉を黙って聞き流してしまった。
「ディックは気分がよくねえんですが。」と一人が言った。
「よくないって?」と医師が答えた。「じゃあ、ここへ来なさい、ディック、そして舌を見せて御覧。いや、これで気分がよかったら不思議だろうて! この男の舌を見てはフランス人だって恐しがるよ。こいつも熱病さ。」
「ああ、それ見ろ、」とモーガンが言った。「聖書を裂いたからそんなことになっただ。」
「あんまり頓馬だからそんなことになっただ、――お前の言う真似をするとね。」と医師は言い返した。「あんまり頓馬で、よい空気と毒気との区別も知らず、乾燥した土地と疫病のあるいやな泥沼との区別も知らんからだよ。まあ、大抵は、――もちろんこれはただ私の考えだが、――そのマラリヤ熱をお前たちの体から取ってしまうまでには、お前たちはみんな恐しい目に遭わなけりゃならんだろう。沼地に野営するなんて、どうしてそんなことをしたんだい? シルヴァー、お前には私も驚いたよ。お前は、何もかもひっくるめて見たところ、他の多くの者ほど馬鹿じゃないが、しかし、どうも健康の法則の観念と来ちゃ初歩も持っていないようだな。」
 医師は一人一人に薬を調合してやり、彼等はまったく笑止なほどへいこらしてその処方薬を飲んだが、その様子は人殺しをした謀叛人や海賊というよりは貧民学校の生徒のようだった。それがすむと医師が言った。――「さあ、今日《きょう》はこれでいい。ところで今度はあの子供とちょっと話をしたいんだがねえ。」
 そして彼は私の方へぞんざいに頭を振り動かした。
 ジョージ・メリーは戸口のところにいて、苦《にが》い味のする薬を飲んだ後でぺっぺっと唾を吐いていたが、医師のそう言い出した言葉を聞くなり真赤な顔をしてくるりと振り向き、「いけねえ!」と叫んで口ぎたなく罵った。
 するとシルヴァーが平手でぴしゃりと樽を叩いた。
「黙れ!」と彼は呶鳴《どな》って、ほんとうに獅子のようにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。「先生、」とそれから彼はいつもの調子で言葉を続けた。「わっしは、あんたがこの子を可愛《かえぇ》がっていなさることを知ってるんで、そのことを考えていたんでさあ。わっしらはみんなあんたの御親切をほんとに有難く思っていますし、御覧の通りにあんたを信用していて、薬を酒みてえに飲んでます。で、わっしはこうしたらみんなに都合がいいだろうと思うんですがねえ。ホーキンズ、君は若《わけ》え紳士として名誉にかけての約束って奴を俺《わし》にしてくれねえか、――生れは貧乏だが、お前は若え紳士だからな、――逃げ出さねえという、名誉にかけての約束をしてくれねえかい?」
 私はすぐにその誓約をした。
「では、先生、」とシルヴァーが言った。「あんたはあの柵の外側へちょいと出て下せえ。そうして下さりゃ、あっしはこの子をこっち側までつれてゆきましょう。そうすれぁ柵越しに話が出来るでしょう。じゃ、さようなら、先生。それから大地主さんとスモレット船長によろしく。」
 これまではただシルヴァーの凄い見幕だけで抑えつけられていた皆の不平は、医師が小屋を出てしまうとすぐに爆発した。シルヴァーは、敵味方に二股をかけているとか――自分だけで別に和解をしようとしているとか――仲間の者たちの利益を犠牲にするとか言って、要するに、彼の正にやっている通りのそのことを、手厳しく非難された。今度は、それが実に明白であるように私にも思われたので、彼がどうして彼等の怒りを逸《そら》せられるか私には想像がつかなかった。しかし、彼は残りの者どもを一緒にしたより二倍ものしたたか者であった。それに昨晩の勝利は彼等の心を圧倒していた。彼は彼等に馬鹿だの間抜だのとあらゆる悪たれ口をたたき、私を医師と話させることは必要なのだと言い、例の海図を彼等の面先《つらさき》に振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してみせ、宝探しに行くことになっているその日になって条約を破るなんてことが出来るかと尋ねた。
「いいや、そんなことが出来るもんか!」と彼が叫んだ。「条約を破るのはその時が来てのことだ。それまでは、奴《やっこ》さんの長靴にブランディーを塗って磨けと言われても、あの医者の奴をごまかしておくんだ。」
 それから彼は火を焚きつけろと彼等に言いつけて、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついて、片手を私の肩にかけながら、傲然と外へ出た。得心させられたというよりは彼の口達者な弁舌に黙らされて、方々にばらばらになっている連中を後に残して。
「ゆっくりと、おい、ゆっくりと。」と彼が言った。「己たちが急ぐと見ようものなら、奴らはすぐにかかって来るかも知れねえからな。」 それで、ごくゆっくりと私たちは砂地を進んで、医師が柵壁の向側で私たちを待っている処の方へ行った。そして、容易に話の出来る距離まで来るや否や、シルヴァーは立ち止った。
「このことも書き留めておいて下せえまし、先生。」と彼が言った。「それから、この子があんたに話しますでしょうが、わっしはこの子の命を救ってやりましたし、そのために免職させられもしました。それにゃ違えごぜえません。先生、人間がわっしのように危《あぶね》えことまでやった時にゃ、――言わば命をそっくり投げ出して向う見ずなことをやった時にゃ、――その人間に一|言《こと》くれえやさしい言葉をかけてやんなすっても、大方、さしつかえはねえとお考えでごぜえましょうな? 今はわっしの命だけじゃなくって――おまけにこの子の命にもかかわってるってことを、どうか覚えておいて頂きてえんで。で、先生、後生ですから、わっしに親切な言葉をかけて、ちっとでも望みが持てるようにしてやって下せえ。」
 シルヴァーは、一度ここへ出て来て仲間の者と丸太小屋とに背中を向けると、人間が変ってしまった。頬までがこけたように思われ、声が震えていた。これほど真面目《まじめ》な人間は一人もないくらいであった。
「うむ、ジョン、お前は怖がっているんじゃないかね?」とリヴジー先生が尋ねた。
「先生、わっしは臆病者じゃありません。そうですよ、わっしはね、――そんな[#「そんな」に傍点]に臆病者じゃありませんとも!」と言って彼は指をぱちっと鳴らした。「わっしが臆病者ならそんなことは言やしませんや。だが正直に白状しますが、わっしは絞首台のことを思うとぞくぞくするんでさ。あんたは立派な正直な人だ。あんたみてえな立派な人は見たことがねえ! で、あんたがわっしのした悪いこともお忘れにゃならねえだろうが、わっしがどんないいことをしたかってこともお忘れにならねえ、ってこともわっしは知ってますよ。そこでと、わっしはあっちへ行って――この通りにね――あんたとジムとを二人きりにしておきますぜ。で、このこともあっしの手柄として書きつけておいて下せえ。これだってずいぶんと無理をしてやってることですからね、そうですとも!」
 そう言いながら彼は少し後へ戻って、話し声の届かないところまで行き、そこで木の切株に腰を下して口笛を吹き始めた。そして、時々その座席の上でぐるりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、私と医師との方を見たり、部下の不従順な悪党どもの方を見たりした。その悪党どもは、焚火――それを彼等は頻りに再び焚きつけていた――と小屋との間の砂地を行ったり来たりして、小屋から豚肉とパンとを運び出して朝食の用意をしていたのである。
「そうか、ジム、君はここにいたんだね。」と先生は悲しそうに言った。「自業自得でどうも仕方がない、ねえ、君。まったくのところ、私には君を責める気はない。が、親切であっても不親切であっても、これだけは言っておきたい。スモレット船長が丈夫だった時には、君は跳び出そうとはしなかった。そしてあの人が悪くなって、どうにも出来ない時だったので、あれはどうもまったく卑怯なことだったのだよ!」
 私はこの時には泣き出したことを白状しよう。「先生、」と私は言った。「勘忍して下さい。僕は十分自分を責めました。僕の命はどうせないものです。そして、もしシルヴァーが僕を庇《かば》ってくれなかったら、僕は今時分は死んでいたでしょう。それで、先生、これを信じて下さい。僕は死ぬのはかまいません、――それが僕には当然なのでしょうから、――しかし僕の心配するのは拷問です。もしあいつらが僕を拷問するとなると――」
「ジム、」と先生が私の言葉を遮ったが、その声はすっかり変っていた。「ジム、私はそんなことをさせておけん。さあ、跳び越せ。逃げ出そう。」
「先生、僕は誓言したんです。」と私は言った。
「わかってるよ、わかってるよ。」と彼は叫んだ。「だが、ジム、今はそんなことは仕方がない非難も恥も、一切合財、私が引受けるよ、ねえ、君。だが君をここへ残しておくってことは私には出来ないんだ。さあ、跳べ! 一跳びで外へ出られる。二人で羚羊《かもしか》のように逃げ出そう。」
「いいえ。」と私は答えた。「あなたは御自分ならそんなことをなさらないということはよく御存じです。あなただって、大地主さんだって、船長さんだってそうです。僕だってそんなことはしません。シルヴァーは僕を信用したんです。僕は誓言したんですから、戻って行きます。けれども、先生、まだ僕にはお話することが残っていたんですよ。もしあいつらが僕を拷問するとなると、僕はひょっとして一|言《こと》くらい口を滑らしてあの船がどこにあるかということを言うかも知れません。といいますのは、僕は船を取戻したんです。一つには運がよかったのと、一つには冒険をやったのとで。あれは、北浦の、南の浜の、高潮線のすぐ下のところにおいてあります。半潮の時にはきっと高く水を離れているでしょう。」
「船をね!」と先生がびっくりして言った。
 私が大急ぎで自分の冒険のことを話すと、先生は無言のまま私の言うことをしまいまで聞いていた。
「どうもこれには宿命といったようなものがあるね。」と彼は私が話し終えると言った。「事毎に、私たちの命を救ってくれるのは君なのだ。それだのに、私たちが君に命をなくさせるようなことをすると君は思うかい? そんなことをしたら実にすまん訳だよ、君。君は奴らの陰謀を見つけた。君はベン・ガンを見つけた。――あれは君がこれまでにした中で一番よい行いで、また、君がこれから九十まで生きようとも、あれ以上によいことは出来ないだろう。おお、そうそう、ベン・ガンのことを言えばだね! あれぁ実にいたずら者だよ。おい、シルヴァー!」と先生は大きな声で叫んだ。「シルヴァー!――一|事《こと》お前に忠告するがね、」と彼は料理番が再び近づいて来ると言葉を続けた。「あの宝を探しにゆくのはあんまり急がん方がいいぜ。」
「そうですねえ、先生、わっしは出来るだけのことはしますが、どうもそりゃあむずかしいですね。」とシルヴァーが言った。「失礼ですが、わっしはあの宝を捜すことで自分の命とその子の命を繋いでるだけなんですから。それにゃあ違えありません。」
「じゃ、シルヴァー、」と医師は答えた。「もしそうなら、もう一歩進んで言っておこう。宝を見つけた時には用心をしろよ。」
「先生、」とシルヴァーが言った。「男と男の話としちゃ、そりゃあ何だか奥歯に物の挟まってるような言い方ですね。あんたがどうしようとしていなさるのか、どうして丸太小屋を出なさったのか、どうしてあの海図をわっしに下さったのか、わっしにゃわからねえ。わかるもんですかい? それでも、わっしは眼をつぶって、望みの持てる言葉一つも聞かされずに、あんたの言いつけ通りにして来たんですぜ! だが、いや、今のはひど過ぎる。もしあんたが思ってなさることをきっぱりわっしに言って下さらねえんなら、ちょいとそう言って下せえ。そうすりゃわっしだって成行にまかせますから。」
「いやね、」と医師は考えこみながら言った。「私にはそれ以上言う権利がないのだ。それは私の秘密じゃないんだからなあ、シルヴァー。でなけりゃ、きっと、お前に話してやるんだが。しかし私は自分の言えるだけのことをお前に言うとしよう。一歩だけ先へ出て言うのだ。でないと、船長に叱られるからねえ、きっと! 第一に、私はお前にちっとばかり望みを持たせてやろう。シルヴァー、もし私たちが二人ともこの狼の罠から生きて出られたら、私は、偽誓だけはしないが、自分の全力を尽して、お前を救ってやろう。」
 シルヴアーの顔は晴々とした。「先生、あんたがわっしの母親《おふくろ》でも、きっと、それ以上のことは言えますまいよ。」と彼が叫んだ。
「まあ、それが私の第一の譲歩だ。」と医師は言い足した。「第二のは一つの忠告だがな。その子を始終お前のすぐそばにおいて、もし助けの要《い》る時には、おういと大声で呼んでくれ。そしたら私はお前に加勢しに行ってやろう。私がでたらめを言っているかどうかは、それでお前にもわかるだろう。じゃ、さようなら、ジム。」
 そしてリヴジー先生は柵越しに私と握手し、シルヴァーに頷いて会釈して、足早に森の中へ入って行った。

第三十一章 宝探し――フリントの指針

「ジム、」とシルヴァーは私たち二人だけになると言った。「もし己がお前の命を救ったんなら、お前は己の命を救ってくれたんだ。それは忘れねえよ。先生がお前に逃げろって合図したのを己は見たんだ、――この眼尻でな、見たとも。それから、お前がいやですて言うのも見たぜ、聞くようにはっきりとね。ジム、これで己は君に一つ借りが出来たよ。あの攻撃がしくじってから此方己ぁ初めて望みが持てたんだ。それも君のお蔭さ。ところで、ジム、己たちはこれからあの宝探しに行かなくちゃならんのだがね、これも封緘命令で、行ってみるまではわからねえという奴でな、己ぁ気が進まねえんだ。で、お前と己とは、言わば互《たげえ》に持ちつ持たれつで、しっかりくっついていなきゃいけねえ。そしてどんなことがあろうと首が助かることにしようぜ。」
 ちょうどその時、一人の男が焚火のところから朝飯の支度が出来たぞと私たちを呼んだ。それで、私たちはやがて砂地のここかしこに坐って堅パンとフライにした塩漬肉とを食べ始めた。彼等は牛を一頭丸焼するに適当なくらいの火を焚いてあった。そしてそれが今非常にかっかと盛んに燃えているので、風上からようやくその火に近づけるだけで、その方からでも用心をしなければ近づけなかった。それと同じ浪費的な気持で、彼等は食べ切れる三倍もの肉を料理したようであった。そして一人の奴は、訳もなくげらげら笑いながら、残った分を焚火の中へ投げ込んだ。火は、こういう珍しい燃料を抛《ほう》り込まれて、ますます盛んにごうごう音を立てて燃えた。私は今までにあんなに明日《あす》のことを気にかけない人たちを見たことがない。その日暮しというのが彼等のやり方を説明し得る唯一の言葉である。そして、彼等は小競合にはすこぶる大胆ですぐにけりをつけてしまうけれども、食物を浪費したり歩哨が眠ったりするのでは、とても永びく戦争などには全然不適当だということが私にはわかった。
 シルヴァーでさえ、肩の上にフリント船長をとまらせて、盛んに食べながら、彼等の思慮のなさに対して一言の非難もしなかった。そして、彼がそれまでにこの時ほどの狡猾さを示したことは一度もないと私は思ったので、そのことは私を一層驚かせたのだ。
「そうさ、兄弟、」と彼は言った。「|肉焼き台《バービキュー》がいてこの頭でもってお前たちのために考えてやるてえのは、お前たちにゃ仕合せなことだぜ。己はほしかったものを手に入れたんだ、そうとも。なるほど、奴らは確かに船を持っている。どこに持ってるのか、己ぁまだ知らねえ。だが、己たちは宝を見つけせえすりゃ、方々跳び※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って探しあてるさ。そうなれぁ、兄弟、ボートを持っている己たちの方が勝ちだと思うな。」
 彼は、口一杯に熱い塩漬豚肉を頬張りながら、こんな風にしゃべり続けた。こうして彼は皆の希望と信頼とを回復した。同時に自分の希望と自信とをも取戻したのだろうと思う。
「この人質のことを言えばね、」と彼は話し続けた。「さっきのが、この子のひどく好きな連中との話しじまいだろうと思うよ。己はちょいといいことを聞いたが、それもこの子のお蔭だ。だがそれはもうすんでしまったことさ。宝探しに行く時にゃ己はこの子に綱をつけてつれて行くとしよう。なぜって、いいかい、何か事の起った場合の用心に、当分は、己たちはこの子を黄金みてえに大事《でえじ》にしておくんだからな。船も宝も両方とも手に入《へえ》って、仲間で陽気に海へ出るようになったら、その時にゃあな、己たちはホーキンズ君を説きつけて味方に誘うてよ、無論、いろいろ尽してくれたお礼に、分前もやるとしようよ。」
 皆がこの時上機嫌だったのは不思議ではなかった。私はと言うと、すっかりしょげていた。シルヴァーが今言った計画が実行出来るようになれば、すでに二重に裏切者である彼は、それを採用するに躊躇しないだろう。彼はまだどちらの陣営にも足をかけていた。それで、彼が、私たちの側へついて精々絞首を辛うじて免れるよりは、海賊どもと一緒に富と自由とを得る方を択ぶだろうということには、少しの疑いもなかった。
 いや、そればかりではなく、よし彼が余儀なくリヴジー先生との約束を守らねばならないようなことになったとしても、その場合でさえ私たちの前にはどんなに危険があったろう! 彼の手下の者たちの疑念が確実なものとなって、彼と私とが命がけで戦わなければならなくなった時には、――彼は不具《かたわ》で、私は子供、――相手は五人の倔強で敏捷な水夫たちだから、――どんなことになるだろう!
 こういう二重の懸念にかてて加えて、味方の人たちの振舞にもまだどうしても解けぬ謎があった。柵壁から出て行ったことも説明がつかないし、海図を譲ったことも合点がゆかぬし、さらに一層わからないのは、先生がシルヴァーに「宝を見つけた時には用心をしろよ。」と最後に警告したことだった。で、どんなに私が朝飯の味も碌々わからなかったか、どんなに不安な心を抱いて海賊どもの後について宝を捜しに出発したかということは、諸君にも容易にわかるだろう。
 だれか見る人がいたら、私たちはずいぶん珍妙な様子に見えたろう。みんなよごれた水夫服を着て、私を除く他はみんな十分に武装していた。シルヴァーは、腰に大きな彎刀《カトラス》を佩《お》び、四角い裾の上衣の一つ一つのポケットにピストルを一挺ずつ入れている他に、他に二挺の鉄砲を――一挺は前に一挺は後に――吊り下げていた。その上にも彼の奇妙な風体《ふうてい》を完全にするために、フリント船長が彼の肩に棲って意味もない船乗の言葉をいろいろでたらめにべちゃべちゃしゃべり散らしていた。私は腰に綱を巻かれて、船の料理番《コック》の後に従順について行った。彼はその綱の括りつけてない方の端を、時には空《あ》いている方の手で持ち、時には強い歯で啣《くわ》えていた。どう見ても、私はまるで踊り熊という恰好《かっこう》でひっぱられているのであった。
 他の人々はいろいろな荷物を背負っていた。或る者は鶴嘴《つるはし》やシャヴェル――それがヒスパニオーラ号から彼等が陸へ持って来た物の中で一番必要な物だったのだから――を持ち、また或る者は昼食の用意に豚肉やパンやブランディーを背負った。こういう食糧が皆もとは味方の貯臓物であったのを私は見て取った。それでシルヴァーが前晩言った言葉のほんとうであることがわかった。もし彼が医師と契約を取極めなかったならば、彼と謀叛人たちとは、船に逃げられたのだから、ただ清水を飲み、狩猟をしてその獲物を食べて、命を繋ぐより他はなかったに違いない。ところが、水はあまり彼等の口に合はないのだし、船乗というものは大抵射撃がうまくない。おまけに、食物がそんなに欠乏している時には、火薬がどっさりあるということはありそうにもなかったのだ。
 さて、このように支度して、私たち一同は――確かに日蔭にいなければならぬ例の頭を割った奴までも――出立し、一人一人とばらばらに浜の方へ行って、あの二艘の快艇《ギッグ》のある処へ来た。この快艇までが海賊どもの酔って馬鹿騒ぎをした痕を留めていて、一艘は腰掛梁《こしかけばり》が一つ壊れており、二艘とも泥だらけで淦《あか》もかい出してなかった。安全のために二艘とも持って行くことになった。そこで、人数を二つに分けて、碇泊所の水面に乗り出した。
 漕いでゆく間に、海図のことで多少議諭が起った。例の赤い十字記号は、無論、指標としては余りに甚しく大き過ぎたし、それに、裏面の備考の文句も、次に掲げるように、幾分曖昧なところがあった。それは、読者も思い出されるであろうが、こう書いてあったのである。――


北北東より一ポイント北に位して、遠眼鏡の肩、高い木。
骸骨島東南東微東。
十フィート。」

 だから、高い木が主《おも》な目標なのであった。今、私たちの真正面では、碇泊所は二百フィートから三百フィートまでの高さの高原で画られていて、その北は遠眼鏡《スパイグラース》山の傾斜した南の肩に接し、南の方へ向ってはまた隆起して、後檣《ミズンマスト》山と言われているごつごつした嶮岨《けんそ》な高地になっていた。この高原の頂には異った高さの松の樹がたくさん生えていた。ここかしこに、違った種数の松の樹が附近の樹々よりも正味四五十フィートも高く聳えているので、その中のどれがフリント船長のさした「高い木」であるかということは、その場所へ行って、羅針儀の示度で定めるより他はないのであった。
 しかし、そういう訳ではあったけれども、ボートに乗っている連中はだれも彼も、まだ半分も海を渡らない先から、もう自分の好きな木を択り出していた。のっぽのジョンだけは肩をすくめて(註八二)[#「(註八二)」は行右小書き]彼等にそこへ行くまで待っておれと言った。
 私たちは、シルヴァーの指図で、腕をあまり早く疲らせないようにと、ゆっくりと漕いだ。そしてずいぶん長い間舟に乗ってから、第二の川――遠眼鏡山の森の割目を流れ下っている川――の口に上陸した。そこから、左へ曲って、高原の方へ傾斜地を登り始めた。
 初めのうちは、ねとねとした泥深い地面と、こんがらかっている沼地の植物とのために、進むのがなかなか捗らなかった。けれども、だんだんと山は嶮《けわ》しくなりかけ、足の下も石がちになって来て、樹木もその性質が変り、もっと間が開けて生えているようになって来た。実際、私たちが今近づいているのは島でも非常に気持のよい処であった。香《かおり》の強い金雀花《えにしだ》や、花の咲いている多くの灌木が、ほとんど草に取って代っていた。緑色の肉豆蒄《にくずく》の木の茂みが、赤い幹をして広い影をつくっている松の樹と共に、ここかしこに散在していた。そして肉豆蒄の芳香は松の樹の香気とまじっていた。その上に、空気は澄んでいてすがすがしく、強い日光の中では、このことは素晴しく爽快に感じられた。
 一行は扇の形に広く拡がって、大声をあげたりあちこちに跳んだりして進んだ。その真中あたりに、他の者たちとは大分|後《おく》れて、シルヴァーと私とがついてゆき、――私は例の綱に繋がれ、彼は滑り易い砂礫の上をひどくはあはあ喘ぎながら登っていた。実際、時々私は彼に手を貸してやらねばならなかった。でなければ彼は足を踏み外して山を転《ころ》げ落ちたに違いない。
 こうして半マイルばかり進んで、高原の頂上に近づいていた時に、一番左の方にいた男が、おじけたように大声で喚き出した。続けざまに幾度も叫び声を立てたので、他の者もその男の方向へ走り出した。
「宝をめっけたはずぁねえよ。」とモーガン爺が、右の方から私たちのそばを急いで通り過ぎながら、言った。「あれぁずっとてっぺんにあるんだからな。」
 実際、私たちもその場所へ行ってみると、それはまったく違ったものだった。かなり大きな一本の松の樹の根もとに、緑の蔓草に絡まって、その蔓草は小さい骨を幾分か持ち上げてさえいたが、人間の骸骨が、衣服の屑片と共に、地面の上にあったのである。だれも彼もちょっとの間はぞっとしたと私は思う。
「こいつは船乗だったんだぜ。」とジョージ・メリーが言った。彼は、他の者よりは大胆だったので、骸骨のずっと近くへ行っていて、衣服の襤褸《ぼろ》を調べていたのだ。「ともかく、これぁ船乗の服だ。」
「そうともさ、そりゃ多分そうだろうとも。」とシルヴァーが言った。「こんな処《とこ》に僧正さまもめっかるめえからな。だが、この骸骨の寝方はどうだい? これぁ自然じゃあねえな。」
 実際、もう一度見直すと、その死体が自然の姿勢になっていると想像するのは不可能であるように思われた。多少乱れている(それは、多分、鳥がその死体を啄んだためになったのか、あるいはだんだんと遺骸を取巻いて来た蔓草が徐々に生い茂ったためになったのであろう)のを別にすれば、その男は完全にまっすぐに横っていて、――両足は一つの方向を指し、両手は、水へ跳び込む人の手のように頭の上へ伸ばして、ちょうどその反対の方向を指しているのであった。
「俺のぼけた馬鹿頭にも一つ考えついたことがあるよ。」とシルヴァーが言った。「ここに羅針儀がある。あすこに骸骨《スケリトン》島のてっぺんが歯みてえに突き出てる。ちょいと方位を取ってみてくれろ、その骸骨の向いている方のな。」
 それをやってみた。死体はまっすぐに島の方向を指していたし、羅針儀は正しく東南東微東を指示した。
「そうだろうと思ってた。」と料理番が叫んだ。「これぁ指針だよ。この線をまっすぐに行くと北極星と結構なお宝があるって寸法さ。だが、畜生! フリントのことを思うと身内《みうち》がぞくぞくするぞ。これも奴さん[#「奴さん」に傍点]の洒落に違えねえ。奴《やっこ》さんとあの六人の奴だけがここへ来て、奴さんが其奴らを一人残らず殺しちまった。それからこいつ一人だけをここへひっぱって来て、羅針儀に合せて寝かしたんだよ、あん畜生! こいつあ骨が長えし、髪の毛が黄ろいな。そうだ、これぁアラダイスだろう。お前はアラダイスを覚えてるだろ、トム・モーガン?」
「ああ、ああ、覚えてるよ。」とモーガンが答えた。「あいつぁおいらに借金があったんだよ、そうなんだ。それにここへ上陸する時にゃおいらのナイフを持って行きやがったぜ。」
「ナイフって言やあ、どうして奴のナイフがここらにころがっていねえんだろな?」と別の男が言った。「フリントは水夫のポケットから物を抜き取るような人間じゃなかったし、鳥だってあんなものは持って行くめえがなあ。」
「違えねえ、そりゃほんとだ!」とシルヴァーが叫んだ。
「ここにゃ何一つ残ってやしねえ。」とメリーがまだ骸骨の中を探りながら言った。「銅貨一枚なけりゃ煙草入れ一つもねえや。これぁどうも当《あた》り前《めえ》じゃねえと思うな。」
「うん、確かに、そうだ。」とシルヴァーが同意した。「当り前でもなけりゃ、有難くもねえ、ってところさ。いやどうも驚くねえ! 兄弟。だが、もしフリントが生きてたら、ここはお前たちにも己にもよくねえ処だったろうぜ。あいつらも六人だったが、己たちも六人だ。そしてあいつらは今骸骨になってるんだからな。」
「おいらはあの人の死んだのをこの眼で見たんだ。」とモーガンが言った。「ビリーの奴がおいらをつれて入《へえ》ったんさ。すると、あの人はもう死んでて眼の上に銅貨をのっけていたよ。」
「死んだとも、――そうさ、確かにあの人は死んじまったよ。」と繃帯をした奴が言った。「だが、もし幽霊ってものが出るとすりゃ、フリントの幽霊は出るだろうて。気の毒に、あの人はよくねえ死に方をしたからな、フリントは!」
「そうさ、その通りだったよ。」と別の者が言った。「あの人は怒ったり、ラムを持って来いって呶鳴《どな》ったり、また唄を歌ったりしていた。唄と言やあの人は『十五人』ばっかしだったなあ、兄弟。で、ほんとのとこを言や、己ぁあれからってものはあの唄を聞くなぁ好きじゃねえんだ。ありゃあえらく暑い時で、窓が開《あ》けっ放しになってたんで、あの唄がとってもはっきり聞えて来たよ。――でもその時にゃもうあの人には死の網がかかってたのさ。」
「おい、おい、」とシルヴァーが言った。「その話はもうよせよ。奴さんは死んじまったんだし、幽霊になって出て来もしねえよ。少くも昼のうちは出て来はしめえ。そいつは聞違えっこなしだ。心配《しんぺえ》は身の毒さ。さあ、ダブルーン金貨を探しに前進だ。」
 私たちは出発するにはした。が、太陽がかんかん照ってぎらぎらする昼間《ひるま》であったにも拘らず、海賊どもはもう分れ分れになって森の中を走ったり喚いたりせずに、互に並んで歩き、息をひそめて話した。あの死んだ海賊の恐しさが皆の心にしみこんでいたのだ。

第三十二章 宝探し――樹《こ》の間《ま》の声

 一つには今の騒ぎで気が滅入ったのと、また一つにはシルヴァーや病気の連中を休息させるために、一行の者全体は、高地の頂上に達するとすぐ、腰を下した。
 その高原は西の方へ幾らか傾斜していたので、私たちの休んだ場所からは、どちら側にも広い展望が見渡せた。前には、樹々の梢の上に、寄波《よせなみ》で縁取られている|森の岬《ケープ・オヴ・ザ・ウッズ》が見えた。背後には、碇泊所や骸骨《スケリトン》島が見下せたばかりではなく、東の方に――例の出洲《です》と東側の低地とをまったく越えて――渺茫たる外海までが見えた。私たちの真上には遠眼鏡《スパイグラース》山が聳え立って、一本松が点々と生えていたり、絶壁で黒くなっていたりした。聞える物音とては、島のぐるり中から響いて来る遠くの砕け波の音と、叢林の中で鳴く無数の虫の声だけであった。人影《ひとかげ》一つなく、海上には帆影《ほかげ》一つない。眺望の広大さまでがその寂蓼の感じを一|入《しお》増した。
 シルヴァーは、腰を下すと、彼の羅針儀で方位を取った。
「骸骨島から一直線のあたりには、『高い木』は三本ある。」と彼は言った。「『遠眼鏡の肩』ってのは、あそこの少し低くなった処《とこ》のことだろうと思うな。もう金《かね》をめっけるなあ造作のねえ事さ。先に腹を拵えてえような気もするな。」
「おいらは腹が空《す》いてやしねえ。」とモーガンが唸るように言った。「フリントのことを思ったんで空かねえんだろう――と思うんだ。」
「ああ、でも、お前、お前はあの男の死んでるのを有難えと思え。」とシルヴァーが言った。
「あの男は人相の悪い奴だったな。」と別の海賊が身震いしながら叫んだ。「おまけに、顔が青くってね。」
「あれゃあラムのためになったんだよ。」とメリーが言い足した。「青い! うむ、青かったねえ。それぁほんとの言葉だよ。」
 あの骸骨を見つけてこんなことばかりを考えるようになってからは、彼等はだんだんと低い声で口を利くようになり、今ではほとんど囁き声くらいになっていたので、彼等の話し声は森の静寂をほとんど破らなかった。と、突然、私たちの前面の樹立の真中から、力のない、高い、震え声で、節《ふし》も文句もよく知っているあの唄を歌い始めるのが聞えて来た。――


「死人箱《しびとのはこ》にゃあ十五人――
  よいこらさあ、それからラムが一罎《ひとびん》と!」

 この時の海賊どものようにひどくびっくりした人たちを私は一度も見たことがない。魔法をかけられたように六人の者は顔色を失ってしまった。跳び上る者もいたし、他の者にしがみつく者もいた。モーガンは地面にへたばった。
「ありゃフリントだ、違《ちげ》え――!」とメリーが叫んだ。
 その唄は始まった時のように突然止んだ。――だれかが歌い手の口に手をあてたかのように、歌の半ばで急に中絶した、とでもいう風であった。緑の梢の間から日光で輝いている澄んだ大気の中をずっと遠く流れて来たので、私にはその唄は軽やかに心地よく聞えた。だから他の連中がそんなに恐しがっているのは不思議であった。
「おい、」とシルヴァーは、灰色になった唇で言葉を出そうと努めながら、言った。「こいつぁいけねえ。出かける用意をしろ。これぁどうも変なこった。己にはあの声はだれだかわからねえ。だが、あれぁだれかが悪戯《わるさ》をしてるんだ、――だれか正体のある人間がだ、それにゃ違えねえ。」
 こう言っているうちに彼は勇気を取戻し、それと共に顔色も幾分ついて来た。すでに他の者たちも彼の励ます言葉に耳を藉しかけて、少し正気に返っていたが、その時、また同じ声が聞え出した。――今度は唄ではなくて、微かな遠くからの呼び声で、それが遠眼鏡山の谷間にもっと微かにこだました。
「ダービー・マグロー、」とその声は哀哭する――それがその声を最もよく言い現す言葉であった――ように言った。「ダービー・マグロー! ダービー・マグロー!」と幾度も幾度も繰返し、それから少し声を高めて、ここには書かない罵り言葉と共に、「ラムを船尾へ持って来おい、ダービー!」と言った。
 海賊どもは地面に根が生えたように立ち竦み、眼玉が顔から跳び出そうであった。その声が消えてしまって永くたっても、彼等はなおも無言のまま恐しそうに前を見つめていた。
「もう確かだぜ!」と一人が喘ぐように言った。「帰《けえ》ろうよ。」
「あれぁあの人の死ぬ時の言葉だった。」とモーガンが呻くように言った。「あの人がこの世で一番おしめえに言った言葉だ。」
 ディックは自分の聖書を取り出して、ぺらぺらと祈祷した。彼は、船乗になって悪い仲間に入る前には、よい育ちであったのだ。
 それでも、シルヴァーは参らなかった。歯をがちがち鳴らしているのが私には聞えたが、しかし彼はまだ降参していなかった。
「この島にゃダービーのことを聞いた奴はだれもいねえはずだ。ここにいる己たちの他《ほか》には一人だっていねえはずだが。」と彼は呟いた。それから、強いて元気を出して、「兄弟、」と叫んだ。「己はあの金を取りにここへ来たんだ。人間にだって悪魔にだって負けやしねえぞ。フリントが生きてる時だって己は奴がちっとも怖《こわ》かなかったんだ。死んでるあいつなんか怖《こえ》えもんか。ここから四分の一マイルとねえ処に七十万ポンドって金があるんだ。青っ面《つら》をした大酒飲みの老いぼれ海員《けえいん》の――それも死んでる奴が怖えってって、そういう大金《てえきん》に尻《けつ》を見せて逃げるなんて分限紳士が、どこの世界にあるけえ?」
 しかし彼の手下の者たちが元気を盛り返す様子は一向になかった。実際、むしろ、彼の言葉が死者に対して不遜なのにますます恐しがるようだった。
「止《や》めろよ、ジョン!」とメリーが言った。「幽霊に逆うなよ。」
 その他の者たちに至っては皆すっかり恐しがって返事をすることも出来なかった。彼等はそれだけの勇気があったならてんでに逃げ出したことであろう。だが恐怖のために彼等は互に寄り合い、ジョンの大胆さが自分たちを助けてくれるかのように、彼のすぐ近くにいた。彼の方は、自分の弱気をかなりに抑えつけていた。
「幽霊だと? うむ、そうかも知れねえ。」と彼は言った。「だが、己には腑に落ちねえことが一つある。山彦《やまびこ》がしたな。ところで、影のある幽霊なんてだれも見たことがねえ。とすればだ、幽霊に山彦なんかあってどうするものかね? そいつは変だろ、確かにな?」
 この論拠は私には甚《はなは》だ薄弱に思われた。しかし何が迷信家の心を動かすかわからぬもので、私の驚いたことには、ジョージ・メリーが大いに安堵した。
「うむ、そりゃそうだな。」と彼が言った。「お前は利口だよ、ジョン、確かに。さあ、引返《ひっけえ》すんだ、兄弟! 己たちゃやり口が間違ってると思うよ。考えてみると、なるほど、あれぁフリントの声みてえだったが、やっぱり、あの人の声そっくりじゃなかったぜ。あれぁだれか他の奴の声に似てたな、――あれぁあのう――」
「ベン・ガンさ、きっと!」とシルヴァーが呶鳴《どな》った。
「うん、そうだ。」とモーガンが、膝をついていたのを跳び立ちながら、叫んだ。「ありゃベン・ガンだよ!」
「それだってあんまり変りはねえだろ?」とディックが尋ねた。「ベン・ガンだってここに生きていねえことは、フリントと同じだ。」
 しかし年をとった方の海員たちはこの言葉を鼻であしらった。
「なあに、ベン・ガンなんかだれも気にかけやしねえ。」とメリーが叫んだ。「死んでいようが生きていようが、だれも気にかけやしねえや。」
 彼等の元気が恢復し、顔色も普通になって来た様は、驚くべきほどであった。間もなく彼等は一緒にしゃべり出し、時々話をやめて聞耳を立てた。それっきり何の声も聞えて来なかったので、やがて皆は道具を肩に担って再び出発した。メリーは、骸骨島から一直線に皆を歩かせるために、シルヴァーの羅針儀を持って先に歩いて行った。彼の言ったのはほんとうだった。死んでいようが生きていようが、ベン・ガンのことなどだれも気にかけはしなかった。
 ディックだけはまだ例の聖書を手に持って、歩きながら恐しそうにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]していた。しかしだれも彼に同情する者はなく、シルヴァーなどは彼の用心を冷かしさえした。
「己ぁ言ったろう、」とシルヴァーが言った。――「お前は聖書を駄目にしたんだって己ぁ言ったろう。誓言をするだけの役にも立たなくなったものを、幽霊が怖がるとでもお前は思ってるのか? これっぽちの値打もねえぜ!」と彼は、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖でちょっと身を支えながら、太い指をぱちっと鳴らした。
 しかしディックは気が楽になるはずもなかった。実際、その若者が病気に罹っているのが間もなく私にははっきりわかった。暑気と、疲労と、今の事の衝撃《ショック》とで早められて、リヴジー先生の預言した熱病が、明かにずんずんとひどくなっていたのだ。
 その頂上は、このあたりでは開けていて気持よく歩けた。前に言ったように高原は西の方へ傾斜しているので、私たちの進む途は少し下り坂になっていた。松の樹の大きいのや小さいのが広く離れて生えていたし」肉豆蒄や躑躅《つつじ》の叢の間でさえ、広く開けた空地が熱い日光に焼けていた。私たちは、島を突っ切ってほとんど北西に進んで行くと、一方では「遠眼鏡山の肩の下にますます近づき、また一方では、私が一度|革舟《コラクル》の中で揺られて震えていたことのあるあの西側の湾がますます広く見渡せた。
 そのうちに例の高い木の中の一番初めの木のところへ着いたので、方位を取ってみると、その木ではないとわかった。二番目の木もそうだった。三番目の木は一|叢《むら》の下生《したばえ》の上に二百フィート近くも高く空中に聳え立っていた。巨人のような植物で、赤い幹は小屋ほどの大きさがあり、その周囲の広い樹蔭《こかげ》では歩兵一箇中隊でも演習が出来たろう。これは島の東の海からも西の海からも遠くから目につくし、海図に航海目標として書き入れられていたかも知れないくらいのものだった。
 しかし今私の道連《みちづれ》の者どもの心を動かしたのは、その木の大きさではなかった。それは、その拡がった樹蔭の下のどこかに七十万ポンドの黄金が埋めてあるということであったのだ。彼等が近づくにつれ、金《かね》のことを思う心はさっきまでの恐怖を呑みこんでしまった。彼等の眼はぎらぎらと燃えた。足は次第に速く軽くなった。心は、彼等の一人一人を彼方で待っているあの幸運、一生涯中贅沢と快楽とをさせてくれるあの財宝に、すっかり夢中になっていた。
 シルヴァーは、ぶうぶう言いながら、※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついてぴょこぴょこ跳んで行った。彼の鼻孔は脹れて震えていた。その熱したてらてらした顔に蝿がとまると彼は狂人のように罵った。私に括りつけてある綱を荒々しくひっぱり、時々は恐しい顔付をして私の方を振り向いた。確かに彼は少しも自分の気持を隠そうとはしなかった。そして確かに私はその彼の気持を印刷物のように読み取った。こうして黄金のすぐ近くへ来ると、他のことはすべて忘れてしまっていたのだ。彼のした約束も医師から聞いた警告も二つとも過去の事だったのだ。そして、彼が宝を手に入れ、夜陰に乗じてヒスパニオーラ号を見つけ出して乗り込み、この島にいる正直な人々を一人残らず叩き殺して、初めにもくろんでいた通りに、罪悪と財宝とを積み込んで出帆してしまいたいと思っているのだということは、私には疑うことが出来なかった。
 こういう懼れで心が乱れていたので、宝探しの連中の速い歩調に後れずについて行くのは私には辛《つら》かった。折々私は躓《つまず》いた。シルヴァーが綱を荒々しくひっぱったり人殺しのような眼付で私を睨みつけたりしたのは、その時だったのだ。私たちより後れてしまって、今では殿《しんがり》となっているディックは、熱が上り続けているので、一人でべちゃくちゃと祈ったり罵ったりしていた。それもまた私のみじめさを増したが、その上、挙句の果に、私は、神をも敬わぬあの青い顔をした海賊が――唄を歌ったり酒を持って来いと喚いたりしながらサヴァナで死んだという男が――かつてこの高原で手ずから六人の同類を殺したという惨劇のことを思って、悩まされたのであった。今はこのように平和なこの森も、その時は悲鳴で鳴り響いたに違いない、と私は思った。そして、そう思っただけでさえ、その悲鳴がまだ鳴り響いているように思われてならなかった。
 私たちは今や茂みの縁に来た。
「ばんざあい、兄弟、みんな一緒に行くんだぜ!」とメリーが叫んだ。そして先頭にいる者が急に駆け出した。
 と、突然、十ヤードと先へ行かないうちに、彼等が立ち止ったのが私たちに見えた。低い叫び声が起った。シルヴァーは、魔に憑かれた者のように※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖の足で土をはね跳ばしながら、歩む速さを二倍にした。そして次の瞬間には彼と私もぴたりと停った。
 私たちの前には大きな掘った穴があった。側面が落ち込んでいて、底に草が萌え出ているところからみると、ごく昨今に掘ったものではなかった。この穴の中には、二つに折れた鶴嘴《つるはし》の柄《え》と、幾つもの荷箱の板が散らかっていた。その板の一つに、海象《ウォルラス》号という名――フリントの船の名――が、烙鉄で烙印を押してあるのを、私は見た。
 すべてが疑う余地のないほど明白であった。隠してあった物は見つけられて奪われてしまったのだ。七十万ポンドはなくなってしまったのだ!

第三十三章 首魁の没落

 この世の中にこれほどの顛倒は決してなかった。その六人の者は銘々まるでぶん殴られでもしたかのようだった。しかし、シルヴァーだけには、その打撃はほとんど直ちに過ぎ去った。それまでは彼は競馬馬のようにあの金のことばかりにひたすら心をはやらせていたのであった。ところが、それがたちまちにしてぴたりと止められたのである。そして彼は少しもあわてず、気を取直し、他の者たちがまだ失望を自覚するだけの余裕がないうちに自分の計画を立て変えてしまった。
「ジム、」と彼が囁いた。「これを持って、面倒の起った時の用意をしていてくれ。」
 そして彼は二つの銃身のあるピストルを一挺私に渡してくれた。
 同時に彼は北の方へ静かに動き出して、数歩行ってその穴を私たち二人と他の五人との間にあるようにした。それから私を見て、「なかなか危いことになったぞ。」と言うかのように頷いてみせたが、実際、私もそうだと思った。彼の顔付は今はすっかり親しそうになっていた。こんな風に絶えず変るのに私も反感を起して、「君はまた寝返りうったんだね。」と囁かずにはいられなかった。
 彼にはそれに答えるだけの余裕がなかった。海賊どもが、罵り喚きながら、相次いで穴の中へ跳び降り始め、板を脇へ投げ出しながら、指で掘り始めたのである。モーガンが金貨を一枚見つけた。彼は罵り言葉を続けざまに吐きながらそれを差し上げた。それは二ギニー金貨で、十五秒ほどの間彼等の手から手へと渡されていた。
「二ギニーだぜ!」とメリーが、それをシルヴァーに振ってみせながら、呶鳴《どな》った。「これがお前《めえ》の言う七十万ポンドけえ? お前は商売《しょうべえ》のうめえ人間じゃあなかったかね? お前は今までに何一つやり損ねたことのねえ男だと、この唐変木の間抜めが!」
「ずんずん掘って見ろよ、手前《てめえ》たち。」とシルヴァーは落着き払って横柄に言った。「豚胡桃《ぶたぐるみ》でも出て来るだろうぜ」きっとな。」
「豚胡桃だと!」とメリーは金切声で繰返した。「兄弟《きょうでえ》、あれを聞いたか? うん、確かにあの男は何もかもみんな知ってたんだぞ。奴の面《つら》を見ろ。ちゃんとあそこに書《け》えてあるぜ。」
「へん、メリー。」とシルヴァーが言った。「また船長《せんちょ》になるつもりか? 手前は押《おし》の強《つえ》え野郎だよ、まったく。」
 しかし今度はだれも皆全然メリーの味方をした。彼等は、恐しい眼付をして背後を振り向きながら、穴から這い上りかけた。ただ一つだけ私たちに都合のよさそうなことを私は認めた。彼等は皆シルヴァーと反対の側に上って行ったのである。
 こうして、私たちは、一方に二人、もう一方に五人、穴を間にして立ったが、だれ一人第一撃を始めるだけの勇気を出す者はなかった。シルヴァーは身動きもしなかった。※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついてまっすぐに立ったまま、彼等を見つめて、いつもの通りに自若としているように見えた。確かに、彼は勇敢な男であった。
 とうとう、メリーは口を利いた方がよいと思ったらしかった。
「兄弟、」と彼が言った。「奴らはあすこに二人っきりだぞ。一人は、己たちみんなをここまでつれて来て、己たちをこんなぶざまな目に遭わせやがった、老いぼれの不具《かたわ》だ。もう一人は、己が心の臓を抉《えぐ》り出してくれようと思ってる餓鬼だ。さあ、兄弟――」
 彼は声を張り上げ片腕を振り上げて、明かに突撃の指揮をするつもりだった。しかしちょうどその時、――ばあん! ばあん! ばあん!――と三発の小銃弾が茂みの中から飛んで来た。メリーは真逆さまに穴の中へ転がり落ちた。頭に繃帯をした男は独楽《こま》のようにくるくるっと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってから、横向にばったりと倒れて、その場で死んだが、まだぴくぴく動いていた。他の三人はくるりと向を変えて一所懸命に逃げ出した。
 瞬きする間もないうちに、のっぽのジョンは※[#「足へん+宛」、第3水準1-92-36]《もが》いているメリーにピストルの二つの銃身から発射した。そしてメリーが断末魔の苦悶をやりながら彼の方に眼をぐるりと向けると、彼は、「ジョージ、己がお前を往生させてやったのだね。」と言った。
 同時に、医師と、グレーと、ベン・ガンとが、肉豆蒄の木の間から、まだ煙の出ている銃を持って私たちのところへ跳んで来た。
「前へ!」と先生が叫んだ。「全速力だ、みんな。奴らとボートの間を断《た》たなきゃならん。」
 それで私たちは非常な速さで駆け出して、時には胸のところまである藪の中も突き抜けて走って行った。
 しかしシルヴァーだけは私たちに後れずについて来ようと一所懸命になっていたのだ。その男が胸の筋肉が張り裂けそうなくらいに※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖をついて跳びながらやりおおせた業《わざ》は、普通の健全な体の人間でもとても及ばぬ業であった。これは先生もそう言っておられる。そういう訳で、私たちが傾斜面の頂上に着いた時には、彼はすでに私たちより三十ヤードくらいの後にいて、今にも息も止りそうになっていた。
「先生、」と彼は呼びかけた。「あすこを御覧なさあい! 急ぐこたぁありませんぜ!」
 確かに、急ぐ必要はなかった。高原のもっと開けた処に、三人の生き残った者たちが、初めに駆け出したと同じ方向に、まっすぐに後檣《ミズンマスト》山の方へ、まだ走っているのが見えた。私たちはすでに彼等とボートとの間にいるのだ。それで、私たち四人は腰を下して息をついたが、その間に、のっぽのジョンが、顔の汗を拭いながら、ゆっくり私たちに追いついて来た。
「どうも有難うごぜえました、先生。」と彼が言った。「あんたは、わっしとホーキンズにとっちゃ、ちょうどいい時に来て下せえましたようで。で、やっぱりお前《めえ》なんだな、ベン・ガン!」と言い足した。「うん、お前は確かに面白《おもしれ》え奴だよ。」
「俺《わし》はベン・ガンだよ、そうさ。」と島に置去りにされた男は、もじもじして鰻のように体をくねらせながら、答えた。「で、」と彼は大分永く間をおいてから言い足した。「変りはねえかい、シルヴァーさん? まず達者だよ、有難う、ってとこだろう。」
「ベン、ベン、」とシルヴァーは呟いた。「お前に一|杯《ぺえ》喰わされようとはな!」
 医師は、謀叛人どもが逃げる時に棄てて行った鶴嘴《つるはし》を一挺取りに、グレーを戻らせた。それから、ボートのある処まで私たちがぶらぶらと山を下って行く間に、先生はそれまでに起った事を手短に物語ってくれた。その話はシルヴァーが心から興味を持ったものであった。そして薄馬鹿の置去り人《びと》のベン・ガンが始めから終りまでその主人公なのであった。
 ベンは、島中を永い間ただ一人でさまようている間に、例の骸骨を見つけた。――それの所持品を掠奪したのは彼であったのだ。彼は宝を見つけた。そしてそれを掘り上げた(あの穴の中に折れていたのは彼の鶴嘴の柄であった)。彼はその宝を背負って、高い松の樹の根もとから、島の北東隅の二つ峯の山にある洞穴まで、うんざりするほど何度も何度も往復して運び、ヒスパニオーラ号の到着する二箇月前から、宝はそこに安全にしまってあったのである。
 医師は、あの攻撃のあった日の午後に、この秘密をベン・ガンから聞き出すと、また、その翌朝、碇泊所に船のいなくなったのを見ると、シルヴァーのところへ出かけて行って、今ではもう無用のものになった例の海図を彼にやり、――ベン・ガンの洞穴にはガンが自分で塩漬にした山羊の肉が十分に貯えてあるので、シルヴァーに食糧もやり、――柵壁から二つ峯の山まで安全に移る機会を得るために何もかもやってしまった。その山の方にいれば、マラリヤに罹る恐れもないし、金の番をすることも出来たからである。
「君について言えばね、ジム、」と先生が言った。「私はそうしたくはなかったんだ。だが私は、義務を守っている人たちにとって一番いいと思ったことを、したのだよ。で、君がその人たちの中の一人でなかったとすれば、それはだれの咎《とが》だったろうかね?」
 その朝、海賊どもが先生のために怖しい失望をすることになっているので私がその捲添えを喰うに違いないということに気がつくと、先生は洞穴までずっと駆け通しで帰り、船長を護るのに大地主さんだけを残して、グレーと置去り人とをつれて出発し、あの松の樹のそばの近くにいられるようにと、島を対角線に突っ切って進んで行った。けれども、間もなく私たちの方の一行が先に進んでいることがわかったので、足の速いベン・ガンを前に走らせて、一人で彼の出来るだけのことをさせることにした。その時に、彼は昔の船友達の迷信を利用してやろうと思いついた。それが大いにうまく当ったので、グレーと医師もやって来て、宝探しの連中の到着しないうちにすでに待伏せしていることが出来たのである。
「ああ、」とシルヴァーが言った。「ホーキンズをつれて来たのはわっしにゃ仕合せでした。さもなけりゃ、あんたはジョン爺《じい》をずたずたに切らせて、何とも思いなさらなかったでしょうよ、先生。」
「何とも思わなかったろうて。」とリヴジー先生は機嫌よく答えた。
 そしてこの時分には私たちは快艇《ギッグ》のところへ着いていた。医師は鶴嘴《つるはし》でその中の一艘を打ち壊し、それから私たちみんなはもう一艘の方に乗り込んで、北浦をさして海路で※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行こうと出発した。
 それは八九マイルの航行であった。シルヴァーは、もうほとんど死にそうなくらいに疲れていたけれども、私たち他の者と同様にオールを取らされ、舟は間もなく穏かな海の上をずんずんと飛ぶように進んだ。間もなく私たちは海峡を通り抜けて、島の南東の角を狙った。そこは四日前にヒスパニオーラ号を曳綱で曳いて入った処である。
 二つ峯の山のそばを通り過ぎる時に、ベン・ガンの洞穴の黒い入口と、そのそばに銃に凭《もた》れて立っている人の姿とが見えた。それは大地主さんだった。私たちはハンケチを打ち振って万歳を三唱したが、シルヴァーの声もだれにも劣らないほど熱誠にそれに加わった。
 さらに三マイル進み、ちょうど北浦の口を入ったところで、私たちの出会ったのは他《ほか》ならぬ、ひとりで動いているヒスパニオーラ号だった。この前の満潮で浮き上ったのだ。そしてもし南の碇泊所のようにひどい風があったり強い潮流があったりしたならば、船はもう二度と見られないところへ流れて行ってしまったか、あるいはどこかへ坐礁してどうにも出来なくなってしまっていたろう。しかし実際は、大檣帆《メーンスル》が破損した以外には、悪くなったところはほとんどなかった。それで、別の錨をつけて、それを一尋半の水の中へ落した。私たち一同は、ベン・ガンの宝蔵《たからぐら》に一番近い地点であるラム入江へと、再び漕いで※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った。それからグレーが一人だけで快艇を漕いでヒスパエオーラ号へ戻り、そこで番をしてその夜を過すことにした。
 浜から洞穴の入口までは緩い傾斜をなして上っていた。その頂上で、大地主さんが私たちを出迎えた。私には彼は懇ろに親切にしてくれて、私の脱走したことについては、叱るにも褒めるにも一|言《こと》も言わなかった。シルヴァーが丁寧なお辞儀をすると、少しむっと赤い顔をした。
「ジョン・シルヴァー、」と彼は言った。「お前は非常な悪党で詐欺師だ、――実に驚くべき詐欺師だよ。私はお前を告訴するなと言われている。だから、しないつもりだ。しかし死んだ人たちが磨石《ひきうす》のようにお前の頸《くび》にぶら下っているのだぞ(註八三)[#「(註八三)」は行右小書き]。」
「どうも有難うごぜえます、はい。」とのっぽのジョンは、またお辞儀をしながら、答えた。
「私に有難うなんてよくも言えたもんだ!」と大地主さんが叫んだ。「私としては自分の義務を非常に怠ることになるんだ。退《の》いていろ。」
 それから私たちみんなは洞穴へ入った。そこは広い風通しのよい場所で小さな泉と清水の水溜りがあり、その上には羊歯《しだ》が蔽いかかっていた。床《ゆか》は砂地であった。大きな焚火の前に、スモレット船長が寝ていた。そして、遠くの方の隅には、大きな山のような貨幣と、四辺形に積み上げられた黄金の棒とが、焚火の焔にただぼんやりとちらちら光っているのが見えた。それが、私たちが手に入れようとして遥々やって来た、そしてまたヒスパニオーラ号からすでに十七人の生命を失わさせた、フリントの宝なのであった。それを集めるために、どれだけ多くの血が流され悲しみが味われたか、どれだけの立派な船が海原《うなばら》で船底に孔をあけて沈められたか、どれだけの勇敢な人々が眼隠しされて船側の板を歩かせられて海に落ちたか、どれだけの大砲の弾丸が撃たれたか、どれだけの恥辱と虚偽と残虐とが行われたか、恐らく、生きている人間でそれを語り得る者は一人もなかったろう。だが、それらの罪悪にそれぞれ与《あずか》り、またそれぞれその報酬に与《あずか》ろうと望んでその甲斐《かい》のなかった人間が、その島にまだ三人いるのであった。――シルヴァーと、年寄のモーガンと、ベン・ガンとだ。
「来給え、ジム。」と船長が言った。「君は君の縄張ではいい子供だよ、ジム。だが君と私とがもう一度一緒に航海に出ようとは私は思わんな。君は生れつきあまり人気者なので私には手に負えんよ。そこにいるのはお前だな、ジョン・シルヴァー? おい、何しにここへ来たのだ?」
「わっしの義務をやりに戻って来ましたんで、はい。」とシルヴァーが答えた。
「ふむ!」と船長が言った。そしてそれっきり何も言わなかった。
 その夜私が味方の人たちに囲まれて食べた晩餐の何と楽しかったことか。また、ベン・ガンの塩漬の山羊の肉や、ヒスパニオーラ号から持って来た幾つかの珍味や一罎《ひとびん》の年|経《へ》た葡萄酒で、その食事の何とおいしかったことか。確かに、それ以上に楽しげな幸福な人々はまたとなかったに違いない。そして、そこにはシルヴァーもいて、ほとんど焚火の光の届かない後の方に坐っていたが、しかしうまそうに食べ、何でも用のある時にはすぐに前へ跳んで来るし、私たちの笑う時にはおとなしく声を立ててそれに加わりさえした。――まったく、航海に出かけて来た時と同じあの柔和な、慇懃な、従順な船員であった。

第三十四章 それから結末

 その翌朝、私たちは早くから働き始めた。この恐しくたくさんの黄金を浜まで陸路で一マイル近く運搬し、そこからボートでヒスパニオーラ号まで三マイル運搬するのは、そのような小人数の働き手にはずいぶんの仕事であったからである。まだ島をうろついている三人の奴は、大して私たちに面倒をかけなかった。山の肩のところに歩哨を一人だけ立たせておけばいかに不意に襲って来ても十分大丈夫だったし、その上、彼等は戦闘にはもう十二分に懲々《こりごり》していると私たちは思ったのだ。
 だから作業はどしどし進められた。グレーとベン・ガンとはボートで往復し、彼等の行っている間にその他の者は浜に宝を積み上げた。綱の端にぶら下げた二本の金の棒は、大人一人に十分な荷で、――それを持ってのろのろと歩けるくらいのものだった。私は、運ぶのには大して役に立たないので、一日中洞穴の中にいて、せっせと金貨をパン嚢の中に詰め込んでいた。
 それは実に珍しい蒐集物《コレクション》だった。いろいろな貨幣のある点ではビリー・ボーンズの箱の中にあった金《かね》と同じであったが、それよりはずっとたくさんでもありずっと種々雑多でもあったので、私にはそれを種類分けするのがこの上もなく面白かった。イギリスや、フランスや、スペインや、ポルトガルなどの貨幣があり、ジョージ金貨や、ルイ金貨もあれば、ダブルーン金貨、ダブル・ギニー金貨、モイドー金貨、セクィン金貨(註八四)[#「(註八四)」は行右小書き]もあり、過去百年間のヨーロッパのあらゆる国王の宵像を刻した貨幣があるかと思うと、糸の束か蜘蛛の巣のように見えるものを押刻した珍奇な東洋の貨幣もあり、丸い貨幣に四角い貨幣、それから頸にかけでもするかのように真中に孔を穿った貨幣まであって、――世界中のほとんどあらゆる種類の金《かね》がこの蒐集物の中にあったに違いないと思う。数はと言えば、確かに秋の木《こ》の葉のようにあったので、私の背中は屈んでいるために痛くなり、指はそれを択り分けるのでずきずきしたくらいであった。
 次の日もまた次の日もこの作業が続いた。毎日夕方になると一財産が船に積み込まれるのだが、しかし次の一財産が翌朝を待っているのだった。そして、この間中、私たちはあの三人の生き残っている謀叛人の消息を少しも聞かなかった。
 とうとう、――三日目の晩だったと思うが、――先生と私とが、島の低地を見下せる山の肩のところをぶらぶら歩いていると、その時、下の真暗な闇の中から、叫んでいるようでもあり歌っているようでもある声が風に運ばれて来た。私たちの耳に届いたのはほんの少しで、その後はすぐ元の静寂に返った。
「可哀そうにな。あれぁ謀叛人どもだよ!」と先生が言った。
「みんな酔っ払ってるんで。」とシルヴァーの声が私たちの背後からした。
 シルヴァーは全然自由を許されていたと言ってもよく、また、毎日剣もほろろの扱いを受けていたにも拘らず、自分ではもう一度すっかり特権を与えられた親しい従者になったつもりでいるようだった。実際、彼がそういう馬鹿にされた待遇を実によく忍んで、絶えず飽くまでも慇懃にみんなに取入ろうと努めていたことは、非常なものであった。それでも、だれも彼を犬以上にはあしらわなかったと思う。そうでないのは、ベン・ガンか、私くらいのもので、ベン・ガンは昔の按針手《クォータマスター》をやはりひどく恐れていたのだし、私は事実彼に感謝すべきことがあったのだ。もっとも、実際、私には他のだれよりも彼を悪く思ってもいい理由もあったように思う。というのは、彼があの高原で新たな裏切りを企《たく》らんでいるのを見ていたからであるが。そういう次第で、医師が彼に答えたのはかなり素気なかった。
「酔っ払っているか譫語《うわごと》を言っているかだ。」と先生が言った。
「仰しゃる通りでごぜえますよ。」とシルヴァーが答えた。「そして、どっちだってちっとも構やしません、あんたにもわっしにも。」
「お前は自分を慈悲深い人間だと言ってくれとは言うまいな。」と先生は冷笑しながら答えた。
「で、私の気持を聞いたらお前は驚くかも知れんよ、シルヴァー君。だがもし彼等が確かに譫語を言っているものとわかればだ、――あの中の少くとも一人が熱病に罹っていることはまず確かなんだからな、――私はこの野営地から出て行って、自分の体にはどんな危険を冒そうとも、自分の医術の助けをあの連中に藉《か》してやらねばならん。」
「失礼ですが、あんた、そりゃあいけませんよ。」とシルヴァーは言った。「あんたの御大切《ごてえせつ》な命がなくなりますからね。違えありませんぜ。あっしは今じゃすっかりあんたの側についてるんでさ。だから味方の人を減らせたかぁありません。あんたはもちろんのことです。あんたにゃ御恩を受けていますからね。だがあそこの下にいる奴らと来ちゃあ、約束を守れるような奴じゃごぜえません、――そうですとも、守りてえと思ったって守れねえ奴らでさあ。おまけに、あんたが約束を守れるってことも、奴らにゃ信じられねえんですから。」
「うん、そうだろう。」と先生が言った。「お前は約束を守れる人間だよ。それは私たちも知ってるさ。」
 さて、それがその三人の海賊について私たちの得たほとんど最後の消息であった。ただ一度だけ私たちはずっと遠くで一発の銃声を聞き、彼等が猟をしているのだろうと推測した。会議が開かれて、彼等を島に棄てて行かねばならぬということにきまった。――これにはべン・ガンが非常に喜んだし、グレーが大いに賛成したということは、言っておかねばならない。私たちは、かなり多くの火薬と弾丸と、塩漬の山羊の肉の大部分と、数種の薬と、他の幾つかの必要品と、道具類と、衣類と、一枚の余分の帆と、一二尋の綱と、それから医師の特別の希望で煙草の立派な贈物とを、残しておいてやった。
 それがほとんどその島での私たちの最後の行為であった。それ以前に、私たちは宝を船に積み込んでしまい、何かの難儀のあった場合の用意にと十分の水と山羊の肉の残りとを運び入れておいたのだ。そしてついに、或る朝、私たちは、自分たちに思うままに出来るのはほとんどそれだけだったが、錨を揚げ、かつて船長が防柵で掲げてその下で戦ったあの国旗を翻しながら、北浦を出帆した。
 間もなく私たちにわかったことだが、例の三人の奴は私たちの思ったよりも近くで私たちを見ていたに違いない。というのは、瀬戸を抜け出る時には、船は南の岬のごく近くを進まなければならなかったが、その岬の砂の出洲に彼等が三人とも一緒に跪いて、哀願するように両腕を挙げているのが見えたからである。彼等をそんなみじめな有様に残してゆくのは、私たちみんなに憐みの心を起させたと私は思う。けれども私たちはまた暴動の起るような危険を冒すことは出来なかったし、それに彼等を国へつれて帰って絞首台に送るのは親切が却って仇になるようなものであったろう。医師は彼等に声をかけて、食糧品を残しておいてやったことと、それがどこにあるかということとを知らせてやった。しかし、彼等はやはり私たちの名を呼び続けて、後生ですからお慈悲にこんな処に残して行って死なせないで下さいと哀訴していた。
 とうとう、船がなおもその針路を続けて、今では声の届かないところへずんずん進んでいるのを見ると、その中の一人――どの男だったかわからない――が嗄《しゃが》れた叫び声をあげながら跳び立って、銃を肩にあてたかと思うと、一発ぶっ放した。その弾丸はシルヴァーの頭上を越え大檣帆《メーンスル》を貫いてぴゅうっと飛んで行った。
 その後は、私たちは舷檣の蔭に隠れていたが、その次に私が顔を出して見た時には彼等はもう出洲から姿を消してしまっていて、その出洲さえも次第に遠ざかってほとんど見えなくなっていた。それが、とにかく、そのことの終りだった。そして正午前には、私の何とも言えぬほど嬉しかったことには、宝島の一番高い岩までが青い水平線の下に没してしまった。
 私たちは人員がひどく足りなかったので、船中の者はだれも彼も働かなければならなかった。――ただ船長だけは船尾に敷いた敷蒲団《マットレス》に横って命令を下していた。よほど恢復してはいたけれども、まだ安静を要したからである。私たちはスペイン領アメリカ(註八五)[#「(註八五)」は行右小書き]にある一番近い港に船首を向けた。それは新手《あらて》の水夫がなしに帰航するという危険を冒すことは出来なかったからだ。ところが今はまだそれがなかったものだから、方向不定の風が吹いたり疾強風が二度も吹いて来たりして、そこへ着かないうちに私たちは皆へとへとに疲れてしまった。
 ちょうど日没の頃に、船は陸地に囲まれた実に美しい湾内に投錨した。するとすぐに、海岸から黒人やメキシコ・インド人や混血人《あいのこ》などの一杯に乗っている小舟が周囲に漕ぎ寄せて来て、果物や野菜を売りつけたり、海の中へ小銭を投げて貰って潜って取らせてほしいと言ったりした。そんなにたくさんのにこにこした愛嬌のある顔(ことに黒人)や、熱帯の果物の香味や、とりわけ、町にともれ始めた灯影は、あの島に滞在していた間の陰惨な血腥い、いろいろな事と対照して、まったく恍惚とさせるほどであった。先生と大地主さんとは、私をつれて、宵の口を陸で過そうと上陸した。ところが、そこで二人はイギリス軍艦の艦長に逢って、その人と話しこみ、その人の軍艦へ一緒に行き、短く言えば、非常に愉快で時の移るのも忘れてしまったので、私たちがヒスパニオーラ号の舷側《ふなばた》に帰って来た時には夜がもう明けかかっていたのであった。
 ベン・ガンがただ一人で甲板にいたが、私たちが船に上るや否や、馬鹿に体を捩りながら、私たちに白状をし始めた。シルヴァーが逃げたのだ。数時間前に彼が岸からやって来た小舟に乗って逃げ出すのを、その置去り人は見て見ぬ振りをしていたのであった。そして今、彼は、そうしたのはただ私たちの命《いのち》を救いたかったためで、もし「あの一本脚の男が船に残ってた」なら、私たちの命はきっとなくなったろう、と断言した。しかし、それだけではなかった。料理番《コック》は空手《からて》では行かなかった。彼はだれも気づかない間に隔壁を切り抜いて、多分三四百ギニーくらい入っている貨幣の嚢を一つ、これから先の放浪の用意にと、持って行ったのである。
 それくらいの廉い金で彼を厄介払いしたことを皆は喜んだと私は思う。
 さて、かいつまんで話せば、私たちはその港で数人の船員を雇い入れて、無事に帰航を続け、ヒスパニオーラ号がブリストルに到着したのは、ちょうどブランドリーさんが伴船の準備をしようと考えかけていた時であった。出帆した時に乗っていた人々で船と一緒に戻って来たのは五人だけだった。まさしく、「残りの奴は酒と悪魔が片附けた」のだ。もっとも、確かに、私たちは、あの悔賊どもの歌った――


「七十五人で船出をしたが、
 生き残ったはただ一人《ひとり》。

というその船ほどのひどい目には遭わなかった訳であるが。
 私たちは皆、その宝をたっぷり分けて貰って、銘々の性質に従って、利口にか愚かにか使った。スモレット船長は今では海上生活を止《や》めている。グレーは自分の貰った金を貯蓄したばかりではなく、急に立身したいという望みを起して、自分の本職を勉強した。そして今では立派な全帆装船の副船長でその共同所有者の一人になっている。それに結婚もして、子供もある。ベン・ガンはと言うと、彼は千ポンド貰ったのであるが、それを三週間で使い果すか無くするかしてしまった。いや、もっと正確に言えば、十九日間でだ。なぜなら、二十日目にはまた金を貰いにやって来たのだから。それから、彼は、まさしく島で懸念していた通りに、門番にして貰った。今でもやはり生きていて、多少馬鹿にされてはいるが、村の子供たちに非常に好かれていて、日曜日や聖徒祭日には教会での名うての唱歌者になってある。
 シルヴァーのことは、私たちはあれから消息を聞いたことがない。あの恐しい一本脚の船乗はとうとう私の生涯からすっかり消え失せてしまった。しかし、恐らく彼は黒人の細君にめぐり逢って、多分まだその細君やフリント船長と一緒に安楽に暮していることだろう。そうであってほしいものと思う。というのは、あの世では彼の安楽になれる見込はごく少いのだから。
 銀の棒と武器(註八六)[#「(註八六)」は行右小書き]とは、私にはよくわからぬけれども、多分、フリントの埋めた処にまだあるのだろう。そして確かにそこにあろうがどうだろうが私の構ったことではない。牛と荷馬車の綱とでひっぱられようとも、私はあの呪われた島へはもう二度と行かないつもりだ。そして今でも私のみる一番の悪夢は、あの島の岸にどどうっと打ち寄せている波の音を聞く時か、または、「八銀貨! 八銀貨!」というフリント船長の鋭い声が耳の中に鳴り響いて、寝床の中でがばと跳び起きる時なのである。
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〔買うのを躊躇する人に〕

一 キングストンや、…………クーパー。――「キングストン」はウィリヤム・ヘンリー・ジャイルズ・キングストン(一八一四―一八八○)。「勇者バランタイン」はロバート・マイケル・バランタイン(一八二五―一八九四)。共にイギリスの少年文学の作者である。「森と波とのクーパー」はアメリカの小説家ジェームズ・フェニモー・クーパー(一七八九―一八五一)をさす。未開拓時代のアメリカ大陸を描いた五部作、及び海洋文学をもって有名であり、それらの作品は少年の読物としても喜ばれている。二行後の「それらの人や彼等の創造物」とは、これらの作家やその作中人物のことである。前節の「置去り人」については、本文の第十五章に説明されている。
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〔第一篇 老海賊〕
二 「ベンボー提督屋」。 ――ジョン・ベンボー(一六五三―一七〇二)という十七世紀末のイギリスの有名な提督の名を屋号にし、その肖像を看板にしている宿屋である。なお、この宿屋は居酒屋も兼ねているのである。
三 船員衣類箱。 ――船員が航海中に衣類その他の所持品を入れる木製の箱。船の水夫部屋の舷側にぴったり嵌るように、普通は、側が少し傾斜して、底よりも蓋の方が小さくなっている。
四 弁髪が…………。 ――往時の水夫は短い弁髪を下げていた。
五 「死人箱にゃあ…………」。――西インドの海賊のことを歌った唄の最初の二行である。第二行は畳句《リフレーン》になっている。「死人箱」というのは西インド諸島中の一つの小島の名。海賊船がその死人箱島に乗り上げた時に助かったのは僅か十五人の海賊とラム酒が少しとだけであったという。それからこの畳句が出ているのであって、畳句の方は唄の本筋には無関係なのである。第一行を水夫長が歌うと、第二行の畳句を水夫たちが合唱して、「よいこらさあ」の「さあ」に当るところで、力を合せて、錨を捲き揚げる絞盤の梃《てこ》を[#「梃《てこ》を」は底本では「挺を」]ぐいと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、次にまた水夫長が歌い、合唱がそれに続くのである。
六 駅逓馬車。――宿駅と宿駅との間を定期に往復する乗合馬車。鉄道が出来る前の主要な交通機関であった。
七 ブリストル。――ブリストルはこの物語の時代にはイギリスでの第二の大きな海港であった。
八 板歩かせ。――舷から海へ突き出した板を眼隠しして歩かせ、海中へ陥って溺死させることで、十七八世紀頃に海賊が彼等の捕虜を殺すために用いた方法である。
九 ドゥライ・トーテューガズ。――メキシコ湾のフロリダ半島の南方の海上にある一群の珊瑚礁。
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一○ スペイン海。――住時、南アメリカの北岸のカリブ海に面した地方一帯の海を漠然と指した名称。スペイン本国と当時のスペイン領アメリカとの航路に当り、昔盛んに海賊が出没した。
一一 両手を揉み絞る。――苦しみ、悲しみ、悶えの時などの身振り。
一二 髪粉。――この頃の紳士は仮髪《かつら》をつけていたので、その仮髪にふりかける粉のこと。
一三 彎刀。――この頃の船乗のよく持っていた、重い、彎曲した刀。
一四 ぶらんこ。――「ぶらこん往生」、すなわち絞殺、絞刑のこと。
一五 刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]針を取って…………。――昔の医術に、刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]と言って、血管を刺して血を出す療法があったのである。
一六 黒犬なんぞは…………。――英語の「黒犬《ブラック・ドッグ》」という語は「不機嫌」という意味でもあり、「黒犬を背負う」は「不機嫌である」、「機嫌が悪い」ということを意味する。その意味を使った洒落である。
一七 聖書に書いてある…………。――新約全書使徒行伝第一章第二十五節に「すでに、ユダは此つとめを離れて其住くべき処に往きたり。」とある。「聖書に書いてあるあの男」はこのイスカリオテのユダをさし、「往くべき処」は地獄のことである。
一八 サヴァナ。――北アメリカの大西洋岸にある港。今の合衆国のジョージア州にある。
一九 ダブルーン金貨や、…………。――「ダブルーン金貨」は往時のスペインの金貨。「ルイドール金貨」はルイ十三世時代に初めて鋳造されて大革命まで通用していたフランスの金貨。「ギニー金貨」は十七世紀後葉から十九世紀初葉まで流通していたイギリスの金貨。「八銀貨」は表に8R(八レーアルの意味)の字を記《しる》してあるスペインの古銀貨である。この物語は冒頭に書いてあるように一七――年代のことであるから、当時はこれらの貨幣が流通していたのであるが、ギニー金貸以外は外国の貨幣であるから、勘定が出来ないのである。
二○ ジョージ金貨。――当時流通していた聖ジョージの像を刻したイギリスの貨幣。
二一 嗅塩。――婦人などに用うる鼻で嗅がせる気附薬。
二二 黒髯。――本名エドワード・ティーチ。スペイン海を荒し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]った残忍不敵な有名な海賊。
二三 トゥリニダッド。――西インド諸島中の最南の島。スペイン海にある。
二四 スペイン港。――トゥリニダッド島の首都。
二五 パーム礁島。――北アメリカのフロリダ半島の西海岸にある島。タムパ港を湾内に有するタムパ湾の入口にある。
二六 カラカス。――南アメリカのヴュネズエラの首府。
二七 とっくの昔に珊瑚に…………。――人間が海に沈んで死ぬと骨が珊瑚になると昔は考えられていたからである。
二八 島の地図。――巻頭の地図参照。なお、第三篇以後においては物語の進行に従い必要に応じてこの地図を屡々参照のこと。
二九 一ポイント。――羅針盤の周囲の三十二分の一。すなわち直角の八分の一の角度。
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〔第二篇 船の料理番〕
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三○ スクーナー船。――縦帆式帆装の帆船。時には四檣または五檣のものもあるが、普通二檣あるいは三檣である。帆が縦帆式であることは特に第五篇のために記憶されること。
三一 ホーク。――イギリスの有名な提督エドワード・ホーク(一七〇五―一七八一)のこと。一七四七年と一七五九年とにフランスの艦隊と戦って破ったことがある。
三二 水夫らが揚錨絞盤の周りを…………歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]る。――すなわち、絞盤を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して錨を捲き揚げ、出帆すること。
三三 悪しき者虐遇を息める処。――冥土のこと。旧約全書ヨブ記第三章第十七節に「彼処《かしこ》にては悪しき者虐遇を息め、倦み憊れたる者|安息《やすみ》を得。」とある。
三四 ※[#「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66]杖。――跛者などが腋の下にあてて歩くに用うる丁字形の杖。撞木杖。
三五 三孔滑車。――船で静索や支索を張ったりその他の目的に用いる締索を通す三箇の孔のあいている滑車。円くて、孔が三つついているので、顔を罵って三孔滑車かと言ったのであろう。因に、これらの船乗たちはその会話に頻りに海語を用いている。
三六 船底潜らせ。――長い索でたぐって一舷から他舷へ、または船首から船尾へ、船底の水を潜り越させる刑罰のこと。往時イギリスやオランダの海軍で一種の懲罰として重罪人に科したものである。
三七 中央刑事裁判所。――ロンドンの往時の有名な裁判所。
三八 ボー街。――一七四九年に建てられたロンドンの有名な警察裁判所のある街の名。
三九 一クォート。――一ガロンの四分の一。わが六合余。
四○ 封緘命令。――或る時期まで、または船艦などが或る地点に達するまでは、開封すべからざる命令。その時期またはその場所に到って初めて開封して任務を知るのである。
四一 円材。――船では檣、桁、防材などをいう。
四二 肉焼き台。――大きな肉をのせて焙る鉄製の枠のこと。料理室で使うものであるから、それを料理番のジョン・シルヴァーの綽名にしたのである。
四三 イングランド船長。――実在した有名な海賊、ネッド・イングランドのこと。
四四 マダガスカルにも…………。――マダガスカル島は往時インド洋の海賊が根拠地とした島。マラバーはインド南西の海岸、スリナムはオランダ領ギアナのこと、プロヴィデンスはカリブ海にある島、ポートベローはパナマ地峡の北岸にあった港、いずれも昔海賊に荒された土地であった。
四五 ゴア。――インドの西海岸にあるポルトガルの植民地。
四六 頤を突き出す。――怒った時の態度。
四七 コーリー要塞。――アフリカの黄金海岸にあったイギリスの要塞。
四八 ロバーツ。――海賊バーソロミュー・ロバーツのこと。最後に軍艦と戦闘して死んだ。
四九 デーヴィス。――海賊ハウエル・デーヴィスのこと。大胆無類の海賊だったが、部下の一人に殺された。前のロバーツはこの男の後継指揮者であった。
五○ 何百ファージングの代りに何百ポンドと…………。――一ファージングは四分の一ペニーという小額であり、一ポンドは二十シリング、一シリングは十二ペンスであるから、ポンドはファージングの約一千倍近くに当るのである。
五一 「分限紳士」というのは…………。――海賊は、掏摸やこそ泥や普通の強盗などを軽蔑して、自分たちを戯れに「分限紳士」と称していたのである。
五二 仕置波止場。――テムズ河のロンドンの披止場にあった、海賊どもが鎖で絞殺されて日に曝された仕置場。
五三 キッド船長。――有名な海賊ウィリヤム・キッド。彼は後にボストンで捕えられてイギリスへ送られ、一七〇一年にロンドンの仕置波止場で絞殺された。
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〔第三篇 私の海岸の冒険〕
五四 高潮線。――海浜に残る高潮すなわち満潮の跡。
五五 投銭戯。――小銭を投げて穴の中へ入ったものな取る子供のやる賭戯。
五六 闘い、殺害、不意の死。――イギリス教会公定祈祷書の中にある文句である。

〔第四篇 柵壁〕
五七 三点鐘。――船では、定刻を報ずるに、零時半に時鐘を一点打ち、二時に二点打ち、以下半時間毎に一点ずつ加えて打ち、八点に至ると、当直の交代時間となり、また一点に返るのである。故に、四時、八時、十二時が八点鐘の時刻であり、一時半は三点鐘である。
五八 「リリバリアロー」。――一六八六年頃に作られたアイルランドの旧教徒を諷刺嘲笑した政治的歌謡。「リアロー、リアロー、リリ・バリアロー」云々という畳句《リフレーン》があるのである。一六八八年の革命の勃発に与《あずか》って力があったと言われ、革命の間及びその後にイングランド中で非常に流行し、軍隊や人民に盛んに歌われた。
五九 カムバランド公爵。――ジョージ二世の第三子、イギリスの将軍であるウィリヤム・オーガスタス(一七二一――一七六五)。
六○ フォンテノイ。――あるいはフォントノア。ベルギーの村。ここで、一七四五年五月十一日、カムバランド公の率いたイギリス、オランダ、オーストリアの聯合軍五万が、フランス軍七万と戦って敗れた。両軍の死傷はすこぶる多大であったと伝へられている。
六一 詰開き。――航海用語で、帆船が出来るだけ風上に向って帆を揚げ、風の来る方に近く帆走し上ること。ここでは船長がその語を比喩的に用いたのである。
六二 海賊旗。――黒地に白く頭蓋骨と二つの交叉した大腿骨とを染め抜いた海賊の旗。
六三 半潮。――満潮と干潮との中間。
六四 パルマ・チーズ。――パルマはイタリー北部にある州で、その地方で製するチーズは古くから有名であった。
六五 「いざ、乙女よ、若人よ。」――イギリスの昔の歌謡。
六六 口笛を吹いて風を呼ぶ。――凪《なぎ》の時には口笛を吹けば風が吹き出すという船乗の迷信があったのである。

〔第五篇 私の海の冒険〕
六七 両櫂。――訳語がないので仮にこう訳しておく。両端に水掻の扁平部がある櫂で、舟の左右両側で交々水を掻くのである。
六八 革舟。――木の骨組に獣皮を張って造った原始的な小舟。今日でもウェールズ、アイルランド、フランスなどの河川湖水で漁夫が用いる。ごく軽くて背負って遊ぶことが出来るのである。
六九 淦。――舟底のたまり水。
七○ 南の方へ。――これは原作者の誤りであろう。「北の方へ」でなければならない。
七一 一ジル。――一クォートの八分の一。わが約八勺。一合近くの量。
七二 間切る。――帆船が風上に向って進む時の言葉で両舷を代る代る風にあてて風上に向って電光形の航路で進行することをいう。この時は南風だから、北の岬を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ってそこから北浦まで南の方へ帆走するには、間切らなければならないのである。
七三 北東の角。――この「北東」の語は妥当ではない。「北西」の誤りであるかも知れない。でなければ「北の岬の北東の角」の意味であろう。
七四 ようそろ。――船の向が現在のままでよしという意味を舵手に伝へる命令の言葉。
七五 横静索。――檣を左右側方に支持するために檣頭から両舷へ張ってある静索。

〔第六篇 シルヴァー船長〕
七六 折半直。――船では甲板当直は四時間交代であるが、午後四時から八時までは折半されて二時間交代に行われる。その間を折半直という。朝には折半直はないのだから、この語は原作者の誤りであろう。
七七 仕立屋が手前たちに相応の商売。――イギリスでは「仕立屋は九人で男一人前」という諺もあって、仕立屋が男らしからぬ商売として軽蔑されていたのである。
七八 クラウン貨幣。――王冠を刻した貨幣。銀貨で五シリングの価格であるから、相当大きなものである。直径一寸三分くらいもあった。
七九 「犬および殺人者は外に居るなり」。――聖書の最後の頁にあるヨハネ黙示録第二十二章第十五節の中にある句。
八○ 諺にもあります通り、食物にありつくのは…………。――「早起きの鳥は虫を捕える」という諺があるのである。わが国の「早起き三文の得」の意味の諺。
八一 船荷の宰領。――商船の航海中船荷の上に乗り添うて守り送る人。上乗《うわのり》とも言う。
八二 肩をすくめる。――軽蔑、冷淡、不快などの身振り。
八三 死んだ人たちが磨石のように…………。――新約全書マタイ伝第十八章第六節の中に「磨石をその頸に懸けられて海の深みに沈められん方‥‥」云々とある句から言ったのである。
八四 ダブル・ギニー金貨、…………。――「ダブル・ギニー金貨」は四十二シリングに当るイギリスの昔の金貨。「モイドー金貨はポルトガルの往時の金貨。「セクィン金貨」は昔のヴェニス共和国の金貨。
八五 スペイン領アメリカ。――往時、中央アメリカ及び南アメリカには、現在の諸国の独立する以前に、広大なスペイン領があった。現今でもそれらの地方ではスペイン語が行われている。
八六 銀の棒と武器と。――第六章「船長の書類」の中にある地図の裏の文句参照。
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底本:「宝島」岩波文庫、岩波書店
   1935(昭和10)年10月30日初版第1刷発行
   1956(昭和31)年6月30日第17刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「亦→また、既に→すでに、於いて→おいて、於ける→おける、甚だ→はなはだ、以て→もって、殆ど→ほとんど、度々→たびたび、漸く→ようやく、極く→ごく、傍→そば、暫く→しばらく、直ぐ→すぐ、真直→まっすぐ、何故→なぜ、殊に→ことに、更に→さらに、尤も→もっとも、勿論→もちろん、益々→ますます、猶→なお、早速→さっそく、遂に→ついに、此処彼処→ここかしこ、彼処→あすこ、尚→なお、所謂→いわゆる、忽ち→たちまち、何処→どこ、彼奴→あいつ、何時→いつ、苟も→いやしくも、悉く→ことごとく、如何→いか、尚更→なおさら、筈→はず、誰→だれ、頗る→すこぶる、即ち→すなわち、咄嗟→とっさ、全く→まったく、著→着、ハンヅ→ハンズ、乃至→ないし、謂わば→いわば、彼方此方→あちこち、此奴→こいつ、駈→駆、差支え→さしつかえ」
※「燈」と「灯」の使い分けは、底本通りです。
※一部、ルビを補いました。
※入力に際しては、「宝島」新潮文庫(佐々木直次郎・稲沢秀夫訳)を参考にしました。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2009年8月12日作成
2012年2月23日修正
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佐々木直次郎

宝島—–序–佐々木直次郎

「宝島」はロバート・ルーイス・スティーヴンスン(一八五○―一八九四)の最初の長篇小説であり、彼の出世作であるが、また彼の全作中でも最も高名な名作であることは周知の通りである。紀行文、随筆《エッセー》、短篇小説などにおける彼の数年間の文筆生活の後に、一八八一年の九月、スコットランドのブレーマーでの療養中に書き始められた。作者自身の記すところによれば、彼が或る日彼の妻の連子である少年ロイド・オズバンのために空想で描いて与えた一枚の島の地図がその起源であったという。この地図にスティーヴンスンは想像力を刺激され、島を宝島と名づけて、それによってこの海賊と宝との物語を組立て、その少年を唯一人の聴き手として書き始めたのであるが、燈台技師であった作者の父トマス・スティーヴンスンもまたやがてその聴き手に加わった。かくしてこの小説はすでに最初から少年のみならず成人あるいは老人をも読者に有したと言い得るかも知れない。トマスは熱心な聴き手となって、作中のビリー・ボーンズの衣類箱が探される時にはその中にある種々の品物を挙げ、またフリントの船の名を「海象《ウオルラス》号」とつけたのも彼であった。こうして初めの十五章が書き上げられたが、当時は作の表題は「船の料理番《コック》」であった。それによっても察せられるように、本篇における最も重要な人物はヒスパニオーラ号の料理番として現れるジョン・シルヴァーなのである。スティーヴンスンは毎夕食後家族のためにこの物語を読み続けていたが、偶々アレグザーンダー・ジャップという人が訪れてその仲間に入り、この話にはなはだ興味を感じて、帰る時に最初の数章の原稿を持ち去り、それを友人である少年新聞「ヤング・フォークス紙」の編輯者ジェームズ・ヘンダスンに送った。間もなくこの作は同紙上に連載され始めた。題名を「宝島」と改めたのはヘンダスンである。しかし、第十五章の次で作者は恐らく行詰りを感じたのであろう、一度執筆を放棄したが、その冬を越すためにスウィスの保養地ダーヴォスに赴いてから、再びこの作のペンを執り上げ、物語の書き手を主人公ジム・ホーキンズから一時的に医師リヴジーに移して書き継ぎ、逐に最後の章まで完成させた。「ヤング・フォークス紙」には一八八一年の十月上旬から翌年の一月下旬までにわたって掲載され、その発表当時には批評家の注目をも惹かず、世評にも上らなかったが、一八八三年十二月に単行本として出版されるに至って、世人に歓喜をもって迎えられ、啻《ただ》に少年のみならず、政治家、法律家などに至るまでも耽読されたと言われ、スティーヴンスンの名声を初めて高めたのであった。それ以来今日まで引続いて広く読まれていると共に、また文学史上においても確乎たる古典的地位を贏《か》ち得ているのである。
「宝島」は洵《まこと》に少年文学であると同時に成人をも十分に愉しませ得る小説であり、大衆文学であると同時に文学に対して最も優れた理解力と鑑賞力とを有する人々にも愛読され得る作品である。この作が凡百の軽文学を遥かに抜いているのは、全篇の構成から措辞の末に至るまでに滲透している作者の芸術的感覚と手腕とによってであろう。スティーヴンスンがイギリス文学中有数の文章家《スタイリスト》であることは已に人の知るところであるが、本篇における彼の小説的技術もまた極めて高度のものであることは認めざるを得ない。ただ、第十六章から三章だけの書き手が異っていることは全体としては幾分の技術的欠陥とも言い得られぬではない。しかし、それらの章もそれ自身としては完全な効果を収めており、また通読に際して不自然ないしは不調和の感をほとんど与えない。この作にあってはスティーヴンスンの作家的短所は影を潜め、長所は遺憾なく発揮されている。事件、情景等の叙述、描写の比類少き巧みさは、恐らくすべての読者の直ちに気づくところであろう。全篇にわたって、脳裡に残る傑れた場面はかなり多くを挙げることが出来る。あるいは、全三十四章が印象的な場面のほとんど連続である。しかも、少年ジム・ホーキンズ、その母、老海賊ビリー・ボーンズ、医師リヴジー、海賊|黒犬《ブラック・ドッグ》、盲人ピュー、大地主トゥリローニー、船長スモレット、島の男ベン・ガン、舵手イズレール・ハンズ、船員ディック・ジョンソン、その他作中諸人物は各それぞれの明確さと自然さとをもって描かれているが、特に評家の最も讃歎するのは、隻脚の海賊ジョン・シルヴァーの性格創造である。この快活、饒舌、柔和、慇懃、陰険、横柄、勇敢、残忍、聡慧、雄弁、剛胆、狡猾――端倪すべからざる人物は、実に溌剌として紙上に躍っているのが見られるであろう。

   一九三五年十月

 佐々木直次郎

底本:「宝島」岩波文庫、岩波書店
   1935(昭和10)年10月30日初版第1刷発行
   1956(昭和31)年6月30日第17刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「亦→また、既に→すでに、甚だ→はなはだ、以て→もって、乃至→ないし、殆ど→ほとんど」
※底本で「灯」と使い分けられているは「燈」は、新字には改めませんでした。
※一部、ルビを補いました。
※入力に際しては、「宝島」新潮文庫(佐々木直次郎・稲沢秀夫訳)を参考にしました。
入力:kompass
校正:伊藤時也
2009年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

二都物語 上巻 チャールズ・ディッケンズ——-佐々木直次郎訳

     序

「二都物語」はチャールズ・ディッケンズ(一八一二―一八七〇)の一八五九年の作である。すなわちこの巨匠が数え年四十八歳の時の作である。作者は一八三六年に諧謔小説「ピックウィク倶楽部」によって一躍ウォールター・スコット以後のイギリス随一の流行作家となり、以来「オリヴァー・トゥウィスト」、「ニコラス・ニックルビー」、「骨董店」、「バーナビー・ラッジ」、「マーティン・チャッズルウィット」、「ドムビー父子」、「デーヴィッド・コッパフィールド」、「物淋しい家」、「小さなドリット」等の諸大作その他の作品を発表して、既に、当時全ヨーロッパにおける最も高名な小説家の一人であり、その名声のみならず文学的手腕においても彼の高潮に達していたのであった。「二都物語」の作者自身の緒言に記されているように、彼がこの作の主要な観念を思い付いたのは彼の年少の友人ウィルキー・コリンズの劇を演じていた時であって、それは一八五七年の夏のことであった。しかし、その思付きはただごく漠然たるものであり、当時は家庭的不和のためにはなはだしく心を苦しめられていて、ただちにそれの具体化に著手することが出来なかったが、やがて、フランス革命を背景としてその観念を中心に一の物語を創作することとし、慎重綿密にその考案、準備、構想を進めたらしい。翌五八年の一月末には、彼の親友であり後に彼の伝記作者となったジョン・フォースターに宛てた書簡の中で、「いつかは」というその物語の標題を報じており、更に同年三月には「生埋《いきう》め」、「黄金《こがね》の糸」、「ボーヴェーの医師」という標題を挙げている。また、書かれた正確な年月は不明であるが、一八五五年から書き始めた彼の覚書帳《メモランダム》の中には、この作について、「二つの時期――フランスの劇のように間に時の推移のある――にわたる物語については如何? そういう思付きのための標題。時! 森の木の葉。散らばった木の葉。偉大な車輪。※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って。古い木の葉。ずっと以前に。遠く離れて。落葉。二十五年。何年も何年も。過ぎ去る歳月。毎日毎日。伐り倒された樹。記憶のカートン。やくざ者。二つの世代。」とあり、他に、この作の主要人物である獅子の豺《やまいぬ》としてのカートンと、同じく作中人物のクランチャー夫妻とについての萠芽的な思付きが記されている。しかし、五八年の五月にはディッケンズは妻のキャサリンと遂に合意の別居をすることとなり、また同年から彼の自作朗読会を始めたので、その年もその制作に没頭することが出来ず、翌五九年の三月に至ってようやく「二都物語」と現在の標題が決定され、「ハウスホールド・ワーヅ誌」に代って創刊された同じく彼自身の主宰する週刊雑誌「オール・ジ・イア・ラウンド誌」上に、その第一号すなわち四月三十日号から同年の十一月二十六日号までにわたって連載されたのである。かつ、同年六月から十二月までにわたってチャップマン・アンド・ホール社から作者の他の諸長篇と同様に月刊分冊で逐次出版され、ただちに巨万の読者に迎えられた。これは八分冊に分れ、各分冊に「ピックウィク倶楽部」の挿画以来フィズの名で知られたハブロット・ブラウンの挿画が二葉ずつ入り、第六分冊までは定価各一シリング、最後の第七第八分冊は合本二シリングであって、その最後の分冊に標題紙《タイトルページ》や目次などと共に緒言が附せられた。制作の前及びその間に作者が異常な苦心を重ね努力を払い時日を費したことは彼の手記や書簡などによって窺い知られる。
 本篇の手法に関する意図について、作者は制作中の書簡にこう書いている。「私は、真実に迫った人物、しかし彼等が対話によって自分自身を現すよりも以上に物語そのものが現すべき人物がいて、各章ごとに興味の加わる、画のように叙述した一つの物語[#「画のように叙述した一つの物語」に傍点]を作るこの小さな仕事に専心している。他の言葉で言えば、(中略)人物を出来事それ自身の臼の中で搗き砕き、その人物から彼等の興味を打ち出して、出来事の物語を書くことが出来ると思ったのである。」
 フランス革命に取材したことについては、作者が年来絶えず繰返して読み、決して厭きることのなかった、トマス・カーライルの名著「フランス革命史」に負うところが極めて多かった。この物語の文体、思想等についても、カーライルの影響を示しているところが見られる。なお、作者が制作の準備中に知人であるカーライルに自分の目的に役立ちそうな数冊の参考書の借用を請うたところ、カーライルはただちに荷車二台に満載したフランス革命に関する文献をディッケンズの邸宅に送り届けたという。
「二都物語」は「バーナビー・ラッジ」に次ぐディッケンズの第二の歴史小説であり、また彼の最後の歴史小説である。歴史小説と言っても、時代を過去に採り、背景を歴史的事件に求めただけであって、登場する人物はことごとく非歴史的人物であり、作者自身の純然たる創造になる人物のみである。本篇の主人公である、自己犠牲的な深い愛によって進んで断頭台の下に立つ弁護士シドニー・カートンは、疑いもなく近代小説の群像中でも最も魅力ある性格の一であるに違いない。その他、その正義感のために暴虐な貴族の手によってバスティーユ牢獄に投獄され、十八年間監禁されていた医師アレクサーンドル・マネット、その娘リューシー・マネット、フランスの貴族の地位と財産とを自ら抛棄してイギリスで自活するシャルル・エヴレモンド、その叔父サン・テヴレモンド侯爵、パリーの酒店の主人であり革命党員であるエルネスト・ドファルジュ、その妻テレーズ・ドファルジュ、銀行員ジャーヴィス・ロリー、弁護士ストライヴァー、走使いクランチャー、家政婦プロス等の諸人物は、いずれも、円熟した大作家にふさわしい手腕で鮮かに創造されている。そして、これらの人物が、フランス大革命の前及びその間の時代を背景とし、イギリス及びフランスの両国、主としてロンドンとパリーとの二都を舞台として演ずる劇的な物語は、実に津々たる興味にみちているのである。ある意味ではまさしく歴史小説であるよりも以上に伝奇小説《ロマンス》であるかもしれない。
 また、この作はディッケンズの全作中において特異な地位を占めるものである。「ピックウィク倶楽部」以下彼の諸長篇の大部分にあっては、殊に前半期の多くの作にあっては、筋《プロット》はあまり顧慮ないしは重視されず、誇張して言えば全篇が挿話の連続であり、豊かな興味は主として作中諸人物の滑稽感《ヒューマー》や哀感《ペーソス》に集中しているのが普通であるに対して、本篇では、筋《プロット》は完全に首尾一貫し、全体の構成がはなはだ緊密であり、作中諸人物はことごとく物語の進展に関与し、物語は巧みな戯曲的展開をもって章を逐うて最後の不可避的な結末に至る。すなわち、その人物以上に事件の進展に読者の感興が惹かれる。他の諸大作よりも量において小であり、人物の数も比較的に少く、全体的に極めて圧縮されていることもまた、この作の顕著な一特質である。
 外面的にはディッケンズの最大の特徴である諧謔《ヒューマー》は、本篇にあっては題材の性質上著しく抑制されている。しかしそれは全然影を潜めているのではなく、この作の処々に現れて微妙な効果を収めていることは、細心な読者には容易に認め得るところである。
 その異常な題材、印象的な人物、劇的な事件、巧緻な手法、等、等によって、この物語はあらゆる読者を深く愉しませるのみならず、また、終りの方に表現されているその主要観念は、愛や人生そのものについて考えさせるものをも含んでいる。
 従来の批評家がディッケンズの他のいかなる作よりもこの作に対する評価について意見を異にし、ある評家は諧謔《ヒューマー》に乏しいこの物語をさほど高く評価せず、また他の評家はこれをこの作家の最も完璧な傑作と激賞し、作者自身もその完成の少し前に本篇を「自分のこれまでに書いた最上の物語」として期待したが、作家が最近の労作を自己の最上の作と考えやすい傾向などをも考慮に入れても、要するに、この「二都物語」が、ディッケンズの代表作とは遠いものであるにせよ、単に彼の力作たるに止まらず、少くとも「デーヴィッド・コッパフィールド」その他と共にこの民衆の作家、小説文学の巨匠の最高傑作の一であり、かつ世界の文学における傑れた一名作であることは、何等の疑いもあり得ない。
 物語は全三巻から成る。第一巻は、一七七五年の秋から冬へかけての数日間のことを取扱い、この物語全曲に対する短い静かな序曲に過ぎない。第二巻は、一七八〇年の三月からフランス革命勃発の三年後すなわち一七九二年の八月に至るまでの十二年間余にわたり、最も変化に富む展開部に当る。第三巻は、一七九二年秋から翌九三年暮までの一年数箇月間、革命の真最中のことであり、荒れ狂う終曲であると共に、全曲の最高潮《クライマクス》である。
 第三巻中の医師マネットの手記によって物語の発端は遠く一七五七年まで遡り、更に第三巻の結末にはシドニー・カートンのそれから数十年後の予想が記され、時代はフランス革命の前後数十年間にわたっているが、この作の姿なき主人公はフランス革命であるとも言い得る。この物語によって読者は絵画的に具象化されたかの革命とその時代とについて歴史書以外の知識と感銘とを得るであろう。その意味で、この小説は、人類の歴史が過去に有した最大の動乱の時代の一であるフランス革命の時代に興味と関心とを有する人々にも読まれるに価するものである。
 訳者の他のすべての飜訳におけると同様に、訳文中に傍点[#「傍点」に傍点]を附してある箇処は、原文においてだいたい強調の意味をもって斜体活字《イタリック》で印刷されている箇処であり、訳文中圏点[#「圏点」に丸傍点]を附してある語は、同じく原文に強調の意味をもって頭文字のみで記されている語である。ダッシュ、句読点、その他については、絶えず数種の底本を対照して適当と考えるところに拠る。
 星標★を附した箇処の語句には巻末に註を附して、主として作品の細部または細部の語句をも正確に理解するに必要なことを記したが、各読者が単にその必要に応じて参照さるべきである。
 同じく巻末に附した解説は、もし読まれるならば、原作の後に読まれることを希望したい。

   一九三六年八月[#地から3字上げ]佐々木直次郎
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     目次
 
 序(訳者)

緒言
第一巻 甦る
 第一章 時代
 第二章 駅逓馬車
 第三章 夜の影
 第四章 準備
 第五章 酒店
 第六章 靴造り
第二巻 黄金の糸
 第一章 五年後
 第二章 観物
 第三章 当外れ
 第四章 祝い
 第五章 豺
 第六章 何百の人々
 第七章 都会における貴族
 第八章 田舎における貴族
 第九章 ゴルゴンの首

  註(訳者)

  解説(訳者)
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    二都物語
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     緒言

 私が自分の子供たちや友人たちと共にウィルキー・コリンズ氏の劇の「凍れる海」を演じていた時に、私は初めてこの物語の主要な観念を思い付いたのである★。その観念を自分自身で具体化してみたいという強い欲望が、その時私に起った。それで私は自分の空想の裡《うち》で特別の注意と感興とをもってそれを追究したが、空想裡ではそれは烱眼な観客に対しての上演を必要ならしめたのであった。
 その観念が私の心に親しくなって来るにつれて、それは次第次第にそれの現在の形体になって来た。その制作の間を通じて、それは私を完全に捉えていた。私は、これらの頁の中になされかつ感じられているところのことを、自分ですべて確かになしかつ感じたくらいにまで、それらを実感したのである★。
 かの大革命の前ないしはその間におけるフランスの人民の状態についてここに何等かの言及(いかにわずかなものであろうとも)がなされている時にはいつでも、それは、真に、最も信頼するに足る証拠に基いてなされているのである。カーライル氏の驚歎すべき書物★の哲学に何かを附け加えるということは何人にも望むことが出来ないけれども、あの怖しい時代についての一般の絵画的な理解の手段に何ものかを附け加えたいというのは私の希望の一つであったのである。

     ロンドン、タヴィストック館★にて、 一八五九年十一月。
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    第一巻 甦《よみがえ》る
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    第一章 時代

 それはすべての時世の中で最もよい時世でもあれば、すべての時世の中で最も悪い時世でもあった。叡智の時代でもあれば、痴愚の時代でもあった。信仰の時期でもあれば、懐疑の時期でもあった。光明の時節でもあれば、暗黒の時節でもあった。希望の春でもあれば、絶望の冬でもあった。人々の前にはあらゆるものがあるのでもあれば、人々の前には何一つないのでもあった。人々は皆真直に天国へ行きつつあるのでもあれば、人々は皆真直にその反対の道を行きつつあるのでもあった。――要するに、その時代は、当時の最も口やかましい権威者たちのある者が、善かれ悪しかれ最大級の比較法でのみ解さるべき時代であると主張したほど、現代と似ていたのであった。
 イギリスの玉座には、大きな顎をした国王と不器量な顔をした王妃とがいた。フランスの玉座には、大きな顎をした国王と美しい顔をした王妃とがいた★。どちらの国でも、現世の利得を保持している国家の貴族たちには、天下の形勢が永久に安定しているということは水晶よりも明かなのであった。
 それはキリスト紀元一千七百七十五年のことであった。その恵まれた時代には、現代と同様に、さまざまの心霊的な啓示がイギリスに授けられた★。サウスコット夫人★は彼女の第二十五囘の祝福された誕生日を迎えたばかりであったが、近衛騎兵聯隊の予言者の一兵卒が、ロンドンとウェストミンスター★とを呑み込む手筈が出来ていると言い触らして、彼女の荘厳な出現を先触れしていた。例の雄鶏小路《コック・レーン》の幽霊★でさえ、あの昨年の精霊も(不可思議にも独創力に欠けていて)御託宣《メッセジ》をやはりこつこつと叩いて知らせたように、自分の御託宣《メッセジ》をこつこつと叩いて知らせた後に、鎮められてから、ちょうど十二年たったに過ぎなかった。それとは違って俗世界の出来事であるが、ただの音信《メッセジ》が、つい先頃、アメリカにおける英国臣民の会議から、イギリスの国王ならびに人民宛にやって来た★。不思議なことには、この音信《メッセジ》の方が、これまで雄鶏小路《コック・レーン》のどの雛《ひよっこ》から受け取ったどんな通信よりも、人類にとってもっと重要なものであるということが、後にわかったのである★。
 心霊的な事柄では概して楯と三叉戟との姉妹国★ほどに恵まれていなかったフランスは、紙幣を造ってはそれを使い果して、素晴しい勢で下り坂を転げ落ちていた★。その他《ほか》、キリスト教の牧師たちの指導の下に、フランスは、一人の青年がおおよそ五六十ヤードばかり離れた視界の内を通り過ぎる修道僧たちの穢《きたな》らしい行列に敬意を表するために雨中に跪《ひざまず》かなかったからといって、その青年の両手を切り取り、舌を釘抜《くぎぬき》で引き抜き、体を生きながら焼くように、宣告したりするような慈悲深い仕事をして楽しんでいた。その受難者が死刑に処せられた時に、フランスやノルウェーの森林には、歴史上にも怖しい、嚢と刃物との附いているある動かし得る枠細工★を作るために、伐り倒されて板に挽かれるようにと、運命という樵夫《きこり》が既に印《しるし》をつけておいた樹木が、生い繁っていたのであろう。また、その日には、死という農夫がかの大革命の時の自分の死刑囚護送馬車にするために既に取除けておいた粗末な荷車が、パリー近隣のねとねとした土地を耕している百姓たちのむさくるしい納屋の中に、田野の泥にまみれ、豚に嗅ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]され、禽《とり》どもに塒《とや》にされて、雨露を防いでいたのであろう。しかし、その樵夫《きこり》とその農夫とは、絶えず働いてはいるけれども、黙々として働いているのである。それで、彼等が跫音《あしおと》を忍ばせながら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っているのを、誰一人として聞きつけはしなかった。彼等が目を覚しているのではなかろうかと疑いを抱くだけでも、無神論者で叛逆者になるというのであったから、それはなおさらのことであったのだ。
 イギリスでは、大層な国民的の自慢ももっともだというだけの秩序や保安は、すこぶる怪しいものだった。武器を携えた連中の大胆不敵な押込強盗や、大道強奪は、首都でさえ毎晩のように行われた。市内の家庭へは、家具を家具商の倉庫に移して安全にしてからでなければ市外へ出てはならぬと、公然とお達しがあった。夜の追剥《おいはぎ》は昼間《ひるま》は本市《シティー》★で商売をしている男であった。そして、「首領《キャプテン》★」の資格で止れと命じた自分の仲間の商人に正体を見破られて詰《なじ》られると、勇ましくその男の頭を射貫《いぬ》いて馬を飛ばして逃げ去った。駅逓馬車★が七人の剽盗に待伏せされ、車掌がその中の三人を射殺したが、「弾薬が欠乏したために」自分も残りの四人に射殺された。その後で駅逓馬車の客は無事安穏に掠奪された。あの素晴らしい勢力家のロンドン市長も、ターナム・グリーン★で一人だけの追剥に立ち止って所持品を渡せとやられたものだった。追剥はその著名な人物を彼の随行員一同の目の前で剥奪したのであった。ロンドンの監獄の囚人が獄吏と戦闘をし、弾丸を籠めた喇叭銃《らっぱじゅう》★が尊厳なる法律によって囚人たちの中へ撃ち込まれたこともあった。盗賊どもが宮廷の引見式で貴族たちの頸から金剛石《ダイヤモンド》の十字架を切り偸んだこともあった。銃兵たちが密輸品を捜索するためにセント・ジャイルジズ★へ入って行くと、暴民が銃兵に発砲し、銃兵が暴民に発砲したこともあった。が、誰一人としてこれらの出来事のどれ一つをも大して変ったこととは考えなかったのである。こうした出来事の最中に、いつも多忙でいつも無益であるよりも有害な絞刑吏は、のべつに用があった。時には、ずらりと並んだいろいろな罪人を片っ端から絞殺したり、時には、火曜日に捕えられた強盗を土曜日に絞首にしたり、時には、ニューゲート★で十二人ずつ手に烙印を押したり、また時には、ウェストミンスター会館《ホール》★の入口のところで小冊子《パンフレット》を焼き棄てたりした。今日《きょう》は、兇悪な殺人者の命《いのち》を取るかと思うと、明日《あす》は、百姓の倅《せがれ》から六ペンスを奪ったけちな小盗の命《いのち》を取ったりした。
 こういうすべての事柄や、これに類した数多《あまた》の事柄が、その親愛なる一千七百七十五年とそのすぐ前後に起っていたのであった。例の樵夫《きこり》と農夫とが誰にも気づかれずに働いていた間、そういう事柄に取巻かれながら、大きな顎をしたあの二人と、不器量な顔と美しい顔をしたあのもう二人とは、すこぶる堂々と歩み、彼等の神授の王権を傲然と携えて行った。こういう風にして、一千七百七十五年は、その王者たちや、無数の微賤な人々――この物語に出て来る人々をもその中に含めて――を導いて、彼等の前に横わる道を進ませたのである。
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    第二章 駅逓馬車

 十一月も晩《おそ》くのある金曜日の夜、この物語と交渉のある人物の中の最初の人の前に横わっていたのは、ドーヴァー街道であった。そのドーヴァー街道は、その人の前にと同じく、シューターズ丘《ヒル》★をがたがたと登ってゆくドーヴァー通いの駅逓馬車の先に横わっているのであった。その人は駅逓馬車の脇に沿うて泥濘の中を阪路を歩いて登っていたのであるが、他の乗客たちもやはりそうしていた。それは、何も彼等がこういう場合に少しでも歩行運動に趣味を持っていたからではなく、その丘も、馬具も、泥濘《ぬかるみ》も、馬車も、みんなひどく厄介なものだったので、馬どもはそれまでにもう三度も立ち停ったし、おまけに一度などは、ブラックヒース★へ馬車を曳き戻そうという反抗的な意思をもって、街道を横切って馬車を牽き曲げたからなのである。しかし、手綱と鞭と馭者と車掌とが、一緒になって、放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論《もくろみ》を、禁止するところのあの軍律を、読み聞かせた★のだ。それで、馬どもも降参して、彼等の任務をまたやり出したのだった。
 彼等は、頭をうなだれ尾を震わせながら、折々は、四肢の附根《つけね》のところで潰れはしないかと思われるくらいに、足掻《あが》いたり躓《つまず》いたりして、どろどろの泥の中を進んで行った。馭者が、油断なく「どうどう! はい、どうどう!」と言いながら、彼等を立ち止らせて休ませるたびに、左側の先導馬は、いかにも並外れて勢のある馬らしく――頭や頭に附いているすべてのものを激しく振り動かし、こんな丘へこんな馬車を曳き上げるなんてことが出来るものかと言っているようだった。その馬がそういう音を立てるたびごとに、例の旅客は、神経質な旅客ならするように、びくっとして、心がどきどきするのであった。
 谷間という谷間には濛々《もうもう》たる霧がたちこめていた。そして、悪霊のように、安息を求めて得られずに、寄るべなく丘の上へさまよい上っていた。じっとりした、ひどく冷い霧、それが、荒れた海の波のように、目に見えて一つ一つと続いて拡がっている漣《さざなみ》をなして、空中をのろのろと進んで来る。馬車ランプの燃えているのと、その附近の道路の数ヤードとを除いては、何もかもランプの光から遮っているくらいに、濃い霧だった。そして、喘ぎながら曳っぱっている馬の立てる湯気がそれと雑《まじ》り、その霧がみんな馬の吐き出したものかと思われるほどであった。
 例の旅客の他《ほか》に、もう二人の旅客が、その駅逓馬車の脇に沿うて丘をのそりのそりと登っていた。三人とも、耳の上も頬骨のところまでも身をくるんでいて、膝の上までの大長靴を穿いていた。この三人の中の誰一人も、自分の見たことからは、他の二人のどちらかがどういう類《たぐい》の人物であるか言えなかったろう。また、銘々は、自分の二人の道連《みちづれ》の肉眼に対してと同様に、彼等の心眼に対しても、ほとんど同じくらいたくさんのものを纒って自分を隠していた。その頃の旅人は、ちょっと知り合っただけで打解けることをひどく嫌っていたのである。というのは、道中で逢う人間は誰であろうと、それが追剥か、追剥とぐるになっている者であるかもしれなかったからである。その追剥とぐるになっているということなら、何しろ、宿駅★という宿駅、居酒屋という居酒屋には、亭主から一番下っぱの怪しげな厩舎係までにわたって、「首領《キャプテン》」の手当を貰っている者が誰かしらいるという時代では、それはいかにもありそうなことなのだ。そんなことをドーヴァー通いの駅逓馬車の車掌が腹の中で思ったのは、一千七百七十五年の十一月のその金曜日の夜、シューターズ丘《ヒル》をがたがた登りながらのことで、その時、彼は馬車の後部にある自分だけの特別の台に立って、足をどんどんと踏み、自分の前にある武器箱に目と片手とを離さずにいた。その武器箱の中には、彎刀《わんとう》を一番下にして、その上に七八挺の装薬した馬上拳銃が置いてあり、それの上に一挺の装薬した喇叭銃が載せてあったのだ。
 このドーヴァー通いの駅逓馬車は、車掌が乗客を疑《うたぐ》り、乗客たちは相互に疑り車掌を疑り、みんなが他の者を一人残らず疑り、馭者は馬より他《ほか》のものは何も信用しないという、それのいつも通りの和気靄々《わきあいあい》たる有様であった。その馬については、それらがこの旅行には適していないということを、馭者は潔白な良心をもって両聖約書にかけて宣誓することでも出来た。
「どうどう!」と馭者が言った。「はい、どう! もう一度ぐっと曳っぱりゃ、てっぺんだぞ、いまいましい奴め。手前《てめえ》たちをそこまで漕ぎつけさせるにゃあおれあずいぶん骨を折ったからな! ――ジョー!」
「おうい!」と車掌が答えた。
「何時《なんじ》だろうね、ジョー?」
「十一時たっぷり十分過ぎてるよ。」
「驚いたな!」といらいらした馭者は叫んだ。「それでいてまだシューターズのてっぺんへ著けねえんだぜ! ちえっ! やい! そら行け!」
 例の勢のある馬は、断乎としていうことをきかないでいたところへ鞭でぴしりとやられたので、今度は断然と爬《か》き登り出した。すると他の三頭の馬もそれに倣った。もう一度ドーヴァー通いの駅逓馬車はがたごとと動き出し、乗客たちの大長靴もその脇に沿うてぴしゃりぴしゃりと進んで行った。馬車が止る時には彼等は止り、それとぴったりくっついていた。もし、その三人の中の誰でも一人が、他の者に、霧と闇との中へ少し先に歩いて行こうではないかと言い出すような、大胆なことをしようものなら、彼は自分を追剥としてたちどころに射殺されるようにするようなものであったろう。
 最後の疾駆で馬車は丘の頂上に達した。馬はまた息《いき》をつぐために立ち止り、車掌は下りて来て、下り坂の用心に車輪に歯止《はどめ》をかけ、乗客を入れるために馬車の扉《ドア》を開《あ》けた。
「しっ! ジョー!」と馭者は、馭者台から見下しながら、警告するような声で叫んだ。
「何だい、トム?」
 彼等は二人とも耳をすました。
「馬が一匹|緩駈《ゆるがけ》でやって来るぜ、ジョー。」
「いや[#「いや」に傍点]、馬が一匹|疾駈《はやがけ》でだよ、トム。」と車掌は答えて、扉《ドア》を掴んでいる手を放し、自分の席へひらりと跳び乗った。「お客さん方! よろしいですか、皆さん!」
 大急ぎでこう頼むと、彼は喇叭銃に撃鉄をかけ、撃つ身構えをした。
 この物語に既に記載されている例の旅客は、馬車の踏台に乗って、入りかけていた。他の二人の旅客は、彼のすぐ後にいて、続いて入ろうとしていた。彼は、半身を馬車の中に、半身を馬車の外にしたまま、踏台に立ち止った。他の二人は道路の彼の下に立ち止った。彼等三人は馭者から車掌へ、車掌から馭者へと眼をやり、そして耳をすました。馭者は振り返って見、車掌も振り返って見、例の勢のある馬でさえ、逆らいもせずに、耳を欹《そばた》て振り返って見た。
 夜の静かな上に、馬車のがらがらごとごという音が止《や》んだための静けさが加わって、あたりは全くひっそりしてしまった。馬の喘ぐのが伝わって馬車がぶるぶる震動し、ちょうど馬車が胸騒ぎしてでもいるようだった。旅客たちの心臓はおそらく聞き取れそうなくらいに高く鼓動していたろう。とにかく、そのひっそりしている合間は、人々が息を殺し、固唾《かたず》を呑み、何事が起るかと思って動悸を速めている様子を、聞えるほどに表《あらわ》したのであった。
 疾駈《はやがけ》で来る馬の蹄の音が猛烈に丘を上って来た。
「おうい!」と車掌は呶鳴れるだけの大きな声で呼びかけた。「こらあ! 止れ! 撃つぞ!」
 馬の歩みはぴたりと止められた。そして、頻りに泥をはねかす音と足掻《あが》く音がすると共に、霧の中から一人の男の声が聞えて来た。「それあドーヴァー通いの馬車かい?」
「何だろうといらぬお世話だい!」と車掌が言い返した。「お前《めえ》こそ何者だ?」
「それあドーヴァー通いの馬車なの[#「なの」に傍点]かい?」
「どうしてそんなことを知りてえんだ?」
「もしそうなら、わっしはお客さんに用があるんだよ。」
「何というお客さんだい?」
「ジャーヴィス・ロリーさんだ。」
 例の記載ずみの旅客はただちにそれが自分の名前であるということを告げ知らせた。車掌と、馭者と、他の二人の旅客とは、胡散《うさん》そうに彼をじろじろ見た。
「そこにじっとしていろよ。」と車掌が霧の中の声に呼びかけた。「もしおれが間違《まちげ》えをやらかすとなると、そいつあお前《めえ》の生涯中取返しがつかねえんだからな。ロリーって名前のお方、じかに返事してやって下せえ。」
「どうしたのだね?」と、その時、例の旅客は穏かに震えた口振りで尋ねた。「わたしに用があるというのは誰だね? ジェリーかい?」
(「あれがジェリーってえんなら、そのジェリーてえ奴の声が、おれにゃ気にくわねえよ。」と車掌がひとりでぶつぶつ言った。「あいつはおれの気に入らねえほどの嗄《しゃが》れ声をしていやがるよ、あのジェリーはな。」)
「そうですよ、ロリーさん。」
「どうしたのだい?」
「あっちの向うからあなたの後を追っかけて急ぎの書面を持って来ましたんで。T社で。」
「わたしはあの使いの者を知っていますよ、車掌。」とロリー氏は言って、道路へ下りたが、――彼が下りるのを背後から他の二人の旅客は丁寧にというよりは素速く手助けし、その二人はすぐに馬車の中へもぐり込んで、扉《ドア》を閉《し》め、窓も引き上げてしまった。「あの男なら近くへよこしても大丈夫だ。何も間違いはないから。」
「なけりゃいいが、わしにゃあそいつがほんとに信じられねえ。」と車掌が無愛想な独《ひと》り言《ごと》のように言った。「おういおい!」
「よしよし! おうい!」とジェリーは前よりももっと嗄《しゃが》れ声で言った。
「並足で来るんだぞ。いいか? それからもしお前がその鞍にピストル袋をつけてるんなら、手をそいつの近くへやるのをおれに見せねえようにしろよ。何しろおれは間違《まちげ》えをするなあ悪魔みてえに速《はえ》えんだからな。そしておれが間違《まちげ》えをやらかす時にゃ、きっと鉛|弾丸《だま》でやるんだからな。さあ、もうやって来い。」
 一頭の馬と乗手との姿が、渦巻いている霧の中からのろのろと出て来て、例の旅客の立っている、駅逓馬車の脇のところまでやって来た。その乗手は身を屈め、それから、車掌をちらりと仰ぎ見ながら、一枚の小さく折り摺《たた》んだ紙片を旅客に手渡しした。乗手の馬は息を切らしていて、馬も乗手も両方とも、馬の蹄から男の帽子まで、泥まみれになっていた。
「車掌!」と旅客は、平静な事務的な信頼の語調で、言った。
 用心深い車掌は、右手を自分の持ち上げている喇叭銃の台尻に、左手をその銃身にかけ、眼を騎者に注ぎながら、ぶっきらぼうに答えた。「へえ。」
「何も懸念することはない。わたしはテルソン銀行のものだ。ロンドンのテルソン銀行はお前さんも知っているに違いない。わたしは用向でパリーへ行くところなのだ。酒代《さかて》に一クラウン★あげるよ。これを読んでいいね?」
「速くして下さいますんならね、旦那。」
 彼は自分のいる側の馬車ランプの明りの中にそれを開《あ》けて、そして読んだ、――最初は口の中で、次には声を立てて。「『ドーヴァーにて|お嬢さん《マムゼール》を待て。』と。長くはないだろう、ねえ、車掌。ジェリー、こう言ってくれ。わたしの返事は、甦る[#「甦る」に丸傍点]、というのだった、とね。」
 ジェリーは鞍の上でぎょっとした。「そいつあまたとてつもなく奇妙な御返事ですねえ。」と彼は精一杯の嗄《しゃが》れ声で言った。
「その伝言《ことづて》を持って帰りなさい。そうすれば、わたしがこれを受け取ったことが、手紙を書いたと同じくらいに、先方にわかるだろうからね。出来るだけ道を急いで行きなさい。じゃ、さようなら。」
 そう言いながら、旅客は馬車の扉《ドア》を開《あ》けて入った。が、今度は相客たちは少しも彼の手助けをしなかった。彼等は自分の懐中時計や財布を長靴の中へ手速く隠し込んでしまって、その時はすっかり眠っている風をしていたのだ。それは、特にはっきりした目的があってのことではなく、ただ、何等かの他の種類の行動の原因を作るような危険を避けるためなのであった。
 馬車は再びがらがらと動き出し、下り坂へ来かかると、前よりももっと濃い環を巻いた霧が周りに迫って来た。車掌はまもなく喇叭銃を武器箱の中へ戻し、それから、その中にある他の武器を検《しら》べ、自分の帯革につけている補充用の拳銃《ピストル》を検べると、自分の座席の下にある小さな箱を検べてみた。その中には二三の鍛冶道具と、火把《たいまつ》が一対と、引火奴箱《ほくちばこ》が一つ入っていた。それだけすっかり備えておいたのは、折々起ったことであるが、馬車ランプが嵐に吹き消された時には、車内に入って閉《し》めきり、火打石と火打|鉄《がね》とで打ち出した火花を藁からほどよく離しておけば、かなり安全にかつ容易に(うまくゆけば)五分間で明りをつけることが出来たからである。
「トム!」と馬車の屋根越しに低い声で。
「おうい、ジョー。」
「あの伝言《ことづて》を聞いたかい?」
「聞いたよ、ジョー。」
「お前《めえ》あれをどう思ったい、トム?」
「まるでわかんねえよ、ジョー。」
「じゃあ、そいつも同《おんな》じこったなあ。」と車掌は考え込むように言った。「おれだってまるっきりわかんねえんだからな。」
 霧と闇との中にただ独り残されたジェリーは、その間に馬から下りて、疲れ果てた馬を楽にさせてやるばかりではなく、自分の顔にかかっている泥を拭ったり、半ガロン★ほどの水を含むことの出来そうな自分の帽子の鍔《つば》から水気を振い落したりした。駅逓馬車の車輪の音がもう聞えなくなってしまい、夜がまたすっかり静まり返るまで、彼はひどく泥のはねかっている腕に手綱をかけたまま立っていたが、それからぐるりと身を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して丘を歩いて下り出した。
「あんなにテムプル関門《バー》★から駈け通しで来たんだからなあ、お婆さん、お前《めえ》を平地《ひらち》へつれてくまではおれはお前《めえ》の前脚を信用出来ねえよ。」とこの嗄《しゃが》れ声の使者は、自分の牝馬をちらりと眺めながら、言った。「『甦《よみがえ》る』だとよ。こいつあとてつもなく奇妙な伝言《ことづて》だなあ。そんなことがたくさんあった日にゃあ、お前《めえ》のためにやよくあるめえぜ、ジェリー! なあ、おい、ジェリー! もし甦るなんてことが流行《はや》って来ようものなら、お前《めえ》はとてつもなく面白くもねえことになるだろうぜ、ジェリー!★」
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    第三章 夜の影

 あらゆる人間が他のあらゆる人間にとって深奥な秘密であり神秘であるように出来ているということは、考えてみると驚くべき事実である。私が夜間にある大きな都会に入る時、その暗く寄り集っている家々の一つ一つがそれぞれの秘密を包んでいるということや、その一つ一つの家の中の一つ一つの室がまたそれぞれの秘密を包んでいるということや、そこにいる幾十万の胸の中に鼓動している一つ一つの心臓が、それの思い描いている事柄によっては、それに最も近しい心臓にとっても一の秘密である! ということは、考えると厳《おごそ》かな事柄である。死というものでさえ、その恐しさの幾分かは、このことに基くのである。もはや私は自分の愛したこの懐《なつか》しい書物の紙葉をめくることが出来ない。そして、いつかはそれをみんな読もうと思っていた望みも空しくなってしまう。もはや私は深さの測り知られぬこの水の底を覗き込むことが出来ない。瞬時の光がちらりと射し込んだ時に、私はその水の中に沈んでいる宝やその他の物を瞥見したことがあったのだが。その書物は、私がたった一頁だけ読んでしまうと、永久に永久にぴたりと閉じられる宿命《さだめ》になっていたのだ。その水は、光がその水面に閃いていて、私が岸に何も知らずに立っている時に、永遠の氷に鎖《とざ》される宿命《さだめ》になっていたのだ。私の友人が死ぬ。私の隣人が死ぬ。私の恋人、私の心の愛人が死ぬ。それは、その個人の裡《うち》に常に宿っていた秘密の仮借なき凝固であり永久化であるのだ。そういう秘密を私もまた自分の裡に宿して自分の生涯の終りまで持って行くことであろう。私の今通っているこの都会のどの墓地にでも、この都会の忙しく働いている住民たちが、その心の一番奥底では、私にとって窺い知りがたいものであり、あるいは私が彼等にとってそうであるよりも以上に、窺い知りがたい死者というものが、果しているであろうか?
 この、生得の、他人に譲ることの出来ない資産ということでは、例の馬上の使者も、国王や、宰相や、ロンドン随一の富裕な商人などと全く同じだけのものを持っているのであった。また、がたがたと音を立てて行く一台の古ぼけた駅逓馬車の狭苦しい中に閉じこめられている、あの三人の旅客にしても、やはりそうなのだ。彼等は、一人一人が自分自身の六頭牽の馬車に乗って、あるいは自分自身の六十頭牽の馬車に乗って、自分と隣の者との間に一つの郡ほどの間隔を置いてでもいるように、完全に、お互が神秘なのであった。
 例の使者はゆっくりした早足で馬に乗って引返し、かなり幾度も路傍の居酒屋に止って酒を飲んだが、しかし、なるべく口を噤み、帽子を眼深《まぶか》にかぶっているようにしていた。彼はそういう帽子のかぶり方に極めてよく釣合った眼をしていた。黒味がかかった眼で、色でも形でも深みが少しもなく、もし余り遠く離れていると何かの事で片眼だけが見つけ出されはしないかと恐れてでもいるかのように――ひどくくっつき過ぎているのだ。その眼は、三角の痰壺のような古ぼけた縁反帽《ふちそりぼう》の下、頤と咽《のど》とを巻いてほとんど膝あたりまで垂れ下っている大きな襟巻の上に、陰険な表情をしていた。止って一杯飲む時には、彼は、右手で酒をぐうっとやる間だけ、その襟巻を左手で取り除け、それがすむや否や、すぐに再び巻きつけてしまうのだった。
「いいや、ジェリー、いやいや!」と使者は、馬に乗っている間も一つの事ばかり考え返しながら、言った。「そいつあお前《めえ》のためにゃよくあるめえぜ、ジェリー。ジェリー、お前《めえ》は実直な商売人なんだからな、そいつあお前の[#「お前の」に傍点]商売にゃ向くめえよ! よみが――! うん、旦那は一杯飲んで酔っ払ってたに違《ちげ》えねえや!」
 あの伝言《ことづて》は彼の心をひどく悩ませたので、彼は何度も帽子を脱いで頭をがりがり掻くより他《ほか》に仕方がないくらいであった。ぱらぱらと禿げている脳天を除いては、硬《こわ》い黒い髪の毛がその頭一面にぎざぎざと突っ立っていて、ほとんど彼の団子鼻のあたりまでも生え下っていた。その頭は鍛冶屋の作った物のようであった。髪の生えた頭というよりは、堅固に忍返《しのびがえ》し★を打ちつけてある塀の頂に似ていた。だから、蛙跳び★の一番の名人でも、跳び越すのにこれほど危険な男は世の中にもいないと言って、彼を跳び越すことは断《ことわ》ったかもしれなかった。
 彼がテムプル関門《バー》の傍のテルソン銀行の戸口のところにある番小屋の中の夜番人に渡し、その夜番人がまたそれを中にいる上役たちに渡すことになっているはずの、あの伝言《ことづて》を持って、馬を早足で歩ませながら引返している間、夜の影は、彼にとっては、その伝言《ことづて》から生じたような形をしているように見え、その牝馬にとっては、その馬[#「その馬」に傍点]だけにしかわからないいろいろの不安の種から生じたような形をしているように見えたのであった。そういう不安の種はたくさんあったらしく、馬は路上のあらゆる物影におびえていた。
 その間に、例の駅逓馬車は、お互に窺い知りがたい三人の相客を車内に乗せたまま、がたがた、ごろごろ、がらがら、ごとごとと、そのもどかしい道を進んで行った。この三人にも、同じように、夜の影は、彼等のうとうとしている眼と取留めのない思いとが心に浮ばせた通りの姿をして現れた。
 テルソン銀行がその駅逓馬車の中で取附けに逢っていた。あの銀行員の乗客が――馬車が特別ひどく揺れる度に、隣の乗客にぶつかって、その人を隅っこに押しつけることのないために、車内の者が皆しているように、吊革に片腕を通したまま――眼を半ば閉じながら自分の座席でこくりこくりやっていると、小さな馬車の窓や、そこから仄暗《ほのぐら》く射し込んで来る馬車ランプや、向い合っている乗客の嵩ばった図体などが、銀行に変って、一大支払をやっているのだった。馬具のがちゃがちゃいう音は、貨幣のじゃらじゃらいう音になった。そして、五分間のうちに、テルソン銀行でさえ、その国外及び国内のあらゆる関係方面をみんなひっくるめて、かつてその三倍の時間に支払ったことのあるよりも以上に多額の、為替手形が支払われた。それから今度は、テルソン銀行の地下の貴重品室が、その乗客の知っているような高価な品物や秘密物を納めたまま(そしてそれらの物について彼の知っていることは少くはなかったのだ)、彼の前に開かれた。そして、彼は大きな幾つもの鍵と微かに弱々しく燃えている蝋燭とを持ってその中へ入って行った。すると、その品々は、彼が最後に見た時とちょうど同じに安全で、堅固で、無事で、平静であることがわかった。
 しかし、銀行がほとんど絶えず彼と共にあったけれども、また馬車も(阿片剤を飲んだための苦痛があるように、混乱したのにではあるが)絶えず彼と共にあったけれども、その夜|中《じゅう》流れて止《や》まなかったもう一つの印象の流れがあった。彼はある人を墓穴から掘り出しに行く途中なのであった。
 ところで、彼の前に現れる多数の顔の中のどれが、その埋葬されている人のほんとうの顔なのか、夜の影は示してくれなかった。だが、それらはどれもこれも年齢四十五歳の男の顔であって、主として異っているのは、その表《あらわ》している感情と、その瘠せ衰えた様子の物凄さとの点であった。自負、軽蔑、反抗、強情、服従、悲歎などの表情が次々に現れ、いろいろのこけた頬、蒼ざめた顔色、痩せ細った手や指などが次々と現れたのだ。しかしその顔はだいたいは同一の顔で、頭はどれもまだそういう年でもないのに真白だった。幾度も幾度も、このうとうとしている旅客はその亡霊に尋ねるのであった。――
「どれくらいの間埋められていたんです?」
 その答はいつも同じであった。「ほとんど十八年。」
「あなたは掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」
「ずっと以前に。」
「あなたは御自分が甦《よみがえ》っていることを御存じなのですね?」
「みんながわたしにそう言ってくれる。」
「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」
「わしにはわからない。」
「あの女《ひと》をあなたのところへお連れして来ましょうか? あなたの方からあの女《ひと》に逢いにいらっしゃいますか?」
 この質問に対する答は、いろいろさまざまで、正反対のもあった。時には、とぎれとぎれに「待ってくれ! 余り早く彼女《あれ》に逢ってはわたしは死にそうだから。」という返事をすることもあった。時には、さめざめと涙の雨にくれ、それから「わたしを彼女《あれ》のところへ連れて行ってくれ。」という返事をすることもあった。また時としては、じっと見つめて当惑したような顔をして、それから「わしはそんな女を知らん。わしには何のことかわからん。」という返事をすることもあった。
 そういう想像上の会話の後に、この旅客は、その憐れな人間を掘り出してやるために、空想の裡《うち》で――ある時は鋤で、ある時は大きな鍵で、ある時は自分の両手で――掘って、掘って、掘るのであった。顔にも髪にも土をくっつけたまま、ようやく出て来ると、その男はたちまち倒れて塵になってしまう。すると旅客ははっとして我に返り、窓を下して、霧と雨とを頬に実際に感じるのであった。
 それでも、彼が眼を見開いて、霧と雨や、ランプから射す光の動いてゆく斑紋や、ぐいぐいと遠退《とおの》いてゆく路傍の生垣などを眺めている時でさえ、馬車の外の夜の影は、いつの間にか馬車の内の夜の影のあの連《つらな》りと一緒になるのだった。テムプル関門《バー》の傍のほんとうの銀行も、前日のほんとうの事務も、ほんとうの貴重品室も、彼の後を追っかけて来たほんとうの急書も、彼が持たして返したほんとうの伝言も、みんなそこにある。そういうものの真中から、例の幽霊のような顔が現れて来る。すると彼はまたそれに話しかける。
「どれくらいの間埋められていたんです?」
「ほとんど十八年。」
「あなたは生きたいとお思いでしょうね?」
「わしにはわからない。」
 掘って――掘って――掘っている――と、とうとう二人の乗客の中の一人がたまりかねたような身動きをするので、彼ははっと気がついて窓を引き上げ、片腕をしっかりと吊革に通して、眠っている二人の姿を黙想する。そのうちにいつの間にか彼の心は二人のことから離れて、彼等は再び銀行と墓穴との中へ滑り込んでしまう。
「どれくらいの間埋められていたんです?」
「ほとんど十八年。」
「掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?」
「ずっと以前に。」
 この言葉がつい今しがた口で言われたようにまだ耳に残っている――今までにかつて口で言われた言葉が彼の耳に残ったようにはっきりと残っている――時に、その疲れた旅客は、明るい光に気がついてはっとし、夜の影がもう消え失せていることを知った。
 彼は窓を下すと、顔を外に突き出して、さし昇る太陽を眺めた。そこには、山脊のようになって長く連っている耕地があって、犂《からすき》★が一つ、前夜馬を軛《くびき》から離した時に残されたままにしておいてあった。耕地の向うには、静かな雑木林があって、燃えるように紅《あか》い木の葉や、金色のように黄ろい木の葉が、梢にまだたくさん残っていた。地面は冷くてしっとり湿《しめ》っていたけれども、空は晴れわたっていて、太陽は燦然と、穏かに、美わしく昇っていた。
「十八年とは!」と旅客はその太陽を眺めながら言った。「お慈悲深いお天道《てんとう》さま! 十八年間も生埋《いきう》めにされているなんて!」
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    第四章 準備

 駅逓馬車が午前中に無事にドーヴァーへ著くと、ロイアル・ジョージ旅館《ホテル》★の給仕|頭《がしら》は、いつもきまってするように、馬車の扉《ドア》を開《あ》けた。彼はそれを幾分儀式張って仰《ぎょう》々しくやったのであった。というのは、何しろ、冬季にロンドンから駅逓馬車で旅をして来るということは、冒険好きな旅行者に祝意を表してやってしかるべきくらいの事柄であったからである。
 この時までには、その祝意を表さるべき冒険好きの旅行者は、たった一人しか残っていなかった。他の二人は途中のそれぞれの目的地で下りてしまっていたからだ。馬車の黴臭い内部は、その湿《しめ》っぽい汚《よご》れた藁と、不愉快な臭気と、薄暗さとで、幾らか、大きな犬小屋のようであった。藁をふらふらにくっつけ、長い毳《けば》のある肩掛をぐるぐる巻きつけ、鍔《つば》のびらびらしている帽子をかぶり、泥だらけの脚をして、その馬車の中から体《からだ》をゆすぶりながら出て来た、乗客のロリー氏は、幾らか、大きな犬のようであった。
「明日《あす》カレー★行きの定期船は出るだろうね、給仕?」
「さようでございます、旦那、もしお天気が持ちまして風が相当の順風でございますればね。潮《しお》は午後の二時頃にかなり工合よくなりますでしょう、はい。で、お寝《やす》みですか、旦那?」
「わたしは晩になるまでは寝まい。しかし、寝室は頼む。それから床屋をな。」
「それから御朝食は、旦那? はいはい、畏りました。は、どうぞそちらへ。和合《コンコード》の間へ御案内! お客さまのお鞄《かばん》と熱いお湯を和合《コンコード》の間へな。お客さまのお長靴は和合《コンコード》の間でお脱がせ申すんだぞ。(上等の石炭で火が燃やしてございますよ、旦那。)床屋さんを和合《コンコード》の間へ呼んで来ておあげなさい。さあさあ、和合《コンコード》の間の御用をさっさとするんだよ!」
 その和合《コンコード》の寝室というのはいつも駅逓馬車で来た旅客にあてがわれていたので、そして、駅逓馬車で来た旅客たちはいつも頭の先から足の先までぼってり身をくるんでいたので、その室は、ロイアル・ジョージ屋の人々にとっては、そこへ入って行くのはただ一種類だけの人に見えるが、そこから出て来るのはあらゆる種類のさまざまの人であるという、妙な興味があるのだった。そういう訳で、六十歳の一紳士が、大きな四角いカフスとポケットに大きな覆布《ふた》のついている、かなり著古してはあるが、極めてよく手入れのしてある茶色の服に正装して、朝食をとりに行く時には、別の給仕と、二人の荷持と、幾人かの女中と、女主人とが、和合《コンコード》の間と食堂との間の通路の処々方々に偶然にもみんなぶらぶらしていたのであった。
 食堂には、その午前、この茶色服の紳士より他《ほか》に客はなかった。彼の朝食の食卓は炉火の前へ引き寄せてあった。そして、その火の光に照されながら、食事を待って腰掛けている間、彼は余りじっとしているので、肖像画を描《か》かせるために著席しているのかと思われるくらいであった。
 彼はすこぶるきちんとして几帳面に見え、両膝に手を置き、音の大きな懐中時計は、あたかもかっかと燃えている炉火の軽躁さとうつろいやすさとに自分の荘重さと寿命の永さとを競《きそ》わせるかのように、垂片《たれ》のあるチョッキの下で朗々たる説教をちょきちょきちょきちょきとやっていた。彼は恰好のよい脚をしていて、少しはそれを自慢にしていたらしい。というのは、茶色の靴下はすべすべとぴったり合っていて、地合が上等のものであったし、緊金《しめがね》附きの靴も質素ではあったが小綺麗なものだったから。彼は、頭にごくぴったりくっついている、風変りな小さいつやつやした縮れた亜麻色の仮髪《かつら》をかぶっていた。この仮髪《かつら》は髪の毛で作られたものであろうが、しかしそれよりもまるで絹糸か硝子質の物の繊維で紡いだもののように見えた。彼のシャツ、カラー類は、靴下と釣合うほどの上等なものではなかったが、近くの渚に寄せて砕ける波頭《なみがしら》か、海上遠くで日光にきらきらと光っている帆影ほどに白かった。習慣的に抑制されて穏かになっている顔は、潤《うるお》いのあるきらきらした一双の眼のために、例の一風変った仮髪《かつら》の下で始終明るくされていた。その眼をテルソン銀行風の落著いた遠慮深い表情に仕込むには、過ぎ去った年月の間に、その眼の持主に多少は骨を折らせたものに違いない。彼は健康そうな頬色をしていて、その顔には、皺がよってはいたけれども、憂慮の痕は大して見えなかった。だが、おそらく、テルソン銀行の機密に参与する独身の行員たちというものは、他人の苦労に主としてかかりあっていたのであろう。そして、おそらく、|他人のお古《セカンドハンド》の苦労というものは、|他人のお古《セカンドハンド》の著物と同様に、脱ぐのも著るのも造作のないものなのであろう。
 肖像画を描《か》かせるために著席している人との類似を更に完全にしようと、ロリー氏はうとうとと寐入《ねい》ってしまった。朝食が運ばれて来たのに彼は目を覚された。そして、自分の椅子を食事の方へ動かしながら、給仕に言った。――
「若い御婦人が今日《きょう》ここへ何時《なんどき》来られるかもしれないが、その方《かた》のために部屋を用意しておいてもらいたい。その御婦人はジャーヴィス・ロリーさんはいないかと言って尋ねられるかもしれないし、それとも、ただ、テルソン銀行から来たお方はいないかと尋ねられるかもしれない。そしたらどうか知らせて下さい。」
「は、畏りました。ロンドンのテルソン銀行でございますね、旦那?」
「そうだ。」
「は、承知いたしました。手前どもでは、あなたさまのところの方々《かたがた》がロンドンとパリーの間を往ったり来たりして御旅行なさいます時に、たびたび御贔屓にあずかっております、はい。テルソン銀行では、旦那、ずいぶん御旅行をなさいますようで。」
「そうだよ。わたしどもの銀行は、イギリスの銀行であると同じくらいに、全くフランスの銀行ででもあるようなものだからね。」
「は、なるほど。でも、旦那、あなたさまはあまりそういう御旅行はしつけてお出でになりませんようでございますが?」
「近年はやらない。わたしどもが――いや、わたしが――この前フランスから戻ってから十五年になるよ。」
「へえ、さようでございますか? それでは手前がここへ参りましたより以前のことでございますよ、はい。ここの人たちがここへ参りましたよりも以前のことで、旦那。このジョージ屋はその時分は他《ほか》の人の経営でございました。」
「そうだろうねえ。」
「しかし、旦那、テルソン銀行のようなところになりますと、十五年前はおろか、五十年ばかりも前でも、繁昌していらっしったということには、手前がどっさり賭《かけ》をいたしましてもよろしゅうございましょうね?」
「それを三倍にして、百五十年と言ったっていいかもしれんな。それでも大して間違いじゃないだろうよ。」
「へえ、さようで!」
 口と両の眼とを円くしながら、給仕人《ウェーター》は食卓から一足下ると、ナプキンを右の腕から左の腕へと移して、安楽な姿勢をとった。そして、客の食べたり飲んだりするのを、展望台か望楼からでもするように見下しながら、立っていた。あらゆる時代における給仕人《ウェーター》のかの昔からの慣習に従って。
 ロリー氏は朝食をすましてしまうと、浜辺へ散歩に出かけた。小さな幅の狭い曲りくねったドーヴァーの町は、海の駝鳥のように、浜辺から隠れて、その頭を白堊の断崖の中に突っ込んでいた★。浜辺は山なす波浪と凄じく転げ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っている石ころとの沙漠であった。そして波浪は己《おの》が欲するままのことをした。その欲するままのこととは破壊であった。それは狂暴に町に向って轟き、断崖に向って轟き、海岸を突き崩した。家々の間の空気は非常に強く魚臭い臭いがして、ちょうど病気の人間が海の中へ浸りに行くように、病気の魚がその空気に浸りに来たのかと想像されるほどであった。この港では漁業も少しは行われていたが、夜間にぶらぶら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って海の方を眺めることが盛んに行われた★。殊に、潮《しお》がさして来て満潮に近い時に、それが行われるのであった。何一つ商売もしていない小商人が、時々、不可思議千万にも大財産をつくることがあった。そして、この附近の者が誰一人も点灯夫に我慢がならないことは不思議なくらいだった。
 日が昃《かげ》って午後になり、折々はフランスの海岸が見えるくらいに澄みわたっていた空気が、再び霧と水蒸気とを含んで来るにつれて、ロリー氏の思いもまた曇って来たようであった。日が暮れて、彼が朝食を待っていた時のようにして夕食を待ちながら、食堂の炉火の前に腰掛けていた時には、彼の心は、赤く燃えている石炭の中をせっせと掘って掘って掘っているのであった。
 夕食後の上等なクラレット★の一罎は、赤い石炭の中を掘る人に、ともすれば仕事を抛擲させがちであるからということの他《ほか》には、何の害もしないものである。ロリー氏は永い間安閑としていたが、そのうちに、中年を過ぎた血色のいい紳士が一罎を傾け尽した場合にいつも見られるようなこの上もなく満足だという様子で、自分の葡萄酒の最後の杯を注《つ》いだ時に、がらがらという車輪の音が狭い街路をこちらの方へとやって来て、旅館の構内へごろごろと入って来た。
 彼は杯に口をつけずにそれを下に置いた。「|お嬢さん《マムゼール》だな!」と彼は言った。
 数分たつと給仕人《ウェーター》が入って来て、マネット嬢がロンドンからお著きになって、テルソン銀行からお出でになった紳士にお目にかかれるなら仕合せですと言っていらっしゃいます、と知らせた。
「そんなに早く?」
 マネット嬢は途中で食事をおとりなったので、今はちっともほしくはないそうで、もしテルソン銀行の紳士の思召しと御都合さえよろしければ、すぐにお目にかかりたいと非常にお望みです、とのこと。
 そのテルソン銀行の紳士は、そのためには、ただ、無神経な捨鉢らしい風に杯の酒をぐうっと飲み乾《ほ》し、例の風変りな小さい亜麻色の仮髪《かつら》を耳のところでしっかりと抑えつけて、給仕人《ウェーター》の後についてマネット嬢の部屋へと行きさえすればよいのであった。そこは大きな暗い室で、黒い馬毛織を葬式にふさわしいような陰気なのに飾りつけ、どっしたりした黒ずんだ卓子《テーブル》を幾つも置いてあった。これらの卓子《テーブル》は油を塗ってぴかぴかと拭き込んであるので、室の中央にある卓子《テーブル》に立ててある二本の高い蝋燭は、どの板にもぼんやりと映っていた。あたかもその蝋燭が黒いマホガニーの深い墓穴の中に埋められていて、そこから掘り出されるまではその蝋燭からはこれというほどの光は期待することが出来ないかのようだった。
 そこの薄暗さでは見透すのが困難であったので、ロリー氏は、だいぶん擦り切れているトルコ絨毯の上を気をつけて歩きながら、マネット嬢は一時どこか隣の室あたりにいるのだろうと想像したが、やがて、例の二本の高い蝋燭の傍を通り過ぎてしまうと、彼には、その蝋燭と煖炉との間にある卓子《テーブル》の傍に、乗馬用外套を著て、まだ麦藁の旅行帽をリボンのところで手に持ったままの、十七より上にはなっていない一人のうら若い婦人が、自分を迎えて立っているのを認めた。彼の眼が、小柄で華奢な美しい姿や、豊かな金髪や、尋ねるような眼付をして彼自身の眼とぴたりと会った一双の碧い眼や、眉を上げたり顰《ひそ》めたりして、当惑の表情とも、不審の表情とも、恐怖の表情とも、それとも単に怜悧な熱心な注意の表情ともつかぬ、しかしその四つの表情を皆含んでいる一種の表情をする奇妙な能力(いかにも若々しくて滑《なめら》かな額《ひたい》であることを心に留めてのことであるが)を持つ額などに止《とど》まった時――彼の眼がそれらのものに止まった時に、突然、ある面影がまざまざと彼の前に浮んだ。それは、霰が烈しく吹きつけて波が高いある寒い日、この同じイギリス海峡を渡る時に彼自身が腕に抱いていた一人の幼児の面影であった。その面影は、彼女の背後にある気味の悪い大姿見鏡の面《おもて》に横から吹きかけた息《いき》なぞのように、消え去ってしまい、その大姿見鏡の縁には、幾人かは首が欠けているし、一人残らず手か足が不具だという、病院患者の行列のような、黒奴《くろんぼ》のキューピッドたちが、死海の果物★を盛った黒い籠を、黒い女性の神々に捧げていたが、――それから彼はマネット嬢に対して彼の正式のお辞儀をした。
「どうぞお掛け遊ばせ。」ごくはっきりした気持のよい若々しい声で。その口調《アクセント》には少し外国|訛《なま》りがあったが、それは全くほんの少しである★。
「わたしはあなたのお手に接吻いたします、お嬢さん。」とロリー氏は、もう一度彼の正式のお辞儀をしながら、昔の作法に従ってこう言い、それから著席した。
「あたくし昨日《きのう》銀行からお手紙を頂きましたのでございますが、それには、何か新しい知らせが――いいえ、発見されましたことが――」
「その言葉は別に重要ではありません、お嬢さん。そのどちらのお言葉でも結構ですよ。」
「――あたくしの一度も逢ったことのない――ずっと以前に亡《な》くなりました父のわずかな財産のことにつきまして、何かわかりましたことがありますそうで――」
 ロリー氏は椅子に掛けたまま身を動かして、例の黒奴《くろんぼ》のキューピッドたちの病院患者行列の方へ心配そうな眼をちらりと向けた。あたかも彼等が[#「彼等が」に傍点]その馬鹿げた籠の中に誰でもに対するどんな助けになるものでも持っているかのように!
「――そのために、あたくしがパリーへ参って、あちらで、その御用のためにわざわざパリーまでお出で下さる銀行のお方とお打合せをしなければならない、と書いてございましたのですが。」
「その人間というのがわたしで。」
「そう承るだろうと存じておりました。」
 彼女は、彼が自分などよりはずっとずっと経験もあり智慮もある方《かた》だと自分が思っているということを、彼に伝えたいという可憐な願いをこめて、彼に対して膝を屈めて礼をした(当時は若い淑女は膝を屈める礼をしたものである)。彼の方ももう一度彼女にお辞儀をした。
「あたくしは銀行へこう御返事いたしました。あたくしのことを知っていて下すって、御親切にいろいろあたくしに教えて下さる方々《かたがた》が、あたくしがフランスへ参らなければならないとお考えになるのですし、それに、あたくしは孤児《みなしご》で、御一緒に行って頂けるようなお友達もございませんのですから、旅行の間、そのお方さまのお世話になれますなら、大変有難いのでございますが、と申し上げましたのでございます。そのお方はもうロンドンをお立ちになってしまっていらっしゃいましたが、でも、そのお方にここであたくしをお待ち下さるようにお願いしますために、その方《かた》の後《あと》から使いの人を出して下すったことと存じます。」
「わたしはそのお役目を任されましたことを嬉しく思っておりました。それを果すことが出来ますればもっと嬉しいことでございましょう。」とロリー氏が言った。
「ほんとに有難うございます。有難くお礼を申し上げます。銀行からのお話では、その方《かた》が用事の詳しいことをあたくしに御説明して下さいますはずで、それがびっくりするような事柄なのだから、その覚悟をしていなければならない、とのことでございました。あたくしはもう十分その覚悟をいたしておりますので、あたくしとしましてはどんなお話なのか知りたくて知りたくてたまらないのでございますが。」
「御もっとも。」とロリー氏は言った。「さよう、――わたしは――」
 ちょっと言葉を切ってから、彼はまた例の縮れた亜麻色の仮髪《かつら》を耳のところで抑えつけながら、こう言い足した。――
「どうも言い出すのが大変むずかしいことなのでして。」
 彼が言い出さずに、躊躇しているうちに、彼女の視線とぱったり出会った。と、例の若々しい額が眉を上げてあの奇妙な表情をし――しかしそれは奇妙なという他《ほか》に可愛いくて特有の表情であったが――それから、彼女は、何かの通り過ぎる物影を思わず掴むか引き止めるかのように、片手を挙げた。
「あなたはあたくしのまるで知らないお方なのでしょうか?」
「そうじゃないと仰しゃるんですか?」ロリー氏は両手を拡げて、議論好きなような微笑を浮べながらその手をぐっと左右に差し伸ばした。
 彼女がこれまでずっとその傍に立っていた横の椅子へ物思わしげに腰を下した時に、眉毛と眉毛の間、この上なく優美な上品な鼻筋をした女らしい小さな鼻のすぐ上のところに、例の表情が深まった。彼は彼女が物思いに沈んでいるのを見守っていたが、彼女が再び眼を上げた瞬間に、こう話し出した。――
「あなたの帰化なさいましたこの国では、あなたをお若いイギリスの御婦人として|マネット嬢《ミス・マネット》と申し上げるのが一番よろしいかと存じますが?」
「ええ、どうぞ。」
「|マネット嬢《ミス・マネット》、わたしは事務家でございます。今わたしには自分の果さなければならん事務の受持が一つございますのです。あなたがそれをお聴き取り下さいます時には、わたしをほんの物を言う機械だというくらいにお思い下さい。――全くのところ、わたしなぞはそれと大して違ったものじゃありません。では、お嬢さん、御免を蒙って、わたしどもの方《ほう》のあるお得意さまの身の上話をあなたにお話申し上げることにいたしましょう。」
「身の上話ですって!」
 彼女が言い返した言葉を彼はわざと聞き違えたらしく、急いで言い足した。「そうです、お得意さまです。銀行業の方ではお取引先のことをお得意さまといつも申しておりますんで。その方《かた》はフランスの紳士でした。科学の方面の紳士で。非常に学識のある人で、――お医者でした。」
「ボーヴェー★出身の方《かた》ではございませんの?」
「そうですねえ、ええ、ボーヴェー出身の方《かた》です。あなたのお父さまのムシュー★・マネットと同じように、その紳士はボーヴェー出身の方《かた》でございました。あなたのお父さまのムシュー・マネットと同じように、その紳士もパリーでなかなか評判の人でした。わたしがその方《かた》とお近付《ちかづき》になりましたのはそのパリーだったのです。わたしたちの関係は事務上の関係でございましたが、しかし非常に親しくして頂いておりました。わたしはその頃わたしどものフランスの店におりまして、それまでには――そう! 二十年間もそこにおりましたのですが。」
「その頃――と仰しゃいますと、いつ頃なのでございましょうかしら?」
「わたしは、お嬢さん、二十年前のことをお話申しておるのです。その方《かた》は御結婚なさいました、――イギリスの御婦人とでした。――そしてわたしは財産管理人の一人になりました。その方《かた》の財務上の事は、他《ほか》のたくさんのフランスの紳士方やフランスの御家庭の財務と同様に、すっかりテルソン銀行に任せてございましたのです。そんな風にして、わたしは現在、いや以前から、たくさんのお得意さまのあれやこれやの管理人になっております。これは皆ただの事務上の関係ですよ、お嬢さん。それには友情とか、特別の関心とかはなく、感情といったようなものは何もないのです。わたしは事務の人間として今日までの生涯を送って来ました間に、そういうのの一つから他《ほか》のにと移って参りました。それは、ちょうど、わたしが毎日事務を執っています間に、一人のお得意さまから他のお得意さまへと移ってゆきますようなもので。手短に申しますと、わたしには感情というものがございませんのです。わたしはほんの機械なんです。で、話を続けることにいたしますと――」
「でもそれはあたくしの父の身の上話でございましょう。あたくし何だか、」――と例の不思議な表情をする額が彼に向って熱心になりながら――「あたくしの母が父の亡くなりましてからたった二年しか生きていなくて、あたくしが孤児《みなしご》になりました時に、あたくしをイギリスへ連れて来て下さいましたのは、あなたでしたように、思われて参りました。あなたに違いないような気がいたします。」
 ロリー氏は、彼の手を握ろうとして信頼するように差し伸べられた、ためらっている、小さな手を取って、それを幾らか儀式張って自分の脣にあてた。それから彼はその若い淑女をすぐにまた彼女の椅子のところへ連れて行った。そして、左手では椅子の背を掴み、右手を使って自分の頤を撫でたり、仮髪《かつら》の耳のところをひっぱったり、自分の言ったことを注意させたりしながら、立って、腰掛けて自分を見上げている彼女の顔を見下した。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、それはいかにも[#「いかにも」に傍点]わたしでした。ところが、それ以来わたしがあなたに一度もお目にかからなかったことをお考え下されば、わたしがつい今、自分のことを、わたしには感情というものがないとか、わたしと他の人たちとの関係はみんなただの事務上の関係だとか申しましたことが、ほんとうであることがおわかりになりますでしょう。そうです、一度もお目にかかりませんでした。あなたはそれ以来ずっとテルソン商社の被後見人ですのに、わたしはそれ以来ずっとテルソン商社の他《ほか》の事務にばかり齷齪《あくせく》していたのです。感情なんて! わたしにはそんなものを持つ時まもなく、機会もありません。わたしは一生、お嬢さん、大きなお札《さつ》の皺伸機《しわのし》を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して過すのですよ。」
 自分の毎日の仕事をこういう奇妙なのに説明してから、ロリー氏は亜麻色の仮髪《かつら》を両手で頭の上から平らに抑えつけ(これは全く余計なことで、そのぴかぴかした表面は前から何も及ばないくらいに平らになっているのである)、それから元の姿勢に返った。
「ここまでは、お嬢さん、(あなたの仰しゃいました通り)あなたのお気の毒なお父さまの身の上話なのです。ところが、これからは違うのですよ。もしも、あなたのお父さまが、お亡くなりになったという時に、亡くなられたのではない、としますと――。驚かないで下さい! そんなにびっくりなすっては!」
 彼女は、実際、跳び立つほどびっくりしたのだった。そして両手で彼の手頸を掴んだ。
「どうぞ、」とロリー氏は、左の手を椅子の背から離して、それを烈しくぶるぶる震えながら彼の手を握っている懇願するような指の上に重ねながら、宥《なだ》めるような調子で言った。――「どうぞお気を鎮めて下さい、――これは事務なんですから。今申しましたように――」
 彼女の様子がひどく彼を不安にさせたので、彼は言葉を切り、どうしようかと迷ったが、また話し出した。――
「今申しましたように、ですね。もしもムシュー・マネットが亡くなられたのではないとしますと、ですよ。もしもあなたのお父さまが突然に人にも言わずに姿を消されたのだとしますと、です。もしも神隠しか何かのようにされたのだとしますと、です。どんなに恐しい処へ行かれたか推測するのはむずかしくはないが、どんなことをしてもお父さまを探し出すことは出来ないのだとしますと、ね。お父さまには同国人の中に一人の敵があって、その敵が、この海の向うでわたしが若い時分どんな大胆な人でもひそひそ声で話すことも恐しがっていたということを知っているような特権を――例えばですね、書入れしてない書式用紙にちょっと名前を書き込んで、誰をでも牢獄へどんなに永い間でも押しこめておけるという特権★を――使える人間だったとしますと、ですね。お父さまの奥さんに当る人が、王さまや、お妃《きさき》さまや、宮廷や、僧侶に、何か夫の消息を聞かしてくれるようにと歎願なすったが、みんな全く何の甲斐《かい》もなかったとしますと、ですね。――もしもそうだったとしますと、そうすると、そのあなたのお父さまの身の上は、ボーヴェーのお医者である、今の不幸な紳士の身の上になるのです。」
「どうかもっとお聞かせ下さいますように。」
「お聞かせいたしますよ。しようとしているところです。あなたは御辛抱がお出来になりますね?」
「今のようなこんな不安な気持でいるのでさえなければ、あたくしどんなことでも辛抱が出来ますわ。」
「あなたは落著いて仰しゃいますし、あなたは落着いて――いらっしゃいますね[#「いらっしゃいますね」に傍点]。それなら大丈夫ですな!」(しかし彼の態度は彼の言葉ほどには安心していなかった。)「事務ですよ。事務とお考え下さい、――しなければならない事務とね。さて、もしそのお医者の奥さんが、大変気丈夫な勇気のある御婦人ではありましたけれども、お子さんがお生れになるまでにこの事で非常に御心痛になりまして――」
「その子供と仰しゃいますのは女の子だったのでございますねえ。」
「女のお子さんでした。こ――これは――事務ですよ、――御心配なさらないで下さい。お嬢さん、もしそのお気の毒な御婦人が、お子さんがお生れになるまでに非常に御心痛になりまして、そのために、可哀そうなお子さんにはお父さまはお亡くなりになったものと信じさせて育てて、御自分の味われたようなお苦しみは幾分でも味わせまいという御決心をなさいましたものとしますと――。いやいや、そんなに跪いたりなすっちゃいけません! 一体どうしてあなたがわたしに跪いたりなぞなさるんです!」
「ほんとのことを。おお、御親切なお情《なさけ》深いお方、どうかほんとのことを!」
「こ――これは事務ですよ。あなたがそんなことをなさるとわたしはまごついてしまいます。まごついていてはわたしはどうして事務を処理することが出来ましょう? さあさあ、お互に頭を明晰にしましょう。もしあなたが今、例えばですね、九ペンスの九倍はいくらになるか、あるいは二十ギニーは何シリングかということを、言ってみて頂ければ★、よほど気が引立つんですがねえ。わたしだってあなたのお心の工合にもっともっと安堵が出来るというものですが。」
 こう頼んだのに対して直接には答えなかったけれども、彼女は、彼がごく穏かに彼女を起してやった時に、ジャーヴィス・ロリー氏に多少の安心を与えるくらいに、静かに腰を掛けたし、ずっと彼の手頸を握っていた手を今までよりももっとしっかりさせたのであった。
「それでよろしい、それでよろしい。さあ、しっかりして! 事務ですよ! あなたは事務を控えているのです。有益な事務をね。|マネット嬢《ミス・マネット》、あなたのお母さまはあなたに対してそういう御方針をお執りになったのです。で、お母さまがお亡くなりになり、――御傷心のためかと思いますが、――その時あなたは二歳で後にお遺されになりましたのですが、お母さまは御自分では何の甲斐《かい》がなくてもお父さまの捜索を決して怠られなかったのに、あなたには、お父さまが牢獄の中でまもなく死なれたのだろうか、それともそこで永い永い年月《としつき》の間痩せ衰えていらっしゃるのだろうかと、どちらともはっきりわからずに過すというような黒い雲もささずに、花のように、美しく、幸福に、御生長になるようになさいましたのです。」
 こう言いながら、彼は、房々と垂れている金髪を、感に堪えないような憐みの情をもって見下した。あたかもその髪がもう既に白くなっているのかもしれぬと心の中で思い浮べてでもいるかのように。
「御承知のように、御両親には大した御財産はございませんでしたし、お持ちになっていらしたものは皆お母さまとあなたとのお手に入りました。お金《かね》にしても、その他《ほか》の何かの所有物にしても、今さら新しく発見されるものは何一つなかったのです。しかし――」
 彼は自分の手頸がいっそうしっかりと握り締められるのを感じたので、言葉を切った。これまで特に彼の注意を惹いていた、そして今では動かなくなっている、額の例の表情は、ますます深まって苦痛と恐怖との表情になっていた。
「しかしあの方《かた》が見つかったのです。あの方《かた》は生きてお出でになるのです。さぞひどく変っていらっしゃることでしょう。ほとんど見る影もなくなっておられるかもしれません。そんなことのないようにと思ってはいるのですが。とにかく、生きておられるのです。あなたのお父さまはパリーで昔の召使の家に引取られてお出でになるので、それでわたしたちはそこへ行こうとしているところなのです。わたしは、出来れば、お父さまであるかどうかを確めるためにですし、あなたは、お父さまを生命と、愛と、義務と、休息と、慰安とに復《かえ》さしておあげになるためにです。」
 身震いが彼女の体に起り、それが彼の体に伝わった。彼女は、まるで夢の中ででも言っているように、低い、はっきりした、怖《お》じ恐れた声でこう言った。――
「あたしはお父さまの幽霊に逢いにゆくのですわ! お逢いするのはお父さまの幽霊でございましょう、――ほんとのお父さまじゃなくって!」
 ロリー氏は自分の腕に掴まっている手を静かにさすった。「さあ、さあ、さあ! もうわかりましたね、わかりましたね! 一番よい事も一番悪い事ももうすっかりあなたにお話してしまったのですよ。あなたはあのお気の毒なひどい目に遭われた方《かた》のおられるところをさしてよほど来ておられるのです。そして、海路の旅が無事にすみ、陸路の旅も無事にすめば、すぐにその方《かた》の懐《なつか》しいお傍《そば》へいらっしゃれましょう。」
 彼女は、囁き声くらいに低くなった前と同じ調子で、繰返して言った。「あたしはこれまでずっと自由でしたし、ずっと幸福でしたのに、でもお父さまの幽霊は一度もあたしのところへ来て下さいませんでしたわ!」
「もう一|事《こと》だけ申し上げますと、」ロリー氏は、彼女の注意を惹きつけようとする一つの穏かな手段として、その言葉に力を入れて言った。「あの方《かた》は見つかりました時には別の名前になっておられました。ほんとうのお名前は、永い間忘れておられたか、それとも永い間隠しておられたのでしょう。今それがどっちだか尋ねるということは、無益であるよりも有害でしょう。あの方《かた》が何年も見落されておられたのか、それともずっと故意に監禁されておられたのか、どちらか知ろうとすることも、無益であるよりも有害でしょう。今はどんなことを尋ねるのも、無益どころか有害でしょう。そういうことをするのは危険でしょうから。どこででもどんなのにでも、その事柄は口にしない方がよろしいでしょう。そして、あの方《かた》を――何にしてもしばらくの間は――フランスから連れ出してあげる方がよろしいでしょう。イギリス人として安全なわたしでさえ、またフランスの信用にとって重要であるテルソン銀行でさえ、この件の名を挙げることは一切避けているのです。わたしは自分の身の※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]りに、この件のことを公然と書いてある書類は一片も持っておりません。これは全然秘密任務なのです。わたしの資格証明書も、記入事項も、覚書も、『甦《よみがえ》る』という一行の文句にすっかり含まれているのです。その文句はどんなことでも意味することが出来るのです。おや、どうしたんですか! お嬢さんは一|言《こと》も聞いていないんだな! |マネット嬢《ミス・マネット》!」
 全くじっとして黙ったまま、椅子の背に倒れかかりもせずに、彼女は彼の手の下で腰掛けて、全然人事不省になっていた。眼は開いていてじっと彼を見つめており、あの最後の表情はまるで彼女の額に刻《きざ》み込まれたか烙《や》きつけられたかのように見えた。彼女が彼の腕にひどくしっかりと掴まっているので、彼は彼女に怪我させはしまいかと思って自分の体を引き離すのを恐れた。それで彼は体を動かさずに大声で助力を求めた。
 すると、まるで赭《あか》い顔色をして、髪の毛も赭く、非常にぴったりと体に合っている型の衣服を著て、頭には親衛歩兵の桝型帽、それもずいぶんの桝目のもの★のような、あるいは大きなスティルトン乾酪《チーズ》★のような、実に驚くべき帽子をかぶっているということを、ロリー氏があわてているうちにも認めた、一人の荒っぽそうな婦人が、宿屋の召使たちの先頭に立って部屋の中へ駈け込んで来て、逞しい手を彼の胸にかけたかと思うと、彼を一番近くの壁に突き飛ばして、その可哀そうな若い淑女から彼を引き離すという問題をすぐさま解決してしまった。
(「これはてっきり男に違いないな!」とロリー氏は、壁にぶっつかると同時に、息《いき》もつけなくなりながら考えた。)
「まあ、お前さんたちはみんな何てざまをしてるんだね!」とその女は宿屋の召使たちに向って呶鳴りつけた。「そんなところに突っ立ってわたしをじろじろ見てなんかいないで、どうしてお薬やなんぞを取りに行かないの? わたしなんか大して見映《みば》えがしやしないよ。そうじゃないかい? どうしてお前さんたちは要《い》るものを取りに行かないんだよ? 嗅塩《かぎしお》と、お冷《ひや》と、お酢《す》と★を速く持って来ないと、思い知らしてあげるよ。いいかね!」
 それだけの気附薬を取りに皆が早速方々へ走って行った。すると彼女はそうっと病人を長椅子《ソーファ》に寝かして、非常に上手に優《やさ》しく介抱した。その病人のことを「わたしの大事な方《かた》!」とか「わたしの小鳥さん!」とか言って呼んだり、その金髪をいかにも誇らかに念入りに肩の上に振り分けてやったりしながら。
「それから、茶色服のお前さん!」と彼女は、憤然としてロリー氏の方へ振り向きながら、言った。「お前さんは、お嬢さまを死ぬほどびっくりさせずには、お前さんの話を話せなかったの? 御覧なさいよ。こんなに蒼いお顔をして、手まで冷くなっていらっしゃるじゃありませんか。そんなことをするのを[#「そんなことをするのを」に傍点]銀行家って言うんですか?」
 ロリー氏はこの返答のしにくい難問に大いにまごついたので、ただ、よほどぼんやりと同情と恐縮とを示しながら、少し離れたところで、眺めているより他《ほか》に仕方がなかった。一方、その力の強い女は、もし宿屋の召使たちがじろじろと見ながらここにぐずぐずしていようものなら、どうするのかは言わなかったが何かを「思い知らしてやる」という不思議な嚇《おど》し文句で、彼等を追っ払ってしまってから、一つ一つ正規の順序を逐うて病人を囘復させ、彼女を宥《なだ》め賺《すか》してうなだれている頭を自分の肩にのせさせた。
「もうよくなられるでしょうね。」とロリー氏が言った。
「よくおなりになったって、茶色服のお前さんなんかにゃ余計なお世話ですよ。ねえ、わたしの可愛いい綺麗なお方!」
「あなたは、」とロリー氏は、もう一度しばらくの間ぼんやりした同情と恐縮とを示した後に、言った。「|マネット嬢《ミス・マネット》のお伴をしてフランスへいらっしゃるんでしょうな?」
「いかにもそうありそうなことなのよ!」とその力の強い女が答えた。「でも、もしわたしが海を渡って行くことに前からきまってるんなら、天の神さまがわたしが島国《しまぐに》に生れて来るように骰子《さいころ》をお投げになるとあんたは思いますか?」
 これもまたなかなか返答のしにくい難問なので、ジャーヴィス・ロリー氏はそれを考えるために引下ることにしたのであった。
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    第五章 酒店

 大きな葡萄酒の樽が街路に落されて壊れていた。この事故はその樽を荷車から取り出す時に起ったのであった。樽はごろごろっと転がり落ちて、箍《たが》がはじけ、酒店の戸口のすぐ外のところの敷石の上に止って、胡桃の殻のようにめちゃめちゃに砕けたのだ。
 近くにいた人々は皆、自分たちの仕事を、あるいは自分たちの無為を一時中止して、その葡萄酒を飲みにその場所へ走って行った。街路のごつごつした不揃いな敷石は、四方八方に向いていて、それに近づくあらゆる生物《いきもの》を殊更《ことさら》に跛《びっこ》にしてやろうというつもりのもののように思われたが、その敷石が流れた葡萄酒を堰き止めて、小さな水溜りを幾つも作っていた。その水溜りは、それぞれ、その大きさに応じて、そこへ来て押し合いへし合いしている群集に取巻かれた。男たちの中には、跪いて、両手を合せて掬《すく》って、その葡萄酒が指の間からすっかりこぼれてしまわないうちに、自分で啜ったり、自分の肩の上に身を屈めている女たちにも啜らせてやろうとしたりする者もあった。中には、男も女も、欠けた陶器の小さな湯呑で水溜りを掬ったり、女たちの頭から取った手拭までも浸して、それを幼児の口の中へ絞り込んでやったりする者もあった。また、葡萄酒が流れてゆくのを堰き止めようと、小さな泥の堤防を築く者もいた。上の方の高い窓から見物している者たちに教えられて、あちこちと走り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、新しい方向に流れ出してゆく葡萄酒の小さな流れを遮り止める者もいた。渣滓《おり》の滲み込んでいるじくじくした樽の破片にかじりついて、酒で朽ちたじめじめした木片をさもうまそうに舐めたり、噛みさえしたりする者もいた。葡萄酒の流れ去る下水は一つもなかった。それで、それがすっかり吸い上げられたばかりではなく、それと一緒にずいぶんたくさんの泥までが吸い上げられたので、この街には市街掃除夫がいたのではなかったかと思われたくらいであった。もっとも、これは、誰でもこの街のことをよく知っている人が、そういう市街掃除夫などという者が奇蹟的にもここに現れるということを信ずることが出来たとしてのことであるが。
 笑い声と興がっている声――男たちや女たちや子供たちの声――の甲高《かんだか》い響が、この酒飲み競争の続いている間、その街路に鳴り響いていた。この競技には荒っぽいところがほとんどなくて、ふざけたところが多くあった。それには特別な仲のよさが、一人一人が誰か他の者と仲間になりたいという目立った意向があって、そのために、酒に運のよかった連中や気さくな連中の間ではとりわけ、剽軽《ひょうきん》に抱き合ったり、健康を祝して飲んだり、握手をしたり、さては十二人ばかりが一緒になって手を繋ぎ合って舞踏をするまでになったのであった。ところが、葡萄酒がなくなってしまって、それのごくたっぷりあった場所までが指で引掻かれて焼網模様をつけられる頃になると、そういう騒ぎは、始った時と同じように急に、ばったりと止んでしまった。切りかけていた薪に自分の鋸を差したまま放《ほお》って来た男は、またその鋸を挽き出した。熱灰《あつはい》の入っている小さな壺で自分自身か自分の子供かの手足の指の凍痛を和《やわら》げようとしてみていたのを、その壺を戸口段のところに放《ほお》っておいて来た女は、壺のところへ戻った。穴蔵から冬の明るみの中へ出て来た、腕をまくって、髪を縺《もつ》らし、蒼白な顔をした男たちは、立去って再び降りて行った。そして、日光よりももっとこの場にはふさわしく見える陰暗がこの場面に次第に募って来た。
 その葡萄酒は赤葡萄酒であって、それがこぼれたパリーの場末のサン・タントワヌ★の狭い街路の地面を染めたのであった。それはまた多くの手と、多くの顔と、多くの素足と、多くの木靴とを染めた。薪を挽いている男の手は、その薪材に赤い痕を残した。自分の赤ん坊の守《もり》をしている女の額《ひたい》は、自分の頭に再び巻きつけた襤褸布片《ぼろぎれ》の汚染《しみ》で染められた。樽の側板《がわいた》にがつがつしがみついていた連中は、口の周囲に虎のような汚斑をつけていた。そういうのに口を汚《よご》している一人の脊の高い剽軽者が、その男の頭は寝帽《ナイトキャップ》にしている長いきたない袋の中に入っていると言うよりも、それからはみ出ていると言った方がよかったが、泥まみれの酒の渣滓《おり》に浸した指で、壁に、血[#「血」に丸傍点]――となぐり書きした。
 やがて、そういう葡萄酒もまたこの街路の敷石の上にこぼされる時が、またそれの汚染《しみ》がそこにある多くのものを赤く染める時が、来ることになっていたのである★。
 さて、一時の微光のためにサン・タントワヌの聖なる御顔から★払い除けられていた暗雲が、またサン・タントワヌにかかってしまったので、そこの暗さはひどくなった。――寒気と、汚穢と、疾病と、無智と、窮乏とが、その聖者の御前に侍している貴族であった。――いずれも皆非常な権勢のある貴人であったが、とりわけそうなのはその最後の者であった。老人を碾《ひ》いて若者にしたというお伽話の碾臼《ひきうす》とは確かに違った碾臼で恐しくも碾きに碾かれて来た人間の標本が、あらゆる隅々に震えていた。あらゆる家々の戸口を出入していた。あらゆる窓から覗いていた。風にあおられているあらゆる形ばかりの衣服を著ながらうろうろしていた。彼等を捏《こ》ね潰した碾臼は、若者を碾いて老人にする碾臼であった。子供たちまでが年寄のような顔と沈んだ声とをしていた。そして、その子供たちの顔にも、大人《おとな》の顔にも、年齢のあらゆる皺の中に鋤き込まれてからまた現れて来ているのは、飢餓という目標《めじるし》であった。それは至る処に蔓っていた。飢餓は竿や綱にぶら下っているみすぼらしい衣服の中に入って高い家々から突き出されていた。飢餓は藁と襤褸と木材と紙とで補片《つぎ》をあてられてその家々の中へ入っていた。飢餓は例の男が鋸で挽き切るわずかな薪のどの屑の中にも繰返された。飢餓は煙の立たぬ煙突からじっと見下していたし、塵芥の中にさえ食えるものの残屑一つない穢《きたな》い街路から跳び立った。飢餓はパン屋の棚の少しばかり並べてある粗悪なパンの小さな一塊ずつに書いてある文字であった。腸詰屋では売り出してある犬肉料理の一つ一つに書いてある文字であった。飢餓は囘転している円筒の中の焼栗の間でその干涸《ひから》びた骨をがらがら鳴らしていた。飢餓は数滴の油を不承不承に滴《た》らして揚げた皮ばかりの馬鈴薯の薄片の入っているどの一文皿の中にも粉々に切り刻まれていた。
 飢餓の住所はすべてのものがそれに適合していた。気持の悪いものと悪臭とのみちている狭い曲りくねった街路、それから幾つも岐《わか》れている別の狭い曲りくねった街路、そのどこにもかしこにも襤褸と寝帽《ナイトキャップ》との人間が住んでいて、どこにもかしこにも襤褸と寝帽《ナイトキャップ》との臭いがして、目に見えるすべてのものが険悪そうに見える考え込んでいるような顔付をしている。人々の狩り立てられたような様子の中にも、いよいよ追い詰められるとなると振り返って反抗するかもしれぬという野獣の気持がまだ幾分かはあった。彼等は銷沈していてこそこそしてはいたけれども、焔の眼は彼等の間にないではなかった。また、彼等の抑えつけている感情のために血の気の失せた、きっと結んでいる脣もないではなかった。また、彼等が自分でかけられるか、それとも人にかけてやることを考えている、あの絞首台の縄に似たのに顰《ひそ》めている額《ひたい》もないではなかった。商売の看板は(そしてそれは店の数とほとんど同じほどあったが)、いずれも皆、窮乏の物凄い図解であった。牛肉屋や豚肉屋は肉の一番脂肪分の少い骨の多い下等なところだけを描いたのを出していた。パン屋は一番粗末なけちなパン塊を描いて出していた。酒店で酒を飲んでいるところとしてぞんざいに画いてある人々は、水っぽい葡萄酒やビールの量りの悪いことをぶつぶつ言いながら、凄い顔をして互にひそひそ話をしていた。道具類と兇器類とを除いては、景気よく描き出されているものは何一つとしてなかった。ただ、刃物師の小刀や斧は鋭利でぴかぴかしていたし、鍛冶屋の鉄鎚はどっしりと重そうであったし、鉄砲鍛冶の店にある商品はいかにも人を殺しそうであった。鋪道のあの人を跛《びっこ》にしそうな石には、泥水の小さな溜りはたくさんあっても、別に歩道はなくて、家々の戸口のところでいきなりに切れていた。その埋合せに、下水溝が街路の真中を流れていたが、――それはともかく流れる時だけである。流れる時というのはただ豪雨の後ばかりで、その時にはたびたび矯激な発作でも起したように家々の中へまで流れ込むのだった。街々を突っ切って、遠く間を隔てて、不恰好な街灯が一つずつ、滑車綱で吊《つる》してあった。日が暮れて、点灯夫がそれを下し、火を点じて、また吊し上げると、弱い光を放っている数多《あまた》の仄暗い灯心が、病みほうけたように頭上で揺れ動いて、あたかも海上にあるようであった。実際それらは海上にあるのであった。そして船と船員とは嵐に遭う危険に臨んでいたのであった★。
 なぜなら、この界隈の痩せこけた案山子《かかし》たち★が、する仕事もなく腹を空《す》かしながら、永い間点灯夫のすることを眺めているうちに、その点灯夫のやり方を改良して、自分たちの境涯の暗闇《くらやみ》を明るくするために、その滑車綱で人間をひっぱり上げようという考えを思い付く★時が、やがて来ることになっていたからである。しかし、その時はまだ来てはいなかった。そして、フランスを吹きわたるどの風も徒らにその案山子たちの襤褸をはたはたと振り動かすだけであった。なぜなら、鳴声も羽毛も美しい鳥ども★は一向に自らを戒めるところがなかったからである。
 さっきの酒店は角店《かどみせ》で、外見や格式が他の大抵の店よりも立派であった。その酒店の主人は、黄ろいチョッキに緑色のズボンを著けて、店の外に立って、こぼれた葡萄酒を飲もうと争っている有様を傍観していた。「こいつあおれの知ったことじゃねえや。」と彼は、最後に肩を一つ竦《すく》め★ながら、言った。「市場《いちば》から来た連中がしでかしたんだからな。奴らにもう一つ持って来させりゃいい。」
 その時、ふと彼の眼が例の脊の高い剽軽者があの駄洒落《だじゃれ》を書き立てているに止ったので、彼は路の向側のその男に声をかけた。――
「おいおい、ガスパール、お前そこで何してるんだい?」
 その男は、そういう手合のよくやるように、さも意味ありげに自分の駄洒落《だじゃれ》を指し示した。ところが、それが的《まと》が外《はず》れて、すっかり失敗した。これもそういう手合にはよくあることである。
「どうしたんだ? お前は気違い病院行きの代物か?」と酒店の主人は、道路を横切って行って、一掴みの泥をすくい上げ、それを例の洒落《しゃれ》の落書の上になすりつけて消しながら、言った。「どうしてお前は大道なんかで書くんだ? こんな文句を――さあ、おれに言ってみろ――こんな文句を書き込む場所が他《ほか》にないのか?」
 こう言い聞かせながら、彼は汚れていない方の手を(偶然にかもしれぬし、そうではないかもしれぬが)その剽軽者の胸のところに落した。剽軽者はその手を自分の手でぽんと敲いて、ぴょいと身軽く跳び上り、珍妙な踊っているような恰好で下りて来ながら、酒で染った自分の靴の片方を、足からひょいと振り脱いで手に受け止め、それを差し出して見せた。そういう次第で、その男は、飽くことのない悪戯《いたずら》好きであることは言うまでもないが、極端な悪戯《いたずら》好きの剽軽者らしく見えた。
「靴を穿きな、靴を穿きな。」ともう一人の方《ほう》が言った。「酒は酒と言って、それで止《や》めとくんだぞ。」そう忠告しながら、彼は自分の汚れた方の片手をその剽軽者の衣服で拭いた。――その男のせいでその手を汚したのだというので、全くわざとやったのだ。それから、道路を再び横切って、酒店へ入った。
 この酒店の主人というのは、猪頸《いくび》の、勇敢そうな、三十歳くらいの男であった。そして熱しやすい気性の人間に違いなかった。というのは、身を斬るような寒い日だったのに、彼は上衣を著ないで、それを肩へ投げかけていたからである。シャツの袖もまくし上げてあって、日に焦《や》けた腕は肱のところまでむき出しになっていた。それから、頭にも、自分自身のくるくると縮れている短い黒っぽい髪の毛より他《ほか》には、何もかぶっていなかった。彼は総体に浅黒い男で、感じのいい眼をしており、その眼と眼との間にはかなり大胆な豪放さがあった。概して愛嬌のよさそうな男であるが、執念深そうでもある。明かに強い決意と頑固な意思とを持った男だ。右側にも左側にも深淵のある隘路を駈け降りて来る時には出くわしたくない男である。というのは、どんなことがあってもこの男を後戻りさせることは出来ないだろうから。
 彼の妻のマダーム・ドファルジュは、彼が店に入って来た時には、店の中の勘定台の後に腰掛けていた。マダーム・ドファルジュは彼とほぼ同年輩のがっしりした婦人で、滅多に何でも見ないように思われる油断のない眼と、たくさん指環を嵌めた大きな手と、きりっとした顔と、きつい目鼻立ちと、非常に落著き払った態度とをしていた。マダーム・ドファルジュには、彼女なら自分の管理しているどの勘定ででも自分の気のつかない間違いを滅多にやることはあるまいと誰でもが予言出来そうな、一種の特性があった。マダーム・ドファルジュは寒がりだったので、毛皮にくるまって、その上、首の周りには派手な肩掛《ショール》をぐるぐる巻きつけていた。もっとも、それも大きな耳環が隠れてしまうほどにはしていなかったが。彼女の編物がその前にあったが、彼女はそれを下に置いて爪《つま》楊枝で歯をほじくっていた。左の手で右の肱を支えながら、そうして歯をほじくっていて、マダーム・ドファルジュは、自分の御亭主が入って来た時には何も言わずに、ただ一度だけちょっと咳払いをした。この咳払いは、彼女が爪楊枝を使いながら黒くくっきりとした眉毛をわずかばかり揚げることと共に、彼女の夫に、彼が路の向側まで行っていた間に誰か新しいお客が立寄っていないか、店を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してお客の間を探した方がいいだろう、ということを暗示したのである。
 そこで酒店の主人は眼をぐるぐるっと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]してみると、その眼は、やがて、一隅に腰掛けている一人の中年過ぎの紳士と一人の若い淑女とに止った。店には他《ほか》にも客がいた。骨牌《かるた》をしているのが二人、ドミノーズ★をしているのが二人、勘定台のところに立ってわずかな葡萄酒を永くかかってちびちび飲んでいるのが三人いたのだ。勘定台の後へ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って行く時に、彼は、その中年過ぎの紳士が若い淑女に「これが例の男ですよ。」と目色で言ったのを見て取った。
「一体全体お前さんたち[#「お前さんたち」に傍点]はそんな処で何をしてるんだい?」とムシュー・ドファルジュは心の中で言った。「こちとらはお前さんたちなんか知らねえや。」
 しかし、彼はその二人の見知らぬ人には気がつかぬ風をして、勘定台のところで飲んでいる三人組の客と談話をし始めた。
「どうだね、ジャーク★?」とその三人の中の一人がムシュー・ドファルジュに言った。「こぼれた葡萄酒はみんな飲んじまったかい?」
「一|滴《しずく》も残さずによ、ジャーク。」とムシュー・ドファルジュは答えた。
 こんな風に洗礼名★の交換がすんだ時、マダーム・ドファルジュは、爪楊枝で歯をほじくりながら、また一つ咳払いをし、また少し眉毛を揚げた。
「あのみじめな獣たちは大抵は、」と三人の中の二番目の者がムシュー・ドファルジュに向って言った。「葡萄酒の味を知るなんてこたあ滅多にねえんだからな。いや、葡萄酒だけじゃねえ、黒パンと死ぬこととの他《ほか》のものの味を知るってことは滅多にねえんだ。そうじゃねえか、ジャーク?」
「そうだよ、ジャーク。」とムシュー・ドファルジュは返答した。
 こうして二度目にその洗礼名を交換している時に、マダーム・ドファルジュは、極めて落著き払ってやはり爪楊枝を使いながら、また一つ咳払いをし、また少し眉毛を揚げた。
 今度は、三人の中の最後の者が、空《から》になった酒を飲む器《うつわ》を下に置いて脣をぴちゃぴちゃ舐めながら、自分の言うことを言い出した。
「ああ! それよりはもっと悪いんさ! ああいう可哀そうな畜生どもがしょっちゅう口にしてるのは苦《にが》い味ばかりなんだ。そして奴らはつらい暮しをしているんだよ、ジャーク。おれの言う通りだろ、ジャーク?」
「お前の言う通りだよ、ジャーク。」というのがムシュー・ドファルジュの返事であった。
 この三度目の洗礼名の交換が終った瞬間に、マダーム・ドファルジュは爪楊枝をやめて、眉毛をきっと上げ、自分の座席で少しさらさら音をさせた。
「待てよ! うん、なるほど!」と彼女の夫は呟いた。「諸君、――わしの家内だ!」
 三人の客はマダーム・ドファルジュに向って自分たちの帽子を脱いで、それを大袈裟に振り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。彼女は、頭をぐるりと向け、彼等をちらっと見て、彼等の敬礼に報いた。それから、彼女は何気ない風に店の中をちらりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]し、見たところ非常に平静な沈著な様子で自分の編物を取り上げて、余念なく編み出した。
「諸君、」ときらきら光る眼を注意深く彼女に注いでいた彼女の夫は、言った。「さよなら。あの独身者向きに設備してある部屋は、それ、君たちが見たいと言って、さっきわしがちょっと表へ出た時に尋ねていたあの部屋だが、あれは六階にあるんだ。そこへゆく階段の出入口は、わしの家の窓際の、この左手にくっついた、」と手で指しながら、「小さな中庭のところにあるよ。しかし、今思い出したんだが、君たちの中の一人はあすこへ行ったことがあるんだから、道案内は出来る訳だね。じゃ、諸君、さようなら!」
 その三人の客は飲んだ葡萄酒の勘定を払って、そこから出て行った。ムシュー・ドファルジュの眼は編物をしている妻をじっと見守っていたが、その時、例の紳士がさっきの隅っこから進み出て、ちょっと一|言《こと》お伺いしたいと言った。
「お安いことで。」とムシュー・ドファルジュは言って、その紳士と一緒に戸口のところまで静かに歩を運んだ。
 二人の会談は極めて短かったが、また極めててきぱきしたものだった。ほとんど最初の一語で、ムシュー・ドファルジュははっとして非常に注意深く耳を傾けた。それが一分と続かないうちに、彼は頷《うなず》いて出て行った。すると紳士は例の若い淑女を手招きして、その二人もまた出て行った。マダーム・ドファルジュは眉毛も動かさずに指を敏捷に動かしながら編物をして、何も見ようとしなかった★。
 ジャーヴィス・ロリー氏とマネット嬢とは、こうしてその酒店から出て来ると、ムシュー・ドファルジュがつい先刻彼の他の客たちに教えてやったあの階段の出入口のところで彼と一緒になった。そこは悪臭のある小さな暗い中庭に向いていて、多数の人々の住んでいる積み重なったたくさんの家々の共同の入口になっていた。床瓦《ゆかがわら》を鋪いた薄暗い階段へと続く床瓦を鋪いた薄暗い入口のところで、ムシュー・ドファルジュは昔の主人の息女に対して片膝を曲げて身を屈め、彼女の手を自分の脣にあてた。それは優雅な行為であったが、しかしそのやり方はちっとも優雅ではなかった。数秒の間に極めて著しい変化が彼に起っていたのだ。彼の顔には愛嬌のいいところがなくなったし、開《あ》けっ放しの様子も少しもなくなり、寡言な、怒りっぽい、危険な人間になっていた。
「ずいぶん高いんです。少々厄介ですよ。ゆっくりかかった方がいいでしょう。」三人が階段を昇りかけた時に、ムシュー・ドファルジュはきっとした声でロリー氏にこう言った。
「あの方《かた》は独りでおられるのですか?」と後者が囁いた。
「独りでですと! お気の毒に、あの方《かた》と一緒にいるなんて者はいやしませんよ。」と今一人の方《ほう》が同じ低い声で言った。
「では、あの方《かた》はしょっちゅう独りでおられるんですか?」
「そうです。」
「あの方《かた》自身のお望みで?」
「あの方《かた》自身の余儀ない事情ででさ。あの人たちがわっしを見つけ出して、わっしがあの方《かた》を引取るかどうか、またわっしが危険を冒しても慎重にやってくれるかどうかと聞きただした後で、わっしは初めてあの方《かた》にお目にかかったんですが、――その時あの方は独りであったように、今でもそうなんですよ。」
「ひどく変っておられるでしょうな?」
「変ってるですって!」
 酒店の主人は立ち止って、片手で壁をどんと叩き、恐しい呪いの言葉を呟いた。どんな露骨な返事でもこの半分の力をこめることも出来なかったろう。ロリー氏の気分は、彼が二人の同伴者と共にだんだんと昇ってゆくにつれて、だんだんと沈んでゆくのであった。
 パリーの古くからの込んでいる地域にある、そういう階段や、それの附属物は、今でもずいぶんひどいものであろう。が、その当時では、それは、そういうものに慣れて無感覚になっていない人の感覚には実に厭わしいものだった。大きな不潔な巣のような一つの高い建物の内部にある一つ一つの小さな住居――言葉を換えて言えば、共同の階段に向いている一つ一つの戸口の内にある一室ないし数室――は、銘々の階段の中休み段に銘々の塵芥を山のように積み重ねておき、その上、残りの塵芥を窓から抛り出した。こうして出来たどうにも手のつけようのない始末に負えぬ腐敗の堆塊は、たとい貧窮と剥奪とがそれの無形の不潔物を空気に多量に含めなくてさえも、あたりの空気を十分汚したであろう。そこへその二つの悪い原因が一緒になって加わったものだから、そこの空気はほとんど我慢の出来ぬものになっていた。こういう空気の中を、塵埃と毒気との急勾配の暗い堅坑を通って、路は続いているのであった。ジャーヴィス・ロリー氏は、刻一刻とひどくなって来る自分自身の心騒ぎと、自分の若い同伴者の興奮とに負けて、二度も立ち止って休息した。その立ち止ったのは二度とも陰気な格子のところであった。その格子からは、少しでも腐敗せずに残っている衰えたよい空気は皆逃げ出して、すべての悪くなった不健康な瓦斯体が這い込んで来るように思われたのであった。その銹びた鉄棒の間から、ごちゃごちゃになっている附近の様子が、眼で見えるというよりも、舌で味われるようであった。そして、ノートル・ダム★のかの二つの大きな塔の頂よりこっちにある、あるいはそれよりも低いところにある区域内には、健康な生活や健全な熱望などの見込をちょっとでも持っているものは何一つとしてないのであった。
 遂に、階段のてっぺんに達し、彼等は三度目に立ち止った。が、屋根裏部屋の階まで行くには、今までよりももっと勾配の急な、幅の狭い、もう一つ上の階段をまだ昇らなければならなかった。酒店の主人は、あの若い淑女に何か質問をされるのを恐れてでもいるように、絶えず少し先に立って歩き、絶えずロリー氏の歩く側を進んで来たが、このあたりでくるりと向き直り、肩にかけていた上衣のポケットの中を入念に探って、一つの鍵を取り出した。
「じゃ、君、扉《ドア》には錠を下してあるんですね?」とロリー氏は意外に思って言った。
「ええ。そうです。」というのがムシュー・ドファルジュの厳しい返事であった。
「君はあの不仕合せな方《かた》をそんなに閉じこめておくのが必要だと思うのですね?」
「わっしは鍵をかけておくのが必要だと思うんです。」ムシュー・ドファルジュはロリー氏の耳のもっと近くで囁いて、ひどく顔を蹙《しか》めた。
「どうしてです?」
「どうしてですって! もし扉《ドア》が開《あ》けっ放しになっていようものなら、あの人はあんなに永い間押しこめられて暮して来られたので、怖《こわ》がって――暴《あば》れて――われとわが身をずたずたに引き裂いて――死んでしまうか――どんな悪いことになるかわからないからでさ。」
「そんなことがあり得るだろうか?」とロリー氏は大声で言った。
「そんなことがあり得るだろうかってんですか!」とドファルジュは苦々《にがにが》しく言い返した。「そうですよ。われわれが美しい世の中に住んでいる時に、そんなことは実際[#「実際」に傍点]あり得るのです。また、その他《ほか》のそういうようなことがたくさんあり得るんです。あり得るだけじゃない。現にあるのです、――いいですか、あるんですよ! ――あの空の下で、毎日毎日ね。悪魔万歳だ。さあ、行きましょうか。」
 この対話はごく低い囁き声で行われたので、その一語も若い淑女の耳には達しなかった。けれども、この時分には彼女は強烈な感動のためにぶるぶる震え、彼女の顔には深い不安と、とりわけ憂慮と恐怖とが表れていたので、ロリー氏は元気づかせる一二語を言うのを自分の義務と感じた。
「しっかりなさい、お嬢さん! しっかりして! 事務ですよ! 一番つらいことはじきにすんでしまいましょう。ただ部屋の戸口を跨ぐだけのことです。そうすれば一番つらいことはすんでしまうのですよ。それからは、あなたがあの方《かた》に対して持ってお出でになるあらゆるよいこと、あなたがあの方《かた》に対して持ってお出でになるあらゆる慰安、あらゆる幸福が始るのです。ここにおられるわたしたちの親切な友達にそちら側から力を藉してもらいましょう。それで結構、ドファルジュ君。さあ、さあ。事務ですよ、事務ですよ!」
 彼等はゆっくりとそっと上って行った。その階段は短くて、彼等はまもなく頂上へ著いた。そこへ来ると、そこで階段が急に一つ曲っていたので、彼等には突然三人の男が見えるようになった。その三人は一つの扉《ドア》の脇にぴったり寄り添うて頭を屈めていて、壁にある隙間か穴から、その扉《ドア》のついている室の中を熱心に覗き込んでいるのだった。足音が間近に迫って来るのを聞くと、その三人の者は振り向いて、立ち上った。見ると、それはさっき酒店で酒を飲んでいたあの同一の名の三人であった。
「わっしはあなた方が訪ねてお出でなすったのにびっくりして、あの連中のことを忘れてましたよ。」とムシュー・ドファルジュは弁明した。「おい、君ら、あっちへ行ってくれ。わしたちはここで用事があるんだから。」
 三人の者は傍をすうっと通り抜けて、黙ったまま降りて行った。
 その階には他《ほか》に扉《ドア》が一つもないようであったし、自分たちだけになると酒店の主人はその扉《ドア》の方へ真直に歩いてゆくので、ロリー氏は少しむっとして囁き声で彼に尋ねた。――
「君はムシュー・マネットを見世物にしてるのかね?」
「わっしは、選ばれた少数の者に、あなたが御覧になったようなやり方で、あの人を見せるのです。」
「そんなことをしていいものですかな?」
「わっしは[#「わっしは」に傍点]いいと思っています。」
「その少数の者というのはどんな人たちです? 君はその人たちをどうして選ぶのですか?」
「わっしは、わっしと同じ名の者を――ジャークってのがわっしの名ですが――ほんとうの人間として選ぶんです。そういう連中には、あの人を見せてやることはためになりそうなんでね。が、もう止《よ》しときましょう。あなたはイギリス人だ。だからそんなことは別問題です。どうか、ほんのちょっと、そこで待ってて下さい。」
 二人に後に下っているようにと諭《さと》すような手振りをしながら、彼は身を屈めて、壁の隙間から覗いて見た。ほどなく再び頭を揚げると、彼は扉《ドア》を二度か三度叩いたが、――それは明かにそこで物音を立てるだけの目的でしたのであった。それと同じ目的で、鍵を扉《ドア》にあてて三四度ずうっと引き、その後で、それを不器用に錠の中へ挿し込み、出来るだけがちゃがちゃさせながらそれを※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 扉《ドア》は彼の手でゆっくりと内側へ開き、彼は室内を覗き込んで何かを言った。すると弱々しい声が何かを答えた。どちら側からもただの一|言《こと》以上はしゃべらなかったに違いない。
 彼は肩越しに振り返って、二人に入るようにと手招きした。ロリー氏は自分の片腕を令嬢の腰にしっかりと※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して、彼女を支えた。彼女がぐったりと倒れかかるように感じたからである。
「こ――こ――これは――事務ですよ、事務ですよ!」と彼は励ましたが、その頬には事務らしくもない一滴の涙が光っていた。「お入りなさい、お入りなさい!」
「あたくしあれが怖《こわ》いのです。」と彼女は身震いしながら答えた。
「あれとは? 何のことです?」
「あの方《かた》のことですの。あたくしの父のこと。」
 彼女はそういう様子だし、案内者は手招きしているので、幾分やけ気味になって、彼は自分の肩の上でぶるぶる震えている彼女の腕を自分の頸にひっかけ、彼女を少し抱え上げるようにして、彼女をせき立てて室内へ入った。彼は扉《ドア》のすぐ内側のところで彼女を下し、自分にしがみついている彼女を支えた。
 ドファルジュは鍵を引き出し、扉《ドア》を閉《し》め、内側から扉《ドア》に錠を下し、再び鍵を抜き取って、それを手に持った。こういうことを皆、彼は、順序正しく、また、立てられるだけの騒々しい荒々しい音を立てて、やったのであった。最後に、彼は整然たる足取りで室を横切って窓のあるところまで歩いて行った。彼はそこで立ち止って、くるりと顔を向けた。
 薪などの置場にするために造られたその屋根裏部屋は、薄暗くてぼんやりしていた。何しろ、そこの屋根窓型の窓というのは、実際は、屋根に取附けた扉《ドア》であって、街路から貯蔵物を釣り上げるのに使う小さな起重機《クレーン》がその上に附いていた。硝子は嵌めてなく、フランス風の構造の扉《ドア》ならどれも皆そうなっているように、二枚が真中で閉《し》まるようになっていた。寒気を遮るために、この扉《ドア》の片側はぴったりと閉《し》めてあり、もう一方の側はほんのごく少しだけ開《あ》けてあった。そこからわずかな光線が射し込んでいるだけだったので、最初入って来た時には何を見ることも困難であった。そして、こういう薄暗がりの中で何事でも精密さを要する作業をする能力は、どんな人間にしてもただ永い間の習慣によってのみ徐々に作り上げることが出来るだけであったろう。しかるに、そういう種類の作業がその屋根裏部屋で行われていたのであった。というのは、一人の白髪の男が、戸口の方に背を向け、酒店の主人が自分を見ながら立っている窓の方に顔を向けながら、低い腰掛台《ベンチ》に腰掛けて、前屈みになってせっせと靴を造っていたからである。
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    第六章 靴造り

「今日《こんにち》は!」とムシュー・ドファルジュは、靴を造るのに低く屈んでいる白髪の頭を見下しながら、言った。
 その頭はちょっとの間揚げられ、そして、ごく弱々しい声が、あたかも遠くで言っているかのように、その挨拶に答えた。――
「今日《こんにち》は!」
「相変らず精が出るようですね?」
 永い間の沈黙の後に、頭はまたちょっとの間上げられ、さっきの声が答えた。「はい、――仕事をしております。」今度は、顔が再びがくりと垂れる前に、やつれた両眼が問いかけた人をちょっと見た。
 その声の弱々しさは哀れでもあり物凄くもあった。幽閉と粗食も確かにそれに与ってはいたろうけれども、それは肉体的の衰弱から来る弱々しさではなかった。それの悲惨な特性は、それが孤独でいて声を使うことがなかったことから来る弱々しさであるということであった。その声はずっとずっと以前に立てた音声の最後の弱い反響のようであった。それは人間の声らしい生気ある響をすっかり失っているので、かつては美しかった色彩が色褪せて見る影もない薄ぎたない汚染《しみ》になってしまったような感じを与えるのであった。それは非常に沈んだ抑えつけられた声なので、まるで地下の声のようであった。それは望みの絶えた救われない人間をよく表《あらわ》していて、ちょうど、飢えた旅人が、曠野の中をただ独りさまようて疲れ果て、行き倒れて死ぬ前に、故郷と近親の者とを思い出す時の声はこうでもあろうかと思われるくらいであった。
 無言の作業の数分間が過ぎた。それから例のやつれた眼が再び見上げた。それは、幾分でも興味や好奇心からではなく、その眼の見て知っている唯一の訪問者が立っていた場所から、まだその人が立去っていないことを、予め、ぼんやりと無意識に知覚したからであった。
「わたしはね、」とその靴造りからじっと眼を放さずにいたドファルジュが言った。「ここへもう少し明りを入れたいんですがね。もう少しくらいなら我慢が出来ましょうね?」
 靴造りは仕事を止《や》めた。耳をすましているようなぼんやりした様子で、自分の一方の側の床《ゆか》を見た。それから、同じように、もう一方の側の床《ゆか》を見た。それから、話しかけた人を仰いで見た。
「何と仰しゃいましたか?」
「あなたはもう少しくらいの明りは我慢が出来ましょうね?」
「あんたが入れるというなら、わたしは我慢しなけりゃならん。」(その最後の言葉にほんのごくわずかばかりの力を入れて。)
 開いている方の片扉が更にもう少し開《あ》けられ、差当りその角度で動かぬようにされた。幅の広い光線が屋根裏部屋の中へさっと射し込み、その靴工がまだ仕上らぬ靴を膝の上に載せたまま働く手を休めている姿を見せた。彼の二三の普通の道具と、鞣皮《なめしがわ》のさまざまの切屑とが、彼の足もとや腰掛台《ベンチ》の上に散らばっていた。彼は、ぎざぎざに刈った、しかしさほど長く延びていない白い鬚と、肉の落ちた顔と、非常に光る眼をしていた。その眼は、よし事実大きくはなかったにしても、まだ黒い眉毛ともじゃもじゃの白髪の下で、肉が落ちて痩せこけた顔のために大きく見えたであろう。ところが、それは生れつき大きかったので、異様に大きく見えた。黄ろいぼろぼろになったシャツの咽《のど》もとが開いていて、体《からだ》の萎《しな》びて痩せ衰えているのが見えた。彼の体も、古ぼけた麻布の仕事服も、だぶだぶの靴下も、身に著けているすべてのひどい襤褸《ぼろ》著物も、永い間じかに日光と外気とにあたらなかったために、すっかり色が褪せて、一様にくすんだ羊皮紙のような黄色になっているので、どれがどれだか見分けもつきかねるくらいであった。
 彼は片手を自分の眼と光との間に揚げていたが、その手の骨までが透き通って見えるように思われた。仕事の手を休めたまま、じっとぼんやりした眼付をしながら、彼はそうして腰掛けていた。彼は、音声を場所と結びつける習慣を失ってしまったかのように、最初に自分のこちら側、次にあちら側と見下してからでなければ、決して自分の前にいる者の姿を見ないのであった。まずこんな風にきょろきょろして、口を利くのも忘れてからでなければ、決して口を利かないのであった。
「今日《きょう》のうちにその一足の靴を仕上げようというんですか?」とドファルジュは、ロリー氏に前へ出るようにと手招きしながら、尋ねた。
「何と仰しゃいましたかな?」
「今日《きょう》の中にその一足の靴を仕上げるつもりなのですか?」
「仕上げるつもりだということはわたしには言えません。仕上るだろうと思うだけです。わたしにはわかりません。」
 しかしその質問は彼に仕事のことを思い出させ、彼は再び身を屈めて仕事にかかった。
 ロリー氏は、令嬢を扉《ドア》の近くに残して、無言のまま前へ出て来た。彼がドファルジュの傍に一二分間ばかりも立っていた頃、靴造りは顔を上げて見た。彼は別の人間の姿を見ても別に驚いた様子は見せなかった。ただ、その姿を見ると彼の片方の手のぶるぶるしている指が脣にふらふらとあてられ(彼の脣も爪も同じ蒼ざめた鉛色をしていた)、それからやがてその手はばたりと仕事のところへ落ち、彼はもう一度靴の上へ身を屈めた。この見上げるのとこれだけの動作をするのとはほんのしばらくしかかからなかった。
「そら、あなたのところへお客さんですよ。」とムシュー・ドファルジュが言った。
「何と仰しゃいましたか?」
「お客さんが来ていらっしゃるよ。」
 靴造りは前のように顔を上げて見たが、しかし仕事から手を離さなかった。
「さあ!」とドファルジュが言った。「ここに、出来のよい靴を見ればすぐおわかりになる方《かた》が来てお出でになるのだ。お前の拵えているその靴をこの方《かた》にお目にかけなさい。旦那《ムシュー》、それを取ってみて下さい。」
 ロリー氏はそれを手に取った。
「この方《かた》に、それがどんな種類の靴か、また製造者の名前は何というのか、申し上げなさい。」
 いつもよりももっと永い間をおいてから、靴造りはこう答えた。――
「あんたのお尋ねになりましたのはどんなことだったかわたしは忘れました。何と仰しゃいましたのですか?」
「この方《かた》の御参考に靴の種類を説明してあげることが出来ないか? と言ったのだよ。」
「それは婦人靴です。若い婦人の散歩靴です。それは今の流行のものです。わたしはその流行を一度も見たことがありませんでした。わたしは型を一つ持っているのです。」彼は、束《つか》の間《ま》のほんの微かな誇りの色を浮べながら、その靴をちらりと見やった。
「それから製造者の名前は?」とドファルジュが言った。
 その靴造りは、する仕事がなくなったので、右手の指の節《ふし》を左の掌《てのひら》に載せ、次には左手の指の節を右の掌に載せ、それから次には片手で鬚の生えた頤を撫で、そういうことを規則正しく一瞬も休まずに続けた。彼が口を利いた後で必ず陥る放心状態から彼を囘復させる骨折は、誰か非常に虚弱な人を気絶から囘復させたり、何かの打明け話を聞くことが出来ようかと思って、死にかかっている人間の魂を引き止めようと努めたりするのに似ていた。
「わたしの名前をお尋ねになりましたのですか?」
「いかにも尋ねた。」
「北塔百五番。」
「それだけか?」
「北塔百五番。」
 吐息《といき》とも呻《め》き声ともつかぬものうい音《ね》をほっと洩らすと共に、彼はまた身を屈めて仕事をし出したが、やがて沈黙はまた破られた。
「あなたは本職の靴造りではないのでしょうね?」と、彼をじっと見つめながら、ロリー氏が言った。
 この質問をドファルジュに転嫁したがっているかのように、彼のやつれた眼はドファルジュの方に向いた。が、その方面からは何の助けも来なかったので、その眼は床《ゆか》を捜してから質問者に戻った。
「わたしが本職の靴造りではないだろうって? はい、わたしは本職の靴造りではありませんでした。わたしは――わたしはここへ来てから覚えたのです。独りで覚えたのです。わたしはお許しを願って――」
 彼はそう言いかけたまま何分間もぼんやりした。その間中、あの両手の規則的な代る代るの動作を繰返していた。彼の眼は、とうとう、そこからさまよい出た元の顔へゆっくりと戻った。その顔に止ると、彼ははっとして、眠っていた人がつい今目が覚めて、前夜の話題をまた話し出すような工合に、再び言い始めた。
「わたしはお許しを願って独りで覚えたいと思いましたが、ずいぶん永い間かかってやっとのことでそのお許しを得ました。その時からずっと靴を造っております。」
 彼が取り上げられている靴を受け取ろうとして手を差し出した時に、ロリー氏はなおも彼の顔をじっと覗き込みながら言った。――
「ムシュー・マネット、あなたは私のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか?」
 靴は床《ゆか》にばたりと落ち、彼はその質問者をじいっと眺めながら腰掛けていた。
「ムシュー・マネット、」――ロリー氏は自分の片手をドファルジュの腕にかけて、――「あなたはこの人のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか? この人をよく御覧なさい。私をよく御覧なさい。あなたのお心の中には、昔の銀行員や、昔の仕事や、昔の召使や、昔のことが少しも浮んで参りませんか、ムシュー・マネット?」
 その永年の間の囚人がロリー氏とドファルジュとを代る代るじいっと見つめながら腰掛けているうちに、額《ひたい》の真中の、永い間掻き消されていた、活動的な鋭い知能の徴《しるし》が、彼にかぶさっていた黒い霧を押し分けてだんだんと現れて来た。と、その徴は再び霧に覆われ、次第に微かになり、とうとう消え去ってしまった。が、それは確かにそこに現れたのであった。そして、その表情は、壁に沿うて彼の姿の見られるところまでそうっと歩いて来て、今はそこに彼を見つめながら立っている令嬢の、美しい若い顔にも寸分の違いなくそっくりに現れたので、――その彼女は、最初は、たとい彼を近づけず彼の姿を見まいとするためではないにしても、恐怖を交《まじ》えた憐憫の情から両手をただ挙げていただけであったのに、今は、亡霊のような彼の顔を自分の暖かな若い胸に休ませて、それを愛撫して生命と希望とに引戻してあげたいという熱望で震わせながら、その手を彼の方に差し伸べていたのであるが、――その表情は彼女の美しい若い顔にも寸分の違いなく(もっともその性質はいっそう強かったが)そっくりに現れたので、移り動く光のようにそれが彼から彼女に移ったのかと思われるくらいであった。
 暗黒がその表情に代って彼に覆いかぶさっていた。彼が二人を見つめる注意が次第次第に弱くなり、その眼は陰鬱な放心状態で前のようにして床《ゆか》を捜し自分の周りを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。遂に、深い長い吐息を一つつくと、彼は靴を取り上げて、また仕事にかかった。
「あの方《かた》だという見分けがおつきになりましたか、旦那《ムシュー》?」とドファルジュが囁き声で尋ねた。
「つきました。一瞬間ですがね。最初はわたしはそれを全く望みがないと思いましたが、ほんの一瞬間、わたしが以前よっく知っていた顔を確かに見ました。しいっ! わたしたちはもっと後へさがりましょう。しいっ!」
 彼女は屋根裏部屋の壁のところから離れて、彼の腰掛けている腰掛台《ベンチ》のごく近くまで行っていた。手を差し出せば身を屈めて仕事をしている自分に触れるところにいる人の姿をも意識しない彼の様子には、何となくぞっとするようなところがあった。
 一語も話されなかったし、何の音も立てられなかった。彼女は彼の傍に精霊のように立っていたし、彼は仕事をしながら屈んでいた。
 そのうちに、彼は手に持っている道具を靴造り用の小刀《ナイフ》に持ち替える必要が出来た。その小刀《ナイフ》は彼女の立っている側と反対の側にあった。それを取り上げて、再び仕事にかかろうと屈んだ時に、ふと彼女の衣服の裾《スカート》が目についた。彼は眼を上げて、彼女の顔を見た。傍に見ていた二人の者ははっとして前へ出た。が、彼女は片手を動して彼等を制止した。彼がその小刀《ナイフ》で彼女を突き刺しはしまいかと、彼等は懸念したにしても、彼女は少しもしなかった。
 彼は恐しい眼付で彼女を見つめた。そして、しばらくしてから、彼の脣は、まだ少しの声もそこから出て来はしなかったけれども、何かの言葉を言う形をし出した。漸次に、速い苦しげな息遣いの合間合間に、こう言うのが聞えて来た。――
「これはどうしたことだろう?」
 涙を顔にぽろぽろ流しながら、彼女は自分の両の手を脣にあて、それに接吻して彼に送った。それから、その手をちょうど彼の破滅させられた頭をそこに休ませるかのように、自分の胸の上に組み合せた。
「あなたは牢番さんの娘さんではありませんね?」
 彼女は溜息をつくように言った。「ええ。」
「あなたは誰ですか?」
 彼女は、まだ自分の声の調子が当《あて》に出来なかったので、彼と並んでその腰掛台《ベンチ》に腰を掛けた。彼は尻込みした。が彼女は自分の片手を彼の腕にかけた。彼女がそうした時に奇妙な戦慄が彼を襲い、それが目に見えて彼の体中に伝わった。彼は彼女を見つめながら、小刀《ナイフ》をそっと下に置いた。
 長い捲毛にしている彼女の金髪は、ぞんざいに掻き分けてあって、彼女の頸のところまで垂れていた。彼は手を少しずつ伸ばし、その髪を手に取り上げてじっと見入った。そうしている最中に彼は気がふらふらとして、もう一度深い吐息をつくと、靴を造る仕事を始めた。
 しかし永い間ではなかった。彼女は彼の腕を放して、彼の肩に手をかけた。すると彼は、あたかもその手がほんとうにそこにあるのかということを確めようとするかのように、二度か三度それを疑わしげに眺めてから、仕事を下に置き、自分の頸のところへ手をやって、黒くなった一筋の紐を取り出した。その紐には摺《たた》んである襤褸の小片が結びつけてあった。彼はそれを膝の上で気をつけて開《あ》けた。中にはほんの少しの髪の毛が入っていた。彼がいつか以前に自分の指に巻きつけて取ったらしい一筋か二筋の長い金髪だった。
 彼は彼女の髪の毛を再び手に取って、それをつくづくと眺めた。「同じものだ。どうしてそんなことがあるはずがあろう! あれはいつのことだったろう! どうしてだったかな!」
 例の思いを凝すような表情が彼の額に戻って来た時、彼はその表情が彼女の額にもあるのに気がついたようであった。彼は彼女を光の方へまともに向けて、彼女を眺めた。
「わしが呼び出されたあの晩、彼女《あれ》はわしの肩に頭をあてていた。――彼女《あれ》はわしの出かけるのを心配していた。わしの方は少しも心配などしなかったのに。――それからわしが北塔へ連れて来られた時に、これがわしの袖についているのをあの人たちが見つけたのだ。『あなた方もこれはわたしに残しておいて下さるでしょうな? これはわたしの魂の脱獄には助けになるかもしれんが、体の脱獄には決して助けになることは出来んものだから。』わしはそう言ったものだった。わしはそれをよく覚えている。」
 彼はこれだけの文句を口に出せるまでには、何度も何度も脣でその文句の形をしてみたのであった。しかし、話そうとする言葉が出て来始めると、ゆっくりではあったけれども、次々に続いて出て来た。
「これはどうしてだったろうな? ――あれはあなただったのか[#「あれはあなただったのか」に傍点]?」
 彼が恐しく不意に彼女の方に振り向いたので、もう一度、二人の傍観者ははっとした。だが、彼女は彼の手に掴まえられたまま全くじっと腰掛けていて、ただ低い声でこう言った。「どうぞ、お願いでございますから、皆さま、あたくしたちの近くへお出で下さいますな、口をお利き下さいますな、お動き下さいますな!」
「おや!」と彼は叫んだ。「あれは誰の声だったかな?」
 この叫び声を立てると彼は両手を彼女から離し、自分の白髪のところへ上げて、気違いのようにそれを掻きむしった。それも次第に止んでしまった。彼の靴造りの仕事以外のどんなことでも彼には次第に止んでゆくように。そして彼はあの小さな包みを再び摺み、それを胸のところへしまいこもうとした。が、やはり彼女を見ていて、陰気な顔をしながら頭を振った。
「いや、いや、いや。あなたは若過ぎる。若盛り過ぎる。そんなことはあるはずがない。この囚人がどんなになっているか見て御覧。この手は彼女《あれ》の知っていた頃の手ではない。この顔も彼女《あれ》の知っていた頃の顔ではない。この声も彼女《あれ》の聞いたことのある声ではない。いや、いや。彼女《あれ》も――またその頃のわしも――北塔で永い年月《としつき》がたたぬ前のことだ、――ずっとずっと昔のことだ。優しい天使さん、あなたの名前は何というのですか?」
 彼の語調と挙動との和《やわら》いだのに喜んで応ずるように、彼の娘は彼の前に跪いて、訴えるように両手を彼の胸のところへ差し出した。
「おお、あなたさま、いつかまた別の時に、あたくしの名前や、あたくしのお父さまがどなたでしたか、お母さまがどなたでしたか、またそのお二人のつらいつらいお身の上をどうしてあたくしがちっとも知らずにいましたか、お話申し上げましょう。けれども、今は申し上げられません。ここでは申し上げられません。ここで今申し上げられますのは、どうかあたくしにお手をあててあたくしを祝福して下さいましとお願いすることだけでございますわ。あたくしに接吻して下さいまし、接吻して下さいまし! おお、お懐《なつか》しいお方、お懐しいお方さま!」
 彼の冷い白い頭は彼女のつやつやした髪の毛と雑《まじ》り、その髪は彼を照す自由の光であるかのようにその頭を温め輝かせた。
「もしあなたがあたくしの声をお聞きになりまして、あたくしの声に――そうなのかどうかあたくしは存じません、そうであるようにと思っているのでございますが――あたくしの声に、以前あなたのお耳にとって美わしい音楽でありましたお声に幾らかでも似たところがございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあなたがあたくしの髪にお触りになりまして、あなたがお若くて自由でいらした頃にあなたのお胸にもたれた最愛の方《かた》のお頭《つむり》を思い出させるものが何でもございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあたくしがこれから御一緒に家庭をつくって、出来るだけ忠実に出来るだけ真心をこめてあなたにお仕えいたしましょうと申し上げます時に、あなたのお気の毒なお心が思い悩んでいらっしゃる間、永い間見棄てられていた家庭を思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし!」
 彼女は彼の頸をいっそうしっかりと抱き締めて、彼を子供のように自分の胸のところで揺り動かした。
「もしあたくしが、お懐しいお懐しいお方、あなたのお苦しみはもうすみました、そのお苦しみからあなたをお救いするためにあたくしはここへ参りました、あたくしたちは平和に安穏に暮すためにイギリスへ行くのです、と申し上げます時に、あなたが、御自分の有益な御生涯が無駄になりましたことや、あたくしたちの生れ故郷のフランスがあなたにたいそう意地わるであったことを思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! それからまた、もしあたくしが自分の名前と、生きてお出でになるあたくしのお父さまのお名前と、お亡《な》くなりになりましたお母さまのお名前を申し上げます時に、あたくしのお気の毒なお母さまが御慈愛からあたくしのお父さまのお苦しみをあたくしにお隠しになりましたため、あたくしがお父さまのために一日中骨を折ったことや一晩中眠らずに泣き明かしたことが一度もなかったことを、あたくしの立派なお父さまの前に跪いて、お父さまのお赦《ゆる》しをお願いしなければならないのです、ということがおわかりになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! お母さまのために、それから、あたくしのために、お泣き下さいまし! まあ皆さま、何て有難いことでしょう! 父の浄らかな涙があたくしの顔に落ちますの。父の啜り泣きがあたくしの胸に響いて来ますの。おお、御覧下さいまし! あたくしたちのために神さまに感謝して下さいまし、何と有難いことでしょう!★」
 彼は彼女の胸の中でぐったりとなり、その顔は彼女の胸のところに落ちていた。それは実に感動的な光景であった。しかも、これまでに彼が受けて来た非行と苦難とを思えば、実に恐しい光景であった。二人の傍観者は顔を蔽うたのであった。
 屋根裏部屋の静けさは永い間乱されずにいた。そして、彼の波打つ胸も震える体も、あらゆる嵐の後に必ず来るあの静穏――人間にとっては、生活という嵐が遂には鎮まって必ずそこへ落著くあの休息と沈黙との表象――に永い間委ねられていた。それから、二人の傍観者はその父親と娘とを床《ゆか》から抱き起そうと前へ進み出た。父親の方はだんだんに床《ゆか》にずり下っていて、疲れ果てて、昏睡状態になってそこで横わっていた。娘の方は、片腕に父の頭を載せておけるようにと、彼と一緒に下へうずくまっていた。そして、彼に垂れかかっている彼女の髪の毛は彼から光を除けていた。
「もし父を起さずにおいて、」と彼女は、ロリー氏が何度も鼻をかんだ後で二人の上に身を屈めた時に、ロリー氏に片手を挙げながら、言った。「父をこの家からすぐ連れて行けるように、あたくしたちがすぐさまパリーを立つ手筈がすっかり出来ますならば――」
「だが、お考え下さい。お父さまは御旅行をなすってもよろしいですか?」とロリー氏が尋ねた。
「父にとってあんなに恐しいこの都にいるよりは、まだしもその方がよい、とあたくしは思いますわ。」
「それあそうですよ。」と、見たり聞いたりするのに跪いていたドファルジュは、言った。「そればかりじゃありません。ムシュー・マネットは、あらゆる理由から、フランスを去られる方が一番いいんです。じゃあ、わっしは馬車と駅馬を雇って来ましょうか?」
「それは事務ですな。」とロリー氏は、すぐさま彼の几帳面な態度に返りながら、言った。「事務をやらねばならんのでしたら、わたしがやる方がいいでしょう。」
「では、どうぞあたくしたち二人をここに残しておいて下さいまし。」とマネット嬢は言い張った。「御覧の通り父はこんなに落著いて参りましたから、もう父をあたくしと一緒に残してお出でになりましても御心配はございません。どうして御心配なことなどございましょう? 誰も入って来ませんように扉《ドア》に錠を下して下さいますなら、きっと、父は、あなた方がお戻りになります時には、お出かけの時と同じように穏かにしておりますでしょうよ。何にしましても、あなた方がお帰りになりますまであたくしは父を預りましょう。そしてお帰りになりましたらあたくしたちは早速父を連れ出すことにいたしましょう。」
 ロリー氏もドファルジュも二人とも、このやり方は幾分気が進まず、二人の中のどちらか一人が残ることに賛成であった。けれども、馬車と馬の手配りをしなければならぬだけではなく、旅行免状の手配りもしなければならなかったし、それに、日も暮れようとしていて、時間が切迫していたので、とうとう、ぜひしなければならない用事を大急ぎで二人に分けて、それをしに二人が急いで出かけるということになった。
 それから、闇が迫って来ると、娘は自分の頭を父親のすぐ傍の堅い床《ゆか》の上に横えて、彼を見守っていた。闇はだんだんと濃くなって来た。そして二人は静かに横わっていた。そのうちに、とうとう、壁の例の隙間から灯光が一つちらちら洩れて来た。
 ロリー氏とムシュー・ドファルジュとが、すっかり旅行の準備をすませて、旅行用の外套や肩掛膝掛などの他《ほか》に、パンと肉、葡萄酒、熱い珈琲を携えて来た。ムシュー・ドファルジュは、この食糧と、彼の持っているランプとを、靴造りの腰掛台《ベンチ》(その屋根裏部屋にはそれ以外に藁蒲団の寝台《ベッド》が一つあるだけだった)の上に置いた。それから彼とロリー氏とは囚人を呼び覚し、助けて立ち上らせた。
 彼の顔に現れた、おびえたような、茫然とした驚きの中に、彼の心の奥を読み取ることは、いかなる人智にも出来なかったろう。彼がこれまでに起ったことを知っているのかどうか、彼等が彼に言ったことを思い出せるのかどうか、彼が自分の自由になっていることを知っているのかどうか、それはいかなる智慧も解くことの出来ない疑問であった。彼等は彼に話しかけてみた。が、彼はひどくまごまごして、返事もなかなか出来ないので、彼等は彼の当惑する様にびっくりして、当分はその上彼をいじくらないことにしようということにした。彼は、時々両手で頭を抱えるような、前には彼に見られなかった、狂気じみた、我を忘れたような挙動をした。それでも、娘の声だけでも聞くのは幾分気持がよいらしく、彼女が口を利く時にはきっとその方へ振り向くのであった。
 圧制に服従するのに永い間慣れていた人間に見られる柔順な態度で、彼は、彼等が飲み食いするようにと与えたものを飲み食いし、彼等が身に著けるようにと与えた外套やその他の身に纒うものを著た。彼は娘がその腕を彼の腕と組もうとするのにすぐに応じて、彼女の手を自分の両手に取って――放さずに持っていた。
 一同は下へ降り始めた。ムシュー・ドファルジュはランプを持って真先に行き、ロリー氏はその小さな行列の殿《しんがり》になった。あの長い本階段をそう幾段も降りないうちに彼は立ち止って、屋根をじっと見つめ、壁をじろじろ見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
「この場所を覚えていらっしゃいますか、お父さま? あなたはここを上っていらしたことを覚えていらっしゃいますか!」
「何と仰しゃったかな?」
 しかし、彼女がその問を繰返さないうちに、彼はあたかも彼女がその問を繰返したかのように答を呟いた。
「覚えているかって? いいや、覚えていない。あれはずいぶん以前のことだったからな。」
 彼が牢獄からこの家へ連れて来られたことについては少しの記憶も持っていないのは、彼等には明白になった。彼等は彼が「北塔百五番。」と呟くのを聞いた。そして、彼が自分の周囲を眺める時には、明かにそれは自分を永い間取囲んでいた堅固な城壁を探し求めるためであったのだ。一同が中庭まで来ると、彼は、吊上げ橋のあるのを予期しているように、知らず識らずのうちに歩き振りを変えた。ところが、吊上げ橋がなくて、からりとしている街路に馬車が待っているのを見ると、彼は娘の手を放して、また自分の頭を抱えた。
 入口のあたりには人だかりもなかった。たくさんの窓のどれにも人影は見えなかった。街路にも偶然に通りかかっている人さえ一人もいなかった。不自然なほどの沈黙と寂寞とがあたりを領していた。ただ一人の人間だけが見えた。それはマダーム・ドファルジュであった。――彼女は入口の側柱に凭れかかって編物をしていて、何も見ずにいた。
 かの囚人が馬車の中へ入ってしまい、彼の娘がその後に続いて入ってしまった時に、ロリー氏は、囚人が彼の靴を造る道具とあの仕上っていない靴とを哀れげに求める声を聞いて、踏台の上に足を止めた。マダーム・ドファルジュはただちに自分の夫に声をかけて自分がそれを取って来ようと言い、編物をしながら、中庭を通って、ランプの光の届かぬところへ歩いて行った。彼女は急いでそれを持って降りて来て、馬車の中へそれを手渡しした。――そしてすぐに入口の側柱に凭れかかって編物をし、何も見ようとしなかった。
 ドファルジュは馭者台に乗って、「城門へ!」と命じた。馭者は鞭をひゅうっと鳴らし、一同の乗った馬車は弱い光を放って頭上に吊り下っている街灯の下をがらがらと走って行った。
 頭上に吊り下っている街灯――立派な街になるほどますます明るく、悪い街になるほどますます薄暗く吊り下っている――の下を通って、また、灯火のついた店や、楽しげな群集や、灯光で装飾された珈琲店や、劇場の入口などの傍を通り過ぎて、市門の一つへと。そこの衛兵所の、角灯を持った兵士たち。「免状だ、旅行者たち!」「ではこれを御覧下さい、お役人さん。」とドファルジュが、馬車から降りて、その役人たちを由々しげに離れたところへ連れてゆきながら、言った。「これが車内の頭の白い人の旅行免状です。この免状は、あの人と一緒に、わっしが――で引渡されまし――」 彼は声を低くした。すると衛兵たちの角灯の間にざわめきが起った。そして、その角灯の一つが軍服を著た腕で馬車の中へ突き入れられると、その腕に接続した眼が、不断の日の、いや不断の夜の眼付とは違った眼付で、その頭の白い人を眺めた。「よろしい。通れ!」と軍服から。「御機嫌よろしゅう!」とドファルジュから。そして、だんだんと光の弱くなってゆく頭上に吊り下っている街灯がしばらく続いている下を通って、星が広くたくさん輝いている下へ。
 動かざる永遠の灯《ともしび》――その中のあるものは、この小さな地球から非常に遠く隔っているので、その光線が果してこの地球をそこで何事でも苦しんだりしている空間中の一点として見つけたことさえあるかどうか疑わしいと学者が言っている――のその穹窿の下に、夜の影は広々とまた黒々としていた。夜が明けるまでの、冷い、眠られぬがちな時間を通じて、その夜の影は、ジャーヴィス・ロリー氏――埋められていて掘り出された人と向い合って腰を掛け、この人からどんな微妙な能力が永久に失われたのか、どんな能力が囘復出来るのかと訝《いぶか》っているロリー氏――の耳に、もう一度、あの以前の問を囁いた。――
「あなたは甦《よみがえ》りたいとお思いでしょうね?」
 それからまたあの以前の答を囁くのだった。――
「わしにはわからない。」
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     第二巻 黄金《こがね》の糸
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    第一章 五年後

 テムプル関門《バー》の傍のテルソン銀行は、一千七百八十年においてさえ、古風な場所であった。それはごく狭くて、ごく暗くて、ごく不体裁で、ごく勝手が悪かった。その上に、その商社の社員たちがその狭いのを誇りとし、その暗いのを誇りとし、その不体裁なのを誇りとし、その勝手の悪いのを誇りとしているという精神的の特質でも、それは古風な場所であった。彼等は自分の銀行が狭くて暗くて不体裁で勝手の悪い点で際立っていることを自慢さえしていて、もしそれがこれほどひどくなかったならば、銀行の品格はそれだけ低くなるだろうという、明確な信念に燃えていた。これは決して消極的な信念ではなくて、もっと便利な営業所に対して彼等が閃かす積極的な武器であった。テルソンは(と彼等は言うのだった)何もゆとりなどを必要としない。テルソンは何も明りなどを必要としない。テルソンは何も装飾などを必要としない。ノークス商会には必要かもしれぬ。スヌークス兄弟商会には必要かもしれぬ。だが、テルソンには、有難いことには! だ――。
 こういう社員は誰でも、テルソン銀行を改築しようなどという問題を持ち出そうものなら、自分の息子でも勘当したことであろう。この点ではその銀行はこの国とよほど似ていた。この国は、永い間非常に非難のあった、しかし品格だけはますます備わって来た法律や慣習を改善しようと言い出した息子たちを、はなはだしばしば勘当したのだから。
 こういう次第で、テルソン銀行は意気揚々と不便の極致になってしまっていた。白痴のように強情な扉《ドア》を低い軋り音を立てながらぐいと開《あ》けた後に、諸君はテルソン銀行の中へ二段だけ下って降りる。そして、小さな勘定台の二つある、みすぼらしい、小さな店の中で、諸君は我に返る。そこでは、この上もなく年をとった人たちが、諸君の小切手をちょうど風がそれをさらさら音を立てさせるかのように振り動かしてみたり、また、この上もなく黒ずんだ窓の傍でその署名を調べてみたりする。その窓はフリート街★から来る泥土をいつも雨のように浴びせられていて、その窓に附いている鉄格子と、テムプル関門《バー》の重苦しい影とのためにいっそう黒ずんでいたのだ。もし諸君が自分の用件で「銀行」と会う必要が生ずるならば、諸君は奥の方にある罪人の監房のようなところに入れられる。諸君がそこで空費された生涯ということについて黙想していると、やがて銀行は両手をポケットに突っ込んでやって来る。そこの陰気な薄明りの中では諸君は彼を辛うじて細眼《ほそめ》で見ることが出来るだけだ。諸君のお金《かね》は虫の喰った古い木製の抽斗《ひきだし》の中から出て来る。またはその中へ入って行く。その抽斗が開《あ》けられたり閉《し》められたりする時に抽斗の微分子が諸君の鼻の中を舞い上ったり諸君の咽《のど》を舞い下ったりするのである。諸君の銀行紙幣は、まるでそれが再びもとの襤褸《ぼろ》にずんずん分解しつつあるかのように、黴臭い匂いをしている。諸君の金属器類はそこらあたりのどぶ溜のようなところの中へしまいこまれる。そして悪《あ》しき交りがそれの善き光沢を一日か二日のうちに害《そこな》う★のである。諸君の証券は台所と流し場とを改造した俄か造りの貴重品室の中へ入ってしまう。そしてその羊皮紙から脂肪がすっかり蝕《く》い取られてその銀行の空気になってしまう。家庭の書類を入れた諸君の軽い方の箱は、階上の、いつも大きな食卓が置いてあるが決して御馳走のあったことがないバーミサイドの部屋★へ上って行く。そして、その部屋で、一千七百八十年においてさえ、諸君の以前の愛人や諸君の小さな子供たちによって諸君に宛てて書かれた最初の手紙は、アビシニアかアシャンティーにふさわしい狂暴な残忍さと兇猛さとをもってテムプル関門《バー》の上に曝されている首★に、窓越しに横目で見られる恐怖から、ようやくのことで免れるのである。
 しかし、実際、その当時では、死刑に処するということは、あらゆる商売や職業に大いに流行している方法であった。そしてテルソン銀行でもそれに後《おく》れは取らなかった。死ということはあらゆることに対する大自然の療法である。とすればどうしてそれが法律の療法でないことがあろうか? そういう訳で、文書偽造者は死刑に処せられた。不正な紙幣の行使者は死刑に処せられた。信書の不法開封者は死刑に処せられた。四十シリング六ペンスを偸んだ者は死刑に処せられた。テルソン銀行の戸口にいる馬の番人が馬を曳いて逃走して死刑に処せられた。不正貨幣の鋳造者は死刑に処せられた。犯罪の全音域中の楽音を鳴らす者の四分の三は死刑に処せられた。そうしたところで犯罪防止に少しでも役に立ったという訳ではない、――事実は全くその正反対であったと言ってもいいくらいであったかもしれぬ、――が、そうすることは一つ一つの事件の煩わしさを一掃(現世に関する限りでは)して、それに関係のあることで考慮しなければならないようなことを他に一切残さなかったのだ。そういう次第で、テルソン銀行も、その全盛時代には、同時代の他の大きな営業所と同様に、非常に多くの人命を奪ったものである。だから、もしその銀行の前で打ち落された首が、こっそりと始末されないで、テムプル関門《バー》の上にずらりと並べられていたならば、その首は、おそらく、銀行の一階が受けているわずかばかりの明りをかなりはなはだしく遮ったことであろう。
 テルソン銀行のさまざまの薄暗い食器戸棚や兎小屋のようなところに押しこめられて、この上もなく年をとった人たちがいかにも真面目《まじめ》に事務を執っていた。彼等は青年をテルソン銀行ロンドン商社に採用した時には、その青年が老年になるまで彼をどこかに隠しておく。彼等は彼を乾酪《チーズ》のように暗い場所に貯蔵しておくのだ。するとしまいに彼は十分にテルソン風の風味と青黴★とを帯びて来るのである。そうなってようやく、彼は、人目に立つように大きな帳簿を調べたり、自分のズボンとゲートルとを銀行の全体の重みに加えたりして、人目に触れることを許されるのであった。
 テルソン銀行の戸外に――呼び入れられる時でなければどうあっても決して入ることのない――時には門番になり時には走使《はしりづか》いになる、雑役夫が一人いて、その銀行の生きた看板になっていた。彼は、使いに行っている時の他《ほか》は、営業時間中にはそこにいないことは決してなかった。そして、その使いに行っている時には、彼の倅《せがれ》が彼の代理をした。彼にそっくり生写《いきうつ》しの、十二歳になる、人相の悪い腕白小僧だ。世間の人々は、テルソン銀行が大まかなやり方でその雑役夫を使ってやっているのだということを承知していた。その銀行はいつも誰かしらそういう資格の人間を使ってやっていたのであって、歳月がこの人間をその地位に運んで来たのである。彼の姓はクランチャーといって、幼少の頃に、ハウンヅディッチ★の東教区教会で、代理人を立てて悪行を棄てると誓った時に★、ジェリーという名を附け加えてもらっていた。
 場面は、ホワイトフライアーズ★のハンギング・ソード小路《アレー》におけるクランチャー氏の私宅であった。時は、|わが主の紀元《アノー・ドミナイ》千七百八十年、風の強い三月のある日の朝、七時半。(クランチャー氏自身はわが主の紀元のことをいつもアナ・ドミノーズと言っていた。キリスト紀元なるものはあの一般に流行している遊びの発明された時から始っているのであって、それを発明したある婦人が自分の名をそれに与えたのだ、と明かに思い込んでいたものらしい。★)
 クランチャー君の借間《アパートメント》は附近が悪臭のない場所ではなかった。そして、たといたった一枚だけの硝子板の嵌っている物置を一室に数えるとしても、間数《まかず》は二つきりであった。しかし、その二|間《ま》はごくきちんと片附いていた。その風の強い三月のある日の朝、まだ時刻が早かったのに、彼の寝ている部屋はもうすっかり拭き掃除がしてあった。そして、朝食の用意に並べてあるコップや敷皿と、がたがたする樅板との間には、ごく清潔な白い布が掛けてあった。
 クランチャー君は、寛《くつろ》いでいるハーリクィンのように、補綴《つぎはぎ》だらけの掛蒲団をかぶって寐ていた★。最初は、ぐっすりと眠っていたが、だんだんと、寝床の中でのたくり※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ったり波打ったりし始め、遂には、例の忍返《しのびがえ》しを打ちつけたような髪の毛で敷布《シーツ》をずたずたに裂きそうにしながら、蒲団の上へぬっと起き上った。その途端に、彼は恐しく怒り立った声で呶鳴った。――
「畜生、あいつめまたやってやがるな!」
 部屋の一隅に跪いていた、おとなしそうな、勤勉そうな女が、今言われたあいつとは彼女のことであるということが十分にわかるほどあわてておどおどして、立ち上った。
「こら!」とクランチャー君は、寝床の中から片方の長靴を探しながら、言った。「お前《めえ》またやってやがるな。そうだろ?」
 この二度目の会釈で朝の挨拶をすませると、彼は三度目の会釈として片方の長靴をその女をめがけて投げつけた。それはひどく泥だらけな長靴であった。そして、それは、彼が銀行の時間がすんでからきれいな靴で家へ戻って来るのに、次の朝起きる時にはその同じ長靴が粘土だらけになっていることがしばしばあるという、クランチャー君の家事経済に関係のある、奇妙な事柄★を紹介し得るのである。
「何を、」とクランチャー君は、狙った的《まと》に中《あ》てそこなってから自分の呼びかける人間の言い方を変えて、言った。――「何を手前《てめえ》はしてやがったんでえ、人に迷惑をかける奴め?」
「わたしはただお祈りを唱えていただけですよ。」
「お祈りを唱えていたと! ひでえ阿魔《あま》だよ、手前《てめえ》は! へえつくばりやがって、おれに悪いことになるようにって祈るなんて、どういうつもりなんだ?」
「わたしはお前さんに悪いようになんて祈りやしませんよ。お前さんによいようにと祈ってたんです。」
「そうじゃねえだろ。よしそうだったにしろ、おれあそんな勝手な真似なんぞしてもれえたかねえ。おい! お前《めえ》のおっ母《かあ》はひでえ女だぜ、ジェリー坊。お前《めえ》の父《とう》ちゃんの運がよくならねえようにってお祈りをするんだからな。お前《めえ》は律義なおっ母を持ったもんだよ、お前《めえ》はな、小僧。お前《めえ》は信心深えおっ母を持ったもんだぞ、お前《めえ》はよ、なあ、坊主。へえつくばって、自分の独り息子の口からバタ附きパンをひったくって下さいって祈るんだからなあ!」
 小クランチャー君(彼はシャツのままでいた)はこれをひどく怒って、母親の方へ振り向くと、自分の食物を祈って取ってしまうようなことは一切してくれるなと烈しく異議を唱えた。
「ところで、この自惚《うぬぼ》れ女め、手前《てめえ》はな、」とクランチャー君は、前後撞著に気がつかずに、言った。「手前の[#「手前の」に傍点]お祈りの値打がどれだけあるだろうと思ってるんだい? 手前の[#「手前の」に傍点]お祈りに手前《てめえ》のつけてる値段を言ってみろ!」
「わたしのお祈りは心の中から出て来るだけだよ、ジェリー。それより他《ほか》に値打ってありゃしないよ。」
「それより他に値打ってありゃしないだと。」とクランチャー君は繰返して言った。「じゃあ、大《てえ》して値打のねえものなんだな。あったってなくったって、おれあもう祈ってもれえたかねえんだぞ。おれあそんなこたあ我慢が出来ねえ。おれあ手前が[#「手前が」に傍点]こそこそやってそのために不仕合せにされるなんて厭だ。手前《てめえ》がぜひともへえつくばらなけりゃならねえんなら、手前《てめえ》の亭主や子供のためになるようにへえつくばれ。ためにならねえようにやるんじゃねえぞ。もしおれに邪慳《じゃけん》な女房さえなかったならだ、そいからこの可哀《かええ》そうな子供に邪慳なおっ母さえなかったならばだ、おれあ、先週なんざあ、悪いように祈られたり、目論《もくろみ》の裏をかかれたり、信心のために出し抜かれたりして、この上なしの運の悪い目になんぞ遭わねえで、お金《かね》を幾らか儲けてたんだ。ち、ち、畜生め!」とそれまでの間に衣服を著てしまっていたクランチャー君が言った。「あの先週は、神信心だのあれやこれやの呪い事だので、おれあぺてんにかけられて、可哀《かええ》そうな実直な商売人めがこれまで出くわしたことのある中でも一番不仕合せな目に遭ったじゃねえか! おい、ジェリー坊、お前《めえ》著物を著てな、おれが靴を磨いてる間、時々おっ母に気をつけてろよ。そしてまたへえつくばりそうな様子がちょっとでも見えたら、おれを呼ぶんだぜ。てえのはだ、手前《てめえ》、いいかい、」とここで彼はもう一度女房に話しかけて、「おれあまたあんな風にやられたかねえからなんだぞ。おれあ貸馬車みてえに体がぐらぐらしてるし、阿片チンキを飲んだみてえに眠いし、体の筋はあんまり使い過ぎてるんで、もし痛みでもなかろうものなら、どれがおれでどれが他人《ひと》さまだかわかんねえくれえなんだ。それだのにおれの懐《ふところ》工合はそのためにちっともよくはならねえ。で、おれあどうも、手前《てめえ》が朝から晩まであれをやってて、おれの懐工合がよくならねえようにしてるんじゃねえかと思うんだ。おれあそんなことは勘弁がならねえ、この人に迷惑をかける奴め。さあ、手前《てめえ》、何とか言うことがあるかい!」
 その上にまだ、「ああ! そうだよ! 手前《てめえ》はそれに信心|深《ぶけ》え人間だったな。それなら自分の亭主や子供のためにならねえようなことはしめえな、そうだろな? そうとも、手前はしねえとも!」というような文句を呶鳴ったり、ぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っている彼の憤怒の囘転砥石からその他の皮肉の火花を散らしたりしながら、クランチャー君は自分の長靴磨きや出勤準備をやり出した。そうしている間に、彼の息子は、この方《ほう》の頭は父親よりは幾分柔かな忍返しを打ってあるし、その若々しい眼は父親のと同じに互にくっついていたが、言いつかった通りに母親を見張っていた。彼は時々、身支度をしている自分の寝間の物置から飛び出して来て、小さな叫び声で「おっ母《かあ》、お前《めえ》つくばろうとしてるな。――おうい、父《とう》ちゃん!」と言い、そして、そういう佯《いつわ》りの警報を発してから、親不孝なにたにた笑いを浮べながらまた自分の部屋へ飛び込んで、あの可哀そうな婦人を大いにまごつかせるのであった。
 クランチャー君の機嫌は、彼が朝食に向った時にも、ちっともよくなっていなかった。彼はクランチャー夫人が食前の祈祷をするのを特別の憎悪の念をもって憤った。
「やい、人に迷惑をかける奴め! 手前《てめえ》は何をしていやがるんだい? またあれをやってるのか?」
 彼の妻は、ただ「食事前に祝福を願った」だけだと弁明した。
「そんなこたあしてくれるな!」とクランチャー君は、あたかも女房の祈願の効験でパンの塊が消え失せてゆくのが見えはしまいかと思ってでもいるようにあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、言った。「おれあ祝福してもらって家《うち》から追ん出されたかねえんだよ。おれあ祝福で自分の食物《たべもの》を食卓からふんだくられるなあ厭だ。じっとしてろ!」
 ちっとも陽気にならなかった宴会で一晩中起きてでもいたかのように、ひどく赤い眼と怖《こわ》い顔をして、ジェリー・クランチャーは、動物園の四《よ》つ足《あし》連中のように食事を前にして唸りながら、朝食を食べるというよりも噛みちらかしていた。九時近くになると、彼は苛立《いらだ》った顔付を和《やわら》げ、そして、自分の本性にかぶせられる限りの恥しからぬきちんとした外見を装《よそお》いながら、その日の業務に出て行った。
 その業務たるや、彼自身が自分のことを好んで「実直な商売人」と称してはいたけれども、どうも商売とは言いがたいものなのであった。彼の元手《もとで》は、背の壊れた椅子を切り縮めて拵えた木製の床几《しょうぎ》一つだけであった。その床几を、小ジェリーが、父親と並んで歩きながら、銀行のテムプル関門《バー》に一番近い窓の下のところまで毎朝運んで行くのだった。その場所で、その雑役夫の足を寒気と湿気とから防ぐために、どれでも通りがかりの車から拾い取ることの出来た最初の一掴みの藁を加えれば、その床几はその日の陣所となるのだ。彼のこの持場にいるクランチャー君は、フリート街やテムプル★によく知られていることは関門《バー》そのものと同じくらいであった。――また形相の悪いこともそれとほとんど同じであった。
 例のこの上もなく年をとった人たちがテルソン銀行へ入って行く時に自分の三角帽に手をかけて挨拶するのにちょうど間に合うようにと、九時十五分前に陣取って、ジェリーは、その風の強い三月の朝、彼の部署に就いたのである。小ジェリーは、関門《バー》を通り抜けて侵入していない時には、父親の傍に立っていて、自分の愛らしい目的には適当なくらいに小さい通りがかりの少年たちに、手厳しい種類の肉体的及び精神的の危害を加えてやろうとしていた。お互に非常によく似た父と子とが、銘々の両の眼が互に近よっていると同じように二つの頭を近よせながら、フリート街の朝の人通りを黙然《もくねん》と眺めている様子は、二匹の猿にすこぶる類似していた。その類似は、成人のジェリーの方は藁を噛んでは吐き出しているのに、少年のジェリーの方は頻りにぱちぱち瞬きしている眼で父親やフリート街の他のあらゆるものをきょろきょろと気をつけているという、従属性の情况によって減少されはしなかった。
 テルソン銀行所属の常雇の屋内小使の一人が戸口から頭をにゅっと出して、こういう指図を伝えた。――
「門番さん御用ですよ!」
「万歳、父ちゃん! 朝っぱらにとっつきから一仕事だい!」
 小ジェリーは、こう言って父親の門出《かどで》を祝うと、例の床几に腰を下して、父親の噛んでいた藁に継承的な興味を持ち始め、それから考え込んだ。
「いっつも銹《さび》だらけだ! 父ちゃんの指はいっつも銹だらけだ!」と小ジェリーは呟いた。「父ちゃんはあんな鉄の銹をみんなどっからつけて来るんだろう? ここじゃあ鉄の銹なんてつくはずがねえんだがなあ!」
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    第二章 観物《みもの》

「お前はもちろんオールド・ベーリー★をよく知っているね?」とこの上もなく年をとった事務員の一人が走使いのジェリーに言った。
「へえい、旦那。」とジェリーはどこか強情な様子で答えた。「ベーリーは知っておりますとも[#「とも」に傍点]」
「あ、そうだろう。それからお前はロリーさんを知ってるな。」
「ロリーさんなら、旦那、わっしはベーリーを知ってるよりはよっぽどよく知ってますよ。実直な商売人のわっしがベーリーを、」とその問題の役所へ不承不承に出頭した証人に似なくもないように、ジェリーは言った。「知りたいと思ってるよりはよっぽどよく知ってまさあ。」
「よしよし。じゃあな、証人の入って行く戸口を見つけて、そこの門番にロリーさん宛のこの手紙を見せるんだ。そうすれば門番はお前を入れてくれるだろう。」
「法廷へですか、旦那?」
「法廷へだ。」
 クランチャー君の二つの眼はお互に更に少しずつ近よって、「こいつあお前《めえ》どう思う?」と尋ね合ったように思われた。
「わっしは法廷で待っているんですかい、旦那?」と彼は、眼と眼のその相談の結果として、尋ねた。
「今言ってやるよ。門番は手紙をロリーさんに渡してくれるだろう。そうしたら、お前は何でもロリーさんの目につくような身振りをして、あの人にお前のいる場所を見せてあげるんだぞ。それからお前のしなければならんことは、あの人の用事があるまでそこにずっといるだけだ。」
「それだけなんですか、旦那?」
「それだけだ。あの人は走使いの者を手許にほしいと仰しゃるのだよ。これにはお前がそこにいることをあの人に知らせてあるのさ。」
 老事務員が手紙を丁寧に摺《たた》んで表書をした時に、クランチャー君は、その行員が吸取紙を使う段になるまで彼を無言のまま眺めていた後に、こう言った。――
「今朝《けさ》は偽造罪を裁判するんでしょうね?」
「叛逆罪さ!」
「それじゃあ四《よ》つ裂《ざ》き★だ。」とジェリーは言った。「むごたらしいことをするもんだなあ!」
「それが法律だよ。」と老事務員は、びっくりしたような眼鏡を彼に向けながら、言った。「それが法律だよ。」
「人間に※[#「木+戈」、129-2]《くい》を打ち込むなんていくら法律だってひでえとわっしは思いますよ。人間を殺すのだって十分ひでえが、※[#「木+戈」、129-3]《くい》を打ち込むなんて全くひでえこっでさあ、旦那。」
「そんなことはちっともないさ。」と老事務員は返答した。「法律のことを悪く言うものじゃない。自分の胸にあることと声にすることに気をつけるんだよ、ねえ、お前。そして法律のことは法律にまかせておくがいい。それだけの忠告をわたしはお前にしてあげるよ。」
「わっしの胸と声に宿ってるものってのは、旦那、湿気でさあ。」とジェリーは言った。「わっしの暮し方がどんなに湿《しめ》っぽい暮し方だか、旦那のお察しに任《まか》せますよ。」
「うむ、うむ、」と老行員は言った。「わたしたちはみんなさまざまな暮しの立て方をしてるんだよ。湿っぽい暮しの立て方をしている者もあれば、干涸《ひから》びた暮しの立て方をしている者もあるさ。さあ、手紙だ。行って来てくれ。」
 ジェリーは手紙を受け取った。そして、表面に見せかけているほどには内心では敬意を持たずに、「そういうお前さんだって実入《みい》りの少い爺さんだろうよ。」と心の中で言いながら、お辞儀をして、通りすがりに自分の息子に行先を告げて、出かけて行った。
 その時代には、絞刑はタイバーン★で行われていたので、ニューゲートの外側のかの街は、その後にそこの附物《つきもの》となった一の不名誉な醜名を、まだ受けてはいなかった。しかし、その監獄は厭わしい処であった。その中では大抵の種類の背徳や悪事が行われ、そこではいろいろの恐しい疾病が生れた。その疾病は囚人と共に法廷へ入り込んで、時としては被告席から裁判所長閣下にさえ真直に突き進んで、閣下を裁判官席からひきずり下すこともあった。黒い法冠をかぶった裁判官が囚人に死の判決を宣告すると同じくらいにはっきりと自分自身に死の判決を宣告し、しかも囚人よりも先に死ぬことさえも、一度ならずあった。その他《ほか》のことについては、オールド・ベーリーは死出の旅宿のようなものとして名高かった。そこからは、色蒼ざめた旅人たちが、二輪荷車や四輪馬車に乗って、他界への非業の旅へと、絶えず出立したのである。もっとも二マイル半ばかりは一般公衆の街路や道路を通って行くのだが★、それを見て恥辱とするような善良な市民は、よしあったにしても、ごく稀であった。――それほど習慣というものは力強いものであり、またそれほど始めからよい習慣をつけておくということは望ましいことなのである。オールド・ベーリーは、また架形台★でも名高かった。これは賢明な昔の施設物の一つで、誰一人としてその程度を予知することの出来ない刑罰を課したものであった。なおまた、そこは笞刑柱★でも名高かった。これも懐《なつか》しい昔の施設物の一つであって、その刑の行われているのを見ると人をごく情深くし柔和にするのであった。それからまた、そこは殺人報償金★の手広い取引でも名高かった。これも祖先伝来の智慧の一断片であって、この下界で犯すことの出来る最も恐しい慾得ずくの犯罪へと当然に到らしめるものであった。結局、当時のオールド・ベーリーは、「何事にても現に起っていることはすべて正当なり。」という箴言の最良の例証なのであった。この格言は、かつて起ったことはすべて誤っていなかった、という厄介な結論さえ包含しなかったならば、ずいぶんものぐさな格言ではあるが、それと同時に決定的な格言であったろうが。
 この忌わしい所業の場所のあちらこちらに散らばっている不潔な群集の中を、こそこそと道を歩くことに慣れた人間の巧妙さでうまく通り抜けて、例の走使いの男は自分の探している戸口を見つけ出した。そして、そこの扉《ドア》についている落し戸から例の手紙を差し入れた。人々は、その頃は、ベッドラム★にある芝居を見るのに金を払ったと同じように、オールド・ベーリーの芝居を見るのに金を払ったものであった。――ただ、後者のオールド・ベーリーの余興の方がずっと値段が高かったが。だから、オールド・ベーリーのあらゆる戸口は厳重に番人を置いてあった。――ただし、犯罪人たちが入って来る社会の戸口だけは確かにその例外で★、そこだけは常に広く開《あ》け放してあったのだ。
 しばらくぐずぐず遅滞していた後に、扉《ドア》はその蝶番《ちょうつがい》のところでしぶしぶとほんのわずかばかり囘転し、そしてジェリー・クランチャー君にようやく法廷の中へ体《からだ》をぎゅっと押し入れさせた。
「何が始ってるんです?」と彼は自分の隣に居合せた男に小声で尋ねた。
「まだ何も。」
「何が始るとこなんですか?」
「叛逆事件でさ。」
「四つ裂きの事件ですね、え?」
「ああ!」とその男はさも楽しみそうに答えた。「あいつは網代橇《あじろぞり》★に載せて曳っぱられて行って半殺しに首を絞められ、それから下《おろ》されて自分の眼の前で薄割《うすざ》きにされ、それから臓腑を引き出されて自分の見ている間に焼き捨てられ、それから次には首をちょん切《ぎ》られ、体を四つにぶつ切られる。そいつが判決でさあ。」
「もし有罪ときまったら、って言うんでしょう?」とジェリーは但書と言ったような意味で附け加えた。
「いや、なあに! きっと有罪になりますよ。」と相手が言った。「そいつあ心配するにゃあ及びませんや。」
 この時、クランチャー君の注意は、さっきの手紙を片手に持ってロリー氏の方へ歩いて行くのが見える門番に逸《そ》らされた。ロリー氏は、仮髪《かつら》をかぶった紳士たちの間に、一脚の卓子《テーブル》に向って腰掛けていた。そこから遠くないところに、囚人の弁護士である、仮髪《かつら》を著けた一紳士が、大束の書類を前にしていたし、また、ほとんど向い合ったところに、今一人の仮髪《かつら》を著けた紳士が、両手をポケットに突っ込んでいたが、この人の全注意は、クランチャー君がその時眺めてみた時にもその後に眺めてみた時にも、いつも法廷の天井に集中されているように思われた。ジェリーは荒々しい咳払いをして、頤をさすり、手で合図をした挙句、立ち上って彼を探しているロリー氏の目に留った。ロリー氏は静かに頷《うなず》いて、そして再び腰を下した。
「あの人は[#「あの人は」に傍点]この事件にどんな関係があるんですかい?」とジェリーのさっき口を利いた男が尋ねた。
「わっしはまるで知らねえんで。」とジェリーが言った。
「じゃあ、こんなことをお訊きしちゃ何だが、あんたは[#「あんたは」に傍点]この事件にどんな関係があるんですかね?」
「そいつもまるっきり知らねえんで。」とジェリーは言った。
 裁判官が入場し、それに続いて法廷内に非常なざわめきが起ってやがて鎮まってゆき、それらのために二人の対話は中止された。ほどなく、被告席が興味の中心点となった。今までそこに立っていた二人の看守が出て行き、やがて囚人が連れ込まれて、被告席に入れられた。
 天井を眺めている例の仮髪《かつら》を著けた紳士一人を除いて、その場にいる者は一人残らず、その被告を凝視した。場内のあらゆる人間の呼吸が、波のように、あるいは風のように、あるいは火のように、彼をめがけて押し寄せた。彼を見ようとして、多くの熱心な顔が柱の蔭や隅々から差し伸べられた。後の方の列にいる見物人たちは、彼の髪の毛一筋でも見逃すまいと、立ち上った。法廷の平場《ひらば》にいる人々は、誰に迷惑をかけようとも彼を一目見てやろうと、前にいる人々の肩に手をかけ、――彼の姿をどこからどこまで見ようと、足を爪立てて立ったり、何かの出張りの上に乗っかったり、ないも同然のものの上に立ったりした。この後者の仲間の中に一際目立って、ニューゲートの忍返《しのびがえ》しを打ってある塀の一小片が生きて来たように、ジェリーが立っていた。彼はここへやって来る途中で一杯ひっかけて来たのだが、そのビール臭い息《いき》を、囚人めがけて喚《わめ》き出した。それは、囚人に向って流れている、他のビールや、ジン酒や、茶や、珈琲や、何やかやの波と雑《まじ》った。その波は、既に、囚人の背後にある幾つかの大きな窓にぶつかって砕けて、汚《よご》れた霧と雨になっていたのだ。
 こういうすべての凝視と咆哮との対象というのは、日に焦《や》けた頬と黒眼がちな眼とをした、体格もよく容貌もよい、二十五歳ばかりの青年であった。彼の身分で言えば青年紳士であった。彼は、じみに、黒かあるいはごく濃い鼠の服を著ていた。そして、長くて黒っぽい彼の髪は、頸の後のところでリボンで束ねてあった。それは飾りのためというよりは邪魔にならぬようにしておくためだった。心の中の感情は体のどんな覆いを通しても必ず現れ出ると同様に、彼の今の立場が生んだ蒼白い顔色は彼の頬の日に焦《や》けた鳶色を通して現れていて、精神が太陽よりも力強いことを示していた。その他の点では彼は全く落著いていて、裁判官に一礼をして、静かに立っていた。
 この人間を見つめたりこの人間に呶鳴ったりする人々の興味は、人間性を高めるような種類のものではなかった。彼がこれほどの怖しい判決を受ける危険に臨んでいるのでなかったなら――その判決の残忍な細目の中のどれか一つでも免ぜられる見込があるのだったら――それだけ大いに彼は自分の魅力を失ったことであろう。あのように言語道断な切りさいなまれ方をされる宣告を受けることになっている人間の姿、それが観物《みもの》なのであった。あのように惨殺され切れ切れに裂かれて末代まで名を残すことになっている男、それが人気を生み出していたのだ。種々雑多な見物人たちが、自己を欺くことにかけての自分たちのそれぞれの技巧と能力とに応じて、その興味をどんなに糊塗してみたところで、その興味は、その根底においては、食人鬼のような興味であった。
 法廷内はしいんとする! チャールズ・ダーネーは、彼を告発した(際限のないべちゃくちゃしたおしゃべりをもって)起訴に対して、昨日無罪の申立をしたのであった。その告発というのは、彼はわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の君主なるわが国王陛下に対する不忠の叛逆者であって、その理由とするところは、彼は、種々の機会に、種々の手段と方法とをもって、フランス国王リューイスが上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下に対してなせる戦争★において、彼リューイスを援助したのである。すなわち、彼は、上述のわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下の領土と、上述のフランスのリューイスの領土との間を往復し、上述ののわが畏くも高貴にして顕赫なる云々の陛下が幾何《いくばく》の軍隊をカナダ及び北アメリカに送る準備をしておられるかを、邪悪にも、不忠にも、叛逆的にも、その他種々奸悪にも、上述のフランスのリューイスに密告したのである、ということに対してである。これだけのことは、ジェリーは、いろいろの法律の用語のために髪の毛を逆立てられて頭がますます忍返しのようになりながらも、会得出来て大いに満足した。それで、前述の、幾度も幾度も前述のと言われた、チャールズ・ダーネーなる者が、彼の前で審問を受けようとしているのだということと、陪審官が就任の宣誓をしているのだということと、検事長閣下が弁論にかかろうとしているのだということを、曲りなりにもやっとのことで了解出来たのであった。
 その場にいるすべての人々の心の中で絞首され、斬首されて、四つ裂きにされていた(そして彼自身もそのことは知っていた)被告は、そうした立場にひるみもしなければ、そうした立場にあって少しでも芝居じみた態度を装《よそお》いもしなかった。彼は平静にして傾聴していた。厳粛な関心をもって弁論の開始されるのを注視していた。そして自分の前にある厚板に両手を載せたまま立っていたが、極めて自若としているので、その手は板の上に撒いてある薬草の一葉をも動かしはしなかった。法廷には、獄舎臭と獄舎熱とに対する予防として、一面に薬草を撒き散らし酢を振り撒いてあったのだ。
 囚人の頭の上には鏡があって、彼に光を投げ下すようになっていた。これまでに幾多の悪人や幾多の卑劣漢がその鏡に映されては、その鏡の表面からもこの地球の表面からも共に姿を消してしまったのであった。大洋がいつかはその中に沈んでいる死者を出すことになっているように★、もしその鏡がそれに映った姿をいつか元へ戻すことが出来るならば、この厭わしい場所は実に物凄い幽霊屋敷となることであろう。恥辱不名誉という思いが、それのために鏡はそこに置いてあったのだが、その囚人の心にもちらりと浮んだのかもしれない。それはともかく、彼は姿勢をちょっと変えると、自分の顔に射した一条の光に気づいて、上を見た。そして鏡を見た時に彼の顔はさっと赧らみ、彼の右の手は薬草を押し除けた。
 その動作は、偶然、彼の顔を、法廷の彼の左手に当る側へ向かせたのであった。彼の眼と同じ高さのあたりに、裁判官席のそこの隅に、二人の人が腰掛けていて、彼の視線はただちにその人たちに留《とど》まった。それが非常に突然であったし、また非常にひどく彼の顔付が変ったので、彼に向けられていたすべての眼が、今度はその二人の方へ振り向いた。
 見物人は、その二人の人物が、二十歳を少し出た若い婦人と、明かに彼女の父親である一紳士とであることを知った。その紳士というのは、頭髪の真白な点と、顔に一種名状しがたい強さがある点とで、極めて目に立つ外貌の男であった。強さと言っても活動的な強さではなくて、沈思黙考しているような強さであった。この表情が現れている時には、彼はあたかも老人であるかのように見えた。が、その表情が掻き動かされて消え去る時――ちょうど今も彼が自分の娘に話しかける際にたちまちそうなったように――には、彼はまだ人生の盛りを越えていない立派な男に見えるようになった。
 彼の娘は彼の傍に腰掛けながら、片手を彼の腕に通し、片方の手をその腕に押しつけていた。彼女は、この場の光景の恐しさと、囚人に対する同情とで、父親にひしと寄り添っていた。彼女の額《ひたい》には、被告の危難以外の何ものも見ないほどの一心の恐怖と同情とが、ありありと現れていた。それが極めて目に立ち、極めて力強く飾らずに表れていたので、今まで被告に対して何の憐憫の情も持たずにじろじろ見ていた連中も、彼女のためにさすがに心を動かされた。そして、「あの人たちは何者だろう?」という囁きが拡まった。
 走使いのジェリーは、それまで自己特有の流儀に自己特有の観察をしていて、夢中の余りに自分の指についている鉄銹をしゃぶり取っていたが、その二人が何者であるかを聞こうとして頸を差し伸ばした。彼の近くにいた群集が、その質問を、その親子の一番近くにいる傍聴者の方へだんだんと押し送っていた。そしてその傍聴者のところからそれはいっそうのろのろと押し送られて戻って来て、ようやくジェリーのところに著いた。――
「証人だとさ。」
「どちら側の?」
「反対側の。」
「どっち側に反対の?」
「被告側にだってさ。」
 検事長閣下が絞首索を綯《な》い、首斬斧を研《と》ぎ、処刑台に釘を打ち込まんがために立ち上った時に、裁判官は、ずうっと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]していた眼を元へ戻し、自分の座席で反《そ》り返って、自分の手中にその生命を握っている人間をじっと眺めた。
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    第三章 当外《あてはず》れ

 検事長閣下は陪審官に向って次のようなことを告げなければならないと言った。諸君の面前にいる被告人は、年こそ若いが、死刑に価する叛逆の術策では極めて老獪である。彼が吾々の公敵と通信していることは、今日《きょう》や昨日《きのう》からのことではなく、昨年や一昨年からのことでさえない。被告が、それよりももっと永い間、秘密の用務を帯びてフランスとイギリスとの間を往復する習慣にあったことは確実であって、その用務については彼は何等明白な説明をすることが出来ないのである。もしも叛逆行為なるものが栄えるのがその自然であるならば(幸いにもそういうことは決してないのであるが)、彼の用務が真に邪悪であり有罪であることはそのまま発見されずにすんだかもしれない。ところが、天帝は、恐怖にも動かされず非難にも動かされない一人の人間の心にそのことを知らせて、彼をして被告の画策の性質を探出させ、嫌悪の念に打たれて、その画策を陛下の首席国務大臣ならびに尊敬すべき枢密院に暴露させたもうたのである。この愛国者は諸君の前に出頭させられるであろう。彼の立場及び態度は概して崇高である。彼は被告の友人であったのであるが、幸いにしてかつまた不幸にして被告の非行を看破すると、もはや腹心の友とは認め得ないその叛逆者を、国家の聖なる祭壇に捧げようと決心したのである。古《いにしえ》のギリシアやローマにおけるが如く、わが英国にももし公共の恩人に対して彫像を贈る法令が発布されるならば、この輝ける市民は確かにそれを受けるであろう。が、そういう法令が発布されていないので、彼はおそらくはそれを受けることはあるまい。美徳というものは、詩人たちが古来述べているように(そういう詩の幾多の文句を陪審官諸氏が一語一語舌端に諳《そら》んじておられるであろうことを自分はよく知っているが、――と検事長が言うと、陪審官たちの顔は彼等がそういう詩句については少しも知らぬことに気がついていささか疚《やま》しいような色を表《あらわ》した)、ある意味では伝染するものであり、愛国心、すなわち国を愛する心として知られているかの赫々たる美徳はとりわけそうである。清浄潔白な一点の非難すべきところもない、国王陛下のためのこの証人、陛下の御事に言及するのはいかに些細なことであっても名誉であるが、この証人の示した気高い亀鑑は、被告の従僕に伝染し、彼の心に、その主人の卓子《テーブル》の抽斗《ひきだし》やポケットを調べ、主人の書類を隠匿しようという、神聖な決意を生ぜしめたのである。自分(検事長閣下)はこの賞讃すべき従僕に加えられる若干の誹謗を聞くことを覚悟している。が、全体から言って、自分はこの従僕を自分の(検事長閣下の)兄弟姉妹よりも好み、彼を自分の(検事長閣下の)父母よりも以上に尊敬するのである。自分は陪審官諸氏に来って同じようになされよと確信をもって要求するものである。この二人の証人の証言は、やがてここに提出されるであろうところの彼等の発見した文書と共に、被告が、陛下の兵力と、その海陸における配慮と戦備とについての明細書を所持していたことを示すであろう。しかして、彼がそのような情報を敵国へ常習的に送っていたということに何等の疑いをも残さないであろう。これらの明細書が被告の手蹟のものであるということは証明出来ない。が、それはどちらでもよろしいのである。実際、それは、被告が警戒手段に巧妙なることを示すものとして、起訴にはかえって好都合なのである。その証拠書類は五箇年前まで遡り、被告が既に、英国軍隊とアメリカ人との間に行われた実に最初の戦闘の時日から数週間以前に、そういう有害な任務に従事していたことを示すであろう。これらの理由によって、陪審官諸氏は、忠誠なる陪審官であるがゆえに(諸君がそうであることを自分は知っている)、また責任を重んずる陪審官であるがゆえに(諸君がそうであることを諸君自らが[#「諸君自らが」に傍点]知っておられる)、諸君の好むと好まざるとにかかわらず、断然この被告を有罪と決し、彼を殺さなければならないのである。この被告の頭の刎ねられない限り、諸君は決して枕を高うして眠ることが出来ないであろう。諸君は諸君の妻が枕を高うして眠っているという考えをも忍ぶことが出来ないであろう。諸君は諸君の子供たちが枕を高うして眠っているという思いをも堪えることが出来ないであろう。要するに、諸君にとっても諸君の妻子にとっても、もはや枕を高うして眠るなどということは決してあり得ないのである、と。検事長閣下は、順々に彼の考え得られるあらゆるものの名にかけて、また彼が既に被告をもう死んでいるも同然と考えているという彼の厳粛な誓言に基いて、その被告の首を陪審官たちに請求することによって、論告を終えたのであった。
 検事長の論告が終ると、法廷内ががやがやして来た。それはあたかも雲霞のような大きな青蠅の群《むれ》が、その囚人がまもなくどうなるかということを見越して、彼の身辺に群っているかのようであった。それがまた静まった時に、かの一点の非難すべきところもない愛国者が証人席に現れた。
 次席検事閣下が、それから、彼の指導者の指導に従って、かの愛国者を審問した。名はジョン・バーサッド、紳士である。彼の純潔な精神の物語は検事長閣下がさっき述べたところと寸分の違いもなかった。――それに何か欠点があったとすれば、おそらく、いささか寸分の違いもなさ過ぎたことであろう。彼はその高潔な胸中の重荷を卸してしまったので、つつましげに引下ったであろうが、ロリー氏から遠くないところに腰掛けている、書類を前にした、あの仮髪《かつら》を著けた紳士が、彼に二三の質問をしたいと請うたのであった。向い合って腰掛けている例の仮髪《かつら》の紳士は、まだやはり法廷の天井を眺めていた。
 君はかつて自分で間諜《スパイ》をやっていたことがあるか?★ いいや、自分はそういう卑劣なあてこすりを軽蔑する。君は何によって衣食しているか? 自分の財産によってだ。君の財産はどこにあるか? どこにあるかは正確に記憶していない。その財産は何であるか? 何も他人に関係のあることではない。君はその財産を相続したのか? そうだ、相続したのだ。誰からか? 遠縁の親戚から。非常に遠縁か? かなり遠縁である。監獄に入ったことがあるか? 確かにない。債務者監獄に入ったことは一度もないか? そんなことが今の件とどんな関係があるのかわからない。債務者監獄に入ったことは決してないか? ――さあ、もう一度問う。決してないか? ある。何度か? 二三度。五六度ではないか? あるいはそうかもしれない。何の職業か? 紳士だ。人から蹴られたことがあるか? あったかもしれぬ。たびたびあったか? いいや。階段から蹴落されたこと★があるか? 断然ない。一度階段の頂上のところで蹴られて、自分勝手に階段を落ちたことがある。その時は博奕《ばくち》でごまかしをやったために蹴られたのか? そういうような意味のことを、自分にそういう乱暴を加えた酔っ払いの嘘つきが言った。がそれはほんとうではない。それがほんとうではないということを誓うか? きっぱりと。賭博でごまかしをやって生活したことがあるか? 決してない。賭博をやって生活したことがあるか? 他《ほか》の紳士のする程度以上ではない。被告から金を借りたことがあるか? ある。返したことがあるか? ない。被告と親交があると言っても、それは実際のところはごくちょっとした交際で、乗合馬車や宿屋や郵船などの中で被告に無理に押しつけた交際ではないか? いいや。その明細書を被告が持っているのを見たということは間違いないか? 確かだ。その明細書についてはそれ以上のことは知らないのか? 知らない。例えば、君はそれを自分で手に入れたのではなかったか? そうではない。この証言によって何かを得ようと期待しているのではないか? いいや。いつも政府に雇われて金《かね》を貰って、他人を罠に陥れることを仕事にしているのではないか? とんでもないことだ。それとも何かためにしようとしているのではないか? とんでもないことだ。それを誓うか? 幾度でも。全くの愛国心という動機以外には動機はないのか? ちっともない。
 かの謹直な従僕、ロジャー・クライは、非常な速度でさっさと宣誓しては証言して行った。自分は四年前から誠実にかつ純樸に被告に奉公していたのである。カレー通いの郵船の中で、自分は被告に向って小用|足《た》しを雇うつもりはないかと尋ねた。すると被告は自分を雇ったのである。自分はお情に小用足しを使ってくれと頼んだのではない。――そういうことは思いもよらぬことだ。まもなく、自分は被告を怪しいと思うようになり、彼を監視し始めた。旅行中、彼の衣服を整頓する際に、何囘となく自分はこれと似た明細書が被告のポケットにあるのを見たことがある。自分はここにある明細書を被告の机の抽斗から取り出したのである。自分が最初にそれをそこに入れておいたのではない。自分は、被告がこれと同じ明細書をカレーでフランスの紳士たちに見せ、またこれと似た明細書をカレーとブーローニュ★との両地でフランスの紳士たちに見せているのを見た。自分は自分の国を愛するから、それを忍ぶことが出来ず、密告をしたのである。自分は銀製の急須を盗んだという嫌疑をかけられたことは一度もない。芥子《からし》壺に関して中傷されたことはあるが、しかしそれは鍍金《めっき》の品に過ぎないことがわかった。自分はさっきの証人を七八年来知っている。それは単に暗合に過ぎない。自分はこれを特に不思議な暗合とは考えない。暗合というものは大抵不思議なものであるから。また、自分の[#「自分の」に傍点]場合でもまた真の愛国心が唯一の動機であるということも、自分は不思議な暗合とは考えない。自分は真の英国人であり、自分のような者の多からんことを希望するものである。
 青蠅がまたぶんぶん唸った。そして検事長閣下はジャーヴィス・ロリー氏を呼んだ。
「ジャーヴィス・ロリー氏、あなたはテルソン銀行の事務員だね?」
「そうです。」
「一千七百七十五年の十一月のある金曜日の夜、あなたは用向でロンドンとドーヴァーとの間を駅逓馬車で旅行しましたか?」
「しました。」
「その駅逓馬車には他《ほか》に誰か乗客がありましたか?」
「二人ありました。」
「その二人は夜の間に途中で降りましたか?」
「降りました。」
「ロリー氏、被告を見なさい。被告はその二人の乗客の中の一人ではなかったか?」
「そうであったとお請合《うけあ》いは出来ません。」
「被告はその二人の乗客の中のどちらかに似てはいませんか?」
「二人ともすっかり身をくるんでおりましたし、真暗《まっくら》な晩でしたし、それに私たちは皆一向に口も利きませんでしたので、それさえもお請合《うけあ》いは出来ません。」
「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。被告がその二人の乗客のしていたように身をくるんでいると仮定して、彼のかっぷくと身長とに、彼がその中の一人でありそうにもないと思わせるようなところがありますか?」
「いいえ。」
「ロリー氏、あなたは被告がその中の一人ではなかったとは誓わないんですな?」
「それは誓いません。」
「それでは少くともあなたは彼がその中の一人であったかもしれぬと言われるんですね?」
「そうです。ただ一つ違いますのは、その二人とも――私と同様に――追剥を怖《こわ》がってびくびくしておりましたと記憶いたしますが、この被告には小胆な様子がございません。」
「あなたはいかにも臆病らしく見える人間というのを見たことがありますか、ロリー氏?」
「確かにそういう人間を見たことがございます。」
「ロリー氏、もう一度被告を見なさい。あなたの確かに知っておられるところでは、あなたは以前に彼に逢ったことがありますか?」
「あります。」
「いつです?」
「私はそれから数日後にフランスから帰ろうといたしましたが、カレーで、被告が私の乗っておりました定期船に乗船して参りまして、私と一緒に航海をいたしました。」
「何時《なんじ》に彼は乗船しましたか?」
「夜半少し過ぎに。」
「真夜中にだね。そんな時ならぬ時刻に乗船した乗客は被告一人だけでしたか?」
「偶然にも被告一人だけでした。」
「『偶然にも』などということはどうでもよろしい、ロリー氏。その真夜中《まよなか》に乗船した乗客は被告一人だけだったのですな?」
「そうでした。」
「あなたは一人で旅行していたのですか、ロリー氏、それとも誰か連《つれ》がありましたか?」
「二人の連《つれ》がありました。紳士と婦人とです。その二人はここにおられます。」
「その二人はここにおられるのだね。あなたは被告と何か話をしましたか?」
「ほとんどしません。天候は荒れておりましたし、その航海は長くかかって海が荒れましたので、私はほとんど岸から離れて岸に著くまで長椅子《ソーファ》に寝ていましたのです。」
「|マネット嬢《ミス・マネット》!」
 さっきも場内のすべての眼がその方へ振り向き、今また再び振り向けられた、かの若い婦人は、自分の腰掛けていた場所に立ち上った。彼女の父親も一緒に立ち、自分の片腕に彼女の片手を通したままにしていた。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、被告を御覧なさい。」
 そういう同情と、またそういう真心のこもった若さと美しさとに対することは、その被告にとっては、場内のすべての群集と対するよりも遥かにつらいことであった。いわば自分の墓穴の縁《ふち》に彼女と共に別になって立っているので、じろじろと見つめているすべての人の好奇心の眼は、しばらくの間は、彼に全くじっとしているように力をつけることが出来なかった。彼の右の手は前にある薬草をあわてて掻き分けて空想の中で庭園の花壇にした。そして息遣いを落著かせてしっかりさせようとする彼の努力のために脣はぶるぶる震え、その脣からは血の気がさっと心臓へ戻った。例の大きな蠅のぶんぶん唸る音がまた高まった。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、あなたは以前に被告に逢ったことがありますか?」
「はい。」
「どこで?」
「ただ今お話に出ました定期船の中で。同じ折に。」
「あなたは今話に出た若い御婦人ですね?」
「はあ! ほんとに不仕合せなことに、さようなのでございます!」
 彼女の同情から出たその悲しげな声音《こわね》は、裁判官が幾分荒々しく「あなたに尋ねられた質問に答えればよろしい。それについて意見がましいことを言ってはならぬ。」と言った時の、彼のあまり音楽的でない声の中に消されてしまった。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、あなたはイギリス海峡を渡る時のその航海中に被告と何か話をしましたか?」
「はい。」
「それを思い出して御覧なさい。」
 深い静けさの中で、彼女は弱い声で言い始めた。――
「あの紳士が乗船なさいました時に――」
「あなたは被告のことを言っておられるのか?」と裁判官は眉を顰《ひそ》めながら尋ねた。
「はい、閣下。」
「では被告と言いなさい。」
「被告が乗船して参りました時に、被告は、私の父が、」と彼女は傍に立っている父親に自分の眼を愛情をこめて向けながら、「たいそう疲労していまして、体《からだ》もひどく弱っておりますのに、目を留めました。父はずいぶん衰弱しておりましたので、私は父を外の空気のあたらないところへ連れて参りますのはよくないと存じまして、船室の昇降段の近くの甲板の上に父のために寝床《ベッド》を拵えておきました。そして、父の世話をするために、私は父の傍の甲板に坐っていたのでございます。その晩は私ども四人の他《ほか》に乗客はございませんでした。被告は、親切に、私に私のいたしましたよりも上手に父を風や寒さに当てないようにするにはどうしたらよいか教えてあげてもよろしいかと申してくれました。私は、港の外へ出ますと風がどんなに吹くものか存じませんでしたので、それを上手にするにはどうしたらよろしいのかわからなかったのでございます。被告は私に代ってそれをしてくれました。被告は私の父の様子についても大変|優《やさ》しく親切に言って下さいましたが、きっとほんとうにそう思われたのだと私は思っております。こんな風にして私たちは言葉を交《かわ》し始めたのでございました。」
「ちょっと話の途中ですが。被告は一人だけで乗船したのですか?」
「いいえ。」
「何人被告と一緒にいましたか?」
「フランスの紳士が二人でした。」
「三人で一緒に相談していましたか?」
「フランスの紳士たちが御自分たちの艀《はしけ》に乗って陸へ引揚げなければならなくなる最後の時まで、その三人は一緒に相談していらっしゃいました。」
「この明細書に似た何かの書類が、彼等の間で遣り取りされていませんでしたか?」
「何か書類がその人たちの間で遣り取りされておりました。けれどもどんな書類だか私は存じません。」
「形や寸法がこれに似ていましたか?」
「そうかもしれません。でもほんとうに私は存じませんの。その人たちは私のごく近くでひそひそ話をしながら立っていらしたのではございますけれども。と申しますのは、その人たちは船室の昇降段の一番上のところに立っていらしたのですから。それはそこに吊《つる》してありましたランプの光を使うためなのでした。そのランプは暗いランプでしたし、それにその人たちはごく低い声で話していらっしゃいましたので、私にはその人たちの言っていらっしゃることは聞き取れませんでしたし、またその方《かた》たちが書類を見ていらっしゃるということだけしか見えなかったのでございます。」
「では、被告の話したことについて言って下さい、|マネット嬢《ミス・マネット》。」
「被告は、私の父に対して親切で、好意を持って、いろいろ世話をして下さいましたように、私にも打解けて何でも話して下さいました。――それは私の頼りない境遇から起ったことでございましょうが。私は、」とわっと泣き出して、「今日《きょう》あの方《かた》に御迷惑をおかけして、あの方《かた》に恩を仇《あだ》で返すようなことがなければよいがと存じます。」
 青蠅がぶんぶん唸る。
「|マネット嬢《ミス・マネット》、もし被告が、あなたがそれを述べることがあなたの義務であり――あなたの述べなければならない――またあなたがどうしてもそれを述べずにいる訳にはゆかない――ところの証言を非常に気が進まぬながら述べておられるのだ、ということを完全に理解していないとするなら、彼はここにいる者の中でそのことを理解していないただ一人の人間です。どうか先を続けて下さい。」
「被告は、私に、自分はある面倒なむずかしい性質の用事で旅行しているのだが、その用事はいろいろの人に迷惑をかけることになるかもしれない、だから自分は変名を使って旅行しているのだ、と話しました。また、自分はその用事のために数日前にフランスへ行って来たのだが、これから先も永い間そのために折々フランスとイギリスとの間を行ったり来たりすることになるかもしれない、と申しました。」
「被告はアメリカのことについて何か言いましたか、|マネット嬢《ミス・マネット》? 詳細に述べなさい。」
「被告はあの戦争がどうして起るようになったかということを私に説明してくれようといたしました。そして、自分の判断し得る限りでは、あれはイギリス側が間違った愚かな戦争をやったのだ、と申しました。また、常談のように、たぶんジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世とほとんど同じくらいの偉大な名声を残すだろう★、と言い足しました。でも、その言い振りには少しも悪気はございませんでした。それは、笑いながら、時間を紛《まぎ》らすために、話されたのでございます。」
 芝居の非常に興味のある場面で、多くの眼の注がれている主役俳優の顔に、何か強く目立つ表情が現れるたびに、その表情は見物人に無意識の中に模倣されるものである。彼女がこの証言を述べている時にも、また、それを裁判官が書き留めている間彼女が言葉を切っている合間に、その証言が弁護士に与える印象がよいか悪いかを注視している時にも、彼女の額《ひたい》は痛々しいまでに懸念と緊張とを現した。すると、法廷内の到る処で傍聴者の間にそれと同じ表情が現れた。裁判官がジョージ・ウォシントンについてのあの恐しい異端の言を聞いて、自分の控書から顔を上げてぎろりと眼を光らせた時には、そこにいた人々の額の大部分は、この証人を映す鏡となったと言ってもよいくらいであった。
 検事長閣下はこの時裁判長閣下に、念のためと、また形式上から、この若い婦人の父マネット医師を呼び出すことを必要と認める、ということを知らせた。それで彼が呼び出された。
「|マネット医師《ドクター・マネット》、被告を見なさい。あなたはいつか以前に彼に逢ったことがありますか?」
「一度だけ。彼がロンドンの私の寓居へ訪ねて来ました時に。約三年か、三年半ばかり前。」
「あなたは彼があの郵船にあなたと同船した乗客に相違ないと認めることや、あるいはあなたの令嬢と彼との会話について話すことが出来ますか?」
「閣下、私にはどちらも出来ません。」
「あなたがそれをどちらも出来ないということには何か特別の理由がありますか?」
 彼は、低い声で、答えた。「あります。」
「あなたは、あなたの生国で、公判も、告発さえも受けずに、永い間の監禁を受けるという不幸な目に遭われたのですか、|マネット医師《ドクター・マネット》?」
 彼は、あらゆる人の心を動かす語調で、答えた。「永い間の監禁でした。」
「あなたは今問題になっている折に釈放されたばかりだったのですか?」
「皆が私にそう申しております。」
「その折の記憶が少しもありませんか?」
「少しも。私が監禁の身で靴造りに従事しておりましたある時――それがいつであるかということさえ私には言えないのでありますが――その時から、ここにおります可愛いい娘と一緒に自分がロンドンに暮しているのだと気がつきました時まで、私の心は白紙なのです。お恵み深い神さまが私の心の力を囘復して下された時には、娘は私とごく親しくなっておりました。しかし、どんな風にして親しくなって来たのかということを申し上げることさえ私には全く出来ないのです。それまでの経路については少しも記憶がありません。」
 検事長閣下は腰を下し、そしてその父と娘とは一緒に腰を下した。
 一つの奇妙な事柄がその次にこの事件に生じた。目下の目的は、被告が、まだ逮捕されない誰かある共犯者と共に、五年前の十一月のその金曜日の晩にドーヴァー通いの駅逓馬車に乗って出かけたが、人目をごまかすために、夜中《よなか》にある土地で馬車を降り、そこには足を留めずに、そこから約十二マイルかそれ以上も後戻りして、兵営と海軍工廠とのある処まで行き、そこで情報を蒐集した、ということを証拠立てることなのであった。で、一人の証人が呼び出されて、被告はその兵営と海軍工廠とのある町のある旅館の食堂に、誰か他の人間を待ちながら、ちょうどその必要な時刻にいた男に違いない、ということを鑑定させることになった。例の被告の弁護士はこの証人にいろいろ対質訊問★をしていたが、この証人がその時より以外のどんな機会にも被告を見たことが一度もないということの他《ほか》には、何一つ得るところがなかった。この時、これまでずっと法廷の天井を眺めていた例の仮髪《かつら》の紳士が、小さな紙片に一二語書いて、それを捻《ひね》って、その弁護士に投げてやった。弁護士は、訊問の次の合間にその紙片を開いて見ると、非常な注意と好奇心とをもって被告をうち眺めた。
「君はそれが確かに[#「確かに」に傍点]被告であったということを十分に確信していると今一度言えますね?」
 その証人はそれを十分に確信していると言った。
「君はこれまでに誰でも被告に非常に似た人を見たことがありますか?」
 被告と見違えるくらいに似た人は見たことがない(と証人が言ったのであるが)とのこと。
「では、あの紳士、あそこにいるわたしの同僚を、」とさっき紙を投げてよこした男を指さしながら、「よく見たまえ。それから次に被告をよく見たまえ。どう思います? 二人は互に非常に似ていやしませんか?」
 二人をそうして見比べてみると、その同僚弁護士の風采が放埓なというほどではないにしても無頓著でじだらくなのを差引すれば、二人が互に非常に似ていることは、証人ばかりではなく、その場に居合せたすべての人を驚かすに十分であった。裁判長閣下が、仮髪《かつら》を脱ぐようにその同僚弁護士に命じて頂きたいと請われて、あまり快くもなさそうな承諾を与えると、二人の似ていることはますます目立つようになった。裁判長閣下は、ストライヴァー氏(被告の弁護人)に向って、では吾々は次にはカートン氏(彼の同僚弁護士の名)を叛逆罪の廉《かど》で審理しなければならないのか? と尋ねた。けれども、ストライヴァー氏は裁判長閣下に答えて、そうではない、しかし、自分はその証人に、一度あったことは二度あるものかどうか、もし証人が彼の軽率を示すこういう例証をもっと前に見ていたなら、今のような確信を持ったかどうか、現にそれを見た上でも、今のような確信を持つかどうか、云々、ということを答えてもらいたいのだ、と言った。その訊問の結果は、この証人を瀬戸物の器《うつわ》のように粉砕し、この事件における彼の役割を無用のがらくたとしてしまうまでに打ち砕いたのであった。
 クランチャー君は、ずっと今までの証言を聴きながら、この時分までには自分の指から全く一|昼食《ランチ》分くらいの鉄銹を食べてしまっていた。彼は、今度は、ストライヴァー氏が被告側の申立をきっちりした一著の衣服のように陪審官に合せて造ってゆくのを、傾聴しなければならなかった。ストライヴァー氏は陪審官たちに次のことを証示した。愛国者と称せられるバーサッドはお傭い間諜《スパイ》で、友を売る人間であり、他人の血を売る鉄面皮な商人であり、呪うべきユダ★からこの方《かた》この地上に現れた最大悪党の一人であり――そのユダに彼は確かに顔も幾らか似ている、ということ。謹直な従僕と称せられるクライは彼の友人で同類であり、またそうであるに恥じぬものである、ということ、この二人の事実捏造者で偽証者が自分たちの喰い物にしようとして被告に油断のない眼を注いでいた訳は、被告はフランス生れであるので、フランスにおける何かの家庭問題のためにそのようにイギリス海峡を渡って幾度も往復しなければならなかったからであり、――もっとも、その家庭問題というのが何であるかは、彼の近親の人々に対する考慮から、被告には、生命を賭しても、打明けることが出来ないのである、ということ。陪審官諸氏の現に見られたようにあの若い婦人をあのように苦しめて述べさせ、彼女から※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]じ取り※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]ぎ取ったところのあの証言は、誰でもそういう風に出会った若い紳士と若い淑女との間にありがちな、ほんのちょっとした無邪気な慇懃と礼儀とを意味するだけであって、何にもならぬものであり、――ただ、ジョージ・ウォシントンに関するあの言葉だけは例外であるが、それとても全く余りに途方もないあり得べからざる言葉であるので、怪《け》しからぬ常談としての見地より以外の見地で見らるべきものではない、ということ。最も下等な国民的反感と恐怖心とを利用して人気を博そうとするこの企てが失敗すれば、政府における一つの弱点となるであろうから、検事長閣下は極力努力されたのである、ということ。さりながら、この企てには、余りにしばしばこのような事件を醜悪化するところの、またこの国の国事犯裁判に充満しているところの、あの陋劣で破廉恥な性質の証拠の他《ほか》には、何等拠るべきものがないのである、ということ。しかし、ここまで彼の弁論が進んで来た時に裁判長閣下は言を挟んで(あたかも彼の言ったことが真実ではなかったかのようにしかつめらしい顔をしながら)、自分はこの法官席に坐っていて、そういうあてつけを忍ぶことは出来ない、と言った。
 ストライヴァー氏はそれから自分の方の数人の証人を呼び出し、そしてクランチャー君は、次には、検事長閣下がストライヴァー氏がさっき陪審官に合せて造った衣服をそっくり裏返しにしてゆくのを、傾聴しなければならなかった。検事長閣下は、バーサッドとクライとが彼の考えていたよりも百倍も善良であり、被告が百倍も悪人であることを述べ立てた。最後に、裁判長閣下自身が立って、その衣服を時には裏返しにしたり、また時には表返しにしたりしたが、だいたいにおいて、それを被告の屍衣になるようにてきぱきと裁って型をつけて行った。
 それから今度は、陪審官たちが審議するために向うへ向き、例の大蠅がまた群って来た。
 これまであのように永い間法廷の天井を眺めながら腰掛けていたカートン氏は、この騒ぎの中にあってさえ、座席も変えなければ姿勢も変えなかった。彼の同僚弁護士のストライヴァー氏は、自分の前にある書類を一纒めにしながら、近くに腰掛けている人々と私語したり、時々は陪審官の方を心配そうにちらりと見たりしていたし、すべての観客は多少とも移動したり、新たに集団を造ったりしていたし、裁判長閣下でさえ、その席から立ち上って、壇上をゆっくりと往ったり来たりして歩いていて、観衆の心に裁判長も興奮しているのではなかろうかと疑わせないではなかったのに、この一人の男だけは、破《やぶ》けた弁護士服は半ば脱げかかったまま、また、きちんとしていないその仮髪《かつら》はちょうどさっき脱いだ後に彼の頭の上に偶然載っかったようにかぶり、両手はポケットに入れ、眼は終日そうであったように天井に向けたまま、反《そ》り返って腰掛けているのだった。彼の態度に何となく特に無頓著なようなところのあるのが、彼を不体裁に見せたばかりではなく、疑いもなく彼と被告との間に存するあの強い類似(それは、二人が見比べられた時には、彼が一時だけ真面目《まじめ》になったために、強められたのであった)を非常に減じたので、見物人の多数の者たちは、今彼に注目すると、その二人がそんなに似ているとは思えなかったはずだがと互に言い合ったくらいであった。クランチャー君はその考えを自分のすぐ隣の者に話して、それからこう言い足した。「あの男なんかにゃあ[#「あの男なんかにゃあ」に傍点]弁護の口なんざ一つも手に入《へえ》りっこねえってことにゃ、わっしは半ギニー賭けたっていいでさあ。一つだって手に入《へえ》りそうな奴にゃ見えやしねえ。そうでしょう?」
 だが、このカートン氏は、場内の細かなことを、見掛よりはもっと呑込んでいるのだった。というのは、マネット嬢の頭が父親の胸へがくりと垂れた時に、彼は、それを見つけて、聞き取れる声で「守衛! あすこの若い婦人を介抱してあげろ。あの紳士に手伝って外へ連れ出してあげるんだ。あの婦人が倒れようとしているのがわからんか!」と言った最初の人であったから。
 彼女が連れ去られた時に、人々は彼女を大いに不憫がった。また彼女の父親に大いに同情した。自分の監禁の時代を思い出させられることは、彼には明かに非常な苦痛であったのだろう。彼は訊問を受けた時に強烈な内心の動揺を色に現した。そして、彼を老人に見えさせるあの思いに沈んだような考え込んでいるような様子は、それ以来ずっと、重苦しい雲のように、彼に蔽いかかっていたのであった。彼が出て行った時に、向き直ってちょっと待っていた陪審官は、陪審長を通じて発言した。
 彼等は意見が一致しないので、退廷して協議したいと希望した。裁判長閣下は(たぶん例のジョージ・ウォシントンの件を心に思い浮べていたのであろう)彼等の意見が一致しないということに幾分驚いた様子を示したが、監視附きで退廷してもよろしいという意向を告げて、自分も退廷した。公判は終日続き、やがて法廷内のランプが点《とも》され出した。陪審官は永い間退席しているだろうという噂が立ち始めた。見物人たちは飲食しにぽつりぽつりと去り、囚人も被告席の後の方へ引下って、腰を下した。
 ロリー氏は、さっきあの若い婦人とその父親とが出た時に外へ出て行っていたが、この時再び入って来て、ジェリーを手招きした。ジェリーは、興味が弛んで人が減っていたので、容易《たやす》く彼の近くへ行くことが出来た。
「ジェリー、お前何か食べたいなら、食べに行ってもいいよ。だが、遠くへは行かないようにな。陪審官が入って来る時には間違いなく聞いていてほしいのだ。ちょっとでも陪審官に遅れちゃいけないよ。その評決をお前に銀行まで持って帰ってもらいたいんだからね。お前はわたしの知ってる中じゃ一番足の疾《はや》い使いだから、わたしよりはずっと前にテムプル関門《バー》に著くだろう。」
 ジェリーはちょうど指の節《ふし》で触れられるだけの幅の額《ひたい》をしていた。それで彼はこの通牒と一シリングとを受けたしるしに指の節を額に触れた★。ちょうどその時にカートン氏がやって来て、ロリー氏の腕に手をかけた。
「あの御婦人はいかがです?」
「非常に苦しんでおられます。が、お父さんがいたわっておられますし、法廷から出たのでそれだけ気分がよいようですよ。」
「僕が被告にそう話してやりましょう。あなたのような体面を重んずる銀行員が、公然と被告と口を利いているのを見られては、よくないでしょうからねえ。」
 ロリー氏は、あたかも自分が心の中でその点を考えていたことに気づいたかのように、顔を赧らめた。それでカートン氏は被告人席の外側の方へ歩いて行った。法廷の出口もその方向にあったので、ジェリーは体中を眼にし、耳にし、忍返《しのびがえ》しにしながら、その後について行った。
「ダーネー君!」
 囚人はすぐに進み出て来た。
「君はもちろんあの証人の|マネット嬢《ミス・マネット》の様子を聞きたがっているだろうね。あの人はやがてよくなるよ。君の見たのはあの人の興奮の一番ひどい時だったんだから。」
「私がその原因であったことを非常にすまなく思っています。私の代りにあなたからあの方《かた》に、私の熱心な感謝と一緒に、そう伝えていただくことは出来ないでしょうか?」
「ああ、出来るよ。君が頼むなら、伝えてやろう。」
 カートン氏の態度はほとんど横柄と言ってもいいくらいに無頓著であった。彼は、囚人から半ば身をそむけて、被告人席に片肱で凭れかかりながら、立っていた。
「ぜひお頼みします。私の心からの感謝を受けて下さい。」
「ダーネー君、」とカートンは、やはり半ばだけ彼の方へ向きながら、言った。「君はどうなると思っているかね?」
「最悪の事を予期しています。」
「そう予期しているのが一番賢明だし、また一番ありそうなことだね。だが、陪審官たちが退出したことは君に有利だと僕は思うな。」
 法廷の出口にぶらぶらしていることは許されなかったので、ジェリーは、それ以上は聞かずに、その二人――容貌では互に実に似ていながら、態度では互にまるで似ていない――両人とも上にある鏡に姿を映しながら相並んで立っている――を後に残して出て行った。
 階下の盗賊や悪漢などの雑沓しているような廊下では、一時間半という時間は、羊肉パイとビールとの助けを藉りて過してさえ、のろのろとたって行った。その嗄《しゃが》れ声の走使《はしりづか》いは、それだけの食事をとった後に一つの長腰掛に窮屈そうに腰掛けながら、ついうとうとと居睡りしかけたが、その時、声高なざわめきの声が起り、法廷へと続く階段を人々がどっと潮《うしお》のように速く駈け上って行くので、彼もその中に一緒に運ばれて行った。
「ジェリー! ジェリー!」彼が戸口のところまで行くと、ロリー氏はそこで既に彼を呼んでいた。
「ここです、旦那! 戻って来ますなあまるで戦争でさあ。ここにおりますよ、旦那!」
 ロリー氏は人込みの間から一枚の紙を彼に手渡しした。「大急ぎでな! お前受け取ったか?」
「へえ、旦那。」
 その紙に急いで書いてあったのは「放免[#「放免」に丸傍点]」という語であった。
「もしあんたがもう一度あの『甦《よみがえ》る』って伝言《ことづて》を出して下すったんなら、」とジェリーはぐるりと向き変った時に呟いた。「わっしも今度はあんたの言う意味がわかったんだがなあ。」
 彼はオールド・ベーリーをすっかり出てしまうまでは、それ以外に何かを言う機会は、あるいは何かを考える機会さえも、なかった。なぜなら、群集は彼の足をさらいそうなくらいの猛烈な勢でどっと押し出していたし、当《あて》の外《はず》れた青蠅が他の腐肉を捜し求めに四方へ散ってゆくかのように、蠅の唸るような声高いうわあっという声が街路へ流れ出ていたからである。
[#改ページ]

    第四章 祝い

 法廷の薄暗い灯火のついている廊下から、終日そこで煮られていた人間の蒸煮肉《シチュー》の最後の滓《かす》が濾し取られている時に、マネット医師と、その娘のリューシー・マネットと、被告人の弁護の依頼者のロリー氏と、被告の弁護人のストライヴァー氏とが、チャールズ・ダーネー氏――今釈放されたばかりの――を取囲んで、彼が死から免れたことに祝詞を述べていた。
 そこよりはもっとずっと明るい明りで見ても、面貌の理智的な、挙止の端正なマネット医師が、パリーのあの屋根裏部屋にいた靴造りだと認めることは、むずかしかったであろう。けれども、誰でも彼を二度目に見ると、おやっと思って彼を見直さずにはいられなかったろう。もっとも、そうしたところで、まだ、彼の低い沈んだ声の物悲しい調子や、何も明かな原因もなしに発作的に彼に覆いかぶさる放心状態までは、観察する機会は来なかったであろうが。ただ一つの外部からの原因、それは彼のあの永年の間の永引いた苦しみに話が触れることであったが、それはいつでも――さっきの公判の時のように――彼の魂の奥底からそういう状態を喚び起すのであった。が、一方、その状態はまたその性質上ひとりでに起って、彼の上に暗雲を曳いて来ることもあった。それは、彼の身の上をよく知らない人々にとっては、まるで、三百マイルも離れたところにある本物のバスティーユ★が夏の太陽を受けて彼の上に投げかける影を見たかのように、不可解なことだった。
 彼の心からこの陰鬱な物思いを払い除ける魅力を持っているのは彼の娘だけであった。彼女は、彼をその災難の彼方《かなた》の過去と、その災難の此方《こなた》の現在とに結びつける黄金《こがね》の糸であった。そして彼女の声音《こわね》、彼女の顔の明るさ、彼女の手の接触は、ほとんどいつでも、彼には強い有益な効力を持っていた。絶対にいつでも、という訳ではない。彼女にも自分の力の及ばなかった場合もあるのを思い起すことが出来たからである。が、そういう場合はわずかでちょっとしたものであったので、彼女はそんなことはもうすんでしまったものと信じていたのであった。
 ダーネー氏は熱情と感謝とをこめて彼女の手に接吻し、それからストライヴァー氏の方へ振り向いて、彼に厚く礼を言った。ストライヴァー氏は、三十を少し越しただけだが、実際よりは二十歳も老《ふ》けて見える、太った、大声の、赭ら顔の、ざっくばらんな男で、敏感《デリカシー》などというひけめは一切持ち合せていなかった。人中《ひとなか》へも会話へも他人を肩で押し分けて(精神的にも肉体的にも)割込んでゆく押の強いたちであった。それは、彼が実生活でも他人を肩で押し分けて出世してゆくことを十分証拠立てているのだった。
 彼はまだ仮髪《かつら》と弁護士服とを著けていた。そして、人のいいロリー氏をその一団からすっかり押し出してしまうまでに、自分のさっきの弁護依頼人に向って肩肱を張って、言った。「わたしは君を立派に救い出してあげたんで嬉しいですよ、ダーネー君。あれはどうも不埓な告発でした。実に不埓なものでした。だが、そのためにかえってうまくゆきそうだったんですな。」
「私は一生御恩に著《き》ます、――二つの意味で。」と彼のさっきの弁護依頼人が、相手の手を取りながら、言った。
「わたしは君のためにわたしの全力《ベスト》を尽したんです、ダーネー君。そしてわたしの全力《ベスト》は他《ほか》の人のに劣らんつもりですがね。」
「劣るどころかずっと優《まさ》っていますよ。」と明かに誰かが言わなければならないところだったので、ロリー氏がそれを言った。たぶん、少しの私心もなかったという訳ではなく、もう一度元のところへ割込もうという私心的な目的もあってのことらしかった。
「あなたはそうお考えですかね?」とストライヴァー氏は言った。「なるほど! あなたは一日中出席しておられたんだから、御存じのはずだ。それに、あなたは事務家ですからなあ。」
「ところでその事務家としまして、」とロリー氏が言った。彼は、その法律に精通した弁護士に先刻その一団から肩で押し出されたようにして、今度はその一団の中へ肩で押し戻されていたのである。――「その事務家としまして、私は|マネット先生《ドクター・マネット》にお願いいたしたいんですが、この会議をこれで打切りにして、私どもみんなを家《うち》へ帰らせていただきたいものですね。リューシーさんは工合がお悪いようですし、ダーネー君は恐しい目に遭われたのですし、私どもは疲れ切っておりますから。」
「御自分だけのことを話しなさい、ロリーさん。」とストライヴァーが言った。「わたしはまだしなけりゃならん夜の仕事があるんだ。御自分だけのことを話しなさい。」
「私は、自分のためと、」とロリー氏は答えた。「それからダーネー君に代って、申すのです。それからリューシーさんにも代って、それからまた――。リューシーさん、あなたは私が私どもみんなに代って話してもいいとお考えになりませんか?」彼はきっぱりと彼女にそう尋ねて、彼女の父親にちらりと目をやった。
 彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で見つめていわば凍ったようになっていた。そのじっと見入った眼付はだんだんと深まって、嫌悪と疑惑との蹙《しか》め顔となり、恐怖の色をさえ交《まじ》えた。そういう奇妙な表情を浮べたまま彼の思いは彼からふらふらと脱け出ていたのだ★。
「お父さま。」とリューシーは、自分の手をそっと彼の手に載せながら、言った。
 彼は幻影をゆっくりと払い除けて、彼女の方へ振り向いた。
「あたしたちはお家《うち》へ帰りましょうか、お父さま?」
 長い息をつきながら、彼は答えた。「うむ。」
 放免された囚人の友人たち★は、彼がその晩釈放されることはあるまいと考えて、――そう考えたのは彼自身が発頭人なのであったが、――もう散り散りになってしまっていた。廊下の灯火はほとんど全部消され、鉄の門はぎいっと軋り音を立てて鎖されかけ、その気味の悪い場所は、明日の朝、絞首台や、架刑台や、笞刑柱や、烙鉄《やきがね》などの興味が再び見物人を集めるまでは、人気《ひとけ》がなくなってしまった。リューシー・マネットは、父親とダーネー氏との間に挟まれて歩きながら、戸外へ出た。一台の貸馬車が呼び止められて、父と娘とはそれに乗って去って行った。
 ストライヴァー氏は廊下で皆と別れて、肩で風を切って衣裳室へと引返して行ってしまっていた。その一団に加わりもせず、また彼等の中の誰とも一語を交《かわ》しもせずに、壁の蔭の一番暗いところに凭れかかっていたもう一人の人間は、黙々として皆の後からぶらぶらと出て行って、馬車が馳せ去るまで見送っていた。彼はそれからロリー氏とダーネー氏とが鋪道に立っているところまで歩いて行った。
「やあ、ロリーさん! 事務家ももう今じゃあダーネー君と口が利けるようになったという訳ですかな?」
 誰一人としてこの日の弁論におけるカートン氏の役割について少しでも感謝の意を表した者はなかった。誰一人としてそれを知りもしなかった。彼は法服を脱いでいたが、そのために別段風采がよくなっているという訳でもなかった。
「事務家の心が善良な直情と事務上の体面との二つに分れる場合に、その人がどんなつらい思いをするものかということが君にわかれば、君も面白がるんだろうがね、ダーネー君。」
 ロリー氏は顔を赧くして、むきになって言った。「あなたはさっきもそのことを仰しゃいましたね。会社などへ勤めているわれわれ事務家は、自分が自分の思い通りにならんのですよ。われわれは自分自身のことよりももっと会社のことを考えなくちゃあならんのです。」
「わかってますとも[#「とも」に傍点]、わかってますとも[#「とも」に傍点]。」とカートン氏は無頓著に答えた。「そう怒っちゃいけませんよ、ロリーさん。あなたが人に劣らない善い人だってことは、僕は少しも疑いませんよ。いや、人より以上に、と言ってもいいでしょう。」
「それにですな、実際、」とロリー氏は、相手の言うことにも構わずに、言い続けた。「わたしにはあなたがそういう事柄にどういう関係がおありになるのか全くのところわからんのです。わたしはあなたよりはよっぽど年長者だから、それに免じて言わしてもらえるならですな、そういうことがあなたの関する事務だとはわたしには全くわからんのです。」
「事務ですって! とんでもない、僕には[#「僕には」に傍点]事務なんてものはありゃしませんよ。」とカートン氏が言った。
「事務がないとはお気の毒なことですな。」
「僕もそう思います。」
「もしおありでしたら、」とロリー氏は言い続けた。「たぶんあなただってそれに身をお入れになるでしょうがね。」
「いやいや、どういたしまして! ――身を入れるものですか。」とカートン氏が言った。
「えっ、何ですって!」と、彼の冷淡さにすっかりかんかんになって、ロリー氏は叫んだ。「事務は非常に結構なものですし、また非常に尊敬すべきものです。それでですな、事務上から拘束を受けて黙っていたり差控えていたりしなければならないとしても、ダーネー君のような寛大な青年紳士は、その辺の事情を大目に見られることなどはちゃんと心得ておられるのです。ダーネー君、おやすみなさい。御機嫌よう! あなたが今日《きょう》命拾いをされたのはこれから順調な幸福な生涯を送られるためであるようにと思いますよ。――おうい、轎《かご》★だ!」
 その弁護士にと同様にたぶん自分自身にも少し腹を立てて、ロリー氏はせかせかと轎に乗って、テルソン銀行へと担がれて行った。ポルト葡萄酒★の匂いをぷんぷんさせて、全くの素面《しらふ》とは見えないカートン氏は、この時笑い声を立てて、ダーネーの方へ振り向いた。――
「君と僕とが落合うとはこれあ不思議な※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り合せだ。自分にそっくりの人間とここで二人だけでこの鋪石《しきいし》の上に立っているなんて、君にとっても不思議な晩に違いないだろう?」
「私にはまだ、」とチャールズ・ダーネーが答えた。「この世へ戻ったような気が十分しないのです。」
「そいつあ不思議じゃあないよ。何しろ君があの世の方へだいぶ遠くまで行きかけたのはついさっきのことだからな。君は気が遠くなっているようなのに口を利いているね。」
「私は確かに[#「確かに」に傍点]気が遠くなりそうな気がして来ました。」
「それなら一体どうして君は食事をしないんだ? 僕は、あの馬鹿野郎どもが君をどちらの世界に置いたものか――この世か、それともどこか別の世か――と頭をひねっている間に、食事をしたのさ。うまい食事をさせてくれる一番近くの飲食店へ案内しようか。」
 腕と腕とを組み合せながら、彼は相手の男をひっぱって、ラッドゲート・ヒル★を下ってフリート街に出て、それから、廊道を上って一軒の飲食店へ入った。そこで二人は小さな一室に案内され、チャールズ・ダーネーは上等のあっさりした食事と上等の葡萄酒とでまもなく力を恢復していた。その間カートンは同じ卓子《テーブル》に向って彼と向い合せに腰掛けていて、前に自分の別なポルト葡萄酒の罎を置き、例の半ば横柄な態度をすっかり現していた。

「君はもうこの世の人間に戻ったような気がするかね、ダーネー君?」
「私はまだ時間と場所については恐しく混乱していますが、それくらいの気がするほどには気分がよくなりました。」
「それはさぞかし御満足だろうね!」
 彼は苦《にが》々しげにそう言って、また自分の杯に一杯に注《つ》いだ。それは大きな杯であった。
「ところが僕はだ、僕の何よりの願いは、自分がこの世のものだということを忘れたいということなんだ。この世は僕にとっては――こんな酒を除けばだね――何のいいところもないし、また、僕もこの世にとってはそうなんだ。だから、その点では僕たちは大して似ちゃあいないんだな。いや、そればかりか、僕たちはどの点でも大して似ていないような気がして来たよ、君と僕とはね。」
 昼間《ひるま》の感情の激動で頭が乱れてもいたし、粗野な振舞のこの生写《いきうつ》しの人間と一緒にそこにいるのが夢のように思れもするので、チャールズ・ダーネーはどう答えていいかまごついた。で、とうとう、何も答えなかった。
「さあ、もう君の食事もすんだのだから、」とカートンはやがて言った。「なぜ君は健康を祝さないのさ、ダーネー君? なぜ君は乾杯をしないんだい?」
「何の祝杯を? 何の乾杯を?」
「なあに、そいつあ君の口先まで出ているさ。そうあるべきだよ、そうに違いないよ。そうだということは僕は誓ってもいいぜ。」
「では、|マネット嬢《ミス・マネット》に!」
「では、|マネット嬢《ミス・マネット》に!」
 その乾杯をしている間相手の顔をまともに眺めていたカートンは、自分の杯を肩越しに壁に投げつけた。杯は粉微塵に砕けた。それから、彼は呼鈴《ベル》を鳴らして、別のを持って来いと言いつけた。
「あれなら暗がりで手を貸して馬車に乗せてやりがいのある美人だね、ダーネー君!」と彼は、新たな杯に酒を注《つ》ぎ込みながら、言った。
 ちょっと眉を顰《ひそ》めて簡単に「そう。」と言うのがその答であった。
「あれなら同情されたり泣いてもらったりされがいのある美人だよ! どんな気持がするかなあ? ああいう美人の同情と憐憫の対象になるのなら、命がけで裁判されるだけの値打があるかね、ダーネー君?」
 もう一度ダーネーは一|言《こと》も答えなかった。
「あの女《ひと》は、僕が君の伝言《ことづて》を伝えてやったら、それを聞いてとても喜んでいたよ。いや、なあに、あの女《ひと》が喜んでいる素振りを見せたという訳じゃあないんだがね。喜んでいたろうと僕が推量しているのさ。」
 こう言われたことから、ダーネーは、この不愉快な相手が昼間の難関で我から進んで自分を助けてくれたことを、折よく思い出した。それで彼は話をそこへ向けて、彼にその礼を言った。
「僕はどんな礼だって言ってほしくもなければ、言ってもらうだけの資格もないのさ。」というのがその無頓著な応答だった。「第一に、あれは何でもないことだし、第二には、僕はなぜあんなことをしたのか自分でもわからないんだ。ダーネー君、僕は君に一つ尋ねたいことがあるんだがね。」
「どうぞ。あなたの御親切な御尽力に対してわずかな返礼ですが。」
「君は僕が君に特別に好意を持っていると思うかね?」
「全くのところ、カートン君、」と相手は妙に度を失って返答した。「私はそんなことを考えてみたことがないんです。」
「でも今ここで考えてみたまえ。」
「あなたはいかにも私に好意を持っておられるように振舞われました。が、好意を持っておられるとは私は思いません。」
「僕も[#「僕も」に傍点]自分が好意を持っているとは思わないんだ。」とカートンが言った。「僕は君の頭のよさにすこぶる敬服するようになったよ。」
「それにしても、」とダーネーは、呼鈴《ベル》を鳴らしに立ち上りながら、言い続けた。「そのために、私が勘定を持って、私たちがどちら側とも悪感情なしでお別れすることは、差支えがないようにしたいものですね。」
 カートンが「そりゃあちっとも差支えはないとも!」と答えたので、ダーネーは呼鈴《ベル》を鳴らした。「君は勘定を全部持つか?」とカートンが言った。肯定の返事をすると、「じゃあこれと同《おんな》じ葡萄酒をもう一パイント★おれに持って来てくれ、給仕。それから十時になったらおれを起しに来てくれ。」
 勘定書を払うと、チャールズ・ダーネーは立ち上って、カートンにおやすみを言った。その挨拶には返答せずに、幾らか嚇《おど》すような挑戦するような態度で、カートンも立ち上って、それから言った。「最後にもう一|言《こと》だ、ダーネー君。君は僕が酔っ払っていると思うかね?」
「あなたはだいぶお飲みになったと私は思いますがね、カートン君。」
「思うって? 君は僕が飲んでいたことは知っているじゃないか。」
「そう言わなければならないのでしたら、私はそのことを知っています。」
「ではなぜ飲むかってことも序《ついで》に知らしてあげよう。僕はね、失望した奴隷なんだよ、君。僕は誰一人だって好きでもなければ気にもかけないし、また誰一人だって僕を好きでもなければ気にもかけやしないんだ。」
「たいそう遺憾なことです。あなたは御自分の才能をもっと有効に御利用出来ますでしょうに。」
「そうかもしれんさ、ダーネー君。そうでないかもしれんさ。だが、君は酒を飲まんからっていい気になってちゃいけないぜ。どんなことになるか君だってわかりゃしないんだからね。おやすみ!」
 一人だけになると、この不思議な人物は蝋燭を取り上げて、壁に懸っている鏡のところへ行き、それに映る自分の姿を綿密にうち眺めた。
「お前はあの男に特別に好意を持っているのか?」と彼は自分自身の姿に向って呟いた。「お前に似ている男だからといって特別に好意を持たなければならん訳があるのかい? 人に好意を持つなんてことはお前の柄《がら》じゃない。それはお前も承知しているはずだ。えい、畜生め! 何というお前の変り果てようだ! お前の堕落しない前の姿と、お前のなれたかもしれない姿を見せてくれた男だからといって、その男を好くというのは立派な理由さね! あの男と位置を換えてみろ。そうしたら、お前はあの男と同じようにあの青い眼で見つめられたり、あの男と同じようにあの不安そうな顔で同情されたりしたろうか? さあ、いいか。遠慮なくあからさまに言ってみろ! お前はあいつを憎んでいるのだ。」
 彼は心の慰めを一パイントの葡萄酒に求めて、それを数分のうちにすっかり飲み尽すと、それから両腕の上に突っ伏して寐込んでしまった。彼の髪の毛は卓子《テーブル》の上に乱れかかり、蝋燭の長い蝋垂れが彼の上にたらたらと滴り落ちるのだった★。
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    第五章 豺《やまいぬ》

 その頃は飲酒の時代であって、大抵の人は豪飲したものだった。時がその後そういう習慣に齎した改善は極めて著しいものであったので、その頃の一人の男が完全な紳士としての体面を穢《けが》さずに、平生よく一晩のうちに飲んだ葡萄酒やポンス★の量を、控目に述べても、今日では、馬鹿馬鹿しい誇張と思われるほどであろう。法律家という智的職業階級も、その大酒の習癖にかけては、確かに他のいかなる智的職業階級にもひけを取らなかった。また、もう既にずんずん他人を肩で押し除けて手広く儲けのある商売をやっているストライヴァー氏も、その道にかけては、法曹界の酒気抜きの競争にかけてよりも以上に、彼の同輩たちにひけを取りはしなかった。
 オールド・ベーリーの寵児であり、普通刑事裁判所の寵児であるストライヴァー氏は、自分の登って来た梯子の下の方の段を用心深くも切り落し始めていた。普通刑事裁判所もオールド・ベーリーも今ではその寵児を特に腕を差し伸べて招かねばならなくなった。そして、民事高等裁判所★の裁判長の面貌の方へ肩で他人を押し除けて突き出ているストライヴァー氏の血色のよい顔が、ちょうど庭一面に生い繁った仲間のけばけばしい花の間から太陽をめがけてぐっと伸び出ている大きな向日葵《ひまわり》のように、仮髪《かつら》の花壇★からにゅっと現れ出ているのが、毎日のように見受けられたのであった。
 一頃、ストライヴァー氏は口達者で、無遠慮で、敏捷で、大胆な男ではあるが、弁護士の伎倆の中で一番目立ち一番必要なものの一つであるところの、山なす陳述記録から要点を抜き出すというあの才能を持っていない、ということが法曹界で評判であった。しかし、このことについては著しい進歩が彼に現れて来た。仕事が多くなればなるほど、その精髄を掴む彼の能力が増して来るように思われた。そして、夜どんなに晩《おそ》くまでシドニー・カートンと一緒に痛飲していても、彼は翌朝には必ず自分の要点をちゃんと心得ていた。
 人間の中でも一番怠惰な、一番前途の望みのないシドニー・カートンは、ストライヴァーには大切な味方であった。この二人がヒラリー期からミケルマス期までの間に★一緒に飲んだ酒の量は、王の軍艦一隻でも浮べられそうなくらいであった。ストライヴァーは、いつも両手をポケットに突っ込んで、法廷の天井ばかり見つめているカートンがいなくては、どこででも、決して事件を引受けはしなかった。彼らは巡囘裁判★にも一緒に出かけた。そしてそこでさえも彼等のいつも通りの酒宴を夜|晩《おそ》くまで続けるのだった。そして、夜がすっかり明け放れてから、カートンが、どら猫か何かのように、こそこそとひょろひょろと自分の下宿へ帰ってゆくのが見られるという噂が伝わった。遂に、そういう事柄に興味を持っているような連中の間には、シドニー・カートンは決して獅子にはなれないだろうが、非常に立派な豺《やまいぬ》★であるということや、彼はそういう賤しい資格でストライヴァーに奉仕しているのだということが、噂され始めたのであった。
「十時ですよ、旦那。」と彼がさっき起してくれと頼んでおいた飲食店の男が言った。――「十時ですよ、旦那。」
「ううん、どう[#「どう」に傍点]したって?」
「十時ですよ、旦那。」
「何だっていうんだい? 夜の十時だっていうのか?」
「そうですよ、旦那。あなたさまが起してくれってわたしに仰しゃいましたんで。」
「ああ! そうだったな。よし、よし。」
 何度かまたうとうとと眠りかけようとするのを、給仕が続けざまに五分間も炉火を掻き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]して手際よく妨げたので、彼はとうとう立ち上って、帽子をひょいと頭にのっけて、外へ出た。彼は道を曲ってテムプルへ入り、そして、高等法院|通《どおり》と書館|通《どおり》の鋪道を二囘ばかり歩調正しく歩いて元気を囘復してから、ストライヴァーの事務室に入って行った★。
 この二人の協議には一度も加わったことのないストライヴァーの書記はもう帰ってしまっていて、ストライヴァー御本人が扉《ドア》を開けた。彼はスリッパを穿き、ゆったりした寝衣を著て、もっと寛《くつろ》ぐために咽《のど》もとをむき出しにしていた。彼の眼の周りには、ジェフリーズ★の肖像画からこの方《かた》、法律家仲間のすべての酒客に見られる、また、画の技巧でさまざまに違うが、いずれの飲酒時代の肖像画にも認められる、あの幾らか気違いじみた、不自然な、ひからびた斑点があった。
「少し遅いぜ、記憶の名人。」とストライヴァーが言った。
「ほぼいつもの時間だよ。十五分くらい遅いかもしれんな。」
 二人は、書物がずらりと列んで、書類が取散らかっている、すすけた一室へ入った。そこには炉火があかあかと燃えていた。炉側棚には湯沸しが湯気を立てていたし、ばらばらに撒き散らばっている書類の真中に、一つの卓子《テーブル》がぴかぴかと光っていて、その上にはたくさんの葡萄酒と、ブランディーと、ラム酒と、砂糖と、レモンとが載せてあった。
「君は一罎やって来たようだね、シドニー。」
「今晩は二罎だったろう、確か。僕は今まで昼の弁護依頼人と一緒に食事をしていたんだ。いや、あの男の食事をするのを見ていたって言うかな。――どっちだって同じことさ!」
「君があの顔の似ているところへ持って行ったのはね、シドニー、あれは素敵な論点だったよ。どうして君はあんなとこを掴まえたんだい? いつあんなことを思い付いたのかね?」
「おれはあいつはずいぶん美男だなと思ったんだ。それから、おれだって運がよかったなら、奴と同じぐらいの人間になれてたろうと考えたんさ。」
 ストライヴァー氏はその年に似合わぬ布袋腹を揺がせるほどに笑った。「君にして幸運か、シドニー! 仕事にかかるんだ、仕事にかかるんだ。」
 大いに不機嫌な顔をしながら、豺は自分の衣服を寛《くつろ》げて、隣室に入って行ったが、冷水の入っている大きな水差と、洗盤と、一二枚のタオルとを持って戻って来た。そのタオルを水に浸して、少し絞《しぼ》ると、彼は見るも物凄い工合にそれを摺《たた》んで頭の上にのっけて、卓子《テーブル》に向って腰を掛け、それから言った。「さあ、用意が出来たぞ!」
「今夜の煮詰め仕事は大してないよ、記憶の名人。」とストライヴァー氏は、書類を見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、陽気に言った。
「どれだけ?」
「たった二口さ。」
「むずかしい奴を先にくれ。」
「ほら、それだよ、シドニー。どしどしやるんだ!」
 獅子は、それから、酒の載っている卓子《テーブル》の一方の側にある長椅子《ソーファ》に背を凭れかけてゆったりと構えた。豺の方は、そのもう一方の側にある、書類の散乱している自分自身の卓子《テーブル》に向って、酒罎と杯とがすぐに手の届くところに腰掛けた。二人とも頻りに酒の卓子《テーブル》に手を出したが、その出し方は銘々で違っていた。獅子の方は、大抵は両手を腰の帯革《バンド》にかけて凭れていて、炉火を眺めたり、時々は何か手軽な方の書類をいじったりしていた。豺は、眉を蹙《しか》めて一心不乱の顔をしながら、仕事にすっかり夢中になっているので、自分の杯を取ろうと差し伸べる手に眼をくれさえしないくらいで、――その手は、脣へ持ってゆく杯に当るまでには、一分かそれ以上もそのあたりを探《さぐ》り※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ることがたびたびあった。二度か三度、当面の問題がひどくこんがらかって来たので、豺もどうしても立ち上って、例のタオルを改めて水に浸さなければならなくなった。こうして水差と洗盤のところへ巡礼すると、彼はどんな言葉でも言い現せないくらいの奇抜な濡れ頭巾をかぶって戻って来るのであった。その奇抜さは、彼が気懸りそうな真面目《まじめ》くさった顔をしているので、なおさら滑稽なものになった。
 とうとう豺は獅子のためにこぢんまりした食事を纒めてしまって、それを獅子に差し出しにかかった。獅子はそれを細心の注意をしながら食べ、それに自分の択り好みもし、自分の意見も加えた。すると豺はそのいずれにも助力してやった。その食事がすっかり風味されてしまうと、獅子は再び腰の帯革《バンド》に両手を突っ込み、ごろりと横になって考え込んだ。豺は、それから、なみなみと注《つ》いだ一杯の酒で咽《のど》を潤《うるお》したり、頭のタオルを取替えたりして元気をつけると、二番目の食物を集めにかかった。それも同じような風にして獅子に与えられ、それが片附いたのは時計が朝の三時を打った時だった。
「さあ、これですんだんだから、シドニー、ポンスを一杯|注《つ》ぎたまえよ。」とストライヴァー氏が言った。
 豺は、また湯気の立っていたタオルを頭から取って、体《からだ》をゆすぶり、欠伸をし、ぶるぶるっと身震いしてから、言われる通りにした。
「今日《きょう》のあの検事側の証人の件じゃ、シドニー、君は実にしっかりしてたね。どの質問もどの質問も手応えがあったからねえ。」
「おれはいつだってしっかりしてるさ。そうじゃないかね?」
「僕はそれを否定しないよ。何が君の御機嫌に触ったんだい? まあポンスをひっかけて、機嫌を直したまえ。」
 不満らしくぶつぶつ言いながら、豺は再び言われる通りにした。
「昔のシュルーズベリー学校★時代の昔の通りのシドニー・カートンだね。」とストライヴァーは、現在と過去の彼を調べてでもみるように彼の上に頭を頷《うなず》かせながら、言った。「昔の通りの|ぎいこばったん《シーソー》のシドニーだね。今上っているかと思えばもう下っている。今元気かと思えばもうしょげてる!」
「ああ、ああ!」と相手は溜息をつきながら答えた。「そうだよ! 相も変らぬ運《めぐ》り合《あわ》せの、相も変らぬシドニーさ。あの頃でさえ、おれは他《ほか》の子供たちに宿題をしてやって、自分のは滅多にやらなかったものだ。」
「なぜやらなかったんだい?」
「なぜだかわかるものか。おれの流儀だったんだろうよ。」
 彼は、両手をポケットに突っ込み両脚を前にぐっと伸ばしたまま、炉火を眺めながら、腰掛けていた。
「カートン、」と彼の友人は、あたかも炉側格子はその中で不屈の努力が鍛えられる熔鉱炉であって、昔のシュルーズベリー学校時代の昔の通りのシドニー・カートンのためにしてやれる唯一の思遣りのある仕打は彼をその熔鉱炉の中へ肩で押し込んでやることであるかのように、威張り散らすような風で彼に向って肩肱を張って、言った。「君の流儀はなっていない流儀だし、いつだってそうだったんだ。君は気力でも意思でも奮い起すってことがない。僕を見たまえ。」
「おやおや、これあたまらん!」とシドニーは、今までよりは気軽な機嫌のよい笑い声を立てながら、応答した「君の[#「君の」に傍点]お説教は御免だよ!」
「僕はこれまでやって来たことをどんな風にやって来たかね?」とストライヴァーが言った。「僕は今やっていることをどんな風にやっているかね?」
「僕に給料を払って手伝わせてやってるってとこも少しはあるようだね。だが、僕にそんなことを言ったって、風《かぜ》に言ってるようなもので、無駄だよ。君はやろうと思うことはやる人間だ。君はいつだって最前列にいたんだし、僕はいつだって後の方にいたんだ。」
「僕が最前列へ出るには出るようにしなければならなかったんだ。僕だって最前列に生れついたんじゃないよ。そうだろう?」
「僕は君の誕生の儀式に立会ったんじゃないさ。だが、どうも僕の思うところじゃ君はそこに生れついたらしいな。」とカートンが言った。そう言って、彼はまた声を立てて笑い、それから二人とも一緒に笑った。
「シュルーズベリー時代の前だって、シュルーズベリー時代だって、シュルーズベリー時代から後今までだって、」とカートンは言葉を続けた。「君は君の列に就いていたし、僕は僕の列に就いていたんだ。僕たちがパリーの学生街の学生同志で、フランス語だの、フランス法律だの、その他《ほか》大してためにもならなかったフランスのパン屑みたいな学問だのを齧《かじ》っていた頃でさえ、君はいつだって存在を認められていたし、僕はいつだって――存在を認められなかったんだ。」
「で、それは誰のせいだったのだい?」
「確かに、それが君のせいでなかったとは僕には請合《うけあ》えないんだ。君はいつだってぶつかって割込んで押し除けて突き進んで、ちっとも休まずにいるものだから、僕はどうしても銹びついてじっとしているより他《ほか》に機会がなかったのだ。だが、夜も明けかけようってのに、昔のことなんか話してるのは、陰気くさいな。僕の帰る前に何か他《ほか》の話をしてくれよ。」
「それならだ! あの美しい証人のために僕と乾杯したまえ。」とストライヴァーは自分の杯を挙げて言った。「君の嬉しい話になったろう?」
 明白にそうではなかった。というのは彼はまた陰鬱になって来たから。
「美しい証人と。」と彼は自分の杯の中を覗き込みながら呟いた。「おれには今日《きょう》昼から夜へかけてずいぶん証人があったが。君の言う美しい証人とは誰だい?」
「あの絵のように美しい医者の娘さんの、マネット嬢さ。」
「あの女が[#「あの女が」に傍点]美しい?」
「美しかあないかね?」
「ないね。」
「だって、君、あの女は満廷讃美の的《まと》だったぜ!」
「満廷讃美の的《まと》がなんだい! 誰がオールド・ベーリーを美人の審査員にしたのだね? あれは金髪のお人形というだけさ!」
「君は知らないだろうがね、シドニー、」とストライヴァー氏が、鋭い眼で彼を見ながら、また片手で自分の血色のよい顔をゆっくりと撫でながら、言った。――「君は知らないだろうがね、僕はあの時、君がその金髪のお人形に同情を寄せていたものだから、その金髪のお人形に何事が起ったか素速く見つけたんだ、と思ってたくらいなんだよ。」
「何事が起ったか素速く見つけたって! 人形だろうが人形でなかろうが、一人の女の子が人の鼻先から一二ヤードのところで気絶したんならだね、望遠鏡なしにだって見えようじゃないか。おれは君と乾杯はするが、美人だということは否定するよ。さあ、これでもうおれは飲みたくない。帰って寝るとしよう。」
 主《あるじ》が蝋燭を持って彼の後から階段のところまで送って出て、彼が階段を降りるのを照してやった時、夜明《よあけ》の光はもうそこの汚《よご》れた窓から寒そうに覗き込んでいた。彼がその建物から外へ出ると、空気は冷くて陰気で、空はどんよりと曇り、河★は仄暗くくすみ、あたりの光景は生気のない沙漠のようであった。そして砂塵の渦巻が朝風に吹かれてくるくるくるくると※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っていた。それはまるで沙漠の砂が遠い彼方《かなた》で捲き上って、それのこちらへと進んで来る最初の砂塵がこの市を覆い始めたようでもあった。
 裡《うち》には精根が尽き果て、周囲は一面に沙漠に囲まれて、この男はひっそりした台地を横切ってゆく途中でじっと立ち止った。そして一瞬間、立派な野心と、克己と、堅忍との蜃気楼が、自分の眼前の曠野に横わるのを見た。その幻影の美わしい都には、夢のような桟敷があってそこから愛の神や美の神たちが彼を見ており、花園があってそこには生命の果実が熟して下っており、希望の泉があって彼の見えるところできらきら光っていた。それもほんの一瞬間で、すぐに消え失せてしまった。彼は井桁形に建てられた家の高い部屋まで攀じ上ると、顧みられぬがちの寝台《ベッド》の上に衣服のままで身を投げかけ、その枕は徒らな涙で濡れるのであった。
 物淋しげに、物淋しげに、太陽は昇った。立派な才能と立派な情緒とを持ちながら、それを適当な方面に働かすことが出来ず、自分自身の裨益にも自分自身の幸福にもすることが出来ず、自分の身を枯らす害虫に気づいていながら、それにわが身を蝕むにまかせて諦めている男、その昇る太陽はこの男よりも物淋しいものを照さなかった。
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    第六章 何百の人々

 マネット医師の静かな住居は、ソホー広場★から遠からぬ閑静な街の一劃にあった。四箇月という月日の波があの叛逆罪の公判の上を乗り越えてしまって、公衆の興味と記憶ということから言えば、それを遠く海の方へ押し流してしまっていた頃の、ある天気のよい日曜日の午後、ジャーヴィス・ロリー氏は、自分の住んでいるクラークンウェル★から出かけて、医師と食事を共にしに行く途中、日当りのいい街々を歩いて行った。ロリー氏は、何度か事務上の事だけに専念することにした後に、結局医師の友人になってしまったのだった。そしてその閑静な街の一劃は彼の生活の中の日当りのいい部分となった。
 その天気のよい日曜日に、ロリー氏は、午後早く、習慣上の三つの理由で、ソホーの方へ歩いていたのだ。第一に、天気のよい日曜日には、彼は晩餐の前に医師とリューシーと一緒に散歩に出かけることがたびたびあったからだし、第二に、都合のよくない日曜日には、彼は家族の友人として彼等と一緒にいて、話をしたり、読書をしたり、窓の外を眺めたり、漫然とその日を過したりする習慣であったからだし、第三に、彼は自分の解かねばならないちょっとしたむずかしい疑問を持っていたのだが、医師の家庭の習わしから考えて、その時がそれを解くに好適な時だということを知っていたからであった。
 医師の住んでいるその一劃ほど風変りな一劃は、ロンドン中にも見出せそうになかった。その一劃には通り抜ける路がなかった。それで、医師の住居の前面の窓からは、いかにも浮世を離れたようなのんびりした様子の漂っている街の気持のいい小さな通景《みとおし》を見渡すことが出来た。オックスフォド街道★の北には、その頃は建物がほとんどなかった。そして、今はなくなってしまったその野原には、喬木が繁り、野生の草花が生え、山櫨《さんざし》が花を開いていた。だから、田舎の空気は、あてどもなくさまようている宿なし乞食のように教区へ弱々しく入り込んで来ないで、自由に元気よくソホーを吹き流れるのであった。そして、あまり遠くもないところに、よく日の当る南向きの塀がたくさんあって、季節にはその塀のところで桃の実が熟するのだった★。
 夏の光は朝の間だけその一劃にぎらぎらと射し込んだ。が、街々が暑くなる頃には、その一劃は日蔭になった。もっとも、日蔭と言っても、そこの向うにきらきら光る日の輝きも見られないほど引込んだ日蔭ではなかったが。そこは、静かで落著いてはいるが気の晴れる、凉しい場所であり、不思議によく物音を反響する箇所であり、騒擾の街からの全くの避難港であった。
 そういうような碇泊所にはきまって船が静かに泊っているはずであり、また事実泊っていた。医師は大きなひっそりした家の二つの階を借りていた。この家では、昼間《ひるま》はいろいろの職業が営まれているということであったが、しかしいつの昼でもさほど物音も聞えず、その物音も夜になればみんな差控えられた。一本の篠懸《すずかけ》の樹が緑の葉をさらさらと鳴らしている中庭を通って行ける裏手の一つの建物の中では、教会のオルガンが造られているということであったし、また銀が浮彫を施されているということであったし、それにまた金がある不可思議な巨人によって打ち延べられているということであった。この巨人は表広間の壁から金色《こんじき》の片腕を突き出していて★、――あたかも、自分は自分をこのように高価な金属に打ち換えてしまったのだが、訪問者も片っ端から同じ風に金に変えてやるぞと嚇《おど》しつけてでもいるかのようであった。このようなさまざまな商売にしても、階上に住んでいるという噂の一人きりの間借人にしても、階下に事務所を持っているという話の魯鈍な馬車装具製作人にしても、いつでもほとんど音も立てなければ姿も見せなかった。時としては、ちゃんと上衣を著込んだ風来の職工が広間を横切って行ったり、あるいは見慣れぬ人がそこらを覗き込んだり、あるいは中庭を隔てて遠くからかちんかちんという金物の音が聞えたり、例の金色《こんじき》の巨人のところからとんとんと打つ音が聞えたりすることがあった。けれども、こういうことは、家の背後の篠懸の樹の中にいる雀と、家の前の街の一劃の反響とが、日曜日の朝から土曜日の晩まで思いのままに振舞っている、という法則を証明するために必要な、除外例に過ぎなかった。
 マネット医師は、この住居で、彼の昔の評判を知っているとか、また彼の身の上話が口から口へと伝えられるうちにその評判が蘇《よみがえ》ったのを聞いたとかして、彼の許へやって来る患者を、迎えた。彼の科学上の知識と、精巧な実験を行う時の彼の用意周到さと熟練とのために、彼には他の方面でも相当の依頼者が出来た。で、彼は必要なだけの収入は得られたのであった。
 以上のことは、ジャーヴィス・ロリー氏が、その天気のよい日曜日の午後、その一劃にある閑静な家の戸口の呼鈴《ベル》を鳴らした時に、彼の知っており、考えており、気づいていた範囲内のことであったのである。
「|マネット先生《ドクター・マネット》は御在宅?」
 もうお帰りになるはずとのこと。
「リューシーさんは御在宅?」
 もうお帰りになるはずとのこと。
「|プロスさん《ミス・プロス》は御在宅?」
 たぶんいらっしゃるだろうが、しかし、お入り下さいと言っていいのか、いらっしゃいませんと言った方がいいのか、それについてのプロスさんの意向を予想することは、女中には確かに出来ないとのこと。
「わたしは心やすい者だから、」とロリー氏は言った。「二階へ上らしてもらうとしよう。」
 医師の令嬢は、自分の生れた国のことは少しも知らなかったのに、その国の最も有用で最も愉快な特徴の一つである、わずかな資力を大いに利用するというあの才能を、その国から生れながらに享けているように見えた。家具は質素なものではあったが、ただその趣味と嗜好とにだけ価値のあるいろいろの小さな装飾で引立たせてあったので、その効果は気持のよいものであった。室内の一番大きな物から一番小さな物に至るまでのあらゆるものの配置、色彩の配合、些細なものの節約や、巧妙な手際や、明敏な眼識や、優れた感覚などで得られた優雅な多種多様さと対照、そういうものはそれ自身としても非常に快いものであると同時に、それの創案者をも非常によく表《あらわ》していたので、ロリー氏があたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら立っていると、椅子や卓子《テーブル》までが、この時分までには彼にはすっかりおなじみになっていたあの一種特別の表情★のようなものを浮べながら、彼に、お気に入りましたか? と尋ねているように思われるほどであった。
 一つの階には三つの室があった。そして、その室と室とを通ずる扉《ドア》は空気がどの室をも自由に吹き抜けられるようにと開《あ》け放してあったので、ロリー氏は、自分の周囲のどこにも目につくその空想上の類似★ににこにこしながら眼を留めて、一室から次の室へと歩いて行った。最初の室は一番上等の室で、そこにはリューシーの小鳥と、草花と、書物と、机と、裁縫台と、水彩絵具の箱とがあった。二番目の室は医師の診察室で、食堂にも使われていた。中庭の例の篠懸の樹のさらさらと動く葉影で絶えず変化する斑《まだら》模様をつけられている三番目の室は、医師の寝室であって、――その室の一隅には、今は使われていない靴造りの腰掛台《ベンチ》と道具箱とが、パリーの郊外サン・タントワヌのあの酒店の傍の陰惨な建物の六階にあったとほぼ同じようにして、置いてあった。
「どうも驚くなあ、」とロリー氏はあたりを見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]すのを止《や》めて、言った。「あの人はあんな自分の苦しみを思い出させるものを身の周りに置いとくなんて!」
「何だってそんなことに驚くんですか?」という不意の問が彼をびくりとさせた。
 その問は、彼がドーヴァーのロイアル・ジョージ旅館《ホテル》で初めて知り合って、その後その時よりは親しくなっていた、例の腕っ節の強い、荒っぽい、赭い顔の婦人、プロス嬢★の発したものであった。
「わたしはこう思っていたんですがねえ――」とロリー氏が言い出した。
「ふうん! 思ってたんですって!」とプロス嬢が言った。それでロリー氏は言葉を切った。
「お変りありませんか?」とその時その婦人は――鋭く、だがあたかも彼に対して何も悪意を抱いていないということを示すつもりであるかのように――尋ねた。
「有難う、達者な方《ほう》です。」とロリー氏は柔和に答えた。「あんたはいかがです?」
「自慢するほどのことはちっともございませんよ。」とプロス嬢が言った。
「ほんとに?」
「ええ! ほんとにですとも!」とプロス嬢は言った。「私はお嬢さまのことでとっても困ってるんですもの。」
「ほんとに?」
「後生《ごしょう》ですからその『ほんとに』の他《ほか》に何とか言って下さいよ。でないと私気が揉めて死にそうですから。」とプロス嬢が言った。彼女の性質は(その体格とは違って)短い方だった。
「じゃあ、全くですか?」とロリー氏は言い直しとして言った。
「『全くですか』だっていやですが、」とプロス嬢が答えた。「少しはましですわ。そうなんですよ、私とっても困っているんです。」
「その訳を伺えますかな?」
「私は、お嬢さまに少しもふさわしくない人たちが何十人と、お嬢さまの世話を焼きにここへやって来てもらいたくはないんですの。」とプロス嬢が言った。
「そんな目的で何十人とほんと[#「ほんと」に傍点]やって来るんですか?」
「何百人とね。」とプロス嬢が言った。
 自分の最初に言い出したことが疑われると、いつでも必ずそれを誇張するというのが、この婦人(彼女の時代より前でもそれより後でも他にもそういう人々はあるのであるが)の特徴なのであった。
「おやおや!」とロリー氏は、自分の思い付くことの出来た中でも一番安全な言葉として、そう言った。
「私がお嬢さまと御一緒に暮して来ましたのは――いいえ、お嬢さまが私と一緒にお暮しになりまして、私にお給金を下さいましたのは、と申さなければならないんで、もし私が何も頂戴しなくても自分なりお嬢さまなりを養ってゆけるのでしたら、決して決して、お嬢さまにそんなお給金を出していただくようなことはおさせしなかったんですが、――その一緒にお暮しになりましたのは、お嬢さまがまだ十歳《とお》の時からでした。ですから、ほんとうにとてもつらいんですの。」とプロス嬢が言った。
 何がとてもつらいのかはっきりとはわからないので、ロリー氏は自分の頭を振り動かした。自分の体《からだ》のその重要な部分を、何にでもぴったりと合う魔法の外套のようなものとして使ったのである。
「お嬢さんにちっともふさわしくないいろんな人たちが、始終やって来るんですからねえ。」とプロス嬢が言った。「あなたがそれをお始めになった時だって――」
「わたしが[#「わたしが」に傍点]そんなことを始めたって、|プロスさん《ミス・プロス》?」
「あなたがお始めになったじゃありませんでしたか? お嬢さんのお父さまを生き返らせたのはどなたでした?」
「ああ、そうか! あのことが[#「あのことが」に傍点]それの始めだったと言うんなら――」とロリー氏が言った。
「あのことはそれの終りだったとも言えないでしょうからね? 今申しましたようにね、あなたがそれをお始めになった時だって、ずいぶんつらかったんですの。と言って、私はマネット先生に何も難癖《なんくせ》をつけるんじゃありません。ただ、あの方《かた》だってああいうお嬢さまにはふさわしくないということだけを別にすればですがね。でもそれはあの方《かた》の咎《とが》じゃあございませんわ。どんな人にだって、どんな場合でも、そんなことは望むのが無理なんですからね。ですけれども、あの方《かた》の後から(あの方《かた》だけは私我慢してあげるんですが)、お嬢さまの愛情を私から取り上げてしまいに、大勢の人たちがやって来るのは、ほんとうに二倍にも三倍にもつらいことですわ。」
 ロリー氏はプロス嬢の非常に嫉妬深いことを知っていた。が、彼はまた、彼女が表面《うわべ》は偏屈ではあるが、その実は、自分たちが失ってしまった若さに対して、自分たちがかつて持ったことのなかった美しさに対して、自分たちが不幸にも習得することの出来なかった芸能に対して、自分たち自身の陰鬱な生涯には一度も射さなかった輝かしい希望に対して、純粋な愛情と欽仰とから、喜んで自分を奴隷にしようとする、あの非利己的な人間――それは女性の間にのみ見出される――の一人であるということも、この時分には知っていた。彼は世間をよく知っていたので、そういう真心の誠実な奉仕に優《まさ》るものは世の中には何ものもないということを知っていた。そのように尽された、そのように金銭ずくの穢《けが》れを少しも持たないそういう奉仕に、彼は極めて高い尊敬の念を持っていたので、彼は、自分だけの心の中で作っている応報の排列表★――吾々は皆そういう排列表を多少とも作っているのであるが――の中では、プロス嬢を、天質と人工との両方によって彼女とは比べものにならぬほど美しく粧うている、テルソン銀行に預金を持っている多くの淑女たちよりも、下級の天使たちによほど近いところに置いていたのであった。
「お嬢さまにふさわしい男は一人だけしかいなかったのですし、これからだってそうでしょう。」とプロス嬢は言った。「その男というのは私の弟のソロモンでしたの。もしあれが身を持崩していませんでしたらばですがねえ。」
 また始った。ロリー氏がいつかプロス嬢の身の上をいろいろと尋ねてみたところが、彼女の弟のソロモンというのは、賭博の賭金にするために彼女の持っていたものを何もかも一切捲き上げて、無一文になった彼女を少しも気の毒とも思わないでそのまま見棄てて行ってしまった無情な無頼漢である、という事実が確かになったのであった。そのソロモンをプロス嬢がそのように信じ切っている(そういうちょっとした身の誤りのためにその信用はいささか減ってはいたが)ということは、ロリー氏には全く常談事とは思えなかった。そしてまた、そのことは彼が彼女に好感を抱くについて大いに効力があったのだった。
「わたしたちは今のところ偶然二人きりだし、二人とも事務の人間だから、」と彼は、二人が応接室へと引返して、そこで打解けた気持で腰を下した時に、言った。「私はあんたにお尋ねしたいんだが、――先生《ドクター》は、リューシーさんと話される時に、あの靴を造っておられた頃のことを仰しゃったことがまだ一度もないかね?」
「ええ、一度も。」
「それだのにあの腰掛台《ベンチ》とあの道具とを自分の傍に置いておかれるんだね?」
「ああ!」とプロス嬢は頭を振りながら答えた。「でも私はあの方《かた》が心の中でもその頃のことを思っていらっしゃらないとは申しませんよ。」
「あんたはあの人がその頃のことをよほど考えておられると思いますか?」
「思います。」とプロス嬢が言った。
「あんたの想像するところでは――」とロリー氏が言いかけると、プロス嬢がその言葉をこう遮った。――
「何だって想像なぞしたことは一度もありません。想像力なんてちっともないんです。」
「こりゃあ間違ったな。では、あんたの推測するところでは――あんただって時には推測ぐらいはするね?」
「時々はね。」とプロス嬢が言った。
「あんたの推測するところでは、」とロリー氏は、彼女を親切そうに見ながら、例のきらきらした眼に笑いを含んだ光を閃かして、言い続けた。「|マネット先生《ドクター・マネット》は、御自分があんなに迫害されたことの原因や、またたぶんその迫害者の名前などについても、あの永い年月《としつき》の間ずっと、何か御自分の御意見を持っておられた、と思いますかね?」
「私は、そのことについては、お嬢さまが私にお話下さいましたことの他《ほか》には、何も推測したことがありません。」
「で、そのお嬢さまのお話では――?」
「お嬢さまは先生がそれについて御意見を持っていらっしゃると思ってお出でです。」
「ところで、わたしがこんなにいろんなことを尋ねるのに腹を立てないで下さいよ。わたしはただの気の利かない事務家だし、あんたも婦人の事務家なんだからね。」
「気の利かないですか?」とプロス嬢はつんとして尋ねた。
 その謙遜な形容詞を使わなければよかったと思いながら、ロリー氏は答えた。「いや、いや、いや。確かにそうじゃないとも。で、事務のことに戻るとして。――|マネット先生《ドクター・マネット》が、どんな罪も犯したことがないに違いないのに、そうだということはわれわれはみんな十分に確信しているんだが、それだのに、その問題に決して触れようとされないというのは、不思議じゃあないですか? あの人は昔わたしと事務上の関係があったし、今はお互に懇意になっているとはいえ、わたしは自分のために言うのではない。あの人があんなに心から愛著しておられ、またあの人にあんなに心から愛著しておられる、あの美しいお嬢さんのために言っているつもりなんだがね? とにかく、|プロスさん《ミス・プロス》、わたしがあんたとこんな話をしようとするのは、好奇心からするのではなくって、心配のあまりにするのだ、ということを信じてもらいたいのだが。」
「そうね! 私にわかっております限りでは、と申してもわずかなことでしょうがねえ、」とプロス嬢は、その弁解の語調のために心を和《やわら》げて、言った。「あの方《かた》はその話には何でもかんでも一切触れるのを怖《こわ》がっていらっしゃるんですよ。」
「怖がって?」
「なぜ怖がっていらっしゃるかってことはよっくわかる、と思うんですが。それは恐しい思い出ですもの。それにまた、あの方《かた》が正気をなくされましたのもそれから起ったことですもの。どんな風にして正気をなくしたのか、またどんな風にして正気に戻ったのかということを御自分では御存じないので、あの方《かた》には自分がまた正気をなくしないってことはどうしてもはっきりと請合《うけあ》えないんでしょう。このことだけだってその話はあの方《かた》には気持がよくはないんだろうと、私はそう思うんです。」
 これはロリー氏が予期していたより以上の意味深長な言葉であった。「なるほど。」と彼は言った。「だから考えるのも恐しいんだね。それにしてもだ、|プロスさん《ミス・プロス》、わたしの心の中には疑いが一つ残っているんですがね。そういう気持を御自分の心の中に始終押し隠しておられるということは|マネット先生《ドクター・マネット》のためにいいかどうか、ということなんだ。実際、その疑いのために、またその疑いから時々私の心に起る不安のために、わたしはこの現在の打明け話をする気になったのだが。」
「どうともしようがないんでしょうね。」とプロス嬢が頭を振りながら言った。「そのことにちょっとでも触れるとなると、あの方《かた》はじきに工合が悪くなるんですもの。うっちゃってそのままにしておく方がいいんでしょうね。つまり、厭《いや》でも応でも、うっちゃってそのままにしておくより他《ほか》はないんでしょう。時々、あの方《かた》は真夜中《まよなか》にお起きになりましてね、御自分のお部屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになるのが、この上のあそこにいる私どもに聞えることがよくありますの。お嬢さまは、そんな時には、あの方《かた》のお心が昔の牢屋の中を往ったり来たり、往ったり来たりしてお歩きになっているのだとお思いになるように、今ではなっていらっしゃいます。で、急いであの方《かた》のところへお出でになりまして、お二人で御一緒に、そのまま往ったり来たり、往ったり来たりして、あの方《かた》のお心が落著くまで、お歩きになるんですよ。しかしあの方《かた》はお嬢さまに御自分のじっとしておられぬことのほんとうの原因を一|言《こと》も決して仰しゃいませんし、それでお嬢さまもあの方《かた》にそのことを口にしないのが一番いいと気づいてお出でです。で、黙ったまま、お二人は御一緒に往ったり来たり、往ったり来たりして歩いていらっしゃいますと、そのうちに、お嬢さまの愛情とそうして連立っていらっしゃることとであの方《かた》は正気にお返りになるんです。」
 プロス嬢は自分は想像力を持っていないと言ったにもかかわらず、彼女が「往ったり来たりして歩く」という文句を何度も何度も繰返したのをみると、何か一つの悲しい思いに一本調子に絶えず悩まされている苦痛を感知していることがわかり、そのことは彼女がその想像力なるものを持っていることを証明しているのだった。
 その一劃は不思議によく物音を反響する一劃であるということは既に述べた。ちょうど、今|彼方此方《かなたこなた》と疲れた足取りで歩くという話が出たので、そのために起ったのかと思われるほどに、こちらへとやって来る足音が、鳴り響くようにその一劃に反響し始めた。
「そら、お帰りですわ!」とプロス嬢が、その会談を打切りにして立ち上りながら、言った。「もうすぐに何百って人が押し掛けて来ますよ!」
 そこはその音響学上の性質から言って実に珍しい一劃で、実に一種特別な耳のような場所であったので、ロリー氏が開《あ》けてある窓のところに立って、足音の聞えた父と娘との来るのを待っていると、彼等が決して近づいて来ないのではなかろうかというような気がするのであった。その足音が向うへ行ってしまったかのように、さっきの反響が消え失せたばかりではない。決してやって来ない他の足音の反響がその代りに聞えて来て、それが間近に来たかと思うとそれっきり消え失せてしまうのだった。けれども、父と娘とはとうとう姿を見せた。そしてプロス嬢はその二人を出迎えるために表戸口のところに待ち構えていた。
 たとい荒っぽくて、赭ら顔で、怖《こわ》い顔付ではあっても、プロス嬢が、自分の大好きな令嬢が二階へ上るとその帽子を脱がせて、それを自分のハンケチの端でちょっと手入れをして直し、埃《ほこり》を吹き払ってやったり、いつでもしまわれるように彼女のマントを摺《たた》んでやったり、彼女の豊かな髪の毛を、自分自身がもしこの上もなく虚栄心の強いこの上もなく美しい女であったなら、自分の髪の毛にあるいは持ったかもしれないほどの誇らしさで、撫でつけてやったりしているのは、見ていて気持のよいものであった。その彼女の大事な令嬢が、彼女を抱擁して彼女にお礼を言い、自分のためにそんなにまで面倒をみてくれることに不服を言っているのもまた、見ていて気持のよいものであった。――もっとも、その不服を言うのだけはほんの常談に言ってみただけであった。でなければ、プロス嬢は、ひどく気を悪くして、自分自身の部屋にひっこんで泣き出したことであろう。医師が、その二人を傍から見て、言葉や眼付でプロス嬢に彼女がどんなにリューシーを甘やかしているかということを言っているが、その言葉や眼付にはプロス嬢に劣らぬほど甘やかしているところがあるし、もし出来るものならそれより以上に甘やかしたがっているようなのもまた、見ていて気持のよいものであった。ロリー氏が、例の小さな仮髪《かつら》をかぶってこういうすべての様子をにこにこ顔で眺めて、晩年になって独身者の自分に途を照して一つの家庭に導いてくれた自分の運星に感謝しているのもまた、見ていて気持のよいものであった。しかし、こういう有様を何百の人々は見に来はしなかった。そしてロリー氏はプロス嬢の予告の実現されるのを徒らに期待していたのであった。
 食事時になったが、それでもまだ何百の人々は来ない。この小さな家庭の切※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しでは、プロス嬢は台所の方面を引受けていて、いつもそれを驚くほど見事にやってのけた。彼女のこさえる食事は、ごく質素な材料のものでありながら、非常に上手に料理して非常に上手によそってあり、半ばイギリス風で半ばはフランス風で、趣向が非常に気が利いていて、どんな料理も及ばないくらいであった。プロス嬢の交際というのは徹底的に実際的な性質のもので、彼女は、何枚かの一シリング銀貨や半クラウン銀貨で誘惑されて料理の秘訣を自分に知らしてくれそうな貧窮したフランス人を捜して、ソホーやその近隣の区域を荒し※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]るのであった。そういうおちぶれたゴール人の子孫★たちから、彼女は実に不思議な技術を習得していたので、そこの家婢である婦人と少女なぞは、彼女を、一羽の禽、一疋の兎、菜園にある一二種の野菜を取って来させて、そういうものを何でも自分の好きなものに変えてしまうような、女魔法使か、シンダレラの教母★のように思い込んでいるほどであった。
 日曜日には、プロス嬢は医師の食卓で食事をすることにしていたが、しかしその他の日には、台所か、それとも三階にある自分自身の室――そこは彼女のお嬢さまの他《ほか》にはかつて誰一人も入ることを許されたことのない青い部屋★であったが――かで、人知れぬ時刻に食事することを、どうしてもやめなかった。この日の食事の際には、プロス嬢は、彼女のお嬢さまの楽しい顔と彼女を喜ばそうとする楽しい努力とに応じて、よほど打寛《うちくつろ》いでいた。だから、その食事もまた非常に楽しかった。
 その日は蒸暑い日であった。それで、食事がすむと、リューシーは、葡萄酒を篠懸の樹の下に持ち出して、みんなそこへ出て腰掛けることにしましょう、と言い出した。すべてのことが彼女次第であり、彼女を中心にして囘転していたので、皆はその篠懸の樹の下へ出て行った。そして彼女は特にロリー氏のために葡萄酒を持って行った。彼女は、しばらく前から、ロリー氏のお酌取りの役を引受けていたのだ。そして、皆が篠懸の樹の下に腰掛けて話している間も、彼女は彼の杯を始終一杯にしておくようにした。あたりの建物の何となく神秘的に見える裏手や横面がそこで話している彼等を覗いていたし、篠懸の樹は彼等の頭上でその樹のいつものやり方で彼等に向って囁いていた。
 それでもまだ、何百の人々は姿を見せなかった。彼等が篠懸の樹の下に腰掛けている間にダーネー氏が姿を見せた。が彼はたった一人であった。
 マネット医師は彼を懇ろに迎えた。またリューシーもそうした。しかし、プロス嬢は俄かに頭と体とにひきつりを起して、家の中へひっこんだ。彼女がこの病気に罹ることは珍しくなかった。そして彼女はその病気のことを打解けた会話の時には「痙攣の発作」と言っていた。
 医師は体の工合がこの上もなくよくて、特別に若々しく見えた。彼とリューシーとの類似はこういう時には非常に目立った。そして、彼等が並んで腰を掛け、彼女は彼の肩に凭れ、彼は彼女の椅子の背に片腕をかけている時に、その似ているところを見比べてみるのは極めて愉快なことであった。
 彼は、いろいろの問題にわたって、非常に決活に、絶えず話していた。「ちょっと伺いますが、|マネット先生《ドクター・マネット》、」とダーネー氏が、彼等が篠懸の樹の下に腰を下した時に、言ったが、――それは、ちょうどその時ロンドンの古い建築物ということが話題になっていたので、自然その話を続けて言ったのだった。――「あなたはロンドン塔★をよく御覧になったことがおありですか?」
「リューシーと二人で行って来たことがあります。だがほんの通りすがりに寄っただけです。興味のあるものが一杯あるなということがわかるくらいには、見物して来ました。まあ、それっくらいのところです。」
「あなた方も御存じのように、私は[#「私は」に傍点]あすこへ行っていたことがありますが★、」とダーネーは、幾らか腹立たしげに顔を赧らめはしたけれども、微笑を浮べながら、言った。「見物人とは別の資格でいたのですし、またあすこをよく見物する便宜を与えられるような資格でいたのでもありませんでした。私があすこにいました時に珍しい話を聞かされましたよ。」
「どんなお話でしたの?」とリューシーが尋ねた。
「どこか少し改築している時に、職人たちが一つの古い地下牢を見つけたんだそうです。そこは、永年の間、建て塞がれて忘れられていたんですね。そこの内側の壁の石にはどれにもこれにも、囚人たちの刻みつけた文字が一面にありました。――年月日だの、名前だの、怨みの言葉だの、祈りの言葉だのですね。その壁の一角にある一つの隅石に、死刑になったらしい一人の囚人が、自分の最後の仕事として、三つの文字を彫っておいたそうです。何かごく貧弱な道具で、あわただしく、しっかりしない手で彫ってあるんです。最初は、それは D.I.C. と読まれたのですがね。ところが、もっと念入りに調べてみると、最後の文字は G だとわかりました。そういう頭文字《かしらもじ》の姓名の囚人がいたという記録も伝説もなかったので、その名前は何というのだろうかといろいろ推測されたんですが、どうもわからなかったのです。とうとう、その文字は姓名の頭文字ではなくて、 DIG ★という完全な一語ではなかろうか、と言い出した者がいました。で、その文字の刻んである下の床《ゆか》をごく念入りに調べてみたんです。すると、一つの石か、瓦か、鋪石《しきいし》の破片のようなものの下の土の中に、小さな革製の函《ケース》か嚢かの塵になったものと雑《まじ》って、塵になってしまった紙が見つかったんだそうですよ。その誰だかわからない囚人の書いておいたことは、もうどうしたって読めっこないでしょう。が、とにかくその男は何かを書いて、牢番に見つからないようにそれを隠しておいたんですね。」
「おや、お父さま、」とリューシーが叫んだ。「御気分がお悪いんですね!」
 彼は片手を頭へやって突然立ち上っていたのだ。彼の挙動と彼の顔付とはみんなをすっかり驚かせた★。
「いいや、悪いんじゃないよ。大粒の雨が落ちて来たんでね、それでびっくりしたのだ。みんな家《うち》へ入った方がよかろうな。」
 彼はほとんど即時に平静に返った。大粒の雨がほんとうに降っていて、彼は自分の手の甲にかかっている雨滴を見せた。しかし、彼はそれまで話されていたあの発見のことに関してはただの一|言《こと》も言わなかった。そして、みんなが家の中へ入って行く時に、ロリー氏の事務家的な眼は、チャールズ・ダーネーに向けられた医師の顔に、それがかつてあの裁判所の廊下でダーネーに向けられた時にその顔に浮んだと同じ異様な顔付を、認めたか、あるいは認めたような気がしたのであった。
 だが、彼は非常に速く平静に返ったので、ロリー氏は自分の事務家的な眼を疑ったほどであった。医師が広間にある例の金色《こんじき》の巨人の腕の下で立ち止って、自分はまだ些細なことに驚かぬようになっていない(いつかはそうなるにしても)ので、さっきは雨にもびくりとしたのだ、と皆に言った時には、彼はその巨人の腕にも劣らぬくらいにしっかりしていた。
 お茶時になり、プロス嬢はお茶を入れながら、また痙攣の発作を起した。それでもまだ何百の人々は来なかった。カートン氏がぶらりと入って来たのだが、しかし彼でやっと二人になっただけだ。
 その夜はひどく暑苦しかったので、扉《ドア》や窓を開け放しにして腰掛けていても、みんなは暑さに耐えられなかった。茶の卓子《テーブル》が片附けられると、一同は窓の一つのところへ席を移して、外の暗澹とした黄昏《たそがれ》を眺めた。リューシーは父親の脇に腰掛けていた。ダーネーは彼女の傍に腰掛けていた。カートンは一つの窓に凭れていた。窓掛《カーテン》は長くて白いのであったが、この一劃へも渦巻き込んで来た夕立風が、その窓掛《カーテン》を天井へ吹き上げて、それを妖怪の翼のようにはたはたと振り動かした。
「雨粒がまだ降っているな、大粒の、ずっしりした奴が、ぱらりぱらりと。」とマネット医師が言った。「ゆっくりとやって来ますな。」
「確実にやって来ますね。」とカートンが言った。
 彼等は低い声で話した。何かを待ち受けている人々が大抵そうするように。暗い部屋で電光を待ち受けている人々がいつもそうするように。
 街路では、嵐の始らないうちに避難所へ行こうと急いでゆく人々が非常にざわざわしていた。不思議によく物音を反響するその一劃は、行ったり来たりしている足音の反響で鳴り響いた。だが本物の足音は一つも聞えては来なかった。
「あんなにたくさんの人がいて、しかもこんなに淋しいとは!」と、皆がしばらくの間耳を傾けていてから、ダーネーが言った。
「印象的ではございませんか、ダーネーさん?」とリューシーが尋ねた。「時々、私は、夕方などにここに腰掛けておりますと、空想するんでございますが、――けれども、今夜は、何もかもこんなに暗くって厳《おごそ》かなので、馬鹿げた空想なぞちょっとしただけでも私ぞっとしますの。――」
「私たちにもぞっとさせて下さい。どんな空想だかどうか私たちに知らしていただきたいものですねえ。」
「あなた方には何でもないことに思われますでしょう。そういう幻想は、私たちがそれを自分で作り出した時だけ印象的なのだと、私思いますわ。それは他人《ひと》さまにお伝えすることが出来ないものなんですのよ。私時々夕方などに独《ひと》りきりでここに腰掛けて、じいっと耳をすまして聴いておりますと、あの反響が、今に私どもの生活の中へ入って来るすべての足音の反響だと思われて来ますの。」
「もしそうなるとすると、いつかはわれわれの生活の中へ大群集が入って来る訳だ。」とシドニー・カートンが、いつものむっつりした言い方で、口を挟んだ。
 足音は絶間がなかった。そしてそれの急ぐ様はますます速くなって来た。この一劃はその足の歩く音を反響し更に反響した。窓の下を通ると思われるものもあり、室内を歩くと思われるものもあり、来るものもあり、行くものもあり、突然止むものもあり、はたと立ち止るものもあり、すべては遠くの街の足音であって、見えるところにあるものは一つもなかった。
「あの足音がみんな私たちみんなのところへ来ることになっているのですか、|マネット嬢《ミス・マネット》、それとも私たちの間であれを分けることになるのですか?」
「私存じませんわ、ダーネーさん。馬鹿げた空想だと申し上げましたのに、あなたが聞かしてくれと仰しゃいましたんですもの。私がその空想に耽りますのは、私が独りきりでおります時なので、その時は、その足音を私の生活と、それから私の父の生活の中へ入って来る人たちの足音だと想像したのでございました。」
「僕がそいつを僕の生活の中へ引受けてあげますよ!」とカートンが言った。「僕は[#「僕は」に傍点]文句なしで無条件でやります。やあ、大群集がわれわれに迫って来ますよ、|マネット嬢《ミス・マネット》。そして僕には彼等が見えます、――あの稲光《いなびかり》で。」彼がこの最後の言葉を附け加えたのは、窓に凭れかかっている彼の姿を照した一条の鮮かな閃光がぴかりと輝いた後であった。
「それから僕には彼等の音が聞える!」と彼は、一しきりの雷鳴の後で、再び附け加えた。「そら、来ますよ、速く、凄じく、猛烈に!」
 彼の前兆したのは雨の襲来と怒号とであって、その雨が彼の言葉を止《や》めさせた。その雨の中ではどんな声でも聞き取れなかったからである。忘れがたいくらいの猛烈な雷鳴と電光とがその激湍のような雨と共に始った。そして、轟音と閃光と豪雨とは一瞬の間断もなく続いて、夜半になって月が昇った頃にまで及んだ。
 聖《セント》ポール寺院★の大鐘が澄みわたった空気の中で一時を鳴らした頃、ロリー氏は、長靴を穿いて提灯を持ったジェリーに護衛されて、クラークンウェルへの帰途に就いた。ソホーとクラークンウェルとの途中には処々に淋しい路があったので、ロリー氏は、追剥の用心に、いつでもジェリーをその用事に雇っておいたのだ。もっとも、いつもはこの用事はたっぷり二時間も早くすんでしまうのであったが。
「何という晩だったろう! なあ、ジェリー、」とロリー氏が言った。「死人が墓場からでも出て来かねないような晩だったね。」
「わっしは、そんなことになりそうな晩てえのは、自分じゃ見たことがありませんよ、旦那。――また、見たいとは思いませんや。」とジェリーが答えた。
「おやすみなさい、カートン君。」とその事務家は言った。「おやすみなさい、ダーネー君。わたしたちはいつかもう一度こういう晩を御一緒に見ることがありましょうかなあ!」

 おそらく、あるだろう。おそらく、人々の大群集が殺到しつつ怒号しつつ彼等に追って来るのをもまた、見ることがあるだろう。

    第七章 都会における貴族《モンセーニュール》

 宮廷において政権を握っている大貴族の一人であるモンセーニュール★は、パリーの宏大な邸宅で、二週間目ごとの彼の接見会《リセプション》を催していた。モンセーニュールは、彼には聖堂中の聖堂であり、その外《そと》の一続きの幾間《いくま》かにいる礼拝者の群《むれ》にとっては最も神聖な処の中でも最も神聖な処である、彼の奥の間《ま》にいた。モンセーニュールは彼のチョコレート★を飲もうとしているところであった。モンセーニュールは非常に多くのものを易《やす》々と嚥《の》み下《くだ》すことが出来たので、少数の気むずかし屋には、フランスをまでずんずん嚥み下しているのだと想像されていた。だが、彼の毎朝のチョコレートは、料理人の他《ほか》に四人の強壮な男の手を藉りなくては、モンセーニュールの咽《のど》へ入ることさえも出来なかった。
 そうだ。その幸福なるチョコレートをモンセーニュールの脣へまで持ってゆくには、四人の男が要《い》るのであった。その四人ともぴかぴかときらびやかな装飾を身に著け、その中の頭《かしら》の者に至っては、モンセーニュールの範を垂れたもうた高貴にして醇雅な様式と競うて、ポケットの中に二箇よりも少い金時計が入っていては生きてゆくことが出来ないのだった。一人の侍者はチョコレート注器《つぎ》を神聖な御前へと運ぶ。二番目の侍者はチョコレートを特にそれだけのために携えている小さな器具で攪拌して泡立たせる。三番目の侍者は恵まれたるナプキンを捧呈する。四番目の侍者(これが例の二箇の金時計を持っている男)はチョコレートを注《つ》ぐのである。モンセーニュールにとっては、こういう四人のチョコレート係《がかり》の侍者の中の一人が欠けても、この讃美にみちた天の下で彼の高い地位を保つことは出来ないのであった。もし彼のチョコレートが不名誉にもわずか三人の人間に給仕されるようなことがあったならば、彼の家名の穢《けが》れははなはだしいものであったろう。二人であったなら彼は憤死したに違いない。
 モンセーニュールは昨晩もささやかな晩餐に出かけたのであった。その席では喜劇と大歌劇《グランド・オペラ》とが極めて楽しく演ぜられた。モンセーニュールは大概の晩はささやかな晩餐に出かけて、嬌艶な来会者たちに取巻かれるのであった。モンセーニュールは極めて優雅で極めて多感であらせられたので、喜劇や大歌劇《グランド・オペラ》は、退屈な国家の政務や国家の機密に与っている彼には、全フランスの窮乏よりも遥かに多く彼を動かす力があった。フランスにとっては幸福なことだ。同じようなことが、フランスと似たようなのに恵まれているあらゆる国々にとって常にそうであるように! ――(一例としては)国を売った陽気なステューアト★のあの遺憾な時代のイギリスにとって常にそうであったように。
 モンセーニュールは総体から見た公務について一つの真に高貴な意見を持っていた。その意見というのは、一切のものをしてそれ自身の路を進ましめよ、というのであった。箇々の公務については、モンセーニュールはそれとは別のやはり真に高貴な意見を持っていた。それは、一切のものはことごとく彼の路を歩まねばならぬ――彼自身の権力と財嚢とを肥す方へ行かねばならぬ、というのであった。総体から見たものと箇々のものとを含めて彼の快楽については、モンセーニュールはまた別のやはり真に高貴な意見を持っていた。それは、この世は彼の快楽のために造られたのだ、というのであった。彼の法則の本文は(原文とは代名詞一つだけ変っているが、それは大したことではない)こうなっていた。「モンセーニュール曰《い》いけるは、地とこれに盈《み》てる物はわがものなり。★」
 それにもかかわらず、モンセーニュールは、卑俗な財政困難ということが彼の公私両方の財政に這い込んでいるのに、ようようにして気がついて来た。それで、彼は、その両方面の財政に関しては、やむをえず収税請負人★と結託したのであった。公の財政に関しては、モンセーニュールはそれを全くどうすることも出来なかったので、それゆえ誰かそれをどうにか出来る者に任《まか》さなければならなかったからであるし、私の財政に関しては、収税請負人は富裕であって、モンセーニュールは代々の非常な奢侈と浪費との結果として貧しくなりつつあったからである。そこで、モンセーニュールは、修道院にいる彼の妹を、彼女が身に著け得る最も廉価な衣装である面紗《ヴェール》をかぶる★のが差迫っているのを断《ことわ》るにまだ時がある間に、そこから連れ戻して、家柄は賤しいがすこぶる富裕な一人の収税請負人に、褒美として彼女を与えたのであった。この収税請負人は、頭部に黄金の林檎のついた身分相応な杖を携えながら、今、外側の室の来客の中にいて、人々に大いに平身低頭されていた。――もっとも、モンセーニュール一門の優秀な人種だけは常にその例外で、その連中は、彼の妻もその中に含めて、最も高慢な侮蔑の念をもって彼を見下《みくだ》していたのである。
 その収税請負人は豪奢な男であった。三十頭の馬が彼の厩舎にいたし、二十四人の家僕が彼の広間に控えていたし、六人の侍女が彼の妻に侍していた。掠奪と徴発との出来る限りはひたすらそれをのみやるということを公言している人間として、この収税請負人は、――彼の婚姻関係がいかに社会道徳に貢献するところがあったにしても、――当日モンセーニュールの邸宅に伺候した貴顕縉紳の間にあっては、少くとも最も現実性に富んだ人物であった。
 なぜなら、その室にいる者たちは、見た目には美しくて、当代の趣味と技巧とでなし得る限りのあらゆる意匠の装飾で飾られてはいるけれども、実際は、健実な代物ではなかったからである。どこか他の処にいる(そしてそれは、貧富の両極端からほとんど等距離にあるノートル・ダムの展望塔がその両方ともを見られないくらいに遠く隔ってもいない処なのであるが)襤褸《ぼろ》と寝帽《ナイトキャップ》とを著けた案山子《かかし》たちと幾分でも関聯して考えると、その室にいる者たちは極めて気持の悪い代物であったろう、――もしモンセーニュールの邸宅で誰かそういうことを考えてみる人間があったとするならばであるが。軍事上の知識に欠けている陸軍士官たち。船の観念を少しも持っていない海軍士官たち。政務の概念をも持たぬ文官たち。好色な眼をし、放縦な舌でしゃべり、更に放縦な生活をしている、最悪の世俗的な世界の人間である、鉄面皮な僧侶たち。そのすべての者たちは彼等のそれぞれの職務に全然不適当であり、そのすべての者たちがその職務に適しているような風をして恐しい嘘をついているが、しかしそのすべての者たちは近いか遠いかの別はあれモンセーニュールの仲間の者であり、それゆえに何かが得られる限りのあらゆる公職に嵌め込んでもらった者なのである。こういう連中は何十何百とまとめて数えなければならないくらいいたのであった。モンセーニュールや国務とは直接には関係のない、しかしそうかと言って真実な何等かのものにも一切等しく関係のない、あるいは何等かの現世の正しい目的に向って何等かの真直な道を通って旅して過す生涯にも関係のない人々も、それに劣らず夥しかった。ありもせぬ架空の病気に高価な治療を施して大財産をつくった医者どもが、モンセーニュールの控の間《ま》で、彼等の閑雅な患者たちに向ってにこにこと微笑の愛嬌を振り撒いていた。国家を犯している小さな悪弊に対するあらゆる種類の救治策を発見していながら、ただの一つの罪悪でも根絶しようと本気でとりかかるという救治策だけは知らない山師どもが、モンセーニュールの接見会《リセプション》で、人の心を迷わす彼等の譫語《たわごと》を手当り次第の人間の耳に注ぎ込んでいた。言葉で世界を改造している、また天に攀じ登るためのバベルの骨牌《かるた》塔★を築いている不信心な哲学者たちは、モンセーニュールによって招集されたこの驚歎すべき会合で、金属の変質ということに著目している不信心な化学者たちと話をしていた。最上等のお仕込を受けた申分のない紳士たち、この最上等のお仕込なるものは、その注意すべき時代にあっては――かつまたそれ以後今日までもそうであるが――人間的な興味のある自然な問題には一切無関心になるというそれの結果によって識別されることになっていたのであるが、そういう紳士たちは、モンセーニュールの邸宅において、最も模範的な倦怠状態にあった。こういうさまざまな名士たちがパリーという立派な世界で彼等の後に残して来た家庭の有様に至っては、そこに集ったモンセーニュールの信者たちの中にまじっている間諜《スパイ》――それはその優雅な来客の半分ほども占めていたが――でも、その社会の天使たち★の中に、態度や容姿で自分が母であるということを自認しているたった一人の人妻さえ見つけ出すことがむずかしい、ということがわかったほどであったろう。実際、一人の厄介な生物をこの世の中へ生み出すというだけの所業――それだけでは母という名前を事実として示すまでには行っていないのである――を除いては、母などというものは上流社会には知られていないのであった。百姓の女たちが野暮な赤ん坊などというものを傍において、育て上げるのであって、六十歳の婀娜なお婆さんたちは二十歳の時のように盛装し晩餐をとるのであった。
 非現実性という癩患がモンセーニュールに伺候するあらゆる人間を醜くしていた。一番外の方の室には、世の中の事態が幾分悪化しつつあるという漠然たる不安を数年前から心の中に抱いていた、半ダースの例外的な人々がいた。その事態を匡正する一つの有望な方法として、その半ダースの人間の中の半分は、痙攣教徒★という奇異な宗派の信者になっていた。そして、その時でさえ、自分たちが、口から泡を出し、暴《あば》れ※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、呶鳴り、その場で類癇★に罹って――それによって、モンセーニュールを導くための未来へのすこぶるわかりやすい指道標を建てるのであるが――みせたものかどうかと、心の中で考えているところであった。こういう苦行僧の他《ほか》に、別の宗派へ飛び込んで行った他の三人がいた。その宗派というのは、「真理の中心」がどうのこうのという譫語《たわごと》で事態を矯正しようとするものであった。すなわち、人間は真理の中心から離れてしまっている――それは大して論証を必要としない――が、またその円周の外へは出ていない、だから、人間は、断食することと精霊を見ることとによって、その円周の外へ飛び出さぬようにしていなければならぬし、またその中心へ押し戻されさえしなければならぬ、ということを主張したのであった。従って、こういう連中の間では、精霊との談話が大いに行われ、――そして、それには、決して明瞭になっては来なかったたくさんの御利益《ごりやく》があったのである。
 しかし、幾分心の慰めにもなろうというのは、モンセーニュールの大邸宅に集ったすべての来客が一点の欠点もない服装をしていることであった。もしも最後の審判日が盛装|日《デー》であるということが確められさえしたならば、そこに集った者は誰も彼も永遠に正しいものとなれたことであろう。あのように縮らして髪粉をつけてぴんと立てた頭髪や、人工的に保持され修飾されているあのように美しい顔色や、あのように見るも華美な佩剣や、嗅覚に対するあのように鋭敏な配慮をもってすれば、確かにどんなものでもいつまでもいつまでも保たせることが出来るであろう。最上等のお仕込を受けた申分のない紳士たちは、彼等がものうげに動くたびにちりんちりんと鳴る小さな垂れ下っている飾物を身に著けていた。こうした黄金の拘束物は貴金属の小さな鈴のように鳴り響いた。そして、それの鳴り響く音や、絹や金襴や上質の亜麻のさらさら擦れる音などのために、そこの空気の中には、サン・タントワヌと彼のがつがつした飢餓とを遠くへ吹き飛ばしてしまうほどの激動があったのだ。
 服装こそはあらゆるものをそれぞれの位置に保たしめるに用いられる唯一の間違いのない護符であり呪文であった。各人は決して終ることのない仮装舞踏会のために衣服を著けているのであった。テュイルリーの宮殿★から、モンセーニュールと全宮廷とを経て、議院や、法廷や、すべての社会(あの案山子たちだけを除いて)を経て、その仮装舞踏会は下賤な死刑執行吏にまで及んだ。その死刑執行吏でさえ、かの呪文に遵って、「頭髪を縮らし、髪粉をつけ、金モールの上衣、扁底靴★、白絹の靴下を著用して」職務を執行せよと命ぜられていたのだ。絞首刑や車輪刑★――斧鉞の刑は稀であった――の時には、ムシュー・パリー★、とムシュー・オルレアンやその他の彼の地方の同業者たちの間では監督派流儀に★彼をそう言ったのであるが、そのムシュー・パリーは、そういう優美な服装で職を司ったものである。そして、そのキリスト紀元千七百八十年にモンセーニュールの接見会《リセプション》に集った賓客たちの中で、頭髪を縮らし、髪粉をつけ、金モール服を著、扁底靴を穿き、白絹靴下を穿いた一校刑史に根ざしたある制度★が、余人ならぬ自分たちの運の星の消えるのを見ることになろうとは、誰がおそらく思ったことであろう!
 モンセーニュールは彼の四人の侍者の重荷を卸してやって彼のチョコレートを飲んでしまうと、最も神聖な処の中でも最も神聖な処の扉《ドア》をさっと開かせて、現れ出でた。すると、何という従順、何という阿諛追従、何という卑屈、何というあさましい屈従! 体《からだ》と心との平伏については、その方法ではもう少しも天帝に対してすることが残されていないくらいであった。――それが、モンセーニュールの礼拝者たちが天帝を決して煩わさなかった★いろいろな理由の中の一つであったのかもしれない。
 ここでは約束の一言を授け、かしこでは一つの微笑を贈り、一人の幸福な奴隷には一片の耳語を恵み、別の幸福な奴隷には片手の一振りを与えながら、モンセーニュールはにこやかに彼の部屋部屋を通り過ぎて、真理の円周の遠い果《はて》までも行った。そこまで行くと、モンセーニュールはくるりと向を変え、また引返して来て、そうしているうちにしかるべき時がたつと自分を例のチョコレート妖精たちの手によって自分の聖堂の中へ閉じこめさせてしまって、それきり姿を見せなかった。
 見世物が終って、そこの空気中の例の激動はほんの小さな嵐になり、例の貴金属の小さな鈴はちりんちりん鳴り響きながら階下へ降りて行った。まもなくすべての群集の中でただ一人の人物だけがそこに残された。その男は、帽子を腕の下に、嗅煙草入れを片手に持ちながら、鏡の間《あいだ》をゆっくりと通って出口の方へ行った。
「貴様なんぞは、」とこの人物は、彼の途中にある最後の扉《ドア》のところで立ち止って、例の聖堂の方角へ振り向きながら、言った。「悪魔に喰われてしまえ!」
 そう言うと、彼は足の埃《ほこり》を振り払うように指から嗅煙草を振り払い、それから静かに階下へと歩いて降りた。
 彼は、立派な服装をした、態度の尊大な、精巧な仮面のような顔をした、六十歳ばかりの男であった。透き通るように蒼白い顔。いずれもはっきりとした目鼻立ち。それに浮べた動かぬ表情。鼻は、他の点では美しい恰好をしているが、両方の鼻孔の上のところがごく微かに撮まれたようになっていた。その二つの圧搾したようなところ、あるいは凹みに、その顔の示す唯一の小さな変化は宿っているのだった。その凹みは、時としては頻りに色を変えることがあったし、また何か微かな脈搏のようなもののために折々拡がったり縮まったりした。そんな時には、それはその容貌全体に陰険と残忍との相を与えたのだった。注意して吟味してみると、そういう相を助長するその容貌の能力は、口の線と、眼窩の線とが、余りにはなはだしく水平で細いということの中にあるのであった。それにしても、その顔の与える印象から言えば、それは美しい顔であり、また非凡な顔であった。
 この顔の持主は階段を降りて庭に出ると、自分の馬車に乗り込み、馬を走らせて去った。接見会《リセプション》では彼と話をした人は多くはなかった。彼は皆とは離れて狭い場席に立っていたし、またモンセーニュールも彼に対してはもっと温かい態度を示してもよかりそうなものであった。そういう次第であったから、彼には、平民どもが自分の馬の前でぱっと散って、時々は轢き倒されそうになって危く免れるのを見るのは、かえって愉快であるらしかった。彼の馭者はまるで敵軍に向って突撃するかのように馬車を駆った。しかも、馭者のその狂暴な無鉄砲さは、主人の顔に阻止の色を浮べさせたり、脣に制止の言葉を上《のぼ》させたりすることがなかった。馬車を激しく駆るという貴族の乱暴な風習が、歩道のない狭い街路では、ただの庶民を野蛮的に危険な目に遭わせたり不具にしたりするという苦情が、その聾《つんぼ》の都会と唖《おし》の時代とにおいてさえ、時折は聞き取れるようになることがあった。しかし、そんな苦情を二度と考え直すほどそれを気にかける者はほとんどいなかった。そして、このことでも、他のすべてのことにおけると同様に、みじめな平民たちは自分たちの難儀を自分たちの出来る限り免れるようにするより他《ほか》はなかったのである。
 烈しいがらがらがたがたという音を立てながら、今の時代では了解するのに容易ではないほどの不人情な思いやりのなさで、その馬車は幾つもの街をまっしぐらに駈け抜け、幾つもの街角を飛ぶように走り曲って行き、女たちはその前で悲鳴をあげるし、男たちは互に掴まったり子供たちをその通路の外へ掴み出したりした。とうとう、一つの飲用泉の近くのある街角のところへ走りかかった時に、馬車の車輪の一つが気持悪くちょっとがたつき、数多《あまた》の声があっと大きな叫び声をあげ、馬どもは後脚で立ったり後脚で跳び上ったりした。
 この馬が跳び立つという不便なことがなかったなら、馬車はおそらく止らなかったであろう。馬車がそれの轢いた負傷者を置去りにしてそのまま駆けてゆくということはよくあることであったし、どうしてそんなことのないはずがあろう? しかし、びっくりした側仕《そばづかえ》はあたふたと降り、馬の轡や手綱には多数の手がかかった。
「何の故障か?」と馬車に乗っている方《かた》が、静かに顔を外に出して見ながら、言った。
 寝帽《ナイトキャップ》をかぶった一人の脊の高い男が馬の脚の間から包みのようなものを抱え上げ、それを飲用泉の台石の上に置いて、泥土《どろつち》のところへ坐って、その上に覆いかぶさりながら野獣のように咆えていた。
「御免下さりませ、侯爵さま!」と襤褸を著た柔順な一人の男が言った。「子供でござります。」
「どうしてあの男はあのような厭《いと》わしい声を立てているのじゃ? あの男の子供なのか?」
「失礼でござりますが、侯爵さま、――可哀そうに、――さようでござります。」
 飲用泉は少し離れたところにあった。というのは、街路は、それのあるところでは、十ヤードか十二ヤード四方ほどの広さに拡がっていたからである。その脊の高い男が突然地面から起き上って、馬車をめがけて走って来た時、侯爵閣下は一瞬剣の※[#「木+覇、第4水準2-15-85]《つか》にはっと手をかけた。
「殺された!」とその男は、両腕をぐっと頭上に差し伸ばし、彼をじっと見つめながら、気違いじみた自暴自棄の様子で、言った。「死んじゃった!」
 人々は周りに寄り集って、侯爵閣下を眺めた。彼を眺めている多くの眼には、熱心に注意していることの他《ほか》には、どんな意味も現れてはいなかった。目に見えるほどの威嚇や憤怒はなかった。また人々は何も言いはしなかった。あの最初の叫び声をあげた後には、彼等は黙ってしまったし、そのままずっと黙っていた。口を利いた例の柔順な男の声は、極端な柔順さのために活気も気力もないものであった。侯爵閣下は、あたかも彼等がほんの穴から出て来た鼠ででもあるかのように、彼等一同をじろりと眺め※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 彼は財布を取り出した。
「お前ら平民どもが、」と彼が言った。「自分の体や子供たちに気をつけていることが出来んというのは、わしにはどうも不思議なことじゃがのう。お前たちの中の誰か一人はいつでも必ず邪魔になるところにいる。お前たちがこれまでにわしの馬にどれだけの害を加えたかわしにもわからぬくらいじゃ。そら! それをあの男にやれ。」
 彼は側仕に拾わせようとして一枚の金貨を投げ出した。すると、すべての眼がその金貨の落ちるのを見下せるようにと、すべての頭が前の方へ差し延べられた。脊の高い男はもう一度非常に気味悪い叫び声で「死んじゃった!」と喚《わめ》いた。
 彼は別の男が急いでやって来たために言葉を止《や》めた。他の者たちはその男のために道を開《あ》けた。この男を見ると、その可哀そうな人間はその男の肩に倒れかかって、しゃくりあげて泣きながら、飲用泉の方を指さした。その飲用泉のところでは、何人かの女たちがあの動かぬ包みのようなものの上に身を屈めたり、それの近くを静かに動いたりしていた。だが、その女たちも男たちと同様に黙っていた。
「おれにはすっかりわかってるよ、すっかりわかってるよ。」とその最後に来た男が言った。「しっかりしろよ、なあ、ガスパール★! あの可哀そうな小《ちっ》ちゃな玩具《おもちゃ》の身にとってみれあ、生きてるよりはああして死ぬ方がまだしもましなんだ。苦しみもせずにじきに死んだんだからな。あれが一時間でもあんなに仕合せに生きていられたことがあったかい?」
「おいおい、お前は哲学者じゃのう。」と侯爵が微笑《ほほえ》みながら言った。「お前は何という名前かな?」
「ドファルジュと申します。」
「何商売じゃ?」
「侯爵さま、酒屋で。」
「それを拾え、哲学者の酒屋。」と侯爵は、もう一枚の金貨をその男に投げ与えながら、言った。「そしてそれをお前の勝手に使うがよいぞ。それ、馬だ。馬に異状はないか?」
 群集をもう一度見て遣《つかわ》しもされずに、侯爵閣下は座席に反《そ》り返って、過《あやま》って何かのつまらぬ品物を壊したが、それの賠償はしてしまったし、その賠償をするくらいの余裕はちゃんとある紳士のような態度で、今まさに馬車を駆って去ろうとした。その時に、彼のゆったりとした気分は、突然、一枚の金貨が馬車の中に飛び込んで来て、その床《ゆか》の上でちゃりんと鳴ったのに、掻き乱された。
「待て!」と侯爵閣下は言った。「馬を停めておけ! 誰が投げおったのか?」
 彼は、ちょっと前まで酒屋のドファルジュが立っていた場所に眼をやった。が、その場所にはさっきのあの哀れな父親が鋪石《しきいし》の上に俯向になってひれ伏していて、その傍に立っている人の姿は編物をしている一人の浅黒いがっしりした婦人の姿であった。
「この犬どもめが!」と侯爵は、しかし穏かな語調で、例の鼻の凹みのところだけを除いては顔色も変えずに、言った。「わしは貴様らを誰だろうと構わずにわざと馬に踏みにじらせて、貴様らをこの世から根絶やしにしてくれたいのじゃわい。もしどの悪党が馬車に投げつけおったのかわかろうものなら、そしてその盗賊めが馬車の近くにいようものなら、そやつを車輪にかけて押し潰してやるのじゃが。」
 彼等はずいぶん怖気《おじけ》づいていたし、それに、そういうような人間が、法律の範囲内で、またその範囲を越えて、彼等に対してどんなことをすることが出来るかということの経験は、ずいぶん久しい間のつらいものであったので、一つの声も、一つの手も、一つの眼さえも、挙げる者がなかった。男たちの中には、一人もなかったのだ。しかし、編物をしながら立っている例の婦人だけはきっと見上げ、侯爵の顔を臆せずに見た。それに気を留めることは侯爵の威厳に関わることであった。彼の侮蔑を湛えた眼は彼女をちらりと眺め過し、他のすべての鼠どもをちらりと眺め過した。それから再び座席に反り返って、「やれ!」と命じた。
 彼は馬車を駆らせて行った。そして他の馬車が後から後へと続々と馳せ過ぎて行った。大臣、国家の山師、収税請負人、医師、法律家、僧侶、大歌劇《グランド・オペラ》、喜劇、燦然たる間断なき流れをなした全仮装舞踏会は、馳せ過ぎて行った。例の鼠どもはそれを見物しに彼等の穴から這い出して来ていた。そして彼等は幾時間も幾時間も見物していた。軍隊と警官隊とがしばしば彼等とその美観との間を通って行って、障壁を作り、彼等はその障壁の背後へこそこそと逃げ、その間からそっと隙見したのだった。さっきの父親はずっと前に自分のあの包みを取り上げるとそれを持って姿を隠してしまい、その包みが飲用泉の台石の上に置いてあった間それに附き添うていた女たちは、そこに腰を下して、水の流れるのと仮装舞踏会が馬車で走ってゆくのとを見守っていたし、――編物をしながら一|際《きわ》目立って立っていた例の一人の婦人は、運命の如き堅実さをもってなおも編物をし続けていた。飲用泉の水は流れて行った。かの馬車の迅速な河は流れて行った。昼は流れて夜となった。その都会の中の多くの生命は自然の法則に従って死へと流れ入って行った。歳月の流れは人を待たなかった。鼠どもは再び彼等の暗い穴の中でくっつき合って眠っていた。仮装舞踏会は晩餐の席で輝かしく照されていた。万物はそれぞれの進路を流れて行った。
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    第八章 田舎における貴族《モンセーニュール》

 美しい風景。そこには穀物が実ってはいるが、豊かではない。麦のあるべき処にみすぼらしいライ麦の畑。みすぼらしい豌豆《えんどう》や蚕豆《そらまめ》の畑、ごく下等な野菜類の畑が小麦の代りになっている。非情の自然にも、それを耕している男女たちに見ると同様に、不承不承に生長しているように見える一般的な傾向――諦めて枯れてしまおうとする元気のない気風。
 侯爵閣下は、四頭の駅馬と二人の馭者とによって嚮導された、彼の旅行馬車(それはいつもの馬車よりは軽快なものであったかもしれなかった)に乗って、嶮しい丘をがたごとと登っていた。侯爵閣下の面上の赤味は彼の立派な躾の非難になるものではなかった★。それは内から起ったものではなかった。それは彼の意力ではどうにも出来ぬ一つの外的の事情――沈みゆく太陽のためになったものであった。
 旅行馬車が丘の頂上に達した時にその落陽は非常に燦然と車内へ射し込んで来たので、中に乗っている人は真紅色に浸された。「もうじきに、」と侯爵閣下は自分の手をちらりと眺めながら言った。「薄らぐじゃろう。」
 事実、太陽は地平線に近く傾いていたので、その瞬間に没しかけた。重い輪止《わどめ》が車輪にかけられて、馬車が雲のような砂埃《すなぼこり》を立て燃殻《もえがら》のような臭いをさせながら丘を滑り下っている時、真赤な夕焼は急速に薄くなって行った。太陽と侯爵とは共に下《くだ》って行ったので、輪止が取り外された時には夕焼はもう少しも残っていなかった。
 しかし、そこには、断崖をなしたところも広々としたところもある起伏した土地、その丘の麓にある小さな村、その向うの広い見晴しと高台、教会堂の塔、風車、狩猟をするための森、牢獄として使われている堡塁が上に立っている断巌などが残っていた。夜が近づくにつれて暗くなってゆくこういうすべてのものを、侯爵は、いかにも家路に近づいている者のような様子で、ぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]した。
 その村にはただ一筋の貧乏くさい街路があって、そこには貧乏くさい酒造場や、貧乏くさい製革所や、貧乏くさい居酒屋や、駅馬の継替えのための貧乏くさい厩舎や、貧乏くさい飲用泉や、普通の通りのすべての貧乏くさい設備があった。そこにはまた貧乏くさい村民もいた。その村民は皆貧乏であった。彼等の中には、戸口に腰を下して、夕食の用意に貧弱な玉葱などを細かく裂いている者も多くいたし、また、飲用泉のところで、葉だの、草だの、何でもそういうような土から出来るもので食べられるいろいろの小さなものだのを洗っている者も多くいた。彼等を貧乏にさせたものの意味深い証拠も欠けてはいなかった。国への租税、教会への租税、領主への租税、地方税や一般税が、その小さな村の厳《おごそ》かな掟に従って、こちらへ払いあちらへ払いしなければならなかったので、遂には、どんなものであろうととにかく村というものが呑み込まれずに残っているということが、不思議なくらいであった。
 子供はあまり見かけられなかったし、犬は一匹も見えなかった。大人《おとな》の男や女については、この世で彼等の選ぶことの出来る道は次の予想の中に述べられていた。――すなわち、製粉所の下にある小さな村で、命を支えられる限りの最低の条件で生きてゆくか、それとも、断巌の上に高く聳え立っている牢獄の中で監禁されて死んでゆくかだ。
 先頭に立った一人の従僕に先触れされて、また、あたかも侯爵が蛇髪復讐女神《フュアリー》★たちに供奉されてやって来たかのように、馭者たちの鞭が夕暮の空気の中で彼等の頭の周りを蛇のように絡まってひゅうひゅうと鳴る音に先触れされて、侯爵閣下は旅行馬車に乗ったまま宿駅の門のところで停った。そこは飲用泉の近くであって、農夫たちはしていた仕事を中止して彼を眺めた。彼も彼等を眺め、そして、彼等のうちに、貧苦に窶れた顔や姿が徐々に確実に削り落されているのを、そうと気づきはしなかったが、目にした。その彼等の顔や姿が削り落されていることが、フランス人は痩せているということをイギリス人の迷信にしたのであったが、その迷信はそういう事実のなくなった後も百年近くまで続いているのである。
 侯爵閣下が、彼自身と同類の連中が宮廷のモンセーニュールの前にうなだれたように、彼自身の前にうなだれている柔順な顔――ただ、その相違は、これらの顔は単に耐え忍ぶためにうなだれているのであって御機嫌を取るためではない、ということであったが――をずっと見やった時、一人の白髪雑《しらがまじ》りの道路工夫がその群に加わった。
「あいつをここへ連れて来い!」と侯爵は従僕に言った。
 その男は帽子を片手にして連れて来られた。すると、他の連中は、あのパリーの飲用泉のところにいた人々と同じような工合に、周りに寄り集ってじっと見ながら聞耳を立てた。
「わしは途中でお前の傍を通ったようじゃが?」
「閣下《モンセーニュール》、仰せの通りでござります。お途中で手前めの傍をお通り遊ばしました。」
「丘を登っている時と、丘の頂と、二度じゃな?」
「閣下《モンセーニュール》、仰せの通りでござります。」
「お前は何をあんなにじいっと見ておったのか?」
「閣下《モンセーニュール》、手前はあの男を見ておりましたのでござります。」
 彼は少し身を屈めて、自分のぼろぼろになった青い帽子で馬車の下を指した。他の者どもも皆身を屈めて馬車の下を見た。
「どの男じゃ、豚め? そしてお前はなぜそこを見ておるのじゃ?」
「御免下さりませ、閣下《モンセーニュール》。奴はその歯止沓《はどめぐつ》★――輪止の鎖にぶら下っておりましたんで。」
「誰がじゃ?」とその旅行者が問うた。
「閣下《モンセーニュール》、あの男のことで。」
「この阿呆どもめは悪魔にさらわれてしまうがいい! その男は何という名前か? お前はこの辺の者を一人残らず知っておるじゃろう。そやつは誰だったのじゃ?」
「へえ、閣下《モンセーニュール》! そいつはこの辺の者じゃござりませなんだ。生れてからこっち、手前はそいつを一度も見たことがござりませなんだ。」
「鎖にぶら下っておったと? 息《いき》を詰らすためか?」
「御免を蒙りまして申し上げますが、それが不思議なところでございましたよ、閣下《モンセーニュール》。そいつの頭は仰向にぶら下っておりました、――こんな風に!」
 彼は馬車に対して横になるように体《からだ》を向け、反《そ》り返って、顔を空の方へ振り向け、頭をだらりと下げた。それから、体を元へ戻して、帽子をいじくって、ぴょこんと一つお辞儀をした。
「そやつはどんな様子をしておったか?」
「閣下《モンセーニュール》、その男は粉屋よりも真白でござりました。すっかり埃《ほこり》をかぶって、幽霊のように白くって、幽霊のように脊が高く★って!」
 この画のような言い方はそこにいた小さな群集に非常な感動を惹き起した。が、すべての眼は、他の眼と※[#「目+旬」、第3水準1-88-80]《めくば》せもせずに、侯爵閣下を眺めた。たぶん、彼には良心を悩ます幽霊などというものがいるかどうかということを観察するためであったのだろう。
「なるほど、お前はでかしおったわい。」と侯爵は、こういう虫けらどもを相手に立腹すべきではないとうまく気がついて、言った。「泥坊めがわしの馬車にくっついているのを見ておりながら、お前のその大きな口を開いて知らせようともしなかったとはな。ちえっ! この男をあちらへ連れて行け、ムシュー・ガベル!」
 ムシュー・ガベルはそこの宿駅長であって、他に何かの徴税吏をも兼ねていた。彼は、さっきから、この訊問を輔佐するためにすこぶる追従するような態度で出て来ていて、その訊問されている者の腕のところの服をいかにも役人らしい風に掴んでいたのである。
「ちえっ! あちらへ行け!」とムシュー・ガベルが言った。
「今の他所者《よそもの》が今夜お前の村で宿を取ろうとしたらそやつを捕えておけ。そしてそやつに悪い事をさせぬようにきっと気をつけるのじゃぞ、ガベル。」
「閣下《モンセーニュール》、御命令は必ず遵奉いたしますつもりでございます。」
「そやつは逃げ失せてしまったのか、野郎めは? ――さっきの罰当りはどこにいる?」
 その罰当りは既に六人ばかりの特別に親しい友達★と一緒に馬車の下に入っていて、自分の青い帽子で例の鎖を指し示していた。別の六人ばかりの特別に親しい友達がすぐさま彼をひっぱり出して、息《いき》もつかせずに侯爵閣下のところへ出した。
「その男は逃げ失せてしまったのか、この頓馬め、馬車が輪止をかけに停った時にな?」
「閣下《モンセーニュール》、奴は、川の中へ跳び込む人間のように、頭を先にして、丘の坂のとこるをまっさかさまに跳び下りてゆきましてござります。」
「それを調べてみろ、ガベル。馬車をやれ!」
 鎖を見つめていた例の六人の者は、羊のようにかたまって、まだ車輪の間にいた。その車輪が突然囘転し出したのだから、彼等が皮と骨とを助かったのは全く僥倖であった。その皮と骨との他《ほか》には彼等には助かるべきものはほとんどなかったのだ。でなければ彼等はそれほど運がよくなかったかもしれなかった。
 馬車は急に村から駈け出して、その向うの高台へと登って行ったが、その勢はまもなくその丘の嶮しさに阻まれた。次第に、馬車は速力が衰えて並足となり、夏の夜のいろいろの甘い香《かおり》の間をゆらゆらと揺れがたがたと音を立てながら登って行った。馭者たちは、無数の遊糸《いとゆう》のような蚋《ぶよ》があの蛇神復讐女神《フュアリー》に代って自分たちの周りをぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]っている中を、ゆったりと自分たちの鞭の革紐の先を繕っていた。側仕《そばづかえ》は馬の脇を歩いて行った。従僕はぼんやりと見える遠くの方へ先頭に立って駈けて行くのが聞き取れた。
 丘の一番嶮しい地点に小さな墓地があって、そこに一つの十字架があり、その十字架に救世主キリストの新しい大きな像がついていた。それはみすぼらしい木像で、誰か未熟な田舎の彫刻師の作ったものであったが、その彫刻師はこの像を実物――おそらくは、自分という実物――から考案したのであった。というのは、それは恐しく痩せ細っていたから。
 永い間だんだんと悪くなって来ていて、まだその一番悪いところへ来ていない一つの大きな悲惨の、この悲惨な表象★に向って、一人の女が跪いていた。彼女は馬車が自分に近づいて来ると頭を振り向け、素速く立ち上り、馬車の扉《ドア》のところに現れた。
「ああ、閣下《モンセーニュール》! 閣下《モンセーニュール》、お願いでございます。」
 閣下《モンセーニュール》は、苛立《いらだ》たしい声を立てたが、顔色は例の通り変えもせずに、窓の外に顔を出した。
「どうした! 何のことじゃ? いつもいつもお願いじゃな!」
「閣下《モンセーニュール》。お慈悲でございます! 御猟場番人の、私の亭主のことで。」
「猟場番人の、お前の亭主がどうしたのじゃ? お前らの言うことはいつもいつも同《おんな》じじゃ。何かが納められないのじゃろう?」
「亭主はすっかり納めました、閣下《モンセーニュール》。亭主は死にました。」
「そうか! では安穏になっておるのじゃ。わしがそれをお前のところへ生き返らせてやれるか?」
「ああ、さようではございません、閣下《モンセーニュール》! しかし亭主は、あそこに、萎《しな》びた草が少しばかりかたまって生えているところの下におります。」
「それで?」
「閣下《モンセーニュール》、そういう萎びた草の少しかたまって生えているところがそれはそれはたくさんございます!」
「それで?」
 彼女は年寄の女のように見えたが、ほんとうは若いのであった。彼女の物腰は強い悲歎を抱いているような物腰であった。代る代る、彼女はその筋立った瘤だらけの両手を烈しく力をこめて握り合せたり、片手を馬車の扉《ドア》にかけたりした、――まるでその扉《ドア》が人間の胸であって、訴える手の触るのを感じてくれるもののように、やさしく、撫でさすりながら。
「閣下《モンセーニュール》、お聞き下さいませ! 閣下《モンセーニュール》、私のお願いをお聞き下さいませ! 私の亭主は貧乏のために死にました。たくさんの者が貧乏のために死にます。もっとたくさんの者が貧乏のために死にますでしょう。」
「それで? わしがその者どもを養えるか?」
「閣下《モンセーニュール》、それは有難い神さまだけが御存じでございます。けれども私はそんなことをお頼みするのではございません。私のお願いいたしますのは、私の亭主の名前を書きました小さな石か木片《きぎれ》を一つ、亭主の寝ております場所がわかりますように、その上に置かせていただきたいということでございます。でございませんと、その場所はじきに忘れられてしまいますでしょう。私が同じ病で死にます時にはそこはどうしても見つからないでこざいましょう。私はどこか他《ほか》の萎びた草のかたまって生えているところの下に埋められますでしょう。閣下《モンセーニュール》、死ぬ者はそれはそれはたくさんでございます。死ぬ者はずんずん殖えて参ります。貧乏な者がそれはそれはたくさんでございますから。閣下《モンセーニュール》! 閣下《モンセーニュール》!」
 側仕は彼女を扉《ドア》から押し除け、馬車は急に疾《はや》い早足で駈け出し、馭者は馬の足を速めさせたので、彼女は遥かの後に取残され、そして閣下《モンセーニュール》は、再び蛇髪復讐女神《フュアリー》に護衛されて、彼と彼の館《やかた》との間に残っている一二リーグ★の距離を急速に短縮しつつあった。
 夏の夜の甘い香《かおり》は彼の周囲一面にたちこめた。そしてまた、そこから遠く離れてもいない飲用泉のところにいる、塵まみれの、襤褸《ぼろ》を著た、働き疲れた群《むれ》の上にも、雨の降るように、偏頗なくたちこめた。その群《むれ》に向って、例の道路工夫は、彼の全部であるところの例の青い帽子の助けを藉りて、彼等の辛抱出来る限り、さっきの幽霊のような男のことをまだ頻りに述べ立てていた。そのうちに、だんだんと、彼等は辛抱が出来なくなるにつれて、一人一人と減ってゆき、小さな窓々の中に灯火が瞬き出した。その灯火は、窓が暗くなってもっと星が出て来るにつれて、消されたのではなくて空へ打ち上げられたように思われた。
 その頃、屋根の高い大きな家と、枝を拡げたたくさんの樹木との影が、侯爵閣下に覆いかかっていた。そして、その影は、彼の馬車が停った時に、火把《たいまつ》の光と入れ換った。それから彼の館の大扉が彼に向って開かれた。
「ムシュー・シャルルがわしを訪ねて来るはずじゃが。イギリスから到著しておるか?」
「閣下《モンセーニュール》、まだ御到著ではございませぬ。」
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    第九章 ゴルゴンの首

 侯爵閣下のその館《やかた》は、どっしりとした建物であって、その前面には石を敷いた広い庭があり、二条の彎曲した石の階段が、表玄関の扉《ドア》の前にある石の露台《テレス》で出会っていた。何から何まで石だらけの建物で、どちらを向いても、どっしりした石造の欄干や、石造の甕や、石造の花や、石造の人間の顔や、石造の獅子の頭などがある。まるで、二世紀前にその建物が竣工した時に、ゴルゴン★の首がそれを検分したかのよう。
 侯爵閣下は馬車から出て、火把《たいまつ》を先に立てて、浅く段をつけた幅広の上り段を上って行ったが、その火把はあたりの暗闇《くらやみ》を掻き乱し、彼方《かなた》の樹の間の厩の大きな建物の屋根にいる一羽の梟から声高い抗議を受けたほどであった。その他《ほか》のすべてのものはごく静かであったので、階段を上りながら持って行かれる火把と、玄関の大扉のところで差し出されているもう一つの火把とは、夜の戸外にあるのではなくて、密閉した宏壮な室の中にでもあるもののように燃えていた。梟の声の他《ほか》に聞える物音とては、噴水がその石の水盤に落ちる音ばかりであった。何しろ、その夜は、何時間も続けざまに息《いき》を殺し、それから長い低い溜息を一つ吐いて、また息を殺すと言われるあの闇夜《やみよ》なのであったから。
 玄関の大扉が背後で鏘然たる音を立てて閉《し》まると、侯爵閣下は、古い猪猟槍や、刀剣や、狩猟短剣などで物凄く飾られ、また、今はおのが保護者なる死の許《もと》へ行っている多くの百姓たちが、領主の怒りに触れた時にそれで打たれたところの、太い乗馬笞や馬鞭などでいっそう物凄く飾られている表広間を、横切って行った。
 夜の用心のために戸締りをしてある、暗い、大きな部屋部屋を避けながら、侯爵閣下は、火把持を前に歩かせて、階段を上って、廊下に向いている一つの扉《ドア》のところまで行った。その扉《ドア》がさっと開《あ》けられると、彼は、寝室と他の二室、都合三室の彼自身の私室へ入った。床《ゆか》には凉しげに絨毯を敷いてない、高い円天井の室で、炉には冬季に薪を燃やすための大きな薪架があり、豪奢な時代の豪奢な国の侯爵という身分にふさわしいあらゆる豪奢なものがあった。決して断絶することがないはずの王統★の先々代のルイ――ルイ十四世――時代の流行様式が、この三室の高価な家具に歴然と顕れていた。が、それは、フランスの歴史の古い時代の頁の挿絵ともなるべきところの数多《あまた》の品によって変化を与えられてもいた。
 その室の中の第三の室には、夕食の食卓に二人前の用意がしてあった。そこは、その館の消化器のような恰好★をした四つの塔の一つの中にある、円形の室であった。小さな、天井の高い室で、そこの窓は一杯に開《あ》け放ってあり、木製の鎧戸は閉《し》めてあったので、暗い夜の闇は、鎧戸の石色の幅広の線と互違いに、幾つもの黒い細い水平の線になって見えるだけだった。
「甥めは、」と侯爵は、その夕食の準備をちらりと見やって、言った。「到著しておらぬということじゃったが。」
 御到著ではありませんが、閣下《モンセーニュール》と御一緒のことと思っておりましたので、とのことであった。
「うむ! 奴は今夜は著きそうにもない。でも、食卓はそのままにしておけ。わしは十五分のうちに身支度を整えるから。」
 十五分のうちに閣下《モンセーニュール》は身支度を整えて、選りすぐった贅沢な夕食に向ってただ独り著席した。彼の椅子は窓と向い合っていたが、彼はスープを吸ってしまって、ボルドー葡萄酒の杯を脣へ持って行きかけた時に、その杯を下に置いた。
「あれは何じゃな?」と彼は、例の黒色と石色との水平の線のところをじっと気をつけて見ながら、静かに尋ねた。
「閣下《モンセーニュール》? あれと仰せられますと?」
「鎧戸の外じゃ。鎧戸を開《あ》けてみい。」
 その通りにされた。
「どうじゃ?」
「閣下《モンセーニュール》、何でもございませぬ。樹と闇とがあるだけでございます。」
 口を利いたその召使人は、鎧戸をさっと開《あ》けて、顔を突き出して空虚な暗闇を覗いて見てから、振り返ってその闇を背後にして、指図を待ちながら立った。
「よろしい。」と落著き払った主人が言った。「元の通りに閉《し》めろ。」
 それもその通りにされ、侯爵は食事を続けた。食事を半ば終えた頃、彼は、車輪の音を聞いて、手にしている杯を再び止《とど》めた。その音は威勢よく近づいて、館の正面までやって来た。
「誰が来たのか尋ねて来い。」
 それは閣下《モンセーニュール》の甥であった。彼は午後早くに閣下《モンセーニュール》の後数リーグばかりのところまで来ていたのであった。彼はその距離を急速に短縮したのだが、しかし途中で閣下《モンセーニュール》に追いつくほどに急速ではなかった。彼は閣下《モンセーニュール》が自分の前に行くということは宿駅で聞いていたのだ。
 ちょうどこちらに晩餐の用意がしてあるから、どうか来て食事していただきたい、と彼に言って来い(閣下《モンセーニュール》がそう言ったのであるが)とのことであった。まもなく彼はやって来た。彼はイギリスでチャールズ・ダーネーとして知られている人物であった★。
 閣下《モンセーニュール》は彼を慇懃な態度で迎えた。が二人は握手をしなかった。
「あなたは昨日《きのう》パリーをお立ちになりましたのですね?」と彼は、食卓に向って著席した時に、閣下《モンセーニュール》に言った。
「昨日《きのう》。で、お前は?」
「私は真直に参りました。」
「ロンドンから?」
「そうです。」
「お前は来るのにだいぶん永くかかったようじゃのう。」と侯爵は微笑を浮べながら言った。
「どういたしまして。私は真直に来ましたのです。」
「いや失礼! わしの言うのは、旅行に永くかかったというのじゃない。旅行をする気になるのに永くかかったというのじゃ。」
「私の手間取りましたのは、」――と甥はちょっと返答をためらって――「いろいろな用事のためでした。」
「そうだろうとも。」と垢抜けのした叔父は言った。
 召使人がいる間は、それ以外の言葉は二人の間に交《かわ》されなかった。珈琲が出されて、二人だけになると、甥は、叔父を見つめて、精巧な仮面に似た顔の眼と見合いながら、話を切り出した。
「あなたもお察しのように、私の戻って参りましたのは、私が国を去りました目的を続行するためです。その目的のためには私は大きな思いがけない危険に陥りました。しかし、それは神聖な目的です。ですから、もし私がそれのために死ぬところまで行ったとしても、私はそれをやり通したろうと思います。」
「死ぬところまでということはないさ。」と叔父は言った。「死ぬところまで、などと言う必要はないよ。」
「もし私が、」と甥が返答した。「そのために死の瀬戸際まで連れて行かれたとしても、あなたがそこで私を止めてやろうと気にかけて下すったかどうか、怪しいものですねえ。」
 鼻にあるあの深くなったところと、残忍な顔にあるあの細い真直な線が長くなったこととで見ると、そのことは到底望みがないと思われた。叔父はそんなことがあるものかという抗議の優雅な手振りを一つしたが、それは上品な躾から来たちょっとした形式であることは明かであったので、相手に安心を与えるようなものではなかった。
「実際のところ、」と甥が続けて言った。「私の知っている限りでは、あなたは、私を取巻いていた嫌疑を受けやすい事情に、いっそう嫌疑を受けやすい外見を与えるようにと、殊更にお骨折になったかもしれませんね。」
「いや、いや、そんなことはしないさ。」と叔父は面白そうに言った。
「しかし、それはともかく、」と甥は、深い疑惑の念をもって彼をちらりと眺めながら、再び言い始めた。「あなたの御方針がどうしてでも私に思い止らせよう、そしてそのためにはどんな手段であろうと躊躇しないというのであることは、私は承知しています。」
「のう、お前、わしはお前にそう言い聞かせたはずじゃ。」と叔父は、例の二つの凹みのところを微かに脈|搏《う》たせながら、言った。「ずっと以前にお前にそう言い聞かせたのを思い出してもらいたいものじゃな。」
「覚えております。」
「有難う。」と侯爵は言った、――実際ごくやさしく。
 彼の声は、ほとんど楽器の音《ね》のように、空中に漂った。
「つまりですね、」と甥は言葉を続けた。「私がこのフランスでこうして牢獄に入らずにいられるのは、あなたにとっては不運であると同時に、私にとっては幸運なのだ、と私は信じます。」
「わしにはどうもまるでわからんが。」と叔父は、珈琲を啜りながら、返答した。「説明してもらえまいかのう?」
「もしもあなたが宮廷の不興を蒙ってお出でではなく、またここ何年間もあのように面白からぬ形勢になってお出でではなかったならば、一枚の拘禁令状★で私はどこかの城牢へ無期限に送り込まれていたろう、と私は信じているのです。」
「そうかもしれん。」と叔父は極めて冷静に言った。「家門の名誉のためには、わしはお前をそれくらいまでの不自由な目に遭わせる決心をしかねないからな。いや、これは失礼なことを言ったのう!」
「一昨日の接見会《リセプション》も、私には仕合せにも、例の通り冷いものだったろうと思いますね。」と甥が言った。
「わしなら仕合せにもとは言わぬがな、お前。」と叔父はいかにも垢抜けのした上品さで返答した。「わしにはそうとは信じられんよ。孤独という有利な境遇に取巻かれた、考慮するには持って来いの機会というものは、お前が独力でやるよりも遥かに有利にお前の運命を左右することが出来るのじゃ。だが、その問題を議論したところで無益じゃ。わしは、お前の言う通り、不利な地位に立っておる。そういう小さな懲治の手段、家門の権力と名誉とを守るためのそういう穏やかな助力、お前をそんな不自由な目に遭わせることの出来るそういう些少の恩恵、そういうものも今では伝《つて》を求めてしつこく頼まなければ得られぬことになっておる。そういうものを得ようと求める者は極めて多数じゃが、それを与えられる者は(比較的に言えば)ごく少数なのじゃ! 前はこんなことはなかったのだが、そういうようないろいろのことではフランスは悪化して来ておるわい。わしたちの遠くもない先祖たちは近隣の下民どもに対して生殺与奪の権を持っておったものじゃ。この部屋からも、たくさんのそういう犬どもがひっぱり出されて絞《し》め殺されたし、この次の部屋(わしの寝室)では、わしたちの知っているところでも、一人の奴などは、自分の娘のことについて――そやつの[#「そやつの」に傍点]娘じゃぞ!――何か横柄な気の利いたことを言いおったというので、その場で短剣で突き刺されたものじゃよ。わしたちは多くの特権を失うてしもうた。新しい哲学が流行《はや》って来たでのう。で、当今、わしたちの地位をあくまで主張するとなると、ほんとうに不便な目に遭うかもしれんわい。(わしは遭うだろうとまでは言わぬ。遭うかもしれんと言うのじゃ。)何もかも全く悪くなってしもうた、全く悪くなってしもうた!」
 侯爵は穏かに少量の一撮みの嗅煙草を嗅いだ。そして、国家更生の偉大な手段となるべき、この自分という人間がまだ存在している国家について、いかにもこの上なく彼にふさわしく優雅に落胆したような様子で、頭を振った。
「われわれは、昔でも近代でも、余りわれわれの地位を主張して来ましたので、」と甥は憂鬱に言った。「われわれの家名はフランス中のどの家名よりも憎み嫌われていると私は思います。」
「そうありたいものじゃな。」と叔父が言った。「高貴な者に対する憎悪は卑賤な者の無意識の尊敬じゃ。」
「この辺のどこの土地にだって、」と甥は前と同じ語調で言い続けた。「恐怖と屈従との陰鬱な敬意以外のどんな敬意でも浮べて私を見てくれるような顔は一つだって見当りませんよ。」
「家門の偉大さに対する礼儀じゃよ。」と侯爵は言った。「わしどもの一門がその偉大さを維持して来たやり方から見て当然受くべき礼儀じゃよ。はっはっ!」そして彼はまた穏かに少量の一撮みの嗅煙草を嗅いで、軽く脚を組んだ。
 しかし、彼の甥が食卓に片肱をかけて、思いに沈んで元気なくその片手で眼を蔽うた時、あの精巧な仮面は、それをかぶっている人の無頓著を装《よそお》う態度には不釣合なほど、鋭さと細心さと嫌悪とを強く集中させて、彼を横目にじっと見た。
「抑圧は唯一の永続する哲学なのじゃ。恐怖と屈従との陰鬱な敬意は、なあ、お前、」と侯爵は言った。「この屋根が、」と屋根の方を見上げながら、「空を見えぬように遮っている限りは、あの犬どもを鞭に柔順にさせておくじゃろうて。」
 それは侯爵の想像したほど永いことではないかもしれなかった。この時からわずか数年後のその館と、またやはりこの時からわずか数年後のそれと同じような五十の館との光景を、その晩彼に見せてやることが出来たならば、彼は、火災で黒焦げにされ、掠奪で破壊された、その物凄い廃墟から、どれを自分のものとして主張していいか、途方に暮れたことであろう。彼の誇った屋根について言えば、彼はそれが[#「それが」に傍点]新しい方法で空を見えぬように遮るのを知ったであろう。――すなわち、その屋根の鉛が、幾万の小銃の銃身から発射されて、それに中《あた》った人々の死体の眼から、永久に、空を見えぬように遮る★、という新しい方法である。
「ともかく、」と侯爵が言った。「お前が望まんにしても、わしは家門の名誉と安泰とを保ってゆくつもりじゃよ。だが、お前は疲れているに違いない。今夜は話はこれで切り上げるとしようかな?」
「もうしばらく。」
「お前さえよければ、一時間でも。」
「われわれは、」と甥が言った。「悪事をして来たのです。そして今その悪事の報いを受けているのです。」
「わしたち[#「わしたち」に傍点]が悪事をして来たと?」と侯爵は、尋ねるような微笑を浮べて、最初に自分の甥を、次に自分を優雅に指さしながら、真似て言った。
「われわれの一家がです。その名誉が私たち二人ともにとって全く違った意味で非常に大切なものである、われわれの名誉ある一家がです。私の父の時代だけでさえ、われわれは、何であろうとわれわれの快楽の邪魔をした人間には一人残らず害を加えて、夥しい悪事をしたのです。私の父の時代は同時にあなたの時代なのですから、父の時代のことを話す必要などがどうしてありましょう? 私の父と双生子《ふたご》の兄弟で、共同相続人で、父の後継者であるあなたを、私は父と切り離すことが出来ましょうか?」
「死という奴が切り離してくれたよ!」と侯爵が言った。
「その父の死のために私は、」と甥が答えた。「私にとっては恐しい制度に束縛されることになり、私はその制度に対して責任はあるが、その中にあって権力がないのです。それでも、私の母の口から出た最後の願いは実行したい、母の眼に現れた最後の眼付には従いたいと思っています。その眼付は慈悲を施して罪の償《つぐな》いをするようにと私に懇願したのでした。それで、助力と権力とを求めましたが無駄だったので苦しんでいるのです。」
「そんなものをわしに求めてもだ、のう、お前、」と侯爵は、人差指で彼の胸のところに触りながら――二人はその時は炉の傍に立っていた――言った。「それはいつまでたったって無駄だろうな。そう思っていてもらいたい。」
 彼が嗅煙草の箱を片手にしたまま、彼の甥を静かに眺めながら立っている間、透き通るように白いその顔にあるどの細い真直な線も、残忍そうに、狡猾そうに、きっと引締められた。彼は、あたかも彼の指が短剣の鋭利な切先《きっさき》であって、それで技《わざ》も巧みに相手の体《からだ》を刺し貫きでもするかのように、もう一度甥の胸のところに手をあて、そして言った。――
「なあ、お前、わしはこれまで自分の従って来た制度を続けながら死ぬつもりじゃ。」
 こう言ってしまうと、彼は嗅煙草の最後の一撮みを嗅いで、その箱をポケットに入れた。
「お前も道理のわかった人間になって、」と彼は、卓上の小さな呼鈴《ベル》を鳴らしてから、附け加えた。「お前の生れながらの運命に甘んじた方がいいのじゃが。だが、ムシュー・シャルル、お前にはもうその見込がないようじゃな。」
「この財産もフランスも私にはもうないものです。」と甥は愁然として言った。「私はその二つを抛棄します。」
「二つともお前の抛棄出来るものかな? フランスの方はそうかもしれん。が、財産は? それは言うほどの値打もないくらいのものじゃが、それでも、もうお前の勝手に出来るものか?」
「私の今申しました言葉では、私はそれをもう要求するつもりはないという意味なのです。もしその財産が明日《あす》にでもあなたから私に譲り渡されるとしましても――」
「明日《あす》そうなるということはありそうにもないという自惚《うぬぼ》れをわしは持っておるが。」
「――あるいは今から二十年後にそうなるとしましても――」
「それはまたずいぶん敬意を表したものじゃな。」と侯爵が言った。「それにしても、わしはその仮定の方が有難いのう。」
「――私はその財産を棄てて、どこか他の処で他の方法で生活します。放棄したところで大したものじゃありません。悲惨と廃墟とのごた集め以外の何でしょう!」
「ほほう!」と侯爵は、豪奢な室内をぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]しながら、言った。
「見た眼にはそれはここなどずいぶん立派です。しかし、青空の下、白日で、そのほんとうの姿で見れば、それは、浪費と、失政と、誅求と、負債と、抵当と、圧制と、飢餓と、窮乏と、困苦との、崩れかけている塔なのです。」
「ほほう!」と侯爵は、いかにも満足そうな様子で、再び言った。
「もしそれがいつか私のものになるとしましても、私はその財産を、それを曳きずり倒そうとしている重圧を徐々に除去するに(もしそういうことが出来るとしてですが)もっと適した誰かの手に、委ねます。そうして、ここを立去ることが出来ないで、永い間辛抱の出来る限り苦しめられて来た、あの悲惨な人々が、次の代には、幾分でも苦しみが減るようにします。ともかく、それは私のものにはしません。その財産には、またこの国中にも、呪いがかかっています。」
「してお前は?」と叔父が言った。「余計なことまで聞きたがるのは宥《ゆる》してくれい。お前はお前の新しい哲学に従って有難く暮してゆくつもりかな?」
「私は、生きてゆくためには、わが国の他の人々が、たとい名門の後楯《うしろだて》があろうと、いつかはしなければならないかもしれぬことをするより他《ほか》はありません、――つまり、働くことです。」
「例えば、イギリスで?」
「そうです。そうすれば、家門の名誉がこの国で私のために傷けられる恐れはありませんよ。また、他の国では家名が私のために穢《けが》されるはずはありません。他の国では私は家名を名乗っておりませんから。」
 呼鈴《ベル》を鳴らしたのは隣の寝室に灯火をつけさせるためだった。その室は今、通路の戸口から、ぱっと明るく輝いた。侯爵はその方を見やって、側仕《そばづかえ》の足音の遠ざかってゆくのに耳を傾けた。
「イギリスはお前にはよほど気に入っておるようじゃのう、お前があちらでまずうまくいっているところを見るとな。」と彼は、それから、微笑を浮べながら平静な顔を甥に向けて、言った。
「さっきも申し上げましたが、私があちらでうまくいっていることについては、あなたのお蔭かもしれないと思っていますよ。その他《ほか》のことについては、あそこは私の避難所なのです。」
「奴らは、あの自慢屋のイギリス人どもは、イギリスはたくさんの人間の避難所になっている★と言うておるのう。お前は同国人であすこを避難所にしている人間を知っておるじゃろう? 医者じゃが?」
「ええ。」
「娘と一緒かのう?」
「ええ。」
「なるほど。」と侯爵が言った。「お前は疲れているじゃろう。では、おやすみ!」
 彼が例の極めて慇懃な態度で頭を下げた時に、その微笑している顔には何か隠立《かくしだ》てしているようなところがあったし、彼は今の言葉に何となく不可思議な意味を含ませたので、それが彼の甥の眼と耳とに強く響いた。同時に、あの眼の縁《ふち》の細い真直な線と、細い真直な脣と、鼻の凹みとが、見事に悪魔的に見える皮肉さを見せて歪《ゆが》んだ。
「なるほど。」と侯爵は繰返して言った。「娘と一緒の医者か。なるほど。そこで新しい哲学が始るという訳じゃな! お前は疲れているじゃろう。じゃ、おやすみ!」
 彼のその顔に向って質問することは、館の外の石造の顔に向って質問するのと同様な効能しかなかったろう。甥は扉《ドア》の方へ歩いてゆきながら彼をじっと見たが、何の得るところもなかった。
「おやすみ!」と叔父が言った。「わしは明日《あす》の朝またお前に逢いたいと思うておるよ。ゆっくりおやすみ! わしの甥どのをあちらの部屋へ明りをつけて御案内せい! ――それから、したければ、その甥どのを寝床の中で焼き殺しても構わんぞ。」と彼はこの最後の文句を心の中で附け加え、それから、小さな呼鈴《ベル》をもう一度鳴らして、側仕を自分の寝室へ呼んだ。
 側仕は来てやがて引下り、侯爵閣下は、その暑いひっそりした夜、眠れるようにと静かに体を馴らすために、寛《ゆるや》かな寝間著を著てあちこちと歩いた。柔かなスリッパを穿いた足が床《ゆか》の上で少しの音も立てずに、さらさらと著物の音だけさせて室内を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って、彼は優美な虎のように動いていた。――物語にある、改悛の念のない邪悪なある侯爵が、魔法をかけられて、週期的に虎の姿に変るのが、今終ったばかりなのか、これから始ろうとしているのか、どちらかであるように見えた。
 彼は華美な彼の寝室を端から端まで行ったり来たりしながら、ひとりでに心に浮んで来るその日の昼の旅行の断片を再び眼にしていた。日没頃に丘をのろのろと登って来たこと、沈みゆく太陽、下り坂、製粉所、断巌の上の牢獄、凹地にある小さな村、飲用泉のところにいた百姓ども、馬車の下の鎖を指し示していた青い帽子を持った道路工夫などである。その飲用泉は、パリーのあの飲用泉と、段の上に横わっていたあの小さな包みと、その上に腰を屈めていた女どもと、両腕を差し上げて「死んじゃった!」と叫んだ脊の高い男とを思い起させた。
「もう凉しくなった。」と侯爵閣下は言った。「床《とこ》に就けるじゃろう。」
 そこで、大きな炉の上に一つの灯火だけを燃やしておいたまま、彼は自分の周りに薄い紗の帳《とばり》を垂らした。そして、眠ろうとして気を落著けた時に、夜が長い溜息を一つついてその沈黙を破ったのを聞いた。
 外囲の塀の上にある石造の顔は、重苦しい三時間というもの、何も見えずに真黒な夜を見つめていた。重苦しい三時間というものは、厩の中の馬は秣架《まぐさかけ》をがたがたさせ、犬は吠え、例の梟は詩人たちが常套的に梟の声としている鳴声とはほとんど似ていない鳴声を立てた。だが、彼等のものと定めてあることを滅多に言わないのが、そういう動物の強情な習慣なのである。
 重苦しい三時間というものは、館の石造の顔は、獅子のも人間のも、何も見えずに夜を見つめていた。深い暗黒はすべての風景を包み、深い暗黒はその静寂をすべての路上の静まり返っている塵埃に附け加えた。墓地では萎《しな》びた草の少しかたまって生えているところが互に見分けがつかぬくらいになっていた。あの十字架についている像は、眼には見えなかったが、そこから降りて来ていたかもしれなかった。村では、収税者も納税者もみんなぐっすりと眠っていた。たぶん、飢えた者が通例するように御馳走の夢をみながら、また、こき使われる奴隷や軛《くびき》をかけられた牡牛がするかもしれぬように安楽と休息との夢をみながら、村の瘠せた住民たちは深く眠って、食物を食べ自由の身となっていた。
 暗い三時間を通じて、村の飲用泉は見えず聞えずに流れ、館の噴水は見えず聞えずに落ち、――どちらも、時の泉から流れ落ちる分秒のように、溶け去った。それから、その二つの灰色の水が薄明りの中に幽霊のように見え出し、館の石造の顔は眼を開いた。
 次第次第に明るくなってゆき、とうとう、太陽は静かな樹々の頂に触れ、丘の上一面にその輝かな光を注いだ。その真紅の光を浴びて、館の噴水の水は血に変ったように見え、石造の顔は深紅色になった。小鳥の楽しく囀る声は高く賑かであった。そして、侯爵閣下の寝室の大きな窓の風雨に曝された窓敷の上で、一羽の小鳥が力一杯にこの上もなく美わしい声で歌を歌った。それを聞くと、一番近くの石造の顔はびっくりして眼を見張ったように思われ、口をぽかんと開《あ》け下顎をだらりと下げて、怖《お》じ恐れたように見えた。
 いよいよ、太陽はすっかり昇って、村では活動が始った。開き窓は開かれ、がたがたした戸は閂を外され、人々は、新しい爽かな空気にまだ冷気を覚えて――震えながら外へ出て来た。それから、村の住民の間では、滅多に軽減されることのない一日の労働が始った。飲用泉のところへ行く者もある。野良《のら》へ行く者もある。ここでは、掘ったり鋤いたりしに行く男や女たちがいる。かしこでは、乏しい家畜の世話をして、どこの路傍にでもあるような牧場へと、骨ばった牝牛を牽いてゆく男や女たちがいる。教会堂の中や例の十字架のところには、跪いている人の姿が一つ二つある。その十字架に祈祷している場に列席しながら、牽かれている牝牛は、十字架の下の雑草の間に朝食を求めようとしていた。
 館は、その格式にふさわしく、遅く目覚めた。が、徐々に確実に目覚めた。まず最初に、陰気な猪猟槍と狩猟短剣とが昔のように赤く染められ、次には、朝の日光によく切れそうにぴかぴかと光った。それから、扉《ドア》や窓がさっと開かれる。厩の中の馬は戸口のところへ流れ込んで来る清々《すがすが》しい光を肩越しに見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]す。樹の葉は鉄格子の窓のところできらきらと光りさらさらと音を立てる。犬は鎖を強くひっぱって、解き放たれるのを待ちかねて後脚で立ち上る。
 こういうすべての些細な出来事は、毎日毎日きまりきって、朝が戻って来るごとに、あることであった。が、館の大鐘の鳴り響いたことや、階段を駈け上ったり駈け下りたりすることは、確かに、いつもあることではなかった。また、露台《テレス》をあわただしく動く人の姿も、ここでもかしこでもどこでも長靴を穿いてどかどか歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]ることも、急いで馬の鞍に跨って駈け去ることも、確かに、いつもあることではなかった。
 このあわて急ぐことをどんな風《かぜ》が例の白髪雑《しらがまじ》りの道路工夫に伝えたのであろう? 彼は既に、村の向うの丘の頂で、その日の弁当(持ち運び映《ば》えのしない)を鴉でも喙《ついば》むだけの骨折甲斐のない包みにして積み重ねた石ころの上に置いて、仕事にかかっていたのに。空飛ぶ鳥が、そのあわて急ぎの穀粒を遠方へ運んでゆくうちに、鳥が偶然に種子を蒔くことがあるように彼の上に一粒を落したのであろうか? それはいずれにしても、その道路工夫は、その蒸暑い朝、膝まで埃《ほこり》に埋めながら、まるで命がけのように丘を駈け下りてゆき、飲用泉のところへ著くまでは一度も止りはしなかったのであった。
 村のすべての人々は飲用泉のところに集り、いつものふさぎ込んだ様子であたりに立って、低い声で囁き合っていたが、しかし冷かな好奇心と驚きより他《ほか》には何の感情も現さなかった。大急ぎで牽いて来られて、何でもその辺のものに繋がれた牛は、ぼんやりと見※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]したり、寝そべって、中途で止《や》めになった彼等の逍遥の間に拾い喰っておいた、別にそれだけの骨折をした甲斐もない食物を口の中へ戻して反芻したりしていた。館の人々の何人かと、宿駅の人々の何人かと、租税を取立てる役人の全部とは、多少の武装をして、何もない小さな街路の今一方の側に役にも立たないようなのにかたまっていた。既に、例の道路工夫は五十人の特別に親しい友達の群《むれ》の真中へ入り込んでいて、あの青い帽子で自分の胸を敲いていた。こういうすべてのことは何を前兆したのであろう? また、ムシュー・ガベルが馬上の召使の背後にひらりと飛び乗ると、馬が(荷は二倍になったにもかかわらず)、そのガベルを、ドイツの民謡のレオノーラ★を新たに演じたように、疾駈《はやがけ》で運び去ったのは、何を前兆したのであろう?
 それは、彼方《かなた》の館で石造の顔が一つだけ多くなったことを前兆したのであった。
 ゴルゴンが夜の間にその建物を再び検分して、不足していた一つの石造の顔を附け加えたのである。ゴルゴンが約二百年の間待ちに待っていた石造の顔を。
 その顔というのは侯爵閣下の枕の上に仰向に寝ていた。それは、突然ぎょっとさせられ、憤怒させられ、石に化せられた、精巧な仮面のようであった。その顔にくっついている石の体の心臓には、一本の短刀が深く突き刺してあった。その※[#「木+覇」、第4水準2-15-85]《つか》に一片の紙が巻きつけてあって、その紙にはこう走り書きしてあった。――
「彼を速く彼の墓場へ運んでゆけ[#「彼を速く彼の墓場へ運んでゆけ」に傍点]。これは[#「これは」に傍点]ジャーク[#「ジャーク」に丸傍点]より[#「より」に傍点]。」
[#改丁]

   

〔緒言〕
ウィルキー・コリンズ氏の劇の…………  ウィルキー・コリンズは作者ディッケンズの友人の小説家ウィリャム・ウィルキー・コリンズ(一八二四―一八八九)であり、ディッケンズはこのコリンズと共作したこともある。ディッケンズは小説家となる前に俳優になろうとしたことがあるくらいで、劇に対しては生涯強い熱情を抱いていて、素人演劇をしばしば試みていたのであった。コリンズのその劇の主人公のリチャード・ウォーダーの没我的な性格が、ディッケンズにこの小説の主要な観念――それはこの作の終りの方に至ってわかる――を思い付かせ、遂にそれをこの作の主要な人物シドニー・カートンに再現したのである。
私は、これらの頁の中になされかつ……実感したのである  この強烈な言葉はディッケンズにあっては決して空しい嘘ではないであろう。ディッケンズの想像力は非常に強烈であって、彼の作中の人物は彼にとっては常に実在の人物であり、あるいは彼自身の分身であった。彼は筆を執りつつその作中の人物と共にあるいは笑いあるいは泣き、作中人物のことをあたかも実在の人物であるかのように妻や友人たちに語り、一篇の小説を書き了《おわ》ってその中の人物と別れる時には心から彼等との別れを惜しみ、彼の作の「骨董店」の少女ネルの死や同じく「ドムビー父子」のポール・ドムビーの死などを書いた後には親しい友を失った人のように歎き悲しんで眠ることが出来ずに暁までも街々をさまよい歩いたという。この「二都物語」中の諸人物も彼の心を完全に捉えたことは想像に難くない。
カーライル氏の驚歎すべき書物  トマス・カーライル(一七九五―一八八一)の「フランス革命史(一八三七)をさす。コリンズの劇によって得た著想を表現するに当って作者がフランス革命を材料としたことについては、カーライルのこの書に負うところがはなはだ大であった。また、作者はフランス革命の資料についてはカーライルから数多の参考書を得てそれに拠ったという。
タヴィストック館  一八五一年から五九年までの間ディッケンズの住んでいたロンドンの家。

〔第一巻 甦る〕
 〔第一章 時代〕

イギリスの玉座には…………  当時のイギリスの国王はジョージ三世(一七三八―一八二〇)、王妃はシャーロット・ソファイア(一七四四―一八一七)であった。シャーロットは肥満していて不器量であった。フランスの国王はルイ十六世(一七五四―一七九三)、王妃はマリー・アントワネット(一七五五―一七九三)であった。
心霊的な啓示が…………  迷信が盛んであったことをさす。
サウスコット夫人  ジョアナ・サウスコット(一七五〇―一八一四)。もと女中であったが、後に宗教狂となり、一宗派を創立し、押韻の予言を述べ、奇蹟を行う風をし、自分をヨハネ黙示録第十二章に記されている婦であると称した。その信徒十万以上に達したと言われる。この一七七五年には二十五歳であった。
ウェストミンスター  今日はロンドン市の一区であるが、以前は別の町であったのである。旧ロンドン市の西南にある。
雄鶏小路の幽霊  一七六二年、ロンドンのスミスフィールドの雄鶏小路のある家に出たという当時有名だった幽霊。こつこつと叩いたりその他の奇妙な音が聞え、ケント夫人という女の幽霊だと言い触らされて、ロンドン中の大騒ぎとなり、永い間多くの人々が瞞された。これはパースンズという男が十一歳の自分の娘に叩かせていたのだということが発見されて、パースンズは処罰された。この一七七五年から十二年前のことである。
ただの音信が、つい先頃、アメリカにおける英国臣民の会議から…………  一七七五年の七月にアメリカにおけるイギリス植民地の住民から「代議士選出権なき課税」に対してイギリス本国に抗議して来たことをさす。
この音信の方が……人類にとってもっと重要なものであるということが…………  これがアメリカ独立戦争の導火線となり、アメリカ合衆国の独立によってデモクラシーの思想は新旧両世界を風靡し、遂にフランス革命が起るに至ったからである。
楯と三叉戟との姉妹国  イギリスをさす。「楯と三叉戟」は海神ネプテューンの標章であり、イギリスの紋章ではブリタニアをあらわす女人像が海の女王の象徴として楯と三叉戟とを持っているのである。
紙幣を造ってはそれを使い果して…………  財政窮乏のために紙幣を濫発して、国勢が衰えつつあったことをいう。
歴史上にも怖しい……枠細工  フランス革命当時に用いられた歴史上にも有名なかの断頭台をさす。枠細工の上の方に重い刃物が附いていて、それが差し伸べられている処刑者の首へ滑り落ち、その首が転がり込む嚢が附いていたのである。
本市  ロンドン市の中央の最も繁華な商業区。昔の本来のロンドンの区域であった処。
「首領」  当時の有名な追剥の名。
駅逓馬車  宿継馬車。宿駅と宿駅との間を往復する乗合馬車。鉄道の出来る前の主要な交通機関であった。この頃の物語にはよく出て来る。
ターナム・グリーン  ロンドンの西方の郊外にある地名。
喇叭銃  口径の大きな、銃口が漏斗形をした、短い、往時行われた銃。
セント・ジャイルジズ  ロンドンの、本市の西、ウェストミンスターの北東の一地区。貧困と悪行との一中心地として名高かった。
ニューゲート  ロンドンの古くから有名な監獄。旧ロンドン市の西の門のところにあった。一二一八年に創建されて一九〇二年に取毀されるまであったのだから、この作中の時代のみならず、この作者の時代にも存在していたのである。この監獄のことは後にも出て来るが、改善されずに、常によからぬ評判が立てられていた。
ウェストミンスター会館  昔のウェストミンスター宮殿の一部。ここで国事犯に対する審問が行われ、その入口のところで時事問題を論じたパンフレットが焼棄されたのである。
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 〔第二章 駅逓馬車〕

シューターズ丘  ロンドンの南東八マイルのところにあるかなり高い丘。
ブラックヒース  シューターズ丘とロンドンとの途中にある広濶な公有地。
手綱と鞭と馭者と車掌とが……軍律を読み聞かせた  馭者と車掌とが手綱を曳き鞭で打って馬に先へ歩ませたことである。「放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論」とは、無論、前文にあるように、馬が自分勝手に路を戻りかけたことをさす。以下、この作にも、このように諧謔作家としてのディッケンズを示す文章や箇処が綿密な読者には処々に認められるであろう。
宿駅  駅逓馬車の継替えの駅馬を繋留してある家。
一クラウン  イギリスの五シリングの銀貨。
半ガロン  一ガロンは約二升五合の液量。
テムプル関門  旧ロンドン市の西、ウェストミンスターとの境界にあった有名な門。後の章でたびたび出る。この物語のテルソン銀行はその傍にあるのである。
もし甦るなんてことが流行って来ようものなら…………  このジェリーの言葉の意味はずっと後になって明かになる。

 〔第三章 夜の影〕

忍返し  人の忍んで越え入るのを防ぐために、尖頭を外にして塀や垣や柵壁などの上に打ちつける釘状のもの。ジェリーの髪の毛を忍返しに喩えることは、これから後たびたび用いられる。
蛙跳び  前方に屈んでいる人の背に手をつけてその人の上を跳び越す遊戯。馬跳び。
犂  牛または馬に曳かせて耕す鋤。

 〔第四章 準備〕

ロイアル・ジョージ旅館  当時はジョージ三世の治世であり、その名を屋号にした宿屋などが多かった。
カレー  ドーヴァーの対岸にあるフランスの港。
海の駝鳥のように…………  駝鳥は追い詰められると頭だけ砂の中へ隠して見えないつもりでいると言われているので、海から上って頭だけを断崖の中へ突っ込んでいるようなドーヴァーの町を、戯れてその駝鳥に喩えたのであろう。
夜間にぶらぶら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って…………  対岸のフランスからの密輸入が盛んに行われていたことを暗示するのである。
クラレット  ボルドー産の赤葡萄酒。
死海の果物  生のない果物の意味。彫刻した食べられない果物だからである。この前後の、黒奴のキューピッドも、黒い籠も、黒い女性の神々も、もちろん、皆、鏡の縁の彫刻である。
少し外国訛りがあったが…………  その理由は少し後になって判明する。
ボーヴェー  パリーの北方約四十マイルのところにある都市。カレーからパリーへ行く途にある。
ムシュー  フランス語の「‥‥氏」、「‥‥さん」、「‥‥君」に当る語。本篇では、もちろん、フランス人の名前に附けてある。また、フランス人が紳士に対する呼掛け語としてもこの語を用いる。
書入れしてない書式用紙に…………  当時、フランスの王は御璽で封印した逮捕または拘禁の秘密令状を寵臣貴族たちに与えたのであった。ゆえに、彼等はその令状に誰でも彼等の欲する者の名を書き入れて、その者を裁判なしにただちに投獄することが出来たのである。
九ペンスの九倍は…………  ペンスもギニーもイギリスの貨幣で、十二ペンスが一シリングであり、一ギニーは二十一シリングに当る。
親衛歩兵の……桝目のもの  イギリスの親衛歩兵第一聯隊の兵は大きなバケツ型の毛皮の帽子をかぶっている。それを「桝」に喩えて滑稽に言ったのであろう。
スティルトン乾酪  もとイングランドのスティルトン村で造り始めた上等のチーズ。
嗅塩と……酢と  嗅塩は婦人などに用いる鼻で嗅がせる気附薬、炭酸アムモニウムのこと。酢はやはり嗅剤で気附薬にしたもの。

 〔第五章 酒店〕

サン・タントワヌ  パリーの東方の廓外、バスティーユ牢獄とセーヌ河との間の一区域。下層階級の住んでいた地域であった。
やがて、そういう葡萄酒もまた…………  革命の勃発を暗示するのである。「そういう葡萄酒」とは、もちろん、前文の「血」をさす。フランス革命はこのサン・タントワヌにおける暴動から始ったのである。
サン・タントワヌの聖なる御顔…………  サン・タントワヌはキリスト教教父の聖《サント》アントワヌ(英語読みならば聖《セント》アントニー)の名をとった地名であるので、ここではその語を街と聖者との両方にかけたのである。このサン・タントワヌの擬人法は、この物語では、この後にしばしば用いられている。
実際それらは海上に…………  この「灯」はフランスの運命を、「船」は国を、「船員」は国民を、「嵐」は革命を象徴するのであろう。
痩せこけた案山子たち  貧民をさす。「案山子」という語は「襤褸を著た人」をも意味するからである。
その点灯夫のやり方を改良して…………  革命の時に、街灯柱を絞首台代りにして、民衆の敵を滑車綱で吊り上げて絞殺したのである。
鳴声も羽毛も美しい鳥ども  貴族をさす。
肩を竦める  不快、当惑、平気、冷淡などをあらわす身振り。
ドミノーズ  二十八箇の牌子を使って二人または数人でやる遊戯。
ジャーク  この名はフランス革命の運動を組織したと信ぜられる秘密結社の合言葉であった。
洗礼名  洗礼式の時に附けられる名。ここでは、もちろん、「ジャーク」のこと。
マダーム・ドファルジュは……編物をして…………  このマダーム・ドファルジュが常に編物をしている理由はよほど後(第二巻第十五章)になって明かになる。
ノートル・ダム  パリーの有名な大寺院。サン・タントワヌの西方市の中央にあり、その大伽藍の上には二つの巨大な塔が聳え立っている。

 〔第六章 靴造り〕

何と有難いことでしょう!  彼の涙によって彼の智能が幾分か甦ったことがわかったからである。
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〔第二巻 黄金の糸〕
 〔第一章 五年後〕
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フリート街  旧ロンドン市の西の境界であったテムプル関門から東へ通じている街。
悪しき交りがそれの善き光沢を…………  新約全書コリント前書第十五章第三十三節の「悪しき交りは善き行いを害うなり。」という句から言ったのであろう。
バーミサイドの部屋  「千一夜物語」すなわち「アラビア夜話」の中に、バグダッドの富豪バーミサイド家の人がある時シャカバックという乞食を饗宴に招いたが、立派な食器の中は皆空であった、それをシャカバックは実際に飲食するような身振りをして見せた、云々、という有名な話がある。その話から、このテルソン銀行の階上の、大きな食卓だけは置いてあるが食事のあったことがないという部屋を、諧謔的に「バーミサイドの部屋」と呼んだのである。
アビシニアかアシャンティーにふさわしい……曝されている首  アビシニアはエチオピアのこと。アシャンティーは西部アフリカの黄金海岸の北にあった王国で、一九〇一年にイギリス領となったのだから、この作の書かれた当時はまだ独立国であった。共に黒人の国で、首斬りの蛮風がごく普通に行われていたのであろう。テムプル関門には、往時、処刑者の首や肢体をその上に曝したのであった。
青黴  チーズなどに生ずるものをいう。
ハウンヅディッチ  ロンドンの東部の一区域。
代理人を立てて……誓った時に  「洗礼式の時に」という意味を諧謔的に言ったのである。すなわち、このクランチャーはジェリーという洗礼名であり、第一巻に出て来たあの使いの者なのである。
ホワイトフライアーズ  ロンドンのテムプルに近い一区域。フリート街からテムズ河までに拡がる。
クランチャー氏自身はわが主の紀元のことを…………  「わが主の年にて」すなわち「キリスト紀元」という意味のラテン語を英語読みにして「アノー・ドミナイ」という。それをわがクランチャー君はアナという名の女がドミノーズを発明した年という意味だと思っていたのである。
ハーリクィンのように…………  ハーリクィンは黙劇《パントマイム》に出て来る道化役の一人で、常に派手な雑色の衣裳を著ているので、クランチャーが補綴だらけの蒲団をかぶっているのを、ハーリクィンに喩えたのである。
彼が銀行の時間がすんでからきれいな靴で……奇妙な事柄  これも、第一巻第二章の終りのジェリーの言葉や、この後のジェリーについての言葉などと共に、後(第二巻第十四章)になってわかるのである。
テムプル  中世紀の聖堂騎士団の殿堂の遺趾のあるところ。フリート街の南にある一区劃。「テムプル」は「聖堂」の意味。テムプル関門はここにあった。テムプルには、有名な内テムプル、中央テムプルの二法学会院があり法律関係の人々が多くいる。

 〔第二章 観物〕

オールド・ベーリー  往時のロンドンの中央刑事裁判所、あるいは中央法廷のこと。旧ロンドン市の外壁のところにあったので「オールド・ベーリー」と言われる。「旧外壁」の意味である。フリート街の東北に当るニューゲート街のニューゲート監獄の近くにあった。
四つ裂き  叛逆罪で処刑された人間の体は四つに切断して、その各部分を諸所の都市に分配して曝し、他の犯罪者に対する見せしめとしたのであった。
タイバーン  今のハイド公園の近くにあったロンドンの往時の処刑場。一七八三年すなわちこの時より三年後までここで処刑が行われ、それから処刑はニューゲートの監獄に移されたのである。
二マイル半ばかりは…………  オールド・ベーリーから処刑場のタイバーンまでの道程は二マイル半ほどあった。「他界への[#「他界への」に傍点]非業の旅」と言っても、その二マイル半だけは天下の公道を通って行くのである。
架刑台  往時罪人の頸と手とを板の間に挟んで立たせて街上に曝した刑具。その罪人を見物して笑い物にする見物人は、往々それに投石して負傷させたことがあった。ゆえに、次の文章にあるように、その刑罰の程度を予知することが出来なかったと言うのである。
笞刑柱  罪人を笞つ時にその人間を縛りつける柱。
殺人報償金  死に当る大罪人を告発したり、主人や恩人などを敵に売って殺させたりした報酬として受ける金。
ベッドラム  ロンドンの古くからの有名な瘋癲病院。「ベッドラム」はベスリヘム(ベツレヘム)の転訛。もと修道院であったが後に精神病院となったロンドンのセント・メアリー・オヴ・ベスリヘムを略してベッドラムと言ったのである。以前はロンドン名所の一であって、入場料を取って見物人を入れていた。
社会の戸口だけは…………  社会が犯罪人を生んで盛んに法廷へ送り込んだことをさす。
網代橇  昔、叛逆者、死刑囚などをそれに載せて縛りつけて刑場へ曳いて行った網代の枠のようなもの。
フランス国王リューイスが……なせる戦争  「リューイス」は「ルイ」を英語風に言った名であって、ここではルイ十六世をさす。一七七五年にアメリカ独立戦争が始り、一七七八年にルイ十六世はアメリカ合衆国を承認し、その支援に軍隊と艦隊とを送って、イギリスと交戦状態に入った。その状態は一七八三年まで続いていたのである。
大洋がいつかはその中に沈んでいる死者を…………  新約全書ヨハネ黙示録第二十章第十三節に「海その中の死人を出し‥‥彼等おのおのその行いに循いて審判《さばき》を受けたり。」とあることから言ったのである。
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 〔第三章 当外れ〕
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君はかつて…………  以下、被告の弁護士が相手方の証人のジョン・バーサッドに向って質問をするのである。すなわち対質訊問をするのである。
階段から蹴落されたこと  何か不正なことなどをして家から蹴出され放逐されることを意味する。
ブーローニュ  カレーの西南にある、やはりドーヴァー海峡に面したフランスの海港。
ジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世と…………  ジョージ三世は第一巻の註に記したように当時のイギリス国王である。後に合衆国の初代の大統領となったジョージ・ウォシントン(一七三二―一七九九)は当時アメリカ軍の総指揮官であって、独立戦争開戦以来各地に転戦していた。
対質訊問  相手方のために召喚されて調べられる証人に対して反問すること。
呪うべきユダ  銀三十枚を得てキリストを売りユダヤの有司に渡して磔にさせたイスカリオテのユダ。
指の節を額に触れる  尊敬または認知のしるしである。
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 〔第四章 祝い〕
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バスティーユ  往時パリーにあった有名な牢獄。主として国事犯罪人を収容した。一七八九年フランス革命が起ると同時に民衆に破壊されたことは普く知られている。サン・タントワヌ門の傍にある。マネット医師はこの牢獄に監禁されていたのである。
彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で…………  マネット医師がチャールズ・ダーネーの顔に何を認めてこのような表情をしたのかは、この物語の終り近く(第三巻第十章)にならなければ判明しない。
放免された囚人の友人たち  当日の法廷の見物人を戯れて言ったのであろう。
轎  一人乗りで二人の轎夫《かごかき》が棒で肩に担いで運ぶもの。十七八世紀にヨーロッパの諸都市で流行した。
ポルト葡萄酒  ポルトガルのオポルト原産の有名な葡萄酒。
ラッドゲート・ヒル  オールド・ベーリーのあるニューゲート街の南に、聖《セント》ポール寺院から西に通じている街路。フリート街に続く。そのフリート街の南にはテムプルがあり、その西端にはテムプル関門があるのである。
一パイント  わが三合余に当る。
蝋垂れが…………  イギリスでは、蝋燭の蝋垂れの垂れ落ちる方向にいる人の身の上に凶事殊に死が来る、という迷信がある。

 〔第五章 豺〕

ポンス  酒、砂糖、牛乳、レモン、及び香料などを混和して製した飲料。
民事高等裁判所  または単に高等裁判所、あるいは最高民事法院、または単に高等法院とも訳される。原名では「王座裁判所」と言われ、イギリスの最高の裁判所であった。ゆえに、ストライヴァーはオールド・ベーリーも普通刑事裁判所も自分の出世の「梯子の下の方の段」として関係を断とうとしていたのである。
仮髪の花壇  仮髪を著けている裁判官、弁護士たちの席を意味する。
ヒラリー期からミケルマス期までの間に  イギリスではもと高等法院の開廷期が四期に分れていた。ヒラリー期(一月十一日から同月三十一日まで)、イースター期(四月十五日から五月八日まで)、トゥリニティー期(五月二十二日から六月十二日まで)、ミケルマス期(十一月二日から同月二十五日まで)である。ゆえに「ヒラリー期からミケルマス期までの間」とは、厳密に言えば一月十一日から十一月二十五日まで、すなわち高等法院の約一箇年間をさすのである。
巡囘裁判  昔は裁判官が折々田舎を※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]って裁判した。その時は弁護士もその裁判官に附随して巡囘した。
豺  豺は獅子のために餌をあさりその報酬として食い残りの骨片を与えられるという昔からの言伝えがあるので、「豺」という語は、他人のために下働きをする者、人の手先となって働く者、という意味に使われる。
ストライヴァーの事務室に…………  第二巻第一章の「テムプル」の註に記したように、テムプルには法学会院がある。その法学会院内には弁護士の事務室がある。大抵数室より成る。
ジェフリーズ  この物語の時代から百年ほど前の、残忍と放逸とをもって有名であった裁判官ジョージ・ジェフリーズ(一六四八―一六八九)をさす。
シュルーズベリー学校  イングランドの西部、ウェールズに近いシュルーズベリーの町にある小学校。一五五二年に創立されたという古い歴史を持っているので有名である。
河  テムズ河である。テムプルはテムズ河の畔にある。

 〔第六章 何百の人々〕

ソホー広場  ロンドンのオックスフォド街の南にある広場。附近は外国人が多く居住していた。テムプルから一マイルほど隔っている。当時はそのあたりまでが市内であった。
クラークンウェル  ロンドンの本市の北にある区域。住宅地である。当時は市外であった。
オックスフォド街道  ロンドンの西部と本市とを繋ぐ大街道。当時はこの街道から北はことごとく市外であった。
南向きの塀が…………  果樹を南向きの塀のところに植えておくと、暖かいために果実がよく熟するのである。
この巨人は表広間の壁から金色の片腕を…………  この巨大な金色の片腕というのは、金細工師の看板なのである。それをこのように滑稽に説明したのである。
この時分までには……あの一種特別の表情  その家具類の配置などの「創案者」であるリューシーの額に現れるあの特殊な表情をさす。
自分の周囲のどこにも目につくその空想上の類似  家具とリューシーとの表情の類似。
プロス嬢  「嬢」の原語の「ミス」は、未婚婦人の名に冠する敬称であって、このプロス女史は年齢がもうあまり若くはないのであるが、日本語には完全な訳語がないので、老嬢という意味で「嬢」と訳することにする。
応報の排列表  人の行為の善悪に対しての来世における応報についての順番表というような意味。
ゴール人の子孫  フランス人のこと。ゴールは今のフランス及びその近隣の地域にわたって古代にあった国で、フランス人のことを戯れてゴール人とも言う。
シンダレラの教母  シンダレラは有名なお伽噺の女主人公で、彼女は継母や姉妹たちに虐待されながら台所で働いていたが、妖精であるその教母がシンダレラに魔法で美装させて王宮の舞踏会に行かせ、王子に恋されたシンダレラは魔法の消える夜半に宮殿から逃げ帰るが、自分の小さな上靴を落して来たことから遂に王子と結婚することになる。ここに「シンダレラの教母」と言ってあるのは、その教母が宮殿の舞踏会に行くシンダレラのために魔法で南瓜を馬車に、※[#「鼠+奚」、第4水準2-94-69]鼠を馬に、襤褸著物を美服に変えたからである。
青い部屋  フランスの中世紀の有名な物語にある青髯という男が、幾度も結婚してその妻を皆殺し、死体を青色の部屋に隠しておいて他の者に入るのを許さなかったということから、誰をも入れなかったプロス嬢の室を諧謔的にこう言ったのであろう。
ロンドン塔  ロンドンのほぼ中央のテムズ河北岸にある古くから有名な建築物。一〇七八年に建築され始め、後次第に増築されたのである。初めは城廓として築造され、王宮として用いられた時代もあったが、永い間政治犯の牢獄として用いられていた。その後種々の観覧物の陳列所や武器庫となった。
あなた方も御存じのように、私はあすこへ…………  ダーネーは例の叛逆罪の廉で捕えられていた時にしばらくロンドン塔に監禁されたのであろうか。
DIG  英語の「掘れ」という語。
彼は片手を頭へやって突然…………  マネット医師がなぜこの時このような挙動をしたかは、この物語の終りの方(第三巻第九章)に至って明かになる。
聖ポール寺院  ロンドン市の中央にある大寺院。ソホー広場の東方約一マイル半、クラークンウェルの南にある。

 〔第七章 都会における貴族〕

モンセーニュール  フランスで貴族や高僧などに対して用いた敬称であり、「閣下」、「殿下」、「猊下」の意味に当るフランス語である。その語を作者はフランス貴族の擬人法として用いたのであって、ここでは、「モンセーニュール」は個人の名であると共に、また当時のフランスの貴族を象徴しているのである。後の章では、この語は本来の意味の通りに個人に対する敬称として用いられ、また、更に後の章では、フランス全貴族の代名詞としても用いられる。
チョコレート  ここではチョコレート飲料をさす。チョコレートを砂糖湯または牛乳に溶かしたもの。
国を売った陽気なステューアト  イギリス国王チャールズ二世(一六三〇―一六八五)をさす。ステューアトは、彼の法外な放逸の費用を得るために、フランス国王ルイ十四世から巨額の金銭を得て、国会の意志に反して、ルイ十四世のオランダに対する戦争においてフランスを援助するというドーヴァー条約を、一六七〇年に密かに締結した。このチャールズ二世は「陽気な国王」と綽名されていた。
「モンセーニュール曰いけるは、地とこれに盈てる物はわがものなり。」  新約全書コリント前書第十章第二十六節に「地とこれに盈てる物は主のものなればなり。」とある。その「主のもの」という原文の代名詞を「わがもの」と変えたのである。
収税請負人  フランスの王政時代に、一区域の租税を徴収する特権を政府から得て、その代償として政府に一定の額を支払い、その契約の定額以上に人民から搾取したものはことごとく自己の懐に収めることが出来た収税吏。この収税請負人はこうして人民を誅求して、大革命の前には人民にはなはだしく怨まれていた。
面紗をかぶる  修道院の尼僧になることを意味する。
バベルの骨牌塔 「バベルの塔」は、旧約全書創世紀第十一章に記されている、太古バビロンで天に昇るために建築しようとした高塔で、架空的の計画という意味に使われており、「骨牌塔」とは、骨牌札で築いたようなすぐに崩れる塔という意味であろう。
その社会の天使たち  上流社会の婦人たちをさす。その中にはさすがの間諜でも一人の母性をも見つけ出すことが出来ないほど、上流社会の家庭は乱れていた、というのがこの前後の意味である。
痙攣教徒  十七世紀頃フランスに起った一つの狂信的な宗派の信者。フランスにおけるヤンセン教徒の一派であって、痙攣的発作に陥ったりその他の奇怪な動作によって奇蹟的の治療を行うと称した。彼等はまたその痙攣的動作で未来を予言し社会を改善することが出来ると信じた。
類癇  全身硬直する病気。
テュイルリーの宮殿  以前パリー市の中央にあったフランス国王の宮殿。ルイ十四世時代からは華美を尽していた。
扁底靴  踵のごく低い、または踵のない、エナメル革の浅い靴。主として舞踏の時などに用いられるものである。
車輪刑  罪人の手足を車輪に縛って死に致した残酷な処刑。
ムシュー・パリー  パリー市の死刑執行吏をこう言った。普通にはムシュー・ド・パリー。
監督派流儀に  未詳。この監督派というのはプロテスタント監督教会派をさすのであって、その唱道した監督制度主義とは教会の主権を法王のような一主権者に委ねないで教会の監督たちの手に委ぬべきであるとしたものであった。
一絞刑吏に根ざしたある制度  大革命時代の断頭台による処刑を意味する。
天帝を決して煩わさなかった  願い事をしたりして天帝を煩わさなかったこと。換言すれば、神を信仰しなかったこと。この前後は、彼等はモンセーニュールに対して体のみならず心までも平伏し尽していたので、神に対して平伏する余地が残らなかった。それが彼等の不信仰であった一つの理由であったかもしれぬ、という意味。
ガスパール  第一巻第五章に、サン・タントワヌで街上にこぼれた葡萄酒で「血」という字を書いた、「ガスパール」と呼ばれた「脊の高い」剽軽者がいたことを、読者は記憶されるであろう。これはあの男であろう。

 〔第八章 田舎における貴族〕

侯爵閣下の面上の赤味は彼の立派な躾の…………  赤面したりするのは貴族たる者の立派な躾に反するからであろう。
蛇髪復讐女神  ギリシア神話の復讐を司る三女神。長い蛇の頭髪をしていたので、馭者の振う長い鞭をその女神の蛇の髪に喩えたのである。
歯止沓  車が坂を下る時車輪が滑らぬように輪底に取附ける鉄片または木片。
幽霊のように脊が高く  この「脊が高い」という一語によって、侯爵の旅行馬車の下にくっついて他の地方からやって来た男が前章のパリーで子供を侯爵の馬車で轢き殺されたガスパールであることが、ここでは微かに暗示されているに止まる。
六人ばかりの特別に親しい友達  この「特別に親しい友達」という言葉は特殊の意味を持っていて、後になるほど数が増して来る。
永い間……一つの大きな悲惨の、この悲惨な表象  「大きな悲惨」とはその地方全体の貧窮をさすのであり、「悲惨な表象」とはキリストの木像をさすのである。
一二リーグ  一リーグは三マイルである。

 〔第九章 ゴルゴンの首〕

ゴルゴン  ギリシア神話の醜怪な容貌をして頭髪は蛇であったという女怪であって、一目でも見る人をことごとく石に化せしめたという。
決して断絶することがないはずの王統  フランスのブルボン王統をさす。ブルボン王統は永久にフランスの王座を保つであろうと予言されていた。
消化器のような恰好  円筒形で、先が円錐形をなして尖っている形。
彼はイギリスでチャールズ・ダーネーとして…………  前に侯爵がこの甥を「ムシュー・シャルル」と言ったが、フランスでシャルルという名は同じ綴字で英語ではチャールズと発音するのである。
拘禁令状  第一巻第四章の註に記した如く、フランスの国王の私印で封印した密書であって、それを国王から貰った人は、それに誰でも任意の者の名を記入して、その者を裁判なしにただちに投獄することが出来た。
その屋根の鉛が…………  大革命時代からナポレオン戦争時代にかけて、建物の屋根瓦の鉛が溶かされて銃弾にされたのである。
イギリスはたくさんの人間の避難所になっている  ヨーロッパ諸国の亡命者などは多くイギリスへ亡命したのである。
ドイツの民謡のレオノーラ  ある乙女が十字軍遠征に行って死んだ恋人を歎き悲しんでいると、夜呼び起され勧められて、馬上の自分の恋人に見える姿の背後に乗って駈け去ったが、それはほんとうは恋人の骸骨の幽霊であったという。十八世紀の末頃にはこの詩はイギリスでもよく知られていた。

   

  解説

    第一巻 甦る

〔六章から成る。この物語全体に対する短い序曲。出来事は一七七五年の秋から冬へかけてのわずか数日間のこと。場面はイギリスのドーヴァー街道からフランスのパリーへ。「甦る」という暗号文句を標題とし、フランスの一医師が十八年間の獄中の監禁から再び自由の世界へ甦るまでの顛末が語られるに過ぎぬ。この物語における最も主要な人物でさえこの巻ではまだ全然現れていない。〕


第一章 時代  この章では、作者ディッケンズは、一七七五年すなわちアメリカ独立戦争開始の年でありフランス大革命勃発の十数年前に当る頃におけるイギリス及びフランス両国の政治的及び社会的状態を、陰翳の多い筆で一抹的に描いて、この物語の発端の背景としている。純然たる序言的な章である。
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第二章 駅逓馬車  物語はロンドンからドーヴァーへ通ずる街道から始る。一七七五年十一月末の夜。丘を登るドーヴァー行の駅逓馬車、その傍を歩く一乗客、泥濘の道、馬車を曳く馬、谷々をたちこめるイギリス名物の霧、厚く身をくるんだ乗客たち、馭者と車掌、等、等、――この物語の初めの方は長編の発端らしく悠々としてその道を辿り、遅々として進捗しない。先へ進むに従って速度が速くなる。そのドーヴァー行の駅逓馬車を早馬で追いかけて来た使者のジェリーが、ロンドンのテルソン銀行のジャーヴィス・ロリーという乗客に「ドーヴァーにてお嬢さんを待て。」という簡短な手紙を渡し、「甦る」という奇妙な返事を受けて引返す。この章の筋はそれだけに過ぎないが、読者をも霧の中にいるような雰囲気の中に残す。

第三章 夜の影  この章では、馬車と別れてロンドンの銀行へ帰ってゆくジェリーと、馬車に乗ってドーヴァーへ向うロリーとが書かれているだけで、物語の筋は一向進展しない。ただ、読者にますます疑問と期待との感を抱かせる。「夜の影」とは原語では「夜の闇」の意味であり、それが彼等にとってその夜それぞれの形をなして現れる。ジェリーは生粋のディッケンズ的人物の一人である。ここでその容貌が作者一流の幾分誇張的で怪奇的《グロテスク》な戯画的手法でスケッチされる。ディッケンズは常に作中人物の容貌風采はもとより音声に至るまでもはっきりと想像したので、各主要人物のそれらを必ず書いている。甦るという言葉に悩まされるこのジェリーは秘密の商売を持っているのだが、その商売が何であるか、またその商売がこの物語にいかなる関係を持つことになるかは、ずっと後の第二巻第十四章と第三巻第八章とに至ってようやく判明するのである。ロリーの馬車の中での夢と現実との交錯は、はなはだ小説的に巧みに書かれている。心に重くかかる何かの用件を持って一晩夜汽車に乗ったことのある読者は、このロリー氏と幾らか似たような経験を持つであろう。彼の夢に浮ぶのは、彼の勤務先の銀行と共に、年齢四十五歳の男の物凄く瘠せ衰えた顔。その男との想像上の対話。それから空想の裡でその男を頻りに掘り出し、その男がようやく出て来ると、たちまち倒れて塵になる。そういう陰惨な夢と、その夢から覚めて見る窓外の紅葉黄葉の疎林と美しく昇る朝暾とは、対照の妙を得て効果的である。

第四章 準備  その日の午前に駅逓馬車の著いたドーヴァーの旅館。それまでぼってりと身に纒っていたものを脱いで正装して食堂へ入るロリー氏。六十歳の独身の紳士、テルソン銀行員。この物語において最初に登場し、最後まで副人物的な役割を勤めるこの一主要人物は、この旅館の食堂で肖像画を描かせるために著席しているかのように静かに腰掛けている間に、作者によってその肖像画をペンで描かれる。それから、ドーヴァーのスケッチ、その他。その夜、彼の後を追うて来たマネット嬢。大きな薄暗い一室で、読者はまた十七歳ばかりの本編の女主人公《ヘロイン》に紹介される。ここで、パリーでこれから処理さるべき事務の準備として、約二十年前の事がロリーの口を通じて一部分語られるのである。前章以来の読者の疑問の霧は幾分かは霽れる。この章の終りのところで初めて登場するマネット嬢の附添いの婦人プロス(ここでは名は記されていないが)。彼女はディッケンズ的喜劇風の身振りで現れて来て読者を微笑させる。駅逓馬車から犬のような様子で出て来るロリー氏の描写や、食堂での彼と給仕人との会話や、その他の細部の巧みさなどは、一々指摘しない。
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第五章 酒店  場面はパリーの貧民窟サン・タントワヌに移る。前章から数日後の冬の日。街上に葡萄酒の樽が壊れて、流れる赤葡萄酒を飢えた人々が争って飲む光景。この街上の葡萄酒は、後にこの区域から始った大革命の流血を前兆するのである。ここに描かれたサン・タントワヌ街の窮乏と汚穢との画面はその臭いまでも読者に感じさせ、極めて傑れている。荘重で峻厳なカーライルの文体を思わせるところがある。この街の酒店の主人ドファルジュとその妻とがここでその風貌を描写される。共に年齢三十歳前後。この二人がいかなる人物であるかは第二巻第三巻に至って次第に明かにされる。しかし、この物語の「姿なき主人公」とも言い得る「革命」は、この章において微かにその前奏曲が奏されている。飢餓、貧窮、欠乏、狩り立てられ、追い詰められかけている人民の野獣的な顔付、ジャークという同一の名を持つ者の秘密結社。マダーム・ドファルジュは既にその編物を始めている。このサン・タントワヌの酒店にマネット嬢とロリー氏とが現れる。そして、彼女の父マネット医師の昔の召使人であったムシュー・ドファルジュの案内で、酒店の附近のある建物の六階の屋根裏部屋へとムシュー・マネットに会いに上って行く。なお、ドファルジュがいかなる人々からマネットを引取ったかは、はっきりとは書いてない。ドファルジュがジャークという同じ名の連中にマネットを覗かせるのは、貴族の圧制と暴虐との一標本を見せるためなのである。

第六章 靴造り  サン・タントワヌ区のある屋根裏部屋。まだやはりバスティーユの牢獄の中にいるつもりで頻りに靴を造っている変り果てた白髪のマネット。名を問われると「北塔百五番」とのみ繰返す永年の囚人。その永年の監禁のために暗雲に鎖された智力。父と娘との初めての対面。娘の髪の毛や声によって微かに甦った遠い昔の記憶。娘の永い言葉によってようやくごく微かに甦った智能。夜になってから、訪問者たちはこの甦る人ムシュー・マネットを馬車に乗せてイギリスに向ってただちにパリーを立つ。パリー市の城門でドファルジュだけが下りて別れる。街灯の下から大空の永遠の灯――星――の下へと走る馬車。第三章の駅逓馬車の中で幾度も繰返されたあの空想の対話が再びロリーの耳に戻って来て、巻を閉じる。
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    第二巻 黄金の糸
〔二十四章から成る。序曲に次ぐ展開部である。最も長くかつ変化に富む。年月は一七八〇年三月から一七九二年八月に至るまでの十二箇年余、場面はロンドンとパリーとフランスの田舎とにわたる。この作中の諸人物はほとんどすべて登場し、女主人公《ヘロイン》が彼女の黄金の糸を巻いてゆき、第三巻で起る波瀾はこの巻において完全に準備される。〕

第一章 五年後  ロンドン。前章から五年後すなわち一七八〇年。初めに、ロンドンのテムプル関門《バー》の傍にある古風なテルソン銀行が描かれる。極めてイギリス風な銀行であることが巧みに語られている。それに附随して、テムプル関門《バー》の上に曝されている処刑者の首のことから、当時死刑ということが少しも珍しくなかったことが書かれているのは、続章に出て来る叛逆罪の裁判に対する一種の予備知識を読者に与えるためであろう。それに続いて、この銀行の戸外に息子と共にあたかも「銀行の生きた看板」であるかのような役を勤めているジェリー・クランチャー君が再び登場する。その年の三月のある朝。まず彼の私宅の場から始る。クランチャー君は、息子の小ジェリー君や、前に出た女丈夫プロス女史や、後に出て来る弁護士ストライヴァー先生と共に、この物語における喜劇的人物である。自ら「実直な商売人」と称する彼が、温順にして敬虔な細君の祈祷に頻りに文句をつけるのは、何か多少良心に疚しい所業をしているからであろう。彼のいわゆる「蹲る」ことに対してさんざん毒づいた後に、彼は小ジェリーを連れて銀行へ御出勤になり、大小二匹の猿のように銀行の前に陣取る。当時十二歳の小猿は父親の指にいつも鉄の銹がついているのを不思議がる。

第二章 観物  銀行(の戸外)へ出勤したジェリーはまもなく裁判所行の御用を仰せつかり、ロリー氏が行っているオールド・ベーリーへ入ってゆく。このジェリーの描写や会話によって読者は諧謔作家としてのディッケンズに幾分接することが出来る。このオールド・ベーリーにおける叛逆事件の公判の場面で、この物語における二人の主要な人物――互いに容貌が酷似しているシドニー・カートンとチャールズ・ダーネー――が初めて登場する。もっとも、この章では、カートンの方は、まだ名も記されず、ただ「両手をポケットに突っ込んで」、「法廷の天井ばかり眺めている」、「仮髪を著けた今一人の紳士」として簡単に漠然と紹介されているだけであり、彼はこれから後の章に至って次第次第にその姿を大きく現して、最後のこの小説中の最大の人物となるのである。また、ダーネーの方は、フランスの間諜の嫌疑をかけられたこの叛逆事件の被告、恐しい死刑の判決を受くべきこの法廷の観物として現れ、その真の身分などはこの巻の第九章になって明かになるのである。被告席に立った冷静な態度の質素な彼の姿。二十五歳ばかりの青年紳士。その他に、いずれも名は次の章まで記されていないが、被告の弁護士ストライヴァー。証人として現れるマネット医師とマネット嬢。前の巻から五年たっているのだから、五十歳の紳士と二十二歳の令嬢である。

第三章 当外れ  いよいよ被告チャールズ・ダーネーの叛逆罪の公判が始る。検事長閣下の滔々たる論告。検事側の証人ジョン・バーサッド及びロジャー・クライに対する被告の弁護士ストライヴァー氏の対質訊問。それに対するすこぶる怪しげな答弁。次に、ロリー氏と、マネット嬢と、マネット医師との証言によって、五年前に彼等が一緒にフランスからイギリスへ渡った時のこと、マネット嬢とダーネー氏とが初めて逢った時のこと、マネット医師がロンドンに居住したこと、その他が簡短に述べられる。それから、更に公判が進み、ストライヴァーが同僚弁護士であるカートンの注意によってカートンとダーネーとの容貌の酷似を利用して相手側の一証人の証言を粉砕する。次に、彼の被告に対する弁護。このバーサッドやクライというのは、実は、政府に傭われている間諜であって、フランス生れの被告に近づいて無理に交際を結び証拠を捏造してフランスの間諜として告発し、当時のフランスに対する国民的反感を利用して政府への人気を博そうとしたのであり、そういう類のことを職業にしている人間なのである。それがダーネーとカートンとの容貌の類似という思付きから失敗させられ、終日公判が続いた後に陪審官は遂に無罪放免の評決をする。死刑囚を見るつもりで集って青蠅のように騒いでいた観衆は、その当が外れて青蠅のように裁判所から去ってゆく。この章で、カートンとマネット嬢とダーネーとの三人の最初の交渉が微妙に始っている。

第四章 祝い  その夜。法廷の廊下で、釈放されたばかりのダーネーを取囲んで祝いを述べるマネット、その娘リューシー、ロリー、ストライヴァー。大声の太ったストライヴァー氏が改めて紹介される。遠慮、思遣り、上品、敏感など――要するに一語で正確な訳語がないが「デリカシー」というひけめは一切持ち合せていない、三十歳を少し越している男。また、マネット医師のことはここでもこの後でもたびたび書かれるが、第三巻第十章の彼の手記に至るまでは彼の過去の経歴がはっきりわからない。確かに、彼の上にはバスティーユ牢獄の濃い影が落ちているような印象を与える。この法廷の廊下で彼はダーネーの顔に何かを認める。ただ一人壁蔭の暗いところに凭れていたカートンは、皆の後から裁判所を出て、マネットとリューシーとが貸馬車で去るのを黙々と見送った後、ぶらりと鋪道へ現れ、善良な銀行員のロリーをひやかしてから、ダーネーを誘って二人で近くの飲食店へ行く。その二人の人物の対話の場面の大写し。ダーネーが去ってからのカートンの鏡に映る姿に向っての独白。それから酔って卓子《テーブル》に突っ伏して眠ってしまう彼の上に滴り落ちる不吉な運命を暗示するような蝋燭の蝋垂れ。

第五章 豺  ストライヴァーに対して豺の役目を勤めているシドニー・カートン。彼は飲食店をその夜晩く出て、テムプルのストライヴァーの事務室へ入ってゆく。作者は少年時代に二年ばかり法律事務所の見習書記をしていたことがあり、こういう法律家などを書くことも巧みである。カートンは、ストライヴァーとシュルーズベリー学校以来の同窓生であるから、年齢もやはり同じくだいたい三十歳くらいであろう。前章からこの章へと彼の性格は次第に描かれて来る。ストライヴァーは(第二巻の終りの方である一つの小さな役割を演ずる他は)このカートンの対照に書かれているのである。徹夜して酒を飲みつつ仕事をしてから、カートンはマネット嬢のことを思って憂鬱になりながら、どんよりした陰気な夜明の戸外へ出る。周囲の沙漠。一瞬の蜃気楼。浪費されている才能を抱いて埋もれている男。印象的な場面。
            ――――――――
第六章 何百の人々  前章から四箇月後すなわち一七八〇年七月頃。同じくロンドン。ソホー広場附近のマネット医師一家の閑静な住居が見事に描き出される。ある日曜日の午後。そこへロリー氏が訪ねる。ドーヴァーの旅館で初対面をした例のプロス嬢との対話。それによってマネット医師のことがまた語られる。なお、プロス嬢の話にちょっと出るように、彼女にはソロモン・プロスという弟があることは、この物語の後の方の章のために記憶されなければならない。嫉妬深いプロス嬢がお嬢さんに会いに来る何百[#「何百」に傍点]の人というのは、ダーネーとカートンとであった。マネットに何か衝撃《ショック》を与えたらしいダーネーのロンドン塔の囚人の話。リューシーとダーネーとの間に交される二三の簡短な、しかし愛人同志らしい対話。その家で聞える足音の反響をいつか自分たちの生活の中へ入り込んで来る足音の反響だというリューシーの空想。それに対するカートンの言葉。夜になって襲来する雷鳴と電光と豪雨。暗示的で感銘的な場面。雨が霽れて帰る途で迎えに来たジェリーはまたロリーの言葉にぎょっとする。この章の結末の数行は、漠然たる、しかし効果的な暗示の文句である。
            ――――――――
第七章 都会における貴族  これから三章は場面がフランスへ移り、人物はしばらく一変するが、やがて前に出た人物も登場して加わる。前章と同じく一七八〇年の夏。フランス革命の起る九年前である。この章の前半のモンセーニュールは当時のフランスの貴族の象徴的人物であり、ここに、フランスの王政封建時代末期の支配階級の戯画が、モンセーニュールのパリーの邸宅における接見会《リセプション》の場面によって、描き上げられる。この戯画もまた実に傑れており、第一巻第五章のあのサン・タントワヌ区の画面と対照されて効果的である。この章の後半からは、そのモンセーニュールの接見会《リセプション》に出席したある侯爵が主な人物となる。例によってその人物の肖像画。彼はそこを去り馬車を駆って街々を驀進し、平民どもを蜘蛛の子のように散らし、その挙句ガスパールという男の子供を轢き殺す。その場へあの酒店の主人ドファルジュが現れる。一人の人間を殺して、金貨を一枚投げ与え、何かの品物を壊してその賠償をすませたかのようにまた馬車を駆って去る侯爵。その侯爵をただ一人きっと見つめるマダーム・ドファルジュ。それから、馬車で流れ去る仮装舞踏会のように著飾った上流人士。自分たちの穴から出てそれを眺め続ける鼠のような貧民たち。昼は夜となり、仮装舞踏会は晩餐の明るい灯火に輝き、鼠は暗い穴の中でくっつき合って眠り、万物はそれぞれの道を流れる。

第八章 田舎における貴族  窮乏し疲弊したフランスのある田舎。前章の翌々日の日没頃から夜へかけて。侯爵は彼の領地へ旅行馬車で帰って行く。穀物の乏しい田園。すべてが貧乏くさい村。貧苦に窶れた村民。その村の宿駅の前でしばらく停った侯爵は、青い帽子を持った一人の道路工夫を訊問して、脊の高い男が一人自分の旅行馬車の下にぶら下って来たことを知る。宿駅長のガベルが現れる。彼は徴税吏をも兼ねている。ガベルに命令を与えてから、侯爵はまた出発する。途で会う一人の寡婦の歎願を押し除けて、日がとっぷり暮れてから彼の館に到著する。彼は著くとすぐに、イギリスから来るはずのムシュー・シャルルが著いているかと尋ねる。

第九章 ゴルゴンの首  侯爵の館。その夜から翌朝へかけて。一目であらゆるものを石に化せしめるというゴルゴンの首が検分したかのような、何から何までが石で出来た堂々たる建物。月もなく風もない真暗なひっそりとした晩。やがて塔の中の豪奢な一室で侯爵が食卓に向っていると、侯爵の甥のシャルルが到著するが、このシャルルとは意外にも数箇月前イギリスでの叛逆事件の被告であったチャールズ・ダーネーである。挙止だけは優雅で心の冷酷な、抑圧を唯一の永続する哲学と信じている、骨の髄からの封建貴族の叔父。貴族の暴虐圧制と誅求搾取とを嫌って、財産継承の権利を抛棄し、国を去り、家名を棄てて、イギリスで働いて生活しようとする、新しい思想を奉ずる甥。この二人(殊に前者)はその会話やわずかな動作などによって驚くべく巧妙に書かれている。甥を別室へ送り出して自分の寝室で寝ようとする侯爵。その日の昼の旅行や前々日のパリーでのことの追想。それから深い夜の闇の三時間。この夜から朝へかけての叙述もまた最も傑れている部分の一つである。夏の夜は早く次第に明けかかり、遂に館でも夜がすっかり明け放れると、館の大鐘が鳴り響き、人々があわただしく駈け※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]り、ただならぬ模様。侯爵もまた寝室で石になったのである。彼を突き刺した短刀に附いている紙片の文句によれば、ドファルジュの仲間であるジャークの一人に暗殺されたのであって、暗殺者が前日に侯爵の馬車の下にぶら下って来た脊の高い男であり、パリーで侯爵に子供を轢き殺されたガスパールであることは暗示されている。この物語の主要な人物は既に全部出揃い、読者はそれらの人物について一通りは知ったのである。
[#ここで字下げ終わり]
            ――――――――
[#地から2字上げ]第二巻未完。


底本:「二都物語 上巻」岩波文庫、岩波書店
   1936(昭和11)年10月30日第1刷発行
   1967(昭和42)年4月20日第26刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 恰も→あたかも 或る→ある 如何→いか・いかが 聊か→いささか 何時→いつ 一層→いっそう 今更→今さら 謂わば→いわば 所謂→いわゆる 於て→おいて 大凡→おおよそ 於ける→おける 恐らく→おそらく 己→おれ 却って→かえって 彼処→かしこ か知ら→かしら 難い→がたい 且つ→かつ 嘗て→かつて かも知れ→かもしれ 位→くらい 極く→ごく 此処→ここ 毎→ごと 悉く→ことごとく 此→この 而→しかし 然る→しかる 屡々→しばしば 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 頗る→すこぶる 即ち→すなわち 是非→ぜひ 其奴→そいつ・そやつ 大層→たいそう 大体→だいたい 大分→だいぶ・だいぶん 唯→ただ 但し→ただし 直ち→ただち 忽ち→たちまち 度→たび 度々→たびたび 多分→たぶん 給え→たまえ 給う→たもう (て)頂→いただ (て・で)貰→もら・もれ 何処→どこ・どっ 乃至→ないし 尚・猶→なお 尚更→なおさら 何故→なぜ に拘らず→にかかわらず 筈→はず 甚だ→はなはだ 甚し→はなはだし 程→ほど 殆ど→ほとんど 正しく→まさしく 将に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 亦→また 間もなく→まもなく 勿論→もちろん 以て→もって 尤も→もっとも 易→やす 已むを得ず→やむをえず 故→ゆえ 漸く→ようやく 俺→わし 僅か→わずか」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

盗まれた手紙 THE PURLOINED LETTER エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe——-佐々木直次郎訳

Nil 〔sapientiae&〕 odiosius acumine nimio.
(叡智にとりてあまりに鋭敏すぎるほど忌むべきはなし)


セネカ(1)

 パリで、一八――年の秋のある風の吹きすさぶ晩、暗くなって間もなく、私は友人C・オーギュスト・デュパンと一緒に、郭外《フォーブール》サン・ジェルマンのデュノー街三十三番地四階にある彼の小さな裏向きの図書室、つまり書斎で、黙想と海泡石《かいほうせき》のパイプとの二重の快楽にふけっていた。少なくとも一時間というものは、我々は深い沈黙をつづけていた。そして誰かがひょっと見たら、二人とも、部屋じゅうに濛々《もうもう》と立ちこめた煙草のけむりがくるくると渦巻くのに、すっかり心を奪われているように見えたかもしれない。しかし、私自身は、その晩の早いころ我々の話題になっていたある題目のことを、心のなかで考えていたのだった。というのは、あのモルグ街の事件と、マリー・ロジェエ殺しの怪事件のことなのである。だから、部屋の扉が開いて、我々の古馴染《ふるなじみ》のパリの警視総監G――氏(2)が入ってきたとき、私にはそれがなにか暗合のように思われたのであった。
 我々は心から彼を歓迎した。この男には軽蔑《けいべつ》したいところもあるが面白いところもあったし、それに我々はここ数年間、彼に会わなかったからである。二人はそれまで暗いところに坐っていたので、デュパンはすぐランプをつけようとして立ち上がったが、G――がある非常に困っている公務について、我々に相談に、というよりも私の友の意見をききに来たのだというと、デュパンはそのままふたたび腰を下ろした。
「もしなにかよく考える必要のあることなら、暗闇のなかで考えたほうがいいでしょう」と彼は灯心に火をつけるのをよして、言った。
「また君の奇妙な考えですな」と総監が言った。彼は自分のわからないことはなんでもみんな『奇妙な』という癖なので、まったく『奇妙なこと』だらけの真ん中に生きているのだった。
「いかにも、そのとおり」とデュパンは言って、客に煙草をすすめ、坐り心地のよい椅子を彼の方へ押しやった。
「ところで今度の面倒なことというのはなんですか?」と私が尋ねた。「殺人事件なんぞはもうご免こうむりたいものですな」
「いやいや、そんなものじゃないんだ。実は、事がらはいたって[#「いたって」に傍点]単純なので、我々だけで十分うまくやってゆけるとは思うんだが、でもデュパン君がきっとその詳しいことを聞きたがるだろうと思ったんでね。なにしろとても奇妙[#「奇妙」に傍点]なことなんだから」
「単純で奇妙、か」とデュパンが言った。
「うむ、さよう。で、またどちらとも、そのとおりでもないので。実は、事件は実に単純なんだ[#「なんだ」に傍点]が、しかも我々をまったく迷わせるので、ひどく参っている始末なんだ」
「じゃ、たぶん、事がらがあまり単純なので、それがかえって、あなた方を当惑させているんだな」と友が言った。
「ばかを言っちゃいかん!」と、総監は心から笑いながら答えた。
「きっと、その謎《なぞ》はちと、はっきりしすぎるかな」と、デュパンが言った。
「おやおや! そんな考えってあるもんかね?」
「少々わかりきっていすぎる[#「すぎる」に傍点]んだよ」
「は、は、は! ――は、は、は! ――ほ、ほ、ほ!」と客はたいそう面白がって大笑いした。「おお、デュパン君、こう笑わされちゃ助からんよ!」
「ところで、いったいどんな事件が起っているんですか[#「ですか」に傍点]?」と私が尋ねた。
「じゃあ、お話ししようか」と総監は、煙草のけむりを長く、しっかりと、考えこむように吹かし、自分の椅子に坐りこんで、答えた。「手短かに話しましょう。だがその前にご注意願いたいのは、これは絶対秘密を要する事件で、もし僕が他人に洩らしたことが知れたら、僕はおそらくいまの地位を失わねばならん、ということです」
「まあ、お始めなさい」と私が言った。
「なんなら、およしになっても」とデュパンが言った。
「では、話しましょう。ある高貴の筋から内々で僕に通知があって、宮廷から、絶対に重要なある書類が盗まれたというのです。盗んだ当人はちゃんとわかっているんだ。それには疑いはない。取るところを見られているんだからね。また、その男がまだそれを持っていることもわかっているのです」
「それが、どうしてわかっているんです?」とデュパンが尋ねた。
「それは、その書類の性質からと、また、それが盗んだ人間の手を離れる[#「離れる」に傍点]とすぐ現われるはずのある結果がまだ現われないことから、はっきり考えられるのです。――つまり、彼が最後にそれを使うはずの、その使い方から起きる結果が現われていないんでね」と総監が答えた。
「もう少しはっきり願いたい」と私が言った。
「よろしい。じゃあ思いきって言うが、その文書はそれを持っている者に、ある方面である種の勢力を与えるのだ。そこではそういう勢力は莫大な価値があるのです」総監は外交用語を使うのが好きだった。
「まだ私にはすっかりわからんが」とデュパンが言った。
「わからない? よろしい。その書類を、名は言えないがある第三者にあばくと、ある非常に高い地位の方の名誉にかかわるのですな。そしてこの事実は、書類の所持者にその高貴な方に対して権力を揮《ふる》わせ、その方の名誉と平和とが危うくされているのです」
「しかしその権力なるものは」と私は語をはさんだ。「盗まれた人が盗んだ人を知っているということを、その盗んだ当人が知ってのことでしょう。誰がそんなひどいことを――」
「ところが盗んだ人というのは」と、G――は言った。「男らしいことであろうとなかろうと、どんなことでも平気でやるあのD――大臣ですよ。その盗み方は、大胆であるとともに巧妙でもあったのです。その書類は――うち明けて申せば、手紙なんですが――その盗まれたお方が、王宮の奥の間にお一人でいらしたときにお受け取りになられたものです。そのご婦人がそれを読んでおいでになるときに、もう一人の高貴な方がふいに入って来られた。ところが、そのご婦人は、その手紙をとりわけその方には見せたくないと思っておられたものなんですな。で、急いでそれを引出しのなかへ押しこもうとされたが駄目だったので、仕方なしに開いたままテーブルの上にお置きになりました。でも、宛名がいちばん上になっていて、したがって内容のところが隠れていたので、手紙はべつに注意されずにすんだというわけでした。このときにD――大臣が入って来たのです。彼の山猫のような眼はすぐその手紙を見つけ、宛名の筆蹟《ひっせき》を認め、それから受取人の方《かた》の狼狽しておられるのを見てとり、その方の秘密を知ってしまったのですな。いつものように用向きを手早くすませると、彼は例の手紙といくらか似ている一通の手紙を取り出して、それを開き、ちょっと読むようなふりをして、それからその問題の手紙とぴったり並べて置きました。そしてまた、十五分ばかり公務について話をする。さて退出するときに、彼はテーブルから自分のものでない手紙を失敬して行ったのですよ。その手紙のほんとうの所有者はそれを見ておられたけれども、その第三者の方がすぐ側に立っておられるところで、もちろん、その行為をとがめるわけにもゆかなかったんですね。大臣は、自分の手紙を――大事でもなんでもないのを――テーブルの上に残して、さっさと引き上げたんです」
「なるほど、そこで」とデュパンが私の方を向いて言った。「君の言っているその権力なるものが完全に揮われるわけがちゃんとわかったことになるんだね。――盗まれた人が盗んだ人を知っているということを、盗んだ当人が知っている、ということが」
「そうなんだ」と総監が答えた。「それで、こうしてにぎられた勢力は、この数カ月の間、政治上の目的に、はなはだ危険な程度にまで利用されてきているんでね。盗まれた方はご自分の手紙を取りもどす必要を、日ごとに痛切に感じておられる。だが、これはむろん大っぴらにやるわけにはゆかない。とうとう思いあまって、事をわたしにおまかせになったのです」
「なるほど、あなた以上に賢明なやり手は望めないし、想像もされないですからな」とデュパンは濛々とけむりの渦巻くなかで言った。
「お世辞を言っちゃいけませんよ。しかし、まあ、そんなようなことかもしれないな」と総監は答えた。
「あなたのおっしゃるとおり」と私が言った。「その手紙がまだ大臣の手にあることは明らかですね。権力を与えるのは、手紙をなにかに使うことではなくて、それを持っていることなんだから。使ってしまえば権力はなくなるわけだ」
「そのとおり」とG――は言った。「で、その確信のもとに、私は捜査をすすめたのです。まず第一になすべきことは、大臣の邸をすっかり捜索することでした。そして、そこでわたしのいちばん困ったのは、彼に知られないで捜索しなければならんということでしたよ。なによりも、我々の計画を彼に疑われるようになると、危険が生ずるかもしれないということを、わたしは警告されたんですから」
「ですが」と私は言った。「そのような調査は、あなた方にはまったくお手のものでしょう。パリの警察はいままでにそんなことは何度もやったことがあるんだから」
「そうですとも。だからわたしは失望しなかったんです。それに、大臣の習慣もわたしには非常に好都合でした。彼はよく一晩じゅう家をあけるのです。召使もたくさん使っていない。彼らは主人の部屋から離れたところに寝ているし、主にナポリ人だから、造作なく酔わせてしまえるのです。ご承知のとおり、わたしはパリじゅうのどんな部屋だろうが戸棚だろうがあけられる鍵《かぎ》を持っている。この三カ月というものは、一晩だってその大部分をわたしが自身でD――の邸をくまなく捜さずに過したことはありません。わたしの名誉にかかわることだし、それにほんとうのことを言ってしまえば、報酬はすばらしいんですよ。だからわたしは捜索をやめずにつづけていたのですが、とうとう、盗んだ男はわたしよりももっとはしっこい人間だということが十分にわかって、やめてしまいました。あの書類を隠すことのできそうな屋敷じゅうのどんなすみずみまでも調べたつもりなんですがねえ」
「しかしですね」と、私は提言した。「その手紙がたしかに大臣の手にあるとしても、彼がそれを自分の屋敷以外のどこかに隠しているかもしれん、ということはありえないでしょうか?」
「そいつはまずほとんどありえないことだね」とデュパンが言った。「宮廷での現在の特殊の事情と、とりわけ、D――の関係しているという評判のあの陰謀問題とから、その書類をすぐ間に合わせることが、それを即座に取り出せることが――それを持っていることとほとんど同じくらい重要なことなんだからな」
「それを取り出せることと言うと?」と私は言った。
「つまり、やぶいて[#「やぶいて」に傍点]しまえることさ」と、デュパンが言った。
「なるほど」と私は言った。「じゃあ、その書類は明らかに屋敷内にあるわけだ。大臣がそれを体につけているなんてことについては、問題にしなくてもいいんでしょうな」
「ぜんぜんないね」と総監は言った。「追剥《おいはぎ》の仕業のように見せて二度も彼を待ち伏せして、僕自身の監視のもとに厳重に体を捜させたんだから」
「そんな厄介なことはしなくたってよかったろうにね」とデュパンが言った。「D――だってまんざら馬鹿でもないだろうと思う。とすれば、そんな待ち伏せされることなんぞは当然のこととして、予期していたにちがいないでしょうよ」
「まんざら[#「まんざら」に傍点]馬鹿ではね」とG――は言った。「だが、あの男は詩人ですぜ。詩人なんてものは馬鹿とほんの一隔てだとわたしは思っていますよ」
「いかにも」デュパンは海泡石のパイプからゆったりと、考えこんででもいるように、煙草のけむりを吹き出してから、言った。「もっとも僕だってへぼ詩を作ったことがあるんだが」
「あなたの捜索のことをすっかり詳しくお話しになってはどうでしょう」と私が言った。
「おお、そうですな。いや、もう、我々は時間をかけてゆっくり、どこもここもみんな[#「どこもここもみんな」に傍点]捜した、というわけなんです。こういった仕事には僕は永年の経験があるんで。僕は建物全体を一部屋ごとにかかり、一部屋に満一週間の夜を費やしました。初めに各室の家具を調べたのです。ありとあらゆる引出しをあけてみました。ご承知のことと思うが、相当に熟練した警察官にとっては、秘密の[#「秘密の」に傍点]引出しなどというようなものはありえないのです。こういう捜索にあたって『秘密の』引出しがその眼につかないと思う者がいるなら、そりゃあ阿呆ですよ。それほど[#「それほど」に傍点]やさしいことなんです。どんな戸棚でもみんな、測られる容積の――空間の――ある一定の量がある。ところで我々は正確な物差を持っている。一ライン(3)の五十分の一だって見おとすはずはない。戸棚のつぎには椅子を調べました。クッションは、僕が使っているのをご覧になったことのある、あの細い、長い針で探ってみました。テーブルからは上板を取りのけてみました。
「なぜそんなことを?」
「テーブルや、それに似たような作りの家具の上板は、ときどき、物を隠そうとする人が取りのけることがあるのです。そうして脚に穴をあけ、品物をそのなかへ入れて、上板をもとのとおりにしておくんですよ。寝台の柱の底や頭も同じぐあいに使われます」
「しかし、そんな穴は叩いてみたら音でわかりはしませんかね?」と私は尋ねた。
「品物を入れるときに、そのまわりに綿を十分につめれば、決してわからない。そのうえに、我々の場合では、なにしろ音をたてずにやらにゃならなかったんだから」
「しかし、あなただって、物の入れられそうな家具をどれもこれもみんな[#「どれもこれもみんな」に傍点]取りはずすことはできなかったでしょう、――ばらばらにすることはできなかったでしょう。手紙の一通くらいなら、細くぐるぐる巻けば、大きな編物針と形も大きさも大して違わないものに巻き縮められる。そんなふうにすれば、たとえば椅子の桟のなかへでも差しこむことができるかもしれん。あなたは椅子を一つ残らずばらばらにしやしなかったでしょう?」
「そりゃあしませんでしたがね。だが我々はもっとうまくやりましたよ、――邸じゅうのあらゆる椅子の桟、それから実際あらゆる種類の家具の接目《つぎめ》を、非常に強度の拡大鏡を使って調べたんです。近ごろ手をつけたような跡が少しでもあれば、すぐに我々の眼につかないはずはない。たとえば、錐《きり》くずの一粒でも、林檎《りんご》みたいにはっきりしたでしょうよ。膠《にかわ》づけが少しでも変だったり――接目が少しでも普通以上に開いていたり――すれば、それだけで十分に見破られたでしょう」
「鏡はご注意なすったでしょうね、板とガラスとのあいだを。また寝台や寝具はお探りになったでしょうね。それからカーテンや絨毯《じゅうたん》も」
「それはもちろん。そんなふうにして家具を一つ残らずすっかりやってしまうと、今度は家の全面を区画して、一つでも見おとしをしないように、それに番号をつけました。それから屋敷じゅうを各平方インチごとに、そのすぐ隣の二軒も含めて、前のように、拡大鏡で精密に調べたのです」
「隣の二軒の家も!」と私は叫んだ。「そりゃあさぞたいへんなお骨折りだったでしょうなあ」
「そうでしたよ。でもなにしろ報酬が莫大なんでね」
「家の周囲の地面[#「地面」に傍点]も含めておやりになったんですね?」
「地面にはすっかり煉瓦《れんが》が敷いてあるんでね、それほど骨を折らずにすみましたよ。煉瓦のあいだの苔《こけ》を調べたんだが、動かされていないことがわかったのです」
「むろんD――の書類のあいだや、図書室の書物のなかもご覧になりましたね?」
「いや、見ましたとも。荷物や包みはかたっぱしからあけてみました。書物はみんな、ある警察官たちのやるように、ただ振ってみるだけでは満足できなかったのでね、あけてみるばかりでなく、一冊ごとに一枚一枚めくってみました。また本の表紙[#「表紙」に傍点]もみんな非常に正確に厚さを測り、一つ一つ拡大鏡でうんと注意ぶかく調べました。最近に装釘《そうてい》に手をつけたものがあれば、眼にとまらないなんてことは絶対になかったはずです。製本屋から来たばかりの五、六冊の本は、針で念入りに探ってみました」
「絨毯の下の床はお調べになりましたね?」
「たしかに。絨毯はみんな剥《は》いで、床板を拡大鏡で調べました」
「それから壁紙も?」
「ええ」
「穴蔵も見ましたね?」
「見ました」
「それじゃあ」と私は言った。「あなたは見込み違いをしていらしたのでしょう。手紙はあなたが想像なさるように屋敷のなかにはない[#「ない」に傍点]んですよ」
「僕もそうじゃなかろうかと思う」と総監が言った。「で、デュパン君、どうしたらいいでしょうね?」
「屋敷をもう一度完全に捜すんですな」
「それはぜんぜん不要だ」とG――が答えた。「手紙が邸のなかにないことは、僕が生きているのと同じくらい確かですよ」
「だが、僕にはそれ以上の助言はできないのです」とデュパンは言った。「あなたは、もちろん、その手紙の正確な説明書を持っているでしょうね?」
「ええ、もちろんですとも!」――そう言うと、総監は手帳を取り出して、紛失した書類のなかの様子と、ことに外観を詳しく書いたものを、大きな声で読みはじめた。その説明書を読みおわってしまうと間もなく、彼は帰って行ったが、私はいままで、この善良な紳士がこれほどすっかり意気|銷沈《しょうちん》しているのを見たことがなかった。
 その後一月ほどたってから、彼はまた我々を訪ねてきたが、そのときも我々二人は前とほとんど同じようなことをしていた。彼はパイプを取り、椅子に腰を下ろし、なにか普通の話を始めた。とうとう、私は言いだした。――
「ところで、G――さん、例の盗まれた手紙はどうなりました? あの大臣を出し抜くなんてことはとてもできないと、とうとう諦《あきら》めたようですな?」
「あの畜生、いまいましい奴だ、――そうですよ。デュパン君が言ってくれたとおりに、僕はもう一度調べてみました、――が、やっぱり思ったとおり、まったく無駄骨を折ったばかりだったよ」
「報酬はどれだけだと言いましたかね?」とデュパンが尋ねた。
「うむ、大したものだ、非常に[#「非常に」に傍点]たくさんな報酬だ、はっきりいくらとは言いたくないのだが、誰でもあの手紙を僕に渡してくれる人には、僕の小切手で五万フランあげてもかまわない、ということだけは言っておきましょう。実は、あれは日ごとに重要になってきているので、報酬が最近二倍にされたんです。だが、たとえ三倍にされたところで、僕はいままでしたことより以上にはなにもできまい」
「ふむ、なるほど」デュパンは海泡石のパイプを吹かす合間に、ゆっくりと言った。「僕は思うんだがね――G――、あなたはこの事件に対してまだできるだけ――骨を折ってはいないようですな。あなたはもうちっと――やれたと僕は思うんだがな、え?」
「どうして? ――どんなふうに?」
「なあにね、――パッ、パッ――あなたは――パッ、パッ――この事件について人の意見を用いたらよかったろうにね、え? パッ、パッ、パッ。――あなたはアバニシー(4)の話を覚えていますか?」
「いいや。アバニシーなんぞくたばってしまえだ!」
「ごもっとも! くたばってしまえでけっこう。だがね、あるとき、ある金持の吝嗇家《けちんぼ》が、そのアバニシーに医療上の意見をただで聞こうという工夫をしたんです。そこで、どこかで会ったとき世間話を始めて、もしもこういう患者がいたなら、というふうにして、自分の病症をその医者に話したのですな。
『その男の症候はこうこうだということにいたしますと、さて、先生、あなた[#「あなた」に傍点]ならその男になにを用いろとおっしゃいますか?』とその吝嗇家がきいたんですね。
『さよう、無論、医者の助言[#「助言」に傍点]を用いるんですな!』とアバニシーは言ったそうですよ」
「だが」と総監は少しむっとして言った。「僕[#「僕」に傍点]は完全に[#「完全に」に傍点]喜んで助言を用いますし、そのお礼も払いますよ。この事件でわたしを助けてくれる人があれば誰にでも五万フランをほんとう[#「ほんとう」に傍点]にあげるつもりなんです」
「それなら」とデュパンは引出しをあけて小切手帳を取り出しながら答えた。「それだけの額の小切手を僕に書いて下すってもいいでしょう。それに署名したら、あの手紙を渡しましょう」
 私はびっくりした。総監はまったく雷に打たれたようだった。彼はちょっとのあいだ、ものも言わず、身動きもせず、口をぽかんとあけ、眼の玉がとび出るようにして、信じられないというふうに私の友を眺めていた。それから、どうやら我に返ったらしく、ペンをつかんで、なんども止めたりぼんやり眺めたりしたのち、やっと五万フランの小切手を書いて署名し、テーブル越しにデュパンに渡した。デュパンはそれを念入りに調べて紙入れにしまい、それから写字台《エスクリトワール》の引出しの錠をあけ、そこから一通の手紙を出して、総監にやった。総監は狂気せんばかりにそれをしっかりつかみ、震える手で開いて、その内容を大急ぎでちらりと見、それから扉の方へよろめきよると、とうとう無作法にも、さっきデュパンが小切手を書いてくれと言ったときからひと言も口をきかずに、部屋から、そして家から跳び出して行ったのであった。
 彼が行ってしまうと、デュパンは説明をしはじめた。
「パリの警察はね」と彼が言った。「その道ではなかなかの手腕があるんだよ。彼らは根気がいいし、工夫力もあるし、狡猾《こうかつ》でもあるし、職務上主として必要なように見える知識には十分によく通じてもいる。だから、G――がD――邸の家宅捜索をした方法を我々に詳しく話してくれたとき、僕は、彼の労力の及ぶところまでは――彼が申し分のない調査をしたということを、完全に信じたんだ」
「彼の労力の及ぶところまではだって?」と私は言った。
「そうさ」とデュパンが言った。「執られた手段は、その種の最上のものであったばかりではなく、完全無欠なところまで実行されたのさ。手紙が彼らの捜索範囲内に置いてあったなら、あの連中はきっと見つけたろう」
 私はただ笑った、――が彼はまったく真面目で言っているようであった。
「そんなわけで」と彼はつづけて言った。「手段はその種のものでは上等だったし、りっぱに実行もされた。ただ欠点というのは、その事件とそれから相手とに当てはまっていないということだったんだよ。総監は非常に巧妙な方法というのはプロクルステス(5)の寝台のようなものだと思って、自分の計画を無理にそれに適合させようとするんだね。彼はいつも、自分の手にしている事件に対してあまり深謀すぎたり浅慮すぎたりしてしくじるのだ。小学校の子供だって彼よりももっとうまく推理するのがたくさんいる。僕は八歳ばかりの子供を知っていたが、この子は『丁か半か』という勝負で言い当てるのがうまくて、みんなに褒められていた。この勝負は簡単なもので、弾石《はじきいし》でやるのだ。一人がこの石を手にいくつか持っていて、相手にその数が丁か半かときく。もし当てたら、当てたほうが一つ取るし、違ったら、一つ取られるのだ。いま言ったその子供は学校じゅうの弾石をみんな取ってしまったものだよ。むろん、彼は当てる法則といったようなものを持っていたのだ。というのは、ただ相手のはしっこさを観察して、その程度をはかるということなんだ。たとえば、まったくの馬鹿が相手になっていて、握った手を上げて、『丁か半か?』ときく。その生徒は『半』と答えて、負ける。が二度目には勝つ。というわけは、彼はこう考えるのだ、『この馬鹿は初めに丁を持って勝ったんだから、こいつの利口さの程度ではちょうど、二度目には半を持つくらいのところだろう。だから半と言ってやろう』とね。――そこで半と言って勝つのだ。それから、相手がこれとはもう少し上の馬鹿だと、彼はこういうふうに考える。『こいつは初めに僕が半と言ったので二度目にはすぐ、前の馬鹿のように、簡単に丁から半へ変えようとするだろう。が考えなおしてこれはあまり簡単な変え方だと思いつき、結局やはり前のように丁を持つことに決めるだろう。だから丁と言ってやろう』とね。――で、『丁』と言って、勝つんだ。そこで、仲間の者たちに『運が強い』と言われていたその生徒のこの推理の方法だね、――これは最後まで分析すると、何かね?」
「それはただ推理者の知力を相手の知力と合致させることにすぎんね」と私は言った。
「そうなんだ」とデュパンが言った。「で、僕はこの子供に、彼の成功の基であるその完全な[#「完全な」に傍点]合致をどんな手段でやるのかと尋ねたら、こう答えた。『僕は、誰かがどれくらい賢いか、どれくらい間抜けか、どれくらい善い人か、どれくらい悪い人か、またその時のその人の考えがどんなものか、というようなことを知りたいと思うときには、自分の顔の表情をできるだけ正確にその人の表情と同じようにします。それから、その表情と釣り合うように、または一致するようにして、自分の心や胸に起ってくる考えや気持を知ろうとして待っているんです』というのさ。この生徒のこの答えは、ロシュフコー(6)や、ラ・ブリュイエール(7)や、マキアヴェリ(8)や、カンパネラ(9)のものとされている、あの、あらゆる贋《にせ》の深遠さよりも深いものだよ」
「で、その推理者の知力を相手の知力と合致させることはだね」と私は言った。「もし君の言うことを僕が誤解していないなら、相手の知力をはかる正確さのいかんによるね」
「実際上の価値としては、そういうことになるね」とデュパンは答えた。「で、総監やその部下たちが、あんなにちょいちょい失敗するのは、第一に、その合致が欠けているためで、第二には、相手の知力のはかり方が悪いため、というよりも、むしろはからないためなんだ。彼らはただ自分たち自身[#「自身」に傍点]の工夫力だけしか考えない。そしてなんでも隠されたものを捜すのに、自分たち[#「自分たち」に傍点]の隠しそうな方法だけしか気がつかない。彼ら自身の工夫力が普通一般人[#「普通一般人」に傍点]の工夫力の忠実な代表であるという点までは――これは正しい。が、特殊の悪人の狡知《こうち》と、彼ら自身の知恵の質が異なっている場合には、もちろん彼らはしくじってしまう。これは相手の狡知が彼らより以上のときにはいつもそうだし、その以下の場合にもたいていそうなんだ。彼らは調査をするとき決して方針を変えるということをしない。せいぜい、なにか非常な出来事――なにかすばらしい報酬など――で励まされると、自分たちの方針は変えないで、ただもとのやり方[#「やり方」に傍点]を拡張し、また大げさにする。たとえばこのD――の場合に、行動の方針を変えるためにどんなことがされたか? あんなふうに穴をあけたり、探針で探ったり、叩いて音を試したり、拡大鏡でこと細かに調べたり、建物の表面を平方インチに区画して番号をつけたりすること――そんなことはみんな、総監が長いあいだの在職中に見慣れてきた、人間の工夫力に関する一連の考えを基礎にしている探索方針の一つ、あるいはいくつかを、大げさに応用したものにすぎんじゃないか? 彼は、あらゆる[#「あらゆる」に傍点]人間は手紙を隠すのに、――必ずしも椅子の脚に錐で穴をあけないにしても――少なくとも、椅子の脚の錐穴に手紙を隠そうとするのと同じような考えから思いついた、どこか[#「どこか」に傍点]たやすく人目につかぬ穴か隅っこに――隠すものだ、と決めこんでいるじゃないか? が、そういう念の入った隅っこに隠すことは、ただ普通の場合にだけ用いられるもので、ただ平凡な知力の者が用いるだけじゃないか。なぜかと言えば、ものを隠す場合にはみな、その隠す品物をそういう念入りの方法で処置するということは――まず第一に考えられることだし、推量されることなんだからね。だから、それの発見は、ちっとも探索者の明敏さいかんによるのではなくて、ぜんぜん単なる注意と、忍耐と、決意とによるのだ。そして事件が重大な場合には――あるいは、警察官の眼にはどうせ同じことだが、つまり報酬が多いときには――そういう特性は決して[#「決して」に傍点]欠けるはずはない。というわけだから、もしあの盗まれた手紙が総監の調査の範囲内のどこかに隠してあったなら――言葉をかえて言えば、それの隠匿の方針が総監の方針のなかにあるものだったなら――それの発見はぜんぜん疑いの余地はなかったろう、と僕の言おうとしたことは君にはもうわかったろう。それなのに、あの先生はすっかり煙《けむ》に巻かれてしまった。そして彼の失敗の遠因は、あの大臣は馬鹿である、なぜなら彼は詩人としての名声を得ているから、と推定したことにあるのだ。すべての馬鹿は詩人であると、こう総監は自分で思っている[#「思っている」に傍点]。そして彼はそこから、すべての詩人は馬鹿である、と推論して、ただ媒辞不周延《ノーン・ディストリブーティオー・メディイー》(10)の誤謬に陥ったのさ」
「だが詩人というのはほんとうかね?」と私は尋ねた。「兄弟が二人あるということは聞いているし、二人とも文名はある。だが、たしかあの大臣のほうは微分学についてかなり博学な著述があったと思うよ。あの男は数学者であって、詩人じゃあないよ」
「いや、違うよ。僕はあの男をよく知っている。彼はその両方なんだ。詩人兼[#「兼」に傍点]数学者なればこそ、彼はよく推理するのだ。単なる数学者にすぎなかったら、彼は推理なんぞはちっともできなくて、総監の思うままになったろう」
「こりゃあ驚くね」と私は言った。「そういう意見は世間の通説とまるで矛盾しているからね。君は何世紀ものあいだ十分理解されてきた考えを無視しようとするんじゃあるまいな。数学的な推理こそ、長いあいだ特に優れた推理と見なされてるんだからねえ」
「『|あらゆる公衆一般の観念、あらゆる世間一般に承認されたる慣例は愚かなるものと思わばまちがいなし。なんとなれば、そは衆愚を喜ばしむるものなればなり《イリヤ・ア・パリエ・ク・トゥティデェ・ピュブリク・トゥト・コンヴァンシオン・ルシュ・エ・テュヌ・ソティーズ・カアル・エラ・コンヴニュ・オ・プリュ・グラン・ノンブル》』さ」とデュパンはシャンフォオル(11)の言葉を引用して答えた。「いかにも数学者は、君のいま言ったその世間一般の誤謬をひろめるのに全力を尽してきたが、それは真理としてひろまっていたとしても、やっぱりりっぱな誤謬だよ。たとえば、彼らはこんなことを用いてはもったいないような技巧をもって、『分析』という言葉を代数学に適用させてしまった。このごまかしの元祖はフランス人だよ。だが、もし言葉というものが少しでも重要なものであるなら――つまり、言葉というものが事がらに適用されることによってなんらかの価値を生むものであるならだね――『分析』が『代数学』を意味しないことは、ラテン語で“ambitus”が‘ambition’を意味せず(12)、“religio”が‘religion’を意味せず(13)、あるいはまた“homines honesti”が‘honorable men’を意味しない(14)くらいの程度なんだ」
「君はいまパリの代数学者たちを相手に喧嘩《けんか》してるんだね。だが、まあ話をつづけたまえ」
「僕は、絶対的に論理的な形式以外の、あらゆる特殊の形式でなされる推理の効力に、したがってまたその価値に、反対する。とりわけ、数学的の研究によって引き出された推理に、反対する。数学は形式と数量との科学であって、数学的の推論は形式と数量との観察に適用された論理にすぎない。純粋[#「純粋」に傍点]代数学と言われているものの真理でさえ、それが絶対的の、普遍的の、真理であると想像するところに、大きな誤謬があるんだよ。そしてこの誤謬は実にひどいものなので、それが広く一般に信ぜられているのには僕もびっくりするね。数学の公理は普遍的な真理の公理ではない[#「ない」に傍点]のだ。関係[#「関係」に傍点]――形式と数量との関係――について真であることも、たとえば倫理学などに関しては、しばしば非常にまちがったものであることがある。倫理学では、部分の総和は全体に等しいということはたいがい真ではない[#「ない」に傍点]。化学においてもやはりその公理は駄目だ。動機の考究にしたってもそうだよ。なぜかと言えば、ある与えられた価値を持つ二つの動機は、それを合わせても、必ずしもその個々の和に等しい価値にはならないからね。このほかにも、まだ関係[#「関係」に傍点]の範囲内でだけ真理であるにすぎない数学的真理がたくさんある。しかし数学者は習慣上、彼の限定された真理[#「限定された真理」に傍点]から、まるでそれが絶対的になににでも適用されるものであるかのように、論ずるのだ。――そして世間も実際そうだと想像しているんだがね。ブライアント(15)が、あのたいへん該博な『神話学』のなかで、『だれも異教徒の寓話《ぐうわ》を信じはしないが、それでいて、我々はいつもうっかり、それらの寓話を実在するものと思って、それらから推論をする』と言っているのは、それに似た誤謬の源を言っているのさ。ところが、かの代数学者たちは異教徒そのものなんで、彼らはその『異教徒の寓話』を信じている[#「いる」に傍点]のだ。そして、彼らがその推論をするのは、ついうっかりして忘れてやるよりも、わけのわからぬ頭の悪さからやるんだからな。要するにだね、ただの数学者で等根以外のことで信用できる人、あるいは x2[#「2」は上付き小文字]+px が絶対的にかつ無条件にqに等しいということをひそかに自分の信条としていない人には、僕はいままでお目にかかったことがないよ。まあ、ためしに、そういう紳士方の一人に、x2[#「2」は上付き小文字]+px が必ずしもqに等しくない[#「ない」に傍点]場合もありうると思う、と言ってやってご覧なさい。そして君の言おうとしていることを相手にわからせたら、できるだけさっさとその男の手のとどかないところへ逃げたまえ、きっと彼は君をはり倒そうとするだろうからね」
 彼の最後の言葉を聞いて私がただ笑っていると、彼は話をつづけた。「僕の言おうとするのは、もしあの大臣が数学者であるだけだったら、総監はこの小切手を僕にくれる必要がなかったろう、ということなんだ。しかし僕は彼が数学者でありかつ詩人であることを知っていたので、僕の物差を、彼の周囲の事情を考えて、彼の才能に適合させたのだ。僕はまた廷臣としての、また大胆な陰謀家《アントリガン》としての彼をも知っていた。そういう人間が警察の普通のやり方を知らないはずはないと僕は考えた。彼は自分が待ち伏せされることを予想しないはずがなかったろう。――そして事実は彼がそれを予想したことを示している。彼は自分の屋敷が秘密に調べられることを予知したにちがいない、と僕は思った。彼がちょいちょい夜家をあけることを、総監は自分の成功を助けるものだと思って大いに喜んだが、僕はただそれを、警察に十分に捜索させる機会を与え、そうしてそれだけ早く彼らに、G――が事実とうとう到達したあの確信――手紙が屋敷の内にないのだという確信を――与えようとする策略《リュウズ》だと考えた。それからまた、僕がさっきちょっと骨を折って君に詳しく話した、あの隠された品物を捜す場合にとる、警察の一本調子な方針についてのあらゆる考えだね、――ああいう考えはみんな必ず大臣の心に浮んだろう、と僕は感じた。そういうことを考えると、彼はどうしても否応なしに普通の隅っこ[#「隅っこ」に傍点]の隠し場所などはいっさい眼もくれなかったにちがいない、あの男[#「あの男」に傍点]が、自分の邸のいちばん入り組んだ、引っこんだ隅っこでも、総監の眼や、探針や、錐や、拡大鏡にとっては、ごく普通の戸棚同様にあけっ放しのものであることを知らないほど、愚鈍であるはずがない、と僕は考えた。結局、僕は、彼がたとえ熟慮の末に選んだのではなくとも、当然の成行きとして、単純[#「単純」に傍点]な手段をとったにちがいない、ということを悟ったのだよ。君は、我々が最初に総監と会ったとき、この事件がそんなに彼を悩ませるのは、それがきわめて[#「きわめて」に傍点]わかりきっているためかもしれんと僕が言ったら、総監がやけに笑いこけたことを、たぶん覚えているだろう」
「うん、たいへんなご機嫌だったことをよく覚えているよ。あんまり笑うので、ひきつけやしないかと僕はほんとうに思ったものだ」と私は言った。
「物質界には」とデュパンは語をつづけた。「非物質界と非常によく類似したことがたくさんある。だから、隠喩《いんゆ》やあるいは直喩が叙述を修飾するとともに、議論を強めることができるという修辞上の独断が、いくらか真理らしく見えるのだ。たとえば惰性力《ウィース・イネルティアエ》の法則は物理学でも形而上《けいじじょう》学でも同一であるらしい。物理学で、大きい物体を動かすのは小さい物体を動かすよりも困難で、それに伴う運動量《モーメントゥム》はその困難に比例するものであるが、これは形而上学で、能力の大きい知能は劣等な知能よりもその動作において力があり、堅実であり、重大な結果を生ずるけれども、またそれよりも動かしにくく、動きだしても最初の数歩のうちはそれよりも厄介で、ためらっているのと同様なのだ。もう一つ例を挙げよう。往来の商店の看板のなかでどんなのがいちばん注意をひくかということを、君はいつか気をつけたことがあるかい?」
「そんなことは考えてみたこともないね」と私は言った。
「地図の上でやる字捜しの遊びがある」と彼はまた話しつづけた。「一方の者がまず――町の名でも、河の名でも、州の名でも、国の名でも――つまり、いろんな色のついたごちゃごちゃした地図の表面にあるどんな名でも言って――相手に捜させるんだ。この遊びの初心者はたいがい、いちばん細かい字で書いてある名を言って相手を困らせようとする。けれども玄人《くろうと》は、大きな字で地図の端から端までひろがっているような名を選ぶのだ。そういう文字は、あまり大きすぎる字で書いてある往来の看板や貼札《びら》と同じように、あまり明瞭すぎるためにかえって人眼につかない。そしてこの物理的の見落しは、知能が、あまりひどく、あまり明白にわかりきっていすぎる事がらを気づかずに過すという精神的の不注意と、ちょうど類似しているものなんだ。しかし、こういうことはあの総監の理解力のいくぶん上か、あるいは下のことであるらしいね。彼は、大臣があの手紙を誰にも気づかれないようにするいちばんよい方法として、それをみんなのすぐ鼻先に置きそうだとか、あるいは置いたかもしれないなどということは、一度だって考えたこともありゃしないのさ。
 だが僕は、D――の大胆な、思いきった、明敏な工夫力と、彼がその書類を有効に使おうと思うなら常にそれを手近に[#「手近に」に傍点]置かなければならないという事実と、それが総監のいつもの捜索の範囲内には隠されていないという、その決定的な証言とを考えれば考えるほど、――大臣がその手紙を隠すのに、ぜんぜんそれを隠そうとはしないという遠大な、賢明な方策をとったのだということがわかってきたのだ。
 てっきりそうにちがいないと思いながら、僕は緑色の眼鏡を用意して、ある晴れた朝、ひょっこり大臣の邸を訪問した。D――は在宅していて、例のとおり欠伸《あくび》をしたり、ぶらぶらしたり、のらくらしたりして、退屈《アンニュイ》でたまらないというふりをしていた。彼はおそらく現代での、もっともほんとうに精力的な人間だろう、――が、それは誰も見ていないときだけのことなんだ。
 彼にひけを取らないようにと、僕は自分の眼が弱くて困るといい、眼鏡をかけなければならないことをこぼして、表面は主人の話にだけ余念なく聞き入っているようなふりをしながら、その眼鏡の下から部屋じゅうを念入りにすっかり見まわした。
 僕は、彼の近くにある大きな書机《ライティング・テーブル》にとくに注意を向けた。その上には、一つ二つの楽器や何冊かの本とともに、いろいろな手紙とその他の書類とが乱雑にのせてあった。しかし、長いあいだ、よほど気をつけて調べたが、ここにはなにも特別の嫌疑をひくようなものがなかった。
 部屋をぐるぐる見まわしているうちに、とうとう僕の眼は、暖炉前飾《マントルピース》の真ん中辺のすぐ下のところにある真鍮《しんちゅう》の小さなツマミから、よごれた青いリボンでぶら下げてある、安ものの、見かけばかりのボール紙製の名刺差しにとまった。この名刺差しには三つ四つの仕切りがあって、五、六枚の名刺と、一通だけの手紙とが入っていた。手紙のほうはひどくよごれて皺《しわ》くちゃになっていた。それは真ん中から二つに裂きかけてあった。――ちょうど、つまらぬものだから初めはすっかり裂いてしまうつもりだったが、ふと思いかえしてよしたといったようにね。ひどく[#「ひどく」に傍点]目立ったD――の花押《かきはん》のある、大きな黒い封印があって、細かな女の筆蹟でD――大臣へ宛てたものだった。それは名刺差しの上の方の仕切りに、無頓着《むとんじゃく》に、またいかにもぞんざいらしく、突っこんであった。
 この手紙をちらりと見るや否や、僕はすぐにこれが自分の捜しているものだと決めてしまった。なるほど、見たところでは、これは総監があの詳しい説明書を読んでくれたものとは根本的に違っている。このほうは封印が大きくて、黒く、D――の花押があるし、あのほうは封印が小さくて、赤く、S――公爵家の紋章がある。この宛名は、大臣に宛てたもので、細かく女文字で書いてあるし、あのほうの表書は、さる王族に宛てたもので、とても太い、しっかりした字で書いてある。ただ大きさだけが符号しているのだ。ではあるが、こういう相違があまり極端に根本的であること[#「根本的であること」に傍点]。それのよごれていることや、紙のきたなくなって裂けていることがD――の真の[#「真の」に傍点]几帳面《きちょうめん》な習慣と矛盾しているし、また、その書類をつまらないもののように、見る者をだまそうとする計画だなと思いつかせること。――それと、置場所だが、書類がどの訪問客にもまる見えのあまりに人眼につくところにあったこと。したがって僕が前に到達したあの結論ときちんと一致しているということ。こういったことはたしかに、疑うつもりで来た者には非常に嫌疑を濃くするものだったんだね。
 僕はできるだけ訪問を長びかせて、きっと大臣の興味をひき、彼がやっきとなるにちがいない話題を持ち出して、彼とさかんに議論をつづけながら、少しも手紙から注意を放さなかった。そうして調べているあいだに、その外観や、名刺差しのなかの入れぐあいなどを僕は暗記した。そしてとうとう一つの発見をしたが、それは僕がいだきそうなどんな小さな疑いでも消してしまうものだった。手紙の縁をよく見ていると、それが必要以上にこすれて[#「こすれて」に傍点]いることがわかったのだ。それは、堅い紙がいったん折り曲げられて紙折り箆《へら》で押えられ、そのもと折られた同じ折目のところから反対に折り返されたときにできる折れぐあい[#「ぐあい」に傍点]なんだよ。これを発見すれば十分だった。僕には、その手紙が手袋みたいに裏返しにされ、ふたたび宛名が書かれ、封印がしなおされたことは明らかだった。僕は大臣にさよならを言って、金製の嗅煙草《かぎたばこ》入れをテーブルの上に置いたまま、すぐ帰ってきた。
 翌朝、僕はその嗅煙草入れを取りに行って、前日の話をまた熱心に始めた。しかし、そうしているうちに邸の窓のすぐ下のところで、ピストルの音のような大きな音が聞え、つづいて恐ろしい悲鳴と、群集の叫び声とが聞えてきた。D――は窓の方へ駆けより、それを押し開いて、外を眺めた。そのあいだに、僕はあの名刺差しのところへ歩みより、手紙を取って、自分のポケットのなかへ入れ、そしてあとには、(外側だけは)同じようにしたにせ手紙を、かわりに入れておいた。それは僕が家《うち》で念入りに用意してきていたものなんだ、――パンでこさえた封印で造作もなくD――の花押をまねてね。
 往来の騒ぎは、銃を持った男の気違いじみた挙動から起ったものだった。彼は女子供の大勢いる真ん中でそいつを発射したのだ。しかし弾《たま》がこめてないことがわかり、狂人か酔っ払いだと思われて、行くままにされた。その男が行ってしまうと、D――は窓ぎわから戻ってきたが、僕は自分の目的のものを手に入れるとすぐ彼のあとを追ってそこへ行っていたのだ。それから間もなく僕は彼と別れてきた。そのにせ狂人は僕が雇った男さ」
「しかし君がその手紙のかわりを置いてきたのはどんな目的だったのかね?」と私は尋ねた。「最初に訪ねて行ったとき、公然とそいつを取り返して帰ったほうがよくはなかったかね?」
「D――は」デュパンが答えた。「向う見ずな男だ。また剛胆な男だ。それに彼の邸には、彼のために身命をささげた従者たちもいる。君の言うような無鉄砲なまねをやろうものなら、僕は生きて大臣のところから出ることができなかったかもしれん。パリの人たちはそれきり僕の噂《うわさ》を聞かなくなったかもしれないぜ。しかし、そういう事がらとは別に、僕には一つの目的があったのさ。僕の政治上の贔屓《ひいき》は君もご承知のとおりだ。この事件では、僕は例の貴婦人の一党員として行動するのだ。十八カ月のあいだ、大臣は彼女を自分の権力にしたがわせてきた。今度は彼女のほうが彼をその権力にしたがわせるんだ。――なぜかと言うと、彼は手紙が自分の手にないことに気がつかないので、相変らずあるようなつもりで無理なことをやるだろうからね。こうして必ず彼はたちまち政治的破滅に陥ってしまうだろう。彼の没落は急激でもあるし、また見苦しくもあるだろうよ。あの facilis descensus Averni「地獄に降るは易し(16)」ということを話すのはたいへんけっこうだが、なにに登るのでも、カタラアニ(17)が歌の歌い方について言ったように、下るよりも上るほうがずっとやさしいのだ。現在の場合では、僕は降ってゆく者にはなんの同情も――少なくともなんの憐憫《れんびん》も――持っていない。あの男はかの monstrum horrendum(18) だ。破廉恥な天才だ。だが、僕は、あの男が総監のいわゆる『さるお方』なる婦人に裏をかかれて、僕が名刺差しのなかへ入れてきた手紙をあけてみなければならなくなったとき、彼がどう思うかということを、はっきり知りたくてたまらないね」
「どうして? 君はなにか変ったものでもそのなかへ入れてきたのかい?」
「なあに、――なかを白紙のままにしておくのはあんまりよくないだろうと思ったのさ、――そいつあ礼を失するだろうからな。D――は以前ウィンナで僕にひどい仕打ちをしたことがある。それに対して僕はごく機嫌よく、この怨《うら》みは忘れないぞと言ってやった。だから、彼も自分に一杯食わせた人間が誰だか知りたく思うに決っているだろうから、手がかりを与えないのはかわいそうだと僕は考えたんだ。彼は僕の筆蹟をよく知っている。で、僕はただ白紙の真ん中にこう書いておいたよ、――

‘――Un dessein si funeste,
   S’il n’est digne d’〔Atre’e〕, est digne de Thyeste.’
「――かかる痛ましき企みは、
   よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ(19)」
とね。これはクレビヨン(20)の『アトレ』のなかにある文句なんだ」


(1) Lucius 〔Annae&us〕 Seneca(前四ごろ―六五)――有名なローマの哲学者。
(2) この警視総監G――氏は前の『モルグ街の殺人事件』にも『マリー・ロジェエの怪事件』にもちょっと出ているが、ボードレールは、ポーは“M. Gisquet”のことを考えていたにちがいないと言っている。「ジスケエ氏」というのは Henri Joseph Gispuet(一七九二―一八六六)のことで、この作の書かれる十年ほど前まで、パリの警視総監をしていた男である。もっとも、似ているのは頭文字と、警視総監であったということだけである。
(3) 一インチの十二分の一。
(4) John Abernethy(一七六四―一八三一)――イギリスの医者。解剖学者であり生理学者であったがとくに、その奇矯な人格をもって知られていた。
(5) Procrustes――古代ギリシャの伝説のアッティカの強盗で、人を捕えたたびごとに鉄の寝床に寝かせ、その身長が寝台より長いときはその余った部分を斬り縮め、短かければ引き延ばして同じ長さにして殺したと言い伝えられている。
(6) 〔Franc,ois〕 la Rochefoucauld(一六一三―八〇)――“Maximes”の筆者としてよく知られているフランスの著作家。
(7) Jean de la 〔Bruye
re〕(一六四五―九六)――フランスの著作家。ハリスン版やその他にはこの名が La Bougive となっているが、イングラム版、ステッドマン・ウッドベリー版、ボードレール本には La 〔Bruyere〕 となっている。
(8) Niccolo Machiavelli(一四六九―一五二七)――イタリアの政治家、著作家。
(9) Tommaso Campanella(一五六八―一六三九)――イタリアの僧侶、哲学者。
(10) non distributio medii――論理学上の術語で、三段論法において、媒辞《ばいじ》が両方の前提ともに不周延である誤謬《ごびゅう》をいう。「すべての馬鹿は詩人である(大前提)。彼は詩人である(小前提)。ゆえに彼は馬鹿である(結論)」というこの総監の三段論法において、「馬鹿」は大名辞であり、「彼」は小名辞であり、「詩人」は媒辞(中名辞)である。媒辞は、大前提と小前提との関係を媒介するものであるから、少なくとも一度は周延(拡充)されていなければならない。すなわちその概念の全体の範囲にわたっての主張でなければならない。しかしこの論法においては「詩人」という媒辞はどちらの前提でも周延されていない。すなわち、単にその一部分のみについて主張されたにすぎない。ゆえにこの結論は誤っている。こういう誤りを、論理学では媒辞(中名辞)不周延(不拡充)の誤謬という。
(11) Nicholas Chamfort(一七四一―九四)――フランスの文人。箴言《しんげん》、警句の筆者として知られていた。
(12) ラテン語の“ambitus”は「投票を依頼するために走りまわること」、「官職を得るために奔走すること」の意味であって、それから出た英語の“ambition”(野心)とは少し意味が違う。
(13) ラテン語の“religio”は「注意深いこと」、「律義」、「几帳面」というような意味で、それから出た“religion”(宗教)を意味しない。
(14) “homines honesti”は「有名な人々」の意味で、“honorable men”(立派な人々)を意味しない。
(15) Jacob Bryant(一七一五―一八〇四)――イギリスの考古学者“A New System or an Analysis of Ancient Mythology”の著がある。
(16) 「地獄に降るは易し」。――ヴェルギリウスの“〔AE&neis〕”第六巻一二六行。
(17) Angelica Catalani(一七八〇?―一八四九)――イタリアの有名なソプラノの歌手。
(18) 「恐ろしき怪物」。――ヴェルギリウスの“〔AE&neis〕”第三巻六五八行。
(19) 「――かかる痛ましき企みは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ」――クレビヨンの悲劇“〔Atre’e〕 et Thyeste”第五幕第四場。(アトレとティエストとの兄弟の話はギリシャの残忍な伝説であって、ティエストはアトレの妻を誘惑し、アトレはその復讐《ふくしゅう》のためにいつわって和解の宴を張り、ティエストを招き、ティエストの三人の子を殺してその肉を父に食わせたという)
(20) Prosper Jolyot de 〔Cre’billon〕(一六七四―一七六二)――フランスの悲劇詩人。“〔Atre’e〕 et Thyeste”はその一七〇七年の作である。
[#ここで字下げ終わり]


底本:「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1986(昭和61)年10月15日59刷
※(1)~(20)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。また数字は縦中横になっています。
入力:鈴木厚司
校正:小酒井博士
2004年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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佐々木直次郎

早すぎる埋葬 THE PREMATURE BURIAL エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe——-佐々木直次郎訳

 興味の点はまったく人を夢中にさせるものであるが、普通の小説にするのにはあまりに恐ろしすぎる、というような題材がある。単なるロマンティシストは、人の気を悪くさせたり胸を悪くさせたりしたくないなら、これらの題材を避けなければならない。それらは事実の厳粛と尊厳とによって是認され支持されるときにだけ正しく取り扱われるのである。たとえば、我々はベレジナ河越え(1)や、リスボンの地震(2)や、ロンドンの大疫病(3)や、セント・バーソロミューの虐殺(4)や、あるいはカルカッタの牢獄《ろうごく》における百二十三人の俘虜《ふりょ》の窒息死(5)などの記事を読むとき、もっとも強烈な「快苦感」に戦慄《せんりつ》する。しかし、これらの記事が人を感動させるのは、事実であり――現実であり――歴史であるのだ。虚構の話としては、我々は単純な嫌悪の情をもってそれらを見るであろう。
 私は記録に残っている比較的有名で壮大な惨禍の四、五を挙げたのであるが、これらがこんなに強烈に人の心に感動を与えるのは、その惨禍の性質によるのと同様に、その大きさによるのである。私がここに人類の災害の長い不気味な目録《カタログ》のなかから、これらの広大な一般的な災厄のどれよりも本質的な苦痛に満ちている、多くの個人的の実例を選びだしてもいいことは読者に告げるまでもないであろう。実際、真の悲惨――どたんばの苦悩――は個人的のものであり、一般的のものではない。戦慄すべき極度の苦痛が単なる個人によって耐えぬかれ、決して集団の人間によってではないこと――このことにたいして我々は慈悲深い神に感謝しよう!
 まだ生きているあいだに埋葬されたということは、疑いもなくかつてこの世の人間の運命の上に落ちてきた、これらの極度の苦痛のなかでも、もっとも恐ろしいものである。しかもそれがいままでにしばしば、たいへんしばしば、起ったということは、ものを考える人にはほとんど否定しがたいことであろう。生と死とを分つ境界はどう見ても影のような漠然としたものである。どこで生が終りどこで死が始まるのか、ということは誰が言えよう? 我々は、生活力のすべての外見的の機能がまったく停止し、しかもその停止は正しく言えば単に中止にすぎないような、病気のあることを知っている。それはただこの理解しがたい機関が一時的に休止したにすぎない。ある期間がたてば、なにか眼に見えない神秘的な力がふたたび魔術の歯車を動かし、それから魔法の車輪を動かす。銀《しろがね》の紐《ひも》は永久に解けたのではなく、また金《こがね》の盞《さら》は償いがたいほど砕けたのでもない(6)のだ。だがいったいそのあいだ霊魂はどこにあったのか?
 しかし、こういう結果を生まなければならないというような――生活力の中止ということが周知のように起ることは、当然、早すぎる埋葬ということをときどきひき起すにちがいないというような――先験的《ア・プリオリ》の必然的結論は別として、我々はこのような埋葬が実際にたいへん多く、いままでに起ったことを証明できる医学上の、また普通の、経験の直接の証拠を持っているのである。もし必要ならば私は十分信ずべき例をすぐに百も挙げることができるくらいである。そのたいへん有名な、そして読者のなかのある人々の記憶にはまだ新たな一件が、あまり古くはないころ、ボルティモアの付近の市に起り、痛ましい強烈な驚きを広く世人に与えたことがある。著名の弁護士で国会議員である名望ある一市民の妻が、とつぜん不思議な病気にかかり、その病気には医師もすっかり悩まされたのであった。彼女は非常に苦しんでから死んだ、あるいは死んだと思われた。実際、誰も彼女がほんとうには死ななかったのではなかろうかと疑ってみなかったし、疑うべき理由もなかった。彼女はあらゆる普通の死の外観をすべて示していた。顔は普通のとおりしまって落ちくぼんだ輪郭になった。唇も大理石のように蒼白《あおじろ》かった。眼は光沢がなかった。温みはもう少しもなかった。脈搏《みゃくはく》はやんでいた。三日間その身体は埋葬されずに保存されたが、そのあいだに石のように硬くなった。手短かに言えば、死体が急速に腐爛《ふらん》するように想像されたので、葬儀は急いで行われたのであった。
 夫人はその一家の墓舎に納められた。その墓舎はそれから三年間開かれなかったが、三年目の終りに一つの石棺を入れるために開かれた。――ところが、おお! なんという恐ろしい衝撃《ショック》が、自らその扉をさっと開いた夫を待ち受けていたろう! 門が外側へまわったとたん、なにか白装束のものが彼の腕にがらがらと落ちかかってきたのだ。それはまだ腐らない屍衣《きょうかたびら》を着た妻の骸骨であった。
 詳しく調べた結果、彼女が埋葬後二日以内に生き返ったということ――彼女が棺のなかでもがいたので棺が棚から床へ落ちてこわれ、そのなかから脱けでることができたということが明らかになった。墓のなかには偶然に油のいっぱい入ったランプが残されてあったが、それは空《から》になっていた。だがそれは蒸発してなくなったのだったかもしれぬ。この恐ろしい室へ降りてゆく階段のいちばん上に、棺の大きな破片があった。この破片で彼女は鉄の扉を叩いて、誰かの注意をひこうと努めたものらしかった。そうしているうちに単に恐怖の念から大かた気絶したのか、あるいは死んだのであろう。そして倒れるときに、彼女の屍衣がなにか内側に突き出ていた鉄細工に絡まった。こうして彼女はそのままになり、立ったまま腐ったのである。
 一八一〇年に生きながらの埋葬という事件がフランスで起ったが、その詳しい事情は、事実は真に小説よりも奇なり、というあの断言を保証するに役立つものである。この話の女主人公《ヒロイン》は有名な家の、富裕な、またたいへん美しい容姿を持った若い娘、ヴィクトリーヌ・ラフルカード嬢であった。彼女の多くの求婚者のなかにパリの貧しい文士か雑誌記者のジュリアン・ボシュエがいた。彼の才能と人好きのする性質とは彼女の注意をひき、また実際に彼は愛されていたようにも思われた。だが彼女の家柄にたいする矜持《きょうじ》はとうとう彼女に彼をすてさせて、かなり有名な銀行家で外交官であるルネル氏という男と結婚することを決心させたのであった。しかし結婚後、この紳士は彼女を顧みず、そのうえ明らかに虐待さえしたらしい。彼とともに不幸な数年を過したのち、彼女は死んだ、――少なくとも彼女の状態はそれを見たすべての人々を欺くくらい死によく似ていた。彼女は埋葬された、――墓舎のなかではなく――彼女の生れた村の普通の墓に。絶望に満たされ、しかもなお深い愛慕の追憶に燃え立ちながらボシュエは、死体を墓から発掘してその豊かな髪の毛を手に入れようというロマンティックな望みをもって、都からはるばるその村のある遠い地方まで旅をした。彼は墓にたどりついた。真夜中に棺を掘り出し、それを開いて、まさに髪の毛を切ろうとしているときに、恋人の眼が開いたのに気づいた。実際夫人は生きながら葬られていたのであった。生気がまったくなくなっていたのではなかった。そして彼女は愛人の抱擁によって、死とまちがえられた昏睡《こんすい》状態から呼び覚まされたのである。彼は狂気のようになって村の自分の宿へまで彼女を背負って帰った。それからかなりの医学上の知識から思いついたある効き目のある気付け薬を用いた。とうとう彼女は生き返った。彼女は自分を救ってくれた者が誰であるかを知った。少しずつもとの健康をすっかり回復するまで彼と一緒にいた。彼女の女心も金剛石のように堅くはなく、今度の愛の教訓はその心をやわらげるに十分であった。彼女はその心をボシュエに与えた。そしてもう夫のもとへは戻らずに、生き返ったことを隠して愛人とともに、アメリカへ逃げた。二十年ののち二人は、歳月が夫人の姿をたいそう変えてしまったので、もう彼女の友人でも気づくことはあるまいと信じてフランスへ帰った。しかしこれはまちがっていた。というのはひと目見るとルネル氏は意外にも彼女を認めて彼の妻となることを要求したからである。この要求を彼女は拒絶した。そして法廷も彼女の拒絶を支持して、その特殊の事情は、こうした長い年月の経過とともに、正義上ばかりでなく法律上でも夫としての権利を消滅させたものである、と判決を下したのであった。
 ライプツィッヒの『外科医報』――誰かアメリカの出版者が翻訳して出版してもよさそうな高い権威と価値とを持っている雑誌――が近ごろの号に同じこの性質のひどく悲惨な出来事を掲載している。
 巨大な体躯《たいく》とたくましい健康とを持った一砲兵士官が、悍馬《かんば》から振りおとされて頭部に重傷を負い、すぐ人事不省に陥った。頭蓋骨《ずがいこつ》が少し破砕されたのであるが、べつにさし迫った危険もなかった。穿顱《せんろ》術(7)は首尾よくなし遂げられた。刺※[#「月+各」、第3水準1-90-45]《しらく》法(8)もされ、そのほか多くの普通の救助法も試みられた。しかし彼はだんだんにますます望みのない昏睡状態に陥って、とうとう死んでしまったと考えられた。天気は暖かであった。そして彼は無作法にもあわただしく公共墓地に埋葬された。葬式は木曜日に行われたが、その次の日曜日、墓地の内はいつものとおり墓参者でたいへん混雑していた。ところが正午ごろ一人の農夫が、その士官の墓の上に腰を下ろしていると、ちょうど下で誰かがもがいてでもいるように地面が揺れるのをはっきりと感じた、と言いたてたので、たいへんな騒ぎが起った。初めは誰もほとんどこの男の言うことを気にかけなかったが、彼のあからさまな恐怖と、その話をしきりに言い張る頑固なしつこさとは、とうとう自然に人々の心を動かしたのであった。鋤《すき》が急いで持ちこまれた。墓は気の毒なほど浅かったので、二、三分でそのなかの士官の頭が見えるくらいに掘り出された。彼はそのとき外見上は死んでいるように見えたが、棺のなかにほとんど真っすぐになって坐り、棺の蓋は彼がはげしくもがいたためにいくらか持ち上げられていた。
 彼はすぐに最寄りの病院に運ばれたが、そこで仮死状態ではあるがまだ生きていると断定された。数時間ののち彼は生き返って、知人の顔を見分けることができた。そしてきれぎれの言葉で墓のなかでの苦痛を語った。
 彼の言うところによると、彼が埋められて無感覚になってしまうまでに一時間以上も生存を意識していたことが明らかであった。墓は不注意に、また無造作に土で埋められて孔が非常に多かったので、必然的に空気がいくらか入ることができた。彼は頭上に群集の足音を聞き、いちいち自分のいることを知らせようと努めた。彼の言うところでは、深い眠りから彼をよび覚ましたらしいのは、墓地のなかの雑踏であったが、目が覚めるとすぐ、彼には自分の恐ろしい位置が十分きっぱりとわかったのであった。
 記載されるところによると、この患者は経過がよくて間もなく全快しそうに思われたが、とうとう藪《やぶ》医術の犠牲になってしまった。彼は流電池をかけられたのだが、ときどき起るあの精神昏迷の発作が起きて、とつぜん絶息したのである。
 流電池のことを言えば、私は有名で、またたいへん異常なよい例を思い出す。その流電池が、二日間も埋められていたロンドンの若い一弁護士を生き返らせた事件であって、一八三一年に起り、その当時非常な評判となり、いたる所で人々の話題となったものである。
 患者エドワード・ステープルトン氏はチフス熱のために外見上死んだのであるが、その病気は、医師たちの好奇心をそそるような異常な徴候をあらわしたのであった。彼がこうして外見上死ぬと、彼の親戚は死体解剖の許可を請われたが、彼らはそれを拒絶した。そのように拒絶された場合にはよくあるように、医者たちはこっそりと死体を墓から掘り出してゆっくり解剖しようと決心した。ロンドンのどこにでもたくさんいる死体盗人団(9)のあるものによってたやすく手配されて、葬儀がすんでから三日目の夜に、その死体だと思われていた体は八フィートの深さの墓から掘り出されて、ある私立病院の手術室に置かれた。
 腹部に実際ある程度の切開をしたときに、その体が生き生きして腐敗していない様子なので、電池をかけることを思いつかせたのであった。つぎつぎに幾回となく実験がつづけられ、普通のとおりの結果があらわれたが、ただ一、二度起った痙攣《けいれん》的な動作のなかに普通以上の生気があったほかには、どんな点でもべつに大して変ったことはなかった。夜が更けた。そして間もなく明け方になろうとしていたので、とうとうすぐに解剖にとりかかったほうがいいということになった。しかし一人の研究生がとくに自説を試してみたいと思い、胸部の筋肉の一つに電池をかけることを主張した。そこでちょっとした切りこみをこさえ、電線を急いで接《つな》いだ。すると患者はたちまち、あわただしいが少しも痙攣的ではない動作で手術台から立ち上がり、床の中央へ歩きだして、ちょっとのあいだ自分の周囲を不安そうに眺めまわしてから――しゃべった。なんと言ったのかわからなかった。がたしかに言葉であった。音節ははっきりしていた。しゃべってから、彼はばったりと床の上に倒れた。
 しばらくのあいだ、すべての人々は恐怖のために麻痺《まひ》したようになった、――が急ぎの場合でそうもしていられないので間もなくみんなは気をとりなおした。ステープルトン氏は気絶してはいるが生きているのだ、ということがわかった。エーテルを吸わせると彼は生き返り、それからさっさと健康を回復して、間もなく友人たちのあいだへ戻った、――彼らには彼の生き返ったいっさいの事情は病気の再発の懸念がなくなるまで知らされなかったが。彼らの驚き――彼らのうきうきの驚喜――はたやすく想像できよう。
 しかしこの出来事のもっとも戦慄すべき特異性は、ステープルトン氏自身が言っていることのなかにあるのである。彼は、どんなときでもまったく無感覚になったことはない、――医師に死んだ[#「死んだ」に傍点]と言われた瞬間から病院の床の上に気絶して倒れた瞬間にいたるまで、ぼんやり、雑然とだが、自分の身に起ったことはみな知っていた、と言っている。彼が解剖室という場所に気づいたときに、その窮境にあって一所懸命に言おうとしたあの意味のわからなかった言葉というのは、「私は生きているのだ」という言葉であったのだ。
 このような記録をたくさん並べたてるのはたやすいことであろう、――が私はいまそんなことはしまい、――早すぎる埋葬が実際に起るものだという事実を立証するような必要はべつにないからである。そのことの性質から言って、たいへん稀《まれ》にしか我々の力ではその早すぎる埋葬を見つけることができないことを考えるならば、それが我々に知られることなく頻繁に[#「頻繁に」に傍点]起るかもしれないということは認めないわけにはゆかない。実際、なんらかの目的で墓地がどれだけか掘り返されるときに、骸骨がこのいちばん恐ろしい疑惑を思いつかせるような姿勢で見出されないことはほとんどないのである。
 この疑惑は恐ろしい、――がその運命となるともっと恐ろしい! 死ぬ前の埋葬ということほど、このうえもない肉体と精神との苦痛を思い出させるのにまったく適した事件が他にない[#「ない」に傍点]ということは、なんのためらいもなく断言してよかろう。肺臓の堪えがたい圧迫――湿った土の息づまるような臭気――体にぴったりとまつわりつく屍衣《きょうかたびら》――狭い棺のかたい抱擁――絶対の夜の暗黒――圧しかぶさる海のような沈黙――眼には見えないが触知することのできる征服者|蛆虫《うじむし》の出現――このようなことと、また頭上には空気や草があるという考え、我々の運命を知りさえしたら救ってくれるために飛んでくるであろうところの親しい友人たちの思い出、しかし彼らにどうしても[#「どうしても」に傍点]この運命を知らすことができぬ――我々の望みのない運命はほんとうに死んだ人間の運命と少しも異ならない、という意識、――このような考えは、まだ鼓動している心臓に、もっとも大胆な想像力でもひるむにちがいないような驚くべき耐えがたい恐怖を与えるであろう。我々は地上ではこんなにも苦しいことを知らない、――地下の地獄のなかでさえこの半分の恐ろしさをも想像することができない。そして、このようにこの題目に関する物語はみな、実に深い興味を持っている。しかもその興味はその題目自身の神聖な畏怖《いふ》をとおしてたいへん当然に、またたいへん特別に、物語られる事がらが真実[#「真実」に傍点]であるという我々の確信から起るものである。ここに私が語ろうとすることも、私自身の実際の知識――私自身の確実な個人的な経験による話なのである。
 数年のあいだ私は奇妙な病気に悩まされていたが、医者はその病気を、それ以上はっきりした病名がないために類癇《るいかん》(10)と呼ぶことにしている。この病気の直接的なまた素因的な原因や、また実際の症状さえもまだはっきりわからないのであるが、その外見上の明らかな性質は十分に了解されているのである。そのさまざまな変化は主として病気の程度によるものらしい。ときに患者はたった一日か、またはもっと短いあいだだけ、一種のひどい昏睡状態に陥る。彼は無感覚になり、外部的には少しも動かぬ。が心臓の鼓動はまだかすかながら知覚される。温みもいくらかは残っている。かすかな血色が頬のまん中あたりに漂っている。そして唇のところへ鏡をあててみると、肺臓ののろい、不規則な、頼りない運動を知ることができる。それからまた昏睡状態が幾週間も――幾月さえもつづく。そのあいだは、もっとも精密な検査やもっとも厳重な医学上の試験も、その患者の状態と我々の絶対的の死と考えるものとのあいだに、なんらの外部的の区別を立てることができない。彼が早すぎる埋葬をまぬかれるのはたいてい必ず、ただもと類癇にかかったことがあるのを近親の者たちが知っていること、それにつづいて起る類癇ではなかろうかという疑い、とりわけ腐敗の様子の見えないこと、などによってである。病気の昂進《こうしん》するのは幸いにもごく少しずつである。最初の徴候は目立つものではあるが、死と紛らわしくはない。発作はだんだんにはっきりしてきて、一回ごとに前よりも長時間つづく。これが埋葬をまぬかれる主な理由なのである。しかしときどきあるように、最初[#「最初」に傍点]の発病が過激な性質のものである不幸な人々は、ほとんど不可避的に生きながら墓のなかへ入れられるのである。
 私自身の病症は主な点では医学書にしるされているものとべつに違っていなかった。ときどき、なんのはっきりした原因もなく、私は少しずつ半仮死あるいはなかば気絶の状態に陥った。そして苦痛もなく、動く力も、また厳密に言えば考える力もなく、ただ生きていることと、自分の病床を取りまいている人々のいることとをぼんやりと麻痺したように意識しながら、病気の危機がとつぜん過ぎ去って完全な感覚が戻ってくるまで、じっとそのままでいるのだった。またあるときは、急に猛烈におそわれた。胸が悪くなって、体がしびれ、ぞっと寒気《さむけ》がし、眼がくらみ、やがてすぐばったりと倒れる。それから数週間も、なにもかも空虚で、真っ黒で、ひっそりしていて、虚無が宇宙全体を占める。もうこれ以上のまったくの寂滅はありえない。しかし、このような急な病気から目覚めるのは、発作がとつぜんであったわりあいにぐずぐずしていた。ちょうど長いわびしい冬の夜じゅう、街をさまよい歩いている友もなく家もない乞食に夜が明けるように――そんなにのろのろと――そんなに疲れはてて――そんなに嬉しく、霊魂の光が私にふたたび戻ってくるのであった。
 しかしこの昏睡の病癖をべつにしては、私の健康は一般にいいように見えた。また私は自分が一つの大きな疾患にかかっているとはぜんぜん考えることができなかった、――ただ私の普通の睡眠[#「睡眠」に傍点]の特異性がもっとひどくなったものと考えられることをのぞいては。眠りから覚めるとき、私は決してすぐに意識を完全に取りもどすことができなくて、いつも何分間も非常な昏迷と混乱とのなかにとり残されるのであった。――そのあいだ一般の精神機能、ことに記憶が、絶対的中絶の状態にあった。
 私のいろいろ耐えしのんだことのなかで肉体的の苦痛は少しもなかったが、精神的の苦痛となると実に無限であった。私は死に関することばかりを考えた。「蛆虫と、墓と、碑銘」のことを口にした。死の幻想に夢中になって、早すぎる埋葬という考えが絶えず私の頭を支配した。このもの凄《すご》い虞《おそ》れが昼も夜も私を悩ました。昼はそのもの思いの呵責《かしゃく》がひどいものであったし――夜となればこのうえもなかった。恐ろしい暗黒が地上を蔽うと、ものを考えるたびの恐怖のために私は身震いした、――柩車《きゅうしゃ》の上の震える羽毛飾りのように身震いした。このうえ目を覚ましているわけにはゆかなくなると、眠らないでいようともがきながらやっと眠りに落ちた、――というのは、目が覚めたときに自分が墓のなかにいるかもしれないと考えて戦慄したからである。こうしてやっと眠りに落ちたとき、それはただ、一つの墓場の観念だけがその上に大きな暗黒の翼をひろげて飛びまわっている幻想の世界へ、すぐに跳びこむことにすぎなかった。
 このように夢のなかで私を苦しめた無数の陰鬱な影像のなかから、ここにただ一つの幻影を選び出してしるすことにしよう。たしか私はいつものよりももっと長く深い類癇の昏睡状態に陥っていたようであった。とつぜん、氷のように冷たい手が私の額《ひたい》にさわって、いらいらしたような早口の声が耳もとで「起きろ!」という言葉をささやいた。
 私はまっすぐに坐りなおした。まったくの真っ暗闇だった。私は自分を呼び起したものの姿を見ることができなかった。どんな場所に横たわっていたかということも、思い出せなかった。そのまま身動きもしないで一所懸命に考えをまとめようとしていると、その冷たい手が私の手首を強くつかんで怒りっぽく振り、そしてあの早口の声がもう一度言った。
「起きろ! 起きろと言っているじゃないか?」
「と言っていったいお前は誰だ?」と私は尋ねた。
「おれはいま住んでいるところでは名前なんぞないのだ」とその声は悲しげに答えた。「おれは昔は人間だった、がいまは悪霊だ。前は無慈悲だった、がいまは憐《あわ》れみぶかい。お前にはおれの震えているのがわかるだろう。おれの歯はしゃべるたびにがちがちいうが、これは夜の――果てしない夜の――寒さのためではないのだ。だが、この恐ろしさはたまらぬ。どうしてお前は[#「お前は」に傍点]静かに眠ってなどいられるのだ? おれはあの大きな苦痛の叫び声のためにじっとしていることもできない。このような有様はおれには堪えられぬ。立ち上がれ! おれと一緒に外の夜の世界へ来い。お前に墓を見せてやろう。これが痛ましい光景ではないのか? ――よく見ろ!」
 私は眼を見張った。するとその姿の見えないものは、なおも私の手首をつかみながら、全人類の墓をぱっと眼前に開いてくれた。その一つ一つの墓からかすかな腐朽の燐光《りんこう》が出ているので、私はずっと奥の方までも眺め、そこに屍衣を着た肉体が蛆虫とともに悲しい厳かな眠りに落ちているのを見ることができた。だが、ああ! ほんとうに眠っている者は、ぜんぜん眠っていない者よりも何百万も少なかった。そして力弱くもがいている者も少しはあった。悲しげな不安が満ちていた。数えきれないほどの穴の底からは、埋められている者の着物のさらさらと鳴る陰惨な音が洩れてきた。静かに眠っているように思われる者も多くは、もと埋葬されたときのきちんとした窮屈な姿勢をいくらかでも変えているのを私は見た。じっと眺めていると、例の声がまた私に話しかけた。
「これが――おお、これが惨めな有様ではないのか[#「ないのか」に傍点]?」しかし、私が答える言葉を考え出すこともできないうちに、そのものはつかんでいた手首をはなし、燐光は消え、墓はとつぜんはげしく閉ざされた。そしてそのなかからもう一度大勢で「これが――おお、神よ! これが惨めな有様ではないのか[#「ないのか」に傍点]?」という絶望の叫び声が起ってきたのであった。
 夜あらわれてくるこのような幻想は、その恐るべき力を目の覚めている時間にもひろげてきた。神経はすっかり衰弱して、私は絶え間ない恐怖の餌食《えじき》となった。馬に乗ることも、散歩することも、その他いっさいの家から離れなければならないような運動にふけることもためらった。実際、私に類癇の病癖のあることを知っている人々のところを離れては、もう自分の身を安心していることができなかった。いつもの発作を起したとき、ほんとうの状態が確かめられないうちに埋葬されはしないかということを恐れたからである。私はもっとも親しい友人たちの注意や誠実さえ疑った。類癇がいつもより長くつづいたときに、彼らが私をもう癒《なお》らないものと見なすような気になりはしないかと恐れた。そのうえもっと、ずいぶん彼らに厄介をかけたので、非常に長びいた病気にさえなれば、それを厄介払いをするのにちょうどいい口実と喜んで考えはしまいか、ということまでも恐れるようになった。彼らがどんなに真面目に約束をして私を安心させようとしても無駄だった。私は、もうこのうえ保存ができないというまでに腐朽がひどくならなければ、どんなことがあっても私を埋葬しない、というもっとも堅い誓いを彼らに強要した。それでもなお私の死の恐怖は、どんな理性にもしたがおうともしなかったし――またなんの慰安をも受けなかった。私はたいへん念の入った用心をいろいろと始めることにした。なによりもまず一家の墓窖《はかあな》を内側から造作なくあけることができるように作りかえた。墓のなかへずっと突き出ている長い槓杆《てこ》をちょっと押せば鉄の門がぱっと開くようにした。また空気や光線も自由に入るようにし、私の入ることになっている棺からすぐ届くところに食物と水とを入れるのに都合のよい容器も置いた。棺は暖かに柔かく褥《しとね》を張り、その蓋には墓窖の扉と同じ仕組みで、体をちょっと動かしただけでも自由に動くように工夫した発条《ばね》をつけた。なおこれらのほかに、墓の天井から大きなベルを下げて、その綱が棺の穴を通して死体の片手に結びつけられるようにした。ああ! しかし人間の運命にたいして用心などはなんの役に立とう? このように十分工夫した安全装置さえも、生きながらの埋葬という極度の苦痛から、その苦痛を受けるように運命を定められている惨めな人間を救い出すに足りないのだ!
 あるとき――前にもたびたびあったように――私はまったくの無意識から、最初の弱い漠然とした生存の意識へ浮び上がりかかっている自分に気がついた。ゆっくりと――亀の歩みのように――霊魂のほのかな灰色の曙《あけぼの》が近づいてきた。しびれたような不安。鈍い苦痛の無感覚の持続。なんの懸念もなく――希望もなく、――努力もない。次に長い間をおいてから、耳鳴りがする。それからもっと長い時間がたってから、手足のひりひり痛む感覚。次には楽しい静寂の果てしのないように思われる時間、そのあいだに目覚めかかる感情が思考力のなかへ入ろうともがく。次にまたしばらくのあいだ虚無のなかへ沈む。それからとつぜんの回復。やっと眼瞼《まぶた》がかすかに震え、たちまちぼんやりとはげしい恐怖のショックが電気のように走り、血が顳※[#「需+頁」、第3水準1-94-6]《こめかみ》から心臓へどきどきと流れる。そして初めて考えようとするはっきりした努力。それから初めて思い起そうとする努力。部分的の束《つか》の間《ま》の成功。それから記憶がいくらかその領域を回復して、ある程度まで自分の状態がわかる。自分が普通の眠りから覚めたのではないのを感ずる。類癇にかかっていたことを思い出す。そしてとうとう、まるで大海が押しよせてくるように、私のおののいている魂はあの無慈悲なおそれに圧倒される、――あのもの凄い、いつも私の心を占めている考えに。
 この想像に捉えられたのち数分間、私はじっとして動かずにいた。なぜか? 動くだけの勇気を奮い起すことができなかったのだ。私は骨を折って自分の運命をはっきり知ろうとは無理にしなかった、――しかし心にはたしかにそうだぞ[#「たしかにそうだぞ」に傍点]と私にささやくなにものかがあった。絶望――どんな他の惨めなことも決して起きないような絶望――だけが、だいぶ長くためらった末に、私に重い眼瞼をあけてみることを促した。とうとう眼を開いた。真っ暗――すべて真っ暗であった。私は発作が過ぎ去ったのを知った。病気の峠がずっと前に過ぎ去っていることを知った。私はもう視力の働きを完全に回復していることを知った、――それなのに真っ暗であった、――すべて真っ暗であった、――一条の光さえもない濃い真っ暗な永遠につづく夜であった。
 私は一所懸命に大声を出そうとした。すると唇と乾ききった舌とはそうしようとして痙攣的に一緒に動いた、――がなにか重い山がのしかかったように圧しつけられて、苦しい息をするたびに心臓とともにあえぎ震える空洞《うつろ》の肺臓からは、少しの声も出てこなかった。
 このように大きな声を出そうとして顎《あご》を動かしてみると、ちょうど死人がされているように顎が結わえられていることがわかった。また自分がなにか堅い物の上に横たわっているのを感じた。そして両側もなにかそれに似たものでぴったりと押しつけられていた。これまでは私は手も足も動かそうとはしなかった、――がこのとき、いままで手首を交差して長々とのばしていた両腕を荒々しく突き上げてみた。すると顔から六インチもない高さの、私の体の上にひろがっている固い木製のものにぶっつかった。私は自分がとうとう棺のなかに横たわっているのだということをもう疑うことができなかった。
 この無限の苦痛のなかへいまや希望の天使がやさしく訪れて来た、――というのは、あの前からの用意のことを思い出したからだ。私は身悶《みもだ》えし、蓋を押し開こうとして痙攣的な動作をした。蓋は動こうともしなかった。ベルの綱を捜して手首にさわってみた。それもなかった。そしてまた天使はもう永久に消え失せて、もっと苛酷な絶望が勝ち誇って君臨した。というのは、前にあれほど用心深く用意して張っておいた褥がないことに気がつかないわけにはゆかなかったからである。それにまたとつぜん湿った土の強い妙な匂いが私の鼻孔をおそってきた。結論はもう疑いない。私はあの墓窖のなかにいるのではない[#「のではない」に傍点]のだ。私は家を離れているあいだに――知らない人々のなかにいるあいだに――昏睡に陥ったのだ、――いつ、あるいはどうして、ということは思い出すことができないが、――そして彼らが私を犬のように埋めたのだ、――どこかの普通の棺のなかに入れて釘付《くぎづ》けにし――深く、深く、永久に、どこか普通の名もない墓のなかへ投げこんだのだ。
 この恐ろしい確信がこのように魂の底にまでしみこむと、私はもう一度大声で叫ぼうと努めた。するとこの二度目の努力は成功した。長い、気違いじみた、とぎれない悲鳴、または苦痛の叫び声が、地下の夜の領土じゅうに響きわたった。
「おうい! おうい、しっかりしろ!」と荒々しい声が答えた。
「いったいどうしやがったんだい?」と二番目の声が言った。
「そこから出て来い!」と三番目の声が言った。
「山猫みたいにそんなに唸《うな》りやがって、いったいどうしたっていうんだ?」と四番目の声が言った。そして私は、荒っぽい男の一団につかまえられて、しばらく無遠慮にゆすられた。彼らは私を眠りから覚ましてくれたのではない、――というのは、私は叫んだときにはもうちゃんと目が覚めていたのだから、――しかし彼らは私の記憶力をすっかり回復してくれたのであった。
 この出来事はヴァージニア州のリッチモンドの付近で起ったのである。一人の友人と一緒に、私は銃猟の旅をして、ジェームス河の堤に沿って数マイル下った。夜が近づいて、私たちは嵐におそわれた。庭土を積みこんだ小さな一本マストの帆船が河の流れに碇泊《ていはく》していたが、その船室が唯一の役に立つ避難所であった。私たちはそれを利用してその夜を船で過した。その船に二つしかない棚寝床《パアス》の一つに私は眠ったが、――六、七十トンの小さな帆船の棚寝床のことだから詳しく言うまでもあるまい。私の入ったのには寝具などはなにもなかった。幅はいちばん広いところで十八インチだった。その底と頭上の甲板との距離もちょうど同じほどであった。体をそのなかへ押しこむのに非常に骨が折れた。それにもかかわらず私はぐっすりと眠った。そして私の見たすべてのものは――というのはそれは夢でもなく夢魔でもなかったのだから――私の寝ていた場所の周囲の事情からと、――私の普段からの考えの偏《かたよ》っていたことからと、――前にもちょっと言ったように睡眠から覚めたのち長いあいだ我に返るのが、ことに記憶力を回復するのが、困難なことから、自然に起ったことであった。私を揺り動かしたのは、この帆船の船員と、その荷揚げをする人夫たちであった。その船の荷から土の匂いがしたのだ。顎のあたりに結わえてあったものというのは、いつものナイトキャップがないのでそのかわりに頭から巻きつけておいた絹のハンケチなのであった。
 しかし私の受けた苦痛は、そのときはたしかに実際に埋葬された苦痛とまったく同じものであった。その苦痛は恐ろしく――想像もつかぬほど、戦慄すべきものであった。しかし凶から吉が生れるようになった、というのは、その過度の苦痛が私の心に必然的の激変を起したからである。私の心は強くなり――落ちついてきた。私はどこへでもでた。活溌な運動もした。大空のひろびろとした空気を呼吸した。死よりもほかのことを考えるようになった。いろいろの医学書に手をふれないようになった。バッカン(11)の書物を焼きすてた。「夜の思い(12)」も――墓地に関する嘘話も――妖怪物語も――すべてそんなもの[#「すべてそんなもの」に傍点]は読まなくなった。要するに私は新たな人間になり、立派な男としての生活をするようになった。その記憶すべき夜から、私は永久に墓場の恐怖を忘れてしまった。それとともに類癇の病気も起らなくなった。あの墓場の恐怖は病気の結果であるよりも、むしろその原因であったのであろう。
 我々の悲しい人類の世界が、理性の冷静な眼にさえも、地獄の相を示すときがある。――しかし、人間の想像は、その地獄の洞窟を一つ一つ罰せられることなくして探るところのカラティス(13)のようなものではない。ああ! 墓場の恐怖のあのもの凄い幽霊らはまったく空想的なものと見なすことができないのだ。――しかしオグザス河(14)を下ってアフラシアブ(15)とともに旅をしたかの悪魔たちのように、彼らは眠らねばならぬ。でなければ彼らは我々を食いつくすであろう。――彼らは眠るようにさせられなければならぬ。でなければ我々は滅びるのだ。


(1) 一八一二年、ナポレオンの軍隊がモスコーより退却しミンスク県のベレジナ河を渡るときロシア軍に襲撃され、十一月二十六日より二十九日にわたって数万のフランス兵が殺戮《さつりく》されあるいは溺死《できし》した。捕虜となった者一万六千人。
(2) 一七五五年十一月一日のリスボンの大地震。死者約四万人に達した。
(3) 一六六五年よりその翌年にかけて、ロンドンに疫病が流行し、当時のロンドンの住民の約三分の一、七万人が斃《たお》れた。
(4) 一五七二年八月二十四日、セント・バーソロミューの祭日の夜半から始まったパリおよび各地方におけるフランスの新教徒《ユグノー》の大虐殺。その犠牲者の数は二万ないし三万にのぼった。
(5) 一七五六年六月二十日、インド土人の大守シュラジャー・ドーラーによって、百四十六人のイギリス人の俘虜が、カルカッタのわずか十八フィート四方の狭い牢獄のなかへ押しこまれた。その翌朝、二十三人をのぞいて他の百二十三人はことごとく窒息のために死んでいた。
(6) 旧約伝道の書第十二章第六―七節、「然《しか》る時には銀の紐[#「銀の紐」に傍点]は解け金の盞[#「金の盞」に傍点]は砕け吊瓶《つるべ》は泉の側に壊《やぶ》れ轆轤《くるま》は井《いど》の傍《かたわら》に破《わ》れん、而《しか》して塵《ちり》は本《もと》の如《ごと》く土に帰り霊魂《たましい》はこれを賦《さず》けし神にかえるべし」
(7) 穿顱錐《せんろすい》で頭蓋骨を穿《うが》つ手術。あるいは円錐《えんきょ》術とも言う。
(8) 静脈を切って血を出す治療法。
(9) body-snatcher――解剖の目的のためにひそかに墓をあばいて死体を盗む者。イギリスにおいては一八三二年に解剖法令が出るまでは、ただ殺人者の死体だけが解剖を許されていたが、解剖学の進歩とともに死体が大いに不足するにいたった。そこでこの「死体盗人」というものがおびただしくできて、諸所の墓をあばいて死体を盗み、それを解剖者に売ることを業としたのである。(それを防ぐためには鉄の棺に入れて埋葬しなければならなかったという)――この死体盗人はまた resurrectionist とも言われる。このステープルトン氏を発掘した連中のごときはまさに言葉本来の意味での resurrectionist であろう。
(10) Catalepsy――類癇、または全身硬直と訳される。
(11) Buchan(一七三八―九一)スコットランドの宗教狂信家。彼女は自らヨハネ黙示録第十二章の婦であると信じ、その信者は Buchanites と称せられた。
(12) “Night Thoughts”――Edward Young(一六八一―一七六五)の有名な詩“Night Thoughts : Night I (on Life, Death and Immortality).”and Night II (on Time, Death and Friendship).”のことであろう。
(13) Carathis――Wiliam Beckford(一七五九―一八四四)の東洋ロマンス“Vathek”(この物語は一七八七年にフランス語で出版され、その数年前に誰かの英訳が流布したりして問題を起し、当時ヨーロッパに広く読まれたものらしい。――最近も、エピローグを付したこの物語の最初の完全な版と称する二巻が、原文のフランス語でオックスフォードから出版された)の主人公の母。占星術の達人。
(14) Oxus――中央アジアのアム・ダリア河の古名。
(15) Afrasiab――Abul Kasim Mansur(九四〇ごろ―一〇二〇、ペルシャの大叙事詩人)の“Shahnamah”(「諸王の書」の意。イランおよびペルシャの君主英雄の行為を歌った約六万対句の叙事詩)の中の Turan 王 Pesheng の子。イランの諸王との長い戦争ののちに捕えられて殺される。

底本「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1998(平成10)年12月25日78刷
※本文中の(1)~(15)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。また数字は縦中横になっています。
入力:江村秀之
校正:鈴木厚司
2005年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

佐々木直次郎

黒猫 THE BLACK CAT エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe 佐々木直次郎訳

私がこれから書こうとしているきわめて奇怪な、またきわめて素朴《そぼく》な物語については、自分はそれを信じてもらえるとも思わないし、そう願いもしない。自分の感覚でさえが自分の経験したことを信じないような場合に、他人に信じてもらおうなどと期待するのは、ほんとに正気の沙汰《さた》とは言えないと思う。だが、私は正気を失っている訳ではなく、――また決して夢みているのでもない。しかしあす私は死ぬべき身だ。で、今日のうちに自分の魂の重荷をおろしておきたいのだ。私の第一の目的は、一連の単なる家庭の出来事を、はっきりと、簡潔に、注釈ぬきで、世の人々に示すことである。それらの出来事は、その結果として、私を恐れさせ――苦しめ――そして破滅させた。だが私はそれをくどくどと説明しようとは思わない。私にはそれはただもう恐怖だけを感じさせた。――多くの人々には恐ろしいというよりも怪奇《バロック》なものに見えるであろう。今後、あるいは、誰か知者があらわれてきて、私の幻想を単なる平凡なことにしてしまうかもしれぬ。――誰か私などよりももっと冷静な、もっと論理的な、もっとずっと興奮しやすくない知性人が、私が畏怖《いふ》をもって述べる事がらのなかに、ごく自然な原因結果の普通の連続以上のものを認めないようになるであろう。
 子供のころから私はおとなしくて情けぶかい性質で知られていた。私の心の優しさは仲間たちにからかわれるくらいにきわだっていた。とりわけ動物が好きで、両親もさまざまな生きものを私の思いどおりに飼ってくれた。私はたいていそれらの生きものを相手にして時を過し、それらに食物をやったり、それらを愛撫《あいぶ》したりするときほど楽しいことはなかった。この特質は成長するとともにだんだん強くなり、大人になってからは自分の主な楽しみの源泉の一つとなったのであった。忠実な利口な犬をかわいがったことのある人には、そのような愉快さの性質や強さをわざわざ説明する必要はほとんどない。動物の非利己的な自己犠牲的な愛のなかには、単なる人間[#「人間」に傍点]のさもしい友情や薄っぺらな信義をしばしば嘗《な》めたことのある人の心をじかに打つなにものかがある。
 私は若いころ結婚したが、幸いなことに妻は私と性の合う気質だった。私が家庭的な生きものを好きなのに気がつくと、彼女はおりさえあればとても気持のいい種類の生きものを手に入れた。私たちは鳥類や、金魚や、一匹の立派な犬や、兎《うさぎ》や、一匹の小猿《こざる》や、一匹の猫[#「一匹の猫」に傍点]などを飼った。
 この最後のものは非常に大きな美しい動物で、体じゅう黒く、驚くほどに利口だった。この猫の知恵のあることを話すときには、心ではかなり迷信にかぶれていた妻は、黒猫というものがみんな魔女が姿を変えたものだという、あの昔からの世間の言いつたえを、よく口にしたものだった。もっとも、彼女だっていつでもこんなことを本気で[#「本気で」に傍点]考えていたというのではなく、――私がこの事がらを述べるのはただ、ちょうどいまふと思い出したからにすぎない。
 プルートォ――というのがその猫の名であった――は私の気に入りであり、遊び仲間であった。食物をやるのはいつも私だけだったし、彼は家じゅう私の行くところへどこへでも一緒に来た。往来へまでついて来ないようにするのには、かなり骨が折れるくらいであった。
 私と猫との親しみはこんなぐあいにして数年間つづいたが、そのあいだに私の気質や性格は一般に――酒癖という悪鬼のために――急激に悪いほうへ(白状するのも恥ずかしいが)変ってしまった。私は一日一日と気むずかしくなり、癇癪《かんしゃく》もちになり、他人の感情などちっともかまわなくなってしまった。妻に対しては乱暴な言葉を使うようになった。しまいには彼女の体に手を振り上げるまでになった。飼っていた生きものも、もちろん、その私の性質の変化を感じさせられた。私は彼らをかまわなくなっただけではなく、虐待《ぎゃくたい》した。けれども、兎や、猿や、あるいは犬でさえも、なにげなく、または私を慕って、そばへやって来ると、遠慮なしにいじめてやったものだったのだが、プルートォをいじめないでおくだけの心づかいはまだあった。しかし私の病気はつのってきて――ああ、アルコールのような恐ろしい病気が他にあろうか! ――ついにはプルートォでさえ――いまでは年をとって、したがっていくらか怒りっぽくなっているプルートォでさえ、私の不機嫌《ふきげん》のとばっちりをうけるようになった。
 ある夜、町のそちこちにある自分の行きつけの酒場の一つからひどく酔っぱらって帰って来ると、その猫がなんだか私の前を避けたような気がした。私は彼をひっとらえた。そのとき彼は私の手荒さにびっくりして、歯で私の手にちょっとした傷をつけた。と、たちまち悪魔のような憤怒《ふんぬ》が私にのりうつった。私は我を忘れてしまった。生来のやさしい魂はすぐに私の体から飛び去ったようであった。そしてジン酒におだてられた悪鬼以上の憎悪《ぞうお》が体のあらゆる筋肉をぶるぶる震わせた。私はチョッキのポケットからペンナイフを取り出し、それを開き、そのかわいそうな動物の咽喉《のど》をつかむと、悠々《ゆうゆう》とその眼窩《がんか》から片眼《かため》をえぐり取った。この憎むべき凶行をしるしながら、私は面《おもて》をあからめ、体がほてり、身ぶるいする。
 朝になって理性が戻ってきたとき――一晩眠って前夜の乱行の毒気が消えてしまったとき――自分の犯した罪にたいしてなかば恐怖の、なかば悔恨の情を感じた。が、それもせいぜい弱い曖昧《あいまい》な感情で、心まで動かされはしなかった。私はふたたび無節制になって、間もなくその行為のすべての記憶を酒にまぎらしてしまった。
 そのうちに猫はいくらかずつ回復してきた。眼のなくなった眼窩はいかにも恐ろしい様子をしてはいたが、もう痛みは少しもないようだった。彼はもとどおりに家のなかを歩きまわっていたけれども、当りまえのことであろうが私が近づくとひどく恐ろしがって逃げて行くのだった。私は、前にあんなに自分を慕っていた動物がこんなに明らかに自分を嫌《きら》うようになったことを、初めは悲しく思うくらいに、昔の心が残っていた。しかしこの感情もやがて癇癪に変っていった。それから、まるで私を最後の取りかえしのつかない破滅に陥らせるためのように、天邪鬼[#「天邪鬼」に傍点]の心持がやってきた。この心持を哲学は少しも認めてはいない。けれども、私は、自分の魂が生きているということと同じくらいに、天邪鬼《あまのじゃく》が人間の心の原始的な衝動の一つ――人の性格に命令する、分つことのできない本源的な性能もしくは感情の一つ――であるということを確信している。してはいけない[#「いけない」に傍点]という、ただそれだけの理由で、自分が邪悪な、あるいは愚かな行為をしていることに、人はどんなにかしばしば気づいたことであろう。人は、掟[#「掟」に傍点]を、単にそれが掟《おきて》であると知っているだけのために、その最善の判断に逆らってまでも、その掟を破ろうとする永続的な性向を、持っていはしないだろうか? この天邪鬼の心持がいま言ったように、私の最後の破滅を来たしたのであった。なんの罪もない動物に対して自分の加えた傷害をなおもつづけさせ、とうとう仕遂げさせるように私をせっついたのは、魂の自らを苦しめようとする[#「自らを苦しめようとする」に傍点]――それ自身の本性に暴虐を加えようとする――悪のためにのみ悪をしようとする、この不可解な切望であったのだ。ある朝、冷然と、私は猫の首に輪索《わなわ》をはめて、一本の木の枝につるした。――眼から涙を流しながら、心に痛切な悔恨を感じながら、つるした。――その猫が私を慕っていたということを知っていればこそ[#「こそ」に傍点]、猫が私を怒らせるようなことはなに一つしなかったということを感じていればこそ[#「こそ」に傍点]、つるしたのだ。――そうすれば自分は罪を犯すのだ、――自分の不滅の魂をいとも慈悲ぶかく、いとも畏《おそ》るべき神の無限の慈悲の及ばない彼方《かなた》へ置く――もしそういうことがありうるなら――ほどにも危うくするような極悪罪を犯すのだ、ということを知っていればこそ[#「こそ」に傍点]、つるしたのだった。
 この残酷な行為をやった日の晩、私は火事だという叫び声で眠りから覚まされた。私の寝台のカーテンに火がついていた。家全体が燃え上がっていた。妻と、召使と、私自身とは、やっとのことでその火災からのがれた。なにもかも焼けてしまった。私の全財産はなくなり、それ以来私は絶望に身をまかせてしまった。
 この災難とあの凶行とのあいだに因果関係をつけようとするほど、私は心の弱い者ではない。しかし私は事実のつながりを詳しく述べているのであって、――一つの鐶《かん》でも不完全にしておきたくないのである。火事のつぎの日、私は焼跡へ行ってみた。壁は、一カ所だけをのぞいて、みんな焼け落ちていた。この一カ所というのは、家の真ん中あたりにある、私の寝台の頭板に向っていた、あまり厚くない仕切壁のところであった。ここの漆喰《しっくい》だけはだいたい火の力に耐えていたが、――この事実を私は最近そこを塗り換えたからだろうと思った。この壁のまわりに真っ黒に人がたかっていて、多くの人々がその一部分を綿密な熱心な注意をもって調べているようだった。「妙だな!」「不思議だね?」という言葉や、その他それに似たような文句が、私の好奇心をそそった。近づいてみると、その白い表面に薄肉彫りに彫ったかのように、巨大な猫[#「猫」に傍点]の姿が見えた。その痕《あと》はまったく驚くほど正確にあらわれていた。その動物の首のまわりには縄《なわ》があった。
 最初この妖怪《ようかい》――というのは私にはそれ以外のものとは思えなかったからだが――を見たとき、私の驚愕《きょうがく》と恐怖とは非常なものだった。しかしあれこれと考えてみてやっと気が安まった。猫が家につづいている庭につるしてあったことを私は思い出した。火事の警報が伝わると、この庭はすぐに大勢の人でいっぱいになり、――そのなかの誰かが猫を木から切りはなして、開いていた窓から私の部屋のなかへ投げこんだものにちがいない。これはきっと私の寝ているのを起すためにやったものだろう。そこへ他の壁が落ちかかって、私の残虐の犠牲者を、その塗りたての漆喰の壁のなかへ押しつけ、そうして、その漆喰の石灰と、火炎と、死骸《しがい》から出たアンモニアとで、自分の見たような像ができあがったのだ。
 いま述べた驚くべき事実を、自分の良心にたいしてはぜんぜんできなかったとしても、理性にたいしてはこんなにたやすく説明したのであるが、それでも、それが私の想像に深い印象を与えたことに変りはなかった。幾月ものあいだ私はその猫の幻像を払いのけることができなかった。そしてそのあいだ、悔恨に似ているがそうではないある漠然《ばくぜん》とした感情が、私の心のなかへ戻ってきた。私は猫のいなくなったことを悔むようにさえなり、そのころ行きつけの悪所《あくしょ》でそれの代りになる同じ種類の、またいくらか似たような毛並のものがいないかと自分のまわりを捜すようにもなった。
 ある夜、ごくたちの悪い酒場に、なかば茫然《ぼうぜん》として腰かけていると、その部屋の主な家具をになっているジン酒かラム酒の大樽《おおだる》の上に、なんだか黒い物がじっとしているのに、とつぜん注意をひかれた。私はそれまで数分間その大樽のてっぺんのところをじっと見ていたので、いま私を驚かせたことは、自分がもっと早くその物に気がつかなかったという事実なのであった。私は近づいて行って、それに手を触れてみた。それは一匹の黒猫――非常に大きな猫――で、プルートォくらいの大きさは十分あり、一つの点をのぞいて、あらゆる点で彼にとてもよく似ていた。プルートォは体のどこにも白い毛が一本もなかったが、この猫は、胸のところがほとんど一面に、ぼんやりした形ではあるが、大きな、白い斑点《はんてん》で蔽《おお》われているのだ。
 私がさわると、その猫はすぐに立ち上がり、さかんにごろごろ咽喉を鳴らし、私の手に体をすりつけ、私が目をつけてやったのを喜んでいるようだった。これこそ私の探している猫だった。私はすぐにそこの主人にそれを買いたいと言い出した。が主人はその猫を自分のものだとは言わず、――ちっとも知らないし――いままでに見たこともないと言うのだった。
 私は愛撫をつづけていたが、家へ帰りかけようとすると、その動物はついて来たいような様子を見せた。で、ついて来るままにさせ、歩いて行く途中でおりおりかがんで軽く手で叩《たた》いてやった。家へ着くと、すぐに居ついてしまい、すぐ妻の非常なお気に入りになった。
 私はというと、間もなくその猫に対する嫌悪の情が心のなかに湧《わ》き起るのに気がついた。これは自分の予想していたこととは正反対であった。しかし――どうしてだか、またなぜだかは知らないが――猫がはっきり私を好いていることが私をかえって厭《いや》がらせ、うるさがらせた。だんだんに、この厭でうるさいという感情が嵩《こう》じてはげしい憎しみになっていった。私はその動物を避けた。ある慚愧《ざんき》の念と、以前の残酷な行為の記憶とが、私にそれを肉体的に虐待しないようにさせたのだ。数週の間、私は打つとか、その他手荒なことはしなかった。がしだいしだいに――ごくゆっくりと――言いようのない嫌悪の情をもってその猫を見るようになり、悪疫《あくえき》の息吹《いぶき》から逃げるように、その忌《い》むべき存在から無言のままで逃げ出すようになった。
 疑いもなく、その動物に対する私の憎しみを増したのは、それを家へ連れてきた翌朝、それにもプルートォのように片眼がないということを発見したことであった。けれども、この事がらのためにそれはますます妻にかわいがられるだけであった。妻は、以前は私のりっぱな特徴であり、また多くのもっとも単純な、もっとも純粋な快楽の源であったあの慈悲ぶかい気持を、前にも言ったように、多分に持っていたのだ。
 しかし、私がこの猫を嫌えば嫌うほど、猫のほうはいよいよ私を好くようになってくるようだった。私のあとをつけまわり、そのしつこさは読者に理解してもらうのが困難なくらいであった。私が腰かけているときにはいつでも、椅子《いす》の下にうずくまったり、あるいは膝《ひざ》の上へ上がって、しきりにどこへでもいまいましくじゃれついたりした。立ち上がって歩こうとすると、両足のあいだへ入って、私を倒しそうにしたり、あるいはその長い鋭い爪《つめ》を私の着物にひっかけて、胸のところまでよじ登ったりする。そんなときには、殴り殺してしまいたかったけれども、そうすることを差し控えたのは、いくらか自分の以前の罪悪を思い出すためであったが、主としては――あっさり白状してしまえば――その動物がほんとうに怖かった[#「怖かった」に傍点]ためであった。
 この怖さは肉体的災害の怖さとは少し違っていた、――が、それでもそのほかにそれをなんと説明してよいか私にはわからない。私は告白するのが恥ずかしいくらいだが――そうだ、この重罪人の監房のなかにあってさえも、告白するのが恥ずかしいくらいだが――その動物が私の心に起させた恐怖の念は、実にくだらない一つの妄想《もうそう》のために強められていたのであった。その猫と前に殺した猫との唯一《ゆいいつ》の眼に見える違いといえば、さっき話したあの白い毛の斑点なのだが、妻はその斑点のことで何度か私に注意していた。この斑点は、大きくはあったが、もとはたいへんぼんやりした形であったということを、読者は記憶せられるであろう。ところが、だんだんに――ほとんど眼につかないほどにゆっくりと、そして、長いあいだ私の理性はそれを気の迷いだとして否定しようとあせっていたのだが――それが、とうとう、まったくきっぱりした輪郭となった。それはいまや私が名を言うも身ぶるいするような物の格好になった。――そして、とりわけこのために、私はその怪物を嫌い、恐れ、できるなら思いきって[#「できるなら思いきって」に傍点]やっつけてしまいたいと思ったのであるが、――それはいまや、恐ろしい――もの凄《すご》い物の――絞首台[#「絞首台」に傍点]の――形になったのだ! ――おお、恐怖と罪悪との――苦悶《くもん》と死との痛ましい恐ろしい刑具の形になったのだ!
 そしていまこそ私は実に単なる人間の惨《みじ》めさ以上に惨めであった。一匹の畜生が[#「一匹の畜生が」に傍点]――その仲間の奴《やつ》を私は傲然《ごうぜん》と殺してやったのだ――一匹の畜生が私に[#「一匹の畜生が私に」に傍点]――いと高き神の像《かたち》に象《かたど》って造られた人間である私に――かくも多くの堪えがたい苦痛を与えるとは! ああ! 昼も夜も私はもう安息の恩恵というものを知らなくなった! 昼間はかの動物がちょっとも私を一人にしておかなかった。夜には、私は言いようもなく恐ろしい夢から毎時間ぎょっとして目覚めると、そいつ[#「そいつ」に傍点]の熱い息が自分の顔にかかり、そのどっしりした重さが――私には払い落す力のない悪魔の化身が――いつもいつも私の心臓[#「心臓」に傍点]の上に圧《お》しかかっているのだった!
 こういった呵責《かしゃく》に押しつけられて、私のうちに少しばかり残っていた善も敗北してしまった。邪悪な考えが私の唯一の友となった、――もっとも暗黒な、もっとも邪悪な考えが。私のいつもの気むずかしい気質はますますつのって、あらゆる物やあらゆる人を憎むようになった。そして、いまでは幾度もとつぜんに起るおさえられぬ激怒の発作に盲目的に身をまかせたのだが、なんの苦情も言わない私の妻は、ああ! それを誰よりもいつもひどく受けながら、辛抱づよく我慢したのだった。
 ある日、妻はなにかの家の用事で、貧乏のために私たちが仕方なく住んでいた古い穴蔵のなかへ、私と一緒に降りてきた。猫もその急な階段を私のあとへついて降りてきたが、もう少しのことで私を真っ逆さまに突き落そうとしたので、私はかっと激怒した。怒りのあまり、これまで自分の手を止めていたあの子供らしい怖さも忘れて、斧《おの》を振り上げ、その動物をめがけて一撃に打ち下ろそうとした。それを自分の思ったとおりに打ち下ろしたなら、もちろん、猫は即座に死んでしまったろう。が、その一撃は妻の手でさえぎられた。この邪魔立てに悪鬼以上の憤怒に駆られて、私は妻につかまれている腕をひき放し、斧を彼女の脳天に打ちこんだ。彼女は呻《うめ》き声もたてずに、その場で倒れて死んでしまった。
 この恐ろしい殺人をやってしまうと、私はすぐに、きわめて慎重に、死体を隠す仕事に取りかかった。昼でも夜でも、近所の人々の目にとまる恐れなしには、それを家から運び去ることができないということは、私にはわかっていた。いろいろの計画が心に浮んだ。あるときは死骸を細かく切って火で焼いてしまおうと考えた。またあるときには穴蔵の床にそれを埋める穴を掘ろうと決心した。さらにまた、庭の井戸のなかへ投げこもうかとも――商品のように箱のなかへ入れて普通やるように荷造りして、運搬人に家から持ち出させようかとも、考えてみた。最後に、これらのどれよりもずっといいと思われる工夫を考えついた。中世紀の僧侶《そうりょ》たちが彼らの犠牲者を壁に塗りこんだと伝えられているように――それを穴蔵の壁に塗りこむことに決めたのだ。
 そういった目的にはその穴蔵はたいへん適していた。そこの壁はぞんざいにできていたし、近ごろ粗い漆喰を一面に塗られたばかりで、空気が湿っているためにその漆喰が固まっていないのだった。その上に、一方の壁には、穴蔵の他のところと同じようにしてある、見せかけだけの煙突か暖炉のためにできた、突き出た一カ所があった。ここの煉瓦《れんが》を取りのけて、死骸を押しこみ、誰の目にもなに一つ怪しいことの見つからないように、前のとおりにすっかり壁を塗り潰《つぶ》すことは、造作なくできるにちがいない、と私は思った。
 そしてこの予想ははずれなかった。鉄梃《かなてこ》を使って私はたやすく煉瓦を動かし、内側の壁に死体を注意深く寄せかけると、その位置に支えておきながら、大した苦もなく全体をもとのとおりに積み直した。できるかぎりの用心をして膠泥《モルタル》と、砂と、毛髪とを手に入れると、前のと区別のつけられない漆喰をこしらえ、それで新しい煉瓦細工の上をとても念入りに塗った。仕上げてしまうと、万事がうまくいったのに満足した。壁には手を加えたような様子が少しも見えなかった。床の上の屑《くず》はごく注意して拾い上げた。私は得意になってあたりを見まわして、こう独言《ひとりごと》を言った。――「さあ、これで少なくとも今度だけは己《おれ》の骨折りも無駄《むだ》じゃなかったぞ」
 次に私のやることは、かくまでの不幸の原因であったあの獣を捜すことであった。とうとう私はそれを殺してやろうと堅く決心していたからである。そのときそいつに出会うことができたなら、そいつの命はないに決っていた。が、そのずるい動物は私のさっきの怒りのはげしさにびっくりしたらしく、私がいまの気分でいるところへは姿を見せるのを控えているようであった。その厭でたまらない生きものがいなくなったために私の胸に生じた、深い、この上なく幸福な、安堵《あんど》の感じは、記述することも、想像することもできないくらいである。猫はその夜じゅう姿をあらわさなかった。――で、そのために、あの猫を家へ連れてきて以来、少なくとも一晩だけは、私はぐっすりと安らかに眠った。そうだ、魂に人殺しの重荷を負いながらも眠った[#「眠った」に傍点]のだ!
 二日目も過ぎ三日目も過ぎたが、それでもまだ私の呵責者は出てこなかった。もう一度私は自由な人間として呼吸した。あの怪物は永久にこの屋内から逃げ去ってしまったのだ! 私はもうあいつを見ることはないのだ! 私の幸福はこの上もなかった! 自分の凶行の罪はほとんど私を不安にさせなかった。二、三の訊問《じんもん》は受けたが、それには造作なく答えた。家宅捜索さえ一度行われた、――が無論なにも発見されるはずがなかった。私は自分の未来の幸運を確実だと思った。
 殺人をしてから四日目に、まったく思いがけなく、一隊の警官が家へやって来て、ふたたび屋内を厳重に調べにかかった。けれども、自分の隠匿《いんとく》の場所はわかるはずがないと思って、私はちっともどぎまぎしなかった。警官は私に彼らの捜索について来いと命じた。彼らはすみずみまでも残るくまなく捜した。とうとう、三度目か四度目に穴蔵へ降りて行った。私は体の筋一つ動かさなかった。私の心臓は罪もなくて眠っている人の心臓のように穏やかに鼓動していた。私は穴蔵を端から端へと歩いた。腕を胸の上で組み、あちこち悠々《ゆうゆう》と歩きまわった。警官はすっかり満足して、引き揚げようとした。私の心の歓喜は抑えきれないくらい強かった。私は、凱歌《がいか》のつもりでたった一言でも言ってやり、また自分の潔白を彼らに確かな上にも確かにしてやりたくてたまらなかった。
「皆さん」と、とうとう私は、一行が階投をのぼりかけたときに、言った。「お疑いが晴れたことをわたしは嬉《うれ》しく思います。皆さん方のご健康を祈り、それからも少し礼儀を重んぜられんことを望みます。ときに、皆さん、これは――これはなかなかよくできている家ですぜ」〔なにかをすらすら言いたいはげしい欲望を感じて、私は自分の口にしていることがほとんどわからなかった〕――「すてきに[#「すてきに」に傍点]よくできている家だと言っていいでしょうな。この壁は――お帰りですか? 皆さん――この壁はがんじょうにこしらえてありますよ」そう言って、ただ気違いじみた空威張《からいば》りから、手にした杖《つえ》で、ちょうど愛妻の死骸が内側に立っている部分の煉瓦細工を、強くたたいた。
 だが、神よ、魔王の牙《きば》より私を護《まも》りまた救いたまえ! 私の打った音の反響が鎮《しず》まるか鎮まらぬかに、その墓のなかから一つの声が私に答えたのであった! ――初めは、子供の啜《すす》り泣きのように、なにかで包まれたような、きれぎれな叫び声であったが、それから急に高まって、まったく異様な、人間のものではない、一つの長い、高い、連続した金切声となり、――地獄に墜《お》ちてもだえ苦しむ者と、地獄に墜《おと》して喜ぶ悪魔との咽喉《のど》から一緒になって、ただ地獄からだけ聞えてくるものと思われるような、なかば恐怖の、なかば勝利の、号泣――慟哭《どうこく》するような悲鳴――となった。
 私自身の気持は語るも愚かである。気が遠くなって、私は反対の側の壁へとよろめいた。一瞬間、階段の上にいた一行は、極度の恐怖と畏懼《いく》とのために、じっと立ち止った。次の瞬間には、幾本かの逞《たくま》しい腕が壁をせっせとくずしていた。壁はそっくり落ちた。もうひどく腐爛《ふらん》して血魂が固まりついている死骸が、そこにいた人々の眼前にすっくと立った。その頭の上に、赤い口を大きくあけ、爛々たる片眼《かため》を光らせて、あのいまわしい獣が坐《すわ》っていた。そいつの奸策《かんさく》が私をおびきこんで人殺しをさせ、そいつのたてた声が私を絞刑吏に引渡したのだ。その怪物を私はその墓のなかへ塗りこめておいたのだった!

底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1995(平成7)年10月15日89刷改版
   1997(平成9)年第93刷
入力:大野晋
校正:宮崎直彦
1999年2月4日公開
2005年12月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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佐々木直次郎

黄金虫 THE GOLD-BUG エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe—-佐々木直次郎訳


おや、おや! こいつ気が狂ったみたいに踊って いる。

タラント蜘蛛《ぐも》に咬《か》まれたんだな]

『みんな間違い(1)』

 もうよほど以前のこと、私はウィリアム・ルグラン君という人と親しくしていた。彼は古いユグノー(2)の一家の子孫で、かつては富裕であったが、うちつづく不運のためすっかり貧窮に陥っていた。その災難に伴う屈辱を避けるために、彼は先祖の代から住み慣れたニュー・オーリアンズ(3)の町を去って、南カロライナ州のチャールストンに近いサリヴァン島に住むことになった。
 この島は非常に妙な島だ。ほとんど海の砂ばかりでできていて、長さは三マイルほどある。幅はどこでも四分の一マイルを超えない。水鶏《くいな》が好んで集まる、粘土《ねばつち》に蘆《あし》が一面に生い繁《しげ》ったところをじくじく流れる、ほとんど目につかないような小川で、本土から隔てられている。植物はもとより少なく、またあったにしてもとても小さなものだ。大きいというほどの樹木は一本も見あたらない。島の西端にはモールトリー要塞《ようさい》(4)があり、また夏のあいだチャールストンの塵埃《じんあい》と暑熱とをのがれて来る人々の住むみすぼらしい木造の家が何軒かあって、その近くには、いかにもあのもしゃもしゃした棕櫚《しゅろ》(5)の林があるにはあった。しかしこの西端と、海岸の堅い白いなぎさの線とをのぞいては、島全体は、イギリスの園芸家たちの非常に珍重するあのかんばしい桃金嬢《マートル》の下生えでぎっしり蔽《おお》われているのだ。この灌木《かんぼく》は、ここではしばしば十五フィートから二十フィートの高さにもなって、ほとんど通り抜けられないくらいの叢林《そうりん》となって、あたりの大気をそのかぐわしい芳香でみたしている。
 この叢林のいちばん奥の、つまり、島の東端からあまり遠くないところに、ルグランは自分で小さな小屋を建てて、私がふとしたことから初めて彼と知りあったときには、そこに住んでいたのだった。私たちは間もなく親密になっていった。――というのは、この隠遁者《いんとんしゃ》には興味と尊敬の念とを起させるものが多分にあったからなのだ。私には、彼がなかなか教育があって、頭脳の力が非常にすぐれているが、すっかり|人間嫌い《ミザンスロピー》になっていて、いま熱中したかと思うとたちまち憂鬱《ゆううつ》になるといった片意地な気分に陥りがちだ、ということがわかった。彼は書物はたくさん持っていたが、たまにしか読まなかった。主な楽しみといえば、銃猟や魚釣《さかなつ》り、あるいは貝殻《かいがら》や昆虫《こんちゅう》学の標本を捜しながら、なぎさを伝い桃金嬢の林のなかを通ってぶらつくことなどであった。――その昆虫学の標本の蒐集《しゅうしゅう》は、スワンメルダム(6)のような昆虫学者にも羨望《せんぼう》されるくらいのものだった。こういった遠出をする場合には、たいていジュピターという年寄りの黒人がおともをしていた。彼はルグラン家の零落する前に解放されていたのだが、若い「ウィル旦那《だんな》」のあとについて歩くことを自分の権利と考えて、おどかしても、すかしても、それをやめさせることができなかった。ことによったら、ルグランの親戚《しんせき》の者たちが、ルグランの頭が少し変なのだと思って、この放浪癖の男を監視し後見させるつもりで、ジュピターにそんな頑固《がんこ》さを教えこんでおいたのかもしれない。
 サリヴァン島のある緯度のあたりでは、冬でも寒さが非常にきびしいということはめったになく、秋には火がなくてはたまらぬというようなことはまったく稀《まれ》である。しかし、一八――年の十月のなかばごろ、ひどくひえびえする日があった。ちょうど日没前、私はあの常磐木《ときわぎ》のあいだをかきわけて友の小屋の方へ行った。その前三、四週間ほど私は彼を訪ねたことがなかった。――私の住居はそのころこの島から九マイル離れているチャールストンにあって、往復の便利は今日よりはずっとわるかった。小屋に着くと、いつも私の習慣にしているように扉《とびら》を叩《たた》いたが、なんの返事もないので、自分の知っている鍵《かぎ》の隠し場所を捜し、扉の錠をあけてなかへ入った。炉には気持のいい火があかあかと燃えていた。これは思いがけぬ珍しいものでもあり、また決してありがたからぬものでもなかった。私は外套《がいとう》を脱ぎすてると、ぱちぱち音をたてて燃えている丸太のそばへ肘掛椅子《ひじかけいす》をひきよせて、この家の主人たちの帰ってくるのを気長に待っていた。
 暗くなってから間もなく彼らは帰ってきて、心から私を歓迎してくれた。ジュピターは耳もとまで口をあけてにたにた笑いながら、晩餐《ばんさん》に水鶏を料理しようと忙しく立ち働いた。ルグランは例の熱中する発作――発作とでも言わなければほかになんと言おう? ――に罹《かか》っていた。彼は新しい種類の、世にまだ知られていない二枚貝を発見したのだが、そのうえまた、ジュピターの助けを借りて一匹の甲虫《かぶとむし》を追いつめて捕えたのだ。その甲虫を彼はまったく新しいものと信じていたが、それについてあす私の意見を聞きたいというのであった。
「で、なぜ今夜じゃいけないのかね?」と、私は火の上で両手をこすりながら尋ねた。甲虫なんぞはみんな悪魔に食われてしまえ、と心のなかで思いながら。
「ああ、君がここへ来ることがわかってさえいたらなあ!」とルグランが言った。「だがずいぶん長く会わなかったし、どうして今夜にかぎって訪ねてきてくれるってことがわかるもんかね? 僕は帰りみちで要塞のG――中尉《ちゅうい》に会って、まったくなんの考えもなしに、その虫を貸してやったんだ。だから君にはあすの朝まで見せるわけにはゆかんのだ。今晩はここで泊りたまえ。そしたら、日の出にジャップを取りにやらせるよ。そりゃあ実にすばらしいものだぜ!」
「何が? ――日の出がかい?」
「ばかな! 違うよ! ――その虫がさ。ぴかぴかした黄金色《こがねいろ》をしていて、――大きな胡桃《くるみ》の実ほどの大きさでね、――背中の一方の端近くに真っ黒な点が二つあり、もう一方のほうにはいくらか長いのが一つある、触角《アンテニー》は――」
「錫《ティン》なんて(7)あいつにゃあちっとも入《へえ》っていねえ[#「いねえ」に傍点]んでがす、ウィル旦那。わっしは前《めえ》から言ってるんでがすが」と、このときジュピターが口を出した。「あの虫はどこからどこまで、羽根だきゃあ別だが、外も中もすっかり、ほんとの黄金虫でさ。――生れてからあんな重てえ虫は持ったことがねえ」
「なるほど。としてもだな、ジャップ」とルグランは、その場合としては不必要なほどちょっと真面目《まじめ》すぎると思われるような調子で、答えた。「それがお前の鳥を焦《こ》がす理由になるのかな? その色はね」とここで彼は私の方へ向いて、――「実際ジュピターの考えももっともだと言ってもいいくらいのものなんだ。あの甲から発するのよりももっとぴかぴかする金属性の光沢《つや》は、君だって見たことがあるまい。――が、これについちゃああすになるまでは君にはなんとも意見を下せないわけだ。それまでにまず、形だけはいくらか教えてあげることができるよ」こう言いながら、彼は小さなテーブルの前へ腰をかけたが、その上にはペンとインクとはあったけれども、紙はなかった。彼は引出しのなかを捜したが、一枚も見当らなかった。
「なあに、いいさ」ととうとう彼は言った。「これで間に合うだろう」と、チョッキのポケットから、ひどくよごれた大判洋紙《フールズキャップ》らしいもののきれっぱしを取り出して、その上にペンで略図を描いた。彼がそうしているあいだ、私はまだ寒けがするので、火のそばを離れずにいた。図ができあがると、彼は立ち上がらないで、それを私に手渡しした。それを受け取ったとき、高い(8)うなり声が聞え、つづいて扉をがりがりひっかく音がした。ジュピターが扉をあけると、ルグランの飼っている大きなニューファウンドランド種の犬が跳びこんで来て、私の肩に跳びつき、しきりにじゃれついた。いままで私が訪ねて来たときにずいぶんかわいがってやっていたからなのだ。犬のふざけがすんでしまうと、私は例の紙を眺《なが》めたが、実を言えば友の描いたものを見て少なからず面くらったのであった。
「なるほどね!」と私は、数分間そいつをつくづく見つめた末に、言った。「こりゃあたしかに奇妙な甲虫だよ[#「だよ」に傍点]。僕には初めてだ。これまでにこんなものは見たことがない――頭蓋骨《ずがいこつ》か髑髏《どくろ》でなければね。僕の[#「僕の」に傍点]いままで見たもののなかでは、なによりもその髑髏に似ているよ」
「髑髏だって!」とルグランは鸚鵡返《おうむがえ》しに言った。――「うん、――そうだ、いかにも紙に描《か》いたところでは幾分そんな格好をしてるな、たしかに。上の方の二つの黒い点は、眼《め》のように見えるし、え、そうだろう? それから下にある長いのは口に見えるし、――それに、全体の形が楕円形《だえんけい》だからね」
「たぶんそうだろう」と私は言った。「しかしだね、ルグラン、君は絵が上手じゃないねえ。とにかく、その虫の本物を見るまで待たなくちゃならん、どんなご面相をしているのか知ろうと思ったらね」
「そうかなあ」彼は少しむっとして言った。「僕はかなり描けるんだがね、――少なくとも描けなくちゃならん[#「なくちゃならん」に傍点]のだ、――いい先生に教わったんだし、自分じゃあそうひどい愚物でもないつもりなんだから」
「しかし、君、それじゃあ君は茶化しているんだよ」と私は言った。「こりゃあ、ちゃんとした普通の頭蓋骨[#「頭蓋骨」に傍点]だ。――実際、生理学上のこの部分に関する一般の考えにしたがえば、実に立派な[#「立派な」に傍点]頭蓋骨だと言ってもいいね。――そして君の甲虫というのが、もしこれに似てるのなら、それこそ珍無類の甲虫にちがいない。そうだな、この暗示《ヒント》でぞっとするような迷信が一つこさえられるぜ。きっと君はその虫を 〔scaraboe&us caput hominis〕(人頭甲虫)とか、何かそういったような名をつけるだろうね。――博物学にはそういうような名前がたくさんあるからね。ところで、君の話したあの触角というのはどこにあるんだい?」
「触角!」とルグランが言った。彼はこの話題に奇妙に熱中しているようだった。「触角は君には見えるはずだと思うんだが。僕は、実物の虫についているとおりにはっきりと描いたんだし、それで十分だと思うんだがな」
「うん、そうかねえ」と私は言った。「きっと君は描いておいたんだろう、――でもやっぱり僕には見えない」そして、私は彼の機嫌《きげん》を損じないようにと、それ以上なにも言わないで、その紙を彼に渡した。が、私は形勢が一変してしまったのにはすっかり驚いた。彼の不機嫌には私も面くらったし、――それに、甲虫の図はと言えば、ほんとうに触角などはちっとも[#「ちっとも」に傍点]見えなくて、全体が髑髏の普通の絵にたしかに[#「たしかに」に傍点]そっくりだったのだ。
 彼はひどく不機嫌に紙を受け取り、火のなかへ投げこむつもりらしく、それを皺《しわ》くちゃにしようとしたが、そのときふと図をちらりと見ると、とつぜんそれに注意をひきつけられたようであった。たちまち彼の顔は真っ赤になり、――それから真っ蒼《さお》になった。数分間、彼は坐《すわ》ったままその図を詳しく調べつづけていた。とうとう立ち上がると、テーブルから蝋燭《ろうそく》を取って、部屋のいちばん遠い隅《すみ》っこにある船乗りの衣類箱のところへ行って腰をかけた。そこでまた、紙をあらゆる方向にひっくり返してしきりに調べた。だが彼は一ことも口をきかなかった。そして彼の挙動は大いに私をびっくりさせた。それでも、私はなにか口を出したりしてだんだんひどくなってくる彼の気むずかしさをつのらせないほうがよいと考えた。やがて彼は上衣《うわぎ》のポケットから紙入れを取り出して、例の紙をそのなかへ丁寧にしまいこみ、それを書机《ライティング・デスク》のなかに入れて、錠をかけた。彼の態度は今度はだんだん落ちついてきた。が最初の熱中しているような様子はまったくなくなっていた。それでも、むっつりしているというよりも、むしろ茫然《ぼうぜん》としているようだった。夜が更《ふ》けるにしたがって彼はますます空想に夢中になってゆき、私がどんな洒落《しゃれ》を言ってもそれから覚ますことができなかった。私は前にたびたびそこに泊ったことがあるので、その夜も小屋に泊るつもりだったが、なにしろ主《あるじ》がこんな機嫌なので、帰ったほうがいいと思った。彼は強《し》いて泊って行けとは言わなかったが、別れるときには、いつもよりももっと心をこめて私の手を握った。
 それから一カ月ばかりもたったころ(そのあいだ私はルグランにちっとも会わなかった)、彼の下男のジュピターが私をチャールストンに訪ねて来た。私は、この善良な年寄りの黒人がこんなにしょげているのを、それまでに見たことがなかった。で、なにかたいへんな災難が友の身に振りかかったのではなかろうかと気づかった。
「おい、ジャップ」と私が言った。「どうしたんだい? ――旦那はどうかね?」
「へえ、ほんとのことを申しますと、旦那さま、うちの旦那はあんまりよくねえんでがす」
「よくない! それはほんとに困ったことだ。どこが悪いと言っているのかね?」
「それ、そこがですよ! どこも悪《わり》いと言っていらっしゃらねえだが、――それがてえへん病気なんでがす」
「たいへん[#「たいへん」に傍点]病気だって! ジュピター。――なぜお前はすぐそう言わないんだ? 床《とこ》に寝ているのかい?」
「いいや、そうでねえ! ――どこにも寝ていねえんで、――そこが困ったこっで、――わっしは可哀《かえ》えそうなウィル旦那のことで胸がいっぺえになるんでがす」
「ジュピター、もっとわかるように言ってもらいたいものだな。お前は旦那が病気だと言う。旦那はどこが悪いのかお前に話さないのか?」
「へえ、旦那さま、あんなこっで気が違うてなぁ割に合わねえこっでがすよ。――ウィル旦那はなんともねえって言ってるが、――そんならなんだって、頭を下げて、肩をつっ立って、幽霊みてえに真っ蒼になって、こんな格好をして歩きまわるだかね? それにまた、しょっちゅう計算してるんで――」
「なにをしているって? ジュピター」
「石盤に数字を書いて計算してるんでがす、――わっしのいままで見たことのねえ変てこな数字でさ。ほんとに、わっしはおっかなくなってきましただ。旦那のすることにゃあしっかり眼を配ってなけりゃなんねえ。こねえだも、夜の明けねえうちにわっしをまいて、その日|一日《いちんち》いねえんでがす。わっしは、旦那が帰《けえ》って来たらしたたかぶん殴ってくれようと思って、でっけえ棒をこせえときました。――だけど、わっしは馬鹿《ばか》で、どうしてもそんな元気が出ねえんでがす。――旦那があんまり可哀《かえ》えそうな様子をしてるで」
「え? ――なんだって? ――うん、そうか! ――まあまあ、そんなかわいそうな者にはあんまり手荒なことをしないほうがいいと思うな。――折檻《せっかん》したりなんぞしなさんな、ジュピター。――そんなことをされたら旦那はとてもたまるまいからね。――だが、どうしてそんな病気に、というよりそんな変なことをするように、なったのか、お前にはなにも思い当らないのかね? この前僕がお前んとこへ行ってからのち、なにか面白くないことでもあったのかい?」
「いいや、旦那さま、あれからあとにゃあ[#「あとにゃあ」に傍点]なんにも面白くねえことってごぜえません。――そりゃああれより前の[#「前の」に傍点]こったとわっしは思うんでがす。――あんたさまがいらっしゃったあの日のことで」
「どうして? なんのことだい?」
「なあに、旦那さま、あの虫のこっでがすよ、――それ」
「あの何だって?」
「あの虫で。――きっと、ウィル旦那はあの黄金虫に頭のどっかを咬《か》まれたんでがす」
「と思うような理由があるのかね? ジュピター」
「爪《つめ》も、口もありんでがすよ、旦那さま。わっしはあんないまいましい虫あ見たことがねえ。――そばへ来るもんはなんでもみんな蹴《け》ったり咬みついたりするんでさ。ウィル旦那が初めにつかまえただが、すぐにまたおっ放《ぱな》さなけりゃなんなかっただ。――そんときに咬まれたにちげえねえ。わっしは自分じゃああの虫の口の格好が気に食わねえんで、指では持ちたくねえと思って、めっけた紙っきれでつかまえましただ。紙に包んでしまって、その紙っきれの端をそいつの口に押しこんでやりましただ、――そんなぐあいにやったんでがす」
「じゃあ、お前は旦那がほんとうにその甲虫に咬まれて、それで病気になったのだと思うんだな?」
「そう思うんじゃごぜえません、――そうと知ってるんでがす。あの黄金虫に咬まれたんでなけりゃあ、どうしてあんなにしょっちゅう黄金《こがね》の夢をみてるもんかね? わっしは前《めえ》にもあんな黄金虫の話を聞いたことがありますだ」
「しかし、どうして旦那が黄金の夢をみているということがお前にわかるかね?」
「どうしてわかるって? そりゃあ、寝言にまでそのことを言ってなさるからでさ、――それでわかるんでがす」
「なるほど、ジャップ。たぶんお前の言うとおりかもしれん。だが、きょうお前がここへご入来《じゅらい》になったのは、どんなご用なのかな?」
「なんでごぜえます? 旦那さま」
「お前はルグラン君からなにか伝言《ことづけ》を言いつかってきたのかい?」
「いいや、旦那さま、この手紙を持ってめえりましただ」と言ってジュピターは次のような一通の手紙を私に渡した。


「拝啓。どうして君はこんなに長く訪ねに来てくれないのか? 僕のちょっとした無愛想《ブリュスクリー》などに腹を立てるような馬鹿な君ではないと思う。いや、そんなことはあるはずがない。
 この前君に会ってから、僕には大きな心配事ができている。君に話したいことがあるのだが、それをどんなぐあいに話していいか、あるいはまた話すべきかどうかも、わかり兼ねるのだ。
 僕はこの数日来あまりぐあいがよくなかったが、ジャップめは好意のおせっかいからまるで耐えがたいくらいに僕を悩ませる。君は信じてくれるだろうか? ――彼は先日、大きな棒を用意して、そいつで、僕が彼をまいて一人で本土の山中にその日を過したのを懲《こ》らそうとするのだ。僕が病気のような顔つきをしていたばかりにその折檻をまぬかれたのだと、僕はほんとうに信じている。
 この前お目にかかって以来、僕の標本棚《ひょうほんだな》にはなんら加うるところがない。
 もしなんとかご都合がついたら、ジュピターと同道にて来てくれたまえ。ぜひ[#「ぜひ」に傍点]来てくれたまえ。重大な用件について、今晩[#「今晩」に傍点]お目にかかりたい。もっとも[#「もっとも」に傍点]重大な用件であることを断言する。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から5字上げ]敬具
[#地から2字上げ]ウィリアム・ルグラン」

 この手紙の調子にはどこか私に非常な不安を与えるものがあった。全体の書きぶりがいつものルグランのとはよほど違っている。いったい彼はなにを夢想しているのだろう? どんな変な考えが新たに彼の興奮しやすい頭にとっついたのだろう? どんな「もっとも重大な用件」を彼が[#「彼が」に傍点]処理しなければならんというのだろう? ジュピターの話の様子ではどうもあまりいいことではなさそうだ。私はたび重なる不運のためにとうとう彼がまったく気が狂ったのではなかろうかと恐れた。だから、一刻もぐずぐずしないで、その黒人と同行する用意をした。
 波止場へ着くと、一|梃《ちょう》の大鎌《おおがま》と三梃の鋤《すき》とが我々の乗って行こうとするボートの底に置いてあるのに気がついた。どれもみな見たところ新しい。
「これはみんなどうしたんだい? ジャップ」と私は尋ねた。
「うちの旦那《だんな》の鎌と鋤でがす、旦那さま」
「そりゃあそうだろう。が、どうしてここにあるんだね?」
「ウィル旦那がこの鎌と鋤を町へ行って買って来いってきかねえんでがす。眼の玉がとび出るほどお金《あし》を取られましただ」
「しかし、いったいぜんたい、お前のところの『ウィル旦那』は鎌や鋤なんぞをどうしようというのかね?」
「そりゃあわっし[#「わっし」に傍点]にゃあわからねえこっでさ。また、うちの旦那にだってやっぱしわかりっこねえにちげえねえ。だけど、なんもかもみんなあの虫のせえでがすよ」
 ジュピターは「あの虫」にすっかり自分の心を奪われているようなので、彼にはなにをきいても満足な答えを得られるはずがないということを知って、私はそれからボートに乗りこみ、出帆した。強い順風をうけて間もなくモールトリー要塞《ようさい》の北の小さい入江に入り、そこから二マイルほど歩くと小屋に着いた。着いたのは午後の三時ごろだった。ルグランは待ちこがれていた。彼は私の手を神経質な熱誠《アンプレスマン》をこめてつかんだので、私はびっくりし、またすでにいだいていたあの疑念を強くした。彼の顔色はもの凄《すご》いくらいにまで蒼白《あおじろ》く、深くくぼんだ眼はただならぬ光で輝いていた。彼の健康について二こと三こと尋ねてから、私は、なにを言っていいかわからなかったので、G――中尉《ちゅうい》からもう例の甲虫《かぶとむし》を返してもらったかどうかと尋ねた。
「もらったとも」彼は顔をさっと真っ赤にして答えた。「あの翌朝返してもらったんだ。もうどんなことがあろうと、あの甲虫を手放すものか。君、あれについてジュピターの言ったことはまったくほんとなんだぜ」
「どんな点がかね?」私は悲しい予感を心に感じながら尋ねた。
「あれをほんとうの黄金[#「ほんとうの黄金」に傍点]でできている虫だと想像した点がさ」彼はこの言葉を心から真面目《まじめ》な様子で言ったので、私はなんとも言えぬほどぞっとした。
「この虫が僕の身代をつくるのだ」と彼は勝ち誇ったような微笑を浮べながら言いつづけた。「僕の先祖からの財産を取り返してくれるのだ。とすると、僕があれを大切にするのも決して不思議じゃあるまい? 運命の神があれを僕に授けようと考えたからには、僕はただそれを適当に用いさえすればいいのだ。そうすればあれが手引きとなって僕は黄金のところへ着くだろうよ。ジュピター、あの甲虫を持ってきてくれ!」
「えっ! あの虫でがすか? 旦那。わっしはあの虫に手出ししたかあごぜえません、――ご自分で取りにいらっせえ」そこでルグランは真面目な重々しい様子で立ち上がり、甲虫の入れてあるガラス箱からそれを持ってきてくれた。それは美しい甲虫で、またその当時には博物学者にも知られていないもので、――むろん、科学的の見地から見て大した掘出し物だった。背の一方の端近くには円い、黒い点が二つあり、もう一方の端近くには長いのが一つある。甲は非常に堅く、つやつやしていて、見たところはまったく磨《みが》きたてた黄金のようであった。この虫の重さも大したもので、すべてのことを考え合せると、ジュピターがああ考えるのをとがめるわけにはゆかなかった。しかし、ルグランまでがジュピターのその考えに同意するのはなんと解釈したらいいか、私にはどうしてもわかりかねた。
「君を迎えにやったのはね」と彼は、私がその甲虫を調べてしまったとき、大げさな調子で言った。「君を迎えにやったのは、運命の神とこの甲虫との考えを成功させるのに、君の助言と助力とを願いたいと思って――」
「ねえ、ルグラン君」私は彼の言葉をさえぎって大声で言った。「君はたしかにぐあいがよくない。だから少し用心したほうがいいよ。寝たまえ。よくなるまで、僕は二、三日ここにいるから。君は熱があるし――」
「脈をみたまえ」と彼は言った。
 私は脈をとってみたが、実のところ、熱のありそうな様子はちっともなかった。
「しかし熱はなくても病気かもしれないよ。まあ、今度だけは僕の言うとおりにしてくれたまえ。第一に寝るのだ。次には――」
「君は思い違いをしている」と彼は言葉をはさんだ。「僕はいま罹《かか》っている興奮状態ではこれで十分健康なのだ。もし君がほんとうに僕の健康を願ってくれるなら、この興奮を救ってくれたまえ」
「というと、どうすればいいんだい?」
「わけのないことさ。ジュピターと僕とはこれから本土の山のなかへ探検に行くんだが、この探検には誰か信頼できる人の助けがいる。君は僕たちの信用できるただ一人なのだ。成功しても失敗しても、君のいま見ている僕の興奮は、とにかく鎮《しず》められるだろう」
「なんとかして君のお役に立ちたいと思う」と私は答えた。「だが、君はこのべらぼうな甲虫が君の探検となにか関係があるとでも言うのかい?」
「あるよ」
「じゃあ、ルグラン、僕はそんなばかげた仕事の仲間入りはできない」
「それは残念だ、――実に残念だ。――じゃあ僕ら二人だけでやらなくちゃあならない」
「君ら二人だけでやるって! この男はたしかに気が違っているぞ! ――だが待ちたまえ、――君はどのくらいのあいだ留守にするつもりなんだ?」
「たぶん一晩じゅうだ。僕たちはいまからすぐ出発して、ともかく日の出ごろには戻って来られるだろう」
「では君は、この君の酔狂がすんでしまって、甲虫一件がだ(ちぇっ!)、君の満足するように落着したら、そのときは家へ帰って、医者の勧告と同じに僕の勧告に絶対にしたがう、ってことを、きっと僕に約束するかね?」
「うん、約束する。じゃあ、すぐ出かけよう。一刻もぐずぐずしちゃあおられないんだから」
 気が進まぬながら私は友に同行した。我々は四時ごろに出発した、――ルグランと、ジュピターと、犬と、私とだ。ジュピターは大鎌と鋤とを持っていたが、――それをみんな自分で持って行くと言い張って肯《き》かなかったのは、過度の勤勉や忠実からというよりも、そのどちらの道具でも主人の手のとどくところに置くことを恐れるかららしく、私には思われた。彼の態度はひどく頑固《がんこ》で、みちみち彼の唇《くちびる》をもれるのは「あのいまいましい虫めが」という言葉だけであった。私はというと龕灯《がんどう》(9)を二つひきうけたが、ルグランは例の甲虫だけで満足していて、それを鞭索《むちなわ》の端にくくりつけ、歩きながら手品師のような格好でそいつをくるくる振りまわしていた。私は友の気のふれていることのこの最後の明白な証拠を見たときには、どうにも涙をとめることのできないくらいであった。しかし、少なくとも当分のあいだは、あるいは成功の見込みのありそうななにかもっと有力な手段をとることができるまでは、彼のしたいままにさせておくのがいちばんいい、と考えた。一方、探検の目的について彼にさぐりを入れてみたが、まるで駄目《だめ》だった。私をうまく同行させることができたので、彼はさして重要でない問題など話したくないらしく、なにを尋ねても「いまにわかるさ!」としか返事をしてくれなかった。
 我々は島のはずれの小川を小舟で渡り、それから本土の海岸の高地を登って、人の通らない非常に荒れはてた寂しい地域を、北西の方向へと進んだ。ルグランは決然として先頭に立ってゆき、ただ自分が前に来たときにつけておいた目標らしいものを調べるために、ところどころでほんのちょっとのあいだ立ち止るだけだった。
 こんなふうにして我々は約二時間ほど歩き、ちょうど太陽が沈みかけたときに、いままでに見たどこよりもずっともの凄い地帯へ入ったのであった。そこは一種の高原で、ほとんど登ることのできない山の頂上近くにあった。その山は麓《ふもと》から絶頂まで樹木がぎっしり生えていて、ところどころに巨岩が散らばっていて、その岩は地面の上にただごろごろころがっているらしく、たいていはよりかかっている樹木に支えられて、やっと下の谷底へ転落しないでいるのだ。さまざまな方向に走っている深い峡谷は、あたりの風景にいっそう凄然《せいぜん》とした森厳の趣をそえているのであった。
 我々のよじ登ったこの天然の高台には茨《いばら》が一面を蔽《おお》っていて、大鎌がなかったらとても先へ進むことができまいということがすぐわかった。ジュピターは主人の指図によって、途方もなく高い一本のゆりの木の根もとまで、我々のために道を切りひらきはじめた。そのゆりの木というのは八本から十本ばかりの樫《かし》の木とともにこの平地に立っていて、その葉や形の美しいこと、枝の広くひろがっていること、外観の堂々たることなどの点では、それらの樫の木のどれよりも、また私のそれまでに見たどんな木よりも、はるかに優《まさ》っているのであった。我々がこの木のところへ着いたとき、ルグランはジュピターの方へ振り向いて、この木によじ登れると思うかどうかと尋ねた。老人はこの問いにちょっとためらったようで、しばらくのあいだは返事をしなかった。とうとうその大きな幹に近づいて、まわりをゆっくり歩きまわって、念入りにそれを調べた。すっかり調べおえると、ただこう言った。
「ええ、旦那、ジャップの見た木で登れねえってえのはごぜえません」
「そんならできるだけ早く登ってくれ。じきに暗くなって、やることが見えなくなるだろうから」
「どこまで登るんですか? 旦那」とジュピターが尋ねた。
「まず大きい幹を登るんだ。そうすれば、どっちへ行くのか言ってやるから。――おい、――ちょっと待て! この甲虫を持ってゆくんだ」
「虫でがすかい! ウィル旦那。――あの黄金虫でがすかい!」とその黒人は恐ろしがって尻込《しりご》みしながら叫んだ。――「なんだってあんな虫を木の上まで持って上がらにゃなんねえでがす? ――わっしゃあそんなこと、まっぴらだあ!」
「ジャップ、お前が、お前みたいな大きな丈夫な黒んぼが、なにもしない、小さな、死んだ甲虫を持つのが怖いんならばだ、まあ、この紐《ひも》につけて持って行ってもいいさ。――だが、なんとかしてこいつを持って行かないんなら、仕方がないからおれはこのシャベルでお前の頭をたたき割らねばなるまいて」
「なんでごぜえます? 旦那」ジャップはいかにも恥ずかしがって承知しながら、言った。「しょっちゅう年寄りの黒んぼを相手に喧嘩《けんか》してばかりさ。ちょっと冗談を言っただけでがすよ。わっし[#「わっし」に傍点]があの虫を怖がるって! あんな虫ぐれえ、なんとも思うもんかねえ?」そう言って彼は用心深く紐のいちばん端をつかみ、できるだけ虫を自分の体から遠くはなして、木に登る用意をした。
 アメリカの森林樹のなかでもっとも荘厳なゆりの木、つまり Liriodendron Tulipiferum(訳注「ゆりの木」の学名)[#「訳注「ゆりの木」の学名」は割り注(2行に)]は、若木のときには、幹が奇妙になめらかで、横枝を出さずにしばしば非常な高さにまで生長する。しかし、年をとるにつれて、樹皮が瘤《こぶ》だらけになり、凹凸《おうとつ》ができる一方、たくさんの短い枝が幹にあらわれるのである。だから、いまの場合、よじ登る困難は、実際は見かけほどひどくないのであった。大きな円柱形の幹を両腕と両膝《りょうひざ》とでできるだけしっかり抱き、手でどこかとび出たところをつかんで、素足の指を別のにかけながら、ジュピターは、一、二度落ちそうになったのをやっとまぬかれたのち、とうとう最初の大きな樹《き》の股《また》のところまで這《は》い登ってゆき、もう仕事は実質的にはすっかりすんでしまったと考えたらしかった。地上から約六、七十フィートばかり登ったのではあるけれど、木登りの危険[#「危険」に傍点]は事実もう去ったのだ。
「今度はどっちへ行くんでがす? ウィル旦那」と彼は尋ねた。
「やっぱりいちばん大きな枝を登るんだ、――こっち側のだぞ」とルグランが言った。黒人はすぐその言葉にしたがって、なんの苦もなさそうに、だんだん高く登ってゆき、とうとう彼のずんぐりした姿は、そのまわりの茂った樹の葉のあいだから少しも見えなくなってしまった。やがて彼の声が、遠くから呼びかけるように聞えてきた。
「まだどのくれえ登るんでがすかい?」
「どれくらい登ったんだ?」とルグランがきいた。
「ずいぶん高うがす」と黒人が答えた。「木のてっぺんの隙間《すきま》から空が見えますだ」
「空なんかどうでもいい。がおれの言うことをよく聞けよ。幹の下の方を見て、こっち側のお前の下の枝を勘定してみろ。いくつ枝を越したか?」
「一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、――五つ越しましただ、旦那、こっち側ので」
「じゃあもう一つ枝を登れ」
 しばらくたつとまた声が聞えて、七本目の枝へ着いたと知らせた。
「さあ、ジャップ」とルグランは、明らかに非常に興奮して、叫んだ。「その枝をできるだけ先の方まで行ってくれ。なにか変ったものがあったら、知らせるんだぞ」
 このころには、哀れな友の発狂について私のいだいていたかすかな疑いも、とうとうまったくなくなってしまった。彼は気がふれているのだと断定するよりほかなかった。そして彼を家へ連れもどすことについて、本気に気をもむようになった。どうしたらいちばんいいだろうかと思案しているうちに、ジュピターの声が聞えてきた。
「この枝をうんと先の方までゆくのは、おっかねえこっでがす。ずっと大概《てえげえ》枯枝でがすよ」
「枯枝だと言うのかい? ジュピター」とルグランは震え声で叫んだ。
「ええ、旦那、枯れきってまさ、――たしかに参《めえ》ってますだ、――この世からおさらばしてますだ」
「こいつあいったい、どうしたらいいだろうなあ?」とルグランは、いかにも困りきったらしく、言った。
「どうするって!」と私は、口を出すきっかけができたのを喜びながら、言った。「うちへ帰って寝るのさ。さあさあ! ――そのほうが利口だ。遅くもなるし、それに、君はあの約束を覚えてるだろう」
「ジュピター」と彼は、私の言うことには少しも気をとめないで、どなった。「おれの言うことが聞えるか?」
「ええ、ウィル旦那《だんな》、はっきり聞えますだ」
「じゃあ、お前のナイフで木をよっくためして、ひどく[#「ひどく」に傍点]腐ってるかどうか見ろ」
「腐ってますだ、旦那、やっぱし」としばらくたってから黒人が答えた。「だけど、そんなにひどく腐ってもいねえ。わっしだけなら、枝のもう少し先まで行けそうでがすよ、きっと」
「お前だけならって! そりゃあどういうことなんだ?」
「なあに、虫のこっでがすよ。とっても[#「とっても」に傍点]重てえ虫でさ。こいつを先に落せば、黒んぼ一人ぐれえの重さだけにゃあ、枝は折れますめえ」
「このいまいましい馬鹿《ばか》野郎!」とルグランは、よほどほっとしたような様子で、どなった。「なんだってそんなくだらんことを言うんだ? その甲虫を落したが最後、お前のくびをへし折ってくれるぞ。こら、ジュピター! おれの言うことが聞えるか?」
「聞えますだ、旦那。かわいそうな黒んぼにそんなふうにどならなくてもようがすよ」
「よしよし! じゃあよく聞け! ――もしお前が、その甲虫を放さないで、危なくないと思うところまでその枝をずっと先の方へ行くなら、降りて来たらすぐ、一ドル銀貨をくれてやるぞ」
「いま行ってるところでがす、ウィル旦那、――ほんとに」と黒人はすばやく答えた。――「もうおおかた端っこのとこでさ」
「端っこのところ[#「端っこのところ」に傍点]だって!」と、そのときルグランはまったく金切り声をたてた。「お前はその枝の端っこのところまで行ったと言うのか?」
「もうじき端っこでがすよ。旦那。――わあ! おったまげただ! 木の上のここんとこにあるのあなんだろう[#「だろう」に傍点]?」
「よしよし!」ルグランは非常に喜んで叫んだ。「そりゃあなんだ?」
「なあに、髑髏《しゃれこうべ》でごぜえますよ。――誰か木の上に自分の頭を置いて行ったんで、鴉《からす》がその肉をみんなくらってしまったんでがす」
「髑髏だと言ったな! ――上等上等! ――それはどうして枝に結びつけてあるかい? ――なんでとめてあるかい?」
「なるほど、旦那。見やしょう。やあ、こりゃあたしかになんと不思議なこった。――髑髏のなかにゃでっけえ釘《くぎ》があって、それで木にくっついてますだ」
「よし、ジュピター、おれの言うとおりにするんだぞ。――わかるか?」
「ええ、旦那」
「じゃあ、よく気をつけろ! ――髑髏の左の眼《め》を見つけるんだ」
「ふうん! へえ! ようがす! ええっと、眼なんてちっとも残っていねえんでがすが」
「このまぬけめが! お前は自分の右の手と左の手の区別を知ってるか?」
「ええ、そりゃあ知ってますだ、――よく知ってますだ、――わしが薪《まき》を割るのが左の手でがす」
「なるほど! お前は左ききだっけな。で、お前の左の眼は、お前の左の手と同じ方にあるんだぞ。とすると、お前にゃあ髑髏の左の眼が、というのはもと左の眼のあったところだが、わかるだろう。見つけたか?」
 ここで長い合間があった。とうとう黒人が尋ねた。
「髑髏の左の眼もやっぱり髑髏の左の手と同じ側にあるんでがすかい? ――でも髑髏にゃあ手なんてちっともねえだ。――なあに、かまわねえ! いま、左の眼を見つけましただ。――ここが左の眼だ! これをどうするんでがすかい?」
「そこから甲虫《かぶとむし》を通しておろすんだ。紐ののばせるだけな。――だが、気をつけてつかんでいる紐をはなさんようにするんだぞ」
「すっかりやりましただ、ウィル旦那。この穴から虫を通すなあわけのねえこっでさあ。――下から見てくだせえ!」
 この会話のあいだじゅう、ジュピターの体は少しも見えなかった。が、彼のおろした甲虫は、いま、紐の端に見えてきて、我々の立っている高台をまだほのかに照らしている落陽の名残の光のなかに、磨《みが》きたてた黄金の球のようにきらきら輝いていた。甲虫はどの枝にもひっかからないでぶら下がっていて、落せば我々の足もとへ落ちて来たろう。ルグランはすぐに大鎌《おおがま》を取り、それで虫の真下に直径三、四ヤードの円い空地を切りひらき、それをやってしまうと、ジュピターに紐をはなして木から降りて来いと命じた。
 ちょうどその甲虫の落ちた地点に、すこぶる精確に杭《くい》を打ちこむと、友は今度はポケットから巻尺を取り出した。それの一端を杭にいちばん近いその木の幹の一点に結びつけてから、彼はそれを杭にとどくまでのばし、そこからさらに、木と杭との二点でちゃんと確定された方向に、五十フィートの距離までのばした。――そのあいだをジュピターが大鎌で茨を刈り取る。こうして達した地点に第二の杭が打ちこまれ、それを中心にして直径四ヤードばかりのぞんざいな円が描かれた。それからルグランは、自分で一|梃《ちょう》の鋤《すき》を取り、ジュピターに一梃、私に一梃渡して、できるだけ速く掘りにかかってくれと頼んだ。
 実を言うと、私はもともとこんな道楽には特別の趣味を持っていなかったし、ことにそのときには進んで断わりたかったのだ。というのは、だんだん夜は迫って来るし、それにこれまでの運動でずいぶん疲れてもいたから。しかし、のがれる方法もなかったし、また拒絶してかわいそうな友の心の平静をみだしたりすることを恐れた。もしジュピターの助けをほんとに頼りにできるなら、私はさっそくこの狂人を無理にも連れて帰ろうとしたろう。だが、その年寄りの黒人の性質を十分にのみこんでいるので、私が彼の主人と争うようなときには、どんな場合にしろ、私に味方をしてくれようとは望めないのであった。私は、ルグランが金《かね》が埋められているというあの南部諸州に無数にある迷信のどれかにかぶれていて、また例の甲虫を発見したことのために、あるいはおそらくジュピターがそれをしきりに「ほんとうの黄金でできている虫」だと言い張ったことのために、彼の空想がいよいよ強められているのだ、ということを疑わなかった。いったい、発狂しやすい人間というものはそういう暗示には造作なくかかりがちなもので、ことにそれが前から好んで考えていることと一致する場合にはなおさらである。それから私はこの気の毒な男が甲虫を「自分の身代の手引き」だと言ったことを思い出した。とにかく、私はむしょうにいらいらし、また途方に暮れた。が、しまいにはとうとう、やむを得ぬことと諦《あきら》めて気持よくやろう――本気で掘って、そうして早くこの空想家に目《ま》のあたり証拠を見せつけて、彼のいだいている考えのまちがっていることを納得させてやろう――と心に決めたのであった。
 角灯に火をつけて、我々一同は、こんなことよりはもっとわけのわかった事がらにふさわしいような熱心さをもって仕事にとりかかった。そして、火影が我々の体や道具を照らしたとき、私は、我々がどんなに絵のような一群をなしているだろう、また、偶然に我々のいるところを通りかかる人があったら、その人には我々のやっていることがどんなにか奇妙にも、おかしくも見えるにちがいない、ということを考えないではいられなかった。
 二時間のあいだ我々は脇目《わきめ》もふらずに掘った。ほとんどものも言わなかった。いちばん困ったことは犬のきゃんきゃん啼《な》きたてることだった。犬は我々のしていることを非常に面白がっているのだ。しまいにはそれがあまり騒々しくなったので、誰か付近をうろついている者どもに聞きとがめられはしまいかと気づかった。――いや、もっと正確に言えば、これはルグランの気がかりであったのだ。――なぜなら、私としては、どんな邪魔でも入ってこの放浪者を連れかえることができるならむしろ喜んだろうから。とうとう、そのやかましい声をジュピターがたいへんうまく黙らせてしまった。彼は、いかにもしかつめらしく考えこんだような様子をしながら穴から出て、自分の片方のズボン吊《つ》りで犬の口をしばりあげ、それから低くくすくす笑いながら、また自分の仕事にかかった。
 その二時間がたってしまうと、我々は五フィートの深さに達したけれども、やはり宝などのあらわれて来そうな様子もなかった。一同はそれからちょっと休んだ。そして私はこの茶番狂言もいよいよおしまいになればいいがと思いはじめた。しかしルグランは、明らかにひどく面くらってはいたけれど、もの思わしげに額をぬぐうと、またふたたび鋤を取りはじめた。それまでに我々は直径四フィートの全円を掘ってしまっていたのだが、今度は少しその範囲を大きくし、さらに二フィートだけ深く掘った。それでもやはりなにもあらわれて来なかった。あの黄金探索者は、私は心から彼を気の毒に思ったが、とうとう、顔一面にはげしい失望の色を浮べながら穴から這い上がり、仕事を始めるときに脱ぎすてておいた上衣《うわぎ》を、のろのろといやいやながら着はじめた。そのあいだ私はなにも言わなかった。ジュピターは主人の合図で道具を寄せはじめた。それがすんでしまい、犬の口籠《くつご》をはずしてやると、我々は黙りこくって家路へとついた。
 その方向へたしか十歩ばかり歩いたとき、ルグランは大きな呪《のろ》いの声をあげながら、ジュピターのところへ大股につかつかと歩みより、彼の襟頸《えりくび》をひっつかんだ。びっくりした黒人は眼と口とをできるだけ大きく開き、鋤を落して、膝をついた。
「この野郎!」ルグランは食いしばった歯のあいだから一こと一ことを吐き出すように言った。――「このいまいましい黒んぼの悪党め! ――さあ、言え! ――おれの言うことにいますぐ返事をしろ、ごまかさずに! ――どっちが――どっちがお前の左の眼だ?」
「ひぇっ! ご免くだせえ、ウィル旦那。こっちがたしかにわっしの左の眼でがしょう?」とどぎもを抜かれたジュピターは、自分の右の眼[#「右の眼」に傍点]に手をあてて、主人がいまにもそれをえぐり取りはしないかと恐れるように、必死になってその眼をおさえながら、叫んだ。
「そうだろうと思った! ――おれにゃあわかっていたんだ! しめたぞ!」とルグランはわめくと、黒人を突きはなして、つづけざまに跳び上がったりくるくるまわったりしたので、下男はびっくり仰天して、立ち上がりながら、無言のまま主人から私を、また私から主人をと眺《なが》めかえした。
「さあ! あともどりだ」とルグランは言った。「まだ勝負はつかないんだ」そして彼はふたたび先に立って、あのゆりの木の方へ行った。
「ジュピター」と、我々がその木の根もとのところへ来ると、彼は言った。「ここへ来い! 髑髏は顔を外にして枝に打ちつけてあったか、それとも顔を枝の方へ向けてあったか?」
「顔は外へ向いていましただ、旦那。だから鴉は造作なく眼を突っつくことができたんでがす」
「よし。じゃあ、お前が甲虫を落したのは、こっちの眼からか、それともそっちの眼からか?」――と言いながら、ルグランは、ジュピターの両方の眼に一つ一つ触ってみせた。
「こっちの眼でがす、旦那。――左の眼で、あんたさまのおっしゃったとおりに」と言って黒人の指したのは彼の右の眼だった。
「それでよし。――もう一度やり直しだ」
 こうなると、私は友の狂気のなかにもなにかある方法らしいもののあることがわかった。あるいは、わかったような気がした。彼は甲虫の落ちた地点を標示する例の杭を、もとの位置から三インチばかり西の方へ移した。それから、前のように巻尺を幹のいちばん近い点から杭までひっぱり、それをさらに一直線に五十フィートの距離までのばして、さっき掘った地点から数ヤード離れた場所に目標を立てた。
 その新しい位置の周囲に、前のよりはいくらか大きい円を描き、ふたたび我々は鋤を持って仕事にとりかかった。私はおそろしく疲れていた。が、なにがそういう変化を自分の気持に起させたのかちっともわからなかったけれど、もう課せられた労働が大して厭《いや》ではなくなった。私は奇妙に興味を感じてきた。――いや、興奮をさえ感じてきた。おそらく、ルグランのすべての突飛な振舞いのなかには、なにかあるもの――なにか先見とか熟慮とかいったような様子――があって、それが私の心を動かしたのであろう。私は熱心に掘った。そしてときどき、期待に似たようなある心持で、不幸な友を発狂させたあの空想の宝を、実際に待ちうけている自分に、ふと気がつくことがあった。そういう妄想《もうそう》がすっかり私の心をとらえていたとき、そして掘りはじめてからたぶん一時間半もたったころ、我々はふたたび犬のはげしく吠《ほ》える声に邪魔された。前に犬が騒ぎたてたのはあきらかにふざけたがりか気まぐれからであったが、今度ははげしい真剣な調子だった。ジュピターがまた口籠をかけようとすると、犬ははげしく抵抗し、穴のなかへ跳びこんで、狂ったように爪《つめ》で土をひっかいた。そして数秒のうちに、一塊の人骨を掘り出したが、それは二人分の完全な骸骨《がいこつ》をなすもので、数個の金属性のボタンと、毛織物の腐って塵《ちり》になったのらしく見えるものとが、それにまじっていた。鋤を一、二度打ちこむと、大きなスペイン短剣《ナイフ》の刀身がひっくり返って出た。それからさらに掘ると、ばらばらの金貨や銀貨が三、四枚あらわれた。
 これを見ると、ジュピターの喜びはほとんど抑えきれぬくらいだった。が、彼の主人の顔はひどい失望の色を帯びた。しかし、彼はもっと努力をつづけてくれと我々を励ましたが、その言葉が言い終るか終らぬうちに、私はつまずいてのめった。自分の長靴《ながぐつ》の爪先《つまさき》を、ばらばらの土のなかに半分埋まっていた大きな鉄の鐶《かん》にひっかけたのだ。
 我々はいまや一所懸命に掘った。そして私はかつてこれ以上に強烈な興奮の十分間を過したことがない。その十分間に、我々は一つの長方形の木製の大箱をすっかり掘り出したのだ。この箱は、それが完全に保存されていることや、驚くべき堅牢《けんろう》さを持っていることなどから考えると、明らかになにかある鉱化作用――たぶん塩化第二水銀の鉱化作用――をほどこされているのであった。長さは三フィート半、幅は三フィート、深さは二フィート半あった。鍛鉄《たんてつ》の箍《たが》でしっかりと締め、鋲《びょう》を打ってあって、全体に一種の格子《こうし》細工をなしている。箱の両側の、上部に近いところに、鉄の鐶が三つずつ――みんなで六つ――あり、それによって六人でしっかり持つことができるようになっている。我々が一緒になってあらんかぎりの力を出してみたが、底をほんの少しばかりずらすことができただけであった。こんな恐ろしく重いものはとうてい動かせないということがすぐにわかった。ありがたいことには、蓋《ふた》を留めてあるのは二本の抜き差しのできる閂《かんぬき》だけだった。不安のあまりぶるぶる震え、息をはずませながら――我々はその閂を引き抜いた。とたちまち、価《あたい》も知れぬほどの財宝が我々の眼前に光りきらめいて現われた。角灯の光が穴のなかへ射《さ》したとき、雑然として積み重なっている黄金宝石の山から、実に燦爛《さんらん》たる光輝が照りかえして、まったく我々の眼を眩《くら》ませたのであった。
 それを眺めたときの心持を私は書きしるそうとはしまい。驚きが主だったことは言うまでもない。ルグランは興奮のあまりへとへとになっているようで、ほとんど口もきかなかった。ジュピターの顔はちょっとのあいだ黒人の顔としてはこれ以上にはなれないほど、死人のように蒼白《あおじろ》くなった。彼はあっけにとられて――胆《きも》をつぶしているらしかった。やがて彼は穴のなかに膝《ひざ》をついて、袖《そで》をまくり上げた両腕を肘《ひじ》のところまで黄金のなかに埋め、ちょうど湯に入って好い気持になってでもいるように、腕をそのままにしていた。とうとう、深い溜息《ためいき》をつきながら、独言《ひとりごと》のように叫んだ。
「で、こりゃあみんなあの黄金虫からなんだ! あのきれいな黄金虫! わっしがあんなに乱暴に悪口言った、かわいそうなちっちぇえ黄金虫からなんだ! お前《めえ》は恥ずかしくねえか? 黒んぼ、――返事してみろ!」
 とうとう、私は主従の二人をうながして財宝を運ぶようにさせなければならなくなった。夜はだんだん更《ふ》けて来るし、夜明け前になにもかもみんな家へ持ってゆくには、一働きする必要があったのだ。が、どうしたらいいかなかなかわからず、考えるのにずいぶん長く時間がかかった。――それほど一同の頭は混乱していたのだ。とうとう、なかにある物の三分の二を取り出して箱を軽くすると、どうにか穴から引き揚げることができた。取り出した品物は茨《いばら》のあいだに置いて、その番をさせるために犬を残し、我々が帰って来るまでは、どんなことがあってもその場所から離れぬよう、また口を開かぬようにと、ジュピターから犬にきびしく言いつけた。それから我々は箱を持って急いで家路についた。そして無事に、だが非常に骨を折ったのちに、小屋へ着いたのは、午前一時だった。疲れきっていたので、すぐまたつづけて働くということは人間業ではできないことだった。我々は二時まで休み、食事をとった。それからすぐ、幸いに家のなかにあった三つの丈夫な袋をたずさえて、山に向って出発した。四時すこし前にさっきの穴へ着き、残りの獲物を三人にできるだけ等分に分け、穴は埋めないままにして、ふたたび小屋へと向ったが、二度目に我々の黄金の荷を小屋におろしたのは、ちょうど曙《あけぼの》の最初の光が東の方の樹々《きぎ》の頂から輝きだしたころであった。
 一同はもうすっかりへたばっていた。が、はげしい興奮が我々を休息させなかった。三、四時間ばかりうとうとと眠ると、我々は、まるで申し合せてでもあったように、財宝を調べようと起き上がった。
 箱は縁のところまでいっぱいになっていて、その内容を吟味するのに、その日一日と、その夜の大部分がかかった。秩序とか排列とかいったようなものは少しもなかった。なにもかも雑然と積み重ねてあった。すべてを念入りに択《え》り分けてみると、初めに想像していたよりももっと莫大《ばくだい》な富が手に入ったことがわかった。貨幣では四十五万ドル以上もあった。――これは一つ一つの価格を、当時の相場表によって、できるだけ正確に値ぶみしてである。銀貨は一枚もなかった。みんな古い時代の金貨で、種類も種々様々だった。――フランスや、スペインや、ドイツの貨幣、それにイギリスのギニー金貨(10)が少し、また、これまで見本を見たこともないような貨幣もあった。ひどく磨《す》りへっているので、刻印のちっとも読めない、非常に大きくて重い貨幣もいくつかあった。アメリカの貨幣は一つもなかった。宝石の価格を見積るのはいっそう困難だった。金剛石《ダイヤモンド》は――そのなかにはとても大きい立派なものもあったが――みんなで百十個あり、小さいのは一つもない。すばらしい光輝をはなつ紅玉《ルビー》が十八個、緑柱玉《エメラルド》が三百十個、これはみなきわめて美しい。青玉《サファイア》が二十一個と、蛋白石《オパール》が一個。それらの宝石はすべてその台からはずして、箱のなかにばらばらに投げこんであった。ほかの黄金のあいだから択り出したその台のほうは、見分けのつかぬようにするためか、鉄鎚《かなづち》で叩きつぶしたものらしく見えた。これらすべてのほかに、非常にたくさんの純金の装飾品があった。つまり、どっしりした指輪やイヤリングがかれこれ二百。立派な首飾り、――これはたしか三十あったと記憶する。とても大きな重い十字架が八十三個。非常な価格の香炉が五個。葡萄《ぶどう》の葉と酔いしれて踊っている人々の姿とを見事に浮彫りした大きな黄金のポンス鉢《ばち》が一個。それから精巧に彫りをした刀剣の柄《つか》が二本と、そのほか、思い出すことのできないたくさんの小さな品々。これらの貴重品の重量は三百五十ポンドを超えていた。そしてこの概算には百九十七個のすばらしい金時計が入っていないのだ。そのなかの三個はたしかにそれぞれ五百ドルの価はある。時計の多くは非常に古くて、機械が腐食のために多少ともいたんでいるので、時を測るものとしては無価値であった。が、どれもこれも皆たくさんの宝石をちりばめ、高価な革に入っていた。この箱の全内容を、その夜、我々は百五十万ドルと見積った。ところが、その後、その装身具や宝石類を(いくつかは我々自身が使うのに取っておいたが)売り払ってみると、我々がこの財宝をよほど安く値ぶみしていたことがわかったのだった。
 いよいよ調べが終って、はげしい興奮がいくらか鎮《しず》まると、ルグランは、私がこの不思議きわまる謎《なぞ》の説明を聞きたくてたまらないでいるのを見て、それに関するいっさいの事情を詳しく話しはじめたのだ。
「君は覚えているだろう」と彼は言った。「僕が甲虫《かぶとむし》の略図を描《か》いて君に渡したあの晩のことを。また、君が僕の描いた絵を髑髏《どくろ》に似ていると言い張ったのに僕がすっかり腹を立てたことも、思い出せるだろう。初め君がそう言ったときには、僕は君が冗談を言っているのだと思ったものだ。だがその後、あの虫の背中に妙な点があるのを思い浮べて、君の言ったことにも少しは事実の根拠がないでもないと内心認めるようになった。でも、君が僕の絵の腕前を冷やかしたのが癪《しゃく》だった。――僕は絵が上手だと言われているんだからね。――だから、君があの羊皮紙の切れっぱしを渡してくれたとき、僕はそいつを皺《しわ》くちゃにして、怒って火のなかへ投げこもうとしたんだ」
「あの紙の切れっぱしのことだろう」と私が言った。
「いいや。あれは見たところでは紙によく似ていて、最初は僕もそうかと思ったが、絵を描いてみると、ごく薄い羊皮紙だということにすぐ気がついたよ。覚えているだろう、ずいぶんよごれていたね。ところで、あれをちょうど皺くちゃにしようとしていたとき、君の見ていたあの絵がちらりと僕の眼にとまったのさ。で、自分が甲虫の絵を描いておいたと思ったちょうどその場所に、事実、髑髏の図を認めたときの僕の驚きは、君にも想像できるだろう。ちょっとのあいだ、僕はあんまりびっくりしたので、正確にものを考えることができなかった。僕は、自分の描いた絵が、大体の輪郭には似ているところはあったけれども――細かい点ではそれとはたいへん違っていることを知った。やがて蝋燭を取って、部屋の向う隅《すみ》へ行って腰をかけ、その羊皮紙をもっとよく吟味しはじめた。ひっくり返してみると、僕の絵が自分の描いたとおりにその裏にあるのだ。そのときの僕の最初の感じは、ただ、両方の絵の輪郭がまったくよく似ているということにたいする驚きだった。――羊皮紙の反対の側に、僕の描いた甲虫の絵の真下に、僕の眼《め》につかずに頭蓋骨《ずがいこつ》があり、この頭蓋骨の輪郭だけではなく、大きさまでが、僕の絵によく似ている、という事実に含まれた不思議な暗合にたいする驚きだった。この暗合の不思議さはしばらくのあいだ僕をまったく茫然《ぼうぜん》とさせたよ。これはこういうような暗合から起る普通の結果なんだ。心は連絡を――原因と結果との関連を――確立しようと努め、それができないので、一種の一時的な麻痺《まひ》状態に陥るんだね。だが、僕がこの茫然自失の状態から回復すると、その暗合よりももっともっと僕を驚かせた一つの確信が、心のなかにだんだんと湧《わ》き上がってきたんだ。僕は、甲虫の絵を描いたときには羊皮紙の上になんの絵もなかった[#「なかった」に傍点]ことを、明瞭《めいりょう》に、確実に、思い出しはじめた。僕はこのことを完全に確かだと思うようになった。なぜなら、いちばんきれいなところを捜そうと思って、初めに一方の側を、それから裏をと、ひっくり返してみたことを、思い出したからなんだ。もし頭蓋骨がそのときそこにあったのなら、もちろん見のがすはずがない。この点に、実際、説明のできないと思われる神秘があった。が、そのときもうはや、僕の知力のいちばん奥深いところでは、昨夜の冒険であんなに見事に証明されたあの事実の概念が、蛍火《ほたるび》のように、かすかに、ひらめいたようだった。僕はすぐ立ち上がり、羊皮紙を大事にしまいこんで、一人になるまでそれ以上考えることはいっさいやめてしまった。
 君が帰ってゆき、ジュピターがぐっすり眠ってしまうと、僕はその事がらをもっと順序立てて研究することに着手した。まず第一に、羊皮紙がどうして自分の手に入ったかということを考えてみた。僕たちがあの甲虫を発見した場所は、島の東の方一マイルばかりの本土の海岸で、満潮点のほんの少し上のところだった。僕がつかまえると、強く咬《か》みついたので、それを落した。ジュピターはいつもの用心深さで、自分の方へ飛んできたその虫をつかむ前に、樹の葉か、なにかそういったようなものを捜して、それでつかまえようと、あたりを見まわした。彼の眼と、それから僕の眼とが、あの羊皮紙の切れっぱしにとまったのは、この瞬間だった。もっとも、そのときはそれを紙だと思っていたがね。それは砂のなかになかば埋まっていて、一つの隅だけが出ていた。それを見つけた場所の近くに、僕は帆船の大短艇《ロング・ボート》らしいものの残骸を認めた。その難破船はよほど長いあいだそこにあるものらしかった。というのは、ボートの用材らしいということがやっとわかるほどだったから。
 さて、ジュピターがその羊皮紙を拾い上げ、甲虫をそのなかに包んで、僕に渡してくれた。それから間もなく僕たちは家へ帰りかけたが、その途中でG――中尉《ちゅうい》に会った。虫を見せたところ、要塞《ようさい》へ借りて行きたいと頼むのだ。僕が承知すると、彼はすぐにその虫を、それの包んであった羊皮紙のなかへ入れないで、そのまま自分のチョッキのポケットのなかへ突っこんでしまった。その羊皮紙は彼が虫を調べているあいだ僕が手に持っていたのさ。たぶん、彼は僕の気が変るのを恐れて、すぐさま獲物をしまってしまうほうがいいと考えたんだろうよ。――なにしろ君も知っているとおり、あの男は博物学に関することならなんでもまるで夢中だからね。それと同時に、僕はなんの気なしに、羊皮紙を自分のポケットのなかへ入れたにちがいない。
 僕が甲虫の絵を描こうと思って、テーブルのところへ行ったとき、いつも置いてあるところに紙が一枚もなかったことを、君は覚えているね。引出しのなかを見たが、そこにもなかった。古手紙でもないかと思ってポケットを捜すと、そのとき、手があの羊皮紙に触れたのだ。あれが僕の手に入った正確な経路をこんなに詳しく話すのは、その事情がとくに強い印象を僕に与えたからなんだよ。
 きっと君は僕が空想を駆りたてているのだと思うだろう、――が、僕はもうとっくに連絡[#「連絡」に傍点]を立ててしまっていたのだ。大きな鎖の二つの輪を結びつけてしまったのだ。海岸にボートが横たわっていて、そのボートから遠くないところに頭蓋骨の描いてある羊皮紙――紙ではなくて[#「紙ではなくて」に傍点]――があったんだぜ。君はもちろん、『どこに連絡があるのだ?』と問うだろう。僕は、頭蓋骨、つまり髑髏は誰でも知っているとおり海賊の徽章《きしょう》だと答える。髑髏の旗は、海賊が仕事をするときにはいつでも、かかげるものなのだ。
 僕は、その切れっぱしが羊皮紙であって、紙ではないと言ったね。羊皮紙は持ちのいいもので――ほとんど不滅だ。ただ普通絵を描いたり字を書いたりするには、とても紙ほど適していないから、大して重要ではない事がらはめったに羊皮紙には書かない。こう考えると、髑髏になにか意味が――なにか適切さが――あることに思いついた。僕はまたその羊皮紙の形[#「形」に傍点]にも十分注意した。一つの隅だけがなにかのはずみでちぎれてしまっていたけれど、もとの形が長方形であることはわかった。実際、それはちょうど控書として――なにか長く記憶し大切に保存すべきことを書きしるすものとして――選ばれそうなものなんだ」
「しかしだね」と私が言葉をはさんだ。「君は、甲虫の絵を描いたときにはその頭蓋骨は羊皮紙の上になかった[#「なかった」に傍点]と言う。とすると、どうしてボートと頭蓋骨のあいだに連絡をつけるんだい? ――その頭蓋骨のほうは、君自身の認めるところによれば、(どうして、また誰によって、描かれたか、ということはわからんが)君が甲虫を描いたのちに描かれたにちがいないんだからねえ」
「ああ、そこに全体の神秘がかかっているんだよ。もっとも、この点では、その秘密を解決するのは僕には比較的むずかしくはなかったがね。僕のやり方は確実で、ただ一つの結論しか出てこないのだ。たとえば、僕はこんなふうに推理していったんだ。僕が甲虫を描いたときには頭蓋骨は少しも羊皮紙にあらわれていなかった。絵を描きあげると僕はそれを君に渡し、君が返すまでじっと君を見ていた。だから君が[#「君が」に傍点]あの頭蓋骨を描いたんじゃないし、またほかにそれを描くような者は誰も居合わさなかった。してみると、それは人間業で描かれたんじゃない。それにもかかわらず描いてあったんだ。
 ここまで考えてくると、僕はそのときの前後に起ったあらゆる出来事を、十分はっきり思い出そうと努め、また実際[#「実際」に傍点]思い出したのだ。気候のひえびえする日で(ほんとに珍しいことだった!)炉には火がさかんに燃えていた。僕は歩いてきたので体がほてっていたから、テーブルのそばに腰かけていた。だが君は椅子《いす》を炉のすぐ近くへひきよせていた。僕が君の手に羊皮紙を渡し、君がそれを調べようとしたちょうどそのとき、あのニューファウンドランド種のウルフの奴《やつ》が入ってきて、君の肩に跳びついた。君は左手で犬を撫《な》で、また遠ざけながら、羊皮紙を持った右の手を無頓着《むとんじゃく》に膝のあいだの、火のすぐ近くのところへ垂れた。一時はそれに火がついたかと思ったので、君に注意しようとしたが、僕が言いださないうちに君はそれをひっこめて、調べにかかったのだ。こういうすべての事がらを考えたとき、僕は、熱[#「熱」に傍点]こそ羊皮紙にその頭蓋骨をあらわさせたものだということを少しも疑わなかったんだよ。君もよく知っているとおり、紙なり皮紙《ヴェラム》なりに文字を書き、火にかけたときにだけその文字が見えるようにできる化学的薬剤があるし、またずっと昔からあった。不純酸化コバルトを王水《アクア・リージア》に浸し、その四倍の重量の水に薄めたものが、ときどき用いられる。すると緑色が出る。コバルトの※[#「金+皮」、第3水準1-93-7]《ひ》(11)を粗製硝酸に溶かしたものだと、赤色が出る。これらの色は、文字を書いた物質が冷却すると、そののち速い遅いの差はあっても、消えてしまう。が、火にあてると、ふたたびあらわれてくるのだ。
 僕はそこで今度はその髑髏をよくよく調べてみた。と、外側の端のほう――皮紙の端にいちばん近い絵の端のほう――は、ほかのところよりはよほどはっきり[#「はっきり」に傍点]している。火気の作用が不完全または不平等だったことは明らかだ。僕はすぐ火を焚《た》きつけて、羊皮紙のあらゆる部分を強い熱にあててみた。初めは、ただ髑髏のぼんやりした線がはっきりしてきただけだった。が、なおも辛抱強くその実験をつづけていると、髑髏を描いてある場所の斜め反対の隅っこに、最初は山羊《やぎ》だろうと思われる絵が見えるようになってきた。しかし、もっとよく調べてみると、それは仔山羊《キッド》のつもりなのだということがわかった」
「は、は、は!」私は言った。「たしかに僕には君を笑う権利はないが、――百五十万という金は笑いごとにしちゃああんまり重大だからねえ、――だが君は、君の鎖の第三の輪をこさえようとしているんじゃあるまいね。海賊と山羊とのあいだにはなにも特別の関係なんかないだろう。海賊は、ご承知のとおり、山羊なんかには縁はないからな。山羊ならお百姓さんの畑だよ」
「しかし僕はいま、その絵は山羊じゃない[#「ない」に傍点]と言ったぜ」
「うん、そんなら仔山羊《キッド》だね、――まあ、ほとんど同じものさ」
「ほとんどね。だが、まったく同じものじゃない」とルグランが言った。「君はキッド船長[#「船長」に傍点]という男の話を聞いたことがあるだろう。僕はすぐこの動物の絵を、地口《じぐち》の署名か、象形文字の署名、といったようなものだと見なしたんだ。署名だというわけは、皮紙《ヴェラム》の上にあるその位置がいかにもそう思わせたからなんだよ。その斜め反対の隅にある髑髏も、同じように、印章とか、印判とかいうふうに見えた。しかし、そのほかのものがなに一つないのには、――書類だろうと自分の想像したものの主体――文の前後にたいする本文――がないのには、僕もまったく弱ったね」
「君は印章と署名とのあいだに手紙でも見つかると思ったんだろう」
「まあ、そういったようなことさ。実を言うと、僕はなにかしらすばらしい好運が向いてきそうな予感がしてならなかったんだ。なぜかってことはほとんど言えないがね。つまり、たぶん、それは実際の信念というよりは願望だったのだろう。――だが、あの虫を純金だと言ったジュピターのばかげた言葉が僕の空想に強い影響を及ぼしたんだよ。それからまた、つぎつぎに起った偶然の出来事と暗合、――そういうものがまったく実に[#「実に」に傍点]不思議だった。一年じゅうで火の要るほど寒い日はその日だけと、あるいはその日だけかもしれんと、思われるその[#「その」に傍点]日に、ああいう出来事が起ったということ、また、その火がなかったら、あるいはちょうどあの瞬間に犬が入って来なかったなら、僕が決して髑髏に気がつきはしなかったろうし、したがって宝を手に入れることもできなかったろうということは、ほんとに、ほんの偶然のことじゃないか?」
「だが先を話したまえ、――じれったくてたまらないよ」
「よしよし。君はもちろん、あの世間にひろまっているたくさんの話――キッド(12)とその一味の者が大西洋のどこかの海岸に金を埋めたという、あの無数の漠然《ばくぜん》とした噂《うわさ》――を聞いたことがあるね。こういう噂はなにか事実の根拠があったにちがいない。そして、その噂がそんなに長いあいだ、そんなに引きつづいて存在しているということは、その埋められた宝がまだやはり埋まったままになっている[#「ままになっている」に傍点]という事情からだけ起りうることだ、と僕には思われたのだ。もしキッドが自分の略奪品を一時隠しておいて、その後それを取り返したのなら、その噂は現在のような、いつも変らない形で僕たちの耳に入りはしないだろう。君も気がついているだろうが、話というのはどれもこれもみんな、金を捜す人のことで、金を見つけ出した人のことではない。あの海賊が自分の金を取りもどしたのなら、そこでこの事件は立消えになってしまうはずだ。で、僕はこう思った。キッドはなにかの事故のために――たとえば、その場所を示す控書をなくしたといったようなことのために――それを取りもどす手段をなくしたのだ。そしてそのことが彼の手下の者どもに知れたのだ。でなければ彼らは宝が隠してあるなどということを聞くはずがなかったんだろうがね。そこで彼らはそれを取り返そうとしきりにやってみたが、なんの手がかりもないので失敗し、その連中が今日誰でも知っているあの噂の種をまき、それからそれが広く世間にひろがるようになったのだ、とね。君は、海岸でなにか大事な宝が掘り出されたということを、いままで聞いたことがあるかい?」
「いいや」
「しかしキッドの蓄えた財宝が莫大《ばくだい》なものであることはよく知られている。だから、僕はそいつがまだ土のなかにあるのだと考えたんだよ。で、あんなに不思議なぐあいにして見つかったあの羊皮紙が、それの埋めてある場所の記録の紛失したものなのだという、ほとんど確信と言えるくらいの希望を、僕がいだいたと言っても、君はべつに驚きはしないだろう」
「だがそれからどうしたんだい?」
「僕は火力を強くしてから、ふたたびその皮紙を火にあててみた。が、なにもあらわれなかった。そこで今度は、泥《どろ》のついていることがこの失敗となにか関係があるかもしれん、と考えた。だから羊皮紙に湯をかけて丁寧に洗い、それから錫《すず》の鍋《なべ》のなかへ頭蓋骨の絵を下に向けて入れ、その鍋を炭火の竈《かまど》にかけた。二、三分たつと、鍋がすっかり熱くなったので、羊皮紙を取りのけてみると、なんとも言えないほど嬉《うれ》しかったことには、行になって並んでいる数字のようなものが、ところどころに斑点《はんてん》になって見えるんだね。それでまた鍋のなかへ入れて、もう一分間そのままにしておいた。取り出してみると、全体がちょうど君のいま見るとおりになっていたんだ」
 こう言って、ルグランは羊皮紙をまた熱して、私にそれを調べさせた。髑髏と山羊とのあいだに、赤い色で、次のような記号が乱雑に出ている。――

 53‡‡†305))6;4826)4‡.)4‡);806;48†8¶60))85;1‡(;:‡8†83(88)5†;46(;8896?;8)‡(;485);5†2:‡(;49562(5―4)8¶8;4069285);)6†8)4‡‡;1(‡9;48081;8:8‡1;48†85;4)485†528806*81(‡9;48;(88;4(‡?34;48)4‡;161;:188;‡?;(13)

「しかし」と私は紙片を彼に返しながら言った。「僕にゃあやっぱり、まるでわからないな。この謎《なぞ》を解いたらゴルコンダ(14)の宝石をみんなもらえるとしても、僕はとてもそれを手に入れることはできないねえ」
「でもね」とルグランが言った。「これを解くことは、決してむずかしくはないんだよ。君がこの記号を最初にざっと見て想像するほどにはね。誰でもたやすくわかるだろうが、この記号は暗号をなしているのだ。――つまり、意味を持っているのだ。しかし、キッドについて知られていることから考えると、彼にそう大して難解な暗号文を組み立てる能力などがあろうとは僕には思えなかった。僕はすぐ、これは単純な種類のもの――だが、あの船乗りの頭には、解《キイ》がなければ絶対に解けないと思われるような、そんな程度のもの――だと心を決めてしまったんだ」
「で君はほんとうにそれを解いたんだね?」
「わけなしにさ。僕はいままでにこの一万倍もむずかしいのを解いたことがある。境遇と、頭脳のある性向とが、僕をそういう謎に興味をもたせるようにしたのだ。人間の知恵を適切に働かしても解けないような謎を、人間の知恵が組み立てることができるかどうかということは、大いに疑わしいな。事実、連続した読みやすい記号が、一度それとわかってしまえば、その意味を展開する困難などは、僕はなんとも思わなかった。
 いまの場合では――秘密文書の場合では実際すべてそうだが――第一の問題は暗号[#「暗号」に傍点]の国語が何語かということなんだ。なぜなら、解釈の原則は、ことに簡単な暗号となると、ある特定の国語の特質によるのであるし、またそれによって変りもするんだからね。一般に、どの国語かがわかるまでは、解釈を試みる人の知っているあらゆる国語を(蓋然率《プロバビリティ》にしたがって)実験してみるよりほかに仕方がない。だがいま僕たちの前にあるこの暗号では、署名があるので、このことについてのいっさいの困難が取りのぞかれている。『キッド』という言葉の洒落《しゃれ》は英語以外の国語ではわからないものだ。こういう事情がなかったなら、僕はまずスペイン語とフランス語とでやりはじめたろうよ。スパニッシュ・メイン(15)の海賊がこの種の秘密を書くとすればたいていそのどちらかの国語だろうからね。ところがそういうわけだったから、僕はこの暗号を英語だと仮定した。
 ごらんのとおり、語と語とのあいだにはなんの句切りもない。句切りがあったら、仕事は比較的やさしかったろう。そういう場合には、初めに短い言葉を対照し、分析する。そしてもし、よくあるように、一字の語(たとえばaとか、Iとかいう語だね)が見つかったら、解釈はまずできたと思っていいのだ。しかし、句切りが少しもないので、僕の最初にとるべき手段は、いちばん多く出ている字と、いちばん少ししか出ていない字とを、つきとめることだった。で、すっかり数えて、僕はこういう表を作った。
  8    という記号は    三十三  ある
  ;      〃       二十六
  4      〃        十九
  ‡)     〃        十六
  *      〃        十三
  5      〃        十二
  6      〃        十一
  †1     〃         八
  0      〃         六
  92     〃         五
  :3     〃         四
  ?      〃         三
  ¶      〃         二
  ―      〃         一
 さて、英語でもっともしばしば出てくる字はeだ。それからaoidhnrstuycfglmwbkpqxzという順序になっている。しかしeは非常に多いので、どんな長さの文章でも、一つの文章にeがいちばんたくさん出ていないということは、めったにないのだ。
 とすると、ここで、僕たちはまず手初めに、単なる憶測以上のあるものの基礎を得たことになるね。表というものが、一般に有益なものであるということは明白だ、――が、この暗号にかぎっては、僕たちはほんのわずかしかその助けを要しない。いちばん多い記号は8だから、まずそれを普通のアルファベットのeと仮定して始めることにしよう。この推定を証拠だててみるために、8が二つ続いているかどうかを見ようじゃないか。――なぜかというと、英語ではeが二つつづくことがかなりの頻度であるからだ、――たとえば、‘meet’‘fleet’‘speed’‘seen’‘been’‘agree’などのようにね。僕たちの暗号の場合では、暗号文が短いにもかかわらずそれが五度までも重なっているよ。
 そこで、8をeと仮定してみよう。さて、英語のすべての語[#「語」に傍点]のなかで、いちばんありふれた語は、‘the’だ。だから、最後が8になっていて、同じ配置の順序になっている三つの記号が、たびたび出ていないかどうかを見よう。そんなふうに並んだ、そういう文字がたびたび出ていたら、それはたぶん、‘the’という語をあらわすものだろう。調べてみると、そういう排列が七カ所もあって、その記号というのは ;48 だ。だから、;はtをあらわし、4はhをあらわし、8はeをあらわしていると仮定してもよかろう。――この最後の記号はいまではまず十分確証された。こうして一歩大きく踏み出したのだ。
 しかも、一つの語が決ったので、たいへん重要な一点を決めることができるわけだ。つまり、他の語の初めと終りとをいくつか決められるのだね。たとえば暗号のおしまい近くの――最後から二番目の ;48 という組合せのあるところを見よう。と、そのすぐ次にくる;が語の初めであることがわかる。そうして、この‘the’の後にある六つの記号のうち、僕たちは五つまで知っているのだ。そこで、わからないところは空けておいて、その五つの記号をわかっている文字に書きかえてみようじゃないか。――
  t eeth
 ここで、この‘th’が、この初めのtで始まる語の一部分をなさないものとして、すぐにこれをしりぞけることができる。というわけは、この空いているところへ当てはまる文字としてアルファベットを一つ残らず調べてみても、th がその一部分となるような語ができないことがわかるからなんだ。こうして僕たちは
  t ee
に局限され、そして、もし必要ならば前のようにアルファベットを一つ一つあててみると、考えられる唯一《ゆいいつ》の読み方として‘tree’という語に到達する。こうして(で表わしてあるrという字をもう一つ知り、‘the tree’という言葉が並んでいることがわかるのだ。
 この言葉の少し先の方を見てゆくと、また ;48 の組合せがあるから、これをそのすぐ前にある語にたいする句切り[#「句切り」に傍点]として用いる。するとこういう排列になっているね。
  the tree ;4(‡?34 the
つまり、わかっているところへ普通の文字を置きかえると、こうなる。
  the tree thr ‡?3 h the
 さて、未知の記号のかわりに、空白を残すか、または点を打てば、こうなるだろう。
  the tree thr・・・h the
すると‘through’という言葉がすぐに明らかになってくるが、この発見は、‡、?、3であらわされているo、u、gという三つの文字を僕たちに与えてくれるのだ。
 それから既知の記号の組合せがないかと暗号を念入りに捜してゆくと、初めのほうからあまり遠くないところに、こんな排列が見つかる。
  83(88 すなわち egree
これは明白に‘degree’という語の終りで、†であらわしてあるdという文字がまた一つわかるのだ。
 この、‘degree’という語の四つ先に
  ;46(;88*
という組合せがある。
 既知の記号を翻訳し、未知のを前のように点であらわすと、こうなるね。
  th・rtee・
この排列はすぐ‘thirteen’という言葉を思いつかせ、6、*であらわしてあるi、nという二つの新しい文字をまた教えてくれる。
 今度は、暗号文の初めを見ると、
  53‡‡†
という組合せがあるね。
 前のように翻訳すると、
  ・good
となるが、これは最初の文字がAで、初めの二つの語が‘A good’であることを確信させるものだ。
 混乱を避けるために、もういまでは、わかっただけの鍵を表の形式にして整えたほうがいいだろう。それはこうなる。
  5    は    a を表わす
  †    〃    d
  8    〃    e
  3    〃    g
  4    〃    h
  6    〃    i
  *    〃    n
  ‡    〃    o
  (    〃    r
  ;    〃    t
  ?    〃    u
 だから、これでもっとも重要な文字が十一(16)もわかったわけで、これ以上解き方の詳しいことをつづけて話す必要はないだろう。僕は、この種の暗号の造作なく解けるものであることを君に納得させ、またその展開の理論的根拠にたいする多少の洞察《どうさつ》を君に与えるために、もう十分話したのだ。だが、僕たちの前にあるこの見本なんぞは、暗号文の実にもっとも単純な種類に属するものだと思いたまえ。いまではもう、この羊皮紙に書いてある記号を、解いたとおりに全訳したものを、君に示すことが残っているだけだ。それはこうだよ。
 ‘A good glass in the bishop’s hostel in the devil’s seat forty-one degrees and thirteen minutes northeast and by north main branch seventh limb east side shoot from the left eye of the death’s-head a bee-line from the tree through the shot fifty feet out.’
(『僧正の旅籠《はたご》悪魔の腰掛けにて良き眼鏡四十一度十三分北東微北東側第七の大枝|髑髏《どくろ》の左眼《ひだりめ》より射る樹《き》より弾を通して五十フィート外方に直距線』)」
「だが」と私は言った。「謎は依然として前と同じくらい厄介《やっかい》なようだね。『悪魔の腰掛け』だの、『髑髏』だの、『僧正の旅籠』だのというような、こんな妄語《たわごと》から、どうして意味をひっぱり出すことができるのかね?」
「そりゃあね」とルグランが答えた。「ちょっと見たときには、まだ問題は容易ならぬものに見えるさ。まず僕の努力したことは、暗号を書いた人間の考えたとおりの自然な区分に、文章を分けることだった」
「というと、句読《くとう》をつけることだね?」
「そういったようなことさ」
「しかしどうしてそれができたんだい?」
「僕は、これを書いた者にとっては、解釈をもっとむずかしくするために言葉を区分なしにくっつけて書きつづけることが重要な点だったのだ、と考えた。ところで、あまり頭の鋭敏ではない人間がそういうことをやるときには、たいていは必ずやりすぎるものだ。文を書いてゆくうちに、当然句読点をつけなければならんような文意の切れるところへくると、そういう連中はとかく、その場所で普通より以上に記号をごちゃごちゃにつめて書きがちなものだよ。いまの場合、この書き物を調べてみるなら、君はそういうひどく込んでいるところが五カ所あることをたやすく眼にとめるだろう。このヒントにしたがって、僕はこんなふうに区分をしたんだ。
 ‘A good glass in the bishop’s hostel in the devil’s seat ―― forty-one degrees and thirteen minutes ―― northeast and by north ―― main branch seventh limb east side ―― shoot from the left eye of the death’s-head ―― a bee-line from the tree through the shot fifty feet out.’
(『僧正の旅籠悪魔の腰掛けにて良き眼鏡――四十一度十三分――北東微北――東側第七の大枝――髑髏の左眼より射る――樹より弾を通して五十フィート外方に直距線』)」
「こういう区分をされても」と私は言った。「まだやっぱり僕にはわからないね」
「二、三日のあいだは僕にもわからなかったよ」とルグランが答えた。「そのあいだ、僕はサリヴァン島の付近に『|僧正の旅館《ビショップス・ホテル》』という名で知られている建物がないかと熱心に捜しまわった。むろん、『旅籠《ホステル》』という古語はよしたのさ。が、それに関してはなにも得るところがなかったので、捜索の範囲をひろげてもっと系統的な方法でやってゆこうとしていたとき、ある朝、まったくとつぜんに頭に浮んだのは、この『|僧正の旅籠《ビショップス・ホステル》』というのは、島の四マイルばかり北方にずっと昔から古い屋敷を持っていたベソップという名の旧家となにか関係があるかもしれない、ということだった。そこで、僕はそこの農園へ行って、その土地の年寄りの黒んぼたちにまたいろいろきいてみた。とうとう、よほど年をとった一人の婆《ばあ》さんが、ベソップの城[#「ベソップの城」に傍点]というような所のことを聞いたことがあって、そこへご案内することができるだろうと思うが、それは城でも宿屋でもなくて高い岩だと言ってくれた。
 僕は骨折り賃は十分出すがと言うと、婆さんはしばらくためらったのち、その場所へ一緒に行ってくれることを承知した。大した困難もなくそこが見つかったので、それから婆さんを帰して、僕はその場所を調べはじめた。その『城』というのは崖《がけ》や岩が雑然と集まっているところのことで、そのなかの一つの岩は、ずっと高くて、また孤立していて人工的なふうに見えるので、たいへん目立っていた。僕はその岩のてっぺんへよじ登ったんだが、さて、それからどうしたらいいかということには大いに途方に暮れてしまったね。
 さんざんに考えこんでいるうちに、僕の眼はふと、自分の立っている頂上からたぶん一ヤードくらい下の岩の東の面にあるせまい出っ張りに落ちた。この出っ張りは約十八インチほど突き出ていて、幅は一フィート以上はなく、そのすぐ上の崖に凹《くぼ》みあるので、われわれの祖先の使ったあの背を刳《く》った椅子《いす》にあらまし似ているんだ。僕はこれこそあの書き物にある『悪魔の腰掛け』にちがいないと思い、もうあの謎の秘密をすっかり握ったような気がしたよ。
『良き眼鏡』というのが望遠鏡以外のものであるはずがないということは、僕にはわかっていた。船乗りは『眼鏡』という言葉をそれ以外の意味にはめったに使わないからね。そこで、僕は望遠鏡はここで用いるべきであるということ、ここがそれを用いるに少しの変更をも許さぬ[#「少しの変更をも許さぬ」に傍点]定まった観察点であるということが、すぐにわかったのだ。また、『四十一度十三分』や『北東微北』という文句が眼鏡を照準する方向を示すものであることは、すぐに信じられた。こういう発見に大いに興奮して、急いで家へ帰り、望遠鏡を手に入れて、また岩のところへひき返した。
 出っ張りのところへ降りると、一つのきまった姿勢でなければ席を取ることができないということがわかった。この事実は僕が前からもっていた考えをますます確かめてくれたのだ。それから眼鏡の使用にとりかかった。むろん、『四十一度十三分』というのは現視地平(17)の上の仰角を指しているものにちがいない。なぜなら、水平線上の方向は「北東微北」という言葉ではっきり示されているんだからね。この北東微北の方向を僕は懐中磁石ですぐに決めた。それから、眼鏡を大体の見当でできるだけ四十一度(18)の仰角に向けて、気をつけながらそれを上下に動かしていると、そのうちにはるか彼方《かなた》に群を抜いてそびえている一本の大木の葉の繁《しげ》みのなかに、円い隙間《すきま》、あるいは空いているところがあるのに、注意をひかれた。この隙間の真ん中に白い点を認めたが、初めはそれがなんであるか見分けがつかなかった。望遠鏡の焦点を合わせて、ふたたび見ると、今度はそれが人間の頭蓋骨《ずがいこつ》であることがわかった。
 これを発見すると、僕はすっかり喜びいさんで、謎《なぞ》が解けてしまったと考えたよ。なぜかと言えば、『東側第七の大枝』という文句は、木の上の頭蓋骨の位置を指すものに決っているし、また『髑髏の左眼より射る』というのも、埋められた宝の捜索に関して唯一の解釈しか許さないものだったから。僕は、頭蓋骨の左の眼から弾丸を落す仕組みになっているので、また、幹のいちばん近い点から『弾』(つまり弾丸の落ちたところ)を通して直距離、あるいは別の言葉で言えば一直線を引き、そこからさらに五十フィートの距離に延長すれば、ある一定の点が示されるだろう、ということを悟った。――そして、この地点の下に貴重な品物が隠されているということは、少なくともないとも言えぬ[#「ないとも言えぬ」に傍点]ことだと考えたしだいなのさ」
「なにもかもすべて、実にはっきりしているね」と私は言った。「また巧妙ではあるが、簡単で明瞭《めいりょう》だよ。で君はその『僧正の旅籠』を出て、それからどうしたんだい?」
「もちろん、その木の方位をよく見定めてから、家へ帰ったさ。だが、その『悪魔の腰掛け』を離れるとすぐ、例の円い隙間は見えなくなり、その後はどっちへ振り向いてもちらりとも見ることができなかったよ。この事件全体のなかで僕にいちばん巧妙だと思われるのは、この円く空いているところが、岩の面のせまい出っ張り以外のどんな視点からも見られない、という事実だね。(幾度もやってみて、それが事実だ[#「だ」に傍点]ということを僕は確信してるんだ)
 この『僧正の旅籠』へ探検に行ったときには、ジュピターも一緒についてきたが、あいつは、それまでの数週間、僕の態度のぼんやりしていることにちゃんと気がついていて、僕を一人ではおかぬようにとくに注意をしていた。だがその次の日、僕は非常に早く起きて、うまくあいつをまいて、例の木を捜しに山のなかへ行ったんだ。ずいぶん骨を折った末、そいつを見つけた。夜になって家へ帰ると、奴《やっこ》さんは僕を折檻《せっかん》しようというんだよ。それからのちの冒険については、君は僕自身と同様によく知っているはずだ」
「最初に掘ったときに」と私が言った。「君が場所をまちがえたのは、ジュピターがまぬけにも頭蓋骨の左の眼からではなくて右の眼から虫を落したためだったんだね」
「そのとおりさ。そのしくじりは『弾』のところに――つまり、木に近いほうの杭《くい》の位置に――二インチ半ほどの差ができた。そして、もし宝が『弾』の真下[#「真下」に傍点]にあったのなら、この誤りはなんでもなかったろう。ところが、『弾』と、木のいちばん近い点とは、ただ方向の線を決定する二点にすぎなかったのだ。むろんその誤りは、初めは小さなものであっても、線をのばしてゆくにしたがって大きくなり、五十フィートも行ったときには、すっかり場所が違ってしまったのさ。宝がどこかこの辺にほんとうに埋められているという深い確信が僕になかったなら、僕たちの骨折りもすっかり無駄[#「無駄」に傍点]になってしまうところだったよ」
「頭蓋骨[#「頭蓋骨」に傍点]を用いるという思いつき――頭蓋骨の眼から弾丸を落すという思いつき――は、海賊の旗からキッドが考えついたことだろうと、僕は思うね。きっと彼は、この気味のわるい徽章《きしょう》で自分の金を取りもどすことに、詩的調和といったようなものを感じたんだぜ」
「あるいはそうかもしれん。だが僕は、常識ということが、詩的調和ということとまったく同じくらい、このことに関係があると考えずにはいられないんだ。あの『悪魔の腰掛け』から見えるためには、その物は、もし小さい物なら、どうしても白く[#「白く」に傍点]なくちゃならん。ところで、どんな天候にさらされても、その白さを保ち、さらにその白さを増しもするものとしては、人間の頭蓋骨にかなうものはないからな(19)」
「しかし君の大げさなものの言いぶりや、甲虫《かぶとむし》を振りまわす振舞いといったら――そりゃあ実に奇妙きてれつだったぜ! 僕はてっきり君が気が狂ったのだと思ったよ。で、君はなぜあの頭蓋骨から、弾丸ではなくて、虫を、落させようと言い張ったんだい?」
「いや、実を言うと、君が明らかに僕の正気を疑っているのが少し癪《しゃく》だったので、僕一流のやり方で、真面目《まじめ》にちょっとばかり煙《けむ》に巻いて、君をこっそり懲《こ》らしてやろうと思ったのさ。甲虫を振りまわしたのもそのためだし、あれを木から落させたのもそのためなんだ。君があれを非常に重いと言ったので、木から落すというその考えを思いついたのだ」
「なるほど。わかったよ。ところで、僕にはもう一つだけ合点のゆかぬことがある。あの穴のなかにあった骸骨《がいこつ》はなんと解釈すべきだろうね?」
「それは僕にだって君以上には答えられぬ問題だよ。しかし、あれを説明するのにたった一つだけもっともらしい方法があるようだな。――僕の言うような凶行があったと信ずるのは恐ろしいことだがね。キッドが――もしほんとうにキッドがこの宝を隠したのならだよ。僕はそうと信じて疑わないが――彼がそれを埋めるときに誰かに手伝ってもらったことは明らかだ。だが、その仕事のいちばん厄介なところがすんでしまうと、彼は自分の秘密に関係した者どもをみんな片づけてしまったほうが都合がいいと考えたんだろう。それには、たぶん、手伝人たちが穴のなかでせっせと働いている時に、鶴嘴《つるはし》で二つも食らわせば十分だったろうよ。それとも、一ダースも殴りつけなければならなかったか、――その辺は誰にだってわからんさ」


(1) “All in the Wrong”――イギリスの俳優で劇作家の Arthur Murphy(一七二七―一八〇五)の喜劇。一七六一年初演。一八三六年にニューヨークでも上演された。
(2) Huguenot――十六、七世紀頃のフランスの新教徒。一六八五年にルイ十四世によってナント勅令が廃棄され、新教が禁止されると、多くの新教徒《ユグノー》がアメリカの植民地に移住した。
(3) New Orleans――ミシシッピ河の海に注ぐあたりのルイジアナ州にある都会。
(4) Fort Moultrie――チャールストン港の防御のために一七七六年に建てられ、まだ竣功《しゅんこう》しないうちにアメリカ軍の William Moultrie(一七三一―一八〇五)大佐がここに立て籠《こも》ってイギリス軍を防いだので、その名が付せられた。ポーは青年時代に軍隊にいたときしばらくこの要塞《ようさい》に勤務していたことがある。
(5) Palmetto――南カロライナ州は一名“Palmette State”と言われるほどだから、この棕櫚《しゅろ》がよほど多いのであろう。
(6) Jan Swammerdam(一六三七―八〇)――オランダの有名な博物学者。ことに昆虫《こんちゅう》学者として、その蒐集《しゅうしゅう》と著述とが知られている。
(7) ルグランが 〔antennoe&〕(触角)と言いかけたのを、ジュピターは tin(錫《すず》)のことと思い違いをしたのであろう。ボードレールは“Calembour intraduisible”だと書いているが、日本語でもやはり訳されないことは同様である。
(8) この「高い」loud という語は、ステッドマン・ウッドベリー版には「低い」low となっているが、ハリスン版、イングラム版、その他の諸版にはみな前者になっている。ボードレールの訳本もその意味に訳してある。ステッドマン版はこの語をグリズウォルド版に拠《よ》ったのであろうか。しかし、ここでは前者をとることにして、意味がまったく反対になっている相違なので特に注をしておく。
(9) dark lantern――光をさえぎる蓋《ふた》のついている角灯。
(10) guinea――十七世紀後葉アフリカ西海岸のギニー地方に産する金で初めて鋳造された往時のイギリスの金貨。一八一三年以降は鋳造されなかったのだから、この物語の書かれた当時にもすでに、一般に流通していなかったのである。
(11) 鉱物を溶解するときに炉床または坩堝《るつぼ》の底に沈澱《ちんでん》するもの。
(12) William Kidd(一六四五?―一七〇一)――十七世紀の末の有名な海賊。スコットランドに生れ、初め剛胆な船長として世に知られていたが、のち海上生活を退いてニューヨークに隠退中、その船舶操縦術の手腕を時の植民大臣 Earl of Bellamont に認められ、当時アメリカの沿岸およびインド洋に横行していた海賊を剿滅《そうめつ》せよとの命を受けて、一六九六年に“Adventure”号の船長としてイングランドのプリマス港から出帆し、ニューヨークへ行き、それからマダガスカル島へ航した。その後間もなく彼自身が海賊になったと噂《うわさ》が立った。一六九九年にアメリカの海岸へ帰り、やがてボストンで逮捕されて部下と共にイングランドへ送られ、海賊を働いたことを否認したが、船員の一人を殺害した廉《かど》で、九人の部下と共に絞刑《こうけい》に処せられた。これより前、彼はニューヨークの東方ロング島の東にあるガーディナア島に一部分の財宝を埋めておいたが、それはのちに発掘された。その没収された財宝の総額は約一万四千ポンドに達するものであった。しかし、「キッド船長の宝」が大西洋のどこかの海岸にまだ埋められているという噂は、その後も永く世間に伝えられていた。
(13) この暗号文のうち一カ所は、ステッドマン・ウッドベリー版およびハリスン版が、他の諸版と異なっている。他の諸版の“forty-one degrees”に当る記号が“twenty-one degrees”になっているからである。(初めから四十四番目 1‡(;:………………;) が 8*;:………………)これは、のちに注18[#「18」は縦中横]においてしるすような理由で、たぶん、作者自身が一八四五年出版の彼の『物語集』にのちの刊行の準備として自筆で推敲《すいこう》の筆を加えたときに、書き直したものであろう。ステッドマン・ウッドベリー版、ハリスン版は、そのポーの自筆を加えたいわゆるロリマー・グレアム本を参照して、それに拠ったのである。しかし、ハリスン版の訂正個所はまちがっているし、またハリスン版、ステッドマン版ともにあとの記号の数のところが訂正暗号に合っていないので、この訳本ではあとのほうの数字を訂正したりすることは避けて、普通の諸版のもとの暗号を用いることにした。他の諸版にもそれぞれ小さな誤りがあるので、以下暗号に関するかぎり、諸版から妥当と思うところを取ることにする。
(14) Golconda――インドの南部にある旧《ふる》い町。金剛石の市場として有名であった。
(15) Spanish main――往時、南アメリカの北海岸のオリノコ河またはアマゾン河の口からパナマ海峡に至る一帯の地方や、カリブ海のこれに接した部分を、漠然《ばくぜん》と指した名称。スペインと南アメリカとの航路に当り、昔さかんに海賊が出没した。
(16) この「十一」は、ステッドマン版、イングラム版、ハリスン版等の標準版にはみな前の行の「?〃u」を除いて「十」となっているが、これはたぶん作者自身の誤りであろう。「?〃u」を加えて「十一」となっている版もあるので、それにしたがう。
(17) 実際に見|得《う》べき水と空との分界線。
(18) この「四十一度」は、ハリスン版とステッドマン・ウッドベリー版では、すべて「二十一度」となっている。事実、「四十一度十三分の仰角」で見て、「はるか彼方《かなた》に」見える大木というのは、あまりに高過ぎて不自然、あるいはむしろ不合理であろう。しかしこの変更は注13[#「13」は縦中横]で書いたように、暗号文の記号と共に、おそらく、ポーがのちの刊行本のための用意にときどき筆を加えておいたいわゆるロリマー・グレアム本の、自筆の書き入れに拠ったものらしく、まだ決定的な、あるいは完全な、訂正ではないので、この訳本ではすべてもとの「四十一度」にしておいた。
(19) 以上の頭蓋骨|云々《うんぬん》に関する二節の対話は、普通の諸版には全然ない。ボードレールの訳本にもない。同じくロリマー・グレアム本にポーがのちに書き加えておいた部分であろう。

底本:「黒猫・黄金虫」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1995(平成7)年10月15日89刷改版
   1997(平成9)年11月25日93刷
※(1)~(19)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。また数字は縦中横になっています。
入力:福田直子
校正:鈴木厚司
2004年6月10日作成
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