鵞湖仙人—— 国枝史郎

     

 時は春、梅の盛り、所は信州諏訪湖畔。
 そこに一軒の掛茶屋があった。
 ヌッと這入って来た武士《さむらい》がある。野袴に深編笠、金銀こしらえの立派な大小、グイと鉄扇を握っている、足の配り、体のこなし、将しく武道では入神者。
「よい天気だな、茶を所望する」
 トンと腰を置台へかけた。物やわらかい声の中に、凛として犯しがたい所がある。万事物腰鷹揚である。立派な身分に相違ない。大旗本の遊山旅、そんなようなところがある。
「へい、これはいらっしゃいまし」
 茶店の婆さんは頭を下げた。で、恭しく渋茶を出した。
 ゆっくりと取り上げて笠の中、しずかに喉をうるおしたが、その手の白さ、滑らかさ、婦人の繊手さながらである。
 茶を呑み乍ら其の侍、湖水の景色を眺めるらしい。
 周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。
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信濃なる衣ヶ崎に来てみれば
    富士の上漕ぐあまの釣船
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 西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。
 が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつる[#「うつる」に傍点]のである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。
 水に突き出た高島城、四万石の小大名ながら、諏訪家は仲々の家柄であった。石垣が湖面にうつっ[#「うつっ」に傍点]ている。
「うむ、いいな、よい景色だ」
 武士は惚々と眺め入った。時刻は真昼春日喜々、陽炎《かげろう》が雪消の地面から立ち、チラチラ光って空へ上る。だが山々は真白である。ほんの手近の所まで、雪がつもって[#「つもって」に傍点]いるのである。
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思い出す木曽や四月の桜狩。
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 これは所謂翁の句だ。翁の句としては旨くない。だが信州の木曽なるものが、いかに寒いかということが、此一句で例証はされる。昔の四月は今の五月、五月に桜狩があるのだとすると、これは確に寒い筈だ。ところで諏訪も同じである。矢張り木曽ぐらい寒いのである。
 侍は婆さんへ話しかけた。
「話はないかな? 面白い話は?」
「へえへえ」
 と云ったが茶店の婆さん、相手があまり立派なので、先刻からすっかり萎縮して了って、ロクに返事も出来ないのであった。
「へいへいさようでございますな。……これと云って変った話も……」
「無いことはあるまい。ある筈だ。……それ評判の鵞湖仙人の話……」
 こう云った時、手近の所で、ドボーンという水音がした。
 侍は其方へ眼をやった。
 と、眼下の湖水の中に、老人が一人立泳ぎをしていた。
 寒い季節の水泳! まあこれは[#「これは」に傍点]可いとしても、その老人が打ち見た所、八十か九十か見当が付かない。そんな老齢な老人が、泳いでいるに至っては、鳥渡びっくりせざるを得ない。
「信州人は我慢強いというが、いや何うも実に偉いものだ」
 侍は感心してじっと見入った。
 ところが老人の泳ぎ方であるが、洵《まこと》に奇態なものであった。
 水府流にしても小堀流にしても、一伝流にしても大和流にしても、立泳ぎといえば大方は、乳から上を出すものである。それ以上は出せないものである。にも関らず老人は腰から上を出していた。で、まるで水の上を、歩いているように見えるのである。
 侍はホトホト感心した。
「だが一体何流かしらん? こんな泳ぎ方ははじめてだ、まことに以て珍らしい」
 だが侍の驚きは、間も無く一層度を加えた。と云うのは老人が、愈々でて愈々珍らしい、[#「、」は底本では「。」]不思議な泳ぎ方をしたからであった。
 老人はズンズン泳いで行った。湖心に進むに従って、形が小さくなる筈を、反対にダンダン大きくなった。しかし是は当然であった。老人は泳ぐに従って、益々体を水から抜き出し、二町あまりも行った頃には、文字通り水上へ立って了ったのである。

     

 これでは水を泳ぐのではない。水の上を辷っているのだ。
 スーッと行ってはクルリと振返り、スーッと行ってはクルリと振返る。
 侍は腕を組んで考え込んだ。
「む――」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「南宗流乾術《なんそうりゅうけんじゅつ》第《だい》一|巻《まき》九|重天《ちょうてん》の左行篇《さぎょうへん》だ! あの老人こそ鵞湖仙人だ! ……今に消えるに相違無い!」
 はたしてパッと水煙が上った。同時に湖上の老人の姿が、煙のように消えて了った。
 見抜いた武士も只者では無い。
 むべなる哉この侍は、由井民部介橘正雪。

 南宗流乾術第一巻九重天の左行篇に就いて、説明の筆を揮うことにする。
 これは妖術の流儀なのである。
 日本の古代の文明が、大方支那から来たように、この妖術も支那が本家だ。南宗画は本来禅から出たもので、形式よりも精神を主とし、慧能流派の称である。ところが妖術の南宗派は、禅から出ずに道教から出た。即ち老子が祖師なのである。道教の根本の目的といえば、長寿と幸福の二つである。この二つを得るためには、代々の道教家が苦心したものだ。或者は神丹を製造して、それを飲んで長命せんとし、或者は陰陽の調和を計り、矢張り寿命を延ばそうとした。幸福を得るには黄金が必要だ。それで或者は練金術[#「練金術」はママ]をやって、うんと黄金を儲けようとした。
 神仙説を産んだのも、矢張り長寿と幸福との為めだ。
 だが、併し、妖術の元は、幸福を得るというよりも、長寿を得ると云う方に、重きを置いていたらしい。ところで妖術の著書はと云えば、枹木子を以て根元とする。そこで筆は必然的に、枹木子に就いて揮わなければならない。
 ところが洵に残念なことには、枹木子の著者は不明なのである。これほど素晴らしい本の著者が、不明というのは不思議であるが、しかし一方から見る時は、不明の方が本当かもしれない。屹度神仙が作ったんだろう、と云ってた方が勿体が付いて、却って有難くもなるのだから、尤も一説による時は、葛洪《かっこう》という人の著書だそうだ。
 ところで枹木子は内篇二十篇外篇五十二篇という大部の本だ。詳しい紹介は他日を待ってすることにしよう。
 枹木子は妖術の根本書で、非常に非常に可い本である! ただ是だけでいいでは無いか。
 だが、本当を云う時は、この枹木子は妖術書では無くて、仙術の本という可きである。
 で、真実の妖術書といえば、その枹木子の精粋を取り、更に他方面の説術を加味した「南宗派乾流」という本なのである。

     

 その有名な妖術書の「南宗派乾流」は足利時代に、第一巻九重天だけ、日本へ渡って来たのである。第一巻九重篇だけでも、どうしてどうして素晴らしいもので、それを体得しさえしたら、どんな事でも出来るのだそうだ。
 それを何うして手に入れたものか、鵞湖仙人という老人が、何時の間にか手に入れて、ちゃんと蔵っているのであった。
 それを何うして嗅ぎ付けたものか、由井正雪が嗅ぎ付けて、それを仙人から奪い取ろうと、遙々江戸から来たのであった。

 物語は三日経過する。
 此処は天竜の上流である。
 一宇の宏大な屋敷がある。
 薬草の匂いがプンプンする。花が爛漫と咲いている。
 鵞湖仙人の屋敷である。
 その仙人の屋敷の附近へ、一人の侍がやって来た。他ならぬ由井正雪である。
 先ず立って見廻わした。
「ううむ、流石は鵞湖仙人、屋敷の構えに隙が無い。……戌亥にあたって丘があり、辰巳に向かって池がある。それが屋敷を夾んでいる。福徳遠方より来たるの相だ。即ち東南には運気を起し、西北には黄金の礎《いしずえ》を据える。……真南に流水真西に砂道。……高名栄誉に達するの姿だ。……坤《ひつじさる》巽《たつみ》に竹林家を守り、乾《いぬい》艮《うしとら》に岡山屋敷に備う。これ陰陽和合の証だ。……ひとつ間取りを見てやろう」
 で、正雪は丘へ上った。
「ははあ、八九の間取りだな。……財集まり福来たり、一族和合延命という図だ。……ええと此方が八一の間取り。……土金相兼という吉相だ。……さて此方は一七の間取り。僧道ならば僧正まで進む。……それから此方が八九の間取り。……仁義を弁え忠孝を竭《つく》す。子孫永久繁昌と来たな。……それから此方は七九の間取り。……うん、そうか、あの下に、金銀が蓄えてあると見える。金気が欝々と立っている。……さて、あいつが九六の間取りで庭に明水の井戸がある。薬を製する霊水でもあろう。六四の間取りがあそこ[#「あそこ」に傍点]にある。……公事訴訟の憂いが無い。……戌亥に二棟の土蔵がある。……即ち万代不易の相だ。……戌にもう[#「もう」に傍点]一つの井戸がある。……一家無病息災と来たな。……グルリと土塀で囲まれている。……厩《うまや》が二棟立っている。……母屋の庭は薬草園だ。……」
 由井正雪は感心した。
 正雪は一代の反抗児、十能六芸武芸十八番、天文地文人相家相、あらゆる知識に達していたので、曾て驚いたことが無い。
 それが驚いたというのだから、よくよくのことに相違無い。
「さて、これから何うしたものだ」
 彼は思案に打ち沈んだ。
「路に迷った旅人だと、嘘を云って乗り込もうか。いやいや看破かれるに違いない。では正直に打ち明けて「術書」の譲りを受けようか。なかなか譲ってはくれないだろう。……うん、そうだ。忍び込んでやろう。俺は忍術葉迦流では、これでも一流の境《いき》にある。目付けられたら夫れまでだ。叩っ切って了えばいい。旨く術書が探ぐりあたれば、そのまま持って逃げる迄だ。よし、今夜忍び込んでやろう」

     

 忍術も支那から来たものである。六門遁甲が根本である。「武備志」遁用術も其一つだ。
 しかし忍術は日本に於て、支那以上に発達した。それは日本人が体が小さく、敏捷であったが為である。
 忍術の根本は五遁にある。即ち水火木金土だ。
 ところで葉迦流は水遁を主とし、葉迦良門の開いたもので、上杉謙信の家臣である。
「滴水を以て基となす」
 こう極意書に記されてある。
 一滴の雨滴が地面に落ちる。それをピョンと飛び越すのである。二滴の雨滴が地面へ落ちる。それを復ピョンと飛び越すのである。
 雨滴はだんだん量を増す。地面の水域が広くなる。それをピョンピョン飛び越すのである。
 しまいには池となり沼となる。もう其頃には人間の方も、それを平気で飛び越す程の力量が備わっているのである。
 これ葉迦流の跳躍術の一つ。
 その他水を利用して、さまざまの忍びを行うのが、葉迦流忍術の目的なのである。世の勝れた忍術家なるものは、勿論、科学者ではあったけれど、更に夫れ以上忍術家は、心霊科学で云う所の、「霊媒(ミイジャム)」であったのであった。
 霊媒とは霊魂の媒介者である。
 人間は現在活きている。だが人間はいずれ死ぬ。さて死んだら何うなるか? 勿論肉体は腐って了う。しかし霊魂は存在する。これ霊魂不滅説だ。その霊魂は何処にいるか? 霊魂の世界に住んでいる! そうして夫れ等の霊魂は、活きている人間と通信したがる。しかし普通の人間とは、不幸にも絶体に通信が出来ない。そこで特別の器能を備えた、――霊魂の言葉が解る人間――即ち霊媒を要求する。
 霊媒とは霊魂のどんな言葉をでも、解し得る所の人間なのである。
 のみならず勝れた人間になれば、草木山川の言葉をも――宇宙の生物無生物の言葉。それをさえ知ることが出来るのである。
 そういう人間は此浮世に、極わめて稀に存在する。その中の或者が夫れを利用し、勝れた忍術家となったのである。
 由井正雪は丘を下り、どこへとも無く行って了った。
 こうして深夜五更となった。
 すべて忍術家というものは、五更と三更とを選ぶものである。
 鵞湖仙人の大館は森閑として静まっていた。
 月も無ければ星も無い、どんよりと曇った夜であった。
 と、竹藪から竹の折れる、ピシピシいう音が聞えて来た、風も無いのに竹が折れる、不思議と耳を傾けるのが、普通の人の情である。しかし、そっちへ耳傾けたが最後、心が一方へ偏して了う。偏すれば他方ががら[#「がら」に傍点]空きとなる、そこへ付け入るのが忍術の手だ。
 竹の折れる音は間も無く止んだ。後は寂然と音も無い。
 鵞湖仙人はどうしているだろう? 由井正雪は何処にいるだろう? 勿論竹を折ったのは、正雪の所業に相違無い。
 と、厩で馬が嘶いた。さも悲しそうな嘶き声である。
 だが夫れも間も無く止んだ。そうして後は森閑と、何んの物音も聞えなかった。
 屋敷は益々しずまり返り、人の居るような気勢も無い。
 と、二階の窓が開き、ポッと其処から光が射した。
 そこから一人の若い女が、夜目にも美しい顔を出した。どうやら何かを見ているらしい。仙人の屋敷に美女がいる? 少し不自然と云わざるを得ない。
 と、天竜の川の上に、ポッツリと青い光が見えた。それがユラユラと左右に揺れた。そっくり其の儘人魂である。
 すると窓から覗いていた、若い女が咽ぶように叫んだ。
「おお幽霊船! 幽霊船!」

     

「幽霊船だって? 何んの事だ?」
 こう呟いたのは正雪であった。
 彼は此時|厩《うまや》の背後、竹藪の中に隠れていた。
 で、キラリと眼を返すと、天竜川の方を隙かしてみた。
 いかにも此奴は幽霊船だ。人魂のような青い火が、フラフラ宙に浮いている。……提灯で無し、篝火で無し龕燈で無く松火《たいまつ》で無い。得体の知れない火であった。
 どうやら帆柱のてっぺん[#「てっぺん」に傍点]に、その光物は在るらしい。正雪は何時迄も見詰めていた。次第に闇に慣れて来た。幽霊船の船体が、朧気ながらも見えて来た。
 天竜川は黒かった。闇に鎖ざされて黒いのである。時々パッパッと白い物が見えた。岩にぶつかる浪の穂だ。その真黒の水の上に、巨大な船が浮かんでいた。それは将しく軍船《いくさぶね》であった。二本の帆柱、船首《へさき》の戦楼《やぐら》矢狭間が諸所に設けられている。
 そうして戦楼にも甲板にも、無数の人間が蠢いている。人魂のような青い火が、船を朦朧と照している。
 人々は甲冑を鎧っている。手に手に討物を持っている。槍、薙刀、楯、弓矢。……
 おお然うして夫れ等の人は、鵞湖仙人の屋敷の方へ、挙って指を指している。何やら罵っているらしい。しかし話声は聞えない。
 彼等はみんな[#「みんな」に傍点]痩せていた。
 と、続々甲板から、水の中に飛び込んだ。十人、二十人、三十人。……しかも彼等は溺れなかった。彼等は水の上に立っていた。
 飛ぶように水面を走り乍ら、続々と岸へ上って来た。彼等は岸へ勢揃いした。それから颯っと走り出した。
 鵞湖仙人の屋敷の方へ!
 近寄るままによく[#「よく」に傍点]見れば、彼等はいずれも骸骨であった。眼のある辺には穴があり、鼻のある辺には穴があり、口のある辺には歯ばかりが、数十本ズラリと並んでいた。
 甲冑がサクサク触れ合った。骨と骨とがキチキチと鳴った。
 竹藪の方へ走って来る。
 流石の正雪もウーンと唸った。すっかり度胆を抜かれたのである。
 彼は地面へ腹這いになった。
 サーッと彼等は走って来た。彼等の或者は正雪の背中を、土足のままで踏んで通った。しかし少しの重量も無い。彼等には重量が無いらしい。大勢通るにもかかわらず、竹藪はそよ[#「そよ」に傍点]との音も立て無い。一片の葉さえ戦《そよ》がない。彼等には形さえ無いと見える。
 いやいや併しハッキリと、恐ろしい形が見えるでは無いか! 甲冑をよそった骸骨の形が! そうだ、それは確かに見える! だが夫れは見えるばかりだ。物質としての容積を、只彼等は持っていないのだ!
 即ち彼等は幽霊なのだ!
 幽霊船の幽霊武者! そいつが仙人の屋敷を目掛け、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に走って行くのである。
 物凄い光景と云わざるを得ない。
 幽霊武者は一団となり、土塀の裾へ集まった。
 と、彼等は土塀をくぐり、サッと屋敷内へ乱入した。勿論土塀には穴が無い。それにもかかわらず潜ったのだ。
 湧き起ったのは女の悲鳴!
「ヒーッ」という魂消える声! つづいて老人の呶鳴り声! 鵞湖仙人の声らしい。討物の音、倒れる音、ワーッという閧声! ガラガラと物の崩れる音。
「お爺様! お爺様! お爺様!」
「おお娘、しっかりしろ!」
 ドッと笑う大勢の声。
「ヒーッ」と復も女の悲鳴。
 意外! 歌声が湧き起った。
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武士のあわれなる
あわれなる武士の将
霊こそは悲しけれ
うずもれしその柩
在りし頃たたかいぬ
いまは無し古骨の地
下ざまの愚なる
つつしめよ。おお必ず
不二の山しらたえや
きよらとも、あわれ浄《きよ》し
不二の山しらたえや
しらたえや、むべも可
建てしいさおし。
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 訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。
 由井正雪は腹這ったまま、じっと歌声に耳を澄ました。
 くり返しくり返し聞える歌!
 深夜である。
 山中である。
 その歌声の物凄さ!

     六

 復も土塀から甲冑武者が、恰も大水が溢れるように、ムクムクムクムクと現れ出た。
 彼等は何物かを担いでいた。
 数人が頭上に担いでいた。女である! 女の死骸だ! 窓から顔を差し出して「幽霊船!」と叫んだ女だ! その死骸を担いでいる。
 走る走る甲冑武者が走る。
 竹藪を通って天竜の方へ!
 或者は正雪の頭を踏んだ。或者は彼の足を踏んだ。そうして或者は手を踏んだ。矢張り重量は感じない。
 彼等は川の方へ走って行った。そうして水面を辷るように歩き、船の上へよじ[#「よじ」に傍点]上った。
 と、船が動き出した。天竜川を上るのである。人魂のような光物が、ユラユラと宙でゆらめい[#「ゆらめい」に傍点]た。上流へ上流へと上って行く。
 立ち上った正雪は腕を組んだ。
「深い意味があるに相違無い。彼奴等の歌ったあの歌にはな。……今夜の忍び込みはもう[#「もう」に傍点]止めだ。……ひとつ手段を変えることにしよう」
 彼は竹藪からするすると出た。そうして何処ともなく立ち去った。

 その翌朝のことである。
 鵞湖仙人の屋敷を目掛け、一人の武士が歩いて来た。
 余人ならぬ由井正雪。
 玄関へ立つと案内を乞うた。
「頼もう」と武張った声である。
 と、しとや[#「しとや」に傍点]かな畳障り、玄関の障子がスィーと開いた。婦人がつつましく[#「つつましく」に傍点]坐っている。
 それを見た正雪は「あっ」と云った。
 これは驚くのが、尤である。幽霊武者に担がれて行った、昨夜の娘が坐っているのだ。
「どちらからお越しでございます?」
 その婦人は朗かに云った。幽霊では無い、死骸では無い。将しく息のある人間だ。妙齢十八、九の美女である。ちゃんと三指を突いている。
「驚いたなあ」と心の中。正雪すっかり胆を潰した。しかし態度には現さず「拙者こと江戸の浪人、由井正雪と申す者、是非ご老人にお目にかかり度く、まかり出でましてございます。この段お取次ぎ下さいますよう」
「暫くお待ちを」と娘は云った。それからシトシトと奥へ這入った。間違いは無い足がある。どう睨んでも幽霊では無い。
 正雪、腕を組んで考え込んだ。
 そこへ娘が引き返して来た。
「お目にかかるそうでございます。どうぞお通り下さいますよう」
 で、正雪は玄関を上った。
 通されたのは奇妙な部屋だ。三間四方の真っ四角の部屋、襖も無ければ障子も無い。窓も無ければ出入口も無い。
「はてな」と正雪は復考えた。「俺はたしかに案内されて、たった今此部屋へ這入った筈だ。それだのに一つの出入口も無い。一体どこから這入ったのだろう?」
 どうにも彼には解らなかった。四方同じ肉色の壁で、それが変にブヨブヨしている。そうして無数に皺がある。その皺が絶えず動いている。延びたかと思うと縮むのである。壁ばかりでは無い。天井も然うだ。天井ばかりでは無い床も然うだ。現在坐っている部屋の板敷が、延びたり縮んだりするのである。床の間も無ければ違い棚も無い。一切装飾が無いのである。
 気味が悪くて仕方が無かった。
「ううむ、こいつは遣られたかな」
 正雪は心を落ち着けようとした。彼は眼を据えて板敷を見た。と不思議な筋があった。その筋は三本あった。部屋の一方の片隅から、斜めに部屋を貫いていた。
 それを見た正雪はブルブルと顫えた。しかし恐怖の顫えでは無く、それは怒りの顫えであった。
「巽から始まった天地人の筋、一つは坤兌《こんだ》の間を走り、一つは乾に向かっている。最下の筋は坎を貫く!」彼はバリバリと歯を噛んだ。
 矢庭に抜いた腰の小柄、ブツーリ突いたは板敷の真中! 途端に「痛い!」と云う声がした。
 その瞬間に正雪は、もんどり[#「もんどり」に傍点]打って投げ出された。
 飛び起きた時には其部屋は無く、全く別の部屋があった。
 違い棚もあれば床の間もある。床の間には寒椿が活けてある。棚の上には香爐があり、縷々《るる》として煙は立っている。襖もあれば畳もある。普通の立派な座敷であった。
 床の間を背にして坐っているのは、他でも無い鵞湖仙人、渋面を作って右の掌を、紙でしっかり[#「しっかり」に傍点]抑えている。そこから流れるのは血であった。

     

「ひどい[#「ひどい」に傍点]ことをなさる、由井正雪殿」
 老人は相手を怨むように云った。
「お互いでござるよ、鵞湖仙人殿」
 正雪は哄然と一笑したが「いかがでござる。傷は深いかな?」
「深くは無いが、ちょっと痛い」
「アッハハハ、お気の毒だな。……手中に握った天罰でござる」
「でも宜く心が付かれたな」
「天地人三才の筋からでござる」
「大概な者には解らぬ筈だが」
「なにさ、手相さえ心得て居れば、あんなことぐらいは誰にでも解る。……が、あれは何術でござるな?」
「さよう、あれは、十宮伝」
「南宗派乾流九重天、第一巻の其中に、矢張りあるのでござろうな?」由井正雪は鎌をかけた。
 すると老人はジロリと見たが、
「さあ何うだかな、わし[#「わし」に傍点]は知らぬ」俄《にわか》に用心したものである。「それは然うと正雪殿、昨日[#「昨日」は底本では「明日」]は湖畔でお目にかかったな」
「え、それではご存じか」正雪ちょっとドキリとした。
「それに昨夜はご苦労だった。折竹探法、嘶馬《せきば》探法、いろいろ忍術をおやりのようだが、とうとう諦めて帰られたな。どうやら葉迦流をお学びと見える、が、まだまだ少しお若い。あれでは固めは破れぬよ」
「畜生」と正雪は腹の中「爺め、何んでも知っていやがる」しかし彼は屈しなかった。
 彼は一膝グイと進めた。
「が、流石のご老人も、幽霊船にはお困りのようだな」
「さて、そいつだ」と老人は、繃帯した右手を膝へ置いたが「余人ならぬ正雪殿だ、真実の所をお話しするが、仰せの通り、あれには参った」
「ご老人ほどの方術家にも、どうにもならぬと見えますな」
「天人にも五衰あり、仙人にも七難がござる。……死霊だけには手が出ない」
「歌に就いてのお考えは?」
「え、歌だって? なんの歌かな?」
「彼奴等の歌ったあの歌でござる」
「あああれか[#「あれか」に傍点]、考えて見た。……が、どうも解らない」
「ところが拙者には解って居る」
「ふうん、さようかな、その意味は?」
「不可ない不可ない」と手を振った。「そう安くは明されぬて」
「さようか、それでは聞かぬ迄だ」老人、不快そうに横を向いた。
「ところで一つお聞きしたい」正雪は老人を見詰め乍ら「あのご婦人はお娘御かな?」
「さようでござる、孫娘で」
「どうして活きて戻られたな?」
「いや夫れは毎晩でござる。毎晩彼奴等が征めて来ては、あの娘を死骸とし、船へ運んで虐んだ後、活かして返してよこすのでござる。……可哀そうなのは孫娘でござる。だんだん衰弱いたしてな、……つまりわし[#「わし」に傍点]には祟れぬので、そこで弱い娘に祟り、わし[#「わし」に傍点]を間接に苦しめるのでござるよ」
「老人、何か過去に於いて殺生なことはなされぬかな?」
「いいや、断じて」と老人は云った。「わしはこれでも方術家、一切罪悪は犯していませぬ」
「今後はなんとなされますな?」
「手が出ませぬ。捨てて置きます」
「お娘御のお命は?」
「可哀そうに、死にましょう」
「拙者、退治て進ぜよう」正雪は復も膝を進めた。
「いかがでござろう、褒美として、秘巻はお譲り下さるまいか」
 老人はじっと考え込んだ。それから徐ろに口をひらいた。
「最早秘巻此わし[#「わし」に傍点]には、殆ど必要が無いのでござる。何故と云うに既にわし[#「わし」に傍点]は、秘巻の意味を知り尽したからで、そこで他人に譲りたく、人材を求めたのでござる。その結果四人を目付けました。第一が他ならぬご貴殿でござる。第二が山鹿素行殿、第三が熊沢蕃山殿、第四が保科正之侯。……で、湖畔で貴殿に会いその人物を験めそうものと、例の立泳ぎお目にかけました。が、貴殿には残念にも、心に不軌を蔵して居られる。天下を乱すに相違無い。然るに南宗派乾流は、そういう人物には有害なのでござる。で、貴殿には譲りたくござらぬ。とは云え悪霊を退治して、娘をお助け下さるとあっては、矢張り譲らねばなりますまい。よろしうござる、お譲りしましょう」
 つと老人は立ち上り、隣の部屋へ這入って行った。持って来たのは一巻の巻物、恭しく額に押しあてたがやがて正雪の前へ置いた。
「術譲り! 襟を正されい」
 正雪はピタリと襟を正した。
「さて、秘巻はお譲り致した。……悪霊退散の方法はな?」

     

「不浄場をお取り壊しなさるよう」
 これが正雪の言葉であった。既に秘巻を譲られたからは、老人は彼に執り師匠であった。そこで言葉を慇懃にした。
「先生は博学でございます。それが尠《すくな》くも今度の事件では、失敗の基でございました。何故と申しますに先生には、その博学にとらわれ[#「とらわれ」に傍点]て、つまらない[#「つまらない」に傍点]彼等の歌の意味を、むずかしくお考えになりました。そのため難解に墜落ました。彼等の歌には意味は無く、文字に意味があったのでございます。既ち初の文句では、その頭にある「武」という文字に、意味があったのでございます。そうして其の次の文句ではその最後にある「将」という文字に、意味があったのでございます。そうして三番目の文句では、矢張り頭にある「霊」という文字に意味があったのでございます。そうして四番目の文句では、又最後の「柩」という文字に、意味があったのでございます、このようにして頭と尻との、各一字ずつの文字を取り、そのまま順序よく並べますと、次のような一連の言葉となります。
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武将霊柩在地下
必不浄不可建
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 武将の霊柩地下に在り、必ず不浄を建つ可からず。――このようになるのでございます。ところで何うしてこの私が、それに気が付いたかと申しますに、彼等が歌をうたう時、頭と尻とへ特別に、力を籠めるからでございました。……で、恐らくお屋敷内の便所の下に古武将の柩が、埋めてあるのでございましょう。その上へ便所が立ちましたので、その霊魂が憤慨し、仇をしたものと存ぜられます」
 そこで老人と正雪とは、急いで便所を取り壊し、その地の下を掘って見た。果たして一個の霊柩があり、甲冑を鎧った骸骨が、その附近に散在していた。

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「ポケット」
   1926(大正15)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○練金術:「錬金術」の誤記か。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
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