持てあます西瓜《すいか》ひとつやひとり者
これはわたくしの駄句である。郊外に隠棲している友人が或年の夏小包郵便に托して大きな西瓜を一個《ひとつ》饋《おく》ってくれたことがあった。その仕末《しまつ》にこまって、わたくしはこれを眺めながら覚えず口ずさんだのである。
わたくしは子供のころ、西瓜や真桑瓜《まくわうり》のたぐいを食《くら》うことを堅く禁じられていたので、大方そのせいでもあるか、成人の後に至っても瓜の匂を好まないため、漬物にしても白瓜《しろうり》はたべるが、胡瓜《きゅうり》は口にしない。西瓜は奈良漬《ならづけ》にした鶏卵《たまご》くらいの大きさのものを味うばかりである。奈良漬にすると瓜特有の青くさい匂がなくなるからである。
明治十二、三年のころ、虎列拉病《コレラびょう》が両三度にわたって東京の町のすみずみまで蔓衍《まんえん》したことがあった。路頭に斃《たお》れ死するものの少くなかった話を聞いた事がある。しかしわたくしが西瓜や真桑瓜を食うことを禁じられていたのは、恐るべき伝染病のためばかりではない。わたくしの家では瓜類の中《うち》で、かの二種を下賤な食物としてこれを禁じていたのである。魚類では鯖《さば》、青刀魚《さんま》、鰯《いわし》の如き青ざかな、菓子のたぐいでは殊に心太《ところてん》を嫌って子供には食べさせなかった。
思返すと五十年むかしの話である。むかし目に見馴れた橢円形《だえんけい》の黄いろい真桑瓜は、今日《こんにち》ではいずこの水菓子屋にも殆ど見られないものとなった。黄いろい皮の面《おもて》に薄緑の筋が六、七本ついているその形は、浮世絵師の描いた狂歌の摺物《すりもの》にその痕《あと》を留《とど》めるばかり。西瓜もそのころには暗碧《あんぺき》の皮の黒びかりしたまん円《まる》なもののみで、西洋種の細長いものはあまり見かけなかった。
これは余談である。わたくしは折角西瓜を人から饋《おく》られて、何故こまったかを語るべきはずであったのだ。わたくしが口にすることを好まなければ、下女に与えてもよいはずである。然るにわたくしの家には、折々下女さえいない時がある。下女がいなければ、隣家へ饋ればよいという人があるかも知れぬが、下女さえさびしさに堪兼《たえか》ねて逃去るような家では、近隣とは交際がない。啻《ただ》にそれのみではない。わたくしは人の趣味と嗜性《しせい》との如何を問わず濫《みだり》に物を饋ることを心なきわざだと考えている。
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わたくしはこれまでたびたび、どういうわけで妻帯をしないのかと問われた。わたくしは生涯独身でくらそうと決心したのでもなく、そうかといって、人を煩《わずらわ》してまで配偶者を探す気にもならなかった。来るものがあったら拒《こば》むまいと思いながら年を送る中《うち》、いつか四十を過ぎ、五十の坂を越して忽ち六十も目睫《もくしょう》の間《かん》に迫ってくるようになった。世には六十を越してから合※[#「丞/犯のつくり」、第4水準2-3-54]《ごうきん》の式を挙げる人もままあると聞いているから、わたくしの将来については、わたくし自身にも明言することはできない。
しずかに過去を顧《かえりみ》るに、わたくしは独身の生活を悲しんでいなかった。それと共に男女同棲の生活をも決して嫌っていたのではない。今日になってこれを憶《おも》えば、そのいずれにも懐しい記憶が残っている。わたくしはそのいずれを思返しても決して慚愧《ざんき》と悔恨《かいこん》とを感ずるようなことはない。さびしいのも好かったし、賑《にぎやか》なのもまたわるくはなかった。涙の夜も忘れがたく、笑の日もまた忘れがたいのである。
大久保に住んでいたころである。その頃|家《うち》にいたお房という女とつれ立って、四谷通《よつやどおり》へ買物に出かける。市ヶ谷|饅頭谷《まんじゅうだに》の貧しい町を通ると、三月の節句に近いころで、幾軒となく立ちつづく古道具屋の店先には、雛人形が並べてあったのを、お房が見てわたくしの袂《たもと》を引いた。ほしければ買ってやろうというと、お房はもう娘ではあるまいし、ほしくはないと言ったので、そのまま歩み過ぎ、表通《おもてどおり》の八百屋で明日《あした》たべるものを買い、二人で交《かわ》る交る坊主持《ぼうずもち》をして家にかえったことがある。何故《なにゆえ》とも分らず、この晩の事が別れた後まで永くわたくしの心に残っていた。
冬の夜はしんしんとふけ渡って、窓の外には庭の樹《き》を動すゆるやかな風の音が聞えるばかり。犬の声もせず鼠の音もしない。襖《ふすま》のあく音に、わたくしは筆を手にしたままその方を見ると、その頃|家《うち》にいた八重という女が茶と菓子とを好みの器《うつわ》に入れて持ち運んで来たのである。何やかやとはなしをしている中に、鐘の音が聞える。遠い目白台の鐘である。わたくしはその辺にちらかした古本を片付ける。八重は夜具を敷く前、塵を掃出すために縁側《えんがわ》の雨戸を一枚あけると、皎々《こうこう》と照りわたる月の光に、樹の影が障子《しょうじ》へうつる。八重はあしたの晩、哥沢節《うたざわぶし》のさらいに、二上《にあが》りの『月夜烏《つきよがらす》』でも唱《うた》おうかという時、植込の方で烏らしい鳥の声がしたので、二人は思わず顔を見合せて笑った。その時分にはダンスはまだ流行していなかったのだ。
麻布に廬《いおり》を結び独り棲《す》むようになってからの事である。深夜ふと眼をさますと、枕元の硝子窓《ガラスまど》に幽暗な光がさしているので、夜があけたのかと思って、よくよく見定めると、宵の中には寒月が照渡っていたのに、いつの間にか降出した雪が庭の樹と隣の家の屋根とに積っていたのである。再び瓦斯《ガス》ストーブに火をつけ、読み残した枕頭《ちんとう》の書を取ってよみつづけると、興趣の加わるに従って、燈火は※[#「螢」の「虫」に代えて「火」、第3水準1-87-61]々《けいけい》として更にあかるくなったように思われ、柔に身を包む毛布はいよいよ暖に、そして降る雪のさらさらと音する響は静な夜を一層静にする。やがて夜も明け放れてから知らず知らずまた眠に堕《お》ち、サイレンの声を聞いて初て起き出る。このような気儘な一夜を送ることのできるのも、家の中《うち》に気がねをしたり、または遠慮をしなければならぬ者のいないがためである。妻子や門生《もんせい》のいないがためである。
午後《ひるすぎ》も三時過ぎてから、ふらりと郊外へ散歩に出る。行先さだめず歩みつづけて、いつか名も知らず方角もわからぬ町のはずれや、寂しい川のほとりで日が暮れる。遠くにちらつく燈火を目当に夜道を歩み、空腹に堪えかねて、見あたり次第、酒売る家に入り、怪しげな飯盛《めしもり》の女に給仕をさせて夕飯を食《く》う。電燈の薄暗さ。出入《ではいり》する客の野趣を帯びた様子などに、どうやら『膝栗毛』の世界に這入《はい》ったような、いかにも現代らしくない心持になる。これもわが家に妻孥《さいど》なく、夕飯の膳に人の帰るのを待つもののいないがためである。
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そもそもわたくしは索居独棲《さくきょどくせい》の言いがたき詩味を那辺《なへん》より学び来《きた》ったのであろう。わたくしはこれを十九世紀の西洋文学から学び得たようにも思い、また江戸時代の詩文より味い来ったもののような気もする。わたくしはたとえ西洋の都市に青春の幾年かを送った経歴がなかったとしても、わたくしの生涯はやはり今日あるが如きものとなってしまうより外には、道がなかったように思われる。わたくしの健康、性癖、境遇、それらのものを思返して見ると、わたくしの身は世間一般の人のように、善良なる家庭の父となり得られるはずはないようである。
多病の親から多病ならざる子孫の生れいづる事はまず稀であろう。病患は人生最大の不幸であるとすれば、この不幸はその起らざる以前に妨止せねばならない。わたくしは自ら制しがたい獣慾と情緒とのために、幾度《いくたび》となく婦女と同棲したことがあったが、避姙の法を実行する事については寸毫《すんごう》も怠る所がなかった。
わが亡友の中に帚葉山人《そうようさんじん》と号する畸人《きじん》があった。帚葉山人はわざわざわたくしのために、わたくしが頼みもせぬのに、その心やすい名医|何某《なにがし》博士を訪《と》い、今日普通に行われている避姙の方法につき、その実行が間断なく二、三十年の久しきに渉《わた》っても、男子の健康に障害を来すような事がないものか否かを質問し、その返答を伝えてくれたことがあった。山人は誠に畸人であって、わたくしの方から是非にといって頼むことは一向してくれないが、頼みもしない事を、時々心配して世話をやく妙な癖があった。或日わたくしに向って、何やら仔細《しさい》らしく、真実子供がないのかと質問するので、わたくしは、出来るはずがないから確にないと答えると、「それはあなたの方で一人でそう思っていられるのじゃないですか。あなた自身も知らないというような落胤《おとしだね》があって、世に生存していたらおかしなものですな。」と言う。
「むかしの小説や芝居なら知らないこと、そんな事はあり得ないはなしだ。」とわたくしは重ねて否定したが、しかし人生には意表に出る事件がないとも限らぬから、わたくしは帚葉山人が言った謎のような言葉を、そのまま茲《ここ》に識《しる》して置くのである。
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繁殖を欲しなければ繁殖の行為をなさざるに若《し》くはない。女子を近づけなければ子供のできる心配はない。女子を近づけながら、しかも繁殖を欲しないのは天理に反《そむ》いている。わたくしはかつて婦女を後堂《こうどう》に蓄《たくわ》えていたころ、絶えずこの事を考えていた。今日にあっても、たまたま蘭燈《らんとう》の影暗きところに身を置くような時には、やはりこの事を考える。
繁殖を望まずしてその行為をなすは男子の弱点である。無用の徒事である。悪事である。しかし世に徒事の多きは啻《ただ》にこの事のみではない。酒を買って酔を催すのも徒事である。酔うて人を罵るに至っては悪事である。烟草を喫するのもまた徒事。書を購《あがな》って読まざるもまた徒事である。読んで後記憶せざればこれもまた徒事にひとしい。しかしながら為政者のなす所を見るに、酒と烟草とには税を課してこれを人に買わせている。法律は無益の行動を禁じていない。繁殖を目的とせざる繁殖の行為には徴税がない。人生徒事の多きが中に、避姙と読書との二事は、飲酒と喫烟とに比して頗《すこぶる》廉価《れんか》である。避姙は宛《さなが》ら選挙権の放棄と同じようなもので、法律はこれを個人の意志に任せている。
選挙にはむずかしい規定がある。一たびこれに触れると、忽《たちまち》縲紲《るいせつ》の辱《はずかしめ》を受けねばならない。触《さわ》らぬ神に祟《たたり》なき諺《ことわざ》のある事を思えば、選挙権はこれを棄てるに若《し》くはない。
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女子を近づけ繁殖の行為をなさんとするに当っては、生れ出づべき子供の将来について考慮を費さなければならない。子供が成長して後、その身を過ち盗賊となれば世に害を貽《のこ》す。子供が将来何者になるかは未知の事に属する。これを憂慮すれば子供はつくらぬに若《し》くはない。
わたくしは既に中年のころから子供のない事を一生涯の幸福と信じていたが、老後に及んでますますこの感を深くしつつある。これは戯語でもなく諷刺でもない。窃《ひそか》に思うにわたくしの父と母とはわたくしを産んだことを後悔《こうかい》しておられたであろう。後悔しなければならないはずである。わたくしの如き子がいなかったなら、父母の晩年はなお一層幸福であったのであろう。
父と母とは自分たちのつくったものが、望むようなものに成らなければ、これを憎むと共に、また自分たちの薫陶《くんとう》の力の足りなかったことを悲しむであろう。猫が犬よりも人に愛せられないのは、犬のように柔順でないからである。わたくしの父はわたくしが文学を修めたことについて、いかに痛嘆しておられたかは、その手紙の外には書いたものが残っていないので、今これを詳《つまびらか》にすることができない。しかし平生《へいぜい》儒学を奉じておられた事から推量しても、わたくしが年少のころに作った『夢の女』のような小説をよんで、喜ばれるはずがない事は明《あきらか》である。
父は二十余年のむかしに世を去られた。そして、わたくしは今やまさに父が逝《ゆ》かれた時の年齢に達せむとしている。わたくしはこの時に当って、わたくしの身に猫のような陰忍な児《こ》のないことを思えば、父の生涯に比して遥に多幸であるとしか思えない。もしもわたくしに児があって、それが検事となり警官となって、人の罪をあばいて世に名を揚げるような事があったとしたら、わたくしはどんな心持になるであろう。わたくしは老後に児孫《じそん》のない事を以て、しみじみつくづく多幸であると思わなければならない。
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文学者を嫌うのも、検事を憎むのも、それは各人の嗜性《しせい》に因《よ》る。父の好むところのものは必しも児のよろこぶものではない。嗜性は情に基くもので理を以て論ずべきではない。父と子と、二人の趣味が相異るに至るのは運命の戯《たわむれ》で、人の力の及びがたきものである。
大正十二年の秋東京の半《なかば》を灰にした震災の惨状と、また昭和以降の世態人情とは、わたくしのような東京に生れたものの心に、釈氏《しゃくし》のいわゆる諸行無常の感を抱かせるに力のあった事は決して僅少ではない。わたくしは人間の世の未来については何事をも考えたくない。考えることはできない。考える事は徒労であるような気がしている。わたくしは老後の余生を偸《ぬす》むについては、唯世の風潮に従って、その日その日を送りすごして行けばよい。雷同し謳歌して行くより外には安全なる処世の道はないように考えられている。この場合わが身一つの外に、三界《さんがい》の首枷《くびかせ》というもののないことは、誠にこの上もない幸福だと思わなければならない。
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わたくしの身にとって妻帯の生活の適しない理由は、二、三に留《とど》まらない。今その最も甚しきものを挙ぐれば、配偶者の趣味性行よりもむしろ配偶者の父母兄妹との交際についてである。姻戚《いんせき》の家に冠婚葬祭の事ある場合、これに参与するくらいの事は浮世の義理と心得て、わたくしもその煩累《はんるい》を忍ぶであろうが、然らざる場合の交際は大抵|厭《いと》うべきものばかりである。
行きたくない劇場に誘《さそ》い出されて、看《み》たくない演劇を看たり、行きたくない別荘に招待せられて、食べたくない料理をたべさせられた挙句《あげく》、これに対して謝意を陳《の》べて退出するに至っては、苦痛の上の苦痛である。今の世を見るに、世人は飲食物を初めとして学術文芸に至るまで、各人個有の趣味と見解とを持っていることを認めない。十人|十色《といろ》の諺のあることは知っているらしいが、各自の趣味と見識とはその場合場合に臨んでは、忍んでこれを棄てべきものと思っているらしい。さして深甚の苦痛を感ぜずに捨てることができるものと思っているらしい。飲めない酒もそういう場合には忍んで快く飲むのが、免《まぬか》れがたき人間の義務となしているらしい。ここにおいてか、結婚は社交の苦痛を忍び得る人にして初めてこれを為し得るのである。社交を厭うものは妻帯をしないに越したことはない。わたくしは今日まで、幸にしておのれの好まざる俳優の演技を見ず、おのれの好まざる飲食物を口にせずしてすんだ。知人の婚礼にも葬式にも行かないので、歯の浮くような祝辞や弔辞《ちょうじ》を傾聴する苦痛を知らない。雅叙園《がじょえん》に行ったこともなければ洋楽入の長唄《ながうた》を耳にしたこともない。これは偏《ひとえ》に鰥居《かんきょ》の賜《たまもの》だといわなければならない。
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森鴎外先生が『礼儀小言』に死して墓をつくらなかった学者のことが説かれている。今わたくしがこれに倣《なら》って、死後に葬式も墓碣《ぼけつ》もいらないと言ったなら、生前自ら誇って学者となしていたと、誤解せられるかも知れない。それ故わたくしは先哲の異例に倣うとは言わない。唯死んでも葬式と墓とは無用だと言っておこう。
自動車の使用が盛になってから、今日では旧式の棺桶《かんおけ》もなく、またこれを運ぶ駕籠《かご》もなくなった。そして絵巻物に見る牛車《ぎっしゃ》と祭礼の神輿《みこし》とに似ている新形の柩車《きゅうしゃ》になった。わたくしは趣味の上から、いやにぴかぴかひかっている今日の柩車を甚しく悪《にく》んでいる。外見ばかりを安物で飾っている現代の建築物や、人絹《じんけん》の美服などとその趣を同じくしているが故である。わたくしはまた紙でつくった花環《はなわ》に銀紙の糸を下げたり、張子《はりこ》の鳩をとまらせたりしているのを見るごとに、わたくしは死んでもあんな無細工《ぶさいく》なものは欲しくないと思っている。白い鳩は基督教《キリストきょう》の信徒には意義があるかも知れないが、然らざるものの葬儀にこれを贈るのは何のためであろう。
元来わたくしの身には遵奉《じゅんぽう》すべき宗旨《しゅうし》がなかった。西洋人をして言わしめたら、無神論者とか、リーブル・パンサウールとか称するものであろう。毎年十二月になると東京の町々には耶蘇降誕祭《ヤソこうたんさい》の贈物を売る商品の広告が目につく。基督教の洗礼をだに受けたことのないものが、この贈物を購《あがな》い、その宗旨の何たるかを問わずして、これを人に贈る。これが今の世の習慣である。宗教を軽視し、信仰を侮辱することもまた甚しいと言わなければならない。
わたくしは齠齔《ちょうしん》のころ、その時代の習慣によって、夙《はや》く既に『大学』の素読《そどく》を教えられた。成人の後は儒者の文と詩とを誦《しょう》することを娯《たの》しみとなした。されば日常の道徳も不知不識《しらずしらず》の間に儒教に依《よ》って指導せられることが少くない。
儒教は政治と道徳とを説くに止《とどま》って、人間死後のことには言及んでいない。儒教はそれ故宗教の域に到達していないものかも知れない。しかしこの問題については、わたくしは確乎とした考を持っていない。今日に至るまでこれを思考することができなかったとすれば、恐《おそら》くは死に至るまで、わたくしは依然として呉下《ごか》の旧阿蒙《きゅうあもう》たるに過ぎぬであろう。
わたくしは思想と感情とにおいても、両《ふたつ》ながら江戸時代の学者と民衆とのつくった伝統に安んじて、この一生を終る人である。一たび伝統の外に出たいと願ったこともあったが、中途にしてその不可能であることを知った。わたくしをして過去の感化を一掃することの不可能たるを悟《さと》らしめたものは、学理ではなくして、風土気候の力と過去の芸術との二ツであった。この経験については既に小説『冷笑』と『父の恩』との中に細叙してあるから、ここに贅《ぜい》せない。
毎年冬も十二月になってから、青々と晴れわたる空の色と、燈火のような黄いろい夕日の影とを見ると、わたくしは西洋の詩文には見ることを得ない特種の感情をおぼえる。クリスマスの夜の空に明月を仰ぎ、雪の降る庭に紅梅の花を見、水仙の花の香をかぐ時には、何よりも先に宗達《そうたつ》や光琳《こうりん》の筆致と色彩とを思起す。秋冬の交《こう》、深夜夢の中に疎雨|斑々《はんぱん》として窓を撲《う》つ音を聞き、忽然《こつぜん》目をさまして燈火の消えた部屋の中を見廻す時の心持は、木でつくった日本の家に住んで初て知られる風土固有の寂寥《せきりょう》と恐怖の思である。孟宗竹《もうそうちく》の生茂《おいしげ》った藪の奥に晩秋の夕陽《ゆうひ》の烈しくさし込み、小鳥の声の何やら物急《ものせわ》しく聞きなされる薄暮の心持は、何に譬《たと》えよう。
深夜天井裏を鼠の走り廻るおそろしい物音に驚かされ、立って窓の戸を明けると、外は昼のような月夜で、庭の上には樹の影が濃くかさなり、あたり一面見渡すかぎり虫が鳴きしきっている。これらの光景とその時の情趣とは、ピエール・ロッチがその著『お菊さん』の中に委《くわ》しく記述している。雨の小息《こや》みもなく降りしきる響を、狭苦しい人力車の幌《ほろ》の中に聞きすましながら、咫尺《しせき》を弁ぜぬ暗夜の道を行く時の情懐を述べた一章も、また『お菊さん』の書中最も誦《しょう》すべきものであろう。
わたくしは今日でも折々ロッチの文をよむ。そして読むごとに、わたくしが日本の風土気候について感ずる所は悉《ことごと》くロッチの書中に記載せられている事を知るのである。ロッチが初て日本に来遊したのは、そが日光山の記に、上野停車場を発した汽車が宇都宮までしか達していない事が記されているので、明治十六、七年のころであったらしい。当時ロッチの見た日本の風景と生活にして今は既に湮滅《いんめつ》して跡を留めざるものも少くはない。ロッチの著作はわたくしが幼年のころに見覚えた過去の時代の懐《なつか》しき紀念である。長煙管《ながギセル》で灰吹《はいふき》の筒を叩く音、団扇《うちわ》で蚊を追う響、木の橋をわたる下駄の音、これらの物音はわれわれが子供の時日々耳にきき馴れたもので、そして今は永遠に返り来ることなく、日本の国土からは消去ってしまったものである。
英国人サー・アーノルドの漫遊記、また英国公使フレザー夫人の著書の如きは、共に明治廿二、三年のころの日本の面影を窺《うかが》わしめる。
わたくしはラフカヂオ・ハーンが『怪談』の中に、赤坂紀の国坂の暗夜のさま、また市ヶ谷|瘤寺《こぶでら》の墓場に藪蚊《やぶか》の多かった事を記した短篇のあることを忘れない。それらはいずれも東京のむかしを思起させるからである。
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わたくしはつらつら過去の生涯を回顧して見ると、この六十年の間、わたくしの思想と生活との方向を指導し来《きた》ったものは、支那人と西洋人との思想であった。支那の思想は老荘と仏教とを混和した宋以後のものである。西洋の思想は十九世紀のロマンチズムとそれ以後の個人主義的芸術至上主義とである。わたくしの一生涯には独特固有の跡を印するに足るべきものは、何一つありはしなかった。
日本の歴史は少年のころよりわたくしに対しては隠棲といい、退嬰《たいえい》と称するが如き消極的処世の道を教えた。源平時代の史乗《しじょう》と伝奇とは平氏の運命の美なること落花の如くなることを知らしめた。『太平記』の繙読《はんどく》は藤原藤房《ふじわらのふじふさ》の生涯について景仰《けいこう》の念を起させたに過ぎない。わたくしはそもそもかくの如き観念をいずこから学び得たのであろうか。その由《よ》って来るところを尋ねる時、少年のころ親しく見聞した社会一般の情勢を回顧しなければならない。即ち明治十年から二十二、三年に至る間の世のありさまである。この時代にあって、社会の上層に立っていたものは官吏である。官吏の中その勲功を誇っていたものは薩長の士族である。薩長の士族に随従することを屑《いさぎよ》しとしなかったものは、悉く失意の淵に沈んだ。失意の人々の中には董狐《とうこ》の筆を振って縲紲《るいせつ》の辱《はずかしめ》に会うものもあり、また淵明《えんめい》の態度を学んで、東籬《とうり》に菊を見る道を求めたものもあった。わたくしが人より教えられざるに、夙《はや》く学生のころから『帰去来《ききょらい》の賦《ふ》』を誦し、また『楚辞』をよまむことを冀《こいねが》ったのは、明治時代の裏面を流れていた或思潮の為すところであろう。栗本鋤雲《くりもとじょうん》が、
門巷蕭条夜色悲 〔門巷《もんこう》は蕭条《しょうじょう》として夜色《やしょく》悲しく
※《きゅうりゅう》の声《こえ》は月前《げつぜん》の枝《えだ》に在《あ》り
誰憐孤帳寒檠下 誰か憐《あわれ》まん孤帳《こちょう》の寒檠《かんけい》の下《もと》に
白髪遺臣読楚辞 白髪《はくはつ》の遺臣《いしん》の楚辞《そじ》を読《よ》めるを〕
といった絶句の如きは今なお牢記《ろうき》して忘れぬものである。
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欧洲の乱が平定し仏蘭西《フランス》の国土が独逸人《ドイツじん》の侵略から僅《わずか》に免れ得た時、わたくしは年まさに強仕《きょうし》に達しようとしていた。それより今日に至るまで葛裘《かっきゅう》を変《かえ》ること二十たびである。この間にわたくしは西洋に移り住もうと思立って、一たびは旅行免状をも受取り、汽船会社へも乗込の申込までしたことがあった。その頃は欧洲行の乗客が多いために三カ月位前から船室を取る申込をして置かねばならなかったのだ。わたくしは果してよくケーベル先生やハーン先生のように一生涯他郷に住み晏如《あんじょ》としてその国の土になることができるであろうか。中途で帰りたくなりはしまいか。瀕死の境に至っておめおめ帰りたくなるような事が起るくらいならば、移住を思立つにも及ぶまい。どうにか我慢して余生を東京の町の路地裏に送った方がよいであろう。さまざま思悩んだ果《はて》は、去るとも留《とどま》るとも、いずれとも決心することができず、遂に今日に至った。洋行も口にはいいやすいが、いざこれを実行する段になると、多年住みふるした家屋の仕末《しまつ》をはじめ、日々手に触れた家具や、嗜読《しどく》の書をも売払わなければならない。それらの事は友人にでも託すればよいという人もあろうが、一生|還《かえ》って来ないつもりで出掛けるのに迷惑と面倒とを人にかけるのは心やましいわけである。出発の間際に起る繁雑な事情とその予想とがいつも実行を妨げてしまうのであった。人間も渡鳥のように、時節が来るや否や、わけもなく旧巣《ふるす》を捨てて飛去ることができたなら、いかに幸であったろう
昭和十二年丁丑四月稿
底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年5月28日作成
2010年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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