永井荷風

裸体談義—– 永井荷風

 戦争後に流行しだしたものの中には、わたくしのかつて予想していなかったものが少くはない。殺人|姦淫《かんいん》等の事件を、拙劣下賤な文字で主として記載する小新聞《こしんぶん》の流行、またジャズ舞踊の劇場で婦女の裸体を展覧させる事なども、わたくしの予想していなかったものである。殺人姦淫事件は戦争前平和な世の中にも常にあった事であるから、この事だけでは特種な新聞を発行する資料にはなるまいと思われていたからである。およそ世の読者に興味のあるような残忍の事件はそう毎日毎日、紙上を埋めるほど頻々《ひんぴん》として連続するものではない。例えば、日大の学生がその母と妹とに殺された事件、玉の井の溝からばらばらに切り放された死人の腕や脚が出た事などは今だに人の記憶しているくらいで、そう毎日起る事件ではない。目下いずこの停車場《ていしゃじょう》の新聞売場にも並べられている小新聞を見ると、拙劣鄙褻《せつれつひせつ》な挿絵とその表題とが、読者の目を牽《ひ》くだけで買って読んで見ると案外つまらない事ばかりである。わたくしは時代の流行として、そういう時代にはそうした物が流行したという事を記憶して置きたいと思っている。そのためには『実話新聞』だの何だのという印刷物も一通りは風俗資料として保存して置きたいと心掛けている。
 戦争前、カフェー汁粉屋その他の飲食店で、広告がわりに各店で各意匠を凝《こら》したマッチを配布したことがある。これを取り集めて丁寧に画帖に貼り込んだものを見たことがあった。当時の世の中を回顧するにはよい材料である。戦後文学また娯楽雑誌が挿絵といえば女の裸体でなければならないように一様に歩調を揃えているのも、後の世になったらむしろ滑稽に思われるであろう。
 舞台で女の裸体を見せるようになった事をわたくしが初めて人から聞伝えたのは、一昨年(昭和廿二年)の秋頃、利根川|汎濫《はんらん》の噂のあった頃である。新宿の帝都座で、モデルの女を雇い大きな額ぶちの後に立ったり臥《ふせ》たりさせ、予《あらかじ》め別の女が西洋名画の筆者と画題とを書いたものを看客に見せた後幕を明けるのだという話であった。しかしわたくしが事実目撃したのは去年(昭和廿三年)になってからであった。
 戦争前からわたくしは浅草公園の興行界には知合の人が少くなかった。浅草の興行街は幸に空襲の災難を免《まぬか》れていたので映画の外に芝居やレビューも追々《おいおい》興行されるようになったから、是非にも遊びに来るようにと手紙をもらうことも度々になったので、去年の正月も七草《ななくさ》を過ぎたころ、見物に出かけた、その時|木馬館《もくばかん》の後あたりに小屋掛をして、裸体の女の大勢足をあげて踊っている看板と、エロス祭と大書した札を出しているのがあった。入場料は拾円で、蓄音機にしかけた口上が立止る人々の好奇心を挑発させていた。しかし入口からぽつぽつ出て来る人たちの評判を立聞きすると、「腰巻なんぞ締《し》めていやがる。面白くもねえ。」というのである。小屋掛の様子からどうしてもむかし縁日《えんにち》に出たロクロ首の見世物も同じらしく思われたので、わたくしは入らずにしまった。このエロス祭とよく似ていたのは日本館の隣の空地《あきち》でやっていた見世物である。黒眼鏡をかけた女がその首だけを台の上に載せ、その身体は見えないようにしてある。呼込みの男が医学と衛生に関する講演をやって好加減《いいかげん》入場者が集まる頃合を見計い表の幕を下す。入場料はたしか五拾円であった。これも、わたくしは入って見てもいいと思いながら講演が長たらしいのに閉口して、這入《はい》らずにしまった。エロス祭と女の首の見世物とは半歳近くつづいて、その年の秋にはなくなっていた。
 ジャズ舞踊と演劇とを見せる劇場は公園の興行街には常盤座《ときわざ》、ロック座、大都劇場の三座である。踊子の大勢出るレヴューをこの土地ではショーとかヴァライエチーとか呼んでいる。西洋の名画にちなんだ姿態を取らせて、モデルの裸体を見せるのはジャズ舞踊の間にはさんでやるのである。見てしまえば別に何処《どこ》が面白かったと言えないくらいなもので、洗湯《せんとう》へ行って女湯の透見《すきみ》をするのと大差はない。興味は表看板の極端な絵を見て好奇心に駆られている間だけだと言えばいいのであろう。われわれ傍観者には戦争前にはなくて戦敗後に現れて一代の人気に投じたという処に観察の興味があるのだ。
 ジャズを踊る踊子は戦争前には腰と乳房とを隠していたのであるが、モデルが出るようになってから、それも出来得るかぎり隠す部分の少いように仕立てたものを附けるので、後や横を向いた時には真裸体《まっぱだか》のように見えることがある。昨年正月から二月を過ぎ三、四月頃まで、この裸体と裸体に近い女たちの舞踊は全盛を極めた。入場料はその時分から六拾円であるが、日曜日でない平日でも看客は札売場《ふだうりば》の前に長い列をなし一時間近くたって入替りになるのを我慢よく待っていたものだ。しかし四、五月頃から浅草ではモデルの名画振りは禁止となり、踊子の腰のまわりには薄物や何かが次第に多く附けまとわれるようになった。そして時節もだんだん暑くなるにつれ看客の木戸前に行列するような事も少くなって来た。
 一座の中で裸体になる女の給金は、そうでない女たちよりも多額である。それなら誰も彼も裸体になるといいそうなものであるが、そんな競争は見られない。普通の踊子が裸体を勤める女に対して影口をきくこともなく、各《おのおの》その分を守っているとでもいうように、両者の間には何の反目もない。楽屋はいつも平穏無事のようである。
 踊子の踊の間々に楽屋の人たちがスケッチとか称している短い滑稽な対話が挿入される。その中には人の意表に出たものが時々見られるのだ。靴磨が女の靴をみがきながら、片足を揚げた短いスカートの下から女の股間《こかん》を窺《のぞ》くために、足台をだんだん高くさせたり、また、男と女とがカルタの勝負を試み、負ける度びに着ているものを一枚ずつぬいで行き、負けつづけた女が裸体になって、遂に危く腰のものまで取る段になって、舞台は突然暗転して別の場面になる。これらはその一例に過ぎない。いずれも戦争前のレヴューにはなくて、戦敗後の今日において初て見られるものである。世の諺にも話が下掛《しもがか》ってくるともう御仕舞《おしま》いだという。十返舎一九《じっぺんしゃいっく》の『膝栗毛』も篇を重ねて行くに従い、滑稽の趣向も人まちがいや、夜這《よば》いが多くなり、遂に土瓶の中に垂れ流した小便を出がらしの茶とまちがえて飲むような事になる。戦後の演芸が下《しも》がかってくるのも是非がない。
 浅草の劇場では以上述べたようなジャズ舞踊の外に必ず一幕物が演ぜられている。
 戦争後に流行した茶番じみた滑稽物は漸くすたって、闇の女の葛藤《かっとう》、脱走した犯罪者の末路、女を中心とする無頼漢の闘争というが如きメロドラマが流行し、いずこの舞台にもピストルの発射されないことはないようになった。
 戦争前の茶番がかった芝居には、それでも浅草という特種な雰囲気が漂っているものもたまには見られない事もなかったが、今ではそういう写実風の妙味は次第に失われて、脚色の波瀾と人物の活動とを主とする傾《かたむき》が早くも一つの類型をなしているようになった。劇場前に掲げ出される絵看板は、舞台の技芸よりも更に一層奇怪、残忍、淫褻《いんせつ》になった。絵看板と同じく脚本の名題《なだい》もまたそれに劣らぬ文字が案出されている。レヴューの名題には肉体とか絢爛《けんらん》とか誘惑とかいう文字が羅列され、演劇には姦淫、豺狼《さいろう》、貪乱といったような文字が選び出されている。
 浅草の興行街には久しく剣劇といいチャンバラといわれた闘争の劇の流行していたことは人の記憶している所である。博徒無頼漢の喧噪を主とした芝居で、その絵看板の殺伐残忍なことは、往々顔を外向《そむ》けたいくらいなものがあった。チャンバラ芝居は戦争後殆どその跡を断ったので殺伐残忍の画風は転じて現代劇に移ったものとも見られるであろう。
 西洋近代の演劇は写実の芸風を専一にしているが、人が殺されたり撲《ぶ》たれたりするところは決して写実風ではない。また女を殺す場面は避けて用いないようにしてある。然るに戦後に流行する浅草のメロドラマを見ると、女の虐待される場面のないものは甚《はなはだ》少いらしい。立廻《たちまわり》の間に帯が解け襦袢《じゅばん》一枚になった女を押えつけてナイフで乳をえぐったり、咽喉《のど》を絞《し》めたりするところは最も必要な見世場《みせば》とされているらしい。歌舞伎劇にも女の殺される処は珍しくないがその洗練された芸風と伴奏の音楽とが、巧みに実感を起させないようにしている。ここに芸術の妙味が認められる。
 しかしわたくしは浅草の芝居の絵看板またその舞台を見て、戦争後の人心の残忍になった反映だとは考えていない。西洋の芝居で見るように西洋人は決して女を撲《なぐ》らないとも考えていない。わたくしは戦争後に現れた世間的事相に対する興味からこんな事を論述するのに過ぎない。流行演劇の残忍は娯楽雑誌に満載せられる大衆小説家の小説と、またその挿絵とに関係している事は勿論である。もし芸術上これを非とするならばその罪は大衆小説家の負うべき所だといっても差閊《さしつかえ》はないであろう。
 女の裸体ダンスを見せる事について思出したことがあるから、ここに補って置く。それは大正十年頃、東京市中にダンス場ができ始めた頃である。新橋赤坂辺の茶屋の座敷で、レコードの伴奏で裸体ダンスを見せる女があった。一時評判になって前の日から口を掛けて置かなければ呼んでも来られないというほどの景気であった。裸体を見せる女は芸者ではないが、商売上名義だけ芸者ということになっていたので、見たいと思うお客は馴染《なじみ》の茶屋から口をかけて呼んでもらうのである。一座敷時間は十分間ぐらいで、報酬は拾五円が普通、それ以上御好みのきわどい[#「きわどい」に傍点]芸をさせるには二、三十円であった。その当時、最初はこの女一人であったがほどなく新橋|南地《なんち》の新布袋家《しんほていや》という芸者家からも、同じようなダンスを見せる女が現れた。間もなく震災があって、東京の市街は大方《おおかた》焼けてしまったので、裸体ダンスの噂もなくなったが、昭和になってから向島、平井町、五反田あたり新開町の花柳界には以前新橋赤坂で流行したようなダンスを見せる芸者が続々として現れるようになったという話をきいた。浅草の興行街で西洋風のレヴューがはやり初めたのも昭和になってからの事で、震災頃までは安木節《やすぎぶし》の踊や泥鰌《どじょう》すくいが人気を集めていたのであるが、一変して今見るような西洋風のダンスになったのである。(震災前後金龍館で興行していたオペラがあったがその一座はレヴューの流行する前に解散された。)
 裸体の流行は以上の如く戦争後に始めて起った事であるが、西洋ではむかしからあったものであろう。私が西洋にいたのは今から四十年前の事だが、裸体なぞはどこへ行っても見られるから別に珍しいとも思わなかった。女郎屋へ上って広い応接間に案内されると、二、三十人裸体になった女が一列になって出て来る。シャンパンを抜いてチップをやると、女たちは足を揃えて踊って見せるのだ。巴里《パリー》のムーランルージュという劇場は廊下で食事もできる。酒も飲める。食事をしながら舞台の踊を見ることができるようになっていた。また廊下から地下室へ下りて行くと、狭い舞台があって、ここでは裸体の女の芸を見せる。しかしこういう場所の話は公然人前ではしないことになっている。下宿屋の食堂なんぞでもそんな話をするものはない。オペラやクラシック音楽の話はするけれども、普通のレヴューや寄席《よせ》の話さえ食事のテーブルなどで、殊に婦人の前などでは口にしてはならない。これが西洋の習慣なのである。日本ではあることないこと何でも構わずに素《す》ッ破《ぱ》ぬく事は悪いことでも耻ずべき事でもないとされている。私はこれも習慣の相違として軽い興味を持ってこれを見ている。舞台で裸体を見せる事も、西洋文化の模倣とも感化とも見て差閊《さしつかえ》はないであろう。八十年むかしに日本の政治や学術は突如として西洋化した。それに後《おく》れること殆ど一世紀にして裸体の見世物が戦敗後の世人の興味を引きのばしたのだ。時代と風俗の変遷を観察するほど興味の深いものはない。
[#地から2字上げ]昭和廿四年正月

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2010年3月9日作成
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