高村光太郎

自作肖像漫談—– 高村光太郎

 今度は漫談になるであろう。この前肖像彫刻の事を書いたが、私自身肖像彫刻を作るのが好きなので、肖像というと大てい喜んで引きうける。これまでかなりいろいろの人のものを作った。

 昔、紐育《ニューヨーク》に居てボオグラム先生のスチュジオに働いていた頃、暫く同じ素人下宿に居られた鉄道省の岡野昇氏といわれる人が、私に小遣取をさせる気持で肖像を作らせてくれた。肖像で報酬をもらったのはこれが生れて初めての事なのでよく憶えている。先生の所で昼間働いて夕方帰って来てから岡野さんに坐ってもらった。日曜は休みなので朝から勢いこんで作った。七八寸位の小さなものであった。それを石膏《せっこう》型にとって岡野さんは帰朝される時持ちかえられたが、帰国後石膏に斑点《はんてん》が出たという通知があった。その頃はその人に肖《に》せる事だけがやっとの事で彫刻としての面白さなどはまるで無いものであったろうと思われる。「兄貴に似ている」と岡野さんが言われたので、それなら他人と間違えられる事もあるまいと思って稍《やや》安心した事を記憶している。令兄は法学博士岡野啓次郎氏という事であった。岡野昇さんは鉄道線路とシグナルとの設計見学に外遊せられていたのであったが、其頃の大宮駅の線路は同氏の設計らしく、引込線を錆《さ》びさせないように苦心するのだと常に言って居られた。ボストン停車場の線路はいいという事だったので、後日ボストンに行った時その線路の配置を注意して見たが自分にはさっぱり分らなかった。岡野さんは実に頭のいい人で何でもてきぱきと分った。余程以前に一種のブレイン トラストのようなものを組織せられた事があると記憶する。今もむろん健在の事と思うが、私のあの胸像はどうなっているかしらと時として思い出す。

 私は外国に居る間、外に肖像を作らなかった。日本に帰ってから丁度父光雲の還暦の祝があり、門下生の好意によって私がその記念胸像を作ることになった。まるで新帰朝の私の彫刻技術を父の門下生等に試験されるようなものであった。はじめ作って一同の同意を得たものは石膏型になってから急にいやになり、一週間ばかりで二度目の胸像を作り、この方を鋳造した。「世界美術全集」などに出ている写真はこの胸像であり、当時一般から彫刻の新生面と目されたのであるが、この胸像は実物の彫刻よりも写真の方がよい位で、甚だ見かけ倒しの作だと今では思っているので、そのうち鋳つぶしてしまう気でいる。父の胸像はその後一二度小さなのを作った事があり、死後更に決定版的に一つ作った。これは昭和十年の一周忌に作り上げた。今上野の美術学校の前庭に立っている。この肖像には私の中にあるゴチック的精神と従ってゴチック的表現とがともかくも存在すると思っている。肩や胸部を大きく作らなかったのは鋳造費用の都合からの事であり、彫刻上の意味からではない。亡父の事を人はよく容貌|魁偉《かいい》というが、どちらかというと派手で、大きくて、厚肉で、俗な分子が相当あり、なかなか扱いにくい首である。私は父の中にある一ばん精神的なものを表現する事につとめたつもりである。

 私が日本へ帰ってから初めて人にたのまれて肖像を作ったのは園田孝吉男の胸像であった。相州二の宮の園田男別邸へ写生に行ったり、その著書「赤心一片」を精読したりしてほぼ見当をつけて作った。男は長く十五銀行の頭取だった人で、戦時献金運動の早期主唱者であった。その当時は最善を尽したのだが今日見ると製作にまだ疎漏なものがある。大震災の時男は二の宮邸で亡くなられたが、震災後、東京の邸宅でその胸像を再び見る機会を得た。ブロンズの色が美しくなっていた。

 その後私は日本の彫刻界にあまり立ち交らないような事になったので、私自身に直接に註文してくる人はめったになかった。私が彫刻を作るという事を世人は知らない程であった。光雲翁はあとが続かないとよくみんなが言った。私は妻の智恵子の首を幾度でも作って勉強していたものの、金がとれないので、父の仕事の原型作りを常にやって生計の足しにしていた。父の依頼された肖像の原型を大小いろいろ作った。大半は忘れてしまった。十数箇年に亘る此の間の私の米櫃《こめびつ》仕事は、半分は父の意見に従い、半分は自分の審美判断に従った中途半端な、そういう原型物であった。折角苦心した肖像が父の仕事場で、星出し針で木彫に写される時むざんに歪められてしまうような事も少くなかった。松方正義老公の銀像、大倉喜八郎男夫妻の坐像、法隆寺貫主の坐像などが記憶にのこっている。松方老公のは助手として父に伴《つ》いていって三田の邸宅で写生した。老公は自分はビスマルクに似ていると人がいうと言って居られた。そして額の中央が特に高く隆起しているといって私に触らせてみせたりした。此の銀像は甚だ幼稚な出来であった。大倉男はあまり肖《に》ると機嫌が悪かった。こせこせ写生などするようでは駄目だと言われた。当時蒙古方面の踏査から帰られたばかりで颯爽《さっそう》として居た。私は何と言われても叮嚀《ていねい》に写生して帰って来た。法隆寺貫主には父の宅でお目にかかり、写真をとらせてもらい、其を参考にして油土で等身大の原型を作った。これは木彫に写された時大変違ってしまった。曾《かつ》て帝展に出品されたのがその木像である。貫主のような清浄な、静かな、深さのある人の肖像を自分の思い通りに製作したいなと思いながら、結局父の木彫に都合のいいように作った。父の仕事の下職としては随分愚劣なものもかなり作った。

 その年月の間に私はアメリカ行を計画してその資金獲得のために彫刻頒布会を発表したが入会者があまり少くて、物にならずに終った。モデルを十分使って勉強する事も出来ないので智恵子がしばしばモデルになった。彼女のからだは小さかったが比例がよくて美しかった。
 彫刻頒布会を発表した頃、日本女子大学の桜楓会から校長成瀬仁蔵先生の胸像をたのまれた。丁度先生はその時永眠せられてしまった。お目にかかったのも逝去数旬前の病床に於いてであった。この胸像はなかなか出来上らず、毎年一個平均ぐらいに原型を作っては壊し、大震災の午前十一時五十八分四十五秒も丁度その胸像をいじっている時であった。その胸像は先生の十七回忌の年にやっと出来上って目白の講堂に納めた。長くかかったわりに思うように良く出来なかったので恥かしく感じた。その時代に中野秀人君や黄瀛《コウエイ》君や住友芳雄君の首も作った。住友君のが一ばん良かった。

 今美術学校と黒田記念館とにある黒田清輝先生の胸像は二三年かかって其後つくった。これは黒田先生を学生時代によく見ていたので作りよかった。先生の頭蓋《ずがい》の形の特異さが殊に彫刻的に面白かった。所謂《いわゆる》法然《ほうねん》あたまである。この頃から私もだんだん彫刻性についての自分自身の会得に或る信念を持つようになった。

 この胸像が出来てから間もなく、智恵子の頭脳が変調になった。それからは長い苦闘生活の連続であった。その病気をどうかして平癒せしめたいと心を砕いてあらゆる手を尽している期間に、松戸の園芸学校の前校長だった赤星朝暉翁の胸像を作った。これも精神異状者を抱えながらの製作だったので思ったよりも仕事が延びた。智恵子の病勢の昂進《こうしん》に悩みながら其を製作していた毎日の苦しさは今思い出しても戦慄《せんりつ》を感ずる。智恵子は到頭自宅に置けないほどの狂燥状態となり、一方父は胃潰瘍《いかいよう》となり、その年父は死去し、智恵子は転地先の九十九里浜で完全な狂人になってしまった。私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追われて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した。私自身がよく狂気しなかったと思う。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けていると評した。やがて智恵子を病院に入れてから、朝夕智恵子の病状に気を引かれながらも少しずつ製作が出来るようになり、父の一周忌にその胸像を完成した。それから九代目団十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。団十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまった。今もそのままになっているが、これはもう一度必ず作り直す気でいる。西蔵《チベット》学者河口慧海先生の首や坐像を記録的に作ったのもその頃である。今年はお許を得て木暮理太郎先生の肖像にかかりはじめているが未完成の事だから多くを語り得ない。

 彫刻家生活をつづけて居て、今最も残念に思うのは、西園寺公の肖像を作る機会を逸してしまった事である。父の生きているうちなら何とか方法もあったと思うのに、今となっては老公も亦年をとられてしまったし、又一介の在野の彫刻家としての私にはどうする事も出来ない次第である。政治家の面貌を見て彫刻的昂奮を感ずる事はめったにないのだが、西園寺公だけは以前から作りたかった。その風貌に深さと味いと豊かさと気品とが備っていて、存分に打ちこんで仕事が出来ると思っていた。公の風貌の日本的、東洋的なものには大きさがあり、高さがあり、こまかさがあり、汲み尽せないような奥の深い陰影があり、世界に示すに足りると思うのである。こういう方の在世時代に自分も生きていながら、ついにその彫刻を作り得ずにしまう事はのこり惜しいが是非もない。こういう類の深と大とのある風貌の人は当分日本に生れそうもないような気がする。中華民国には或はあるかも知れないが、中華民国となると又すっかり特質の違ったものになる。

 私は智恵子の首を除いては女性の肖像をあまり作っていない。はるか以前に歌人の今井邦子女史の胸像をつくりかけたのに、途中で粘土の故障でこわれてしまったのは惜しかった。幸い写真だけは残っていて女史の随筆集の挿画になっている。女史の持つ精神の美と強さとが幾分うかがわれるかも知れない。あの首は大理石で完成するつもりで石まで用意してあったのである。これからは機会を捉えて日本女性の新鮮な美を肖像としてたくさん作って置きたい。一体に女性のよい肖像彫刻は思ったよりも少い。これは美しく作るという成心を作者が持ち易いためではないかと思う。ロダンのノアイユ夫人などは最も優れた作の方で、この高雅な女流詩人の精神と肉体との美が遺憾なく表現されていて、それを見ていると人間の誇を感ずる。私は出来れば日本女性の簡潔な、地についた美が作りたい。お手本になってくれる人がたくさんあればいいと思う。

底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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