国木田独歩

竹の木戸——国木田独歩

        上

 大庭《おおば》真蔵という会社員は東京郊外に住んで京橋区辺の事務所に通っていたが、電車の停留所まで半里《はんみち》以上もあるのを、毎朝欠かさずテクテク歩いて運動にはちょうど可《い》いと言っていた。温厚《おとな》しい性質だから会社でも受が可《よ》かった。
 家族は六十七八になる極く丈夫な老母、二十九になる細君、細君の妹のお清《きよ》、七歳《ななつ》になる娘の礼ちゃんこれに五六年前から居るお徳という女中、以上五人に主人《あるじ》の真蔵を加えて都合六人であった。
 細君は病身であるから余り家事に関係しない。台所元の事は重《おも》にお清とお徳が行《や》っていて、それを小まめな老母が手伝ていたのである。別《わ》けても女中のお徳は年こそ未《ま》だ二十三であるが私はお宅《うち》に一生奉公をしますという意気込で権力が仲々強い、老母すら時々この女中の言うことを聞かなければならぬ事もあった。我儘《わがまま》過るとお清から苦情の出る場合もあったが、何しろお徳はお家大事と一生懸命なのだから結極《つまり》はお徳の勝利《かち》に帰するのであった。
 生垣《いけがき》一つ隔てて物置同然の小屋があった。それに植木屋夫婦が暮している。亭主が二十七八で、女房はお徳と同年輩位、そしてこの隣交際《となりづきあい》の女性《にょしょう》二人は互に負けず劣らず喋舌《しゃべ》り合っていた。
 初め植木屋夫婦が引越して来た時、井戸がないので何卒《どう》か水を汲ましてくれと大庭家に依頼《たの》みに来た。大庭の家ではそれは道理《もっとも》なことだと承諾《ゆる》してやった。それからかれこれ二月ばかり経《た》つと、今度は生垣《いけがき》を三尺ばかり開放《あけ》さしてくれろ、そうすれば一々御門へ迂廻《まわ》らんでも済むからと頼みに来た。これには大庭家でも大分苦情があった、殊《こと》にお徳は盗棒《どろぼう》の入口を造《こしら》えるようなものだと主張した。が、しかし主人《あるじ》真蔵の平常《かねて》の優しい心から遂にこれを許すことになった。其方《そちら》で木戸を丈夫に造り、開閉《あけたて》を厳重にするという条件であったが、植木屋は其処《そこ》らの籔《やぶ》から青竹を切って来て、これに杉の葉など交ぜ加えて無細工《ぶさいく》の木戸を造くって了った。出来上ったのを見てお徳は
「これが木戸だろうか、掛金《かけがね》は何処《どこ》に在《あ》るの。こんな木戸なんか有るも無いも同じことだ」と大声で言った。植木屋の女房のお源は、これを聞きつけ
「それで沢山だ、どうせ私共の力で大工さんの作るような立派な木戸が出来るものか」
 と井戸辺《いどばた》で釜《かま》の底を洗いながら言った。
「それじゃア大工さんを頼めば可い」とお徳はお源の言葉が癪《しゃく》に触《さわ》り、植木屋の貧乏なことを知りながら言った。
「頼まれる位なら頼むサ」とお源は軽く言った。
「頼むと来るよ」とお徳は猶一《もひと》つ皮肉を言った。
 お源は負けぬ気性だから、これにはむっと[#「むっと」に傍点]したが、大庭家に於《お》けるお徳の勢力を知っているから、逆《さか》らっては損と虫を圧《おさ》えて
「まアそれで勘弁しておくれよ。出入《ではい》りするものは重に私《あたし》ばかりだから私さえ開閉《あけたて》に気を附けりゃア大丈夫だよ。どうせ本式の盗棒なら垣根だって御門だって越すから木戸なんか何にもなりゃア仕ないからね」
 と半分折れて出たのでお徳
「そう言えばそうさ。だからお前さんさえ開閉《あけたて》を厳重に仕ておくれなら先《ま》ア安心だが、お前さんも知ってるだろう此里《ここ》はコソコソ泥棒や屑屋《くずや》の悪い奴《やつ》が漂行《うろうろ》するから油断も間際《すき》もなりや仕ない。そら近頃《このごろ》出来たパン屋の隣に河井|様《さん》て軍人さんがあるだろう。彼家《あそこ》じゃア二三日前に買立の銅《あか》の大きな金盥《かなだらい》をちょろりと盗《や》られたそうだからねえ」
「まアどうして」とお源は水を汲む手を一寸《ちょっ》と休めて振り向いた。
「井戸辺《いどばた》に出ていたのを、女中が屋後《うら》に干物に往《い》ったぽっちり[#「ぽっちり」に傍点]の間《ま》に盗《や》られたのだとサ。矢張《やっぱり》木戸が少しばかし開《あ》いていたのだとサ」
「まア、真実《ほんと》に油断がならないね。大丈夫私は気を附けるが、お徳さんも盗《や》られそうなものは少時《ちょっと》でも戸外《そと》に放棄《うっちゃ》って置かんようになさいよ」
「私《あたし》はまアそんなことは仕ない積りだが、それでも、ツイ忘れることが有るからね、お前さんも屑屋なんかに気を附けておくれよ。木戸から入るにゃ是非お前さん宅《うち》の前を通るのだからね」
「ええ気を附けるともね。盗《と》られる日にゃ薪《まき》一本だって炭|一片《ひときれ》だって馬鹿々々しいからね」
「そうだとも。炭一片とお言いだけれど、どうだろうこの頃の炭の高価《たか》いことは。一俵八十五銭の佐倉《さくら》があれだよ」とお徳は井戸から台所口へ続く軒下に並べてある炭俵の一《ひとつ》を指して、「幾干《いくら》入《はいっ》てるものかね。ほんとに一片何銭に当《つ》くだろう。まるでお銭《かね》を涼炉《しちりん》で燃しているようなものサ。土竈《どがま》だって堅炭《かたずみ》だって悉《みん》な去年の倍と言っても可い位だからね」とお徳は嘆息《ためいき》まじりに「真実《ほんと》にやりきれや仕ない」
「それに御宅は御人数《ごにんず》も多いんだから入用《いる》ことも入用サね。私《あたし》のとこなんか二人きりだから幾干《いくら》も入用《いりゃ》ア仕ない。それでも三銭五銭と計量炭《はかりずみ》を毎日のように買うんだからね、全くやりきれや仕ない」
「全く骨だね」とお徳は優しく言った。
 以上炭の噂《うわさ》まで来ると二人は最初の木戸の事は最早《もう》口に出さないで何時《いつ》しか元のお徳お源に立還《たちかえ》りぺちゃくちゃ[#「ぺちゃくちゃ」に傍点]と仲善く喋舌《しゃべ》り合っていたところは埒《らち》も無い。
 十一月の末だから日は短い盛《さかり》で、主人真蔵が会社から帰ったのは最早暮れがかりであった。木戸が出来たと聞いて洋服のまま下駄を突掛け勝手元の庭へ廻わり、暫時《しばらく》は木戸を見てただ微笑していたが、お徳が傍《そば》から
「旦那様《だんなさま》大変な木戸で、御座いましょう」と言ったので
「これは植木屋さんが作《こし》らえたのか」
「そうで御座います」
「随分妙な木戸だが、しかし植木屋さんにしちゃア良く出来てる」と手を掛けて揺振《ゆすぶ》ってみて
「案外丈夫そうだ。まアこれでも可《い》い、無いよりか増《まし》だろう。その内大工を頼んで本当に作らすことに仕よう」と言って「竹で作《こしら》えても木戸は木戸だ、ハ、ハハハハ」と笑いながら屋内《うち》へ入った。
 お源はこれを自分の宅《うち》で聞いていて、くすくすと独《ひとり》で笑いながら、「真実《ほんと》に能《よ》く物の解る旦那だよ。第一あんな心持の優い人ったらめったに[#「めったに」に傍点]有りや仕ない。彼家《あそこ》じゃ奥様《おくさん》も好い方《かた》だし御隠居様も小まめ[#「まめ」に傍点]にちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]なさるが人柄《ひと》は極く好い方だし、お清|様《さん》は出戻りだけに何処《どこ》か執拗《ひねく》れてるが、然し気質《きだて》は優しい方だし」と思いつづけて来てハタとお徳の今日昼間の皮肉を回想《おもいだ》して「水の世話にさえならなきゃ如彼《あんな》奴に口なんか利《き》かしや仕ないんだけど、房州の田舎者奴《いなかものめ》が、可愛がって頂だきゃ可い気になりゃアがってどうだろうあの図々《ずうずう》しい案梅《あんばい》は」とお徳の先刻《さっき》の言葉を思い出し、「大変な木戸でしょうだって、あれで難癖を附ける積りが合憎《あいにく》と旦那がお取上に相成らんから可い気味だ。愚態《ざま》ア見やアがれだ」と又つと気を変えて「だけど感心と言えば感心だよ。容色《きりょう》も悪くはなし年だって私と同《おんな》じなら未だいくらだって嫁にいかれるのに、ああやって一生懸命に奉公しているんだからね。全く普通《なみ》の女《もの》にゃ真似《まね》が出来ないよ。それに恐しい正直者《しょうじきもん》だから大庭|様《さん》でも彼女《あれ》に任かして置きゃ間違《まちがえ》はないサ……」
 こんな事を思いながらお源は洋燈《ランプ》を点火《つけ》て、火鉢《ひばち》に炭を注ごうとして炭が一片《ひときれ》もないのに気が着き、舌鼓《したうち》をして古ぼけた薬鑵《やかん》に手を触《さわ》ってみたが湯は冷《さ》めていないので安心して「お湯の熱い中《うち》に早く帰って来れば可い。然し今日もしか前借して来てくれないと今夜も明日も火なしだ。火ぐらい木葉《こっぱ》を拾って来ても間に合うが、明日《あした》食うお米が有りや仕ない」と今度は舌鼓の代《かわり》に力のない嘆息《ためいき》を洩《もら》した。頭髪《かみ》を乱して、血《ち》の色《け》のない顔をして、薄暗い洋燈の陰にしょんぼり坐っているこの時のお源の姿は随分|憐《あわれ》な様であった。
 其所《そこ》へのっそり[#「のっそり」に傍点]帰って来たのが亭主の磯吉である。お源は単直《いきなり》前借の金のことを訊《き》いた。磯は黙って腹掛から財布を出してお源に渡した。お源は中を査《あらた》めて
「たった二円」
「ああ」
「二円ばかし仕方が無いじゃアないか。どうせ前借するんだもの五円も借りて来れば可いのに」
「だって貸さなきゃ仕方がない」
「それゃそうだけど能く頼めば親方だって五円位貸してくれそうなものだ。これを御覧」とお源は空虚《からっぽ》の炭籠《すみとり》を見せて「炭だってこれだろう。今夜お米を買ったら幾干《いくら》も残りや仕ない。……」
 磯は黙って煙草をふかしていたが、煙管《きせる》をポンと強く打《はた》いて、膳《ぜん》を引寄せ手盛《てもり》で飯を食い初めた。ただ白湯《さゆ》を打《ぶっ》かけてザクザク流し込むのだが、それが如何《いか》にも美味《うま》そうであった。
 お源は亭主のこの所為《しょさ》に気を呑《のま》れて黙って見ていたが山盛五六杯食って、未だ止《や》めそうもないので呆《あき》れもし、可笑《おかし》くもなり
「お前さんそんなにお腹《なか》が空《す》いたの」
 磯は更に一椀《いっぱい》盛《つ》けながら「俺《おれ》は今日|半食《おやつ》を食わないのだ」
「どうして」
「今日|彼時《あれ》から往《い》ったら親方が厭《いや》な顔をしてこの多忙《いそが》しい中を何で遅く来ると小言《こごと》を言ったから、実はこれこれだって木戸の一件を話すと、そんな事は手前《てめえ》の勝手だって言やアがる、糞忌々《くそいまいま》しいからそれからグングン仕事に掛って二時過ぎになるとお茶飯《やつ》が出たが、俺は見向《みむき》も仕ないんだ。お女中が来て今日はお美味《いし》い海苔巻《のりまき》だから早やく来て食べろと言ったが当頭《とうとう》俺は往かないで仕事を仕続けてやったのだ。そんなこんなで前借のこと親方に言い出すのは全く厭《いや》だったけど、言わないじゃおられんから帰りがけに五円貸してくれろと言うと、へん仕事は怠けて前借か、俺も手前《てめえ》の図々しいのには敵《かな》わんよ、そらこれで可《よ》かろうって二円出して与《よ》こしたのだ。仕方が無いじゃアないか」と磯は腹の空《す》いた訳と二円|外《ほか》前借が出来なかった理由《わけ》を一遍に話して了《しま》った。そして話し了《おわ》ったころ漸《やっ》と箸《はし》を置いた。
 全体磯吉は無口の男で又た口の利《き》きようも下手《へた》だがどうかすると啖火交《たんかまじ》りで今のように威勢の可い物の言い振《ぶり》をすることもある、お源にはこれが頗《すこぶ》る嬉《うれ》しかったのである。然しお源には連添《つれそっ》てから足掛三年にもなるが未だ磯吉は怠惰者《なまけもの》だか働人《はたらきにん》だか判断が着かんのである。東京女の気まぐれ者にはそれで済《すん》でゆくので、三日も四日も仕事を休む、どうかすると十日も休む、けれどサアとなれば人三倍も働くのが宅《うち》の磯|様《さん》だと心得ている、だからサアとなれば困りや仕ないと信じている。然し何処《どこ》まで行ったらその「サア」だかそんなことはお源も考えたことはない。又たお源は磯さんはイザとなれば随分人の出来ない思きった大胆なことをする男だと頼《たの》もしがっている。けれどそうばかし思えんこともある。その実案外|意久地《いくじ》のない男かしらと思う場合もあるが、それは一文なしになって困り抜《ぬい》た時などで、そう思うと情《なさけ》なくなるからなるべくそれは自分で打消していたのである。
 実際磯吉は所謂《いわゆ》る「解らん男」で、大庭の女連《おんなれん》は何となく薄気味《うすきび》悪く思っていた。だからお徳までが磯には憚《はばか》る風がある。これがお源には言うに言われない得意なので、お徳がこの風を見せた時、お清が磯に丁寧な言葉を使った時など嬉《うれし》さが込上げて来るのであった。
 それで結極のべつ貧乏の仕飽《しあき》をして、働き盛りでありながら世帯らしい世帯も持たず、何時《いつ》も物置か古倉の隅《すみこ》のような所ばかりに住んでいる、従ってお源も何時しか植木屋の女房連《かかあれん》から解らん女だ、つまり馬鹿だとせられていたのだ。
 磯吉の食事《めし》が済むとお源は笊《ざる》を持て駈出《かけだ》して出たが、やがて量炭《はかりずみ》を買て来て、火を起しながら今日お徳と木戸のことで言いあったこと、旦那が木戸を見て言った言葉などをべらべら喋舌《しゃべっ》て聞かしたが、磯は「そうか」とも言わなかった。
 そのうち磯が眠そうに大欠伸《おおあくび》をしたので、お源は垢染《あかじみ》た煎餅布団《せんべいぶとん》を一枚敷いて一枚|被《か》けて二人一緒に一個身体《ひとつからだ》のようになって首を縮めて寝て了った。壁の隙間《すきま》や床下から寒い夜風が吹きこむので二人は手足も縮められるだけ縮めているが、それでも磯の背部《せなか》は半分外に露出《はみだし》ていた。

        

 十二月に入《い》ると急に寒気が増して霜柱は立つ、氷は張る、東京の郊外は突然《だしぬけ》に冬の特色を発揮して、流行の郊外生活にかぶれ[#「かぶれ」に傍点]て初て郊外に住んだ連中《れんじゅう》を喫驚《びっくり》さした。然し大庭真蔵は慣れたもので、長靴を穿《は》いて厚い外套《がいとう》を着て平気で通勤していたが、最初の日曜日は空青々と晴れ、日が煌々《きらきら》と輝やいて、そよ吹く風もなく、小春日和《こはるびより》が又|立返《たちもど》ったようなので、真蔵とお清は留守居番、老母と細君は礼ちゃんとお徳を連て下町に買物に出掛けた。
 郊外から下町へ出るのは東京へ行くと称して出慣れぬ女連は外出《そとで》の仕度に一騒《ひとさわぎ》するのである。それで老母を初め細君娘、お徳までの着変《きかえ》やら何かに一しきり騒《さわが》しかったのが、出て去《い》った後《あと》は一時に森《しん》となって家内《やうち》は人気《ひとげ》が絶たようになった。
 真蔵は銘仙の褞袍《どてら》の上へ兵古帯《へこおび》を巻きつけたまま日射《ひあたり》の可い自分の書斎に寝転《ねころ》んで新聞を読んでいたがお午時《ひる》前になると退屈になり、書斎を出て縁辺《えんがわ》をぶらぶら歩いていると
「兄様《にいさま》」と障子越しにお清が声をかけた。
「何です」
「おホホホホ『何です』だって。お午食《ひる》は何にも有りませんよ」
「かしこ参りました」
「おホホホホ『かしこ参りました』だって真実《ほんと》に何にもないんですよ」
 其処《そこ》で真蔵はお清の居る部屋《へや》の障子を開けると、内《なか》ではお清がせっせ[#「せっせ」に傍点]と針仕事をしている。
「大変勉強だね」
「礼ちゃんの被布《ひふ》ですよ、良《い》い柄でしょう」
 真蔵はそれには応《こた》えず、其処辺《そこら》を見廻わしていたが、
「も少し日射《ひあたり》の好い部屋で縫《や》ったら可さそうなものだな。そして火鉢《ひばち》もないじゃないか」
「未だ手が凍結《かじけ》るほどでもありませんよ。それにこの節は御倹約ということに決定《きめ》たのですから」
「何の御倹約だろう」
「炭です」
「炭はなるほど高価《たかく》なったに違ないが宅《うち》で急にそれを節約するほどのことはなかろう」
 真蔵は衣食台所元のことなど一切《いっせつ》関係しないから何も知らないのである。
「どうして兄様《にいさん》、十一月でさえ一月の炭の代がお米の代よりか余程《よっぽど》上なんですもの。これから十二、一、二と先《ま》ず三月が炭の要《い》る盛《さかり》ですから倹約出来るだけ仕ないと大変ですよ。お徳が朝から晩まで炭が要る炭が高価《たか》いて泣言ばかり言うのも無理はありませんわ」
「だって炭を倹約して風邪《かぜ》でも引ちゃ何もなりや仕ない」
「まさかそんなことは有りませんわ」
「しかし今日は好い案排《あんばい》に暖かいね。母上《おっかさん》でも今日は大丈夫だろう」と両手を伸して大欠伸《おおあくび》をして
「何時かしらん」
「最早《もう》直ぐ十二時でしょうよ。お午食《ひる》にしましょうか」
「イヤ未だ腹が一向|空《す》かん。会社だと午食《ひる》の弁当が待遠いようだけどなア」と言いながら其処を出て勝手の座敷から女中部屋まで覗《のぞ》きこんだ。女中部屋など従来《これまで》入ったことも無かったのであるが、見ると高窓が二尺ばかり開け放しになってるので、何心なく其処から首をひょい[#「ひょい」に傍点]と出すと、直ぐ眼下に隣のお源が居て、お源が我知らず見上た顔とぴたり出会った。お源はサと顔を真赤にして狼狽《うろたえ》きった声を漸《やっ》と出して
「お宅ではこういう上等の炭をお使いなさるんですもの、堪《たま》りませんわね」と佐倉の切炭を手に持ていたが、それを手玉に取りだした。窓の下は炭俵が口を開けたまま並べてある場処で、お源が木戸から井戸辺《いどばた》にゆくには是非この傍《そば》を通るのである。
 真蔵も一寸《ちょっと》狼狽《まごつ》いて答に窮したが
「炭のことは私共に解らんで……」と莞爾《にっこり》微笑《わらっ》てそのまま首を引込めて了った。
 真蔵は直ぐ書斎に返ってお源の所為《しょさ》に就て考がえたが判断が容易に着《つか》ない。お源は炭を盗んでいるところであったとは先ず最初に来る判断だけれど、真蔵はそれをそのまま確信することが出来ないのである。実際ただ炭を見ていたのかも知れない、通りがかりだからツイ手に取って見ているところを不意に他人《ひと》から瞰下《みおろ》されて理由《わけ》もなく顔を赤らめたのかも知れない。まして自分が見たのだから狼狽《うろた》えたのかも知れない。と考えれば考えられんこともないのである。真蔵はなるべく後《のち》の方に判断したいので、遂にそう心で決定《きめ》てともかく何人《だれ》にもこの事は言わんことにした。
 しかし万一《ひょっと》もし盗んでいたとすると放下《うっちゃ》って置いては後《あと》が悪かろうとも思ったが、一度見られたら、とても悪事を続行《つづけ》ることは得《え》為《す》すまいと考えたから尚《な》お更らこの事は口外しない方が本当だと信じた。
 どちらにしてもお徳が言った通り、彼処《あそこ》へ竹の木戸を植木屋に作らしたのは策の得たるものでなかったと思った。
 午後三時過ぎて下町行の一行はぞろぞろ帰宅《かえ》って来た。一同が茶の間に集まってがやがやと今日の見聞を今一度繰返して話合うのであった。お清は勿論《もちろん》、真蔵も引出されて相槌《あいづち》を打って聞かなければならない。礼ちゃんが新橋の勧工場《かんこうば》で大きな人形を強請《ねだ》って困らしたの、電車の中に泥酔者《よっぱらい》が居て衆人《みんな》を苦しめたの、真蔵に向て細君が、所天《あなた》は寒むがり坊だから大徳で上等|飛切《とびきり》の舶来のシャツを買って来たの、下町へ出るとどうしても思ったよりか余計にお金を使うだの、それからそれと留度《とめど》がない。そして聞く者よりか喋舌《しゃべっ》ている連中の方が余程《よっぽど》面白そうであった。
 先ずこのがやがやが一頻《ひとしきり》止《す》むとお徳は急に何か思い出したように起《たっ》て勝手口を出たが暫時《しばらく》して返って来て、妙に真面目《まじめ》な顔をして眼を円《まる》くして、
「まア驚いた!」と低い声で言って、人々《みんな》の顔をきょろきょろ見廻わした。人々《みんな》も何事が起ったかとお徳の顔を見る。
「まア驚いた!」と今一度言って、「お清様は今日|屋外《そと》の炭をお出しになりや仕ませんね?」と訊《き》いた。
「否《いいえ》、私は炭籠《すみかご》の炭ほか使《つかわ》ないよ」
「そうら解った、私《わたくし》は去日《このあいだ》からどうも炭の無くなりかたが変だ、如何《いくら》炭屋が巧計《ずる》をして底ばかし厚くするからってこうも急に無くなる筈《はず》がないと思っていたので御座いますよ。それで私は想当《おもいあた》ってる事があるから昨日《きのう》お源さんの留守に障子の破目《やぶれめ》から内《なか》をちょい[#「ちょい」に傍点]と覗《のぞ》いて見たので御座いますよ。そうするとどうでしょう」と、一段声を低めて「あの破火鉢《やぶれひばち》に佐倉が二片《ふたつ》ちゃんと埋《いか》って灰が被《か》けて有るじゃア御座いませんか。それを見て私は最早《もう》必定《きっと》そうだと決定《きめ》て御隠居様に先ず申上げてみようかと思いましたが、一つ係蹄《わな》をかけて此方《こっち》で験《た》めした上と考がえましたから今日|行《や》って試《み》たので御座いますよ」とお徳はにやり笑った。
「どんな係蹄《わな》をかけたの?」とお清が心配そうに訊《き》いた。
「今日出る前に上に並んだ炭に一々|符号《しるし》を附けて置いたので御座います。それがどうでしょう、今見ると符号《しるし》を附けた佐倉が四個《よっつ》そっくり無くなっているので御座います。そして土竈《どがま》は大きなのを二個《ふたつ》上に出して符号を附けて置いたらそれも無いのです」
「まアどうしたと云うのだろう」お清は呆《あき》れて了った。老母と細君は顔見合して黙っている。真蔵は偖《さて》は愈々《いよいよ》と思ったが今日見た事を打明けるだけは矢張《やはり》見合わした。つまり真蔵にはそうまでするに忍びなかったのである。
「で御座いますから炭泥棒は何人《だれ》だか最早《もう》解ってます。どう致しましょう」とお徳は人々《みんな》がこの大事件を喫驚《びっくり》してごうごうと論評を初めてくれるだろうと予期していたのが、お清が声を出してくれた外、旦那《だんな》を初め後の人は黙っているので少し張合が抜けた調子でこう問うた。暫時《しばら》く誰も黙っていたが
「どうするッて、どうするの?」とお清が問い返した、お徳は少々|焦急《じれっ》たくなり、
「炭をですよ。炭をあのままにして置けばこれから幾干《いくら》でも取られます」
「台所の縁の下はどうだ」と真蔵は放擲《うっちゃ》って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由《わけ》を打明けないと決心《きめ》てるから、仕様事なしにこう言った。
「充満《いっぱい》で御座います」とお徳は一言で拒絶した。
「そうか」真蔵は黙って了う。
「それじゃこうしたらどうだろう。お徳の部屋の戸棚《とだな》の下を明けて当分ともかく彼処《あそこ》へ炭を入れることにしたら。そしてお徳の所有品《もの》は中の部屋の戸棚《とだな》を整理《かたづ》けて入れたら」と細君が一案を出した。
「それじゃアそう致しましょう」とお徳は直ぐ賛成した。
「お徳には少し気の毒だけれど」と細君は附加《つけた》した。
「否《いいえ》、私《わたくし》は『中の部屋』のお戸棚《とだな》へ衣類《きもの》を入れさして頂ければ尚《な》お結構で御座《ござい》ます」
「それじゃ先《ま》あそう決定《きめ》るとして、全体物置を早く作れというのに真蔵がぐずぐずしているからこういうことになるのです。物置さえあれば何のこともないのに」と老母が漸《やっ》と口を利《きい》たと思ったら物置の愚痴。真蔵は頭を掻《か》いて笑った。
「否《いいえ》、こういうことになったのも、竹の木戸のお蔭で御座いますよ、ですから私は彼処《あそこ》を開けさすのは泥棒の入口を作《こしら》えるようなものだと申したので御座います。今となれゃ泥棒が泥棒の出入口《ではいりぐち》を作《こしら》えたようなものだ」とお徳が思わず地声の高い調子で言ったので老母は急に
「静に、静に、そんな大きな声をして聴《きか》れたらどうします。私《わし》も彼処を開けさすのは厭《いや》じゃッたが開けて了った今急にどうもならん。今急に彼処を塞《ふさ》げば角が立て面白くない。植木屋さんも何時《いつ》まであんな物置小屋《ものおきごや》みたような所にも居られんで移転《ひっこす》なりどうなりするだろう。そしたら彼所《あそこ》を塞ぐことにして今は唯《た》だ何にも言わんで知らん顔を仕てる、お徳も決してお源さんに炭の話など仕ちゃなりませんぞ。現に盗んだところを見たのではなし又高が少しばかしの炭を盗《と》られたからってそれを荒立てて彼人者《あんなもの》だちに怨恨《うらま》れたら猶《な》お損になりますぞ。真実《ほんと》に」と老母は老母だけの心配を諄々《じゅんじゅん》と説《とい》た。
「真実《ほんと》にそうよ。お徳はどうかすると譏謔《あてこすり》を言い兼ないがお源さんにそんなことでもすると大変よ、反対《あべこべ》に物言《ものいい》を附けられてどんな目に遇《あ》うかも知れんよ、私はあの亭主の磯が気味が悪くって成らんのよ。変妙来《へんみょうらい》な男ねえ。あんな奴に限って向う不見《みず》に人に喰《く》ってかかるよ」とお清も老母と同じ心配。老母も磯吉のことは口には出さなかったが心には無論それが有たのである。
「何にあの男だって唯の男サ」と真蔵は起上《たちあ》がりながら「然《けれ》ども先《ま》ア関係《かかりあ》わんが可い」
 真蔵は自分の書斎に引込み、炭問題も一段落着いたので、お徳とお清は大急で夕御飯の仕度に取掛った。
 お徳はお源がどんな顔をして現われるかと内々待ていたが、平常《いつ》も夕方には必然《きっと》水を汲みに来るのが姿も見せないので不思議に思っていた。
 日が暮て一時間も経《たっ》てから磯吉が水を汲みに来た。

        

 お源は真蔵に見られても巧《うま》く誤魔化し得たと思った。ちょうど真蔵が窓から見下《みおろ》した時は土竈炭《どがまずみ》を袂《たもと》に入れ佐倉炭《さくら》を前掛に包んで左の手で圧《おさ》え、更に一個《ひとつ》取ろうとするところであったが、元来|性質《ひと》の良い邪推などの無い旦那《だんな》だから多分気が附かなかっただろうと信じた。けれど夕方になってどうしても水を汲みにゆく気になれない。
 そこで磯吉が仕事から帰る前に布団《ふとん》を被《かぶ》って寝て了《しま》った。寝たって眠むられは仕ない。垢染《あかじみ》た煎餅布団《せんべいぶとん》でも夜は磯吉と二人で寝るから互の体温で寒気も凌《しの》げるが一人では板のようにしゃちっ[#「しゃちっ」に傍点]張って身に着かないで起きているよりも一倍寒く感ずる。ぶるぶる慄《ふる》えそうになるので手足を縮められるだけ縮めて丸くなったところを見ると人が寝てるとは承知《うけとれ》ん位だ。
 色々考えると厭悪《いや》な心地《きもち》がして来た。貧乏には慣れてるがお源も未だ泥棒には慣れない。先達《せんだって》からちょく[#「ちょく」に傍点]ちょく盗んだ炭の高こそ多くないが確的《あきらか》に人目を忍んで他《ひと》の物を取ったのは今度が最初《はじめて》であるから一念|其処《そこ》へゆくと今までにない不安を覚えて来る。この不安の内には恐怖《おそれ》も羞恥《はじ》も籠《こも》っていた。
 眼前《めのさき》にまざまざと今日の事が浮んで来る、見下した旦那の顔が判然《はっきり》出て来る、そしてテレ[#「テレ」に傍点]隠しに炭を手玉に取った時のことを思うと顔から火が出るように感じた。
「真実《ほんとう》にどうしたんだろう」とお源は思わず叫んだ。そして徐々《そろそろ》逆上気味になって来た。「もしか知れたらどうする」。「知れるものかあの旦那は性質《ひと》が良いもの」。「性質《ひと》の良いは当にならない」。「性質《ひと》の善良《いい》のは魯鈍《のろま》だ」。と促急込《せきこ》んで独《ひとり》問答をしていたが
「魯鈍《のろま》だ、魯鈍だ、大魯鈍だ」と思わず又叫んで「フン何が知れるもんか」と添足《つけた》した。そして布団から首を出して見ると日が暮れて入口の障子戸に月が射している。けれども起きて洋燈《ランプ》を点《つ》けようとも仕ないで、直ぐ首を引込《ひっこめ》て又た丸くなって了った。そこへ磯吉が帰って来た。
 頭が割れるように痛むので寝たのだと聞いて磯は別に怒りもせず驚きもせず自分で燈《ひ》を点《つ》け、薬罐《やかん》が微温湯《ぬるまゆ》だから火鉢に炭を足し、水も汲みに行った。湯の沸騰《たぎ》るを待つ間は煙草をパクパク吹《ふか》していたが
「どう痛むんだ」
 返事がないので、磯は丸く凸起《もちあが》った布団を少時《しばら》く熟《じっ》と視《み》ていたが
「オイどう痛むんだイ」
 相変らず返事がないので磯は黙って了った。その中《うち》湯が沸騰《わい》て来たから例の通り氷のように冷《ひえ》た飯へ白湯《さゆ》を注《か》けて沢庵《たくあん》をバリバリ、待ち兼た風に食い初めた。
 布団の中でお源が啜泣《すすりなき》する声が聞えたが磯には香物《こうのもの》を噛《か》む音と飯を流し込む音と、美味《うま》いので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食い終ったころには啜泣の声も止《や》んだのである。
 磯が火鉢の縁《ふち》を忽々《こつこつ》叩《たた》き初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に巻纏《くるま》って其処へ坐った。前が開《あい》て膝頭《ひざがしら》が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上《のぼ》せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻《しき》りに啜泣を為《し》ている。
「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて狼狽《うろた》えた様子は少しも見えない。
「磯さん私は最早《もう》つくづく厭《いや》になった」と言い出してお源は涙声になり
「お前さんと同棲《いっしょ》になってから三年になるが、その間|真実《ほんとう》に食うや食わずで今日はと思った日は一日だって有りやしないよ。私だって何も楽を仕様《しよう》とは思わんけれど、これじゃ余《あんま》りだと思うわ。お前さんこれじゃ乞食も同然じゃ無いか。お前さんそうは思わないの?」
 磯は黙っている。
「これじゃ唯《た》だ食って生きてるだけじゃないか。饑死《かつじに》する者は世間に滅多にありや仕ないから、食って生きてるだけなら誰《だれ》だってするよ。それじゃ余《あんま》り情ないと私は思うわ」涙を袖《そで》で拭《ふい》て「お前さんだって立派な職人じゃないか、それに唯《たっ》た二人きりの生活《くらし》だよ。それがどうだろう、のべつ[#「のべつ」に傍点]貧乏の仕通しでその貧乏も唯の貧乏じゃ無いよ。満足な家には一度だって住まないで何時《いつ》でもこんな物置か――」
「何を何時までべらべら喋舌《しゃべっ》てるんだい」と磯は矢張《やはり》お源の方は向《むか》ないで、手荒く煙管《きせる》を撃《はた》いて言った。
「お前さん怒るなら何程《いくら》でもお怒り。今夜という今夜は私はどうあっても言うだけ言うよ」とお源は急促込《せきこ》んで言った。
「貧乏が好きな者はないよ」
「そんなら何故《なぜ》お前さん月の中《うち》十日は必然《きっと》休むの? お前さんはお酒は呑《のま》ないし外に道楽はなし満足に仕事に出てさえおくれなら如斯《こんな》貧乏は仕ないんだよ。――」
 磯は火鉢の灰を見つめて黙っている。
「だからお前さんがも少し精出しておくれならこの節のように計量炭《はかりずみ》もろく[#「ろく」に傍点]に買《かえ》ないような情ない……」
 お源は布団へ打伏して泣きだした。磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏《あさうら》を突掛けるや戸外《そと》へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に徹《こた》える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家《そこ》を訪《たず》ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛《かえりがけ》に一寸一円貸せと頼んだ。明日なら出来るが今夜は一文もないと謝絶《ことわ》られた。
 帰路《かえりみち》に炭屋がある。この店は酒も薪《まき》も量炭《はかりずみ》も売り、大庭もこの店から炭薪を取り、お源も此店《ここ》へ炭を買いに来るのである。新開地は店を早く終《しま》うのでこの店も最早《もう》閉っていた。磯は少時《しばら》く此店《ここ》の前を迂路々々《うろうろ》していたが急に店の軒下に積である炭俵の一個《ひとつ》をひょい[#「ひょい」に傍点]と肩に乗て直ぐ横の田甫道《たんぼみち》に外《それ》て了った。
 大急で帰宅《かえ》って土間にどしり[#「どしり」に傍点]と俵を下した音に、泣き寝入《ねいり》に寝入っていたお源は眼を覚したが声を出《ださ》なかった。そして今のは何の響とも気に留めなかった。磯もそのままお源の後から布団の中に潜《もぐ》り込んだ。
 翌朝になってお源は炭俵に気が着き、喫驚《びっくり》して
「磯さんこれはどうしたの、この炭俵は?」
「買って来たのサ」と磯は布団を被《かぶ》ってるまま答えた。朝飯《めし》が出来るまでは磯は床を出ないのである。
「何店《どこ》で買ったの?」
「何処《どこ》だって可いじゃないか」
「聞いたって可いじゃないか」
「初公の近所の店だよ」
「まアどうしてそんな遠くで買ったの。……オヤお前さん今日お米を買うお銭《あし》を費《つか》って了《しま》やアしまいね」
 磯は起上って「お前がやれ量炭も買えんだのッて八《や》か間《ま》しく言うから昨夜《ゆうべ》金公の家へ往《い》って借りようとして無《ない》ってやがる。それから直ぐ初公の家《とこ》へ往ったのだ。炭を買うから少《すこし》ばかり貸せといったら一俵位なら俺家《おれんとこ》の酒屋で取って往けと大《おおき》なこと言うから直ぐ其家《そこうち》で初公の名前で持て来たのだ。それだけあれば四五日は保《あ》るだろう」
「まアそう」と言ってお源はよろこんだ。直ぐ口を明けて見たかったけれど、先《ま》ア後の事と、せっせと朝飯の仕度をしながら「え、四五日どころか自宅《うち》なら十日もあるよ」
 昨夜《ゆうべ》磯吉が飛出した後でお源は色々に思い難《なや》んだ末が、亭主に精出せと勧める以上、自分も気を腐らして寝ていちゃ何もならない、又たお隣へも顔を出さんと却《かえっ》て疑がわれるとこう考えたのである。
 其処《そこ》で平常《いつも》の通り弁当持たせて磯吉を出してやり、自分も飯を食べて一通《ひととおり》片附たところでバケツを持って木戸を開けた。
 お清とお徳が外に出ていた。お清はお源を見て
「お源さん大変顔色が悪いね、どうか仕《し》たの」
「昨日《きのう》から少し風邪《かぜ》を引たもんですから……」
「用心なさいよ、それは不可《いけな》い」
 お徳は「お早う」と口早に挨拶《あいさつ》したきり何も言わない、そしてお源が炭俵の並べてないのに気が着き顔色を変えて眼をぎょろぎょろさしているのを見て、にやり笑った。お源は又た早くもこれを看取《みてと》りお徳の顔を睨《にら》みつけた。お徳はこう睨みつけられたとなると最早《もう》喧嘩《けんか》だ、何か甚《ひど》い皮肉を言いたいがお清が傍《そば》に居るので辛棒していると十八九になる増屋の御用聞が木戸の方から入て来た。増屋とは昨夜《ゆうべ》磯吉が炭を盗んだ店である。
「皆様《みなさん》お早う御座います」と挨拶するや、昨日《きのう》まで戸外《そと》に並べてあった炭俵が一個《ひとつ》見えないので「オヤ炭は何処《どっか》へ片附けたのですか」
 お徳は待ってたという調子で
「あア悉皆《みんな》内へ入《いれ》ちゃったよ。外へ置くとどうも物騒だからね。今の高価《たか》い炭を一片《ひときれ》だって盗られちゃ馬鹿々々しいやね」とお源を見る、お清はお徳を睨む、お源は水を汲んで二歩《ふたあし》三歩《みあし》歩るき出したところであった。
「全く物騒ですよ、私《わたし》の店《ところ》では昨夜《ゆうべ》当到《とうとう》一俵盗すまれました」
「どうして」とお清が問うた。
「戸外《そと》に積んだまま、平時《いつも》放下《うっちゃ》って置くからです」
「何炭《なに》を盗られたの」とお徳は執着《しゅうね》くお源を見ながら聞いた。
「上等の佐倉炭《さくら》です」
 お源はこれ等の問答を聞きながら、歯を喰いしばって、踉蹌《よろめ》いて木戸の外に出た。
 土間に入るやバケツを投《ほう》るように置いて大急ぎで炭俵の口を開けて見た。
「まア佐倉炭《さくら》だよ!」と思わず叫んだ。

 お徳は老母からも細君からも、みっしり叱《しか》られた。お清は日の暮になってもお源の姿が見えないので心配して御気慊《ごきげん》取りと風邪見舞とを兼ねてお源を訪《たず》ねた。内が余り寂然《ひっそり》しておるので「お源さん、お源さん」と呼んでみた。返事がないので可恐々々《こわごわ》ながら障子戸を開けるとお源は炭俵を脚継《あしつぎ》にしたらしく土間の真中《まんなか》の梁《はり》へ細帯をかけて死でいた。
 二日|経《た》って竹の木戸が破壊《こわ》された。そして生垣《いけがき》が以前《もと》の様《さま》に復帰《かえ》った。
 それから二月|経過《たつ》と磯吉はお源と同年輩《おなじとしごろ》の女を女房に持って、渋谷村に住んでいたが、矢張《やはり》豚小屋同然の住宅《すまい》であった。

底本:「牛肉と馬鈴薯・酒中日記」新潮文庫、新潮社
   1970(昭和45)年5月30日初版発行
   1983(昭和58)年7月30日22刷
※「促急込《せきこ》んで」と「急促込《せきこ》んで」の混在は底本通りにしました。
入力:Nana Ohbe
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年6月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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