古川緑波

神戸——古川緑波

  
久しぶりで、神戸の町を歩いた。
 此の六月半から七月にかけて、宝塚映画に出演したので、二十日以上も、宝塚の宿に滞在した。
 撮影の無い日は、神戸へ、何回か行った。三の宮から、元町をブラつくのが、大好きな僕は、新に開けたセンター街を抜けることによって、又、たのしみが殖えた。
 センター街は然し、元町に比べれば、ジャカジャカし過ぎる。いささか、さびれた元町であるが、僕は元町へ出ると、何だか、ホッとする。戦争前の、よき元町の、よきプロムナードを思い出す。
 戦争前の神戸。よかったなあ。
 何から話していいか、困った。
 で、先ず、阪急三の宮駅を下りて、弘養館に休んで、ゆっくり始めよう。
 三の宮二丁目の、弘養館。それは一体、何年の昔に、ここのビフテキを、はじめて食べたことであったろうか。子供の頃のことには違いないのだが。
 弘養館という店は、神戸が本店で、横浜にも、大阪にも、古くから同名の店があった。
 神戸の弘養館は、昔は、三の宮一丁目にあったのだが、今は二丁目。
 今回、何年ぶりかで、弘養館へ入って、先ず、その店の構えが、今どきでなく、三四人宛の別室になっているのが、珍しかった。
 昔のまんまの「演出」らしいのだ。と言っても、その昔は、もう僕の記憶にない程、遠いことなので、ハッキリは言えない。でも、いきなり、こんなことで商売になるのかな? と思う程、全く戦前的演出であった。
 四人位のための一室に、連れの二人と僕の三人が席を取って、さて、「メニュウを」と言ったら、ボーイが、「うちは、メニュウは、ございません」
 と、思い出した。此の店は、ビフテキと、ロブスターの二種しか料理は無かったんだ。昔のまんまだ。やっぱり。弘養館へ来て、メニュウをと言うのは野暮だった。
「ビフテキを貰おう」
 スープも附くというから、それも。
 先ず、スープが運ばれた。深い容器に入っている、ポタージュだ。ポタージュ・サンジェルマンと言うか、青豆のスープ。それが、まことに薄い。
 ひどく薄いな。そして、無造作に、鶏肉のちぎって投げ込んだようなのが、浮身(此の際、浮かないが)だ。
 ポタージュの、たんのうする味には、縁の遠い、ほんの、おまけという感じだ。つまりは、此の店、これは、ビフテキの前奏曲として扱っているんだろう。
 然し、何んだか昔の味がしたようだ。
 ビフテキは、先ず、運ばれた皿が嬉しかった。藍《あい》染附の、大きな皿は、ルイ王朝時代のものを模した奴で、これは、戦後の作品《もの》ではない。疎開して置いたものに違いない。この皿は、昔のまんまだ、少くとも、これだけは。
 ビフテキは、如何焼きましょうと言われて、任せると言ったので、中くらいに焼けている。ここにも昔の味があった。近頃のビフテキには無いんだ、この味。悪く言えば、何んだかちいっと、おかったるいという味。然し、ビフテキってもの、正に昔は、こうだった。
 子供の昔に返ったような気持で、ビフテキを食い、色々綺麗に並んでいる添野菜を食う。
 温・冷さまざまの料理が、一々念入りに出来ていたのが嬉しい。此の藍色の皿で、野菜を食っていて、ふいッと思い出した。
 そうだ、僕が、生れてはじめて、アテチョック(アルティショー―食用|薊《あざみ》)ってものを食ったのは、神戸の弘養館だった。
 中学生か、もっと幼かりし日かの僕。アテチョックを出されて、食い方が分らなくて、弱ったんだっけ。そして、僕を連れて行って呉れた伯父に教わって、こわごわ食った。その時、伯父は、これはアテチョコというものだと、それも教えて呉れた。
 昔のことを思い出しながら、食い終って、僕は、此の店の主人に会いたいと申し入れた。昔のはなしが、ききたかったから。
 ボーイが、「はい、大将いてはります」と言う。大将と呼ぶことの、又何と、今どきでないことよ。
 大将に会って、きいてみたら、何と、此の店は、現在の大将の祖父の代から、やっているのだそうで、七八十年の歴史があると言うのだ。
「へえ、祖父の代には、パンが一銭、ビフテキが五銭でしてん」
 そんなら僕が、幼少の頃に来た時は、二代目の時世だったのだろう。そんな昔からの、そのままの流儀で、押し通して来た、弘養館なのである。
 味も、建物も、すべてが、昔風。こんなことで商売になるのかと心配したが、時分時《じぶんどき》でもない、午後三時頃に、僕の部屋以外にも、客の声がしていた。
 七八十年の歴史。売り込んだものである。
 さて、弘養館を出ると、又、僕は思い出すのである。
 三の宮バーは、無くなったのかな?
 此の近くにあった、小さな店。バーとは言っても、二階がレストオランになっていて、うまくて安い洋食を食わせた。
 安洋食に違いないが、外人客が多いから、味はいいし、第一、全く安かった。スープが、二十銭だったと思う。ちゃんとした、うまいコンソメだった。神戸の夜を遊ぼうというには、先ず、此処を振り出しにした。ここで、アメリカのウイスキー、コロネーションとか、マウンテンデュウなどという、これが又安いんだ、それをガブガブ飲み、安い洋食を、ふんだんに食ってしまう。
 こうして、酔っぱらって置けば、女人のいるバーへ行ってから、あんまり飲まずに済むからというんで、下地を作ったわけだ。
 戦争になる前のことだ。
 戦争になってからは、やっぱり、すぐ此の辺にあった、シルヴァーダラーへ、よく通った。
 酒も食物も乏しくなった時に、シルヴァーダラーのおやじは、そっと、うまい酒を飲ませて呉れ、ツルネード・ステーキなどを慥えて呉れた。他の客のは、鯨肉なのに、僕のだけは、立派なビーフだった。涙が出る程、嬉しかった。
 大阪の芝居が終ると、阪急電車で駈けつけた、あんまりよく通ったので、おやじが、勲章の代りに、シルヴァー・ダラーの名に因《ちな》んで、大きな、外国の銀貨を呉れたものだった。
 三の宮から元町の方へ歩いて行くと、僕の眼は、十五銀行の方を見ないわけには行かない。もうそこには、今は無いのだが、ヴェルネクラブが、あったからである。
 十五銀行の地下に、仏人ヴェルネさんの経営する、ヴェルネクラブがあった。
 僕が、そこを覚えたのは、もう二十年近くも以前のことだろう。それから戦争で閉鎖となり、又終戦後一度復活したのだが、又閉店して、今は同じ名前だが、キャバレーになってしまった。
 ヴェルネクラブの、安くてうまい洋食は、先ずそのランチに始まった。むかしランチは確か一円だったと思う。それでスープと軽いものと、重いものと二皿だった。
 それは、此の辺に勤めている外国人、日本人の喜ぶところで、毎日の昼食の繁盛は、大変なものだった。
 ランチも美味かったが、ヴェルネさんに特別に頼んで、別室で食わして貰ったフランス料理の定食は、今も思い出す。何処までも、フランス流の料理ばかり。そして、デザートには、パンケーキ・スゼット。
 それが、戦争になって、材料が欠乏して来ると、ヴェルネさんは嘆いていた。
「ロッパさん、(それが、フランス式発音なので、オッパさんというように聞えた)むずかしい。沢山、むずかしい」
 そう言って、両手を拡げて、処置なしという表情。材料が無くなり、ヤミが、やかましくなって、彼の商売は、沢山むずかしくなって来た。
 やがて閉鎖した。
 此の間、何年か相立ち申し候。
 昭和二十五年の夏だった。
 再開したと聞いて、僕は、ヴェルネへ駆けつけた。
「オッパさん!」と、ヴェルネさんが、歓迎して呉れて、昔の僕の写真の貼ってあるアルバムを出して来たりした。
 テーブルクロースも昔のままの、赤と白の格子柄。メニュウを見ると、昔一円なりしランチが、二百五十円と五百円の二種。五百円のを取ると、オルドヴルから、ポタージュ。大きなビフテキ。冷コーヒーに、ケーキ。
 ビフテキも上等だったが、それにも増して嬉しかったのは、フランスパンの登場だった。終戦後は、アメリカ風の、真ッ白いパンばっかり食わされていたのが、久しぶりで(数年ぶり)フランスパンが出たので、嬉しかった。
 その時の神戸滞在中、七八度続けて通った。そして、グリル・チキン、スパゲティ、ピカタ、アントレコット等、行く度に色々食ったものであった。
 それが、それから数年経って行ってみたら、キャバレーになっていた。
 でも、僕は、その辺を通る度に、ちらっと、在りし日のヴェルネクラブの方を見るのである。
 今日も、ちらりと、その方を見ながら、元町へ入る。此の町は、昔から、日本中で一番好きな散歩道なのだが、ここには別段食いものの思い出は無い。
 食うとなると、僕は、南京町の方へ入って、中華第一楼などで、支那料理を食ったので、元町の散歩道では、昔の三ツ輪のすき焼を思い出す位なものだ。
 こっちから入ると、左側の三ツ輪は、今は、すき焼は、やっていない。牛肉と牛肉の味噌漬、佃煮を売る店になったが、昔は此の二階で、すき焼を食わせた。
 もう少し行くと、左側の露路に、伊藤グリルがある。戦争前からの古い店で、戦争中に、よく無理を言っては、うまい肉を食わして貰った。
 だから伊藤グリルを忘れてはならなかった。
 戦後も行って、お得意の海老コロッケなどを食った。ここは気取らない、大衆的なグリルである。
 そうだ、此の露路に、有名な豚肉饅頭の店がある。
 森田たまさんの近著『ふるさとの味』にそこのことが出て来るので、一寸抄く。
 ……神戸元町のちょっと横へはいった、――あすこはもう南京町というのかしら、狭い露地の中に汚ならしい支那饅頭屋があって、そこの肉饅頭の味は天下一品と思ったが、それも一つには、十銭に五つという値段のやすさが影響しているに違いない。この肉饅頭は谷崎先生のおたくでも愛用されたという話を、近頃うかがって愉快である。……
 全く此の肉饅頭は、うまいのである。そして、森田さん、十銭に五つと書いて居られるが、僕の知っている頃(昭和初期か)は、一個が二銭五厘。すなわち、十銭に四つであった。
 そのような安さにも関わらず、実に、うまい。他の、もっと高い店のよりも、ずっと、うまいんだから驚く。中身の肉も決して不味くはないが、皮がうまい。何か秘訣があるのだろう。
 その肉饅頭も、無論戦争苛烈となるに連れて姿を消したが、終戦後再開した。
 そして又、ベラボーな安価で売っている。今度は、二十円で三個である。
 ところが、それでいて、又何処のより美味い。これは、声を大にして叫びたい位だ。
 昔もそうだったが、そんな風だから、今でも大変な繁盛で、夕方行ったら売切れている方が多い。
 この肉饅頭の店、そんなら何という名なのか、と言うと、これは恐らく誰も知らないだろう。饅頭は有名だが、店の名というものが、知られていない。
 知られていないのが当然。店に名が無いのである。
 今回も、気になるから、わざわざあの露路へ入って、確かめてみた。
「元祖 豚まんじゅう」という看板が出ているだけだ。店の名は、何処を探しても出ていない。(包紙なども無地だ)
 標札に、「曹秋英」と書いてあった。
 兎に角、この豚饅頭を知らずして、元町を、神戸を、語る資格は無い、と言いたい。
 露路を出て、元町ブラをする。
 これは戦後いち早く出来た、アルドスというアイスクリームの店。大きな店構えで、アイスクリーム専門だった。暫くうまいアイスクリームなんか口に出来なかった戦後のことだから、ここのアイスクリームは、びっくりする程うまかった。
 ヴァニラと、チョコレートとあって、各々バタを、ふんだんに使ったビスケット附き。それも美味かった。
 それが、今度行ってみたら、アルドスという店は無くなっていた。アイスクリームは、全国的に、ソフトに食われてしまったのか。
 戦後に、やはり此の辺に、神戸ハムグリルという大衆的な、安い洋食を食わせる店があって愛用したものだが、それも、見つからなかった。
 もっと行くとこれも左側にコーヒー屋の藤屋がある。戦争中は、ここのコーヒーが、素晴しかった。今は代が変ったのか、大分趣が変ってしまった。
 元町から、三の宮の方へ戻ろう。
 ヴェルネクラブのあった、十五銀行の方を又振り返り、そしてその向うの、海の方も気にしながら――
 というのは、此処の海には、フランス船の御馳走の思い出があるからだ。M・Mの船の、クイン・ドウメルや、アラミスなどというので食べた、本場のフランス料理、此のことは既に書いたから、略す。
 三の宮へ引返すのに、センター街を通って行く。昔は元町と三の宮の間には、繁華街は無くて、生田筋から、トアロードを廻ったりしたものだが、今はセンター街がある。
 センター街の賑わいは、ともすると、元町の客を奪って、昔の元町のような勢を示している。
 ここにも、うまいものの店は、あるのだろうが、僕は、此処については、まだ詳しくない。
 知っているのは、センター街の角にある、ドンクというベーカリー。そこのパンを僕は絶賛するものである。ドンク(英字ではDONQ)のフランスパンは、日本中で一番うまいものではあるまいか。僕は、此処のパンを、取り寄せて食べている。
 センター街から、三の宮附近へ戻る。
 生田神社の西隣りに、ユーハイムがある。歴史も古き、ユーハイムである。無論、元は場所が違った。もっと海に近い方にあったのだが、戦後、此方へ店を出した。
 神戸といえば、洋菓子といえば、ユーハイム、と言った位、古く売り込んだ店である。今回行って、コーヒーを飲み、その味、実によし、と思った。
 モカ系のコーヒーで、丁寧に淹《い》れてあって、これは中々東京には無い味だった。
 関西では兎角《とかく》、ジャワ、ブラジル系のコーヒーが多いのに、此の店のは、モカの香り。そして、洋菓子も、流石に老舗を誇るだけに、良心的で、いいものばかりだった。ミートパイがあったので試みた。これも、今の時代では最高と言えるもので、しっとりとした、いい味であった。
 ユーハイムを出て少し行くと、ハイウェイがある。これは戦前からのレストオランで、もとの場所とは、一寸違うが、すぐ近くで開店。又最近、北長狭通へ移った。きちんとした、正道の西洋料理店。戦時は、大東グリルという名に改めた。大東亜の大東かと思ったら、主人の名が大東だった。それも、昔のハイウェイを名乗って再開。やっぱり、折目正しい、サーヴィスで、柾目の通ったものを食わせる。最近行って、ビフテキを食ったが、結構なものだった。
 その直ぐ傍に、平和楼がある。中華料理で、かなり庶民的。僕は、神戸へ行く度に必ず此処へ行く。
 平和楼と言えば、戦前神戸には有名な平和楼があった。支那料理ではあるがかなり欧風化した、そして日本人の口に合うような料理を食わせる店だったが、その平和楼とは、場所も経営者も違う。但し、全然縁が無いことはないので、此の店の経営者は、昔の平和楼の一番コックだった人である。が、今度は、欧風又は日本風の料理ではなく、純支那風のものを食わせる。これでなくちゃあ、ありがたくない。で、僕が此処で、必ず第一番に註文するのは、紅焼魚翅だ。ふかのひれのスープ。これが何よりの好物で、三四人前、ペロペロと食ってしまう。
 東京の支那料理屋では、何《ど》うして、こういう風に行かないだろう。魚翅も随分方々で食ってみるが、こういう、ドロドロッとした、濃厚なスープには、ぶつからない。
 東京で食うのは、魚翅もカタマリのまんまのや、それの澄汁のような、コンソメのようなの、又は、ポタージュに近くても、濃度も足りないし、色々な、オマケの如きものが混入していて、つまらない。こればっかりは、神戸の、本場の中国人が作ったものには敵わないのではないか。
 平和楼以前に、僕は、戦後二三年経って、神戸のトアロードの、かなり下の方にあった、福神楼というので、紅焼魚翅を食った。それが此の、ドロドロの、僕の最も好むところのものであった。此の福神楼は、今はもう無い。
 平和楼の、ドロドロの、ふかのひれ。これを思うと、僕は、わざわざ東京からそれだけのためにでも、神戸へ行きたくなるのである。
 その他の料理も皆、純中国流に作られていて、近頃の東京のように、洋食に近いような味でないのが、嬉しい。
 此の店、階下を、流行のギョウザの店に改装し、これも中々|流行《はや》っている。
 支那料理の話になったら、神戸は本場だ、もう少し語らなくてはなるまい。
 戦前から、戦中にかけて、僕が最も愛用したのは、元町駅に近い、神仙閣である。これは、谷崎潤一郎先生に教わって行った。そして、その美味いこと、安いことは、実に何とも言いようのないものであった。
 現今流行の、ギョウザなどというものも、此の店では、十何年前から食わしていた。
 さて、戦後(一九五四年)、戦災で焼けてから、建ち直った神仙閣へ行った。
 入口のドアを開けると、中国人が大きな声で、「やアッ、ヤーアッ!」というような、掛け声の如き、叫びを叫んだ。
「いらっしゃい」と言う、歓迎の辞であろう。途端に、ああ昔も、此の通りだったな、と思い出した。そして、久しぶりで此処の料理を食ったのであるが、昔に変らず美味かった。但し、いささか味が欧風化されたのではないかという疑問が残ったが。
 そして、ここいらで、忘れないうちに書いて置かなくてはならないことは、これらの支那料理は、全部、神戸は安い、ということだ。
 東京では、こうは行かない、という値段なのだ。つまり、神戸の支那料理は、何処へ行ったって、東京よりは、うまくって、安い。これだけは、書いておかなくっちゃ。
 さて、その神仙閣は、一昨年だったか、火事になって焼失し、今度は又、三の宮近くに、三階建のビルディングを新築して開店。大いに流行っているそうだが、まだ今回は、試みる暇がなかった。
 次の機会には、行ってみよう。又もや入口を入ると、「やアッ、ヤヤヤッ!」というような歓迎を受けることであろう。それが、先ず、たのしみだ。

底本:「ロッパの悲食記」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年8月24日第1刷発行
   2007(平成19)年9月5日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年11月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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