永井荷風

矢はずぐさ—– 永井荷風

(例)寒夜客来[#(テ)]茶当[#(ツ)][#レ]酒[#(ニ)]

『矢筈草《やはずぐさ》』と題しておもひ出《いづ》るままにおのが身の古疵《ふるきず》かたり出《い》でて筆とる家業《なりわい》の責《せめ》ふさがばや。

 さる頃も或人の戯《たわむれ》にわれを捉へて詰《なじ》りたまひけるは今の世に小説家といふものほど仕合《しあわ》せなるはなし。昼の日中《ひなか》も誰《たれ》憚《はばか》るおそれもなく茶屋小屋《ちゃやこや》に出入りして女に戯れ遊ぶこと、これのみにても堅気《かたぎ》の若きものの目には羨《うらやま》しきかぎりなるべきに、世の常のものなれば強《し》ひても包みかくすべき身の恥身の不始末、乱行狼藉《らんぎょうろうぜき》勝手次第のたはけをば尾に鰭《ひれ》添へて大袈裟《おおげさ》にかき立つれば世の人これを読みて打興《うちきょう》じ遂にはほめたたへて先生と敬《うやま》ふ。実《げ》にや人倫五常の道に背《そむ》きてかへつて世に迎へられ人に敬はるる卿《けい》らが渡世《たつき》こそ目出度《めでた》けれ。かく戯れたまひし人もし深き心ありてのことならんか。この『矢筈草』目にせば遂にはまことに憤《いきどお》りたまふべし。『矢筈草』とは過《すぎ》つる年わが大久保《おおくぼ》の家《いえ》にありける八重《やえ》といふ妓《ぎ》の事を記《しる》すものなれば。
 八重その頃は家《いえ》の妻となり朝餉《あさげ》夕餉《ゆうげ》の仕度はおろか、聊《いささ》かの暇《いとま》あればわが心付《こころづ》かざる中《うち》に机の塵《ちり》を払ひ硯《すずり》を清め筆を洗ひ、あるいは蘭の鉢物《はちもの》の虫を取り、あるいは古書の綴糸《とじいと》の切れしをつくろふなど、余所《よそ》の見る目もいと殊勝《しゅしょう》に立働《たちはたら》きてゐたりしが、故《ゆえ》あつて再び身を新橋《しんばし》の教坊《きょうぼう》に置き藤間某《ふじまなにがし》と名乗りて児女《じじょ》に歌舞《かぶ》を教《おし》ゆ。浄瑠璃《じょうるり》の言葉に琴三味線の指南《しなん》して「後家《ごげ》の操《みさお》も立つ月日」と。八重かくてその身の晩節《ばんせつ》を全《まっと》うせんとするの心か。|我不[#レ]知《われしらず》。

 そもそも小説家のおのれが身の上にかかはる事どもそのままに書綴《かきつづ》りて一篇の物語となすこと西洋にては十九世紀の始《はじめ》つ方《かた》より漸《ようや》く世に行はれ、ロマンペルソネルなどと称《とな》へられて今にすたれず。即ちゲーテが作『若きウェルテルの愁《うれい》』、シャトオブリヤンが作『ルネエ』の類《たぐい》なり。わが国にては紅葉山人《こうようさんじん》が『青葡萄《あおぶどう》』なぞをやその権輿《けんよ》とすべきか。近き頃|森田草平《もりたそうへい》が『煤煙《ばいえん》』小粟風葉《おぐりふうよう》が『耽溺《たんでき》』なぞ殊の外世に迎へられしよりこの体《てい》を取れる名篇|佳什《かじゅう》漸く数ふるに遑《いとま》なからんとす。わけても最近の『文芸倶楽部《ぶんげいクラブ》』[#割り注]大正四年十一月号[#割り注終わり]に出でし江見水蔭《えみすいいん》が『水さび[#「水さび」に傍点]』と題せし一篇の如き我身には取分けて興《きょう》深し。されば我今更となりて八重にかかはる我身のことを種《たね》として長き一篇の小説を編《あ》み出《いだ》さん事かへつてたやすき業《わざ》ならず。小説を綴らんには是非にも篇中人物の性格を究《きわ》め物語の筋道もあらかじめは定め置く要あり。かかる苦心は近頃|病《やまい》多く気力乏しきわが身の堪《た》ふる処ならねば、むしろ随筆の気儘なる体裁《ていさい》をかるに如《し》かじとてかくは取留《とりと》めもなく書出《かきいだ》したり。小説たるも随筆たるも旨《むね》とする処は男女《だんじょ》の仲のいきさつを写すなり。客と芸者の悶着を語るなり。亭主と女房の喧嘩犬も喰《く》はぬ話をするなり。犬は喰はねど煩悩《ぼんのう》の何とやら血気《けっき》の方々これを読みたまひてその人もし殿方《とのがた》ならばお客となりて芸者を見ん時、その人もし芸者衆《げいしゃしゅ》ならばお座敷かかりてお客の前に出《い》でん時、前車《ぜんしゃ》の覆轍《ふくてつ》以てそれぞれ身の用心ともなしたまはばこの一篇の『矢筈草』豈《あに》徒《いたずら》に男女の痴情《ちじょう》を種とする売文とのみ蔑《さげす》むを得んや。

 矢筈草は俗に現《げん》の証拠《しょうこ》といふ薬草なること、江戸の人|山崎美成《やまざきよししげ》が『海録《かいろく》』といふ随筆第五巻目に見えたり。曰く、「矢筈草俗に現の証拠といふこの草をとりみそ汁にて食する時は痢病《りびょう》に甚《はなはだ》妙なり又|瘧病《おこり》及び疫病等《えきびょうなど》にも甚|効《こう》あり云々《うんぬん》」。
 この草また御輿草《みこしぐさ》と呼ぶ。萩《はぎ》の家《や》先生が辞典『[#傍点]ことばのいづみ[#傍点終わり]』を見るに、「げんのしようこ※[#「特のへん+尨」、U+727B、116-2]牛児《ぼうぎゅうじ》。植物。草の名。野生《やせい》にして葉は五つに分れ鋸歯《のこぎりば》の如き刻《きざ》みありて長さ一|寸《すん》ばかり、対生《たいせい》す。夏のころ梅の如き淡紅《たんこう》の花を開き後《のち》莢《み》をむすび熟するときは裂《さ》けて御輿《みこし》のわらびでの如く巻きあがる。茎も葉も痢病の妙薬なりといふ。みこしぐさ。」とあり。我《われ》この草のことをば八重より聞きて始めて知りしなり。八重その頃[#割り注]明治四十三、四年[#割り注終わり]新橋《しんばし》の旗亭花月《きていかげつ》の裏手に巴家《ともえや》といふ看板かかげて左褄《ひだりづま》とりてゐたり。好まぬ酒も家業なれば是非もなく呑過して腹いたむる折々日本橋通一丁目|反魂丹《はんごんたん》売る老舗《しにせ》[#割り注]その名失念したり[#割り注終わり]に人を遣《つかわ》して矢筈草|購《あがな》はせ土瓶《どびん》に煎《せん》じて茶の代りに呑みゐたりき。われ生来多病なりしかどその頃は腹痛む事稀なりしかば八重が頻《しきり》にかの草の効験《ききめ》あること語出《かたりい》でても更に心に留《と》むる事もなくて打過《うちす》ぎぬ。然《しか》るをそれより三、四年にして一夜《いちや》激しき痢病に襲はれ一時《いちじ》は快《こころよ》くなりしかど春より夏秋より冬にと時候の変り目に雨多く降る頃ともなれば必ず腹痛み出《い》で鬱《ふさ》ぎがちとはなりにけり。かつては寒夜客来[#(テ)]茶当[#(ツ)][#レ]酒[#(ニ)]竹※[#「缶+盧」、第4水準2-84-71]湯沸[#(テ)]火初[#(メテ)]紅[#(ナリ)]〔寒夜《かんや》に客《きゃく》来《きた》りて茶を酒に当《あ》つ 竹※[#「缶+盧」、第4水準2-84-71]《ちくろ》に湯《ゆ》沸《わ》きて火《ひ》初《はじめ》て紅《くれない》なり〕といへる杜小山《としょうざん》が絶句《ぜっく》なぞ口ずさみて殊更|煎茶《せんちゃ》のにがきを好みし朱泥《しゅでい》の茶※[#「缶+并」、第4水準2-84-68]《さへい》、今は矢筈草押込みて煎じつめ夜《よ》ごと眠《ねむり》につく時|持薬《じやく》にする身とはなり果てけり。
 八重近頃は身もいとすこやかになりしと聞く。さらば今は矢筈草も用なきこそ目出度けれ。

 およそ人の一生血気の盛《さかり》を過ぎて、その身はさまざまの病《やまい》に冒《おか》されその心はくさぐさの思《おもい》に悩みて今日は咋日にまして日一日と老い衰へ行くを、時折物にふれては身にしみじみと思知るほど情なきはなし。
 宿昔青雲ノ志、蹉ス白髪ノ年、誰カ知ル明鏡裏、形影自ラ相憐ム宿昔《しゅくせき》 青雲《せいうん》の志《こころざし》。蹉さたす 白髪《はくはつ》の年《とし》。誰か知る明鏡《めいきょう》の裏《うち》。形影《けいえい》自《みずか》ら相《あい》憐《あわれ》む〕とはこれ人口に膾炙《かいしゃ》する唐詩なり。鏡に照して白髪に驚くさまは仏蘭西《フランス》の小説家モオパサンが『終局《フィニイ》』といふ短篇にも書綴《かきつづ》られたり。
 われ髪《はつ》いまだ白からず。しかも既にわれながら老いたりと感ずること昨日今日のことにはあらず。父を喪《うしな》ひてその一週忌も過ぎける翌年《よくねん》の夏の初、突然烈しき痢病《りびょう》に冒され半月あまり枕につきぬ。元来酒を嗜《たしな》まざれば従つて日頃|悪食《あくじき》せし覚えもなし。強《し》ひて罪を他に負はしむれば慶応義塾《けいおうぎじゅく》にて取寄する弁当の洋食にあてられしがためともいはんか。そも三田《みた》の校内にては奢侈《しゃし》の風をいましめんとて校内に取寄すべき弁当にはいづれもきびしく代価を制限したり。されば料理の材料おのづから粗悪となりてこれを食《くら》へば終日《ひねもす》胸苦《むなぐる》しきを覚ゆ。紅がらにて染めたるジャム鬢付《びんつけ》のやうなるバタなんぞ見る折々いつも気味わるしと思ひながら雨降る日なぞはつい門外の三田通《みたどおり》まで出《い》で行くに懶《ものう》く、その日も何心《なにごころ》なく一皿の中《うち》少しばかり食べしがやがて二日目の暁方《あけがた》突然|腸《はらわた》搾《しぼ》らるるが如き痛《いたみ》に目ざむるや、それよりは夜《よ》の明放《あけはな》るるころまで幾度《いくたび》となく廁《かわや》に走りき。
 その頃わが住める家《いえ》はいと広かりき。われは二階なる南の六畳に机を置き北の八畳を客間、梯子段《はしごだん》に臨《のぞ》む西向の三畳を寝間《ねま》と定《さだ》めければ、幾度となき昇降《あがりお》りに疲れ果て両手にて痛む下腹《したはら》押へながらもいつしかうとうととまどろみぬ。目覚《めさむ》れば早《は》や午《ご》に近し。召使ふものの知らせにて離れの一間《ひとま》に住み給ひける母上捨て置きてはよろしからずと直様《すぐさま》医師を呼迎《よびむか》へられけり。われは心|窃《ひそか》に赤痢《せきり》に感染せしなるべしと思ひ付くや人の話にてこの病の苦しさを知り心は戦々兢々《せんせんきょうきょう》たり。幸にして医師の診断によればわが病はかかる恐しきものにてはなかりしかど、昼夜《ちゅうや》絶《たゆ》る間《ひま》なく蒟蒻《こんにゃく》にて腹をあたためよ。肉汁《ソップ》とおも湯の外《ほか》は何物も食《くら》ふべからず。毎朝《まいちょう》不浄《ふじょう》のもの検査すべければ薬局に送り届けよなぞ、医師はおごそかにいひ置きて帰り行きぬ。わが家《や》には父いませし頃より二十年あまりも召使ふ老婆あり。このもの医師の命ぜし如く早速蒟蒻あたためて持来《もちきた》りしかばそれをば下腹におし当てて再びうとうとと眠りき。
 南向の小窓に雀の子の母鳥呼ぶ声|頻《しきり》なり。梯子段に誰《た》れやら昇り来《きた》る足音聞付け目覚《めさ》むれば老婆の蒟蒻取換へに来《きた》りしにはあらで、唐桟縞《とうざんじま》のお召《めし》の半纏《はんてん》に襟付《えりつき》の袷《あわせ》前掛《まえかけ》締めたる八重なりけり。根下《ねさが》りの丸髷《まるまげ》思ふさま髱後《たぼうしろ》に突出《つきいだ》し前髪《まえがみ》を短く切りて額《ひたい》の上に垂《た》らしたり。こは過《すぐ》る日八重わが書斎に来《きた》りける折書棚の草双紙《くさぞうし》絵本《えほん》の類《たぐい》取卸《とりおろ》して見せける中《なか》に豊国《とよくに》が絵本『時勢粧《いまようすがた》』に「それ者《しゃ》」とことわり書したる女の前髪切りて黄楊《つげ》の横櫛《よこぐし》さしたる姿の仇《あだ》なる、今時の芸者もかうありたしとわれの戯《たわむ》れにいひけるを、何事も気早《きばや》の八重、机の上にありける西洋鋏《せいようばさみ》手に取るより早く前髪ぷツつり切落し、鏡よ鏡よとて喜びさわぎしその名残《なご》りなりかし。
 八重その年二月の頃よりリウマチスにかかりて舞ふ事|叶《かな》はずなりしかば一時《ひとしきり》山下町《やましたちょう》の妓家《ぎか》をたたみ心静に養生せんとて殊更山の手の辺鄙《へんぴ》を選び四谷荒木町《よつやあらきちょう》に隠れ住みけるなり。わが家《や》とは市《いち》ヶ|谷《や》谷町《たにまち》の窪地《くぼち》を隔てしのみなれば日ごと二階なるわが書斎に来りてそこらに積載《つみの》せたる新古の小説雑書のたぐひ何くれとなく読みあさりぬ。彼女|元《もと》北地《ほくち》の産。年十三にして既に名をその地の教坊《きょうぼう》に留《とど》めき。生来|文墨《ぶんぼく》の戯を愛しよく風流を解せり。読書《とくしょ》に倦《う》めば後庭《こうてい》に出《い》で菜圃《さいほ》を歩み、花を摘《つ》みて我机上《わがきじょう》を飾る。今わが家蔵《かぞう》の古書|法帖《ほうじょう》のたぐひその破れし表紙切れし綴糸《とじいと》の大方《おおかた》は見事に取つぐなはれたる、皆その頃八重が心づくしの形見ぞかし。八重かくの如く日ごとわが家《や》に来りて夕暮近くなる時は、われと共に連れ立ちて芝口《しばぐち》の哥沢芝加津《うたざわしばかつ》といふ師匠の許《もと》まで端唄《はうた》ならひに行くを常としたり。
 前の夜《よ》も哥沢節の稽古に出でて初夜《しょや》過《すぐ》る頃四ツ谷|宇《う》の丸《まる》横町《よこちょう》の角《かど》にて別れたり。さればわが病臥《やみふ》すとは夢にも知らず、八重は襖《ふすま》引明《ひきあ》けて始めて打驚《うちおどろ》きたるさまなり。

 八重申しけるはわが身かつて伊香保《いかほ》に遊びし頃谷間の小流《こながれ》掬《く》み取りて山道の渇《かわ》きをいやせし故《ゆえ》か図《はか》らず痢病《りびょう》に襲はれて命も危《あやう》き目に逢《あ》ひたる事あり。その後《ご》は幾年月《いくとしつき》人の酒興《しゅきょう》を助くる家業《なりわい》の哀れはかなき、その身の害とは知りながら客の勧むる盃《さかずき》はいなまれず、家《いえ》に帰らば今宵《こよい》もまた苦しみ明《あか》すべしと心に泣きつつも酒呑みてくらせし故腹の病《やまい》はよく知りたり。養生の法とても、わが身かへつて医師にまさりて明《あきらか》ならん。医のととのへ勧むる薬は元より怠《おこた》り給ふな。さりながら古老の昔よりいひ伝ふるものには何事に限らず霊験《れいげん》ある事あり。わが身いまだ妓籍《ぎせき》を脱せざりし頃絶えず用ひたるかの矢筈草今も四谷の家《いえ》にあり。煎じて参らすべければ聊《いささ》かその匂ひの悪しきを忍びたまへとて、直《ただち》に人を走《は》せて矢筈草取寄せ煎じけり。
 われ生れて煎薬《せんやく》といふもの呑みたるはこれが始めてなり。この薬たしかに効能あるやうに覚えければその後は風邪心地《かざごこち》の折とてもアンチフェブリンよりは葛根湯《かっこんとう》妙振出《みょうふりだ》しなぞあがなひて煎じる事となしぬ。例へば雪みぞれの廂《ひさし》を打つ時なぞ田村屋好《たむらやごの》みの唐桟《とうざん》の褞袍《どてら》に辛《から》くも身の悪寒《おかん》を凌《しの》ぎつつ消えかかりたる炭火《すみび》吹起し孤燈《ことう》の下《もと》に煎薬煮立つれば、夜気《やき》沈々たる書斎の中《うち》に薬烟《やくえん》漲《みなぎ》り渡りて深《ふ》けし夜《よ》のさらにも深け渡りしが如き心地、何となく我身ながらも涙ぐまるるやうにてよし。

 八重が心づくしにて病はほどもなく癒《い》えけり。芍薬《しゃくやく》の花散りて世は早くも夏となりぬ。梅雨《つゆ》のあくるを待ち兼ねてその年の土用《どよう》に入《い》るやわれは朝な朝な八重に誘《いざな》はれて其処《そこ》此処《ここ》と草ある処に赴《おもむ》きかの薬草|摘《つ》むにいそがしかりけり。
 矢筈草はちよつと見たる時その葉|蓬《よもぎ》に似たり。覆盆子《いちご》の如くその茎《くき》蔓《つる》のやうに延びてはびこる。四谷見附《よつやみつけ》より赤坂喰違《あかさかくいちがい》の土手に沢山あり。青山《あおやま》兵営の裏手より千駄《せんだ》ヶ|谷《や》へ下《くだ》る道のほとりにも露草《つゆくさ》車前草《おおばこ》なぞと打交《うちまじ》りて多く生ず。採《と》り来《きた》りてよく土を洗ひ茎もろともにほどよく刻《きざ》みて影干《かげぼし》にするなり。
 われは東京市中の閑地《あきち》追々《おいおい》土木工事のために伐《き》り開かるべきことを憂ひて止まざるものなれば、やがては矢筈草生ずる土手もなくなるべしと思ひ、その一束《ひとたば》をわが家《や》の庭に移し植ゑぬ。われその年の秋母の許《ゆるし》を得て始めて八重を迎へ家《いえ》を修めしめしが、それとても僅《わずか》半歳《はんさい》の夢なりけり。その人去りて庭の籬《まがき》には摘むものもなくて矢筈草|徒《いたずら》に生《お》ひはびこりぬ。万事傷心の種《たね》ならざるはなし。その翌年《よくねん》草の芽再び萌出《もえいづ》る頃なるを、われも一夜《いちや》大久保を去りて築地《つきじ》に独棲《どくせい》しければかの矢筈草もその後《のち》はいかがなりけん。近頃|新《あらた》に住む人ありと聞けば廃園の雑草と共に大方は刈除《かりのぞ》かれしや知るべからず。

 事新らしく自然主義の理論説き出づるにも及ぶまじ。この世をよしと言ひあしと観る十人|十色《といろ》の考その人々によりて異り行くも、一つにはその人々の健康によることなり。われその身の衰行《おとろえゆ》くを知るにつけて世をいとふの念押へがたく日に日に弥増《いやま》さり行くこそ是非なけれ。
 わが知れる人々の中《うち》にはいかにもして我国の演劇を改良なし意味ある芸術を起さんものをと家人《かじん》の誤解世上の誹謗《ひぼう》もものかは、今になほ十年の宿志《しゅくし》をまげざるものあり。聞くだに涙こぼるる美談ぞかし。然るにわれは早くも心《こころ》挫《くじ》けてひたすら隠栖《いんせい》の安きを求めんとす。しかもそは取立てていふべきほどの絶望あるにもあらず将《はた》悲憤慷慨のためにもあらず。唯劇場の燈火《とうか》あまりにあかるく目を射るに堪《た》へざるが如き心地したるがためのみ。それに引換へて父の世より住古《すみふる》せし我家の内の薄暗く書斎の青燈《せいとう》影もおぼろに床《とこ》の花を照すさま何事にもかへがたく覚初《おぼえそ》めたるがためのみ。茶屋といふものなくなりて、劇場内の食堂の料理何となく気味わるき心地せられしがためのみ。雨の降る夜《よ》なぞとぼとぼと遠道《とおみち》を帰り行くことの苦しくなりしがためのみ。これらのことその身すこやかなれば元《もと》よりいふにも足らぬことなれど、寒さを恐れて春も彼岸《ひがん》近くまで外出《そとで》の折には必ず懐炉《かいろ》入れ歩くほどの果敢《はか》なき身には、以上の事皆観劇のために払ふべき大《だい》なる犠牲の如くに感ぜらる。新聞屋の種取《たねと》りにと尋来《たずねきた》るに逢ひてもその身丈夫にて人の顔さへ見れば臆面《おくめん》なく大風呂敷《おおぶろしき》ひろぐる勇気あらば願うてもなき自慢話の相手たるべきに、しからざる身には唯々うるさく辛《つら》きものとなるなり。世上の文学雑誌にわが身のことども口ぎたなく悪しざまに書立つるを見てさへ反駁《はんばく》の筆|執《と》るに懶《ものう》きほどなれば、見当違ひの議論する人ありとて何事もただ首肯《うなず》くのみにてその非をあぐる勇気もなし。いはんやその誤を正さん親切気《しんせつぎ》においてをや。時折|遠国《えんごく》の見知らぬ人よりこまごまと我が拙《つたな》き著作の面白き節々《ふしぶし》書きこさるるに逢ひてもこれまたそのままに打過して厚き志《こころざし》を無にすること度々《たびたび》なり。
 心地すぐれざるも打臥《うちふ》すほどにもあらねば病《や》めりとはいひがたし。病《やまい》なくして病あるが如き身のさまこそいぶかしけれ。下谷《したや》の外祖父《がいそふ》毅堂《きどう》先生の詩に小病無クレ名怯ル暮寒ヲ小病《しょうびょう》に名《な》無《な》く 暮寒《ぼかん》を怯《おそ》る〕といはれしもかくの如き心地にや。老杜《ろうと》が登高《とうこう》の七律《しちりつ》にも万里ノ悲秋常ニ作《ナル》レ客ト百年ノ多病独登ルレ台ニ万里《ばんり》の悲秋《ひしゅう》 常に客と作《な》る、百年の多病 独り台《だい》に登る〕の句あり。
 正月二月の寒風に吹かれて家《いえ》に入《い》れば、眼くるめくばかり頭痛を催し、八月の炎天を歩み汗を拭はんとて物かげに憩《いこ》ひ風を迎ふれば凉しと思ふ間もなく、忽《たちま》ち肌ひやひやとして気味わるき寒さを覚ゆ。冬の日はわれ人《ひと》共に寒きものなればさして悲しとも思はねど夏はつくづく情なき事のみなり。夕方の行水《ぎょうずい》にも湯ざめを恐れ、咽喉《のど》の渇《かわ》きも冷きものは口に入るること能《あた》はざれば、これのみにても人並の交りは出来ぬなり。人にさそはれ夕凉《ゆうすずみ》に出《いづ》る時もわれのみは予《あらかじ》め夜露の肌を冒《おか》さん事を慮《おもんばか》りて気のきかぬメリヤスの襯衣《シャツ》を着込み常に足袋《たび》をはく。酒楼《しゅろう》に上《のぼ》りても夜《よる》少しく深《ふ》けかかると見れば欄干《らんかん》に近き座を離れて我のみ一人|葭戸《よしど》のかげに露持つ風を避けんとす。をちこちに夜番《よばん》の拍子木《ひょうしぎ》聞えて空には銀河の流《ながれ》漸く鮮《あざやか》ならんとするになほもあつしあつしと打叫《うちさけ》びて電気扇《でんきせん》正面《まとも》に置据ゑ貸浴衣《かしゆかた》の襟《えり》ひきはだけて胸毛を吹きなびかせ麦酒《ビール》の盃に投入るるブツカキの氷ばりばりと石を割るやうに噛砕《かみくだ》く当代紳士の豪興《ごうきょう》、われこれを以て野蛮なる哉《かな》や没趣味なる哉やと嘆息するも誠はわが虚弱の妬《ねた》みに過ぎず。何事に限らずわが言ふ処|生《き》まじめの議論と思給はば飛《とん》でもなき買冠《かいかぶり》なるべし。

 慶応義塾のつとめもかくては日に日に退儀《たいぎ》となりぬ。朝早く出掛《でかけ》間際《まぎわ》に腹痛み出《いづ》ることも度々《たびたび》にて、それ懐中の湯婆子《ゆたんぽ》よ懐炉《かいろ》よ温石《おんじゃく》よと立騒ぐほどに、大久保より札《ふだ》の辻《つじ》までの遠道《とおみち》とかくに出勤の時間おくれがちとはなるなり。時雨《しぐれ》そぼふる午下《ひるすぎ》火の気《け》乏しき西洋間の教授会議または編輯《へんしゅう》会議も唯々わけなくつらきものの中《うち》に数へられぬ。何時《いつ》の幾日《いくか》には遊びに行かんと親しき友より軽き約束|申出《もうしい》でられてももしやその日に腹痛まば如何《いか》にせん、雨降らば出《で》にくからんなぞ取越苦労のみ重れば折角の興《きょう》もとく消えがちなるこそ悲しけれ。
 心柄《こころがら》とはいひながら強《し》ひて自《みずか》ら世をせばめ人の交《まじわり》を断ち、家《いえ》にのみ引籠《ひきこも》れば気随気儘《きずいきまま》の空想も門外世上の声に妨げ覚《さ》まさるる事なければ、いつとしもなくわれは誠に背も円《まる》く前にかがみ頭《かしら》に霜置く翁《おきな》となりけるやうの心とはなりにけり。
 八重も女の身の既に三十路《みそじ》を越えたり。始めのほどはリウマチスの病《やまい》さへ癒《い》えて舞ふに苦しからずなりなば再び新橋にや帰らん新に柳橋にや出でんあるひは地を選びて師匠の札《ふだ》をや掲げんなぞ思ひ企《くわだ》つる処さまざまなりしかども、いつか我が懶惰《らんだ》の習ひにや馴れ染めけん、かつは日頃親しく尋来《たずねきた》る向島の隠居|金子《かねこ》翁といふ老人のすすめもありてや、浮世の夢をよそに、思出多き一生を大久保の里に埋《うず》め、早衰のわが身が朝夕《あさゆう》の世話する事とはなりぬ。そは甲寅《きのえとら》の年も早や秋立ち初《そ》めし八月末の日なりけり。目出度き相談まとまりて金子翁を八重が仮の親元に市川左団次《いちかわさだんじ》夫妻を仲人《なこうど》にたのみ山谷《さんや》の八百屋《やおや》にて形《かた》ばかりの盃事《さかずきごと》いたしけり。[#割り注]金子翁名元助天保御趣意の前年江戸和蘭陀屋敷御同心の家に生るといふ清元の三絃をよくしまた宇治の太夫となりて金紫と号す瓦解の後商となり横浜に出で産を起し※[#「さんずい+(壥-土へん-厂)」、第3水準1-87-25]上に有馬温泉を建つ二子あり坂東秀調はその長子藤間金之助はその次子なり[#割り注終わり]八百屋|善四郎《ぜんしろう》が家《いえ》はその時庭の地揚《じあ》げ土台の根つぎなぞ致すため客をことわりてゐたりしかど金子翁かつて八百屋が先代の主人とは懇意なりける由にて事の次第を咄《はな》して頼みければ今の若き主人心よく承知して池に臨《のぞ》む下座敷《したざしき》を清め床の間の軸も光琳《こうりん》が松竹梅の三幅対《さんぷくつい》をかけその日のみわれらがために一日《いちにち》商売《あきない》の面倒をいとはざりけり。
 この日残暑の夕陽《せきよう》烈しきに山谷の遠路《えんろ》をいとはずしてわが母上も席に連《つらな》り給ひぬ。母は既に父|在《いま》せし頃よりわが身の八重といふ妓《ぎ》に狎《な》れそめける事を知り玉ひき。去歳《さるとし》わが病伏《やみふ》しける折|日々《にちにち》看護に来《きた》りしより追々に言葉もかけ給ふやうになりて窃《ひそか》にその立居《たちい》振舞を見たまひけるが、癇癖《かんぺき》強く我儘なるわれに事《つか》へて何事も意にさからはぬ心立《こころだて》の殊勝なるに加へて、殊に或日わが居間の軸を掛替《かけか》ゆる折|滬上《こじょう》当今《とうこん》の書家|高※[#「巛/邑」、第3水準1-92-59]《こうよう》といふ人の書きける小杜《しょうと》が茶煙禅榻《さえんぜんとう》の七絶《しちぜつ》すらすらと読下《よみくだ》しける才識に母上このもの全く世の常の女にあらじと感じたまひてこの度《たび》の婚儀につきては深くその身元のあしよしを問ひたまはざりき。
 八重|竹柏園《ちくはくえん》に遊びて和歌を学びしは久しき以前の事なり。近頃四谷に移住《うつりす》みてよりはふと東坡《とうば》が酔余の手跡《しゅせき》を見その飄逸《ひょういつ》豪邁《ごうまい》の筆勢を憬慕《けいぼ》し法帖《ほうじょう》多く購求《あがないもと》めて手習《てならい》致しける故|唐人《とうじん》が行草《ぎょうそう》の書体訳もなく読得《よみえ》しなり。何事も日頃の心掛によるぞかし。

 八重|家《いえ》に来《きた》りてよりわれはこの世の清福|限無《かぎりな》き身とはなりにけり。人は老《おい》を嘆ずるが常なり。然るにわれは俄《にわか》に老の楽《たのしみ》の新なるを誇らんとす。人生の哀楽唯その人の心一ツによる。木枯《こがらし》さけぶ夜《よ》すがら手摺《てず》れし火桶《ひおけ》かこみて影もおぼろなる燈火《とうか》の下《もと》に煮る茶の味《あじわい》は紅楼《こうろう》の緑酒《りょくしゅ》にのみ酔ふものの知らざる所なり。寝屋《ねや》の屏風|太鼓張《たいこばり》の襖《ふすま》なぞ破れたるを、妻と二人して今までは互に秘置《ひめお》きける古き文《ふみ》反古《ほご》取出《とりいだ》して読返しながら張りつくろふ楽しみもまた大厦高楼《たいかこうろう》を家とする富貴《ふうき》の人の窺知《うかがいし》るべからざる所なるべし。菊植ゆる籬《まがき》または廁《かわや》の窓の竹格子《たけごうし》なぞの損じたるを自《みずか》ら庭の竹藪より竹|切来《きりきた》りて結びつくろふ戯《たわむれ》もまた家を外《そと》なる白馬銀鞍《はくばぎんあん》の公子《こうし》たちが知る所にあらざるべし。わが物書くべき草稿の罫紙《けいし》は日頃|暇《いとま》ある折々われ自らバレン持ちて板木《はんぎ》にて摺《す》りてゐたりしが、八重今は襷《たすき》がけの手先墨にまみるるをも厭《いと》はず幾帖《いくじょう》となくこれを摺る。かかる楽しみも近頃西洋紙に万年筆走らせて議論する文士の知らざる所とやいはん。
 わが家《や》には亡父《なきちち》の遺《のこ》し給ひし書籍盆栽文房の器具|尠《すくな》からず。八重はわれを助けて家《いえ》を修めんがため『林園月令《りんえんげつれい》』、『雅遊漫録《がゆうまんろく》』、『草木育種《そうもくいくしゅ》』、『庭造秘伝鈔《にわつくりひでんしょう》』、『日本家居秘用《にほんかきょひよう》』なぞいふ類《たぐい》の和漢の書取出して読みあさり、硯《すずり》の海の底深う巌《いわ》のやうにこびりつきたる墨のかす洗ひ落すには如何《いか》にすればよき。蒔絵《まきえ》の金銀のくもりを拭清《ふききよ》むるには如何にせばよきや。堆朱《ついしゅ》の盆|香合《こうごう》などその彫《ほり》の間の塵を取るには如何にすべきや。盆栽の梅は土用《どよう》の中《うち》に肥料《こやし》やらねば来春花多からず。山百合《やまゆり》は花終らば根を掘りて乾ける砂の中《なか》に入れ置けかし。あれはかくせよ。これはかうせよと終日《ひねもす》襷《たすき》はづす暇《いとま》だになかりけり。
 わが父はこの上なく物堅き人なりき。然れども生前自ら選みたまひしその詩稿『来青閣集《らいせいかくしゅう》』といふを見れば

  良辰佳会古難並 〔良《よ》き辰《とき》と佳《よ》き会《かい》は古《いにしえ》より並び難し
  玉手酒幾巡  玉手《ぎょくしゅ》《さんさん》として酒《さけ》幾たびか巡《めぐ》る
  休道詩人無艶分  道《い》う休《なか》れ詩人《しじん》に艶分《えんぶん》無《な》しと
  先従花国賦迎春  先《ま》ず花国《かこく》従《よ》り賦《ふ》して春を迎えん
   新歳竹枝            新歳《しんさい》 竹枝《ちくし》〕

春鳥無心喚友啼 〔春鳥《しゅんちょう》は無心《むしん》に友を喚びて啼《な》き
蘭舟繋在水祠西  蘭舟《らんしゅう》は繋《つな》がれて水祠《すいし》の西《にし》に在《あ》り
暖波一面花三面  暖波《だんぱ》は一面《いちめん》 花《はな》は三面《さんめん》
真個温柔郷此堤  真個《しんこ》の温柔郷《おんじゅうきょう》なり 此《こ》の堤《つつみ》
   看花七絶            看花《かんか》 七絶《しちぜつ》〕

の如き艶体《えんたい》の詩を誦《しょう》し得るなり。またかつて中国に遊び給ひける時|姑蘇《こそ》城外を過ぎて妓《ぎ》に贈り給ひし作多きが中《なか》に

  麗質嬌姿本絶羣 〔麗質《れいしつ》 嬌姿《きょうし》 本《もと》より羣《ぐん》を絶《ぜっ》す
   蘭房別占四時春  蘭房《らんぼう》は別《わけ》ても占《し》む四時《しじ》の春
  相逢無語翻多恨  相《あ》い逢《あ》いて語《ことば》無《な》く翻《かえ》って多恨《なごりお》し
  桃葉桃根画裏人  桃葉《とうよう》 桃根《とうこん》 画裏《がり》の人《ひと》

  如在 香亭北看 〔沈香亭《じんこうてい》の北《きた》に在《あ》りて看《み》るが如《ごと》く
  妖姿冶態正春闌  妖姿《ようし》 冶態《やたい》 正《まさ》に春《はる》闌《たけなわ》なり
  多情卿是傾城種  多情《たじょう》の卿《きみ》は是《こ》れ傾城《けいじょう》の種《しゅ》
  不信小名呼墨蘭  信ぜず 小名《しょうみょう》に墨蘭《ぼくらん》と呼べるを〕

の如き能《よ》くわが記憶する所なり。現に城南新橋《じょうなんしんきょう》の畔《ほとり》南鍋街《なんこがい》の一|旗亭《きてい》にも銀屏《ぎんぺい》に酔余の筆を残したまへるがあり。
 われ家《いえ》を継ぎいくばくもなくして妓を妻とす。家名を辱《はずか》しむるの罪元より軽《かろ》きにあらざれど、如何にせんこの妓心ざま素直《すなお》にて唯我に事《つか》へて過ちあらんことをのみ憂《うれ》ふるを。何事も宿世《しゅくせ》の因縁なりかし。初手《しょて》は唯かりそめの契《ちぎり》も年《とし》経《へ》ぬれば人にいはれぬ深きわけ重なりてまことの涙さそはるる事も出《い》で来《き》ぬるなり。これらをや迷の夢と悟りし人はいふなるべし。世の誚《そしり》人の蔑《さげすみ》も迷へるものは顧《かえりみ》ず。われは唯この迷ありしがためにいはゆる当世の教育なるもの受けし女学生|上《あが》りの新夫人を迎ふる災厄を免《まぬか》れたり。盃《さかずき》持つ妓女《ぎじょ》が繊手《せんしゅ》は女学生が体操仕込の腕力なければ、朝夕《あさゆう》の掃除に主人が愛玩《あいがん》の什器《じゅうき》を損《そこな》はず、縁先《えんさき》の盆栽も裾袂《すそたもと》に枝|引折《ひきお》らるる虞《おそれ》なかりき。世の中|一度《いちど》に二つよき事はなし。

十一

 親しき友にも八重との婚儀は改めて披露《ひろう》せず。祝儀《しゅうぎ》の心配なぞかけまじとてなり。物堅き親戚一同へはわれら両人《ふたり》が身分を省《かえり》みて無論披露は遠慮致しけり。人のいやがる小説家と世の卑しむ妓女《ぎじょ》との野合《やごう》、事々しく通知致されなば親類の奥様や御嬢様方かへつて御迷惑なるべしと察したればなり。然れども世は情知らぬ人のみにはあらず。我らがこの度《たび》の事目出度しとて物祝ひ賜はる向《むき》も尠《すくな》からざりしかば、八重は口やかましき我が身が世話の手すきを見計《みはか》らひて諸処方々返礼に出歩きけり。秋も忽《たちまち》過ぎ去りぬ。菊の花|萎《しお》るる籬《まがき》には石蕗花《つわぶき》咲き出で落葉《らくよう》の梢に百舌鳥《もず》の声早や珍しからず。裏庭の井《い》のほとりに栗|熟《みの》りて落ち縁先《えんさき》には南天《なんてん》の実、石燈籠《いしどうろう》のかげには梅疑《うめもどき》色づき初《そ》めぬ。
 初冬《はつふゆ》の山の手ほどわが家《や》の庭なつかしく思はるる折はなし。人は樹木《じゅもく》多ければ山の手は夏のさかりにしくはなけんなど思ふべけれど、藪蚊《やぶか》の苦しみなき町中《まちなか》の住居《すまい》こそ夏はかへつて物干台《ものほしだい》の夜凉《よすずみ》縁日《えんにち》のそぞろ歩きなぞ興《きょう》多けれ。簾《すだれ》捲上《まきあ》げし二階の窓に夕栄《ゆうばえ》の鱗雲《うろこぐも》打眺め夕河岸《ゆうがし》の小鰺《こあじ》売行く声聞きつけて俄《にわか》に夕餉《ゆうげ》の仕度|待兼《まちかぬ》る心地するも町中なればこそ。翻《ひるがえ》つて冬となりぬる町の住居を思へば建込む家《いえ》にさらでも短き日脚《ひあし》の更に短く長火鉢置く茶の間は不断の宵闇《よいやみ》なるべきに、山の手の庭は木々の葉落尽すが故に夏よりも明《あかる》く晴々しく、書斎の丸窓も芭蕉《ばしょう》朽ちて穏《おだやか》なる日の光|終日《ひねもす》斜にさすなり。露時雨《つゆしぐれ》夜ごとにしげくなり行くほどに落葉朽ち腐るる植込《うえごみ》のかげよりは絶えず土の香《か》薫《くん》じて、鶺鴒《せきれい》四十雀《しじゅうから》藪鶯《やぶうぐいす》なぞ小鳥の声は春にもまして賑《にぎわ》し。げに山の手は十一月十二月かけての折ほど忘れがたく住心地《すみごこち》よき時はなきぞかし。
 八重諸処への礼歩きもすまして今は家《いえ》にのみあり。障子《しょうじ》は皆新しう張替へられたり。家の柱|縁側《えんがわ》なぞ時代つきて飴色《あめいろ》に黒みて輝《ひか》りたるに障子の紙のいと白く糊《のり》の匂も失せざるほどに新しきは何となくよきものなり。座敷も常よりは明くなりたるやうにて庭樹《にわき》の影小鳥の飛ぶ影の穏かなる夕日に映りたるもまた常よりは鮮《あざやか》なる心地す。夕風裏窓の竹を鳴して日暮るれば、新しき障子の紙に燈火《とうか》の光もまた清く澄みて見ゆ。冬となりてここにまた何よりも嬉しき心地せらるるは桐の火桶《ひおけ》、炉《ろ》、置炬燵《おきごたつ》、枕屏風《まくらびょうぶ》なぞ春より冬にかけて久しく見ざりし家具に再び遇ふ事なり。去年の冬より今年も春なほ寒き折までは毎朝つやぶきん掛けてよく拭き込みたる火鉢、夏の中《うち》仕舞ひ込みたる押入の塵《ちり》に大分|光沢《つや》うせながら然《しか》も見馴れたる昔のままの形して去年ありける同じき処に置据《おきす》ゑられたる宛《さなが》ら旧知の友に逢ふが如し。君もすこやかなりしか。我もまた幸《さいわい》に余生を保ちぬと言葉もかけたき心地なり。寔《まこと》に初冬《はつふゆ》の朝初めて火鉢見るほど、何ともつかず思出多き心地するものはなし。わが友|江戸庵《えどあん》が句に
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冬来るやまたなつかしき古火桶
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 これ聊《いささ》かも巧《たく》む所なくして然もその意を尽したる名吟《めいぎん》ならずや。去歳《こぞ》の冬江戸庵主人|画帖《がじょう》一折《ひとおり》携《たずさ》へ来《きた》られ是非にも何か絵をかき句を題せよとせめ給ひければ我止む事を得ず机の側にありける桐の丸火鉢《まるひばち》を見てその形を写しけるが、俳想乏しくて即興の句出でざる苦しさに、何やら訳もわからぬ文句左の如く書流したる事あり。
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折《おり》かがむ背中もやがて円火鉢《まるひばち》
  かどのとれたる老を待つかな
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 それはさて置き、八重わが家《や》に来りてよりはわが稚《おさな》き時より見覚えたるさまざまの手道具《てどうぐ》皆手入よく綺麗にふき清められて、昨日まではとかく家を外《そと》なる楽しみのみ追ひ究めんとしける放蕩の児《じ》も此《ここ》に漸く家居《かきょ》の楽《たのしみ》を知り父なき後《のち》の家を守る身となりしこそうれしけれ。

十二

 おほよその人は詩を賦《ふ》し絵をかく事をのみ芸術なりとす。われも今まではかく思ひゐたり。わが芸術を愛する心は小説を作り劇を評し声楽を聴くことを以て足れりとなしき。然れども人間の欲情もと極《きわま》る処なし。我は遂に棲《す》むべき家《いえ》着るべき衣服|食《くら》ふべき料理までをも芸術の中《うち》に数へずば止まざらんとす。進んで我《わが》生涯をも一個の製作品として取扱はん事を欲す。然らざればわが心遂にまことの満足を感ずる事|能《あた》はざるに至れり。我が生涯を芸術品として見んとする時妻はその最も大切なる製作の一要件なるべし。
 人はかかる言草《いいぐさ》を耳にせば直《ただち》に栄耀《えいよう》の餅の皮といひ捨《す》つべし。されど芸術を味ひ楽しむ心はもと貧富の別に関せず。深刻の情致《じょうち》は何事によらずかへつて富者の知らざる処なり。わが衣食住とわが生涯を以て活《い》きたる詩活きたる芸術の作品となすに何の費《ついえ》をか要せん。裏路地《うらろじ》の佗住居《わびずまい》も自《みずか》ら安《やすん》ずる処あらばまた全く画興詩情なしといふべからず、金殿玉楼も心なくんば春花秋月なほ瓦礫《がれき》に均《ひと》しかるべし。
 わが家《いえ》山の手のはづれにあり。三月|春泥《しゅんでい》容易に乾かず。五月早くも蚊に襲はる。市《いち》ヶ|谷《や》の喇叭《らっぱ》は入相《いりあい》の鐘の余韻を乱し往来の軍馬は門前の草を食《は》み塀を蹴破る。昔は貧乏|御家人《ごけにん》の跋扈《ばっこ》せし処今は田舎《いなか》紳士の奥様でこでこ丸髷《まるまげ》を聳《そびや》かすの地《ち》、元より何の風情《ふぜい》あらんや。然れどもわが書庫に蜀山人《しょくさんじん》が文集あり『山手《やまのて》閑居《かんきょ》の記《き》』はよくわれを慰む。わが庭広からず然れども屋後《おくご》なほ数歩の菜圃《さいほ》を余《あま》さしむ。款冬《ふき》、芹《せり》、蓼《たで》、葱《ねぎ》、苺《いちご》、薑荷《しょうが》、独活《うど》、芋、百合、紫蘇《しそ》、山椒《さんしょ》、枸杞《くこ》の類《たぐい》時に従つて皆|厨房《ちゅうぼう》の料《りょう》となすに足る。八重|日々《にちにち》菜園に出で繊手《せんしゅ》よくこれを摘《つ》み調味してわが日頃好みて集めたる器《うつわ》に盛りぬ。
 つらつら按《おも》ふに我国の料理ほど野菜に富めるはなかるべし。西洋にては巴里《パリー》に赴きて初めて菜蔬《さいそ》の味《あじわい》称美すべきものに遇《あ》ふといへどもその種類なほ我国の多きに比すべくもあらず。支那には果実の珍しきもの多けれど菜蔬に至つては白菜《はくさい》菱角《りょうかく》藕子《ぐうし》嫩筍《どんじゅん》等の外《ほか》われまた多くその他を知らず、菜蔬と魚介《ぎょかい》の味《あじわい》美なるもの多きはこれ日本料理の特色ならずとせんや。
 食器の清洒《せいしゃ》風雅なるまた大《おおい》に誇るに足るべし。西洋支那の食器金銀珠玉を以てこれを製するあり、その質堅牢にしてその形の壮麗なる元より我国の及ぶ処ならず。洋人銀の肉叉《にくさ》を用ひ漢人|翡翠《ひすい》の箸《はし》を把《と》る。しかして我俗《わがぞく》杉の丸箸を以て最上の礼式とす。万事皆かくの如し。また思ふに西洋支那の食卓共に華麗荘厳の趣あれども四時《しじ》を通じてその模様大抵同じきが如く、その料理とこれを盛る食器との調和対照に意を用ゆる事我国の如く甚しからざるに似たり。我国の膳部《ぜんぶ》におけるや食器の質とその色彩|紋様《もんよう》の如何《いかん》によりてその趣全く変化す。夏には夏冬には冬らしき盃盤《はいばん》を要す。誰《たれ》か鮪《まぐろ》の刺身を赤き九谷《くたに》の皿に盛り新漬《しんづけ》の香物《こうのもの》を蒔絵《まきえ》の椀に盛るものあらんや。日本料理は器物の選択を最も緊要となす。ここにおいてその法全く特殊の芸術たり。盃盤の選択は酒楼にあつては直《ただち》に主人が風懐《ふうかい》の如何《いかん》を窺《うかが》はしめ一家にあつては主婦が心掛の如何を推知せしむ。八重多年|教坊《きょうぼう》にあり都下の酒楼旗亭にして知らざるものなし。加《くわう》るに骨董《こっとう》の鑑識浅しとせず。わが晩餐の膳をして常に詩趣俳味に富ましめたる敢て喋々《ちょうちょう》の弁を要せず。いつも痒いところに手が届きけり。されば八重去つてよりわれ復《また》肴饌《こうせん》のことを云々《うんぬん》せず。机上の花瓶《かへい》永《とこしな》へにまた花なし。

十三

 八重何が故に我家《わがや》を去れるや。われまた何が故にその後を追はざりしや。『矢筈草』の一篇もとこの事を書綴りて愛読者諸君のお慰みにせんと欲せしなり。新聞紙三面の記事は世人《せじん》の喜ぶ所なり。実録とさへ銘打《めいう》てば下手な小説もよく売れるなり。作者くだらぬ長談義にのみ耽りて容易に本題に入らざる所以《ゆえん》のものそれ果して何ぞ。

十四

 目出度き甲寅《きのえとら》の年は暮れて新しき年もいつか鶯の初音《はつね》待つ頃とはなりけり。一日《いちにち》われ芝辺《しばへん》に所用あつて朝早くより家《いえ》を出で帰途築地の庭後庵《ていごあん》をおとづれしにいつもながら四方山《よもやま》の話にそのまま夜《よ》をふかし車を頂戴して帰りけり。門《かど》の戸あく音に主人の帰りを待つ飼犬の裾《すそ》にまつはる事のみ常に変らざりしが家《いえ》の内|何《なに》となく寂然《せきぜん》として、召使ふ子女《こおんな》一人《いちにん》のみ残りて八重は既に家にはあらざりき。八畳の茶の間に燈火《とうか》煌々《こうこう》と輝きて、二人が日頃食卓に用ひし紫檀《したん》の大きなる唐机《とうづくえ》の上に、箪笥《たんす》の鍵を添へて一通の手紙置きてあり。初め小婢《しょうひ》のわが帰るを見るや御新造《ごしんぞ》様は御風呂めして九時頃お出掛になりやがて何処《いずこ》よりとも知らず電話にて今夜はおそくなる故帰らぬ由《よし》申越されぬと告げけるが、その折にはわれさまでは驚かず、大方新橋あたりの妓家《ぎか》ならずば藤間《ふじま》が弟子のもとに遊べるならんと思ひしに、唐机の上の封書開くに及び初めて事の容易ならぬを知りけり。

十五

『矢筈草』いよいよこれより本題に入《い》らざるべからざる所となりぬ。然るに作者|俄《にわか》に惑《まど》うて思案|投首《なげくび》煙管《キセル》銜《くわ》へて腕こまねくのみ。
 その年の桜咲く頃八重は五年振りにて再び舞扇《まいおうぎ》取つて立つ身とはなれるなり。好奇の粋客《すいきゃく》もしわが『矢筈草』の後篇を知らんことを望み玉はば喜楽《きらく》可《か》なり香雪軒《こうせつけん》可なり緑屋《みどりや》またあしからざるべし随処の旗亭《きてい》に八重を聘《へい》して親しく問ひ玉へかし。八重唯舞ふ事を能《よ》くするのみにあらず哥沢節《うたざわぶし》は既に名取《なとり》なり近頃また河東《かとう》を修むと聞く。彼女もし問ふものに向つてあらはに事の仔細を語る事を欲せずとせんか、代るに低唱微吟《ていしょうびぎん》以てその所思《しょし》を託せしむべき歌曲に乏しからざるべし。凡そ人その思ふ所を伝へんとするや必ずしも田舎議員の如く怒号する事を要せざるべし。何ぞまた新しき女に傚《なら》つてやたらに告白しむやみに懺悔《ざんげ》するに及ばんや。われ近頃人より小唄《こうた》なるものを教へらる。
 ※[#歌記号、1-3-28]三ツの車に法《のり》の道ソウラ出た……悋気《りんき》と金貸《かねかし》や罪なもの
また以てわが一時《いちじ》の情懐を託するに足りき。

十六

 昨日《きのう》となれば何事もただなつかし。何ぞ事の是非を究《きわ》めて彼我《ひが》の過《あやまち》を明《あきらか》にするの要あらんや。青春まことに一夢《いちむ》。老の寝覚《ねざ》めに思出の種一つにても多からんこそせめての慰めなるべけれ。活《い》きがひありしといふべけれ。石橋《いしばし》をたたいて五十年無事に世を渡り得しものは誠に結構と申すの外なし。一度《ひとたび》足踏みすべらせて橋下《きょうか》の激流に陥《おちい》れば渾身《こんしん》の力尽して泳がんのみ。彼岸《ひがん》に達せんとすれども流《ながれ》急なれば速《すみやか》に横断すべくもあらず。あるひは流に従つて漂ひあるひは巌角《がんかく》に攀《よ》ぢて憩《いこ》ひ、徐《おもむろ》にその道を求めざるべからず。ここにおいてか無事石橋を歩むものの知らざる処を知る。話の種多く持つ身とはなるなり。

十七

 芸者その朋輩《ほうばい》の丸髷《まるまげ》結《ゆ》ふを見ればわたしもどうぞ一度はと茶断《ちゃだち》塩断《しおだち》神かけて念ずるが多し。芸者も女なり。いやな旦那をつとめて好きな役者狂ひの口直《くちなお》しにも少し飽きが来れば、定《さだ》まる男|一人《ひとり》にかしづいて見たい殊勝の願ひを起す。これ波瀾より平坦に入《い》るものけだし自然の人情なるべし、決して咎《とが》むべきにあらず。さればそんじよそこらの姐《ねえ》さんたちそれぞれよい客見付けて足を洗ひ、中には鳥子餅《とりのこもち》くばるもあれど、その噂朋輩の口よりまだ消えもやらぬに、早くもああくさくさしちまつたよと、泣いたり笑つたりした揚句の果は復《また》旧《もと》の古巣に還るもの甚《はなはだ》頻々《ひんぴん》。去就出没常ならず。さればお上《かみ》にては一度《ひとたび》芸者の鑑札返上致せしものには半歳《はんとし》を経ざれば再びこれを下《さ》げ渡さざるの制を設くといふ。けだし役人衆の繁忙を防がんがためなるべし。
 そんな事はどうでもよいとして、芸者何が故にかくは出たり引込んだり致すぞや。通人いふ。一度《いちど》商売したものは辛抱の置き処が違ふ故当人いかほど殊勝の覚悟ありても素人《しろうと》のやうには行《ゆ》かぬなり。これを巧《たく》みに使つて身を落ちつかせてやるは亭主となつた男の思遣《おもいや》り一ツによる事なり。年増盛《としまざかり》を過ぎて一度商売を止《や》めた女、また二度出るは気の毒なものと察してやるが訳知つた人の情《なさけ》なり。男の顔に泥塗るやうな事さへせぬかぎり大抵のことは大目に見てやるがよし。漢学者のやうに子《し》曰《のたまわ》くで何か事あれば直ぐに七去《しちきょ》の教《おしえ》楯《たて》に取るやうな野暮な心ならば初めから芸者引かせて女房にするなぞは大きな間違ならんと。
 駁《ばく》するものは言ふ。芸者したものは酸《す》いも甘《あま》いも知つてゐるはずなり。栄耀栄華《えいようえいが》の味を知つたもの故芝居も着物もさして珍らしくは思はぬはずなり。何があつても素人のやうには立騒がずともすむ咄《はなし》なり。万事さばけて呑込み早かるべきはずなり。亭主の癇癪《かんしゃく》も巧《たくみ》にそらして気嫌を直さすべきはずなり。素人では気のつかぬ処に気がつく故にそれ者《しゃ》はそれ者たる値打があるなり。もしそれ持参金つきの箱入娘貰つたやうに万事遠慮我慢して連添《つれそ》ふ位ならば何も世間親類に後指《うしろゆび》さされてまでそれ者《しゃ》を家《うち》に入るるの要あらんや。
 いやに済《す》ました人おつに咳払《せきばら》ひして進み出でて曰く両君の宣《のたま》ふ所|各《おのおの》理あり。皆その人とその場合とに因つてこれを施して可なるべし。素人も芸者も元これ女なり。生れて女となる。女の身を全うするの道古来唯従ふの一語のみ。従はざれば今の処日本にては女の身は立ちがたし。芸者気随気儘勝手次第にその日を送り得るやうに見ゆれどもさにあらず。元これ愛嬌商売なれば第一に世間に従つて行かねばならぬなり。お客に従はねばならぬなり。出先《でさき》の茶屋の女中に従はねばならぬなり。足を洗つて素人となる。則《すなわち》旦那に従はねばならぬなり。その家《いえ》に従はねばならぬなり。同じく皆従ふなり。一人《ひとり》に従ふと諸人《しょにん》に従ふとの相違のみ。そのいづれかを選ぶべきやはこれその人の任意なり。素人となれば素人の苦楽共にあり商売に出れば商売の苦楽また共に生ず。無事平坦を望まば素人たるべし。変化を欲せば芸者たるべし。これまたその人とその場合によつて論ずべきなり。孔明《こうめい》兵を祁山《きざん》に出《いだ》す事|七度《ななたび》なり。匹婦《ひっぷ》の七現七退《しちげんしちたい》何ぞ改めて怪しむに及ばんや。唯その身の事よりして人に累《るい》を及《およぼ》しために後生《ごしょう》の障《さわり》となる事なくんばよし。皆時の運なり。素人とならばその日その日の金銭|出入帳《でいりちょう》書く事怠らぬがよし。商売に出でなば勤めべき処よく勤むべし。朝起きた時奥歯に物のはさまつたやうな心持する事なくその日その日を送り得ば妓《ぎ》となるも妻となるも何ぞ選ばん。あれも一生これも一生ぞかし。いづれにしても柔和は女徳《にょとく》の第一なり。加ふるに悋気《りんき》を慎《つつし》まば妓となるとも人に愛され立てられて身を全うし得べし。いはんや正路《せいろ》の妻となるにおいてをや。
 おつにすました人|弁出《べんじいだ》して尽くる所を知らず。これでは作者よりも皆様が御迷惑とここに横槍を入れ                                                           大正五丙辰暮春稿

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
※「漢詩文の訓読は蜂屋邦夫氏を煩わした。」旨の記載が、底本の編集付記にあります。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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