盗まれた手紙 THE PURLOINED LETTER エドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe——-佐々木直次郎訳

Nil 〔sapientiae&〕 odiosius acumine nimio.
(叡智にとりてあまりに鋭敏すぎるほど忌むべきはなし)


セネカ(1)

 パリで、一八――年の秋のある風の吹きすさぶ晩、暗くなって間もなく、私は友人C・オーギュスト・デュパンと一緒に、郭外《フォーブール》サン・ジェルマンのデュノー街三十三番地四階にある彼の小さな裏向きの図書室、つまり書斎で、黙想と海泡石《かいほうせき》のパイプとの二重の快楽にふけっていた。少なくとも一時間というものは、我々は深い沈黙をつづけていた。そして誰かがひょっと見たら、二人とも、部屋じゅうに濛々《もうもう》と立ちこめた煙草のけむりがくるくると渦巻くのに、すっかり心を奪われているように見えたかもしれない。しかし、私自身は、その晩の早いころ我々の話題になっていたある題目のことを、心のなかで考えていたのだった。というのは、あのモルグ街の事件と、マリー・ロジェエ殺しの怪事件のことなのである。だから、部屋の扉が開いて、我々の古馴染《ふるなじみ》のパリの警視総監G――氏(2)が入ってきたとき、私にはそれがなにか暗合のように思われたのであった。
 我々は心から彼を歓迎した。この男には軽蔑《けいべつ》したいところもあるが面白いところもあったし、それに我々はここ数年間、彼に会わなかったからである。二人はそれまで暗いところに坐っていたので、デュパンはすぐランプをつけようとして立ち上がったが、G――がある非常に困っている公務について、我々に相談に、というよりも私の友の意見をききに来たのだというと、デュパンはそのままふたたび腰を下ろした。
「もしなにかよく考える必要のあることなら、暗闇のなかで考えたほうがいいでしょう」と彼は灯心に火をつけるのをよして、言った。
「また君の奇妙な考えですな」と総監が言った。彼は自分のわからないことはなんでもみんな『奇妙な』という癖なので、まったく『奇妙なこと』だらけの真ん中に生きているのだった。
「いかにも、そのとおり」とデュパンは言って、客に煙草をすすめ、坐り心地のよい椅子を彼の方へ押しやった。
「ところで今度の面倒なことというのはなんですか?」と私が尋ねた。「殺人事件なんぞはもうご免こうむりたいものですな」
「いやいや、そんなものじゃないんだ。実は、事がらはいたって[#「いたって」に傍点]単純なので、我々だけで十分うまくやってゆけるとは思うんだが、でもデュパン君がきっとその詳しいことを聞きたがるだろうと思ったんでね。なにしろとても奇妙[#「奇妙」に傍点]なことなんだから」
「単純で奇妙、か」とデュパンが言った。
「うむ、さよう。で、またどちらとも、そのとおりでもないので。実は、事件は実に単純なんだ[#「なんだ」に傍点]が、しかも我々をまったく迷わせるので、ひどく参っている始末なんだ」
「じゃ、たぶん、事がらがあまり単純なので、それがかえって、あなた方を当惑させているんだな」と友が言った。
「ばかを言っちゃいかん!」と、総監は心から笑いながら答えた。
「きっと、その謎《なぞ》はちと、はっきりしすぎるかな」と、デュパンが言った。
「おやおや! そんな考えってあるもんかね?」
「少々わかりきっていすぎる[#「すぎる」に傍点]んだよ」
「は、は、は! ――は、は、は! ――ほ、ほ、ほ!」と客はたいそう面白がって大笑いした。「おお、デュパン君、こう笑わされちゃ助からんよ!」
「ところで、いったいどんな事件が起っているんですか[#「ですか」に傍点]?」と私が尋ねた。
「じゃあ、お話ししようか」と総監は、煙草のけむりを長く、しっかりと、考えこむように吹かし、自分の椅子に坐りこんで、答えた。「手短かに話しましょう。だがその前にご注意願いたいのは、これは絶対秘密を要する事件で、もし僕が他人に洩らしたことが知れたら、僕はおそらくいまの地位を失わねばならん、ということです」
「まあ、お始めなさい」と私が言った。
「なんなら、およしになっても」とデュパンが言った。
「では、話しましょう。ある高貴の筋から内々で僕に通知があって、宮廷から、絶対に重要なある書類が盗まれたというのです。盗んだ当人はちゃんとわかっているんだ。それには疑いはない。取るところを見られているんだからね。また、その男がまだそれを持っていることもわかっているのです」
「それが、どうしてわかっているんです?」とデュパンが尋ねた。
「それは、その書類の性質からと、また、それが盗んだ人間の手を離れる[#「離れる」に傍点]とすぐ現われるはずのある結果がまだ現われないことから、はっきり考えられるのです。――つまり、彼が最後にそれを使うはずの、その使い方から起きる結果が現われていないんでね」と総監が答えた。
「もう少しはっきり願いたい」と私が言った。
「よろしい。じゃあ思いきって言うが、その文書はそれを持っている者に、ある方面である種の勢力を与えるのだ。そこではそういう勢力は莫大な価値があるのです」総監は外交用語を使うのが好きだった。
「まだ私にはすっかりわからんが」とデュパンが言った。
「わからない? よろしい。その書類を、名は言えないがある第三者にあばくと、ある非常に高い地位の方の名誉にかかわるのですな。そしてこの事実は、書類の所持者にその高貴な方に対して権力を揮《ふる》わせ、その方の名誉と平和とが危うくされているのです」
「しかしその権力なるものは」と私は語をはさんだ。「盗まれた人が盗んだ人を知っているということを、その盗んだ当人が知ってのことでしょう。誰がそんなひどいことを――」
「ところが盗んだ人というのは」と、G――は言った。「男らしいことであろうとなかろうと、どんなことでも平気でやるあのD――大臣ですよ。その盗み方は、大胆であるとともに巧妙でもあったのです。その書類は――うち明けて申せば、手紙なんですが――その盗まれたお方が、王宮の奥の間にお一人でいらしたときにお受け取りになられたものです。そのご婦人がそれを読んでおいでになるときに、もう一人の高貴な方がふいに入って来られた。ところが、そのご婦人は、その手紙をとりわけその方には見せたくないと思っておられたものなんですな。で、急いでそれを引出しのなかへ押しこもうとされたが駄目だったので、仕方なしに開いたままテーブルの上にお置きになりました。でも、宛名がいちばん上になっていて、したがって内容のところが隠れていたので、手紙はべつに注意されずにすんだというわけでした。このときにD――大臣が入って来たのです。彼の山猫のような眼はすぐその手紙を見つけ、宛名の筆蹟《ひっせき》を認め、それから受取人の方《かた》の狼狽しておられるのを見てとり、その方の秘密を知ってしまったのですな。いつものように用向きを手早くすませると、彼は例の手紙といくらか似ている一通の手紙を取り出して、それを開き、ちょっと読むようなふりをして、それからその問題の手紙とぴったり並べて置きました。そしてまた、十五分ばかり公務について話をする。さて退出するときに、彼はテーブルから自分のものでない手紙を失敬して行ったのですよ。その手紙のほんとうの所有者はそれを見ておられたけれども、その第三者の方がすぐ側に立っておられるところで、もちろん、その行為をとがめるわけにもゆかなかったんですね。大臣は、自分の手紙を――大事でもなんでもないのを――テーブルの上に残して、さっさと引き上げたんです」
「なるほど、そこで」とデュパンが私の方を向いて言った。「君の言っているその権力なるものが完全に揮われるわけがちゃんとわかったことになるんだね。――盗まれた人が盗んだ人を知っているということを、盗んだ当人が知っている、ということが」
「そうなんだ」と総監が答えた。「それで、こうしてにぎられた勢力は、この数カ月の間、政治上の目的に、はなはだ危険な程度にまで利用されてきているんでね。盗まれた方はご自分の手紙を取りもどす必要を、日ごとに痛切に感じておられる。だが、これはむろん大っぴらにやるわけにはゆかない。とうとう思いあまって、事をわたしにおまかせになったのです」
「なるほど、あなた以上に賢明なやり手は望めないし、想像もされないですからな」とデュパンは濛々とけむりの渦巻くなかで言った。
「お世辞を言っちゃいけませんよ。しかし、まあ、そんなようなことかもしれないな」と総監は答えた。
「あなたのおっしゃるとおり」と私が言った。「その手紙がまだ大臣の手にあることは明らかですね。権力を与えるのは、手紙をなにかに使うことではなくて、それを持っていることなんだから。使ってしまえば権力はなくなるわけだ」
「そのとおり」とG――は言った。「で、その確信のもとに、私は捜査をすすめたのです。まず第一になすべきことは、大臣の邸をすっかり捜索することでした。そして、そこでわたしのいちばん困ったのは、彼に知られないで捜索しなければならんということでしたよ。なによりも、我々の計画を彼に疑われるようになると、危険が生ずるかもしれないということを、わたしは警告されたんですから」
「ですが」と私は言った。「そのような調査は、あなた方にはまったくお手のものでしょう。パリの警察はいままでにそんなことは何度もやったことがあるんだから」
「そうですとも。だからわたしは失望しなかったんです。それに、大臣の習慣もわたしには非常に好都合でした。彼はよく一晩じゅう家をあけるのです。召使もたくさん使っていない。彼らは主人の部屋から離れたところに寝ているし、主にナポリ人だから、造作なく酔わせてしまえるのです。ご承知のとおり、わたしはパリじゅうのどんな部屋だろうが戸棚だろうがあけられる鍵《かぎ》を持っている。この三カ月というものは、一晩だってその大部分をわたしが自身でD――の邸をくまなく捜さずに過したことはありません。わたしの名誉にかかわることだし、それにほんとうのことを言ってしまえば、報酬はすばらしいんですよ。だからわたしは捜索をやめずにつづけていたのですが、とうとう、盗んだ男はわたしよりももっとはしっこい人間だということが十分にわかって、やめてしまいました。あの書類を隠すことのできそうな屋敷じゅうのどんなすみずみまでも調べたつもりなんですがねえ」
「しかしですね」と、私は提言した。「その手紙がたしかに大臣の手にあるとしても、彼がそれを自分の屋敷以外のどこかに隠しているかもしれん、ということはありえないでしょうか?」
「そいつはまずほとんどありえないことだね」とデュパンが言った。「宮廷での現在の特殊の事情と、とりわけ、D――の関係しているという評判のあの陰謀問題とから、その書類をすぐ間に合わせることが、それを即座に取り出せることが――それを持っていることとほとんど同じくらい重要なことなんだからな」
「それを取り出せることと言うと?」と私は言った。
「つまり、やぶいて[#「やぶいて」に傍点]しまえることさ」と、デュパンが言った。
「なるほど」と私は言った。「じゃあ、その書類は明らかに屋敷内にあるわけだ。大臣がそれを体につけているなんてことについては、問題にしなくてもいいんでしょうな」
「ぜんぜんないね」と総監は言った。「追剥《おいはぎ》の仕業のように見せて二度も彼を待ち伏せして、僕自身の監視のもとに厳重に体を捜させたんだから」
「そんな厄介なことはしなくたってよかったろうにね」とデュパンが言った。「D――だってまんざら馬鹿でもないだろうと思う。とすれば、そんな待ち伏せされることなんぞは当然のこととして、予期していたにちがいないでしょうよ」
「まんざら[#「まんざら」に傍点]馬鹿ではね」とG――は言った。「だが、あの男は詩人ですぜ。詩人なんてものは馬鹿とほんの一隔てだとわたしは思っていますよ」
「いかにも」デュパンは海泡石のパイプからゆったりと、考えこんででもいるように、煙草のけむりを吹き出してから、言った。「もっとも僕だってへぼ詩を作ったことがあるんだが」
「あなたの捜索のことをすっかり詳しくお話しになってはどうでしょう」と私が言った。
「おお、そうですな。いや、もう、我々は時間をかけてゆっくり、どこもここもみんな[#「どこもここもみんな」に傍点]捜した、というわけなんです。こういった仕事には僕は永年の経験があるんで。僕は建物全体を一部屋ごとにかかり、一部屋に満一週間の夜を費やしました。初めに各室の家具を調べたのです。ありとあらゆる引出しをあけてみました。ご承知のことと思うが、相当に熟練した警察官にとっては、秘密の[#「秘密の」に傍点]引出しなどというようなものはありえないのです。こういう捜索にあたって『秘密の』引出しがその眼につかないと思う者がいるなら、そりゃあ阿呆ですよ。それほど[#「それほど」に傍点]やさしいことなんです。どんな戸棚でもみんな、測られる容積の――空間の――ある一定の量がある。ところで我々は正確な物差を持っている。一ライン(3)の五十分の一だって見おとすはずはない。戸棚のつぎには椅子を調べました。クッションは、僕が使っているのをご覧になったことのある、あの細い、長い針で探ってみました。テーブルからは上板を取りのけてみました。
「なぜそんなことを?」
「テーブルや、それに似たような作りの家具の上板は、ときどき、物を隠そうとする人が取りのけることがあるのです。そうして脚に穴をあけ、品物をそのなかへ入れて、上板をもとのとおりにしておくんですよ。寝台の柱の底や頭も同じぐあいに使われます」
「しかし、そんな穴は叩いてみたら音でわかりはしませんかね?」と私は尋ねた。
「品物を入れるときに、そのまわりに綿を十分につめれば、決してわからない。そのうえに、我々の場合では、なにしろ音をたてずにやらにゃならなかったんだから」
「しかし、あなただって、物の入れられそうな家具をどれもこれもみんな[#「どれもこれもみんな」に傍点]取りはずすことはできなかったでしょう、――ばらばらにすることはできなかったでしょう。手紙の一通くらいなら、細くぐるぐる巻けば、大きな編物針と形も大きさも大して違わないものに巻き縮められる。そんなふうにすれば、たとえば椅子の桟のなかへでも差しこむことができるかもしれん。あなたは椅子を一つ残らずばらばらにしやしなかったでしょう?」
「そりゃあしませんでしたがね。だが我々はもっとうまくやりましたよ、――邸じゅうのあらゆる椅子の桟、それから実際あらゆる種類の家具の接目《つぎめ》を、非常に強度の拡大鏡を使って調べたんです。近ごろ手をつけたような跡が少しでもあれば、すぐに我々の眼につかないはずはない。たとえば、錐《きり》くずの一粒でも、林檎《りんご》みたいにはっきりしたでしょうよ。膠《にかわ》づけが少しでも変だったり――接目が少しでも普通以上に開いていたり――すれば、それだけで十分に見破られたでしょう」
「鏡はご注意なすったでしょうね、板とガラスとのあいだを。また寝台や寝具はお探りになったでしょうね。それからカーテンや絨毯《じゅうたん》も」
「それはもちろん。そんなふうにして家具を一つ残らずすっかりやってしまうと、今度は家の全面を区画して、一つでも見おとしをしないように、それに番号をつけました。それから屋敷じゅうを各平方インチごとに、そのすぐ隣の二軒も含めて、前のように、拡大鏡で精密に調べたのです」
「隣の二軒の家も!」と私は叫んだ。「そりゃあさぞたいへんなお骨折りだったでしょうなあ」
「そうでしたよ。でもなにしろ報酬が莫大なんでね」
「家の周囲の地面[#「地面」に傍点]も含めておやりになったんですね?」
「地面にはすっかり煉瓦《れんが》が敷いてあるんでね、それほど骨を折らずにすみましたよ。煉瓦のあいだの苔《こけ》を調べたんだが、動かされていないことがわかったのです」
「むろんD――の書類のあいだや、図書室の書物のなかもご覧になりましたね?」
「いや、見ましたとも。荷物や包みはかたっぱしからあけてみました。書物はみんな、ある警察官たちのやるように、ただ振ってみるだけでは満足できなかったのでね、あけてみるばかりでなく、一冊ごとに一枚一枚めくってみました。また本の表紙[#「表紙」に傍点]もみんな非常に正確に厚さを測り、一つ一つ拡大鏡でうんと注意ぶかく調べました。最近に装釘《そうてい》に手をつけたものがあれば、眼にとまらないなんてことは絶対になかったはずです。製本屋から来たばかりの五、六冊の本は、針で念入りに探ってみました」
「絨毯の下の床はお調べになりましたね?」
「たしかに。絨毯はみんな剥《は》いで、床板を拡大鏡で調べました」
「それから壁紙も?」
「ええ」
「穴蔵も見ましたね?」
「見ました」
「それじゃあ」と私は言った。「あなたは見込み違いをしていらしたのでしょう。手紙はあなたが想像なさるように屋敷のなかにはない[#「ない」に傍点]んですよ」
「僕もそうじゃなかろうかと思う」と総監が言った。「で、デュパン君、どうしたらいいでしょうね?」
「屋敷をもう一度完全に捜すんですな」
「それはぜんぜん不要だ」とG――が答えた。「手紙が邸のなかにないことは、僕が生きているのと同じくらい確かですよ」
「だが、僕にはそれ以上の助言はできないのです」とデュパンは言った。「あなたは、もちろん、その手紙の正確な説明書を持っているでしょうね?」
「ええ、もちろんですとも!」――そう言うと、総監は手帳を取り出して、紛失した書類のなかの様子と、ことに外観を詳しく書いたものを、大きな声で読みはじめた。その説明書を読みおわってしまうと間もなく、彼は帰って行ったが、私はいままで、この善良な紳士がこれほどすっかり意気|銷沈《しょうちん》しているのを見たことがなかった。
 その後一月ほどたってから、彼はまた我々を訪ねてきたが、そのときも我々二人は前とほとんど同じようなことをしていた。彼はパイプを取り、椅子に腰を下ろし、なにか普通の話を始めた。とうとう、私は言いだした。――
「ところで、G――さん、例の盗まれた手紙はどうなりました? あの大臣を出し抜くなんてことはとてもできないと、とうとう諦《あきら》めたようですな?」
「あの畜生、いまいましい奴だ、――そうですよ。デュパン君が言ってくれたとおりに、僕はもう一度調べてみました、――が、やっぱり思ったとおり、まったく無駄骨を折ったばかりだったよ」
「報酬はどれだけだと言いましたかね?」とデュパンが尋ねた。
「うむ、大したものだ、非常に[#「非常に」に傍点]たくさんな報酬だ、はっきりいくらとは言いたくないのだが、誰でもあの手紙を僕に渡してくれる人には、僕の小切手で五万フランあげてもかまわない、ということだけは言っておきましょう。実は、あれは日ごとに重要になってきているので、報酬が最近二倍にされたんです。だが、たとえ三倍にされたところで、僕はいままでしたことより以上にはなにもできまい」
「ふむ、なるほど」デュパンは海泡石のパイプを吹かす合間に、ゆっくりと言った。「僕は思うんだがね――G――、あなたはこの事件に対してまだできるだけ――骨を折ってはいないようですな。あなたはもうちっと――やれたと僕は思うんだがな、え?」
「どうして? ――どんなふうに?」
「なあにね、――パッ、パッ――あなたは――パッ、パッ――この事件について人の意見を用いたらよかったろうにね、え? パッ、パッ、パッ。――あなたはアバニシー(4)の話を覚えていますか?」
「いいや。アバニシーなんぞくたばってしまえだ!」
「ごもっとも! くたばってしまえでけっこう。だがね、あるとき、ある金持の吝嗇家《けちんぼ》が、そのアバニシーに医療上の意見をただで聞こうという工夫をしたんです。そこで、どこかで会ったとき世間話を始めて、もしもこういう患者がいたなら、というふうにして、自分の病症をその医者に話したのですな。
『その男の症候はこうこうだということにいたしますと、さて、先生、あなた[#「あなた」に傍点]ならその男になにを用いろとおっしゃいますか?』とその吝嗇家がきいたんですね。
『さよう、無論、医者の助言[#「助言」に傍点]を用いるんですな!』とアバニシーは言ったそうですよ」
「だが」と総監は少しむっとして言った。「僕[#「僕」に傍点]は完全に[#「完全に」に傍点]喜んで助言を用いますし、そのお礼も払いますよ。この事件でわたしを助けてくれる人があれば誰にでも五万フランをほんとう[#「ほんとう」に傍点]にあげるつもりなんです」
「それなら」とデュパンは引出しをあけて小切手帳を取り出しながら答えた。「それだけの額の小切手を僕に書いて下すってもいいでしょう。それに署名したら、あの手紙を渡しましょう」
 私はびっくりした。総監はまったく雷に打たれたようだった。彼はちょっとのあいだ、ものも言わず、身動きもせず、口をぽかんとあけ、眼の玉がとび出るようにして、信じられないというふうに私の友を眺めていた。それから、どうやら我に返ったらしく、ペンをつかんで、なんども止めたりぼんやり眺めたりしたのち、やっと五万フランの小切手を書いて署名し、テーブル越しにデュパンに渡した。デュパンはそれを念入りに調べて紙入れにしまい、それから写字台《エスクリトワール》の引出しの錠をあけ、そこから一通の手紙を出して、総監にやった。総監は狂気せんばかりにそれをしっかりつかみ、震える手で開いて、その内容を大急ぎでちらりと見、それから扉の方へよろめきよると、とうとう無作法にも、さっきデュパンが小切手を書いてくれと言ったときからひと言も口をきかずに、部屋から、そして家から跳び出して行ったのであった。
 彼が行ってしまうと、デュパンは説明をしはじめた。
「パリの警察はね」と彼が言った。「その道ではなかなかの手腕があるんだよ。彼らは根気がいいし、工夫力もあるし、狡猾《こうかつ》でもあるし、職務上主として必要なように見える知識には十分によく通じてもいる。だから、G――がD――邸の家宅捜索をした方法を我々に詳しく話してくれたとき、僕は、彼の労力の及ぶところまでは――彼が申し分のない調査をしたということを、完全に信じたんだ」
「彼の労力の及ぶところまではだって?」と私は言った。
「そうさ」とデュパンが言った。「執られた手段は、その種の最上のものであったばかりではなく、完全無欠なところまで実行されたのさ。手紙が彼らの捜索範囲内に置いてあったなら、あの連中はきっと見つけたろう」
 私はただ笑った、――が彼はまったく真面目で言っているようであった。
「そんなわけで」と彼はつづけて言った。「手段はその種のものでは上等だったし、りっぱに実行もされた。ただ欠点というのは、その事件とそれから相手とに当てはまっていないということだったんだよ。総監は非常に巧妙な方法というのはプロクルステス(5)の寝台のようなものだと思って、自分の計画を無理にそれに適合させようとするんだね。彼はいつも、自分の手にしている事件に対してあまり深謀すぎたり浅慮すぎたりしてしくじるのだ。小学校の子供だって彼よりももっとうまく推理するのがたくさんいる。僕は八歳ばかりの子供を知っていたが、この子は『丁か半か』という勝負で言い当てるのがうまくて、みんなに褒められていた。この勝負は簡単なもので、弾石《はじきいし》でやるのだ。一人がこの石を手にいくつか持っていて、相手にその数が丁か半かときく。もし当てたら、当てたほうが一つ取るし、違ったら、一つ取られるのだ。いま言ったその子供は学校じゅうの弾石をみんな取ってしまったものだよ。むろん、彼は当てる法則といったようなものを持っていたのだ。というのは、ただ相手のはしっこさを観察して、その程度をはかるということなんだ。たとえば、まったくの馬鹿が相手になっていて、握った手を上げて、『丁か半か?』ときく。その生徒は『半』と答えて、負ける。が二度目には勝つ。というわけは、彼はこう考えるのだ、『この馬鹿は初めに丁を持って勝ったんだから、こいつの利口さの程度ではちょうど、二度目には半を持つくらいのところだろう。だから半と言ってやろう』とね。――そこで半と言って勝つのだ。それから、相手がこれとはもう少し上の馬鹿だと、彼はこういうふうに考える。『こいつは初めに僕が半と言ったので二度目にはすぐ、前の馬鹿のように、簡単に丁から半へ変えようとするだろう。が考えなおしてこれはあまり簡単な変え方だと思いつき、結局やはり前のように丁を持つことに決めるだろう。だから丁と言ってやろう』とね。――で、『丁』と言って、勝つんだ。そこで、仲間の者たちに『運が強い』と言われていたその生徒のこの推理の方法だね、――これは最後まで分析すると、何かね?」
「それはただ推理者の知力を相手の知力と合致させることにすぎんね」と私は言った。
「そうなんだ」とデュパンが言った。「で、僕はこの子供に、彼の成功の基であるその完全な[#「完全な」に傍点]合致をどんな手段でやるのかと尋ねたら、こう答えた。『僕は、誰かがどれくらい賢いか、どれくらい間抜けか、どれくらい善い人か、どれくらい悪い人か、またその時のその人の考えがどんなものか、というようなことを知りたいと思うときには、自分の顔の表情をできるだけ正確にその人の表情と同じようにします。それから、その表情と釣り合うように、または一致するようにして、自分の心や胸に起ってくる考えや気持を知ろうとして待っているんです』というのさ。この生徒のこの答えは、ロシュフコー(6)や、ラ・ブリュイエール(7)や、マキアヴェリ(8)や、カンパネラ(9)のものとされている、あの、あらゆる贋《にせ》の深遠さよりも深いものだよ」
「で、その推理者の知力を相手の知力と合致させることはだね」と私は言った。「もし君の言うことを僕が誤解していないなら、相手の知力をはかる正確さのいかんによるね」
「実際上の価値としては、そういうことになるね」とデュパンは答えた。「で、総監やその部下たちが、あんなにちょいちょい失敗するのは、第一に、その合致が欠けているためで、第二には、相手の知力のはかり方が悪いため、というよりも、むしろはからないためなんだ。彼らはただ自分たち自身[#「自身」に傍点]の工夫力だけしか考えない。そしてなんでも隠されたものを捜すのに、自分たち[#「自分たち」に傍点]の隠しそうな方法だけしか気がつかない。彼ら自身の工夫力が普通一般人[#「普通一般人」に傍点]の工夫力の忠実な代表であるという点までは――これは正しい。が、特殊の悪人の狡知《こうち》と、彼ら自身の知恵の質が異なっている場合には、もちろん彼らはしくじってしまう。これは相手の狡知が彼らより以上のときにはいつもそうだし、その以下の場合にもたいていそうなんだ。彼らは調査をするとき決して方針を変えるということをしない。せいぜい、なにか非常な出来事――なにかすばらしい報酬など――で励まされると、自分たちの方針は変えないで、ただもとのやり方[#「やり方」に傍点]を拡張し、また大げさにする。たとえばこのD――の場合に、行動の方針を変えるためにどんなことがされたか? あんなふうに穴をあけたり、探針で探ったり、叩いて音を試したり、拡大鏡でこと細かに調べたり、建物の表面を平方インチに区画して番号をつけたりすること――そんなことはみんな、総監が長いあいだの在職中に見慣れてきた、人間の工夫力に関する一連の考えを基礎にしている探索方針の一つ、あるいはいくつかを、大げさに応用したものにすぎんじゃないか? 彼は、あらゆる[#「あらゆる」に傍点]人間は手紙を隠すのに、――必ずしも椅子の脚に錐で穴をあけないにしても――少なくとも、椅子の脚の錐穴に手紙を隠そうとするのと同じような考えから思いついた、どこか[#「どこか」に傍点]たやすく人目につかぬ穴か隅っこに――隠すものだ、と決めこんでいるじゃないか? が、そういう念の入った隅っこに隠すことは、ただ普通の場合にだけ用いられるもので、ただ平凡な知力の者が用いるだけじゃないか。なぜかと言えば、ものを隠す場合にはみな、その隠す品物をそういう念入りの方法で処置するということは――まず第一に考えられることだし、推量されることなんだからね。だから、それの発見は、ちっとも探索者の明敏さいかんによるのではなくて、ぜんぜん単なる注意と、忍耐と、決意とによるのだ。そして事件が重大な場合には――あるいは、警察官の眼にはどうせ同じことだが、つまり報酬が多いときには――そういう特性は決して[#「決して」に傍点]欠けるはずはない。というわけだから、もしあの盗まれた手紙が総監の調査の範囲内のどこかに隠してあったなら――言葉をかえて言えば、それの隠匿の方針が総監の方針のなかにあるものだったなら――それの発見はぜんぜん疑いの余地はなかったろう、と僕の言おうとしたことは君にはもうわかったろう。それなのに、あの先生はすっかり煙《けむ》に巻かれてしまった。そして彼の失敗の遠因は、あの大臣は馬鹿である、なぜなら彼は詩人としての名声を得ているから、と推定したことにあるのだ。すべての馬鹿は詩人であると、こう総監は自分で思っている[#「思っている」に傍点]。そして彼はそこから、すべての詩人は馬鹿である、と推論して、ただ媒辞不周延《ノーン・ディストリブーティオー・メディイー》(10)の誤謬に陥ったのさ」
「だが詩人というのはほんとうかね?」と私は尋ねた。「兄弟が二人あるということは聞いているし、二人とも文名はある。だが、たしかあの大臣のほうは微分学についてかなり博学な著述があったと思うよ。あの男は数学者であって、詩人じゃあないよ」
「いや、違うよ。僕はあの男をよく知っている。彼はその両方なんだ。詩人兼[#「兼」に傍点]数学者なればこそ、彼はよく推理するのだ。単なる数学者にすぎなかったら、彼は推理なんぞはちっともできなくて、総監の思うままになったろう」
「こりゃあ驚くね」と私は言った。「そういう意見は世間の通説とまるで矛盾しているからね。君は何世紀ものあいだ十分理解されてきた考えを無視しようとするんじゃあるまいな。数学的な推理こそ、長いあいだ特に優れた推理と見なされてるんだからねえ」
「『|あらゆる公衆一般の観念、あらゆる世間一般に承認されたる慣例は愚かなるものと思わばまちがいなし。なんとなれば、そは衆愚を喜ばしむるものなればなり《イリヤ・ア・パリエ・ク・トゥティデェ・ピュブリク・トゥト・コンヴァンシオン・ルシュ・エ・テュヌ・ソティーズ・カアル・エラ・コンヴニュ・オ・プリュ・グラン・ノンブル》』さ」とデュパンはシャンフォオル(11)の言葉を引用して答えた。「いかにも数学者は、君のいま言ったその世間一般の誤謬をひろめるのに全力を尽してきたが、それは真理としてひろまっていたとしても、やっぱりりっぱな誤謬だよ。たとえば、彼らはこんなことを用いてはもったいないような技巧をもって、『分析』という言葉を代数学に適用させてしまった。このごまかしの元祖はフランス人だよ。だが、もし言葉というものが少しでも重要なものであるなら――つまり、言葉というものが事がらに適用されることによってなんらかの価値を生むものであるならだね――『分析』が『代数学』を意味しないことは、ラテン語で“ambitus”が‘ambition’を意味せず(12)、“religio”が‘religion’を意味せず(13)、あるいはまた“homines honesti”が‘honorable men’を意味しない(14)くらいの程度なんだ」
「君はいまパリの代数学者たちを相手に喧嘩《けんか》してるんだね。だが、まあ話をつづけたまえ」
「僕は、絶対的に論理的な形式以外の、あらゆる特殊の形式でなされる推理の効力に、したがってまたその価値に、反対する。とりわけ、数学的の研究によって引き出された推理に、反対する。数学は形式と数量との科学であって、数学的の推論は形式と数量との観察に適用された論理にすぎない。純粋[#「純粋」に傍点]代数学と言われているものの真理でさえ、それが絶対的の、普遍的の、真理であると想像するところに、大きな誤謬があるんだよ。そしてこの誤謬は実にひどいものなので、それが広く一般に信ぜられているのには僕もびっくりするね。数学の公理は普遍的な真理の公理ではない[#「ない」に傍点]のだ。関係[#「関係」に傍点]――形式と数量との関係――について真であることも、たとえば倫理学などに関しては、しばしば非常にまちがったものであることがある。倫理学では、部分の総和は全体に等しいということはたいがい真ではない[#「ない」に傍点]。化学においてもやはりその公理は駄目だ。動機の考究にしたってもそうだよ。なぜかと言えば、ある与えられた価値を持つ二つの動機は、それを合わせても、必ずしもその個々の和に等しい価値にはならないからね。このほかにも、まだ関係[#「関係」に傍点]の範囲内でだけ真理であるにすぎない数学的真理がたくさんある。しかし数学者は習慣上、彼の限定された真理[#「限定された真理」に傍点]から、まるでそれが絶対的になににでも適用されるものであるかのように、論ずるのだ。――そして世間も実際そうだと想像しているんだがね。ブライアント(15)が、あのたいへん該博な『神話学』のなかで、『だれも異教徒の寓話《ぐうわ》を信じはしないが、それでいて、我々はいつもうっかり、それらの寓話を実在するものと思って、それらから推論をする』と言っているのは、それに似た誤謬の源を言っているのさ。ところが、かの代数学者たちは異教徒そのものなんで、彼らはその『異教徒の寓話』を信じている[#「いる」に傍点]のだ。そして、彼らがその推論をするのは、ついうっかりして忘れてやるよりも、わけのわからぬ頭の悪さからやるんだからな。要するにだね、ただの数学者で等根以外のことで信用できる人、あるいは x2[#「2」は上付き小文字]+px が絶対的にかつ無条件にqに等しいということをひそかに自分の信条としていない人には、僕はいままでお目にかかったことがないよ。まあ、ためしに、そういう紳士方の一人に、x2[#「2」は上付き小文字]+px が必ずしもqに等しくない[#「ない」に傍点]場合もありうると思う、と言ってやってご覧なさい。そして君の言おうとしていることを相手にわからせたら、できるだけさっさとその男の手のとどかないところへ逃げたまえ、きっと彼は君をはり倒そうとするだろうからね」
 彼の最後の言葉を聞いて私がただ笑っていると、彼は話をつづけた。「僕の言おうとするのは、もしあの大臣が数学者であるだけだったら、総監はこの小切手を僕にくれる必要がなかったろう、ということなんだ。しかし僕は彼が数学者でありかつ詩人であることを知っていたので、僕の物差を、彼の周囲の事情を考えて、彼の才能に適合させたのだ。僕はまた廷臣としての、また大胆な陰謀家《アントリガン》としての彼をも知っていた。そういう人間が警察の普通のやり方を知らないはずはないと僕は考えた。彼は自分が待ち伏せされることを予想しないはずがなかったろう。――そして事実は彼がそれを予想したことを示している。彼は自分の屋敷が秘密に調べられることを予知したにちがいない、と僕は思った。彼がちょいちょい夜家をあけることを、総監は自分の成功を助けるものだと思って大いに喜んだが、僕はただそれを、警察に十分に捜索させる機会を与え、そうしてそれだけ早く彼らに、G――が事実とうとう到達したあの確信――手紙が屋敷の内にないのだという確信を――与えようとする策略《リュウズ》だと考えた。それからまた、僕がさっきちょっと骨を折って君に詳しく話した、あの隠された品物を捜す場合にとる、警察の一本調子な方針についてのあらゆる考えだね、――ああいう考えはみんな必ず大臣の心に浮んだろう、と僕は感じた。そういうことを考えると、彼はどうしても否応なしに普通の隅っこ[#「隅っこ」に傍点]の隠し場所などはいっさい眼もくれなかったにちがいない、あの男[#「あの男」に傍点]が、自分の邸のいちばん入り組んだ、引っこんだ隅っこでも、総監の眼や、探針や、錐や、拡大鏡にとっては、ごく普通の戸棚同様にあけっ放しのものであることを知らないほど、愚鈍であるはずがない、と僕は考えた。結局、僕は、彼がたとえ熟慮の末に選んだのではなくとも、当然の成行きとして、単純[#「単純」に傍点]な手段をとったにちがいない、ということを悟ったのだよ。君は、我々が最初に総監と会ったとき、この事件がそんなに彼を悩ませるのは、それがきわめて[#「きわめて」に傍点]わかりきっているためかもしれんと僕が言ったら、総監がやけに笑いこけたことを、たぶん覚えているだろう」
「うん、たいへんなご機嫌だったことをよく覚えているよ。あんまり笑うので、ひきつけやしないかと僕はほんとうに思ったものだ」と私は言った。
「物質界には」とデュパンは語をつづけた。「非物質界と非常によく類似したことがたくさんある。だから、隠喩《いんゆ》やあるいは直喩が叙述を修飾するとともに、議論を強めることができるという修辞上の独断が、いくらか真理らしく見えるのだ。たとえば惰性力《ウィース・イネルティアエ》の法則は物理学でも形而上《けいじじょう》学でも同一であるらしい。物理学で、大きい物体を動かすのは小さい物体を動かすよりも困難で、それに伴う運動量《モーメントゥム》はその困難に比例するものであるが、これは形而上学で、能力の大きい知能は劣等な知能よりもその動作において力があり、堅実であり、重大な結果を生ずるけれども、またそれよりも動かしにくく、動きだしても最初の数歩のうちはそれよりも厄介で、ためらっているのと同様なのだ。もう一つ例を挙げよう。往来の商店の看板のなかでどんなのがいちばん注意をひくかということを、君はいつか気をつけたことがあるかい?」
「そんなことは考えてみたこともないね」と私は言った。
「地図の上でやる字捜しの遊びがある」と彼はまた話しつづけた。「一方の者がまず――町の名でも、河の名でも、州の名でも、国の名でも――つまり、いろんな色のついたごちゃごちゃした地図の表面にあるどんな名でも言って――相手に捜させるんだ。この遊びの初心者はたいがい、いちばん細かい字で書いてある名を言って相手を困らせようとする。けれども玄人《くろうと》は、大きな字で地図の端から端までひろがっているような名を選ぶのだ。そういう文字は、あまり大きすぎる字で書いてある往来の看板や貼札《びら》と同じように、あまり明瞭すぎるためにかえって人眼につかない。そしてこの物理的の見落しは、知能が、あまりひどく、あまり明白にわかりきっていすぎる事がらを気づかずに過すという精神的の不注意と、ちょうど類似しているものなんだ。しかし、こういうことはあの総監の理解力のいくぶん上か、あるいは下のことであるらしいね。彼は、大臣があの手紙を誰にも気づかれないようにするいちばんよい方法として、それをみんなのすぐ鼻先に置きそうだとか、あるいは置いたかもしれないなどということは、一度だって考えたこともありゃしないのさ。
 だが僕は、D――の大胆な、思いきった、明敏な工夫力と、彼がその書類を有効に使おうと思うなら常にそれを手近に[#「手近に」に傍点]置かなければならないという事実と、それが総監のいつもの捜索の範囲内には隠されていないという、その決定的な証言とを考えれば考えるほど、――大臣がその手紙を隠すのに、ぜんぜんそれを隠そうとはしないという遠大な、賢明な方策をとったのだということがわかってきたのだ。
 てっきりそうにちがいないと思いながら、僕は緑色の眼鏡を用意して、ある晴れた朝、ひょっこり大臣の邸を訪問した。D――は在宅していて、例のとおり欠伸《あくび》をしたり、ぶらぶらしたり、のらくらしたりして、退屈《アンニュイ》でたまらないというふりをしていた。彼はおそらく現代での、もっともほんとうに精力的な人間だろう、――が、それは誰も見ていないときだけのことなんだ。
 彼にひけを取らないようにと、僕は自分の眼が弱くて困るといい、眼鏡をかけなければならないことをこぼして、表面は主人の話にだけ余念なく聞き入っているようなふりをしながら、その眼鏡の下から部屋じゅうを念入りにすっかり見まわした。
 僕は、彼の近くにある大きな書机《ライティング・テーブル》にとくに注意を向けた。その上には、一つ二つの楽器や何冊かの本とともに、いろいろな手紙とその他の書類とが乱雑にのせてあった。しかし、長いあいだ、よほど気をつけて調べたが、ここにはなにも特別の嫌疑をひくようなものがなかった。
 部屋をぐるぐる見まわしているうちに、とうとう僕の眼は、暖炉前飾《マントルピース》の真ん中辺のすぐ下のところにある真鍮《しんちゅう》の小さなツマミから、よごれた青いリボンでぶら下げてある、安ものの、見かけばかりのボール紙製の名刺差しにとまった。この名刺差しには三つ四つの仕切りがあって、五、六枚の名刺と、一通だけの手紙とが入っていた。手紙のほうはひどくよごれて皺《しわ》くちゃになっていた。それは真ん中から二つに裂きかけてあった。――ちょうど、つまらぬものだから初めはすっかり裂いてしまうつもりだったが、ふと思いかえしてよしたといったようにね。ひどく[#「ひどく」に傍点]目立ったD――の花押《かきはん》のある、大きな黒い封印があって、細かな女の筆蹟でD――大臣へ宛てたものだった。それは名刺差しの上の方の仕切りに、無頓着《むとんじゃく》に、またいかにもぞんざいらしく、突っこんであった。
 この手紙をちらりと見るや否や、僕はすぐにこれが自分の捜しているものだと決めてしまった。なるほど、見たところでは、これは総監があの詳しい説明書を読んでくれたものとは根本的に違っている。このほうは封印が大きくて、黒く、D――の花押があるし、あのほうは封印が小さくて、赤く、S――公爵家の紋章がある。この宛名は、大臣に宛てたもので、細かく女文字で書いてあるし、あのほうの表書は、さる王族に宛てたもので、とても太い、しっかりした字で書いてある。ただ大きさだけが符号しているのだ。ではあるが、こういう相違があまり極端に根本的であること[#「根本的であること」に傍点]。それのよごれていることや、紙のきたなくなって裂けていることがD――の真の[#「真の」に傍点]几帳面《きちょうめん》な習慣と矛盾しているし、また、その書類をつまらないもののように、見る者をだまそうとする計画だなと思いつかせること。――それと、置場所だが、書類がどの訪問客にもまる見えのあまりに人眼につくところにあったこと。したがって僕が前に到達したあの結論ときちんと一致しているということ。こういったことはたしかに、疑うつもりで来た者には非常に嫌疑を濃くするものだったんだね。
 僕はできるだけ訪問を長びかせて、きっと大臣の興味をひき、彼がやっきとなるにちがいない話題を持ち出して、彼とさかんに議論をつづけながら、少しも手紙から注意を放さなかった。そうして調べているあいだに、その外観や、名刺差しのなかの入れぐあいなどを僕は暗記した。そしてとうとう一つの発見をしたが、それは僕がいだきそうなどんな小さな疑いでも消してしまうものだった。手紙の縁をよく見ていると、それが必要以上にこすれて[#「こすれて」に傍点]いることがわかったのだ。それは、堅い紙がいったん折り曲げられて紙折り箆《へら》で押えられ、そのもと折られた同じ折目のところから反対に折り返されたときにできる折れぐあい[#「ぐあい」に傍点]なんだよ。これを発見すれば十分だった。僕には、その手紙が手袋みたいに裏返しにされ、ふたたび宛名が書かれ、封印がしなおされたことは明らかだった。僕は大臣にさよならを言って、金製の嗅煙草《かぎたばこ》入れをテーブルの上に置いたまま、すぐ帰ってきた。
 翌朝、僕はその嗅煙草入れを取りに行って、前日の話をまた熱心に始めた。しかし、そうしているうちに邸の窓のすぐ下のところで、ピストルの音のような大きな音が聞え、つづいて恐ろしい悲鳴と、群集の叫び声とが聞えてきた。D――は窓の方へ駆けより、それを押し開いて、外を眺めた。そのあいだに、僕はあの名刺差しのところへ歩みより、手紙を取って、自分のポケットのなかへ入れ、そしてあとには、(外側だけは)同じようにしたにせ手紙を、かわりに入れておいた。それは僕が家《うち》で念入りに用意してきていたものなんだ、――パンでこさえた封印で造作もなくD――の花押をまねてね。
 往来の騒ぎは、銃を持った男の気違いじみた挙動から起ったものだった。彼は女子供の大勢いる真ん中でそいつを発射したのだ。しかし弾《たま》がこめてないことがわかり、狂人か酔っ払いだと思われて、行くままにされた。その男が行ってしまうと、D――は窓ぎわから戻ってきたが、僕は自分の目的のものを手に入れるとすぐ彼のあとを追ってそこへ行っていたのだ。それから間もなく僕は彼と別れてきた。そのにせ狂人は僕が雇った男さ」
「しかし君がその手紙のかわりを置いてきたのはどんな目的だったのかね?」と私は尋ねた。「最初に訪ねて行ったとき、公然とそいつを取り返して帰ったほうがよくはなかったかね?」
「D――は」デュパンが答えた。「向う見ずな男だ。また剛胆な男だ。それに彼の邸には、彼のために身命をささげた従者たちもいる。君の言うような無鉄砲なまねをやろうものなら、僕は生きて大臣のところから出ることができなかったかもしれん。パリの人たちはそれきり僕の噂《うわさ》を聞かなくなったかもしれないぜ。しかし、そういう事がらとは別に、僕には一つの目的があったのさ。僕の政治上の贔屓《ひいき》は君もご承知のとおりだ。この事件では、僕は例の貴婦人の一党員として行動するのだ。十八カ月のあいだ、大臣は彼女を自分の権力にしたがわせてきた。今度は彼女のほうが彼をその権力にしたがわせるんだ。――なぜかと言うと、彼は手紙が自分の手にないことに気がつかないので、相変らずあるようなつもりで無理なことをやるだろうからね。こうして必ず彼はたちまち政治的破滅に陥ってしまうだろう。彼の没落は急激でもあるし、また見苦しくもあるだろうよ。あの facilis descensus Averni「地獄に降るは易し(16)」ということを話すのはたいへんけっこうだが、なにに登るのでも、カタラアニ(17)が歌の歌い方について言ったように、下るよりも上るほうがずっとやさしいのだ。現在の場合では、僕は降ってゆく者にはなんの同情も――少なくともなんの憐憫《れんびん》も――持っていない。あの男はかの monstrum horrendum(18) だ。破廉恥な天才だ。だが、僕は、あの男が総監のいわゆる『さるお方』なる婦人に裏をかかれて、僕が名刺差しのなかへ入れてきた手紙をあけてみなければならなくなったとき、彼がどう思うかということを、はっきり知りたくてたまらないね」
「どうして? 君はなにか変ったものでもそのなかへ入れてきたのかい?」
「なあに、――なかを白紙のままにしておくのはあんまりよくないだろうと思ったのさ、――そいつあ礼を失するだろうからな。D――は以前ウィンナで僕にひどい仕打ちをしたことがある。それに対して僕はごく機嫌よく、この怨《うら》みは忘れないぞと言ってやった。だから、彼も自分に一杯食わせた人間が誰だか知りたく思うに決っているだろうから、手がかりを与えないのはかわいそうだと僕は考えたんだ。彼は僕の筆蹟をよく知っている。で、僕はただ白紙の真ん中にこう書いておいたよ、――

‘――Un dessein si funeste,
   S’il n’est digne d’〔Atre’e〕, est digne de Thyeste.’
「――かかる痛ましき企みは、
   よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ(19)」
とね。これはクレビヨン(20)の『アトレ』のなかにある文句なんだ」


(1) Lucius 〔Annae&us〕 Seneca(前四ごろ―六五)――有名なローマの哲学者。
(2) この警視総監G――氏は前の『モルグ街の殺人事件』にも『マリー・ロジェエの怪事件』にもちょっと出ているが、ボードレールは、ポーは“M. Gisquet”のことを考えていたにちがいないと言っている。「ジスケエ氏」というのは Henri Joseph Gispuet(一七九二―一八六六)のことで、この作の書かれる十年ほど前まで、パリの警視総監をしていた男である。もっとも、似ているのは頭文字と、警視総監であったということだけである。
(3) 一インチの十二分の一。
(4) John Abernethy(一七六四―一八三一)――イギリスの医者。解剖学者であり生理学者であったがとくに、その奇矯な人格をもって知られていた。
(5) Procrustes――古代ギリシャの伝説のアッティカの強盗で、人を捕えたたびごとに鉄の寝床に寝かせ、その身長が寝台より長いときはその余った部分を斬り縮め、短かければ引き延ばして同じ長さにして殺したと言い伝えられている。
(6) 〔Franc,ois〕 la Rochefoucauld(一六一三―八〇)――“Maximes”の筆者としてよく知られているフランスの著作家。
(7) Jean de la 〔Bruye
re〕(一六四五―九六)――フランスの著作家。ハリスン版やその他にはこの名が La Bougive となっているが、イングラム版、ステッドマン・ウッドベリー版、ボードレール本には La 〔Bruyere〕 となっている。
(8) Niccolo Machiavelli(一四六九―一五二七)――イタリアの政治家、著作家。
(9) Tommaso Campanella(一五六八―一六三九)――イタリアの僧侶、哲学者。
(10) non distributio medii――論理学上の術語で、三段論法において、媒辞《ばいじ》が両方の前提ともに不周延である誤謬《ごびゅう》をいう。「すべての馬鹿は詩人である(大前提)。彼は詩人である(小前提)。ゆえに彼は馬鹿である(結論)」というこの総監の三段論法において、「馬鹿」は大名辞であり、「彼」は小名辞であり、「詩人」は媒辞(中名辞)である。媒辞は、大前提と小前提との関係を媒介するものであるから、少なくとも一度は周延(拡充)されていなければならない。すなわちその概念の全体の範囲にわたっての主張でなければならない。しかしこの論法においては「詩人」という媒辞はどちらの前提でも周延されていない。すなわち、単にその一部分のみについて主張されたにすぎない。ゆえにこの結論は誤っている。こういう誤りを、論理学では媒辞(中名辞)不周延(不拡充)の誤謬という。
(11) Nicholas Chamfort(一七四一―九四)――フランスの文人。箴言《しんげん》、警句の筆者として知られていた。
(12) ラテン語の“ambitus”は「投票を依頼するために走りまわること」、「官職を得るために奔走すること」の意味であって、それから出た英語の“ambition”(野心)とは少し意味が違う。
(13) ラテン語の“religio”は「注意深いこと」、「律義」、「几帳面」というような意味で、それから出た“religion”(宗教)を意味しない。
(14) “homines honesti”は「有名な人々」の意味で、“honorable men”(立派な人々)を意味しない。
(15) Jacob Bryant(一七一五―一八〇四)――イギリスの考古学者“A New System or an Analysis of Ancient Mythology”の著がある。
(16) 「地獄に降るは易し」。――ヴェルギリウスの“〔AE&neis〕”第六巻一二六行。
(17) Angelica Catalani(一七八〇?―一八四九)――イタリアの有名なソプラノの歌手。
(18) 「恐ろしき怪物」。――ヴェルギリウスの“〔AE&neis〕”第三巻六五八行。
(19) 「――かかる痛ましき企みは、よしアトレにふさわしからずとも、ティエストにこそふさわしけれ」――クレビヨンの悲劇“〔Atre’e〕 et Thyeste”第五幕第四場。(アトレとティエストとの兄弟の話はギリシャの残忍な伝説であって、ティエストはアトレの妻を誘惑し、アトレはその復讐《ふくしゅう》のためにいつわって和解の宴を張り、ティエストを招き、ティエストの三人の子を殺してその肉を父に食わせたという)
(20) Prosper Jolyot de 〔Cre’billon〕(一六七四―一七六二)――フランスの悲劇詩人。“〔Atre’e〕 et Thyeste”はその一七〇七年の作である。
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底本:「モルグ街の殺人事件」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年8月15日発行
   1977(昭和52)年5月10日40刷改版
   1986(昭和61)年10月15日59刷
※(1)~(20)は訳注番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように小書きされています。また数字は縦中横になっています。
入力:鈴木厚司
校正:小酒井博士
2004年5月15日作成
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