国木田独歩

畫の悲み——国木田独歩

畫《ゑ》を好《す》かぬ小供《こども》は先《ま》づ少《すく》ないとして其中《そのうち》にも自分《じぶん》は小供《こども》の時《とき》、何《なに》よりも畫《ゑ》が好《す》きであつた。(と岡本某《をかもとぼう》が語《かた》りだした)。
 好《す》きこそ物《もの》の上手《じやうず》とやらで、自分《じぶん》も他《た》の學課《がくゝわ》の中《うち》畫《ゑ》では同級生《どうきふせい》の中《うち》自分《じぶん》に及《およ》ぶものがない。畫《ゑ》と數學《すうがく》となら、憚《はゞか》りながら誰《たれ》でも來《こ》いなんて、自分《じぶん》も大《おほい》に得意《とくい》がつて居《ゐ》たのである。しかし得意《とくい》といふことは多少《たせう》競爭《きやうさう》を意味《いみ》する。自分《じぶん》の畫《ゑ》の好《す》きなことは全《まつた》く天性《てんせい》といつても可《よ》からう、自分《じぶん》を獨《ひとり》で置《お》けば畫《ゑ》ばかり書《か》いて居《ゐ》たものだ。
 獨《ひとり》で畫《ゑ》を書《か》いて居《ゐ》るといへば至極《しごく》温順《おとな》しく聞《きこ》えるが、其癖《そのくせ》自分《じぶん》ほど腕白者《わんぱくもの》は同級生《どうきふせい》の中《うち》にないばかりか、校長《かうちやう》が持《も》て餘《あま》して數々《しば/\》退校《たいかう》を以《もつ》て嚇《おど》したのでも全校《ぜんかう》第《だい》一といふことが分《わか》る。
 全校《ぜんかう》第《たい》[#ルビの「たい」に「ママ」の注記]一|腕白《わんぱく》でも數學《すうがく》でも。しかるに天性《てんせい》好《す》きな畫《ゑ》では全校《ぜんかう》第《だい》一の名譽《めいよ》を志村《しむら》といふ少年《せうねん》に奪《うば》はれて居《ゐ》た。この少年《せうねん》は數學《すうがく》は勿論《もちろん》、其他《そのた》の學力《がくりよく》も全校《ぜんかう》生徒中《せいとちゆう》、第《だい》二|流《りう》以下《いか》であるが、畫《ゑ》の天才《てんさい》に至《いた》つては全《まつた》く並《なら》ぶものがないので、僅《わづか》に壘《るゐ》を摩《ま》さうかとも言《い》はれる者《もの》は自分《じぶん》一|人《にん》、其他《そのた》は悉《こと/″\》く志村《しむら》の天才《てんさい》を崇《あが》め奉《たてまつ》つて居《ゐ》るばかりであつた。ところが自分《じぶん》は志村《しむら》を崇拜《すうはい》しない、今《いま》に見《み》ろといふ意氣込《いきごみ》で頻《しき》りと勵《は》げんで居《ゐ》た。
 元來《ぐわんらい》志村《しむら》は自分《じぶん》よりか歳《とし》も兄《あに》、級《きふ》も一|年《ねん》上《うへ》であつたが、自分《じぶん》は學力《がくりよく》優等《いうとう》といふので自分《じぶん》の居《ゐ》る級《くらす》と志村《しむら》の居《ゐ》る級《くらす》とを同時《どうじ》にやるべく校長《かうちやう》から特別《とくべつ》の處置《しよち》をせられるので自然《しぜん》志村《しむら》は自分《じぶん》の競爭者《きやうさうしや》となつて居《ゐ》た。
 然《しか》るに全校《ぜんかう》の人氣《にんき》、校長《かうちやう》教員《けうゐん》を始《はじ》め何百《なんびやく》の生徒《せいと》の人氣《にんき》は、温順《おとな》しい志村《しむら》に傾《かたむ》いて居《ゐ》る、志村《しむら》は色《いろ》の白《しろ》い柔和《にうわ》な、女《をんな》にして見《み》たいやうな少年《せうねん》、自分《じぶん》は美少年《びせうねん》ではあつたが、亂暴《らんばう》な傲慢《がうまん》な、喧嘩好《けんくわず》きの少年《せうねん》、おまけに何時《いつ》も級《くらす》の一|番《ばん》を占《し》めて居《ゐ》て、試驗《しけん》の時《とき》は必《かな》らず最優等《さいゝうとう》の成績《せいせき》を得《う》る處《ところ》から教員《けうゐん》は自分《じぶん》の高慢《かうまん》が癪《しやく》に觸《さは》り、生徒《せいと》は自分《じぶん》の壓制《あつせい》が癪《しやく》に觸《さは》り、自分《じぶん》にはどうしても人氣《にんき》が薄《うす》い。そこで衆人《みんな》の心持《こゝろもち》は、せめて畫《ゑ》でなりと志村《しむら》を第《だい》一として、岡本《をかもと》の鼻柱《はなばしら》を挫《くだ》いてやれといふ積《つもり》であつた。自分《じぶん》はよく此《この》消息《せうそく》を解《かい》して居《ゐ》た。そして心中《しんちゆう》ひそかに不平《ふへい》でならぬのは志村《しむら》の畫《ゑ》必《かなら》ずしも能《よ》く出來《でき》て居《ゐ》ない時《とき》でも校長《かうちやう》をはじめ衆人《みんな》がこれを激賞《げきしやう》し、自分《じぶん》の畫《ゑ》は確《たし》かに上出來《じやうでき》であつても、さまで賞《ほ》めて呉《く》れ手《て》のないことである。少年《こども》ながらも自分《じぶん》は人氣《にんき》といふものを惡《にく》んで居《ゐ》た。
 或日《あるひ》學校《がくかう》で生徒《せいと》の製作物《せいさくぶつ》の展覽會《てんらんくわい》が開《ひら》かれた。其《その》出品《しゆつぴん》は重《おも》に習字《しふじ》、※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、466-8]畫《づぐわ》、女子《ぢよし》は仕立物《したてもの》等《とう》で、生徒《せいと》の父兄姉妹《ふけいしまい》は朝《あさ》からぞろ/\と押《おし》かける。取《と》りどりの評判《ひやうばん》。製作物《せいさくぶつ》を出《だ》した生徒《せいと》は氣《き》が氣《き》でない、皆《み》なそは/\して展覽室《てんらんしつ》を出《で》たり入《はひ》つたりして居《ゐ》る自分《じぶん》も此《この》展覽會《てんらんくわい》に出品《しゆつぴん》する積《つも》りで畫紙《ゑがみ》一|枚《まい》に大《おほ》きく馬《うま》の頭《あたま》を書《か》いた。馬《うま》の顏《かほ》を斜《はす》に見《み》た處《ところ》で、無論《むろん》少年《せうねん》の手《て》には餘《あま》る畫題《ぐわだい》であるのを、自分《じぶん》は此《この》一|擧《きよ》に由《よつ》て是非《ぜひ》志村《しむら》に打勝《うちかた》うといふ意氣込《いきごみ》だから一|生懸命《しやうけんめい》、學校《がくかう》から宅《たく》に歸《かへ》ると一|室《しつ》に籠《こも》つて書《か》く、手本《てほん》を本《もと》にして生意氣《なまいき》にも實物《じつぶつ》の寫生《しやせい》を試《こゝろ》み、幸《さいは》ひ自分《じぶん》の宅《たく》から一丁[#ルビ抜けはママ]ばかり離《はな》れた桑園《くはゞたけ》の中《なか》に借馬屋《しやくばや》があるので、幾度《いくたび》となく其處《そこ》の廐《うまや》に通《かよ》つた。輪廓《りんくわく》といひ、陰影《いんえい》と云《い》ひ、運筆《うんぴつ》といひ、自分《じぶん》は確《たしか》にこれまで自分《じぶん》の書《か》いたものは勿論《もちろん》、志村《しむら》が書《か》いたものゝ中《うち》でこれに比《くら》ぶべき出來《でき》はないと自信《じしん》して、これならば必《かなら》ず志村《しむら》に勝《か》つ、いかに不公平《ふこうへい》な教員《けうゐん》や生徒《せいと》でも、今度《こんど》こそ自分《じぶん》の實力《じつりよく》に壓倒《あつたう》さるゝだらうと、大勝利《だいしようり》を豫期《よき》して出品《しゆつぴん》した。
 出品《しゆつぴん》の製作《せいさく》は皆《みん》な自宅《じたく》で書《か》くのだから、何人《なにぴと》も誰《たれ》が何《なに》を書《か》くのか知《し》らない、又《また》互《たがひ》に祕密《ひみつ》にして居《ゐ》た殊《こと》に志村《しむら》と自分《じぶん》は互《たがひ》の畫題《ぐわだい》を最《もつと》も祕密《ひみつ》にして知《し》らさないやうにして居《ゐ》た。であるから自分《じぶん》は馬《うま》を書《か》きながらも志村《しむら》は何《なに》を書《か》いて居《ゐ》るかといふ問《とひ》を常《つね》に懷《いだ》いて居《ゐ》たのである。
 さて展覽會《てんらんくわい》の當日《たうじつ》、恐《おそ》らく全校《ぜんかう》數百《すうひやく》の生徒中《せいとちゆう》尤《もつと》も胸《むね》を轟《とゞろ》かして、展覽室《てんらんしつ》に入《い》つた者《もの》は自分《じぶん》であらう。※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、467-4]畫室《づぐわしつ》は既《すで》に生徒《せいと》及《およ》び生徒《せいと》の父兄姉妹《ふけいしまい》で充滿《いつぱい》になつて居《ゐ》る。そして二|枚《まい》の大畫《たいぐわ》(今日《けふ》の所謂《いはゆ》る大作《たいさく》)が並《なら》べて掲《かゝ》げてある前《まへ》は最《もつと》も見物人《けんぶつにん》が集《たか》つて居《ゐ》る二|枚《まい》の大畫《たいぐわ》は言《い》はずとも志村《しむら》の作《さく》と自分《じぶん》の作《さく》。
 一|見《けん》自分《じぶん》は先《ま》づ荒膽《あらぎも》を拔《ぬ》かれてしまつた。志村《しむら》の畫題《ぐわだい》はコロンブスの肖像《せうざう》ならんとは! 而《しか》もチヨークで書《か》いてある。元來《ぐわんらい》學校《がくかう》では鉛筆畫《えんぴつぐわ》ばかりで、チヨーク畫《ぐわ》は教《をし》へない。自分《じぶん》もチヨークで畫《か》くなど思《おも》ひもつかんことであるから、畫《ゑ》の善惡《よしあし》は兔《と》も角《かく》、先《ま》づ此《この》一|事《じ》で自分《じぶん》は驚《おどろ》いてしまつた。その上《うへ》ならず、馬《うま》の頭《あたま》と髭髯《しぜん》面《めん》を被《おほ》ふ堂々《だう/\》たるコロンブスの肖像《せうざう》とは、一|見《けん》まるで比《くら》べ者《もの》にならんのである。且《か》つ鉛筆《えんぴつ》の色《いろ》はどんなに巧《たく》みに書《か》いても到底《たうてい》チヨークの色《いろ》には及《およ》ばない。畫題《ぐわだい》といひ色彩《しきさい》といひ、自分《じぶん》のは要《えう》するに少年《せうねん》が書《か》いた畫《ぐわ》、志村《しむら》のは本物《ほんもの》である。技術《ぎじゆつ》の巧拙《かうせつ》は問《と》ふ處《ところ》でない、掲《かゝ》げて以《もつ》て衆人《しゆうじん》の展覽《てんらん》に供《きよう》すべき製作《せいさく》としては、いかに我慢強《がまんづよ》い自分《じぶん》も自分《じぶん》の方《はう》が佳《い》いとは言《い》へなかつた。さなきだに志村《しむら》崇拜《すうはい》の連中《れんちゆう》は、これを見《み》て歡呼《くわんこ》して居《ゐ》る。『馬《うま》も佳《い》いがコロンブスは如何《どう》だ!』などいふ聲《こゑ》が彼處《あつち》でも此處《こつち》でもする。
 自分《じぶん》は學校《がくかう》の門《もん》を走《はし》り出《で》た。そして家《うち》には歸《かへ》らず、直《す》ぐ田甫《たんぼ》へ出《で》た。止《と》めやうと思《おも》ふても涙《なみだ》が止《と》まらない。口惜《くやし》いやら情《なさ》けないやら、前後夢中《ぜんごむちゆう》で川《かは》の岸《きし》まで走《はし》つて、川原《かはら》の草《くさ》の中《うち》に打倒《ぶつたふ》れてしまつた。
 足《あし》をばた/\やつて大聲《おほごゑ》を上《あ》げて泣《な》いて、それで飽《あ》き足《た》らず起上《おきあが》つて其處《そこ》らの石《いし》を拾《ひろ》ひ、四方八方[#ルビ抜けはママ]に投《な》げ付《つ》けて居《ゐ》た。
 かう暴《あば》れて居《ゐ》るうちにも自分《じぶん》は、彼奴《きやつ》何時《いつ》の間《ま》にチヨーク畫《ぐわ》を習《なら》つたらう、何人《だれ》が彼奴《きやつ》に教《をし》へたらうと其《そ》ればかり思《おも》ひ續《つゞ》けた。
 泣《な》いたのと暴《あば》れたので幾干《いくら》か胸《むね》がすくと共《とも》に、次第《しだい》に疲《つか》れて來《き》たので、いつか其處《そこ》に臥《ね》てしまひ、自分《じぶん》は蒼々《さう/\》たる大空《おほぞら》を見上《みあ》げて居《ゐ》ると、川瀬《かはせ》の音《おと》が淙々《そう/\》として聞《きこ》える。若草《わかくさ》を薙《な》いで來《く》る風《かぜ》が、得《え》ならぬ春《はる》の香《か》を送《おく》つて面《かほ》を掠《かす》める。佳《い》い心持《こゝろもち》になつて、自分《じぶん》は暫時《しばら》くぢつとして居《ゐ》たが、突然《とつぜん》、さうだ自分《じぶん》もチヨークで畫《か》いて見《み》やう、さうだといふ一|念《ねん》に打《う》たれたので、其儘《そのまゝ》飛《と》び起《お》き急《いそ》いで宅《うち》に歸《か》へり、父《ちゝ》の許《ゆるし》を得《え》て、直《す》ぐチヨークを買《か》ひ整《とゝの》へ畫板《ぐわばん》を提《ひつさ》げ直《す》ぐ又《また》外《そと》に飛《と》び出《だ》した。
 この時《とき》まで自分《じぶん》はチヨークを持《も》つたことが無《な》い。どういふ風《ふう》に書《か》くものやら全然《まるで》不案内《ふあんない》であつたがチヨークで書《か》いた畫《ゑ》を見《み》たことは度々《たび/\》あり、たゞこれまで自分《じぶん》で書《か》かないのは到底《たうてい》未《ま》だ自分《じぶん》どもの力《ちから》に及《およ》ばぬものとあきらめて居《ゐ》たからなので、志村《しむら》があの位《くら》ゐ書《か》けるなら自分《じぶん》も幾干《いくら》か出來《でき》るだらうと思《おも》つたのである。
 再《ふたゝ》び先《さき》の川邊《かはゞた》へ出《で》た。そして先《ま》づ自分《じぶん》の思《おも》ひついた畫題《ぐわだい》は水車《みづぐるま》、この水車《みづぐるま》は其以前《そのいぜん》鉛筆《えんぴつ》で書《か》いたことがあるので、チヨークの手始《てはじ》めに今《いま》一|度《ど》これを寫生《しやせい》してやらうと、堤《つゝみ》を辿《たど》つて上流《じやうりう》の方《はう》へと、足《あし》を向《む》けた。
 水車《みづぐるま》は川向《かはむかふ》にあつて其《その》古《ふる》めかしい處《ところ》、木立《こだち》の繁《しげ》みに半《なか》ば被《おほ》はれて居《ゐ》る案排《あんばい》、蔦葛《つたかづら》が這《は》ひ纏《まと》ふて居《ゐ》る具合《ぐあひ》、少年心《こどもごころ》にも面白《おもしろ》い畫題《ぐわだい》と心得《こゝろえ》て居《ゐ》たのである。これを對岸《たいがん》から寫《うつ》すので、自分《じぶん》は堤《つゝみ》を下《お》りて川原《かはら》の草原《くさはら》に出《で》ると、今《いま》まで川柳《かはやぎ》の蔭《かげ》で見《み》えなかつたが、一人《ひとり》の少年《せうねん》が草《くさ》の中《うち》に坐《すわ》つて頻《しき》りに水車《みづぐるま》を寫生《しやせい》して居《ゐ》るのを見《み》つけた。自分《じぶん》と少年《せうねん》とは四五十|間《けん》隔《へだ》たつて居《ゐ》たが自分《じぶん》は一|見《けん》して志村《しむら》であることを知《し》つた。彼《かれ》は一|心《しん》になつて居《ゐ》るので自分《じぶん》の近《ちかづ》いたのに氣《き》もつかぬらしかつた。
 おや/\、彼奴《きやつ》が來《き》て居《ゐ》る、どうして彼奴《きやつ》は自分《じぶん》の先《さき》へ先《さき》へと廻《ま》はるだらう、忌《い》ま/\しい奴《やつ》だと大《おほい》に癪《しやく》に觸《さは》つたが、さりとて引返《ひきか》へすのは猶《な》ほ慊《いや》だし、如何《どう》して呉《く》れやうと、其儘《そのまゝ》突立《つゝた》つて志村《しむら》の方《はう》を見《み》て居《ゐ》た。
 彼《かれ》は熱心《ねつしん》に書《か》いて居《ゐ》る草《くさ》の上《うへ》に腰《こし》から上《うへ》が出《で》て、其《その》立《た》てた膝《ひざ》に畫板《ぐわばん》が寄掛《よりか》けてある、そして川柳《かはやぎ》の影《かげ》が後《うしろ》から彼《かれ》の全身《ぜんしん》を被《おほ》ひ、たゞ其《その》白《しろ》い顏《かほ》の邊《あたり》から肩先《かたさき》へかけて楊《やなぎ》を洩《も》れた薄《うす》い光《ひかり》が穩《おだや》かに落《お》ちて居《ゐ》る。これは面白《おもし》ろい、彼奴《きやつ》を寫《うつ》してやらうと、自分《じぶん》は其儘《そのまゝ》其處《そこ》に腰《こし》を下《おろ》して、志村《しむら》其人《そのひと》の寫生《しやせい》に取《と》りかゝつた。それでも感心《かんしん》なことには、畫板《ぐわばん》に向《むか》うと最早《もはや》志村《しむら》もいま/\しい奴《やつ》など思《おも》ふ心《こゝろ》は消《き》えて書《か》く方《はう》に全《まつた》く心《こゝろ》を奪《と》られてしまつた。
 彼《かれ》は頭《かしら》を上《あ》げては水車《みづぐるま》を見《み》、又《また》畫板《ゑばん》に向《むか》ふ、そして折《を》り/\左《さ》も愉快《ゆくわい》らしい微笑《びせう》を頬《ほゝ》に浮《うか》べて居《ゐ》た彼《かれ》が微笑《びせう》する毎《ごと》に、自分《じぶん》も我知《われし》らず微笑《びせう》せざるを得《え》なかつた。
 さうする中《うち》に、志村《しむら》は突然《とつぜん》起《た》ち上《あ》がつて、其拍子《そのひやうし》に自分《じぶん》の方《はう》を向《む》いた、そして何《なん》にも言《い》ひ難《がた》き柔和《にうわ》な顏《かほ》をして、につこり[#「につこり」に傍点]と笑《わら》つた。自分《じぶん》も思《おも》はず笑《わら》つた。
『君《きみ》は何《なに》を書《か》いて居《ゐ》るのだ、』と聞《き》くから、
『君《きみ》を寫生《しやせい》して居《ゐ》たのだ。』
『僕《ぼく》は最早《もはや》水車《みづぐるま》を書《か》いてしまつたよ。』
『さうか、僕《ぼく》は未《ま》だ出來《でき》ないのだ。』
『さうか、』と言《い》つて志村《しむら》は其儘《そのまゝ》再《ふたゝ》び腰《こし》を下《お》ろし、もとの姿勢《しせい》になつて、
『書《か》き給《たま》へ、僕《ぼく》は其間《そのま》にこれを直《なほ》すから。』
 自分《じぶん》は畫《か》き初《はじ》めたが、畫《か》いて居《ゐ》るうち、彼《かれ》を忌《い》ま/\しいと思《おも》つた心《こゝろ》は全《まつた》く消《き》えてしまひ、却《かへつ》て彼《かれ》が可愛《かあい》くなつて來《き》た。其《その》うちに書《か》き終《をは》つたので、
『出來《でき》た、出來《でき》た!』と叫《さけ》ぶと、志村《しむら》は自分《じぶん》の傍《そば》に來《きた》り、
『をや君《きみ》はチヨークで書《か》いたね。』
『初《はじ》めてだから全然《まるで》畫《ゑ》にならん、君《きみ》はチヨーク畫《ぐわ》を誰《だれ》に習《なら》つた。』
『そら先達《せんだつて》東京《とうきやう》から歸《かへ》つて來《き》た奧野《おくの》さんに習《なら》つた然《しか》し未《ま》だ習《なら》ひたてだから何《なん》にも書《か》けない。』
『コロンブスは佳《よ》く出來《でき》て居《ゐ》たね、僕《ぼく》は驚《おどろ》いちやツた。』
 それから二人《ふたり》は連立《つれだ》つて學校《がくかう》へ行《い》つた。此以後《このいご》自分《じぶん》と志村《しむら》は全《まつた》く仲《なか》が善《よ》くなり、自分《じぶん》は心《こゝろ》から志村《しむら》の天才《てんさい》に服《ふく》し、志村《しむら》もまた元來《ぐわんらい》が温順《おとな》しい少年《せうねん》であるから、自分《じぶん》を又無《またな》き朋友《ほういう》として親《した》しんで呉《く》れた。二人[#ルビ抜けはママ]で畫板《ゑばん》を携《たづさ》へ野山《のやま》を寫生《しやせい》して歩《ある》いたことも幾度《いくど》か知《し》れない。
 間《ま》もなく自分《じぶん》も志村《しむら》も中學校《ちゆうがくかう》に入《い》ることゝなり、故郷《こきやう》の村落《そんらく》を離《はな》れて、縣《けん》の中央《ちゆうわう》なる某町《ぼうまち》に寄留《きりう》することゝなつた。中學《ちゆうがく》に入《い》つても二人[#ルビ抜けはママ]は畫《ゑ》を書《か》くことを何《なに》よりの樂《たのしみ》にして、以前《いぜん》と同《おな》じく相伴《あひともな》ふて寫生《しやせい》に出掛《でか》けて居《ゐ》た。
 此《この》某町《ぼうまち》から我村落《わがそんらく》まで七|里《り》、若《も》し車道《しやだう》をゆけば十三|里《り》の大迂廻《おほまはり》になるので我々《われ/\》は中學校《ちゆうがくかう》の寄宿舍《きしゆくしや》から村落《そんらく》に歸《かへ》る時《とき》、決《けつ》して車《くるま》に乘《の》らず、夏《なつ》と冬《ふゆ》の定期休業《ていききうげふ》毎《ごと》に必《かなら》ず、此《この》七|里《り》の途《みち》を草鞋《わらぢ》がけで歩《ある》いたものである。
 七|里《り》の途《みち》はたゞ山《やま》ばかり、坂《さか》あり、谷《たに》あり、溪流《けいりう》あり、淵《ふち》あり、瀧《たき》あり、村落《そんらく》あり、兒童《じどう》あり、林《はやし》あり、森《もり》あり、寄宿舍《きしゆくしや》の門《もん》を朝早《あさはや》く出《で》て日《ひ》の暮《くれ》に家《うち》に着《つ》くまでの間《あひだ》、自分《じぶん》は此等《これら》の形《かたち》、色《いろ》、光《ひかり》、趣《おもむ》きを如何《どう》いふ風《ふう》に畫《か》いたら、自分《じぶん》の心《こゝろ》を夢《ゆめ》のやうに鎖《と》ざして居《ゐ》る謎《なぞ》を解《と》くことが出來《でき》るかと、それのみに心《こゝろ》を奪《と》られて歩《ある》いた。志村《しむら》も同《おな》じ心《こゝろ》、後《あと》になり先《さき》になり、二人《ふたり》で歩《ある》いて居《ゐ》ると、時々《とき/″\》は路傍《ろばう》に腰《こし》を下《お》ろして鉛筆《えんぴつ》の寫生《しやせい》を試《こゝろ》み、彼《かれ》が起《た》たずば我《われ》も起《た》たず、我《われ》筆《ふで》をやめずんば彼《かれ》も止《や》めないと云《い》ふ風《ふう》で、思《おも》はず時《とき》が經《た》ち、驚《おど》ろいて二人《ふたり》とも、次《つぎ》の一|里《り》を駈足《かけあし》で飛《と》んだこともあつた。
 爾來《じらい》數年《すねん》、志村《しむら》は故《ゆゑ》ありて中學校《ちゆうがくかう》を退《しりぞ》いて村落《そんらく》に歸《かへ》り、自分《じぶん》は國《くに》を去《さ》つて東京《とうきやう》に遊學《いうがく》することゝなり、いつしか二人《ふたり》の間《あひだ》には音信《おんしん》もなくなつて、忽《たちま》ち又四五年[#ルビ抜けはママ]|經《た》つてしまつた。東京《とうきやう》に出《で》てから、自分《じぶん》は畫《ゑ》を思《おも》ひつゝも畫《ゑ》を自《みづか》ら書《か》かなくなり、たゞ都會《とくわい》の大家《たいか》の名作《めいさく》を見《み》て、僅《わづか》に自分《じぶん》の畫心《ゑごころ》を滿足《まんぞく》さして居《ゐ》たのである。
 處《ところ》が自分《じぶん》の二十の時《とき》であつた、久《ひさ》しぶりで故郷《こきやう》の村落《そんらく》に歸《かへ》つた。宅《たく》の物置《ものおき》に曾《かつ》て自分《じぶん》が持《もち》あるいた畫板《ゑばん》が有《あ》つたの[#(を脱カ)の注記]見《み》つけ、同時《どうじ》に志村《しむら》のことを思《おも》ひだしたので、早速《さつそく》人《ひと》に聞《き》いて見《み》ると、驚《おどろ》くまいことか、彼《かれ》は十七の歳《とし》病死《びやうし》したとのことである。
 自分《じぶん》は久《ひさ》しぶりで畫板《ゑばん》と鉛筆《えんぴつ》を提《ひつさ》げて家《いへ》を出《で》た。故郷《こきやう》の風景《ふうけい》は舊《もと》の通《とほ》りである、然《しか》し自分《じぶん》は最早《もはや》以前《いぜん》の少年《せうねん》ではない、自分《じぶん》はたゞ幾歳《いくつ》かの年《とし》を増《ま》したばかりでなく、幸《かう》か不幸《ふかう》か、人生《じんせい》の問題《もんだい》になやまされ、生死《せいし》の問題《もんだい》に深入《ふかい》りし、等《ひと》しく自然《しぜん》に對《たい》しても以前《いぜん》の心《こゝろ》には全《まつた》く趣《おもむき》を變《か》へて居《ゐ》たのである。言《い》ひ難《がた》き暗愁《あんしう》は暫時《しばらく》も自分《じぶん》を安《やす》めない。
 時《とき》は夏《なつ》の最中《もなか》自分《じぶん》はたゞ畫板《ゑばん》を提《ひつさ》げたといふばかり、何《なに》を書《か》いて見《み》る氣《き》にもならん、獨《ひと》りぶら/\と野末《のずゑ》に出《で》た。曾《かつ》て志村《しむら》と共《とも》に能《よ》く寫生《しやせい》に出《で》た野末《のずゑ》に。
 闇《やみ》にも歡《よろこ》びあり、光《ひかり》にも悲《かなしみ》あり麥藁帽《むぎわらばう》の廂《ひさし》を傾《かたむ》けて、彼方《かなた》の丘《をか》、此方《こなた》の林《はやし》を望《のぞ》めば、まじ/\と照《て》る日《ひ》に輝《かゞや》いて眩《まば》ゆきばかりの景色《けしき》。自分《じぶん》は思《おも》はず泣《な》いた。

底本:「定本 国木田独歩全集 第二巻」学習研究社
   1964(昭和39)年7月1日初版発行
   1978(昭和53)年3月1日増訂版発行
   1995(平成7)年7月3日増補版発行
底本の親本:「運命」佐久良書房
   1906(明治39)年3月発行
初出:「青年界」第一卷第二號
   1902(明治35)年8月1日発行
入力:鈴木厚司
校正:小林繁雄
2001年12月21日公開
2004年7月3日修正
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