浅草を食べる—–古川緑波

十二階があったころの浅草、といえば、震災前のこと。中学生だった僕は、活動写真を見るために毎週必ず、六区の常設館へ通ったものだ。はじめて、来々軒のチャーシュウ・ワンタンメンというのを食って、ああ、何たる美味だ! と感嘆した。
 来々軒は、日本館の前あたりにあって、きたない店だったが、このうまかったこと、安かったことは、わが生涯の感激の一つだった。少年時代の幼稚な味覚のせいだったかも知れないが、いや、今食っても、うまいに違いない、という気もする。
 支那料理は、五十番や品芳楼もあったが、何と言っても来々軒が圧倒的だった。
 今の松竹座の横、六区への道に、オーギョチという、これこそは浅草だけにしか無い、不思議な食いものがあった。台湾産の植物からつくったとかいう、ところてんの如き、怪しげな、食いもの(というより飲みものに近い)だった。愛玉只と書いて、オーギョチと読むんだから、よほど不思議なことがお分りだろう。震災後は見かけたが、今はない。
 そのオーギョチの、何とも形容出来ない、甘ずっぱい味を、ふと思い出すことがある。
 みつ豆の舟和も古い。芋ようかん、あん玉の舟和、これは今日まで続いている。
 仲見世まで行くと、観音様へ向って右の裏通りに、だるま、宇治の里などという、今で言えば、大衆向きの料理屋があった。これは中学生以前、まだ子供だったころ、父母に連れられて、よく行った。たまご焼だの、きんとんが、雀躍したい程うまかった。
 震災後の浅草は昭和八年に、笑の王国という喜劇団を結成して、僕は喜劇役者になり、三年間も、毎日浅草に出ていたのだから、ずいぶん、浅草中の食いものには、馴染んだ。
 今半、ちんや、松喜の牛鍋(すきやきとは言わなかった)から、中清、清水、天藤の天ぷら、金田の鳥、と書いていて区役所横丁の雑居屋のシチュウは、うまかったなあ。(俺はどうして、食いもののことになると記憶がいいんだろう?)
 話をもとに戻して、昭和八、九年だ。新仲見世の、みやこという小料理屋、そこが、うまくて安くて、こたえられなかった。鍋ものがよかった。あんかけ豆腐が、十銭だった。僕は、三年間を三日にあけず、みやこへ通ったものだった。戦後は、浅草で再開せず、銀座へ出たが、もはや高級店である。
 浅草独得(ではないが、そんな気がする)の牛めし、またの名をカメチャブという。屋台でも売っていたが、泉屋のが一番高級で、うまかった。高級といっても、普通が五銭、大丼が十銭、牛のモツを、やたらに、からく煮込んだのを、かけた丼で、熱いのを、フウフウいいながら、かきこむ時は、小さい天国だった。
 話は飛んで、戦後の浅草。ところが、僕、これは、あんまり詳しくない。それに、浅草自体が、独得の色を失って、銀座とも新宿ともつかない、いわば、ネオンまばゆく、蛍光灯の明るい街になってしまったので、浅草らしい食いものというのが、なくなってしまった、ということもある。
 鳥の金田も、牛肉のちんやも、天ぷらの中清も、みんな再開したが、それらの店も特に浅草らしい、においは持っていない。
 天ぷらの中清で、思い出した。浅草の食いもの店からスターが何人か生まれている。中清の息子が、新東宝の中村竜三郎。牛肉の米久の娘が松竹の泉京子だ。
 米久の娘さんです、と言って紹介された時、僕は、このグラマーを見ていて、食欲をおぼえた。
 それから、トンカツの香登利の一人息子が歌手の高橋伸。
 浅草から、こんな人たちが巣立ったというのも、時代の波という奴でしょうな。
 浅草が浅草くさくなくなった代りに、銀座に出しても、ひけはとらないというような立派な店も多くなった。喫茶のアンジェラスあたりも、きれいだし、コーヒーは、うまい。洋食店なども高級なのがかなりある。
 が、それにさからうように、浅草式で押し通しているところもあって、洋食のヨシカミ、ぱいちなどは僕愛用の店である。
 が、それらにもまして、片手洋食のベルを忘れてはなるまい。片手とは、五だ。洋食何品によらず一品五十円というんだから、ちょっとおどろいて貰いたい。で、それが決してひどいもんじゃないんだから嬉しい。
 もう一つ、これこそは浅草独特、絶対他にないのが、飯田家の天ぷらのすしだ。
 天ぷらの載っているすし。八個ぐらいあって一人前百円也。味は読者よ、いろいろと想像なさるがよい。

底本:「ロッパの悲食記」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年8月24日第1刷発行
   2007(平成19)年9月5日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2011年11月29日作成
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