国枝史郎

染吉の朱盆—— 国枝史郎

     一

 ぴかり!
 剣光!
 ワッという悲鳴!
 少し間を置いてパチンと鍔音。空には満月、地には霜。[#底本ではこの段落は1字下げになっている]
 切り仆《たお》したのは一人の武士、黒の紋付、着流し姿、黒頭巾で顔を包んでいる。お誂え通りの辻切仕立、懐中《ふところ》手をして反身になり、人なんかァ殺しゃァしませんよ……といったように悠然と下駄の歯音を、カラーンカラン! 立てて向うへ歩いて行く。
 切り仆されたのは手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。手に包を握っている。
 側に屋敷が立っている。立派な屋敷で一軒きりだ。黒板塀、忍び返し、奥に植込が茂っている。周囲は空地、町の灯に遠い。
 その塀に添って、カランカラーン、武士はおちついて歩いて行く。
 塀について左へ曲がった。
 矢張り悠然、矢張り歯音、カラーンカラン! カラーンカラン!
 また塀について曲がった途端、
「御用!」
 捕手《とりて》だ!
 上がったは十手!
 武士、ちっとも驚かなかった。
 佇むとポンと胸を打った。
「へ――」
 と捕方平伏した。
「半刻あまりそこにいろ」
 いいすてて、またもカラーンカラン! 綺麗に歯音を霜夜に立て、そうして肩に満月を載せ、町の方へ行ってしまったのである。
 切り仆された手代風の男、まだヒクヒクうごめいている。
 と、右手から人の足音、雪駄穿きだな、バタバタと聞える。現れたのは職人風の男、死にぞこないにつまずいた。
「おっ!」というとつくばった[#「つくばった」に傍点]。
「しめた!」というと飛び上がった。途端に右手が宙へ躍った。
 と、どうしたんだ、あわてたように「しまった!」と叫ぶと引っ返してしまった。どこへ行ったか解らない。
「あッ、取られた、大事な朱盆!」
 切られた手代風の男の声! そうしてそれなり、死んでしまった。

 数日経った或日のこと、
「ご免下さい」と訪う声。
 人殺しのあった側の屋敷、その玄関から聞えて来た。扮装だけはシャンとしているが、顔に無数の痘痕のある可成り醜い男が立っている。
「はい」と現れたのは小間使い「何かご用でございますか?」
「突然で不躾ではございますが、もしやお屋敷の庭の隅に、朱盆が落ちてはおりませんでした?」
「しばらくお待ちを」と這入って行った。
 引き違いに現れたのは一人の令嬢、「※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たけた」という形容詞が、そっくり当て篏まるような美人であった。
「おたずねの品物、これでございましょう」
 差し出したのは一面の朱盆。
「へい、さようで」
 と醜い男じっと朱盆を眺めやった。
 何んて微妙な深紅の色だ! 金短冊が蒔絵してある。そうして文字が書かれてある。
「こひすてふ」という五文字である。百人一首のその一つの、即ち上の五文字である。
 男、ヒョイと令嬢を見た。と、チラチラと眼の中へ、狂わしい情熱の火が燃えた。
「ご免下さい」と行ってしまった。
 ところがそれから数日経ち、同じようなことが行われた。
 同じ場所で、手代風の男が、スポリと一刀に切られたのである。切り仆したのは同じ武士、矢張り悠然と立ち去ってしまった。かけつけて来たのは職人風の男、
「しめた!」というと躍り上がった。途端に右手が宙へ上った。そうしてそのまま逃げ去ってしまった。
 切られた男の断末魔の声「あッ取られた、大事な朱盆……」
 それも全く同じであった。
 違った所も少しはある。
 当然その夜は満月ではなかった。小雪がチラチラ降っていた。で、道がぬかるんでいた。
 そこでもちろんカラーンカランと、下駄の歯音は響かなかった。
 もっと重大な相違点がある。
(一)捕手がその夜は現れなかったこと。
(二)「しまった!」と職人が叫ばなかったこと。
 だが、それから数日経ち、例の屋敷の玄関へ、例の醜男が現れて、朱盆の有無をたしかめたのは、以前と全く同じであり、その応待も同じであった。
 次ぎの一ヶ条だけは違っているが――。
(一)金短冊に書かれてあった文字が「我名はまだき」とあったことである。

     

 これが四回も続いたのである。
 で、その結果はどうなったか? 手代風の男が四人殺され、朱塗の盆が四枚がところ、※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26]たけた令嬢の手に這入り、短冊の文字を集めると、
「恋すてふ、我名はまだき、立ちにけり、人しれずこそ」
 となったのである。
 令嬢の名は縫様、以来お縫様憂鬱になった。
 四枚の朱盆を前へ並べ、こんな独言をいうようになった。
「ああもう一枚ほしいものだ。そうするとすっかり揃うのに。――恋すてふ我名はまだき立ちにけり人知れずこそ……足りないわねえ。『思ひそめしが』ともう一句、それを記した盆がほしい。それにしても、どうして私の屋敷へ、こんなにも立派な四枚の盆を、誰が何のために投げ込んだのだろう? ――そうしてあの男は何者だろう? 盆の有無しを確めに来ては、持っても行かずに行ってしまう。不思議な眼つきで私を見る」
 もう一枚の盆に対する、執着の念が深くなった。
 そこで、とうとう蒔絵師を呼んだ。
「こんな朱盆ははじめてみます。この朱色は無類です。どんな顔料を使いましたやら。塗も蒔も同じ手です。これも素晴らしゅうございます。私など真似も出来ません。だが作り手は知れています。日本に蒔絵師は沢山あっても、これ程の物を作る者は、染吉のほかにはございません。……ああ染吉でございますか? 谷中の奥に住んでおります。大変な変人でございましてね、自分で作った品物を、人手に渡すのを惜がるのです。で、仲々手に入りません。どんな大金を積んだところで、気に向かないと作りませんので、珍重されておりますよ。だが染吉の作にしても、これは飛切り上等の方で、一代の傑作と申されましょう。……ええと年はまだ若く、二十八の独身者で、それに醜男《ぶおとこ》でございますので女嫌いで通っております。いかに仕事は名人でも、変人の上に醜男ときては、ご婦人方には好かれませんからなあ。それこそあなた、顔と来たら、疱瘡の痕でメチャメチャで」
 これが蒔絵師の挨拶であった。
「ああそれではあの男だ」お縫様は直に感付いた。
「朱盆の有無しを確めに来たあの男が染吉だ」
 そこでお縫様いったものである。
「どんなお望みにでも応じます。『思ひそめしが』と六文字を入れた、[#「、」は底本では「。」]この盆と対の朱塗の盆を、ぜひともおつくり下さいますよう、その名人の染吉さんに、あなたからお頼みして下さいまし」
 翌日蒔絵師はやって来たが、返辞は意外なものであった。
「こう染吉は申しました。『そのお嬢様のお頼みがなくとも、私の方からお作りし、そのお嬢様へ差上げようと、この日頃苦心しているのですが、とても望みは遂げられますまい。まあ見て下さい。この体を! すっかり痩せて衰えて、骨と皮ばかりになりました。実は私はその盆と一しょに、心を捧げようと思っていたので。ああそうです、お嬢様へ……思いそめしが! 思いそめしが!』……お嬢様どうやら染吉は死んでしまいそうでございますよ」
 果して名工染吉は、その後間もなく死んでしまい、お縫様も間もなくなくなってしまった[#「なくなってしまった」は底本では「なくってしまった」]。なくなる間際までお縫様は、最後の盆をほしがった。で、口癖のようにいったそうである。
「思いそめしが、思いそめしが」

「ね、兄貴、話といえば、ざっとこういったものなのさ」
 話し終えた岡引《おかっぴき》の半九郎は、変に皮肉に笑ったものである。
「成る程[#「成る程」は底本では「成る程。」]」といったのは岡八である。
「大して面白い話でもないな」
「どうしてだい、面白いじゃァないか」
「古いありきたり[#「ありきたり」に傍点]の因果物語りさ」
「そうばかりもいわれないよ、遺跡《あと》がのこっているのだからな」
「おおお縫様の屋敷跡か」
「そっくりそのまま残っているのさ」
「住人がないとかいったっけね」
「草茫々たる化物屋敷さ」
「根岸附近だとかいったっけね」
「そうだよ」と半九郎うなずいた。それからまたも変に皮肉に、盗むような笑いを浮かべたが、
「どうだい兄貴、謎が解けるかね?」
 それには返辞をしなかったが、
「十年前の話なんだな?」
「安政二年の物語りさ」

     

 岡八というのは綽名《あだな》である。
「一つの事件をあばこうとしたら、渦中へ飛び込んじゃいけないよ。いつも傍から見るんだなあ。渦の中へ一緒に巻き込まれようなものなら、渦を見ることが出来ないからなあ。ほんとに岡目八目さ」
 これがこの男の口癖である。その本名は綱吉といい、非常に腕っこきの岡引であった。
 一つ二つ例を挙げてみよう。
 一人の女が訴え出た。
「夫が家出をして帰りません」と。
 数日たって女の隣人が、井戸に死人があると訴え出た。
 その女も走って行った。井戸を覗くと叫んだものである。「私の夫でございます」
 そこで岡八が一喝した。
「人殺しは手前だ! ――ふん[#「ふん」に傍点]縛れ!」
 果してその婦《おんな》と情夫とが、共謀して良人を殺したのであった。
「岡目で見りゃァ直《すぐ》判《わか》りまさあ、古井戸の中は暗くてね、死人の形がぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と、やっと見えるくらいのものだったんで、一目覗いて亭主だなんて、どうして判りっこがあるものですかい。殺して置いてぶち込んだんで」
 或家でかんざし[#「かんざし」に傍点]を盗まれた。戸外から入り込んだ形跡はない。二人の下女が疑わしかった。そこで岡八、青麦を二本、二人の下女へやったものである。
「正直者の麦はそのままだが、不正直者の麦は長くなる。明日の朝までに一寸が所な」
 翌日調べると一本の麦は自若、一人の下女の持っていた麦が、一寸がところ摘切られてあった。
「そいつが詰り盗人だったんで、下女なんてものは無知なもので、そんな甘手にさえひっかかりますよ。ほんとに延びると考えて、一寸がところ摘んだんでさあ」
 さてその岡八だが、最近に至って、一つの難事件にぶつかってしまった。
 いい若者が無暗とさらわれ、十数日たつと送り返されて来る。その時はすっかり衰弱している。どうしたと尋ねても真相をいわない。そうして、おまけに、いうのである。
「ああもう一度あそこ[#「あそこ」に傍点]へ行きたい」
 そうして間もなく死んでしまうのである。
 時世は慶応元年で、尊王|攘夷《じょうい》、佐幕開港、日本の国家は動乱の極、江戸市中などは物情騒然、辻切、押借[#「辻切、押借」は底本では「辻切押借」]、放火、強盗、等、々、々といったような、あらゆる罪悪は行われていたが、岡八のぶつかった難事件のようなそんな事件は珍しかった。
「さらわれた先をいわないというのが、何より変梃《へんてこ》[#「変梃」は底本では「変挺」]で見当がつかない」
 全く見当がつかなかった。
 で、この日頃ムシャクシャしていた。
 そんな気も知らずに半九郎奴、十年前の古事件、お縫様屋敷の物語りを、面白くもなく、しゃべり立て謎を解いて見ろというのである。
「で、何かい」と岡八はいった。「その古々しい因果物語りが、はやり出したというのかい?」
「ああそうだよ」と半九郎。「銭湯へ行っても髪結床へ行っても、専《もっぱ》らそいつが評判なのさ」
「で、何かい」と、また岡八「四人までも切った侍が、其まま解らずに消えたのが、面妖だっていうのかい?」
「それからどうして染吉が、燈心の火が消えるように、衰死したかが不思議だというのさ」
「恋病《こいわずらい》だあね、それで死んだのさ」
「そうチョロッかに片付るなら、辻切の方だって片がつく、切りっぱなしで消えたんだとね。……だがそれだけでは済むまいぜ、俺等の商売からいく時はね」
「十年前の出来事じゃァねえか」
「ところがお前そうじゃァないんだ、俺等の仲間で競争的に、その謎解きにかかっているのさ」
「へえ、そいつァ物好きだなあ」岡八一寸眼を見張った。「初耳だよ、そんな話は」
「お前は一人で高くとまり、俺等とあんまりつきあわないからさ」
「それにしても暇の連中だなあ、この小忙しい浮世によ」
「そこで連中はいっているのさ。岡八兄貴なら解けるだろう。もし又こいつ[#「こいつ」に傍点]が解けねえようなら、岡八なんかとはいわせねえとね」
「えらく[#「えらく」に傍点]皆に憎まれたものだな」岡八ニヤリと笑ったが、どうしたものか膝を打った。それからヒョイと※[#「丿+臣+頁」、第4水準2-92-28]《おとがい》をしゃくった。「よし来た、それじゃァ解いてみせよう!」
「え、本当か! そいつァ豪勢だ!」
「しかも、きっと今日明日の中にな」

     

 半九郎が帰ると岡引の岡八、フラリと皆川町の家を出た。
「いや、いい話を耳にした、お縫様屋敷もさることながら、こっちの事件に役立ちそうだ。棚からぼた餅といわれているが、何んの当世棚を覗いたってぼた餅なんかァありそうもねえが、今日はそいつにありついたってものさ、そうはいっても俺の考え、間違っていりゃァ別だがな」
 押し詰った十二月の中旬真昼。歩いている人間が足ばかりに見える。そんなにも急がしく歩いている。そうかと思うと眼ばかりに見える。そんなにもキョロキョロあわただしい。天気はよいが風は強い家々の暖簾《のれん》が刎《は》ねている。
 賑かな町通りへやって来た。
「よしこの辺から探してやろう」
「ごめんよ」といって這入ったのは、店附の立派な古物商。
「へい、いらっしゃい」と小僧の挨拶、そんなものへは返辞もせず、ズンズン奥へ通って行った。
 主人であろう、皮肉そうな爺が、獅噛《しがみ》火鉢にしがみついている。
「へい、いらっしゃい」と上眼をした。冷かし客か買う客か、上眼一つで見究わめるらしい。
「染吉の朱盆ありますかえ?」
「へ、染吉?」ときき返したが「お生憎さまで、ございませんねえ」
「ぜひほしいんだが目っけてくれまいか」
 岡八店先へ腰をかけ、平気で火鉢へ手をかざした。
「ありゃァ滅多に手に入りませんよ」
「いうまでもなく承知だがね、だから一層ほしいのさ」
「あったにしてからが大変な値段で」
「値切りゃァしないよ。大丈夫だ」
「へい、そりゃァまあ、旦那のことですから」
 こういいながらも笑っている。相手にしないという恰好である。当然かも知れない。この時岡八、普段着の姿でやって来た。唐桟《とうざん》の半纏《はんてん》というやつである。そうして口調は伝法だ。だが、もし主人の眼が利いて、その懐中に取縄があり、朱総の十手があると知ったら、丁寧な物いいをしただろう。まして岡八と感づいたら[#「感づいたら」は底本では「感ずいたら」]、茶ぐらい出したに相違ない。
 年が三十五で小作りで、むしろ痩ぎすの岡八は、決して堂々たる仁態ではなかった。
「一体どのくらいするものだな?」岡八チョイと気をひいてみた。
「値段があって、ないようなもので」
「まさか百両とはしねえだろう?」大きな所を吹いてみた。
「そうばっかりもいわれませんよ」主人例によって冷淡である。「お噂によると雲州様では、百五十金でもとめられたそうで」
「ふうん」といったが少し参った。「成る程それではこの爺、俺を相手にしねえ筈だ」
「だが、それにしても値が出たなあ、たかだかお前染吉といえば、十年前の職人じゃァないか」
「初《はな》から数が少ないんで」
「江戸中に一体幾つあるんだろう?」
「日本中に三十とはありますまい」
「ふうん」と又も参ってしまった。「そんなに数がねえのかなあ」
「ひどく若死にをしましたのでね」
「その死に方も変だったそうだな」
「よくご存知で、衰死したそうで」
「縁起でもなく死んだものだな」
「だから一層値が出ました」
「それは一体どういう訳だ?」
「すべて数寄者という者は、箔のついたものを好みますからな」教える[#「教える」は底本では「数える」]ような態度である。
「箔にもよりけり、縁起でもねえ箔だ」
「当今死に絵さえ、はやっております」
「うん、成程」と、又参った。
「こいつァ初手から駄目らしいぞ」岡八しょげざるを得なかった。「ぼた餅は棚にはなかったよ」
 あきらめて立とうとした時である。一人の女が這入って来た。
 小紋縮緬の豪勢なみなり[#「みなり」に傍点]、おこそ[#「おこそ」に傍点]頭巾を冠っているので、顔はハッキリ解らなかったが、たしかに大変な美人らしい。眼が非常に美しい。……非常どころか、とても美しい。……というより寧ろ凄いようだ。魅力! 全くそのもののようだ。
「いらっしゃい」と主人、現金な奴だ、揉み手までしてお辞儀をした。「毎々ごひいき[#「ごひいき」に傍点]にあずかりまして」だが、こいつはお世辞らしい。
「染吉の朱盆、ございましょうか?」
 そうその女がいったものである。
 岡八、当然びっくりした。
「はてな、こいつ面白くなったぞ」
 で、わざと立ち上がり、店の品物をひやかす[#「ひやかす」に傍点]ようにして、女の様子をうかがった。

     

 古物商の主人と女客との会話は、ざっと次ぎのように運んで行った。
「ああ染吉でございますか、へい、ないこともございませんが」
「只今お店にございましょうか?」
「いえ店にはございませんが……心あたりにはございます。……もし何んなら取り寄せて」
「ぜひお願いいたします。幾枚ぐらい手に入りましょう?」
「さようでございますな、三枚ぐらいでしたら……」
「費用はいくらでも構いません、沢山ほしいのでございますよ」
「へい、しかし、三枚以上は……」
「では三枚お願いしましょう。……で、値段は? 一枚の?」
「二十五金ほどでございましょうか」
「では手附を、半分だけ」
「四十金? で……。これはどうも……へい、へい確にお預かりしました。……ええと所で、お住居は?」
「私、いただきに参ります」
「はい、左様で……。これは受取」
「いつ頃参ったら、ようございましょう?」
「さようでございますな……二三日ご猶予……」
「それではよろしく」
「かしこまりました」
 で、女は店を出た。
 怒ってしまったのは岡八である。
「馬鹿にしゃァがる! 一体何んだ!」心で毒吐いたものである。「みなり[#「みなり」に傍点]が悪いとこんな目に会う。百五十両だと吹っかけて置いて、二十五両だっていやあがる。ないといいながら三枚がところ、心あたりがあるというちきしょう[#「ちきしょう」に傍点」本当に張り倒してやるかな。……そうはいっても俺の手には、二十五両でも這入り[#「這入り」は底本では「遍入り」]そうもないなあ。……それにしても一体あの女、何んで染吉の朱盆ばかり、そんなにも沢山ほしがるんだろう?」
 フラリと岡八往来へ出た。すぐ眼の前を女が行く。尾行るという気もなかったが、矢っ張り後をつけて行った。出たところが神保町、店附の立派な古物商があった。
 女が這入って行くではないか。
「おや」と思いながら岡引の岡八、つづいて店へ這入って行った。
 主人と女客との応待は、全く以前と同じであった。
「染吉の朱盆、ございましょうか」
 今はないが取り寄せようという。
 そこで女が手附を払い、受取をとって立ち去ったのである。
「これはおかしい」と岡引の岡八、本式に女をつける気になった。「まるでこのおれの邪魔をしているようだ。先へ廻って染吉の朱盆を、かっ浚《さら》おうとでもしているようだ。曰くがなければならないぞ」
 神保町から一つ橋、神田橋から鎌倉河岸、それから斜《なな》めに本石町へ出、日本橋通を銀座の方へ、女はズンズン歩いて行く。だから、もちろん、岡八も歩いて行かなければならなかった。
 無暗と女は歩くのではなかった。目星しい古物商があると、軒別に這入って訊くのであった。
「染吉の朱盆、ありましょうか?」
 あるといえば手金を打ち、買取る約束をするのであった。
 実際のところ染吉の朱盆は、極めて数が少ないと見え、昼からかけて夕方までに、そうやって女が約束した数は近々五枚に過ぎなかった。尾張町まで来た時である、ふと女は足を止めた。
「またあったかな、古道具屋が?」
 岡八、見廻したが古道具屋はない、江戸で名高い錦絵の問屋、植甚というのがあるばかりであった。
 店先に錦絵が並べてある。沢山の武者絵や風景画や、役者の似顔絵や、美人画など……それを女は見ているのであった。
「朱盆が錦絵に変ったかな?」
 変に思った岡引の岡八、成るだけ女に気取られないように、自分も店先を覗いてみた。
 素晴らしい一枚の死絵がある。
 どうしたものか、それを見ると「うむ!」と岡八唸るようにいった。で女の横顔を見た。何んて微妙な微笑なんだろう? 皮肉で残忍で嘲笑的で、そうして、しかも満足したような、そういったような薄笑いが、女の顔にあるではないか? 眼は死絵を見詰ている。
「やっと前途が明るくなった。俺の見込みは狂わなかった」
 岡八呟いたものである。「よし、こうなりゃァこの女の住居。どんなことをしても突き止めなけりゃァならねえ」
 その時女が歩き出した。
 足早に歩いて行くところを見ると、いよいよ家へ帰るらしい。
 上野山下まで来た時には、すでに宵を過ごしていた。足に自信があると見え、女は駕籠へ乗ろうとさえしない。

     

「大金を持っているだろうに、こんな夜道を女一人で、この押詰った師走空を、恐れ気もなく歩くとは、とても度胸は太いものだ。いよいよ並の阿魔ッ子じゃァねえな」
 ますます不審が強まって来た。
 車坂の方へ歩いて行く。で岡八も、つけて行く。
 養善寺のそばから道が別れる。左へ行けば鶯谷、右へ行けば阪本である。
 何んと女は昼も物凄い鶯谷の方へ行くではないか、
「こいつはどうも大胆だなあ。こうなると俺も考えなけりゃならねえ」
 足をとめたのは、さすがの岡八も、薄っ気味が悪くなったのだろう。
 女はズンズンあるいて行く。直と藪蔭に消えてしまった。
「いけねえ、つけよう、どんなことをしても、たかが女だ、大事はあるまい……」
 で直に追っかけた。
 藪が左右を蔽うている。大木が空を遮っている。昼も薄暗い場所である。今は真の闇で、星さえ見えない。女の足音が遠くでする。
 藪の底まで来た時であった。岡八、何かに躓いた。たじろいた所[#「たじろいた所」に傍点][#「たじろいた所」はママ]を人間の手が、グイと首根ッ子を抑えつけた。
 ギョッとはしたがそこは岡引、スルリと抜けると前へ飛んだ。
「どいつだ」と叫んだものである。
 もちろん姿は見えなかった。しかし商売柄感覚でわかる、たしかに五、六人の男がいる。じっと、こちらを狙っている。
「とうとうこいつ[#「こいつ」に傍点]えらいことになったぞ」懐中へ手をやるとスルリと十手、引出して頭上へ振上げた――来やがれ、ミッシリ、くらわせてやるから! こう決心をしたのである。
「オイ若いの」しばらくの後だ、闇の中から声がした。「じたばたするな、ついて来い! 悪い所へ連れては行かない。途法もねえいい所へ連れて行く。眼の眩むようないい所へな!」
 濁った不快な声である。
 岡八返事をしなかった。出で入る気息をじっと調べ、飛び込んで来るのを待っていた。
「来るな」と思った一刹那、果して一人飛びかかって来た。ガンと一つ! 狂いはない! 手練の十手だ、眉間《みけん》を撲った。
「むっ」といううめき! 倒れる音! 後はシーンと静かである。
 岡八ソロリと位置を変えた。
「鳥渡手強い」とつぶやく声、闇の中から聞えて来た。例の濁った不快の声だ。
 と又一人飛び込んで来た。
 全く同じ手、ガンと一つ! 岡八、相手の眉間を撲った。
「むっ」といううめき! これも同じだ、ぶっ倒れる音! これも同じだ。「二匹どうやら片づけた[#「片づけた」は底本では「片ずけた」]らしい」岡八心で呟いた。「幾匹でも来い、退治てやる」
 そこでソロリと位置を変えた。
 しばらくの間は静かである。
 ボソボソと話す声がした。
「何か相談をしているな、一体幾匹いるんだろう?」
 じいいッと闇をすかして見た。まだ三、四人はいるらしい。
 矢張り感覚、こいつでわかる、その三四人が左右から、どうやら一度にかかるらしい。背後は大藪逃げることは出来ない。いかな岡八でも一人に三、四人、これでは勝目はなさそうであった。
「困ったな、仕方がねえ、勿体ねえが名乗ってやろう」
 そこで叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]《しった》したものである。
「やい、手前達、途法もねえ馬鹿だ! 俺を誰だと思っている! 皆川町の岡八だぞ!」
 果然[#「果然」は底本では「果燃」]こいつは効果があった。
「えッ」という声が先ず聞え「しまった!」という声がすぐ聞えた。
「お逃げよ!」と続いて女の声がした。
 と、バタバタと足音がして、後はシーンだ、静かなものだ。
「よし」というと岡引の岡八、ピタリと地面へ腹這いになった。「根岸の方へ逃げやがった。ふふん」というとヒョイと立った。「いよいよこれで見当がついた」
 ジメジメと肌が汗ばんでいる。カッカッと頭が燃えている。胸の動悸も相当高い。
「闇討ちだったから驚いたのさ。……闇討をするものは岡引だと、昔から相場が決まっているのに、今夜はそいつが逆だったからなあ。……さあて、これからどうしたものだ? まん[#「まん」に傍点]が悪いからひっ返すかな? そうして死絵を調べるとするか? ……だがどうもこれじゃァひっ込みがつかねえ。構うものか。行く所まで行こう」
 根岸の方へ下ったが、忽ち大難にひっかかってしまった。

     

 今日の上根岸、百十八番にあたるあたり、その頃は空地で家などはなかった。
 ところが一軒だけ屋敷があった。
 黒板塀、忍び返し、昔はさぞかしと思われるような寮構えだが大きな屋敷だ。無住で手入れが届かないと見え、随分あちこち破損している、植込などは荒れている。屋敷の周囲には雑草が生え冬だから狐色に枯れている。うっかり歩くと足にからむ。三尺ももっとも[#「もっとも」に傍点]丈延びている。
 これが名高いお縫様屋敷だ。
 そこへやって来た男がある。他ならぬ岡引の岡八だ。
 星空の下に佇んで、見上げ見下ろしたものである。
 それから忍びやかに動き廻った。
 岡引の探偵法、今も昔も大差ない。塀へ横ッ面をおっ付けたのは、家内の様子を窺ったのである。地面を克明に探がしたのは、人が歩いたか歩かなかったか、そいつを調べたに相違ない。三度ばかり屋敷をグルグルと廻わった。忍び込む口を目付けたのだろう。
 屋敷へ背を向けてヒョイとかがんだ。はてな? 何をする気だろう? 一ツポツリ赤いものが見えた。何ん点だ、つまらない、たばこの火だ。
「界隈の奴等は馬鹿揃いだなあ。何んのこいつが無住なものか、人間二十人も住んでいらあ」岡八呟いたものである。「全く御時世は、なげかわしいよ。こんな大変な悪党どもが、こんなにも一所に集まって、大それたことをしているのに、盲目同様気がつかないんだからなあ」二服目のたばこをふかし出した。「そうはいっても俺だって、トンチキでないとはいわれないよ。今日まで気づかずにいたのだからなあ」
「さてこれからどうしたものだ」たばこを喫い切ると考え込んだ。「用心堅固に構えているなら、かえって安々忍び込めるのだが、彼奴等まるで不用心だ。すっかり世間を甞め切っていやがる。それだけにちょっと物凄いよ」
 ポンともう一度煙管を抜き出し、またたばこをすい出した。
「一人で十二人はあげられ[#「あげられ」に傍点]ねえなあ」岡八またも考え込んだ、「帰って若いのをつれて来るかな?」煙管が地面へ落ちたのさえ、気づかない程に考え込んだ。「とはいえ一応中味も見ずに、食らいつくことも出来ないからなあ。……矢っ張り[#「矢っ張り」は底本では「失っ張り」]思い切って忍び込んでやれ。……だが俺は先刻名乗ったんだからなあ。彼奴等用心をしているかもしれねえ。……とそこまで取越苦労をしたら仕事なんか出来ねえということになる。……というものの薄ッ気味が悪い! 普通の悪党じゃァないんだからなあ。……などといっていると夜が明ける。……かまうものか、忍び込んでやれ!」
 塀にピッタリ体をつけさっと捕縄を忍び返しにかけて[#「かけて」は底本では「かけた」]スルスルスルスルとよじ上った。と、もう姿が見えなくなった。岡八、屋敷へ忍び込んだのである。

 その翌日のことである。
「兄貴家かえ」とやって来たのは、他ならぬ岡引の半九郎であった。
「昨日出たきり帰らないよ」
 こういったのは岡八の女房、鳥渡仇めいた女である。
「兄貴としちゃァ珍しいね」
「私も心配しているのさ」
「で、矢っぱりご用でかい?」
「半九郎の奴に鼻あかせてやる、こういいながら出て行ったよ」
 すると半九郎笑い出してしまった。
「アッハハハこいつァ面白え。少し兄貴も若|耄碌《もうろく》をしたな」
「なぜさ?」とお吉《よし》――岡八の女房――怒ったようにきき返した。
「ナーニこっちの話でさ。……あそれじゃあ姐御、また来やしょう」
 往来へ飛出したが吹出してしまった。
「あの物語りの謎解きをしようと、探ぐりに出たとはどうかしているよ。岡八の兄貴もヤキが廻ったなあ。そんな年でもない癖に」
 その翌日のことである、またも半九郎尋ねて来た。
「姐御、兄貴はお家かね?」
「それがさ、半さん、どうしたんだろう、いまだに帰って来ないんだよ」
 お吉の顔に憂色がある。
「へえ」といったが半九郎も、眉の間へ皺を寄せた。
「おかしいなあ、何んてえことだ」
「こんなことめった[#「めった」に傍点]にないんだがねえ」
 お吉いよいよ心配そうである。
「そうだ実際お上のご用で、遠ッ走りをする時の外は、決して泊って来ねえのが、岡八兄貴のいい所でしたね。……ふうむ、こいつァ変梃[#「変梃」は底本では「変挺」]だぞ」腕をこまぬいたものである。

     

 これから半九郎の活動になる。
 道をあるきながら考え込んでしまった。
「俺がああいう話をした。それで兄貴が飛び出した。そうして二晩も帰って来ない。といって真面目なあの兄貴、岡場所にひっかかる筈もない。遠ッ走りをしたのなら、あの仲のいいお吉姐御にあらかじめ話して行く筈だ。ふうん、ふうん、解らねえなあ」
 どうにも見当がつかなかった。
「何んだか[#「「何んだか」は底本では「何んだか」]俺には厭な気がするよ。変事でもありゃァしないかな? 兄貴のことだ、大丈夫だろうが名人の手からだって水は洩れる。――どだい俺等の話を聞いて、飛出して行ったというやつが、その名人の水洩れだからなあ。ふうん、ふうんわからねえなあ」
 矢張りどうにも見当がつかない。
「ええと筋立てて考えてみよう。……兎に角俺等の物語りの、謎解きをしようと出かけたというからこいつはこのまま信じるとして、真っ先にどこへ行くだろう? ……さあ真っ先にどこへゆくだろう?」
 当然なことが思いついた。
「お縫様屋敷へ行くというものさ」
 どうしたものか吹き出してしまった。
「行ったって何があるものか。大きな空家があるばかりさ」
 で、こいつは投げ出すことにした。
「さてこの外にはどこへ行くな?」
 雲を掴むようでわからない。
「こまったな、本当にこまった。……だが……」
 というと考え込んだ。
「だが矢っぱり筋道をたぐろう。お縫様屋敷へ行ってみよう。何か手がかりが目つかるかもしれねえ」
 半九郎スタスタあるき出した。
 上野を廻ると上根岸、お縫様屋敷の前まで来た。
 冬陽が黒塀にあたっている。あれにあれた屋敷である。屋根棟に烏《からす》がとまっている。生物といえばそれだけである。カラッと四方吹きさらしである。一軒の家も附近にはない。
「矢っ張り空家さ。何があるものか」
 呟いたが半九郎念のためだ、グルリと屋敷を巡り出した。
「おっ」
 と俄に立ちどまったのは[#「立ちどまったのは」は底本では「立ちとまったのは」]、雑草の中に見覚えのある、岡八の銀口の太煙管が一本ころがっていたからであった。
 拾い上げたがじっと見た。
「別に変わったこともねえ。ただこいつで解ることは、矢っ張り兄貴がお縫様屋敷へ、さぐりに来たということだけさ。いや待てよ!」
 とギョッとした。
「あッ、いけねえ、こんな筈ァねえ!」音に出して叫んだものである。「あのおちついた岡八兄貴、たとえどんなにあわてようと、煙管を落として行く筈はねえ。……にもかかわらず落ちている……ということであってみれば、大事件があったと見なければならねえ。……うん、ここにほごがある。……うん枯草が敷かれている。……休んで一服したんだな? ……さあてそれから、さあてそれから?」
 半九郎あたりを見廻した。
 眼についたは塀の足跡! いや雪駄の跡である。ヒョイと眼を上げると忍び返しが、二三本外側へ曲っている。
「ははあ兄貴、忍び込んだな」
 眼をつむって考えた。
「お縫様屋敷へやって来た。やって来たからには念のため、内を一応は調べるだろう。まあまあこれは尋常だ。が、煙管が落ちている。たしかに休んだ跡がある。……とすると煙管の落ちたのさえ、感づかない程に熱心に、休んで考えたということになる。その揚句屋敷へ忍んだとすれば、充分何かを見究めた結果、忍び込んだということになる。……こいつァ只の空家じゃァねえぞ!」
 半九郎ゾッと寒くなった。
「待て待て、待て待て、あわてちゃァいけねえ。這入りは這入ったが出て来たかも知れねえ」
 そこで屋敷をもう一度巡った。出たか出ないかは解らなかったが、少なくも「出た」という証拠はなかった。
 表門、裏門、くぐり[#「くぐり」に傍点]の戸、そいつを押しても見たけれど、内から閂《かんぬき》でも下ろされているのか、貧乏ゆるぎさえしなかった。
「さてこれから何うしたものだ?」
 這入ってみようかとも考えた。
「とんでもねえ」
 と直止めた。
「あの岡八の兄貴さえ、呑み込まれた恐しい屋敷じゃァねえか。いかに昼でも俺等一人で、踏ん込んで行くなァ度胸がよすぎる」
「帰って人数を連て来よう」
 急いで引っ返した半九郎、夜になるのを待ち受けて、十数人の乾児《こぶん》を連れ、お縫様屋敷へ忍び込んだ。
 何を彼等は見ただろう。

     

 命を助けられた岡引の岡八、家へ帰って正気づくと、
「もう一度あそこへ行って見てえものだ」
 真ッ先にこういったものである。
 それから又もトロトロと眠った。
 すっかり元気が恢復すると、またノッケにいったものである。
「支那の古事にあるっていうが、ありゃァ日本の纐纈《こうきつ》城だなあ」
 で、それから話し出した。
「半九、お前にゃァ何んといっていいか、半分はお礼、半分は怨みだ。……俺等お前の話を聞くと、ピシッと心に響いたことがあった。染吉の朱盆の真紅の色と、染吉の衰死という奴さ! ……こいつァ紅毛人の話だが、或る画家がいい色を出すため、自分の体から血を取って、絵具がわりに使ったというが、ははあそれでは染吉という男も、朱盆にそいつを使ったかもしれねえ。朱盆がマア、それはそれとして、俺の手掛ている難事件、いい若い者が姿をかくし、帰って来ると衰死してしまう、こいつに宛てはめたらどうだろうとな? どこかに悪い奴が屯していて、人間の生血を、絞るんじゃァないかな? ……で俺は出かけたってものさ。染吉の朱盆を手に入れてみよう、そうしてそいつを蘭医にでも頼んで、血が雑っているか雑っていないか、真ッ先に調べて貰うことにしよう。朱盆さて古道具屋へ行ってみたが、思うように手に入らねえ。数が少なくて高いんだ。ところがどうだろう凄いような美人が、俺等の邪魔でもするように、先廻りをして買い占めるじゃァねえかそうだよ染吉の朱盆をな、こいつ怪しいと思ったので俺等ドンドン後をつけてみた。すると今度はその女が植甚の店先へ立つじゃァねえか! 知っているだろうが卸問屋だ。うん有名な錦絵のな。ところが一枚死絵があった。それが[#「あった。それが」は底本では「あったそれが」]素晴らしい出来栄なのだ。わけても[#「出来栄なのだ。わけても」は底本では「出来栄なのだわけても」]紫色が素晴らしかった。解った[#「素晴らしかった。解った」は底本では「素晴らしかった解った」]と俺は手を拍とうとしたよ! あの紫色は血で描いたものだ! 血という奴ァはじめは赤い。それから[#「赤い。それから」は底本では「赤いそれから」]褐色《かばいろ》になり緑色になる。そうして終に紫色になる。そいつも並の紫じゃァねえ。何んともいえねえ紫だ! ところで死絵は紅毛人どもが今大変な高い金でドンドンドンドン買い入れている。ははあさてはいよいよ以て、悪い奴等がどこかにいて、人間の生血を絞っては、それで死絵をこしらえているな! そうして、恐らくこの女はそいつらの仲間の一人だな? こいつァどうにも逃されねえわい。で、どこまでもつけたってものさ。鶯谷で襲われっちゃった! うん、五、六人の野郎にな! 岡八だと名乗ると逃げてしまったが、根岸の方へ行ったらしい。で、不意に思ったものさ、ははあ、さてはお縫様屋敷に、悪い奴等はいるのだなと! そうして俺は思ったものだ、あの女はおとり[#「おとり」に傍点]だなと! 凄い程奇麗なあの顔で、若い男をそそのかしたら、どんな野郎だってついて行く、鶯谷でとっ捕まえてしまう! それから屋敷へ連て行くのさ、彼奴等の巣窟のお縫様屋敷へな。……で俺等行ってみた。森閑として人気がないとはいえ俺等考えたものさ。たしかに二十人はいるだろうとな! というのはほかでもねえ、さっき現れた人数を、大体のところ六人と見つもり、おっ[#「おっ」に傍点]振って出て来る筈はねえ、半数出て来たと仮に見ると、〆て十二人はいるだろう。そうして現在行方の知れねえ、若い男が八人ある。合わせて二十人になるじゃァねえか。が、それにしても人気がねえ。ナーニこれだって解釈はつく、それ地下部屋という、ありきたりのものを、勘定の中へ入れればな。……思案した揚句忍び込んだが、こいつは一生の失敗だったよ。岡八だと鶯谷で名乗ったんだから、彼奴等だって用心をしていた筈だ。一も二もなくとっ捕まってしまった。……とっ捕まって見て俺等の探索、みんな中たったのを確めたよ! 地下の工場、二十人の人数、錦絵の製造、その上にだ、肥え太っている幾人かの別嬪、ひどく油っこい旨い食物、そうしてギヤマンの無数の吸珠! ……だが本当にいい気持だった。血がドンドン吸い取られる。素っ裸の女が踊りを踊る! 自然自然に眠くなる! ……一人が二十回もやられるんだとよ! 俺等二度目をやられかけた時、半九、お前達が来たってものさ! 馬鹿な野郎だ、なぜ来たんだい! 地獄じゃァねえ極楽だったのに! ……だが随分お前達、彼奴等を相手に戦ったなあ。その揚句地下道から逃げられやがった! え、大将を捕まえたと? ムダなことをしたものさ! ……俺等もう一度あそこへ[#「あそこへ」は底本では「あそこ褄」]行きてえ」
 だが半九郎|笑止《しょうし》らしくいった。
「だがね、兄貴、俺等の話した、あのお縫様屋敷の因果物語りはね……」
「作り話だというのだろう」
「へえ、そいつを知っていたのかえ?」
「あんまり辻褄があっているからさ」

     一〇

 それから岡八嘲るように、ニヤニヤ笑いながらいい出した。
「巧んだ事件というやつは、例えどんなにコンガラガッていても、どこかで辻褄が合うものだ。作り話だって同じだァね。だがあの話は面白かった。旨く辻褄を合わせて見せよう。第一に辻斬の侍だが、ありゃァ将軍家ご連枝の、若殿様と見立てるんだなあ。新刀試しをしたことにするさ。お縫様屋敷のあの辺は、人家がなくて寂しくて、そんなことをするにはいい場所だ。捕方の連中に囲まれた時ポンと胸のあたりを打ったというから、こいつを大いに役たたせよう。葵の御紋があったとするのさ。満月の晩だからよく解らあ。で、捕方の面々ども、手が出せなくて『へー』と平伏……これだけで片がつくじゃァねえか。……切りたおされた手代だが、染吉の朱盆を持っていたとするさ。つまり主人のいいつけで、染吉の所から持って来たのさ。追っかけて来た職人は、当然染吉とするんだなあ。染吉という男名人気質で、自作にひどく愛着を持ち、人に渡すのを厭やがったというから、取り返しに来たと見立てるがいい、手代がそこにたおれている、朱盆をちゃんと持っている、で『しめた!』と叫んだことにするさ。取り返した嬉しさに飛び上がった途端、ヒョイと盆が手から放れ、お縫様屋敷へ飛び込んだとするさ。で『しまった!』と叫んだことにするさ。その時はじめて気がつくと手代の野郎殺されている。で一散に逃げたとするさ。盆に未練がある所から、お縫様屋敷へ取りに行ったが、あんまりお縫様が奇麗だったので、くれる気になって置いて来たとするさ。こいつを四回繰返させるんだあね。武士の辻斬り以前の通りさ、盆の取り返し、以前の通りを、ただし二回目からは、染吉をして、わざと屋敷へ投げ込ませたことにするさ。ああそうだよ、朱盆をな。で『しまった!』とはいわなかったことにするさ。なぜ投げ込んだ? いうまでもないや、恋の心を通わせるためさ。『恋すてふ』というあの歌だが、偶然蒔絵したと解するんだなあ。百人一首を蒔絵にする、有勝のことで不思議はないや。だが染吉はその偶然を、旨く利用したものと解するんだなあ。しかし最後の一枚になって、すっかりへこたれて[#「へこたれて」に傍点]しまったのは、……こいつだけは二通りに解釈出来る。恋病で衰死をし、製造することが[#「製造することが」は底本では「製造するこことが」]出来なかったと、こう解釈をしてもいいし、もし染吉の作った朱盆に、ひょっと人の血が雑《まざ》ってでもいるなら、染吉自身の血だとして、あんまり生血を絞ったんで、衰えて死んだとしてもいい。……兎に角ほんとに染吉という奴は、わけのわからない衰死病で、若死したというからなあ。古道具屋の爺もいっていたよ……どうだアラカタこれでよかろう。スッパリ辻褄は合ったろうがな」
 また笑ったものである。
「お縫様の死はどうするね?」半九郎|凹《へこ》まずきき返した。
「ある大店の娘御が、癆咳《ろうがい》を病って寮住居、年頃だから恋がほしい、そこでぜひとも『思ひそめしが』と、誰かに口説いて貰いたい、そこでその盆をほしがっているうち、病気が進んでなくなられた。癆咳娘の住居した寮だ、借手がないという所で、今日までも空家なのさ。……ということにするがいいさ。ごらんよ、ちゃァんと辻褄が合わあ」
「その話はそれでよいとして、お前のぶつかったその女、凄いほどの美人だということだが、どうして染吉の朱盆ばかりを、そうも買あつめたものだろう?」
「ああ、そいつか、その女がいったよ、『ねえ岡八さん、何も私は、あなたの邪魔をしようとして、染吉の朱盆を集めたんじゃァないよ。どうしたら立派な赤い色を、死絵の中へ出すことが出来るか、その参考に江戸中を廻って染吉の、盆を集めたってものさ。そいつにお前さんが引っかかったのは、少ォしばっかり間抜けだねえ』と。いやはやどうも、これには参った」
「だがオイ」と岡八またいった。「お前の話しがお縫様屋敷の話、みんながみんな嘘でもあるめえ」
「うん」と半九郎苦笑をし「今辻斬がはやるから、辻斬の武士を一枚入れ、染吉の朱盆が値を呼んだというからそこで、そいつを早速取り入れ、お縫様屋敷の物語りを、チョッピリ加えてデッチ上げたってものさ」
「お縫様屋敷の真相は?」
「お縫様という美人がいた。人を恋して死んでしまった。今に執念が残っている。ただこれだけさ、何があるものか」
「だが、よかったよ、お前の話、俺に難事件を片付させてくれた」
「兄貴を担ごうと思ったんだが、まるでアベコベに利用されてしまった」
「どんな話にだって暗示はあるなあ。だがお前にも厄介になった。有難かった、一杯飲もう」

底本:「妖異全集」桃源社
   1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「サンデー毎日」毎日新聞社
   1927(昭和2)年1月
※「くらしっく時代小説10 国枝史郎集」リブリオ出版 1998(平成10)年3月20日初版1刷発行を参照し、底本の数カ所に現れる「」中の「」はすべて『』に統一し、促音が「つ」「ツ」、拗音が「や」と大振りにつくられている箇所はすべて小振りの「っ」「ッ」「ゃ」に統一しました。
※その他、「」や句点(。)の欠け、明らかに誤植と思われる箇所は上記テキストに基づいて修正し、入力者注を付しておきました。
※「いわれませんよ」主人例によって」は底本では「主人」の前で改行し、「主人例によって」の段落が天付きになっていましたが、「くらしっく時代小説10 国枝史郎集」にならって改行を取りました。
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、「くらしっく時代小説10 国枝史郎集」でも同様で正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○たじろいた所:「たじろいだ」の誤植か。
※「綺麗」と「奇麗」の混在は底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:ロクス・ソルス
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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