永井荷風

書かでもの記—– 永井荷風

 身をせめて深く懺悔《ざんげ》するといふにもあらず、唯|臆面《おくめん》もなく身の耻とすべきことどもみだりに書きしるして、或時は閲歴《えつれき》を語ると号し、或時は思出をつづるなんぞと称《とな》へて文を売り酒|沽《か》ふ道に馴れしより、われ既にわが身の上の事としいへば、古き日記のきれはしと共に、尺八《しゃくはち》吹きける十六、七のむかしより、近くは三味線けいこに築地《つきじ》へ通ひしことまでも、何のかのと歯の浮くやうな小理窟つけて物になしたるほどなれば、今となりてはほとほと書くべきことも尽き果てたり。然るをなほも古き机の抽斗《ひきだし》の底、雨漏る押入《おしいれ》の片隅に、もしや歓場《かんじょう》二十年の夢の跡、あちらこちらと遊び歩きし茶屋小屋の勘定書、さてはいづれお目もじの上とかく売女《ばいじょ》が無心の手紙もあらばと、反古《ほご》さへ見れば鵜《う》の目鷹の目。かくては紙屑拾《かみくずひろい》もおそれをなすべし。
 つらつらここにわが売文の由来を顧み尋《たずぬ》るにわれ始めて小説の単行本といふもの出《いだ》せしはわが友|巴山人《はさんじん》赤木君の経営せし美育社なり。数ふれば早《はや》十七年のむかしとなりぬ。巴山人は早稲田出身の文士にて漣《さざなみ》山人門下の秀才なりしが明治三十四年同門の黒田|湖山《こざん》と相図《あいはか》り麹町三番町《こううじまちさんばんちょう》二七不動のほとりに居をかまへ文学書類の出版を企てき。その頃文学小説の出版としいへば殆ど春陽堂一手の専門にて作家は紅葉《こうよう》露伴《ろはん》の門下たるにあらずんば殆どその述作を公《おおやけ》にするの道なかりしかば、義侠の巴山人奮然意を決してまづわれら木曜会の気勢を揚げしめんがために貲《し》を投じ美育社なるものを興し月刊雑誌『饒舌《じょうぜつ》』を発行したり。『饒舌』は寸鉄かへつて人を殺すに足るとて三十二頁の小冊子とし、黒田湖山主筆となりて毎号巻頭に時事評論を執筆し生田葵山《いくたきざん》とわれとは小説を掲げ西村渚山《にしむらしょざん》は泰西名著の翻訳を金子紫草《かねこしそう》は海外文芸消息を井上唖々《いのうえああ》は俳句と随筆とを出しぬ。これと共に美育社は青年小説叢書と題してまづ生田葵山の小説『自由結婚』次に余の拙著『野心』西村渚山の『小間使《こまづかい》』黒田湖山の『大学攻撃』等を出版し、また星野麦人《ほしのばくじん》をして『古今《ここん》俳句大観』四巻を編纂せしめき。翌年美育社ますます業務を拡張し神楽坂上寺町通《かぐらざかうえてらまちどおり》に書籍雑誌の売捌店《うりさばきてん》をも出せしが突然社主赤木君故ありてその郷里に帰らざるべからざるに及び、惜しい哉《かな》事皆中絶するに至りぬ。雑誌『饒舌』は湖山|一人《いちにん》の手に残りて『ハイカラ』と改題せられしが気焔また既往の如《ごとく》なる能《あた》はず幾何《いくばく》ならずして廃刊しき。
 これより先《さき》生田葵山|書肆《しょし》大学館と相知る。主人岩崎氏を説いて文学雑誌『活文壇《かつぶんだん》』を発行せしめ、井上唖々と共に編輯《へんしゅう》のことを掌《つかさど》りぬ。『活文壇』は木曜会|同人《どうじん》の作を発表するの傍《かたわら》汎《ひろ》く青年投書家の投書を歓迎して販売部数を多からしめんことを試みたり。然れども当時この種の投書雑誌には小島烏水《こじまうすい》子の『文庫』、田口掬汀《たぐちきくてい》氏の『新声』等《とう》その勢力|甚《はなはだ》盛なるあり。新刊の『活文壇』は再三上野|三宜亭《さんぎてい》に誌友懇談会を開き投書家を招待し木曜会の文士|交※[#二の字点、1-2-22]《こもごも》文芸の講演を試むる等甚|勉《つと》むる処ありしが、書肆《しょし》早くも月々の損失に驚き文学を疎《うとん》じて赤本《あかほん》を迎へんとするに至つて『活文壇』は忽ち廃刊となりき。
 ここに本町一丁目の金港堂《きんこうどう》明治三十五年の頃突然文学婦人少年等の諸雑誌|並《ならび》に小説書類の出版を広告して世の耳目《じもく》を驚かせしことあり。金港堂といへば人に知られし教科書々類の版元《はんもと》なり。この書肆の資金を以て文芸その他諸雑誌の発行に着手せんかこれまで独天下《ひとりてんか》の春陽堂博文館ともどもに顔色《がんしょく》なからんとわれ人《ひと》共に第一号の発刊を待ちかねたり。やがて現はれたるものを見れば文学雑誌はその名を『文芸界』と称し佐々醒雪《さっさせいせつ》を主筆に平尾《ひらお》不孤《ふこ》草村《くさむら》北星《ほくせい》斎藤《さいとう》弔花《ちょうか》の諸子を編輯員とし巻首にはたしか広津柳浪《ひろつりゅうろう》泉鏡花《いずみきょうか》らの新作を掲げたり。されどこれらの新作さして評壇の問題とならず雑誌はまた徒《いたずら》に尨大なるのみにて一貫せる主張といふものなく甚締りなしとの非難ありき。されば従来の『文芸倶楽部』と『新小説』、依然として一は通俗的に一は専門的なる本来の面目を把持《はじ》して長く雑誌界に覇をとなへ得たり。
 金港堂の『文芸界』は第一号の発刊と共に賞を懸けて長篇小説を募集しぬ。敢て選者の名を公《おおやけ》にせざりしかど醒雪子以下同誌編輯の諸子なりしや明なり。余が『地獄の花』とよべるいかがはしき拙作はこの懸賞に応募したるもの。選に入ること能《あた》はざりしが編輯諸子の認むる所となり単行本として出版せらるるの光栄を得たるなり。原稿料この時七十五円なりき。さてこの折選に入りしもの一等に米光関月《よねみつかんげつ》の『千石岩《せんごくいわ》』二等に斎藤渓舟《さいとうけいしゅう》の『残菊《ざんぎく》』、田口掬汀の某作等ありしと記憶す。これらの作家皆功成り名遂げて早くも文壇を去りしに、思へばわれのみ唯一人今に浮身を衆毀《しゅうき》の巷《ちまた》にやつす。哀むに堪へたりといふべし。
 懸賞小説といへばその以前より毎週『万朝報《よろずちょうほう》』の募集せし短篇小説に余も二、三度味をしめたる事あり。選者は松居松葉《まついしょうよう》子なりしともいひまた故人|斎藤緑雨《さいとうりょくう》なりしといふものもありき。応募者には知名の大家折々|小遣取《こづかいと》りにいたづらするもの多かりし由。当時懸賞小説さまざまありしが中《なか》に『万朝報』の短篇最もすぐれたるを見ればかかる噂もまんざらの根なしごとにはあらざりしが如し。
 金港堂より単行本出せし後はどうやらかうやらわれも新進作家の列に数へ入れらるるやうになりぬ。たしか明治三十六年の春なりしと覚ゆ。新俳優|伊井蓉峰《いいようほう》小島文衛《こじまふみえ》の一座|市村座《いちむらざ》にて近松《ちかまつ》が『寿門松《ねびきのかどまつ》』を一番目に鴎外先生の詩劇『両浦島《ふたりうらしま》』を中幕《なかまく》に紅葉山人が『夏小袖《なつこそで》』を大喜利《おおぎり》に据ゑたる事あり。またこの一座この度の興行にはわれらの知友たりし畠山古瓶《はたけやまこへい》といへる早稲田出身の文士、伊井の弟子となり初めて舞台へ出づべしといふに、いささか気勢を添へんものと或日|風葉《ふうよう》葵山《きざん》活東《かっとう》の諸子と共に、おのれも市村座に赴きぬ。あたかも好《よ》しその日は与謝野鉄幹《よさのてっかん》子を中心とせる明星《みょうじょう》派の人々『両浦島』を喝采《かっさい》せんとて土間桟敷に集れるあり。幕いよいよ明かんとする時畠山古瓶以前は髯むぢやの男なりしを綺麗に剃りて羽織袴《はおりはかま》の様子よく幕外に出でうやうやしく伊井一座この度鴎外先生の新作狂言|上場《じょうじょう》の許《ゆるし》を得たる光栄を述べき。一幕二場演じをはりてやがて再び幕となりし時、わが傍《かたわら》にありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森先生なれ、いで紹介すべしとて、わが驚きうろたへるをも構はずわれを引き行きぬ。われ森先生の謦咳《けいがい》に接せしはこの時を以て始めとす。先生はわれを顧《かえり》み微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言はれき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし。いまだ電車なき世なりしかどその夜《よ》われは一人|下谷《したや》よりお茶の水の流にそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず楽しき未来の夢さまざま心の中《うち》にゑがきつつ歩みて家に帰りぬ。
 かくて『文芸界』をはじめ『新小説』『文芸倶楽部』なぞに原稿を持ち行きても三度に一度はしぶしぶながら買つてくれるやうになりぬ。されど原稿は三月半年と買はれたるまま公《おおやけ》にせられざれば、売名にのみ心あせるものの長く堪《た》ふべき所ならず。ここに詩人|蒲原有明《かんばらありあけ》子新声社の主人と相知れる由《よし》を聞き子を介して新声社に赴《おもむ》き『夢の女』と題せし一作三百枚ほど持てあましたるものをば原稿料は無用なればとて、ここに再び単行本一冊を出版したり。新声社は即《すなわち》いまの新潮社が前名にて当時は神田錦町《かんだにしきちょう》区役所の横手にささやかなる店をかまへゐたり。この一書さして版元の損にもならざりしと見えつづいて『女優ナナ』の出版にこたびは原稿料三拾円を得たり。これ明治三十六年初夏のことにてその年の秋虫の声やうやく繁くなり行く頃われはふと亜米利加《アメリカ》に渡りぬ。
 わが売文のむかしがたりの中《うち》ここに書漏《かきもら》せしはやまと新聞社に雇はれ雑報とつづきもの書きて月々拾弐円を得しことなり。そは明治三十四年なりしと覚ゆ松下某といふ人やまと新聞社を買取り桜痴居士《おうちこじ》を主筆に迎へしよりその高弟|榎本破笠《えのもとはりゅう》従つて入社しおのれもまた驥尾《きび》に附しけるなり。その時まで一年ほどわれは既に人にも語りし如く桜痴居士の門弟となり歌舞伎座にて拍子木打ちてゐたりしが、今の歌右衛門《うたえもん》福助より芝翫《しかん》に改名の折から小紋《こもん》の羽織《はおり》貰ひたるを名残りとして楽屋を去り新聞記者とはなりぬ。過ぎしことなれば身の耻語りついでに語り出せば楽屋通ひよりまたまた二、三年前のことなり。われ講釈と落語に新しき演劇風の朗読を交へ人情咄《にんじょうばなし》に一新機軸を出《いだ》さんとの野心を抱き、その頃朝寝坊むらくと名乗りし三遊派の落語家の弟子となりし事もあり。当今都下の席亭にむらくと看板かかぐるものはその頃の人とは同じからずといふ。
 余のやまと新聞社に入《い》りし時三面雑報欄を受持ゐたるは採菊山人《さいぎくさんじん》と岡本綺堂《おかもときどう》子なりき。採菊山人は即《すなわち》山々亭有人《さんさんていありんど》にして仮名垣魯文《かながきろぶん》の歿後われら後学の徒をして明治の世に江戸戯作者の風貌を窺知《うかがいし》らしめしもの実にこの翁|一人《いちにん》ありしのみ。さればわれ日々《にちにち》編輯局に机を連ねて親しくこの翁の教を受け得たる事今にして思へばまことに涙こぼるる次第なり。岡本綺堂子はその頃|頻《しきり》にユーゴー、ヂュマなぞの伝奇小説を読まれゐたり。子は半蔵門外に居を構へおのれは一番町なる父の家《いえ》に住みければ新聞社の帰途堀端を共に語りつつ歩みたる事度々なりき。子はその頃より甚《はなはだ》謹厳|寡言《かげん》の人なりき。
 日比谷《ひびや》には公園いまだ成らず銀座通《ぎんざどおり》には鉄道馬車の往復《ゆきき》せし頃|尾張町《おわりちょう》の四角《よつかど》今ライオン珈琲店《コーヒーてん》ある辺《あたり》には朝野《ちょうや》新聞中央新聞毎日新聞なぞありけり。やまと新聞社は銀座一丁目の横町いま見る建物なりしかば、表通|岩谷天狗《いわやてんぐ》の煙草店に雇われたる妙齢の女店員《おんなてんいん》いつもこの横町に集りて緋《ひ》の蹴出《けだ》しあらはにして頻《しきり》に自転車の稽古するさま折々目の保養となりしも既に過ぎし世のこととぞなりぬる。女の自転車と馬乗りとはその頃の流行なりしにや吉原品川楼《よしわらしながわろう》の抱《かかえ》が和鞍《わぐら》に乗りての遊山《ゆさん》また新橋芸者《しんばしげいしゃ》が自転車つらねて花見に出かけし噂なぞかしましき事ありけり。
 さてわが新聞記者たりしもわづか半年《はんとし》ばかり社員淘汰のためとやらにて突然解雇の知らせを得たり。わが記者たりし時世に起りし事件にていまに記憶するは星亨《ほしとおる》の刺客《せっかく》に害せられし事と清元《きよもと》お葉《よう》の失せたりし事との二つのみ。新聞記者をやめたる後は再びもとの如く歌舞伎座の楽屋に入《い》らん事を冀《こいねが》ひしかど敬して遠《とおざ》けらるるが如くなりしかばここに意を決し志を改めて仏蘭西《フランス》語稽古にと暁星《ぎょうせい》学校の夜学に通ひ始めぬ。巴山湖山両子の美育社を興せしはあたかもこの年の秋なれば話の順序ここにて初めに立戻るものと知るべし。
『あめりか物語』は明治四十年|紐育《ニュウヨウク》より仏蘭西に渡りし年の冬|里昂《リオン》市ヴァンドオム町《まち》のいぶせき下宿屋にて草稿をとりまとめ序文並に挿絵にすべき絵葉書をも取揃へ市立美術館の此方《こなた》なる郵便局より書留小包にして小波《さざなみ》先生のもとに送り出版のことを依頼したるなり。この稿料いかほどなりしか記憶せず。翌年《よくねん》秋帰国せし時『あめりか物語』は既に市《いち》に出でゐたりき。われは直《ただち》に仏蘭西滞在中及び帰航の船中にものせし草稿を訂正し『ふらんす物語』と名づけ前著出版の関係よりして請《こ》はるるままに再び博文館より出版せしめしが忽ち発売禁止の厄《やく》に会ひてこれより出版書肆との談判|甚《はなはだ》面倒になりけり。わが方《かた》にては最初出版契約の際受取りたる原稿料金百弐拾五円を返済すべしと申送りしを博文館にてはそれだけにてはこの損失はつぐなひがたし出版契約書の第何条とやらに原稿につきて不都合のことあり発行者に迷惑を及《およぼ》したる時は著作者はその責任を負ふべき旨《むね》明記しあれば既に御承知のはずなりと手強《てごわ》く申出で容易に譲らざる模様なればわれはこの喧嘩相手甚よろしからずと思ひそのまま打捨て如何様《いかよう》に申来《もうしきた》るも一切返事せざりき。わが家《や》の玄関には毎日のやうに無性髯《ぶしょうひげ》そらぬ洋服の男来りて高声《こうせい》に面会を求めさうさう留守をつかふならばやむをえぬ故法律問題にするなどと持前《もちまえ》のおどし文句をならべて帰るなぞ言語道断《ごんごどうだん》の振舞度々なりき。博文館編輯局にはその折木曜会の知友多かりき。小波先生は即《すなわち》編輯総長の椅子にあり。『太陽』には浅田空花《あさだくうか》子『中学世界』には西村渚山人《にしむらしょさんじん》『文芸倶楽部』には思案外史石橋《しあんがいしいしばし》氏|各《おのおの》その主筆なりき。これらの人々と会合せし折博文館の文士に対する甚《はなはだ》礼なき事を語りしに、出版課に雇はれゐるものは皆かくの如し物のわかるものは一人もなければ打ちすて置きて心に留めたまはぬがよしといふ。かくて『ふらんす物語』損害賠償の談判は八年に渡りて落着せず大正五年|籾山《もみやま》書店『荷風傑作鈔』なるものを出版し該書《がいしょ》の一部を採録するに至り重ねて懸合《かけあい》面倒とはなりけり。かの薄気味わるき博文館使用人は再び頻々《ひんぴん》としてわが玄関に来りて文句をならぶ。不愉快いふばかりもなし。さすがの余も遂に譲歩してここに旧著に類似したる『新ふらんす物語』なるものの編纂と出版発売を黙許しその代りとして旧著の版権を著者の方へ取り戻すこととなしぬ。されば過般博文館より発売せし『新ふらんす物語』なるものの芸術並に文学上の責任に至つては毫《ごう》も原著者の与《あずか》り知る所にあらず。かの一書は実に原著者の意志に反して出版せられたるものなりかし。この事ありてより余は書肆《しょし》を恐れ憎むこと蛇蝎《だかつ》の如くなりぬ。今の世士農工商の階級既に存せずといへども利のために人の道を顧みざる商賈《しょうこ》の輩《やから》は全く人の最下に位せしめて然るべきなり。
 毎朝勝手口に御用ききに来る出入商人始めはいかにも正直らしく見せ掛け次第々々に品物を落して不正の利を貪《むさぼ》るを常とす、米屋酒屋薪屋皆然らざるはなし。書肆の月刊雑誌を発行するや最初は何事も唯々諾々《いいだくだく》主筆のいふ処に従ふといへども号を追ふに従つてあたかも女房の小うるさく物をねだるが如く機を見折を窺ひ倦《う》まず撓《たゆ》まず内容を俗にして利を得ん事のみ図る。理想は文士の生命にして利は商人の生命よりも首よりも更に大事とする所なり。両者到底水火相容るるものにあらざるはけだしやむをえざるなり。
 わが著書のその筋より発売を禁止せられしもの『ふらんす物語』についで『歓楽』と題せし短篇集あり。後にまた『夏姿』といふものあり。『歓楽』の一篇は初め『新小説』に掲載せし折には何事もなかりし故その頃|飯田町《いいだまち》六丁目に店を持ちたる易風社《えきふうしゃ》の主人に請《こ》はるるままその他の小篇と合せて一巻となし出版せしめたるに忽ち発売禁止となりぬ。易風社はその以前謝礼として壱百円を贈り来りしが発売禁止となるも博文館の如く無法なる談判をなさざる故わが方にても重々《じゅうじゅう》気の毒になりいそぎ『荷風集』一巻の原稿をつぐなひとして送りけり。この著|幸《さいわい》にして版を重ねき。易風社店を閉ぢし時籾山書店『歓楽』の紙型を買取り店員某の名儀を以て再びこれを出版す。然る処この度は何の御咎《おとが》めもなく今に至つてなほ販売せりといふ。
『夏すがた』の一作は『三田文学』大正四年正月号に掲載せんとて書きたるものなりしが稿成るの後|自《みずか》ら読み返し見るにところどころいかがにやと首をひねるべき箇所あるによりそのまま発表する事を中止したりしを籾山書店これを聞知り是非にも小本《こぼん》に仕立てて出版したしと再三店員を差遣されたればわれもその当時は甚《はなはだ》眤懇《じっこん》の間柄むげにもその請《こい》を退《しりぞ》けかね草稿を渡しけり。然れどもその折出版届にわが名は出《だ》すまじ万一の事ありても当方にては一切責任を負はざればその辺よくよく御承知あれと念に念を押してやりけり。果せるかなこの小冊子発売禁止となりしのみか、籾山書店はその筋へ始末書を取られ厳しきお叱を蒙りけり。籾山書店今に折々人に語りて永井さんのおかげでは度々ひどい目に逢ひますと。かくては罪まつたく作者にあるが如し。
 寛政のむかし山東庵京伝《さんとうあんきょうでん》洒落本《しゃれぼん》をかきて手鎖《てぐさり》はめられしは、板元《はんもと》蔦屋重三郎《つたやじゅうざぶろう》お触《ふれ》にかまはず利を得んとて京伝にすすめて筆を執らしめしがためなりといひ伝ふ。とかくに作者あまり板元と懇意になるは間違のもとなり。
『伊波伝毛乃記《いわでものき》』といふものあり。これ曲亭馬琴《きょくていばきん》暗《あん》に人を誹《そし》りて己《おの》れを高《たこ》うせんがために書きたるものなりとか。おのれがこの『嘉加伝毛乃記《かかでものき》』いささか名は似たれどもゆめゆめさる不都合の下心あるにあらず。書かでもよきこと書くは唯いつもの筆くせとしかいふ。

 このごろ雑誌『新潮』の記者見るにも足らぬわが著作を採《と》りこれを基《もとい》として余が文学年表なるものを編輯し該誌上《がいしじょう》に掲載すべければとて過ぎし日のことどもさまざま問合せ来りぬ。これによりて日頃は全く忘れ果てたりし事どもここに再び思浮ぶる節々多くなりぬ。
 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、『簾《すだれ》の月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町《うしごめやらいちょう》なる広津柳浪《ひろつりゅうろう》先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしが一《ひと》ツ橋《ばし》なる校舎に赴《おもむ》く日とては罕《まれ》にして毎日飽かず諸処方々の芝居|寄席《よせ》を見歩きたまさか家《いえ》にあれば小説俳句漢詩狂歌の戯《たわむれ》に耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念|漸《ようや》く押へがたくなりければ遂に何人《なんびと》の紹介をも俟《ま》たず一日《いちにち》突然広津先生の寓居《ぐうきょ》を尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしは予《あらかじ》め電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中《いまどしんじゅう》』、『黒蜥蜴《くろとかげ》』、『河内屋《かわちや》』、『亀さん』等《とう》の諸作は余の愛読して措《お》く能《あた》はざりしものにして余は当時|紅葉《こうよう》眉山《びざん》露伴《ろはん》諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂《かぐらざか》を上りて寺町通《てらまちどおり》をまつすぐに行く事|数町《すうちょう》にして左へ曲りたる細き横町《よこちょう》の右側、格子戸造《こうしどづくり》の平家《ひらや》にてたしか門構《もんがまえ》はなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木|尠《すくな》からず手水鉢《ちょうずばち》の鉢前には梅の古木の形面白く蟠《わだかま》りたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人|長谷川濤涯《はせがわとうがい》机を置きぬ。)それより四|枚立《まいだて》の襖《ふすま》を境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。床《とこ》の間《ま》には遊女の立姿《たちすがた》かきし墨絵の一幅《いっぷく》いつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張《いっかんばり》の極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳の間《ま》との境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生《へいぜい》物に頓着《とんじゃく》せず襟懐《きんかい》常に洒々落々《しゃしゃらくらく》たりしを知るに足るべし。
 初めて余のおそるおそる格子戸|明《あ》けて案内を乞ひし時やや暫くにして出で来《きた》られしは鼻下に髭《ひげ》を蓄《たくわ》へし四十年配の眼《まなこ》大きく色浅黒き人なりき。その様子その年配正しくこの家《や》の主人《あるじ》らしく見ゆるにぞ、この人こそわが崇拝する『今戸心中』の作者なるべけれと思へば、俄《にわか》にをののく胸押静め、漸くに名刺差出し突然ながら先生にお目にかかりたき由|言出《いいい》でしに髭ある先生らしき人は訳もなく主人《あるじ》は唯今不在なれば帰宅次第その趣《おもむき》申伝ふべしといはるるに我は是非なくさらば明朝また御邪魔にお伺ひ致すべしとそのまま格子戸を立去りしが、どうも今の人が柳浪先生らしき気がしてならぬ故そつと建仁寺垣《けんにんじがき》の破《や》れ目より庭越しに内の様子を窺へば、残暑なほ去りやらぬ九月の夕暮とて障子《しょうじ》皆|明《あ》け放ちし座敷の縁先《えんさき》、かの髭ある人は煙草盆引寄せ悠々《ゆうゆう》として煙草のみつつ夕風さそふ庭打眺めつ。さてはわが想像にたがはざりけり。何人《なんびと》の紹介状をも持参せず突然たづね行きける故主人自ら立出でしまま不在といひて謝絶せしなるべし。かくてはわが熱心の先生に通ぜん日まで幾度《いくたび》となく尋ね行くより外に道なしと翌日の夕暮再び案内を乞ひしにこの度は女中らしき媼《おうな》取次に出でて直《ただち》に此方《こなた》へと奥の間に通されぬ。見れば床の間の前なる一閑張の机に物書きゐる人あり筆を擱《お》きて此方に向直《むきなお》らるるに、昨日《きのう》取次に立出でられし人に瓜二つともいふべきほどよく似たれども、近く対座して重ねてよくよく見れば年も少しく若く身体《からだ》つきもまたすこし痩せたる別人なり。後日に至りて先生の話に聞けば取次に出でし人は先生の令兄《れいけい》にて日頃地方を旅行せらるる肖像画家なりとの事なりき。
 さてその夕《ゆうべ》われは是非にも門人となりたき由懇願せしに先生なかなか承知したまはず、小説家なぞにならんと思立つは大《だい》なる心得違なり、君今学業を放擲《ほうてき》してかかる邪道に踏み迷はば他日必ず後悔|臍《ほぞ》をかむ事あらん文筆を好まば唯正業の余暇これをなして可なりかつはまたわれは尾崎や川上とは異なりてかの人々の如く多く門生を養ひ教ふるの煩《はん》に堪《た》へざるものなり、今までも度々人に頼み込まれし事あれど皆ことわりぬ。されば到底貴下の満足する如く丁寧に教ふる事は叶《かな》ひがたかるべし。もしそれにてもよければやむをえざる故唯折々|暇《いとま》あらん時遊びに来《きた》られよ。我もまたいそがしからずば君が草稿の字句|仮名遣《かなづかい》の誤ぐらゐは正すことを得べしといはれけり。わがよろこび誠に筆紙のつくすべき処ならず幾重《いくえ》にもよろしくとてその日は携へ来りし草稿『簾《すだれ》の月』一篇を差置きもぢもぢして帰りけり。
 柳浪先生の繍眼児《めじろ》を飼ひて楽しみとせられしはあたかも余の始めて先生を見たりしその頃より始まりしなり。最初『簾の月』一篇を置きて帰りし折には胸のみとどろきし故にや小鳥の籠の有無《うむ》には更に心もつかざりしが、その後重ねて教を乞ひにと行く度々鳥籠は一ツ二ツと増《ふ》え来《きた》りてその年の冬には六畳の間の片隅一間の壁に添ひて繍眼児の籠はさながら鳥屋の店の如く積重ねらるる事二、三段にも及びやがて鶯の籠さへかの墨絵の遊女が一幅かけたる薄暗き床の間に二ツまで据ゑ置かれぬ。先生がその内相《ないしょう》を失はれたるはこの前年なりしといふ。されば守るにその人なき家の内何となく物淋しく先生独り令息|俊郎《としお》和郎《かずお》の両君と静に小鳥を飼ひて娯《たのし》みとせられしさまいかにも文学者らしく見えて一際《ひときわ》われをして景仰《けいこう》の念を深からしめしなり。それより後明治三十六年に及びてわれ亜米利加《アメリカ》に渡らんとするの時|暇乞《いとまご》ひに赴きし折には先生は麻布龍土町《あざぶりゅうどちょう》に居《きょ》を移され既に二度目の夫人を迎へられたりき。
 先生が矢来町の閑居には小鳥と共に門人もまた加はり来りぬ。最初に長谷川濤涯君次に中村春雨《なかむらしゅんう》君また女流の作家にてその名失念したれど妙齢の人代る代るかの六畳の間に机を据ゑたり。余は一番町《いちばんちょう》なる父の家より一週に一、二度は欠かさず草稿を携へて通ふ中やや読むに足るべきもの二、三篇先生の添刪《てんさく》を経たる後博文館または春陽堂の編輯局に送られき。これと共にわれはまた川上眉山、小栗風葉、徳田秋声等の諸先輩折々矢来の閑居に来《きた》るを見ておのづから辱友《じょくゆう》となることを得るに至れり。かくて明治三十二年七月わが小説『薄衣《うすごろも》』と題せし一篇柳浪先生合作の名義にて初めて『文芸倶楽部』の誌上に掲げられたり。当時文壇に勢力ある雑誌はいづれも新作家が作を掲ぐる事を好まざりしよりかくは先生の許を得てその名を借用せしなり。この年朝日新聞記者|栗島狭衣《くりしまさごろも》君|牛込下宮比町《うしごめしもみやびちょう》の寓居に俳人|谷活東《たにかっとう》子と携提《けいてい》して文学雑誌『伽羅文庫《きゃらぶんこ》』なるものを発行せんとするや矢来に来りて先生の新作を請へり。時に先生|筆硯《ひっけん》甚《はなはだ》多忙なりしがため余に題材を口授《こうじゅ》し俄《にわか》に短篇一章を作らしむ。この作『夕蝉《ゆうせみ》』と題せられ再《ふたたび》合作の署名にて同誌第一号に掲げられぬ。『伽羅文庫』は二号を出すに及ばずして廃刊しき。
 その頃わが一番町の書斎に大山吾童《おおやまごどう》とよぶ人しばしば遊びに来りぬ。当時尺八の名人|荒木竹翁《あらきちくおう》の門人にて吾童といふはその芸名なり。余もまた久しく浅草代地《あさくさだいち》なる竹翁の家また神田美土代町《かんだみとしろちょう》なる福城可童《ふくしろかどう》のもとに通ひたる事あり度々『鹿《しか》の遠音《とおね》』『月の曲』なぞ吹合せしよりいつとなく懇意になりしなり。この人生れてより下二番町《しもにばんちょう》に住み巌谷小波《いわやさざなみ》先生の門人とは近隣の誼《よしみ》にて自然と相識《あいし》れるが中《うち》にも取りわけ羅臥雲《らがうん》とて清人《しんじん》にて日本の文章俳句をよくするものと親しかりければ互に往来する中われもまた羅君と語を交《まじえ》るやうになりぬ。羅氏俳号を蘇山人《そさんじん》と称す。大清《だいしん》公使館通訳官|浙江《せっこう》の人|羅庚齢《らこうれい》の長子なり。この人或日の夕|元園町《もとぞのちょう》なる小波先生の邸宅に文学研究会あり木曜日の夜|湖山《こざん》葵山《きざん》南岳《なんがく》新兵衛《しんべえ》なんぞ呼ぶ門人多く相集まれば君も行きて見ずやとてわれを伴ひ行きぬ。これ余の始めて木曜会に赴《おもむ》きしいはれなり。木曜会の事はここにいはずとも既にその主人が手記せるもの『駒《こま》のいななき』といふ書の中に掲げられたれば就きて看《み》るこそよけれ。

 乙羽《いつう》庵主人大橋氏|逝《ゆ》きて後《のち》『文芸倶楽部』の主筆に三宅青軒《みやけせいけん》といふ小説家ありけり。日頃人に向ひて『文芸倶楽部』はわれを戴きて主筆とせしより忽《たちまち》発行部数三、四万を越《こゆ》るに至れりと誇顔《ほこりがお》に語るを常としき。また人の文学を談ずる事あれば当今小説家と称するもの枚挙に遑《いとま》あらざれど真に文章をよくするものに至つてはもし向島《むこうじま》の露伴《ろはん》子を措《お》きなば恐らくは我右に出《いづ》るものあらざるべしと傍若無人《ぼうじゃくぶじん》しきりに豪語を放ちて自ら高うせしかば新進気鋭の作家一人として青軒を憎まぬものはなかりけり。されど『文芸倶楽部』によりてその作を発表せんには是非にも主筆の知遇を待たざるべからずとて怒を忍び辞を低うして虎の門|外《そと》なるその家を訪《と》ふものも尠《すく》なからず。一日《いちにち》おのれも菓子折に生田葵山《いくたきざん》君の紹介状を添へ井上唖々《いのうえああ》子と打連れ立ちて行きぬ。日頃噂に聞く大家の事なれば最初はまづ門前払なるべしと内々覚悟せしにわけもなく二階の書斎に通され君らは巌谷の門生なりとか。これまでに何か書きたる事ありやと話は容易《たやす》く先方より切出されぬ。唖々子はその頃|頻《しきり》に斎藤緑雨が文をよろこび雅号を破垣花守《やれがきはなもり》と称ししばしば緑雨が『おぼえ帳』に似たるものを作りゐたり。この夜《よ》も一文を懐中にせしままおそるおそる取出《とりいだ》して閲覧を請ひけるに青軒子仔細らしく打見て墨を濃く摺り書体を叮嚀《ていねい》に書かるるは若き人に似ず感心なりとそれよりそろそろ世の新進作家なるものの生意気なる事をさまざま口ぎたなく痛罵したる後君たち文章を書かんと思はば何はさて置き漢文をよく読み給ふべしそれも韓柳《かんりゅう》の文のみにて足れりといふにあらず艶史《えんし》小説の類《たぐい》殊に必要なり。されば支那小説の事に関してはわれもまた露伴子と共に決して人後に落つるものならずと言ふ。唖々子はかつて文学博士|島田篁村《しまだこうそん》翁の家塾にあり漢学の素養浅からざるの人。おのれもまたいはゆる門前の小僧習はざれども父より聞《きき》かじりたる事なきにあらざりしかば問はるるがままに聊《いささ》か答ふる処ありしにぞ大《おおい》に青軒翁の信用を博しその夜《よ》携へ行きける我が原稿は唖々子のものと共に即座に『文芸倶楽部』誌上に掲載の快諾を得たりき。
 この青軒先生こそはやがてわれをば桜痴《おうち》居士|福地《ふくち》先生に紹介の労を取られし人にてありけれ。されどこの度《たび》の訪問は初めて硯友社《けんゆうしゃ》の諸先輩を歴訪せし時とは異りて容易に望を遂ぐる事能はざりけり。福地先生の邸《てい》はその時|合引橋《あいびきばし》手前|木挽町《こびきちょう》の河岸通《かしどおり》にて五世音羽屋《ごせいおとわや》宅の並びにてありき。一番町のわが家《や》よりかしこまでは電車なければかなりの遠路なりしを歩み歩みて朝八時頃われは先生が外出したまはざる前をと思ひて三、四度、また夕刻帰邸の時分をはかりて五、六回、先づ青軒翁が紹介状を呈出し面談の栄《えい》を得ん事を請願せしが、或時は不在或時は多忙或時は不例《ふれい》或時は来客中とばかりにて遂に望の叶ふべき模様もなかりけり。さすがの我も聊《いささ》か疲労しかつはまたこの上|強《し》ひんには礼を失するに至らん事を虞《おそ》れせめてわが芝居道熱心の微衷《びちゅう》をだに開陳し置かばまた何かの折宿望を達するよすがにもなるべしと長々しき論文一篇を草しそつと玄関の敷台に差置きて立ち去りぬ。やがて半月あまりを経たりしに突然福地家の執事|榎本破笠《えのもとはりゅう》子より予《かね》て先生への御用談一応小生より承《うけたまわ》り置《おく》べしとの事につき御来車ありたしとの書面に接し即刻番地を目当に同じく木挽町の河岸通なる破笠子が寓居に赴きぬ。これ明治三十三年わが二十二歳の夏なりき。
 さて破笠子はおのれが歌舞伎座作者部屋に入り芝居道実地の修業したき心底|篤《とく》と聞取りし後|倶《とも》に出でて福地家に至り勝手口より上りてやや暫くわれをば一間《ひとま》に控へさせけるがやがてこなたへとて先生の書斎と覚しき座敷へ導きぬ。川風凉しき夏の夕暮は燈火《とうか》正に点ぜられし時なり。福地先生は風呂より上りし所と見えて平袖中形牡丹《ひらそでちゅうがたぼたん》の浴衣《ゆかた》に縮緬《ちりめん》の兵児帯《へこおび》を前にて結び大《だい》なる革蒲団の上に座し徐《おもむろ》に銀のべの煙管《キセル》にて煙草のみてをられけり。破笠子は恭《うやうや》しく手をつき敷居際《しきいぎわ》よりやや進みたる処に座を占めければ伴はれしわれはまた一段下りて僅に膝を敷居の上に置き得しのみ。破笠子の口添を待ちわれは今夕《こんせき》図《はか》らず拝顔の望を達し面目《めんもく》この上なき旨申述ぶる中にも万一先生よりわが学歴その他の事につきて親しく問はるることあらば何と答へんかなぞ宛《さなが》ら警察署へ鑑札受けに行きし芸者の如く独り胸のみ痛めけるが、先生は更にわが方《かた》には見向きもしたまはず破笠子を相手に今朝《こんちょう》巴里《パリー》の川上《かわかみ》[#割り注]壮士役者音二郎が事なり[#割り注終わり]より新聞を郵送し来《きた》れりとて巴里劇界の消息を語出《かたりいだ》されぬ。かくて三十分ばかりにて我は再び破笠子に伴はれ福地家を辞して帰りしがそれより三、四日にして歌舞伎座盆興行の稽古となるやわれはここに榎本氏|請人《うけにん》にて歌舞伎座へ証文を入れいよいよ梨園《りえん》の人とぞなりける。証書の文言《もんごん》左の如し。

   一 私儀《わたくしぎ》狂言作者志望につき福地先生|門生《もんせい》と相成《あいなり》貴座《きざ》楽屋へ出入被差許候上者《でいりさしゆるされそうろううえは》劇道の秘事楽屋一切の密事|決而《けっして》口外|致間敷《いたすまじく》候|依而《よって》後日《ごじつ》のため一札如件《いっさつくだんのごとし》
 
 歌舞伎座稽古は後々《のちのち》まで三階運動場を使用するが例なり。稽古にかかる前破笠子より葉書にて作者部屋のものを呼集め手分《てわけ》なして書抜《かきぬき》をかく。当日われは破笠子より作者の面々に引合されつづいて翌日|本読《ほんよみ》にと先生出勤の折には親しく皆のものへよろしく頼むとの一言《いちごん》これまことに御前《ごぜん》の御声掛りにして作者の面々|自《おのずか》らわれをば格別の客分たらしめんとするにぞわれは破笠子に計《はか》りて客分の待遇は小生の願ふ所にあらず旦那芸はかへつて甚《はなはだ》しき耻辱なれば何卒《なにとぞ》楽屋古来の慣例に従ひ寸毫の遠慮なく使役せられん事を請《こ》うて止まざりしかば破笠子さればとて重ねて先生へ申上げわれをば竹柴七造《たけしばしちぞう》といふ作者の預弟子《あずけでし》となしこの人より楽屋万端の心得|拍子木《ひょうしぎ》の入れ方など見習ふ事となしぬ。時に歌舞伎座作者部屋には榎本氏を除きて四人の作者あり。竹柴七造|竹柴清吉《たけしばせいきち》は黙阿弥《もくあみ》翁の直弟子《じきでし》にて一は成田屋|付《づき》一は音羽屋付の狂言方《きょうげんかた》とて重《おも》に団菊《だんきく》両優の狂言|幕明《まくあき》幕切《まくぎれ》の木《き》を受持つなり。他に竹柴賢二《たけしばけんじ》浜真砂助《はままさすけ》といふ作者ありき。賢二といへるは寺内河竹新七《じないかわたけしんしち》の弟子なればなほ血気盛《けっきざかり》の年頃なりしが真砂助は先代|瀬川如皐《せがわじょこう》の弟子とやらよほどの高齢なるに寒中も帽子を冠《かぶ》らず尻端折《しりはしょり》にて向脛《むこうずね》を出し半合羽《はんがっぱ》日和下駄《ひよりげた》にて浅草山《あさくさやま》の宿辺《しゅくへん》の住居《すまい》より木挽町楽屋へ通ひ衣裳|鬘《かつら》大小《だいしょう》の道具帳を書きまた番附表看板|等《とう》の下絵を綺麗に書く。この老人|猿若町三座表飾《さるわかまちさんざおもてかざり》の事なぞ委《くわ》しく知りゐたり。
 さてわが始めて劇部の人となり親しく稽古を見たりし盆興行は団菊両優は休みにて秀調《しゅうちょう》染五郎《そめごろう》家橘《かきつ》栄三郎《えいざぶろう》松助《まつすけ》ら一座にて一番目は染五郎の『景清《かげきよ》』中幕《なかまく》は福地先生新作長唄|所作事《しょさごと》『女弁慶《おんなべんけい》』(秀調の出物《だしもの》)二番目家橘栄三郎松助の「玄冶店大喜利《げんやだなおおぎり》」家橘栄三郎の『女鳴神《おんななるかみ》』常磐津《ときわず》林中《りんちゅう》出語《でがた》りなりき。作者見習としてのわが役目は木の稽古にと幕ごとに二丁《にちょう》を入れマハリとシヤギリの留《とめ》を打つ事幕明幕切の時間を日記に書入れ、楽屋中へ不時の通達なすべき事件ある折には役者の部屋々々大道具小道具方衣裳|床山囃子方等《とこやまはやしかたとう》楽屋中漏れなく触れ歩く事等なり。着到《ちゃくとう》の太鼓打込みてより一日の興行済むまでは厳冬も羽織を着ず部屋にても巻莨《まきタバコ》を遠慮し作者部屋へ座元《ざもと》もしくは来客の方々見ゆれば叮嚀に茶を汲みて出しその草履《ぞうり》を揃へまた立作者《たてさくしゃ》出頭《しゅっとう》の折はその羽織をたたみ食事の給仕をなし始終つき添ひ働くなり。わがしばしば草履をそろへ茶を汲みて出《だ》せし楽屋のお客様には大槻如電《おおつきじょでん》永井素岳《ながいそがく》などありけり。
 九月となりてわれはここに初めて団菊両優の素顔《すがお》とその稽古とを見得たり。狂言はたしか『水戸黄門記《みとこうもんき》』通《とお》しにて中幕「大徳寺《だいとくじ》」焼香場《しょうこうば》なりしと記憶す。団十郎はその年春興行の折病に罹《かか》り一時は危篤の噂さへありしほどなればこの度菊五郎との顔合大芝居《かおあわせおおしばい》といふにぞ景気は蓋《ふた》を明けぬ中より素破《すば》らしきものなりけり。つづいて十一月には一番目『太功記《たいこうき》』馬盥《ばだらい》より本能寺《ほんのうじ》討入まで団洲《だんしゅう》の光秀《みつひで》菊五郎|春永《はるなが》なり中幕団洲の法眼《ほうげん》にて「菊畑《きくばたけ》」。菊五郎の虎蔵福助《とらぞうふくすけ》の息女を相手にしての仕草《しぐさ》六十|余《よ》の老人とは思へぬほど若々しく水もたれさうな塩梅《あんばい》さすがに古今の名優と楽屋中にても人々驚嘆せざるはなかりけり。二番目は菊五郎の「紙治《かみじ》」これは丸本《まるほん》の「紙治」を舞台に演ずるやう河竹新七《かわたけしんしち》のその時|新《あらた》に書卸《かきおろ》せしものにて一幕目《ひとまくめ》小春《こはる》髪《かみ》すきの場《ば》にて伊十郎《いじゅうろう》一中節《いっちゅうぶし》の小春をそのまま長唄《ながうた》にしての独吟あり廻つて河庄茶屋場《かわしょうちゃやば》となる二幕目《ふたまくめ》は竹本連中《たけもとれんじゅう》出語《でがたり》にてわれら聞馴れし炬燵《こたつ》の場《ば》引返《ひきかえ》して天満橋太兵衛殺《てんまばしたへえごろし》の場《ば》となる。当時の劇界いまだ鴈治郎《がんじろう》を知らず「紙治」はいと珍しきものなりしが如し。菊五郎と鴈治郎とはもとより雲泥《うんでい》の相違あるものなれば並べていひ出《いづ》るは誤りなれども近頃鴈治郎を見馴れし目より当年の菊五郎を思へば幕明きし時|定木《じょうぎ》を枕に後向《うしろむ》きに横はりし音羽屋《おとわや》の姿は実に何ともいへたものにはあらず小春が手を取りよろよろと駆け出で花道《はなみち》いつもの処にて本釣《ほんつり》を打ち込み後手《うしろで》に角帯《かくおび》引締め向《むこう》を見込むあたり全く二度とは見られぬものなりけり。この狂言|書卸《かきおろし》の事とて稽古に念を入れし事到底|今人《こんじん》の思ひも及ばぬ処なるべし。書抜の読合《よみあわせ》済みし日音羽屋は茶屋|三州屋《さんしゅうや》二階に竹本相生太夫《たけもとあいおいたゆう》を招き置きて「紙治」一段を語らせこれを登場俳優一同に傾聴せしめ、なほ浄瑠璃すみし後《のち》は親しく役々《やくやく》言葉の語りやうをば太夫へ質問するなぞ苦心のほど察するに余《あまり》あり。初日を出せし後にも二、三度|合方《あいかた》を替へそれにてもなほ落ちつかぬ模様なりけり。
 芸談に耽らば限りなき事なれば筆をとどむ。歌舞伎座今は殆《ほとんど》その外観を変じたれど元より改築したるにあらねば楽屋の部屋々々今なほかつてわが見たりし当時に異ならず。十年の後われ遠国《えんごく》より帰来してたまたま知人をここに訪ふや当時の部屋々々空しく存して当時の人なく当時の妙技当時の芸風また地を払つてなし正に国亡びて山河《さんが》永《とこしえ》にあるの嘆あらしめき。長々しく昔をのみ語るの愚を笑ふ勿《なか》れ。当時楽屋口を入りて左すれば福助松助の室《しつ》あり右すれば直《すぐ》に作者|頭取《とうどり》部屋にして八百蔵《やおぞう》の室これに隣りす。それより小道具衣裳方あり廊下の端《はずれ》より離れて団洲《だんしゅう》の室に至る。小庭《こにわ》をひかへて宛然《さながら》離家《はなれや》の体《てい》をなせり。表梯子《おもてはしご》を上《のぼ》れば猿蔵《さるぞう》染五郎|二人《ににん》の室あり家橘栄三郎これに隣してまた鏡台を並ぶ。それより床山を間にして間口《まぐち》甚《はなはだ》ひろきものは即《すなわち》菊五郎の室にして隣りは片岡市蔵《かたおかいちぞう》それよりやがて裏梯子の降口《おりくち》に秀調控へたりき。三階は相中大部屋《あいちゅうおおべや》なればいふに及ばざるべし。団八梅助頭取をつとめき。

 四 

 秋暑《しゅうしょ》の一日《いちにち》物かくことも苦しければ身のまはりの手箱|用箪笥《ようだんす》の抽斗《ひきだし》なんど取片付るに、ふと上田先生が書簡四、五通をさぐり得たり。先生|逝《ゆ》きて既に三年今年の忌日《きじつ》もまた過ぎたり。駒光《くこう》何ぞ駛《は》するが如きや。
 おのれ始めて上田先生が辱知《じょくち》となるを得たりしは千九百八年三月先生の巴里《パリー》に滞留せられし時なり。これより先わが身なほ里昂《リオン》の正金《しょうきん》銀行に勤務中一日公用にてソオン河上《かじょう》の客桟《きゃくさん》に嘲風姉崎《ちょうふうあねざき》博士を訪ひし事ありしがその折上田先生の伊太利亜《イタリア》より巴里に来《きた》られしことを聞知りぬ。わが胸はいまだその人を見ざるに先立ちて怪しくも轟きたり。何が故ぞや。そもそもその年月《としつき》わが身をして深く西欧の風景文物にあこがれしめしは、かの『即興詩人』『月草《つきぐさ》』『かげ草《ぐさ》』の如き森先生が著書とまた『最近海外文芸論』の如き上田先生が著述との感化に外ならざればなり。わが身の始めてボオドレエルが詩集『悪の花』のいかなるものかを知りしは上田先生の『太陽』臨時増刊「十九世紀」といふものに物せられし近世|仏蘭西《フランス》文学史によりてなりき。かくてわれはいかにかして仏蘭西語を学び仏蘭西の地を踏まんとの心を起せしが、幸《さいわい》にして今やその望み半《なかば》既に達せられし折柄、あたかも好《よ》し先生の巴里に来《きた》れるを耳にす。わが欣《よろこ》び譬《たと》へんに物なし。やがてわれは里昂の銀行を辞職し巴里に入りて拉甸区《ラテンく》の一|客舎《きゃくしゃ》に投宿したり。然れども巴里にはもとより知る人ひとりもなかりしかば先生の旅館も知るによしなく紹介を求めんにもそのつてなかりき。われは初めて北米に遊びてよりこの年月《としつき》語るに友なき境涯に馴れ果て今は強《し》ひて人を尋ねもとむる心もおのづからに薄らぎゐたりしかば、唯ひとり巴里の巷《ちまた》の逍遥にうつらうつらと日を過すのみなりき。
 ある夜《よ》元老院門前の大通なる左側|小紅亭《コンセール ルージュ》とよべる寄席《よせ》に行きぬ。この寄席もまた巴里ならでは見られぬものの一なるべし。木戸銭安く中売《なかうり》の婆《ばば》酒|珈琲《コーヒー》なぞ売るさまモンマルトルの卑しき寄席に異《ことな》らねど演芸は極めて高尚に極めて新しき管絃楽またはオペラの断片にて毎夜コンセルヴァトアルの若き楽師|来《きた》つて演奏す。折々|定連《じょうれん》の客に投票を請《こ》ひ新しき演題を定めあるひは作曲と演奏との批評を求むるなどこの小紅亭の高尚最新の音楽普及に力をつくす事|一方《ひとかた》ならぬを察すべし。おのれドビュッシイ一派の新しき作曲大方漏すことなく聴き得たるはこの小紅亭の夕《ゆうべ》なり。初て上田先生を見たるもまたこの小紅亭の夕ぞかし。
 小紅亭の定連は多く拉甸区の書生画工にして時には落魄《らくはく》せる老詩人かとも思はるる白髪の翁《おきな》を見る。その夕《ゆうべ》中入《なかいり》も早や過ぎし頃ふとわれは聴衆の中にわが身と同じく黄いろき顔したる人あるを見しが、その人もまたわれを見て互に隔たりし席より訝《いぶか》しげに顔を見合せたり。然れども何人《なんびと》なるやを知らざれば言葉もかはさで去りぬ。これ即《すなわち》上田先生にして、その夕《ゆうべ》先生は英吉利西《イギリス》風の背広に髭もまた英国風に刈り鼻眼鏡をかけてゐたまひけり。
 次の日われサンジェルマンの四ツ角なる珈琲店《カッフェー》パンテオンにて手紙書きてゐたりしに、向側なる卓子《テイブル》に二人《ににん》の同胞あり。相見れば一人《いちにん》はわが身かつて外国語学校支那語科にありし頃見知りたりし仏語《ふつご》科の滝村立太郎《たきむらりゅうたろう》君、また他の一人は一橋《ひとつばし》の中学校にてわれよりは二年ほど上級なりし松本烝治《まつもとじょうじ》君なり。この旧友二人はその夕クリュニイ博物館前なる旅館にありし上田先生のもとにわれを誘《いざな》ひゆきたり。
 翌年《あくるとし》(明治四十二年)の春もなほ寒かりし頃かと覚えたりわれは既に国に帰りて父の家《いえ》にありき。上田先生|一日《いちにち》鉄無地羽二重《てつむじはぶたえ》の羽織《はおり》博多《はかた》の帯|着流《きなが》しにて突然|音《おと》づれ来給《きたま》へり。この時のわがよろこびは初めて巴里にて相見し時に優るとも劣らざりけり。なべて洋行中の交際としいへば多くは諺《ことわざ》にいふなる旅は道づれのたぐひにて帰国すればそのままに打絶ゆるを。先生のわが身に対する交情こそさる通一遍《とおりいっぺん》のものにてはなかりしなれ。火鉢を間にしてわれらは互に日本服着たる姿を怪しむ如く顔見合せ今更の如く昨日《きのう》となりにし巴里のこと語出でて愁然《しゅうぜん》たりき。
 明治四十三年の初《はじめ》森上田両先生慶応義塾大学部文学科刷新の事に参与せらるるやわが身もその驥尾《きび》に附して聊《いささ》か為す所あらんとしぬ。事既に十年に近き昔とはなれり。当時はあからさまに言ひがたき事なきに非《あら》ざりしかど十年|一昔《ひとむかし》の今となりては、いかに慎みなきわが筆とて最早《もは》や累《わざわい》を人に及さざるべし。その頃われは父への手前心はもとより進まねど何処か学校の教師にてもやせんと思煩《おもいわずら》へる折からなり。ふと第三高等学校仏蘭西語の教師に人を要するやの噂ちらと耳にせしかば早速事を京都なる先生に謀《はか》りしことありき。これに対する先生の返書今偶然これを篋底《きょうてい》に見出しぬ。再読するにまのあたり生ける先生の言を聞くが如し。妄《みだり》にこれを左に録する所以《ゆえん》感慨全く禁ずべからざるがためなり。
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拝啓久しく御無沙汰に打過ぎ候段《そうろうだん》平《ひら》に御宥免被下度《ごゆうめんくだされたく》候しかし毎度新聞雑誌にて面白き御作《おさく》拝見|仕《つかまつ》りわれら芸術主義の徒《と》のためかつは徳川の懐かしき趣味のため御奮闘ありがたく奉感謝《かんしゃたてまつり》候、小生事去年の秋よりついつい上京の機を得ず帝都の眼覚《めざま》しき活動に遠ざかりて残念至極に候まま明日《あす》は明日はと思ひつつ今日《こんにち》までに相成《あいなり》候が今月末は是非とも東京へ参り御眼にかかりたく存《ぞんじ》をり候実はただ今|直《すぐ》にても御面会致し親しく懇願|致度《いたしたき》事件|出来《しゅったい》候が何分意に任《ま》かさず候故手紙にて申上候
昨年御手紙にて当地高等学校仏蘭西語学教師の件御話これあり候が早速その向《むき》を探り申候処今年九月よりの事なれば何分まだ人選|等《とう》の事は校長にも深く考へをらず従つて御尊父様の御親交ある松井《まつい》博士の紹介あらば自然御就任の事となるべしと考へ小生もあまり騒立てぬ方かへつてよろしからむと控《ひかえ》をり候しかし小生の心の底には別に一種の考ありて貴兄の御入洛《ごじゅらく》を小生自身にとりて非常なる幸福と存ずると共にただ今帝都にて新芸術の華々《はなばな》しき活動を試みさせ給ふ貴兄をして教育界の沈滞したる空気中に入れしかも京都の如き不徹底古典趣味の田舎へ移す事は貴兄自身にとりてもわが文学のためにも不得策《ふとくさく》にはあらざるかとやや心進まざる向《むき》もこれあり種々熟考仕候その内段々時日を経てその後の経行《なりゆき》を観察仕候処一、二の候補者も出来《でき》たれど、どれもまだ確定せず教授の細目も聞合せ候が仏語の極めて初歩のみを教へる事にて重《おも》に当地あるひは東京の仏蘭西法科へ入学する者のための如く随《したがっ》て狭い田舎の事なれば自然大学の教師なぞよりも幾分か注文も出るならむと考へ候かたがた取集めて考へればあまり面白き事業とは思へずまたたとへ忍び得る事としても貴兄の如き芸術家をかかる刺※[#「卓+戈」、105-5]の少き田舎に置く事はどうしても口惜しい事ならむと確信の度ますます強く相成申候それ故御返事を今日まで怠りをり申候この段まことに失礼に候ひしが何かもつと華々しき事業をと心掛けついつい今日に相成候然るに一月三十一日に至りて急に東京より来信これあり珍らしき事を聞込候
この事は非常に秘密に致《いたし》をり候やうに承《うけたまわり》をり候が実は今度東京の慶応義塾にてその文学部を大刷新しこれより漸々《ようよう》文壇において大活動を為《な》さむとする計画これありそれにつき文学部の中心となる人物を定むる必要を感じ候|趣《おもむき》に候、そこで三田側の諸先輩一同|交詢社《こうじゅんしゃ》にて大会議を開き森鴎外先生にも内相談《ないそうだん》ありしやうに覚え候が、義塾の専任となりて諸《もろもろ》の画策をする文学家を選び候処|夏目漱石《なつめそうせき》氏か小生をといふ事に相定候由、然るに夏目氏は朝日新聞の関係を絶つ事|難《かた》くして交渉|纏《まとま》らずまた森先生より小生に頼むやうにと義塾の人が千駄木《せんだぎ》を訪問したる時、森先生のいはるるには、京都大学の関係上小生の交渉もむづかしからむと申され候由、そこで先方の言ふには小生のことわりたる時誰がそれならば適当ならむとあるに答へて、森先生は貴兄を推薦なされ候、先方の申すには然らば小生に頼む時いつそ事情を打明けて小生の身上《みのうえ》動きがたき場合には直ちに小生より貴兄へこの事件交渉してもらひたしとの事に御座候、小生は森先生の手紙に対し種々考を述べ置候が要するにただ今京都を去る事は出来兼ね候|趣《おもむき》返事いたし、また貴兄を推薦されし森先生の眼光に服しをる旨申送り候、右やうの次第万事打明け候が貴兄はこの交渉に御応じの御心《おこころ》如何にや、三田の中心となりて文壇にそれより御雄飛の御奮発は小生の偏《ひとえ》に懇願する所何卒御快諾の吉報に接したく存をり候もとより御内意を伺ふまでにて事定らば別に正式の交渉はこれあるべく候
委細の事は御面唔《ごめんご》の節と存候が小生の聞込みたる処にては、唯学校を盛にするだけの事ではなくもつと大《だい》なる運動の序幕かと存をり候例へば帝国劇場の如きは義塾の側より殆ど自在に使ひ得られべきやう見受けられ余《よ》は言はずとも種々《しゅじゅ》面白き事ありさうに候、芸術家最高の事業はどうしても劇部にありと信ずる小生はこれを聞いて直《ただち》にモリエエルやグリックやゲエテ、ワグナアさてはアントワンを思出し何かの形にてこの愉快なる事業に助力したく自分でも大《おおい》に心を動かし候なほ委しくは森先生と御相談あるもよろしかるべきが、以上の成行《なりゆき》筆紙にてニュアンスを尽しがたく候がざつと如斯《かくのごとく》に候
条件については決して不満足のなきやう致《いたす》べく、その方は殆どカルト・ブランシュの如き様子に候、これまた御承諾さへ相成らば森先生が万事|御含《おんふく》みのやうに候とにかく芸術のためこの際御快諾の御報《ごほう》に接するやう祈上《いのりあげ》候 匆々《そうそう》
  二月五日
 
   上田敏《うえだびん》
 
   永井荷風様侍史
  張目飛耳《ちょうもくひじ》の徒《と》多き今の文界なれば万事決定まで何分内密に願上候
悦子《えつこ》よりもよろしく申上候田舎にありて曾遊《そうゆう》の地を思ひつづけをり候ままかつてとまりしホテルの紙を用ゐ候

 この書信は維納《ウィンナ》の客桟《きゃくさん》ホテル・ブリストルの記章を印刷したる書簡箋にペンにてこまごまと認《したた》められたり文中悦子とあるは令夫人なり。諄々《じゅんじゅん》としてわが身のことを説き諭《さと》さるるさま宛《さなが》ら慈母の児《こ》を見るが如くならずや。この一書によりてわが三田に入りし当時の消息もまたおのづから分明《ぶんめい》なるべし。わが返書に対し折返して到着したる先生の書次の如し。その全文を掲ぐ。

   二月七日の御手紙拝見仕候|先《まず》は過日の唐突なる願事御聞届|被下《くだされ》候段深く感謝仕候その後森先生とも種々御打合せの御事と察し申候が何卒折角の壮挙ゆゑ三田の方御助力を懇願仕候御謙遜の御手紙なりしが決して貴兄ならば成功せざるはずなしと確信仕候殊に御自身教鞭を執らるるのみならずその上|向後《こうご》の発展上一種の Elan を与へ奮心を惹起《じゃっき》する任務は普通の学究にては出来にくかるべしと思へばこそ貴兄へ懇請仕候ひしかと存候小生は本月末か来月早々上京のつもりに候故その時|篤《とく》と御話申上ぐべく候
  京都にては全く話対手《はなしあいて》なく困却仕候唯宅の者と散歩して食事でもするより他に致方なく候ただ本年は元日より今日まで毎日拙作を起草しそれにて紛《まぎ》れをり候この地はとにかく読書にも創作にも不適当なるぶるじよあじいの国にて御話にならぬ無聊《ぶりょう》の郷《さと》に候唯この頃はルウィエといふ伊東《いとう》さんのお嬢さんを娶《めと》つた若い海軍士官と往来しこの他《ほか》に先月より二、三人急に仏蘭西人が加はつてややおもしろく相成候
きのふの御作中|柳橋《やなぎばし》の芸者が新橋《しんばし》といふ敵国を見る処おもしろく拝見仕候また先日のモリス・バレスが故郷の白楊《はくよう》の並木をおもふ一節感服仕候当地の平田禿木《ひらたとくぼく》氏はボオ・ブラムメルの処を見て英国好《えいこくずき》の人なれば甚だ嬉しがりをり候文芸に型や主義は要らず縦横に書きまくるが可《よ》しと考ふる小生は貴兄の作物《さくぶつ》が鳥の歌ふ如く自然に流れでるのを羨ましく思をり候今後種々の方面へ筆を向けて、あとから追付かむとする評論家の息をはずませてやり給へと遥かに嘱望《しょくぼう》仕候
有楽座にて二十六日はヴィニエッチ氏の音楽と他に『椿姫』の芝居これあり候由もし上京して間に合はば幸福と存候がちとむづかしく候
過日同座にて一度御眼にかかりしのみなれど何卒御尊父様並に御母堂へよろしく御鳳声被下度《ごほうせいくだされたく》候 匆々
    二月十一日朝
  上田敏
   永井荷風様侍史
 かくの如く先生はわが拙作の世に出《いづ》るごとにあるいは書を寄せあるいはわが家《や》に来給《きたま》ひて激励せられき。『三田文学』第一号漸く出でんとするや先生の書簡はますます細事に渉《わた》りて懇切をきはめぬ。

  拝啓益々御清適の段|奉賀《がしたてまつり》候、その後『三田文学』御経営の事|如何《いかが》に相成候や過日大倉書店番頭|原《はら》より他の事にて二回ほど書面これあり候|序《ついで》に、はじめは談判不調(尤《もっと》も与謝野《よさの》君との間の略式の話について)次にはまた再度貴兄及び塾と談合をはじめたる趣を書添へをり候とにかく雑誌御経営の困難御察申候
これにつき森先生の意見は如何に候や小生の考にては原稿料は多少他よりも高く見積りて置く事必要なるは先日申したる如くに候が何もづぬけて高くするにも及ばずはじめよりあまり多く売らむと計りても無益かと存候、要するに二百頁の雑誌とすれば毎月三百円の総入費あらば事足りむか、自営にすればその幾分は確に戻つて来るはず、書肆《しょし》の方には一年に月数拾円の損として他方に広告機関ともなる利益もあるはずこの条件に近い所にて大倉もうけ合ひさうなものに候がどういふ工合《ぐあい》にて謝絶せしやら何はともあれ来月中旬にいづれ雑誌発刊の運《はこび》と存候ついてはほぼ原稿締切期限等|御示教被下度《ごじきょうくだされたく》候小生も何か一文《いちぶん》寄稿したく候
一昨日より家内および娘とともに宇治川に遊んで河沿《かわぞい》の宿にとまり翌朝奈良へまかりこして新築の奈良ホテルといふに休み、そこより車を雇ひて春日社頭《かすがしゃとう》の鹿をはじめ名所遊覧仕候がホテルの赤旗をつけた車にのつた所はまるでめりけんの観光団に御座候ひき、夢見《ゆめみ》の里《さと》とも申《もうす》べき Nara la Morte にはかりよんの音《おと》ならぬ梵鐘《ぼんしょう》の声あはれに坐《そぞ》ろ古《いにしえ》を思はせ候、その時またおもふやう安倍仲麿《あべのなかまろ》がこの小さき邑《むら》を出でて大陸の支那しかも唐代の支那を見た時、とても帰られなくなりて今欧洲の大都《たいと》に遊ぶ人の心の如くに日本を呪詛《じゅそ》せしものと存候このつぎ御来遊のせつは御一所に奈良へ出かけたきものに候|妻《さい》よりよろしく 匆々
 三月二十一日
   上田敏
    永井荷風様侍史
 大正五年われ既に病みてつかれたり。まさに退いて世の交りを断たん事を欲し妓家《ぎか》櫛比《しっぴ》する浅草代地《あさくさだいち》の横町《よこちょう》にかくれ住む。たまたま両国大相撲春場所の初日に当りてあたり何となく色めき立てる正午《ひる》近くなり。われ銭湯《せんとう》より手拭さげて帰り来《きた》る門口《かどぐち》京都より東上《とうじょう》せられし先生の尋ね来《きた》らるるに会ひぬ。さては先生の寛容深くわが放蕩無頼を咎《とが》めたまはざるかと、思へばいよいよ喜びに堪へず、直に筋向《すじむこう》なる深川亭《ふかがわてい》にいざなひしが、何ぞ図《はか》らんこの会飲|永劫《えいごう》の別宴とならんとは。心ゆくばかり半日を語り尽して酒亭を出でしが表通は相撲の打出し間際にて電車の雑沓|甚《はなはだ》しかりければ、しばしが間《うち》とて再びわが隠家《かくれが》の二階に請《しょう》じて初夜過ぐる頃までも語りつづけぬ。わが家《や》の近くには豊沢松太郎《とよざわまつたろう》竹本播磨太夫《たけもとはりまだゆう》の住居《すまい》妓家の間に交《まじ》りてありければにや、女の音〆《ねじめ》には似も寄らぬ正しき太棹《ふとざお》の響折々漏れ聞ゆるにぞ談話は江戸俗曲の事また先頃先生のさる書肆《しょし》より翻刻を依頼せられしといふ『糸竹初心鈔《しちくしょしんしょう》』がことより、やがてはわがその頃の作品の批判に移りて、かかる種類のものにては笠森《かさもり》お仙《せん》が一篇|詞《ことば》最もおだやかに想《こころ》最もやはらかに形また最もととのひしものなるべしと語られけり。
 数日の後先生再び京都に赴《おもむ》かんとせらるるや我いかにしけん今までは一度も先生を停車場に送りたる事なかりしを。後《あと》にて思合《おもいあわ》すれば虫が知らせしなるべし。この夕《ゆうべ》ばかりは怪しくも中央停車場に出で行く心起りて、食堂の卓子《テイブル》に汽車出づる間際まで令夫人令嬢と共に珈琲《コーヒー》をすすりこの次夏の休みの御上京を待たんと言ひしがそは全く仇《あだ》なる望にてありけり。
 大正五年七月九日先生の訃《ふ》いまだ公《おおやけ》にせられざるに先立ち馬場孤蝶《ばばこちょう》君悲報を二、三の親友に伝ふ。余|倉皇《そうこう》として車を先生が白金《しろかね》の邸《てい》に走らするに一片の香煙既に寂寞として霊柩《れいきゅう》のほとりに漂へるのみ。われこれを見し時|咄嗟《とっさ》の感慨あたかも万巻の図書|咸陽一炬《かんよういっきょ》の烟《けむり》となれるが如き思ひに打たれき。わが当代の文化や先生の訃によつてその失ふところ殆ど計り知るべからざる事を思ひたればなり。
     大正七年稿

底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店
   1986(昭和61)年11月17日第1刷発行
   2007(平成19)年7月13日第23刷発行
底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店
   1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志
校正:米田
2010年9月5日作成
2011年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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