下村千秋

曲馬団の「トッテンカン」—– 下村千秋

 いちばん先に、赤いトルコ帽《ぼう》をかむった一寸法師《いっすんぼうし》がよちよち歩いて来ます。その後から、目のところだけ切り抜《ぬ》いた大きな袋《ふくろ》をかむった大象《おおぞう》が、太い脚《あし》をゆったりゆったり運んで来ます。象の背中《せなか》には、桃色《ももいろ》の洋服をきたかわいい少女が三人、人形のようにちょこんと並《なら》んでのっかっています。その後からは楽隊《がくたい》の人々が、みんな赤いズボンをはき、大きなラッパ、小さなラッパ、クラリオネット、大太鼓《おおだいこ》、小太鼓《こだいこ》などを持って、足並《あしなみ》そろえて調子《ちょうし》よく行進曲《こうしんきょく》を吹《ふ》き鳴らして来ます。
 さてその後からは、鉄《てつ》のおりに入ったライオン、虎《とら》、熊《くま》などの猛獣《もうじゅう》が車に乗せられて来ます。つづいて馬が十頭ほど、みんなかわいい少女や少年を一人ずつ乗せて、ひづめの音をぽかぽかと鳴らしながら来ます。最後《さいご》に赤や黄や青の旗《はた》をかついだ人たちが大ぜい、ぞろぞろとつづいて来ます。その旗にはそれぞれ「東洋一《とうよういち》大曲馬団《だいきょくばだん》」「東洋一《とうよういち》移動大動物園《いどうだいどうぶつえん》」「世界的大魔術《せかいてきだいまじゅつ》」「世界的猛獣使《せかいてきもうじゅうつかい》」などという字が白く、染《そ》めぬかれてあります。
 まっ先《さき》の一寸法師から、最後の旗持ちまでは百五十メートルほどもあり、その長い行列は、楽隊《がくたい》の吹《ふ》き鳴らす行進曲《こうしんきょく》で、何ともいえない気持ちよい調子《ちょうし》につつまれ、何ともいえないにぎやかな色どりをあたりにふりまきながら、八月の朝のきらきらした太陽の光の中を進んで来ました。
 ここは東京から北の方へ二十里ほどはなれた、ある湖《みずうみ》の岸の小さな町。汽車《きしゃ》も通らず電車もなし、一日にたった二度|乗合自動車《のりあいじどうしゃ》が通るきりの、しずかなしずかなこの町に、だしぬけにこんな行列が来たのですから、大へんです。町は一どきに目がさめたように活気《かっき》づき、町の人々は胸《むね》がわくわくして仕事など手につかず、みんな往来《おうらい》へ出て、目をみはって行列を見ています。わけても、夏休みでたいくつしていた子供《こども》たちは、一年中のお祭りが一どきに来たようによろこび、もうじっとしてはいられず、行列の後からぞろぞろぞろぞろとついて行きます。元気のいい男の子たちは足も地につかぬ思いで、飛《と》びまわり、はねまわり、一寸法師《いっすんぼうし》の前へ立って背《せい》くらべをしたり、象《ぞう》のそばへ来て袋《ふくろ》の下から長い鼻をのぞいたり、楽隊といっしょに足拍子《あしびょうし》を取ったり、ライオンや虎《とら》や熊《くま》をこわごわと見たり、馬の上の少年少女たちに失敬《しっけい》してみたり、旗《はた》持ちの旗をかついだり、もうまったく夢中《むちゅう》になっています。なにしろこの町はじまって以来の出来ごとで、一寸法師はもちろん、象もはじめて、ライオン、虎、熊もはじめて見る、という子供たちが多いのですから、こういうさわぎをするのも無理《むり》はないのです。

 火の見の立っている町の四つ角の、いちじくの葉が黒いかげをおとしているところに、一|軒《けん》の鍛冶屋《かじや》があります。ここに新吉《しんきち》という十一になる丁稚《でっち》がいます。その朝も早くから、土間の仕事場で意地悪《いじわる》の親方《おやかた》にどなりつけられながら、トッテンカン、トッテンカンとやっていました。
 すると、遠くから、ききなれない楽隊《がくたい》の音が鳴りひびいて来ます。はじめは、たまに来る活動写真《かつどうしゃしん》の楽隊かな、と思いながら金づちをふりあげていましたが、だんだんその音が近づくにつれ、これはあたりまえの楽隊ではないぞと思いました。そのうちに楽隊の音は、軒《のき》下からのぞけば見えそうなところまで近づいて来ました。が、こんなとき、うっかりのぞいたりしようものなら、親方の金《かな》づちがこつんと向こうずねにぶつかって来ます。新吉《しんきち》は、いっそのこと、耳がなければいいなと思いながら、下くちびるをかみしめて、金づちをふり上げていました。
 曲馬団《きょくばだん》の行列は、鍛冶屋《かじや》の横手の火の見の下までやって来ました。と、まっ先の一寸法師《いっすんぼうし》が、くるりとうしろへ向きなおり、赤いトルコ帽《ぼう》を片手《かたて》に取って差《さ》し上げ、
「とまれーっ。」と叫《さけ》びました。からだに似合《にあ》わず、太いしゃがれ声を出したので、見物人《けんぶつにん》はびっくりしました。人間の言葉などはしゃべれないものと思っていた子供《こども》たちは、なおさらびっくりしました。
 一寸法師は、目の前の象《ぞう》の袋《ふくろ》のすそをめくりました。一|尺《しゃく》ほど象の鼻の先があらわれると、一寸法師はそれへ片手《かたて》を掛《か》けました。かと思うと、くるりと宙《ちゅう》がえりを打つようにして、象の背中《せなか》の三人の少女たちの中へ、すっぽりとのっかってしまいました。子供たちはいうに及《およ》ばず、大人たちもこれにはまたびっくりしてしまいました。
 一寸法師はそこで、ズボンのポケットから拍子木《ひょうしぎ》を取り出し、それをチョンチョンと鳴らし、
「オーケストラ、ストップ。」と叫《さけ》びました。と、楽隊がぴたりと鳴りやみました。
「チョンチョンチョン。とざい、とーざい。」と一寸法師は、胸《むね》を張《は》り、あたりを見まわしながら口上《こうじょう》をのべはじめました。
「さぁて皆《みな》さん。皆さんは今まで、私《わたくし》を世界一の小男と見て、子供《こども》さんまでが私と背《せい》くらべをしたりしまして馬鹿《ばか》になさいましたが、ただ今は世界一の大男となりました。なんと皆さんは、私の足もとにもとどかぬかわいそうな一寸法師《いっすんぼうし》となったではありませんか。くやしかったらここへ来て私と背くらべをしてみなされ、エヘン。
 チョンチョンチョン。とざい、とーざい。さぁて皆さん、この世界一の大男の一寸法師が、曲馬団《きょくばだん》一同になりかわって、ごあいさつ申し上げることと相なりました。外でもござりません。当曲馬団は、日本中はおろか、東洋中に名を知られた大曲馬団、大動物園でござります。象《ぞう》、ライオン、虎《とら》をはじめ、動物の数が九十八種、曲芸《きょくげい》の馬が十八頭、曲芸師《きょくげいし》が三十と六人、劇《げき》とダンスの少年少女が二十と八人、それに加《くわ》えて世界的|大魔術師《だいまじゅつし》、世界的|猛獣《もうじゅう》使い、オーケストラが日本一、そうして、小生《しょうせい》の私の我《わ》が輩《はい》の僕《ぼく》が、エヘン、日本一のいい男の一寸法師、チョンチョンチョン。
 さぁて皆さん。これらの面々が、いかなる芝居《しばい》、いかなるダンス、いかなる曲芸、いかなる魔術、いかなる猛獣を演出《えんしゅつ》いたしますか、今晩《こんばん》六時より当町《とうちょう》御役場裏《おんやくばうら》の大テントで相もよおすこととなりました。これにつきましては、当町長さまはじめ、警察《けいさつ》の方々さま、当町|有志《ゆうし》の皆々さまから一方《ひとかた》ならぬご後援《こうえん》をいただき、一同|感謝《かんしゃ》にたえない次第《しだい》。よって当初日は、そのおん礼といたしまして、大人小人各等|半額《はんがく》をもってごらんに入れることと相なりました。なにとぞ皆さん、それからそれへとご吹聴《ふいちょう》下され、にぎにぎしくおはやばや、ぞくぞくとご光来《こうらい》ご観覧《かんらん》の栄《えい》をたまわらんことを、一座《いちざ》一同になりかわり、象の背中《せなか》に平に伏《ふ》しておんねがい奉《たてまつ》るしだぁい。チョン、チョン、チョン。」
 そこで一寸法師《いっすんぼうし》は、象《ぞう》の背中《せなか》へくるりとしゃっちょこ立ちをしました。かと思うとまたまたくるりと起き上がり、行列を見かえって、
「オーケストラ、ゴォー。行列、進めー……」

 鍛冶屋《かじや》の新吉《しんきち》は、頭ががーんとするほど、うちょうてんになり、今の曲馬団《きょくばだん》について、何でもかまわず、めちゃくちゃにしゃべってみたくなりました。けれど仕事の最中《さいちゅう》に一言でもよけいなことを口に出したら、親方の金づちがごつんと飛《と》んで来ます。仕方なく新吉は、大金づちを力いっぱいふり上げて、トッテンカン、トッテンカンと打ちおろしていました。そうして、曲馬団の楽隊《がくたい》の音《ね》が、遠く町はずれへ消え去ってから、ようやく頭の中がしずまりました。
 鍛冶屋の仕事は、夕方暗くなってからやっとしまいます。その仕事のしまわないうちに、役場|裏《うら》の大テントの方からは、はたして、曲馬の楽隊が鳴りひびいて来ました。そうして遠くからきこえて来る楽隊の音は、また何ともいえない、やわらかい静《しず》かないい調子《ちょうし》となってひびいて来ます。クラリオネットとラッパの音とが、離《はな》れたりもつれたり、何か見知らぬ遠い国からきこえて来る夢《ゆめ》のようなひびきを伝《つた》えて来ます。
 そのうち店の前を、三人五人と、楽隊の音に吸《す》われるようにして、急いで行く人たちが通りはじめました。兄弟同士が手をつないで走って行く子供《こども》たちもありました。それを見ると新吉は今の自分の身の上が急に悲しくなりました。
 新吉は、両親がなく、たった一人の姉さんは東京のおじさんの家へ奉公《ほうこう》に行ってしまい、自分は小学校へ二年ほどかよったきりで、この鍛冶屋の丁稚《でっち》になってしまったのです。兄弟で曲馬を見に行くなどはおろか、一人ぽっちでも見に行ける身の上ではないのです。新吉《しんきち》は、三日に一度、町の風呂《ふろ》へ行くとき、おかみさんから一銭銅貨《いっせんどうか》を三つだけうけ取るきり、お小使銭《こづかいせん》としては、ただの一銭ももらえない約束《やくそく》になっているのです。
「せめて、曲馬の外まわりだけでも見てこよう。」
 新吉はわずかにそれだけで、がまんしようと思いました。
 仕事がしまいになると、新吉はいそいで仕事場をかたづけ、大いそぎで冷《ひ》やめしをかっこみはじめました。と、毎晩《まいばん》寝《ね》つきのわるい赤《あか》ん坊《ぼう》が、いつものとおりぎゃんぎゃん泣《な》き出しました。
「新吉、いつまでめしを食ってるんだえ。さっさとお守《も》りをしな。」
 おかみさんがかん高い声でどなりました。
 新吉は、かさぶた頭の赤ん坊をおぶって、耳もとでぎゃんぎゃん泣かれながら、その声のしずまるまで、店の前を何十ぺんでも行ったり来たりしていなければなりませんでした。そのうちに曲馬はおしまいになってしまうだろう。
 新吉はとうとう、火の見の下の暗いところへ立って、ぽろりぽろりと涙《なみだ》をこぼしました。

 しかしつぎの夜は、新吉は町の風呂へ行ける番でした。曲馬の楽隊《がくたい》はもうとっくから、すばらしいにぎやかさで鳴りひびいて来ています。新吉は夕飯《ゆうはん》をかみながら外へとび出しました。そして風呂屋とははんたいの曲馬の方へ、自分にもこんなにはやく走れるのかと思うほどはやく、まっ黒な顔をふり立てながら、まるで風のようにすっ飛《と》んでいきました。
 行って見て新吉はびっくりしてしまいました。何というすばらしい光と色のお家でしょう。テントのてっぺんからは四方八方《しほうはっぽう》へ、赤と青の電灯《でんとう》の綱《つな》がはりわたされて、それが湖《みずうみ》から吹《ふ》いて来る夜風にゆらりゆらりとゆれかがやいています。テントの正面には、金と銀との垂《た》れ幕《まく》が下がり、絵看板《えかんばん》がならび、赤と黄と青との旗《はた》がそれをかこみ、きらきら光る電灯《でんとう》が何十となく照《て》りかがやき、その中に楽隊《がくたい》がわきたつようなひびきをまき起こしているのです。
「さーぁ、いらっしゃい、いらっしゃい。空中の曲芸《きょくげい》は大|飛行《ひこう》のはじまり、はじまぁり。」
 客|呼《よ》びが、片手《かたて》を頬《ほ》っぺたにあててどなります、すると正面の幕がさっと上がり、中から、胸《むね》に金銀の星の輝《かがや》く赤い服をきた少女を、二人ずつ乗せた馬が三、四頭出て来ます。かわって同じすがたをした少年少女たちが中へ入って行きます。出て来た馬は右と左へ分かれます。見ると、そこには、同じような馬がずらりとならび、その背《せ》にはそれぞれ、それこそ造《つく》りつけた人形のような少女たちが、まばたき一つせずじっとしています。そうして見ていればいるほど、新吉《しんきち》はびっくりするものばかり見つけ出し、海の底《そこ》の竜宮《りゅうぐう》か、雲の上の天国か、自分はもうこの世の中にいるものとは思えなくなってしまいました。
「さぁー、いらっしゃい、いらっしゃい。猛獣《もうじゅう》つかいがライオンとすもうをとります。さぁさぁ。」
 中からは見物人《けんぶつにん》の拍手《はくしゅ》が、あらしのように鳴りひびいて来ます。楽隊の音は、大なみのように鳴りわたります。
 新吉は、からだが宙《ちゅう》に浮《う》かんでいるような気持ちで、テントのまわりを何べんとなくまわり歩きました。と、ある場所にちょっとしたすき間があり、ちらりと中のようすが見えました。新吉はそこへ吸《す》いついて中をのぞきました。すると、今、竹わたりの芸《げい》をやっているところです。玉虫色《たまむしいろ》の服をきた美しい女が、片手《かたて》に絵日傘《えひがさ》を持ち、すらりとした足をしずかにすべらせようとしています。二|丈《じょう》もあろうと思われる高いところです。両はしを綱《つな》につるされた長い竹竿《たけざお》はぶるぶるとこまかくふるえています。
「あっ、あぶない!」新吉《しんきち》は思わずそこを飛《と》びはなれました。胸《むね》がどきどきしている。
「たいへんな芸当《げいとう》なのだ。あんなところからのぞいたら、ばちがあたる。」
 新吉は胸をおさえて正面の方へ来ました。
 いつか時間はたっていました。風呂《ふろ》へ三度も入ったほどの時間がたっていたかも知れません。ぐずぐずしていたら、またおかみさんにどなりつけられます。新吉はくやしそうにふりかえりふりかえり、家の方へかえりかけました。
 テントのあかりが、かくれてしまう町かどまで来ると、新吉は両手を地べたへついて股《また》のぞきをして見ました。またの下からさかさまに見ると、曲馬小屋はまた一段《いちだん》と美しくはなやかに、まるで空中に浮《う》かんだ御殿《ごてん》のように見えました。

 つぎの一日、新吉はからだ中がぞくぞくするほど幸福《こうふく》な気持ちでいました。どうしてこう幸福なのか、自分でもはっきりわけがわかりません。そして、いつもの親方の怒《いか》り声もろくに耳へ入らず、重い金づちをふりあげることもつらいとも思いませんでした。
 つぎの日も、またそのつぎの日も、新吉の気持ちは同じようでした。というよりは一日ごとに、幸福な気持ちが胸の中にひろがっていきました。
 さてそのつぎの日の夕方には、いつもの曲馬団《きょくばだん》の楽隊《がくたい》の音がきこえて来ませんでした。新吉の知らぬ間に、あの曲馬団はどっかへ行ってしまったのだろうか。考えていると、新吉は急にあかりがきえたようにさびしくなって来ました。
 すると、店の前を、いく台もの馬車ががらがらと通りかかりました。馬車の上にはおりに入ったライオンや熊《くま》がのせられています。例《れい》の象《ぞう》が、例の袋《ふくろ》をかぶって歩いています。それから大ぜいの少年少女たちが、馬車いっぱいに乗っかっています。最後《さいご》にいろんな荷物《にもつ》をのせた馬車がいくつもつづいて行きます。
 いよいよ曲馬団《きょくばだん》は停車場《ていしゃば》の方へ引きあげて行くのです。その停車場は、湖の岸づたいに一里あまり北の方へ行ったところにありました。
 新吉《しんきち》は火の見の下に、ぼんやり立って見送っていましたが、もういても立ってもいられないほど、さびしくなって来ました。あの曲馬団が今の自分の幸福をみんな持って行ってしまうような気がするのです。
 とうとう新吉は、曲馬団のあとを追って走り出しました。曲馬団といっしょにいたい、と思うきり、外のことは何一つ考えられなかったのです。顔も手も足も、まるでインド人の子のようにまっ黒けの鍛冶屋《かじや》の新吉が、幸福そうな目をかがやかせながら、あかりのつきはじめた町をひとり遠ざかって行くすがたは、まったくただごとではありませんでしたが、町ではこれをだれ一人知るものもありませんでした。

 新吉は、曲馬団の荷物をつんだ馬車に追いつくと、うしろからこっそりと馬車のすみっこへ乗っかりました。
 空には星が光りはじめました。その星空をぼんやりと眺《なが》めながら新吉は、曲馬団の仲間《なかま》に加《くわ》わってからのことをいろいろと想像《そうぞう》しました。その想像はみんな、はなやかな、幸福なことばかりでした。
 すっかり夜になってから、曲馬団の一行は停車場へつきました。
「なんと言って頼《たの》んだら、仲間《なかま》に入れてもらえるだろうな。」
 新吉《しんきち》はそれを考えていました。するとそこへひょっこりと、赤いメリンスの着物をきた少女があらわれました。馬乗りの少女ですが、着物をきているので、ふつうの町の少女のように見えました。少女は、新吉を見つけると、
「おや、こんなところに黒ん坊《ぼう》の子がいるよ。」と言いました。新吉はどぎまぎして、馬車からずり下りました。
「お前さん、どっからついて来たの?」
「ぼ、ぼ、ぼくね。」と新吉はどもってから「僕《ぼく》、曲馬《きょくば》の仲間に入りたいんだよ。」
 やっとそれを言いました。
「いやーだ。」
 そう言ったかと思うと、少女はくるりと背中《せなか》を向けて走り去ってしまいました。と間もなく、少女はもっと年の多い女の人をつれて、またやって来ました。
「お前、曲馬団《きょくばだん》へ入りたいんだって? いったいどこから来たの?」
「昨日《きのう》まで曲馬をやってたろう。あの町からついて来たんだ。」
「それで、あんたの家は。」
「僕、鍛冶屋《かじや》の小僧《こぞう》だよ。」
「どうりで、まっくろけの顔をしていると思った。それで、だまって鍛冶屋を出て来たんだね。悪い子だね。親方に怒《おこ》られるから、さっさとおかえんなさいね。」
「でも僕、鍛冶屋へかえるのいやなんだよ。親方もおかみさんも意地悪《いじわる》で、しょっちゅうひどい目にあわせるんだもの。」
「曲馬団の中だっておんなじことだよ。曲馬団の中はもっとつらいことばかりだよ。ね、だからそんなつまらない考えを起こさずに、おとなしくおかえんなさい。わかった?」
「…………」
 新吉《しんきち》が返事に困《こま》っていると、
「おーい、時間だよ。ぐずぐずしていると、汽車が出ちまうよ。」と大きな叫《さけ》び声が聞こえて来ました。女の人は少女の手を引いて、改札口《かいさつぐち》の方へ走って行ってしまいました。
 やがて曲馬団《きょくばだん》の一行を乗せた汽車は出発《しゅっぱつ》してしまいました。一人あとに残《のこ》された新吉はがっかりしてその場につっ立っていました。まもなく曲馬の荷物《にもつ》は倉庫《そうこ》の方へ引かれて行きました。倉庫の前のレールには貨車《かしゃ》が三つほど引きこまれていました。荷物は、象《ぞう》やライオンや虎《とら》やその他の動物といっしょに、積《つ》まれて行くのです。
 それと知った新吉は、貨車の戸が開いているのを幸いに、暗い方からそっとしのんで行って、ちょろりと鼠《ねずみ》のように素早《すばや》く、貨車の中へ飛《と》びこんでしまいました。

 そうしてとうとう新吉は、東京の北の端《はし》の町まで来てしまったのです。
 はじめ、貨車の中へ飛びこんだとき、新吉はすみの方に円くなっていました。するとそこへ象が乗りこんで来たのです。これには新吉もびっくりしてしまいました。うっかりしたら、象の足に踏《ふ》みつぶされてしまうからです。新吉は夢中《むちゅう》になって子鼠のようにちぢこまりました。
 象は、長い鼻の先でフウフウと息をしながら、新吉の頭や肩《かた》へさわってみました。新吉は生きた心地《ここち》がしません。けれど象はそれっきりおとなしくなりました。
「おや、ここに人間の子が寝《ね》ているぞ、かわいそうに。」
 象《ぞう》はそう思ったのかも知れません。そのうちに新吉《しんきち》はそのままぐっすりと寝《ね》こんでしまったのです。
「こら小僧《こぞう》。」
 大きな声がしたので、新吉はびっくりして目をさますと、目の前に、洋服を着た大きな男が、目をぎろぎろ光らせながら立っていました。これが曲馬団《きょくばだん》の団長《だんちょう》でした。いつの間にか夜が明け、いつの間にか貨車《かしゃ》は東京の北端《きたはず》れの町の停車場《ていしゃば》へついていたのです。象はもう貨車から下ろされていました。
「おい小僧。」
 団長はもう一度そう言って、
「てめえ曲馬団の仲間《なかま》へ入れてやろうか。」とやさしい顔をしました。
「おじさん、ほんとに入れてくれる?」
 新吉は元気よく立ち上がって、そうききかえしました。
「ああ。おとなしくいうことをきいて、そして一生《いっしょう》けんめいに働《はたら》けば、入れてやってもいいよ。」
「僕《ぼく》、一生けんめい働くよ。何でもするよ。」
「よしよし、いい子だ。」
 団長はにこにこして、新吉の頭をなでました。
 これで新吉は、自分の思う通り、曲馬団の仲間に入ることが出来たのです。

 曲馬小屋は、町の通りへ、もう立派《りっぱ》に出来上がっていました。屋根にはイルミネーションがつき、前面には金銀の垂《た》れ幕《まく》が下がり、幾本《いくほん》もの旗《はた》がにぎやかに立ち並《なら》び、すべて新吉の町に造《つく》ったものと少しも変《か》わりませんでした。
 つい昨日《きのう》までは、この小屋の中をのぞいて見ることも出来なかったのに、今日の新吉はもう曲馬団の一人となってしまって、この立派な小屋が自分の家なのです。新吉《しんきち》は、あんまりうれしくて、これは夢《ゆめ》ではないかとさえ思いました。
 新吉はうれしさのあまり、おがくずの敷《し》いてある円い演技場《えんぎじょう》を、ぴょんぴょん飛《と》びまわっていると、出入り口の垂《た》れ幕《まく》のかげから、一人の少女と、それより年の多い女の人が出て来ました。よく見ると、昨日《きのう》の夕方、田舎《いなか》の停車場《ていしゃば》でいろいろと新吉に忠告《ちゅうこく》してくれた二人でした。二人はちょっとおどろいたように目を円くしていましたが、
「お前はとうとう仲間《なかま》入りをしてしまったのね。」と年の多い方の女が言いました。それからまた、
「もういやになっても、この仲間から出られやしないよ。」と言いました。
「ほんとねえ、かわいそうね。」と少女も同情《どうじょう》するように言いました。
 曲馬団《きょくばだん》というものは、はなやかな幸福なものとばかり思っている新吉には、この二人の女たちは、昨日も今日もどうしてこんなことばかり言うのだろうと、ただ不思議《ふしぎ》に思うばかりでした。
 新吉はなんとも答えずに垂れ幕をすりぬけて、象《ぞう》のいる方へ走って行きました。象は、大きな耳をばさばさ動かし、長い鼻を左右にうちふり、足をばたばたさせました。なんにも知らぬ新吉が見ても、象はたいへんよろこんでいることがわかりました。昨夜《さくや》一晩《ひとばん》、同じ貨車《かしゃ》の中ですごしたので、象は新吉を友だちのように思っている風《ふう》なのです。
 それから新吉と象は、すっかり仲《なか》よしになりました。象の名はファットマンといいました。太った男という意味《いみ》です。
 十時|頃《ごろ》になると楽隊《がくたい》がはじまりました。そして十二時頃から曲馬ははじまりました。人はぞろぞろと通りましたが、中へは新吉の町でやったときほども入らず、やっと、見物席《けんぶつせき》の三分の一がふさがっただけでしたけれど、馬の曲乗り、自転車の曲乗り、竹|渡《わた》り、綱渡《つなわた》り、空中|飛行《ひこう》、象《ぞう》の曲芸《きょくげい》、猛獣使《もうじゅうつか》いの芸当《げいとう》、少女たちのダンスと、演芸《えんげい》はそれからそれへ、かぎりもなく演《えん》じられました。
 新吉《しんきち》は見物《けんぶつ》したくてたまらないのですが、そうは出来ません。十|幾《いく》頭という馬のかいばをつくらねばなりません。何十|種《しゅ》という動物の食べものをつくらねばなりません。それから、小屋の裏手《うらて》の小さなテントの中で、何十人という曲馬|団員《だんいん》の御飯《ごはん》のしたくをしなければなりません。これらの受け持ちの人は外に幾人もいましたが、その人たちは道具方《どうぐかた》の男で、みんな意地悪の横着《おうちゃく》ものばかりでした。だから新吉は、それ、水をくんで来い、それ、お米をとげ、それ、じゃがいもの皮をむけ、それ、たくあんを買って来いと、次から次へ目のまわるほどこき使われるのでした。
 けれど新吉は、一生《いっしょう》けんめい働《はたら》きます。どんなことでもします。団長《だんちょう》へ約束《やくそく》したのですから、いやだなどということはもちろん、ちょっとでもなまけることは出来ません。ですから新吉は、いなかの鍛冶屋《かじや》にいた時分《じぶん》よりは、もっとまっ黒けになって、朝っから夜まで、その夜も十一時から十二時|頃《ごろ》まで働きつづけました。朝の働きはそれほどつらくはなかったが、夜、演技《えんぎ》がおわって、見物人がかえって、それから後かたづけをするときのつらさといったらありませんでした。おなかはすき、からだはへとへと、そして頭がおっこちそうに眠《ねむ》い。新吉はただもう、無我夢中《むがむちゅう》で働いていました。

 十日ほどでそこを打ち上げた曲馬団《きょくばだん》は、今度は東京の南の端《はし》の町へうつり、そこでまた十日ほど打ちました。それから横浜《よこはま》へ行きました。次に小田原《おだわら》へ行きました。次に静岡《しずおか》、次に浜松《はままつ》、それからさらに大阪《おおさか》、神戸《こうべ》、京都《きょうと》、金沢《かなざわ》、長野《ながの》とまわって、最後《さいご》に甲府市《こうふし》へ来たときは、秋も過《す》ぎ、冬も越《こ》し、春も通りぬけて、ふたたび夏が来ていました。
 新吉《しんきち》の曲馬団《きょくばだん》の生活も、もう一年になったのでした。そしてその間に、新吉はりっぱな象《ぞう》使いの名人になっていました。次から次へうつって行くときの長い旅を、新吉はいつも象といっしょに貨車《かしゃ》に乗せられたのです。はじめから仲《なか》よしだった新吉と象はこのような長い旅のあいだに、もう兄弟のようになってしまい、象のファットマンは、新吉のいうことなら何でもわかり、新吉の命ずることなら何でもするようになったのでした。
 団長《だんちょう》もこれにはびっくりもし、よろこびもしました。そこで新吉を、象使いの名人として見物人《けんぶつにん》の前へ出すことにしたのです。
 これまでの象使いは例《れい》の一寸法師《いっすんぼうし》でしたが、一寸法師には、片足《かたあし》を上げさせたり、ラッパを吹《ふ》かせたり、碁盤《ごばん》の上へ乗せたりするぐらいしか出来ませんでした。けれど新吉がやると、ファットマンは、象のからだで出来ることは何でもやりました。中でも一番|面白《おもしろ》い芸当《げいとう》は、新吉と二人で鍛冶屋《かじや》をやることでした。大きな木琴《もっきん》をつくり、その木琴を新吉が持ってぐるぐるまわり歩きます。ファットマンはその後からついて歩きながら、鼻の先に持った棒《ぼう》で木琴をたたくのです。
 新吉が、トッテンとたたくと、ファットマンはカンとたたきます。トッテンカン、トッテンカンと実に調子《ちょうし》よく木琴は鳴ります。三角帽《さんかくぼう》をかむり、道化役《どうけやく》の服を着た新吉は、そこで大きな声で歌います。
[#ここから2字下げ]
「たたけやたたけ、はげあたま、
  トッテンカン。
 火花がちるぞ、はげあたま、
  トッテンカン。
 あははの、あははの、はっはっは、
  トッテンカン。」
[#ここで字下げ終わり]
 いうまでもなくこの芸《げい》は、新吉《しんきち》がもと鍛冶屋《かじや》の小僧《こぞう》だったので、それから思いついた芸で、歌の文句《もんく》の「たたけやたたけ、はげあたま」というのは、鍛冶屋の親方のはげ頭を思い出してつくったものでした。
 新吉がこれを歌い出すと、ファットマンも耳をばさばさやり、しつぽをふり、足をあげて、からだ中で笑《わら》います。見物人《けんぶつにん》もこれにはみんなお腹《なか》をかかえて笑いました。
 もし見物人の中に、あの鍛冶屋の意地《いじ》わるおやじがいたら、どんな顔をするだろう。そう思うと新吉はまた一人でおかしくなり、ますます元気づいて、それでますます芸が面白《おもしろ》くなりました。
 それから新吉には「トッテンカン」というあだ名がつき、「曲馬団《きょくばだん》のトッテンカン」というと、どこへ行ってもたいへんな人気ものとなりました。

 朝から夜中まで、まっ黒けになって働《はたら》いていた新吉も、今は、象《ぞう》使いの名人、曲馬団のトッテンカンとなって、この大きな曲馬団の人気を一人で背負《せお》って立つほどの人気ものとなり、見物人の前で芸をする以外《いがい》には、何一つからだを動かさなくてもいいようになりました。そうして甲府《こうふ》の町へ小屋を張《は》ったときには、「曲馬団のトッテンカン」という評判《ひょうばん》だけで、見物人は毎日ぞくぞくとおしよせて来ました。
 新吉は得意《とくい》の絶頂《ぜっちょう》にいました。
 さてある日のこと、それは九月のはじめのことでした。新吉は、象のファットマンの外に、きえちゃんとわか姉さんという二人の竿上《さおのぼ》りの芸人《げいにん》と仲《なか》よしになっていましたが、きえちゃんの方が、その前の日から目まいがして、その日の芸が出来そうもなくなりました。きえちゃんはその前日、芸《げい》をしくじったので、その罰《ばつ》として御飯《ごはん》を一日に一度しか食べさせられなかったのです。そのために目まいがするのです。しかし団長《だんちょう》は、
「横着《おうちゃく》ものめ、ぐずぐずしていると、たたきのめすぞ。」とどなりつけました。
 新吉《しんきち》は見ていて、かわいそうでたまらなくなりました。新吉が一年前、いなかの町を逃《に》げ出して停車場《ていしゃば》まで曲馬団《きょくばだん》のあとを追っかけて来たとき、はじめて新吉に話しかけたのがこのきえちゃんでした。そのとき「曲馬団の中はもっとつらいところだよ。」とさとしてくれたのが、わか姉さんでした。それからこの二人は、何かにつけて新吉の味方《みかた》になり、新吉がまっ黒けになって、朝から夜おそくまで働《はたら》かせられているときは、涙《なみだ》を流して同情《どうじょう》し、新吉の手にあまるつらい仕事は、かげながら手伝《てつだ》ってくれたのでした。で、新吉は今はこの二人を、またとない恩人《おんじん》とも思っているのです。
 その一人の、新吉より年下《としした》のきえちゃんが、今こんな目にあっているのですから、新吉は黙《だま》って見ていられるはずはありません。
「ねえ、きえちゃん、僕《ぼく》が代わって芸をしてあげよう。」
 そう新吉はいい出しました。
「だってトッテンカンには、わたしの芸が出来やしないよ。」
「大丈夫《だいじょうぶ》、むずかしいことはしないのさ。」
「でも、外の人に代わってもらうと、また罰をくわされるもの。」
「だからね、僕がきえちゃんの服を着て、わか姉《ねえ》さんにお化粧《けしょう》をしてもらって、きえちゃんそっくりの少女になるのだよ。団長だって見わけのつかないような少女になるのだよ。そんなら大丈夫だろう。」と新吉は自信《じしん》のあることばで言いました。

十一

 トッテンカンの新吉《しんきち》は、いよいよ、病気のきえちゃんに代わって、竹のぼりの芸当《げいとう》をすることになりました。
 その芸当というのは、まず、わか姉さんが象《ぞう》のファットマンの背《せ》の上に立ちます。それから三メートルほどの太い竹棒《たけぼう》を、手を使わずに肩《かた》の上に立てています。すると、きえちゃんは、その竹棒のてっぺんへよじ上って行って、そこで手ばなしでうつ伏《ぶ》せになったり、あおのけになったり、しゃっちょこ立ちをしたり、足首《あしくび》でつかまってぶら下がったりするのです。それを専門《せんもん》にしているきえちゃんには、それほどむずかしい芸当ではありませんが、今日はじめてそれをやる新吉にはむずかしいどころか、その中の一つの芸《げい》だって満足《まんぞく》に出来るはずはないのです。そして、もしやりそこなって、おっこちでもしたら、それこそたいへんです。何しろ、竹棒のてっぺんから象《ぞう》の足下までは七メートルもあるのですから、たとえ死なないまでも、大怪我《おおけが》をするにきまっています。
「よした方がいいよ、トッテンカン。」とわか姉さんは不安そうに言いました。
「だって僕《ぼく》がよしたら、きえちゃんがしなきゃあならないじゃないか。あんなに、立てないほど弱っているきえちゃんがやったら、それこそおっこちて死んじゃうよ。」
「だから、だれもしないのさ。」
「そしたら、こんどはわか姉さんが罰《ばつ》を食うじゃないか。」
「かまやしないよ。」
「いやだいやだ。僕がやれば、みんな助かるんだもの。僕はどうしてもやるよ。僕はね。あのファットマンの背中《せなか》でする芸なら、なんでも失敗《しっぱい》しないという自信《じしん》があるんだからね。そんなに心配しないでやらせてくれよ。」
 わか姉さんも、こんなに言っている新吉《しんきち》の決心を止めることは出来ませんでした。それにわか姉さんは、下に立って竹棒《たけぼう》を支《ささ》える芸《げい》をしているのだから、もし彼《かれ》がおっこちるようなことがあったら、下からうまく救《すく》ってやろうと、心の中で考えたのでした。
 わか姉さんは幕《まく》のかげに新吉をかくして、そこでお化粧《けしょう》をしてやりました。白粉《おしろい》をつけ、頬紅《ほおべに》、口紅《くちべに》をつけ、まゆずみを引き、目のふちをくま取り、それからきえちゃんの芸服《げいふく》を着せ、絹《きぬ》の三角帽《さんかくぼう》をかぶせました。少し離《はな》れたところから見ると、きえちゃんそっくりになりました。せかっこうも、新吉はきえちゃんによく似《に》ていたのです。
「それなら大丈夫《だいじょうぶ》。でも、口をきいちゃ駄目《だめ》だよ。」とわか姉さんは注意しました。
「なぁに、掛《か》け声《ごえ》ぐらい、きえちゃんそっくりの声を出して見せるよ。」
 新吉はそう言って笑《わら》いました。

十二

 それは夜の八時|頃《ごろ》でした。場内《じょうない》は見物人《けんぶつにん》でいっぱいでした。四方《しほう》が山《やま》に囲《かこ》まれた甲府《こうふ》の町のことですから、九月になるともう山颪《やまおろ》しの秋風が立ち、大きなテントの屋根は、ばさりばさりと風にあおられていました。
 楽隊《がくたい》がにぎやかに鳴り出しました。と、きえちゃんに扮《ふん》した新吉が、まず垂《た》れ幕《まく》のかげから現《あらわ》れました。それから、胸《むね》に金銀の星の輝《かがや》く服を着たわか姉さんが現れました。つづいて大|象《ぞう》のファットマンが、のそりのそりとまかり出ました。見物席《けんぶつせき》からはあらしのような拍手《はくしゅ》が起こりました。三人は一列に並《なら》んで見物席へあいさつをしました。
 やがてわか姉さんが、ファットマンの鼻の上に乗ってひらりとその背《せ》へ飛《と》び上がりました。そして長い竹棒《たけぼう》を受け取りました。つづいて新吉《しんきち》がファットマンの鼻へ乗ろうとすると、ファットマンはちょっと鼻を巻《ま》きこんで、しばらく新吉の顔を見ていました。きえちゃんに扮《ふん》してはいるが、それが兄弟分の新吉であることを、ファットマンはちゃんと見分けてしまったのです。
 ファットマンは不審《ふしん》そうに鼻を巻き上げて、新吉を背中《せなか》へのっけてやりました。しかし中央《ちゅうおう》の垂《た》れ幕《まく》の前に立っている団長《だんちょう》はもちろん、ファットマンの周囲《しゅうい》に立っている四、五人の道具方も、それが新吉であることは夢《ゆめ》にも知りませんでした。
 新吉は、ファットマンの背中の上で、きえちゃんがいつもするようにもう一度|見物席《けんぶつせき》へあいさつをし、それから、わか姉さんの肩《かた》の上に立っている竹竿《たけざお》をするするとのぼって行きました。
 新吉は、竹竿を上りきったところでまずあぐらをかいて、まわりを見下ろしました。それから、ハッと掛《か》け声をかけて、しゃっちょこ立ちをしました。次に竹竿のてっぺんへうつ伏《ぶ》せになり、両手両足をはなして、亀《かめ》の子《こ》のようにふらふらとまわりました。すべて、きえちゃんがやるのと変わりありません。わか姉さんは、肩先で竹竿の平均《へいきん》を取りながら、このような芸当《げいとう》の出来る新吉を、不思議《ふしぎ》に思って見上げていました。
 さて新吉は、こんどは前と反対に、背中を下にして、つまり竹竿の上にあおのけになって亀《かめ》の子のように手足を動かす芸《げい》に移ったのです。これは見ていてもはらはらする芸で、芸をする当人にも一番むずかしい芸でした。
 新吉はまず足を放しました。それから手を放そうとした瞬間《しゅんかん》です。頭の方がぐらりとゆれたかと思うと、そのまま、サァッ――と落ちて来ました。
「あっ。」とわか姉さんは叫《さけ》びました。そして竹竿《たけざお》をほうり出すと、両手をひろげて新吉《しんきち》のからだを受け止めようとしました。が、勢《いきお》いついた新吉の身は、わか姉さんの手をすり抜《ぬ》け、ファットマンの頭にぶつかると、もんどり打って下の板敷《いたじき》へ、まっさかさまにたたきつけられた、と思ったその刹那《せつな》です。ファットマンは、その長い強い鼻をぐいと差《さ》し延《の》べて、新吉のからだをふわりと宙《ちゅう》で受け止めてしまったのです。

十三

 見物人《けんぶつにん》はいつか総立《そうだ》ちになっていました。そして新吉のからだが、ファットマンの鼻の先でみごとに救《すく》い上げられたとき、見物人はどっと声をあげてよろこびました。見物人は、新吉が芸《げい》をしくじったことなどはすっかり忘《わす》れて、危機一髪《ききいっぱつ》というとき、ファットマンの長い鼻がうまく食い止めたということを、涙《なみだ》を流さぬばかりによろこんだのです。
 けれど見物人は、次のような光景《こうけい》を見て、びっくりしてしまいました。それは、新吉が、ファットマンの鼻の上から無事《ぶじ》に下へ下りたとき、例《れい》の団長《だんちょう》がいきなり飛《と》んで来て、新吉の横面《よこつら》をぴしゃりとなぐったことでした。
「ふぬけめ。」と団長はどなりつけました。そして新吉の手が抜《ぬ》けるほどぐいと引き立て、引きずるようにして中央《ちゅうおう》の垂《た》れ幕《まく》のかげへ連《つ》れて行ってしまいました。
「僕《ぼく》たちはよろこんでいるのに、あいつは怒《おこ》っていやがる。馬鹿《ばか》な奴《やつ》だなぁ。」と見物人は話し合いました。
 団長は、新吉を楽屋《がくや》へつれて行くと、またひどくなぐりました。
「またもだらしねえことをしやがって、このトンチキめ!」
 そのとき、そばから、
「団長《だんちょう》さん、団長さん、かんにんしてやって下さい。」という泣《な》きそうな声がしました。見ると、それはふだんの着物をきたきえちゃんです。団長はそのきえちゃんを怒《おこ》りつけているのだとばかり思っていたのに、そばから別《べつ》なきえちゃんが顔を出したので、あっけにとられてきょとんとしてしまいました。
 が、まもなく、新吉《しんきち》がきえちゃんの身代《みが》わりになって芸《げい》をやったのだと知ると、どこまでも意地悪《いじわる》でつむじ曲がりの団長は、こんどはそのことを怒り出しました。
「貴様《きさま》はなぜほかの人に芸をやらせたのだ。」ときえちゃんをせめました。
「てめえはまたなぜ芸も出来ないくせに、人の身代わりなどになったのだ。」と、また改《あらた》めて新吉をどなりつけました。
 そこへ、わか姉さんが出て来ました。
「みんなわたしがやらせたことです。どうぞ二人をせめる代わりに、わたしをせめて下さい。」
 わか姉さんはそう言いました。
「馬鹿《ばか》っ。」団長はわれるような声を出して、
「てめえら、みんなぐるになって勝手《かって》なことをしてやがるんだな。よし、どうするか見てやがれ。」
 そう言って、鷹《たか》のようなすごいずるい目を光らせながら、その場を去って行きました。

十四

 その夜から、新吉もきえちゃんもわか姉さんもみんな罰《ばつ》を受けました。お小使いは一銭《いっせん》ももらえなくなるし、三度の食事は二度になりました。それも、犬が食べるような粗末《そまつ》な食事でした。
 その前からすっかり弱っていたきえちゃんは、とうとうひどい熱《ねつ》を出し、もう頭も上がらなくなりました。それから急性《きゅうせい》の肺炎《はいえん》になり、うわごとを言い通していましたが、四日目の夜中に、ついに死んでしまいました。
 新吉《しんきち》とわか姉さんは、きえちゃんに取りついて泣《な》きました。新吉は泣きながら団長《だんちょう》に食ってかかりました。
「この鬼《おに》め、この罰《ばち》あたりめ、首でもくくって死んでしまえ!」
 青くなって叫《さけ》んでいる新吉を、団長はただにやにや笑《わら》って見ているばかりでした。
 次の日、わか姉さんは新吉をものかげへ呼《よ》んで、こう言いました。
「新吉さん――トッテンカンなんて呼《よ》ぶのは止《よ》しましょうね。もとの新吉さんになって、そして、この曲馬団《きょくばだん》から逃《に》げ出してしまいなさいよ。そしてお国の町の鍛冶屋《かじや》さんへおかえんなさい。」
「僕《ぼく》もそう考えたのだけど、あの鍛冶屋のおやじのところへ帰るのはいやなんだ。」
「じゃ、どこかほかにない? 新吉さんを引き取ってくれるところが。」
「東京に叔父《おじ》さんがいるの。僕の姉さんもそこにいるから、僕そこへ行こうかしら。」
「それがいい。お金も少しばかりわたしが上げるからね。ここにいつまでもぐずぐずしていたら、新吉さんも、あのきえちゃんのような目にあわされるにきまっているから。」
「この曲馬団に入る前に、わか姉さんにいわれたことが、僕今になってやっとわかったよ。それで、わか姉さんはどうするの?」
「わたしはわたしで、ほかに考えていることがあるから、わたしのことは心配しないでいいのよ。」
 二人はそう話し合って、その夜は小屋の隅《すみ》へ、テントをゆすぶる秋風《あきかぜ》をききながら寝《ね》ました。
 そのあくる朝早く、まだ東《ひがし》がやっと白《しら》みかけたころ、新吉《しんきち》は、しもふりの夏服に靴《くつ》をはき、むぎわら帽《ぼう》をかむり、ふろしき包《づつ》み一つを持って、一年間あまり住みなれたテント小屋《ごや》をぬけ出しました。
 新吉はそこを抜《ぬ》け出すとき、兄弟分のファットマンのそばへそっとしのんで行って、この一年のあいだ、新吉のためになんでもしてくれ、最後《さいご》に新吉の命まで救《すく》ってくれたその長い鼻をなでながら、
「ファットマンよ、ありがとうよ。さよなら、さよなら。」と言いました。

十五

 新吉は停車場《ていしゃば》へ来ると、一|番《ばん》列車《れっしゃ》に乗りました。そして、おひる前に新宿の停車場へ着きました。それから電車に乗り、叔父《おじ》さんの家のある小石川へむかって行きました。
 しかし新吉は、そこですっかり途方《とほう》にくれてしまいました。叔父さんの家はどっかへ引っこしてしまって、その引っこし先もまるでわからなかったからです。
 新吉は、ふろしき包みを抱《だ》いて、夢中《むちゅう》でそこらをほっつき歩きました。歩いているうちに、広い池《いけ》のはたへ出ました。そこは不忍池《しのばずのいけ》で、新吉はいつの間にか、そんなとこまで迷《まよ》いこんで来たのです。
 池の向こうに、森《もり》の繁《しげ》った高台が見えました。そこは上野公園《うえのこうえん》でしたが、新吉はそんなことは知りません。ただ何となく、いなかの町はずれの高台の森に似《に》ているので、わけもなく引きつけられました。新吉は公園の上へ上って行きました。
 そのうちに日が暮《く》れてしまいました。新吉は泣《な》きたくなりました。新吉は、公園の高台から、美しい灯《ひ》の街《まち》を見下ろしながら、いつまでもいつまでもそこに立っていました。
 その夜新吉は、公園の奥《おく》のこかげの石の上に寝《ね》てしまいました。眠《ねむ》ったりさめたりしている新吉の頭の中には、いなかの町のことや、鍛冶屋《かじや》のおやじのことや、曲馬団《きょくばだん》の中でのさまざまのことが、とぎれとぎれに浮《う》かんでは消え、消えては浮かびました。
 その朝明けのことです。新吉《しんきち》はまずライオンのほえ声をききつけました。それからいろんな動物のなき声をききつけました。曲馬団の動物園でききつけている声なので、それは自分の耳のせいではないかと思いながら、新吉はその声のする方へ歩いて行きました。すると高い石の塀《へい》がぐるりとめぐっているところへ出ました。ああ、これが上野《うえの》の動物園というのだな、と新吉はやっと思いつきました。
 新吉は、曲馬団のファットマンのことを思い出し、門の鉄格子《てつごうし》の扉《とびら》につかまって、中のようすをいっしんにのぞいていました。
 すると、そこへ、白いズボンをはいた人品《じんぴん》のいいおじいさんが出て来て、にこにこしながら、
「お前さんは、こんなに早く動物園を見に来たのかね?」と新吉に話しかけました。
 新吉は、そうじゃないと答えてから、
「おじさん、僕《ぼく》を動物園の象《ぞう》つかいにしてくださいな。」と、しんけんな顔で言いました。
「いったいお前さんは、どうした子なんだね!」とおじいさんはそれをたずねました。そこで新吉は、曲馬団へ入ってそこを逃《に》げ出すまでのいきさつと、東京へ叔父《おじ》さんをたずねて来て、こうして迷《まよ》っていることを一通り話しました。
「じゃ、お前は宿なしなんだね。そりゃ困《こま》ったね。ここじゃおいそれと象つかいに頼《たの》むわけにはいかないが、お前の叔父さんのいどころがわかるまで、わしがお前を引き取って上げよう。曲馬団で慣《な》れているならちょうどいい、いろんな動物へ、えさをやることでも手伝っているがいい。さぁ、こっちへお入り。」
 親切なおじいさんはそう言って、新吉を門のうちへ引き入れました。

 それからの新吉《しんきち》はどうなったかはわかりませんが、世の中には鍛冶屋《かじや》のおやじや曲馬団《きょくばだん》の団長《だんちょう》のようなわからずやの意地《いじ》わるの人間がいるかわりに、この動物園のおじいさんのようなわけのわかった親切《しんせつ》な人もたくさんいます。すなおでまじめで同情心《どうじょうしん》の深い新吉は、やがてこういう人たちに見|込《こ》まれて、幸福《こうふく》な生活をするようになったにちがいありません。

底本:「あたまでっかち――下村千秋童話選集――」茨城県稲敷郡阿見町教育委員会
   1997(平成9)年1月31日初版発行
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
   1928(昭和3)年9~11月
※表題は底本では、「曲馬団《きょくばだん》の「トッテンカン」」となっています。
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2012年2月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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