旗本退屈男 第一話 旗本退屈男 —–佐々木味津三

     

 ――時刻は宵の五ツ前。
 ――場所は吉原仲之町。
 それも江戸の泰平《たいへい》が今絶頂という元禄《げんろく》さ中の仲之町の、ちらりほらりと花の便りが、きのう今日あたりから立ちそめかけた春の宵の五ツ前でしたから、無論|嫖客《ひょうきゃく》は出盛り時です。
 だのに突如として色里に野暮な叫び声があがりました。
「待て、待て、待たぬかッ。うぬも二本差しなら、売られた喧嘩を買わずに、逃げて帰る卑怯者があるかッ。さ! 抜けッ、抜けッ。抜かぬかッ」
 それもどうやら四十過ぎた分別盛りらしいのを筆頭に、何れも肩のいかつい二本差しが四人して、たったひとりを追いかけながら、無理無体に野暮な喧嘩を仕掛けているらしい様子でしたから、どう見てもあまりぞっとしない話でしたが、売られた方ももうそうなったならば、いっそ男らしく抜けばいいのにと思われるのに、よくよく見るとこれが無理もないことでした。――年はよくとって十八か九、どこか名のあるお大名の小姓勤《こしょうづと》めでもしているとみえて、普通ならばもうとっくに元服していなければならない年頃と思われるのに、まだふっさりとした前髪立《まえかみだ》ちの若衆なのです。
 だからというわけでもあるまいが、なにしろ一方は見るからに剣豪《けんごう》らしいのが、それも四人連れでしたので、どう間違ったにしても不覚を取る気遣いはないという自信があったものか、中でも一番人を斬りたくてうずついているらしいのが、最初に追っかけて来た四十侍に代り合って若衆髷の帰路を遮断すると、もう柄頭《つかがしら》に手をかけながら、口汚なく挑みかかりました。
「生《なま》ッ白《ちろ》い面《つら》しやがって、やさしいばかりが能じゃないぞッ。さ、抜けッ、抜かぬかッ」
 可哀そうに若衆は、垣間《かいま》見ただけでも身の内が、ぼッと熱くなる程な容色を持っているというのに、こういう野暮天な人斬り亡者共にかかっては、折角稀れな美貌も一向役に立たぬとみえて、口汚なく罵しられるのをじっと忍びながら、ひたすらに詫びる[#「詫びる」は底本では「詑びる」と誤植]のでした。
「相済みませぬ。相済みませぬ。先を急がねばなりませぬゆえ、お許しなされて下さりませ。もうお許しなされて下さりませ」
「何だとッ? では、貴様どうあっても抜かぬつもりかッ」
「はっ、抜くすべも存じませぬゆえ、もうお目こぼし下されませ」
「馬鹿者ッ、抜くすべも知らぬとは何ごとじゃ、貴様われわれを愚弄いたしおるなッ」
「どう以《も》ちまして。生れつき口不調法でござりますゆえ、なんと申してお詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]したらよいやら分らぬのでござります。それに主人の御用向きで、少しく先を急がねばなりませぬゆえ、もうお許しなされまして、道をおあけ下さりませ。お願いでござります」
「ならぬならぬ! そう聞いてはなおさら許す事|罷《まか》り成らぬわ。どこの塩垂《しおたれ》主人かは存ぜぬが、かような場所での用向きならば、どうせ碌な事ではあるまい。それに第一、うぬのその生ッ白い面《つら》が癪に障るのじゃ。聞けば近頃河原者が、面の優しいを売り物にして御大家へ出入りいたし、侍風を吹かしているとか聞いているが、うぬも大方その螢侍《ほたるざむらい》じゃろう。ここでわれわれの目にかかったのが災難じゃ。さ! 抜けッ、抜いていさぎよく往生しろッ」
 ――これで見ると喧嘩のもとは、若衆の姿が柔弱なので、それが無闇と癪に障ってならぬと言うのがその原因らしいのですが、いずれにしても脅迫されているのは只ひとり、している他方は四人という取り合せでしたから、同情の集まるのはいつの時代も同じように弱そうなその若衆の方で、新造禿《しんぞうかむろ》、出前持の兄哥《あにい》、はては目の見えぬ按摩迄が口々にさざめき立てました。
「ま! お可哀いそうに。ああいうのがきっと甚助侍と言うんですよ」
「違げえねえ。あのでこぼこ侍達め、きっといろ[#「いろ」に傍点]に振られたんだぜ」
「なんの、あんなのにいろ[#「いろ」に傍点]なんぞあってたまりますかい。誰も女の子がかまってくれねえので、八ツ当りに喧嘩吹っかけたんですよ」
 しかし言うは言っても只言うだけの事で、悲しい事に民衆の声は、正義の叫びには相違ないが、いつも実力のこれに相伴わないのが遺憾です。芝居や講談ならばこういう時に、打ちかけ姿の太夫が降って湧いて、わちき[#「わちき」に傍点]の身体に傷をつけたら廓《くるわ》五町内が闇になるぞえ、という啖呵《たんか》をちょッと切ると、ひとたまりもなく蜘蛛の子のように逃げ散ってしまうのが普通ですが、どうしたことか、今宵ばかりは、不都合なことにも花魁太夫《おいらんだゆう》達に、ひとりもお茶を引いているのがいないと見えて、そのお定まりの留め女すらも現れない生憎《あいにく》さでした。
 と――、誰が言い出したものかその時群集の中から、残念そうに呟いた伝法な声がきこえました。
「畜生ッ、くやしいな! こういう時にこそ、長割下水《ながわりげすい》のお殿様が来るといいのにな」
「違げえねえ違げえねえ。いつももう、お出ましの刻限だのにな」
 誰の事かよく分らないが、この呟きで察すると、長割下水のお殿様なる者は、よッ程この五町街では異常な人気があるらしいのです。しかし騒ぎの方は、それらのざわめきが聞えるのか聞えないのか、なおしつこく四人の者がひたすらにわび入っている若衆髷をいじめつづけるのでした。
「馬鹿者ッ。詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]たとて免《ゆる》さぬと言うたら免さぬわッ。さ! 抜けッ。抜かずばブッタ斬るぞッ」
 威丈高《いたけだか》にわめき立てると、執拗《しつよう》な上にも執拗に挑《いど》みかかりましたので、等しく群衆がはらはらと手に汗をにぎった途端――。
「あっ! お越しのようでござりまするぞ! お越しのようでござりまするぞ! な、ほら長割下水のお殿様のようでござりまするぞ!」
「え? ど、どう、どこに? ――なる程ね、お殿様らしゅうござんすね」
「そうですよ。そうですよ。あの歩き方がお殿様そっくりですよ」
 愁眉《しゅうび》を開いたかのごとくに群集の中から叫んだ声が挙がったかと思われるや同時に、いかさま仲之町通りを大門口の方から悠然とふところ手をやって、こちらにのっしのっしと歩いて来る一個の影がありました。それも尋常普通の人影ではない。背丈なら凡《およ》そ五尺六寸、上背のあるその長身に、蝋色《ろいろ》鞘の長い奴をずっと落して差して、身分を包むためからか、面《おもて》は宗十郎頭巾に深々とかくしながら、黒羽二重を着流しの、素足に意気な雪駄ばきというりりしい姿です。
 それと見て駈け寄ったのは、お通し物の出前持かなんかであるらしい伝法な兄哥でした。もう顔馴染ででもあるかして、駈けよるとざっくばらんに言いました。
「殿様殿様! いいところへおいでなせえました。早く来ておくんなさいよ」
 と――、頭巾の中からいとも静かに落ちつき払った声がありました。
「うろたえて何ごとじゃ」
「だって、これをうろたえなきゃ、何をうろたえたらいいんですか! ま、あれを御覧なせえましよ」
「ほほう、あの者共も退屈とみえて、なかなか味なことをやりおるな」
「相変らず落ちついた事をおっしゃいますね。味なところなんざ通り越して、さっきからもうみんながじりじりしているんですよ。あんまりあの四人のでこぼこ共がしつこすぎますからね」
「喧嘩のもとは何じゃ」
「元も子もあるんじゃねえんですよ。あっしは初めからこの目で見てたんだから、よく知ってますがね、あの若衆の御主人様が、お微行《しのび》でどこかへお遊びに来ていらっしゃると見えましてね、そこへの御用の帰りにあそこの角迄やって来たら、あの四人連れがひょっこり面《つら》出しやがって、やにわと因縁つけやがるんですよ。それも粕《かす》みていな事を根に持ちやがってね、若衆は笑いも何もしねえのに、笑い方が気に喰わねえと、こうぬかしゃがるんですよ。おまけに因縁のつけように事を欠いて、あの若衆の顔が綺麗すぎるから癪に障ると、こんな事をぬかしゃがるんで、聞いてるものだって腹が立つな当り前じゃござんせんか」
「ほほう、なかなか洒落れた事を申しおるな。それで、わしに何をせよと申すのじゃ」
「知れたこっちゃござんせんか。あんまり可哀えそうだから、何とかしてあの若衆を救ってあげておくんなさいよ」
「迷惑な事になったものじゃな。どれどれ、では一見してつかわそう――」
 一向に無感激な物腰で、ふところ手をやったままのっそり人垣の中へ這入ってゆくと、じろり中の様子を一|瞥《べつ》したようであったが、殆んどそれと同時です。にんめり微笑を見せると事もなげに言いました。
「折角じゃが、どうやらわしの助勢を待つ迄の事はなさそうじゃよ」
「なんでござんす! じゃ、殿様のお力でも、あの四人には敵《かな》わねえとおっしゃるんですかい」
「ではない、あの若者ひとりでも沢山すぎると申すのじゃ」
「冗談おっしゃいますなよ! 対手はあの通り強そうなのが四人も揃っているんだもの、どう見たって若衆に分があるたあ思えねえじゃござんせんか」
「それが大きな見当違いさ。ああしてぺこぺこ詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]てはいるが、あの眼の配り、腰の構えは、先ず免許皆伝も奥義《おうぎ》以上の腕前かな。みていろ、今にあの若者が猛虎のように牙を出すから」
 言うか言わないかの時でした。しきりと詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]つづけているのに、対手の四人はあくまでも許そうとしなかったので、若衆はその執拗さに呆れたもののごとく、一二歩うしろへ身を引くと、やんわり片手を飾り造りの佩刀《はいとう》にかけたかと見えたが、果然、謎の宗十郎頭巾が折紙つけたごとくその態度が一変いたしました。
「けだ物共めがッ、人間の皮をかむっているなら、も少し聞き分けがあるじゃろうと存じていたが、それ程斬られて見たくば、所望通り対手になってつかわすわッ。抜けッ、抜けッ、抜いて参れッ」
 裂帛《れっぱく》の美声を放って、さッと玉散る刄《やいば》を抜いて放つと、双頬《そうきょう》にほのぼのとした紅色を見せながら、颯爽《さっそう》として四人の者の方ににじりよりました。それも、今迄柔弱とばかり見えたのが、俄然一変したのですから、その冴えまさった美しさというものはない。しかも、その剣気のすばらしさ!――不意を打たれて四人はたじたじとたじろぎました。しかし、もともと売った喧嘩です。
「けだ物共とは何ごとじゃ! 抜きさえすればそれで本望、では各々、用意の通りぬかり給うな」
 四十がらみの分別盛りが下知を与えると、唯の喧嘩と思いきや、意外にもすでに前から計画してでもあったかのごとくに諜し合せながら、ぎらりと刄襖《はぶすま》をつくりました。
 それと見てにんめり微笑しながら、静かに呟いたものは長割下水のお殿様と言われた不審の宗十郎頭巾です。
「ほほう、あの若衆髷、揚心流《ようしんりゅう》の小太刀を嗜《たしな》んでいると見えるな。お気の毒に、あの奥義では四人の大男共、この人前でさんざ赤恥を掻かねばならぬぞ。そらそら、言ううちに怪《あや》しくなったようじゃな、みろ、みろ、左の奴が先にやられるぞ」
 呟《つぶや》いたとき、果然若衆の前髪がばらばらと額先で揺れ動いたと見えたが、ひらりと蝶のように大振袖が翻った途端――言葉のごとく左翼のいち人が、長々と地に這いつくばりました。しかし床しいことに、峰打ちの血を見せない急所攻めです。それだけに怒り立ったのはあとの三人達でした。
「小僧! 味な真似をやったなッ」
 雄叫《おたけ》びながらひたひたと間をちぢめて、両翼八双に陣形を立て直しつつ、爪先き迫りに迫って来ると、左右一度が同時に襲いかかりました。けれども、若衆の腕の冴えは、むしろ胸がすく程な鮮かさでした。迫る前に左右の二人は笑止なことに右と左へ、最初のひとりと同じように、急所の峰打を頂戴しながら、もろくも長々と這いつくばりました。
 それと見て残った四十がらみが、うで蛸のごとく真赤になった時、どかどかと人込みを押し割って、門弟らしい者を六七人随えた、一見剣客と思われる逞しい五分月代《ごぶさかやき》が、突如そこに姿を見せると、明らかに新手の助勢であることを示しながら、叱咤《しった》するように叫びました。
「腑甲斐ねえ奴等だな! こんな稚児ッ小僧ひとりを持てあまして何とするかッ。どけどけ。仕方がねえから俺が料《りょう》ってやらあ!」
 聞くと同時に、先刻からの伝法な兄哥がやにわに、長割下水の殿様と称されている不審な宗十郎頭巾に、かきすがるようにすると、けたたましく音《ね》をあげて言いました。
「いけねえいけねえ! 殿様、ありゃたしかに今やかましい道場荒しの赤谷《あかたに》伝九郎ですぜ。あの野郎が後楯《うしろだて》になっていたとすりゃ、いかな若衆でも敵《かな》うめえから、早くなんとか救い出してやっておくんなせいな」
「ほほう、あの浪人者が赤谷伝九郎か、では大人気ないが、ひと泡吹かしてやろうよ」
 それを耳にすると、初めて宗十郎頭巾がちょッと色めき立って、静かに呟きすてながら、のっそり人垣の中へ割って這入ると、騒がず、若衆髷をうしろに庇ったかとみえたが、おちついた錆のある冷やかな言葉が、ゆるやかにその口から放たれました。
「くどうは言わぬ、この上人前で恥を掻かぬうちに、あっさり引揚げたらどうじゃ」
「なにッ。聞いた風な白《せりふ》を吐かしゃがって、うぬは何者だッ」
「そうか、わしが分らぬか。手数をかけさせる下郎共じゃな。では、仕方があるまい。この顔を拝ましてつかわそうよ」
 静かに呟き呟き、おもむろに頭巾へ手をかけてはねのけたと見るや刹那! さッとそこに、威嚇するかのごとく浮き上がった顔のすばらしさ! くっきりと白く広い額に、ありありと刻まれていたものは、三日月形の三寸あまりの刀傷なのです。それも冴《さ》え冴えとした青月代《あおさかやき》のりりしい面に深くぐいと抉《えぐ》り彫られて、凄絶と言うか、凄艶と言うか、ちらりとこれを望んだだけでも身ぶるい立つような見事さでした。
 と見るや不審です。
 道場荒しの赤谷伝九郎と言われた剣客らしい奴が、じろじろとその眉間の傷痕を見眺めていましたが、おどろいたもののごとくに突然ぎょっとすると、うろたえながら下知を与えました。
「悪い奴に打つかりやがった。退《ひ》けッ退けッ」
 しかも自身先に立って刄を引くと、周章狼狽しながら、こそこそと群衆の中に逃げかくれてしまいました。

       二

 まことに不思議と言うのほかはない。恐るべき傷痕の威嚇と言うのほかはない。――いや、不思議でもない。不審でもない。当然でした。赤谷伝九郎ならずとも、眉間のその三日月形がちらりとでも目に這入ったならば、逃げかくれてしまうのが当然なことでした。なにをかくそう、このいぶかしかった若|武者《むしゃ》こそは、これぞ余人ならず、今江戸八百八町において、竹光《たけみつ》なりとも刀差す程のものならばその名を知らぬ者のない、旗本退屈男《はたもとたいくつおとこ》と異名《いみょう》をとった早乙女主水之介《さおとめもんどのすけ》だったからです。――屋敷は本所長割下水、禄は直参旗本の千二百石、剣の奥義は篠崎竹雲斎《しのざきちくうんさい》の諸羽流《もろはりゅう》、威嚇のもととなったそれなる三日月形の傷痕は、実に彼が今から三年前の三十一の時、長藩七人組と称された剣客団を浅草雷門に於て向うに廻し、各々これを一刀薙ぎに斬り伏せた折、それを記念するかのごとくに対手から負わされたその傷痕でした。無論人を威嚇するに至った原因は、それなる七人をよく一刀薙ぎに斬り伏せたからにも依るが、よりもっと大きな威嚇のもととなったものは、その時主水之介が初めて見せた諸羽流奥義の正眼《せいがん》崩しで、当時七人組は江戸の町道場を人なきごとくに泣かせ歩いた剣豪揃いだったにもかかわらず、ひとたび彼の正眼崩しに出会うや否や、誰一人これを破りうる者がなく、七人が七人悉く敢ない最期をとげたので、早乙女主水之介の驍名《ぎょうめい》はその時うけた三日月形の傷痕と共に、たちまち江戸御府内を蔽うに至りました。しかも、身は将軍家以外には膝を屈する必要のない、天下御直参の旗本という権門にいたので、赤谷伝九郎が三日月のその傷痕を発見すると同時に、手もなく消えてなくなった位のことは、別に不思議とするに足りない事でしたが、しかし、少しばかり不審だった事は、救われたそれなるお小姓の方です。よし、手は下さなかったにしても、ともかく危難を救い出されたとすれば、お礼のひとこと位は言うべきが武士の定法の筈でしたのに、どうした事か主水之介が気がついてみると、すでに若衆髷の姿は煙のごとくいず地かへ失せ去っていたあとでした。
「ほほう、若者までが消え失せるとは少し奇態じゃな」
 いぶかしそうに首をかしげていましたが、やがて静かにまた頭巾をすると、両手を懐中に素足の雪駄を音もなく運ばせて、群衆達の感嘆しながらどよめき合っている中を、悠然として江戸町の方へ曲って行きました。
 だが、曲るは曲って行ったにしても、素見《ひやかし》一つするでもなく、勿論|登《あが》ろうというような気はいは更になく、唯何と言うことなくぶらりぶらりと、曲っていっただけの事でした。しかし、何の目的もないかと言うに、そうではないのです。実はこれが主水之介に、あまり類のない旗本退屈男と言うような異名を生じさせたそもそもの原因ですが、実に彼のこうして吉原五町街をぶらぶらとあてもなくさ迷いつづける事は、きのうや今日に始まったのではなく、殆んど三年来の一日一夜も欠かしたことのない日課なのでした。それも通いつめた女でもあるのなら格別なこと、どこにそれと思われる対手もないのに、唯そうやって一廻りするだけなのですから、まことに変り者です。しかし主水之介にして見れば大いに理由のあることで、せめてもそんな事なとしていなくては、とても彼は、この人の世が、否生きている事すら迄が、退屈で退屈でならないためからでした。
 退屈! 退屈! 不思議な退屈! 何が彼をそんなに退屈させたか?――言わずと知れたその原因は、古今に稀な元禄という泰平限りない時代そのものが、この秀抜な直参旗本を悉く退屈させたのでした。今更改まって説明する迄もなく、およそ直参旗本の本来なる職分は、天下騒乱有事の際をおもんぱかって備えられた筈のものであるのに、小癪なことにも江戸の天下は平穏すぎて、腹の立つ程な泰平ぶりを示し、折角無双な腕力を持っていても、これを生かすべき戦乱はなく、ために栄達の折もなく、むしろ過ぎたるは及ばざるに如《し》かずのごとき無事泰平を示現しつつありましたので、早乙女主水之介のごとき生粋の直参旗本にとっては、この世が退屈に思われるのが当然中の当然なことでした。
 しかし、主水之介は退屈しているにしても、世上には一向に退屈しないのがいるから、皮肉と言えば皮肉です。
     ――高い山から谷底見れば
       瓜や茄子《なすび》の花ざかり
       アリャ、メデタイナ、メデタイナ
 そんな変哲もない事がなぜにまためでたいと言うのか、突如向うの二階から、ドンチャカ、ジャカジャカという鳴り物に合わして、奇声をあげながら唄い出した遊客の声がありました。
「ウフフ……。他愛のない事を申しおるな。いっそわしもあの者共位、馬鹿に生みつけて貰うと仕合せじゃったな――」
 ききつけて主水之介は悲しげに微笑をもらすと、やがてのっそりと道をかえながら、角町《すみちょう》の方に曲って行きました。
 と――、その出合がしら、待ち伏せてでもいたかのごとくにばたばたと走り出ながら、はしたなく言った女の声がありました。
「ま! さき程からもうお越しかもうお越しかとお待ちしておりいした。今日はもう、どのように言いなんしても、かえしはしませぬぞ」
 ――声の主は笑止なことに身分柄もわきまえず、大身《たいしん》旗本のこの名物男早乙女主水之介に、もう久しい前から及ばぬ恋慕をよせている、そこの淡路楼と言う家の散茶女郎《さんちゃじょろう》水浪《みずなみ》でした。うれしいと言えばうれしい女の言葉でしたが、しかし主水之介は冷やかに微笑すると、ずばりと言いました。
「毎夜々々、うるさい事を申す奴よな。わしが女子《おなご》や酒にたやすく溺るる事が出来たら、このように退屈なぞいたさぬわ」
 あっさりその手を払いすてると、悠然として揚屋《あげや》町の方にまた曲って行きました。
 こうしてどこというあてもなく、ぶらりぶらりと二廻りしてしまったのが丁度四ツ半下り、――流連《いつづけ》客以外にはもう登楼もままならぬ深夜に近い時刻です。わびしくくるりと一廻りした主水之介は、そのままわびしげに、道をおのが屋敷の本所長割下水に引揚げて行きました。

       

 屋敷は、無役《むやく》なりとも表高千二百石の大身ですから、無論のことに一丁四方を越えた大邸宅で、しかも退屈男の面目は、ここに於ても躍如たる一面を見せて、下働らきの女三人、庭番男が二人、門番兼役の若党がひとりと、下廻りの者は無人《ぶにん》ながらも形を整えていましたが、肝腎の上働らきに従事する腰元侍女小間使いの類は、唯の半分も姿を見せぬ変った住いぶりでした。しかも、それでいてこの変り者は、もう三十四歳という男盛りであるのに、いち人の妻妾すらも蓄えていないのでしたから、何びとが寝起きの介抱、乃至は身の廻りの世話をするか、甚だそれが気にかかることでしたが、天はなかなか洒落た造物主です、いともうれしい事に、この変り者はいち人の妹を与えられているのでした。芳紀まさに十七歳、無論のこと玲瓏《れいろう》玉《たま》をあざむく美少女です。名も亦それにふさわしい、菊路というのでした。
 さればこそ居間へ這入って見ると、すでにそこには夜の物の用意が整えられていましたので退屈男はかえったままの宗十郎頭巾姿で、長い蝋色鞘すらも抜きとろうとせずに、先ずごろり夜具の上へ大の字になりました。
 と――、その物音をききつけたかして、さやさや妙なる衣摺《きぬず》れの音を立てながら、近よって来たものは妹菊路です。だが、殊のほか無言でした。黙ってすうと這入って来ると、短檠《たんけい》の灯影《ほかげ》をさけるようにして、その美しい面を横にそむけながら、大の字となっている兄のうしろに黙々と寝間着を介添えました。それがいつもの習慣と見えて、退屈男も黙然《もくねん》として起き上がりながら、黙然として寝間着に着替えようとした刹那! 聞えたのはすすり泣きです。
「おや! 菊、そちは泣いているな」
 図星をさされてか、はッとして、慌《あわ》てながら一層面をそむけましたが、途端にほろほろと大きな雫《しずく》が、その丸まっちく肉の熟《う》れ盛った膝がしらに落ち散ったので、退屈男の不審は当然のごとくに高まりました。
「今迄一度もそのような事はなかったが、今宵はまたどうしたことじゃ」
「………」
「黙っていては分らぬ。兄が無役で世間にも出ずにいるゆえ、それが悲しゅうて泣いたのか」
「………」
「水臭い奴よな。では、兄が毎晩こうして夜遊びに出歩きするゆえ、それが辛うて泣くのか」
「………」
「わしに似て、そちもなかなか強情じゃな。では、もう聞いてやらぬぞ」
 と――、もじもじ菊路が言いもよって、どうした事かうなじ迄もいじらしい紅葉に染めていましたが、不意に小声でなにかを恐るるもののごとくに念を押しました。
「では、あのおききしますが、お兄様はあの決して、お叱りなさりませぬか」
「突然異な事を申す奴よ喃《のう》。叱りはせぬよ、叱りはせぬよ」
「きっとでござりまするな」
「ああ、きっと叱りはせぬよ。いかがいたした」
「では申しまするが、わたくし今、一生一度のような悲しい目に、合うているのでござります……」
「なに?一生一度の悲しい目とな? 仔細は何じゃ」
「その仔細が、あの……」
「いかがいたした」
「お叱りなさりはせぬかと思うて恐いのでござりますけれど、実はあの、お目をかすめまして、この程から、さるお方様と、つい契り合うてしもうたのでござります」
「なに! なに! ほほう、それはどうも容易ならぬ事に相成ったぞ。いや、まて、まて、少々退屈払いが出来そうじゃわい。今坐り直すゆえ、ちょッとまて! それで、なんとか申したな。この程からさるお方様と、どうとか申したな。もう一度申して見い」
「ま! いやなお兄様! そのような事恥ずかしゅうて、二度は申されませぬ」
「ウフフ、赤くなりおったな。いや、ついその、よそごとを考えていたのでな、肝腎なところをきき洩らしたのじゃ。そう言い惜しみせずに、もそっと詳しいことを申してみい」
「実はあの、さるお方様と、お兄様のお目をかすめまして、ついこの程から契り合うたのでござります」
「ウフフ。そうかそうか。偉いぞ! 偉いぞ! まだほんの小娘じゃろうと存じていたが、いつのまにか偉う出世を致したな。いや天晴れじゃ天晴じゃ。兄はこのようにして女子《おなご》ひとり持てぬ程退屈しているというのに、なかなか隅におけぬ奴じゃ。それで、そのさるお方とか言うのは、いずこの何と申される方じゃ」
「いえ、そのような事はあとでもよろしゅうござりますゆえ、それより早う大事な事をお聞き下さりませ。実は、毎晩お兄様がお出ましのあとを見計らって、必ずお越し下さりましたのに、どうしたことか今宵はお見えにならないのでござります……」
「なんじゃ、きつい用事を申しつくるつもりじゃな。では、この兄にその方をつれて参るよう、恋の使いをせよと言うのじゃな」
「ま! そのような冗談めかしい事ではござりませぬ。いつもきっと五ツ頃から四ツ頃迄にお越し遊ばしますのに、どうしたことか今宵ばかりはお見えがございませなんだゆえ、打ち案じておりましたところへ、お使いの者が飛んで参られまして、ふいっとそのお方様がお行方《ゆくえ》知れずになられたと、このように申されましたのでござります」
「なに? 行方《ゆきがた》知れずになったとな? それはまた、何時頃の事じゃった」
「お兄様がお帰り遊ばしましたほんの四半|刻《とき》程前に、お使いの方が探しがてら参られたのでござります」
「ほほうのう――」
 少しこれは世の中が退屈でなくなったかなと言わぬばかりに、しみじみとした面《おもて》を愛妹菊路の方にさし向けて、なに事かをややしばし考えつめていましたが、俄然旗本退屈男と異名をとった早乙女主水之介は、その目にいつにないらんらんとした輝きをみせると、言葉さえも強めながら言いました。
「よし、相分った。では、この兄の力を貸せと申すのじゃな」
「あい……。このような淫《みだ》らがましい事をお願いしてよいやらわるいやら分らぬのでござりますけれど、わたしひとりの力では工夫《くふう》もつきませなんだゆえ、先程からお帰りを今か今かとお待ちしていたのでござります」
「そうか。いや、なかなか面白そうじゃわい。わしはろくろく恋の味も知らずにすごして参ったが、人の恋路の手助けをするのも、存外にわるい気持のしないもののようじゃ。それに、ほかの探し物ならわしなんぞ小面倒臭うて、手も出すがいやじゃが、人間一匹を拾い出すとは、なかなか味な探し物じゃわい。心得た。いかにもこの兄が力になってつかわすぞ」
「ま! では、あの、菊の願い叶えて下さりまするか」
「自慢せい。自慢せい。そちも一緒になって自慢せい。早乙女主水之介は退屈する時は人並以上に退屈するが、いざ起つとならばこの通り、諸羽流《もろはりゅう》と直参千二百石の音がするわい」
「ま! うれしゅうござります、嬉しゅうござります! では、あの、今よりすぐとお出かけ下さりまするか」
「急《せ》かでも参る参る。こうならば退屈払いになる事ゆえ、夜半だろうと夜明けだろうと参ってつかわすが、一体そちのいとしい男とか申すのは、どこの何と言われる方じゃ」
「榊原大内記《さかきばらだいないき》様のお下屋敷にお仕えの、霧島京弥《きりしまきょうや》と申される方でござります」
「えろう優しい名前じゃな。では、その、京弥どのとやらを手土産にして拾って参らばよいのじゃな」
「あい……、どちらになりと御気ままに……」
「真赤な顔をいたして可愛い奴めが! どちらになりとはなにを申すぞ、首尾ようつれて参ったら、のろけを聞かしたその罰に、うんと芋粥の馳走をしろよ」
 愛撫のこもった揶揄《やゆ》を愛妹にのこしておいて例のごとくに深々と宗十郎頭巾にその面を包みながら、やがて悠々と素足に雪駄の意気な歩みを表に運ばせて行くと、吸われるように深夜の闇へ消え去りました。

       

 表は無論もう九ツすぎで、このあたり唯聞えるものは、深夜の空にびょうびょうと不気味に吠える野犬の唸り声のみでした。その深い闇の道を退屈男は影のみの男のように、足音も立てずすいすいと宮戸川べりに沿いながら行くこと七丁――。波も死んだようでしたが、そこの岸辺の一郭に、目ざした榊原大内記侯のお下屋敷を発見すると、俄然、爪先迄も鏘々《そうそう》として音を立てんばかりに、引締りました。緊張するのも無理はない。殆んど三年越し退屈しきっていたところへ、突如として今、腕力か智力か、少なくも何程か主水之介の力を必要とする事件が降って湧いたのです。無論まだ諸羽流《もろはりゅう》正眼崩《せいがんくず》しを要するか否かは計り知らない事でしたが、事の急は、それなる霧島京弥といった男の行方不明事件が、自発的のものであるか、他より誘拐されたものであるか、誘拐されたものとするなら、およそどういう原因のもとに、どういう方面の者の手が伸びているか、先ず第一にその事を嗅ぎ知る必要がありましたので、敵か味方かも分らぬ大内記の下屋敷を目ざしつつぬかりなく歩みよると、それとなく屋敷の構えを窺《うかが》いました。――そもそもがこのあたり隅田川べりのお下屋敷は、殆んど大半が別荘代りを目的のものでしたので、警固の工合なぞも割に簡単な構えでしたが、しかし簡単とは言うものの、榊原大内記侯はともかくもお禄高十二万石の封主です。留守を預かる番士の者も相当の数らしく、御門の厳重、お長屋の構え、なかなかに侮《あなど》りがたい厳しさでした。勿論正々堂々と押し入ったにしても、主水之介とて無役ながらも天下御直参のいち人とすれば、榊原十二万石ぐらい何のその恐るるところではなかったが、紊《みだ》りに事を荒立てて、正面切って押し入ったのでは、事件を隠蔽される懸念がありましたので、先ず事実の端緒《たんちょ》をつかむ迄はと、退屈男は影のように近よりながら、邸内の様子を窺いました。
 と――、御門前迄近よった時、ちかりと目に這入ったものはその武者窓囲《むしゃまどがこ》いにされている御門番詰所の中から、洩れるともなく洩れて来た灯りです。深夜の九ツ過ぎに御門番詰所の中から、なお灯りの見えていることは、未だに誰か外出している事を証明していましたので、何びとが門を預かっているか、そっと忍び寄りながら武者窓の隙から中をのぞいてみると、少しこれが不審でした。禄高十二万石の御門番ですから、屈強な御番士が門を預かっているのに不審はないが、余程退屈しているためにか、それとも目がない程に好きであったためにか、ひとりでしきりに将棋を差しているのです。それも何かむずかしい詰め手にでも打つかったものか、やや顔を青めながら、やけに腕を拱《こまぬ》いて考え込んでいる姿が目に映ったので、退屈男は急に何か素晴らしい奇計をでも思いついたもののごとく、にんめり微笑をもらすと、その武者窓下にぴたり身を平《ひら》みつけて、わざと声色をつくりながら、突然|陰《いん》にこもった声で呼びました。
「ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――」
 屋敷が隅田川へのぞんだ位置であったとこへその呼び方が並大抵な呼び方ではなく、さながら河童ガ淵の河童が人を淵の中へ呼び入れる時に呼んだ声は、こんな呼び声ではなかったろうかと思われるような、気味わるく陰にこもった声で御門番とやったので、番士は少々ぞっとしたらしく、恐々《こわごわ》やって来て恐々窓から表をのぞくと、きょろきょろあたりを見廻しながら呟きました。
「――変だな、たしかに今気味のわるい声で呼びやがったがな。気のせいだったかな」
 のぞいて、姿のないのに、いぶかりながらまた将棋盤に向ったらしいのを見すますと、退屈男の同じ不気味な声色が深夜の空気をふるわして陰々と聞えました。
「ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――」
「畜生ッ、いやな声でまた呼びやがったな。どこのやつだッ」
 恐々《こわごわ》さしのぞいて、恐々探しましたが、丁度格子窓の出ッ張りの下に平《ひら》みついているのですから、分る筈はないのです。不気味そうに帰っていったのを見すますと、追いかけながらまた退屈男の言う声が聞えました。
「――ゴモンバン、こりゃ、ゴモンバン」
 とうとう癇にさわったに違いない。
「ふざけた真似をしやがって、どこの河童だ。化かそうと思ったって化かされないぞ!」
 白《せりふ》は勇ましいが慄え声で、恐々《こわごわ》くぐりをあけながら、恐る恐る顔をのぞかしたところを、武道鍛錬の冴えをもってぎゅっとつかみ押えたのは言う迄もなく退屈男です。
「痛え! うぬか! 河童の真似をしやがったのはうぬかッ」
 叫ぼうとしてもがいた口へ、手もなく平手の蓋を当てがっておきながら、軽々と小脇へ抱え込んで、悠々と門番詰所へ上がってゆくと、ぱらりと覆面をはねのけて、これを見よと言わぬばかりに番士の目の前へさしつけたものは、吉原仲之町で道場荒しの赤谷伝九郎とその一党をひと睨みに疾走させた、あの、三日月の傷痕鮮やかな、蒼白秀爽の顔ばせでした。
「よッ、御貴殿は!」
「みな迄言わないでもいい。この傷痕で誰と分らば、素直に致さぬと諸羽流正眼崩しが物を言うぞ。当下屋敷に勤番中と聞いた霧島京弥殿が行方知れずになった由承わったゆえ、取調べに参ったのじゃ、知れる限りの事をありていに申せ」
「はっ、申します……、申します。その代りこのねじあげている手をおほどき下さりませ」
「これしきの事がそんなにも痛いか」
「骨迄が折れそうにござります……」
「はてさて大名と言う者は酔狂なお道楽があるものじゃな。御門番と言えば番士の中でも手だれ者を配置いたすべきが定《じょう》なのに、そのそちですらこの柔弱さは何としたことじゃ。ウフフ、十二万石を喰う米の虫よ喃《のう》。ほら、ではこの通り自由に致してつかわしたゆえ、なにもかもありていに申せ。事の起きたのはいつ頃じゃ」
「かれこれ四ツ頃でござりました、宵のうち急ぎの用がござりまして、出先からお帰りなされましたところへ、どこからか京弥どのに慌ただしいお使いのお文が参ったらしゅうござりました。それゆえ、取り急いですぐさまお出かけなさりますると、その折も手前が御門を預かっていたのでござりまするが、出かけるとすぐのように、じきあそこの門を出た往来先で、不意になにやら格闘をでも始めたような物騒がしい叫び声が上りましたゆえ、不審に存じまして見調べに参りましたら、七八人の黒い影が早駕籠らしいものを一挺取り囲みまして、逃げるように立去ったそのあとに、ほら――ごらん下さりませ。この脇差とこんな手紙が落ちていたのでござります。他人の親書を犯してはならぬと存じましたゆえ、中味は改めずにござりまするが、手紙の方の上書には京弥どのの宛名があり、これなる脇差がまた平生京弥どののお腰にしていらっしゃる品でござりますゆえ、それこれを思い合せまして、もしや何か身辺に変事でもが湧いたのではあるまいかと存じ、日頃京弥どののお立廻りになられる個所を手前の記憶している限り、いちいち人を遣わして念のために問い合せましたのでござりますが、どこにもお出廻りなさった形跡がござりませぬゆえ、どうした事かと同役共々に心痛している次第にござります」
「ほほう、それゆえわしの留守宅にも、問い合せのお使いが参ったのじゃな。では、念のためにそれなる往来へおちていたとか言う二品を一見致そうぞ。みせい」
 手に取りあげて見調べていましたが、脇差はとにかくとして、不審を打たれたものは手紙の裏に小さく書かれてあった、菊――と言う女文字です。
「はてな――?」
 愛妹の菊路ではないかと思われましたので、ばらりと中味を押しひらいて見ると、取急いだらしい短い文言が次のごとくに書かれてありました。

 「――大事|出来《しゅったい》、この状御覧次第、至急御越し下され度、御待ちあげまいらせ候。―― 菊路」

 いぶかりながら、しげしげと見眺めていましたが、ふと不審の湧いたのはその筆蹟でした。妹菊路は彼自身も言葉を添えてたしかにお家流を習わした筈なのに、手紙の文字は似てもつかぬ金釘流の稚筆だったからです。のみならず展《の》べ紙の左|端《はし》に、何やら、べっとりと油じみた汚《し》みのあとがありましたので、試みにその匂いを嗅いでみると、これが浅ましい事にはあまり上等でない梅花香の汚《し》みでした。菊路が好んで用いる髪の油は、もっと高貴な香を放つ白夢香の筈でしたから、退屈男の両眼がらんらんとして異様な輝きを帯びたかと見るまに、鋭い言葉が断ずるごとくに吐かれました。
「馬鹿者達めがッ。にせの手紙を使ったな」
 途端――。
「御門番どの、只今帰りましてござります。おあけ下されませい」
 言う声と共に、番士があたふたと駈け出していった容子でしたが、御門を開けられると同時に、不審な一挺の空駕籠が邸内に運び入れられたので、当然退屈男の鋭い眼が探るごとくに注がれました。
 と――、これがいかにも奇態なのです。金鋲《きんびょう》打った飾り駕籠に不審はなかったが、いぶかしいのは赤い提灯そのものです。焼けて骨ばかりになったのが、もう一つ棒鼻の先に掛かっているところを見ると、出先でその新しい方を借りてでも来たらしく思われますが、奇態なことにその提灯の紋所《もんどころ》が、大名屋敷や武家屋敷なぞに見られる紋とはあまりにも縁の遠い、丸に丁と言う文字を染めぬいた、ひどく艶《なま》めかしい紋でした。造りも亦|朱骨造《しゅぼねづく》りのいとも粋な提灯でしたから、どうも見たような、と思って考えているその胸の中に、はしなくもちかりと閃めき上がったものは、退屈男が丸三年さ迷って、見覚えるともなく見覚えておいた曲輪《くるわ》五町街の、往来途上なぞでよく目にかけた太夫|花魁《おいらん》共の紋提灯です。
「道理で粋《いき》じゃと思うたわい。暇があらば人間、色街《いろまち》にも出入りしておくものじゃな」
 呟いていたかと見えましたが、間をおかないで鋭い質問の矢が飛びました。
「その駕籠は、誰をどこへ連れ参った帰り駕籠じゃ」
「これは、その、何でござります……」
 陸尺《ろくしゃく》共が言いもよったのを御門番の番士が慌てながら引き取って言いました。
「お上屋敷へ急に御用が出来ましたゆえ、御愛妾のお杉の方様が今しがた御召しに成られての帰りでござります」
「なに? では、当下屋敷には御愛妾がいられたと申すか」
「はっ、少しく御所労の気味でござりましたゆえ、もう久しゅう前から御滞在でござります」
「ほほうのう、お大名というものは、なかなか意気なお妾をお飼いおきなさるものじゃな」
 皮肉交りに呟いていましたが、御愛妾が病気保養に長い事滞在していて、同じ屋敷に名前を聞いただけでも優男らしい霧島京弥というような若者が勤番していて、その上、御愛妾は上屋敷へ行ったと言うにも拘らず、駕籠のもってかえった提灯の紋様は曲輪仕立ての意気形でしたから、早くも何事か見透しがついたもののごとく、退屈男のずばりと言う声がありました。
「その駕籠、暫時借用するぞ」
「な。な、なりませぬ。これは下々《しもじも》の者などが、みだりに用いてはならぬ御上様《おかみさま》の御乗用駕籠でござりますゆえ、折角ながらお貸しすること成りませぬ」
「控えい、下々の者とは何事じゃ、榊原大内記《さかきばらだいないき》侯が十二万石の天下諸侯ならば、わしとて劣らぬ天下のお直参じゃ。直参旗本早乙女主水之介が借りると言うなら文句はあるまい――こりゃそこの陸尺共、苦しゅうないぞ、そのように慄えていずと、早う行けッ」
 威嚇するかのごとくに言いながら、ずいと垂れをあげて打ち乗ると、落ち着き払って命じました。
「さ、行けッ。行けッ。今そち達が行って帰ったばかりの曲輪《くるわ》へ参るのじゃ、威勢よく飛んで行けッ」

       

 かくして乗りつけたところは、粋客《すいきゃく》嫖客《ひょうきゃく》の行きも帰りも悩みの多い、吉原大門前です。無論もう客止めの大門は閉じられていましたが、そこへ行くと三とせ越しのお顔が物を言うのだから叶わない。
「早乙女主水之介、また罷り越すぞ」
 会所の曲輪役人共を尻目にかけながら、ずいとくぐりぬけて、さっさと登《あが》っていった家は意外と言えば意外ですが、先程宵のうちに待ち伏せていて、恋慕の口説《くぜつ》を掻きくどいたあの散茶女郎水浪のいる淡路楼でした。
 喜び上がったのは無論水浪です。小格子女郎のところへなぞはどう間違ったにしても、舞い降りて下さる筈もないお直参の旗本が、それを向うから登楼したので、悉く思い上がりながら仇めかしく両頬を紅《くれない》にぽっと染めて、ふるいつくように言いました。
「ま! よう来てくんなました。では、あの、わちきの願いを叶えて下さる気でありいすか」
「まてまて。叶える叶えないは二の次として、ちとその前に頼みたい事があるが、聞いてくれるか」
「ええもう、主《ぬし》さんの事ならどのようなことでも――」
「左様か、かたじけない、かたじけない。丸に丁の字を染めぬいた看板の持主はどこの太夫さんじゃったかな」
「ま! 曲輪がお家のような主さんでありいすのに。その紋どころならば、王岸楼の丁字花魁ではありいせぬか」
「おう左様か左様か。その丁字花魁の様子をこっそり探って来てほしいのじゃがな。いってくれるか」
「そしたら、わちきの願いも叶えてくんなますかえ」
「風と日和《ひより》次第、ずい分と叶えまいものでもないによって、行くなら早う行って来てくれぬか」
 喜び勇みながら出ていったと思うやまもなく色めき立って帰って来ると、おどろくべき報告をいたしました。
「いぶかしいお客様方ではありいせぬか、丁字さんのところには、由緒ありげな女子《おなご》のお客さんに、美しい若衆が御一緒で、ほかに六七人程も乱暴そうなお武家さんが御一座してざましたよ」
「なにッ、若衆に女子の客とな?――ご苦労じゃった。今宵は許せ。また会うぞ」
 颯爽として立ち上がると、例の宗十郎頭巾のままで、ただちに行き向ったところは揚屋町の王岸楼でした。
「主水之介じゃ。丁字太夫にちと急用があるによって、このまま通って行くぞ」
 言いすてながらずかずかと上がって行くと、言葉もかけずにさっと丁字太夫の部星の障子を押しあけました。と同時に目を射たものは、何たる沙汰の限りの光景でしたろう! そこの部屋の隅に、殆んど慄えるばかりに身体を小さく縮こまらせている美しいお小姓に向って、左右から二人の女が威嚇し、叱り、すかしつつ、呑めぬ茶屋酒を無理強いに強いつつあったからでした。ひとりの裲襠《うちかけ》姿であるのを見ると無論の事に、それが丁字太夫であるに相違なく、他のお部屋姿であるのを見ると、これまたお杉の方である事は言う迄もなく、よりもっと驚いた事は、何たる奇遇と言うべきか、その美々しい若者こそは、先刻宵の仲之町で赤谷伝九郎達から救い出してやったに拘らず、不審にも煙のごとく消え去ったあの若衆髷でしたから、さすがの退屈男も聊《いささ》か意外に思って、見るや同時に先ず呼びかけました。
「そなたが霧島京弥どのか」
「あっ! あなた様はあの……」
 頭巾姿でそれと知ったものか、恥じ入るようにもじもじと赤くなりながら言おうとしたのを、主水之介は言うなとばかり手で押さえておいて、ばらりと頭巾を払いのけると、蒼白秀爽なあの顔に無言の威嚇を示しながら、黙ってお杉の方をにらみつけました。
「ま! その三日月形の傷痕は……」
「身をかくそうとしても、もうおそうござるわ!」
 おどろいて逃げ出そうとしたお杉の方をずばりと重々しい一言で威嚇しておくと、京弥の方へ向き直ってきき尋ねました。
「先程、仲之町で消え失せたのは、菊路の兄がわしと知ってはいても、会ったことがなかったゆえに、見咎められては恥ずかしいと、それゆえ逃げなさったのじゃな」
「はっ……、御礼も申さずに失礼してでござりました」
「いや、そうと分らば却っていじらしさが増す位のものじゃ。もはやこの様子を見た以上聞かいでも大凡《おおよそ》の事は察しがつくが、でも念のために承わろう。一体いかがいたしたのじゃ」
 お杉の方に気がねでもあるかのごとく、もじもじと京弥が言いもよったので、退屈男は千|鈞《きん》の重みある声音《こわね》で強く言いました。
「大事ない! 早乙女主水之介が天下お直参の威権にかけても後楯となってつかわすゆえ、かくさず申して見られよ」
「では申しまするが、お杉の方が久しい前から手前に――」
「身分を弁《わきま》えぬ横恋慕致して、言い迫ったとでも申さるるか」
「はっ……。なれども、いかに仰せられましょうと、君侯《との》のお目をかすめ奉って、左様な道ならぬ不義は霧島京弥、命にかけても相成りませぬ。それにまた――」
「ほかに契り交わした者があるゆえ、その者へ操を立てる上にもならなかったと、申さるるか」
「はっ……。お察しなされて下されませ」
「いや、よくぞ申された。それ聞かばさぞかし菊路も――いや、その契り交わした者とやらも泣いて喜ぶことでござろうよ。その者の兄もまたそれを聞かば、きっと喜ぶでござりましょうよ。だが、少し不審じゃな。お杉の方と言えば仮りにも十二万石の息のかかったお愛妾。にも拘らず、かような場所へそこ許《もと》を掠《さら》って参るとは、またどうしたことじゃ」
「別にそれとて不審はござりませぬ。こちらの丁字様は以前お屋敷に御奉公のお腰元でござりましたのが、故あってこの廓《さと》に身を沈めましたので、そのよしみを辿ってお杉の方様が、手前にあのような偽《にせ》の手紙を遣わしまして、まんまとこのような淫らがましいところへ誘《いざな》い運び、いやがるものを無理矢理に、今ごらんのようなお振舞いを遊ばされたのでござります」
 言ったとき――、物音で知ったものか、強刀《ごうとう》をひっさげて、突然そこに姿を見せた者は更に意外! まぎれもなき宵のあの赤谷伝九郎でしたから、退屈男の蒼白な面《おもて》にさッと一抹の怒気が走ると、冴えた声が飛んで行きました。
「さてはうぬが、この淫乱妾のお先棒になって、京弥どのを掠《さら》ってまいったのじゃな」
「よよッ、又しても悪い奴がかぎつけてまいったな! 宵の口にも京弥めを今ひと息で首尾よう掠おうとしたら、要らぬ邪魔だてしやがって、もうこうなればやぶれかぶれじゃ。斬らるるか斬るか二つに一つじゃ。抜けッ、抜けッ」
 愚かな奴で場所柄も弁えず、矢庭と強刀を鞘走らしましたものでしたから、退屈男はにんめり冷たい笑いをのせていましたが、ピリリと腹の底迄も威嚇するような言葉が静かに送られました。
「馬鹿者めがッ、この三日月形の傷痕はどうした時に出来たか存ぜぬかッ」
 だが伝九郎は、急を知ったと見えてどやどやとそこに門弟達が各々追ッ取り刀で駈けつけて来たので、にわかに気が強くなったに違いない。恐いものをも知らぬげに、ぴたり強刀を主水之介の面前に擬《ぎ》しました。さすがに一流の使い手らしく、なかなか侮りがたい剣相を見せていましたが、しかし退屈男の胆《きも》の太さはそれ以上でした。
「ウッフフ。並んでいるな。いや、御苦労じゃ。御苦労じゃ。では、京弥どの、今頃泣き濡れて生きた心持もせずに待ち焦れている者があるゆえ、先を急ごうよ。馬鹿者共の腐り血を見たとて、何の足しにもならぬからな。――それからお杉の方にひとこと申しておきますが、折角ながらこの可愛い奴は、手前が家の土産に貰って参りまするぞ。あとにて河原者《かわらもの》なと幇間《たいこ》なと、お気が済む迄お可愛いがりなさいませよ。では、そろそろ参るかのう」
 言いつつすっぽりと面《おもて》を包んで、京弥を後ろに随えると、不敵にも懐手をやったまま、刄《やいば》の林目がけてすいすいと歩み近づきました。だのに伝九郎の一党が、一指をさえも染める事が出来ないから奇態です。これが人の五体から放たれる剣の奥義のすばらしい威力と言うものに違いないが、退屈男の物静かな歩みがすいと一歩近よると、たじたじと二歩、剣の林があとへ引き、また一歩すいと行くと、三歩またたじたじとあとへ退《の》き、しかもとうとう一太刀すらも挑みかかり得ないうちに、両人の姿は悠揚と表の方へ行き去ってしまいました。
 しかしその表には、仇めいた強敵が今ひとり退屈男を待ち伏せしていたのでした。それはあの散茶女郎の水浪で、姿を見るや駈けるようにしてその袖を捕らえにかかりましたので、退屈男は女の言葉がないうちに言いました。
「許せ許せ。先程の約束を果せと言うのであろうが、わしは至って不粋《ぶすい》者でな。女子《おなご》をあやす道を知らぬのじゃ。もうあやまった。許せ許せ」
 言いすてると袖を払って、さっさと道を急ぎました。
 それだのに屋敷へかえりつくや、うなじ迄も赤く染めている菊路の方へ、これも一面の紅葉を散らしている京弥をずいと押しやるようにすると、至って粋《いき》な言葉をぽつりとひとこと、愛撫のこもった揶揄《やゆ》と共に言いました。
「わしの身体はごく都合がようてな、目に見て毒なものがあったり、耳に聞いて毒なものがあったりすると、じき俄盲目《にわかめくら》になったり、俄聾《にわかつんぼ》になったりするゆえ、遠慮せずこの目の前でずんと楽しめよ」
 ――こんな兄はない。ウフフという退屈男の清々《すがすが》しい笑いがはぜて、のどかに夜があけました。そうしてこの小気味のいい男の小気味のいい物語は、これから始まるのです。

底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
   1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
   1997(平成9)年1月20日新装第8刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:皆森もなみ
2000年6月28日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました